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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
2003年の暮れから大河ドラマ『新選組!』と幕末関係のブログとして始まって、かれこれ13年。幕末ニュースは見落としもあるかも知れませんが、月1回程度、史実や史跡を中心に拾っています。

東京
幕末の天才絵師・暁斎の海外コレクション作品を一挙公開!
 幕末から明治にかけて活躍した絵師・河鍋暁斎(かわなべきょうさい)。圧倒的な画力と独特のユーモアセンスで、幅広い題材を自由に描き分けた天才絵師の作品を、世界屈指の暁斎コレクションによって紹介する展覧会がやってくる。その多彩な技に注目を!

◆世界屈指の暁斎コレクション!あらゆる技法を駆使して自在に描き分けた作品がずらり

2017年2月23日(木)から2017年4月16日(日)まで、渋谷のBunkamura ザ・ミュージアムで「ゴールドマン コレクション これぞ暁斎! 世界が認めたその画力」展が開催される。

幕末から明治にかけて活躍した天才絵師・河鍋暁斎。幼い頃から歌川国芳に浮世絵を学び、狩野派の修行を終えたのが19歳だというから驚きの早熟ぶり。その後は、流派にとらわれないさまざまな画法を駆使して、仏画から戯画まで幅広いテーマを描き分けたそう。

そんな暁斎の絵を35年以上に渡って集め、世界屈指の暁斎コレクションで知られるイギリス在住の画商イスラエル・ゴールドマン氏が所蔵する作品を一挙公開。

暁斎といえば、明治時代を代表する西洋建築の「鹿鳴館」などを設計したイギリス人建築家ジョサイア・コンドルが弟子入りしていたり、当時さかんに行われた国内外の博覧会に出品したりと、世界に画力を認められた日本人絵師のひとり。

躍動感あふれる動物画、ユーモラスな妖怪画、荘厳さ漂う宗教画など、一気に仕上げたような大胆な筆づかいから緻密で繊細な表現まで、あらゆる技で描き分けた作品群は見どころたっぷり。

この機会に、天才絵師のバラエティ豊かな作品をお見逃しなく。
問い合わせ:03-5777-8600(ハローダイヤル)
東京都渋谷区道玄坂2-24-1 Bunkamura ザ・ミュージアム
アクセス:JR線「渋谷駅」ハチ公口より徒歩7分、東京メトロ銀座線、京王井の頭線「渋谷駅」より徒歩7分、東急東横線ほか「渋谷駅」3a出口より徒歩5分
※渋谷駅・宮益坂口より無料シャトルバスあり

開催期間:2017年2月23日(木)~4月16日(日)
 ※会期中無休
開館時間:10:00~19:00(入館は18:30まで)
 ※毎週金・土曜~21:00(入館は20:30まで)
入館料:一般1400円、大学・高校生1000円、中学・小学生700円

高知
自衛隊が高知城を初清掃 幕末維新博に先立ち高知県が依頼
 高知城の石垣や堀など清掃が行き届きにくい場所をきれいにしようと12月19日午前、陸上自衛隊高知駐屯地第50普通科連隊(高知県香南市香我美町)がボートなどを使って清掃した。

 2017年3月に開幕する「志国高知 幕末維新博」に先立ち、高知県が依頼した。陸上自衛隊高知駐屯地第50普通科連隊が駐屯地以外で清掃活動を行うのは初めてで、レンジャー資格を持つ隊員約70人が参加した。

 午前8時すぎから迷彩服にヘルメット姿の隊員が集まり、高所から下りる時に使う「スタティックロープ」で石垣を下りながら草取り。堀には「偵察用ボート」を浮かべ、水面の落ち葉をすくった。

 紛争地などで使う「軽装甲機動車」や「高機動車」なども自衛隊活動のPR展示用に乗り付けた。道行く観光客もものものしい空気に思わず足を止め携帯電話のカメラでパシャリ。自転車で通勤中のスーツ姿のサラリーマンも“二度見、三度見”していた。

北海道
北の至宝道内の文化財を訪ねて 白老仙台藩陣屋跡 “北辺の防人”の拠点 /北海道
 白老町の国の史跡「白老仙台藩陣屋跡」は今から160年前、外国からの侵略に備えて白老から襟裳(えりも)岬、国後(くなしり)島、択捉(えとろふ)島に至る沿岸の警備を担った仙台藩が拠点とした元陣屋の遺構だ。幕末から明治維新にかけての激動の時代、“北辺の防人”として異郷の地で任務を果たした藩士たちの苦難に満ちた歴史が刻まれている。【文・写真、坂本智尚】

 仙台藩陣屋は、海岸から約2・5キロ離れた白老川とウトカンベツ川にはさまれた平地に設けられた。海から…
 以下は有料サイトになります。


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『真田丸』再放送見ながら、まとめています。前回の信伊叔父上・昌相さま再登場含めた充実したドラマ、今週は堺さんの『あさイチ』出演と、充実しておりました。

北海道
「日本初」幕末の国産ストーブに火入れ 北海道 函館
北海道函館市の資料館で復元された、日本で最初につくられたとされる国産ストーブに火をともす恒例のイベントが行われました。
国産初のストーブは、今から160年前の江戸時代末期に、五稜郭の築城で知られる武田斐三郎が、函館に停泊していたイギリス船のストーブを参考に設計したと言われています。

11月25日は、そのストーブに火がともされた日で、函館市内の資料館では、まず小学生や市民が火打ち石を使って火花を飛ばし、江戸時代の火のつけ方を体験しました。そして、復元された、日本で最初に作られたとされる国産ストーブに資料館の館長が火をともしました。

ストーブは高さおよそ90センチ、直径およそ50センチの筒型で、当時と同じく鋳物で作るなど、忠実に再現されています。参加した人たちはストーブに手をかざしながら幕末の当時に思いをはせていました。

参加した小学生は、「火がぼうぼう燃えていて、とても温かくてすごかったです」と話していました。このストーブは函館市の箱館高田屋嘉兵衛資料館で展示されています。

福島
丹羽家当主ら戊辰戦争語る 『奥州三大名』歴史座談会、福島・二本松
 二本松藩の歴史を広く知ってもらおうと、丹羽家をはじめ、親交のある米沢藩上杉家、盛岡藩南部家の当主らによる歴史座談会が23日までに、二本松市の安達文化ホールで開かれた。震災復興支援事業で市教委の主催。

 「奥州三大名の維新前後」をテーマに、二本松藩丹羽家18代当主丹羽長聰氏、米沢藩上杉家17代当主上杉邦憲氏、盛岡藩南部家46代当主南部利文氏が東北の悲劇となった戊辰戦争などに思いをはせた。

 座談会では、各家の家訓やしつけに関する話題にも及んだ。丹羽氏は二本松を訪れ「殿様だったら愚直であってほしい」と言われたことに触れ「最近はこの言葉が(自分に)合うような気がする。東北の大名には通じるものがあるのでは」などと述べた。

「喜多方」ゆっくり楽しんで 県外サイクリストに向け自転車観光推進
 東京電力福島第1原発事故で離れた観光客を呼び戻そうと、福島県喜多方市は、自転車で訪れた観光客にゆっくりと名所を回ってもらう取り組みを進めている。名物の喜多方ラーメンが全国的な知名度を誇る一方、観光客の滞在時間が短いことが悩み。市は駐輪所やサイクリングコースの地図を作り「自転車でじっくり回り、魅力を体感してほしい」としている。

集客増へ「しまなみ海道」手本

 市によると、訪れる観光客数は原発事故後の平成23年度で157万人と前年度より30万人近く落ち込んだ。27年度は182万人とほぼ震災前に戻ったが、観光関係者には事故で観光客が依然として訪問を敬遠しているとの声もある。

 約110のラーメン店がひしめくが、同市での観光客の平均滞在時間は1日約4時間で、人口規模が近い都市と比べ約1時間短い。鮮やかな水の色を楽しめる五色沼(北塩原村)や、戊辰戦争の舞台となった鶴ケ城(会津若松市)など著名な観光地が近隣市町村にあり、ラーメンを食べた後は市外へ出てしまう観光客が多いとみられる。

 こうした現状を打開するため、市は、起伏のある山間部や高台から景色が楽しめる盆地の特徴を生かして自転車で訪れる観光客を増やそうと考えた。

 愛媛県と広島県をつなぐ瀬戸内しまなみ海道(西瀬戸自動車道)での自転車観光モデルに着目し、27年春には専用の駐輪機を市内の観光施設など約50カ所に設置。さらに、サイクリングに適した観光コースをまとめた地図も製作し、県外の自転車関連店舗に配った。

 主に東京や神奈川、埼玉など首都圏からの観光客をターゲットに、秋の紅葉や、レトロな形状で鉄道ファンに人気の一ノ戸川鉄橋も楽しんでもらう考えだ。

 市内の愛好家らでつくる任意団体「サイクルシティ喜多方協議会」もコースの選定などで協力。同団体の会長で、旅館を営む原重範さんは「喜多方を存分に楽しんでもらうきっかけにしたい」と期待をのぞかせた。
(共同通信)

茨城
日記で読み解く幕末~昭和初期 古河市で資料展
 江戸時代末から昭和の初めにかけ、書かれた日記を紹介する資料展「日記の世界」が古河市の市三和資料館で開かれている。約140点の資料から、時代の流れによる、当時の習慣や様子などが分かり、興味深い。12月25日まで。 (原田拓哉)
 江戸時代、日光東街道の宿場町だった市内の諸川地区で、代々組頭を務めていた舘野家の重左衛門の日記には、幕末から明治初期にかけての暮らしぶりが克明に記録されている。天気や奉公人たちの行動など、一年間の出来事を一冊にまとめ、十八年間書きつづった。
 正月の一日はうどん、二日はそばなどを食べ、三が日の食卓に、もちが上らなかった当時の習わしが分かる。また、戊辰戦争の際に、江戸から北上した多くの旧幕府軍の軍勢が諸川宿に宿泊したことも記されている。
 当時の庶民の娯楽だった伊勢参りの様子が分かる「道中記」も展示されている。数人連れで東海道をたどって鎌倉、京都などを巡り、帰路は中山道で善光寺を参拝した。一~三月にかけて五十三日間の長旅だったようだ。
 大正から昭和初期、子どもたちが夏休みの宿題として付けたと思われる「夏季休暇日誌」には、教師が添削した跡が赤字で残っている。女子学生の日記には、夜空に天の川がかかったり、ホタルが舞ったりする様子が描かれている。
 学芸員の小林靖さんは「子どもの日記は、思いのまま自由に書かれていて興味深い。誰でも一度は付けた日記を見直す機会にしてもらいたい」と話している。入場無料。

静岡
女子高生ガイド好評 反射炉の魅力、私の言葉で 伊豆の国
 世界遺産の韮山反射炉をはじめとした伊豆の国市内の史跡で、ベテランガイドに交じって1人の女子高校生がガイドを務め、来場者の注目を集めている。「伊豆の国歴史ガイドの会」に所属する橋塲(はしば)南美さん(18)=韮山高3年=。「全国各地から訪れる観光客に歴史的価値をしっかり伝えたい」と、平均年齢68歳のメンバーの中で奮闘する。
 「想像と違うね、地味だね、と感じるかもしれませんが、すごいものだということをこれから説明します」。10月下旬の日曜日。韮山反射炉で、橋塲さんが30人ほどの団体客を前に声を張り上げて案内を始めた。反射炉を1周しながら、炉の仕組みや時代背景、築造を手掛けた江川太郎左衛門英龍(坦庵)について解説。約15分の案内を終えると、団体客から「聞きやすくて良かったよ」「頑張って」と声を掛けられ、笑みをこぼした。
 ガイドの会に入会したのは4月。進路に悩む中、歴史が好きだったこともあり、ガイドになることを思いついた。必要な知識を身に付け、独り立ちしたのが6月。以降、土日を中心に月2~3日、韮山反射炉や国指定重要文化財「江川邸」、国宝の仏像がある「願成就院」などに立つ。
 韮山地区で生まれ育った橋塲さんにとって、ガイドの経験は近代化の礎になった韮山反射炉など、身近な史跡に対する見方を変えるきっかけになった。年間数十万人もの観光客が訪れる中で、「ガイドの力でどれだけ伊豆の国市を楽しんでもらい、滞在時間を増やせるか」という使命感も生まれた。
 年明けには大学受験を控えるが、年内はガイドを続ける予定。大学に進学しても、定期的に地元に戻り、活動に参加するつもりだ。「伊豆の国歴史ガイドの会」の小松逸夫会長(80)は「評判も良く、大事な戦力。若い視点で活動してくれれば」と期待する。

 <メモ>韮山反射炉のガイド態勢は、平日は「伊豆の国歴史ガイドの会」の会員5人が対応。休日は同会のガイド3人に加え、「伊豆の国外国語ガイドの会」の会員1~2人が常駐する。外国語での案内の要望がない時には日本語でもガイドを行う。外国語ガイドの会には中学生1人、高校生4人が所属し、活動に加わる。

愛知
幕末ネタ帳204冊の解読進む 尾張藩家老の家来が筆
 江戸時代後期、尾張藩の家老の家来が半世紀にわたり藩内外の出来事を個人的に書き留めた「青窓紀聞(せいそうきぶん)」(全204冊)の解読作業が大詰めを迎えている。幕末の動乱からうわさ話まで収録しており、解読に当たる蓬左(ほうさ)文庫(名古屋市)の木村慎平学芸員は「1人でニュースを集め、新聞を作っていたようなもの。当時の世相を知る第一級の史料だ」と話している。

 筆者は、尾張藩の家老を務める大道寺家に文書係として仕えていた水野正信(1805~68年)。青窓紀聞…
 以降は有料記事にて。

三重
伊賀市史通史編「近世」来月発売 江戸期の営み一冊に 藤堂藩治世の暮らしを描く /三重
 伊賀市は「伊賀市史」の通史編で最後に残っていた第2巻「近世」を12月1日に発売する。江戸時代の伊賀の人々の営みを一冊に凝縮した。これで古代から現代までの通史編(1~3巻)と資料編(4~6巻)の計6冊がそろう。未刊は「年表・索引」だけになる。11月中に予約すると通常価格(5000円)より安い4000円で購入できる。【大西康裕】

 通史編の「近世」も他巻と同じA5判。「伊賀市史」の題字も伊賀出身の松尾芭蕉が書いた文書から一文字ず…
 以降は有料記事にて。

兵庫
幕末の儒学者が食したカステラ 生野高生が再現
 幕末の儒学者池田草庵が兵庫県朝来市・生野に滞在した際、振る舞われたとされる「か寿(す)てら(カステラ)」にちなんだ商品開発に生野高校家庭科部が取り組んでいる。当時、カステラは武士や豪商など上流階級だけが享受できた高級品。江戸期の鉱山町の豊かさを物語るエピソードで、生野の歴史に興味を持ってもらう目的もある。

 草庵は同県養父市出身で、1866年3月3~14日、生野に滞在。生野代官は生野銀山町の南隣にあった森垣村の地主・石川家にもてなし役を命じた。

 同家の古文書には、草庵に振る舞った献立が記録されており、草庵は滞在中に2回「か寿てら」を食べている。3月7日夕の献立からは、吸い物と一緒に食べたことがうかがえる。

 6月の料理教室で草庵の好物「とうふめし」を再現した生野公民館が、献立再現の第2弾としてカステラ作りを企画。「生野の歴史の面白さに加え、商品化を通じたビジネスの基本も学んでもらいたかった」と同公民館の田中通代さん。

 当時の作り方までは分からないため、明治時代のカステラ店のレシピも参考に、市内の公民館で菓子作りを教える東育子さん(68)=朝来市和田山町=が製法を考案し、指導。高級品だった砂糖や卵、蜂蜜、小麦粉を混ぜ合わせ、オーブンでふっくら焼き上げる。

 商品は「江戸幕府直轄 生野代官おもてなしシリーズ か寿てら」と名付け、今後イベントなどで販売予定。26日、JR生野駅前で開かれる「生野うめぇもんフェア」にも出品する。2年の女子生徒2人は「生野の歴史を知ってもらうきっかけになれば」と話している。税込み200円。

宮崎
島津発祥まつり武者行列など多彩に きょう都城で /宮崎
 都城の歴史絵巻を思わせる「島津発祥まつり」のパレードが23日、都城市中心部である。市を代表する一大行事。約250人が連なる武者行列のほか、伝統芸能披露など多彩なイベントがある。

 観光協会などで構成する実行委主催。地元の歴史や文化を伝える華やかな「明道館パレード」は、都城島津邸-神柱宮間約1.5キロ…
 以降は有料記事にて。

昨日BS11の「尾上松也の古地図で謎解き」で老中阿部正弘と第36代江川太郎左衛門(英龍、坦庵)と林述斎が取り上げられていました。

第55回 黒船来航~ペリーに立ち向かった3人の武士
今回のテーマは、「黒船来航」

▼ひも解く歴史の謎
①1年前に知っていた「ペリー来航」その時、幕府は・・・
②「江戸湾の砲台」黒船に向けられたものではなかった!?
③ペリーの脅しと対等に渡り合った男とは

今から約160年前、ペリー率いる巨大な蒸気船の艦隊が日本の海に現れました。いわゆる「黒船来航」は、日本を大きく揺るがし、江戸時代の「終わりの始まり」となりました。「突然やってきた」と思われている黒船ですが、実は幕府は来航の情報を1年前にはつかんでいました。事前にペリー来航を知った幕府がとった作戦とは。
2度目の来航に備え、江戸湾に砲台を作り始めた幕府。しかし、それは黒船に向けられたものではありませんでした。砲台の本当の目的とは。
そして、ペリーの強烈な脅しに屈せず、対等に渡り合い交渉をまとめた人物とは?
「黒船」に立ち向かった3人の活躍を、歌舞伎俳優・尾上松也と中村隼人が古地図でひも解きます。

古地図案内人:西川武臣(横浜市開港資料館)

 BSなので視聴率は低いかも知れませんが余り脚色せずに歴史を紹介する番組です。

 坦庵公関連で新聞記事もクリップ。

お台場生みの親「坦庵」PR 伊豆の国の小学生、都内で
 伊豆の国市立韮山小の6年生104人がこのほど、修学旅行先の東京都内で地元を紹介する手作りのパンフレットを配布した。江戸時代の韮山代官江川太郎左衛門英龍(坦庵)が現在の東京都港区に「台場」を築いた縁などをまとめ、韮山を広くPRした。
 児童は総合学習の時間で4月から地域の歴史を学んできた。世界遺産の韮山反射炉や江川英龍などについて調べ、7月にまとめた内容をパンフレットにして韮山反射炉と三島駅で配布。「韮山の宝を全国に広めたい」という思いから修学旅行先での活動を決めた。
 東京の人たちに興味を持ってもらうため、台場と韮山の関係を盛り込んだ内容で新たに製作。韮山にゆかりの深い北条政子も取り上げるなど関心を高める工夫を凝らした。5~6人の班ごとにB4判の紙の両面に説明文や絵などを手書きし、3クラスで計18種類のパンフレットを完成させた。
 配布活動はゆりかもめの台場や新橋など4駅で実施。児童は声を掛けながら駅を行き交う人たちに配り、約30分で用意した660部をほぼ配り終えた。受け取った人たちからは学校に電話やメールがあり、「新しいことを知る機会をくれてありがとう」「自分も高校時代に反射炉と江川英龍をテーマに作品を制作した」などの感想が寄せられたという。
 児童は今後、地元の魅力を直接伝える試みとして、市内の史跡でのボランティアガイドに挑戦する。担当の駒坂俊夫教諭は「活動をきっかけに子どもたちが地元に愛着を持ってくれたら」と話した。

偉人、武将隊姿でパレード 伊豆の国時代まつり
 伊豆の国市の歴史や文化を発信するイベント「伊豆の国時代まつり」(同実行委員会主催、静岡新聞社・静岡放送後援)が6日、同市の韮山時代劇場周辺で開かれた。仮装行列「時代パレード」やステージイベントが繰り広げられ、盛り上がりを見せた。
 パレードには団体や学校などの単位で市内外から約千人が参加。江川太郎左衛門英龍、源頼朝、北条政子などの市ゆかりの偉人や、武将隊、鉄砲隊などに扮(ふん)し、時代順に約850メートルのコースを練り歩いた。江川英龍が普及を図った高島流砲術の研究組織「西洋流火術鉄砲隊保存会」(東京都)など、他県からのゆかりの参加者も加わった。
 ステージでは、市内外の団体が伝統芸能や音楽演奏を披露。特産品などを販売するコーナー「楽市楽座」も設けられ、多くの来場者でにぎわった。
 まつりは市民の一体感や郷土愛を高める目的で2015年に初開催され、今年が2回目。
『真田丸』クランクアップおめでとうございます。過去回を録画再生しながら今日の放送を楽しみに待っています。

福島
福島の近現代史】後世にどう伝えるか(10月29日)
 【再来年の平成30年に放送されるNHK大河ドラマは、幕末から明治初期の西郷隆盛[さいごうたかもり]を主人公にした「西郷[せご]どん」に決まった。この年は県内各地が戦場となった戊辰戦争と、元号が慶応から明治と改められた改元(1868年)から150年に当たる。時代の変革に関わった人々の群像や、近代化の道筋に全国の関心が集まるとみられる。
 県民は「戊辰と明治」に対して、さまざまな思いを抱き続けてきた。高校で国内外の近現代史を学ぶ「歴史総合」を必修とする検討が進む。節目に合わせた観光交流や連携、地域おこしに加え、史料を掘り起こしたり、史実を問い直したりする努力を積み重ね、本県の近現代史を若い世代や全国にどう伝えるのかを工夫するべきだ。
 「明治100年」に当たった昭和43年10月23日、政府主催の記念式典が都内で行われ、本県も同じ日に福島市で記念式典を催した。県は記念事業に「ふ」を図案化した県章の制定、先覚者の顕彰、県内の学校に県の木(ケヤキ)の植樹、「県民の森」の造成(大玉村)、県文化センターと県歴史資料館の整備(福島市)などを掲げた。一方、会津若松市内では戊辰殉難者の追悼祭が行われた。
 「明治150年」を前に、政府は今月、関連施策の検討や、内閣官房への推進室の設置を明らかにした。「平成の薩長土肥連合」を構成する鹿児島(薩摩)、山口(長州)、高知(土佐)、佐賀(肥前)の4県知事は「連携を一層密にし、国と一体となって取り組みを進める」との共同コメントを出した。
 本県も先人の功績をどう受け継ぎ、敬意や慰霊の思いをどう表すのかを官民で話し合う必要がある。東日本大震災と東京電力福島第一原発事故を経験した今、国の近代化政策と本県の関係を振り返り、将来像を描く営みにつなげてほしい。高度経済成長期に迎えた「100年」との時代背景の違いを踏まえる姿勢が大切であり、特定の史観、政治的な立場や思惑に左右されない信念と慎重さが欠かせない。
 「150年」は歴史教育や研究の在り方を考える機会でもある。歴史上の出来事や人物には複数の解釈や評価が存在する。史料の発見や研究の進展に伴い、定説や通説が見直しを迫られ、教科書の記述に影響する場合がある。県内外の研究者や教員への支援、全国規模のシンポジウムや学会の定期的な県内開催を通じて、本県から教科書の書き換えや補足を求められる研究成果の蓄積と発信力の高まりを期待したい。(安田信二)

( 2016/10/29 09:18 カテゴリー:論説 )

浮世絵企画展が開幕 幕末3大絵師の作品展示 県立美術館
 鮮やかな浮世絵の風景版画を集めた企画展「原安三郎(はら・やすさぶろう)コレクション 広重ビビッド」は10月29日、福島市の県立美術館で開幕した。
 県立美術館の主催、福島民報社、テレビユー福島の共催。故・原安三郎氏(元日本化薬会長)が集めた名品で、歌川広重を中心に葛飾北斎、歌川国芳の幕末3大絵師の作品を展示している。広重晩年の傑作「名所江戸百景」、「六十余州名所図会」などを鑑賞できる。
 11月20日までの前期と、22日から会期最終日の12月11日までの後期で作品を入れ替える。前後期を合わせた展示点数は約250点に上る。
 11月6日午後2時から栃木県の那珂川町馬頭広重美術館の市川信也館長が「名所江戸百景の今と昔」と題して講演する。11月11日と12月3日の午後2時から学芸員のギャラリートークがある。
 観覧は午前9時半から午後5時。月曜日と11月24日は休館。一般・大学生1000円、高校生600円、小・中学生400円。みんぽう伝次郎クラブの会員証を提示すると、一般・大学生は800円となる。問い合わせは県立美術館 電話024(531)5511へ。
   ◇  ◇
 初日に会場を訪れた伊達市の農業佐藤久さん(56)は「色がきれいで構図も斬新。日本人が昔から続けている細やかな仕事が感じられる」と話していた。

(2016/10/30 11:46)

ニッポン瞬・彩烈女きりり 会津藩公行列(福島県会津若松市)
 2013年のNHK大河ドラマ「八重の桜」の舞台、福島県会津若松市の秋を彩る「会津まつり」。メインイベントの会津藩公行列には例年18万人が詰めかけ、華やかな歴史絵巻を堪能する。長年撮影を担当している同市職員、山内久良さん(51)は「行列には遠方のゆかりの地の方も参加いただいています。笑顔を絶やさず、祭りを盛り上げてくださり、ありがたい限りです」。「八重の桜」放送翌年の2014年、「誇り高き烈女たち“会津の華”」をテーマに行われた会津藩公行列を、山内さんの写真で紹介する。
 以下、写真はリンク先でお楽しみください。

戊辰戦争の西軍将兵慰霊 会津若松・西軍墳墓史跡保存会が墓前祭
 会津戊辰戦役西軍墳墓史跡保存会(山田悦史会長)は23日、会津若松市の西軍墓地近くのとうみょうこども園で墓前祭を行い、戊辰戦争で亡くなった西軍将兵の霊を慰めた。

 神式と仏式を合わせた法要が行われた。

 山田会長が祭文を読み上げ、関係者が玉串をささげて焼香した。会津吟詠会の詩吟奉納もあった。

 西軍墓地には薩摩、長州など西軍各藩の将兵約150柱がまつられている。

青森
弘前城(下) 幕末まで続いた「遺恨」 (1/2ページ)
津軽氏の居城である弘前城(青森県弘前市)には、東照宮がある。東照宮といえば、日光東照宮を総本宮とする徳川家康を祀った神社だが、日光以外で東照宮が初めて分祀(ぶんし)されたのは弘前城が第1号である。

 一外様大名でしかなかった津軽氏が、なぜ徳川御三家や親藩大名より先に東照宮を建てることができたのか。それは、家康の養女であった満天(まて)姫が2代藩主、信枚(のぶひら)の正妻になったからだ。

 東照宮が城内にあるということは、実は極めて大きな意味がある。徳川氏との友好関係は誰が見ても明らかであり、徳川幕府統治下の日本においては最高の「御家安泰の御守り」であった。

 戦国時代末期の津軽氏と南部氏との関係は、弘前藩と盛岡藩となっても「犬猿の仲」が続いた。だが、南部氏が遺恨から弘前城を攻めれば、家康の神霊(しんれい)に弓を引き、徳川幕府への反乱とみなされる。弘前藩にとって、盛岡藩を牽制するうえでも東照宮の存在は非常に大きかった。

 ところが、明治元(1868)年に起こった戊辰戦争では、弘前藩は幕府側である奥羽越列藩同盟には参加せず、新政府側として戦い、戊辰後は奥羽触頭(おううふれがしら)の地位に就いた。

 一方の盛岡藩は、仙台藩とともに最後まで奥羽越列藩同盟の中心的役割を果たしたため「賊(ぞく)軍」となる。おまけに同盟諸藩で最も遅く停戦した。津軽氏と南部氏にとって、戦国末期の因縁を残したまま明治という時代を迎えたのは歴史のいたずらだろうか。

 現在、弘前城(弘前公園)内には、約3000本の桜の木がある。正徳5(1715)年に弘前藩士が植えたのが始まりで、明治時代には約2000本が植えられた。大正4(1915)年に大正天皇、同10(21)年に秩父宮と高松宮が弘前を訪れて、陸軍大演習を統監したのを機に増殖され、「桜の名所・弘前城」が誕生した。

 弘前は、弘前城の春の桜だけではなく1年を通じて楽しめる。「夏はねぷた」「秋は紅葉と菊人形」「冬は雪燈籠と四季の景観」と豊かであり、生産量日本一を誇る「りんごのまち」としても有名である。

 現在、弘前城は本丸の石垣が外側に膨らむ「はらみ」がみられるため、天守を曳屋(ひこや)によって移動させ、天守真下から石垣の一部を修復中だ。 =次回は赤穂城(兵庫県赤穂市)

 【所在地】青森県弘前市下白銀町1
 【交通アクセス】JR奥羽本線「弘前駅」から弘南バス「100円循環バス」で約15分「市役所前」下車、徒歩すぐ

 ■濱口和久(はまぐち・かずひさ) 1968年、熊本県生まれ。防衛大学校材料物性工学科卒。陸上自衛隊、栃木市首席政策監などを経て、現在、拓殖大学地方政治行政研究所客員教授、一般財団法人防災教育推進協会常務理事を務める。著書に『探訪 日本の名城 戦国武将と出会う旅(上巻・下巻)』(青林堂)など。

山口
月性来年生誕200年 柳井出身、幕末維新の海防僧 地元顕彰会が講演会や本出版 /山口
 幕末に海防論を唱えた僧、月性(1817〜58年)の生誕200年を記念し、古里の柳井市で僧月性顕彰会(折中光雄代表理事)が、幕末維新の第一線の研究者による講演会や、月性の漢詩などを小中学生にも分かりやすく解説する読本の発行などを「月性さん顕彰プロジェクト」と名付け、来年から再来年にかけ実施する。【大山典男】

 月性は柳井市遠崎の妙円寺に生まれ、九州などに遊学し、帰郷後に私塾「清狂草堂(時習館)」を開いた。草…
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高知
幕末維新博開会式、来年3月4日に 推進協第3回会合 /高知
 来年の大政奉還150年と再来年の明治維新150年を機に県内で2年間開く「志国高知 幕末維新博」推進協議会の第3回会合が19日、高知市内であった。オープニングセレモニーを来年3月4日午前10時、高知市の高知公園で開くなど今年度事業計画や、高知城の石段改修などの関連予算を承認した。

 冒頭、会長の尾崎正直知事は、政府が「明治150年」関連施策推進室を開設したことや、2018年のNHK大河ドラマが「西郷(せご)どん」に決まり、舞台が幕末と明治維新…
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アート
北斎の作品だった!作者不明の6枚の絵画が浮世絵師・葛飾北斎の作品だったことが判明
 オランダのライデン国立民族学博物館所蔵の6枚の絵画作品はこれまで作者不明とされていましたが、調査の結果、江戸時代の浮世絵師・葛飾北斎が描いた可能性が高いことがわかりました。
北斎の作品である可能性が高い6枚の写真は医師で博物学者でもあったドイツのシーボルトによって持ち帰られたものなのだそう。シーボルトと北斎は当時交流があったと考えられています。

シーボルト直筆の作品の目録をシーボルトの子孫が所蔵しており、その目録と照らし合わせたところ「北斎が我々のスタイルで描いたもの」という記述が発見され可能性が高まったそうです。

これまで作者が分かっていませんでしたが、北斎研究で知られるライデン国立民族学博物館のマティ・フォラーシニア研究員などのチームが、シーボルトの子孫が所蔵していた目録と照らし合わせたところ、「北斎が我々のスタイルで描いたもの」という記述が見つかり、北斎の作品である可能性が高いことがわかりました。
NHKニュース

6枚の作品は水彩画のような西洋風の描き方が特徴で、このタッチは北斎が描いたものとしては異色のものなのだそう。北斎といえば木版画のイメージが強いですが、肉筆浮世絵も多く手がけており、国内外の様々な技法を自分のものにし作品に反映していたのでしょうね。

今年の新たな発見で印象的なものといえば、新選組の幹部・斎藤一の写真が発見されたり、真田丸の最古の絵図が発見されたりと色々とありましたが、

新撰組の新発見!謎の多かった新選組の幹部・斎藤一の写真が発見されました!

江戸時代 幕末に尊王派を取り締まっていた新撰組の幹部として活動していた斉藤一(さいとうはじめ)。…
斉藤一の経歴をはじめとする情報は今でも少なく、写真すらも残されていない人物とされていました。しか…真田丸、最古の絵図!「真田丸」出城の可能性を示す貴重な絵図が発見されました!

真田丸は、1614年の大坂冬の陣で戦国武将の真田幸村こと信繁が大阪城の南側に築いたとりでです。2016年のNHK大河ドラマ「真田丸」のタイトルにもなっているので、今年はよく耳にしますね。この真…今回の北斎の絵画もなかなかビックリなニュースですね。

出典: NHKニュース, 西日本新聞

ブックレビュー
幕末、列強の日本侵略を防いだ本当の功績者は?「官賊と幕臣たち~列強の日本侵略を防いだ徳川テクノクラート~」足立倫行 (ノンフィクションライター)
 官賊とは「官」を名乗る「賊徒」のこと。本書では薩摩・長州藩の尊皇攘夷派。原田さんは1年前、『明治維新という過ち【改訂増補版】~日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト~』を発表し、読書界に一大センセーションを巻き起こした。明治維新は近代を招来した革命でも何でもなく、薩・長のテロリストらによる幼い天皇を人質とした姑息・卑劣な軍事クーデターに過ぎない、と検証してみせたのだ。

 本書は、その原田史観の第2弾。

 「列強の日本侵略を防いだのは、明治政府を作った薩・長勢力ではなく、徳川幕府の幕臣たちだった、という主張ですね?」

 「明治維新のずっと前に欧米列強と和親条約や通商条約を結んだのは誰か?徳川の幕臣たちです。に屈せず対応し、5カ国続けて条約締結することにより、いずれの国の抜け駆け侵略をも防いだ。したたかです。開国=近代化路線はその時に敷かれました」

 「倒幕の一因に、米英主導の小判流出策による徳川財政の弱体化があり、幕臣がそれを必死に食い止めようとした点も大きい?」

 「ええ。日本特有の為替レートを利用して米英は小判(金)を買い漁った。それが幕府倒壊の真の原因と見る研究者もいます。止めようとしたのが外国奉行の水野です」

 原田さんは、日英通商条約の署名者でもあった水野をはじめ、岩瀬、小栗、川路の4人を、幕末の優秀な徳川テクノクラート、幕臣の「4傑」とする。
 「本当は、老中・阿部正弘など彼ら幕臣の業績・名前こそが今日の教育の場で伝えられるべきなんです」

 さも残念そうに、腕組みをした。

 広告業界に身を置く原田さんは、若い時から作家志望で、大阪外大の先輩、司馬遼太郎の歴史小説などを愛読してきた。しかし、どうしても肯定できない部分があったという。

 「吉田松陰・坂本龍馬・勝海舟を過大評価して、その結果、明治維新を一大革命とみる視点です。それはどう考えても違うと思いました」

 例えば龍馬の仲介した薩長同盟。

 龍馬が宿敵薩・長を結びつけて結局維新に至ったというのが通説だが、文書は両藩の署名もない桂小五郎の私的書状で、会津・桑名藩をけん制する確認状にすぎない。大体、「同盟」の4カ月も前に伊藤博文、井上馨の両長州藩士が「薩摩藩士」を装って薩摩藩邸に滞在、活動していたのだ。

 「龍馬は言わばグラバー商会の営業マンです。亀山社中とは、英国・薩摩・長州の間で大量の新型武器を交易する組織でした」

 「驚いたのは、英国に政変がなければ、英国シナリオの明治維新になっていたかもしれないことです」

 「強硬なパーマストン首相が1865年に急死したために、〝死の商人〟グラバー商会もそれ以上の干渉を控えた。幕末の最終局面で、日本にとって神風が吹いた、と言えます」

 次は、原田史観の第3弾『大西郷という虚像』を刊行とのこと。
2018年が戊辰戦争150年ということで、会津では記念事業の準備が始まりました。一方、薩長同盟を結ぶ前の桂小五郎の直筆書簡が見つかったりもして、幕末維新期からホットな歴史的発見がありそうです。

史実
「西郷の船来ず」桂が手紙に薩長同盟前年
 「薩蒸気船今以来り不申(薩摩の蒸気船がまだ来ない)」。桂小五郎(木戸孝允)が薩長同盟前年の1865年、下関で会談予定だった西郷隆盛の到着を待つ心情を記した直筆の手紙が19日までに、高知県立坂本龍馬記念館(高知市)の調査で見つかった。亀尾美香主任学芸員は「薩長同盟の舞台裏が分かる貴重な新史料」と話している。

 桂が同年の旧暦閏5月17日(西暦7月9日)と19日(同11日)、下関から長州藩上層部に宛てた2通と、68年7月の戊辰戦争の最中、参謀に戦線の状況などを伝えた1通の計3通。同館が今夏に京都の古書店で発見、筆跡鑑定などから桂本人の手紙と断定した。
福島
<戊辰戦争150年>会津若松市が記念事業委
 2018年の戊辰戦争150周年に向け、福島県会津若松市は17日、市内の経済、文化団体などと「会津若松市戊辰150周年記念事業実行委員会」を設立した。先人顕彰などの事業を通して会津地方の歴史的意義を再認識し、観光客の誘致や文化振興につなげる。
 18年に記念式典や講演会を開催するほか、記念誌の発行、誘客宣伝の映像製作、旅行商品開発、ロゴマーク作成といった事業を検討している。
 市内であった設立総会には、観光商工、教育・文化、交通関連など加盟する約130団体・個人の関係者が出席。会長に室井照平市長を選出し、顧問に会津松平家14代当主の松平保久氏、内堀雅雄福島県知事が就いた。
 室井市長は「会津の思いを広く発信する重要な機会。全市的な取り組みにして市民の機運醸成につなげたい」と話した。
 総会後、市内の観光施設「会津藩校日新館」の宗像精館長が「戊辰150年を世界へ」と題し講演した。

「戊辰戦争」150周年で式典 会津若松で記念事業委の発起人会
 戊辰戦争から150周年にあたる2018(平成30)年に、記念事業などを繰り広げる「会津若松市戊辰150周年記念事業実行委員会」の発起人会が12日、同市で開かれ、記念式典の開催など事業の概要を確認した。節目の年に歴史的意義を再確認しながら、先人の顕彰を通して文化振興や観光誘客につなげる。

 実行委は17日に設立され、約140団体が加盟する予定。

 実行委は17年度に情報発信に向けて専用ホームページを開設する。また機運醸成に向けたのぼり旗やロゴマークを作り、記念誌や映像も制作する。このほか複数の部会に分かれて、さまざまな取り組みも進める。

 発起人会には市や会津若松商工会議所、会津若松観光ビューローなど10団体の代表が出席。議事では「戊辰の歴史とともに、新時代を誇り高く生きた会津人の功績と思いに光をあて、会津の歴史や伝統文化を広く発信する」との設立趣意を決めた。

 同市では実行委とは別に、市民有志による「会津戊辰戦争150周年事業実行委員会」(会長・阿部隆一歴史春秋出版社長)が設立され、今年から3年計画の事業に着手している。

東京

北斎 ヨーロッパを魅了した江戸の絵師
オランダ、フランスから謎の風俗画40点 初の同時里帰り!!

北斎工房、オランダ国立民族学博物館蔵
(C)National Museum of Ethnology, Leiden
 葛飾北斎(1760~1849)は、日本の画家の中で最も早く西洋画法に習熟し、独自の絵画世界を作り上げた江戸の絵師です。しかし北斎の作品に魅了されたのは、日本人ばかりではありませんでした。激しいタッチと強烈な色彩を用いて感情を表出した作品を描いたゴッホは、「大好きな日本版画のコレクションをありったけ壁にピンで留めたい」と語り、その筆頭として北斎の名前をあげるほど、北斎の絵画世界に最も影響を受けた人物のひとりといえるでしょう。ゴッホをはじめ、日本の浮世絵が印象派をはじめとした西洋の近代絵画に大きな影響を及ぼしましたが、これ以前、江戸時代より日本の美術や世相、歴史、社会制度、物産などはヨーロッパで紹介されていました。
 最近の研究で文政年間(1818~1830)、長崎の出島に滞在したオランダ商館長たちは、 4年ごとに行われる江戸参府の時に北斎などの絵師に肉筆の風俗画を注文し、次の参府の際に注文した作品を祖国に持ち帰っていたことがわかりました。当時、50歳を過ぎた頃の北斎の関心は、人物や風俗、動植物などを漫然と筆の赴くままに描いたスケッチ集『北斎漫画』を出版するなど絵手本の制作にありました。
オランダ商館長の依頼を受け、北斎やその弟子たちが描いた作品も、江戸の人々の暮らしぶりが描かれています。これらの風俗画は、現在、オランダ国立民族学博物館とフランス国立図書館に所蔵されています。
 そして、今回、オランダとフランス、2箇所に分蔵されていたこれらの風俗画が初めて同時に里帰りすることになりました。特にオランダ国立民族学博物館に所蔵される<節季の商家>、<端午の節句>、<花見>などはオランダ商館の医官シーボルトが持ち帰ったものとして注目されています。本展では、オランダとフランスに残る北斎の風俗画から、これまで"知らなかった"北斎像を探るとともに、北斎とシーボルトの交流にも着目します。そして江戸で人気を博した「冨嶽三十六景」や『北斎漫画』に代表される、版画や版本、肉筆画、摺物など、初公開を含む北斎の名品を幅広く紹介します。 "知らなかった北斎"と"知っている北斎"―、ふたつの視点から迫る本展覧会で、ヨーロッパをも魅了した江戸の絵師・北斎の芸術をあらためてお楽しみください。


松陰神社で「幕末維新祭り」始まる 23日には奇兵隊パレードも
 松陰神社(世田谷区若林4)と松陰神社通り商店街で10月22日、「幕末維新祭り」が始まった。さわやかな秋晴れには恵まれなかったものの、大勢の来場者でにぎわっている。23日まで。

多くの屋台が出店する松陰神社内の様子

 幕末の思想家で、私塾「松下村塾」を率いた吉田松陰を祭る松陰神社を中心に、商店街周辺ではさまざまなイベントが行われている。今年で25回目。

 神社本殿前では11時30分よりオープニングセレモニーが行われ、今回のイベントを主催した「松陰神社通り松栄会商店街振興組合」の理事長で、維新祭りの佐藤勝実行委員長があいさつに立った。佐藤さんはまず、世田谷区とともに同祭後援を行う山口県萩市との1991年から始まるエピソードについて触れ、「『世田谷に小さな萩を作りませんか』というところから交流が始まった。今では、大きな萩が世田谷に根付いている」と述べた。続けて、佐藤さんは幕末動乱期を描いた2015年放送のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」の影響についても説明。「昨年の来場者は5万人で、年々増えている。名実ともに『世田谷三大祭り』と呼べるぐらいに成長した。(吉田)松陰先生に負けないよう、来年再来年と続けていきたい」と抱負を語った。

 その後、保坂展人世田谷区長をはさみ、山口県萩市の野村興児市長があいさつ。野村さんは松下村塾について、「非常に多面性を持っていた。ある人は政治塾といい、またある人は教育を重視した塾という」とし、日本の近代化における吉田松陰の多大な貢献について、歴史を交えて説明した。最後に、国の登録有形文化財の指定を受けた「明倫小学校」を改修した施設「萩・明倫学舎」が、同市内に2017年3月オープンすることをPRした。その後、数名のあいさつを経て、鏡割りが行われ、セレモニー参加者に日本酒がふるまわれたり、地元・国士舘大学の吹奏楽部がディズニー映画「アラジン」で知られるバラード曲「ホール・ニュー・ワールド」など計2曲を披露するなどした。

 セレモニーは12時15分過ぎに終了し、スタート時はまばらだった会場も、この頃には親子連れを中心とした来場者でにぎわった。神社内にはさまざまな屋台が並び、入口付近には、幕末ファンに向けた書籍販売所も設けられた。

 商店街でも、各店舗が路上販売を行い、神社同様の盛り上がりを見せていた。商店街内の資料館「松下村塾學び館」の運営スタッフは、「イベントの行われない普通の週末にも、松陰神社を訪れる人が増えている」と話していた。

 22日18時からは本殿前にてジャズのビッグバンド演奏が、23日13時からは「奇兵隊パレード」が行われ、世田谷区役所をスタートし、神社や商店街周辺を練り歩く。

 開催時間は、22日=10時~20時、23日=10時~19時。 

(続々・江戸城今昔:2)動乱の幕末、黒船迫り急造
 江戸城は内郭と外郭の濠(ほり)に加え南に三十間堀、東は隅田川を要害として水に守られていた。しかし嘉永6(1853)年、ペリー艦隊が浦賀沖に来航。当時の防衛ラインだった富津(ふっつ、千葉県)と走水(はしりみず、神奈川県横須賀市)の間に迫った。

 幕府は急いで品川沖に砲台場を築造。勘定吟味役・江川太郎左衛門を中心に大棟梁(とうりょう)・平内(へいのうち)大隅らが工事を進めた。土砂は御殿山や八ツ山、泉岳寺から、石は伊豆半島の真鶴から運んだ。大型艦船を阻もうと澪筋(みおすじ、船が通る水路)や隠れ洲(す)も考慮し、台場6基が完成したが、幕末の動乱の中、実戦には使われなかった。

 左の第3台場と右の第6台場では80ポンドの大型カノン砲が試射で火を噴いている。それ以外の台場は1962年ごろまでに姿を消した。右に延びる細長い防波堤は貯木場区画としても使われた。手前の道路はレインボーブリッジ。奥の埋め立て地にテレビ局やホテルなどの高層ビルが見える。(建築家・画家 木下栄三)

皇室と新選組の品々公開 文化 旧多摩聖蹟記念館・旧富澤家で
 東京都は、文化の日を中心に10月29日〜11月6日までを「東京文化財ウィーク」とし、都内全域の文化財の公開や、文化財に関わる様々な企画事業を実施する。多摩市でも、市の文化財である旧多摩聖蹟記念館(都立桜ヶ丘公園内)と、旧富澤家(多摩中央公園内)で10月22日(土)から特別展を開催する。

皇室ゆかりのモノ展示

 旧多摩聖蹟記念館で開催されるのが、特別展「『聖蹟』を語るモノたち〜旧多摩聖蹟記念館所蔵の皇室ゆかりの品々〜」。

 同館の生みの親である田中光顕は晩年、同志であった幕末の志士たちや、宮内大臣として仕えた明治天皇を顕彰する活動を展開。同館には、幕末の志士たちの遺墨や明治天皇をはじめ皇室に関連する資料が残されている。その同館に残されている明治天皇が使用した杖や茶碗、大正天皇が田中光顕に宛てた手紙などを展示し、「聖蹟」がどのようなモノで語られてきたのかを紹介する内容となっている。

 展示期間は12月11日(日)まで。開館時間は午前10時〜午後4時。毎週月・水曜、11月24日(木)は休館(23日(祝)は開館)。入場無料。

新選組との関わりを

 旧富澤家では「旧富澤家ゆかりの人々〜富澤家と新選組を中心として〜」と題し、幕末の多摩連光寺の名主であった15代当主・富澤正恕、富澤家の役割と縁の人々との関係、特に新選組との関わりを中心に資料を展示する。

 展示期間は11月27日まで。開館時間は午前9時半〜午後4時半。毎週月曜、11月15日(火)・16日(水)は休館。入場無料。

 問い合わせは、多摩市教育委員会文化財係【電話】042・338・6883へ。

『薄桜鬼』と新撰組ゆかりの地、日野市がコラボ! ふるさと納税で描き下ろしタペストリーをプレゼント
●タペストリーのデザインも公開

 “オトメイト”の人気女性向け作品『薄桜鬼』と、新選組ゆかりの地である東京都日野市がコラボレーションを果たし、日野市限定の描き下ろしイラストを使用した描き下ろしタペストリーが、ふるさと納税の返礼品として贈呈されることが決定した。


タペストリー画像
 “日野宿本陣”を背景に新選組の面々が描かれている返礼品のタペストリーは非売品。ふるさと納税で日野市に10000円の寄附をすることで入手することができる。受付開始日は2016年11月1日予定。ふるさと納税の詳細や注意事項などは、日野市の公式サイトを参照のこと。

静岡
慶喜公も愛した幕末のつゆを再現 静岡市の老舗そば店が「150年前のそばの味楽しんで!!
【NEWご当地グルメ】

 最後の将軍・徳川慶喜公も愛した老舗そば店「安田屋本店」(静岡市葵区)が、幕末の創業当時の味を再現したそばつゆ「駿府江戸蕎麦つゆ」を来店客に無料で出すサービスを始めた。明治維新後、静岡には旧幕臣が多く移住し、そばも江戸前に変化したが、当時のそばつゆは、しょうゆやみその原型である「ひしお」を使用していた。5代目店主の安田裕さん(65)は「現代の江戸そばとはまた違う、150年前の駿河そばの味を楽しんで」と話している。

 慶応2(1866)年に創業した安田屋本店は、大政奉還後に駿府(現在の静岡市)に移封された徳川家ゆかりの旧幕臣でにぎわい、勝海舟ら“幕末の三舟”も訪れた。中でも慶喜公は散策や狩猟の帰りに店に立ち寄り、直筆の品書きを残すほどのひいきぶり。関西風だった同店のそばつゆも、客の好みに合わせて次第に江戸前の味に変わっていったという。

 創業当時のそばつゆは、カツオやサバなどの削り節とひしおだけを使ったもので、安田さんによると「みそとしょうゆの中間のようなしょっぱさ」。長野県のみそ問屋が保管していたひしおを仕入れ、代々の口伝に基づいて試行錯誤を重ねて完成させた。そばをつゆにたっぷりと浸すと、塩辛さのあまり食べられないほどだといい、安田さんは「なぜそばをつゆにちょんとつける食べ方が生まれたのか、理由がよく分かります」と苦笑する。
 それでも当時の味を再現したのは、「若い世代にそばの文化が伝わっていない」という危機感からだった。先代の父・貞男さんはそばにウコンやユズ、サクラエビといった多様な食材を混ぜる「変わりそば」の研究に明け暮れ、そば職人としては初めて現代の名工にも選ばれた。安田さん自身も「作り置きができないそばの魅力を生かしたい」と懐石仕立てのそば料理に取り組むなど、新しい味の追求に余念がない。しかし、その一方で同業者の組合に加盟するそば店は年々減りつつあるといい、安田さんは「お客さんだけでなく、若い職人たちにも昔の味を知ってもらい、そば業界を盛り上げていってほしい」と期待を込める。

 10月15日から始まった駿府江戸蕎麦つゆのサービスは、11月末まで、もりそばなどを注文した客に無料で振る舞う。問い合わせは安田屋本店(電)054・245・0981。 (静岡支局 村嶋和樹)

美術
葛飾北斎の新たな絵画か オランダの博物館が所蔵
日本に西洋医学を伝えたドイツ人医師、シーボルトが持ち帰りオランダの博物館が所蔵していた絵画が、江戸時代を代表する浮世絵師、葛飾北斎が西洋の技法を使って描いたものである可能性が高いことが分かり、北斎を研究するうえで貴重な資料として注目されています。
この絵画は、オランダのライデン国立民族学博物館が所蔵していた6点で、長崎を拠点に日本に西洋医学を伝えたドイツ人医師、シーボルトが持ち帰ったコレクションに含まれていました。

これまで作者が分かっていませんでしたが、北斎研究で知られるライデン国立民族学博物館のマティ・フォラーシニア研究員などのチームが、シーボルトの子孫が所蔵していた目録と照らし合わせたところ、「北斎が我々のスタイルで描いたもの」という記述が見つかり、北斎の作品である可能性が高いことがわかりました。

6点のうち5点は、和紙に、日本橋や品川など江戸の町並みが、遠近法など、浮世絵とは異なる西洋の技法を使って水彩で描かれていて、北斎が西洋の技法を理解していたことを示す資料ではないかとして注目されています。

マティ・フォラーシニア研究員は「当初は西洋人が描いたものと考えていましたが、シーボルトの目録を見て本当に北斎が描いたのかと非常に驚きました」と話しています。

この研究成果は、22日、長崎市で開かれるシーボルト研究者が集まる国際会議で発表されます。
エンターテインメント
「ちるらん にぶんの壱」テレビアニメ放送決定 新撰組の日常をコミカルに描く
月刊コミックゼノンで連載中の漫画作品『ちるらん にぶんの壱』がテレビアニメ化、2017年1月より放送開始予定であることが明らかになった。

本作は、同じく月刊コミックゼノンで連載中の『ちるらん 新撰組鎮魂歌』の著者・橋本エイジと作画・梅村真也が自らの手で描く公式スピンオフ作品である。
元となった『ちるらん 新撰組鎮魂歌』は若き日の土方歳三を中心にした熱いドラマが繰り広げられるが、アニメ化される『ちるらん にぶんの壱』は一転、新撰組の隊員たちをデフォルメ化し、彼らの日常を描いた作品に仕上がっている。

この発表に合わせて公式サイトが公開され、第1弾キービジュアルとロゴが披露された。キービジュアルではデフォルメ化されたキャラクターたちが早速登場。桜の花びらが舞う中で、土方歳三や永倉新八、斎藤一、沖田総司といった新撰組の隊員が凛々しくも愛らしい表情を見せている。原作コミックスの雰囲気も残しており、既存のファンにとってもなじみやすいデザインといえる。

これ以外の動きとしては、公式Twitterも開設され、すでにいくつかのツイートも確認できる。今のところはキービジュアル以上の情報はないものの、今後最新情報がここから発信されていく。
2017年1月からとすでに放送まで3ヶ月を切っているが、まだまだ謎に包まれた点も多い。今後はスタッフ、出演キャストに関する情報も続々公開されていくことだろう。コミカルな新撰組がどのように描かれていくのか、また土方歳三たちがどんな活躍を見せてくれるのか、これからの展開にも注目を集めそうだ。

『ちるらん にぶんの壱』
(C)橋本エイジ・梅村真也/NSP 2016,(C)アニメ「ちるらん にぶんの壱」製作委員会
 「ちるらん」アニメ化は本編でなく「にぶんの壱」SDキャラの方だったのですね。(^_^;)。
高知
高知県立坂本龍馬記念館が薩長同盟前の桂小五郎の手紙を発見
 江戸幕府による第二次長州征伐が迫る慶応元(1865)年。長州藩の桂小五郎(木戸孝允(たかよし))が、後の薩長同盟につながる薩摩藩・西郷隆盛との会談を待つ様子などを記した手紙が高知県立坂本龍馬記念館(高知市浦戸)の調査で見つかった。薩長同盟に奔走した土佐人の動きが垣間見られる貴重な新史料。高知県立坂本龍馬記念館で11月5日から始まる企画展「再検証・薩長同盟」で初公開される。

 桂小五郎の手紙は3通が1枚の巻物(全長約8メートル)に貼られており、高知県立坂本龍馬記念館が2015年9月に京都の古書店で購入。筆跡と内容から桂の手紙と断定した。


 3通とも未発見の手紙で、1通は昭和初期に書かれた桂の伝記に一部が引用されている。2通が1865年閏(うるう)5月に藩上層部の人物に宛てた手紙、1通が1868年7月の戊辰戦争時に参謀に宛てた手紙だった。

 1865年閏5月は、14代将軍徳川家茂が長州征伐のため江戸を発し、長州下関では中岡慎太郎や坂本龍馬らの仲介で桂小五郎と西郷隆盛の会談が画策されていた時期。

 会談は西郷隆盛が下関を通り過ぎて京都に向かい実現しなかったが、翌1866年1月に坂本龍馬の立ち会いで桂と西郷らが会談して薩長同盟が結ばれたとされる。

 2通の手紙からは西郷が下関に現れず、焦る桂の様子がうかがえる。1通目では「薩蒸気船がいまだに来ない」「会談の期限が遅れて藩内の国論が動揺してもいけない」。2日後の2通目の手紙では、蒸気船の故障による西郷の遅延を「土人」(土佐人)から聞いたと記している。

 高知県立坂本龍馬記念館の亀尾美香学芸員は、「薩長同盟に土佐の志士が仲介役として深く関わったことを裏付ける史料」と2通目の手紙に注目する。

 手紙には坂本龍馬や中岡慎太郎の名前は出てこないが、筑前や長州を行き来していた土佐の志士、土方久元が登場する。桂は土方に「西郷があまりに遅れるようなら、下関から山口へ引き返す」旨を伝えており、土方が薩長の仲介役をしていたことがうかがえる。

 また、2通の手紙には、長州征伐に備える長州藩の内情も細かに書かれている。藩が幕府軍を迎え撃つ布告を藩内に出したことや、後に龍馬らの仲介で長州が長崎のイギリス商人から購入する「小銃」の記述もある。

 亀尾学芸員は「薩長同盟に向かう過程や、長州征伐前の慌ただしい状況を記した当事者の手紙として重要な研究史料になる」と話している。


 桂小五郎(かつら・こごろう) 1833~1877年。山口県の藩医の家に生まれ、吉田松陰に師事。長州藩の倒幕の志士として活躍し、明治新政府では参議として政治の中核を担った。西郷隆盛、大久保利通と並ぶ「維新三傑」の一人。

 土方久元が言及されており、土佐藩が仲介している様子が伺われるそうです。
大河ドラマ『真田丸』が残り10回を割っているとは。『新選組!』以来、こんなに毎週楽しみなNHK大河ドラマは久しぶりです。山本耕史さん演じる石田三成人気からすると、『新選組!!土方歳三最期の一日』のように続編というか単独で派生作品が製作されそうな。いや、欲しいかも。

北海道
箱館戦争で敵味方なく傷病兵治療 高松凌雲の足跡紹介 函館
【函館】幕末から明治期に医師として活躍した高松凌雲(1836~1916年)の没後100年記念講演会「高松凌雲と箱館」が15日、函館市中央図書館(五稜郭町)で開かれた。地元在住の日本近代文学会会員、桜井健治さんが、箱館戦争で敵味方の別なく傷病兵を治療し、日本の赤十字活動の先駆けとなった凌雲の足跡を紹介した。

 函館文化会などの主催で、約70人が参加。桜井さんは、現在の福岡県小郡(おごおり)市で生まれた凌雲が江戸で蘭学や医学を学んで医師となり、幕府の派遣で渡仏中、戦争で傷ついた人たちには敵味方なく医療が施されるべきだという精神を学んだことを説明した。

 さらに、凌雲が箱館戦争で1340人もの負傷者を自ら治療し、当時の手術器具が市立函館博物館で保管されているなど、函館との関わりに言及。戦争後は貧しい人に医療を施す同愛社を結成したことを解説し、「凌雲に限らず、函館の地で生死を分け合う戦いの後、後世の日本にさまざまな影響を与えた人たちに敬意を表したい」と話した。(矢崎弘之)

福島
<戊辰戦争150年>会津若松市が記念事業委
2018年の戊辰戦争150周年に向け、福島県会津若松市は17日、市内の経済、文化団体などと「会津若松市戊辰150周年記念事業実行委員会」を設立した。先人顕彰などの事業を通して会津地方の歴史的意義を再認識し、観光客の誘致や文化振興につなげる。
 18年に記念式典や講演会を開催するほか、記念誌の発行、誘客宣伝の映像製作、旅行商品開発、ロゴマーク作成といった事業を検討している。
 市内であった設立総会には、観光商工、教育・文化、交通関連など加盟する約130団体・個人の関係者が出席。会長に室井照平市長を選出し、顧問に会津松平家14代当主の松平保久氏、内堀雅雄福島県知事が就いた。
 室井市長は「会津の思いを広く発信する重要な機会。全市的な取り組みにして市民の機運醸成につなげたい」と話した。
 総会後、市内の観光施設「会津藩校日新館」の宗像精館長が「戊辰150年を世界へ」と題し講演した。
「戊辰戦争」150周年で式典 会津若松で記念事業委の発起人会
 戊辰戦争から150周年にあたる2018(平成30)年に、記念事業などを繰り広げる「会津若松市戊辰150周年記念事業実行委員会」の発起人会が12日、同市で開かれ、記念式典の開催など事業の概要を確認した。節目の年に歴史的意義を再確認しながら、先人の顕彰を通して文化振興や観光誘客につなげる。

 実行委は17日に設立され、約140団体が加盟する予定。

 実行委は17年度に情報発信に向けて専用ホームページを開設する。また機運醸成に向けたのぼり旗やロゴマークを作り、記念誌や映像も制作する。このほか複数の部会に分かれて、さまざまな取り組みも進める。

 発起人会には市や会津若松商工会議所、会津若松観光ビューローなど10団体の代表が出席。議事では「戊辰の歴史とともに、新時代を誇り高く生きた会津人の功績と思いに光をあて、会津の歴史や伝統文化を広く発信する」との設立趣意を決めた。

 同市では実行委とは別に、市民有志による「会津戊辰戦争150周年事業実行委員会」(会長・阿部隆一歴史春秋出版社長)が設立され、今年から3年計画の事業に着手している。
若松で「みらい学会」 徳川、松平氏ら鼎談 戊辰戦争150周年へ結束
 徳川時代の知恵や歴史的意義を研究・発信する「徳川みらい学会in会津」は6日、会津若松市の会津若松ワシントンホテルで開かれた。徳川宗家18代当主の徳川恒孝(つねなり)氏と会津松平家14代当主・松平保久(もりひさ)氏らが徳川家と会津について思いを語り合い、2年後の戊辰150周年の節目への意識を高めた。
 静岡商工会議所と徳川みらい学会の主催、会津若松商工会議所の協力。会津若松市や会津美里町、静岡市、青森県むつ市、山形県米沢市、栃木県日光市、愛知県岡崎市などから合わせて約400人が出席した。
 徳川氏と松平氏は「徳川家に息づく会津の魂」と題する鼎談(ていだん)に臨んだ。国際日本文化研究センターの磯田道史准教授がコーディネーターを務めた。徳川氏は、会津藩が幕末以前から開国論を唱えていたのは、北方警備など外国船対策に多く携わり、「日本は海岸線が長過ぎて防備には向かない」と実感していたからと説明。戊辰戦争で最新の武器を調達していなかったからといって、時代に疎いという認識は当たらないと主張した。
 松平氏は厳しい自分の父の教育を振り返り、「平和だからといって教育はたるみがあってはいけない」と語った。会津藩の若殿の教育も一般藩士と変わらないほど厳しかったと解説。徳川氏も「会津藩の教えを今の学生につないでほしい」と継承の大事さを説いた。
 東大名誉教授の芳賀徹徳川みらい学会会長が講演し、徳川幕府による約200年の平和が文化や学問、芸術を開花させたと説明した。

( 2016/10/07 11:11 カテゴリー:主要 )
幕末の兵学者「赤松小三郎」来秋に企画展 上田市立博物館
 上田市立博物館(同市二の丸)は二〇一七年秋に、上田藩出身の幕末の兵学者、赤松小三郎(一八三一~六七年)の企画展を開く考えだ。同館の近くで赤松小三郎記念館を運営する市民の有志も、新館を建てて展示の内容を充実させる。一八年に明治維新から百五十年を迎えるのを機に、郷土が輩出した志士の事跡を、市内外に周知する狙いだ。

 赤松は上田藩の下級武士の子に生まれ、江戸や長崎で勝海舟らに師事。蘭学や英学、航海術などを習得した。

 英国の歩兵操典を原書から翻訳し、兵学者としての名声を高めた。京都で開いた私塾には薩摩藩士で後の海軍提督・東郷平八郎ら、各地の藩士や新撰(しんせん)組の隊員ら、幅広い門下生が集まったとされる。

 政治思想家でもあり、二院制の議会政治を導入するよう提案する建白書を幕府や薩摩藩主の父・島津久光、福井藩主松平春嶽らに提出。春嶽は坂本龍馬と親しく、建白書は春嶽を介して龍馬が近代国家の形を提示した「船中八策」に影響を与えた、との見方もある。

 一八六七(慶応三)年に、上田への帰途で薩摩藩士・桐野利秋に斬殺(ざんさつ)された。同藩邸でも藩士らに兵学を教えており、薩摩が軍事情報の流出を恐れて暗殺した、とも言われる。

洋装の赤松小三郎の写真=上田市立博物館提供
写真
 土佐藩の龍馬らとは違い、明治政府の主流ではない上田藩士の赤松の業績には日が当たらなかった。だが、上田市民の有志らが二〇〇三年に赤松小三郎顕彰会(事務局・同市緑が丘)を設立して功績の周知を始めるなどして知名度が向上した。

 京都市が実施している「大政奉還百五十周年記念プロジェクト」のホームページでは約五十人の「幕末維新の群像」の中で、赤松は西郷隆盛や大久保利通、木戸孝允ら「三傑」と並んで紹介されている。

 上田市立博物館が来年秋に赤松の企画展を実施するのは、再評価の機運をさらに盛り上げる狙い。洋装の写真や鍔(つば)をサーベル風にあつらえた愛用の日本刀など常設の約三十点に加え、上田藩士の兄・芦田柔太郎に宛てて「皇国(みくに)(日本)の御為(おんため)にも相成(あいな)り候様仕(そうろうようつかまつ)り候」などと改革への熱意を語った書状など、今は公開していない数十点も展示に出す予定。

 顕彰会が上田城跡公園(同市二の丸)の中にある土蔵を改装し、赤松の旧墓石などを展示している赤松小三郎記念館も、一七年四月ごろまでに、平屋の新館(約二十三平方メートル)を土蔵の前に建てる。赤松の国政改革の建白書に焦点を当て、内容が理解しやすいようパネルなども増やして展示したい考えだ。

 上田市立博物館の倉沢正幸館長は「真田親子だけでなく、赤松も重要な郷土の先覚者。多くの方に業績を知ってほしい」。林和男・顕彰会長も「展示を充実させて、新時代を見据えた赤松の姿勢に学びたい」と話した。

 (林啓太)
新選組の隊員も通っていたのですか……慶応三年に暗殺されたのが残念です。

福島
新選組ファン集う!斎藤一の実像解説 会津若松で全国サミット
 全国の新選組ファンや関係団体が一堂に会して意見を交わす「第17回全国新選組サミットin會津」は24日、会津若松市で開かれ、2018(平成30)年の戊辰150周年に向けて、各団体が会員制交流サイト(SNS)を活用して情報発信に取り組んでいくことを確認した。会津新選組まつり実行委員会(委員長・佐藤功武會津新選組同好会局長)の主催。

 新選組ゆかりの各地で開かれ、同市開催は09年以来3度目。新選組屈指の剣客として知られる斎藤一(藤田五郎)の墓がある阿弥陀寺が会場になった。各団体が戊辰150周年について意見を交わした。佐藤局長は「さらに新選組が注目されるよう取り組んでいきたい」と話した。

 同日は「会津新選組まつり」も阿弥陀寺で開かれ、「斎藤一忌法要」を墓前で行った。記念講演会では、斎藤一のひ孫藤田太郎さん=埼玉県=と佐藤局長が講師となり、残された写真を使って斎藤一の実像について解説した。藤田さんは幕末の会津藩主松平容保との深い関係を例に「斎藤一は会津とのつながりを大事にしていた」と語った。

全国の新選組関係団体団結 若松でサミット 情報発信強化へ
 新選組に関係する団体が一堂に集う全国新選組サミットin会津は24日、会津若松市の阿弥陀寺本堂で開かれた。情報発信の強化として、統一の会員制交流サイト(SNS)アカウントを作成し、それぞれのイベントや事業を紹介することを決めた。
 会津新選組まつり実行委員会の主催、七日町通りまちなみ協議会、会津新選組同好会の主管。ひの新選組同好会、宇都宮新選組同好会、宮古海戦組、戊辰白河新選組など全国の団体の代表ら約10人が参加した。今年で17回目で、県内での開催は4年ぶり。阿弥陀寺には新選組幹部だった斎藤一の墓がある。
 佐藤功武会津新選組まつり実行委員長が「戊辰戦争150年に向けて連携を深めていきたい」とあいさつした。渋川恵男七日町通りまちなみ協議会長が歓迎の言葉を述べた。サミットでは各団体が「新選組まつり」などの顕彰事業や取り組みを報告した。イベントに歴史好きな観光客だけではなく、高校生などの若い世代も参加しやすくする工夫が必要などの意見が出た。
 次回は東京都日野市で行われる。

「新選組」斎藤一の肖像写真発見 当時最強の剣士の一人
 幕末の京都で治安維持にあたった「新選組」の三番隊組長を務め、沖田総司らと並んで、当時最強の剣士の一人と言われた斎藤一(はじめ、1844~1915)。その確実な肖像写真が見つかり、福島県会津若松市の県立博物館で30日まで展示されている。

 斎藤は、戊辰戦争には旧幕府軍の一員として参戦。同戦争の後半は会津藩とともに新政府軍と戦った。その後、敗れた会津藩が転封された斗南(となみ)藩(現青森県東部など)の藩士となり、明治維新後は警視庁の警察官となって西南戦争に従軍した。

 写真は、面長で端正な人物が羽織を着ている肖像写真と家族4人の集合写真の2枚で、子孫が先ごろ、蔵の整理をしていて発見した。肖像写真に名前などの記載はなかったが、集合写真には息子たちの名前と明治30(1897)年11月14日という撮影日時が記入されており、羽織の家紋も一致したことから、斎藤と判明した。いずれも警視庁退職後、高等師範学校(現筑波大)に勤めていた時に写されたものとみられる。

 子孫から写真の寄託を受けた県立博物館によると、これまで斎藤が写っているとされる写真は存在したものの、「集合写真などのため鮮明ではなく、確実と考えられる肖像写真は今回が初めて」という。(編集委員・宮代栄一)

コラム
斎藤一の実像(9月22日)
 新選組の斎藤一は「今、落城せんとするを見て志を捨て去る、誠義にあらず」と語り、戊辰戦争で土方歳三らが会津を離れても、戦乱の地に残った。新選組と関わりの深い会津藩のため、戦い抜くことが自らの使命と考えたのか。
 斎藤は剣の腕が立ち、新選組局長の近藤勇から絶大な信頼を得た。若くして幹部に登用され、池田屋事件や禁門の変など幕末の政局を左右する場面に居合わせた。謎の多い人物でもある。出生は東京とされるが、会津藩への忠誠の強さから「会津生まれではないか」との説もささやかれる。
 風貌も明らかになっていなかった。「無口で眉毛がふさふさとしており、目がけいけいと光る。いかめしい感じ」と伝えられてきた。今夏、60歳前後とみられる肖像写真が見つかった。鋭い眼光を放つ。写真は30日まで会津若松市の県立博物館で展示されている。
 斎藤は最近、アニメやゲームに豪腕剣士として登場し、若者の人気を集める。実像を目にしたファンの感想はどうか。「男の中の男。ますます好きになった」との声が届く。斎藤が眠る市内の阿弥陀寺で24日に法要が営まれる。会津藩に忠義を尽くした誠の武士の冥福を祈る。

( 2016/09/22 09:06 カテゴリー:あぶくま抄 )
北海道新聞にて、戊辰戦争中に会津・庄内両藩が蝦夷の所領をプロイセンに99年の貸与を行い、連携を図ろうとしていたことが報道されました。
「蝦夷地99年間貸与」 会津・庄内両藩、戊辰戦争で独に打診
 戊辰戦争さなかの1868年(明治元年)、新政府軍(官軍)と戦っていた会津・庄内両藩が、プロイセン(ドイツ)から資金を借りる担保として「蝦夷地(えぞち)の領地を99年間貸与すると申し出た」と記した駐日公使発本国向けの外交書簡を、五百旗頭(いおきべ)薫東大教授らの研究チームがベルリンで発見した。内容通りなら、ドイツの蝦夷地租借構想が水面下で具体化していたことになる。東大史料編纂(へんさん)所の箱石大(はこいしひろし)准教授は「戊辰戦争が長引いていれば実現していた可能性がある」とみる。

 これまでは、日大のアンドレアス・バウマン教授が1995年にドイツ連邦軍事文書館で見つけた文書から、1868年7月に両藩から蝦夷地の土地売却の打診を受けたものの、10月に本国のビスマルク宰相が却下し、交渉は立ち消えになったとみられていた。

 その後、ボン大学の研究者と箱石准教授が同文書館で、宰相が3週間後に一転、交渉を認可していた文書を見つけ、本国側ではゴーサインが出ていたことが明らかになっていた。

 今回見つかった外交書簡を書いたのは、横浜にいた駐日プロイセン公使マックス・フォン・ブラント。貸与期間を具体的に盛り込むなど、両藩との間で交渉妥結の下地が整っていたことがうかがえる。

 とはいえ、ブラントが横浜から本国の宰相に新発見書簡を発信した日付は68年11月12日で、すでに会津藩の降伏から6日、庄内藩主が降伏を申し出てから5日経過しており、現実には交渉そのものが意味をなさなくなっていた。

 書簡の保管先はベルリンの連邦文書館。五百旗頭教授らが2013年に着手したドイツの史料発掘プロジェクトの中で、国立歴史民俗博物館(千葉県)の福岡万里子准教授が読み解いた。

 それによると「シュネル(当時東北にいたプロイセン人の仲介役)が、借り入れに対して蝦夷地の領地を99年間、担保として与えるとする会津・庄内領主の(シュネルに対する)全権委任状を持ってきた。100平方ドイツマイル(5625平方キロ)の土地を得るのに30万メキシコドルで十分だ」などと書かれているという。

 幕末期の会津藩の領地は現在のオホーツク、根室管内の一部、庄内藩は留萌、上川管内の一部など。書簡には「会津・庄内藩の蝦夷地の領地に良港はないが、ひとたび足がかりをつかめば他の地の購入が容易になるだろう」ともつづられており、海軍拠点確保に向けた意図が読み取れる。

 当時のプロイセンは2年前の1866年に対オーストリア戦争に勝利して北ドイツ連邦の盟主となっており、ドイツ帝国の形成に向かう軍備拡張期だった。(報道センター編集委員 小坂洋右)
 ビスマルクが却下しなかったら、ガルトネル事件と同じような展開が考えられたのでしょうね。
 
 土方さんが会津戦争末期に「この上は洋夷に頼る他なし」と言ったとされていますが、おそらくは、この同盟を前提に言っていたのでしょうね。

新潟
『越後戊辰戦争と加茂軍議』の出版記念講演会、著者稲川明雄氏が講演
 加茂商工会議所は、25日午後2時から加茂市産業センターで『越後戊辰戦争と加茂軍議』の発行を記念して、著者で河井継之助記念館館長の稲川明雄氏による出版記念講演会を開く。
著者の稲川氏は1944年、長岡市生まれ。長岡市立互尊文庫司書・長岡市史編さん室長、長岡市立図書館館長などを歴任し、現在は長岡市河井継之助記念館館長。河井継之助をテーマにした歴史講演会で、午後4時に終わる。

同商議所は2011年度から中心市街地の活性化支援を最重点事業に掲げ、加茂市の観光資源の調査研究、歴史を生かしたまちづくりに取り組む。これまでに「加茂山古道散策マップ」の発行や史跡モニュメントの設置などを行っている。
2011年に三条市諸橋轍次記念館で講演したときに稲川氏
2011年に三条市諸橋轍次記念館で講演したときに稲川氏
その一環として、戊辰戦争における奥羽越列藩同盟と加茂市のかかわりや、長岡城奪還への道のりなどの歴史的背景を記した書籍『越後戊辰戦争と加茂軍議』を9月10日に新潟日報事業社から出版した。

入場は無料。事前申し込みを受け付けているが、当日会場でも受け付ける。問い合わせは、同商議所(電話:0256-52-1740)へ。

高知
高知県の香美史談会が戊辰戦争従軍の宮地団四郎など調査
展覧会企画への資料提供を
 高知県香美市の歴史や文化を研究している香美史談会(今久保約雄会長)が、幕末に現在の香美市土佐山田町植から戊辰戦争に従軍した郷士、宮地団四郎(1838~1917年)を軸に、明治新政府のために戦った先人たちの調査を進めている。2018年の明治維新150年を前に展覧会を企画しており、香美市から従軍した人物の子孫らから資料を募っている。

 団四郎は、土佐藩の前哨隊や迅衝隊に所属し、戊辰戦争に従軍した。慶応3(1867)年11月に土佐を出発し、京都や大阪、江戸を経て会津若松まで転戦した。

 土佐をたってから明治元(1868)年11月に凱旋(がいせん)するまで、団四郎は一日も欠かさず詳細な日記を書いており、当時の様子や土佐藩の軍の仕組みを知る上で重要な資料となっている。2014年には幕末史研究家の小美濃清明氏が、日記の現代語訳と解説をまとめた「宮地團四郎日記―土佐藩士が見た戊辰戦争―」(右文書院)を出版している。

宮地団四郎が残した日記の原本と団四郎の写真
宮地団四郎が残した日記の原本と団四郎の写真
 香美史談会は日記を参考に、団四郎や、共に土佐山田町から従軍したと記述がある「高芝新二郎」「森尾林之助」の子孫宅を8月に訪問。宮地家では団四郎の写真や日記の原本を確認し、森尾家では林之助とみられるガラス湿板式の写真2枚とその原版を発見した。

 史談会は、団四郎らを紹介するパネル展を2017年10月ごろに開くことを目指している。香美市から戊辰戦争に従軍した人物の資料提供を市内外に呼び掛けており、今久保会長は「調査によって、香美市の歴史研究が大いに発展する。心当たりがある人は連絡を」と話している。

 問い合わせは今久保会長(090・3189・9560)へ。

福島
【Visit Fukushima外国人の目 会津若松編(上)】 ネットより面白い
 年間およそ300万人を誘客する観光都市・会津若松市。会津大大学院修士2年のファム・バン・タインさん(25)=ベトナム=が、市内の観光スポットを巡った。

 まずは会津を代表する観光スポット・鶴ケ城。観光ボランティアガイドの松本幹子さん(67)の解説で外郭を回る。歴史に興味があるタインさんは「インターネットの情報とは比べものにならないほど面白い」とガイドの説明を喜んだ。

 城内も見学し、歴代城主や白虎隊などについての展示を見学。母国でベトナム戦争があった際は、父親も出兵したというタインさんは、戊辰戦争当時の生活を学び「どこの国でも戦争は大変」と国境を超えて平和の大切さに思いをはせていた。

 タインさんは日本に住んで4年目だが「日本語が話せる外国人は少なく、歴史の専門用語も難しい」と指摘する。言葉が分からない時、頼りになるのは英語が併記された案内板。「名所だけでなく人が多い所に案内板を置いて、離れた所でも名所の魅力が分かるように工夫したらいい」と提案した。

 次に向かったのは、着物で街を散策できるサービスを提供する同市の「きものべんりやとしの坊」。市内には同様の着物屋が数軒あり、同店では会津の伝統産業「会津木綿」の着物で市内を歩ける。今回は風通しの良い浴衣を選んだ。初の着付け体験で、階段の上り下りの難しさなど動作に苦労した点もあったが「涼しくて快適。冬は会津木綿だと暖かそう」と日本の伝統衣装を楽しんでいた。

 【ひとくちメモ】 ビザの要件緩和 国が指定する重点20カ国のうち、訪日にビザが必要な5カ国(中国、フィリピン、ベトナム、インド、ロシア)をインバウンド観光の潜在力が大きい市場と位置付けて緩和を実施。観光庁の宿泊旅行統計調査(6月、第2次速報)によると、本県の外国人延べ宿泊者数は5700人で前年同期比12.6%増。

コラム
平和をたずねて軍国写影 反復された戦争/2 対外危機演出の原型=広岩近広
 江戸時代は徳川家康が幕府を開いた慶長8(1603)年から、第十五代将軍の徳川慶喜(よしのぶ)が大政を朝廷に返還する慶応3(1867)年まで続いた。元特攻隊員の岩井忠正さん(96)と忠熊さん(94)の祖父、忠直さんは江戸時代の弘化2(45)年に山形・米沢藩の家に生まれた。忠熊さんによると、忠直さんは上杉藩主が設立した学問所「藩校興譲(こうじょう)館」に入った。

 「祖父の経歴に、助教と書かれていた記憶があるのですが、学問や文事に関する書物は家に伝わっていません。軍事関連の訓練が行われていて、その助教をしていたのなら理解もできます」。忠熊さんは笑顔を見せて続けた。「姉たちから聞いたのは、祖父は両手をついて『姉上様にはご機嫌よく』と言って、芝居を見るようなあいさつをしていたそうです」

 忠直さんが22歳のときに幕末を迎える。53年に米国の東インド艦隊司令長官ペリーが黒船で来航し、開国を迫ってきた。米国との不平等な日米修好通商条約の調印をめぐる論争は、行き詰まっていた幕府政治の追及へと向かう。その勢いは尊王攘夷(じょうい)論へと発展し、そして倒幕論に至る。

 薩摩藩と長州藩を中心にした討幕派は68年1月、佐幕藩の武力制圧に乗り出し、戊辰(ぼしん)戦争が始まった。米沢藩は朝敵とされた会津藩への信義から「東北諸藩同盟軍」(奥羽越列藩同盟)に加わる。米沢藩士の忠直さんは、東北戊辰戦争に従軍した。

 戊辰戦争の最中、新政府は「王政復古の大号令」を発して、当時16歳の天皇を担いだ。天皇は「五箇条の誓文」を宣布するが、そこには「知識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし」との文言がみられた。明治新政府が天皇を前面に押し出したことについて、立命館大学名誉教授で近代史研究者の忠熊さんは、こう説明する。

 「戊辰戦争の折に奥羽越列藩同盟は、薩長は少年の天皇を擁して私意を遂げようとしている、と非難しました。これに対して新政権は、天皇の親政として政策を執り行っていると宣伝する必要から、五箇条の誓文を支配層や諸外国に向けて発表したのです」

 忠熊さんは「五箇条の誓文」と同じ日に出された「国威宣布の宸翰(しんかん)」を重視する。宸翰は天皇直筆の国民向けの手紙で、そこに「万里の波濤(はとう)を開拓し、国威を四方に宣布し」とある。忠熊さんはこう説き明かす。

 「国家の大方針として、海外に進出するというのですから、異常な国威宣揚です。新政府があえて宸翰を発表したのは、国民の関心を戊辰戦争から国外に向けさせる目的があったからでしょう。近代の日本は常に対外的危機を演出し、国内の矛盾から国民の目をそらしてきた。そうして国内一致を訴える原型が、ここに出現しています」

 戊辰戦争に勝利した新政府は、この年の9月から、天皇一代を元号とする一世一元の制により、年号を明治と改めた。明治元年だった。(次回は27日に掲載)
ネタの大小にかかわらず、江川英龍ネタは保存したいので。

【古式銃のテクノロジー・後編】重工業技術の基礎として
日本に伝わった鉄砲は、当地の職人たちに「鉄鍛造の限界」という課題を与えた。

日本の刀鍛冶たちは、初めて目にした火縄銃をたった1年でコピーしてしまったばかりか、ネジ製造の技術まで習得した。あとはひたすら、銃の大型化に邁進したのだ。ポルトガル人は確かに日本へ鉄砲を持ってきたが、それを巨大にする方法など教えたことはない。何しろ、ポルトガルにもそのような技術は存在しなかった。

日本の火縄銃は、今でも海外のマスケットガンナーの間で人気を博している。「射程が長く命中精度もいい」という定評がある。それはすなわち、尾栓ネジの隙間から漏れる燃焼ガスの量が極めて少ないという意味だ。発射機構の改良に重点を置いたヨーロッパの鉄砲鍛冶とは違い、日本人はこうした「表からは見えない点」にいつも注目し続けていたのである。



江戸時代以降の「進化」

長く続いた戦乱期が終わり、徳川幕府の統治下による安定期が到来すると、火縄銃の生産も縮小された。

だがそれは、銃の開発を一切諦めたというわけではない。実は江戸の富裕層の間で、火縄銃射撃がブームになったことがある。この頃になると命中精度が最重要視されたため、銃は小口径化が進んだ。兵器としての使用ではないため、銃身や銃床に華美な装飾が施された銃も多い。

その頃のヨーロッパでは、先述の通り発射機構の改良を中心にした新式銃開発が行われていた。18世紀に入ると主流は火打ち石銃になっていたが、実を言うと「球形の弾丸を使った滑腔銃」という点では火縄銃とまったく変わっていない。

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ヨーロッパの場合は、両軍が歩兵の密集陣形をぶつけ合うため、日本の銃ほど命中精度を求められなかった。代わりに兵士が集団の中にいても扱いやすいよう、着火媒体を火縄から火打ち石にしたのだ。

つまり銃というのは、ざっと見ても300年は基本構造が変化しなかった武器なのだ。ただその300年の間に、銃は日本人の工業技術力を大いに飛躍させた。

ひとつ例を挙げれば、自転車製造大手のミヤタサイクルはもともと常陸笠間藩お抱えの鉄砲鍛冶が立ち上げたものだ。もちろん当初は銃を生産していたが、息子の代になって銃の規制法案が成立し、また同時に自転車の需要が増加した。ならば看板を換えてしまおうということで、自転車生産を始めたのだ。

鉄で銃身を作る技術は、そのまま自転車のフレーム生産に応用できる。実はこうしたことはミヤタサイクルだけの話ではなく、欧米各国を見ても銃器製造で栄えた町は自転車や二輪車の生産拠点になっている場合が多い。



反射炉が世界遺産になった理由

静岡県伊豆の国市に韮山反射炉がある。去年世界文化遺産に指定されたばかりの史跡だ。

この反射炉は、ペリー提督の来航を受け急遽建設されたものである。黒船が積んでいた鉄製の大口径砲にショックを受けた江戸幕府は、ようやくながら鉄生産の重要性に気付いた。鉄の鍛造でできるのはせいぜい二百匁筒で、中には芝辻理右衛門という職人が徳川家康の命を受けて製造した一貫五百匁砲という化物も存在するが、さすがにこれは量産ができない。兵器というのは、常に量産可能であることが前提である。

いずれにせよ、鉄製の大砲を量産するとしたら鋳造技術が欠かせない。具体的に言えば、鉄に摂氏1,500℃以上の熱を与える技術である。

そのためには反射炉が必要だ。だからこそ幕府は、選りすぐりの官僚である江川英龍に反射炉の建設を命じた。江川は幕府に先行して反射炉を建設していた佐賀藩の力を借りつつ、幕命を受けてから4年ほどで韮山反射炉を完成させた。ちなみに江川は、この反射炉を見ることなく道半ばで他界している。

韮山反射炉が世界遺産に指定された時、「意外な物件が世界遺産になった」と言われていた。それ以前からどちらかといえばダークホース扱いされていた韮山反射炉だが、以上に挙げた歴史的背景と「世界唯一の現存製鉄反射炉」という点がユネスコで評価されたのだ。

種子島にやって来たポルトガル人の鉄砲は、今も我々現代日本人に多大な影響を与えている。そう、すべては「種子島」から始まったのだ。


身近なところにある古式銃

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世界的にも厳格な銃規制が施されている日本だが、古式銃に関しては誰でも所持できる。

1867年より前の銃は、各地域の教育委員会が発行する登録証を添付することで売買及び譲渡が可能だ。江戸時代に製造された古式銃も、今やショッピングサイトで購入できる。

筆者がざっと見た計算だが、30万円もあればそれなりの品を買い求めることができる。これを高いか安いかと考えるのは各人によるが、もっと安価で済ませたいのであれが10万円台からでも商品はある。

古式銃保存会も、全国各地に存在する。特に戦国時代に関連するイベントなどでは、その保存会が射撃演舞をよく行っている。

我々が考えている以上に、火縄銃というものは非常に近しい距離にあるのだ。

静岡
農兵節継承へ、体育祭で披露 三島・中郷西中 /静岡
 「富士の白雪ノーエ…」で始まる農兵節を継承しようと、三島市立中郷西中学校(同市梅名、野口厚校長)が24日の体育祭で全校の生徒らが農兵節を踊る。体育祭本番を控え、12日、三島農兵節普及会の指導で全校生徒が約50分間踊りの振り付けを習った。

 中学校周辺は伊豆の穀倉とも呼ばれる田園地帯。かつて地域の農民は江川英龍(坦庵)創設の農兵隊に加わった。農兵隊にちなむ農兵節を継承してほしいという地域の要望を受け、中学校は2014年から体育祭に農兵節を取り入れた。三島市教委によると、市内中学校の体育祭で農兵節を踊るのは同校だけ。

 24日は午後1時からのPTA種目で農兵節を披露する予定。三島農兵節普及会の三味線や歌に合わせ、全校生徒や保護者、住民ら約500人が踊る。全学年がそろって踊るのは今年が初めて。

 同校の土屋康徳教頭(55)は「地域ぐるみで伝統を継承していきたい。一般の方もぜひ参加してほしい」と話している。【垂水友里香】

福島
松平容保公にスポット 鶴ケ城の博物館で企画展
 会津若松市の若松城天守閣郷土博物館の秋季企画展「松平容保」は9月16日、鶴ケ城内で始まった。11月7日まで。
 平成30年の戊辰戦争150年に向けた企画で、京都守護職を務めた幕末の会津藩主・松平容保公に焦点を当てた。
 容保公が肌身離さず持っていた孝明天皇の手紙「御宸翰(ごしんかん)」や一緒に賜った御製(和歌)をはじめ、「禁門の変図屏風(びょうぶ)」、京都の金戒光明寺が所蔵する和歌の短冊など約35点を展示している。
 午前8時半から午後4時半まで入館できる。入場料は天守閣と茶室麟閣との共通券で大人510円、小中学生150円。

(2016/09/17 11:30)
山口
幕末の諜報組織の存在示す 亀山八幡宮であす開催の文化講座、下関市・大浜さんが初公開 /山口
長州・清末藩から幕府に送り込む
 江戸幕府と長州が激しく対立した幕末期、萩藩の支藩・清末藩から幕府に送り込んだ諜報(ちょうほう)組織の存在を示す資料を下関市の大浜博之さん(70)が、亀山八幡宮で開催される文化講座で初めて公開する。大浜さんは「下関で発見されること自体あり得ないくらい貴重な資料。興味のある人はぜひ見てほしい」と話す。【仲田力行】

 大浜さんは1984年、幕末期の神奈川奉行支配組頭、脇屋卯三郎の子孫で千葉県に住む女性から手紙を受け取った。手紙には、脇屋が清末藩と関わりがあることが記されていた。その5年後、市立長府博物館の職員だった大浜さんは、清末藩士の家系で下関市内に住む故渡辺ノブさん方にあった大量の資料を譲り受けた。資料は、江戸城の土手や塀の位置を示す詳細な絵図、品川台場の砲台図などを描いた幕末期の幕府の機密資料だった。

 大浜さんは、清末藩士の手元に幕府の機密資料があったことと、千葉県の女性から受け取った手紙を基に、同藩の渡辺家と脇屋の関係が深いと推測。明治時代にまとめられた幕末・維新期の史料や清末藩の研究資料などを通じて長年調査してきた。

 その結果、資料を譲り受けた渡辺ノブさんの4代前の蘭学者、渡辺澄(きよし)が39歳だった1838(天保9)年、江戸藩邸から突然姿を消したことが判明。更に、澄の3人の息子が清末藩を追われ、日出(ひじ)藩(現大分県)に送られた次男が脇屋ということも分かった。澄の行方不明や3人の追放理由は明らかでないが、清末藩が幕府に対する諜報活動を展開するための措置だった可能性もある。

 脇屋は幕末、米国の初代駐日領事、ハリスの接待役にもあたったが、萩藩に機密を漏らした罪で1864(元治元)年10月、48歳で切腹させられた。幕府は脇屋と通じた罪で、江戸萩藩邸にいた遠藤太一郎を京都以西に追放処分とした。大浜さんの調査で、遠藤が澄の三男であることも確認された。幕府側と萩藩側に兄弟が分かれて機密情報を扱っていたとみられる。

 文化講座で大浜さんは、脇屋を中心とした清末藩士の人間関係や当時の藩の事情などを資料を示しながら話す予定だ。講座は9日午前10時から開かれる。問い合わせは亀山八幡宮(083・231・1323)。

佐賀
史跡巡り、工作で幕末佐賀を楽しく学習 19日まで本丸歴史館
 世界遺産に登録された三重津海軍所跡や佐賀藩の取り組みを体験する「幕末佐賀藩の歴史体験」が17日、佐賀市の県立佐賀城本丸歴史館で開かれた。来場者はツアーや工作を楽しみながら、佐賀にまつわる歴史に理解を深めた。19日まで。

 歴史体験は、三重津海軍所跡が世界遺産に登録されて1周年を記念して開いた。この日は、佐賀市柳町周辺の散策した後、バスに乗って佐賀市諸富町の筑後川昇開橋に向かい、海軍所跡までウオーキングなどして史跡を巡った。館内では海軍所跡に関連したかるたや缶バッジ作りがあった。

 きょうだいに連れられ来場した佐賀市の香月椋さん(9)は「かるたが楽しかった。佐賀城が2回、火事になったことを初めて知れてよかった」と話した。

 18、19日は午前10時半~正午、午後3時~同4時半まで、鯱の門の中を見学できる。館内では、世界遺産を学べる子ども向け講座のほか、蒸気船や箱カメラを作る幕末科学技術体験(先着30人)ができる。

【誰かに教えたくなる話】幕末のエラい人が残した、ちょっとハズカシイ手紙
江戸時代は「恋にドはまりすること」は、粋でないこと、野暮で格好悪いこととされました。だからほとんどの人がやせ我慢をし、自分はそんなに恋には夢中になってないと、涼しい顔をするのが「江戸っ子」だったのです。でも、実際はそんなにうまくはいきません。いつの時代も、男性をひきつけてやまない魅力的な女性はいるものです。そんな女性を前にすると、どんなにエラい人もただの人……。今回は、そんな幕末の偉人のエピソードをご紹介します。

頼山陽(らい・さんよう)という人物をご存知でしょうか。
幕末の歴史家であり、思想家。江戸時代後期の日本を代表する漢学者です。
彼の書いた歴史書『日本外史』はベストセラーとなり、幕末から明治初期の人々に大きな影響を与えました。
そんな偉大な歴史家である山陽が、夢中になった女性がいます。
江馬細香(えま・さいこう)という、女詩人です。

細香は、詩人としての才能もさることながら、見た目も大変美しい、いわゆる「才色兼備」の女性。
ひと目会ったときから、山陽は細香に夢中だったといいます。
その証拠が、彼が友人へあてた手紙の中に残されているのです。

「薄化粧で質素ではあるが品のいい身なりをしており、清楚にして秀麗なる外見にくわえ、その才能はまことにすぐれたものである。芸術的なもの・道徳的なもの・文化的なもの……すべて山陽にとって不足なものはない。この女性を得ずして他に誰があろう」

これはベタ惚れです。
細香は山陽に漢詩を師事していたので、詩の添削をしてもらっていたのですが、山陽はこんなことも書いています。

「細香は詩の添削などをしてほしいと頼んでくるが、私は詩よりも彼女の全身を添削したいと思っている」

まさに、公私混同!
これだけ惚れた女性ですが、細香側の両親に大反対され、山陽は別の女性と結婚。
ですが結婚後、二人の愛人関係は30年以上も続いたのだそう。

情熱的な手紙は素敵ですが、真面目な歴史家がこんなことを書いていたかと思うと、ちょっと笑ってしまいますね。

文/岡本清香
 どうかこのシリーズに土方さんのモテ自慢レターが取り上げられませんように……。


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