忍者ブログ
新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
たまには(汗)幕末ニュースを投稿しておきます。

山形県
酒井家から盗まれた重文の名刀見つかる(山形県)
見つかったのは、国の重要文化財に指定されている日本刀「備州長船住元重」だ。鎌倉時代末期に作られたとされる名刀で、酒井家から戊辰戦争で指揮をとった重鎮に贈られ、その後、再び酒井家に戻されていた。しかし、1986年8月、刀を保管していた酒井家の収納庫に2人組の男が入り口を壊して侵入し、ほかの刀など15点とともに盗み出し、そのまま行方が分からなくなっていた。去年9月、酒井家18代当主で、致道博物館の館長でもある酒井忠久さんのもとに、大阪府のコレクターの男性から「刀を買い取った」と連絡があった。刀は転売が繰り返されたとみられていて、現在も大阪府の男性が所有している。民法では、無償で返還を請求できるのは、盗難・紛失から2年までで、再び酒井家で所有するには刀を買い戻す必要があり、1億円近くかかるという。酒井さんは、国宝や重要文化財などが時効にかかわらずに無償で返還できるような法整備を求めている。酒井さんは買い戻しはしない予定で、今後、コレクターの男性から刀を借り受けるなどして博物館に展示したいと話していた。

福島
現代版「二本松少年隊」結成 古里PR いざ出陣!
ふくしまデスティネーションキャンペーン(DC)に向け、二本松市推進委員会(二本松おもてなし隊)は市をPRする現代版「二本松少年隊」を結成した。10日、推進委員会長の新野洋市長が記者会見し、メンバーを発表した。
 「二本松少年隊」は二本松、郡山両市と大玉村の16歳から31歳までの男女11人。声優を目指す学生や演劇部に所属する高校生、国際協力機構(JICA)二本松青年海外協力隊訓練所の職員らで構成している。
 新野市長は「戊辰戦争で郷土を守るため若くして散った『二本松少年隊』の志を酌み、しっかりと市をPRするためのパフォーマンス集団にする。DCを盛り上げたい」と抱負を述べた。安斎文彦二本松観光協会長も同席し、メンバーを激励した。
 メンバーは今後、毎週土曜日を中心に、戊辰戦争や二本松少年隊などについての座学や殺陣の練習に取り組む。市内の劇団HEROS ACTION CLUB代表の広瀬和重さん(50)が殺陣などアクションを指導し、3月29日に同市市民交流センターでお披露目会を開く。DC期間後も年間を通じて活動し「二本松の菊人形」などのイベントにも参加する。メンバーは次の通り。
 中嶋哲也(二本松、JICA二本松)渡辺晴香(大玉、NOKエラストマー)栗城千鶴(郡山、郡山萌世高一年)鹿野ひとみ(二本松、MTS&プランニング)斎藤倫明(二本松、福島大四年)斎藤葵(二本松、安達高二年)鹿野康平(二本松、福島西高二年)菅野純麗(二本松、ケイセンビジネス公務員カレッジ)渡辺芽斐(二本松、二本松市臨時職員)斎藤美祐紀(二本松、障害者福祉施設・すばる)菅野愛華(二本松、安達高二年)

( 2015/01/11 08:22 カテゴリー:今日の撮れたて )

112歳90日 県内長寿記録更新 若松の佐藤ステさん
 県内最高齢の会津若松市の佐藤ステさんは13日、112歳90日となった。統計がある昭和45年以降での県内最高長寿記録だった112歳88日を突破した。
 佐藤さんは、明治35(1902)年、二本松市生まれ。実家の山岡家は二本松藩士の家柄で、佐藤さんの大叔父に当たる山岡栄治は戊辰戦争時、青山助之丞とともに薩摩の部隊に切り込んで奮戦し「大壇口の二勇士」とたたえられた。
 佐藤さんは現在会津若松市の老人ホームに入所している。佐藤さんの孫で日本精測社長の佐藤光信さん(65)は「会話は難しいが、食欲も旺盛で歌も時折口ずさむなど元気。今年も誕生日を迎えられると思う。長寿日本一を目指してほしい」と話している。
 これまでの最長寿記録者は平成10年に死去した川俣町の古和田チヨさんだった。

福井県
歴博開館1周年、幕末の福井語る
 福井市立郷土歴史博物館の開館一周年を記念した講演会が二十三日、同市宝永三丁目の県国際交流会館で開かれた。専門家が新説を交えながら、幕末の福井藩の藩政改革について話した。

 講師には、幕末の福井藩に詳しい大妻女子大短大部の高木不二教授を招いた。高木教授は▽幕末の藩士、三岡八郎(後の由利公正)による経済政策▽薩摩、福井両藩の交易▽藩士・日下部太郎のアメリカ留学―について、最新の研究成果を織り込んで講演した。

 三岡八郎の経済改革では、生糸など藩内の産物の生産、管理、販売をつかさどる「制産方」という部門が設置されたことを指摘。大きな成果を上げたとした。

 また高木教授は、福井藩が当時は禁じられていた他藩との交易を、薩摩藩と行っていた事実を披露。薩摩藩から英国の商社を通じ、ひそかに中国へ福井産の生糸や茶を輸出、利益を得ていたことを明かした。

山口県
講演会:晋作の“語り人” 幕末振り返る−−下関 /山口
下関の歴史や文化を語り合う下関夜話会が21日、下関市中之町の亀山八幡宮儀式殿であった。幕末の志士、高杉晋作の“語り人”として活動している福岡市の亀田真砂子さん(55)が「高杉晋作と下関〜長府・清末藩の人々と関わり〜」と題して講演し、約50人が耳を傾けた。

 亀田さんは晋作にまつわる人物のプロフィルや年表を示しながら幕末を振り返り、「下関はまさに維新の舞台。大..(以下有料記事)

コラム
『明治維新と幕臣 「ノンキャリア」の底力』
レビュアー:麻木 久仁子

来年の大河ドラマは『花燃ゆ』。吉田松陰の妹・文を主人公に、松蔭はもちろん、久坂玄瑞や高杉晋作など長州の志士たちが、その生き様をたっぷりと魅せてくれるであろう。大河ドラマで幕末物は当たらないなどというジンクスはいつのことやら、『篤姫』『龍馬伝』『八重の桜』、そして今回の『花燃ゆ』とつづくのも、近代日本の立ち上がりを振り返り、このところの閉塞感を打破するヒントを得たいという空気があるのだろうか。ちなみに長州が舞台となるのは1977年の『花神』以来、38年ぶりだそうである。明治維新以来、現総理も含めてもっとも多くの総理大臣を輩出した地である。地元の皆さんはさぞかし期待しているに違いない。

さて、となればまた維新と「志士」の本はたくさん出版されることだろうと思うのだが、今回ご紹介する本は維新と「幕臣」の本である。

旧態依然とした幕府と、保身に汲々とするのみで時代の流れに取り残された幕臣。それに対して進取の気風に富み時代を読み、日本を近代化すべく戦った薩長をはじめとする西南雄藩と志士たち。

しかしこうしたイメージは修正されつつある。

たとえば戊辰戦争における鳥羽・伏見の戦いのイメージはどうだろう。三分の一の兵力しか持たなかった倒幕軍に敗れたことから「幕府軍は数ばかりで、装備は古くさい鎧兜」だったのかと思いきや。実際には洋式装備の歩兵隊が八個連隊・9800人もおり、フランス軍事顧問団の指導を受けた精鋭部隊も擁していたという。海軍ともなれば幕府軍が圧倒的で、主力艦の「開陽丸」も当時世界最大級の軍艦だったし装備も極めて優秀だった。薩長ふくめ、対抗できる戦力は国内には存在しなかったのである。幕府も時代の変化には充分に危機感をもち、軍制や税制、そのほか様々な改革をすこしずつ積み重ねてはいた。そもそも開国・近代化を目指したのは幕府の方がさきだったではないか。だが残念ながら幕府はガバナンスに失敗し、蓄えた優秀かつ大切なリソースも生かしきれず、明治維新となる。

では幕府がそれまでに積み重ねたものはすべて無駄になったのかというと、じつはそうではない、というのが本書のテーマである。明治維新は非常に大きな政治変動ゆえに、その変化ばかりに目を奪われがちだが、「いかにして統治したか」という行政の面からみると、江戸から明治への連続性が見えてくるというのである。

"明治維新に際して、戊辰戦争において戦地となった場所は例外として、全国津々浦々が混乱を極め、略奪や暴行が横行したという事態に至っていないということは、少なくとも社会生活を維持できるような秩序が保たれていたということになる。つまり、行政が機能しない状態にはほとんどならなかったということになろう。"

例えば大災害のときなどでも、日本人は秩序正しくふるまうことが折々話題になるが、道徳心もさることながら、行政に対する信頼感が実はとても大きいのである。行政がきっと対応する、援助がくると信じられるからこそ、暴動や略奪にはならない。

page: 2

天下の体制ががらりと変わっても、幕末の人々が落ち着いていられたのも、日常生活に直結する行政が機能し続けていたからなのである。

新政府による旧幕臣の登用というと、勝海舟や榎本武揚、渋沢栄一などの大物の名前を思い浮かべるが、ここで頑張ったのは旗本や御家人などの幕臣たちであった。今風にいえばノンキャリの官僚たちである。薩長土肥や越前・尾張などの雄藩は、藩の規模、いわば地方自治の規模での統治の経験しかなく、全国規模の統治は未経験だった。そのノウハウや人材を持っていたのは幕府のみだったのだ。明治政府による旧幕臣の登用については「国難にあたり、敵味方の分け隔てなく優秀な人材を登用した明治政府の度量」という見方もあるが、実情は徳川400万石の幕領を統治する行政組織をそのまま活用しなければどうにも事が動かない、というのが実情だったようだ。

"見方によっては皮肉ではあるが、明治政府は、江戸幕府という前政権が有効に機能していたからこそ、全国政権としての体裁を為すことができたともいえよう。"

「岩倉使節団」は、欧米の制度や法制を視察・研究するために派遣された専門官のほかに、実務にあたる書記官を多数含んでいたが、書記官の多くが幕末期の外交交渉にあたった旧幕臣であったという。それゆえにかれらは、使節団における地位は低くとも知識や経験は豊富だった。現実の外交交渉の場ではかれらに頼らざるをえず、岩倉さえも頭が上がらない始末。しまいにはホテルの部屋割りにいたるまでバチッと仕切ってしまったという。260年にわたりこの国を平穏に運営してきた幕府の官僚たちの意地を感じるエピソードである。

変革の時、人々はヒーローを求める。新しいビジョンを示す人物を求める。しかし、どんな優秀な人物がどれほど素晴らしいビジョンを描こうとも、それを実現するためには組織が必要であり、最前線で実行していく力をもつ人材が不可欠なのだ。その人材の層にどれほどの厚みがあるかが、その社会の力、基礎体力ともいうべきものだろう。それがしっかりしていれば、どんな社会変動があっても乗り越えてゆけることを、幕臣たちの働きが教えてくれる。

明治政府の改革をささえた無名の幕臣たちを思いながら、「人」の力の大切さを軽んじるような世の中になりませんようにと願うのである。


『明治維新と幕臣 - 「ノンキャリア」の底力 (中公新書)』

作者:門松 秀樹
出版社:中央公論新社

内容紹介
幕府は本当に組織が劣化し、すぐれた人材を欠いていたのか? 行政実務に通じ、新政府に継続登用された中・下級官僚層に光を当てる。

PR
会場の水天宮 日本橋劇場(中央区日本橋公会堂)は久しぶりでした。市馬三の独演会で何度か訪れた場所だったので、脊髄反射的に人形町に来てました。チケット見て「あれ、日本橋だった?」と焦りました……会場名にちょっと混乱しましたが、やはり日本橋公会堂で、人形町から歩いて10分以内なので、結果オーライでした。
 菊之丞さんがマクラで説明されていましたが、もともと池袋演芸場でやっていた二人会、会場に100人も入らないので手狭に感じて日本橋劇場に移ってきて2回目だそうです。池袋演芸場では入りきらない人数とはいえ、この会場のキャパにしてはちょっと寂しい入りでした(;o;)……20人で一列の5列目まではかなりぎっしりでしたが、10列目ぐらいになると半分の入り……15列ほどまである1階席の後方は空席が目立つ感じ……2階席はたぶん空けていません。ざくっと計算して170人ちょっとという感じでしょうか。氷雨が降る、天候不順の日とはいえ、前売り先行の落語会なので、この顔付けなのに勿体無い……と思います。



子ほめ/市丸

初天神/市馬
 市馬さんが前座ネタの初天神をかけるのは新鮮です。金ちゃんが飴、団子、凧をせがむという長めの展開でした。

愛宕山/菊之丞
 昨年9月以来の菊之丞さんです。好きな落語家さんのひとりではあるのですが、正直、レパートリーが限られているように思い、間を空けておりました。
 愛宕山、江戸から旦那と幇間の一八が京都見物に行っての設定というところは、先代文楽が構築した江戸落語のスタイルをベースにしていて、古今亭志ん朝さんの語り口に一番影響を受けているのが丞さまスタイルでしょうか。華やかで軽くて時にはオーバーアクションのネタが菊之丞さんには合っていると思います。

中入り

紙入れ/菊之丞
 これまた菊之丞さんの得意ネタ。ニンに素晴らしく合っているのは間違いないのですが……ちょっと聴き過ぎたようです(汗)、またか感が避けられない……。

花見の仇討/市馬
 市馬さんの「花見の仇討」はライブで聴くの2回目ですが、季節の先取り(今日の午前中は東京で霰とか雪とかいってる寒さでしたよ……)だからこそ、余計に楽しかったです。
新選組局長の芹澤鴨「芹沢村出身にあらず」 行方の箱根さんが異説
 常陸国行方郡芹沢村(現在の行方市)出身が通説とされてきた新選組局長の芹澤鴨(せりざわかも)が、同村の出身でないとする説を、地元の郷土史研究家の箱根紀千也(きちや)さん(59)=行方市玉造甲=が唱えている。四月発行予定の研究論文誌「霊山(りょうぜん)歴史館紀要第二十二号」に掲載される見込みの原稿「新選組芹澤鴨と新見(にいのみ)錦と水戸藩浪士」で、詳しく論じている。
 箱根さんによると、新選組メンバーだった永倉新八が明治初期に書いた「浪士文久報国記事」で、「芹澤鴨は芹沢村浪人」とされて以来、鴨は芹沢村出身と言われ続けてきた。
 今回の論文で箱根さんは、文久三(一八六三)年に、京都の鴨を兄二人が訪ねたとされていることについて、「当時、芹沢村の芹澤家本家の中に鴨に面会に行ける人物がいたとは言えない」と指摘。「これに対し、水戸藩士である芹澤家分家には、当時京都にいた人物が三名いる」とした。そして、鴨が本家の三男であるとの説を、家系図や寺の記録の文字の分析などで否定し、鴨の「芹澤家分家出生説」の仮説を立てている。
 箱根さんは「仮説を立てたことに対し、研究者らから、仮説であるなら通説を信じると言われている。鴨が誰かはっきりしないうちは、新聞や雑誌に掲載するほどの内容でないとも言われている。しかし、百四十年もの間、芹沢村出身と言われてきたことが、変わろうとしている。この発見だけでも、すごいこと」と強調。「別の角度からすでに調査を行っており、他の研究家よりは早い時期に鴨が誰であるか明らかにできる」としている。

 「芹澤家分家出生説」なんですね。
2009年の暮れに突然『芝浜』が聴きたくなり、落語にはまって明けて2010年1月の志の輔らくご in PARCOを見たのが決定打で、それから年間40本以上は生落語を聴きに行くことになろうとは……。


落語協会の正月興行で今年から市馬さんがトリということで行って来ました。

漫才/ニックス

漫談/木久扇
 前半は喉頭癌を放射線治療した時の体験談(一回3分ぐらいだそうな)。後半はちょこっと彦六伝。

漫談/しん平
後半は「神様セット」かぶりものして客席に福を呼んでくれました。

?/小さん
 メモ取り忘れ。

ギター漫談/ぺぺ桜井

松山鏡/歌る多

?/円丈
 あれ、メモ取ったのに字が汚くて読めない……(^_^;)。

味噌豆/伯楽

奇術/ダーク広和

漫談/菊志ん
 浅草演芸ホールと池袋演芸場の客席の模様。特に満員の時の池袋、喬太郎さんトリでぎゅうぎゅう詰めだった時のことを思い出して大笑い。

男の井戸端会議/馬風

(中入り)

松づくし/歌る多他2名
 歌る多さん、美るくさん、日るねさんと3人で、見事に舞ってくれました。

浮世床/圓太郎
 『太閤記』のところ、本多と真柄の一騎打ち……一尺八寸の「いっしゃくう……」でサゲ。

?/歌司
 あれ、メモ取り忘れちゃった(^_^;)

ガーコン/川柳
 今日も美声です。

熊の皮/志ん橋

太神楽/仙三郎社中

片棒/市馬
 市馬さんトリを目指して来てよかった……何と初「片棒」に出会えました。ケチのお噺と聞いた瞬間にガッツポーズでした。
 特に銀二郎のところでは市馬さんの美声で神田まつりの出囃子をたっぷり、そして「お祭りマンボ」が出てきてワッショイでした。

えーと、この会のタイトルに突っ込んでいたのは白酒さんか。新春、花形はいいとして、若手はもうないだろう、とか。何せトリは落語協会会長となられた市馬さんだし、喬太郎さんは藤本義一さんみたいな銀髪だし、みたいな。
 でもこのメンバー(三三さん加えると、結局、年末の市馬落語集の常連ゲストになりますな)は安定して面白いからいいんですよ。喬太郎さんが古典新作どっちやっても中入り後に白酒さんが古典落語の雰囲気に戻してくれて、市馬さんでめでたくトリっていう展開で。


無精床/わん丈

時そば/一之輔
 地元ネタがおかしかった。一之輔さんが二つ目の頃、豊島園の近くのマンションに住んでいたということで、まだ一歳だった息子をベビーカーにのせてこの辺りに散歩にきていたこと。つつじの季節につつじの蜜を吸って「ミツバチ親子」と言われていた……はさすがにネタだろう。
 あと、ピンポンダッシュがいまだに子供達の遊びになるっていうのも。「小朝でも昇太でもない」落語家が住んでいるらしい、とピンポンダッシュの標的にされた(笑)。
 そして年末から続いているペヤングのネタ。ペヤングのソースでご飯炊いて食べる。そうするとソースのないペヤングがひとつできるから、また買ってくる……その連続で、一之輔さん最後の晩餐は……。
 やや押し気味で、二八そばのネタふって時そば。あまりマクラでどっかんどっかんやり過ぎて、ちょっと時間押していたかも知れません。

稲葉さんの大冒険/喬太郎
 年明けて30席ぐらいやっているけど古典はまだ3席だそうです。前から聞きたかった稲葉さんの大冒険に当たって嬉しいです。
 いつもの日、いつもの時間にいつもの通り通勤して、いつものように仕事して、いつものように家庭に帰ることが生活のやすらぎな稲葉さんが、風俗のティッシュをもらって始末しようとしたばかりに、大変な冒険に。
 犬のペスを連れて散歩している爺がいいキャラしている。

替わり目/白酒
 鈴本の初席千秋楽、今日は休んで白酒さんはこちらへ。でも代演の一之輔さんはここでトップバッター務めて鈴本へ?
 白酒さんの「替わり目」べろべろ亭主とバケべそ(でも実はちょっとした美人)奧さんが大好き。今日は奧さんがおでんを買いに行っている隙にうどん屋にお燗をつけさせて、本来の「替わり目」のサゲが出てくるところまでやってくれた。

妾馬/市馬
 新春なので相撲甚句をおまけにつけて、おめでたい「妾馬」。後半、八五郎が都々逸のみっつも歌って、ようよう。「外へ行くか、殿公」で八五郎出世なる「妾馬」。
人生二度目の歌舞伎見物は、張り込んで正月の特別番組に。運よく入手できた一等席で、正月らしい晴れ着のお客様もちらほら見かけて普段より一層華やいだ客席。
 風邪気味で、途中で咳き込んでしまってすみません……(; ;)。

松竹創業120周年壽初春大歌舞伎
一、番町皿屋敷(ばんちょうさらやしき)
青山播磨 吉右衛門
腰元お菊 芝 雀
並木長吉 桂 三
奴権次 吉之助
柴田十太夫 橘三郎
放駒四郎兵衛 染五郎
渋川後家真弓 東 蔵

◆愛に命をかけた男女の潔さ
 旗本の青山播磨は、犬猿の仲の幡随院長兵衛の子分たちと出くわし、喧嘩を始めたところ、伯母の真弓が現れ諌(いさ)めます。相変わらず喧嘩三昧の播磨に、真弓は以前に話した縁談を勧めますが、かねてから腰元のお菊と恋仲なので、その気はまったくありません。しかし、お菊は縁談の噂に気をもみ、播磨の本心が気になり落ち着かない様子。そこで播磨の自分への思いを確かめるために、お菊は青山家の家宝の皿をわざと割ってしまいます。それに気づいた播磨は…。
 旗本と腰元の身分を越えた純愛ゆえの悲劇を描いた、岡本綺堂の代表作のひとつです。

 時代を明暦にし、旗本奴の水野十郎左衛門と町奴の幡随院長兵衛が男伊達とかぶき者を競った時代。青山播磨は、水野十郎左衛門の白柄組に属している。

 愛する男を信じたくても信じきれなかった女。
 惚れた女に信じてもらえなかった男。
 
 お菊の心の疑いは晴れても、最愛の女に疑われた自分の無念は晴れない、と、お菊を斬り殺す播磨。
二、女暫(おんなしばらく)
巴御前 玉三郎
蒲冠者範頼 歌 六
清水冠者義高 錦之助
女鯰若菜 七之助
茶後見 團 子
手塚太郎 弘太郎
紅梅姫 梅 丸
家老根井行親 橘三郎
局唐糸 笑 也
成田五郎 男女蔵
轟坊震斎 又五郎
舞台番辰次 吉右衛門

◆女方が見せる荒事の様式美
 平家追討に功をあげ、今や権勢を誇る蒲冠者範頼は、大勢の家臣を引き連れて北野天満宮で宴を開いています。家来たちが口々に祝儀を申し立てる中、居合わせた清水冠者義高は、傲慢な態度を取る範頼を諌(いさ)めますが、激怒した範頼は成田五郎らに命じ、義高一行の命を奪おうとします。そのとき、「しばらく」と声がかかり現れたのは巴御前。女ながら武勇に優れた巴御前は、義高たちの危機を救おうと範頼に意見をし…。
 荒事の『暫』を女方が演じる趣向で、歌舞伎ならではの演出として、幕外での巴御前と舞台番のやりとりも華やかな舞台をご堪能ください。

 七之助さんの女鯰若菜が美しいなぁ。

 そして、玉三郎様の巴御前。スーパー美しくて強い。けど、舞台番(吉右衛門さんだ〜)に六方を教わって踏む時の力強さ、「おお恥ずかし」と照れるところの可愛らしさ。
三、猿翁十種の内 黒塚(くろづか)
   
老女岩手実は安達原の鬼女 猿之助
山伏大和坊 門之助
強力太郎吾 寿 猿
山伏讃岐坊 男女蔵
阿闍梨祐慶 勘九郎

◆自らの罪業に苦しむ老女が現す本性
 芒(すすき)の生い茂る奥州安達原。日が暮れる中、諸国行脚の途中の阿闍梨祐慶一行は、岩手という老女の家に一夜の宿を請います。糸繰り唄を唄い、一行をもてなす岩手は、自らの不幸な身の上を語り始めると、祐慶の言葉に心が救われます。岩手は一行に奥の一間を決して見てはならないと忠告し、薪を取りに出かけます。しかし、強力(ごうりき)が一間を覗いたと知った岩手は豹変、安達原の鬼女の本性を現し、祐慶たちに襲いかかり…。
 古典の中に近代の技法を取り入れた舞踊劇にご期待ください。

 今日の圧巻は猿之助さんの新舞踊。第二景、三日月の冴え渡るススキの原で、阿闍梨から仏の道を説かれ心の曇りが晴れた岩手が、童女の頃を忍び月に戯れて無心に踊る姿に、息を詰めた。

 そして阿闍梨祐慶、勘九郎さん凛々しくて清々しい。

 感動を言葉に表したくてもなかなかいい言葉が見つからないもどかしさ。
落語ブログ化しているのを自覚しつつ、新年ぐらい幕末関係のニュースとりまとめを。旧幕府側の記事多めなのが当ブログらしいところです。

岩手
宮古港400年、歩み発信へ 「新撰組ゆかり」PRも
 岩手県内で最も歴史の古い港として発展してきた宮古市の宮古港は2015年、開港400周年を迎えた。1611(慶長16)年の慶長津波の被害から復興するため、1615(元和元)年に2代盛岡藩主・南部利直公によって藩港として定められ、漁業や交易を中心に発展してきた。400年後の今、くしくも東日本大震災からの復興に歩む姿と重なる。今春から数々の記念事業を展開し、本県沿岸の拠点都市として、海の恩恵を生かしたまちづくりを全国に発信する。

 宮古港400年の歴史の中には、新たな時代をひらく命がけの戦いがあった。1869(明治2)年、新政府軍と旧幕府軍が激突した「宮古港海戦」。145年余りの時を経て、宮古市では有志団体「宮古海戦組」が宮古の知名度向上や観光振興につなげようと、当時を思わせるいでたちでPR活動を展開している。

 海戦では旧幕府軍が新政府軍の軍艦「甲鉄」奪取を狙ったが敗北した。旧幕府軍には新撰組(しんせんぐみ)の土方歳三が参戦したとされ、全国に根強くいる新撰組ファンにとって同港は名所の一つだ。

 同団体は400周年に合わせ、今年9月19、20の両日、新撰組ゆかりの地で毎年開く「全国新選組サミット」を宮古に誘致。宮古秋まつりのパレードへの参加やミスター土方コンテストなどを企画する。

【写真=宮古港開港400周年をPRする宮古海戦組のメンバー。軍服を着て市内外のイベントに参加している】

福島
記念イベント続々 鶴ヶ城天守閣50周年
 会津若松市のシンボル、鶴ケ城の天守閣がことし、再建から50周年を迎え、市は記念行事の実行委員会を設け、節目の年を祝うイベントを企画、誘客を図る。
 鶴ケ城は戊辰戦争で戦場となり、天守閣は1874年に取り壊された。戦後、市民の要望を受け、1965年9月に再建された。
 市は50周年を記念し、総工費1億2000万円をかけ、内装の一新に取り組む。天守閣内の展示を充実させるほか、夜間照明を発光ダイオード(LED)に替え、4月1日に改装オープンする。
 次世代へ再建の意義を伝えようと、9月19日には市内の幼稚園児らを招いてイベントを企画、記念講演会やトークショーを開催する。
 4月から6月に福島県内で「ディスティネーションキャンペーン」が実施されるのに合わせ、地域団体の多彩なイベントを展開。各種出店が並ぶ「會津十楽(あいづじゅうらく)」を土日祝日に開く。会津青年会議所は5月22日、全国城下町シンポジウムを企画する。
 市観光課は、記念イヤーを盛り上げるため、公募でロゴマークも作成、市民や企業に活用を呼び掛けている。

東京
東京・丸の内で、英国人も愛した幕末明治のスター絵師・暁斎と弟子コンドルの展覧会
2015年6月27日(土)から9月6日(日)までの期間、展覧会「画鬼・暁斎-KYOSAI 幕末明治のスター絵師と弟子コンドル」が、東京・丸の内の三菱一号館美術館にて開催される。

河鍋暁斎(かわなべ きょうさい、1831〜1889年)は、幕末に生まれ、6歳で浮世絵師歌川国芳に入門、9歳で狩野派に転じてその正統的な修業を終え、幕末明治に絶大な人気を博した絵師のひとり。一方、三菱一号館を設計した英国人建築家ジョサイア・コンドル(Josiah Conder、1852〜1920年)は、日本美術愛好家であり、暁斎に弟子入りして絵を学び、師の作品を海外に紹介。本展では、2人の交流やコンドルの業績と、彼の敬愛する暁斎のユーモラスで型破りな画業を、展示替えを行いながら、国内外の名品約120点を通して紹介する。

みどころのひとつは、暁斎とコンドルの師弟愛。2人の交流はとても親密なもので、暁斎の《日光地 取絵巻》をみると、様々な名所旧跡を回り、何度か写生旅行にも出かけるほどだったという。屏風絵《大和美人図屏風》は、弟子のコンドルが自国に持ち帰ることを想定し、暁斎が「およそ6ヶ月もの間精力を集中して描き上げたもの」(コンドル著「河鍋暁斎」)。背景の屏風には、日本の稲作の様子が丁寧に描かれ、漆器や畳など日本独特の文化が余すところなく描き込まれている。

また、狩野派を引き継ぎながら、浮世絵や江戸期の諸派にも取り込み、「画鬼」と称された暁斎の画業を展示。2歳ですでに蛙を写生するなど、絵に早熟な才能を示した周三郎(暁斎の幼名)は、6歳で浮世絵師の歌川国芳に弟子入り。その後2年ほどで国芳の許を離れるが、西洋画に至るまで貪欲にとりこんで旺盛に制作する態度、写生の重視、絵師としての反骨の姿勢などが垣間見れる。
さらに、現在はニューヨークのメトロポリタン美術館に所蔵されている、英国人が愛した暁斎の作品がおよそ100年ぶりに里帰り。58歳で亡くなる2年程前に描かれたものと推定されている作品が展示され、晩年を迎えた暁斎の卓越した筆さばきと大胆な構図をみることができる。


河鍋暁斎《うずくまる猿》明治21(1881)年頃/
メトロポリタン美術館蔵
©Metropolitan Museum of Art
【開催概要】
画鬼・暁斎-KYOSAI 幕末明治のスター絵師と弟子コンドル
会期:2015年6月27日(土)〜9月6日(日) ※一部展示替えあり。前期は6月27日〜8月2日、後期は8月4日〜9月6日。
開館時間:10:00〜18:00(祝日・振替休日除く金曜のみ20:00まで) ※入館は閉館の30分前まで。
休館日:月曜休館(但し、祝日の場合は開館/8月31日は18時まで開館)
会 場:三菱一号館美術館
住所:東京都千代田区丸の内2-6-2
入 館 料:当日券 一般 1,500円、 高校・大学生 1,000円、小・中学生 500円
前売券 一般 1,300円 ※大学生以下の設定はない。
※前売券以下の期間、以下の場所にて発売する。
・2015年2月7日(土)〜6月26日(金)
ローソンチケット(34200)、チケットぴあ(766-491)、セブンチケット(034-467)、イープラス、ちけっとぽーと 関東各店、三菱一号館美術館チケット購入サイトWEBKET(展覧会ウェブサイトからアクセス)
・2015年2月7日(土)〜5月24日(日)
Store1894(三菱一号館美術館内・休業日は美術館に準ずる)
※ちけっとぽーと、Store1894では絵柄入りのチケットを販売。
※詳細は展覧会サイトにて。


コラム
 この記事、面白かったです。
明治維新の成功を違う角度から見てみよう維新ヒーローの陰に旧幕臣がいた!
 今年の大河ドラマは『花燃ゆ』。吉田松陰の妹・文を主人公に、松蔭はもちろん、久坂玄瑞や高杉晋作など長州の志士たちが、その生き様をたっぷりと魅せてくれるであろう。大河ドラマで幕末物は当たらないなどというジンクスはいつのことやら、『篤姫』『龍馬伝』『八重の桜』、そして今回の『花燃ゆ』と続くのも、近代日本の立ち上がりを振り返り、このところの閉塞感を打破するヒントを得たいという空気があるのだろうか。

ちなみに長州が舞台となるのは1977年の『花神』以来、38年ぶりだそうである。明治維新以来、現総理も含めてもっとも多くの総理大臣を輩出した地である。地元の皆さんはさぞかし期待しているに違いない。

覆される幕末のイメージ

さて、となればまた維新と「志士」の本はたくさん出版されることだろうと思うのだが、今回ご紹介する本は維新と「幕臣」の本である。

旧態依然とした幕府と、保身に汲々(きゅうきゅう)とするのみで時代の流れに取り残された幕臣。それに対して進取の気風に富み時代を読み、日本を近代化すべく戦った薩長をはじめとする西南雄藩と志士たち。しかしこうしたイメージは修正されつつある。

たとえば戊辰戦争における鳥羽・伏見の戦いのイメージはどうだろう。3分の1の兵力しか持たなかった倒幕軍に敗れたことから「幕府軍は数ばかりで、装備は古くさい鎧兜」だったのかと思いきや。実際には洋式装備の歩兵隊が八個連隊・9800人もおり、フランス軍事顧問団の指導を受けた精鋭部隊も擁していたという。

海軍ともなれば幕府軍が圧倒的で、主力艦の「開陽丸」も、当時、世界最大級の軍艦だったし装備も極めて優秀だった。薩長含め、対抗できる戦力は国内には存在しなかったのである。

page: 2

幕府も時代の変化には充分に危機感をもち、軍制や税制、そのほかさまざまな改革を少しずつ積み重ねてはいた。そもそも開国・近代化を目指したのは幕府の方が先だったではないか。だが残念ながら幕府はガバナンスに失敗し、蓄えた優秀かつ大切なリソースも生かしきれず、明治維新となる。

維新時に秩序が保たれていたことは、幕府のおかげ

では幕府がそれまでに積み重ねたものはすべて無駄になったのかというと、実はそうではない、というのが本書『明治維新と幕臣』のテーマである。

明治維新は非常に大きな政治変動ゆえに、その変化ばかりに目を奪われがちだが、「いかにして統治したか」という行政の面からみると、江戸から明治への連続性が見えてくるというのである。

“明治維新に際して、戊辰戦争において戦地となった場所は例外として、全国津々浦々が混乱を極め、略奪や暴行が横行したという事態に至っていないということは、少なくとも社会生活を維持できるような秩序が保たれていたということになる。つまり、行政が機能しない状態にはほとんどならなかったということになろう”

たとえば大災害のときなどでも、日本人は秩序正しくふるまうことが折々話題になるが、道徳心もさることながら、行政に対する信頼感が実はとても大きいのである。行政がきっと対応する、援助がくると信じられるからこそ、暴動や略奪にはならない。

天下の体制ががらりと変わっても、幕末の人々が落ち着いていられたのも、日常生活に直結する行政が機能し続けていたからなのである。

新政府による旧幕臣の登用というと、勝海舟や榎本武揚、渋沢栄一などの大物の名前を思い浮かべるが、ここで頑張ったのは旗本や御家人などの幕臣たちであった。今風にいえばノンキャリの官僚たちである。

薩長土肥や越前・尾張などの雄藩は、藩の規模、いわば地方自治の規模での統治の経験しかなく、全国規模の統治は未経験だった。そのノウハウや人材を持っていたのは幕府のみだったのだ。

page: 3

明治政府による旧幕臣の登用については「国難にあたり、敵味方の分け隔てなく優秀な人材を登用した明治政府の度量」という見方もあるが、実情は徳川400万石の幕領を統治する行政組織をそのまま活用しなければどうにも事が動かない、というのが実情だったようだ。

“見方によっては皮肉ではあるが、明治政府は、江戸幕府という前政権が有効に機能していたからこそ、全国政権としての体裁を為すことができたともいえよう”

「岩倉使節団」は、欧米の制度や法制を視察・研究するために派遣された専門官のほかに、実務にあたる書記官を多数含んでいたが、書記官の多くが幕末期の外交交渉にあたった旧幕臣であったという。それゆえに彼らは、使節団における地位は低くとも知識や経験は豊富だった。

現実の外交交渉の場ではかれらに頼らざるをえず、岩倉さえも頭が上がらない始末。しまいにはホテルの部屋割りに至るまでバチッと仕切ってしまったという。260年にわたりこの国を平穏に運営してきた幕府の官僚たちの意地を感じるエピソードである。

いつの時代も組織力が重要

変革の時、人々はヒーローを求める。新しいビジョンを示す人物を求める。しかし、どんな優秀な人物がどれほどすばらしいビジョンを描こうとも、それを実現するためには組織が必要であり、最前線で実行していく力をもつ人材が不可欠なのだ。

その人材の層にどれほどの厚みがあるかが、その社会の力、基礎体力ともいうべきものだろう。それがしっかりしていれば、どんな社会変動があっても乗り越えてゆけることを、幕臣たちの働きが教えてくれる。

明治政府の改革を支えた無名の幕臣たちを思いながら、「人」の力の大切さを軽んじるような世の中になりませんようにと願うのである。

【幕末女傑烈伝】要人の愛人となり、密偵活動した中西君尾
 2015年NHK大河ドラマ「花燃ゆ」のヒロインで、吉田松陰の妹・杉文。文はいま、激動の時代をしたたかに生き抜いた女性として注目されているが、彼女の他にも、幕末から明治維新にかけて逞しく生きた女傑はいる! 今回は、中西君尾の波瀾万丈ヒストリーを追う!!

中西君尾(1844~1918年)は、京都府船井郡八木町に生まれた。京都市街の西側を流れる桂川を20kmほど上流にいったところにある山間の町である。父は武士だったが殺害され、家が没落。彼女は19歳で祇園の芸者となる。

座敷に出ていた「魚品」というお茶屋には、高杉晋作が長州の志士たちを連れてよくやって来た。あるとき、高杉に連れられて来た井上馨は、君尾を見て一目惚れ。やがて、2人は愛人関係になる。

この店には、安政の大獄の際、井伊直弼の指示で多くの志士たちを弾圧した島田左近も飲みに来ていた。島田も君尾を口説いていたが、彼女はなびかなかった。

それを聞いた井上は、長州藩の同志を彼女のもとに行かせ、「島田と肉体関係を結び、密偵になってほしい」と頼んだ。その頼みを聞いた彼女は、島田の愛人となり、その動向を長州藩士に伝達。島田はその後、尊皇攘夷派の過激派で構成されていた天誅組に殺された。

また、新撰組の近藤勇も君尾を口説いた。彼女が「あなたが天子様の味方をされるなら」と答えると、近藤は「それはできぬ」と答え、あっさり引き下がったという。

1863年(文久3)5月、井上馨は伊藤博文ら5人でロンドンに留学。その間、長州藩の志士で松陰の弟子でもある品川弥二郎の愛人になり、子供を生んだ。

彼女は明治時代になっても芸者を続け、明治政府の高官になったかつての志士たちが遊びに来るなどの交流が続いた。もし、島田左近や近藤勇など幕府側の人間の愛人になり、志士たちの情報を幕府側に漏らしていたとしたら、彼女の運命も変わっていたかもしれない。

【幕末女傑烈伝】50歳を過ぎて志士たちの連絡役に…松尾多勢子
2015年NHK大河ドラマ「花燃ゆ」のヒロインで、吉田松陰の妹・杉文。文はいま、激動の時代をしたたかに生き抜いた女性として注目されているが、彼女の他にも、幕末から明治維新にかけて逞しく生きた女傑はいる! 今回は、松尾多勢子の波瀾万丈ヒストリーを追う!!


信濃伊那谷の豊かな農家に生まれ、豪農に嫁いだ松尾多勢子(1811~1894年)。農家の主婦として4男3女を産み育てるいっぽうで、もともと学問が好きで、和歌や平田学派の国学の勉強も続けた。

国学というのは平田篤胤が提唱したもので、王政復古、つまり天皇を中心とした政治にすべきと主張。尊王の志士たちの考えにも近い。京都では、その志士たちが華々しい働きをしているとの噂が田舎の伊那谷にも聞こえ、彼女も京都に行きたいと願っていた。

子育てを終え、50歳を過ぎた彼女は一大決心、1862年(文久2)に京都の染物店に勤める若者に同行してもらい、京都に上る。そして、平田学派の薩摩藩士や長州藩士と交流するようになった。

吉田松陰門下生の久坂玄瑞(杉文の最初の夫)や、品川弥二郎(のちの明治政府の内相)、楫取素彦(杉文の2番目の夫)などとも親しく交流、志士たちの密談の場にも同席。50歳過ぎの田舎の農婦っぽい彼女は、幕府側にも怪しまれないということで、志士たちの連絡役を務めるようになった。倒幕をひそかに狙う公家の岩倉具視(のち明治の元勲)の知遇も得る。

しかし京都は、日増しに物騒になってきた。彼女も幕府側に目をつけられ、長州藩邸にかくまわれたりしながら生きる日々が続く。文久3年、心配した息子たちが京都に出てきて、彼女を田舎に連れて帰った。

その後、彼女は伊那谷で長寿をまっとうした。彼女は、やる気さえあれば50歳を過ぎた女性でも好きなことができる、という見本ではないだろうか。

【幕末女傑烈伝】高杉晋作の最期を看取った正妻・高杉雅子
2015年NHK大河ドラマ「花燃ゆ」のヒロインで、吉田松陰の妹・杉文。文はいま、激動の時代をしたたかに生き抜いた女性として注目されているが、彼女の他にも、幕末から明治維新にかけて逞しく生きた女傑はいる! 今回は、高杉雅子の波瀾万丈ヒストリーを追う!!


長州藩士の娘として萩に生まれた高杉雅子(1845~1922年)。父は山口町奉行という、藩内では身分の高い武士である。

1860年、雅子が16歳のとき、20歳の高杉晋作と結婚。新居は萩に構え、4年後には二人の間に息子も生まれた。ところが、高杉は幕末の政治活動に熱中し、家を飛び出したきり、めったに帰ってこない。

じつは、雅子に息子が生まれる頃、高杉は愛人のおうのと下関で暮らしていたのだ。萩から60kmほど離れた下関で、夫が愛人と暮らしていることは雅子の耳にも入っていたが、取り乱したりせず、一人息子を育てながらじっと家を守っていた。

しかし、夫が結核で重病だと聞き、下関まで出かけた。そこで初めて、夫の愛人・おうのと顔を合わせたのである。雅子は、おうのに代わり、自分が高杉の看病をすることにした。そして1867年(慶応3)、高杉の死を看取った。

雅子は1871年(明治4)、息子の教育のため、東京に出て麻布に住んだ。その後は、死ぬまでここで暮らしている。この間も、おうのとの交流は続いていた。おうのは雅子の東京の家を訪ね、泊まったりしたという。

高杉の思い出を語り合ったのだろうか。一人の天才的な男に関わった二人の女性。そのニ人が語り合う姿を、高杉は天国からどんな思いで眺めたのだろうか。

【幕末女傑烈伝】裸のまま飛び出し、坂本龍馬の窮地を救った楢崎龍
2015年NHK大河ドラマ「花燃ゆ」のヒロインで、吉田松陰の妹・杉文。文はいま、激動の時代をしたたかに生き抜いた女性として注目されているが、彼女の他にも、幕末から明治維新にかけて逞しく生きた女傑たちがいる! 今回は、楢崎龍の波瀾万丈ヒストリーを追う!!


長州藩士の流れを汲む医師の娘として京都に生まれた楢崎龍(ならざき りょう 1841~1906年)。裕福な家庭で、生け花、香道、茶道などを習って育つ。

しかし、父が安政の大獄(1858年)で牢に入れられ、その後、赦免になったものの、牢で受けた拷問のため、1962年に死亡。一家はたちまち困窮した。

母は方広寺大仏殿(東山区)の近くの、土佐尊王攘夷派が集まる隠れ家で炊事の仕事、21歳の龍も七条の旅館で働いた。

その母の縁で、坂本龍馬と龍は知り合う。龍馬に名前を聞かれた龍が自分の名前を告げると、「わしと同じ名だな」と龍馬は微笑んだという。

龍馬は、龍を伏見の寺田屋の女将・登勢に預けた。ある晩、夜中の3時頃、龍が風呂に入っていると、外で物音。刺客が龍馬を殺しに来た、とピンときた龍は、裸のまま2階に駆け上がり、寝ていた龍馬を起こした。龍の機転のおかげで、龍馬は傷を負いつつも逃げのびた。

その後、龍馬と龍は結婚、西郷隆盛の勧めで鹿児島まで船旅をし、温泉につかったりして50日間ほど過ごした。

1867年、京都河原町の近江屋で龍馬が暗殺されると、龍は一時的に高知の龍馬の実家に身を寄せる。

その後、東京に出て、明治8年に横浜で商人と再婚。晩年は酒浸りとなり、酔うと「わたしゃ、龍馬の妻だ」と呂律の回らない口調で言っていたという。強烈な個性を持った龍馬という男に惚れたため、一生忘れられなかったのだろう。これも女の業か。 

【幕末女傑烈伝】拷問されても口を割らず!桂小五郎の妻・木戸松子
2015年NHK大河ドラマ「花燃ゆ」のヒロインで、吉田松陰の妹・杉文。文はいま、激動の時代をしたたかに生き抜いた女性として注目されているが、彼女の他にも、幕末から明治維新にかけて逞しく生きた女傑たちがいる! 今回は、木戸松子の波瀾万丈ヒストリーを追う!!

木戸松子(1843~1886年)は若狭小浜藩士の家に生まれたが、幼い頃に一家は離散。彼女は9歳で舞妓となり、14歳で京都の花街・三本木の芸者になった。

笛と踊りがうまく、美人で機転もきいた彼女は売れっ子に。彼女が籍を置いていた「吉田屋」には、吉田松陰の門下生・桂小五郎(明治になって木戸孝允に改名)も通い、京都での活動の拠点にするようになる。桂と松子は愛人関係となり、桂の後輩の伊藤博文の働きかけで松子は桂に身請けされた。

ところが、1863年に起きた「8・18の政変」で、長州勢は会津・薩摩連合勢力の手により、京都から追放された。桂は京都に潜伏し、情報収集につとめた。松子は同志に秘密の手紙を届けたり、密会の手引きを引き受けたりした。

それが新撰組にばれ、捕らえられて壬生の屯所に連行された。襦袢1枚にされ、青竹で叩かれ、桂の潜伏先を吐くように責められた。しかし、彼女は口を割らなかった。明治2年、桂は明治政府の高官となり、松子もその夫人として東京で暮らした。こんな女性に惚れられた男は果報者だ。

【幕末女傑烈伝】かの有名な「寺田屋」を切り盛りした寺田屋登勢
2015年NHK大河ドラマ「花燃ゆ」のヒロインで、吉田松陰の妹・杉文。文はいま、激動の時代をしたたかに生き抜いた女性として注目されているが、彼女の他にも、幕末から明治維新にかけて逞しく生きた女傑たちがいる! 今回は、寺田屋登勢の波瀾万丈ヒストリーを追う!!


寺田屋登勢(てらだやとせ 1829~1877年)は大津の米問屋の娘に生まれ、18歳で京都伏見の船宿「寺田屋」に嫁いだ。20人からの奉公人を抱える船宿だったものの、亭主はおとなしいが、どうしようもない遊び人。おまけに、口うるさい姑や小姑もいて、登勢は苦労を重ねたのである。

船宿の経営は、登勢に任された。彼女は女将としての才能を発揮。姉御肌でテキパキと働き、奉公人にも慕われ、客も増えて繁盛した。

寺田屋は薩摩藩士たちの定宿でもある。1862年(文久2)には、薩摩藩士同士が尊攘派と公武合体派に分裂し、寺田屋で殺傷事件を起こして9人が死亡した(寺田屋騒動)。登勢はその9人の位牌を寺田屋の仏壇に置き、供養した。

1866年(慶応2)には、薩長同盟締結を見届けるべく、京都に来た坂本龍馬が寺田屋に逗留。そこへ、午前3時ごろ、伏見奉行所の役人50人あまりが龍馬を捕らえるため、寺田屋にやってきた。龍馬の愛人・お龍の機転で、龍馬はかろうじて逃げるという事件も起きている。

龍馬は登勢のことを「おかあ」と慕い、勝海舟も彼女を「頭がいい」と褒めていたという。現代にも、こういう女性がいるといいのだが……。

【幕末女傑烈伝】井伊直弼の愛人&スパイとして暗躍・村山たか
2015年NHK大河ドラマ「花燃ゆ」のヒロインで、吉田松陰の妹・杉文。文はいま、激動の時代をしたたかに生き抜いた女性として注目されているが、彼女の他にも、幕末から明治維新にかけて逞しく生きた女傑たちがいる! 今回は、村山たかの波瀾万丈ヒストリーを追う!!


村山たか(1809~1876年)は彦根の寺の娘に生まれた。幼少より和歌、三味線、茶道、華道を学び、18歳で彦根藩主・井伊直亮の侍女となるが、20歳で京都に出て、祇園で芸妓となった。

金閣寺の僧に身請けされ、男児・帯刀を生んだ。その後、彦根に戻り、6歳下の井伊直弼と知り合い、愛人になる。直弼は部屋住みの身だったが、藩主の跡継ぎに決まっていた兄が1846年に急死したため、直弼が藩主を継ぐことになり、江戸藩邸に呼ばれた。

たかと直弼は別れざるを得なくなったが、今度は直弼の家来・長野主膳の妾となる。

1850年(嘉永3)に直弼は彦根藩主となり、幕政にも参加。世の中は、開国派や尊王攘夷派が入り乱れ争っていた。直弼は長野主膳に命じて、京都の志士たちの動向を探らせた。主膳の手足となって動いたのが、たかだったのである。その情報は直弼に送られ、安政の大獄の判断材料の一つとなった。

1862年に直弼が桜田門外で暗殺されると、主膳と、たかの息子・帯刀は反直弼派に捕まり、斬首。彼女は三条河原で柱に縛りつけられ、3日3晩飲まず食わずの晒し者に。その後、尼僧に助けられ、京都の金福寺で余生を送った。男のためなら危険をかえりみない、しぶとくて強い女性の手本だ。

【幕末女傑烈伝】坂本龍馬や大隈重信も頼りにした大浦慶
2015年NHK大河ドラマ「花燃ゆ」のヒロインで、吉田松陰の妹・杉文。文はいま、激動の時代をしたたかに生き抜いた女性として注目されているが、彼女の他にも、幕末から明治維新にかけて逞しく生きた女傑はいる! 今回は、大浦慶の波瀾万丈ヒストリーを追う!!

大浦慶(1828~1884年)は、長崎油屋町の油商の家に生まれた。老舗の商家だったが、1843年(天保14)、慶が15歳のとき、近辺の家500戸あまりが焼ける火事があり、慶の家も被害に遭う。慶は傾いた家業を再興させる決心をする。

翌年、長崎に蘭学の勉強に来ていた天草の庄屋の息子と結婚するが、この男が気に入らず、祝言の翌日には追い出してしまう。以後、死ぬまで独身を通す。

慶は1856年(安政3)から、イギリス人の貿易商を通じて日本茶の輸出を始めたところ、これが当たった。以後、10年間は大いに儲けた。

慶より7歳下の坂本龍馬が慶の屋敷を訪れ、300両の資金援助を頼んだこともある。慶は引き受けた。陸奥宗光、大隈重信、松方正義なども、慶の屋敷に居候して世話になったという。


【幕末女傑烈伝】大河ドラマ「花燃ゆ」の主人公・杉文
2015年NHK大河ドラマ「花燃ゆ」のヒロインで、吉田松陰の妹・杉文。文はいま、激動の時代をしたたかに生き抜いた女性として注目されているが、彼女の他にも、幕末から明治維新にかけて逞しく生きた女傑たちがいる! 今回は、杉文の波瀾万丈ヒストリーを追う!!

吉田松陰の妹・杉文。2015年NHK大河ドラマ「花燃ゆ」(主演:井上真央)のヒロインとしてもクローズアップされている文は、1843年(天保14年)、長州藩主・毛利家に仕える下級武士の家に、6人兄弟の4女として生まれた。

13歳上の兄が吉田松陰。松陰が松下村塾で講義を始めると、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋など、のちに活躍する有能な人材が集まった。彼女は塾生たちの世話をして「女幹事」と呼ばれ、親しまれたのである。

そして、塾生のひとりが久坂玄瑞で、松陰は久坂の才能に惚れ込み、文との結婚を勧めた。文15歳、久坂18歳のときだ。

結婚した2人が落ち着いて暮らしたのは、新婚からわずか3カ月ほど。久坂は松陰が唱える尊王攘夷運動にのめり込み、京都や江戸などを飛び回った。

1859年(安政6年)に、兄の松陰が安政の大獄で斬首。5年後には夫の久坂が禁門の変で自決。文は22歳で未亡人となってしまう。その後、毛利家に奉公し、子供の教育係などを勤めた。

1883年(明治16年)、41歳の文は楫取素彦(55)と再婚した。文の姉・寿の夫だった人物で、姉が病死して再婚した形である。楫取は群馬県令(知事)で、のちに貴族院議員や男爵になっている。

文は華族夫人として夫を支えて過ごし、1921年(大正10年)に山口県で没した。そんな彼女はいま、幕末から明治維新に至る激動の時代をしたたかに生き抜いた女性として、注目を浴びている。

 今年の大河ドラマ『花燃ゆ』はやっぱり「幕末版 花より男子」って印象……たぶん途中で脱落すると思います。。
たまたまチラシに入っていて、会場が地元に近いし、ゲストも含めてお買い得な落語会(前売り1800円、当日2000円)だと思いました。私のような初めてのお客さんも多かったようで、「今日なんでこんなに多いの?」と常連さん。
 そりゃ、この木戸銭で一之輔さんと正楽さんがゲストだからではないでしょうか。

 主催は、大田区出身の3人。
三遊亭歌太郎 歌武蔵門下。山王出身。
三遊亭時松 金時門下。中央出身。
柳亭市江 市馬門下。石川台出身。

弥次郎/市助
 市馬さん門下の前座さんも一席。北海道に旅して何もかもが凍るとか、恐山で山賊に遭うとか、罪のない法螺話をぱぁぱぁ。

初天神/歌太郎
 明るくてわかりやすい芸風ですね。歌武蔵師匠門下だから技術もしっかりしていると思います。
 アメ、団子で、蜜にポッチャンでサゲ。

笠碁/一之輔
 客席で、大きな声で高座の噺家さんと「会話」するおばちゃんがいたんですよ。私もひとりで自分の部屋にいると、うっかりテレビ画面と「会話」しちゃうんですが、そのおばちゃんはひとり大声で目立ってました。一之輔さんは「お母さん、いいタイミングで合いの手入れていただいてありがとうございます。ただ、ここからお話はこちらが致しますんでお任せください」とやんわり引き取ってました。さすが真打ちともなると客あしらいが上手です。
 ここまであまりどっと笑う場面がなかったのですが、マクラの東武野田線=アーバンパークラインねたでどっと笑わせました。
 お子さんが碁将棋に凝っているという話題から「笠碁」へ。
 ゲストで中入り前で、しかも他の出演者はネタ出している状態で一之輔さんがどんなネタをかけるか、わくわくしていたのだけど、やっぱ一之輔さんらしい「笠碁」でした。
 ひとつは、一之輔さんなりの工夫。喧嘩して帰って行った碁友Bがタバコ入れを忘れた設定にして、碁友Bもそれを取りに来るという口実で碁友A宅を立ち寄ることができるというもの。もうひとつは、ABが子供のころ、Bと遊んでいたAがBを空き地で待っていて雨に降られて風邪を引いて寝込んでいたという設定。これがオチに聞いてくる。
 一般的なサゲ「笠から碁盤に雨のしずくが」だけではわかりにくいので、雨漏りかと思ってみればBが笠を外してなかったという説明を加え、それだとサゲにならないので上記のエピソードにかけたサゲにしてふたりの友情をくっきり。

蒟蒻問答/時松
 大好きな噺のひとつ。これはライブかビデオで見ないとオチが楽しめないネタ。
 権助の歌が入るバージョンは初めて。

紙切り/正楽
 羽根付き、相合い傘の後はリクエストに応じて。かえるの餅つき、初日の出、出初め式、七福神。全部目出度いお題でした。

禁酒番屋/市江
 市馬さん門下の市江さんも二つ目でもう五年。声が太いので武家が多く登場するこのネタは、ニンに合っていますね。
 登場人物が多く、また番屋の当番がだんだん酔っ払ってくる様子の描き分けとか、結構なトリねたでしたが、堂々としてました。酒が入って酔ってくると頬に赤身がさすのはどうやったらできるのでしょうか。

 新春らしい落語会を満喫しました。
生の談志師匠を最後に見たのは2010年の年忘れ市馬落語集だったでしょうか……落語はかけられないけど昭和の歌謡曲が好きな家元、市馬さんの年末の落語でトークに出演して楽しそうでした。確か人形町だったと思います。
 今は1200人を収容する新宿文化センターで一晩の昭和歌謡曲祭りとなりました。手元の記録だと昨年に続いて2年目の経験しかないようですが、なぜか毎年見に来ているような気がします。。



厄払い/市馬
 今日一番の主役が前座ポジションで高座にあがって、短い噺でそそくさとサゲ。
 ライブで見聞きしたのは初めてかも知れない。市馬さんの与太郎がかわいい。

時そば/一之輔
 ペヤング焼きそばの製造中止ねたで爆笑を誘う一之輔。ペヤングのソースを炊き込みご飯に使ってしまったばかりに、延々と食べ継ぎ、いまわの際のペヤングに麺があってもソースの粉がない(汗)。
 そして、一之輔さんで聴く時そば。ひょっとして初? 麺をすする音を聞いただけでも楽しい。

釜どろ/三三
 おーい、皆さん、持ち時間の15分より短く、軽く、爆笑ネタでつないでいるんですか?
鼠小僧次郎吉、石川五右衛門のエピソードをふって。

喧嘩長屋/白酒
 すもうネタをちょっと振って、爆笑もののアクション付きのこのネタに。

第二部 昭和歌謡大全集
 市馬さんは私より一歳年下なはずなのに、ラインナップされた古い昭和歌謡、私は二曲ぐらいしか知りません(汗)。家元が好きだったという「建設の唄」とか「赤い夕陽の故郷」とか、全然わからない……えりちゃんとのデュエット「一杯のコーヒーから」はかわいかったです。喬太郎師匠が熱唱する「東京ホテトル音頭」は楽しかったです。

カレンダー
03 2025/04 05
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30
最新コメント
[12/14 白牡丹(管理人)]
[12/14 ゆーじあむ]
[11/08 白牡丹(管理人)]
[11/07 れい]
[01/21 ゆーじあむ]
[11/15 白牡丹@管理人]
[11/15 ゆーじあむ]
[05/25 長谷川誠二郎]
[07/23 白牡丹@管理人]
[07/23 伊藤哲也]
最新TB
ブログ内検索
アーカイブ
カウンター
プロフィール
HN:
白牡丹
性別:
非公開
自己紹介:
幕末、特に新選組や旧幕府関係者の歴史を追っかけています。連絡先はmariachi*dream.com(*印を@に置き換えてください)にて。
バーコード
Livedoor BlogRoll
本棚
Copyright ©  -- 白牡丹のつぶやき --  All Rights Reserved
Designed by CriCri / Material by White Board

忍者ブログ  /  [PR]