新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 一之輔、白酒、権太樓に一朝って、何気にいいメンバーじゃないですか。



 前座は柳家おじさん「子ほめ」。ごめん、爆睡して覚えてない(^^ゞ。

 春風亭一之輔「粗忽の釘」。前半爆睡してたので聴き逃してしまったが、新婚話の辺りで目が覚めて、たらいで行水の思い出話。市馬師匠は背中合わせ止まりなのだが、一之輔版は向かい合わせもあり、たらいの底が抜けて腰の周りに土星のようにたがを巻き付けたところに、たがが壊れるというハプニング付き。
 爆笑に次ぐ爆笑で、目が覚めました(^^ゞ。

 桃月庵白酒「化け物使い」。マクラに大手町落語会のパンフレットに「素直に笑えるブラックジョーク」と紹介されたことに「素直に笑えないからブラックジョークなんですよね」とツッコミ入れる白酒師匠が大好きです。そして、普通はないと思うのだけど、本所下割下水(地理的には、江川太郎左衛門のお屋敷の裏あたりだったのかしら)の隠居の人使いの荒さにクレームつける杢助が、いい(^^)。化け物が出る時の、ご隠居がぞくぞくする時のボーズがめちゃくちゃおかしい。

 権太楼「青菜」。権師、健康になられてよかった。植木屋さんがお屋敷で酒肴をふるまわれて感激し、それを真似しようと建具屋の半公と女房を巻き込んですごいことになるのだが……うほほ、権師版はことごとくおかしい。

 中入り後は「いっちょーけんめいやります」の一朝師匠。ばんざい、一朝師匠の江戸弁が気持ちよい「大工調べ」。






 イカール星人函館CM、新作来ました。

新作映像を公開 「結集!函館の観光力!」


「ハコダテは負けません」にうるっと来ました。はい、また応援〈かんこう〉に行きますので全力で迎撃〈おでむかえ〉お願いします。








 ども、白牡丹です。週末の予定が詰まっていて、ゴールデンウィークの函館旅行記、その後の日野訪問記をなかなか進められません。記憶力が加速度的に弱くなっているので、手をつけたいのですが。

北海道
五稜郭と奉行所の関係は/見学会で建築の経緯説明
 「五稜郭・箱館奉行所見学会」が4日、函館市の現地で開かれた。30人が参加し、五稜郭が建てられた経緯や、箱館奉行所の内装などの説明に聞き入った。
 箱館奉行所(加納裕之館長)の来館者から、五稜郭と奉行所を同時にガイドしてほしいと声が上がり、初開催した。はじめに元中学校教員の茂木治さんが五稜郭について説明。「もともと奉行所は元町にあったが、函館山から内部を見られたりするため、移動することになり、川の近くで水の便が良いことなどで、この場所が選ばれた。城でも要塞(ようさい)でもなく、奉行所を守るために作られた」などと話した。参加者から石垣の積み方について質問され、谷積み(落とし積み)であると紹介。このほか、奉行所を一周するように散策し、井戸跡やアカマツの由来なども解説した。
 奉行所内は沼崎孝男副館長が案内し、大広間の畳や、柱、はり、内壁の素材や工法などを説明。「全国から職人が集まり、当時の工法を再現した貴重な建物」と話した。
 この日初めて奉行所を訪れたという市内中道の主婦、三上慶子さん(72)は「子供のころから見ていたアカマツの歴史、石垣の細かい部分など、初めて知ったことが多く、とても有意義だった。大広間の畳が部屋ごとに違うのにも驚いた」と話していた。
 なお、同見学会は11、18日にも予定されているが、両日とも定員に達している。


田本研造の足跡たどる写真展
 明治初期、函館で北海道最初の写真館を創業した写真師、田本研造(1832~1912年)の撮影の足跡をたどった写真展「時代を旅する写真館」が26日まで、函館市弥生町23のギャラリー三日月で開かれている。企画したのは、田本直系の写真館「谷杉写真館」の3代目館主、谷杉アキラさん(43)。田本が道内各地を撮影した写真と、その撮影地の「今」を写した作品を2枚1組にして展示した。函館ゆかりの写真師2人が時代を超えて共演している。

 来年の田本没後100年の節目に向け、創業者への敬意を込めて企画した。

 谷杉写真館は谷杉さんの祖父、正さんが田本写真場の五稜郭店を買い取り1939(昭和14)年に創業。谷杉さんは98年に館主となり、現在は美原に店舗を移転して営業する。

 田本は当時、写真館を営みながら明治政府の依頼で道内各地の開拓の状況を撮影した。

 谷杉さんは函館の写真史を調べるうちに田本との縁を実感し、2009年から田本が当時撮影した道内各地を巡り、撮影活動を始めた。残された写真を手掛かりに撮影地を探し当て、可能な限り田本と同じアングルで撮影を試みたという。

 中には当時の形跡がなくなった場所もあり、すべてを同じアングルで撮影したわけではない。谷杉さんは「人間味あふれる温かみのある写真も残されている。本業が写真館の写真師だからきっと政府の仕事しながら遊び心を持ちながら旅先の風景や人々を写したはず」と推測し、「写真師の視点で自分も旅をした」と振り返る。

 写真展では、昨年復元された箱館奉行所と、その復元の重要な資料となった田本の写真のペアをはじめ、大沼や室蘭、釧路など25カ所の対比写真を展示。谷杉さんならではの感性や視点で撮影したオリジナル作品22点も併せて出品し「時代を超えたフォトセッション。ロマンを体感してほしい」と語る。

 作品のほかにも写真史にかかわる資料も展示し、谷杉さんは「函館には貴重な写真資料が豊富に残されている。来年のメモリアルに向け、写真のまちを発信していきたい」と熱い気持ちを語った。

 観覧無料。午前11時~午後5時。木曜定休。問い合わせは同ギャラリー電話080-6073-4455。

 ◆田本研造 田本の出身は神川村(現在の三重県熊野市)。1959(安政6年)に箱館に移住し、ロシア人医師のゼレンスキーから写真技術を学び、66(慶応2)年ごろから写真師として活動。69(明治2)年に道内初の写真館を創設。当時の箱館奉行所や旧幕府軍の榎本武揚や土方歳三の写真を撮影した人物として知られ、北海道開拓事業の記録写真を残した。


新島襄の志 心に刻もう…12~14日に「同志社フェア
 全国の卒業生とのきずなを深めようと、「同志社フェアin函館」(同志社大主催)が6月12~14日、ロワジールホテル函館(函館市若松町)などで開かれる。同大創設の原点である「新島襄脱国の地」に、同志社に関連する人々が集まり、新島の志を改めて心に刻む。同大は卒業生はもちろん、函館市民にも広く参加を呼び掛けている。

 フェアは学外向けイベントとして初めて企画、全国の中でも深いゆかりがある函館が開催地に選ばれた。12日は午後1時半から同ホテルで「全国同志社卒業生との集い」が開かれる。函館水産高の生徒9人が、新島が脱国する日の夜を再現した寸劇を披露するほか、ラグビー元日本代表で同大OBの大八木淳史さん、同大神学部の本井康博教授がそれぞれ講演。午後5時半からは交流交歓会(会費3000円)を予定している。

 13日は午前10時15分から、JR函館駅を発着地に新島や同志社と関係が深い函館の各スポットをバスで巡る「新島足跡ツアー~ゆかりの地を訪ねて」(参加費8000円)が行われる。海外渡航の地碑やハリストス正教会、山ノ上大神宮などを訪ね、本井教授が解説する。

 脱国記念日の14日は午前11時から、海外渡航の地碑(函館市大町)前で碑前祭を開催。このほか、12日午前10時から函館ラ・サール学園で、大八木さんによる地元中学・高校生を対象にしたラグビー教室も。

 同大校友・父母課の平野章生課長は「市民の方々にイベントに参加してもらい、同志社と函館との深いつながりを知ってもらうきっかけとなれば」と話している。

 集い、交歓会、ツアーはいずれも6月2日までに、同課電話075・251・3009へ申し込みが必要。


東京
もしドラゆかりの日野市、ドラッカー理論で改革
 アニメで日野ふれあい橋が出ていたので、舞台は日野かと思っていました。
 近代経営論の父と言われたドラッカーの経営論を活用した組織改革を実践するため、東京都日野市でプロジェクトチーム(PT)が発足した。

 同市は、小説「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」(もしドラ)の舞台のモデルになった。興味を持った職員が、前例主義の役所を変えたいと市長宛ての「目安箱」にアイデアを投函(とうかん)したことがきっかけ。PTは9月までに具体案を市長に提出する。

 「一連の行財政改革で、より少ない人員で生産性の高い組織が望まれる中、役所の中では『前例』の考え方が根強く、何か新しいことをしようという雰囲気に乏しいように見えた」

 アイデアを出し、PTのリーダーになった鈴木宏征さん(37)は、こう話した。

 有志を募り、20~50歳代の職員5人で3月に発足したPT。通常の仕事をこなしながら、独自の予算がないなどの制約はあるが、半年で〈1〉働きがいのある組織作り〈2〉名産品作りなどの地域活性化策――などを練り上げ、実現に向けた工程を作り上げる。

 ドラッカーの理論をかみ砕き、どのように組織内で実践し、成果が出るかをまとめた冊子の作成や、「もしドラ」に関連した名産品や観光策を検討しているという。

 鈴木さんは「市役所は市民という顧客を持ち、組織として成果を上げるという点で理論から学ぶことは多い。斬新な観光振興策や職員の士気を上げる方法を打ち出し、役所に漂う閉塞感を打破したい」と意気込む。

 メンバーの一人、市立新選組のふるさと歴史館の松下尚さん(33)はかつて産業振興課で観光を担当した経験から「新選組に次ぐ新たな観光資源として市をPRする格好の機会」と話す。市立病院(多摩平)など、アニメに登場する風景のモデルとなった場所を「聖地巡り」と称してファンらに回ってもらうツアーができないか考えているという。

 市の荻原弘次企画部長は「若い職員の主体的な取り組みはうれしいこと。大胆な発想で市がよくなるきっかけになってほしい」と期待を寄せている。

 ◆もしドラ=高校野球部の女子マネジャーが「マネジメント」の理論を応用し、弱小野球部員のやる気を引き出し、夏の甲子園出場を果たすまでの物語。岩崎夏海さんの著書で、昨年ベストセラーになった。


神奈川
甲冑展:勇壮で繊細な造形美41点 小田原城できょうから /神奈川
◇大久保家伝来の遺品も初公開
 小田原市城内の「小田原城天守閣」で4日から、戦国時代から近世にかけての鎧(よろい)や兜(かぶと)など41点をそろえた「小田原城甲冑(かっちゅう)展」が始まる。幕末まで小田原城主だった大久保家伝来の「金小札(きんこざね)紫糸威(おどし)二枚胴童(わらべ)具足」が初めて里帰りするなど、初公開の遺品も多く、天守閣の諏訪間順学芸員は「勇壮で繊細な美を目の当たりにして、戦国武将や大名家に思いをはせてもらえれば」と話している。【澤晴夫】

 甲冑は武士が戦いで身を守るための防具。「甲」は鎧を「冑」は兜のことで、「具足」は全て備わっていることを指す。機能美や、自らの勇猛さを敵味方に誇示するためデザインに工夫を凝らした造形美も兼ね備えている。金属、皮革、布、紙、糸などの素材を漆芸、蒔絵(まきえ)、象眼、彫金、糸打といった技術を駆使した、日本の伝統技術の粋を集めた美術工芸品とも言える。

 個人所有され、初めて里帰りした大久保家の「童具足」は鎧の着初(ぞ)めか元服の際に着用した少年用の小ぶりな仕立て。着用は大名家か富裕な武家に限られ、何代にもわたって使い回されるため、遺品の数も少ない貴重なものだという。

 戦国から江戸時代にかけての武将・上杉景勝が着用した「伊予札(ざね)萌黄(もえぎ)糸綴(とじ)両引合(ひきあわせ)胴具足」は安土桃山時代の製作。まさに戦国時代まっただ中に作られたもので、興味深い遺品も多く展示されている。

 同展は7月18日まで。大人400円、小中学生150円。


京都
二次元もアイドルもなんでも来いっ! 新選組の聖地・壬生寺の現実
[
連載]そうだソルティー京都、行こう

 京都は、世界屈指の観光地。そして女の憧れの地である。美味いもん食って、寺社を見て、お洒落して、勉強する。何でもかんでも「京都でする」のが女の憧れなのだ。女性誌はこぞって京都特集を組み、ガイド本や京都観光エッセイがボロボロ出版されている。確かに京都には歴史がある。名産品がある。美味がある......そして誰も取り上げないけれど「しょっぱい京都」もある。

 しかし京都のほんとうの魅力は、こういうソルティーなところにあるのだ。上品ぶっている女性誌では取り上げないほんとうの京都の姿を、しっかり焼き付けて欲しい。そうだソルティー京都、行こう。

【第5回 壬生寺】

 滅びゆくものを見るのは、切ない。もうすでに決定してしまい、動かすことのできない過去の歴史をのぞいてみると、そこには、じれったいほどに切ない事件や人々がたくさん登場する。

 その中でも幕末の代表格・新選組は、多くの人たちを魅了してやまない切なさがある。時代の流れを読み切ることができず、滅びゆく過去の遺産を守るために命を賭けて戦い、散っていった男たちだからだ。

 四条大宮から南西に下った辺りの一帯は、新選組ファン垂ぜんの観光地である。芹沢鴨がつまづいた文机が現存する八木家、山南敬助のお墓、島原の角屋もてなしの文化美術館など、新選組をしのばせる数々の思い出が残っている。その中に、ひときわ異彩を放っているのが、兵法調練場だった壬生寺である。

 そもそも壬生の辺り一帯がすでに修学旅行ノリの観光地化していて、もうしょっぱい。そこらで寂しい気持ちになりそうな新選組グッズがたくさん買える。町はあさぎ色でいっぱいだ。そしてその真ん中にドーンと構えているのが、壬生寺なのだ。ちなみにここも平安神宮と同じように、通にはよく知られたソルティー観光地である。

 ここの醍醐味は、阿弥陀堂(土産物屋だとばっかり思ってました)から100円を投入して入る壬生塚だ。

 そこに足を踏み入れる前に、心の準備をしようと、売店で新選組グッズを見ていた。そこに「新選組英名録」というのがあった。へーえ、えーと、誰だっけな、『壬生義士伝』(浅田次郎/文藝春秋)の主人公は......木下藤吉郎じゃなくて......。

 すると売店のおばさんが出てきて、

「誰を探しているのか当てましょうか、吉村貫一郎でしょう?」

 ああ、それそれ、そんな名前だった。ありがとうおばさん、と思っていると、

「みなさん、それを見て『本当に居たんだ!』って言うんですよ」

 と言う。まあ彼が実在したというのは、新選組フェチの姉から聞いて知っていたのだけれど、そうですか、やっぱりみんな気になるのね。

 さて意を決して壬生塚に足を踏み入れる。ここは簡単に説明すると、ちっちゃい庭だ。まずはチャリンと投入口に100円玉を入れると聴ける「あゝ新撰組」がある。

 ブンチャっブンチャっと元気よく音楽が始まり、三橋美智也が歌い出す。ここで私たちは、ひとつ気がつかなければいけないことがある。「ここは、新選組なら何でもアリのフレキシブルな場所なんだ」ということだ。

 もちろん、近藤勇の銅像とか隊士たちの墓もある。だけどそれらは、なんの因果があってここにあるのかよく分かんない池に浮かぶ竜神像とかにパワーを奪われ、ひっそりとたたずんでる感がある。

......っていうか、案内図にしか説明がないので、正直、どれが隊士のお墓で、どれが近藤勇の遺髪塔なのかよく分からなくて、案内図と現地とを何度も往復してしまいました。説明がイマイチ不十分なのも、ソルティー観光地の必須条件でしたね。

 そしてこの寺のフレキシブルなところは、一つのテーブルに集約されている。そこには、どっかのペンションにあるような「みんなのノート」が置いてある。数年前に来たときは、大河ファンと新選組を題材とした少女マンガ『風光る』(渡辺多恵子/小学館)のファンの書き込みで満載だった。今回はどうか。『銀魂』(空知英秋/集英社)とゲーム『薄桜鬼』でいっぱいだ。この寺は、新選組にまつわる作品を好きになったら訪れたい聖地のようになっているのである。

 そして今回目を見張ったのは、机の上に置いてあった一枚のシート。なんと、「新選組リアンが成人式を行いました」というお知らせなのだ。もーホント、寛大な心に降参である。

 しかし何より今回しょっぱかったのは、次に語るエピソード。地下の資料室を含め、ひと通り見終わってまた売店に戻ってきたときのことだ。隊士の名前入りストラップを見ていると、売店のおばさんが、「土方や沖田は昔からだけど、最近はなぜか原田左之助がよく売れるようになったのよ」と言う。そりゃ『薄桜鬼』ファンが来てるからだよ。簡単に現象を説明して、面白いですね、と返事をすると、

「さっきね、そこにある新選組英名録を見て、一生懸命誰かを探している女性がいたの。探しているのは吉村貫一郎でしょう?って言ったら、そうですって」

 うん、知ってるよそれ、私だし......たぶん......。

 新選組ならなんでもウエルカムという豪快な姿勢の壬生寺は、ほんの30分前にやりとりした相手の顔をさっぱり忘れ去るという、豪快な売店のおばさんが接客してくれるのであった。とりあえず、新選組ファンなら必見のしょっぱい観光地ってことで。
(和久井香菜子)


大阪
新選組血風録展 司馬記念館
 司馬遼太郎記念館(東大阪市下小阪3丁目)は31日から企画展「『新選組血風録』展」=写真=を開く。小説「新選組血風録」の中で隊士が活動した場所を記した幕末京都の大型地図や司馬さんのエッセーの自筆原稿など約50点を展示する。
 企画展では、司馬さんが「新選組血風録」を執筆した際に参考にした1864(元治元)年の京都市街地図や今回新たに作成した大型地図(縦2・3メートル、横8メートル)を初公開。このほか、司馬さんが新選組について考察したエッセーの自筆原稿も初めて公開する。上村洋行館長は「幕末の変革期に生きた組織人の姿を思い浮かべ、これから我々がどう生きるべきか考える参考になれば」と話している。
 10月30日まで。入館料は大人500円、中高生300円、小学生200円。特別資料整理期間(9月1~10日)と月曜(祝日の場合は翌日)休館。7月30日には落語家桂春蝶(しゅんちょう)さんと講談師旭堂南青さんが「新選組血風録」に着想を得た落語と講談を初披露する。申し込みは同館(06・6726・3860)へ。


岡山
新選組と高梁学ぼう 市青経協が活動へ
 高梁市青年経済協議会は本年度、備中松山藩出身などゆかりの新選組隊士の顕彰活動に取り組む。高梁は全国でもトップクラスの数の隊士を生んだとされ、埋もれた郷土の歴史を掘り起こしてイベントを開くなど、まちづくりにつなげたいとしている。

 新選組ファンらでつくる岡山新選組準備会によると、備中松山藩関連の隊士は誰もが知る著名人こそいないが16人。新選組が京都で活動していた時期の隊士は、谷三兄弟(三十郎、万太郎、周平)と竹内元太郎。周平は一時、局長近藤勇の養子になった。

 江戸幕府最後の老中首座を務めた藩主板倉勝静(かつきよ)が戊辰戦争で旧幕府軍とともに行動したため、江戸詰めの藩士が仙台などで入隊。乙部剛之進は新政府軍の函館攻撃で戦死し、墓が頼久寺(頼久寺町)に残る。

 市青経協はこうした高梁と新選組のつながりを学ぶ初の勉強会を27日、会員26人が出席して高梁商工会議所(南町)で開いた。

 備中足守藩出身の隊士、安富才輔の縁戚に当たる準備会の安富誠代表幹事が新選組の魅力を話し、沖野浩一副代表幹事が備中松山藩関係の隊士の生涯について説明。隊士姿で登場した本多宏之事務局幹事は、全国各地で行われる新選組関係のイベントや隊士の慰霊祭などを紹介した。

 市青経協の川上龍太郎会長は「高梁と新選組の関係の深さを認識できた。市民に広く知ってもらい、まちづくりに生かすことを考えていきたい」と話す。今後、準備会とも相談しながら、具体的な取り組みについて検討する。









 早い梅雨入り、本格的な雨が降る週末となりました。

北海道
箱館五稜郭祭:幕末しのび「維新行列」--函館 /北海道
 戊辰(ぼしん)戦争(1868~69年)最後の地、函館市で22日、幕末をしのぶ箱館五稜郭祭のメーンイベント「維新行列」が行われた。

 ペリー提督や、五稜郭で明治政府軍と戦った榎本武揚ら歴史上の人物が、当時の衣装で勢ぞろい。軍艦・開陽丸を先頭に約500人が「蝦夷(えぞ)共和国軍」や「五稜郭新政府征討軍」など各部隊に分かれて市内を練り歩いた。

 白兵戦の戦闘シーンも再現され、大砲の号砲を合図に両軍の兵士が本番さながらの殺陣を披露。迫力あるパフォーマンスに沿道から大きな拍手が沸いた。【近藤卓資】


箱館五稜郭祭 迫力の維新行列
 第42回箱館五稜郭祭(同協賛会主催)は最終日の22日、音楽パレードやメーンイベントの「維新行列」が行われた。函館市本町の行啓通では、榎本武揚軍と明治新政府軍が入り乱れての白兵戦を再現。沿道に詰め掛けた見物客は迫力のある戦闘シーンに見入っていた。
 午後1時に、地元の中学・高校などのブラスバンドチームによる音楽パレードが千代台公園を出発。陣羽織や軍服に身を包んだ両軍兵士約500人による維新行列が、中島町廉売通から電車通に沿って歩を進め、榎本軍の開陽丸などの模型には工藤寿樹函館市長らが乗り込み、沿道の市民らに手を振った。
 行啓通に到着した両軍は、大砲のごう音を響かせたのを合図に白兵戦を開始。刀を振りかざしながら繰り広げられる演技は迫力満点。新選組副長の土方歳三が最期を迎えたシーンでは、ひときわ大きな拍手が起こっていた。
 その後、五稜郭公園に移動し、榎本軍が降伏し、五稜郭を官軍に引き渡す模様を再現する「開城セレモニー」を実施。榎本武揚が黒田清隆に「海律全書」を渡すシーンに続き、祝砲が打ち鳴らされた。最後に歌謡ショーやもちまきが行われ、2日間の日程を終えて閉幕した。


福岡
野村望東尼 波乱の生涯、福岡出身の女性が伝記出版
 幕末の志士に慕われた福岡藩の女流歌人、野村望東尼の伝記(A5判、372ページ)を福岡市出身の主婦、谷川佳枝子さん(55)(東京都目黒区)が出版した。流刑に遭うなど波乱に富んだ望東尼の人生を約130首の和歌や日記などを引用し、生き生きと描いている。

 「面白きこともなき世におもしろく すみなすものは心なりけり」

 望東尼(1806~1867年)は福岡藩士の三女として生まれた。和歌の才に恵まれ、病床にあった長州藩の高杉晋作が詠んだ上の句に「面白く生きていくのは、あなたの気持ち次第です」と下の句を続けたことでも知られる。
 夫との死別後、幕末の大坂、京都を訪れて勤王の志に目覚めた。福岡に戻ってからも京都の商人から朝廷や幕府の情報を入手。福岡藩の平野国臣、月形洗蔵らに伝えるなどして勤王活動を支援した。勤王派に対する弾圧を受け、59歳の時、玄界灘に浮かぶ姫島に流罪になったこともある。
 谷川さんは九州大文学部時代、望東尼が暮らした平尾山荘(福岡市中央区)近くに転居したことが縁で研究を始めた。30年前に望東尼の歌集「向陵集
こうりょうしゅう
」を翻刻して出版。結婚して上京後、専門家の元で古文書の読み方を学んだ。
 その後も子育ての傍ら、手紙や日記の解読、子孫との交流などを続けてきた。2年半前に旧知の編集者に出版を打診され、成果をまとめることにした。谷川さんは「望東尼は歌とともに生きた。4人の子供を亡くしており、志士たちを子供のように思っていたのではないか」と語る。
 福岡市のホテルで25日、出版記念祝賀会が開かれた。出席した川添昭二・九州大名誉教授は「和歌という文学と政治参加への歩みを総合的にとらえた望東尼研究の決定版と言える」と太鼓判を押した。税込み3360円。問い合わせは花乱社(092・781・7550)へ。



歴史
奔放な龍馬、環境が生む…坂本家子孫が研究発表
 幕末の志士・坂本龍馬の生き様を現代に生かそうと活動する「現代龍馬学会」の研究発表会が28日、高知市浦戸の国民宿舎桂浜荘で開かれた。
 8人の研究者らが「自由・平等・平和」をテーマに、独自の切り口で研究した成果を披露し、龍馬ファンら約80人が聞き入った。
 坂本家子孫の坂本登さんは、本家の豪商・才谷屋や豊かな生活を送る家族の中で「奔放かつ厳格に育てられた」と解説。自由の中にも礼節を重んじる気質が育まれたとして、「龍馬の生まれた土地柄や環境が、自由や平等、平和の精神を根付かせた」と述べた。

 讃岐龍馬会塩飽
しわく
社中の野藤等・事務局長は、丸亀城を訪れた龍馬が「素晴らしい城だ」と話したことを土佐勤王党員が書き残していると紹介。「香川にもゆかりの地は多い。龍馬にまつわる歴史を掘り起こしていきたい」と意欲を語った。
 京都国立博物館考古室長の宮川禎一さんは、同博物館が所蔵する重文の龍馬の手紙について、「巻紙の表裏に自由に思いつくまま書いた」との解釈を示した。
 父親と参加した広島市安佐南区の高校生、森本凱己
よしき
さん(16)は「今まで知らなかった話ばかり。自由奔放な龍馬の姿が思い浮かんだ」と喜んでいた。

 同学会は2009年4月に設立。毎年1回、発表会を開き、研究成果を紀要にまとめている。


徳川慶喜の「気迫」記す史料発見 茶碗5杯の酒あおり親王を一喝… 
 茶碗(ちゃわん)5杯の酒をあおって宮家に乗り込み、茶を出されかけると「自分で買って飲む」とぴしゃり-。幕末の動乱期、将軍になる前の徳川慶喜(よしのぶ)の気迫あふれる駆け引きの様子を記した記録が高知県の歴史家らの調査で見つかった。

 1864年に京都で、朝廷や幕府などが出席した会談の様子などを記述。同じ内容の記録は他にもあるが、史料を調査した青山文庫(高知県佐川町)の松岡司名誉館長は「幕末維新史の一場面が劇画のように記され面白い。理想肌で一本気な政治家、慶喜の姿が垣間見える」と評価している。

 土佐藩士、樋口真吉の雑記の中の一節で、樋口が親交のあった志士、中岡慎太郎の書状から写したとみられる。

 攘夷論をめぐり、天皇側近の朝彦親王が前日の会談での発言を撤回していることを知った26歳の慶喜が「茶椀ニテ五杯ホド引カケ直ニ早馬ニテ」親王邸に刀を持って乗り込んだと記述。あいさつ抜きで「御一命ヲ頂戴仕私モ身ノ覚悟」と脅しながら、あやふやな政治姿勢を追及する様子が記されている。

 将軍の補佐役だった慶喜は当時、幕府の立て直しのため、外交や国の在り方をめぐり朝廷や有力諸藩などとの折衝に奔走していた。茶を出させようとした親王を「今日ハ茶ヲ呑ニハ参ラズ」とはねつけ、「私ハ十万石頂戴仕テ居マスカラ茶ハドウカコウカ買テ呑候」と一喝したとの一文もある。

 慶喜の気迫にうろたえた親王が顔色を変え、雨のように汗を流したとも記していた。

徳川慶喜の様子を記した記録。「今日ハ茶ヲ呑ニハ参ラズ」と朝彦親王を一喝したと記されている


コラム
(115)東大教授・山内昌之 山県有朋(上) 奇兵隊と帝国陸軍の設計者
 菅直人首相の不信任や倒閣を目指す動きがあわただしくなってきた。それでも主要国首脳会議(G8サミット)に2回も出席できるのは、短命の政権が相次いだ日本政治の基準でいえば幸運というほかない。菅氏は政治技術と粘り腰に関する限り、日本の政治家の一断面を代表しているかもしれない。

 しかし、氏が今でも折に触れて政権を奇兵隊になぞらえるのは感心しない。というのは、首相の歴史の見方が薩長中心の順逆史観に近く、奇兵隊とその出身者が長岡はもとより、会津、福島、仙台などで明治以降ずっと評判が悪かった事実を知らない様子だからである。

東北人からは怨嗟の的

 長岡の河井継之助(つぐのすけ)と対決した山県有朋や時山直八(ときやま・なおはち)であれば、戦を交え町や城を占領されて遺恨が残ったにしても、勝敗は兵家の常という面もある。しかし、いまの福島県から宮城県の各地で放埓(ほうらつ)と無軌道の限りを尽くした奇兵隊出身の参謀・世良修蔵(せら・しゅうぞう)は、温和な東北人からも怨嗟(えんさ)の的となり、いまでも東北の維新史を知る人びとには忘れられない非道の人物なのだ。

 その意味でも、東日本大震災の被害に遭った福島や宮城の人びとを奇兵隊首相が慰問激励するのは、歴史のめぐり合わせとして興味深いことだ。おそらく市民主義者の菅氏は、農民が40%を占めた奇兵隊の「民衆性」を現代の市民性と同じように考えているのだろう。しかし、奇兵隊の実態は同時代の観察者がよく伝えている通りだ。

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 「奇兵隊などというのは、どこにも行き場のない、荒くれ者の集まりだった。仕方がないから、奇兵隊にでも入るか、という感じじゃった。やれ、あの家の鼻つまみ者が奇兵隊に入ったとか、町の者は噂した」(一坂太郎『長州奇兵隊』)

成り上がりの悲惨な末路

 多子若齢化の中東や南アジアで、就職できない若者がテロリストや傭兵(ようへい)になる現実と共通する雇用や人口増の問題を考えずに、奇兵隊をイメージだけで美化しては困るのだ。

 戊辰戦争終結後に長州に帰国した奇兵隊が、「脱隊騒動」で苛酷に切り捨てられたのは、大楽(だいらく)源太郎の項で述べた通りである。奇兵隊賛美は自由であるが、世良修蔵のような男が宮城や福島を統(す)べるディクタトル(独裁官)になって舞い上がった結果、敗者や弱者に対する武士の情や惻隠(そくいん)の情といった思いやりを欠いてしまった。奇兵隊員成り上がりの悲惨な末路をよくよく念頭に浮かべねばならない。

国民皆兵や徴兵令の元に

 奇兵隊の歴史的意義は、菅首相の理解とは違う点にこそある。身分を無視し武士50%、農民40%だった官民一体の軍隊は、疑似国民軍として、やがて明治新政府の国民皆兵や徴兵令の考えに生かされたことである。すなわち、明治の帝国陸軍は奇兵隊の考えを延長拡大したものにほかならない。そして、その設計者こそ奇兵隊軍監だった山県有朋なのである。奇兵隊を美化する場合には、それが明治の陸軍の系譜につながることをきちんと弁(わきま)えたうえでなくてはならない。

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 山県は4国連合艦隊を迎え撃った馬関戦争で大敗北を喫した後、欧米の優秀な火器に圧倒された教訓に学び、藩軍制の西欧化を主張し国家的な危機を軍事的に乗り切ろうとした。井上寿一氏の表現を借りるなら、山県は「軍事的なリアリスト」になったのであり、彼にとって「攘夷論はイデオロギーではなかった」のである(『山県有朋と明治国家』)。奇兵隊は軍事リアリズムと武器の西欧化を体現する山県の実験素材でもあったのである。(やまうち まさゆき)

                   ◇

【プロフィル】山県有朋

 やまがた・ありとも 天保9(1838)年、長州・萩の下級武士の家に生まれる。松下村塾に学び、尊皇攘夷運動に参加。奇兵隊軍監となる。元治元(1864)年、馬関戦争での長州藩敗北で開国論に転換。明治元(1868)年の戊辰戦争では長岡・会津方面を転戦。維新後は陸軍の整備や徴兵制確立に尽力し、6年に陸軍卿、11年に参謀本部長。16年には内務卿となって政界にも力を振るい、22年、31年の2度組閣。37~38年の日露戦争では参謀総長。元老中の元老として、軍・政界に築いた山県閥(長州閥)を背景に晩年まで絶大な発言力を発揮した。大正11(1922)年、死去。

エンターテインメント
安道名津も発売決定! 今の日本に響くドラマ『JIN -仁-』の人生訓、名言集
只今、大人気放送中のドラマ、日曜劇場『JIN -仁- 完結編』(TBS系)(毎週日曜日21時放送)ですが、今、日本が動乱していることもあり、ドラマの舞台の江戸幕末7 件とリンクしていて、そのこともあり、たくさんの人々の心に残るドラマになっているのだと思います。

決まっているとも思える現実(史実)は、はたして変えられるのか? という難しいテーマに、タイムスリップというSF要素も加わって、見る者を飽きさせません。 

平井堅さんが歌う主題歌『いとしき日々よ』も、毎回、絶妙のタイミングで流れるため、自然に涙が流れます。

そして、ドラマの登場人物が発するセリフにもハッとするものが多く、毎回、人生訓、名言を残しています。

例えば、少年、喜一(伊澤柾樹さん)のセリフ。

「生きていれば笑える日がきっと来る。神様は乗り越えられる試練しか与えない」
今は困難に思えても、人生は時間が解決してくれるということ。だから、ほんの少し勇気を持とうというメッセージです。

江戸時代にタイムスリップした主人公の医者、南方仁(大沢たかおさん)のセリフ。

「神の許した行為、神の許さなかった行為。その違いがどこにあるのか俺にはわからない。だけどひとつだけ確かなことがある。この手を止めてしまっては何も変わらないということだ」
は、佐久間象山(市川正親さん)のセリフに繋がるわけです。

「もしお前のやったことが意に沿わぬことであったら、神は容赦なくお前のやったことを取り消す。神はそれほど甘くない。ならば、救え~! その心のままに救え~!」
結果を気にしないで、今、自分ができる最善のこと、できる限りのことを精一杯しようというメッセージ。結果は神様、天が決めてくれる。

特に私が心打たれたのは、名演が光る坂本龍馬(内野聖陽さん)のセリフで
す。

「死んでいった者らに報いる方法はひとつしかないち。そう思わんかえ。もっぺん生まれて来たい、そう思える国にすることじゃき」
「薩摩じゃ、長州じゃ言っとる時でなか! 日本は、ひとつにならんといかんのじゃ!」

今の日本に必要なメッセージと受け取りました。今こそ、日本はひとつに、そして、良い国にしていかなくては! と感じます。

ドラマの名言は、毎回、誰かが発していますので、注意深くチェックしてみてください。
 


村上もとか : 咲や野風のモデルはウランちゃん? 手塚治虫文化賞贈呈式で「JIN」語る
 第15回手塚治虫文化賞(朝日新聞社主催)の贈呈式が27日、東京都中央区の浜離宮朝日ホールであり、「JIN-仁-」でマンガ大賞を受賞した村上もとかさんが登壇。「僕のマンガ家人生の重要なところに手塚先生の影響が大変大きくあります。手塚先生によってマンガというものが、字が読めない子供でも夢中になれるような、読者にとって最も身近な表現手段がマンガであるということを教えてもらいました」とあいさつした。

 「JIN」は、大学病院の脳外科医が幕末にタイムスリップしてしまうSF医療ドラマ。満足な医療器具や薬もない状態で人々の命を救う中、坂本龍馬や勝海舟ら幕末の英雄と知り合い、激動する歴史に巻き込まれる……というストーリー。00年4月~10年11月に「スーパージャンプ」(集英社)に連載され、09年10月からテレビドラマ化されてヒットし、現在は続編が放送中。同賞では「生涯を通じて生命を描いた手塚治虫先生の賞にふさわしい」とメッセージ性が評価された。同じくマンガ大賞には松本大洋さんと永福一成さん(原作)による「竹光侍」も選ばれた。マンガ大賞2作の受賞は、09年以来2度目。

 贈呈式後のトークイベントで村上さんは「ハレンチ学園」などの代表作があるマンガ家の永井豪さんと対談、「JIN-仁-」に出てくる“咲”や“野風”といった女性たちのモデルについて永井さんから聞かれると「僕の女性像の根本は手塚先生の描く女性たち」と語り、小学校6年生の時に「鉄腕アトム」の“ウランちゃん”を描くことにハマったというエピソードを披露、「ウランちゃんのパンツをちょっと(絵に入れて)見せるとみんな喜んでくれて(笑い)」と笑った。そして「手塚先生のお描きになったチラリズムはすばらしい」と話し「(手塚先生は)誰にも描けないエロチズムを描かれた」とトークは盛り上がった。

 贈呈式には村上さん、松本さん、永福さんのほか短編賞「C級さらりーまん講座」「パパはなんだかわからない」などサラリーマンを描いた一連の作品で受賞した山科けいすけさんが出席。新生賞に選ばれた「鋼の錬金術師」の荒川弘さんは欠席だったがアニメで主役のエドワードの声を務めた声優の朴ロ美さんが出席した。(毎日新聞デジタル)


ドラマ「JIN-仁-」登場の“幕末の味”を再現!安道名津や揚げだし豆腐も
本日夜9時から第7話が放送され、佳境を迎えているTBS開局60周年記念 日曜劇場「JIN-仁-」(TBS系日曜よる9時)。その「JIN-仁-」に登場する“幕末の味”を楽しめるタイアップ商品が、5月24日から全国のセブン・イレブンで発売中だ。早くも話題を集めているラインアップを紹介しよう。
■発売3日で60万食を売り上げた“仁先生考案”「安道名津」(120円)
第1話から第2話にかけて“かっけの特効薬”というキーアイテムとして登場した「安道名津」は、劇中に登場するレシピを忠実に再現し、玄米(米粉)や豆乳、黒ごまを使用。甘さ控えめなあんを1個1個手絞りで盛り付け、劇中さながらの手作り感を演出しているのもファンの心をくすぐる。
■味付けでも“幕末”を再現!「橘家の揚げだし豆腐」(230円)
主人公・南方仁(大沢たかお)の“好物”として第1作から登場している「橘家の揚げだし豆腐」は、薄衣で揚げたなめらかな絹豆腐に、だしとかえしの製法で風味よく仕上げたたれをかけた一品。“おそば屋さんのつゆ”をイメージしたかつお風味のやさしい味付けで、ドラマの時代背景である“幕末”の味を再現しているほか、豆腐のカットサイズも女性が食べやすい大きさに工夫されている。
■焼き魚や煮物など“橘家の味”が楽しめる「橘家のお弁当」(450円)
劇中でも度々登場する“橘家の食事”を再現した「橘家のお弁当」は、揚げだし豆腐や鶏つくね串に加え、脂の乗った焼さば、ヤマサ醤油を使った煮物など、幕末を感じさせるおかずが味わえる。ドラマのファンに中高年の女性が多いことから、ご飯の量を150g(お茶碗1杯分)にし、カロリーも561kcalと控えめに設定されているのもポイントだ。
発売3日で60万個の売り上げを記録した「安道名津」のほか、27日からは「橘家のお弁当」や「橘家の揚げだし豆腐」も登場している「JIN-仁-」とセブン-イレブンのタイアップ商品。ますます目が離せない展開のドラマとリンクした幕末の味をあなたも味わってみて。【東京ウォーカー】

 「安道名津」と「橘家のお弁当」はすでに食べました。揚げ出し豆腐はお弁当に入ってましたが、単品でも食べてみようかな。






 昨年暮れの読売ホール「文七元結」以来の談春師。
 
 コレド室町内の日本橋三井ホールで落語を公演するのは、こけら落としの志の輔師、昇太師に次いで3番目だそうだ。ホールの使用料が高いらしく(その割に、客席前半分の椅子はパイプ椅子みたいで座り心地悪そう、後ろ半分は組み立て式でいくらか座席部分が広い)、「落語で5000円というのは高い」と談春師は感じたそうな。

 そのため、演目を、かつて近くにあった料亭を舞台にした「百川」にして、その噺に出てくる四神剣と四神旗を小舟町から借り受けて舞台に展示したのだとか。

 折しも、3.11以降の祭礼自粛モードで5月の祭礼を自粛していた町会。普通であれば貸し出さない神様を、快く貸し出し、飾り付けもしてくれたそうだ。



 神様の前で落語をするということは奉納落語だからと、談春師は精進潔斎したそうだ。そのせいか、顔かたちがすっきりされたようだ。

1.「百川」
 田舎から高級料亭百川に奉公に来たばかりの百兵衛さんのなまった言葉使いが誤解に誤解を呼ぶというコメディ。

 河岸の若い衆ときたら、いくつかの町内で一年ごとに回り持ちで預かる四神剣と四神旗を質に入れて飲み代を都合していた。質に流してしまい、祭りの時期も近づいてさあどうしようと相談中。そこに現れた百兵衛さんの「しゅじんけぇのかけえにん」を「四神剣の掛け合い人(隣町が頼んだ四神剣の調停者)」と誤解して、何とか丸め込もうと画策する……という噺。

 談春師は、百兵衛さんをとても楽しげに演じた……地はぜったい河岸の若い衆だと思う(中でも源ちゃんあたり)。ほかの人の録音では何がどうおもしろいのかわからなかったが、談春師でようやくおもしろみがわかった。江戸落語はどちらかといえば田舎ものを笑いのネタにする噺が多いのだけど、この噺は田舎ものが江戸前の男たちを振り回すのね。

2. 「紺屋高尾」

 談春師のCD「20年目の収穫祭」が落語にのめり込むきっかけのひとつだったので、生で「紺屋高尾」が聴けるのは嬉しいったらない。

 久蔵が吉原の花魁道中で高尾に一目惚れしたところを説明する場面がカットされて、久ちゃんがなんで3年も働きづめに働いたのかというところは今いち説得力が弱くなってしまったかも。でも親方と久ちゃん、親方と女房の会話はますますはっちゃけてる。

 そして、久ちゃんと高尾の後朝の場面がじっくり。それはよかったのだけど、高尾の描き方はちょい演技過剰だったかも。それでも、周りからはすすり泣きの声が。そして、私の目からも汗が(汗)。

 はっちゃける場面ではっちゃける、やんちゃな談春師が見られてよかった。





 飛び込み仕事に四苦八苦して、国立劇場に着いたのは中入りが終わる直前。

 聴き逃した前半の番組。
「浮世床」三遊亭司
「一分茶番」隅田川馬石
「禁酒番屋」柳家権太楼


「三方一両損」入船亭扇辰
 江戸っ子の見本が出てくる噺なだけによく知った噺だけど、ライブでは志の輔さん版を聴いたことがあるだけなんだよな。
 扇辰さんは、いつもの落語研究会だと楽屋は緊張感が漂うのだけど、今日の出演者は全部落語協会メンバーなんでゆるゆるだとか、お弁当がなかなかなのでビールがついたら楽屋で宴会が始まってもおかしくないとか、権師やさん喬師の真似とか、渋い芸風の割にマクラで笑わせてくれた。
 そうそう、明日の「3K辰文舎」ライブは「好評発売中」だそうな(当日券あります、ということらしい)。耳で聴いた瞬間、TBS落語会なのに「サンケイシンブンシャ」の宣伝して大丈夫かと思ってしまった(苦笑)。
 そして、江戸っ子バンザイな「三方一両損」、師匠自身のたたずまいが江戸の職人っぽいもんなぁ(新潟出身だそうですが^_^;)。神田竪大工町の大工、吉五郎と神田白壁町の左官、金太郎の江戸っ子らしい啖呵の応酬が楽しい。両人の家守(「大家」ともいわれるが、江戸時代の「大家」「家守」は不動産オーナーではなく、オーナーに物件の管理を委託された管理人なのだそうだ)も江戸っ子が好き。
 オチはたいしたことなく、江戸っ子の口調と大岡越前守の裁きの妙を楽しむ噺。江戸っ子の気風が楽しい高座だった。

「たちきり」柳家さん喬
 さん喬師らしい、丁寧な仕込みで、若旦那と芸者の純愛・手紙しかない時代のミスコミュニケーションによる悲劇というテーマがよく描かれていたと思います。
 ……声や芸風に対する好みの違いなんだと思うのですが(落語家の好みに関していえば、オーソドックスとは言い難い自分^_^;)、「いいなぁ」と思いつつも、なぜか集中できない自分です。

 パンフレットで次回の番組も見ました。んー、誰か友人に機会を譲るには渋すぎる番組だなぁ^_^;。







北海道
土方歳三コンテスト:札幌の駒ケ嶺さんが優勝--五稜郭公園 /北海道
 新撰組の土方歳三を演じる「土方歳三コンテスト」が21日、幕末の戊辰(ぼしん)戦争の舞台、函館市の五稜郭公園であった。22日まで開かれる「箱館五稜郭祭」のイベントで、市内のほか、道外からもファン20人が参加。衣装もそろえ、土方になりきった姿を観客らに披露した。

 優勝したのは札幌市手稲区の団体職員、駒ケ嶺智史さん(27)。10年前に初めて参加して以来、8回目の挑戦。「震災の影響を受けた函館を盛り上げられればと思い、今年こそは優勝したかった」と笑顔で話した。【佐藤心哉】

 下は殺陣の写真つき。腰が据わって、かっこいい。
五稜郭祭でコンテスト 土方歳三の勇姿を熱演
 戊辰戦争最後の舞台となった北海道函館市で21日、「箱館五稜郭祭」が始まり、戦死した新選組の土方歳三になりきって寸劇を披露する恒例のコンテストが開かれた。
 今年で24回目。土方に扮したのは20人で、道内のほか、岡山市や名古屋市からも熱心なファンが集まった。寸劇は新政府軍に包囲された仲間を助けるために出陣し、銃弾に倒れるまでの設定。洋装や羽織はかま姿で約2時間にわたり熱演した。
 躍動感あふれる立ち回りや、撃たれたのに、すぐに元気に立ち上がるユニークなアドリブに、会場は拍手と笑いに包まれた。

箱館五稜郭祭が開幕、土方コンテストで札幌の駒ケ嶺さん優勝
 戊辰戦争の最後の戦地となった五稜郭を題材にしたイベント「第42回箱館五稜郭祭」(同協賛会主催)が21日、2日間の日程で開幕した。初日は、市内に点在する箱館戦争ゆかりの地を巡る碑前祭や恒例となった「土方歳三コンテスト全国大会」が行われた。

 午後からは五稜郭タワーアトリウムで記念式典に続き、24回目を迎えた「土方歳三コンテスト全国大会」が行われた。今年は道内や名古屋市、岡山市などから女性3人を含む20人がエントリー。出演者は土方が最期を迎える場面を自身で演出を考え、土方の無念さや、自身の土方に対する思い入れを表現。容姿や演技、アピール度などで審査された。

 優勝は札幌市在住の会社員、駒ケ嶺智史さん(27)。最初に出演したのは10年前で、8回目の出演で悲願を達成。土方最後の日について行動や心境を研究し、迫真の殺陣を交えて熱演した。「土方の魅力はサクラのように華やかに咲き、散っていったところ。立ち回りで協力してくれた仲間のためにも、優勝できて良かった」と喜びを語った。

 22日には優勝した駒ケ嶺さんも参加する「維新行列」が午後1時から行われ、本町の行啓通では旧幕府軍と新政府軍の戦闘シーンが繰り広げられる。午後3時ごろから五稜郭公園の特設ステージで「開城セレモニー」が行われる。


群馬
小栗上野介:功績たたえ あす高崎で講演、墓前祭 /群馬
 江戸時代末期の日米修好通商条約批准にあたり、使節団メンバーとして渡米し、造船所建設など日本近代化の礎を築いた小栗上野介忠順(ただまさ)の功績をたたえる「小栗まつり」(小栗上野介顕彰会主催)が22日、高崎市倉渕町権田の倉渕小学校体育館と、小栗の菩提寺(ぼだいじ)・東善寺を会場に開かれる。

 倉渕小学校では午前10時から、群馬マンドリン楽団による演奏会が開かれ、渡米時に「ハンサムなファーストサムライ」として米国女性の人気者になった通訳見習いの少年、立石斧次郎(通称トミー)にまつわる曲として「ジャパニーズ・ギャロップ」「トゥルー・ブルー・ポルカ」の2曲が国内で初演奏される。2曲の楽譜は米国内で新たに見つかったという。同11時からは、同寺の村上泰賢住職が「小栗上野介の日本改造」と題して記念講演する。

 午前9時~午後1時には写真展を開催。小栗の功績を(1)小栗上野介とは(2)日本近代化の道をイメージした世界一周(3)日本近代化のレールをしいた幕末の8年間(4)上州土着の夢むなし(5)小栗公夫人会津への脱出・上州人の義〓心(6)小栗上野介の顕彰・埋もれ木を掘る(7)万延元年遣米使節「航米記」より--の7テーマに分けて紹介する。

 一方、東善寺では午前11時から随時、紙芝居で「小栗上野介の生涯」を紹介。午後1時からは墓前祭を開催する。いずれも無料。また、同寺境内では地元特産物、小栗関連の書籍などを販売する「昼市」も行われる。問い合わせは同寺(電話027・378・2230)へ。【増田勝彦】


千葉
写真展:木戸家4代の写真、歴博が展示 日本の近現代の歩みを象徴
 千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館(歴博)で写真展「侯爵家のアルバム--孝允(たかよし)から幸一にいたる木戸家写真資料」が開催中だ(29日まで)。歴博は、明治の元勲である孝允から、正二郎、孝正、昭和天皇の側近だった幸一まで、約100年にわたる木戸家4代の資料目録を刊行。それに連動した企画で、近現代史を生き生きと伝える写真を数多く紹介している。【栗原俊雄】

 ◇好んで被写体になっていた?孝允/華族の豊かな生活ぶり見せる孝正/重臣としての威厳消えた「A級戦犯」の幸一
 ◇10年がかりで整理、300点を選ぶ
 発端は、木戸家からの約1万5000件に上る資料の提供。2001年度から本格的な整理を始め、10年がかりで目録を完成させた。写真が約5200点と、3分の1以上を占める。今回は幕末から戦後すぐまでの約300点を選び、展示した。
 見どころの一つは孝允の写真だ。ガラス原板2点を含め、全21点。これだけの枚数が一挙に公開されるのは初めてという。
 長州藩士だった孝允(当時の名は桂小五郎)は、江戸幕府打倒の先頭に立ち、明治政府の重鎮となった。西郷隆盛、大久保利通と共に「維新の三傑」と呼ばれる。西郷のものと確定した写真はなく、大久保の写真も少ないのに対し、孝允は好んで被写体になっていたらしい。
 ちょんまげに帯刀姿だったり、高杉晋作の遺児東一と一緒だったり。1871~73年、「岩倉使節団」の一員として欧米を視察した際の写真もある。
 孝正の写真は、明治・大正期の華族の豊かな生活ぶりを伝えている。最も数が多いのは、4代目幸一の写真だ。1940年から内大臣として昭和天皇に仕え、東条英機を首相に推すなど、宮廷政治家として活躍した。だが、極東国際軍事裁判(東京裁判)の被告として「A級戦犯」と認定され、48年に終身禁固刑の判決を受けた。
 戦時中、正装して昭和天皇と共に写真に納まった姿には、重臣としての威厳がにじむ。対照的なのは巣鴨プリズンに収監中、撮影された写真だ。囚人用と思われる簡素なシャツ姿の幸一からは、往時の威厳をうかがうことが難しい。
 文書にも、貴重な資料が多く発見された。樋口雄彦・歴博准教授(日本近代史)は孝允が幕末、江川太郎左衛門英敏の私塾で受けた「学頭」の辞令を見て、驚いたという。幕臣による砲術指南の塾だ。彼らに戦闘技術を学んだ人間が倒幕の闘いを指揮したことは、歴史の皮肉を感じさせる。
 目録ができたことで、外部の研究者も資料を活用しやすくなった。歴博は「木戸家は一家族であると同時に、日本の近現代の歩みそのもの」といい、研究の深化を期待している。



神奈川
咸臨丸の功績しのぶ/横須賀でフェス
 幕末100+ 件に日本の軍艦として初めて太平洋横断に成功した「咸臨丸」を記念するフェスティバルがこのほど、神奈川県横須賀市で開かれ、浦賀港周辺の歴史ウオークや咸臨丸の足跡を紹介する資料展など多彩な催しを大勢の市民が楽しんだ。
 咸臨丸は1860年に浦賀港を出港。塩飽諸島から35人の水夫が乗り込み、冬の嵐の中、37日間かけてアメリカに到着。日米交流の礎を築いた。
 フェスティバルは横須賀市などで組織する実行委員会が主催し、今回で13回目。晴天の浦賀港をバックに歴史ウオークやコンサート、B級グルメの屋台などさまざまな催しが開かれた。
 また、横須賀市主催の記念式典には、塩飽の水夫の子孫らでつくる「咸臨丸子孫の会」のメンバーをはじめ、アメリカ大使館や咸臨丸が製造されたオランダの関係者も出席し、咸臨丸とその乗組員たちの功績をしのんだ。(東京支社)


出版:デッカー氏の回顧録、地元市民団体が翻訳「黒船の再来」 /神奈川
◇戦後復興、民主主義普及の功績伝えたい--占領時の米海軍横須賀基地司令官
 終戦後、横須賀市の戦後復興や民主主義の普及に努めた米海軍横須賀基地司令官のベントン・W・デッカー夫妻の回顧録を地元市民団体「横須賀学の会」(大橋祥宏代表)が「黒船の再来」として翻訳・出版した。戦勝国軍人としておごることなく、幕末期から米国とゆかりが深い地で親しまれたデッカー氏。同会は「横須賀に日本の民主主義のモデルを作った恩人。功績を広く伝えたい」と話している。
 同会はデッカー氏の功績をテーマに講演などを開いてきた。3年半前、デッカー氏が1978年に米国で出版し、横須賀市の関係者に寄贈していた回顧録の存在を知り、翻訳に着手。メンバーのうち13人が携わり、今月ようやく完成した。
 同会や回顧録によると、デッカー氏は46年4月に司令官に就任。市内にあった旧日本海軍基地・海軍工廠(こうしょう)を爆破すべきだとした前任司令官の提言や指令に抗し、基地を活用・復興させた。退任までの4年間、行政官として市の復興、再建を図る数々の施策を打ち出し、キリスト教普及を基礎とした民主主義を広め、友好的な日米関係を築くことに腐心した。
 回顧録は、同氏が広めようとした民主主義を「黒船の再来」と位置づけ、記録や記憶による夫妻の回想の言葉、市民や友人からの手紙、軍、政府からの書簡などで構成。夫妻が訪れた各地の戦後風景、横須賀市の復興経過なども交え、占領政策の歴史をひもとく内容になっている。
 同氏は就任間もなく、占領下で罪を犯す海軍兵を軍法会議で次々に処分するなど風紀を立て直したり、女性解放を目指して横須賀婦人会の設立を促進、同会を通じて、飢えた市民に基地で余った食糧を配給した。
 政策は幅広く、国内初の女性警察官制度導入を警察に要請して実現したり、軍医に命じて病院を整備し、日本人医師を訓練。性病の撲滅にも努めた。
 カトリックやプロテスタントの組織に働きかけ、栄光学園、清泉女学院中学高等学校(現鎌倉市)、横須賀学院などの学校や衣笠病院、聖ヨゼフ病院の設立にも力を入れた。
 当時の市民は「デッカーさん」と親しみを込めて呼び、最初の任期終了後、市議会は留任を当時のダグラス・マッカーサー連合国軍最高司令官に陳情し、市民が胸像を建立した。
 大橋代表は「戦勝国のおごりを持たず、自由、平等、博愛にあふれた人間味を持った人物。本からは日本人のたくましさも読み取れる」と話した。616ページで3000円(税別)。各地の有隣堂書店か発売元「Kooインターナショナル出版部」(03・6913・1266=ファクス兼用)へ。【田中義宏】


長野
佐久間象山生誕200年松代で記念祭始まる
 松代藩士で、幕末の思想家・佐久間象山(1811~64年)の生誕200年を祝う記念祭が21日、長野市松代町松代の象山神社などで始まった。

 同神社の拝殿で祝詞や拝礼が行われた後、境内で地元の伝統芸能団体などが、象山が作詞した詩文の合吟や、象山にささげる雅楽や舞踊を披露した。記念祭を企画した安藤喜久雄実行委員長(79)は、「象山先生は、漢詩など文芸でも優れた功績を残した文武両道の人だった。生誕200年という区切りにその功績を知ってもらいたい」と話していた。22日には、講演会や植樹などが行われる。
(2011年5月22日 読売新聞)


高知
慎太郎「頌徳碑」100年
北川で遺徳しのぶ記念祭
 北川村出身の幕末の志士、中岡慎太郎(1838~67)をたたえる「頌徳(しょうとく)碑」が、建立から今年で100周年を迎え、村民らでつくる慎太郎の顕彰会が21日、碑のある同村小島の北川村温泉前で記念祭を開く。慎太郎が飢饉(ききん)から村人を救ったことに感謝するため建てられた碑で、村民らは「後世に語り継ぎたい」と、神事や講演会など様々なイベントを行い、遺徳をしのぶ。(森本健裕)
 慎太郎は19歳で大庄屋見習いとなり、飢饉で山あいの小島、和田、平鍋の3地区民が餓死寸前まで追い込まれた時に、土佐藩の貯蔵庫を開けて米を出すよう、高知城下の家老・桐間蔵人(くらんど)に命がけで直訴。村民を救ったとされる。また、現在、村の特産となっているユズ栽培も勧めた。
 山林面積が95%の同村にとって、慎太郎は生活基盤を築いた偉人としても敬愛されており1911年(明治44年)、村中部青年会が頌徳碑(高さ1・5メートル、幅1メートル)を建立。当初は北川尋常小学校分教場(後の村立小島小・中学校=76年に廃校)にあったが、北川村温泉が出来た75年頃に移された。
 同小・中の卒業生で平鍋地区会長のユズ農家、林田富寿(とみとし)さん(64)は「地区のシンボルで、頌徳碑の前で卒業写真を撮った。先祖が飢え死にしていれば私は生まれておらず、ユズは今も貴重な収入源。功績を後世に語り継ぎたい」と話していた。
 記念祭は21日午後1時10分、頌徳碑前で始まり、3地区の代表と顕彰会が神事を行う。午後2時からは近くの小島集会所で、元村立北川小教頭で顕彰会アドバイザーの尾崎雅洋さん(61)が慎太郎の功績などについて講演。6月8日にCD「中岡慎太郎伝 維新の若虎」を発売する演歌歌手の大林幸二さん(京都市)のライブもある。
 講演とライブは無料で、定員200人。尾崎さんは「東日本大震災で、今まさに民が安心できる生活に目を向ける時。民のために命を尽くした慎太郎先生に思いをはせてほしい」と参加を呼びかけている。
 申し込み、問い合わせは顕彰会事務局(0887・38・2413)へ。


福岡
小倉小笠原藩 激動の幕末史 21日に歴史文化塾開講 受講生を募集
 街づくり団体「長崎街道小倉城下町の会」は、幕末の激動期に長州藩と対峙(たいじ)した小倉小笠原藩の動向を学ぶ「小倉のおもしろ歴史文化塾」を、市立生涯学習総合センター(北九州市小倉北区大門1丁目)で開講する。21日から9月17日まで全6回の講座で、受講生を募集している。

 講座テーマは「幕末の小倉と香春の歴史」。地元の郷土史家や研究家などが講師を務め、高杉晋作らが率いる長州藩と激戦を繰り広げた長州征伐の解説などがある。10月1日には史跡を巡るバスツアーも企画している。

 同会は「男たちが命をかけた幕末の戦いをぜひ学んでほしい」と呼び掛けている。受講料(全6回)3千円。バスツアーは別料金。問い合わせは小倉北区役所総務企画課=093(582)3335。

=2011/05/18付 西日本新聞朝刊=

佐賀
佐賀藩・鉄製大砲鋳造の歴史をDVDに
 佐賀南ロータリークラブ(鐘ケ江輝昭会長)と佐賀伝承遺産研究会(土師俊資会長)は19日、日本初の洋式反射炉を完成させ、国内で初めて鉄製大砲の鋳造に成功した佐賀藩の先進的な取り組みや活躍を紹介した手作りのDVDを、佐賀市内の全小中学校に贈った。
 2010年に創立25周年を迎えた同クラブが記念事業として制作費を負担、同研究会が企画・制作を担当した。
 DVDは、勉強嫌いな「まこと君」が主人公の約25分のアニメーション。発明好きのおじいちゃんと一緒にタイムマシンで江戸時代にタイムスリップし、幕末期の世界情勢と佐賀藩の位置づけ、反射炉の仕組みや鉄製大砲を据えた長崎の四郎ケ島砲台建設の背景を学ぶ。映像製作は「シアター・シエマ」が担当した。
 贈呈式では土師会長が、授業での活用がスムーズにいくよう、実際に使う教師たちの意見を聞いたことや、反射炉を顕彰する日新校区の住民の意見も反映したことなど、制作の経緯を説明。東島正明教育長は「動画資料はこれまでなく、子どもたちに興味を持ってもらえる。早速役立てていきたい」とお礼を述べた。


築地反射炉:西北部説を補強 神埼市の郷土史家・樋口さんが史料を確認 /佐賀
◇幕府視察の様子や見取り図記す
 国内最古の実用的反射炉「築地(ついじ)反射炉」が佐賀市長瀬町の市立日新小校内の西北部にあったとの説を補強する史料を確認したと、神埼市在住の郷土史家、樋口浩康さん(67)が発表した。1854(嘉永7)年に幕府の視察団が築地反射炉を視察した様子を記した文献で、見取り図も付いている。樋口さんは「今後の発掘調査に役立つ具体的な史料となるのでは」と話している。【田中韻】
 築地反射炉は同校内で関連施設の遺構が見つかっているが、反射炉の位置は西北部のほかに東部説などもあり、特定できていない。
 西北部説は、1940年に県が史跡などを調査した報告書の絵図などに基づくもの。現在は校舎が建っているため、発掘などの調査は行われていない。
 樋口さんが今回確認したのは、鍋島報效会が所蔵する「公役人御鋳立方并築地御立寄録」。反射炉の位置や周辺施設を記した絵図が付いており、反射炉の位置は県の報告書とほぼ一致するという。
 佐賀市は築地反射炉跡や三重津海軍所跡などを「九州・山口の近代化産業遺産群」の一角に加え、世界遺産登録を目指している。樋口さんは「登録に向けて、遺跡調査の進展につながってほしい」と願っている。
 築地反射炉は、幕末期に佐賀藩が国内で初めて大型鉄製大砲の製造に成功した。


ブックレビュー
福沢諭吉、米女性とツーショット撮影 帰国船ハワイ出航まで内証のワケ
山川出版社は2011年4月15日、新刊本『レンズが撮らえた幕末の日本』(著・岩下哲典、著・塚越俊志)を発売した。およそ200ページに渡って掲載されている写真は、幕末をそれぞれの思いを抱きながら生きた人々、当時の暮らしぶりがわかる街中の風景、そして港や船など、貴重なものばかりだ。
いくつか主なものを紹介しておこう。巻頭カラー特集には遣欧使節団がエジプトを訪れた際(1864年)、スフィンクス前で撮影した写真がある。当時の着物姿とスフィンクスの取り合わせはなかなか興味深い。見開き左ページには井上俊三氏が撮った坂本龍馬の復元着色写真だ。
本文では、藩ごとに紹介されているところで、龍馬とともに暗殺される直前に撮られたという中岡慎太郎の厳しい表情の一枚。後藤象二郎の立ち姿もある。薩摩藩からは小松帯刀、若き日の大久保利通。そして、初めて日本人が写真撮影に成功したといわれる島津斉彬の半身(1857年)。長州藩では、やはり血気盛んなころの井上馨に伊藤博文が。
さらには、板橋宿で斬首されるほんの数年前の新撰組7 件・近藤勇の写真。1860年(安政7年)、総勢77人による遣米使節団がサンフランシスコで宿泊したインターナショナルホテル(当時)。その使節団のなかで最年少で参加し、アメリカ女性たちからの人気が一番高かったという立石斧次郎。サンフランシスコの写真館令嬢とツーショットの福沢諭吉。一枚の写真に並んで収まる26歳・高杉晋作、24歳・伊藤博文など、挙げたらきりがない。
ちなみに、諭吉はくだんのツーショット写真を「他の日本人にマネされたくない」と、帰国船が米本土から立ち寄り先のハワイを出港するまで仲間に秘密にしていたという。
巻末には箱根宿の写真を掲載したコラム「幕末の残像・街道と宿場」があり、また、下関港に到着した連合艦隊、1865年ごろの長崎港、本丸御殿の一部も写った貴重な名古屋城、愛宕山から見た江戸のパノラマ(1863年)といった写真も載せている。
永久保存版の一冊。
単行本、207ページ。定価1680円。<モノウォッチ>


江戸時代の「鯰絵」を解説
東京の研究家が冊子周南の書店で販売

 東京都渋谷区の歴史研究家大山格さん(51)が、江戸時代末期に流行した風刺画「鯰(なまず)絵」を解説した冊子「鯰絵に見る世直し願望」を自費出版、周南市銀座のマツノ書店が販売している。鯰絵は、江戸を襲った安政の大地震(1855年)の後、庶民の間にはやった。ナマズを描いた滑稽な絵柄から、当時の人が震災を乗り越えて前向きに生きようとした姿が読み取れ、大山さんは「庶民のたくましさに触れてほしい」と話している。(松本晋太郎)
 大山さんは明治から大正にかけて活躍した軍人、大山巌元帥の曽孫。東日本大震災後、被災者に「江戸の庶民のような強い気持ちを持ってほしい」と自費出版を企画した。
 安政の大地震の発生は神無月。鹿島神宮(茨城県)の鹿島大明神が出雲に出かけて留守の間に、封じられていた大ナマズが暴れ地震が起きたと信じられており、ナマズを描いた風刺画が流行したという。
 冊子では、鯰絵13枚を掲載して解説。地震で金持ちほど多くの財を失ったことから、捕らえたナマズを武士や商人たちがたたきのめしている絵がある一方、庶民がナマズを世直しの神としてあがめている絵も。貧富の差が激しい社会に対する痛烈な皮肉が表現されている。
 大山さんは「江戸の庶民は、震災が抜本的に社会を変革するきっかけになると考えた。苦境の中に希望を見いだし、続く幕末の動乱をしたたかに生き抜いて、明治維新を迎えた」などと結んでいる。
 マツノ書店は大山巌の伝記の復刻を進めており、大山格さんと交流がある。店主の松村久さん(78)は「当時の江戸の世相がわかる。絵を見るだけでおもしろい」と推薦している。
 A5判16ページで、1500部を出版。1部100円。郵送の場合は300円の切手と引き換える。問い合わせは同書店(0834・21・2195)へ。

(2011年5月20日 読売新聞)


コラム
吉田松陰 貫いた「共に学び共に育つ」
 吉田松陰(1830~59年)の名を不滅としたものの一つは、松下村塾での教育であった。松陰が関わった僅か3年足らずの小さな私塾から、幕末維新の変革を担う人材がまさに綺羅星(きらぼし)のごとく輩出したことは「奇跡」という他はない。

 「わずかに十八でふ(畳)の古い家の塾であつた。しかし、このせまい塾に集まつた青少年の中から、久坂玄瑞(くさか・げんずい)、高杉晋作を始めとして、明治維新のをり、身を以(もっ)て国事につくした大人物がたくさん出た。(中略)松陰の塾を松下村塾と呼んだ。ここでは、武士の子も、農家の子も、へだてはなかつた。また松陰は、決して先生だといふ高慢(こうまん)な態度をとらなかつた。先生と塾生の膝(ひざ)と膝とが、くつついてゐる。礼儀は正しいが、へだてはなかつた」。修身教科書は、松下村塾の教育の特徴を的確に描写している。

 教育者としての使命感に溢(あふ)れ、日夜、塾生の教導に尽力した-というのは、松陰の心情からすれば誤りである。孟子の「人の患(うれい)は、好んで人の師になるに在り」を評して、「学を為すの要は己が為にするにあり」「己が為にするの学は、人の師となるを好むに非ずして自(おのず)から人の師となるべし」と松陰はいう。「共に学び共に育つ」者として絶えず努力を続けていく。その生き方が松陰を教育者とした。

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 徹底した平等主義と一人一人を生かす教育-。松下村塾の教育には、すべての人間の本性が善であると信じて疑わず、どのような人間にも可能性があることを信じ続ける松陰の生き様が貫かれていた。

 1858(安政5)年6月の日米修好通商条約を機に松陰の言動は過激さを増していく。自重を促す久坂、高杉に松陰は「僕は忠義をする積もり、諸友は功業をなす積もり」といって取り合わず、翌年、江戸伝馬町の獄舎で露と消えた。

 「身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留置まし大和魂」の辞世で書き出された遺書「留魂録(りゅうこんろく)」に接した塾生たちは、師の遺志を継いで敢然と動き出す。志ある者として、自己の可能性を信じ求めるという松陰が身を以て示した教えを塾生たちは忠実に受け止めたのである。そんな彼らの強い絆と結束は、しばしば「松下村塾党」と称された。

 なお、修身教科書は、松陰の父母の人となりについても伝えている。この親にしてこの子あり。偉人の陰には、優れた父母の教えがあったのである。(武蔵野大学教授 貝塚茂樹)


(114)東大教授・山内昌之 岩松満次郎(下) 新田官軍の民衆抑圧
 テレビ・ドラマの人気作『木枯し紋次郎』といえば、何といっても主演の中村敦夫氏のニヒルな演技が忘れられない。天保年間、紋次郎は上州新田郡(ごおり)三日月村の貧農の子に生まれたという芥川隆行のナレーションも懐かしい。

 原作者の笹沢左保が渡世人(とせいにん)紋次郎を、同じ新田郡でも実在する下田嶋村生まれにしていたなら、岩松の殿様の何代目かとの因縁話に触れていたに違いない。虚構の紋次郎と実在の満次郎に共に魅(ひ)かれる人間としては残念至極である。私は紋次郎シリーズをほとんど読んでいるが、どうしても岩松の殿様との出会いや接触を思い出せないのである。

 さて、岩松満次郎も文久3(1863)年に入ると、師と仰ぐ桃井可堂(もものいかどう)(儀八)からとんでもない相談をもちかけられた。沼田城を襲って攘夷(じょうい)の先駆けとなり、横浜に押し出して焼き払い洋夷(外国人)を討つという物騒なはかりごとであった。せいぜい、縁切寺の満徳寺と同じく女の駆け込みを受け入れ、無事離縁の暁に女方から「土産金」なる謝金を受けていた満次郎のことだ。自分の描いた猫絵よりも恐ろしげな可堂の思いつめた形相に仰天し、幕府に自訴するほかなかったのは、根が臆病だからだろう。

総督府に「御軍役御免願」

 しかし幕末も煮詰まると、時勢にシラを切って済ませるわけにもいかない。仮にも新田義貞の嫡流とか裔(えい)とか嫡宗(ちゃくそう)と、猫絵やまじない札に署名してきた家柄である。今度ばかりはいよいよ新田官軍の旗揚げを決意せざるをえない。それでも、参勤交代の行列を十数人で務めてきた貧しさである。何とか56人をかき集めて遠祖義貞の故事にならって生品(いくしな)神社に参拝し東山道総督府に合流しようとした。一度は板橋まで押し出しながら、総督府に「御軍役御免願」を出して戦線から離脱してしまった。

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 何とも間が悪いことだ。さらに新田官軍の隊長が「容易ならざる儀」によって切腹させられた他にも、江戸にいる家臣の素行の悪さを理由に新田勢は謹慎を命じられ、やがて下田嶋村に帰った。

 その後総督府に復帰を願う口上書を出した結果、江戸築地の鉄砲洲、次いで木挽町の市中取締を命じられ、この任務は明治2(1869)年1月まで続いた。新田官軍の行動はこれだけである。幕府軍と切り結ぶといった派手な舞台もなく、家臣が身持ちの悪さで処分されるなどしまりのないことおびただしい。

階級的な利害を代弁

 むしろ新田官軍のおかしさは、落合延孝氏の『猫絵の殿様』が触れているように、江戸出立(しゅったつ)の前に、故郷の東上州で世直し騒動を鎮圧していた点にある。板橋に出かけながら「御軍役御免願」を出したのは、領地で苛政に苦しむ農民たちが蜂起して、質物の返還、借金証文の破棄、施金施米や米の安売りなどを要求したからだ。満次郎も領主としては決して善政を敷く殿様だったとも言い切れないのである。

 してみれば、満次郎が新田義貞の古例に従って「一族旧臣共」つまり在地の豪農や富家に挙兵を呼びかけても反応がはかばかしくなかった理由もよく分かるというものだ。当てにした面々は世直し騒動への対応に精一杯(いっぱい)であり、とても義兵義挙どころでなかったのだ。56人もよく集まったというべきではないか。

 落合氏は専門の歴史学者として「新田官軍は、世直し騒動を鎮圧した村役人・豪農層の階級的な利害を代弁したといえる」とクールに満次郎らの挙を性格づけた。何よりも、義挙を謳(うた)った挙兵の直前でも軍資金がわずか34両しか集まらなかったというから物悲しい。

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メッキ剥げても意地見せ

 家祖新田義貞の「勤王」の志にならい倒幕運動に参加した新田官軍が、世直し騒動の鎮圧に目標を転じるのは、総督府にしても聞こえがいかにも悪すぎる。どこか総督府の態度に邪険さが感じられるのは偶然ではない。それにしても、米価の引き下げや質物の返還を求める民衆と、満次郎周辺の由緒や権威を求める役人とはそもそも利害が対立していたというほかない。新田官軍といっても義貞の古き良き時代はとうに過ぎ去っていたのだ。

 現実の厳しさで新田官軍のメッキが剥げてしまえば、もはやロマンの香りはどこにも残らない。政権交代に期待する有権者の心を一度はとらえた民主党政権も、ロマンだけでなく現実の統御能力さえ失えば自民党とどこが違うのかということになる。

 徳川家康に系図を貸さなかったばかりに微禄(びろく)に甘んじた岩松満次郎家は、それでも江戸時代を通して十数名だけでも参勤交代する意地を見せた。民主党の選良たちには、いかに少数になろうとも日本の危機を乗り切る決意と意地だけは見せてほしいものだ。(やまうち まさゆき)


茶わん酒5杯、刀を手に親王に強談判…若き慶喜
 江戸幕府15代将軍・徳川慶喜(1837~1913)が、将軍になる前の1864年、攘夷じょういに対して曖昧な態度を示す朝廷側の実力者を恫喝どうかつ
した様子を記した手紙の写しが、高知県内で見つかった。


 慶喜は当時26歳。酒をあおって実力者の屋敷に乗り込み、刺し違えも辞さない覚悟で真意をただした場面を描写。研究者は「混迷の幕末で、辣腕
らつわん
を振るう若き慶喜の姿が見てとれる」と評価する。

 京都にいた慶喜と国事をあずかっていた中川宮朝彦親王(1824~91)の面談に関する内容で、土佐藩士・樋口真吉が、雑記帳に書き写していた。

 記述から、原本は樋口と親しい土佐の志士・中岡慎太郎が長州の浪士に送った手紙。手紙は残っていないが、雑記帳は樋口の子孫宅で見つかった。

 記述では、慶喜が1864年2月15日、幕政に協力する薩摩藩の島津久光ら諸侯3人と、中川宮邸を訪問。横浜から外国船を追い出す「断然たる鎖港攘夷」をただすと、宮は同意した。

 しかし翌日、慶喜は、同意は「宮の言葉の行き違いだったようだ」と聞かされて激怒。「酒ヲ(中略)茶椀
ちゃわん
ニテ五杯ホド引カケ直ニ早馬ニテ尹ノ宮
いんのみや
ヱ乗切リ行キ」(酒を5杯ほど引っかけ、馬で乗りつけ)、刀を手に持ったまま宮邸の居間に上がり、同意がうそなら、「一命ヲ頂戴
ちょうだい

つかまつり
私モ身ノ覚悟」(命を頂戴する。私も覚悟の上)と迫った。宮は汗をかいて慌てた。

 宮が側近にお茶を出すように伝えると、慶喜は「私ハ十万石頂戴仕テ居マスカラ茶ハドウカコウカ買テ呑候」(私は十万石を頂いているので茶ぐらいは自分で買って飲む)と、冷たく言い放ったと記している。

 この時の様子は、慶喜側近の書状にも残るが、写しはより詳細。

 幕府は、朝廷の命を受けて諸侯と国政を進めようとしたが、慶喜は開国派の薩摩藩を警戒し、あえて攘夷で政局を握ろうとしたとされる。慶喜はこの一件を機に朝廷と距離を置き、諸侯との協力も解消。幕府の勢力を盛り返した。

 調査した高知県佐川町立青山
せいざん
文庫の松岡司
まもる
・前館長は「幕末史の一場面がよりリアルになった。現状をひっくり返すために大暴れした慶喜の強引さが、劇画のように描かれて面白い」と評価している。

(2011年5月17日14時48分 読売新聞)



 3週間ほどサボっていたので、たまっているニュースからセレクトしてお送りします^_^;。

北海道
サラキ岬に春 木古内
 木古内町のサラキ岬でチューリップが咲き始めた。特産のホタテなどを売るふるさと物産フェアも開かれ、観光客を楽しませている。
 サラキ岬沖には幕末の軍艦・咸臨丸が眠る。咸臨丸がオランダで建造されたことが縁で球根が贈られ、現在では80種5万本ものチューリップが咲く。
 咸臨丸に最後に乗ったのが仙台藩白石領の藩士たちだったことから、今年は宮城県白石市の名産品を販売し、売り上げを大震災の義援金として贈る。物産フェアは5日と15日までの土日に開かれる。


重文「旧函館区公会堂」「太刀川家」改修へ
 函館市は本年度、国の重要文化財(重文)に指定されている旧函館区公会堂(元町11)と、太刀川家住宅店舗(弁天町15)の大規模改修に乗り出す。いずれも築100年を超えて建物の傷みが目立つため、市は計約1000万円の予算を計上。東日本大震災に伴う被害もなく、西部地区の歴史的な建造物が装いを新たによみがえる。

 市教委によると、公会堂は函館大火で焼失した町会所に代わる施設として、1910(明治43)年に完成。木造2階建てで、灰色と黄色の塗装が特徴的な和洋折衷の建築様式だ。74年に重文に指定され、80~82年には3億5500万円をかけて部分解体を含む大規模改修が行われた。

 しかし、現在は外壁のはがれや柱の腐食、雨漏りが目立ち、市は本年度、500万円かけて約30年ぶりの大規模改修に向けた本格調査に着手する。6月ごろから専門業者が外装を中心に内部構造の傷み具合をチェックし、2012年以降、国が50%、道と市が25%ずつ負担し、修復作業を進める。

 一方、太刀川家は米穀商や漁業を営む初代太刀川善吉が1901(明治34)年に建築。土蔵造り2階建ての建物は両端に窓がなく、防火対策に優れていて、正面には3連のアーチを設けるなど洋風のデザインも取り入れている。71年に重文指定を受けた。

 現在は6代目の善一さんが所有し、2009年から1階をカフェとして活用しているが、壁の漆喰(しっくい)がはがれ、屋根瓦に一部破損している状態。大がかりな改修は台風被害を受けた04年以来7年ぶりで、本年度に着工する。総事業費約1900万円のうち、市は国の補助金や所有者の負担金を除いた約500万円を予算付けした。

 市教委文化財課は「震災の被害を受けずに当初の計画通り進められる。公会堂は西部地区のランドマーク的な存在で、太刀川家も一つの街並みを形成している。どちらもきれいにお色直しして長く後世に残していきたい」としている。


岩手
津波に耐えた「天神大杉」 陸前高田、千葉周作ゆかり
 東日本大震災の津波で壊滅的な被害を受けた岩手県陸前高田市の神社に、周囲の建物が流される中、折れることなく生き残った一本杉がある。すぐ近くには幕末の剣豪、千葉周作の生家跡があり、杉の木の下で幼少時に遊んだと伝えられている。

 地元住民が「天神の大杉」と呼んで親しむ樹齢700~800年の杉は、海岸から約1・5キロ離れた今泉天満宮(陸前高田市気仙町)に立つ。海に注ぐ気仙川沿いにあり、津波が直撃した神社は鳥居や拝殿、社務所が流されたが、杉だけが残った。

 宮司の荒木真幸さん(67)によると、今泉天満宮は、江戸城も築いた武将太田道灌が15世紀に建立。剣術の流派「北辰一刀流」を開いた千葉は、杉の脇にある参道下の家で生まれた。




東京
早乙女太一 築地本願寺で「沖田総司」朗読
 俳優早乙女太一(19)が東京・築地本願寺で朗読活劇レチタ・カルダ「6月は真紅の薔薇 沖田総司」(6月4、5日)に主演する。レチタ・カルダはイタリア語で「熱い朗読」の意味で、朗読、芝居、音楽が融合した新スタイルの公演。過去に大沢たかおが義経、要潤が土方歳三を芝・増上寺で演じたが、早乙女は新選組18 件の天才剣士沖田総司を主人公にした三好徹氏の同名小説に挑戦する。「沖田は明るく、優しい剣の使い手というイメージがあった。以前舞台で土方歳三を演じ、沖田を身近に感じていたのでやりたかった」。

 演じるのは早乙女1人で、琴などの演奏者が共演。築地本願寺本殿特設ステージで約2000人を前に行う。早乙女は「集中してやり抜くことで、いろいろなものが生まれるから楽しみです」。新選組18 件発祥の地の京都・金戒光明寺、名古屋・東別院でも上演される。

 [2011年4月27日11時35分 紙面から]


土方歳三からの手紙 30年ぶり帰宅し公開
 多摩地域にゆかりの深い新選組の資料が豊富に展示されている「佐藤彦五郎新選組資料館」(日野市日野本町2丁目)では、副長の土方歳三が彦五郎に宛てた大政奉還に関する書簡を新たに公開している。
 佐藤彦五郎は、新選組局長の近藤勇の兄弟弟子として剣法を学んだ日野本郷三千石の名主で、新選組を支援していた。近藤や土方は彦五郎と親しく付き合い、頻繁に生活の様子などを報告していたという。資料館は子孫の佐藤福子館長が家にあった資料を多くの人に知ってもらおうと2006年4月に開館した。
 東日本大震災の惨状を見た佐藤さんは「被害の深刻な東北出身の新選組隊士もいる。そのご子孫のためにできることを」と4月中の入館料全額を日本赤十字を通して寄付しようと考えた。「そのためには新しい展示物をつくり、多くの人に足を運んでもらおう」。頭に浮かんだのは、約30年前、父親が亡くなったときに母親が菩提(ぼだい)寺に奉納した土方の書簡だった。
 歳三が新選組の第二次隊士募集を終え、江戸から京に戻る道中に彦五郎宛てに書いた11月1日付の書簡で、「大政奉還の情報が未確認ながら入った」などという内容。京都に行くまでの日付がきちんと書かれており、その時の歳三の足取りがよく分かる。
 寺に1カ月だけ借りたいと申し出ると、「今後は資料館で保管されたら」と快諾され、30年ぶりの帰宅となった。
 4月初めから展示し、1カ月分の入館料を予定通り寄付したが、展示自体は5月末まで続けるという。「書簡から歳三の行動が見えてくる。歳三を身近に感じてほしい」と佐藤さん。
 開館日は第1、3日曜日だが、今月は15日のほか7、8日も開館。7、8日は歳三の部下だった市村鉄之助が、遺品や遺髪とともに佐藤家へ持ち帰ったとされる土方の肖像写真も展示する。入館料500円。問い合わせは同資料館(042・581・0370)へ。(渡辺元史)


神奈川
咸臨丸フェスティバル:多彩なイベント、にぎやか--横須賀 /神奈川
 幕末の1860(安政7)年、勝海舟を艦長格とする咸臨丸が浦賀港を出港し、日本人初の太平洋横断を成し遂げた偉業をたたえる恒例の祭典「咸臨丸フェスティバル」が14日、横須賀市浦賀町の旧住友重機械工業浦賀艦船工場跡と浦賀港周辺で開かれた。

 咸臨丸は日米修好通商条約の批准書交換のため同年1月に出港、同5月に帰港。フェスティバルは今年で13回目。市民参加の「水恋乞いレース」や水風船競技大会、ジャズコンサート、フリーマーケットなど多彩なイベントでにぎわった。【田中義宏】


愛知
幕末の外交官岩瀬忠震展
 幕末に外交官として活躍した岩瀬忠震(1818~61年)の没後150周年を記念する企画展が、新城市設楽原歴史資料館で開かれている。

 忠震は現在の新城市内に領地を持っていた設楽氏の出身で、江戸後期に外国奉行として欧米各国との修好通商条約の締結に尽力した。

 会場には、新発見の忠震が漢詩をしたためた掛け軸のほか、愛用の印、短冊、橋本佐内宛ての書簡など計20点を展示している。

 中でも幕府が欧米諸国との間で結んだ「安政乃五箇国条約」の冊子は、開国後の外国との付き合い方を国民に周知しようと考えた忠震の働きかけで出版されたもので、開明派としての姿勢をうかがい知ることができる。

 期間は9月5日までだが、7月18日までを前期展として一区切り。同20日からは、幕府に蟄居(ちっきょ)を命じられて以降の資料に展示内容が変わる。

 前期展の最終日には国際日本文化研究センターの佐野真由子准教授が「岩瀬忠震と徳川の近代」をテーマに講演する。

 入館料は一般300円、小中学生100円。午前9時~午後5時。火曜休館。講演会の参加申し込みや問い合わせは同館=電話0536(22)0673=へ。(中嶋真吾)


兵庫
 な、なんと「けいすけじゃ」アニメ化!
地元偉人アニメ化 大鳥圭介没後100年
 幕末から明治にかけて日本の近代化に貢献した上郡町出身の大鳥圭介(1832~1911)の没後100年を記念して、同町は4日、町生涯学習支援センター大ホールで記念講演とアニメ完成披露会を開いた。町民約400人が集まって郷土が生んだ偉人の生涯に思いをはせた。
 大鳥は医師の長男として同町岩木に生まれた。大阪の適塾などで洋学を学び、幕臣旗本として榎本武揚らとともに函館・五稜郭で官軍と戦った。死罪をまぬがれて明治政府に仕え、殖産興業に尽力した。
 大鳥の生家が崩壊寸前になった3年前、地元住民でつくる「生誕地保存会」の活動によって町も注目。町は生家を解体修理して地域交流拠点にする一方、没後100年記念として波瀾(は・らん)万丈の一生をアニメ化する事業を起こした。
 アニメ化は、地元の半沢裕人(はん・ざわ・ひろ・ひと)さん(49)のミニコミ連載漫画を原作として、「銀河鉄道999」などに携わった同町出身の作画監督藪本陽輔(やぶ・もと・よう・すけ)さん(35)とプロデューサー西沢信孝さん(71)が担当。地元の子どもたちなども声優として参加した。
 アニメ「けいすけじゃ」全20話のうち、この日上映されたのは誕生から旗本になる13話までの第1部で1時間10分。年内には第2部も完成し、2時間を超える作品になりそうだ。
 同町のほか、姫路市、宍粟市、佐用町、太子町のケーブルテレビで順次放送される予定。原画展は15日まで、町郷土資料館で開かれている。月曜休館。
(5月5日(木)掲載)

 全国に配信お願いします〜m(__)m。

徳島
展示:江戸時代阿波人の見た世界地図・日本地図 県内旧家所蔵の35点 /徳島
◇徳島市の県立文書館で開催中
 徳島市八万町の県立文書館で、展示会「江戸時代阿波人の見た世界地図・日本地図」が開かれている。江戸時代後期から明治初期にかけて、県内の旧家に所蔵されていた地図や地理書など35点を展示する。

 当時の地図や地誌書から、先人たちの地理的知識や世界観を探る。資料は、かつて県内の学者や庄屋などが所蔵していたもの。

 「地球万国山海輿地(さんかいよち)全図説」(近世中期)は、江戸時代の地理学者・長久保赤水の作。イタリア人宣教師の地図を基にして刊行された世界地図で、幕末まで広く普及したという。江戸中期を代表する華厳宗の学僧が作製したとされる「南瞻(なんせん)部洲万国掌菓之図」(1710年)は、仏教の世界観を示した地図。仏教の聖地とされるインド中心に描かれているのが特徴だという。

 このほか、1829年に牟岐町の港にイギリス船が漂流した時の様子を書いた徳島藩士の見聞記など多彩な資料が展示されている。

 7月31日まで。入場無料。【山本健太】


愛媛
高野長英の隠れ家復元 宇和島市、史跡活用へ 愛媛
 江戸時代の蘭学者、高野長英が幕府から逃れて暮らしていた“隠れ家”が、愛媛県宇和島市新町に復元された。長英の居住跡は市の指定記念物(史跡)で、新たな観光スポットになりそうだ。

 今回復元された建物は幕末期、長英の宿舎にあてられた家老、桜田佐渡の別邸。辰野川に面した建物は木造瓦ぶき平屋建て32平方メートル。欄間、雨戸、建具などは旧居を解体して復元した。軒瓦は伊達家の九曜紋を残している。

 長英は、「蛮社の獄」で投獄されたがのちに脱獄。逃亡先で宇和島藩主、伊達宗城に請われ、嘉永元(1848)年4月、宇和島に入った。鎖国のなか、藩は長英を蘭学の教授や翻訳、砲台の築造設計に当たらせた。長英の滞在によって多くの人材が養成され、明治維新へ向かう道が切り開かれた。

 同市では史跡を観光振興に活用。うわじま道先案内人の会でボランティアガイド歴3年の三好尚文さん(65)は「幕末に活躍した歴史の証をPRしていきたい」と復元を喜んでいた。

 施設見学は事前申し込みが必要。問い合わせは同市観光協会((電)0895・22・3934)。


広島
龍馬の隠し部屋にわくわく…広島・福山に新観光スポット
 幕末の志士・坂本龍馬が滞在したとされる広島県福山市鞆町の商家、桝屋
ますや
清右衛門
せいえもん
宅の改修が終わり、毎週金~月曜日と祝日に一般公開されている。

 4日も家族連れらでにぎわい、新たな観光スポットとなっている。

 商家は、江戸後期に建てられた木造2階建て。海援隊が乗り組んだ蒸気船「いろは丸」の沈没後、龍馬らが数日間滞在したとされ、天井裏には龍馬が潜んだと伝わる隠し部屋もある。

 数年前から空き家となって建具なども傷んでいたため、市などが昨年8月から、隠し部屋に階段を取り付けて畳を張り替えるなどして改修。11月の龍馬の命日と、今年2~3月の「鞆・町並ひな祭」に合わせて特別公開したところ、多くの来場者があり、運営するスタッフの態勢も整ったため、観光スポットとして4月下旬から、恒常的に公開することにした。

 隠し部屋の柱や梁
はり
の一部は、龍馬が滞在した当時のまま。福岡市南区、教員高田薫さん(59)は「屋敷の落ち着いた雰囲気が心地良い」と話し、長女のあかねさん(28)は「実際に龍馬が寝泊まりした部屋かと思うと、わくわくした」と声を弾ませていた。

 公開は午前9時~午後4時30分。料金は大人200円、小学生~高校生100円。
問い合わせは、桝屋清右衛門宅(090・5379・2667)か、市観光課(084・928・1043)。

(2011年5月6日 読売新聞)


高知
「人間以蔵」掘り起こす
松岡さん 連載スタート
 幕末、土佐勤王党に尽くしながら、悲運の刑死を遂げた岡田以蔵(1838~65)。「人斬り」の異名で語られ、「野蛮な暗殺者」とされ、志士ではないとの評価さえ受けてきた。本格的な伝記はなく、資料も少ないが、土佐勤王党結成から150年の今年、歴史家の松岡司(まもる)さん(68)(高知市一宮東町)が、以蔵の生涯をたどる伝記の執筆に挑戦する。「以蔵もほかの同志と同じように、時には弱く、悩んだ志士だった。今こそ『人間以蔵』を掘り起こしたい」。松岡さんは意気込みを語る。(畑矢今日子)

 本名は岡田宜振(よしふる)。郷士の家に生まれ、土佐勤王党首領の武市半平太に剣術を学び、剣士として名を上げた。党に敵対する人物を暗殺し、恐れられた。勤王党が弾圧され、拷問を受けると、暗殺にかかわった同志について自白したため、暗いイメージを加速させる。ただ、NHK大河ドラマ「龍馬伝」に登場したこともあって、整備された高知市薊野北町の墓所には昨夏以降、1000人以上が訪れ、人物像に心動かされる人も少なくない。

 「以蔵には暗いイメージが強く、研究した人は少ないが、ようやく見直されつつある。実像を探るのは今だ」。土佐の歴史を様々な人物を通して読み解いてきた松岡さんは、以蔵に着目した。

 松岡さんは20歳代前半、自由民権運動を追究しようと思い立ち、運動のルーツをたどるうち、土佐勤王党に行き着いた。以来、関心は幕末の志士へ向き、武市半平太ら志士の偉業を掘り起こしてきた。

 しかし、以蔵はほかの志士と違い、残された資料は限られ、生涯を知る研究者は決して多くない。松岡さんは、墓を訪ねて刻まれた字をじっくりと読み、高知市相生町にあったとされる岡田家の跡や、香美市の本家周辺も訪ねた。「情報がない分、足で稼いでいる。今回は、普段以上に資料を大切に読んでいきたい」

          ◇

 新たな寄稿連載「以蔵新伝」では、50回余りにわたり、以蔵の誕生から処刑までの生涯や、岡田家の家族らを紹介する。主に土曜に掲載予定。

 松岡司さん 県立郷土文化会館(現・県立文学館)職員、佐川町立青山文庫学芸員などを経て、1995~2008年には青山文庫館長。武市半平太、中岡慎太郎、坂本龍馬ら多くの幕末の志士を研究し、江戸時代前期の土佐藩重臣・野中兼山の伝記も含め、8冊の著書を手がけた。県立の歴史民俗資料館と坂本龍馬記念館、北川村の中岡慎太郎館の基本展示に携わった。現在は県内3か所で古文書教室を開講する。

(2011年5月15日 読売新聞)


後藤象二郎の新写真見つかる 名刺大に維新の息遣い
 幕末に坂本竜馬とともに活躍し、明治政府の高官も務めた土佐藩出身の後藤象二郎の写真が高知市で見つかった。竜馬と実現に奔走した大政奉還への思いをつづったとみられる漢詩が裏に書かれていた。専門家は「名刺大の小さな史料だが、時代の息遣いが伝わる」と評価している。

 写真は2枚。和装姿の1枚は政変で明治政府の高官を辞職、下野した36歳ごろに撮影されたとみられる。別の1枚は実業家として活動していた30代後半~40代前半とみられる洋装姿で、横浜で著名な写真家が撮影したことを示す印がある。

 36歳ごろの写真の裏面には七言絶句が記され「国を治める権利は王室に帰し、幕府は一瞬で力を失った。現政府を始動できたのは一体誰の力によるのか。一書生の一筆によるのだ」との内容。


山口
講演会:古川薫さん、県の歴史語る 幕末~明治、英外交官の功績強調 /山口
 下関市在住の直木賞作家、古川薫さん(85)が県の歴史について語る講演会が14日、山口市秋穂二島の県セミナーパークで始まった。初回は、幕末から明治にかけて活躍した英外交官アーネスト・サトウ(1843~1929)と長州の歴史について解説した。

 県ゆかりの歴史人物を学ぼうと県ひとづくり財団が企画。市民ら約150人が聴講した。

 今ではフランシスコ・ザビエルが県内でキリスト教を布教したことは有名だが、ザビエルに布教を許した大内氏が滅亡した後、毛利氏の時代になると大内氏の実績について語ることが避けられたと古川さんは指摘。「ザビエルが県内で活動したことは幕末の日本では忘れられており、日本での宗教の研究をしていたサトウが明らかにして再び広まった」と功績を強調した。

 またサトウは伊藤博文や井上馨と交流があり、江戸幕府十五代将軍徳川慶喜の殺害や江戸城への攻撃が避けられたのはサトウの説得があったという。古川さんは「革命的な変化が日英貿易に与える影響を懸念した外交官としての側面もあるが、日本を愛していたサトウが日本人の将来を思った行動でもあった」と話した。【吉川雄策】
〔山口版〕


つなごう希望:東日本大震災 岩国藩鉄砲隊保存会、「恩返し」と福島へ義援金 /山口
◇福島・龍台寺、戊辰戦争で岩国藩士供養
 岩国市の岩国藩鉄砲隊保存会(32人)の村河多丸会長(67)と西村栄時前会長(70)が13日、岩国市役所を訪れ、東日本大震災の義援金5万円を福田良彦市長に託した。福島第1原発から20キロ圏内の福島県富岡町には、戊辰戦争(1868~69年)で戦死した岩国藩士を、地元の人々が手厚く葬り、供養を続けてきた龍台寺がある。村河会長は「敵だった藩士を丁重に供養し続けた地元の人々への恩返しになれば」と話している。今後、寺に対しても10万円を贈る予定。【大山典男】

 同寺には、奥羽越列藩同盟の相馬中村藩などと戦った岩国藩「精義隊」の藩士7人の墓がある。99年に墓の存在が新聞で紹介され、会員ら約30人が現地を訪れ、地元の人とともに供養祭を開いた。

 訪問時の会長だった西村さんは「亡くなったのは18~27歳の若い藩士。銃を捨てての白兵戦だった。地元の人々が墓所を清掃し、法要を欠かさなかったと聞き、感謝の念に満たされた」と振り返る。西村さんによると、震災後に寺に電話をしたが連絡が取れず、被害状況は不明という。このため、4月29日に開いた総会で会員から義援金5万円を集めたほか、寺の復興費として10万円を用立てた。保存会は「原発震災が落ち着いたら、手渡したい」と話している。福田市長は「市としても、連絡が取れるように努力をしたい」と応えた。

ブックレビュー
『日本人の叡智』磯田道史著  

 「書庫のなかでみた日本人の叡智(えいち)の蓄積は想像を絶するものであった。津々浦々に、けっして教科書には書かれない埋もれた人物が、山のごとくいた」。それら先人の思索のエッセンスを抽出し、煮詰めた贅沢(ぜいたく)な本。

 著者は今もっとも注目されている古文書学者。幕末の加賀藩士が残した膨大な文書を読み解いた『武士の家計簿』は映画化もされた。本書は朝日新聞土曜版に2年間連載された「この人、その言葉」の単行本で、戦国から昭和まで、有名無名98人の言葉が収録されている。

 古来、この列島は幾多の苦難に見舞われてきた。それを乗り越えていま、珠玉の名言が残る。その歴史に連なる現代日本人の言葉もきっと、後世に残るだろう。(新潮新書・756円)


『幕末維新に学ぶ現在2』山内昌之著
政治家の立ち位置とは

 死んではじめて役に立つ政治家というのがいるものだ。著者はさすがに誰それと名ざしこそしないが、(井伊大老のことは書いてなかったっけ?)読者にはごく自然になっとくできる仕組みになっている(『姉小路公知(あねがこうじきんとも)』)。

 政治家たちは意識的にも、無意識的にも過去の歴史を模倣する。明治維新の志士の場合は、鎌倉幕府を打倒して王政復古を実現した『太平記(たいへいき)』の世界だったし、現代日本の政治家の間では幕末の志士を気取るのが流行している。

 菅首相は高杉晋作が好きらしいし(『大楽源太郎(だいらくげんたろう)』)、小沢一郎氏はわが身を西郷隆盛になぞらえたと報じられている(『椋梨藤太(むくなしとうた)』『西郷隆盛』)。もと産経新聞に連載されたこのコラムはいきおい時評的な性格を帯び、話題が政権を取ったばかりの民主党に集中しているのも一興である。それが2011年3月17日掲載の『藤田東湖(ふじたとうこ)』から東日本大震災の影響が劇的に現れてくるのが見物(みもの)だ。

 山内昌之氏のこの近著は、歴史上の人物列伝の形を取りながら、幕末維新という激動に満ちた時代の歴史から、政治家が何を学ぶか、あるいは、何を学ばずにいるかをおのずと浮かび上がらせる。

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 「三月十一日に起こった東日本大震災とその被害規模は、この国の歴史を書き換える惨事であった。為政者は、こうした未曽有のカタストロフに遭遇して、まず自分が大きく歴史を転換させるモメントに立ち会っているという緊張感と使命感をもたなくてはならない」と著者は本書の「あとがき」に記している。

 ここで引き合いに出されているトゥキディデスの『ペロポネソス戦史』がいうように、現在歴史家に不可欠なのは、いま身のまわりに起きている出来事が当時としての《世界大戦》に発展するほどの大事件であると見ぬき、身を引き締めさせる洞察力である。歴史の現在時点を一瞬で知覚する能力である。

 この自覚は返す刀で同時代の政治家を叱咤(しった)するだろう。「今の日本の宰相はこうした歴史認識を十二分にもち自らの立ち位置を理解していると言えるのだろうか」(中央公論新社・1890円)

 評・野口武彦(文芸評論家)


JIN:ドラマ好調でコミックス4倍以上 完結3カ月で異例の「名作」入り
 幕末にタイムスリップした医師の活躍を描いた村上もとかさんのマンガ「JIN-仁-」のコミックスが、テレビドラマのヒットを受け、爆発的に売り上げを伸ばしている。累計発行部数は現在、680万部と第1期ドラマ化発表前のなんと4倍以上。5月には全20巻の重版が行われる予定で、初回平均視聴率が23.7%と今年の大河ドラマ(21.7%)を上回る好発進を見せた続編ドラマともども、今後どこまで売り上げを伸ばすか注目される。

 同マンガは00年4月に雑誌連載を開始し、コミックスはドラマ化発表前は、約150万部(14巻)だった。それがドラマ第1期終了までに310万部(16巻)を超えた。マンガ連載は10年11月に完結し、12月時点ではシリーズ累計530万部以上に達し、11年2月に発売された最終20巻でコミックスも完結し、現在680万部まで発行部数を伸ばしている。もともと巻数が少なかったり、部数がそれほど出ていない作品の場合は、映像化により部数が倍になることはあるが、巻数が10巻以上あり、平均して各巻10万部を売り上げている作品で、ここまで部数を伸ばした事例はあまりないという。

 マンガは、大学病院の脳外科医だった南方仁が、幕末にタイムスリップしてしまうSF医療ドラマ。満足な医療器具や薬もない状態で人々の命を救う中、坂本龍馬や勝海舟ら幕末の英雄と知り合い、激動する歴史に巻き込まれる……というストーリー。原作者の村上さんは、剣道に打ち込む若者の姿を描いた「六三四の剣」や、ドラマにもなった歴史大河「龍-RON-」でも人気を集めている。

 コミックスは3月以降、45万部以上の増刷を行い、5月には全巻重版が行われる予定で、6日には関連マンガも発売される。また、名作マンガを再編集しコンビニなどで発売する廉価版コミックス「集英社ジャンプリミックス」に5月以降登場することが決まっており、コミックス完結後3カ月で名作マンガ入りするのも異例となっている。(毎日新聞デジタル)


第15回手塚治虫文化賞、大賞は「JIN-仁-」「竹光侍」
第15回手塚治虫文化賞の受賞作が発表された。マンガ大賞に選ばれたのは村上もとか「JIN-仁-」と、永福一成原作による松本大洋「竹光侍」の2作品。

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「JIN-仁-」は2000年より2010年までスーパージャンプ(集英社)にて連載。現代から幕末の日本にタイムスリップした脳外科医が江戸の人々を救う医療マンガで、TVドラマがTBS系列にて放送されている。一方「竹光侍」は謎の浪人を主人公とした時代劇で、週刊ビッグコミックスピリッツ(小学館)にて2006年から2010年まで連載されていた。単行本は全8巻が発売中だ。

また清新な才能や斬新な表現に贈られる新生賞は「鋼の錬金術師」の荒川弘、短編賞は「パパはなんだかわからない」などで知られる山科けいすけが受賞。選考経過などは後日朝日新聞の特集面で紹介され、贈呈式は5月27日に朝日新聞東京本社で行われる。

手塚治虫文化賞はマンガ文化の健全な発展を目的に、朝日新聞社が1997年に創設。第14回は山田芳裕「へうげもの」がマンガ大賞を、「虫と歌」で注目を集めた市川春子が新生賞を、ヤマザキマリ「テルマエ・ロマエ」が短編賞を受賞した。


コラム
幕末から学ぶ現在
東大教授・山内昌之(113)岩松満次郎(上)

新田官軍の前奏曲

 上州新田郡下田嶋村の岩松満次郎と聞けば、群馬県人には失礼ながら幕末の土地柄といい、人物の名乗りといい、まるで大前田英五郎や山王民五郎もどきの侠客(きょうかく)を連想する読者が多いかもしれない。

 しかし、武士の家系でいえば岩松満次郎は貴種も貴種、清和源氏の流れをくむ足利と新田の2つの血の入った名家なのである。国定忠次や板割の浅太郎もどきの渡世人(とせいにん)とは格が違うのだ。ともかく、56人ほどの少数であっても新田官軍という勤王の旗を揚げ、幕末の風雲に乗じて一山当てようというのだから、いささか訳ありなのである。歴史好きの人間にはゾクゾクするほど好奇心をそそるといってよい。

 ◆ペーソスの漂う歴史劇

 それにしても、新田官軍というのは、聞きようによっては相当にうさんくさい旗印を掲げたというほかない。なにしろ、鎌倉幕府を倒した遠祖新田義貞の古例にならって「祖先勤王の遺志を変えず」に倒幕のために立ち上がったというのだ。皇室を中興し、義貞の志を貫きたいというのだから殊勝といえば殊勝なのである。

 とはいえ、勤王のために決起しながら、60人しか動員できないのは、ややペーソスの漂う歴史劇というほかない。

 新田官軍の基礎にあったのは、尊皇攘夷や倒幕といった明解なイデオロギーではない。むしろ、幕末に御家安泰と本領安堵(あんど)を願う点では、あれこれ右顧左眄(うこさべん)しながら明治新政府に従った多くの弱小藩と変わらない平凡さである。

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 変わっていた点は、岩松家が交代寄合(こうたいよりあい)であり、それもわずか120石を受けたにすぎない可笑(おか)しさくらいであろう。通常ならば3千石以上の高級旗本であり、参勤交代を義務づけられた交代寄合が120石というのは奇妙である。

 岩松家のような小禄(しょうろく)の家でありながら、毎年12月に参府し正月3日に将軍に年始の礼をおこなった家も珍しい。それは、岩松家が徳川将軍家と同じく新田氏の血脈を受け継いでおり、その家系が江戸幕府の正統性につながっていたからである。言い換えれば、岩松の殿様は代々満次郎を称して、江戸時代をともかく無事にやり過ごしてきたのだ。

 ◆猫絵を生活の手段に

 幕末ともなれば、上州の養蚕業の敵であった鼠(ねずみ)退治のために岩松こと新田の殿様が猫の絵を描いて生活のたつきを得ていた。これは、落合延孝氏の好著『猫絵の殿様-領主のフォークロア』(吉川弘文館)に詳しい。その際に、幕府に対しては、はばかって岩松満次郎を名乗っていた殿様が商売ともなれば霊験あらたかにと念じたせいか、新田姓をずうずうしく使っている。

 そこで新田官軍の旗を揚げた当主の満次郎は、新田俊純という実名(じつみょう)や「新田義貞嫡宗(ちゃくそう)源俊純」などと大層な名を付した絵を後世にたくさん残すことになった。この新田猫がなかなかの貫禄と風格なのである。幕末に日本にやってきた外国人たちも新田の猫絵を重宝して買い求めたという理由もうなずけるほどなのだ。

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 しかし、ここでは新田俊純ではなく岩松満次郎というはるかに土着的な存在感のある名前のほうが好ましい。何といっても、微禄とはいえ徳川家康のおかげで家名を残せた家にとって、江戸幕府を倒そうという物騒な尊皇攘夷運動は乗りようもないほど狂気の沙汰なのであった。このあたりが野口武彦氏の連作「幕末バトル・ロワイヤル」の最新著『慶喜の捨て身』(新潮新書)に書かれているのも実に嬉(うれ)しい。

 それでも、後醍醐天皇による建武の中興をもたらした忠臣の末裔(まつえい)とあれば、幕末に何もしないわけにはいかない。昨日まで佐幕を信奉していた岩松の殿様も、中山道のかなたからピーヒャラピーヒャラと「宮さん宮さん」を奏でる笛が聴こえてくるともういけない。まるで、昨日までマニフェストは国民との約束と言って、子ども手当の実行を墨守していた民主党が大震災復旧の財源難を理由とするかのように、政権公約をあっというまに反故(ほご)にしそうな勢いにも似た思い切った動きをすることになる。(やまうち まさゆき)



【プロフィル】岩松満次

 いわまつ・まんじろう 本名・俊純(としずみ)。文政12(1829)年、上野国(群馬県)に120石の交代寄合の長男として生まれる。安政元(1854)年に家督相続。慶応4(1868)年、新田官軍を組織して倒幕運動に参加。維新後は新田に改姓し、明治17(1884)年、男爵となる。27年に死去。




幕末から学ぶ現在
(112)国司信濃、眉目秀麗の勇者 東大教授・山内昌之

“名利に恬淡(てんたん)な人”や“無欲恬淡”という言葉がある。しかし、わざわざ“名利に恬淡としない人”や“無欲恬淡でない人”とは言わないだろう。しかし、菅直人首相の驚くべき粘り腰を見ていると、思わず“無欲恬淡でない人”と言いたくなる読者もいるのではないか。

 山口県出身の菅氏を見て、目元涼しく“無欲恬淡”だった国司信濃をつい思い出したのはなぜだろうか。いまも残る写真や肖像画を眺めると、眉目秀麗で挙措典雅な青年武将の姿が浮かび上がる。写真の残る幕末人の中でも、美丈夫ぶりでは会津藩主の松平容保(かたもり)と双璧であろう。

文武に兼通し和歌も能くす

 苗字(みょうじ)は「くにし」であり、「こくし」とは読まない。もともと室町幕府の高師直(こうのもろなお)につながる家系で、安芸国に本貫地があった。長州藩で一門八家の次に位置する寄組(よりぐみ)の家系であり、高杉晋作や桂小五郎らの大組よりも高い家柄の生まれである。

 やがて禁門の変で三家老として一緒に自刃する福原越後や益田右衛門介(うえもんのすけ)は永代家老の身分であったが、国司の家は5600石の高禄ではあっても、信濃が家老になったのは当人の才覚によるものだ。『大人名事典』(平凡社、1・2巻)の表現が信濃のプロフィルをいちばん無駄なく伝えている感がある。「人となり姿儀(しぎ)端正にして胆略あり、文武に兼通し最も和歌を能(よ)くした」と。

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 実際、辞世となった2首はいずれも読む者の感動を誘う和歌である。

 「よしやよし 世を去るとても 我が心 御国のために なほ尽(つく)さばや」

 「君がため 尽せや尽せ をのが此(こ)の いのち一つを なきものにして」

 君のために尽くしても尽くしきれない私のこの命であり、ひとりの命であるが投げ出そうではないか。このほとばしりは、文久3(1863)年4月に赤間関(あかまがせき)(下関)奉行になって、関門海峡を通る外国船を久坂玄瑞らと一緒に攻撃したことにも表れている。

名門重臣が攘夷派の先鋒

 長州藩の面白いのは、国司・益田・福原といった名門重臣が攘夷(じょうい)派の先鋒(せんぽう)でもあったことである。国司信濃は、「八月十八日の政変」で長州藩が京都から追放されると、益田右衛門介や福原越後とともに久坂玄瑞や来島又兵衛らの兵を率いて上洛した。

 幕末には俗にいう絵になる光景も多いが、元治元(1864)年7月に嵯峨天龍寺から禁裏の中立売御門(なかだちうりごもん)に向けて馬上爽やかに隊列を指揮した国司信濃の総勢800の部隊は士気も横溢(おういつ)していたことだろう。しかし、会津藩と桑名藩に加えて薩摩藩の精兵が防御する御所の守りは堅く、蛤(はまぐり)御門での来島の戦死、堺町御門で斃(たお)れた久坂の自刃などで信濃の兵も退却を余儀なくされた。

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 御所に銃弾を撃ち込んだ長州藩の度胸は凄(すご)い。しかし、これが譴責(けんせき)されずに済むはずがない。やがて朝廷が幕府に長州征討の勅命を下すと、三家老は恭順を示す俗論派によって幽閉された。国司信濃はじめ三家老の責任の取り方は見事であった。なかでも信濃の切腹は壮絶を極め、割腹後もすぐに介錯(かいしゃく)を受けず、気管部に刀を刺して喉(のど)をかき斬る覚悟の死であった。

心情を語らず責任を取る

 その凄愴(せいそう)ぶりは、藩主の黒印状で出兵しながら藩の政策転換で死を賜(たま)わる無念さと憤りに由来するのだろうか。しかし、信濃は心情を語ろうともしない。このあたりは、口数だけ多い割にさっぱり責任をとらない当節の政治家にはまねのできない点である。

 萩にある三家老の墓は歴史好きの観光客の人気スポットらしいが、私はまだ出かけたことがない。なかでも国司信濃の墓前では、手を合わせる若い人の香華が絶えることはないらしい。やはり23歳で早世した美男子はいつの時代でも人気が絶えないのだ。(やまうち まさゆき)



【プロフィル】国司信濃

 くにし・しなの 天保13(1842)年、長州(山口県)生まれ。文久元(1861)年、大組頭役、3年に家老となる。同年の「八月十八日の政変」で京都から追放された藩の失地回復を図り、元治元(1864)年、兵を率いて京都入りするが、会津と薩摩などの兵に敗れる(禁門の変)。帰藩後は幕府恭順派により幽閉。同年、謝罪のため藩命により切腹した。享年22。


幕末から学ぶ現在
(111)東大教授・山内昌之 伊達千広

■危機の時代区分とは

 かつてキリスト教徒がイエスの生誕を西暦紀元の端緒とし、イスラム教徒が預言者ムハンマドのメッカからメジナへの移住すなわち「聖遷(せいせん)」をヒジュラ暦元年としたように、歴史には時代を新たに開くほどの「画期」が存在する。英語でいうエポック・メーキングにほかならない。大震災は、かつての「戦前」「戦後」と同じく、「震災前」「震災後」あるいは「災前」「災後」という時代を大きく画する大事件となった。

史書『大勢三転考』著す

 幕末の日本には、日本で時代区分をほぼ初めて試みた史書が現れている。紀州藩重役の伊達千広が嘉永元(1848)年頃に書いた『大勢三転考(たいせいさんてんこう)』である。これは『日本思想大系48・近世史論集』(岩波書店)や『日本の思想6・歴史思想集』(筑摩書房)で読むことができる。

 伊達は後に外務大臣となる陸奥宗光の実父であった。日清戦争前後の複雑な情勢を『蹇蹇録(けんけんろく)』にまとめた陸奥は、歴史への関心を父から受け継いだのかもしれない。

 伊達千広は、上古から徳川幕藩体制の成立に至る歴史が、「加婆禰」つまり「骨(かばね)」の時代、「都加佐」すなわち「職(つかさ)」の時代、「名(な)」という大名や小名の時代といった具合に、大きく「三転(みうつり)」、つまり3回変わったとする。

 「骨の代」とは、同じ祖先から出た血族、つまり「骨」が世襲的に土地を領有した時代を指す。国造(くにのみやっこ)・県主(あがたのぬし)などの「かばね」を主軸に政治が行われた時代である。しかし、やがて「領(し)めたる土地」から取れた生産物を「己が物」と勝手に私有し、朝廷への貢租(こうそ)を怠り天皇の権威はないがしろにされた。そこで、冠位十二階の制度や十七条の憲法から大化の改新にかけて、世は「職の代」へ移ったというのだ。

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 「つかさ」の時代は、7世紀末の天武・持統朝から8世紀の大宝律令で完成し、「部曲(かきべ)の民」(私有民)や「田荘(たどころ)」(私有地)は廃され土地はすべて公田と定められたのである。「骨の代」には特定の官職を世襲した氏族の統率者が、同時に官職を通しても国政に参与していた陋習(ろうしゅう)が「職の代」に改められ、政治を定める律令や世襲化されない官職の保有者が権力を担った。

 これを変えた源頼朝の武家政治は、大名・小名が土地を領有する「な」の時代つまり「名の代」を始めたと解釈される。これは、権力の基礎が官職から「兵権」すなわち軍事力に変わる時代を指した。

「時勢」が社会変動起こす

 「骨」から「職」の時代への変化は、「上の御心(みこころ)」(上からの改革)で実現したのに対して、「職」から「名」の時代への変動は「下より起りて」(下からの革命で)進行したのだった。伊達千広は、2つの大変動を社会の深部で用意した素因として、人智(じんち)ではたやすく測りがたい「時勢」という力をあげている。

 いやしくも為政者であるなら、「時の勢をさとらず、ひたぶる旧習に執着する」ことは赦(ゆる)されない態度であり、「膠柱(こうちゅう)の論」と呼ぶべきなのだ。「膠柱の論」とは、琴柱(ことじ)に膠(にかわ)して瑟(しつ)をひくように、応用や融通のきかない空論のことであろう。

 時勢の移り変わりを洞察しながら、臨機応変に事態に対処し、しかるべき良策を立てる仕事こそ、為政者のつとめなのである。この議論は、古代ギリシャのトゥキディデスや漢の司馬遷の時代から現代まで、どの国の政治でも立派に通用する歴史の言説といえよう。

 『大勢三転考』は、鎌倉幕府に始まった「名の代」が、信長の「はかなき夢」の挫折や、秀吉の「馬を花山に放ち賜ふ心」(戦いをやめる気持ち)の欠如などで天下の騒乱を経験しつつも、徳川政権の全国統一によって確固たる施政になったと述べ、「国家」史の論を堂々と締めくくるのだ。「大小の国々、心一つに和順(まつら)ひ、大平無事の御代(みよ)となりて、名の代の大制度、こゝにして盛大なり」と。

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現代に預言者的響き

 しかし伊達千広の謳歌(おうか)した「名の代」も、やがて欧米の外圧を受けて明治維新とともに瓦解(がかい)する運命にあった。それを彼に自覚させたのは、名の代の安定が崩れる徳川末期の「国家」をめぐる危機意識だったのだろう。

 伊達千広は、日本史で歴史の名著を書いた慈円や北畠親房(ちかふさ)のように、「国家」史の急激な変動に際会した結果、危機に鋭く反応した人物ともいえよう。この意味では、そもそも「国家」とは何かを真摯(しんし)に思惟(しい)したことのない首相たちが現れている現在、新しい「名の代」とは何かを鋭く問おうとした『大勢三転考』のメッセージは、危機の現代に預言者的な響きをもって甦(よみがえ)るのである。(やまうち まさゆき)

                   ◇

【プロフィル】伊達千広

 だて・ちひろ 享和2(1802)年、紀州藩士の家に生まれ、国学者の本居大平(もとおりおおひら)の下で学ぶ。文化13(1816)年に藩主徳川治宝(はるとみ)に小姓として登用され、信任を得て重職を歴任するが、治宝の死により失脚。約10年間蟄居(ちっきょ)を命じられる。文久2(1862)年、脱藩し尊皇攘夷(じょうい)運動に参加。維新後は実子の陸奥宗光のもとに身を寄せ、明治10(1877)年、東京で死去した。








 代パネの市馬師狙い。浅草演芸ホールは初めて。鈴本や池袋に比べると、落語初めてというお客さんが多いような印象。

【昼の部】
15時45分ごろから入る。立ち見席もギュウギュウ。
きく姫/漫談
小円歌/三味線漫談&奴さん
木久扇「彦六伝」

【夜の部】入れ替わり後、客はぐっと減ったけど、出演者のラインナップはなかなか粒ぞろいだったと思う。

柳家いっぽん「道灌」
身体が大きくて声が大きい。

柳亭こみち「やかん」
女流の中では一番うまいと思う。知ったかぶりの先生のような役でも女性が無理に演じているという気がせず、安心して聴ける。

柳家喜多八「筍(皮いや)」
わーい、去年『喬太郎の粋ダネ!』で喜多八師「筍」を聴いて気に入っていたんだよね。隣の家の竹藪から越境して生えてきた筍を「無礼討ち」にして茹でて食べちゃう。それを、武家らしい口上でトンチ合戦するという噺(説明になってない?^_^;)。一年中筍の水煮が食べられる現代と違って、旬の短い筍がいかにご馳走だったかを伺わせるなぁ。ダジャレ尽くしのサゲが楽しい。

ぺべ桜井/ギター漫談
希少な(希少生物として保護が必要?)ギター漫談。

柳家三之助「初天神」
パワフルな「初天神」。演じ手によってはこまっしゃくれたガキんちょが小憎らしく感じられるのだが、今日は笑って楽しめた。

柳家さん吉/漫談
今日出演の落語家さんに関する噂話。

(中入り)

昭和のいる・こいる/漫才
お互いに呼吸を外し合う芸風に慣れてきました。寄席でなければ聴けない、昭和レトロな漫才もいいものですね。

柳亭燕路「狸の札」
小さんに似ている風貌からか、「狸札」はとてもニンに合ってる^_^;。

扇橋「つる」
高座に上がって喋っているだけで芸だと思う落語ファンも多いんだろうな……でも、今日はご隠居と八っつぁんの場面と、ハっつぁんとたっちゃんの場面が混沌としてて(華厳の滝汗)……さらに首長鳥が「つる」と呼ばれるようになった由来の仕込みがなく(イグアスの滝汗)て……何がなんだかわからんうちに終わってしまいました。

仙三郎社中/太神楽
相変わらず「寄席の吉右衛門」の土瓶芸は絶品です。

柳家小満ん「浮世床」
安定して楽しめる小満んさん。ひょっとして「浮世床」を生で聴くのは初めてかな。時間の関係で「てぇこうき(太閤記)」を読み聞かせる場面ははしょりにはしょり(まがらじふらふ、じふらふ……のとこだけ)、建具屋の半ちゃんの色恋噺だけだったけど、やっぱり盛り上がるなぁ。

(中入り2)

柳亭左龍「家見舞」
食いつきで中入りから何かしら食べているお客さんにはちょっとな下肥ネタ^_^;、左龍さんは何聴いても安定していると思います。落語会のパパイヤ鈴木は言い得て妙。

花島世津子/マジック
ちょっとボケが入ったキャラが楽しい女性のマジック。日経新聞を裂いて裂いて丸めて、広げたらスポーツ新聞になっていたというマジックはおもしろかった。

はん治「ぼやき居酒屋」
抜群に面白いと思ったら、三枝の新作落語なんですね。金馬の「居酒屋」も好きだし、それをパロった談笑の「イラサリマケー」も大好きなんだけど、これも完成度高いと思う。

小里ん「碁どろ」
わーい、初の「碁どろ」。碁を打つ、煙草を飲む、泥棒に入る……仕草も多彩で、これは生で楽しむ作品だなとつくづく思った。

大瀬ゆめじ・うたじ/漫才
ひとりが杖ついて登場。12月24日の夜に渋谷で呑んでいて、転んで足首を骨折したそうです。救急車で搬送され、入院し、元日寄席に車いすで出演し、次は松葉杖、歩行できるようになってステッキ←今ここ^_^;。相方がタキシードっぽい正装なちぐはぐさもおもしろい。

歌之介「爆笑龍馬伝」
うーん、二度目なのに、なんでこんなに爆笑できるんだろう。龍馬の話はほとんど聴けなかったが、森元首相の話のとこだけで顔面が崩落するほど笑った。

正楽/紙切り
挨拶代わりの「相合い傘」の後、客席からのリクエストに応えて「ロイヤルウェディング」「雷門」「鯉昇り」。

市馬「松曳き」
小三治師の代バネ。落語協会会長から副会長への代演依頼ですね。「歌を聴きにきたんだよ〜」みたいな声も客席から上がったが、今日は歌の入る余地がなかった模様^_^;。
どんな人も上がってしまうととんでもないことをするというマクラ。
殿様が植木屋の八五郎を招いて話す場面は「妾馬」に似てるんだな。でも田中三太夫の勘違いで殿様をあたふたさせるって……何となく他人事ではないような^_^;。
 去年の定連席チケットは紙の綴り券だったのですが、今期はバーコード付きのプラスチックカードに。
 菊六「あくび指南」の途中で会場に着いたので、ロビーでおにぎり食べて、三三「おしくら」から客席へ。

「おしくら」柳家三三
 「この後は歌う副会長が控えてるんで」と挨拶(……でも副会長は「厩火事」では歌うところがありませんでした^_^;)。
 江戸から旅に出てきた「八熊の文五郎」三人組(八五郎・熊五郎・文五郎)が小田原で目当ての宿探しに大騒ぎし、宿に入ってからは飯盛り女買いをめぐって一騒動。
 うーん、私がうまくシンクロできなかったのか、今日の三三師匠にはあまり笑うところがありませんでした。

「厩火事」柳亭市馬
 市馬さんが入門する前に亡くなった、小さん師匠のおかみさんと師匠の夫婦喧嘩のエピソードがまくら。何度も聴いているのに、遊んで夜中に帰宅した師匠を玄関で箒を逆さに立てて待ってる女将さんが「盛夫!!」と怒鳴るところ、そして二階で取っ組み合いの喧嘩を盛大にした挙げ句に男の悲鳴で終結するというところで、笑っちゃう。
 そして、自分より七つも若い夫を持った、おさきさんの女心。今はいいけど、歳を取ったら夫が若い女に気を移すのではないかと気を揉むところなんか、よくわかるなぁ。

「人生が二度あれば」春風亭昇太
 落語研究会で昇太さんが新作をかけるのは初めてだそう(新作少ないもんね、2月に志の輔さんが「はんどたおる」やったけど)。客席の会話でも「新作なんか初めて聴く」って声が聞こえてきたので、客席の反応がどうかちょっと心配に。
 でも、50歳を過ぎて自分の若作りが痛々しくなってきたとか、最近ちゃんと朝ご飯をつくって食べているけどそれは朝食後に高血圧の薬を飲むためとか、平均年齢の高い聴衆に受けるマクラを振って、何度も爆笑させたのはさすが。
 「人生が二度あれば」と過去を悔やむ老人の前に「ちぃぃーーっす!!」と現れた松の精の喋りも結構受けてました。
 考えてみたら、昇太師の新作は初めて聴くにしても、この聴衆には「笑点のちび師匠」でおなじみだったんだ^_^;。
 私も楽しみました!

「中村仲蔵」柳家小満ん
 この噺、好きです。小満ん師匠のは、仲蔵が妙見様へのお参りの帰りに雨に降られて飛び込んだ蕎麦屋に入ってきた旗本崩れの浪人が鮮やかに描かれていたと思います。その結果、斧定九郎の役作りに工夫をこらして演じた舞台も目に浮かぶよう。





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