新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
三遊亭白鳥の落語をダウンロードして楽しんでいるのはいいんだけど、電車の中でとか、書店でとか、いきなり吹き出してしまい、廻りにざっと引かれてしまうのは困りものです(苦笑)。
岩手
観音堂再建で結束 岩泉で一揆中心人物示す木板確認
兵庫
京都・龍馬の足跡をたどる
島根
教育に尽力、松江藩/幕末の資料紹介
山口
花ショウブ:雨に映える--下関・東行庵 /山口
高知
生まれたまち記念館30万人
長崎
私が「おりょう」なりきりお見事
龍馬ぐっと身近に、感動・発見 地元ガイドと歩く
エンターテインメント
今秋、再び『薄桜鬼』第二期
TOKYO MXでは次回が最終回です。第二期も楽しみです。
コラム
質問なるほドリ:奇兵隊はどんな組織だったの?=回答・取違剛
岩手
観音堂再建で結束 岩泉で一揆中心人物示す木板確認
江戸時代末期、盛岡藩で起きた国内最大級の一揆「三閉伊一揆」の中心人物とされる安家村俊作らの名前を、岩泉町安家字大平の観音堂などの再建協力者として記した木板が町内に保存されていることが分かった。観音堂の再建は一揆の前年で、専門家は「一揆前の中心人物の動きを示す貴重な史料」と評価。今年は俊作の生誕200年に当たり、町は一揆の講演会を開くなど郷土の歴史に光を当てている。
木板が確認されたのは、観音堂と天照(あまてらす)大(おお)神(みかみ)をまつる神明堂を納めたさや堂。壁にくぎで打ち付けられた板に、1846(弘化3)年の再建の際の寄進者名の一覧と寄進額が墨で書かれていた。再建を記念した棟札なども確認された。
縦50センチ、横約170センチの板には安家村俊作を示す「林ノ下 俊作」のほか、一揆の中心人物である淀屋敷の忠太郎の父「定助」、大鳥の辰之助の父「甚五郎」ら100人以上が名を連ねている。
本紙で「幕末維新を駆けた男たち 南部三閉伊一揆」を連載し、木板を調査した民族芸術研究所(秋田県仙北市)の茶谷十六さんは「観音堂再建などを通して、一揆の中心人物らが結束を固めていた様子が分かる史料」と指摘。
当時、再建するだけの財力があったことから「三閉伊一揆が、凶作による困窮を前提としたのではなく、政治、経済体制の変革を要求する民衆運動であったことを立証する貴重な史料だ」と語る。
三閉伊一揆は、盛岡藩の度重なる重税に耐えかね、1847(弘化4)年と1853(嘉永6)年に沿岸地方の民衆が決起。嘉永の一揆では「小○(困る)」ののぼり旗を立て、仙台藩に越訴するなどの戦術で、49カ条のうち39の要求を認めさせた。
岩泉町は今年、俊作の生誕200年を記念し、11月まで計5回の講演会を開いている。伊東勝幸教育委員長は「地元では三閉伊一揆に対する理解がまだ進んでいない。人口減少が続く中、自分たちの古里に誇りを持ち、厳しい時代に頑張っていくという気持ちの高揚のきっかけとしたい」と語る。
安家村俊作とは 1810(文化7)年、安家(現岩泉町安家)に生まれた農民。弘化の一揆では盛岡藩への願書案文を執筆するなど中心的な役割を果たした。弘化の一揆後は、捕らえられて下北半島に流された。嘉永の一揆後は解放され、北海道に移住した。
【写真=三閉伊一揆の中心人物とされる安家村俊作を示す「俊作」の名前が入った木板を調査する茶谷十六さん】
兵庫
京都・龍馬の足跡をたどる
「竜馬は京に入った。京は雨である」。昭和の日本に坂本龍馬ブームをもたらした司馬遼太郎の「竜馬がゆく」(文春文庫)の中で、龍馬と京都のかかわりには雨がつきまとう。龍馬が凝縮した時を過ごし、満32歳で最期を迎えた京都は今、大河ドラマ「龍馬伝」の影響で空前のブームに沸く。雨の一日、龍馬の足跡をたどりませんか。(竹山栄太郎)
幕府側に命を狙われた龍馬が身を隠し、龍馬が率いた海援隊が屯所(本部)を置いた酢屋(京都市中京区)は、1721(享保6)年創業の材木商。今も同じ場所にある。1階でおわんなどの木製品を販売し、2階で龍馬関係の資料を展示する。当時の主人・6代目酢屋嘉兵衛の玄孫にあたる10代目の中川敦子さんは「龍馬をかくまうのは大きなリスクだった。6代目は何か心に響くものを感じ、決断したのでは」と話す。
龍馬には、酢屋の2階から、向かいの高瀬川の舟入(船着き場)に向けてピストルの試し撃ちをしたという伝承がある。中川さんは「6代目は、人の迷惑も考えんとなんちゅうことするんや、と思ったでしょうね」と苦笑いする。
酢屋がある河原町三条の一帯は今、飲食店やカラオケ店などが立ち並ぶ京都一の繁華街。しかし、酢屋に代々受け継がれた「木は売っても龍馬は売るな」という言葉に従い、中川さんは家を守ってきた。
1867(慶応3)年11月、龍馬は醤油(しょう・ゆ)商・近江屋で中岡慎太郎とともに刺客に襲われ、亡くなった。
「この夜、京の天は雨気が満ち、星がない」(竜馬がゆく)
遺体は海援隊隊士らにより約1・5キロを運ばれ、倒幕派志士の墓所に葬られた。現在の京都霊山護国神社(同市東山区)だ。
「ここは龍馬を感じられる場所です」。5代目宮司の木村隆比古さん(45)は2人の墓の前で話す。京都は学生の街でもある。6月には墓参りの大学生の姿が目立つという。「慣れない街で苦しさや望郷の念を感じたとき、龍馬の生涯を思って自分を奮い立たせるのでしょう」
中川さんも毎月、龍馬の墓参りを欠かさない一人だ。
◇記者ナビ◇
千年の都・京都に住む人々にとって、幕末は「ちょっと昔の話」。とはいえ、新しい日本を目指して奔走した若き志士たちは人をひきつけてやまず、ゆかりの地は京都の大きな観光資源の一つだ。10月22日に開催される京都三大祭りの一つ・時代祭の行列にも、龍馬ら志士たちが登場する。
龍馬にとって京都は、薩長同盟、大政奉還という目標を達し、お龍と出会い、生涯を終えた場所。しかし、当時のまま残る龍馬関係の史跡は意外と少ない。道の端に建つ石碑がなければ、歴史の舞台だとは想像できない場所もある。
それでも、龍馬の足跡をたどって京都を歩くと、誰もが知る幕末の英雄を身近に感じ、感慨深かった。
◇アクセス◇
京都霊山護国神社へは、JR京都駅、京阪祇園四条駅、阪急京都線河原町駅から市バスに乗り、東山安井バス停で下車、徒歩10分。酢屋へは、阪急河原町駅、市営地下鉄東西線の京都市役所前駅から徒歩5分、京阪三条駅からは徒歩3分。河原町三条の交差点を南に進み、1本目の通り(龍馬通)を東に入った北側にある。
島根
教育に尽力、松江藩/幕末の資料紹介
◆26日には「藩校サミット」/松江郷土館◆
松江藩が財政難を克服するため教育に投資し、明治期の産業革命の土台をつくった「松江の教育」を紹介する企画展が、松江市殿町の松江郷土館で開かれている。全国でも有数の教育先進藩だったことを示す、江戸から明治初年までの藩校・私塾・寺子屋関連の資料130点を展示している。26日には、「第9回全国藩校サミット」が同市内で開かれる。(藤井満)
松江藩は財政危機に陥った6代藩主・松平宗衍(むね・のぶ)の時代、人材を育成するために武家の教育機関である「藩校」を創設した。毎日午前7時から午後5時まで授業があり、漢学や洋学、医学を教えた。9代藩主・斉貴(なり・たけ)は洋書を数千冊取り寄せ、藩校でフランス語やオランダ語も学ばせた。
松江藩の医学教育は特に進んでいたとされ、長崎のシーボルトのもとに留学して、当時最先端医療だった乳がん手術を実施する医師も現れた。
また城下各地には「私塾」も開かれた。雑賀町の培(ばい)塾などは特に有名で、「平民宰相」と呼ばれた若槻礼次郎首相らが輩出した。庶民の子どもが読み書きや、そろばんを習う「寺子屋」は城下に50カ所以上あったという。
企画展では、シーボルトから授与された修業証書や杉田玄白の「解体新書」の5冊セット、1890(明治23)年に教育勅語が発布される以前に使われた、福沢諭吉がヨーロッパの書籍を翻訳して作った道徳の教科書なども展示している。
安部登館長は「幕末の日本は世界一の識字率。そういう教育の底力があって、短期間で産業革命を成し遂げた。当時の人々の教育への強い意気込みを見習うべきです」と話す。無料。10月3日まで。
「全国藩校サミット」は26日午後1時15分から、松江市西津田6丁目の市総合文化センターで開かれる。全国51の旧藩の藩主の子孫や藩校の研究者らが集う。
問い合わせはサミット実行委員会事務局(0852・55・5632)へ。
山口
花ショウブ:雨に映える--下関・東行庵 /山口
下関市吉田の東行庵で花ショウブが見ごろを迎え、美しく雨にぬれている。幕末の志士、高杉晋作(1839~67年)の菩提(ぼだい)寺で、花鳥風月を味わえる庭園に100種6000株が咲いている。
宇部市出身の菅直人首相が新内閣を「奇兵隊内閣」と命名。折からの幕末ブームと相まって、晋作や奇兵隊にも注目が集まる。今月オープンした東行記念館では所蔵品展「幕末維新期の下関」も開かれている。【取違剛】
高知
生まれたまち記念館30万人
坂本龍馬が生まれ育った幕末の町並みなどを紹介する高知市上町2丁目の市立龍馬の生まれたまち記念館の入館者が19日、30万人を突破した。
30万人目になった山形県酒田市の団体職員、小林英夫さん(62)と妻礼子さん(58)に龍馬にちなんだ記念品などが贈られた=写真。英夫さんは「びっくりした。龍馬のことは若いときに読んだ本で覚えている」と喜んでいた。
同館は2004年3月に開館。昨年は年間で過去最高の約7万1千人が入館し、同年8月に20万人を突破した。今年は5月までで約3万6千人が入館。昨年を上回るペースで増えている。上野和英館長(60)は「今年は平日でも団体客を乗せたバスがやって来る。今年中に35万人突破を達成できればありがたい」と話した。
長崎
私が「おりょう」なりきりお見事
長崎で龍馬フェスタ
長崎龍馬会などが20日、「ながさき龍馬フェスタ」を長崎市の市公会堂で開いた。幕末の志士に扮する「なりきりコンテスト」などのイベントがあり、約800人が訪れた。
コンテストには、県内外から11組30人が参加した。龍馬の妻おりょうに扮した島原市の島崎理恵さん(31)=写真=がグランプリに輝いた。島崎さんは「約15冊の本を読んでおりょうを研究し、京都の友人に京都弁を教えてもらった成果が出ました」と話した。
龍馬ぐっと身近に、感動・発見 地元ガイドと歩く
その土地に住む人の案内で観光地を歩くという旅のスタイルが広がっている。隠れた名所や逸話を教えてもらったり、ガイドのもてなしの心にふれたりしながら、訪れた地域をより身近に感じられるのが魅力のようだ。
長崎
威風堂々たる坂本龍馬の銅像が、日差しに照り輝く長崎湾を見下ろしていた。
長崎市の中心部からバスで10分ほど、風頭山を訪れたのは6月9日だった。
「長崎さるく」と銘打った同市のガイドツアーのうち、幕末の志士たちの軌跡をたどる「龍馬が見上げた長崎の空」というコース(参加費500円)に同行した。
「左足が台座からはみだしているでしょう。これには意味があるんですよ」
ガイドの松尾修さん(67)が指さす方を見ると、龍馬像のはかまのすそからのぞくブーツの先が台座から少し出ている。龍馬の、物事にとらわれない性格や進取の気性を表しているそうだ。
放映中のNHK大河ドラマ「龍馬伝」のファンだという西田美香さん(21)、山本真世さん(21)は「龍馬はかっこいい」と感激。2人とも長崎市で生まれ育ったが、風頭山を訪れたのは初めてという。
像の後ろではためいていた、白地に2本の赤い線を配した旗は、龍馬が率いた「海援隊」の船印だ。「この赤を黄色にしたら何でしょう。プロ野球ソフトバンクホークスの球団旗です」。松尾さんの解説に、福岡市から参加した前田美穂さん(30)も「へえ~」。
龍馬も食器として愛用した亀山焼の窯跡を見ることができたのは幸運だった。公民館の1階駐車場にあり、シャッターが閉じられていることが多いが、この時はたまたま開いていたのだ。駐車場にいた近所の女性が、さるくガイドの黄色いTシャツを着た松尾さんに、「よかったら見て行って」と声をかけてくれた。中に入ると、一角に窯跡の一部が露出していた。
龍馬が創設した日本初の商社「亀山社中」の建物を復元した記念館では、龍馬の妻お龍が得意だったという月琴をスタッフが爪弾いてくれた。この後、参加した面々は、月琴を手に、龍馬にふんする市のスタッフと一緒に写真に納まった。
「地域の人と思わぬふれあいがあり、一人でも楽しいですね」と前田さん。約2時間半のツアーを終え、西田さんは「いろんな発見があり、地元のことをもっと知りたくなった」と話した。
「歩く」という長崎弁「さるく」にちなんだガイドツアーは、2006年4~10月に長崎市内で繰り広げられた「まち歩き博覧会」を機に始まった。現在は35コースあり、昨年度は3万3000人余りが参加。約420人のボランティアガイドが支えている。松尾さんはその一人。「長崎の歴史や人情を知ってもらえたらうれしい」と力を込めた。
山口・仙崎
童謡詩人・金子みすゞの出身地、山口県長門市仙崎では、毎週日曜午後1時から、JR仙崎駅を拠点に、地元ガイドがゆかりの地を案内するツアー(予約不要で無料)が行われている。
ボランティアガイドの上田義人さん(78)の案内で、約3キロ、2時間のコースを歩いてみた。あちこちの民家や商店の軒先に、みすゞの詩を書いた板が掲げられている。10年ほど前、市や市民の有志が板を配り、それぞれ好きな詩を書いてもらったという。
地域の神社や八百屋、祭りなどを表現したみすゞの詩を、住民は身近に感じているようだ。
〈……みんなちがって、みんないい……〉。銀行のシャッターには、有名な詩「わたしと小鳥とすずと」がイラスト付きで書かれていた。夫との離婚話が出たつらい時期の作品だと聞かされた。
「詩を書くみすゞと、商売を営む夫。お互いを認め合いたいという思いが込められていると専門家は解釈しています」と上田さん。
ツアーに加わった松本裕美子さん(57)(山口県防府市)は「仙崎は何度も訪れているけれど、初めて知ることばかりでした」と話した。
鹿児島・指宿
かつお節工場では製造工程を見学できる(指宿市の「大丸鰹節」で)
鹿児島県指宿市の旧山川町では、「いっど、いっが、山川港の会」(岡村利行会長)が昨年4月、まち歩きガイドを始めた。
かつて薩摩と琉球の交易拠点として栄え、中国から琉球を経て甘藷(サツマイモ)が伝わったという逸話が残る町だ。そうした歴史や文化について住民らが勉強を重ね、四つの案内コースを考え、14人のガイドを養成した。
このうち「琉球ゆかりの地」コースでは、琉球から伝わり同地区に点在する魔よけの石碑「石敢當」などを見て歩く。
「地元食紹介コース」ではかつお節工場などを訪ねる。削り節と味噌にお湯や茶を注いで飲む「茶ぶし」の試飲や、伝統のちまき「あくまき」や大根を甕漬けする「山川漬」の試食も。
試飲や試食の内容は季節や時間帯で変わり、実費が必要な場合もある。ツアーの参加費は300円。土日、祝日のみで、前日までに予約が必要だ。
あれこれ情報
日本観光協会(東京)によると、全国に1500団体を超えるボランティアガイド組織があり、増えつつあるそうだ。ツアー情報は同協会による「全国観光ボランティアガイド」のホームページ(http://www.nihon-kankou.or.jp/vg/index.html)で検索できる。
九州観光推進機構(福岡市)も、こうした観光スタイルを根付かせようと、「九州さるく」と題して九州各県のツアーをホームページ(http://www.welcomekyushu.jp/saruku/)で紹介している。
鹿児島県観光ボランティアガイド連絡協議会(099・223・5771)は2月、ガイド団体やコースなどを紹介する冊子「かごしまよかとこ案内人2010」を作成した。
エンターテインメント
今秋、再び『薄桜鬼』第二期
恋愛アドベンチャーゲームとしてリリースされた『薄桜鬼 ~新選組奇譚~』は2010年4月からアニメも放送されていますが、全12話で構成されており先日、最終回を迎えました。
アニメ『薄桜鬼』の最終回では第二期が放送されることが告知されていました。ファンにとっては再び薄桜鬼が楽しめるとあって朗報でしたね。薄桜鬼の第二期のアナウンスはテレビアニメだけでなく、公式WEBサイト上でも確認ができます。オンエアは今秋からのようです。
DVDの方も人気を集めています。薄桜鬼の第二期に合わせた連動コンテンツのスタートなど、今後も何かしらのアクションが期待されているアニメのひとつです。
TOKYO MXでは次回が最終回です。第二期も楽しみです。
コラム
質問なるほドリ:奇兵隊はどんな組織だったの?=回答・取違剛
<NEWS NAVIGATOR>
◆奇兵隊はどんな組織だったの?
◇倒幕で活躍の長州藩部隊 身分問わず農民も参加
なるほドリ 菅直人首相が自らの内閣を「奇兵隊内閣」と名付けたね。
記者 奇兵隊はもともと幕末の文久3(1863)年、諸外国の侵略から馬関(現在の山口県下関市)を守るよう長州藩主から任された志士、高杉晋作(1839~67年)がつくった民兵部隊です。「少ない兵力で敵の虚を突き、神出鬼没、常に奇道で勝利する。故に奇兵隊」との結成趣旨の下、3日間で60人余が集まり、1年半後には300人を超えました。4割が農民出身で、それまでの世襲武士団とは違いました。下関市内には晋作や奇兵隊にまつわる史跡が数多く現存しています。
Q 「草の根から生まれた政治家」。菅首相は就任会見で自分をそう称したよね。
A 首相経験者を祖父や父に持つ「世襲首相」が4代続いたけど、菅首相はサラリーマン家庭に生まれました。新内閣と身分を問わず集まった奇兵隊を重ね合わせているのでしょう。出身は同じ長州の山口県宇部市ですし。
Q 奇兵隊はどんな働きをしたのかしら?
A 奇兵隊が注目され、長州藩には同様の部隊が400以上できたそうです。これらは「諸隊」と呼ばれ、やがては幕府との長州戦争や戊辰戦争で中心的役割を果たしました。特に1866年の第2次長州戦争「四境戦争」では、約4000人の兵力で幕府の長州征伐軍15万人を打ち破りました。この勝利が倒幕につながりました。
Q そんなに強かったんだ。
A 高杉晋作という天才軍師が率いたのはもちろんですが、幕府から長州を守ろうと一つになったのが大きいですね。奇兵隊ほか諸隊への通達には庶民を思いやる姿勢が手厚く盛り込まれました。だから大衆の支持を得たようです。
Q 毎日新聞が実施した世論調査で新内閣への支持率は66%を記録するなど、奇兵隊内閣への期待は高いようだね。
A 菅首相は「高杉晋作は逃げるのは速いし攻めるのも速い。果断な行動で明治維新に力を発揮した。日本の停滞を打ち破るため、わが党国会議員も奇兵隊のような志で勇猛果敢に戦ってもらいたい」とハッパをかけました。菅首相が晋作のように腕を振るえるか、新内閣が奇兵隊のように成果を残せるか。政権交代後も「政治とカネ」の問題がつきまとってきただけに、庶民の側に立った政治ができるかどうかにかかっているでしょう。(下関支局)
とても興味深いイベントだけど、落語にはまってチケット相場が3,000円とか3,500円が普通になってしまうと、S席6,000円はちと高い……(涙)。
<毎日放送>談志、正蔵、爆笑問題…「情熱大陸」出演の人気落語家ら集め落語会 開局60周年記念
公演内容に関するサイトは以下。
毎日放送開局60周年企画 「らくご×情熱大陸」
高いなぁと思うけど、先行予約は抽選なので、ダメもとで応募しておこうか。
4月に高座に復帰した落語家の立川談志さん(74)とお笑いコンビ「爆笑問題」が、東京と大阪で9月に行われる落語会「らくご×情熱大陸」で競演することが20日、分かった。
「らくご×情熱大陸」は、毎日放送開局60周年記念イベントの一環で、5月に放送600回を迎えたドキュメンタリー番組「情熱大陸」(MBS・TBS系)に出演した落語家7人と、ミュージシャンらが出演する。演出は俳優・小栗旬さんの父で数多くの海外オペラハウスの日本公演の舞台監督を務める小栗哲家さんが担当。
談志さんと「爆笑問題」は東京公演の最終日、9月5日に競演。初日の3日は林家正蔵さん(47)、立川志の輔さん(56)と「情熱大陸」のテーマソングを担当するバイオリニストの葉加瀬太郎さん(42)が登場し、4日は、桂米團治さん(51)、立川談春さん(43)、柳家花緑さん(38)とミュージシャンの斉藤和義さん(43)が出演する。
大阪公演は13・14の両日で、13日に春風亭昇太さん(50)、立川志の輔さんとピアニストの西村由紀江さん(43)、14日に桂米團治さん、立川談春さん、柳家花緑さんとミュージシャンのトータス松本さん(43)が出演する。
毎日放送では内容について「落語をきっちり聞かせた上で、ミニライブや(落語家とミュージシャンの)トークなどを予定している」としている。
東京公演は「赤坂ACTシアター」(東京都港区)で午後7時から(4日のみ午後6時から)、大阪公演は「シアターBRAVA!」(大阪市中央区)で午後7時から。チケットは東京・大阪とも7月9日発売で、S席6000円、A席5500円。(毎日新聞デジタル)
<毎日放送>談志、正蔵、爆笑問題…「情熱大陸」出演の人気落語家ら集め落語会 開局60周年記念
毎日放送は20日、開局60周年(11年9月)を迎えるのを記念して同局制作のドキュメンタリー番組「情熱大陸」に出演した立川談志さんら人気落語家7人を集めた落語会「らくご×情熱大陸」を開く、と発表した。落語会には、落語家のほか、同番組に出演した葉加瀬太郎さんらミュージシャン、爆笑問題らも登場。さまざまなジャンルの最先端を走る人物を取り上げる「情熱大陸」らしい、豪華なイベントとなる。
「情熱大陸」は、98年4月に放送開始。スポーツ、演劇、音楽、学術など、あらゆる分野の第一線で活躍する人物に密着してその人の魅力や素顔に迫り、今年5月16日に放送600回を迎えた。出演する落語家は、談志さんのほか、林家正蔵さん、桂米團治さん、春風亭昇太さん、立川志の輔さん、立川談春さん、柳家花緑さんの7人で、いずれも情熱大陸に出演したことがある。また、同じく番組出演がある葉加瀬太郎さん、斉藤和義さん、西村由紀江さん、トータス松本さん、爆笑問題も舞台に上がる。
東京公演は9月3~5日に「赤坂ACTシアター」(東京都港区赤坂)、大阪公演は9月13、14日に「イオン化粧品 シアターBRAVA!」(大阪市中央区)。チケットはいずれもS席6000円、A席5500円。各公演の出演者は以下の通り(敬称略)。
◇東京公演
9月3日(金)林家正蔵 立川志の輔×葉加瀬太郎
9月4日(土)桂米團治 立川談春 柳家花緑×斉藤和義
9月5日(日)立川談志×爆笑問題
◇大阪公演
9月13日(月)春風亭昇太 立川志の輔×西村由紀江
9月14日(火)桂米團治 立川談春 柳家花緑×トータス松本
公演内容に関するサイトは以下。
毎日放送開局60周年企画 「らくご×情熱大陸」
高いなぁと思うけど、先行予約は抽選なので、ダメもとで応募しておこうか。
6月17日記事「立川流広小路寄席」続きです。
「子ほめ」春太
満員御礼の挨拶後、権助の小噺「このままじゃ山は雪だんべぇ」「山は火事だんべぇ」をマクラにして、「子ほめ」。
ライブで何度も聴いている前座噺だけど、サゲが「どう見ても生まれたように見えません」というのは初めて。初めて聴いたサゲだったこともあって、よく聴く「どう見ても半分」よりも落ち方が悪いように感じた。
「豆や」松幸
前座がふたりというのも珍しい。それでなくても出演者が多いのだが(苦笑)。
初めて聴く噺。いろいろな売り声が聴けるところはなかなかに江戸情緒を感じられてよかったのだけど、豆屋にすごむ長屋の住人ふたりがどちらも一本調子。
「浮世根問・名古屋弁バージョン」平林
名古屋文化圏出身ということで、名古屋の食文化を紹介してくれた。朝は小倉トースト、昼はすがきやのラーメン(関西在住時に一度食べたことがあるので、だしが鶏だかとんこつだかよくわからないという点がツボ)、夜はあんかけスパ。
手羽先やみそカツ、ひつまぶし、そしてコメダ珈琲についても聴きたいです。
本題は「浮世根問」の一部を名古屋弁でやるというもの。ご隠居がみゃーみゃー、ふりゃーだぎゃー言ってるのが笑えた。
「健康落語・新米泥棒(夏どろ改作)」らく朝
高田文夫さんのエッセイで知ってたのだけど、改めて自己紹介を聴いて感じ入りました。医学博士で内科医、46才で志らくさんに入門して前座修行して50才で二つ目昇進という超遅咲きというか、医者と落語家という二足のわらじを履くひと。
お医者さんというバックグラウンドを活かして古典落語を改作し、「健康落語」と称して啓発活動をされているとか。
今回は「夏どろ」を現代に置き換えた「新米泥棒」。泥棒教室の初心者コースを受講している新米泥棒が、体験レポートを書くために、鍵もかけていない安アパートに侵入し、そこの住人にお説教を食らったあげく有り金を提供させられる羽目になるという噺。狭心症は薬をちゃんと飲めば改善できるというメッセージが織り込まれているところが健康落語でしょうか。
改作の能力もあるし、お人好しの新米泥棒と貧乏ゆえにしたたかな住人の描き分けややりとりの妙を聞かせるし、二つ目クラスとしてはかなりのもの。またどこかで別の作品を聴かせていたただこうかしら。
「錦の袈裟」泉水亭錦魚
おなじみの艶笑ものというか、下ネタものというか。
作品そのものがあまり好きではないので、どうしても自分の目は厳しめになってしまうのだけど……満員御礼ということで、熱演だったと思います。
「看板のピン」談慶
満員の聴衆、前の出演者たちの熱演ぶりに触発されたのか、やはりノリノリでした。
若い頃に博打をさんざんやった挙げ句に足を洗った親分が、中途半端に博打にはまっている若い者たちを諭すために久々にツボを振る、というところで親分の風格が結構出ていた。その分、親分の真似をして失敗する若い者の間抜けぶりがおかしいわけで。
「もう半分」談四楼
古典落語バージョンで聴くのは初めて……って、三遊亭白鳥さん版の「メルヘンもう半分」しか聴いてない(汗)自分が変。でも、スナフキンとミーが酒場をやってて、ムーミンがやってくる白鳥版は元の怪談噺をメルヘンアニメのパロディで味付けて、不気味さを緩和してくれるから聴ける。でないと、怪談噺やホラーやスプラッタ苦手な自分には、けっこうきつい。
でもさすが談四楼師匠。善良な居酒屋の主人が、常連客の爺さんが置き忘れた大金に目がくらみ、腹黒いおかみさんのそそのかしに負けて、金を取りに戻った爺さんにしらを切るという場面における人間の業とか欲深さなど……それを違和感なく嫌悪感なく聴かせられるというのは相当な力量と人生経験の厚みがないとできないことだと思う。
娘が吉原に身を売ってつくった大金を取り返せず、借金を返せないことを悲観して(そして、やさしく接してくれていた居酒屋の主人が、金欲しさに手のひらを返した態度を取ることに絶望して)自殺してまう爺さんとか……吉原に身を売ったまま救われることのない娘さんとか……救いのない展開だよなぁ。
その悲劇をつくった居酒屋夫婦の業の深さに報いたかのような、赤ちゃんの誕生……この辺りは、楳図かずおか、水木しげるか。生まれたばかりの赤ちゃんの描写に、自分の頭には子泣き爺が浮かびました(汗)。
中入り
「家見舞い(肥瓶)」志ら乃
まだ聴いたことがなかったので、壺を買いに行くという展開まで「壺算」かなと思っていた自分はまだまだ初心者ですorz。
兄貴分の新築祝いに水瓶を買いに行った文無しふたり、有り金で買えたのは中古の肥壺だった……という、下ねたというよりスカトロ噺です。サゲも「さっきまで鯉(肥)が泳いでた」という、えんがちょ(汗)。
「無精床」土橋亭里う馬
これまた初めて聴く噺。滅多に客がこない床屋さんにうっかり入ってしまった客が、元結をほどくとか、水桶で髪を濡らすとか普通は床屋さんのすることをセルフでさせられてしまう(しかも、水桶の水は開業以来取り替えたことがないそうで、ぼうふらが湧いている)とか……ちっとも気が入らない小僧と床屋のおかげで月代にカミソリを当てられると血まみれにさせられてしまうとか……犬が尻尾ふって寄ってくるのはかわいいけど、前の客がカミソリで耳を半分切られたのを銜えて行って味をしめている犬なんだとか、ブラックでスプラッタなんだよな(汗)。
でも肥瓶とは違って、自分には口開けて安心して笑える噺だ^_^;。暇そうに自分の髭をぷちぷち抜いている、ものぐさな床屋の仕草とかが面白かったし。
「酢豆腐(ちりとてちん)」談幸
おなじみの噺だけど、ライブでは初めて。天然でよいしょできる松公と、嫌みで嫌われ者の竹公が登場。隠居の振る舞うご馳走に感激して世辞を弾む(天然なのかな? 女中には嫌われている)松公を見ていたご隠居が、竹公をぎゃふんといわせようと、腐った豆腐を到来物の珍しい食べ物と偽って、知ったかぶりの竹公に食べさせる。
理屈ぬきで素直に聴いて面白い噺だし、談幸さんもノリノリ。いい感じで聴けた。
「たがや」談笑
今回のお目当て、やはり、トリの談笑師匠です。
一日3時間のウォーキングをしているそうで、すっかり精悍になりましたね。頬から顎にかけてシャープになって、ちょっと無精ヒゲが生えているところなんざ、ちょいワルオヤジです(笑)。
冒頭、たっぷり、隅田川の花火にかかわる俗謡のコンピレーション(というんでしょうか、元ネタを知らないのですが、いくつかの演目がミックスされているのはわかります)をひとくさり。途中息継ぎをどうやってるのかという、落語でいう「言い立て」風とのところもあり、面白かったです。
師匠にいわせると、立川流で真打ちを家元に認めてもらうには落語以外に音曲もこなさなければならないのだけど、うまいかどうかは別にして、こういう技で真打ちを認めてもらったとか。
「たがや」、隅田川の花火の晩にうっかり道具箱をかついで両国橋に来てしまった職人にからむ居丈高なお武家の一行を職人が
「北斗の拳」よろしく返り討ちにしてしまうという噺です。
「北斗の拳」よろしく、という辺りは、実際にはありえないって大太刀廻りをマンガちっくに描いてます。談笑さんお得意のノリで、笑い転げてました。
そして、ラストは、マクラで参加型とかいわれて「た・が・や~」とかけ声の練習をさせられた甲斐あって(爆)、みんなで「た・が・や~っ!!」と大合唱。最近では三遊亭白鳥さんの「はじめてのフライト」でもオーディエンス参加型の場面があったのですが、単純な仕掛けながら一体感を味わえるんですよね。「た・が・や~っ!!」で盛り上がってお開き、というところが夏らしい寄席でした。
☆★☆★
……はぁ、何とか、記憶が消える前に書けてよかったです。
「子ほめ」春太
満員御礼の挨拶後、権助の小噺「このままじゃ山は雪だんべぇ」「山は火事だんべぇ」をマクラにして、「子ほめ」。
ライブで何度も聴いている前座噺だけど、サゲが「どう見ても生まれたように見えません」というのは初めて。初めて聴いたサゲだったこともあって、よく聴く「どう見ても半分」よりも落ち方が悪いように感じた。
「豆や」松幸
前座がふたりというのも珍しい。それでなくても出演者が多いのだが(苦笑)。
初めて聴く噺。いろいろな売り声が聴けるところはなかなかに江戸情緒を感じられてよかったのだけど、豆屋にすごむ長屋の住人ふたりがどちらも一本調子。
「浮世根問・名古屋弁バージョン」平林
名古屋文化圏出身ということで、名古屋の食文化を紹介してくれた。朝は小倉トースト、昼はすがきやのラーメン(関西在住時に一度食べたことがあるので、だしが鶏だかとんこつだかよくわからないという点がツボ)、夜はあんかけスパ。
手羽先やみそカツ、ひつまぶし、そしてコメダ珈琲についても聴きたいです。
本題は「浮世根問」の一部を名古屋弁でやるというもの。ご隠居がみゃーみゃー、ふりゃーだぎゃー言ってるのが笑えた。
「健康落語・新米泥棒(夏どろ改作)」らく朝
高田文夫さんのエッセイで知ってたのだけど、改めて自己紹介を聴いて感じ入りました。医学博士で内科医、46才で志らくさんに入門して前座修行して50才で二つ目昇進という超遅咲きというか、医者と落語家という二足のわらじを履くひと。
お医者さんというバックグラウンドを活かして古典落語を改作し、「健康落語」と称して啓発活動をされているとか。
今回は「夏どろ」を現代に置き換えた「新米泥棒」。泥棒教室の初心者コースを受講している新米泥棒が、体験レポートを書くために、鍵もかけていない安アパートに侵入し、そこの住人にお説教を食らったあげく有り金を提供させられる羽目になるという噺。狭心症は薬をちゃんと飲めば改善できるというメッセージが織り込まれているところが健康落語でしょうか。
改作の能力もあるし、お人好しの新米泥棒と貧乏ゆえにしたたかな住人の描き分けややりとりの妙を聞かせるし、二つ目クラスとしてはかなりのもの。またどこかで別の作品を聴かせていたただこうかしら。
「錦の袈裟」泉水亭錦魚
おなじみの艶笑ものというか、下ネタものというか。
作品そのものがあまり好きではないので、どうしても自分の目は厳しめになってしまうのだけど……満員御礼ということで、熱演だったと思います。
「看板のピン」談慶
満員の聴衆、前の出演者たちの熱演ぶりに触発されたのか、やはりノリノリでした。
若い頃に博打をさんざんやった挙げ句に足を洗った親分が、中途半端に博打にはまっている若い者たちを諭すために久々にツボを振る、というところで親分の風格が結構出ていた。その分、親分の真似をして失敗する若い者の間抜けぶりがおかしいわけで。
「もう半分」談四楼
古典落語バージョンで聴くのは初めて……って、三遊亭白鳥さん版の「メルヘンもう半分」しか聴いてない(汗)自分が変。でも、スナフキンとミーが酒場をやってて、ムーミンがやってくる白鳥版は元の怪談噺をメルヘンアニメのパロディで味付けて、不気味さを緩和してくれるから聴ける。でないと、怪談噺やホラーやスプラッタ苦手な自分には、けっこうきつい。
でもさすが談四楼師匠。善良な居酒屋の主人が、常連客の爺さんが置き忘れた大金に目がくらみ、腹黒いおかみさんのそそのかしに負けて、金を取りに戻った爺さんにしらを切るという場面における人間の業とか欲深さなど……それを違和感なく嫌悪感なく聴かせられるというのは相当な力量と人生経験の厚みがないとできないことだと思う。
娘が吉原に身を売ってつくった大金を取り返せず、借金を返せないことを悲観して(そして、やさしく接してくれていた居酒屋の主人が、金欲しさに手のひらを返した態度を取ることに絶望して)自殺してまう爺さんとか……吉原に身を売ったまま救われることのない娘さんとか……救いのない展開だよなぁ。
その悲劇をつくった居酒屋夫婦の業の深さに報いたかのような、赤ちゃんの誕生……この辺りは、楳図かずおか、水木しげるか。生まれたばかりの赤ちゃんの描写に、自分の頭には子泣き爺が浮かびました(汗)。
中入り
「家見舞い(肥瓶)」志ら乃
まだ聴いたことがなかったので、壺を買いに行くという展開まで「壺算」かなと思っていた自分はまだまだ初心者ですorz。
兄貴分の新築祝いに水瓶を買いに行った文無しふたり、有り金で買えたのは中古の肥壺だった……という、下ねたというよりスカトロ噺です。サゲも「さっきまで鯉(肥)が泳いでた」という、えんがちょ(汗)。
「無精床」土橋亭里う馬
これまた初めて聴く噺。滅多に客がこない床屋さんにうっかり入ってしまった客が、元結をほどくとか、水桶で髪を濡らすとか普通は床屋さんのすることをセルフでさせられてしまう(しかも、水桶の水は開業以来取り替えたことがないそうで、ぼうふらが湧いている)とか……ちっとも気が入らない小僧と床屋のおかげで月代にカミソリを当てられると血まみれにさせられてしまうとか……犬が尻尾ふって寄ってくるのはかわいいけど、前の客がカミソリで耳を半分切られたのを銜えて行って味をしめている犬なんだとか、ブラックでスプラッタなんだよな(汗)。
でも肥瓶とは違って、自分には口開けて安心して笑える噺だ^_^;。暇そうに自分の髭をぷちぷち抜いている、ものぐさな床屋の仕草とかが面白かったし。
「酢豆腐(ちりとてちん)」談幸
おなじみの噺だけど、ライブでは初めて。天然でよいしょできる松公と、嫌みで嫌われ者の竹公が登場。隠居の振る舞うご馳走に感激して世辞を弾む(天然なのかな? 女中には嫌われている)松公を見ていたご隠居が、竹公をぎゃふんといわせようと、腐った豆腐を到来物の珍しい食べ物と偽って、知ったかぶりの竹公に食べさせる。
理屈ぬきで素直に聴いて面白い噺だし、談幸さんもノリノリ。いい感じで聴けた。
「たがや」談笑
今回のお目当て、やはり、トリの談笑師匠です。
一日3時間のウォーキングをしているそうで、すっかり精悍になりましたね。頬から顎にかけてシャープになって、ちょっと無精ヒゲが生えているところなんざ、ちょいワルオヤジです(笑)。
冒頭、たっぷり、隅田川の花火にかかわる俗謡のコンピレーション(というんでしょうか、元ネタを知らないのですが、いくつかの演目がミックスされているのはわかります)をひとくさり。途中息継ぎをどうやってるのかという、落語でいう「言い立て」風とのところもあり、面白かったです。
師匠にいわせると、立川流で真打ちを家元に認めてもらうには落語以外に音曲もこなさなければならないのだけど、うまいかどうかは別にして、こういう技で真打ちを認めてもらったとか。
「たがや」、隅田川の花火の晩にうっかり道具箱をかついで両国橋に来てしまった職人にからむ居丈高なお武家の一行を職人が
「北斗の拳」よろしく返り討ちにしてしまうという噺です。
「北斗の拳」よろしく、という辺りは、実際にはありえないって大太刀廻りをマンガちっくに描いてます。談笑さんお得意のノリで、笑い転げてました。
そして、ラストは、マクラで参加型とかいわれて「た・が・や~」とかけ声の練習をさせられた甲斐あって(爆)、みんなで「た・が・や~っ!!」と大合唱。最近では三遊亭白鳥さんの「はじめてのフライト」でもオーディエンス参加型の場面があったのですが、単純な仕掛けながら一体感を味わえるんですよね。「た・が・や~っ!!」で盛り上がってお開き、というところが夏らしい寄席でした。
☆★☆★
……はぁ、何とか、記憶が消える前に書けてよかったです。
昨日のオランダ戦、終わって「負けは負け」と言い切る何人かの日本代表選手に頼もしさを感じました。デンマーク戦も力いっぱい応援します(午前3時半キックオフですが・汗)。
福島
しゃちほこ間近に鶴ヶ城
東京
<その30>新選組(上)
静岡
伊豆の国の市民劇団、森町と交流深め記念公演
京都
志士の息づかいを感じて 中京・18日「龍馬伝」開幕
嵯峨の念仏狂言 装束優雅に 右京で初の一般公開
高知
後藤象二郎を激励 龍馬の手紙の複製見つかる 高知
佐賀
佐賀の『八賢伝』 「三重津海軍所跡」加筆版を出版
長崎
【動画】なりきりコンや音楽祭にぎわう ながさき龍馬フェスタ2010
ながさき龍馬フェスタ:長崎で始まる 旧長崎街道や史跡「さるく」楽しむ /長崎
福島
しゃちほこ間近に鶴ヶ城
会津若松市の鶴ヶ城のしゃちほこ2体が天守閣頂上から下ろされ、19日から城内の走長屋(はしりながや)で一般公開が始まった。
幕末の姿を再現しようと始まった赤瓦へのふき替え工事に伴うもので、取り外されるのは1965年の天守閣再建以来、初めて。
高さ1メートル55センチ、重さ約200キロで、歯に金箔(きんぱく)、うろこに銀箔(ぎんぱく)が施され、両目には2カラットほどの人工ダイヤモンドがはめ込まれている。再建工事の請負業者が市に寄贈した。菅家一郎市長は「天守閣が工事で隠れている間、観光の目玉として多くの人たちに見てもらいたい」とPRしている。展示は11月23日まで。
東京
<その30>新選組(上)
忠臣蔵と新選組は「東西と~ざい」にとって絶好の題材だと、ずっと思ってきた。東にも西にも舞台を持ち、ドラマ性に富むからだ。しかし、ちょっと触れるくだりはあっても、今までテーマとして取り上げるのは避けていた。とにかくファンが多い。本を書いたりブログを設けたりと玄人はだしの人もかなりいる。古人いわく「生兵法はケガのもと」。間違いを指摘されたり、薄っぺらな解釈をバカにされるのが怖かったからだ。しかし、私も物書きの端くれ。上田正樹さんの「悲しい色やね」じゃないが、「逃げたらアカン!」と反省した。思い直して、新選組のふるさと東京都日野市へと足を運んだ。
歴史上の人物は、光の当てようによって日なたにも陰にもなる。新選組はその代表格だと思う。NHKの大河ドラマひとつ見てもそうだ。5年前、香取慎吾が握り拳を口に入れながら近藤勇を演じた「新選組!」の明るさに比べ、今年の「龍馬伝」での陰湿な暗さはどうだ。もともと、内には拷問と処刑、外には襲撃と暗殺を繰り返した一種のテロ組織である。でも、この根強い人気はなぜか。時流に逆らって滅び行く若き魂の悲劇性もあろう。桜を愛するニッポン人は、とかく散り様に引かれる。また、テロリストといっても、支配者が命じた組織ではない。自主組織をお上が追認したという成り立ちも人気の要素かもしれない。「混迷の時代を救うにひと旗あげたい」という青年らしい動機も純粋である。そんなことを考えながら、JRで日野市へ向かった。行くなら第1か第3日曜日がいいと、何かに書いてあった。土方歳三、井上源三郎、佐藤彦五郎の三つの資料館が、その日に開いているからだ。
*
「歴女」らで賑わう資料館の中 新選組といえば、近藤勇、土方歳三、沖田総司が人気の三羽ガラス。さらに、沖田総司とともに「近藤四天王」とされる長倉新八・藤堂平助・斎藤一あたりが続く。また、脇役としては清河八郎、芹沢鴨、伊東甲子太郎、山南敬助は欠かせない(ここまで書いただけで、ところで○○を忘れちゃあいませんか?とおしかりを受けるのが新選組だが・・・)。私は、井上源三郎という人物について日野に行くまでは、「そういや、名前を聞いたことがあるなぁ」程度の認識でしかなかった。私が新選組の"教科書"とする司馬遼太郎の「燃えよ剣」(新潮文庫)でもほとんど触れられておらず、必読書といわれる子母沢寛の「新選組始末記」でもサラリと書いてあるだけだった、ということが大きいと思う。
「燃えよ剣」で井上源三郎が登場する件は、文庫下巻、「鳥羽伏見の戦い・その三」。次のように触れられているだけである(171ページ)。歳三は、隊士を集めた。
「みな、いるか」
弾雨のなかで、顔の群れを見た。そこに六十数名が立っている。
原田左之助、永倉新八、斎藤一、結党以来の組長たちの元気な顔があった。
が、故郷から一緒に出てきた天然理心流の兄弟子で六番組長井上源三郎の姿がみえない。監察の山崎烝(すすむ)も。
それが小説というものだろう。中心人物は土方歳三なのだ。
*
白壁の土蔵を思わせる井上源三郎資料館は、日野駅から歩いて約10分。手紙類や刀剣などを展示する。ご存じ「誠」の隊旗が揺れているのですぐ分かる。梅雨入り前の空に、ツバメが飛び交っていた。
井上家を語るには、まず八王子千人同心から始めねばならない。千人同心は徳川家康の江戸入府に際し、甲斐からの侵攻に備えるため、近在の下級武士や豪農などで組織された。その後太平が続くと、東照宮を警備する日光勤番が主な仕事になる。千人同心が配置された多摩地方は幕府の厚い庇護(ひご)を受けたので、住民はとりわけ徳川恩顧の気持ちが強く、その精神が新選組の礎となる。源三郎は千人同心の家に生まれ、兄の井上松五郎と一緒に、近藤周助(天然理心流3代目宗家。やがて近藤勇の養父となる)に剣を学んだ。兄弟は木刀の打ち込みで柱の一部が細くなるほど剣に熱心で、その柱は1964(昭和39)年に井上家が家を建て替えるまで残っていたという。「剣術ばかりで、百姓仕事が遅れて困った」という話も今日まで伝わっている。
源三郎は、将軍家茂の上洛に際して警護名目に結成された清河八郎率いる浪士組235人の一員として、1863(文久3)年、近藤勇の配下で中山道を京へ向かう。京へ着いた途端に清河が「浪士隊は尊王の義軍とする」と翻って正体を現し、驚いた幕府が帰還命令を出した。しかし、源三郎は近藤勇らとともに京に残留。京都守護職の会津藩主・松平容保預かりの京都治安部隊「新選組」の副長助勤・六番隊長として命運を近藤に委ねる。
*
資料館の当主、井上雅雄さん(55)は源三郎の血脈を継ぐ。本業は建築・不動産業。松五郎の子が泰助→泰助の子が覚太郎→覚太郎の子がキヨ子→キヨ子の子が雅雄さん。従って源三郎の兄の松五郎から五代目井上家当主ということになる。天然理心流も修行している。その雅雄さんに案内していただいた。次の話が印象に残った。
1868(慶応4)年1月5日、鳥羽・伏見の淀千両松の戦いで源三郎ら10人以上の隊士が戦死し、新選組は大坂へ敗走する。その時、源三郎のそばで仕えていたおいの泰助は、叔父の首と刀を羽織に包み抱えて逃げる。しかし、12歳の少年に大人の首は重い。同行の隊士が「遅れると敵に捕まってしまうぞ。残念だろうが置いていけ」と言われ、仕方なく途中にあった廃寺の門前に埋めた。
これは1927(昭和2)年まで生きた泰助が、息子・覚太郎の嫁のケイさんに語り継いだ話である。同時に、「京都、大阪の方へ行くことがあったらお参りしてこい」と首級を埋めた淀の「欣浄寺(ごんじょうじ)」という廃寺の名前を教えていた。ケイさんは1977(昭和52)年まで生き、寺の名前も家族に話していたそうである。ところが、たまたま日野の自宅の向かいにも同じ字を書く欣浄寺という寺があった。だから家族は、ケイさんが高齢のために、混同しているのだと思っていたという。
資料館の斜め向かいの「欣浄寺」。鳥羽・伏見に同じ名の廃寺があった。 ところが2年半ほど前、新選組ボランティアガイドの女性が京都や大阪の新選組の史跡を訪ね歩いた時、伏見の淀城跡にあった絵図に「欣浄寺(ごんじょうじ)」という名を見つけた。女性は雅雄さんにそのことを報告。雅雄さんはハッと気づいた。「泰助は故郷の寺と同じ名前の寺をたまたま見つけ、安らかに眠れるだろうと思ってそこに埋葬したのではなかろうか。祖母の言っていたことは正しかったんだ」
雅雄さんはその女性らと伏見に行った。「場所を特定したい」。そんな中、鳥羽、伏見両街道を結ぶところにあり激戦を物語る弾痕なども残っているという妙教寺を訪ねた時、住職が古地図、古文書などを持ち出して欣浄寺跡の位置をていねいに説明してくれたという。うどん店や駐車場になっていたが、近所の人に聞くと、昔、たくさんの墓石と人骨が見つかった場所ということだった。雅雄さんは確信し、土を持ち帰った。
ところで、雅雄さんには娘さんが3人いる。「娘3人は、土方さんの(子孫の)ところと一緒なんですよ。でも、あちらさんは結婚されて、記念館も継いでちゃんとやっておられるようです。うちも私で終わらせたくないんですが・・・まあ、何とかなるでしょう」。笑顔で話された。
ツバメ交う ますらをの空 日野を往く (編集局次長)
静岡
伊豆の国の市民劇団、森町と交流深め記念公演
森の石松の没後150年を記念して、女優藤田弓子さんが座長を務める伊豆の国市の市民劇団いず夢が26日、同市のアクシスかつらぎで、時代劇「おっとっとっと三度笠」(静岡新聞社・静岡放送後援)を上演する。森の石松にゆかりのある森町の町民が観劇に訪れる予定で、劇をきっかけに交流が生まれている。
同じ劇を上演した3年前、森町の喫茶店に立ち寄った劇団員が、経営者の金指琉美子さん(68)と森の石松の話題で意気投合したのが交流の始まり。金指さんら町民から再演の要望があり、没後150年に合わせて実現した。当日は森町からバスで約40人が観劇に訪れるほか、森町特産のトウモロコシ「甘甘娘(かんかんむすめ)」を会場で販売する。金指さんは「森町の英雄でもある石松を演じてもらい、ありがたい。伊豆の国市が身近になった」と喜ぶ。
森の石松は清水次郎長の子分として活躍したとされる幕末の侠客(きょうかく)で、墓が森町にある。今回の劇は、悪徳商人に身内を殺された町娘のあだ討ちを描く喜劇。主人公の森の石松にタレント入山学さん、侠客の親分役にコメディアン小松政夫さんを迎えるほか、劇団員27人が出演する。けいこに励む小松さんは「多彩な出演者がそれぞれ見せ場を持っているぜいたくな劇」と見どころを語り、藤田さんも「おなかの底から笑って元気になってほしい」と強調する。
2回公演で開演は午後1時と午後5時。チケットは2500円(中学生以下千円)。問い合わせは同劇団<電080(3684)1168>へ。
京都
志士の息づかいを感じて 中京・18日「龍馬伝」開幕
京都市中京区の京都文化博物館で18日、坂本龍馬の生きざまを紹介する2010年NHK大河ドラマ特別展「龍馬伝」(京都新聞社など主催)の開催を前に、関係者向け内覧会が開かれた。19日に開幕する。
東京や高知など4会場で巡回の予定で、京都は2会場目。龍馬や志士の息づかいや、幕末の雰囲気に迫ろうと現物展示を増やした。全国約50カ所から集めた姉乙女(とめ)あて書簡、愛用の刀など約180点を披露する。
この日、関係者約400人が龍馬着用の紋服、三菱財閥の基礎を築いた岩崎弥太郎が貧しかったころの借用書などの展示品、パネル解説に見入っていた。7月19日までで展示替えあり。最終日を除く月曜休館。有料。
嵯峨の念仏狂言 装束優雅に 右京で初の一般公開
京都の三大念仏狂言の一つ「嵯峨大念仏狂言」(重要無形民俗文化財)に奉納された装束などを紹介する展示会が、京都市右京区の京都嵯峨芸術大付属博物館で開かれている。装束の一般公開は、一部を除いて初めて。20日まで。無料。
同狂言は、鎌倉時代に円覚上人が始めたとされ、現在は清凉寺(右京区)で年2回演じられている。展示会は、地元の保存会が協力して昨年から開かれている。
保存会の所有品の中で最も古い1817年に奉納された「田中氏奉納装束」や、現在も使用しているすりこぎや鬼の棒など計34点が並んでいる。
和宮(かずのみや)に徳川家茂への嫁入りを説得したとされる幕末の女官高野房子の装束は、経年変化で傷みもあるが、秋草などの刺しゅうが施されており、優雅な雰囲気を醸し出している。
高知
後藤象二郎を激励 龍馬の手紙の複製見つかる 高知
幕末の志士、坂本龍馬が土佐藩の重臣、後藤象二郎にあてた直筆の手紙の複製が見つかり、高知県立坂本龍馬記念館(高知市)が18日、発表した。手紙の実物は写真は残っているが行方不明で、手紙の下書きが最近、同県いの町の民家で見つかっている。同館は「非常に精巧で、実物の所在が不明なので貴重な資料」としている。
手紙は大政奉還前日の慶応3(1867)年10月13日付。土佐藩が提出した大政奉還建白書の採決を決めるため、幕府が京都・二条城で開いた会議に出席する後藤象二郎にあてた。決死の覚悟の象二郎を激励した内容になっている。
複製は縦26・6センチ、横43・3センチ。実物よりも余白部分が多い。今年3月に亡くなった大阪市内の自営業者が昭和40年代後半ごろに取得したとみられ、複製の手法や時期は分かっていない。実物は象二郎に渡った後、海援隊の同志だった中島信行の子孫が所蔵していたが、現在は行方不明になっている。
同館の三浦夏樹主任学芸員は「実物に近い複製が出てきたことで、実物が見つかることを期待している」と話した。
同館は7月17日から始まる企画展で下書きと並べて展示する。
佐賀
佐賀の『八賢伝』 「三重津海軍所跡」加筆版を出版
佐賀県教委が今秋出版を予定している『幕末明治佐賀偉人伝集』に関連して、佐野常民記念館名誉館長で郷土史家の福岡博さん(78)が著した『佐賀の幕末維新 八賢伝』の改訂版が、出門堂(福博印刷)から出版された。世界遺産の暫定リスト入りで注目を集める「三重津海軍所跡」(佐賀市)に関する記述を加え、佐賀の人材の豊富さや技術力の高さを紹介している。
『八賢伝』は2005年に出版。「佐賀の七賢人」の鍋島直正と島義勇、江藤新平、大木喬任、佐野常民、副島種臣、大隈重信に、人材育成に尽くした枝吉神陽を加え、〝八賢人〟として取り上げている。
改訂版は三重津海軍所を中心にした産業遺産関連の記事を追加し、海軍所跡出土品の写真も掲載。佐賀藩の近代化が進んだ理由として「藩外からスカウトとしてきた人材が存分に活躍できるような柔軟な組織だった」と指摘している。
初版は9千部以上を販売しており、改訂版は当初、2千部を出版する。A5判、120ページ。価格は千円(税込み)。県教委は今秋出版する『偉人伝集』の〝入門書〟と位置づけ、帯には古川康知事が推薦のメッセージを寄せている。福岡さんは「若い人がふるさと佐賀に誇りや自信を持てるように、と執筆した」と話している。
【写真】『偉人伝集』の刊行に向けて、『佐賀の幕末維新 八賢伝』を改訂した福岡博さん=佐賀県庁
長崎
【動画】なりきりコンや音楽祭にぎわう ながさき龍馬フェスタ2010
幕末の志士、坂本龍馬と本県とのかかわりや、長崎の歴史と文化をPRする「ながさき龍馬フェスタ2010」の2日目が20日、長崎市魚の町の市公会堂であり、「なりきりコンテスト」や「龍馬の歌音楽祭」などのイベントに多くの人でにぎわった。長崎龍馬会(馬渡善裕会長)などでつくる同実行委主催。
龍馬や妻・お龍など幕末のヒーローになりきってパフォーマンスをする「なりきりコンテスト」には事前審査を通過した11組が次々と舞台に登場。龍馬とお龍の会話劇や剣舞などを披露し会場を沸かせた。グランプリを受賞した島崎理恵さん(31)=島原市=は「演技中より、結果発表の瞬間が緊張した。京都出身の友人に京都弁を習い、お龍に関する資料を16冊くらい読んで、勉強した」とうれしそうに感想を語った。
坂本龍馬をテーマにしたオリジナル楽曲を披露する音楽祭には9曲がエントリー。「アカツキ」を歌った千葉市の松尾貴臣さん(31)がグランプリを受賞した。
このほかNHK大河ドラマ「龍馬伝」で後藤象二郎役を演じている俳優・青木崇高さんとドラマのチーフプロデューサー、岩谷可奈子さんのトークショーなどもあった。音楽祭の模様は、7月16日午後6時からNHK-FMで放送される。
【編注】島崎理恵さんの崎は、大が立の下の横棒なし
ながさき龍馬フェスタ:長崎で始まる 旧長崎街道や史跡「さるく」楽しむ /長崎
県、長崎市などによる「ながさき龍馬フェスタ」が19日始まり、長崎市内の坂本龍馬らゆかりの史跡を巡る「『長崎龍馬の道』リレーさるく」に市民ら約110人が参加した。
NHK大河ドラマ「龍馬伝」の舞台が幕末の長崎となるのを前に企画。龍馬が1864年に初めて長崎を訪れた際に通った旧長崎街道▽龍馬が後藤象二郎と会談した料亭・清風亭跡▽岩崎弥太郎が主任を務めた土佐藩の商社・土佐商会跡▽龍馬の活動拠点・薩摩藩蔵屋敷跡--などを市民ボランティアガイドの案内で巡った。
市内の主婦、岸下利絵さん(40)は「初めて知ることばかり。また歩きたい」。鹿児島県霧島市の前田終止市長も遠路参加し「長崎独特の歴史を生かし、まち歩き観光が工夫されている」と話した。最終日20日にはオリジナル曲を募った「龍馬の歌音楽祭」などがある。【錦織祐一】
雨が降って気温が下がっているのですが、先ほどまで風が部屋に入ってこなかったので蒸し暑く感じてました。今やっと風が入ってきて、涼しいです。
明日は30度ほどまで上がる蒸し暑さとか……調子を崩さないように気をつけないとなりませんね。
神奈川
平塚盲学校が100周年
関東大震災、戦災など苦難乗り越え 歴史刻む
長野
井月の足跡たどろう 「顕彰会」が伊那でセミナー企画
岐阜
明治維新の「郡上藩凌霜隊」子孫ら交流へ 140年記念
富山
瑞泉寺の所蔵名画展 19日から南砺・福光美術館
愛知
清水義範のナゴヤ“でらおもしろい”歴史館:高須家
京都
大谷祖廟総門「幕末に新築」
京都「龍馬通り」店舗で火災…元海援隊本部近く
大阪
龍馬の手紙 複製品見つかる
兵庫
巨大壁画:龍馬、山崎高1年生が合同制作 宍粟市役所、21日まで展示 /兵庫
高知
大政奉還前、龍馬の直筆 後藤象二郎励ます書き損じ発見
コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(66)東大教授・山内昌之 村田新八
明日は30度ほどまで上がる蒸し暑さとか……調子を崩さないように気をつけないとなりませんね。
神奈川
平塚盲学校が100周年
関東大震災、戦災など苦難乗り越え 歴史刻む
県立平塚盲学校(村瀬道雄校長)が創立100周年を迎え、今月13日に同校体育館で記念式典が行われた。式典には古尾谷光男神奈川県副知事や大蔵律子市長も出席し、祝辞を述べた。村瀬校長は「100年間、学校を維持してきた方たち、そしてこの地域は偉大。これからも“共に生きる”教育を目指していきたい」と話した。当日には100周年を記念して作られた創立者・秋山博のレリーフの除幕式も行われた。
※ ※ ※ ※ ※
秋山博は幕末の文久3年、現在の市内岡崎に生まれた。幼い頃に失明するも、不断の努力によって名鍼灸師となる。秋山が視覚障がい者の自立支援として開いていた無料の講習会に賛同した、自由民権家の宮田寅治(3代目校長)らが中心となって、明治43年に中郡金目村に「私立中郡盲人学校」が開校した。その後、昭和8年より中郡聾話学校と共に県に移管され、「県立盲唖学校」と改称。昭和23年からは盲と聾を分離し、現在の校名となる。
大正12年の関東大震災では校舎が倒壊、戦災時には現在の平塚江南高校の寄宿舎を間借りするなど苦難を経験するも、その歴史を絶やすことなく一世紀の歴史を迎えた同校。昭和23年、ヘレン・ケラーが2度目の来日をした際に同校に立ち寄り、生徒らに激励の言葉を贈った記録も残っている。
現在、幼稚部・小学部・中学部・高等部本科普通科・保専部に88人の生徒が在籍し学んでいる。
長野
井月の足跡たどろう 「顕彰会」が伊那でセミナー企画
幕末から明治期にかけて伊那谷を放浪し、数多くの俳句を残した俳人・井上井月(せいげつ)(1822~87年)のセミナーが20日と26日、伊那市の手良地区で開かれる。上伊那地方の俳句愛好家ら約130人でつくる「井上井月顕彰会」が主催。ゆかりの場所を訪ねて足跡をたどり、井月への理解を深めようと初めて取り組む。
20日は顕彰会副会長の竹入弘元さん(78)が、手良地区と井月のかかわりについて手良公民館で講演。26日は、井月が俳句を地域住民に教えたとされる同地区の清水庵(きよみずあん)を訪れ、額装された直筆俳句を見学。井月がかつて訪れ、いまは句碑が立つ公園にも行く。
同会は本年度、同じようなセミナーを同市と駒ケ根市の計4地区でも開く予定。竹入さんは「俳句に詠まれた風景などを知り、井月をさらに深く理解してほしい」と呼び掛けている。
参加無料。問い合わせは同会事務局の戸谷さん(電話0265・98・0117)へ。
岐阜
明治維新の「郡上藩凌霜隊」子孫ら交流へ 140年記念
戊辰戦争に幕府軍として戦った「郡上藩凌霜(りょうそう)隊」の謹慎が解かれてから140周年の記念事業実行委員会が16日夜、郡上市内の関係団体などによって設立された。同市八幡町の市総合文化センターで会合を開き、7月28日に同センターなどで隊士や藩主青山家の子孫らを招いた講演会や交流会の開催などを決めた。
明治維新で郡上藩は新政府軍に従ったが、藩の江戸屋敷では朝比奈茂吉を隊長とする凌霜隊士45人が幕府軍として、会津若松城で白虎隊とともに戦って敗れ、郡上で謹慎させられた。1869(明治2)年に謹慎が解かれたが、反政府軍として冷遇され、隊士は郡上を離れた。
同市では凌霜隊の歴史を見つめ直し、全国にいる隊士の子孫ら関係者との交流ネットワークづくりをと、初めて市を挙げての記念事業を企画した。
実行委員会は地元の顕彰会や文化協会、観光協会、市などで設立。委員長に顕彰会副会長の山田忠平市議を選出した。記念事業では7月22日に、同市白鳥町の郷土史家白石博男さんによる講演会を開催。同28日には慰霊祭、凌霜隊の会津遠征時ゆかりの栃木県塩原温泉和泉屋旅館の経営者である田代芳寛さんによる講演、子孫ら関係者によるフォーラム、交流会などを行う。夜の郡上おどりには隊士、青山家の子孫らも参加する予定。
富山
瑞泉寺の所蔵名画展 19日から南砺・福光美術館
「井波別院瑞泉寺収蔵品受け継がれた京都画壇の美展」(富山・北國新聞社共催)は19日から、南砺市福光美術館で開かれる。会場では17日、京都で活躍した四条派や岸派の画家たちの作品など39点の展示準備が進められ、開幕を待つばかりとなった。
瑞泉寺には、幕末から明治の京都画壇を支え育てた東本願寺第21世厳如(ごんにょ)上人の三女住子(たつこ)が瑞泉寺18代勝智にこし入れした関係で、四条派や岸派などの作品がまとまった形で伝わっている。
厳如上人、住子のつながりから瑞泉寺に受け継がれたとされる岸駒、岡本豊彦、幸野楳嶺らの作品を中心に、住子の遺作や画稿も合わせて展示する。渡邊一美学芸員は「瑞泉寺の寺格にふさわしい名画の数々とともに、当時の美術文化の一端にもふれてほしい」と話している。
観覧料は一般500円、高大生300円、中学生以下無料。開会式後の19日午前10時半からは瑞泉寺アーキビスト(調査員)の髙橋延定氏が「相続された法と宝 瑞泉寺の歴史と文化財」と題して講演する。会期は7月29日まで。
愛知
清水義範のナゴヤ“でらおもしろい”歴史館:高須家
<開府400年>
◇凡庸な兄助け、四代目の甥を導いた義行
尾張の二代藩主光友公がどんな人であったのかは、この歴史館ですでに語った。なかなかの硬骨漢で、五代将軍と少しギクシャクしたと。
ところが、あれからまた調べていて面白いことがわかったので、その話をちょっとしてみる。統一性のない話しぶりで申しわけないが、雑談風な気楽な歴史話ということでお許しください。
◇過ちで家断絶免れた
尾張初代藩主義直の妻は浅野幸長の娘であったが、二人の間には子ができなかった。そして義直はその時代の人には珍しく一夫多妻制を認めたがらない人で、重臣がしきりに側室を置くようにすすめても頑として受けつけない。
男児がなければその家は断絶する、という時代である。重臣が執拗(しつよう)に説得し、ようやく側室を一人置いてみたところ、生まれたのは女の子だった。尾張藩の大ピンチというところである。
ところが、なんとまあ義直は、本人に言わせれば「過失」、を演じてしまうのだ。お湯殿の女中につい出来心で手をつけ、みごもらせてしまうのである。
本人は不行跡を恥じてこのことを秘密にしようとしたが、家臣にしてみればこんなめでたいことはない。主君赤面、家臣大喜び、というわけである。この女中が産んだのが二代光友なのであった。
もしかすると、光友は自分の出生について、複雑な気持ちを持っていたのかもしれない。少し過剰なほどの信仰心を持ち、寺社を造りすぎて経済を破綻(はたん)させてしまうのも、そんなところにつながることなのかもしれない。
さて、光友の子が綱誠(つななり)だ。一六九三年、光友は隠居し、綱誠が三代藩主となる。
綱誠は教養もあって将軍綱吉に可愛がられた。だが、それ以外には、多くの妻妾(さいしょう)に三十九人もの子供を産ませたことぐらいしかエピソードがない。実直な人で、先代の時代からの方針を引き継いだだけの凡庸な人柄だったのかもしれない。そして治世わずか七年で、父の光友より先に死んだ。
その跡を継ぐのが綱誠の子の吉通(よしみち)なのだが、今回は吉通の話をする前に綱誠の弟の話をしよう。
◇三代綱誠と弟たち
光友の子として、跡継ぎの綱誠の下に、義行(よしゆき)、義昌(よしまさ)、友著(ともあき)という三人の弟がいた。
そして尾張藩では、ちょうど二代将軍秀忠の弟三人が御三家を作ったように、義行、義昌、友著の三人に支藩を支配させるのだ。尾張本家に血筋が絶えた時にはそこから養子をもらったりするという、家系を守るための支藩だ。
義行が美濃国高須(たかす)藩(現・岐阜県海津市付近、屋敷のあった場所から四谷家ともいわれる)、義昌が陸奥梁川(やながわ)藩(大久保家)、友著が川田久保家。
その三人の中で、高須三万石の領主である松平義行に注目してみたい。
義行は綱誠と同じ三代将軍家光の息女千代姫を母に持った。一六五六年の生まれだから、四代将軍家綱の時代から、五代綱吉の時代にかけて育った。世は天下泰平で時代の気風は軟弱に流れたが、義行は常に自分を律し、尾張藩の存続を己の責務と考えつづけた。
◇三万石の小藩だけど
とにかく、人間の器が大きく、知恵があり度胸があり、野心や私欲をまったく持たない人だったらしい。この人が光友の長男で尾張藩を継いでくれたらどれだけよかったか、と多くの人が言ったそうだが、義行には兄綱誠にとって代わろうというような野心は微塵(みじん)もなかったという。兄を助け、その職務を大いに手伝った。
一般には、綱誠がおこなったとされている藩祖義直の事績編纂(へんさん)事業も、実は義行がほとんどやったことだそうだ。そんなわけで、兄の綱誠も義行を頼りにし、全幅の信頼を寄せていた。
いや、兄を助けるどころか、義行は父光友に苦言を呈することさえおそれなかった。光友の晩年に、神軍術なるイカサマ軍学をふきこみ、大いに取り入って政治をほしいままにしようとしたニセ学者が権力を持とうとしたことがあった。その時これを阻止し、そのイカサマぶりを論破して尾張藩の危機を救ったのが義行であった。
この義行がいなかったら、凡庸な綱誠では尾張藩に内紛が生じたかもしれない、といわれている。綱誠が死の床に義行を招いて、吉通の後見を頼んだのは当然のことだろう。義行は甥(おい)の吉通を懸命に教え導いた。
以前、尾張藩には勤王の思想があったことを述べたが、吉通が幼年のおり、たびたび義行が来て、人払いをしてお家の教えを伝えたと記録されている。そういう思想も義行は伝えたのであろう。
というわけで、高須藩主であり、四谷家と呼ばれた松平義行は重要な人物なのだが、それとは別にこの高須藩という藩を記憶にとどめておいてもらいたい。たった三万石の小藩ではあるが、この藩は江戸時代の歴史にしばしば顔を出すのだ。
特に幕末になって、この藩からは三人の重要人物が出て、他藩へ養子に入って歴史に名を残すことになる。
それはまた後日詳しく語りますので、高須藩の名を覚えておいてください。
京都
大谷祖廟総門「幕末に新築」
御遠忌法要の年
真宗大谷派(本山・東本願寺)は15日、宗祖・親鸞の墓所がある大谷祖廟(そびょう)(東山区)の総門の屋根裏から、幕末の1862(文久2)年に新築されたことを示す棟札が見つかったと発表した。親鸞の600回御遠忌(ごえんき)の法要が大谷祖廟で営まれた年にあたり、記念事業として新築された可能性が高いという。
総門は檜皮葺(ひわだぶき)の四脚門で、高さ約8・7メートル、幅約5・2メートル、奥行き約4・3メートル。記録により、これまで総門は東本願寺の境内から1857(安政4)年以降に移築されたと考えられていた。
総門は、来年の750回御遠忌を前に今年3月から修復中。同派は「御遠忌を前にこのようなことが明らかになり、何かの縁を感じる」としている。
京都「龍馬通り」店舗で火災…元海援隊本部近く
17日午前7時45分頃、京都市中京区河原町通三条下る大黒町、たばこ店経営山本いつみさん(87)方から出火。
木造2階建て店舗兼住宅130平方メートルのうち約90平方メートルを焼いた。五条署によると、山本さんは独り暮らし。1階にいたが、逃げ出して無事。
現場は繁華街の「龍馬通り」と呼ばれる一角。約60メートル東には、幕末に坂本龍馬が身を寄せ、海援隊京都本部を置いたとされる材木商「酢屋」がある。
大阪
龍馬の手紙 複製品見つかる
幕末の志士、坂本龍馬が、大政奉還を実現させるよう土佐藩の重臣を激励した直筆の手紙の精巧な複製品が大阪市内で見つかりました。専門家は「原本が行方不明のなか、たいへん貴重な発見だ」と話しています。
見つかったのは、今から140年余り前の慶応3年10月、江戸幕府が朝廷に政権を返上した大政奉還の2日前、幕府が京都で諸藩の重臣を集めて意見を聞いた日に坂本龍馬が土佐藩の参政、後藤象二郎にあてた手紙の複製品です。高知県出身で大阪市に住んでいた男性が、40年近く前に手に入れ、保管していたということです。
手紙をめぐっては最近、龍馬直筆の草案が見つかっており、親族がNHKのニュースを見て、高知県立坂本龍馬記念館に連絡を寄せたということです。手紙そのものは、数十年前から行方がわからなくなっていて、古い写真しか残っていませんが、坂本龍馬記念館によりますと、今回見つかったものは、筆跡や文字の間隔などが同一であることから、原本を印刷した複製品だとみられるということです。
坂本龍馬記念館の主任学芸員の三浦夏樹さんは「龍馬の筆の勢いなどがわかるたいへん貴重な史料です。今後も連鎖的に新たな史料が見つかることを期待しています」と話しています。
兵庫
巨大壁画:龍馬、山崎高1年生が合同制作 宍粟市役所、21日まで展示 /兵庫
宍粟市山崎町加生の県立山崎高の1年生265人が、幕末の志士、坂本龍馬を描いたモザイク壁画を制作した。縦5メートル、横7・5メートルのジャンボサイズ。宍粟市役所1階市民ロビーで21日昼まで展示している。
土佐の桂浜で、刀差し姿の龍馬が海のかなたに思いをはせている図柄。中央には「翔(と)ぶが如(ごと)く 龍馬と行く」と生徒の決意を記した。1年生全員の合同制作で、11日の同高文化発表会で披露した。
1・5センチ四方の色紙をパズルのように張りつけて制作した。使った色紙は16万3000枚、完成には2週間を要した。全体のとりまとめ役となった中藤剛成教諭によると、7クラスごとに制作したパーツを合体させたため、ずれの補正で苦労したという。
開庁時間は平日の午前8時半~午後6時15分。【渕脇直樹】
高知
大政奉還前、龍馬の直筆 後藤象二郎励ます書き損じ発見
幕末の志士・坂本龍馬が、土佐藩重臣の後藤象二郎にあてて書いた手紙の書き損じが、高知県いの町の民家で見つかり、県立坂本龍馬記念館(高知市)が龍馬直筆と確認した。手紙は、15代将軍徳川慶喜に大政奉還を求めるため、京都・二条城に向かう後藤を激励する内容。手紙全文を撮影した写真が残っていて内容も知られているが、実物は行方不明になっている。
同館の森健志郎館長(68)は「手紙と書き損じを比べることで、龍馬が重要な日を前に緊張し、あわてて書いたことが分かる。龍馬の人間的な側面がうかがえる貴重な資料だ」と話している。
同館によると、手紙は大政奉還前日の慶応3(1867)年10月13日付。「海援隊一手を以て大樹参内の道路ニ待受ケ」と書かれ、大政奉還に失敗した場合、自らも海援隊を率いて援軍すると激励。さらに「先生一身失策の為ニ天下の大機会を失せハ其罪天地ニ容るべからず」と記し、失敗すれば先生(後藤)の罪は許されず、自分も薩長から責められる、としている。
手紙は縦24センチ、横47センチで19行。書き損じは縦19.6センチ、横72.4センチで28行だが、内容はほぼ同じという。書き損じは7行目と22行目の「先生」が「生生」と誤記され、22行目は隣の余白に正しい「先」の字が書き足されている。22行目から急に乱雑になり、最後の署名は、手紙の「龍馬」に対し、書き損じは本名の「直柔(なおなり)」。
所有者の南道(おさむ)さん(86)の話では、旧中山村(現・同県安田町)の村長だった祖父が譲り受けたという。書き損じは7月17日から始まる同館の企画展で公開される。
コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(66)東大教授・山内昌之 村田新八
手風琴とシルクハット
週末に鹿児島に出かけてきた。テレビ局の企画で、中学生との対話と授業を組み合わせた集いの教師を務めたのである。地元でも定評のある公立の中高一貫校の中学2年生は、聡明(そうめい)であるばかりでなく、明朗闊達(かったつ)な南国の若者たちであった。
西郷隆盛と大久保利通を素材に日本の近代や政治家のリーダーシップを語り合った2日間は、私にとっても充実した時間であった。とにかく、全員が西郷の敬天愛人の意味を正しく理解し、何かの行事に参加した褒美として、現代語訳のついた『西郷南洲遺訓』を見せてくれた生徒もいるくらいだ。やはり歴史を動かした土地にふさわしいといえよう。
2人の育った加治屋町にある市立維新ふるさと館を皆で一緒に訪ねた時も愉快であった。西郷や大久保らのロボットが登場し、わかりやすい工夫をこらした劇を通して、維新史や近代史を楽しく勉強したのも懐かしく思いだされてならない。西郷と大久保との対話に加え、薩摩第3のロボットがいきなり登場したのにも驚いた。
しかし、考えてみれば人選は見事なくらい当然なのであった。それは村田新八だったからである。
授業では「情の人」西郷、「理の人」大久保という組み合わせで、生徒と一緒に歴史を考えてみた。村田はさしずめこの2類型の中間に位置する人物なのかもしれない。幼少時から死ぬまで西郷を慕い続けながら、岩倉使節団に加わって欧米事情にも通じた村田は、幕末から西郷の懐刀として奔走した志士である。また、大久保がその人物見識を高く評価し、ゆくゆくは政府の中核に据えようとしたほどの人物であった。
◆戦火の中でも演奏忘れず
美術や音楽を愛した村田は、滞在先のパリでオペラ座にしきりに通い、アメリカでは手風琴(てふうきん)(アコーディオン)に熟達したほどである。西南戦争でも時間があると演奏し、自決を覚悟した時にようやく楽器を壊したという逸話が残っている。
西南戦争では薩軍二番大隊長になった村田は、シルクハットとフロックコートという妙な身なりで戦闘を指揮したのだから、手風琴との組み合わせといい、相当に異彩を放ったことだろう。
桐野利秋(中村半次郎)が香水や金時計を愛したハイカラぶりなどを思い起こすと、薩人にはイメージと裏腹に相当に洒落(しゃれ)た面があったのかもしれない。
それにしても、大久保にとって村田を失ったのは、切歯扼腕(やくわん)するほどの口惜しさだったに違いない。
かつて西郷に「智仁勇の三徳を兼備したる士」として皆の模範とすべしと言わしめた村田なら、外交でも内務でもこなせただけでなく、陸海軍に進んでも将帥の器になっていたはずだ。西洋風の彼のことだから、逓信や文部の世界で先端技術を生かしたかもしれない。秘めた新知識の数々を十分にいかす暇もなく、西南戦争に散った村田の犠牲こそ、まさに国家的損失というべきなのだろう。
◆大久保に惜しまれた死
幕末から西南戦争まで村田を頼りにした西郷と同じく、大久保ほど新国家の設計に村田を必要とした人物もいなかった。まさに勝海舟は、「大久保利通に亜(つ)ぐの傑物」と呼び、「非命に斃(たお)れた」残念をしきりに回顧しているほどだ。
熊本民謡『田原(たばる)坂』に出てくる「馬上ゆたかな美少年」とは、村田新八と一緒に死んだ2人の息子のうち長男の岩熊がモデルという説も強い。旧薩摩の地を踏んで、目鼻立ちがはっきりし溌剌(はつらつ)とした生徒たちの笑顔を見ていると、西郷や大久保の若き面影や村田の幼い時分の顔立ちはこうではなかったかとつい想像してしまう。
岩熊は数えの19歳だったともいうから、私が接した生徒たちのすぐ上の兄貴分ともいうべきであろう。歴史を学ぶつらさを実感する時でもある。(やまうち まさゆき)
◇
本連載をまとめた「幕末維新に学ぶ現在」(中央公論新社)が発売中。
◇
【プロフィル】村田新八
むらた・しんぱち 天保7(1836)年、薩摩生まれ。幼少より西郷隆盛に兄事し、西郷を助けて国事に奔走する。戊辰戦争では薩摩藩軍の軍監として東北地方を転戦。明治4年、宮内大丞(だいじょう)となり、岩倉遣外使節団に加わって欧米各国を巡回。征韓論政変後に帰国、鹿児島に帰り、桐野利秋らと私学校を作って砲隊学校を監督。西南戦争では薩軍二番大隊長として各地で奮戦し、明治10(1877)年、城山で戦死した。享年42。
これもコミックス化を待ってました。
絵柄については必ずしも好みとはいいがたいのですが、細谷十太夫は文句なくかっこいい。
そして、外伝『Blue Age-青の時代―』。若き日の細谷十太夫meets土方歳三@新選組! お得感がありました(笑)。
絵柄については必ずしも好みとはいいがたいのですが、細谷十太夫は文句なくかっこいい。
そして、外伝『Blue Age-青の時代―』。若き日の細谷十太夫meets土方歳三@新選組! お得感がありました(笑)。
待ってました、第3巻!
佐伯と斉藤は長州藩の桂が放った工作員、殿内の正体も……と、くせ者揃いの壬生浪士組。
しれっとした顔で淡々と任務をこなす斉藤一くんが今後どうなっていくか、とても気になる第3巻。壬生浪士組内の暗闘はまだまだ続きます。
巻末の以蔵が主人公の短編もいいです。
佐伯と斉藤は長州藩の桂が放った工作員、殿内の正体も……と、くせ者揃いの壬生浪士組。
しれっとした顔で淡々と任務をこなす斉藤一くんが今後どうなっていくか、とても気になる第3巻。壬生浪士組内の暗闘はまだまだ続きます。
巻末の以蔵が主人公の短編もいいです。
感想を書いている途中でうっかり「戻る」ボタンを押して消してしまいました……トリの談笑さんに取りかかったところだったのにorz。
がっくり気落ちしたので、とりあえず演目だけ。
「子ほめ」春太
「豆や」松幸
「浮世根問・名古屋弁バージョン」平林
「健康落語・新米泥棒(夏どろ改作)」らく朝
「錦の袈裟」泉水亭錦魚
「看板のピン」談慶
「もう半分」談四楼
中入り
「家見舞い(肥瓶)」志ら乃
「無精床」土橋亭里う馬
「酢豆腐(ちりとてちん)」談幸
「たがや」談笑
満員のせいか、皆さんノリノリ。トリの談笑師匠なんか、アクションに熱が入って扇子を取り落とすほど。最後は談笑さんの事前指導(笑)の通りに観客全員で「た~がや~!」と盛り上がる。
質量ともにたっぷり楽しんだ平日午後でした。
がっくり気落ちしたので、とりあえず演目だけ。
「子ほめ」春太
「豆や」松幸
「浮世根問・名古屋弁バージョン」平林
「健康落語・新米泥棒(夏どろ改作)」らく朝
「錦の袈裟」泉水亭錦魚
「看板のピン」談慶
「もう半分」談四楼
中入り
「家見舞い(肥瓶)」志ら乃
「無精床」土橋亭里う馬
「酢豆腐(ちりとてちん)」談幸
「たがや」談笑
満員のせいか、皆さんノリノリ。トリの談笑師匠なんか、アクションに熱が入って扇子を取り落とすほど。最後は談笑さんの事前指導(笑)の通りに観客全員で「た~がや~!」と盛り上がる。
質量ともにたっぷり楽しんだ平日午後でした。
蒸し暑い一日でした。一雨来るのを待っています。
愛知
梅雨の雨浴び鮮やかに 幸田・本光寺のアジサイ
京都
街道新話 特別編(中)
【京街道・伏見宿(京都市伏見区)】
高知
龍馬が後藤象二郎へあてた直筆の手紙 書き損じ見つかる
龍馬直筆の手紙草案見つかる
象二郎あて龍馬の手紙草案、高知の民家で発見
地方自治法施行60周年記念貨幣:龍馬貨幣、出たぜよ /高知
長崎
長崎山清水寺・本堂の改修終了 県文化財、厳かに落慶法要
文化芸能
視聴室:歴史秘話ヒストリア
主演の大沢たかおも興奮気味
来年4月スタート、TBS系「JIN‐仁‐」
ビジネス
「竜馬」でキャンペーン=ロッテとJTB
愛知
梅雨の雨浴び鮮やかに 幸田・本光寺のアジサイ
アジサイ寺として知られる幸田町深溝の本光寺境内で、約1万株が見ごろを迎えた。梅雨の雨を浴び、青や紫、白色の15種類が、競うように咲き誇っている。
本光寺は、近くに城跡が残る深溝城を拠点に徳川家康に仕え、功績で島原7万石の大名となった深溝松平家の菩提(ぼだい)寺。明治維新までは松平家専用の寺として一般の立ち入りが禁じられていたが、40年以上前から鶴田悦章住職(69)がアジサイや梅、ツバキを植え、地域に親しまれる“花の寺”として再出発した。
同寺宝物館では、松平家7代目の忠雄(1673~1736年)の墓所から発掘された陶器や香道具、小判など、貴重な副葬品の特別展示も。開館は6月末までの午前10時~午後3時で、月曜休館。展示の拝観は300円。
6月中の平日は、松平家4代目家忠(1555~1600年)ゆかりの浄土寺(同町大草)で、祈とうを受けられる。元料理人の飯田大全住職(30)手作りの精進料理付きで、2000円。当日午前11時半までに予約が必要。(問)浄土寺=電0564(62)2153
(中野祐紀)
京都
街道新話 特別編(中)
【京街道・伏見宿(京都市伏見区)】
●津藩の砲声 歴史変える
名神高速道路で京都の伏見に向かう。カーナビに従い、大津の手前で京滋バイパスに折れると、京都市街の渋滞に巻き込まれずにすむ。
そういえば、家康は東海道に京街道(京―大坂)をとりこむとき、各国大名を朝廷と接触させないよう、大津から山科回りで伏見につないだという。
♪お江戸日本橋
七つ立ち(七つは朝4時)
初上(のぼ)り
東海道五十三次の民謡の歌詞だが、京へ行くのを「上る」といった。幕府が実権を持ちながら朝廷の存在は大きかった。
京街道を加え、東海道五十七次。京の南口の伏見宿では水上運送も盛んだった。幕末、志士たちが船宿の「寺田屋」などで死闘を繰り返す。大政奉還後の鳥羽伏見の戦い(1868年1月)は市街戦となった。
京阪伏見桃山駅に近い料理屋魚三楼(うおさぶろう)には140年前の流れ弾の弾痕が表格子に残る。話を聞きたいところだが、「上海万博に京料理を出店し、主人はそっちに出かけてまして」。
この戦いは戊辰(ぼしん)戦争の緒戦でもある。薩摩・長州軍の3倍の兵力(1万5千人)を持ちながら会津と桑名が主力の幕府軍は総崩れとなり、京街道の淀川堤防を一路、大坂方面へ。
このとき、味方のはずの津藩が淀川の対岸から幕府軍を砲撃した。鳥羽伏見の戦いは「徳川300年の天下を3日で失う」といわれたが、決定的な役割を果たした津藩は「変節」「裏切り」と見られ、桑名藩などから恨みをかう。
砲火を浴び、宿場を閉じた跡に「竜馬(りょうま)通り商店街」が生まれ、その青年部は「海援隊」を名乗る。(中生加 康夫)
◇アクセス
京街道は大坂街道ともいわれ、38キロ。現在の京都市伏見区は秀吉の伏見城の城下町として発展。江戸期は宿場で栄え、宇治川、淀川、高瀬川を経て、京、大坂、近江へ向かう千数百隻の舟の発着地でもあった。伏見の酒造業は灘に次ぐ。伏見観光協会(075・622・8750)。
高知
龍馬が後藤象二郎へあてた直筆の手紙 書き損じ見つかる
幕末の志士・坂本龍馬が、土佐藩重臣の後藤象二郎にあてて書いた手紙の書き損じが、高知県いの町の民家で見つかり、県立坂本龍馬記念館(高知市)が龍馬直筆と確認した。手紙は、15代将軍徳川慶喜に大政奉還を求めるため、京都・二条城に向かう後藤を激励する内容。手紙全文を撮影した写真が残っていて内容も知られているが、実物は行方不明になっている。
同館の森健志郎館長(68)は「手紙と書き損じを比べることで、龍馬が重要な日を前に緊張し、あわてて書いたことが分かる。龍馬の人間的な側面がうかがえる貴重な資料だ」と話している。
同館によると、手紙は大政奉還前日の慶応3(1867)年10月13日付。「海援隊一手を以て大樹参内の道路ニ待受ケ」と書かれ、大政奉還に失敗した場合、自らも海援隊を率いて援軍すると激励。さらに「先生一身失策の為ニ天下の大機会を失せハ其罪天地ニ容るべからず」と記し、失敗すれば先生(後藤)の罪は許されず、自分も薩長から責められる、としている。
手紙は縦24センチ、横47センチで19行。書き損じは縦19.6センチ、横72.4センチで28行だが、内容はほぼ同じという。書き損じは7行目と22行目の「先生」が「生生」と誤記され、22行目は隣の余白に正しい「先」の字が書き足されている。22行目から急に乱雑になり、最後の署名は、手紙の「龍馬」に対し、書き損じは本名の「直柔(なおなり)」。
所有者の南道(おさむ)さん(86)の話では、旧中山村(現・同県安田町)の村長だった祖父が譲り受けたという。書き損じは7月17日から始まる同館の企画展で公開される。
龍馬直筆の手紙草案見つかる
幕末の志士、坂本龍馬が、江戸幕府が朝廷に政権を返上する大政奉還を実現させるよう土佐藩の重臣を激励した直筆の手紙の草案が見つかりました。専門家は「当時の緊迫した状況がうかがえる第1級の史料だ」と話しています。
象二郎あて龍馬の手紙草案、高知の民家で発見
幕末の志士・坂本龍馬が、土佐藩重臣の後藤象二郎にあてた手紙の草案が、高知県いの町の民家で見つかり、県立坂本龍馬記念館が15日、確認した。
大政奉還を15代将軍徳川慶喜に迫るため、京都・二条城へ向かう後藤を、「もし失敗したら、私も海援隊を率いて将軍を襲う覚悟。墓の下でお目にかかりましょう」と激励する内容。後藤に渡った手紙そのものは行方不明のままで、写真しか残っていなかった。同館は「大政奉還の原案を考え、時代を動かそうとする龍馬の覚悟と緊張が伝わる第一級の資料」と評価している。
手紙は縦20センチ、横78センチで、大政奉還前日の慶応3年(1867年)10月13日付。大政奉還に失敗し「天下の大機会」を逃せば、薩長から責めを負わされると、緊迫した情勢をつづっている。「先生」(後藤)を「生生」と書き損じており、控えにしたとみられる。
龍馬の直筆で「参政(後藤)が登城するときに渡した手紙の草案なので、見てください」と、後藤に渡った手紙にはない説明書きが加えられており、別の親しい人物に送ったらしい。
持ち主の南道(おさむ)さん(86)によると、旧中山村(現・同県安田町)の村長だった祖父が譲り受けたという。
後藤は龍馬の大政奉還の考えを取り上げ、建白書として慶喜に提出。慶喜は後藤ら40藩の重臣を集めて意見を聞き、朝廷に政権返上を申し出た。手紙は7月17日からの同館の企画展で展示する予定。 最終更新:6月16日3時14分
地方自治法施行60周年記念貨幣:龍馬貨幣、出たぜよ /高知
幕末の志士、坂本龍馬の顔を彫り込んだ地方自治法施行60周年記念貨幣の通信販売が15日、始まった。造幣局によると、実在した人物が貨幣にデザインされるのは初めてという。龍馬ブームを追い風に、大きな注目を集めそう。
県からのアイデアを基に造幣局が製造。重さ7・1グラム、直径26・5ミリの500円玉で、「バイカラー・クラッド貨幣」と呼ばれる2色構造になっている。196万枚を用意した。
特殊な加工を施し、特製ケースに入れた「プルーフ単体セット」(消費税・送料込み2800円)▽桂浜の写真をあしらったカード型ケース付きの「Aセット」(同1000円)▽Aセットと60周年記念のふるさと切手シートを特製ケースに入れた「Bセット」(同2000円)▽Bセットから切手を抜いた「Cセット」(同1600円)--がある。
申し込みは7月5日まで。同月下旬に造幣局から払込用紙が郵送される。また、同月21日から、貨幣のみの場合は額面価格による引き換えも金融機関で受け付ける。詳しくはハローダイヤル(050・5548・8686)へ。【千脇康平】
長崎
長崎山清水寺・本堂の改修終了 県文化財、厳かに落慶法要
安産祈願で知られる長崎市鍛冶屋町の長崎山清水寺(ちょうきさんせいすいじ)で15日、本堂(県有形文化財)の改修工事終了を祝う落慶法要と記念式典が開かれた。
同寺は1623(元和9)年創建。現在の本堂は68(寛文8)年に建立された。老朽化が激しいため、2005年から県、市の補助を受けて解体修理を実施。修理中に判明した幕末の1862(文久2)年ごろの姿に復元した。総工費は約4億4千万円。
改修に伴い、公益財団法人文化財建造物保存技術協会が調査。和風の密教寺院ながら、中国産木材を使用し、中国建築の様式と意匠を大幅に取り入れた独自の寺院建築と分かった。今後、国の重要文化財への格上げが見込まれる。
法要には約500人が参列。京都清水寺など全国から集まった僧侶約40人が入堂し、本尊の千手観世音菩薩像を26年ぶりに開帳した。僧侶は声を合わせて「オンバザラ・ダラマ・キリク」と千手観音をたたえる諸真言(呪文=じゅもん=)を唱え、堂内は厳かな雰囲気に包まれた。
一月正人(いちげつ・しょうにん)住職(70)は「多くの人の協力で、倒壊しかけていた本堂が立派によみがえり感無量。これからも市民に親しまれる『きよみずさん』であり続けたい」と話した。
千手観世音菩薩像は21日まで開帳する。
文化芸能
視聴室:歴史秘話ヒストリア
◆歴史秘話ヒストリア(NHK=後10・0)
◇ちょっと変わった殿様
幕末の動乱を斬新な行動で乗り切った尾張藩主、徳川慶勝の生きざまを紹介する。
藩士や領民の期待を受け、美濃・高須松平家から尾張藩に養子に入った慶勝は、全藩士約1700人の人事査定を自らが行うなどし、破綻(はたん)状態の藩の財政を立て直す。そんな藩主の趣味は写真。殿様だからこそ撮影できた城内部の写真は、史料として今も貴重だ。さらに慶勝の3人の弟の数奇な運命も取り上げ、幕末、明治維新を当時のエリート一家の視点で描く。
慶勝役は篠井英介。メモ魔で凝り性、そんな殿様の姿に親近感がわく。(北)
主演の大沢たかおも興奮気味
来年4月スタート、TBS系「JIN‐仁‐」
昨年10月期に放送され、人気を集めたTBS系「JIN‐仁‐」の続編が、連続ドラマとして来年4月(日曜後9・0)から放送されることが決まった。
ドラマは、大沢たかお演じる脳外科医・南方仁が、ある事件がきっかけで幕末の江戸にタイムスリップし、満足な医療器具もない中で人々の命を救う一方、坂本龍馬(内野聖陽)ら歴史上の人物と親交を深めて幕末の騒乱に巻き込まれていく、という壮大なストーリー。前作は平均視聴率19%、最終回では25・3%(いずれもビデオリサーチ関東地区調べ)を記録するなど大きな反響を呼び、作品としても第18回橋田賞を受賞するなど高い評価を得た。
完結編となる続編では大沢をはじめ、綾瀬はるか、小出恵介、中谷美紀、内野ら前回のキャストが再び集結。最終回のその後の仁たちが描かれるほか、西郷隆盛や徳川慶喜ら新たな歴史上の人物も登場する。
大沢は「続編の制作というのは、本当に勇気がいること。その挑戦は僕の俳優史上で最も大きな決断です。続編で描こうとしているストーリーを読んだ時、前回出演を決めた時以上のときめきを感じた。これは逃げられないなと思いました」と興奮の面持ち。
石丸彰彦プロデューサーは「完結編のテーマは、“歴史の修正力への挑戦”です。キャスト・スタッフ一同、さらなる思いと情熱を作品にささげ、作品の持つ世界を全うしたいと思っています」と語っている。
ビジネス
「竜馬」でキャンペーン=ロッテとJTB
ロッテ(東京)とJTB(同)は15日、大河ドラマの放送などで人気の高まる幕末の志士・坂本竜馬をテーマにした共同キャンペーンを22日に始めると発表した。竜馬ゆかりの地の特産物を使った菓子の外箱で観光スポットを紹介し、旅情をかき立てる。(2010/06/15-18:07)
日本がカメルーンに勝った昨日の試合、海外では今大会一番の番狂わせと報道されたところもあるとか。ゴールした本田、アシストした松井、そして守りきった全メンバーに感謝!
北海道
幕末の志に思いをはせ 函館
龍馬記念館に竜馬さん
神奈川
蔵から交流の場へ 小田原・岩瀬邸 横田七郎氏の回顧展を開催
愛知
DVD:郷土の偉人を紹介、第1弾完成 刈谷市教委、21小中学校に教材配布 /愛知
コラム
記者ノート:奇兵隊内閣の行く末は?=小川直樹 /新潟
北海道
幕末の志に思いをはせ 函館
同志社大学の創設者で、幕末に海外を目指して函館からひそかに日本を脱出した新島襄(1843~1890)をしのぶ碑前祭が14日、函館市大町の「新島襄海外渡航の地碑」であった。
碑は新島襄が1864年、国禁を犯して米国に向けて出発したとされる函館港の一角に立つ。碑前祭は、学校法人「同志社」が今年創立135周年を迎えるのを記念して行われた。
大谷実総長が「新島襄の志に思いをはせ、継承し発展させていきたい」などとあいさつ。地元の同志社大卒業生ら約60人が集まり賛美歌を歌ったあと、碑に花をささげた。
龍馬記念館に竜馬さん
現代の竜馬、記念館に―。「北海道坂本龍馬記念館」(三輪貞治館長、函館市末広町8)のボランティアスタッフとして、公立はこだて未来大学2年生の深浦竜馬さん(19)が新加入した。同館のスタッフや来場者からは早くも“若さあふれる竜馬”の登場に期待の声が上がっている。深浦さんは「この名前と得意のパソコン技術を生かして記念館を盛り上げられれば」と意気込んでいる。
深浦さんは後志管内余市町出身。父の龍治さん(58)が歌手の武田鉄矢さん原作の漫画「おーい!竜馬」の大ファンだったことからこの名が付けられた。深浦さん自身も幼少期から父親の影響を受け、名前が一緒の「龍馬」には親近感や興味を感じていたという。
スタッフ志願のきっかけは、龍治さんに頼まれた土産を買おうと記念館を訪れたときだった。来場者をもてなすスタッフの姿や三輪館長の龍馬への熱意に感銘を受け、とっさに「参加させてください」の言葉を口にしていたという。「買い物が終わったら帰ろうと思っていた。なぜあんなに積極的になれたか正直わからない」とその時を振り返る。
13日に初めてパンフレットの配布や来場者の出迎え、見送りを担当した深浦さん。「人と接し、交流することの楽しさを知った。これからも週末を中心にできる限り参加したい」と笑顔を見せる。一人の若者の心意気がこれからの記念館運営に力を与える。
神奈川
蔵から交流の場へ 小田原・岩瀬邸 横田七郎氏の回顧展を開催
小田原市鴨宮に残る母屋が国登録有形文化財に指定されている「岩瀬邸」の蔵と土蔵がギャラリーとホールに“変身”、新しくスタートを切った。現在、岩瀬家と親交が深かった地元ゆかりの彫刻家・横田七郎氏(一九〇六~二〇〇〇年)没後十年の回顧展が開催されており、関係者は地域の文化交流と活性化を願っている。
市教育委員会などによると、岩瀬邸の母屋は安政四~五(一八五七~五八)年に建築された、かやぶき屋根の木造平屋建て寄せ棟造り。幕末から明治にかけての名主(豪農)の家の形態を残す。年二回、一般公開している。三越の社長を務めた岩瀬英一郎氏の生家でもある。
母屋の裏には昭和初期建造という家財道具を入れていた蔵や土蔵があり、「はっきりした歴史は分からないが、私は十八、十九代目」という不動産管理業の岩瀬忠司さん(57)が、開放を計画。二年ほどかけて蔵と土蔵の室内を改造した。
母屋はすでに茶会など和の行事に使われており、蔵はギャラリー、ミニコンサート、土蔵は料理教室などに使えるように流しも整えた。庭にケヤキの巨木があることから「巨欅(おおけやき)の居(いえ)」と名付けた。
「総合的な文化交流の拠点として活用してもらって少しでも地域の交流に役立てば」と岩瀬さんは妻美喜さん(56)と広い屋敷内を掃除する。
横田七郎氏は若いころ、岩瀬家の借家に住み、大家と借家人の関係。当時の当主にかわいがられたことなど縁が深く、岩瀬さんが七郎氏の長男で市議の八郎氏(65)に作品展の話を持ち掛けたところ没後十年ということもあって快諾し、実現した。
回顧展には七郎氏の木彫家としての第一作「めざし」や院展、文展の入選作など約七十点が並ぶ。二十日まで。入場無料で午前十時~午後六時。問い合わせは「巨欅の居」=電0465(49)6077=へ。 (長崎磐雄)
愛知
DVD:郷土の偉人を紹介、第1弾完成 刈谷市教委、21小中学校に教材配布 /愛知
刈谷市教委が、郷土の偉人を紹介するDVDをシリーズで制作する。第1弾「幕末をかけぬけた刈谷の志士たち--維新の魁(さきがけ)・天誅(てんちゅう)組」(23分)を完成させ、市内の21小中学校に教材として配布、一般にも1000円で販売している。毎年一つ作る計画。
第1弾で取り上げたのは、幕末に起きた尊皇攘夷(じょうい)派の挙兵事件「天誅組の変」(1863年)に加わった刈谷出身の3人で、天誅組総裁の松本奎堂(1831~63)、決死隊副隊長の宍戸弥四郎(33~63)、連絡役の伊藤三弥(35~1917)。
アニメに史跡の映像を交えて構成。3人が尊皇攘夷思想に傾いて天誅組に参加し、50人足らずで現在の奈良県五條市あたりで挙兵し、五條代官所や高取城などを襲撃、幕府軍の反撃で大敗して松本と宍戸は戦死したが、明治維新の先駆けとして評価されていることを紹介している。幕末のペリー来航や安政の大獄、桜田門外の変など時代背景も描いている。
問い合わせは市文化振興課(0566・62・1037)。【安間教雄】
コラム
記者ノート:奇兵隊内閣の行く末は?=小川直樹 /新潟
「奇兵隊内閣」--。8日に組閣した新内閣を、菅直人首相は自らこう名づけた。奇兵隊は幕末、長州藩の正規軍が役に立たないとみた高杉晋作が、農民や町人らから有志を募り、組織した軍隊だ。「自分たちが歴史を変える」というエネルギーが無類の強さを生み、第2次長州征伐や戊辰戦争を勝利に導く原動力になった。
しかし、あまり知られていないが、奇兵隊は明治になって栄達を重ねたのではなく、山県有朋ら幹部の一部を除き、新政府に抹殺された。旧幕府軍との戦いが終わると、奇兵隊には解散が命じられた。反発した隊士の一部は山口で脱退騒動を起こすが、木戸孝允(桂小五郎)らかつての同志に鎮圧され、首謀者の大部分は処刑される。明治3(1870)年のことだ。
奇兵隊士たちは新しい時代を夢見たが、結局は時代の波に乗ることができず、無情にも切り捨てられていった。
山口県出身の菅首相がこうした奇兵隊の最後を念頭に置いて名づけたのかは、分からない。だが、時勢を見誤ると、栄光も長くは続かず、歴史の残酷さにのみ込まれる。菅政権の運命は果たして?
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