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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
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3度目の観劇、1回目と同じく花道に近い10列目以内の席。花道での演技が見える。

(三谷幸喜のありふれた生活:887)「殿堂」が笑いで揺れる
 幕末の江戸無血開城をテーマにした新作舞台「江戸は燃えているか」が開幕した。今回はコメディーである。お客さんに笑って頂くことだけを目的にした芝居を作るのは、「酒と涙とジキルとハイド」以来、四年ぶりである。

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 今回は笑いのバリエーションにも工夫を凝らした。基本は定番の「勘違い」「すれ違い」から来る笑いだが、そこに普段僕がやらないタイプの笑いもプラスしている。

 偽物の西郷吉之助(隆盛)や偽物の勝海舟が登場するのだが、それがどう見てもニセというチープな仕上がり。なのに誰もが本物と信じてしまう「そんな馬鹿な」的笑い。さらには演者が共演者をアドリブで突っ込む、本来なら禁じ手の笑い。それが出来たのはひとえに、劇場が新橋演舞場であり、突っ込むのが中村獅童さんだから。

 客席の上に提灯(ちょうちん)がズラリと飾られているこの劇場には、「なんでもあり」のおおらかさがある。そして優れた歌舞伎役者さんは必ず持っている、舞台上で起こることはどんなことでも成立させてしまう懐の深さ。なにしろ獅童さんが現れた襖(ふすま)が、彼の後ろで自動的に閉まっても、まったく違和感がないのだ。普通の役者さんではこうはいかない。

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 新橋演舞場といえば「松竹新喜劇」。まさに喜劇の殿堂でもある。中村勘三郎さんの「浅草パラダイス」に始まる「浅草」シリーズ、最近では渡辺えりさん、キムラ緑子さんコンビの「有頂天」シリーズ、三宅裕司さんたちの「熱海五郎一座」も人気演目だ。新橋演舞場に笑いを求めてやって来るお客さんたちは確実にいる。喜劇を作るからには、その方々を満足させなくてはならない。おのずとこちらも力が入るというものだ。

 喜劇映画の面白さを伝える表現で、たまに「一分に一回は笑える」というフレーズを見かけるが、六十秒おきにしか笑えない喜劇は、実は喜劇としては失格。僕の理想は「十秒に一回」だ。

 だがそれはあくまで理想であって、映画にしろ舞台にしろ、十秒に一回の割合で観客が笑い続ける作品(二時間だと七百二十回)に僕は出会ったことがないし、当然自分でも作ったことがない。

 そもそも全編通じて十秒に一回となると、最初の笑いは幕開き十秒後に来なければならず、これは至難の業だ。よっぽど面白い顔の人が出てくるとか、犬だと思っていたら人だったとか、そんなことくらいしか思いつかない。僕の作品みたいに、シチュエーションや会話で笑いを紡いでいく場合は、どうしても状況説明、いわゆる「フリ」の部分が長くなる。だがそこを乗り切れば、後は、別に誰かが面白いことを言ったり、おかしな動きをしなくても、ごく普通の会話をしているだけで、観客を爆笑させることも可能になるのである。

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 今回の「江戸~」も、序盤は静かに始まるが、一幕の終盤では十秒に一回どころか、三秒に一回くらいの頻度で客席は爆笑に包まれる。千人以上が一度に笑う時のパワーはすさまじく、劇場中が揺さぶられているように感じる。そんな客席の様子を舞台袖からそっと覗(のぞ)く。喜劇作家にとって至福の時間である。

獅童出演『江戸は燃えているか』初日に向けて
 3月3日(土)~26日(月)、新橋演舞場『江戸は燃えているか TOUCH AND GO』公演に中村獅童が出演、12人の出演者が初日に向けて意気込みを語りました。



 三谷幸喜書き下ろしの『江戸は燃えているか』。江戸城を攻め落とそうとする官軍の西郷吉之助、なんとしても将軍を守りたい勝海舟と山岡鉄太郎、江戸城明け渡しに至るまでのドラマは、歌舞伎の『江戸城総攻』をはじめあまたの舞台や映像、小説に描かれています。が、この作品は「笑えるお芝居をつくりました」と三谷が言うとおり、オリジナリティーあふれる喜劇です。出演者の言葉からは三谷作品、三谷演出に大きな期待と信頼が寄せられていることが伝わってきました。



12人が一丸となっての喜劇

 獅童が演じるのは勝海舟。西郷が城を攻める前に降伏を勧めにやってくると聞いて、小心者で喧嘩っ早い勝のとった言動に、交渉決裂を懸念した周囲が、江戸を戦火の海にしないためにと策をめぐらせます。獅童は、「お客様におおいに笑っていただけたらいいなと思います。喜劇はお客様がお入りになってみないとわからない。ここで笑わせようと思って演技はしていません」。喜劇の難しさを率直に語った言葉からは、稽古の充実ぶりがうかがえました。



 そして、すったもんだの末にとった策が、勝の身代わりを立てること。身代わりに選ばれたのは庭師の平次、松岡昌宏が勤めます。「いろいろなジャンルの人がいらっしゃって、存在感、笑いの間が皆違う。それが一緒になるからこそ面白い。今回は出演の12人が一丸となった、料理の“ばくだん”のような公演です。ぜひ、一人ひとりの味を楽しんでいただけたら」。まさにこれは、12人がそれぞれの味を出すことで笑いを起こす“群像喜劇”です。



 この二人について三谷は、「どんな演出の注文をしても絶対に、できないと言わないで瞬時にやってくれる。しかも、あとで冷静にきちんと考えて論理的に構築してやってくれる。本当にやりやすいです」と絶賛。さらに、「獅童さんが前半で飯尾さんと、後半で磯山さんと、毎回稽古場で笑ってしまうシーンがあるんですが、どちらも台本に書いていないところで本当に腹立たしい! あんなに的確に絶妙につっ込みつつ、ぼろぼろになっていく獅童さんが、本当に面白い」。



▲ 『江戸は燃えているか TOUCH AND GO』 左より、中村獅童、松岡茉優、田中 圭、八木亜希子、高田聖子

笑わないのが難しい

 ほかの出演者も、「たくさん笑っていただけるように、たくさん汗をかいていきたい」(高田聖子)、「(芝居の)経験は少ないですが、皆さんに教わりながらここまで来ました」(八木亜希子)、「見ている皆様が、楽しかった、笑って腹筋が疲れた、という芝居をしたい」(磯山さやか)、「わくわくしています。ハッピーになってもらえるように頑張りたい」(妃海 風)、「舞台でたくさん走っております。皆様のお力をお借りして25日間走り続けたい」(中村蝶紫)と、この喜劇への意気込みを見せました。



 「皆の芝居がおかしくて。笑わないよう負けないよう芝居をします」(藤本隆宏)、「笑いなくして見られない。本番中に笑わないよう気を付けます」(田中 圭)と、喜劇を演じる側には笑いを起こすだけでなく、笑わないという試練もある様子。「始まりから終わりまでノンストップの芝居」(飯尾和樹)、「ノンストップの笑い合戦に、セットを使った笑いどころもあります」(吉田ボイス)と、笑いのツボはあちこちに仕掛けられているようです。



新橋演舞場で初演出

 新橋演舞場で初めて演出する三谷は、「花道がある舞台が初めてなので、今までやったことのない使い方をと考えましたが、ほとんどのことはやられていると聞き、オーソドックスな感じになりました」と明かしましたが、ここで出演者からはあれがオーソドックスなのかと驚きの声。花道がどういう空間になるかは見てのお楽しみです。「新橋演舞場に出演するのは初めてなので、花道を歩きたかった」とは松岡茉優、「ちょっと三谷さんに恨み節です」。



 また、三谷は、「歌える人がいっぱいいることに気づき、急きょ『江戸は世界一』というナンバーをつくりました」と、宝塚退団後初の大舞台という妃海が中心となって、ミュージカルシーンも入れ込みました。獅童は、「セットがリアルで本物かと思うくらいよくできています。ご覧になる場所によって見え方も全然違うので、2、3度は見てほしい」と、みどころは言い尽くせないようです。



 約1カ月にわたる稽古を経て、いよいよ初日の舞台へ。「稽古場で皆と一緒に過ごす時間がとても長かったですが、やっていて楽しかった。集中していたのであっという間でした」と獅童。「野球でいうなら全員野球。誰ひとり欠けても成立しない芝居です。皆で頑張ってここまでこぎつけました」と三谷。ぜひ、新橋演舞場へ足をお運びください。

 以下、畳みます。
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昨年暮れに函館で骨折した右手首ですが、本日、整形外科の先生に「きれいにくっついていますね」と快癒と診断されました。まだ握力は10キロ程度しかありませんが、機能はだいぶ回復してきています。

ゆかりの地で「彼岸獅子」 戊辰戦争・山川大蔵の鶴ケ城入場貢献
 戊辰戦争時、会津藩家老・山川大蔵が小松村(現会津若松市北会津町)の獅子を先頭に鶴ケ城入場に成功したことで知られる会津彼岸獅子の演舞が20日、会津若松市の国指定名勝・会津松平氏庭園「御薬園」で行われた。

 会津まつり協会が戊辰150周年の記念事業として企画した。会津彼岸獅子は豊作や家内安全を願う会津各地に広まった伝統行事。山川の入場に貢献した小松獅子団は1871(明治4)年、山川に同園に招かれ、松平容保(かたもり)らに舞を披露し、松平家の家紋の使用が認められたとされる。

 演舞には小松獅子保存会が招かれ、3匹の獅子が「弊舞」「弓くぐり」「庭入り」などを披露し、3匹の華麗な舞に訪れた市民らが見入った。鈴木利栄会長は「ゆかりの地で踊れたのは感慨深い」と語った。

顕彰碑を建立 白河戊辰の戦地「白坂宿」住民
 白河市の旧奥州街道にある「白坂宿」に、住民らが地元の歴史を伝える顕彰碑を建立し、17日に現地で除幕式が行われた。白坂宿は戊辰戦争で戦死者が出た歴史的な場所で、青柳幸治実行委員長は「戊辰150年の節目に除幕でき、感慨深い」と話している。
 郷土史によると、白坂宿は豊臣秀吉が奥州仕置きに向かった際、宿として認められたのが始まり。江戸時代初期には本格的な宿場が建設され、総屋敷数は83軒を数えた。旅館や料理屋がにぎわい、盛況ぶりは奥州街道随一ともいわれた。
 1868(慶応4)年の戊辰戦争では白坂宿でも戦いが繰り広げられ、会津藩士や大垣藩士、棚倉藩士らが戦死。白坂宿に住んでいた大平八郎は白坂宿から西軍(新政府軍)を先導し、東軍(旧幕府軍)の後方に出る間道を案内したという。
 地元の住民はこうした史実を後世に伝え、語り継ごうと顕彰碑の建立を企画し、昨年3月に実行委員会を組織した。住民らから寄付を募り、市の地域づくり活性化支援事業の補助金も受けた。
 顕彰碑は戊辰の戦死者が葬られている街道沿いの観音寺駐車場に設けられた。1873(明治6)年ごろの宿の並びの図と白坂宿の沿革が記されている。青柳委員長ら実行委員、円谷光昭副市長らが除幕した。青柳委員長は「地元住民の長年の願いがかなった。白坂宿を元気にしていきたい」と話している。
 実行委員会は2018年度も事業を継続し、屋号の石柱や歴史を説明する案内板の設置を予定している。
( 2018/03/18 09:50 カテゴリー:主要 )

シリーズ「傑物たちの生と死の真実」第28回新選組の残党、斎藤一の生涯とは? 胃潰瘍で71歳で没した豪腕剣士
「沖田は猛者の剣、斎藤は無敵の剣」と畏怖され、撃剣師範や三番隊組長で気を吐いた新選組の豪腕剣士といえば斎藤一だ。幕末きっての最強剣客、冷酷非情の刺客、暗殺粛清の請負人(スナイパー)、極悪非道の人斬り、俊敏速攻の豪剣、左利きの孤高なダークアウトローなどと喧伝され、伝説化される。

 そんな斎藤一とは何者だったのか?

享年71で胃潰瘍で病没した新選組の豪腕剣士
 1844(天保15)年1月1日、斎藤一は、江戸(播磨国?)に父・山口右助、母・ますの三子として生誕する。1月1日生まれが一(はじめ)の由来ともいわれる。

 19歳の時、江戸・小石川関口で口論した旗本を惨殺、京都の剣術道場・吉田道場に逃亡し師範代に。そして、1863(文久3)年3月、芹沢鴨、近藤勇ら13名が「新選組」の前身となる「壬生浪士組」を旗揚げ。斎藤ら11人が入隊し、京都守護職の会津藩主・松平容保の預かりとなる。斎藤は若年ながら副長助勤に抜擢され、後に三番隊組長、撃剣師範も兼務した。

 斎藤が20歳の1864(元治元)年6月、「池田屋事件」で土方歳三らと斬り込む。この時期、組内部の粛清役を一手に請負うことになる。長州藩の間者(スパイ)とされる御倉伊勢武、荒木田左馬之助、武田観柳斎、谷三十郎らの暗殺に関与するが、真相は不明だ。

 23歳、1867(慶応3)年3月、伊東甲子太郎が「御陵衛士」を結成して新選組を離脱。斎藤は間者となり御陵衛士に密かに潜入。新選組に復帰する時は、御陵衛士の活動資金を盗み、「金欲しさに逃走した」と巧みにカモフラージュ。新選組が伊東ら御陵衛士を暗殺した「油小路事件」は、斎藤の内偵情報を悪用して起きる。

 また同年12月には、紀州藩藩士・三浦休太郎を警護中、酒宴を開いた天満屋で海援隊・陸援隊の隊員16人の急襲に遭遇。宮川信吉らが死亡、梅戸勝之進が重傷。斎藤は鎖帷子(くさりかたびら)を着て難を逃れた。

 24歳、将軍・徳川慶喜の大政奉還(11月9日)後、1868(慶応4)年1月に戊辰戦争、鳥羽・伏見の戦いに参戦し敗走。3月に近藤勇が流山で新政府軍に投降後、新選組は会津藩の指揮下に入る。白河口の戦い、母成峠の戦いを連戦するが敗戦し、土方歳三は庄内へ、斎藤は会津に残留し会津藩士と薩長の新政府軍に抵抗する。同年9月に会津藩が降伏後も戦い続けたが、松平容保の使者の説得で投降。越後高田に下り謹慎する。

 25歳、会津藩は降伏後に改易され、会津松平家は家名断絶になるが、下北半島に斗南藩の再興を許され、斎藤も斗南藩士となり五戸に赴く。移住後、飯盛山で自刃した白虎隊士の篠田儀三郎の遠縁にあたる篠田やそと結婚したが、その後、離別している。

 30歳、1874(明治7)年3月、元会津藩大目付・高木小十郎の娘・時尾と再婚。氏名を藤田五郎に改名する。時尾との間には、長男・勉、次男・剛、三男・龍雄を授かっている。同年7月、東京に移住し警視庁に入庁する。

 34歳、1877(明治10)年2月、九州で士族反乱の西南戦争が勃発。内務省警視局の警部補に昇任した藤田五郎(斎藤一)は、5月、別働第三旅団豊後口警視徴募隊二番小隊半隊長の大義を負いつつ、西南戦争に参戦。敵弾で負傷する。

 35歳、戦後の1879(明治12)年10月、参戦の功績が認められ政府から勲七等青色桐葉章と賞金100円を授与。37歳、警視庁の巡査部長に昇進。その後、警部補や麻布警察署詰外勤警部を歴任。48歳、1892(明治25)年12月に退職。50歳で東京高等師範学校附属東京教育博物館(現・国立科学博物館)の看守(守衛長)に就任。撃剣師範を務め、学生に撃剣を教える。1899(明治32)年、55歳で退職。その後は東京女子高等師範学校の庶務掛兼会計掛に。好爺と慕われ、生徒の登下校時の交通整理も行ったという。65歳、1909(明治42)年に退職……。

 その後の来歴は詳らかでない。1915(大正4)年9月28日、東京都本郷区真砂町で胃潰瘍のため逝去との記録が残っている。享年71。墓所は福島県会津若松市の阿弥陀寺にある。
斎藤の死因とされる胃潰瘍とは?
 死亡診断書は確認できないが、斎藤の死因とされる胃潰瘍(peptic ulcer)を見てみよう。

 胃酸の影響を受け、胃の粘膜に炎症が生じ、粘膜が潰瘍を形成する病態を消化性潰瘍(胃潰瘍と十二指腸潰瘍)と総称する。胃潰瘍は、40歳以降の人に多く、十二指腸潰瘍は10~20代の若年者に多い。

 原因は何か? ピロリ菌(ヘリコバクター・ピロリ)が十二指腸潰瘍なら95%、胃潰瘍なら70%とされる。ピロリ菌以外の原因は、非ステロイド性消炎鎮痛薬のアスピリン(NSAIDs:エヌセッド)が多い。そのほか、胃粘膜保護の減少を助長する飲酒、喫煙、塩分、熱い飲食物、ストレス、コーヒー(カフェイン)などがリスクファクターになる。

 どのような症状が現れるのか? 上腹部痛は、十二指腸潰瘍では、空腹時や夜間によく起こり、胃潰瘍では、食後30分から1時間後によくみられる。潰瘍からの吐血や下血のほか、むねやけ、吐き気、嘔吐などを伴うことが多い。

 胃・十二指腸潰瘍の診断に最も重要な検査は、バリウムによるX線造影検査と内視鏡検査だ。治療は、ピロリ菌の除菌療法の進歩によって1年後の胃潰瘍の再発率は10%、十二指腸潰瘍は5%と低下している。

 エヌセッドの服用による胃・十二指腸潰瘍の治療は、胃粘膜プロスタグランジンを補充するプロスタグランジン誘導体の投与が行われる。胃・十二指腸潰瘍の疑いのある時は、早急に医師の診察を受けなければならない。

 このような病態の根拠から、斎藤一の病死を推察すればどうなるだろう?

 詳細なデータが不明だが、明治時代から大正時代の男性の平均寿命は43歳前後だ。胃潰瘍の病態がまだ解明されてい明治期に、71歳まで生存できたのはなぜだろう? 遺伝的な気質、武士道に通ずる精神的な形質、飲酒、喫煙、塩分過剰などの生活習慣などが関与していたのかも知れない。
「顔が割れなかった斎藤一」の写真が初めて見つかる
 斎藤一は「顔」がなかった。だがしかし、2016(平成28)年に初めて、彼の写真が発見される(「日本経済新聞」2016年7月15日)。関係者宅の蔵を整理した時に見つかった2枚の写真を、次男の子孫に当たる藤田家が公表。斎藤が54歳の1897(明治30)年に、妻の時尾、息子二人と撮影したポートレート。「これが死線くぐった目だ」と物議をかもしている。

 没後103年。前述のように「沖田は猛者の剣、斎藤は無敵の剣」と畏怖される。沖田総司、永倉新八と居並ぶ新選組の豪腕剣士として伝説化される斎藤一とは、いったい何者だったのか?

 数知れない歴戦逸話や剣技美談の陰で、幾重にも折り重なる出自の謎、暗殺疑惑、粛清嫌疑の暗雲。惨劇と鮮血の轍。同志隊員の横死を横目に見つつ、幾多の先陣を切り抜け、戦死することなく幕末、明治、大正を生き存えた宿業の執念。史実の激流に呑み込まれつつも、闘魂伝説の闇に葬られた71年の剣劇人生!
 
 旗本の殺戮と逃亡、大坂力士との乱闘、長州藩の間者や脱走隊員の大粛清、天満屋事件の惨殺、戊辰戦争の死闘で猛剣を振るった歴戦猛者。戦後は警部、大学の守衛や庶務掛兼会計掛にも就き、汗して勤労する。

 司馬遼太郎は『新選組血風録』に隊士の粛清役、暗殺の請負人を淡々と描く。小説や映画の『壬生義士伝』は「ふさふさとした眉、目つき鋭く、炯々とした背の高い男」の怪奇な横顔を追う。漫画や映画の『るろうに剣心』は御一新の明治時代に警視庁で一心に働く藤田五郎を活躍させる。

 最初の名前は山口一。京都に潜伏した時は斎藤一。24歳になれば山口二郎。戊辰戦争の時は一瀬伝八。斗南藩に移住する直前は、妻の高木時尾の母方の姓を借り、藤田五郎と名乗る。

 名前に数字を折り込み、変名、改名を繰り返す不可思議。本名(諱:忌み名)を名乗ることで霊的人格を差配されるとする実名敬避のジンクスを死守しようと、本名を巧みに使い分けながら武士の本願を貫こうとしたのか?

 かの「七つの顔の男」多羅尾伴内も真っ青の多重人格者か? 怪奇異能、冷徹寡黙のポーカーフェイスか? 斎藤一は何も語らない。
(文=佐藤博)

維新に翻弄された徳川の殿様たち御三家筆頭の尾張藩が新政府に寝返った理由幕末動乱の中、西郷隆盛を信頼した尾張藩主徳川慶勝
安藤 優一郎
 明治維新から150年が経つ。NHKの大河ドラマで西郷隆盛が取り上げられるなど、薩摩・長州の側から維新を描く番組・特集が目立つ。しかし、負けた側である徳川方にも歴史がある。

 会津の松平容保は最後まで将軍家に尽くした悲劇の宰相として有名。その弟である松平定敬(桑名藩主)も容保と行動をともにした。それゆえ、桑名藩を飛び出すことになる。

 一方、彼らの実の兄である徳川慶勝(尾張藩主)は藩内の親幕派を抑え、新政府につく。兄弟ではないが、越前・福井の松平春嶽もキーパーソン。当初は、最後の将軍・徳川慶喜も参加する“連立政権”の実現を図るが頓挫。その後は新政府に人材を供給した。

 維新に翻弄された、尾張・会津・桑名の3兄弟と、春嶽の歴史をひもとく。現代のビジネスに通じる要素がいくつもある。

 明治維新とは、徳川家中心の幕府から薩摩・長州藩を中核とする明治政府への政権交代劇であったが、維新を境に徳川家が完全に排除されたわけではない。排除された徳川一門もいたが、明治政府入りした徳川一門もいた。徳川一門が分裂して一枚岩になれなかったことが、維新が実現できた理由の一つでもあった。


高須4兄弟肖像。向かって右から、徳川慶勝・ 徳川(一橋)茂栄・松平容保・松平定敬(複製/原資料行基寺蔵) 海津市歴史民俗資料館提供
 一口に徳川一門の大名(親藩大名)と言っても、徳川姓を名乗ることが許された御三家・御三卿から、藩主が松平姓を名乗る会津藩、福井藩まで様々だ。それぞれ、将軍職を継いだ徳川宗家との関係は一筋縄ではいかなかった。各大名家の複雑なお家事情も背景にあった。葵の紋所を持つ同族グループの会社ではあったが、本社と系列会社との関係は必ずしも良好ではなかったのである。

 そこで台風の目となったのが、尾張藩徳川家や福井藩松平家だった。こうした徳川家内部の足並みの乱れを突く形で、薩摩・長州藩は徳川一門の尾張藩や福井藩を引き入れて明治新政府を樹立し、さらに戊辰戦争を経ることで維新回天を実現する。

 本連載では明治維新150年の節目の年に際し、維新の過程で翻弄された徳川一門の殿様4名に注目する。尾張藩主徳川慶勝、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬、福井藩主松平春嶽の4名である。

 将軍家以外の徳川家は激動の時代をどう生きたのか。維新を境に敵味方に分かれた4名の殿様の生き様を追うことで、徳川一門の殿様からみた明治維新の知られざる実情に迫る。

冷戦状態だった幕府と尾張藩
 初回は尾張藩主徳川慶勝を取り上げる。慶勝は文政7年(1824)の生まれで、後に部下となる西郷隆盛よりも3才年上であった。

 尾張藩の石高は62万石で、戦国の雄だった加賀藩前田家、薩摩藩島津家、仙台藩伊達家にこそ及ばないが、家格は徳川宗家(将軍家)に次いだ。徳川宗家に継嗣がいない時は、ナンバー2の大名として将軍の座に最も近い立場にあったが、尾張藩主が将軍の座に就くことは一度もなかった。

 6代将軍徳川家宣がいまわの時、尾張藩主の吉通が継嗣に擬せられたことはあったが、家宣の嫡男家継がわずか4才で将軍の座を継いだことで、その機会を失う。7代将軍家継が8才で夭折した時も、紀州藩主の吉宗に8代将軍の座を奪われた。

 家格では尾張藩の次に位置した紀州藩から将軍職を継いだ吉宗に対し、その後尾張藩主となった宗春は御三家筆頭としてのライバル心を剥き出しにするような政治を行う。質素倹約を旨とする吉宗のデフレ路線に対し、尾張藩主の宗春は規制緩和による積極経済の路線で対抗した。そのため、不景気に苦しむ江戸城下とは対照的に名古屋城下は大いに賑わう。

 しかし、こうした宗春の施政は吉宗から目を付けられざるを得ない。隠居・謹慎を命じられ、藩主の座を追われることになった。筆頭の系列会社のトップ人事にグループの総帥が介入した格好だ。おのずから、尾張藩では紀州藩が牛耳る幕府への反発が高まる。

 そして、尾張藩に跡継ぎがいなくなると、寛政10年(1798)に徳川宗家から養子を送り込まれてしまう。尾張藩には「御連枝」と称された分家の美濃高須藩松平家(3万石)があり、継嗣がいない場合は高須藩から養子に入るのが慣例だったが、幕府は高須藩からの相続を認めず、吉宗の曾孫にあたる11代将軍家斉の甥斉朝を養子に送り込んだ。

 斉朝が隠居した後も、三代続けて家斉の子や甥が藩主の座に就くが、いずれも吉宗の血統であるから、みな紀州藩出身ということになる。ライバル紀州藩の血統を引く者を主君として仰ぐことへの不満が尾張藩内では募っていく。自前の候補がいるにも拘らず、ライバルが牛耳る本社から社長を送り込まれたことへの反発は抑えようがなかった。

尾張藩待望の藩主徳川慶勝
 当時、分家の高須藩主は松平義建という人物で、子だくさんであった。後述するとおり、幕末史で重要な役割を演じる「高須四兄弟」とは義建の子供たちのことである。

 尾張藩では幕府に対抗して、義建の次男慶恕を藩主に迎えようという動きが既にみられた。慶恕は高須四兄弟では長兄にあたる。幕府はその動きを抑え込み、徳川宗家から養子を送り込み続ける。何度も養子を押し付けてきた幕府への不満は爆発寸前となるが、ようやく嘉永2年(1849)に慶勝が藩主として迎えられた。約半世紀ぶりに、尾張藩は自前の候補を社長の座に据えることができた。

 幕末に尾張藩主となった慶恕は藩政につとめるかたわら、国事多難な折柄、幕府の政治にも積極的に関与する。ついには水戸藩の前藩主斉昭とともに、大老井伊直弼の政治責任を追及したが、その反撃を受けて隠居・謹慎に追い込まれた。安政5年(1858)、世に言う安政の大獄である。藩主の座は高須四兄弟で次弟にあたる茂徳が継いだ。

 尾張藩主としては、宗春以来の強制隠居だった。藩内には衝撃が走り、幕府への反発がさらに強まる。そうした事情は斉昭や家老が処罰された水戸藩も同じであり、脱藩した水戸藩士たちは江戸城桜田門外で井伊を討ち果たす。幕府の権威は地に堕ちた。

 桜田門外の変の後、慶恕は隠居を解かれる。その折慶勝と改名した上で、政治活動を再開させた。文久3年(1863)に息子の義宜が藩主となると、後見役として藩の実権を再び握る。

 翌元治元年(1864)7月、長州藩が京都に攻め上り戦争(禁門の変)が起きる。敗れた長州藩は御所に向けて発砲した廉で朝敵に転落し、諸藩から構成される征長軍が組織された。長州征伐の開始だ。その総督に就任したのが慶勝であった。

 幕府は長州藩を徹底的に追い詰めることでその力を天下に見せつけ、幕府権威の復活を目論んだが、慶勝の考えは違っていた。長州征伐を断行することで、国内が内戦状態に陥ることを懸念していたのである。その混乱に乗じて、欧米列強が日本を侵略しないとも限らない。征長軍参謀を勤めることになった薩摩藩士西郷隆盛も同じ考えだった。

 西郷は長州藩に寛大な処置を取ることで、不戦のまま事態の収拾をはかることを慶勝に提案し、その了解を得る。自ら敵地に乗り込み、長州藩を帰順させることに成功した。征長軍は解兵となり、第一次長州征伐は終った。
 しかし、慶勝が西郷の勧めを受けて寛大な処置を施したことに、幕府は大いに不満だった。最後の将軍となる同じ徳川一門の一橋慶喜などは「芋に酔った」と批判している。芋とは薩摩藩(西郷)のことで、慶勝は西郷に籠絡されて長州藩を屈服させる機会を逃したというわけだ。

明治政府の一翼を担った尾張藩
 それから3年後の慶応3年(1867)10月、将軍慶喜は大政奉還に踏み切り、幕府は消滅する。その後、薩摩藩が主導する形で天皇をトップとする明治新政府が樹立されたが、徳川一門は分断された。慶喜が新政権から排除される一方、慶勝と福井前藩主松平春嶽を政府入りさせたのである。

 これに反発した慶勝の弟にあたる高須四兄弟の会津藩主松平容保と桑名藩主松平定敬は、慶喜を奉じて新政府と開戦する。慶応4年(1868)1月に勃発した鳥羽・伏見の戦いである。だが、慶喜と両藩は戦いに敗れて朝敵に転落し、慶勝と容保・定敬は兄弟で敵味方に分かれた。江戸中期以降、幕府と尾張藩が冷戦状態にあったことの必然的な結果でもあった。

 しかし、尾張藩内には幕府に反発する藩士がいる一方で、幕府に殉じるべきと主張する藩士も少なくなかった。このままでは路線対立が起き、内部抗争が起きるのは時間の問題だった。藩の分裂の危機が迫っていた。

 明治政府からも踏絵を迫られた慶勝は京都から名古屋に急行し、幕府寄りの立場を取る藩士たちを切腹などの断罪に処した。これは「青松葉事件」と呼ばれている。

 家臣たちに犠牲を強いることで藩内の一本化に成功した慶勝は政府の一員として、戊辰戦争勝利のために奔走する。東海道や中山道沿いの諸藩をして明治政府に帰順させることにも成功した。その一方で、敵となった弟たちの助命にも力を尽くした。

 その裏には幕府に不満を抱き続けた尾張藩の歴史に配慮しつつ、政府に敵対した徳川一門の存続も果たさなければならない慶勝の苦悩があった。尾張藩に限ることではないが、尾張藩主と徳川一門の立場を両立させることの難しさが滲み出ている。

維新に翻弄された徳川の殿様たち徳川宗家に殉じた会津藩主松平容保子会社の存亡よりも本社の利益を優先
安藤 優一郎
 第2回は会津藩主松平容保を取り上げる。容保は天保6年(1835)の生まれで、兄の徳川慶勝よりも11才年下である。高須四兄弟でいうと、3番目にあたる。


京都守護職を務めたがゆえに幕末・維新の風雲を真正面から浴びた松平容保(近現代PL/アフロ)
 会津藩の初代は、3代将軍家光の異母弟で信濃の旧家保科家に養子に入った正之である。23万石の所領を与えられた保科正之は、甥にあたる4代家綱の治世では将軍補佐役をつとめた。藩主が松平姓を名乗ったのは、3代藩主の時からである。

 会津藩松平家は福井藩松平家とともに、松平姓を名乗る親藩大名の代表格だった。徳川御三家も親藩大名だが、当時の慣例として親藩大名が幕府の役職に就くことはなかった。外様大名はもちろんである。

 老中・若年寄や奉行職など幕府の役職に就けるのは、徳川家の家臣から大名に取り立てられた譜代大名と、将軍の御直参である旗本と御家人だった。徳川宗家としては一門の大名をして幕府の仕事に当たらせるのはためらわれ、一門の大名としても宗家(将軍)の下で仕事をするのは抵抗があった。一国一城の主としてのプライドである。

 ただし、将軍が幼少の時などは別で、親藩大名も特別に幕府政治に関与した。保科正之が任命された将軍補佐役はその一例だ。御三家が幕政に関与することもみられた。

 寛文8年(1661)、正之は家老宛という形で15ケ条から成る家訓を家中に向けて提示する。この家訓は会津藩の藩是となる。正之は第1条目で将軍には一心をもって忠勤を励むことを説く。他藩の動向に関係なく、将軍には忠節を尽くさなければならない。もし二心を抱く藩主があれば、もはや自分の子孫ではない。そんな主君に、家臣たちは従う必要はない。

 正之は家訓を通じて将軍(幕府)への絶対的な忠誠を歴代藩主に求めた。会社に喩えると創業者の社訓だ。この社訓に縛られてしまったのが美濃高須藩から養子に入った第9代藩主の松平容保なのである。

松平容保、京都守護職となる
 容保が会津藩に養子に迎えられたのは、弘化3年(1846)のこと。藩主の座に就いたのは嘉永5年(1852)、18才の時だった。

 そんな容保が幕末の政治史に登場するのは、文久2年(1862)のことである。

 当時は幕府権威の低下による天皇(朝廷)権威の急浮上を受け、京都が江戸に代わって政局の舞台となっていた。攘夷を唱える尊王攘夷の志士が京都に集結し、天誅などの騒動を引き起こす。

 朝廷内でも尊攘派の公家が台頭する。薩摩藩や長州藩に象徴されるように、朝廷を介して幕政に影響力を行使しようという藩も増えはじめた。天皇の奪い合いだ。

 こうした京都の情勢を、幕府は危険視する。朝廷や西国大名の監視そして京都の治安維持のために京都所司代を置いていたものの、所司代のみでは無理と判断する。

 所司代に任命されるのは10万石前後の譜代大名であり、小禄の方だった。そこで、23万石の石高を誇る会津藩の武力をもって、京都の治安を回復しようと目論む。京都守護職の新設だ。会津藩としては将軍補佐役に任命された藩祖保科正之と同じく、特命を受けて幕政への参画を求められた格好である。

 容保に守護職就任を求めてきたのは、同じ親藩出身で大老に相当する政事総裁職を務めていた福井前藩主の松平春嶽だった。容保はこれを固持、家臣たちも大反対だった。現下の情勢では、衰運の幕府を助けて守護職を務めるというのは薪を背負って火中に飛び込むのに等しい。家老の西郷頼母や田中土佐は言葉を尽くし、守護職を受けないよう容保に諫言を重ねる。
 会津藩が存亡の危機に陥ることを危惧したのだ。実際、その危惧は現実のものとなる。

 しかし、正之が残した家訓を知っていた春嶽は容保を説得してしまう。藩祖の正之ならば、必ず引き受けただろう。この言葉は、容保には殺し文句だった。

 正之は家訓を通じて将軍(幕府)への絶対的な忠誠を歴代藩主に求めたわけだが、容保にとり藩祖の家訓は何よりも重かった。養子であるがゆえに、養家の社訓により縛られてしまう。会津藩としては、幕府の苦難を黙視できない。命運を共にしなければならない。

 容保は藩内の反対を押し切って京都守護職を受諾する。これが、会津藩にとっては茨の道のはじまりだった。

容保に守護職辞職を求めた会津藩重臣
 会津藩士1000人とともに入京した容保は、幕府の命に従って職責を全うすることに努める。衰運の幕府を支える柱石になるとともに、孝明天皇の厚い信任も獲得した。だが、そのぶん、朝廷を牛耳ろうとしていた長州藩などからの嫉妬は避けられなかった。

 元治元年(1864)の池田屋事件、禁門の変を経て、長州藩とは血で血を争う仇敵の関係になる。高須四兄弟では弟にあたる桑名藩主松平定敬は京都所司代として容保を支えたが、長兄にあたる徳川慶勝が藩主を勤めた尾張藩との関係は微妙なものとなっていく。

 正之の家訓に従って幕府と運命を共にする道を進む会津藩と、藩主が2度にわたって隠居を命じられた上、宗家から養子を押し付けられてきたことで幕府への積年の不満が溜まっていた尾張藩の藩内事情の違いだ。幕府を支える会津(容保)・桑名藩(定敬)と、幕府と距離を置く尾張藩(慶勝・茂徳)の政治的立場の違いが、同じ徳川一門の家に養子に入った高須四兄弟の間を引き裂いた。

 こうして、会津藩は幕府の柱石として守護職を勤めれば勤めるほど、反幕府の立場を取る長州藩や薩摩藩との関係が悪化することになったが、藩内にも容保への不満が広がっていた。幕府から手当は付いたものの、大勢の藩士とともに京都に駐屯し続けるには到底足りなかったからだ。結局は持ち出しを強いられ、財政が火の車となる。

 容保の在京は5年にも及んだが、京都詰の藩士たちも多大な負担を強いられる。藩にしても財政難であるから、彼らに充分な手当は支給できなかった。生活難に陥った藩士の間では、内心京都詰を忌避する空気があったが、迷惑であると表立って申し立てるのは臣下として許されるべきことではなかった。会津藩に限らず、藩士にとり藩命は絶対だった。

 しかし、このまま容保が守護職にとどまっては、藩や藩士たちが疲弊して滅亡の危機に瀕するのは明らかだった。仇敵長州藩との戦いも避けられない。重臣たちは容保に守護職辞任と国元への帰国を説く。会社の危機を眼前にした役員たちが、その回避をはかろうと社長に直訴した格好だが、容保は重臣たちの意見を退け、守護職にとどまる。子会社の存亡よりも本社の利益を優先した形であった。
 当然ながら、藩内にはしこりが残る。藩内に反発を抱えたまま、容保は大政奉還の日を迎える。幕府が倒れた後は、薩摩・長州藩との戦いが時間の問題となり、慶喜を奉じる会津藩と桑名藩は敗れ、朝敵に転落した。容保は弟の定敬とともに、慶喜に随って江戸へ敗走する。会津藩士たちもその跡を追った。

 しかし、新政府に対して恭順の意思を示す慶喜からは会津への帰国を命じられる。抗戦の意思を捨てない会津藩は、慶喜にとり都合の悪い存在になってしまったからだ。その後の会津藩の苦難は、白虎隊の悲劇に象徴されるように良く知られているだろう。

 明治維新(戊辰戦争)における会津藩の悲劇とは、創業者の社訓に縛られた子会社の社長が本社に義理立てし続けた結果、その身代わりとなって自分の会社を倒産させてしまい、社員にも多大な犠牲を強いた事例である。会津藩主松平容保の生き様は、現代にも通じる本社と子会社の関係の難しさを物語っている。

(次回は、3月22日に桑名藩主・松平定敬をお送りします)
維新に翻弄された徳川の殿様たち戊辰戦争で帰る場所を失った桑名藩主松平定敬それでも殿様は箱館まで戦い続けた
安藤 優一郎
 第3回は桑名藩主松平定敬を取り上げる。定敬は弘化3年(1846)の生まれで、兄の会津藩主松平容保よりも11才年下である。高須4兄弟でいうと、一番下にあたる。


新撰組の局長、近藤勇。新撰組が活躍していた頃、会津藩とともに京都の治安維持に努めたのは桑名藩だった(写真:近現代PL/アフロ)
 兄弟が藩主を勤めて政治行動を共にしたことで、「会津・桑名」と括られるのが幕末史の定番の記述だが、桑名藩の歴史は会津藩とかなり違う。会津藩は保科正之が入封して幕府が倒れるまでの200年以上、保科(松平)家が藩主を勤めたが、桑名藩は藩主の入れ替わりが多い藩であった。

 伊勢桑名は上方の要衝として、親藩大名や譜代大名が入封するのが通例だった。関ヶ原合戦の論功行賞で徳川四天王の本多忠勝が封じられた。本多家が姫路に転封となると、家康の異父弟である久松(松平)定勝が封じられる。

 百年近く松平家が藩主を勤めた後、奥平(松平)家が藩主となる。同家が同じく100年ほど藩主を勤めた後、文政6年(1823)に白河藩主松平定永が移ってきた。そして、明治まで松平家が藩主を勤める。なお、定永の父は寛政改革を主導した老中松平定信である。

 桑名藩の所領は11万石だが、越後柏崎に6万石近くの分領があり、陣屋を置いて支配にあたった。後に、定敬は柏崎陣屋を拠点に新政府軍に抵抗することになる。

 安政の大獄のさなかの安政6年(1859)、定永の孫にあたる藩主松平定猷が死去する。嫡男の定教は幼少であった。そのため、中継ぎの形で養子を迎える話となり、定敬が養子入りする。定敬は14才になっていた。

 高須4兄弟のうち、長兄の徳川慶勝(当時は慶恕)は前年に井伊大老(安政の大獄)により隠居に追い込まれ、次兄の茂徳が尾張藩主となっていた。すぐ上の兄松平容保は会津藩主の座にあり、これで4兄弟がみな藩主の座に就いたことになる。

 翌年に勃発した桜田門外の変を境に、幕府の権威は失墜の一途を辿る。そうしたなか、文久2年(1862)閏8月に容保が京都守護職に任命される。定敬が兄と運命を共にする時は刻々と近づいていた。
京都所司代として兄容保を支える
 兄の容保が会津藩士1000人を連れて京都に入ったのはその年の暮のこと。京都には守護職とともに治安維持にあたる所司代が置かれていた。時の所司代は長岡藩主牧野忠恭で、その家臣として奔走していたのが河井継之助である。

 しかし、長岡藩の所領は7万4000石に過ぎなかった。23万石の会津藩とともに、風雲急を告げる京都で鎮撫の任にあたることは無理があった。そのため、翌3年(1863)6月に牧野忠恭は所司代を辞職し、淀藩主の稲葉正邦が後任に補される。淀藩の所領は15万石であった。

 元治元年(1864)4月、幕府は稲葉を老中に抜擢し、江戸へ向かわせる。そして、後任の所司代として白羽の矢が立ったのが定敬だった。ここに、兄弟揃って守護職・所司代として京都鎮撫の任にあたることになる。慶応3年(1867)12月に両職が廃止されるまで、会津・桑名藩が京都で幕府を支える体制は続く。

 定敬が桑名藩士を率いて入京した時、京都の情勢は既に緊迫していた。元治元年(1864)6月には会津藩配下の新選組が池田屋事件を起こし、長州藩士を殺傷する。これに激高した長州藩は会津藩主松平容保討伐を掲げ、京都に兵を進めた。

 当然、定敬は所司代として兄容保を支える。親藩の会津藩や福井藩、そして外様の薩摩藩とともに御所の警備に付き、長州藩兵を撃退した。7月の禁門(蛤御門)の変の名で知られる戦いである。

 その後も、桑名藩は会津藩とともに京都に駐屯する。最後の将軍となる慶喜を奉じ、長州藩そして薩摩藩との対決姿勢を強めていく。

 しかし、桑名藩も会津藩と同様の問題を内部に抱えていた。幕府から手当は付いたものの、大勢の藩士とともに京都に駐屯し続けるには到底足りなかったからである。結局は持ち出しを強いられ、財政が火の車となり、そのしわ寄せは藩士に降りかかった。

 このまま定敬が所司代の職にとどまっては、藩や藩士が疲弊して滅亡の危機に瀕し、仇敵長州藩との戦いも避けられない。藩内の不満と不安が増幅していくが、定敬はその職にとどまり続ける。兄容保と運命を共にする道を選び、戊辰戦争の渦の中へと飛び込む。だが、桑名藩は別の道を歩むのである。
藩存続のため家老の説得を容れる
 慶応4年(1868)1月3日に勃発した鳥羽・伏見の戦いで、会津・桑名藩は京都を目指す徳川方の先鋒を務める形で薩摩・長州藩と激突した。会津藩は伏見で、桑名藩は鳥羽で奮戦したが、徳川方のまとまりの悪さなども相まって、両藩は後退を余儀なくされる。そして朝敵に転落した。

 戦況の不利を悟った慶喜は大坂城から海路江戸へと向かうが、その折、容保と定敬に同行を命じる。二人を大坂に残しておくと、自分の代りに祀り上げられ、会津・桑名藩士が抗戦を続ける恐れがあったからだ。

 主君が江戸へ向かったことを知った会津藩士はその跡を追うが、桑名藩士の場合は事情が違っていた。もちろん定敬の跡を追った藩士もいたが、藩内では別の動きが起きていた。

 会津とは違い、桑名は上方の要衝であり、西日本を制圧しつつあった薩摩・長州藩を主軸とする新政府の軍事的圧力に晒されていた。その上、譜代大名の井伊家をはじめ、上方の諸藩は新政府に次々と帰順し、桑名藩は四面楚歌の状況に置かれつつあった。

 定敬が所司代を長く務めることへの不満と不安が藩内には渦巻いていた。それが、ここに至り、一気に噴出する。新政府への帰順、つまり不戦論が藩内で急速に台頭した。しかし、藩内では抗戦論も根強かったため藩内は分裂の危機に陥る。藩主が不在であったことも混乱に拍車を駆けた。

 桑名藩の留守を預かっていた家老酒井孫八郎は藩内の分裂と滅亡を避けるため、新政府への帰順で藩論を統一する。藩を守るため、藩主定敬の意志に背く形で新政府に降った。1月28日のことである。以後、桑名藩は新政府側の尾張藩の管理下に入る。

 国元を長らく不在とし、さらには養子だったこともあり、定敬が家中を充分に掌握できていなかったことは否めない。兄弟が藩主を務めたことで会津・桑名藩は政治行動を共にしたが、もともとは別の藩である。会津藩に引きずられることへの不満と不安が藩内で渦巻いていたことは否めない。

 葵の紋所を持つ同族グループの会社ではあったが、会社が存亡の危機に瀕したのを契機に別々の道を歩んだわけである。

 一方、江戸に戻った慶喜は新政府に対して恭順の意思を示すことを決めたため、抗戦の意思を捨てない松平容保・定敬兄弟は帰国を命じられる。容保は会津若松城に帰るが、定敬には帰るべき城がなかった。

 止むなく、定敬のもとに駆け付けた藩士たちとともに、分領の越後柏崎陣屋に向かう。しかし、越後でも新政府軍に敗れた定敬は、蝦夷地に渡り箱館で最後の抗戦を試みる。

 これでは桑名藩の存続も危ういと事態を憂慮した酒井は、自ら箱館まで赴く。定敬を説得して、新政府に帰順させた。年は明け、明治2年(1869)5月になっていた。

 これにより、桑名藩は会津藩のように御家断絶からは免れる。所領は約半減されたものの、桑名藩は存続を許された。

 会津藩に比べ、桑名藩の苦難が明治維新史で取り上げられることは少ない。会津藩とは異なり、戦わずして帰順したことが大きい。同じ徳川一門に連なる藩で藩主が兄弟であっても、別々の藩であることが桑名藩をして帰順の道を取らせた格好であった。

 桑名藩における家老酒井孫八郎の行動は、会社が存亡の危機に立たされた時、社長の意向よりも会社の存続を優先させるため役員が決起した社内クーデターに似ているのではないか。

(次回は、3月23日に越前藩主・松平春嶽をお送りします)

第一弾は幕末・明治の長崎にフォーカス「写真発祥地の原風景」展幕末・明治の長崎にタイムトラベルをする臨場感を楽しむ展覧会が5月6日(日)まで開催。
日本の写真発祥地といわれる3都市にフォーカスし、初期写真を核に幕末・明治の日本を再構築するシリーズ「写真発祥地の原風景」の第一弾が、5月6日(日)まで恵比寿・東京都写真美術館で開催中。

本展では「明治150年」を記念し、写真を中心としたオリジナル作品のほか、古地図や絵画・工芸作品など、 ジャンルや時代を超えて、幕末・明治の「長崎」に焦点を当て、日本の写真文化発展の源流を考察するとともに、初期写真の記録性に着目する。現代に生きる我々が決して訪ねることが出来ない、幕末・明治の長崎にタイムトラベルをする臨場感を、集積された初期写真・資料等から楽しんでみては。

タイトル
「写真発祥地の原風景 長崎」

会期
2018年3月6日(火)〜5月6日(日)

会場
東京都写真美術館(東京都)

時間
10:00〜18:00(木金曜は20:00まで)

休館日
月曜、4月30日(月・祝)*5月1日(火)は開館

入場料
【一般】700円【学生】600円【中高生・65歳以上】500円

URL
https://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-2960.html
幕末維新博 最先端の「肥前」体感5万人体験授業計画、肥前中の50人が第1号
 唐津市の肥前中学校2年生約50人が20日、「肥前さが幕末維新博覧会」の会場を訪れ体験した。佐賀市城内のメインパビリオン「幕末維新記念館」、県立博物館・美術館などを訪れ、日本の近代化をけん引した佐賀県の業績を“体感”した。

 県は来年1月14日までの期間中、県内の小学校4年生から中学校3年生まで約5万人が博覧会で体験授業を受けられるよう準備している。肥前中の生徒はその第1号として訪れた。

 生徒たちは5月、鹿児島県への修学旅行を予定。その事前学習の一環という位置づけもあり、幕末維新記念館では、最新のデジタル技術などを駆使した演出のほか、役者や映像が一体となったショーに見入っていた。

 「未来につなぐメッセージ」を書くコーナーでは、「佐賀、大好き」など思い思いの言葉を記した。岩本藍さん(14)は「これまでは田舎…と思っていた佐賀が、最先端を走っていたんだなあと実感した」、井上真帆さん(14)は「看護師になるのが夢。将来は佐賀のいいところを伝えられるようになりたい」と目を輝かせていた。

 生徒たちは事前学習で偉人をテーマにした壁新聞作りにも取り組んだ。県立美術館ホールで開いた表彰式で副島種臣を取り上げた最優秀の吉田咲笑さん(14)らに賞状などが贈られた。
好評であるようです。
「江戸は燃えているか」 獅童、海舟を好演=評・小玉祥子
 勝海舟と西郷隆盛(吉之助)による江戸無血開城を決した会談が題材の喜劇。三谷幸喜作・演出。

 慶応4年。新政府軍が江戸城総攻撃を決定し、幕府は軍事取扱の海舟(中村獅童)に降伏か抗戦かの決断を委ねた。そこに新政府軍の指揮を執る西郷(藤本隆宏)から、内々に会いたいとの打診が。短気な海舟が交渉を決裂させることを案じた娘のゆめ(松岡茉優)は、庭師の平次(松岡昌宏)を海舟の身代わりに立てることを思いつく。

 2幕構成で舞台は江戸の海舟邸。来訪した西郷と中村半次郎(吉田ボイス)は平次を海舟と疑わないのだが、家内に密事を知るものと知らない者が存在することが事態を混乱させる。

 西郷と平次の会話を成立させようとする海舟の義弟俊五郎(田中圭)と女中頭かね(高田聖子)、俊五郎の妻で海舟の妹の好戦的な順(妃海風)、蚊帳の外に置かれた海舟の妻たみ(八木亜希子)、平次を慕う女中いと(磯山さやか)、若干ピントのずれた山岡鉄太郎(飯尾和樹)ら個性の強い人物が西郷に接触することで波紋が生じ、笑いが起きる構成が巧みだ。

 獅童が前半では海舟の幼児性を、後半では打って変わっての明晰(めいせき)と胆力を示す。平次の松岡が女性に好かれるが、どこか乾いたところのある人物像をうまく見せた。

 事態を収拾しようと身を挺(てい)するかねの高田がコミカルだ。妻や周囲に振り回される俊五郎の困惑ぶりを田中がおもしろく見せた。【小玉祥子】

新橋演舞場で26日まで

先週の公演ではこんなこともあったようです。
松岡茉優ダウンで三谷幸喜氏が代役「まさか自分が」
 女優松岡茉優(23)が19日、東京・新橋演舞場で上演中の舞台「江戸は燃えているか」の昼公演中に体調不良となり、夜公演の出演を見合わせた。

 夜公演は、同舞台の作・演出を手掛けた三谷幸喜氏(56)が代役を務めた。劇場関係者によると、松岡は昼公演本編は最後まで演じきったが、終了後のカーテンコールに参加できなかった。体調不良を訴えたため病院で点滴治療を受けた後、帰宅して休養した。今日20日は予定通りに出演する。

 夜公演は、三谷氏が開演前に「松岡さんの具合がよくありません。(代役の)人が見当たらないので、代わりに私がやります」と自分が代役を務めることになった経緯を説明した。松岡は中村獅童(45)演じる勝海舟の長女ゆめ役。三谷氏は本番では、台本を手に持ちながら黒子姿で舞台に立った。

 観客によると、時折アドリブを交えるなど堂々と演じていたという。またカーテンコールでは「劇場に毎日来ているわけではないのに、まさか自分が(代役を)やることになるとは」と話して観客を笑わせていたという。

 同舞台には他に、松岡昌宏、藤本隆宏、田中圭らが出演している。

 例によって私の感想は折り畳んでおきます。
14代当主松平保久さん参加 来月8日・鹿児島の島津家別邸で「曲水の宴」
 鹿児島市で4月8日に開かれる行事「曲水の宴」に初めて会津藩松平家の14代当主松平保久(もりひさ)さん(64)が参加する。戊辰戦争の開戦から150年の節目の年。松平家のほか、敵味方に分かれた徳川家と薩摩藩島津家からも当主らが出席する。歴史に思いをはせ、歌を詠みながら交流する。

 曲水の宴は島津家のみやびな文化を後世に伝えようと毎年開催されている。参加者は小川の上流から流された杯が前を通り過ぎないうちに歌を作り、杯を取り上げて酒を飲むという風流な行事だ。
 会場は島津家の別邸「仙巌園」。鹿児島のシンボルである桜島を庭園の景観に取り入れ、雄大な景色が楽しめる。幕末の薩摩藩主島津斉彬も愛した。
 今年は松平さんをはじめ、徳川宗家18代当主徳川恒孝さんの長男徳川家広さん、島津家32代当主島津修久さんの長男島津忠裕さん、庄内藩酒井家19代目酒井忠順さんらが参加する。
 歌のテーマは「明治維新150年」。松平さんは「行事を通じて幕末の会津藩の立場を薩摩の地でしっかりと伝えたい」と語った。
 戊辰戦争では会津藩を中核とした東軍(旧幕府軍)、薩摩藩や長州藩の西軍(新政府軍)が戦火を交え、東軍が敗れた。
( 2018/03/15 10:36 カテゴリー:主要 )

顕彰碑を建立 白河戊辰の戦地「白坂宿」住民
 白河市の旧奥州街道にある「白坂宿」に、住民らが地元の歴史を伝える顕彰碑を建立し、17日に現地で除幕式が行われた。白坂宿は戊辰戦争で戦死者が出た歴史的な場所で、青柳幸治実行委員長は「戊辰150年の節目に除幕でき、感慨深い」と話している。
 郷土史によると、白坂宿は豊臣秀吉が奥州仕置きに向かった際、宿として認められたのが始まり。江戸時代初期には本格的な宿場が建設され、総屋敷数は83軒を数えた。旅館や料理屋がにぎわい、盛況ぶりは奥州街道随一ともいわれた。
 1868(慶応4)年の戊辰戦争では白坂宿でも戦いが繰り広げられ、会津藩士や大垣藩士、棚倉藩士らが戦死。白坂宿に住んでいた大平八郎は白坂宿から西軍(新政府軍)を先導し、東軍(旧幕府軍)の後方に出る間道を案内したという。
 地元の住民はこうした史実を後世に伝え、語り継ごうと顕彰碑の建立を企画し、昨年3月に実行委員会を組織した。住民らから寄付を募り、市の地域づくり活性化支援事業の補助金も受けた。
 顕彰碑は戊辰の戦死者が葬られている街道沿いの観音寺駐車場に設けられた。1873(明治6)年ごろの宿の並びの図と白坂宿の沿革が記されている。青柳委員長ら実行委員、円谷光昭副市長らが除幕した。青柳委員長は「地元住民の長年の願いがかなった。白坂宿を元気にしていきたい」と話している。
 実行委員会は2018年度も事業を継続し、屋号の石柱や歴史を説明する案内板の設置を予定している。
( 2018/03/18 09:50 カテゴリー:主要 )

新選組の街・日野 海外PR
名所紹介の動画 市が製作

昨年12月のツアーで、新選組の隊士になりきって楽しむ外国人ら

日野市が製作した動画の一部分。新選組に関する市内の観光ルートを紹介している

 日野市は、外国人観光客向けに、新選組にゆかりのある名所を紹介する動画を製作した。市観光協会の英語版サイトで今月末から公開する予定。海外でも人気の新選組を積極的にPRし、訪日外国人の呼び込みに本腰を入れて取り組む。

 日野市は、新選組副長・土方歳三の出生地で、土方や近藤勇、沖田総司らが、日野宿本陣の道場で剣術の稽古に励んだ「新選組のふるさと」。新選組は海外でも広く知られており、市は「日野=新選組」といったイメージの積極的な発信をはかる。

 今回製作した動画では、JR日野駅を出発し、日野宿本陣―新選組のふるさと歴史館―高幡不動尊へと向かうルートなどを紹介。英語のナレーションと字幕付きで、外国人にとって難しいとされる路線バスの乗り方も説明している。市の国際交流員や、英語が堪能な職員らも製作に携わった。

 市内を訪れる外国人観光客も増えている。日野宿本陣と、新選組のふるさと歴史館を訪れた外国人は2014年度は18人だったが、今年度は1月までで140人と急増した。20年東京五輪・パラリンピックが近づくにつれてさらに増加が見込まれ、市は集客につなげたい考えだ。

 動画製作に先立ち、市は昨年12月、9か国19人の外国人を集めたツアーも開催した。参加者からは、新選組の隊士に扮ふんした「侍体験」などが好評で、手応えをつかんだ。

 市観光振興課の小松利夫課長は「外国人はもちろん、日本人観光客や地域の人々も、動画で日野に関心を持ってもらえたら」と話している。

膳所藩の藩政や幕末の動乱鮮明に 大津市歴博で4月15日まで企画展
 膳所(ぜぜ)藩(大津市)に残る屏風(びょうぶ)絵などの文化財を展示する企画展「膳所城と藩政 築城から幕末十一烈士事件まで」が大津市歴史博物館で開かれている。4月15日まで。

 膳所藩は、江戸幕府にとって京都への入り口として重要な役目を担い、譜代大名が藩主を務めた。元和3(1617)年に本多康俊が藩主に就いて以来、一時期を除き本多氏が治めてきた。企画展は本多氏が膳所城に入城して約400年となったことを記念し開催している。

 城下町の測量図や、合戦での陣立ての屏風絵など約75点を展示。江戸時代後期に描かれた屏風絵「近江八景図」は、「瀬田の唐橋」などとともに湖の中に石垣を築いた膳所城が勇壮な様子で描かれている。

 また、幕末に尊皇攘夷運動で投獄された藩士らが、獄中で紙をひも状にして文字にし、家族を憂う気持ちなどを書いた詩歌なども展示。膳所藩に及んだ幕末の動乱の一端も垣間見える。

 京都市東山区の矢野正明さん(75)は「激動の時代の政治や個人の無念などの思いを体感した。膳所藩の大きな役割を感じた」と話していた。

 一般600円、高大生300円、小中生200円。問い合わせは同博物館((電)077・521・2100)。

幕末維新博あす開幕先人の気概を感じ取ろう
 「肥前さが幕末維新博覧会」が17日、佐賀市城内エリアを中心に開幕する。明治維新150年の節目に、日本の近代化をリードした佐賀の歴史や業績を振り返り、新たな飛躍に向けて一歩を踏み出す契機にしたい。

 維新博は「幕末維新記念館」(市村記念体育館)をメインパビリオンとして、「リアル弘道館」(旧古賀家)や「葉隠みらい館」(旧三省銀行)、唐津、鳥栖のサテライト館などで展開される。佐賀城本丸歴史館や佐賀県立博物館・美術館など既存施設も活用し、来年1月14日まで県内各地で繰り広げられる。

 幕末維新記念館は「歴史と未来をつなぐ架け橋」がコンセプト。幅15メートルの大型スクリーンを使い、佐賀が果たした業績や偉人たちの活躍を紹介する。「幕末維新」「技」「人」「志」の四つのテーマに分け、デジタル技術を駆使した映像などで当時の佐賀を浮かび上がらせる。

 反射炉や鉄製大砲の鋳造、実用蒸気船の建造など他藩に先んじた技術と、その構築に力を注いだ10代藩主鍋島直正をはじめ、多くの優れた人材が幕末維新期の日本をけん引した。記念館の映像の冒頭では「その時、日本は佐賀を見ていた。佐賀は世界を見ていた」という維新博のキャッチコピーが映し出されるが、まさに激動の時代を見通す先見性があった。

 その活躍を顕彰する維新博だが、パビリオンが並ぶ一般的なイメージの博覧会とは趣が違う。「楽しい」「面白い」というアミューズメント施設が集まっているわけではなく、「学び」の要素が強い。来館した一人一人が当時の空気感や先人の考え、気概を感じ取り、夢や希望を膨らませる-。そのきっかけにすることで、一過性に終わらない意義のあるイベントになるだろう。

 佐賀県は、昨年10月からプレシンポジウムを開いてきた。唐津会場では唐津藩英学校「耐恒寮」、鳥栖会場は「交通・物流の結節点」、小城会場は「菓子の文化」、嬉野会場は「茶産業」と、各地域の特色を踏まえ、歴史を振り返りながら現代につながる地域の力を再認識した。

 幕末維新期に躍動した佐賀の源泉は、佐賀城内一帯にとどまるわけではない。県内各地に秀でた人材がいて、その活躍が日本を、地域を先導して現在の礎となっている。維新博ではサテライト館も設けられるが、それぞれの地域で幕末維新期の息吹を感じる場となるように運営してほしい。

 新たな国づくりに向かった当時と、成熟した社会となった現代。状況は大きく異なるが、「時代が違う」で片付けては開催の意義がない。当時の人たちの思考や行動、気概に触れ、「これから」を生きる力にしたい。(大隈知彦)


中野ZEROホール、前回来たのは談春さん独演会だったかな。今年は桜の開花が早く、一分二分咲き。

芸談
 勘九郎さんが『組!』で仲良くなった藤原竜也さんとその後映画で共演した時に……で始まる会談話が本気で怖い。思い出したら夜眠れなくなる。。
 七之助さんが勘九郎さんに『浦島』で鶴のフリを入れてと無茶ぶり。何でも、普通に知られている浦島太郎は明治期の教科書で知られるようになった話だけど、もともとは亀が乙姫様で鶴が浦島太郎でめでたしめでたしなんだそう。

鶴亀
 鶴と亀が帝の長寿と弥栄を願う目出度い舞だそう。帝、お付き、鶴の官女ふたり、亀の官人ふたり。

浦島
 四月の鎌倉公演以降は大河ドラマ撮影に入ってしまう勘九郎さんを堪能。老人になってからがすごい化けっぷり。そして最後に鶴。。尊い。。

枕獅子
 七之助さんの女役の麗しさと獅子の格好よさをダブル堪能。
長野
「明治維新150年」にちなんだ特別展 高遠町歴史博物館
銃撃を受けた痕が残る陣がさ(左)や銃なども並ぶ特別展=伊那市高遠町の高遠町歴史博物館で

 「明治維新百五十年」にちなみ、幕末から明治初めの高遠藩や地域の動きに焦点を当てた特別展「維新の激動と伊那・高遠の人々」が、伊那市の高遠町歴史博物館で開かれている。現存する各種の史料を通して、動乱の最中にあった地元の様子をたどっている。

 元高遠藩士の家に伝わる黒船来航の驚きを記した瓦版「外国船ノ図」や、伊那市出身の日本画家池上秀畝(しゅうほ)の父で、同じく日本画家だった秀花が手掛けた「高遠城図」など三十六点が並んでいる。

 ペリー来航の際、有事に備えて高遠藩から江戸の藩邸に送られた甲冑(かっちゅう)や、戊辰(ぼしん)戦争に出陣した藩士の銃痕が残る陣がさなど、歴史の痕跡を今に伝える貴重な品々もそろう。

 笠原千俊館長は「地租改正」に使用された分厚い台帳を例に挙げ「下級役人が細かい文字でびっしりと記録している。大きな歴史的事件が次々に起きたにもかかわらず、しっかり対応できたのは、歴史の裏で活躍した人々の存在があったことを知ってほしい」と話している。

高遠藩の甲冑(右)や黒船来航(右から2番目)を伝える瓦版などの展示品=伊那市高遠町の高遠町歴史博物館で

 六月十七日まで。入場料は一般四百円、小中学生二百円。上伊那地域の小-高校生は無料。(問)同博物館=0265(94)4444

 (板倉陽佑)

明治維新から150年展 高遠町歴史博物館
伊那市の高遠町歴史博物館は、明治維新から150年を記念した特別展「維新の激動と伊那・高遠の人々」を開いている。ペリー率いる黒船の来航(1853年)から西南戦争(1877年)まで、歴史の転換点ともいえる約20年間を読み解く史料36点を展示している。6月17日まで。

幕末から明治初期までの国内で起こった事変や伊那地方の当時の様子、高遠藩内藤家が執った政策などが分かる史料を年代ごとに展示。黒船来航を伝える瓦版は元高遠藩士の家に伝わるもので、黒船の異様な姿が描かれている。徳川幕府の譜代大名であった高遠藩は長州征伐や戊辰戦争に出兵。長州征伐出兵時に藩主、内藤頼直が記した掛け軸の書や戊辰戦争で高遠藩士が着用し、銃弾が貫通した跡が残る陣がさなどもある。

維新後の史料では版籍奉還を願い出た高遠藩に対して、許しを下した「勅許」を展示。幕府をもり立てながら新政府に従い、新しい時代の波を受け止めた内藤家の苦悩がうかがえる。人々の動きでは新しい時代に向け、進徳館を通じて学問を推進した様子が分かる。

同館の笠原千俊館長は「明治維新で日本は大変革し、国として別の顔を持つようになった。この激動の波を、展示を通じて感じてほしい」と話している。

入館料は一般400円、小中学生200円(上伊那地域の小中学生・高校生は無料)。開館時間は午前9時~午後5時(入館は午後4時30分まで)。月曜日と祝日の翌日は休館。4月は無休。問い合わせは同館(電話0265・94・4444)へ。

山形
<戊辰戦争150年>西郷隆盛と菅実秀の遺徳しのぶ顕彰展 鶴岡市
西郷が旧庄内藩士に贈った揮毫などが並ぶ遺徳顕彰展

 西郷隆盛と明治維新後に親交を深めた旧庄内藩中老の菅実秀(すげさねひで)の2人の遺徳をしのぶ顕彰展が、かつて旧庄内藩士らが開発した山形県鶴岡市の松ケ岡開墾場で開かれている。23日まで。
 市教委などが維新150年を記念して企画。西郷は戊辰戦争に敗れた庄内藩への寛大な処分を政府に求めたことで知られ、菅は松ケ岡の開墾事業を進めながら西郷の教えを請い、後に旧藩士らと「南洲翁遺訓」を発刊した。
 かつての蚕室を利用した展示会場では、戊辰戦争に始まる両者の結び付きをパネルで紹介。NHK大河ドラマ「西郷(せご)どん」にちなみ、「西郷どんと菅はん」と銘打った約15分のオリジナル映像も上映している。
 開墾事業を激励しようと西郷が贈った言葉を旧庄内藩主酒井忠篤が写した揮毫(きごう)や、松ケ岡産のお茶に西郷が名前を付けた時にしたためた直筆の書なども並ぶ。
 現地で1日にセレモニーが行われ、菅実秀の玄孫に当たる菅秀二さん(72)=鶴岡市=が「西郷と実秀が兄弟のような付き合いを続けたことは、後に鶴岡、鹿児島両市の兄弟都市盟約にもつながった。節目の年に両者の交わりや旧庄内藩士の労苦に思いをはせてほしい」と話した。
 午前10時~午後4時。入場無料。

山口
企画展幕末期史料100点展示 長州藩の動きたどる 下関市立考古博物館 /山口
下関市綾羅木の市立考古博物館で、企画展「史跡が語る幕末の下関」が開かれている。展示は3部構成で、前田台場跡や勝山御殿などの史料約100点が並び、攘夷(じょうい)から倒幕へと移る長州藩の動きをたどることができる。入場無料で31日まで。

 今年の明治維新150年を記念し、県埋蔵文化財センターや、下関市立歴史博物館などが所蔵している幕末期の史料を集めた。

 1部では、長州藩の武器製造を任された郡司鋳造所跡(萩市)や、外国艦隊の攻撃を受けた前田台場跡の史料…
 以下は有料記事となります。

<幕末維新博>薩長土肥4知事集結 17日にトークショー佐賀城本丸歴史館
 明治維新150年に合わせた「肥前さが幕末維新博覧会」が開幕する17日、かつて「薩長土肥」として日本の近代化をけん引した佐賀、鹿児島、山口、高知4県の知事が佐賀市城内のメイン会場に集結する。トークショーを開き、地域振興のビジョンなどを語り合う。

 維新博オープニングイベントの一環。午前11時から佐賀城本丸歴史館で、佐賀県(肥前)の山口祥義知事、鹿児島県(薩摩)の三反園訓(みたぞのさとし)知事、山口県(長州)の村岡嗣政知事、高知県(土佐)の尾崎正直知事が出席する。各県の維新150年関連の取り組みなども紹介する。コーディネーターは中尾清一郎佐賀新聞社社長が務める。

 維新関連で4県は連携して広域観光プロジェクト「平成の薩長土肥連合」を展開している。

 県肥前さが幕末維新博事務局は「共通の歴史を持つ4県の今の思いを共有し、博覧会の盛り上げにつなげたい」としている。観覧自由で、入場無料。

 問い合わせは電話0952(25)7504へ。

北海道
辞林幕末・明治の書/10 大鳥圭介 細い書体に晩年の特徴 /北海道
 戊辰(ぼしん)戦争で最後まで戦い抜いた大鳥圭介(1833~1911年)。獄中生活を経て維新後は明治政府の官僚、政治家、外交官、教育者として活躍するなど波乱万丈の生涯を歩んだ。

 播磨国赤穂郡細念村(現在の兵庫県赤穂郡上郡町)の町医者の長男として生まれ、14歳から岡山藩の閑谷(しずたに)学校に入り、漢学を学ぶ。20歳で大坂の適塾に入門。さらに江戸で蘭学、西洋軍学を修め、ジョン万次郎から英語を学んだ。兵学者として尼崎藩、徳島藩に仕官。33歳のときに幕臣に取り立てられ、やがて幕府陸軍の歩兵奉行となる。戊辰戦争が勃発すると、旧幕府脱走軍を率いて日光、宇都宮、会津などを転戦。最後の戦いとなる箱館…
 これも先は有料記事です。残念。

時の過ぎゆくままに明治維新の負け組たち=岡田満里子
 今年は、江戸幕府が滅び明治の新政権が発足した1868年から数えて、150年。政府は明治を「近代化への取組を行い、国の基本的な形を築き上げ」た時代と位置づけ、推進室を設置して「明治150年」イベント開催を促している。

 西洋文化を積極的に取り入れ、富国強兵策で急成長した明治だが、光があれば影もある。影の方へ目が向くのが新聞記者の性癖のようで、「明治60年」の1928(昭和3)年に東京日日新聞は、旧幕臣や町人たちを訪ね60年前の思い出話を聞いている(「戊辰物語」)。負け組と庶民から見た明治維新だ。

 幕府方の彰義隊や新撰組の悲惨な末路の一方、町人は銭湯で「近いうちに公方様(将軍)と天朝様(天皇)との戦争があるんだってなァ」とのんきに話していた。彼らにとっての新政府は「役人の威張りようはすごかった。何しろ薩長土肥の田舎武士が天下を取ったのだから滑稽(こっけい)なほどであった」という代物だ。権勢を振るう役人の影には、踏みつけられた幕臣や会津藩士ら「朝敵」がいた。

 徳島県では、今年は「交響曲第九アジア初演100年」の年だ。第一次世界大戦当時、県内には敵国・ドイツの捕虜約1000人を収監した板東俘虜(ふりょ)収容所があった。そこで1918年6月1日、捕虜たちが「第九」全曲を演奏したのだ。この収容所では、新聞発行やスポーツなど捕虜の自由な活動が認められ、畜産や菓子作りなどを地元住民に教える交流も盛んだった。それは、「捕虜に甘い」と上層部から警告や非難を受けながら、人道的管理方針を貫いた所長・松江豊寿の信念のたまものだった。

 松江は旧会津藩士の子として移住地の青森・斗南(となみ)に生まれ、苦しい生活の中で軍人の道を歩んだ。敗者のつらさを身をもって知っている松江は、ドイツ兵たちを「彼らも祖国のために戦ったのだ」という敬意で遇した。明治維新の影が咲かせた、美しい花だ。当時、勝ち組の薩長中心の中央政府や軍部は理解できなかったようだが、さて、現在の為政者には、敵や負け組を思いやる視点があるだろうか。滑稽なほど威張ってはいないはずだが。(地域面編集)

日刊ゲンダイ
「英龍伝」佐々木譲著
 江川太郎左衛門英龍の名は韮山に反射炉を築いた人物として有名だが、その人となりなどは一般には知られていない。これまでの幕末・維新の歴史観が「薩長史観」に偏していたからだ。

 本書は幕吏側からの史観にこだわってきた著者が、英龍の生い立ちから、その精力的な活動をつづった小説だ。

 少年時代、英龍は世襲代官江川家の次男として生まれ、跡取りではない身軽さゆえ、さまざまなものに引き付けられていく。算学、本草学、写生そして間宮林蔵からは測量術のいろはを教えられる。

 長ずるにあたって、兄を病で亡くした英龍は代官職の跡目を継ぎ、黒船来航を見据えた海防強化に尽力する。後に海防掛に任ぜられ、江戸湾台場築城の指揮を執り破格の大出世を果たす。その不屈の生きざまはまさに傑物の一語。

(毎日新聞出版 1800円+税)

あと昨日書店で見かけた新刊。
改訂新版 戊辰戦争全史 上巻
改訂新版 戊辰戦争全史 下巻



慶喜も当主の「一橋徳川家の200年」たどる 茨城県立歴史館で特別展
 水戸徳川家出身の江戸幕府第15代将軍、徳川慶喜が当主となるなど水戸とゆかりが深い一橋徳川家の歴史や名品などを紹介する特別展「一橋徳川家の200年」(産経新聞社水戸支局など後援)が水戸市緑町の県立歴史館で開催されている。

 一橋徳川家は江戸時代に清水、田安の両家とともに江戸城内に屋敷を与えられた「御三卿(ごさんきょう)」の一つ。第8代将軍、徳川吉宗の四男、宗尹(むねただ)を初代当主に、第11代将軍の家斉や慶喜を輩出するなど将軍家と密接に関わってきた。

 「水戸、尾張、紀伊の『御三家』と間違えやすいが、それよりも将軍家に近い存在」(歴史館担当者)という御三卿。その一橋家は江戸時代中期から武家社会の中心に関わり、多くの大名や京都の公家との交流を通じて独自の文化を発展させてきた。

 水戸徳川家出身で、一橋徳川家12代当主の宗敬(むねよし)が継承品を県に寄贈したことをきっかけに、歴史館は昭和62年に一橋徳川家記念室を開設。特別展では所蔵する資料約6千点の中から、古文書や婚礼道具、美術品などえりすぐりの116点を展示。江戸時代中期から幕末を経て、戦後に至る200年間の足跡をゆかりの品を通じてたどることができる。

 主な展示品として、能装束「唐花打板雲文様段替厚板唐織(からはなうちいたくももんようだんがわりあついたからおり)」や、香合わせの用具「斑梨子地沢潟菱唐草葵紋散蒔絵十種香箱(むらなしじおもだかびしからくさあおいもんちらしまきえじゅっしゅこうばこ)」などのほか、参院議員を務めた宗敬が、全権団の一人として出席した昭和26年のサンフランシスコ講和条約の調印式で使用した万年筆など貴重な品が展示されている。

 担当者は「展示品を通じて、一橋家がどういう役割を果たしたのか、どういう生活を送っていたのか見てもらいたい」と呼びかけている。

 特別展は21日まで。12日は休館。開館時間は午前9時半から午後5時(入館は同4時半)まで。入館料は一般600円、大学生310円。

 18日午後1時半からは徳川林政史研究所の藤田英昭研究員による「明治維新期の一橋徳川家」と題した講演会も行われる。(鴨川一也)
佐賀の業績4テーマで体感 「幕末維新記念館」報道関係者に公開最新技術で臨場感を演出
 報道関係者向けに8日公開された肥前さが幕末維新博覧会のメインパビリオン「幕末維新記念館」。最新デジタル技術を駆使し、日本の近代化に大きく貢献した佐賀の業績を四つのテーマで紹介している。

 「幕末維新」を体感する第1場は、幅15メートル、高さ3・5メートルのスクリーンが広がり、幕末維新期の佐賀を舞台に偉人たちのドラマが映し出される。第2場は「技」がテーマのからくり劇場。映像とパフォーマー(役者)が一体となって佐賀藩の技術力を紹介。鍋島直正公が失敗を恐れず鉄製大砲を鋳造したことなどをデジタルとアナログの融合で臨場感を出しながら表現している。

 「人」をテーマにした第3場は、7枚のスクリーンに大隈重信や佐野常民、鍋島直正ら七賢人が登場し、語り合う。第4場では、来場者がクスノキの葉をイメージした紙にメッセージを書くことができるほか、県を代表する著名人のメッセージを読むこともできる。

 同記念館は佐賀市城内の市村記念体育館に整備。17日に開館し、来年1月14日まで(無休)。開館時間は午前9時半~午後6時。入場料は800円(前売り600円)、団体600円、3館共通券のチケット3は1200円(前売り1000円)、フリーパス券は3000円。高校生以下は無料。問い合わせはチケット管理センター、電話0952(29)3671。
幕末福井藩にいた忍者の任務に迫る福井県立図書館、本や絵図展示
 150年前の福井城下にいた忍者の任務や暮らしなどに迫る企画展「幕末福井藩の忍者」が福井市の福井県立図書館で開かれている。同館が保管する史料「松平文庫」から本や絵図12点を展示し、パネル8枚を交え忍者の実像を紹介している。4月25日まで。

 県などが展開する「幕末明治福井150年博」の関連事業。

 「忍者」という名前ができたのは昭和30年ごろと最近のこと。「組々之由来(くみぐみのゆらい)」によると福井藩にいた忍者は「忍之者(しのびのもの)」や「忍組(しのびぐみ)」と呼ばれ、武器を収めた倉庫の管理や参勤交代のお供などの役割を担っていた。「忍び御用」として他の藩で情報収集活動を行うこともあった。

 19世紀中ごろ(江戸末期)に福井藩にいた忍者は12人。藩の石高が32万石だったことを踏まえると平均的な人数だった。階級としては「足軽」に属し、待遇は決してよくはなかったという。

 「禄高帳」には元忍者全員の名前が記されている。「御家中屋敷地(ごかちゅうやしきち)絵図」は福井城下に忍者用の短い弓「半弓」の稽古場を伴った忍者の集住エリアがあったことを示している。

 学芸員の長野栄俊さんは「今まで知られていなかった福井藩の忍者の謎が徐々に解き明かされてきた。ぜひ楽しんで見てほしい」と来場を呼び掛けている。
福島県二本松市 戊辰戦争と朝河重ねる とうほく地方創生 気になる現場
 明治150年の記念イベントが全国で盛んだ。戊辰戦争を旧幕府側として戦った二本松藩ゆかりの福島県二本松市には、各地と異なる空気が漂う。今年は、米エール大で教壇に立ち、日米開戦の回避を主張した地元出身の歴史学者、朝河貫一の没後70年と重なる。二本松は何を発信するのか。

霞ケ城公園にある二本松少年隊の像の横には、出陣の服を用意する母親の像が並ぶ

 3月初旬のJR二本松駅前。150年をPRする旗やポスターはまだ、ない。市観光課に聞くと、「特別なことはしない方がいいとの議論もあって出遅れましたが、やはり積極的にPRしようと動き出したところです」とのことだった。

 二本松の戊辰戦争史には、市民の誇りと悔いが入りまじる。数え年で12~17歳の62人が出陣し、14人が戦死した。にほんまつ観光協会の丹野光太郎事務局長(62)は「子どもまで巻き込んだのは恥ずべきことで、多くを語るなと教えられたこともあった」と明かす。「二本松少年隊」と名づけられ、存在が知られるようになったのは半世紀を経てからだったという。

 教育現場では郷土史を学ぶ一環として、戊辰戦争を取り上げている。藩校「敬学館」の流れをくむ市立二本松北小では、毎年6年生が少年隊を題材にした作文や演劇に取り組む。紺野宗作校長(58)は「家族や命、生き方について考えるきっかけになっている」と語る。そして「観光となじみにくかったのは、当時の世代にとって、悲劇を通り越すほどのつらい記憶だったせいではないか」とみる。

 「朝河博士が戊辰の経験を聞いていたことが、思想にも影響したと考えられる」。市歴史資料館の佐藤真由美学芸員(47)が、旧藩士の家に育った朝河の歴史観について解説してくれた。同館には朝河が1908年に執筆した「日本の禍機」の現代語訳やゆかりの地を紹介したパンフもある。

 朝河は「禍機」で、日露戦争後の日本外交を批判し「近代の文明国は国民自らが反省し、深く考えるのでなければ、一瞬で間違いに陥る」と、過去に学ぶ必要性を繰り返し説いた。

 新政府軍の会津攻めを止めようと調停に努めながらも、開戦、落城を余儀なくされた二本松藩と、対米戦を避けるべく奔走しながら祖国の敗戦をみることになった朝河の姿は重なる。

 地元で江戸期から続く大七酒造の太田英晴社長(57)は「課題となっている二本松のブランディングには、戊辰戦争と朝河を結びつける視点が有効」と話す。敗者となった二本松から世界に飛躍した人物の思いは「ふるさとの精神的なシンボルになる」。今年は同社も参加する二本松物産協会のイベントを拡大し、戊辰戦争に関する資料の発掘などに力を入れる。

 霞ケ城落城と同じ7月29日、少年隊の供養塔がある大隣寺では毎年、小中学生の代表が作文を読む。戦争回避へ自問自答した先人の思いを、若い世代はどう受け止めているのか。

 17年度は姉妹が作文を披露。妹は霞ケ城跡に立つ像にふれ「少年隊は敵軍と、お母さんたちは悲しみと戦っているように見えました」と書いた。姉は「歴史から学べることを、私たちは何に変えてゆけるだろうか」と自問し、こう結んだ。「それは、これから未来に生きる、私たち次第だ」

(郡山支局長 天野豊文)
備中松山藩主と家老の自訴状発見 戊辰戦争終結後、藩存続へ連携か
江戸末期に幕府要職を務め、明治新政府から「朝敵」とされた備中松山藩の藩主板倉勝静(かつきよ)(1823~89年)と、家老大石隼雄(29~99年)が戊辰(ぼしん)戦争終結後、新政府側に出した自訴状が高松市の大石の子孫宅で見つかり、8日までに高梁市歴史美術館(同市原田北町)に寄託された。自筆とみられ、同市教委は「藩存続の瀬戸際にあった当時の緊迫感が伝わる貴重な史料」と評価している。

 2人の自訴状を並べて軸装にした状態で発見された。いずれも写しが岡山藩政資料・池田家文庫(岡山大付属図書館蔵)に伝わるが、自筆文書は確認されていなかった。文面は写しとほぼ一致し、正式な自訴状の下書きか控えとして保存していたとみられる。

 勝静は幕府老中として幕閣の中枢におり、戊辰戦争では函館まで転戦した。自訴状は旧幕府勢力が降伏した8日後の69年5月26日付。戦争の混乱の中で軍と行動せざるを得なかったとし、「天威(天子の威光)」に抵抗する考えのないことを強調、家臣や領民の安全の確保を嘆願している。

 一方、大石は国元で備中松山城の無血開城などに尽力し、勝静投降後は主家存続に奔走。同年6月1日に新政府側の岡山藩に宛てた自訴状では、勝静に代わって厳罰を受けることを「本懐至極」とした上で、寛大な処置となるよう取りなしを依頼している。

 備中松山藩は5万石から2万石に減封されながら存続し、勝静は72年に赦免された。調査した田村啓介高梁市教委参与は「セットで伝来したことを考えると、勝静と大石ら家臣が連携し危機を乗り越えられたのでは」とみている。

 自訴状は17日に始まる同館の常設展「山田方谷と生涯」で公開する。5月11日まで。火曜休館。
(2018年03月08日 23時35分 更新)

いまだ会津に渦巻く「薩長憎し」の思い 一方で雪解けの兆しも?
 明治維新から150年を記念する声が全国で聞かれる一方で、福島では「戊辰150年」ののぼりが立つ。会津には、薩長への恨みをいまだに強く持つ人も少なくない。

その原因とのひとつとされるのが、戊辰戦争で新政府軍が出したとされる「埋葬禁止」。これにより会津藩士の遺体は半年間も野ざらしにされたとして、薩長への恨みにつながっているのだ。しかし近年、新史料の発見でこれが誤りであることが明らかになった。

「戊辰戦争は150年前に起きましたが、埋葬禁止説が浮上したのはこの50年のことですから、払拭(ふっしょく)されたのも『50年ぶり』ということになります」(新史料を発見した会津若松市史研究会の野口信一副会長)

 それでも会津の人たちの受け止めは複雑だ。松平容保の京都守護職時代からの積年の恨みがあり、埋葬禁止を打ち消す今回の発見だけでは長州への遺恨は収まらない、と言う人も少なくないという。

 山口県(長州)出身で都内で働く40代の男性も、それぞれその土地の歴史を背負っているから長州、会津の和解は難しいとしながら、こう話す。

「明治150年に対して、戊辰150年と違った立場からの歴史を理解しようという動きは評価しています。明治100年の時と違って、日本人に余裕がでてきたということでしょうか」

 先の野口氏は、真の和解には感情論ではなく歴史を学ぶことが重要だと強調する。

「会津の歴史だけでなく、長州や薩摩の歴史、その他の地方の歴史も同時に学んでいかないと歴史の真実は見えません。一方の話だけを信じていると、埋葬禁止のような事実誤認につながってしまいます」

 実際、150年を機に、戊辰戦争の恩讐を超えた交流も深まりつつある。

 戊辰戦争で約100日間の激戦が繰り広げられた「白河口の戦い」。この舞台となった福島県白河市には、領民が戦没者を敵味方なく弔い、盆踊りで死者の霊を慰めたのがルーツとされる「白河踊り」が伝わる。実はこの白河踊りと出だしの音程などが共通する踊りが、山口県内各地で今も舞われているのだ。戊辰戦争に参戦した長州の隊士が白河で踊りの輪に加わり、古里に持ち帰ったのが由来とも伝えられる。

 こうした白河踊りがつなぐ縁を強め、交流を深めようと、昨年12月に白河市の鈴木和夫市長が長州藩のあった山口県萩市を訪ね、藤道健二市長を表敬。今年7月に白河市で開く両軍戦死者の合同慰霊祭に萩市の関係者を招待することなどで合意した。

 白河市の白河戊辰150周年記念事業実行委員会の教育部会長を務める佐川理沙さん(33)は期待を込める。

「イベントを通じて他地域との交流をさらに広げられれば」

 藩校の学びを伝える博物館「会津藩校日新館」の館長で、いまだに薩長への恨みはあると語っていた宗像精(むなかたただし)さん(85)は、昨年11月下旬、吉田松陰をまつる萩市の松陰神社で「戊辰150年の会津人の思い」と題して、初めて講演した。

 宗像さんの萩講演を実現させたのは、萩市の市民団体「長州と会津の友好を考える会」。代表で医師の山本貞寿(さだひさ)さん(78)によれば、長州藩士も幕末、池田屋事件(1864年)や蛤御門の変(同年)などで会津藩と配下の新選組によって多くが命を落とした。だが、長州人は「会津憎し」とは言わない。会津と長州のこの心情の落差は何か──。山本さんは宗像さんに「生の声を聞かせてほしい」と半年がかりで呼びかけた。

 宗像さんは、満員の萩市民ら約150人を前に身ぶり手ぶりを交え、思いを語った。

「会津だけが長く賊軍の汚名を着せられた。そういう歴史の事実を消すことはできません。歴史をなかったことにして握手する仲直りはできない。しかし、同じ日本人ですから『敵』だとは考えていません。日本が世界のために何に貢献すべきか、日本人として何をなすべきか、ともに考えて進みましょう」

 本当の“雪解け”は10 年先かもしれないし、明日かもしれない。(編集部・野村昌二、渡辺豪)

“半年間、遺体を野ざらし”はなかった? 薩長の「埋葬禁止令」を覆す新史料
 今も会津に渦巻く、150年前の怨念。最大の要因は、官軍の「埋葬禁止」にあった。しかし、最近、「定説」を覆す新史料の発見があった。

*  *  *
 旧会津藩の城下町、福島県会津若松市。藩校の学びを伝える博物館「会津藩校日新館」の館長、宗像精(むなかたただし)さん(85)は、こう切り出した。

「薩長憎しの理由は、西軍が家財道具を分捕ったり、若い娘を略奪したり、そういう悪行の数々があるからです」

 元中学校教師で市教育長も務めた宗像さんによれば、戦前の小学6年の国定教科書には会津藩は薩長に「てむかった」と書かれていた。それはとりも直さず、会津藩は「朝敵」「賊軍」だと言っているようなもの。それを子どもたちが暗記させられたかと思うと、屈辱的な思いは消えない。宗像さんはいまだ「官軍」とは言わず「西軍」と言う。

「官軍といっちまうと、こっちは賊軍になっちまいます」

 賊軍とは、政府軍の「官軍」に対する呼び方だ。

 会津地方で「戦後」といえば太平洋戦争でなく、戊辰戦争(1868~69年)後のことを指す。賊軍の汚名を着せられ、戊辰戦争での敗戦によって会津藩士は苦難の道を歩むことになるからだ。政府は今年、「明治150年」を唱え、祝賀ムードを全国に演出しようとしている。しかし、会津若松市内には「維新」ではなく、「戊辰150周年」ののぼり旗が立つ。

「逆賊の汚名を着せられた薩長への恨みはいまだにあります」

 市内で働く女性(40)は言う。同じ怨念を抱いている人たちが、本州「さいはての地」にもいる。

「薩長への恨みはいまだに消えません」

 青森県大間町。この町の小さな商店街にある「斗南(となみ)藩資料館」の館長、木村重忠(しげただ)さん(78)は、静かな口調でこう話す。

 館名が示す通り、斗南藩士の末裔だ。斗南藩は1869(明治2)年、戊辰戦争に敗れた会津藩士らが家名再興を許され、立ち上げた藩だ。最後の会津藩主・松平容保(かたもり)の長男で生後5カ月の容大(かたはる)を藩主に担いで起こした。71年までに、会津藩士とその家族1万7300人余が、下北半島に移住した。

 木村さんは斗南藩で「史生(しじょう)」(記録係)だった木村重孝(しげたか)の曽孫(ひまご)に当たる。会津藩では会計係を務めていた重孝は70年、妻と4人の子どもたちと一緒に、新潟港から蒸気船「ヤンシー号」に乗ってこの地に来た。

「みんな裸同然でここに来て、どうやって飯を食っていくか大変だったようです」(木村さん)

 下北半島は昔から寒冷の地で、農業の生産性は低い。当時、土地は枯れて米はほとんど取れず、死んだ犬肉の塩煮を食べた人もいた。寒さと栄養不足で、多くの移住者が亡くなった……。

 悲惨な苦痛の歴史を後世に残すべく2005年、木村さんは150万円近くをかけ、自宅2階を改装し私設の「斗南藩資料館」を開設した。館内には、容保直筆の「向陽處(こうようじょ)」の掛け軸や、ヤンシー号の絵、廃藩置県後に斗南藩士が手放した品など貴重な資料が展示されている。館を訪れた人に、斗南藩の歴史を丁寧に説明する木村さんの薩長への遺恨は深い。

「いまNHKでやっている『西郷(せご)どん』ですか? 薩摩が舞台のドラマなんて全然見る気しませんよ」

 この「薩長憎し」の風土を育んだ最たる要因の一つとされてきたのが、戊辰戦争時の「埋葬禁止説」とされる。新政府軍が遺体の埋葬を禁じたため、戊辰戦争で戦死した会津藩士の遺体が半年間、野ざらしにされた、というもの。しかし、この「定説」を覆す新史料が16年12月に見つかっている。詳細をつづった『会津戊辰戦死者埋葬の虚と実』(歴史春秋社)の著者で、新史料を発見した会津若松市史研究会の野口信一副会長(68)は言う。

「地元の反応は『初めて知った』『驚いた』という声が大部分でした。長州とのわだかまりの最大の障壁が取り除かれたのは大きな意義がある、と自負しています」

 新政府軍の汚名をそそぐ「確たる証拠」が残されていたのは、戦死者の埋葬や金銭支払いを記録した「戦死屍取仕末(せんしかばねとりしまつ)金銭入用帳」。地元在住の会津藩士の子孫が1981年、若松城天守閣郷土博物館(会津若松市)に寄贈した史料の一部だ。市の委託を受けた同研究会が、目録の編纂(へんさん)中に発見した。
 この史料によると、明治新政府は会津藩降伏の10日後の旧暦10月2日に埋葬を命令。翌3~17日、会津藩士4人が指揮する形で567人の戦死者の遺体を計64カ所に埋葬した。埋葬にかかった経費は74両(現在の相場で約450万円)。のべ384人が動員され、1人当たり1日2朱(同7500円)を支給した。家紋などが入った遺体発見時の服装も詳述され、山本八重の父・山本権八の遺体や、白虎隊士と思われる遺体も記録されていた。山本八重は、13年のNHK大河ドラマ「八重の桜」で綾瀬はるかさんが主演した女傑だ。

 ではなぜ、埋葬禁止が「定説化」したのか。野口氏はこう説明する。

「会津戦争から半年後の1869年2月に、城下の阿弥陀寺に藩士たちの遺体を改葬したことが、『半年間も放置した』と誤認される要因につながったと思われます」

 埋葬禁止が流布したのは1960年代以降だと、野口氏は指摘する。

「この頃から敗者である会津側から見た歴史が注目されるようになり、阿弥陀寺への改葬に尽力した会津藩士の町野主水の奮闘を伝える小説やエッセーなどで盛んに『埋葬禁止説』が現出するようになりました。しかしこれらは、歴史的資料に裏付けられたものではありません」

 埋葬禁止の浸透と相まって、実直な会津人気質を長州への歴史的怨念と結び付けて「会津の頑固」と称し、これが会津観光のPRにも使われるようになった。こうした会津のイメージが他地域にも広まり、会津人自身の思考や振る舞いを縛っていった面もあると野口氏は解説する。

(編集部・野村昌二、渡辺豪)

明治維新が落とす影 “藩校つぶし”の影響で今も残る医療格差
 明治維新から150年。政府は唱える、「明治の精神に学べ」と。しかし、いまだ賊軍の汚名と怨念を忘れられない人たちもいる。明治礼賛だけではすくえない。私たちは歴史とどう向き合えばいいのか。

*  *  *
 平成の時代に「勝てば官軍、負ければ賊軍」という言葉が、いまも生きている。東京・九段にある靖国神社だ。

 靖国神社は戊辰戦争が終わった翌月の1869年6月、明治天皇が戊辰戦争で亡くなった官軍側の死者を弔うために建てた「東京招魂社(しょうこんしゃ)」を前身とする。そのため、戊辰戦争で敗れた旧幕府軍や会津藩士、西南戦争で賊軍として死亡した西郷隆盛も合祀(ごうし)されていない。極東国際軍事法廷でA級戦犯とされ、絞首刑となった東條英機元首相ら14人は、靖国に祭られている。

 政治学者で東京大学名誉教授の姜尚中さん(67)はこう話す。

「靖国神社というのは、近代国家の一つの顕彰装置。国家に奉じた人間は、たとえそれが国際的に戦争犯罪とみなされても、それはあくまでも国家のために殉じたという考え方です」

 明治期の薩摩、長州といった藩閥政治が、国内の医療格差に影響していると見る医師がいる。医療政策を研究するNPO法人「医療ガバナンス研究所」(東京都)理事長で、医師の上昌広(かみまさひろ)さん(49)だ。

「江戸時代、各地の藩校では西洋医学や工学を採り入れながら人材育成システムを構築していました。しかし、戊辰戦争で勝った薩長の新政府は、賊軍を武装解除させ、藩校も人材教育システムもろともつぶしてしまったのです」

 厚生労働省の「2016年医師・歯科医師・薬剤師調査」によれば、人口10万人当たりの医師数が最も多いのは京都府で334.9人。次いで徳島県(333.3人)、東京都(324人)、鳥取県(316.7人)の順だ。

 一方で、ワーストは埼玉県の167人。次いで茨城県(189.8人)、千葉県(189.8人)と続く。人口で見ると、圧倒的な「西高東低」となっている。

 その一例が会津藩だ。会津はかつて教育の先進地だった。日新館という藩校があり、そこには医者を養成する医学寮もあった。しかし、戊辰戦争で校舎は焼失し、その後、再建されることはなかった。

 いま、人口約190万人の福島県に医学部は福島県立医大しかない。人口10万人当たりの医師数は204.5人と全国44位だ。

「医師不足は、救急搬送の受け入れ拒否による患者の死亡や、病院や診療科の閉鎖など、深刻な問題をすでに引き起こしています」(上さん)

 医療格差は、教育や人材の格差にもつながる。ノーベル賞受賞者が西日本に圧倒的に多いのは、その証左だと上さんは言う。

「格差をなくすには、規制緩和が必要。そして高度教育機関を誘致し、人材を育てることです。歴史を乗り越えるには、明治政府が生み出した、医療格差と教育格差をデータに基づき直視することが肝要です」

 姜さんが言う。

「近代日本の持つ光と影。とりわけ近代史の中で辺境や周辺に追いやられた影の部分にしっかりと目を向け、それが我々にどういう歴史的な課題を突き付けているのかを考えてほしい。明治150年の今求められているのは、そうした影を見る視点ではないでしょうか」

(編集部・野村昌二)



三谷幸喜さん脚本で演出。勝海舟と西郷隆盛の江戸城無血開場をめぐる交渉の、あったかも知れないエピソード。中村獅童さんが勝海舟……『組!』の捨助くんがこんなに大きくなって(違)。

中村獅童、松岡昌宏ら熱演、三谷幸喜が描く幕末群像喜劇『江戸は燃えているか』初日前会見レポート
三谷幸喜が描く幕末群像喜劇『江戸は燃えているか』が2018年3月3日より新橋演舞場で開幕する。中村獅童、松岡昌宏ら豪華俳優陣で、三谷自身が「新橋演舞場史上、もっとも笑えるコメディ」と評する作品に挑む。初日前日の2日に行われた囲み会見とフォトコールの様子を写真とともにお伝えする。
物語の舞台は慶応4年。鳥羽伏見の戦いで幕府軍に勝利した西郷吉之助(隆盛)率いる官軍(新政府軍)は、江戸城総攻撃のために東海道を進んできていた。血を流さずに江戸城受け渡しを目指す西郷は、幕府側の代表者である勝海舟とあって、降伏を勧めることにする。

しかし、勝という男は元来の江戸っ子気質で、器が小さい上に喧嘩っ早い。そんな性格の勝が西郷にあったら間違い無く交渉決裂……!

戦はもうこりごりだと立ち上がったのは勝家の使用人たち。彼らが考えた作戦は、勝をニセの西郷に会わせて、ニセ会談をやらせている間に、勝家の庭師の平次に勝のフリをさせ、本物の西郷に会わせて、和平交渉をしてしまおうという大胆なもので……というあらすじだ。
この日、三谷のほか、中村獅童、松岡昌宏、松岡茉優、高田聖人、八木亜希子、飯尾和樹、磯山さやか、妃海風、中村蝶紫、吉田ボイス、藤本隆宏、田中圭が登壇した。

演出の三谷は「いろんなジャンルの方が出演する。これはプロデュース公演にしかできないこと。全員野球で、みんなで頑張って、ここまでこぎつけたという感じがしている。大いに笑っていただきたい」と作品への思いを語る。「毎回、稽古場で笑ってしまうシーンがあるんですが、僕の台本には書いてないことで腹立たしい」とも話し、会場をわかせた。

三谷自身、初めての新橋演舞場だ。「舞台上に立ったことはなかったのですが、(劇場内についている)提灯が素晴らしく、演劇は祭りだということを実感する。素敵な場所」と話す。「花道のある舞台でやるのは初めてで、どうやれば効果的にできるか、今まで新橋演舞場がやったことがないようなものをしたいと思ったら、結構オーソドックスだったみたいで……」とも語り、笑いを誘った。
今回、勝海舟役を演じる中村獅童。三谷の作品はNHK大河ドラマ『新撰組』以来となる。獅童は「初日を迎えることができて嬉しく思う。全部が見所じゃないですかね。笑っていただくのはある種怖い部分もあるが、実際にお客様がお入りになって分かることもある。大いに笑っていただけたら」とコメント。また、舞台美術が気に入っているといい、「2階や3階で見え方がぜんぜん違うので何回も見に来てほしい」。

勝家の使用人で庭師の平次役を演じる松岡昌宏。舞台『ロスト・イン・ヨンカーズ』(2013年)以来の三谷作品出演の松岡は「いろんなジャンルの方がいらっしゃるので存在感、台詞の言い方、笑いの間、全然違う。それが一緒になるからこそ面白いと思う」と話す。

役柄上、獅童と松岡が“似ている”という設定だ。2人の共通点は何かと問われ、共演者からは「足が綺麗」「机が綺麗」などというさまざまな声が上がるなか、三谷は「稽古で色々言っても、それはできないと絶対に言わないし、瞬時にきちんとやってくれる」と答え、信頼を置いている様子だった。

公開フォトコールでは2つのシーンがほんの一部分だけ上演された。

1つ目は、1幕で物語が膨らみ始める、山岡鉄太郎(飯尾和樹)がやってくる一場面。三谷は見所について「飯尾さんの滑舌の悪さ。こんなに悪いと思わなかった。次はなるべくセリフを少なくしようと思う」と話して、笑いをとった。

2つ目は、2幕でのミュージカル風の場面。『江戸は世界一』と、宝塚出身の妃海風を中心にダンスを交えて歌う華やかなシーンだ。コミカルなダンスと思わず笑ってしまう歌詞に注目してほしい。

どんな舞台になるのだろう。初日が待ち遠しい。
 今回チケットを3回分入手した。初回の感想は折り畳んでおくので、見たくない人は「続きはこちら」以降を読まないように。


<戊辰戦争150年>会津と薩摩、歴史たどる 会津若松で特別展
 会津若松市の会津新選組記念館で、戊辰戦争から150年を記念した前期特別展「会津・薩摩と新選組~戊辰開戦から上野の戦いまで」が開かれている。
 1864年の禁門の変から68年の鳥羽・伏見の戦い、上野の彰義隊の戦いまでの資料約300点を展示。禁門の変で幕府軍の会津、薩摩両藩が長州藩と戦った場所を、京都駐在の会津藩士が記した京都御所の地図など貴重な資料が並ぶ。
 京都守護職を務めた会津藩主松平容保(かたもり)の配下にあった新選組関係では、初代局長の芹沢鴨が着たとされる鎖かたびら、薩摩藩関係ではNHK大河ドラマ「西郷(せご)どん」の撮影で使われた銃などが飾られている。
 資料を収集した記念館代表の高橋一美さん(51)は「会津藩と薩摩藩は敵対したイメージがあるが、同盟を結んでいた時期もあった。展示を通し、当時の歴史を知ってほしい」と話す。
 5月末まで。入館料は高校生以上300円、小中学生200円。6~12月の後期特別展は奥羽越列藩同盟や会津戦争をテーマにする。連絡先は記念館0242(22)3049。


戊辰150年...会津人の思い『熱弁』 山川健次郎顕彰会が講演会
 会津藩出身で東京帝国大総長などを務めた山川健次郎をたたえる活動に取り組む山川健次郎顕彰会(宗像精会長)の新春の集い講演会は24日、会津若松市の会津若松ワシントンホテルで開かれた。

 市民ら約170人が参加。會津藩校日新館長も務める宗像会長が「山川健次郎と萩」と題して講話した。昨年、山口県萩市に訪問したことを踏まえ、戊辰150年の節目を迎えた会津人の思いなどについて熱弁をふるった。

安心、それが最大の敵だ テロ・大規模事故戊辰戦争~旧幕府軍の「敗北の構造」~あれから150年、最後の血戦・箱館戦争高崎 哲郎
 なかなかの力作記事です。大鳥圭介を高評価しているのが個人的にツボ。
慶応4年(1868)幕末の鳥羽伏見の戦いから明治2年(1869年)の明治維新までの1年半の間、日本列島を二分して戦われた戊辰戦争の大団円(クライマックス)は箱館戦争である。新政府軍(西軍)の攻撃にあえなく投降し「北海道独立」の夢が絶たれた旧幕府軍(東軍)の「敗北の構図」を見てみよう。

旧幕府軍、北海道上陸
旧幕府海軍副総裁・榎本武揚が率いる幕府艦隊がめざした北海道の上陸地点は箱館(現函館)をあえて外し、その北方40km、亀田半島を回り込んだ内浦湾(噴火湾)の鷲ノ木浜であった。運悪く海は荒れて、艦隊は散りじりになったが、長鯨・開陽の2隻は慶応4年(1868)10月19日に無事着帆した。目の前に現れたのは「甲板上に出て四方を望むに、積雪山を埋め、人家も玲瓏(れいろう)として実に銀世界の景なり」(『南柯紀行』著・大鳥圭介)と感嘆されるようなエキゾチックな雪の新天地だった。この日から7カ月の間、東軍歩兵隊の最後の奮戦が続けられる。

道南に上陸した旧幕府勢力を以下「榎本軍」と呼称する。10月21日、全軍鷲ノ木に揚陸した榎本軍は、二手に分かれて箱館に迫り、10月25日、箱館府にある五稜郭を奪取した。凄まじい寒気に襲われたが、洋式の歩兵隊は水を得た魚のように活躍した。士気は高かった。

歩兵たちはすっかり戦場慣れしている。戦地の広さを見込み、横へ横へと広がって包み込む。指揮官が腕を大きくぐるぐる回すと、その方向にすばしこく展開する。接近すると突撃戦に持ち込む。守備兵は兵力が貧弱で銃砲装備も劣悪であり、知事・清水谷公考(しみずだに・きんなる)一行は、さしたる抵抗もできずに津軽海峡を渡って青森に逃れた。榎本軍は日の丸の旗を立て、ラッパを吹き鳴らして五稜郭に乗り込んだ。

五稜郭は敵をすべての方角からとらえられる星型の西洋式城郭である。箱館の市街地から東北東へ5kmほどの距離にある。旧幕時代の元治元年(1864)に完成して箱館奉行所が入っていたが、幕府瓦解の後、新政府の出先機関である箱館府が置かれていたのである。堡塁には、安政元年(1854)伊豆下田沖で遭難したロシア軍艦ディアナ号の二十四斤砲が装備されていた。

榎本軍は旧幕府若年寄の永井尚志(なおむね)を箱館奉行にして、市中の治安を維持した。運上所(税関)と箱館湾入口の弁天台場には日の丸の旗が掲げられた。この旗章は、当時国際貿易港だった箱館に駐在する外国公館に権力の移管を示すものであったが、しばらく後に榎本政権(「北海道独立国」)が樹立されてからは、「国旗」になり、菊花の紋章の旗を掲げて討伐に来る「官軍」と戦うことになる。函館は安政2年(1855)の開港後、短期間に国際貿易港として急速に発展し、一大繁昌地になっていた。11月1日、土方歳三の率いる新撰組・彰義隊・額兵隊(仙台藩洋式歩兵隊)などの諸隊が松前城を陥落させる。ここまでは破竹の勢いだった。が、11月15日、江刺沖で最新鋭艦・開陽丸を座礁・沈没させてしまった。榎本海軍の損失は計り知れないほど大きかった。「敗北の構図」の始まりであった。

箱館では12月15日、榎本武揚を首班とする臨時政府が成立していた。総裁をはじめ主要な役職は陸海軍の士官以上の投票で選出された。日本初の投票による首脳部の選出であった。ここに榎本や大鳥らの先進的な感性を見る。

成立した箱館政権の中枢部は以下のような人事であった。
総裁:榎本武揚、副総裁:松平太郎、海軍奉行:荒井郁之助、陸軍奉行:大鳥圭介、同並:土方歳三、箱館奉行:永井玄蕃、同並:中島三郎助(以下略)。

陸軍奉行大鳥が苦心したのは、陸軍の強化・充実であった。「南柯紀行」(著・大鳥)には「12月頃より五稜郭にて生兵(せいへい、新兵)を募り、140から150人を得て、これを歩・砲の2種に分かちて訓練せしが、たちまち練達して熟兵に劣らざるに至れり」とか、「大小の武器に乏しく、大いに困却せしが、器械方官重・貝塚らその外の者、勉強工夫によりて漸く不足補うことを得たり」との記述がある。箱館でも歩兵用の小銃製造が軌道に乗った。歩兵の給料も定められた。月給制だった。給料はたちまち遊郭とバクチに消えた。

新政府軍、果敢な応戦
新政府軍側から見れば、局外中立撤廃の目に見える成果は、まず当時日本近海では最強クラスだった甲鉄艦ストーンウォール号の取得であった。アメリカ南北戦争中に南軍がフランスに発注した装甲砲艦である。南北戦争で南軍が敗れた後、幕府が購入を約束していたのだが、瓦解で買い手が消滅した。横浜港に繋留されたままだった。新政府が入手を希望したが、アメリカは局外中立を楯に取り引渡しを拒否した。中立撤廃によって、ようやく明治2年(1869)1月6日、譲渡契約が成立した。「敗北の構図」の一部である。

これで海上戦力は逆転した。また中立撤廃は、兵員輸送のための外国船チャーターも可能にした。3月26日、新政府艦隊は陸奥湾に到着した。青森に集結した陸戦力の総数は7000人余とされる。

4月6日、いよいよ新政府軍の渡海作戦が開始される。津軽半島の風波が収まるのを待ち、4月9日に先発隊1500人が上陸した地点は、榎本軍の意表を衝いて、渡島(おしま)半島西岸の日本海に面した乙部(江差の北)であった。この方面はまったく無防備だった。新政府軍は何ら抵抗も受けずに進攻した。二手に分かれて一手は同日中に江差を占領し、さらに海岸沿いの松前を目指した。その一部はまた分進して松前半島の付け根にある木古内方面に向う。もう一手は内陸の山地を抜けて二股口(現上磯郡)から箱館に直進する作戦であった。

戊辰戦争の最終幕、箱館戦争の火蓋が斬って落とされた。それから1カ月余り、海岸と山地の2方面で後世に語り伝えられる激戦が繰り広げられる。幕府歩兵隊もここを先途と勇壮に戦闘を展開した。

まず明治2年(1869)4月12~20日まで断続的に戦われた海岸の「木古内の戦闘」では、旧幕府軍の伝習隊・額兵隊・彰義隊が善戦して新政府軍の前進を阻んだ。ちょうどその頃、4月13~24日まで山地で続いた「二股口の戦闘」でも、伝習隊・衝鋒隊が奮戦して迫る敵を撃退した。新政府軍側は新しい兵器をどしどし惜しみなく投入したから、両戦闘とも日本の合戦史上いまだかつてない激闘になった。

彰義隊差図役だった丸毛利恒(まるも・としつね)の「北洲新話」(「箱館戦争史料集」)は戦闘の模様をこう伝える。
「木古内にては早天より敵、兵を潜め来り、大霧咫尺(しせ)を弁ぜざるに乗じ、忽然としてわが胸壁の下より発砲す。この時、額兵隊(4小隊)は山上の壁を守りしが、俄かに起ってこれと応戦す。また彰義隊の守りし砲台の下へ敵迫り来る。わが兵これを壁下に近づけ、大砲(十二斤柘榴弾)一発8人を倒す。大鳥圭介はこれを見て直ちに伝習兵一隊をして山腰をめぐり、兵を草中に散らしてその横を撃し、しかして彰義一小隊をして山を巡り、敵の後面より狙撃せしむ。両軍相戦うことほとんど五時暁(6~10時に至る)敵、遂に敗走。その兵追撃、また木古内に陣す。ここに二股方面にては、土方歳三、衝鋒隊・伝習歩兵隊、僅かに130余人を以て前日第3時より今朝第7時まで凡そ17時間の烈闘、わが兵ますます精神を励まして防戦す。因りて敵は空しく死傷のみ多くして遂に抜くこと能わず。怖れて退かんとす。わが兵急に追い撃ちてこれを破る。捕獲すこぶる有り。
わが費やす所の弾薬はほとんど3万5000余発に及ぶ。総じて彼の兵は多くスペンセール・スナイヅル等、元込の銃を用えり。しかしてわが兵はミニー銃を用いる」。両軍の薬きょうが山のように散乱していた。「敗北の構図」から脱したかに見えた。

新政府軍、海軍出撃
榎本軍堅持の戦局をがらりと変えたのは、新政府海軍出撃だった。4月22日、陸軍奉行・大鳥圭介は兵を木古内から撤収する。松前城を落とした新政府軍が北上して挟撃される恐れが生じ、それとともに海軍軍艦が接近してきたからであった。防御線は、箱館湾西際の矢不来(やぶらい、当時はやぎない)に頑強な陣地を構築した。4月29日、海岸の陸兵が攻めかかるのを狙い撃って寄せ付けない。午後になって、沖合い菊花の紋章の大旗を船首に翻した軍艦7隻が現れた。

空が濛々と煙で暗くなるほどの砲撃が始まる。初めて味わう艦砲射撃の威力は凄まじかった。とりわけ甲鉄艦のアームストロング砲の70ポンド(約32kg)の巨弾は、一発で胸壁を打ち倒して兵士を青ざめさせた。砲弾の破片で裂かれ、爆風で吹き飛ばされた戦死者があちこちに散乱する。矢不来陣地は戦闘能力を失い、全隊が箱館方面に後退した。二股口を死守した部隊は遊兵化してしまった。「敗北の構図」は決定的となった。

5月11日、ついに陸海軍の箱館総攻撃が開始された。東軍は海と陸から侵攻を開始し、五稜郭、弁天台場、その中間に位置する津軽陣屋など3拠点を分断した。5月7日の海戦で榎本海軍の軍艦回天・蟠龍を戦闘不能にして、制海権を確立していたので、箱館湾内の七重浜沖から各拠点に猛烈な艦砲射撃を浴びせかけた。その壮絶さは、「官軍方の大砲は凡そ三千世界随一の品と聞き居るに違わず、甲鉄船の舟に稲妻を見るような頭の上を通りブウブウブウと鳴り渡り、その玉落つる時にドンと音大なり」(「箱館軍記」)と現地の記録にあることからも想像できる。

閃光と大音響が箱館の海山にこだまして、人々の耳を聾した。それに呼応して箱館山西南方向から上陸した陸戦隊も進出してきて、近郊の七重浜と桔梗野で各拠点の堡塁から出撃する歩兵隊と戦った。この11日、地峡部の一本木関門付近の戦闘で、新撰組の土方歳三が銃弾に当たって戦死した。翌12日、2.7kmの長距離を飛来し、正確な弾着で五稜郭に落ちる艦砲射撃の至近弾を浴びて、古屋佐久左衛門が重傷を負った。アームストロング砲の70ポンド着発弾である。その後意識を回復せず、治療の甲斐なく死亡した。連日の猛烈な砲撃は兵士の士気を阻喪させずにはいなかった。次第に逃亡者の数が多くなった。

包囲は日一日と狭められた。5月15日、弾薬も薪水も尽き果てた弁天砲台が降伏を余儀なくされた。五稜郭の榎本武揚にも軍使が送られ、和平勧告が持ちかけられたが丁重に拒絶した。この大詰めの日々、五稜郭では将士それぞれの間で微妙な動揺が起きていた。

当時、榎本海軍の見習い士官で、後に明治政府に仕えて清国駐箚公使になった林董(ただす)は、その内幕をこう語っている。話中に出てくる医師・高松凌雲は古屋佐久左衛門の実弟である。箱館病院で敵味方隔てなく負傷兵の治療に当たり、非常に人望の厚かった人物である。

「箱館の官軍の方から、5月12日夜病院の高松君を紹介して、マグロ五尾と酒樽二つ(一説に酒五樽とある)を送ってきた。5月16日長々御滞陣につきこの品を送るという手紙が付いて来た。それまでは、官軍は残酷な者であるから降参すれば舌を抜かれるとか、頭へ釘を打たれるというので、兵はみな五稜郭に固まっていたのが、マグロ5尾と酒樽2つで軟化してしまった」。「敗北の構図」の結末であった。

北海道独立の夢、崩壊
五稜郭には厭戦気分が充満してきたのである。当然、上層部もそんな空気を敏感に嗅ぎ取っていた。榎本は内心では戦意を喪失していたが、将帥のプライドをどうにか保っていた。大鳥圭介のような本来「理工系」のタイプである人間はもっとあっさりしていた。

「大鳥圭介伝」にはこんな逸話も残っている。彰義隊創設者の一人だった本多晋(すすむ)によれば、生前の大鳥の口からこういう談話を聞いたというのである。「殺されやしない。その証拠に私にも大鳥様自身がこう言っていたことがある。『函館で降参した時も榎本は正直だったから、しきりに切腹したがった。一度切腹しようとするところを大塚鶴之丞(かくのじょう)に止められた位だが、僕はそう思っていたよ。なに降参したって殺されやしない』と」。

榎本の気弱さに対して、大鳥の神経の太さがよくわかる。死を覚悟した榎本が敵将に『万国海律書』の原書を贈ったという美談は有名だ。大鳥には、たとえ戦に負けても、旧幕歩兵隊の優秀な能力を相手に思い知らせて、目にモノを見せてやったし、ひと泡も二泡も吹かせたという満足感がある。

主だった人物が東京に移され投獄されたが、2年半ほどで釈放された。やがて榎本武揚は外務大臣になり、大鳥圭介は工部大学校校長、学習院院長などの後特命全権清国駐箚(ちゅうさつ)公使になった。

一方、投降した士卒は、津軽海峡を軍艦や輸送船で青森に運ばれ、身分や所属によっていく組みかに分けられて、弘前や秋田の寺院に収容された。その後、諸藩に身柄を預けられるが、やがて赦免されて思い思いに帰郷されて行く。下級の歩兵の扱いは簡略だった。わずかな旅費だけ支給されて国元に送り帰されて行った。苗字帯刀は一睡の夢だった。無残な結末であった。

参考文献:「幕府歩兵隊」(野口武彦)、拙書「大鳥圭介」、筑波大学附属図書館文献。

沖田総司の死因は本当に肺結核なのか?新選組の活躍から探る発病時期
 ヘルスケア関係の記事というところが目新しいです。ただ参考文献に小説が多いのは(´・ω・`)
 沖田総司――。倒幕志士が入り乱れた幕末に洛中を勇壮に濶歩し、壮絶な結核死を遂げたと伝わる青年剣士。その生と死は、脚色され神格化された形跡はないか? 沖田総司は史実か? 活劇伝説か?

 明治、大正、昭和、平成へ。時代が移ろうが、民衆が沖田総司という格好のヒーローを賛美しつつ、劇的な歴史ロマンの美酒に酔うのは、宜(むべ)なるかな。沖田総司の壮絶な結核死を語り起こすほかない。

新選組・沖田総司は本当に肺結核で夭逝?
 沖田総司は、1842(天保13)年、陸奥国白河藩藩士・沖田勝次郎の嫡男として、江戸の白河藩屋敷(東京都港区西麻布)に生を授かる。幼名は宗次郎。

 9歳の頃、剣豪・近藤周助が開塾した天然理心流の道場・試衛館の門下に。後に京都の反幕府勢力を取り締まる新選組を結成する近藤勇や土方歳三と同じ釜の飯を食うことになる。

 1856(安政3)年、わずか14歳の幼若は、試衛館の塾頭に。巧みな剣術が門下の剣豪たちを恐れさせ、権勢を誇るようになる。

 1863(文久3)年、20歳、「浪士組」に参集すべく上洛。組の分裂後は近藤らと「新選組」を旗揚げ。一番隊組長となる。同年9月、土方、山南敬助、原田左之助らに加勢し、水戸派の反抗分子・芹沢鴨を暗殺。近藤らの試衛館派が組を掌握する。

 1864(元治元)年5月、大坂西町奉行所与力・内山彦次郎の暗殺に関与。そして6月5日、尊皇攘夷派志士を殺傷・捕縛した池田屋事件が起きる。近藤や永倉新八らに従い、池田屋(三条木屋町)に斬り込む。だが、奮戦中に昏倒し喀血、戦線を離れる。昏倒の原因は、激闘による熱中症か、体調不良かは不明だ。

 1865(慶応元)年2月、組の「鉄の戒律」を破り、脱走した総長の山南敬助を捕らえ、兄さながらに尊崇する山南の切腹を無念の思いを込めて介錯する。

 1868(明治元/慶応4)年1月、戊辰戦争の緒戦となる「鳥羽・伏見の戦い」には参戦せず、戦地に向かう途上で負傷し、船中で肺結核を発症する。以来、幕府典医の松本良順の加護を受け、千駄ヶ谷・植木屋平五郎宅で療養。だが、病状は重く病床は冷え入るばかりだった。

 そして5月30日(7月19日?)に死去。前年の12月、近藤勇が御陵衛士の残党に狙撃され、斬首されて2ヶ月後の落命だった。「近藤先生はどうされたのでしょうね、お便りは来ませんか?」。沖田は近藤の死を知らずに旅立ったのかもしれない。

 享年は「生年不明」のため諸説ある。沖田家累代墓碑には「24歳」、沖田家文書には「25歳」、『両雄士伝』(小島鹿之助)には「27歳」とある。墓所は東京都港区の専称寺。戒名は「賢光院仁誉明道居士」。

 ちなみに、松本良順が新選組隊士約170人の健康診断を行った記録によれば、罹患者数の第1位は風邪、2位は食あたり、3位は梅毒。「肺結核の者が1名居た」とあり、沖田総司とする説がある。

池田屋事件の喀血は事実か?
 沖田が肺結核(労咳)を発症したのはいつか? 池田屋事件の喀血は事実か? 喀血は末期症状のため、余命は半年から1年とされる。特効薬のペニシリンがない往時に、池田屋事件(1864年)で喀血した総司が、1868年まで4年近くも生き永らえたのか?

 同時代に肺結核(労咳)で急死した人物を見よう。

 長州藩の倒幕志士・高杉晋作(1839年生まれ)は、1866(慶応2)年9月に喀血し7ヵ月後の慶応3年4月に29歳で死亡。歌人・詩人の石川啄木(1886年生まれ)は、25歳で発病し26歳で急死。だが、俳人・歌人の正岡子規(1867年生まれ)は、21歳の時に喀血し35歳で死亡。発病後、14年間も生存している。

 先述の通り沖田は、池田屋事件の翌年に山南を介錯する。その直後、脱走した隊士・酒井兵庫や浅野薫を処断した記録も残っている。1868(明治元/慶応4)年1月の鳥羽・伏見の戦いの前後に発症したとする証言(永倉新八『新選組顛末記』)が正しければ、池田屋事件の喀血は疑わしいかもしれない。

 つまり沖田は、発病した1月から5月30日(7月19日?)までの4~6ヶ月ほど闘病し急死したことになる。
沖田総司の「玉虫色の伝説」
 短気狼藉! 先陣を切って斬り込む新選組一番隊隊長! 刀術の天才は白皙(はくせき)の美剣士! 目にも止まらぬ速攻剣技の三段突き! 師範の近藤より恐れられ、「刀で斬るな! 体で斬れ!」と恫喝。また周囲からは、「沖田は猛者の剣、斎藤一は無敵の剣」とも言われた。新町の廓九軒町吉田屋で天神(遊女)を買うも、池田屋襲撃で不覚の喀血! 不治の病、肺結核(労咳)の闘病! 享年27の夭逝……。

 綿々たる歴史の大舞台に跳梁し、夥しいエピソードに彩られた傑物ほど、絢爛勇猛なる「玉虫色の伝説」の洗礼を受けやすい。人物像の偶像化、生い立ちや足跡の美談化、生き様の神格化が蔓延(はびこ)りやすい。古今東西、大衆は流言飛語に惑わされ、ゴシップに陶酔しやすい。

 尊皇攘夷と倒幕の嵐が吹き荒み、風雲急を告げた幕末の激動期の最中、民衆は戦火を浴びて暮らしは千々に乱れてえいただろう。昼夜、飢えに苛まれ、悲嘆に暮れる。流血沙汰に逃げ惑う。民衆のやり場のない狼狽と苦悩は、想像もできない。

 巷間に頻発する殺傷事件や捕縛事件――。風の噂を伝聞される度に「倒幕浪士なら、さもありなん」と脚色し、「新選組なら、さもあらまほしき」と美談化する。

 そんな困惑した世相に晒される民衆の日常は、推し量れない。逃げ場を失った民衆は、諸手を挙げて流言飛語やスキャンダルに食いつくほかない。付和雷同の集団催眠にほだされて、我が身の置き場を冷静に顧みる暇などはない。

 永倉新八は晩年、「土方歳三、井上源三郎、藤堂平助、山南敬助などが竹刀を持っては(総司に)子供扱いされた。恐らく本気で立ち合ったら師匠の近藤もやられるだろうと皆が言っていた」と語っている(『永倉新八遺談』)。

 沖田は漫画や映画など数々の作品でドラマ化され、作品によっては、1867(慶応3)年11月15日(12月10日)の近江屋で起きた坂本龍馬の暗殺の直前まで活躍するシーンもある(渡辺多恵子の漫画『風光る』、NHK大河ドラマ『新選組!』、同じく『龍馬伝』など)。

 沖田総司の生と死は史実なのか! 活劇伝説なのか? 消えたのは闘魂か? 残されたのは美談なのか?
(文=佐藤博)


*参考文献:司馬遼太郎『新選組血風録』『燃えよ剣』、子母澤寛『新選組始末記』、木村幸比古『新選組と沖田総司 「誠」とは剣を極めることなり』、『剣の達人111人データファイル』、釣洋一『新選組写真全集』(新人物往来社)、調布市史編纂委員会編『調布の近世史料』、『新選組日誌 上巻「沖田家文書」』、西村兼文『新撰組始末記』、「近藤勇書簡」、「島田魁日記」、永倉新八『新選組顛末記』など


佐藤博(さとう・ひろし)
大阪生まれ・育ちのジャーナリスト、プランナー、コピーライター、ルポライター、コラムニスト、翻訳者。同志社大学法学部法律学科卒業後、広告エージェンシー、広告企画プロダクションに勤務。1983年にダジュール・コーポレーションを設立。マーケティング・広告・出版・編集・広報に軸足をおき、起業家、経営者、各界の著名人、市井の市民をインタビューしながら、全国で取材活動中。医療従事者、セラピストなどの取材、エビデンスに基づいたデータ・学術論文の調査・研究・翻訳にも積極的に携わっている。
梅の花どんだけ好きなの!新選組・土方歳三が詠んだ梅の句から溢れ出る”梅愛”
梅が満開の季節になりました。梅といえば、泣く子も黙る新選組鬼副長、土方歳三を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。歳三さんは梅が好きで、多く俳句に詠んでいたからです。

今回は彼が京都に向かう前、江戸で剣術修行に励んでいた頃の句集「豊玉発句集」の中から、梅にちなんだ句だけを選り抜きご紹介します。

豊玉発句集の梅の句5選
「年々に折られて梅のすがた哉」
こちらは色んな解釈ができる句です。
どこかで見事な梅が咲いていて、通りかかる人々が、
「あ、咲いてる。部屋に飾ろう」ポキッ。「まあ、綺麗な梅。家族に見せてあげましょう」ポキッ。・・・という具合にポキポキ折って持って帰るので、なんとも切ない姿になってしまった、という解釈が1つ。こんな事で胸を痛めている歳三さんが後に鬼の副長と呼ばれ、新政府軍相手に大戦をかますなんて、考えられませんね。
もしくは、毎年色んな人に枝を折られて野生にはない味のある姿に成長した梅のたくましさに感銘を受けた、というふうにポジティブに解釈する方が歳三さんの心境に近いかもしれません。

「咲きぶりに寒げは見えず梅の花」
梅が満開を迎える二月〜三月初旬は、春を迎えたとはいえ、まだ肌寒い季節。歳三さんが寒空の下見事に咲き誇る梅をしげしげと眺めながら、
「梅よォ、てめえ咲いてて寒かねえのか」 「・・・」
「そっか、寒くねえか!良かったな!俺もてめえの咲きっぷりを見てるとなんだかぽかぽかしてくらア」
「・・・」
「ったく可愛いな、てめえは」
なんてこっそり梅の木に話しかける姿が浮かんで来るような一句です。

「人の世のものとは見へず梅の花」
どんだけ梅の花リスペクトしてるの!?と聞きたくなる梅の花シリーズ。そのくらい梅が大好きな歳三さんですが、その中でも抜きん出てものすごく美しい白梅に出会ったのでしょう。身分によって人間の価値が分けられていた江戸時代、武士になりたいと願ってもままならぬもどかしい思いの中で、人の汚さや醜さを嫌というほど味わっていた歳三さんだからこそ、凛と澄んだ白い梅に不思議な感動を覚えたようです。

「梅の花壱輪咲ても梅はうめ」
さて、こちらは豊玉発句集の中でも最も有名な句の一つではないでしょうか。ものすごく良い句!というわけではありませんが、何かのキャッチコピーみたいに1度聞いたら頭から離れません。

そのまんまというか、深いような、深くないような、読み手によって意味を持ったり持たなかったりするこの句。俳句の世界では、豊玉発句集の中でも出来がよくない句とされています。しかしファンが惹かれるのは、やはりこの句に表れた歳三さんのまっすぐさと親しみやすさなのでしょう。

「梅の花咲る日だけにさいて散る」
発句集の最後を飾る句。
この句を残して、歳三さんは京へ旅立ち、新選組の鬼副長へとなってゆくのです。そう考えると、彼の覚悟がよく表れた真面目すぎるくらいに実直な句なのではないでしょうか。この句の通りに、歳三さんは幕末の世に咲き誇り、江戸幕府とともにその生命を散らしたのです。

番外編
俳句ではありませんが、実は新選組最恐ボス芹沢鴨の辞世の句も、梅に絡めた和歌でした。芹沢は酒に酔っては乱暴狼藉を働いた事で有名ですが、素面の時は至極まっとうで、礼儀も教養もあり、一廉の人物だったそうです。

「雪霜に ほどよく色のさきがけて 散りても後に 匂う梅が香」

勤皇の志士として真っ先にさきがけて、死んでも鮮烈な爪痕を残してやるのだという壮絶な覚悟に胸が震えますね。というかこんな素敵な句を詠むなんてギャップありすぎです芹沢局長。芹沢があってこそその後新選組が活躍したのですから、彼の遺志はしっかり果たされたのではないでしょうか。

そこのあなた、歳三さんの句とどっちが上手いかなんて、比べちゃダメですよ!大事なのはそこに宿ったそれぞれの思いなのですから♪

アイキャッチ画像・文中画像:土方歳三 肖像 Wikipediaより。加工、筆者
 「年々に折られて」の解釈がなぁ……あのね、「桜切るバカ梅切らぬバカ」と言われていて、梅の枝は剪定されることで樹勢を保ち、毎年綺麗に花をつける(よって梅の実が採れる)んです。人の手が毎年入ってあちこち切られて、美しいのだなぁというのは世間に揉まれて成長する人の姿にも重ねているかも知れません。

真の日本史を知るにはこれを読め!『風雲児たち~幕末編~第30巻』刊行のお知らせ
 株式会社リイド社(所在地:東京都杉並区、代表取締役社長:齊藤哲人)より2018年2月27日(火曜日)に、みなもと太郎(著)・『風雲児たち~幕末編~ 第30巻』を刊行いたします。

画像1: https://www.atpress.ne.jp/releases/150762/img_150762_1.jpg
『風雲児たち~幕末編~ 第30巻』書影

手塚治虫文化賞受賞、文化庁メディア芸術祭優秀賞受賞作品。
三谷幸喜脚本にて2018年NHK正月時代劇ドラマにもなった
話題の歴史ギャグマンガの最高傑作!


■内容
外国船の来航、攘夷運動の高まり、安政の大獄、そして桜田門外の変……

徳川幕藩体制が大きく揺らぐ中、島津久光上洛を機に始まった討幕ムーヴメントは、寺田屋事件後も止まることはなかった。

そんな折、島津久光に従四位上・左近衛権中将の位が授けられた。これで、久光は上洛する大儀を得ることができ、さらには上洛を阻む西郷隆盛の処分を晴れてすることができることになった。

同時期、高杉晋作は長崎から上海へと渡り、西洋の力を目の当たりにする………

 ■概要
表1: https://www.atpress.ne.jp/releases/150762/table_150762_1.jpg

 ■著者プロフィール
みなもと太郎
京都府出身
第8回手塚治虫文化賞・特別賞受賞
第14回文化庁メディア芸術祭漫画部門優秀賞受賞
代表作に『風雲児たち』、『ホモホモセブン』がある

 ■会社概要
社名 : 株式会社リイド社
所在地 : 〒166-8560 東京都杉並区高円寺北2-3-2
代表 : 代表取締役社長 齊藤哲人
創業 : 1960年4月
設立 : 1974年11月
事業内容: 出版事業
URL : http://www.leed.co.jp/
五木ひろし歌謡ショーの休園日に開催されたそうで(笑)、白酒師匠によると楽屋はこれでもかというほどの胡蝶蘭の鉢が並んでいるとか。
11時開演の昼公演というのも落語会には珍しいですね、しかも中入りが30分あって、明治座に併設された食堂を予約してなくても近所のコンビニやフレッシュネスバーガーか蕎麦屋で食事ができる。
 また、ひとりひとりの演者の時間がたっぷりあるのも寄席にはないところですね。おかげで前座さん合わせて4名の上手の落語をたっぷり楽しむことができました。
 お客さんは明らかに70代のご夫婦連れが最頻値。笑いどころを分析するとあまり落語をご存じない方が多いような。それでも今回は楽しんでいただけたかと思います。

弥次郎/市若
 市馬さんの弟子で32才、オランダのアムステルダム出身というのがなかなか面白そう。去年前座になったばかり(ここのところ落語界は入門希望者が多く、昨今の住宅事情では内弟子もそうそう取れず、前座になるのも待機状態と聞いた)だけどなかなか滑舌はよく、噺として聴けるレベル。
 そして、得々として噓八百の旅行の土産話をする弥次郎が結構ニンに合う。北海道(というからには明治時代以降に成立した噺なのだな)で火事見物して凍った火事を土産にもらった、恐山に上って山賊と闘い、さらに猪と闘った。噺のオチは「そこが獣のあさましさ」。落語ならではのゆるいオチ。

佐々木政談/白酒
 ピンクの着流しに羽織。今日がひな祭りで、名前が白酒で、この着物の色からして出オチ。さすが明治座で楽屋の数が半端じゃないこと、五木ひろし公演の合間で祝いに贈られた胡蝶蘭の鉢がこれでもかと並んでいること、芝居で大岡越前や遠山金さんがなぜヒーローなのか、などなどちょっと長めのフリ。
 お得意の佐々木政談。白吉くんの腕白ぶりと南町奉行佐々木信濃守との頓知対決が面白く、後味のいい噺。

中入り

河内山宗俊/談笑
 日本橋から人形町にかけては雰囲気のよい下町で、自分は下町でもD級からE級の砂町銀座出身で、30年ぶりの同窓会に出たら同級生の女性はみんな金髪に染めてバツイチだった、というところから。
 おお、音源では聴いたことがあるけどひょっとしたら生では初めてかも知れない「河内山宗俊」。桜の上野山、不忍池あたりが舞台の芝居噺。談笑さんならではの入れ事はあるけど、改作というほどではなく、古典バリバリの市馬師匠に繋ぐためのネタにしたのでは。

三十石 夢の通い路/市馬
 Twitter情報ではインフルエンザ開けだそうな。でも気持ち良く船頭歌(はめものあり、裏方から男声で合いの手が入り、寄席以上に豪華だった)。
 寺田屋の番頭さんの名前と住所改めは、最初は鴻池善右衛門と住友(実は炭屋の友吉)。その後芝居ネタで江戸花川戸の幡随院長兵衛と助六とか、照手姫とか、武蔵坊弁慶とか、小野小町とか。この辺りは最近歌舞伎づいてる私には嬉しい。後半は並河 益義 山﨑 松尾 小林 盛夫 松岡 克由 郡山 剛蔵と落語家の本名ネタなんだけど、私以外に笑う人少ないのが悲しいなぁ……郡山剛蔵は小三治師匠の名前ということでなく仰々しい名前ってとこが笑われてるし。年齢的に昭和の大名人たちをテレビやラジオで聴いていた世代が多かったと思うけど、まぁ落語家の本名を知らない程度に落語知らないレベルの方々が多かったのだろう。それはそれで、今日の落語に来て頂いただけでもありがとうございますと思う落語ファン。
 市馬さんの船頭歌にお囃子さんが三味線や太鼓をつけ、裏方さんが合いの手を入れる。それだけで普段の寄席より豪華です。さすが明治座です。ありがたい。。


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