新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
今でも彼らの記録が新たに出てくるところが幕末の面白さ。

近藤勇、ドタバタ上洛だった? 岐阜・各務原市所蔵文書で判明
 幕末の京都を警護した新選組の前身「浪士組」が、江戸から上洛(じょうらく)する際、中山道鵜沼(うぬま)宿(岐阜県各務原市)で昼食代を少なく支払っていたことが分かった。市が所蔵する当時の文書に関連する記載があった。昼食の手配を担当していたのは、多摩出身で後の新選組局長・近藤勇(一八三四~六八年)。歴史的人物の失態のエピソードとして注目を集めそうだ。 (大山弘)

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 各務原市歴史民俗資料館の長谷健生学芸員が、鵜沼宿本陣の当主が残した「桜井家文書」から浪士組に関連した記述を確認した。

 江戸時代、団体客が宿場を訪れる際の予約や支払いは、本陣が一括して受け付けていた。桜井家文書には予約時の総人数と、宿場の各旅籠(はたご)に入る人数を記した割り振り、浪士組が去った後の会計報告が記されている。

 六三(文久三)年、京を目指した浪士組が、中山道五十二番目の宿の鵜沼宿に到着したのは二月十九日。浪士二百三十七人が数軒の旅籠に分かれて昼食を取った。ところが、浪士組は支払いの際、人数を二百二十五人と十二人も少なく申告した。

 料理の本来の代金は一人あたり百二十四文。だが、本陣は浪士組が利用した全ての旅籠に対し、一人あたり六文少ない百十八文を配分した。取りはぐれた十二人の代金の合計千四百八十八文を、全旅籠で少しずつ負担したとみられる。

近藤勇=国立国会図書館蔵

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 百二十四文の価値について、長谷さんは「江戸時代後期は一文が現在の二十~三十円に相当すると言われるが、幕末は貨幣価値の変動が大きく、一概には言えない」と話す。

 宿場内でのやりとりは不明だが、長谷さんは「近藤は本庄宿(埼玉県本庄市)でも、浪士の芹沢鴨(かも)の宿の予約を忘れ、激高した芹沢が路上でかがり火をたく騒動を引き起こすなど失態を犯していた。鵜沼宿でも、近藤が不手際をした可能性がある」とみる。

 浪士組は結成後、すぐに江戸を出発した。大名の参勤交代など大規模な旅行の際は、旅籠の予約を半年~一年前に済ませるのが通例だった。長谷さんは「近藤は先行きも分からず、混乱していたのかもしれない」とも推測している。

 鵜沼宿の歴史を研究する岐阜女子大の辻公子講師は「桜井家文書では、具体的なやりとりが分からないながらも、当時の慌ただしさを感じる要素が多い。他の宿場町にも、浪士組について多くの記録が残っている。詳しく調べれば、歴史の出来事を、これまでとは違う視点から再確認できるだろう」と指摘する。

 桜井家文書の浪士組について書かれた部分は、十七日~十二月十六日に各務原市歴史民俗資料館で開く企画展で紹介される。

<浪士組> 江戸幕府第14代将軍・徳川家茂(いえもち)の上洛に合わせ、幕府が将軍警護のために浪士らを集めて結成した武力組織。文久3(1863)年、東海道を上る将軍とは別ルートの中山道から京に向かった。京に入ってから組織は分裂し、芹沢鴨や近藤勇、土方歳三らが壬生(みぶ)浪士組を結成。後に新選組を名乗る。

 道場主をやっていたとはいえ、金勘定はあまり得意でない印象が上書きされたエピソードでした。

雲田はるこさんのインタビュー記事見てて、「おっ」と思いました。

ドラマ「昭和元禄落語心中」も大好評 雲田はるこ、マンガ家デビュー10周年
―― そもそも雲田さんが落語にはまるきっかけもドラマだったそうですね。

 三谷幸喜さんが脚本を書かれた大河ドラマの『新選組!』(2004年)ですね。出演されていた役者さんの中に落語家さんがいらして、落語会に行ったことがきっかけのひとつでした。『新選組!』を見ながらドラマに描かれていない部分も知りたくなっていろいろ調べるうちに、江戸文化にどんどん興味が湧いて。その頃『タイガー&ドラゴン』(2005年)や『ちりとてちん』(2007年-08年)など落語を描いたドラマも放送されて落語ブームと言われたりしたんですが、私もその時期にまんまとはまりました。そのうちに落語をもっと知りたいから落語のマンガを描きたいなと思うようになったんです。

 『組!』に出演してる落語家さんって、顔の目立たない山崎丞を演じた桂吉弥さんでしょうか。雲田はるこさんの『昭和元禄落語心中』が『組!』との出会いなくして生まれなかったかも知れないと思うと、感慨深いです。

 なんか、落語へのハマリ方が私も似てますし。

 インタビューは『昭和元禄落語心中』ファンにお勧めです。やはり八雲師匠のモデルにはあの方が入っているのですね。
有吉佐和子作。新派の杉村春子が主役のお園を演じてロングラン。玉三郎が歌舞伎で舞台にかけた時、有吉佐和子は鬼籍に入っていた・合掌。

幕末の歴史好きにはツボツボな作品。そして横浜のある遊郭における遊女の自害が大和撫子の鑑として脚色され喧伝されていく様は見事な現代性も感じさせる。

玉三郎さんが演じるお園の演技の凄さ、シネマ歌舞伎ならではのカメラワークでさらに引き立っていました。人のいい場末の芸者(吉原から品川、さらに開港直後の横浜へ流れてきた)。同じように吉原から流れてきた病身の遊女の亀遊を妹のように可愛がり、亀遊が通辞の藤吉と恋仲になるのを陰で応援していたが、その亀遊はアメリカ人商人イリウスに気に入られたと知ると恋がかなわないのを絶望して剃刀で自害してしまう。

亀遊を喪った清吉はアメリカに渡航して医師になることを目指す。残ったお園は、かわら版による亀遊の死の脚色をいぶかいつつも、置屋の主人にそそのかされ、攘夷女郎亀勇の自害の目撃者として講釈師よろしく登楼客に語って聴かせる。攘夷派の儒学者・大橋訥庵の五回忌に門弟たちが集まる座敷に出た時、吉原で訥庵から習ったという歌を披露した時……。

最後の場面。「ひとり残されたお園は、酒をあおりながら、時代の波に翻弄された亀遊や我が身を嘆くのである」。時に慶応三年七月、大政奉還・王政復古から戊辰戦争・新政府成立といったさらなる時代の波が押し寄せてくることを知らず。。

無茶苦茶豪華な共演陣。勘三郎さん、七之助さん、獅童さんなど主要な配役だけでなく、ちょい役の浪士の中に海老蔵さんとか勘太郎(当時)さんがいたり、福助さんとか松也さんとか新悟さんとか唐人口の遊女たちなんか凄いメークで本人とわからないぐらい(きっと喜んで演じたに違いない)。

勘三郎さん三津五郎さんなど鬼籍に入った名優たち、新派に移って河合雪之丞になった春猿さんとか、今では再現できない舞台を見られるシネマ歌舞伎ならでは。
先週、平成中村座を見てきました。『組!』当時は26才だった平助こと中村勘太郎さん(現・中村勘九郎さん)も40才。弟の七之助さん、チビ勘太郎くん、ちび長三郎くんとともに舞台を盛り上げておりました。平助だった頃は颯爽と義経やって似合ったろうと思いますが、チビ勘太郎くんを義経に、弁慶を豪快に演じつつ、勘太郎くんとの立ち回りも息が合ってかっこよく、主人を得て無邪気に笑顔になるところがよかったです。
 そして、来年は大河ドラマの主役なんですよね勘九郎さん。歌舞伎の舞台に出られない期間ができてしまうのは歌舞伎ファンとして残念なのですが、『組!』当時、10年後にこの作品の出演者たちは出世しているだろうと言っていた中で出世頭のひとりではないでしょうか。

 土方歳三を演じた山本耕史さんは『真田丸』で石田三成を演じましたが、別の作品では右府さま織田信長を演じる予定です。しかも武田観柳斎を演じた八嶋さんがサル羽柴秀吉です。
山本耕史「石田三成から織田信長になった…」『映画刀剣乱舞』キャスト発表にファン混乱!?
 『映画刀剣乱舞』の追加キャストとして山本耕史と八嶋智人の参戦が発表され、ネット上で話題となっている。

刀剣育成シミュレーションゲーム「刀剣乱舞-ONLINE-」を原案とした初の実写化作品『映画刀剣乱舞』。先日、本作の追加キャストとして山本耕史と八嶋智人の参戦が発表され、ネット上で話題になっている。

■ストーリー

天正十年六月二日、京・本能寺。明智光秀が織田信長を襲撃した“本能寺の変”に、歴史改変の魔の手が迫っていた。燃える寺から信長を逃がし歴史を変える、そんな時間遡行軍の計画は、刀剣男士たちの活躍により打ち砕かれた。

ところが、無事任務を終えて帰還した彼らに届いた「織田信長生存」の一報。本来の歴史に戻すため、刀剣男士たちは織田信長暗殺を目的に再び過去へと出陣するのだった。どうやって信長は生き延びていたのか、怪しい動きをする影、そして立て続けに歴史介入をしてくる時間遡行軍。彼らの本当の狙いに気付いた三日月宗近は…。正しい歴史とは何か。“守るべきもの”を守る戦いが、いま始まる――!

■若手が集まる本作に安心の実力派が参加!

名立たる刀剣が戦士へと姿を変えた“刀剣男士”を率い、歴史を守るために戦う刀剣育成シミュレーションゲーム「刀剣乱舞-ONLINE-」を原案とした本作。すでに、注目の刀剣男士のキャストには、三日月宗近役の鈴木拡樹、山姥切国広役の荒牧慶彦、薬研藤四郎役の北村諒、へし切長谷部役の和田雅成、日本号役の岩永洋昭、骨喰藤四郎役の定本楓馬、不動行光役の椎名鯛造、そして鶯丸役の廣瀬智紀と、舞台を中心に活躍する若手俳優たちが決定している。

そんな中、今回追加キャストとして実力派俳優の2人、山本耕史と八嶋智人の出演も決定。山本さんは、天下統一を狙う織田信長役として安定感のある演技を発揮。八嶋さんは織田信長を支える家臣ながら、後に天下統一を成し遂げる羽柴秀吉役を演じる。

『映画刀剣乱舞』(C)2019「映画刀剣乱舞」製作委員会 (C)2015-2019 DMM GAMES/Nitroplus
山本さんは「織田信長は初めて演じます。自分がもうそんな年齢になったのかと感慨深い思いでした」と話し、八嶋さんは「我々が知る『歴史』とはいかに表層的であるか。この映画はそう実感させてくれる力強いロマンだ!」と熱く本作をアピールしている。

■これまでも様々な武将に…山本耕史の新たな挑戦に反響

今回の発表で特に話題となっているのが、織田信長役の山本さん。これまでも様々な時代物作品に出演してきた山本さんは、大河ドラマ「新選組!」などでは土方歳三、「平清盛」では藤原頼長、「真田丸」では石田三成。ほかにも、豊臣秀頼、竹中半兵衛、徳川秀忠とたくさんの歴史上の人物に扮してきた。

山本耕史
そんな中、今回初の織田信長役決定にTwitterでは「石田三成から織田信長になった…」「山本耕史は石田三成だろ(真田丸クラスタ)山本耕史は土方歳三だろ(新選組クラスタ)山本耕史は織田信長だろ(刀剣乱舞クラスタ)山本耕史とは一体」「山本耕史さんは石田三成から織田信長になったのか…」「今日の誕生日の人は…土方歳三、いや、石田三成だったかな… …あっ、山本耕史さんだった! と思ったらまさかの織田信長」「え?は?山本耕史は石田三成じゃないん?土方歳三でもあったけど織田信長なん? え?」「山本耕史は土方歳三なのか石田三成なのか織田信長なのか…」とファンも混乱気味の様子だ。

■“刀剣男士”が勢揃い! 本ポスタービジュアル公開

三日月宗近(鈴木さん)ら“刀剣男士”たちが躍動する本ポスタービジュアルも併せて公開! 霧がかった城と炎が描かれており、激しく壮大なストーリーを予感させる。

『映画刀剣乱舞』(C)2019「映画刀剣乱舞」製作委員会 (C)2015-2019 DMM GAMES/Nitroplus
なお、本作のムビチケカード全9種類を3回に分けて発売することも決定。第1弾は<三日月宗近、日本号、鶯丸>の3人のビジュアルを使用し、11月2日(金)より発売開始となる。

『映画刀剣乱舞』は2019年1月18日(金)より全国にて公開。

 『組!』キャストの話題といえば、かっちゃん近藤勇を演じた香取慎吾さんと、滝本捨助を演じた中村獅童さんのエピソードも。
香取慎吾、中村獅童の『新選組!』忘年会エピソード明かす「何度も抱えて運んだ」
 現在、AbemaTVで生放送中の『7.2 新しい別の窓 #8』で、「ジャポニスム2018」の広報大使を務め自身の初個展を開いた香取慎吾と、公式企画の1つである「松竹大歌舞伎」に出演した歌舞伎俳優・中村獅童の対談の模様を放送。フランス・パリで共演作『新選組!』の思い出を振り返った。

 2004年放送のNHK大河ドラマ『新選組!』で共演して以降、その忘年会で毎年会っているという2人。しかし香取は2016年、獅童は2017年の忘年会に参加できなかったといい、「本当に久しぶりで、まさかパリでこうやって」(香取)、「パリで会えるなんて嬉しい」(獅童)と再会を喜ぶ。

 香取によると獅童と共演者の山本耕史は毎回喧嘩しているというが、獅童は「けどすごい仲良くなって。皆さんいまだに仲いいんで嬉しいです」と説明。また、香取が「僕何度も走って追いかけて、床にいる獅童さんを抱えて運んでいったこと何度もありますよ。でも怖い感じではなく、すごい笑顔で『うるせー!離せっ!』みたいな(笑)」とエピソードを明かし、獅童も「そんな時もありましたね」と笑いあった。

▶『7.2 新しい別の窓 #8』は午後5時~夜0時15分まで「AbemaSPECIAL 2」チャンネルにて放送中

 左之助を演じたは山本太郎は、『組!』作品世界で日本を飛び出して満州に行きそうな勢いでしたが、中の人も芸能界を飛び出して国会議員になりました。何度か辻立ち聴いていますが、街頭演説のおもしろさわかりやすさは政界でも指折りじゃないかと思います。





3年ぶりに浅草で幕を開けた「平成中村座」

 中村屋さん贔屓なもので、平成中村座は昼と夜を二回ずつ確保してしまいました。うち一回目は初日から3日め。
 歌舞伎を見始めてすぐに平成中村座を経験していたので、地元の芝居小屋のような感覚になります。十八世中村勘三郎丈を生で見ることができなかったのが残念なのだけど、この空間は勘三郎さんへの愛が詰まっていて、とても温かい気持ちになります。

【昼の部】
一、源平布引滝 実盛物語
 イヤホンガイドのサイトからの簡単な紹介。
「義賢最後」(よしかたさいご)の続きです。
木曽義賢の身重の妻・葵御前を助ける平家方の斎藤実盛の恩情と心の苦しみのお話し。
家に伝わる源氏の白旗を亡き義賢から預かった小万は、平家方に追われ琵琶湖を泳ぐが、敵方の船に引き上げられる。
引き上げたのは斉藤実盛。
源氏に心をよせる実盛、彼女の腕を切り落として、旗が平家にわたるのを防ぐ。
小万の一念で、腕が握った旗は葵御前の許に。
さて、ここは、琵琶湖のほとり。百姓九郎助の家です。
ここに義賢の側室、葵御前がかくまわれています。
葵御前が産む木曽義賢の子が男子だったら即刻殺せという清盛の命を受けて、斉藤実盛と瀬尾十郎兼氏が検分役としてやってきます。
葵は無事、男子駒王丸を産んでいました。
でも、「産んだのはコレです!」と差し出されたのは、女の片腕!?
実盛が小万の「片腕」を斬った状況を、物語るところが、題名の由縁。一番の歌舞伎クライマックスです。
死んだ小万は、実は、平家の瀬尾十郎の○○!意外な人物関係がすごいドラマチック・・・。  
 勘九郎さんの次男、5才の長三郎くんが台詞も振りもついた太郎吉の芝居を長丁場こなします。勘九郎さんの実盛は、颯爽とした生締で理も情もわきまえた武士。亀蔵演じる瀬尾に九郎助夫妻と太郎吉をかばいながら、葵御前の出産をさりげなくサポートし、落とす手はずを整え、太郎吉の将来の仇討ちまで受けとめます。
 小万の児太郎さん、葵御膳の新悟さんもポイントポイントでいい姿。亀蔵さん演じる瀬尾の自害のシーンは、トンボがうまく決まったものの、消し幕さんとのタイミングが少々ずれて、身体が動くところが見えちゃいました。
 実盛が黒馬に乗って堂々と去る場面は素敵でした……花道すぐ脇の席だっただけにガン見しました。

二、近江のお兼

 七さんが暴れ馬を手懐け、布晒を両手でひらひらと宙に舞わせる可愛く力持ちのお兼を踊りました。そうか、勘三郎さんも踊っていたのね。芸幅が広かったんだなぁ勘三郎さんは。

三、江戸みやげ 狐狸狐狸ばなし

 生臭坊主との浮気に血道を上げる女房と、それでも女房を愛する染め物屋の亭主を中心とした、騙し騙されのコミカルな舞台。
 今回は扇雀の伊之助に七之助のおきわ。「しつこい蛇のような」と言われる執念の強さ、かいがいしい世話を焼くこまめさ、上方で役者をしていた伊之助の、二面性があるが嫌みではないところが扇雀はうまかった。七之助は浮気に絡め取られて本気になり相手と心中しようとする怖さと、呆けた演技の哀れさ、それでも浮気の虫が止まない業をコミカルかつシリアスに。芝翫の生臭坊主が割とよかった。

【夜の部】

 客席にひらひら蛾が舞っていた。前に勘九郎さん七之助さんのトークで、勘三郎さんが時々ハエになって舞台を見に来ているという話をしていたけど、今日は蛾となって戻ってきたのかな、と思ったら……。

一、弥栄芝居賑

 江戸の風情を残す中村屋の芝居小屋を舞台後景にして、勘九郎七之助が座元夫婦に、勘太郎長三郎を息子に、扇雀が挨拶の音頭を取り、手締めは芝翫。男伊達と女伊達が花道に並んで浅草ゆかりの土地や風物を織り込んだ連ねの台詞が面白かった。小三郎さんが手首のアンチョコを見ながらもつっかえつっかえだったのが中村屋のファンにはご愛敬で許されるものの少々残念ではあった。
 そして芝居はありし日の勘三郎さんの映像。『娘道成寺』や『め組』や『野田版 鼠小僧』や……あれ、中途半端なところで途切れた。少しザワザワしながら、なし崩し的に20分の休憩に。そこに七さんがお顔はそのままで鬘をはずした浴衣姿で、なおちゃんとのりちゃんも引き連れて幕から顔出しして「どうやら父がいたずらしたようで……」と挨拶。
 どうやら、あの蛾は本当に勘三郎さんの魂を運んでいたらしい。

二、舞鶴五條橋

 扇雀さんの常盤御前と勘太郎くんの九郎義経の場面の後、勘九郎さんの弁慶と勘太郎くんの義経の対決。勘太郎くんがちゃんと芝居してて(歌舞伎座で『団子売』踊りきった時から並々ならぬ技量と度胸があると思ってはいたが)五條橋の対決も見応えがあった。そして勘九郎さん弁慶の薙刀での立ち回り、六方と勇壮な大きな芝居。近くで見られてとてもよかった。主人を得て破顔一笑したところが可愛い。。

三、仮名手本忠臣蔵 祇園一力茶屋の場

 今日一番見応えがあった。勘九郎さんの寺坂平右衛門と七之助さんのお軽はそれぞれ、仁左衛門さまと玉三郎さまから教えられたのだろう。勘九郎さんと七之助さんの兄弟ならではのキャッキャッウフフとじゃらつくかわゆさがある。

 楽日近くでまた見られるのが楽しみ。

新橋演舞場が月一回催している食事付き落語会です。落語は前座+真打ち2席で、その前後に演舞場の厨房新ばしがつくった食事をいただきます。ちょっと品数多めの幕の内弁当に全国各地の酒造が提供する日本酒(今回は1合×2本を隣の人と、5合×2本をテーブル4名とシェアしたので、意外に飲ませていただいた感じでした)が提供されます。

https://www.shinbashi-enbujo.co.jp/contents/rakugo20181030.html

今回は宮城県内最古の蔵元、内ヶ崎酒造さんの提供でした。4本のうち最後に提供された特別純米酒鳳陽源氏は初めてイギリス王室のワインセラーに収蔵された日本酒3種類のうちの一本だそうです。

また、先付けとして出されたのは有機農業をしているOme Farmさんが提供する後関晩生小松菜のお浸しでした。写真撮影忘れましたが、白身魚の塩麹焼きの後に焼きおにぎり鮭茶漬けがあり、食事として十分に満足できました。有機野菜は甘みがあって優しい味でした。

主催者挨拶、Ome Farmさんと内ヶ崎酒造さんの挨拶を前後に挟みましたが、落語会も本格的でした。

テーブルをご一緒した3人組の紳士たちは、毎月この会にいらっしゃる常連さんを中心にしたお仲間さんたち。うちお一人が隣席になったので伺いましたら、一番印象に残っているのが一之輔さんの回だそうです。

一、たらちめ/古今亭まめ菊

菊師は寄席や落語会でちょくちょく聴きますが、独演会は初めてかも知れません。なので一番弟子のまめ菊さんをお見かけしたのも今回が初めてです。口跡も菊之丞さんが若い女性になったらこんな感じかな、という菊之丞さんの落語がちゃんと入っています。少し女性の登場場面を多くしているところが女性落語家らしいアレンジですね。

一、火焔太鼓/古今亭菊之丞

これぞ古今亭、大師匠の志ん生が得意としたネタです。菊之丞さんの落語に出てくる長屋のおかみさんはしっかり者でバリバリ仕事できそうな感じです。

(中入り)

一、幾代餅/古今亭菊之丞

これも古今亭らしいネタ。幾代太夫の古風な感じと、搗き米屋の奉公人清蔵さんの実直な感じがいいです。

後半は抽選会があり、Ome Farmさん提供の有機野菜、内ヶ崎酒造さん提供のグラスや前掛け、菊之丞師匠がサインしたポスターや色紙などがクジ引き賞品として提供されました。

地下食堂はかなり広く、宴会テーブル席で4人掛けが40テーブル、計160人が満席でした。新橋演舞場のお客様だけあって、女性客には季節の着物を着てらっしゃる方も多く見られました。

落語会+食事+酒で9,000円です。落語ファンとしてはかなりハイエンドな落語会だなーと思いますが食事や酒も割高とは感じませんでした。また、大広間の座敷に落語家さんを招き入れた感じで、ホール落語よりも落語家さんとの距離が近く感じられます。

来月は柳亭市馬師匠がゲストで、市馬ファンの私はもうチケット確保してます(^^)。
秋の日は釣瓶落としといいますが、本当に昼が短くなりましたね。秋という季節は好きなんですが、日照時間が早く短くなるので体調を崩しがちなのが悩みの種です。

宮城
<戊辰戦争150年>東北の幕末史網羅 仙台市博物館で藩主建言書など230点展示
 仙台市博物館、新潟県立歴史博物館、福島県立博物館の3館主催による共同企画の特別展「戊辰戦争150年」(河北新報社、NHK仙台放送局共催)が26日、仙台市博物館で始まった。12月9日まで。
 薩摩藩、長州藩中心の新政府軍から「朝敵」とされた会津藩や、会津藩を救おうとした東北、越後各藩の視点を軸に、全国から広く集めた古文書や絵図、旗、武器など約230点を展示。東北の幕末・維新史を網羅した内容となっている。
 当時の仙台藩主伊達慶邦(よしくに)が新政府に会津追討を思いとどまるよう求めた建言書や、奥羽列藩同盟の盟約書の写し、新選組袖章、天皇の軍の証しとして新政府軍が掲げた錦旗などが並ぶ。
 列藩同盟が独自政権を構想し、元号を「大政元年」と改元したとする資料など珍しい品もある。既に終了した新潟、福島の両博物館での展示には出品していない仙台独自の資料が約100点含まれる。
 仙台市宮城野区の無職安久津知子さん(81)は「身近なのに学校の授業では教わらず、知らなかったことだらけ。何度でも足を運びたい」と話した。
 開館は午前9時~午後4時45分。月曜休館。一般・大学生1000円、高校生500円、小中学生400円。会期中の土日・祝日には新選組の衣装を無料で試着できる体験会もある。

福島
戊辰戦争戦死の「西軍藩士」慰霊 会津若松で墓前祭、80人参列
 戊辰戦争で戦死した土佐、薩摩、長州、大垣など各藩の藩士らが埋葬されている会津若松市の西軍墓地で23日、墓前祭が行われた。

 会津戊辰戦役西軍墳墓史跡保存会(山田悦史会長)が毎年行っており、65回目。戊辰150年の節目とあって、例年以上に多くの参列者が訪れた。

 地元や西軍の関係者ら約80人が参列。神式と仏式で墓前祭が行われた。山田会長が祭文を読み上げ、会津吟詠会の詩吟奉納が行われた。地元の関係者や子孫、山口、佐賀両県の関係者らが玉串をささげ、焼香した。山田会長が謝辞を述べた。

 弟の土佐藩三番隊長小笠原謙吉と共に会津で戦死した牧野茂敬(迅衝隊軍監)の子孫という小笠原洋子さん(78)=神奈川県逗子市=は「こうしてお墓を守っていただいて、会津の方々の温かい気持ちをうれしく思います」と話した。

 同墓地には、西軍9藩の150柱(藩籍不明1柱を含む)が祭られている。

(文化の扉)戊辰戦争、無念の150年 「賊軍」とされた会津/列藩同盟、当初は「非戦」
 時代が明治に変わる150年前、東北地方などで大規模な内戦があった。戊辰戦争だ。江戸城の開城後も奥羽・北越などの諸藩は新政府を相手に団結し、戦った。敗戦で厳しい処分を受けた地域は、「賊軍」とされた無念を引きずってきた。

 戊辰戦争150年に合わせた「全殉難者慰霊祭」が6日、仙台市であった。伊達家18代当主の伊達泰宗さんは「本来は平和のための非戦同盟としての行動でありました」と述べた。

 奥羽と北越の諸藩は「奥羽越列藩同盟」を結び、新政府軍を相手に現在の東北地方や新潟県の各地で戦い、敗れた。「非戦」とは、どういう意味か。

 「そもそも戦争をしたくて列藩同盟に加盟した藩は一つもないと思います。むしろ、巻き込まれたという認識でしょう」。そう語るのは、福島県立博物館の阿部綾子・主任学芸員だ。

 戦争のきっかけは1868年1月の鳥羽・伏見の戦いだ。旧幕府軍などは薩摩、長州藩中心の新政府軍に大敗。新政府は会津藩を「朝敵」とし、仙台藩に征討を命じた。

 仙台藩主の伊達慶邦(よしくに)は戦争回避に向けて動く。征討は、まだ幼かった明治天皇が判断したのかなどの疑問点を建白書にまとめた。だが京に届けられた時、すでに征討軍は出発していた。

 新政府の奥羽鎮撫(ちんぶ)総督府が東北に入ると、会津藩謝罪の条件として要求したのは、藩主だった松平容保(かたもり)の首。会津藩にとって受け入れがたい内容だった。

 仙台藩と米沢藩は奥羽諸藩に会津救済を呼びかけ、賛同した藩の代表者が署名した。この時は、東北で戦火を交えないことをめざした盟約だった。

     *

 提出された嘆願書を、新政府の奥羽鎮撫総督が却下したことで転機を迎える。

 仙台市博物館の水野沙織・学芸員は「嘆願書の署名の前に仙台、米沢、会津の3藩の会合で、もし謝罪が認められず、鎮撫軍が暴挙に出たときは一緒に戦うことを約束していた」。仙台藩士らが総督府下参謀を殺害したことも加わり、対決は不可避に。「情勢の変化によって目的が変わり、同盟を結成し、新政府軍と敵対することになった」

 5月、同盟は奥羽・北越の31藩に達した。だが、軍事同盟に変わり、各地の戦いで劣勢となる中、離脱する藩が相次ぐ。8月には会津・鶴ケ城下に新政府軍の侵攻を許す。9月に入ると、米沢、仙台両藩、そして会津藩などが降伏し、戦場は箱館へと移っていく。

     *

 新潟、福島両県と仙台市は今年、「戊辰戦争150年」展を企画した。会場には、一人の会津藩士が戦争から約40年後に書き記した書物「雪冤(せつえん)一弁」が展示されている。「雪冤」は「無実の罪をそそぐ」という意味だ。序文で、明治政府に媚(こ)びて真実を伝えない書物が流布していると執筆の動機を説明している。阿部さんは「会津藩が朝敵とされたことに対し、割り切れない思いが随所に表れている」。

 この藩士が憤るのは「会津藩こそ天皇に誠を尽くした」という思いがあるからだ。容保は京都守護職として、幕末の混乱した京で治安の維持に努めた。孝明天皇からは、忠誠を喜ぶ手紙が届けられたほどだ。

 だが、孝明天皇の死後、薩摩藩などは鳥羽・伏見の戦いで錦の御旗を掲げ、官軍と名乗ることに成功した。逆に会津藩が「賊軍」の汚名を着せられることになったのだ。

 敗れた藩は戦後、処分を受けるが、新政府側に回った秋田藩も領地が戦場となり、家に火を付けられるなどの被害に遭った。水野さんは「150年前に起きた戊辰戦争の歴史はそれぞれの地域で大きく違っていることを知って欲しい」。(高橋昌宏)

 ■双方が正義の下に スポーツキャスター・大林素子さん

 東京・多摩地方の出身なので新撰組の近藤勇や土方歳三はご当地ヒーローでした。バレーボールをやっている時は時間がなかったのですが、引退してからゆかりの地を巡り始めました。新撰組は松平容保の下で活動したので、会津にはプライベートの「取材」でよく通うようになりました。今年から福島県会津若松市の観光大使を務めています。

 忠誠心をもって最後まで戦ったのが、会津藩であり新撰組。目上の方を敬うなど「ならぬことはならぬ」の精神が今も残り、当時の空気感が残っています。その時代に行きたい私にとって、会津は最高の場所です。

 会津には友人が多くいます。あの節目を「維新」ではなく「戊辰」と言っていて、つらい歴史として記憶されています。互いに正義の下に行動しましたが、武士のプライドだけで戦った会津はすごいなと感じます。

 これからの世代には、今の平和が先人の歩みの上にあることを知って欲しい。そのためにも、戊辰戦争の歴史を風化、美化せずに伝えていくことが大事だなと考えています。

 <訪ねる> 「戊辰戦争150年」展は新潟県立歴史博物館、福島県立博物館、仙台市博物館の共同企画。開国、鳥羽・伏見の戦いを経て、奥羽越列藩同盟の結成、降伏までを地域の資料を中心に東北・越後の視点からたどる。26日から仙台市で始まる。12月9日まで。月曜休館。


戊辰戦争「三春藩の選択」解説 歴史民俗資料館で企画展 /福島
 三春町歴史民俗資料館(三春町桜谷)で企画展「戊辰(ぼしん)・明治150年 三春藩の選択」が開かれている。「戊辰戦争の際、三春藩はなぜ奥羽越列藩同盟に加盟し、戦わずして新政府軍に恭順したのか」がテーマ。

 東北諸藩の力関係や地理的条件から会津や仙台などの大藩主導の同盟に加わり、城下を戦乱から守るためにも新…
 ここから先は毎日新聞の有料版にて。

京都
戊辰戦争勃発時の京都御所 絵が伝える緊迫感と高揚感
 戊辰(ぼしん)戦争の発端となった鳥羽・伏見の戦いが勃発した慶応4(1868)年正月3日夜の京都御所の様子を描いた絵がみつかり、京都文化博物館(京都市中京区)で展示されている。歴史が転回する緊迫の場面を精細に活写し、専門家によれば、美術的にも資料的にも貴重な作品という。

 作品は、四国・宇和島藩出身で、明治時代に長崎で活動した画家の小波魚青(こなみぎょせい)が描いた「戊辰之役之図(ぼしんのえきのず)」。近代画家の発掘で知られる星野画廊(京都市東山区)の星野桂三社長が入手し、京都大学人文科学研究所の高木博志教授(日本近代史)らと調査し、昨秋に画廊で初公開した。

 縦81・4センチ、横143・2センチの大作。京都御所に公家が参内する公家門=宜秋(ぎしゅう)門=の門前を舞台に、洋式の武装をした宇和島藩の兵士や、頭に白いかぶり物、手に棍棒(こんぼう)を握り、腰に刀を差した本願寺の僧の集団、新政府軍の優勢を伝え聞いてあわてて参内する公家の様子などが描かれる。

 門前には大砲3門が並び、仮小屋の屯所が造営されている。南の方角では、下鳥羽(しもとば)付近の戦闘の炎のためか、空が赤く染まっていく様子や、戦況を知らせる早馬の駆けていく様子も描かれ、見ている者に戦争勃発直後の緊迫感と高揚感が伝わってくる。

 作者の小波魚青は、宇和島藩の砲術指南役の家に生まれた。幕末に京都で四条派の長谷川玉峰(ぎょくほう)に師事して絵を学んでいた際、鳥羽・伏見の戦いが勃発し、現場に居合わせたとみられる。

 星野さんは「戊辰戦争の動向を記録した文書は多いが、そのときの情景を描いた絵画はほとんどない。装束や馬のあぶみまで細かく描き分けられ、四条派に学んだ画家らしく、考証を重ね写実を追究している」と指摘する。

 高木さんによれば、この絵は、明治23(1890)年に東京であった第3回内国勧業博覧会に出品され褒状(ほうじょう)を授与された。前年の明治憲法発布に伴って大赦があり、戊辰戦争で「賊軍」とされた幕府や会津藩、仙台藩などの罪が許された時点で発表されたことになる。「戊辰戦争から20年以上たって、ようやく維新や近い過去の歴史を自由に語ることができるようになったのではないか」

 宇和島藩は幕末、倒幕を推し進める薩摩藩と長州藩に「公議」を無視すると反発しつつ、官軍側として戊辰戦争に参加。だが、維新後は藩閥政府に置き去りにされた。

 高木さんは「維新に乗り遅れながらも、宇和島藩も一貫して勤王の立場で、重要な役割を果たしたと主張する意図も読み取れる。日本に歴史画というジャンルが成立していくなかで、歴史が転回する場面を迫真の描写で描いた優れた歴史画の大作だ」と話す。

 作品は、11月25日まで京都文化博物館(075・222・0888)で開催中の特別展「華ひらく皇室文化―明治宮廷を彩る技と美」で展示される。(久保智祥)
チケット頑張って確保したので千穐楽ではありますが3階の1列目と2列目で見ました。

渡辺保の十月歌舞伎評

和角仁の「歌舞伎座」辛口寸評 十月歌舞伎座

中村勘三郎さん七回忌 藤十郎、海老蔵ら1200人…勘九郎「父に会いたい」

(評・舞台)歌舞伎座「芸術祭十月大歌舞伎」 夢の名残告げる、洗練の侠気

 私は中村勘三郎さんの舞台に間に合わなかった、遅れてきた歌舞伎ファンだった(立川談志の落語に間に合わなかった、遅れてきた落語ファンであるのと同様に)。実は、新歌舞伎座になって、60才過ぎた勘三郎さんを見るのが楽しみだった。そして「助六」は50代ではまだ早いと思って舞台にかけていなかったそうだ。
 七回忌追善にあたって、十七世勘三郎が助六を教わった仁左様が助六をやった。生きていたら十八世に教えてあげるつもりだったのを、長男の勘九郎に伝える。
 玉三郎は七之助と児太郎を揚巻役者に育てるのだろう。

 長い舞台だったけど、そこかしこに亡き勘三郎さんへの愛が満ちていた。特に、かつて勘三郎さんが得意にしていた粋人をやった彌十郎さんは、花道で、まるで亡き勘三郎さんに語りかけるようにセリフをうたった。泣けた。

 酒呑童子と義経千本桜の勘九郎もよかった。七さんはお嬢吉三、宗吾の妻おさん、揚巻と違うタイプの女性を演じた。私的には七さんはコクーン歌舞伎『三人吉三』お嬢吉三『阿弖流爲』廓噺山名屋浦里と鈴鹿と『廓噺山名屋浦里』の浦里と『野田版桜の森の満開の下』夜長姫と『マハーバーラタ戦記』鶴妖朶王女がいいなぁ。どうも時代ものの作品だと七さんの強い女属性とか魔性の女属性が出てこない。


山形
「戊辰」150年の山形/上 悲劇の中老、吉田大八が「奨励」 侍窮乏、天童の駒生む 「コマノミクス」のもとに /山形
 「ギネス世界記録達成です!」--。将棋の同時対局数で世界最多を目指し、天童市で14日に開かれたイベント「二千局盤来」で記録達成が告げられると、参加者や関係者から拍手がわき起こった。

 天童が元気だ。一時、落ち込んでいた将棋駒産業が「ふるさと納税」を生かした振興策で復調し、近年の将棋ブームで追い風も吹く。天童商工会義所などは将棋駒を軸に「コマノミクス」と名付けた地域振興策を展開。縦横6マスの「66将棋」や将棋をモチーフにした新商品などが続々と登場している。この伝統産業は、1868年に始まった戊辰(ぼしん)戦争とも関わりがある。

 江戸時代末期、織田信長の次男・信雄を祖先に持つ織田家が天童を治めていた。天童郷土研究会長の湯村章男…
「戊辰」150年の山形/中 今なお息づく進取の気性 熱意「教育県」の礎に 明治以降、各界に人材輩出 /山形
 「隆盛の精神を残していただいて感謝している。庄内に来るたびに、固い絆に胸が熱くなる」--。西郷隆盛のひ孫、吉太郎さん(71)は9月30日、鶴岡市文化会館での講演で感謝の言葉を述べた。

 1868年に始まった戊辰(ぼしん)戦争で新政府軍と戦った庄内藩に対し、降伏後のきわめて寛大な処分は西郷によるものとされる。以来、庄内藩士が西郷を訪ねるなど絆を深め、西郷の考えや思いを「南洲翁遺訓」にまとめて全国に広めた。庄内藩士が培った精神は脈々と受け継がれ、市教育委員会は2012年発行の冊子「親子で楽しむ庄内論語」を、市内の小学校で入学時に配布している。

 中山町立長崎小学校には10月5日、隆盛の弟・従道の玄孫・真悠子さん(23)の姿があった。同町は西郷…
「戊辰」150年の山形/下 岐路に立つ山形市中心市街地 重層性生かし活性化へ 三島通庸が築いた基本構造 /山形
 山形市霞城町で9月22日、山形城跡「霞城公園」内の国重要文化財「旧済生館本館」の建物見学会が開かれた。1878年に薩摩藩出身の初代県令、三島通庸が山形の近代化を図ろうと、病院として整備した擬洋風建築だ。見学会の講師を務めた歴史研究家、小形利彦さん(71)が「三島県令はこの建物を造るとき、(県内の)各郡で一番良い木を出させた。組み合わせてフロアにしたんですね」と解説すると、参加者から「ほぉー」と感嘆の声が上がった。

 幕末に小規模藩だった山形藩。戊辰(ぼしん)戦争当初は新政府軍に従っていたが、後に東北諸藩とともに新…
 以下は毎日新聞の有料版にて。

福島
武器の差から見る「戊辰戦争」 西軍との圧倒的な戦力差あった
 二本松市戊辰150年事業の二本松戊辰戦争歴史シンポジウムは13日、同市で開かれた。「数学者が見た二本松戦争」の著者渡部由輝さんが基調講演し、兵器の性能を示す数字などを基に二本松における戊辰戦争の模様を解き明かした。

 渡部さんは「二本松戦争では、2時間ほどの戦いで二本松藩は500人の出兵のうち330人以上が戦死した。比べて西軍の戦死者は3000人のうち10人ほどだ」と悲惨な状況を示し、二本松軍と西軍との圧倒的な戦力差はいかんともしがたかったとした。

 武器性能の差を示す事例として渡部さんは、西軍の銃が飛距離で約2倍、1分間の発砲回数でも5倍以上上回っていたと指摘。大砲の砲弾も砲丸のような弾が飛ぶだけの二本松軍に比べ、西軍は着弾後数片に砕け、小銃弾が飛び出すなど殺傷能力が桁違いだったとも語った。

 二本松少年隊について、渡部さんは「主に砲兵隊に配属され、熱を持った砲筒を冷やすため水を掛けるなど補助的な役割を担っていた」と話し、当時使用の有煙火薬により大砲から上がった煙を西軍から狙い撃ちされ、死傷者が出たとした。

 引き続き、「白河・棚倉・三春における戊辰戦争―白河から二本松、それぞれの信義」と題したシンポジウムが行われ、白河市、三春町、二本松市の歴史、文化関係の業務に就く職員、調査審議機関関係者が白河、棚倉、三春、二本松各藩と戊辰戦争との関わりを史実に沿って述べ、討論した。
京都
戊辰戦争勃発時の京都御所 絵が伝える緊迫感と高揚感
 戊辰(ぼしん)戦争の発端となった鳥羽・伏見の戦いが勃発した慶応4(1868)年正月3日夜の京都御所の様子を描いた絵がみつかり、京都文化博物館(京都市中京区)で展示されている。歴史が転回する緊迫の場面を精細に活写し、専門家によれば、美術的にも資料的にも貴重な作品という。

 作品は、四国・宇和島藩出身で、明治時代に長崎で活動した画家の小波魚青(こなみぎょせい)が描いた「戊辰之役之図(ぼしんのえきのず)」。近代画家の発掘で知られる星野画廊(京都市東山区)の星野桂三社長が入手し、京都大学人文科学研究所の高木博志教授(日本近代史)らと調査し、昨秋に画廊で初公開した。

 縦81・4センチ、横143・2センチの大作。京都御所に公家が参内する公家門=宜秋(ぎしゅう)門=の門前を舞台に、洋式の武装をした宇和島藩の兵士や、頭に白いかぶり物、手に棍棒(こんぼう)を握り、腰に刀を差した本願寺の僧の集団、新政府軍の優勢を伝え聞いてあわてて参内する公家の様子などが描かれる。

 門前には大砲3門が並び、仮小屋の屯所が造営されている。南の方角では、下鳥羽(しもとば)付近の戦闘の炎のためか、空が赤く染まっていく様子や、戦況を知らせる早馬の駆けていく様子も描かれ、見ている者に戦争勃発直後の緊迫感と高揚感が伝わってくる。

 作者の小波魚青は、宇和島藩の砲術指南役の家に生まれた。幕末に京都で四条派の長谷川玉峰(ぎょくほう)に師事して絵を学んでいた際、鳥羽・伏見の戦いが勃発し、現場に居合わせたとみられる。

 星野さんは「戊辰戦争の動向を記録した文書は多いが、そのときの情景を描いた絵画はほとんどない。装束や馬のあぶみまで細かく描き分けられ、四条派に学んだ画家らしく、考証を重ね写実を追究している」と指摘する。

 高木さんによれば、この絵は、明治23(1890)年に東京であった第3回内国勧業博覧会に出品され褒状(ほうじょう)を授与された。前年の明治憲法発布に伴って大赦があり、戊辰戦争で「賊軍」とされた幕府や会津藩、仙台藩などの罪が許された時点で発表されたことになる。「戊辰戦争から20年以上たって、ようやく維新や近い過去の歴史を自由に語ることができるようになったのではないか」

 宇和島藩は幕末、倒幕を推し進める薩摩藩と長州藩に「公議」を無視すると反発しつつ、官軍側として戊辰戦争に参加。だが、維新後は藩閥政府に置き去りにされた。

 高木さんは「維新に乗り遅れながらも、宇和島藩も一貫して勤王の立場で、重要な役割を果たしたと主張する意図も読み取れる。日本に歴史画というジャンルが成立していくなかで、歴史が転回する場面を迫真の描写で描いた優れた歴史画の大作だ」と話す。

 作品は、11月25日まで京都文化博物館(075・222・0888)で開催中の特別展「華ひらく皇室文化―明治宮廷を彩る技と美」で展示される。(久保智祥)

大阪
【維新150年 大阪の痕跡を歩く】くじ引きで選ばれた切腹「堺事件」
 南海堺駅を下り、土居川沿いを堺旧港に向かって歩く。工場だった跡地にはホテルやマンションが建ち、水門の向こうに大浜公園と旧堺燈台(とうだい)が見える。堺魚市場近くの水辺の一角に、「堺事件」の顕彰碑(堺市堺区栄橋町)が建ち、碑文に「明治初年仏人撃攘(げきじょう)処」とある。

 阪堺妙国寺前駅から東に徒歩5分ほどの「妙国寺」(堺市堺区材木町東)。織田信長ゆかりの“夜泣きの蘇鉄(そてつ)”で知られる名刹(めいさつ)に2基の供養塔がある。土佐藩士11人と、藩士に殺害されたフランス兵11人。時代が大きく動いた混乱のなかの悲劇を今に伝えている。

 慶応4(1868)年1月、鳥羽伏見の戦いで敗れた旧幕府軍が瓦解(がかい)し、江戸に潰走(かいそう)した。炎上した大坂城から白煙が漂っていた頃、新政府は“無政府状態”になった大坂に薩長芸3藩の藩兵を置く一方、堺には土佐藩の2個小隊73人が派遣され、治安維持を担った。

 事件は2月15日夕、勃発した。堺港に停泊していた仏軍艦から士官と水兵約30人が無許可で上陸。騒ぎながら市中を歩き回ったため、通報を受けた藩兵が急行した。無断上陸をとがめ、船に帰るよう命じたが、言葉が通じない。そのうち水兵1人が隊旗を奪って逃げたため藩兵が発砲。銃で反撃しながらボートで逃げる仏兵に一斉射撃したのだった。

 この衝突で仏兵11人が死亡したことを受け、仏公使ロッシュは在坂の各国公使とともに賠償金のほか、土佐藩士全員の処罰を要求。新政府は20人を切腹させることで決着を図ろうとしたが、これが第二の悲劇の始まりだった。

 土佐藩士は大坂・西長堀の藩邸で取り調べを受け、29人が発砲を認めた。切腹するのは20人で、くじ引きで決めることに。小隊長ら幹部4人が辞退したため、25人の中から16人が「切腹」のくじを引いた。


 2月23日午後4時、切腹は堺・妙国寺で行われた。境内(けいだい)に敷かれた2枚の畳に白布、赤毛氈(もうせん)がのべられ、三方(さんぽう)の上には短刀が置かれた。仏軍艦艦長らが立ち会う中で次々に切腹していく藩士たち。粛々と続き、やがて12番目の藩士が座についたとき、突然、艦長が中止を申し入れた。

 その理由をめぐり、さまざまな臆測を呼んだ。「ハラキリ」という凄惨(せいさん)な光景に仏側が堪えられなかったこと、暗くなり、不測の事態(帰途の報復)をおそれたこと、死者と処刑者が同数になったこと-。仏側の記録では「処刑によって犯罪者が英雄視されるのを許さなかった」ともある。

 では、薩長土の新政府はなぜ屈したのか。

 新政府は鳥羽伏見の戦いの直後、「外国事務局」を京に置いた。もはや“攘夷”ではなかったのだ。が、「開国」という旧幕府の外交政策を引き継ぐための体制がまだ十分にできていなかった。

 それに、当時は旧幕府側との最終決戦が迫っていた時期。外国、特に旧幕府とも近しいフランスと事を構えれば、新政府が崩壊する危険すらある。

 一方、世情はいまだ「攘夷論」が過熱していた。薩長土は攘夷を盾に幕府を倒したが、それは倒幕の口実にすぎなかった。新政府の旧幕府以上の「腰抜け」ぶりがバレれば、新たな反政府運動につながる恐れもあった。

 新政府はただ狼狽(ろうばい)するしかなかったのである。

   
× × ×

 大阪メトロ西長堀駅を出たところにある鰹座橋(かつおざばし)交差点。その南西側、現在の大阪市立中央図書館を含む広大な敷地に、土佐藩の藩邸と蔵屋敷があった。江戸時代から桜の名所として知られ、満開の頃には市民にも開放されたという。

 藩邸内の土佐稲荷神社(大阪市西区北堀江)だけが今も鎮座する。20人の運命を分けたくじ引きはこの境内で行われたとされる。
 では、薩長土の新政府はなぜ屈したのか。

 新政府は鳥羽伏見の戦いの直後、「外国事務局」を京に置いた。もはや“攘夷”ではなかったのだ。が、「開国」という旧幕府の外交政策を引き継ぐための体制がまだ十分にできていなかった。

 それに、当時は旧幕府側との最終決戦が迫っていた時期。外国、特に旧幕府とも近しいフランスと事を構えれば、新政府が崩壊する危険すらある。

 一方、世情はいまだ「攘夷論」が過熱していた。薩長土は攘夷を盾に幕府を倒したが、それは倒幕の口実にすぎなかった。新政府の旧幕府以上の「腰抜け」ぶりがバレれば、新たな反政府運動につながる恐れもあった。


 新政府はただ狼狽(ろうばい)するしかなかったのである。

   
× × ×

 大阪メトロ西長堀駅を出たところにある鰹座橋(かつおざばし)交差点。その南西側、現在の大阪市立中央図書館を含む広大な敷地に、土佐藩の藩邸と蔵屋敷があった。江戸時代から桜の名所として知られ、満開の頃には市民にも開放されたという。

 藩邸内の土佐稲荷神社(大阪市西区北堀江)だけが今も鎮座する。20人の運命を分けたくじ引きはこの境内で行われたとされる。

 本殿の唐破風(からはふ)をはじめ、賽銭(さいせん)箱や灯籠など、至るところに三菱のシンボル「スリーダイヤ」の紋がある。明治初め、同藩の岩崎弥太郎が藩の借金とともに藩屋敷を払い下げられたのを機に起業したというグループ発祥の地でもある。(今村義明)

   


 ■慶応4年の攘夷事件 慶応4(1868)年1月11日、神戸で備前藩兵の隊列を横切ったフランス兵を槍で制止したことから仏、英、米の警備兵との銃撃戦に発展。2人が軽傷を負い、備前藩の責任者1人が切腹した。2月末、英公使パークスが明治天皇に謁見するため宿舎から御所に向かう途中、攘夷派浪士2人に襲われ、英兵9人が負傷。浪士1人が討たれ、1人は捕縛後処刑された。
毎月恒例の観劇は昼の部夜の部とも来週チケット押さえているのだけど、友人が「チケット持ってる叔母さんが行けなくなって」と誘ってくれた2階席。株主招待券でチケット取れるけど今月は夜の部が取れない、そりゃそうです仁左さまの助六ですから。

 でも昼の部もなかなかです。

 本格的な感想はまた来週。

 三人吉三で七さんがお嬢吉三なのは眼福だったし。

 酒呑童子の勘九郎さんは前半本当に童子に見えたし。

 佐倉宗吾は、子別れの場面がちょっと長いかな……勘三郎さんだったらどんなだったろう……。
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