忍者ブログ
新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 風邪で昨日まで寝込んでいたけど、今日はすっきり……って、浅草演芸ホールに行くか自分(汗)。市馬さんを生で見たかったからです。

辰じん「たらちね」
扇辰師のお弟子さんだけあって、前座にしてはなかなか聴かせる。そして、後の高座で順子さんとからんだ時は笑った。なかなかいいキャラ。

市江「ん廻し」
 市馬師匠のところの市江さん、一通りこなすんだけど笑えないのはまだまだ場数がたりないのかな。

三之助「堀ノ内」
 自分は「堀ノ内」って極端に粗忽過ぎてあまり笑えないんだけど、それでもうまい噺家さんの「堀ノ内」だと笑えたりする。

志げる アコーデオン漫談
 談志家元が認めたアコーデオン漫談、と家元の思い出話を少々。何をリクエストしてもOKだそうで今日は「赤城の子守歌」。

美るく 「牛ほめ」
 歌る美改め美るく。女性の師匠に弟子入りした女性のお弟子さんなんですね。
 場面の切り取り方がなかなか新鮮な「牛ほめ」なのだけど、与太郎がちっと馬鹿すぎないかな……与太郎は馬鹿ではなくて生産的でない奴という立川流の解釈が染みつき過ぎたかな(^_^;)。

さん吉 漫談
 談志家元が「小ゑん」で売れていた頃の話を含めて、どんだけ型にとらわれないかを話す。そして、人間国宝小さん師匠がその才能を愛したかも。じわーん。

にゃん子金魚 漫才

喬太郎「 家見舞」
 きゃー、キョンキョンを二列目正面から見上げる席で見られるなんて。でも「家見舞」がネタとはな(^_^;)。新築した兄ぃのプレゼントに瓶を見繕うとする弟分ふたりなんだけど、金がなくて、手に入れた瓶は……って尾籠な話。
 でもキョンキョンならいいか(爆)。

さん八 「小言念仏」
 小三治師匠だったら大好きな「小言念仏」。赤ん坊が這ってきたり、今日の味噌汁のネタにどじょう屋さんをつかまえようとしたり(え、そこで今日は終わりですか……鍋にどじょうを入れた後が面白いのに^_^;)。

仙三郎社中 曲芸
 いつものように、土瓶芸が見事。

はん治 「ぼやき居酒屋」
 新幹線車内の携帯マナーねたがちょっと長くて、ぼやき居酒屋はやや短め。でも、何度聴いても鉄板です。

小満ん 「蔵前駕籠」
 幕末のあの時代に蔵前に出没した強盗は、果たして本当に徳川家に味方する浪士の一味なのか、本当はただの浪人なのかと考えてしまう、幕末歴史ファン(^_^;)。

あした順子with辰じん
 前座の辰じんさんが、なかなかの味を見せてくれました。順子師匠から腰が引けてる感じとか、おかしかったです。

歌る多「熊の皮」
 甚兵衛さんネタは女性がやってもさまになりますね。オチは艶笑ネタになり過ぎず、このぐらいで。

南喬 「初天神」
 12月から初天神やるんですね。伸び伸びしてる金坊がかわいいというか小憎らしいというか。

中入り

扇辰「 紋三郎稲荷」
 中入り後で渋い、この演目。「へぇ~。人間は化かすのがうめえや」に、笑って拍手。

のいるこいる 漫談

小里ん 「睨み返し」
 白酒師でも正蔵師でもなく、小里ん師登場。歳末の掛け取り風景ってことは、市馬師の掛け取りはないんだなぁとしょぼーんとしつつ、でも「睨み返し」がおかしくって……とにかく顔芸がすごい。

扇遊「浮世床」
 半ちゃん大暴れ。楽しい浮世床です。

正楽 「紙切り」
 あいさつ代わりの相合い傘から、宝船、サンタクロース、餅つき。

市馬 「禁酒番屋」
 つい先日談春で聴いた気がするんですよ。でも市馬で聴くと、くどくなく、ほどほどに聴ける気がするんですよ。どっちも好きですが。
PR
 講談社現代新書で『池田屋事件の研究』中村武生が出版されてたのに気づいて買いました。通常の新書の倍の厚さで読み応え十分です。古高俊太郎とは何者なのか、というところから検討していて面白いです。

千葉
多彩な人脈 伊能忠敬の素顔に迫る企画展 千葉・佐原
 江戸時代に日本初の実測地図を作った伊能忠敬を支えた人物やその子孫にスポットを当てた企画展「忠敬の協力者たち-〈江戸〉のクロスポイント」が、香取市佐原の伊能忠敬記念館で開かれている。貴重な書簡など国宝級の資料を展示。戊辰戦争、オランダ、造り酒屋…とさまざまなキーワードで彩られた幅広い人脈をたどり、忠敬の素顔に迫っている。

 企画展は、忠敬の関係資料2345点が昨年6月に国宝指定された記念として開催。テーマを設けて展示替えし、第4回を迎える今回は忠敬と親交の深かった人物を中心に取り上げた。

 書状や日記など、国宝や国宝級の資料を展示している。登場人物は、戊辰戦争で旧幕府艦隊を率いた榎本武揚の父でもある弟子の箱田良助、忠敬の全国測量を支援した幕府若年寄の堀田正敦、測量器具を作製した大野弥三郎、「世直し江川大明神」といわれた伊豆韮山代官、江川英龍の父で忠敬から天文学を学んだ英毅、と地域も地位も多彩だ。

 のちに大野弥三郎の子の規周と榎本武揚が同じ船に乗ってオランダ留学に赴くといった、子孫同士に交流があったことも分かる。

 また、忠敬は造り酒屋の主人だったが酒を口にせず、酒飲みの弟子は破門にするなど厳しかったという。一方で、孫に対しては目に入れても痛くないほどかわいがっていたというエピソードもあり、忠敬の知られざる一面が見られる。

 これらの資料から、同館学芸員の酒井一輔さん(25)は「忠敬の人間味あふれる意外な素顔を知ることができる」と話す。企画展は来年1月22日まで。月曜休館。

 伊能忠敬といえば、志の輔らくご『大河への道』でますます興味を持つようになりました。
 江川英毅が伊能忠敬から天文学を学んだというところに興味が……。

佐賀
北海道開拓の父 佐賀偉人伝「島義勇」発刊
 幕末20+ 件・明治期に活躍した佐賀県の人物に脚光を当てる佐賀偉人伝の第5弾「島義勇」が10日、発刊される。明治初期に開拓判官として北海道に入り、今も“北海道開拓の父”と呼ばれる足跡を書や絵図などを盛り込んで検証する。電子書籍も同時に発売。17日午後1時半からは、著者で札幌市文化資料室の榎本洋介さんによる講演会を開く。
 
 島は「佐賀の七賢人」の一人で、1822年、佐賀城下精(しらげ)小路(佐賀市与賀町)に生まれた。幕末20+ 件、佐賀藩主鍋島直正の命で蝦夷(えぞ)地を調査し、報告書『入北記』をまとめた。維新後の69年、直正は北海道開拓使の初代長官、島は次官に当たる首席判官に就き、未開の大地で開拓者精神を発揮。札幌市庁舎ロビーに銅像が建つなど、札幌の礎を築いた先覚者として今もしのばれている。
 
 榎本さんは「頑固さとしなやかさを併せ持つ人物」と評価。当時、未開の札幌を中心に都市を建設するなど、先見性と卓越した実行力に対して「西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允の維新の三傑と比べても何ら遜色ない」とたたえている。
 
 A5判、112ページ。千円。電子版はパソコンのほかiPad、iPhone、アンドロイドに対応する。著者講演会は佐賀城本丸歴史館で。問い合わせは同館、電話0952(41)7550。


コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)(141)】黒田清隆(下)■開拓長官の志と私心の間 (東大教授・山内昌之)
 黒田清隆は、明治3(1870)年から7年まで開拓次官、7年から15年まで開拓長官を務めた。五稜郭戦争で榎本武揚を助命して武人の亀鑑とたたえられて以来、10年以上にわたり北海道の開拓行政にあたったことは他の政治家に類を見ない。

 ところで、黒田を開拓使長官と呼ぶ向きもあるが、正しくは開拓長官というのである。開拓使の「使」とは、按察使(あぜち)や巡察使といった律令制官職に由来する名称であり、省と同格の中央官庁として、北海道開拓を統一国家の最重要任務とする気概の表れであった。

 大蔵省大臣でなく大蔵大臣と呼ぶように、開拓使長官という官職は存在しないのである。

 黒田と開拓使との深い縁は、樺太よりも北海道の拓殖と国防を重視すべきという建議を出すことで、明治4年8月に10年間1千万円の大規模予算を策定して以来のことだ。これが開拓使10年計画にほかならない。もっとも長官になった黒田は、いわゆる遥任(ようにん)によって札幌には赴かず、東京で執務した。

多数のアメリカ人を招聘

 北海道開拓に尽くした黒田の最大業績は、多数のアメリカ人をお雇い外国人として招聘(しょうへい)し、気候風土のよく似た北米をモデルに北海道で日本近代化の礎を造ったことであろう。

 明治4年に渡米した黒田は、グラント大統領と談判して農務長官ホーレス・ケプロンを開拓顧問に招いた。彼と一緒に来日した技師やその薫陶を受けた専門家には、地質・鉱山学のライマンや酪農家のエドウィン・ダン、鉄道敷設のクロフォードなど、私の小学校時代なら北海道の子供が名を学んだ懐かしい顔ぶれが多い。

page: 2
 ケプロンの提言によって創られた札幌農学校の初代教頭として農学、数学、化学を教えた人物がウィリアム・クラークだったことは語るまでもない。ケプロンの指導によって創られた開拓使麦酒醸造所が今日のサッポロビールの濫觴(らんしょう)だったように、78人のお雇い外国人(うちアメリカ人48人)は黒田の期待を裏切らなかった。技術指導だけでなく、勤勉さや人格の面でも日本人の若者たちに大きな影響を与えた人物も多い。

 ともかく黒田は開拓長官として、潤沢な予算を惜しげもなく39ほどの各種官営工場の設立と経営につぎこみ、幌内炭山の開発と石炭輸送のために幌内と手宮(小樽)との間に鉄道を敷設したのだ。

 北方警備と開拓とを兼任させる屯田兵制の開始(明治7年)も黒田の献策に負う点が少なくない。札幌農学校や札幌などの農事試験場も、開拓技術者の養成と洋式農法の導入に大きく貢献した。ビール以外にも、製糖や製麻などの農産加工や各種の製造業や鉱山業などの官営事業を営んだのも黒田の功績である。

民営化で大きく傷つく盛名

 しかし、好事魔多しとはよくいったものだ。黒田の盛名はこの官営事業の民営化で大きく傷つくことになる。

 10年計画の満期が近くなった明治14年に開拓使の廃止方針が固まると、黒田は開拓使事業を継承させるために、部下の官吏を退職させ起業させることを考えついた。問題は、事業には私利で動かない役人出身者を充てるべきだという議論の当否もさることながら、事業が赤字だったことを理由に常識外の安値で部下らに払い下げようとした点にある。

 その対象は麦酒、砂糖などの工場、炭鉱などの鉱山業、農園、船舶、倉庫など広範にわたっている。1400万円の巨費を投じた国家財産をわずか38万円(無利息30年賦)で払い下げるというのだから、強い反対が出ないはずがない。

page: 3
 開拓使の大書記官だった安田定則らの北海社が事業経営に当たるとされたが、実際には資金不足のために関西貿易商会(経営者は黒田と同じ薩摩出身の政商、五代友厚)が払い下げを受けるというのは、何にしても醜聞もどきには違いなかった。

 反対する側の動機も、やや腐臭が漂うものだ。三菱の岩崎弥太郎(土佐)と参議大隈重信(肥前)が手を組んで薩摩閥の横暴を許すまじというのだから、明治新政府内外の藩閥の利益配分に絡んでいたのかもしれない。薩摩人でも、村橋久成のような開拓使の若き傑物が辞表をたたきつけて行方不明になる悲劇もこの時に起きたのである。

 黒田の強引さは、明治天皇の勅許まで得て払い下げを決定したことだ。しかし、長州閥の参議伊藤博文としては、共闘する薩摩閥の泰斗(たいと)黒田を失うわけにはいかない。そこで仕掛けたのが明治14年の政変であり、大隈は政府から追放され、世論を抑えるために国会開設の詔勅を出し、払い下げも中止したのである。

 ただし黒田も開拓長官を辞めて北海道の事業から手を引かざるをえなかった。明治維新以降、手塩にかけて育てた北海道開拓の志を捨てざるをえなかったのは、まさに九仞(きゅうじん)の功を一簣(いっき)に虧(か)くというものであった。これが政治の怖いところである。

 しかし、北海道への黒田のこだわりと同じほどの思いを、いまの沖縄にもつ民主党リーダーを寡聞にして知らない。せめて10年の単位で沖縄の振興や基地問題に取り組んできた民主党幹部がいたなら、自民党の物故した首相たちや引退した幹事長らに匹敵する信頼を県民から得られたはずである。

 私が子供の時分に受けた教育では、黒田を悪くいう小中学校教師は記憶にない。もちろん払い下げ事件も郷土史の一こまとして習った。マクロの評価を忘れず大局観をもつ先生たちの教えが今更ながらに懐かしく思い出される。(やまうち まさゆき)


エンターテインメント
キャラをデザインする“アキバスタイル”なネイルサロン登場 名シーンが爪でよみがえる!?
 アニメやゲームのキャラをモチーフにした“アキバスタイル”なネイルアートを提供するお店が登場。第1弾として恋愛ゲーム「薄桜鬼 ~新選組奇譚~」とコラボする。
 アニメやゲームのキャラクターネイルを施術する“アキバスタイル”なネイルサロン「あゆみーの」が12月15日、東京・秋葉原にオープンする。あのキャラクターのモチーフ、名シーンがあなたのネイルによみがえる!

 キャラクターをモチーフにしたネイルアートを楽しめる。正式にライセンス許諾を受けたキャラクターを採用しており、第1弾として恋愛ゲーム「薄桜鬼 ~新選組奇譚~」とコラボ。例えば「沖田総司ネイル」は緑の着物をモチーフにスワロフスキーなどをあしらっており、価格は10本で1万3250円。

 場所は東京都千代田区神田佐久間町2-11 小林ビル1F。営業時間は午前11時~午後10時(最終受け付けは午後8時まで)。今後もほかのキャラクターがネイルアートとして続々と登場する予定になっている。

 ネイルサロンのサイトはこちら。ただいま沖田総司ネイルと斎藤一ネイルの写真画像紹介中です。

「Over Drive」安田剛士の新連載は沖田総司の青春記
 本日12月6日に発売された月刊少年マガジン2012年1月号(講談社)にて、「Over Drive」で知られる安田剛士の新連載「黒猫DANCE」がスタートした。

「黒猫DANCE」は沖田総司の青春記を描く剣客時代劇。少年の沖田惣次郎は、自分に「近藤さんも死んだ。新撰組20+ 件は壊滅だ」と語りかける男の夢を見る。そんな沖田が、夢で見た男に出会ったことから物語は展開。天性の俊敏さと剣の才能を発揮する沖田の活躍が描かれる。
(以下略)

 新選組ものはなかなか完結しない作品が多いので(汗)最後まで読めますように期待しております。





 ここ数日ものすごく寒かったのが、雨上がって陽がさしてちょっと暖かくなった土曜日の午後。

福島
新島八重の資料並ぶ 會津稽古堂
会津若松市の会津図書館所蔵資料展は2、3の両日、市生涯学習総合センター「會津稽古堂」で開かれている。
会津藩士の娘で同志社大の創始者・新島襄の妻となった新島八重に関する資料などが並んでいる。
新島八重は平成25年のNHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公に決定しており、その生涯に注目が集まっている。
会場には昭和3年に撮影した晩年の八重の写真、直筆の和歌や手紙などが並ぶ。
八重の名前が記された明治4年の旧北会津郡役所「各府県出稼戸籍簿」などもある。
八重が戊辰戦争で男装して鶴ケ城に籠城し、西軍と戦ったことや会津若松市にある八重ゆかりの場所なども写真やパネルで紹介している。
来場者は貴重な資料にじっくりと見入り、“幕末のジャンヌダルク”と呼ばれた八重に思いをはせていた。
入場無料。
時間は午前9時から午後5時まで。


東京
幕末の名医、尾台榕堂の記念碑建立
 幕末の江戸で名医として知られた尾台榕堂(1799~1870年)のブロンズ像記念碑が、旧居跡の東京・JR東京駅八重洲中央口近くにお目見えした。

 榕堂は現在の新潟県十日町市に生まれ、江戸で医学などを学んだ。故郷に帰って開業したが、10年後に江戸へ戻り、師の家を継ぐ。著書も多く、日本における漢方医学の基盤を築いた一人とされる。記念碑は、古地図にも記載されている榕堂の居宅に近い「柳通り」沿いにある。台座を含め高さ約1・5メートル。没後140年記念事業の実行委員会が建立した。

FUJIFILM SQUARE 写真歴史博物館 企画展
『幕末・明治の記録 - 日本を紹介した「横浜写真」アルバムより - 』展開催のお知らせ

FUJIFILM SQUARE(フジフイルム スクエア)は、写真歴史博物館にて、『幕末・明治の記録 - 日本を紹介した「横浜写真」アルバムより - 』展を、2011年12月1日(木)から2012年2月29日(水)まで開催いたします。

「横浜写真」アルバムとは、幕末から明治にかけて、日本各地の風景、当時の人々の様子や生活を撮影し、絵師が彩色を施した写真を、蒔絵(まきえ)や螺鈿(らでん)を施した漆塗りの木製表紙のアルバムとして商品にしたものです。撮影は来日した外国人写真家や写真術を学んだ日本人写真師が実施し、外国人旅行者や居留地外国人の土産物として販売されていました。外国人向けの商業写真文化が開港都市となった横浜で花ひらいたことから、地名をとって「横浜写真」と呼ばれています。

「横浜写真」は四切サイズ程度のプリントで、多くは鶏卵紙印画によるものです。この写真を50~100枚まとめたものが「横浜写真」アルバムで、その豪華な作りから、西洋の写真文化と日本の伝統工芸が融合した和洋折衷の美術工芸品と呼べます。本展では、「横浜写真」アルバムより、86点を展示します。約150年ほど前の日本の風景、建物、生活、人物をお楽しみください。

※展示作品はオリジナルを忠実に再現した高画質の銀塩写真プリントです。


FUJIFILM SQUARE 写真歴史博物館 企画展『幕末・明治の記録 - 日本を紹介した「横浜写真」アルバムより - 』展の詳細は富士フイルムのウェブサイトをご覧ください。
  ⇒ http://www.fujifilm.co.jp/corporate/news/articleffnr_0583.html?link=n2u


<FUJIFILM SQUARE(フジフイルム スクエア)>
写真を中心とする富士フイルムのフォトギャラリー&ショップ。入館無料で、どなたでもお気軽にご覧いただけます。
クオリティの高いさまざまなジャンルの写真を展示する富士フイルムフォトサロン、写真とカメラの歴史を学べる写真歴史博物館のほか、最新の富士フイルム製品をご体験いただけるコーナーや、テレビCMでおなじみの「ASTALIFT(アスタリフト)」をはじめとするスキンケア・サプリメント商品の販売を行うショップもあり、幅広い層の方にお楽しみいただける施設です。皆さまお誘いあわせの上、ぜひご来場ください。

  FUJIFILM SQUARE(フジフイルム スクエア)
   ⇒ http://fujifilmsquare.jp/index.html?link=n2u


京都
幕末の京、描いた銅版画 宇治で30日から企画展
 京都府宇治市宇治の源氏物語ミュージアムで30日から、企画展「銅版画に見る京名所」が始まる。幕末の京の名所を精巧に描写し、目新しい土産物として注目を集めた銅版画やパネルが並ぶ。

 銅版画は、江戸時代後期にオランダから伝来し、土産物として普及した。縦7~8センチ横14~15センチの絵はがきほどの大きさで、精巧な描写が人気を集めた。企画展では、個人が収集した銅版画を一冊にまとめた市歴史資料館所蔵の資料7点と、拡大パネル40点が展示される。

 描かれているのは、平等院から嵐山、鞍馬、比叡山まで京都一円が描かれた「皇都名勝全覧図」のほか、平等院や清水寺、下鴨神社などの観光名所。また、源氏物語にちなんだ宇治十帖の古跡も展示される。

 来年2月19日まで。入館有料。月曜休館。問い合わせは同ミュージアムTEL0774(39)9300。


岡山
幕末女医の半生紹介 洋学資料館で光後玉江展
 幕末20+ 件から明治にかけて、現在の美咲町を中心に活躍した女医・光後玉江(1830〜1905年)の半生を紹介する企画展が、津山市西新町の津山洋学資料館で開かれている。来年4月15日まで。

 光後が診療を行っていた興禅寺(同町錦織)に伝わる史料約30点を展示。津山藩医・箕作阮甫が光後の医業に影響を与えていたことをうかがわせる手紙や本、愛用の医療器具などに来場者が見入っている。

 中でも1880〜1902年に患者に処方した薬を記録した「処剤録」(19冊)には、漢方薬のほか、サフラン、キニーネなど当時海外から輸入されていた薬も使われており、光後が治療に西洋医学を積極的に使っていたことが分かる。


山口
愛用のシルクハットも 山口・周南で児玉源太郎展
 日露戦争でロシア陸軍を破った名参謀、児玉源太郎の生涯を紹介する「児玉源太郎と近代国家への歩み展」が2日、出身地である山口県周南市の市美術博物館で開幕した。

 児玉源太郎は幕末長州藩の支藩、徳山藩の中級藩士の家に生まれ、戊辰戦争に従軍、陸軍軍人として西南戦争では熊本城を守る鎮台参謀副長として西郷軍の進撃を阻んだ。

 その後日本陸軍の兵制改革を行い、また台湾総督、内相などを歴任して明治政府の基礎を作った。日露戦争での活躍は、司馬遼太郎の「坂の上の雲」で紹介され、広く知られている。

 同展では、児玉ゆかりの資料や幕末明治の世相事件を描いた錦絵、同時代に活躍した政治家、軍人の資料など約140点が展示されている。

 中でも、児玉が使っていた兵学書「仏国歩兵陣中要務実地演習軌典」には、赤ペンの書き込みが多くみられ、勤勉な姿勢がうかがえる。また、愛用のシルクハットの箱には「G・KODAMA」の文字が確認できる。

 児玉は、地元徳山(現周南市)に私財を投じて図書館「児玉文庫」を開設するなど、教育文化育成にも力を注いだ。

 同展は1月15日まで。入場料一般700円、大学生500円(18歳以下、70歳以上、身体障害者は無料)。月曜と12月29日~1月3日は休館(1月9日は開館、翌日休館)。問い合わせは市美術博物館((電)0834・22・8880)。

佐賀
幕末佐賀の海軍所跡、ドッグ奥行き45メートル超
 佐賀市教委は1日、世界遺産への登録を目指す「九州・山口の近代化産業遺産群」の一つである幕末期の三重津海軍所跡(佐賀市川副町・諸富町)の発掘調査で、船を修理する「ドック」の奥行きが、少なくとも45メートル以上あることが判明したと発表した。10日に現地説明会を開く。

 市教委によると、これまでの調査で、遺構などからドックの奥行きは、早津江川から内陸に約30メートル以上に及ぶことは確認されていた。今回の調査で、遺構などからさらに長いことが分かったという。佐賀藩がオランダから購入した蒸気船の軍艦「電流丸」の全長が45・5メートルだったことから、市教委は「電流丸の修復で使用されたドックとみてほぼ間違いない」としている。ドックは、1861年(文久元年)頃に完成し、船底の銅板の張り替えなどの修理が行われたとされる。

 発掘場所は佐野記念公園内で、10日の現地説明会は午前9時半、同10時半、同11時半の計3回。問い合わせは、市教委文化振興課世界遺産調査室(0952・40・7368)へ。


熊本
幕末・明治の県出身偉人紹介
 幕末から明治時代にかけて活躍した熊本出身の人物を紹介する特別展「熊本城下の青春 幕末・明治編」が、熊本市の熊本近代文学館で開かれている。5日まで。

 九州新幹線鹿児島ルートの全線開業を記念し、熊本の魅力を知ってもらおうと企画した。

 幕末の池田屋事件(1864年)で命を落とした肥後勤王党の宮部鼎蔵(ていぞう)の旅日記、明治憲法、教育勅語などを起草した政治家井上毅(こわし)の書簡、井上の義父でこれまであまり知られていなかった儒学者木下■村(いそん)の遺稿など263点を展示している。

 井上智重館長は「興味深そうに長時間見学する人が多い。熊本が輩出した人物や人脈のすごさが伝わるはず」と話している。入場無料。




エンターテインメント
 あ、実写版の写真きた。
るろうに剣心 : 実写版ビジュアル公開 主演の佐藤健「原作ファン見て」と自信
 俳優の佐藤健さん主演で実写映画化される「るろうに剣心」(大友啓史監督)が、11月21日にクランクアップを迎え、佐藤さん扮(ふん)する主人公・緋村剣心(ひむら・けんしん)のビジュアルが公開された。佐藤さんは「ケガなく無事に撮影を終えることができてホッとしたのと、解放感で思わず『終わったー!』って叫んじゃいました。たくさんの方に見ていただきたいですが、特に原作ファンに見ていただきたいです」とコメントしている。

 8月にクランクインした同映画は、京都府、滋賀県、鳥取県、岡山県、兵庫県、大阪府の2府4県で約4カ月という長期の撮影を行い、各地で延べ1200人のエキストラが参加する大掛かりなものとなった。製作総指揮のウィリアム・アイアトンさんは、世界マーケットへのデビュー、そして海外配給に向け準備を始めているといい、「我々は剣心が世界中の観客に愛されると信じています」と同映画へ期待を寄せている。

 「るろうに剣心」は、94~99年に「週刊少年ジャンプ」(集英社)で連載され、コミックスは全28巻で累計5000万部以上を発行した大ヒットマンガ。幕末に「人斬り抜刀斎」として恐れられた緋村剣心が、明治維新後「不殺(ころさず)」を誓った流浪人(るろうに)として、さまざまな人たちとの出会いや、宿敵との戦いをへて、新たな時代の生き方を模索していくという物語で、映画では主人公の剣心を佐藤さん、ヒロイン・神谷薫を女優の武井咲さん、剣心を慕う美人女医の高荷恵を女優の蒼井優さん、旧幕府軍・新撰組三番隊組長の斉藤一を俳優の江口洋介さんがそれぞれ演じる。

 映画は来春完成予定。17、18日に千葉県の幕張メッセで開催される「ジャンプフェスタ2012」の会場では、数量限定のジャンプ限定ビジュアル劇場前売り券が発売される。製作はワーナー・ブラザース映画で、12年8月25日全国公開予定。(毎日新聞デジタル)


GREE「幕末志士の恋愛事情」小説第二弾、ドラマCD発売日が決定!発売記念キャンペーン開催
 タイトーは、「GREE」にて配信中のフィーチャーフォンおよびiPhone/Android端末向けソーシャルゲーム「幕末志士の恋愛事情 for GREE」において、ノベライズならびにドラマCDの発売を記念した記念シナリオ配信キャンペーンを実施する。

「幕末志士の恋愛事情」は、幕末に活躍した維新志士たちとの、ピュアで熱い恋愛を楽しむことができる恋愛シュミレーションゲーム。2009年よりキャリア公式サービス向けに登場して以来、2010年8月にはソーシャルゲームとして「GREE」向けに、さらに2011年には小説第一弾が文芸社より発売されている。

 土方歳三がデコだったり、坂本龍馬が純情そうだったり、何かアレ?と思うキャラ絵だと思うのは新選組贔屓だからかなぁ。
コラム
特別記者・千野境子 会津を歩き「災後」を思う

◆避難に戊辰戦争を想起

 今年、地震と津波、原発に風評被害の福島から被災者たちが避難を余儀なくされたとき、連想されたのは維新・戊辰戦争だった。

 敗れた会津藩は解体離散し、遠く太平洋を越え米カリフォルニア州へ農業移住した若松コロニーのその後について、かつて本紙連載「日本人の足跡」で取り上げたことがあったからである。

 戊辰戦争の二の舞いはあってはならないし、歴史は繰り返すわけでもない。会津は東日本大震災で今度は避難の受け入れ側となり、会津若松市には福島第1原発のある大熊町が町ごと移った。浜通りの温暖な町から雪深い会津若松へ。町は原発財源の豊かさゆえ時に羨望の対象でもあった。

 そんな異なる自治体の共生や協働を、未曽有の大震災は半ば強制的に津々浦々に現出させた。会津若松と大熊町は一例にすぎない。そしてこうした緊急避難から、本物の共生や協働が新たに生まれ、社会に定着していくのか否か、答えはまだ見えない。

 ◆風評という妖怪の跋扈

 冬の気配の濃くなった11月半ば、会津若松と近郊を歩いた。鶴ケ城や東山温泉、猪苗代、裏磐梯…東北有数の観光地というのに、賑(にぎ)わいは戻っていない。

 修学旅行も外国人観光も軒並みキャンセル。案内役の塾経営、大谷春之さんは県外ナンバーの車を見かけるたびに「うれしいですね」と喜ぶ。けれど裏磐梯では車自体がまれなのだった。

 長年、冬場はスキー指導員をしてきた大谷さんにスキー学校から早々と断りの詫(わ)び状が届いた。W杯会場にもなった猪苗代の有名スキー場もまだ予約が数件。開業以来の惨状だ。地元客ばかりが目立つホテルは寂しく寒々しい。

 厄介な原発さえ遅々とはいえ工程表をクリアしつつあるのに、風評は収まるどころか妖怪のように跋扈(ばっこ)し、被災者たちを苦しめる。支援に福島産野菜を購入し(放射能汚染が怖いと)食べずに捨てるという信じがたい話まである。

 確かに低線量の人体への影響は専門家の間でも見解は分かれる。しかし産地だけで忌避するのは理不尽だ。放射線への過剰な警戒心が風評を倍加させている現実。しかも支援というオブラートに包まれて。二重に残酷だと思う。

 世界が3・11で日本人に感動したのは、痛みを共に分かち合う姿だったはずなのに、である。

 災害では公助より共助、それにもまして自助が大切と言われてきた。自助なしに復興はない。しかし東北とくに福島の風評被害が自助の域を超えるいま、共助と公助こそ出番だ。瓦礫(がれき)受け入れにつづき、再来年の冬季国体で一部競技を福島県開催にするという東京都を他府県も見習いたいものだ。

 ◆故郷は根っこ、必ず戻る

 重い空気を少し払ってくれたのは仮設住宅で会った大熊町のSさん(86)だ。農業の傍ら福島第1原発の建設にも従事した。

 「(原発に)恩恵を受け、良い思いもした。それが今になって悪口ばかり言っては罰が当たる。でも(原発が)始末ならないものだということもよく分かった」

 人生の一部にも等しかった原発への揺れる気持ちが伝わる。今後について尋ねると、迷いのない口調でこう言った。

 「先が見えないから若い者は第二の生活を求めて去っていくが、故郷は根っこ、厳しくても現実と向き合わねばダメだ。除染し戻りたい。送電線は無事だから今度は再生エネルギーで(社会に)もう一度貢献するのがいいと思う。自分だけでなく、ここ(仮設住宅)にいる多くの者の気持ちだ」

 Sさんの思いに国や県、町は応えられるだろうか。全域警戒区域の大熊町の町長選(11月20日)で「町への帰還」を訴えた現職町長が勝利したのは、多くのSさんがいるからに違いない。

 市立東山小学校に若松コロニー移住の地、カリフォルニア州エルドラド郡の小学校から、義援金や見舞いの手紙、絵画が届いていたのも心和むニュースだった。

 かの地で早世したコロニーの女性、おけいが取り持つ縁で、両校は交流をつづけている。

 学校の計らいで6年生の授業で話をする機会を頂いた。話題は2つ。若松コロニーと88年前の関東大震災について。当時の東京市が編纂(へんさん)した小学校高等科生徒たちの震災記念文集を紹介した。

 復興に一丸となった時代の熱気を映し、文集は大人顔負けの内容で現在の小学生には難しいとは思ったが、彼らにも東日本大震災のことを書いてほしいと思ったからだ。幼くても子供でしか書けない経験や感情を文章に残すことは、本人たちはもとより後世にもきっと貴重な記録となるはずだ。

 皆、一日先生の宿題を忘れないでくれたらうれしいのだが。(ちの けいこ)


【幕末から学ぶ現在(いま)】
(140)東大教授・山内昌之 黒田清隆(上)

毀誉褒貶相半ばする先駆者

 人に毀誉褒貶(きよほうへん)はつきものである。政治家ともなれば、なおのこと敵方から放たれる悪意の矢は、時に心臓を貫くほどに鋭いものがある。

 民主党内から輿望(よぼう)を担って登場した感のある野田佳彦首相でさえ、環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)や消費増税の問題をめぐって党の内外から十字砲火を浴びている。

 福沢諭吉の批判を勝海舟がさらりとかわした言葉は、野田氏のような現代の政治家でも心に染み入るのではないか。「行蔵(こうぞう)は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与(あず)からず我に関せずと存候(ぞんじそうろう)」

 そもそも政治家には他人の評価や批判などは気にしない図太さが必要である。野田氏は気配りとともに胆力も十分あるように見受けられるが、大阪市長に当選した橋下徹氏のように大胆な中央突破力もこれからは必要になるだろう。

 市長選挙直前にマスコミから放たれた虚実取り混ぜた“紙のつぶて”はひどかった。それをはねかえした橋下氏のタフさと決心のほどは、政治主張の当不当はともかく、危機と試練の時代に政治家に求められる資質なのかもしれない。この意味でも、今後の橋下氏はますます毀誉褒貶相半ばする政治家として際立つ存在になるだろう。

 他方、幕末維新の政治家に目を転じれば、黒田清隆ほど歴史の評価が分かれる人物も少ない。

page: 2
 まず黒田は、伊藤博文の後を受けて第2代の内閣総理大臣となり、大日本帝国憲法の発布当時の内閣首班という輝かしいキャリアをもっている。その割には帝国憲法の制定にあまり関与していなかったらしい。

 そのうえ、憲法公布の翌日に鹿鳴館でおこなった超然主義演説は彼の評判を悪いものとした。超然主義とは、明治政府が議会や政党の意思に制約されずに、独自の政治姿勢を超然と貫くべきだという黒田の主張に言葉の由来がある。黒田は、戦後歴史学のなかであまり評判のよいほうではないのだ。

 しかも、北海道開拓使官有物払い下げ事件に象徴されるように、同郷薩摩人の五代友厚に商益の便宜をはかったという芳しくない風評も根強かった。薩摩の芋づると呼ばれた郷党贔屓(ひいき)が盛んだったことも、彼の人気を低いものとしたのだ。

悪評…妻斬殺の噂まで

 しかも伝説的な醜聞が彼の悪評に輪をかけた。それは、明治11(1878)年3月に妻の清(せい)が死んだとき、酒乱の癖があった黒田が泥酔して妻を殺したという噂がまことしやかに流れたことだ。

page: 3
 何にしても、現役の首相が妻を斬殺したとあれば、外聞も悪いだけでない。とくに外国との不平等条約改正交渉を進めていた内閣の最高責任者が、酒をしたたかに飲んでれっきとした犯罪に手を染めたというのは、とても文明国とはいえない。日本で領事裁判権を廃棄するなど時期尚早という印象を欧米各国の政府外交官の間に広めたにちがいない。

 ともかく、同じ薩摩閥の大警視川路利良(としよし)は噂を受けて清の墓を開け、その死因は病死に相違ないと内外に声明を発したほどだというから、封建の時代にも稀(まれ)なスキャンダルといってもよい。

 この事件の少し前に、開拓使の長官当時に商船へ乗ったときにも大失態を演じてしまった。それは、酒に酔った座興で船の大砲を使ってなぐさみに岩礁に狙いを定めながら、誤射で住民を殺害したことだ。これはもはや薩摩人らしい豪放さやチャリ(冗談)ですむ話ではない。

豊かな総合力と大局観

 示談金によって内済ですませたとはいえ、酒を飲めば人格も変わる黒田の性癖に、人びとは不安を感じたにちがいない。それでも、西郷隆盛や大久保利通が不慮の死を迎えた後、薩摩人が政治力や包容力で頼れる人物は少なかった。いきおい黒田は、長州閥の伊藤博文の後を受けて首相に押し出される。

page: 4
 しかし、薩英戦争に参加し薩長同盟の実務上の交渉者として、大坂で西郷隆盛と桂小五郎の会見を実現させるなど、周旋の才と豪胆さを見せた黒田了介なのである。明治の政治家になっても酒乱の徒だけであるなら、首相の座に上りつめるはずもなかった。

 幕末から明治新政府にかけての彼の事績を眺めるなら、政治のリーダーに要求される豊かな総合力と大局観に恵まれていたこともすぐ分かるだろう。黒田は北海道開拓の歴史に名を残す政治家であり、北垣国道や田辺朔郎らとともに北海道の原野を切り開いた功労者のパイオニアでもあった。(やまうち まさゆき)

                   ◇

【プロフィル】黒田清隆

 くろだ・きよたか 天保11(1840)年、薩摩(鹿児島)藩士の家に生まれる。通称は了介。西郷隆盛の下で薩長同盟の成立に尽力。維新後、明治7(1874)年に参議兼開拓長官となったが、14年の開拓使官有物払い下げ事件で世論の攻撃を受けた。21年、第2代首相に就任。しかし、条約改正交渉に失敗し、翌年、辞任した。28年、枢密院議長。33年、死去。











 10月初旬から気の抜けない仕事が連続して入っていたのですが、やっとピークを過ぎました。毎年11月は風邪引いたりなど体調を崩しやすいのですが、それもまぁ何とか。
 あまりに寒いので、遠赤外線ストーブで暖めてます。

東京
新扁額:拝島大師に 1世紀ぶり、天然理心流--きょう奉納式 /東京
 昭島市の拝島大師本覚院旧本堂に掲げられている天然理心流心武館が奉納した大扁額(へんがく)に今月、新しい1枚が加わった。1913(大正2)年に初代館長の井上才市が奉納して以来、約1世紀ぶりで、23日午後1時半から境内で奉納式が行われる。同流派の演武とともに午後3時からは新大扁額の除幕式もある。見学無料。

 幕末の新選組の近藤勇局長らが身につけた武術として知られる天然理心流は、江戸末期に近藤内蔵之助が創始した総合武術。心武館はその流れをくむ流派で、現在は初代館長の親類にあたる大塚篤さん(63)=茨城県牛久市=が4代目を継承し、昭島市や牛久市などに稽古(けいこ)場を開いている。

 昭島消防署長を務めていた4年前にに拝島大師本覚院に掲げられている奉納額を発見。間もなく1世紀を迎えることから、新しい額の奉納を思い立った。

 額は縦1・2メートル、横3メートル、重さ約300キロのケヤキの一枚板で、大きさや彫刻は従来と同じ様式にし、現在の門弟や賛助者ら228人の名前が書き込まれている。【河嶋浩司】



天然理心流 新扁額奉納へ 昭島
 昭島市の拝島大師旧本堂に、天然理心流心武館の初代館長が1913(大正2)年に奉納した大扁額(へんがく)が掲げられている。約1世紀たった今秋、その額の横に、新しい額が並んだ。23日に奉納式が行われる。
 天然理心流は、江戸末期に近藤内蔵之助が創始した剣術、居合術、棒術、柔術などを備えた総合武術。新選組の近藤勇局長、土方歳三副長らが身に着けた武術として知られている。
 心武館はその流れをくむ流派で、初代館長の井上才市が創設。現在は縁戚に当たる大塚篤さん(63)=茨城県牛久市在住=が4代目として昭島市や牛久市などにけいこ場を開設、流派の技を引き継いでいる。
 大塚さんは、昭島消防署長を務めていた4年前、拝島大師に初代館長による奉納額が昔のままに掲げられているのをみつけた。すすけ、文字はかすれているものの、近隣に住む師範や門人、支援者ら300人ほどの名前が読み取れた。額が掲げられて間もなく100年になるのを機に、新たな額の奉納を思い立った。
 形は100年前の額とほぼ同じ。1.2×3メートルのケヤキの一枚板に、同じ彫刻を施した。重さは約300キロ。現在の門弟、賛助者ら228人の名前を書き込んだ。大塚さんは「我々も100年後に残せる技や心を伝えたい。後に続く人たちによって新しい額が掲げられることが夢ですね」。
 23日の奉納式は、同大師境内で午後1時半から演武、午後3時から扁額の除幕がある。見学は無料。(ライター・榎戸友子)





京都
近藤勇:京都で見つかった直筆掛け軸、初公開--東山・霊山歴史館 /京都
◇“英雄論”に熱視線 新選組ファンら「感動」
 京都市の美術店で先月見つかった新選組局長、近藤勇(1834~68)直筆の掛け軸が、同市東山区の霊山歴史館で初公開されている。近藤の人間像をうかがわせる詩書を見ようと、多くの新選組ファンらが訪れている。【花澤茂人】

 詩書は「英雄」のあり方を論じた七言絶句。前段は「隠者のように暮らすべき」「議論するだけの俗人とは違う」と、攘夷派の志士に皮肉ったような内容で、後段は「果たして英雄の心上(しんじょう)のことを識(し)らば、英雄ならざるところぞこれ英雄」と結ぶ。

 漢詩に詳しい西村富美子・三重大名誉教授は「英雄は、それを世に誇るべきではない、という意味だろう」と分析。「七言絶句の細かいルールも踏まえておりレベルは高い。ただ、『英雄』という言葉が3度出てくるのは考えられないことで、よほど強調したかったのだろうか」と話す。

 同館の木村幸比古・学芸課長は、近藤が入洛した文久3(1863)年ごろの作とみており「意気揚々と職務に燃えていた様子が感じられる」と話している。東京都多摩市から訪れた中央大3年、松村由紀さん(21)は「直接見て感動した。力強い筆遣いが近藤さんらしい」と喜んでいた。

 掛け軸は特別展「龍馬と土佐の衝撃」(12月26日まで)に合わせて展示されている。問い合わせは同館(075・531・3773)。


薬局もヲタク層にPRする時代です、沖田総司が解説する調剤薬局
 京都・四条堀川の調剤薬局「りぼん薬局」が、女性向けイラストで新撰組の沖田総司を起用した調剤薬局のPRサイトを100日間限定で公開した。
京都では最近、京都市交通局企画課がオリジナルキャラクター太秦萌(うずまさもえ 17歳)というオリジナル萌キャラクターを作成したり、財団法人 京都市都市整備公社がアイドルユニット「自転車利用マナー向上隊 ほっとかナイス」を結成するなど、萌文化に訴求するPR方法が多く採用されている。
今回100日間限定で公開された「りぼん薬局」の特設サイトでは、新撰組の沖田総司が調剤薬局にも病院と同じくかかりつけを利用することを分かりやすく解説。
ちなみに話中で登場する、沖田かかりつけの調剤薬局「りぼん薬局」はこの会話の中で壬生の屯所に近いという設定になっている。

なお、今回特設サイトを公開した「りぼん薬局」の広報担当によると「一般に『お堅い』とイメージされるところが趣向をこらしてアピールする中、調剤薬局は情報発信がやや不足しているようにも思われます。医薬分業のこと、かかりつけ薬局の大切さなど、普段なかなか興味をもたない調剤薬局の役割に少しでも興味を持っていただきたいと、 親しみやすい新撰組をモチーフにした情報発信を行いました。」とコメントしている。

普段あまり意識することのない調剤薬局の“かかりつけ”。これを機会に是非考えてみて欲しい。


事故物件かどうかを調べることができるサイト「大島てる」に、あの歴史的事件が!
過去に物件で何らかの事件・事故が起きていないかを調べることができるサイト「大島てる」に、まさかの「池田屋事件」が!

なんでこれが? と思ったら、どうやらユーザーによって登録されたものみたいです。たしかに事件が起きたことがあるという意味では「事故物件」なのかもしれませんけど...!

ちなみに池田屋事件とは1864年に起こった出来事で、旅館・池田屋に潜伏していた尊王攘夷派志士を新選組が襲撃したというもの。歴史的な事件であり、これまでに何度も小説や映画の題材になってきました。

現在、池田屋跡地は居酒屋の「はなの舞」になっているとのこと。歴史ファンなら一度は訪れたい聖地の一つですね。

なお「大島てる」はマンションやアパートの事故物件情報を集めるためのサイトですので、基本的にはこういう投稿は避けた方がいいかもしれません。

 うーむ……誰が登録したのやら(°°;)。

兵庫
忠臣蔵・大石家の書状秘蔵か 幕末の勤王志士が記録 兵庫・豊岡
 忠臣蔵で知られる大石内蔵助(くらのすけ)(良雄(よしたか))とその家族がつづった書状や手紙を内蔵助の妻、りくの出身地(兵庫県豊岡市)の大地主が秘蔵していると記録した幕末の書状が、同市の地主の子孫宅に残されていたことが21日、わかった。市出土文化財管理センターは「信憑(しんぴよう)性は高い」として書状全文の解読と手紙などが現存していないか調査に乗り出した。

 書状は、のちの明治天皇の養育係を務めた後、勤王志士として尊王攘夷運動に奔走した豊岡出身の田中河内(かわちの)介(1815~62年)が、地元支援者の大地主、田井家のために書いた証明書的な文書。日付は、元禄15(1702)年の赤穂浪士討ち入りから155年後の「安政四年(1857年)」と記されている。

 現在解読作業中だが、「赤穂の義士大石良雄…」で始まる文面には、内蔵助の書状や、りくが名乗った「香林院」の手紙、赤穂浪士の一人で長男、良金(主悦(ちから))の幼少期の絵などを、田井家が保管していると記載、他の赤穂浪士の名も登場する。河内介の正式名の「綏猷(やすみち)」の署名と落款も押されている。

 同センターの潮崎誠所長は「大地主と大石家の関係など興味深い。新発見につながる可能性もある」と期待している。書状は23日、神美地区公民館(同市三宅)で開かれる河内介の顕彰行事で公開される。


コラム
 琵琶湖疏水関係者。
(138)東大教授・山内昌之 北垣国道
革命家から琵琶湖疏水の父

 朝まだきの京都・南禅寺には不思議な霊気が漂っている。歌舞伎の『楼門五三桐(さんもんごさんのきり)』で石川五右衛門が「絶景かな絶景かな…」と科白(せりふ)を廻した三門に立ち、水路閣(琵琶湖疏水(そすい)の水道橋)を眺めれば、1200年来の古都とモダンとの絶妙のバランスが霊気のなかに浮かび上がる。

 琵琶湖の水をいくつもの山々を穿(うが)った隧道(ずいどう)(トンネル)に通して、京都市東部の山科から市内中心部に運ぶ水路の建設は、いまでいえば新幹線や青函トンネルの開通にも比すべき壮大な工事にほかならない。そして、この掘削を命じた京都府知事・北垣国道と、設計建設にあたった青年技師・田辺朔郎のコンビによる時代を先取りする雄大な構想や、後世に対する責任感の強さに驚嘆する人も少なくない。

 但馬国(兵庫県)養父(やぶ)郡の庄屋の家に生まれた北垣は、文久3(1863)年に公卿(くぎょう)の沢宣嘉(のぶよし)に率いられた生野(いくの)銀山の挙兵(生野の変)に参加したのだから、相当にキャリアのある尊皇志士ということになる。義挙の失敗後、あれこれを経て長州に潜伏し、戊辰戦争では山陰道鎮撫(ちんぶ)総督の西園寺公望(きんもち)の下で戦い、やがて北越戦争にも従軍している。

page: 2
度肝を抜かれる土木事業

 幕末明治の面白いのは、こうした生粋の革命家が民政家に転じても業績をあげる人物の多かったことだ。

 高知や徳島の県令を経て京都府知事に就任した北垣は、地下水や北の山々に発する川の貧弱な水量に頼るしかなかった京都の水事情を一変して、東京への奠都(てんと)(新都を定めること)でさびれる一方の京都の活力を蘇生(そせい)する第一歩にしようとした。

 大きなスケールの構想に驚くのは明治人だけでなく現代人も同じだろう。まず大津市の三井寺の近くから長等山(ながらやま)を穿つ第1トンネルだけでも2436メートルもあり、江戸時代の安眠から醒(さ)めたばかりの国民にとって度肝を抜かれる土木事業となった。しかし、これこそ国家百年の大計ともいうべき構想であり、その着想力は官僚というよりも政治家の素質である。さすがに生野の変から戊辰戦争の荒波をくぐり抜けてきた志士だけのことはある。

 明治18(1885)年の着工から4年8カ月の大工事の末に完成した琵琶湖疏水は、灌漑(かんがい)、上水道、水運、水車の動力補給などを円滑にしただけでなかった。工期途中でアメリカを視察した田辺は、当初の計画になかった水力発電を構想し、日本初の営業用水力発電所となる蹴上(けあげ)発電所を建設した。建物の雄姿の面影は今でも残っている。この水力発電の成功は、明治28年に開通した京都と伏見を結ぶ日本最初の路面電車(京都電気鉄道)の営業運転を可能にする快挙でもあった。

page: 3
 北垣の事績は、明治25年に北海道庁長官に転じても続いた。着任してすぐ、港湾部が浅く土砂の堆積も重なり大型船接岸が不可能となった函館港の改修を指示し、港内浚渫(しゅんせつ)や防波堤・灯台の新設、埠頭(ふとう)建設などの工事によって、31年にいまの函館港の原型が出来上がった。

 北海道の拓殖と国防を兼ねた北海道官設鉄道を計画したのも北垣である。北垣は東京帝国大学教授となっていた田辺を道庁に招聘(しょうへい)し、函館本線の一部、宗谷本線や根室本線の一部となる区間の調査と建設にあたらせた。

目的税受け入れた府民

 帝大教授を辞めて道庁鉄道部長になる田辺のこだわりの無さも凄(すご)い。当時の職階意識では、内務大臣兼台湾総督だった児玉源太郎の陸軍参謀次長への降任ほどではなくても、格下げの感もある人事であった。いずれにせよ、必要とされる場所に屈託なく出かける明治初期の逸材たちの姿には頭が下がる。もっとも、疏水工事竣工(しゅんこう)を機に田辺は北垣の娘婿となっており、親子として独特な平仄(ひょうそく)があったのかもしれない。

page: 4
 それにしても、疏水工事で偉かったのは、北垣や田辺だけでない。この琵琶湖疏水の建設は、国や京都府からの財政支出だけでなく、市債や寄付金にも頼った。そのうえ当時の府民たちが素晴らしいのは、この事業が後世の子孫まで潤す財産になることをしっかりと了見して、疏水建設のために目的税を受け入れたことである。

 もちろん、庶民の間には、重税感に不満もあっただろう。それでも、明治初期の聡明(そうめい)な京都人は、権利や受益のためには、負担や義務が伴うことを知っていた。北垣は、京都商工会議所の創設などにも尽力し、近代産業都市としての京都建設に大いに貢献した。北垣ら幕末から明治に生きたたくましい先人を知るには、その同志であり娘婿だった田辺についても次回で触れる必要がありそうだ。(やまうち まさゆき)

                   ◇

【プロフィル】北垣国道

 きたがき・くにみち 天保7(1836)年、但馬(兵庫県)生まれ。維新後は高知、徳島県令を経て、明治14(1881)年、京都府知事に就任し、琵琶湖疏水事業を推進。25年、北海道庁長官。晩年は枢密顧問官となり、大正5(1916)年、死去。


(139)東大教授・山内昌之 田辺朔郎

京都と北海道を開いた恩人

 京都の蹴上(けあげ)や岡崎のあたりは、私のいちばん好きな場所である。

 水路閣という琵琶湖疏水(そすい)の分線が南禅寺の境内を静かに通り、その煉瓦(れんが)造やアーチ構造の優美さは訪れる者を魅了する。南禅寺の歴史に自然に溶け込んだ異国伝来の建築様式は、テレビドラマなどでもすでにお馴染(なじ)みであろう。

 南禅寺を出て蹴上のほうに坂を上るとすぐレールにつきあたり、まもなく不思議な台車を見つけることになる。これがインクライン(舟用の傾斜鉄道)の名残にほかならない。文明開化からほど遠からぬ時代に若き日本人技師の手でつくられた最大の洋式意匠が、いまでは京の古典的な建造物や伝統美と巧みに融合している。この調和を見ると、先人の偉業が偲(しの)ばれいつも誇らしい思いになる。

琵琶湖疏水の夢実現へ

 水路閣とインクラインという対照的な名称の結構をつくったのは、田辺朔郎である。幕臣・田辺孫次郎の長男として生まれた朔郎は、父が高島秋帆(しゅうはん)門下の洋式砲術家だったせいもあり、理工系に才を伸ばすべく、できたばかりの工部大学校に入学した。その卒業論文が「隧道(ずいどう)建築」つまりトンネルを扱い、琵琶湖疏水の工事を具体的に構想したことが彼の一生を決めた。北垣国道京都府知事に請われて京都府御用掛となった田辺は、さっそく琵琶湖疏水をつくる夢の実現にとりかかった。

page: 2

田辺朔郎(京都市上下水道局所蔵)

 北垣は、わずか21歳の工学士に、豊臣秀吉このかた幾多の為政者が夢見た野心の実現を託したのだ。このあたりの思い切りのよさや太っ腹なところが、幕末維新の動乱をくぐりぬけた志士たる所以(ゆえん)であろう。安定期に成長した国家官僚とは違う資質なのである。しかも北垣は、疏水工事の進行中に田辺をアメリカ視察に派遣した。後に長女しずを娶(めあ)わせる北垣としては、この前途有望な青年をさらに大きく飛躍させようという好意も含まれていたのかもしれない。

 果たして田辺は、府知事というよりも国士の風貌をもつ北垣の期待に恥じなかった。滞米中に疏水から水力発電を起こすヒントを得た彼は、蹴上にインクラインと並ぶハイカラの極致たる発電所をつくったからだ。インクラインを走らせる電気も疏水から引いた水で起こしたものだ。万事に無駄がないのである。

 それにしてもインクラインという名前がよいではないか。傾斜鉄道などという野暮(やぼ)な名前を避ける一方、疏水分線の水路橋には水路閣という絶妙の和名をつけるなど、どうして明治の知識人のセンスと教養はかくも高いのだろうか。感動するほかない。

 しかも、その設計技術の高い水準にも驚くほかない。浜大津の近辺で琵琶湖水を取り入れた水路は、山に向かって静かに流れているが、この取水口と京都の蹴上との落差はわずかに4メートルにすぎない。また、浜大津から蹴上までの総延長は12キロもあった。それでいて琵琶湖の水がきちんと流れを止めずに、南禅寺の近辺まで届いたのだから驚異である。計算機もコンピューターもない時代に設計した田辺の優秀さはいくら褒めても褒めたりないほどだ。

page: 3

田辺朔郎(京都市上下水道局所蔵)

 この蹴上から高さ35メートルの急勾配を小ぶりの荷物運搬舟が下り、鴨川経由で京都市街の中心に入っていくために、勾配を下る舟を運ぶ台車が必要となった。そこでインクラインが工夫されたのだ。

 子供の頃、父が戦前に京都へ修学旅行をした際に買い求めた絵はがきでインクラインの写真を見たことがある。私も中学生の頃に北海道庁長官の北垣の名を知っていたが、疏水やインクラインに縁のある人物だと知ったのは高校生になってからのことだ。

北の大地の鉄道形作る

 北海道人は北垣や田辺の治績に多くを負っている。北海道は新橋-横浜間、大阪-神戸間に次いで、手宮(小樽)-札幌間に鉄道が開通した地である。開拓使の運営する鉄道はやがて払い下げられて北海道炭礦鉄道の所有に帰したが、北海道庁長官の北垣は開拓を成功させるには北海道炭礦鉄道では荷がかちすぎると考えた。道庁が直接に鉄道の建設と運営をおこなうことを決意し、明治29(1896)年に田辺を招いたのである。

 帝国大学教授の職を辞し、北海道で再び現場に立った田辺には、技術者としての誇りをもつ明治人らしい健全な愛国心や経世済民の志があったにちがいない。この結果、現在の主要幹線たる函館本線、宗谷本線、根室本線などの原型が次第に建設されたのだ。私を含めて北海道人は、改めて田辺朔郎の開拓貢献に感謝すべきではないだろうか。

page: 4

田辺朔郎(京都市上下水道局所蔵)

 鉄道事業の骨格をつくって北海道を去った田辺が懐かしの京都で帝国大学教授や工科大学長になったのも、奇縁というべきであろう。平成の私たちはあまりの豊かさを当然とするあまり、田辺や北垣のような先人の偉業に謙虚でない。そして、その存在さえ忘れがちである。心すべきことではないだろうか。(やまうち まさゆき)



【プロフィル】田辺朔郎

 たなべ・さくろう 文久元(1861)年、江戸に生まれる。明治16(1883)年、工部大学校(現・東大工学部)卒業後、京都府知事の北垣国道に請われて同府御用掛となり、琵琶湖疏水の設計、工事を手がける(明治23年完成)。北海道庁長官に転任した北垣とともに北海道の鉄道建設にも尽力し、京都帝国大学工科大学学長、土木学会会長などを歴任。昭和19(1944)年、死去。


薩長軍の活躍は、失敗の反省から始まった
 幕末を扱った大河ドラマでは、「ゲベール銃」や「ミニエー銃」という言葉がよく出てくる。ゲベールとはオランダ語で「小銃」であるが、日本では前装式滑腔銃の通称となっていた。「前装」とは、火薬と銃弾を銃口から入れ、槊杖(さくじょう)で突き固めて装填する方式である。そして「滑腔」とは、銃身内部にライフルリング(施条)がないという意味だ。

 もう1つのミニエー銃は前装式ライフル銃の通称であり、その代表的なものがエンフィールド(エンピール)銃である。ゲベール銃との違いは、銃身にライフルリングが刻み込まれていることだ。このライフルリングによって銃弾が旋転し、ジャイロ効果で弾道が安定するのである。

 表が示すとおり、ミニエー銃は遠距離でも命中率が高く、有効射程(実戦で50%の命中率を期待できる射距離)は300ヤード(約274メートル)に達する。それに対して滑腔銃身のゲベール銃は、射距離が長くなると命中率が急激に低下し、有効射程は100ヤード(約91メートル)くらいしかない。

表●射距離と命中率
射距離 ゲベール銃 ミニエー銃
100ヤード 74.5% 94.5%
200ヤード 41.5% 80.0%
300ヤード 16.0% 55.0%
 実戦では、この射程の差が非常に重要である。ミニエー銃の射手は、敵のゲベール銃の射程外から一方的に撃ち込むことができるからだ。そのため、1850年代の西欧諸国では、ミニエー銃への更新が進み、大量のゲベール銃がお蔵入りとなった。

 ところがミニエー銃の時代は長く続かず、1860年代後半には、スナイドル銃などの後装式ライフル銃が登場した。「後装」とは、火薬と弾丸が一体化した弾薬筒を銃身の後尾から装填する方式である。

 これまでの前装銃は、装填に手間がかかるので、熟練兵士でも1分間に4発撃つのが限界である。しかも、装填の際に銃を立てないといけないので敵に狙撃される危険性も高かった。それに対して後装銃は、装填動作が簡単なので未熟な兵士でも前装銃の数倍のペースで射撃できるうえに、匍匐姿勢での装填も容易であった。そのため西欧諸国では、先を争うように後装式ライフル銃を導入したのである。

 かくして旧式化したミニエー銃が、さきほどのゲベール銃と共に、幕末の日本に大量に出回ることになった。先進国で要らなくなった中古兵器を武器商人が買い集め、発展途上国である日本に売りつけてボロ儲けをしたというわけだ。このあたりの構図は、今も昔も変わらない。

優秀な銃器を装備していた薩長軍

 戊辰戦争における薩摩藩・長州藩の強さは、銃器の差によるところが大きい。両藩ともいち早く軍事改革に着手してミニエー銃を主装備としたうえに、戦争後期には、より高性能のスナイドル銃への更新を進めていた。

 これに対して東北諸藩では、洋式装備への切り替えが遅れたことに加えて、軍事技術に疎い購入担当者が武器商人にだまされ、性能の低いゲベール銃を掴まされるケースが少なくなかったという。ちなみに、北越の戦いでは、僅か7万石の長岡藩の健闘がよく知られているが、河井継之助の指導により同藩兵がミニエー銃を装備していたことがその理由である。

 あと半年ほど時間の余裕があれば、他の藩も長岡藩と同様に洋式銃を調達し、薩長軍に匹敵する戦力を整備したことだろう。しかし新政府側では、鳥羽・伏見の戦勝後すぐに東征軍を派遣し、武器商人との取引場所である横浜を押さえた。さらに矢継ぎ早に東北地方に侵攻し、敵に立て直しの時間を与えなかった。

 その結果、薩長軍は優秀な兵装によって東北諸藩を短期間で圧倒した。まさに「先んずれば人を制す」である。戊辰戦争は我が国最大級の内戦だが、世界標準からすると、死傷者数や被害規模は非常に少なく、外国による紛争介入という最も懸念すべき事態も回避された。勝機を逃さず一気に攻め続けた維新の元勲たちの情勢判断を高く評価すべきだろう。

財政改革で積み上げた資金が倒幕の原動力に

 ところで、薩長両藩は、もともとは攘夷の急先鋒であったはずなのに、どうして諸藩に先駆けて洋式兵装の導入を成し遂げたのだろうか。その理由は、攘夷に失敗して実力の差を思い知らされたためである。

 薩摩藩は、文久2(1863)年の薩英戦争で、英国艦隊の鹿児島砲撃により軍事施設や城下町を破壊されたことを契機に、逆に英国との友好関係を構築するに至った。長州藩も、その翌年の下関戦争で英仏米蘭の四国連合艦隊に完敗した後は、海外からの先進技術の導入に積極的になった。

 その意味では、両藩とも攘夷戦の失敗経験を生かしたことになる。ただし、外国兵器の必要性をいかに痛感したとしても、先立つものがなければ購入できない。

 薩摩藩の場合は、1830年代には藩財政が破産状態であったが、調所笑左衛門が徹底した債務整理を行うとともに、砂糖の専売制を導入して税収を拡大した。また、長州藩でも、1840年代に村田清風による改革が行われ、交通の要所である下関で貿易事業を手がけて数百万両の剰余金を積み上げた。こうした潤沢な資金が武器購入や対朝廷の政治資金に充てられ、歴史を動かす原動力となったのである。

 拡大戦略を描こうとするのであれば、まずその前に組織内部をしっかり固めないといけない。内部の問題点を放置したままで、薔薇色の成長戦略に期待をかけるのは、現実逃避にすぎないのだ。






 『東京かわら版』11月号ぱらぱらめくって、あぁ今月は寄席行ってないと思いたって、寄席へ。顔付けがよかったので、鈴本昼席。
 団体も入っていたせいか満員で、立ち見席1700円を購入。4時間超を立ち見で頑張った。

才紫「子ほめ」
 途中で誰かのケータイが鳴った。お年寄りのものらしく、なかなか着信音を止めない。まるで聞いてないかのように演じていた才紫が、着信音が終わった時に「ケータイやっと終わったから」と台詞に入れたのがバカ受け。これが寄席の醍醐味。
 今日はよく受ける客席だなぁ。明るくていいな。

美智美登 マジック

二ツ目昇進ぽっぽ改メ ぴっかり「こうもり」
 談笑師匠がある高座で「ぽっぽちゃん、かわいい(^^)」とおっしゃって始めている一席があって、前からライブで見たかったんだ。今月から二ツ目に昇進して、ぴっかりちゃんになっちゃったけど。
 「落語界のポスト宮崎あおいちゃん」と自己紹介して、大河ドラマ『篤姫』に出演した小朝師匠のお供でスタジオ入りした時のエピソードを話して、受ける。
 「鶴の恩返し」の鶴をこうもりにして、見た目十五才ぐらいの女の子(実は吸血鬼)が居酒屋の主に恩返しのため居酒屋で働く、という噺。ぴっかりちゃんのキャラクターにあったネタなので、違和感がなかった。
 女流落語家では、男性のかけるネタを演じて違和感がない柳亭こみちさんとか談春師の弟子のこはるちゃんとかが好きなんだけど、こういう女の子っぽい落語家もありだなと思った。歳とともにどんなネタをかけるようになるのかな……ま、女流落語家に噺を書いてくれる三遊亭白鳥さんがいるから心配ないだろう。

正朝「浮世床」
 ぴっかりちゃんの師匠である小朝さんの弟弟子である春風亭正朝さん、初めてかな。ぴっかりちゃんが二ッ目に昇進したということで、落語界の前座・二ッ目・真打ち・「ご臨終」という身分制度について説明(爆)。
 うわーい、寄席で聴きたいネタ「浮世床」。源ちゃんが「てぇこぉき」読む場面でいろいろツッコミがあり、真柄十郎左衛門が「まっこうにふりかぶり」と読めるようになったところで上がり。

遊平かほり 漫才
 相変わらず、旦那がボケで女房がスピードつっこみ。

錦平「権助魚」
 高座で見たのは、たぶん初めて。先代の三平師匠に入門して真打ち20年以上とは後で知った。こう言っては何だけど、三平門下とは思えない(失礼)。いい味の「権助魚」。すけそうだら、にしん、目刺し、ゆでだこ、かまぼこ。

権太楼「代書屋」
 親子酒のさわりのような小咄から入って、鉄板ネタへ。座布団からはみ出すようなオーバーアクションで一言二言喋っただけで、客席が沸きに沸く。湯川秀樹、四十八才、荒川区町屋の生まれ……今日は小学校を「学習院かな」と言って上がる。

歌武蔵「ぼやき居酒屋」
 「ただいまの協議についてご説明致します」で始まる、いつもの歌武蔵。芸名を「かむぞう」とか「きゃばくら」と読むお客さんのネタは飛ばしたのね。
 わーい、はん治師匠で何回か聴いた「ぼやき居酒屋」を歌武蔵師匠版で聴けるのね。調子のいい客が、客あしらいの下手な居酒屋の主人をいじりまくる。笑った笑った。

仲入り

三増紋之助 曲独楽
 寄席に何度かかよっていれば、こんな場面に出会うこともあるのだなぁ。独楽を落とすことが二度。刃渡りは無事にできたけど、袖に戻って出囃子からやりなおして、やりきった。芸人は替わってくれる人がいないんだなぁと改めて厳しさを感じた。

雲助「新版三十石」
 このあたりで雲助師匠が出て来られるとは、豪華な顔付けだなぁ。そして、聴き始めて思わずガッツポーズ。こ、これは、志ん輔師匠のCDで聴いた「夕立勘五郎」では……志ん生師匠が小遣いかせぎに書いたというネタの。
 ……と思ったら、訛りまくる赤沢熊蔵がかけるネタが「すみずのづろちょ」「もりのいしまち」と、「夕立勘五郎」とは違うのね。後で調べたら、志ん生師匠の「夕立勘五郎」を雲助師匠が改作した「新版三十石」でした。
 さらっと演じながら客席をあたためる、さすがです。

玉の輔「マキシム・ド・呑兵衛」
 平日の寄席は閑散としているとか、2代目の落語家は志ん朝師匠を別格とすればいかにぼんぼんかといういつもの毒舌マクラから、おおっ白鳥師の新作落語をこかけてくれましたか(^^)。
 白鳥ファンとしては、この噺が鈴本でお客に受けるということ自体が嬉しい。

のいるこいる 漫才
 寄席に来たなぁと感じる漫才。

菊之丞「抜け雀」
 わーい、「抜け雀」好きなネタ。菊之丞師では初めて。相模屋の主人が頼りなくて、おかみさんにいいようにあしらわれ、情けない様子が強調されるところが菊之丞風味。「銀紙でも貼っとけってんでしょ」と自虐に走るあたりがおかしい。
 息子の絵師が勘当解けて、すがすがしい気分。


 オフィスを早めに出ると宣言したにも関わらず、打ち合わせは長引くわ、乗り継ぎを間違えるわ。
 中入り前の菊之丞「片棒」と市馬「首提灯」がお目当てだったのに、会場に着いた時には市馬師匠がすでに高座に上がっているのをモニターで見るなんて、切ない……。

会 名:第521回落語研究会 
日 時:11月22日(火)18時開場 18時30分開演
会 場:三宅坂 国立劇場 小劇場   
番 組:「錦の袈裟」金原亭馬吉
    「片棒」  古今亭菊之丞
    「首提灯」 柳亭市馬
    「王子の狐」林家正蔵
    「代書」  桂米團治    (出演順)


 定連席で見たのは、中入り後。正蔵師匠いうところの「東西御曹司対決、でも木○蔵と○平よりはずっといいでしょ」って……自分の弟もネタにするんかいっ(^_^;)。

「王子の狐」林家正蔵

 正蔵師の高座を見たのは2回目、前回もこのTBS落語研究会だったはず。今日は肩の力が抜けていたし、たぶん前回に比べて断然練習と実践を積んだだろうし、割と暖かい雰囲気の客席(定連席に空席があるのは、何ヶ月かに一度しか行けない自分のことを思うと仕方ないのだが……)で正蔵師のギャグねたにもちゃんと食いついてくれただろうけど……うん、以前よりはずっと聴いて楽しめるようになりました。
 少なくとも、寄席で演者のひとりとして聴くにはいいんじゃないかなぁと思いました。

「代書」  桂米團治
 この方も志の輔らくごのゲストで聴いて一年以上になると思いますが、ずいぶん変わりました。ちょっとした米朝エピソードで客席が何度も湧きました。
 そして、江戸でも「代書屋」としてかけられるネタだけど、元は関西の4代目米團治からのネタということもあり、久しぶりの関西弁を楽しんで大口開けて笑いました。
 ……ライブで聴く分にはいいけど、最後のお客さんが在日外国人って設定、テレビで放送できるのかな(汗)。

 来月のトリは扇遊師匠『芝浜』なんでやりくりして聴きに来たいのですが……今日みたいにばたばたになっちゃう可能性も大……(°°;)










 西武新宿線や西武池袋線に乗り慣れない自分には、とってもわかりにくいところにあった(汗)。所沢駅から一駅、航空公園駅からちょっと歩く。17時開演で19時半過ぎに終演だったけど、自宅に戻った時には21時を回っていた……(汗)。



 春太さん「寄合酒」。ところどころ噛んだけど、なめらかで、時にはくすっと笑わせて、前座とは思えない出来。

 談春さん「禁酒番屋」。マクラで楽しかったのは、談春さんと花緑さんと市馬さんと三三さんの打ち上げ話。誰も酒一滴飲めなかったのだけど、談春師がビール中ジョッキを飲めるようになって「酒豪」と持ち上げられ、落語協会副会長の市馬さんが白ワイン一杯を2時間なめるようにして飲むようになり、三三さんは顔真っ赤にしてビール2杯。あぁ、見てみたい。
 うー、先週池上本門寺で同じネタを聴いた自分はちょっと食傷気味かもと思ったり、春太さんが「寄合酒」やった後にこのネタというのは寄席だとあるのかなぁと思ったり。
 先週も、池上本門寺は高座から遠かったので、この噺の魅力がいまいちわからなかった(「汲みたて」とか「家見舞」とか「禁酒番屋」とか尾籠なネタは人が集まった席では今いち乗れない自分……)。でも談春さんだなぁと思うのは、禁酒番屋の武士たちにやりこめられた挙げ句に、近藤様に密かに酒を届けるという目的を見失って、禁酒番屋の武士たちを凹ませるという目的に走った三度目の噺だよなぁ。談春さんの分身?(汗)って感じの負けず嫌いの奴が武士をぎゃふんと言わせたというのがカタルシス。

 「鼠穴」。中入り後、「江戸っ子は宵越しの金は持たない」から入ったので、もしや「芝浜」かと思ったけど、そういう江戸っ子の気性は火事でしじゅう燃えるという江戸の成り立ちからして貯金しようと思わないようになったというところで、これはもしかして。
 そして「鼠穴」。ライブで聴くのは初めて。CD音源でも圓生師と談笑さんの「鼠穴・改」しか聴いたことがなかったぞ。いきなり談春師版で聴いていいのか、どきどき。
 談春師版だけに、圓生版と比べても言葉が多い。ときどき、生の談春師が解説したり混ぜっ返したりするところが、談志家元に似たところか。
 兄を頼って借金を申し込むが、兄が渡してくれたのはたったの三文。兄を見返してやると激しい怒りにかられた弟が必死になって稼いで10年、蔵を三つ持つ商人に育って、風の強い晩に兄に会いに行く
 兄と和解して泊まった後に起こる「事件」の展開があまりにも悲惨なので、どうも聴きたい噺ではなかった。でも談春師の生で聴くと、なんで兄が弟に三文しか貸さなかったかという理由、兄から何両かは借りられるだろうと楽観的に構えていた弟の脇の甘さを突く姿勢、弟が泥水をすするような生活から這い上がって成功をつかむまで情報は仕入れながらも助けの手を差し伸べなかった理由も含めて、厳しいながらも実は心を鬼にしていた兄の姿勢がとっても心に沁みたりする……三文しかないところで、どうやって飢えを満たしたのかとか、ちゃちゃ入るけど(^_^;)。
 深川蛤町の火事で蔵みっつが燃え落ちる様子がリアルなところが談春師版。蔵の屋根の瓦を2、3枚剥ぐとダウンバースト現象で蔵が燃えさかって、崩れ落ちるという図。
 お花ちゃんが吉原に身を売るとか、坂道を転げ落ちるような展開がいたたまれない後半だけど、最後にちょっと救いがある。その時の兄さんの明るさ力強さに、これがお兄ちゃんの地なのかなーとちょっと救われる思い。

 帰り道に圓生版と談笑版(改)を聴きながら帰宅。




千葉
写真展:幕末から70年代の風景記録--佐倉 /千葉

 佐倉市の国立歴史民俗博物館で、企画展示「風景の記録-写真資料を考える-」が開かれている。幕末から1970年代までの風景を記録した貴重な写真を全国から収集し、街並みの移り変わりを分かりやすく展示している。

 会場入り口には、企画展の目玉となる「愛宕山から見た江戸の街並み」のパノラマ写真を古地図と一緒に立体的に展示。写真は江戸時代末期の1863年8月、愛宕山(東京都港区)から見渡した周囲225度の眺望をイタリア人写真師が撮影したもので、眼下に細長い武家屋敷がぎっしりとひしめき合う様子がいっぱいに広がる。

 来年1月15日まで。入館料は一般830円▽大学・高校生450円▽中学生以下無料。問い合わせは同館(電話043・486・0123)。【西浦久雄】


兵庫
大鳥圭介没後百年記念展 掛け軸など 上郡
 上郡町出身で、明治期の産業育成に奔走した大鳥圭介の没後百年に合わせた特別展「軍人の如楓 文人の如楓」が、同町上郡の町郷土資料館で開かれている。「ダーウィンの進化論を読んだ」と大鳥自身が書いた掛け軸を初めて公開する。
 如楓は大鳥の号。戊辰戦争で旧幕府軍を率い、明治維新後は新政府に登用された。語学が堪能で、清国・朝鮮国公使などとして外交に才能を発揮。1911年に亡くなった。
 特別展では、書など約20点が並ぶ。ダーウィンの進化論についての記述は今年5月、三重県の夫婦が同資料館に寄贈した掛け軸にあり、記述時期や場所は不明。「人類の祖先を研究していくと、人は猿に似ていると分かるものだ」とも記されていた。同資料館によると、大鳥は1872年にイギリスへ産業視察へ行った際、進化論を知ったとみられる。
 同資料館の島田拓学芸員(35)は「日本の近代化に力を発揮した大鳥について、作品を通して深く知ってほしい」と話す。
 12月18日まで(11月22日と12月6日に展示の一部入れ替えあり)。午前9時~午後4時半。月曜休館。無料。展示作品の図録を千円で販売。同資料館TEL0791・52・3737
(田中宏樹) 


コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】
(137)東大教授・山内昌之


□吉田松陰・番外編(下)

歴史を学習する政治家

 吉田松陰は、黒船来航を機にめまぐるしく変転する幕末の状況を、世界史における西洋の衝撃(ウエスタン・インパクト)を受けた日本の危機としてとらえた。

 松陰は危機を抽象的な世界観でなく、歴史で人間に示された具体的な行為のなかで理解しようとした。純粋な理屈でなく事実に即して人びとにリアルに訴えるほうが、効果も大きく切実に納得してもらえると信じたからだ。

 哲学的観念論でなく賢人や豪傑の仕事ぶりを実例で学ぶ作業のほうが、危機の説明として分かりやすいという主張は現代にも通じる。

 松陰は代表作『講孟余話(こうもうよわ)』のなかで、いつも歴史書を読んで古人の仕事を学び自分の志を励ますことを勧めながら、「是亦(則)故而已矣の意なり」という有名な言葉を残した。「これまた故(こ)に則(のっと)るのみ」とは、自分の行いもすべて歴史の故事や偉人の振る舞いに学んだという意味にほかならない。しかし行動派でもある松陰は、西欧に侵略された清帝国やオスマン帝国が洋務運動やタンジマート改革の近代化を始めた動機にもまして、日本の行く末にもっと切迫感をもっていた。その結果、彼は守勢一辺倒でなく積極攻勢に出て侵略をはねかえすべきだと信じるにいたった。

page: 2
軍事政略と通商航海の結合

 安政5(1858)年に入って修好通商条約の締結が日程に上ると、世上の論議もかまびすしくなるが、条約を拒否する主戦論者の説は古典的な鎖国論にとどまり、平和論者の航海貿易策は欧米諸国に屈従しかねない避戦論であり、一種の“ねじれ”が生じていた。

 この矛盾を解くために松陰は、「雄略」というアイデアで軍事政略と通商航海とを有機的に結合し、大攘夷(じょうい)や開国攘夷と称される遠大な戦略デザインを構想した。

 彼のデザインは、大艦をつくって海軍を伝習調練し国内各地を往来して航海に習熟した後に、朝鮮・満州や清国とも交渉を始め、広東・ジャガタラ(ジャワ)・喜望峰・オーストラリアに居館をつくり将士を置いて、四方の情勢を分析しながら通商貿易で利をあげるというスケールの大きなものだった。吉野誠氏の要約に従えば、この事業を3年ほどで終わらせた後、米国のカリフォルニアに赴いて交渉に入り、日本にやってきたペリーら使節らの努力に酬いて条約を結べば、「国体」を失わずに列強争覇の世界で日本の独立を堅持できるというのが松陰の壮大な構想なのである(『明治維新と征韓論』明石書店)。

 何というスケールの大きさであろうか。全然萎縮したところも卑屈な点もない。この構想は未完に終わったが、松陰独特の開国攘夷論は単純なアジア侵略の第一歩だったとは必ずしも言えない。松陰の未完の言説には少なくとも、明治政府成立から日清戦争や日露戦争に向かう時代の政治感覚との連続性だけで議論できないセンスや志が含まれているからだ。

page: 3
 政治外交の懸案解決策として武力攘夷や武力遠征だけに頼る愚をたしなめた松陰にとっては、むしろ東アジアからそれを越える大アジアの国々との連携や同盟さえ見えていた可能性も高いからだ。彼が生き永らえ大好きだった歴史への関心を、中国や朝鮮だけでなく、インドやイスラムの世界にまで視野を広げていたなら、同時代の欧米人とは異なる独特な歴史解釈を発展させていたかもしれない。松陰が欧米によるアジアやアフリカの植民地化の動きに単純に追随し模倣したとは思えないのだ。

 29歳の若さで刑死した吉田松陰は、「空言」(抽象的言辞)よりも「行事(こうじ)」(具体的仕事)で考える歴史的思考法を大事にした孔子の言葉に何度も触れている。松陰は、孔子が歴史の名著『春秋』を作り、孟子も聖人と賢人の業績について事実を挙げながら具体的に称賛した面を高く評価したからである。

「観察者」であり「行為者」に

 政治と歴史を常に結びつけて発想した松陰は、歴史を学習すれば世のために2つの面で役立つと強調した。

 第一は、歴史家が時事をきちんと遠慮せずに書くために、官僚も畏怖して不正をおこさないことだ。第二は、時事のプラスマイナスや施策の善悪をきちんと学べば、別の政策を考える場合にも大いに役立つからである。いまの政治家や官僚には是非に耳を傾けてほしい言葉なのだ。

page: 4
 松陰の考えは、歴史的な実例を手本にすれば宗教と世俗のいずれでも有益な効果をあげられると述べたチュニジア生まれのイブン・ハルドゥーンの言説にも似ている。『歴史序説』を書いた14世紀アラブの歴史家と19世紀の吉田松陰が時空を超えて問題関心を天才的に共有していた点は興味をそそられる。いずれにせよ、政治家と歴史家は、事物の観察スタイルにおいて似通った面がある。それは、過去と現在の人間のいずれを重視するかの違いがあるにせよ、人間の行為の「観察者」であると同時に「行為者」でもあることだ。

 政治家は歴史家にもまして、自然科学のような外的な観察でなく、内側から理解する能力がないと務まらない職業なのだ。歴史家に要求されるのは、人びとや物事の動機・態度・意図・出来事を順序だてて整理できる能力である。そして、歴史で重要なポイントを無駄なく指し示せる歴史家の仕事は、政治をできるだけ複雑にせず紛糾させない政治家の営みによく似ている。私が最新著『リーダーシップ』(新潮新書)で強調したように、政治家に過去の偉大な歴史家の古典的書物に接してほしいと願うのはこの点にあるのだ。(やまうち まさゆき)
 遅刻しそうだったので池上本門寺の山門前階段を駆け上がるように上った……ぜーぜー。しかも、本殿の場所がわからなくて右往左往……はらはら。
 でも何とか、執事さんのお話もほとんど聞けた。

 本殿で私たちが向かっているお釈迦様は四菩薩を引き連れている。その菩薩たちは太陽(光・火)と風(空気)と水と大地を象徴している……というお話。

 今日は前座さんなし。春太さん聞きたかったなぁ。



一 「禁酒番屋」談春

 「駅のベンチみたいですね。これって指定席ですか?」と客席に質問。談志師匠が腰を痛めた時に、こういう90度の椅子の方がいいということで、地方公演に行く時にグリーン席の招待券をもらっても普通席で行って、到着する駅近くになるとグリーン席に移ったというエピソードを紹介(招待者にグリーン席と自由席の差額をぱくったと思われたくない)。
 今日は風邪を引いてますとのこと。前回10月25日に神奈川県立音楽堂で聴いた時もそうだった。東北巡業で引いた風邪は10月中に治ったのだが、二日前にまた風邪を引いたのだとか。前回は喉に来たが今回は鼻だそうな。お大事に、師匠。
 「おくりびと」です、というエピソード。大阪シンフォニーホール、歌舞伎座、東京厚生年金会館と、閉館が決まった会場の最後の日々に出演するという経験。談春・さだまさしとか、談春・松山千春とか、後の世に記録を調べた人が「談春って何者?」と思うかも知れないと^_^;。
 今回は仏様の前だけど、今年の前半には神様の前で演じて(日本橋で四神剣の前で奉納落語したの時のことでしょうね)、精進潔斎にはちょっと慣れている。精進潔斎の方法論は人によって違うのだけど、肉食を控えるとか、アルコールを控えるとか、女色を控えるとか。一番辛いのはアルコールだと……というマクラで。

 ついツイッターで前日見た人の投稿を読んでしまったのでネタは知っていたのだが、前に寄席で聴いた別の師匠の口演と違って、いきなり「近藤様」から入ったので頭が真っ白になってしまった(ある意味、先入観がなくなってよかったかも^_^;)。
 尾籠なところに入るネタはあまり好きではないのだが、最後に禁酒番屋に品物を持って行く奴の江戸前な切れっぷりが談春師匠そのものみたい。番屋の目をごまかして近藤様に日本酒を持って行くというミッションはどこへやら、番屋の侍どもを凹ませてやろうという意気込みだけが先走るというところが笑えた。

一 「除夜の雪」談春

 中入り後はマクラも振らないことが多い談春師だけど、今回は東北にボランティアで落語口演に行ったときのエピソードを詳しく語る(たぶん、このために前座さんなしになったんじゃなかろうか)。
 東北の被災地での口演を依頼してきたのは遠野にベースを構える被災地ボランティアの調整をしている(昔でいう口入れ屋・今でいうとコーディネーターですね)人で、メールをもらったんだけど、実際会ってみるとすごいアフロだったとか、そのアフロ君が談春師匠が来てくれるという感激を遠野の人に理解してもらえなくて鹿児島の友達にメールしたとか、爆笑が続いた。
 ま、一番面白かったのは現地で春太さんの「牛ほめ」がばっかんばっかん受けたこと(最前列の小学生4人に)。それならと談春師が「たぬき」をやったんだけど、子供たちにちっとも受けなくて、途中で席を立たれてしまった。「このガキ」みたいなことを言ったせいか、普通は落語は受け付けない(港町は落語より浪花節だそうだ)町のご老人たちが談春師に気をつかって残りはタテのりだったとか(汗)。
 でも、その子供たちが津波の被害を受けた小学校のわずかな生き残りだったということに触れて、あの大震災と津波で人の生死の分かれ目になったのは一体何だったのかという、粛然とさせる問いかけ。

 初めて聴きました「除夜の雪」。もともとは米朝師匠がおろした新作落語で、談春七夜にかかっていたというところまでツイッターでチェックしてましたが、事前の知識はそこまでにしておいて。
 最初は貧乏寺の内幕を見せるようで笑いはあったが、後半は怪談混じりの人情噺。でも救いがない(と談春師も最後の挨拶で言っていた)。
 いい口演だったのだろうが、後ろの方の席だったおかげで、木のベンチで疲れてがさごそする人はいるし、暖房入れてくれたおかげか「ぐー」と音を立てて居眠りする人が近くにいるしで、自分は集中できなかったのが残念。

 幕が下がらないので、サゲの後に談春師がネタの解説やら、会場出口は狭いので三段送りで後ろの席の方から帰ってくださいと誘導してくれたり、師匠のやさしさを感じた場でした。
 こういう空間で落語を聴くのも悪くはないけど、もっと前の席で聴きたかったなぁ。この木のベンチ風な座席だと2時間はちょっときついかも。




 二日続けて記事をアップするのは久しぶりです。

岩手
「復興助太刀」 新選組が集結 宮古で全国サミット
 岩手県宮古市で5日、第12回全国新選組サミットが始まった。幕末に活躍した新選組の全国の同好会10団体や地元有志ら120人が集まって演武などを繰り広げ、会場を沸かせた。
 初日は宮古駅前広場で、鍬ケ崎小の児童が大漁祝い唄でサミットを歓迎。参加者は土方歳三ら新選組隊士の装束をまとって演武を披露し、「誠」の旗を掲げて商店街をパレードした。
 宮古湾は1869年、土方ら旧幕府軍が新政府軍に海上戦を挑んだ「宮古湾海戦」の舞台となった。その縁もあり、昨年12月にサミットの開催地に決定。東日本大震災でいったん立ち消えになったが、震災復興の応援の場にもしようと、関係者の後押しで開催にこぎ着けた。地元有志代表で、宮古観光協会の沢田克司会長は「全国の同好会から宮古を元気づけたいという言葉をもらった。仲間との絆が強まったと感じている」と話した。
 サミットは6日、宮古湾海戦の戦没者、震災の犠牲者を海上から弔う供養をする。
カレンダー
09 2025/10 11
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
最新コメント
[12/14 白牡丹(管理人)]
[12/14 ゆーじあむ]
[11/08 白牡丹(管理人)]
[11/07 れい]
[01/21 ゆーじあむ]
[11/15 白牡丹@管理人]
[11/15 ゆーじあむ]
[05/25 長谷川誠二郎]
[07/23 白牡丹@管理人]
[07/23 伊藤哲也]
最新TB
ブログ内検索
アーカイブ
カウンター
プロフィール
HN:
白牡丹
性別:
非公開
自己紹介:
幕末、特に新選組や旧幕府関係者の歴史を追っかけています。連絡先はmariachi*dream.com(*印を@に置き換えてください)にて。
バーコード
Livedoor BlogRoll
本棚
Copyright ©  -- 白牡丹のつぶやき --  All Rights Reserved
Designed by CriCri / Material by White Board

忍者ブログ  /  [PR]