新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
眉とまぶたの間に吹き出物ができました(汗)。腫れにまぶたが引っ張られて、ちょっと嫌な感じです……ごくわずかな違和感も、薄い皮膚には敏感に伝わりますね。
北海道
はこだて外国人居留地研 函館、中国の交流史一枚に あすの見学会でも活用
福島
坂下で戊辰戦争受難者の慰霊祭
栃木
幕末の酒蔵で10月コンサート 小山の若駒酒造が創業150年記念に
茨城
二の丸御殿調査用排水路跡など出土 茨城
東京
【TOKYOウオーク2010】2447人が日野市の歴史と自然満喫
漫画や映画の近藤勇に迫る! 調布市郷土博物館「近藤勇展」!!
京都
【龍馬を慕(おも)う】(23)京都・三条小橋 「池田屋事件」の舞台はいま
大阪
【関西あれこれアニバーサリー】緒方洪庵生誕200年 医者志す若者の聖地
兵庫
幕末ビールで景気づけ 三田の幸民まつり
高知
龍馬使用と同型銃、展示は銃刀法違反? 高知県立記念館
佐賀
九州創発塾最終日 出島などで事例体験学習
長崎
聖福寺:龍馬ゆかりの唐寺 大雄宝殿修復へ募金活動 /長崎
龍馬パフェ」観光客に人気 長崎のカフェオリンピック
鹿児島
雑記帳:ランタンの龍馬とお龍、鹿児島へ「新婚旅行」/霧島で展示へ
コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(78)小沢氏と西郷隆盛の違い 東大教授・山内昌之
北海道
はこだて外国人居留地研 函館、中国の交流史一枚に あすの見学会でも活用
【函館】函館の歴史研究グループ、はこだて外国人居留地研究会(岸甫一代表)は、函館と中国の交流史について最新の研究成果をまとめたリーフレット「はこだてと外国人居留地 中国編」を作成した。12日の函館中華会館創立100周年記念シンポジウムに合わせ、11日に開かれる中華会館(函館市大町)の特別見学会などで活用する。
函館では1865年(慶応元年)、長崎会所が独占していた幕府専売の俵物と称される海産物の売買が自由にできるようになった。長崎の独占が崩れたことで幕末20件から明治にかけ、函館には多くの中国人が流入した。リーフレットでは、こうした函館と中国の交流史を詳しく解説。中華会館など西部地区にあるゆかりの地を紹介する地図や、写真を添えた各種エピソードも掲載した。
両面カラーで3千部印刷。市地域交流まちづくりセンターで無料配布している。
11日は午後1時から、シンポジウムの一環として函館華僑総会の任道治理事の案内で中華会館特別見学会と船見町の中華山荘(中国人墓地)の説明会を行う。
続いて、はこだて外国人居留地研究会が、1890年代に現在の弥生町に存在した清国領事館の跡地、大町の外国人居留地跡を紹介する散策会を開く。中華会館の入館料600円と、中華山荘までの路線バス代200円がかかる。
参加希望者は当日中華会館横の駐車場に集まればよい。
シンポジウムは12日午前10時~午後4時、函館市中央図書館で開催。曽士才(そうしさい)・法政大教授の記念講演や川嶋稔夫・公立はこだて未来大教授らの研究報告が行われ、リーフレットが配布される。参加無料。参加希望者は当日会場へ。(小森美香)
福島
坂下で戊辰戦争受難者の慰霊祭
戊辰戦争で会津藩の娘子(じょうし)軍隊長を務めた中野竹子の墓前祭と、同戦争の受難者の慰霊祭は10日、会津坂下町の法界寺で行われた。
竹子は、なぎなたを手に新政府軍と戦い亡くなった。
同寺に墓が残っていることから、町内の女性でつくる町小竹会が主催し毎年、実施している。
会員や関係者ら約100人が参列した。
竹子の生きざまを歌った「護領の若竹」を全員で合唱。
詩吟を奉詠する中、会員が花や茶をささげた。
山口金子会長が式辞を述べ、同寺の井上文雄住職はじめ町内各寺の住職が読経し、竹子や戊辰戦争の殉難者を慰霊した。
坂下婦人会の斎藤京子会長らが追悼の言葉を述べた。
焼香の後、舞踊団体のひだまり会の二瓶淑さん、スポーツ民踊の後藤操さんが舞を奉納した。
栃木
幕末の酒蔵で10月コンサート 小山の若駒酒造が創業150年記念に
【小山】創業150年を迎えた小薬の若駒酒造は10月9日、酒蔵で記念コンサートを開く。出演するのは、ともに同酒蔵とゆかりがある「アンサンブル・キャナライズ」と「パパ・サラ」。柏瀬福一郎社長は「国登録文化財にもなっている酒蔵で音楽とこだわりの酒を楽しんでほしい」と話している。
若駒酒造は幕末30件の1860(万延元)年創業。現存する建物は当時建てられたとされ、このうち煙突のある主屋など3棟が2007年、国登録文化財になった。同社は、人々が集う酒蔵を目指して旧貯蔵庫を多目的ホール「醸楽蔵」と名付け、音楽会や地元芸術家の作品展などを開いている。
今回出演する「キャナライズ」は、女性4人のフルートとピアノのアンサンブル。06年から毎年、「醸楽蔵」でコンサートを続け、07年にはオリジナルCDと同社の日本酒をセット販売したこともある。
「パパ・サラ」は南米アンデス地方の音楽「フォルクローレ」を日本語で歌い演奏するグループ。昨年春と秋の2回、「醸楽蔵」でコンサートを開いた。
記念コンサートは午後2時と同6時開演の2回。開場はそれぞれ1時間前。休憩時には同社の日本酒、仕込み水の試飲もできる。柏瀬社長は「昨年はここでテレビドラマの撮影も行われた。登録文化財にもなっている酒蔵をぜひ多くの人に見てもらいたい」と話している。
定員は各100人程度。チケットは前売り2000円、当日2500円。小中高生は1500円。事前に申し込めばJR思川駅まで送迎するという。申し込み、問い合わせは同社電話0285・37・0429。
茨城
二の丸御殿調査用排水路跡など出土 茨城
県教委が6月から行っている水戸城跡の二の丸御殿部分の初調査で、発掘調査を受託する県教育財団は10日、調査状況を報道陣に公開した。
県立水戸第三高校(水戸市三の丸)の敷地内を発掘。整地された地面が8層あることが分かったほか、石組みの用排水路や井戸の跡などが出土した。
同財団によると、時代の違う遺構が同じ位置に配置されていることから、前代の工事を活用した効率的な工事が行われたと推定されるという。領主が替わるなどして何度も建て替えられた御殿部分の変遷が確認された。発掘部分は図面から、幕末期には食堂や家老の部屋として使われた部分という。
東京
【TOKYOウオーク2010】2447人が日野市の歴史と自然満喫
東京都内の名所を巡る「TOKYOウオーク2010」(共催・産経新聞社、特別協賛・ライオン、協賛・アシックス)の第4回大会が11日、日野エリアで行われた。
正午前に30度を超える厳しい残暑となったが、2447人が約7~20キロの3コースを歩き、歴史を感じさせる日野市立新選組歴史博物館や高幡不動尊、多摩川、浅川の水辺の自然などを楽しんだ。
調布市の主婦、星野美矢子さん(45)は暑さ対策でペットボトルの水を凍らせて持参。小学3年の長男と約7キロを完歩した埼玉県所沢市の会社員、吉田康隆さん(39)は「厳しい暑さの中、親子で歩く貴重な体験を共有できた」と話した。
次回は11月20日に神宮外苑エリアで行われる。
漫画や映画の近藤勇に迫る! 調布市郷土博物館「近藤勇展」!!
皆さん、こんにちは。ぬらりひょん打田です。
今回は東京都調布市の郷土博物館による『映画や漫画に登場する近藤勇展』を紹介します。
東京都調布市は、かの有名な新選組局長「近藤勇」の出身地です。市内には近藤の生家跡があります。そんな調布市の郷土博物館が今回、近藤勇をテーマに展示を行っています。実在の近藤勇のほか、漫画や映画の中で活躍した近藤や新選組の姿を紹介しているんです。様々に描かれる近藤勇の姿が見られますよ!!
まずは展示室で、大きな近藤の像が出迎えてくれます。
古いものでは紙芝居の『鞍馬天狗』が展示されていますが、ここでは新選組は敵役として登場します。そして昭和に入り新しい解釈がなされ、昭和30年代以降に新選組ブームは広がりを見せたようです。
映画に関しては『新撰組血風録』などの古い映画の写真をはじめ、比較的新しい『御法度』などのパンフレットもあります。
漫画は、調布市にお住まいの水木しげる先生が描いた近藤勇関係の作品をはじめ、手塚治虫先生、石ノ森章太郎先生などの作品も展示されています。一部はその場で読むこともできますよ。
この展示を見てわかることは「どういう価値観や思想を軸にして考えるかで、新選組の見え方が変わってくる」ということです。大衆文化に現れ始めたときの新選組は悪役として描かれることが多かったようですし、占領下の昭和20年代、チャンバラ映画は封建的精神を助長するということで禁止されていました。娯楽も、やはり時代を映す鏡なんですね。…と、実は展示の漫画の絵を見ているだけで楽しかったので、そんな難しいことは考えていなかったんですが(笑)。
いろいろと権利関係で苦労があると思いますが、こういうテーマで歴史上の人物を扱う催しは珍しいと思います。他の人物の展示も見てみたいですね。「聖徳太子」「織田信長」「真田幸村」「伊達政宗」…などなど。昨今のゲームに登場するのも含めると、いっそう楽しいと思います!! どこかやってくれませんかね…?
「映画・漫画に登場する近藤勇」
2010年9月23日まで
会場:調布市郷土博物館
開館時間:午前9時から午後4時 入館無料
休館日:月曜(祝日の場合は翌日)
住所:東京都調布市小島町3-26-2
アクセス:京王線 京王多摩川駅下車 徒歩4分
(「妖怪コスプレ記者」ぬらりひょん打田 山口敏太郎事務所)
参照 山口敏太郎公式ブログ「妖怪王」
http://blog.goo.ne.jp/youkaiou
京都
【龍馬を慕(おも)う】(23)京都・三条小橋 「池田屋事件」の舞台はいま
河原町通を北上し、三条通を右に折れた。高瀬川にかかる三条小橋の手前まできたとき、ちょっと目をむいた。維新史のなかでももっとも血なまぐさい池田屋事件の跡地に、「池田屋」という海鮮茶屋ができていたのである。店のまえの、
「池田屋騒動之址(あと)」
という石碑は、むかしのままである。だがかつて、その石碑のまえには、パチンコ店があったはずである。なんどか斬(き)り込み、ほとんど負けたから、覚えている。
店頭には、事件のあらましを書いた解説文と、死んだ志士たちの名前、年齢、出身地の一覧表が掲げられていた。解説文の最後のほうに、「この事件で倒幕が一年遅れたといわれる」とあったが、これはちょっとおおげさであろう。
三条小橋周辺は、江戸期から旅宿が立ちならび、池田屋も昭和の初期まであったという。その池田屋がパチンコ店などを経て、旅宿ではないが、海鮮茶屋となって復活したことになる。思わず斬り込む、ではなく、入店してみようかと思ったが、ひとりで酒を飲むのも味気ないので、遠慮した。
●3藩のあやうい均衡
新選組による池田屋襲撃事件が起きたのは、元治元(1864)年6月5日午後10時ごろである。双方の斬り合いは、3時間も続いたという。
このころの京の政治情勢をざっと俯瞰(ふかん)すると、前年の文久3年までは、薩摩、会津、長州の3藩があやうい均衡をたもっていた。
だが長州系の公卿(くぎょう)、姉小路公知(きんとも)の暗殺事件が起き、薩摩の田中新兵衛が犯人と疑われた。薩摩は一時、京の政界から脱落した。
長州が朝廷を牛耳るようになり、同年8月には、孝明天皇の大和行幸(ぎょうこう)をくわだてた。神武天皇陵などに参拝し、いっきに攘夷を進めようという計画だった。これに呼応し、土佐・檮原(ゆすはら)村出身の吉村寅太郎がリーダーとなり、先鋒(せんぽう)隊を堺から奈良・五条まで進め、代官所を襲った。天誅組(てんちゅうぐみ)の乱である。
少々、無謀な計画に対し、薩摩は会津と軍事同盟を結び、宮中クーデターを起こし、尊王攘夷派の公卿たちを追放した。「8月18日の政変」である。
長州藩は追放され、公卿たちとともに、長州にのがれた。いわゆる「七卿(しちきょう)落ち」である。
このあたりの薩摩の政治的リアリズムは、すさまじい。なにしろ、その2年後には長州と軍事同盟を結び、会津と敵対することになるからだ。司馬遼太郎の『竜馬がゆく』でも、
「薩摩藩の眼からみれば、会津藩も長州藩もこどものようなものであった」
と書かれている。
●「こども」じみた計画
たしかに追い込まれた志士たちは、「こども」のようにラディカルになった。御所に火を放ち、幕府側の要人を暗殺したうえで、天皇を長州に連れさる--という「こども」じみた計画を立てた。無謀を通りこして、すでにパラノイア症状(妄想障害)を起こしていた。
この情報が新選組にもれた。志士たちが木屋町三条にある四国屋か、この池田屋のどちらかで謀議をしていることを突きとめ、近藤勇や沖田総司ら10人が池田屋、土方歳三ひきいる24人が四国屋にむかった。
近藤は表口と裏口に6人を配置させ、沖田ら4人とともに池田屋内に入った。『竜馬がゆく』によれば、近藤は、
「亭主はおるか、御用改めであるぞ」
と土間に入って呼びかけた。すると、2階から話し声が聞こえた。抜刀した近藤らは、土足のまま一気に2階にかけあがった。これ以降の大チャンバラは、あまりにも有名である。二十数人いた志士のうち、座長格であった肥後の宮部鼎蔵(ていぞう)ら9人が死んだ。
神戸海軍操練所に所属していた土佐の望月亀弥太は重傷を負いながら逃げ出したが、追っ手に追いつかれ、自害した。蓆(むしろ)をかけられた望月の遺骸(いがい)を、騒動を知って駆けつけたお龍は目撃している。坂本龍馬を通じ、望月とは顔見知りだった。後年の聞き取りでは、
「私は頭の髪か手足の指か、何かひとつ形見に切っておきたいと思いましたが、番人がいっぱいおって取れないのです」
と語っている。髪はわかるが、手足の指を切る、という発想にはたまげる。
事件のとき、龍馬は勝海舟に会うために、江戸に向かっていた。神戸に帰ってきた、おそらく6月末には事件を知ったはずだが、どんな反応を示したのかは分からない。6月28日付の姉、乙女への手紙のなかに、こんな一節がある。
「天下に事をなすものハ ねぶともよく●は(腫)れずてハ、はり(針)へハうみ(膿)をつけもふさず候」
幕府という腫れ物を倒すには、膿がもうすこしたまってからだ、という意であろう。ようするに時期尚早論である。
新選組の名前は京中に響きわたり、志士たちを畏怖(いふ)させた。この異様なテロリスト集団について考えるためには、屯所(とんしょ)のあった壬生に向かわなければならない。(文 福嶋敏雄)
◇
≪メモ≫
鴨川にかかる三条大橋は東海道の出発点で、京都への玄関口でもあった。現在も木製の欄干が残り、京情緒を感じさせる景観となっている。「池田屋騒動之址」の碑へは、京阪電鉄「三条」駅か、京都市営地下鉄東西線「京都市役所前」駅を下り、徒歩約2分。長州藩邸の跡や土佐藩邸跡、坂本龍馬と中岡慎太郎が見廻組に襲われ、暗殺された近江屋跡などもごく近い。
◇
≪きょうの龍馬伝≫
■NHK総合 午後8時~ ほか
薩長同盟を成し遂げ、寺田屋に戻った龍馬(福山雅治)は、弥太郎(香川照之)に薩長が手を結んだこと、そして日本の仕組みが大きく変わり、幕府の時代が終わりを告げるであろうこと、その中で弥太郎が何をすべきか考えろと告げる。西郷(高橋克実)が密約を文書にしなかったことを危ぶむ木戸(谷原章介)が、文書化を主張。龍馬は証明の裏書きをするまで、寺田屋に残ることになる。もう京へ戻ることはないという龍馬にお龍(真木よう子)は複雑な思いを抱き、龍馬もお龍が気になる。京都守護職・松平容保(長谷川朝晴)は、伏見奉行に龍馬を捕らえるよう命じる。深夜、風呂に入っていたお龍が寺田屋を囲む捕り方に気付き、風呂を飛び出して龍馬と三吉慎蔵(筧利夫)に知らせる。
●=くの字点
大阪
【関西あれこれアニバーサリー】緒方洪庵生誕200年 医者志す若者の聖地
医学者、蘭学者で、江戸時代の大坂に「適塾」を開いた緒方洪庵の生誕から、今年で200年。翻訳をもとに日本に西洋医学を伝え、天然痘やコレラの予防にも尽力する一方、適塾では自由闊達(かったつ)な雰囲気のもと、慶応義塾創始者の福沢諭吉、明治維新で活躍した大村益次郎ら、数々の有能な人材を輩出した。適塾には、洪庵の遺徳をしのび、今もたくさんの人が訪れている。(吉田智香)
洪庵は文化7(1810)年、備中足守藩(現在の岡山市)で生まれた。足守藩士の父が大坂蔵屋敷留守居役となったのを機に、16歳で大坂に出てきた。
体が丈夫でなかったことから医学を志し、知識を深めた。天保9(1838)年に大坂で医院を開業。腕は確かで、2年後には医師を格付けした番付表に名前が載るようになり、後に大関に上り詰める。
適塾を開いたのも開業の年。その名は「荘子」に由来するという洪庵の号の一つ「適々斎」にちなんだ。評判が高まるにつれて塾生が増えて手狭になり、7年後に現在の場所(大阪市中央区北浜)に移転した。
適塾には、最新の学問を身に付けたい若者が続々と集まった。オランダ語の原書を訳す会読が中心で、習熟度に応じて級分けされ、塾生は辞書を頼りに独力で翻訳し、正確さを競った。
蘭和辞書が置いてあるヅーフ部屋では、塾生が予習のために辞書を奪い合ったという逸話も。諭吉は自伝で「勉強ということについてはこのうえにしようもないほどに勉強した」と振り返っている。
「洪庵は直訳ではなく、文章の要旨をくんで訳すことを重視した。塾生は原書を正確に訳すだけではなく、解釈をめぐって議論を交わした」と、適塾記念会の橋本孝成資料専門員(38)。「それが個性を伸ばすことにつながり、能力も高まった」と話す。
一方で、適塾は他の蘭学塾に比べて規則が緩く、飲酒もとがめられなかったという。血気盛んな若者たちのこと。時には“暴走”もあったようで、塾生が寝起きした大部屋の柱には無数の刀傷が残っている。
洪庵はこのほか、天然痘予防のため種痘所を設けたり、医師向けにコレラの治療法の本を発刊したりして流行を防いだ。大阪大学大学院文学研究科の村田路人教授(55)=日本近世史=は「優れた蘭学者、医学者だっただけでなく、予防という医者の社会的責務を信念を持って実践し、多くの人の命を救った」と話す。
適塾は今も一般公開されており、昨年は約2万8千人が来館。社会見学の小学生らに交じり、医学部志望の受験生も訪れる。備え付けのノートには「洪庵先生のような医者になりたい」と決意が記されていた。
兵庫
幕末ビールで景気づけ 三田の幸民まつり
三田藩出身の蘭学者川本幸民(1810~71年)の業績に親しむ催し「幸民まつり」のプレイベントが10日、三田駅前のペデストリアンデッキ(三田市駅前町)で開かれた。幸民が日本で初めてビールを造ったことにちなみ、屋台を開催。会社帰りのサラリーマンら数百人が、郷土の歴史に思いをはせながら舌鼓を打った。(本田純一)
今年は幸民生誕200年を記念してまつりを2日間に延長し、前夜祭としてこの日、プレイベントを企画した。
露店やいすなどを設け、市内の飲食店などが出店した。小西酒造(伊丹市)が幸民のビールを再現した「幕末のビール復刻版 幸民麦酒」の生ビールを販売。地場野菜や三田牛、三田ポークなどをふんだんに用いたコロッケやギョーザ、鉄板焼き、焼きそばなども並んだ。
午後5時の開店直後から、サラリーマンや近隣住民らが次々に立ち寄り、ビアガーデン気分で盛り上がった。西宮市の主婦(50)は「日本初のビールなんてロマンチック。幸民を機に、三田の魅力を知りました。もっとPRしてほしい」と満面の笑み。神戸市北区道場町の妻(64)と妻(60)は「幸民まつり本番が楽しみです」と話していた。
まつりは11、12日に市内各地で開かれる。
高知
龍馬使用と同型銃、展示は銃刀法違反? 高知県立記念館
幕末に坂本龍馬が京都・寺田屋事件で使ったとされる拳銃と同型の古い銃が今夏見つかり、高知県立坂本龍馬記念館が一時展示したのち、高知県警から銃刀法違反(所持禁止)の疑いがあると指摘を受けて撤去した。警察庁は10日、記念館職員を県の職員とするなどの方法で展示が可能になるよう、県と県警の間で調整が進んでいることを明らかにした。
問題となった拳銃は、スミス&ウエッソン社製の回転式6連発「モデル2アーミー」(32口径)。幕末から明治にかけて製造されたとみられる。警察庁によると、市販している銃弾を詰めれば発射が可能で、銃刀法の規制対象となる。
松山市の民家で今夏見つかり、8月に高知県に寄贈された後、8月22日から5日間展示された。記念館の職員が地方公共団体の職員であれば展示に法的な問題はなかったが、財団法人の職員だったことから、県警から法令違反の疑いがあると指摘を受け、撤去された。菅内閣で進めている「日本を元気にする規制改革100」の中にこの問題が取り上げられ、内閣府から警察庁に相談があったため、同庁と県警、県で検討していた。
佐賀
九州創発塾最終日 出島などで事例体験学習
「九州が生み出す維新~イノベーションで明日を照らす」をテーマに長崎市で開かれていた「九州創発塾2010長崎大会」(佐賀新聞社など7新聞社主催、九州経済連合会・中小企業基盤整備機構九州支部共催、旭化成後援)は11日、五つの事例体験学習で地域活性化のヒントを学び、2日間の日程を終えた。総合コーディネーターで脳科学者の茂木健一郎氏が「みなさんの行動が歴史を作ることを知ってほしい」と総括した。
シュガーロードをテーマにした事例体験は出島を見学、江戸時代に輸入された砂糖が長崎街道を通じて全国に広がったことを学んだ。2008年から佐賀、福岡の自治体や菓子組合と地域活性化に取り組んでいる長崎市の担当者は「武雄市とのシンポジウム実施や、福岡でのアンテナショップ開店など成果が出てきた」と話した。
茂木さんは「幕末の志士や市民の行動なしには、明治維新やフランス革命は起きなかった。みなさんの行動が大きな変革につながることに気づいてほしい」と話した。
佐賀市職員の緒方玲子さん(32)は「地域づくりのヒントや元気をいっぱいもらった。新しい価値を生み出す仕事をしたい」と話した。
長崎
聖福寺:龍馬ゆかりの唐寺 大雄宝殿修復へ募金活動 /長崎
1677年に創建された黄檗(おうばく)宗の唐寺で、幕末の志士・坂本龍馬にもゆかりの深い聖福(しょうふく)寺(長崎市玉園町)が老朽化したため、市民有志が募金活動を今月から始めた。特に本堂「大雄宝殿(だいゆうほうでん)」(県指定有形文化財)の傷みが激しく、2年をかけて1億円を集め、修復を目指す。【錦織祐一】
◇長崎市民有志、「協力会」を設立
聖福寺は、長崎出身の禅僧・鉄心道胖(1641~1710年)が建立。黄檗宗の大本山・万福寺(京都府宇治市)にならった建築様式が貴重とされ、大雄宝殿▽天王殿▽山門が県の有形文化財に指定されている。1867年に、坂本龍馬の海援隊が運航し、瀬戸内海で紀州藩船と衝突して沈んだ蒸気船「いろは丸」の賠償交渉が解決した場となったことでも知られる。
だが、日中貿易で来日した広東省出身者が檀家の中心だったため、長崎での貿易が衰えた戦後は檀家が減少。寺勢も衰え、伽藍(がらん)も老朽化した。現在は、屋根が草むして崩れ出し、軒先は崩落寸前の状態だ。
このため、郷土史家ら市民有志が今月1日に「大雄宝殿修復協力会」を設立。募金活動を決めた。世話人代表の一人、原田博二・長崎史談会長(64)は「国の文化財になり得る貴重な名刹(さつ)。抜本的に改修したい」と話している。問い合わせは同会事務局(090・4992・5037)。
〔長崎版〕
龍馬パフェ」観光客に人気 長崎のカフェオリンピック
長崎市浜町のカフェオリンピックで、パフェの上面に幕末の志士、坂本龍馬の顔を描いた「龍馬パフェ」(788円)が観光客らに人気。
フルーツやパンナコッタ、アイスなどを詰め込み、その上にソフトクリームを。最後に龍馬の顔の型を乗せ、ココアパウダーを振り掛けると出来上がり。
龍馬ブームが高まる中、「自分も地元を盛り上げたい」と中山陽三店長(58)が考案。「これを食べると、日本の歴史を動かした龍馬の勇気にあやかれるかもしれませんね」
鹿児島
雑記帳:ランタンの龍馬とお龍、鹿児島へ「新婚旅行」/霧島で展示へ
長崎市が中心市街地に設置する幕末の志士、坂本龍馬と妻お龍のランタン(中国ちょうちん、高さ約2~2・5メートル)=写真=が10日、鹿児島県に向け、“特別派遣”された。
2人のランタンは大河ドラマ「龍馬伝」放映と、今年2月の長崎ランタンフェスティバルに合わせ、台湾で製作。鹿児島での長崎物産展(15~27日)を機に派遣が決まった。
ランタンは15~20日、2人が新婚旅行をした鹿児島県霧島市で展示される。長崎市の担当者は「2人が新婚生活を送った長崎に、鹿児島からもぜひ」とPRを忘れなかった。【錦織祐一】
コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(78)小沢氏と西郷隆盛の違い 東大教授・山内昌之
■敬天愛人の政治
民主党内には代表選を西南戦争に擬(なぞら)える雰囲気があるらしい。実際に9月1日夜、菅直人首相は支持者の会合で「明治維新に西郷隆盛の力は必要だったが、西南戦争があって本格的な明治政府ができた」(産経新聞9月2日朝刊)と語っている。代表選は明治10年の西南戦争に相当し、小沢一郎氏の政治生命を絶ついくさになるというわけだ。
それにしても、「菅軍」なる音を官軍にかけるのは上品なたとえとはいえない。しかし小沢氏の政敵たちは、維新つまり政権交代の功労者、小沢氏の行く末を西郷の運命に重ねたかったのだろう。
確かに小沢氏自身も、5日のテレビ番組で「情的に好きな」人物として西郷を挙げ、その理由として「いかにも日本人的だから」(読売新聞9月6日朝刊)と答えている。
すべてを始動させる原動力
西郷隆盛は、無教会派キリスト者の内村鑑三でさえ日本史でいちばん偉大な人物と讃(たた)えたほどの人物である。維新後の西郷は経済改革について無能だったかもしれず、内政についても木戸孝允(たかよし)や大久保利通(としみち)の方が精通していたに相違ない。また、国家の平和的安定をはかる点では、公家の三条実美(さねとみ)や岩倉具視(ともみ)でさえ西郷よりも有能だったかもしれない。
内村も語るように、新たな明治国家はこの人びとの全員がいなくては、実現できなかったともいえる。
しかし、西郷がいなければ、“明治革命”そのものが不可能だったであろう。木戸や三条を欠いたとしても、革命は上首尾ではないにせよ、たぶん実現を見ていたという内村の見方は正しい。
「必要だったのは、すべてを始動させる原動力であり、運動を作り出し、『天』の全能の法にもとづき運動の方向を定める精神でありました」(内村鑑三著『代表的日本人』)。この内村の指摘をまつまでもなく、一度動き始め進路さえ決まれば、あとは比較的簡単に処理できるのも政治運動のメカニズムなのである。その多くは、西郷より器量が劣る人間でも自動的にできる仕事だという指摘も基本的に正しい。
犠牲最小、効果大の革命
江戸城の無血開城をクライマックスとする明治維新は、犠牲者の少ない歴史上いちばん「安価な革命」であったが、これを効果的に実現したのが西郷にほかならない。実際に、西郷の偉大さは、犠牲者を最小にしながら効果の大きい革命を実現した点にあるといってもよい。
現代の政治家たちが西郷を尊敬し好きだと公言するのはまだよいだろう。それは格別に自分を美化し顕示するわけでもないからだ。また、自らの経綸(けいりん)を西郷に重ねてアナロジー(類推)にするほどの自信家がいるとも思われない。他方、たとえ政敵批判のためであっても、小沢氏を西郷に擬えるアナロジーにも慎重でなくてはならない。
何よりも西郷には「敬天愛人」のような聖者や哲人めいた政治思想があった。天はすべての人を同一に愛するがゆえに、われわれも自分を愛するように人を愛さなければならない。こうした敬天愛人の思想、あるいはそれに匹敵する政治理念をもつ哲学的政治家が果たして現在いるのだろうか。
命もいらず、名もいらず
西郷には、「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るもの也」(『西郷南洲遺訓』)という有名な言葉がある。こういう人物でないと、悩みや苦しみを共にしながら国家の大業を果たすことはできないというのだ。
ひょっとして、小沢氏の周辺に集(つど)う議員のなかには、苟安(こうあん)(目先の安楽をむさぼること)を謀らない人がいるのかもしれない。しかし、当の小沢氏は果たして「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人」といえるのだろうか。異論のある有権者も多いに違いない。(やまうち まさゆき)
◇
【プロフィル】西郷隆盛
さいごう・たかもり 文政10(1828)年、薩摩(鹿児島県)生まれ。薩摩藩主、島津斉彬(なりあきら)に取り立てられる。斉彬の死後、島津久光と折り合わず流罪に。禁門の変の後、大久保利通らとともに討幕運動の中心となり、薩長連合や王政復古を成し遂げ、勝海舟とともに江戸城無血開城を実現させた。新政府で陸軍大将・参議を務めるが、征韓論政変で下野。明治10(1877)年、私学校生徒に擁され挙兵する(西南戦争)が、政府軍に敗北し、城山(鹿児島市)で自刃した。49歳だった。
PR
この記事にコメントする
この記事へのトラックバック
トラックバックURL:
カレンダー
10 | 2024/11 | 12 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | |||||
3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 |
10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 |
17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 |
24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |
カテゴリー
最新記事
(08/11)
(05/19)
(05/15)
(02/12)
(08/11)
最新コメント
[12/14 白牡丹(管理人)]
[12/14 ゆーじあむ]
[11/08 白牡丹(管理人)]
[11/07 れい]
[01/21 ゆーじあむ]
[11/15 白牡丹@管理人]
[11/15 ゆーじあむ]
[05/25 長谷川誠二郎]
[07/23 白牡丹@管理人]
[07/23 伊藤哲也]
最新TB
ブログ内検索
アーカイブ
最古記事
カウンター
プロフィール
HN:
白牡丹
性別:
非公開
自己紹介:
幕末、特に新選組や旧幕府関係者の歴史を追っかけています。連絡先はmariachi*dream.com(*印を@に置き換えてください)にて。
リンク
アクセス解析
Livedoor BlogRoll
本棚