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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
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年末にプライベートでちょっと悩ましいことが起こり、悩みをかかえて越年します。百八つの鐘で晴らせるものなら晴らしたい悩みではありますが……皆様にはつつがなく新年を迎えられますよう。

東京
江戸東京博物館「大浮世絵展」=写楽、北斎、広重の代表作など340点展示
 リンク先はyoutube動画が貼られており、音楽付ですので注意ください。
2013年12月27日
 江戸東京博物館は開館20周年を記念した展示会「大浮世絵展」を来年1月2日から3月2日まで開催する。一般公開に先立ち12月26日、報道機関向けに内覧会が開かれ、江戸時代を代表する浮世絵師、東洲斎写楽、葛飾北斎、歌川広重らの展示作品340点が公開された。
 本展では、会場を六つのエリアに分け、作品を展示。江戸時代前期の浮世絵につながる風俗画から始まり、浮世絵、錦絵の創始期、写楽や北斎らが活躍した時代、幕末から近代までと、17世紀前半から20世紀にかけての多様なジャンルの浮世絵を、時代を追って紹介している。
 特に注目は、「教科書で見た」「切手の絵柄で採用されていた」「商品のおまけ」など、誰もが知る有名な作品の数々。東洲斎写楽の「三代目大谷鬼次の江戸兵衛」、葛飾北斎の「冨嶽三十六景 神奈川沖波裏」などの本物を目の当たりにすることができる。
 観覧料は、一般1300円、大学・専門学校生1040円、小・中・高校生・65歳以上650円。開館時間は午前9時半から午後5時半まで。江戸東京博物館での展示終了後は、3月11日から5月6日まで名古屋市博物館、5月16日から7月13日まで山口県立美術館で「大浮世絵展」が開かれる。【時事ドットコム編集部撮影】

千葉
幕末の「真忠組」、記事が広げた研究の輪
 よく晴れた夏の休日。家族で車に乗って九十九里浜に遊びに行った。名物食堂に向かう途中、「真(しん)忠(ちゅう)組志士の碑」の表示があった。

 -真忠組とは…。

 妙に気になり、右折した。石碑が建っており、裏面に記述がある。幕末、九十九里浜に真忠組と名乗る世直し集団が出現し、「攘夷救民」の旗を掲げて戦ったという。新聞記者の探究心に一発で火がついた。

 取材を進め、地元の元教師、鈴木克久さん(70)が事件を研究していることが分かった。電話で連絡を取り、お会いした。鈴木さんの案内で事件現場を巡る。拠点となった九十九里町小関の旅館「大村屋」跡。旅館はすでになく、畑と原っぱになっていた。

 「真忠組は大村屋を接収して駐屯所とし、九十九里浜一帯を制圧した。武装して豪農や富商の屋敷に押しかけ、米や金を徴収。貧しい人々に無償で配ったのです。また、隊員はみな平等で、農民や商人も姓を名乗り、腰に刀を差していた。すごい物語でしょう」

 幕府は近隣の藩に鎮圧を命じる。藩兵は3カ所の拠点を襲撃。首領の楠音次郎は自刃して果てた。隊員は捕縛され、処刑された。

 9月22日の「ちば人物記」に「理想に殉じた群像の語り部」として掲載されると、習志野市の元銀行員、飯村興平さん(72)から千葉総局に電話がかかってきた。

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捕縛された真忠組隊員の裁判が行われた最福寺に立つ鈴木克久さん=千葉県東金市東金

 飯村さんは古文書収集家。真忠組の決起趣意書を保管しているという。早速自宅にうかがい、決起趣旨書を拝見した。保存状態は良好。歴史を物語る貴重な史料だ。「個人が持っていたらいずれ散逸する。公的な施設に寄贈したい」と話した。

 羽成哲郎千葉総局長に相談。親交深い山武市歴史民俗資料館の学芸員を紹介され、10月11日、寄贈が実現した。同資料館では郷土史家、加藤時男さん(74)ともお会いした。

 東金出身の剣士が激動の幕末を駆け抜けた。その史実を物語る古文書が旧家に保管されていることを教示していただき、記事にすることができた。1つの記事が波紋を広げていく。新聞の力を改めて実感した。(塩塚保)
 東金は亡くなった父の父の出身地です。それだけのことなんですが、いつかルーツを捜しにいきたいと思います。

「最先端の蘭学塾」の面影残す城下町 千葉・佐倉
 雨上がりの冬の日。電車で千葉県の城下町、佐倉市を訪れた。幕末、蘭学(洋学)が盛んで「西の長崎、東の佐倉」といわれた。

 城下町巡りの起点は佐倉順天堂記念館にした。立派な門構えだ。天保14(1843)年、天下に名高い佐藤泰然が佐倉に蘭医塾と診療所を開いた。佐倉藩主、堀田正睦(まさよし)が開明的で西洋医学に理解を示したことが背景にあるようだ。

 「全国の若者が佐倉に来て西洋医学を学びました。順天堂の敷地は最盛期には約2千坪もあって、塾生は延べ1千人を超したそうです」

 記念館の伊藤幸子さんが語る。塾生たちは外泊、飲酒、囲碁将棋などは禁止。オランダ語の解剖書などを読み、一心不乱に学習したという。

 館内には当時の手術道具や外科手術料金表などが展示されている。乳がんや白内障、虫垂炎など最先端の治療・手術が行われていた。塾生らに立ち会わせて実際に役立つ医術を習得させていた。

 順天堂はその後発展して順天堂大学の母体となった。一方、記念館の隣では佐倉順天堂医院が今も開業している。医師は佐藤家の子孫という。幕末の歴史が21世紀まで脈々と息づいているのだ。すばらしい。感嘆した。

 ■蘭学通り

 城下町を東西に結ぶ蘭学通りを歩いていく。高台に建つ旧堀田邸に立ち寄った。最後の佐倉藩主、堀田正倫(まさとも)が明治時代に築いた広大な邸宅だ。上の間に座布団がひとつ置いてあった。ここから眺める庭がもっとも美しいという。しばし、当主の気分を味わう。冬空をおおっていた重い、暗い雲が流れていく。さあっと陽光が差してきた。小鳥が盛んにさえずり始めた。

 昼食時となった。そば店「二番町房州屋」ののれんをくぐる。かもなんばんを注文した。鴨肉の濃厚な味わい。ほかほかと体があったまる。壁にセピア色の写真。少年たちが笑っている。その中に長嶋茂雄巨人終身名誉監督がいた。

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城下町・佐倉の武家屋敷通り。江戸時代の雰囲気を色濃く残している=千葉県

 店主の村瀬照夫さん(77)が「同級生です。中学生のときから足が速く、人気があった。この店にも来てかけそばを食べてましたよ」と笑顔で話す。新聞記者にとっては思わぬ収穫。このへんが町歩きの楽しいところだ。

 ■武家屋敷通り

 城下町の一角に武家屋敷通りがある。土塁と生け垣が続く。天を突く巨木がそびえる。静かだ。旧河原家や旧武居家が公開されている。屋敷内には当時の家財道具が置かれ、武士の暮らしぶりをしのぶことができる。

 郷土史家の内田儀久さん(62)は「佐倉藩の歴代藩主の多くは老中など幕府の要職を務めた。藩主だった堀田家や藩士たちの子孫が今も住んでいます。歩いてみると、思わぬところで江戸時代の名残を発見できる。そのあたりが佐倉の魅力です」と話す。

 武家屋敷通りから竹林を抜ける。通称「侍の古径(こみち)」。その先はもう佐倉城跡だ。

 佐倉城は明治時代、取り壊された。だが、広大な城跡には堀や土塁が残る。師走の日暮れは早い。広い、広い空が見事に赤く染まっていく。(塩塚保)

     ◇

 城下町・佐倉を歩く JR佐倉駅か京成佐倉駅下車。佐倉順天堂記念館(本町(電)043・485・5017)▽旧堀田邸(鏑木町(電)043・483・2390)▽武家屋敷(宮小路町(電)043・486・2947)。3館共通入館券は一般520円。学生260円。いずれも年末年始(12月28日~1月4日)と月曜日休館。

神奈川
八重の篤志、横浜にも 大火被災者へ多額の寄付、神奈川知事が感謝状
 今からちょうど110年前、1903(明治36)年12月28日。当時の神奈川県知事・周布(すふ)公平が、一人の女性に感謝状と木杯を贈った。宛先は、新島八重(1845~1932)。横浜であった大火の被災者への多額寄付に謝意を表したものだった。福島・会津出身で京都に住んでいた八重にとって、横浜は縁もゆかりもない。八重を突き動かしたものは、何だったのだろうか。

 1899年8月12日、横浜市の雲井町(現在の中区弥生町周辺)で起きた火事は南風によって延焼し、伊勢佐木町近辺をほとんど焼き尽くした。焼失戸数は、当時の市内世帯数の1割にも及ぶ約3200戸。

 神奈川新聞の前身「横浜貿易新聞」は「惨は火災より甚だしきはなし。しかも我が市の大火は惨中最も惨なる。酸鼻(むごたらしい状況)にむせばざるものあらん」などと記した。

 この大火の被災者を支援するため、八重が義援金を送っていた。寄付額は35円。現在の貨幣価値と単純に比較することは困難だが、企業間取引の物価指数の推移からみると、少なくとも現在の50万円以上に相当する。

 横浜貿易新聞が発生直後から「江湖(こうこ)(世間)の慈善家に訴ふ」と10日間募り、横浜市役所に届けられた義援金の総額は159円80銭。八重は遠く離れた京都から、その2割強にあたる額を寄付したことになる。

 戊辰戦争で会津が敗れて故郷を失った後、同志社英学校(現同志社大)を創設した新島襄の妻となって学校運営に奔走するなど京都を拠点としていた八重。何のゆかりもない横浜の災害に、多額の寄付をした理由は何なのか。

 八重はこの火災以外にも、実に多くの慈善活動に携わっている。

 身を賭して近代看護の普及に努めた「日本赤十字社篤志看護婦人会」、目や耳が不自由な人の支援目的で発足した「京都婦人慈善会」、戦争未亡人らの経済援助を行った「愛国婦人会」。いずれも自ら資金を提供し、報酬はない団体の幹部として奮闘した。

 さらに、孤児の世話をする東京市(当時)の担当部門、京都の高等女学校の増築、尋常小学校の改築などに、八重個人として浄財を投じていた。

 同志社社史資料センターの小枝弘和・社史資料調査員は「八重は50歳を過ぎてから自身のことを語りだしたが、ほとんど会津のことばかり。慈善活動について語った記録がなく、気持ちは分からない」と述べる。

 その上で、「襄と生活して社会的地位が上がるにつれ、果たすべき役割に気付いて寄付などを始めたのではないか」と推察。横浜への寄付については、「会津戦争で八重は大好きな故郷を失った。だから、同じように苦しんでいる人たちを放っておけず、できることはしたいと思ったのではないか」と心情を推し量った。

静岡
来年2月に韮山反射炉検定
 「反射炉博士」になって価値を伝えて-。伊豆の国市は二十四日、二〇一五年の世界文化遺産登録を目指す韮山反射炉の検定を来年二月一日に初めて実施すると発表した。見学だけでは価値が伝わりにくい韮山反射炉への理解を深め、登録への機運を盛り上げる狙い。鉄を溶かした仕組みや時代背景を正しく理解してもらうために検定という手法を選んだ。
 韮山反射炉は鉄製大砲を鋳造するための溶解炉で、幕末に伊豆韮山代官の江川坦庵(たんなん)(一八〇一~五五年)が建築を指揮した。実際に稼働した反射炉として国内で唯一完全な形で残った。国が国連教育科学文化機関(ユネスコ)に世界文化遺産として推薦する「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」の構成資産に入っている。
 検定は小冊子「韮山反射炉を世界遺産に」と反射炉の展示内容から出題し、四択問題を四十問解く形式。正答率によって級が分かれ、九割以上が一級、八割以上が二級、六割以上が三級となる。市世界遺産推進課によると、検定問題には「太陽光を反射させる施設か」「これでパンを焼いたのか」などを想定している。
 一月二十四日まで受検申し込みを受け付ける。試験は伊豆の国市四日町の韮山文化センターで午後一時から。検定料は高校生以上五百円、小中学生三百円。受検者には後日、検定結果と認定証、認定バッジなどを送る。三級に届かない場合は参加記念品が届く。
 問い合わせや申し込みは、韮山反射炉応援団事務局の市世界遺産推進課=電055(948)1425=へ。
(山田晃史)
 反射炉限定でなく江川太郎左衛門検定なら挑戦したいと思うのですが……。

京都
鴨川の小魚冬の味覚 「鷺知らず」魯山人も絶賛
 京都には「鷺(さぎ)知らず」という美味(うま)い小ざかながある――。

 古都の冬の味覚として、かつて美食家・北大路魯山人(1883~1959年)もこう評した鴨川の小魚「鷺知らず」を、特産品として復活させる取り組みが始まった。世界無形文化遺産に登録された「和食」への関心が高まる中、都の食文化を見直し、身近な川の環境にも目を向けてもらおうと、京都市が推進。今後、漁獲量の調査や試食会を通じて、「夏のアユ」に並ぶブランドに育てたい考えだ。

 「鷺知らず」は、淡水魚のオイカワ(ハエ)の稚魚で、体長3センチほどのものを呼ぶ。様々な説があるが、川魚を餌とする鷺が見向きもしないほど小さいことから、その名が付いたとも言われる。旬を迎える冬の早朝には、水があまり流れないたまり場で、群れになっている。

 京都では、少なくとも幕末頃から、つくだ煮などで食べられてきたと伝わり、つくだ煮そのものを「鷺知らず」と呼ぶこともあるという。明治時代の歌集・鉄道唱歌には「扇おしろい京都紅 また加茂川の鷺しらず みやげを提げていざ立たん」と名産に挙げられ、幅広い芸術に通じた北大路魯山人も、著書で太鼓判を押している。

 かつては専門の漁師もいたというが、食生活の多様化や河川環境の変化などで、食する機会は次第に減少。鴨川に近い飲食店でもほとんど見られなくなった。

 こうした中、市は都で育まれてきた食文化の魅力を見直そうと復活を計画。商品として売り出すには、一定の漁獲量が必要なため、先月から賀茂川漁協(澤健次組合長)と「鷺知らず」の歴史や販売状況の調査に乗り出した。

 土産物としての商品化や産卵場造成といった環境整備の課題についても協議。さらに資源量の調査を続け、近く市民らを対象にした試食会も開く計画だ。

 京都市農政企画課の中筋祐司係長は「昔ながらの食文化を伝え、川の資源を活用することで、環境保全の大切さも知ってもらいたい。豊かな鴨川を残す機運が高まれば」と話している。

◆酒が進むほろ苦さ つくだ煮

 京都市に暮らし始めて1年余り。恥ずかしながら初めて「鷺知らず」の存在を知った。毎年この時期に鴨川の鷺知らずを出している数少ない店があると聞き、ユニークな名に思いを巡らせながら足を運んだ。

 創業60年の湯どうふ店「喜幸」(下京区西木屋町通四条下る)。店に立つ浅井喜美代さん(47)は、今月2日に84歳で亡くなった父・喜三さんから、つくだ煮の作り方を受け継いだ。川魚のため、扱いが難しいといい、しょうゆと酒、砂糖、みりんでじっくりで二度炊きして味を調える。

 約20年前、父に連れられ、鴨川のほとりで初めて泳ぐ姿を見た時は、「小魚の集まりではなく、鷺も食べられないような1匹の大きな魚がいると思った」といい、「小魚と気づかれないようにするためで、名前の由縁の一つでもあるんですよ」と教えてくれた。

 甘い香りをたてるつくだ煮は、川魚特有の癖があるかと思いきや全くない。「小さいけど、かむほどにほろ苦い味がして、お酒が進みます」と浅井さん。シーズンを楽しみにしている人も多く、鷺知らずを肴(さかな)に、酔客の話題は鴨川の歴史や環境にも及ぶとか。豊かな風味に触れながら、古都の自然が育んできた食文化の復活を願った。(倉岡明菜)

蛤御門の変・番外 敗走の長州、追う新選組…「幕末の天王山」の意外な結末 
 元治元(1864)年7月19日、幕府軍と長州軍が御所周辺で衝突した蛤(はまぐり)御門の変は長州の敗退で一応の決着はみた。長州側はほとんどの兵が夜のうちに引いたものの、真木和泉(いずみ)ら約200人の敗残兵は山崎・天王山(標高約270メートル)に集まり、最後の一戦に挑もうとした。これを追う幕府側は1500人。到底勝ち目のない真木は200人全員を長州へ帰そうと、ある思い切った行動に出る。

思い届かず

 19日午前零時、伏見・藤森で福原越後軍が大垣藩の軍勢と戦闘を始めると、同日未明、嵯峨天龍寺に陣を構えていた国司信濃・来島(きじま)又兵衛隊が御所へ突入を始めた。

 そして、天王山にいた真木和泉と久坂玄瑞ら約600人は前日の18日午後8時に出発したが、悪路がたたって、目指す御所・堺町御門前に着いたときには福原隊と国司・来島隊の勝敗が決した後だった。

 すでに、福井藩や薩摩藩などの軍勢で門は守られていたため、門を突破することはできず、迂回して門近くの鷹司(たかつかさ)関白邸で抵抗を続けるのみだった。

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久留米・水天宮境内に建つ真木神社

 だが、幕府軍の強力な火力と圧倒的な兵力の前にどうしようもできず、久坂はこの場で自害する。

 真木も銃撃で足を負傷するが、「最後の一戦」のために長州藩家老の益田右衛門介との合流地点、天王山へ200人の残存兵と引き返した。

 だが、益田は逃走した後で、午後2時ごろ天王山に着くもその姿はない。真木の到着を待っていた長州の宍戸九郎兵衛は再起を促したが、真木は「私は御所を血で汚した今回の戦の主犯。死をもって責任を取りたい」と辞退した。

しんがり

 筑後(福岡県)・久留米の水天宮の神職の家に生まれた真木は家を継ぐとともに尊王攘夷の活動家でもあった。薩摩に通じ、藩主の上洛に乗じて向かった京都で長州に急接近する。

 攘夷派の長州が公武合体派の幕府に京都を追い出された8・18の政変で三条実美らとともに長州へ落ちると、武力での京都奪回を強行に主張した。

 だが、結果は長州のひとり負けの形。さらに御所に向けて発砲したかどで、朝敵の汚名も着せられることになった。

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久留米・水天宮境内に建つ真木神社

 今回の戦いは、長州藩主の毛利敬親(たかちか)も乗る気でなかっただけに、強行に戦いを主張した真木にとって、今回の敗戦は相当に心苦しかったに違いない。

 もう1人の強行派の来島又兵衛は御所で戦死しており、たった1人で責任を取って幕府軍と対峙するつもりだったが、「自分も残りたい」などとする16人の若者が申し出てきた。

 真木の退却の説得も聞かず、そばを離れようとしない。結局、真木を含めた17人が、後退する部隊の最後尾で追っ手から味方を守る「しんがり」を務めることになったのだ。

 京都、大阪の境にある天王山。中腹まで登ると、男山との狭い平地の間を桂川と宇治川、木津川が合流して淀川へとつながっていく光景が一望できる。

 真木ら17人は死を覚悟して、たぶん、そんな所から味方の退却を見送ったのだろう。

17烈士の自害

 山の中腹に立てこもる真木らは20日、郡山藩の退却の勧告にも耳を貸さずに断ると、翌21日、新選組を先頭に会津の兵士たちが山へ入っていった。

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久留米・水天宮境内に建つ真木神社

 天王山の麓にある離宮八幡の境内に長州が捨てた大砲を新選組が捕獲し、天王山めがけて撃ったという話も残る。山道を登って追いかける会津藩と新選組。じわり、じわりと追い詰められた真木。

 新選組隊士の永倉新八が書き残した記録には、局長の近藤勇が山の中腹あたりで金の烏帽子(えぼし)に錦の直垂(ひたたれ)姿の真木と銃を持つ数人の浪士が立っているのを見つけた。

 真木は大声で「互いに名を名乗ろう」を声をかけると「毛利家家臣の真木和泉である」と続けた。対する近藤も「私は幕府配下の近藤勇だ」と応じる。

 そして真木は詩吟を歌い勝ちどきを上げた直後、周囲にいた浪士が幕府軍目がけて発砲し、弾を避ける隙に山頂に向かって走り去った。

 少し間を置いて近藤らが登っていくと、炎をあげて燃える小屋を発見。急いで小屋に駈け寄る近藤らが見たものは自害して果てた黒こげの真木の姿だった。

 小屋の中にあった火薬で吹き飛ばされたらしく、死にきれない浪士は新選組の隊士が介錯したという話もある。

 ここに蛤御門の変は完全終結した。真木ら17人の遺体は賊徒の墓として、地元の人の手で宝積寺の三重塔前に葬られた。それでも地元の人からは17人を“残念さん”と親しみを込めて呼ばれ参拝する人が絶えなかった。

 それに困った幕府は別の場所に改葬したうえで、一般人の登山を禁じたとも伝わる。

(園田和洋)

愛媛
伊達家書簡で幕末政治読む 8日に公開講座 宇和島
 宇和島伊達家伝来の書簡からみる徳川幕府の崩壊―。宇和島歴史文化研究会(近藤俊文会長)の公開講座が8日正午から、愛媛県宇和島市堀端町の市生涯学習センターで開かれる。幕末の政治の舞台裏を、初めて一般公開される同家所蔵の史料約30点から読み解く。
 講座では「慶応3年伊達家文書からみた四候会議、大政奉還、王政復古」と題し近藤会長が講演。江戸から明治へと時代が大きく動いた慶応3(1867)年に焦点を当て、関連する各史料を日付を追ったストーリー仕立てで解説する。
 史料には、宇和島での西郷隆盛らとの会談内容などを記した宇和島藩8代藩主伊達宗城の直筆書や、大阪商工会議所の初代会頭などとして活躍した五代才助が宗城を新政府で起用するよう進言する書簡などが並ぶ。


高知
高知県立坂本龍馬記念館で「幕末の志士人気ベスト10」展
高知県高知市の高知県立坂本龍馬記念館、海の見える・ぎゃらりいで2014年1月31日まで、「幕末の志士人気ベスト10」展を開催している。記念館の入館者アンケートの項目「幕末のお気に入りの人物を教えてください」を4月から7カ月間集計し、人気ベスト10の写真をパネルで紹介。12月27日からはベスト20位までを展示している。
 県立坂本龍馬記念館は9時から17時まで開館。入館料500円で、高校生以下は無料。連絡先は088・841・0001。

土佐藩馬奉行の子孫が江戸期の馬術書寄贈 高知県安芸市へ35点
 幕末に土佐藩の馬奉行などとして騎兵育成に尽くした葛目楠吉の子孫が25日までに、江戸初期から明治の馬術書などの資料35点を高知安芸市の市立歴史民俗資料館に寄贈した。カラーで馬体を描いた図や馬術指導書などが含まれ、同資料館は「江戸時代の馬術資料は少ない。実用的な内容で、貴重な研究資料になる」とし展示などを検討する。
 同資料館によると、楠吉は土佐藩が取り入れていた大坪流馬術、朝鮮流要馬術、源家古伝馬術のうち、源家古伝馬術を伝えた本山団蔵茂隆に師事。1856(安政3)年から大目付、68(慶応4)年から軍馬指南役、馬奉行を務めたとされる。
 資料は1662(寛文2)年の馬術心得をはじめ、楠吉が使ったとみられる指導書、本山団蔵の馬術免状など。「馬の博物館」(横浜市)によると、源家古伝馬術は、愛媛県の松山藩士が1802年に完成させた馬術で、当時、全国的に主流だった大坪流で鍛えた馬より、持久力や速力を向上させ、遠乗りを可能にする調教法などを編み出した。
 高知県内では土佐藩の剣術や弓術は研究されてきたが、馬術は土佐山内家宝物資料館(高知市)などに一部の資料が残るだけ。特に、源家古伝馬術の資料はほとんど残っていないという。
 寄贈したのは、楠吉のやしゃごに当たる藤島善之さん(72)=安芸市東浜。葛目家が絶え、楠吉の孫で、藤島家に嫁いだ善之さんの祖母が管理していたものを受け継ぎ、保管してきた。
 藤島さんは「『楠吉さんは流鏑馬(やぶさめ)の名人だった』と祖母に聞いていた。これを機会に馬術の研究が進むよう役立てば」と期待。同民俗資料館は「源家古伝馬術だけでなく、葛目家の資料としてもまとまっている。2014年はうま年でもあり、展示を考えたい」としている。

【写真】土佐藩の馬奉行、葛目楠吉が残していた馬術の関連資料。子孫が安芸市立歴史民俗資料館に寄贈した(安芸市土居)

コラム
被弾しながらも陣頭指揮をとった回天丸艦長 甲賀源吾
甲賀源吾
享年31 戦死
被弾しながらも陣頭指揮をとった回天丸艦長
生没:1839~1869
命日:3月25日
墓所:光源寺(東京都文京区)

甲賀源吾

蝦夷共和国のエリート幹部
遠江掛川藩士(静岡県掛川市)・甲賀秀孝の四男に生まれ、本名は秀虎という。
十七歳で蘭学を学び、安政五年(一八五八)には軍艦教授頭・矢田堀鴻に従い、長崎の海軍伝習所で航海術を学んだ。
その後、矢田堀の甥・荒井郁之助とともにオランダ語の高等数学を研究している。

幕臣時代は軍艦操練教授方、伝習所軍艦役など海軍のエリートコースを進んだ。
慶応四年(一八六八)には軍艦頭並に昇進したが、すでに幕府は瓦解し、戊辰戦争が勃発。
旧幕府軍の敗色濃厚のなかで旧幕府海軍にいた甲賀源吾は、海軍副総裁・榎本武揚とともに品川沖に碇泊し、徳川家の処置の成り行きを見守っていた。

四月十一日、江戸城の明け渡しが行われたが、徳川家の処置に対して不満をもっていた榎本武揚らは軍艦の引き渡しを拒否。
八月十九日に「開陽丸」「回天丸」「蟠竜丸」「千代田形丸」の軍艦四隻とともに品川沖を脱出し、新政府軍に抵抗する東北諸藩の救援に向かった。
このとき甲賀は「回天丸」の艦長をつとめている。

榎本らの旧幕府艦隊は仙台藩領の松島湾に碇泊したが、九月に入って東北諸藩が次々と降伏したため、元新撰組副長・土方歳三ら抗戦派の兵を収容して蝦夷地(北海道)へ向かった。
甲賀の「回天丸」は、箱館港を占領するなど蝦夷地平定で活躍し、江差で「開陽丸」が座礁したあとは旗艦となる。
十二月十五日には蝦夷共和国を樹立し、甲賀は閣僚として軍艦頭になった。

ガトリング砲の前に散った艦長
しかし、新政府は蝦夷共和国を認めるはずもなく追討令を発布。
雪解けとともに新政府軍と剣を交える。
新政府はアメリカ製の最新戦艦「ストンウォール」で蝦夷地征伐に出港。
元々は旧幕府が購入を予定していたが、瓦解によって明治二年(一八六九)二月三日新政府に引き渡され、「甲鉄艦」と命名された戦艦である。

一方、「開陽丸」を失った旧幕府軍は、新政府軍の上陸を阻む術を持っていなかった。
そんな折、「甲鉄艦が宮古湾に寄港する」という情報を得た甲賀源吾は、これを奇襲して拿捕する作戦を考案、土方歳三がその指揮をとることになった。
この作戦は「アボルダージュ」と呼ばれる接舷攻撃で、敵艦に乗り込んで奪い取るという戦術である。

三月二十日、「回天丸」「蟠竜丸」「高雄丸」の三隻で箱館を出港したが、暴風雨に遭い、三隻は離散。
結局、二十五日早朝に宮古湾に到着したのは「回天丸」だけで、他二隻を待たずして突入することになってしまった。

「回天丸」は、アメリカ国旗を掲揚、「甲鉄艦」をあざむいて間近に迫り、接舷したところで急に日章旗をひるがえし虚を衝いた。
しかし、「回天丸」の艦首と「甲鉄艦」の甲板との間に約三メートルの落差があった。
突撃部隊は敵艦に飛び下りるのをためらい、敵に反撃態勢を整える余裕を与えてしまった。
「甲鉄艦」には一分間に一八〇発の銃弾を撃てるガトリング砲があり、斬り込み部隊はあえなく撤退。
ひとり気をはいた新撰組隊士・野村利三郎も、数名を斬り殺すも、「回天丸」に引き上げる直前に戦死してしまった。

甲賀源吾は、そのガトリング砲で左脚や右腕に被弾しながらも甲板で指揮をとったが、左のこめかみを撃ち抜かれて落命した。
「回天丸」は荒井郁之助が舵を握って箱館へ帰還した。
この宮古湾海戦に新政府軍として参戦していた東郷平八郎(当時二十三歳)は、「天晴な勇士であった」と追悼の意を表している。


「江戸無血開城」を成し遂げた男の生涯に迫る
12月24日、『勝海舟と江戸東京』(樋口雄彦著、吉川弘文館)が刊行。
慶応4年(明治元年 1868年)4月の「江戸無血開城」を成し遂げた江戸藩士・勝海舟。
その功績は、2013年度大河ドラマ『八重の桜』をはじめ、現在においてもさまざまな形で伝えられる。

本書『勝海舟と江戸東京』は、在野の巨人として影響力を及ぼした明治以降にいたる生涯を活写する一冊。
著者は国立歴史民俗博物館・総合研究大学院大学教授、『敗者の日本史17 箱館戦争と榎本武揚』(吉川弘文館、2012年)の樋口雄彦。

咸臨丸で渡米した幕臣時代にはじまる、海舟の生涯にゆかりの深い江戸東京の史跡を訪ねる。
戊辰戦争で明治新政府軍・幕府軍の双方から厚い信頼を集め、江戸城無血開城を果たした勝海舟。
本書は、海舟ゆかりの江戸東京の史跡を訪ね、実像に迫る。
エンターテインメント
「風雲児たち 幕末編」150回&新刊記念で5巻まで無料配信
発売中のコミック乱2014年2月号(リイド社)にて、みなもと太郎「風雲児たち 幕末編」が連載150回を達成。これを記念して、今号にはみなもとの特別インタビューが掲載されている。

また「風雲児たち 幕末編」最新23巻の刊行に合わせて、「風雲児たち」シリーズの特設サイトがオープン。多数の電子書籍サイトを通じて、「風雲児たち」「風雲児たち 幕末編」の各1~5巻を無料配信している。さらに全巻セットの特別価格販売も実施中。まずは記事末のリンクからサイトを覗いてみよう。

このほかコミック乱2014年2月号では、「黒鷺死体宅配便」の山崎峰水が数年ぶりに山崎浩名義を用いて、新連載「てくてく~東海道ぬけまいり~」をスタート。さらに3月号からは「ばら物語」「東京物語」で知られる、滝沢聖峰による「物語」シリーズの新作「二兎物語」が幕を開ける。
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年末年始の休みに突入してからの落語会なので余裕で楽しめるだろうと思っていたら、予想していなかった家族の問題でグダグダ……で、なかのZEROホールに行くのもけっこう時間ぎりぎり。今日のお供は子供時代から落語は聴いていたという落語ファン。
 2階席の端っこはそこそこ空いていたけど、全体としては9割入っていたのではないでしょうか。

唖の釣り/談春
 デリバリー談春の趣旨説明に加えて、「芝浜」に「唖の釣り」は合わない、とか、なんでこう自らアウェイ感をさらに増すようなことをするのか、とか、なかなか噺に入れない模様。
 かなり時間をかけて、いきなり入った与太郎がどっと与太郎だった(汗)。与太郎を釣りに連れて行った七兵衛さん、ご災難。

中村勘三郎の思い出/談春
 高座を離れず、続いて話し出したのは亡・中村勘三郎との交友のこと、そして先日松本で開催した勘三郎追悼の会@松本。談春さんが世話役で志の輔師・さだまさしさんで予定していたところ、鶴瓶さんまでサプライズゲストに。談春さんは13分で「宮戸川」、鶴瓶さんは「青木先生」、さださんのトークと歌(最後は「精霊流し」)、志の輔師匠は「中村仲蔵」85分の熱演だったそうで、遠征された方々は松本に一泊するしかなかったでしょうが、皆さん熱演だったそうで羨ましい。
 談春さんというと古典落語の名人という印象ですが、こういう自由なトークで言葉を紡ぎ出す才能が凄いんだなと改めて思いましたし、講師業の友人も唸ってました。

芝浜/談春
 今年は50回を超える落語会・寄席に行ってました(^_^;)……今年の一番ではないですが、談春師の「芝浜」を1月13日に聴いていたんです。でも覚えていない(汗)……一年間にいろいろなことがありすぎましたから。
 会話だけでつなぐ「芝浜」……すごいなぁ。


挨拶
 ふつうは楽屋に勉強に来ている落語家さんたちを紹介することはないのだけど、「芝浜」を定着させた故・桂三木助師匠の孫の三木男さん、正月の鈴本夜席で小三治師匠がトリを務めていた高座を任された三三さん、志らく師匠の弟子ふたりをいじりまくる。
 土曜日で5時開演と早めに始まった落語会なので終演時間をそれほど気にする状況ではなかったけど、談春師大活躍であっというまに8時半超えているよね……(汗)。

市馬ファンは、落語する市馬だけでなく、昭和歌謡を熱唱する市馬も好きでないと務まりません(きりっ)……さすがに、市馬師匠の会にLEDライトを持ち込んで振り回すほどのコアなファンではないし、昭和10年代の歌謡曲がわかるほど歌謡曲に思い入れはないです。ただ、ゲストの恩田えりちゃんが市馬師匠とのデュエットを一生懸命こなそうとする健気な姿に「えりちゃーん」コールをかけたくなるぐらいにはおかっぱのえりちゃんを可愛いと思いますし……中入り後はすべて歌謡曲という構成の落語会にも関わらず、前半の高座に上がった師匠方全員が最後まで残っていた落語会(普通は次の高座のために出ていかれます)というのは、市馬師匠が落語協会副会長という影響力あるポジションにいるだけでなく、この人に招ばれたら打上げまで付き合わないといけないなーと感じさせる人柄(落語協会のメンバーはもちろん、圓楽一門の兼好師も残ってましたし)であることもあるでしょう。


三十石舟/市馬
 喉の調整のためのネタですか。でも好き。

浮世床〜本〜/一之輔
 「部室落語」男子高校生の部室での風景を彷彿とさせる一之輔落語の特徴がよく出るネタ。「てぇこぅき」が「抵抗器」になるなど、細かいところで一之輔ならではの工夫があって、爆笑してすっきり。
 寄席でよくあるというけど自分はあまり聴いたことがない「冗談オチ」だぁ。

宗論/兼好
 芸協と圓楽一門は積極的に回ってないのだけど、兼好師は「よってたかって(季節)らくご」に出演することも多く、圓楽一門の中では比較的に出会うことが多い。
 一之輔さんもそうなんだけど、今日は中入り後の市馬師匠の熱唱のために、さらっと笑わせてさがる。

粗忽の釘/三三
 引っ越したところから始まる。市馬師匠をはじめとして上がった師匠達のネタにからんだくすぐりも漏らさず、でも一番楽しいのは亭主ののろけ話。今まで聴いた中でもちょっとだけ違っていたのは三三さんオリジナルなのかなぁ。

後半は市馬歌謡ショー。今回は昭和10年代の歌を熱唱……昭和一ケタの母でさえ知ってるかどうかという曲を熱唱しまくり。ゲストに志らく師。デュエットは恩田えりちゃん。司会は前半たけ平さん、後半はオフィスエムズの加藤さん(ちょっと踊ってた)。


いよいよ師走に突入ですね。大河ドラマ『新選組!』開始にあわせて始めた当ブログ、今月で満10年になっちゃうんだ……。
 今日は㐮さんが天に召されてうるうるしました。

北海道
住宅に戊辰戦争の砲弾? 北海道・美唄
 北海道美唄市の住宅で砲弾のようなものが30日見つかり、陸上自衛隊第11旅団(札幌市)が回収した。旅団や美唄署によると、「4斤砲弾」と呼ばれる戊辰戦争当時の砲弾とみられるという。

 美唄署によると、直径約10センチ、長さ約20センチの円錐(えんすい)形。住宅に住む無職女性(84)が昨年8月ごろに見つけたが、砲弾とは知らず、なぜ自宅内にあるのかも不明という。

 女性は消火栓の点検のため近くを訪れていた消防職員に相談し、この職員が美唄署に届け出た。

宮城
仙台四郎ら庶民の姿軽快に 幕末仙台のネット漫画好評
 幕末の仙台城下を庶民の視点で描いた漫画がインターネット上で連載され、歴史ファンらに愛読されている。知的障害がありながら「福の神」として親しまれた仙台四郎と友人が主人公で、タイトルは「幕末仙台庶民伝 オレとシロバカ」。飢饉(ききん)や尊皇攘夷の動きに揺れる仙台藩の姿を、軽快なタッチで表現した。

 元NHKディレクター湯座明彦さん(61)=仙台市青葉区=が、2011年11月からほぼ3カ月に1話のペースで公開。これまでに10話を連載した。
 農村から城下に移り住んだ少年タカは、「シロバカ」と呼ばれる四郎と知り合う。戊辰戦争でゲリラ部隊の烏組(からすぐみ)を率いた細谷十太夫、仙台藩の洋式軍隊創設者星恂太郎、いずれも藩奉行で尊皇攘夷に軸足を置く遠藤文七郎、佐幕派の但木土佐らが登場する。
 タカが賊の仲間に引き込まれそうになったり、十太夫と知り合ったりする中で見た城下の様子を漫画化した。10月下旬に公開した第10話(30ページ)は、尊皇攘夷派が但木邸を襲撃したが失敗に終わったという粗筋。
 フィクションだが、湯座さんは歴史資料を丹念に読み込み、史実から外れないよう心掛けた。当時の政治的背景も、作品の中で丁寧に解説している。
 仙台や福島などで勤務した湯座さんは2010年にNHKを早期退職後、かねて興味があった仙台四郎に関する一人芝居を福祉施設などで上演。東日本大震災後にパソコンで漫画を描き始めた。
 登場人物の体の動きは少なめだが「ドラマのディレクターだったので、登場人物の表情の変化に気を使い、物語を展開するようにしています」と湯座さん。戊辰戦争が終わり、新たな時代を迎えるまでの仙台の街を描く予定という。

[仙台四郎]藩制時代末期から明治時代にかけて実在した人物。ユーモラスな風貌と純粋な人柄で「シロバカ」と呼ばれ、親しまれた。四郎が立ち寄った店は繁盛したといわれる。写真や肖像画を「福の神」として飾る商店、飲食店は多い。

奈良
幕末の高取藩、活躍知って 天誅組蜂起150年記念で展示会 奈良
■パネルや資料、大砲複製品など

 幕末に尊皇攘夷(じょうい)を掲げて倒幕を目指した「天誅(てんちゅう)組」の蜂起から150年を記念した展示会「天誅組と幕末に活躍した高取藩の人々」が、高取町の土佐街道沿いのイベント会場などで開かれている。譜代(ふだい)大名だった高取藩の中にも、倒幕のため天誅組に参加した藩士もおり、激動の時代を紹介している。30日まで。

 天誅組は文久3(1863)年8月17日に五條代官所を襲撃。一時加勢した十津川郷士らとともに高取城を攻撃したが、朝廷の命を受けて迎撃した高取藩の前に大きな被害を受けて敗走し、最後は壊滅した。

 展示会は、地域活性化に取り組むボランティア団体「天(あま)の川実行委員会」などが、「新しい時代を切り開くために活躍した高取藩の人々を知ってほしい」と企画した。

 天誅組と高取藩の戦力や、戦いの損害の比較、天誅組の行軍図、天誅組に参加した高取藩士・安田鉄蔵(てつぞう)らをパネルで紹介。13代藩主・植村家保(いえやす)と最後の14代藩主・植村家壺(いえひろ)を紹介するパネルなども含め、約30点の資料を公開している。

 戦死した天誅組の志士が眠る東吉野村の墓所の写真や、当時高取藩で使われ、天誅組との戦いに威力を発揮したとされる大砲「ブリキトース砲」の複製品も並べた。また、京都の治安維持を担当した新撰組に参加した高取藩士の尾関弥四郎(やしろう)・雅次郎(まさじろう)兄弟についても紹介している。

 見学無料。時間は午前10時~午後4時。問い合わせは実行委((電)0744・41・6140)。

天誅組:幕末の高取藩、藩士の足跡紹介 あすまでパネル展−−高取 /奈良
 明治維新の先駆けとなった「天誅組」の蜂起と旧高取藩の関わりなどをテーマにしたパネル展が、高取町上土佐の「街の駅『城跡』」で開かれている。高取藩は攻撃してきた天誅組を退けたが、倒幕を掲げる天誅組に加わった藩士もいたことを紹介。新撰組に参加した藩士も紹介し、激動の幕末を生きた志士3人の足跡をたどる。30日まで。

 天誅組は1863(文久3)年に挙兵し、幕府五條代官所を襲撃。恭順を迫られた高取藩は、京都守護職の松平容保が天誅組討伐を命じた後は攻撃に転じ、敗走させた。天誅組に参加した藩士・安田鉄蔵は、最後は幕府軍の追討で戦死した。

 新撰組には尾関兄弟が参加し、弟の雅次郎は先頭を行く「旗役」を務めた。後に函館で降伏し、明治に入って赦免された。「勘定方」を務めた兄の弥四郎は、後に病死した。

 パネル展を主催する天の川実行委員会の野村幸治代表は「幕末に、こんな人たちがいたことを知ってほしい」と話している。午前10時〜午後4時。問い合わせは実行委(0744・41・6140)。【矢追健介】

鳥取
本圀寺事件:150年 幕末から明治、史料集め企画展 尊攘藩士22人の足跡 来月23日まで、県立博物館 /鳥取
 幕末の1863(文久3)年に尊皇攘夷派の鳥取藩士22人が佐幕派の藩の重臣を京都で襲撃した「本圀寺(ほんこくじ)事件」から150年に合わせ、関連の史料などを集めた企画展「鳥取藩二十二士と明治維新」(毎日新聞鳥取支局など後援)が23日、県立博物館で始まった。来見田(くるみだ)博基学芸員は「当時の鳥取の歴史がどのようなものだったのか。いま一度、自分の目で見て、考えてほしい」と話している。【川瀬慎一朗】

エンターテインメント
小説家・冲方丁「最後まで苦悶している土方は、男が惚れる男」
 1863年に結成され、今年で150周年を迎えた新選組。活動期間はわずか6年だったにも関わらず、今でも人々の心をつかむ。2012年に『光圀伝』で第3回山田風太郎賞を受賞した小説家・冲方丁(うぶかたとう)氏がその魅力を明かした。

*  *  *
 今秋から僕が原作を担当し、新撰組の土方歳三を主人公とした漫画「ガーゴイル」の連載が始まりました。

 新撰組を題材にしたのは、広く一般に認知され、メジャーな存在だったからです。たいていの人が「新撰組」といえば「土方、沖田……」と固有名詞がすぐに出てきます。子母澤寛先生や司馬遼太郎先生のおかげで、個々のキャラクターもある程度、確立されています。史実と違う点もありますが(笑)。

 ですが、小説や漫画は史実と違う部分があっていい。忠実に書こうとしたら、現代のアフリカなどで起きている内戦と同じようなものです。リアルに描いたら、残酷すぎて読者に受け入れられないでしょう。

 重要なのは読者の心に響くものをつくること。時代感情をうまく作品中に盛り込むことが大切です。

 新撰組は、そもそも幕府の体制が盤石だったら生まれるはずはありませんでした。泰平の世ならば、どこの馬の骨とも知れない剣士たちの活躍する場なんてなかったんです。

 ですが、時代は転換期。幕府や政治体制は、このままでいいわけがない。将軍ですらそう思っている。幕府を変えたいんだけど、かといって、変えすぎて壊してはいけない。250年の繁栄を謳歌してきた体制への愛着もある。

 いまの日本とぴたりと重なるんです。いまの日本も50年続いた繁栄への愛着がある。新しい時代に適応ができていない、適応したがっていない。そんな時代背景が似ています。

 そのなかで新撰組は、ある意味、“食いっぱぐれた若者の熱情のはけ口”でした。新撰組にいるのは、本来だったら、仕事もない、結婚もしていないような人たち。彼らが新撰組に入ることで一斉に歴史の表舞台に出たことへの痛快感があります。

 それに新撰組は、魅力的な登場人物がたくさんいて、自分の好きなキャラを選べるところもいいですね。その意味で現代の“AKB商法”と似ている。それぞれがお気に入りの人物を見つけて、語り合えます。

 私は、個人的には土方歳三が好きですね。いろいろ調べていくと、非常に揺れ惑い、どうしたらいいか、と苦悶している顔がみえます。近藤勇のようにさっさと捕まって処刑されたほうが楽になったはず。最後の最後まで「幕臣とはなんなのか」「自分たちの存在はなんなのか」、苦しみながら考えているところが好きです。仲間殺しの責任を自らひっかぶっている面もあります。悲しく強い男。男が惚れやすい男ですよね。

 おすすめの新撰組スポットは、会津の京都における本陣があった金戒光明寺や、八木邸・旧前川邸などの隊士が実際に寝泊まりしていた場所ですね。あとは京都に行って、コスプレした写真を撮るのもおすすめです。ダンダラ模様の羽織をはおって刀さして、新撰組の格好をして写真館で撮影するんです。意外に楽しいんですよ。僕も切腹するふりをして写真を撮りましたよ。エイッて。

 新撰組は衣装もいいですよね。浅葱(あさぎ)色のダンダラ模様。「こんな派手でバカみたいな衣装を着ていたんだ」って、着ると実感する。よっぽど腕に自信がないと。一人では歩けないですよ(笑)。

<神木隆之介>涼しげな表情はうり二つ? “ハマリ役”瀬田宗次郎ビジュアル解禁
 2014年夏に公開される映画「るろうに剣心 京都大火編」「るろうに剣心 伝説の最期編」(大友啓史監督、2014年夏公開)で、俳優の神木隆之介さんが演じる瀬田宗次郎のビジュアルが29日、公開された。キャスト予想でも断トツの人気だった神木さんが演じる涼しげな表情を浮かべた宗次郎の姿は話題を集めそうだ。

【写真特集】くまモンがロケ地を陣中見舞い

 神木さんが演じる宗次郎は、見た目はあどけなさの残る少年だが、佐藤健さんふんする主人公・緋村剣心に匹敵するほどの剣術の天才という原作マンガ屈指の人気キャラクター。子どものころの過酷な経験により感情が欠落し、人なつっこい笑顔の裏には、人を殺すことをいとわない冷酷な一面を隠し持っている。今回、神木さんは、役作りに2年を費やしたといい、撮影のたびに衣装に合わせ、時間をかけて髪を紺色に染めるなど、気合も十分だという。

 「るろうに剣心」は、和月伸宏さんのマンガが原作で、幕末に「人斬り抜刀斎」として恐れられた剣心が、明治維新後「不殺(ころさず)」を誓った流浪人(るろうに)として、さまざまな人たちとの出会いや、宿敵との戦いをへて、新たな時代の生き方を模索していく物語。「京都大火編」「伝説の最期編」は、日本制圧を目指す新たな敵が待ち受ける京都を舞台に、前作を上回る壮大なスケールで描かれる。

 神木さん、佐藤さんのほか、前作に続き、ヒロインの神谷薫役で武井咲さん、旧幕府軍・新選組三番隊組長の斎藤一役で江口洋介さんが出演。また最大の敵となる志々雄真実(ししお・まこと)役で藤原竜也さん、四乃森蒼紫(しのもり・あおし)役で伊勢谷友介さんも新たに登場する。(毎日新聞デジタル)
 蒼紫様、伊勢谷さんが演じるんですね。
晩秋の一日、ごゆっくりお過ごしください。

北海道
北方歴史資料館が閉館 高田屋嘉兵衛の資料展示
 函館の開祖といわれる高田屋嘉兵衛(1769~1827年)の北方開拓や、外交史に関する貴重な資料を展示していた北方歴史資料館(末広町23)が事実上、閉館している。館内の資料は、高田菜々館長(35)が引き取り、保存している。

 同館は嘉兵衛の7代目子孫・高田嘉七さん(享年79)が社団法人北方歴史研究協会を立ち上げ、1988年に自己資金で建設。登録博物館として運営してきたが、11年11月に嘉七さんが急死し同月末から休館していた。12年8月、学芸員の資格を持つ次女の菜々さんが引き継ぐこととなり、東京から転居して館長となり、開館した。

 しかし、民間の施設であることから運営に対する公的助成はなく、収入は入館料のみで、菜々館長の再開は厳しい船出だった。さらに資金や役員の問題で、今年11月末以降、同法人が認可を新たに受けることは難しいとされていた。結果、大きな支援先を探すことは難しく、今年4月から休館し、同法人の解散も決定。9月中旬には資料が菜々館長によって館から出されていた。

 菜々館長は「資料は散逸しないようにまとめている。建物などの今後は未定」と話す。嘉七さんと菜々さんに関わっていた市内の女性は「菜々さんも複雑な思いはあったと思う。函館を開いてくれた高田屋の子孫を支援できないほど、今の函館の経済状態が良くないことは残念」と話していた。
 箱館の歴史に残る人物に関する資料館、残念です。

来年築造150年 1年かけ五稜郭盛り上げ
 特別史跡「五稜郭」が来年築造150年を迎えることから、150年祭開催に向けて実行委の設立総会が14日、函館市総合保健センターで開かれた。来年4月から約1年間をかけて市民参加型イベントや観光客を楽しませる企画を繰り広げ、全国に函館、五稜郭をアピールしていく計画だ。公募したキャラクターとシンボルマークも発表された。

 実行委は函館市や商工会議所、国際観光コンベンション協会をはじめ、各団体で構成。実行委の委員長には中核となるまちづくり団体、新都心五稜郭協議会の小笠原勇人会長が選出された。あいさつで「新幹線開業の前年でもあり、うまく函館、五稜郭を発信していきたい」と述べた。

 事業の柱となるのが、幕末の衣装を着たスタッフが観光客をもてなす「五稜郭おもてなし隊」(仮称)。記念撮影や簡単な観光、歴史ガイドで観光客をもてなす。ほかに五稜郭祭で行われている戦闘シーンを月に2~3回行う計画も。

 「函館歴史群像」と題し、歴史上の人物を円筒型広告塔で紹介。市内各地の関連する場所に設置する計画。観光地での歴史展示では国内初になるという。また、6月14、15の両日には市民参加型のイベントを行う予定。

 また、この日は先月公募したキャラクターとシンボルマークも発表された。函館市内をはじめ、全国各地から合わせて100点を超す応募があった。キャラクターは函館出身で北広島市の大学生、斉藤はつめさんの作品が選ばれた。五稜郭をかたどったかわいらしいデザインが特徴。シンボルマークは未来大の蛯名奏個子さんの作品に決まった。

               ◇

 実行委はこの日発表されたキャラクターの名前の募集を始めた。応募できるのは道南に住む小学生のみ。はがきに名前と簡単な説明などを書いて応募する。締め切りは30日。問い合わせは実行委事務局(電話0138・51・4785)へ。

福島
会津藩士の欧州留学「添状」発見 保護求める
 江戸時代末期にフランスへ留学生として渡った若き会津藩士2人が、ロシアやウィーンなど欧州各地を巡歴する際に携行した「添状」が東京都の東京大史料編纂(へんさん)所で見つかった。身分の保障と保護を求める書状で、各国担当官のサインや印章などが記されている。巡歴は藩士の日記にも記されているが、現地の足取りが分かる「物的証拠」が確認されたのは初めて。添状は8、9の両日、編纂所で一般公開される。幕末のロマンを感じさせる貴重な品で、歴史ファンの注目を集めそうだ。
 会津藩士は、横山主税(よこやま・ちから 1847~68年、後に若年寄)と海老名郡治(えびな・ぐんじ 1843~1914年、後に家老、若松町長)。
 戊辰戦争前年の慶応3(1867)年正月、万国博パリ博覧会に将軍名代として派遣された徳川昭武ら一行に随行し、唐津藩士1人とともにフランスに渡った。3人は5月、パリで昭武一行と離れ、エジプトやロシアなど欧州各国を精力的に訪ねた。
 添状にはそれぞれ外国奉行向山隼人正の名前で「修業之暇各国巡歴いたし度段、願出候により、聞届候間(後略)」との文面が日本語と英語で書かれ、身分の保障と保護を要請している。
 ワルシャワ市で特別旅券が支給されたことを記す署名があるほか、乗車したらしい「ポーランド鉄道ワルシャワ・ウィーン線」、宿泊先とみられる「グランドホテルワルシャワ」などの印章もある。添状に明確な記載はないものの、横山、海老名、唐津藩士の一行は慶応3年7月25日から28日にかけウィーンからワルシャワへと赴き、そこで乗り換えてロシアのサンクトペテルブルクに向かったことが分かった。
 一行は巡歴を終えて同年12月、帰国した。横山、海老名は翌年春、戊辰戦争に参戦。横山は白河口の戦いで戦死した。21歳だった。
 添状は巡歴を終えて外国奉行所に提出されたとみられる。明治維新後、幕府の外交資料は全て明治政府に接収され、明治39年、東京帝大(現東京大)に引き継がれた。東京大史料編纂所が史料展開催を前に資料を整理していたところ、この添状が残されていたことが判明した。
 同編纂所の保谷徹教授(56)は「巡歴の一部だが、現地での動きが分かる生々しい資料は他になく、興味深い」と話している。
 会津若松市の白虎隊記念館の早川広中館長(78)も「先人たちの足跡がしのばれる」と感激。「展覧会には記念館が所蔵する渡欧時の横山の旅券もパネル展示される。ぜひ多くの人に見てもらいたい」と話している。

■8、9日に一般公開 東大史料編纂所
 展覧会は8、9の両日、東大史料編纂所で開かれる。添状のほか、前近代の対外関係・対外交流に関する史料を並べる。入場無料。問い合わせは同編纂所 電話03(5841)5997へ。

( 2013/11/05 10:01 カテゴリー:主要 )

坂下で詩碑除幕 秋月悌次郎「北越潜行の詩」
 幕末の会津藩士、秋月悌次郎が戊辰戦争後に詠み、会津三絶の一つといわれる「北越潜行の詩」の詩碑が福島県会津坂下町の束松峠に建立され27日、除幕式が行われた。 
 悌次郎は戊辰戦争の敗戦後、会津藩の善処と藩の若者の教育を懇願するため、旧友であった長州藩士奥平謙輔がいた越後にひそかに会いに行った。その帰り道に束松峠の頂上から故郷を眺め、藩の行く末を案じて「北越潜行の詩」を詠んだとされる。 
 束松峠を生かした地域振興を図る地元のグループや秋月悌次郎顕彰会、歴史愛好者らは、悌次郎の功績を伝えようと詩碑建立を進めてきた。除幕式は悌次郎の子孫に当たる仙台市の秋月孝真さん、悌次郎の伝記「落花は枝に還らずとも」を執筆した直木賞作家の中村彰彦さんらを迎え、行った。 
 実行委員会の目黒督朗委員長、秋月さんがあいさつした後、来賓とともに除幕した。出席者は会津盆地を望む峠の頂上に立つ詩碑を前に七言絶句の「北越潜行の詩」を吟じ、会津を愛した悌次郎に思いをはせた。 
 除幕式後、会津坂下町中央公民館で中村さんの記念講演会が開かれ、悌次郎の生きざまを振り返った。 

会津藩士欧州の足跡 保護求める「添状」発見
 江戸時代末期にフランスへ留学生として渡った若き会津藩士2人が、ロシアやウィーンなど欧州各地を巡歴する際に携行した「添状」が東京都の東京大史料編纂(へんさん)所で見つかった。身分の保障と保護を求める書状で、各国担当官のサインや印章などが記されている。巡歴は藩士の日記にも記されているが、現地の足取りが分かる「物的証拠」が確認されたのは初めて。添状は8、9の両日、編纂所で一般公開される。幕末のロマンを感じさせる貴重な品で、歴史ファンの注目を集めそうだ。
 会津藩士は、横山主税(よこやま・ちから 1847~68年、後に若年寄)と海老名郡治(えびな・ぐんじ 1843~1914年、後に家老、若松町長)。
 戊辰戦争前年の慶応3(1867)年正月、万国博パリ博覧会に将軍名代として派遣された徳川昭武ら一行に随行し、唐津藩士1人とともにフランスに渡った。3人は5月、パリで昭武一行と離れ、エジプトやロシアなど欧州各国を精力的に訪ねた。
 添状にはそれぞれ外国奉行向山隼人正の名前で「修業之暇各国巡歴いたし度段、願出候により、聞届候間(後略)」との文面が日本語と英語で書かれ、身分の保障と保護を要請している。

会津藩支えた伝統工芸「会津絵」復元 漆器の老舗「鈴木屋利兵衛」
 会津漆器の歴史は古く、起源は1590(天正18)年、織田信長の弟子といわれた日野(滋賀県)城主の蒲生氏郷(うじさと)が、豊臣秀吉の命で会津に移り黒川(若松)城主となったことに始まる。

 氏郷は日野から木地師や塗師ら職人を呼び寄せ、日野椀の技術を基に会津漆器の礎を築いた。

 豊臣から徳川の時代になり、会津漆器は伝統の産業として大きく発展、やがて「会津絵」と呼ばれるようになる独特の漆器が生産された。その頃は「松竹梅漆絵」「会津箔椀(はくわん)」と呼ばれ、朱、緑、黄、茶などの彩漆に、金箔を加えて、檜垣、破魔矢、松竹梅の文様を配した吸物椀、皿、鉢、盆、重箱などが会津藩お抱えの職人によって作られた。

 また、錆(さび)色をした漆下地に、漆で梅と鶯を描き、蓋の裏側には富士山と帆掛け舟の蒔絵(まきえ)が施された「鉄錆絵」と呼ばれる漆器も作られていた。

 鈴木屋利兵衛は、安永年間(1772~80)年に現在と同じ場所に漆問屋として開業する。同時に会津塗を作り始めて約230年、土蔵造りの店舗は時代の風雪に耐えていまなお健在である。戊辰戦争では薩長軍の屯所となり、一片40センチ四角形の欅の大黒柱には刀傷が残る。

 武家文化が華やかな江戸初期に誕生した会津絵だが、戊辰戦争を機に武家社会の解体と明治の文明開化の中で、いつしか姿を消していく。

 昭和47年に早世した6代目鈴木屋利兵衛(鈴木信一氏)の妻、鈴木幹子さん(78)は、「主人が小さなお椀を手に“会津にとってこれはとても大事なものだ”と言って、じっと眺めていた様子を片時も忘れたことがない」という。それが会津絵のお椀だった。

 幹子さんはその会津絵の、それも「江戸時代に作られたもの」を買い戻すことを決意する。20年以上の歳月をかけ、蒐集したコレクションは数百点に及んだ。それは「伝統的遺産のもつ熟練した技、先人の知恵にふれる“旅”」だったと語る。幹子さんが次に決意したのは、この会津絵と鉄錆絵の復元だった。

 その作品が、11月20~25日、日本橋高島屋の「伝統工芸の体験と交流・暮らしの美フェスタ」で展示される。

 「士魂商才」と言われた会津藩の歴史の一端に直に触れてみたい。 (谷口和巳)

 ■たにぐち・かずみ 団塊世代の編集者。4つの出版社を転籍、19の雑誌に携わり、編集長として4誌を創刊。団塊世代向け月刊誌『ゴーギャン』元編集長。『女優森光子 大正・昭和・平成-八十八年激動の軌跡-』『帝国ホテルの流儀』(共に集英社)などの書籍も手掛ける。

 ■鈴木屋利兵衛 福島県会津若松市大町1の9の3 (電)0242・22・0151
東京
古写真展:幕末・明治期の貴重な現物、パネル166点−−港区で来月15日まで /東京
 港区芝5の区立港郷土資料館で、特別展「幕末・明治期古写真展〜名所・旧跡、そして人びと〜」(区教委主催)が開かれている。

 同館は昨年度、収集した幕末〜明治期の貴重な写真169点を収めた写真集を発行しており、今回の特別展はうち166点の現物やパネルを展示。新橋▽愛宕▽赤坂▽増上寺−−などのコーナーに分けて、地図で撮影ポイントも明示した。

 浅草▽上野▽千代田・中央・目黒−−といった港区外のエリアや、福沢諭吉▽明治天皇への「殉死」当日朝の乃木希典夫妻▽一般女性らの人物▽鉄道−−などのコーナーもある。

 併せて「特別展示」として、勝海舟、近藤勇ら著名人や、江戸幕府が1862年にフランス、英国、ロシアなどに派遣した「文久遣欧使節団」の写真も公開。

 12月15日まで(月曜休館)、入館無料。11月23日午後2時からは展示解説会がある(予約不要)。問い合わせは同館(03・3452・4966)。【佐藤浩】

飽くなき収集 幻のコレクション「幕末の北方探検家 松浦武四郎」展
 幕末・明治初期に活躍した探検家で「北海道」の名付け親、松浦武四郎(1818~88年)。アイヌの人々と深く交わり、丹念な蝦夷(えぞ)地(北海道)調査を敢行した功績は知る人ぞ知る。彼の飽くなき探求心は、東西の古物収集にも向けられた。静嘉堂(せいかどう)文庫美術館(東京都世田谷区)で開催中の「幕末の北方探検家 松浦武四郎」展では、好古家・武四郎が集めに集めた考古遺物を初公開。幻のコレクションから、ユニークな人柄がうかがえる。(黒沢綾子)

 現存唯一の肖像写真がある。64歳の松浦武四郎。ひときわ目を引くのは膝まで届く大首飾りだ。現物を見ると、縄文時代の硬玉製大珠(たいしゅ)をはじめ、古墳時代の勾玉(まがたま)、管玉(くだたま)、切子玉(きりこだま)など色とりどりの243個が複雑な形に連ねられている。何だか写真の武四郎が「どうだ、すごいだろう」と満足げにほほ笑んでいるように見えてくる。

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「松浦武四郎肖像写真」(明治15年撮影)。自慢の大首飾りを身につけている=松浦武四郎記念館(三重県松阪市)蔵
「松浦武四郎肖像写真」(明治15年撮影)。自慢の大首飾りを身につけている=松浦武四郎記念館(三重県松阪市)蔵

 現在の三重県松阪市の郷士の家に生まれた武四郎は、10代から全国遊歴の旅に出た。25歳のとき、長崎でロシア南下の噂を聞きつけ、危機感から北方行きを決意。27歳から40歳までの13年間で計6回、現在の北海道と樺太(からふと)、国後(くなしり)・択捉(えとろふ)島を探査している。うち前半3回は私的な旅、後半は幕府の命を受けたものだが、自然の過酷さはもちろん、北方交易を独占していた松前藩の妨害にあうなど、命がけだったようだ。

 「武四郎が作った地図です。内陸部の山川やアイヌ語の地名まで、とても細かく書き込まれているでしょう?」と静嘉堂文庫の主任司書、成沢麻子さんが説明する。「彼はアイヌの人々の生活に溶け込み、その言葉を理解した。詳細な調査ができたのは、信頼関係があったからでしょうね」

 膨大な調査記録をもとに、武四郎は蝦夷地の自然や生活を紹介した紀行本を続々刊行し、広く読まれたという。また、吉田松陰ら幕末の志士とも交流。明治維新後は「開拓判官」に任じられて「北海道」の名付け親にもなるが、半年で辞してしまう。アイヌの文化に敬意を払う彼は、政府の北海道開拓のあり方に反発せざるを得なかったのだろう。晩年は旅と古物収集に情熱を燃やした。

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「松浦武四郎肖像写真」(明治15年撮影)。自慢の大首飾りを身につけている=松浦武四郎記念館(三重県松阪市)蔵
「松浦武四郎肖像写真」(明治15年撮影)。自慢の大首飾りを身につけている=松浦武四郎記念館(三重県松阪市)蔵

 ところで、三菱の第2代社長、岩崎彌之助(やのすけ)(1851~1908年)が創設した静嘉堂文庫は、武四郎旧蔵の古物900点弱を収蔵している。彌之助の入手経緯は不明。このほど国学院大学の内川隆志准教授らが4年かけて調査し目録化。約1世紀の間、保管庫で眠っていた品々が今回、初公開されることとなった。

 古墳時代の装飾的な壺、小さな仏像や神像、硯(すずり)、日本や中国の青銅器に古代ローマの貨幣まで、コレクションは幅広い。これらは大小の特製木箱に納められて分類されており、武四郎の愛着ぶりがうかがえる。

 極めつきは河鍋暁斎(きょうさい)に描かせた「武四郎涅槃図(ねはんず)」(松浦武四郎記念館蔵、今回パネルのみ展示)だ。横たわり臨終を迎えるのは釈迦ではなく、大首飾りをかけた武四郎その人。その周りをお気に入りの品々が取り囲むのだが、描かれた古物のうち、大首飾りを含む20点が静嘉堂文庫に現存することが今回判明した。

 「個々の調査はこれから。まずはこんな面白い人がいたんだと、武四郎に興味を持ってほしい」と成沢さん。幕末明治を駆け抜けたまっすぐな行動力、自由な精神、奇想天外な発想には今後、さらに光が当てられることだろう。

 12月8日まで。月休。一般800円。問い合わせは(電)03・3700・0007。

北品川が舞台の漫画テーマにトークイベント-桐村海丸さん、にしだかなさん招く
 品川経済新聞(以下、品経)は11月27日、「品川宿交流館」(品川区北品川2)2階でトークイベント「北品川マンガ夜話(やわ)」を開催する。同イベントは、読者と直接コミュニケーションを図る「品経文化センター」の第6弾。

 今回は、北品川を舞台に作品を描いた漫画家、桐村海丸さんとにしだかなさんをゲストに招く。2人が作品を制作中に感じた北品川の様子や印象深かった出来事など、さまざまなエピソードについて、インタビュー形式で展開していく予定。

 桐村さんは、生まれも育ちも北品川。江戸の品川に生きる子どもたちをみずみずしく描いた「しおかぜ」で、第59回ちばてつや賞一般部門大賞を受賞した。「モーニング」(講談社)本誌では、新撰組の志士たちを題材に「とんがらし」を連載。「地元を愛する身として、品川宿の良さを熱く語りたい」と意気込む。

 にしださんは、北品川の町で猫と人々の日常を描いた「品川宿 猫語り」を出版。本人は北品川在住ではないものの、「北品川在住の友人を訪ねた際に見た風景が絵になると思った」のが、作品誕生きっかけだったという。「あまり話したことのない制作秘話をこの機会にたっぷり話したい」と、にしださん。

 品経・宮脇淳編集長は「北品川は、とても絵になる町だと思う。それぞれ作品の中で描かれた時代は違うが、二人の漫画家が北品川をどういう視線で捉え、作品に描き出したのか。見どころ満載のイベントになるはず」と話す。

 開催時間は19時30分~21時30分(開場は19時15分)。参加無料。定員は20人。事前の申し込みが必要。イベント終了後は懇親会(会費1,000円)も予定。

町田の歴史をしのぶ「時代祭り」開催へ-流鏑馬、武者行列も
 町田市の歴史をしのぶ「町田時代祭り」が10月27日、芹ヶ谷公園(町田市原町田5)で行われる。

 武者修行や流鏑馬(やぶさめ)、古武術演武などを披露する同イベントは今年で4年目。市内外から1万人が集まる。鎌倉時代に活躍した小山田の武者一族、幕末に新選組の近藤勇、土方歳三らに剣術の指導を受けた小野路農兵隊にちなみ、武術のデモンストレーションで町田の歴史を振り返る。

 当日は、武者が2頭の馬や人力車とともに町田駅周辺を練り歩くほか、公園内では疾走する馬上から的に矢を放つ流鏑馬、日本刀の試し切り、火縄銃の発砲などを間近で見ることができる。公園内には、まちだ名産品、焼きそばやもつ煮、町田べんとうなど11の模擬店も出店。

 開催時間は武者行列=11時~、流鏑馬・演武=13時~15時30分。小雨決行。荒天の場合、居合・抜刀・演武のみ町田市立第二小学校の体育館で実施。入場無料。

千葉
激動の幕末を駆け抜けた千葉・東金出身の剣士 古文書が物語る波乱の人生
 千葉・東金出身の剣士が激動の幕末を駆け抜けた史実を物語る古文書が千葉県九十九里町の旧家で見つかり、茂原市の郷土史家、加藤時男さん(74)が解読・検証した。後に新撰組として活躍する近藤勇や土方歳三も名を連ねた浪士組や、新徴組の隊士として、歴史に翻弄されながら各地を転戦した1人の剣士の波乱の人生が明らかになった。

 この剣士は、上総山辺郡川場村(現東金市)出身の伊藤滝三郎。伊藤家当主の子孫、高山妙子さん(79)と結婚した九十九里町の幸洋さん(78)が妙子さんの荷物の中から伊藤の履歴書、江戸市中見廻り日誌、御用控えなど10点の古文書を見つけ、郷土史家の加藤さんに解読を依頼した。

 古文書や家伝によると、滝三郎は伊藤家の次男だった。体が大きく、若い頃から剣術修業に励んだ。江戸に出て品川に道場を開き、門弟は30人ほどいたという。

 文久2(1862)年、幕府は、京都警備を目的として浪士組を結成した。伊藤は志願し、隊士として京都にのぼった。近藤勇や土方歳三らも浪士組の隊士だった。

 その後、近藤らは新撰組を結成したが、浪士組の多くは、江戸にもどる。庄内藩預かりとなり、江戸の警備を担当する新徴組として再編された。

 新徴組は十数人の組に分かれ、昼と夜、分担して江戸の市中を巡回した。伊藤は5番組小頭として、江戸の治安回復に取り組んだという。

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浪士組や新徴組の隊士として、激動の時代を駆け抜けた伊藤滝三郎の人生を物語る古文書。高山幸洋さんと妙子さんが保管していた=千葉県九十九里町(塩塚保撮影)
浪士組や新徴組の隊士として、激動の時代を駆け抜けた伊藤滝三郎の人生を物語る古文書。高山幸洋さんと妙子さんが保管していた=千葉県九十九里町(塩塚保撮影)

 また、伊藤は見廻り日誌を書き残しており、巡回時の様子を克明に記録。日誌ではちょうちんをかざして神田、浅草、吉原、湯島などを巡回し、乱暴者を取り締まる様子が伺える。

 やがて、戊辰戦争が始まった。新徴組は庄内藩とともに東北に赴き、官軍と戦った。加藤さんが現地や文献を調査したところ、寄宿帳に伊藤の養子、民三郎の名前が記されていた。加藤さんは伊藤も庄内まで転戦し、現地で亡くなったのではないかと推測している。

 加藤さんは「激動の幕末、東金出身の剣士が浪士組、新徴組の隊士として波乱の人生を生き抜いたことを示す貴重な史料だ」と語る。高山妙子さんは「伊藤家にはたくさんの古文書がありましたが、多くはふすまの下張りに使いました。わずかに残った古文書で滝三郎のことが分かってよかった」と話している。 

京都
幕末史ゆかりの物産品がずらり 中京で「京都幕末祭」
 幕末をテーマに多彩なイベントを展開する「京都幕末祭」が16日、京都市中京区の市役所前広場とゼスト御池で開かれた。物産展や舞台発表があり、大勢の歴史ファンでにぎわった。

 NPO法人京都龍馬会が創立20周年記念で催した。新選組のグッズや、維新志士を多く輩出した山口県萩市の特産品が販売されたほか、幕末期の研究者4人が講演した。

 17日の伏見竜馬通り商店街パレードに出演する坂本龍馬、おりょう役を選ぶコンテストもあり、出場者が着物姿で自己PRした。午後4時半からは龍馬慰霊の提灯(ちょうちん)行列がある。


奈良
幕末の高取浮かぶ - 街の駅で天誅組150年パネル展
 明治維新の先駆けとして知られる天誅組の挙兵から150年を記念して、幕末に活躍した高取藩の人々を紹介したパネル展が11日、高取町上土佐の街の駅「城跡(きせき)」で始まった。30日まで。

 天誅組は武力倒幕を目指して蜂起したが、宮中クーデターで大儀名分を失い、体制立て直しを図るために高取城を攻撃。迎え撃った高取藩は戦闘開始からわずか約2時間で敗走させた。

 パネル展では同藩出身で後世に名を残す、天誅組に参加した安田鉄蔵▽新撰組に入隊した尾関弥四郎、雅次郎兄弟▽天誅組を撃退した藩主植村家保と最後の藩主家壺▽吉田松陰からも教えを請われた儒学者谷三山―の6人を解説。天誅組の変の流れや同藩との戦闘の状況も紹介している。

 天の川実行委員会は「新しい時代を切り開くために活躍した高取藩の人々の事績を知ってもらえれば」としている。

 午前10時から午後4時まで。無休。問い合わせは同実行委、電話0744(41)6140。

山口
初の萩・幕末維新検定 チャレンジャー募集中 山口
【加藤勝利】幕末・明治維新における萩ゆかりの人物や歴史に関する「第1回萩・幕末維新検定」が、来年2月23日に萩市で開かれる。15日から全国の幕末・維新ファンの挑戦を受け付けている。

 5年後の明治維新150年事業の一つで、幕末維新検定実行委員会(事務局・萩市まちじゅう博物館推進課)が主催。地元の先…

鹿児島
島津発祥の地、子ども武者行列 宮崎・都城でまつり
 【寺師祥一】都城市の歴史をアピールする「島津発祥まつり」のパレードが23日、都城島津邸(早鈴町)から神柱公園(前田町)までの約1・5キロであった。幕末の戊辰(ぼしん)戦争に出陣した都城島津家の「私領一番隊」など、一族を再現する歴史絵巻。甲冑(かっちゅう)姿の騎馬武者やお姫様などに扮した約250人が行進した。

 神柱公園周辺には平安時代、国内最大級の荘園「島津荘」があり、鎌倉時代に惣地頭職を命ぜられた惟宗(これむね)忠久が、土地の名にちなんで「島津」を名乗ったのが島津家の始まりという。

 パレードには、紙製のよろいを着た「子ども武者」も登場し、沿道に陣取った祖父母らから盛んな拍手を浴びていた。24日午前11時から、城山公園歴史資料館前広場(都島町)で小学3年までを対象に「城山お宝さがし」があり、当日も受け付ける。問い合わせは実行委(0986・51・5501)へ。


エンターテインメント
ミュージカル「薄桜鬼」HAKU-MYU LIVE 開催決定 殺陣×ダンス×歌で原作を再現
シリーズ累計70万本を超える大人気ゲーム「薄桜鬼」シリーズは、2012年からスタートしたミュージカルも人気を集めている。これまでに「斎藤一 篇」、「沖田総司 篇」、「土方歳三 篇」を上演した。若手俳優陣の熱い演技と、原作を再現した切ない物語に賞賛の声が寄せられた。
2014年1月4日・5日には「ミュージカル『薄桜鬼』HAKU-MYU LIVE」が日本青年館 大ホールにて上演される。今回も殺陣×ダンス×歌で新選組を表現する。

出演キャストは、土方歳三役に矢崎広さん、沖田総司役に廣瀬大介さん、斎藤一役に松田凌さんと、これまでの公演で活躍した面々が引き続き起用された。お馴染みのメンバーによる歌声を堪能することができそうだ。今回はライブとのことで、どのような演出を取り入れるのかにも注目したい。
日程は1月4日が15時と19時、1月5日が13時と17時の計4公演となる。チケットは11月16日12時よりオフィシャル先行発売を開始、12月7日12時からは一般発売が行われる。価格は指定席が6900円、2階最後列の小姓席は3000円(全て税込)となっている。小姓席は先行発売では取り扱わず、数が限られているため注意が必要だ。

「薄桜鬼」シリーズは2008年に女性向け恋愛ゲームとして発売されたPS2専用ソフト『薄桜鬼 新選組鬼譚』が原作である。幕末の新選組を舞台に、独自の脚色を加えた内容でファンの心を掴んだ。
その後、様々なプラットフォームへの移植やドラマCDなどにより人気はさらに拡大。テレビアニメやOVAも好評で、2013年には『劇場版 薄桜鬼 第一章 京都乱舞』も公開された。2014年3月8日には『劇場版 薄桜鬼 第二章 士魂蒼穹』の公開も控えており、その勢いはまだまだ続きそうだ。
[高橋克則]

「ミュージカル『薄桜鬼』HAKU-MYU LIVE」
http://www.maql.co.jp/special/m-hakuoki/index.html


公演日程: 2014年1月4日(土)・5日(日)
会場: 日本青年館 大ホール
チケット価格: 指定席/6900円(税込) 小姓席/3000円(税込)

馬場徹「3~4へとつなげていきたい」 『幕末奇譚 SHINSEN5 弐』完成披露
 映画『幕末奇譚 SHINSEN5 弐 ~風雲伊賀越え~』の完成披露試写会が4日、東京都内で行われ、出演者の馬場徹、神永圭佑、馬場良馬、八神蓮、相馬圭祐、井上正大が登壇した。
 本作は、新撰組と陰陽師がよみがえらせた武将が戦う、ゲーム感覚のアクションハイブリッドエンターテインメント時代劇の第2弾。
 新撰組・副長の土方歳三役を演じた馬場徹は、第2弾の製作について「うれしかったです。この作品は僕たちが頑張って、3~4回目へとつながっていけるように作った作品なので、多くの方に見ていただけるように期待したいです」と熱く語った。
 藤堂平助を演じた八神は「新撰組は日本の話です。僕らにも先祖の血が入っている。芸能界でもこの若き6人が新撰組のようになっていけたらいいなあと思っているので、皆さんついて来てください」と観客にアピールした。 
 斎藤一を演じた馬場良馬は「僕は皆さんにご支持いただけたからこその『弐』だと思って、より一層成長した斎藤の姿を見せたいと思っていました。(仕上がった)作品を見てみたら、斎藤の鼻がまあ膨らんでいること、膨らんでいること。で、監督に『何であんなに斎藤の鼻が膨らんでいるんですかね』って聞いたら、監督は優しいから『あれは違うよ。CGで膨らませたんだよ』って言ってくれました…」と明かして、会場を爆笑の渦に巻き込んだ。
 映画は12月中旬から渋谷シアター・イメージフォーラムで公開。

『イケメン幕末◆運命の恋 ~華の都と恋の乱~』 iPhone/Android版にて同時リリース決定! 本日より事前登録開始!
 サイバードグループでモバイル事業を手がける株式会社サイバード(本社:東京都渋谷区、代表取締役社長 堀 主知ロバート)は、今冬、iPhone/Androidにて、女性向け恋愛ソーシャルゲーム『イケメン幕末◆運命の恋 ~華の都と恋の乱~」の提供を開始いたします。サービス提供に先がけ、本日11月19日(火)より、iPhone/Androidアプリで事前登録の受付を開始いたします。
 本作は、OLの主人公がタイムスリップした動乱の「幕末」の京都で、坂本龍馬・土方歳三・徳川慶喜など、誰もが知る総勢13名もの歴史上のスターたちとの運命の恋をお楽しみいただけます。
今後も史実・人物ともに非常に高い人気を誇る「幕末」を舞台にした本作の世界観をさらにお楽しみいただけるよう、季節に合わせたイベントや企画を多数展開してまいります。

《 イケメン幕末◆運命の恋 》
幕末へとタイムスリップしたあなたが出会う
あの人との運命の恋――
時は華の金曜日…。会社帰り立ち寄った
居酒屋「池田屋」の階段から転がり落ちたあなたが目覚めたのは
あの「池田屋事件」真っ只中の
動乱の幕末の世界だった…―
坂本龍馬、土方歳三、徳川慶喜…
幕末の世を駆ける、13人の志士たちとの出会い
今、運命を変える恋が始まる…――

■事前登録で体力回復アイテムプレゼント!!
さらにチュートリアルをクリアした先着3万名様には豪華特典も♪

本日11/19(火)より『イケメン幕末◆運命の恋 ~華の都と恋の乱~』の事前登録キャンペーンを開始します。キャンペーン期間中に、現在好評配信中の「イケメンシリーズ」アプリ内にて事前登録いただいた方全員に、体力回復アイテムをプレゼントいたします。また、本サービス提供開始後、チュートリアルをクリアしていただいた方全員に、限定アバター「恋和室:冬景色」と、「イケメンシリーズ」アプリ内で使用できる便利なアイテムを差し上げます。
 さらに、チュートリアルをクリアしていただいたお客様の中から先着3万名様に、スペシャルアバター「和薔薇の小袖」をプレゼントいたします。
※各種特典はサービス提供開始後、チュートリアル終了後に取得できます。

●事前登録期間
2013年11月19日(火)~2013年12月上旬(提供開始前日まで)

●サービス紹介
■時は幕末。華の京都を舞台に、恋のお相手はあの有名志士…―!?
歴史を動かす俺様志士「坂本龍馬」、鬼の新撰組副長「土方歳三」、美しき次期将軍候補「徳川慶喜」…時代を彩る、あの幕末の有名人が勢揃い!
他にも新撰組の天才剣士「沖田総司」や、奇兵隊を率いる攘夷(じょうい)志士「高杉晋作」など、華やかで個性豊かなイケメンたちが、今作ではなんと13人も登場します!
さらに、アプリ版ではシリーズ初となるSE(サウンド・エフェクト)・BGMも搭載し、臨場感溢れるストーリー展開をお楽しみいただけます。

情報提供 株式会社サイバード
配信開始日 2013年12月上旬予定
対応OS iOS 5.1以降、Android 2.2以降
情報料 基本プレイ無料、アイテム課金制
コピーライト (R)2013 CYBIRD

■サイバードについて
会 社 名: 株式会社サイバード(http://www.cybird.co.jp/)
本 社: 東京都渋谷区猿楽町10-1 マンサード代官山
代 表 者: 代表取締役社長 堀 主知ロバート
創 立: 1998年9月29日
設 立: 2006年10月2日
事業概要 : モバイルコンテンツサービスの提供およびモバイルビジネス支援
      クロスメディアソリューションの開発/提供
      モバイルマーケティング、モバイル広告/モバイルプロモーション、
      モバイルサイト構築、モバイルコマース、
      次世代プラットフォームの研究開発など

*サイバード及び「CYBIRD」ロゴは株式会社サイバードの商標または登録商標です。
*記載されている会社名及び商品名/サービス名は、各社の商標または登録商標です。
*QRコード(R)は、株式会社デンソーウェーブの登録商標です。
 ……キャラクターがチャラい(ぼそっ)。

時代小説は大人のラノベ!? キャラ萌え作品が人気
 歴史・時代小説に登場する男は半端なくかっこいい。そして女も半端なく色気があって魅力的。そんな魅力的で個性的なキャラクターを楽しむのも歴史・時代小説の醍醐味だ。『ダ・ヴィンチ』12月号では、現代もののヒーロー&ヒロインに物足りなくなった人のために、よき漢、よき女の乱舞する作品たちを紹介している。

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 歴史・時代小説に対して「時代背景とか知っていないといけないから難しい」と感じている方もいらっしゃるだろう。確かに、歴史的事実とか時代考証とか、知っていればより楽しい知識はいっぱいある。でも、一度、そうしたものを全部とっぱらって考えてみてはどうだろうか?

 そう考えると、このジャンルの小説は、すべて、「異世界を舞台にした空想小説」である。だって、どの著者も、その時代には生きていないのだから。そう、歴史・時代小説は、極言すれば、大人も楽しめる“ラノベ”。登場人物は、どこまでも魅力的になれてしまう。現代に置くと「さすがにいないよね」と思ってしまうほどの強い男、潔き男、誇り高き男、奥ゆかしい女、けなげな女、可憐な女……歴史・時代小説には、そんな男=漢や、女=おんながあふれている。“キャラ萌え”で、このジャンルの門を叩くのもアリだ。


■『謙信の軍配者』富樫倫太郎 中央公論新社 1575円
上杉謙信の軍配者・曾我冬之助、武田信玄の軍配者・山本勘助……。戦国時代に、「軍師」として生きた男の生き様、ライバルとの熾烈な戦いを描く歴史長編連作。11月には『北条早雲 青雲飛翔篇』も発売。

■『戊辰繚乱』天野純希 新潮社 1680円
時は、幕末。江戸に暮らす会津藩士、山浦鉄四郎は、新撰組に志願。その心の奥底には、美しき薙刀の達人、中野竹子への熱い思慕があった……『桃山ビート・トライブ』でデビューを飾った新鋭作家が描く幕末青春小説。

■『ふたり女房 京都鷹が峰御薬園日録』澤田瞳子 徳間書店 1680円
江戸時代の京都。幕府直轄の薬草園を営む藤林家で養われた女薬師・元岡真葛は、持ち前の聡明さと豊富な薬草の知識を駆使して、人のしがらみを解き明かす。しなやかにして自立した女性を主人公にした連作集。

■『炎天の雪』(上・下) 諸田玲子 集英社 各1995円
時は、江戸宝暦の金沢。駆け落ちをして夫婦になった細工人与左衛門と武家の娘、多美。二人の前に、藩内騒動の生き残りが……。加賀騒動と希代の大盗賊。二つの事件に巻き込まれ、激しくも切ない男女の物語。


構成・文=梅村千恵
(『ダ・ヴィンチ』12月号「秋の夜長にどっぷり浸りたい歴史・時代小説」より)
 富樫倫太郎さんの箱館三部作における土方さんもすてきです。
箱館売ります(上) - 土方歳三 蝦夷血風録 (中公文庫)
『松前の花(上)』
神威の矢(上) - 土方歳三 蝦夷討伐奇譚 (中公文庫)
 それぞれ上下巻です。

映画 とびだせ新選組!
チェック:2010年に逝去した作家・桑原譲太郎の小説を実写化した、異色のSFドラマ。女性だけで新選組隊士を演じるミュージカルの稽古をする劇団の前に、幕末からタイムスリップした本物の新選組が現れたことからさまざまな騒動が起こる。メガホンを取るのは、『初恋 夏の記憶』などの野伏翔。モーニング娘。の7代目リーダーを務めていた新垣里沙、『モンスター』などの永澤俊矢を筆頭に、バラエティーに富んだ顔ぶれが結集。奇想天外な物語に加え、混迷する現代に向けた熱いメッセージに胸が熱くなる。

ストーリー:劇団スピリッツオブジャパンのメンバーとして、新選組隊士を女性たちが演じるミュージカルの稽古に励んでいる典子(新垣里沙)。そこへ幕末から現代に時空移動してきた近藤勇(永澤俊矢)や土方歳三(宮内敦士)をはじめとする新選組の面々がなだれ込んでくる。幕末とあまりに違う風景や人々の言動に混乱して刀を構える彼らは、刑事の説得を受けて警察に出頭することに。そんな彼らを徳川家第21代当主だと名乗る鉄山(倉田秀人)が救うが、その裏には日本の国家転覆をめぐる巨大な陰謀が隠されていた。

店舗別購入特典&初回封入特典決定!豪華声優陣ボイスメッセージ&サンプルボイス第4弾公開!
弊社より2月27日発売予定のPlayStation Portable用ソフト『幕末Rock』では、本日公式サイトを更新し、店舗別購入特典と初回封入特典の内容を公開致しました。

また、5週連続で今作のメインキャラクターのサンプルボイスと豪華声優陣のボイスメッセージを公開するお楽しみ企画の第4弾も公開しております。

●店舗別購入特典決定!!
『幕末Rock』キャラクターと2人だけの時間を楽しめる「ドラマCD」!
豪華声優陣がプレイヤーの為にオリジナルシチュエーションを熱演!

特定の店舗でソフトを予約購入すると、その店舗限定の特典がGETできる「店舗別購入特典」。

6店舗で書き下ろしオリジナルストーリーが楽しめる「ドラマCD」が特典に決定!
ドラマCDの主役はプレイヤー自身!キャラクターそれぞれのオリジナルシチュエーションを貴方に向けて豪華声優陣が熱演!
個性爆発『幕末Rock』キャラクターと2人だけの時間を楽しもう!
 とりあえず新選組の2人のご紹介。
★ワンダーコーポレーション
ドラマCD「ポエミィドリーム」
出演/土方歳三(CV:森川智之)
忙しい毎日、充実してるけど…たまには誰かにたっぷり甘えたい、甘~い言葉を懸けてほしい時もある!

癒しを求める貴方にオススメなのが、この一枚!
『幕末Rock』随一の吟遊詩人でもある土方歳三とポエミィな時を一緒に過ごしませんか?

目をつぶって土方の言葉に耳を傾けてください。
聴き終わる頃にはどんな砂糖菓子よりもスイートで、ドリームな気持ちが胸いっぱいに広がっています!
さあ、一緒にsweet melting !!!
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ドラマCD「豚小屋物語」
出演/沖田総司(CV:小野賢章)

幕末 Rock

なんか最近体が重い……アッ!去年の服が入らなくなっている…!!!

そんな下腹のお肉が気になる貴方にオススメなのが、この一枚!
『幕末Rock』一甘言のトップスター沖田総司が2人だけの個人レッスンを付けてくれます。

聴き始めたら沖田の指示に身を委ねましょう。
甘美で厳しい指導により頬は赤らみ、体中が熱く震え、高揚からじんわりと汗が滲み、自然と代謝が活性化…!

さあ、一緒にmasochism training !!!
談笑さん言うところの「在家信者」というほどには信心は強くありませんので全回通しという程には通いませんが、23日土曜日の昼夜の部通しで見るほどには立川流が好きです。

【昼の部】
オープニングトーク 立川談之助・立川キウイ・泉水亭錦魚・立川平林・立川談吉

「金明竹」立川談笑
 マクラは一言二言、あっさりと噺に入る。
 道具屋の主人が外出するまでの経緯を一言二言にあっさり省略して、津軽弁たっぷり。
 今日の出来はとてもよかったと思います。

「日和違い」立川雲水
 家元の思い出話をマクラに。
 上方噺なんでネタはわからずに聴いてました。
 地口を重ねたしょーもない噺ではあるんだけど、笑っちゃった。

「反対俥」立川生志
 家元の思い出話をマクラに。
 威勢のいい俥屋さんが電車と競争したり、かれこれ。

「岸柳島」立川談四楼
 立川流が旗揚げしたきっかけとなった、落語協会における真打ち昇進試験で談四楼がかけたといういわくつきのネタ。槍の老侍が若き日の小さんを思わせる若侍として登場。

「町内の若い衆」立川左談次
 なるほど、佐談次のフラってこんな感じなのね。いやもお、ちょっとしたやりとりでもおかしくって。

「親子酒」立川志らく
 圓丈師の「落語家の通信簿」ネタ、きました。酔っ払いにかこつけて落語家の悪口。そこだけ面白かった……嫌ってほど志らくと波長が合わない(´・ω・`)。

エンディングトーク
 一同、三本締め

【夜の部】
5時入場6時開演と思ったら4時半開演だった……5分遅刻(^_^;)
オープニングトーク 立川談之助・立川志遊・立川談慶・立川談修

「桑名舟」立川談春
 「五目講釈」「鮫講釈」ともいう。
 講釈のところはさすが談春、いい声してる。

「七段目」立川談幸
 三味線も入って、いいお軽平右衛門でした。

「義眼」立川龍志

「蜘蛛駕籠」立川ぜん馬

「雑俳」土橋亭里う馬

「徂徠豆腐」立川志の輔
 ……すごいなぁ、志の輔師。皆さん立川流の師匠たちでそれぞれ聴かせる人達だけど、春さんの「桑名舟」ふくめて今日の演目すべての印象をさっとかき消してしまった「徂徠豆腐」。
 「江戸の風じゃなくて富山の風」とご本人は照れ隠しに言ってらっさいましたが。

エンディングトーク
 今日出演の全員が一言。全部の番組を仕切ったのは志らくさんらしく(志らくさんは全員でつくったと言っていましたが)春さんが「さら口にもっていかれたのは志らくの陰謀」と怒ってました……夜の部のメンバーを見ると、全員が春さんの先輩ですもんね。



正直、年間定席を確保しているTBS落語研究会への出席率があまりよくない。勤務地が東京都心でないので、出演者と演目を見て諦めることが多い。寄席や他の落語会に比べると観客が「鑑賞」モードで反応が薄いせいか、特に去年今年、テレビ収録される割には演者も緊張感がなくなってきているんじゃないかと思う。

 解説の京須さんのスタンスが、昭和の名人が活躍した頃に比べたら最近の落語家は……って感じなので、テレビ放送も落語の今を伝えようという熱意が伝わってこない。もっともNHK『日本の話芸』なんかさらに漫然とした印象で、録画を見ても面白くないので見るのをやめた。

 自分が子供の頃は、NHKでも民放でも演芸番組がけっこうかかっていた。立川談志や前田武彦が司会していた「笑点」の初期の頃とか、牧伸二のウクレレ漫談が看板の「大正テレビ寄席」とか。金馬の『居酒屋』や『長屋の花見』がラジオに流れ、テレビでは、当時は歌奴といっていた今の圓歌師匠の「山のアナあな」、「反対俥」を得意とした月の家圓鏡・今の橘家圓蔵、もちろん林家三平や立川談志や先代圓楽が活躍していた頃。文楽や志ん生には間に合わなかったものの、圓生や小さんの晩年には触れていたはず。そして、志ん朝もどこかで見ていたはず。
 四年前の師走にふっと「『芝浜』聴きたい……」と思ったのがきっかけで落語を聴くようになったのだが、子供の頃に落語などの演芸がテレビの花形コンテンツだった時代を経験していたことをよかったと思う。今の落語は寄席でも落語会でも今の時代の空気をはらんでいるから自分の腹に落ちて笑いや涙を生むのだけど、落語や講談がもっと生活に密着した手軽な娯楽だった時代を知っているのだから。

 そして、風呂といえば町内の風呂屋に行き、トイレはアパートや長屋では共同で汲み取り式だった昭和の時代を経験したことで、かろうじて落語のご町内の長屋の暮らしを、リアルに感じられる手がかりがある……と、言うのは年寄りっぽいか(‥ゞ。

 でも、初めて映画館のスクリーンで観た昭和の名人たちは、思った以上に圧巻だった。

シネマ落語 スクリーンで観る高座「落語研究会 昭和の名人六」

「馬のす」「大仏餅」八代目桂文楽
 昭和45年(1970年)……万博の年なんだよなぁ。自分は万博に行けなかった夏だったけど「人類の進歩と未来」というキャッチフレーズに明るい未来を信じられた時代の空気を浴びていて、一方でベトナム戦争が泥沼化していて70年安保に大学生が盛り上がっていたから少ない小遣いの中から「サイボーグ009」を古本屋から調達して読みふけっていた頃。すみません、落語は週末の演芸番組に流れるもので、関心を集中させて見るものではなかったです。
 なのに、今見ると、白黒の画面なのに、落語家ってすごいなぁと思う……枝豆を食べる仕草を見て、枝豆が見える(汗)。

「三枚起請」三代目古今亭志ん朝
 今回の中で一番新しく昭和60年(1985年)のもの。バブル景気直前ですね……自分は高田馬場の6畳一間のアパートに住み、「神田川」よろしく銭湯に通ってました。その年の忘れられない出来事といえば、8月12日の日航ジャンボ機墜落事故です。
 2001年に亡くなった志ん朝師匠の高座に通う機会があったなら、私はきっと朝さまファンになっていたでしうょう……という確信をますます固くしてくれる、志ん朝師匠の映像でした。

「鰍沢」六代目三遊亭圓生
 今回見た中では一番古い映像。昭和60年(1975)、文楽師匠の映像は4月の回だが、圓生師匠のは2月。そうか、「鰍沢」の季節感あるなぁ。
 今回のシネマ落語を見に行く動機となったのは、圓生『鰍沢』に尽きる。録音された圓生師匠の口演はじめ音源として聴いているし、屈指の大ネタなので回数は少ないがライブでも聴いている、自分にとっては五本の指には必ず入るネタ。雪に迷った江戸の大商人が苫屋で出会った謎の女に翻弄される火曜サスペンスばりの噺なのだが、世の辛酸をなめた女の側から旅人の言動を見たら無知とか無邪気がどれだけ人を傷つけるものかを発見させてくれるのだ。
 大きな眼の演技が素晴らしい圓生の魅力を、この映像で堪能した。かつては吉原で一世を風靡したお熊が旅人に、自分の過去については亭主に言わないでくれと頼むため「ごくない(極内密)にね」と囁く場面で、圓生師匠の眼もとから女性の幻影が立ち上がってきて、ぞくぞくっとした。眼で演技するとは知っていたけど、スクリーンで大写しになる圓生師匠にいろいろな人物像を見て、やっぱり凄かったんだなぁとうっとり。

「時そば」五代目柳家小さん
 圓生師の「鰍沢」の後で見たら小ネタ過ぎると思ったのだが、これがやっぱりさすが小さんだなぁとうっとり。
 よく落語家は蕎麦をたぐる音とうどんをすする音を演じ分けるとかいうけど、小さんに限っては、細かいところはどうでもいい。蕎麦をたぐる奴の了見になってれば、それでいいじゃねぇか。
 ……って感じだ。限りなく前座ネタに近い「時そば」なんだけど、大師匠が演じたら全然違う……それが落語ってやつだね。

鈴本の昼席トリが喬太郎さんでそれも魅力的だったが、鈴本に入れるのは昼席も途中からになるので、きっと立ち見になるだろうと思った。で、昼夜入れ替えなしの新宿末廣亭に、夜席トリの一之輔さん目当てに入った……その途中で千葉県北西部を震源とするマグニチュード5.2の地震が発生。新宿周辺の震度は3だろうが、木造建築の末廣亭はミシミシ揺れた。その場を収めた一之輔師匠は男前でした。

【昼席】

「片棒」歌る多
 女流落語家の歌る多姐さんの「片棒」は、金銀鉄が娘。女性落語家が古典ネタを自然に演じるには発声からネタ選び・演出などいろいろなハードルがあると思うが、女性の出番を多くするのもひとつのやり方だと思う。
 今回はお金とお銀のみ、お銀のど派手な葬式プランの手拍子で観客席が一体となる感じ。そこでサゲとなるのも、いい感じ。

都々逸漫談/小団治

太神楽/仙三郎社中

死神/小袁治
 風邪気味というのがサゲの伏線という「死神」。

【夜席】

転失気/しあわせ

権助魚/一蔵

キセル漫談/ひびきわたる
 すみません、ここのところお会いすることが多いせいか、マンネリなネタに笑えなくなってきています……m(__)m。

金明竹/木りん
 本来は二つ目に昇進した柳家かゑるさんの高座なのですが、他に出番があるようで、林家木久扇師匠の弟子でちょっと早く昇進した木りんさんの高座でした。
 相撲部屋の御曹司で、身長192センチで、なかなかのイケメン。大きい身体を表現力に活かせる作品をものできるといいですね。

新聞記事/歌奴

奇術/伊東夢葉

宮戸川/小満ん
 何でもすぐ呑み込んでしまう霊岸島のおじちゃんと安政二年を思い出すおばちゃんが好き。

松山鏡/左楽

紙切り/正楽
 「天どんとモアイ」に笑った。

親子酒/圓太郎
 すごーく爆笑編。かみさんにお酒をねだるオヤジがかわいい。

蛙茶番/一朝
 さすがは十八番、たっぷり笑わせてくれました。

インフルエンザ(仮)/天どん
 貧乏アパートにインフルエンザで寝ている男のところに、訪問販売員が。

漫才/ロケット団
 漫才でいま一番ノリがいいのはロケット団ですね。

にらみ合い/彦いち
 得意ネタを短めに、さらっと。

ぼやき居酒屋/はん治
 得意ネタを短めに、さらっと。歌謡曲は「月の法善寺横丁」どまり。

太神楽/勝丸
 インターネットに書かないでください、と頼まれてます(^_^;)。

短命/一之輔
 はばかりの辺りで縦揺れ、ついで横揺れ。予測したよりも横揺れは弱かったけど、ここは末廣亭。心の中で「私、末廣亭の柱につぶされて死んじゃうのかな……痛そう……落語ファンの鑑かも……でも一之輔さんの『短命』を聴きながら死ぬって、そんな落語みたいな死に方(苦笑)……」などと考えていたら地震収まりました。
 そして一之輔さんも「末廣亭は木造だから法隆寺みたいに揺れる(揺れて力を逃がすから倒れないという意味?)」などと言って場内を落ち着かせてくれました。男前。
 再開された「短命」、一之輔さんらしいくすぐりが冴えまくって、どっかんどっかん。しばらく「短命」は一之輔さん版が私の一番になりそうです。






せっかくの連休なので出掛けたかったのですが……あいにくの空模様なので自宅でまったり。


福島
鎮魂の歌声と花火 福島で3日「福幸祭」
 福島県二本松市の安達ケ原ふるさと村で3日、「福幸祭~希望の光~」が開かれる。戊辰戦争に出陣した「二本松少年隊」や東日本大震災の犠牲者への鎮魂の祈りを込めた祭り。

 地元団体による和太鼓や、津軽三味線(青森)など東北の伝統芸能が披露される。午後7時から、同市の中学合唱部生徒らの歌声と共に花火が打ち上げられる。詳しくは二本松青年会議所(0243・22・0556)へ。

坂下で詩碑除幕 秋月悌次郎「北越潜行の詩」
 幕末の会津藩士、秋月悌次郎が戊辰戦争後に詠み、会津三絶の一つといわれる「北越潜行の詩」の詩碑が会津坂下町の束松峠に建立され27日、除幕式が行われた。
 悌次郎は戊辰戦争の敗戦後、会津藩の善処と藩の若者の教育を懇願するため、旧友であった長州藩士奥平謙輔がいた越後にひそかに会いに行った。その帰り道に束松峠の頂上から故郷を眺め、藩の行く末を案じて「北越潜行の詩」を詠んだとされる。
 束松峠を生かした地域振興を図る地元のグループや秋月悌次郎顕彰会、歴史愛好者らは、悌次郎の功績を伝えようと詩碑建立を進めてきた。除幕式は悌次郎の子孫に当たる仙台市の秋月孝真さん、悌次郎の伝記「落花は枝に還らずとも」を執筆した直木賞作家の中村彰彦さんらを迎え、行った。
 実行委員会の目黒督朗委員長、秋月さんがあいさつした後、来賓とともに除幕した。出席者は会津盆地を望む峠の頂上に立つ詩碑を前に七言絶句の「北越潜行の詩」を吟じ、会津を愛した悌次郎に思いをはせた。
 除幕式後、会津坂下町中央公民館で中村さんの記念講演会が開かれ、悌次郎の生きざまを振り返った。

( 2013/10/28 10:27 カテゴリー:主要 )

千葉
激動の幕末を駆け抜けた千葉・東金出身の剣士 古文書が物語る波乱の人生
 千葉・東金出身の剣士が激動の幕末を駆け抜けた史実を物語る古文書が千葉県九十九里町の旧家で見つかり、茂原市の郷土史家、加藤時男さん(74)が解読・検証した。後に新撰組として活躍する近藤勇や土方歳三も名を連ねた浪士組や、新徴組の隊士として、歴史に翻弄されながら各地を転戦した1人の剣士の波乱の人生が明らかになった。

 この剣士は、上総山辺郡川場村(現東金市)出身の伊藤滝三郎。伊藤家当主の子孫、高山妙子さん(79)と結婚した九十九里町の幸洋さん(78)が妙子さんの荷物の中から伊藤の履歴書、江戸市中見廻り日誌、御用控えなど10点の古文書を見つけ、郷土史家の加藤さんに解読を依頼した。

 古文書や家伝によると、滝三郎は伊藤家の次男だった。体が大きく、若い頃から剣術修業に励んだ。江戸に出て品川に道場を開き、門弟は30人ほどいたという。

 文久2(1862)年、幕府は、京都警備を目的として浪士組を結成した。伊藤は志願し、隊士として京都にのぼった。近藤勇や土方歳三らも浪士組の隊士だった。

 その後、近藤らは新撰組を結成したが、浪士組の多くは、江戸にもどる。庄内藩預かりとなり、江戸の警備を担当する新徴組として再編された。

 新徴組は十数人の組に分かれ、昼と夜、分担して江戸の市中を巡回した。伊藤は5番組小頭として、江戸の治安回復に取り組んだという。

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浪士組や新徴組の隊士として、激動の時代を駆け抜けた伊藤滝三郎の人生を物語る古文書。高山幸洋さんと妙子さんが保管していた=千葉県九十九里町(塩塚保撮影)
浪士組や新徴組の隊士として、激動の時代を駆け抜けた伊藤滝三郎の人生を物語る古文書。高山幸洋さんと妙子さんが保管していた=千葉県九十九里町(塩塚保撮影)

 また、伊藤は見廻り日誌を書き残しており、巡回時の様子を克明に記録。日誌ではちょうちんをかざして神田、浅草、吉原、湯島などを巡回し、乱暴者を取り締まる様子が伺える。

 やがて、戊辰戦争が始まった。新徴組は庄内藩とともに東北に赴き、官軍と戦った。加藤さんが現地や文献を調査したところ、寄宿帳に伊藤の養子、民三郎の名前が記されていた。加藤さんは伊藤も庄内まで転戦し、現地で亡くなったのではないかと推測している。

 加藤さんは「激動の幕末、東金出身の剣士が浪士組、新徴組の隊士として波乱の人生を生き抜いたことを示す貴重な史料だ」と語る。高山妙子さんは「伊藤家にはたくさんの古文書がありましたが、多くはふすまの下張りに使いました。わずかに残った古文書で滝三郎のことが分かってよかった」と話している。

東京
坂本龍馬の直筆資料など、ネットで公開 宮内庁
 【島康彦】皇室ゆかりの古文書や和歌集、絵巻物などのデジタル画像約1万点と目録約31万点について、宮内庁は1日からホームページで公開を始めた。天皇直筆の書、世界に一冊しか残っていない「孤本」といった貴重な史料が多く、単語を入力すれば簡単に検索できる。

【写真】伏見天皇の直筆の書『伏見天皇御集(ぎょしゅう)』

 公開されたのは、有栖川宮幟仁(たかひと)親王が記した明治新政府の基本方針「五箇条御誓文(ごかじょうのごせいもん)」、後鳥羽上皇による写本「新古今和歌集」など。坂本龍馬が自筆した「薩長同盟裏書(うらがき)」は、桂小五郎(後の木戸孝允)に求められ、龍馬が朱字で保証の裏書きをしたものだ。

 鎌倉時代の日記文学「とはずがたり」の写本は、世の中に一つしかないとされ「天下の孤本」と称される貴重なものという。

 主に明治時代に撮影された古写真約500点も公開する。1888(明治21)年の福島県・磐梯山噴火などの災害写真のほか、幕末のパリ万国博覧会などの写真も。

 これまでは皇居内にある宮内庁書陵部で閲覧申請をする必要があり、年間400件ほどの申請があった。書陵部の図書寮文庫には約39万点の蔵書があり、今後も公開する数を増やしていくという。宮内庁ホームページは、http://www.kunaicho.go.jp/

静岡
「世界遺産登録推薦」で注目集める韮山反射炉 静岡
 伊豆の山々を背景に、れんが造りの4本の煙突が高く空に伸びている。幕末、韮山の代官で幕臣を務めた江川太郎左衛門(英龍)によって築かれた静岡県伊豆の国市の韮山反射炉(国指定史跡)だ。

 反射炉とは、内部で熱を反射させることで千数百度の高温を作り出し、鉄などの精錬を行う溶解炉のこと。鎖国政策をとっていた日本にも天保11(1840)年のアヘン戦争以降、列強の圧力が高まり、外国に対抗できる高性能の大砲が必要となっていた。そうした大砲を製造するため、質の高い鉄を供給する反射炉が必要だったのだ。

 煙突の高さは約16メートル。4つの炉を持ち、煙突の大部分は約160年前に積まれたれんが。外側に補強用の鉄枠を取り付けるなど幾度かの補修工事を経て、ほぼ当時のままの姿をとどめている。

 今年9月、「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」の構成資産の一つとして、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産に推薦されることが決定。富士山に続いて県に2つ目の世界文化遺産が誕生する可能性が出てきた。

 この反射炉建設を手がけた英龍という人物は興味深い。川路(かわじ)聖謨(としあきら)、渡辺崋山、高野長英といった蒼々(そうそう)たる人物たちと交流を持ち、西洋式軍隊や洋式砲術を導入。品川の台場建設を指揮する一方で書や画、漢詩、陶芸などもたしなんだ。また、代官として剣豪・斎藤弥九郎とともに行商人に変装して隠密調査を行うなど、その活動は実に多岐にわたる。反射炉から2キロほど離れた場所に、英龍ら江川家が代々住んだ江川邸が今でも残されており、彼の残した書画などさまざまな足跡をたどることができる。

 その江川が日本の海防を深く憂い、先例主義・事なかれ主義に凝り固まった幕府の下で必死の思いで築き上げたのが、この反射炉だ。安政元(1854)年に着工したが江川は炉の完成を見ることなく、翌年に死亡。跡を継いだ息子の英敏が同4年に完成させた。

 伊豆の国市役所によると、昭和50年代には年間30万人以上が訪れていたが、少しずつ減り、平成22年には約5万人にまで減った。しかし、23年、世界文化遺産の構成資産候補となったことで注目が集まり、昨年は約8万人にまで回復。「今年は10万人に届きそうです」とうれしそうだ。

 現在、同市は来夏に控えた国際記念物遺跡会議(イコモス)の現地調査に向け、資料の整備などに大忙し。

 「今後の課題は反射炉の維持。前回の補修から25年がたっており、相当傷んでいる。オリジナルの状態をどうやって維持していくかが問題です」と話している。

 ユネスコの判断が下るのは2年後。幕末、韮山の地から世界を見据えていた英龍の反射炉は「世界の反射炉」となるのか。入り口に立つ英龍の銅像は、残された自画像そのままの大きな瞳を見開いて、今日も空を見上げている。(岡本耕治、写真も)

 ■韮山反射炉 伊豆の国市中鳴滝入268。伊豆の代官、江川太郎左衛門(英龍)が手がけた大砲鋳造用の金属溶解炉。実際に稼働した反射炉としては国内で唯一現存。開館は午前9時~午後4時半。12月31日と1月1日は休み。観覧料は一般100円、小・中学生50円(伊豆の国市民は無料)。問い合わせは(電)055・949・3450。
 また近々韮山に足を運びたいものです。

新潟
新潟・長岡藩と友好の芽 一関の郷土史会と初交流
 新潟県の越後長岡藩主17代当主の牧野忠昌さん(71)=神奈川県逗子市在住=ら藩士の子孫は27日、戊辰戦争(1868~69年)で敗走した藩士が一時滞在したとされる一関市内の寺を初めて訪問した。招待を実現させた同市の一関藩志会(小山真会長)は「古里の知られざる歴史を市民に伝えながら、新潟との交流にもつなげたい」と、世紀を超えて結ばれた友好の発展を期待した。

 一関藩志会によると、越後長岡藩は戊辰戦争で新政府軍に敗れた後、約600人の藩士と家族が会津や米沢、仙台を経て現在の一関市大東町や室根町などに46日間滞在したという。

 牧野さんと妻美和子さん(61)のほか、越後長岡藩藩士会「柏友(はくゆう)会」の会員ら計7人が来県。牧野さんは「長岡の方が滞在した具体的な場所は知らず、お世話になった方々に感謝したいと思っていた。戊辰戦争から約150年たつが、私には最近のように感じられる」と静かに手を合わせた。

【写真=越後長岡藩士の家族が亡くなった記録が過去帳に残る長泉寺で供養を行う牧野忠昌さん(手前右から2人目)ら】

(2013/10/28)

京都
龍馬好き、京に集まれ 11月16日「幕末祭」
 幕末の志士、坂本龍馬のファンらでつくるNPO法人京都龍馬会が11月16日に、創立20周年の記念イベント「京都幕末祭」を京都市中京区の市役所前などで開催する。龍馬や妻おりょうになりきるコンテストや歴史講演、堤灯行列など多彩な行事を通じて維新の英雄に思いをはせる。

 同会は同区の河原町商店街の青年会が、龍馬をテーマにまちづくりに取り組むため1993年に発足させた。おりょうの実家跡などに石碑を建て、会報を発行している。龍馬の命日の11月15日前後には慰霊の堤灯行列を催してきた。今年は20周年記念で行事を拡大し、市役所とゼスト御池の2会場で行う。

 コンテストでは「我こそは龍馬、おりょう」と思う人を募る。自己アピールを審査し、優勝者の男女各1人は、17日に伏見区の伏見竜馬通り商店街である「龍馬祭」のパレードに龍馬、おりょう役で参加できる。

 龍馬関連の曲を持ち歌にする歌手らが出演するコンサートのほか、研究者5人の講演やパネル展示で幕末史を紹介する。恒例の堤灯行列は午後4時半から市役所を出発する。地元商店や山口県の物産展なども繰り広げる。

 同会の赤尾博章理事長(61)は「会にこれほど大勢の人が集まったのは、龍馬さんだからこそ。これからも仲間を増やしたい」としている。

 堤灯行列は11月9日まで、「龍馬おりょうコンテスト」は10月末までに京都幕末祭のホームページから申し込む。京都龍馬会TEL075(211)3666。

<京都・金戒光明寺>山門修理終わり1日から特別公開
 京都市左京区の浄土宗大本山、金戒光明(こんかいこうみょう)寺で山門の修理が終わり、1日から特別公開が始まる。12月8日まで。同寺は幕末、京都守護職に任じられた会津藩主、松平容保が本陣を置いたことで知られる。

【写真特集】「平成の大修理」進行中 姫路城や平等院鳳凰堂など

 山門は1860(万延元)年の建築で高さ約23メートル。楼上には釈迦(しゃか)三尊像と十六羅漢像が安置され、天井一面に「蟠龍(ばんりゅう)図」が描かれている。午前9時から午後4時。拝観料は大人800円、小学生400円(山門のみの場合)。同寺(075・771・2204)。【花澤茂人】

京都御所、秋の一般公開が始まる
 京都御所(京都市上京区)の秋の一般公開が31日、始まった。観光客は、平安時代からの御所の歴史を伝える建造物や展示品に見入っていた。

 11月4日まで。

 江戸時代後期の画家・岸駒(がんく)が富士山を題材に墨で描いた屏風(びょうぶ)「墨絵山水」、幕末から明治に活躍した画家・塩川文麟(ぶんりん)がクジャクやモクレンなどを描いた襖(ふすま)絵、雅楽の舞装束を着た人形7体などを見学できる。

 北海道石狩市の男性(75)は「堂々とした建物や庭に、皇族の歴史を垣間見ることができた」。入門は午前9時~午後3時半。無料。

山口
錦絵:幕末に描かれたゾウ 2点を展示−−周南市美術博物館 /山口
 ゾウ2頭が周南市徳山動物園にやってきたのに合わせ、市美術博物館は150年前のゾウの錦絵2点を展示している。鋭い目をした巨体に、「昔は珍しかったゾウが人々の目にどんなふうに映ったか、現代のイメージと比べてほしい」と話している。

 「新渡舶来之大象」は、幕末の文久3(1863)年にインドから横浜に入港し、見せ物として江戸・両国へ向かう3歳の雌を歌川芳豊が描いている。ゾウは縁起の良い「霊獣」とされ、「一度これを見る人は、七難を滅し、七福を生ず」との文章が添えられている。

 ゾウを呼ぶ運動が盛んだった昨年、同博物館が購入した。11月1日からは、ゾウを描いた別の錦絵3点と入れ替える。【蒲原明佳】

〔山口東版〕

宮崎
特別展:「幕末維新」実像伝える 国重文含む65点展示−−都城・島津伝承館 /宮崎
 特別展「幕末維新 近代国家への飛躍」が都城市早鈴町、都城島津伝承館で開かれている。書簡や絵図などの資料を通じて、幕末維新期の都城島津家や薩摩藩の活躍、動乱期の実像を伝える。11月24日まで。

 展示品は、彦根城博物館(滋賀県彦根市)など所蔵の国指定重要文化財7点を含む65点。大老・井伊直弼の暗殺を描いた「桜田事変絵巻」や勝海舟の日記、大久保利通の書簡のほか、戊辰(ぼしん)戦争で戦死した薩摩藩士を追悼する西郷隆盛直筆の「東征戦亡碑下書」が九州初公開される。

 また、幕藩体制を揺るがす発端となった黒船来航に関する重文で、米国大統領の親書授受を描いた「ペリー浦賀来航図」は、11月6日から展示する。

 観覧料は▽大人300円▽高大生250円▽中学生200円▽小学生150円。【重春次男】


コラム
松尾多勢子 幕末駆け抜けた「おばさん力」 ヒロインは強し(木内昇)
 女と生まれたからには、最強の人類と名高い「おばさん」期を経ずしてなんとなる、と思うことがある。他人の目などお構いなし、やりたいことをし、思ったことを言う。恥じらい? そんなものはとうの昔に縁を切りました。仕事の場では誰しも理性で自分を律しがちだが、例えば現状を打破する場面などで、案外この「おばさん力」はものを言いそうな気もする。

■勤王家として活躍
 1811~1894年。信濃国伊那谷飯田城下の山本村(現・長野県飯田市)に生まれる。文久2年(1862年)に京に上り、彼の地で平田国学の門人と親交を結び、諸藩の攘夷志士の活動を助ける。足利三代の木像の首が何者かによって梟首(きょうしゅ)された事件に関与したとの疑いを受け、一旦は伊那谷に戻り、訪ねてくる勤王家を家に泊めて世話する。明治元年(1868年)再度入京。岩倉具視に仕え、国事に関わる。
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■勤王家として活躍
 1811~1894年。信濃国伊那谷飯田城下の山本村(現・長野県飯田市)に生まれる。文久2年(1862年)に京に上り、彼の地で平田国学の門人と親交を結び、諸藩の攘夷志士の活動を助ける。足利三代の木像の首が何者かによって梟首(きょうしゅ)された事件に関与したとの疑いを受け、一旦は伊那谷に戻り、訪ねてくる勤王家を家に泊めて世話する。明治元年(1868年)再度入京。岩倉具視に仕え、国事に関わる。
 さて、幕末の伊那谷に松尾多勢子なる女性がいた。豪農の家に育ちながら、畑仕事よりも書物が好きな少女だった。こと和歌に関心を持ち、当時の農村には珍しく、師について本格的に学んでいる。

 十八歳で嫁いだのちは七人の子を育て、舅(しゅうと)、姑(しゅうとめ)にも従順に仕え、胃弱な夫のために毎朝三十分按摩をする献身ぶり。要領も手際もよく、賢妻として評判が立つほどだったが、元来知識欲や好奇心が強い彼女は家の中だけに収まってはいなかった。

 子育てが一段落すると、夫を伴い旅するようになるのだ。松本、遠州(静岡)、さらには江戸まで。家が裕福だったこともあるだろうが、女性がこれほど旅するのは、当時としては珍しい。老いた夫が体力的問題から家に留まるようになると、今度は平田国学を学んで攘夷思想を育み、挙げ句、嫁いだ娘の家に遊びに行くと嘘をつき、尊皇攘夷の活動に勤しむため単身京へ上ってしまうのである。このとき五十二歳。普通なら隠居している歳である。

 ここから多勢子は、地縁も薄い京でよくぞこれだけ、と感嘆せずにはいられぬ人脈を着々と築いていく。長州や土佐の志士たちと国事を語り合い、公家の歌会にまで参加。一旦伊那に戻って勤王家をかくまう働きをしたのち、再度上京すると今度は岩倉具視と接触、その信頼を勝ち得て屋敷に住み込むことを許され、女参事のような仕事を任されたというから驚く。岩倉はこの頃、王政復古を成し遂げていた。多勢子の働きを認めたのだろう、維新後、中央政府の要職に就いたのちも彼女を東京に招いたり、西洋菓子を送ったりと、親交を続けたという。動乱の京でつちかった人脈は、のちのちまで彼女の人生を彩ったのだ。

 しかし、特別な地位にあったわけでもない普通の「おばさん」がなぜここまで活躍できたのか。それは、彼女の教養もさることながら、体裁を繕わない正直さが、海千山千の中で信頼を勝ち得たからではないか。こんなことをしたら恥ずかしい、格好悪いと物怖じする場面で、彼女は堂々と自分を貫いたのだ。

 周りを無視した厚顔は仕事に支障をきたす。だが、しがらみを取っ払い、真摯に本音を訴えて行動を起こすことは、物事を本質的に動かす上で不可欠だ。そしてこの能力は案外、建前や立場を重んじる男性より、「おばさん力」を内に秘めた女性のほうが長けている気もするのだ。

 家庭人としての務めを果たし、勤王家として活躍し、多くの要人と交流をした。多勢子の希有な人生は、正直に生きた道筋そのものなのだ。

[日本経済新聞朝刊女性面2013年11月2日付]


 木内 昇(きうち・のぼり) 67年東京生まれ。作家。著書に「茗荷谷の猫」「漂砂のうたう」(直木賞)「笑い三年、泣き三月。」「ある男」など。

※「ヒロインは強し」では、直木賞作家の木内昇氏が歴史上の女性にフォーカス。男社会で奮闘した女性たちの葛藤を軽妙に描きます。
トリ代演となると連休中の寄席でもかなり空席が目立ちます。でも代演が好きな師匠だったりすると、代演回が狙い目だったりします。

転失気/なな子

東北の宿/馬るこ
 作者がいらっしゃるようですが……何だか『マキシム・ド・呑兵衛』そっくり……白鳥さんは自分の作品を誰が演じてもいいと公言していますが……。

奇術/ダーク広和
 千円札、二回もテレポートした。

ん廻し/おじさん改め、さん光
 表情や仕草が権太楼師匠そっくり。

牛ほめ/一朝
 お得意なネタですね。

元犬/馬石
 こちらもお得意なネタですね。

寿司屋水滸伝/百栄
 生で初めて聴いたなぁ……不覚にも居眠りしてしまって前半を聞き逃した、残念。

中入り

太神楽曲芸/勝丸
 Twitterとかに書かないでくださいと懇願され。

長短/南喬
 姿や表情が市馬師の20年後を彷彿とさせるんだよなぁ……。

紙切り/正楽

天災/文左衞門
 文師の『天災』、ライブで聴いたのは初めて。やっぱり八五郎の喧嘩っ早さが図抜けているなぁ……。


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