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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
京都
幕末の豪農日記、初の一般公開 京都、新選組動向記載で注目
 幕末期の東九条村(現京都市南区)の豪農・長谷川軍記が30年近く書き続けた日記が1日~12月2日、南区の国登録有形文化財の長谷川家住宅「長谷川 歴史・文化・交流の家」で公開されている。昨年、新選組の動向を記した新史料として注目された日記で、当時の農村の暮らしぶりも詳述されている。一般公開は初めて。

 日記は、軍記が当主となった1845年から死去した1871年までに書いた計27冊。冊子は縦12センチ、横34センチで1年ごとに記入されている。内容の一部を抜粋したパネルも展示する。

 軍記は農民だが、公家の家来を一時務めていた。日記には侍姿で夜明け前に公家屋敷に出勤したことや、公家と決裂して免職されたことなどが記され、当時の農民と公家の関係性もうかがえる。

 通説では、江戸時代に誕生日を祝う習慣は一般的にはなかったとされるが、毎年自分の誕生日を赤飯で祝ったとの記述もあった。当時、四条橋東詰にあった北座や南座まで芝居見物に出かけたことや、村で悪病よけの踊りが流行したことなども書き残している。

 禁門の変が起きた1864(元治元)年の日記には、東九条村に新選組と会津勢が下宿し洛中に攻め上る長州勢を警戒、撃退したことも記されており、昨年、新史料として注目された。展示では、当時の会津藩兵の軍勢行列図や、下宿の謝礼として会津藩から送られた花鳥図も紹介する。

 展示を監修した伊東宗裕佛教大非常勤講師は「当時の洛南の農村の様子や軍記の人柄も分かる貴重な史料」としている。

 開館は毎週土日・祝日午前10時~午後4時。11月23日休み。大人800円。9月9日、10月14日、11月11日に伊東氏が、10月20日には地元農家田中和久氏がそれぞれ講演する。問い合わせは同交流の家075(606)1956。

滋賀
幕末の倒幕運動「天狗党の乱」、地域有力者が情報収集 「和田峠の戦い」で偽情報も 滋賀・長浜で聞き書き資料発見
 幕末の元治元(1864)年、水戸藩浪士が起こした倒幕運動「天狗(てんぐ)党の乱」で、鎮圧に向かった幕府軍が敗れた和田峠の戦い(長野県)の様子を滋賀県長浜市高月町西野で庄屋を務めていた人物が県内の宿場町で聞き書きした資料が、同地区の子孫の家で見つかった。当時、天狗党は京都を目指して進軍中。県内の通過も予想されたことから、地域の有力者が積極的に情報収集していたことがうかがえるという。

 高月観音の里歴史民俗資料館(長浜市高月町渡岸寺)の西原雄大(たけひろ)学芸員が調査し、明らかになった。

 資料は「水戸藩浪士一条之聞取写(みとはんろうしいちじょうのききとりうつし)」(縦12・3センチ、横35・4センチ)。後書きに、天狗党が降伏する約2週間前の元治元年12月5日、村庄屋の野洌村右衛門(やすそんえもん)が、中山道柏原宿(米原市柏原)で聞いた-などと記されている。

 内容は天狗党の首謀者の名前や戦闘で使われた武具の絵、挙兵後の動き、和田峠の戦いなどを記録。ただ、和田峠の戦いでは「幕府軍が勝利し(天狗党の)600人中400人に戦闘をやめさせた」などと、史実に反する事柄が記されていた。

 西原学芸員は「戦闘中の混乱で誤って伝えられたのか、天狗党に加勢しようとする民衆を抑えるため、偽情報をつかまされた可能性も否定できない」としている。情報元は幕府の役人ではないかと推測する。

 天狗党は挙兵した筑波山(茨城県)から京都に向かう途中、敦賀(福井県)で幕府に降伏。関係者が処刑された。

 今回の資料は、同資料館で開催中の企画展「西野水道と西野のくらし-野洌家文書が語るもの-」で展示している。9月3日まで。問い合わせは同資料館(電)0749・85・2273。

兵庫
仏皇帝の装束、あまり威厳感じず…幕末武士が日記に
 幕末に江戸幕府が初めて欧州に派遣し、兵庫の開港延期交渉などにあたらせた「文久遣欧使節」。その使節の一員だった兵庫県北部出身の武士たちが残した日記や手紙の内容が、近年の研究で明らかになりつつある。東京の品川区立品川歴史館の学芸員、冨川武史(とみかわたけし)さん(日本近世史)が8月26日、兵庫県朝来市で講演し、研究の最前線を語った。

極めてまれな現存史料
 講演会は、朝来市の生野書院で開催中の企画展「サムライが見たヨーロッパ」の関連イベント。企画展では、文久元(1861)年12月から約1年かけて欧州6カ国を巡った文久遣欧使節の全権大使を務め、朝来市を領地とした旗本の京極高朗(たかあき、1823~64)の従者、黒澤貞備(さだよ、1809~92)が残した日記などが紹介されている。

 品川歴史館には京極高朗の欧州派遣中に江戸で留守を任された京極家の家臣・永坂昇太夫(ながさかしょうだゆう、1817~89)家に伝わる多数の文書が寄託され、冨川さんが、永坂家文書に含まれていた訪欧中の黒澤と永坂が交わした往復書簡や京極の日記などを調査中だ。

 講演で冨川さんは、これらの史料について「使節団の首脳と家臣の史料が現存するだけでも極めてまれだが、比較、照合を通じて、彼らがどのように欧州に派遣され、何を見てきたかも知ることができる」と述べ、その価値を評価した。冨川さんによれば、日記の記載などから、京極家では計59通の手紙のやり取りが明らかになった。

英米の対立も
 日本から欧州へ出した手紙は現存しないが、訪欧中の黒澤から江戸の永坂らに書き送った15通の手紙が残る。主人である京極の体調などのほか、旅程の報告など実務的な内容が中心だった。セイロン(現スリランカ)寄港時の手紙には、南北戦争をめぐって英米両国が対立し、その余波を警戒して船中でも臨戦態勢をとったと記されていた。

 手紙の書かれた日付だけでなく、受け取った日付を書き加えたものもある。当時は欧州と中国上海の間には定期郵便船が運航されたが、上海と日本の間は商船や軍艦が手紙を運んだとみられ、日本からドイツのベルリンまで最速2カ月半で届いたことや、郵便事故で4通は届かなかったことなど、幕末の郵便事情も知ることができる。

女性が男性に指図、驚き
 また、黒澤は日記の中で、パリで謁見(えっけん)したフランス皇帝ナポレオン3世の装束について「帝王と申しても、変わりし装束等これなき由(よし)」と記し、あまり威厳を感じなかったことを打ち明けていたほか、家族に宛てた手紙には、西洋では女性が男性の先に立ち、男性に指図することに驚いた、などと書いていた。冨川さんは「黒澤のような一般にはあまり知られていない人物の声を聞くことは、知られざる歴史を掘り起こすことにもつながる。今後も分析を進め、史料の全容を明らかにしていきたい」と語った。

 企画展は9月9日まで。問い合わせは生野書院(079・679・4336)へ。(渡義人)

     ◇

 〈文久遣欧使節〉 兵庫や新潟の開港延期交渉などのため、文久元(1861)年12月から約1年かけ、欧州6カ国を巡った総勢38人の幕府使節団。各国と開港延期で合意し、一定の成果をあげた。

愛媛
維新期に「戦わない」決断下した幕府方・松平定昭 松山で「幕末維新と松山藩」展
 明治150年を記念した特別企画展「幕末維新と松山藩-時代の激流、人々の決断-」が市立子規記念博物館(松山市道後公園)で開かれている。9月3日まで。

 松山藩は江戸幕府の親藩。幕末維新期は幕府方として行動し、新政府から「朝敵」とされた。21歳で老中に就任し、戊辰戦争で幕府軍に加わった同藩14代藩主、松平定昭は抗戦か降伏かの決断を迫られるなか、側近の筆頭家老、奥平弾正や大原観山(正岡子規の祖父)らが尽力し、降伏を決断した。

 展示は、幕末維新期の激流に向き合った藩士らの軌跡を追う展開で、観山の肖像画など初公開資料7点を含め96点を公開。定昭の抗戦の決心や、降伏への説得工作、土佐藩が松山城を開城した際の記録など、難局を乗り越えて新時代へ向かう姿が浮かび上がる構成となっている。

 同館の西松陽介学芸員は「戦わない英断を下したことで、次世代の偉人(秋山好古ら)が育ち、文化人が活躍する源流につながった」と話した。

 火曜日休館。問い合わせは同館(電)089・931・5566。

山口
幕末吉田松陰と弟子の往復書簡発見 徳川光圀の書勧める
 山口県萩市の松陰神社は28日、幕末の思想家・吉田松陰(1830~59年)が、松下村塾の教え子だった長州藩士、前原一誠(まえばらいっせい)(34~76年)とやり取りした往復書簡が見つかったと発表した。松陰は、中国の「四書」や徳川光圀らによる書物など読むべき書物を列挙して前原に伝えており、維新の志士たちを育てた松陰の指導者としての姿が浮かび上がる。

 書簡(縦16.7センチ、横52.3センチ)は2006年、前原の子孫が神社に寄贈した史料約2600点のうち、読書記録の冊子に挟まれていた。1857年に書かれたとみられ、学問の方法について教えを請う前原の手紙の裏面に、松陰が朱色の墨で返信をしたためた。

 四書の他に「国史略」「十八史略」など日中両国の歴史書など計11点を挙げ、前原の意思次第で議論に応じるとつづった。さらに儒学者の林羅山(はやしらざん)や荻生(おぎゅう)徂徠(そらい)ら8人を「心に刺さり、人を動かす言葉がある」と評価。徳川光圀、上杉鷹山(ようざん)ら江戸時代の「名君」6人の書物も読むことを勧めている。

 前原は松下村塾で洋学を学び、尊皇攘夷(じょうい)運動に加わった。維新後は政府の参議などを務めたが、木戸孝允らと対立し1870年に萩へ戻った。6年後、不平士族を率いて「萩の乱」を起こしたが、敗走して捕まり、萩で処刑された。

 書簡は来年4月8日まで同神社の特別展で展示される。【遠藤雅彦】




 私は『西郷どん』第一話で脱落しましたが、下記は必読です。

コラム
これだけはおさえておきたい、幕末についての新常識『西郷どん』をより楽しむために
町田 明広
大河ドラマなどでも人気の幕末維新。幕末というと、必ず持ち出されるのが「尊王攘夷」派vs.「公武合体」派の構図だが、じつは幕末研究ではそうした見方はされなくなっている。これだけは知っておきたい新常識を、大河ドラマ「西郷どん」放映後のTwitterで話題の町田明広神田外語大学准教授が紹介する。
〈尊王〉〈攘夷〉〈公武合体〉は対立しない
2018年は明治維新150年であり、今年に限らず、ここ数年は「~から150年」という具合に、日本中の博物館で関連する企画展が目白押しであり、出版物も溢れかえっている。筆者も明治維新史を専門としているだけに、ありがたいことに講演や出版など、たくさんのお声掛けをいただいている。幕末史は、今も昔も人気が高い時代である。

ところで、2018年の大河ドラマは「西郷どん」である。この1月から3月まで、NHKカルチャーラジオ「西郷隆盛 その伝説と実像」を担当した。そのご縁もあり、また、ドラマで描かれる「伝説」が「実像」と見られてしまい、一人歩きしてしまうことを心配し、毎週ドラマ放映後、可能な限りtwitterでその回の時代背景などを発信しているが、一気にフォロワー数が飛躍的に増え、反応も想像をはるかに超えている。関心の高さに驚かされた。

京都御所。photo by iStock
その一方で、実証的な研究の深化にもかかわらず、なかなか世間では、その成果が浸透していないと感じている。『攘夷の幕末史』(講談社現代新書、2010年)では、幕末史を分かりにくくしている要因として、歴史用語の使い方を指摘した。例えば、一般的に幕末の政争は、「尊王攘夷」vs.「公武合体」と言われつづけている。そもそも、「尊王攘夷」は、後期水戸学を大成した藤田東湖(ふじたとうこ)が生み出した歴史用語であるが、尊王は天皇(朝廷)を尊ぶという思想であり、攘夷は夷狄(外国)を打払うという対外政略である。その二つの異なる概念を、合体させている。また、「公武合体」は、朝廷と幕府を融和して、国内を安定させようとする国体論である。つまり、〈尊王〉〈攘夷〉〈公武合体〉は対立する概念ではないのだ。この時期、日本人であれば多かれ少なかれ全員が〈尊王〉であり、〈攘夷〉であり、〈公武合体〉であった。この件は、その後も機会があるごとに言いつづけているが、残念ながら浸透したとは言い難い。

「未来攘夷」と「即時攘夷」
『攘夷の幕末史』では、当時の政治的対立は何に起因していたのか、この複雑な幕末史を紐解くために、そして、その政争の本質を見抜くために、「攘夷」という歴史的用語を最重要キーワードとして取り上げた。なぜならば、幕末というのは、この攘夷によって衝き動かされ、形作られていたからだ。当時は攘夷の解釈によって、国内は二分されたが、その主たる対立軸は、安政5年(1858)に結ばれた通商条約の是非にあり、その対立する思想は、「大攘夷」と「小攘夷」であると論じた。その後、筆者なりに対外認識論の研究を深め、その成果をまとめたものが『グローバル幕末史』(草思社、2015年)であり、そこでは「未来攘夷」「即時攘夷」論を展開した。

「未来攘夷」「即時攘夷」論を基に、幕末史前半を概観して見よう。幕末の日本は、欧米列強によるウエスタンインパクトの波に飲み込まれ、植民地にされるかもしれない未曾有の危機を迎えた。しかし、ペリー来航(1853)を迎えたまさにその時、国中がパニックになり、なす術もなく植民地化の道を歩んだかというと、そんなことはなかった。それまでに、知らず知らずに欧米列強と接触するじゅうぶんな準備がなされていた。江戸幕府は中国帝国が形成する冊封体制外に日本を位置づけ、東アジア的華夷思想に基づく「日本型華夷帝国」を形成し、海禁の一形態である「鎖国」政策を採用した。その後、18世紀末からロシアが蝦夷地方に南下を始め、イギリスが日本各地に出没をしたことから、幕府は無二念打払令を出すに至った。 

ペリー来航。photo by Getty Images
しかし、アヘン戦争(1840〜42)での清の敗北は、日本中を震撼させるに値した。我が国の対外政策は、撫恤(ぶじゅつ)政策である薪水(しんすい)給与令に改められ、来るべき西洋との接触に備えた。つまり、国是である鎖国は破棄することなく、撫恤政策の枠内で、何とか穏便に欧米列強と交際しようとした。その一方で、後期水戸学の登場によって、尊王攘夷論が勃興し、ナショナリズムの全国への浸透がもたらされていた。しかし、アジアに進出を始めた欧米列強の強大な軍事力を目の当たりにし、攘夷実行の時期や策略をどうするのかが、日本にとって大きな課題となったのだ。

通商条約と孝明天皇
幕府は和親条約の締結(1854)によって、通商は回避して鎖国を守ることが叶ったものの、欧米列強に圧倒的な軍事力の差を見せつけられ、通商条約の締結は免れないものと覚悟した。岩瀬忠震(いわせただなり)ら海防掛は、むしろ積極的に開国し、富国強兵を主目的とした貿易開始の方針を打ち出した。この積極的な開明路線は、老中阿部正弘(あべまさひろ)の支持するところとなり、鎖国から開国への対外方針の大転換が企図された。この積極的な開明路線への転換には、幕閣の世界観が欧米列強との頻繁な接触によってグローバル化したことと、軍事的には欧米列強に歯が立たないという現実的な判断が背景にあった。また、この志向性は多かれ少なかれ、当時の諸侯階級においては、共通の対外認識であった。攘夷を声高に叫びつづけた徳川斉昭(とくがわなりあき)ですら強硬な攘夷行動ではなく、言を左右にして問題を先送りする「ぶらかし」戦法を支持していた。

通商条約は、鎖国から開国への対外方針の転換であると同時に、国体の転換を伴うものであった。問題は、国体の転換が自身の御代に起こることを痛烈に嫌い、勅許を許さない孝明天皇(こうめいてんのう)の存在であった。幕府は列強と朝廷の板挟みとなり、窮した挙げ句に通商条約を勅許なしで調印(1858)してしまった。我が国は通商条約を締結し、対外的には開国政策を取りながら、国内的には、国是は依然として「鎖国」(攘夷)のままであった。そこで幕府は、開明路線から「未来攘夷」へと舵を切った。今回の通商条約は一時的なもので、いずれ攘夷を実行すると宣言したのだ。朝廷に対する方便でもあったが、幕閣の意志はまちがいなく、武備充実後の攘夷実行にあった。

長州と薩摩
一方で、孝明天皇が認めない通商条約を、どうしても許せない勢力が登場する。久坂玄瑞(くさかげんずい)を中心とする松下村塾グループに引っ張られた長州藩や、三条実美(さんじょうさねとみ)などの過激廷臣である。長州藩は、「未来攘夷」策である航海遠略策を捨て、「即時攘夷」を唱えて国政をリードした。富国強兵を図って、世界に雄飛しようとする長州藩の主張は、航海遠略策そのものであり、孝明天皇が承認した対等な立場での通商条約であれば、むしろ歓迎する姿勢を示した。しかし、あくまでも勅許がある通商条約しか容認しない立場であり、尊王をないがしろにした幕府のやり方には断固として抗する強烈な志向があった。

しかし、長州藩は下関戦争(1863〜64)によって、欧米列強の前に沈黙を余儀なくされた。また、八月十八日政変(1863)や禁門の変(1864)によって、国政でも失脚してしまい、引き続き起こった第一次長州征伐(1864)によって、「即時攘夷」を推進する一派は、ここに潰えた。しかも、その1年後に通商条約は勅許されてしまい、理論的には我が国から攘夷は消え失せてしまう。この間に、長州藩も「即時攘夷」から「未来攘夷」へと、世界観の転換を余儀なくされた。

一方で、薩摩藩は島津斉彬(しまづなりあきら)による集成館事業や建艦などの富国強兵策が実行されていた。斉彬も、その路線を引き継いだ久光(ひさみつ)も、海洋国家特有の開明的な世界観を有しており、「未来攘夷」を志向して国政への参加を画策していた。通商条約の締結後は、小松帯刀(こまつたてわき)が中心となって、積極的に軍艦や武器の買い付けに奔走しており、幕府を軽んじて藩地における開港すら視野に入れ、さらなる富国強兵策を推進しようと企図していた。そんななかで起こった外国人殺傷事件の生麦事件(1862)は、まさに偶発的な事件であり、薩摩藩の世界観の変化によって生じた攘夷行動ではなかった。その後の薩英戦争(1863)も、イギリス側は戦闘に及ばないと確信していたほどで、事実、薩摩藩の「未来攘夷」志向はゆるぎのないものであった。しかし、イギリスの要求が誤伝されたため、戦闘に至ってしまうのだが、この衝突が転じて福となり、薩英両国は友好関係を築くことになる。こうした経緯を経て、幕末史は後半の元治慶応期を迎えることになったのだ。

小松帯刀。国立国会図書館蔵
岩瀬忠震という人物
ところで、『攘夷の幕末史』はたくさんの人物にスポットを当てたが、そのなかでも岩瀬忠震を世に送り出せたのではないかと自負している。もちろん、それまでも岩瀬伝はあったものの、かなり時間が経過しており、筆者が再発掘した金山であった。岩瀬は驚くほど開明的な政治家であり、かつ、ずば抜けて卓越した外交官であり、ハリスとの交渉を主導し、安政五ヶ国条約すべての調印に関わった。攘夷の思想を持ちながら、日本の植民地化を阻止し、将来の世界への飛躍を期して武備充実など富国強兵を図るため、あえて開国に踏み切った岩瀬の志を見誤ってはならない。

岩瀬は、「この調印の為に不測の禍(わざわい)を惹起して、あるいは徳川氏の安危に係わる程の大変にも至るべきが、甚だ口外し難き事なれども、国家の大政に預る重職は、この場合に臨みては、社稷(しゃしょく)を重しとするの決心あらざるべからず」(福地桜痴『幕末政治家』)と述べている。岩瀬は、このなかで幕府よりも社稷(国家)が大切であるとの認識を示している。幕府よりも日本国家が重要であると言い放った彼を、後世の我々はきちんと顕彰し、偉大な日本人として記憶に止めるべきであろう。

『攘夷の幕末史』では、その他、坂本龍馬(さかもとりょうま)や近藤長次郎(こんどうちょうじろう)の攘夷思想についても未来攘夷の代表として言及した。しかし、彼らの活躍や政治的スタンスなど、じゅうぶんに論じきれたかは心もとない。両者については、年内刊行予定の『検証 薩長同盟――偽りの薩長藩閥史観を撃つ』(人文書院)を手に取っていただき、ブラッシュアップされた新たな論考をご期待いただきたい。

大河ドラマ「西郷どん」も慶応期に突入し、いよいよ明治維新を迎える。『攘夷の幕末史』では、西郷隆盛には言及がほとんどできなかったが、その後、『歴史再発見 西郷隆盛 その伝説と実像』(NHK出版、2017年)を執筆する機会をいただいた。史実とドラマの差異を発見するなど、存分に楽しんでいただけたら幸甚である。
 年内刊行予定の『検証 薩長同盟――偽りの薩長藩閥史観を撃つ』(人文書院)、楽しみです。

幕末の志士たちは「テロリスト」だったそしてジェダイはダークサイドに落ちた
幕末に尊王攘夷を掲げた志士たちの実像は、為政者や時代の空気によって書き換えられている。『志士から英霊へ』を書いた東京大学大学院人文社会系研究科の小島毅教授に聞いた。
幕末の志士は現在で言えばテロリスト
──「志士から英霊へ」と評価が変わったわけですか。

日本の過去の人物像や歴史的事件に関して、すばらしいもの、褒めたたえるべきものだけを並べればいい、先人たちがした失敗や、ほかの国にかけた迷惑を語るのは自虐的だとの主張がある。だがもちろん、明るい面と暗黒面をきれい事にしてまとめるのは、歴史認識として正しいあり方ではない。

むしろ逆だ。歴史に学ぶとは失敗に学ぶのであって、成功譚を褒めたたえても、それは歴史を学んだことにならない。中国では昔から「歴史を鏡にする」という表現がある。中国人が日本の要人に会うたびに使う言葉だ。同じ失敗をしないために歴史が存在するという考え方といっていい。

明治150年を語るのであればむしろ、その間に起きたことの負の側面を含めて語るべきなのだ。幕末維新の志士という言い方がされてプラスの評価ばかりが目立つが、彼らは暴力に訴えてでも世の中を変えるべき、自分たちの考えと違う政治を行っている政権担当者は殺して構わないという考えを持っていた。つまり現代社会においてはテロリストだ。

それを現在の日本国政府が、つまり世界中に蔓延するテロリズムと戦う姿勢を標榜する政府が、明治150年だからといって過去のそうしたテロリズムを礼賛するのは自己矛盾になる。

──この本は西郷隆盛と吉田松陰の「2人のジェダイ」についてから書き下ろされています。

実は私は「スター・ウォーズ世代」。『スター・ウォーズ』には、西欧にない考え方を映画の中に生かすためなのか、研究対象の中国思想の気(フォース=銀河をつかさどるエネルギー)という言葉が盛んに使われている。

ジェダイ(秩序と平和の守護者)はいわば志士だし、彼らが戦った相手、もしくは作り上げようとしたものがエンパイア。そして暴力やテロリズムに訴えるようになってしまい、ダークサイドに落ちたりもする。この4つのキーワードを遊びの精神から各章タイトルに割り振ってみた。

松蔭は独善的だった
──西郷については「敬天愛人」に絡む話が中心です。

西郷はあるときから敬天愛人を座右の銘にし、好んで揮毫したという。ただ、この言葉の由来について本人は語っていない。関連する記述は、死後に出版された聞き書き本『南洲翁遺訓』の中にある。1868年に教育者の中村正直が「敬天愛人説」という文章を書き、これが当時よく読まれ、西郷も知っていたはずだ。


小島毅(こじま つよし)/1962年生まれ。東京大学文学部卒業。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。専門は中国思想史。東アジアから見た日本の歴史についての著作も多数。著書に『儒教が支えた明治維新』『増補 靖国史観』『朱子学と陽明学』『近代日本の陽明学』など(撮影:吉濱篤志)
──松陰もジェダイだった?

彼はむしろ偏った見方をする人だ。自分の信念を貫くために、それに従わない人たちを間違いと決め付ける。対話や議論を求めていくのではなく、書物や教えを通じて得たものに基づいて作り上げた自身の信念こそ正しいと突き進んでいく。

儒教の古典『孟子』の中にある言葉、至誠を根拠にして、誠を尽くせば皆わかってくれるはず、と独善的に事を運ぶ。思想史的に位置づけ直すと、兵学をあずかる形で養子に行ったことから、責任感を持って軍学を身に付け、その結果として、正真正銘のテロリストになっていった。

──教育者としての評価も。

玖村敏雄の著作『吉田松陰』が1936年に刊行され、その中で教育者として立派だったとの像が打ち出された。これが広く読者に浸透したようだ。戦前における尊皇派、天皇崇拝者としての松陰像が封印され、教育者、人格者としての松陰という像が作られて、今に引き継がれている。

──彼はダークサイドに落ちた?

正義のために戦っているつもりが、闇というものに引き寄せられていく。『スター・ウォーズ』でもよく描かれていると思う。単純な善悪二元論、勧善懲悪ではない。善の中にすむ悪の魅力、それこそが悪の魔力なのであり、最初から悪だとわかっていたら、力を持たない。日本語でいうところの「心の闇」。それを幕末の志士たちの生き方に重ね合わせると、彼らはなぜテロリストになってしまったのかがわかってくる。

自分たちの目指す正義が阻まれていると感じたときに、妨害するものを力ずくで排除しようとする。結局、自分たちが敵と考えていた人たちと同じ側に立ってしまう。他者を抑圧あるいは弾圧する。それがダークサイド。

尊皇攘夷のために暴力に頼った
──いわば絶対正義。

人を引き込む作用をする。『論語』にある身を殺してなすべきこと、殺身成仁に該当する。『太平記』の児島高徳の逸話に学び、太平記を翻案した『日本外史』を読むことでそうした知識を身に付けてあこがれたジェダイたちが、ダークサイドに落ちる入り口の尊王攘夷を目指す草莽(そうもう)の志士に育っていく。

──エンパイアの理念も背景に。

中国の宋学が、水戸学によって幕末期に影響を与えることにつながる。皇帝、日本の場合は天皇を頂点にいただく政治秩序をどう構想したか、それ以前とは違う形でどう作り上げたかという説話がエンパイアの理念だという位置づけになる。それこそがダークサイドに落ちていったジェダイたちが実現しようとしたことで、暴力革命、つまり尊王攘夷のために暴力に頼ることになる。


『志士から英霊へ: 尊王攘夷と中華思想』 (小島 毅 著/晶文社/2000円+税/256ページ)。
──水戸学はなぜ受け入れられたのですか。

思想内容の魅力はもちろんあるが、広めた人として頼山陽に加えて曲亭馬琴の役割が大きい。漢文で物を書く人ではなく、『南総里見八犬伝』や『椿説(ちんせつ)弓張月』が儒教道徳を教えている。ちなみに八犬伝の8つの数珠玉はすべて儒教の徳目だ。必ずしも水戸学と限定されないが、この手の本を通じて、小説を読むことができるような人たちに、儒教思想が取り込まれていく。かつて私は頼山陽を司馬遼太郎になぞらえたが、むしろ馬琴ではないかと最近考えを変えた。

──藤田東湖の役割は。

水戸学の中心人物。非業の死を遂げた人たちを英霊と呼び、靖国神社がこの言葉を取り入れた。反逆の罪に問われて死罪となった松陰は、明治になってよみがえり靖国神社に祭られ、西郷は逆臣として死んだので祭られていない。

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昨日は映画館割引の日だったので『銀魂2』二度目鑑賞。今年一番楽しめた映画なので多分7日の声出し鳴り物OKな鑑賞日にペンライト持っていくと思います。
 安倍首相は三度目の自民党総裁選に出馬するに当たって鹿児島を選び「薩長」政府を強調しましたが、引用した平野国臣の句はどう考えても薩摩批判。正しい歴史の知識を持たないまま国民に発信するのは恥ずかしいことだと思います。
 ちなみに戊辰戦争で負けた側に好きな人物が多い私は、戊辰戦争150年です。

秋田
戊辰戦争の供養塔除幕、平和を祈願 大仙市協和・萬松寺
 戊辰戦争(1868~69年)の戦没者を供養している秋田県大仙市協和境の萬松(ばんしょう)寺に、明治150年を記念した供養塔が建てられた。協和地域の住民でつくる交流団体「さどわら会」主催の慰霊祭で、同市と交流のある宮崎市の関係者を招いて除幕し、平和を祈願した。

 戊辰戦争では、新政府側についた秋田藩と、対立する奥羽越列藩同盟軍が戦闘を展開。秋田藩の援軍として現在の宮崎県から参戦した佐土原藩の藩士ら8人が、協和地域で亡くなった。

 協和町(現大仙市)と宮崎県佐土原町(現宮崎市)は、1992年に萬松寺で合同慰霊祭を行って以来、交流を続けている。明治150年の今年は境内に高さ1・8メートルの供養塔を建て、戸敷正宮崎市長の書いた文言を彫り込んだ。
 有料版だとさらに記事が読めそうです。

<戊辰戦争150年>佐土原藩士を手厚く供養した縁 大仙と宮崎、深まる交流 相互訪問、記念酒造りも

戊辰戦争で亡くなった佐土原藩士の慰霊碑=大仙市協和境の万松寺
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 秋田戊辰戦争の激戦地大仙市と、新政府軍側で参戦した佐土原藩があった宮崎市が交流を深めている。大仙市協和の境地区で戦死した佐土原藩士8人は現地の万松寺に一時葬られ、住民が手厚く供養した。150年前の悲劇を縁にして中学生や市民が相互訪問し、交流を記念した日本酒を造る事業も大仙市で進む。

 戊辰戦争から124年後の1992年、佐土原町(現宮崎市)の墓参団が万松寺を訪れたのをきっかけに交流が始まった。
 2001年に協和町(現大仙市)と佐土原町が有縁交流協定を締結した。市町村合併後は大仙市が人口約8万、宮崎市が約40万と都市の規模こそ異なるが、どちらも協定を引き継いだ。
 両市の物販施設では互いの特産品を販売。10年には佐土原藩士の慰霊碑が万松寺に建立された。今年は大仙市の事業として協和の酒米農家と酒造会社が記念酒を製造し、両市の交流を全国にアピールする予定だ。
 民間や中学生の交流も活発になり、協和には「さどわら会」、佐土原では「きょうわ会」と相手方の町の名を付けた有志団体がそれぞれの地で発足。大仙市の中学生が宮崎市を訪れてサーフィンを体験し、宮崎市の中学生は大仙市でスキーを楽しんだ。
 行政レベルでは、戸敷(とじき)正宮崎市長が今月19日に大仙市で開かれるシンポジウム「近代への道程 戊辰戦争と人びと」に出席。10月下旬には老松博行大仙市長が宮崎神宮大祭を視察する。
 老松大仙市長は「交流協定を友好協定に発展させたい」と意欲を示す。宮崎市佐土原総合支所の高橋通郎地域市民福祉課長も「8人の藩士を供養していただいた恩を忘れず、さまざまな交流を続けたい」と話す。

[佐土原藩]薩摩藩の支藩で藩主は島津氏。戊辰戦争時は2万7000石。宮崎市北部の旧佐土原町に藩庁を置いた。戊辰戦争では新政府軍に加わって伊勢、会津などを転戦。「境の戦い」では藩士約100人が庄内藩を中心とする奥羽越列藩同盟軍と交戦した。


<戊辰戦争150年>秋田藩 指揮権なき戦い 大仙でシンポ、仙台・庄内の視点も紹介
 秋田藩領が戦場となった秋田戊辰戦争の実態を、秋田、仙台、庄内各藩の視点から研究者が議論するシンポジウム「戊辰戦争と人びと」が19日、大仙市の大曲市民会館であった。市主催で約200人が参加した。
 秋田戊辰戦争は奥羽越列藩同盟からの秋田藩離脱を契機として1868年夏から約2カ月間、同盟軍と新政府軍が交戦した。仙台、庄内藩など同盟軍は久保田城に迫ったが、東北南部の戦況が悪化して兵を引き上げた。
 秋田県立博物館の畑中康博学芸員は「自領に敵を引き入れた防衛戦争だったのにもかかわらず、秋田藩の藩庁は軍事指揮権も前線の人事権も失っていた」と述べ、新政府軍に組み込まれた戦いの様子を示した。
 仙台藩の支藩一関藩は仙台藩の指揮を嫌い、庄内藩大隊の指揮下に入った。東北大大学院文学研究科の栗原伸一郎学術研究員は「仙台藩の指揮系統もかなり混乱があった」と指摘した。
 上山城郷土資料館(上山市)の長南伸治学芸員は明治20年代と大正時代に出版された戊辰戦争関係の文献を解説し「薩長や秋田の視点から描かれた史観に庄内の人々が動揺している姿がうかがえる」と語った。


山形
特別展激動の時代、米沢藩と戊辰戦争 来月15日から 上杉博物館 /山形
幕末から明治初期の激動期に米沢藩がどのような道を選んだのかを紹介する特別展「戊辰戦争と米沢」が9月15日から、米沢市丸の内の「伝国の杜 米沢市上杉博物館」で開かれる。

 同博物館によると、米沢藩は戊辰戦争の際、朝敵とされた会津藩を救うため、奥羽列藩同盟結成で主要な役割を果たし、越後を主戦場に各地で激戦を展開。降伏後は、新政府のもとで新たな体制を模索した。

 特別展では政治的な動向に加え、社会そのものを変えるきっかけとなった軍制改革や、戦場に赴いた兵士の行…
 以下、毎日新聞の有料版にて。

宮城
会津藩士への弔辞見つかる汚名返上の思い伝わる史料
 150年前の戊辰戦争で犠牲になった会津藩士の家族らが、戦争から22年後に移住先の青森県で営んだ法要で読み上げたとみられる弔辞6通が、仙台市の藩士子孫宅から見つかった。専門家は「朝敵の汚名を着せられ、一刻も早く名誉を回復したい会津出身者の思いが伝わる貴重な史料だ」としている。

 弔辞は仙台市の小池純一さん(70)が自宅で発見した。1890年5月、円通寺(青森県むつ市)で開かれた二十三回忌で男女6人が読んだとみられる。

 「弾丸を援軍のない城に受けたが、盾を布団に、矛を枕にして国のために戦死した」「諸君の忠義は世の中の称賛を浴びるだろう」などとつづられていた。


福島
二本松藩戦死者の霊牌発見 戊辰戦争、身分区別なく慰霊
 二本松藩丹羽家の居城だった霞ケ城公園(二本松市)の丹羽霊祠(れいし)殿(通称・丹羽神社)から、戊辰戦争の二本松藩戦死者を弔う約100年前の霊牌(れいはい)が大量に見つかった。霊牌は全て同じ形で約80柱あり、戊辰50年の慰霊祭に合わせて作られたとみられる。

 霊牌には武士や農兵の名前が記され、二本松市の担当者は「当時の二本松藩関係者は戦死者を身分で区別せず、等しく慰霊した。戊辰150年の節目や先人の思いを考える上で貴重な史料だ」とした。

 市によると、丹羽霊祠殿は戦時中に東京の丹羽家から現在の社殿に移った。丹羽家所有だったが昨年、市に寄贈された。

 市が正式に調査した際、御霊舎(みたまや)の中に霊牌があったという。5段の棚に並べられ、数点が木箱に入ったまま見つかった。木箱表面には「戊辰殉難士五十年祭」と記されていた。

 霊牌の概要や保管経緯は不明だが、市の所蔵史料に同じ霊牌がある。「戊辰50年の慰霊祭でもらった」という二本松藩士の子孫から寄贈されたといわれている。

 約100年前に発行された「二本松藩史」では二本松藩戦死者は338人(現在は337人)で、内訳は藩士162人、下級兵と農兵ら176人。戊辰50年の慰霊祭で全員分を用意したが、4分の1程度が遺族の手に渡らず保管されていたとみられる。

 同藩史によると、霊牌に書かれていた名前の一人「丹羽舎人」は上級武士で、戊辰戦争では大目付軍監として白河口の戦いに出陣。旧暦の1868(慶応4)年6月12日に白河・追原方面での銃撃戦で戦死した。

 一方、他の一人の「傳作」(伝作)は下水原村(現・福島市南部)の農民。農兵か運輸方を担い、霞ケ城が落城する旧暦の7月29日に城下で戦死している。

 二本松市都市計画課二本松城跡整備係の佐藤真由美さん(48)は「農兵は武士とは違う扱いが一般的だっただけに、貴重な史料だと思う」とした。二本松藩主丹羽家の18代当主の丹羽長聰さん(74)=東京都=は霊牌が保管されていたことを知らなかったとし「戦死者を等しく慰霊した先人の行いが素晴らしい」とたたえた。

<戊辰戦争150年>東北の視点で経緯再考 福島県立博物館できょうから企画展
 福島県立博物館(会津若松市)で1日、企画展「戊辰戦争150年」が始まる。薩摩、長州両藩中心の新政府側から「朝敵」とされた会津藩と、会津救済に連携した東北、越後諸藩の視点から戊辰戦争を再考する。

 仙台市博物館、新潟県立歴史博物館との共同企画。展示はペリー来航の「開国」に始まり、開戦、降伏、再起など7部構成となる。「官軍」の象徴として新政府側が掲げた「錦旗」、会津藩救済、戦争回避を図れず奥羽越列藩同盟として戦いを余儀なくされた経緯、関係者の苦悩を示す史料など約200点を展示する。
 3館独自の地域史料もそれぞれ紹介。先人がどのような思いを抱き、どう選択したのか地域ごとの視点にも光を当てる。
 展示では実在の会津藩士をモデルにしたキャラクター「源ちゃん」が、展示物の各所で解説する。
 10月14日までの期間中、記念講演会や学芸員の解説会もある。企画展は新潟が既に終了。仙台は10月26日~12月9日に開催する。
 開館は午前9時半~午後5時。観覧料は一般・大学生800円。高校生以下無料。月曜休館(祝日の場合は翌日)。連絡先は福島県立博物館0242(28)6000。

福島)戊辰戦争、会津農村の焼失1100軒 市町村史
 1868年の戊辰(ぼしん)戦争で西軍(新政府軍)が会津藩・鶴ケ城に迫る中、周辺の農村では約1100軒以上の家屋が戦闘に巻き込まれたり、兵士に火をつけられたりして焼失していた。歴史研究会「会津史談会」副会長の簗田直幸さん(65)が、会津地域の市町村史に書かれた被害をまとめた。簗田さんは「どんな時代でも戦争でひどい目に遭うのは民衆だ」と話し、実態把握の必要性を強調している。

 簗田さんは、民間団体「会津戊辰戦争百五十周年事業実行委員会」の幹事長。農村部の被害に関する統計資料が乏しいことから、自治体の記録に着目。市町村合併前の「町史」などに書かれた家屋の焼失に関する記述を集めた。

 西軍は、①二本松藩との境の母成(ぼなり)峠②南側の下野街道③西側の越後街道、などを経由し、現在の会津若松市に向かった。

 母成峠から西軍は猪苗代湖北側を進攻。経路の猪苗代町から磐梯町にかけての旧11村で410軒中176軒が焼失したとされる。

 下野街道を進んだ西軍は下郷町から会津美里町に入り、現在町庁舎がある高田地区が戦場になった。旧会津高田町史によると、300軒中246軒が焼けた。

 越後街道で会津藩など東軍(旧幕府側)は会津坂下町から代官所があった会津若松市神指町高久に退却し、この地域で300軒中249軒が焼失した。城の南側の「南青木組」(同市門田町など)でも、旧11村の合計として1069軒中453軒が焼けたとされる。

 同市河東町の「藤倉村」では、西軍から炊き出しなどを求められた後、9月2日、城に向けて進軍する際に火をかけられ、全村28軒が焼失したと伝えられる。

 簗田さんは「西軍によるものが多いが、中には、退却する東軍が家屋を敵に使わせないため、火を付けたこともあったと考えられる」と話す。

 農村部の被害とは別に、鶴ケ城の城下では武家屋敷以外に1300軒余りが焼けたと見られている。

 これらの調査結果は8月12日に会津若松市で開かれた同実行委主催のシンポジウムで報告された。

 簗田さんは「市町村史で明記されない例もある」と語り、被害の全容は不明だという。「なぜ会津を戦火で包むような軍事占領をしなければならなかったのか、被害を受けた人々に対して補償は行われたのか、本質的な問題は十分解明されていない」と指摘。「会津では『悲劇性』が注目されがちだが『150年』を機会に根本的な課題に着目すべきだ」と話している。(戸松康雄)


白虎隊、死の行軍をたどる 戊辰戦争150年
戦争
 1869(明治2)年、旧会津藩士によって初めて描かれた白虎隊自刃の図(福島県会津若松市提供)【時事通信社】

 自分がいつ、どう死ぬのか想像したことがあるだろうか。病気や事故、災害だけではない。殺される事態もないとはいえない。死が誰にでもいつか必ずやってくると知っていても、たいていの人は自分がどう死ぬのか分からないまま人生を送っている。

 今から150年前、会津藩(福島県)の組織した「白虎隊」という名の軍隊に所属する15~17歳の少年たちは、霧雨が降る山の中で、ふるさとが燃やされる光景を見ながら、自ら首に刃物を突き刺して死んでいった。

 なぜ、彼らはこうなってしまったのか。社会背景を調べ、彼らが行軍した実際の道筋をたどった。(福島支局 菓子翔太)

 白虎隊が自決する15年前の1853(嘉永6)年。当時は江戸幕府が日本を支配し、傘下の藩が各地を治めていた。この年に、アメリカの艦隊(黒船)が浦賀沖(神奈川県横須賀市)に来港する。それをきっかけに、海外との接触を制限する鎖国をしてきた日本が外交の門を開くと、今後の日本のあり方をめぐって国内で争いが激しくなった。

 天皇が住む京都には、テロなどを画策する長州藩(山口県)の藩士をはじめとする過激派が集まった。これらを取り締まるため、幕府の命令で、会津藩は京都の治安維持に当たる「京都守護職」を務める。その働きぶりは、当時の孝明天皇からも評価され、厚い信頼を得ていたという(孝明天皇は1867年1月=慶応2年12月=に崩御。後に明治天皇が即位する)。

 徳川慶喜が大政奉還を朝廷に申し出た建白書の写し。千葉県松戸市の女性宅から発見された=2011年10月、千葉県松戸市の戸定歴史館【時事通信社】

 ところが、1866年3月(慶応2年1月)、薩摩藩(鹿児島県)と長州藩がともに「幕府を倒そう」と手を結んだことから、幕府打倒派(いわゆる「倒幕派」)の勢力が拡大。倒幕に向けて計画が進む中、幕府の第15代将軍徳川慶喜は1867年11月(慶応3年10月)、先手を打ち、政権を朝廷に返す「大政奉還」を行った。

 これにより、幕府を倒すという名義を失ったかに見えた薩摩や長州などによる新政府は、天皇中心の政治に戻す「王政復古の大号令」を発令。さらに、これまで政権の中心にいた徳川家を排除するため、慶喜の官位剥奪と領地返上を決めた。

 当然、会津藩などの旧幕府側は反発した。その上、新政府軍の西郷隆盛が浪士を集めて江戸で行ったゲリラ活動に我慢できず、旧幕府は江戸の薩摩藩邸に報復攻撃した。結果、日本の運命を変える「戊辰戦争」が始まってしまう。初戦となる「鳥羽・伏見の戦い」は衝撃的な展開を迎えた。

 このとき、1868(慶応4)年1月。白虎隊が自刃するまで残り7カ月のことだった。

天皇に逆らった?

 靖国神社の祭神簿。右は鳥羽・伏見の戦いの殉難者を記入した第1号=1963年6月、東京・千代田区九段北【時事通信社】

 この戦いで、旧幕府軍の兵力は新政府軍の約3倍に上ったが、最新兵器を擁する新政府軍に劣勢を強いられた。その上、新政府軍は天皇を象徴する菊の紋が入った「錦の御旗」を掲げたことで、旧幕府軍は天皇に逆らう「賊軍」扱いを受けてしまう。ちなみに、戊辰戦争で国家のため命をささげた人々の御霊を慰め、その事績を永く後世に伝えるという目的で明治天皇の意向により建てられた靖国神社(東京都千代田区)には、新政府側の人間は祭られているが、旧幕府側の会津藩などの人間は祭られていない。最近では、超党派の国会議員が「賊軍」とされた人々も祭るよう呼び掛ける動きがあった。

 話を戻す。「鳥羽・伏見の戦い」の最中、敗色の濃くなった徳川慶喜と会津藩主の松平容保らはひそかに大阪から江戸に逃走した。旧幕府軍もやむなく撤退し、戦いは大敗に終わる。

 戦いの後、「賊軍」となってしまった旧幕府側は多くの藩に見限られた。さらに、本拠地の江戸城を明け渡すところまで陥った。

 日新館前に立っている「什の掟」=2018年8月、福島県会津若松市【時事通信社】

 会津藩も、新政府軍に恭順の意を示し、同じ東北地方の多くの藩もそれに協力した。だが、新政府が会津藩の恭順の意を受け入れることはなかった。東北地方の諸藩は「奥羽越列藩同盟」として手を結び、新政府軍との戦争へ道を進んでいくことになる。

 後に自刃した白虎隊の少年たちは、この間どうしていたのか。会津藩士の子弟は、6~9歳の時に「ならぬことはならぬ」で有名な「什の掟」を学び、10歳になると「日新館」(地図)に入学する。NHK大河ドラマ「天地人」の歴史考証にも携わった歴史家の石田明夫さんによると、日新館はとても教育レベルの高い学校だったという。白虎隊士もその教育課程の最中にあった。

 日新館では、剣術や砲術、水泳の仕方、中国の古典、天文学など、まさに文武両道の授業をしている。その上、勉学にとどまらず、細かいところまで心得をたたき込まれた。抜粋して紹介するが、筆者には厳しくてとても全ては守れそうもない。今の時代に守れる子がいるのだろうかというものばかりだ。

厳しい心得の中身は
 白虎隊士が学んだ日新館を忠実に再現した施設。当時の講義の様子などを紹介している=2018年8月、福島県会津若松市【時事通信社】

 六、父母、目上の方々から用事を言いつけられた時は、謹んでその用件を承り、そのことを怠らないでやりなさい(以下略)。

 十、他人の悪口を言ったり、他人を理由もないのに笑ったりしてはいけません。あるいはふざけて高い所に登ったり、川や池の水の深い所で危険なことをして遊んだりしてはいけません。

 十五、身分の高い人や目上の人が来た場合には、席を立って出迎え、帰る時も見送りをしなければなりません(以下略)。

 十七、みんなで集まってわいわいお酒を飲んだり、仕事もしないで、女の人と遊ぶいかがわしい場所に出掛けるのを楽しみにしたりしてはいけません(以下略)。 (日新館公式ホームページより引用)

 この心得を見ていて、目上の人に対する礼儀に関するものが多いと感じた。それほど、上の身分の人間に尽くす心が大事にされていたということなのだろうか。

 天文学を学ぶ、後の白虎隊士の像。奥には、天体の位置を調べるのに使う天球儀を使う少年の姿が見える。会津は天文学が盛んで、当時の藩校としては珍しく天文台もあった=2018年8月、福島県会津若松市【時事通信社】

 少年たちは日新館で自刃の仕方も学んだ。なお、日新館は戊辰戦争時、臨時の野戦病院となったが、焼け落ちてしまった。

 そんな彼らが白虎隊士になったのは、新政府軍との戦争の足音が近づく中で、会津藩が軍制改革を行ったことによる。会津藩は、50歳以上の玄武隊、36~49歳の青龍隊、18~35歳の朱雀隊、そして、16~17歳の少年たちによる白虎隊を編成した。古代中国で信じられた四つの方位をつかさどる神にのっとったものだ。中には白虎隊に入りたくて、年齢を上にさば読みした隊士もいたという。

 白虎隊の構成は以下の通り。
  士中一番隊から二番隊 各50人前後
  寄合一番隊から二番隊 各50人前後
  足軽一番隊から二番隊 各50人前後

 総勢で約300人。予備隊で城の警備に当たる白虎隊には実際の戦闘に出る予定はなかった。このうち、日新館に学んでいた子どもたちが入ったのは「士中」の隊で、自刃したのは隊士の篠田儀三郎率いる十数人。白虎隊の中でも少数だった。

 白虎隊に編入された彼らは興奮していただろう。そんな彼らが死ぬまで、残り5カ月に迫っていた。


崩れ落ちる“同盟”
 白虎隊士が集まった旧滝沢本陣=2018年5月、福島県会津若松市【時事通信社】

 新政府軍はその後、東北地方の藩へ侵攻を進め、1868(慶応4)年5月1日(旧暦、以下同年の日付はすべて同じ)に白河小峰城(福島県白河市)、7月29日に長岡城(新潟県長岡市)、二本松城(福島県二本松市)、福島城(福島市)と攻め落としていった。二本松の戦いでは、出陣を志願した13~17歳までの少年たち14人も死んだとされている。「奥羽越列藩同盟」の中心だった仙台藩(仙台市に拠点)に至っては二本松城への援護を断り、会津藩を裏切ってしまった。

会津藩は、周りの藩からの援護を失った。

1868年8月20日。白虎隊士が自刃するまで、あと3日。

 新政府軍の猛攻は止まらず、会津までその手は伸びてきた。東側の藩境である母成峠(地図。会津藩の居城、鶴ケ城まで約30キロ)から攻めてきた新政府軍に対し、会津藩や新選組などが抗戦するも敗北。突破されてしまう。

 会津藩は追い詰められた。そして、ついに兵を総動員する。前線に出すはずではなかった白虎隊も戦場に送り込んだ。

早く戦場に

 ここから先は、当時の様子を記しながら、実際に白虎隊が進んだ道をたどる。現地には歴史家の石田明夫さんに同行してもらった。なお、紹介する場所は、森林の中でクマに遭遇する危険性もあるため、1人では行かないでほしい。

 白虎隊士が戦場に向かい歩いた道。今も当時の石畳が残されている=2018年6月、福島県会津若松市【時事通信社】

 8月22日午後0時ごろ。白虎隊士が自刃するまで、残りあと24時間を切った。

 白虎隊の士中二番隊は、警護に当たっていた松平容保に従い鶴ケ城を出て「滝沢本陣」(地図)に到着した。出陣する彼らの中には、それまでの戦争で身内を殺された子どももいる。新政府軍に対して復讐(ふくしゅう)したいという気持ちを持っていただろう。そんな彼らを、親は「お国のために頑張ってきなさい」と送り出した。さみしい気持ちを持っていても、武士たる者はそうしたことを口にできなかった。

 前線に向かう途中、荷物を軽くしようと隊士たちが携帯品を預けた茶屋の跡地がある。石田さんとともにその跡地を訪れた。滝沢本陣から東へ自動車で走り続け、家々から離れて山の方へ。途中で墓が見えた。当時の戦争で亡くなった会津藩側の18人の墓(写真)だ。村人が自主的につくったという。戊辰戦争で亡くなった会津藩士の墓は会津の各地にある。

 車を降りると、あとは歩いた。山中、クマよけとして、木の棒で大木をカンカンたたきながら茶屋跡(地図)に向かった。現地には、彼らがたどった石畳が今も残されていた。石田さんによると、白虎隊士は「現地に早く行きたかった」という。


闇夜に浮かぶ死の恐怖

 会津藩が掘った陣地。高さ約80センチ=2018年6月、福島県会津若松市【時事通信社】

 1868(慶応4)年8月22日午後4時ごろ。白虎隊士が自刃するまで残り約19時間。

 白虎隊は戸ノ口原(地図。鶴ケ城まで約7~8キロ)に到着した。この頃、城下への侵攻を防ぐために壊すつもりだった戸ノ口原近くの十六橋(地図。鶴ケ城まで約9キロ)を既に新政府軍は渡り、戸ノ口原で戦いが始まっていた。雨が降る中、会津藩は徹夜で陣地を築いた。これに白虎隊も参加した。

 当時造られた陣地の跡は今も残っている。茶屋の跡地を訪れた後、石田さんに連れられて見に行った。道から外れ、草木が生える小高い菰土山を登っていくと、山頂に段差が二つできていた。確かに分かりやすく土が盛られ、ここに陣地があったのだと認識できる。高さは約80センチ。石田さんによると、盛り土の上から銃を構え、下から来る敵を撃つためのものだという。

 8月22日午後10時。白虎隊士が自刃するまで残り約13時間。

 白虎隊は、この辺りで露営した。ドラマでは山林の中で露営しているような描写を見掛けるが、石田さんによると、実際には、はげ山だったという。

 白虎隊が一時過ごした菰土山。後に、ここから少し先にある姥山に移った=2018年5月、福島県会津若松市【時事通信社】

 このとき、士中二番隊の日向内記隊長が会津藩の別隊に用があると告げて出掛けていく。2008年に見つかった白虎隊士飯沼貞吉(当時15)の「白虎隊顛末記」には、当時のことについて、以下のように書かれている。

 「(現代語訳)夜明けとなれば、討ち死にと覚悟した少年、三々五々、あちこちでだんらんし、無言の中でいとしい母や姉、妹に別れを告げ、空腹時の補給として与えられた食べ物を腰より取り出して食べ、ともに文武を学んだこれまでのことを話し合い、また、夜が明ければ人に遅れないようにしようと心中を話し、寝る間もなく話していると東の空がまさに明けようとしている。」―。

 当時の感覚を少しでもつかめないかと、石田さんと一緒に訪れたのとは別に、白虎隊が実際に露営していた夜(写真)に訪れてみた。暗闇の中で、死が常につきまとっていたのかと考えると、とても恐かった。現代人の中で、どれだけの人がこの恐怖に耐えられるだろう。

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友達の死

 白虎隊士らと新政府軍が戦った戸ノ口原の戦場=2018年5月、福島県会津若松市【時事通信社】

 1868(慶応4)年8月23日午前5時ごろ。白虎隊士が自刃するまで、残り約6時間。

 夜が明けても日向隊長が戻って来なかったため、篠田儀三郎(当時17)は仲間に号令して前進した。そのうち銃声が近くに聞こえた。しかし、戸ノ口原には身を隠すような障壁が無い。篠田隊は溝に隠れた。新政府軍は、前日に布陣していた会津藩の別隊を打ち破り、銃を撃ちながら街道を進んで来ていた。

 このとき新政府軍が持っていた銃は、飛距離800~1200メートル。それに対し、篠田隊が持っていた銃の飛距離は200~300メートルしかなかった。というのも、白虎隊が持ってきた銃は、城に残っていた性能の良くないものだったからだ。そのため、新政府軍が100メートルほどに近づいてくるまで待ってから、篠田の「撃て」という号令で隊士たちは銃を撃った。銃身が熱くなり、手に持つことが出来なくなるほど発射したという。少年が放った銃弾に殺された兵士もいたのだろうか。

 戸ノ口原で亡くなった白虎隊士のものとみられる墓。山中にひっそりと立つ=2018年6月、福島県会津若松市【時事通信社】

 この戦いの地を訪れてみると、とても広い草原だった。標高が約1800メートルあり、「会津富士」とも呼ばれる磐梯山がよく見える。人が行き来する様子はほとんどなく静かだった。そのまま石田さんと歩き続けたところ、「白虎隊奮戦の地」と書かれた大きな碑が立っているのが見えた。付近には当時亡くなった会津藩士の墓(写真)もある。

 白虎隊士の飯沼貞吉が画家に当時の戦争の様子を描かせた絵(写真)がある。左側にいるのが白虎隊で、右側は新政府軍。銃弾を受けた兵士が倒れている様子や、指揮を執る篠田の姿も描かれている。

 戸ノ口原の戦いでは、白虎隊士も死んだ。伊東悌次郎(当時17)、池上新太郎(同16)、津田捨蔵(同16)の3人だ。津田の兄も近くで亡くなっている。白虎隊が露営した菰土山の近くに、彼らを埋葬したと思われる地蔵の絵が彫られた墓が立っている。他の墓の横にポツンと置いてあり、石田さんと一緒でなければ気づかないくらい小さなものだ。これも、地元の村人が立てたものだ。石田さんは、「子どもを見てかわいそうだなと思ってつくった。(遺体は)たぶんその辺に埋まっているでしょう」と話した。

 小さい頃から一緒に遊び、学んできた友達も死んでしまった。


死地へ

 敗走する白虎隊が新政府軍と銃撃戦を繰り広げた地=2018年6月、福島県会津若松市【時事通信社】

 新政府軍の猛攻に及ばず、会津藩は退却の命令を出した。死んだ3人の遺体は置いていくほかなく、霧雨の中、城を目指して篠田隊は来た道を逃げたが、そこには死体があちこちにあったという。地獄の光景だったろう。死体を見ながら、自分達もいつかこうなると考えたりしたのだろうか。彼らが憧れていた戦地の風景と実際の風景は違ったのだろうか。憎き敵から逃げる彼らは、どれほど心が引き裂かれていたのだろうか。

 1868(慶応4)年8月22日午前8時ごろ。白虎隊士が自刃するまで、残り3時間。

 篠田率いる隊は2キロほど退却し、ようやく新政府軍から逃れることができた。ただ、このとき点呼すると、隊は16人ほどになっており、会津藩の別隊とも離れ離れになってしまっていた。隊士たちは残っていたおにぎりを分け合って食べた。

 8月22日午前9時ごろ。白虎隊士が自刃するまで、残り2時間。

 隊士たちが鶴ケ城を目指して街道を進んでいると、多くの兵に遭遇した。敵か味方か分からず「合い言葉は?」と声を掛けると発砲された。場所は「馬頭観音石碑」のすぐ近く(地図)で、鶴ケ城までわずか約3キロ。新政府軍は城下深くまで入り込んでいたのだった。

 飯盛山では、実際に白虎隊士が通った洞門の出口を見ることができる=2018年5月、福島県会津若松市【時事通信社】

 銃撃戦の最中、隊士の永瀬雄治(当時16)が腰の辺りを撃たれてしまう。周辺は遊び場で、どんな場所かを知っていた白虎隊士たちは用水路(写真)の方へ逃げた。永瀬の傷があったことから山頂を目指すのは諦め、用水路から洞門(写真)をくぐって、飯盛山の中腹へ進むことにした。

 今も残るこの洞門には水が流れている。「8月」は旧暦で、現代の暦では10月に当たる。秋の冷たい水に浸りながら、当時約140メートルあった暗い洞窟を少年たちは進んだ。石田さんは、このときの彼らは「お城やお殿様はどうか」と心配し、早く城に行きたい気持ちだったろうと推測する。

 8月22日午前10時。白虎隊士が自刃するまで、残り1時間。

 冷たい水と暗闇に耐え、洞門を出た隊士たちは厳島神社(写真)の前で一度休憩した。すると、大砲や鉄砲の音が聞こえた。鶴ケ城が心配だった彼らは、城下が見える所まで行こうと水路に沿って山を登っていった。そして彼らは自分たちの死地にたどり着く。


城が燃えていないのは知っていた

 飯盛山にある白虎隊士19人の墓。この奥にも、戦死した白虎隊士の墓が別にある=2018年5月、福島県会津若松市【時事通信社】

 白虎隊の話を聞いたことがある人の中には、「お城が燃えていると勘違いして自殺した」と思っている人もいるだろう。会社の後輩にも聞いてもそうした答えだった。

 だが、飯沼貞吉が書き残した「顛末記」によると、実際は違うという。彼らは城が燃えていないことを知っていた。ならばなぜ、彼らは自ら死を選んだのか。

 彼らが自刃の地にたどり着いた時、燃えているのは城下で、城は燃えていないのが見えた。今後どうするのか、少年たちは話し合った。野村駒四郎(当時17)は「敵と戦おう」と提案。井深茂太郎(同16)は「蒲生氏郷(安土桃山時代の武将)が築いた名城だから落ちることはない。城に戻って戦おう」と話す。議論は1時間も続いた。

 この議論を終わらせたのは、小隊長の篠田だった。「誤って敵に捕まって屈辱を受けるようなことがあれば、主君(藩主の松平容保)や祖先に対して申し訳ない。この場は潔く自刃して、武士の本分を明らかにするべきだ」-。

 石田さんによると、彼らは捕まったら殺されると思っていたという。この案に全員が納得した。

 1868(慶応4)年8月23日午前11時ごろ。

 飯盛山から見た城下の景色。遠く、木々が多く集まっているあたりに小さく鶴ケ城が見える=2018年5月、福島県会津若松市【時事通信社】

 隊士たちは持っていた刀で自らを突き刺した。死ぬ間際、彼らの心中には何が浮かんでいたのだろう。筆者には想像することしかできない。

 石田さんと飯盛山を訪れると、中腹には彼らの墓が横にずらりと並べられていた。多くの観光客が訪れ、線香の煙と香りが漂う。彼らが知る由もない光景だ。

 墓から少し歩いた所にある自刃の地(地図)からは、町を眺めることができた。ここに置かれた白虎隊士の銅像(写真)が見ている方向に目を凝らすと、小さく鶴ケ城が見えた。

 「自分が高校生くらいの年で自刃できるかと考えると、なかなか信じられない」-。白虎隊士の話を石田さんに聞く中で、ふと口に出た。石田さんは「敵に捕まることは武士の恥。当時はそういう教育を受けていた」と語った。

 教育か-。今から70年以上前の日中戦争や太平洋戦争でも「戦陣訓」にまつわる同じような話があったことを聞いた。当時の感覚と今とでは全く違うことは分かるが、環境や教育次第で、人は死を自分から選んでしまうものなのだろうか。


その後も死は続く

 戦後に撮影された鶴ケ城。1874(明治7)年に石垣だけを残して取り壊された。現在の城は、1965年9月に建て直された(福島県会津若松市提供)【時事通信社】

 新政府軍が城下へ突入し、白虎隊士たちが日常生活を過ごしていた町は火に包まれた。会津藩は、藩士やその家族に城内に入るようお触れを出していたが、女性や高齢者、子どもたちの中には、足手まといになるまいと集団自殺した人もいた。会津藩の家老だった西郷頼母の一族は21人が自刃(写真)。2~9歳の3人の娘は頼母の妻・千重子が刀で刺し殺した。

 会津藩の籠城戦は約1カ月続いた。新政府軍に包囲され、鶴ケ城は砲撃を受け続けた。白虎隊の1人で、後に現在の東京大学の総長になる山川健次郎が編集した「会津戊辰戦史」には籠城戦について以下のような記述がある。

 「(現代語訳)戦いが激しくなると、病室は、きりをほとんど刺すことができないほど隙間なく、手が無くなったり足が砕けたりした者、全身の皮膚がただれた者で雑然として、苦しんでうめいていた。しかしながら、皆、悔しさやその姿から、敵と戦おうと思わない者はいない。しかし、西軍の砲撃はますます激烈となり、砲弾は病室または婦人室で破裂し、全身が粉々となり、肉片の塊が飛散して、四方の壁に血痕を残す者がいた。その悲惨な痛ましい光景は表現できないものだ」-。

 仲間とはぐれた白虎隊士の酒井峰治が愛犬のクマと再会した時の銅像。飯盛山中腹の「白虎隊記念館」の前に立っている=2018年5月、福島県会津若松市【時事通信社】

 城内外では、銃やなぎなたを手に取った女性たちや、会津出身ではなかったものの上官とたもとを分かち会津に残った者らが老若男女を問わず、死に物狂いで戦い続けた。その日、もし自らが生き残っても、知人や家族が死んでいく日々が続いた。

 篠田儀三郎とともに敗走した白虎隊の中にも生き残った隊士がいた。飯沼貞吉は自決しようとするも、奇跡的に息を吹き返した。その後、戊辰戦争で敵方だった長州藩に拾われた。酒井峰治は戸ノ口原での戦いの後、仲間とはぐれたが、農民に拾われた。後に愛犬のクマと再会し、籠城戦に参加した。

 白虎隊士が自刃してから約1カ月後の9月22日、会津藩は白旗を揚げ、新政府軍に降伏した。

 会津戦争では、兵員のほか、巻き込まれた農民や婦女らも含めると数千人が犠牲になったとも伝えられている。飯盛山で自決した白虎隊士もその数千人の一部だった。

 この戦争を生き残った飯沼貞吉も酒井峰治も生前、白虎隊について多くを語らなかったという。

【会津若松】新選組隊士の鉢金や鎖かたびら展示 会津新選組記念館の特別展
 会津若松市七日町の会津新選組記念館(高橋一美館長)の戊辰戦争150年後期特別展「会津戦争と新選組」は28日から同館で開かれ、貴重な展示資料の数々が来館者を魅了している。11月末まで。

 同館は「骨董(こっとう) むかしや」の2階にあり、古式鉄砲研究家の高橋館長が長年にわたり収集した個人コレクションが展示されている。戊辰150年の節目に合わせ、前期、中期と開かれてきた特別展の最後となる今年3期目の特別展。

 今回は、会津戦争や、京都の治安維持を担う京都守護職を拝命した会津藩主松平容保(かたもり)のもと「会津藩御預」として活躍した新選組の関係資料を中心に展示した。

 「京都禁門(蛤御門)の変」や「徳川慶喜大坂脱出の図」「江戸無血開城の図」などの錦絵や新選組隊士が頭に巻いた鉢金、新選組筆頭局長芹沢鴨のものと伝わる鎖かたびらなどを展示している。

 また大河ドラマのロケでも使用されたゲベール銃、スナイドル銃、スペンサー銃なども並ぶ。放映中の大河ドラマ「西郷どん」の撮影で使った銃なども展示されている。

 開館時間は午前10時から午後5時ごろまで。不定休。入場料は大人300円、小・中学生200円。問い合わせは同館(電話0242・22・3049)へ。

旧会津藩主・松平容保「助命」に領民奔走 新たな史料など紹介
戊辰150年を機に「戊辰と明治」について考えるシンポジウムが12日、会津若松市で開かれた。西軍側の史料で「開城後、領民は旧会津藩主松平容保(かたもり)に背を向けて冷ややかだった」とされてきたことを覆す内容の史料が紹介され、来場者が熱心に耳を傾けた。

 シンポジウムは同市の郷土史家ら有志による会津戊辰戦争150周年事業実行委員会(阿部隆一会長)の主催。パネル討論では戊辰戦争後の1868(明治元)年11月に会津から上京した10人の村の世話役「肝煎(きもいり)」が手分けをして阿波徳島、肥後熊本、長州、久留米、土佐各藩などに藩主の助命嘆願をするため奔走した史料などが紹介された。

 進行役を務めた会津幕末史研究会の簗田直幸さんは「領民は平和を願っていた。望んでいない戊辰戦争に巻き込まれ、兵火で村落が焼失したが、藩主を冷ややかな目で見るようなことはなかったはず」と述べた。

 助言者の落合弘樹明治大文学部教授(明治維新史学会理事)は「明治政府が政府に都合のいい声だけを拾い集めて歴史をつくり上げた点は否定できない。肝煎が命懸けで藩主の助命嘆願をしていたとすれば、会津の歴史を考える上で非常に興味深い」と語った。

 老幼婦女子の戦闘にも目を向け、会津の歴史研究をさらに発展させる必要性なども指摘された。

 パネル討論に先立って、歴史研究会の大塚セイ子さんが「戊辰戦争後の塩川の役割」、熱海史談会の佐藤秀雄さんが「石筵(いしむしろ)村のできごとについて」をテーマにそれぞれ語った。また、簗田さんが「兵火による村落の焼失について」と題して発表し、幕末史を見直す会の鈴木ひろみさんが「籠城を戦い抜いた婦女子の心の支え」を題に、照姫についての研究成果を発表した。

浜に眠る鳥取藩士 寄宿縁で慰霊継承
いわき市の北隣に位置する広野町も戦いの場になった。戦端は一八六八(慶応四)年七月に開かれた。東軍(旧幕府軍)が広野宿に置いた拠点を巡る攻防だった。
 東軍側の相馬中村藩と仙台藩、磐城平藩、西軍(新政府軍)勢の広島藩と鳥取(因州)藩などが今の二ツ沼総合公園周辺で激突。五日間に及ぶ戦いの末、西軍勢は広野宿を攻略した。
 いわき市久之浜町の外れにある龍光寺境内に鳥取藩士、近藤類蔵(るいぞう)が眠る。
 「歴史が紡いだ不思議な縁を大切にしていきたい」。近くに住む木村芳秀さん(81)は墓碑を前に感慨深げに語る。
 木村家は代々続く名家で、近藤の墓を守り継いでいる。今年も月遅れの盆の入りに当たる十三日に親族と連れだって線香を手向けた。
 墓碑には「因州砲隊長近藤類蔵孝敏墓」と刻まれ、墓が建てられた経緯が側面に記されている。鳥取藩が供養料を出し、奥羽追討参謀だった河田左久馬が建立したとある。
 遺体が龍光寺に葬られた詳しい経緯を知る人は既にいない。だが、木村さんは木村家が墓参を続けるようになったきっかけを伝え聞いている。

◆不思議な縁 

 鳥取藩は広野の戦いに備え、久之浜町で大須賀家という地元の旧家が営んでいた亀田屋に陣を張り、寄宿した。近藤は西軍勢の進撃を食い止めようとする東軍との激しい戦いで負傷し、亀田屋に運び込まれたが、三十七歳で亡くなった。当初は大須賀家が慰霊し、縁戚関係にあった木村家が引き継いだ。
 木村さん方では霊を祭る霊璽(れいじ)と慰霊行事で使った旗を大切に保管している。家屋は東日本大震災の津波で床上まで水に漬かったものの、霊璽と旗は難を逃れた。

◆役目 

 木村さんは戊辰戦争の記憶を次代に伝える活動に力を注いでいる。昨年まで会長を務めていた久之浜・大久地域づくり協議会は戊辰戦争開戦百五十年を記念し、今年秋にも白河、二本松、会津若松各市など県内の戊辰戦争ゆかりの地を研修で訪れる。十一月十八日には市地域防災交流センター「久之浜・大久ふれあい館」で記念講演会の開催を予定している。鳥取市歴史博物館の学芸員伊藤康晴さんが「因州兵の戊辰戦争と久之浜・大久」のテーマで久之浜・大久地区と戊辰戦争との関わりを語る。
 「この地が戊辰戦争に関わっていたと知る人は少なくなった。地域の歴史を理解すれば郷土愛を深められる。記憶を継いでいく役目をしっかりと果たしたい」。節目の年に思いを一層強くしている。

( 2018/08/20 08:28 カテゴリー:主要 )

新潟
企画展「戊辰戦争150年」 26日閉幕 県立歴史博物館 /新潟
 県立歴史博物館(長岡市関原町1)で開催されている企画展「戊辰戦争150年」が26日に閉幕する。同企画展は福島県立博物館、仙台市博物館の共同企画展覧会。展示資料は各地域の戊辰戦争ゆかりの資料も展示するため、会場ごとに増減をしながら福島県会津若松市(9月1日~10月14日)、仙台市(10月26日~12月9日)それぞれの…
 以下は毎日新聞の有料版にて。

神奈川
【神奈川】戊辰戦争 その時、横浜では 開港資料館などで企画展
 明治維新(一八六八年)から百五十年を機に、新政府軍と旧幕府軍が戦った戊辰(ぼしん)戦争(六八~六九年)時の横浜を紹介する企画展「戊辰の横浜」が横浜市中区の横浜開港資料館で開かれている。十月二十八日まで。

 同館によると、英国やフランスなどの外国軍が駐留していた横浜・関内地区では戦闘が発生しないまま、新政府軍に接収された。同展では、現在の京急線日ノ出町駅近くにあった横浜病院で重傷の新政府軍兵士を治療した記録や、接収前に旧幕府軍が横浜港で銃器や蒸気船を購入したことを示す文書など計百点を紹介している。

 吉崎雅規・調査研究員は「横浜港では六七年に十万丁以上の小銃が輸入され、(新政府軍の)薩摩、長州両藩が武器を輸入していた長崎港の一・五倍あった。横浜も戊辰戦争と無関係ではなかった」と解説する。

 同市都筑区の市歴史博物館でも、同名の企画展が九月九日まで開かれている。横浜北部の村などにあった自主防衛組織「農兵隊」が、新政府軍に銃器を強制回収された記録など百二十点を展示している。

 開港資料館の入場料は大人二百円、小中学生百円。歴史博物館は大人五百円、大学・高校生二百円、小中学生百円。両館とも原則月曜休館。問い合わせは開港資料館=電045(201)2100=へ。 (志村彰太)

高知
高知県北川村の中岡慎太郎館が企画展「四国の戊辰戦争」
 戊辰戦争(1868年1月~69年5月)と土佐藩の関わりを史料で読み解く企画展「四国の戊辰戦争」が、高知県安芸郡北川村柏木の中岡慎太郎館で開かれている。「志国高知 幕末維新博」の関連企画で8月27日まで。

山口
毛利敬親企画展名君、注目度上昇 激動の幕末生きた長州藩主、人物像に迫る 山口、防府 /山口
 明治維新150年の今年、幕末の長州藩主・毛利敬親(1819~71年)の人物像に迫る意欲的な企画展が県内各地で開催されている。並み居る志士たちの活躍を支え、尊皇攘夷(じょうい)や禁門の変、戊辰(ぼしん)戦争など激動の時代を生きた名君に改めて注目が集まっている。【坂野日向子、平塚裕介】

 山口市の市菜香亭(083・934・3312)では「藩主毛利敬親の真のキャラクターに迫る」が開催中だ。敬親は、家臣の意見に反対せず「そうせい」と応じたとして、別名「そうせい候」とも呼ばれた。

 展示では、そのようなイメージと異なるエピソードをかるた形式で紹介した。掛け軸一つ買うにも熟考して質…
 以下は毎日新聞の有料版にて。
赤坂ACTの中村仲蔵とか、下北沢本多劇場の牡丹灯籠とか、六本木EXシアターの歓喜の歌とか、あらかじめネタだしされている落語&劇場でない志の輔らくごも聴きたくて、町田まで遠征してしまった(移動に1時間半越えると遠征感ある。1時間以内の、上野鈴本・新宿末廣亭・桜木町というか野毛のにぎわい座や千代田区中央区以南の落語会は守備範囲。1時間では微妙な池袋演芸場、文京区や北区や江戸川区の落語会はアウェー感あり。うん、1時間以内か以上かというのは割と大事)。

狸の札/志の大
 志の輔さん一門で八番弟子と自己紹介。去年見習いから前座に昇進したそうだけど喋りは滑らか。志の輔一門は指導が厳しいと思うが頑張って欲しい。

茶の湯/志の輔
 ベトナムやシンガポールでの巡業の話を振る。そうか、志の輔さん的にも町田は「巡業」の距離なんだよな。ベトナムで初めて本格的な、故郷のこきりこ節を見た話。
 茶の湯に入る。ん、志の輔さんの茶の湯ってこんな下品だったっけ。それとも、これは地方巡業での作品だからくすぐり方が強いのか。談笑さんだったらOKなんだけど志の輔さんがオエッとかやると、私でもちょっと引く。引いたまま、終わってしまった。。

帯久/志の輔
 後半は本格的な大ネタ。帯屋久作のあくどさぶりに半ばは胸が痛むが、後で大岡越前守がちゃんと締めてくれるから。でも前に聞いた時よりもちょっと戯画的な味が強い。地方巡業用にきつく締めているのかな?
八月納涼歌舞伎は十八代勘三郎さんが中心になって始めたもので、中村屋ゆかりの配役だったり、若手を積極的に起用したり、新作に積極的なのが特徴(「大」歌舞伎となっていない)。ただ今年は勘九郎さんが来年の大河ドラマの撮影で出演できないため、勘九郎さんファンの私はちょっと寂しい。

【第一部】
花魁草
扇雀のお蝶、獅童の孝太郎。安政大地震で焼け出された年増の女郎と若い役者の卵が栃木に身を寄せて達磨の絵付けで貧しくとも穏やかに暮らす。お蝶は孝太郎に惚れていたが、身体の関係を拒む。栃木に巡業してきた江戸の一座の座元が孝太郎復活の道をつくる。お蝶は彼と一緒にならず、栃木の郊外の温泉地に引きこもり、生死不明に。大成して栃木に巡業してきた一座の船乗り込みを見る地元の群衆の中で、ひとりひっそりと顔を隠したお蝶がたたずんでいた。
 年上の元女郎が、病に気付いて身を引くという話なんだが……労咳だったら六年後に生きてないだろうし、梅毒でも厳しいかな。でも身体の関係を持たずに身を引き、身を隠して療養するというのは当時の業病だったのだろう。悋気の強い女という設定で累伝説になぞらえる台詞もあるのだけど、つつましい身の処し方だった。
 隣の百姓・米之助を演じた幸四郎さんのほんわかとした雰囲気がよかった。役柄としてはもう少し金に汚いんだろうけど。

龍虎
幸四郎さんの龍、染五郎さんの虎。

心中月夜星野屋
落語「星野屋」をベースに小佐田定雄さん脚本。心中をもちかける星野屋照蔵に中車、妾おたかに七之助、おたかの母お熊に獅童。軽く笑わせてくれる展開は好き。でも冒頭、うっかり寝落ちした部分があって(汗)、なぜ心中話になったのかわからなかった。

【第二部】
再伊勢参!? YJKT
東海道中膝栗毛
 三年目の弥次喜多。今回は猿之助の喜多八が死んで幽霊になり、幸四郎の弥次郎兵衛が地獄まで喜多さんを探しに行く話。中車、七之助、獅童の早替わり六役とか面白いんだけど本筋に絡んでない早替わりなので目先だけ。地獄でいろいろな演し物が出てくるところは比較的にまとまりがあるけど、そこに辿り着くまではどうも面白みが不足。
 若手の御曹司が総出演。八歳の右近くんの可愛さが突出。

雨乞其角
 総髪の俳句師って……うーん、どうもなぁ。若手御曹司たちの踊りは千穐楽なのに少しばらつきが。

【第三部】
盟三五大切
 今月の演し物でダントツに面白かった。パンフレットなどの粗筋を読んでも筋が入ってこないのだけど、実際に芝居を見ると複雑な人間関係が次第に明らかになり、「東海道四谷怪談」や忠臣蔵に話がつながっていくのもわかった。
 一番はまり役だったのは獅童の三五郎。幸四郎演じる源五兵衛を騙して百両巻き上げる悪党だけど、詐欺は父が仕えていた面識のない旧主に用立てるため。七之助さん演じる妲己の小万も妖艶さと悪女ぶり、最後に生首が……ってところがまたいい。幸四郎の源五兵衛は、前半の律儀で誠実な侍というところはいいのだけど、自分を騙した相手をことごとく殺す色悪ぶりが弱い。
 評論家の渡辺保氏が、本来のニンでいえば幸四郎と獅童の配役は逆と指摘していたが、まさにその通り。源五兵衛をニザ様で見たい。。

ちょっと大きめのニュースなので久しぶりに単独記事で。

幕末徳川将軍家の銀印見つかる国家元首の意思示す
 江戸末期、徳川将軍家が外交文書に押印した銀印「経文緯武」が見つかったと、徳川記念財団(徳川恒孝理事長)が20日付で発表した。徳川14代目将軍家茂と15代目将軍慶喜が、日米修好通商条約の批准書などで対外的に「国家元首」として意思表示したことを示す貴重な資料だ。

 銀印は昨年、徳川宗家の蔵を調査する過程で見つかった。徳川家の家紋「三つ葉葵」のある黒塗りの箱に収められていた。縦、横ともに9.2センチ、高さは7.8センチで、重さは2.7キロ。幕府側から命じられた篆刻家の益田香遠らが制作した。「経文緯武」の言葉によって、文武両面の力を示そうとしたと考えられるという。

 1854年に日米和親条約を締結した幕府が、諸外国と交渉が本格化すると予想し、外交用としてこの銀印を作った。

 日米修好通商条約の批准書には「経文緯武」の朱色の印影に加えて「源家茂」(徳川家茂)の署名が残されている。他に日英、日仏の修好通商条約批准書や、文久遣欧使節の信任状などにも使われた。

 調査に当たった東京大史料編纂所の保谷徹所長は「国と国の付き合いの根幹となる資料が、時代の大きな変化をくぐり抜けて見つかった。実際に押された文書をさらに調べるきっかけになる」としている。

 銀印「経文緯武」は9月15日から新潟県長岡市の同県立歴史博物館で開かれる展示会「徳川の栄華」で公開される。

徳川家茂・慶喜の銀印を発見、条約批准書に押印
江戸幕府の第14代将軍徳川家茂、第15代慶喜が外国と結んだ条約の批准書に押した銀印「経文緯武けいぶんいぶ」が見つかった。将軍の署名とセットで用いられた、当時最高レベルの印章というべきもので、日本外交史における重要な資料だ。

 徳川宗家の歴史資料を保存・調査する徳川記念財団(東京)が明らかにした。印面は9・2センチ四方、印面からの高さは7・8センチで重さは2・7キロ。宗家の蔵を整理した際に、長持の中から、ほかの印章と一緒に見つかった。米国立公文書館が所蔵する日米修好通商条約の批准書(1859年)などの印影と一致し、1857年に幕府が印章を製作させた記録とも符合することから実物と判断された。

 この印影は家茂、慶喜の2代にかけて英国やフランス、デンマークと結んだ条約の批准書や、文久遣欧使節の信任状などで確認できる。東京大史料編纂へんさん所の保谷徹教授(幕末維新史)は、「重要な外交文書に限って用いられ、家茂から慶喜に引き継がれた国のしるしというべきもの」と評価している。新潟県立歴史博物館(長岡市)で開かれる「徳川の栄華」展で9月15~30日に公開される。


徳川埋蔵印、150年ぶり発見 通商条約批准書に押印
1858年に結ばれた日米修好通商条約などに江戸幕府14代将軍徳川家茂の署名と共に押された幕府の公印「経文緯武(けいぶんいぶ)」。この印章が約150年ぶりに、東京都内の徳川宗家の蔵で見つかった。幕府が開国をへて欧米との通商関係へと踏み込んだ歴史的な瞬間を刻んだ、その実物だ。

【写真】「経文緯武」の文字が刻まれた印章(徳川記念財団提供)

 印は縦9・2センチ、横9・2センチの銀製で重さは2・7キロ。所蔵する徳川記念財団(徳川恒孝〈つねなり〉理事長)によると、約1年半前、宗家の庭にあった蔵を取り壊した際に、蔵の一番奥から調度品を収める長持(ながもち)に入った状態で見つかった。

朝日新聞社
久しぶりに幕末ニュースを拾ってみます。

秋田
<戊辰戦争150年>佐土原藩士を手厚く供養した縁 大仙と宮崎、深まる交流 相互訪問、記念酒造りも
 秋田戊辰戦争の激戦地大仙市と、新政府軍側で参戦した佐土原藩があった宮崎市が交流を深めている。大仙市協和の境地区で戦死した佐土原藩士8人は現地の万松寺に一時葬られ、住民が手厚く供養した。150年前の悲劇を縁にして中学生や市民が相互訪問し、交流を記念した日本酒を造る事業も大仙市で進む。

 戊辰戦争から124年後の1992年、佐土原町(現宮崎市)の墓参団が万松寺を訪れたのをきっかけに交流が始まった。
 2001年に協和町(現大仙市)と佐土原町が有縁交流協定を締結した。市町村合併後は大仙市が人口約8万、宮崎市が約40万と都市の規模こそ異なるが、どちらも協定を引き継いだ。
 両市の物販施設では互いの特産品を販売。10年には佐土原藩士の慰霊碑が万松寺に建立された。今年は大仙市の事業として協和の酒米農家と酒造会社が記念酒を製造し、両市の交流を全国にアピールする予定だ。
 民間や中学生の交流も活発になり、協和には「さどわら会」、佐土原では「きょうわ会」と相手方の町の名を付けた有志団体がそれぞれの地で発足。大仙市の中学生が宮崎市を訪れてサーフィンを体験し、宮崎市の中学生は大仙市でスキーを楽しんだ。
 行政レベルでは、戸敷(とじき)正宮崎市長が今月19日に大仙市で開かれるシンポジウム「近代への道程 戊辰戦争と人びと」に出席。10月下旬には老松博行大仙市長が宮崎神宮大祭を視察する。
 老松大仙市長は「交流協定を友好協定に発展させたい」と意欲を示す。宮崎市佐土原総合支所の高橋通郎地域市民福祉課長も「8人の藩士を供養していただいた恩を忘れず、さまざまな交流を続けたい」と話す。

[佐土原藩]薩摩藩の支藩で藩主は島津氏。戊辰戦争時は2万7000石。宮崎市北部の旧佐土原町に藩庁を置いた。戊辰戦争では新政府軍に加わって伊勢、会津などを転戦。「境の戦い」では藩士約100人が庄内藩を中心とする奥羽越列藩同盟軍と交戦した。

戊辰戦争が縁、佐賀の小学生が秋田市訪問 歴史学び墓参り
 戊辰戦争(1868~69年)で援軍を送った縁で秋田と交流のある佐賀県武雄市の小学生の訪問団が4日来県し、秋田市内に滞在している。5日は、新屋地区にある慰霊碑や藩士の墓に足を運んだほか、開催中の秋田竿燈まつりで妙技大会を見学した。

 武雄市と秋田市の交流は、1986年に新屋日吉地区で武雄領出身者を含む佐賀藩士の墓が見つかったのをきっかけに始まった。今年5月には明治維新150周年にちなみ、武雄市で25年ぶりに竿燈が披露された。

岩手
南部藩主席家老・楢山佐渡の最後の「料理」味わう 幕末に武士道貫いた遺徳しのぶ /岩手
 今年は明治に改元されて150年。日本が近代国家を形成する契機として、明治維新を取り上げるテレビ番組や関連書籍の刊行などが相次いでいる。一方、南部(盛岡)藩は戊辰(ぼしん)戦争で旧幕府側に付いて敗北。白石への転封のほか、長く「朝敵」「賊軍」の汚名を着せられた。首謀者として処刑された主席家老・楢山佐渡(1831~69年)はその象徴的な存在だが、武士道を貫いた生き方は今も多くの市民に親しまれている。その楢山が最後に食した料理を再現し、味わうイベントが20日、盛岡市本町通1の料亭「駒龍」で開かれ、参加者は楢山の人徳に思いをはせた。【佐藤慶】

 代々家老を務めた家系に生まれた楢山は23歳の若さで家老職に就き、藩政改革に奔走。戊辰戦争では、旧幕…
 ここから先は毎日新聞の有料版にて。

山形
山形)「荘内大祭」開催 鶴岡で450人の大名行列
城下町・山形県鶴岡市の歴史を伝える「荘内大祭」が15日、市内中心部であり、総勢約450人の大名行列が練り歩いた。

 旧庄内藩主をまつる荘内神社の創建を記念して1877(明治10)年に始まった。大太鼓を先頭に奴(やっこ)振り、甲冑(かっちゅう)武者、女人列などが鶴岡公園を出発し、沿道に陣取った市民らの前をゆっくりと進んだ。

 今年は戊辰戦争から150年。「内地最後の激戦地」とされる関川(旧温海町)での戦いも甲冑劇で再現された。(佐藤孝則)

企画展戊辰戦争150年 絵図、洋式銃など 上山で /山形
戊辰(ぼしん)戦争150年にちなみ、上山市元城内の上山城郷土資料館で、企画展「戊辰戦争と上山」が開かれている。8月19日まで。

 戊辰戦争の戦場絵図や上山藩兵が用いた洋式銃、諸藩の武士たちの名刺、当時の軍服(復元)など計約50点を展示。同資料館は「最近新たに見つかった資料が展示の中心。復元された軍服…
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福島
旧会津藩主・松平容保「助命」に領民奔走 新たな史料など紹介
 戊辰150年を機に「戊辰と明治」について考えるシンポジウムが12日、会津若松市で開かれた。西軍側の史料で「開城後、領民は旧会津藩主松平容保(かたもり)に背を向けて冷ややかだった」とされてきたことを覆す内容の史料が紹介され、来場者が熱心に耳を傾けた。

 シンポジウムは同市の郷土史家ら有志による会津戊辰戦争150周年事業実行委員会(阿部隆一会長)の主催。パネル討論では戊辰戦争後の1868(明治元)年11月に会津から上京した10人の村の世話役「肝煎(きもいり)」が手分けをして阿波徳島、肥後熊本、長州、久留米、土佐各藩などに藩主の助命嘆願をするため奔走した史料などが紹介された。

 進行役を務めた会津幕末史研究会の簗田直幸さんは「領民は平和を願っていた。望んでいない戊辰戦争に巻き込まれ、兵火で村落が焼失したが、藩主を冷ややかな目で見るようなことはなかったはず」と述べた。

 助言者の落合弘樹明治大文学部教授(明治維新史学会理事)は「明治政府が政府に都合のいい声だけを拾い集めて歴史をつくり上げた点は否定できない。肝煎が命懸けで藩主の助命嘆願をしていたとすれば、会津の歴史を考える上で非常に興味深い」と語った。

 老幼婦女子の戦闘にも目を向け、会津の歴史研究をさらに発展させる必要性なども指摘された。

 パネル討論に先立って、歴史研究会の大塚セイ子さんが「戊辰戦争後の塩川の役割」、熱海史談会の佐藤秀雄さんが「石筵(いしむしろ)村のできごとについて」をテーマにそれぞれ語った。また、簗田さんが「兵火による村落の焼失について」と題して発表し、幕末史を見直す会の鈴木ひろみさんが「籠城を戦い抜いた婦女子の心の支え」を題に、照姫についての研究成果を発表した。

戊辰戦争時の会津藩しのぶ 若松城天守閣郷土博物館の収蔵品展
 会津若松市の鶴ケ城天守閣にある若松城天守閣郷土博物館で二十一日、収蔵品展「白虎隊と会津藩士の戦い」が開幕した。
 白虎隊を中心に戊辰戦争時の会津藩ゆかりの品四十五点を展示している。白虎隊士が自刃する様子を描いた複数の絵図、白虎隊士西川勝太郎が自刃する際に使ったと伝わる刀、西軍(新政府軍)の城下進攻を受け急きょ結成された進撃隊の隊旗などを観覧できる。
 四月から展開している「全館幕末特集」の第三弾。九月十一日まで。観覧は午前八時半から午後五時(入場は午後四時半)まで。高校生以上四百十円(茶室麟閣との共通券は五百十円)、小中学生百五十円、未就学児無料。問い合わせは会津若松観光ビューロー 電話0242(27)4005へ。

「会津藩の功績」検証 徳川時代の意義...戊辰戦争で意見交わす
265年に及ぶ平和を築いた徳川時代の歴史的意義を考える「徳川みらい学会in会津」は27日、会津若松市で開かれた。「徳川幕府の始まりと終わり~会津藩の視点から」がテーマで、参加者が会津藩が果たした役割などを学んだ。

 徳川みらい学会(事務局・静岡商工会議所)の主催、会津若松商議所と会津方部商工観光団体協議会の共催。静岡県以外での開催は2016(平成28)年10月の会津若松市、京都市に次ぐ3回目。今回は戊辰150年の節目に合わせて会津若松商議所が誘致し、約350人が聴講した。

 同学会長で戦国時代史研究の第一人者・小和田哲男静岡大名誉教授(74)が「会津藩祖・保科正之」と題して講演。小和田氏は、初期の江戸幕府を支え、文治政治を確立した保科の生い立ちや会津藩主としての功績などを語った。

 作家・歴史評論家原田伊織氏(72)と本紙連載「維新再考」にも登場した社会思想史研究の森田健司大阪学院大教授(43)との対談は、「戊辰150年~会津藩が果たしたもの」がテーマ。原田氏は「戊辰戦争は政権奪取とは別の目的を持った報復戦争と考えられる。鳥羽・伏見の戦いで『朝敵』のレッテルを貼られた長州藩が自ら朝敵処分を解き、会津藩をターゲットにした」と語った。

<戊辰戦争150年>戦死の藩士に心寄せ いわきで追悼法会
 戊辰戦争で戦死した磐城平藩(いわき市)の藩士らの追悼法会が11日、平藩主だった安藤家の菩提寺(ぼだいじ)であるいわき市の良善寺で営まれた。戊辰150年を記念し、共に戦った泉、湯長谷の両隣藩の関係者も初めて参列した。
 平藩士の子孫らでつくる平安会が主催した。16代当主の安藤綾信さん(86)や、呼び掛けに応じた湯長谷藩藩主内藤家17代当主の内藤博さん(82)ら約70人が参列。本堂での法要後、境内にある藩士らの墓前で手を合わせた。
 平安会会長の松村耕三さん(70)は「戊辰戦争がなぜ起き、その後に東北に何が起きたかを考える必要がある。戊辰の記憶を末永く伝えていくことを誓う」と追悼の言葉を述べた。
 11日は新政府軍の攻撃で磐城平城が落城した日(旧暦7月13日)に当たる。平安会は毎年、追悼法会を営んでいる。

戊辰戦争150年「戊辰戦争 白河口の戦い ー激戦と慰霊ー」映像を公開、楽曲制作は野崎良太(Jazztronik)
福島県白河市による「戊辰戦争 白河口の戦い」紹介映像を制作・公開

福島県南端に位置する白河市。古来から「白河の関」が置かれた東北の玄関口。今から150年前、この地で東北戊辰戦争の激戦の一つ「白河口の戦い」があった。


 戊辰戦争・明治維新より150年を迎えた今年、平成30年(2018年)は全国各地で記念イベントや企画展等、関連行事が催されている。
 福島県白河市もこの節目に、白河における戊辰戦争紹介映像「戊辰戦争白河口の戦い-激戦と慰霊-」を制作・公開し、広く情報を発信することで観光誘客につなげる狙いだ。「白河口の戦い」は戊辰戦争において、会津戦争に至る東北各地の戦いの本格的な始まりとなった戦いで、東北戊辰戦争の戦局に大きな影響を与えた。

 江戸時代、白河には白河藩が置かれたが、幕末の藩主・阿部正外が幕府老中として対応した外交問題で失脚し、慶応2年(1866年)白河藩は消滅、藩領は幕府領となった。
 その2年後の慶応4年、京都で旧幕府勢と薩摩・長州藩が激突、鳥羽伏見の戦いが起こり、1年4か月続く戊辰戦争が始まった。その後、幕府領から新政府領に変わった東北の入口・白河は、旧幕府兵と会津藩が占拠。白河は藩主不在だったにも関わらず、交通の要衝であるために意図せず戦争に巻き込まれていった。

 本映像では、進軍の様子を表したCGや、戦いの様子を描いたとされる『白河口合戦絵巻』(白河市歴史民俗資料館蔵)をもとに、戦いの様子を表現したアニメーションで当時の様子を分かりやすく映像化。幕末から戊辰戦争白河口の戦い、そして戦後には地元の人々が墓や供養碑を建て両軍の死者を弔い、今にいたるまで供養が続けられていることを紹介している。

 本映像は、Youtubeで公開し、白河市内では小峰城内にある資料館・白河集古苑や、白河駅併設の観光案内所・市民交流センター(マイタウン)のロビー等で放映、図書館の映像ブースでの視聴も実施する。日本語のほか、英語・中国語(簡体字)・韓国語字幕版も制作され、各言語も収録されたDVDは市内の小中学校等に配付される。

 本映像をご覧いただき戊辰戦争から150年を迎えた今年、ぜひ白河市を訪れていただきたい。


■楽曲制作:野崎良太(Jazztronik)
国内外にファンを有し、自身が率いるプロジェクト“Jazztronik”(ジャズトロニック)名義でオリコン・チャート・イン多数。今井美樹、椎名林檎、ゴスペラーズ、葉加瀬太郎、Mondo Grosso、m-flo、布袋寅泰、クリスタル・ケイ、山崎まさよし等をプロデュース&セッション。今年9月からは自身がサウンドプロデューサーを務める女優で歌手の柴咲コウのライブへの参加が決定している。

■ナレーション:堺正幸
元フジテレビアナウンサー。ニュースやスポーツ番組のアナウンサーを数多く務め、アナウンス室長を歴任。鉄道好きとしても知られ、JR東日本の「新幹線・在来線特急」車内アナウンスの声を担当し、東京から白河へ向かう東北新幹線車内アナウンスも務めることから、「白河へ誘う声」として本映像のナレーター起用に至った。

■戊辰戦争 白河口の戦いー激戦と慰霊ー【本編】

https://youtu.be/MM2RTN8up_E
(13分36秒)

■戊辰戦争 白河口の戦いー激戦と慰霊ー【短編】

https://youtu.be/CnvdETZK9Ys
(3分05秒)

白河市役所公式ホームページ
http://www.city.shirakawa.fukushima.jp/

山川健次郎を語る 若松で孫やひ孫ら鼎談
 会津藩出身で東京帝国大総長などを務めた山川健次郎の孫服部艶子さん(91)=東京都=、ひ孫木下健さん(69)=長崎市=らが山川について語る鼎談(ていだん)が十八日、会津若松市の会津若松ワシントンホテルで催された。四歳の時に山川が亡くなるまで池袋の家で同居していた服部さんが山川の家庭人の側面を語った。
 服部さんによると、晩年の山川は夕方五時ごろから夕飯を食べ、晩酌の際は塩豆、サケのかす漬けなどをさかなにしていた。会津藩の子弟が学んだ什の掟(じゅうのおきて)にある「うそをつかない」ことには厳格だった。
 木下さんは山川と面識はないが、山川の娘である祖母から人となりを聞いていた。「健次郎はシンプルなものを曲げない生き方だった」とした。
 鼎談は山川健次郎顕彰会が戊辰百五十年に際し、山川の実像を記録に残そうと催した。顕彰会の森武久事務局長(74)が服部さん、木下さんと語り合いながら進めた。顕彰会の宗像精会長(85)と、服部さんの付き添いで山川のひ孫の青島温子さん(58)=東京都=が同席した。鼎談の内容は後日、冊子などにまとめ一般に公開する。

「会津武士」逆風に対処 子孫宅から手紙...藩復活時、台所事情示す
150年前の会津藩消滅時に家老などを務め、藩再興に奔走した梶原平馬(かじわらへいま)と山川浩(やまかわひろし)、さらに会津藩士の子で後の陸軍大将、柴五郎(しばごろう)の3人がそれぞれ明治以降、会津在住の元藩士、町野主水(まちのもんど)に出した手紙計3通が、東京都の町野の曽孫宅で見つかった。

 文面を読み解いた直木賞作家の中村彰彦さん(69)によると、旧会津藩が斗南藩として復活する1870(明治3)年ごろの藩士たちの動向や経済事情に触れた梶原の手紙をはじめ、いずれも明治、大正の「会津武士」の生活ぶりや人柄が分かる貴重な史料という。

 手紙の日付は、梶原が4月1日。年は書かれていないが、中村さんによると内容から1870年と判別できる。山川は89(明治22)年9月5日。柴が1919(大正8)年9月14日。毛筆で書かれている。

 会津藩最後の筆頭家老で戊辰戦争直後は東京で謹慎した梶原の手紙は薄紙2枚。1枚目冒頭の「高田脱走惣調(そうしらべ)/東京脱走惣調/無宿者惣調」の3行に続き、戊辰戦争後に旧藩士が収容された越後高田(現新潟県上越市)、東京両謹慎所からの脱走者の調査が終わり、脱走先から戻った者、戻る見込みの者の家にも1日に付き1人当たり4合の玄米を給付し、台所事情が厳しい家には申し出れば対応する―などと記されている。

 中村さんは「平馬は脱走に頭を痛め、また70年4月の斗南藩成立で政府による給付が藩の手に移り、扶持(ふち)高は半分以下にせざるを得なかった。そして会津残留者たちにも同じ扱いをする必要を考え、扶持高改定を町野にも伝えた。東京と会津、越後高田で連絡し合い時代の逆風に対処していた状況が分かる」としている。

元会津藩家老・山川浩が元新選組・斎藤一に贈った「書」初公開
 会津若松市の白虎隊伝承史学館で6日から、元会津藩家老の山川浩が、共に東軍として戦った元新選組の斎藤一(藤田五郎)に贈ったとされる書が初公開される。

 書は斎藤の長男が生まれた1876(明治9)年、名付け親になった山川が「勉」の命名にちなんで和歌をしたためたもので、二人の深い結びつきを物語っている。

 斎藤は戊辰戦争で会津藩と戦いを共にし、戦後も元藩士らと交流を続けた。会津史学会の間島勲会長によると、山川は斎藤が結婚する際には仲人を務めたという。

 書は、所有していた東京都の斎藤の関係者から2004(平成16)年に、鈴木礼子館長の夫で前館長の滋雄さんに託された。

 滋雄さんは「大事な物だから外に出してはいけない」と秘蔵し続け、09年死去した。鈴木館長も書を守り続けていたが、今年が戊辰150年の節目となることから公開を決意したという。

 書の展示は11月30日まで。開館時間は午前8時~午後5時。入館料は大人300円、高校生200円、小・中学生150円。

展覧会福島の名刀、美と技 新選組・土方所用「越前康継」を県内初公開 会津若松の県立博物館 /福島
 刀剣の魅力を紹介した展覧会「美しき刃(やいば)たち-東京富士美術館コレクションと福島の名刀」が、会津若松市城東町の県立博物館で開かれている。戊辰(ぼしん)戦争150年に合わせて新選組副長・土方歳三の所用刀「越前康継(やすつぐ)」を県内初公開。美術品・伝統工芸品としての刀剣の美と技を伝えている。8月19日まで。

 越前康継は戊辰戦争時に土方が姉のぶの嫁ぎ先である東京・日野の佐藤家に贈った刀で、葵(あおい)のご紋…
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新潟
継之助を悼み只見で墓前祭 牧野家当主も参列
 長岡藩家老として戊辰戦争を戦い、逃れた只見で死去した河井継之助の没後百五十年墓前祭は命日の十六日、墓のある只見町の医王寺で行われた。長岡藩主だった牧野家の十七代当主忠昌氏(76)も参列し、継之助をしのんだ。
 地元の塩沢観光協会と塩沢区が毎年営み、今年は町内のほか新潟県などから約八十人が出席した。長岡城の攻防で継之助が和平交渉をした「小千谷談判」の舞台・慈眼寺(新潟県小千谷市)の船岡芳英住職が墓前で読経した。
 田村勝男塩沢観光協会長があいさつし、菅家三雄只見町長が「河井継之助総督の無念さ、武士としての潔さは心を打つ。総督の志を後世に伝え、越後との縁を深めたい」と追悼の言葉を述べた。忠昌氏らが焼香し、長岡市の前田剣豪会が剣舞を奉納した。
 二度目の墓前祭参列となった忠昌氏は「只見の方々に手厚くしていただき、とても感謝している」と語った。
 継之助は長岡城攻防戦で敗れ、現在の新潟、福島県境の峠道「八十里越」を通って只見にたどり着いたが、一八六八(慶応四)年八月十六日、戦傷がもとで只見の医師宅で死去した。

埼玉
「明治150年」で特別展=埼玉県和光市〔地域〕
 埼玉県和光市の税務大学校で、「明治150年」企画として、「明治維新と租税の近代化」をテーマとした特別展が開かれている。幕末の1858年に米国、英国などと結んだ不平等条約「安政5カ国条約」の実物をはじめ約30点の貴重な資料を展示し、明治期の歩みを税制を通じて振り返る。9月27日まで。
 税務大学校の税務情報センターは、10万点を超える税に関する歴史的資料を所蔵。特別展は、明治維新の税にクローズアップし、日本に関税自主権がなく、5カ国に領事裁判権を認めるなどの「安政5カ国条約」をはじめ、福沢諭吉が幕末から数回欧米を歴訪した西洋諸国の様子を紹介したベストセラー「西洋事情」の再販本(1890年)を展示。松方正義が発議し、編さんした税制の沿革史「大日本租税志」(1882年)には、班田収授法や太閤検地などの記録がある。
特別展示されている「安政5カ国条約」=2日午後、埼玉県和光市

 同大学校の松田淳主任教授は「歴史との関連で税に興味を持ってもらえればありがたい」と話している。
 開館時間は平日の午前9時半から午後4時半まで。入場無料。(2018/06/11-10:52)

神奈川
市歴博戊辰戦争時の横浜解説明治元年から150年の節目
 明治元年から150年の節目にあたる今年は、全国各地で「幕末維新」「文明開化」などを題材にした展覧会が行われている。横浜市歴史博物館=都筑区=では明治元年の戊辰戦争に着目し、企画展「戊辰の横浜 名もなき民の慶応四年」を9月9日まで開催している。

 戊辰戦争は薩摩藩や長州藩らを中核とした明治政府軍と旧幕府勢力などによる争いのこと。当時、横浜市域では戦闘はなかったものの、資料を調査したことで横浜が銃の貿易地であることや、明治政府軍が江戸を目指す通り道になっていたことが分かっている。

 企画展は戦争時の横浜市域の村々や人の姿を地元の資料など約120点からひも解く。資料として、村の人の日記を多く展示。明治政府軍からの要求やそれに反発する当時の村人の様子を感じることができる。

【神奈川】戊辰戦争 その時、横浜では 開港資料館などで企画展
明治維新(一八六八年)から百五十年を機に、新政府軍と旧幕府軍が戦った戊辰(ぼしん)戦争(六八~六九年)時の横浜を紹介する企画展「戊辰の横浜」が横浜市中区の横浜開港資料館で開かれている。十月二十八日まで。

 同館によると、英国やフランスなどの外国軍が駐留していた横浜・関内地区では戦闘が発生しないまま、新政府軍に接収された。同展では、現在の京急線日ノ出町駅近くにあった横浜病院で重傷の新政府軍兵士を治療した記録や、接収前に旧幕府軍が横浜港で銃器や蒸気船を購入したことを示す文書など計百点を紹介している。

 吉崎雅規・調査研究員は「横浜港では六七年に十万丁以上の小銃が輸入され、(新政府軍の)薩摩、長州両藩が武器を輸入していた長崎港の一・五倍あった。横浜も戊辰戦争と無関係ではなかった」と解説する。

 同市都筑区の市歴史博物館でも、同名の企画展が九月九日まで開かれている。横浜北部の村などにあった自主防衛組織「農兵隊」が、新政府軍に銃器を強制回収された記録など百二十点を展示している。

 開港資料館の入場料は大人二百円、小中学生百円。歴史博物館は大人五百円、大学・高校生二百円、小中学生百円。両館とも原則月曜休館。問い合わせは開港資料館=電045(201)2100=へ。 (志村彰太)

横浜高島屋金の西郷隆盛像が登場 明治維新150年記念
 明治維新150年を記念し、横浜市の横浜高島屋に黄金の西郷隆盛像(約185センチ)が登場した。純金製ではないが、強化プラスチックの素材に10センチ四方の金箔(きんぱく)2500枚を貼り付けた。

 同店で6月5日まで開催の「大黄金展」に出品された。職人が手作業で金箔を施した像の価格は2700万円。高さ約…
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静岡
静岡市・望嶽亭藤屋 江戸無血開城の立役者を救った茶亭
 幕末の混乱を収め、明治新政府の樹立を決定づけた慶応4(1868)年の江戸城無血開城。新政府側の西郷隆盛と旧幕府側の勝海舟の歴史的会談で実現したが、その偉業をお膳(ぜん)立てした一人の男がいた。山岡鉄舟。徳川15代将軍慶喜の命を受けて老獪(ろうかい)な西郷と事前交渉し、慶喜の安全を確保しつつ幕藩体制を終焉(しゅうえん)させる立役者となった幕臣だ。

 江戸城総攻撃に備えて江戸に向かっていた西郷は、同年3月9日、駿府(現・静岡市)の「松崎屋源兵衛宅」に滞在した。身の危険を顧みずそこに赴いた山岡は、西郷と直談判。江戸城明け渡しや慶喜の処遇といった重大案件について合意を取り付けた。その5日後、山岡が見守る中行われた西郷と勝との会談で、江戸城総攻撃は回避され「歴史上まれに見る無血革命」と語り継がれる江戸開城が実現した。

 近代日本の行く末を左右した会見から150年。舞台となった「松崎屋源兵衛宅」の跡地には現在、雑居ビルが建ち並び、当時の面影は全くない。買い物客でにぎわう通り沿いに、「西郷・山岡会見の史跡」と記された碑が据えられているのみだ。

 実はこの会見が成功した裏には、もう一人の陰の英雄がいた。東海道の難所として知られる薩●(さった)峠(静岡市清水区)にある茶亭「望嶽亭(ぼうがくてい)藤屋」の当主、松永七郎平だ。

 西郷に面会すべく薩●峠越えを目指した山岡は3月7日夜、官軍に追われ、命からがら逃走していた。望嶽亭に逃げ込んだ山岡から事情を聴き、山岡が背負う密命の重さを理解した松永は、からくり屋敷のような茶亭の造りを生かして脱出に全面協力する。

 望嶽亭には母屋から直接通じる蔵があり、蔵の床の隠し階段から浜辺に下りることができた。山岡はこの経路で脱出し、漁師に変装して舟で海道一の大親分とうたわれた清水次郎長の元へ送り届けられたと伝わる。現在松永の子孫が管理する望嶽亭には、当時の蔵や隠し階段が残り、山岡が置き去りにしたとされる銃も展示されている。

 山岡の功績を研究する「静岡・山岡鉄舟会」の若杉昌敬事務局長は、「明治維新は政治体制の大変革でありながら、血で血を洗うことなく話し合いで決着した。旧幕府側と新政府側の戦いが長期化すれば日本は欧米列強に支配されたかもしれないが、そうならなかったのは山岡と西郷の尽力があったから」と強調する。

 維新後の山岡は、静岡藩の要職を務め、清水(現・静岡市清水区)の鉄舟寺を復興するなど、現在の静岡市内に多くの足跡を残した。点在する史跡をたどれば、新しい日本を夢見て奔走した志士の熱い思いに触れられるかもしれない。(静岡支局 吉沢智美、写真も)

企画展三島の礎つくった偉人たち 幕末から明治の10人紹介 /静岡
「明治150年」を記念し三島・沼津・富士にある三つの市立博物館の共同企画展「近代三島をつくった人々」が、三島市一番町の市立公園楽寿園内の郷土資料館で開かれている。前期(政治・教育編)と後期(経済・文化編)の2部構成。前期は9月24日までで、幕末から明治にかけて三島の礎をつくった隠れた偉人約10人を約130点の資料で紹介している。

 会場には、戊辰戦争中に三島宿自衛兵を組織して宿場町内での衝突を回避した三島宿本陣当主、世古六太夫(…
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岐阜
凌霜隊、軍服姿の写真発見 新政府軍と戦った旧郡上藩士
 明治150年、幕末の実像が郡上によみがえる-。旧郡上藩の江戸藩邸にいた藩士でつくり、戊辰戦争(1868~69年)で新政府軍と戦った「凌霜隊」。戊辰開戦から150年の今年、副隊長・坂田林左衛門(りんざえもん)の軍服姿の写真が見つかった。隊員の軍服写真の発見は初めて。生き残った林左衛門の幽閉生活の様子を伝える資料も見つかり、同隊の新たな実像を浮かび上がらせている。

 見つかったのは、陣頭指揮に使う采配を手にする軍服姿の林左衛門の写真。隣に妻の姿があり、江戸を出発する直前に撮ったとみられる。長野県軽井沢町に住む子孫が保存していた。

 子孫から写真の分析を託された地域史家の高橋教雄さん(73)=郡上市八幡町=は「凌霜隊がどういう軍服だったのかが明らかになった貴重な1枚。采配を持っていることから、実質的に隊を指揮していたのは17歳の隊長ではなく(52歳の)林左衛門だったことが読み取れる」と話す。

 また、林左衛門の孫が同家に伝わる史実として書き残した「手記」も見つかった。郡上で幽閉生活を送る中で、若い元隊員が反乱を起こそうとしたときに林左衛門が説得したことなどが記されている。高橋さんによると、戦闘の手記は他の隊員が残したものもあるが、謹慎中の心境などを伝える隊員の資料は初めてという。

 一方、凌霜隊に光を当てようと、郡上八幡産業振興公社(郡上市八幡町)は「凌霜150」プロジェクトを企画。第1弾として、高橋さんが2015年に自費出版した本「郡上 凌霜隊」の再版に向けてクラウドファンディングによる出資を募っている。高橋さんが13~14年に岐阜新聞に寄稿した連載「郡上藩凌霜隊」をもとに執筆。今回の資料についても新たに加筆する。再版は千冊で目標金額は80万円。募集期間は9月28日まで。

 【凌霜隊(りょうそうたい)】 「凌霜」とは霜を凌(しの)いで咲く菊のような不撓(ふとう)不屈の精神を表す言葉。旧郡上藩青山家の家紋である青山葉菊に由来する。朝比奈茂吉を隊長に45人で構成。戊辰戦争で、脱藩し幕府軍として会津若松城で会津藩白虎隊と共に戦い、敗れた。生き残った隊員30余名は郡上に戻ったが、郡上藩は新政府側についており、幽閉された。後に赦免(しゃめん)されたが、多くは郡上を離れた。


三重
展示会桑名藩の戊辰戦争 藩士らの動向追う 市博物館 /三重
 戊辰(ぼしん)戦争と桑名藩との関わりを紹介する展示会が桑名市京町の市博物館で開かれている。旧幕府軍として新政府軍と戦った藩士らの動向を資料で追っている。8月26日まで。

 鳥羽伏見の戦い(1868年)に端を発する戊辰戦争から150年の節目になるのを記念して企画した。

 幕末、京都所司代に就いた桑名藩主、松平…
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京都
新選組の隊士しのぶ ゆかりの京都・壬生寺で供養祭 池田屋事件にちなみ開催
 幕末の京都で活躍した新選組の隊士らをしのぶ供養祭が16日、ゆかりが深い壬生寺(京都市中京区)で営まれ、局長・近藤勇の子孫や全国から集まったファンらが遺徳をしのんだ。

 新選組が倒幕派の志士を急襲した池田屋事件が元治元(1864)年の祇園祭宵山に起こったことにちなみ、昭和46年から毎年宵山に開催している。

 境内にある近藤像の前で、松浦俊海貫主(83)らが読経し、新選組を顕彰する京都新選組同好会のメンバーらが次々と焼香して手を合わせた。

 千葉県市原市の会社員、増田栄子さん(44)は「隊士の方々が長年にわたって、この寺で大事にされていると感じた。来られてよかった」と話していた。
桂小五郎しのぶ「松菊祭」霊山護国神社で歴史ファンら慰霊
 幕末の志士、桂小五郎(木戸孝允、1833~77年)の命日にあたる26日、桂の墓がある京都霊山護国神社(京都市東山区)で恒例の「松菊祭」が営まれ、全国から集まった歴史ファンら約40人が遺徳をしのんだ。

 松菊祭は桂の雅号「松菊」にちなむ命日祭で、今年は生誕185年にあたる。桂は明治10(1877)年に京都の自宅で病死し、同神社の境内に墓が建立された。

 祭りでは、宮司が祝詞を読み上げた後、参列者が玉串を奉納し、墓前で手を合わせた。名古屋市西区の会社員、鳥谷奈央さん(23)は「桂さんが大好きで、訪れるのは今年で3回目。参列できてうれしい」と話していた。

ブックレビュー
経済評論家・岡田晃氏の新刊「明治日本の産業革命遺産」発売
集英社は5月25日、岡田晃著の『明治日本の産業革命遺産』(税別1,900円)を発売する。

本著は、「日本の奇跡」と呼ばれている明治産業革命に製鉄、製鉄、造船、石炭産業が、発展していく様子を幕末の若きサムライたちや、現場で奮闘した無名の職人たちのドラマを描いている。


岡田晃著『明治日本の産業革命遺産』(税別1900円)
例えば、次のようなエピソードだ。製鉄の基礎を作ったのは、伊豆の反射炉の技術で佐賀藩と伊豆の代官だった江川英龍が協力して研究が始まり、最終的には釜石の洋式高炉に結実。それが現在の新日鉄住金に至るまでや、造船が薩摩藩士の五大友厚がトーマス・グラバーらと共に長崎の小菅修船場から始まり、現在の三菱重工長崎造船所へ発展していく――。日本が技術立国として世界に認められるまでに至った歴史、さらには日本経済の再生のためのヒントも盛り込まれている。

このほか、「明治日本の産業革命遺産」を撮影したカラー口絵や明治時代の貴重な写真や資料が多く掲載されている。なお、著者の岡田晃氏は、大阪経済大学客員教授。テレビコメンテーターとしても活躍している。




実写版『銀魂』から1年。この面子で、よく2をつくってくれました。大好きな真選組動乱編、ギャグパートの将軍接待編が散りばめられた作品。

特に伊東鴨太郎を演じた三浦春馬さんと河上万斉を演じた窪田正孝さんがよかった。どちらも演技力あり、アクションもキレキレ。土方十四郎とトッシーの二役だった柳楽優弥も、涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら近藤勲に心から同化した中村勘九郎さん(ところどころ顔と声がお父さんの勘三郎さんになるところがまた涙)、涼しい顔で裏切った仲間を粛清する美しい沖田総悟の吉沢亮、万事屋チームの三人以上に活躍した回。

このメンバーで佐々木異三郎フィーチャーのバラガキ篇も見たくなった。。
千穐楽。ぎりぎり声掛けしたのだけどiさんが十数年ぶりかの再会でチケットを引き取ってくれ、一緒に見ました。

前説
さわり

 一週間前に見た記憶があるのだけど、記憶が飛んでる部分(途中で居眠り)を補う全編見ることが出来た。アレがどう繋がって後半に繋がるか、曖昧だったところも。

 そして、多分私の記憶が正しければ、飯島平左衛門を父と慕う相澤幸助が主人公で、父の敵を討つために平左衛門を師として慕いながら師をあやめようとするお国と宮邊源治郎から師を守ろうとしていたら、実は師は父の敵だった、というのが正というか光のストーリー。
 そして、幽霊に見込まれた伴蔵とおみねがお米お露の亡霊に見込まれ、萩原新三郎を百両で売るのが負というか陰のストーリー。
 光と影はやがて出会い、その数奇な巡り合わせを巻き込みながら、最終幕へ。

 たぶん志の輔さんは、伴蔵とおみねのストーリーにも同じくらいの重みをもって演じるようになってきている。

全編、最長の3時間20分。至福。

 そう思いながらIさんと終演後飲んだら、志の輔師匠が関係者と千穐楽の後の打ち上げをやっている店だった。
何年か前、飛行機のインフライトサービスで見ていて、喉に小骨がささったような記憶があった作品。やっと再見できた。
2年めの本多劇場恒例『牡丹灯籠』。私も6年連続。いつもいつも炎暑の日。

 来る度に下北沢駅が改修されていて、今回は特に南口が塞がっていて大回りして本多劇場に辿り着いたら、志の輔さんがマクラで同じことを言ってくれて、ここで心が緩む。

 三遊亭圓朝『牡丹灯籠』。録画はもちろん録音機器すらなかった当時、速記者2名によって落語中興の祖三遊亭圓朝の2時間×15日の30時間に及ぶ口演が記録に残ったのは何という幸運か。明治中期の二葉亭四迷などによる言文一致運動の材料としても使われていったという。

前説
 恒例、ためしてガッテンのスタッフによるパネルに磁石のついた名前プレートを相関図に当てはめながら、牡丹灯籠の前半部分を飯島平左衛門と相澤幸助の師弟の交流(実は幸助の父を殺した仇でもあったのだが)、平左衛門を亡き者にしようとする愛妾お国と宮邊源治郎の策謀、そして平左衛門の死によって幸助は敵討ちを誓う。

 途中、稲葉修元法務大臣が談志に送った新潟県村上の塩引き鮭のエピソードがアクセント。

さわり
浪人萩原新三郎と平左衛門の娘お露の悲恋、お露と乳母お米の亡霊によって悪心を目覚めさせる伴蔵とおみねの夫婦。栗橋宿で小間物屋を開いて関口屋を名乗るようになった伴蔵が、共犯であったはずのおみねを殺し、悪事に気付いた医師の山本志丈を殺し、捕り方に捕らわれて一巻の終わり。幸助は、栗橋で笹屋という居酒屋の酌婦として伴蔵をたらし込んでいたお国は、伴蔵と志丈によって悪事が露見し宇都宮まで逃げた。幸助が四歳の時に生き別れていた母おりえがと幸助は再会したが、喜びはつかの間、おりえは後添えとして嫁いだ先の娘お国と源治郎をかばって自害。しかし平左衛門の槍で重傷を負っていた源治郎を助けて逃げるお国の足も遅く、幸助は源治郎とお国を仇として成敗する。

平左衛門の墓前で敵討ちを報告する幸助で原作は終わるが、志の輔さんはお盆の季節に相応しい後日談的エピソードを入れて感動的な幕切れ。

 毎年原作を読み返しているそうで、多分少しずつブラッシュアップしていると思う。今年は、亡霊のお米とお露に怯える伴蔵おみね夫婦のリアクションがいつも以上にコミカルだったかも知れない。この夫婦が大金を手に入れて変わっていくところが私にはとてもリアルな人間劇だと思う。
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