新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
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web松竹で予約したチケットの回収に手間取って(クレジットカードを間違え、8月のチケットを発券してもぎられてしまった→有効にし直してもらう→改めて当日のチケットをカウンターで発券)、最初の何分かを見逃してしまった。
それもあってなかなか作品世界に集中できず。
真山青果 作
真山美保 演出
江戸絵両国八景
一、荒川の佐吉(あらかわのさきち)
荒川の佐吉 猿之助
相模屋政五郎 中車
極楽徳兵衛 男女蔵
大工辰五郎 巳之助
お八重 米吉
絵馬屋重作 桂三
あごの権六 由次郎
鍾馗の仁兵衛 猿弥
丸総女房お新 笑也
隅田の清五郎 門之助
成川郷右衛門 海老蔵
以下の引用は「歌舞伎美人」サイトの「みどころ」から。
うーん、猿之助さん演技力あるんですが私はどうも相性がよくない。気持ちがうまく入り込めないです。
目の見えない卯之吉くんを演じた猿くんと辰を演じた巳之吉さんがよかったです。
川崎哲男 脚本
松岡 亮 脚本
藤間勘十郎 演出・振付
壽三升景清
二、歌舞伎十八番の内 鎌髭(かまひげ)
歌舞伎十八番の内 景清(かげきよ)
〈鎌髭〉
修行者快鉄実は悪七兵衛景清 海老蔵
猪熊入道 市川右近
下男太郎作実は梶原源太 亀三郎
下男次郎作実は尾形次郎 九團次
下男三郎吾実は愛甲三郎 巳之助
下女お梅実は梶原妹白梅 尾上右近
下女お菊実は尾形妹園菊 米吉
下男四郎丸実は三浦四郎丸 鷹之資
うるおい有右衛門 市蔵
かわうそお蓮 萬次郎
鍛冶屋四郎兵衛実は三保谷四郎 左團次
〈景清〉
悪七兵衛景清 海老蔵
梶原源太 亀三郎
尾形次郎 九團次
愛甲三郎 巳之助
三浦四郎丸 鷹之資
阿古屋 笑三郎
岩永左衛門 猿弥
花菱屋女房おさく 右之助
秩父庄司重忠 猿之助
市川宗家の歌舞伎十八番の内「鎌髭」は古典なんですね。つい志の輔らくごで「中村仲蔵」作中に出てくる「鎌髭」の場面を期待してしまったんですが、このバージョンではありませんでした。
「景清」の大海老が出てくる場面はつい喝采を送ってしまった(^_^;)。
それもあってなかなか作品世界に集中できず。
真山青果 作
真山美保 演出
江戸絵両国八景
一、荒川の佐吉(あらかわのさきち)
荒川の佐吉 猿之助
相模屋政五郎 中車
極楽徳兵衛 男女蔵
大工辰五郎 巳之助
お八重 米吉
絵馬屋重作 桂三
あごの権六 由次郎
鍾馗の仁兵衛 猿弥
丸総女房お新 笑也
隅田の清五郎 門之助
成川郷右衛門 海老蔵
以下の引用は「歌舞伎美人」サイトの「みどころ」から。
一、荒川の佐吉(あらかわのさきち)
俠客の世界をのし上がった男の人情と生きざま
腕のいい大工からやくざの世界に憧れた佐吉は、鍾馗の仁兵衛の子分となります。しかし、仁兵衛は、浪人成川郷右衛門に斬られて縄張りを奪われ、落ちぶれた生活を送ることになります。その後仁兵衛は、丸総という大店に嫁いだ娘のお新が産んだ盲目の卯之吉を佐吉に託したまま、いかさま賭博をして殺されてしまいます。残された佐吉は、卯之吉を育てながらも、仁兵衛の仇討ちを決意して見事郷右衛門を討ち取ります。仁兵衛の後を継ぎ親分として卯之吉と平和に暮らしている佐吉のもとに、お新とともに相模屋政五郎が現れ、卯之吉をお新に返してやって欲しいと頼まれます…。
爽快で人情味豊かな男の潔さをご堪能ください。
うーん、猿之助さん演技力あるんですが私はどうも相性がよくない。気持ちがうまく入り込めないです。
目の見えない卯之吉くんを演じた猿くんと辰を演じた巳之吉さんがよかったです。
川崎哲男 脚本
松岡 亮 脚本
藤間勘十郎 演出・振付
壽三升景清
二、歌舞伎十八番の内 鎌髭(かまひげ)
歌舞伎十八番の内 景清(かげきよ)
〈鎌髭〉
修行者快鉄実は悪七兵衛景清 海老蔵
猪熊入道 市川右近
下男太郎作実は梶原源太 亀三郎
下男次郎作実は尾形次郎 九團次
下男三郎吾実は愛甲三郎 巳之助
下女お梅実は梶原妹白梅 尾上右近
下女お菊実は尾形妹園菊 米吉
下男四郎丸実は三浦四郎丸 鷹之資
うるおい有右衛門 市蔵
かわうそお蓮 萬次郎
鍛冶屋四郎兵衛実は三保谷四郎 左團次
〈景清〉
悪七兵衛景清 海老蔵
梶原源太 亀三郎
尾形次郎 九團次
愛甲三郎 巳之助
三浦四郎丸 鷹之資
阿古屋 笑三郎
岩永左衛門 猿弥
花菱屋女房おさく 右之助
秩父庄司重忠 猿之助
壽三升景清
二、歌舞伎十八番の内 鎌髭(かまひげ)
歌舞伎十八番の内 景清(かげきよ)
壽三升景清 不死身の景清がみせる大荒事
鎌髭
源氏の武将三保谷四郎は、鍛冶屋の主に身をやつし、景清を討ち取ろうとしています。そこへやって来た修行者姿の景清は、三保谷たちの計画どおり酒を所望します。伸びた髭を剃ってもらいたいと言いだした景清に対し、三保谷は絶好の機会と大鎌で首を掻こうとしますが、不死身の景清を掻き切ることができません。初めから計略を知り縄にかかるつもりの景清は、自ら身を差し出し都へと引かれていきます。
歌舞伎十八番ならではの大らかな一幕をお楽しみください。
景清
六波羅の牢に入れられた景清が、まったく口を開かないため、岩永左衛門は景清の妻阿古屋と娘の人丸を呼び、二人を拷問しようとします。そこへ秩父庄司重忠が現れ、自らが景清の口を開かせると言って人払いを命じます。景清は、源氏の無能さを世に知らしめ、天下泰平の世をつくるのが望みと語ります。その言葉に重忠は、源頼朝も同じ思いであると伝えます。それを聞いた景清は復讐の念を捨て…。
無敵の英雄景清がみせる荒事にご期待ください。
市川宗家の歌舞伎十八番の内「鎌髭」は古典なんですね。つい志の輔らくごで「中村仲蔵」作中に出てくる「鎌髭」の場面を期待してしまったんですが、このバージョンではありませんでした。
「景清」の大海老が出てくる場面はつい喝采を送ってしまった(^_^;)。
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東京
江戸琳派の真打登場!幕末に独自の様式を確立した鈴木其一初の大回顧展「鈴木其一 江戸琳派の旗手」
宮城
戊辰戦争で暗殺 仙台藩士弔う
長崎
追悼式戊辰戦争から第二次大戦まで 戦没者2542人しのぶ 平和への誓い新た 平戸 /長崎
福島
御茶屋御殿2階初公開 若松の御薬園
富山
富山県水墨美術館で鬼才・河鍋暁斎の企画展 幕末と明治を生きた絵師
コラム
“酒乱”で近藤勇とモメて切腹? 新選組の新見錦、ナゾの人物像に光当たるか (1/4)
関ジャニ錦戸主演で話題を呼んだ「サムライせんせい」コミックス第3巻発売、著者:黒江S介のコメントも到着
小野大輔さんがあの幕末の志士に!? 期間限定Webコンテンツ『龍馬 meets MetLife』で地元・土佐弁を披露
江戸琳派の真打登場!幕末に独自の様式を確立した鈴木其一初の大回顧展「鈴木其一 江戸琳派の旗手」
本阿弥光悦と俵屋宗達を祖とする琳派は、狩野派とともに江戸時代に非常に強い勢力を持っていた日本絵画の流派でした。
琳派の絵師で江戸時代後期に活躍した絵師が、今回紹介する展覧会の主役・鈴木其一(すずききいつ)です。鈴木其一は江戸琳派を基盤にしながら、斬新で独創的な作品を描いた画家として近年大きな注目を集めている人物。
その其一の画業の全容を捉え魅力を伝えるのが、大回顧展「鈴木其一 江戸琳派の旗手」です。
其一は江戸琳派を確立したと言われる酒井抱一の一番弟子。酒井抱一は江戸の地で琳派の再興を図った人物で、より写実的で洗練された画風を描きました。抱一が没して以降其一は圧倒的な存在感を示し、江戸幕末期にはダイナミックな構成や明快な色彩を多用し独自の作風を築いていきました。
風神雷神図襖
鈴木其一筆 八面 江戸時代 19世紀 東京富士美術館
©東京富士美術館イメージアーカイブ/DNPartcom
そんな「江戸琳派の旗手」、鈴木其一の作品が国内外からかつてない規模で作品が一堂に揃うのが本展。展示作品の中には新出作品も含まれます。
夏秋渓流図屏風
鈴木其一筆 六曲一双 江戸時代 19世紀 根津美術館
朝顔図屏風
鈴木其一筆 六曲一双 江戸時代 19世紀 アメリカ・メトロポリタン美術館
©The Metropolitan Museum of Art. Image source: Art Resource, NY
今回の展示品の中で最も注目されている朝顔図屏風が日本で公開されるのは実に12年ぶり。アメリカのメトロポリタン美術館に収蔵されているこの作品は同美術館でもとても人気の高い作品なんだそうです。
琳派というと琳派の歴史上で大きな役割を担った俵屋宗達や尾形光琳の名をよく耳にしますが、鈴木其一もまた琳派に大きな変革をもたらした人物。
鈴木其一の初の大回顧展「鈴木其一 江戸琳派の旗手」は2016年9月10日(土)~10月30日(日)の期間、東京・サントリー美術館で開催されます。
宮城
戊辰戦争で暗殺 仙台藩士弔う
戊辰戦争で奥羽越列藩同盟を離脱しようとした秋田藩の説得に訪れて秋田藩士に暗殺された仙台藩士12人の慰霊祭が、命日に当たる4日、秋田市寺内の西来院であった。
秋田宮城県人会(三浦亮会長)が主催し、今年で149回目。会員や宮城県の藩士の子孫、仙台藩志会の会員ら約20人が参列し、読経と焼香の後、同院近くの仙台藩殉難碑に手を合わせた。
石川スミエさん(69)=仙台市青葉区=は仙台藩士の子孫という夫の浩司さん(78)と参列。「先祖の犠牲があったからこそ、今がある。供養の大切さを伝えていきたい」と話した。
参列者は暗殺された藩士の首がさらされた同市大町の5丁目橋も訪れ、川反観音像の前で冥福を祈った。
長崎
追悼式戊辰戦争から第二次大戦まで 戦没者2542人しのぶ 平和への誓い新た 平戸 /長崎
平戸市戦没者追悼式が1日、平戸文化センターであり、遺族ら約450人が戊辰(ぼしん)戦争から第二次大戦までの市出身戦没者2542人をしのんで献花し、平和への誓いを新たにした。
市戦没者慰霊奉賛会(会長・黒田成彦市長)の主催。遺族を代表して、南洋で父親が戦死した岡山紀一・市連合遺族会長(74)がオバマ米大統領の広島訪問に触れ「この出来事を1歩ずつ前に進め、日米両国の心の和解、日本とアジア各国との和解・友好が進むことを切望します」と述べた。
参列した平戸小6年生71人は声を合わせて「戦争で多くの人が流した涙の訳を、命の大切さを伝えていきます」と誓いの言葉を述べた。代表して祭壇に献水した末永朱莉(あかり)さん(11)は「戦争のない平和な日本にしたい」と話した。【峰下喜之】
〔長崎版〕
福島
御茶屋御殿2階初公開 若松の御薬園
会津若松市は市内の国指定名勝・会津松平氏庭園「御薬園」内にある御茶屋御殿の2階部分を8月6日から10日まで、9月24日から28日までの計10日間、期間限定で初公開する。京都守護職を務め戊辰戦争を戦った会津松平家第九代藩主・松平容保公が明治期に住んでいた場所で、注目を集めそうだ。
御茶屋御殿は江戸時代の元禄9(1696)年に建てられた。戊辰戦争後に容保公が住まいとして使うため明治15(1882)年に増築され、同16年から同20年までの約4年間を過ごした。
江戸期建物部分は庭園を望みながら茶席を楽しめるよう公開していたが、明治期増築部分は耐久性の問題で大人数が入れず今まで非公開だった。東日本大震災の影響と老朽化で平成26、27の両年に改修工事を行い、耐久性が向上したため特別に公開することになった。
ただ、元々頑丈な造りでないことなどから、公開は期間限定とする。江戸期建物部分も29年度までに震災の被災部分などを修復するため、工事が終わるまで再公開は難しく、公開は非常に貴重なものとなるという。
2階部分は来客に対応したと思われる10畳の座敷と、同行者らが控えたと考えられる10畳の部屋があるほか、庭園を見下ろせる広縁がある。
公開時間はいずれも午前9時から正午まで。期間中は毎日先着順で120人分の整理券を配り、30分ごとに20人ずつ案内する。ただし御薬園の入園料が必要となる。特別公開の問い合わせは市文化課 電話0242(39)1305へ。
( 2016/07/08 10:13 カテゴリー:主要 )
富山
富山県水墨美術館で鬼才・河鍋暁斎の企画展 幕末と明治を生きた絵師
富山県水墨美術館(富山市五福、TEL 076-431-3719)で6月25日から、企画展「鬼才-河鍋暁斎(かわなべきょうさい)展 幕末と明治を生きた絵師」が開催されている。
外観も美しい「富山県水墨美術館」
幕末から明治にかけて活躍した狩野派の絵師・河鍋暁斎は、1831(天保2)年に現在の茨城県古河市で生誕。2歳の時に一家で江戸に渡った。3歳で初めてカエルを描き、わずか7歳で浮世絵師・歌川国芳(くによし)に入門。10歳で狩野派の絵師に師事し、19歳で洞郁陳之(とういくのりゆき)の画号を授かった。
狩野派で絵画の基礎が築かれたのちに、「河鍋狂斎」「暁斎」の画号で流派を超えた表現方法を開拓。57歳で亡くなるまで、厳粛な仏画から浮世絵、ウイットに富んだ風刺画に至るあらゆるジャンルを描いた。
計113点を展示する同展では、前後期に分けて作品替えを実施。前期は彩色画、水墨画、仏画、狂画、錦絵、絵本の挿絵などを展示する。
多彩な作品が並ぶ中でも圧倒的な存在感を放つのが、縦4メートル、横17メートルにも及ぶ大作「新富座妖怪引幕(しんとみざようかいひきまく)」。料亭の大広間などで絵師が即興で作品を描く「書画会」に数多く招かれた暁斎は、当時の人気歌舞伎役者だった9代目市川団十郎、5代目尾上菊五郎を妖怪に見立てた同作を、大酒をあおりながら4時間で描き上げた。大胆に筆を走らせながらも均整の取れた構図が特徴で、躍動感と緊張感がみなぎる傑作となっている。
1881(明治14)年に開かれた第2回内国勧業博覧会で「妙技二等賞」(日本画の最高賞)を受賞、暁斎の代表作となった水墨画「枯木寒鴉図(こぼくかんあず)」も展示。枯れ木にとまるカラスをモチーフにし、くちばしの鋭さと羽毛の柔らかさを墨一色で描写。カラスを孤高の存在として高め、凛(りん)とした美しさを表現した。
7月9日には暁斎のひ孫で「河鍋暁斎記念美術館」館長・河鍋楠美さんによる講演会、同23日には河鍋さんと画家の山口晃さんによる対談も予定する。時間はいずれも14時から。
開館時間は9時30分~17時。月曜(7月18日は開館)と7月19日休館。観覧料は、一般=1200円、大学生=900円。前期展は7月18日まで、後期展は7月20日~8月7日。
コラム
“酒乱”で近藤勇とモメて切腹? 新選組の新見錦、ナゾの人物像に光当たるか (1/4)
幕末に活躍し、新選組の結成時に最高幹部を務めたとされる新見錦(にいみにしき)について、本名とされる「新家粂太郎」の名前が記された新資料が京都と茨城で相次いで見つかった。
幕末に活躍し、新選組の結成時(壬生浪士)に最高幹部を務めたとされる新見錦(にいみにしき、1836~63年)について、本名とされる「新家(にいのみ)粂太郎」の名前が記された新資料が京都と茨城で相次いで見つかった。近藤勇や土方歳三らと対立し、切腹に追い込まれたといわれる新見。京都で切腹したとする説が有力だったが、長州に移ってから切腹したとする説もあり、ナゾに包まれているのだ。新見の人物像については、これまで詳しい研究は進められておらず、専門家も新たな発見に注目している。
新見錦=新家粂太郎か
新見錦は水戸藩出身。新選組の前身「壬生浪士」の最高幹部の1人で、当初は芹沢鴨、近藤勇とともに局長を務めたとされる。歴史家の間では、新見は変名で、本名は新家粂太郎だったとする説が有力だ。
新選組を描いた最近のドラマといえば、放映中のNHK大河ドラマ「真田丸」と同じ三谷幸喜さん脚本で、香取慎吾さんが近藤勇役で主演を務めた大河ドラマ「新選組!」(平成16年)がある。このときは演技派俳優、相島一之さんが演じていた。
新見は同じ水戸藩士として芹沢らと行動をともにし、近藤、土方らのグループと対立。そのあおりをうける形で、文久3(1863)年9月に京都で切腹させられた-とされている。酒癖の悪さを近藤や芹沢がいさめても聞き入れず、それを理由に切腹に追い込まれたという。「新選組!」では芹沢を排除しようとする土方らにわなにはめられ、切腹するシーンが描かれていた。
新見について記された資料としては、新選組の永倉新八が記した『新選組顛末記』や『浪士文久報国記事』がある。新見は酒癖が悪く乱暴者だ-とする記述があり、これが京都で切腹させられたという説の出所だ。
新たに借用書発見
今回見つかったのは、京都府立総合資料館(京都市左京区)所蔵で、文久3年5月に京都市中京区にあったはたご「万屋(よろずや)」での借用書。水戸藩浪士、吉成勇太郎と今泉与一太郎ら3人が金8両を借りた証明書で、3人の連署の中に「新家粂太郎」の名が記されていた。
幕末史を専門に研究する大阪市の浦出卓郎さん(29)が、同館での文献調査中に発見。浦出さんによると、「万屋」は水戸藩とつながりがあったとされるはたごで、借用書には「12月中までには頭金をそろえて返すつもりです」という内容が書かれている。
新選組のメンバーの一人、早川文太郎が記した『尽忠報国勇士姓名録』などによると、新見が活動した時期は文久3年2月からわずか3カ月程度だった。5月以降になると関連の名簿から名前は消え、この時期に離脱したとみられるという。
文久3年5月の借用書に「新家粂太郎」の署名が見つかったことについて、浦出さんは「離脱して『新見錦』の名を使う必要がなくなったため、本名で署名したのではないか」と推測。「2つの名前をつなげる重要な手がかりで、離脱した後の動向がうかがえる重要な資料」と話した。
謎に包まれた2人
一方、茨城県水戸市でも新見に関する資料が発見された。藩校・弘道館の助教を務めた幕末の学者、石河明善(1821~70年)が水戸藩の情勢や桜田門外の変などを詳細に記した「石河明善日記」(水戸市博物館所蔵)の中で、新見や芹沢の出自に触れた記述があった。
発見した水戸の郷土史家、小林義忠さん(70)は「水戸では『新見』も『新家』も『にいのみ』と読む」とし、「『石河明善日記』は水戸市史にも引用されている信用性の高い資料。謎に包まれていた新見や芹沢の出自を明らかにできる」と意気込む。
2人に関する記述が登場するのは、全30巻「石河明善日記」のうちの19巻。文久元(1861)年2月26日に「政府(水戸藩庁)より名指召捕り人別」と記され、10人の名前の中に2人に関する情報が含まれていた。
「石河明善日記」では、出自について「乙太郎の伜 金町スルガヤ弟其後江戸へ五六年余り金健(金子健四郎)弟子に成候」と記載。新家粂太郎が弟子入りしたとされる金子健四郎は、神道無念流の剣客、岡田吉利の高弟だ。
また、同郷の芹沢は本名が「下村嗣次」で、元々は武士の出身ではなく、父親が百姓の身分から神職に就いたことがうかがえる。
酒さえなければ
新見と芹沢の2人は万延元(1860)年に水戸で形成した過激派集団「長岡勢」が二分してできた「玉造勢」に参加。玉造勢は、攘夷決行のための軍資金を半ば強引に富豪から調達したため、藩庁が玉造勢の一斉逮捕を命じ、新見らも文久元(1861)年に捕らえられた。
文久2年、清川八郎の恩赦運動で2人は釈放され、当時幕府が募集していた浪士組に応募、京都に向かい、新選組創設に立ち会うことになる。
小林さんによると、新見はこの時から、変名で「新見錦」の名前を使うようになったという。主に金策に奔走していたようだが、新見は度々問題を起こして謹慎処分を受けていた。
水戸藩士で、面倒見がよかったという京都本圀寺詰の吉成勇太郎が記した「池田家文書」(岡山大学附属図書館蔵)の文久3年8月の記録には、新家粂太郎が6月に長州の外国船砲撃に関して、攘夷実行を促す勅使・正親町公董の親兵となって長州に向かい、不祥事を起こしたときのことが記されている。
「酒さえなければ攘夷戦の際に大いに働く人物である」と、新家粂太郎が不始末で処分されそうになったところを、正親町公董の家臣・徳田隼人の一存で処分保留になったことが記されている。
「敗者の歴史に光を」
小林さんの研究によると、吉成は近藤勇や芹沢と相談し、新家粂太郎の謹慎処分を解き、「新見錦」を離脱させた上で親兵にしたが、そこでも酒癖が祟ったようである。同年9月15日、酒癖が原因で、現在の山口県防府市三田尻で切腹して最期を迎えたという。
酒癖が理由という点は同じでも、京都切腹説とは異なる。新見の生死をめぐる経緯や人物像はいまなお不明な点が多い。
幕末維新史の研究者で霊山歴史資料館の木村幸比古副館長は、相次ぐ発見について「画期的な資料だ。幕末史の中で最も研究が進んでいるのが新選組だが、いわゆる敗者側の芹沢鴨や新見錦などの研究は進んでいなかった。この新発見をきっかけに、敗者の歴史に光が当たる機会が増えれば」と話している。
関ジャニ錦戸主演で話題を呼んだ「サムライせんせい」コミックス第3巻発売、著者:黒江S介のコメントも到着
関ジャニ∞・錦戸亮の主演でドラマ化もされた「サムライせんせい」のコミックス最新第3巻[7月9日(土)発売]より、著者・黒江S介からのコメントが到着。また、コミックス公式WEBサイトにてスペシャルコンテンツ「お言葉、頂戴!」が公開されたほか、7月9日(土)からは黒江S介の直筆色紙が当たるTwitterキャンペーンも実施される。おまけマンガも楽しいです。今日書店に行ってきます。
「サムライせんせい」は、現代にタイムスリップした幕末の志士が学習塾の先生になるという、侍タイムスリップコメディー。2巻までは現代にタイムスリップした土佐の藩士“武市半平太”が、先にタイムスリップしていた楢崎こと“坂本竜馬”に出会うところまでが描かれていたが、第3巻では過去編として、半平太や竜馬のタイムスリップ前の様子が描かれる。さらに、歴史の闇に名を刻んだあの有名な幕末志士の登場や、20Pの描き下ろしもあるとのこと。
第3巻の発売に際し、黒江S介は「3巻は武市先生や竜馬が生きていた幕末編を描かせて頂いています。私なりに解釈した歴史的なエピソードに、少しでも皆様の共感を得られれば、と思っております。これからもブレないように頑張って描かせて頂きます」とコメントしている。
なお、「サムライせんせい」コミックス公式WEBサイトでは、武市半平太や楢崎などのキャラクター達に悩みを相談すると、素敵なアドバイスが一言もらえるスペシャルコンテンツ「お言葉、頂戴!」が公開中。もらった言葉は画像としてTwitterやLINEにも投稿できる。また、7月7日(木)更新のpixivコミック内「クロフネZERO」では、コミックス第三巻発売を記念した描き下ろしマンガも掲載されている。
小野大輔さんがあの幕末の志士に!? 期間限定Webコンテンツ『龍馬 meets MetLife』で地元・土佐弁を披露
2016年6月30日(木)16時より、メットライフ生命公式サイト内情報ページ「MetLife Online」にて、高知県出身で観光特使を務める声優・小野大輔さんが、坂本龍馬として土佐弁を披露する期間限定Webコンテンツ『龍馬 meets MetLife』が公開となりました。
今回のこの試みは、今年で没後およそ150年を迎える幕末の偉人・坂本龍馬が日本の夜明けを目指し奔走していた同時期に、生命保険会社メットライフの前身となる会社が、アメリカ・ニューヨークで誕生したというお互いの共通点。そこから、もしも坂本龍馬とメットライフが出会ったらというところがコンセプトで、このふたつの要素が時間と場所を超えて出会うという全3篇のストーリーを観ることができます。
■Twitterでも同時公開。小野大輔の限定ボイス!
『龍馬 meets MetLife』の公開を記念して、メットライフ生命公式ツイッターでは、ここでしか聞けない坂本龍馬(CV:小野大輔)の限定ボイスをお楽しみいただけます。
【小野大輔】
1978年生まれ高知県出身/声優、アーティスト
代表作に「おそ松さん」(松野十四松役)、『ジョジョの奇妙な冒険』シリーズ(空条承太郎役)、『黒執事』シリーズ(セバスチャン・ミカエリス役)など。2010年には高知県観光特使にも任命され、ふるさとの観光プロモーションにも取り組んでいる。
■メットライフ生命期間限定Webコンテンツ『龍馬 meets MetLife』
全3話【内容】※第1話公開後、順次公開予定。
・1話:歴史篇「龍馬、ニューヨークに行く。」
勝海舟が設立した神戸海軍操練所で昼寝中の龍馬。目を覚ますと、
馬車の走るニューヨークにタイムスリップしていて…。
・2話:リスク篇「龍馬、リスクを考える」
寺田屋で負傷し、おりょうを伴った湯治の旅先でまたしても昼寝をする龍馬。
今度は東京にタイムスリップした龍馬は、メットライフ生命のコンサルタントに出会う。
・3話:お客さまの声篇「龍馬、保険の未来を考える」
西郷隆盛に新政府に入るよう勧められ、日本の未来を考えるうちにいびきをかく龍馬。
ふたたび出会ったメットライフ生命のコンサルタントと、未来について考える。
>>MetLife Online
>>メットライフ生命公式ツイッター
二十四孝/市馬
市馬さんが演じると乱暴者の八五郎すら憎めない。猫との攻防戦がとても楽しい。
ハーブやってるだろ!/天どん
粋曲/小菊
棒鱈/歌奴
寄席で「棒鱈」がかかると嬉しくなってしまう。
紙切り/楽一
横綱土俵入り、朝顔市、北島マヤ
落語の仮面 第3話「トキ蕎麦危機一髪」/白鳥
林家桜小路、柳家ミミ、鈴々舎馬角。これで第1話から第4話までコンプリート。
市馬さんが演じると乱暴者の八五郎すら憎めない。猫との攻防戦がとても楽しい。
ハーブやってるだろ!/天どん
粋曲/小菊
棒鱈/歌奴
寄席で「棒鱈」がかかると嬉しくなってしまう。
紙切り/楽一
横綱土俵入り、朝顔市、北島マヤ
落語の仮面 第3話「トキ蕎麦危機一髪」/白鳥
林家桜小路、柳家ミミ、鈴々舎馬角。これで第1話から第4話までコンプリート。
朝から暑さ負けで胃が痛かったりお腹ピーピーしてたりがやっと止まりました(汗)。例年、6月に一回は湿気で調子を崩すところが今年は何とか乗り切れたところ、七月早々の熱波と冷房冷え症のダブルパンチに、身体が泣きを入れてきました。
何とかものを書ける程度に回復しましたので、昨日の落語記録を。なお、私のブログでは、後日自分の検索用に落語や歌舞伎の投稿は終演時の日時を投稿日時に設定しておりますので、その点はご理解を。
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ねっけつ!怪談部/彦いち
ちょうどマクラが終わって噺に入るところでした。マクラが長すぎて「残り時間があと6、7分」と(苦笑)言い置いて。
幽霊らしき部員たちに続いて水木マンガのキャラっぽい妖怪たちが登場、というところで、切れ場に。
一目上がり/扇遊
2日前に前座さんがかけた噺なので、ベテラン真打ちの名手っぷりが際立ちました。七月上席夜の部の番組は、新作落語も古典落語もいいメンバーが揃っていて、寄席の醍醐味を味わえます(ただし前座〜サラ口は過去2回で胃にもたれたので、今回は遅れて入場させていただきました)。
奇術/アサダ二世
毎回楽しいのですが、さすがに連日見てしまうと、ネタも同じものになってしまうので、ちょっと辛いですね。同じ番組を続けて見ると、違う噺をかけられる落語家さんと、同じネタになりがちな色物さん(粋曲の小菊さんと紙切りの楽一・正楽さんは毎日違うネタですが)の違いを感じます。まぁ小菊さんがいつもおっしゃる「お噺の間の彩り」が色物さんたちの役割なので。
出来心/市馬
中入り前のひとつ手前の出番なのがもったいないほどの市馬さん。喜多八師匠がお亡くなりになってしまった(合掌)ので、ますます、先代柳家小さんの直弟子の中では相対的に若いながらもスケールの大きな古典を聴かせてくれる貴重なプレーヤーだと思います。七代目小さんを継いで頂いてもおかしくない芸と風格を持っていると個人的に思っています。
空き巣に入り込んで、羊羹三切れをいただいたところまではしめしめだったけど、家人がいたために慌てて逃げ出して、下駄を忘れてしまいました……って、着るものや履き物が相対的に安価になっている現代と違って、昔は下駄は歯が摩滅したら掛け直したりして長年使っていたんでしたね。「鰻の幇間」でも野幇間が安い鰻屋でまずい鰻を奢られていい気になっているうちに下駄を履き替えられてしまう、というオチなんだけど、ユニクロで1000円もしないようなシューズとは違う貴重品だと、忘れないようにしよう。
肥辰一代記/天どん
圓丈師匠作の新作落語であることは知ってましたが、初めて聴きました。ネタがう○こなので、わざわざ音源探して聴く気がしないということもありますが、圓丈師匠の作品は自分的に好き嫌いが分かれたりするので。
今日はう○こネタで笑える心の余裕がないなぁということを確認した初鑑賞でありました。天どんさん、ちょっと苦しそうでした。こういうネタは馬鹿馬鹿しさが身上なので、苦しげなところを見せたら笑えません。
粋曲/小菊
団子坂奇談/扇辰
怪談話仕立てで終盤怖いのだけど、オチを聴いて安心する。
紙切り/楽一
横綱土俵入り、朝顔、三遊亭月影先生。
白鳥師匠によると、「ガラスの仮面」では北島マヤ、姫川亜弓、速見真澄、桜小路優が切れるのだそうです。残りの出番で、どのくらいリクエストかかるでしょうか。
落語の仮面第1話「三遊亭花誕生」/白鳥
花と月影先生の他に、鈴々舎馬角(れいれいしゃますみ)、ライバル役の柳家ミミが登場。
何とかものを書ける程度に回復しましたので、昨日の落語記録を。なお、私のブログでは、後日自分の検索用に落語や歌舞伎の投稿は終演時の日時を投稿日時に設定しておりますので、その点はご理解を。
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ねっけつ!怪談部/彦いち
ちょうどマクラが終わって噺に入るところでした。マクラが長すぎて「残り時間があと6、7分」と(苦笑)言い置いて。
幽霊らしき部員たちに続いて水木マンガのキャラっぽい妖怪たちが登場、というところで、切れ場に。
一目上がり/扇遊
2日前に前座さんがかけた噺なので、ベテラン真打ちの名手っぷりが際立ちました。七月上席夜の部の番組は、新作落語も古典落語もいいメンバーが揃っていて、寄席の醍醐味を味わえます(ただし前座〜サラ口は過去2回で胃にもたれたので、今回は遅れて入場させていただきました)。
奇術/アサダ二世
毎回楽しいのですが、さすがに連日見てしまうと、ネタも同じものになってしまうので、ちょっと辛いですね。同じ番組を続けて見ると、違う噺をかけられる落語家さんと、同じネタになりがちな色物さん(粋曲の小菊さんと紙切りの楽一・正楽さんは毎日違うネタですが)の違いを感じます。まぁ小菊さんがいつもおっしゃる「お噺の間の彩り」が色物さんたちの役割なので。
出来心/市馬
中入り前のひとつ手前の出番なのがもったいないほどの市馬さん。喜多八師匠がお亡くなりになってしまった(合掌)ので、ますます、先代柳家小さんの直弟子の中では相対的に若いながらもスケールの大きな古典を聴かせてくれる貴重なプレーヤーだと思います。七代目小さんを継いで頂いてもおかしくない芸と風格を持っていると個人的に思っています。
空き巣に入り込んで、羊羹三切れをいただいたところまではしめしめだったけど、家人がいたために慌てて逃げ出して、下駄を忘れてしまいました……って、着るものや履き物が相対的に安価になっている現代と違って、昔は下駄は歯が摩滅したら掛け直したりして長年使っていたんでしたね。「鰻の幇間」でも野幇間が安い鰻屋でまずい鰻を奢られていい気になっているうちに下駄を履き替えられてしまう、というオチなんだけど、ユニクロで1000円もしないようなシューズとは違う貴重品だと、忘れないようにしよう。
肥辰一代記/天どん
圓丈師匠作の新作落語であることは知ってましたが、初めて聴きました。ネタがう○こなので、わざわざ音源探して聴く気がしないということもありますが、圓丈師匠の作品は自分的に好き嫌いが分かれたりするので。
今日はう○こネタで笑える心の余裕がないなぁということを確認した初鑑賞でありました。天どんさん、ちょっと苦しそうでした。こういうネタは馬鹿馬鹿しさが身上なので、苦しげなところを見せたら笑えません。
粋曲/小菊
団子坂奇談/扇辰
怪談話仕立てで終盤怖いのだけど、オチを聴いて安心する。
紙切り/楽一
横綱土俵入り、朝顔、三遊亭月影先生。
白鳥師匠によると、「ガラスの仮面」では北島マヤ、姫川亜弓、速見真澄、桜小路優が切れるのだそうです。残りの出番で、どのくらいリクエストかかるでしょうか。
落語の仮面第1話「三遊亭花誕生」/白鳥
花と月影先生の他に、鈴々舎馬角(れいれいしゃますみ)、ライバル役の柳家ミミが登場。
「落語の仮面」第3話以降はネタおろしだそうで、いそいそと行ってきました。ちょうど昼夜の入れ替え時にゲリラ豪雨的な通り雨となり、それを見越した私は吉池食堂で「ちょい飲みセット」をいただいて雨宿りしておりました←完全にオッサンが中に入ってます(^_^;)。
ちょうど前座さんの中盤頃に入場。平日夜だったので結構余裕でした。
一目上がり/かな文
この秋に文蔵を襲名される文左衞門師匠の前座さんですね。文師の前座名を引き継いだだけあって、口調に文師の色が見えます。
ナースコール/なな子
白鳥師が女性落語家のためにつくった噺のひとつですが、演じ方によって主人公に「イラッ」とさせられる度合いが強くなるのかしら。白鳥師の時にはみどりちゃんのおバカっぷりに笑えるんだけど……。
ジャグリング/ストレート松浦
一番好きなのは猫のお手玉です。
手水廻し/きく姫
過去記事見たら、きく姫さんが漫談以外かけるのを初めて見た。でも、正直あまり……ああ、つらい……14年関西に暮らしていたせいもあり、中途半端な似非関西弁もつらい……。
狸賽/扇遊
お口直しにはありがたい扇遊師匠。しかも狸賽は初ライブです。札に比べて難しいんでしょうかね。可愛い狸でした。
奇術/アサダ二世
一日おいて二回連続して見ると、なるほどトランプのネタってそうなってるんだと何となく見えてきたものが。
小言念仏/燕路
好きなネタです。まんま小三治師匠の形ですね。でも小三治師匠のあのとぼけた味わいは他の師匠には出せないですね……もう一工夫していただきたいです。
天使と悪魔/百栄
百栄さんのネタでずーっと生で聴きたかったんだけど出会えなかった「天使と悪魔」キター!! 乙な小紋を着た古典落語のお遣い姫と、KISSのジーン・シモンズのような新作落語の悪魔が、鈴本の高座に上がった二つ目落語家、春風亭栄助君(仮名)の心を引き裂く。お席亭は同じ春風亭でも一之輔くんに夢中だとか、栄助君を新作落語の沼に誘い込んだ圓丈師匠だとか、実在の人物をキャラクター使用した実話風のところが好きです。
マクラで寄席のこととか昔の名人のこととか振るので「弟子の強飯」かなとも思っていたのだけど、ずっと録音でしか聴けてなかった「天使と悪魔」が聴けて嬉しいです。
中入
粋曲/子菊
一眼国/扇辰
「私どもはあらかじめ時間が決められていて……長(なげ)ーんだよ百栄!!」と一言吼えてからネタに入りました。
「一眼国」は一度だけ、末廣亭で当代小さんがかけたのを聴いていますが、これはアレンジバージョンでした。扇辰さんのは正統派ですが、時間調整のために短くしたものでした。
お奉行所に引き立てられた場面などは、やはり、さすがです。
紙切り/正楽
楽一さんの代演で師匠。相合い傘、釣り忍、白鳥(師匠が鳥の白鳥とご対面)、雷門。
落語の仮面 第4話「テレビ仮面舞踏会」/白鳥
白鳥師匠のアンケートによると、ガラスの仮面を知っているけど落語は知らない人、落語は知ってるけどガラスの仮面は知らない人がそれぞれぱらぱらといて、微妙な塩梅。でも今日はあの長寿番組「笑点」がネタの中心で、落語家いじりネタも笑点出演者中心で割とわかりやすかったのではと。
大都芸能による三遊亭月影・三遊亭花潰しが佳境に。テレビ出演して人気者になるのも早ければ、本人に悪気がなくても何かあると(いくつかあったスキャンダルのうち、花の父親が笑点で誰が座布団十枚を獲得するかという座布団賭博にはまり、花に座布団操作させる、というのが一番笑えた)墜ちるのも早く、花は月影先生からも出入り止めを食らってしまう。
立川あゆみ、林家ミミ(三三会長の弟子で女性落語家)、鈴々舎真澄(紫のイモの人)など、落語家の設定も楽しく。
ちょうど前座さんの中盤頃に入場。平日夜だったので結構余裕でした。
一目上がり/かな文
この秋に文蔵を襲名される文左衞門師匠の前座さんですね。文師の前座名を引き継いだだけあって、口調に文師の色が見えます。
ナースコール/なな子
白鳥師が女性落語家のためにつくった噺のひとつですが、演じ方によって主人公に「イラッ」とさせられる度合いが強くなるのかしら。白鳥師の時にはみどりちゃんのおバカっぷりに笑えるんだけど……。
ジャグリング/ストレート松浦
一番好きなのは猫のお手玉です。
手水廻し/きく姫
過去記事見たら、きく姫さんが漫談以外かけるのを初めて見た。でも、正直あまり……ああ、つらい……14年関西に暮らしていたせいもあり、中途半端な似非関西弁もつらい……。
狸賽/扇遊
お口直しにはありがたい扇遊師匠。しかも狸賽は初ライブです。札に比べて難しいんでしょうかね。可愛い狸でした。
奇術/アサダ二世
一日おいて二回連続して見ると、なるほどトランプのネタってそうなってるんだと何となく見えてきたものが。
小言念仏/燕路
好きなネタです。まんま小三治師匠の形ですね。でも小三治師匠のあのとぼけた味わいは他の師匠には出せないですね……もう一工夫していただきたいです。
天使と悪魔/百栄
百栄さんのネタでずーっと生で聴きたかったんだけど出会えなかった「天使と悪魔」キター!! 乙な小紋を着た古典落語のお遣い姫と、KISSのジーン・シモンズのような新作落語の悪魔が、鈴本の高座に上がった二つ目落語家、春風亭栄助君(仮名)の心を引き裂く。お席亭は同じ春風亭でも一之輔くんに夢中だとか、栄助君を新作落語の沼に誘い込んだ圓丈師匠だとか、実在の人物をキャラクター使用した実話風のところが好きです。
マクラで寄席のこととか昔の名人のこととか振るので「弟子の強飯」かなとも思っていたのだけど、ずっと録音でしか聴けてなかった「天使と悪魔」が聴けて嬉しいです。
中入
粋曲/子菊
一眼国/扇辰
「私どもはあらかじめ時間が決められていて……長(なげ)ーんだよ百栄!!」と一言吼えてからネタに入りました。
「一眼国」は一度だけ、末廣亭で当代小さんがかけたのを聴いていますが、これはアレンジバージョンでした。扇辰さんのは正統派ですが、時間調整のために短くしたものでした。
お奉行所に引き立てられた場面などは、やはり、さすがです。
紙切り/正楽
楽一さんの代演で師匠。相合い傘、釣り忍、白鳥(師匠が鳥の白鳥とご対面)、雷門。
落語の仮面 第4話「テレビ仮面舞踏会」/白鳥
白鳥師匠のアンケートによると、ガラスの仮面を知っているけど落語は知らない人、落語は知ってるけどガラスの仮面は知らない人がそれぞれぱらぱらといて、微妙な塩梅。でも今日はあの長寿番組「笑点」がネタの中心で、落語家いじりネタも笑点出演者中心で割とわかりやすかったのではと。
大都芸能による三遊亭月影・三遊亭花潰しが佳境に。テレビ出演して人気者になるのも早ければ、本人に悪気がなくても何かあると(いくつかあったスキャンダルのうち、花の父親が笑点で誰が座布団十枚を獲得するかという座布団賭博にはまり、花に座布団操作させる、というのが一番笑えた)墜ちるのも早く、花は月影先生からも出入り止めを食らってしまう。
立川あゆみ、林家ミミ(三三会長の弟子で女性落語家)、鈴々舎真澄(紫のイモの人)など、落語家の設定も楽しく。
去年のアニメ『昭和元禄落語心中』で若い世代に落語がブームだそうですが、鈴本にはさほど影響はないようでした。「落語の仮面祭り」、美内すずえ先生から送られた向日葵の花を中心に黄色が鮮やかで綺麗でした……イメージカラーはやはり黄色が強いのですかね。
年代はどちらかといえばシニアですが、親子で来られている方々も見られました。そして、白鳥師匠が「『ガラスの仮面』を知らない人」と手を挙げさせたら3割はいました(この人たちは白鳥ファンか、落語ファン、寄席ファン?)。
子ほめ 市朗
市馬師匠のところのお弟子さん、前座として出られるようになったのですね。師匠のところにふたり前座見習いがいるんだけど寄席に前座が多すぎるので前座としてまだ出せないという噂を聞いておりました。
まだまだ発声が腹から出てないし、語尾を呑み込んでしまう、滑舌が弱い……というところで、年齢は前座にしてはちょっと行っている方のようにお見受けされ、一層の精進を期待します。
転失気 なな子
女性の前座がかけても違和感のない古典ネタのひとつですね。かわいい珍念くんのおかげでしょうか。
ジャグリング ストレート松浦
マオリのポイとか、新しいジャグリングねたを仕込んで来られる姿勢がたまりません。
初天神 彦いち
「ネタがかぶる」こと、ましてトリネタとかぶることは通常御法度なのですが、むしろ前説として本寸法(?)の「初天神」を誰かかけてーと白鳥師匠からリクエストがあったようです。でも彦いち師匠が本寸法かどうかは疑問です(笑)。
主に団子のところをこってりとやってました。
たらちね 扇遊
彦いち・天どん・白鳥と新作派が多い回ながら、扇遊・扇辰・市馬と本寸法の古典派も聴けるところが、なかなかよいバランスです。
奇術 アサダ二世
藤の壷に入ったヘビちゃんにトランプを引かせる最後の奇術は、昔昔の東京ボードヴィルショーを思い出させて、うさん臭さ怪しさがとてもいい感じです。
かぼちゃ屋 市馬
中入前でたっぷりやって欲しかった〜。
ひよこ初天神 天どん
これも白鳥師匠の許可をもらってということで、あめ、カラーヒヨコ、たこと3つの場面を主に。
粋曲/小菊
悋気の独楽/扇辰
紙切り/楽一
正楽師匠の弟子ですね。お孫さんなのか、まとっている雰囲気がすごく似てる。あまり喋らないんだけど、そのもったりした間が笑えるのは素晴らしい。
・横綱土俵入り
・猫の皿
・紫のイモの人
「落語の仮面」シリーズ知らない人が首傾げてました(にやり)。
落語の仮面 第二話「嵐の初天神」 白鳥
たぶん去年から通算して3回目。三遊亭月影先生に弟子入りした寺島花ちゃんは三遊亭花として前座活動を開始しようとするが、大都芸能をバックにした落語協会会長(腹黒。次の林家小三治の名を欲しがっている)に前座入りを延期される。
上野公園でゲリラ活動する花の前にライバル登場。市馬師匠と上方の○○○○師匠の間にできたサラブレッドで、立川談志の最後の弟子、今は立川談春の寄り弟子という、いかにも武闘派で実力主義な立川あゆみ。
ヤバイ落語家ネタ満載で爆笑ものでした〜。
年代はどちらかといえばシニアですが、親子で来られている方々も見られました。そして、白鳥師匠が「『ガラスの仮面』を知らない人」と手を挙げさせたら3割はいました(この人たちは白鳥ファンか、落語ファン、寄席ファン?)。
子ほめ 市朗
市馬師匠のところのお弟子さん、前座として出られるようになったのですね。師匠のところにふたり前座見習いがいるんだけど寄席に前座が多すぎるので前座としてまだ出せないという噂を聞いておりました。
まだまだ発声が腹から出てないし、語尾を呑み込んでしまう、滑舌が弱い……というところで、年齢は前座にしてはちょっと行っている方のようにお見受けされ、一層の精進を期待します。
転失気 なな子
女性の前座がかけても違和感のない古典ネタのひとつですね。かわいい珍念くんのおかげでしょうか。
ジャグリング ストレート松浦
マオリのポイとか、新しいジャグリングねたを仕込んで来られる姿勢がたまりません。
初天神 彦いち
「ネタがかぶる」こと、ましてトリネタとかぶることは通常御法度なのですが、むしろ前説として本寸法(?)の「初天神」を誰かかけてーと白鳥師匠からリクエストがあったようです。でも彦いち師匠が本寸法かどうかは疑問です(笑)。
主に団子のところをこってりとやってました。
たらちね 扇遊
彦いち・天どん・白鳥と新作派が多い回ながら、扇遊・扇辰・市馬と本寸法の古典派も聴けるところが、なかなかよいバランスです。
奇術 アサダ二世
藤の壷に入ったヘビちゃんにトランプを引かせる最後の奇術は、昔昔の東京ボードヴィルショーを思い出させて、うさん臭さ怪しさがとてもいい感じです。
かぼちゃ屋 市馬
中入前でたっぷりやって欲しかった〜。
ひよこ初天神 天どん
これも白鳥師匠の許可をもらってということで、あめ、カラーヒヨコ、たこと3つの場面を主に。
粋曲/小菊
悋気の独楽/扇辰
紙切り/楽一
正楽師匠の弟子ですね。お孫さんなのか、まとっている雰囲気がすごく似てる。あまり喋らないんだけど、そのもったりした間が笑えるのは素晴らしい。
・横綱土俵入り
・猫の皿
・紫のイモの人
「落語の仮面」シリーズ知らない人が首傾げてました(にやり)。
落語の仮面 第二話「嵐の初天神」 白鳥
たぶん去年から通算して3回目。三遊亭月影先生に弟子入りした寺島花ちゃんは三遊亭花として前座活動を開始しようとするが、大都芸能をバックにした落語協会会長(腹黒。次の林家小三治の名を欲しがっている)に前座入りを延期される。
上野公園でゲリラ活動する花の前にライバル登場。市馬師匠と上方の○○○○師匠の間にできたサラブレッドで、立川談志の最後の弟子、今は立川談春の寄り弟子という、いかにも武闘派で実力主義な立川あゆみ。
ヤバイ落語家ネタ満載で爆笑ものでした〜。
シネマ歌舞伎「阿弖流為」
シネマ歌舞伎『阿弖流為』 特設サイト
歌舞伎美人 「阿弖流為」
生で観たかったんだけど、チケット入手できなかったんだわ。そして、初日の第一回に駆けつけて、堪能した。
そうそう、こういう躍動する歌舞伎が観たかったんだ。コクーン歌舞伎『四谷怪談』で期待していたのに見られなかったものが、目の前にあった。
染五郎も勘九郎も七之助もスクリーンで大暴れ。七之助は可憐な村娘から荒ぶる女神まで目で演じ分けるし、勘九郎はちょっと抜けているけど気がいいので庶民や兵士から慕われる田村麻呂のおばかモードから戦闘モードまでフル全開だし、染五郎は決して戦を望んでいないのに北の民たちのリーダーとして戦い、死んでいくし。この三人に絡む脇役たちが芸達者だから、本当に光った。アイヌの一族の長、阿毛斗を演じた坂東新悟さん。田村麻呂の影として好一対な飛連通と翔連通を演じた大谷 廣太郎さんと中村 鶴松さん。田村麻呂の上役としていびった佐渡馬黒縄さんを演じた市村 橘太郎さんは顔芸が凄かった。弓削道鏡ならぬ無碍随鏡を演じた澤村 宗之助もごく前半に暗躍して顔芸がよかった。阿弖流為の親友でありながら阿弖流為をアイヌを裏切り「生き汚い」蛮甲を演じた片岡亀蔵さんは演技力ゆえに説得力があった。そしてラスボス感が素晴らしい御霊御前と藤原稀継を演じた市村 萬次郎さんと坂東 彌十郎さんに大拍手〜、このふたりが帝の名を盾に政を壟断する大物(というか妖怪)感を出してこそスケールが大きくなる。
もう一度見に行ってもいいと思うぐらい、素晴らしい作品だった。ぱちぱちぱち。
シネマ歌舞伎『阿弖流為』 特設サイト
歌舞伎美人 「阿弖流為」
生で観たかったんだけど、チケット入手できなかったんだわ。そして、初日の第一回に駆けつけて、堪能した。
そうそう、こういう躍動する歌舞伎が観たかったんだ。コクーン歌舞伎『四谷怪談』で期待していたのに見られなかったものが、目の前にあった。
染五郎も勘九郎も七之助もスクリーンで大暴れ。七之助は可憐な村娘から荒ぶる女神まで目で演じ分けるし、勘九郎はちょっと抜けているけど気がいいので庶民や兵士から慕われる田村麻呂のおばかモードから戦闘モードまでフル全開だし、染五郎は決して戦を望んでいないのに北の民たちのリーダーとして戦い、死んでいくし。この三人に絡む脇役たちが芸達者だから、本当に光った。アイヌの一族の長、阿毛斗を演じた坂東新悟さん。田村麻呂の影として好一対な飛連通と翔連通を演じた大谷 廣太郎さんと中村 鶴松さん。田村麻呂の上役としていびった佐渡馬黒縄さんを演じた市村 橘太郎さんは顔芸が凄かった。弓削道鏡ならぬ無碍随鏡を演じた澤村 宗之助もごく前半に暗躍して顔芸がよかった。阿弖流為の親友でありながら阿弖流為をアイヌを裏切り「生き汚い」蛮甲を演じた片岡亀蔵さんは演技力ゆえに説得力があった。そしてラスボス感が素晴らしい御霊御前と藤原稀継を演じた市村 萬次郎さんと坂東 彌十郎さんに大拍手〜、このふたりが帝の名を盾に政を壟断する大物(というか妖怪)感を出してこそスケールが大きくなる。
もう一度見に行ってもいいと思うぐらい、素晴らしい作品だった。ぱちぱちぱち。
歌舞伎美人 渋谷・コクーン歌舞伎 第十五弾 四谷怪談
シネマ歌舞伎「三人吉三」が面白かったので、ライブ感を期待して見にいきました。
……うーんとね、たぶん歌舞伎にだいぶ慣れた私には、明治とか大正とか現代の人物を同一舞台に上げる演出に、目が混乱してしまって。黒子だったら黒子として判断できるんだけど、ビジネススーツに鞄持った人たちが大量に横切って、しかも黒子として装置替えとかすると、舞台の登場人物として認識したらいいのか黒子として認識したらいいのか、混乱してしまう。しかも、等身大のノミとかネズミも混じっていて、着ぐるみキャラなのか何なのか、頭が混乱。
去年の『幕末太陽傳』の演出も、合わなかったんだよね。大道具小道具を動かして場面転換や視点の違いを同一の舞台上で表現するのは、煩わしくても多少時間があれば慣れる。でも、異なる時代の人物や風俗や音楽を組み合わせるセンスに同調できないので、なかなか芝居の本筋に入れなかった。
オーソドックスな国立劇場の『四谷怪談』を見ててなかったら、筋書きが頭に入ってなかった。
あと、隠亡堀の演出が嫌。沢山の役者さんが横たわって川の淀んだ流れを表現するのはともかく、勘九郎さん演じる直助がわざわざ踏んづける演出を二度も続けるのは、見てて辛かった。そんな場面なくても、おどろおどろしさは演出できるはず。
そんな状態だけど、扇雀さんの二役のうち与茂七はよかったと思う。お岩さんは、なんかちょっと中途半端で怖くもなければ哀れでもなかった。獅童さんの伊右衛門は、色悪なんだけど、最後のオリジナル演出でお岩の成仏を願って回向するというか仏門に入るところで、あぁ脚本と演出が違うよ、最後まで悪党でいて欲しかったなぁ。勘九郎さんの直助は、コクーンの勘三郎さんを見ていたら、もっと入り込めたかも知れない。七之助さんのお袖は没落した武家の子女の感じがよく出ていた。一番良かったのが笹野高史さん。宅悦を演じた亀蔵さんもよかった。
スクリーンで観たら印象が変わるかも知れないけど、
シネマ歌舞伎「三人吉三」が面白かったので、ライブ感を期待して見にいきました。
……うーんとね、たぶん歌舞伎にだいぶ慣れた私には、明治とか大正とか現代の人物を同一舞台に上げる演出に、目が混乱してしまって。黒子だったら黒子として判断できるんだけど、ビジネススーツに鞄持った人たちが大量に横切って、しかも黒子として装置替えとかすると、舞台の登場人物として認識したらいいのか黒子として認識したらいいのか、混乱してしまう。しかも、等身大のノミとかネズミも混じっていて、着ぐるみキャラなのか何なのか、頭が混乱。
去年の『幕末太陽傳』の演出も、合わなかったんだよね。大道具小道具を動かして場面転換や視点の違いを同一の舞台上で表現するのは、煩わしくても多少時間があれば慣れる。でも、異なる時代の人物や風俗や音楽を組み合わせるセンスに同調できないので、なかなか芝居の本筋に入れなかった。
オーソドックスな国立劇場の『四谷怪談』を見ててなかったら、筋書きが頭に入ってなかった。
あと、隠亡堀の演出が嫌。沢山の役者さんが横たわって川の淀んだ流れを表現するのはともかく、勘九郎さん演じる直助がわざわざ踏んづける演出を二度も続けるのは、見てて辛かった。そんな場面なくても、おどろおどろしさは演出できるはず。
そんな状態だけど、扇雀さんの二役のうち与茂七はよかったと思う。お岩さんは、なんかちょっと中途半端で怖くもなければ哀れでもなかった。獅童さんの伊右衛門は、色悪なんだけど、最後のオリジナル演出でお岩の成仏を願って回向するというか仏門に入るところで、あぁ脚本と演出が違うよ、最後まで悪党でいて欲しかったなぁ。勘九郎さんの直助は、コクーンの勘三郎さんを見ていたら、もっと入り込めたかも知れない。七之助さんのお袖は没落した武家の子女の感じがよく出ていた。一番良かったのが笹野高史さん。宅悦を演じた亀蔵さんもよかった。
スクリーンで観たら印象が変わるかも知れないけど、
久しぶりに幕末の史実に関する話題の大物が来ました。
第一声は「御上意」? 「池田屋事件」で近藤勇
「御上意である」と聴いたらひれ伏すのが幕府の威光に従う人たち、無視するのが浪士たち、という人改めを即座にしたんでしょうか。テロリストを取り締まってる感がします。
池田屋事件、近藤勇の第一声「御上意」か 会津松平家の資料
福島
戊辰戦争の資料展示 会津若松で150年に向け「戊辰と明治展」
京都
京都祇園祭、大船鉾「竜頭」復活 幕末以来
佐賀
幕末の「牛津駅絵図」公開 宿場町にぎわい伝える小城市立歴史資料館
コラム
刀剣ブーム…にわかファンでもわかる日本刀の“楽しみ方”をプロに聞いた!
日本に根づいた? 日本で生まれた? ロシアの食べ物
幕末を駆け抜けた坂本龍馬は何を見て、何を考え、何を夢見たのか
エンターテインメント
NHK「歴史秘話ヒストリア」若者意識のリニューアルも視聴率は低下
人類廃滅を目指す黒王の謎も徐々に明らかに。『ドリフターズ』新刊5巻がついに発売!
太郎左衛門あんぱん発売!~パン祖、江川太郎左衛門が焼いたパンをイメージし開発したあんぱんです~
第一声は「御上意」? 「池田屋事件」で近藤勇
幕末の京都で、長州や土佐などの過激派志士が襲撃された「池田屋事件」の際、二階に踏み込んだ新選組局長の近藤勇が発した第一声は、将軍や主君の意思であることを示す「御上意(ごじょうい)」だった可能性があることが、宮内庁宮内公文書館に保管されている会津松平家の資料で分かった。
ドラマなどでは「手向かいすれば容赦なく斬る」と警告する場面が多いが、今回の資料にこの言葉はなかった。これまで知られていなかった新たな言葉の登場は、歴史ファンの関心を呼びそうだ。資料は「維新階梯雑誌(いしんかいていざっし)」で、会津藩主松平容保が京都守護職になった一八六二年以降の出来事を明治時代に編さん。一部が引用されるなどして存在は知られていたが、三十一冊が同館にそろっているのを埼玉県の歴史研究家伊藤哲也さん(47)が確認した。
六四年の池田屋の場面では、近藤が亭主とやりとりした後、二階に上がると、六、七人が車座になっていたと記述。「座中を割って奥へ赴けば、一同(刀を)抜いて斬り掛かってきた」「此の方御上意と大音声で(叫んで)踏み込んだ」と続く。
後に近藤が「(相手は)御上意に恐れをなした様子。いまだ徳川のご威光は尽きず」と述懐したとも書かれている。
これまでは、一階にいた幹部隊士で、大正まで生きた永倉新八の回顧録から、近藤はまず「手向かい致すにおいては容赦なく斬り捨てる」と警告したとされてきた。
1862年以降の出来事を記した会津松平家の資料「維新階梯雑誌」=宮内庁宮内公文書館蔵
写真
新選組はこのころまだ目立った功績がなく、近藤は攘夷(じょうい)を実行しない幕府に失望し、解散の意向を伝えるなど進退に悩んでいた。しかし、事件後ほどなくして西洋の軍事力の強さを知り、佐幕の傾向を強めていったとされる。
新選組研究の第一人者として知られる菊地明さんは「上意という言葉は初めて知った。『手向かい致せば』も言っていたとしても矛盾はしないと思う。予想外に相手がひるんだので将軍の威光を見直し、あくまで徳川が力を持つことで攘夷を目指す思想につながったのかもしれない。膨大な資料は大きな価値がある」としている。
<池田屋事件> 1864年6月5日夜、京都三条の旅館「池田屋」に集まっていた長州や土佐、肥後などの過激派志士20人ほどが新選組に襲撃され、10人以上が死亡、捕縛された事件。新選組は会津藩などの援軍がないまま単独での突入を決意。近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助の4人で踏み込み、その後土方歳三らの別隊が駆け付けた。主に幕府側の資料によると、志士たちは京に火を放って天皇を長州に連れ去ることを企てていたとされる。新選組は少人数で暴挙を阻止したとして一躍名を上げ、後に全員が幕臣に取り立てられるまでに至った。
「御上意である」と聴いたらひれ伏すのが幕府の威光に従う人たち、無視するのが浪士たち、という人改めを即座にしたんでしょうか。テロリストを取り締まってる感がします。
池田屋事件、近藤勇の第一声「御上意」か 会津松平家の資料
幕末の京都で、長州や土佐などの過激派志士が襲撃された「池田屋事件」の際、2階に踏み込んだ新選組局長の近藤勇が発した第一声は、将軍や主君の意思であることを示す「御上意」だった可能性があることが18日、宮内庁宮内公文書館に保管されている会津松平家の資料で分かった。
ドラマなどでは「手向かいすれば容赦なく斬る」と警告する場面が多いが、今回の資料にこの言葉はなかった。これまで知られていなかった新たな言葉の登場は、歴史ファンの関心を呼びそうだ。
資料は「維新階梯(かいてい)雑誌」で、会津藩主松平容保が京都守護職になった1862年以降の出来事を明治時代に編さん。一部が引用されるなどして存在は知られていたが、31冊が同館にそろっているのを埼玉県の歴史研究家、伊藤哲也さん(47)が確認した。
64年の池田屋の場面では、近藤が亭主とやりとりした後、2階に上がると6、7人が車座になっていたと記述。「座中を割って奥へ赴けば、一同(刀を)抜いて斬り掛かってきた」「此の方御上意と大音声で(叫んで)踏み込んだ」と続く。後に近藤が「(相手は)御上意に恐れをなした様子。いまだ徳川のご威光は尽きず」と述懐したとも書かれている。
これまでは、1階にいた幹部隊士で、大正まで生きた永倉新八の回顧録から、近藤はまず「手向かい致すにおいては容赦なく斬り捨てる」と警告したとされてきた。
新選組はこのころまだ目立った功績がなく、近藤は攘夷を実行しない幕府に失望し、解散の意向を伝えるなど進退に悩んでいた。しかし事件後、幕府を支える傾向を強めていったとされる。
新選組研究の第一人者として知られる菊地明さんは「上意という言葉は初めて知った。『手向かい致せば』も言っていたとしても矛盾はしないと思う。予想外に相手がひるんだので将軍の威光を見直し、あくまで徳川が力を持つことで攘夷を目指す思想につながったのかもしれない。膨大な資料は大きな価値がある」としている。〔共同〕
福島
戊辰戦争の資料展示 会津若松で150年に向け「戊辰と明治展」
戊辰戦争から150年となる2年後の節目に向け、会津若松市の歴史研究家ら有志でつくる「会津戊辰戦争150周年事業実行委員会」の記念事業「戊辰と明治展」は11日、同市文化センターで開幕し、鶴ケ城の写真など当時をしのぶ資料を紹介している。12日まで。
「会津の戊辰戦争から明治復興の姿まで」をテーマに開き、古記録、絵地図、明治期のはがき写真、寺社の複写、町家の記録などを展示している。旧会津藩士が政府を相手に裁判を起こし、公債発行(復禄)を勝ち取った復禄訴訟の記録も紹介している。
同実行委は2018(平成30)年の150周年に向け、全6回の展示会などの事業を企画している。12日は午前9時~午後3時。
京都
京都祇園祭、大船鉾「竜頭」復活 幕末以来
京都・祇園祭の山鉾のうち2014年に復活した「大船鉾」の船首を飾る「竜頭」などが新たに完成し、京都市内で18日、披露式典が行われた。
竜頭はヒノキ材の彫刻で、高さ約2メートル、重さ約200キロ。滋賀県米原市の彫刻師森哲荘氏(69)が手がけた。大船鉾は幕末の「蛤御門の変」で焼失。14年に150年ぶりに巡行に復活したが、竜頭は設計図がなかった。
復元に向け、保存会が専門家と調べたところ、竜頭は江戸後期の京都で有名だった彫刻師九山新之丞と息子が彫った可能性が高いと判明。息子の作とされ、竜頭と構造も類似していた滝尾神社(京都市東山区)の竜を設計の参考にした。
(共同)
佐賀
幕末の「牛津駅絵図」公開 宿場町にぎわい伝える小城市立歴史資料館
幕末期、長崎街道沿いの牛津宿の様子を描いた「牛津駅絵図」が、同市小城町の市立歴史資料館に展示されている。絵図には、宿に住んでいた人たちの住居をはじめ、寺社や藩施設など建物の形がびっしりと記され、宿場町のにぎわいと共に、鍋島藩にとって牛津がいかに交通の要衝地であったかがうかがい知れる貴重な史料を見ることができる。7月3日まで。
「牛津駅絵図」は今年3月、幕末期の牛津宿の様子が分かるとして市重要文化財に指定された。市教育委員会文化課によると、絵図は何の目的で誰が描いたのかは不明で、「牛津宿」を「牛津駅」とした意図は分からないという。
制作年代の決め手となったのは、絵図に記されたある世帯主名。街道沿いの寺にある墓碑と照らし合わせ、「久本兵五郎」(1825~71年)が居住していたことが特定できた。さらに小城藩が出した営業許可の文書(もんじょ)などで、宿場町で薬種業を営んでいた事実も分かった。
他にも、絵図には藩の使いが滞在した「上使屋」や馬を飼い置いた「馬立」など藩の重要な施設も描いてある。
絵図の最大の特徴は、どの建物にも屋根を記し、黒色と茶色に描き分けている点という。同文化課学芸員の田久保佳寛さんは「黒色は瓦葺(かわらぶ)きで茶色は茅(かや)葺きを表している。屋根の色の違いで財力の差を伝えたかったのでは」と言い、「街道沿いの空き地みたいな空白部分には『焼跡』と記されるなど、宿場町は頻繁に火事に見舞われ、防災マップの意味合いもあったのでは」と推察する。
12日午前11時と午後1時に職員による展示案内がある。「牛津駅絵図」展の問い合わせは同資料館、電話0952(71)1132。
コラム
刀剣ブーム…にわかファンでもわかる日本刀の“楽しみ方”をプロに聞いた!
富山市中心部に6月11日、個人収集家の日本刀コレクションをはじめ、貴重な美術品を展示する森記念秋水美術館がオープンする。刀剣ブームに乗った“にわかファン”としては、付け焼き刃ではなく、名刀の真価が分かる鑑賞眼を身につけたいところ。開館に先立ち同美術館を訪ね、専門家から日本刀の見方について聞いてみた。
同美術館学芸課長の山誠二郎さんによると、館名にある「秋水」とは、曇りのない研ぎ澄まされた日本刀を意味する言葉とのこと。同館では刀剣200振、刀装具・甲冑(かっちゅう)、兜(かぶと)など数十点を所蔵している。コレクションは、地元の医薬品メーカー・リードケミカルの社長、森政雄さんが長年にわたって収集してきたものだ。
同館では、2階の鑑賞室で重要文化財5点や、重要美術品10点を含む日本刀・刀装具・武具などのコレクションを、3カ月ごとに年4回入れ替えて展示する。また、3階の鑑賞室では特別展を開催、開館記念として「細川護熙の美と永青文庫の至宝」が行われている。1階は富山県ゆかりの作家の作品などを展示するギャラリーだ。
収蔵品の中で最も注目を集めそうなのは重要文化財で、「住東叡山忍岡辺長曾祢虎入道 寛文拾一年二月吉祥日」の銘がある刀ではないだろうか。甲冑師・刀工だった長曾祢興里虎徹(ながそねおきさとこてつ)の作である。
新選組局長・近藤勇の愛刀だったともいわれている「虎徹」は、「乕徹」、「虎入道」など銘が変わり、後年につくられたものほど優れていると評価される。「虎入道」は興里が円熟期のころの作である。「美しく、よく切れると言われています。美と機能と力強さを併せ持つのが虎徹の特徴です」(山さん)とのこと。
美と機能という、二つのポイントから日本刀を鑑賞するポイントを教えてもらった。初心者はまず、鞘(さや)や鍔(つば)などの装飾に目を奪われがちである。大名が将軍家に献上した拵(こしらえ)などは、葵の御紋がちりばめられていて豪奢である。しかし、刀本来の美しさは刃にあるらしい。
「刀身そのものの美術性に着目してください。まずは刃文(はもん)の形をじっくりと見てほしい。そして例えば松の幹のような“松皮肌”など地がねの模様などを見れば、折返し鍛錬の跡が分かります。江戸時代の前までは作刀された地域ごとにそれぞれ独自の特色を有しています」(山さん)
見方が分かると、がぜん刀を鑑賞することが楽しくなってくる。個人的に、最も気に入ったのは、鑑賞室の中央にあるケースに展示された薩摩の拵(こしらえ)だ。黒色で統一され、鞘の部分には島津家の家紋が入り、全体的にコンパクトなつくりで、デザイン性が高い。「よく見てください。鍔が小さいでしょう? 薩摩示現流の影響を受けていると考えられます」と山さん。美しい刀はすべて機能性が高いということだろう。
刀の形にはそれぞれ、さまざまな意味がある。「公家文化なのか、武家文化なのか? 当時の戦術は? など時代背景によって切っ先が大きくなったり小さくなったりするなど、刀の形は変わります」と山さん。刀剣の鑑賞は、奥が深い。
2階の鑑賞室は黒を基調とした内装で、静か。静謐な雰囲気が漂っている。吸い寄せられるようにして刀に見入った後、「少しは鑑賞眼を養うことができたかも……」と思うにわかファンの一人である。(文・若林朋子)
日本に根づいた? 日本で生まれた? ロシアの食べ物
6月12日は「ロシアの日」。1990年のこの日に、ロシア共和国が主権宣言を採択したことから定められました。
ロシアは日本の隣国のひとつ。両国のさまざまな交流、互いに影響を与えあってきた歴史を、シリーズでご紹介しています。
今回、取り上げるのはロシアの「食べ物」です。
ロシアにとくに関心がない方でも、「ボルシチ」「ピロシキ」「ビーフストロガノフ」……など、聞いたことがある料理が多いのではないでしょうか。
いつ頃から日本に伝わり、これほど親しまれるようになったのでしょうか?
ロシア料理を日本に伝えたのは、あの有名な教会?
ロシア料理が日本に伝わった時期は、よくわかっていません。以下にご紹介するのは有力な一説です。
1858年、函館にロシア領事館が設置されます。
その数年後、領事館の敷地内に、有名な「ハリストス正教会」が建てられました。
ちなみに、この教会に迎えられたのが、東京・神田の「ニコライ堂」にその名を残すニコライ神父です。
このハリストス正教会で、ロシア料理を学んだ日本人がいました。
それが、函館の老舗レストラン「五島軒」の初代コック長である五島英吉です。
戊辰戦争で、旧幕府軍の一員だった英吉は、ニコライ神父に匿われ、やがて教会の従者として働くようになります。その中で、ロシア料理の作り方、パンの焼き方などを習い覚えたのだそうです。
もちろん、日本にロシア料理が伝わった時期は、これだけではありません。
20世紀初頭のロシア革命では、多くのロシア人が国外に脱出しました。
大多数のロシア人は欧米への移住を希望しましたが、一部の人びとは日本に住み続け、ロシア料理店を開業したり、日本人にロシア料理を教えたのです。
また、いったんは中国やアメリカに亡命したロシア人が、近代化が進む日本にビジネスチャンスがある、と来日したケースも多かったようです。
第二次世界大戦後には、日本人によるロシア料理店も増加しました。その担い手となったのは、戦前に中国東北部に移民していた人びと。現地で習い覚えたロシア料理を、帰国後に日本で再現したのです。
ボルシチは、盲目のロシア人作家が伝えた?
もともとウクライナの郷土料理だった「ボルシチ」。
地域によって、牛肉や豚肉、鶏肉、羊肉、野菜や豆などさまざまな具材が使われます。どこか素朴な味わいが、ほっとさせてくれる料理ですよね。
寒い時期に食べたくなるボルシチですが、夏向きのボルシチもあります。
それは、リトアニアで「ハラドニーク」と呼ばれる、冷たいボルシチ。ビーツやきゅうり、タマネギなどの具がたっぷり入った、夏によく作られる料理です。
このボルシチを日本に伝えたのは、ロシア人の作家だという話があります。
それは、1914年に来日したワシーリー・エロシェンコ氏。盲目だった彼が来日した理由は、「日本では(マッサージなどの仕事で)目の不自由な人が自活している」という噂を聞いたからでした。
エロシェンコ氏が身を寄せたのは、「新宿中村屋」。
創業者である相馬夫妻を中心に、国内外の作家やジャーナリスト、画家などが交流する、国際文化サロンのような場になっていました。
その交流の中で、インド独立の闘士ボース氏がカレーを、エロシェンコ氏がボルシチを伝えたのだそうです。
あの寿司ネタも、おつまみも、ロシア語由来の名前
寿司ネタでもおなじみ「イクラ」が、ロシア語で「魚の卵」を意味する、というのはご存じの方が多いかもしれませんね。
ロシア語では、鮭の卵に限らず、魚の卵ならすべて「イクラ」。
日本で言うイクラは「赤いイクラ」、チョウザメの卵(キャヴィア)は「黒いイクラ」と呼ばれます。
ちなみに、日本で現在のようにイクラが食べられるようになったのは、大正時代以降のこと。
それ以前の、保存技術が発達していなかった時代には、スジコをばらして乾燥させた加工食品などが出まわっていたようです。
コンビニでもおなじみのセミドライソーセージ「カルパス」。
このカルパスも、ロシア語でソーセージを意味する「カルバーサ」に由来しているそうですよ。
日本生まれの「ロシア料理」がある!?
最後にご紹介するのは、日本でしか知られていない(?)ロシア料理です。
それは「シャリアピン・ステーキ」。ロシア人の声楽家フョードル・シャリアピン氏のリクエストで生まれた料理です。
ロシア革命後の、日本に滞在するロシア人が増えていた時代のこと。
来日したシャリアピン氏は、宿泊先の帝国ホテルで、「私は歯が悪いので、何かやわらかい料理を」と注文しました。
その求めに応じて、帝国ホテル「ニューグリル」の料理長・高山(筒井)福夫氏が考案したのがシャリアピン・ステーキ。命名にあたっては、シャリアピン氏の了承も得たのだとか。
日本の「西洋風ホテル」とロシア人については、興味深い歴史があります。そのお話は、またあらためてご紹介します!
次回は、ロシアの「お菓子」についてのお話をお届けしたいと思います。
参考:長塚英雄責任編集「ドラマチック・ロシアin Japan 文化と歴史の探訪」(生活ジャーナル)
荻野恭子・沼野恭子著「家庭で作れるロシア料理 ダーチャの菜園の恵みがいっぱい!」(河出書房新社)
荻野恭子著「ロシアの郷土料理 大地が育むユーラシアの味」
幕末を駆け抜けた坂本龍馬は何を見て、何を考え、何を夢見たのか
幕末の偉人ランキングで圧倒的な人気を誇る、坂本龍馬。薩長同盟や、龍馬が暗殺された近江屋事件などは歴史にそれほど関心の無い方でもご存知のことでしょう。無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』に、そんな龍馬に関する数々のエピソードが綴られています。
人物探訪:坂本龍馬、海洋立国の夢
アメリカに漂流して、彼の地で航海術などを学び、日本に戻ってきたジョン万次郎に、坂本龍馬が初めて会ったのは嘉永5(1852)年の末頃であったと言われている。友人に勧められて、万次郎の話を聞きに行ったのである。龍馬18歳の時であった。
万次郎が滞在したヌーベッポー(ニューベッドフォード)という町には何百隻もの巨大な捕鯨船が浮かんでいて、その港の砲台には大砲が20門ほど置かれている。大きなものは口径8寸(24センチ)もある。お城の石垣程度のものなら、弾丸一発で打ち砕いてしまう。蔵にはその砲弾を何千発とも知れないほど収めているという。
軍艦はそんな大砲で撃たれてもなかなか砕けない。1隻に500人ほど乗る船は珍しくなく、戦のときには1,500人も乗り込むそうである。
龍馬はさらに航海の術について尋ねた。万次郎は、アメリカで一等航海士という偉い船頭の資格をとっており、地図とオクタント(六分儀)と磁石さえあれば、陸の影も見えない大洋に船を乗り出しても迷わないという。
龍馬は夢の中の出来事を聞いているような気がした。胸が躍ってならなかった。
黒船来る
翌嘉永6(1853)年、龍馬は剣術修行のために江戸に出た。江戸に着いてまもない6月4日の朝、アメリカの黒船が浦賀沖に現れたという知らせが届いた。万次郎の語ったアメリカの軍艦を直接目にすることになったのである。
旗艦サスケハナ号は長さ約78メートル、幅14メートル、数十門の大砲を備えていて、日本人には巨大な浮城のように見える。そんな黒船が4隻も現れた。
龍馬は土佐藩の品川屋敷のある大森海岸の防備に駆り出され、土手を築き、垣を結んだ。やがて幕府がペリーから受け取ったアメリカ国書の内容は、龍馬たちの耳にも伝わってきた。
蒸気船ならカリフォルニアから、パシフィック・オセアン(パシフィック・オーシャン、太平洋)を渡って18日間で日本に達することができる。カリフォルニアは毎年金6,000万ドルを産し、日本の様々な産物と交易を行えば互いの利益になる。また日本沿岸で捕鯨を行うアメリカ船舶が、日本で石炭、水、食料を補給できるようにしたい。そのために通商交易条約を結びたいというのだ。
日本がそれに応じなければ戦争を仕掛ける、という姿勢で、黒船は品川沖で空砲を鳴らし、沿岸に詰めかけた数万の諸藩兵を驚かせた。
アメリカは近頃メキシコと戦争をして、カリフォルニアを含む領地のおおかたをとってしまったが、その理由はメキシコがアメリカの蒸気船に領地の海辺に近寄るのを咎めたためであるという。
外国と通商することがなぜいけないのか」
龍馬が江戸で師事していたオランダ砲術の権威・佐久間象山は、こう主張していた。
今戦えば我らに勝ち目はない。ひとたび敗れたときは皇国は滅亡、我らは異族の奴隷となるのだ。
江戸の沖に常に5、6隻の黒船がいて、大坂からの千石船を捕らえ、米などの消費物資の海上輸送を遮断すれば、江戸は10日ももたない。廻船の輸送量を牛馬によって陸路で運ぶことは不可能である。
と言う。確かにそのとおりであると龍馬は思った。今はアメリカの要求を入れて通商を行い、それを通じて国力を養って、国防力を充実させるのが、日本の生きのびる道である。
一方、ジョン万次郎は幕府の老中たちに意見を聞かれて、アメリカが日本を攻め取ることはないと答えていた。カリフォルニアのように莫大な金が算出する国であれば戦を仕掛けることもあるが、日本はそれほどの物産はなく、また遠い。軍艦を何十隻も派遣して攻めるよりも、仲良くして石炭などを分けて貰うのが得である、とアメリカは考えるはずだという。
龍馬はこれもまたその通りだと思った。龍馬が幼い頃によく遊びに行っていた遠縁の廻船問屋は江戸に米や鰹節などを運ぶ千石の大廻し船を何隻も運用して、大きな利益を上げていた。
外国と通商することがなぜいけないのか、と龍馬は考えた。
「自由な大海に漕ぎ出したい」
およそ1年ほども江戸に滞在して、龍馬が高知に帰ったのは、安政元(1854)年6月下旬のことであった。翌年正月に龍馬は河田小龍を訪れた。河田はジョン万次郎を自宅に寝泊まりさせて、聞き書きを行っていた人物である。
河田は「このような非常のときに1つの商業を興してはどうじゃ」と龍馬に薦めた。そして万次郎から聞いた話をもとに、こう語った。
アメリカじゃあ商業の元手をこしらえるのに、株仲間のような者を大勢集め自在に大金を融通しゆうがじゃ。お前(ま)んらぁがそこのところを工夫して、株仲間を何とかしてこしらえて1隻の蒸気船を買うてみい。
同志を募り、日本中を往来する旅人やら諸藩の蔵米、産物を運んだら、蒸気船運航に使う石炭、油の費用や同志の給金を払うことができるろうが。
そうやって操船の稽古をすりゃ、しだいに航海の術も身につくというもんぜよ。盗人を捕まえて縄をなうというような有り様で始めても、1日でも早う蒸気船の運用を始めざったら、いつまでたっても外国に追いつけんがじゃ。
小龍の言葉に龍馬は刺激されたが、高度な蒸気船を動かせる秀才は数が少ない、と言うと、小龍はこう応じた。
日頃俸禄を仰山もらいゆう上士にゃ志というものがありゃせん。志を持ちゆう者は、ひと働きするにも元手のない下士、百姓、町民ら下等人民の秀才ぜよ。そがな下等人民の秀才は俺の弟子にも多少はいゆう。働かせりゃ工夫するぜよ。
大洋を自由に航海する蒸気船は、また身分制度からも自由な世界であった。龍馬は自由な大海に漕ぎ出したいと思った。
「蒸気船の扱いを覚えたいがです」
文久2(1862)年3月、龍馬は脱藩した。城下で剣術道場を開く資格は得ていたが、もはや高知に留まる気はなかった。
江戸に出て、ジョン万次郎の紹介状を持って勝麟太郎を訪れ、弟子入りを頼んだ。勝は長崎海軍伝習所で教監を務め、また幕府の使節を乗せた咸臨丸を操って、太平洋横断を果たした人物である。
「俺の弟子になって何をしたいのかね」と聞かれて、龍馬は「蒸気船の扱いを覚えたいがです」と答えた。さらに「尊王と攘夷についてどう考えているのかね」と聞かれて、
「攘夷はとても無理ですろう」
「そうか。それなら無理を言わず異人の言うがままに商いをするのかね」
「そこが知りたいがです。攘夷をやらにゃあ異人がのさばりますろう。けんど今の日本じゃとても勝てん。そうなると、異人と同じ土俵で相撲がとれるほどの力を持つまで待たにゃあいかんですろう」
麟太郎は笑いながら「土佐にいながら天下の形勢をよく知っているじゃないか」と言って、弟子入りを許した。
海軍建設
勝は龍馬を護衛役として側に置きながら、いろいろ話して聞かせた。
攘夷の戦いを日本の側から起こせば、イギリス、フランスは対馬、壱岐、佐渡を占領する。アメリカは伊豆七島、ロシアは蝦夷を占領するだろう。淡路島も乗っ取られかねない。そうなれば航海の道はすべて閉ざされ、全国は籠城の有り様になる。危機に迫られると一揆が方々で起こる。その苦しみに耐えかね、外国につく者が現れると日本は外国の属国になるだろう。
そのような事態を未然に防ぐために、勝は西洋諸国と対抗できるほどの陸海軍を作るという意見書を幕府に提出していた。日本全国を6つの海域に分けて、それぞれに艦隊を置くという案である。
その経費を捻出させるためには、各大名に海外貿易を許し、それを財源に10万石あたり蒸気軍艦1隻などと費用を出させる。この案に従えば、軍艦300隻の海軍を建設することも可能であった。
しかし、軍艦は金で揃えることができても、それを動かす人材が問題である。勝と龍馬は神戸に海軍塾を作る準備を進めた。先頃まで将軍側近であった大久保忠寛(ただひろ)越中守も、それを励ましてくれた。
貴公らが麟太郎と相計って神戸に海軍塾を開く支度をしておるそうだが、それが肝心だ。海軍を大いに発展させるため幕府は、アメリカ、オランダに軍艦を注文している。だが、その操船を自在にいたす航海乗り組みの学生を取り立てねばならんのだ。幕府の先の読めない腑抜け役人どもができることではない。貴公らが操船を自在にできるよう一日も早く学び取らねばならぬのだ。
文久3(1863)年4月、将軍家茂は神戸に海軍操錬所を建設し、その入用金として年3,000両を下すことを決めた。また勝の門人たちを引き連れて、私塾として海軍塾を開くことを許した。龍馬はその設立と運営に奔走した。
亀山社中
元治元(1864)年6月19日、長州勢と幕府方が京都蛤(はまぐり)御門にて衝突した。この際に操錬所生徒である因幡藩士数十名が長州方に味方したとして、勝は江戸表に呼び戻された。
勝は薩摩の西郷吉之助(隆盛)に、龍馬以下6人の土佐藩脱藩者の庇護を頼んだ。西郷は、龍馬の人を引きつける性格と時代を切り開いていく才覚を認め、密貿易をさせつつ、いずれ長州藩に薩長連合を勧める使者として働いて貰おうと考えた。
元治2(1865)年、龍馬らは長崎の町はずれの亀山という山麓の地に宿舎を与えられ、薩摩藩から毎月給金を貰うようになった。彼らの結社は「亀山社中」と呼ばれ、ここを根拠地として密貿易にあたることになった。
5月、龍馬は下関に潜入し、西郷の使者として、長州の指導者・桂小五郎と会った。長州は幕府軍15万の大軍を迎え撃たねばならないという窮地に陥っていた。しかし、薩摩は蛤御門の変で幕府方についていたので、「いまさら薩摩の芋と手を結べるか。そんなことを抜かす奴は首を斬れ」という声が上がるほどだった。
薩長同盟を実現した交易
龍馬は桂にこう持ちかけた。
長州の四境に幕軍が間なしに参りますきに、外国から薩摩の名義で蒸気船、鉄砲を買い入れ、尊藩に持ち込むというのはいかがですろう。
桂は思わず、龍馬の顔を見直した。幕府の大軍を迎え撃たねばならない長州にとって、これはよだれの出るような好餌である。龍馬は亀山社中の同志を使って、最新式の小銃7,500丁と蒸気船1隻を調達し、約束通り、長州に収めてみせた。
一方、薩摩は長州征伐には参加せず、京都に大兵力を集めて、幕府を牽制することとした。西郷はそのための兵糧を長州から借りてくれるよう、龍馬に依頼した。「さしあたって500俵もあればえいですろう」と龍馬は承知して、すぐに山口に行き、桂から快諾を得た。
こうした実利的な助け合いを通じて、薩摩と長州は旧怨を解き、同盟関係を築いていった。その掛け橋となったのが、龍馬の働きだった。
実現した海洋立国の夢
兵糧貸与の話がまとまった後、龍馬は下関で貿易を営む大商人・伊藤助太夫の家に泊まり込んで、杯を交わした。助太夫は、長州と幕府の戦いが終われば、蝦夷の海産物などを買い入れる交易をしたいと言った。北前船は1隻作るのに千両かかるが、蝦夷へ3度も行けば元手がとれるという。
龍馬は感心した。「まっことのう。蒸気船を使うたらなお儲かるろうねや」
龍馬は今は亀山社中の同志と共に、薩長の必要とする武器などの購入を行っているが、戦が収まれば長崎、下関を根拠地に蝦夷や上海、さらには広東からルソンに行き来して貿易をしたいと考えていた。蒸気船を使えば、パシフィック・オセアン(太平洋)を渡ってアメリカとの交易もできる。それによって国を富まし、日本を異国から守れるだけの海軍も持つことができよう。龍馬の夢は広がっていった。
龍馬はその夢を実現するひまもなく、慶応3(1867)年11月、京都にて何者かに暗殺されてしまった。しかし、海外貿易の夢を抱いていたのは龍馬だけではなかった。「海外貿易の志士」森村市左衛門などはその好例である。
さらに神戸の海軍操錬所を淵源の1つとする日本海軍はやがて日清・日露戦争を通じて国家の独立を維持し、英米と並ぶ世界3大海軍の1つとして数えられるまでになった。
龍馬の描いた海洋立国の夢は幕末から明治にかけての日本人全体が共有していたもので、多くの人々の努力によって実現されたと言える。
文責:伊勢雅臣
image by: Shutterstock
エンターテインメント
NHK「歴史秘話ヒストリア」若者意識のリニューアルも視聴率は低下
NHKの「歴史秘話ヒストリア」について、週刊新潮が報じたフィクション臭が強くなって、歴史好きの私には面白くないです。
4月22日の放送から司会者を交代し、若者を意識するリニューアルをしたそう
元々の視聴率は7~8%だったが、改編後は6%台をうろうろしていると筆者
「歴史ヒストリア」リニューアル失敗 NMB48、イケメンを起用し視聴率低下
2016年6月18日 5時50分 デイリー新潮
ポップに! 親しみやすく! スケールアップ!
と、4月22日の放送からリニューアルした「歴史秘話ヒストリア」(NHK総合)だが、なんかヘン――。
司会は渡邊あゆみアナ(56)から井上あさひアナ(34)へと大幅に若返り、放送日は水曜から金曜、時間は2時間繰り上がって、夜8時からに。週末のゴールデンで若い視聴者を意識したようなのだ。
初回は「日本でいちばん怖いパパ」として織田信長を取りあげた。確かにポップなのかもしれない……。
4月29日の「あしたは動物園に行こう」で、もはや歴史番組なのか解らなくなり、5月6日は「愛と悲しみの大奥物語」として、再現ドラマにNMB48から19名を起用。6月10日は、「新選組 ボクらの友情と青春」と題して、賀集利樹、佐藤汛、渡部秀、永瀬匡、佐野岳が出演。彼らが何者かといえば、若いお母さんに人気の仮面ライダーたちで、二番隊組長・永倉新八の「浪士文久報国記事」をもとにイケメン集団“新選組”を描くとか。
コラムニストの林操氏は、
「アイドル番組じゃないんですから。NHKの歴史教養番組は、誰が出るかより、“秘話”に重きが置かれていた。だが、これでは従来のファンは離れるし、歴史に興味のない若い人はついてこない」
元々、視聴率7~8%の番組だったが、改編後は6%台をうろうろ――。
「週刊新潮」2016年6月16日号 掲載
人類廃滅を目指す黒王の謎も徐々に明らかに。『ドリフターズ』新刊5巻がついに発売!
島津豊久、織田信長、那須与一といった名将から、山口多聞、菅野直といった海軍軍人、陰陽師の安倍晴明、新選組の土方歳三、さらにはハンニバル、ジャンヌ・ダルク、エルフ、ドワーフ、ドラゴンまで……!こういう作品は歴史上あり得なかった人物の対決とか、歴史上あり得なかったテクノロジーや戦法の衝突が面白いのです。土方様がエンズ軍を離脱しそうな気配も見える5巻(もともと黒王を信仰している訳じゃなし)、次巻以降も楽しみです。
マンガ史屈指のオールスターキャストたちが、異世界での国奪りと自らの威信・存亡をかけた戦いを繰り広げるマンガ『ドリフターズ』(平野耕太/少年画報社)。今年10月からのテレビアニメ放送も決定している本作の1年7カ月ぶりとなる新刊5巻が6月6日に発売された。
ここまでのあらすじも簡単に振り返っておこう。物語は、己の士道に従い戦に生きる薩摩武士・島津豊久と、狡猾で冷徹な策略家・織田信長、弓の達人・那須与一が異世界で出会い・結託するところから幕が開く。豊久は武士としての本能から、人間が支配する帝国に虐げられたエルフの村を解放。その勢いのまま国奪りを開始する。
島津豊久ら3人は、どこかの世界からこの異世界に流れ着いたことから「漂流者(ドリフターズ)」と呼ばれている。そこに立ちはだかるのが、同様にこの世界に飛ばされた者ながら、世界を憎み破壊と殺戮を行う「廃棄物(エンズ)」たち。この一団には土方歳三、ジャンヌ・ダルクなどの非業の死を遂げた人物から、怪僧ラスプーチン、そして明智光秀までも加わっている。
なお廃棄物(エンズ)という呼び名には、“世界から棄てられた彷徨う怨嗟”という意味がある。本作は、怨みを原動力に生きる者たちと、武士道や自らの正義を貫いて生きる者たちとの心の戦いでもあるのだ!
そして新刊の第5巻では、エンズたちの「奴隷にした人間を食い殺す」といった恐るべき生態や、その一団を率いる黒王の謎も徐々に明らかに。彼らは「人間で無罪の者は一人もいない。人間で無実の者など一人もいない 殺せ 殺せ」と人類の滅亡を目指す侵攻を開始。物語のスケールはさらに大きなものになっていく。
一方で第5巻では、ドリフターズたちにも見せ場は満載。信長は冷酷無比な策士っぷりを遺憾なく発揮し、島津豊久はその熱き武士道精神で仲間たちを扇動していく。歴史上の偉人たちが、我々の思う人物像に沿ったカッコいい振る舞いを次々と起こしてくれるのは、やはり本作の大きな魅力だ。
また、島津豊久vs.土方歳三といったあり得ない戦いが起こったり、部下に裏切られまくった信長に多少の改心や成長が見られたりする点も、ファンタジーならではの面白さ。なお光秀vs.信長の異世界での再戦が迫っている様子もうかがえるので、この先の展開にも注目だ。
文=古澤誠一郎
太郎左衛門あんぱん発売!~パン祖、江川太郎左衛門が焼いたパンをイメージし開発したあんぱんです~
株式会社バンデロール(本社:静岡県沼津市西島町20-2、代表取締役:結城 馨、以下 バンデロール)は、6月18日よりパン祖と呼ばれる江川太郎左衛門英龍が伊豆韮山で初めて焼いたパンをイメージし懐かしく素朴な生地に特別製法の小豆の風味豊かな低糖あんを包み込み焼き上げたあんぱん「太郎左衛門あんぱん」の販売開始いたします。
太郎左衛門あんぱん発売!
~パン祖、江川太郎左衛門が焼いたパンをイメージし開発したあんぱんです~
株式会社バンデロール(本社:静岡県沼津市西島町20-2、代表取締役:結城 馨、以下 バンデロール)は、6月18日より太郎左衛門あんぱんの販売開始いたします。バンデロールは関東、中部を中心とした焼き立てベーカリーチェーンです。
▼http://www.banderole.co.jp/
■メニューの紹介
太郎左衛門あんぱんの特徴・・・パン祖と呼ばれる江川太郎左衛門英龍が伊豆韮山で初めて焼いたパンをイメージし懐かしく素朴な生地に特別製法の小豆の風味豊かな低糖あんを包み込み焼き上げたあんぱんです。
江戸時代後半に江川英龍がはじめて焼いたパンは「乾パン」に近いと聞いており、そのまま再現するのではなく、それをイメージしつつ、小さなお子様からお年寄りまで美味しく食べられる食材、製法で焼き上げました。
また、代々続く江川邸の歴史の重さのイメージや伊豆の素朴な大自然、反射炉の力強さをイメージした商品としました。
生地はリッチ過ぎず、素朴で懐かしさを感じる配合。
餡は特別製法で糖度を低くし、小豆の風味がより引き立てられるよう、また、粒を多く残すことによって小豆感を感じられるよう工夫をしました。単純な甘い餡ではなくこだわった「餡」です。
見た目は江戸時代に焼かれたパンをイメージしつつ現代風にくるみをトッピングしました。
・価格 本体価格167円 税込価格180円(店舗により異なります)
江川太郎左衛門英龍とは・・・号を坦庵(たんなん)。幕末の韮山代官。日本を欧米の侵略から守ろうと江戸幕府に軍隊制度と海防を提案。そのために品川台場の建設の指揮、そこへ設置する大砲を造るための韮山反射炉の築造を行う。軍隊で食べる兵糧食としてのパンを焼いたので「パン祖」といわれる。
■今後の展開
静岡県東部発祥のパンメーカー(沼津市)として、伊豆韮山発祥のパン祖と呼ばれる「太郎左衛門」の冠をつけたパンを現代風にアレンジし開発していきます。静岡県内をはじめバンデロール店舗で「特別なパン」として取り組みます。同時に、このニュースを各業界に伝え静岡県東部の地域活性化を図ります。
■会社概要
商号 : 株式会社バンデロール
代表者 : 代表取締役 結城 馨
所在地 : 〒410-0835 静岡県沼津市西島町20-2
設立 : 1972年8月
事業内容 :パン・洋菓子・サンドイッチ類の製造及び販売
(ベーカリー、ベーカリーカフェ、ショップの運営)
関東地区44店舗、静岡県下24店舗
東海地区1店舗、洋菓子工場、パン冷凍生地工場
資本金 : 3,000万円
URL : http://www.banderole.co.jp/
今日は旧暦で土方歳三さんが亡くなった日、箱館で友人が法要をしてくれます。今日は一日、祈りの気持ちをもって過ごそうと思います。
福島
戊辰戦争の資料展示 会津若松で150年に向け「戊辰と明治展」
【若松の歴史探訪】城下町が見えてくる (6月9日)
静岡
太郎左衛門あんぱん発売!~パン祖、江川太郎左衛門が焼いたパンをイメージし開発したあんぱんです~
兵庫
幕末から明治の偉業紹介
三重
幕末の記者魂、iPadで伝授 三重・松浦武四郎記念館
佐賀
幕末の「牛津駅絵図」公開 宿場町にぎわい伝える小城市立歴史資料館
エンターテインメント
【尾上松也の古地図で謎解き】貿易商トーマス・グラバーと幕末の志士たちの「物語」
コラム
幕末を駆け抜けた坂本龍馬は何を見て、何を考え、何を夢見たのか
ブックレビュー
新選組が殺した人数は敵よりも味方の方が多かった! 内部事情を粛清された人々の視点から探る
福島
戊辰戦争の資料展示 会津若松で150年に向け「戊辰と明治展」
戊辰戦争から150年となる2年後の節目に向け、会津若松市の歴史研究家ら有志でつくる「会津戊辰戦争150周年事業実行委員会」の記念事業「戊辰と明治展」は11日、同市文化センターで開幕し、鶴ケ城の写真など当時をしのぶ資料を紹介している。12日まで。
「会津の戊辰戦争から明治復興の姿まで」をテーマに開き、古記録、絵地図、明治期のはがき写真、寺社の複写、町家の記録などを展示している。旧会津藩士が政府を相手に裁判を起こし、公債発行(復禄)を勝ち取った復禄訴訟の記録も紹介している。
同実行委は2018(平成30)年の150周年に向け、全6回の展示会などの事業を企画している。12日は午前9時~午後3時。
【若松の歴史探訪】城下町が見えてくる (6月9日)
2年後の戊辰戦争150年を見据えたまち歩きイベント「歴史探訪」が今年度から会津若松市で始まる。テーマを変えて3年連続で催す。初年度は郭門[かくもん]跡巡りがテーマ。第一弾として18日に約150人が外堀に設けられた郭門跡を回る。戊辰戦争や市街化で失われた東日本最大級の城下町の往時の姿を体感できるはずだ。教育旅行や外国人観光客誘致につなげたい。
会津若松観光ビューローなどで組織する実行委員会が初めて企画した。歴史の転換点を再確認し、郷土愛を育む。
江戸時代の城下町は、鶴ケ城を核に土塁や外堀で囲まれた区域が郭内[かくない]と呼ばれ、上級武士の屋敷、藩校などがあった。16の郭門を造り、外堀に橋を架けた。防御の要であると共に、中・下級武士、商人、職人らが住む郭外[かくがい]との出入り口になった。18日は東半分の9カ所、11月開催予定の第2回は残りを歩く。
戊辰戦争後、土塁、外堀、郭門は取り壊された。甲賀町口に郭門の石垣、花春町に土塁が残るのみだ。巨大な城下町の全容を思い描くのは難しい。會津風雅堂付近の路上、住宅街、会津工高の校門前…。歩いてみると思わぬ場所に郭門があったことに気付く。道路の屈曲した場所が多い。天守閣など城の中枢を見通せないようにし、敵の侵入を防ぐための工夫だった。
高低など地形もよく分かる。城下町は湯川や車川の扇状地に造られた。西に向けて傾斜が下がっている。東山や滝沢地区からの水が地下排水溝や一部の水路を音を立てて流れていく。醸造など伝統の食文化を育んだ水資源の豊かさに驚く。山国ながら「水の都」でもあったのだ。以前は水路が縦横に走っていたという。復活させたら、まち並みに潤いを与えるだろう。
歴史探訪は教育旅行の絶好の教材となる。訪れる児童生徒は東京電力福島第一原発事故発生前の水準に戻っていない。実行委員会は参加者用に詳しいパンフレットを作成する。誘致の素材などに活用してほしい。城や飯盛山など定番に加え、新たな観光ルートに育つ可能性を秘めている。ただ、案内板や道順表示はほとんどない。外国語表記を含めた整備を求めたい。
鶴ケ城ボランティアガイドが案内役を務める。郭門跡を下見し、歴史や構造を学んでいる。市民総ガイド運動実行委員会とビューローが運営しているが、後継者育成が課題だ。歴史探訪を機にガイドの楽しさが広まり、希望者が増えるといい。おもてなしの充実は観光都市の魅力を向上させるに違いない。(鞍田 炎)
静岡
太郎左衛門あんぱん発売!~パン祖、江川太郎左衛門が焼いたパンをイメージし開発したあんぱんです~
株式会社バンデロール(本社:静岡県沼津市西島町20-2、代表取締役:結城 馨、以下 バンデロール)は、6月18日よりパン祖と呼ばれる江川太郎左衛門英龍が伊豆韮山で初めて焼いたパンをイメージし懐かしく素朴な生地に特別製法の小豆の風味豊かな低糖あんを包み込み焼き上げたあんぱん「太郎左衛門あんぱん」の販売開始いたします。
太郎左衛門あんぱん発売!
~パン祖、江川太郎左衛門が焼いたパンをイメージし開発したあんぱんです~
株式会社バンデロール(本社:静岡県沼津市西島町20-2、代表取締役:結城 馨、以下 バンデロール)は、6月18日より太郎左衛門あんぱんの販売開始いたします。バンデロールは関東、中部を中心とした焼き立てベーカリーチェーンです。
▼http://www.banderole.co.jp/
■メニューの紹介
太郎左衛門あんぱんの特徴・・・パン祖と呼ばれる江川太郎左衛門英龍が伊豆韮山で初めて焼いたパンをイメージし懐かしく素朴な生地に特別製法の小豆の風味豊かな低糖あんを包み込み焼き上げたあんぱんです。
江戸時代後半に江川英龍がはじめて焼いたパンは「乾パン」に近いと聞いており、そのまま再現するのではなく、それをイメージしつつ、小さなお子様からお年寄りまで美味しく食べられる食材、製法で焼き上げました。
また、代々続く江川邸の歴史の重さのイメージや伊豆の素朴な大自然、反射炉の力強さをイメージした商品としました。
生地はリッチ過ぎず、素朴で懐かしさを感じる配合。
餡は特別製法で糖度を低くし、小豆の風味がより引き立てられるよう、また、粒を多く残すことによって小豆感を感じられるよう工夫をしました。単純な甘い餡ではなくこだわった「餡」です。
見た目は江戸時代に焼かれたパンをイメージしつつ現代風にくるみをトッピングしました。
・価格 本体価格167円 税込価格180円(店舗により異なります)
江川太郎左衛門英龍とは・・・号を坦庵(たんなん)。幕末の韮山代官。日本を欧米の侵略から守ろうと江戸幕府に軍隊制度と海防を提案。そのために品川台場の建設の指揮、そこへ設置する大砲を造るための韮山反射炉の築造を行う。軍隊で食べる兵糧食としてのパンを焼いたので「パン祖」といわれる。
■今後の展開
静岡県東部発祥のパンメーカー(沼津市)として、伊豆韮山発祥のパン祖と呼ばれる「太郎左衛門」の冠をつけたパンを現代風にアレンジし開発していきます。静岡県内をはじめバンデロール店舗で「特別なパン」として取り組みます。同時に、このニュースを各業界に伝え静岡県東部の地域活性化を図ります。
■会社概要
商号 : 株式会社バンデロール
代表者 : 代表取締役 結城 馨
所在地 : 〒410-0835 静岡県沼津市西島町20-2
設立 : 1972年8月
事業内容 :パン・洋菓子・サンドイッチ類の製造及び販売
(ベーカリー、ベーカリーカフェ、ショップの運営)
関東地区44店舗、静岡県下24店舗
東海地区1店舗、洋菓子工場、パン冷凍生地工場
資本金 : 3,000万円
URL : http://www.banderole.co.jp/
兵庫
幕末から明治の偉業紹介
◇益習の集い 岡田鴨里、立木兼善パネルで
淡路島で生まれ、幕末から明治に活躍した儒学者・岡田鴨里おうりと官僚・立木兼善を紹介するパネル展が、淡路市役所1階ロビーで開かれている。17日まで。
「庚午こうご事変」を代表とする島の歴史を調査・研究する「益習の集い」の主催。洲本市立淡路文化史料館や神奈川県立歴史博物館所蔵の未公開資料から、2人の偉業を浮き彫りにした。
岡田鴨里は今の淡路市中田王子地区に生まれた。漢学者・頼山陽に師事し、勤王運動に大きな影響を与えたという。徳島藩の洲本学問所では教授を務め、庚午事変で藩士の暴走を止めようと奔走した。
現在の同市仮屋地区出身の立木兼善は、官僚として事変の調停にあたった。福島、長野、福岡各県の知事を歴任、争乱の収拾に尽力する生涯だった。
会場では事変で命を落とした志士の子孫、三宅玉峰さん(63)が解説を担当する。洲本市から訪れた立木浩一さん(75)は「よく調査された企画で頭が下がる。歴史に埋もれた事実をどんどん掘り起こして」と話した。
無料。午前9時~午後4時。
三重
幕末の記者魂、iPadで伝授 三重・松浦武四郎記念館
北海道の名付け親として知られる幕末~明治期の探検家、松浦武四郎(1818~88年)は、優れたジャーナリストでもあった。生まれ故郷の三重県松阪市(旧三雲町)にある松浦武四郎記念館には、「記者」の原点とも呼べる史料が所蔵されている。ここから先は有料の記事配信で。
中でも記念館の学芸員、山本命(めい)さん(40)が「告発の書」と評するのが「近世蝦夷(えぞ)人物誌」だ。江戸末期、幕府の依頼で蝦夷地を歩き回る中で、支配していた松前藩によるアイヌ民族への弾圧を見聞きした。
《アイヌ民族に男女問わず強制労働をさせ、病気になっても手当せず、言うことを聞かない者は縄で縛りせっかんし、梅毒をうつされる女性もおり、妊娠すれば堕胎させ、二度と子どもを産めない体になる女性も多い……。》
佐賀
幕末の「牛津駅絵図」公開 宿場町にぎわい伝える小城市立歴史資料館
幕末期、長崎街道沿いの牛津宿の様子を描いた「牛津駅絵図」が、同市小城町の市立歴史資料館に展示されている。絵図には、宿に住んでいた人たちの住居をはじめ、寺社や藩施設など建物の形がびっしりと記され、宿場町のにぎわいと共に、鍋島藩にとって牛津がいかに交通の要衝地であったかがうかがい知れる貴重な史料を見ることができる。7月3日まで。
「牛津駅絵図」は今年3月、幕末期の牛津宿の様子が分かるとして市重要文化財に指定された。市教育委員会文化課によると、絵図は何の目的で誰が描いたのかは不明で、「牛津宿」を「牛津駅」とした意図は分からないという。
制作年代の決め手となったのは、絵図に記されたある世帯主名。街道沿いの寺にある墓碑と照らし合わせ、「久本兵五郎」(1825~71年)が居住していたことが特定できた。さらに小城藩が出した営業許可の文書(もんじょ)などで、宿場町で薬種業を営んでいた事実も分かった。
他にも、絵図には藩の使いが滞在した「上使屋」や馬を飼い置いた「馬立」など藩の重要な施設も描いてある。
絵図の最大の特徴は、どの建物にも屋根を記し、黒色と茶色に描き分けている点という。同文化課学芸員の田久保佳寛さんは「黒色は瓦葺(かわらぶ)きで茶色は茅(かや)葺きを表している。屋根の色の違いで財力の差を伝えたかったのでは」と言い、「街道沿いの空き地みたいな空白部分には『焼跡』と記されるなど、宿場町は頻繁に火事に見舞われ、防災マップの意味合いもあったのでは」と推察する。
12日午前11時と午後1時に職員による展示案内がある。「牛津駅絵図」展の問い合わせは同資料館、電話0952(71)1132。
エンターテインメント
【尾上松也の古地図で謎解き】貿易商トーマス・グラバーと幕末の志士たちの「物語」
こんにちは、尾上松也です。「歴史」とは過去に起こったであろう出来事を、残された資料をもとに研究し描き出した物語です。本来この物語に「面白さ」は必要とされません。ただ事実のみを並べればそれで良いのです。
ですが、そこに面白さを見出し、想像を膨らませられるのが歴史探求の醍醐味。特に物語の登場人物が心の中でどんな事を考え、行動に至ったか?その心情を想像するのが歴史探求最大の楽しみと言えるかもしれません。
さて、今回の番組では明治維新直前の長崎を舞台に、貿易商トーマス・グラバーと幕末の志士たちの「物語」にスポットを当てます。武器商人として日本に大量の武器を持ち込んだとされるグラバーとはいったいどんな人物だったのか?坂本龍馬、五代友厚など幕末の志士たちがグラバーと深い関係を築いたのは何故なのか? 明治維新後も永住の地として日本を選んだトーマス・グラバーの知られざる素顔と幕末の志士たちとの関係に迫りながら、激動の時代を駆け抜けた若者たちの生き様に迫ります。ぜひ、ご覧ください。
■尾上松也(おのえ・まつや) 1985年1月30日東京都中央区出身。父は六代目尾上松助、叔父は大谷桂三(初代尾上松也)。身長178センチ。5歳のとき、歌舞伎座で初舞台。その後、数々の舞台に出演。昨年6月にコクーン歌舞伎にて「三人吉三」のお坊吉三に抜擢。また近年ではミュージカルにも年1回のペースで出演している。2014年のNHK紅白歌合戦のゲスト審査員。BS11の番組「尾上松也の古地図で謎解き!にっぽん探究」は“初冠番組”となる。番組詳細は(http://www.bs11.jp/)まで。
コラム
幕末を駆け抜けた坂本龍馬は何を見て、何を考え、何を夢見たのか
幕末の偉人ランキングで圧倒的な人気を誇る、坂本龍馬。薩長同盟や、龍馬が暗殺された近江屋事件などは歴史にそれほど関心の無い方でもご存知のことでしょう。無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』に、そんな龍馬に関する数々のエピソードが綴られています。
人物探訪:坂本龍馬、海洋立国の夢
アメリカに漂流して、彼の地で航海術などを学び、日本に戻ってきたジョン万次郎に、坂本龍馬が初めて会ったのは嘉永5(1852)年の末頃であったと言われている。友人に勧められて、万次郎の話を聞きに行ったのである。龍馬18歳の時であった。
万次郎が滞在したヌーベッポー(ニューベッドフォード)という町には何百隻もの巨大な捕鯨船が浮かんでいて、その港の砲台には大砲が20門ほど置かれている。大きなものは口径8寸(24センチ)もある。お城の石垣程度のものなら、弾丸一発で打ち砕いてしまう。蔵にはその砲弾を何千発とも知れないほど収めているという。
軍艦はそんな大砲で撃たれてもなかなか砕けない。1隻に500人ほど乗る船は珍しくなく、戦のときには1,500人も乗り込むそうである。
龍馬はさらに航海の術について尋ねた。万次郎は、アメリカで一等航海士という偉い船頭の資格をとっており、地図とオクタント(六分儀)と磁石さえあれば、陸の影も見えない大洋に船を乗り出しても迷わないという。
龍馬は夢の中の出来事を聞いているような気がした。胸が躍ってならなかった。
黒船来る
翌嘉永6(1853)年、龍馬は剣術修行のために江戸に出た。江戸に着いてまもない6月4日の朝、アメリカの黒船が浦賀沖に現れたという知らせが届いた。万次郎の語ったアメリカの軍艦を直接目にすることになったのである。
旗艦サスケハナ号は長さ約78メートル、幅14メートル、数十門の大砲を備えていて、日本人には巨大な浮城のように見える。そんな黒船が4隻も現れた。
龍馬は土佐藩の品川屋敷のある大森海岸の防備に駆り出され、土手を築き、垣を結んだ。やがて幕府がペリーから受け取ったアメリカ国書の内容は、龍馬たちの耳にも伝わってきた。
蒸気船ならカリフォルニアから、パシフィック・オセアン(パシフィック・オーシャン、太平洋)を渡って18日間で日本に達することができる。カリフォルニアは毎年金6,000万ドルを産し、日本の様々な産物と交易を行えば互いの利益になる。また日本沿岸で捕鯨を行うアメリカ船舶が、日本で石炭、水、食料を補給できるようにしたい。そのために通商交易条約を結びたいというのだ。
日本がそれに応じなければ戦争を仕掛ける、という姿勢で、黒船は品川沖で空砲を鳴らし、沿岸に詰めかけた数万の諸藩兵を驚かせた。
アメリカは近頃メキシコと戦争をして、カリフォルニアを含む領地のおおかたをとってしまったが、その理由はメキシコがアメリカの蒸気船に領地の海辺に近寄るのを咎めたためであるという。
「外国と通商することがなぜいけないのか」
龍馬が江戸で師事していたオランダ砲術の権威・佐久間象山は、こう主張していた。
今戦えば我らに勝ち目はない。ひとたび敗れたときは皇国は滅亡、我らは異族の奴隷となるのだ。
江戸の沖に常に5、6隻の黒船がいて、大坂からの千石船を捕らえ、米などの消費物資の海上輸送を遮断すれば、江戸は10日ももたない。廻船の輸送量を牛馬によって陸路で運ぶことは不可能である。
と言う。確かにそのとおりであると龍馬は思った。今はアメリカの要求を入れて通商を行い、それを通じて国力を養って、国防力を充実させるのが、日本の生きのびる道である。
一方、ジョン万次郎は幕府の老中たちに意見を聞かれて、アメリカが日本を攻め取ることはないと答えていた。カリフォルニアのように莫大な金が算出する国であれば戦を仕掛けることもあるが、日本はそれほどの物産はなく、また遠い。軍艦を何十隻も派遣して攻めるよりも、仲良くして石炭などを分けて貰うのが得である、とアメリカは考えるはずだという。
龍馬はこれもまたその通りだと思った。龍馬が幼い頃によく遊びに行っていた遠縁の廻船問屋は江戸に米や鰹節などを運ぶ千石の大廻し船を何隻も運用して、大きな利益を上げていた。
外国と通商することがなぜいけないのか、と龍馬は考えた。
「自由な大海に漕ぎ出したい」
およそ1年ほども江戸に滞在して、龍馬が高知に帰ったのは、安政元(1854)年6月下旬のことであった。翌年正月に龍馬は河田小龍を訪れた。河田はジョン万次郎を自宅に寝泊まりさせて、聞き書きを行っていた人物である。
河田は「このような非常のときに1つの商業を興してはどうじゃ」と龍馬に薦めた。そして万次郎から聞いた話をもとに、こう語った。
アメリカじゃあ商業の元手をこしらえるのに、株仲間のような者を大勢集め自在に大金を融通しゆうがじゃ。お前(ま)んらぁがそこのところを工夫して、株仲間を何とかしてこしらえて1隻の蒸気船を買うてみい。
同志を募り、日本中を往来する旅人やら諸藩の蔵米、産物を運んだら、蒸気船運航に使う石炭、油の費用や同志の給金を払うことができるろうが。
そうやって操船の稽古をすりゃ、しだいに航海の術も身につくというもんぜよ。盗人を捕まえて縄をなうというような有り様で始めても、1日でも早う蒸気船の運用を始めざったら、いつまでたっても外国に追いつけんがじゃ。
小龍の言葉に龍馬は刺激されたが、高度な蒸気船を動かせる秀才は数が少ない、と言うと、小龍はこう応じた。
日頃俸禄を仰山もらいゆう上士にゃ志というものがありゃせん。志を持ちゆう者は、ひと働きするにも元手のない下士、百姓、町民ら下等人民の秀才ぜよ。そがな下等人民の秀才は俺の弟子にも多少はいゆう。働かせりゃ工夫するぜよ。
大洋を自由に航海する蒸気船は、また身分制度からも自由な世界であった。龍馬は自由な大海に漕ぎ出したいと思った。
「蒸気船の扱いを覚えたいがです」
文久2(1862)年3月、龍馬は脱藩した。城下で剣術道場を開く資格は得ていたが、もはや高知に留まる気はなかった。
江戸に出て、ジョン万次郎の紹介状を持って勝麟太郎を訪れ、弟子入りを頼んだ。勝は長崎海軍伝習所で教監を務め、また幕府の使節を乗せた咸臨丸を操って、太平洋横断を果たした人物である。
「俺の弟子になって何をしたいのかね」と聞かれて、龍馬は「蒸気船の扱いを覚えたいがです」と答えた。さらに「尊王と攘夷についてどう考えているのかね」と聞かれて、
「攘夷はとても無理ですろう」
「そうか。それなら無理を言わず異人の言うがままに商いをするのかね」
「そこが知りたいがです。攘夷をやらにゃあ異人がのさばりますろう。けんど今の日本じゃとても勝てん。そうなると、異人と同じ土俵で相撲がとれるほどの力を持つまで待たにゃあいかんですろう」
麟太郎は笑いながら「土佐にいながら天下の形勢をよく知っているじゃないか」と言って、弟子入りを許した。
海軍建設
勝は龍馬を護衛役として側に置きながら、いろいろ話して聞かせた。
攘夷の戦いを日本の側から起こせば、イギリス、フランスは対馬、壱岐、佐渡を占領する。アメリカは伊豆七島、ロシアは蝦夷を占領するだろう。淡路島も乗っ取られかねない。そうなれば航海の道はすべて閉ざされ、全国は籠城の有り様になる。危機に迫られると一揆が方々で起こる。その苦しみに耐えかね、外国につく者が現れると日本は外国の属国になるだろう。
そのような事態を未然に防ぐために、勝は西洋諸国と対抗できるほどの陸海軍を作るという意見書を幕府に提出していた。日本全国を6つの海域に分けて、それぞれに艦隊を置くという案である。
その経費を捻出させるためには、各大名に海外貿易を許し、それを財源に10万石あたり蒸気軍艦1隻などと費用を出させる。この案に従えば、軍艦300隻の海軍を建設することも可能であった。
しかし、軍艦は金で揃えることができても、それを動かす人材が問題である。勝と龍馬は神戸に海軍塾を作る準備を進めた。先頃まで将軍側近であった大久保忠寛(ただひろ)越中守も、それを励ましてくれた。
貴公らが麟太郎と相計って神戸に海軍塾を開く支度をしておるそうだが、それが肝心だ。海軍を大いに発展させるため幕府は、アメリカ、オランダに軍艦を注文している。だが、その操船を自在にいたす航海乗り組みの学生を取り立てねばならんのだ。幕府の先の読めない腑抜け役人どもができることではない。貴公らが操船を自在にできるよう一日も早く学び取らねばならぬのだ。
文久3(1863)年4月、将軍家茂は神戸に海軍操錬所を建設し、その入用金として年3,000両を下すことを決めた。また勝の門人たちを引き連れて、私塾として海軍塾を開くことを許した。龍馬はその設立と運営に奔走した。
亀山社中
元治元(1864)年6月19日、長州勢と幕府方が京都蛤(はまぐり)御門にて衝突した。この際に操錬所生徒である因幡藩士数十名が長州方に味方したとして、勝は江戸表に呼び戻された。
勝は薩摩の西郷吉之助(隆盛)に、龍馬以下6人の土佐藩脱藩者の庇護を頼んだ。西郷は、龍馬の人を引きつける性格と時代を切り開いていく才覚を認め、密貿易をさせつつ、いずれ長州藩に薩長連合を勧める使者として働いて貰おうと考えた。
元治2(1865)年、龍馬らは長崎の町はずれの亀山という山麓の地に宿舎を与えられ、薩摩藩から毎月給金を貰うようになった。彼らの結社は「亀山社中」と呼ばれ、ここを根拠地として密貿易にあたることになった。
5月、龍馬は下関に潜入し、西郷の使者として、長州の指導者・桂小五郎と会った。長州は幕府軍15万の大軍を迎え撃たねばならないという窮地に陥っていた。しかし、薩摩は蛤御門の変で幕府方についていたので、「いまさら薩摩の芋と手を結べるか。そんなことを抜かす奴は首を斬れ」という声が上がるほどだった。
薩長同盟を実現した交易
龍馬は桂にこう持ちかけた。
長州の四境に幕軍が間なしに参りますきに、外国から薩摩の名義で蒸気船、鉄砲を買い入れ、尊藩に持ち込むというのはいかがですろう。
桂は思わず、龍馬の顔を見直した。幕府の大軍を迎え撃たねばならない長州にとって、これはよだれの出るような好餌である。龍馬は亀山社中の同志を使って、最新式の小銃7,500丁と蒸気船1隻を調達し、約束通り、長州に収めてみせた。
一方、薩摩は長州征伐には参加せず、京都に大兵力を集めて、幕府を牽制することとした。西郷はそのための兵糧を長州から借りてくれるよう、龍馬に依頼した。「さしあたって500俵もあればえいですろう」と龍馬は承知して、すぐに山口に行き、桂から快諾を得た。
こうした実利的な助け合いを通じて、薩摩と長州は旧怨を解き、同盟関係を築いていった。その掛け橋となったのが、龍馬の働きだった。
実現した海洋立国の夢
兵糧貸与の話がまとまった後、龍馬は下関で貿易を営む大商人・伊藤助太夫の家に泊まり込んで、杯を交わした。助太夫は、長州と幕府の戦いが終われば、蝦夷の海産物などを買い入れる交易をしたいと言った。北前船は1隻作るのに千両かかるが、蝦夷へ3度も行けば元手がとれるという。
龍馬は感心した。「まっことのう。蒸気船を使うたらなお儲かるろうねや」
龍馬は今は亀山社中の同志と共に、薩長の必要とする武器などの購入を行っているが、戦が収まれば長崎、下関を根拠地に蝦夷や上海、さらには広東からルソンに行き来して貿易をしたいと考えていた。蒸気船を使えば、パシフィック・オセアン(太平洋)を渡ってアメリカとの交易もできる。それによって国を富まし、日本を異国から守れるだけの海軍も持つことができよう。龍馬の夢は広がっていった。
龍馬はその夢を実現するひまもなく、慶応3(1867)年11月、京都にて何者かに暗殺されてしまった。しかし、海外貿易の夢を抱いていたのは龍馬だけではなかった。「海外貿易の志士」森村市左衛門などはその好例である。
さらに神戸の海軍操錬所を淵源の1つとする日本海軍はやがて日清・日露戦争を通じて国家の独立を維持し、英米と並ぶ世界3大海軍の1つとして数えられるまでになった。
龍馬の描いた海洋立国の夢は幕末から明治にかけての日本人全体が共有していたもので、多くの人々の努力によって実現されたと言える。
文責:伊勢雅臣
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ブックレビュー
新選組が殺した人数は敵よりも味方の方が多かった! 内部事情を粛清された人々の視点から探る
現在放送中のNHK大河ドラマ『真田丸』の視聴率が好調だ。ここ数年、低視聴率が続いただけに話題になっている。年配の方からはふざけているとの声も多少あがっているようだが、脚本を手がける三谷幸喜らしいポップともいえる演出は親しみやすく見ていて楽しい。三谷幸喜といえば、2004年の『新選組!』も好評だった。こちらも香取慎吾演じる局長・近藤勇を中心に仲間たちの絆が描かれつつ、笑えるシーンもちりばめられ、日曜の夜が明るくなるドラマだった。元々歴史好きには人気のある新選組だが、さらにファンを増やしたに違いない。
今でこそ幕末のヒーロー的扱いを受ける新選組だが、昭和3年に子母沢寛が『新選組始末記』と題した小説を著すまで、血も涙もない人殺し集団として一般的には嫌われていたことをご存じだろうか。しかも、敵のみならず味方まで多くの人が殺しているという。『新選組 粛清の組織論』(菊地 明/文藝春秋)では、新選組が屯所とした西本願寺の侍臣・西村兼文の『新撰組始末記』や、元幹部隊士・永倉新八の『新選組奮戦記』など、当時を知る人々が残したあらゆる史料を丹念に読み解き、新選組の内部で殺された人々を考察した一冊である。
まず、新選組には次のようないわゆる局中法度があった(当時の史料を見る限り、「局中法度」などと誰も呼んでないらしいが…)。
第一士道背くこと、第二局を脱すること、第三勝手に金策を致すこと、第四勝手に訴訟を取り扱うこと、四箇条を背くときは切腹申し付くること、またその宣告は同志の面前で言い渡すと定(き)めた。
『新選組奮戦記』
隊士が増えるにつれて、農民や町人、下級藩士の脱藩者からなる烏合の衆をまとめるものとして必要とされたのだろうが、いくらなんでも切腹とは性急に過ぎる。本書によると、正規の武士であれば、改易や蟄居、隠居などの罪に応じた刑罰があったものの、それは守るべき家があるからこそであり、身ひとつの隊士たちには守るべき家も名誉もなかったからだとする。それにしても、何か不祥事があれば簡単に殺されそうな感がある。
実際、本書によると殺した敵が26人であるのに対し、殺した味方は40人にのぼるという。殺された理由は、局長批判、脱走、金策、脱退志願、反幕活動、士道不覚悟などが挙げられている。中でも有名な2人について取り上げてみよう。
近藤勇と並ぶ初代局長・芹沢 鴨
新選組の前身である壬生浪士組創設時の局長は、芹沢鴨と近藤勇。水戸藩郷士の芹沢を中心とするグループと、多摩の農民上がりの近藤勇を中心とするグループから成っていたからだ。彼らをまとめるのは「尊王攘夷」の一点であり、芹沢グループと近藤グループの間には「攘夷」に対するスタンスが違ったとされる。水戸藩出身の芹沢が藩の教えにより朝廷第一に考える「尊王敬幕」であるのに対し、近藤らは幕府を第一とする「尊王親幕」だった。
さらに、芹沢は型破りで酒癖が悪い乱暴者だったことで知られる。芹沢の金策を断った生糸問屋・大和屋の襲撃事件は新選組ファンの間では有名な話。この事件をきっかけに新選組を預かる会津藩から芹沢の“処置”を命じられた近藤は、これを殺害指令と捉え、芹沢グループの平山五郎や芹沢の愛妾・お梅らとともに寝込みを襲って殺害している。
新選組ナンバー2・山南敬助
山南敬助は、近藤勇が多摩の天然理心流剣術道場の四代目宗家を務めていた頃からの同志。文武両道でグループのブレーンでもある山南は、壬生浪士組創設時、土方歳三とともに副長の座にあった。しかも、本書は史料を見る限り、近藤グループの中では土方歳三よりも格上で、近藤に次ぐ二番手に位置づけられていたと考察する。
ところが、慶応元年2月に突如脱走を図り、すぐに沖田総司に連れ戻され切腹し果ててしまう。なぜ規律違反を犯したのか、理由は史料に残っていないため判然とせず、諸説ある。本書では、より親幕に傾倒していた近藤が反幕派の長州藩とつながりが深い西本願寺を監視下に置くべく、西本願寺を新選組の屯所としようとしたことに山南が反対し、山南はそれが近藤に受け入れられなかったために諌死を遂げたとする。近藤は同志である山南の死を望んだはずはないが、局長と副長の対立という事態を隊士に伏せたかったのだと考える。
つまり、新選組は敵を殺す以前に組織の内部抗争が絶えなかったわけだ。それは、「尊王攘夷」はともかく、幕府に対する態度という点で思想の違いが局長以下をぎくしゃくさせる原因のひとつになったようだ。親幕として組織をまとめた結果、慶応3年、新選組は隊士全員が幕臣となり、近藤は旗本に取り立てられている。
ただ、粛清を繰り返したことで新選組ばかりを非難することもできない。この時代、長州や薩摩など活発な動きを見せた藩はいずれも、親幕か反幕か、はたまた攘夷か開国かで揺れ動き、内部粛清によるさまざまな事件が起こっている。ご存じの通り、幕府は倒され開国へと突き進んでいくわけだが、その中で新選組は粛清を繰り返すも時代に取り残され散っていった哀しい組織といえる。
文=林らいみ
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