新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
先週、平成中村座を見てきました。『組!』当時は26才だった平助こと中村勘太郎さん(現・中村勘九郎さん)も40才。弟の七之助さん、チビ勘太郎くん、ちび長三郎くんとともに舞台を盛り上げておりました。平助だった頃は颯爽と義経やって似合ったろうと思いますが、チビ勘太郎くんを義経に、弁慶を豪快に演じつつ、勘太郎くんとの立ち回りも息が合ってかっこよく、主人を得て無邪気に笑顔になるところがよかったです。
そして、来年は大河ドラマの主役なんですよね勘九郎さん。歌舞伎の舞台に出られない期間ができてしまうのは歌舞伎ファンとして残念なのですが、『組!』当時、10年後にこの作品の出演者たちは出世しているだろうと言っていた中で出世頭のひとりではないでしょうか。
土方歳三を演じた山本耕史さんは『真田丸』で石田三成を演じましたが、別の作品では右府さま織田信長を演じる予定です。しかも武田観柳斎を演じた八嶋さんがサル羽柴秀吉です。
山本耕史「石田三成から織田信長になった…」『映画刀剣乱舞』キャスト発表にファン混乱!?
『組!』キャストの話題といえば、かっちゃん近藤勇を演じた香取慎吾さんと、滝本捨助を演じた中村獅童さんのエピソードも。
香取慎吾、中村獅童の『新選組!』忘年会エピソード明かす「何度も抱えて運んだ」
左之助を演じたは山本太郎は、『組!』作品世界で日本を飛び出して満州に行きそうな勢いでしたが、中の人も芸能界を飛び出して国会議員になりました。何度か辻立ち聴いていますが、街頭演説のおもしろさわかりやすさは政界でも指折りじゃないかと思います。
そして、来年は大河ドラマの主役なんですよね勘九郎さん。歌舞伎の舞台に出られない期間ができてしまうのは歌舞伎ファンとして残念なのですが、『組!』当時、10年後にこの作品の出演者たちは出世しているだろうと言っていた中で出世頭のひとりではないでしょうか。
土方歳三を演じた山本耕史さんは『真田丸』で石田三成を演じましたが、別の作品では右府さま織田信長を演じる予定です。しかも武田観柳斎を演じた八嶋さんがサル羽柴秀吉です。
山本耕史「石田三成から織田信長になった…」『映画刀剣乱舞』キャスト発表にファン混乱!?
『映画刀剣乱舞』の追加キャストとして山本耕史と八嶋智人の参戦が発表され、ネット上で話題となっている。
刀剣育成シミュレーションゲーム「刀剣乱舞-ONLINE-」を原案とした初の実写化作品『映画刀剣乱舞』。先日、本作の追加キャストとして山本耕史と八嶋智人の参戦が発表され、ネット上で話題になっている。
■ストーリー
天正十年六月二日、京・本能寺。明智光秀が織田信長を襲撃した“本能寺の変”に、歴史改変の魔の手が迫っていた。燃える寺から信長を逃がし歴史を変える、そんな時間遡行軍の計画は、刀剣男士たちの活躍により打ち砕かれた。
ところが、無事任務を終えて帰還した彼らに届いた「織田信長生存」の一報。本来の歴史に戻すため、刀剣男士たちは織田信長暗殺を目的に再び過去へと出陣するのだった。どうやって信長は生き延びていたのか、怪しい動きをする影、そして立て続けに歴史介入をしてくる時間遡行軍。彼らの本当の狙いに気付いた三日月宗近は…。正しい歴史とは何か。“守るべきもの”を守る戦いが、いま始まる――!
■若手が集まる本作に安心の実力派が参加!
名立たる刀剣が戦士へと姿を変えた“刀剣男士”を率い、歴史を守るために戦う刀剣育成シミュレーションゲーム「刀剣乱舞-ONLINE-」を原案とした本作。すでに、注目の刀剣男士のキャストには、三日月宗近役の鈴木拡樹、山姥切国広役の荒牧慶彦、薬研藤四郎役の北村諒、へし切長谷部役の和田雅成、日本号役の岩永洋昭、骨喰藤四郎役の定本楓馬、不動行光役の椎名鯛造、そして鶯丸役の廣瀬智紀と、舞台を中心に活躍する若手俳優たちが決定している。
そんな中、今回追加キャストとして実力派俳優の2人、山本耕史と八嶋智人の出演も決定。山本さんは、天下統一を狙う織田信長役として安定感のある演技を発揮。八嶋さんは織田信長を支える家臣ながら、後に天下統一を成し遂げる羽柴秀吉役を演じる。
『映画刀剣乱舞』(C)2019「映画刀剣乱舞」製作委員会 (C)2015-2019 DMM GAMES/Nitroplus
山本さんは「織田信長は初めて演じます。自分がもうそんな年齢になったのかと感慨深い思いでした」と話し、八嶋さんは「我々が知る『歴史』とはいかに表層的であるか。この映画はそう実感させてくれる力強いロマンだ!」と熱く本作をアピールしている。
■これまでも様々な武将に…山本耕史の新たな挑戦に反響
今回の発表で特に話題となっているのが、織田信長役の山本さん。これまでも様々な時代物作品に出演してきた山本さんは、大河ドラマ「新選組!」などでは土方歳三、「平清盛」では藤原頼長、「真田丸」では石田三成。ほかにも、豊臣秀頼、竹中半兵衛、徳川秀忠とたくさんの歴史上の人物に扮してきた。
山本耕史
そんな中、今回初の織田信長役決定にTwitterでは「石田三成から織田信長になった…」「山本耕史は石田三成だろ(真田丸クラスタ)山本耕史は土方歳三だろ(新選組クラスタ)山本耕史は織田信長だろ(刀剣乱舞クラスタ)山本耕史とは一体」「山本耕史さんは石田三成から織田信長になったのか…」「今日の誕生日の人は…土方歳三、いや、石田三成だったかな… …あっ、山本耕史さんだった! と思ったらまさかの織田信長」「え?は?山本耕史は石田三成じゃないん?土方歳三でもあったけど織田信長なん? え?」「山本耕史は土方歳三なのか石田三成なのか織田信長なのか…」とファンも混乱気味の様子だ。
■“刀剣男士”が勢揃い! 本ポスタービジュアル公開
三日月宗近(鈴木さん)ら“刀剣男士”たちが躍動する本ポスタービジュアルも併せて公開! 霧がかった城と炎が描かれており、激しく壮大なストーリーを予感させる。
『映画刀剣乱舞』(C)2019「映画刀剣乱舞」製作委員会 (C)2015-2019 DMM GAMES/Nitroplus
なお、本作のムビチケカード全9種類を3回に分けて発売することも決定。第1弾は<三日月宗近、日本号、鶯丸>の3人のビジュアルを使用し、11月2日(金)より発売開始となる。
『映画刀剣乱舞』は2019年1月18日(金)より全国にて公開。
『組!』キャストの話題といえば、かっちゃん近藤勇を演じた香取慎吾さんと、滝本捨助を演じた中村獅童さんのエピソードも。
香取慎吾、中村獅童の『新選組!』忘年会エピソード明かす「何度も抱えて運んだ」
現在、AbemaTVで生放送中の『7.2 新しい別の窓 #8』で、「ジャポニスム2018」の広報大使を務め自身の初個展を開いた香取慎吾と、公式企画の1つである「松竹大歌舞伎」に出演した歌舞伎俳優・中村獅童の対談の模様を放送。フランス・パリで共演作『新選組!』の思い出を振り返った。
2004年放送のNHK大河ドラマ『新選組!』で共演して以降、その忘年会で毎年会っているという2人。しかし香取は2016年、獅童は2017年の忘年会に参加できなかったといい、「本当に久しぶりで、まさかパリでこうやって」(香取)、「パリで会えるなんて嬉しい」(獅童)と再会を喜ぶ。
香取によると獅童と共演者の山本耕史は毎回喧嘩しているというが、獅童は「けどすごい仲良くなって。皆さんいまだに仲いいんで嬉しいです」と説明。また、香取が「僕何度も走って追いかけて、床にいる獅童さんを抱えて運んでいったこと何度もありますよ。でも怖い感じではなく、すごい笑顔で『うるせー!離せっ!』みたいな(笑)」とエピソードを明かし、獅童も「そんな時もありましたね」と笑いあった。
▶『7.2 新しい別の窓 #8』は午後5時~夜0時15分まで「AbemaSPECIAL 2」チャンネルにて放送中
左之助を演じたは山本太郎は、『組!』作品世界で日本を飛び出して満州に行きそうな勢いでしたが、中の人も芸能界を飛び出して国会議員になりました。何度か辻立ち聴いていますが、街頭演説のおもしろさわかりやすさは政界でも指折りじゃないかと思います。
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3年ぶりに浅草で幕を開けた「平成中村座」
中村屋さん贔屓なもので、平成中村座は昼と夜を二回ずつ確保してしまいました。うち一回目は初日から3日め。
歌舞伎を見始めてすぐに平成中村座を経験していたので、地元の芝居小屋のような感覚になります。十八世中村勘三郎丈を生で見ることができなかったのが残念なのだけど、この空間は勘三郎さんへの愛が詰まっていて、とても温かい気持ちになります。
【昼の部】
一、源平布引滝 実盛物語
イヤホンガイドのサイトからの簡単な紹介。
小万の児太郎さん、葵御膳の新悟さんもポイントポイントでいい姿。亀蔵さん演じる瀬尾の自害のシーンは、トンボがうまく決まったものの、消し幕さんとのタイミングが少々ずれて、身体が動くところが見えちゃいました。
実盛が黒馬に乗って堂々と去る場面は素敵でした……花道すぐ脇の席だっただけにガン見しました。
二、近江のお兼
七さんが暴れ馬を手懐け、布晒を両手でひらひらと宙に舞わせる可愛く力持ちのお兼を踊りました。そうか、勘三郎さんも踊っていたのね。芸幅が広かったんだなぁ勘三郎さんは。
三、江戸みやげ 狐狸狐狸ばなし
生臭坊主との浮気に血道を上げる女房と、それでも女房を愛する染め物屋の亭主を中心とした、騙し騙されのコミカルな舞台。
今回は扇雀の伊之助に七之助のおきわ。「しつこい蛇のような」と言われる執念の強さ、かいがいしい世話を焼くこまめさ、上方で役者をしていた伊之助の、二面性があるが嫌みではないところが扇雀はうまかった。七之助は浮気に絡め取られて本気になり相手と心中しようとする怖さと、呆けた演技の哀れさ、それでも浮気の虫が止まない業をコミカルかつシリアスに。芝翫の生臭坊主が割とよかった。
【夜の部】
客席にひらひら蛾が舞っていた。前に勘九郎さん七之助さんのトークで、勘三郎さんが時々ハエになって舞台を見に来ているという話をしていたけど、今日は蛾となって戻ってきたのかな、と思ったら……。
一、弥栄芝居賑
江戸の風情を残す中村屋の芝居小屋を舞台後景にして、勘九郎七之助が座元夫婦に、勘太郎長三郎を息子に、扇雀が挨拶の音頭を取り、手締めは芝翫。男伊達と女伊達が花道に並んで浅草ゆかりの土地や風物を織り込んだ連ねの台詞が面白かった。小三郎さんが手首のアンチョコを見ながらもつっかえつっかえだったのが中村屋のファンにはご愛敬で許されるものの少々残念ではあった。
そして芝居はありし日の勘三郎さんの映像。『娘道成寺』や『め組』や『野田版 鼠小僧』や……あれ、中途半端なところで途切れた。少しザワザワしながら、なし崩し的に20分の休憩に。そこに七さんがお顔はそのままで鬘をはずした浴衣姿で、なおちゃんとのりちゃんも引き連れて幕から顔出しして「どうやら父がいたずらしたようで……」と挨拶。
どうやら、あの蛾は本当に勘三郎さんの魂を運んでいたらしい。
二、舞鶴五條橋
扇雀さんの常盤御前と勘太郎くんの九郎義経の場面の後、勘九郎さんの弁慶と勘太郎くんの義経の対決。勘太郎くんがちゃんと芝居してて(歌舞伎座で『団子売』踊りきった時から並々ならぬ技量と度胸があると思ってはいたが)五條橋の対決も見応えがあった。そして勘九郎さん弁慶の薙刀での立ち回り、六方と勇壮な大きな芝居。近くで見られてとてもよかった。主人を得て破顔一笑したところが可愛い。。
三、仮名手本忠臣蔵 祇園一力茶屋の場
今日一番見応えがあった。勘九郎さんの寺坂平右衛門と七之助さんのお軽はそれぞれ、仁左衛門さまと玉三郎さまから教えられたのだろう。勘九郎さんと七之助さんの兄弟ならではのキャッキャッウフフとじゃらつくかわゆさがある。
楽日近くでまた見られるのが楽しみ。
中村屋さん贔屓なもので、平成中村座は昼と夜を二回ずつ確保してしまいました。うち一回目は初日から3日め。
歌舞伎を見始めてすぐに平成中村座を経験していたので、地元の芝居小屋のような感覚になります。十八世中村勘三郎丈を生で見ることができなかったのが残念なのだけど、この空間は勘三郎さんへの愛が詰まっていて、とても温かい気持ちになります。
【昼の部】
一、源平布引滝 実盛物語
イヤホンガイドのサイトからの簡単な紹介。
「義賢最後」(よしかたさいご)の続きです。勘九郎さんの次男、5才の長三郎くんが台詞も振りもついた太郎吉の芝居を長丁場こなします。勘九郎さんの実盛は、颯爽とした生締で理も情もわきまえた武士。亀蔵演じる瀬尾に九郎助夫妻と太郎吉をかばいながら、葵御前の出産をさりげなくサポートし、落とす手はずを整え、太郎吉の将来の仇討ちまで受けとめます。
木曽義賢の身重の妻・葵御前を助ける平家方の斎藤実盛の恩情と心の苦しみのお話し。
家に伝わる源氏の白旗を亡き義賢から預かった小万は、平家方に追われ琵琶湖を泳ぐが、敵方の船に引き上げられる。
引き上げたのは斉藤実盛。
源氏に心をよせる実盛、彼女の腕を切り落として、旗が平家にわたるのを防ぐ。
小万の一念で、腕が握った旗は葵御前の許に。
さて、ここは、琵琶湖のほとり。百姓九郎助の家です。
ここに義賢の側室、葵御前がかくまわれています。
葵御前が産む木曽義賢の子が男子だったら即刻殺せという清盛の命を受けて、斉藤実盛と瀬尾十郎兼氏が検分役としてやってきます。
葵は無事、男子駒王丸を産んでいました。
でも、「産んだのはコレです!」と差し出されたのは、女の片腕!?
実盛が小万の「片腕」を斬った状況を、物語るところが、題名の由縁。一番の歌舞伎クライマックスです。
死んだ小万は、実は、平家の瀬尾十郎の○○!意外な人物関係がすごいドラマチック・・・。
小万の児太郎さん、葵御膳の新悟さんもポイントポイントでいい姿。亀蔵さん演じる瀬尾の自害のシーンは、トンボがうまく決まったものの、消し幕さんとのタイミングが少々ずれて、身体が動くところが見えちゃいました。
実盛が黒馬に乗って堂々と去る場面は素敵でした……花道すぐ脇の席だっただけにガン見しました。
二、近江のお兼
七さんが暴れ馬を手懐け、布晒を両手でひらひらと宙に舞わせる可愛く力持ちのお兼を踊りました。そうか、勘三郎さんも踊っていたのね。芸幅が広かったんだなぁ勘三郎さんは。
三、江戸みやげ 狐狸狐狸ばなし
生臭坊主との浮気に血道を上げる女房と、それでも女房を愛する染め物屋の亭主を中心とした、騙し騙されのコミカルな舞台。
今回は扇雀の伊之助に七之助のおきわ。「しつこい蛇のような」と言われる執念の強さ、かいがいしい世話を焼くこまめさ、上方で役者をしていた伊之助の、二面性があるが嫌みではないところが扇雀はうまかった。七之助は浮気に絡め取られて本気になり相手と心中しようとする怖さと、呆けた演技の哀れさ、それでも浮気の虫が止まない業をコミカルかつシリアスに。芝翫の生臭坊主が割とよかった。
【夜の部】
客席にひらひら蛾が舞っていた。前に勘九郎さん七之助さんのトークで、勘三郎さんが時々ハエになって舞台を見に来ているという話をしていたけど、今日は蛾となって戻ってきたのかな、と思ったら……。
一、弥栄芝居賑
江戸の風情を残す中村屋の芝居小屋を舞台後景にして、勘九郎七之助が座元夫婦に、勘太郎長三郎を息子に、扇雀が挨拶の音頭を取り、手締めは芝翫。男伊達と女伊達が花道に並んで浅草ゆかりの土地や風物を織り込んだ連ねの台詞が面白かった。小三郎さんが手首のアンチョコを見ながらもつっかえつっかえだったのが中村屋のファンにはご愛敬で許されるものの少々残念ではあった。
そして芝居はありし日の勘三郎さんの映像。『娘道成寺』や『め組』や『野田版 鼠小僧』や……あれ、中途半端なところで途切れた。少しザワザワしながら、なし崩し的に20分の休憩に。そこに七さんがお顔はそのままで鬘をはずした浴衣姿で、なおちゃんとのりちゃんも引き連れて幕から顔出しして「どうやら父がいたずらしたようで……」と挨拶。
どうやら、あの蛾は本当に勘三郎さんの魂を運んでいたらしい。
二、舞鶴五條橋
扇雀さんの常盤御前と勘太郎くんの九郎義経の場面の後、勘九郎さんの弁慶と勘太郎くんの義経の対決。勘太郎くんがちゃんと芝居してて(歌舞伎座で『団子売』踊りきった時から並々ならぬ技量と度胸があると思ってはいたが)五條橋の対決も見応えがあった。そして勘九郎さん弁慶の薙刀での立ち回り、六方と勇壮な大きな芝居。近くで見られてとてもよかった。主人を得て破顔一笑したところが可愛い。。
三、仮名手本忠臣蔵 祇園一力茶屋の場
今日一番見応えがあった。勘九郎さんの寺坂平右衛門と七之助さんのお軽はそれぞれ、仁左衛門さまと玉三郎さまから教えられたのだろう。勘九郎さんと七之助さんの兄弟ならではのキャッキャッウフフとじゃらつくかわゆさがある。
楽日近くでまた見られるのが楽しみ。
新橋演舞場が月一回催している食事付き落語会です。落語は前座+真打ち2席で、その前後に演舞場の厨房新ばしがつくった食事をいただきます。ちょっと品数多めの幕の内弁当に全国各地の酒造が提供する日本酒(今回は1合×2本を隣の人と、5合×2本をテーブル4名とシェアしたので、意外に飲ませていただいた感じでした)が提供されます。
https://www.shinbashi-enbujo.co.jp/contents/rakugo20181030.html
今回は宮城県内最古の蔵元、内ヶ崎酒造さんの提供でした。4本のうち最後に提供された特別純米酒鳳陽源氏は初めてイギリス王室のワインセラーに収蔵された日本酒3種類のうちの一本だそうです。
また、先付けとして出されたのは有機農業をしているOme Farmさんが提供する後関晩生小松菜のお浸しでした。写真撮影忘れましたが、白身魚の塩麹焼きの後に焼きおにぎり鮭茶漬けがあり、食事として十分に満足できました。有機野菜は甘みがあって優しい味でした。
主催者挨拶、Ome Farmさんと内ヶ崎酒造さんの挨拶を前後に挟みましたが、落語会も本格的でした。
テーブルをご一緒した3人組の紳士たちは、毎月この会にいらっしゃる常連さんを中心にしたお仲間さんたち。うちお一人が隣席になったので伺いましたら、一番印象に残っているのが一之輔さんの回だそうです。
一、たらちめ/古今亭まめ菊
菊師は寄席や落語会でちょくちょく聴きますが、独演会は初めてかも知れません。なので一番弟子のまめ菊さんをお見かけしたのも今回が初めてです。口跡も菊之丞さんが若い女性になったらこんな感じかな、という菊之丞さんの落語がちゃんと入っています。少し女性の登場場面を多くしているところが女性落語家らしいアレンジですね。
一、火焔太鼓/古今亭菊之丞
これぞ古今亭、大師匠の志ん生が得意としたネタです。菊之丞さんの落語に出てくる長屋のおかみさんはしっかり者でバリバリ仕事できそうな感じです。
(中入り)
一、幾代餅/古今亭菊之丞
これも古今亭らしいネタ。幾代太夫の古風な感じと、搗き米屋の奉公人清蔵さんの実直な感じがいいです。
後半は抽選会があり、Ome Farmさん提供の有機野菜、内ヶ崎酒造さん提供のグラスや前掛け、菊之丞師匠がサインしたポスターや色紙などがクジ引き賞品として提供されました。
地下食堂はかなり広く、宴会テーブル席で4人掛けが40テーブル、計160人が満席でした。新橋演舞場のお客様だけあって、女性客には季節の着物を着てらっしゃる方も多く見られました。
落語会+食事+酒で9,000円です。落語ファンとしてはかなりハイエンドな落語会だなーと思いますが食事や酒も割高とは感じませんでした。また、大広間の座敷に落語家さんを招き入れた感じで、ホール落語よりも落語家さんとの距離が近く感じられます。
来月は柳亭市馬師匠がゲストで、市馬ファンの私はもうチケット確保してます(^^)。
https://www.shinbashi-enbujo.co.jp/contents/rakugo20181030.html
今回は宮城県内最古の蔵元、内ヶ崎酒造さんの提供でした。4本のうち最後に提供された特別純米酒鳳陽源氏は初めてイギリス王室のワインセラーに収蔵された日本酒3種類のうちの一本だそうです。
また、先付けとして出されたのは有機農業をしているOme Farmさんが提供する後関晩生小松菜のお浸しでした。写真撮影忘れましたが、白身魚の塩麹焼きの後に焼きおにぎり鮭茶漬けがあり、食事として十分に満足できました。有機野菜は甘みがあって優しい味でした。
主催者挨拶、Ome Farmさんと内ヶ崎酒造さんの挨拶を前後に挟みましたが、落語会も本格的でした。
テーブルをご一緒した3人組の紳士たちは、毎月この会にいらっしゃる常連さんを中心にしたお仲間さんたち。うちお一人が隣席になったので伺いましたら、一番印象に残っているのが一之輔さんの回だそうです。
一、たらちめ/古今亭まめ菊
菊師は寄席や落語会でちょくちょく聴きますが、独演会は初めてかも知れません。なので一番弟子のまめ菊さんをお見かけしたのも今回が初めてです。口跡も菊之丞さんが若い女性になったらこんな感じかな、という菊之丞さんの落語がちゃんと入っています。少し女性の登場場面を多くしているところが女性落語家らしいアレンジですね。
一、火焔太鼓/古今亭菊之丞
これぞ古今亭、大師匠の志ん生が得意としたネタです。菊之丞さんの落語に出てくる長屋のおかみさんはしっかり者でバリバリ仕事できそうな感じです。
(中入り)
一、幾代餅/古今亭菊之丞
これも古今亭らしいネタ。幾代太夫の古風な感じと、搗き米屋の奉公人清蔵さんの実直な感じがいいです。
後半は抽選会があり、Ome Farmさん提供の有機野菜、内ヶ崎酒造さん提供のグラスや前掛け、菊之丞師匠がサインしたポスターや色紙などがクジ引き賞品として提供されました。
地下食堂はかなり広く、宴会テーブル席で4人掛けが40テーブル、計160人が満席でした。新橋演舞場のお客様だけあって、女性客には季節の着物を着てらっしゃる方も多く見られました。
落語会+食事+酒で9,000円です。落語ファンとしてはかなりハイエンドな落語会だなーと思いますが食事や酒も割高とは感じませんでした。また、大広間の座敷に落語家さんを招き入れた感じで、ホール落語よりも落語家さんとの距離が近く感じられます。
来月は柳亭市馬師匠がゲストで、市馬ファンの私はもうチケット確保してます(^^)。
秋の日は釣瓶落としといいますが、本当に昼が短くなりましたね。秋という季節は好きなんですが、日照時間が早く短くなるので体調を崩しがちなのが悩みの種です。
宮城
<戊辰戦争150年>東北の幕末史網羅 仙台市博物館で藩主建言書など230点展示
福島
戊辰戦争戦死の「西軍藩士」慰霊 会津若松で墓前祭、80人参列
(文化の扉)戊辰戦争、無念の150年 「賊軍」とされた会津/列藩同盟、当初は「非戦」
戊辰戦争「三春藩の選択」解説 歴史民俗資料館で企画展 /福島
京都
戊辰戦争勃発時の京都御所 絵が伝える緊迫感と高揚感
宮城
<戊辰戦争150年>東北の幕末史網羅 仙台市博物館で藩主建言書など230点展示
仙台市博物館、新潟県立歴史博物館、福島県立博物館の3館主催による共同企画の特別展「戊辰戦争150年」(河北新報社、NHK仙台放送局共催)が26日、仙台市博物館で始まった。12月9日まで。
薩摩藩、長州藩中心の新政府軍から「朝敵」とされた会津藩や、会津藩を救おうとした東北、越後各藩の視点を軸に、全国から広く集めた古文書や絵図、旗、武器など約230点を展示。東北の幕末・維新史を網羅した内容となっている。
当時の仙台藩主伊達慶邦(よしくに)が新政府に会津追討を思いとどまるよう求めた建言書や、奥羽列藩同盟の盟約書の写し、新選組袖章、天皇の軍の証しとして新政府軍が掲げた錦旗などが並ぶ。
列藩同盟が独自政権を構想し、元号を「大政元年」と改元したとする資料など珍しい品もある。既に終了した新潟、福島の両博物館での展示には出品していない仙台独自の資料が約100点含まれる。
仙台市宮城野区の無職安久津知子さん(81)は「身近なのに学校の授業では教わらず、知らなかったことだらけ。何度でも足を運びたい」と話した。
開館は午前9時~午後4時45分。月曜休館。一般・大学生1000円、高校生500円、小中学生400円。会期中の土日・祝日には新選組の衣装を無料で試着できる体験会もある。
福島
戊辰戦争戦死の「西軍藩士」慰霊 会津若松で墓前祭、80人参列
戊辰戦争で戦死した土佐、薩摩、長州、大垣など各藩の藩士らが埋葬されている会津若松市の西軍墓地で23日、墓前祭が行われた。
会津戊辰戦役西軍墳墓史跡保存会(山田悦史会長)が毎年行っており、65回目。戊辰150年の節目とあって、例年以上に多くの参列者が訪れた。
地元や西軍の関係者ら約80人が参列。神式と仏式で墓前祭が行われた。山田会長が祭文を読み上げ、会津吟詠会の詩吟奉納が行われた。地元の関係者や子孫、山口、佐賀両県の関係者らが玉串をささげ、焼香した。山田会長が謝辞を述べた。
弟の土佐藩三番隊長小笠原謙吉と共に会津で戦死した牧野茂敬(迅衝隊軍監)の子孫という小笠原洋子さん(78)=神奈川県逗子市=は「こうしてお墓を守っていただいて、会津の方々の温かい気持ちをうれしく思います」と話した。
同墓地には、西軍9藩の150柱(藩籍不明1柱を含む)が祭られている。
(文化の扉)戊辰戦争、無念の150年 「賊軍」とされた会津/列藩同盟、当初は「非戦」
時代が明治に変わる150年前、東北地方などで大規模な内戦があった。戊辰戦争だ。江戸城の開城後も奥羽・北越などの諸藩は新政府を相手に団結し、戦った。敗戦で厳しい処分を受けた地域は、「賊軍」とされた無念を引きずってきた。
戊辰戦争150年に合わせた「全殉難者慰霊祭」が6日、仙台市であった。伊達家18代当主の伊達泰宗さんは「本来は平和のための非戦同盟としての行動でありました」と述べた。
奥羽と北越の諸藩は「奥羽越列藩同盟」を結び、新政府軍を相手に現在の東北地方や新潟県の各地で戦い、敗れた。「非戦」とは、どういう意味か。
「そもそも戦争をしたくて列藩同盟に加盟した藩は一つもないと思います。むしろ、巻き込まれたという認識でしょう」。そう語るのは、福島県立博物館の阿部綾子・主任学芸員だ。
戦争のきっかけは1868年1月の鳥羽・伏見の戦いだ。旧幕府軍などは薩摩、長州藩中心の新政府軍に大敗。新政府は会津藩を「朝敵」とし、仙台藩に征討を命じた。
仙台藩主の伊達慶邦(よしくに)は戦争回避に向けて動く。征討は、まだ幼かった明治天皇が判断したのかなどの疑問点を建白書にまとめた。だが京に届けられた時、すでに征討軍は出発していた。
新政府の奥羽鎮撫(ちんぶ)総督府が東北に入ると、会津藩謝罪の条件として要求したのは、藩主だった松平容保(かたもり)の首。会津藩にとって受け入れがたい内容だった。
仙台藩と米沢藩は奥羽諸藩に会津救済を呼びかけ、賛同した藩の代表者が署名した。この時は、東北で戦火を交えないことをめざした盟約だった。
*
提出された嘆願書を、新政府の奥羽鎮撫総督が却下したことで転機を迎える。
仙台市博物館の水野沙織・学芸員は「嘆願書の署名の前に仙台、米沢、会津の3藩の会合で、もし謝罪が認められず、鎮撫軍が暴挙に出たときは一緒に戦うことを約束していた」。仙台藩士らが総督府下参謀を殺害したことも加わり、対決は不可避に。「情勢の変化によって目的が変わり、同盟を結成し、新政府軍と敵対することになった」
5月、同盟は奥羽・北越の31藩に達した。だが、軍事同盟に変わり、各地の戦いで劣勢となる中、離脱する藩が相次ぐ。8月には会津・鶴ケ城下に新政府軍の侵攻を許す。9月に入ると、米沢、仙台両藩、そして会津藩などが降伏し、戦場は箱館へと移っていく。
*
新潟、福島両県と仙台市は今年、「戊辰戦争150年」展を企画した。会場には、一人の会津藩士が戦争から約40年後に書き記した書物「雪冤(せつえん)一弁」が展示されている。「雪冤」は「無実の罪をそそぐ」という意味だ。序文で、明治政府に媚(こ)びて真実を伝えない書物が流布していると執筆の動機を説明している。阿部さんは「会津藩が朝敵とされたことに対し、割り切れない思いが随所に表れている」。
この藩士が憤るのは「会津藩こそ天皇に誠を尽くした」という思いがあるからだ。容保は京都守護職として、幕末の混乱した京で治安の維持に努めた。孝明天皇からは、忠誠を喜ぶ手紙が届けられたほどだ。
だが、孝明天皇の死後、薩摩藩などは鳥羽・伏見の戦いで錦の御旗を掲げ、官軍と名乗ることに成功した。逆に会津藩が「賊軍」の汚名を着せられることになったのだ。
敗れた藩は戦後、処分を受けるが、新政府側に回った秋田藩も領地が戦場となり、家に火を付けられるなどの被害に遭った。水野さんは「150年前に起きた戊辰戦争の歴史はそれぞれの地域で大きく違っていることを知って欲しい」。(高橋昌宏)
■双方が正義の下に スポーツキャスター・大林素子さん
東京・多摩地方の出身なので新撰組の近藤勇や土方歳三はご当地ヒーローでした。バレーボールをやっている時は時間がなかったのですが、引退してからゆかりの地を巡り始めました。新撰組は松平容保の下で活動したので、会津にはプライベートの「取材」でよく通うようになりました。今年から福島県会津若松市の観光大使を務めています。
忠誠心をもって最後まで戦ったのが、会津藩であり新撰組。目上の方を敬うなど「ならぬことはならぬ」の精神が今も残り、当時の空気感が残っています。その時代に行きたい私にとって、会津は最高の場所です。
会津には友人が多くいます。あの節目を「維新」ではなく「戊辰」と言っていて、つらい歴史として記憶されています。互いに正義の下に行動しましたが、武士のプライドだけで戦った会津はすごいなと感じます。
これからの世代には、今の平和が先人の歩みの上にあることを知って欲しい。そのためにも、戊辰戦争の歴史を風化、美化せずに伝えていくことが大事だなと考えています。
<訪ねる> 「戊辰戦争150年」展は新潟県立歴史博物館、福島県立博物館、仙台市博物館の共同企画。開国、鳥羽・伏見の戦いを経て、奥羽越列藩同盟の結成、降伏までを地域の資料を中心に東北・越後の視点からたどる。26日から仙台市で始まる。12月9日まで。月曜休館。
戊辰戦争「三春藩の選択」解説 歴史民俗資料館で企画展 /福島
三春町歴史民俗資料館(三春町桜谷)で企画展「戊辰(ぼしん)・明治150年 三春藩の選択」が開かれている。「戊辰戦争の際、三春藩はなぜ奥羽越列藩同盟に加盟し、戦わずして新政府軍に恭順したのか」がテーマ。ここから先は毎日新聞の有料版にて。
東北諸藩の力関係や地理的条件から会津や仙台などの大藩主導の同盟に加わり、城下を戦乱から守るためにも新…
京都
戊辰戦争勃発時の京都御所 絵が伝える緊迫感と高揚感
戊辰(ぼしん)戦争の発端となった鳥羽・伏見の戦いが勃発した慶応4(1868)年正月3日夜の京都御所の様子を描いた絵がみつかり、京都文化博物館(京都市中京区)で展示されている。歴史が転回する緊迫の場面を精細に活写し、専門家によれば、美術的にも資料的にも貴重な作品という。
作品は、四国・宇和島藩出身で、明治時代に長崎で活動した画家の小波魚青(こなみぎょせい)が描いた「戊辰之役之図(ぼしんのえきのず)」。近代画家の発掘で知られる星野画廊(京都市東山区)の星野桂三社長が入手し、京都大学人文科学研究所の高木博志教授(日本近代史)らと調査し、昨秋に画廊で初公開した。
縦81・4センチ、横143・2センチの大作。京都御所に公家が参内する公家門=宜秋(ぎしゅう)門=の門前を舞台に、洋式の武装をした宇和島藩の兵士や、頭に白いかぶり物、手に棍棒(こんぼう)を握り、腰に刀を差した本願寺の僧の集団、新政府軍の優勢を伝え聞いてあわてて参内する公家の様子などが描かれる。
門前には大砲3門が並び、仮小屋の屯所が造営されている。南の方角では、下鳥羽(しもとば)付近の戦闘の炎のためか、空が赤く染まっていく様子や、戦況を知らせる早馬の駆けていく様子も描かれ、見ている者に戦争勃発直後の緊迫感と高揚感が伝わってくる。
作者の小波魚青は、宇和島藩の砲術指南役の家に生まれた。幕末に京都で四条派の長谷川玉峰(ぎょくほう)に師事して絵を学んでいた際、鳥羽・伏見の戦いが勃発し、現場に居合わせたとみられる。
星野さんは「戊辰戦争の動向を記録した文書は多いが、そのときの情景を描いた絵画はほとんどない。装束や馬のあぶみまで細かく描き分けられ、四条派に学んだ画家らしく、考証を重ね写実を追究している」と指摘する。
高木さんによれば、この絵は、明治23(1890)年に東京であった第3回内国勧業博覧会に出品され褒状(ほうじょう)を授与された。前年の明治憲法発布に伴って大赦があり、戊辰戦争で「賊軍」とされた幕府や会津藩、仙台藩などの罪が許された時点で発表されたことになる。「戊辰戦争から20年以上たって、ようやく維新や近い過去の歴史を自由に語ることができるようになったのではないか」
宇和島藩は幕末、倒幕を推し進める薩摩藩と長州藩に「公議」を無視すると反発しつつ、官軍側として戊辰戦争に参加。だが、維新後は藩閥政府に置き去りにされた。
高木さんは「維新に乗り遅れながらも、宇和島藩も一貫して勤王の立場で、重要な役割を果たしたと主張する意図も読み取れる。日本に歴史画というジャンルが成立していくなかで、歴史が転回する場面を迫真の描写で描いた優れた歴史画の大作だ」と話す。
作品は、11月25日まで京都文化博物館(075・222・0888)で開催中の特別展「華ひらく皇室文化―明治宮廷を彩る技と美」で展示される。(久保智祥)
チケット頑張って確保したので千穐楽ではありますが3階の1列目と2列目で見ました。
渡辺保の十月歌舞伎評
和角仁の「歌舞伎座」辛口寸評 十月歌舞伎座
中村勘三郎さん七回忌 藤十郎、海老蔵ら1200人…勘九郎「父に会いたい」
(評・舞台)歌舞伎座「芸術祭十月大歌舞伎」 夢の名残告げる、洗練の侠気
私は中村勘三郎さんの舞台に間に合わなかった、遅れてきた歌舞伎ファンだった(立川談志の落語に間に合わなかった、遅れてきた落語ファンであるのと同様に)。実は、新歌舞伎座になって、60才過ぎた勘三郎さんを見るのが楽しみだった。そして「助六」は50代ではまだ早いと思って舞台にかけていなかったそうだ。
七回忌追善にあたって、十七世勘三郎が助六を教わった仁左様が助六をやった。生きていたら十八世に教えてあげるつもりだったのを、長男の勘九郎に伝える。
玉三郎は七之助と児太郎を揚巻役者に育てるのだろう。
長い舞台だったけど、そこかしこに亡き勘三郎さんへの愛が満ちていた。特に、かつて勘三郎さんが得意にしていた粋人をやった彌十郎さんは、花道で、まるで亡き勘三郎さんに語りかけるようにセリフをうたった。泣けた。
酒呑童子と義経千本桜の勘九郎もよかった。七さんはお嬢吉三、宗吾の妻おさん、揚巻と違うタイプの女性を演じた。私的には七さんはコクーン歌舞伎『三人吉三』お嬢吉三『阿弖流爲』廓噺山名屋浦里と鈴鹿と『廓噺山名屋浦里』の浦里と『野田版桜の森の満開の下』夜長姫と『マハーバーラタ戦記』鶴妖朶王女がいいなぁ。どうも時代ものの作品だと七さんの強い女属性とか魔性の女属性が出てこない。
渡辺保の十月歌舞伎評
和角仁の「歌舞伎座」辛口寸評 十月歌舞伎座
中村勘三郎さん七回忌 藤十郎、海老蔵ら1200人…勘九郎「父に会いたい」
(評・舞台)歌舞伎座「芸術祭十月大歌舞伎」 夢の名残告げる、洗練の侠気
私は中村勘三郎さんの舞台に間に合わなかった、遅れてきた歌舞伎ファンだった(立川談志の落語に間に合わなかった、遅れてきた落語ファンであるのと同様に)。実は、新歌舞伎座になって、60才過ぎた勘三郎さんを見るのが楽しみだった。そして「助六」は50代ではまだ早いと思って舞台にかけていなかったそうだ。
七回忌追善にあたって、十七世勘三郎が助六を教わった仁左様が助六をやった。生きていたら十八世に教えてあげるつもりだったのを、長男の勘九郎に伝える。
玉三郎は七之助と児太郎を揚巻役者に育てるのだろう。
長い舞台だったけど、そこかしこに亡き勘三郎さんへの愛が満ちていた。特に、かつて勘三郎さんが得意にしていた粋人をやった彌十郎さんは、花道で、まるで亡き勘三郎さんに語りかけるようにセリフをうたった。泣けた。
酒呑童子と義経千本桜の勘九郎もよかった。七さんはお嬢吉三、宗吾の妻おさん、揚巻と違うタイプの女性を演じた。私的には七さんはコクーン歌舞伎『三人吉三』お嬢吉三『阿弖流爲』廓噺山名屋浦里と鈴鹿と『廓噺山名屋浦里』の浦里と『野田版桜の森の満開の下』夜長姫と『マハーバーラタ戦記』鶴妖朶王女がいいなぁ。どうも時代ものの作品だと七さんの強い女属性とか魔性の女属性が出てこない。
山形
「戊辰」150年の山形/上 悲劇の中老、吉田大八が「奨励」 侍窮乏、天童の駒生む 「コマノミクス」のもとに /山形
福島
武器の差から見る「戊辰戦争」 西軍との圧倒的な戦力差あった
戊辰戦争勃発時の京都御所 絵が伝える緊迫感と高揚感
大阪
【維新150年 大阪の痕跡を歩く】くじ引きで選ばれた切腹「堺事件」
「戊辰」150年の山形/上 悲劇の中老、吉田大八が「奨励」 侍窮乏、天童の駒生む 「コマノミクス」のもとに /山形
「ギネス世界記録達成です!」--。将棋の同時対局数で世界最多を目指し、天童市で14日に開かれたイベント「二千局盤来」で記録達成が告げられると、参加者や関係者から拍手がわき起こった。「戊辰」150年の山形/中 今なお息づく進取の気性 熱意「教育県」の礎に 明治以降、各界に人材輩出 /山形
天童が元気だ。一時、落ち込んでいた将棋駒産業が「ふるさと納税」を生かした振興策で復調し、近年の将棋ブームで追い風も吹く。天童商工会義所などは将棋駒を軸に「コマノミクス」と名付けた地域振興策を展開。縦横6マスの「66将棋」や将棋をモチーフにした新商品などが続々と登場している。この伝統産業は、1868年に始まった戊辰(ぼしん)戦争とも関わりがある。
江戸時代末期、織田信長の次男・信雄を祖先に持つ織田家が天童を治めていた。天童郷土研究会長の湯村章男…
「隆盛の精神を残していただいて感謝している。庄内に来るたびに、固い絆に胸が熱くなる」--。西郷隆盛のひ孫、吉太郎さん(71)は9月30日、鶴岡市文化会館での講演で感謝の言葉を述べた。「戊辰」150年の山形/下 岐路に立つ山形市中心市街地 重層性生かし活性化へ 三島通庸が築いた基本構造 /山形
1868年に始まった戊辰(ぼしん)戦争で新政府軍と戦った庄内藩に対し、降伏後のきわめて寛大な処分は西郷によるものとされる。以来、庄内藩士が西郷を訪ねるなど絆を深め、西郷の考えや思いを「南洲翁遺訓」にまとめて全国に広めた。庄内藩士が培った精神は脈々と受け継がれ、市教育委員会は2012年発行の冊子「親子で楽しむ庄内論語」を、市内の小学校で入学時に配布している。
中山町立長崎小学校には10月5日、隆盛の弟・従道の玄孫・真悠子さん(23)の姿があった。同町は西郷…
山形市霞城町で9月22日、山形城跡「霞城公園」内の国重要文化財「旧済生館本館」の建物見学会が開かれた。1878年に薩摩藩出身の初代県令、三島通庸が山形の近代化を図ろうと、病院として整備した擬洋風建築だ。見学会の講師を務めた歴史研究家、小形利彦さん(71)が「三島県令はこの建物を造るとき、(県内の)各郡で一番良い木を出させた。組み合わせてフロアにしたんですね」と解説すると、参加者から「ほぉー」と感嘆の声が上がった。以下は毎日新聞の有料版にて。
幕末に小規模藩だった山形藩。戊辰(ぼしん)戦争当初は新政府軍に従っていたが、後に東北諸藩とともに新…
福島
武器の差から見る「戊辰戦争」 西軍との圧倒的な戦力差あった
二本松市戊辰150年事業の二本松戊辰戦争歴史シンポジウムは13日、同市で開かれた。「数学者が見た二本松戦争」の著者渡部由輝さんが基調講演し、兵器の性能を示す数字などを基に二本松における戊辰戦争の模様を解き明かした。京都
渡部さんは「二本松戦争では、2時間ほどの戦いで二本松藩は500人の出兵のうち330人以上が戦死した。比べて西軍の戦死者は3000人のうち10人ほどだ」と悲惨な状況を示し、二本松軍と西軍との圧倒的な戦力差はいかんともしがたかったとした。
武器性能の差を示す事例として渡部さんは、西軍の銃が飛距離で約2倍、1分間の発砲回数でも5倍以上上回っていたと指摘。大砲の砲弾も砲丸のような弾が飛ぶだけの二本松軍に比べ、西軍は着弾後数片に砕け、小銃弾が飛び出すなど殺傷能力が桁違いだったとも語った。
二本松少年隊について、渡部さんは「主に砲兵隊に配属され、熱を持った砲筒を冷やすため水を掛けるなど補助的な役割を担っていた」と話し、当時使用の有煙火薬により大砲から上がった煙を西軍から狙い撃ちされ、死傷者が出たとした。
引き続き、「白河・棚倉・三春における戊辰戦争―白河から二本松、それぞれの信義」と題したシンポジウムが行われ、白河市、三春町、二本松市の歴史、文化関係の業務に就く職員、調査審議機関関係者が白河、棚倉、三春、二本松各藩と戊辰戦争との関わりを史実に沿って述べ、討論した。
戊辰戦争勃発時の京都御所 絵が伝える緊迫感と高揚感
戊辰(ぼしん)戦争の発端となった鳥羽・伏見の戦いが勃発した慶応4(1868)年正月3日夜の京都御所の様子を描いた絵がみつかり、京都文化博物館(京都市中京区)で展示されている。歴史が転回する緊迫の場面を精細に活写し、専門家によれば、美術的にも資料的にも貴重な作品という。
作品は、四国・宇和島藩出身で、明治時代に長崎で活動した画家の小波魚青(こなみぎょせい)が描いた「戊辰之役之図(ぼしんのえきのず)」。近代画家の発掘で知られる星野画廊(京都市東山区)の星野桂三社長が入手し、京都大学人文科学研究所の高木博志教授(日本近代史)らと調査し、昨秋に画廊で初公開した。
縦81・4センチ、横143・2センチの大作。京都御所に公家が参内する公家門=宜秋(ぎしゅう)門=の門前を舞台に、洋式の武装をした宇和島藩の兵士や、頭に白いかぶり物、手に棍棒(こんぼう)を握り、腰に刀を差した本願寺の僧の集団、新政府軍の優勢を伝え聞いてあわてて参内する公家の様子などが描かれる。
門前には大砲3門が並び、仮小屋の屯所が造営されている。南の方角では、下鳥羽(しもとば)付近の戦闘の炎のためか、空が赤く染まっていく様子や、戦況を知らせる早馬の駆けていく様子も描かれ、見ている者に戦争勃発直後の緊迫感と高揚感が伝わってくる。
作者の小波魚青は、宇和島藩の砲術指南役の家に生まれた。幕末に京都で四条派の長谷川玉峰(ぎょくほう)に師事して絵を学んでいた際、鳥羽・伏見の戦いが勃発し、現場に居合わせたとみられる。
星野さんは「戊辰戦争の動向を記録した文書は多いが、そのときの情景を描いた絵画はほとんどない。装束や馬のあぶみまで細かく描き分けられ、四条派に学んだ画家らしく、考証を重ね写実を追究している」と指摘する。
高木さんによれば、この絵は、明治23(1890)年に東京であった第3回内国勧業博覧会に出品され褒状(ほうじょう)を授与された。前年の明治憲法発布に伴って大赦があり、戊辰戦争で「賊軍」とされた幕府や会津藩、仙台藩などの罪が許された時点で発表されたことになる。「戊辰戦争から20年以上たって、ようやく維新や近い過去の歴史を自由に語ることができるようになったのではないか」
宇和島藩は幕末、倒幕を推し進める薩摩藩と長州藩に「公議」を無視すると反発しつつ、官軍側として戊辰戦争に参加。だが、維新後は藩閥政府に置き去りにされた。
高木さんは「維新に乗り遅れながらも、宇和島藩も一貫して勤王の立場で、重要な役割を果たしたと主張する意図も読み取れる。日本に歴史画というジャンルが成立していくなかで、歴史が転回する場面を迫真の描写で描いた優れた歴史画の大作だ」と話す。
作品は、11月25日まで京都文化博物館(075・222・0888)で開催中の特別展「華ひらく皇室文化―明治宮廷を彩る技と美」で展示される。(久保智祥)
大阪
【維新150年 大阪の痕跡を歩く】くじ引きで選ばれた切腹「堺事件」
南海堺駅を下り、土居川沿いを堺旧港に向かって歩く。工場だった跡地にはホテルやマンションが建ち、水門の向こうに大浜公園と旧堺燈台(とうだい)が見える。堺魚市場近くの水辺の一角に、「堺事件」の顕彰碑(堺市堺区栄橋町)が建ち、碑文に「明治初年仏人撃攘(げきじょう)処」とある。
阪堺妙国寺前駅から東に徒歩5分ほどの「妙国寺」(堺市堺区材木町東)。織田信長ゆかりの“夜泣きの蘇鉄(そてつ)”で知られる名刹(めいさつ)に2基の供養塔がある。土佐藩士11人と、藩士に殺害されたフランス兵11人。時代が大きく動いた混乱のなかの悲劇を今に伝えている。
慶応4(1868)年1月、鳥羽伏見の戦いで敗れた旧幕府軍が瓦解(がかい)し、江戸に潰走(かいそう)した。炎上した大坂城から白煙が漂っていた頃、新政府は“無政府状態”になった大坂に薩長芸3藩の藩兵を置く一方、堺には土佐藩の2個小隊73人が派遣され、治安維持を担った。
事件は2月15日夕、勃発した。堺港に停泊していた仏軍艦から士官と水兵約30人が無許可で上陸。騒ぎながら市中を歩き回ったため、通報を受けた藩兵が急行した。無断上陸をとがめ、船に帰るよう命じたが、言葉が通じない。そのうち水兵1人が隊旗を奪って逃げたため藩兵が発砲。銃で反撃しながらボートで逃げる仏兵に一斉射撃したのだった。
この衝突で仏兵11人が死亡したことを受け、仏公使ロッシュは在坂の各国公使とともに賠償金のほか、土佐藩士全員の処罰を要求。新政府は20人を切腹させることで決着を図ろうとしたが、これが第二の悲劇の始まりだった。
土佐藩士は大坂・西長堀の藩邸で取り調べを受け、29人が発砲を認めた。切腹するのは20人で、くじ引きで決めることに。小隊長ら幹部4人が辞退したため、25人の中から16人が「切腹」のくじを引いた。
2月23日午後4時、切腹は堺・妙国寺で行われた。境内(けいだい)に敷かれた2枚の畳に白布、赤毛氈(もうせん)がのべられ、三方(さんぽう)の上には短刀が置かれた。仏軍艦艦長らが立ち会う中で次々に切腹していく藩士たち。粛々と続き、やがて12番目の藩士が座についたとき、突然、艦長が中止を申し入れた。
その理由をめぐり、さまざまな臆測を呼んだ。「ハラキリ」という凄惨(せいさん)な光景に仏側が堪えられなかったこと、暗くなり、不測の事態(帰途の報復)をおそれたこと、死者と処刑者が同数になったこと-。仏側の記録では「処刑によって犯罪者が英雄視されるのを許さなかった」ともある。
では、薩長土の新政府はなぜ屈したのか。
新政府は鳥羽伏見の戦いの直後、「外国事務局」を京に置いた。もはや“攘夷”ではなかったのだ。が、「開国」という旧幕府の外交政策を引き継ぐための体制がまだ十分にできていなかった。
それに、当時は旧幕府側との最終決戦が迫っていた時期。外国、特に旧幕府とも近しいフランスと事を構えれば、新政府が崩壊する危険すらある。
一方、世情はいまだ「攘夷論」が過熱していた。薩長土は攘夷を盾に幕府を倒したが、それは倒幕の口実にすぎなかった。新政府の旧幕府以上の「腰抜け」ぶりがバレれば、新たな反政府運動につながる恐れもあった。
新政府はただ狼狽(ろうばい)するしかなかったのである。
× × ×
大阪メトロ西長堀駅を出たところにある鰹座橋(かつおざばし)交差点。その南西側、現在の大阪市立中央図書館を含む広大な敷地に、土佐藩の藩邸と蔵屋敷があった。江戸時代から桜の名所として知られ、満開の頃には市民にも開放されたという。
藩邸内の土佐稲荷神社(大阪市西区北堀江)だけが今も鎮座する。20人の運命を分けたくじ引きはこの境内で行われたとされる。
では、薩長土の新政府はなぜ屈したのか。
新政府は鳥羽伏見の戦いの直後、「外国事務局」を京に置いた。もはや“攘夷”ではなかったのだ。が、「開国」という旧幕府の外交政策を引き継ぐための体制がまだ十分にできていなかった。
それに、当時は旧幕府側との最終決戦が迫っていた時期。外国、特に旧幕府とも近しいフランスと事を構えれば、新政府が崩壊する危険すらある。
一方、世情はいまだ「攘夷論」が過熱していた。薩長土は攘夷を盾に幕府を倒したが、それは倒幕の口実にすぎなかった。新政府の旧幕府以上の「腰抜け」ぶりがバレれば、新たな反政府運動につながる恐れもあった。
新政府はただ狼狽(ろうばい)するしかなかったのである。
× × ×
大阪メトロ西長堀駅を出たところにある鰹座橋(かつおざばし)交差点。その南西側、現在の大阪市立中央図書館を含む広大な敷地に、土佐藩の藩邸と蔵屋敷があった。江戸時代から桜の名所として知られ、満開の頃には市民にも開放されたという。
藩邸内の土佐稲荷神社(大阪市西区北堀江)だけが今も鎮座する。20人の運命を分けたくじ引きはこの境内で行われたとされる。
本殿の唐破風(からはふ)をはじめ、賽銭(さいせん)箱や灯籠など、至るところに三菱のシンボル「スリーダイヤ」の紋がある。明治初め、同藩の岩崎弥太郎が藩の借金とともに藩屋敷を払い下げられたのを機に起業したというグループ発祥の地でもある。(今村義明)
◇
■慶応4年の攘夷事件 慶応4(1868)年1月11日、神戸で備前藩兵の隊列を横切ったフランス兵を槍で制止したことから仏、英、米の警備兵との銃撃戦に発展。2人が軽傷を負い、備前藩の責任者1人が切腹した。2月末、英公使パークスが明治天皇に謁見するため宿舎から御所に向かう途中、攘夷派浪士2人に襲われ、英兵9人が負傷。浪士1人が討たれ、1人は捕縛後処刑された。
毎月恒例の観劇は昼の部夜の部とも来週チケット押さえているのだけど、友人が「チケット持ってる叔母さんが行けなくなって」と誘ってくれた2階席。株主招待券でチケット取れるけど今月は夜の部が取れない、そりゃそうです仁左さまの助六ですから。
でも昼の部もなかなかです。
本格的な感想はまた来週。
三人吉三で七さんがお嬢吉三なのは眼福だったし。
酒呑童子の勘九郎さんは前半本当に童子に見えたし。
佐倉宗吾は、子別れの場面がちょっと長いかな……勘三郎さんだったらどんなだったろう……。
でも昼の部もなかなかです。
本格的な感想はまた来週。
三人吉三で七さんがお嬢吉三なのは眼福だったし。
酒呑童子の勘九郎さんは前半本当に童子に見えたし。
佐倉宗吾は、子別れの場面がちょっと長いかな……勘三郎さんだったらどんなだったろう……。
いまだに『新選組!』の劇伴がドキュメンタリー(どちらかというと旅行とかグルメ番組が多いかも)で流れたりすると、心が2014年に引き戻されます。
福島
容保公の「宿札」初公開 若松 戊辰七回忌出席裏付け
戊辰の経緯を考察 猪苗代で歴史講演会
斎藤一ファンら焼香 阿弥陀寺会津新選組まつり
新選組赤べこ」参上!背中に『誠』の文字 会津若松で販売
新潟
戊辰戦争150年 犠牲の藩士ら思う新発田 追善供養と講演会
「高田の人々の恩情に感謝」 戊辰戦争150年で会津藩士の子孫らが金谷山に墓参
京都
戊辰戦争勃発時の京都御所 絵が伝える緊迫感と高揚感
福島
容保公の「宿札」初公開 若松 戊辰七回忌出席裏付け
幕末の会津藩主松平容保公が一八七四(明治七)年に現在の会津美里町の関山宿に宿泊した際の「宿札」が十日、会津若松市歴史資料センター「まなべこ」で初公開された。容保公が戊辰戦争七回忌法要のため会津若松に赴き、その帰路に関山宿の有力者宅に泊まった際に掲げられたとみられる。
市文化課によると文献で記録された容保公の七回忌法要出席が物品で裏付けられたのは初めてで「戊辰殉難者の追悼に関わる貴重な資料」としている。
宿札は縦六十一センチ、幅一九・六センチ、厚さ一センチの木板。「芳山(容保公が藩主を辞してからの名)様 御寓」と記されている。
記録では容保公は四月末に東京を出発し白河などで戦死者の墓参りをしながら五月初旬に会津若松に到着した。阿弥陀寺で営まれた七回忌法要などに出席し、帰路の六月初旬に関山宿に宿泊した。
宿札は常設展展示替えに際し、所有者から借りて紹介している。常設展は戊辰戦争後に焦点を当てており、明治時代に活躍した会津の人物などを紹介している。来年一月二十日まで。観覧は午前九時から午後五時。無料。月曜日と年末年始は休館。問い合わせはまなべこ 電話0242(27)2705へ。
戊辰の経緯を考察 猪苗代で歴史講演会
福島民報社は七日、戊辰戦争から百五十年にちなむ歴史講演会を猪苗代町の野口英世至誠館で開いた。県内各地で開いている歴史出前講座の一環。猪苗代地方史研究会長の江花俊和氏、県立博物館学芸員の栗原祐斗氏が講師を務め、県内外から約八十人が訪れた。
江花氏は会津戦争の緒戦として町内が舞台となった母成峠の戦いを解説した。新政府軍は早期決戦に向け、天然の要害である母成峠の守備が手薄と考えて進撃したと説明した。
栗原氏は県立博物館で開催中の企画展の新資料に基づき戊辰戦争を振り返った。会津藩祖・保科正之公(土津様)に報告した文書である「土津神社告文(つげぶみ)」では、鳥羽・伏見の戦いは薩摩藩の発砲から戦端が開かれたとしており、会津藩から見た開戦の経緯などを紹介した。
福島民報社は明治時代の紙面や戊辰戦争に関する資料を展示した。
■福島民報社歴史講演会 21日は郡山で
幕末の郡山市について学ぶ福島民報社の歴史講演会は二十一日午後一時から郡山市の郡山女子大芸術館で開かれる。
郷土史家の遠藤教之氏が「戊辰戦争百五十年 水戸藩御連枝・守山藩を尋ねて-勤皇家・遠藤無位を視座として」、郡山女子大短期大学部地域創成学科講師の佐藤愛未氏が「戊辰戦争と郡山」と題して語る。
既に聴講を先着順で受け付けている。定員百五十人。聴講は無料。郵便番号、住所、氏名、電話番号(複数での申し込みは代表者の連絡先と全員の住所、氏名)を記し、はがき、ファクス、メールのいずれかで申し込む。はがきは郵便番号960-8602 福島市太田町一三ノ一七 福島民報社地域交流局 出前講座「郡山会場」係へ。ファクスは024(531)4117。メールはchiiki@fukushima-minpo.co.jp
問い合わせは電話024(531)4145。平日の午前十時から午後五時まで受け付ける(電話での聴講申し込みは不可)。
斎藤一ファンら焼香 阿弥陀寺会津新選組まつり
第十五回会津新選組まつりは二十四日、会津若松市の阿弥陀寺で繰り広げられた。新選組幹部で戊辰戦争で戦った斎藤一の法要が墓前で営まれた。
斎藤一や新選組のファンら約二百人が参列した。地元の七日町通りまちなみ協議会の渋川恵男会長があいさつし、会津新選組まつり実行委員会の佐藤功武委員長が「不屈の会津魂を後世に引き継ぐために力を尽くしたい」と祭文を読み上げた。
斎藤一のひ孫に当たる藤田太郎さん(さいたま市)が「墓前祭が長く続いてほしいと願っている」と述べた。
無外流居合道連盟宝祥会の会員が居合を奉納した後、参列者が次々と焼香した。
新選組赤べこ」参上!背中に『誠』の文字 会津若松で販売
背中に「誠」の文字が大きく書かれた羽織を着た「新選組赤べこ」が会津若松市七日町の七日町観光案内所で販売され、ファンの人気を集めている。
新選組は会津藩主・松平容保(かたもり)が京都の治安を守る京都守護職を務めた際、会津藩預かりとなり、戊辰戦争でも会津藩などと共に戦った。
新選組赤べこは1体2200円(税込み)で、ゲームのキャラクターにちなんだバージョンもある。阿弥陀寺で新選組の一員、斎藤一をしのぶ墓前祭が行われた際も、大勢が購入したという。
通常バージョンはインターネット販売も行っている。問い合わせは同案内所へ。
新潟
戊辰戦争150年 犠牲の藩士ら思う新発田 追善供養と講演会
戊辰戦争から150年。新発田市では7日、犠牲となった藩士らの追善供養と講演が行われた。村上市でも城下を戦禍から守った家老の法要が営まれ、三条市では戦争中に自殺した勤王画家の作品展が開かれている。各地で市民らが、歴史に翻弄(ほんろう)された先人に思いをはせた。
追善供養が行われた宝光寺(新発田市諏訪町2)は、新発田藩主・溝口家の菩提寺。境内には、1894(明治27)年、藩時代の重臣ら有志が犠牲者を供養しようと建てた「戊辰殉難追悼之碑」がある。碑には藩士ら84人の名が刻まれている。
7日は本堂で寺崎敬道住職らが読経し、参加した約70人が、戦争で亡くなった人たちに手を合わせた。その後、新発田古文書解読研修会の鈴木博さん(77)が講演した。
鈴木さんは、新発田で最も激戦となった同市赤谷付近の「角石原の戦い」について「雨で視界が悪く、どちらの軍かも見分けが付かないような悲惨な戦いだった」と説明。犠牲者の名前や亡くなった場所の一覧を資料で示しながら、「今の新発田市周辺だけでなく、長岡城をめぐる攻防や庄内方面の戦いなど、さまざまな場所で犠牲になった」と語った。
市内から訪れた70代の主婦は「地元のことでも知らないことが多い。あらためて勉強したい」と話した。
「高田の人々の恩情に感謝」 戊辰戦争150年で会津藩士の子孫らが金谷山に墓参
戊辰戦争150年に合わせて、新潟県上越市の金谷山にある会津墓地に2018年10月11日、福島県会津若松市から会津藩士の子孫らが訪れた。雨の中、戊辰戦争に敗れ高田藩に預けられたまま死亡した会津藩士68人の墓に手を合わせた=写真=。
会津墓参団
1869年(明治2年)、戊辰戦争に敗れた旧幕府軍の会津藩士1742人が新政府軍の榊原家高田藩に預かりの身となった。当時、高田藩は財政がひっ迫していたが、藩士が謹慎した寺々に炊事場や浴場などを設け、生活用品一式を用意し、医師も付けるなどして厚遇した。しかし、藩士らは戦場での傷病や厳冬の長旅で体を壊し、約1年の謹慎中に68人が死亡。高田の人々は死亡した藩士を手厚く葬り、現在は地元住民や「旧高田藩和親会」が墓地を管理し守り続けている。
上越市の金谷山にある会津墓地
会津墓地
会津墓地を墓参したのは、会津若松市の歴史研究会「会津史談会」(成田勝義会長)の会員ら26人で、墓に眠る会津藩士の子孫も参加した。節目の年にあたり、長岡市や小千谷市など、戊辰戦争における会津藩ゆかりの本県の地を巡る現地研修会として訪れた。同会の墓参は2年ぶり。
会員らは墓に花と線香を手向けた後、読経の中、順に焼香し手を合わせた。井上昌成副会長(83)は「高田の人々の恩情に感謝する」などと追悼文を読み上げ、「150回忌に墓参でき感無量。会津の先人の苦労を偲んでお参りをさせてもらった。上越の皆さんとは今後も仲良くしていきたい」と語った。
一行は12日は、会津藩士が謹慎していた寺町の寺院や戊辰戦争の特別展が開催されている市立歴史博物館を訪問し、帰路につく予定。
京都
戊辰戦争勃発時の京都御所 絵が伝える緊迫感と高揚感
戊辰(ぼしん)戦争の発端となった鳥羽・伏見の戦いが勃発した慶応4(1868)年正月3日夜の京都御所の様子を描いた絵がみつかり、京都文化博物館(京都市中京区)で展示されている。歴史が転回する緊迫の場面を精細に活写し、専門家によれば、美術的にも資料的にも貴重な作品という。
作品は、四国・宇和島藩出身で、明治時代に長崎で活動した画家の小波魚青(こなみぎょせい)が描いた「戊辰之役之図(ぼしんのえきのず)」。近代画家の発掘で知られる星野画廊(京都市東山区)の星野桂三社長が入手し、京都大学人文科学研究所の高木博志教授(日本近代史)らと調査し、昨秋に画廊で初公開した。
縦81・4センチ、横143・2センチの大作。京都御所に公家が参内する公家門=宜秋(ぎしゅう)門=の門前を舞台に、洋式の武装をした宇和島藩の兵士や、頭に白いかぶり物、手に棍棒(こんぼう)を握り、腰に刀を差した本願寺の僧の集団、新政府軍の優勢を伝え聞いてあわてて参内する公家の様子などが描かれる。
門前には大砲3門が並び、仮小屋の屯所が造営されている。南の方角では、下鳥羽(しもとば)付近の戦闘の炎のためか、空が赤く染まっていく様子や、戦況を知らせる早馬の駆けていく様子も描かれ、見ている者に戦争勃発直後の緊迫感と高揚感が伝わってくる。
作者の小波魚青は、宇和島藩の砲術指南役の家に生まれた。幕末に京都で四条派の長谷川玉峰(ぎょくほう)に師事して絵を学んでいた際、鳥羽・伏見の戦いが勃発し、現場に居合わせたとみられる。
星野さんは「戊辰戦争の動向を記録した文書は多いが、そのときの情景を描いた絵画はほとんどない。装束や馬のあぶみまで細かく描き分けられ、四条派に学んだ画家らしく、考証を重ね写実を追究している」と指摘する。
高木さんによれば、この絵は、明治23(1890)年に東京であった第3回内国勧業博覧会に出品され褒状(ほうじょう)を授与された。前年の明治憲法発布に伴って大赦があり、戊辰戦争で「賊軍」とされた幕府や会津藩、仙台藩などの罪が許された時点で発表されたことになる。「戊辰戦争から20年以上たって、ようやく維新や近い過去の歴史を自由に語ることができるようになったのではないか」
宇和島藩は幕末、倒幕を推し進める薩摩藩と長州藩に「公議」を無視すると反発しつつ、官軍側として戊辰戦争に参加。だが、維新後は藩閥政府に置き去りにされた。
高木さんは「維新に乗り遅れながらも、宇和島藩も一貫して勤王の立場で、重要な役割を果たしたと主張する意図も読み取れる。日本に歴史画というジャンルが成立していくなかで、歴史が転回する場面を迫真の描写で描いた優れた歴史画の大作だ」と話す。
作品は、11月25日まで京都文化博物館(075・222・0888)で開催中の特別展「華ひらく皇室文化―明治宮廷を彩る技と美」で展示される。(久保智祥)
やっと最高気温30度近い日が終わったようです。台風直後で暑さがぶり返したせいで、今年は秋が短く感じられますね。
秋田
<秋田戊辰戦争150年>仙台藩士の無念思う「賊軍」6人の墓を守る寺、宮城の子孫ら感謝し墓参
会津若松戊辰戦争150年式典 先人の苦難に思いはせ
新潟
戊辰戦争...会津藩に『愚直さ』あった 会津、越後、長州が語る
明治150年水戸藩最後の内部抗争「松山戦争」の慰霊法要 子孫ら参列
龍馬の花押、初お目見え=唯一の直筆原本、特別展で-福井
西郷隆盛らの肉筆85点 大阪城天守閣で特別展開幕
秋田
<秋田戊辰戦争150年>仙台藩士の無念思う「賊軍」6人の墓を守る寺、宮城の子孫ら感謝し墓参
秋田戊辰戦争で戦死した仙台藩士6人が大仙市板見内(いたみない)の霊仙寺に眠っている。寺は賊軍とみなされた6人を手厚く葬り、墓を1世紀半守ってきた。宮城県に住む子孫らは、寺に感謝しながら墓参を続ける。福島
高さ約1メートルの墓は参道の傍らにある。刻字は薄れているが「仙臺藩」とあり、佐藤円太夫、佐々木文左衛門、高橋建治、菅野千代治、阿部勝之進、三浦養作と6人の名が彫られている。
6人は佐沼(登米市)を治めた伊達氏一族の佐沼亘理家の家臣だった。秋田戊辰戦争の当時は20~40代で、奥羽越列藩同盟を離脱した秋田藩(久保田藩)内に攻め込んだ。
1868年旧暦8月23日、寺から北東約5キロの大仙市太田町国見の街道沿いで「国見の戦い」が起こった。六郷(秋田県美郷町)から北上した同盟軍と、角館(仙北市)から南下した新政府軍が激突。戦いで佐藤ら6人は亡くなり、同盟軍も退却を余儀なくされた。
同盟軍は新政府軍から賊軍の汚名を着せられていたが、当時の住職は6人に戒名を授けた。寺の過去帳は「子孫が仏事で訪れた際は、丁寧に取り扱うこと」と後代へ書き残している。
中村秀男住職(79)は「異郷の地で亡くなった6人は、さぞ無念だっただろう」と同情する。盆や彼岸には墓の周りを清め、供え物をして読経を欠かさない。
登米市の千葉賢一さん(59)は、21歳で戦死した阿部勝之進の妹の子孫に当たる。2013年から毎年墓参りし、今年も8月上旬に親類と寺を訪ねた。「寺には150年間も弔ってもらっている。申し訳なく、本当にありがたい」と話す。
[秋田戊辰戦争]奥羽越列藩同盟からの秋田藩離脱を契機に仙台、庄内、盛岡藩などの同盟軍と新政府軍との間で行われた戦争。秋田藩領などが戦場となった。仙台隊は湯沢、横手、大曲と進軍し、久保田、角館に迫ったが東北南部の戦況悪化により撤退した。
会津若松戊辰戦争150年式典 先人の苦難に思いはせ
幕末の戊辰(ぼしん)戦争で会津藩が鶴ケ城を降伏開城して150年になる22日、福島県会津若松市城東町の会津風雅堂で記念式典が開かれた。会津にゆかりのある全国の自治体や団体などの関係者ら約500人が参加。会津がたどった歴史の意義を再認識し、戊辰戦争後の苦難の時代を生き抜いた先人たちの歩みをたたえた。戊辰の経緯を考察 猪苗代で歴史講演会
式典が始まった午後1時半、参加者らは1分間の黙とうをした。同時に市役所本庁舎でサイレンが鳴らされ、会場に来られない市民らも先人らに敬意と感謝を表した。
室井照平市長は「先人から受け継いだ歴史や伝統を守り、次の世代に語り継ぐのが我々の責任だ」とあいさつ。ゆかりの地を代表して、青森県むつ市の川西伸二副市長が「歴史に裏付けられた両市の思いを後世に伝えることが、先人への報いになる」と、宮下宗一郎市長からの祝辞を代読した。
先人の顕彰に尽力してきた団体などを表彰。市立一箕中3年の田中麻登さんが平和への願いなどを盛り込んだ記念宣言を発表した。その後、会津松平家14代当主の松平保久さんが戊辰戦争後の会津人の歩みについて基調講演。トークショーには女優の綾瀬はるかさんらが出演し、会場は盛り上がった。
戊辰戦争で会津藩は新政府軍の侵攻を受け、鶴ケ城では約1カ月の籠城(ろうじょう)戦に耐えたものの1868年9月22日に降伏。約3000人が戦死したとされる。会津藩は「朝敵」の汚名を着せられ、戦後も斗南藩(むつ市)への移封を命じられるなど、先人たちは多くの困難を経てきた。【湯浅聖一】
福島民報社は七日、戊辰戦争から百五十年にちなむ歴史講演会を猪苗代町の野口英世至誠館で開いた。県内各地で開いている歴史出前講座の一環。猪苗代地方史研究会長の江花俊和氏、県立博物館学芸員の栗原祐斗氏が講師を務め、県内外から約八十人が訪れた。絵画など関連資料展示 二本松で戊辰150年企画展
江花氏は会津戦争の緒戦として町内が舞台となった母成峠の戦いを解説した。新政府軍は早期決戦に向け、天然の要害である母成峠の守備が手薄と考えて進撃したと説明した。
栗原氏は県立博物館で開催中の企画展の新資料に基づき戊辰戦争を振り返った。会津藩祖・保科正之公(土津様)に報告した文書である「土津神社告文(つげぶみ)」では、鳥羽・伏見の戦いは薩摩藩の発砲から戦端が開かれたとしており、会津藩から見た開戦の経緯などを紹介した。
福島民報社は明治時代の紙面や戊辰戦争に関する資料を展示した。
■福島民報社歴史講演会 21日は郡山で
幕末の郡山市について学ぶ福島民報社の歴史講演会は二十一日午後一時から郡山市の郡山女子大芸術館で開かれる。
郷土史家の遠藤教之氏が「戊辰戦争百五十年 水戸藩御連枝・守山藩を尋ねて-勤皇家・遠藤無位を視座として」、郡山女子大短期大学部地域創成学科講師の佐藤愛未氏が「戊辰戦争と郡山」と題して語る。
既に聴講を先着順で受け付けている。定員百五十人。聴講は無料。郵便番号、住所、氏名、電話番号(複数での申し込みは代表者の連絡先と全員の住所、氏名)を記し、はがき、ファクス、メールのいずれかで申し込む。はがきは郵便番号960-8602 福島市太田町一三ノ一七 福島民報社地域交流局 出前講座「郡山会場」係へ。ファクスは024(531)4117。メールはchiiki@fukushima-minpo.co.jp
問い合わせは電話024(531)4145。平日の午前十時から午後五時まで受け付ける(電話での聴講申し込みは不可)。
戊辰百五十年特別企画展「二本松藩と戊辰戦争」は六日、二本松市歴史資料館で始まった。十一月二十五日まで。戦死した藩士らの功績伝える 戊辰戦争・熊倉の戦い、喜多方に看板
二本松少年隊の隊士だった武谷剛介の脇差しや大壇口古戦場の戦場写真、肖像写真、絵画・書など、関連資料八十六点が並ぶ。
初日は開場式が行われ、三保恵一市長があいさつ。本多勝実市議会議長らが祝辞を述べた。関係者がテープカットした。
時間は午前九時から午後五時まで。入館は午後四時半まで。月曜休館。月曜が祝日の場合は翌日が休館になる。観覧料は一般が二百円、小中高生は百円。問い合わせは同資料館 電話0243(23)3910へ。
戊辰150年に合わせ、戊辰戦争・熊倉の戦いを伝えようと、熊倉史談会(山本佑一郎会長)は喜多方市熊倉町の杉ノ下墓地に、同戦いで戦死した佐藤銀十郎や会津藩士中根米七の功績を伝える看板を設置した。
佐藤は上州権田村(現群馬県高崎市)出身で幕府の勘定奉行などを務めた小栗上野介に仕えた。小栗が斬首され、小栗の妻を会津まで護衛した後、会津藩に加わり、戦いに参加した。
設置は11日に営まれた「熊倉の戦い 顕彰祭」に合わせて行った。顕彰祭には小栗の顕彰会の関係者や中根の親族らが参列。小栗上野介顕彰会の市川平治会長は「顕彰祭を契機に歴史を見直す機会になればうれしい」、中根の親族に当たる中根徹さんは「毎年行っている墓参を続けたい」と語った。
◆佐藤銀十郎の活躍「熊倉の戦い」出版
熊倉史談会の山本佑一郎会長は書籍「戊辰戦争・熊倉の戦い」を出版した。
佐藤銀十郎の活躍や熊倉の戦いの経過を詳細に記しており「地元の人に地元の歴史を知ってほしい」と話した。
問い合わせは山本会長(電話・ファクス0241・25・7651)へ。
新潟
戊辰戦争...会津藩に『愚直さ』あった 会津、越後、長州が語る
戊辰戦争に関わりが深い会津、越後、長州の3地域によるフォーラムが6日、新潟市で開かれた。パネリスト3人がそれぞれの立場から歴史認識について意見を交わした。千葉
會津藩校日新館(会津若松市)の宗像精館長、東軍として戦った長岡藩士河井継之助を顕彰する河井継之助記念館(新潟県長岡市)の稲川明雄館長、西軍の主力となった長州藩があった山口県萩市の萩博物館、道迫(どうさこ)真吾主任学芸員がパネリストを務めた。
戊辰戦争に突入した理由について宗像氏は、会津藩には将軍家への忠義を尽くそうとする「愚直さ」があったとし、稲川氏はやむなく戦わざるを得なかった会津藩に対して同情する武士的な「教養」が長岡藩にあったと解説した。道迫氏は会津藩などに「武士の生きざまを貫き通す意味で敬意を表さざるを得ない」とした上で、当時の国際情勢を意識した長州藩は「変化に柔軟だった」と指摘した。
また会津若松、萩両市の共通性として、先人の思いや伝統的な規範意識を子どもたちの教育に生かしていることが示された。
道迫氏は「地元では歴史への関心が薄れている。しっかりと歴史に向き合うよう市民に伝えたい」、宗像氏は会津と長州の関係について「歴史は消すことはできない。仲良くはできても、仲直りはできない」としつつも「互いの立場を推し量ることが大切だ」と話した。
明治150年水戸藩最後の内部抗争「松山戦争」の慰霊法要 子孫ら参列
明治元年に千葉県匝瑳(そうさ)市内で起きた水戸藩最後の内部抗争「松山戦争」で戦死した26人の藩士を慰霊する法要が27日、同市中台の「脱走塚(水戸藩士の墓)」で行われた。150年目の節目となった法要には、水戸市から藩士の子孫らが訪れ、供養碑の前で手を合わせた。福井
幕末、水戸藩は尊王攘夷派の天狗(てんぐ)党と、佐幕派の諸生党に二分され藩内抗争を繰り返した。幕府崩壊後、朝敵とされた諸生党の藩士らは水戸を脱出。北越、会津と転戦したが敗走し、最後に戦った場所が下総の松山村(現在の匝瑳市)だった。
匝瑳市教育委員会などによると、明治元年10月に起きたこの戦いで死亡した藩士らは地元の村民らに埋葬され、翌2年5月に供養塔が建てられた。当時、諸生党の藩士は水戸藩の脱走兵とみなされていたことから、この場所は脱走塚と呼ばれるようになった。脱走塚は昭和35年に匝瑳市の史跡に指定され、水戸市の子孫らとの交流も生まれた。
今回の慰霊法要は、諸生党藩士の子孫や関係者らでつくる「水戸藩士殉難150年記念事業実行委員会」などが主催。水戸市からは高橋靖市長や藩士の子孫らでつくる水戸殉難者恩光碑保存会の関係者など約50人が訪れた。長年、脱走塚を世話してきた匝瑳市中台区の住民らも参列し、計約130人が焼香をして冥福を祈った。
実行委員長の岡見円礼(みつひろ)さん(71)=水戸市見川=は「急にやってきた水戸藩同士が勝手に戦争をして多大な迷惑をかけたにもかかわらず、亡くなった兵士を手厚く供養してくださり、藩士の子孫として地元の皆さんのご厚意に心から感謝している」と追悼の辞を述べた。
龍馬の花押、初お目見え=唯一の直筆原本、特別展で-福井
福井県立歴史博物館(福井市)で22日から始まった特別展で、幕末の志士、坂本龍馬の花押(サイン)が記された書簡が国内で初公開された。龍馬直筆の花押を原本で確認できるのは、この書簡だけという。大阪
龍馬への手紙原本公開=京都の古美術商で発見-高知
同博物館によると、花押は「龍」の左側と「馬」が左右に組み合わされている。書簡は福井藩士村田氏寿宛てに、元治元(1864)年10月6日付で書かれ、上洛していた薩摩藩士岩下方平に同行し、自身が近日中に関東へ向かうことを伝える内容。県外の個人所蔵品を県が借用した。
同年に書かれた龍馬の書簡は、これを含め2点のみが確認されている。2010年にこの花押を歴史雑誌で初めて紹介した歴史作家の桐野作人さん(64)は「元治元年の龍馬の動きが少し分かってきたのは意義がある」と指摘。岩下が薩摩藩重役だったことから、「政治的、経済的に薩摩藩と密着するターニングポイントになったことが分かる」と語った。
特別展「幕末維新の激動と福井」では、薩摩藩士西郷隆盛が村田に宛てた書簡が初公開されるほか、15歳の時に自身の志を記し、各地の中学校で行われる立志式の由来にもなった福井藩士橋本左内の「啓発録」の原本も展示される。11月4日まで。(2018/09/22-10:10)
西郷隆盛らの肉筆85点 大阪城天守閣で特別展開幕
NHK大河ドラマ「西郷どん」の主人公、西郷隆盛や勝海舟の詩文をはじめ、明治維新で活躍した人物の書や書簡を集めた特別展「幕末・維新の人とことば」が6日、大阪市の大阪城天守閣で開幕した。榎本武揚(えのもと・たけあき)、吉田松陰、福沢諭吉らの肉筆85点が展示され、多くの来場者が見入っていた。西郷隆盛の書簡初公開=福井藩士宛て、特別展で-県立歴史博物館
西郷隆盛の詩文は七言絶句。「世上毀誉軽似塵 眼前百事偽耶真」(世上の悪評や称賛の軽さはまるで塵のようだ。目の前の出来事は偽りなのか、本当なのか)と維新後の世を嘆く。
後半は、「追思孤島幽囚楽 不在今人在古人」(思い出すのは孤島で過ごした幽囚の頃の楽しみ。そこには今人はおらず、古人だけがいた)。徳之島などに流刑された幕末を振り返り、理想に燃え、新しい世を創るべく奔走した志士を「古人」と呼んで懐かしむ。
勝海舟の詩文は、旧幕府軍の代表として新政府軍代表の西郷と交渉し、江戸無血開城を実現させた明治元年のもの。「壮士が死をかえりみずに決戦にのぞむことを誰が責められようか」と旧幕府兵に同情しつつ、「多くの人々を救って天皇に答えるのだ」と内戦を避けることこそ尊王の志だと自らに言い聞かせている。
ほかに、戊辰戦争に敗れたが、後に政府に重用される旧幕府軍総裁の榎本武揚が、獄中で新政府軍を一刀両断した戯れ歌の書などが注目を集めていた。
特別展は11月25日まで。入館料600円(中学生以下無料)。問い合わせは大阪城天守閣((電)06・6941・3044)。
福井県立歴史博物館は19日、薩摩藩の西郷隆盛が福井藩士に宛てた書簡を22日から始まる「幕末明治福井150年博」の特別展で初めて公開すると発表した。藩士との面会翌日に出しており、内容からも、西郷のこまやかな心遣いが読み取れるという。
書簡は縦16.0センチ、横47.1センチ。複数の専門家による鑑定で、西郷の筆跡と確認された。県外の個人が所蔵していたのを県が特別展のため借用した。
安政4(1857)年、前日に面会した福井藩士の村田氏寿宛てに書かれた。面会で打ち解けて話ができたことを喜ぶ一方、失言があったかもしれないと許しを求めている。
福井県立歴史博物館が初公開する西郷隆盛の書簡。手前に「西郷拝」と記されている=18日、福井県庁
村田は福井藩主松平春嶽の親書を薩摩藩主島津斉彬に渡すため薩摩を訪れていた。西郷は書簡で、斉彬との面会が実現しそうなことも伝えている。
西郷は文久2(1862)年に沖永良部島へ流された際、書を学んで丸みのある書体を確立したという。この書簡を書いたのは29歳の時で、博物館の担当者は「少し荒っぽい感じがする」と話す。
落合弘樹明治大教授(幕末維新史)は「早い時期の書簡はあまりなく、よく見る西郷の字と違うのは面白い。『俺は斉彬の無二の忠臣である』というとがったところが書簡に反映されている」と語った。(2018/09/19-17:02)
急に最高気温が30度近くから20度前後になる肌寒い日で、昼と夜の部の間では激しい雨に銀座三越まで足を延ばすのに気持ち挫かれそうでした。入れ替わりの時間が短く、買い出しも時間の余裕が余りありません。帰りは階段があるものの傘要らずの地下道で。
【昼の部】
金閣寺
梅玉の此下東吉、松緑の松永大膳、児太郎の雪姫、福助の慶寿院。
児太郎さんの雪姫はかなり抜擢だったと思います。でもたおやかさと育ちの良さの見た目に対して、父の敵大膳を憎む気持ち、処刑寸前の夫と再会して絶望する気持ち、夫を殺されまいとして縛めを解こうとする意思、画家として祖父雪舟の逸話を再現しようとする意思があって三姫の中でも人妻で画人というところが好きです。児太郎さんは、最初の声音とかちょっと不安なところもあったけど、まずは千穐楽までやりきったのがすごい。「大当たり!!」と大向こうから声がかかっていた。
また福助さんが5年ぶりに板の上に復帰したお祝いの拍手が沢山。無理をせずに息長くと祈ります。
鬼揃紅葉狩
幸四郎さんが珍しく女役で更科の前→実は戸隠山の鬼女を踊る。そして侍女役も髙麗蔵、宗之助に加えて若手の米吉、児太郎が入っているのが嬉しいし、隼人、廣太郎、玉太郎などの若手男役も出演。
河内山
途中、幸四郎の松江出雲守と吉右衛門の河内山(上野寛永寺の一宮の使僧を騙っている)とのやり取りのところで眠気を催し、あまり覚えていないのが残念ではあるが……玄関前で正体を顕されたものの大名特有の事なかれ主義で無事にやりおおせ、「馬鹿め!!」と毒づくラストの爽快さが味わえた。
【夜の部】
松寿操り三番叟
幸四郎さんの三番叟可愛い。本当に人形振りがすごい。
俊寬
大播磨の面目躍如。菊之助さんの成経が綺麗(ちょっと綺麗すぎ?)。雀右衛門さんのちどりが初々しくて可愛い。
成経にちどりを添わせるため、酷吏を殺めてまで自ら喜界島に残る俊寬が去る舟に絶叫するところが本当に迫力ある。都に残した妻に会いたいという気持ちも妻の刑死を知らされて希望を絶たれ、生きる手段生活の手段を持たず、友人たちも京に帰ってしまい本当に孤独=死に晒されたことへの恐怖やあがきが堪えた。
幽玄
羽衣
石橋
道明寺
鼓童×玉三郎。羽衣と石橋〜道明寺の間のブレークが長く集中力が削がれるきらいはあったけど、和太鼓と能と歌舞伎のリミックスで西洋的な要素(モダンバレエのようなミニマリズム?)で再現された世界、これは結構好き。
ただ、自分は歌舞伎に慣れているので、黒い着物を着た演奏者を僧侶に見立てたり黒衣としてそこにないものと解したり自在に「見立て」られるけど、異文化の人はどう見るのかな。玉三郎が着姫の怨念の篭もった白拍子花子として括弧で踊る時、和太鼓奏者と遊ぶような舞の時に、私は彼らを奏者としても黒衣としても自在に見られるれど、そのあたりは違う文化の目ではわからない。
大太鼓を含めた楽器が自在に出されたり消されたりするのは玉三郎さんらしい美意識で使わないものを消しているからだろうけど、視界の端で物を出したり入れたりするのが見えるのはちょっと煩いところもあった。
でもまぁ、海老蔵「源氏物語」と同様、東京五輪の準備なんだろうなぁ。。
【昼の部】
金閣寺
梅玉の此下東吉、松緑の松永大膳、児太郎の雪姫、福助の慶寿院。
児太郎さんの雪姫はかなり抜擢だったと思います。でもたおやかさと育ちの良さの見た目に対して、父の敵大膳を憎む気持ち、処刑寸前の夫と再会して絶望する気持ち、夫を殺されまいとして縛めを解こうとする意思、画家として祖父雪舟の逸話を再現しようとする意思があって三姫の中でも人妻で画人というところが好きです。児太郎さんは、最初の声音とかちょっと不安なところもあったけど、まずは千穐楽までやりきったのがすごい。「大当たり!!」と大向こうから声がかかっていた。
また福助さんが5年ぶりに板の上に復帰したお祝いの拍手が沢山。無理をせずに息長くと祈ります。
鬼揃紅葉狩
幸四郎さんが珍しく女役で更科の前→実は戸隠山の鬼女を踊る。そして侍女役も髙麗蔵、宗之助に加えて若手の米吉、児太郎が入っているのが嬉しいし、隼人、廣太郎、玉太郎などの若手男役も出演。
河内山
途中、幸四郎の松江出雲守と吉右衛門の河内山(上野寛永寺の一宮の使僧を騙っている)とのやり取りのところで眠気を催し、あまり覚えていないのが残念ではあるが……玄関前で正体を顕されたものの大名特有の事なかれ主義で無事にやりおおせ、「馬鹿め!!」と毒づくラストの爽快さが味わえた。
【夜の部】
松寿操り三番叟
幸四郎さんの三番叟可愛い。本当に人形振りがすごい。
俊寬
大播磨の面目躍如。菊之助さんの成経が綺麗(ちょっと綺麗すぎ?)。雀右衛門さんのちどりが初々しくて可愛い。
成経にちどりを添わせるため、酷吏を殺めてまで自ら喜界島に残る俊寬が去る舟に絶叫するところが本当に迫力ある。都に残した妻に会いたいという気持ちも妻の刑死を知らされて希望を絶たれ、生きる手段生活の手段を持たず、友人たちも京に帰ってしまい本当に孤独=死に晒されたことへの恐怖やあがきが堪えた。
幽玄
羽衣
石橋
道明寺
鼓童×玉三郎。羽衣と石橋〜道明寺の間のブレークが長く集中力が削がれるきらいはあったけど、和太鼓と能と歌舞伎のリミックスで西洋的な要素(モダンバレエのようなミニマリズム?)で再現された世界、これは結構好き。
ただ、自分は歌舞伎に慣れているので、黒い着物を着た演奏者を僧侶に見立てたり黒衣としてそこにないものと解したり自在に「見立て」られるけど、異文化の人はどう見るのかな。玉三郎が着姫の怨念の篭もった白拍子花子として括弧で踊る時、和太鼓奏者と遊ぶような舞の時に、私は彼らを奏者としても黒衣としても自在に見られるれど、そのあたりは違う文化の目ではわからない。
大太鼓を含めた楽器が自在に出されたり消されたりするのは玉三郎さんらしい美意識で使わないものを消しているからだろうけど、視界の端で物を出したり入れたりするのが見えるのはちょっと煩いところもあった。
でもまぁ、海老蔵「源氏物語」と同様、東京五輪の準備なんだろうなぁ。。
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