新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
気分は新選組隊士 日野で800人パレード
東京都日野市で「新選組まつり」参加者約400人が隊士パレード
新選組「私が土方だ」…日野でまつり
「ひの新選組まつり」のメインイベント、新選組隊士パレードが十四日、日野市のJR日野駅東側の甲州街道周辺で行われた。隊士や同時代の歴史上の人物らの衣装を身に着けた約八百人が練り歩き、沿道の声援に応えた。
パレードでは、日野出身の新選組副長・土方歳三役を務めた岡安綾希子(あきこ)さん(35)=埼玉県久喜市=が馬上から「楽しんでるか!」「声が小さいぞ!」などと観客を鼓舞。声援が高まると笑顔を見せた。
パレード終了後、岡安さんは「土方というヒーローで重圧があったが、皆で盛り上げてくれて心強かった。まつりがずっと続くようにと思っています」と話した。
第二十回の節目を迎えた今年のまつりのパレードは、昨年までの近隣の小学校の児童だけでなく、市内全小学校から参加するなど裾野も広がった。日野駅のほか高幡不動尊の周辺でも各種イベントが開かれた。
まつりは実行委員会(三浦盛良委員長)の主催で十三日から開催。土方の命日(五月十一日)に合わせて、毎年この時期に開いている。 (水谷孝司)
東京都日野市で「新選組まつり」参加者約400人が隊士パレード
新選組ゆかりの地、東京都日野市で13日、14日の両日、恒例の「第20回ひの新選組まつり」が開かれました。メイン行事の新選組隊士パレードでは、公募で集まった参加者約400人が隊士に扮し、市内を練り歩きました。
隊士パレードの幹部役9人を決める隊士コンテスト。熱心なアピールで会場を沸かせた
13日は、高幡不動尊で隊士パレードの幹部役9人を決める隊士コンテストが行われました。パレード参加者のなかから45人が立候補。1次審査の1分間PRでは、居合いを披露する人や役への思いを語る人など、それぞれ熱意を訴えました。恐竜時代にタイムスリップした沖田総士を演じた男性など、熱心なアピールで会場を沸かせました。
2次審査に進んだ9人は、戊辰戦争での榎本武揚と土方の別れを描いた台本をもとに、土方役を演じました。審査の結果、土方歳三役に選ばれたのは、埼玉県久喜市の会社員・岡安綾希子(あきこ)さん(35)。元気で迫力ある声が特徴の岡安さんは、パレードへの意気込みについて「もう気合ですね。気合いれて、みんなが楽しく笑顔で帰れるように」と話していました。
土方歳三役に選ばれた岡安綾希子さん
14日朝、新選組の衣装を身にまとったパレード参加者は高幡不動尊内に集結し、出陣式を挙行。土方役の岡安さんとともに威勢良く「エイエイオー」と勝どきの声をあげました。その後、一行は高幡不動尊を出発。市内を通る甲州街道などで隊士パレードを行いました。
このほか、山車の曳行も行われ、見物客は、焼きそばや日野名物のカレーパンなどを販売する沿道の出店で好みの食べ物を買い求めたり、パレードの撮影に熱を入れたりするなど、思い思いに祭りを楽しんでいました。
境内でパレードを見送った会社員・古井詩織さん(30)は、友人からこの祭りを知らされ、名古屋市港区から訪れました。歴史好きで、新選組のなかでは近藤のファンだという古井さんは、近藤役の参加者を見て「愛嬌があって良いですね。史実に合っているキャラクターだと思いました」と笑顔で話していました。
日野市は、新選組の副長・土方歳三や6番隊隊長・井上源三郎の出身地。局長の近藤勇も含め、彼らが若き日に剣術の稽古で集った日野宿本陣など、新選組ゆかりの史跡もあります。この祭りは、こうした新選組の歴史をまちづくりに生かそうと、1998(平成10)年にはじまりました。毎年、土方歳三の命日の5月11日に合わせて、5月第2土曜日・日曜日に開かれています。
(取材・文:具志堅浩二)
新選組「私が土方だ」…日野でまつり
新選組ゆかりの地・日野市で13日、「ひの新選組まつり」が始まった。同市出身の副長、土方歳三(1835~69年)の命日にあたる5月11日に近い土日に開かれており、今年で20回目。
初日は、まつりの目玉「隊士パレード」を率いる土方や局長の近藤勇、各隊の隊長などを決める「隊士コンテスト」が、高幡不動尊金剛寺で開かれた。同寺は土方の菩提ぼだい寺で、全国から集まった48人が隊士になりきり、14日に行われるパレードの花形の座を競い合った。
参加者たちは、おなじみのだんだら模様の羽織などに身を包み、「日野に来るたび隊士が好きになります」「永倉新八にあこがれて剣術を修業しました」などと“新選組愛”を熱く語り、鮮やかな剣舞などを披露。2次審査に進んだ9人は、死を目前にした土方の芝居を演じ、会場を沸かせた。
審査の結果、今年の土方役は埼玉県久喜市の岡安綾希子さん(35)に決まった。岡安さんが「待たせたな、私が土方だ。あしたは盛り上がれるか」と呼びかけると、観客たちも一緒に勝ちどきを上げた。
パレードは14日午後1時半にスタートし、JR日野駅近くのコースを練り歩く。
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続きです。
北海道
5月11日に合わせ市内で慰霊 箱館戦争
福島
<秋月悌次郎>幕末の会津藩士しのび詩吟
戊辰戦争150年ロゴ決定=福島県会津若松市〔地域〕
<戊辰戦争>剣舞奉納 会津藩の女性を慰霊
観光の「列藩同盟」 来年の戊辰150年、本県誘客図る
栃木
真岡にも刀剣女子 「さむらい刀剣博物館」来館者が5倍超、8割女性
高知
「志国高知 幕末維新博」が無料アプリ「城巡り」と連動
佐賀
幕末の絵地図、謎多い山城跡も…武雄鍋島家資料
幕末の蒸気車走った 佐野常民記念館、佐賀藩「精煉方」の技術再現 [佐賀県]
コラム
街にあふれる行商は、ネット通販より便利? 幕末から明治の買い物事情
北海道
5月11日に合わせ市内で慰霊 箱館戦争
箱館戦争で新政府軍が旧幕府軍に対し総攻撃を行い、勝利を収めた1869(明治2)年5月11日に合わせ、函館市内では戦没者を慰霊する供養祭が開かれた。
参列者 手合わせ焼香 戦没者供養祭
〇…五稜郭タワーで開かれた戦没者供養祭には、同社社員や観光業者、近隣住民ら約60人が参列し、箱館戦争に殉じた大勢の戦士たちの冥福を祈った。
新選組副長だった土方歳三の命日に当たる旧暦の11日に合わせて毎年実施しており、今年で46回目。5月20、21日に開催される「第48回箱館五稜郭祭」の協賛行事。
祭主の中野恒・同タワー社長が祭文を奏上。観音寺(富岡町)の中村裕康住職らが読経を上げたあと、参列者が焼香し手を合わせた。
中野社長は「供養祭は毎年戦没者の冥福を祈るとともに、箱館五稜郭祭の成功も祈願している。今年も大勢のお客さまに楽しんでほしい」と話していた。
会津藩士しのぶ 福島県人会
○…函館福島県人会(小山直子会長、会員41人)は、函館市船見町の高龍寺を訪れ、境内の「傷心惨目の碑」で碑前祭を行った。箱館戦争で犠牲となった会津藩士をしのんだ。
1869(明治2)年5月11日、新政府軍が箱館病院の分院だった高龍寺を襲撃し、傷病兵を殺害して寺に放火。碑は、この時命を落とした犠牲者を供養するため、旧会津藩士によって建てられた。
1980年から続けられている碑前祭には、会員13人が参列。一人一人碑に向かって手を合わせ、母県へ思いを巡らせた。
小山会長は「東日本大震災から6年が経ったが、避難先でのいじめや復興大臣の発言などが悲しい。福島県民や子どもたちの心の復興が必要なことを忘れないようにしたい」と話していた。
福島
<秋月悌次郎>幕末の会津藩士しのび詩吟
幕末の会津藩重臣、秋月悌次郎(1824~1900年)が戊辰戦争後に藩の行く末を思って漢詩を詠んだ福島県会津坂下町の束松(たばねまつ)峠で4月29日、悌次郎をしのぶイベントがあった。
悌次郎は戊辰戦争後、猪苗代に謹慎したが、親交があった長州藩士奥平謙輔に会津藩の善処と優秀な少年の教育を頼むため、ひそかに越後に行った。帰り道に束松峠で焼け跡に立つ鶴ケ城を眺めながら「北越潜行の詩」を詠んだ。少年の1人が、後に東京帝大総長となる山川健次郎だった。
2013年に会津若松市の秋月悌次郎顕彰会や住民組織「束松峠を護(まも)る会」などが実行委員会を立ち上げ、束松峠に漢詩の碑を建てた。
イベントは、会津坂下町観光物産協会が来年の会津戦争終結150年のプレイベントとして実施した。約40人が参加し、顕彰会の桑原勇蔵副会長(78)が詩を解説。会津吟詠会の女性会員5人が詩吟を披露した。
桑原さんは「悌次郎は政府軍と交渉し、一生懸命に敗戦処理に当たった。陰で働いた会津人のことを知ってほしい」と語った。
悌次郎は戊辰戦争で会津藩の軍事奉行添役を務め、戦後に終身禁固刑を受けたが、特赦となり、教育者として活躍。熊本の第五高等中学で同僚だった文学者小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、悌次郎を「神のような人」と敬った。
戊辰戦争150年ロゴ決定=福島県会津若松市〔地域〕
福島県会津若松市は、来年が戊辰戦争150周年になるため、その記念事業のロゴマークを決定した。今後、記念ポスターやチラシ、缶バッジなどで使用する予定。
今年3月から4月上旬まで一般公募した104作品の中から選ばれたのは、東京都千代田区に住む須賀裕明さんのデザイン。「150」の中に会津藩を治めた松平家の家紋と戊辰戦争を戦った白虎隊にあやかって虎が入っている。マークの下部には「SAMURAI CITY AIZU」の文字を表示した。
キャッチフレーズは、応募点数375の中から福島県本宮市在住の仁井田京子さんの「『義』の想い つなげ未来へ―。戊辰150周年」を選んだ。
市では、市内外の約140団体で構成された戊辰戦争150周年記念事業委員会を立ち上げている。記念誌作成や特別番組の制作、記念展示事業などを行い、市文化の振興や観光誘客を狙う。
<戊辰戦争>剣舞奉納 会津藩の女性を慰霊
戊辰戦争(1868~69年)で犠牲になった会津藩の女性たちの霊を慰める「奈与竹之碑」の碑前祭が1日、福島県会津若松市門田町の善竜寺であった。
主催する嫋竹(なよたけ)会の会員ら約150人が参列。吉田幸代会長が「戊辰戦争で会津の全ての人々は大きな困難を被ったが、戦後、素晴らしい人材を輩出した。東日本大震災の爪痕で困難を極めている私たちも、強い精神力で頑張らないといけない」と祭文を読み上げた。
読経、焼香の後、同市の謹教小合唱部の児童9人が学校で歌い継がれている「なよたけの歌」を奉納。葵高の舞踊部となぎなた部の生徒15人が剣舞を披露し、郷土のために戦った女性たちに祈りをささげた。
戊辰戦争では会津藩士の妻や娘ら233人の女性が犠牲になった。戦争の足手まといになると考えて自刃した女性も少なくなかった。奈与竹之碑の名称は、一族21人が自刃した会津藩家老西郷頼母の妻千恵子が詠んだ辞世の句から取られた。
観光の「列藩同盟」 来年の戊辰150年、本県誘客図る
国内を二分し歴史の転換点となった「戊辰戦争」から来年で150年を迎える。激戦地となった福島県では会津若松市や白河市が記念事業に向け動きを本格化させている。
一方、新政府軍として本県に入った薩摩、長州など諸藩のあった西日本では「維新150年」として各県が手を握り、一足先に事業を進めている。
本県の魅力発信に向け「平成の奥羽越列藩同盟」のような広域観光が実現できるかが鍵を握りそうだ。
県は6日までに、会津藩のおひざ元・会津若松、白河藩のあった白河、二本松少年隊の悲劇で知られる二本松の3市との情報交換会を初めて開き、3市連携の周遊ツアーの実施を確認した。
県は「150年を契機に『サムライ』をテーマにした魅力発信を国内外にしていきたい」と昨年度まで展開した大型キャンペーン・ふくしまデスティネーションキャンペーンに代わる観光の軸として期待を寄せる。
広域連携の中心となるのは会津若松市。同市は昨年10月、市内の約140団体で戊辰150年に向けた実行委員会を設立。同委副会長の渋川恵男さん(70)は県内外の列藩同盟ゆかりの自治体、会津藩士が移住した青森県むつ市など全国ゆかりの地との広域連携を通し「全国への発信力を強めて、注目を集めるようにしたい」と意気込む。
白河市は歴史の発信を軸にした各種事業を計画。会津若松、二本松両市などとの連携に加え、新政府軍の長州藩ゆかりの山口県萩市に「白河踊り」が伝承されている経緯から、2018年に同市と盆踊り交流を進める。記念事業実行委員会会長の人見光太郎さん(74)は「市民と歴史を共有したい」と語る。
戊辰戦争で落城まで奮闘した二本松藩の霞ケ城がある二本松市は18年に企画展や記念事業を計画中。新政府軍に降伏した三春藩の本拠・三春町も同年秋、同藩が戊辰戦争で直面した状況などを紹介する企画展を開く予定。
県内には幕末に計10以上の藩があり、各地に戦場や史跡が点在するため、関連自治体と団体の取り組みや連携の動きが今後活発化しそうだ。
◆「平成の薩長土肥連合」西日本4県
新政府軍の中心の藩があった山口、鹿児島、高知、佐賀の4県は広域観光推進のため2015年に「平成の薩長土肥連合」を設立、既に共同キャンペーンを展開している。
12年から事業を繰り広げる鹿児島市と同じく14年からの萩市は16年1月、薩長同盟150年を契機に盟約を結び、観光PRに取り組んでいる。
薩摩藩の西郷隆盛の生涯を描く来年の大河ドラマ「西郷どん」の放映や、国の「明治150年」に向けた施策が追い風となり、勢いは増している。
栃木
真岡にも刀剣女子 「さむらい刀剣博物館」来館者が5倍超、8割女性
【真岡】足利市立美術館が今春実施した国重要文化財の刀「山姥(やまんば)切国広(ぎりくにひろ)」に人気ゲーム「刀剣乱舞」の女性ファンらが殺到した“刀剣女子ブーム”の中、大根田の「さむらい刀剣博物館」にも若い女性の来館者が急増している。ゲーム配信が始まった2015、16年の年間来館者は、それまでの5倍以上となる2千人超になったという。柳田律夫(やなぎだりつお)館長は(69)は「8割は女性」とかつてないブームに驚いている。
同館は1994年、柳田館長が「刀剣の魅力を一般の人にも知ってもらいたい」と自費で設立。主に収集した刀剣約4千点を収蔵している。
開館から数年の年間来館者は1千人前後で推移していたが、2012~14年は約400人ほどに低迷。そこにブームが起き、新選組の沖田総司(おきたそうじ)も所有したとされる「清光(きよみつ)」、「大和守安定(やまとのかみやすさだ)」などが見られるスポットとして全国からファンが訪れるようになったという。
このため同館は15年から、普段はガラス越しにしか見られない刀剣数本をケースから出し、スタッフの解説を受けながら実際に触れることができる特別展示の実施に踏み切った。
午前9時~午後5時。月曜休館。
高知
「志国高知 幕末維新博」が無料アプリ「城巡り」と連動
「志国高知 幕末維新博」をさまざまな視点から楽しんでもらおうと、志国高知幕末維新博推進協議会は無料ゲームアプリ「発見! ニッポン城巡り」と連動した企画を始めた。スタンプラリー形式のゲームを通じて、愛好者ら新たな客層を呼び込む狙いだ。...以降は有料版の記事にて。
佐賀
幕末の絵地図、謎多い山城跡も…武雄鍋島家資料
佐賀県武雄市が所有する武雄鍋島家資料の中から、唐津藩一帯の様子が描かれた幕末の大型絵地図が見つかった。
江戸時代以前の姿の記録が残っていない県史跡の山城跡・岸岳きしだけ城跡の姿も記されている。調査した佐賀大の宮武正登教授(日本中世史、城郭史)は「県内の今後の文化財調査で役立つ貴重な史料になる」と指摘している。
市が9日、市歴史資料館で報道陣に公開した。宮武教授によると、「唐津之図」と名付けられた絵図は縦3・15メートル、横3・91メートル。唐津藩領内の主要道や河川、岸岳城跡を始めとする山城跡などが記載されている。図中に描かれている墓所の記述などから、幕末の1860年代に作製されたとみられている。
作者は不明。幕末には、時代の変化に対応するために多くの藩が他藩の情報を集めたといい、佐賀鍋島家が実地調査して作った可能性があるという。ただ、宮武教授は「作製の理由は特定できない。これからの研究課題」と話している。
標高300メートル超の岸岳城跡は唐津市南部にそびえる。戦国時代に肥前北部の代表的な領主となった波多氏が居城としていた。西九州最大級の山城とされ、城郭の全長は約1・3キロ。記録が乏しく謎が多かったが、絵図では「本丸」や「水ノ手矢倉」、地下通路にあたる「穴蔵」などの配列が詳細に記されている。
武雄鍋島家資料は、江戸時代に佐賀藩主・鍋島家の重臣として武雄地方を治めた武雄鍋島家に伝わる約1万6000点の古文書、絵画などで構成。武雄市に寄贈されており、一部は国重要文化財に指定されている。
唐津之図は資料の目録リストに入っていたが、詳しい内容はわかっていなかった。同市歴史資料館から「大きな絵図がある」と報告を受けた宮武教授が約4年前から調査を進めていた。
一般公開については「展示設備を整え、実現する方向で検討したい」としている。(渡辺直樹)
幕末の蒸気車走った 佐野常民記念館、佐賀藩「精煉方」の技術再現 [佐賀県]
佐賀藩の科学技術研究所「精煉方(せいれんかた)」が製作した「蒸気車ひな型(模型)」のレプリカの走行実演が5日まで、佐野常民記念館(佐賀市川副町早津江)で開かれている。訪れた人は、日本の近代化を支えた佐賀藩の歴史に思いをはせていた。
記念館によると精煉方の主任だった佐野常民(1822~1902)は、発明家として知られる田中久重(1799~1881)らと1855年頃、模型ながら日本で初めて蒸気車を完成させ、藩主鍋島直正に走行する姿を披露した。レプリカは長さ約42センチで、久留米高専(福岡県久留米市)の教職員が製作。蒸気で車輪を動かす当時の仕組みをほぼ再現した。
4日の実演では、一周約17メートルのレール上を蒸気車が勢いよく走行。訪れた人は「すごい」と歓声を上げていた。福岡県糸島市の中学2年生(13)は「160年も前にこんな技術力があったなんてすごい」と驚いていた。5日は午前11時と午後2時から走行実演がある。
=2017/05/05付 西日本新聞朝刊=
コラム
街にあふれる行商は、ネット通販より便利? 幕末から明治の買い物事情
森田健司 大阪学院大学経済学部教授(専攻:社会思想史・日本哲学)
カタログやネット通販の普及も活況ですが、なくなりそうでなくならないのが移動販売です。個人店が営んでいたり、フランチャイズ展開がなされていたり、取扱い商品や形態はさまざまです。そんな移動販売の元祖といえば行商です。
時代劇でよくみる棒の先についた桶に商品を入れて売り歩く江戸の行商から、明治中期頃は写真のようなより多くの商品を荷車に載せる行商スタイルへは、どのように発展していったのでしょうか? 当時の貴重な資料である彩色古写真から見える、行商人の商売の様子や庶民の暮らしについて、大阪学院大学経済学部教授 森田健司さんが解説します。
【連載】古写真で知る幕末・明治の日本
町に溢れていた行商人
今の日本は、とにかく便利である。買い物をするにしても、そのほとんどをネットショッピングで済ませることさえできる。スマホやパソコンで画像を見て、欲しいものをクリックすれば、宅配業者が自宅の玄関まで商品を運んでくれるわけである。ものぐさにとって、極上のサービスだ。
それに対して、江戸時代はどうだったのだろう。きっと、買い物は大変だったに違いない。このように考えてしまいがちだが、実はそうでもないのである。それどころか、もしかしたら今よりもっと「便利」と言ってもよいかも知れない。
その秘密は、江戸時代に町に溢れていた行商人にある。彼らは魚や野菜などの生鮮食品から、重量のある什器に至るまで、様々な商品を取り扱う専門業者たちだった。だから、毎食の買い物はもちろん、日用品でも家財道具でも、自宅の目の前で購入することができたのである。商品を天秤棒で担ぎ、声を出して売り歩く彼らは、「棒手振り(ぼてふり)」と呼ばれた。棒手振りは許可制で、幕府公認の仕事でもあった。
この棒手振りたちは、明治に入っても元気に活動していた。ただし、少しずつ見た目が変わっていく。肩に天秤棒を担ぐものから、大きな二輪の荷車「大八車(だいはちぐるま)」に商品を載せるスタイルに移行したのである。大八車自体は江戸時代前期から存在したが、個人の行商人が普通に利用し始めたのは、明治の中期頃からと言われる。この背景には、人力車の普及によって道幅が広げられ、整備されたことがある。
はじめに掲載した写真は、大八車を利用する行商人の姿を撮影したものである。驚くべきは、その商品の数である。まさに、店ごと移動している感がある。
日本文化に寄り添った素材=竹
ところで、大八車を引っ張る行商人が扱っている商品は何だろうか。よくよく眺めてみると、笊(ざる)に籠、箒など、木で作られた大小様々な品が確認できる。
明治時代中期の「竹細工行商人」写真・商品部分のアップ(筆者所蔵)
彼が運んでいる商品が木製であることは間違いないが、それらには、もう一つ指摘できそうな共通点がある。それは、木の中でも、「竹」を主たる材料としたものがほとんどであることだ。笊や籠をはじめ、これら商品のほとんどは、竹細工である。
現代の日本では、竹細工の需要はそれほど多くない。しかし江戸から明治時代にかけて、家財道具の相当な割合は、竹で作られたものだった。これほど竹が多用されていた理由の一つは、大変軽量なことである。写真の行商人が、これほど多くの商品を持ち運びできているのも、竹製で軽いためだった。また、竹はただ軽いだけではなく、加工しやすい上に、強度が高い素材でもある。
おそらく、外国人旅行客の目には珍しく映ったのだろう。行商人だけではなく、竹細工を作る職人の手彩色写真も、数多く残されている。それも載せておこう。
明治時代中期の「竹細工職人」写真(筆者所蔵)
背中を向けている竹細工職人は、地面に座り込んで作業を行っている。彼の手には、驚くことに何も道具が持たれていない。そう、竹細工は基本的に、文字通りの「手作り」だった。この工房の外に置かれているのは、職人が手で編み上げた竹細工の籠だが、どれも溜息が出るほどに美麗な仕上がりである。
湿気の多い日本という地に適応した竹細工が、各家庭の中で主役の座を追われ始めたのは、それほど昔の話ではない。第2次大戦後、それも昭和30年代以降のことだった。新しい素材であるプラスチックの実用化によって、竹細工は少しずつ姿を消していったのである。
売価は交渉次第
話を行商人に戻そう。家のすぐ前まで商品を運んでくれる行商人たちは、確かに便利ではあった。しかし、今の売り買いと大きく違うこともある。それは、商品の「定価」が存在しなかったことである。実際の売価は、売り手と買い手の交渉にかかっていた。
イギリスの旅行作家であるイザベラ・バードは、1878(明治11)年に初めて日本の地を踏んだ。彼女は、当時の鉢石宿(現在の栃木県日光市鉢石)における買い物の経験を、次のように記録している。
「50銭という言い値があまりに法外だと思って店を出ると、後から女将がちょこちょこと追いかけてきて、20銭でいいですと言ったことがいくつかの店であった」
― 金坂清則訳、イザベラ・バード著『日本奥地紀行(1)』(平凡社)、187ページ
江戸時代以来、日本の小売店では、商品の価格は基本的に掛値(かけね)で提示され、その後、客との交渉の中で売値が決まっていくシステムが採用されていた。つまり、同じ商品であっても、買う人間によって値段が違ったのである。これは、普通の店舗であっても、行商であっても同じである。
今の日本では(一部地方の小売店を除いて)考えられない話だが、こういった商法は、海外ではまだまだ残っているところがある。特に、観光客が多い地域においては、少しでも多くの利益を得るため、値段を吹っかけてくることは少なくないようだ。
いくら家の前まで運んでくれるとはいえ、売値が交渉によって決まるのが普通であった時代は、あまり羨ましいと思われないかもしれない。何事においても、今よりずっとコミュニケーション能力が必要とされたのが、江戸、および明治という時代だった。それを「人間らしい」と取るか、「煩わしい」と取るかは、その人の感性次第である。
(大阪学院大学経済学部教授 森田健司)
久しぶりの幕末ニュースです。
歴史
百五十回忌の近藤勇 首は「会津埋葬」最有力? 愛刀のメモ調査、歴史館も支持
徳川埋蔵金:発掘SPで幕末の新資料発見 “黒幕”英国の関与示す 小栗忠順の“新証拠”も
東京
本日5月11日は土方歳三の命日 / 土方歳三資料館では愛刀「和泉守兼定」が期間限定公開中
日野で「新選組まつり」 土方歳三の命日に合わせ隊士集結
ひの新選組まつり土方役に岡安さん 隊士に扮し甲州街道行進 日野できょう /東京
日野で新選組まつり 「隊士パレード」配役決定
「屯所」で豚肉と芋…新選組まつりに創作料理
品川ゆかり 幕末、明治の偉人 区がリーフレットで紹介
散った若者へ思いはせ 幕末の彰義隊 15日に150回忌法要
福島
「奥羽越列藩同盟」ゆかり自治体連携へ 若松・戊辰150周年実行委
<新撰組>「局長」50回目の慰霊
北海道
【ボクらの維新通信社 連載】なりきりコンテストに迫力のパレード!
三重
幕末の藤堂藩の活躍知って 市郷土資料館で企画展
高知
知っちゅう?高知城歴博「幕末・維新の言葉」展 人情味と愛らしい一面 /高知
神奈川
三宝寺幕末期の住職・弁玉を学ぶ 文化命日ちなみ講演会
歴史
百五十回忌の近藤勇 首は「会津埋葬」最有力? 愛刀のメモ調査、歴史館も支持
江戸末期に結成された新選組の局長、近藤勇。戊辰戦争で新政府軍に敗れて処刑された後、その首が葬られた場所は京都説が最有力だが、百五十回忌を迎える今年、一般の研究家の調査で福島・会津説が“急浮上”している。幕末史料を多数所蔵する京都の霊山(りょうぜん)歴史館もこの説を支持し、根拠となる近藤の刀を入手、展示している。
「下僕首を盗み生前の愛刀になりし此(こ)の刀を持ちて会津に走り密かに葬る」
近藤の愛刀とされる「阿州吉川六郎源祐芳(あしゅうきっかわろくろうみなもとのすけよし)」の鞘(さや)に貼り付けられたメモ書きの文面の一部だ。内容は刀の来歴で、京都の三条河原にさらされた近藤の首を「下僕」が盗み出し、この刀とともに会津に持ち去って首を埋葬したというもの。寺社などから聞いた話といい、書いた主として「陸軍少将 若松市(現会津若松市)長 松江豊寿(とよひさ)」と署名されている。
新選組の刀剣を約50年研究している東京都品川区の焼き肉店経営、権東品(ごんとうしな)さん(65)は平成27年7月、前の刀の持ち主から依頼され、来歴の事実確認を始めた。松江は地元・会津出身の第9代若松市長。松江自筆の履歴書を入手し、メモの筆跡と比べたところ、特徴が酷似していたという。
次に「下僕」とは誰か。会津藩の下で雑務に当たっていた上坂仙吉(こうさかせんきち)という侠客(きょうかく)がおり、同藩預かりの新選組とも関わりがあったといい、権さんは、雑務の礼に近藤から愛刀を贈られた上坂が生前の恩義から近藤の首を持ち去り、刀とともに会津へ運んだと考えた。
上坂は通称「会津小鉄(あいづのこてつ)」として知られ、京都市の西雲(さいうん)院に墓がある。権さんが同院に手掛かりの有無の確認を依頼したところ、子分が書いた伝記「会津小鉄伝」が見つかり、「近藤勇の首級奪取、会津へ運ばす」との記述を発見した。橋本周現(しゅうげん)住職(61)は「本当なのかどうか。歴史のロマンですね」と語る。
ほかにも元会津藩士らが会津・天寧(てんねい)寺に近藤の首塚が残っていることに言及したとの記録などもあり、公益財団法人が運営する霊山歴史館も調査を実施。木村幸比古(さちひこ)副館長(68)は「京都説は言い伝えられている場所周辺に墓らしきものがない」と指摘した上で、会津説について「一番有力になったのは明確」と話す。
近藤の愛刀とされる「阿州吉川六郎源祐芳」。鞘には来歴が書かれたメモが貼り付けられていた(霊山歴史館提供)
幕末維新史に詳しい花園大学の松田隆行教授は「歴史学の観点では、近藤の首がどこにあるかは関心が薄く、民間の研究とは史料の評価も異なるので断定的なことは言えない」と冷静な見方だ。ただ、権さんは「日本人特有の『忠義』を表す一つのエピソード。研究家や歴史ファンらは確証高い説を望んでおり、その一角を提示できたのではないか」と話している。
■近藤勇 文久3(1863)年に京都で結成された浪士隊に土方歳三、沖田総司らと参加。同隊の一部が京都の治安維持を担う新選組となり、後に近藤が局長に。幕臣として参加した慶応4(1868)年の戊辰戦争で新政府軍に敗北し、東京・板橋で斬首された。首の埋葬地は最有力の京都説、会津説のほか、愛知説、山形説などもある。
徳川埋蔵金:発掘SPで幕末の新資料発見 “黒幕”英国の関与示す 小栗忠順の“新証拠”も
27年間にわたって「徳川埋蔵金」の謎を追い続けている歴史バラエティーの最新版「林修の歴史ミステリー 徳川家260年最大の謎 3000億円埋蔵金大発掘 最終決戦スペシャル」(TBS系)が6日午後6時55分(一部地域午後7時)から、3時間スペシャルで放送される。今回は、舞台となる“幕末の謎”に焦点を当て、英国と薩摩藩、徳川の関係を示す新資料を英ケンブリッジ大学で発見、埋蔵金の“証拠”につながる古文書の記述も新たに紹介される。成田雅仁プロデューサーに見どころを聞いた。
「徳川埋蔵金」は1990年、TBSのバラエティー番組で、コピーライターの糸井重里さんを中心に、群馬県の赤城山中で発掘に挑戦。以来、断続的にスペシャル番組が放送されてきた。昨年12月に予備校講師の林修さんをMCとして8年ぶりに新シリーズが放送され、最新機器を駆使した発掘調査では、巨大な長方形の“影”を確認したながら、発掘には至らなかった。
新シリーズから番組を担当する成田プロデューサーは「協力プロデューサーの那須田淳さんはじめ、発掘の現場スタッフは番組スタートからのベテランぞろいで、みなすごい知識を持っている。少しでも追いつこうと50冊以上の専門書を読みあさりました」と語る。新シリーズのポイントについて「MCの林先生は、みんなの知らないことを分かりやすく解説させたら日本一だと思う。歴史学者の磯田道史さんも明治維新の“敗者”である徳川の歴史の解明に全面協力してくれています」という。
徳川幕府の大政奉還から150年を機に、今回は“幕末の謎”を追うため、埋蔵金の首謀者とされる幕臣・小栗忠順(おぐり・ただまさ)と対抗した倒幕側の動きを、舞台となった京都を中心に探る。さらに幕府と薩摩、長州藩の黒幕とされる英仏の関係を調査。その過程で、英ケンブリッジ大に残る、英国が薩摩藩と幕府の双方に資金を支援していたことを示すという文書を発見。また、番組収録後に磯田さんが古書店で見つけた古文書の中に、当時勘定奉行だった小栗が横浜での生糸貿易の関税を樽に詰めて送っていたという記述を発見。埋蔵金の資金ではないか、という新事実も紹介される。
発掘では、番組の大ファンというタレントの佐々木健介、北斗晶夫妻が、現場での作業にも参加。留学を控える長男・健之介さんも出発日をずらして加わるという熱の入れようだった。前回、存在を確認しながら現場の安全のために掘り進めなかった“巨大な影”に迫っていく。
成田プロデューサーは「埋蔵金を追う過程で、歴史に埋もれた事実が次々と発掘されてくる。今回は、埋蔵金の実行者とされる林鶴梁(はやし・かくりょう)も登場します。林先生の解説で誰にでも見やすい構成にしているので、歴史のロマンにワクワクしてほしい」と話している。
東京
本日5月11日は土方歳三の命日 / 土方歳三資料館では愛刀「和泉守兼定」が期間限定公開中
江戸時代の末期、約260年の歴史と新しい時代の潮流が混ざり合う激動の日本において、時代の波に翻弄された男たち・新選組。田舎のゴロツキから当時の首都「京都」の守護職にまで成り上がった彼らのストーリーと、悲しい最期にロマンを馳せる人は少なくないだろう。
本日2017年5月11日は、そんな新選組の鬼の副長・土方歳三の148年目の命日だ。よしや身は蝦夷が島辺に朽ちぬとも魂は東(あずま)の君やまもらむ──。
・新選組に見る破滅的な美
土方歳三と言えば、新選組において1、2を争う有名人。局長の近藤勇の死後も、その意志を貫き瓦解する新選組と心中した姿には、破滅的な美しさがあると言っても過言ではないだろう。
思えば、肺炎で病死したと言われる沖田総司、正義の味方のつもりが悪者の親玉となってしまった近藤勇にも、それぞれに破滅に向かう悲しさや美しさがあって、そこが日本人の琴線に触れるのかもしれない。
・愛刀「和泉守兼定」が期間限定公開中
それはともかく、東京都日野市にある「土方歳三資料館」では、毎年、命日に合わせ愛刀「和泉守兼定」の刀身が期間限定で公開されている。2017年は4月2日から5月21日までの公開となっており、開館日は残り13日、14日、21日の3日間。新選組のファンは、訪れてみるのも良いのではないだろうか。
参照元:土方歳三記念館、wikimedia
執筆:中澤星児
▼今朝、歳三さん時代からのザクロの木の花が咲きました
土方歳三資料館 @toshizoofficial
本日は歳三さんの148年目命日です✨土方家過去帳には「歳進院殿誠山義豊大居士 行年三拾五才 明治二巳年五月十一日 箱館一本木関門に戦死す 俗名土方歳三 土方義諄の末子幼年より剣術を学び近藤勇と共に京師へ至り終に箱館に戦死す」✨今朝、歳三さん時代からのザクロの木の花が咲きました
▼これは妖刀・村正
▼『徳川に祟る』という伝説を持つ村正は幕末志士の間でげんかつぎで使われていたという
カテゴリー 知識, 国内 (命日 • 和泉守兼定 • 土方歳三 • 土方歳三記念館 • 幕末 • 新選組 • 期間限定)
日野で「新選組まつり」 土方歳三の命日に合わせ隊士集結
日野市内の各所を会場に5月13日・14日、新選組をテーマとした恒例イベント「ひの新選組まつり」が行われる。
今年で20回目を迎える同祭り。毎年、新選組の副長で、武蔵国多摩郡石田村(現在の日野市石田)で生まれた土方歳三の命日である5月11日に合わせて開催。土方の菩提(ぼだい)寺でもある高幡不動尊(日野市高幡)などを会場に、さまざまなイベントを繰り広げる。
今回は日野市立第1小学校(日野本町2)に新たなイベントスペース「日野宿だんだら村(新選組日野宿屯所)」を展開。スポンジ製の刀で相手の腕に付いた玉を落とす「新選組チャンバラ合戦」の会場となるほか、市内の飲食店などが出店する「新選組ひのうまいもんストリート」、アロマやブレスレット作りなどを体験できる「だんだら市」なども開催。ステージも設け、さまざまな催しも行う。
メインイベントともいえる土方歳三や近藤勇、沖田総司など新選組各組の組長などをコンテストで選び、各組の隊士と共に練り歩くパレードのほか、新選組に関わる市町村の連携を目的とした「全国新選組サミット」、土方や近藤の位牌を拝観できる「高幡不動尊新選組隊士慰霊祭」、今回で5回目となる「土方歳三の恋人・高幡不動きものクイーンコンテスト」なども行う。
開催に伴い、14日は甲州街道・川崎街道入り口~日野駅前東交差点の区間が車両全面通行止めになる。通行止めは10時~16時。
ひの新選組まつり土方役に岡安さん 隊士に扮し甲州街道行進 日野できょう /東京
新選組の副長を務めた土方歳三の出身地、日野市で14日行われる「第20回ひの新選組まつり」のパレードの幹部役を選ぶ「隊士コンテスト」が13日、同市の高幡不動尊であり、埼玉県久喜市の会社員、岡安綾希子(あきこ)さん(35)が土方役に選ばれた。以降は有料版の記事でご参照ください。
この祭りは土方の命日の5月11日に合わせて、毎年この時期に開かれ、市内外から4万5000人以上が集まる日野市最大の祭り。メインイベント…
日野で新選組まつり 「隊士パレード」配役決定
「新選組」ゆかりの地の日野市で十三日、恒例の「ひの新選組まつり」が始まった。十四日にJR日野駅周辺などを練り歩くメイン行事「隊士パレード」の配役を決めるコンテストが高幡不動尊金剛寺であり、隊士ファンらが思い思いのパフォーマンスで会場を沸かせた。 (水谷孝司)
約五十人のコンテストの参加者が、衣装やせりふ回しなどまで隊士になりきり、居合の型や演舞、自作の歌などを披露した。雨で屋外のイベントが中止されたり、場所が変更されたりしたが、コンテスト会場の五重塔内のホールは熱気に包まれた。
審査の結果、日野市出身の「副長・土方歳三」役に埼玉県久喜市の岡安綾希子(あきこ)さん(35)、「局長・近藤勇」役に杉並区の安田友亮(ゆうすけ)さん(35)などが選ばれた。安田さんは昨年のパレードでも「土方」役で参加した。
これに先立つ「高幡不動きものコンテスト」では、パレードに土方の恋人「お琴」役で参加するきものクイーンに八王子市の工藤麗加さん(25)が決まった。
ひの新選組まつりは、五月十一日の土方の命日に合わせて毎年この時期に開かれ、今年は二十回の節目となった。十四日は午前十時~午後四時、パレードなどの会場となる川崎街道入り口から日野駅までの甲州街道は車両通行止めになる。
「屯所」で豚肉と芋…新選組まつりに創作料理
幕末に活躍した新選組の隊士にふんした人々でにぎわう「ひの新選組まつり」が13、14日、東京都日野市内で開かれる。
節目の20回目を迎えた今回は、新選組にちなんだ創作料理が登場するなど、全国から集まる新選組ファンのおもてなしに工夫を凝らした。
ひの新選組まつりは、同市に生まれ、新選組副長だった土方歳三の命日(5月11日)の近くに毎年開催されている。JR日野駅周辺や、土方の菩提ぼだい寺・高幡不動尊などが会場となり、メインイベントの「隊士パレード」をはじめ、様々な行事が楽しめる。
今年は、日野駅周辺の飲食店12店舗が、新選組にちなんだ「屯所とんしょ料理」を提供する。屯は豚、所は薯しょ(芋)を意味し、隊士が休憩する「屯所」とかけて、豚肉と芋類を使った創作料理が各500円(税込み)で味わえる。
料理を注文すると、新選組がモチーフとなった人気ゲーム「薄桜鬼はくおうき」のキャラクターが描かれた特製コースターがもらえるといい、ファンには注目のアイテムだ。日野市の担当者は「新選組ゆかりの地として、多くの人々をおもてなしするとともに、街おこしにつなげたい」と語る。
まつり期間中、飲食店が屯所料理を提供するのは13日のみ。14日は、市立日野第一小学校に開設する交流スペース「日野宿だんだら村」で、豚肉と芋を使った特製の弁当が味わえるという。屯所料理や弁当は、なくなり次第終了。
14日は午前10時~午後4時、日野駅周辺で交通規制が実施され、午後1時半からは隊士パレードが行われる。会場周辺は幕末を再現したかのような独特の雰囲気と、多くの新選組ファンの熱気に包まれそうだ。
品川ゆかり 幕末、明治の偉人 区がリーフレットで紹介
坂本龍馬ら幕末、明治維新期に活躍した人物の足跡を紹介するリーフレット「品川ゆかりの幕末・明治の偉人たち」を品川区が作製し、観光客らの人気になっている。
A4判カラー3枚つづり。12人の人物像のほか、山内豊信(容堂)、伊藤博文、板垣退助らの墓などを記した地図を掲載。東大井に土佐藩の下屋敷があった関係でペリー来航時に江戸警護に当たった龍馬の像や、高杉晋作らによる英国公使館焼き打ち事件の舞台、御殿山の場所も分かる。
区立品川歴史館の資料を基に、郷土史家の坂本道夫さんと区観光ガイドの渡辺瑞枝さんが執筆した。編集した、しながわ観光協会の大嶋秩佐さんは「品川には幕末、維新期の歴史舞台が詰まっている」と話す。
区役所や区内の図書館、観光案内所などで無料配布している。問い合わせは同協会=電03(5743)7642=へ。 (梅村武史)
散った若者へ思いはせ 幕末の彰義隊 15日に150回忌法要
幕末、無血開城後の江戸で徹底抗戦を叫び、新政府軍の猛攻撃に半日で敗れた彰義隊(しょうぎたい)。上野公園(東京都台東区)にある墓を、生き残った隊士の子孫が守り続け、十五日に百五十回忌の法要を迎える。墓の由来を知る人も少なくなる中で、大きな歴史の転換期にはかなく散った若者たちに思いをはせてくれるよう、子孫の一人は願っている。 (神谷円香)
上野公園のシンボル、西郷隆盛像の裏手にある、樹木に囲まれた墓石。彰義隊の文字や隊士の名前はない。生き残った隊士小川興郷(おきさと)が建てた。「戦死之墓」の文字は、興郷と交流のあった剣術家山岡鉄舟の筆による。
「子どもの頃は夜が怖くてね」。興郷の孫、東京学芸大名誉教授の小川潔さん(70)は、墓の隣にある家で生まれ育った。小川家は代々、墓守として十四年前までここに住んでいた。
興郷は最後の将軍徳川慶喜が出た一橋家の家臣で、彰義隊結成の中心人物の一人だった。無残な死に方をした仲間への責任から、隊士の遺体が埋葬された上野に墓を建てようと奔走し、一八七四(明治七)年、新政府から許可を得た。
だが「賊軍」への冷たい視線が苦境を招く。寄付が集まることを見越し七五年に銅製の墓を建てたものの支援は得られず、墓を借金のかたに取られてしまう。墓が荒れ放題になるのを案じた日蓮宗の支援で九年後、現在の墓を再建。興郷は墓の隣に家を構えた。以来、小川家が墓守をしてきた。戦後にできた都市公園法を機に、曖昧な土地の所有権をはっきりさせることが必要になり、都から立ち退きを求められたこともある。住むことは認められたが、土地は都の所有となった。
潔さんは三十五歳で家を出た。公園の自然を愛し、大学でタンポポを研究しながら、近代史も独自に学んだ。二〇〇三年、墓守を継いだ長兄の彰さんが体調不良で転居し、家はなくなった。自宅内の資料室に展示していた隊士の遺品や資料は、地元台東区に寄贈。一部は潔さんが保管する。
彰義隊は小説やドラマでさまざまに描かれる。幕府への忠義を貫いた英雄、あるいは動乱に乗じて一旗揚げようとした「烏合(うごう)の衆」とも見なされる。
潔さんはどちらにもくみしない。「事実だけを知ってほしい。一方的な評価ではなく、一人一人の隊士や関わった人のことを伝えたい。行動を美化も、否定もしたくない」。ただ、新政府軍の指導者だった西郷の像が、墓に背を向けているのには複雑な感情を抱く。
隊士の子孫という人からは今も問い合わせを受ける。「記録は残しておく必要がある」と、墓と小川家の歴史を書き残す作業を進めている。
<彰義隊> 徳川慶喜の生家、一橋家の家臣らで1868(慶応4)年2月に結成。慶喜の護衛や江戸の警備を掲げ、隊士は2000人を超えたともいわれる。同年5月15日の上野戦争では1000人前後が戦った。最新鋭の大砲を備えた新政府軍の圧倒的な軍勢を相手に、半日で敗戦。戦場の寛永寺はほぼ焼失し、隊士の遺体は野ざらしにされた。後に266体が埋葬され、その場所に墓が建てられた。
福島
「奥羽越列藩同盟」ゆかり自治体連携へ 若松・戊辰150周年実行委
来年の戊辰150周年に向け、会津若松市戊辰150周年記念事業実行委員会は、戊辰戦争時に新政府軍に対抗するため東北と越後の諸藩で結成された「奥羽越列藩同盟」にゆかりのある自治体関係者を参集した広域連携事業を展開する。実行委が同市で開いた総会で決めた。
広域連携事業では、今年11月上旬に講演会を中心としたシンポジウムを開く。さらに今夏に開設する予定の特設ホームページで全国のゆかりの地を紹介する。
このほか戊辰150周年PRの顔となる「ミスター新選組コンテスト」を開き、新選組の近藤勇や土方歳三、斎藤一などを決める。
来年度は記念式典を行うほか、同市内を周遊するクイズラリー「戊辰ミステリー宝探し」も実施する。
また、戊辰150周年記念宣言を策定して多言語で世界に発信していく。室井照平市長は「会津の精神文化を正しく伝え、先人の活躍を顕彰し、次代に引き継いでいく」と語った。
<新撰組>「局長」50回目の慰霊
幕末に活躍した新選組で局長を務めた近藤勇を慰霊する墓前祭が、近藤の墓がある会津若松市の天寧寺で開かれ、新選組ファンら約20人が参列した。
墓前祭は近藤の命日に当たる4月25日に執り行われた。会津若松ライオンズクラブが毎年の命日に開き、今回で50回目。同クラブの宮沢吉英第1副会長は「クラブが存続する限り墓前祭を続けていきたい」とあいさつ。読経の後、一人一人が焼香した。
近藤の兄の子孫である宮川清蔵さん(78)、清志さん(41)=茨城県牛久市=親子も参列。清志さんは「50年も墓前祭を開いていただき、縁者としてありがたく思う。会津の人との絆を感じる」と話した。
新選組は京都守護職を務めた会津藩主松平容保の配下で、京都の警備に当たった。組のリーダーだった近藤は戊辰戦争の時、江戸で処刑されたが、天寧寺には会津に逃れた副長の土方歳三が建てたと伝わる近藤の墓がある。葬られているのは、遺髪という説や首という説がある。
北海道
【ボクらの維新通信社 連載】なりきりコンテストに迫力のパレード!
■ 戊辰戦争最後の地・五稜郭で開催される 見どころ盛りだくさんのお祭り!
【写真を見る】開城セレモニー。礼砲を担当する額兵隊に扮するのは、函館駐屯地の陸上自衛隊。さすがのリアリティと迫力!
連載第3回は、土方歳三や榎本武揚、中島三郎助父子、大鳥圭介など戊辰戦争を旧幕府方として戦ったスターが勢ぞろいの五稜郭で、毎年行なわれている有数のお祭りをご紹介!
徳川海軍の気鋭・榎本武揚、伝習隊を育てた男・大鳥圭介、新選組の鬼の副長・土方歳三、額兵隊隊長・星恂太郎など、旧幕諸将と東北諸藩の雄が戊辰戦争を最後まで戦い抜いた地・箱館。現在の函館市では、毎年『箱館五稜郭祭』が開催されています。戊辰戦争で命を落とした旧幕府方の人々を慰霊し、その志と歴史を後世に伝えるため、昭和45年(1970)から始まったこのお祭り。今年は5/20(土)、21(日)に開催予定です。初日の碑前祭では、例年、中島三郎助父子最後之地碑、碧血碑、土方歳三最期之地碑、箱館戦争供養塔を回り、諸将と兵士を弔います。榎本武揚に扮した実行委員の献花や、自衛隊による礼砲、そしてこのお祭りの名物、土方歳三コンテストが開催されるのも初日です。女性も参加どころか優勝することもあるこのコンテストでは、土方になりきった参加者がパフォーマンスを披露してしのぎを削ります。 2日目は、そのコンテスト優勝者も加わる維新パレードに大注目! 旧幕軍や新選組、新政府軍に扮した参加者や、黒船を模した山車が堂々行進する様は一見の価値アリ。アクションパートでは、迫真の殺陣に砲声まで上がる派手なパフォーマンスも。パレードは明治2年(1869)5月の五稜郭明け渡しを再現した、五稜郭公園の開城セレモニーで大団円。規模もにぎやかさも全国有数のこのお祭りは、旧幕府や土方ファンはもちろん、幕末好き全員にオススメです。【東京ウォーカー編集部】
三重
幕末の藤堂藩の活躍知って 市郷土資料館で企画展
名張藤堂家邸(同市丸之内)に残る古文書などから幕末の藤堂藩の活躍を紹介する企画展「大政奉還150年 名張藤堂家資料から見る幕末の藤堂藩」が名張市安部田の郷土資料館で開かれている。【天誅組の変を描いた絵図を見ながら藤堂藩の活躍を紹介する山口さん=名張市安部田で】
大政奉還から150年の節目にあわせ、幕末の動乱期の歴史的な出来事に藤堂藩や伊賀地域の人々が関わっているのを知ってもらおうと企画した。
会場には土佐藩が幕府に大政奉還するよう求めた建白書の写しなどの古文書8点と、家臣宅に残されていた洋式銃「エンフィールド銃」、生き人形師安本亀八が天誅組の変を描いた「和州騒動絵図」の拡大写真も並べた。
解説パネルでは、天誅組(1863年)の変から戊辰戦争終結(1869年)までの藤堂藩の活躍や、鉄砲隊などで活躍した半農半士の「無足人」と呼ばれる人々について紹介した。新政府軍と旧幕府軍が争った鳥羽伏見の戦い(1868年)では、当初幕府軍側だった藤堂藩が官軍となった新政府軍に翻り鉄砲隊が攻撃したことで旧幕府軍総崩れの要因を作ったことなども解説している。
資料館職員の山口浩司さんは「展示をきっかけに現地に足を運ぶなど興味を持ってもえたら」と話している。
企画展は5月28日までの午前9時30分から午後4時30分。月・木休館。
問い合わせは同館(0595・64・7890)へ。
高知
知っちゅう?高知城歴博「幕末・維新の言葉」展 人情味と愛らしい一面 /高知
土佐藩十五代藩主の山内豊信(とよしげ)(容堂、1827~72年)は「幕末の四賢候(しけんこう)」に数えられる偉人だが、土佐勤王党を弾圧した歴史などから、坂本龍馬らと比べ「非情な権力者」のイメージが強い。そんな殿様を題材にした「幕末・維新の言葉 山内容堂の主張」展が県立高知城歴史博物館(高知市追手筋)で開かれている。史料からは意外な一面も垣間見え、渡部淳館長は「愉快な男」とさえ語る。その実像に迫った。【岩間理紀】以下は有料版記事にて。
神奈川
三宝寺幕末期の住職・弁玉を学ぶ 文化命日ちなみ講演会
幕末から明治初年にかけて浄土宗三宝寺(樋口芳宏住職)=台町7の1=の第21世住職だった大熊弁玉の命日にちなみ、同寺で4月29日、第2回「ゆらむろ忌」講演会が催された。
弁玉は雅号を「由良牟呂」といい、長歌集『由良牟呂集』(1879年刊)を残し翌年63歳で他界。その作品は新体詩の先駆けと位置づけられ、変貌する横浜の歴史文学として高く評価された。しかし、時代遅れとなっていた万葉古語を用いていたため、その後語り継がれることはなかった。
横浜大空襲で焼けた際、弁玉に関する多くの資料も焼失した。同寺は郷土史家らに協力をあおぎ、収集作業を進め、2014年には弁玉の史料を展示するコーナーを開設。これをきっかけに、シンポジウム開催の機運が高まった。
同講演会には、区内外から180人が参加。歴史研究家などを講師に招き、激しく変わる世の中の動きや世相、文明開化の事物などを庶民の視点で詠い続けた弁玉の業績を学んだ。2回目の開催にあたり樋口住職は「弁玉を知ってもらうため、ゆらむろ忌を継続していきたい」とあいさつした。
ついに教科書から「鎖国」の記述がなくりました。
小中で「鎖国」消える…聖徳太子は「厩戸王」に
福島
古書店で『山川健次郎の新資料』発見! 未確認の講演録収録
長岡藩・河井継之助に焦点 福島・只見、戊辰戦争150周年
宮城
<東北の本棚>仙台藩玉虫の夢と挫折
佐賀
庄屋「峯家」文書を公開 朝鮮通信使、桜田門外の変など
インタビュー
大久保利通の曽孫「大久保家と西郷家は婚姻関係が結ばれ、実は親戚です」
小中で「鎖国」消える…聖徳太子は「厩戸王」に
「鎖国」が消える――。記事の以降は有料版にて。
文部科学省が14日に公表した次期学習指導要領の改定案では、小中学校の社会科で「鎖国」の表記をやめ、「幕府の対外政策」に改める。文科省は中学歴史でも、「聖徳太子」が没後100年以上たって付いた呼称だとして、「厩戸王うまやどのおう」に変える。
文科省によると、江戸幕府は長崎でオランダや中国との交易を許し、薩摩(鹿児島県)、対馬(長崎県)、松前(北海道)でも外交と貿易が行われていた。完全に国を閉ざしていたわけではないため、当時の実態に即して表記する。
「鎖国」は1801年、ドイツ人医師の著書の一部が和訳され、「鎖国論」と名づけられたことから広まったといい、文科省の担当者は「幕府の政策に関し、鎖国という言葉は使われていなかった」としている。これに対し、「開国」という語は、欧米諸国との関係を表す際に使われていたため、現状のまま残す。
福島
古書店で『山川健次郎の新資料』発見! 未確認の講演録収録
東京帝国大総長を務めた会津藩出身の白虎隊士、山川健次郎(1854~1931年)の死後に近親者らがまとめた遺稿の新資料が14日までに、発見された。戦前に刊行されたものなど種類の違う3点の遺稿資料が確認されており、今回が4点目になる。未確認の「白虎隊」に関する講演録が収録されており、研究者は「白虎隊顕彰に積極的だった山川の活動の一端が垣間見える」と評価する。
小宮京青山学院大准教授(日本現代史)、中沢俊輔秋田大准教授(日本政治外交史)が昨年12月、古書店で見つけた。新資料は「山川博士遺稿」と題が付けられた上・下巻の2冊で、合わせて約500ページある。書店などに流通させない私家版で、山川の死後においらが編さんした。内容は山川の講演録や新聞への寄稿などで、多くがすでに確認されている遺稿資料3点と重複していた。
新発見資料に、これまでの遺稿資料では未確認の記事や講演録が5編収録されていた。内容は〈1〉白虎隊について〈2〉戊辰戦争の会津藩の火薬庫爆破の伝承〈3〉会津の刀工(三善長道)〈4〉門司駅員自殺問題(明治44年に起きた駅員自殺への所感)〈5〉畏敬する四偉人(明治期の陸軍大将・乃木希典ら)。白虎隊については1928(昭和3)年、兵庫県の赤穂中(現赤穂高)で行った講演録だった。遺稿に白虎隊に関する講演録が収録されるのは、この新資料が唯一という。
山川は晩年、戊辰戦争を会津藩側の立場から見た「会津戊辰戦史」(山川の死後の1933年出版)の編さんを進めた。確認される遺稿資料の中には、会津藩や戊辰戦争関連の記事が多数含まれており、中沢准教授は「編さん過程の作業原稿とみられるものもあり、山川が熱心に戊辰戦争の調査をしていたことを裏付けるもの」とみている。
長岡藩・河井継之助に焦点 福島・只見、戊辰戦争150周年
2018年の戊辰戦争150周年に向け、只見町などは新年度から、同町にゆかりのある幕末の長岡藩(新潟県長岡市)家老を務めた河井継之助らに焦点を当てた記念事業を展開する。
河井継之助は、戊辰戦争で長岡から会津藩に向かう途中、同町塩沢地区で命を落とした。同町の医王寺に墓があるなどゆかりが深い。
戊辰戦争150周年を契機に、町などは河井継之助を中心とした同町の歴史について町民に改めて理解を深めてもらい、観光振興にもつなげようと記念事業を行う。
町や会津只見史談会、町観光まちづくり協会、会津ただみ振興公社などの関係機関は3日、戊辰戦争150周年に向けた実行委員会を設立した。
町役場で第1回会議を行い、新年度は町内の幕末維新に関する史跡などに案内標柱を設置するほか、ガイドブックを作成するなどの記念事業案を了承。18年度は同町と長岡市の史跡を巡るツアーやシンポジウムの開催に向けて今後、具体的な内容を詰めていく方針を確認した。
宮城
<東北の本棚>仙台藩玉虫の夢と挫折
竜は動かず/上田秀人 著
「竜」とは、幕末の仙台藩の例え。大藩でありながら、戊辰戦争では大きな働きはできなかった。なぜか? 悲運の最期を遂げた仙台藩士、玉虫左太夫の生涯を追った600ページ超の本作を読み、仙台藩の負の遺産を見た思いだ。
左太夫は藩鷹匠頭の子として生まれ、俊才と言われた。末子の七男であり、才能を開花させる場がない。だが、江戸へ出て学び、やがて幕府外国奉行に見いだされ、日米修好通商条約の批准書交換の遣米使節の一員として渡米する。
米国では驚きの連続だった。水夫と士官は役目上のことであって、仕事を離れると友人と同じだった。航海中、水夫が病死すると、葬儀に艦長が出て哀悼の意を表した。ワシントンで大統領に会う。「入れ札(選挙)で選ばれている」。当時の日本では考えられぬ制度だった。
幕末の動乱は、仙台藩に及んだ。帰国した左太夫は会津藩救済に動き、奥羽越列藩同盟成立の実務を仕切った。しかし作戦会議で、戦略を披露しようにも「分をわきまえよ」と藩幹部に制せられる。身分が低いことから重臣たちの恨みを買い、米国帰りが、煙たがられた。
江戸時代は、全体が身分制社会であった。中でも仙台藩は、特殊な身分制度を取っていたことを指摘しておく。藩祖伊達政宗は攻略した敵の将兵を次々と自らの陣営に迎え入れた。膨張する家臣団を維持するため、藩は伊達氏の血縁、有力家臣を一門、一家、一族などに分けた厳しい家格制度を敷いた。血筋による序列が何百年と、幕末までも続いた。
共和制の米国を見た左太夫の描いた夢は、公論に基づく新しい国づくりであったはずだ。しかし藩内の派閥抗争に巻き込まれ、ついには反佐幕派に処刑される。享年47歳。厳しい家格制度の前に、左太夫の夢は葬り去られた。
著者は1959年大阪府生まれ。時代小説で活躍、著書に「孤闘 立花宗茂」など。
講談社03(5395)5817=上・下各1728円。
佐賀
庄屋「峯家」文書を公開 朝鮮通信使、桜田門外の変など
江戸時代から明治にかけて唐津市相知町で庄屋を続けた峯家に残る「峯家文書」から32点を厳選した資料展が、相知図書館で開かれている。朝鮮通信使の絵図や赤穂浪士の足跡を記した書冊など、村里の庄屋の旺盛な好奇心がうかがえる。
17世紀後半から約200年にわたって収集した峯家文書は約5千点で、市指定文化財になっている。多くは行政関係の文書だが、その中から面白く貴重な資料を選んでおり、ほとんどが初公開という。
江戸時代に12回来ている朝鮮通信使の絵図は、1811年の最後のもので、朝鮮国の服装や行列の様子が分かる。ベトナムや西洋、インドの男女を描いた絵や黒船図もあり、江戸時代の人々の海外への関心ぶりが垣間見える。赤穂浪士の討ち入り、大老井伊直弼(なおすけ)が殺害された桜田門外の変を記したものもある。
こうした資料は、峯家が18世紀中頃から開いた私塾「希賢堂」の教材にも使われていたと考えられる。
虹の松原一揆の指導者冨田才治の漢詩もある。一揆以降、関係が発覚するのを恐れて才治の手紙などが処分される中、唯一残った直筆の書。才治が希賢堂を開いた峯復斎に送ったもので、「私の先生になって」と懇願している。
昨年の企画展で好評だった新撰組土方歳三の最期を記した「大野右仲(すけなか)君(ぎみ)日記抄」も公開。大野は唐津藩士で後に東松浦郡長になり、初代相知町長の峯〓(きとう)に与えたものと考えられる。
〓は火ヘンに卒
相知市民センター総務教育課で文化財を担当する黒田裕一係長(49)は「庄屋として教養をつけるものだけでなく、江戸や京都の情報を収集しようとしていたことがうかがえる。粋な趣味、教養深さを楽しんでほしい」と語る。
3月31日までで月曜、祝日、第1水曜は休館日。入館無料。
インタビュー
大久保利通の曽孫「大久保家と西郷家は婚姻関係が結ばれ、実は親戚です」
大政奉還から150年を記念して、幕末から明治維新という激動の時代を生きた英雄の子孫たちが先祖の知られざる素顔、偉業を語り尽くす。今回は、大久保利通の曽孫・大久保利ひろさんだ。
* * *
大久保利通は私の曽祖父にあたります。2017年は「大政奉還150年」ということですが、私たち大久保家にとっては翌18年の江戸時代を経ての「明治維新150年」ですね。
薩摩藩の下級藩士の子として生まれ、西郷隆盛と共に成長し、幕末をくぐり抜けて明治維新を推進していきますが、盟友であった西郷とは征韓論で対立、敗れた西郷は政治の中枢から辞し、このとき二人は決別したとされています。その後、西南戦争では西郷は政府軍の前に敗北を知り、自害してしまいます。利通は西郷が挙兵するはずがないと最後まで信じていましたが、挙兵を知ったときは西郷を説得できなかったと悔やみ、それと同時に永遠の別れを覚悟していたと思います。利通が暗殺される直前に西郷からの手紙を読んでいたとも言われていますしね。ただ、西郷は大久保なら自分ができなかったこと、やり残したことを必ずやってくれるはずだと願っていたと思いますね。また利通は「自分ほど西郷隆盛を知っている者はいない」と言っていたぐらいです。西郷と利通は本来はクルマの両輪のような関係だったのです。
余談ですが、利通のことでよく聞かれるのは大久保家と西郷家との関係です。利通の妹の孫のところに、西郷家からお嫁さんをもらい、大久保家と西郷家は親戚関係になっています。
岩倉使節団の副使としてアメリカやイギリス、ドイツ、フランスなどを訪れますが、身長が178センチと当時としては長身だったこともあり、なじみやすかったようです。フランスでは家具のカタログを手に入れましたが、よほど興味があったのでしょう、帰国後に机を作らせています。その他にフランス製の陶器の灰皿やガラスの洗面器なども購入していますが、いわゆる「西洋かぶれ」ではなく、実用を重視して自分に合ったもの、使い心地のよいものを取り入れていたにすぎません。手紙は最後まで筆で書いています。ただ利通が使っていた硯や印鑑は大きな体に似合わず小ぶり、本当に小さなもので驚きました。
利通は家族、特に子どもに対してはとてもやさしくふれあいを喜び、子煩悩で可愛がってくれた、と祖父・利武が話してくれたことがあります。
利通は使節団で欧米諸国を訪れて海外の諸事情を間近に見て、国力増強の必要性を強く感じました。そのためには産業に力を入れようと西南戦争の最中に第1回内国勧業博覧会を開催します。また農業の発展も急がなくてはと思っていた矢先、福島県で始まっていた開拓事業を知った利通は、この事業成功に腐心し、郡山市で国直轄の農業水利事業第1号、安積開拓を推進します。そのさなか利通は暗殺されますが、利通の遺志を受け継ぎ、工事の開始から3年後の明治15(1882)年に完成します。夢がかなったと言ってよいのではないでしょうか。
明治維新において、自分の役目を果たすために仕事に真摯に取り組み、そしてやり遂げた。道を拓き、その道を次の世代に託して旅立った、そう思っています。次男の牧野伸顕、跡を継いだ三男で祖父の利武、学者であった父・利謙は、それぞれ違った形でしたが、利通の子孫としての役目を果たしたと思います。私の役目と言えば、まだ手元に残っていた資料を千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館へ寄贈したことでしょうか。それをきっかけにすでに納めてあったものを含めて15年に「大久保利通とその時代」展を開催していただきましたが、常に側にいる、つまり利通との距離感など考えたことはありません。(本誌・鮎川哲也、太田サトル、松岡かすみ)
東京
新選組150回忌、近藤・土方子孫ら企画 西郷も参加へ
江戸時代末期に京都で結成された新選組隊士の子孫たちが3月、副長の土方歳三らの出身地、東京都日野市で「百五十回忌総供養祭」を営む。来年は戊辰戦争が始まって150年。関係が深かった会津藩(福島県)藩主の松平家14代当主、激しく争った薩摩藩(鹿児島県)の西郷隆盛の子孫も参加する予定だ。
発起人は、局長の近藤勇、土方、副長助勤の井上源三郎の兄の子孫、日野宿の名主で新選組を支援した佐藤彦五郎の子孫ら12人。節目を迎え、隊士や関係者の子孫に広く呼びかけ、土方家の菩提(ぼだい)寺でもある高幡不動尊(日野市)で営む。
子孫は長らく肩身の狭い思いをしてきた。近藤の兄の子孫、宮川清蔵さん(78)=茨城県牛久市=は近藤の出身地の東京都調布市に住んでいた幼少期、「近藤は逆賊と言われた」と振り返る。土方の兄の子孫で土方歳三資料館館長(日野市)の土方愛さん(45)は高校時代に「新選組は人斬り集団」と言われ、苦い思いをした。
しかし1962年、司馬遼太郎の小説「燃えよ剣」の連載が始まり、土方人気に火が付いた。NHK大河ドラマ「新選組!」(2004年)やゲームの影響で、今では若いファンも増えているという。愛さんは、幕府側、倒幕勢力側どちらにつくか様子見の藩が多いなか、「隊士は幕府のために尽くし、どっちが得かということでは動かなかった。潔さに今の人たちがひかれているのでは」と話す。井上の兄の子孫で井上源三郎資料館館長(日野市)の井上雅雄さん(62)は「薩摩藩や長州藩(山口県)を含め、戦った全員の供養ができればいい」と呼びかけている。
総供養祭は3月18日、高幡不動尊の五重塔院ホールで。一般の出席も可。参加費2千円。先着順。往復はがきに住所、氏名、電話番号を書き、〒191・0011 東京都日野市日野本町4の11の12 天然理心流勇武館事務局へ。28日の消印有効。出席の可否は返信はがきで伝える。(大室一也)
岐阜
梁川星巌の刀発見 大垣出身、幕末の志士・漢詩人 関鍛冶伝承館で初公開 /岐阜
大垣市出身の漢詩人・梁川星巌(やながわせいがん)(1789~1858年)が所持していた刀が、関市で見つかった。星巌ゆかりの大垣市の禅寺「華渓寺」の加藤泰寛住職(58)は「星巌は多くの漢詩を残したが、刀が見つかったのは初めて」と話している。
関市南春日町の関鍛冶伝承館は企画展「刀に名前を刻んだ男たち~幕末の志士・梁川星巌と日本刀」を開催し、星巌の刀を初公開している。
星巌は1789(寛政元)年、現在の大垣市曽根町の郷士の家に生まれ、華渓寺の僧に儒教や漢詩を学んだ。幕末には、頼山陽、藤田東湖、佐久間象山、吉田松陰、橋本左内ら尊皇攘夷の思想家と親交があり、自らも憂国の志士として行動。危険思想の人物として幕府からにらまれるが、安政の大獄(1858年)の直前にコレラが原因で死去した。
公開された刀は、関市が所蔵していた一振りで、茎(なかご)と呼ばれる握り部分に「大義翼皇室」で始まる尊皇攘夷思想を詠んだ5字漢詩が8行と「老龍庵帯」「東湖先生侍禄」の所持銘が刻まれている。同伝承館の江西奈央美学芸員(28)が昨年9月、「老龍庵」を星巌の号と判読し、華渓寺の梁川星巌記念館に問い合わせたところ、星巌の所持刀と確認された。
太平洋戦争の後、連合国軍総司令部(GHQ)が10万振り近い日本刀を接収したが、サンフランシスコ平和条約を締結後、約1000振りが刀産地の関市へ返還され、その中に星巌の刀が含まれていた。
華渓寺の加藤住職は「『老龍庵』は星巌の戒名に使われている号の一つ。尊皇攘夷派の水戸藩士・藤田東湖から譲られた刀と思われる」と話している。
企画展では、漢詩の掛け軸、詩稿、印譜など星巌ゆかりの遺品も展示されている。3月20日まで。火曜休館。入館料は高校生以上200円、小中学生100円。問い合わせは同伝承館(0575・23・3825)。【立松勝】
山口
幕末の志士が学んだ萩藩校明倫館の跡地に「萩・明倫学舎」オープン3月4日オープン、山口県萩市の明治維新150年記念事業
NPO萩明倫学舎(特定非営利活動法人設立認証中)は3月4日、山口県萩市に「萩・明倫学舎」をオープンする。萩・明倫学舎は萩藩校明倫館の跡地にあり、観光インフォメーションセンターやレストランを備え、萩市の観光の起点施設として機能していく。
萩・明倫学舎
開館日:2017年3月4日
開館時間(予定):9時~17時、レストランは11時~21時
所在地:山口県萩市江向602
入館料:本館無料、2号館大人300円、高校生200円、小中学生100円
Webサイト:萩・明倫学舎
萩藩校明倫館は、1718年に5代藩主である毛利跨吉元が家巨の子弟教育のために萩城三の丸(堀内)に建てた藩校。その後1849年に現在の江向に移転。約5万m2の敷地内に学舎や武芸修練場、練兵場などがあり、吉田松陰や楫取素彦(小田村伊之助)が教鞭をとったことでも知られている。
萩藩校明倫館は1867年に廃館となったが、その跡地に1935年10月10日に建築されたものが旧明倫小学校の木造2階建ての校舎で、1996年に国登録有形文化財に登録されている。2018年に明治維新150年を迎えることを記念して、この校舎を萩市の新しい観光の起点となるよう改修整備したものが萩・明倫学舎となる。
萩・明倫学舎は本館、2号館、周辺の遺構などから構成され、本館には観光インフォメーションセンターや萩の名店「割烹千代」がリーズナブルな価格で料理を提供するレストラン、ジオパークビジターセンター、復元教室、復元校長室などを備える。
2号館には2015年年7月に世界遺産に登録された萩市の5資産を含む「明治日本の産業革命遺産」を紹介する「世界遺産ビジターセンター」、幕末維新期の歴史・科学技術史の実物資料を展示する「幕末ミュージアム」を開設する。
高知
「JIN」で幕末感じて 高知市のまんが館で原画展
坂本龍馬らが活躍した幕末期を舞台にした人気漫画「JIN―仁―」で知られる漫画家、村上もとかさん(65)の原画展が、高知市九反田の横山隆一記念まんが館で2月11日から始まる。龍馬、中岡慎太郎、西郷隆盛といった実在の人物や、当時の暮らし、文化を映し出した場面など直筆の原画144ページ分が並ぶ。
村上さんは東京都出身で、1972年にデビュー。「JIN」は「スーパージャンプ」に2000年から10年間連載され、テレビドラマにもなった。
脳外科医、南方仁が幕末にタイムスリップし、歴史や運命を変えることに悩みながら、現代医学を実践する物語。親友となる龍馬との出会いや暗殺阻止を目指す近江屋でのシーンなどのほか、山内容堂、勝海舟、沖田総司ら実在した人物たちが登場する場面を紹介。
「手術」「ラブロマンス」「遊郭」など、テーマ別の展示も。仁が龍馬と連れだって行った遊郭で、華やかさとは裏腹に性病に苦しみ死んでいく女性が多くいたなど、闇の部分を描いたことが分かる。ほかのヒット作「六三四の剣」「龍―RON―」の原画もあり、すべて手作業で作画されている。
展示を担当した高知県まんが・コンテンツ課の近森雄太主査は「作画技術の高さを見ていただきたい」と期待を込めた。
横山隆一記念まんが館と「まんが王国・土佐推進協議会」の主催で、3月11、12日に開く「第3回全国漫画家大会議」の一環。3月12日まで。
インタビュー
徳川宗家18代当主の徳川恒孝さん 大政奉還をした理由を推測
薩長同盟、坂本龍馬の船中八策、土佐藩主の山内容堂が徳川幕府最後の将軍・徳川慶喜へ出した建白書、そして大政奉還、龍馬暗殺……。2017年で大政奉還から150年。幕末から明治維新という激動の時代を生きた英雄の子孫たちが先祖の知られざる素顔、偉業を語り尽くす。今回は、徳川宗家18代当主・徳川恒孝さんだ。うーん、そう言われてしまうと旧幕府軍として戦った人々の思いは……大坂城の将兵を残して江戸に逃げ戻った慶喜の行動をどう思われているのか、問うてみたくなる旧幕府方贔屓です。
* * *
大政奉還として徳川家が天皇家に政権をお戻ししたのは、徳川幕府に大きな問題があったり、政権維持に限界があったりしたからではないと考えています。
当時、日本を取り巻く外国からさまざまな圧力がかかっていました。その流れに任せてそれぞれの藩が圧力をかける国に個別に対応していたら、日本は分断されていたかもしれません。
そこでそれぞれの藩が領内を支配する幕藩体制ではやっていけないと幕府は判断したのです。
徳川家は幕府開府以来、長く天皇家を非常に大切にしてきましたので、ここで天皇家に政権をお戻しして、天皇を中心に今一度日本を統一すべきだと考えたのです。
さらに徳川幕府は常に海外の情報を得ていました。特に幕末にかけては詳細な情報が幕府に入ってきて、世界の情勢は承知していたのです。イギリスの軍艦が近くにいるとか、アメリカの戦艦が日本に向かっているなど把握していました。そこで世界を見て、もう二度と戦乱の世にしてはならないと考え、大政奉還という決断をしました。
江戸幕府を起こした家康は常に平和を願い、それを実現させた人です。家康の前の時代、豊臣秀吉は朝鮮へ2度も兵を出しました。 しかし、徳川の世になると朝鮮をはじめとした外国を攻めることはなくなりました。それどころか、朝鮮通信使が再開され友好な関係を築きました。幕府の将軍の代替わりや世継ぎが生まれるたびに朝鮮から使節団が江戸城にいる将軍に謁見にやってきていました。
ただ、これは徳川家からの見方で、向こうの方々に言わせると、今度の将軍がまた秀吉のような人だったら危ないと、警戒のために将軍の顔を見に来ていたというようです。それで今度の将軍は穏やかでこちらに戦争をしかけてくるようなことはないと安心して帰ったそうです。
そしてその情報は朝鮮から清の都・北京に伝えられ、今度の将軍も大丈夫だと胸をなでおろしたといいます。それだけ諸国との関係はよかったのです。
ただ幕末から大政奉還にかけて残念なのは井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されたことです。井伊直弼は海外の状況を鑑み、修好通商条約を締結し、日本を開くことを進めていました。だからあのとき直弼が殺されなかったら、徳川幕府が新たな日本をつくっていったでしょうね。
徳川政権であったら平和一本で、その後の政府がとったような軍国主義政策はとらなかったに違いありません。明治新政府では征韓論が持ち上がり、その後も日清戦争、日露戦争が起きました。明治以降の歴史はご存じのとおりですね。
明治の世になって諸藩の大名の子息の多くは海外に留学しました。そしてその人たちは海外の情報や知識を身に着け、明治以降の政府に重用されていきます。
また、宮内省が大名家同士の婚姻を進めていきました。戊辰戦争で敵対した人の子孫を結びつけたり、かつて、あまり関係がよくなかったという同士の婚姻を決めたりしました。そうすることでそれぞれの家が背負ってきた変なわだかまりはなくなりました。
大政奉還後、徳川幕府の幕臣が明治政府を支えたり、その後、全国にあった藩の大名の子孫の方々が地域のお祭りに参加して祭りを盛り上げたりしています。かつての殿様の子孫は地域活性化に協力しているといえるでしょう。
そういう意味でも徳川時代が分断され明治時代になったのではなく、その意志を受け継ぎ、継続しているといってもいいかもしれません。(本誌・鮎川哲也、太田サトル、松岡かすみ)
今日は節分。関西に住んでいたので恵方巻は知っているのですが、甘口系の太巻き寿司は好きじゃないし、東京にはもともとない食習慣なので私はパスします。
『ちるらん 新選組』アニメ版がにぶんのいちキャラのギャグで5分という長さにちょっと物足りなさを感じていましたが、次は何と舞台化。確かに原作をアニメにするといろいろ残虐シーンが出て来ますので2.5次元の作品の方が合うかも。
高知
幕末の土佐藩重役・吉田東洋の新史料を発見 高知県立歴民館
京都
春の特別展幕末群像、無名志士に光当て 初公開の自画賛や短刀含む100点 霊山歴史館 /京都
東京
戊辰戦争の戦没者を総供養 百五十回忌 新選組子孫らが呼び掛け
グッズ
戦国武将フレグランスに新作『大谷吉継』『織田信長』・・・そして幕末志士『土方歳三』『沖田総司』が女性向け歴史雑貨ブランド「れもん-歴紋-」より、primaniacs各店にて発売開始!
沖田総司の香りは
『ちるらん 新選組』アニメ版がにぶんのいちキャラのギャグで5分という長さにちょっと物足りなさを感じていましたが、次は何と舞台化。確かに原作をアニメにするといろいろ残虐シーンが出て来ますので2.5次元の作品の方が合うかも。
高知
幕末の土佐藩重役・吉田東洋の新史料を発見 高知県立歴民館
幕末の土佐藩重役・吉田東洋(1815~1862年)が、1854年12月に発生した安政地震の体験を詠んだ漢詩が、高知県南国市岡豊町の高知県立歴史民俗資料館の収蔵史料の中から発見された。地震後に火災と津波が高知市の沿岸部を襲った状況や被災した民を思いやる心情をつづっている。高知県立歴史民俗資料館は「生の体験を克明に記した貴重な史料」と注目。高知県立歴史民俗資料館で1月29日から始まる企画展「幕末の土佐 書跡にみる人物群像」で初公開される。吉田東洋の再評価につながって欲しい発見です。
東洋(本名・正秋)は、15代藩主山内容堂の下、仕置役として海防政策や中級武士の登用など藩政改革に尽力。1862年に土佐勤王党に暗殺される。
東洋に関する新史料は、漢詩2点のほか教本2点、直筆の手紙6点の計10点。高知県立歴史民俗資料館が2016年、企画展を前に個人などから寄贈された史料を再調査した際に発見された。
漢詩「大震行(だいしんこう)」(縦125センチ、横55センチ)は、東洋が沿岸部の高知市長浜で地震に遭遇した体験を記した史料。「烈火が家屋を覆い、激浪が大地を掠(かす)めて走った」「圧死者と焼死者が丘のように積み重なっている」「西も東も分からず、じいさんを助け、子どもの手を引いて町の入り口をさまよう」などと、甚大な被害を出した巨大地震と火災、津波の恐ろしさを伝えている。
当時、東洋は江戸で山内氏の親族を殴打する事件を起こし、閉居中で、「土佐罪人 吉田秋」と記述。被災して土地を失った民の暮らしや藩政の在り方にも言及している。
地震後、東洋は私塾を開いて人材育成に尽力、復職後に再び藩政改革にまい進することから、高知県立歴史民俗資料館の野本亮学芸課長は「衝撃的な地震の体験を通して、東洋は考え方を変え、人間として一皮むけたのではないか」と推測している。
山内容堂に対する愚痴などをこぼした吉田東洋の手紙(高知県南国市の高知県立歴史民俗資料館)
山内容堂に対する愚痴などをこぼした吉田東洋の手紙(高知県南国市の高知県立歴史民俗資料館)
吉田東洋 切れ者だが純粋 新史料に垣間見える素顔
土佐藩政を牛耳った辣腕(らつわん)政治家というイメージが強い吉田東洋。南国市の高知県立歴史民俗資料館で見つかった教本や直筆の手紙を読み解くと、江戸の学者から学問を学ぶ勉強熱心な一面や、15代藩主・山内容堂に対する愚痴をこぼす弱気な一面、婚礼前の娘を思いやる父親としての一面など、東洋の素顔が垣間見える。
東洋は船奉行などを務めた30代前半に、江戸で名をはせた朱子学者・安積艮斎(あさかごんさい)に入門。新史料の教本には、安積の添削の跡があり、東洋が当時の最高水準の思想に触れていたことがうかがえる。
江戸の漢学の師匠、塩谷宕陰(とういん)に宛てた手紙(草稿)は、暴行事件で閉居中の40代前半に書いたもの。漢詩の添削を頼む一方で、藩の重役を担った時のことを回顧し、「家臣に命令するたびに、容堂の心が不安定なことを思って涙を流した」などと愚痴をこぼしている。手紙の最後には「悪口と誤解されるので読み終わったら手紙を焼いてほしい」といった趣旨の文言もある。
また、46歳で暗殺される1年前に書いたと推測される手紙では、娘の婚礼前に自宅を建て直すため、友人に木材調達を依頼。新しい家で婚礼の準備をさせてあげたいという父親の心情が読み取れる。
高知県立歴史民俗資料館の野本亮学芸課長は「企画展ではこれらの史料も初公開する。切れ者だが純粋さも持つ東洋の人柄に触れてほしい」と呼び掛けている。
京都
春の特別展幕末群像、無名志士に光当て 初公開の自画賛や短刀含む100点 霊山歴史館 /京都
春の特別展「幕末志士群像 新収蔵品展」が、霊山(りょうぜん)歴史館(京都市東山区)で開かれている。知名度のある新選組や坂本龍馬の資料だけでなく、倒幕のため挙兵しながら失敗に終わった天誅(てんちゅう)組の一人、松本奎堂(けいどう)の自画賛(じがさん)(自作の画の横に詩も書き入れたもの)など、初公開の32点を含む約100点(期間中入れ替えあり)を陳列している。5月7日まで。
治安維持のため幕府が組織した京都見廻組(みまわりぐみ)に属し、坂本龍馬暗殺に関わったとの説もある桂早之助(はやのすけ)所有の短刀なども初公開する。将軍が約230年ぶりに上洛(じょうらく)した際に街道に立てられ、浪人を取り締まるための高札(こうさつ)など、当時の世情がわかる資料も並ぶ。
大政奉還から150年を迎え、現在はあまり名を知られていない人物にも注目した構成にしている。木村幸比古(さちひこ)副館長(68)は「歴史資料は勝者のものが多数残るが、維新で破れた幕府側の資料も均等にそろえた。近代日本を作った人たちの精神を知ってほしい」と話した。
第1期は3月20日まで、第2期は3月22日~5月7日。午前10時~午後5時半。月曜休み。祝日の場合は翌日休館(ただし3月6、13、27日、5月1日は開館)。一般700円、高校生400円、小中学生300円。問い合わせは霊山歴史館(075・531・3773)。【国本ようこ】
東京
戊辰戦争の戦没者を総供養 百五十回忌 新選組子孫らが呼び掛け
新政府軍と旧徳川幕府軍が争った戊辰(ぼしん)戦争(一八六八~六九年)で亡くなったすべての人々を慰霊しようと、新選組隊士の子孫らの呼び掛けで、百五十回忌総供養祭が三月十八日に日野市の高幡不動尊金剛寺で営まれることになった。 (水谷孝司)敵味方に関わらず、また巻き込まれた市井の人も含めてすべての戦没者を供養するというスタンスに共感できます。
幕末に京都で討幕派の取り締まりに当たった新選組の隊士の多くは、戊辰戦争では旧幕府軍に加わって戦った。
これまでは、それぞれの隊士の命日に身内のみで供養をしたり、一部の子孫が集まって定期的なイベントを催したりしてきたが、百五十回忌の節目を迎える今回は、かつての敵味方にこだわらず、戦闘に巻き込まれた市井の人たちも含めた「総供養」の場とすることにした。
新選組六番隊長井上源三郎の子孫で、日野市の井上雅雄さん(62)によると、戊辰戦争で亡くなったすべての人々の供養祭が実現するのは初めて。新政府軍側の子孫の参列も決まっているといい、「無事に盛大に行いたい」と話している。
法要は金剛寺五重塔院ホールで行われ、川澄祐勝貫主が大導師を務める。午後一時半からの読経に続いて、会津松平家十四代当主の松平保久さんによる講演「会津藩と新選組」のほか、子孫の紹介、あいさつなどがある。
井上さんらとともに発起人に名前を連ねる新選組局長近藤勇の子孫宮川清蔵さん(78)は「歴史に埋もれた隊士らもいる。倒幕と佐幕に国論が二分する中、大義のために戦った人たちを供養したい」、副長土方歳三の子孫土方愛さん(45)は「すべての亡くなった人に光が当たるのは意義深いこと」と話した。
ホールの定員は二百五十人で、招待の縁者や研究家らのほかに、一般の参列希望者も募っている。参加費二千円。
希望者は往復はがきに住所、氏名、電話番号を記入し、二十八日(消印有効)までに〒191 0011日野市日野本町四の一一の一二、天然理心流勇武館事務局に郵送する。入場できなくても焼香などはできるようにしたいという。問い合わせは井上さん=電042(581)3957。
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戦国武将フレグランスに新作『大谷吉継』『織田信長』・・・そして幕末志士『土方歳三』『沖田総司』が女性向け歴史雑貨ブランド「れもん-歴紋-」より、primaniacs各店にて発売開始!
人気の戦国武将フレグランスに新たに『大谷吉継』『織田信長』が、そしてさらに幕末志士フレグランスとして『土方歳三』『沖田総司』が参戦です。 「歴史に恋をする」をテーマに、戦国武将をモチーフにしたアイテムを提供しつづけている「れもん-歴紋-」の新商品が2月3日よりprimaniacs銀座本店・原宿店にて発売開始です。土方歳三の香りは
人気の戦国武将フレグランスに新たに『大谷吉継』『織田信長』が、そしてさらに幕末志士フレグランスとして『土方歳三』『沖田総司』が参戦です。
「歴史に恋をする」をテーマに、戦国武将をモチーフにしたアイテムを提供しつづけている「れもん-歴紋-」の新商品が2月3日よりprimaniacs銀座本店・原宿店にて発売開始です。
20~30代の女性をターゲットにした、これまでの「れもん」商品と同じく女性目線を強く意識し、「戦国武将フレグランス」からは『伊達政宗』『真田幸村』『石田三成』が発売されています。
primaniacs店内ではフレグランスのテスターが常備されており、香りをお試しいただくことができます。
なおprimaniacsオンラインショップでも商品の購入が可能です。
れもん HP:http://re-mon.com/
primaniacs オンラインショップ:http://shop.primaniacs.com/
【商品概要】
商品ページ:http://primaniacs.com/fragrance_sengoku_2nd/index.html
商品名:primaniacs 戦国武将・幕末志士フレグランス
発売日 : 2017年2月3日より、primaniacs銀座本店・原宿店にて販売開始(オンラインショップでは2月25日以降お届け)
内容量 : 30ml
希望小売価格 : ¥5417(税抜)
【primaniacsとは】
アニメ、コミック、ゲーム、歴史、文学などサブカルチャーにフォーカスしたコンセプトショップ。
20~30代の女性をターゲットに、フレグランス、アクセサリーなどのファッション雑貨を展開。
人気アニメ「おそ松さん」のキャラクターをイメージしたフレグランスが大反響を呼び、日本の香水市場でも異例となる2万本を製造した。
WEBサイト:http://primaniacs.com
【本件に関するお問合わせ先】
株式会社まさめや
硬質な静けさと強さ 冷たい北の海に広がる紺碧の輝き。
ハーバル調の冷たさとフゼアの色気が混じりあった、力強くも静けさのある香り。
しっとりと広がるマリンのウォータリー感とは裏腹に、
ひんやりと落ち着いた雰囲気が印象的。
己の想いと信念を貫き通した土方歳三にふさわしい、芯の強さを感じる香りです。
TOP:Lemon, Lime
MIDDLE:Jasmine , Lavender , Marine, Rose , Cardamom
LAST:Musk, Raspberry, Amber, Vetiver
沖田総司の香りは
純粋な白さと儚さ 春の訪れを告げる鈴蘭の花。どちらも好きな系統かも。どこかで試しに嗅いでみたいです。
フレッシュさの中に甘さを潜ませたグリーンフローラルの、ピュアでイノセントな香り。
ほろ苦いグリーン系の香りから、徐々にほのかな甘みが漂い、野に咲く花々を想わせる 香りに変わります。
沖田総司の純粋な人柄と、志半ばで病に倒れた儚さを感じる、透明感のある香りです。
TOP:Green Tea, Lemon
MIDDLE:Jasmine, Muguet, Basil, Rose, Gardenia
LAST:Musk, Amber, Raspberry, Sandalwood
息抜きに『幕末グルメ ブシメシ!』を見て楽しんでいるこの頃です。殿様の御膳に鰺の干物が上がることはないはず、とか、史実に照らすといろいろ言いたくなる気持ちを抑えて、フィクションとして楽しむようにしています。
京都ほか全国各地
京都市、大政奉還150周年記念プロジェクト「幕末維新スタンプラリー」を年末まで実施コンプリートの賞品は「二条城二の丸御殿大広間」で記念撮影
静岡県
「下田幕末開港」通史に ペリー来航など 市教委
北海道
「北海道」名付け親の業績発信へ幕末の探検家・松浦武四郎
福井
橋本左内の足跡を紹介 福井市郷土歴史博物館で企画展
京都
新撰組ゆかりの寺で開幕、京都冬観光
京都ほか全国各地
京都市、大政奉還150周年記念プロジェクト「幕末維新スタンプラリー」を年末まで実施コンプリートの賞品は「二条城二の丸御殿大広間」で記念撮影
京都市は2017年に大政奉還150周年を迎えるにあたり、「大政奉還150周年記念プロジェクト」の一環として、「幕末維新スタンプラリー」を12月31日まで実施する。これは京都市を含めた全国21都市の幕末維新ゆかりの観光資源、22カ所を巡るスタンプラリーで、「全制覇特別賞」として徳川慶喜が大政奉還を諮問した「二条城二の丸御殿大広間」での記念撮影ができるほか、スタンプ数によって抽選で旅行券などの賞品が用意されている。
大政奉還150周年記念プロジェクト「幕末維新スタンプラリー」
実施期間:2017年1月22日~12月31日
賞品:「全制覇特別賞」徳川慶喜が大政奉還を諮問した「二条城二の丸御殿大広間」で記念撮影、「名人コース」(7スタンプ以上)旅行券5万円分を1名、「達人コース」(5スタンプ以上)旅行券1万円分を3名、「手習いコース」(3スタンプ以上)旅行券3000円分を20名 ※5月以降「名産品コース」などが新設される予定
Webサイト:大政奉還150周年記念プロジェクト「幕末維新スタンプラリー」
スタンプ設置施設
福島県会津若松市:会津若松城(鶴ヶ城)
東京都千代田区:日比谷図書文化館
東京都品川区:品川区立品川歴史館
東京都調布市:調布市郷土博物館
東京都日野市:日野市立新選組のふるさと歴史館
長野県上田市:上田市立博物館
静岡県静岡市:静岡市文化財資料館
福井県福井市:福井市立郷土歴史博物館
三重県桑名市:桑名市博物館
和歌山県和歌山市:わかやま歴史館
岡山県高梁市:備中松山城
広島県福山市:福山城博物館
山口県萩市:萩・世界遺産ビジターセンター(1月22日~2月12日)/萩博物館(2月13日~3月3日)/萩・明倫学舎(3月4日)
山口県下関市:下関市立歴史博物館
愛媛県宇和島市:宇和島市立伊達博物館
高知県高知市:高知市立龍馬の生まれたまち記念館
長崎県長崎市:長崎市亀山社中記念館
熊本県熊本市:熊本市田原坂西南戦争資料館
鹿児島県霧島市:塩浸温泉龍馬公園
鹿児島県鹿児島市:鹿児島市維新ふるさと館
京都府京都市:元離宮二条城
京都府京都市:幕末維新ミュージアム 霊山歴史館
スタンプラリーの台紙付きの「幕末維新ガイドブック」は5万部が用意され、スタンプ設置などで配布される。また、大政奉還150周年プロジェクトのWebサイトからPDFを入手して印刷もできる。
静岡県
「下田幕末開港」通史に ペリー来航など 市教委
下田市教委はこのほど、「下田市史別編幕末開港」を刊行した。記述式の通史は初めて。編さん委員会の原秀三郎委員長(静岡大名誉教授)は「下田市史の目玉中の目玉は幕末開港。1854年の開港から59年の鎖港まで、下田が世界史の舞台に躍り出た6年間を中心にまとめた」と話す。
編さん委員会は1978年に発足し、これまで資料編6巻と図説2巻を発行したが、幕末開港を通史編として独立させた。三島市出身で国立歴史民俗博物館の樋口雄彦教授が執筆を担当。資料編を基に、約2年間かけてまとめたという。
A5判の本文355ページ。カラー写真10点、白黒写真110点、図表10点を挿入した。序章と1~6章、終章の構成でペリー来航や吉田松陰の密航未遂事件、ハリスの駐在と通商条約、唐人お吉などの開国史を詳述。下田奉行所を掘り下げ、「役人関係を具体的に明らかにした」といい、突如現れた“異人”と民衆の交流も一つの章として取り上げた。
500部発行し、1部3800円で販売している。問い合わせは下田市教委生涯学習課<電0558(23)5055>へ。
北海道
「北海道」名付け親の業績発信へ幕末の探検家・松浦武四郎
幕末に北海道を調査しアイヌ民族の姿を伝え、「北海道」の名付け親となった三重県松阪市出身の探検家、松浦武四郎(1818~88年)の業績を全国に発信しようと、北海道と三重県が連携することが17日、決まった。高橋はるみ北海道知事が津市を訪れ、鈴木英敬三重県知事と合意した。
2018年は北海道命名から150年目。道は記念事業の一つとして、松阪市に保存されている調査記録や出版物などの展示会を北海道で開催するほか、テレビドラマなどを通じて全国に武四郎の業績を伝えたいとしている。
松浦は1845年から6回にわたり北方領土や樺太まで探検、多数の旅行記を出版した。
福井
橋本左内の足跡を紹介 福井市郷土歴史博物館で企画展
福井市郷土歴史博物館で二十五日、幕末の福井藩士・橋本左内を紹介する企画展が始まった。昨年十一月にポプラ社から発刊された「コミック版 日本の歴史54 幕末維新人物伝 橋本左内」の一部を、関係資料とともにパネルで展示。誕生から刑死までを漫画と資料で分かりやすく紹介している。三月二十一日まで。
初公開の資料として、福井市出身の日本画家島田墨仙(ぼくせん)の「橋本左内像」を展示した。左内の没後五十年を機に市が立像の制作を計画した際、描いたとみられる下絵の一つ。一昨年秋にネットオークションで有志が落札し、同館に昨年、寄贈した。
担当学芸員の藤川明宏さんは「立志式の時期に合わせて開催したので、若い人にぜひ見てほしい」と話していた。
(藤共生)
京都
新撰組ゆかりの寺で開幕、京都冬観光
今年で51回目を迎えるJR西日本による京都デスティネーションキャンペーン『京の冬の旅』。その開催にあたり1月13日、冬晴れのなか「壬生寺」(京都市中京区)でオープニングイベントがおこなわれた。
毎年恒例となった京都市、JR、京都市観光協会の共同により実施されるこの観光キャンペーン。今年のテーマは「大政奉還150年記念」で、幕末ゆかりの寺院を中心に、14カ所で普段は見ることができない庭園や仏像、襖絵、建築など様々な文化財が期間限定で特別公開される。
新撰組ゆかりの寺院でもあり、今回、本堂と狂言堂が特別公開となる「壬生寺」で主催者らが挨拶。門川大作京都市長は、地蔵盆をおこなう壬生寺の歴史や地域社会との関わりに触れながら「暮らしのなかの文化を大事にしてきた京都において、(キャンペーンが)京都観光の大きな役割を果たしてくれると思う」と期待を込めた。また、京都市観光協会の柏原康夫会長は「長い歴史ある京都は訪れるたびに、毎年毎年新しい発見がある。京都の文化財産を大切に守りながら今後も世界中に伝えていきたい」と決意を新たにした。
キャンペーンは3月20日まで。期間中は食を交えた特別コースを運行する観光バスが登場するほか、京の伝統工芸体験ワークショップやウォーキングツアーなどのイベントも企画されている。詳細は公式サイトにて。
年末から坂本龍馬の暗殺前5日の書状発見のニュースを取り上げましたが、それ以外のニュースを拾います。
大政奉還150年ラリー 21都市きょうスタート
大政奉還150年、ゆかりの地でスタンプラリー 22日から
幕末維新巡り 和歌山市もスタンプラリー
下田の歴史紹介 「幕末開港」刊行
コラム
あんパンはなぜ売れ続ける? 意外と知らない「ロングセラー菓子パン」のトリビア
大政奉還150年ラリー 21都市きょうスタート
江戸幕府が朝廷に政権を返上した大政奉還(1867年)から今年で150年となるのを記念し、京都市など幕末維新にゆかりのある全国の都市が22日から、歴史の舞台となった名所を巡るスタンプラリーを実施する。12月31日まで。京都
参加するのは、多くの維新志士を生んだ山口県萩市や鹿児島市、戊辰ぼしん戦争の激戦地だった福島県会津若松市など21都市。スタンプの意匠は、「高知市立龍馬の生まれたまち記念館」が坂本龍馬、「静岡市文化財資料館」は江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜。京都市では「二条城」(中京区)が二条城唐門、「霊山歴史館」(東山区)は新選組の「誠」の旗となっている。
台紙があるガイドブック=写真=は、スタンプの設置場所で配布される。スタンプをすべてそろえると大政奉還の舞台となった二条城二の丸御殿大広間で記念撮影ができるほか、集めた数に応じて旅行券が抽選で当たる。問い合わせは市文化芸術企画課(075・366・0033)。
大政奉還150年、ゆかりの地でスタンプラリー 22日から
大政奉還(1867年)から今年で150年となるのに合わせ、ゆかりの深い京都市や福島県会津若松市、山口県萩市など21市区が、活躍した先人らを模したスタンプを集めるイベント「幕末維新スタンプラリー」を22日に始める。参加者が観光を楽しめるよう、台帳付きのガイドブックで各地の歴史的な舞台や博物館を紹介する。新撰組ゆかりの寺で開幕、京都冬観光
江戸幕府15代将軍の徳川慶喜が朝廷に政権を返上した大政奉還の舞台となった二条城(中京区)がある京都市が呼び掛け、22日から約1年間、各地で関連事業が予定されている。
スタンプは22種あり、各地の博物館や歴史館で押せる。デザインは高知市の坂本龍馬や、鹿児島市の西郷隆盛ら明治維新の立役者の顔が多いが、会津藩主で京都守護職の松平容保が治めた会津若松市は「藩主の顔を使うのはおそれ多い」と藩の旗印にした。京都市内では二条城で「唐門」、霊山歴史館(東山区)で新選組旗印「誠」の2種を押せる。
スタンプ台帳付きのガイドブックはA5判24ページで5万部を作成。京都市内では22日から、両施設などで無料配布する。市文化芸術企画課は「佐幕派や倒幕派というかつての敵対関係にとらわれず、幕末・維新を切り口に、都市の連携で地方が元気になる取り組みにしたい」としている。
今年で51回目を迎えるJR西日本による京都デスティネーションキャンペーン『京の冬の旅』。その開催にあたり1月13日、冬晴れのなか「壬生寺」(京都市中京区)でオープニングイベントがおこなわれた。和歌山
毎年恒例となった京都市、JR、京都市観光協会の共同により実施されるこの観光キャンペーン。今年のテーマは「大政奉還150年記念」で、幕末ゆかりの寺院を中心に、14カ所で普段は見ることができない庭園や仏像、襖絵、建築など様々な文化財が期間限定で特別公開される。
新撰組ゆかりの寺院でもあり、今回、本堂と狂言堂が特別公開となる「壬生寺」で主催者らが挨拶。門川大作京都市長は、地蔵盆をおこなう壬生寺の歴史や地域社会との関わりに触れながら「暮らしのなかの文化を大事にしてきた京都において、(キャンペーンが)京都観光の大きな役割を果たしてくれると思う」と期待を込めた。また、京都市観光協会の柏原康夫会長は「長い歴史ある京都は訪れるたびに、毎年毎年新しい発見がある。京都の文化財産を大切に守りながら今後も世界中に伝えていきたい」と決意を新たにした。
キャンペーンは3月20日まで。期間中は食を交えた特別コースを運行する観光バスが登場するほか、京の伝統工芸体験ワークショップやウォーキングツアーなどのイベントも企画されている。詳細は公式サイトにて。
取材・文・写真/ヤマザキムツミ
幕末維新巡り 和歌山市もスタンプラリー
慶応3年(1867)の大政奉還から150周年の節目を迎えるのを記念し、京都市を中心に、幕末維新に活躍した先人とゆかりを持つ都市が相互に交流や連携を図る「大政奉還150周年記念プロジェクト」の第1弾となる「幕末維新スタンプラリー」が22日に始まる。和歌山市を含む参画21都市をPRし、観光誘客を図る。静岡
スタンプラリー台紙付きの「幕末維新ガイドブック」は5万部を発行。和歌山市は、わかやま歴史館2階に500部を設置し、同市のシンボルである和歌山城のスタンプを押すことができる。
ガイドブックはA5判カラー、24㌻。大政奉還についての解説をはじめ、黒船来航から戊辰戦争に至る幕末維新の歴史、参画都市の幕末維新関連史跡やミュージアムの紹介などを掲載。同プロジェクトの公式ホームページ(http://www.taiseihokan150.jp/)からダウンロードもできる。
和歌山市以外の各地のスタンプは、高知市が坂本龍馬、鹿児島市が西郷隆盛、下関市が高杉晋作など幕末維新で活躍した人物をはじめ、長崎市は亀山社中記念館、京都市は新選組の「誠」の旗、千代田区は江戸城、高梁市は備中松山城などとなっている。
集めたスタンプの数に応じて、最高5万円分の旅行券などが当たるプレゼント企画もある。また、全制覇すると特別賞として、徳川慶喜が大政奉還を諮問した「二条城二の丸御殿大広間」で記念撮影ができる。
和歌山市政策調整課は「京都市以外の近畿での参画は和歌山市のみなので、多くの方にスタンプラリーを契機に訪問していただきたい」と話している。
下田の歴史紹介 「幕末開港」刊行
◆来月5日、記念講演会
幕末の開港の歴史を紹介した下田市史別編「幕末開港」が刊行された。ペリー来航などで知られる幕末の下田にスポットを当てた通史の市史は初めてで、資料編(6巻)、図説(2巻)に次いで通算9冊目となる。
国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の樋口雄彦たけひこ教授(日本近代史・幕末維新史)が、資料編や独自の研究をもとに2年がかりで執筆した。
1854年の日米和親条約の締結から60年の下田奉行所の廃止までの6年間を中心に、ペリー率いる黒船の来航、下田に往来した勝海舟や吉田松陰、上陸した外国人と日本人との交流、唐人お吉をめぐる論争などについて、写真や図表をふんだんに使って、分かりやすくまとめた。
また、下田を含めた南伊豆の地域的視点から、南伊豆出身で、新撰組に加わった加納通広などゆかりの人物も紹介した。下田市史編さん委員会の原秀三郎委員長(静岡大名誉教授)は、「高齢者にも読みやすく、親しみやすい本になるようにしたので、座右の書として置いてほしい」と話した。
A5判、355ページで500部発行、3800円(税込み)。2月5日午後1時半から下田市民文化会館で刊行記念講演会が開かれ、樋口教授が「幕末開港と下田奉行所の幕臣たち」をテーマに講演する。入場無料。購入などの問い合わせは、下田市教育委員会生涯学習課(0558・23・5055)へ。
コラム
あんパンはなぜ売れ続ける? 意外と知らない「ロングセラー菓子パン」のトリビア
わたしは「あんパン」をよく食べます。そのまま食べるのもおいしいですが、マーガリンを塗って食べるのも好きです。バターではいけません。乳臭すぎるからです。つぶあんマーガリンは日本人が誇れるすばらしい食文化だと思います。
マイ・フェイバリット・あんパンは、「高級つぶあん栗入り」(山崎製パン株式会社)です。マーケットやコンビニに行けば100円前後で買えます。わたしは「高級つぶあん栗入り」にマーガリンを塗りながら食べます。最高の組み合わせです。お試しください。
あんパン誕生前夜
あんパンは明治時代に発明されたものです。すでに江戸時代には「まんじゅう」がありましたが、新元号「明治」に変わった直後の日本人に「あんぱん」を受け入れてもらうためには苦労があったようです。おなじ「小麦生地であんこを包んだ食べ物」なのに、なぜでしょうか?
理由は「パンの風味」でした。『その時歴史が動いた26』(KTC中央出版・刊)所収の「明治天皇あんパンを食す/リストラ武士・木村安兵衛の挑戦」によれば、当時はパン発酵のために「ビール酵母」を使っていたので、仕上がりは硬くて酸っぱかったそうです。
あんパンは武士が作った
「まんじゅう生地」をヒントにして、日本人好みのパンを作ることを思いついたのは、木村安兵衛(きむら・やすべえ)という士族でした。あんパンで有名な「木村屋總本店(文英堂)」の創業者です。もともと武士だった木村安兵衛は、1869年(明治2年)の版籍奉還が実施されるのを知って、いままでの封建制度に見切りをつけて、東京の新橋にパン屋を開業しています。
歴史年表に照らし合わせれば、江戸城無血開城の1年後であり、なんと戊辰戦争の末期ごろです。木村安兵衛がパン屋を開業したのは、明治2年3月。箱館の五稜郭防衛戦で土方歳三が戦死したのは、同年5月。封建社会に属していた武士ふたりの運命が大きく分かれた瞬間です。
当時の酸っぱくて硬いパンを改良するために、安兵衛は「ビール酵母」ではなく「日本酒の酵母(酒種)」を使うことにしました。つまり「酒まんじゅう」の応用です。その後「あんこ」をパンに詰めるという発想の元にもなりました。
パンは健康食品だった!?
明治期にあんパンが普及した理由としては「栄養価」と「画期的なマーケティング」を挙げられます。まず「栄養」について説明します。
幕末から明治にかけて、東京では「脚気(かっけ)」患者が増えていました。ビタミンB1が欠乏することによって、末梢神経障害や心不全を発症します。明治期には、「脚気衝心」による年間2万人の死者が記録されています。
ビタミンB1欠乏症である脚気に「パン食が効果的である」と説いたのは、明治時代に来日していたドイツ人医師ホフマンでした。パンの材料である小麦粉の胚芽には、鉄分や食物繊維やビタミンB1などが多く含まれるからです。脚気を改善したり予防したい人々が買い求めることで、木村安兵衛のパン屋は繁盛しました。
究極の販売促進マーケティング「皇室御用達」
明治時代といえば「文明開化」というキーワードが挙げられます。しかし、元号が「明治」になったからといって、日本人全員がすぐに西洋文明を受け入れたわけではありませんでした。
「あんパン史観」を採用するならば、真の文明開化は明治8年と言えるかもしれません。この年に「新政府側」と「旧幕府側」による歴史的和解がおこなわれたからです。その席上には「あんパン」がありました。
『あんぱんはなぜ売れ続けるのか』(井上昭正・著/清流出版・刊)は、すぐれたマーケティング事例を解説したビジネス書です。一例として「木村屋總本店の桜あんぱん」の歴史が紹介されています。
1875年(明治8年)に、明治天皇と皇后両陛下による花見行幸がおこなわれました。桜が咲きほこる隅田川へ向かう途中に、一行は「旧・水戸徳川藩邸」に立ち寄りました。
行幸を出迎えたのは徳川昭武(とくがわ・あきたけ)でした。十五代将軍・徳川慶喜の実弟です。慶喜は、水戸藩の第9代藩主である徳川斉昭の実子です。水戸徳川家から一橋家に養子に出たあと、将軍になっています。
つまり、明治8年4月4日の花見行幸のために旧・水戸徳川藩邸へ立ち寄ったのは、新時代を象徴する明治天皇が、旧時代を象徴する一族の住まいをおとずれるという歴史的イベントだったのです。
その席上に、木村安兵衛の作った「桜あんぱん」が献上されました。あんパンも新時代を象徴するものでした。
こうして「桜あんぱん」は、水戸屋敷に届けられ、明治天皇のお気に召し、ことのほか皇后陛下(昭憲皇太后)のお口にあったと、大変喜ばれました。
そして「引き続き納めるように」という両陛下のお言葉があり、宮中御用達に加わることになったのです。
(『あんぱんはなぜ売れ続けるのか』から引用)
天皇陛下や皇后陛下が「おいしい」と言ったことは、またたくまに全国へと伝わりました。「文明開化の味」として、あんパンは日本中に広まったというわけです。
(文:忌川タツヤ)
発見資料としては超一級だと思います。
福井新聞(東洋経済オンライン)
発見された坂本龍馬書状に暗殺の黒幕示唆か朱書きの付箋を貼り極秘扱いに
坂本龍馬、福井藩を頼る書状発見 暗殺5日前、由利公正の出仕懇願(2017年1月13日午後5時55分)
福井藩、坂本龍馬を「表舞台」導く 第3極としての存在感背景に
坂本龍馬との関係はドラマチック 由利公正の大河化「題材面白い」(2016年8月1日午前7時20分)
毎日
坂本龍馬「新国家」専心 暗殺5日前の書簡発見
時事通信
暗殺直前の龍馬の手紙新たに発見=「新国家」財政担当の出仕を要請
福井新聞(東洋経済オンライン)
発見された坂本龍馬書状に暗殺の黒幕示唆か朱書きの付箋を貼り極秘扱いに
幕末の志士坂本龍馬が1867年、京都で暗殺される5日前に、福井藩重臣の中根雪江(せっこう)に宛てた直筆の書状が見つかった。高知県が13日に発表した。
龍馬の書状は折りたたまれ、封紙に入った状態で見つかった。封紙には「坂本先生遭難(暗殺)直前ノ書状ニテ他見ヲ憚(はばか)ルモノ也」と朱書きの付箋が貼られ、“トップシークレット”の扱いになっていた。
付箋をいつ、だれが書いたのかは不明だが、福井市立郷土歴史博物館の角鹿尚計館長は中根雪江の書体に似ているという。もし中根だとすると「暗殺の黒幕を示唆する史料となるかもしれない」と話す。
付箋が貼られた理由は?
龍馬暗殺の実行犯は京都警護に当たっていた見廻(みまわり)組説が有力だが、黒幕は幕府説、薩摩藩説、土佐藩説、紀州藩説などがあり謎となっている。
角鹿館長が書状で注目するのは、龍馬が幕臣永井玄蕃(げんば)(尚志(なおゆき))と明日(11月11日)に会う予定で、中根に同行してほしいと記している点。永井は徳川慶喜の側近で大政奉還を推進した。龍馬は幕府側の実力者として永井を頼り、度々面談。暗殺前日にも会っていた。幕府上層部が暗殺に関与したとみる角鹿館長は「中根は永井周辺が指示したと考え、暗殺直前の手紙に自分の名前が書かれていることから嫌疑が及ぶことを恐れ、封印したのでは」と推測する。
一方、京都国立博物館の宮川禎一上席研究員は「中根は三岡八郎の新政府への出仕に非協力的だったため、三岡に手紙が見られると具合が悪いと思い付箋をしたのでは」と話している。
坂本龍馬、福井藩を頼る書状発見 暗殺5日前、由利公正の出仕懇願(2017年1月13日午後5時55分)
幕末の志士坂本龍馬が1867年、京都で暗殺される5日前に、福井藩重臣の中根雪江(せっこう)に宛てた直筆の書状が見つかった。高知県が13日に発表した。大政奉還後の新政府樹立に向け奔走する中、財政手腕を高く評価していた同藩士三岡八郎(後の由利公正)を一日も早く出仕させるよう、「新国家」という言葉を使いながら懇願した内容。専門家は「龍馬の活躍や幕末における福井藩の役割の大きさが分かり、幕末史や龍馬研究の進展が期待できる重要な史料」と評価している。
書状は縦約16センチ、横約92センチの和紙に毛筆書き。書状を包んでいた封紙に龍馬が偽名として使った「才谷楳太郎」と記され、本文中は「龍馬」の書名があった。
140点以上あるとされる龍馬の書状の中で、「新国家」という言葉が確認されたのは初めて。
日付は11月10日。10月14日の徳川慶喜による朝廷への大政奉還を受けて、坂本や土佐藩重臣の後藤象二郎らは朝廷中心の新政府樹立に向けた活動を活発化させていた。
こうした中、前福井藩主松平春嶽が11月8日、京都の福井藩邸に到着。書状は同じく上京し同藩邸にいた中根に出され、「(春嶽の)上京は千万の兵を得たような心持ち」とし、中根の尽力に感謝している。
その一方、福井藩の内部事情で「急を要する」三岡の上京、出仕が進まないため、「三岡の上京が一日先になると、新国家の家計(財政)の成立が一日先になる」とまで記し、中根に三岡の上京を藩として早急に許可するよう訴えている。
龍馬は新政府に財源がないことを憂い、福井藩の財政再建を成し遂げた三岡を新政府の財政担当者にと構想。10月下旬から福井を訪れ、藩の政治問題に絡んだ処分で幽閉中の三岡と同月30日に面会した。11月5日に京都へ戻り、会談の様子や三岡への高い評価を記した後藤象二郎宛ての「越行の記」を執筆。3年前に草稿が発見され、今回はこれに続く書状とみられる。
三岡は一月あまり後の12月半ばになって新政府に出仕。太政官札を発行するなど財政責任者として活躍した。
今回の書状を分析した京都国立博物館の宮川禎一上席研究員は「龍馬の他の手紙にはない、『新国家』という言葉が使われているのが貴重。龍馬が死の直前まで新国家建設に専心していた様子をよく示している」と話している。
書状は昨年8月、東京の企画会社isanaが京都国立博物館に持ち込み、複数の専門家が筆跡などから真筆と判断した。入手経緯やこれまでの保管状況は明らかにしていない。
今年は龍馬暗殺や大政奉還から150年。書状は高知県で開かれる「志国高知幕末維新博」に合わせ、3月4日から県立高知城歴史博物館(高知市)で一般公開される。
■龍馬の書状 読み下し
一筆啓上差し上げます。
このたび越前の老侯(松平春嶽)がご上京に成られたことは千万の兵を得たような心持ちでございます。
先生(中根雪江)にも諸事ご尽力くださったこととお察し申し上げます。
しかしながら先頃直接申し上げておきました三岡八郎兄の上京、出仕の一件は急を要することと思っておりますので、なにとぞ早々に(福井藩の)ご裁可が下りますよう願い奉ります。三岡兄の上京が一日先になったならば新国家の家計(財政)の成立が一日先になってしまうと考えられます。
ただ、ここの所にひたすらご尽力をお願いいたします。
誠恐謹言
十一月十日
龍馬
中根先生
左右
追白 今日永井玄蕃頭方へ尋ねていったのですが御面会はかないませんでした。
(永井殿と)談じたい天下の議論が数々あり、明日また訪ねたいと考えているところですので、大兄もご同行がかないますならば実に大幸に存じます。
再拝
■福井藩と坂本龍馬の関係は
>>坂本龍馬の書状、暗殺の黒幕示唆か
>>福井藩、坂本龍馬を「表舞台」導く
>>坂本龍馬、福井藩を頼る書状発見
>>由利と龍馬の関係はドラマチック
福井藩、坂本龍馬を「表舞台」導く 第3極としての存在感背景に
幕末の志士坂本龍馬が1867年、京都で暗殺される5日前に、福井藩重臣の中根雪江(せっこう)に宛てた直筆の書状が見つかった。高知県が13日に発表した。
新たに発見された龍馬の書状からは、激動の幕末維新期に福井藩の果たした役割の大きさがみえてくる。その背後に、ともに平和路線を目指した龍馬と福井藩の強い結びつきがあった。
書状で龍馬は、前福井藩主松平春嶽の上京について「千万の兵を得た」と記した。当時、大政奉還は決まったが、薩長の武力討幕派と幕府側が激しく対立していた。
福井市立郷土歴史博物館の角鹿尚計館長は「政事総裁職も務めた春嶽の動きを周囲は注目していた。流血を避けたかった龍馬は、中立的で(雄藩連合を主張する)公儀政体派の春嶽の上洛(じょうらく)によって、武力討幕派と幕府を支持する佐幕派が一つにまとまると期待したのだろう」とみる。
幕末史は討幕と佐幕の2極で語られがちだが、「福井藩のように、平和的に朝廷と幕府の共存共栄を目指した第3極の存在の重要さがよく分かる書状」と角鹿館長。
一方、こうした動きに呼応した龍馬が、政治の“表舞台”に立つきっかけをつくったのが福井藩だった。
土佐藩脱藩の年、江戸の福井藩邸で龍馬は春嶽と面会した。通常、一介の浪人が藩主に面会することはありえない。両者を取り持ったとみられるのが、今回の書状の宛名、春嶽の近臣中根雪江(せっこう)だ。角鹿館長は「面会させる人物は中根が吟味していたはず。頭角を表し始めた志士らの情報に、常にアンテナを張っていたのだろう」と推測する。
勝海舟の門下となった龍馬は1863年、勝の使者として福井へ春嶽を訪ね、海軍操練所建設資金の支援を求めた。これに対して、福井藩は5千両(千両説も)もの大金を工面。龍馬に対しても同年、活動資金として15両が中根から渡された。姉への手紙で龍馬は「一大藩(福井藩)に頼みにされ、金が必要なら10両20両くらいはなんでもない」と記している。
龍馬は少なくとも2回は福井を訪問。暗殺される約2週間前には、莨屋(たばこや)旅館で三岡八郎と長時間にわたり新政府の富国策を論じあった。「龍馬の歴史舞台の活躍は、福井で始まり、福井行きの旅が最後だった」と角鹿館長。今回の書状を確認した京都国立博物館の宮川禎一上席研究員は「中根の存在を含め、龍馬と福井藩との関わりに関する研究が一層進展するはず」と期待していた。
坂本龍馬との関係はドラマチック 由利公正の大河化「題材面白い」(2016年8月1日午前7時20分)
「幕末明治を福井から描く」をテーマに、時代考証の専門家、ドラマ制作者、地元の歴史家が語り合うシンポジウムが31日、福井市のハピリンで開かれた。激動の中で福井藩主松平春嶽、藩士由利公正らが果たした役割や作り手の視点で見たドラマ性を紹介した。「当時の福井の先進性には現代に通じるテーマがある」と、集まった歴史ファンら約200人に呼び掛けた。
由利を主人公にしたNHK大河ドラマの実現を目指す福井県と、官民でつくる県誘致推進協議会が企画した。
鯖江市ゆかりの人形浄瑠璃作家、近松門左衛門を題材にしたドラマ「ちかえもん」を手掛けたNHKドラマ番組部の梶原登城チーフ・ディレクターが、2010年の大河ドラマ「龍馬伝」のシーンを紹介しながら俳優のせりふや動き、カメラワークに込めた意味を解説した。「史実だけでは成り立たないが、事実から外れすぎれば興味を持ってもらえない。そのあんばいが(時代劇の)面白さであり難しさ」と語った。
主人公としての由利について「(坂本)龍馬との信頼関係はドラマチックで、東京の初代知事を務めて銀座の礎を築いた男でもある。五輪の時期の題材として面白い。1年間を貫く(ドラマの)大きな幹をどうつくるかが大切」とアドバイスした。
多くの大河ドラマに携わっている時代考証学会長の大石学・東京学芸大副学長は「幕末明治は福井の人材抜きでは描けない。レベルの高い思想が広がった福井や(明治維新後の)日常の平和を築くことに苦心した由利らの姿は、英雄でなくても物語になる」と期待を寄せた。
福井市立郷土歴史博物館の角鹿尚計館長は「幕末明治は幕府派、倒幕派の両極端で描かれることが多いが、福井はどちらでもなく(朝廷と幕府を一つにする)公武合体を目指した。中間派の視点から明治維新の本当の姿が分かる」と強調した。その上で、大野の内山兄弟や小浜の梅田雲浜ら県内のさまざまな偉人を取り上げることで、物語に厚みが出せると提案した。
毎日
坂本龍馬「新国家」専心 暗殺5日前の書簡発見
幕末の志士、坂本龍馬が慶応3(1867)年に京都で暗殺される5日前に記した直筆の書簡が見つかった。高知県が13日午後、発表した。約1カ月前に将軍、徳川慶喜が大政奉還したことを受けて福井藩の重臣に宛てた書簡で、文中には「新国家の御家計(財政)」という言葉が使われ、同藩士の新政府の財政担当者への出仕を懇願している。龍馬研究の進展が期待できる一級の史料といえ、研究者は「龍馬が新しい国家の樹立を目指して活動していたことが明確になり、歴史的価値は極めて高い」と評価している。【錦織祐一、最上聡】
福井藩重臣宛て 財政担当者への出仕懇願
書簡は縦16センチ、横92センチで、11月10日の日付。京都の福井藩邸に滞在していた同藩重臣、中根雪江宛てで、本文中には「龍馬」の署名があった。
大政奉還を受け、徳川家の親藩だった福井藩の前藩主、松平春嶽の京都入りを「千万の兵を得たる心中」と歓迎。龍馬は同藩士の三岡八郎(後の由利公正)を新政府の財政担当者に推挙していたが、三岡は幕府に強硬な姿勢だったため謹慎処分中だった。そのため、書簡で「三岡兄の御上京が一日先に相成候得ハ新国家の御家計御成立が一日先に相成候(三岡の京都入りが1日遅れれば、新国家の財政成立が1日遅れてしまう)」と訴えている。
三岡は龍馬暗殺の翌月に京都に入り、新政府の五箇条の御誓文の起草に関わったほか、初期の財政も担当した。
龍馬の書簡で「新国家」という言葉が確認されたのは初めて。鑑定した京都国立博物館の宮川禎一上席研究員は「龍馬が死の直前まで新政府の樹立、新国家の建設に専心していたことをよく示す、貴重な史料だ。龍馬と福井藩との関係の研究も進展する」と話す。
書簡は、大政奉還と明治維新から150年を記念して高知県が開催する歴史博覧会「志国高知・幕末維新博」のため、全国の史料を調査する中で発見された。どのように保管されていたかや発見の詳しい経緯は明らかになっていない。3月4日から県立高知城歴史博物館(高知市)で公開される。龍馬の書簡は、暗殺される2日前の11月13日の日付で海援隊士だった陸奥宗光に宛てたものが現存では最後とされる。
考え色濃く
三浦夏樹・高知県立坂本龍馬記念館学芸員の話 「新国家」建設に向け、龍馬が尽力していたことを示すものだ。龍馬の文字の特徴は出ているが、数ある書状の中でもきれいで丁寧に書かれており、松平春嶽に見られることも意識したのでは。何よりも国家建設には財政・経済が重要で、その任を担えるのが三岡だという、龍馬の考えが色濃く出ている。
時事通信
暗殺直前の龍馬の手紙新たに発見=「新国家」財政担当の出仕を要請
土佐藩出身の幕末の志士、坂本龍馬が150年前の1867年に京都で暗殺される直前に書いた書状が新たに見つかったと13日、高知県が発表した。
〔写真特集〕幕末人物帳
龍馬研究の第一人者である京都国立博物館の宮川禎一上席研究員らが鑑定し、筆跡、内容とも本人のものと判断されたという。暗殺される5日前の日付が記され、福井藩の重役に宛て、同藩士の三岡八郎(後に「五か条の御誓文」を起案した由利公正)を新政府の財政担当として出仕させるよう懇願する文が書かれていた。龍馬はこの直前に福井を訪ね、三岡と会談していた。
龍馬の他の手紙にはない「新国家」という言葉が使われており、大政奉還を受け、設立が急がれていた新政府の財政問題の解決に龍馬が奔走していたことを裏付ける歴史的価値の高い史料だという。
3年前にも、龍馬が暗殺される直前に土佐藩の重臣・後藤象二郎に宛てた書状「越行の記」の草稿が見つかっており、三岡を強く推挙することなどが書かれていた。今回の書状はこれに続くものとみられる。
書状は個人が所蔵し、「他見をはばかるものなり」と書かれた付箋が付いた封紙に折り畳まれて入っていたため、150年も出てこなかったのではないかという。
書状は3月4日から高知市で開かれる「志国高知 幕末維新博」で公開される。(2017/01/13-13:05)
時代劇チャンネルで「陽炎の辻3」を見ながらアップ中です。
高知
2017年「幕末維新博」へ向け高知城をすす払い 迎春準備整う
幕末の世情克明に 高知市の男性が真覚寺日記を現代文で紹介
アート
幕末の天才絵師・暁斎の海外コレクション作品を一挙公開!
コラム
幕末の力士が参戦した、日本初の「異種格闘技戦」とは?
高知
2017年「幕末維新博」へ向け高知城をすす払い 迎春準備整う
高知城懐徳館で12月26日、年末恒例の「すす払い」が行われた。観光キャンペーン「志国高知 幕末維新博」の開幕などで多くの入場者が予想される2017年に向け、迎春準備が整った。
高知城管理事務所の職員や土佐観光ガイドボランティア協会のメンバーら約40人が参加し、床や写真パネルを水拭きしたり欄間のほこりを落としたり。天守閣では長さ2メートルほどの唐竹を使って、ほこりやクモの巣を丁寧に取り除いた。
普段、城内の園庭整備などをしている金子英省(えいせい)さん(67)はこの日は天守閣の掃除を担当し「遠くからお客さまが大勢来てくれるき、きれいにしとかんとね」と念入りに竹を揺すっていた。
2016年の懐徳館の入場者は2015年より約7100人多い約27万2100人。2017年は3月に幕末維新博が開幕し高知県立高知城歴史博物館も開館することもあり、より多くの人でにぎわいそう。
懐徳館は12月26~31日は休館し、元日は無料で特別開館する。
幕末の世情克明に 高知市の男性が真覚寺日記を現代文で紹介
土佐観光ガイドボランティア協会顧問で高知市の秦史談会長の岩崎義郎さん(89)=高知市薊野北町3丁目=が、現存する幕末期の日記の記述を丁寧に紹介した「安政地震と幕末の世相」(リーブル出版)を出版した。安政地震の揺れや津波の様子が克明に描かれているほか、当時の世情も分かる記録本に仕上がっている。ここから先は有料で購読となります。
土佐市宇佐町にある真覚寺の住職、井上静照(じょうしょう)が1854(安政元)年から68(明治元)年にかけて記した「真覚寺日記」。住職が高知城下や宇佐で見たこと、聞いたうわさ話などが記録されている。...
アート
幕末の天才絵師・暁斎の海外コレクション作品を一挙公開!
幕末から明治にかけて活躍した絵師・河鍋暁斎(かわなべきょうさい)。圧倒的な画力と独特のユーモアセンスで、幅広い題材を自由に描き分けた天才絵師の作品を、世界屈指の暁斎コレクションによって紹介する展覧会がやってくる。その多彩な技に注目を!
◆世界屈指の暁斎コレクション!あらゆる技法を駆使して自在に描き分けた作品がずらり
2017年2月23日(木)から2017年4月16日(日)まで、渋谷のBunkamura ザ・ミュージアムで「ゴールドマン コレクション これぞ暁斎! 世界が認めたその画力」展が開催される。
幕末から明治にかけて活躍した天才絵師・河鍋暁斎。幼い頃から歌川国芳に浮世絵を学び、狩野派の修行を終えたのが19歳だというから驚きの早熟ぶり。その後は、流派にとらわれないさまざまな画法を駆使して、仏画から戯画まで幅広いテーマを描き分けたそう。
そんな暁斎の絵を35年以上に渡って集め、世界屈指の暁斎コレクションで知られるイギリス在住の画商イスラエル・ゴールドマン氏が所蔵する作品を一挙公開。
暁斎といえば、明治時代を代表する西洋建築の「鹿鳴館」などを設計したイギリス人建築家ジョサイア・コンドルが弟子入りしていたり、当時さかんに行われた国内外の博覧会に出品したりと、世界に画力を認められた日本人絵師のひとり。
躍動感あふれる動物画、ユーモラスな妖怪画、荘厳さ漂う宗教画など、一気に仕上げたような大胆な筆づかいから緻密で繊細な表現まで、あらゆる技で描き分けた作品群は見どころたっぷり。
この機会に、天才絵師のバラエティ豊かな作品をお見逃しなく。
問い合わせ:03-5777-8600(ハローダイヤル)
東京都渋谷区道玄坂2-24-1 Bunkamura ザ・ミュージアム
アクセス:JR線「渋谷駅」ハチ公口より徒歩7分、東京メトロ銀座線、京王井の頭線「渋谷駅」より徒歩7分、東急東横線ほか「渋谷駅」3a出口より徒歩5分
※渋谷駅・宮益坂口より無料シャトルバスあり
開催期間:2017年2月23日(木)~4月16日(日)
※会期中無休
開館時間:10:00~19:00(入館は18:30まで)
※毎週金・土曜~21:00(入館は20:30まで)
入館料:一般1400円、大学・高校生1000円、中学・小学生700円
コラム
幕末の力士が参戦した、日本初の「異種格闘技戦」とは?
年末がやってきました。大晦日には「紅白」を観ますか? それとも「RIZIN」を観ますか? いつの日からか日本では大晦日に格闘技が行われ、テレビでも観られるようになりました。ちなみに「RIZIN」は今年で2回目。ミルコ・クロコップやキング・モーなどの有名選手も参加します。そんなわけで、今回は格闘技のお話をご紹介します。
幕末の力士が参戦した、日本初の「異種格闘技戦」とは?
世界のあらゆる国にある「格闘技」。
アメリカならプロレス。韓国ならテコンドー。そして日本はなんといっても相撲です。
国によってルールはさまざまですが、その枠を超えて「誰が強いのか」を純粋に争うのが「異種格闘技戦」。
実はこの異種格闘技戦が日本で初めて行われたのは、江戸時代。幕末のことなんです。
きっかけは、あのペリー来航。
アメリカの東インド艦隊が浦賀に来航した際、幕府は日本の威厳を示すため、江戸の力士たち30人を集め、贈り物の米二百俵を運ばせたのです。
そのとき、アメリカの格闘たちとの異種格闘技戦が行われたと記録されています。
参戦したのは、江戸末期に活躍した力士、小柳常吉。
背は170cmと小柄なものの、体重は150kgとなかなかの体格。
対するアメリカの選手は、レスリングのウィリアムスとブライアン、そしてボクシングのチャンピオンであるキャノンの3人!
小柳は「1人2人は面倒だ。3人いっぺんに来い」と、なんと3対1の勝負を受けて立ったのです。
キャノンの鋭い右ストレートをかわし、小手投げではたきこむ小柳。
するとすかさず2人がかりでタックルをかますウィリアムスとブライアン。
しかし小柳はひるまず、ブライアンを脇に抱え込み、ウィリアムスを足払いで倒した後、ベルトをつかんでつるし上げます。
脚の下には、はたきこんだキャノンの無惨な姿が。
まさに完全勝利! 小柳の強さに、その場にいたすべてのアメリカ人が震え上がったとか。
この様子は、日本の見聞録「黒船談義」に書かれているもの。
ですが、アメリカの「日本遠征日記」にはこの事実は全く載っていません。
あまりの完敗っぷりを、ペリーが公にしたくなかったのかもしれませんね。
文/岡本清香
TOKYO FM「シンクロのシティ」にて毎週月~木曜にお送りしているコーナー「トウキョウハナコマチ」。江戸から現代まで、東京の土地の歴史にまつわる数々のエピソードをご紹介しています。今回の読み物は、12月26日放送「日本初の、異種格闘技戦!!」よりお届けしました。
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