新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
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その2です。
富山
歴史の輝き胸に刻み 名刀展、23日限り 富山県水墨美術館で開催
愛知
屏風絵など50点の寺宝展 春日井の薬師寺密蔵院で来月
三重
風呂敷の「すべて」紹介 四日市市立博物館で特別展
滋賀
龍馬あやかり まちおこし
歴史的な訪問 /滋賀
のり面に浸食防ぐ張り石
高島の岩神堰堤遺跡の構造判明
京都
【京のいろ】「角屋」 揚屋 泰平の世に文人が集う
広島
神辺出身父子顕彰へ 10月から企画展
鳥取
近代史を飾った 西部人物伝
山口
ふるさと歴史講座:「幕末青年の志」一坂さんが講演--周南 /山口
伊藤博文:没後100年記念、先祖墓碑を修復--萩市・報恩寺 /山口
大分
幕末・維新の道(4)今市
幕末・維新の道(5)久住
富山
歴史の輝き胸に刻み 名刀展、23日限り 富山県水墨美術館で開催
富山市の富山県水墨美術館で開催中の「大名家秘蔵の名刀展―源平の武将から維新の志士たちまでの愛刀―」(日本美術刀剣保存協会県支部、富山新聞社など主催)は閉幕を翌日に控えた22日、多くの家族連れらでにぎわった。来場者は見納めとなる大名家伝来の名刀を鑑賞し、歴史に彩られた輝きを胸に刻んだ。
同展では、徳川将軍家、前田家、上杉家が所蔵した刀剣や織田信長、直江兼続らが所持した愛刀など国宝、重要文化財を含む48振が展示されている。この日は、日本美術刀剣保存協会県支部の澤田康則事務局長らによる刀剣の手入れの実演や解説会が行われた。
実演では、多くの来場者が平安末期と江戸初期の刀を交互に手に取り、刀身を光に照らして刃文の違いを見極めた。大河ドラマを見て武将に親しみがわいたという富山市山室の無職赤尾良平さん(65)は「実戦の跡が残る刀もあり、自分が歴史の舞台に立っているような感動を覚えた」と話し、名残を惜しむように展示に見入った。
最終日の23日は午前9時半から午後5時(入場は同4時半)まで。観覧料は一般500円、大学生400円、高校生以下無料。
愛知
屏風絵など50点の寺宝展 春日井の薬師寺密蔵院で来月
1328年に天台宗の寺院として建立された医王山薬師寺密蔵院(春日井市熊野町)の寺宝展が10月4日午前9時から、同院本堂で開かれる。
今年は幕末期に46代住職を務めた僧侶・円龍に焦点を当て、ゆかりの品々を展示する。無料。
国の重要文化財「薬師如来立像」などの貴重な寺宝を広く鑑賞してもらおうと密蔵院と郷土史グループ「密蔵院語り部の会」が毎年開いている。
今回の目玉は、知多市で見つかった円龍作の屏風(びょうぶ)絵。1860年作の6曲で、高さ1・4メートル、幅3メートル。ふすま紙に梅や菊などが墨で描かれている。
そのほか、円龍が書いたとされる天台宗の問答集や「七仏薬師像」の仏画、趣味で親しんだ和歌、墨絵など計50点が展示される。
同会代表の大島信衛さん(74)は「円龍が持っていた宗教家と風流人という2つの顔を見てもらいたい」と呼びかけている。
午前10時と午後1時から、同会講師による講話もある。(問)密蔵院語り部の会・大島さん=電0568(92)1449
三重
風呂敷の「すべて」紹介 四日市市立博物館で特別展
風呂敷の歴史や文化、使い方を紹介する特別展「包むこころ ふろしき」(中日新聞社後援)が四日市市立博物館で開かれている。11月8日まで。月曜日休館(10月12日は開館し、翌13日休館)。
幕末から昭和初期の風呂敷や、聖徳太子の遺品を包んだ現存最古の風呂敷を紹介したパネル、風呂敷が使われた様子が描かれた浮世絵など約200点を展示した。リュックサック形やショルダーバッグ形といった多彩な包み方の見本もずらり。同館職員は「風呂敷のすべてが分かる展示にした」とPRしている。
体験コーナーもあり、ボランティアが基本の結び方「真結び」や瓶を運ぶときの包み方などを教えてくれる。10月24日の午前10時からと午後2時からの2回、現代の生活スタイルに合わせた風呂敷活用術を学ぶワークショップがある。
観覧料は、大人700円、高校、大学生500円で、中学生以下は無料。問い合わせは、同館=電059(355)2700=へ。
滋賀
龍馬あやかり まちおこし
【ファンがPT立ち上げ】
県内の坂本龍馬ファンが昨秋結成した「近江龍馬会」が、来年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」を大津のまちおこしに活用しようとプロジェクトチームを立ち上げた。大津は龍馬を支えた2人の人物の生誕の地とされる。メンバーらは「龍馬にあやかり、大津の街と歴史の再発見につなげたい」と意気込む。(日比野容子)
【歴史講座・石碑建立/支えた2人の生誕地・大津】
2人の人物とは、龍馬の定宿だった京都・伏見の寺田屋のおかみお登勢(とせ)と、龍馬の用心棒で龍馬とともに殺害された山田藤吉。いずれも大津市中心部の生まれと伝わる。
「龍馬伝」は幕末の風雲児龍馬の生涯を、龍馬と同郷で後に三菱財閥の基礎を築いた岩崎弥太郎の視点で描く。原作のないオリジナル作品で、歌手で俳優の福山雅治さんが主演する。
プロジェクトチームは「龍馬伝」の放映に併せて大津の街を盛り上げるイベントを計画中だ。「『龍馬伝』を近江で10倍楽しむための歴史講座」を10月10日を皮切りに計3回開くほか、寺田屋お登勢や山田藤吉ゆかりの地に石碑を建立し、除幕式にイベントを催す予定。また、専門家とともに街歩きを楽しみながら大津の魅力を再発見するツアーも検討している。
事業は、大津市が市民活動を支援する「大津市新パワーアップ・活動支援事業」にも選ばれ、60万円の助成金を得た。近江龍馬会の柴田與一郎会長は「近江と龍馬のゆかりのように、意外と知られていない街の歴史や話題を掘り起こし、まちおこしにつなげたい」と話す。
プロジェクトチームは、ともに活動する個人や団体を募集中だ。活動を紹介する説明会を10月3日、大津市のナカマチ商店街にある「まちなか交流館ゆうゆうかん」で開く。問い合わせは柴田さん(090・2191・5796)へ。
歴史的な訪問 /滋賀
政権交代が確実視された衆院選さなかのため、それほど世間の耳目を集めなかったようですが、「その時歴史が動いた」と言える出来事がありました。8月21日から3日間にわたる彦根市市民使節団の山口県萩市への公式訪問です。
幕末の動乱期、彦根藩主の井伊直弼大老が長州の思想家、吉田松陰ら尊王攘夷(そんのうじょうい)派を弾圧した「安政の大獄」。その松陰の地元・萩を、獅山向洋市長や井伊家十八代当主の直岳さん(彦根城博物館長)、公募の市民らが訪れ、松陰の墓をお参りするなど、萩市民と交流しました。松陰死罪から150年の新たな展開でした。
◇
歴史を活用した両市の街づくりが国の認定を受ける場で市長の席が隣同士になり、獅山市長が訪問を申し入れてトントン拍子に進んだとのことです。萩市の野村興児市長は「恩讐(おんしゅう)を超えて新しい交流を」と訴え、直岳さんは日本の将来に命がけで取り組んだ2人をしのび、友好的な両市の関係への期待を表明しました。
松陰の墓を大切に守ってきたグループの会長も「歴史的な事実は事実として受け止め、これからの日本を築くため手を携えていければ」と話しました。一方で、彦根からの訪問話を聞いたときは「心穏やかではなかった。憎いとか敵とか思っていた。会の中には『許さん』という声もあった」という複雑な心情を吐露。井伊大老が水戸浪士らに暗殺されてから108年後に彦根市と水戸市が親善都市になりましたが、萩では1世紀半たってなお「過去」にはなっていなかったのでしょう。
忠臣蔵の赤穂義士の地元・兵庫県赤穂市側が吉良(きら)上野介(こうずけのすけ)ゆかりの愛知県吉良町で墓参りしたのが、松の廊下の刃傷(にんじょう)から292年。約140年前の戊辰戦争で悲劇に見舞われた会津の長州に対する感情もよく知られ、昨年のある討論会では子孫の一人が「和解にはまだ時間が足りない」と発言。歴史の重さを感じざるをえません。だからこそ、萩訪問は未来志向で歩むための「チェンジ」の一歩と言えるでしょう。
◇
今回の友好ムードの演出に大いに貢献したのが「ひこにゃん」でした。現地で取材した支局員によると、どこに行っても、ひこにゃんと一緒に写真を撮ろうとする市民が殺到。ひこにゃんグッズを持った人も多く、「かわいい」コールも絶えず、まさにアイドル並みの人気ぶりだったといいます。
今や、ひこにゃんに勝る湖国イメージアップの“顔”はなしというほどの存在ですが、先日、人気番組「探偵!ナイトスクープ」に嘉田知事が顧問として出演していてびっくり。歌手の西川貴教さんや加藤登紀子さんに「滋賀ふるさと大使」に就任してもらうなど湖国の魅力を広くアピールしようとする知事のトップセールスでしょう。確かにテレビの訴求力は強烈で、湖北のパンが紹介されると全国から注文が相次ぎ、別の番組では草津のスーパーの“4円もやし”が取り上げられて強い印象を与えていました。
県内には趣のある観光資源が豊富にあり、誘致にはPRの仕方がカギでしょう。ただ観光客にとって景色や産物だけでなく、人との接触も大きなポイント。県都で幾度となく経験する「三方よし」ならぬ「一方よし」の接客ぶりが気になるところです。【大津支局長・小林成明】
のり面に浸食防ぐ張り石
高島の岩神堰堤遺跡の構造判明
滋賀県高島市朽木岩瀬の谷間にある「岩神堰堤(えんてい)遺跡」が、江戸時代に築造された貯水用堰堤で、のり面に浸食を防ぐ張り石を施した珍しい構造であることが、高島市教委朽木村史編さん室の調査で分かった。城郭石垣研究の第一人者で石川県金沢城調査研究所の北垣聰一郎所長(土木技術史)は「古い堰堤だ。構造的には江戸時代よりさかのぼれないが、だれが何のために造ったのか。堰堤の表面に石を張ったものは見たことがない」と話す。
堰堤は、室町幕府の12代将軍足利義晴が京都を逃れ、朽木に滞在していた時に造園された名園、旧秀隣寺庭園の近くを流れる谷川の上流800メートルの谷間にあり、川を堰(せ)き止めるダムのような形。あふれそうになった時に水を流す構造もある。
全長48メートル、高さ7メートル、上部の幅3メートルと巨大で、基底幅は最大24メートルで断面は台形。構造は、内部に水を通さない粘土を挟む方法は取らず、古墳を築造したように少しずつ土を盛ってつき固めていく「版築」という工法で造られたとみられる。のり面は土で覆われていたが、一部を取り除くと石積みが露出した。張り石は、20センチから1メートルほどの大きさで、何度か補修されていた。
1874(明治7)年ごろに作られた絵図に青色の谷池が描かれており、ため池だったともみられる。明治20年代の2度の洪水で、堰堤の南東側3分の1が流されたらしい。
大規模な土木作業が必要だった堰堤だが、幕末までこの地域を治めた領主朽木氏の文書には全く記載がなく、だれが何に使うために造ったか謎のままだ。朽木村史編さん室の石田敏室長は「水田に利用したと伝わっている。室町時代にあったとされる将軍仮御所にかかわる施設なのかは分からない」と話す。
京都
【京のいろ】「角屋」 揚屋 泰平の世に文人が集う
秀吉により京に開設された揚屋は、江戸期に入ると大坂(新町)と江戸(吉原)が加わる。泰平の世となり、揚屋には文人たちが集い、身分を超えて和歌や俳句、書、画など風雅な世界を深めていった。三都のうち吉原の揚屋は1760(宝暦10)年に消え、大坂の揚屋は1945(昭和20)年に戦災で焼失した。唯一残った揚屋が、京(島原)の角屋だ。
■門口の辻行灯が宴の序曲を告げる
揚屋である京・島原の角屋は今なら料亭に当たる。色鮮やかな座敷と対照的に、外観はモノトーンだ。南北に走る通りに面した間口は約32メートル。実に壮観だ。間口の狭い京町家を見慣れた町人には、一目で圧倒されそう。それだけに、たとえ一度たりとも角屋に足を運んだなら、きっと、長く自慢話に花を咲かせたことだろう。
そんな島原のうわさを耳にしたかどうか定かではないが、幕末の知識人、頼山陽(らいさんよう)も訪れた。財団法人角屋保存会の中川清生(きよお)理事長(61)は、こう話す。「頼山陽は、うちの南隣にあった八文字(はちもんじ)屋へ来ています。1818(文政元)のことです。なんとお母さんを連れてきたそうで…」。女性にも広く門戸を開放していたのだ。
角屋の門口は、建物の中央部やや南寄り。太い門柱と両脇上部の赤い大津磨き壁が印象的だ。そこから顔をのぞかせる角屋の家紋(蔓三(つるみ)つ蔦(つた)」を白く染め抜いた大きな暖簾(のれん)は、台所へ入る内用の玄関だ。暖簾の上にある突出した庇(ひさし)は柿葺(こけらぶ)きだ。日本情緒あふれる佇(たたず)まいが、敷石の打ち水にうっすら影を落とす。両側に立つ太い高木は槐(えんじゅ)で魔よけや長寿の木とされる。
来客用の玄関は門口を入って右に延びる敷石の先にあり、正面からは見えない所に奥まっている。黄昏時、門口から見える辻行灯(つじあんどん)に明かりがともると、宴への序曲が始まる。(文:早瀬廣美/撮影:加藤孝規(たかのり)/SANKEI EXPRESS)
◇
■角屋と文人 泰平の世を迎えた江戸時代中期の島原には、文人と呼ばれる知識人たちが集まった。中でも角屋6代目、7代目は親交深かった与謝蕪村(よさぶそん)らを招いて島原俳壇をつくるなど、数多くの風雅人を輩出した。また円山応挙(まるやまおうきょ)や蕪村、池大雅(いけのたいが)ら当時の一流画人の作品が角屋の各座敷に現存、重要文化財指定の作品もある。京都市下京区西新屋敷揚屋町32。(電)075・351・0024
広島
神辺出身父子顕彰へ 10月から企画展
江戸末期、地理学者伊能忠敬の日本地図作製に尽力した福山市神辺地区出身の箱田良助(1790〜1860年)と、明治政府で大臣を務めた次男榎本武揚(たけあき)(1836〜1908年)の実像に迫る企画展や講演会が10月、市内で相次ぎ開かれる。動乱の幕末、明治維新を駆け抜けた父子の顕彰機運が盛り上がりを見せそうだ。
箱田良助は伊能の内弟子筆頭として、日本初の実測地図「大日本沿海輿地全図」完成に寄与。榎本家の養子となり幕臣として活躍した。武揚は旧幕府海軍を率いて明治政府に最後まで抵抗したが、新政府では政治手腕を買われて文部、逓信大臣などを歴任した。
現在も、同市神辺町箱田には生家があるが、父子のことはあまり知られていない。このため、福山城博物館(同市丸之内)は10月3日〜11月23日、「箱田良助と榎本武揚」展を開く。地図作製に使われた江戸期の測量道具、ナポレオン3世から贈られた武揚のフランス製軍服(靖国神社所蔵)など約100点を展示。箱田は天文学や算術にたけ、武揚はオランダ留学で最先端の海運技術を習得するなど、ゆかりの品からは母国のために未来を見据えて行動した姿がうかがえる。
かんなべ図書館(同市神辺町川北)でも10月1〜25日、同じテーマで書籍や資料を展示。市神辺文化会館(同所)では3日、郷土史家の武田武美さん(80)=同市神辺町西中条=が箱田の実績について講演。県立歴史博物館(同市西町)でも10日、武揚のひ孫・隆充さん=東京都=らを招きパネルディスカッションを開く。
鳥取
近代史を飾った 西部人物伝
明治から昭和にかけて文化、経済、政治など各分野で活躍した、鳥取県西部地区ゆかりの多彩な顔を、加藤哲英さん(米子市美術家協会会長)の絵と杉本良巳さん(米子市歴史館運営委員長)の文章で紹介する。金曜日掲載。
【67】森脇 要(もりわき かなめ)
1911~99
「菊水レザー」で名声
森脇要は1911(明治44)年、南部町の関家に生まれ、後に旧名和町の森脇家に入る。森脇家は幕末の刀鍛冶清水藤四郎の孫弟子であった。光徳高等小学校を卒業して家事に従事したが、新技術習得の熱意に燃え、36(昭和11)年戸畑鋳物安来工場(現日立金属)の研究所に入所、藤治人博士の知遇を得て、靖国神社日本刀鍛錬場の研修生となる。ここで技術が飛躍的に向上、40(同15)年に神戸市湊川神社の菊水鍛刀会に主任として赴任する。
43(同18)年、北満に技術軍属として入隊、終戦で引き揚げると神戸の自宅と鍛刀場は爆撃であとかたもなく、妻は大山口駅の爆撃で死亡していた。悲痛の極みの中で47(同22)年、菊水刃物工場を設立、製品の「菊水レザー」は全国の理容店で使われた。その後、工場は年毎に発展、63(同38)年山陰初の鉄工団地が完成するとその中核となり、彼は専務理事、副理事長に就任、広く地域産業と文化の振興に貢献した。99(平成11)年没、88歳。
山口
ふるさと歴史講座:「幕末青年の志」一坂さんが講演--周南 /山口
江戸時代の郷校(ごうこう)の建築物として県内で唯一残る周南市安田の徳修館(県有形文化財)の「顕彰保存会」が26日、地元公民館で「ふるさと歴史講座」を開き、約100人が参加した。
萩市特別学芸員の一坂太郎さんが「幕末青年の志」と題して講演。主に吉田松陰に触れ「松下村塾で学んだのは、みんな近所の子どもたちだった。それがすごい人に育ったのは、松蔭が私利私欲のない志のもと、行動するという自分の生き様を見せて、感化させたからだ」などと語った。
伊藤博文:没後100年記念、先祖墓碑を修復--萩市・報恩寺 /山口
初代内閣総理大臣・伊藤博文公没後100年を記念し、萩市津守町の報恩寺にある伊藤家先祖墓碑が修復された。
記念事業実行委(萩市、萩文化財保存協会、萩商工会議所など14団体)が「萩には伊藤ゆかりの歴史的遺産が少ない」として石柱門や玉垣などを修復した。
費用は市のワンコイントラスト委員会が総額350万円を支援した。伊藤は少年のころ萩に移り、吉田松陰の私塾・松下村塾に通った。幕末から明治にかけて活躍、初代の内閣総理大臣として日本の近代化に貢献した。
大分
幕末・維新の道(4)今市
◆まつり・食で彩り
緑が鮮やかな山中の上り下りが続き、時に小集落の生活道路を抜ける。県道412号と重なりながら、今市へ。眼前に広がる石畳は壮観だ。よくこれだけ残せたものだ。全長660メートル。幅約8メートルの道の中央約2メートルに、平石が敷き詰められている。
穏やかな平日の午後、石畳を踏みしめて進むと、両側には「代官屋敷跡」「鍛冶屋跡」「油屋跡」……。挿絵が入った案内板が立つ。街道を進んだ坂本龍馬や参勤交代の藩主らの風景がよみがえりそうになる。よく見ると、所々に最近植えたようなしだれ桜も。石畳に彩りを添えようとする地元の保存会の思いが、開花しようとしている。
毎年9月上旬にある石畳まつりでは、約1万本の竹灯籠(とう・ろう)で照らされる。住民でつくる今市地域づくり協議会は「夜は灯籠で、天の川になるんです」と誇らしげだ。
県道に出ると、「若妻の店」の看板が目に入った。地元の女性たちが腕を振るい、ナスやニンジン、ゴボウにシイタケと具だくさんのだんご汁、地元産小麦でつくっただんごを切り、きな粉をまぶした「やせうま」などの郷土料理を出す。ふるさとへ帰ってきたような味わいだ。
「若い妻の真心の味です」。同店代表者の赤星陽子さん(60)はにっこり笑う。
この地区に引き寄せられるように昨年移り住んだのは、服飾デザイナーの鶴丸礼子さん(53)。古びた旧農協の建物を改造し、仕事場兼自宅にした。夜になると、台所からも満天の星空が見える。
「東京などから、いろんな方が来てくれるんです。『いまいちだね』の今市でなく、『ベスト』にしたい」
歴史を運んだ街道周辺が、新たな表情を見せ始めている。(奥正光)
◆ふるさと発信:今市地域づくり協議会長の後藤文男さん(67)
石畳まつりは、大分市との合併(05年)後、今市が忘れられないよう地元出身者にも情報発信し、市の一隅を照らそうという思いで始まりました。石畳の両側に植えられたしだれ桜は、あと10年先が楽しみ。少し足を延ばせば長湯温泉もあり、温泉につかって往時をしのんでいただきたい。若妻の店は、だんご汁とかしわ飯が入ったジャンボいなりがおすすめです。
幕末・維新の道(5)久住
◆石橋・石灯籠に面影
「御茶屋跡」。竹田市久住町の市久住支所の敷地の片隅に、そう刻まれた石碑がひっそりとたたずんでいる。久住は、加藤清正が参勤交代のために設けた宿場の一つ。坂本龍馬と勝海舟も、久住で「細川侯の旅亭」に泊まったとの記述が「海舟日記」に残る。
現在の久住の街並みには、往時をしのばせる面影は一見、残っていない。だが、県道30号の田町川にかかる田町橋の下を見ると、古い石橋が顔をのぞかせた。コンクリートで補強されているが、多くの旅人たちが渡った街道の石橋だったのだ。
近くにある「久住酒蔵物語 竹田櫻」は、昭和初期から清酒「竹田櫻」を造っていた小早川酒造の醸造所跡。酒造りの工程を学べる資料館や、酒蔵を改装したレストランになっており、旅の途中に一息入れるのにちょうどよい。
少し足を延ばすと、豊の国名水15選に選ばれている老野湧水がある。妙見神社の下からわき出る「霊水」とされ、神社の隣が水くみ場として整備されている。水は冷たく、口に含むと甘い感じがした。シルバーウイーク中には、県外から水くみに来る観光客もいた。
久住の宿場跡から熊本方面へ街道を進むと、白丹の町に出る。集落の外れには、海舟がその高い建設技術に驚いたという神馬の石橋や、一里山の石灯籠(とう・ろう)が残っている。街道には1里ごとに目印が置かれており、この灯籠は熊本から18里の目印だ。
白丹温泉「ふれあいの湯」につかる。のどかな山村の集落にある素朴な温泉施設。旅の疲れをいやすのに、うってつけだ。(野崎健太)
=終わり
◆仕掛け楽しく:竹田市長の首藤勝次さん(55)
肥後(豊後)街道というと、殿様の通った参勤交代路のイメージがあるが、それだけだとワクワクしない。そこで、龍馬や海舟が通った「幕末維新の道」として売り出そうと、商工会の青年部に呼びかけている。国づくりの志を抱いて、若者たちがこの道を通ったことに思いをはせるような仕掛けをつくっていきたい。まずは、久住に龍馬や海舟の肖像をデザインした「幕末維新の道」の看板を立て、観光客の反応を見てみたい。熊本市や長崎市など、街道沿いの自治体にも提携を呼びかけたい。
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