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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 ばたばたいろいろ忙しかったのですが、ようやくまとめてお送りできます。
 多いので記事を分けてご紹介します。

青森
東北Let’飯同盟:B級グルメNo.1へ 東北勢10団体が設立 /青森
◇おでん、やきそば、せんべい汁、バラ焼き
 東北地方のB級ご当地グルメを盛り上げようと、B級グルメ10団体が「東北Let’(れっ)飯(ぱん)同盟」を10日、設立した。東北の食を協力して全国に売り込み、B級グルメが人気を競う「B-1グランプリ」で東北勢初の優勝を目指す。
 参加したのは「愛Bリーグ(B級ご当地グルメでまちおこし団体連絡協議会)」の北海道・東北支部に加盟する東北4県の10団体。県内の青森生姜味噌(しょうがみそ)おでん(青森市)▽黒石つゆやきそば(黒石市)▽八戸せんべい汁(八戸市)▽十和田バラ焼き(十和田市)--も加わった。名前は、幕末に北海道、東北、北越の藩が手を組んで新政府軍に挑んだ「奥羽越列藩同盟」にならい、「東北以南のB級グルメに力を合わせて立ち向かう」意気込みを表そうと付けた。また、同盟の団結を示す旗も新たに作った。
 19日から秋田県横手市で開かれる「B-1グランプリin横手」では、共通の旗やチラシで同盟の料理を互いにPRする。そのほか、独自のイベントも予定している。
 同盟事務局を務める「八戸せんべい汁研究所」の木村聡事務局長は「何とか東北勢でグランプリを取りたいと結集した。連携して活動し、各地のブランド化を進めて地域を元気にしていきたい」と話している。【喜浦遊】

 B級グルメ好きなんで、ぜひ頑張って欲しいです。上記で食べたことがあるのは、野間みつねさんが頂き物でもらったのをふたりで鍋にして囲んだ「せんべい汁」のみです(苦笑)。

秋田
「グランプリを北国へ」 東北B級グルメ10団体が同盟設立
 B級グルメを一堂に集め、王座を決めるBー1グランプリを主催する愛Bリーグの北海道・東北支部は10日、「東北Let,s飯(れっぱん)同盟」を設立したと発表した。
 19、20の両日、横手市で行われる「Bー1グランプリin横手」に向けて、B級グルメによるまちおこしを目指す東北地区の10団体が集結した。本県からは秋田かやき協議会(秋田市・秋田かやき)、横手やきそば暖簾(のれん)会(横手市・横手やきそば)、神代地域活性化推進協議会(仙北市・あいがけ神代カレー)が所属する。「グランプリを北国へ!」を合言葉に、これまで3回のグランプリでいずれも準優勝だった東北勢による初の優勝を目指す。
 18日のBー1グランプリ前夜祭会場で同盟の旗揚げを宣言する。大会当日は団体の旗印を掲げ、ちらしを配布して所属団体のメニューをPRする。団体名は幕末に北海道や東北、北越の諸藩が加わった「奥羽越列藩同盟」に由来。秋田かやき協議会の竹島知憲会長は「結束することで、東北のB級グルメ盛り上げにつなげていきたい」と話していた。


山形
郷土の先人・先覚199
三井財閥の基礎を固める 三野村利左衛門

 三井財閥の基礎を築いた人。旧庄内藩士・関口正右エ門の孫で、鶴岡の百間堀端(現在の東北公益文科大学大学院付近)が出生地と伝えられている。曾孫の三野村清一郎氏が著した「三野村利左衛門伝」にも、墓誌名「出羽国庄内に出生…」と明記されている。
 伝記によると、7歳のときの文政10(1827))年ごろ、父・松三郎が養子入りした家を事情あって利三衛門を伴って出、浪人生活に入った。遠くは九州まで旅をし、父は宮崎で亡くなった。
 利左衛門(幼名不詳)は14歳のときに志を立てて京都に上り、さらに天保10(1939)年、19歳で江戸に出た。
 江戸は深川の干しいわし問屋丸屋へ住み込みで奉公、実直な働きぶりは人々の目にとまり、そして駿河台ののちの勘定奉行・小栗家に雇われた。ここでも勤務ぶりが注目され、神田・三河町の油・砂糖などを商っている紀ノ国屋・美野川利八に見込まれ、弘化2(1845)年に利八の娘なかの婿養子になった。同時に利八を襲名する。
 紀ノ国屋は商家でも零細で、妻が金平糖を作り、利八が背負い行商して歩く毎日だった。苦労の連続だったが、コツコツとお金を蓄え、それを資金に株を買い、安政2(1855)年に両替商を開業している。
 小さいながらも両替商となった利八は、ある日、出入りしているもとの雇い主である勘定奉行・小栗上野介宅で、天保小判1両を万延小判3両1歩2朱(3倍強)と換価する旨の布令が出ることを耳にして、天保小判の買い占めを図った。
 集めた天保小判を担保にして金を借り、それを資金にまた天保小判を買い集めた。人のつてで三井両替店にも売り込むようになり、こうした機敏な利八の行動は、三井両替店の首席番頭にも認められ、三井家に“紀ノ利” “紀ノ利”と重宝がられた。
 三井家の推移にも山あり谷ありで、幕末は金利の低下と長期不良貸し金の累積などで資金繰りが圧迫されているところへ、幕府から多額の御用金が課された。瀕死の瀬戸際に立たされ、最後の手段は幕府の財政担当責任者・勘定奉行の小栗上野介の力にすがり、御用金の玄学を頼むほかない、と紀ノ国屋利八を見込み、依頼することになった。
 利八は小栗上野介に三井家の窮状を力説。御用金50万両のうち18万両を分納、残額を免除してもらうことに成功した。しかもその後、三井家には幕府から御用金は一切なかったという。
 利八は三井家の破産寸前の危機を救い、絶大な感謝と信頼を一身に集め、慶応2年に48歳で三井家に雇われた。同時に名前も「三野村利左衛門」と改めた。姓は三井の三と、紀ノ国屋の姓である美野川の野、亡父の養家の姓である木村の村をとったものといわれている。
 戊辰戦争が起こり、維新政府に多額の資金を調達し三井家の通商会社、為替会社の総差配司(支配人)となり、第一国立銀行の設立発起人、頭取代行に就任。さらに三井銀行を創設し総長代理、三井物産会社を創立して三井家の“大番頭”として、その本領を発揮した。
 また、明治5年9月12日の新橋・横浜間鉄道開業式では、東京市民を代表して祝辞を述べることになっていた三井八郎右衛門高福が病気になったので、代わって述べている。
(筆者・須藤 良弘 氏/1990年3月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

三野村 利左衛門 (みのむら・りざえもん)
文政4(1821)年11月鶴岡生まれとなっている。浪人の父と流浪生活し、父の死後、京都に出た後19歳で江戸に出た。住み込み奉公などを経て商家に婿養子入り。利八を襲名して金平糖を行商しながら資金を蓄え、両替商を開いた。三井両替店に出入りして理財の才が高く評価され、三井家300年の歴史の中で最大といわれた危機を見事に乗り切り再建。明治以降の三井財閥の基礎固めに貢献した。ただし、出生地には異説もある。明治10年2月21日、57歳で亡くなった。


宮城
江戸の装身具仲間入り 石巻文化センター
 江戸時代後期に仙台城下で作られたとされる「仙台ガラス」製の女性用装身具などを集めた展示コーナーが、石巻市の石巻文化センターにお目見えした。琥珀(こはく)色や金銀に輝く品々が幕末の女性の気品を映し出し、来場者の目を楽しませている。
 石巻市出身で歴史研究家の故毛利総七郎氏が収集した民俗資料「毛利コレクション」の一部で、センターにあるコレクションの常設スペースに並んだ。新たに加わったのは、かんざしやくし、髪留めなど、女性が使う装身具26点。
 なかでも、江戸後期に富裕層の未婚女性が使ったとされる「びらびらかんざし」は、金や銀がちりばめられ、文化的価値が高い。石巻市教委の新田亜希子学芸員は「装飾性などから、当時の趣向が分かる。女性の生活の様子や息遣いを感じてほしい」と話している。
 毛利コレクションは、幅広い種類の資料を膨大に集めた点が特徴。日用品や絵図、刀剣など、確認されたものだけで10万点以上が現存する。市は石巻文化センターを改修し、2012年にも毛利コレクションの展示収蔵施設を運営する計画。
 観覧料は大人200円、高校生100円、小中学生50円、未就学児無料。月曜定休。連絡先は石巻文化センター0225(94)2811。


福島
炭鉱跡ツアー、軌道に
●産業遺産を観光振興に/大型バスが満席

 幕末から戦前の近代化を支えた産業遺産を、観光振興に生かす動きが広がっている。歴史的価値はあるが注目されてこなかった地域の資産に、新たな光をあてる取り組みだ。「ヘリテージ(遺産)ツーリズム」と銘打って、熱心に取り組む地もある。新たなハコモノ頼みでない、「温故知新」の地域振興策として関心が高まっている。(いわき支局・佐々木和彦、福島総局・中川透)
 炭鉱閉山に迫られ、生き残りをかけて「東北のハワイ」を目指す姿を描いた映画「フラガール」。舞台の福島県いわき市に、当時をしのぶ巨大なコンクリートの建物が残る。旧常磐炭礦の選炭工場跡地だ。近くに二つの坑口や坑内を換気するれんが造りの扇風機上屋もある。
 本州最大だった常磐炭田の中心。最盛期には大小130以上の炭鉱があったが、エネルギーの主役は石炭から石油へ。60年代から閉山が進み、76年にはすべての山が姿を消した。
 貨車への積込場「万石」、貨車用れんがトンネル、橋脚……。多くの遺物が今なお点在する。これを生かし、石炭の歴史を伝えようと、いわき市で進むのが、産業遺産の観光資源化だ。
 市民、炭鉱研究者や観光関係者らが年に「いわきヘリテージツーリズム協議会」を設立。現地観察調査を続け、市内の遺産を確認し、遺産群の地図やガイドブックなどを発行した。
 市内のいわき湯本温泉街も、フラガールに次ぐ新たな観光資源として注目。昨年の観光イベントから選炭工場跡などの遺産巡りツアーを企画し、計5回のツアーは、いずれも大型バス1台が満席になった。「普段目にしないものが見られた」「元炭鉱社員の体験談がよかった」と好評だった。
 JR東日本は、10月からのツアー「旅市」に炭鉱遺産めぐりを採り入れる。協議会メンバーが遺産を案内し、宿泊は地元の温泉。このガイドを務める熊澤幹夫・協議会事務局長(66)は「一般の観光地のようにただ見るだけでなく、地元の歴史、文化も勉強して頂きたい」と話す。
 コースとなる常磐炭田発祥地の「みろく沢炭鉱資料館」には、当時の写真500点、採掘工具など400点が並ぶ。親子二代の炭鉱マン、渡邊為雄館長(83)が養鶏業の傍らで20年かけて収集した。丸太組の坑口を模した入り口から入ると「近代化産業遺産」のプレートがかかる。地表に露出する石炭層、トロッコ、「炭住」と呼ばれた旧炭鉱住宅なども見学できる。 
 渡邊館長は「将来に残さなければと思って集めた資料。石炭で地域が発展した歴史を大事にしなければならない」と、無料で公開し、郷土学習の児童らも受け入れる。
 旧炭鉱のシンボルで、各地にあった円錐形の「ズリ山」は、長い年月を経て草木が生えたり、造成されて宅地になったり。説明がないとわかりにくいため、協議会はガイド養成に力を入れている。元炭鉱マンらを講師に月1回、住民ら約20人が勉強中だ。
 遺産のほとんどは民間所有の構造物。観光での活用が軌道に乗れば、維持、管理をどうするか、予算面も含めて課題になりそうだ。

◎秋田北部も計画
 産業遺産は全国各地に点在し、経済産業省が委員会を設けて認定している。製紙、炭鉱、鉄道、海運など産業近代化のテーマに沿って、07、08年度に1千カ所超の品や施設が選ばれた。東北の各県でも認定が進んでいる。
 かつて国内有数の金属鉱山地帯だった秋田県北部は、鉱山跡を生かした地域振興に取り組む。国指定重要文化財の旧小坂鉱山事務所や、従業員と家族向けの芝居小屋「康楽館」など価値ある建物が残るためだ。
 計画を進める鹿角市、大館市、小坂町の一帯には現在、家電リサイクル工場など環境関連産業の集積も進む。そこで、産業遺産と環境産業を組み合わせた新しい観光モデルをめざすのが、この地域の特徴だ。関連施設への視察受け入れ窓口となる「エコタウンセンター」を4月に設立。体験プログラムを考えたり、案内人役を養成したりと、観光客の定着をねらう。
 岩手県八幡平市では、かつて「雲上の楽園」とにぎわった旧松尾鉱山の跡を、再生する動きが始まった。
 鉱山開発は地域に富をもたらした一方、環境破壊の打撃も与えた。光と影の両面を知ってもらい、環境学習などに役立ててもらう。跡地見学や植樹体験などのプログラムを考え、紹介用DVDも作成。再生に携わるいわてNPOセンターは「廃虚の跡を地域の資産として生かしたい」という。



茨城
女性の髪形 藩主が指定 江戸末期 水戸藩の絵図入り史料発見
 江戸末期、水戸藩が家中のすべての女性の髪形や装飾品(髪飾り)について絵図で指定するなど厳しく規制していたことが、水戸市の茨城県立歴史館の調査で分かった。九代藩主徳川斉昭が天保年間(一八三〇-四四年)に行った藩政改革の一環とみられ、同館の笹目礼子首席研究員は「髪形規制を示す絵図入りの具体的な史料は全国的にも珍しい。斉昭が女性の髪形まで細かな指示を出していたとは驚きだ」と指摘している。 (水戸支局・吉原康和)

 史料は、水戸藩士だった岡崎家に保存されていた「女髪形之仕様図」で、二十七日まで同館で開かれている史料紹介展「文書にみる近世の女性たち」に展示されている。
 髪形の規制は「御簾中(ごれんちゅう)」と呼ばれた藩主夫人をはじめ、奥女中を含めた武家の女性すべてが対象。年齢によって「ちご」(七歳から十三歳)、「つぶわけ」(十三歳から元服まで)、「すべらかし」(元服後から隠居までの藩主夫人らが殿中など公式の場で用いた長い髪形)、「下げ上げ(元服後から隠居までの武家の女性らの日常的な髪形)」、「二つ折」(隠居後の髪形)などの髪形を絵図入りで細かく指定し、「このほかの髪形は用いてはならない」と戒めている。
 髪飾りについても「くしは用いる必要はない。こうがい・かんざしなども一つあれば十分。多く飾るのは、遊里(遊郭)芝居などの風俗で、武士の妻娘にはあってはならない」と諭している。
 この通達が出されたのは天保五(一八三四)年で、斉昭が藩政改革を進めていた時期。斉昭は士風刷新のため、綿服の着用や冠婚葬祭の簡素化、琴・三味線の禁止など質素倹約令を発しているが、これまで女性の髪形について規制する史料は見つかっていない。
 近世の女性の化粧・髪形に詳しいポーラ文化研究所の村田孝子主任研究員は「武家の女性の髪形は身分や年齢などによってもともと一定の基準はあったが、描かれた年代がはっきりしていて、図も正面、側面、背後と詳しくその形を表しているのは初めて見る。幕末の女性の髪形を知る貴重な資料」と話す。
 問い合わせは、同館=電029(225)4425=へ。


水戸市(茨城) 剛毅な中にしゃれっ気
 笹沼清左衛門が売り出した「天狗納豆」。「天狗のように元気になる」が名前の由来だそうだが、「天狗党」にちなんだものでもある。
 過激な尊王攘夷(じょうい)思想を打ち出して、幕末に挙兵した「天狗党」は筑波山から現在の福井県敦賀市まで行軍の末に投降したが、その志に心を動かされた同時代人も多かったとか。二代藩主・徳川光圀の「大日本史」編纂(へんさん)開始を機に、この地では尊皇思想の「水戸学」が発展を見せていた。
 「一本気で気短。よく言えば男っぽいのが水戸っぽの特質」と、水戸市内で「だるま納豆」を製造する高野正巳さんはいう。元プロ野球選手の豊田泰光、大久保博元、といった顔ぶれを見れば一目瞭然(りょうぜん)かもしれない。

 ゆく先は冥土(めいど)の鬼と一と勝負

 これは天狗党の幹部だった山国兵部の辞世の句。剛毅(ごうき)な中にもしゃれっ気がある。「そういう性格は、昔も今も変わってないはず」と高野さん。この人自身、水戸芸術館と共同して、納豆をチョコでくるみ、それをわらづとの中に入れた「チョコ納豆」を開発したりもしている。
 「天狗党の乱」の少し前、独特のカリスマ性を見せていたのが、九代藩主・徳川斉昭だ。昨年のNHK大河ドラマ「篤姫」では江守徹が演じた。藩校「弘道館」を設立して人材を登用、攘夷を強く主張して、大老・井伊直弼と対立した。激しい気性から「烈公」と呼ばれたこの人物により1842年造られたのが、日本三名園のひとつ「偕楽園」である。
 黒鳥、白鳥がのんびりと暮らす千波湖は、水戸市民の憩いの場 春は梅、秋は萩で有名だが、セミ時雨の晩夏にも、蕭々(しょうしょう)とした味わいがある。「斉昭公は、藩士の休養の場とともに、領民の楽しむ場としたい、と考えていたそうです」と偕楽園公園センター長の横田義彦さん。その烈公と光圀公を祭神とするのが、隣にある常磐神社。烈公が江戸防備に、と75門鋳造し、幕府に献上した大砲のうちひとつが、ここにある。
 偕楽園の中心部、民草のための茶会も開かれたという好文亭の3階に上る。強い日差し。深い緑が目に染みる。梅林のかなたに見えるのは千波湖だ。33ヘクタールもある湖のまわりの遊歩道は、少し日がかげるころになると、家族連れでにぎわっている。
 ここのシンボルは、ともに20羽以上いる白鳥と黒鳥だ。毎日エサをもらって生きているから、本当によく人になれている。よちよち歩きの赤ん坊にさわられても怒らないし、カメラを向けても逃げようとしない。
 地方都市の例に漏れず、中心街はシャッター通りになりつつある。「デパートが撤退し、大型スーパーもなくなった。昔を知るものとしては寂しいかぎり」と高野さん。改革に次ぐ改革で藩政を一新した烈公の志を継ぐ者はいないのだろうか。「偕(とも)に楽しむ」理想の方は、十分生きているのだけれど。
(以下略)



神奈川
錦絵と古写真に見る横浜港風景
 幕末から明治にかけての横浜港の姿を錦絵などで紹介する「錦絵・古写真に見る幕末・明治の横浜港のにぎわい展」が来月3日から、横浜みなと博物館(横浜市西区)で開催されることになった。波止場で貨物の荷降ろしをする明治初期の風景を描いた歌川広重(三代)の「横浜海岸通之図」などの錦絵や、明治中期の古写真「横浜谷戸坂グランドホテル新景」など約60点が展示される。11月29日まで。問い合わせは帆船日本丸記念財団・JTB共同事業体(電)045・221・0280。


特別ランチ「徳川遊膳」 横浜ロイヤルパークホテル
 19日から11月23日まで、68階の日本料理「四季亭」で、特別ランチ「徳川遊膳」(3465円)を販売する。
 近隣施設の横浜美術館(横浜市西区)で開催される企画展「大・開港展-徳川将軍家と幕末明治の美術-」の中で、将軍家や天璋院篤姫ゆかりの品々が展示されることを記念。同展の鑑賞券持参で通常料金から10%割引きになる。
 将軍家縁の食材や、篤姫の好物とされる「白インゲンの甘煮」「きがら茶ご飯」などをアレンジした料理の数々がコースで楽しめる。
 時間は午前11時~午後2時半(土日祝は午後3時)。予約・問い合わせはTEL045・221・1155。


新潟
小千谷で薬味のきいた「へぎそば」を
(中略)
戊辰戦争の歴史が息づく街並

初めてのきんぴら薬味の「へぎそば」に感嘆し、徒歩5、6分先にある小千谷市立図書館をめざしました。図書館3階にわが「あむばるわりあ」、西脇順三郎の記念室と記念画廊があります。途中、由緒ありげな寺の山門に目がとまりました。慈眼寺(じげんじ)でした。戊辰戦争に際して、長岡藩家老の河井継之助と新政府軍の岩村精一郎との会談、いわゆる小千谷談判が行われた名刹です。司馬遼太郎の『峠』を読んで、いつか訪ねたいと長年思ってきたのに、今の今まで気づかなかったのは、毎度のことながらまったく迂闊(うかつ)なことでした。新潟県中越大震災では、会談の間などが甚大な被害を受けましたが、多くの方々からの浄財で見事復元されたそうです。
 慈眼寺からさらに進むと、突き当りに大掛かりな建設現場が見えました。通りすがりに図書館の場所を尋ねた方が、日本最初の公立小学校「小千谷校」が建て替え中だと誇らしげに教えてくれました。1868年、まさに戊辰戦争の始まった年に開校した小学校。その筋向いに、めざす小千谷市立図書館はありました。



静岡
中右コレクション 幕末浮世絵展 大江戸の賑わい
―北斎・広重・国貞・国芳らの世界―

 現在でも私たちを魅了する浮世絵は、17世紀後半頃から風俗画を基盤として誕生し、庶民の娯楽の場であった歌舞伎や遊郭に取材した役者絵・美人画を中心に発展しました。
 とりわけ、化政期以降幕末に入ると、さらに新しいジャンルが次々と生まれ、また数々の多才な浮世絵師達が活躍するようになります。 
 風景画を完成させた北斎と広重、艶のある美人画や生動感ある役者絵で人気をはくした国貞(三代豊国)、躍動的な武者絵や風刺画、戯画に幕末の世相を反映させた国芳、開国によるエキゾチックな雰囲気を描写した貞秀の横浜絵などは、時代の空気とともに、政局への関心、異国への興味など当時の人々の視線や生活をも伝えています。 
 本展覧会では、国際浮世絵学会常任理事・中右瑛(なかうえい)氏のコレクションから、肉筆約20点を含む浮世絵約150点を展示いたします。成熟した町人文化を背景に生まれた幕末浮世絵の世界をぜひお楽しみください。
(以下略・詳細はリンク先参照)


三重
松浦武四郎:幕末の探検家、生家を維持・管理 あす「保存会」発足 /三重
松浦武四郎:幕末の探検家、生家を維持・管理 あす「保存会」発足 /三重
◇地元自治会ら43人参画
 幕末の探検家・松浦武四郎(1818-1888)の生家の維持管理に協力する「松浦武四郎誕生地保存会」が13日、発足する。地元の松阪市小野江北町と小野江南町の両自治会や松浦武四郎記念館友の会員ら計43人が参画。家屋の開け閉めや、草刈りなどを担い、生家など貴重な文化の保存と伝承に尽力する。
 生誕地は同市小野江町の旧伊勢街道沿いにある。1124平方メートルの敷地に木造母屋と同離れ、土蔵2棟、池のある庭(市指定史跡)を備える。
 母屋は1832(天保3)年、武四郎の父、圭介が購入した。武四郎は北海道へ旅立つ時、母屋の仏壇の前で亡き両親に決意を報告したとされる。離れは1867(慶応3)年までには完成していたことが分かっており、武四郎は完成祝いに襖絵(ふすまえ)を交流のあった画家や書家に描いてもらっている。庭にはアイヌ語研究の第一人者の金田一京助博士が植樹した桜の木もある。
 生誕地の今後については、学識経験者ら8人で構成した市教委の整備検討委員会で協議が進められている。「武四郎の生存時の館は保存し、母屋の一部2階部や台所は取り壊す方針」(市文化課)で、将来的には、誰もが気軽に学び語り合える交流の場として活用することも検討されている。
 保存会の結成はこうした将来構想を見据えたもの。13日朝から、松浦武四郎記念館で設立総会を開き、具体的な管理運営方法などを話し合う。【橋本明】


三重
蝦夷大概図:松浦武四郎記念館が入手 25日から公開 /三重
 幕末の探検家・松浦武四郎(1818~1888)が最初に出版した蝦夷(えぞ)地の地図「蝦夷大概図」が札幌市で見つかり、松阪市小野江町の松浦武四郎記念館が入手した。25日から11月23日まで記念館で開かれる「幕末に生きた武四郎」で公開する。
 この地図は木版2色刷で、1850(嘉永3)年に出版された。横38センチ、縦32センチの八折りで、表紙は紺色。札幌市の古書店から記念館に連絡が入り、48万円で購入した。
 記念館の山本命学芸員によると、32歳の武四郎が3度目の蝦夷調査を実施した後、初めて表した地図で、蝦夷地、千島列島、樺太が描かれ、赤の点線で陸路と海路が示されている。ロシアに対する松前藩の防備の問題点に言及した漢文もあり、当時の松前藩士たちに配ることを目的に、100部程度が刷られたとみられる。
 同じ地図は国会図書館と北海道大付属図書館北方資料室が所蔵しているが、いずれも未公開なため、購入の意義は極めて大きいとしている。
 武四郎は28歳から41歳まで、蝦夷地を6回にわたって調査、10点の地図を表している。記念館は、このうち5点を子孫から寄贈されているほか、1点は既に購入済みで、所蔵地図は7点となった。【橋本明】


滋賀
近江商人 藩の財政管理
【野洲・旧商家借用書など5千点分析】
 野洲市の近江商人の旧商家で、江戸後期から明治にかけての大名への借用文書など約5千点の文書が見つかり、分析した東京大文学部と野洲市歴史民俗博物館の研究チームが報告書をまとめた。東大の吉田伸之教授(日本近世史)は「財政難を極めた幕末の小さな藩の社会構造を示す貴重な資料。武士と商人の力関係を知る上でも興味深い」と話している。(安田琢典)

【研究チーム「階級超えコントロール」】
 文書は野洲市大篠原の小澤七兵衛さん(85)方の文庫蔵や倉庫などから見つかった。小澤家は江戸中期から商家として活躍し、1万8千石だった地元の西大路藩(現在の日野、竜王両町と野洲市の一部)で財政を担当する「勝手方」として働いた。
 「御勝手御省略写」では、嘉永6(1853)年に藩主の市橋氏に対し、一族の祭事の倹約を求めたことが記されている。吉田教授は「身分の差があるとはいえ、小澤家はいわば『財務大臣』。士農工商の階級社会の中で身分の低い商人が藩主に脅しにも近い要求をしている。当時の社会を実質的にコントロールしていたのは豪商や豪農だった」と指摘する。
 明治24(1891)年の「規約書」と題する資料では、藩主や士族への借金の総額を、貸し付けて数十年過ぎているにもかかわらず、チェックしていたことがうかがえる。
 小澤さんによると、小澤家は藩に対し、総額で現在の2億数千万円に相当する貸し付けをしていた。「財政が困窮する藩に請われての貸し出し。最終的には相当な金額が踏み倒される格好になったと聞いている」と言う。
 小澤さんは小澤家第16代目の当主。大阪電気通信大(大阪府寝屋川市)の顧問を務める一方で大篠原地区の郷土史編集に携わっている。
 「幼い頃から蔵の中に大量の書物があったことは知っていたが、どういう内容なのかまでは知らなかった」と言う小澤さんが、吉田教授に情報提供して調査が始まった。
 東大は地元の野洲市歴史民俗博物館とともに10年以上かけて資料を分類整理。今後、資料を解読し、当時の近江商人の活動実態などを詳しく調べることにしている。博物館の古川与志継館長も「地元で見つかった貴重な資料を使い、将来的には野洲出身の近江商人を紹介する企画展をやってみたい」と話す。




京都
龍馬をもっと知って、ゆかりの地バスツアー22日スタート…堀川商店街有志
はかま姿で同行案内

 京都市内の坂本龍馬ゆかりの地などを巡るバスツアー「龍馬 京の幕末をゆく」を、堀川商店街(上京区)の商店主や職人らでつくる「匠(たくみ)と商人(あきんど)の会」が企画、22日から毎週2回程度で実施していく。はかま姿の龍馬や妻のお龍らにふんした案内人が同行するスタイルで、〈幕末の京都〉が臨場感たっぷりに再現されるよう工夫が凝らされている。
 来年、NHK大河ドラマで「龍馬伝」が放映されるのにちなみ、地域の活性につながればと企画された。同会代表の山内浩一さん(67)が昨年6月から1年かけ、自転車で市内を回り、地元の人らに伝承などを取材。成果をまとめたガイドブック「龍馬 幕末をゆく」(300円)に基づき、コースを設定した。
 龍馬やお龍らにふんした同会のメンバーらが、知る人ぞ知る豆情報を披露しながら京都御所や新選組の壬生屯所旧跡(八木家)などを巡る。龍馬がお龍に自らの無事を知らせるために「龍」の文字を彫ったと伝わるエノキがあり、縁結びに御利益があると人気の武信稲荷神社(中京区)などもコースに組み込まれている。
 同会ではモニターツアーを行うなどして、歴史ファンにも満足してもらえる旅に、と意気込んでいる。
 山内さんは「事前の調査で龍馬の存在を身近に感じることができた。龍馬やお龍になりきって激動の時代の魅力を伝えたい」と話している。
 参加費7500円(昼食代込み)。参加者にはガイドブックも配布する。問い合わせは同会(075・823・2110)へ。


龍馬とお龍「結婚式場」跡に石碑 
東山 NPO設置し除幕式

 坂本龍馬と妻のお龍(りょう)が「結婚式」を挙げた場所であることを記念した石碑の除幕式がこのほど、京都市東山区三条通白川橋東入ルの東山ユースホステルであった。式には、NPO法人(特定非営利活動法人)「京都龍馬会」のメンバーら約50人が参加し、幕末に思いをはせた。
 石碑は高さ1メートルで、「坂本龍馬 お龍『結婚式場』跡」と刻まれている。龍馬会が、下京区の会社員清水一郎さん(50)の寄付を受けて設置した。龍馬会が建てた石碑は市内で三つ目となった。
 除幕式では、歴史地理史学者の中村武生さん(41)=伏見区=が、この地を「結婚式」の場所とした理由について「お龍本人の回想では、青蓮院塔頭金蔵寺で結婚したとある。本人の証言を疑う理由はなく、金蔵寺跡であるここに石碑を建てるのは妥当」と話した。


奈良
寧楽美術館:竜がクネクネ鬼瓦 依水園の名品展示--開園50年記念し /奈良
 奈良市水門町の日本庭園「依水園(いすいえん)」内にある寧楽(ねいらく)美術館で、同園に伝わる美術品を展示する「依水園の歴史 開園50年を記念して」が開かれている。【花澤茂人】

 依水園は東大寺や興福寺に近接する国の名勝。江戸時代に奈良晒(ざらし)業者の清須美道清(きよすみどうせい)が前園を、明治時代に豪商・関藤次郎が後園を整備した。1939年から貿易商の中村家に受け継がれ、58年から一般公開が始まった。
 今回はふすまや鬼瓦など約40点を展示。園内にある茶室「清秀庵(せいしゅうあん)」の鬼瓦は、07年度にふき替えた際、16世紀から続く京都の焼物師、楽家(らくけ)によって明治時代に作られたものと判明。竜が体をくねらせている姿が珍しいという。
 茶室「三秀亭(さんしゅうてい)」のふすまには、17世紀末に当時の皇族や公家12人が書いたとみられる和歌がある。清須美氏が宮中の最高権力者とも交流があったことがうかがえる。幕末から明治期にかけて活躍した日本画家、森寛斎の描いた「四季花鳥図」のふすまも展示している。
 12月18日まで。午前9時半~午後4時。火曜休館。入館料(依水園入園料含む)は大人650円、中高生400円、小学生250円。問い合わせは同館(0742・25・0781)。


和歌山
江戸末期の東海・南海地震の記録発見
●「生きたる心地なし」

 江戸末期から明治にかけて庶民の生活などをつづった「小梅日記」の筆者、川合小梅(1804~89)が、1854(嘉永7、安政元)年に起きた東海・南海地震による和歌山城下と周辺の被害を書き留めていた。立っていられないほどの大きな揺れ、大砲のような音、何度も繰り返す余震におびえて庭で夜を明かす家族など、当時の様子をうかがい知る貴重な記録となっている。
 この文書は、県立文書館(和歌山市西高松1丁目)の須山高明主幹が、去年12月に小梅の子孫から同館に寄託された雑記などを調べていて偶然、発見した。
 文書には、「嘉永七寅(とら)十一月四日五ツ過(すぎ)(午前8時ごろ)地震大(おおい)ニゆり候ニ付はた(だ)しにて裏へにげ出(いず)。急(きゅうに)西ノ屋根くす(ず)れ瓦落(おち)る(中略)翌五日七ツ過(午後4時ごろ)大地震久しくゆる。庭へはせ出候処(いでそうろうところ)、昨日よりはけ(げ)しく立居(たちい)る事不成(ならず)(中略)大ほうの如(ごと)き音七八声ひびく。何共不分(わからず)。始(はじめ)ハ雷鳴と思ひ(い)、空ハ真暗(まっくろ)ニしてすさまし(じ)く天地之大変ト生(いき)たる心地なし。只(ただ)神仏の御名をとなへおそれいる」と記されてあった。
 また、「(倒壊の恐れのある)自宅に入ることが恐ろしく、庭で家族一緒に一夜を明かすことにした」という内容の記述があった。このほか、聞いた話として「日方・黒江辺(現海南市)に屋根までつかるほどの津波が押し寄せ、家ごと波にのまれた」「大きな石橋は流され、波が引くとタンスの引き出しに魚が入っていたそうだ。雷か地鳴りと思った大きな音は津波だった」などと被害の状況を書いていた。また、「畑は苗床用の土が裂けてはみ出てしまっている」と液状化現象をうかがわせる表現もあった。
 須山主幹は「当時の文献を見ると、11月4日朝は駿河湾沖周辺、翌日午後は四国の南方海域周辺で発生したとあり、和歌山は両方の地震と津波で大きな被害を受けたらしい。いずれにしても、小梅は城下で聞いた話を細かく書き留めており、興味深い内容となっている」としている。
 小梅が東海・南海地震を書き留めていた話は、3回シリーズで催される県立文書館の歴史講座「小梅日記及び雑記にみられる幕末の紀州」の中で、須山主幹が発表する。同講座では、紀州藩の勘定奉行と寺社奉行を兼務していた伊達千広(ちひろ)らが失脚した「嘉永の政変」などに触れた雑記も取りあげられる。
 講座は9月26日、10月3日、同17日といずれも土曜の午後1時半から2時間。無料。往復はがき(9月4日から同22日までの消印有効)で「〒641・0051 和歌山市西高松1丁目7の38、県立文書館 歴史講座係」まで申し込みが必要。先着60人。応募はがきには書式があり、同館(073・436・9540)まで問い合わせを。



大阪
京街道散歩 優谷壽男 63 大阪市都島区
 ぶらりとたこ焼きを買いに出た商店街で、歴史散歩の寄り道をしてしまった。
 場所はJR大阪環状線が国道1号線をまたぐところから北北東に延びている商店街。地元では「京街道」と呼んでいる。大阪城の京橋口と京都とをつなぐ街道の一部である。
 幕末には新撰組の隊士や坂本龍馬も駆け抜けたことだろう。
当時は田や畑に挟まれ、実った稲穂の向こうに、蒲生村や野江村の家木立が、海に浮かぶ島のように見えたことだろう。
 江戸時代の旅する人の姿は、テレビドラマの「水戸黄門」で見る姿か、三度笠をかぶった渡世人の姿がまず目に浮かぶ。
 しかし、暑い日にはどのような姿で歩いていたのだろうか。もろ肌脱ぎの旅人もいたことだろうな。井戸や木陰や休憩小屋もあったのだろうか。(以下略)

 ちなみに、三度笠に縞の合羽という渡世人にお馴染みのあのスタイルは明治以降のものらしいです(みなもと太郎がそう書いてました)。

岡山
箕作阮甫、キャラクター…学力向上シンボル 岡山・津山市教委作成
 岡山県津山市教委は、幕末のペリー来航時に米国書を翻訳するなど、国際的に活躍した津山藩の洋学者で藩医の箕作阮甫(みつくりげんぽ)(1799~1863年)を市内の小中学生の学力向上のシンボルとし、キャラクター「げんぽくん」を作成した。家庭学習の意欲を高めてもらおうと、啓発ビラ「げんぽくんの家庭学習」に生かし、阮甫の誕生日に当たる7日、36の小中学校に配った。
 市教委によると、2008年度の全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)では、家庭でまったく勉強しない小学生の割合が全国平均4・5%に対し、津山市は6・5%。中学生も全国平均7・7%に対して8・3%と高い。同年度の平均点も、同市は小中学生とも全国、県全体の平均点より低かったという。
 市教委は危機感を持ち、郷土の偉人をモデルに「げんぽプロジェクト」を立ち上げ、啓発のほか、来春オープンする箕作阮甫らの業績を顕彰する新洋学資料館の活用などを計画。「げんぽくん」は右手に筆と本、左手にそろばんを持ち、学ぶ意欲にあふれた子どもを表現している。
 配布したビラはA4判。小学生向けには、「げんぽくん」が「宿題は学校で学習した基礎・基本を身につけるために大切な学習」と意義を説明。保護者にも▽毎日、宿題をきちんとしているか▽机上をかたづけているか▽勉強時、家族もテレビを消したり、音を小さくしているか――などの点検項目を示し「宿題をやらないことをしかるより、頑張ったことをほめてあげて下さい!」と呼びかけている。
 阮甫は藩医として江戸で蘭学(らんがく)を学び、翻訳書や著書を刊行。洋学者育成のため幕府が設けた「蕃書調所」の初代教授に任命された。市教委は「偉大な先人を象徴に、確かな学力と豊かな心を持つ子どもたちを育てたい」と話している。


箕作阮甫 キャラクター
 津山市教委は、幕末のペリー来航時に米国書を翻訳するなど、国際的に活躍した津山藩の洋学者で藩医の箕作阮甫(みつくりげんぽ)(1799~1863年)を市内の小中学生の学力向上のシンボルとし、キャラクター「げんぽくん」を作成した。家庭学習の意欲を高めてもらおうと、啓発ビラ「げんぽくんの家庭学習」に生かし、阮甫の誕生日に当たる7日、36の小中学校に配った。
 市教委によると、2008年度の全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)では、家庭でまったく勉強しない小学生の割合が全国平均4・5%に対し、津山市は6・5%。中学生も全国平均7・7%に対して8・3%と高い。同年度の平均点も、同市は小中学生とも全国、県全体の平均点より低かったという。
 市教委は危機感を持ち、郷土の偉人をモデルに「げんぽプロジェクト」を立ち上げ、啓発のほか、来春オープンする箕作阮甫らの業績を顕彰する新洋学資料館の活用などを計画。「げんぽくん」は右手に筆と本、左手にそろばんを持ち、学ぶ意欲にあふれた子どもを表現している。
 配布したビラはA4判。小学生向けには、「げんぽくん」が「宿題は学校で学習した基礎・基本を身につけるために大切な学習」と意義を説明。保護者にも▽毎日、宿題をきちんとしているか▽机上をかたづけているか▽勉強時、家族もテレビを消したり、音を小さくしているか――などの点検項目を示し「宿題をやらないことをしかるより、頑張ったことをほめてあげて下さい!」と呼びかけている。
 阮甫は藩医として江戸で蘭学(らんがく)を学び、翻訳書や著書を刊行。洋学者育成のため幕府が設けた「蕃書調所」の初代教授に任命された。市教委は「偉大な先人を象徴に、確かな学力と豊かな心を持つ子どもたちを育てたい」と話している。





広島
鞆・浄泉寺に「龍馬観音」 いろは丸沈没地点 指さす
住職命名「観光名所に」

 江戸時代の町並みが残る福山市鞆町の浄土宗「浄泉寺」=大仲伸隆住職(60)=に、幕末の志士・坂本龍馬の立像(御影石製、高さ約1メートル)がお目見えした。鞆町は、龍馬ゆかりの地で、同寺にも龍馬が祈願した観音像が大正時代頃まであったと伝えられていることから、大仲住職が、観音像の再建にあわせて建てた。「龍馬観音」と命名し、「鞆の魅力を伝える、新しい観光名所になってくれれば」と期待している。(向井友理)
 市鞆の浦歴史民俗資料館によると、同市鞆町沖では1867年に、龍馬率いる海援隊の「いろは丸」が紀州藩の軍艦と衝突、沈没した「いろは丸事件」が起き、龍馬は紀州藩との賠償金交渉のため同町に滞在した。浄泉寺周辺には、龍馬の宿舎跡や紀州藩との会談にも使われたとされる対潮楼がある。
 龍馬が浄泉寺を訪れ、観音像に交渉の進展を祈願したという話は、記録には残されていないが、寺の檀家の間で語り伝えられてきたという。観音像は大正時代頃まで寺の境内にあったが、当時は寺の近くまで海が迫っており、台風による高波で流されてしまったらしい。
 大仲住職は、呉市の真言宗の寺に生まれ、岡山県笠岡市で学習塾を経営していたが、浄泉寺の先代住職の死去後、知人の檀家総代の紹介で2005年6月に同寺の管理を任された。鞆町で暮らし始めてすぐ、埋め立て・架橋事業を巡って賛成派と反対派が対立する様子に心を痛め、「町を一つにし、盛り上げたい」と考えるようになった。龍馬の夢を見たことをきっかけに、心のよりどころとなる観音像の再建と、龍馬の像のアイデアが結びついたという。
 ただ、当時は真言宗の僧籍しかなく、宗派が異なる寺に観音像を建てることははばかられた。佛教大学(京都市)の通信講座で4年かけて浄土宗の免許を取得し、今春、正式に同寺の住職となり、龍馬観音の製作を業者に発注した。
 8月に完成した龍馬観音は、かつて観音像があったと思われる境内の南東側に設置した。龍馬の像は、いろは丸が沈没した東の沖合を指さしており、像の後ろには対潮楼がそびえている。
 鞆町では、ちょうど、NHK大河ドラマ「龍馬伝」が来年放送されるのを前に、福山市が龍馬を目玉にした観光キャンペーンを展開中。大仲住職は「この時期に龍馬の像を建てたのは全くの偶然。でも、何度も龍馬の夢を見たので、不思議な縁を感じる。龍馬の力を借りて、鞆の魅力を多くの人に広めたい」と話している。


NHK大河ドラマ「龍馬伝」福山ロケ エキストラ募る…広島
 幕末の志士・坂本龍馬の生涯を、福山雅治さんが演じる来年のNHKの大河ドラマ「龍馬伝」のロケが10月、広島県福山市藤江町のテーマパーク「みろくの里」で行われるのを前に、ふくやまフィルムコミッションは、ボランティアのエキストラを募集している。応募は9月16日まで。
 撮影は10月1日~8日の予定で、小学生からお年寄りまで幅広い年齢層で、数十人を募集。演技経験は必要なく、役によって撮影日や時間が異なり、福山さんと共演出来る可能性もあるという。出演者には記念品が贈られる。
 市観光協会のホームページからダウンロードするか、市役所7階の市観光協会とJR福山駅の福山観光案内所にある専用の応募用紙に必要事項を記入して、郵送か持参で申し込む。
 問い合わせは、同コミッション(084・928・1230)へ。











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