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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
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 東京は厳しい残暑です。朝晩涼しいのでだいぶ過ごしやすいのですが。

北海道
啄木も愛した海と坂の街 北海道・函館(はこだて)
 函館は、坂の街である。坂道で振り返れば海が見え、見えなくても海を感じる。路面電車に揺られて青柳町電停で降り、ゆるやかな坂を行けば函館公園、道なりに右にそれると石川啄木の居住跡地に行き着く。

 「函館の青柳町こそかなしけれ/友の恋歌/矢ぐるまの花」と詠んだ漂泊の歌人が郷里・岩手から函館に来たのは1907年5月。21歳だった。8月に大火があり9月に去っているから、住んだのはわずか130日余り。だが「死ぬ時は函館で」と願うほど、この地を愛した。

 東京で息を引き取った啄木は、青柳町電停から1駅先、谷地頭電停から歩ける距離にある一族の墓に眠る。墓前からは啄木が散策した大森浜が見渡せた。白波が寄せ、吹き来る潮風が心地よい。さらに南へ歩けば立待岬。天気がいいと下北半島が見えるはずだが、かすんで見えない。ハマナスは花の季節を過ぎ、朱色の実を膨らませていた。

 函館公園内の市立函館博物館で、学芸員の保科智治さんは、「啄木が来たころの函館は、経済的に一番いい時でした」と教えてくれた。幕末の1853年に9400人だった人口は、啄木が来る前年の1906年には9万人を超す。大正期には東京以北で最大、全国9位の都市だった。北洋漁業の拠点には、人も物も情報も集まる。文学の支持者に恵まれただけでなく、啄木は都市の引力に吸い寄せられたのではなかったか。

 昼間は五稜郭タワーから五稜郭を眺め、夕方からはロープウエーで函館山に登り、夜景を楽しむ。霧が刻々と濃淡を変え、街の明かりが明滅するたびに、観光客の歓声に嘆声が混じる。山を下り、ライトアップされたハリストス正教会など元町かいわいをそぞろ歩く。夜の光が、異国情緒を深くする。八幡坂の上から函館港を見下ろすと、坂の延長線上に、青函連絡船摩周丸が見えた。

 翌日、記念館になっているその船を訪ねた。船内では連絡船の歴史をたどる展示を見たり、操舵室で汽笛を鳴らしたり。

 副館長の佐藤幸雄さん(66)は88年3月13日、青函連絡船最終便となった八甲田丸に1等航海士として乗っていた。「連絡船を知らない若い人も増えてきました」と、少し寂しげだ。

 1859年に国際貿易港として開港して今年で150年。赤レンガ倉庫の並ぶベイエリアのにぎわいと裏腹に、連絡船が出入りしたころの港の風情は、心なしか薄れているようにも見える。それでも、「懐かしい」と船を見に来る人々からの質問には、「乗っていましたから、たいてい答えられます」。海の男の誇りは生きていた。

 これまで、函館を離れる時はいつも海路だった。船の後方で白く泡立つ航跡の先に、函館の街が遠ざかっていくのを見るのが好きだった。今回は函館駅からバスで空港へ。大森浜沿いを走るバスの窓から、沖にイカ釣り船のいさり火が見える。啄木が歌集『一握の砂』を出して、来年でちょうど100年になる。

 (山内則史、写真も)


徳島
企画展:日本刀の魅力たのしんで 徳島城博物館で5日から「阿波刀の世界」 /徳島
 徳島市立徳島城博物館(同市徳島町城内)で5日から、企画展「阿波刀の世界 刀、刀装具の美・刀剣を愉(たの)しむ」が始まる。10月18日まで。

 日本刀は、伝統文化に培われた芸術品としても扱われる。県内でも海部川流域を中心に作刀されたとされる「海部刀」がある。今回は十代藩主・蜂須賀重喜が江戸へ派遣した石川正守、近藤宗利といった刀工や、阿波の刀工が幕末という激動の時代に合わせ手がけた質実剛健な刀にも注目し展示を構成した。

 また、鐔(つば)や小柄(こづか)など刀を彩る刀装具にもスポットを当て、阿波正阿弥鐔(しょうあみつば)や、江戸で召し抱えられた金工師(きんこうし)などの作品も、蜂須賀家伝来の太刀などとともに展示する。

 このほか、会期中には関連イベントとして、阿波刀講座(23日、10月11、18日)や講演会(13日、10月4日)、展示解説(22日、10月12日)も開かれる。

 同館では「阿波の伝統文化にはぐくまれて歴史の舞台に登場した刀などを見てもらい、その魅力を探求し、阿波刀の美の世界、さらには日本刀の魅力をたのしんでくだされば」としている。問い合わせは同博物館(088・656・2525)へ。【深尾昭寛】



山口
萩の広告塔走る、トラックで観光PR
 萩産の農産物を運びながら、観光PRをしようと、車体に萩の観光名所を描いた大型トラックのお披露目式が4日、萩市江向のJAあぶらんど萩で行われた。

 同JAが企画した「萩をまるごと運ぶプロジェクト」の一環。JAと委託契約している吉部運送(萩市)所有の14トン積みトラックの荷台側面に萩城下町や土塀、夏みかんなどが描かれている。試食販売やイベントなどでも活用し、各地で「萩ブランド」を売り込む。

 第一便は今月中旬、鹿児島県に向けて出発する予定で、積み荷は、薩長同盟締結の陰に坂本龍馬と長州の米が大きな役割を担ったというエピソードから名付けられた萩産コシヒカリ「龍馬が愛したお米」。このほかにも四国、名古屋、東京方面などへの運送も決まっている。

 式には市や市観光協会関係者らも出席。野村興児市長は「『走る広告塔』として全国を駆け巡ってほしい」と期待を込めた。


長州の「走る広告塔」第1便は薩摩へ 萩観光をPR
 明治維新胎動の地、山口県萩市の観光資源を全国にPRしようと、萩の城下町などが描かれた装飾トラック(14トン)が完成し、4日、市内で披露された。

 JAと運送会社による「萩をまるごと運ぶプロジェクト」。農産物を運ぶと同時に萩の歴史や文化を発信する「走る広告塔」だ。「維新伝心」の文字も見える。

 第1便は今月中旬、萩の新米を積んで鹿児島へ行く。「坂本龍馬が幕末、武器が欲しい長州と、米が欲しい薩摩を結んだとされるのにちなみました」と担当者。


福岡
坂本龍馬と下関の関係は!?
[発信!北九州]

 歴史小説やテレビドラマで主人公とされることが多い坂本龍馬。その龍馬のゆかりの地と言えば、高知や長崎が頭に浮かぶのが一般的である。
しかし、土佐藩脱藩後の龍馬を支えたのは下関の豪商であり、龍馬と下関との関わりは意外に知られていない。  
龍馬は海援隊の他にも、下関で海運会社「馬関商社」を起こす計画だった・・・等、龍馬の下関でのエピソードを中心に綴られた『龍馬とお龍の下関』が下関市の瞬報社写真印刷から発行された。龍馬と下関との関わりが分かる一冊である。
 なお、販売は下関市内の書店で扱っている。

【問い合わせ】
瞬報社写真印刷(株)
住所:山口県下関市長府扇町9-50
TEL:083-249-1100



大分
「日本近代洋画への道」開幕
 「日本近代洋画への道―山岡コレクションを中心に―」(大分市美術館、大分合同新聞主催)が5日、同美術館で始まった。幕末から明治にかけて、新しい時代にふさわしい絵画を確立しようとした先駆者たちの奮闘の軌跡を紹介している。
 開会式があり、足立一馬大分市教育長が「新しい絵画をつくり出そうとした画家たちの情熱を感じてほしい」とあいさつ。足立教育長、大分合同新聞社の佐藤政昭事業局長、地元自治会の代表らがテープカットした。
 会場には油彩や素描など約180点を展示。そのほとんどはヤンマーディーゼルの創業者、山岡孫吉氏(1888~1962)が収集した貴重なコレクション。
 日本洋画の父といわれる高橋由一をはじめ、渡仏して日本人初のサロン入選者となった五姓田(ごせだ)義松、画面に明るくみずみずしい色彩を取り込んだ黒田清輝、独自の画風を追求した青木繁らの作品が並んでいる。
 同展は10月18日まで。観覧料は一般800円、高大生600円、中学生以下無料。


長崎
後藤象二郎:洋装の写真発見 上野彦馬が撮影 長崎
後藤象二郎:幕末の志士、洋装の写真を発見 上野彦馬が撮影--長崎
 幕末の志士・坂本龍馬と共に大政奉還に奔走したことで知られる土佐藩参政・後藤象二郎(1838~97年)を、日本初の写真館を長崎に開いた上野彦馬(1838~1904年)が撮影した写真4点が、長崎市内で見つかった。うち2点は洋装で、象二郎の幕末時点の洋装写真は初確認。

 写真を所蔵していたのは、1709年に創業した日本最古のべっ甲細工店「江崎べっ甲店」(同市、江崎淑夫社長)。江崎家と上野家は親類で、江崎家には、彦馬から贈呈された1864~66年ごろ撮影の約300点の古写真のアルバムが伝わり、江崎家関係者とみられる人々が撮影されていた。

 07年、彦馬にちなんだフォトコンテスト「上野彦馬賞」(九州産業大学、毎日新聞社主催)を記念してこのアルバムを紹介した際、象二郎に似た人物の写真があったため、古写真研究を続ける姫野順一・長崎大教授(経済思想史)が分析した。

 彦馬が長崎に開設した写真館「上野撮影局」には、土佐藩から化学を学びに医師が留学するなど、土佐藩関係者が多数出入りしていた記録があり、象二郎もたびたび写真を撮ったとみられる。

 高知県立坂本龍馬記念館の三浦夏樹学芸員は「象二郎に間違いない。彼も龍馬同様、型破りで好奇心旺盛な人物だったので『面白い』と思い、洋装を身に着けたのだろう」と話す。【錦織祐一】


タウンたうん:幕末の長崎、市民劇で紹介--長崎 /長崎
 長崎市のまち歩き観光「長崎さるく幕末編」の催しでこのほど、シーボルトの逸話などを交えて幕末の長崎を紹介する市民劇が市内であり、来場した約100人が楽しんだ。

 「歩くのが大変な人も街を歩いた気分に」と5月に始まった講演会「楽さるく」の一環。4回目のこの日は劇に趣向を変え、「長崎龍馬会」メンバーや劇団、男声合唱団の約30人が出演。勝海舟らの海軍伝習所では合唱も教えていた逸話などを、歌やクイズも交えて披露した。

 神戸市から市内に単身赴任中の会社員、本多福馬さん(60)は「長崎は、市民が一致団結して街を楽しんでもらおうと努力している」と話していた。【錦織祐一】


亀山社中記念館:入場者が1万人超 スピード達成、龍馬人気に驚き /長崎
◇龍馬が設立の商社跡整備
 幕末の志士、坂本龍馬が設立した商社跡を整備した「亀山社中記念館」(長崎市伊良林)の入場者がこのほど、1万人を突破した。

 同記念館は、同市が所有者から無償で借り受け、建物を整備、公開している。1万人目となったのは、福岡県筑紫野市の会社員、花里隆彰さん一家5人。長女の香乃さんと共に龍馬ファンという花里さんは「去年、京都の寺田屋にも行ったので、いい思い出になりました」。

 同市は、年間2万5000人の入場者を目標にしているが、8月1日のオープンから24日目でのスピード達成となった。

 長崎市は来年1月からの大河ドラマ「龍馬伝」放映に向け、「さるく幕末編」など、さまざまな機会に長崎をPR。田上富久市長は「龍馬熱が高まっているので、訪れた人が長崎ファンになって何度も足を運んでもらえるようにすることが大事」と話していた。【阿部弘賢】


龍馬愛用の茶碗、最新技術で再現へ 県窯業技術センターなど
 来年放送のNHK大河ドラマ「龍馬伝」にちなみ、幕末の志士、坂本龍馬が愛用したといわれる長崎製の亀山焼の皿や鉢を、最新技術を使って忠実に再現しようとする試みが進められている。

 県窯業技術センター(東彼波佐見町)と窯元、嘉泉製陶所(佐世保市)が3月から研究開発に着手。長崎歴史文化博物館に所蔵する7点の形状を3次元スキャナーで読み取り、原形を制作。同社の伝統技術で色つけなどをするという。

 ドラマ放送開始に合わせ、1月までの完成を目指す。商品化する計画もあるとか。同社の金氏嘉一郎社長は「完ぺきに再現し、龍馬ファンも納得の商品を焼き上げたい」と、燃えんばかりの意欲。


大河ドラマ効果 県北にも HTBに「龍馬伝館」 佐世保市 来年2月に開館
 佐世保市は、坂本竜馬をテーマに来年1月から放送予定のNHK大河ドラマ「龍馬伝」にちなんだ展示施設「龍馬伝館」(仮称)を来春、同市のハウステンボス(HTB)に開設する。ドラマは長崎市が主舞台だが、県北地域にも波及効果を呼び込もうと、市やHTBが企画。開館する約1年間に約15万人の入館者を見込んでいる。

 計画では、施設はHTB港町エリアの空き店舗(約300平方メートル)を改装して活用。海や海外に関する竜馬のエピソードを中心にドラマ映像や写真パネル、当時の資料などを展示する。

 また、HTBが所有する幕末ゆかりの日本初の蒸気帆船を復元した「観光丸」を使った大村湾クルージング事業も生かし、付加価値を高める。

 佐世保市は開設費約7300万円のうち、観光客誘致促進事業として約4716万円を、本年度一般会計補正予算案に計上、開会中の9月定例市議会に提案している。残額はHTBが負担する。

 設置は来年2月27日から1年間で入館料500円(HTB入場料別)。運営費用約8千万円は入館料などでまかなう。

 佐世保市によると、龍馬伝に関する県内の企画施設は、ほかに長崎歴史文化博物館(長崎市)や浜町商店街(同)で計画されている。


長崎の坂本龍馬展:長崎空港ビルで始まる /長崎
 長崎空港(大村市)の旅客ターミナルビルで3日、来年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」放映を記念した「長崎の坂本龍馬展」が始まった。2階の保安検査場前イベントスペースで、10月12日まで。入場無料。

 ビルを運営する長崎空港ビルディング社の主催で、龍馬が晩年を過ごした長崎での足跡を振り返る。龍馬直筆の手紙の写真や、当時の出島、長崎港の写真などパネル38枚を使い、幕末期を奔走した龍馬の足跡を時系列で紹介している。

 期間中は、龍馬グッズやシャツなどの特設売店も設置。同社は「長崎の空の玄関口である長崎空港の利用客に龍馬の情報を発信することで、観光客の誘致と機運を高めたい」としている。【柳瀬成一郎】





鹿児島
映画:「半次郎」オーディション 西郷役に指宿出身・田中さん /鹿児島
◇今月から県内で撮影
 幕末の薩摩藩士、桐野利秋(中村半次郎)を描く映画「半次郎」で、西郷隆盛役を選ぶオーディションが3日夜、鹿児島市であった。「西郷(せご)どん」役を射止めたのは、指宿市出身で名古屋市在住の人材派遣会社経営、田中正次さん(48)。「男を見せるような演技をしたい」と意気込んでいた。

 審査したのは、五十嵐匠監督、主演の榎木孝明さんら。全国約350人の応募の中から書類選考などで残った26~60歳の15人が浴衣姿で登場。映画のせりふを読んだり、特技を披露するなど「西郷どん」になりきってアピールした。

 田中さんは演技は素人という。「西郷さんに似ている」と会社の同僚が応募。オーディションもぶっつけ本番だったが、五十嵐監督は「包み込むような優しさと存在感があった」。榎木さんも「目に優しさと力があった」と評価した。

 映画は17日からクランクインし、多くの場面が県内で撮影される。来年5月公開予定。【黒澤敬太郎】


西郷どん役に県出身・田中さん~映画「半次郎」
 「我こそは西郷」――。幕末に活躍した薩摩藩士桐野利秋の生涯を描いた映画「半次郎」で西郷隆盛を演じる出演者のオーディションが3日夜、鹿児島市のアミュプラザ鹿児島で開かれた。全国から自薦、他薦の15人の西郷さんが一堂に会し、指宿市出身で名古屋市東区在住の会社社長田中正次さん(48)が西郷役を射止めた。

 西郷役は全国から350人を超える応募があり、東京オーディションで勝ち残った2人と、九州在住の応募者で書類選考を通過した13人の計15人が、最終オーディションに臨んだ。

 審査員の五十嵐匠監督(51)と、主演の桐野役を演じる伊佐市出身の俳優榎木孝明さん(53)が見守る中、参加者は「桜島に最期の礼をする西郷を演じて」などの注文に真剣な表情で取り組んでいた。

 西郷役に選ばれた田中さんは人材派遣会社を経営しており、約1500人が登録している。西郷を敬愛しており、社員の勧めもあったため応募したという。田中さんは「西郷さんは郷土の誇り。兄貴分のような存在だった西郷さんから学んだことを演じきりたい」と抱負を語った。

 主演の榎木さんは「田中さんは、私が抱く西郷像とも重なるところがあった。すばらしい映画になると思う」と話していた。

 映画は17日にも撮影が開始され、鹿児島市の仙巌園や南洲墓地、伊佐市などを舞台に、約2か月間のロケが予定されている。公開は来年5月の予定。


映画「半次郎」西郷役は指宿出身の男性 鹿児島市でオーディション
 幕末維新期に活躍した薩摩藩出身の桐野利秋(中村半次郎)を描く映画「半次郎」に出演する西郷隆盛役のオーディションが3日夜、鹿児島市のアミュプラザ鹿児島であった。主役を演じる榎木孝明さんと五十嵐匠監督が審査。全国公募の最終選考に残った15人から、指宿市出身で名古屋市在住の人材派遣会社社長田中正次さん(48)を選んだ。
 田中さんは「後輩を育てる兄貴分の西郷さんを演じきりたい」と抱負を語った。榎木さんは「田中さんなら自分の思いを託せる」、五十嵐監督は「包み込むような存在感と優しさがあり、主役と張り合える」と期待した。

 西郷は劇中でも重要な役割を担い、オーディションは全国から350人以上が応募。書類選考で合格した九州地区の13人に東京で8月下旬に選抜された2人も加わって全員が浴衣姿で登場、西郷役になりきり特技などを披露した。
 本格的な撮影は9月中に開始。公開は来年5月の予定という。

 オーディションの写真が面白いです……西郷さんが一杯(笑)。

コラム
【連載】 今、歴史から元気をもらおう(27)改革者・鍋島直正
[今、歴史から元気をもらおう]

 藩の実権を握って前藩主の寵臣たちを罷免、改革派を登用して本格的な藩政改革に乗り出した鍋島直正は、財政再建、農村改革、教育改革を藩政再建の三本柱とした。この改革運動の大きな推進役となったのが古賀穀堂である。穀堂は早くから「洋学研究」の必要性を説き、自然科学も政治経済もオランダだけでなく広く西洋の諸国に学ぶべきであると主張していた。奇跡といわれた幕末佐賀藩の藩政改革の底流に穀堂の啓蒙思想があったことはまちがいない。穀堂は直正とともに佐賀に戻った翌年、「済救封事」を現わして藩政再建の具体的な指針を示した。その骨子は、質素倹約の励行、人材の登用、産業振興、学問の奨励などであった。六歳のときから穀堂の薫陶を受けていた直正は、彼の死後もその思想を受け継いでブレることがなかった。

 直正が先ず手をつけなければならなかったのは借金(当時は銀で取引していたので正確には借銀)の整理である。借銀の精算は「利留永年賦」と「打切」によって行われた。「利留永年賦」は利息を全額免除のうえ、元金を最長百ヵ年賦で少しずつ返済し、「打切」は元金のごく一部を支払い残額は藩に献金させて清算するという現在の民事再生法も顔負けの手法である。こうして佐賀藩は実質的にはほとんどの借銀を踏み倒してしまった。ソロバン高いはずの大阪商人が、直正のことを「ソロバン大名」と呼んであきれたという話が伝わっている。
 
 佐賀藩はもともと豊かな農業生産を誇っていたが、商品経済の浸透につれて農民たちは土地を質にいれて借金し、その結果、土地を手放して商人地主から土地を借りて小作料を支払いながら農業をおこなう小作人に転落していった。ために農民たちは年貢と地代の二重の負担に苦しむことになる。そこで、佐賀藩は「農商分離」の政策を採用、「加地子猶予」を発令して小作人が地主に納める地料(加地子)を減免して年貢徴収を確実なものとするとともに農民を保護するという抜本的農村改革を行った。

 穀堂は、かねて意見書「学政管見」で「新しい時代を担うべき有為な人材育成のためには、教育予算は削らず、逆に三倍にふやすべき」と主張していたが、直正は藩主になると同時に、藩財政は最悪の状態にあるにもかかわらず藩校弘道館の充実を指示した。弘道館の予算は当初百七十石だったが、佐賀城北堀端に移転した天保11年(1840)には、千石に加増、敷地も千九百坪から五千四百坪に広がり、教室や講堂、武芸場、寄宿舎など設備の充実を見るにいたった。上級から下級まで全ての藩士子弟の入学を求めた弘道館における教育は厳格をきわめ、課業は朝六時からときとして夜十時に及んだ。校則となる「文武課業法」は、優秀な成績を収めたものは、身分にかかわらず藩政に抜擢する一方、二十五歳までに学問と武道が一定の水準に達しないときは家禄を減らすと明示していた。
 
 安政元年(1854)7月、直正は長崎でオランダから幕府に贈られたスームビング号(観光丸)に乗りこんだとき「私の家来たちは、とにかく学ばなければならないのだ」と語っている。改革が進んでいてもなお、直正が“学ぶこと”に藩の命運がかかっていると認識していたことを示す逸話である。弘道館で学んだ人材は藩政に登用され、佐賀藩が西洋の最新の情報を吸収し消化する原動力となった。幕末期の佐賀藩は、幕府をもしのぐ日本最先端の強力な科学技術力、軍事技術力を実現していたのである。銑鉄を溶解するための反射炉を日本で最初に手がけた佐賀藩の蘭学研究は他藩にさきがけていた。

 佐賀藩の蘭学研究は医学から始まっている。天保5年(1834)に設立された「医学館」は、当初漢方医学を教えていたが、佐賀蘭学の先駆者といわれる島本良順が寮監となってからは蘭学を積極的にとりいれ、やがて「医学館」から独立しての「蘭学寮」がつくられる。さらに「蘭学寮」が「火術方」の管理下におかれるようになると、蘭学寮では語学だけではなく、科学・軍事にわたる西洋の知識が急速な勢いで研究される。財政再建で生み出された余裕資金は軍備の充実にまわされた。戊辰戦争のとき、上野の山に立てこもった彰義隊を木っ端微塵に吹き飛ばしたのは佐賀藩の2門のアームストロング施条鋼砲だった。このアームストロング砲は会津の会戦でも威力を発揮し、勇猛を誇る会津武士の息の根を止めた。

 明治2年(1869)1月20日、薩長土肥の4藩主が版籍奉還の建白書を提出した。翌3年までには全部の藩が奉還を終り、旧藩主はそのまま藩知事に任命された。明治4年(1871)4月14日、廃藩置県が断行され日本は中央集権政府のもとに統一される。直正はその年の1月すでに死去していたので、彼はついに新しい「佐賀県」の誕生を目にすることはなかった。 

小宮 徹/公認会計士


文化芸能
要潤:「目指すは土方の“男気”」 司馬遼太郎「燃えよ剣」の朗読劇に挑戦
 俳優の要潤さん(28)が、新選組副長の土方歳三を描いた司馬遼太郎の小説「燃えよ剣」の朗読劇に挑んでいる。舞台に上がるのは、要さんとフラメンコギターの沖仁さん、カンテ(歌)の高岸弘樹さんの3人だけという構成で、13日に増上寺(東京都港区)で開かれる東京公演を前に、要さんに意気込みを聞いた。【岡本同世】

 --「燃えよ剣」を読んだことはありましたか?

 司馬先生の本は、まず「竜馬がゆく」から入ったんですね。役者を始めるときに、付いてくれたマネジャーさんが、「役者をやるなら『竜馬がゆく』を読んでおけ」ということで買ってくれて。(自分は)歴史が好きで好きで、というタイプじゃないんですが面白くて。その次に「燃えよ剣」に行ったんですよ。それが9年前で、そこからいろんな小説にフラフラしながら。

 --今回オファーが来たときはどう思われましたか。

 この話が来たときにまず、「燃えよ剣」ということはもちろんあったんですけど、1人舞台というところに(気持ちが)フックしたんですね。1人というのは面白いな、と思って。どういう話か聞いたら「朗読活劇」、なんだそれはと。朗読、さらに活劇ですから。舞台上で本を読んで、あるときは本を手放して刀を持って体で表現する、というところにすごく魅力を感じて、「じゃあやらせてください」と。

 --要さん自身の土方像を教えてください。

 日野(東京都日野市)という田舎町で(育って)けんかや剣が強い。やんちゃで暴れん坊で、そういう部分を大事にしていきたいなと思ったんですね。今まで本当にたくさん名優が演じてらっしゃるんですけど、「司馬先生の思い描く土方歳三ってどんなんだろう」と思ったときに、そこ(原作での設定)をかなり掘って掘って考えた。げたのかかとを「カーンカーン」と鳴らしながら歩いてくっていう、そんな人物を描いていこうかと思ってます。

 --土方に対してどんな思いがありますか。


「燃えよ剣」京都公演で熱演する要潤さん まず、男っぽいというところが僕はすごく好きで。何でもかんでも「男気」なんですね。「男の一生というものは美しさを作るためのものだ、自分の。そう信じている」というせりふがあるんですけども、それが非常に土方歳三を表しているなと。彼が生まれてから死ぬまでの人生の中で、それに尽きると思ったんですね。(新選組について)現代に投影して考えても、やっぱり引っ張っていくやつがいて、引っ張られるやつがいて、統括するやつがいて、その他に普通の兵隊がいて、という縮図になってる。自分が一生の中でどのポジションに入るのかっていうのは、振り返ってみないと分からないけど、目指すところは、僕は土方だなと思っています。

 --土方は剣の名手ですが、殺陣の演技について聞かせてください。

 「池田屋襲撃」と「五稜郭の戦い」という二つ山場があるんですけど、司馬先生の描き方が、エンターテインメント性があるというか、読むだけでわくわくする絵が浮かんでくる。そこに余計な殺陣を入れると、果たしてどうなんだろうって思った。刀を振るうという殺陣じゃなくて、土方歳三の心の動きを重点的にしたいなと。(朗読を)聞いているだけで絵が浮かんでくると思うので、邪魔をしたくないというのが一番ですね。

 --他の登場人物との演じ分けについては。

 表現の仕方では落語に近い。落語って不思議で、声色を変えてなくても、右と左を振り向いたときにキャラクターが変わる。すさまじい技だなと思ったんですね。声色を変えようと思って変えてるわけじゃないと思う。今回その技を取り入れようかなと。右を見て近藤勇がしゃべっているふうにして、左を向くと土方歳三がしゃべっているっていう。お雪という女性も出てくるので、(声色を)変えるとしたら女性まで変えなきゃいけない。悩んだんですが、落語のような戦法でいこうかなと。イメージは、沖田総司は丁寧で品があって、近藤勇には土方よりは一つ年上ですが、自分の中での武士像とか、「自分はこうしたい」というのをはっきり持ってなかった。そういう対比を作りました。

 --幕末という時代の魅力を教えてください。

 読む限りでは、「日本を変えてやろう」と思う人間がたくさんいたんだなと。すなわち国に不満を持って、「おれだったらこうする」「こっちの派閥に入る」とか、そういうのがはっきりしてるんですね。自分が思ったことを言って、思ったように行動して、それがあからさまに結果に出るというところに僕は魅力を感じた。今の時代はどうしても情報が多くて、何かしらこう、みんなから頭を出すことに恐怖感というか、「たたかれるんじゃないか」というところを真っ先に考えてしまう。そこがもうすでにだめだと思うんですけど。そういうことを同年代の人たちに見ていただきたいなと思います。

 --7月公演の舞台は新選組ゆかりの京都・壬生寺でした。


京都公演の舞台になった新選組ゆかりの壬生寺 (開演が午後)6時なのでちょうど日が沈みかけたころに始まるんですよ。僕らは「ああ、こういうことか」と、舞台に立って初めて(分かった)。作られた照明ではなくて、(その場の)世界観がその場で味方してくれるというか。刀を持って、黒い服を着て、白いシャツでオールバック(の髪形)で、そこに立てば「土方歳三さんだな」っていうのがぱっと見て分かるようなシチュエーションを作ってますね。これは(出演した)3人共通の意見ですが「楽しかったね」って。すごく気持ちよかったんですね。リハーサルで、「ここは泣かせる音楽」とか、6割くらいしか決めてなかったんです。音楽の沖さんも高岸さんも、ダンサーに合わせてアドリブを見せ、ダンサーがヒートアップすれば(声を張り上げて)歌うし、ダンサーが踊るのを止めれば、ばっと歌うのも止める。(今回は)「どこで入りますか」って聞いても、「適当にお任せしますよ」っていうのが2人の意見で、「じゃあ聴きながら適当に入りますね」って、入ったらすごくぴったりで。ぼくがヒートアップして、がーっとしゃべってそこでせりふがトンと終わったら、彼らもトンと止める。そのキャッチボールがうまくできた。

 --観客の反応は。

 新選組のファンの方もすごくたくさんいらして、「うんうん」ってうなずいてました。感動する部分では泣いてくれたりして。一人一人の顔はもちろん見えないですけど、「伝わってなんぼ」っていうところがあって。「伝わってほしいな」と思いながらしゃべっているんですけどね。反響は賛否両論、ばっと分かれたんですよ。よく考えると、何か新しいことを始めたとき、賛否が分かれる。真ん中がないというか。そういう意味では(評価が分かれたことも)良かったのかなと。今回はデジタルとか最新技術とか全く関係ない世界なので、現代のぜいたくな映像を見てきた皆さんがどれだけ反応するのかなと。「全然だめだ。音楽も声もバラバラで」っていう方もいらっしゃいました。でも「その生っぽいところが大好き」という方もいらして、すごくありがたい意見でしたね。


朗読活劇「燃えよ剣」の京都・壬生寺公演で熱演する要潤さん --役者として観客に相対するのは要さん一人。一対多数という環境はいかがでしたか。

 もうまさにチャレンジ。出る前までは本当にプレッシャーで「できるのかな」とか「せりふがとんだら終わりだな」とか、いろいろ考えたんですけど、共演者がいないということで「ノンプレッシャーだな」というところに思考をチェンジしたんですよね。せりふがポーンと飛んでもそのまま間として成立して、思い出せばまたパズルのピースのようにはめていける。そう考えることですごく楽になれたし、自分を信じていける。自分が表現者として視線を集めていけると。

 --これから東京公演ですね。

 京都で得たすごくいいものを東京に持っていって爆発させられれば、さらにいいものが得られるんじゃないかという気がします。今後も日本人だからこそできる、こういう企画をやっていけたらいいなと思います。縁がなければ巡り合える作品じゃないと思うし、一緒に成長できる作品だなと。希望としては、一つのライフワークとして、これからずっと、毎年1回でも2回でもやっていけたらと思うんです。(土方が死んだ)35歳になるまでは土方さんと同じように歩んでいければと思っています。

 *……朗読活劇レチタ・カルダ「燃えよ剣」は13日午後6時、増上寺(東京都港区)で開演。全席指定で7000円。問い合わせは、キョードー東京(03・3498・9999)まで。

 <プロフィル>

 要潤(かなめ・じゅん)。81年2月21日生まれ、香川県出身。01年に「仮面ライダーアギト」でデビュー。ドラマ「流星の絆」(08年、TBS系)や主演映画「ピューと吹く!ジャガー」(08年、マッコイ斉藤監督)、「GOEMON」(09年、紀里谷和明監督)などで幅の広い演技を見せている。

 洋装・土方を演じる要潤さんの写真、もっとアップで見たいなぁ(爆)。




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