忍者ブログ
新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
偉人ゆかりの地巡る幕末の宇和島、歩いて体感 明治150年で記念イベント
 明治150年にあたり、幕末明治に活躍した宇和島の偉人を知ってもらおうと、愛媛県の宇和島市観光物産協会が企画している「四国・宇和島の幕末の偉人めぐり」に合わせ、ゆかりの場所を巡るイベントが7日、同市内であった。

古賀穀堂と直正
 「お父さんもすごいけど、この人も傑物」。佐賀県立図書館近世資料編さん室の伊香賀隆さん(45)は、感心することしきりだ。江戸後期、佐賀藩10代藩主鍋島直正の教育係、相談役を務めた儒者、古賀穀堂である◆「寛政の三博士」の一人、古賀精里の長男。遺稿が東京国立博物館に収蔵されており、伊香賀さんら10人ほどの手で解読が進められている。難解な漢文なので埋もれたままだった。句読点を入れ、重要なものは書き下し文にする。ゆくゆくは『佐賀県近世史料』として本にまとめられる予定◆原文を読み解くうち、穀堂が若き日から気宇壮大な志を持ち、ひいては直正を通し政治の正しいあり方を実践していったさまが見えるそうだ。例えば幕末の佐賀藩が、蝦夷地など北方に強い関心を寄せていたことにも、「起点は穀堂にあった」と伊香賀さんはみる◆江戸遊学中の東北見聞を記した資料があり、経験に基づいた直正への進言が、説得力を増したことがうかがえる。幕末期の基礎資料の解読は鹿児島、山口県と比べ、遅れをとっている佐賀。読みやすくすることで小説の下地となり、いつか大河ドラマにもつながろうというものだ◆直正が考えたことの多くの源が、穀堂にあるとすれば、今回の読み解きが果たす役割は大きい。お宝からどんな新史実が飛び出すか、楽しみだ。(章)

【神奈川】市が1999年設置「六道の辻通り」の石碑 なぜ違う通りにあるの?
 横浜市中区常盤町5の市道に「六道(ろくどう)の辻通り」と刻印された石碑がある。明治初期から関東大震災(1923年)まで交通の要衝として多くの人が行き交った六差路「六道の辻」にちなんで建てられたにもかかわらず、実際とは違う通りに立っている。いったい何があったのか-。 (志村彰太)

 六道の辻は幕末から明治初期にかけて関内地区を埋め立てる過程でできた。横浜開港資料館の伊藤泉美・主任調査研究員は「この場所には、埋め立て地の排水のために設けた川が街区を斜めに横切るように走っていた。明治初期に川を埋め立て、六差路になったようだ」と解説する。

 「中区史」は六道の辻を「にぎわいの中心的存在」である吉田橋などとつながる交通の要衝だったと記述。関東大震災後の区画整理で、現在のような交差点になった。

 石碑は一九九九年、馬車道から北西に一本入った、本来の六道の辻から五十メートルほど離れた場所に市が設置した。市中土木事務所の岡哲郎副所長は「馬車道商店街から要望があったようだが、文書が残っていないため詳細は不明」と説明。歴史的に正しい場所か検証した形跡はないという。

 場所が違うのは、地元商店主らでつくる「関内を愛する会」(解散)がそもそもの原因をつくったとみられる。同会は九二年三月、関内地区の市道の愛称を公募。半年後、有識者、市幹部らと共に、後に石碑が設置される通りを「六道の辻通り」とする案を採用した。馬車道商店街協同組合の山口和昭副理事長は「多数の応募から選んだと思うが、資料が残っておらず、どの程度史料を検討したかは分からない」と話す。

 市のまちづくりの歴史に詳しい市都市デザイン室の担当者は「石碑は六道の辻につながる斜めの道路の跡地に近く、完全に誤っているわけではない」と唱えるものの、史料の確認が不十分だったのが真相のよう。山口副理事長は「この謎めいたところも、馬車道周辺の魅力を引き立てているのでは」とプラスに評価している。

松前藩からアイヌ有力者宛てに出された文書 ロシアで発見
今から240年前の江戸時代に松前藩からアイヌの有力者に宛てて出された公式文書がロシアで見つかり、調査に参加した専門家は「公式文書の原本としては、最も古いものと見られ、貴重な発見だ」と話しています。

この文書は、東京大学史料編纂所がロシアのサンクトペテルブルクで行った調査で見つかりました。

文書は240年前の1778年、安永7年7月に松前藩の「蝦夷地奉行」から現在の根室市にあった「ノッカマップ」というアイヌの集落の有力者、「ションコ」に宛てて出されました。

文書ではションコに対して、アイヌの人と和人が交易などを行う拠点施設の「運上小家」の管理を徹底することや、和人が海で遭難したときは手当てをしたうえで、周辺のアイヌの集落と協力して松前藩まで送り届けることなどを求めています。

北海道博物館によりますと、松前藩の文書は幕末の混乱などで多くが失われていて、今回の文書は、松前藩からアイヌの有力者に宛てて出された公式文書の原本としては、最も古いものと考えられるということです。

調査に参加した北海道博物館の東俊佑学芸主査は「松前藩が、北海道東部へ支配を及ぼした時期を解明するうえで貴重な資料で、なぜロシアに残されていたのかなどについても、今後調べていきたい」と話しています。


戊辰150年
 仙台藩祖伊達政宗の生誕450年だった昨年、連載企画などで政宗とその時代を多角的に取り上げた。
 その中で印象に残ったのは、東北の独特な戦国事情だ。大名同士が政略結婚や養子縁組で縁戚関係となり、紛争が起きてもほどほどの戦闘でとどめ、徹底的に滅ぼすことはない。
 「冬が厳しく助け合わないと生きていけない事情もあるのだろう。白河関を境に国家観が違っていたのではないか」。政宗の一代記「鳳雛(ほうすう)の夢」を書いた作家上田秀人さんは、こう語っていた。東北には共生、共助の精神を育む風土性があるのかもしれない。
 今年は「戊辰戦争150年」だ。東北が苦難の道を歩んだ戦い。あの時代と今をつなぐ多くの記事が紙面をにぎわせるだろう。
 仙台市の作家熊谷達也さんは現在、幕末期の仙台藩をテーマとした小説の準備を進めている。奥羽越列藩同盟を巡る動きなどは、物語の中心になっていくに違いない。
 列藩同盟が会津藩を救済しようと立ち上がったことも、共助の精神の表れだろうか。「戊辰」を足掛かりに東北人の世界観を探る一年になりそうだ。(生活文化部次長 加藤健一)
PR
「幕末・明治-激動する浮世絵」展 時代の空気リアルに伝え
 平成30年の今年は明治維新から150年となる。幕末から明治へと、社会が大きく変わっていく中で浮世絵も様変わりしていった。その時代の作品に焦点を当てた「幕末・明治-激動する浮世絵」展が、東京の太田記念美術館で開かれている。

 約260年続いた江戸時代が終わり明治時代を迎えると、都市ではモダンな洋風建築が建ち始めた。文明開化の香りを感じさせるのが昇斎一景(しょうさいいっけい)の「東京名所 銀座繁栄之図」だ。ピンクの花を咲かせた華やかな桜並木。人々が歩き、馬車や人力車が行き交う。和装の女性がいれば洋装の紳士の姿もある。桜の背後には煉瓦造りの建物。和洋混交の不思議な光景は活気にあふれ、明治という新しい時代の高揚感を感じさせる。作者の昇斎一景は明治初期、「開化絵」といわれる東京の町並みや風俗を描いていたが、生没年や詳しい来歴もわかっていない。いわば謎の浮世絵師だ。

 急速に近代化が進んだ明治。5年には日本初の鉄道路線が新橋-横浜間で開通。明治に活躍した四代歌川広重の「高輪 蒸気車通行全図」はその鉄道をモチーフにした。ただ制作されたのは開通前で、実際に見て描いたわけではなく資料などを基に想像で表現したという。そのため、客車部分は馬車のようでちょっと変。現代の目で見るとユーモラスだが、この絵を見た当時の人たちはまだ見ぬ未知の乗り物にどれだけ心を躍らせていたのだろうか。
 浮世絵は絵として純粋に楽しむ一方、明治になると情報をもたらすメディアにもなった。「江戸時代は幕府の批判につながるということで、リアルタイムな事件を浮世絵にすることは禁じられていたが、明治になると制限はなくなり西南戦争なども絵にすることができるようになった。浮世絵は庶民が欲していた情報をもたらすものでもあった」と同館の日野原健司主席学芸員は話す。

 小林清親の「明治十四年一月廿六日出火 両国大火浅草橋」は、大火を題材にした。立ち上る赤い炎はすさまじく、天まで昇る勢いだ。明治14年1月26日に起こった大火災を、清親は写生帖を手に、一晩中火の行方を追ってスケッチした。灰燼(かいじん)に帰した焼け跡の絵も残したように、何枚も作品にした。そのため、帰宅したときには自分の家まで焼失していたというエピソードも。画題には、場所や日時が記されていることからジャーナリスティックな目を持っていたことがうかがえる。

 清親は明治初期、江戸から東京となった都市を光や影を駆使し情感たっぷりに描いた「光線画」と呼ばれる浮世絵版画で人気があった。「大川岸一之橋遠景」もその一つで明暗のコントラストが鮮やか。「従来の浮世絵は輪郭線があったが、ヨーロッパの絵画は基本的に輪郭線がなく陰影で立体感を表現した。そうした手法を木版画に取り入れようとし、浮世絵らしくない油絵のような世界を生み出した」(日野原主席学芸員)

 明治期、近代化によって江戸の面影が失われたものの、新しい名所が各地に誕生していった。展示された約150点の作品からは、時代のリアルな空気を感じることができる。(渋沢和彦)

 ■りりしい西郷どん

 明治維新をなしとげた人物として人気があるのが西郷隆盛だろう。本展には西郷を描いた鈴木年基の「文武高名伝 旧陸軍大将正三位 西郷隆盛」が出品されている。ひげをたくわえ、軍服姿でりりしい姿だ。制作されたのは明治10年。西南戦争がすでに始まり、西郷軍の劣勢が伝えられていた時期で、作者の年基は実際会って描いたわけではない。東京の上野公園にある、犬を連れた親しみのある銅像の姿とはイメージが違う。西郷の絵は数多いが、上半身アップの作品は少ないという。作者の年基は明治初期に活躍し、名所絵などを描いていた浮世絵師で生没年は不明だ。
 本展には、西郷関係の浮世絵が前期・後期あわせて8点出品。西郷が自刃して幽霊となった不気味な姿を見せる月岡芳年(よしとし)の「西郷隆盛霊幽冥奉書」(後期)も展示され、さまざまな偉人像に触れることができる。

 NHKの大河ドラマ「西郷(せご)どん」も始まり、すでに多くの本が出版されている。ブームが起こっているが浮世絵の「西郷どん」も必見だ。

                   


 【ガイド】「明治維新150年 幕末・明治-激動する浮世絵」展は東京都渋谷区神宮前1の10の10、太田記念美術館。前期1月28日まで、後期2月2~25日(前後期で展示替え)。月曜休。一般700円、大高生500円、中学生以下無料。問い合わせはハローダイヤル(電)03・5777・8600。
幕末~明治の「イヌ事情」に迫る 横浜開港資料館で展示
 二〇一八年の戌(いぬ)年にちなみ、幕末~明治の「イヌ事情」に迫った資料展が、横浜市中区の横浜開港資料館ミニ展示コーナーで開かれている。二月二十八日まで。 (志村彰太)

 同館によると、江戸時代は猟犬や狆(ちん)という小型犬を除き、個人がイヌを飼うことはなかった。雑種とみられるイヌが群れをなして地域内で暮らすのが普通で、現在の地域猫のような存在だった。幕末の開港後、海外から品種改良された西洋犬が流入。文明開化の象徴として室内や犬小屋で個人が飼い、散歩に連れて行く生活様式が定着していった。

 会場には、横浜を題材にした浮世絵で知られる歌川貞秀(さだひで)(一八〇七年~没年は不明)が、西洋犬を散歩させる外国人を描いた浮世絵や、明治期に横浜で撮影された飼い犬の写真など十点を展示。担当者は「幕末の開港が日本人とイヌの関係を変えたことが伝えられれば」と話している。

 入館料は大人二百円、小中学生百円。年末年始と原則月曜休館。問い合わせは同資料館=電045(201)2100=へ。 
幕末・維新グルメ明治改元150年/5止 武市と玉子とじ 獄舎へ届けた妻の愛 /高知
 坂本龍馬の盟友として知られる土佐勤王党の盟主・武市半平太(1829~65)。昨年には俳優・市原隼人さん主演の映画「サムライせんせい」が公開され、新たな資料も見つかるなど、その生涯に改めて注目が集まっている。そんな武市が愛した「幕末維新グルメ」。それは妻・冨との愛情を感じる「玉子(たまご)とじ」だった。

 現在の高知市仁井田に当たる吹井村に生まれた武市は、龍馬とは「武市のアギ(あご)」「龍馬のアザ(あばた)」と呼び合う仲だったという。1861(文久元)年に尊王攘夷(じょうい)を進めようと土佐勤王党を結成。土佐勤王党は政敵の吉田東洋の暗殺などを決行するが、武市は1863(文久3)年には入獄を命じられ、過酷な獄舎での生活を余儀なくされる。

 本来は許されない冨との手紙だが、ろう役人の計らいもあり、2人のやり取りは現在も残されている。冨は獄内の武市のために毎日、食事を作って夫へと届けさせた。体調を考えての麦飯や鯛飯、牛肉については食べると「のぼせて悪い」という記述が。薄暗い獄舎の中でせめて季節を感じられるようにと、食事の他に桜の花を差し入れたこともある。

 そうした食事の中で武市が特に「うまい」と好んだものの一つが、冨の差し入れた玉子とじだ。

 松崎淳子・県立大名誉教授(調理学)にアドバイスをもらい、冨が作ったであろう当時の「玉子とじ」の味を再現してみた。だしは、その頃に一般的だったじゃこ(イワシの小魚)でとり、しょうゆで味付けする。煮込んだネギに当時は高級品だった卵を絡めれば、作り方こそ簡単だが、素朴な野菜の甘みにじゃこのうまみが溶け込み、優しい味がする。

 「あいたい事はいわいでもしれたこと」と武市は冨に宛てた手紙で書いている。だが、1865(慶応元)年うるう5月11日、武市は切腹。付近には、今も「武市瑞山先生殉節之地」の碑(高知市帯屋町)が残っている。

 歴史研究家の松岡司・佐川町立青山文庫名誉館長は「武市が冨のことを思い、冨もまた武市の教えを守ろうとした2人のつながりが手紙のやりとりから見えてくる」と話す。【岩間理紀】=おわり
巡回展幕末志士らの肖像、湿板写真で伝える 撮影や焼き付け体験 いの /高知
 貴重な幕末のガラス湿板写真を中心に展示する「幕末維新写真展」がいの町幸町のいの町紙の博物館で開かれている。2月18日まで。「志国高知 幕末維新博」の一環で開かれている巡回展で、維新博推進協議会主催。

 湿板写真は幕末に伝わった写真の技法。ガラス板に硝酸銀溶液を塗り、感光性を持たせることで、ガラス板がフィルムと同じ役割を果たす。現像や定着を、ぬれた状態ですることから湿板写真と名付けられた。

 会場では坂本龍馬ら、幕末から明治にかけて活躍した志士らの肖像写真や江戸時代末期に日本各地を撮影したイギリスの写真家フェリーチェ・ベアトが使用したとされる大判カメラなど約160点を展示している。


湿板写真が並ぶ「幕末維新写真展」の会場=高知県いの町幸町のいの町紙の博物館で、柴山雄太撮影
 巡回展としては初めて公開された「手彩色写真」は、モノクロの写真に人が手作業で色を付けた写真で、茶摘みや相撲取り、芸妓(げいこ)らの様子が生き生きと浮かび上がってくる。

 担当の掛水志歩三さんは「幕末から明治にかけての技術の変遷を見てほしい」と来場を呼び掛けている。期間中には「ガラス湿板写真撮影体験」と「鶏卵紙焼き付け体験」も実施される。入場料は大人500円、小中高生100円。体験参加費は無料。問い合わせは紙の博物館(088・893・0886)。【柴山雄太】
<東京人>明治を支えた幕臣・賊軍人士たち 敵味方なく人材登用
 江戸無血開城を成功させた勝海舟、近代資本主義の父と言われる渋沢栄一、第二十代総理大臣を務めた高橋是清、「学問のススメ」で西洋文明を紹介し、慶応義塾大学を創立した福沢諭吉-。幕末に生まれ、明治時代に功績を残した彼らは皆、徳川幕府に仕えた「幕臣」です。

 一九六八年に誕生した明治新政府は西欧列強にならい、富国強兵、文明開化を押し進めますが、巨大政府を切り盛りした経験のない薩長土肥は、深刻な人材不足に直面しました。そこで、海外使節などを経験し、幕府の下で行政経験のある幕臣たちが多く登用されました。薩長土肥は、敵味方関係なく、優れた人材を集める寛大さがあったとも言えるでしょう。

 東京人2月号では、幕末に生まれ、明治期に活躍した幕臣・賊軍人士たちを、政治、実業、ジャーナリズム、医療、文芸、学問・思想の六つのジャンルに分けて紹介します。作家の中村彰彦氏は「会津籠城四人組」と題し、会津出身の井深梶之助、山川健次郎、大山捨松、新島八重の教育界への貢献などを語ります。医療分野では、順天堂大学創立者の佐藤泰然をはじめ、西洋医学の流れを作った幕臣たちを作家の山崎光夫氏がまとめました。

 次週からは幕臣・賊軍人士たちが多く集まった明六社や沼津兵学校、特集のメイン記事である御厨貴氏、関川夏央氏、幸田真音氏による座談会を紹介します。(「東京人」編集部・久崎彩加)

 「都市を味わい、都市を批評し、都市を創る」をキャッチコピーに掲げる月刊誌「東京人」の編集部が、2月号の記事をもとに都内各地の情報をお届けします。問い合わせは、「東京人」編集部=電03(3237)1790(平日)=へ。
湿板写真150年前の京都、発見 写真師・堀内信重のガラス原板 高い技術、屋外でもくっきり /京都
 幕末から明治初期にかけて京都で活躍した写真師、堀内信重(のぶしげ)(1841年ごろ~76年)が、下鴨神社や八坂神社などの名所を撮影した際に使った湿板写真のガラス原板18枚が見つかった。ガラス板は洗って再利用されていたため、撮影したままネガの状態で見つかるのは珍しく、黎明(れいめい)期の写真技術の様子がうかがえる。

 湿板写真は江戸時代末期から明治初期に用いられた写真術で、ガラス板に薬剤を塗って感光性を持たせ、フィルムとして利用。ただ、薬剤が乾くまでに撮って現像しなければならない上、屋外で撮影する場合は機材一式を持ち歩く必要があった。

 信重は寺侍として知恩院(京都市東山区)の警護に当たる傍ら、写真の技術を習得。来日していたお雇い外国人らに、京都を訪れた記念品として名所旧跡を撮り、売っていたと考えられている。

 ガラス原板は2016年夏、知恩院の近くでかつて信重が住んでいた家屋を解体することになり、荷物の整理中に「東山寫(しゃ)真堂」と書かれた木箱から見つかった。内側には等間隔で溝が刻まれ、縦30センチ横24センチの原板が重ならないように1枚ずつ離して保管されていた。

 箱には「寫真種板」との張り紙があり、ふたの裏側には明治11(1878)年7月と書かれていた。信重の死後、ゆかりの品を残すために箱を用意したとみられる。

 原板に光を当てると、知恩院の三門や、西本願寺の大谷本廟(びょう)にある円通橋がうっすらと浮かび上がった。焼き付けた写真はレトロな雰囲気を帯び、150年も昔に撮影したとは思えないほど建物や人物がくっきりと写っていた。下部にはアルファベットで撮影場所が記されているが、慣れていなかったためか、文字の上下や左右が逆になっているものもあった。

 信重を研究している写真家の中川邦昭さん(74)は「条件が一定しない屋外での撮影は難しく、信重は高い技術を持っていたのではないか」と指摘。「写真技術だけでなく、当時の京都の様子を知る上でも大きな手掛かりになる史料だ」と話している。

 原板と焼き付けた写真の一部は、京都市上京区の市歴史資料館で17日まで展示中。

〔京都版〕


お年玉〈年始ご挨拶〉尾上松也

一、義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)鳥居前
佐藤忠信実は源九郎狐 中村 隼人
源義経 中村 種之助
静御前 中村 梅丸
逸見藤太 坂東 巳之助
武蔵坊弁慶 中村 歌昇

真山青果 作
真山美保 演出
二、元禄忠臣蔵(げんろくちゅうしんぐら)御浜御殿綱豊卿
徳川綱豊卿 尾上 松也
富森助右衛門 坂東 巳之助
御祐筆江島 坂東 新悟
中臈お喜世 中村 米吉
上臈浦尾 中村 歌女之丞
新井勘解由 中村 錦之助


第二部
お年玉〈年始ご挨拶〉中村 歌昇

一、操り三番叟(あやつりさんばそう)
三番叟 中村 種之助
千歳 中村 隼人
後見 中村 梅丸
翁 中村 錦之助

双蝶々曲輪日記
二、引窓(ひきまど)
南与兵衛後に南方十次兵衛 中村 歌昇
女房お早 中村 米吉
平岡丹平 坂東 巳之助
三原伝造 中村 隼人
母お幸 中村 歌女之丞
濡髪長五郎 尾上 松也

銘作左小刀
三、京人形(きょうにんぎょう)
彫物師甚五郎 坂東 巳之助
京人形の精 坂東 新悟
娘おみつ実は義照妹井筒姫 中村 梅丸
女房おとく 中村 種之助
奴照平 中村 歌昇

 ロビーで仁左さまを目撃した情報があります……残念orz
 
 仁左さまから教えを受けた音羽屋の松也さんの綱豊卿がいつか歌舞伎座にもかかるのでしょうか、楽しみです。












家族ふたりを亡くして喪中のひとり寂しい年の暮れ。去年だったら近所で弟とそばをいただいて、母とふたりで紅白。そんな暮れを送れない今年は、違うことをしたくて、横浜にぎわい座の志の輔トリの寄席チケットを入手。

子ほめ/全楽
時そば/志の彦
権助魚/志のぽん
漫談/寒空はだか この日限定のウルトラマンのネタとか、歌のイントロじゃなくて中トロクイズとか、馬鹿馬鹿しさがいい。
看板のピン/生志 予想通りの相撲ねた。
漫談/松元ヒロ  ウーマンラッシュアワー村本さん、寄席には松元ヒロがいます。あなたもテレビに出られようと出られなかろうと時事ネタ頑張ってください。鹿児島実業時代のジンサン、おもしかったです。うっかりネタが口からこぼれて、話が壊れてしまったけれど、芸人は最後まで。
歌とアコーデオン/遠峰あこ 両国風景のアコーデオン版がすごい。
三方一両損/志の輔 今年一年を締めくくるのが志の輔らくごで幸せ。
昨日はNHKプレミアム『明治維新150年スペシャル「決戦!鳥羽伏見の戦い 日本の未来を決めた7日間」』を楽しみました。

歴女のお供に「戊辰戦争・宇都宮攻防戦マップ」改訂 宇都宮の市民グループ
 【宇都宮】宇都宮の魅力向上などに取り組む市民グループ「黄ぶな愉快プロジェクト」は、戊辰戦争をテーマにした観光マップを6年ぶりにリニューアルした。市内を舞台にした攻防戦を図解で紹介したほか、宇都宮城などゆかりの地をマップで案内。歴史好きの女性「歴女」に人気の高い新選組の副長土方歳三(ひじかたとしぞう)を前面に出し、宇都宮の戦跡巡りブームにつなげたい考えだ。

 マップのタイトルは「新選組土方歳三と幕末の宇都宮へタイムスリップ」。布陣や戦況の推移を当事者らの日記や紀行文を参考に図解で紹介した。裏面には二荒山神社や簗瀬橋など戊辰戦争ゆかりの12カ所や、まちなかでお薦めの飲食スポットを掲載した。

 市職員でメンバーの荒瀬友栄(あらせともしげ)さん(39)は「歴史に詳しい歴女から初心者まで楽しめる内容。宇都宮にはギョーザ以外にもたくさんの魅力があることを知ってほしい」と話している。
マップは折り畳みA6サイズで2千部製作。1月2日から宮カフェで「明治150周年記念のミヤリー缶バッジ」購入者に進呈する。

近藤勇や沖田総司、土方歳三の本当の姿は?
書名
歴史のなかの新選組
監修・編集・著者名
宮地正人 著
出版社名
岩波書店
出版年月日
2017年11月17日
定価
本体1360円+税
判型・ページ数
文庫・336ページ
ISBN
9784006003692
BOOKウォッチ編集部コメント
 近藤勇や沖田総司、土方歳三ら錚々たるメーンキャラクターでおなじみの新選組。小説や映画、テレビドラマなどで盛んに取り上げられ、最近は漫画やアニメ、ゲームでも大人気だ。

 登場人物たちは幕末の動乱で主役の一翼を担い、さまざまな事件に関与する。ただし大きな問題はどこまでが史実か、はっきりしないことだ。

「時代小説からの決別」
 『歴史のなかの新選組』は、東京大学史料編纂所教授や、国立歴史民俗博物館館長などを務めた近現代史研究者の宮地正人さんが、学者の目で新選組について検証した本だ。もともとは2004年、単行本として出版され多数の書評で取り上げられた。NHK大河ドラマで「新選組!」が放映されたころだ。それを文庫化したのが今回の新版だ。

 単にサイズをコンパクトにしたというものではない。この10年余りで新選組についての研究はかなり進んだという。特に新選組の母体となった浪士組や、江戸の新徴組に関する研究が進んだそうだ。それらをベースに補足や修正を加えているのが本書だ。

 アカデミズムの世界にいる宮地さんが単行本のときからこだわっているのは、語られている様々な出来事が史実かどうかということ。本書でも「前置き」として、「時代小説からの決別」と、徹頭徹尾史料を基に論を展開することを強調している。

 具体的には第10章「史実と虚構の区別と判別」に詳しい。新選組を多くの日本人に広めたのは子母沢寛の『新選組始末記』(1928年)だ。その「子母沢本」にはタネ本があった。西村兼文による評伝『新撰組始末記』(1889年脱稿)だ。ところがこの「西村本」をきっちり読んでみると、いくつものおかしいところが見つかる。ゆえに宮地さんは「西村本」についてこう記す。

 「ある事実なり事件を手掛かりとして、彼の判断で事実の創作をおこなっていないか、という疑いがある」「一八六五(慶応元)年閏五月以前の記述に関しては、すべての点で、他の史料によって裏を取る必要がある」

「近藤勇書簡集」がない
 このほか宮地さんが史料の不備を憂えるのは、新選組の中心人物、近藤勇についてだ。様々な伝説が残り、人物像が語られ、書状なども部分的に紹介されている。しかし、残念なことに、現在に至るまで「近藤勇書簡集」というものが編纂されていない。そのため、部分的に公開されている書状の全文を見ようと思っても見られない。これまでに新選組の本で儲けた出版社が、きちんとした校訂のもとに、書簡集を出版すべきではないかと提案している。

 一方で、新選組の関係者は地方出身者が多いので、それぞれの地元などでは、独自にコツコツと実証的な研究が行われ、良書も出版されていることも伝える。とりわけ日野市立新選組のふるさと歴史館など各地域の資料館の取り組みを高く評価、本書では2004年以降のそうした研究について「補章」を立てて詳しく紹介している。現時点の新選組研究の、一つの到達点を示したものだろう。

 かつては非情な殺戮者。その後、卓越した市井の剣客集団として再評価。さらに滅びの美学が加わり、沖田や土方がキャラ立ちして女性の人気も高まるなど、小説やドラマの世界での「新選組像」も時代とともに変化している。いったいどれが本当の新選組なのか。史料を基にした実像の構築に期待しているファンも多いのではないか。今後もさらなる研究の深化が待たれる。
2017年に行った落語209席。諸事情のため、2010年以来で一番少なかった。

2017/12/31クライマックス寄席
2017/12/19 志の輔らくごinEX2017
2017/11/29 晩秋、Wホワイト落語会19 in 成城
2017/11/21 立川談志七回忌特別公演 談志まつり2017
2017/11/21 立川談志七回忌特別公演 談志まつり2017
2017/10/9 創作落語30周年記念リロード 白鳥ジャパン雪月花
2017/9/19 柳家小三治一門会
2017/9/7 日本青年館オープニング記念公演 立川談春独演会
2017/8/23 毎日新聞落語会 渋谷に福来たる 2017 夏一番 〜桃月庵白酒25周年記念落語会的な〜
2017/7/22 志の輔らくご in 下北沢2017 恒例 牡丹灯籠
2017/5/23 立川談春「廓噺の会」
2017/5/22 柳の家に春風が…柳家喬太郎・柳家三三・春風亭一之輔三人会
2017/5/10 名作落語〜それまで・そのあと・スピンオフ〜 談笑『落語外伝』 第2回「居残り佐平次」
2017/5/4 TBS赤坂ACTシアタープロデュース 恒例 志の輔らくご
2017/4/22 よってたかって春らくご'17 21世紀スペシャル寄席 ONE DAY
2017/4/1 渋谷に福来たるSPECIAL〜落語フェスティバル的な〜 江戸暦
2017/4/1 渋谷に福来たるSPECIAL〜落語フェスティバル的な〜 春爛漫 白酒一之輔二人会
2017/2/28 立川談春独演会2017
2017/2/4 落語の仮面祭り in 下北沢演芸祭
2017/1/19 立川談春新春独演会「居残り佐平次」

 チケット取れにくいながら今年も志の輔談春を追いかけ、またひとり友人をファンにした。
原作の長年のファンとしても、ミタニン&吉川Pコンビの『組!』『組!!』『丸』ファンとしても、楽しみな作品。

三谷幸喜、正月にギャグ漫画の時代劇
脚本家・三谷幸喜によるエンタテインメント時代劇『風雲児たち~蘭学革命(れぼりゅうし)篇~』(NHK総合)が1月1日に放送。漫画家・みなもと太郎による歴史ギャグ漫画『風雲児たち』を原作に、大河ドラマ『真田丸』のキャストを集めた三谷流歴史ドラマとなる。

一心同体で「蘭学事始」に 取り組んだ前野良沢と杉田玄白だが、「解体新書」には良沢の名は載らなかった。2人の間にいったい何が

歴史ファン、みなもとファンだと公言する三谷は、「僕の大学時代に連載が始まった、みなもと太郎さんの『風雲児たち』。僕はこの作品で、歴史の新しい見方を学びました。『風雲児たち』には、今の日本を築き上げた先人たちの感動的なエピソードがぎっしり詰まっています。今回、そのほんのちょっと一部分をドラマ化しました」とコメント。

江戸幕府老中・田沼意次を演じる草刈正雄と博物学者・平賀源内を演じる山本耕史

本ドラマは、西洋医学書の和訳『解体新書』にまつわる物語で、三谷がNHK時代劇を手がけるのは『真田丸』以来1年ぶり。キャストには、片岡愛之助、新納慎也、山本耕史、草刈正雄、長野里美、岸井ゆきの、迫田孝也、大野泰広、栗原英雄、高木渉など、三谷の笑いのツボがわかっている『真田丸』の出演者が再集結する。放送は19時20分から。
NHK総合・正月時代劇『風雲児たち~蘭学革命(れぼりゅうし)篇~』
放送:2018年1月1日(祝・月)・19:20〜20:49
URL:https://www.nhk.or.jp/jidaigeki/fuuunjitachi/
「風雲児たち」新納慎也“ほふく前進”の俳優人生 道しるべ三谷氏に感謝「期待に応えたい」
 昨年のNHK大河ドラマ「真田丸」で豊臣秀吉の甥・豊臣秀次を好演した俳優の新納慎也(42)が正月時代劇「風雲児たち〜蘭学革命篇(らんがくれぼりゅうしへん)〜」(来年1月1日後7・20、総合)に出演。「真田丸」に続き、劇作家・三谷幸喜氏(56)の作品を彩る。

 「真田丸」の脚本を担当し、ブームを巻き起こした三谷氏の新作脚本ドラマとして、さらに「真田丸」のキャスト23人(発表分)が再集結して注目される今作。「真田丸」の後、三谷氏の新作ドラマ脚本は今回が初。原作は今年、画業50年を迎えた漫画家・みなもと太郎氏(70)の同名大河歴史ギャグ漫画。今回は片岡愛之助(45)と新納を迎え、前野良沢と杉田玄白による“蘭学事始”のエピソードを描く。

 西洋医学書「ターヘル・アナトミア」の日本初の和訳に一心同体で取り組んだ良沢(愛之助)と玄白(新納)の2人。鎖国ド真ん中の江戸中期に革命的な翻訳を成し遂げた。しかし、刊行された「解体新書」に良沢の名前はなく、名声は玄白だけのものとなった。2人の間に一体、何が起きたのか…。笑いとサスペンスに満ちた新しい三谷流歴史ドラマが生まれる。

 新納にとって映像の仕事としては、これほど出番とセリフの多い役はなかったという今回の“大役”。人生初となる“剃髪”を敢行し、外見も気合の役作りをして臨んだ。11月に約20日間の撮影を終え「幸せな毎日だったという感謝の気持ちと、撮影前はプレッシャーもあって、途中でケガしたら…とか風邪をひいたら…とか、いろいろ不安もあったので、無事に終えられて、ひと安心しました」と振り返った。

 翻訳の精度にこだわって完璧を目指した良沢とは対照的に、あまりオランダ語が分からなかった玄白は不完全でも医学発展のために「出しちゃえ、出しちゃえ」と「解体新書」刊行を急いだ“乗りだけ”の男。「お調子者の新納さんにピッタリでしょ?」という三谷氏からのオファーに、新納は「おいおい!」と笑ってツッコミを入れながらも「時代劇だからといって重くならず、とにかく軽快に演じてほしい」というリクエストに応えた。

 具体的には、翻訳作業に打ち込んでいる良沢と中川淳庵(村上新悟)に対し「あまりオランダ語が分からない玄白は2人を手伝えない。2人がああでもないこうでもないとオランダ語と格闘していると、玄白はすぐに『先、行きましょう』と言うんです。そのセリフを、どう言えばいいか。良沢が『この男は…』とイラッとするように、時代劇にあり得ないトーンとテンポで、その部分だけ一種、現代っぽくしてみました。そこの現代感覚のスピード感とリズム感は大事にしました」と工夫を明かした。

 三谷作品には2007年、ユースケ・サンタマリア(46)主演の舞台「恐れを知らぬ川上音二郎一座」で初参加。09年には、元SMAPの香取慎吾(40)主演のミュージカル「TALK LIKE SINGING」で4人の出演者の1人(主人公の親友役)に起用され、念願のオフ・ブロードウェーデビューを叶えた。

 「真田丸」の時も、三谷氏について「僕の人生の連結部分で『さあ、この道を進みなさい』と言ってくれる、人生を変えてくれる人です」と語っていたが、再度尋ねると「僕、本当に、こうやって匍匐(ほふく)前進で進んできたような俳優人生なんです」と身ぶり手ぶりを交え、切り出した。

 「今回も『風雲児たち』の共演者の方々に『新納君って、もともと何なの?』と聞かれたんですが、劇団にいましたとか特撮ヒーローでしたとか(笑い)、僕にはそういった“もともと”が何もないんです。ただただ、ミュージカルのカーテンコールで一番後ろの列の端っこで気付かれない程度にお辞儀をしていたところから、1個1個、こうやって匍匐前進で脇目も振らず進んできただけなのです。三谷さんは、そうやって先を見ず、今、目の前にあることを1つ1つやっている“腹ばいの僕”の横にたまにやって来て、匍匐前進する僕に『新納さん、今度はこっちに進んでください』『次はあっちに行ってみたら、どうかなぁ?』と進む方向を指さしてくれるみたいな、そんな存在。これ、うまく文章になります?」とジェスチャーを交え、少しおどけながら話して笑いを誘った。

 「この距離感が僕と三谷さんの関係性を我ながら上手に言えていると思います。頻繁に連絡を取り合っているわけじゃなく、1年ぐらい音沙汰がない時もありますから。僕のどこをそんなに評価してくださっているのか、ちゃんと聞けていないんですが、それを言葉にせずとも、今回のような役を頂けることが三谷さんからの評価なんだと思い、これからも期待に応えられるように頑張っていきたいと思います」。モデルから俳優に転向し、20年以上。「来年の今頃、どうなっているんだろうか。役者を始めた当時はその不安しかなかったですし、今も拭えていないまま生きています」。暗中模索の役者道を、三谷氏という“道しるべ”が節目節目で明るく照らす。
[ 2017年12月30日 08:00 ]
新納慎也“映像待ち”の20代“心が摩耗”の30歳も「芝居をしたいだけ」40代「真田丸」で飛躍
 昨年のNHK大河ドラマ「真田丸」で豊臣秀吉の甥・豊臣秀次を好演した俳優の新納慎也(42)が正月時代劇「風雲児たち〜蘭学革命篇(らんがくれぼりゅうしへん)〜」(来年1月1日後7・20、総合)に出演する。今や日本ミュージカル界を支える1人になったが、30歳の頃には「心が摩耗」し、休養を申し出た過去も。20代は映像の仕事に恵まれず、悔しい思いもしたが、40代になってドラマでも実力を発揮。「結局、僕はスターになりたいんじゃなく、芝居をしたいだけの人」。活躍のフィールドが増え、さらなる飛躍が期待される。

 「真田丸」の脚本を担当し、ブームを巻き起こした劇作家・三谷幸喜氏(56)の新作脚本ドラマとして、さらに「真田丸」のキャスト23人(発表分)が再集結して注目される今作。「真田丸」の後、三谷氏の新作ドラマ脚本は今回が初。原作は今年、画業50年を迎えた漫画家・みなもと太郎氏(70)の同名大河歴史ギャグ漫画。今回は片岡愛之助(45)と新納を迎え、前野良沢と杉田玄白による“蘭学事始”のエピソードを描く。

 西洋医学書「ターヘル・アナトミア」の日本初の和訳に一心同体で取り組んだ良沢(愛之助)と玄白(新納)の2人。鎖国ド真ん中の江戸中期に革命的な翻訳を成し遂げた。しかし、刊行された「解体新書」に良沢の名前はなく、名声は玄白だけのものとなった。2人の間に一体、何が起きたのか…。笑いとサスペンスに満ちた新しい三谷流歴史ドラマが生まれる。

 16歳の時、出身の神戸でスカウトされ、モデルとして芸能界入り。この世界を目指したことはなく、モデルもアルバイト感覚で始めたが「結構、最近になって親から聞いて、僕は覚えていないんですが、小さい頃、縄跳びの切れた紐をマイク代わりにしてテーブルの上で歌っていたそうです。カギっ子だったので、親が帰ってくるまで映画館にいたり。当時は入れ替え制じゃなかったですからね。もともとエンターテインメントの世界は割と好きな子供だったと思います」と明かした。

 とあるファッションショーのメインモデルに選ばれた時、リハーサルで「この衣装とメイク、この音楽と照明なら、このポーズとこの顔でしょ?と自分なりに表現したのですが、演出家さんから『真っすぐ立って。服がシワになるから』と言われて…。自分がやりたいことはモデルじゃないな、と。自分の中から湧き出るものを、ちゃんと表現したいと思いました」と俳優を志し、大阪芸術大学舞台芸術学科演劇コースに入学。2年生を終え、自主退学し、20歳の時に上京した。

 その後、ミュージカルを中心に活動。2000年、25歳の時には大ヒットミュージカル「エリザベート」(東宝版初演)に初代トートダンサー(黄泉の帝王トートの分身)として出演。圧倒的な人気を集めた。02年にはミュージカル「GODSPELL」の主演に抜擢。三谷氏作・演出の「恐れを知らぬ川上音二郎一座」(07年)などでストレートプレイにも進出し、09年には三谷氏作・演出のミュージカル「TALK LIKE SINGING」に主人公(香取慎吾)の親友役で起用され、念願のオフ・ブロードウェーデビューを叶えた。

 昨年の「真田丸」はインターネット上に“秀次ロス”が広がる大反響。着実に歩みを進めてきたように見えるが、30歳の頃には「絶対に人前に立ちたくない」と半年間の休養を申し出たことがあった。

 「役者というのは、生身が評価されるわけじゃないですか。名指しで評価されることが怖かったですし、当時ありがたいことに、とにかく仕事が続いていて、アウトプットばかりで自分の中のストックが何もなくなって…。芝居というのは、日常生活に起こらないからこそ舞台やドラマになるわけで、普段の暮らしより感情が動いて精神をすり減らすので、心がどんどん摩耗していって、何も感じなくなってしまったんです。病気とかじゃないんですが、そんな精神状態の人間が役者なんかしていたらダメだと思い、仕事を全部空けてもらいました」。ただ「2カ月ほどでお金がなくなり、仕事を再開しました」と笑い飛ばしたものの、いい充電期間に。「やるしかない」と前向きになった。

 来年、そして今後の目標を尋ねると、まず今年は後厄だったと切り出し「役者は“役が付く”のはいいことなので『厄払いしたらダメ』と言われていて。僕も前厄から厄払いはしていません。前厄の時は『真田丸』のお話を頂いて、本厄の時はまさに秀次を演じていましたし、後厄は今回の『風雲児たち』と、本当に役が付いているんです。2018年は厄年が終わりますが、役がもっと付く年になればいいなと思います」と抱負を語った。

 「20代の頃はスターを夢見て、舞台のスケジュールを空けて映像の仕事を待ったりもしました。舞台は2年先とかのスケジュールが埋まってしまい、急にドラマのオファーがあっても応えられないので」。しかし、三十路を迎え「スターは来世で、と思ったわけです」と笑って振り返り「映像のオファーはなくても、舞台のお話は途切れなく頂いていたので、会社にも『もう舞台のオファーを断ってまで“映像待ち”はしない』『とにかく舞台の仕事はスケジュールさえ合えば、やる』と伝えて、その頃から自分のことを舞台俳優と言うようになりました。そんな僕が40歳を超えて、まさか、こんなにドラマに出るなんて、自分でも思っていなかったですね」と率直に打ち明け、自ら驚いた。

 「結局、僕はスターになりたいんじゃなく、芝居をしたいだけの人。最近、映像の分野で芝居をするフィールドを増やしていただいたので、今後の目標としては、ありきたりですが、舞台に映像に垣根なく、いろいろな仕事を続けさせていただけたら、うれしいです」。取材の場が和む明るい素のキャラクターと語り口も魅力的。来年は「風雲児たち」を皮切りに、輪をかけて大暴れしそうだ。
[ 2017年12月30日 08:00 ]

愛之助、『真田丸』キャスト再集結の『風雲児たち』現場満喫「同窓会みたい」
 歌舞伎俳優の片岡愛之助と俳優・新納慎也が、来年1月1日にNHKで放送される正月時代劇『風雲児たち~蘭学革命(れぼりゅうし)篇~』(後7:20)の撮影間の取材会に参加した。同作は脚本家の三谷幸喜氏が、2016年のNHK大河ドラマ『真田丸』以来、1年ぶりに同局の時代劇脚本を手がけ、愛之助や新納のほかにも山本耕史や草刈正雄、遠藤憲一、小日向文世、高嶋政伸ら『真田丸』おなじみのキャストが集合。「本当に楽しく、和気あいあいと朗らかに、同窓会みたいな『久しぶり~』みたいないい雰囲気で入れる」と現場の雰囲気を明かした。

 同ドラマは、みなもと太郎氏の大河歴史ギャグ漫画『風雲児たち』を原作に、史上初の西洋医学書の和訳に一心同体で取り組んだ前野良沢(愛之助)と杉田玄白(新納)らの物語を描く。新納は「三谷さんからは『坊主だけど、今時かつらの技術がすごいからいいよ、かつらで』とおっしゃっていただけたんですけど、こんなにいい役をいただけたんだから剃ります!と剃ったんです」と決意の剃髪姿を披露している。

 ほぼ全員が真田丸キャストで、入れ代わり立ち代わりにクランクイン・アップしていくことから新納は「きのう、小日向さんがアップして『不思議な感じだね~』と言っていたんですけど、僕はまさにお正月に親戚のおじさんがやってきたみたい。僕や愛之助さん、村上(新悟)さん、迫田(孝也)さんは基本この家にいて、親戚の人が順番にあいさつにくるお正月みたいな。そこでちょっと昔話をして…みたいな、そんな気分です」と久々の再会をよろこび、愛之助も「確かに」と納得。

 演出の吉川邦夫氏は「『真田丸』のメンバーに集まっていただいたんですが、むしろ『真田丸』とは違う役ですから、引き出しの多い皆さんなのでまた違った一面を見てほしい。新しい魅力を引き出したいし、役者さんたちには『真田丸』の時にやらなかった新しい一面を出してほしい。全体として魅力が倍に膨らむ感じになっていければ」と期待を寄せていた。




12月20日から22 日まで27回目の函館旅行に行ってきました。

 例年より高く積もった根雪の中を土方歳三最期の地碑から五稜郭まで歩いたり、うにむらかみで生雲丹刺身をいただいたり、函館の厳しい寒さに生きるニャンの写真を撮ったり、満喫していたのですが……最終日の午前12頃、元町公園近くで凍った路面にすってんころりん、思わず手を突いてしまい、右手首を骨折してしまいました。

 どうにも痛みがひかず、散策を中止して飛び込んだ末広町の函館市地域交流まちづくりセンターの方々が整形外科を調べてくださり、タクシーまで手配してくれたので、午後一の診療で右橈骨遠位端の骨折と診断され、応急処置を受け、予定通りその日の夜のフライトで帰宅することができました。

 その後、地元の大学病院で診断を受け、外科手術による整復が必要と診断され、火曜日に入院、一昨日水曜日に手術、昨日無事に退院しました。抗生物質呑んで痛み止めしてますが順調に回復しています。ただ利き腕の手首を痛めたので生活に不自由しています。やっと今日スマホも左手入力から右手リハビリ兼ねた両手入力(ただしタイピング作法通りではなく、動く指を使う程度)になりました。

 思えば過去の函館旅行でも同じところで凍結路面で転んでいたっけ……汗。

 それでもまた行きたい函館です。
大阪産経の連載記事が終わったようです。

相手が悪かった? 力士を血祭りにした「狼藉現場」蜆橋 新選組なにわを奔(はし)る(1)
 大正から昭和にかけて、幕末を描いた無声映画といえば、チャンバラだった。「東山三十六峰、草木も眠る丑三(うしみ)つ時…たちまち起こる剣戟(けんげき)の響き…」。活動弁士の口上で繰り広げられる尊王志士と新選(撰)組の死闘-。そう、新選組の舞台はいつも京都だった。

 ところが彼らの行動を辿(たど)ると、意外にもその足跡は大阪に多い。理由はある。

 ひとつには、新選組が京都守護職、会津藩預かり=直属の武闘集団、諜報機関であったこと。2つ目に、その京都守護職が京都所司代のみならず、大坂城代、大坂町奉行を支配していたこと。さらに彼らの資金源の多くが大坂にあったこと-。自然、新選組の行動範囲は大坂に及ぶことになる。

 文久3(1863)年6月3日、新選組がまだ前身の「壬生(みぶ)浪士組」だったころ、事件は大坂で起きた。

 近藤勇(いさみ)、芹沢鴨(せりざわかも)、沖田総司ら約10人が大坂町奉行の要請で不逞(ふてい)浪士取り締まりのため大坂にきていた。

 さすがに仕事が早い。2日後には浪士2人を捕縛すると、近藤らを除く隊士8人は、定宿の八軒家(はちけんや)浜から夕涼みとしゃれて大川に川遊びに出る。

 途中、隊士の一人が不調を訴えたため船を下(お)り、徒歩で北新地の住吉楼に向かうことになった。下船したのは、鍋島藩屋敷前の堂島川鍋島河岸(がし)、今の大阪市北区西天満2丁目、裁判所のあたりだ。

 一行が新地に入り、蜆(しじみ)橋を渡ろうとしたとき、向こう側から大坂相撲の力士が渡ってきた。先頭の芹沢。「道を開けろ」「そっちこそ退(ど)け」。口論が始まり、激高した芹沢がいきなり鉄扇で力士を殴りつけた。

 退散する力士。これでその場は収まったかにみえたが、8人が住吉楼に上がり、上機嫌で飲んでいると、八角棒を手にした力士の集団20~30人(一説では50人以上)が、仲間の意趣返しとばかり、押しかけてきたものだから、収まらない。酒が入り、血気にはやる隊士らは「返り討ちにしてしまえ」と抜刀(ばっとう)し、大乱闘になったのである。

 数と力で勝る力士たちも剣客集団にはかなわない。結局、死者1人、負傷者十数人(死者5人、負傷者二十数人とも)の被害を出した。しかも「無礼討ち」が認められたため、翌日、大坂相撲側が酒1樽、金50両を添えてわびを入れ、落着したというから、相手が悪かったというしかない。

 以後、壬生浪士組は「壬生浪(みぶろ)、壬生浪」と呼ばれ、京、大坂の市民を震え上がらせた。 

× × ×

 北区曽根崎新地1丁目。御堂筋と堂島上通りが交わる滋賀銀行ビルの外壁に「しじみばし」の碑が埋め込まれている。かつて堂島川から分岐した蜆川に架けられた小橋で、南から淀屋橋、大江橋、蜆橋と渡ればお初天神に至ることが、落語「池田の猪買(ししか)い」に描かれている。

 江戸時代、川をはさんで南に堂島新地が開かれ、あの「曾根崎心中」の舞台にもなったが、後に米会所が設けられると、堂島はビジネス街に変わり、遊里としてのにぎわいは北の曽根崎新地に移っていく。

 明治42(1909)年の大火(天満焼け)で川は埋められ、住吉楼の場所も不明だが、蜆橋は新選組の最初の狼藉(ろうぜき)現場としてその名を残している。(今村義明)



 壬生浪士組 文久2(1862)年、清川八郎の献策で募集された「浪士組」が、京都到着後に分裂した後、近藤勇、芹沢鴨ら京都残留組を中心に翌年3月に結成された武装組織。幕府の職制では非正規組織だったが、京都守護職だった会津藩の預かり=大名と雇用関係のある士分=となり、月3両が支給された。尊攘派志士の探索、検挙など京、大坂の治安維持を任され、文久3年8月、「8月18日の政変」の功績により「新選組」の名称を許された。

謎広がる大坂与力暗殺、「殺人集団」をめぐる事件の真相は…維新150年大阪の痕跡・新選組なにわを奔る(2)
 本町通から松屋町筋を北に歩く。左手に都市型展示場「マイドームおおさか」(大阪市中央区)が現れる。屋根にアーチ型ドームを戴(いただ)くユニークな外観から視線を落とすと、植え込みの中に小さな石碑がある。「西町奉行所址」。江戸時代、東町奉行所とともに大坂市中を治めた役所の跡だ。

 広さ約9600平方メートル。南に隣接する大阪商工会議所と西側のホテルもその敷地に含まれ、明治に入り初代大阪府庁舎にも使われたというからその大きさがうかがえる。ちなみに、東町奉行所は今の府立大手前高校の北、近畿経済産業局などが入る大阪合同庁舎1号館近くにあった。両奉行所の間は直線で1キロと離れていない。

 元治元(1864)年5月20日夜、天神橋(天満橋という説も)で、西町奉行所与力、内山彦次郎が仕事帰りに襲われ、殺害された。67歳だった。

 彼はただの与力ではない。天保8年(1837年)の大塩平八郎の乱の平定で功があったばかりでなく、経済・政策通で知られ、大坂の東西60騎の与力で初めて譜代御家人、つまり将軍へのお目見えも許される旗本格-に栄進した。旗本の町奉行が中央のキャリア組とするなら、与力は地元の“たたき上げ”の中級役人にすぎない。その中で、大出世を果たしたのが、内山だった。

 現場には「天下の義士此(これ)を誅(ちゅう)す」との斬奸状(ざんかんじょう)=犯行声明=が残され、尊攘浪士による天誅(てんちゅう)=テロ事件=として世間を震え上がらせた。
それが明治になって、元新選組副長助勤(ふくちょうじょきん)の永倉新八が、晩年の口述記「新選組顛末(てんまつ)記」で、近藤勇(いさみ)、沖田総司、永倉ら5人で襲ったと暴露したことから、新選組犯行説が急浮上する。

 動機に諸説がある。前年の文久3(1863)年6月の力士との乱闘事件で奉行所に届け出た近藤に対し、吟味に当たった内山の態度が高圧的で不遜だった-とする怨恨(えんこん)説。内山が尊攘派と結託して米や油の価格を不正に操作した-とする私刑説。新選組の強引な金銭借り入れに関し、内山が内偵を始めたことに先手を打った-とする証拠隠滅説など、新選組の犯行だとしても真相は藪(やぶ)の中だ。

 一方で新選組犯行説を否定する研究も多い。たとえば、乱闘事件で近藤が届けたのは当番の東町奉行所で、内山の管轄外だったこと。永倉が顛末記の前に書いた日記では事件にまったく触れていないこと。さらに、顛末記には事実誤認、混同が多く、永倉自身の誇張や編集者の脚色も見られること-などから、坂本龍馬暗殺説と同様、新選組「濡(ぬ)れ衣(ぎぬ)」説も根強い。

× × ×

 ふたたび松屋町筋を北へ歩く。西町奉行所址から7、8分で天神橋に至り、ここからが天神橋筋。その橋を渡る。南行き5車線の橋の歩道からは、中之島公園の東端、剣先公園に下りることもできる。ただし、当時は中之島がもっと下流にあり、大きな木橋1本で今より広い大川の両岸を繋(つな)いでいたことになる。

 天神橋筋商店街に入り、大阪天満宮を過ぎると、ほどなく国道1号に出る。国道を渡ると、その北東の辺りが「与力町」と「同心」だ。高層マンションに囲まれた「与力町グラウンド」では夕闇迫る中、子供らが野球の練習をしていた。

 果たして新選組の犯行なのか、否か-。いずれにしても、天誅と称する殺戮(さつりく)が幕末の大坂で横行していたのは事実で、シロにせよ、殺人集団の新選組がいかに世間から恐れられ、嫌われていたかを示す事件の一つであることに間違いない。

(今村義明)



 大坂町奉行 江戸幕府直轄の大坂城下(大坂三郷)の民政、警察、および大坂、摂津、河内の訴訟を担当した江戸幕府の職制。老中支配の下に東西各1人の奉行が置かれ、月番交代制をとった。奉行は千~3千石の旗本から選任され、その下に与力各30騎、同心各50人が配属された。与力には80石(知行高200石)が支給され、しだいに地付(じつ)き(土着)、世襲の役職となる。大坂天満に屋敷地(与力500坪、同心200坪)が与えられ、現在、大阪市北区に地名として残る。

(10月31日掲載)

阻止された大坂城焼き討ち計画 新選組なにわを奔(はし)る(3)
 美容室が1階に入るビルの前に、そのモニュメントはあった。人形と玩具のまち、松屋町(まっちゃまち)商店街を南へ歩き、空堀(からほり)商店街の1本南の交差点。「大利鼎吉(おおりていきち)遭難之地」(大阪市中央区瓦屋町)とある。新選組が土佐浪士の潜伏先を急襲した、世に言う「ぜんざい屋事件」の顕彰碑だ。大坂の“池田屋事件”ともいわれる騒動の地を訪ねると、幕末の志士の数奇な運命を知ることになる。

 元治元(1864)年の晩秋。「蛤御門(はまぐりごもん)の変」を受けて、大坂城を拠点に長州征伐(第1次)が始まろうとしていたころ、松屋町のぜんざい屋「石蔵屋」に、大利鼎吉と田中光顕(みつあき)ら土佐勤王党出身の浪士5人が潜伏していた。老母と妻とで店を営む主人は、武者小路(むしゃのこうじ)家の元家臣、本多大内蔵(おおくら)の世を忍ぶ仮の姿、大利らの同志である。

 長州シンパでもあるこの過激派グループはとんでもない計画を秘めていた。大坂市中に火を放ち、大坂城を焼き払うことで、征長軍の後方を撹乱(かくらん)し、一気に倒幕の先鋒(せんぽう)になろうというのだ。妄想にも近い書生論だが、これが幕末の熱というものだろう。田中も後に「当時は誰もが信じて疑わなかった。浪華(なにわ)城(大坂城)が炎に包まれるのを想像しただけで、意気は天を衝(つ)いた」と回想している。

× × ×

 計画は露見した。明けて元治2年(慶応元年)1月8日、実行の12日前のことだった。おそらくは密告だろう。過激派の謀議(ぼうぎ)とアジトをつかんだのは、新選組隊士で、大坂・南堀江で道場を開いていた谷万太郎。さしずめ新選組大坂出張所長といったところ。兄は副長助勤(ふくちょうじょきん)で後に七番隊組長となる三十郎、弟は近藤勇の養子になった周平だ。

 万太郎は、すぐさま大坂西町奉行所に連絡し、大坂城代の命令で定番(じょうばん)の藩兵が松屋町を幾重にも包囲する中、たまたま大坂にいた兄、三十郎と道場の門弟2人で石蔵屋を急襲した。

 4人は功をあせったのか、手柄の独占をねらったのか、新選組本部には「火急のことゆえ、われらだけで討ち入る」と、飛脚を送るのみだった。が、さすがに準備不足は否めない。このとき石蔵屋には、大利と本多、それにその母と妻がいただけで、田中らほかの浪士4人が不在という情報を持っていなかったのだ。

 万太郎らが突入した瞬間、本多は身を翻(ひるがえ)して逃走し、大利1人が4人を相手に奮闘したが衆寡敵(しゅうかてき)せず、1時間余の戦いの末、3人に深手を負わせたものの憤死した。大利24歳の時だった。

 幕府側は大坂城焼き打ちを未然に阻止したとして万太郎ら新選組をたたえたが、土方歳三(ひじかたとしぞう)だけは「4人で乗り込んでたった1人か」と吐き捨てたという。

× × ×

 碑には「昭和12年2月建立」と刻まれ、揮毫(きごう)は「田中光顕」とある。建てたのは「奥野伊三郎」氏と「前田重兵衛」氏。奥野氏の消息は判明しないが、前田氏は近くの製菓原材料卸販売「前田商店」社長、前田重兵衛氏(74)の父で、3代目重兵衛氏=平成8年逝去=だとわかった。前田商店は奇(く)しくも事件があった慶応元年の創業で、当初は和菓子店だったという。

 3代目重兵衛氏と奥野氏は建碑の経緯を大略次のように伝えている。

 《血なまぐさい事件に(近所)みな震え上がり、戸を閉ざして息をひそめていたことを父祖から伝え聞いていたが、事件が何か、誰もわからなかった。昨年(昭和11年)夏に伯爵の回想録が世に出て事件の真相を知る。折しも2年前に松屋町筋の拡張工事で石蔵屋が取り壊されたことから、伯爵に手紙を書いたところ、自ら筆を執って快諾してくれた》

 4代目の前田社長が振り返る。「父からは、本多の母と妻はうちの便所に匿(かくま)ったと聞いています。伯爵が2回も家に来たことを大変喜んでいましてね。あれは私が小学校の時だったか、父ら有志がぜんざいを炊き出し、町中にふるまって志士らを偲(しの)んだことを思い出します」

 24歳で新選組の凶刃に斃(たお)れた大利鼎吉。不在で難を逃れ、明治、大正、昭和を生き抜いた田中光顕。長寿の秘訣(ひけつ)を聞かれ、田中は「殺されざれしため」と答えている。(今村義明)



 田中光顕 天保14(1843)念、土佐(高知県)生まれ。通称・顕助。武市瑞山(たけちずいざん)の土佐勤王党に坂本龍馬らとともに参加、藩参政、吉田東洋暗殺にも関与したという説もある。ぜんざい屋事件後、十津川に潜伏したが、中岡慎太郎に見いだされ、陸援隊に幹部として参加する。維新後、警視総監、学習院長、宮内大臣を歴任。昭和14年、95歳で没。

大坂豪商からの借金も踏み倒し 新選組なにわを奔(はし)る(4完)
 大阪市中央区を流れる東横堀川に架かる橋のうち、北から2つ目の「今橋」を起点に西に向かった。子育て世代などの都心回帰を象徴する高層マンションが目に入る。その足元の市立開平小学校前に、「天五に平五 十兵衛横町」と記された風変わりな碑があった。江戸時代の豪商、天王寺屋五兵衛(天五)と平野屋五兵衛(平五)の屋敷跡で、東西に軒を並べていたことから、五兵衛と五兵衛を足し算して十兵衛となった。

 堺筋を渡り、さらに西へ行くと、大阪美術クラブが入るビルの脇に「鴻池本宅跡」とある。幕府公認「十人両替」の一人、鴻池善右衛門の屋敷跡だ。今や豪商らの面影もない今橋だが、証券会社や銀行、保険会社が集まる金融センターとしてのルーツがここにあったことは容易に想像できよう。

× × ×

 新選組の足跡は、活動拠点の京都に集中するが、資金源が大坂にあったことはあまり知られていない。そもそも幕府も大名もお金に困っていた時代。富んでいたのは、全国から産物が集まり、米相場や為替相場を動かした大坂、いや大坂の豪商だった。天下の富の7割が集まったとされる大坂の財力を、新選組は見逃さなかった。

 文久3(1863)年4月、結成直後の新選組、当時は壬生浪士組を名乗った芹沢鴨、近藤勇らは今橋の平野屋を訪れ、金100両(当時の米価換算で1両=約5万円)の借金を申し込む。

 困り果てた平野屋は町奉行所に相談するが、奉行所は後難を恐れてか、今で言う「民事不介入」の態度だから泣く泣く応じるほかない。当時流行した“押し借り”である。もちろん、返済の形跡はない。500万円を手にした新選組は京の大丸呉服店で、あの浅葱(あさぎ)色で袖がだんだら模様の隊服をあつらえたとされる。

 同年7月、新選組が続いて訪れたのが鴻池で、武器調達費などを名目に230両を出させている。ただ、交渉は穏便に行われたようで、その伏線(ふくせん)として、新選組が京の鴻池別邸に押し入った不逞(ふてい)浪士を摘発した礼に、善右衛門の方から近藤らを大坂に招いたという説が有力だ。近藤の愛刀「虎徹(こてつ)」もこの時、鴻池から贈られたものらしい。

 鴻池の本心はわからない。近藤らに心酔してパトロンになろうとしたのか、ただ京大坂の治安を鑑(かんが)み、新選組を用心棒にしてみかじめ料として金品を提供したのか。いずれにせよ、新選組はこれを機に鴻池を窓口に、大坂商人から金を吸い上げることになる。

 元治元(1864)年12月、近藤は大坂の富商22家から、長州征伐の軍費を名目に銀6600貫、金換算で7万両、約35億円を借用する。いくら新選組でも単独の軍費としては多額すぎる。この借金に限っては会津藩が新選組を使って集めさせ、藩の裏金として処理したとの見方が強い。
 このあたり、大坂商人は先刻承知だったようで、鴻池はともかく、他の商家らは「会津公、大坂町人へお借り入れを浪人局長(近藤勇)と申す人、押しがり致され、誠に誠に市中だいめいわくなこと」(幕末維新大坂町人記録)と、怨嗟(えんさ)に似た恨み節を残している。

× × ×

 肥後橋の大同生命ビル。NHKの朝ドラ「あさが来た」のヒロインのモデル、広岡浅子が嫁いだ豪商、加島屋がここにあった。2階の特別展示室に新選組の借用書が展示されている。

 「預申金子之事(あずかりもうすきんすのこと)」で始まる証文には、金400両(約2千万円)を月4朱(0・4%)の利息で借り、翌年5月までに返す-とある。借り主として土方歳三(ひじかたとしぞう)が、保証人として近藤勇が署名、捺印(なついん)している。日付は「慶応3(1867)年12月」。鳥羽伏見の戦いの1カ月前で、他の多くの借金とともに反故(ほご)にされたのは疑いない。
 維新の後、新政府は京大坂の豪商を二条城に集め、「御一新(ごいっしん)のため」と300万両(約1500億円)の拠出を要請した。浅子が「新選組の借金なんてかわいいもんや」と言ったとか、言わなかったとか…。(今村義明)



 鴻池善右衛門(こうのいけ・ぜんえもん) 江戸時代の大坂を代表する豪商。山中鹿介(しかのすけ)を祖とし、摂津・鴻池村(現・兵庫県伊丹市)で酒造業を興した幸元の八男を初代とする。海運業から両替商、大名貸しで財をなし、3代目が開発した新田は鴻池新田(大阪府東大阪市)として知られる。江戸後期、融資した大名は100藩以上に上り、参勤交代で大坂を通過する際、家老を挨拶(あいさつ)に行かせる大名もいたといわれた。幕末、維新時は10代目。
茨城
古河で「幕末・明治」展 高札や宿泊日記44点26日まで 戊辰戦争の史料公開
古河市三和地区に残された戊辰(ぼしん)戦争(1868〜69年)や明治黎明(れいめい)期の史料に光を当てた「館蔵資料にみる幕末・明治」展が、同市仁連の三和資料館で開かれている。五榜(ごぼう)の掲示を知らせる高札や、大鳥圭介(1833〜1911年)率いる旧幕府軍が、日光への行軍途中で同地区に宿泊した際を記す日記などが興味を引く。会期は26日まで。

新政府と旧幕府の両軍が激戦を繰り広げた戊辰戦争は、鳥羽伏見の戦いや会津戦争、箱館戦争などが有名。現在の結城市などでも1868年4月16、17の両日、江戸を脱走した大鳥らの旧幕府軍と、宇都宮から駆け付けた新政府軍が4度の戦火を交えた(下野小山の戦い)。

同展はこれらの歴史を地元や県民に知ってもらおうと、来年の明治改元150年を記念して企画された。展示品計44点のうち、多くが初めての公開。

高札は4枚あり、いずれも現在の内閣府に当たる「太政官」の文字が目を引く。2枚は冒頭に永続的な決まり事を示す「定(さだめ)」と記され、徒党や逃散(ちょうさん)、キリスト教の禁止を示したもの。残りは一時的な決定を示す「覚(おぼえ)」と、国際法の順守や許可なく土地を離れることの禁止が示されている。

館蔵資料では、仁連新田の代名主や諸川宿の町名主が記した「当用雑手控書留(とうようざつてびかえかきとめ)日記」「戊辰年(ぼしんのとし)日記」などが並ぶ。小山の戦い直前の旧幕府軍の規模、大鳥らの宿泊の過程、軍勢の様子などが記されており、突然現れた数百人の軍勢に町が混乱する様子がうかがえる。

このほか廃藩置県により、1871年7月から4カ月間だけ存在した「古河県」を示す公文書なども展示した。

同館の白石謙次学芸員(44)は「古河市には当時の貴重な史料が多く残されている。身近にあった戊辰戦争などに触れて、歴史や地域への関心を高めてもらえたら」と話した。

開館は午前10時〜午後6時(入館は同5時半まで)。入場無料。問い合わせは(電)0280(75)1511。

(溝口正則)

県歴博発表幕末の松山・ポルトガルつなぐ時計発見
 県歴史文化博物館(愛媛県西予市)は14日、明治時代初期にポルトガル領事が松山藩知事に贈った懐中時計が見つかったと発表した。松山市の個人から今年3月に寄贈され、調査を進めていた。同館の井上淳学芸課長は「幕末に松山藩が軍艦を購入した経緯や、ポルトガル領事との深いつながりを示す貴重な史料」としている。

大分
解体新書と前野良沢を探る 宝暦年中分限帳など初公開 中津市で特別展 [大分県]
 明治の巨人・福沢諭吉が「文明開化の濫觴(らんしょう)(原点)」と評した解剖書「解体新書」を著した1人で、中津藩医前野良沢(1723~1803)。良沢の活躍を描くNHK正月時代劇「風雲児たち~蘭学革命編」(来年1月1日)が放映されるのを前に、同市は大江医家史料館で特別展「『解体新書』と前野良沢」を開催中だ。「解体新書」のドイツ語原著をはじめ、今回発見された良沢の名が記された唯一の藩士一覧表「宝暦年中分限帳」など初公開史料4点を含む23点が展示されている。来年2月12日まで。

 良沢は本道医と呼ばれる漢方医。中津3代藩主奥平昌鹿の母親の骨折を、長崎の大通詞(通訳)で蘭方医・吉雄耕牛(1724~1800)が見事に直した技術に衝撃を受ける。「宝暦年中分限帳」の記載では、藩医の3番目に位置。安定した身分が保障されているにもかかわらず、40歳を過ぎてから猛然と蘭学を学び始めた。今と違い、内科主体の漢方医と外科中心の蘭方医との間には明らかな格差があった時代。市教育委員会文化財室の曽我俊裕さんは「格下ともいえる蘭方医の高い技術力を素直に認め、自分のものにしようとした学問への探求心は良沢らしい」と話す。

 昌鹿の庇護(ひご)の元、長崎遊学も果たし、吉雄にも師事。「解体新書」を著すきっかけとなるオランダ語版の「ターヘル・アナトミア」もこのとき入手したとされる。偶然、同書を持っていた小浜藩医・杉田玄白と江戸で死体の解剖を見学したことがきっかけで、同書の正確さに驚き、翻訳を決意する。良沢は、当時、医者の主流だった漢方医に向けた解剖書を目指した。例えば「神経」という用語は全ての生理活動の元を表す「神気」と、気や血の循環経路を表す「経絡」からの合成で、「漢方の考え方に基づく用語の創造は、多くの漢方医に違和感なく理解してもらうためでは」と曽我さん。

 蘭日辞書などない時代。中津藩江戸中屋敷(東京都中央区)で始まった作業は、オランダ語が分かる良沢をしても困難を極めた。今回、展示されているフラソンワ・ハルマ著「蘭仏辞書」も良沢は駆使。訳出困難なオランダ語はフランス語に一度翻訳。それを長崎にいたフランス語にたけた知人の通詞に日本語への再翻訳を依頼する手法で一つ一つつぶしていった。

 それでも翻訳不能な箇所は膨大だったことから問題が起きる。良沢は“不完全な”「解体新書」刊行を渋ったとされる。曽我さんは「完璧主義者の良沢は同書の不完全さを誰よりも熟知し、精度を高めることを主張。出版を急ぐ玄白と対立し、著者名の中に自分の名前を入れることを拒絶したのだろう」と想像する。

 「解体新書」出版後、良沢は表舞台から姿を消す。今回展示されている良沢が著したロシア歴史書「魯西亜(ろしあ)本紀」に、曽我さんはヒントを見いだす。ロシアは18世紀後半から、樺太や千島列島(クリール諸島)への軍事的圧力を強化。江戸幕府は北方対策に追われる。ロシア対策に腐心した老中松平定信とじっこんだった4代藩主昌男を通じて、オランダ語のロシア関連書籍翻訳を指示されたのではないか。曽我さんは「弟子の大槻玄沢も幕府直属の蕃書和解御用(東京大前身の一つ)となり、ロシア関連書籍の翻訳にも当たっている。良沢の晩年は、ロシアの歴史やカムチャツカ半島の地理などに精通しており符合する」と話す。

 同展では、16日午後1時半から、中津の医学史料の研究を行う九州大名誉教授のヴォルフガング・ミヒェル氏による記念ギャラリートークもある。火曜休館。午前9時~午後5時(入館は午後4時半まで)。28日から来年1月3日まで無料開放。一般210円、大学・高校生100円、中学生以下無料。

=2017/12/16付 西日本新聞朝刊=
カレンダー
08 2025/09 10
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30
最新コメント
[12/14 白牡丹(管理人)]
[12/14 ゆーじあむ]
[11/08 白牡丹(管理人)]
[11/07 れい]
[01/21 ゆーじあむ]
[11/15 白牡丹@管理人]
[11/15 ゆーじあむ]
[05/25 長谷川誠二郎]
[07/23 白牡丹@管理人]
[07/23 伊藤哲也]
最新TB
ブログ内検索
アーカイブ
カウンター
プロフィール
HN:
白牡丹
性別:
非公開
自己紹介:
幕末、特に新選組や旧幕府関係者の歴史を追っかけています。連絡先はmariachi*dream.com(*印を@に置き換えてください)にて。
バーコード
Livedoor BlogRoll
本棚
Copyright ©  -- 白牡丹のつぶやき --  All Rights Reserved
Designed by CriCri / Material by White Board

忍者ブログ  /  [PR]