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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
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 今週から身辺の環境が変わってバタバタしてます。三日目にしてようやく、ブログに記事をアップする気力体力の余裕ができました(^^ゞ。

岩手
高知の歌人、啄木ファンが募金活動
父、晩年過ごした縁県外初

 盛岡市出身の歌人・石川啄木と、父・一禎(いってい)(1850~1927)の歌が刻まれた碑が、一禎が晩年を過ごした高知市のJR高知駅前に建てられた。啄木と父の歌碑は、盛岡市馬場町の中津川のほとりにもあるが、県外に建てられるのは初めて。
 一禎は、旧渋民村(盛岡市玉山区渋民)にあった宝徳寺の住職を務めていたが、本山に納める宗費を滞納したことを理由に1904年に罷免された。その後、啄木の姉にあたる次女とらの家に身を寄せた。とらの夫は旧国鉄の職員で、25年に高知出張所長に赴任したのに伴い、一禎も高知に移住。現在のJR高知駅近くにあった職員官舎で暮らし、76歳で生涯を閉じた。
 一禎自身も4000首近い歌を詠み、歌稿「みだれ蘆(あし)」を残した。啄木の歌風にも影響を与えたと言われている。
 数年前までは官舎跡地に一禎とのゆかりを記した表示板があったが、それも駅前の再開発に伴って撤去されたままになっていた。
 そこで、高知県内の歌人や啄木ファンらが、「啄木の父 石川一禎終焉(しゅうえん)の地に歌碑を建てる会」を結成し、今年5月から募金活動に乗りだし、300万円近い建立資金を集めた。
 駅南側の市有地に設置された歌碑は、高さ約135センチ、幅185センチで、父子の歌が左右に並ぶように刻まれている。
 右側には、啄木が父を思って詠んだ「よく怒る 人にてありし わが父の 日ごろ怒らず 怒れと思ふ」と刻まれ、左側には一禎の「寒けれと 衣かるへき 方もなし かかり小舟に 旅ねせし夜は」と刻まれている。
 12日に行われた除幕式に出席した石川啄木記念館の山本玲子学芸員は14日、県庁を訪れ、達増知事に除幕式の様子を報告した。山本学芸員は、高知生まれの幕末の志士・坂本龍馬が多くの歌を詠んでいたことを紹介し、啄木と龍馬の歌を合わせて展示する企画展の開催を提案した。達増知事も、来年1月に高知県で開催される「土佐・龍馬であい博」を訪問する予定で、両県の交流は今後さらに活発になりそうだ。


埼玉
着物の魅力 漫画で  愛好者の漫画家が出版
 ふじみ野市大井の漫画家・近藤ようこさん(52)が、着物に関する漫画エッセー「着物いろはがるた」(徳間書店、税込み1260円)を刊行した。着物で歩くことが似合う街としての川越市や、県内の織物文化についても紹介している。
 近藤さんは1986年度、「見晴らしガ丘にて」で第15回日本漫画家協会賞優秀賞を受賞。最近では「私たちの着物術」「うきうきお出かけ着物術」「あしたも着物日和」など着物に関する著書も多数出している。
 今回の作品は、着物を着始めて約20年になるという近藤さんが、「着物は難しくない。楽しいものなので、構えずに着てほしい」との願いを込めて、着物に関する知識や情報を、いろはがるた形式で分かりやすく説明している。作品中で、近藤さんは自らも会員である、着物愛好者たちでつくるNPO法人「川越きもの散歩」の活動を紹介。会員たちが毎月28日に、昔ながらの街並みが残る川越を着物で散策している様子を軽やかなタッチで描いている。
 また江戸から明治にかけて庶民の間で流行した縞(しま)柄の木綿織物「川越唐桟(とうざん)」についても解説。幕末になって川越商人が欧米から細い糸を輸入し、川越周辺の農家に織らせて開発した歴史などを解説。このほか、埼玉県が全国有数の養蚕地であること、秩父地方では県産のブランド繭「いろどり」が生産されていることなど、着物関連の産業が多い現状にも触れている。
 近藤さんは「漫画なので読みやすく仕上がっていると思う。着物に興味を持っている方はもちろん、これから着ようと考えている方にも手にしてほしい」と話している。問い合わせは、徳間書店の販売担当(048・451・5960)へ。





神奈川
かながわ遊ナビ:開国150年記念歌劇、「新聞の父」モデルに--横浜 /神奈川
◇18日から横浜市中区で
 幕末に日本と米国を往復しリンカーン大統領らと会見、「新聞の父」とも言われるジョセフ・ヒコをモデルにした歌劇「揺(たゆ)たう潮(うしお)の咲くらばな」が、18日から横浜市中区山手町の山手ゲーテ座で上演される。元OSK日本歌劇団の那月峻らが出演する。
 神戸市に本拠を構える「歌劇★ビジュー」が、開国150周年記念として横浜で公演する。最前列6000円、他は5000円。22日まで。問い合わせ先は、ネザーランズ・センター(078・222・6888)。


写真発祥の地・横浜で幕末から現代までを見る写真展
 写真発祥の地・横浜の3美術館で今秋、開港150周年を記念して、幕末の開港時から現代までの写真をテーマを持たせて展示する企画展「ヨコハマ・フォト・トライアングル」が開催される。
 横浜美術館(横浜市西区)では、19日から11月23日まで、「近代日本の残像」と題し、幕末明治期の古写真など約60点を展示し、近代化の過程で、写真が果たしてきた役割を振り返る。
 横浜市民ギャラリー(同市中区)では、10月9日から同28日まで、「写真の現在・過去・未来-昭和から今日まで-」展を開催。市民らが撮影した横浜の風景や、昭和期の写真、現代の若手作家の作品などが紹介される。
 横浜市民ギャラリーあざみ野(同市青葉区)は10月23日から、「フォト・コミュニケーション」をテーマに、若手作家の作品と、市所蔵のカメラや写真のコレクションを展示し、写真によって作られた人と社会との新たなかかわり方を探る。11月8日まで。
 問い合わせは各美術館へ。▽横浜美術館(電)045・221・0300▽横浜市民ギャラリー(電)045・224・7920▽横浜市民ギャラリーあざみ野(電)045・910・5656。


山梨
羅漢像図(放光寺)2点が彩り 
県立文学館「一葉と甲州」展に出品 
樋口家の恩人・幕臣が寄進 

 甲州市塩山出身の真下晩菘(ばんすう)が制作に取り組んだ五百羅漢像図と、奈良・法隆寺金堂壁画の日本最古の模写(三幅一対)が、19日から甲府・県立文学館で始まる開館20周年記念企画展「樋口一葉と甲州」で公開される。甲州とのかかわりを焦点にした同企画展の目玉展示となっている。
 真下は農家に生まれながら幕臣の身分を得た人物で、江戸に出てきた一葉の両親を助けたことで知られ、孫の渋谷三郎は一葉の元婚約者だった。幕末、真下は故郷・塩山の放光寺に五百羅漢堂の建設を計画し、画壇の協力を得て羅漢像図を制作。1867年の大政奉還後に中止されたが、すでに完成していた220体分が同寺に寄進された。
 今回は「智眼明尊者」「大忍尊者」(各129・8センチ×56・2センチ)2点を展示する。「大忍尊者」は明治を代表する洋画家高橋由一作と考えられてきたが、署名を詳しく調べたところ、戯作者として人気を博した高畠藍泉作だったことが判明。高畠は「一葉舎」の別号も持ち、「文章を書き、一葉と同じ名を使っていたことに強い縁を感じる」(清雲俊元同寺長老)。
 「智眼明尊者」は高橋の師川上冬崖作とされているが、羅漢像図の多くは調査中。真下と同寺の関係も分かっておらず、今後、当時の画壇をひもとく発見の可能性もある。
 法隆寺金堂西壁阿弥陀三尊像図写(中幅255センチ×140・5センチ、左右幅204センチ×83・5センチ)は、真下の羅漢像制作に感銘した高僧養鸕徹定(うかいてつじょう)が羅漢堂の本尊にと寄進したもので、甲州市指定文化財となっている。
 同展は11月23日まで。


新潟
三条文人の村山半牧展が開催
 三条市出身で江戸時代末期に活躍した画家・村山半牧の作品18点を集めた特別展が、同市歴史民俗産業資料館で開かれている。高さ2メートル以上の超大幅の山水図が展示され、来館者の目を引いている。
 半牧は1828年生まれで、漢詩や日本画をたしなんだ「三条文人」の一人。勤王の志士と交遊し、41歳のときに戊辰戦争で自殺している。
 「(超)大幅山水図」は高さ2メートル6センチ、幅1メートル23センチで、普通の床の間では飾れないほどの大きさだ。色の入った山水図だが、田んぼが描かれており、川の流れも日本の渓谷のようで、写実的要素を取り入れている。
 小品では、「着色小品山水図(於柏崎)」が面白い。こちらは完全に日本の風景に見える。背後に山がうっすらと描かれており、米山をイメージしたのではないかと思われる。
 漢詩入りの作品が多く、「天下乱如麻」「外冦侵辺奈不休」など、緊迫した幕末の雰囲気が感じられる。「三国志」の戦場「赤壁」を描いた「淡彩赤壁図」もある。
 特別展は、6月末から1カ月間開いた「決定版村山半牧展」の第2弾前期展で、27日まで開催。10月3日からは作品を入れ替え、後期展として25日まで開く。入場無料。月曜休館。


富山
大名家秘蔵の名刀展:武将の姿思い浮かべて 日本刀の名品48本--富山 /富山
大名家秘蔵の名刀展:武将の姿思い浮かべて 日本刀の名品48本--富山 /富山
◇平安末期の太刀も
 天皇家や徳川家などが所蔵した日本刀の名品を集めた「大名家秘蔵の名刀展-源平の武将から維新の志士たちまでの愛刀」が富山市五福の県水墨美術館で開かれている。23日まで。

 日本刀は戦場などで武器として用いられただけでなく、近世大名が身分や家格を示す品として最も大切にしてきた美術工芸品でもある。現代でも貴重な歴史遺産として愛好者も多い。

 同展では、国宝や重要文化財を含む48本を展示。中には、織田信長が桶狭間の戦いで今川義元から取り上げ、その後豊臣秀頼、徳川家康と時々の権力者の手に渡った刀(重文)もある。展示品の中で最古のものは、平安末期、源義経と戦った平教経が所用した太刀。またNHK大河ドラマの主人公、直江兼続や上杉景勝ら戦国武将が愛蔵したものも展示している。

 そのほか、さややつばが美しいものもあり、日本刀に興味がなくても楽しめる。同館は「日本にしかない美術工芸品。刀紋などを見る正統的な鑑賞とともに、大名や武将の姿を思い浮かべながら、日本の歴史の中での位置づけなども理解してもらえれば」とPRしている。

 入場料は一般500円、大学生400円。関連して日本美術刀剣保存協会県支部による特別講座「名刀の魅力を探る」が20日午後2時から、手入れの実演も21、22、23日午前11時と午後2時からある。詳細は同美術館(076・431・3719)。【青山郁子】



京都
【京のいろ】「角屋」 揚屋 もてなしの優美な空間
 新撰組の隊士が足しげく通い、勤王の志士、西郷隆盛は軍用資金調達のため豪商を招き、しばしば供宴を催した。それが京の花街(かがい)・島原の揚屋(あげや)「角屋(すみや)」だ。揚屋は今でいうなら料亭。江戸時代初期の揚屋建築を今に伝える国内唯一の遺構として、1952(昭和27)年、国の重要文化財に指定された。しつらいの異なる華麗な座敷、庭園には茶室…。もてなしの優美な空間は春と秋、公開される。

 ■「粋やなぁ」思わずため息

 角屋は、一度訪ねてみたかった。「古都の遊郭って、どうなってるんだろう」

 南北に長い建物の表側は、全面に二重格子入り。等間隔で並ぶ様は装飾としても美しい。迎えてくださった財団法人角屋保存会の中川清生(きよお)理事長(61)は「遊郭ではなく、揚屋ですよ」とおっしゃる。15代目の当主だ。

 「うちは料理屋です。置屋から太夫や芸妓(げいぎ)を呼び、客をもてなす。時に和歌や俳句を楽しむ。そんな文芸サロンでもありました」。歓楽街にあったため、いまなお遊郭と誤解している人が少なくないという。

 揚屋とは。大座敷があり、多くの客を迎えるための大きな台所。そして広い庭に茶室。そんなぜいたくな空間だ。大座敷の一つ「扇の間」へ案内された。広さ21畳。名の通り天井に欄間、襖(ふすま)の絵も引き手まですべて扇づくし。天井の扇面は鶴や松竹梅…と、めでたいモチーフが並ぶ。

 中川さんはこう説明した。「天井の扇面は58枚。襖の絵は源氏物語風でしょう。だから釘隠も源氏香(げんじこう)の図柄。そして壁は浅葱(あさぎ)色の(京都の)九条土」。正面の襖が開かれると浄瑠璃を語る高座に早変わり。

 「粋やなぁ」とため息が出る。

 「青貝の間」も見事だ。壁や建具のすべてに青貝がちりばめられ、余白とのバランスがよく、品がある。壁や天井が黒っぽいのは、ろうそくの煤(すす)のせいだ。床柱には新撰組の刀痕(かたなきず)が残されていた。(文:早瀬廣美/撮影:加藤孝規(たかのり)/SANKEI EXPRESS)



 ■角屋 建物は1641(寛永18)年、六条三筋町(現在地よりやや北)から移築し、幕末まで増築を重ね、今の姿に。木造2階建て。延べ床面積約540坪。1998(平成10)年から「角屋もてなしの文化美術館」として公開。今秋は9月15日から12月15日まで(月曜休館、祝日の場合は開館し、翌日休館)。京都市下京区西新屋敷揚屋町32((電)075・351・0024)。


藤家紋鮮やか 磁器片出土
整った排水設備も

◇摂家・一条家跡
 京都御所(上京区)の西側近くに位置する摂家(せっけ)・一条家の跡地から排水設備の整った江戸初期~幕末期の遺構や、藤の家紋入りの磁器片などが見つかった。調査した京都市埋蔵文化財研究所によると、幕末の礎石には長さ50センチ以上のものもあり、建物の規模も大きかったようだ。
 摂家とは摂政、関白に任ぜられる家で、一条家は近衛家や九条家などと並ぶ五摂家の一つ。今回、同研究所は宮内庁京都事務所の増築工事に伴い、7月まで発掘調査をしていた。
 跡地からは幕末と江戸前期、江戸初期の三つの時期の遺構が見つかった。幕末の遺構からは建物礎石や穴の内部に石を詰めた排水設備、家紋入りの磁器片や人名などを記した墨書土器が出土。江戸初期の遺構からは石を詰め込んだ溝などが出土した。排水に気を配り、快適な住環境を目指したことがうかがえる。
 現在の京都御所は1854年の大火で焼失して翌年に再建されたものだが、同研究所の丸川義広・統括主任は「一条家の跡地からは、大火の跡とみられる焼土面も見つかった」と話している。


敷石美しく、地中に排水…雅な軒下
公家の一条家邸跡、見つかる

 京都市上京区の京都御苑内の発掘調査で、摂政・関白を輩出した五摂家の一つ、一条家とみられる江戸初期(17世紀中ごろ)の邸跡が15日までに見つかった。軒下に美しく小石を敷き詰めたり、排水の工夫をするなど丁寧な造りで、江戸初期のトップレベルの公家の暮らしぶりをうかがわせる。

 ■京都御苑内で発掘調査、江戸初期の代表的公家

 御苑内の西北部分にある宮内庁京都事務所の改築に伴い昨年11月下旬から今年7月下旬まで、京都市埋蔵文化財研究所が約520平方メートルを調査した。

 建物跡は東西約20メートルあり、縁側を支えたとみられる礎石が1メートル間隔で並んで良好に残っていたほか、靴脱ぎ場とみられる南北80センチ、東西4メートルの土壇があり、下地に瓦が並べられていた。

 建物の東と南には石を敷き詰めた雨落ち溝が巡り、水はけの悪いところは、深さ1メートルほどの穴を掘って石を詰め、水が地中の砂れき層に染み込みやすいように工夫していた。

 建物跡の下には、種類の異なる土を層状に突き固める古代の「版築(はんちく)工法」に似た造成工事が施され、その下から17世紀初めの建物跡も見つかった。

 ■収入乏しくても、丁寧な仕事

 現在の京都御所は16世紀末から17世紀初めに豊臣秀吉や徳川家康によって整備され、周辺には公家町が形成された。江戸時代の一条邸の平面図によると、多くの建物が渡り廊下で複雑に連結された構造で、見つかった建物は中心部分に近い建物の一つとみられる。

 市埋文研は「当時の公家は政治権力もなく収入も乏しかったが、丁寧な仕事がなされており、公家ならではの雅(みやび)な生活を保っていた様子がうかがえる」と話している。

 ◆一条家 藤原道長・頼通の子孫で、鎌倉時代以降摂政・関白を出した五摂家(ほかに近衛家、鷹司家、九条家、二条家)の一つ。一条兼良(1402-81)ら当代随一の学者を輩出し、伝統的公家文化の発展に指導的役割を果たした。


兵庫
参宮道中記:豊岡のご隠居、京へ 豪商の旅日記、HPで紹介--市教委 /兵庫
◇手形、関所、茶屋…幕末の風俗を解説
 幕末、「水戸黄門」のようにお供を引き連れて旅した豊岡のご隠居の日記が豊岡市のホームページで紹介されている。京都まで歩いて6日間の道のりの中で、当時の庶民の風俗や現在も残る地名が登場し、興味深い。【皆木成実】
 「鍋屋」の屋号で豊岡城下で酒造業を営んでいた由利茂時の「参宮道中記」。旅先の京都で30両もの買い物をしていることから、かなりの豪商だったらしい。旅日記は160ページもある大作で、子孫が約20年前に同市教育委員会に寄贈した。
 弘化5(1848)年4月、数え年71歳の茂時は同20歳の次男・敬助と友人の商人・宮津屋善九郎と3人で旅立つ。かご人足2人も雇ったぜいたくな旅で、伊勢参りする敬助に途中まで同行するためと、娘の嫁入り道具を京都で買うのが目的だった。
 日記の紹介文「ご隠居、京へ往(い)く」は、豊岡から京街道を上り、出石や福知山を経由して京都まで歩く一行の道程を追いながら、道中手形や関所越え、街道の茶屋といった時代劇で知られる当時の風俗などを解説している。
 同市のホームページ(http://www.city.toyooka.lg.jp)の教育委員会のコーナーに掲載している。
〔但馬版〕


山口
龍馬が心許した下関 紹介/古城春樹さん
 幕末の志士、坂本龍馬が愛用した湯飲みと茶わん、親交のあった長府藩士にあてた遺言状……。ゆかりの品々が下関に数多く残っている。新婚生活を過ごした逸話をまとめた「龍馬とお龍(りょう)の下関―海峡に遺(のこ)した夢のあと」(定価900円)を8月に出版した。
 妻のお龍を伴って1867年2月に下関の豪商宅に移り住んだ。夫婦で歌会に顔を出し、巌流島で花火遊びも楽しんだ。酒好きで花街の稲荷町にも出入りし、藩士や豪商とも杯を交わした。
 「命を狙われていた龍馬が家庭人の姿を見せるほど心を許した地。下関の人々も一風変わったよそ者を受け入れる度量があった。埋もれたままにしておいてはいけない歴史の一コマです」
 下関市立長府博物館の学芸員で激動の幕末史が得意分野だ。市内で生まれ育った長州人だが、祖父が鹿児島から移り住んできた薩摩人。01年に初めて企画展を担当。テーマは対立していた薩長を仲立ちした龍馬に関連するものだ。
 大学では法学を学び、市職員となった後に通信教育で学芸員の資格を取った変わり種。「ふるさとの歩みをかみ砕いて、PRするのが役割。研究だけではだめ」と話す。来年1月から放映されるNHK大河ドラマ「龍馬伝」を念頭に置き、2カ月で書き上げた。
 龍馬亡き後、お龍の生活費を長府藩主が支給するなどみんなで面倒をみようとした。「利害を超えた温かい結びつきを、先人は教えてくれます」


維新の足跡を巡ろう 萩
 「吉田松陰や高杉晋作たち維新の志士が駆け抜けた歴史の道を歩こう」と、萩往還ワンデーウオークが10月17日、萩市である。今年の松陰没後150年を記念したイベントの一つ。市、市観光協会、山口県ウオーキング協会などでつくる実行委が主催する。
 19・3キロを踏破する「往還コース」と9・8キロを歩く「松陰コース」の2コース。往還コースは午前9時に佐々並公民館をスタートし、国指定史跡の落合の石橋や萩往還交流施設「乳母の茶屋」などを経て中央公園までを歩く。
 松陰コースは午前10時に明木小を出発。乳母の茶屋と涙松跡の史跡を巡り、中央公園を目指す。
 小学生以上が対象で、参加費は一般千円。市役所などに置いてある専用の振込用紙で申し込む。高校生以下と75歳以上は無料。いずれも事前に参加申し込みが必要。雨天決行で、10月1日に締め切る。市スポーツ振興課=電話0838(25)7311。


藩士の旧宅でコーヒーを/茶屋「祥」
 春は桜、夏は蛍が舞う下関市の城下町、長府の壇具川。これからの季節は、城下町のもみじが人々の目を楽しませてくれる。
 壇具川にかかる小さな橋を渡り、少し石段を登ったところに、長府藩士、桂弥一(やいち)の旧宅を活用した茶屋「祥(しょう)」が軒を構える。
 玄関の引き戸を開けると、正面の壁に掲げられた「馬」と「鹿」の頭が目に飛び込んでくる。「弥一は、自分をへりくだって『馬鹿者』と言う意味でかけたのでしょうか」。茶屋のオーナー波田久代さん(64)はほほえむ。
 弥一は1849(嘉永2)年、長府藩士の家に生まれ、明治維新の頃、小倉の戦闘などで活躍。維新の志士をたたえる長門尊攘(そんじょう)堂(現・長府博物館)の建設に尽力し、1939年に息を引き取った。
 「祥」は弥一が1890(明治23)年に建てた自宅を、波田さんの義父が買い取って住居として使っていた。
 近くには、国宝の功山寺など名所旧跡があり、多くの観光客が波田さんの自宅を見学させてほしいと、声をかけてきた。
 「せっかくなら、お茶でも飲んで快くみてほしい」と、94年に茶屋「祥」を開業した。
 玄関を入ると、天井の高さが3メートルはある開放感のある応接間が来訪者を迎える。使い込まれたテーブルや柱時計が往時をしのばせる。波田さんのもう一つの本業、和裁の作品も展示・販売。不要になった着物などを洋服に仕立てる波田さんの作品にはファンが多く、北陸や関西の百貨店で販売されることもあるという。
 応接間や和室では、着付けやパッチワーク教室も月に数回開かれ、地域の人たちの交流の場になっている。「若い人たちにも、着物や古い家屋の持つ温かみを実感してほしい」と言う。
(島津洋一郎)


◇◆茶屋「祥」◆◇
  午前9時から午後5時。月曜定休日。コーヒーなどの飲み物のほか、10月6日からは湯豆腐と茶わん蒸しのランチが始まる(要予約)。問い合わせは083・245・0080。


伊藤博文展:近代国家築いた軌跡検証 萩博物館で始まる /山口
 初代内閣総理大臣、伊藤博文の没後100年を記念した特別展「伊藤博文とその時代」が12日から、萩市堀内の萩博物館で始まった。幕末から明治に生きた伊藤が近代国家建設の中で果たした役割を検証するもので、11月18日まで。
 現在の光市で生まれた伊藤は、少年のころに萩に移り住み、吉田松陰主宰の松下村塾で学び、23歳の時に4人の長州藩士とともに英国に密航留学。明治維新後に総理大臣になり、憲法の制定や国会開設に尽力した。1909(明治42)年10月26日、ハルビンでピストルで撃たれ死亡した。
 会場には、暗殺された時に着用していたシャツ▽暗殺6日前に日露戦争の戦跡を訪ね、旅順港で書いた最後の漢詩の書▽岩倉使節団として12カ国を訪れた時の大礼服▽大日本憲法義解や書簡--など約80点が展示。11日のオープンセレモニーでは、野村興児市長が「功績、業績の評価をしていく展覧会」とあいさつした。
 入館料は大人500円▽高大生300円▽小中生100円。
   ◇  ◇
 13日午後1時半から、萩市民館で「没後100年記念シンポジウム」が開かれる。基調講演は「伊藤博文と明治天皇-日本のかたちを作る」と題し、伊藤之雄(ゆきお)・京都大学教授が話す。入場無料。【川上敏文】


愛媛
ミュージカルオペラ「龍馬」 入場券好評発売中
 四国が誇る幕末の英雄・坂本龍馬を題材とした、豪華キャスト、スタッフによるミュージカルオペラの愛媛公演です。地元高知を皮切りに四国各県、さらに東京でも巡回開催します。
 【とき・ところ】11月6日(金)午後6時開演(30分前開場)。西条市総合文化会館
 【キャスト】平良交一(龍馬・バリトン歌手)、野口五郎(勝海舟)、野村将希(中岡慎太郎)、二宮さよ子(お登勢)、黒田アーサー(後藤象二郎)ほか
 【スタッフ】脚本=ジェームス三木、演出=江守徹、音楽=小六禮次郎ほか
 【入場料】SS席1万円、S席8千円、A席5千円(全席指定)。アクリートくらぶ割引対象
 【入場券発売所】愛媛新聞社事業部(支社・エリアサービスは取り寄せ)、西条市総合文化会館ほか
 【問い合わせ】龍馬高知オフィス=電話088(833)0301▽愛媛新聞社事業部=089(935)2355
 主催 ミュージカルオペラ龍馬実行委員会
 共催 愛媛新聞社、テレビ愛媛


長崎
本格焼酎「長崎の志士」発売 「龍馬伝」にちなみ大島醸造
 長崎大島醸造(西海市大島町、山下英一社長)は今月から、来年放送のNHK大河ドラマ「龍馬伝」にちなんだ芋と麦の2銘柄の本格焼酎「長崎の志士」を発売した。
 両銘柄ともラベルに、高知県立坂本龍馬記念館から提供を受けた、懐手にブーツ姿の坂本龍馬の肖像写真をあしらい、龍馬ゆかりの日本初の商社といわれる亀山社中(長崎市)の写真をパッケージに使った。
 パッケージと瓶のカラーは芋焼酎が赤、麦焼酎は青が基調。両銘柄とも仕込んで3年以上を経過した古酒を同社独自の調整でブレンドし、すっきりと飲みやすく仕上がったという。いずれもアルコール度数25度、750ミリリットル。税込み価格で芋が1300円、麦が1200円。
 同社は「龍馬が生きた激動の時代は現在にも重なる。幕末の志士の夢や、今後の日本の将来に思いをはせながら、杯を傾けてもらえたら」と話している。
 問い合わせは同社(フリーダイヤル0120・015679)。


鹿児島
映画「半次郎」 榎木さんら成功祈願/鹿児島市・南洲神社
 映画「半次郎」の撮影開始を17日に控えた主演の俳優榎木孝明さん(53)=伊佐市出身=らが15日、鹿児島市上竜尾町の南洲神社で成功を祈願した。
 音楽を担当する吉俣良さんや、西郷隆盛役オーディションで合格したばかりの指宿市出身の田中正次さんらも参列。榎木さんは「故郷で映画を作れることはとても光栄なこと。すてきな映画を作り、桐野の思いを世界に発信していきたい」と述べた。
 映画は幕末維新期に活躍、西南戦争(1877年)で散った薩摩藩出身の桐野利秋(中村半次郎)を描く。榎木さんらは祈願の後、間近にある西郷や桐野の墓を参拝した。


西郷隆盛辞世の漢詩?「故山に骨埋めよう」医師の日記に
 西南戦争で敗れた西郷隆盛の辞世の可能性がある漢詩が見つかった。鹿児島市立西郷南洲顕彰館が11日発表した。28文字の漢詩で、西南戦争で政府軍の医師だった山崎泰輔(1840~98)の日記にあった。西郷の辞世は残っておらず、専門家は本物なら貴重だと指摘する。

 同館によると、1877年9月24日の記述にこうある。

 《肥水豊山路已窮 墓田帰去覇図空 半生功罪両般跡 地底何顔対照公 西郷隆盛》

 意味は「肥後や豊後への道は窮まった。故山に帰り骨を埋めよう。維新完遂のため覇を唱えたが、今となってはむなしい。半生を振り返ると功罪両様の跡が残った。死後にどんな顔をして、照国(島津斉彬)公にお会いすることだろうか」というらしい。

 筆跡は山崎だが、日記の日付は鹿児島市城山で西郷が49歳で死去した日と同じ。漢詩の直前には、西郷らの戦死の知らせを受けたという記述もある。

 日記は札幌市在住の山崎の遺族が保管。解読を依頼された古文書研究家から同館に1月に問い合わせがあったという。同館が調べたところ、韻など漢詩作法の平仄(ひょうそく)が西郷が残したものと似ているという。西郷と山崎の接点は不明だが、西郷の息子などを通じて政府軍側にも伝わった可能性がある、と同館の高柳毅館長は話す。

     ◇

 原口泉・鹿児島大教授(日本史学)の話 西郷隆盛は歴史の節目節目で自分の思いを漢詩で残してきた。戦況がせっぱつまっている時期に詠んだものなら誰かが書き留めたはず。それが、軍医として学識のある山崎の目にとまり、山崎が日記に記したものとも考えられる。西郷研究に大事な発見になるだろう。



コラム
【歴史の交差点】東京大学教授・山内昌之 日本の「せんたく」の前に
 日本の「せんたく」(洗濯)をすると語ったのは、幕末の坂本龍馬である。龍馬は文久3(1863)年6月、姉にあてた手紙で「姦吏(かんり)を一事に軍(いくさ)いたし、打殺し、日本を今一度せんたくいたし申候事(もうしそうろうこと)にいたすべく」と述べていた。
 外圧など政治懸案を解決するすべをもたない幕府の腐敗官僚を相手に戦い、彼らを一掃して日本をもう一度、汚れを洗ってきれいにしたいというのだ。
 この龍馬の言を聞いて、民主党の鳩山由紀夫代表や岡田克也幹事長らは、自分たちの抱負につながると思うにちがいない。確かに、8月総選挙における民主党の圧勝は、あまりにもよどみの深い自民党の既得権益と官僚の特権構造への国民の怒りが爆発した結果には違いない。さながら民主党には、21世紀日本の進路を阻害するよどみの「せんたく」を期待したともいえよう。
(以下略)


【次代への名言】9月14日・岩倉具視
「成敗は天なり、死生は命なり、失敗して死すとも豈(あに)後世に恥じんや」
 (岩倉具視(ともみ))

 「終日一間に籠居(ろうきょ)、(中略)うつうつとして心神穏やかならず、只々(ただただ)無念の次第遣(や)る方なし」。幕末もその終幕に入りつつあった1862年のきょう(旧暦)、岩倉具視は日記にそうつづった。
 政治の檜(ひのき)舞台にたったのは32歳と遅かったが、それから異才を発揮する。前半生の絶頂期は皇女、和宮の降嫁(14代将軍、徳川家茂との結婚)。それゆえ親幕・開国派の「姦物(かんぶつ)」とみなされた。京は狂ったような尊皇攘夷派に牛耳られつつあった。身を隠さねば、命はなかった。
 13日の夕方、僧体で自宅を忍び出た。そして「今度の事件、実に夢とも現(うつつ)とも、毛頭合点参らず」と思い惑いながら翌々日、落髪する。それからまる4年半にわたって隠れ家を転々とし、世間から忘れられ、厄介者扱いもされた。しかし、このとき、屈辱に耐えて生きながらえたことが明治の元勲・岩倉を生む。
 冒頭は67年末のクーデター「王政復古の大号令」で薄氷を渡っていたころのことば。次は維新後すぐの建言だが、後世がなお、取り組むべき課題でもある。
 「臣子の分として之を言うに憚(はばか)ると雖(いえど)も、明天子賢相(けんしょう)の出づるを待たずとも自ら国家を保持するに足るの制度を確立するに非ざれば不可なり」





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