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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
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チケット頑張って確保したので千穐楽ではありますが3階の1列目と2列目で見ました。

渡辺保の十月歌舞伎評

和角仁の「歌舞伎座」辛口寸評 十月歌舞伎座

中村勘三郎さん七回忌 藤十郎、海老蔵ら1200人…勘九郎「父に会いたい」

(評・舞台)歌舞伎座「芸術祭十月大歌舞伎」 夢の名残告げる、洗練の侠気

 私は中村勘三郎さんの舞台に間に合わなかった、遅れてきた歌舞伎ファンだった(立川談志の落語に間に合わなかった、遅れてきた落語ファンであるのと同様に)。実は、新歌舞伎座になって、60才過ぎた勘三郎さんを見るのが楽しみだった。そして「助六」は50代ではまだ早いと思って舞台にかけていなかったそうだ。
 七回忌追善にあたって、十七世勘三郎が助六を教わった仁左様が助六をやった。生きていたら十八世に教えてあげるつもりだったのを、長男の勘九郎に伝える。
 玉三郎は七之助と児太郎を揚巻役者に育てるのだろう。

 長い舞台だったけど、そこかしこに亡き勘三郎さんへの愛が満ちていた。特に、かつて勘三郎さんが得意にしていた粋人をやった彌十郎さんは、花道で、まるで亡き勘三郎さんに語りかけるようにセリフをうたった。泣けた。

 酒呑童子と義経千本桜の勘九郎もよかった。七さんはお嬢吉三、宗吾の妻おさん、揚巻と違うタイプの女性を演じた。私的には七さんはコクーン歌舞伎『三人吉三』お嬢吉三『阿弖流爲』廓噺山名屋浦里と鈴鹿と『廓噺山名屋浦里』の浦里と『野田版桜の森の満開の下』夜長姫と『マハーバーラタ戦記』鶴妖朶王女がいいなぁ。どうも時代ものの作品だと七さんの強い女属性とか魔性の女属性が出てこない。


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山形
「戊辰」150年の山形/上 悲劇の中老、吉田大八が「奨励」 侍窮乏、天童の駒生む 「コマノミクス」のもとに /山形
 「ギネス世界記録達成です!」--。将棋の同時対局数で世界最多を目指し、天童市で14日に開かれたイベント「二千局盤来」で記録達成が告げられると、参加者や関係者から拍手がわき起こった。

 天童が元気だ。一時、落ち込んでいた将棋駒産業が「ふるさと納税」を生かした振興策で復調し、近年の将棋ブームで追い風も吹く。天童商工会義所などは将棋駒を軸に「コマノミクス」と名付けた地域振興策を展開。縦横6マスの「66将棋」や将棋をモチーフにした新商品などが続々と登場している。この伝統産業は、1868年に始まった戊辰(ぼしん)戦争とも関わりがある。

 江戸時代末期、織田信長の次男・信雄を祖先に持つ織田家が天童を治めていた。天童郷土研究会長の湯村章男…
「戊辰」150年の山形/中 今なお息づく進取の気性 熱意「教育県」の礎に 明治以降、各界に人材輩出 /山形
 「隆盛の精神を残していただいて感謝している。庄内に来るたびに、固い絆に胸が熱くなる」--。西郷隆盛のひ孫、吉太郎さん(71)は9月30日、鶴岡市文化会館での講演で感謝の言葉を述べた。

 1868年に始まった戊辰(ぼしん)戦争で新政府軍と戦った庄内藩に対し、降伏後のきわめて寛大な処分は西郷によるものとされる。以来、庄内藩士が西郷を訪ねるなど絆を深め、西郷の考えや思いを「南洲翁遺訓」にまとめて全国に広めた。庄内藩士が培った精神は脈々と受け継がれ、市教育委員会は2012年発行の冊子「親子で楽しむ庄内論語」を、市内の小学校で入学時に配布している。

 中山町立長崎小学校には10月5日、隆盛の弟・従道の玄孫・真悠子さん(23)の姿があった。同町は西郷…
「戊辰」150年の山形/下 岐路に立つ山形市中心市街地 重層性生かし活性化へ 三島通庸が築いた基本構造 /山形
 山形市霞城町で9月22日、山形城跡「霞城公園」内の国重要文化財「旧済生館本館」の建物見学会が開かれた。1878年に薩摩藩出身の初代県令、三島通庸が山形の近代化を図ろうと、病院として整備した擬洋風建築だ。見学会の講師を務めた歴史研究家、小形利彦さん(71)が「三島県令はこの建物を造るとき、(県内の)各郡で一番良い木を出させた。組み合わせてフロアにしたんですね」と解説すると、参加者から「ほぉー」と感嘆の声が上がった。

 幕末に小規模藩だった山形藩。戊辰(ぼしん)戦争当初は新政府軍に従っていたが、後に東北諸藩とともに新…
 以下は毎日新聞の有料版にて。

福島
武器の差から見る「戊辰戦争」 西軍との圧倒的な戦力差あった
 二本松市戊辰150年事業の二本松戊辰戦争歴史シンポジウムは13日、同市で開かれた。「数学者が見た二本松戦争」の著者渡部由輝さんが基調講演し、兵器の性能を示す数字などを基に二本松における戊辰戦争の模様を解き明かした。

 渡部さんは「二本松戦争では、2時間ほどの戦いで二本松藩は500人の出兵のうち330人以上が戦死した。比べて西軍の戦死者は3000人のうち10人ほどだ」と悲惨な状況を示し、二本松軍と西軍との圧倒的な戦力差はいかんともしがたかったとした。

 武器性能の差を示す事例として渡部さんは、西軍の銃が飛距離で約2倍、1分間の発砲回数でも5倍以上上回っていたと指摘。大砲の砲弾も砲丸のような弾が飛ぶだけの二本松軍に比べ、西軍は着弾後数片に砕け、小銃弾が飛び出すなど殺傷能力が桁違いだったとも語った。

 二本松少年隊について、渡部さんは「主に砲兵隊に配属され、熱を持った砲筒を冷やすため水を掛けるなど補助的な役割を担っていた」と話し、当時使用の有煙火薬により大砲から上がった煙を西軍から狙い撃ちされ、死傷者が出たとした。

 引き続き、「白河・棚倉・三春における戊辰戦争―白河から二本松、それぞれの信義」と題したシンポジウムが行われ、白河市、三春町、二本松市の歴史、文化関係の業務に就く職員、調査審議機関関係者が白河、棚倉、三春、二本松各藩と戊辰戦争との関わりを史実に沿って述べ、討論した。
京都
戊辰戦争勃発時の京都御所 絵が伝える緊迫感と高揚感
 戊辰(ぼしん)戦争の発端となった鳥羽・伏見の戦いが勃発した慶応4(1868)年正月3日夜の京都御所の様子を描いた絵がみつかり、京都文化博物館(京都市中京区)で展示されている。歴史が転回する緊迫の場面を精細に活写し、専門家によれば、美術的にも資料的にも貴重な作品という。

 作品は、四国・宇和島藩出身で、明治時代に長崎で活動した画家の小波魚青(こなみぎょせい)が描いた「戊辰之役之図(ぼしんのえきのず)」。近代画家の発掘で知られる星野画廊(京都市東山区)の星野桂三社長が入手し、京都大学人文科学研究所の高木博志教授(日本近代史)らと調査し、昨秋に画廊で初公開した。

 縦81・4センチ、横143・2センチの大作。京都御所に公家が参内する公家門=宜秋(ぎしゅう)門=の門前を舞台に、洋式の武装をした宇和島藩の兵士や、頭に白いかぶり物、手に棍棒(こんぼう)を握り、腰に刀を差した本願寺の僧の集団、新政府軍の優勢を伝え聞いてあわてて参内する公家の様子などが描かれる。

 門前には大砲3門が並び、仮小屋の屯所が造営されている。南の方角では、下鳥羽(しもとば)付近の戦闘の炎のためか、空が赤く染まっていく様子や、戦況を知らせる早馬の駆けていく様子も描かれ、見ている者に戦争勃発直後の緊迫感と高揚感が伝わってくる。

 作者の小波魚青は、宇和島藩の砲術指南役の家に生まれた。幕末に京都で四条派の長谷川玉峰(ぎょくほう)に師事して絵を学んでいた際、鳥羽・伏見の戦いが勃発し、現場に居合わせたとみられる。

 星野さんは「戊辰戦争の動向を記録した文書は多いが、そのときの情景を描いた絵画はほとんどない。装束や馬のあぶみまで細かく描き分けられ、四条派に学んだ画家らしく、考証を重ね写実を追究している」と指摘する。

 高木さんによれば、この絵は、明治23(1890)年に東京であった第3回内国勧業博覧会に出品され褒状(ほうじょう)を授与された。前年の明治憲法発布に伴って大赦があり、戊辰戦争で「賊軍」とされた幕府や会津藩、仙台藩などの罪が許された時点で発表されたことになる。「戊辰戦争から20年以上たって、ようやく維新や近い過去の歴史を自由に語ることができるようになったのではないか」

 宇和島藩は幕末、倒幕を推し進める薩摩藩と長州藩に「公議」を無視すると反発しつつ、官軍側として戊辰戦争に参加。だが、維新後は藩閥政府に置き去りにされた。

 高木さんは「維新に乗り遅れながらも、宇和島藩も一貫して勤王の立場で、重要な役割を果たしたと主張する意図も読み取れる。日本に歴史画というジャンルが成立していくなかで、歴史が転回する場面を迫真の描写で描いた優れた歴史画の大作だ」と話す。

 作品は、11月25日まで京都文化博物館(075・222・0888)で開催中の特別展「華ひらく皇室文化―明治宮廷を彩る技と美」で展示される。(久保智祥)

大阪
【維新150年 大阪の痕跡を歩く】くじ引きで選ばれた切腹「堺事件」
 南海堺駅を下り、土居川沿いを堺旧港に向かって歩く。工場だった跡地にはホテルやマンションが建ち、水門の向こうに大浜公園と旧堺燈台(とうだい)が見える。堺魚市場近くの水辺の一角に、「堺事件」の顕彰碑(堺市堺区栄橋町)が建ち、碑文に「明治初年仏人撃攘(げきじょう)処」とある。

 阪堺妙国寺前駅から東に徒歩5分ほどの「妙国寺」(堺市堺区材木町東)。織田信長ゆかりの“夜泣きの蘇鉄(そてつ)”で知られる名刹(めいさつ)に2基の供養塔がある。土佐藩士11人と、藩士に殺害されたフランス兵11人。時代が大きく動いた混乱のなかの悲劇を今に伝えている。

 慶応4(1868)年1月、鳥羽伏見の戦いで敗れた旧幕府軍が瓦解(がかい)し、江戸に潰走(かいそう)した。炎上した大坂城から白煙が漂っていた頃、新政府は“無政府状態”になった大坂に薩長芸3藩の藩兵を置く一方、堺には土佐藩の2個小隊73人が派遣され、治安維持を担った。

 事件は2月15日夕、勃発した。堺港に停泊していた仏軍艦から士官と水兵約30人が無許可で上陸。騒ぎながら市中を歩き回ったため、通報を受けた藩兵が急行した。無断上陸をとがめ、船に帰るよう命じたが、言葉が通じない。そのうち水兵1人が隊旗を奪って逃げたため藩兵が発砲。銃で反撃しながらボートで逃げる仏兵に一斉射撃したのだった。

 この衝突で仏兵11人が死亡したことを受け、仏公使ロッシュは在坂の各国公使とともに賠償金のほか、土佐藩士全員の処罰を要求。新政府は20人を切腹させることで決着を図ろうとしたが、これが第二の悲劇の始まりだった。

 土佐藩士は大坂・西長堀の藩邸で取り調べを受け、29人が発砲を認めた。切腹するのは20人で、くじ引きで決めることに。小隊長ら幹部4人が辞退したため、25人の中から16人が「切腹」のくじを引いた。


 2月23日午後4時、切腹は堺・妙国寺で行われた。境内(けいだい)に敷かれた2枚の畳に白布、赤毛氈(もうせん)がのべられ、三方(さんぽう)の上には短刀が置かれた。仏軍艦艦長らが立ち会う中で次々に切腹していく藩士たち。粛々と続き、やがて12番目の藩士が座についたとき、突然、艦長が中止を申し入れた。

 その理由をめぐり、さまざまな臆測を呼んだ。「ハラキリ」という凄惨(せいさん)な光景に仏側が堪えられなかったこと、暗くなり、不測の事態(帰途の報復)をおそれたこと、死者と処刑者が同数になったこと-。仏側の記録では「処刑によって犯罪者が英雄視されるのを許さなかった」ともある。

 では、薩長土の新政府はなぜ屈したのか。

 新政府は鳥羽伏見の戦いの直後、「外国事務局」を京に置いた。もはや“攘夷”ではなかったのだ。が、「開国」という旧幕府の外交政策を引き継ぐための体制がまだ十分にできていなかった。

 それに、当時は旧幕府側との最終決戦が迫っていた時期。外国、特に旧幕府とも近しいフランスと事を構えれば、新政府が崩壊する危険すらある。

 一方、世情はいまだ「攘夷論」が過熱していた。薩長土は攘夷を盾に幕府を倒したが、それは倒幕の口実にすぎなかった。新政府の旧幕府以上の「腰抜け」ぶりがバレれば、新たな反政府運動につながる恐れもあった。

 新政府はただ狼狽(ろうばい)するしかなかったのである。

   
× × ×

 大阪メトロ西長堀駅を出たところにある鰹座橋(かつおざばし)交差点。その南西側、現在の大阪市立中央図書館を含む広大な敷地に、土佐藩の藩邸と蔵屋敷があった。江戸時代から桜の名所として知られ、満開の頃には市民にも開放されたという。

 藩邸内の土佐稲荷神社(大阪市西区北堀江)だけが今も鎮座する。20人の運命を分けたくじ引きはこの境内で行われたとされる。
 では、薩長土の新政府はなぜ屈したのか。

 新政府は鳥羽伏見の戦いの直後、「外国事務局」を京に置いた。もはや“攘夷”ではなかったのだ。が、「開国」という旧幕府の外交政策を引き継ぐための体制がまだ十分にできていなかった。

 それに、当時は旧幕府側との最終決戦が迫っていた時期。外国、特に旧幕府とも近しいフランスと事を構えれば、新政府が崩壊する危険すらある。

 一方、世情はいまだ「攘夷論」が過熱していた。薩長土は攘夷を盾に幕府を倒したが、それは倒幕の口実にすぎなかった。新政府の旧幕府以上の「腰抜け」ぶりがバレれば、新たな反政府運動につながる恐れもあった。


 新政府はただ狼狽(ろうばい)するしかなかったのである。

   
× × ×

 大阪メトロ西長堀駅を出たところにある鰹座橋(かつおざばし)交差点。その南西側、現在の大阪市立中央図書館を含む広大な敷地に、土佐藩の藩邸と蔵屋敷があった。江戸時代から桜の名所として知られ、満開の頃には市民にも開放されたという。

 藩邸内の土佐稲荷神社(大阪市西区北堀江)だけが今も鎮座する。20人の運命を分けたくじ引きはこの境内で行われたとされる。

 本殿の唐破風(からはふ)をはじめ、賽銭(さいせん)箱や灯籠など、至るところに三菱のシンボル「スリーダイヤ」の紋がある。明治初め、同藩の岩崎弥太郎が藩の借金とともに藩屋敷を払い下げられたのを機に起業したというグループ発祥の地でもある。(今村義明)

   


 ■慶応4年の攘夷事件 慶応4(1868)年1月11日、神戸で備前藩兵の隊列を横切ったフランス兵を槍で制止したことから仏、英、米の警備兵との銃撃戦に発展。2人が軽傷を負い、備前藩の責任者1人が切腹した。2月末、英公使パークスが明治天皇に謁見するため宿舎から御所に向かう途中、攘夷派浪士2人に襲われ、英兵9人が負傷。浪士1人が討たれ、1人は捕縛後処刑された。
毎月恒例の観劇は昼の部夜の部とも来週チケット押さえているのだけど、友人が「チケット持ってる叔母さんが行けなくなって」と誘ってくれた2階席。株主招待券でチケット取れるけど今月は夜の部が取れない、そりゃそうです仁左さまの助六ですから。

 でも昼の部もなかなかです。

 本格的な感想はまた来週。

 三人吉三で七さんがお嬢吉三なのは眼福だったし。

 酒呑童子の勘九郎さんは前半本当に童子に見えたし。

 佐倉宗吾は、子別れの場面がちょっと長いかな……勘三郎さんだったらどんなだったろう……。
いまだに『新選組!』の劇伴がドキュメンタリー(どちらかというと旅行とかグルメ番組が多いかも)で流れたりすると、心が2014年に引き戻されます。

福島
容保公の「宿札」初公開 若松 戊辰七回忌出席裏付け
 幕末の会津藩主松平容保公が一八七四(明治七)年に現在の会津美里町の関山宿に宿泊した際の「宿札」が十日、会津若松市歴史資料センター「まなべこ」で初公開された。容保公が戊辰戦争七回忌法要のため会津若松に赴き、その帰路に関山宿の有力者宅に泊まった際に掲げられたとみられる。
 市文化課によると文献で記録された容保公の七回忌法要出席が物品で裏付けられたのは初めてで「戊辰殉難者の追悼に関わる貴重な資料」としている。
 宿札は縦六十一センチ、幅一九・六センチ、厚さ一センチの木板。「芳山(容保公が藩主を辞してからの名)様 御寓」と記されている。
 記録では容保公は四月末に東京を出発し白河などで戦死者の墓参りをしながら五月初旬に会津若松に到着した。阿弥陀寺で営まれた七回忌法要などに出席し、帰路の六月初旬に関山宿に宿泊した。
 宿札は常設展展示替えに際し、所有者から借りて紹介している。常設展は戊辰戦争後に焦点を当てており、明治時代に活躍した会津の人物などを紹介している。来年一月二十日まで。観覧は午前九時から午後五時。無料。月曜日と年末年始は休館。問い合わせはまなべこ 電話0242(27)2705へ。

戊辰の経緯を考察 猪苗代で歴史講演会
 福島民報社は七日、戊辰戦争から百五十年にちなむ歴史講演会を猪苗代町の野口英世至誠館で開いた。県内各地で開いている歴史出前講座の一環。猪苗代地方史研究会長の江花俊和氏、県立博物館学芸員の栗原祐斗氏が講師を務め、県内外から約八十人が訪れた。
 江花氏は会津戦争の緒戦として町内が舞台となった母成峠の戦いを解説した。新政府軍は早期決戦に向け、天然の要害である母成峠の守備が手薄と考えて進撃したと説明した。
 栗原氏は県立博物館で開催中の企画展の新資料に基づき戊辰戦争を振り返った。会津藩祖・保科正之公(土津様)に報告した文書である「土津神社告文(つげぶみ)」では、鳥羽・伏見の戦いは薩摩藩の発砲から戦端が開かれたとしており、会津藩から見た開戦の経緯などを紹介した。
 福島民報社は明治時代の紙面や戊辰戦争に関する資料を展示した。

■福島民報社歴史講演会 21日は郡山で
 幕末の郡山市について学ぶ福島民報社の歴史講演会は二十一日午後一時から郡山市の郡山女子大芸術館で開かれる。
 郷土史家の遠藤教之氏が「戊辰戦争百五十年 水戸藩御連枝・守山藩を尋ねて-勤皇家・遠藤無位を視座として」、郡山女子大短期大学部地域創成学科講師の佐藤愛未氏が「戊辰戦争と郡山」と題して語る。
 既に聴講を先着順で受け付けている。定員百五十人。聴講は無料。郵便番号、住所、氏名、電話番号(複数での申し込みは代表者の連絡先と全員の住所、氏名)を記し、はがき、ファクス、メールのいずれかで申し込む。はがきは郵便番号960-8602 福島市太田町一三ノ一七 福島民報社地域交流局 出前講座「郡山会場」係へ。ファクスは024(531)4117。メールはchiiki@fukushima-minpo.co.jp
 問い合わせは電話024(531)4145。平日の午前十時から午後五時まで受け付ける(電話での聴講申し込みは不可)。

斎藤一ファンら焼香 阿弥陀寺会津新選組まつり
 第十五回会津新選組まつりは二十四日、会津若松市の阿弥陀寺で繰り広げられた。新選組幹部で戊辰戦争で戦った斎藤一の法要が墓前で営まれた。
 斎藤一や新選組のファンら約二百人が参列した。地元の七日町通りまちなみ協議会の渋川恵男会長があいさつし、会津新選組まつり実行委員会の佐藤功武委員長が「不屈の会津魂を後世に引き継ぐために力を尽くしたい」と祭文を読み上げた。
 斎藤一のひ孫に当たる藤田太郎さん(さいたま市)が「墓前祭が長く続いてほしいと願っている」と述べた。
 無外流居合道連盟宝祥会の会員が居合を奉納した後、参列者が次々と焼香した。


新選組赤べこ」参上!背中に『誠』の文字 会津若松で販売
背中に「誠」の文字が大きく書かれた羽織を着た「新選組赤べこ」が会津若松市七日町の七日町観光案内所で販売され、ファンの人気を集めている。

 新選組は会津藩主・松平容保(かたもり)が京都の治安を守る京都守護職を務めた際、会津藩預かりとなり、戊辰戦争でも会津藩などと共に戦った。

 新選組赤べこは1体2200円(税込み)で、ゲームのキャラクターにちなんだバージョンもある。阿弥陀寺で新選組の一員、斎藤一をしのぶ墓前祭が行われた際も、大勢が購入したという。

 通常バージョンはインターネット販売も行っている。問い合わせは同案内所へ。



新潟
戊辰戦争150年 犠牲の藩士ら思う新発田 追善供養と講演会
 戊辰戦争から150年。新発田市では7日、犠牲となった藩士らの追善供養と講演が行われた。村上市でも城下を戦禍から守った家老の法要が営まれ、三条市では戦争中に自殺した勤王画家の作品展が開かれている。各地で市民らが、歴史に翻弄(ほんろう)された先人に思いをはせた。

 追善供養が行われた宝光寺(新発田市諏訪町2)は、新発田藩主・溝口家の菩提寺。境内には、1894(明治27)年、藩時代の重臣ら有志が犠牲者を供養しようと建てた「戊辰殉難追悼之碑」がある。碑には藩士ら84人の名が刻まれている。

 7日は本堂で寺崎敬道住職らが読経し、参加した約70人が、戦争で亡くなった人たちに手を合わせた。その後、新発田古文書解読研修会の鈴木博さん(77)が講演した。

 鈴木さんは、新発田で最も激戦となった同市赤谷付近の「角石原の戦い」について「雨で視界が悪く、どちらの軍かも見分けが付かないような悲惨な戦いだった」と説明。犠牲者の名前や亡くなった場所の一覧を資料で示しながら、「今の新発田市周辺だけでなく、長岡城をめぐる攻防や庄内方面の戦いなど、さまざまな場所で犠牲になった」と語った。

 市内から訪れた70代の主婦は「地元のことでも知らないことが多い。あらためて勉強したい」と話した。



「高田の人々の恩情に感謝」 戊辰戦争150年で会津藩士の子孫らが金谷山に墓参
戊辰戦争150年に合わせて、新潟県上越市の金谷山にある会津墓地に2018年10月11日、福島県会津若松市から会津藩士の子孫らが訪れた。雨の中、戊辰戦争に敗れ高田藩に預けられたまま死亡した会津藩士68人の墓に手を合わせた=写真=。

会津墓参団

1869年(明治2年)、戊辰戦争に敗れた旧幕府軍の会津藩士1742人が新政府軍の榊原家高田藩に預かりの身となった。当時、高田藩は財政がひっ迫していたが、藩士が謹慎した寺々に炊事場や浴場などを設け、生活用品一式を用意し、医師も付けるなどして厚遇した。しかし、藩士らは戦場での傷病や厳冬の長旅で体を壊し、約1年の謹慎中に68人が死亡。高田の人々は死亡した藩士を手厚く葬り、現在は地元住民や「旧高田藩和親会」が墓地を管理し守り続けている。

上越市の金谷山にある会津墓地
会津墓地

会津墓地を墓参したのは、会津若松市の歴史研究会「会津史談会」(成田勝義会長)の会員ら26人で、墓に眠る会津藩士の子孫も参加した。節目の年にあたり、長岡市や小千谷市など、戊辰戦争における会津藩ゆかりの本県の地を巡る現地研修会として訪れた。同会の墓参は2年ぶり。

会員らは墓に花と線香を手向けた後、読経の中、順に焼香し手を合わせた。井上昌成副会長(83)は「高田の人々の恩情に感謝する」などと追悼文を読み上げ、「150回忌に墓参でき感無量。会津の先人の苦労を偲んでお参りをさせてもらった。上越の皆さんとは今後も仲良くしていきたい」と語った。

一行は12日は、会津藩士が謹慎していた寺町の寺院や戊辰戦争の特別展が開催されている市立歴史博物館を訪問し、帰路につく予定。
 
京都
戊辰戦争勃発時の京都御所 絵が伝える緊迫感と高揚感
 戊辰(ぼしん)戦争の発端となった鳥羽・伏見の戦いが勃発した慶応4(1868)年正月3日夜の京都御所の様子を描いた絵がみつかり、京都文化博物館(京都市中京区)で展示されている。歴史が転回する緊迫の場面を精細に活写し、専門家によれば、美術的にも資料的にも貴重な作品という。

 作品は、四国・宇和島藩出身で、明治時代に長崎で活動した画家の小波魚青(こなみぎょせい)が描いた「戊辰之役之図(ぼしんのえきのず)」。近代画家の発掘で知られる星野画廊(京都市東山区)の星野桂三社長が入手し、京都大学人文科学研究所の高木博志教授(日本近代史)らと調査し、昨秋に画廊で初公開した。

 縦81・4センチ、横143・2センチの大作。京都御所に公家が参内する公家門=宜秋(ぎしゅう)門=の門前を舞台に、洋式の武装をした宇和島藩の兵士や、頭に白いかぶり物、手に棍棒(こんぼう)を握り、腰に刀を差した本願寺の僧の集団、新政府軍の優勢を伝え聞いてあわてて参内する公家の様子などが描かれる。

 門前には大砲3門が並び、仮小屋の屯所が造営されている。南の方角では、下鳥羽(しもとば)付近の戦闘の炎のためか、空が赤く染まっていく様子や、戦況を知らせる早馬の駆けていく様子も描かれ、見ている者に戦争勃発直後の緊迫感と高揚感が伝わってくる。

 作者の小波魚青は、宇和島藩の砲術指南役の家に生まれた。幕末に京都で四条派の長谷川玉峰(ぎょくほう)に師事して絵を学んでいた際、鳥羽・伏見の戦いが勃発し、現場に居合わせたとみられる。

 星野さんは「戊辰戦争の動向を記録した文書は多いが、そのときの情景を描いた絵画はほとんどない。装束や馬のあぶみまで細かく描き分けられ、四条派に学んだ画家らしく、考証を重ね写実を追究している」と指摘する。

 高木さんによれば、この絵は、明治23(1890)年に東京であった第3回内国勧業博覧会に出品され褒状(ほうじょう)を授与された。前年の明治憲法発布に伴って大赦があり、戊辰戦争で「賊軍」とされた幕府や会津藩、仙台藩などの罪が許された時点で発表されたことになる。「戊辰戦争から20年以上たって、ようやく維新や近い過去の歴史を自由に語ることができるようになったのではないか」

 宇和島藩は幕末、倒幕を推し進める薩摩藩と長州藩に「公議」を無視すると反発しつつ、官軍側として戊辰戦争に参加。だが、維新後は藩閥政府に置き去りにされた。

 高木さんは「維新に乗り遅れながらも、宇和島藩も一貫して勤王の立場で、重要な役割を果たしたと主張する意図も読み取れる。日本に歴史画というジャンルが成立していくなかで、歴史が転回する場面を迫真の描写で描いた優れた歴史画の大作だ」と話す。

 作品は、11月25日まで京都文化博物館(075・222・0888)で開催中の特別展「華ひらく皇室文化―明治宮廷を彩る技と美」で展示される。(久保智祥)
やっと最高気温30度近い日が終わったようです。台風直後で暑さがぶり返したせいで、今年は秋が短く感じられますね。

秋田
<秋田戊辰戦争150年>仙台藩士の無念思う「賊軍」6人の墓を守る寺、宮城の子孫ら感謝し墓参
 秋田戊辰戦争で戦死した仙台藩士6人が大仙市板見内(いたみない)の霊仙寺に眠っている。寺は賊軍とみなされた6人を手厚く葬り、墓を1世紀半守ってきた。宮城県に住む子孫らは、寺に感謝しながら墓参を続ける。
 高さ約1メートルの墓は参道の傍らにある。刻字は薄れているが「仙臺藩」とあり、佐藤円太夫、佐々木文左衛門、高橋建治、菅野千代治、阿部勝之進、三浦養作と6人の名が彫られている。
 6人は佐沼(登米市)を治めた伊達氏一族の佐沼亘理家の家臣だった。秋田戊辰戦争の当時は20~40代で、奥羽越列藩同盟を離脱した秋田藩(久保田藩)内に攻め込んだ。
 1868年旧暦8月23日、寺から北東約5キロの大仙市太田町国見の街道沿いで「国見の戦い」が起こった。六郷(秋田県美郷町)から北上した同盟軍と、角館(仙北市)から南下した新政府軍が激突。戦いで佐藤ら6人は亡くなり、同盟軍も退却を余儀なくされた。
 同盟軍は新政府軍から賊軍の汚名を着せられていたが、当時の住職は6人に戒名を授けた。寺の過去帳は「子孫が仏事で訪れた際は、丁寧に取り扱うこと」と後代へ書き残している。
 中村秀男住職(79)は「異郷の地で亡くなった6人は、さぞ無念だっただろう」と同情する。盆や彼岸には墓の周りを清め、供え物をして読経を欠かさない。
 登米市の千葉賢一さん(59)は、21歳で戦死した阿部勝之進の妹の子孫に当たる。2013年から毎年墓参りし、今年も8月上旬に親類と寺を訪ねた。「寺には150年間も弔ってもらっている。申し訳なく、本当にありがたい」と話す。

[秋田戊辰戦争]奥羽越列藩同盟からの秋田藩離脱を契機に仙台、庄内、盛岡藩などの同盟軍と新政府軍との間で行われた戦争。秋田藩領などが戦場となった。仙台隊は湯沢、横手、大曲と進軍し、久保田、角館に迫ったが東北南部の戦況悪化により撤退した。
福島
会津若松戊辰戦争150年式典 先人の苦難に思いはせ
 幕末の戊辰(ぼしん)戦争で会津藩が鶴ケ城を降伏開城して150年になる22日、福島県会津若松市城東町の会津風雅堂で記念式典が開かれた。会津にゆかりのある全国の自治体や団体などの関係者ら約500人が参加。会津がたどった歴史の意義を再認識し、戊辰戦争後の苦難の時代を生き抜いた先人たちの歩みをたたえた。

 式典が始まった午後1時半、参加者らは1分間の黙とうをした。同時に市役所本庁舎でサイレンが鳴らされ、会場に来られない市民らも先人らに敬意と感謝を表した。

 室井照平市長は「先人から受け継いだ歴史や伝統を守り、次の世代に語り継ぐのが我々の責任だ」とあいさつ。ゆかりの地を代表して、青森県むつ市の川西伸二副市長が「歴史に裏付けられた両市の思いを後世に伝えることが、先人への報いになる」と、宮下宗一郎市長からの祝辞を代読した。

 先人の顕彰に尽力してきた団体などを表彰。市立一箕中3年の田中麻登さんが平和への願いなどを盛り込んだ記念宣言を発表した。その後、会津松平家14代当主の松平保久さんが戊辰戦争後の会津人の歩みについて基調講演。トークショーには女優の綾瀬はるかさんらが出演し、会場は盛り上がった。

 戊辰戦争で会津藩は新政府軍の侵攻を受け、鶴ケ城では約1カ月の籠城(ろうじょう)戦に耐えたものの1868年9月22日に降伏。約3000人が戦死したとされる。会津藩は「朝敵」の汚名を着せられ、戦後も斗南藩(むつ市)への移封を命じられるなど、先人たちは多くの困難を経てきた。【湯浅聖一】
戊辰の経緯を考察 猪苗代で歴史講演会
 福島民報社は七日、戊辰戦争から百五十年にちなむ歴史講演会を猪苗代町の野口英世至誠館で開いた。県内各地で開いている歴史出前講座の一環。猪苗代地方史研究会長の江花俊和氏、県立博物館学芸員の栗原祐斗氏が講師を務め、県内外から約八十人が訪れた。
 江花氏は会津戦争の緒戦として町内が舞台となった母成峠の戦いを解説した。新政府軍は早期決戦に向け、天然の要害である母成峠の守備が手薄と考えて進撃したと説明した。
 栗原氏は県立博物館で開催中の企画展の新資料に基づき戊辰戦争を振り返った。会津藩祖・保科正之公(土津様)に報告した文書である「土津神社告文(つげぶみ)」では、鳥羽・伏見の戦いは薩摩藩の発砲から戦端が開かれたとしており、会津藩から見た開戦の経緯などを紹介した。
 福島民報社は明治時代の紙面や戊辰戦争に関する資料を展示した。

■福島民報社歴史講演会 21日は郡山で
 幕末の郡山市について学ぶ福島民報社の歴史講演会は二十一日午後一時から郡山市の郡山女子大芸術館で開かれる。
 郷土史家の遠藤教之氏が「戊辰戦争百五十年 水戸藩御連枝・守山藩を尋ねて-勤皇家・遠藤無位を視座として」、郡山女子大短期大学部地域創成学科講師の佐藤愛未氏が「戊辰戦争と郡山」と題して語る。
 既に聴講を先着順で受け付けている。定員百五十人。聴講は無料。郵便番号、住所、氏名、電話番号(複数での申し込みは代表者の連絡先と全員の住所、氏名)を記し、はがき、ファクス、メールのいずれかで申し込む。はがきは郵便番号960-8602 福島市太田町一三ノ一七 福島民報社地域交流局 出前講座「郡山会場」係へ。ファクスは024(531)4117。メールはchiiki@fukushima-minpo.co.jp
 問い合わせは電話024(531)4145。平日の午前十時から午後五時まで受け付ける(電話での聴講申し込みは不可)。
絵画など関連資料展示 二本松で戊辰150年企画展
 戊辰百五十年特別企画展「二本松藩と戊辰戦争」は六日、二本松市歴史資料館で始まった。十一月二十五日まで。
 二本松少年隊の隊士だった武谷剛介の脇差しや大壇口古戦場の戦場写真、肖像写真、絵画・書など、関連資料八十六点が並ぶ。
 初日は開場式が行われ、三保恵一市長があいさつ。本多勝実市議会議長らが祝辞を述べた。関係者がテープカットした。
 時間は午前九時から午後五時まで。入館は午後四時半まで。月曜休館。月曜が祝日の場合は翌日が休館になる。観覧料は一般が二百円、小中高生は百円。問い合わせは同資料館 電話0243(23)3910へ。
戦死した藩士らの功績伝える 戊辰戦争・熊倉の戦い、喜多方に看板
 戊辰150年に合わせ、戊辰戦争・熊倉の戦いを伝えようと、熊倉史談会(山本佑一郎会長)は喜多方市熊倉町の杉ノ下墓地に、同戦いで戦死した佐藤銀十郎や会津藩士中根米七の功績を伝える看板を設置した。

 佐藤は上州権田村(現群馬県高崎市)出身で幕府の勘定奉行などを務めた小栗上野介に仕えた。小栗が斬首され、小栗の妻を会津まで護衛した後、会津藩に加わり、戦いに参加した。

 設置は11日に営まれた「熊倉の戦い 顕彰祭」に合わせて行った。顕彰祭には小栗の顕彰会の関係者や中根の親族らが参列。小栗上野介顕彰会の市川平治会長は「顕彰祭を契機に歴史を見直す機会になればうれしい」、中根の親族に当たる中根徹さんは「毎年行っている墓参を続けたい」と語った。

◆佐藤銀十郎の活躍「熊倉の戦い」出版

 熊倉史談会の山本佑一郎会長は書籍「戊辰戦争・熊倉の戦い」を出版した。

 佐藤銀十郎の活躍や熊倉の戦いの経過を詳細に記しており「地元の人に地元の歴史を知ってほしい」と話した。

   問い合わせは山本会長(電話・ファクス0241・25・7651)へ。

新潟
戊辰戦争...会津藩に『愚直さ』あった 会津、越後、長州が語る
 戊辰戦争に関わりが深い会津、越後、長州の3地域によるフォーラムが6日、新潟市で開かれた。パネリスト3人がそれぞれの立場から歴史認識について意見を交わした。

 會津藩校日新館(会津若松市)の宗像精館長、東軍として戦った長岡藩士河井継之助を顕彰する河井継之助記念館(新潟県長岡市)の稲川明雄館長、西軍の主力となった長州藩があった山口県萩市の萩博物館、道迫(どうさこ)真吾主任学芸員がパネリストを務めた。

 戊辰戦争に突入した理由について宗像氏は、会津藩には将軍家への忠義を尽くそうとする「愚直さ」があったとし、稲川氏はやむなく戦わざるを得なかった会津藩に対して同情する武士的な「教養」が長岡藩にあったと解説した。道迫氏は会津藩などに「武士の生きざまを貫き通す意味で敬意を表さざるを得ない」とした上で、当時の国際情勢を意識した長州藩は「変化に柔軟だった」と指摘した。

 また会津若松、萩両市の共通性として、先人の思いや伝統的な規範意識を子どもたちの教育に生かしていることが示された。

 道迫氏は「地元では歴史への関心が薄れている。しっかりと歴史に向き合うよう市民に伝えたい」、宗像氏は会津と長州の関係について「歴史は消すことはできない。仲良くはできても、仲直りはできない」としつつも「互いの立場を推し量ることが大切だ」と話した。
千葉
明治150年水戸藩最後の内部抗争「松山戦争」の慰霊法要 子孫ら参列
 明治元年に千葉県匝瑳(そうさ)市内で起きた水戸藩最後の内部抗争「松山戦争」で戦死した26人の藩士を慰霊する法要が27日、同市中台の「脱走塚(水戸藩士の墓)」で行われた。150年目の節目となった法要には、水戸市から藩士の子孫らが訪れ、供養碑の前で手を合わせた。

 幕末、水戸藩は尊王攘夷派の天狗(てんぐ)党と、佐幕派の諸生党に二分され藩内抗争を繰り返した。幕府崩壊後、朝敵とされた諸生党の藩士らは水戸を脱出。北越、会津と転戦したが敗走し、最後に戦った場所が下総の松山村(現在の匝瑳市)だった。

 匝瑳市教育委員会などによると、明治元年10月に起きたこの戦いで死亡した藩士らは地元の村民らに埋葬され、翌2年5月に供養塔が建てられた。当時、諸生党の藩士は水戸藩の脱走兵とみなされていたことから、この場所は脱走塚と呼ばれるようになった。脱走塚は昭和35年に匝瑳市の史跡に指定され、水戸市の子孫らとの交流も生まれた。

 今回の慰霊法要は、諸生党藩士の子孫や関係者らでつくる「水戸藩士殉難150年記念事業実行委員会」などが主催。水戸市からは高橋靖市長や藩士の子孫らでつくる水戸殉難者恩光碑保存会の関係者など約50人が訪れた。長年、脱走塚を世話してきた匝瑳市中台区の住民らも参列し、計約130人が焼香をして冥福を祈った。

 実行委員長の岡見円礼(みつひろ)さん(71)=水戸市見川=は「急にやってきた水戸藩同士が勝手に戦争をして多大な迷惑をかけたにもかかわらず、亡くなった兵士を手厚く供養してくださり、藩士の子孫として地元の皆さんのご厚意に心から感謝している」と追悼の辞を述べた。
福井
龍馬の花押、初お目見え=唯一の直筆原本、特別展で-福井
 福井県立歴史博物館(福井市)で22日から始まった特別展で、幕末の志士、坂本龍馬の花押(サイン)が記された書簡が国内で初公開された。龍馬直筆の花押を原本で確認できるのは、この書簡だけという。

龍馬への手紙原本公開=京都の古美術商で発見-高知

 同博物館によると、花押は「龍」の左側と「馬」が左右に組み合わされている。書簡は福井藩士村田氏寿宛てに、元治元(1864)年10月6日付で書かれ、上洛していた薩摩藩士岩下方平に同行し、自身が近日中に関東へ向かうことを伝える内容。県外の個人所蔵品を県が借用した。
 同年に書かれた龍馬の書簡は、これを含め2点のみが確認されている。2010年にこの花押を歴史雑誌で初めて紹介した歴史作家の桐野作人さん(64)は「元治元年の龍馬の動きが少し分かってきたのは意義がある」と指摘。岩下が薩摩藩重役だったことから、「政治的、経済的に薩摩藩と密着するターニングポイントになったことが分かる」と語った。

 特別展「幕末維新の激動と福井」では、薩摩藩士西郷隆盛が村田に宛てた書簡が初公開されるほか、15歳の時に自身の志を記し、各地の中学校で行われる立志式の由来にもなった福井藩士橋本左内の「啓発録」の原本も展示される。11月4日まで。(2018/09/22-10:10)
大阪
西郷隆盛らの肉筆85点 大阪城天守閣で特別展開幕
 NHK大河ドラマ「西郷どん」の主人公、西郷隆盛や勝海舟の詩文をはじめ、明治維新で活躍した人物の書や書簡を集めた特別展「幕末・維新の人とことば」が6日、大阪市の大阪城天守閣で開幕した。榎本武揚(えのもと・たけあき)、吉田松陰、福沢諭吉らの肉筆85点が展示され、多くの来場者が見入っていた。

 西郷隆盛の詩文は七言絶句。「世上毀誉軽似塵 眼前百事偽耶真」(世上の悪評や称賛の軽さはまるで塵のようだ。目の前の出来事は偽りなのか、本当なのか)と維新後の世を嘆く。

 後半は、「追思孤島幽囚楽 不在今人在古人」(思い出すのは孤島で過ごした幽囚の頃の楽しみ。そこには今人はおらず、古人だけがいた)。徳之島などに流刑された幕末を振り返り、理想に燃え、新しい世を創るべく奔走した志士を「古人」と呼んで懐かしむ。

 勝海舟の詩文は、旧幕府軍の代表として新政府軍代表の西郷と交渉し、江戸無血開城を実現させた明治元年のもの。「壮士が死をかえりみずに決戦にのぞむことを誰が責められようか」と旧幕府兵に同情しつつ、「多くの人々を救って天皇に答えるのだ」と内戦を避けることこそ尊王の志だと自らに言い聞かせている。

 ほかに、戊辰戦争に敗れたが、後に政府に重用される旧幕府軍総裁の榎本武揚が、獄中で新政府軍を一刀両断した戯れ歌の書などが注目を集めていた。

 特別展は11月25日まで。入館料600円(中学生以下無料)。問い合わせは大阪城天守閣((電)06・6941・3044)。
西郷隆盛の書簡初公開=福井藩士宛て、特別展で-県立歴史博物館
 福井県立歴史博物館は19日、薩摩藩の西郷隆盛が福井藩士に宛てた書簡を22日から始まる「幕末明治福井150年博」の特別展で初めて公開すると発表した。藩士との面会翌日に出しており、内容からも、西郷のこまやかな心遣いが読み取れるという。
 書簡は縦16.0センチ、横47.1センチ。複数の専門家による鑑定で、西郷の筆跡と確認された。県外の個人が所蔵していたのを県が特別展のため借用した。
 安政4(1857)年、前日に面会した福井藩士の村田氏寿宛てに書かれた。面会で打ち解けて話ができたことを喜ぶ一方、失言があったかもしれないと許しを求めている。

福井県立歴史博物館が初公開する西郷隆盛の書簡。手前に「西郷拝」と記されている=18日、福井県庁

 村田は福井藩主松平春嶽の親書を薩摩藩主島津斉彬に渡すため薩摩を訪れていた。西郷は書簡で、斉彬との面会が実現しそうなことも伝えている。
 西郷は文久2(1862)年に沖永良部島へ流された際、書を学んで丸みのある書体を確立したという。この書簡を書いたのは29歳の時で、博物館の担当者は「少し荒っぽい感じがする」と話す。
 落合弘樹明治大教授(幕末維新史)は「早い時期の書簡はあまりなく、よく見る西郷の字と違うのは面白い。『俺は斉彬の無二の忠臣である』というとがったところが書簡に反映されている」と語った。(2018/09/19-17:02)




急に最高気温が30度近くから20度前後になる肌寒い日で、昼と夜の部の間では激しい雨に銀座三越まで足を延ばすのに気持ち挫かれそうでした。入れ替わりの時間が短く、買い出しも時間の余裕が余りありません。帰りは階段があるものの傘要らずの地下道で。

【昼の部】
金閣寺
 梅玉の此下東吉、松緑の松永大膳、児太郎の雪姫、福助の慶寿院。
 児太郎さんの雪姫はかなり抜擢だったと思います。でもたおやかさと育ちの良さの見た目に対して、父の敵大膳を憎む気持ち、処刑寸前の夫と再会して絶望する気持ち、夫を殺されまいとして縛めを解こうとする意思、画家として祖父雪舟の逸話を再現しようとする意思があって三姫の中でも人妻で画人というところが好きです。児太郎さんは、最初の声音とかちょっと不安なところもあったけど、まずは千穐楽までやりきったのがすごい。「大当たり!!」と大向こうから声がかかっていた。
 また福助さんが5年ぶりに板の上に復帰したお祝いの拍手が沢山。無理をせずに息長くと祈ります。

鬼揃紅葉狩
 幸四郎さんが珍しく女役で更科の前→実は戸隠山の鬼女を踊る。そして侍女役も髙麗蔵、宗之助に加えて若手の米吉、児太郎が入っているのが嬉しいし、隼人、廣太郎、玉太郎などの若手男役も出演。

河内山
 途中、幸四郎の松江出雲守と吉右衛門の河内山(上野寛永寺の一宮の使僧を騙っている)とのやり取りのところで眠気を催し、あまり覚えていないのが残念ではあるが……玄関前で正体を顕されたものの大名特有の事なかれ主義で無事にやりおおせ、「馬鹿め!!」と毒づくラストの爽快さが味わえた。

【夜の部】
松寿操り三番叟
 幸四郎さんの三番叟可愛い。本当に人形振りがすごい。

俊寬
 大播磨の面目躍如。菊之助さんの成経が綺麗(ちょっと綺麗すぎ?)。雀右衛門さんのちどりが初々しくて可愛い。
 成経にちどりを添わせるため、酷吏を殺めてまで自ら喜界島に残る俊寬が去る舟に絶叫するところが本当に迫力ある。都に残した妻に会いたいという気持ちも妻の刑死を知らされて希望を絶たれ、生きる手段生活の手段を持たず、友人たちも京に帰ってしまい本当に孤独=死に晒されたことへの恐怖やあがきが堪えた。

幽玄
羽衣
石橋
道明寺
 鼓童×玉三郎。羽衣と石橋〜道明寺の間のブレークが長く集中力が削がれるきらいはあったけど、和太鼓と能と歌舞伎のリミックスで西洋的な要素(モダンバレエのようなミニマリズム?)で再現された世界、これは結構好き。
 ただ、自分は歌舞伎に慣れているので、黒い着物を着た演奏者を僧侶に見立てたり黒衣としてそこにないものと解したり自在に「見立て」られるけど、異文化の人はどう見るのかな。玉三郎が着姫の怨念の篭もった白拍子花子として括弧で踊る時、和太鼓奏者と遊ぶような舞の時に、私は彼らを奏者としても黒衣としても自在に見られるれど、そのあたりは違う文化の目ではわからない。
 大太鼓を含めた楽器が自在に出されたり消されたりするのは玉三郎さんらしい美意識で使わないものを消しているからだろうけど、視界の端で物を出したり入れたりするのが見えるのはちょっと煩いところもあった。
 でもまぁ、海老蔵「源氏物語」と同様、東京五輪の準備なんだろうなぁ。。
山形
<戊辰戦争150年>動乱期の米沢を紹介 上杉博物館で特別展
 米沢市上杉博物館で、特別展「戊辰戦争と米沢」が開かれている。幕末から明治初期までの米沢藩の歩みを約100点の資料で紹介している。
 展示は時系列で、最初の資料は江戸から京都警衛に向かう米沢藩士約650人の行列を描いた「上杉斉憲上洛之図(うえすぎなりのりじょうらくのず)」(1863年)。これを契機に米沢藩は全国的な政局に深く関わっていった。
 上杉斉憲が朝廷から下賜(かし)された「牡丹菊常夏桔梗模様錦陣羽織(ぼたんきくとこなつききょうもようにしきじんばおり)」は色鮮やかさが際立ち、朝廷の期待が読み取れるという。当時普及し始めた大砲やその製造方法などを書き記した藩士の古文書は初公開で、いかに西洋の技術を取り入れていったかが分かる。
 戊辰戦争時、米沢藩が越後に進軍する際の本陣となった豪農・渡辺家の家相図など、国の重要文化財に指定されている貴重な資料も多数展示されている。
 前期は10月14日まで。後期は展示品を入れ替え、同20日から11月18日まで。ギャラリートークは10月6日と20日。「戊辰戦争の社会史-軍隊と民衆-」と題した講演会が同28日開かれる。連絡先は米沢市上杉博物館0238(26)8001。

福島
奥羽越列藩同盟...時を超え『援軍』 会津まつり・会津藩公行列
戊辰150年記念「会津まつり」のメイン行事「会津藩公行列」は23日、旧幕府軍(東軍)の中心だった会津藩があった会津若松市で行われ、戊辰戦争を再現する約550人がシンボルの鶴ケ城を発着に市街地を練り歩いた。大河ドラマ「八重の桜」で主人公・山本(新島)八重を演じた女優の綾瀬はるかさんが特別ゲストとして5年連続で参加し、八重の幼少期を演じた鈴木梨央(りお)さんも初参加した。

 今年の行列は戊辰戦争時に会津、庄内両藩の救済を目的に結成された奥羽越列藩同盟に焦点を当てた点が特徴で、五芒星(ごぼうせい)の同盟旗を先頭に、ゆかりの仙台、米沢両藩、精鋭部隊「十六ささげ隊」が新政府軍を恐れさせた棚倉藩、長岡藩が援軍として駆け付けた。

 会津まつり最終日は24日午前10時から、中央通り出発で日新館童子行列・鼓笛隊パレードが行われる。

 「絆、若い世代にも」

 今年の藩公行列の焦点となった「奥羽越列藩同盟」。加盟した長岡藩(新潟県)の藩主牧野忠訓(ただくに)役として、牧野家第17代当主の忠昌さんの長男、忠慈(ただしげ)さん(28)が初参加し、りりしい騎馬姿を披露した。

 戊辰戦争で落城した同藩からは、藩主や藩士らが会津に逃れた。忠慈さんは今年、会津藩領で新政府軍と戦い、没した長岡藩士らを供養する慰霊祭などにも参加し、両地域の結び付きに理解を深めてきた。

 藩公行列では沿道から、「ありがとう」「長岡藩頑張れ」といった声を掛けられた。忠慈さんは「本当にうれしかった。歴史的な絆が若い世代にも伝わるようにしたい」と話した。

会津藩公行列綾瀬はるかさんも参加 戊辰150年
 戊辰戦争(1868~69年)の激戦地の一つとなった福島県会津若松市で23日、旧会津藩の歴代藩主などに扮した人々が市内を練り歩く恒例の「会津藩公行列」が行われた。今年は旧幕府軍の主力だった会津藩が新政府軍に敗れて150年になることから、会津藩と共に戦った「奥羽越列藩同盟」に加わった旧藩ゆかりの人々も参加し、祭りに花を添えた。

 参加者らは、会津藩が最後まで拠点とした鶴ケ城での先人感謝祭と出陣式の後、市内中心部を馬や徒歩でパレード。戊辰戦争前後の会津藩が中心となった2013年のNHK大河ドラマ「八重の桜」で主演した俳優、綾瀬はるかさんが5年連続で参加した。(共同)
<戊辰戦争150年>会津藩公行列 「同盟」集結 威風堂々
 会津若松市の会津まつりのメイン行事「会津藩公行列」が23日、市中心部であった。戊辰戦争150年の今年は会津藩救済のため結成された奥羽越列藩同盟の加盟藩を中心に編成。俳優の綾瀬はるかさんが5年連続、鈴木梨央さんが初の特別ゲストとして参加した。 歴代の会津藩主や白虎隊をはじめ仙台、米沢、棚倉、長岡(新潟県)の同盟諸藩、「会庄同盟」を結んだ庄内藩、会津藩と共に鶴ケ城に立てこもった凌霜隊の郡上藩(岐阜県)、会津藩再興の地・むつ市などの関係者総勢540人が城下町を練り歩いた。
 出陣式で、NHK大河ドラマ「八重の桜」で山本八重役の綾瀬さんは「お変わりありませんか」の意味の「みんなさすけねーがー」とあいさつ。八重の子ども時代を演じた鈴木さんも「お元気だったなし」とともに会津弁で呼び掛けた。約7キロの沿道には大勢の見物客が詰め掛け、先人への感謝を込めて声援を送った。
 会津まつりは最終日の24日、子どもたちによる日新館童子行列などがある。
戊辰150年に「第9」演奏会松江豊寿の故郷、会津で
 第1次大戦中に徳島県鳴門市の板東俘虜収容所長としてドイツ人捕虜に人道的に接し、ベートーベンの交響曲第9番が日本で初演されるきっかけをつくった松江豊寿(1872~1956年)の功績をたたえる「第9」演奏会が24日、松江の故郷、福島県会津若松市で開かれた。

 演奏会は戊辰戦争150年を記念する一連の行事に合わせて開催。会津市民オーケストラの演奏で、市民でつくる「会津第九の会」のメンバーら約300人が、終楽章の合唱「歓喜の歌」を高らかに歌い上げた。

 節目の年だけに、鳴門市をはじめ北海道、沖縄県など各地の愛好家が合唱に参加した。
仕事が押してしまい、鈴本の『落語の仮面』シリーズ第9話「走れ元犬」を見逃してしまい、残念です。次の機会はいつでしょうか。

 白鳥さんが横浜にぎわい座(のげシャーレでなく、芸能ホール)で独演会って凄いですね。今回は「西城秀樹さん、ありがとう独演会」と銘打ってます。子供の頃、雪深い高田ではテレビが唯一の娯楽だった時に西城秀樹さんがヒーローだったそうで。

普段の正拳/白鳥
 圓生師匠の『札所の霊験』パロディで私は一度お台場寄席で見てますね……つかちゃんがプロデュースしててpodcast配信していた番組でした、落語を聴き始めてた頃でした。
 今回は、その「普段の正拳」に西城秀樹さんの作品をトリビュート。数々のヒットチャートの歌詞がちりばめられてました。
 1時間15分という長丁場、これだと寄席はもちろん独演会でも掛けられないだろうから、この場限りの作品になりそう、とのこと。一期一会ですねぇ。

隅田川母娘/白鳥
 口直しに元気な女の子の噺と聞いた瞬間、またみどりちゃんかと思ったら、これでした。
 毎回あぶないと思うネタですが、人情噺として成立しています。
いよいよ秋だなぁと思って気合いを入れて栗ご飯を炊いたのですが、昨日今日の暑さで糸を引いてしまいましたorz

福島
会津若松戊辰戦争150年式典 先人の苦難に思いはせ
 幕末の戊辰(ぼしん)戦争で会津藩が鶴ケ城を降伏開城して150年になる22日、福島県会津若松市城東町の会津風雅堂で記念式典が開かれた。会津にゆかりのある全国の自治体や団体などの関係者ら約500人が参加。会津がたどった歴史の意義を再認識し、戊辰戦争後の苦難の時代を生き抜いた先人たちの歩みをたたえた。

 式典が始まった午後1時半、参加者らは1分間の黙とうをした。同時に市役所本庁舎でサイレンが鳴らされ、会場に来られない市民らも先人らに敬意と感謝を表した。

 室井照平市長は「先人から受け継いだ歴史や伝統を守り、次の世代に語り継ぐのが我々の責任だ」とあいさつ。ゆかりの地を代表して、青森県むつ市の川西伸二副市長が「歴史に裏付けられた両市の思いを後世に伝えることが、先人への報いになる」と、宮下宗一郎市長からの祝辞を代読した。

 先人の顕彰に尽力してきた団体などを表彰。市立一箕中3年の田中麻登さんが平和への願いなどを盛り込んだ記念宣言を発表した。その後、会津松平家14代当主の松平保久さんが戊辰戦争後の会津人の歩みについて基調講演。トークショーには女優の綾瀬はるかさんらが出演し、会場は盛り上がった。

 戊辰戦争で会津藩は新政府軍の侵攻を受け、鶴ケ城では約1カ月の籠城(ろうじょう)戦に耐えたものの1868年9月22日に降伏。約3000人が戦死したとされる。会津藩は「朝敵」の汚名を着せられ、戦後も斗南藩(むつ市)への移封を命じられるなど、先人たちは多くの困難を経てきた。【湯浅聖一】
会津藩士の「義」継承 戊辰150年式典、記念宣言を発表
 戊辰戦争の激戦地となった会津若松市の戊辰150周年記念式典は22日、同市で行われ、旧幕府軍の主力として戦い抜いた先人らに出席者が敬意を表した。会津藩士らが命を懸けて貫いた「義」の思いは今に受け継がれ、会津の人々の奥底に生き続ける。出席者は、歴史や伝統に包まれた古里の誇りを再確認し、次世代に継承する決意を新たにした。

 会津若松市と市戊辰150周年記念事業実行委員会の主催。会津藩が鶴ケ城を開き、1カ月に及ぶ熾烈(しれつ)な籠城戦に終止符を打った1868(明治元)年9月22日(旧暦)に合わせて行われた。

 約1分間の黙とうで始まり、会場は約1700人の静かな祈りに包まれた。

 先人に対する感謝や平和への願いが盛り込まれた記念宣言が、23日の「会津まつり」会津藩公行列で若殿役を務める一箕中3年の田中麻登(まなと)さんによって発表された。

 宣言は戦争の悲惨さを伝える必要性を訴え、古里を守るために戦った人々と、戦後の苦難を乗り越え功績を残した人々の顕彰に努めると誓った。さらに、会津の精神文化に学ぶ人材の育成と伝統の継承を掲げた。

 小中学生を対象にした作文コンクールの最優秀賞作品も朗読された。謹教小6年の野中律さんは、明治時代に活躍した会津の女性たちの中に「世の中を見る正しい目と、決してゆるがない強い意志」を見て取り、北会津中3年の坂内愛莉さんは「会津の先人は今でも、私たちにたくさんのことを伝えようとしてくれている」と述べた。

 室井照平市長はあいさつで「会津の歴史や先人の活躍を将来を担う次の世代に語り継いでいくことが、私たちの責務ではないだろうか」と呼び掛けた。

 式典ではこのほか、先人の顕彰に尽力してきた14団体を表彰し、会津松平家第14代当主の松平保久(もりひさ)さんが「それからの会津―開城以降の会津人の歩み―」のテーマで基調講演。大河ドラマ「八重の桜」で主人公山本(新島)八重を演じた綾瀬はるかさんや会津会会長の柳沢秀夫さんらによるトークショーが行われた。

会津藩士・佐川官兵衛通じ交流 戊辰150年の節目に会津と熊本
 幕末の会津藩士で、西南戦争の際に熊本県で討ち死にした佐川官兵衛を顕彰している熊本佐川官兵衛顕彰会の興梠(こおろぎ)二雄(つぐお)会長ら10人が21日、会津を訪れた。一昨年の熊本地震で熊本の顕彰碑が壊れた際、会津佐川官兵衛顕彰会などの協力で新たな胸像が建立された経緯があり、戊辰150年の節目とお礼の意味を込めた。

 鶴ケ城三の丸跡地には、官兵衛が戦死した地から寄贈された石で2001(平成13)年に建立された顕彰碑がある。熊本県南阿蘇村にも顕彰碑や供養碑があったが、地震で多くが壊れ、約350万円をかけて新たな胸像を建立した。

 会津若松市で開かれた歓迎会には、会津顕彰会の会員ら約25人も参加。室井照平市長が「毎年碑前祭を開いていただいていることに感謝したい」と歓迎、会津顕彰会の会長を務める菅家一郎衆院議員もあいさつした。

 熊本顕彰会の興梠会長は「官兵衛は部下の規律を徹底し、住民からも慕われた。最後まで会津武士道を貫いた官兵衛を縁に末永く絆をつないでいきましょう」と謝辞を述べた。熊本顕彰会顧問で歴史作家の中村彰彦さんも熊本と会津の縁を紹介した。新井田万寿子市子ども会育成会連絡協議会長が熊本顕彰会の会員に記念品を贈った。

戦死した藩士らの功績伝える 戊辰戦争・熊倉の戦い、喜多方に看板
 戊辰150年に合わせ、戊辰戦争・熊倉の戦いを伝えようと、熊倉史談会(山本佑一郎会長)は喜多方市熊倉町の杉ノ下墓地に、同戦いで戦死した佐藤銀十郎や会津藩士中根米七の功績を伝える看板を設置した。

 佐藤は上州権田村(現群馬県高崎市)出身で幕府の勘定奉行などを務めた小栗上野介に仕えた。小栗が斬首され、小栗の妻を会津まで護衛した後、会津藩に加わり、戦いに参加した。

 設置は11日に営まれた「熊倉の戦い 顕彰祭」に合わせて行った。顕彰祭には小栗の顕彰会の関係者や中根の親族らが参列。小栗上野介顕彰会の市川平治会長は「顕彰祭を契機に歴史を見直す機会になればうれしい」、中根の親族に当たる中根徹さんは「毎年行っている墓参を続けたい」と語った。

◆佐藤銀十郎の活躍「熊倉の戦い」出版

 熊倉史談会の山本佑一郎会長は書籍「戊辰戦争・熊倉の戦い」を出版した。

 佐藤銀十郎の活躍や熊倉の戦いの経過を詳細に記しており「地元の人に地元の歴史を知ってほしい」と話した。

   問い合わせは山本会長(電話・ファクス0241・25・7651)へ。

迫力演武「會津鶴ケ城古武道祭」 新選組ゆかりの試衛館初参加
 会津若松市のシンボル・鶴ケ城をバックに各団体が武道や江戸時代から受け継がれる古武道の演武を披露する「會津鶴ケ城古武道祭」は17日、開かれた。戊辰150年に合わせ、会津藩と深い関わりがある新選組の局長・近藤勇などが習得したとされる「天然理心流」の道場「試衛館」(東京)も初参加した。

 同祭実行委員会の主催、市、市教委、福島民友新聞社などの後援。第1部は武道団体の演武で、各団体の会員らが合気道や空手などを披露した。

 第2部は古武道団体の演武で、なぎなたや居合道、杖道などが次々に披露された。初参加の試衛館は高鳥天真館主らが形を披露。防具を付けての実戦も行い、独特の寝技なども披露し迫力ある技を繰り出した。

千葉
戊辰戦争中に沈んだ米国蒸気船、着々と水中調査
 戊辰ぼしん戦争中の1869年、新政府軍の熊本藩士らとともに千葉県勝浦市沖で沈んだ米国蒸気船「ハーマン号」(全長71メートル)の水中調査が着々と進んでいる。5回目の調査を終えたチームは史跡指定や発掘調査を目指しており、地元でも「熊本や米国との交流拡大や、新たな観光資源につながる」と期待が高まっている。

 ハーマン号は、日本に開国を迫ったペリー提督の「サスケハナ号」に迫る当時最大級の蒸気外輪船。いわゆる黒船だ。榎本武揚ら旧幕府軍の討伐のために借り上げられ、熊本藩士ら350人と米国人船員約80人を乗せて函館・五稜郭に向かう途中の同年2月13日、暴風雨で座礁して沈没。地元住民が救助にあたったが、約230人が犠牲になった。

 この沈没船の水中調査を行っているのが、日本水中考古学調査会だ。米国で水中考古学を学んでいた井上たかひこさん(75)が1998年、地元漁協の協力を得て、沖合の水深約10メートルの海底に沈んでいる船を発見し、ハーマン号と特定。同会を設立して会長に就き、調査を続けてきた。

 今年7月下旬には、沈没から150年を前にした5回目の調査を実施。「マルチビーム測深」や「写真測量」といった技術を使い、沈没船や周囲の海底状況などがわかる精密な立体図を作成するためのデータを収集した。食器の破片とみられる磁器片も新たに見つかったという。

 井上さんは「精密な立体図を含む報告書をまとめ、県の史跡指定や、沈没船を引き揚げる発掘調査につなげたい」と意欲を燃やし、「発掘調査が進めば、外輪が付いた船の構造や積み荷などもわかってくる。『海から見た戊辰戦争』という新たな視点も生まれる」と指摘する。

 水中調査の進展に地元勝浦市でも期待の声が上がっており、市観光協会副会長で民宿組合長の江沢修さん(68)は「史跡指定となれば注目度はぐっと増し、新たな観光資源にもなる。熊本側との交流も進む」と胸を膨らませる。

 同市では毎年、犠牲者の慰霊祭が行われ、2012年からは米国大使館員も参加するようになった。これに尽力した同市の海事補佐人、大野幹雄さん(75)も「この地の人たちが乗組員の救助活動を必死で行った歴史に、光がさらに当てられれば。もっと多くの米国人にも知ってもらい、勝浦を訪れてほしい」と願う。

 慰霊祭を主催する「黒船『ハーマン号』を世に出す会」の会長を務める猿田寿男市長も「市としても史跡指定に向けて力を尽くしたい。さらなる日米親善にもつながる」と話している。

東京
明治期の浮世絵師に脚光 今に通じる動画的表現 月岡芳年“血みどろ絵”
 明治改元から150年。美術界では明治期に活躍した浮世絵師に関連し、展覧会や関連本の出版が相次いでいる。幕末から明治の激動の時代に生きた、知られざる優れた絵師の一端が見えてくる。(渋沢和彦)

 東京の練馬区立美術館で開催中の「芳年 激動の時代を生きた鬼才浮世絵師」展。躍動的な武者絵や妖艶(ようえん)な美人画などとともに、刀で斬られ血が飛び散る刺激的な作品が並ぶ。“血みどろ絵”の絵師、月岡芳年(よしとし)の作品だ。

 天保10(1839)年、江戸に生まれ、明治25年数え54歳で死去した。12歳で歌川国芳に入門して幕末には武者絵などを描いていた。代表シリーズ「英名(えいめい)二十八衆句」は、歌舞伎や講談などの刃傷(にんじょう)沙汰を主題とした28図の血なまぐさい図。国芳門の兄弟子の落合芳幾(よしいく)(1833~1904年)とそれぞれ14図ずつ描いた競作だった。

 芳年は慶応4年、江戸・上野で起こった明治新政府軍と旧幕臣からなる彰義隊との戦いの地を、弟子を連れて取材。「魁題百撰相(かいだいひゃくせんそう)」で表現した。

 「実際に戦の跡地に出向き、しかばねを写生していた。だから芳年の絵は荒唐無稽ではなくリアリズムがあり作品の魅力」と同館の加藤陽介学芸員は解説する。

 関連本の出版も相次ぐ。芳年の血みどろ絵は「英名二十八衆句」「東錦浮世稿談(あずまにしきうきよこうだん)」「魁題百撰相」の3シリーズのみで、40年の画業全体から見ればほんの一部。8月刊行の『月岡芳年伝 幕末明治のはざまに』(中央公論美術出版)は、さまざまな資料を分析し、同時代の絵師とともに芳年の画業の全容を浮かび上がらせる。著者の大阪市立大の菅原真弓教授は「四半世紀前まで、幕末明治の浮世絵は、絵画作品として認識されておらず美術史研究の対象となりえなかった。物語のように見せる視線誘導が動画的であり、現代に受ける」と指摘する。続いて刊行された『鬼才 月岡芳年の世界 浮世絵スペクタクル』(平凡社)も美人画や歴史画を多数掲載し、芳年の異なる側面に光を当てる。

 同時期の浮世絵師の再評価も進む。兄弟子の落合芳幾についても8月、東京都内で80点以上の作品を紹介した初の本格的な展覧会が開催された。近代美術に詳しい帝京大の岡部昌幸教授は「明治の浮世絵は研究の宝庫。豊原(とよはら)国周(くにちか)や三代歌川広重、井上安治(やすじ)ら優れた絵師は多い。今後さらに光が当てられるでしょう」と話している。

 「芳年 激動の時代を生きた鬼才浮世絵師」展は24日まで、一般1000円。10月28日から、高知県立美術館に巡回する。

 政治体制など社会が大きく変わった幕末から明治前半の美術に焦点を当てた展覧会「明治150年記念 真明解・明治美術 増殖する新(ニュー)メディア」展が、横浜の神奈川県立歴史博物館で開催されている。

 洋画、日本画、木版画、写真などを展示。明治美術の研究・調査を進めてきた同館所蔵品を中心に公開した。

 洋風建築が建ち始めた明治時代。街の風景や風俗を題材にした錦絵を多く描いたのが三代歌川広重だった。版元の大倉孫兵衛(1843~1921年)が制作を後押しし、米国で版画を販売。大倉が旧蔵した錦絵画帖が本展準備中に発見され、中には海外向けを意図して制作された美人画や花鳥画の大型錦絵も含まれる。

 英国人画家、チャールズ・ワーグマンから洋画の習得に励んだ五姓田義松(ごせだよしまつ)(1855~1915年)の油彩画や、渡欧して銅版画技術を身につけ美的な地図を制作した洋画家で版画家の岩橋教章(のりあき)(1835~83年)などの作品も、明治期の美術の多様さを再認識させる。

 30日まで、一般900円。(電)045・201・0926。

新潟
徳川の銀印、15日から公開=昨年発見、15代将軍ら使用-新潟
 江戸時代末期に徳川将軍家が外交文書に使った銀印「経文緯武(けいぶんいぶ)」が、新潟県立歴史博物館(長岡市)で15日から初めて一般公開される。銀印は昨年、徳川記念財団(東京都)が徳川宗家の蔵を整理した際に見つかったもので、幕府が1857年に作製を命じ、翌年結ばれた日米修好通商条約の批准書などに押印された。14代将軍家茂と15代将軍慶喜が使用したという。

将軍家光のかご、福井で発見=側近藩主に下賜

 同博物館では14日、銀印を公開する企画展の開場式と内覧会が開かれた。来賓として招かれた徳川宗家18代当主の徳川恒孝さん(78)は「歴史の積み重ねで現在がある。今の日本につながっているものを見ていただくのはとてもいいことだと思う」と話した。公開は30日まで。(2018/09/14-18:46)

福井
龍馬の花押、初お目見え=唯一の直筆原本、特別展で-福井
 福井県立歴史博物館(福井市)で22日から始まった特別展で、幕末の志士、坂本龍馬の花押(サイン)が記された書簡が国内で初公開された。龍馬直筆の花押を原本で確認できるのは、この書簡だけという。

龍馬への手紙原本公開=京都の古美術商で発見-高知

 同博物館によると、花押は「龍」の左側と「馬」が左右に組み合わされている。書簡は福井藩士村田氏寿宛てに、元治元(1864)年10月6日付で書かれ、上洛していた薩摩藩士岩下方平に同行し、自身が近日中に関東へ向かうことを伝える内容。県外の個人所蔵品を県が借用した。
 同年に書かれた龍馬の書簡は、これを含め2点のみが確認されている。2010年にこの花押を歴史雑誌で初めて紹介した歴史作家の桐野作人さん(64)は「元治元年の龍馬の動きが少し分かってきたのは意義がある」と指摘。岩下が薩摩藩重役だったことから、「政治的、経済的に薩摩藩と密着するターニングポイントになったことが分かる」と語った。

坂本龍馬直筆の花押が記された書簡=19日、福井市の福井県立歴史博物館

 特別展「幕末維新の激動と福井」では、薩摩藩士西郷隆盛が村田に宛てた書簡が初公開されるほか、15歳の時に自身の志を記し、各地の中学校で行われる立志式の由来にもなった福井藩士橋本左内の「啓発録」の原本も展示される。11月4日まで。(2018/09/22-10:10)

西郷隆盛の書簡初公開=福井藩士宛て、特別展で-県立歴史博物館
 福井県立歴史博物館は19日、薩摩藩の西郷隆盛が福井藩士に宛てた書簡を22日から始まる「幕末明治福井150年博」の特別展で初めて公開すると発表した。藩士との面会翌日に出しており、内容からも、西郷のこまやかな心遣いが読み取れるという。
 書簡は縦16.0センチ、横47.1センチ。複数の専門家による鑑定で、西郷の筆跡と確認された。県外の個人が所蔵していたのを県が特別展のため借用した。
 安政4(1857)年、前日に面会した福井藩士の村田氏寿宛てに書かれた。面会で打ち解けて話ができたことを喜ぶ一方、失言があったかもしれないと許しを求めている。


福井県立歴史博物館が初公開する西郷隆盛の書簡。手前に「西郷拝」と記されている=18日、福井県庁

 村田は福井藩主松平春嶽の親書を薩摩藩主島津斉彬に渡すため薩摩を訪れていた。西郷は書簡で、斉彬との面会が実現しそうなことも伝えている。
 西郷は文久2(1862)年に沖永良部島へ流された際、書を学んで丸みのある書体を確立したという。この書簡を書いたのは29歳の時で、博物館の担当者は「少し荒っぽい感じがする」と話す。
 落合弘樹明治大教授(幕末維新史)は「早い時期の書簡はあまりなく、よく見る西郷の字と違うのは面白い。『俺は斉彬の無二の忠臣である』というとがったところが書簡に反映されている」と語った。(2018/09/19-17:02)





やっと30度を超える暑い日が去ったかと思ったら、明日の予報は最高気温30度……暑さ寒さも彼岸まで、ですね。。

宮城
<戊辰戦争150年>激戦パネルでたどる 大砲など原寸大の模型も 白石で企画展
 戊辰戦争150年に合わせ、白石市に拠点を置いた奥羽越列藩同盟や東北諸藩が新政府軍と戦った経緯を振り返る「激戦記録パネル展」が、同市中町の寿丸屋敷で開かれている。20日まで。
 河北新報が1988年に連載した企画「戊辰の役百二十年」の記事や掲載写真、戊辰戦争にまつわる絵図などのパネル約50点が並ぶ。緒戦の鳥羽・伏見の戦いから、箱館戦争の終結までの流れを紹介。敗戦後に領地の白石を追われた片倉家臣が北海道に渡り、開拓に命を懸けた歩みをたどる。
 戦争で使われたモルチール砲やスペンサー騎兵銃、ゲベール銃を厚紙で再現した原寸大の模型もある。
 主催した白石まちづくり会社の袴田和由さん(71)は「賊軍の汚名を背負わされた片倉家臣は生活基盤を失い、新天地に懸けた。戦争が何を奪うかという現代にも通じるテーマを感じてほしい」と話す。
 午前10時~午後4時。入場無料。連絡先は同社0224(25)6054。
 白石は母方の祖母の出身地なんですよね。ネットで調べてみたら明治30年代に父親(私から見たら曾祖父)が村長になっていました。一度訪ねてみたいです。

福島
【戊辰150年】会津は見どころ満載(9月15日)
 会津若松市の戊辰百五十年関連の企画や行事が最盛期を迎えている。旧暦の九月は、会津で激しい戦いが繰り広げられ、鶴ケ城は開城された。新暦となっても初秋の九月は観光シーズンと重なり、県内外から多くの人が訪れている。戊辰戦争を新たな視点から捉え直す機会とするとともに、関係する地域が理解を深め合うきっかけをつくっていきたい。
 県立博物館は、福島、新潟、宮城三県の博物館共同企画展覧会「戊辰戦争一五〇年」を開催している。約二百点の展示品のうち、半数の約百点は福島独自の展示品だ。初公開の資料も数多く、興味深い展示となっている。
 必見の一つは、会津藩祖保科正之が眠る猪苗代町の土津[はにつ]神社を描いた「土津神社図屏風」で、戊辰前の様子を伝えている。土津神社は、新政府軍の進攻を前に、猪苗代城代が社殿に火を放って焼失した。焼失前の神社の絵図は数少なく、豊かな自然の中のたたずまいは会津の質実剛健さを感じさせる。県立博物館は数年前に個人から寄贈を受け、展覧会に備えてきた。
 ほかにも、会津籠城戦の女性の活躍を描いた絵詞や新政府軍の「錦の御旗」なども並ぶ。十月十四日までの期間中、視点を会津や東北、越後に置いた展示を多くの人に見て、感じてもらいたい。
 戊辰戦争後の歴史にスポットを当てた企画もある。六十年を経た一九二八(昭和三)年に会津藩主松平容保の孫勢津子さまが、昭和天皇の弟秩父宮雍仁[やすひと]親王に嫁いだ。今年は勢津子さまの生誕百十周年、成婚九十周年の年にも当たり、生誕日の九日には記念式典が催された。勢津子さまや外交官として活躍した父松平恒雄氏らの特別写真展も二十六日まで会津若松市の御薬園で開かれている。二十八日には勢津子さまのインタビューなどをまとめた映像の映写会も予定されている。
 「朝敵」とされた会津藩の汚名をそそぐ出来事として会津人の心に残っている。「あの時にやっと戊辰戦争が終わった」と話す会津人もいる。戊辰戦争そのものに焦点が当てられがちだが、その後の会津に思いを寄せる機会にもなるだろう。
 月末には、最大のイベント会津まつりが展開される。二十三日の会津藩公行列には、仙台、米沢、棚倉、長岡の各藩の行列も編成される。それぞれが、会津藩の救援を目的に結成された奥羽越列藩同盟に加盟した。華やかさを楽しみながら、ゆかりの地同士の絆を一層深める一歩となるよう期待する。(安斎康史)

神奈川
戊辰と明治の歴史観に意見 横浜で新聞各社シンポ
 ニュースパーク(日本新聞博物館)主催のシンポジウム「明治百五十年を報じる視点」は十五日、横浜市中区の同博物館で開かれた。福島民報社、南日本新聞社(本社・鹿児島市)、朝日新聞東京本社、読売新聞西部本社の代表者が近代日本の出発点となった明治時代の明と暗、戊辰戦争の歴史観などに意見を交わした。
 福島民報社の安田信二取締役論説委員長は福島県内で行われている多くの催しの冠に「明治百五十年」ではなく「戊辰百五十年」が掲げられていることを指摘した。その上で、戊辰戦争を題材にした福島民報社の連載企画を中心にした紙面、徳島新聞社と連携したベートーベンの交響曲第九番の日本初演百周年記念事業、戊辰戦争を地元の資料で読み解く歴史講座などの取り組みを紹介した。
 安田委員長は「これまで繰り返されてきた固定的な見方や歴史叙述をさまざまな資料に基づいて検証する必要性がある」と提起。江戸幕府から明治新政府への政権交代前後の動きや戊辰戦争の各地の戦闘にとどまらず、経済や外交、思想、文化、人々の暮らしなどの幅広い視点で時代を捉え直す大切さを訴えた。戊辰戦争を武士の戦いとしてだけでなく、戦場に駆り出された人々の様子や物資の徴発を含め、当時の世の中全体を多面的に見る重要性にも触れた。
 南日本新聞社の原田茂樹文化生活部長は、薩摩藩が明治維新や近代化政策を主導できた背景を説明した。読売新聞西部本社の丸茂克浩社会部次長は簡単には和解できなくても互いの立場を理解することは可能だとした。朝日新聞東京本社の宮代栄一文化くらし報道部編集委員は「歴史を虚心坦懐(たんかい)に見つめることが大事」と述べた。
 共同通信社の橋詰邦弘論説委員長がコーディネーターを務めた。討論会に先立ち、政治学者の姜尚中(かん・さんじゅん)東大名誉教授が「明治百五十年とそのレガシー」と題して講演した。

( 2018/09/16 09:27 カテゴリー:主要 )

新潟
徳川の銀印、15日から公開=昨年発見、15代将軍ら使用-新潟
 江戸時代末期に徳川将軍家が外交文書に使った銀印「経文緯武(けいぶんいぶ)」が、新潟県立歴史博物館(長岡市)で15日から初めて一般公開される。銀印は昨年、徳川記念財団(東京都)が徳川宗家の蔵を整理した際に見つかったもので、幕府が1857年に作製を命じ、翌年結ばれた日米修好通商条約の批准書などに押印された。14代将軍家茂と15代将軍慶喜が使用したという。

将軍家光のかご、福井で発見=側近藩主に下賜

 同博物館では14日、銀印を公開する企画展の開場式と内覧会が開かれた。来賓として招かれた徳川宗家18代当主の徳川恒孝さん(78)は「歴史の積み重ねで現在がある。今の日本につながっているものを見ていただくのはとてもいいことだと思う」と話した。公開は30日まで。(2018/09/14-18:46)
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