新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
慶喜も当主の「一橋徳川家の200年」たどる 茨城県立歴史館で特別展
いまだ会津に渦巻く「薩長憎し」の思い 一方で雪解けの兆しも?
“半年間、遺体を野ざらし”はなかった? 薩長の「埋葬禁止令」を覆す新史料
明治維新が落とす影 “藩校つぶし”の影響で今も残る医療格差
水戸徳川家出身の江戸幕府第15代将軍、徳川慶喜が当主となるなど水戸とゆかりが深い一橋徳川家の歴史や名品などを紹介する特別展「一橋徳川家の200年」(産経新聞社水戸支局など後援)が水戸市緑町の県立歴史館で開催されている。佐賀の業績4テーマで体感 「幕末維新記念館」報道関係者に公開最新技術で臨場感を演出
一橋徳川家は江戸時代に清水、田安の両家とともに江戸城内に屋敷を与えられた「御三卿(ごさんきょう)」の一つ。第8代将軍、徳川吉宗の四男、宗尹(むねただ)を初代当主に、第11代将軍の家斉や慶喜を輩出するなど将軍家と密接に関わってきた。
「水戸、尾張、紀伊の『御三家』と間違えやすいが、それよりも将軍家に近い存在」(歴史館担当者)という御三卿。その一橋家は江戸時代中期から武家社会の中心に関わり、多くの大名や京都の公家との交流を通じて独自の文化を発展させてきた。
水戸徳川家出身で、一橋徳川家12代当主の宗敬(むねよし)が継承品を県に寄贈したことをきっかけに、歴史館は昭和62年に一橋徳川家記念室を開設。特別展では所蔵する資料約6千点の中から、古文書や婚礼道具、美術品などえりすぐりの116点を展示。江戸時代中期から幕末を経て、戦後に至る200年間の足跡をゆかりの品を通じてたどることができる。
主な展示品として、能装束「唐花打板雲文様段替厚板唐織(からはなうちいたくももんようだんがわりあついたからおり)」や、香合わせの用具「斑梨子地沢潟菱唐草葵紋散蒔絵十種香箱(むらなしじおもだかびしからくさあおいもんちらしまきえじゅっしゅこうばこ)」などのほか、参院議員を務めた宗敬が、全権団の一人として出席した昭和26年のサンフランシスコ講和条約の調印式で使用した万年筆など貴重な品が展示されている。
担当者は「展示品を通じて、一橋家がどういう役割を果たしたのか、どういう生活を送っていたのか見てもらいたい」と呼びかけている。
特別展は21日まで。12日は休館。開館時間は午前9時半から午後5時(入館は同4時半)まで。入館料は一般600円、大学生310円。
18日午後1時半からは徳川林政史研究所の藤田英昭研究員による「明治維新期の一橋徳川家」と題した講演会も行われる。(鴨川一也)
報道関係者向けに8日公開された肥前さが幕末維新博覧会のメインパビリオン「幕末維新記念館」。最新デジタル技術を駆使し、日本の近代化に大きく貢献した佐賀の業績を四つのテーマで紹介している。幕末福井藩にいた忍者の任務に迫る福井県立図書館、本や絵図展示
「幕末維新」を体感する第1場は、幅15メートル、高さ3・5メートルのスクリーンが広がり、幕末維新期の佐賀を舞台に偉人たちのドラマが映し出される。第2場は「技」がテーマのからくり劇場。映像とパフォーマー(役者)が一体となって佐賀藩の技術力を紹介。鍋島直正公が失敗を恐れず鉄製大砲を鋳造したことなどをデジタルとアナログの融合で臨場感を出しながら表現している。
「人」をテーマにした第3場は、7枚のスクリーンに大隈重信や佐野常民、鍋島直正ら七賢人が登場し、語り合う。第4場では、来場者がクスノキの葉をイメージした紙にメッセージを書くことができるほか、県を代表する著名人のメッセージを読むこともできる。
同記念館は佐賀市城内の市村記念体育館に整備。17日に開館し、来年1月14日まで(無休)。開館時間は午前9時半~午後6時。入場料は800円(前売り600円)、団体600円、3館共通券のチケット3は1200円(前売り1000円)、フリーパス券は3000円。高校生以下は無料。問い合わせはチケット管理センター、電話0952(29)3671。
150年前の福井城下にいた忍者の任務や暮らしなどに迫る企画展「幕末福井藩の忍者」が福井市の福井県立図書館で開かれている。同館が保管する史料「松平文庫」から本や絵図12点を展示し、パネル8枚を交え忍者の実像を紹介している。4月25日まで。福島県二本松市 戊辰戦争と朝河重ねる とうほく地方創生 気になる現場
県などが展開する「幕末明治福井150年博」の関連事業。
「忍者」という名前ができたのは昭和30年ごろと最近のこと。「組々之由来(くみぐみのゆらい)」によると福井藩にいた忍者は「忍之者(しのびのもの)」や「忍組(しのびぐみ)」と呼ばれ、武器を収めた倉庫の管理や参勤交代のお供などの役割を担っていた。「忍び御用」として他の藩で情報収集活動を行うこともあった。
19世紀中ごろ(江戸末期)に福井藩にいた忍者は12人。藩の石高が32万石だったことを踏まえると平均的な人数だった。階級としては「足軽」に属し、待遇は決してよくはなかったという。
「禄高帳」には元忍者全員の名前が記されている。「御家中屋敷地(ごかちゅうやしきち)絵図」は福井城下に忍者用の短い弓「半弓」の稽古場を伴った忍者の集住エリアがあったことを示している。
学芸員の長野栄俊さんは「今まで知られていなかった福井藩の忍者の謎が徐々に解き明かされてきた。ぜひ楽しんで見てほしい」と来場を呼び掛けている。
明治150年の記念イベントが全国で盛んだ。戊辰戦争を旧幕府側として戦った二本松藩ゆかりの福島県二本松市には、各地と異なる空気が漂う。今年は、米エール大で教壇に立ち、日米開戦の回避を主張した地元出身の歴史学者、朝河貫一の没後70年と重なる。二本松は何を発信するのか。備中松山藩主と家老の自訴状発見 戊辰戦争終結後、藩存続へ連携か
霞ケ城公園にある二本松少年隊の像の横には、出陣の服を用意する母親の像が並ぶ
3月初旬のJR二本松駅前。150年をPRする旗やポスターはまだ、ない。市観光課に聞くと、「特別なことはしない方がいいとの議論もあって出遅れましたが、やはり積極的にPRしようと動き出したところです」とのことだった。
二本松の戊辰戦争史には、市民の誇りと悔いが入りまじる。数え年で12~17歳の62人が出陣し、14人が戦死した。にほんまつ観光協会の丹野光太郎事務局長(62)は「子どもまで巻き込んだのは恥ずべきことで、多くを語るなと教えられたこともあった」と明かす。「二本松少年隊」と名づけられ、存在が知られるようになったのは半世紀を経てからだったという。
教育現場では郷土史を学ぶ一環として、戊辰戦争を取り上げている。藩校「敬学館」の流れをくむ市立二本松北小では、毎年6年生が少年隊を題材にした作文や演劇に取り組む。紺野宗作校長(58)は「家族や命、生き方について考えるきっかけになっている」と語る。そして「観光となじみにくかったのは、当時の世代にとって、悲劇を通り越すほどのつらい記憶だったせいではないか」とみる。
「朝河博士が戊辰の経験を聞いていたことが、思想にも影響したと考えられる」。市歴史資料館の佐藤真由美学芸員(47)が、旧藩士の家に育った朝河の歴史観について解説してくれた。同館には朝河が1908年に執筆した「日本の禍機」の現代語訳やゆかりの地を紹介したパンフもある。
朝河は「禍機」で、日露戦争後の日本外交を批判し「近代の文明国は国民自らが反省し、深く考えるのでなければ、一瞬で間違いに陥る」と、過去に学ぶ必要性を繰り返し説いた。
新政府軍の会津攻めを止めようと調停に努めながらも、開戦、落城を余儀なくされた二本松藩と、対米戦を避けるべく奔走しながら祖国の敗戦をみることになった朝河の姿は重なる。
地元で江戸期から続く大七酒造の太田英晴社長(57)は「課題となっている二本松のブランディングには、戊辰戦争と朝河を結びつける視点が有効」と話す。敗者となった二本松から世界に飛躍した人物の思いは「ふるさとの精神的なシンボルになる」。今年は同社も参加する二本松物産協会のイベントを拡大し、戊辰戦争に関する資料の発掘などに力を入れる。
霞ケ城落城と同じ7月29日、少年隊の供養塔がある大隣寺では毎年、小中学生の代表が作文を読む。戦争回避へ自問自答した先人の思いを、若い世代はどう受け止めているのか。
17年度は姉妹が作文を披露。妹は霞ケ城跡に立つ像にふれ「少年隊は敵軍と、お母さんたちは悲しみと戦っているように見えました」と書いた。姉は「歴史から学べることを、私たちは何に変えてゆけるだろうか」と自問し、こう結んだ。「それは、これから未来に生きる、私たち次第だ」
(郡山支局長 天野豊文)
江戸末期に幕府要職を務め、明治新政府から「朝敵」とされた備中松山藩の藩主板倉勝静(かつきよ)(1823~89年)と、家老大石隼雄(29~99年)が戊辰(ぼしん)戦争終結後、新政府側に出した自訴状が高松市の大石の子孫宅で見つかり、8日までに高梁市歴史美術館(同市原田北町)に寄託された。自筆とみられ、同市教委は「藩存続の瀬戸際にあった当時の緊迫感が伝わる貴重な史料」と評価している。
2人の自訴状を並べて軸装にした状態で発見された。いずれも写しが岡山藩政資料・池田家文庫(岡山大付属図書館蔵)に伝わるが、自筆文書は確認されていなかった。文面は写しとほぼ一致し、正式な自訴状の下書きか控えとして保存していたとみられる。
勝静は幕府老中として幕閣の中枢におり、戊辰戦争では函館まで転戦した。自訴状は旧幕府勢力が降伏した8日後の69年5月26日付。戦争の混乱の中で軍と行動せざるを得なかったとし、「天威(天子の威光)」に抵抗する考えのないことを強調、家臣や領民の安全の確保を嘆願している。
一方、大石は国元で備中松山城の無血開城などに尽力し、勝静投降後は主家存続に奔走。同年6月1日に新政府側の岡山藩に宛てた自訴状では、勝静に代わって厳罰を受けることを「本懐至極」とした上で、寛大な処置となるよう取りなしを依頼している。
備中松山藩は5万石から2万石に減封されながら存続し、勝静は72年に赦免された。調査した田村啓介高梁市教委参与は「セットで伝来したことを考えると、勝静と大石ら家臣が連携し危機を乗り越えられたのでは」とみている。
自訴状は17日に始まる同館の常設展「山田方谷と生涯」で公開する。5月11日まで。火曜休館。
(2018年03月08日 23時35分 更新)
いまだ会津に渦巻く「薩長憎し」の思い 一方で雪解けの兆しも?
明治維新から150年を記念する声が全国で聞かれる一方で、福島では「戊辰150年」ののぼりが立つ。会津には、薩長への恨みをいまだに強く持つ人も少なくない。
その原因とのひとつとされるのが、戊辰戦争で新政府軍が出したとされる「埋葬禁止」。これにより会津藩士の遺体は半年間も野ざらしにされたとして、薩長への恨みにつながっているのだ。しかし近年、新史料の発見でこれが誤りであることが明らかになった。
「戊辰戦争は150年前に起きましたが、埋葬禁止説が浮上したのはこの50年のことですから、払拭(ふっしょく)されたのも『50年ぶり』ということになります」(新史料を発見した会津若松市史研究会の野口信一副会長)
それでも会津の人たちの受け止めは複雑だ。松平容保の京都守護職時代からの積年の恨みがあり、埋葬禁止を打ち消す今回の発見だけでは長州への遺恨は収まらない、と言う人も少なくないという。
山口県(長州)出身で都内で働く40代の男性も、それぞれその土地の歴史を背負っているから長州、会津の和解は難しいとしながら、こう話す。
「明治150年に対して、戊辰150年と違った立場からの歴史を理解しようという動きは評価しています。明治100年の時と違って、日本人に余裕がでてきたということでしょうか」
先の野口氏は、真の和解には感情論ではなく歴史を学ぶことが重要だと強調する。
「会津の歴史だけでなく、長州や薩摩の歴史、その他の地方の歴史も同時に学んでいかないと歴史の真実は見えません。一方の話だけを信じていると、埋葬禁止のような事実誤認につながってしまいます」
実際、150年を機に、戊辰戦争の恩讐を超えた交流も深まりつつある。
戊辰戦争で約100日間の激戦が繰り広げられた「白河口の戦い」。この舞台となった福島県白河市には、領民が戦没者を敵味方なく弔い、盆踊りで死者の霊を慰めたのがルーツとされる「白河踊り」が伝わる。実はこの白河踊りと出だしの音程などが共通する踊りが、山口県内各地で今も舞われているのだ。戊辰戦争に参戦した長州の隊士が白河で踊りの輪に加わり、古里に持ち帰ったのが由来とも伝えられる。
こうした白河踊りがつなぐ縁を強め、交流を深めようと、昨年12月に白河市の鈴木和夫市長が長州藩のあった山口県萩市を訪ね、藤道健二市長を表敬。今年7月に白河市で開く両軍戦死者の合同慰霊祭に萩市の関係者を招待することなどで合意した。
白河市の白河戊辰150周年記念事業実行委員会の教育部会長を務める佐川理沙さん(33)は期待を込める。
「イベントを通じて他地域との交流をさらに広げられれば」
藩校の学びを伝える博物館「会津藩校日新館」の館長で、いまだに薩長への恨みはあると語っていた宗像精(むなかたただし)さん(85)は、昨年11月下旬、吉田松陰をまつる萩市の松陰神社で「戊辰150年の会津人の思い」と題して、初めて講演した。
宗像さんの萩講演を実現させたのは、萩市の市民団体「長州と会津の友好を考える会」。代表で医師の山本貞寿(さだひさ)さん(78)によれば、長州藩士も幕末、池田屋事件(1864年)や蛤御門の変(同年)などで会津藩と配下の新選組によって多くが命を落とした。だが、長州人は「会津憎し」とは言わない。会津と長州のこの心情の落差は何か──。山本さんは宗像さんに「生の声を聞かせてほしい」と半年がかりで呼びかけた。
宗像さんは、満員の萩市民ら約150人を前に身ぶり手ぶりを交え、思いを語った。
「会津だけが長く賊軍の汚名を着せられた。そういう歴史の事実を消すことはできません。歴史をなかったことにして握手する仲直りはできない。しかし、同じ日本人ですから『敵』だとは考えていません。日本が世界のために何に貢献すべきか、日本人として何をなすべきか、ともに考えて進みましょう」
本当の“雪解け”は10 年先かもしれないし、明日かもしれない。(編集部・野村昌二、渡辺豪)
“半年間、遺体を野ざらし”はなかった? 薩長の「埋葬禁止令」を覆す新史料
今も会津に渦巻く、150年前の怨念。最大の要因は、官軍の「埋葬禁止」にあった。しかし、最近、「定説」を覆す新史料の発見があった。
* * *
旧会津藩の城下町、福島県会津若松市。藩校の学びを伝える博物館「会津藩校日新館」の館長、宗像精(むなかたただし)さん(85)は、こう切り出した。
「薩長憎しの理由は、西軍が家財道具を分捕ったり、若い娘を略奪したり、そういう悪行の数々があるからです」
元中学校教師で市教育長も務めた宗像さんによれば、戦前の小学6年の国定教科書には会津藩は薩長に「てむかった」と書かれていた。それはとりも直さず、会津藩は「朝敵」「賊軍」だと言っているようなもの。それを子どもたちが暗記させられたかと思うと、屈辱的な思いは消えない。宗像さんはいまだ「官軍」とは言わず「西軍」と言う。
「官軍といっちまうと、こっちは賊軍になっちまいます」
賊軍とは、政府軍の「官軍」に対する呼び方だ。
会津地方で「戦後」といえば太平洋戦争でなく、戊辰戦争(1868~69年)後のことを指す。賊軍の汚名を着せられ、戊辰戦争での敗戦によって会津藩士は苦難の道を歩むことになるからだ。政府は今年、「明治150年」を唱え、祝賀ムードを全国に演出しようとしている。しかし、会津若松市内には「維新」ではなく、「戊辰150周年」ののぼり旗が立つ。
「逆賊の汚名を着せられた薩長への恨みはいまだにあります」
市内で働く女性(40)は言う。同じ怨念を抱いている人たちが、本州「さいはての地」にもいる。
「薩長への恨みはいまだに消えません」
青森県大間町。この町の小さな商店街にある「斗南(となみ)藩資料館」の館長、木村重忠(しげただ)さん(78)は、静かな口調でこう話す。
館名が示す通り、斗南藩士の末裔だ。斗南藩は1869(明治2)年、戊辰戦争に敗れた会津藩士らが家名再興を許され、立ち上げた藩だ。最後の会津藩主・松平容保(かたもり)の長男で生後5カ月の容大(かたはる)を藩主に担いで起こした。71年までに、会津藩士とその家族1万7300人余が、下北半島に移住した。
木村さんは斗南藩で「史生(しじょう)」(記録係)だった木村重孝(しげたか)の曽孫(ひまご)に当たる。会津藩では会計係を務めていた重孝は70年、妻と4人の子どもたちと一緒に、新潟港から蒸気船「ヤンシー号」に乗ってこの地に来た。
「みんな裸同然でここに来て、どうやって飯を食っていくか大変だったようです」(木村さん)
下北半島は昔から寒冷の地で、農業の生産性は低い。当時、土地は枯れて米はほとんど取れず、死んだ犬肉の塩煮を食べた人もいた。寒さと栄養不足で、多くの移住者が亡くなった……。
悲惨な苦痛の歴史を後世に残すべく2005年、木村さんは150万円近くをかけ、自宅2階を改装し私設の「斗南藩資料館」を開設した。館内には、容保直筆の「向陽處(こうようじょ)」の掛け軸や、ヤンシー号の絵、廃藩置県後に斗南藩士が手放した品など貴重な資料が展示されている。館を訪れた人に、斗南藩の歴史を丁寧に説明する木村さんの薩長への遺恨は深い。
「いまNHKでやっている『西郷(せご)どん』ですか? 薩摩が舞台のドラマなんて全然見る気しませんよ」
この「薩長憎し」の風土を育んだ最たる要因の一つとされてきたのが、戊辰戦争時の「埋葬禁止説」とされる。新政府軍が遺体の埋葬を禁じたため、戊辰戦争で戦死した会津藩士の遺体が半年間、野ざらしにされた、というもの。しかし、この「定説」を覆す新史料が16年12月に見つかっている。詳細をつづった『会津戊辰戦死者埋葬の虚と実』(歴史春秋社)の著者で、新史料を発見した会津若松市史研究会の野口信一副会長(68)は言う。
「地元の反応は『初めて知った』『驚いた』という声が大部分でした。長州とのわだかまりの最大の障壁が取り除かれたのは大きな意義がある、と自負しています」
新政府軍の汚名をそそぐ「確たる証拠」が残されていたのは、戦死者の埋葬や金銭支払いを記録した「戦死屍取仕末(せんしかばねとりしまつ)金銭入用帳」。地元在住の会津藩士の子孫が1981年、若松城天守閣郷土博物館(会津若松市)に寄贈した史料の一部だ。市の委託を受けた同研究会が、目録の編纂(へんさん)中に発見した。
この史料によると、明治新政府は会津藩降伏の10日後の旧暦10月2日に埋葬を命令。翌3~17日、会津藩士4人が指揮する形で567人の戦死者の遺体を計64カ所に埋葬した。埋葬にかかった経費は74両(現在の相場で約450万円)。のべ384人が動員され、1人当たり1日2朱(同7500円)を支給した。家紋などが入った遺体発見時の服装も詳述され、山本八重の父・山本権八の遺体や、白虎隊士と思われる遺体も記録されていた。山本八重は、13年のNHK大河ドラマ「八重の桜」で綾瀬はるかさんが主演した女傑だ。
ではなぜ、埋葬禁止が「定説化」したのか。野口氏はこう説明する。
「会津戦争から半年後の1869年2月に、城下の阿弥陀寺に藩士たちの遺体を改葬したことが、『半年間も放置した』と誤認される要因につながったと思われます」
埋葬禁止が流布したのは1960年代以降だと、野口氏は指摘する。
「この頃から敗者である会津側から見た歴史が注目されるようになり、阿弥陀寺への改葬に尽力した会津藩士の町野主水の奮闘を伝える小説やエッセーなどで盛んに『埋葬禁止説』が現出するようになりました。しかしこれらは、歴史的資料に裏付けられたものではありません」
埋葬禁止の浸透と相まって、実直な会津人気質を長州への歴史的怨念と結び付けて「会津の頑固」と称し、これが会津観光のPRにも使われるようになった。こうした会津のイメージが他地域にも広まり、会津人自身の思考や振る舞いを縛っていった面もあると野口氏は解説する。
(編集部・野村昌二、渡辺豪)
明治維新が落とす影 “藩校つぶし”の影響で今も残る医療格差
明治維新から150年。政府は唱える、「明治の精神に学べ」と。しかし、いまだ賊軍の汚名と怨念を忘れられない人たちもいる。明治礼賛だけではすくえない。私たちは歴史とどう向き合えばいいのか。
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平成の時代に「勝てば官軍、負ければ賊軍」という言葉が、いまも生きている。東京・九段にある靖国神社だ。
靖国神社は戊辰戦争が終わった翌月の1869年6月、明治天皇が戊辰戦争で亡くなった官軍側の死者を弔うために建てた「東京招魂社(しょうこんしゃ)」を前身とする。そのため、戊辰戦争で敗れた旧幕府軍や会津藩士、西南戦争で賊軍として死亡した西郷隆盛も合祀(ごうし)されていない。極東国際軍事法廷でA級戦犯とされ、絞首刑となった東條英機元首相ら14人は、靖国に祭られている。
政治学者で東京大学名誉教授の姜尚中さん(67)はこう話す。
「靖国神社というのは、近代国家の一つの顕彰装置。国家に奉じた人間は、たとえそれが国際的に戦争犯罪とみなされても、それはあくまでも国家のために殉じたという考え方です」
明治期の薩摩、長州といった藩閥政治が、国内の医療格差に影響していると見る医師がいる。医療政策を研究するNPO法人「医療ガバナンス研究所」(東京都)理事長で、医師の上昌広(かみまさひろ)さん(49)だ。
「江戸時代、各地の藩校では西洋医学や工学を採り入れながら人材育成システムを構築していました。しかし、戊辰戦争で勝った薩長の新政府は、賊軍を武装解除させ、藩校も人材教育システムもろともつぶしてしまったのです」
厚生労働省の「2016年医師・歯科医師・薬剤師調査」によれば、人口10万人当たりの医師数が最も多いのは京都府で334.9人。次いで徳島県(333.3人)、東京都(324人)、鳥取県(316.7人)の順だ。
一方で、ワーストは埼玉県の167人。次いで茨城県(189.8人)、千葉県(189.8人)と続く。人口で見ると、圧倒的な「西高東低」となっている。
その一例が会津藩だ。会津はかつて教育の先進地だった。日新館という藩校があり、そこには医者を養成する医学寮もあった。しかし、戊辰戦争で校舎は焼失し、その後、再建されることはなかった。
いま、人口約190万人の福島県に医学部は福島県立医大しかない。人口10万人当たりの医師数は204.5人と全国44位だ。
「医師不足は、救急搬送の受け入れ拒否による患者の死亡や、病院や診療科の閉鎖など、深刻な問題をすでに引き起こしています」(上さん)
医療格差は、教育や人材の格差にもつながる。ノーベル賞受賞者が西日本に圧倒的に多いのは、その証左だと上さんは言う。
「格差をなくすには、規制緩和が必要。そして高度教育機関を誘致し、人材を育てることです。歴史を乗り越えるには、明治政府が生み出した、医療格差と教育格差をデータに基づき直視することが肝要です」
姜さんが言う。
「近代日本の持つ光と影。とりわけ近代史の中で辺境や周辺に追いやられた影の部分にしっかりと目を向け、それが我々にどういう歴史的な課題を突き付けているのかを考えてほしい。明治150年の今求められているのは、そうした影を見る視点ではないでしょうか」
(編集部・野村昌二)
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三谷幸喜さん脚本で演出。勝海舟と西郷隆盛の江戸城無血開場をめぐる交渉の、あったかも知れないエピソード。中村獅童さんが勝海舟……『組!』の捨助くんがこんなに大きくなって(違)。
中村獅童、松岡昌宏ら熱演、三谷幸喜が描く幕末群像喜劇『江戸は燃えているか』初日前会見レポート
中村獅童、松岡昌宏ら熱演、三谷幸喜が描く幕末群像喜劇『江戸は燃えているか』初日前会見レポート
三谷幸喜が描く幕末群像喜劇『江戸は燃えているか』が2018年3月3日より新橋演舞場で開幕する。中村獅童、松岡昌宏ら豪華俳優陣で、三谷自身が「新橋演舞場史上、もっとも笑えるコメディ」と評する作品に挑む。初日前日の2日に行われた囲み会見とフォトコールの様子を写真とともにお伝えする。今回チケットを3回分入手した。初回の感想は折り畳んでおくので、見たくない人は「続きはこちら」以降を読まないように。
物語の舞台は慶応4年。鳥羽伏見の戦いで幕府軍に勝利した西郷吉之助(隆盛)率いる官軍(新政府軍)は、江戸城総攻撃のために東海道を進んできていた。血を流さずに江戸城受け渡しを目指す西郷は、幕府側の代表者である勝海舟とあって、降伏を勧めることにする。
しかし、勝という男は元来の江戸っ子気質で、器が小さい上に喧嘩っ早い。そんな性格の勝が西郷にあったら間違い無く交渉決裂……!
戦はもうこりごりだと立ち上がったのは勝家の使用人たち。彼らが考えた作戦は、勝をニセの西郷に会わせて、ニセ会談をやらせている間に、勝家の庭師の平次に勝のフリをさせ、本物の西郷に会わせて、和平交渉をしてしまおうという大胆なもので……というあらすじだ。
この日、三谷のほか、中村獅童、松岡昌宏、松岡茉優、高田聖人、八木亜希子、飯尾和樹、磯山さやか、妃海風、中村蝶紫、吉田ボイス、藤本隆宏、田中圭が登壇した。
演出の三谷は「いろんなジャンルの方が出演する。これはプロデュース公演にしかできないこと。全員野球で、みんなで頑張って、ここまでこぎつけたという感じがしている。大いに笑っていただきたい」と作品への思いを語る。「毎回、稽古場で笑ってしまうシーンがあるんですが、僕の台本には書いてないことで腹立たしい」とも話し、会場をわかせた。
三谷自身、初めての新橋演舞場だ。「舞台上に立ったことはなかったのですが、(劇場内についている)提灯が素晴らしく、演劇は祭りだということを実感する。素敵な場所」と話す。「花道のある舞台でやるのは初めてで、どうやれば効果的にできるか、今まで新橋演舞場がやったことがないようなものをしたいと思ったら、結構オーソドックスだったみたいで……」とも語り、笑いを誘った。
今回、勝海舟役を演じる中村獅童。三谷の作品はNHK大河ドラマ『新撰組』以来となる。獅童は「初日を迎えることができて嬉しく思う。全部が見所じゃないですかね。笑っていただくのはある種怖い部分もあるが、実際にお客様がお入りになって分かることもある。大いに笑っていただけたら」とコメント。また、舞台美術が気に入っているといい、「2階や3階で見え方がぜんぜん違うので何回も見に来てほしい」。
勝家の使用人で庭師の平次役を演じる松岡昌宏。舞台『ロスト・イン・ヨンカーズ』(2013年)以来の三谷作品出演の松岡は「いろんなジャンルの方がいらっしゃるので存在感、台詞の言い方、笑いの間、全然違う。それが一緒になるからこそ面白いと思う」と話す。
役柄上、獅童と松岡が“似ている”という設定だ。2人の共通点は何かと問われ、共演者からは「足が綺麗」「机が綺麗」などというさまざまな声が上がるなか、三谷は「稽古で色々言っても、それはできないと絶対に言わないし、瞬時にきちんとやってくれる」と答え、信頼を置いている様子だった。
公開フォトコールでは2つのシーンがほんの一部分だけ上演された。
1つ目は、1幕で物語が膨らみ始める、山岡鉄太郎(飯尾和樹)がやってくる一場面。三谷は見所について「飯尾さんの滑舌の悪さ。こんなに悪いと思わなかった。次はなるべくセリフを少なくしようと思う」と話して、笑いをとった。
2つ目は、2幕でのミュージカル風の場面。『江戸は世界一』と、宝塚出身の妃海風を中心にダンスを交えて歌う華やかなシーンだ。コミカルなダンスと思わず笑ってしまう歌詞に注目してほしい。
どんな舞台になるのだろう。初日が待ち遠しい。
<戊辰戦争150年>会津と薩摩、歴史たどる 会津若松で特別展
戊辰150年...会津人の思い『熱弁』 山川健次郎顕彰会が講演会
安心、それが最大の敵だ テロ・大規模事故戊辰戦争~旧幕府軍の「敗北の構造」~あれから150年、最後の血戦・箱館戦争高崎 哲郎
なかなかの力作記事です。大鳥圭介を高評価しているのが個人的にツボ。
沖田総司の死因は本当に肺結核なのか?新選組の活躍から探る発病時期
ヘルスケア関係の記事というところが目新しいです。ただ参考文献に小説が多いのは(´・ω・`)
真の日本史を知るにはこれを読め!『風雲児たち~幕末編~第30巻』刊行のお知らせ
会津若松市の会津新選組記念館で、戊辰戦争から150年を記念した前期特別展「会津・薩摩と新選組~戊辰開戦から上野の戦いまで」が開かれている。
1864年の禁門の変から68年の鳥羽・伏見の戦い、上野の彰義隊の戦いまでの資料約300点を展示。禁門の変で幕府軍の会津、薩摩両藩が長州藩と戦った場所を、京都駐在の会津藩士が記した京都御所の地図など貴重な資料が並ぶ。
京都守護職を務めた会津藩主松平容保(かたもり)の配下にあった新選組関係では、初代局長の芹沢鴨が着たとされる鎖かたびら、薩摩藩関係ではNHK大河ドラマ「西郷(せご)どん」の撮影で使われた銃などが飾られている。
資料を収集した記念館代表の高橋一美さん(51)は「会津藩と薩摩藩は敵対したイメージがあるが、同盟を結んでいた時期もあった。展示を通し、当時の歴史を知ってほしい」と話す。
5月末まで。入館料は高校生以上300円、小中学生200円。6~12月の後期特別展は奥羽越列藩同盟や会津戦争をテーマにする。連絡先は記念館0242(22)3049。
戊辰150年...会津人の思い『熱弁』 山川健次郎顕彰会が講演会
会津藩出身で東京帝国大総長などを務めた山川健次郎をたたえる活動に取り組む山川健次郎顕彰会(宗像精会長)の新春の集い講演会は24日、会津若松市の会津若松ワシントンホテルで開かれた。
市民ら約170人が参加。會津藩校日新館長も務める宗像会長が「山川健次郎と萩」と題して講話した。昨年、山口県萩市に訪問したことを踏まえ、戊辰150年の節目を迎えた会津人の思いなどについて熱弁をふるった。
安心、それが最大の敵だ テロ・大規模事故戊辰戦争~旧幕府軍の「敗北の構造」~あれから150年、最後の血戦・箱館戦争高崎 哲郎
なかなかの力作記事です。大鳥圭介を高評価しているのが個人的にツボ。
慶応4年(1868)幕末の鳥羽伏見の戦いから明治2年(1869年)の明治維新までの1年半の間、日本列島を二分して戦われた戊辰戦争の大団円(クライマックス)は箱館戦争である。新政府軍(西軍)の攻撃にあえなく投降し「北海道独立」の夢が絶たれた旧幕府軍(東軍)の「敗北の構図」を見てみよう。
旧幕府軍、北海道上陸
旧幕府海軍副総裁・榎本武揚が率いる幕府艦隊がめざした北海道の上陸地点は箱館(現函館)をあえて外し、その北方40km、亀田半島を回り込んだ内浦湾(噴火湾)の鷲ノ木浜であった。運悪く海は荒れて、艦隊は散りじりになったが、長鯨・開陽の2隻は慶応4年(1868)10月19日に無事着帆した。目の前に現れたのは「甲板上に出て四方を望むに、積雪山を埋め、人家も玲瓏(れいろう)として実に銀世界の景なり」(『南柯紀行』著・大鳥圭介)と感嘆されるようなエキゾチックな雪の新天地だった。この日から7カ月の間、東軍歩兵隊の最後の奮戦が続けられる。
道南に上陸した旧幕府勢力を以下「榎本軍」と呼称する。10月21日、全軍鷲ノ木に揚陸した榎本軍は、二手に分かれて箱館に迫り、10月25日、箱館府にある五稜郭を奪取した。凄まじい寒気に襲われたが、洋式の歩兵隊は水を得た魚のように活躍した。士気は高かった。
歩兵たちはすっかり戦場慣れしている。戦地の広さを見込み、横へ横へと広がって包み込む。指揮官が腕を大きくぐるぐる回すと、その方向にすばしこく展開する。接近すると突撃戦に持ち込む。守備兵は兵力が貧弱で銃砲装備も劣悪であり、知事・清水谷公考(しみずだに・きんなる)一行は、さしたる抵抗もできずに津軽海峡を渡って青森に逃れた。榎本軍は日の丸の旗を立て、ラッパを吹き鳴らして五稜郭に乗り込んだ。
五稜郭は敵をすべての方角からとらえられる星型の西洋式城郭である。箱館の市街地から東北東へ5kmほどの距離にある。旧幕時代の元治元年(1864)に完成して箱館奉行所が入っていたが、幕府瓦解の後、新政府の出先機関である箱館府が置かれていたのである。堡塁には、安政元年(1854)伊豆下田沖で遭難したロシア軍艦ディアナ号の二十四斤砲が装備されていた。
榎本軍は旧幕府若年寄の永井尚志(なおむね)を箱館奉行にして、市中の治安を維持した。運上所(税関)と箱館湾入口の弁天台場には日の丸の旗が掲げられた。この旗章は、当時国際貿易港だった箱館に駐在する外国公館に権力の移管を示すものであったが、しばらく後に榎本政権(「北海道独立国」)が樹立されてからは、「国旗」になり、菊花の紋章の旗を掲げて討伐に来る「官軍」と戦うことになる。函館は安政2年(1855)の開港後、短期間に国際貿易港として急速に発展し、一大繁昌地になっていた。11月1日、土方歳三の率いる新撰組・彰義隊・額兵隊(仙台藩洋式歩兵隊)などの諸隊が松前城を陥落させる。ここまでは破竹の勢いだった。が、11月15日、江刺沖で最新鋭艦・開陽丸を座礁・沈没させてしまった。榎本海軍の損失は計り知れないほど大きかった。「敗北の構図」の始まりであった。
箱館では12月15日、榎本武揚を首班とする臨時政府が成立していた。総裁をはじめ主要な役職は陸海軍の士官以上の投票で選出された。日本初の投票による首脳部の選出であった。ここに榎本や大鳥らの先進的な感性を見る。
成立した箱館政権の中枢部は以下のような人事であった。
総裁:榎本武揚、副総裁:松平太郎、海軍奉行:荒井郁之助、陸軍奉行:大鳥圭介、同並:土方歳三、箱館奉行:永井玄蕃、同並:中島三郎助(以下略)。
陸軍奉行大鳥が苦心したのは、陸軍の強化・充実であった。「南柯紀行」(著・大鳥)には「12月頃より五稜郭にて生兵(せいへい、新兵)を募り、140から150人を得て、これを歩・砲の2種に分かちて訓練せしが、たちまち練達して熟兵に劣らざるに至れり」とか、「大小の武器に乏しく、大いに困却せしが、器械方官重・貝塚らその外の者、勉強工夫によりて漸く不足補うことを得たり」との記述がある。箱館でも歩兵用の小銃製造が軌道に乗った。歩兵の給料も定められた。月給制だった。給料はたちまち遊郭とバクチに消えた。
新政府軍、果敢な応戦
新政府軍側から見れば、局外中立撤廃の目に見える成果は、まず当時日本近海では最強クラスだった甲鉄艦ストーンウォール号の取得であった。アメリカ南北戦争中に南軍がフランスに発注した装甲砲艦である。南北戦争で南軍が敗れた後、幕府が購入を約束していたのだが、瓦解で買い手が消滅した。横浜港に繋留されたままだった。新政府が入手を希望したが、アメリカは局外中立を楯に取り引渡しを拒否した。中立撤廃によって、ようやく明治2年(1869)1月6日、譲渡契約が成立した。「敗北の構図」の一部である。
これで海上戦力は逆転した。また中立撤廃は、兵員輸送のための外国船チャーターも可能にした。3月26日、新政府艦隊は陸奥湾に到着した。青森に集結した陸戦力の総数は7000人余とされる。
4月6日、いよいよ新政府軍の渡海作戦が開始される。津軽半島の風波が収まるのを待ち、4月9日に先発隊1500人が上陸した地点は、榎本軍の意表を衝いて、渡島(おしま)半島西岸の日本海に面した乙部(江差の北)であった。この方面はまったく無防備だった。新政府軍は何ら抵抗も受けずに進攻した。二手に分かれて一手は同日中に江差を占領し、さらに海岸沿いの松前を目指した。その一部はまた分進して松前半島の付け根にある木古内方面に向う。もう一手は内陸の山地を抜けて二股口(現上磯郡)から箱館に直進する作戦であった。
戊辰戦争の最終幕、箱館戦争の火蓋が斬って落とされた。それから1カ月余り、海岸と山地の2方面で後世に語り伝えられる激戦が繰り広げられる。幕府歩兵隊もここを先途と勇壮に戦闘を展開した。
まず明治2年(1869)4月12~20日まで断続的に戦われた海岸の「木古内の戦闘」では、旧幕府軍の伝習隊・額兵隊・彰義隊が善戦して新政府軍の前進を阻んだ。ちょうどその頃、4月13~24日まで山地で続いた「二股口の戦闘」でも、伝習隊・衝鋒隊が奮戦して迫る敵を撃退した。新政府軍側は新しい兵器をどしどし惜しみなく投入したから、両戦闘とも日本の合戦史上いまだかつてない激闘になった。
彰義隊差図役だった丸毛利恒(まるも・としつね)の「北洲新話」(「箱館戦争史料集」)は戦闘の模様をこう伝える。
「木古内にては早天より敵、兵を潜め来り、大霧咫尺(しせ)を弁ぜざるに乗じ、忽然としてわが胸壁の下より発砲す。この時、額兵隊(4小隊)は山上の壁を守りしが、俄かに起ってこれと応戦す。また彰義隊の守りし砲台の下へ敵迫り来る。わが兵これを壁下に近づけ、大砲(十二斤柘榴弾)一発8人を倒す。大鳥圭介はこれを見て直ちに伝習兵一隊をして山腰をめぐり、兵を草中に散らしてその横を撃し、しかして彰義一小隊をして山を巡り、敵の後面より狙撃せしむ。両軍相戦うことほとんど五時暁(6~10時に至る)敵、遂に敗走。その兵追撃、また木古内に陣す。ここに二股方面にては、土方歳三、衝鋒隊・伝習歩兵隊、僅かに130余人を以て前日第3時より今朝第7時まで凡そ17時間の烈闘、わが兵ますます精神を励まして防戦す。因りて敵は空しく死傷のみ多くして遂に抜くこと能わず。怖れて退かんとす。わが兵急に追い撃ちてこれを破る。捕獲すこぶる有り。
わが費やす所の弾薬はほとんど3万5000余発に及ぶ。総じて彼の兵は多くスペンセール・スナイヅル等、元込の銃を用えり。しかしてわが兵はミニー銃を用いる」。両軍の薬きょうが山のように散乱していた。「敗北の構図」から脱したかに見えた。
新政府軍、海軍出撃
榎本軍堅持の戦局をがらりと変えたのは、新政府海軍出撃だった。4月22日、陸軍奉行・大鳥圭介は兵を木古内から撤収する。松前城を落とした新政府軍が北上して挟撃される恐れが生じ、それとともに海軍軍艦が接近してきたからであった。防御線は、箱館湾西際の矢不来(やぶらい、当時はやぎない)に頑強な陣地を構築した。4月29日、海岸の陸兵が攻めかかるのを狙い撃って寄せ付けない。午後になって、沖合い菊花の紋章の大旗を船首に翻した軍艦7隻が現れた。
空が濛々と煙で暗くなるほどの砲撃が始まる。初めて味わう艦砲射撃の威力は凄まじかった。とりわけ甲鉄艦のアームストロング砲の70ポンド(約32kg)の巨弾は、一発で胸壁を打ち倒して兵士を青ざめさせた。砲弾の破片で裂かれ、爆風で吹き飛ばされた戦死者があちこちに散乱する。矢不来陣地は戦闘能力を失い、全隊が箱館方面に後退した。二股口を死守した部隊は遊兵化してしまった。「敗北の構図」は決定的となった。
5月11日、ついに陸海軍の箱館総攻撃が開始された。東軍は海と陸から侵攻を開始し、五稜郭、弁天台場、その中間に位置する津軽陣屋など3拠点を分断した。5月7日の海戦で榎本海軍の軍艦回天・蟠龍を戦闘不能にして、制海権を確立していたので、箱館湾内の七重浜沖から各拠点に猛烈な艦砲射撃を浴びせかけた。その壮絶さは、「官軍方の大砲は凡そ三千世界随一の品と聞き居るに違わず、甲鉄船の舟に稲妻を見るような頭の上を通りブウブウブウと鳴り渡り、その玉落つる時にドンと音大なり」(「箱館軍記」)と現地の記録にあることからも想像できる。
閃光と大音響が箱館の海山にこだまして、人々の耳を聾した。それに呼応して箱館山西南方向から上陸した陸戦隊も進出してきて、近郊の七重浜と桔梗野で各拠点の堡塁から出撃する歩兵隊と戦った。この11日、地峡部の一本木関門付近の戦闘で、新撰組の土方歳三が銃弾に当たって戦死した。翌12日、2.7kmの長距離を飛来し、正確な弾着で五稜郭に落ちる艦砲射撃の至近弾を浴びて、古屋佐久左衛門が重傷を負った。アームストロング砲の70ポンド着発弾である。その後意識を回復せず、治療の甲斐なく死亡した。連日の猛烈な砲撃は兵士の士気を阻喪させずにはいなかった。次第に逃亡者の数が多くなった。
包囲は日一日と狭められた。5月15日、弾薬も薪水も尽き果てた弁天砲台が降伏を余儀なくされた。五稜郭の榎本武揚にも軍使が送られ、和平勧告が持ちかけられたが丁重に拒絶した。この大詰めの日々、五稜郭では将士それぞれの間で微妙な動揺が起きていた。
当時、榎本海軍の見習い士官で、後に明治政府に仕えて清国駐箚公使になった林董(ただす)は、その内幕をこう語っている。話中に出てくる医師・高松凌雲は古屋佐久左衛門の実弟である。箱館病院で敵味方隔てなく負傷兵の治療に当たり、非常に人望の厚かった人物である。
「箱館の官軍の方から、5月12日夜病院の高松君を紹介して、マグロ五尾と酒樽二つ(一説に酒五樽とある)を送ってきた。5月16日長々御滞陣につきこの品を送るという手紙が付いて来た。それまでは、官軍は残酷な者であるから降参すれば舌を抜かれるとか、頭へ釘を打たれるというので、兵はみな五稜郭に固まっていたのが、マグロ5尾と酒樽2つで軟化してしまった」。「敗北の構図」の結末であった。
北海道独立の夢、崩壊
五稜郭には厭戦気分が充満してきたのである。当然、上層部もそんな空気を敏感に嗅ぎ取っていた。榎本は内心では戦意を喪失していたが、将帥のプライドをどうにか保っていた。大鳥圭介のような本来「理工系」のタイプである人間はもっとあっさりしていた。
「大鳥圭介伝」にはこんな逸話も残っている。彰義隊創設者の一人だった本多晋(すすむ)によれば、生前の大鳥の口からこういう談話を聞いたというのである。「殺されやしない。その証拠に私にも大鳥様自身がこう言っていたことがある。『函館で降参した時も榎本は正直だったから、しきりに切腹したがった。一度切腹しようとするところを大塚鶴之丞(かくのじょう)に止められた位だが、僕はそう思っていたよ。なに降参したって殺されやしない』と」。
榎本の気弱さに対して、大鳥の神経の太さがよくわかる。死を覚悟した榎本が敵将に『万国海律書』の原書を贈ったという美談は有名だ。大鳥には、たとえ戦に負けても、旧幕歩兵隊の優秀な能力を相手に思い知らせて、目にモノを見せてやったし、ひと泡も二泡も吹かせたという満足感がある。
主だった人物が東京に移され投獄されたが、2年半ほどで釈放された。やがて榎本武揚は外務大臣になり、大鳥圭介は工部大学校校長、学習院院長などの後特命全権清国駐箚(ちゅうさつ)公使になった。
一方、投降した士卒は、津軽海峡を軍艦や輸送船で青森に運ばれ、身分や所属によっていく組みかに分けられて、弘前や秋田の寺院に収容された。その後、諸藩に身柄を預けられるが、やがて赦免されて思い思いに帰郷されて行く。下級の歩兵の扱いは簡略だった。わずかな旅費だけ支給されて国元に送り帰されて行った。苗字帯刀は一睡の夢だった。無残な結末であった。
参考文献:「幕府歩兵隊」(野口武彦)、拙書「大鳥圭介」、筑波大学附属図書館文献。
沖田総司の死因は本当に肺結核なのか?新選組の活躍から探る発病時期
ヘルスケア関係の記事というところが目新しいです。ただ参考文献に小説が多いのは(´・ω・`)
沖田総司――。倒幕志士が入り乱れた幕末に洛中を勇壮に濶歩し、壮絶な結核死を遂げたと伝わる青年剣士。その生と死は、脚色され神格化された形跡はないか? 沖田総司は史実か? 活劇伝説か?梅の花どんだけ好きなの!新選組・土方歳三が詠んだ梅の句から溢れ出る”梅愛”
明治、大正、昭和、平成へ。時代が移ろうが、民衆が沖田総司という格好のヒーローを賛美しつつ、劇的な歴史ロマンの美酒に酔うのは、宜(むべ)なるかな。沖田総司の壮絶な結核死を語り起こすほかない。
新選組・沖田総司は本当に肺結核で夭逝?
沖田総司は、1842(天保13)年、陸奥国白河藩藩士・沖田勝次郎の嫡男として、江戸の白河藩屋敷(東京都港区西麻布)に生を授かる。幼名は宗次郎。
9歳の頃、剣豪・近藤周助が開塾した天然理心流の道場・試衛館の門下に。後に京都の反幕府勢力を取り締まる新選組を結成する近藤勇や土方歳三と同じ釜の飯を食うことになる。
1856(安政3)年、わずか14歳の幼若は、試衛館の塾頭に。巧みな剣術が門下の剣豪たちを恐れさせ、権勢を誇るようになる。
1863(文久3)年、20歳、「浪士組」に参集すべく上洛。組の分裂後は近藤らと「新選組」を旗揚げ。一番隊組長となる。同年9月、土方、山南敬助、原田左之助らに加勢し、水戸派の反抗分子・芹沢鴨を暗殺。近藤らの試衛館派が組を掌握する。
1864(元治元)年5月、大坂西町奉行所与力・内山彦次郎の暗殺に関与。そして6月5日、尊皇攘夷派志士を殺傷・捕縛した池田屋事件が起きる。近藤や永倉新八らに従い、池田屋(三条木屋町)に斬り込む。だが、奮戦中に昏倒し喀血、戦線を離れる。昏倒の原因は、激闘による熱中症か、体調不良かは不明だ。
1865(慶応元)年2月、組の「鉄の戒律」を破り、脱走した総長の山南敬助を捕らえ、兄さながらに尊崇する山南の切腹を無念の思いを込めて介錯する。
1868(明治元/慶応4)年1月、戊辰戦争の緒戦となる「鳥羽・伏見の戦い」には参戦せず、戦地に向かう途上で負傷し、船中で肺結核を発症する。以来、幕府典医の松本良順の加護を受け、千駄ヶ谷・植木屋平五郎宅で療養。だが、病状は重く病床は冷え入るばかりだった。
そして5月30日(7月19日?)に死去。前年の12月、近藤勇が御陵衛士の残党に狙撃され、斬首されて2ヶ月後の落命だった。「近藤先生はどうされたのでしょうね、お便りは来ませんか?」。沖田は近藤の死を知らずに旅立ったのかもしれない。
享年は「生年不明」のため諸説ある。沖田家累代墓碑には「24歳」、沖田家文書には「25歳」、『両雄士伝』(小島鹿之助)には「27歳」とある。墓所は東京都港区の専称寺。戒名は「賢光院仁誉明道居士」。
ちなみに、松本良順が新選組隊士約170人の健康診断を行った記録によれば、罹患者数の第1位は風邪、2位は食あたり、3位は梅毒。「肺結核の者が1名居た」とあり、沖田総司とする説がある。
池田屋事件の喀血は事実か?
沖田が肺結核(労咳)を発症したのはいつか? 池田屋事件の喀血は事実か? 喀血は末期症状のため、余命は半年から1年とされる。特効薬のペニシリンがない往時に、池田屋事件(1864年)で喀血した総司が、1868年まで4年近くも生き永らえたのか?
同時代に肺結核(労咳)で急死した人物を見よう。
長州藩の倒幕志士・高杉晋作(1839年生まれ)は、1866(慶応2)年9月に喀血し7ヵ月後の慶応3年4月に29歳で死亡。歌人・詩人の石川啄木(1886年生まれ)は、25歳で発病し26歳で急死。だが、俳人・歌人の正岡子規(1867年生まれ)は、21歳の時に喀血し35歳で死亡。発病後、14年間も生存している。
先述の通り沖田は、池田屋事件の翌年に山南を介錯する。その直後、脱走した隊士・酒井兵庫や浅野薫を処断した記録も残っている。1868(明治元/慶応4)年1月の鳥羽・伏見の戦いの前後に発症したとする証言(永倉新八『新選組顛末記』)が正しければ、池田屋事件の喀血は疑わしいかもしれない。
つまり沖田は、発病した1月から5月30日(7月19日?)までの4~6ヶ月ほど闘病し急死したことになる。
沖田総司の「玉虫色の伝説」
短気狼藉! 先陣を切って斬り込む新選組一番隊隊長! 刀術の天才は白皙(はくせき)の美剣士! 目にも止まらぬ速攻剣技の三段突き! 師範の近藤より恐れられ、「刀で斬るな! 体で斬れ!」と恫喝。また周囲からは、「沖田は猛者の剣、斎藤一は無敵の剣」とも言われた。新町の廓九軒町吉田屋で天神(遊女)を買うも、池田屋襲撃で不覚の喀血! 不治の病、肺結核(労咳)の闘病! 享年27の夭逝……。
綿々たる歴史の大舞台に跳梁し、夥しいエピソードに彩られた傑物ほど、絢爛勇猛なる「玉虫色の伝説」の洗礼を受けやすい。人物像の偶像化、生い立ちや足跡の美談化、生き様の神格化が蔓延(はびこ)りやすい。古今東西、大衆は流言飛語に惑わされ、ゴシップに陶酔しやすい。
尊皇攘夷と倒幕の嵐が吹き荒み、風雲急を告げた幕末の激動期の最中、民衆は戦火を浴びて暮らしは千々に乱れてえいただろう。昼夜、飢えに苛まれ、悲嘆に暮れる。流血沙汰に逃げ惑う。民衆のやり場のない狼狽と苦悩は、想像もできない。
巷間に頻発する殺傷事件や捕縛事件――。風の噂を伝聞される度に「倒幕浪士なら、さもありなん」と脚色し、「新選組なら、さもあらまほしき」と美談化する。
そんな困惑した世相に晒される民衆の日常は、推し量れない。逃げ場を失った民衆は、諸手を挙げて流言飛語やスキャンダルに食いつくほかない。付和雷同の集団催眠にほだされて、我が身の置き場を冷静に顧みる暇などはない。
永倉新八は晩年、「土方歳三、井上源三郎、藤堂平助、山南敬助などが竹刀を持っては(総司に)子供扱いされた。恐らく本気で立ち合ったら師匠の近藤もやられるだろうと皆が言っていた」と語っている(『永倉新八遺談』)。
沖田は漫画や映画など数々の作品でドラマ化され、作品によっては、1867(慶応3)年11月15日(12月10日)の近江屋で起きた坂本龍馬の暗殺の直前まで活躍するシーンもある(渡辺多恵子の漫画『風光る』、NHK大河ドラマ『新選組!』、同じく『龍馬伝』など)。
沖田総司の生と死は史実なのか! 活劇伝説なのか? 消えたのは闘魂か? 残されたのは美談なのか?
(文=佐藤博)
*参考文献:司馬遼太郎『新選組血風録』『燃えよ剣』、子母澤寛『新選組始末記』、木村幸比古『新選組と沖田総司 「誠」とは剣を極めることなり』、『剣の達人111人データファイル』、釣洋一『新選組写真全集』(新人物往来社)、調布市史編纂委員会編『調布の近世史料』、『新選組日誌 上巻「沖田家文書」』、西村兼文『新撰組始末記』、「近藤勇書簡」、「島田魁日記」、永倉新八『新選組顛末記』など
佐藤博(さとう・ひろし)
大阪生まれ・育ちのジャーナリスト、プランナー、コピーライター、ルポライター、コラムニスト、翻訳者。同志社大学法学部法律学科卒業後、広告エージェンシー、広告企画プロダクションに勤務。1983年にダジュール・コーポレーションを設立。マーケティング・広告・出版・編集・広報に軸足をおき、起業家、経営者、各界の著名人、市井の市民をインタビューしながら、全国で取材活動中。医療従事者、セラピストなどの取材、エビデンスに基づいたデータ・学術論文の調査・研究・翻訳にも積極的に携わっている。
梅が満開の季節になりました。梅といえば、泣く子も黙る新選組鬼副長、土方歳三を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。歳三さんは梅が好きで、多く俳句に詠んでいたからです。「年々に折られて」の解釈がなぁ……あのね、「桜切るバカ梅切らぬバカ」と言われていて、梅の枝は剪定されることで樹勢を保ち、毎年綺麗に花をつける(よって梅の実が採れる)んです。人の手が毎年入ってあちこち切られて、美しいのだなぁというのは世間に揉まれて成長する人の姿にも重ねているかも知れません。
今回は彼が京都に向かう前、江戸で剣術修行に励んでいた頃の句集「豊玉発句集」の中から、梅にちなんだ句だけを選り抜きご紹介します。
豊玉発句集の梅の句5選
「年々に折られて梅のすがた哉」
こちらは色んな解釈ができる句です。
どこかで見事な梅が咲いていて、通りかかる人々が、
「あ、咲いてる。部屋に飾ろう」ポキッ。「まあ、綺麗な梅。家族に見せてあげましょう」ポキッ。・・・という具合にポキポキ折って持って帰るので、なんとも切ない姿になってしまった、という解釈が1つ。こんな事で胸を痛めている歳三さんが後に鬼の副長と呼ばれ、新政府軍相手に大戦をかますなんて、考えられませんね。
もしくは、毎年色んな人に枝を折られて野生にはない味のある姿に成長した梅のたくましさに感銘を受けた、というふうにポジティブに解釈する方が歳三さんの心境に近いかもしれません。
「咲きぶりに寒げは見えず梅の花」
梅が満開を迎える二月〜三月初旬は、春を迎えたとはいえ、まだ肌寒い季節。歳三さんが寒空の下見事に咲き誇る梅をしげしげと眺めながら、
「梅よォ、てめえ咲いてて寒かねえのか」 「・・・」
「そっか、寒くねえか!良かったな!俺もてめえの咲きっぷりを見てるとなんだかぽかぽかしてくらア」
「・・・」
「ったく可愛いな、てめえは」
なんてこっそり梅の木に話しかける姿が浮かんで来るような一句です。
「人の世のものとは見へず梅の花」
どんだけ梅の花リスペクトしてるの!?と聞きたくなる梅の花シリーズ。そのくらい梅が大好きな歳三さんですが、その中でも抜きん出てものすごく美しい白梅に出会ったのでしょう。身分によって人間の価値が分けられていた江戸時代、武士になりたいと願ってもままならぬもどかしい思いの中で、人の汚さや醜さを嫌というほど味わっていた歳三さんだからこそ、凛と澄んだ白い梅に不思議な感動を覚えたようです。
「梅の花壱輪咲ても梅はうめ」
さて、こちらは豊玉発句集の中でも最も有名な句の一つではないでしょうか。ものすごく良い句!というわけではありませんが、何かのキャッチコピーみたいに1度聞いたら頭から離れません。
そのまんまというか、深いような、深くないような、読み手によって意味を持ったり持たなかったりするこの句。俳句の世界では、豊玉発句集の中でも出来がよくない句とされています。しかしファンが惹かれるのは、やはりこの句に表れた歳三さんのまっすぐさと親しみやすさなのでしょう。
「梅の花咲る日だけにさいて散る」
発句集の最後を飾る句。
この句を残して、歳三さんは京へ旅立ち、新選組の鬼副長へとなってゆくのです。そう考えると、彼の覚悟がよく表れた真面目すぎるくらいに実直な句なのではないでしょうか。この句の通りに、歳三さんは幕末の世に咲き誇り、江戸幕府とともにその生命を散らしたのです。
番外編
俳句ではありませんが、実は新選組最恐ボス芹沢鴨の辞世の句も、梅に絡めた和歌でした。芹沢は酒に酔っては乱暴狼藉を働いた事で有名ですが、素面の時は至極まっとうで、礼儀も教養もあり、一廉の人物だったそうです。
「雪霜に ほどよく色のさきがけて 散りても後に 匂う梅が香」
勤皇の志士として真っ先にさきがけて、死んでも鮮烈な爪痕を残してやるのだという壮絶な覚悟に胸が震えますね。というかこんな素敵な句を詠むなんてギャップありすぎです芹沢局長。芹沢があってこそその後新選組が活躍したのですから、彼の遺志はしっかり果たされたのではないでしょうか。
そこのあなた、歳三さんの句とどっちが上手いかなんて、比べちゃダメですよ!大事なのはそこに宿ったそれぞれの思いなのですから♪
アイキャッチ画像・文中画像:土方歳三 肖像 Wikipediaより。加工、筆者
真の日本史を知るにはこれを読め!『風雲児たち~幕末編~第30巻』刊行のお知らせ
株式会社リイド社(所在地:東京都杉並区、代表取締役社長:齊藤哲人)より2018年2月27日(火曜日)に、みなもと太郎(著)・『風雲児たち~幕末編~ 第30巻』を刊行いたします。
画像1: https://www.atpress.ne.jp/releases/150762/img_150762_1.jpg
『風雲児たち~幕末編~ 第30巻』書影
手塚治虫文化賞受賞、文化庁メディア芸術祭優秀賞受賞作品。
三谷幸喜脚本にて2018年NHK正月時代劇ドラマにもなった
話題の歴史ギャグマンガの最高傑作!
■内容
外国船の来航、攘夷運動の高まり、安政の大獄、そして桜田門外の変……
徳川幕藩体制が大きく揺らぐ中、島津久光上洛を機に始まった討幕ムーヴメントは、寺田屋事件後も止まることはなかった。
そんな折、島津久光に従四位上・左近衛権中将の位が授けられた。これで、久光は上洛する大儀を得ることができ、さらには上洛を阻む西郷隆盛の処分を晴れてすることができることになった。
同時期、高杉晋作は長崎から上海へと渡り、西洋の力を目の当たりにする………
■概要
表1: https://www.atpress.ne.jp/releases/150762/table_150762_1.jpg
■著者プロフィール
みなもと太郎
京都府出身
第8回手塚治虫文化賞・特別賞受賞
第14回文化庁メディア芸術祭漫画部門優秀賞受賞
代表作に『風雲児たち』、『ホモホモセブン』がある
■会社概要
社名 : 株式会社リイド社
所在地 : 〒166-8560 東京都杉並区高円寺北2-3-2
代表 : 代表取締役社長 齊藤哲人
創業 : 1960年4月
設立 : 1974年11月
事業内容: 出版事業
URL : http://www.leed.co.jp/
五木ひろし歌謡ショーの休園日に開催されたそうで(笑)、白酒師匠によると楽屋はこれでもかというほどの胡蝶蘭の鉢が並んでいるとか。
11時開演の昼公演というのも落語会には珍しいですね、しかも中入りが30分あって、明治座に併設された食堂を予約してなくても近所のコンビニやフレッシュネスバーガーか蕎麦屋で食事ができる。
また、ひとりひとりの演者の時間がたっぷりあるのも寄席にはないところですね。おかげで前座さん合わせて4名の上手の落語をたっぷり楽しむことができました。
お客さんは明らかに70代のご夫婦連れが最頻値。笑いどころを分析するとあまり落語をご存じない方が多いような。それでも今回は楽しんでいただけたかと思います。
弥次郎/市若
市馬さんの弟子で32才、オランダのアムステルダム出身というのがなかなか面白そう。去年前座になったばかり(ここのところ落語界は入門希望者が多く、昨今の住宅事情では内弟子もそうそう取れず、前座になるのも待機状態と聞いた)だけどなかなか滑舌はよく、噺として聴けるレベル。
そして、得々として噓八百の旅行の土産話をする弥次郎が結構ニンに合う。北海道(というからには明治時代以降に成立した噺なのだな)で火事見物して凍った火事を土産にもらった、恐山に上って山賊と闘い、さらに猪と闘った。噺のオチは「そこが獣のあさましさ」。落語ならではのゆるいオチ。
佐々木政談/白酒
ピンクの着流しに羽織。今日がひな祭りで、名前が白酒で、この着物の色からして出オチ。さすが明治座で楽屋の数が半端じゃないこと、五木ひろし公演の合間で祝いに贈られた胡蝶蘭の鉢がこれでもかと並んでいること、芝居で大岡越前や遠山金さんがなぜヒーローなのか、などなどちょっと長めのフリ。
お得意の佐々木政談。白吉くんの腕白ぶりと南町奉行佐々木信濃守との頓知対決が面白く、後味のいい噺。
中入り
河内山宗俊/談笑
日本橋から人形町にかけては雰囲気のよい下町で、自分は下町でもD級からE級の砂町銀座出身で、30年ぶりの同窓会に出たら同級生の女性はみんな金髪に染めてバツイチだった、というところから。
おお、音源では聴いたことがあるけどひょっとしたら生では初めてかも知れない「河内山宗俊」。桜の上野山、不忍池あたりが舞台の芝居噺。談笑さんならではの入れ事はあるけど、改作というほどではなく、古典バリバリの市馬師匠に繋ぐためのネタにしたのでは。
三十石 夢の通い路/市馬
Twitter情報ではインフルエンザ開けだそうな。でも気持ち良く船頭歌(はめものあり、裏方から男声で合いの手が入り、寄席以上に豪華だった)。
寺田屋の番頭さんの名前と住所改めは、最初は鴻池善右衛門と住友(実は炭屋の友吉)。その後芝居ネタで江戸花川戸の幡随院長兵衛と助六とか、照手姫とか、武蔵坊弁慶とか、小野小町とか。この辺りは最近歌舞伎づいてる私には嬉しい。後半は並河 益義 山﨑 松尾 小林 盛夫 松岡 克由 郡山 剛蔵と落語家の本名ネタなんだけど、私以外に笑う人少ないのが悲しいなぁ……郡山剛蔵は小三治師匠の名前ということでなく仰々しい名前ってとこが笑われてるし。年齢的に昭和の大名人たちをテレビやラジオで聴いていた世代が多かったと思うけど、まぁ落語家の本名を知らない程度に落語知らないレベルの方々が多かったのだろう。それはそれで、今日の落語に来て頂いただけでもありがとうございますと思う落語ファン。
市馬さんの船頭歌にお囃子さんが三味線や太鼓をつけ、裏方さんが合いの手を入れる。それだけで普段の寄席より豪華です。さすが明治座です。ありがたい。。
11時開演の昼公演というのも落語会には珍しいですね、しかも中入りが30分あって、明治座に併設された食堂を予約してなくても近所のコンビニやフレッシュネスバーガーか蕎麦屋で食事ができる。
また、ひとりひとりの演者の時間がたっぷりあるのも寄席にはないところですね。おかげで前座さん合わせて4名の上手の落語をたっぷり楽しむことができました。
お客さんは明らかに70代のご夫婦連れが最頻値。笑いどころを分析するとあまり落語をご存じない方が多いような。それでも今回は楽しんでいただけたかと思います。
弥次郎/市若
市馬さんの弟子で32才、オランダのアムステルダム出身というのがなかなか面白そう。去年前座になったばかり(ここのところ落語界は入門希望者が多く、昨今の住宅事情では内弟子もそうそう取れず、前座になるのも待機状態と聞いた)だけどなかなか滑舌はよく、噺として聴けるレベル。
そして、得々として噓八百の旅行の土産話をする弥次郎が結構ニンに合う。北海道(というからには明治時代以降に成立した噺なのだな)で火事見物して凍った火事を土産にもらった、恐山に上って山賊と闘い、さらに猪と闘った。噺のオチは「そこが獣のあさましさ」。落語ならではのゆるいオチ。
佐々木政談/白酒
ピンクの着流しに羽織。今日がひな祭りで、名前が白酒で、この着物の色からして出オチ。さすが明治座で楽屋の数が半端じゃないこと、五木ひろし公演の合間で祝いに贈られた胡蝶蘭の鉢がこれでもかと並んでいること、芝居で大岡越前や遠山金さんがなぜヒーローなのか、などなどちょっと長めのフリ。
お得意の佐々木政談。白吉くんの腕白ぶりと南町奉行佐々木信濃守との頓知対決が面白く、後味のいい噺。
中入り
河内山宗俊/談笑
日本橋から人形町にかけては雰囲気のよい下町で、自分は下町でもD級からE級の砂町銀座出身で、30年ぶりの同窓会に出たら同級生の女性はみんな金髪に染めてバツイチだった、というところから。
おお、音源では聴いたことがあるけどひょっとしたら生では初めてかも知れない「河内山宗俊」。桜の上野山、不忍池あたりが舞台の芝居噺。談笑さんならではの入れ事はあるけど、改作というほどではなく、古典バリバリの市馬師匠に繋ぐためのネタにしたのでは。
三十石 夢の通い路/市馬
Twitter情報ではインフルエンザ開けだそうな。でも気持ち良く船頭歌(はめものあり、裏方から男声で合いの手が入り、寄席以上に豪華だった)。
寺田屋の番頭さんの名前と住所改めは、最初は鴻池善右衛門と住友(実は炭屋の友吉)。その後芝居ネタで江戸花川戸の幡随院長兵衛と助六とか、照手姫とか、武蔵坊弁慶とか、小野小町とか。この辺りは最近歌舞伎づいてる私には嬉しい。後半は並河 益義 山﨑 松尾 小林 盛夫 松岡 克由 郡山 剛蔵と落語家の本名ネタなんだけど、私以外に笑う人少ないのが悲しいなぁ……郡山剛蔵は小三治師匠の名前ということでなく仰々しい名前ってとこが笑われてるし。年齢的に昭和の大名人たちをテレビやラジオで聴いていた世代が多かったと思うけど、まぁ落語家の本名を知らない程度に落語知らないレベルの方々が多かったのだろう。それはそれで、今日の落語に来て頂いただけでもありがとうございますと思う落語ファン。
市馬さんの船頭歌にお囃子さんが三味線や太鼓をつけ、裏方さんが合いの手を入れる。それだけで普段の寄席より豪華です。さすが明治座です。ありがたい。。
人気の高麗屋さん三代襲名披露ですが昼夜とも千秋楽の席(しかも夜の部は初の仁左玉)をうまくゲットできました。去年せっせと歌舞伎に通って会員ステージを上げておいたからなのですが、それでも3列目。1列目をゲットするには相当に善行を積まねばならないようです。
歌舞伎美人 二月大歌舞伎
草間彌生×歌舞伎! 高麗屋三代襲名披露の「二月大歌舞伎」で巨大祝幕が登場
ポップで祝祭感のある祝幕でした。
【昼の部】
春駒祝高麗
けっこう配役のいい曽我物だったけど、眠気が……。
一條大蔵譚
新幸四郎さん頑張っていたと思います。私のデフォがテレビ視聴とはいえ仁左さまなので、阿呆の振りにも色気や哀しみやら複雑さが欲しいところです。
暫
海老さまの十八番なのだけど、うーんこれでいいのから。。
井伊大老
素晴らしい。特に吉右衛門の井伊大老と雀右衛門のお静の方が三月二日の夜を過ごす場面が。
【夜の部】
熊谷陣屋
新幸四郎さん、こちらの方が出来がよかったと思います。菊五郎さんの義経が若々しく(ちょっとふくよかだけど)賢く情けある大将ぶり。魁春さんの相模も雀右衛門さんの藤の方もバランスよく新幸四郎さんを盛り立ててました(それにしても雀右衛門さんを酷使してるなぁ松竹。昼の部夜の部と一旦切れているけど休息が一時間もないような)。四天王も隼人・巳之助・歌昇・萬太郎と若手が揃って豪華。左団次さんの弥陀六が素晴らしかった。
壽三代歌舞伎賑 木挽町芝居前
通常の口上でなく、木挽町の芝居小屋に高麗屋さんの口上を聴きに関係者が集まってくるという芝居仕立てがいい。何でも今回は歌舞伎座始まって以来の幹部出演者数ということで(偶数日に海老さまと組む菊之助さんが見られなかったくらいで)すごい賑わい。
最高幹部のひとり藤十郎さんが先月は口上を取り仕切る体だったのが、今月は挨拶代わりの台詞ひとつで、観客席から見ていてちょっと痛々しい感じだったなぁ。。ご高齢によるところは個人差があるので何とも言いようがないが、ほんの一ヶ月で素人目にもかなり力が弱った感じする。
仮名手本忠臣蔵 祇園一力茶屋の場
新白鸚さんの安定感。新染五郎さんは力弥としてちらっと出て来ただけ、まだ13才なので才能を云々するレベルではないけど美少年なのは間違いない。
そして初めての仁左玉。仁左衛門さん演じる寺岡平右衛門と玉三郎さん演じる遊女お軽は兄妹でウフウフキャッキャッしてる感じが可愛い。。そんな兄が妹を殺そうとする一瞬の変化がこの場面の見どころ。
そして幕引きの場で仁左さまの目が場内を巡ったところで♡
歌舞伎美人 二月大歌舞伎
草間彌生×歌舞伎! 高麗屋三代襲名披露の「二月大歌舞伎」で巨大祝幕が登場
ポップで祝祭感のある祝幕でした。
【昼の部】
春駒祝高麗
けっこう配役のいい曽我物だったけど、眠気が……。
一條大蔵譚
新幸四郎さん頑張っていたと思います。私のデフォがテレビ視聴とはいえ仁左さまなので、阿呆の振りにも色気や哀しみやら複雑さが欲しいところです。
暫
海老さまの十八番なのだけど、うーんこれでいいのから。。
井伊大老
素晴らしい。特に吉右衛門の井伊大老と雀右衛門のお静の方が三月二日の夜を過ごす場面が。
【夜の部】
熊谷陣屋
新幸四郎さん、こちらの方が出来がよかったと思います。菊五郎さんの義経が若々しく(ちょっとふくよかだけど)賢く情けある大将ぶり。魁春さんの相模も雀右衛門さんの藤の方もバランスよく新幸四郎さんを盛り立ててました(それにしても雀右衛門さんを酷使してるなぁ松竹。昼の部夜の部と一旦切れているけど休息が一時間もないような)。四天王も隼人・巳之助・歌昇・萬太郎と若手が揃って豪華。左団次さんの弥陀六が素晴らしかった。
壽三代歌舞伎賑 木挽町芝居前
通常の口上でなく、木挽町の芝居小屋に高麗屋さんの口上を聴きに関係者が集まってくるという芝居仕立てがいい。何でも今回は歌舞伎座始まって以来の幹部出演者数ということで(偶数日に海老さまと組む菊之助さんが見られなかったくらいで)すごい賑わい。
最高幹部のひとり藤十郎さんが先月は口上を取り仕切る体だったのが、今月は挨拶代わりの台詞ひとつで、観客席から見ていてちょっと痛々しい感じだったなぁ。。ご高齢によるところは個人差があるので何とも言いようがないが、ほんの一ヶ月で素人目にもかなり力が弱った感じする。
仮名手本忠臣蔵 祇園一力茶屋の場
新白鸚さんの安定感。新染五郎さんは力弥としてちらっと出て来ただけ、まだ13才なので才能を云々するレベルではないけど美少年なのは間違いない。
そして初めての仁左玉。仁左衛門さん演じる寺岡平右衛門と玉三郎さん演じる遊女お軽は兄妹でウフウフキャッキャッしてる感じが可愛い。。そんな兄が妹を殺そうとする一瞬の変化がこの場面の見どころ。
そして幕引きの場で仁左さまの目が場内を巡ったところで♡
幕末志士、江戸文化に光…維新150年
いちばん好きな新撰組キャラは? アンケート〆切は2月25日まで【新撰組の日企画】
ゆかりの地巡り 子孫「サミット」
西郷隆盛の銅像(13日、上野公園で)
西郷隆盛の銅像(13日、上野公園で)
坂本龍馬と黒船をモチーフに品川区が作ったキャラクター(品川区提供)
坂本龍馬と黒船をモチーフに品川区が作ったキャラクター(品川区提供)
明治維新から150年となる今年、幕末の志士や江戸の文化に光を当てる事業が都内の各自治体で計画されている。2020年東京五輪・パラリンピックを控えていることもあり、各自治体とも、国内外に「江戸」や「東京」を発信する好機と捉えているようだ。
台東区と墨田区は、江戸城の無血開城(1868年)を決めた勝海舟と西郷隆盛を中心に、維新で活躍した人物ゆかりの場所を巡るツアーなどを企画している。
勝海舟は現在の墨田区出身で、区役所前に銅像があるほか、台東区には、上野戦争で新政府軍側として彰義隊と戦った西郷隆盛の銅像や、勝とともに「幕末三舟」と呼ばれ、無血開城に尽くした山岡鉄舟と高橋泥舟の墓がある。
両区は、こうした場所を巡るツアーのほか、今秋には、「江戸を守った男たち」をテーマにしたシンポジウムも開く予定。台東区は江戸時代から続く区内の商店を顕彰するなど江戸文化の継承にも力を入れる。
◇
品川区は、江戸時代に土佐藩の下屋敷があったことから、坂本龍馬に注目。また、土佐藩は1853年にペリー艦隊が浦賀に来航すると沿岸警備にあたった。
こうした歴史から、区は龍馬と黒船をモチーフにしたキャラクターを案内人として、志士の活躍ぶりなどを紹介する動画を製作する。
完成した動画は動画投稿サイト「ユーチューブ」に配信したり、イベントで公開したりする予定で、区は新年度予算案に530万円を盛り込んだ。
一方、江戸時代に細川家や前田家といった大名屋敷があった文京区は、新年度予算案に148万円を計上し、区ゆかりの大名の子孫を招く「殿様サミット」を開催する。各大名家の地元自治体を招き、それぞれの大名家の研究発表などを行う予定だ。
都も、江戸時代の代表的な大名庭園である浜離宮恩賜庭園(中央区)で今秋、映像を投影するプロジェクションマッピングを活用し、歴史ある庭園と最新の映像技術を融合させるイベントを開く。
小池知事は「伝統と革新が共存する東京の魅力を、明治維新150年を機会に改めて再発見してもらいたい」と呼びかけている。
2018年02月22日 Copyright © The Yomiuri Shimbun
いちばん好きな新撰組キャラは? アンケート〆切は2月25日まで【新撰組の日企画】
2月27日は新撰組の日。新撰組の前身である壬生組が結成された日であることから制定されました。アニメでも新撰組をモチーフとしたキャラクターは大人気です。史実に沿っていたり、大胆なアレンジが施されていたりと、作品によって多彩なキャラが登場します。ヒジカタ君と答えてしまいました。『幕末Rock』の近藤勇・土方歳三・沖田総司も入れておくべきだったかな……いやそれ言うたら『銀魂』の真選組メンバーも……。
そこでアニメ!アニメ!では、「いちばん好きな新撰組キャラは?」と題した読者アンケートを実施します。自由回答形式で、これだと思うキャラクターと作品名をお答え下さい。
アンケートはこちら
〆切は2月25日(日)23時59分まで。アンケートの結果はまとまり次第公開します。お楽しみに。
安倍政権が演出「祝明治150年」の陰で 「会津は戊辰を忘れない」論
いわき地方の戊辰戦争に理解を深める歴史講演会は3月10日午後1時から、いわき市生涯学習プラザで開かれる。
安倍晋三政権は今年、「明治維新150年」を唱え、祝賀ムードを全国に広めようとしている。しかし、旧薩摩、長州藩(鹿児島、山口県)を主力とする「西軍(官軍)」に敗れて「賊軍」の汚名を着せられた側では、「明治維新」ではなく「戊辰戦争150年」を掲げる自治体も少なくない。「祝いじゃない。悲しみのときだ」と。怒りの記憶と、忘却について考えた。【藤原章生】南会津 戦いの跡PR…戊辰150年
戊辰戦争で最大の犠牲者が出た会津藩の拠点、福島県会津若松市では、薩長が率いた明治政府、その流れをくむ地域や子孫への怒りが今もあるのか。
会津藩が19世紀初頭に築いた藩校「日新館」(今は観光施設)の館長、宗像精(ただし)さん(85)を訪ねると、1935年版の歴史教科書「尋常小学国史」をまず読み上げてくれた。<会津藩主松平容保(かたもり)は、奥羽の諸藩と申し合はせ若松城にたてこもって官軍にてむかった>。戊辰戦争で最大の激戦となった会津戦争についての記述である。東北地方で仙台藩に次ぐ規模を誇り、城下で約4万人が暮らした会津藩は、女性らの自殺も含め数千人の死者を出したとされる。「小学6年向けの教科書だから賊軍や朝敵という言葉を使っていないけれども、官軍に『てむかった』とはっきり書いてある。賊軍、悪者ってことだ。薩長中心の官僚が演出した、こんな欺瞞(ぎまん)と歪曲(わいきょく)の歴史を会津の子供たちにも学ばせた。薩長憎しは簡単に消えるもんじゃない」
宗像さんは、元会津藩士で東京帝大の総長まで上り詰めた山川健次郎監修の「会津戊辰戦史」(33年)を取り出し、「敵軍(西軍)の暴掠(ぼうりゃく)」の章を示す。「『敵は野蛮の甚しき行いのみ多かりし』とある。農工商民から金品、家財、娘らを奪い、薩摩の分、長州の分と山分けして分捕ったと書いてある。韓国の従軍慰安婦の問題があるでしょ。ああいう問題は、金では解決しないんだよ。前から友好を求めてきた山口県萩市に私も去年行ったけど、『仲良く』はできる、でも『仲直り』つまり歴史を水に流すなんてできないとはっきり言ってきた。ただ、長州、薩摩も悪い人ばかりじゃない。だから、子供のために歴史をもう一度検証し、『仲良く』はしていこうと」
会津藩士らは藩を追われて散り散りになった。子孫にとって明治は悲劇の始まりだ。会津史を書き続ける作家、星亮一さん(82)は、長州勢が受け持った会津戦争の戦後処理が、会津人に積年の反中央感情を植えつけたと語る。「報復を企てる会津藩士を原野に飛ばして息の根を止めろと、長州の木戸孝允が強硬に言い、最終的には1万7000人が青森の下北半島に追いやられた。現地での差別、飢えによる塗炭の苦しみが、近代史上類をみない恨み、怒りを植えつけました」
NHKの大河ドラマの時代考証などに当たってきた史跡研究専門の会津若松市職員、石田明夫さん(60)は「恨みの根は、明治以降、開発から取り残された点が大きい」と言う。「大きな藩があった地でありながら、戦前、会津には一校も大学ができなかった。道も鉄道も乏しい。だから旧会津藩地域の人口密度がいまも北海道より低い」
福島県在住の星さんも明治期の「差別」に言及する。「官僚や軍部での出世差別も加わり、積年の理不尽に対する怒りが会津人に限らず、旧東軍の東北、越後の人々に広がった。だから、『明治150年』など認めない」。東京電力福島第1原発事故で出た汚染土の中間貯蔵施設建設を巡り、石原伸晃環境相(当時)が「最後は金目でしょ」と発言したことにも触れ、「政治家の暴言に東北の人が怒るのは、そのたびに怨念(おんねん)が顔を出すからです。安倍さんが明治150年と言う度に我々の心が無視されたと反発するのです」。
天災の多さなどその風土から日本人は一般に憎しみ、怒りをためないと言われる。会津人は別格なのだろうか。しかし、現在も残る恨みや怒りは、幻想に過ぎないという意見もある。
「会津という神話」を2010年に著した摂南大准教授、田中悟さん(47)は「会津人の恨みは戦後に強化された一種のファンタジーだ」と言う。「戊辰戦争から60年が過ぎた1928年、会津松平家の勢津子妃が昭和天皇の弟、秩父宮殿下と成婚し、会津は賊軍という汚名を返上しました。またその前の明治末期、若松市(現会津若松市)は陸軍連隊を誘致して軍都になっています。十五年戦争下では、会津精神、白虎隊(戊辰戦争時の青少年隊)の魂こそ日本人のかがみと称賛され、会津人は当時、いわば我が世の春の中にいた。それから戦後間もないころまで、薩長への恨みなるものはほとんど意識の外にあったはずです」
白虎隊は日独伊三国同盟の下、独伊にたたえられ両国から記念碑を贈られている。そんな史実を示すと、宗像さんは語気を強めた。
「お人よしの会津人が、薩長が築いた軍部にうまく使われたんですよ。会津人の一面だけを礼賛し利用されたんだが、白虎隊はもっと純でかたくなな思いで自刃した。それを日本精神などといわれるのは、はなはだ迷惑だ」
郷土史を研究してきた会津若葉幼稚園長、中沢剛さん(84)も、恨みは戦時中に晴れたどころか深まったと言う。
「会津若松の連隊は『白虎部隊』などと呼ばれ、満州事変、上海事変、のちには南京、ガダルカナル、インパールの最前線に立たされ何度もせん滅に近い状態に遭った。熊本の連隊と並び『強くて文句を言わない』とたたえられて激戦地に放り込まれ、会津、東北は多くの若い人材を失ったのです。若松の連隊も加担した南京事件もそうです。被害者数の議論はあるでしょうが、やられた方は絶対に忘れませんよ」
「ならぬことは ならぬものです」。会津藩士の子供たちがかつて唱えた言葉が大きく書かれていた=福島県会津若松市のJR会津若松駅前で、2018年2月14日、藤原章生撮影
失ったもの「考える機会に」
「恨みを言い立ててきたのは、戦後の場合、観光という側面がなかったわけではない」と会津若松市の広告会社経営、庄司裕さん(71)は言う。星さんも「簡単に長州と和解などしたら、ふぬけの会津人と言われる、という意識がある。一種のブランドなんです。たとえば会津在住の高校生にさほど郷土意識はないんですが、東京に出ると『おまえ、会津か』と一目置かれる。すると、薩長を許さない会津人という旗を自ら揚げるようになる面もあります」。
日新館の宗像さんにその話をすると、「会津人の心はそんなもんじゃない」と言下に否定する。「被害をエスカレートさせて話すところはあるけど、私らは純で愚直なまでに先祖の教えに従い、歴史を忘れない。それが雪国の閉ざされた環境が育んだ会津人気質なんです」
そんなに違うのか。私など曽祖父の時代など全く関知しないが、と素朴な疑問をぶつけると、庄司さんはこう答えた。
「忘れるのは日本人の知恵であり、弱点です。例えば、唯一の被爆国である日本の政府が核廃絶について、まあいいかという態度をとるのはどうかと思う。忘れてはいけないことはある。150年を振り返るとき、日本人は何を忘れ、何を失ってきたのか、一人一人が考える機会になるよう会津人として願っています」
日本の諸都市が見舞われた米軍による無差別空襲、そして広島、長崎。そんな被害のみならず加害行為も実は、多くの現代人がただ忘れたふりをしているだけではないのか。会津の地でそんな思いがわいてきた。
戊辰ぼしん戦争(1868~69年)開戦から今年で150年になるのに合わせ、県南会津地方振興局が南会津地域の戊辰戦争ゆかりの地を紹介するパンフレットを作成した。歴史ファンを集めたセミナーも開催し、あまり知られていない南会津地域にある戊辰関係の史跡をアピールし、観光誘客を狙っている。「会津の偉人・先人50選」手ぬぐい作製 戊辰150年で若松商議所
南会津町や只見町などの南会津地域(会津地方南西部)は江戸時代の1643年、「南山御蔵入領みなみやまおくらいりりょう」と呼ばれる幕府の直轄地となった。その後、年貢が京都守護職になった会津藩主松平容保へ財政援助のため支給され、1863年に名称が「南山御役知みなみやまおんやくち」に変わった。
戊辰戦争では、新政府軍が南山御役知に侵攻した。新政府軍側の死者を弔った墓所が南会津町田島地区や下郷町の大内宿近くに残るなど、戦いの跡が点在する。
また、会津藩とともに戦った長岡藩(現在の新潟県)の家老・河井継之助が落城後に会津へ向かう途中、只見町で亡くなった。継之助は只見で「会津のために戦った英雄」とたたえられ、町内には「河井継之助記念館」がある。
ただ、会津地方の戊辰戦争は会津若松市の鶴ヶ城や飯盛山などが主に取り上げられており、南会津での出来事はあまり知られていない。このため、同振興局では只見など5町村の教育委員会と協力し、古戦場や墓所などをまとめたパンフレット「知られざる南会津戊辰歴巡図」を昨年10月に計約1万部製作。観光情報サイト「おいでよ!南会津。」でも情報を掲載している。
会津若松商工会議所醸造・食品製造部会(新城猪之吉部会長)は20日までに、戊辰150年に合わせて「会津の偉人・先人50選 手ぬぐい」を作製した。いわきの戊辰戦争理解深めて 3月10日に歴史講演 聴講希望者を募集
節目の年に合わせて会津の歴史をより深く知り、先人の苦労や知恵、心を学び現代に生かす温故知新の精神が重要との思いから、300本を作製した。
会津を治めた戦国武将・葦名盛氏や、会津清酒や会津漆器などの殖産政策に努め、会津発展の礎を築いた会津領主・蒲生氏郷、戊辰戦争時の家老、会津藩士、世界的な医学者・野口英世ら50人の名前が並ぶ。
会津の偉人・先人は約3千人いるとされるが、サイズの関係で同部会が50人を選んだ。同部会は「偉人・先人たちから学ぶことはたくさんある。思いを継承し、自身の成長と次世代へ伝えていく担い手のたすきとして活用してほしい」としている。
いわき地方の戊辰戦争に理解を深める歴史講演会は3月10日午後1時から、いわき市生涯学習プラザで開かれる。
福島民報社の出前講座の一つで、市が後援する。今年が戊辰戦争や明治改元から150年に当たることに合わせ、幕末から明治にかけてのいわき地方の歴史的意義を確かめるとともに、先人の功績を学ぶ。
講師は県文化振興財団歴史資料課副主幹の渡辺智裕さんと、いわき市文化財保護審議会委員の渡辺文久さん。
演題は、渡辺智裕さんが「官修墓からみたいわきの戊辰戦争」、渡辺文久さんは「磐城の戊辰戦争-磐城平藩士16人の覚書から-」。
福島民報社は明治時代を中心とした紙面をはじめ、幕末や戊辰戦争に関連する資料を展示、解説する。
聴講は無料。希望者は、はがきかファクス、メールで申し込む。郵便番号、住所、氏名、電話番号(複数の聴講者の申し込みは代表者の連絡先と全員の住所、氏名)を明記し、〒960-8602 福島市太田町13の17 福島民報社地域交流室 出前講座係へ。
ファクスは024(531)4117、メールはchiiki@fukushima-minpo.co.jpまで。定員は100人程度で、先着順。
問い合わせは電話024(531)4145で、平日午前10時から午後5時まで受け付ける(電話での聴講申し込みは不可)。
約一ヶ月前、大雪のため順延された口演。右手首骨折しててまだ右手をかばっている自分は大雪での外出を早々に諦めたので、昼前に順延を決定してくれた成城ホールに感謝。
仕切り直しということで八割から九割の入り。
らくだ/立川談笑
談笑版「らくだ」は何回か音源込みで聞いている。何パターンかあるそうだが、初めて発表される後段の「外伝」に繋げるため、談笑風味の陰惨な展開は抑え、古典に比較的に近い形に。談笑版「夏のお嬢さん」ではなく古典「かんかんのう」が聞けたのは、トークによると仕込みを忘れたので今日のアドリブだったようだ。
でも談笑版らしいのは「ゲ○指南」とかところどころに別のネタを散りばめていたりするところ。
談笑版は後段で屑屋がらくだの死体に憂さを晴らすようなスプラッタな行動を正当化するために、いかに生前のらくだが悪い奴だったかという仕込みがあるのだが……今日は、後段に繋げるため、その設定はなし。また、屑屋が魚屋に頼んだ「あること」という設定もなし。
でも古典に近い談笑版らくだも、なかなかよかった。
らくだ外伝/立川談笑
丁の目の半次と屑屋がらくだを荼毘に付した朝、ある人物が長屋を訪ねてくる。その人物から語られる、生前のらくだのまったく違う人物像。
そして、「らくだ」の由来。
短い噺だったけど、さすが談笑さん。こう来たかー、という、らくだ像。
トーク/立川談笑・広瀬和生
広瀬さんのトークで出て来た、「らくだ」を演じた落語家さん。上方は初代春団治。東京は談志はもちろん、市馬さん、文蔵さん、それから観客の一人から声がかかって一之輔さん、あたり。
仕切り直しということで八割から九割の入り。
らくだ/立川談笑
談笑版「らくだ」は何回か音源込みで聞いている。何パターンかあるそうだが、初めて発表される後段の「外伝」に繋げるため、談笑風味の陰惨な展開は抑え、古典に比較的に近い形に。談笑版「夏のお嬢さん」ではなく古典「かんかんのう」が聞けたのは、トークによると仕込みを忘れたので今日のアドリブだったようだ。
でも談笑版らしいのは「ゲ○指南」とかところどころに別のネタを散りばめていたりするところ。
談笑版は後段で屑屋がらくだの死体に憂さを晴らすようなスプラッタな行動を正当化するために、いかに生前のらくだが悪い奴だったかという仕込みがあるのだが……今日は、後段に繋げるため、その設定はなし。また、屑屋が魚屋に頼んだ「あること」という設定もなし。
でも古典に近い談笑版らくだも、なかなかよかった。
らくだ外伝/立川談笑
丁の目の半次と屑屋がらくだを荼毘に付した朝、ある人物が長屋を訪ねてくる。その人物から語られる、生前のらくだのまったく違う人物像。
そして、「らくだ」の由来。
短い噺だったけど、さすが談笑さん。こう来たかー、という、らくだ像。
トーク/立川談笑・広瀬和生
広瀬さんのトークで出て来た、「らくだ」を演じた落語家さん。上方は初代春団治。東京は談志はもちろん、市馬さん、文蔵さん、それから観客の一人から声がかかって一之輔さん、あたり。
【東京】新選組の前身「浪士組」 幕臣記録の「名簿」紹介
いわきの戊辰戦争理解深めて 3月10日に歴史講演 聴講希望者を募集
会津乗合自動車が「ラッピングバス」 戊辰150年の機運盛り上げ
幕末の京都で徳川将軍の護衛に就き、新選組の前身となった「浪士組」隊士について幕臣が記録した文書を、歴史研究グループ「三十一人会」=会長・小島政孝さん(68)=の会誌が一挙紹介している。 (栗原淳)
文書は「浪士姓名簿」。戦前に古書店の目録に掲載され、存在は知られていたが、世に出ることのない「幻の資料」とされていた。昨年一月、東京大法学部図書館が所蔵しているとの情報がネットに投稿されているのを、同会副会長あさくらゆうさん(48)=荒川区=が見つけ、同図書館で実物と確認した。
同会によると、浪士組の隊士を知ることができる資料は、これまでも数点確認されているが、浪士姓名簿は名前だけでなく、家族構成や居住地まで記載した詳細さが特徴。隊士を募った江戸から京都まで一行を率いた幕臣による記録のため、内容の信頼性も高い。
名簿の文字の解読も手掛けた小島政孝さん=町田市で
今の新書判より一回り大きいサイズで、百十九ページにわたり京都到着時の二百三十五人の名が並ぶ。近藤勇の項目は「三十歳」「父妻子三人」、居住地は「市ケ谷加賀屋敷山川磯太郎地借仕候(ちかりつかまつりそうろう)」と記載。のちに新選組幹部となった沖田総司や永倉新八らの項目は「近藤勇方ニ同居」と記している。
あさくらさんは「近藤は主を務めた剣術道場『試衛館』のすぐ近くに住居があった。沖田らが住み込みの内弟子だったことは知られているが、当時の公的な記録にも近藤家の住人と登録されていた」と名簿を読み解く。
小島さんは、旧小野路(おのじ)村(町田市小野路町)の名主を務めた小島家の二十四代当主。四代前の鹿之助は、近藤や沖田らを剣術稽古に招いたという。自宅に資料館を開き、新選組ゆかりの資料を公開している小島さんは「浪士姓名簿は、新選組隊士の江戸を出る直前の様子が分かる貴重な資料」と話した。
会誌「幕末史研究」四十四号で名簿の全ページの複写画像を掲載している。購入は、〒195 0064町田市小野路町九五〇「小島資料館」へ現金書留を送る。送料込み二千五百円。資料館は二月末まで休館。
いわきの戊辰戦争理解深めて 3月10日に歴史講演 聴講希望者を募集
いわき地方の戊辰戦争に理解を深める歴史講演会は3月10日午後1時から、いわき市生涯学習プラザで開かれる。
福島民報社の出前講座の一つで、市が後援する。今年が戊辰戦争や明治改元から150年に当たることに合わせ、幕末から明治にかけてのいわき地方の歴史的意義を確かめるとともに、先人の功績を学ぶ。
講師は県文化振興財団歴史資料課副主幹の渡辺智裕さんと、いわき市文化財保護審議会委員の渡辺文久さん。
演題は、渡辺智裕さんが「官修墓からみたいわきの戊辰戦争」、渡辺文久さんは「磐城の戊辰戦争-磐城平藩士16人の覚書から-」。
福島民報社は明治時代を中心とした紙面をはじめ、幕末や戊辰戦争に関連する資料を展示、解説する。
聴講は無料。希望者は、はがきかファクス、メールで申し込む。郵便番号、住所、氏名、電話番号(複数の聴講者の申し込みは代表者の連絡先と全員の住所、氏名)を明記し、〒960-8602 福島市太田町13の17 福島民報社地域交流室 出前講座係へ。
ファクスは024(531)4117、メールはchiiki@fukushima-minpo.co.jpまで。定員は100人程度で、先着順。
問い合わせは電話024(531)4145で、平日午前10時から午後5時まで受け付ける(電話での聴講申し込みは不可)。
(2018/02/19 11:17)
会津乗合自動車が「ラッピングバス」 戊辰150年の機運盛り上げ
会津乗合自動車は17日、戊辰150年の機運を盛り上げようと導入したラッピングバスを披露した。
路線バスの中型車両1台にラッピングを施した。市戊辰150周年記念事業実行委員会が作製したPRポスターが基になっており、バスの前面に「『義』の想い つなげ未来へ―。戊辰150周年。」のキャッチフレーズを入れた。車体左側が黒、右側が赤をベースにした配色で「會津の想い、脈々と。」の文字も入れた。
「次世代スマートバス停」の設置記念式典に合わせて披露し、佐藤俊材社長は「会津の歴史や文化、教育理念などを市民と再認識し、義の思いを将来につなげる一助にしたい」と話した。
歴史友の野間みつねさんと誘い合わせて、かすみがうら市郷土資料館に行ってきました。
常磐線で土浦→関東バスで60分「田伏十字路」→徒歩3キロ、これを往復……とても一人旅では行く気持ちになれなかったところを二人でなら実現できる、そんなお馬鹿旅でした。土浦から、または田伏十字路のファミマからタクシー呼ぶというバックアッププランもあったのですが、天気もよく2月にしては暖かく、3キロなら行きだけでも歩こうかという話になり……まぁ往路はかなりの坂道を上ることにはなりましたが、二人であればそれも笑い話にできるというか。

「伊東甲子太郎と幕末の同志」展
激動生きた人徳者に光 幕末の志士、伊東甲子太郎展かすみがうら 新選組の弟子も紹介
目玉は新着の伊東甲子太郎先生の真筆です。タイミング的に私たちが行く日に展示されるかどうかは不確定でしたが、無事に見ることができました。
幕末の新選組隊士・伊東甲子太郎の肉筆 水戸の男性、京都で入手市歴史博物館に寄託 建言書草稿 「長州藩の寛大処置を」
柳原光愛と幕府老中の板倉勝静に宛てたもので、山稜衛士を名乗り、末尾に「元新選組」と記してありました。また、斎藤一、藤堂平助、三樹三郎など伊東先生の配下の主立った人の署名がありました。斎藤一が筆頭なのは「元新選組」を強調するためでしょうか。朝廷と幕府に対する建言書で長州に寛大な処分を求める内容で伊東の思想を知るためにも価値ある内容でした。伊東甲子太郎の真筆とわかっているのは新発見のこれを入れても三点だけなので貴重です。
みつねさん、往復の下調べからチケット確保を全面的にしていただいた上(なにせ当方がすると抜け漏れや手落ちがあること確実・汗)での同道ありがとうございました。
常磐線で土浦→関東バスで60分「田伏十字路」→徒歩3キロ、これを往復……とても一人旅では行く気持ちになれなかったところを二人でなら実現できる、そんなお馬鹿旅でした。土浦から、または田伏十字路のファミマからタクシー呼ぶというバックアッププランもあったのですが、天気もよく2月にしては暖かく、3キロなら行きだけでも歩こうかという話になり……まぁ往路はかなりの坂道を上ることにはなりましたが、二人であればそれも笑い話にできるというか。
「伊東甲子太郎と幕末の同志」展
激動生きた人徳者に光 幕末の志士、伊東甲子太郎展かすみがうら 新選組の弟子も紹介
目玉は新着の伊東甲子太郎先生の真筆です。タイミング的に私たちが行く日に展示されるかどうかは不確定でしたが、無事に見ることができました。
幕末の新選組隊士・伊東甲子太郎の肉筆 水戸の男性、京都で入手市歴史博物館に寄託 建言書草稿 「長州藩の寛大処置を」
柳原光愛と幕府老中の板倉勝静に宛てたもので、山稜衛士を名乗り、末尾に「元新選組」と記してありました。また、斎藤一、藤堂平助、三樹三郎など伊東先生の配下の主立った人の署名がありました。斎藤一が筆頭なのは「元新選組」を強調するためでしょうか。朝廷と幕府に対する建言書で長州に寛大な処分を求める内容で伊東の思想を知るためにも価値ある内容でした。伊東甲子太郎の真筆とわかっているのは新発見のこれを入れても三点だけなので貴重です。
みつねさん、往復の下調べからチケット確保を全面的にしていただいた上(なにせ当方がすると抜け漏れや手落ちがあること確実・汗)での同道ありがとうございました。
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