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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 明日はようやく「暑さ寒さも彼岸まで」のお彼岸の中日なんですが、東京は最高気温が30度近くまで上がるそうですわ……そういう天候も、お彼岸の週ならではなんでしょうね^_^;。

 今日、書店で下記の本を見かけました。

 江戸時代に生きた人物のうち未来を見据える才のあった人々を紹介するというコンセプトのようです。吉田松陰は今さら紹介しなくてもと思いましたが、佐久間象山とともに江川太郎左衛門(ペリー来航の一度目と二度目の間に品川沖にお台場を築いた、韮山反射炉を築いた、マリナー号事件でイギリス海軍と交渉した、「パン祖」……って人物紹介がまとまらない^_^;)や松本順(幕末には松本良順先生、明治の初代陸軍軍医総監で大磯に海水浴場を開いた)や田中久重(「からくり儀右衛門」、後の東芝の創業者)も紹介されているのがグッド。購入するかどうか検討中です。

山形
郷土の先人・先覚153 《本多 成允》
サクランボの育ての親

 サクランボの父として寒河江・西村山地方で、本多様と崇敬されている本多成允は、庄内藩士・本多十右衛門の子として鶴岡与力町に生まれ、元治2年正月に家督を相続した。幼いころより文武の道を藩校・致道館に学ぶ。慶応4年、藩分限帳に組頭・服部純蔵の組付、禄高100石。戊辰戦争のとき22歳で、家老・松平甚三郎の第一大隊に属し、村山寒河江、秋田・横手北征軍として各地に転戦した。
 本多家の始祖は三河の人庄太夫光正で、酒井忠勝に召し抱えられ、司農(郡代)に抜擢された。禄500石番頭・組頭に進む。退職後の寛文3年、清水新田、平田郷笹山新田の開田開拓を行う。没後、清水新田地内に創建の本多神社に祭祀された。
 光正と成允十数代、200年の隔たりがあるが、桜桃(サクランボ)育ての恩人と尊敬され、寒河江長岡山公園の「さくらんぼ日本一の碑」にその名を讃えられている。
 成允は明治維新の大転換により家禄を失った。明治8年、養子・次一に家督を譲り隠居。このころ、酒田県官員として出仕、次いで山形県に転じ、西村山郡役所書記。一家をあげて寒河江に移住し、明治21年に西村山郡有志農談会副会長として郡立農産物試験場運営に当たる。明治30年、山形県勧業諮問会員委嘱、さらに寒河江町長に就任した。西村山郡立中学校(寒河江高校の前身)設立に尽力。町長退任後は郡立農産物試験場長に推され、勧農の道に努める。
 桜桃が日本に入ったのは、明治初年に函館在住のドイツ人ガルトネルが近郊七飯村に試植したのが最初という。山形県では明治8年県庁の敷地内に3本植えたのが始まり。翌9年、10年、11年と三島県令が北海道開拓使や勧業寮からリンゴ、ナシ、桜桃などの西洋種を求めて、山形市香澄町桜小路や、県営千才園などに植栽し、土地に合うものは民間に配布した。
 殖産興業に熱心だった内務卿・大久保利通の命でつくった三田育種場には、フランス、アメリカなどの諸国から新品種を輸入し、試験、範示、種苗交換を行った栽培奨励の時期であり、山形県でも明治18年ごろ桜桃の苗木を購入していると考えられる。成允は明治20年ごろより桜桃栽培を試み、自宅周辺で自費育成した苗木を農家に分け与えたり、食味させるなど啓蒙に努めた。当地方の気候条件が桜桃栽培の適地だったことなども重なり、長岡山周辺、寒河江川河畔地帯にサクランボ畑が広まり、今日の隆盛の先駆けとなった。
 また、成允は歌人としても優れており、大正5年の宮中歌会始の勅題「寄国祝」(大正天皇御即位大典)に入選するなどした。大正6年、71歳で亡くなった。



宮城
廃仏棄釈で廃寺の向拝 「佐浦」新社屋に移築
廃仏棄釈で廃寺の向拝 「佐浦」新社屋に移築
 塩釜神社の別当寺として江戸時代まで栄えた法蓮寺の玄関部分の「向拝(こうはい)」が、明治維新の廃仏棄釈から130年以上の時を経て、宮城県塩釜市に戻ってきた。向拝は多賀城市の寺からNPO法人の仲介で、日本酒醸造元「佐浦」の塩釜市本町の新社屋玄関に移築された。風格ある建物は新たな観光名所になりそうだ。


新潟
井伊直弼の銅像を発見、与板
 幕末の大老で桜田門外で暗殺された彦根藩主、井伊直弼(なおすけ)(1815―60)とみられる銅像がこのほど、長岡市与板町与板の井伊神社で発見された。その存在は書籍に記されていたが、どこにあるかは分からなくなっていた。

 銅像は高さ約70センチ。頭に冠を付け、右手には笏(しゃく)を持った正装姿。「井伊直弼公御銅像」と書かれた木箱に収められていた。箱には大正11年の日付と三島郡長謹書と記されていた。同神社は現在、中越、中越沖の両地震で被災した社殿を修復中で、役員が清掃中に見つけた。

 与板藩は彦根藩の支藩。同神社は江戸時代中期から与板藩主だった井伊家代々をまつっている。

 同神社の管理委員長だった池上大一さん=故人=著の「与板藩史」(1982年発行)には、大正11年、最後の与板藩主で直弼の四男の井伊直安が同神社に寄贈し、祭礼の日に奉納された直弼の銅像があるとの記述があるが、在りかは分からなかった。

 氏子らは銅像発見に一様に驚いている。管理委員長の小林一男さん(72)=同所=は「地域の大切な宝物であり、みんなで大事にしていきたい」と話した。

 最後の書簡といい銅像といい、大河ドラマ『篤姫』が放映されている年に出てくるっていうところが凄いですね……あ、『風雲児たち』でも、やっと安政の大獄の描写に入りましたのでいいタイミングかと(苦笑)。


福井
大野の武家屋敷で一服  旧内山家開館15周年記念し、大茶会
 大野市城町の武家屋敷「旧内山家」が開館15周年を迎え21日、記念大茶会が開かれた。同家の歩みを振り返る写真パネル展もあり、市民らは幕末期の大野藩政再建に尽力した内山家の偉業をしのぶとともに、情緒ある庭園を眺めながら抹茶を味わった。
 市教委が主催。大茶会は濃茶席、薄茶席、点心席の〝茶のフルコース〟があり、市茶道連盟の和敬会が市民ら約190人をもてなした。
 濃茶席は母屋につながる離れで8席開かれた。庭園が広がる座敷には1席に約20人が集まり、和菓子や茶を堪能していた。
 旧内山家は1882年ごろに建てられ、同市が2階建ての母屋のほか離れを解体復元し、1993年に公開した。写真パネル展では復元工事の様子などを披露。遠足で屋敷を訪れた小中学生の感想文も紹介した。


愛媛
坂の上の雲ミュージアム:来館20万人突破、松山の親子連れに認定書--松山 /愛媛
坂の上の雲ミュージアム:来館20万人突破、松山の親子連れに認定書--松山 /愛媛
 司馬遼太郎さんの小説「坂の上の雲」の世界を紹介する「坂の上の雲ミュージアム」(松山市一番町3)で20日、開館以来の来館者が20万人を突破し、セレモニーがあった。松原正毅館長は「予想通りのペースで大変うれしい」と話した。

 20万人目となったのは同市土居田町の主婦、関家美絵子さん(36)。長女丸華ちゃん(2)と2回目の来館で、「明治維新の様子などに興味があり、じっくり見ようと思ってまた来ました。びっくりです」と笑顔で話した。関家さんらは同館職員手製のくす玉を割り、中村時広市長から認定書を贈られた。同館は昨年4月に開館。今年度は毎月1万人前後の来館者数で推移している。【土本匡孝】
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