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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 週末まで貯めるとかなりの量ですが、がんばります。

福島
 新選組もオオカミも…「コストレ」で会津満喫
福島県会津若松市と同県南会津町を結ぶ会津鉄道で27日、車内や沿線の観光名所をコスプレ愛好者の撮影スポットにするイベント「あいづコストレ」が行われた。
 鉄道の利用客増加と、沿線地域の活性化を目的にした企画。参加者には、西若松駅から会津田島駅までの区間を乗り降り自由にし、人気声優のアナウンスが流れる専用の車両も設けられた。この日は、県内外から20人が参加。土方歳三や高杉晋作など歴史上の人物のほか、アニメのキャラクターやオオカミの着ぐるみなど様々な格好をした参加者が、駅前や大内宿で思い思いに撮影を楽しんだ。
 「誠」と書かれた羽織を身に着け、新選組隊士にふんした会津美里町の会社員東瀬武美さん(21)は「自分は鉄道が好きで、姉がコスプレ好き。ぴったりのイベントでした」と笑顔で話していた。


茨城
映画:「桜田門外ノ変」企画発表 北大路欣也さんら出演 /茨城
◇地域主導の配給は全国初
 水戸藩開藩400周年を記念した映画「桜田門外ノ変」(佐藤純彌監督)の企画発表会見が1日、水戸市三の丸の弘道館で行われ、主要キャストに大沢たかおさんや北大路欣也さんらを起用すると明らかにした。邦画界では久々となる総制作費約10億円の大型時代劇で、撮影はすべて県内で行われる。東映配給で来秋以降に公開される予定。市民団体の発案による「地域主導型」の企画で、こうした作品が映画配給大手で全国公開される例は過去にないという。
 地元市民団体が約3年前から構想を温め、行政や製作会社との交渉にあたってきた。製作が具体化した昨年夏には「映画化支援の会」を発足。ロケ地提案のほか、市民の関心を高めようと幕末の水戸藩に関する史跡めぐりや講演会など多くの催しを企画した。同会事務局長の三上靖彦さん=水戸市=は会見で「多くの人が郷土を見直し、素晴らしい茨城をつくるきっかけにしてほしい」と語った。
 また、「敦煌」や「男たちの大和/YAMATO」などで知られる佐藤監督は「僕にとって初めての時代劇。映画を作ろうとする水戸の人たちの郷土愛に動かされた。期待に沿えるものをつくりたい」と抱負を述べた。
 製作費は東映、製作委員会、県民や地元企業が3分の1ずつ負担するという。支援の会が同市の千波湖畔に約2億円をかけた桜田門のオープンセットを建設し、ロケ終了後に内部を展示館に模様替えして入場料収入を得る考えだ。
 鑑賞券も兼ねた映画製作協力券を2000円で販売するほか、1600人のエキストラを募るなど、資金・製作両面で県民に全面的な協力を呼びかける。エキストラだけでなく、地元でオーディションを開き、重要なシーンに登場する役者を30人程度募集する。
 「お葬式」「家族ゲーム」など名作を手がけたプロデューサーの岡田裕さんも会見に同席し「地域主導で全国200館以上で封切りされる映画づくりは初めて。日本映画界に新しい方向を出せる」と強調した。【八田浩輔】


映画「桜田門外ノ変」 主演は大沢たかおさん 水戸藩開藩400周年記念 茨城
 水戸藩の開藩400周年の記念映画「桜田門外ノ変」の制作を進める「『桜田門外ノ変』映画化支援の会」は1日、茨城県水戸市三の丸の弘道館で記者会見し、企画概要を発表した。主役の関鉄之介役に俳優の大沢たかおさん(41)を起用。会見に出席した佐藤純弥監督は「撮影のことを考え眠れなくなったり、胃が痛くなったりするが、地元の皆さんのご期待にそえる映画をつくりたいと思う」と抱負を語った。(前田明彦)

 桜田門外の変は幕末期の1860年(安政7年)3月3日、関鉄之介を中心とする水戸藩士17人と薩摩藩士1人が、江戸城の桜田門外で大老・井伊直弼(なおすけ)を暗殺した事件。今回の映画は、作家の吉村昭氏がこの史実を元に小説化した「桜田門外ノ変」(新潮社)を原作としている。

 関鉄之介役の大沢さんは平成16年に公開された映画「世界の中心で、愛をさけぶ」で主演を務めたほか、10月からTBS系で放映されるテレビドラマ「JIN~仁~」にも主演が決まっている。会見で岡田裕プロデューサーは「関鉄之介は暗殺集団を指導したテロリストだが、意志を貫き通すなかに優しさがあった。その優しさを(映画のなかに)入れていきたいと思い、大沢さんを口説いた」と説明した。このほか、水戸藩9代藩主の徳川斉昭役に北大路欣也さん(66)が、井伊直弼役に伊武雅刀さん(60)が決定している。

 また映画の最大の見せ場となる桜田門は、水戸市内の千波湖脇の広場に高さ15メートルのオープンセットを建設する予定。ほかにも高さ9メートル、延長100メートル以上にもおよぶ大名屋敷の町並みを2億円以上かけて再現する。オープンセットは撮影終了後、展示館を併設して一般開放し、観光資源として活用するとしている。

 映画は他の出演者などを決定したうえで11月に制作発表を行い、来年1月中旬に撮影を開始、3月末に終了する。撮影はすべて県内で行うことを目指す。来年秋以降に全国公開される予定という。

 映画化支援の会の三上靖彦事務局長は「映画は求心力があり、波及効果がケタ違いに高い。映画を通じて茨城の人々が郷土を見直すきっかけになれば」と話した。


東京
大きい50キロカボチャ 日野市役所食堂に展示土方歳三“似顔絵”も
 日野市神明一の同市役所の食堂に巨大カボチャが展示され、訪れた市民から注目を集めている。直径七十センチ、重さ五十キロの巨大カボチャで、同市出身の新選組副長・土方歳三を題材にしたキャラクターが描かれている。

 巨大カボチャは同市百草の倉沢地区で農業を営む石坂一雄さんが収穫したもの。市が食堂の運営を委託している受託食堂運営会社「ベル・ハート」の女性職員が土方のキャラクターの絵を描いた。 (西川正志)

 ……だからそれは土方キャラじゃなくて、幕末チャレンジャー「選之介」くんだと(苦笑)。

神奈川
企画展:中華街の150年、克明に--25日まで、開港資料館 /神奈川
◇語りかける華僑4家族の肖像 初めて包括的に紹介
 横浜開港資料館(横浜市中区)が開催中の企画展「横浜中華街150年 落地生根(らくちせいこん)の歳月」で一枚の白黒写真が展示されている。1935年11月に中華料理店で撮影された結婚式の記念写真で、ウエディングドレスで着飾っているのは茅ケ崎市で健在の譚瑞仙(たんずいせん)さん(97)。企画展は譚さんが嫁いだ鮑(ほう)家など4家族の肖像を軸の一つに据えており、譚さんは「素晴らしい展示。全部を見てほしい」と話している。
 譚さんは開港から半世紀余を経た1912年、中華街で中国人の父と日本人の母の間に生まれた。父はソーダ水の製造販売業を興した後に洋服店に転じ、「中国革命の父」と称される孫文が来日した際に支援。父は本国での革命の動きに触発されて帰国した。
 日本に残った譚さんは、東京の女学校を卒業し、中華料理店「聘珍楼(へいちんろう)」の経営一族の鮑金鉅(ほうきんきょ)さんと見合い結婚した。写真は両家そろって店内で撮影されたもので、華僑社会の風俗をしのばせる。譚さんは色鮮やかな中国式の結婚証明書も提供し、当時の様子に話が及ぶと、照れくさそうになる。
 戦時中も店は営業したが、戦局が悪化すると、茅ケ崎市で暮らし始めた。1945年5月の横浜大空襲で中華街も爆撃されて焼け野原に。戦後も子ども9人の多くが中国人と結婚し、華僑社会とつながり続けた。80年に夫を亡くし、自身も病に一時倒れながら、長寿を保ってきた。波乱に満ちた東アジアの近現代史を共にしてきた中華街への愛着は格別だという。
 中国が建国60周年を迎えた1日、中華街でもお祝いのパレードがあった。企画展は、この中華街の歴史を初めて包括的にたどる内容で、横浜最古の中華料理店のメニュー(幕末から明治初年)など約150点の資料が並ぶ。展示は25日まで。12日までは横浜中華街文化フェアが展開され、中華街や資料館にとうろうが飾られている。入館料は大人200円、小中学生100円。月曜休館。問い合わせ先は同資料館(045・201・2100)。【木村健二】


講演:浮世絵師が伝えるものは… 斎藤龍氏、横浜美術館「大・開港展」で /神奈川
◇横浜市芸術文化振興財団顧問・斎藤龍氏
 横浜美術館(横浜市西区)で開催中の幕末、明治の美術品を集めた展覧会「大・開港展」(同館、毎日新聞社など主催)に関連して27日、横浜文化史研究家で市芸術文化振興財団顧問の斎藤龍氏が「浮世絵師が伝える横浜開港の文化と音楽」と題して講演した=写真。
 横浜浮世絵の収集家でもある斎藤氏は、自身のコレクションの中から1860年ごろの作品約10点を紹介。五雲亭貞秀の浮世絵「御開港横浜之全図」には、東海道から現在のみなとみらいまで道が続き、遠方に富士山が描き込まれており、「どうやって見たのか不思議だが、貞秀は大きな景色を1枚の絵に込めるのが上手だった」と説明した。
 チェロに似た楽器と長い笛、外国人の女性の肖像が同時に描かれた作品については「ブロンドの女性を描いた最初の浮世絵」と紹介。邦楽研究家の西川浩氏が横笛を披露し、チェロ奏者で斎藤さんの夫鶴吉氏が「描かれた楽器は実は国籍不明」と話した。
 展覧会は11月23日まで。木曜休館。入場料は当日一般1000円。【杉埜水脈、写真も】


新潟
10/3長岡で米百俵まつり、与板天地人行列も
 10月3日長岡市で恒例の第8回米百俵まつりが開かれ、ことしはあわせて与板地域で与板天地人行列も行われる。

 長岡が誇る「米百俵の精神」をテーマに、秋の収穫祭とあわせて毎年開かれているまつり。約140年前の北越戊辰戦争に敗れた長岡藩は、多くの命を奪われ、まちを焼き尽くされ、「賊軍」の汚名を着せられながらも着実な復興を成し遂げた。その大きな礎となったのは「質朴剛健」の長岡人の気質で、当時の長岡藩大参事、小林虎三郎が人材育成の重要性を説いたのが「米百俵の精神」だ。

 JR長岡駅前の大手通周辺で午前11時半から午後6時まで開かれ、ホコ天イベントやメインステージの舞や踊りなどさまざまな催しが行われるが、ハイライトは越後長岡時代行列だ。

 午後2時に水道公園で出陣式、2時半に出陣の号砲、3時半に大手通り行進開始。戊辰戦争長岡城奪還時の長岡藩隊編成を忠実に再現した市民約500人が、市内各地から大手通りへ向けて行進、集結してパフォーマンスを行う。

 また、華やかな牧野家参勤交代や殿様や姫、奴、そして長岡の風土「米百俵の精神」が生んだ郷土の先人も登場する。

 一方、与板天地人行列はNHKの大河ドラマ「天地人」にちなみ、与板地域にゆかりのある武将、直江兼続を主体とした時代行列行進を100人規模で行う。午前10時40分に天地人行列出陣式、11時に行進開始。与板地域の市街地を行進後、米百俵まつりの時代行列行進と合流し、大手通周辺を練り歩く。


石川
日曜ひろば:「<加賀料理>考」を出版・陶智子さん /石川
◇美食への追求に驚き 食材へのこだわり、愛情強く--陶智子さん(49)
 約400年の栄華を誇った加賀藩主、前田家。加賀友禅や輪島塗、九谷焼など今日の金沢を代表するあらゆる文化の礎を築いた。「加賀料理」もその一つ。江戸時代、前田家には多くの料理人が仕え、食材や調理法に関する豊富な知識は料理人から料理人へと口伝で伝えられた。それらを書き残した数少ない文書のうち、幕末から明治にかけての料理人、小島為善(ためよし)(1817~93年)が著した「真砂子集」「真砂子集聞書」について研究し、「<加賀料理>考」として出版したのが陶智子・金沢学院大教授。食の都、金沢のルーツとは。加賀料理の魅力を聞いた。【青山郁子】
 ◆きっかけは老舗料亭所蔵の古文書。
 15年ほど前、金沢市の老舗料亭「大友楼」の蔵の中にあった大量の古文書の調査依頼を受けました。大友楼は天保年間創業で、前田家に仕えていた料理人が下野して始めたと言われています。
 私は元々、近世の女性礼法が専門です。礼法には「食礼」が重要。何を食べていたか分からないと、どのように食べていたかも分かりません。頼まれて調べ始めましたが、これが面白くてやめられなくなりました。
 このうち代々加賀藩に仕えた舟木家の文書をまとめたのが、06年に出版した「加賀藩料理人舟木伝内編著集」(桂書房)。大友楼はこの舟木家の流れをくむとも言われます。
 ◆江戸時代の具体的なレシピだけでなく、教養あり随筆ありのマルチ指南書。
 料理にも流派があり、儀式の際の包丁の使い方にも四条薗部流、進士流などさまざまです。古文書にはそれらが詳しく紹介されていました。また小島為善は俳人「文器」としても大変有名で、人生訓など名文や俳句もたくさん書いています。
 為善の最大の特徴は、タイやコイなどの食材別に分かりやすくレシピを書き残していること。「昔、どのお殿様が何という料理を好んだ」とか「レシピ通りに作らねばならない」など、加賀料理が数百年間、どのようにして代々受け継がれてきたかがよく分かります。料理に不可欠な季節感や盛りつけに必要な美的センスも、為善はとても優れています。
 ◆加賀料理とはグルメな殿の食材へのこだわり。
 加賀藩には海、山、川、平野からもたらされる新鮮な食材がそろっていました。それだけに食材へのこだわりは強く、その年の一番サケを献上した人に褒美を渡したお殿様、氷見産のエビやイワシを好んだお殿様など、グルメなお殿様が多かったようです。
 レシピの中でいくつか実際に作ってみましたが、アワビを細かくたたいてすり鉢ですって丸めた「アワビもち」、三枚におろした背の身を赤みそと酒かすを混ぜた床(とこ)に漬けた「ブリ朝鮮漬」などは本当においしかった。現代はアワビやブリなどはそのままの形が好まれるうえ、これらの料理はあまりにも手間がかかるため作られませんが、当時の人の美食への追求には驚かされました。
 ◆スローフード、食育、地産地消。加賀料理にはすべてがある。
 食材としっかり向き合い、先人に学ぶという意味で今、全国で江戸時代の料理を見直す動きが広まっています。今回の研究で分かったのは、加賀藩の料理人が手間を惜しまないこと、そして大根のしっぽまで使い切るような食材への愛情。まさに現代で言うスローフードです。
 江戸時代のことは難しいと思われがちですが、この本を読めば実際に作ることもできます。私たちの周りにある食材にはまだまだ可能性が秘められています。今、盛んに食育や地産地消が叫ばれていますが、身近な食材の可能性を探っていくヒントが加賀料理には隠されているのです。
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 ■人物略歴
 ◇すえ・ともこ
 1960年7月、札幌市生まれ。主な著書に「不美人論」(平凡社新書)、「加賀百万石の味文化」(集英社文庫)、「江戸美人の化粧術」(講談社選書メチエ)など。富山県文化財保護審議会委員、富山市郷土博物館協議会委員などを務める。「<加賀料理>考」(桂書房)は綿抜豊昭・筑波大大学院教授らとの共同編さん。A5判、215ページ。2940円。


滋賀
彦根市と福井市 安政の大獄 和解交流
獅山市長ら 橋本左内墓前祭参加へ
 彦根市は30日、幕末に活躍し、安政の大獄で刑死した福井藩士・橋本左内の墓前祭(10月7日)に、井伊家18代当主の井伊直岳・彦根城博物館長や獅山向洋市長らが参加すると発表した。福井市役所への表敬訪問には、人気キャラクター・ひこにゃんも参加する。両市の公式交流は初めてという。

 安政の大獄で、幕末の大老・旧彦根藩13代藩主井伊直弼が刑死させた人物への井伊館長や獅山市長らの墓参は、8月の吉田松陰の山口県萩市に次いで2回目。松陰への墓参をきっかけに、彦根市側から左内の墓参も働きかけていた。

 左内は藩主松平春嶽の補佐官で、藩校の蘭学係を務め、洋書習学所を設立するなど西欧文明を取り入れることに尽力したが、将軍継嗣問題で一橋派として行動したため、安政の大獄で刑死した。

 市によると、墓前祭は福井市左内町の左内公園にある墓前で行われる。地元の橋本左内先生顕彰会(会長=東村新一・福井市長)の主催で、井伊館長と獅山市長は焼香のほか、あいさつも予定している。

 ひこにゃんは、墓前祭後に福井市長を表敬し、彦根市で開催中の「井伊直弼と開国150年祭」をPRするという。

 獅山市長は「過去の歴史的わだかまりを超え、墓前祭参加を受け入れていただいたことは意義深い」と話している。

 獅山市長、ひこにゃんをお供に、萩、福井と、幕末史ゆかりの地と次々に「和解」と交流を進めているようですね。史上最強のゆるキャラ(笑)「ひこにゃん」がお供で、歓迎してもらえていようだし。

弔問交流:彦根市が第2弾 安政の大獄で刑死、福井藩士・橋本左内--7日 /滋賀
◇墓前祭に市長ら出席
 彦根藩十三代藩主・井伊直弼が、江戸幕府大老として「安政の大獄」で処刑した勤王志士ゆかりの地を訪問している彦根市は30日、市長や井伊家当主らが7日に福井市を訪問し、福井藩士・橋本左内の墓前祭に出席すると発表した。吉田松陰の墓参(8月)に続く第2弾。

 彦根市は、「桜田門外の変」で直弼を殺害した水戸藩士の地元・水戸市とは親善都市提携をしているが、直弼が処罰した志士らの地元とは交流がない。そこで、開催中の「井伊直弼と開国150年祭」の一環として、8月21日に獅山向洋市長、井伊家十八代当主で彦根城博物館の井伊直岳館長、市の人気キャラクター「ひこにゃん」ら市民使節団が山口県萩市を訪問。松陰の墓参をするなど交流を深めた。

 橋本左内は、将軍継承問題などで活動したが、安政の大獄で刑死した。今年で没後150年になり、彦根城博物館の資料を使って福井市立郷土歴史博物館で「橋本左内と安政の大獄」(12日まで)が開催されていることから、彦根市が福井市側に訪問の意向を伝えていた。

 当日は獅山市長、井伊館長ら5人と「ひこにゃん」が福井市を訪問。5人は左内公園内である「橋本左内先生墓前祭」に参列した後、「ひこにゃん」も加えて同市役所を表敬訪問する。彦根市は「150年の時を経て幕末の因縁を超え、両市の友好交流を深めたい」としている。【松井圀夫】


井伊直弼の子孫参列へ 福井藩士・橋本左内の墓前祭
 福井市教育委員会は30日、幕末の大老井伊直弼の子孫で井伊家18代当主の井伊直岳(なおたけ)さん(40)=滋賀県彦根市職員・彦根城博物館長=が7日、福井市を訪れ、「安政の大獄」で処刑された福井藩士橋本左内の墓前祭に参列すると発表した。

 彦根市によると、井伊家が安政の大獄後、橋本左内の墓前を訪れるのは初めてといい、「過去の歴史を振り返り、新たな交流ができれば」としている。

 彦根市が開催している「井伊直弼と開国150年祭」の一環で実現。同市からは直岳さんや獅山向洋市長ら5人が訪れる。人気キャラクター「ひこにゃん」も同行するが、厳粛ムードを保つため、参列は見送る。

 直岳さんは8月に山口県萩市で吉田松陰の墓を訪ねており、彦根市は「今後も安政の大獄で亡くなった方々の墓参りを検討したい」としている。

 橋本左内は福井藩主松平春嶽の側近として将軍継承問題や開国問題で活躍したが、1859(安政6)年10月7日に処刑された。今年は没後150年。


井伊家当主ら7日、150年目の墓参
「安政の大獄」刑死・福井藩士橋本左内

 滋賀県彦根市の獅山向洋市長と井伊家第18代当主の井伊直岳彦根城博物館長らは、7日に福井市を訪れ、直弼が行った「安政の大獄」で刑死した福井藩士橋本左内(1834-1859年)の法要に参列する。彦根市や井伊家による墓参は初めてといい、150年前のいきさつを超えて焼香、冥福を祈る。

 橋本左内は、福井藩主松平春嶽らの一橋慶喜将軍擁立運動に奔走、大老井伊直弼が決断した徳川慶福後継に逆らったとして、25歳で斬刑に処せられた。

 福井市の橋本左内先生顕彰会は毎年、地元の左内公園で命日に墓前祭を続けており、獅山市長や井伊館長らは法要で焼香、あいさつする。一行はさらに、ひこにゃんと合流、福井市役所を訪問する。

 墓参は開催中の「井伊直弼と開国150年祭」にちなみ、彦根市が打診していた。獅山市長は「顕彰会が、過去の歴史的わだかまりを超えて受け入れていただくことは大変意義深いことと考えています」と話した。

 獅山市長らは8月、山口県萩市を訪ね、同じ安政の大獄で死罪となった吉田松陰の墓参も行っている。


直弼の美意識 探る 彦根城博物館でテーマ展
 幕末の彦根藩主で幕府大老井伊直弼(なおすけ)の文化人としての側面を浮き彫りにするテーマ展「井伊直弼の茶の湯-好みの道具」が、1日から滋賀県彦根市金亀町の彦根城博物館で始まる。
 直弼手づくりの茶碗や香合、茶杓(ちゃしゃく)、京都の茶道家元・千家に出入りする職人「千家十職」の塗師8代中村宗哲が作った精巧な茶器、きこりの道具を花生(はないけ)に見立てた品など25件を披露する。
 直弼は、武道とともに和歌、茶の湯にも励み、家臣らに茶道を教えて「茶湯一会(いちえ)集」などを著した。同館は昨秋、理論面から直弼の茶を紹介。今秋は美意識に焦点を当てた。
 直弼の自作では柳模様などの楽焼七種香合、手びねりの風合いを生かした黒楽白縁天目(しろふちてんもく)茶碗。直弼が色などを指図したとみられる月次(つきなみ)茶器(12個)は、鎌倉歌人藤原定家の選んだ花鳥和歌24首がベースの「萩に雁蒔絵紅溜塗(かりまきえべにためぬり)八角中次(なかつぎ)」などがある。
 侘(わ)び茶を大成した千利休が日常雑器を道具とした「見立て」では、直弼が参勤交代の折りに木曽で入手した鉈鞘(なたさや)の花生がある。
 26日まで無休。3日午後2時、ギャラリートーク。一般500円、小中学生250円。


徳島
眉山と月と阿波おどり:あす眉山山頂で中秋の月見 幕末期の「花むそう」再現 /徳島
 徳島市は3日、中秋の名月に合わせて眉山山頂広場でイベント「眉山と月と阿波おどり」を開く。阿波踊り振興協会所属の「無双連」が江戸時代幕末期の阿波踊りを再現した「花むそう」を演じる。

 もっと多くの観光客に眉山へ足を運んでもらい、季節ごとのイベントを楽しんでもらおうと企画。午後6時~7時半の間、先着200人が300円で抹茶と和菓子を堪能できるほか、今年は午後7時半から1時間、徳島大天文部の協力を得て夜空の天体観測もある。

 雨天の場合、天体観測は中止となるが、同市新町橋2の「阿波おどり会館」でお茶会と阿波踊りが行われる。問い合わせは、同市観光協会(088・622・4010)へ。【山本健太】


高知で恒例の「土佐はし拳大会」開催 高知
 高知に伝わる宴席の遊び「土佐はし拳」の愛好者が腕前を競う「第44回土佐はし拳全日本選手権大会」が1日、高知市桟橋通の県民体育館で開かれ、酒席のような雰囲気の中で熱戦が繰り広げられた。

 「土佐はし拳」は3本の赤色のはしを持った2人が向かい合い、互いに差し出したはしの合計本数を当て、負けた方が酒を飲まされる遊戯。幕末のころ、同県宿毛市で始まったといわれる。「日本酒の日」(10月1日)に合わせ、県酒造組合などが企画した。

 大会には県内から約290人が参加し、3人で1チームの団体戦と個人戦が行われた。参加者はじゃんけんで先手と後手を決め、「いらっしゃい」「5本」といったかけ声とともにはしを差し出して勝敗を競った。

 高知市内の旅館、ホテルなど宿泊施設でつくる組合のチームで参加した谷脇美香さん(65)は「勝負が早くつき、おもしろい。ぜひ、県外の人にも広めたい」と話していた。




山口
展示:幕末~明治に栄えた商家 城下町の暮らし紹介--萩・旧久保田家住宅 /山口
 萩藩時代の幕末から明治前期にかけて呉服屋や酒屋として栄えた萩市呉服町の町屋・旧久保田家住宅で、その暮らしぶりを紹介する常設展示が始まった。

 旧久保田家は、大名行列が往来した御成道横の町屋の一角にあり、幕末に建築された呉服屋。その後造り酒屋となり、明治30年代まで続いた。現在、市が購入し、市指定文化財となっている。

 展示は、和歌山県紀州塗りや石川県輪島塗りの椀(わん)や器▽岐阜県飛騨の両足膳(ぜん)など漆器類▽行灯(あんどん)や石油ランプ▽角樽(つのだる)など65点。道具類は萩博物館収蔵品で、清水満幸・統括学芸員は「当時の城下町で大店の暮らしぶりの一端が分かり、まちの再発見をしてもらえたら」と話している。観覧料100円。【川上敏文】


コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(30)東大教授・山内昌之 徳川慶喜
■尊皇から“友愛”へ

 ◆人生の前後半で明暗

 9月の歌舞伎座に『竜馬がゆく』がかかった。市川染五郎の坂本龍馬は大政奉還によせて、「慶喜公の心中はいかばかりか。よくぞ決断されたものかな。私は誓ってこの公のために一命を捨てよう」という名セリフを吐く。すると、尾上松緑の中岡慎太郎が「何たる愚論」と龍馬を難詰するのだが、この一文は渋沢栄一らの『徳川慶喜公伝』(平凡社)にあるだけで、信憑(しんぴょう)性は乏しいようだ。

 ところで、芝居を観(み)ている間中、改めて慶喜の不思議さを考えていた。慶喜ほど人生の前半と後半がくっきり分かれる人間も珍しい。前半は、水戸藩主・徳川斉昭の実子として英明をうたわれて一橋家の養子に入り、外圧にさらされた幕末危機を乗り切る将軍候補となる。島津斉彬(なりあきら)など外様雄藩の諸侯や、阿部正弘ら一部幕閣からも期待された輝ける星であった。

 しかし、徳川15代将軍になった時には政治情勢もすっかり変わっていた。かつて慶喜をかついだ一橋党の斉彬の腹心・西郷隆盛は江戸攻めにあたって慶喜の処刑さえ唱える強硬派に変じ、尊皇攘夷(じょうい)派の拠点・水戸の貴公子は朝敵呼ばわりされたからだ。

 ここが生きた政治の面白いところである。慶喜が謹慎を解除されて静岡に隠棲(いんせい)すると、後半の人生は写真、狩猟、投網、サイクリングなど多彩な趣味に凝る風流人の感もあった。その一方、明治以降に10男11女をもうけたのだから達者なものだ。明治31(1898)年、明治天皇に大政奉還以来、30年5カ月ぶりに謁見し、その後に公爵や貴族院議員になるまで私人で通したのである。

◆政治手腕を発揮

 とはいえ、文久2(1862)年に将軍後見職となり、上洛して禁裏御守衛総督などに就いた人生前半の慶喜は、かなりの政治手腕を発揮した。まず孝明天皇の支持をとりつけ、長州藩を京都から駆逐、列侯の参与会議を破産させただけでなく、第一次長州戦争の勝利で徳川幕府中心の新体制を構想した手並みは鮮やかである。

 桂小五郎が、家康の再来かと彼の能力を警戒したのもうなずける。しかも、大政奉還という逆クーデターによって岩倉具視や大久保利通の倒幕の狙いを封殺した政治勘も秀逸であった。

 この慶喜が鳥羽伏見の敗戦以来、まるで別人となったかのように気力を失い、戦わずに大坂城を去った理由はいぶかしい。

 しかし、私は、皇族の母から生まれ、水戸学で尊皇教育をほどこされた慶喜にとって、朝敵の烙印(らくいん)は聞くだにおぞましい屈辱だったのではと推量する。真木和泉(いずみ)のように“形は足利尊氏でも、心が楠木正成ならばよい”と開き直れないのだ。ここが貴種貴公子の弱さである。どこかで武士の気質よりも公家の体質が勝っていたのだろう。

 結局、慶喜は父斉昭が尊皇攘夷論によって自縄自縛になり、現実的方策を出し切れなかったように、最後まで尊皇という幻影にふりまわされた。井伊直弼のようにプラグマチックに朝廷に接するわけでなく、薩長の志士たちが天皇を不敬にも“玉”呼ばわりして道具扱いする度胸もなかったのだ。

◆外交の選択を窮屈に

 尊皇攘夷のように過激な政治言説は、外交選択を窮屈にする。聡明(そうめい)な慶喜でも身動きできなくなった幕末を見ると、鳩山由紀夫首相が友愛という祖父・一郎の理念に拘泥するのを心配もしたくなる。

 もっとも、9月の日米はじめ各国首脳との会談を観察すると、友愛を枕言葉(まくらことば)にしながら結構押しの強い一面を見せている。天狗(てんぐ)党を見捨て、日米通商条約の勅許を取り付けた慶喜の強引さにも共通するかのようで存外心配はないのかもしれない。メドベージェフ大統領や胡錦濤主席も、友愛のオブラートに包んだ鳩山首相の意外なしぶとさに面食らった面もある。

 そこで、首相には、切所(せっしょ)になれば友愛にとらわれず、溌溂(はつらつ)な時期の慶喜のように政治外交の切り返しを期待したい。外交ゲームで状況や相手構わず友愛の精神を掲げるのは、尊皇と朝敵の幻影に屈した慶喜のように現実政治から逸脱する道にもつながりかねないからだ。(やまうち まさゆき)

                   ◇

【プロフィル】徳川慶喜

 とくがわ・よしのぶ 天保8(1837)年生まれ。江戸幕府最後の第15代将軍。水戸藩主、徳川斉昭(なりあき)の7男。一橋家を継ぎ、将軍後見職として徳川家茂を補佐する。慶応2年に将軍となり、幕政改革を試みるが、同3年、大政奉還し、将軍職を辞任。王政復古に端を発した鳥羽・伏見の戦いで敗れ、江戸開城後は水戸、のちに駿府(静岡)で謹慎した。維新後は謹慎を解かれたが、以後表舞台に立つことは少なく、放鷹(ほうよう)、油絵、写真などの趣味に打ち込んだ。大正2(1913)年、77歳で死去。

 容保様のコラムで思いっきり慶喜公を叩いてたので、「おや、こんなもんか?」と、ちょっと肩すかしくらった気分です(苦笑)。





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