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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
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その3です……今日は記事が多かったです(汗)。

長崎
日本茶輸出し志士たち援助 大浦慶に思いはせ茶会 長崎市
 長崎市で開催中の「長崎さるく幕末編」の一環として、幕末の長崎で日本茶輸出に力を注ぎ、坂本竜馬らとも交流があったとされる女性実業家、大浦慶(1828-1884)にちなんだ茶会が26日、長崎市出島町の旧内外クラブ記念館で開かれた。

 慶は時代に先駆けて日本茶を輸出して財をなし、志士たちを資金面で援助したと伝えられる。後半生は詐欺事件に巻き込まれ多額の借金を抱えたが、亡くなるまでに完済し終えたという。

 会は長崎出身のティーコーディネーター馬渡美樹さん(49)=東京都在住=が慶を広く知ってもらおうと企画し、約50人が参加した。竜馬が好んだといわれるカステラなどを茶菓子に、輸出当時のお茶を再現した釜炒(かまい)り製の玉緑茶が登場。

 参加者は慶の波瀾万丈(はらんばんじょう)な生涯に思いをはせながら、お茶を楽しんでいた。


鹿児島
斉彬を歩く:/1 新波止砲台跡 /鹿児島
◆新波止砲台跡=鹿児島市本港新町

 ◇外圧からの「最後の砦」
 かごしま水族館の入り口前に、古い石畳が敷き詰められた一角がある。桜島フェリー乗り場からみると、小高い石垣が海から盛り上がっている。国の重要文化財に指定されている、新波止(しんはと)砲台跡だ。

 琉球に英仏船が度々訪れるなど、ペリー来航(1853年)前から外圧にさらされていた薩摩藩。島津斉彬の父斉興が藩主だった1840年代後半から、砲台を整備した。新波止は、斉彬が藩主時代、元々あった波止を増強したものだ。鶴丸城(現・黎明館)の正面に位置し、いわば「最後の砦(とりで)」だった。

 威力を発揮したのは斉彬死後の薩英戦争(1863年)。近くにあった弁天波止砲台とともに、計11門の巨砲が、鹿児島湾の英艦隊に向け火を噴いた。当時、日本で最大口径だった150ポンド砲の弾が旗艦ユーリアラス号に命中。艦長が戦死するなど、英国側の死傷者は63人に上り(薩摩藩は十数人)、甚大な被害を与えた。

   ◇  ◇

 幕末の薩摩藩主・島津斉彬は世界に目を向け、洋式軍備や集成館事業など日本の近代化の礎を築いた。9月28日で生誕200年を迎えるのを機に斉彬の史跡を歩き、その功績を探った。


斉彬生誕200年 尚古集成館長に聞く
 薩摩藩の名君、島津斉彬が興した近代工場群・集成館事業。その拠点となった機械工場は博物館「尚古集成館」(鹿児島市)として、集成館事業と島津家の歴史を現代に語り継いでいる。28日に斉彬生誕200年を迎えるにあたり、尚古集成館の田村省三館長(55)に斉彬の功績などについて聞いた。(聞き手・三輪千尋)


 ――島津斉彬はその功績に比べると、知名度が低いようです。
 確かに斉彬は、西郷隆盛や大久保利通のようにメジャーではない。明治維新の10年前に亡くなり、激動の幕末維新史の中心人物ではない。しかし斉彬の功績は大きい。一番大事なことは近代日本の準備をしたことだろう。我々が進める世界遺産の登録の運動も、そのストーリーの最初に斉彬の事業が登場してくる。
 ――斉彬の功績とは。
 幕末の日本は欧米列強の植民地政策を前に、国が存続するかどうかという危機的な状況に置かれていた。薩摩藩は400年前に琉球王国に侵攻し、徳川幕府に琉球王国を薩摩藩の領土として認めさせた。これは半面、悲しい歴史だが、それ以降、沖縄を藩領として治めることになった。その距離は1200キロと広く、ほとんどが海。西洋の黒船は琉球弧づたいに日本にやってくる。日本の中で一番最初に黒船の脅威にさらされるのが薩摩藩だった。
 こういう状況で、斉彬は海外の情報を集めながら、薩摩藩としてその脅威に備えることが第一だと考えた。まずは海防。黒船に対抗できる軍艦を準備することを考え、従来の和船製造技術に西洋技術を採り入れた。さらに大砲をつくるため、大量の鉄を溶かす製鉄の技術、帆船のための紡績技術など、様々な西洋の近代技術を学んだ。造船、製鉄、紡績は日本の近代をつい最近まで支えてきた産業。薩摩では集成館事業として、それらを幕末に準備していた。
 斉彬は同時に、人的なネットワークをつくるため、国内の優秀な人材を集めた。若い時代の西郷や大久保らはそれを見て、学んで京都や江戸へ出ていった。後の幕末維新期に活躍した維新の志士たちに多くの感化を与えた。
 また、「富国強兵」という言葉を使ったが、殖産興業という政策は明治政府にいち早く採用され、日本国家の「マニフェスト」になった。斉彬の集成館事業は近代国家をつくるための付加装置だったと言える。今日的視点から見ても顧みる価値がある。
 ――集成館事業を含めた世界遺産登録への意義を教えてください。
 従来の世界遺産と違い、九州・山口という広範囲を「近代化産業遺産群」(長崎・軍艦島など)として登録しようというのは、今までにはない取り組み。幅広い人たちに、身近にある産業遺産にどういう価値があるのか、日本の近代化とは何だったのかを改めて考える機会を与えることになる。
 ――生誕200年事業を通じて伝えたいことは。
 鹿児島を元気づけたい。斉彬の時代は、薩摩藩が一藩で世界と張り合った、非常に元気のあった時代。それを学ぶことによって、特に子どもたちに夢を持ってもらいたい。斉彬はスーパースターでも、突然変異でもない。世界と対峙(たい・じ)しなければならないという宿命を背負った南九州に生きていた人々の歴史の必然だったのではないだろうか。鹿児島の子どもたちはそういうDNAを受け継いでいる。自信を持ってほしいと言いたい。


生誕200年、斉彬しのび山下洋輔さん演奏 鹿児島市の仙巌園
 幕末の薩摩藩主・島津斉彬の生誕200年記念イベント「響彩時空(きょうさいじくう)」が22日、鹿児島市の仙巌園であった。夜の部では鹿児島をルーツに持つ世界的ジャズピアニスト・山下洋輔さんが御殿そばの野外ステージで生演奏。園内は2000個の灯籠(とうろう)で照らされ、約1000人の観客はろうそくの光で演出された幻想的な名勝庭園を満喫した。
 「斉彬そして山下啓次郎に捧(ささ)げる」と題したコンサートで山下さんは、スタンダードジャズやオリジナル曲を即興演奏で披露。斉彬らには鎮魂曲を捧げた。
 山下さんは、建築家だった祖父啓次郎さんが旧鹿児島刑務所を設計したことや、尚古集成館が1923(大正12)年、機械工場から博物館に変わる際に同館の玄関部分を設計したエピソードなども紹介した。
 同日は、雅楽や薩摩琵琶の演奏などもあった。


九州・山口
九州・山口テーマパーク:お宝蔵書 /九州
 読書の秋到来。今週は各地の図書館自慢の蔵書です。お宝だけに、奥の書庫の、奥にしまってあるものも……。

 ◆熊本

 ◇年貢取り立てに「検地帳」 秀吉の命で清正らが実施
 県立図書館(熊本市)には、豊臣秀吉が農民が持つ耕地を把握し、年貢の取り立てに役立てようと始めた「検地」を記録にした帳面が計3956冊保存されている。一地方でまとまって保管されている例は少なく、1週間泊まり込んで研究した学者もいたという。

 帳面には田の所有者や質、面積、石高が記録されており、当時の農業の実態が目に浮かぶ。肥後藩を治めていた加藤清正は1589年、秀吉の命令で検地を始めた。代わって藩主になった細川家も検地を実施し、幕末まで続いた。明治初年に藩庁から県に引き継がれたという。

 検地帳は熊本城の多くの建物が焼失した西南戦争(1877年)でも焼けずに残ったが、第二次世界大戦で阿蘇・八代・城南地域の分約4000冊が焼失。やりとりの詳しい記録は残っていないが、戦後、県から図書館に移管されたという。

 原本の多くは酸化が進まず良い保存状態で残っているのが特徴。書庫の更に奥にある、温度や湿度が一定に保たれた「貴重書庫」に保管されている。書庫の写しは一般の人も閲覧したり、コピーを取ったりできる。検地帳をひもといて、遠い秀吉の時代に思いをはせてはいかが。【遠山和宏】

 ◆宮崎

 ◇佐土原藩の歴史を現代訳
 県立図書館(宮崎市)は、薩摩藩の支藩だった佐土原藩の藩主らが日々の出来事をつづった「佐土原藩嶋津家江戸日記」を所蔵する。同藩194年間の歴史を221冊に記した古文書で、00年から同館が現代文に翻訳している。現在、10巻目までを刊行。

 県内の小中校教員を定年退職した3人の男性が翻訳に携わる。その一人、多田武利さん(74)は「1ページごとに発見の連続です」と話す。享保の改革の倹約令に武士たちが米を節約して耐え忍んだ様子や、3万石の小藩が藩政や外交をやりくりした様子が細かく記録されている。同館の山田洋一郎主査は「ドラマのような派手さはないが、昔の人の日常生活を垣間見ることができます」。【川上珠実】

 ◆大分

 ◇楢根、16歳の童謡作品も
 由布市挾間町出身の童謡・童話作家、後藤楢根(ならね)の作品で同市立図書館が収集した最も古いのが童謡集「空の羊」。後藤が16歳で自費出版したものだ。

 同図書館によると、インターネットの古書店モールで発見、購入した。奥付には1924(大正13)年発行、30銭とある。青と赤のインクで刷られた表紙は、学校の先輩が描いたという。

 後藤の知名度は低いが、坂本敦子副館長は「子供の目線を貫いた人。生活は清貧そのもので、すべてを児童文学にささげた」と評する。46年からは月刊誌「童話」を編集し、84歳で亡くなるまで新人の育成に励む。雑誌の投稿者には「ズッコケ三人組」シリーズで知られる那須正幹さんらもいる。【小畑英介】

 ◆佐賀

 ◇鍋島家に伝わる「伊勢物語」
 佐賀県立図書館(佐賀市)のお宝本は、鍋島家に伝わる古写本「伊勢物語」。8月には原寸大(縦約25センチ、横約18センチ)の複製本も出版された。

 図書館によると、鍋島家二代藩主光茂は歌に熱心で、京都から多くの本を取り寄せた。伊勢物語もその一つで、室町~安土桃山時代に書かれたものらしい。光茂の死後、家老の家に受け継がれた。

 紺色の表紙には金と銀で絵が描かれ、146ページにわたり、かな文字で伊勢物語が書かれている。22日からは複製本の貸し出しも始まった。

 図書館郷土調査担当の多々良友博さんは「秋の夜長に現代語訳を横に置いて読んでもらえれば、きっと雅(みやび)な気持ちになれるはず」。【関谷俊介】

 ◆山口

 ◇江戸時代の世界地図、鎖国前の貿易も一目で
 江戸時代の希少な世界地図「万国惣図(そうず)」が、山口大学付属図書館(山口市)の「棲息(せいそく)堂文庫」に保存されている。

 地図は色付きで、縦114センチ、横120センチ。作者不詳。1637(寛永14)年、朱印船貿易で得た情報やポルトガル人から聞いた話を基に作成され、当時の将軍、徳川家光に献上したものの下書きとみられる。同様の世界地図は日本に3点しかないという。地図の下部には、各国までの距離と貿易品目が記されており「鎖国前の日本が、どんな貿易をしていたかが分かる貴重な資料」と同大人文学部の尾崎千佳准教授。

 文庫は集書家であった徳山毛利家の第三代藩主、毛利元次の旧蔵書の寄贈で設けられた。地図など約8100点が保存されているが、非公開。【佐野格】

 ◆福岡

 ◇清張直筆の取材ノート
 松本清張の生誕100年の今年、北九州市立松本清張記念館(小倉北区)に直筆の取材ノート(B5判)が寄贈された。作家としての“出発期”に当たる昭和30年代のもので、他にはないお宝だ。

 記憶力抜群の清張は取材時にメモを取らなかった。構想もほぼ頭の中でまとめ、活字になれば原稿さえ捨てていたという。そんなこだわらない性格だったため、取材ノートの存在自体が珍しい。

 大学ノート3ページに万年筆で横書きにされた端正な文字が並ぶ。55年発表の短編小説「石の骨」の参考にしたとみられる。かつて勤務した朝日新聞東京本社の自身の机の引き出しに残っており、清張の退社後、同僚が大切に保存していた。

 一般公開はしていない。「企画展を開く時の目玉に」と同館。【長谷川容子】

 ◆長崎

 ◇旧内外クラブの所蔵本349冊
 県立長崎図書館(長崎市)の自慢は、旧長崎内外クラブが所蔵していた本や雑誌349冊。所蔵品にはクラブの印がある。

 クラブは、開国と共に出島が廃止され、オランダ以外の外国人商人の出入りが自由になったため、1899年に外国人と日本人の文化交流を図ろうと発足した英国風サロン。トーマス・グラバーの息子、倉場富三郎らが発起人となった。

 第二次世界大戦の混乱の中、クラブは閉鎖。図書館が譲り受けた所蔵品の中には、日本美術雑誌「國華」の1889年創刊号や、関東大震災を報じたニュース写真誌「歴史写真」など、珍しい雑誌が数多くある。図書館資料課は「かつての実業家が何に興味を持っていたのか、想像するのも楽しいですよ」。【蒲原明佳】

 ◆鹿児島

 ◇島津家ゆかりの1万9000冊
 鹿児島大学図書館(鹿児島市)の5階には島津家ゆかりの書1万9000冊が「玉里文庫」として眠っている。戦災を免れた玉里島津家から1951年、買い取った。幕末の当主の蔵書など貴重な品がそろう。

 同館の木場隆司さん(50)は「資料からも当主のキャラクターが垣間見え興味深い」という。藩校・造士館を設立するなど開明的だった二十五代重豪が残したのは植物図鑑「質問本草」。その影響を強く受けた二十八代斉彬はオランダ語辞典--など。対照的なのは、斉彬の弟久光。和歌や歴史編さんを多く手掛けた伝統的知識人として知られる。9~15世紀をまとめた歴史書「通俗国史」は、その集大成という。

 一般利用者はコピーなどで閲覧できる。【村尾哲】




ブックレビュー
今週の本棚:藤森照信・評 『近代書史』=石川九楊・著
 (名古屋大学出版会・1万8900円)

◇黒い線一本はここまで語りうるのか
 おそるべき一冊と言えばいいか。今や喪(うし)なわれた“書”の世界の魅力と魔力を語りながら、745ページを費し、67人もの字を書く人の字を取りあげ、特徴を指摘し、造形的意味を論じ、歴史的に位置づける。登場するのは、幕末の良寛にはじまり、西郷、大久保、漱石、子規、山頭火など。現代では井上有一など。明治から現代にいたる私の知らないたくさんの書家も含まれる。

 『中國書史』(1996)、『日本書史』(2001、毎日出版文化賞)につづき、東アジアの、ということは世界の書の歴史の三部作がここに完成した。13年がかり。それにふさわしい格調と量をそなえながら、同時に、書など知らぬ人にも分かるように、一字一画の見方を具体的に手ほどきしてくれる。究極にして入門の一冊。おそるべきと言ってもかまわないだろう。

 たとえば良寛の書をどう見るか。書を見る見方の基本として、紙を自然(世界)、書を人為と見なすことをまず述べてから、良寛の好んだ「風」の字の「〓(かぜがまえ)」の部分について語る。

 「第一画は……いくぶん突き込むように入起筆する。その力は強いものではないが、加えられた力に反発する対象(自然)からの斥力を起筆部で吸収した上で第一筆を書く。……第二画は第一画の起筆あたりから始まるはずだが、両者間が大きく開く間をもつことは、深くかつ広い自然との交歓に身を費した結果である」

 一画と二画の間があんなに離れているのは、そういうことだったのか。つづけよう。

 「よく見るがいい、第二画の横筆部には起筆部はあっても、字画の本体たる送筆部がない。少なくとも紙にはほとんど定着されていない。『ポーン』と起筆し、作者から加えられた力は対象(自然)からの斥力に抗することなく(斥力をねじふせることも、吸収することもなく)、斥力に応じ、乗り、委ね、任せて、第二画転折部(横筆部から縦筆部への方向転換部)に至る。このとき、あるかなきかの毛先一筋の姿だけを残している」

 第二画の加力と斥力の関係こそが、良寛のこの世を生きる思想と姿勢を表すと著者は言い、証拠として良寛の言葉を出す。「生涯身を立つるに懶(ものう)く、騰々(とうとう)天真に任す」「死ぬる時節には死ぬがよく候」

 ここまで語りうるのか。ラストは

「第二画転折部で再びわずかに力が加えられる。……その意志があたうかぎり弱い。前もっての『〓(こう)』の設計力は確実に存在するのだが、その規範に従う以上に対象たる自然との力のやりとりの過程に道草して、それをきめ細かく楽しむのだ」。

 このヘナヘナな描線は、半自然的存在の子供たちと無心に遊ぶ良寛さまの姿だと言うのである。

 パノフスキー以後の西洋絵画の読み方を思い出したが、絵画以上におそるべきは、黒い線一本の動きから、人生や思想や性格まで読み解いてしまうのだ。字のヘタな人は「書は人なり」の言葉を思い出して嫌な気分になるし、ここまで深読みしていいのか心配にもなるが、著者の想(おも)いと力が書の世界の固く閉じた門を開いてくれるのはまちがいない。

 近代の書を代表するのは誰か。

 維新の元勲副島(そえじま)種臣と大正の洋画家中村不折の二人。副島の画面いっぱいに松の枝が伸びるような書は、美術雑誌で目にしたことはあるが、不折は絵しか知らなかった。

 副島の“奇想の書”を継ぎ、新たに展開したのが不折の書で、明治41年(1908)、おそるおそる世に問うた「龍眠帖(りゅうみんちょう)」には、その後現在にいたるまでのすべての書の動向が込められているという。

 「龍眠帖」の存在を知るだけでも、一読のかいがあるというもの。書など贈られても分からないし、今の室内には合わないと思うような人でも、「龍眠帖」ならだいじょうぶ。

 今ならだいじょうぶだが、当時の書壇はむろん内藤湖南や漱石からも猛批判を受ける。こんなの書の部類に入るのか。たしかに、誤字はあるし、気に入らない字は墨でつぶして横に書き足す。でも今の目で見れば、それでいてちっとも変ではない。著者は「龍眠帖」に30ページを費しているが、この書を見たら誰だって語りたくなるだろう。

 書は、線、形、動運、構成、色などの要素を統合して生れるが、その統合の核をなす何かが、「龍眠帖」において消失した。そして以後は、著者がいうように、それぞれの要素が自己運動を開始し、線だけの、形だけの、動運だけの、構成だけの書へと突き進む。その結果が戦後の前衛書だった。

 書は解体して終り、そして後にはこの三部作が残った。

 と、私には思えるのだが、書家の石川九楊は違うらしい。「現代に書することの困難」を深く認めたうえで、書に「言葉以前の意識」を「盛る」ことで、書は再び生命を取りもどす、と語る。文字が生れる以前の人類の心や意識にまで立ち帰るつもりなのか。


コラム
【次代への名言】9月23日・ヘボン博士
■「日本人は実に驚くべき国民です。西洋の知識と学問に対する好学心は同じ状態にある他国民の到底及ぶところではありません」(ヘボン博士)


 幕末が血煙にまみれる元凶となった「安政の大獄」がその総仕上げにかかっていた1859年のきょう(旧暦)、医師、ジェームス・ヘボンが宣教師として妻のクララとともに神奈川に上陸した。

 「わたしの知っているわずかばかりの知識から判断して、日本語は中国語より遥かにすぐれている」。これは来日8カ月目の感想である。また冒頭は、それから2年後、幕府から派遣された大村益次郎ら9人の「高官」に英語や高等数学教育をほどこしたときの感嘆だ。

 ヘボンの書簡や伝記を読むと、彼の日本へ献身は、神から授かった使命感によって支えられていたようだ。だから、外国人が最も敵視され、命も危うかった時代にも屈することなく計33年間、日本にとどまり、ローマ字表記を大成し、最初の本格的な和英・英和辞典を編纂(へんさん)する。

 南北戦争が起きたとき、「米国民は神の鞭を要するのです。そしてその時が来たのです」とつづったヘボンにとって、日本は真の故郷となったようだ。明治25(1892)年、77歳で帰国する直前、こんな惜別の書簡を残している。

 「わたしどもの年になって、“ふるさとなき旅人”となって世の中に出て行くのは、ほんとうにつらいことです」


【次代への名言】9月24日・西郷隆盛
■「総て人は人を相手にする為、過(あやまち)も改め兼ぬるなり。天を相手にすべし」(西郷隆盛)


 西南戦争の開始から7カ月余。明治10(1877)年のきょう、鹿児島・旧城下の一隅。維新の雄、西郷隆盛が、付き従っていた別府晋介の介錯(かいしゃく)で、散った。宮城の方角である東に向かって正座し、「晋どん、もうこのへんでよかろう」と言って首をさしのべた、という。

 「唯(ただ)国難に斃(たお)るるのみ」。身を捨てて国に尽くすことが所信だったはずの西郷が「政府へ尋問の筋これあり」として挙兵し、最大の国難を引き起こした。西郷の暗殺が企てられ、盟友の内務卿、大久保利通まで関与しているのではないか-というのが「尋問の筋」だった。

 冒頭のことばを残した西郷である。天と相談し、この挙には大義名分がないという「過」を承知していたことだろう。事実、萩や熊本で起きた過去の士族の反乱を聞き、「好機会」と呼応しようとする門人を西郷は「何の意ぞ」と厳しくはねつけている。なのに、なぜ…。

 理想の政府をつくるためだった。しかし、そんな政府など西郷の心の中だけで現実にはありえない。なのに、賽(さい)の河原の子供が、くずされてもくずされても小石を積み上げたように、その理想を追おうとする。最も悲劇的な英雄であろう-。海音寺潮五郎の西郷評である。


【次代への名言】9月26日・山鹿素行『配所残筆』
■本朝はるかにまされり。誠にまさしく中国といふべき所、分明なり(山鹿素行『配所残筆』)


 「本朝」とは日本のこと。また、「中国」とはこの隣国の名前の由来でもある「世界の中心」という意味。つまり、日本こそ、世界の中心、最もすぐれた国であることは明らかである-といっているのだ。なぜか。智・仁・勇という聖人の徳を比較すると、本朝(日本)が異朝(外国)よりはるかにまさっているからだという。そして冒頭は「これは私論ではなく、天下の公論。古代においては聖徳太子だけが異国をむやみに貴ばず、本朝の本朝たる事を知っていた」と続く。

 狭あいな国粋主義ではない。外来の思想や学問を崇拝したがる風潮への鉄槌(てっつい)と考えるべきだ。旧暦のきょうが命日となる素行は江戸時代前期の兵学者・儒者。陸軍大将、乃木希典(まれすけ)は、素行の思想と武士道に心酔していたことで知られる。

 さて、その素行は「誠」を彼の思想の根本にすえた。彼によれば、誠は天地の天地たる所以(ゆえん)、人物の人物たるの所以、「已(や)むることを得ざる」の心という。

 ≪かくすればかくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂≫

 吉田松陰の一首である。乃木の兄弟子で山鹿流兵学の後継者。そして幕末の志士の魁(さきがけ)。そんな彼にとって「誠」とは、「大和魂」にほかならなかった。


【幕末から学ぶ現在(いま)】(29)東大教授・山内昌之 松平容保
将来の得失を論ぜず

 「大胆さと勇気は、もっとも危険で絶望的な事柄においてもっともよく発揮される」とはデカルトの言であった(『情念論』)。勝敗は時の運である。照る日もあれば曇る日もある。

 しかし、勝ち戦や照る日だけに威勢のよいポーズをし、大敗した戦の撤退や総括ともなると、しんがりを大胆に務めないどころか、勇気も忘れて真っ先に逃げを決めこむというのでは大将になる器とはいえないだろう。

 総選挙で自民党が惨敗すると、かつて総裁選に名乗りをあげた政治家や“国民的人気”の高い人たちがすぐ手をあげて、知名度の高さを梃子(てこ)に党立て直しを競うと誰もが思ったに違いない。

 しかし、予想された顔ぶれは色々な理屈をつけて総裁選不出馬を早々と決めた。唖然(あぜん)とした人も多いはずだ。大臣や与党役員として、メディアの注目を浴びるときには異様に多弁であり、自己顕示を競ってきたこの人たちにとって政治とは何なのだろうか。


政治家の“逃げ”

 テレビ人のテリー伊藤氏が実名を挙げて、国民は総裁選からいち早く逃げ出した政治家の振舞いをよく憶(おぼ)えておき、次に政権奪還となる暁に名乗りを上げても許してはならない、と厳しい発言をしていたのが印象に残った。あれこれ理屈をつけても、政権復帰の見通しが立たない野党総裁は貧乏くじを引くという、すこぶる利己的な打算が透けて見えすぎる。


 それに比べると、かつて野党になったときに総理になれない自民党総裁を引き受けた河野洋平氏には、敗北の衝撃を振り払う勇気と責任感があった。勇気が徳になるのは、他人のために発揮されるとき、あるいは全体のために私心のない動機から発揮されるときだという言葉(フランスの哲学者コント=スポンヴィル)を、いまの自民党にも残った良質な保守政治家にも噛(か)みしめてほしい。


反テロの汚れ仕事

 幕末でいちばん報われぬ仕事を何度も固辞した末に引き受けたのは、京都守護職となった会津藩主の松平容保(かたもり)であろう。将軍上洛(じょうらく)と公武合体策のために京都の尊皇攘夷(じょうい)派テロリズムを抑え、治安を維持する役目である。いつの時代も、反テロ作戦は苛烈(かれつ)を極めるので、誰もやりたがらない汚れ仕事なのだ。ある家老が“薪を背負って火の中に飛びこむ”と反対したのも当然であった。

 それでも職を引き受けたのは、藩祖の保科正之が将軍家光の異母弟として格別の恩顧をこうむり、会津を他家と一緒に考えてはならぬという遺訓を律義に守ったからであった。“いまは義の重さをとって将来の得失を論ぜず京都を死所としよう”という君臣一致の覚悟には悲壮感がみなぎっている。

 池田屋事件や禁門の変であらわとなるように、長州藩などの志士たちの活動と浪士テロリストの殺人との間を区別する線は明確に引けない。いずれ、どちらが勝ちを収めても遺恨は残り、報復を受けるのは必至であった。ここでも逃げを打った人間たちがいる。

越前の松平春嶽(しゅんがく)は、京に近く藩兵の投入も容易なのに難局から身を遠ざけ、保科正之の遺訓を引き合いに容保を京都守護職に据えた。それでいながら最終局面では見放すといった策士めいた小才子であった。徳川慶喜は会津藩士を手兵がわりに使って権謀術策の限りを尽くしながら、わが身に危険が迫ると、朝敵なるレッテル貼(は)りに震え上がり、容保を会津の地に孤立させ、恬(てん)として恥じなかった。

 この両者の冷淡さは、針で肌を突き刺すような残酷さがある。会津落城後の藩士らの悲劇は筆舌に尽くしがたい。


日本政治史に美名

 しかし、歴史の女神クリオは敗者にも公平なのだ。現在の幕末維新史は、容保と会津藩を歴史の大アクターとして幕府に代わって、薩長と互角にくんずほぐれつの大立ち回りを演じた史実をフェアに評価している。容保の独特な勇気と使命感は、その悲劇性とあいまって、会津の美名を日本政治史に残した。容保のように勇気と責任感にあふれた政治家は、これからも歴史と国民の記憶に刻みこまれるだろう。

 総理大臣にならなかった総裁でも自民党の危機を救った政治家と、首相になっても党を未曾有の危機に追い込んだ総裁のいずれを評価するかは、歴史家の試金石ともいえよう。(やまうち まさゆき)




【プロフィル】松平容保

 まつだいら・かたもり 天保6(1836)年、江戸生まれ。会津藩主、松平容敬(かたたか)の養子となり、9代藩主を継ぐ。文久2(1862)年、幕政参与、のちに京都守護職に任命される。新選組を配下に置いて京都の治安維持に尽力するとともに、公武合体を推進し、尊皇攘夷派と対立する。王政復古で免職となり、鳥羽・伏見の開戦で官位も奪われ、会津若松に戻る。会津戦争に敗れると、蟄居(ちっきょ)処分に。明治13年から日光東照宮宮司となる。同26(1893)年、59歳で死去。

 山内教授に容保様がどう評価されるかと、こわごわ(笑)記事を読んだのですが……いやぁ、共感しきりです。しかも「池田屋事件や禁門の変であらわとなるように、長州藩などの志士たちの活動と浪士テロリストの殺人との間を区別する線は明確に引けない。いずれ、どちらが勝ちを収めても遺恨は残り、報復を受けるのは必至であった。ここでも逃げを打った人間たちがいる」と、松平春嶽や徳川慶喜を批判的に見るところが、すっごく(強調)共感できました。
 「現在の幕末維新史は、容保と会津藩を歴史の大アクターとして幕府に代わって、薩長と互角にくんずほぐれつの大立ち回りを演じた史実をフェアに評価している。容保の独特な勇気と使命感は、その悲劇性とあいまって、会津の美名を日本政治史に残した」というところも、気に入ってます。

【元気のでる歴史人物講座】(38)西郷隆盛
不世出の代表的日本人

 有色民族中、わが国のみ植民地化、属国化を免れ明治維新を成就、新生しえたのは、皇室を戴(いただ)いて志士たちが立ち上がったからである。維新達成における最大の功労者が西郷隆盛である。「維新は西郷なくして不可能」(『代表的日本人』)と述べたのは内村鑑三であった。

 西郷は勝海舟の嘆願を一身にかけて承諾し、江戸無血開城を導いた。海舟はその決断は西郷だからできたとして西郷の「大胆識と大誠意」を讃嘆し、晩年いつも涙を湛えて「今日の日本があるのは西郷のお蔭(かげ)」と語り続けた。

 維新の完成は廃藩置県だが、これも西郷の手によって行われた。難事の断行に臨み明治天皇がご下問されたとき、「おそれながら吉之助がおりますれば御心を安んじくださいませ」と奉答した。

 西郷は「何人もあえてせざる大難を侵し、大疑を決し、天下の大事に任ずるを以てその本分とする」(徳富蘇峰)人物であり、「出発合図者、方向指示者」(内村)であった。西郷こそ「本統(ほんとう)の日本的英雄、正真正銘全く伝統的日本の大精神を代表するところの英雄」(徳富)であり、古今不世出の代表的日本人である。

 明治天皇が臣下中、最も親愛されたのは西郷であり、青年期、西郷に最大の人格的感化を受けられた。「思ふことなるにつけてもしのぶかなもとゐ定めし人のいさをを」。この御製は最晩年、西郷を偲び詠まれたものである。(日本政策研究センター主任研究員 岡田幹彦)



文化芸能
シリーズ続編や人気作再登場 各局新ドラマ “得意技”繰り出し勝負の秋
 秋の連続ドラマが10月からスタートする。視聴率低下傾向は相変わらずでドラマを取り巻く環境は厳しいが、こんな時こそ“得意技”で足場を固めようということか、人気シリーズの続編、実績を残した単発ドラマの再登板や、手堅いテーマの作品がそろった。 (宮崎美紀子)
(中略)
 スケールの大きさではTBS「JIN-仁-」も負けていない。大沢たかお演じる外科医が江戸時代にタイムスリップし、幕末の歴史とかかわっていく。
(以下略)




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