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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
とても久しぶりの落語会と思ったけど、たかが一ヶ月半ぶりでした(^_^;)。

 2010年にライブで落語を聴き始め、その年から年間チケットを確保しているTBS落語研究会、今回は更新しようかどうしようかとても迷いました……正直、昔は生でテレビ収録されるという緊張感が演者にかけるプレッシャーがいいパフォーマンスを生んだだろうと思うのですが、私には同じ演者が寄席や落語会でもっと笑わせたり泣かせたりしてくれているのを知ってしまったので、テレビ放送の録画収録に遠慮してくしゃみひとつ立てられない雰囲気がリラックスできないのです。でも、顔付けは毎回いいし、寄席では聴けないネタも聴ける機会なので、いろいろ迷った挙げ句、今年も常連席を更新しました。

持参金/菊志ん
 友人への借金を取り立てられた男が、知り合いから持ち込まれた持参金付の嫁取りにOKするが、その縁談は……(^_^;)。えーと、商家に雇われた女中が妊娠したことが判明して、相手もわからずに臨月まで放置されるという設定が無理だと思いますけど、五両が循環参照しちゃっているところがキモですよね。

花見酒/小満ん
 渋い落語ファンに好まれる小満ん師匠。花見客を目当てに酒を売って一儲けしようとする兄貴分と弟分が、仕入れた酒を呑んじゃっての体たらく。隅田川の桜といえば『百年目』が好きな噺なんだけど、ダメダメな兄弟分の『花見酒』も面白いかな。

植木のお化け/一朝
 お化けといっても怪談ではありません……人が死んで出てくるのは幽霊で、お化けは他の生き物が霊的な力を使って別の形に化けたものとか、何とか説明してくれてましたが、忘れました。
 要は、一朝師匠が芝居から面白い場面を切り取る名場面集なんですよね。うー、歌舞伎の知識経験があったらもっと楽しめたかと思います。帰りのバスで歌舞伎通らしきファンが大成駒のコピーなのがいい、みたいなことを言っていましたので。

抜け雀/喬太郎
 左甚五郎ネタの『竹の水仙』が古典レパートリーの中でも有力な喬太郎師匠が、似たような噺ながら、古今亭レパートリーの印象がつよい『抜け雀』をどう演出するか注目……って、嫌な観客ですよね(^_^;)。でも落語研究会って全体にそういう猛者な落語ファンが多い空気が漂ってます。
 小田原宿の説明も、無一文の絵師が相模屋に逗留する経緯も端折って、腰の低い宿主が、無一文の絵師が一ヶ月以上逗留した費用の一部として五両を請求するところから展開。私が蓄積している他の落語家が演じる若絵師より、父親がメッセージとして残したフィードバックに対して素直なところが『井戸の茶碗』の高木氏に近い感じ。一方、父親の静謐で鷹揚な雰囲気は、今まで聴いた『抜け雀』の中でも印象的。




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「ザ・柳家!Ⅴ」だそうです……いい顔付け。2月は恒例で過去ネタ帳がパンフレットの特集で、ラッキーです。

たらちね/緑太
 「父は京都の産にして姓は安藤、名は……」と始まって、長い名前だと勘違いした八っつぁんが、『寿限無』よろしく長すぎる名前によるトラブルをいくつか妄想したところでサゲ。あまりない落とし方なので、これはこれでいいかな。

橋場の雪/三三
 マクラは、大雪で交通網が断絶したために夜の落語会の中入り前に間に合わなかった三三師が、笑福亭たまさんの携帯電話から『鰍沢』を一分話してお客様に許してもらったという爆笑ねた。
 「橋場の雪」は女房のお花(一説には「宮戸川」のお花のその後とか……どうだろ?)の悋気が今いち好きになれないかな……若旦那のお父さんである隠居が活躍する(?)「夢の酒」の方が、自分には面白いのだけど、三三さんはやはり定吉と若旦那の方が似合うかな。

妾馬/市馬
 ひょっとしたら市馬さんで「妾馬」聴くの初めてかも。経緯はかなり要約されて、大家さんと八五郎のやりとり、赤井御門守様のお屋敷に呼ばれた八五郎のとんちんかんぶり、殿様と八五郎のやりとりの三場面に集約。得意の喉で都々逸を三つ四つ。鶴の一声でお取り立て……ってことは、市馬さんワールドでは「粗忽の使者」につながるのかしら。

(中入り)

明烏/花緑
 夜に予定していた落語会が雪のせいで飛んだそうで、その分もエネルギーを注いでくれた様子。
花緑さんのニンと今の年齢に合っている噺だと思う……若旦那の初心さと、源兵衛太助の吉原ガイドで、この噺は楽しい。

寝床/権太楼
 大ネタなんでなかなか生で聴けません。自分的には立川生志さんと橘文左衞門師の口演しか聴いてないみたい……でも録音で文楽に始まって圓生、志ん朝、近年では昇太と、結構好きなネタです。
 なので、風邪で喉を痛めているということで、お茶を手元に置いた権師が、途中で数回咳き込んだとしても、この噺は面白いのです。しかも、権師はやっぱり爆発的に弾けます。
 以前の番頭さんが北海道に逃げて「素人義太夫を撲滅する会」の会長になったという回想で終わるので「素人義太夫」というネタ名の方が正しいのかも知れませんが、会場内に掲示されたネタの写しは「寝床」でした。


何十年ぶりかの大雪が東京都内にも降ってますね……自分は昨年末から公私ともに10年に1度あるかないかの事件というかイベントが続いており、大雪も、そのひとつ。
 一言で言って、今まで気楽に生きてきたつけが、この1ヶ月半で回ってきた(汗)感。
 土方さんの35年の生涯で最後の6年が時代の動乱の中を闘い続けた時代の変化のスケールの大きさとは比較にはならないけど、副長のファイティングスピリットを分けて欲しい〜(´。`)……函館旅行中のイバハチさんが、毎日最期の地碑に日参して私の分も戦勝祈願してくださっているそうです(深謝)。まだまだ、私も闘い続けます。

福島
戊辰戦争白河口の戦い 記念碑建立へ
 白河市内の歴史研究家や旧士族の子孫は6日までに「戊辰戦争白河口の戦い記念碑建設委員会」を発足させ、記念碑を激戦地・稲荷山頂上周辺に建設することを決めた。費用について市民に広く協力を求めていく。
 委員会は14人で構成、NPOしらかわ歴史のまちづくりフォーラム理事長の人見光太郎さんが委員長となる。棚倉藩主だった阿部家22代当主の阿部正靖さん、白河ゆかりの結城家27代当主の結城直樹さんらが顧問を務める。昨年放送されたNHK大河ドラマ「八重の桜」で戊辰戦争白河口の戦いが取り上げられたことを受け、後世に史実を伝え、新たな観光資源として地域振興に役立てようと建設を決めた。
 碑は高さ1・4メートル、幅1・5メートルの黒御影石で表に戦いの全戦死者名、裏に歴史的意義を刻む。費用は約200万円を見込んでおり、目標額に達し次第着工する。寄付の申し込み・問い合わせは楽蔵内の白河戊辰見聞館 電話0248(21)9395へ。
   ◇  ◇
 人見委員長らは6日、白河市役所で会見し「白河口の戦いは死者1000人ともされ、戊辰戦争の一大激戦地であり一大転機となった戦い。記念碑を残すべく市民の皆さんのご協力をお願いしたい」と話した。元棚倉藩士の子孫でつくる白河鎮英魂保存会長の笠原重信さん、戊辰戦死墓管理会事務局の高桑善寿さんが一緒に訪れた。

戊辰戦争の持論展開 作家の星亮一さん講演 白河市立図書館100周年記念
 白河市立図書館の開設100周年を記念した郷土講演会は13日、同図書館で開かれた。
 講演会は市教委の主催で郡山市在住の作家・星亮一さんを講師に招いた。星さんは「白河戊辰戦争の舞台裏」と題して講演した。戊辰戦争最大の激戦地となった白河口の戦いについて「仙台藩と会津藩の連携がうまくいかなかったようだ」などの持論を展開した。詰め掛けた約100人の歴史ファンが聞き入った。
 同図書館は大正2(1913)年12月、白河町立図書館として白河一小校舎内に開館した。今後は100周年記念事業として人気作家を招いた講演会を予定している。2月8日に「天地明察」「はなとゆめ」などで知られる作家冲方丁さん、22日には「おとうさんはウルトラマン」などで知られる絵本作家宮西達也さんを招く。問い合わせは市立図書館 電話0248(23)3250へ。

“先祖は士族”示す文書 挙藩流刑の会津藩士、身分回復
 郡山市湖南町の渡辺守久さん(66)方で、戊辰戦争で敗れ、斗南藩に挙藩流刑された会津藩士の身分回復を示す文書が見つかった。守久さん方の分家渡辺岩雄さん(63)の祖先への辞令とみられ、2人は貴重な資料の発見に喜んでいる。
 文書は1894(明治27)年に交付された辞令。当時の日下義雄県知事名で「福島県平民」の渡辺善三郎さんを「士族ニ編入ス」と記されている。
 守久さん、岩雄さんによると、善三郎さんは会津藩の士族として、船番所で猪苗代湖の湖上交通の取り締まりを行っていたという。先祖からも「分家は士族だった」と伝えられてきたが、正式な文書はなかった。辞令は姓が「渡部」となっているが、会津地方には「渡部」が多いだけに「間違えたのではないか」(守久さん)としている。
 文書は昨年末、自宅を整理していた守久さんが発見した。守久さんは「先祖が戊辰の歴史の中にいたことは誇り」と胸を張り、岩雄さんも「これまでは言い伝えだけだった。士族だった証拠がありうれしい」と話した。

神奈川
幕末の傑物しのぶ、浦賀で「中島三郎助まつり」/横須賀
 幕末のペリー艦隊来航時に黒船へ乗り込んで米側との折衝にあたった浦賀奉行所与力、中島三郎助(1821~69年)をしのぶ「中島三郎助まつり」が26日、横須賀市浦賀の住友重機械工業機関工場内で開かれた。地元住民らでつくる「中島三郎助と遊ぶ会」の主催で、三郎助や勝海舟の子孫をはじめ、多くの来場者でにぎわった。

 三郎助は日本初の洋式軍艦を浦賀で建造。後に「維新の三傑」の一人と呼ばれる桂小五郎(木戸孝允)に請われ、造船術を教えた。戊辰戦争では、榎本武揚や土方歳三らと箱館(函館)で新政府軍と戦い、2人の息子とともに戦死した。

 まつりでは、三郎助の足跡を手紙などの文献や写真でたどるパネル展、日本舞踊、浦賀中学校吹奏楽部の演奏、「想作黒船シチュー」や地元生わかめの販売などが行われた。三郎助のひ孫の中島恒英さん(68)=海老名市=、勝海舟の玄孫の高山みな子さん(51)=鎌倉市=も足を運んだ。

 東京都杉並区から訪れ、熱心にメモを取っていた女性会社員は「三郎助が黒船をしっかりリサーチしなければ、日本でつくられたものはもっと遅れていた。こういう方が戊辰戦争で亡くなられて残念。こういう方をもっと取り上げてほしい」。

 遊ぶ会の大内透会長(67)は「私は他の街から浦賀に来たが、三郎助が愛したこの地に骨をうずめることを決めた。三郎助は本当にすごい人なので、もっとメジャーにしたい」と話していた。

京都
京で日本最古の新聞発見 「文久二年正月元日」印刷
 京都市下京区の本草漢学塾「山本読書室」跡で見つかった数万点の史料群の中に江戸末期の「文久二(1862)年正月元日」と印刷された日本最初の新聞が含まれていたことが3日分かった。調査した松田清京都外国語大教授が記者会見で明らかにした。
 縦24センチ、横33センチの和紙に、縦1段組みで38行が木活字版で印刷されていた。タイトルはオランダ語で「新聞紙の写し、1862年1月1日、ミヤコで」と記され、本文は漢字仮名交じり文だった。松田教授は筆者名を分析し、「ロビンソン・クルーソー」を初めて日本語に訳した膳所藩(大津市)の蘭学者黒田行次郎(?廬、1827~92年)が京都で発行したと結論づけた。
 これまでは江戸幕府の洋学研究機関・蕃書調所がオランダ語新聞を翻訳し、「文久二年正月」に発行した「官板バタヒヤ新聞」が日本語初の新聞とされていたが、日付が不明だった。新史料は日付があり、日本人が日本語で記事を執筆、編集した新聞としては最古という。
 内容は天文学、理学、中国の海外情報などが幅広く記されている。幕府の小笠原諸島での調査、薩摩藩による英国製の船購入、彗星(すいせい)の出現などの話題を載せている。洋学を重視しない自藩に対する不満も書き連ねている。
 史料群の中に、幕末から明治にかけての岩倉具視あての新政府要人からの手紙が61通あることも判明。西南戦争時の木戸孝允と大久保利通との意見の相違など、当時の政府内での力の構図が分かるという。また、鎌倉時代の北条政子の書状なども見つかっている。
 松田教授は「文書から標本など文系、理系を総合した史料群は全体一括で重文級。共同チームで研究態勢ができるようにしてほしい。まだ知られていない歴史の解明も期待できる」と話している。

エンターテインメント
岡田屋鉄蔵が隻腕の剣士・伊庭八郎を描く、アワーズで
本日1月30日発売のヤングキングアワーズ3月号(少年画報社)にて、同誌初登場の岡田屋鉄蔵による新連載「MUJIN 無尽」がスタートした。

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「MUJIN 無尽」は幕末を生きた隻腕の剣士・伊庭八郎の物語。第1話は左腕を負傷したとされる箱根での戦闘シーンから幕を開ける。

このほか今号では、石田敦子「球場ラヴァーズ 私を野球につれてって」と、打海文三原作・七竈アンノ作画による「裸者と裸者 邪悪な許しがたい異端の」が最終回を迎えた。「球場ラヴァーズ」は3月29日発売の5月号から新シリーズに突入する。また2月28日発売の4月号からは、大石まさるの新連載「ライプニッツ」が始まる。
 癖のある作家さんなので、好きになれるかどうかは不明。『ひらひら』はとっても好きですが、他の作品はまったく受け付けないという偏食な自分なもんで……。


去年は落語を聴くようになってから一番落語会に足を運んだ。今年はプライベートの事情もあり、そうは行かないだろう……と思いながら、新春早々、談春独演会に続いて東横落語会(汗)。すみません、チケット取ってましたんで。
 昭和三十年代には文楽、圓生、小さん、馬生、志ん朝、談志、円鏡(今の圓蔵)、圓楽(先代)などが活躍していたホール落語の代表格だったんですね。当時は1000人入るホールだったとか……私はその頃、落語はテレビで土日の昼頃に見る演芸番組で何となく触れていたぐらいで興味はあまりなく(一番好きなのは東京コミックショウの「レッドスネーク、カモン!」だった……あのチープさ・胡散臭さが好き)、東横といえば、母と弟で五島プラネタリウムに行き、東横百貨店の大食堂で狐色に焼けたホットケーキにバターとメープルシロップをたっぷりかけて食べるのが、月に一回の贅沢だった。その五島プラネタリウムがあったビルはヒカリエに生まれ代わり、長年親しんだかまぼこ形の東横線渋谷駅はなく……うう、歳月だなぁ。

 正直、せっかく月に一回の定席を確保したT××落語会の、カビが生えたような温さがしんどくなってきた。老後の楽しみのために定席を確保しようと会費を払ってきたが、メンバーは素晴らしいのに、テレビ収録されている割にライブのはらはら感や緊張感がなく、観客席のぬるさと加齢臭にげんなりしていた。

 東横落語会は300人収容のホールでハコがちょうどいい大きさ。観客の年齢層はT××落語会よりはほんのちょっと若い。座席の椅子が北沢ホール並み(汗)で昼夜連続では腰が痛くなるのが文句言いたいところ。でも、伝統のホール落語を引き継ぐだけのことはあって、演者さんたちにそれなりの緊張感があった。

【昼の部】
悋気の独楽/遊一
 扇遊さんのところの二つ目さん。落語家は色気がないといけないと言われるというところから、女将さんとお妾さんを演じ分ける。んー、どうだろう。

お見立て/一之輔
 一之輔さんの部室落語、何かツボにはまる。あちこちで、一番よく笑った。これからさらに進化していくんだろうなと思う一之輔さん、どこまでいっちゃうんだろう。

宿屋の富/雲助
 さすが重鎮。一文無しがぱぁぱぁ言う、あり得ない金持ちっぷりを馬鹿馬鹿しく笑い、それが一番富を当ててしまってうろたえるのを笑う。

按摩の炬燵/小満ん
 この季節の寒さが説得力あるとりネタ。噂には聞いたことがあるけど、こういう噺か……番頭が、自分の布団に炬燵を入れようと思えば入れても旦那様には何も言われないだろうけど、ならば自分もと下々の者に弛みが出るのを許すわけにいかないって感覚、今はすごーくよくわかる。
 オチは按摩さんにひどいけど、それもまぁ落語だから。

【夜の部】
出来心/志ん吉
 志ん橋さんところの二つ目ですか……なんとなく志ん輔さんに似てると思ったんだけど、古今亭だからでしょうか。

二番煎じ/市馬
 寒い中を夜回りした方々が番所で酒を呑んだり猪鍋を頬張ったりする場面がめっちゃ美味しそうだったです。

幾代餅/志ん輔
 途中でちょっと私の記憶が飛びました(汗)が、やっぱり古今亭は幾代餅なんだな〜と思いました(柳家は紺屋高尾ですよね)。搗米問屋の使用人が一年間必死に働いて13両も貯められるかちょっと疑問なんだけど(紺屋高尾は3年かかっている)、古今亭は基本ファンタジーでいいんだよね。

福禄寿/さん喬
 さん喬師匠は素晴らしいと思うのだけど、私の感性にどうも合わないのでごめんなさい。今回の『福禄寿』は圓朝作で圓生から習ったお噺だそうで、それはそれで伝統として継いで欲しいのだけど、プライベートの事情にすごく刺さってしまう設定なので辛かった。
 ろくでなしの長男があんな状況で目が覚めて更正するはずがありません……(涙)。
つぶやけないプライベートでいろいろ……でも幕末ニュースは手薄ながら細々と続けます。このブログも引っ越し前を含めると満10年、10年続けられる人はなかないないと思いますので。

福島
斗南藩の「嘆願書草案」発見 藩成立翌年の記述
 戊辰戦争に敗れて領地を没収された旧会津藩によって再興された斗南(となみ)藩が、明治政府に援助を申し出た嘆願書の草案とみられる古文書が見つかったことが4日、分かった。斗南藩が成立した翌年の1870(明治3)年7月と記され、新天地で苦しい生活を送っていた斗南藩時代の貴重な史料といえる。
 古文書は、幕末・明治維新期が専門の博物館「霊山歴史館」(京都市)が昨年、古書店で発見。縦約18センチ、横約400センチで、斗南藩に移住する家臣団の困窮を理由に、明治政府に援助を願い出ている。文末には「斗南藩知事」と書かれている。
 同館学芸員によると、実際に明治政府に提出された同じ内容の嘆願書が「青森県史」(旧編)に掲載されている。比較すると文言は異なる部分が多いため、明治政府に細心の注意を払って書いたとみている。
 会津歴史考房主宰の野口信一氏は、藩知事は当時1歳だった会津松平家11代容大(かたはる)だったことから、実権を握る権大参事・山川浩の考えが反映されていると強調。「斗南藩の苦しい生活を物語る史料だ」と話した。
 古文書は4日に始まった同館の展示「続・会津の武士道」で公開されている。

埼玉
幕末~昭和 情景浮かべ 県立文書館で企画展 外交関係の地図など50点
 幕末から昭和二十年代までの外交関係の地図などを集めた企画展「地図アラカルト 世界と地域」が、さいたま市浦和区の県立文書(もんじょ)館で開かれている。同館嘱託職員で企画展を担当する増山聖子(ましやままさこ)さんは「地図の描き手がどこを強調したかなど、当時の人々の地理感覚や心の動きが目で見て分かる。気軽に楽しんでほしい」と話している。来月二十三日まで。 (谷岡聖史)
 今回の企画展は、外務省外交史料館(東京都)が地方自治体の公文書館と初めて共催する形で開催。両館が保管している約五十点を展示している。
 一八五三年に米国から浦賀に来航したペリーの艦隊を描いた「嘉永(かえい)六年渡来黒船図」は、当時の川越藩と忍(おし)藩の武士が浦賀で警備に当たったことから県内に残されていた。
 六七年の「江戸在留外国人遊歩規程下調図(したしらべず)」は、築地に居留した外国人が行動できる範囲を幕府が検討した際の地図。現在の川越市、所沢市なども範囲に含まれていた。
 明治後期とみられる「関東地方鉄道路線図」には、現在のJR高崎線や東武鉄道の一部が記されている。大正以降は鉄道が普及し、旅行が一般的に。観光マップの「昭和元年武州松山附近名所図会(ずえ)」(一九二六年)には東松山市などの名所が描かれている。
 このほかフランスから幕府に贈られたパリ万博の会場全図(一八六七年)や、一九四五年八月十五日未明に国内最後の空襲を受けた熊谷市の復興計画図なども、実物を間近に見ることができる。
 入場無料。開館は午前九時~午後五時。月曜、祝日休館。問い合わせは、県立文書館=電048(865)0112=へ。

佐賀
幕末の欧州留学 唐津藩士ら「添え状」携行
 幕末に欧州留学した唐津藩士らが携行していた「添え状」が東京大史料編纂所で見つかった。旅券とは別に、通過各国に保護を求める書状で、押されたスタンプからパリをたってロシア・サンクトペテルブルクまでの足跡を確認できる。同行していた外国奉行がパリで発行しており、専門家は「具体的な旅程と手続きが分かり、非常に興味深い」としている。
 添え状は1867(慶応3)年の発行で、3通あった。唐津藩士・尾崎俊蔵(生没年不詳)と会津藩士2人の合わせて3人が欧州留学に携行していた。東大史料編纂所が外務省から引き継いだ書類に含まれていた。
 表に和文、裏に英文が記されている。外国奉行向山一履(むこうやま・かずふみ)の名で身元を保証し、留学目的であることを説明して道中の安全を求めている。
 さらに、現地で押された「ポーランド鉄道ワルシャワ・ウィーン線」「グランドホテル・ワルシャワ」のスタンプもあった。3人が鉄道でウィーンからワルシャワに向かい、そこで乗り換えてサンクトペテルブルクへと進んだルートが読み取れる。
 3人は、将軍の名代としてパリ万博に参加するために渡欧した徳川昭武に同行する形で横浜港からパリへ向かい、そこから昭武一行と離れ、ロシアやエジプトなど各国を回った。
 3人はこの年の12月に帰国したが、翌春、会津藩士の横山主税(ちから)(1847~68年)と海老名郡治(1843~1914年)は戊辰戦争に参戦し、横山は21歳の若さで戦死する。海老名は後に、若松町長としてふるさとの発展に貢献した。
 一方、唐津藩士の尾崎も戊辰戦争に巻き込まれていった。唐津藩は佐幕派で、旧幕府軍とともに東北へ転戦。『新選組大人名事典』(新人物往来社)などによると、尾崎は江戸屋敷にいた唐津藩の世継ぎの小笠原長行から世話係に命じられ、仙台から蝦夷へと向かった。明治以降の消息ははっきりしない。
 東大史料編纂所の保谷徹教授は「3人がヨーロッパを見て回りたいと、添え状を出してもらった経緯が分かる。地中海を回ってからウィーンへ行ったようだが、具体的な証拠が出てきたのは非常に面白い」と話す。

コラム
隻碗で戦い続けた美剣士 伊庭八郎
モテモテのイケメン剣士
心形刀流八代目・伊庭軍兵衛秀業の長男。
老中・水野忠邦に引き立てられた秀業は、水野が失脚すると、門人の塀和惣太郎秀俊を養子にして伊庭家を継がせて隠居、秀俊は秀業の五人の子をすべて養子にしている。

伊庭八郎イラスト

心形刀流は一七世紀後半、信州出身の伊庭秀明が創始したという。
剣術は「心」「形」「刀」からなる、つまり「心形刀」=「剣術」という理念を持つが、これが流儀名として継承された。
また、宗家の伊庭家は実子の有無にかかわらず、門弟中から最も優れた者を選んで後継者とし、その結果、八代目秀業の「練武館」は、江戸三大道場に次ぐ存在として、四大道場のひとつに数えられるようになった。

八郎は幼時は病弱だったが、剣術の稽古を始めるとたちまち上達、「白皙の美丈夫」に成長する一方、「伊庭の小天狗」とうたわれ、錦絵にも描かれた美男剣士。
腕は立つものの、女にモテるのをいいことに、吉原で浮き名を流す日々が続いた。

幕府が将軍警護役として直臣の子弟を集めて「奥詰衆」を組織すると、八郎もこれに加わり、元治元年(一八六四)に最初の上洛を果たす。
このときの京都の暮らしぶりについては、八郎が記した『征西日記』が残っている。
しかし、内容はウナギやタイ、餅、カステラを食べたり、扇を女の土産に買ったり、嵐山を観光したりと、のちの八郎とは想像もつかないほど物見遊山のグルメ紀行である。

隻碗になっても奮戦
慶応元年(一八六五)、第二次長州征伐で将軍・家茂の護衛として二度目の上洛を果たすが、翌年七月に家茂が急死し、遺体に付き添って江戸へ戻っている。
さらに十月には奥詰衆、講武所剣術方を改組した「遊撃隊」が発足すると、これに加わった八郎の生活も一変した。

慶応三年(一八六七)十月十四日に大政奉還が行われると、遊撃隊士たちにも上洛の命が下り、三度目の上洛となる。
翌慶応四年(一八六八)一月三日、鳥羽・伏見で薩長を主力とした新政府軍と旧幕府軍が衝突。
八郎は伏見で陣頭に立って戦ったが胸に被弾し、その衝撃で昏倒吐血した。
幸いにも甲冑のおかげで怪我を負わなかったが、ことときの吐血というものは労咳を患っていたともいわれる。
ただし、これは池波正太郎の小説『幕末遊撃隊』の記述で、史実かどうかは定かでない。

旧幕府軍が鳥羽・伏見の戦いで敗れると、徳川慶喜は大坂から海路で江戸へ帰還。
その後は恭順の意を示した。
四月十四日、江戸城が開城され、慶喜が水戸へ退くと、遊撃隊の一部は榎本武揚の旧幕府艦隊に合流する。
しかし、榎本が勝海舟の説得に応じて艦隊を官軍に引き渡そうとしたため、八郎と人見勝太郎らの遊撃隊士は船を降り、上総請西藩主(千葉県木更津市)・林忠崇を頼った。

八郎は相模小田原藩(神奈川県小田原市)と協力して新政府軍に対抗しようとしたが、小田原藩が恭順の意を示して交渉は決裂。
五月二十六日、小田原藩を含む新政府軍と箱根三枚橋(神奈川県箱根町)で激突した。
ここで八郎は鏡信一刀流の小田原藩士・高橋藤太郎と斬り結ぶが、再び腰に被弾し、体勢を崩したところ、左手首を深く斬られた。
しかし、八郎は怯むことなく右手に握った剣で高橋の脚を払うと、高橋は早川の流れに消えていった。
八郎は皮一枚でつながり、ぶらぶらしていた左手首を麻酔もなしに切り落として熱海(静岡県熱海市)へ敗走した。

さらに品川沖に停泊する榎本の旧幕府艦隊に合流し、病院船「旭丸」で再手術をして、肘下を切断することになった。
このときも八郎は麻酔を断り、平然と突出した骨を切り落としたというから、その精神力には想像を絶するものがある。

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激戦の果ての安楽死
傷が癒えた八郎は、八月に蝦夷地(北海道)をめざしたが、銚子沖で乗っていた「美加保丸」が座礁した。
なんとか救出されたが、蝦夷地へ渡る術がなく、横浜に三カ月潜伏した。
十一月二十五日、英国商船に乗船費五〇両を支払って、親友の本山小太郎とともに箱館へ向かったが、この大金を工面したのは、昔なじみだった吉原『稲本楼』の芸妓・小稲であった。
小太郎が八郎の書状を小稲に見せると、小稲は泣き崩れ、目を腫らして協力してくれたのである。

八郎が箱館に到着したとき、すでに蝦夷地は旧幕府軍が平定しており、八郎は蝦夷共和国の新政権で歩兵頭並となった。
しかし、翌明治二年(一八六九)四月九日、新政府の追討軍が蝦夷地に上陸。たちまち江差が陥落した。
二十日、八郎は木古内から江差奪回に向かう途中で新政府軍と遭遇、右腕一本で敵を斬りまくった。
だが、ここで生涯三度目の被弾。
胸部を撃たれ、満身創痍の八郎はついに立てなくなった。

八郎は箱館病院に運ばれたが、手の施しようのない重傷だった。
最期を看取った新撰組隊士田村銀之助の談話によれば、体内の弾を抜けば死に至るということで抜くこともできず、そのうち胸部は紫色に変じて腐触していったという。
それでも八郎は二〇日間も生き続けた。

最期は開城を決意した榎本武揚が「すぐあとで行くから」といってモルヒネを差し出した。
八郎は毒薬と知りながら、にっこり笑って飲み干し、まもなく眠るように落命したという。

八郎の最期は流れ弾で戦死した説もあって真相は分からず、貞源寺に眠る墓碑の命日は五月十二日だが、田村銀之助の談によれば五月十六日になる。
この日、榎本は八郎のあとを追って自害しようとしたが、周囲に止められ、生き延びたのも歴史の皮肉であろうか。
 えっ、「榎本は八郎のあとを追って自害しようとした」って初めて聞いた……そ、そんな、ウホッな説……(>_<)。


エンターテインメント
佐藤健
「ここまで愛した役は初めて」映画『るろうに剣心』クランクアップ

映画『るろうに剣心』の続編となる『るろうに剣心 京都大火編』(8月1日公開)と『るろうに剣心 伝説の最後編』(9月13日公開)の2部作が、このほどクランクアップした。

主演に佐藤健、監督に大友啓史を迎えた『るろうに剣心』(2013年8月公開)の続編となる同作は、原作漫画(和田伸宏作)のクライマックスにあたる"京都編"を描く2部作。動乱の幕末が終わり明治を迎えた京都で、主人公・剣心を日本制圧を目論む敵が待ち受ける――という内容で、前作に引き続き出演する佐藤、武井咲、蒼井優、青木崇高、江口洋介らに加え、藤原竜也、神木隆之介、遠藤賢一ら新キャストも登場する。

同作では、撮影期間6カ月、エキストラ延べ5,000人、撮影地は全国1都1府9県に及ぶ大規模なロケを敢行。撮影を終え、「剣心という人物をより深く考えていくうちに、どんどん思い入れが強くなりました。ここまで愛した役は初めて」と語った佐藤は、「どの役に対しても愛情はあるんですが、『ずっと演じていたい』と思えた」と、剣心役に対して特別な感情があった様子。クランクアップ時には、「今回の作品に関しては、確かな手応えを感じています。一生の内で中々できない経験をさせてもらったなという気持ち」と胸の内を明かした。

また、激しいアクションも見どころの同作だが、佐藤は「普通の現場よりもけた違いの集中力で現場にいなければいけないし、常に気を引き締めていないといけなかった」と、クランクアップを迎えて安堵の表情を浮かべていたという。一方、ヒロイン・神谷薫役の武井咲も、薙刀(なぎなた)を使った本格的なアクションシーンに挑戦し、「練習のしがいがありましたし、動いていても自分の中でしっくりくる部分がだんだん分かるようになった」と振り返り、「大友さんにしばかれつつも(笑)、楽しく過ごさせていただきました。仕上がりがとても楽しみ」とコメントを寄せている。
 続編もやってくれると期待しています。

江川文庫から楽しみにしていた本が出ました。

勝海舟が絶賛し、福沢諭吉も憧れた 幕末の知られざる巨人 江川英龍

韮山代官を代々世襲した江川家のなりたち、特に第36代江川太郎左衛門(英龍)の生涯と業績について紹介。

『風雲児たち』を読んでいる江川ファンには目新しさはないかも知れない(ということは、やはり、みやもと太郎が歴史をマンガ化する力量がすごいということなのだが)。が、改めて英龍が幕末まで生きていたら時代はどうなっていたかと思う。

 仲田正之氏は英龍をあくまでも攘夷思想だったと紹介していて(根拠は不明)ずっと疑問に思っていたのだが、本書ではアメリカはともかくロシアに対して開国すべきという建白を書いていたことに触れられている。早くから蘭学に触れていた人で、マリナー号事件の時も西洋側の外交スタンダードでも文句のつけようがない対応を取った。国防意識の強い人であったろうが攘夷的な発想は結びつかないと思う。

江川文庫に残された膨大な記録や史料の研究は端緒についたばかり。今後の解明が楽しみ。
年末にプライベートでちょっと悩ましいことが起こり、悩みをかかえて越年します。百八つの鐘で晴らせるものなら晴らしたい悩みではありますが……皆様にはつつがなく新年を迎えられますよう。

東京
江戸東京博物館「大浮世絵展」=写楽、北斎、広重の代表作など340点展示
 リンク先はyoutube動画が貼られており、音楽付ですので注意ください。
2013年12月27日
 江戸東京博物館は開館20周年を記念した展示会「大浮世絵展」を来年1月2日から3月2日まで開催する。一般公開に先立ち12月26日、報道機関向けに内覧会が開かれ、江戸時代を代表する浮世絵師、東洲斎写楽、葛飾北斎、歌川広重らの展示作品340点が公開された。
 本展では、会場を六つのエリアに分け、作品を展示。江戸時代前期の浮世絵につながる風俗画から始まり、浮世絵、錦絵の創始期、写楽や北斎らが活躍した時代、幕末から近代までと、17世紀前半から20世紀にかけての多様なジャンルの浮世絵を、時代を追って紹介している。
 特に注目は、「教科書で見た」「切手の絵柄で採用されていた」「商品のおまけ」など、誰もが知る有名な作品の数々。東洲斎写楽の「三代目大谷鬼次の江戸兵衛」、葛飾北斎の「冨嶽三十六景 神奈川沖波裏」などの本物を目の当たりにすることができる。
 観覧料は、一般1300円、大学・専門学校生1040円、小・中・高校生・65歳以上650円。開館時間は午前9時半から午後5時半まで。江戸東京博物館での展示終了後は、3月11日から5月6日まで名古屋市博物館、5月16日から7月13日まで山口県立美術館で「大浮世絵展」が開かれる。【時事ドットコム編集部撮影】

千葉
幕末の「真忠組」、記事が広げた研究の輪
 よく晴れた夏の休日。家族で車に乗って九十九里浜に遊びに行った。名物食堂に向かう途中、「真(しん)忠(ちゅう)組志士の碑」の表示があった。

 -真忠組とは…。

 妙に気になり、右折した。石碑が建っており、裏面に記述がある。幕末、九十九里浜に真忠組と名乗る世直し集団が出現し、「攘夷救民」の旗を掲げて戦ったという。新聞記者の探究心に一発で火がついた。

 取材を進め、地元の元教師、鈴木克久さん(70)が事件を研究していることが分かった。電話で連絡を取り、お会いした。鈴木さんの案内で事件現場を巡る。拠点となった九十九里町小関の旅館「大村屋」跡。旅館はすでになく、畑と原っぱになっていた。

 「真忠組は大村屋を接収して駐屯所とし、九十九里浜一帯を制圧した。武装して豪農や富商の屋敷に押しかけ、米や金を徴収。貧しい人々に無償で配ったのです。また、隊員はみな平等で、農民や商人も姓を名乗り、腰に刀を差していた。すごい物語でしょう」

 幕府は近隣の藩に鎮圧を命じる。藩兵は3カ所の拠点を襲撃。首領の楠音次郎は自刃して果てた。隊員は捕縛され、処刑された。

 9月22日の「ちば人物記」に「理想に殉じた群像の語り部」として掲載されると、習志野市の元銀行員、飯村興平さん(72)から千葉総局に電話がかかってきた。

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捕縛された真忠組隊員の裁判が行われた最福寺に立つ鈴木克久さん=千葉県東金市東金

 飯村さんは古文書収集家。真忠組の決起趣意書を保管しているという。早速自宅にうかがい、決起趣旨書を拝見した。保存状態は良好。歴史を物語る貴重な史料だ。「個人が持っていたらいずれ散逸する。公的な施設に寄贈したい」と話した。

 羽成哲郎千葉総局長に相談。親交深い山武市歴史民俗資料館の学芸員を紹介され、10月11日、寄贈が実現した。同資料館では郷土史家、加藤時男さん(74)ともお会いした。

 東金出身の剣士が激動の幕末を駆け抜けた。その史実を物語る古文書が旧家に保管されていることを教示していただき、記事にすることができた。1つの記事が波紋を広げていく。新聞の力を改めて実感した。(塩塚保)
 東金は亡くなった父の父の出身地です。それだけのことなんですが、いつかルーツを捜しにいきたいと思います。

「最先端の蘭学塾」の面影残す城下町 千葉・佐倉
 雨上がりの冬の日。電車で千葉県の城下町、佐倉市を訪れた。幕末、蘭学(洋学)が盛んで「西の長崎、東の佐倉」といわれた。

 城下町巡りの起点は佐倉順天堂記念館にした。立派な門構えだ。天保14(1843)年、天下に名高い佐藤泰然が佐倉に蘭医塾と診療所を開いた。佐倉藩主、堀田正睦(まさよし)が開明的で西洋医学に理解を示したことが背景にあるようだ。

 「全国の若者が佐倉に来て西洋医学を学びました。順天堂の敷地は最盛期には約2千坪もあって、塾生は延べ1千人を超したそうです」

 記念館の伊藤幸子さんが語る。塾生たちは外泊、飲酒、囲碁将棋などは禁止。オランダ語の解剖書などを読み、一心不乱に学習したという。

 館内には当時の手術道具や外科手術料金表などが展示されている。乳がんや白内障、虫垂炎など最先端の治療・手術が行われていた。塾生らに立ち会わせて実際に役立つ医術を習得させていた。

 順天堂はその後発展して順天堂大学の母体となった。一方、記念館の隣では佐倉順天堂医院が今も開業している。医師は佐藤家の子孫という。幕末の歴史が21世紀まで脈々と息づいているのだ。すばらしい。感嘆した。

 ■蘭学通り

 城下町を東西に結ぶ蘭学通りを歩いていく。高台に建つ旧堀田邸に立ち寄った。最後の佐倉藩主、堀田正倫(まさとも)が明治時代に築いた広大な邸宅だ。上の間に座布団がひとつ置いてあった。ここから眺める庭がもっとも美しいという。しばし、当主の気分を味わう。冬空をおおっていた重い、暗い雲が流れていく。さあっと陽光が差してきた。小鳥が盛んにさえずり始めた。

 昼食時となった。そば店「二番町房州屋」ののれんをくぐる。かもなんばんを注文した。鴨肉の濃厚な味わい。ほかほかと体があったまる。壁にセピア色の写真。少年たちが笑っている。その中に長嶋茂雄巨人終身名誉監督がいた。

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城下町・佐倉の武家屋敷通り。江戸時代の雰囲気を色濃く残している=千葉県

 店主の村瀬照夫さん(77)が「同級生です。中学生のときから足が速く、人気があった。この店にも来てかけそばを食べてましたよ」と笑顔で話す。新聞記者にとっては思わぬ収穫。このへんが町歩きの楽しいところだ。

 ■武家屋敷通り

 城下町の一角に武家屋敷通りがある。土塁と生け垣が続く。天を突く巨木がそびえる。静かだ。旧河原家や旧武居家が公開されている。屋敷内には当時の家財道具が置かれ、武士の暮らしぶりをしのぶことができる。

 郷土史家の内田儀久さん(62)は「佐倉藩の歴代藩主の多くは老中など幕府の要職を務めた。藩主だった堀田家や藩士たちの子孫が今も住んでいます。歩いてみると、思わぬところで江戸時代の名残を発見できる。そのあたりが佐倉の魅力です」と話す。

 武家屋敷通りから竹林を抜ける。通称「侍の古径(こみち)」。その先はもう佐倉城跡だ。

 佐倉城は明治時代、取り壊された。だが、広大な城跡には堀や土塁が残る。師走の日暮れは早い。広い、広い空が見事に赤く染まっていく。(塩塚保)

     ◇

 城下町・佐倉を歩く JR佐倉駅か京成佐倉駅下車。佐倉順天堂記念館(本町(電)043・485・5017)▽旧堀田邸(鏑木町(電)043・483・2390)▽武家屋敷(宮小路町(電)043・486・2947)。3館共通入館券は一般520円。学生260円。いずれも年末年始(12月28日~1月4日)と月曜日休館。

神奈川
八重の篤志、横浜にも 大火被災者へ多額の寄付、神奈川知事が感謝状
 今からちょうど110年前、1903(明治36)年12月28日。当時の神奈川県知事・周布(すふ)公平が、一人の女性に感謝状と木杯を贈った。宛先は、新島八重(1845~1932)。横浜であった大火の被災者への多額寄付に謝意を表したものだった。福島・会津出身で京都に住んでいた八重にとって、横浜は縁もゆかりもない。八重を突き動かしたものは、何だったのだろうか。

 1899年8月12日、横浜市の雲井町(現在の中区弥生町周辺)で起きた火事は南風によって延焼し、伊勢佐木町近辺をほとんど焼き尽くした。焼失戸数は、当時の市内世帯数の1割にも及ぶ約3200戸。

 神奈川新聞の前身「横浜貿易新聞」は「惨は火災より甚だしきはなし。しかも我が市の大火は惨中最も惨なる。酸鼻(むごたらしい状況)にむせばざるものあらん」などと記した。

 この大火の被災者を支援するため、八重が義援金を送っていた。寄付額は35円。現在の貨幣価値と単純に比較することは困難だが、企業間取引の物価指数の推移からみると、少なくとも現在の50万円以上に相当する。

 横浜貿易新聞が発生直後から「江湖(こうこ)(世間)の慈善家に訴ふ」と10日間募り、横浜市役所に届けられた義援金の総額は159円80銭。八重は遠く離れた京都から、その2割強にあたる額を寄付したことになる。

 戊辰戦争で会津が敗れて故郷を失った後、同志社英学校(現同志社大)を創設した新島襄の妻となって学校運営に奔走するなど京都を拠点としていた八重。何のゆかりもない横浜の災害に、多額の寄付をした理由は何なのか。

 八重はこの火災以外にも、実に多くの慈善活動に携わっている。

 身を賭して近代看護の普及に努めた「日本赤十字社篤志看護婦人会」、目や耳が不自由な人の支援目的で発足した「京都婦人慈善会」、戦争未亡人らの経済援助を行った「愛国婦人会」。いずれも自ら資金を提供し、報酬はない団体の幹部として奮闘した。

 さらに、孤児の世話をする東京市(当時)の担当部門、京都の高等女学校の増築、尋常小学校の改築などに、八重個人として浄財を投じていた。

 同志社社史資料センターの小枝弘和・社史資料調査員は「八重は50歳を過ぎてから自身のことを語りだしたが、ほとんど会津のことばかり。慈善活動について語った記録がなく、気持ちは分からない」と述べる。

 その上で、「襄と生活して社会的地位が上がるにつれ、果たすべき役割に気付いて寄付などを始めたのではないか」と推察。横浜への寄付については、「会津戦争で八重は大好きな故郷を失った。だから、同じように苦しんでいる人たちを放っておけず、できることはしたいと思ったのではないか」と心情を推し量った。

静岡
来年2月に韮山反射炉検定
 「反射炉博士」になって価値を伝えて-。伊豆の国市は二十四日、二〇一五年の世界文化遺産登録を目指す韮山反射炉の検定を来年二月一日に初めて実施すると発表した。見学だけでは価値が伝わりにくい韮山反射炉への理解を深め、登録への機運を盛り上げる狙い。鉄を溶かした仕組みや時代背景を正しく理解してもらうために検定という手法を選んだ。
 韮山反射炉は鉄製大砲を鋳造するための溶解炉で、幕末に伊豆韮山代官の江川坦庵(たんなん)(一八〇一~五五年)が建築を指揮した。実際に稼働した反射炉として国内で唯一完全な形で残った。国が国連教育科学文化機関(ユネスコ)に世界文化遺産として推薦する「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」の構成資産に入っている。
 検定は小冊子「韮山反射炉を世界遺産に」と反射炉の展示内容から出題し、四択問題を四十問解く形式。正答率によって級が分かれ、九割以上が一級、八割以上が二級、六割以上が三級となる。市世界遺産推進課によると、検定問題には「太陽光を反射させる施設か」「これでパンを焼いたのか」などを想定している。
 一月二十四日まで受検申し込みを受け付ける。試験は伊豆の国市四日町の韮山文化センターで午後一時から。検定料は高校生以上五百円、小中学生三百円。受検者には後日、検定結果と認定証、認定バッジなどを送る。三級に届かない場合は参加記念品が届く。
 問い合わせや申し込みは、韮山反射炉応援団事務局の市世界遺産推進課=電055(948)1425=へ。
(山田晃史)
 反射炉限定でなく江川太郎左衛門検定なら挑戦したいと思うのですが……。

京都
鴨川の小魚冬の味覚 「鷺知らず」魯山人も絶賛
 京都には「鷺(さぎ)知らず」という美味(うま)い小ざかながある――。

 古都の冬の味覚として、かつて美食家・北大路魯山人(1883~1959年)もこう評した鴨川の小魚「鷺知らず」を、特産品として復活させる取り組みが始まった。世界無形文化遺産に登録された「和食」への関心が高まる中、都の食文化を見直し、身近な川の環境にも目を向けてもらおうと、京都市が推進。今後、漁獲量の調査や試食会を通じて、「夏のアユ」に並ぶブランドに育てたい考えだ。

 「鷺知らず」は、淡水魚のオイカワ(ハエ)の稚魚で、体長3センチほどのものを呼ぶ。様々な説があるが、川魚を餌とする鷺が見向きもしないほど小さいことから、その名が付いたとも言われる。旬を迎える冬の早朝には、水があまり流れないたまり場で、群れになっている。

 京都では、少なくとも幕末頃から、つくだ煮などで食べられてきたと伝わり、つくだ煮そのものを「鷺知らず」と呼ぶこともあるという。明治時代の歌集・鉄道唱歌には「扇おしろい京都紅 また加茂川の鷺しらず みやげを提げていざ立たん」と名産に挙げられ、幅広い芸術に通じた北大路魯山人も、著書で太鼓判を押している。

 かつては専門の漁師もいたというが、食生活の多様化や河川環境の変化などで、食する機会は次第に減少。鴨川に近い飲食店でもほとんど見られなくなった。

 こうした中、市は都で育まれてきた食文化の魅力を見直そうと復活を計画。商品として売り出すには、一定の漁獲量が必要なため、先月から賀茂川漁協(澤健次組合長)と「鷺知らず」の歴史や販売状況の調査に乗り出した。

 土産物としての商品化や産卵場造成といった環境整備の課題についても協議。さらに資源量の調査を続け、近く市民らを対象にした試食会も開く計画だ。

 京都市農政企画課の中筋祐司係長は「昔ながらの食文化を伝え、川の資源を活用することで、環境保全の大切さも知ってもらいたい。豊かな鴨川を残す機運が高まれば」と話している。

◆酒が進むほろ苦さ つくだ煮

 京都市に暮らし始めて1年余り。恥ずかしながら初めて「鷺知らず」の存在を知った。毎年この時期に鴨川の鷺知らずを出している数少ない店があると聞き、ユニークな名に思いを巡らせながら足を運んだ。

 創業60年の湯どうふ店「喜幸」(下京区西木屋町通四条下る)。店に立つ浅井喜美代さん(47)は、今月2日に84歳で亡くなった父・喜三さんから、つくだ煮の作り方を受け継いだ。川魚のため、扱いが難しいといい、しょうゆと酒、砂糖、みりんでじっくりで二度炊きして味を調える。

 約20年前、父に連れられ、鴨川のほとりで初めて泳ぐ姿を見た時は、「小魚の集まりではなく、鷺も食べられないような1匹の大きな魚がいると思った」といい、「小魚と気づかれないようにするためで、名前の由縁の一つでもあるんですよ」と教えてくれた。

 甘い香りをたてるつくだ煮は、川魚特有の癖があるかと思いきや全くない。「小さいけど、かむほどにほろ苦い味がして、お酒が進みます」と浅井さん。シーズンを楽しみにしている人も多く、鷺知らずを肴(さかな)に、酔客の話題は鴨川の歴史や環境にも及ぶとか。豊かな風味に触れながら、古都の自然が育んできた食文化の復活を願った。(倉岡明菜)

蛤御門の変・番外 敗走の長州、追う新選組…「幕末の天王山」の意外な結末 
 元治元(1864)年7月19日、幕府軍と長州軍が御所周辺で衝突した蛤(はまぐり)御門の変は長州の敗退で一応の決着はみた。長州側はほとんどの兵が夜のうちに引いたものの、真木和泉(いずみ)ら約200人の敗残兵は山崎・天王山(標高約270メートル)に集まり、最後の一戦に挑もうとした。これを追う幕府側は1500人。到底勝ち目のない真木は200人全員を長州へ帰そうと、ある思い切った行動に出る。

思い届かず

 19日午前零時、伏見・藤森で福原越後軍が大垣藩の軍勢と戦闘を始めると、同日未明、嵯峨天龍寺に陣を構えていた国司信濃・来島(きじま)又兵衛隊が御所へ突入を始めた。

 そして、天王山にいた真木和泉と久坂玄瑞ら約600人は前日の18日午後8時に出発したが、悪路がたたって、目指す御所・堺町御門前に着いたときには福原隊と国司・来島隊の勝敗が決した後だった。

 すでに、福井藩や薩摩藩などの軍勢で門は守られていたため、門を突破することはできず、迂回して門近くの鷹司(たかつかさ)関白邸で抵抗を続けるのみだった。

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久留米・水天宮境内に建つ真木神社

 だが、幕府軍の強力な火力と圧倒的な兵力の前にどうしようもできず、久坂はこの場で自害する。

 真木も銃撃で足を負傷するが、「最後の一戦」のために長州藩家老の益田右衛門介との合流地点、天王山へ200人の残存兵と引き返した。

 だが、益田は逃走した後で、午後2時ごろ天王山に着くもその姿はない。真木の到着を待っていた長州の宍戸九郎兵衛は再起を促したが、真木は「私は御所を血で汚した今回の戦の主犯。死をもって責任を取りたい」と辞退した。

しんがり

 筑後(福岡県)・久留米の水天宮の神職の家に生まれた真木は家を継ぐとともに尊王攘夷の活動家でもあった。薩摩に通じ、藩主の上洛に乗じて向かった京都で長州に急接近する。

 攘夷派の長州が公武合体派の幕府に京都を追い出された8・18の政変で三条実美らとともに長州へ落ちると、武力での京都奪回を強行に主張した。

 だが、結果は長州のひとり負けの形。さらに御所に向けて発砲したかどで、朝敵の汚名も着せられることになった。

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久留米・水天宮境内に建つ真木神社

 今回の戦いは、長州藩主の毛利敬親(たかちか)も乗る気でなかっただけに、強行に戦いを主張した真木にとって、今回の敗戦は相当に心苦しかったに違いない。

 もう1人の強行派の来島又兵衛は御所で戦死しており、たった1人で責任を取って幕府軍と対峙するつもりだったが、「自分も残りたい」などとする16人の若者が申し出てきた。

 真木の退却の説得も聞かず、そばを離れようとしない。結局、真木を含めた17人が、後退する部隊の最後尾で追っ手から味方を守る「しんがり」を務めることになったのだ。

 京都、大阪の境にある天王山。中腹まで登ると、男山との狭い平地の間を桂川と宇治川、木津川が合流して淀川へとつながっていく光景が一望できる。

 真木ら17人は死を覚悟して、たぶん、そんな所から味方の退却を見送ったのだろう。

17烈士の自害

 山の中腹に立てこもる真木らは20日、郡山藩の退却の勧告にも耳を貸さずに断ると、翌21日、新選組を先頭に会津の兵士たちが山へ入っていった。

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久留米・水天宮境内に建つ真木神社

 天王山の麓にある離宮八幡の境内に長州が捨てた大砲を新選組が捕獲し、天王山めがけて撃ったという話も残る。山道を登って追いかける会津藩と新選組。じわり、じわりと追い詰められた真木。

 新選組隊士の永倉新八が書き残した記録には、局長の近藤勇が山の中腹あたりで金の烏帽子(えぼし)に錦の直垂(ひたたれ)姿の真木と銃を持つ数人の浪士が立っているのを見つけた。

 真木は大声で「互いに名を名乗ろう」を声をかけると「毛利家家臣の真木和泉である」と続けた。対する近藤も「私は幕府配下の近藤勇だ」と応じる。

 そして真木は詩吟を歌い勝ちどきを上げた直後、周囲にいた浪士が幕府軍目がけて発砲し、弾を避ける隙に山頂に向かって走り去った。

 少し間を置いて近藤らが登っていくと、炎をあげて燃える小屋を発見。急いで小屋に駈け寄る近藤らが見たものは自害して果てた黒こげの真木の姿だった。

 小屋の中にあった火薬で吹き飛ばされたらしく、死にきれない浪士は新選組の隊士が介錯したという話もある。

 ここに蛤御門の変は完全終結した。真木ら17人の遺体は賊徒の墓として、地元の人の手で宝積寺の三重塔前に葬られた。それでも地元の人からは17人を“残念さん”と親しみを込めて呼ばれ参拝する人が絶えなかった。

 それに困った幕府は別の場所に改葬したうえで、一般人の登山を禁じたとも伝わる。

(園田和洋)

愛媛
伊達家書簡で幕末政治読む 8日に公開講座 宇和島
 宇和島伊達家伝来の書簡からみる徳川幕府の崩壊―。宇和島歴史文化研究会(近藤俊文会長)の公開講座が8日正午から、愛媛県宇和島市堀端町の市生涯学習センターで開かれる。幕末の政治の舞台裏を、初めて一般公開される同家所蔵の史料約30点から読み解く。
 講座では「慶応3年伊達家文書からみた四候会議、大政奉還、王政復古」と題し近藤会長が講演。江戸から明治へと時代が大きく動いた慶応3(1867)年に焦点を当て、関連する各史料を日付を追ったストーリー仕立てで解説する。
 史料には、宇和島での西郷隆盛らとの会談内容などを記した宇和島藩8代藩主伊達宗城の直筆書や、大阪商工会議所の初代会頭などとして活躍した五代才助が宗城を新政府で起用するよう進言する書簡などが並ぶ。


高知
高知県立坂本龍馬記念館で「幕末の志士人気ベスト10」展
高知県高知市の高知県立坂本龍馬記念館、海の見える・ぎゃらりいで2014年1月31日まで、「幕末の志士人気ベスト10」展を開催している。記念館の入館者アンケートの項目「幕末のお気に入りの人物を教えてください」を4月から7カ月間集計し、人気ベスト10の写真をパネルで紹介。12月27日からはベスト20位までを展示している。
 県立坂本龍馬記念館は9時から17時まで開館。入館料500円で、高校生以下は無料。連絡先は088・841・0001。

土佐藩馬奉行の子孫が江戸期の馬術書寄贈 高知県安芸市へ35点
 幕末に土佐藩の馬奉行などとして騎兵育成に尽くした葛目楠吉の子孫が25日までに、江戸初期から明治の馬術書などの資料35点を高知安芸市の市立歴史民俗資料館に寄贈した。カラーで馬体を描いた図や馬術指導書などが含まれ、同資料館は「江戸時代の馬術資料は少ない。実用的な内容で、貴重な研究資料になる」とし展示などを検討する。
 同資料館によると、楠吉は土佐藩が取り入れていた大坪流馬術、朝鮮流要馬術、源家古伝馬術のうち、源家古伝馬術を伝えた本山団蔵茂隆に師事。1856(安政3)年から大目付、68(慶応4)年から軍馬指南役、馬奉行を務めたとされる。
 資料は1662(寛文2)年の馬術心得をはじめ、楠吉が使ったとみられる指導書、本山団蔵の馬術免状など。「馬の博物館」(横浜市)によると、源家古伝馬術は、愛媛県の松山藩士が1802年に完成させた馬術で、当時、全国的に主流だった大坪流で鍛えた馬より、持久力や速力を向上させ、遠乗りを可能にする調教法などを編み出した。
 高知県内では土佐藩の剣術や弓術は研究されてきたが、馬術は土佐山内家宝物資料館(高知市)などに一部の資料が残るだけ。特に、源家古伝馬術の資料はほとんど残っていないという。
 寄贈したのは、楠吉のやしゃごに当たる藤島善之さん(72)=安芸市東浜。葛目家が絶え、楠吉の孫で、藤島家に嫁いだ善之さんの祖母が管理していたものを受け継ぎ、保管してきた。
 藤島さんは「『楠吉さんは流鏑馬(やぶさめ)の名人だった』と祖母に聞いていた。これを機会に馬術の研究が進むよう役立てば」と期待。同民俗資料館は「源家古伝馬術だけでなく、葛目家の資料としてもまとまっている。2014年はうま年でもあり、展示を考えたい」としている。

【写真】土佐藩の馬奉行、葛目楠吉が残していた馬術の関連資料。子孫が安芸市立歴史民俗資料館に寄贈した(安芸市土居)

コラム
被弾しながらも陣頭指揮をとった回天丸艦長 甲賀源吾
甲賀源吾
享年31 戦死
被弾しながらも陣頭指揮をとった回天丸艦長
生没:1839~1869
命日:3月25日
墓所:光源寺(東京都文京区)

甲賀源吾

蝦夷共和国のエリート幹部
遠江掛川藩士(静岡県掛川市)・甲賀秀孝の四男に生まれ、本名は秀虎という。
十七歳で蘭学を学び、安政五年(一八五八)には軍艦教授頭・矢田堀鴻に従い、長崎の海軍伝習所で航海術を学んだ。
その後、矢田堀の甥・荒井郁之助とともにオランダ語の高等数学を研究している。

幕臣時代は軍艦操練教授方、伝習所軍艦役など海軍のエリートコースを進んだ。
慶応四年(一八六八)には軍艦頭並に昇進したが、すでに幕府は瓦解し、戊辰戦争が勃発。
旧幕府軍の敗色濃厚のなかで旧幕府海軍にいた甲賀源吾は、海軍副総裁・榎本武揚とともに品川沖に碇泊し、徳川家の処置の成り行きを見守っていた。

四月十一日、江戸城の明け渡しが行われたが、徳川家の処置に対して不満をもっていた榎本武揚らは軍艦の引き渡しを拒否。
八月十九日に「開陽丸」「回天丸」「蟠竜丸」「千代田形丸」の軍艦四隻とともに品川沖を脱出し、新政府軍に抵抗する東北諸藩の救援に向かった。
このとき甲賀は「回天丸」の艦長をつとめている。

榎本らの旧幕府艦隊は仙台藩領の松島湾に碇泊したが、九月に入って東北諸藩が次々と降伏したため、元新撰組副長・土方歳三ら抗戦派の兵を収容して蝦夷地(北海道)へ向かった。
甲賀の「回天丸」は、箱館港を占領するなど蝦夷地平定で活躍し、江差で「開陽丸」が座礁したあとは旗艦となる。
十二月十五日には蝦夷共和国を樹立し、甲賀は閣僚として軍艦頭になった。

ガトリング砲の前に散った艦長
しかし、新政府は蝦夷共和国を認めるはずもなく追討令を発布。
雪解けとともに新政府軍と剣を交える。
新政府はアメリカ製の最新戦艦「ストンウォール」で蝦夷地征伐に出港。
元々は旧幕府が購入を予定していたが、瓦解によって明治二年(一八六九)二月三日新政府に引き渡され、「甲鉄艦」と命名された戦艦である。

一方、「開陽丸」を失った旧幕府軍は、新政府軍の上陸を阻む術を持っていなかった。
そんな折、「甲鉄艦が宮古湾に寄港する」という情報を得た甲賀源吾は、これを奇襲して拿捕する作戦を考案、土方歳三がその指揮をとることになった。
この作戦は「アボルダージュ」と呼ばれる接舷攻撃で、敵艦に乗り込んで奪い取るという戦術である。

三月二十日、「回天丸」「蟠竜丸」「高雄丸」の三隻で箱館を出港したが、暴風雨に遭い、三隻は離散。
結局、二十五日早朝に宮古湾に到着したのは「回天丸」だけで、他二隻を待たずして突入することになってしまった。

「回天丸」は、アメリカ国旗を掲揚、「甲鉄艦」をあざむいて間近に迫り、接舷したところで急に日章旗をひるがえし虚を衝いた。
しかし、「回天丸」の艦首と「甲鉄艦」の甲板との間に約三メートルの落差があった。
突撃部隊は敵艦に飛び下りるのをためらい、敵に反撃態勢を整える余裕を与えてしまった。
「甲鉄艦」には一分間に一八〇発の銃弾を撃てるガトリング砲があり、斬り込み部隊はあえなく撤退。
ひとり気をはいた新撰組隊士・野村利三郎も、数名を斬り殺すも、「回天丸」に引き上げる直前に戦死してしまった。

甲賀源吾は、そのガトリング砲で左脚や右腕に被弾しながらも甲板で指揮をとったが、左のこめかみを撃ち抜かれて落命した。
「回天丸」は荒井郁之助が舵を握って箱館へ帰還した。
この宮古湾海戦に新政府軍として参戦していた東郷平八郎(当時二十三歳)は、「天晴な勇士であった」と追悼の意を表している。


「江戸無血開城」を成し遂げた男の生涯に迫る
12月24日、『勝海舟と江戸東京』(樋口雄彦著、吉川弘文館)が刊行。
慶応4年(明治元年 1868年)4月の「江戸無血開城」を成し遂げた江戸藩士・勝海舟。
その功績は、2013年度大河ドラマ『八重の桜』をはじめ、現在においてもさまざまな形で伝えられる。

本書『勝海舟と江戸東京』は、在野の巨人として影響力を及ぼした明治以降にいたる生涯を活写する一冊。
著者は国立歴史民俗博物館・総合研究大学院大学教授、『敗者の日本史17 箱館戦争と榎本武揚』(吉川弘文館、2012年)の樋口雄彦。

咸臨丸で渡米した幕臣時代にはじまる、海舟の生涯にゆかりの深い江戸東京の史跡を訪ねる。
戊辰戦争で明治新政府軍・幕府軍の双方から厚い信頼を集め、江戸城無血開城を果たした勝海舟。
本書は、海舟ゆかりの江戸東京の史跡を訪ね、実像に迫る。
エンターテインメント
「風雲児たち 幕末編」150回&新刊記念で5巻まで無料配信
発売中のコミック乱2014年2月号(リイド社)にて、みなもと太郎「風雲児たち 幕末編」が連載150回を達成。これを記念して、今号にはみなもとの特別インタビューが掲載されている。

また「風雲児たち 幕末編」最新23巻の刊行に合わせて、「風雲児たち」シリーズの特設サイトがオープン。多数の電子書籍サイトを通じて、「風雲児たち」「風雲児たち 幕末編」の各1~5巻を無料配信している。さらに全巻セットの特別価格販売も実施中。まずは記事末のリンクからサイトを覗いてみよう。

このほかコミック乱2014年2月号では、「黒鷺死体宅配便」の山崎峰水が数年ぶりに山崎浩名義を用いて、新連載「てくてく~東海道ぬけまいり~」をスタート。さらに3月号からは「ばら物語」「東京物語」で知られる、滝沢聖峰による「物語」シリーズの新作「二兎物語」が幕を開ける。
年末年始の休みに突入してからの落語会なので余裕で楽しめるだろうと思っていたら、予想していなかった家族の問題でグダグダ……で、なかのZEROホールに行くのもけっこう時間ぎりぎり。今日のお供は子供時代から落語は聴いていたという落語ファン。
 2階席の端っこはそこそこ空いていたけど、全体としては9割入っていたのではないでしょうか。

唖の釣り/談春
 デリバリー談春の趣旨説明に加えて、「芝浜」に「唖の釣り」は合わない、とか、なんでこう自らアウェイ感をさらに増すようなことをするのか、とか、なかなか噺に入れない模様。
 かなり時間をかけて、いきなり入った与太郎がどっと与太郎だった(汗)。与太郎を釣りに連れて行った七兵衛さん、ご災難。

中村勘三郎の思い出/談春
 高座を離れず、続いて話し出したのは亡・中村勘三郎との交友のこと、そして先日松本で開催した勘三郎追悼の会@松本。談春さんが世話役で志の輔師・さだまさしさんで予定していたところ、鶴瓶さんまでサプライズゲストに。談春さんは13分で「宮戸川」、鶴瓶さんは「青木先生」、さださんのトークと歌(最後は「精霊流し」)、志の輔師匠は「中村仲蔵」85分の熱演だったそうで、遠征された方々は松本に一泊するしかなかったでしょうが、皆さん熱演だったそうで羨ましい。
 談春さんというと古典落語の名人という印象ですが、こういう自由なトークで言葉を紡ぎ出す才能が凄いんだなと改めて思いましたし、講師業の友人も唸ってました。

芝浜/談春
 今年は50回を超える落語会・寄席に行ってました(^_^;)……今年の一番ではないですが、談春師の「芝浜」を1月13日に聴いていたんです。でも覚えていない(汗)……一年間にいろいろなことがありすぎましたから。
 会話だけでつなぐ「芝浜」……すごいなぁ。


挨拶
 ふつうは楽屋に勉強に来ている落語家さんたちを紹介することはないのだけど、「芝浜」を定着させた故・桂三木助師匠の孫の三木男さん、正月の鈴本夜席で小三治師匠がトリを務めていた高座を任された三三さん、志らく師匠の弟子ふたりをいじりまくる。
 土曜日で5時開演と早めに始まった落語会なので終演時間をそれほど気にする状況ではなかったけど、談春師大活躍であっというまに8時半超えているよね……(汗)。

市馬ファンは、落語する市馬だけでなく、昭和歌謡を熱唱する市馬も好きでないと務まりません(きりっ)……さすがに、市馬師匠の会にLEDライトを持ち込んで振り回すほどのコアなファンではないし、昭和10年代の歌謡曲がわかるほど歌謡曲に思い入れはないです。ただ、ゲストの恩田えりちゃんが市馬師匠とのデュエットを一生懸命こなそうとする健気な姿に「えりちゃーん」コールをかけたくなるぐらいにはおかっぱのえりちゃんを可愛いと思いますし……中入り後はすべて歌謡曲という構成の落語会にも関わらず、前半の高座に上がった師匠方全員が最後まで残っていた落語会(普通は次の高座のために出ていかれます)というのは、市馬師匠が落語協会副会長という影響力あるポジションにいるだけでなく、この人に招ばれたら打上げまで付き合わないといけないなーと感じさせる人柄(落語協会のメンバーはもちろん、圓楽一門の兼好師も残ってましたし)であることもあるでしょう。


三十石舟/市馬
 喉の調整のためのネタですか。でも好き。

浮世床〜本〜/一之輔
 「部室落語」男子高校生の部室での風景を彷彿とさせる一之輔落語の特徴がよく出るネタ。「てぇこぅき」が「抵抗器」になるなど、細かいところで一之輔ならではの工夫があって、爆笑してすっきり。
 寄席でよくあるというけど自分はあまり聴いたことがない「冗談オチ」だぁ。

宗論/兼好
 芸協と圓楽一門は積極的に回ってないのだけど、兼好師は「よってたかって(季節)らくご」に出演することも多く、圓楽一門の中では比較的に出会うことが多い。
 一之輔さんもそうなんだけど、今日は中入り後の市馬師匠の熱唱のために、さらっと笑わせてさがる。

粗忽の釘/三三
 引っ越したところから始まる。市馬師匠をはじめとして上がった師匠達のネタにからんだくすぐりも漏らさず、でも一番楽しいのは亭主ののろけ話。今まで聴いた中でもちょっとだけ違っていたのは三三さんオリジナルなのかなぁ。

後半は市馬歌謡ショー。今回は昭和10年代の歌を熱唱……昭和一ケタの母でさえ知ってるかどうかという曲を熱唱しまくり。ゲストに志らく師。デュエットは恩田えりちゃん。司会は前半たけ平さん、後半はオフィスエムズの加藤さん(ちょっと踊ってた)。


いよいよ師走に突入ですね。大河ドラマ『新選組!』開始にあわせて始めた当ブログ、今月で満10年になっちゃうんだ……。
 今日は㐮さんが天に召されてうるうるしました。

北海道
住宅に戊辰戦争の砲弾? 北海道・美唄
 北海道美唄市の住宅で砲弾のようなものが30日見つかり、陸上自衛隊第11旅団(札幌市)が回収した。旅団や美唄署によると、「4斤砲弾」と呼ばれる戊辰戦争当時の砲弾とみられるという。

 美唄署によると、直径約10センチ、長さ約20センチの円錐(えんすい)形。住宅に住む無職女性(84)が昨年8月ごろに見つけたが、砲弾とは知らず、なぜ自宅内にあるのかも不明という。

 女性は消火栓の点検のため近くを訪れていた消防職員に相談し、この職員が美唄署に届け出た。

宮城
仙台四郎ら庶民の姿軽快に 幕末仙台のネット漫画好評
 幕末の仙台城下を庶民の視点で描いた漫画がインターネット上で連載され、歴史ファンらに愛読されている。知的障害がありながら「福の神」として親しまれた仙台四郎と友人が主人公で、タイトルは「幕末仙台庶民伝 オレとシロバカ」。飢饉(ききん)や尊皇攘夷の動きに揺れる仙台藩の姿を、軽快なタッチで表現した。

 元NHKディレクター湯座明彦さん(61)=仙台市青葉区=が、2011年11月からほぼ3カ月に1話のペースで公開。これまでに10話を連載した。
 農村から城下に移り住んだ少年タカは、「シロバカ」と呼ばれる四郎と知り合う。戊辰戦争でゲリラ部隊の烏組(からすぐみ)を率いた細谷十太夫、仙台藩の洋式軍隊創設者星恂太郎、いずれも藩奉行で尊皇攘夷に軸足を置く遠藤文七郎、佐幕派の但木土佐らが登場する。
 タカが賊の仲間に引き込まれそうになったり、十太夫と知り合ったりする中で見た城下の様子を漫画化した。10月下旬に公開した第10話(30ページ)は、尊皇攘夷派が但木邸を襲撃したが失敗に終わったという粗筋。
 フィクションだが、湯座さんは歴史資料を丹念に読み込み、史実から外れないよう心掛けた。当時の政治的背景も、作品の中で丁寧に解説している。
 仙台や福島などで勤務した湯座さんは2010年にNHKを早期退職後、かねて興味があった仙台四郎に関する一人芝居を福祉施設などで上演。東日本大震災後にパソコンで漫画を描き始めた。
 登場人物の体の動きは少なめだが「ドラマのディレクターだったので、登場人物の表情の変化に気を使い、物語を展開するようにしています」と湯座さん。戊辰戦争が終わり、新たな時代を迎えるまでの仙台の街を描く予定という。

[仙台四郎]藩制時代末期から明治時代にかけて実在した人物。ユーモラスな風貌と純粋な人柄で「シロバカ」と呼ばれ、親しまれた。四郎が立ち寄った店は繁盛したといわれる。写真や肖像画を「福の神」として飾る商店、飲食店は多い。

奈良
幕末の高取藩、活躍知って 天誅組蜂起150年記念で展示会 奈良
■パネルや資料、大砲複製品など

 幕末に尊皇攘夷(じょうい)を掲げて倒幕を目指した「天誅(てんちゅう)組」の蜂起から150年を記念した展示会「天誅組と幕末に活躍した高取藩の人々」が、高取町の土佐街道沿いのイベント会場などで開かれている。譜代(ふだい)大名だった高取藩の中にも、倒幕のため天誅組に参加した藩士もおり、激動の時代を紹介している。30日まで。

 天誅組は文久3(1863)年8月17日に五條代官所を襲撃。一時加勢した十津川郷士らとともに高取城を攻撃したが、朝廷の命を受けて迎撃した高取藩の前に大きな被害を受けて敗走し、最後は壊滅した。

 展示会は、地域活性化に取り組むボランティア団体「天(あま)の川実行委員会」などが、「新しい時代を切り開くために活躍した高取藩の人々を知ってほしい」と企画した。

 天誅組と高取藩の戦力や、戦いの損害の比較、天誅組の行軍図、天誅組に参加した高取藩士・安田鉄蔵(てつぞう)らをパネルで紹介。13代藩主・植村家保(いえやす)と最後の14代藩主・植村家壺(いえひろ)を紹介するパネルなども含め、約30点の資料を公開している。

 戦死した天誅組の志士が眠る東吉野村の墓所の写真や、当時高取藩で使われ、天誅組との戦いに威力を発揮したとされる大砲「ブリキトース砲」の複製品も並べた。また、京都の治安維持を担当した新撰組に参加した高取藩士の尾関弥四郎(やしろう)・雅次郎(まさじろう)兄弟についても紹介している。

 見学無料。時間は午前10時~午後4時。問い合わせは実行委((電)0744・41・6140)。

天誅組:幕末の高取藩、藩士の足跡紹介 あすまでパネル展−−高取 /奈良
 明治維新の先駆けとなった「天誅組」の蜂起と旧高取藩の関わりなどをテーマにしたパネル展が、高取町上土佐の「街の駅『城跡』」で開かれている。高取藩は攻撃してきた天誅組を退けたが、倒幕を掲げる天誅組に加わった藩士もいたことを紹介。新撰組に参加した藩士も紹介し、激動の幕末を生きた志士3人の足跡をたどる。30日まで。

 天誅組は1863(文久3)年に挙兵し、幕府五條代官所を襲撃。恭順を迫られた高取藩は、京都守護職の松平容保が天誅組討伐を命じた後は攻撃に転じ、敗走させた。天誅組に参加した藩士・安田鉄蔵は、最後は幕府軍の追討で戦死した。

 新撰組には尾関兄弟が参加し、弟の雅次郎は先頭を行く「旗役」を務めた。後に函館で降伏し、明治に入って赦免された。「勘定方」を務めた兄の弥四郎は、後に病死した。

 パネル展を主催する天の川実行委員会の野村幸治代表は「幕末に、こんな人たちがいたことを知ってほしい」と話している。午前10時〜午後4時。問い合わせは実行委(0744・41・6140)。【矢追健介】

鳥取
本圀寺事件:150年 幕末から明治、史料集め企画展 尊攘藩士22人の足跡 来月23日まで、県立博物館 /鳥取
 幕末の1863(文久3)年に尊皇攘夷派の鳥取藩士22人が佐幕派の藩の重臣を京都で襲撃した「本圀寺(ほんこくじ)事件」から150年に合わせ、関連の史料などを集めた企画展「鳥取藩二十二士と明治維新」(毎日新聞鳥取支局など後援)が23日、県立博物館で始まった。来見田(くるみだ)博基学芸員は「当時の鳥取の歴史がどのようなものだったのか。いま一度、自分の目で見て、考えてほしい」と話している。【川瀬慎一朗】

エンターテインメント
小説家・冲方丁「最後まで苦悶している土方は、男が惚れる男」
 1863年に結成され、今年で150周年を迎えた新選組。活動期間はわずか6年だったにも関わらず、今でも人々の心をつかむ。2012年に『光圀伝』で第3回山田風太郎賞を受賞した小説家・冲方丁(うぶかたとう)氏がその魅力を明かした。

*  *  *
 今秋から僕が原作を担当し、新撰組の土方歳三を主人公とした漫画「ガーゴイル」の連載が始まりました。

 新撰組を題材にしたのは、広く一般に認知され、メジャーな存在だったからです。たいていの人が「新撰組」といえば「土方、沖田……」と固有名詞がすぐに出てきます。子母澤寛先生や司馬遼太郎先生のおかげで、個々のキャラクターもある程度、確立されています。史実と違う点もありますが(笑)。

 ですが、小説や漫画は史実と違う部分があっていい。忠実に書こうとしたら、現代のアフリカなどで起きている内戦と同じようなものです。リアルに描いたら、残酷すぎて読者に受け入れられないでしょう。

 重要なのは読者の心に響くものをつくること。時代感情をうまく作品中に盛り込むことが大切です。

 新撰組は、そもそも幕府の体制が盤石だったら生まれるはずはありませんでした。泰平の世ならば、どこの馬の骨とも知れない剣士たちの活躍する場なんてなかったんです。

 ですが、時代は転換期。幕府や政治体制は、このままでいいわけがない。将軍ですらそう思っている。幕府を変えたいんだけど、かといって、変えすぎて壊してはいけない。250年の繁栄を謳歌してきた体制への愛着もある。

 いまの日本とぴたりと重なるんです。いまの日本も50年続いた繁栄への愛着がある。新しい時代に適応ができていない、適応したがっていない。そんな時代背景が似ています。

 そのなかで新撰組は、ある意味、“食いっぱぐれた若者の熱情のはけ口”でした。新撰組にいるのは、本来だったら、仕事もない、結婚もしていないような人たち。彼らが新撰組に入ることで一斉に歴史の表舞台に出たことへの痛快感があります。

 それに新撰組は、魅力的な登場人物がたくさんいて、自分の好きなキャラを選べるところもいいですね。その意味で現代の“AKB商法”と似ている。それぞれがお気に入りの人物を見つけて、語り合えます。

 私は、個人的には土方歳三が好きですね。いろいろ調べていくと、非常に揺れ惑い、どうしたらいいか、と苦悶している顔がみえます。近藤勇のようにさっさと捕まって処刑されたほうが楽になったはず。最後の最後まで「幕臣とはなんなのか」「自分たちの存在はなんなのか」、苦しみながら考えているところが好きです。仲間殺しの責任を自らひっかぶっている面もあります。悲しく強い男。男が惚れやすい男ですよね。

 おすすめの新撰組スポットは、会津の京都における本陣があった金戒光明寺や、八木邸・旧前川邸などの隊士が実際に寝泊まりしていた場所ですね。あとは京都に行って、コスプレした写真を撮るのもおすすめです。ダンダラ模様の羽織をはおって刀さして、新撰組の格好をして写真館で撮影するんです。意外に楽しいんですよ。僕も切腹するふりをして写真を撮りましたよ。エイッて。

 新撰組は衣装もいいですよね。浅葱(あさぎ)色のダンダラ模様。「こんな派手でバカみたいな衣装を着ていたんだ」って、着ると実感する。よっぽど腕に自信がないと。一人では歩けないですよ(笑)。

<神木隆之介>涼しげな表情はうり二つ? “ハマリ役”瀬田宗次郎ビジュアル解禁
 2014年夏に公開される映画「るろうに剣心 京都大火編」「るろうに剣心 伝説の最期編」(大友啓史監督、2014年夏公開)で、俳優の神木隆之介さんが演じる瀬田宗次郎のビジュアルが29日、公開された。キャスト予想でも断トツの人気だった神木さんが演じる涼しげな表情を浮かべた宗次郎の姿は話題を集めそうだ。

【写真特集】くまモンがロケ地を陣中見舞い

 神木さんが演じる宗次郎は、見た目はあどけなさの残る少年だが、佐藤健さんふんする主人公・緋村剣心に匹敵するほどの剣術の天才という原作マンガ屈指の人気キャラクター。子どものころの過酷な経験により感情が欠落し、人なつっこい笑顔の裏には、人を殺すことをいとわない冷酷な一面を隠し持っている。今回、神木さんは、役作りに2年を費やしたといい、撮影のたびに衣装に合わせ、時間をかけて髪を紺色に染めるなど、気合も十分だという。

 「るろうに剣心」は、和月伸宏さんのマンガが原作で、幕末に「人斬り抜刀斎」として恐れられた剣心が、明治維新後「不殺(ころさず)」を誓った流浪人(るろうに)として、さまざまな人たちとの出会いや、宿敵との戦いをへて、新たな時代の生き方を模索していく物語。「京都大火編」「伝説の最期編」は、日本制圧を目指す新たな敵が待ち受ける京都を舞台に、前作を上回る壮大なスケールで描かれる。

 神木さん、佐藤さんのほか、前作に続き、ヒロインの神谷薫役で武井咲さん、旧幕府軍・新選組三番隊組長の斎藤一役で江口洋介さんが出演。また最大の敵となる志々雄真実(ししお・まこと)役で藤原竜也さん、四乃森蒼紫(しのもり・あおし)役で伊勢谷友介さんも新たに登場する。(毎日新聞デジタル)
 蒼紫様、伊勢谷さんが演じるんですね。
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