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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
東北の視点で『戊辰再考』 福島県立博物館、9~10月に企画展
 県立博物館(会津若松市)は9月1日~10月14日、戊辰戦争の意義について問い直す企画展「戊辰戦争150年」の開催を予定している。戊辰戦争関係資料を一堂に展示するほか、各地の地域資料を掘り下げて紹介し、東北の視点から戊辰戦争を再考する。

 15日に同館で開かれた同館運営協議会で報告された。展示構成は開国、京都の政局、鳥羽伏見の戦い、奥羽越列藩同盟結成、北越や東北での戦争、敗戦、戊辰戦争後の7分野。明治時代に教育者となった元会津藩士・渋谷源蔵が展示の案内役を務める設定にするという。

 幕末に京都守護職を務めた会津藩主・松平容保。勤王の会津藩がなぜ朝敵とされ、進展する局面でどう戦ったのか実像を明らかにする。さらに戊辰戦争後にも光を当て、苦難を乗り越えた人々の姿も紹介する。

 会期中、専門家による講演会や展示解説会を開催する予定。企画展は同館と新潟県立歴史博物館、仙台市博物館の共同主催のため3館を巡回する。新潟では7、8の両月、仙台では10~12月に開催する予定。このほか4月から戊辰戦争に関連したポイント展(特定の資料に注目した小規模展示)も開催予定。テーマは会津藩家老・西郷頼母、磐城の戦い、戦場のうわさ話、会津の戦い、若松城下の戦いなどを予定している。

伊賀、農民も情報収集? 幕末の旅日記を発見
 東京都渋谷区にあった伊賀(現・三重県伊賀市)の領地「隠田村おんでんむら」に暮らす農民が幕末、九州まで出掛けた旅日記が都内の古書店で見つかった。戦国時代に暗躍した伊賀忍者は、徳川幕府に「伊賀者」として仕え、江戸周辺の伊賀領を支配した。三重大学国際忍者研究センターの高尾善希准教授(忍者学)は「日記には旅先から手紙を送ったという記述もあり、伊賀者が情報収集させていた可能性がある」と話している。

 この旅日記を書いたのは農民の「坂野佐太郎」で、同センターが昨年12月に古書店で購入。江戸時代の崩し字で、坂野の本家が現在の津市にあるなどの事実関係に食い違いがなく、本物と判断した。日記によると、坂野は妻、お供と3人で、1848年(弘化5年)2月19日に隠田村を出発。3月25日に「お伊勢参り」、5月9日に福岡の太宰府天満宮、同15日に長崎の出島に寄り、同年(嘉永元年)7月18日に村に戻った。

旅日記について解説する高尾准教授
 旅の途中の4月2日、江戸方面の「御屋敷」に10通の手紙をまとめて送ったとの記述もある。江戸時代の伊賀者は、江戸の武家屋敷などで門番を務め、江戸周辺の伊賀領を支配して年貢の取り立てなどをする一方、幕府の命を受けての諜報ちょうほう活動は続けていた。高尾准教授は「農民が特段の理由もなく10通もの手紙を出すとは考えにくい。坂野が伊賀者に命じられて各地の探索や情報収集をしていたことも考えられる」と話す。

 日記の内容は、三重大大学院が4月から開講する全国初の「忍者・忍術学」の授業で研究を進める予定だ。

海峡の裏町文化塾「長州の中の会津」披露 白虎隊の会・吉井さん講演 /山口
 あまり知られていない地元の歴史や文化について語り合う「海峡の裏町文化塾」が13日、下関市中之町の亀山儀式殿で開かれた。白虎隊の会下関支部の吉井克也支部長が「長州の中の会津」と題して講演し、約40人が聴き入った。

 戊辰(ぼしん)戦争で、白虎隊の隊士として自刃するが失敗して生き残った飯沼貞吉を、身寄りがないことから哀れに思った長州藩士の楢崎頼三が連れ帰り、美祢市の集落で養育した。白虎隊の会下関支部は、この史実を顕彰することや、会津と長州などのしがらみにとらわれず、幕末・明治維新を志を持って生き抜いた先人に学ぶことを目的に2010年10月に設立された。現在は40人の支部員がいる。

 13日の講演では吉井支部長は「長州と会津の関わりを知るには史実を理解する必要がある」として幕末から対立するようになった経緯や、戊辰戦争、新政府による会津藩に対する過酷な戦後処理などを紹介。そのうえで白虎隊士を慰霊している地として萩市の地蔵堂や下関市の万骨塔などを挙げた。また、昨年11月に福島県会津若松市の会津藩校日新館の宗像精(ただし)館長が萩市の松陰神社で講演したことを紹介し「宗像館長は『史実を認め合い、これから日本のためにがんばっていこう』と本当にいい話をしています。今年は明治維新150年であり、新たな会津と長州の出発点として歩み寄っていきたい」と語った。

 次回の裏町文化塾は4月10日、尺八演奏家の橋本邦洸(くにひろ)さんが「夢尺八と津軽三味線・心の響」と題して講演する予定だ。【反田昌平】
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会津の歴史見つめ直す 若松司馬さんしのび献花祭
 会津に深い思いを寄せた作家の故司馬遼太郎氏をしのぶ献花祭は司馬氏の命日「菜の花忌」の12日、会津若松市で催され、参加者が司馬氏の好んだ菜の花を鶴ケ城三の丸の司馬遼太郎文学碑前などに手向けた。
 戊辰戦争150周年などを記念し、会津若松商工会議所が主催した。文学碑前では宮森泰弘同文学碑実行委員長と会津松平家14代当主の松平保久さん、渋川恵男会津若松商工会議所会頭らが献花した。
 市内の香寿庵でセレモニーを開き、約25人が出席した。宮森委員長が執筆50年となる司馬氏の小説「王城の護衛者」を挙げ、「(執筆当時の)歴史観に一石を投じた。戊辰戦争150年を機に歴史を見つめ直し、全国の人に会津の真の姿を知ってほしい」と述べた。菅家一郎、小熊慎司両衆院議員、室井照平市長があいさつした。宮森委員長と松平さんが献花した。
 文学碑は2013(平成25)年11月に建立され、幕末の会津藩主松平容保公の至誠を描いた「王城の護衛者」や随筆「歴史を紀行する」の一節が刻まれている。献花した菜の花は司馬氏の地元の大阪府東大阪自治協議会意岐部校区自治連合会の大西信弘会長から贈られた。

■松平家当主保久さん講演 容保公の文書紹介

 セレモニーでは松平さんが「鶴ケ城開城と容保公」と題して講話し、戊辰戦争の会津戦争終結時に容保公が記した降伏文書の内容などを紹介した。
 「晩年の容保公は戊辰戦争の責任を一身に受け止めていた。容保公の思いを未来永劫(えいごう)に持ち続けなければと改めて強く感じている」と語った。

戊辰降伏、容保の思い語る 松平家14代当主・保久さん講演
 会津若松市で12日行われた「戊辰150周年記念 司馬遼太郎顕彰事業 菜の花忌『献花祭り』」では、松平家14代当主の松平保久(もりひさ)さんが「鶴ケ城開城と容保公」と題して講演、松平容保に秘められた会津藩への思い、生き様を語った。

 松平さんは戊辰戦争における鶴ケ城での籠城戦の末、容保が携えた降伏文書の一部を朗読し、「文書の内容は容保公の考えとは180度違う内容が書かれており、相手に差し出す容保公の悔しさは大変なものだったに違いない」と語った。

 さらに、容保が鶴ケ城で降伏し、東京などでの謹慎後、日光東照宮(栃木県)の宮司を務め、幕府に代わり日光東照宮の維持管理を行う「保晃会(ほこうかい)」の初代会長にも就いたことを紹介、「容保公は徳川家康を奉り、守っていく使命感を持っていたはずだ」と述べた。

仙台
闇に紛れ連戦連勝…戊辰戦争
ゲリラ部隊「からす組」隊長 細谷 十太夫
 戊辰戦争で新政府軍に敗走を強いられ、降伏に至った仙台藩。その中で、30余りの戦いに連戦連勝したゲリラ部隊があった。「からす組」と呼ばれ、高杉晋作の奇兵隊と同様に、隊員は侍ではなく、博徒や侠客きょうかく、猟師などの荒くれ者が集められた。

 隊長は下級武士の細谷十太夫。仙台藩の探索方(諜報ちょうほう員)として、戦争が勃発すると虫売りに身を変え、他藩に潜入して情勢を探ったと伝えられるが、謎の多い人物だ。

 1868年(慶応4年)5月1日、白河城の攻防戦で仙台藩が新政府軍に敗れると、十太夫は「衝撃隊」を結成。白河、二本松、駒ヶ嶺、旗巻峠など藩内外で新政府軍に対し、闇夜にヤリや刀でゲリラ攻撃を続けた。「からす組」の呼び名は、メンバーが黒装束を身にまとっていたことにちなむ。

 「細谷からすと十六ささげなけりゃ官軍高枕」と、市井では新政府軍を脅かす精鋭とうたわれた。隊旗にはカラスが描かれ、実際にカラスを連れて歩いたともいわれる。東北歴史博物館(多賀城市)には、十太夫がまとっていた陣羽織の複製が常設展示されている。


 戦後、十太夫は行方をくらまし、各地を転々とした。西南戦争には陸軍少尉として出征。その後は、現在の石巻市大街道周辺に士族を集めて移り、開墾に励んだ。北海道にも渡り、現在の幕別町に開拓民のため入植し、和人として初めて住んだ。日清戦争にも従軍した。

 晩年は仙台に戻り、仏門に入った。「寛政の3奇人」の一人と言われ、幕府に海防政策を説いた学者・林子平を慕い、その菩提ぼだい寺である仙台市青葉区の龍雲院の住職を務める。戦死した将兵の霊を弔いつつ、1907年に死没した。法名は「竜雲院八世鴉仙直英和尚」。「鴉からす」の一文字から、からす組がその人生を象徴するものだったことがうかがえる。死後、寺の境内には十太夫を模した「細谷地蔵」が立てられた。


 からす組の活躍は、映画や劇などにも幾たびか取り上げられ、作家・大佛次郎は小説「細谷十太夫―からす組」を残す。

 1991年には、十太夫を題材にしたドラマ「疾風からす組」がテレビ東京で放送され、主役の十太夫を俳優・風間杜夫が演じた。企画を担当したのは十太夫のひ孫・辰馬。その次男で、玄孫やしゃごにあたる伸之(46)は現在、同じテレビ東京のアニメ制作部のプロデューサーの職にある。

 「いつか、からす組の活躍を題材にアニメを制作してみたいですね」と伸之は語る。圧倒的優位にあった新政府軍に一矢を報いた先祖に再び光を当てる日も、そう遠くないのかもしれない。(敬称略)

茨城
<ひと物語 幕末~明治>日本の金融界の発展に貢献 川崎八右衛門(中)
 「海老沢地内には海士部(あまべ)神社や駒形神社など三つのお社がありますが、どの神社にも川崎家は寄付をしてます。とくに海士部神社の銅板屋根を修復したときには、多額の寄付をされるなど地元を大切にし、貢献してますね」

 茨城町で『水戸屋菓子店』を営む小山正浩さんはこのように言い、川崎八右衛門に感謝と誇りを持ち、彼の功績を讃(たた)えます。小山さんは海士部神社の氏子であり、祭礼のときにはお餅や農・海産物などの供物の調達を引き受けている地元の製菓店です。

 川崎は地元思いの人でした。これも成功の秘訣(ひけつ)だったかもしれません。

 涸沼のほとりにあった川崎家は北海道や東北から海路で運ばれた物資を、今度は陸路や水路で江戸に運搬する回船問屋でした。このため十代の青年時代から早くも金銭、利益、経営などに対する感覚を身につけ、起業家としての能力をやしなってゆきます。

 これが後に彼を三井、住友、三菱などと並ぶ、わが国屈指の八大財閥のひとつに数えられる「川崎財閥」をつくりあげるまでに成長させるのでした。

 けれど、川崎の私生活は質素でした。ともすると蓄財に励むような人は吝嗇(りんしょく)と思われがちですが、彼は、人には温厚で、華美な服装は求めず、食事もけっしてぜいたくではなく、質素倹約の人でした。その反面ビジネスには厳しく合理的であったといいます。

 この点を分家にあたる川崎正則さんにただしたところ、「墓地の近くに立っている招魂碑に書かれた通りの人でしたよ」と教えられたので早速参ったところ、このように刻まれており、なるほどと納得しました。

川崎八右衛門(常陽芸文から)

 「-川崎八右衛門の資性は俊邁(しゅんまい)、人には温厚、事に臨んではよく決断、独力経営。産業を殖(ふ)やし-」

 川崎財閥が所有する不動産の管理会社である川崎定徳株式会社(東京都中央区)は、先述した海士部神社の屋根改修のほか老朽化した拝殿、本殿の改修工事、参道の舗装化、境内をつつむ広大な山林を寄贈するなど、いまも故郷とのつながりを大切にしています。

 (ノンフィクションライター・岡村青)

<参考文献> 「日に新なり 加倉井砂山物語」(堀口真一、崙書房出版)

 「川崎財閥を築いた川崎八右衛門」(常陽芸文1994年10月号)

幕末の紀州藩士・茂田一次郎の壮絶人生、わかやま歴史館で企画展示
 幕末に波瀾(はらん)万丈の人生を歩んだ紀州藩士、茂田一次郎について紹介する企画展示「紀州藩士 茂田一次郎、幕末を生きる。-龍馬のハッタリに敗れた男-」が10日、和歌山市一番丁のわかやま歴史館で始まった。3月21日まで。

 一次郎は、紀州藩の下級藩士の家に生まれたが、事務方としての能力や人脈を生かして重役の勘定奉行にまで出世した。しかし、慶応3(1867)年、坂本龍馬が乗る「いろは丸」と紀州藩船「明光丸」が瀬戸内海で衝突し、いろは丸が沈没する「いろは丸事件」が発生。紀州藩の現地責任者だった一次郎は、高額な賠償金を巡る交渉に失敗し、御役御免(免職)となった。

 企画展では、茂田家の系譜や一次郎が作成した親類書、一次郎が暮らしていたとされる屋敷の絵図などの史料を展示。同館の担当者は「下級藩士ながら、まるでジェットコースターのような壮絶な人生を歩んだ一次郎。ゆかりの史料から、その生き方を感じてもらえれば」と話している。

 一般100円。中学生以下無料。和歌山城天守閣の入場券でも入館できる。午前9時~午後5時半(入館は午後5時まで)。問い合わせは平日のみ、市和歌山城整備企画課(電)073・435・1044。



新選組の「脇役」に光 東京と茨城で展覧会
 幕末に京の治安維持を担った浪士組「新選組」の幹部で、近藤勇、土方歳三らと同じ道場の出身でありながら、地味な存在とみられがちな井上源三郎(1829~68)と、新選組から分派を試み、それが理由で殺された伊東甲子(かし)太郎(1835~67)。この2人を扱った展覧会が、ゆかりの東京都日野市と茨城県かすみがうら市で開催中だ。

 新選組揺籃(ようらん)の地とされる日野市で開かれているのが、「没後150年 新選組井上源三郎」展(同市立新選組のふるさと歴史館、18日まで)。

 井上は八王子千人同心の家に生まれたが、近藤たちと同じ天然理心流の道場に通っていたのが縁で京へのぼり、浪士組に参加する。新選組では六番隊長などを務めた。

 展示は井上の兄で、家督をついだ井上松五郎と源三郎2人の生涯を、松五郎の日記など約80点から追いかける。

 「描かれた井上源三郎」と題したコーナーが興味深い。「剣の弱い老人」という、多くの人が抱く現在の井上のイメージは、実は司馬遼太郎の著作などによって培われ、流布されたものとわかる。実際の井上は年は近藤と5歳違いで、剣も免許皆伝だった。

 一方、かすみがうら市では「没後150年記念 伊東甲子太郎と幕末の同志」展が開催中(同市歴史博物館、3月4日まで)。伊東は同市に領地を持つ交代寄合(よりあい)(旗本)の家臣の家に生まれ、のち、北辰(ほくしん)一刀流の道場を営む伊東精一郎の養子となる。新選組入隊は64年。特別待遇を受けるが、孝明天皇の御陵衛士(ごりょうえじ)を務める高台寺党を設立。しかし、それもつかの間、新選組により暗殺された。

 展示は伊東の肖像画など約40点で構成。数えで33歳で死去した伊東の志が、門人で、のちに茨城の教育界を担った金沢鎗次郎(そうじろう)らに受け継がれ、花開いたことを伝える。

 井上や伊東に関わる資料は極めて少ないことから、2館ともかなり苦労しつつ展示をしている様がうかがえたが、これまで「脇役」的扱いだった2人にあえてスポットを当てた意図は評価すべきだ。(編集委員・宮代栄一)

【会津若松】新選組の歴史物語る資料など300点 会津若松で戊辰150年特別展
 戊辰戦争150年前期特別展「会津・薩摩と新選組~戊辰開戦から上野の戦いまで」は5月末まで、会津若松市七日町の会津新選組記念館で開かれている。

 戊辰戦争開戦から上野の彰義隊の戦いまでの関連資料約300点が展示されている。

 初代会津藩主保科正之が定めた「会津藩家訓」、錦絵版画「京都 禁門(蛤御門)の変」、新選組隊士が使ったとされる鉢金などが並ぶ。

 現在放送中のNHK大河ドラマ「西郷どん」の撮影で使用したスナイドル銃や台本ほか、薩摩藩大隊旗や新政府軍が江戸城に入城する様子を描いた江戸城無血開城・錦絵版画「西城奉還之図」なども展示され、来場者の目を引いている。

 時間は午前10時から午後5時ごろまで。入場料は大人300円、小・中学生200円、未就学児無料。不定休。

 問い合わせは同館(電話0242・22・3049)へ。

戊辰戦争と新潟開港テーマに24日講演会
 新潟市中央区女池南の県立図書館ホールで24日午後1時半~3時、同館の青柳正俊副館長が「戊辰戦争と新潟開港」をテーマに講演する。先着180人で入場無料。同館が定期開催している「ふるさと講座」の一環。来年1月に150周年を迎える新潟港の開港は、戊辰戦争の戦局とともに諸外国の公使や交易商人の思惑が絡み合う中で実現したとされる。青柳氏は当時の状況を振り返りながら、最近になって確認された新事実を紹介する。

 申し込みは、同館の総合案内カウンターやホームページの「イベント申し込みフォーム」で。はがきやファクス(025・284・6832)でも受け付ける。問い合わせは同館業務2課(電)025・284・6001。
幻想的な光「会津絵ろうそくまつり」 戊辰150年で地上絵登場
 会津地方伝統の「絵ろうそく」を街中にともす冬の風物詩「第19回会津絵ろうそくまつり」が9日、会津若松市の鶴ケ城など各地で始まった。約1万本のろうそくが城下町を幻想的な光で包み込んでいる。10日まで。

 会津青年会議所(JC)や会津まつり協会などでつくる実行委の主催。今年は「和(なごみ)」がテーマで、メイン会場の一つの同城にはろうそくで作った戊辰150周年をPRする地上絵が登場。ろうそくで道を照らす「和小道」などもあり、ろうそくの温かなぬくもりを求める観光客らでにぎわっている。

 ろうそくは同城のほか、御薬園や東山温泉、芦ノ牧温泉、会津武家屋敷などでも点灯している。点灯時間は午後5時30分~同9時。
福島・只見に鶴ケ城の大雪像 戊辰戦争150年で
 福島県会津地方のシンボル、鶴ケ城の大雪像が9日、同県只見町に完成した。10、11両日の「只見ふるさとの雪まつり」の目玉で、高さは12メートル。17日夜まで展示される。

戊辰戦争150年の節目に完成した鶴ケ城の大雪像(9日、福島県只見町)

 会津藩など旧幕府軍が薩長両藩の主導する新政府軍に敗れた戊辰戦争の開戦から150年となることから、地元の職人らが製作。転戦中に町内で没した長岡藩家老、河井継之助の雪像もある。

 仕事のため鹿児島県から同町に移り住み、会津の女性と結婚した会社員、田代季生さん(65)は「すごい出来栄え。お城を大事にしている会津人の思いが伝わってくる」と感心していた。
歴史学者の磯田道史さんのインタビューが東京新聞に掲載されていましたので、ご紹介します。明治維新というか維新を契機とする近代国家化はどう進んでいたのか、萌芽がどこにあったか、「戊辰百五十年」をむしろ言っている私も同意できるような内容です。

<変革の源流 歴史学者・磯田道史さんに聞く> (1)維新がもたらしたもの
 日本が近代国家として歩み始めた明治元年から、ちょうど百五十年。『「司馬遼太郎」で学ぶ日本史』などの著書で知られる歴史学者の磯田道史さん(47)に明治維新から大正、昭和、平成への時代のつながりを聞いた。(聞き手・中村陽子、清水俊郎)

 -はじめに、「明治百五十年」について、あるいは明治維新について、どうお考えですか。

 私は今年のNHK大河ドラマ「西郷(せご)どん」の時代考証を担当しています。歴史家として逸話を出していくわけですが、引き受ける時から、明治をひたすら明るい側面からだけ描くつもりはありませんでした。

 明治維新が、日本の社会にとって大きな変化、断絶であったことは事実です。節目を祝う立場ももちろんあるでしょうが、考え直す立場もあってよい。この機に、今に至る歴史のきっかけを見つめたらいいのではないかと思います。

 -それではまず、明治という時代の「明るい側面」から伺いましょう。

 たとえばこんなことを考えてみます。明治維新によって、私の家系である「磯田家」は得したのだろうか、損したのだろうか。私は、小さい頃は、すごく損したと思っていたんです。そりゃそうでしょう。先祖の家は、岡山藩の百二十石取りのお侍さんで、領地がありました。自宅は保証され、自動的に参政権どころか、執政権まである。それが全部とられて、すっからかんになったんですから。

 でも、いや待てよ、と、もう少し考える。もし私が江戸時代に生まれて、歴史学者になりたかったら、家を出て廃嫡(はいちゃく)(※注1)してもらわないと、なれなかった。

 当時の人たちは、商売をして楽しく暮らそうとか、天下を取ろうと思っても、思ったようにはできなかったわけですよ。でも今は、何をやってもいいですよね。江戸時代の身分制がなくなり、そういう個人の生き方の自由度が格段にあがりました。

 -しかし、明治に起きた変化によって、消えていった文化があります。

 私から見ると、今年は明治から百五十年であるのと同時に、江戸消滅から百五十年だという感覚があります。「江戸百五十回忌」とでもいいましょうか。この側面も、忘れてはいけないと思いますね。江戸の中にあったいいもの、明治維新によって失われてしまったものをよく認識する必要がある。悪いところもいっぱいあった社会ですけれども、学ぶべきところはたくさんありますから。

 日本は、維新で多様性を失ったともいえるのです。江戸時代には、藩によって重視する政策が異なり、身分制度の中にあっても、特徴に応じたさまざまな人材を出していました。今でいうダイバーシティですね。

 軍隊をつくる際も、当初は陸軍はフランスに、海軍はイギリスに学ぶというような多様性がありましたが、やがて国家のモデルをプロイセン・ドイツ型に統一します。だって「富国強兵」という国家目標に沿ったものを上から注入するという形で、効率よく変えるわけですから。雑木林のように豊かだったものを、一回崩れたら倒れやすい杉林のようにして、一気に西洋化を進めていきました。

 -維新で失った文化がある一方、現代まで根強く残る旧弊もあります。

 敗戦で完全に破壊されて、さらに自由な社会にはなったわけですが、現代に至っても、日本人の根っこの部分には、世襲での経路依存の体質がありますね。経路は来し方という意味です。会社などの組織でも、長く居る人に絶大な信頼を置くでしょう。たとえば入って三日で社長になる、というような例はほとんど聞かない。本当は社の外に、もっと会社を発展させる人材がいるかもしれないのに。働く人も、長く勤めていれば、当然偉くさせてもらえるという考えが、頭から離れていないですよね。

 -ドラマ「西郷どん」では、どのような歴史認識をベースに監修を?

 西郷隆盛は、明治維新に理想を持っていたけれど、最後は下野して、西南戦争(※2)で死にます。維新の暗い面、良くなかった面でもって、彼の人生は完結しているわけです。ひょっとしたら、後になって「こんなはずではなかった」と思っていたかもしれません。明治維新で政府に入った人が世襲を始めて、利権を分け取りにする。新政府のメンバーは破格の年収。一部の華族には、貴族院の議席まで世襲させるというのです。

 「四民平等」を掲げていたはずなのに、自分たちはどうして、議会の議席が世襲されるような制度を作る結果になってしまったのか。日露戦争の後には、百人もの人が爵位を授けられました。そういう政府ですから、結局、軍部の暴走を抑えられず、華族という制度そのものがなくなります。

 明治維新は、効率よく近代化、西洋化を進めるという面では非常に「うまく」働いた。中には特権を維持し続ける人もいましたが、個々人の選択を増やすという面でもいいふうに働いた。一方でそれは、植民地を持つことにつながり、東アジア諸国から恨みを買う帰結を迎えました。

◇ことば
 ※1 廃嫡…家督の相続人の相続権を失わせること。

 ※2 西南戦争…1877年2~9月、鹿児島の士族らが起こした反政府の反乱。征韓論を巡る政変で下野した西郷隆盛が中心となった。

 <いそだ・みちふみ> 1970年、岡山市生まれ。国際日本文化研究センター准教授。慶応義塾大大学院文学研究科博士課程修了。博士(史学)。専門は日本史、社会経済史。著書に『武士の家計簿』『無私の日本人』『「司馬遼太郎」で学ぶ日本史』など。
<変革の源流 歴史学者・磯田道史さんに聞く> (2)司馬作品と史実のズレ
 -現代の日本人が、明治維新と明治時代に抱く歴史認識は、国民作家である司馬遼太郎さんの作品が影響していそうです。小説が伝える歴史は、史実とは少しズレていると指摘されることもありますが、どう捉えればいいのでしょう。

 幕末の長州藩の吉田松陰や高杉晋作たちを描いた『世に棲(す)む日日』、薩摩藩から輩出した群像の物語『翔(と)ぶが如(ごと)く』…。これら司馬さんの作品から、歴史の流れを知る人も多いでしょう。史実に近いものもあれば、史実から遠めになっているものもあります。

 時代が早いほど、資料が少ないので想像の部分が多いですし、セリフの多くは架空のものです。読者は、それを歴史上の人物が実際に言ったと理解してしまうことがあるわけです。しかし、言ってもおかしくないことが書き込んであるから、分かりやすくなる。

 司馬文学は、地図に似ていると私は思っています。地形を表すものとしては、航空写真が一番正確なはずですが、われわれは、写真をそのまま渡されても、目的地までの道はよく分からない。略地図を持って歩くほうがよっぽど歩きやすい。つまり司馬作品は「歴史の略地図」なんです。

 実際は長い道が短く書いてあったり、逆もあったりする。現実を理解しやすくした「時代の略地図」だと知った上で読む必要がある。それが「司馬リテラシー(読解力)」だと思うんですよね。

 もう一つ言えるのは、司馬さんが『竜馬がゆく』や『坂の上の雲』を書いたのは、今からだいたい五十年前。「明治百年」だった当時と今を比べると、歴史学の認識が進んでいます。さっきの例えで言えば、これまで航空写真が撮られていなかったところも撮影されて、新たな図面が出てきている。そういう部分も意識しておくといいですね。

 -研究によって歴史の空白が埋まり、新しい認識、見方ができているということですね。

 たとえば明治維新への動きは、司馬さんが小説で書いたよりずっと早くから、いろいろな藩で見られることが分かっています。

 司馬さんの時代には、ペリーの来航がきっかけで日本が変わったように語られていました。だからペリーがエイリアン(異星人)のように急に来たと認識している人が多いと思います。でもその後の研究でみると、それは違うんです。

 西洋の船は、一八〇〇年を過ぎるとしばしば日本近海へ現れるようになる。水戸、薩摩…。特に外洋に面している藩は、十分に外国の危機を感じていたはずです。

 一八二〇年代になると、三角マストの西洋帆船が普通に報告されるようになります。薩摩藩の場合、トカラ列島の宝島で、英国の捕鯨船と交戦状態になります。同時期に、水戸藩にも捕鯨船がやってきています。
<変革の源流 歴史学者・磯田道史さんに聞く> (3)維新はどう芽生えたか
 -いくつかの藩では、ペリー来航以前から、すでに外国の危機を感じる経験をしていたのですね。

 一七〇〇年代末に、ロシアで暮らした大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)(※注)もいました。帰国してロシア人の格好で徳川将軍に会うわけです。その後は今の靖国神社(東京都千代田区)の場所にあった薬草園に隔離して住まわされるのですが、自由に人とは面会する。好奇心が強い学者たちと交流して、ロシアや西洋の知識をたくさん語りました。

 そんなこともあって一八二〇年ごろには、分かる人たちは、もう十分に外国の危機を感じていた。洋学を初期に学んだ学者は、西洋列強が強大な海軍を持っていることを、数量も含めて示しています。

 列強は早晩やってくる。日本じゃかなわないような海軍力と、新式の武器も持っている。対処するには日本が藩でバラバラに分かれていたんじゃ話にならないから、オールジャパンで一致結束し、外国の侵略に対処しなければならない…。だから海軍をつくり、統一の指揮下に入れる。そういう意識が生まれてきます。明治維新への一本の道になっていくわけです。

 -そこから「他国を侵略する」という発想もでてきたのでしょうか。

 これは一八七〇年ごろに開発されたライフル銃とも関係があります。

 ここで皆さんに考えていただきたい。西洋人が火縄銃を発明したのは五百年以上前。フランシスコ・ザビエルが日本に来た時にはもう火縄銃があったのに、アジアが西洋の完全な植民地になったかというと、なっていません。他の国を支配することは、火縄銃では無理なんですね。

 それはなぜか。一分に二発しか発射できず、百五十メートル離れると、厚手の服を着ていればけがをしない武器だからです。けれどライフルは射程が五百メートルに伸び、さらに連発式が発明される。大砲に応用され、人間をなぎ倒すものになる。

 -武器の変化が、社会のありようを変えたのでしょうか。

 戦争のやり方が、大量に庶民を徴兵し、ライフル銃の訓練をして、戦場で相手を圧倒する方法になっていきます。国同士で争い、別の地域を植民地として支配する体制ができ上がります。

 日本もこれに加わるのか、やられる側に回るのかという二者択一が迫られるわけです。日本は、国民国家をつくって植民地を増やす方向に、かじを切ることになりました。

 ちなみに、庶民の参政権の歴史も、武器の変化がつくったといってもいいと私は思っています。徴兵された兵士は政治への参加を求めるようになるので、男性による「民主国家」ができあがります。やがて「銃後の守り」も重要になる物量の戦いになると、工場に徴用される女性も政治参加するようになっていきます。 *次回は9日に掲載します。

◇ことば
 ※ 大黒屋光太夫…1751~1828年。伊勢国(現在の三重県)生まれの船頭。江戸へ向かう回船が暴風で遭難。ロシア領に漂着し、10年近く過ごした後、帰国した。井上靖、吉村昭らの小説でも有名。
<変革の源流 歴史学者・磯田道史さんに聞く> (4)教育・行政 近代化の原点
 -明治維新により、日本は一気に近代化しました。急速な近代化はどのように始まったのでしょう。

 そもそも明治維新とは何か、という点から、もう一度考えてみましょう。達成されたことの一つは、江戸時代の身分制が壊れたこと。世襲制を廃止し、学校で勉強ができる人を官僚や軍人にして国家が運営されるようになりました。もう一つは徳川の「公儀」という武家の政府に替わり、新しく「天皇の政府」を作ったこと。その下で富国強兵、つまり工業化と軍事化を進めた。背景には、他国に植民地化されずに独立を保ち、うまくすれば植民地を持つ側に回る、という政治課題がありました。

 これらの要素で分けて、それぞれ出発点を説明しましょう。つまり、天皇がまつりあげられたのはいつからか、学校や官僚制度が形作られたのはいつごろか。そもそも西洋をモデルに国造りをするという発想はどのようにでてきたのか…。

 最初に全体的なことを言うと、だいたい一七八〇年ごろの「田沼時代(※注)」ぐらいから芽が見られます。司馬遼太郎さんが小説を書かれていたころの一般的な認識と比べると、かなり早くから息吹があったというのが、近年の歴史学の研究成果です。

 まず、天皇を日本の中心にまつりあげるという点では、田沼時代のさらに前から芽がある。一七〇〇年より前、だいたい元禄のころでしょう。水戸光圀の「大日本史」などの中で、日本の中心は天皇であると書かれ、「大陸の中国より自分たちの方が忠義・孝行においては尊いのだ」という考えが、頭をもたげてきます。

 田沼時代になると、浅草でつじ講釈師が、こうした内容を語って、庶民は喜んで聴いていました。将軍様の国ではあるけれど、本来は天皇の国で、これが長く続いているから自分たちの国は世界で一番優れているのだ、という考え方が、しだいに広がっていきます。

 -天皇が中心となる社会を受け入れる思想的な素地ができていたんですね。

 けれど現実には、江戸時代の幕府が無力で使い物にならないという認識がないと、明治維新の方向には変わりません。そのきっかけになったものは二つありました。一番大きなものが外国からの危機、もう一つは飢饉(ききん)のたびに財政力を悪化させていた国内政治。内憂外患、内への憂いと外への患いですね。

 そこで薩摩や長州、肥前藩では何を始めたかというと、自分の藩の学校です。従来、藩学自体がないか、自由登校であったのを、出席を藩士に義務化するところが出てきます。

 長州の場合は、学校の成績を月に数回、藩主に報告し、出世に関わるようにした。肥前などでは、成績が悪いと、親の禄(ろく)を相続する時に大幅に減らされる。そりゃあ必死で勉強しますよ。公職につけるかどうかも、藩校の成績が参考になる。やがて身分によらず、勉強のできる人が尊敬されるようになっていきます。

◇ことば
 ※ 田沼時代…江戸中期、田沼意次(おきつぐ)が十代将軍徳川家治の側用人・老中となって権勢をふるい、大きな影響力を持った時代。
<変革の源流 歴史学者・磯田道史さんに聞く> (5)税の概念、富国強兵の礎
-藩校開設などで各藩に一種の「実力主義」が導入されたのですね。

 その通り。それまでは先祖の勲功によって地位が決まっていました。けれど飢饉(ききん)は続くし財政難ですから、何とかそれを解消したいわけですよ。

 藩校でよりすぐった秀才を代官や郡奉行にして使うと、財政改革をやってくれる。それで成功していく。こうすると「富国強兵」が達成できる。

 富国強兵という言い方は、今は明治のこととして小中学校で教えられますが、今から二百年ちょっと前の藩政改革の中で生まれたものです。学校の秀才を官僚に登用し、藩の富国強兵を実現する。この要素に西洋化が加わればもう「明治維新」なわけです。

 最初にこのモデルを作ったのは、どうも肥後藩の宝暦改革だったらしいと近年分かってきて、私もそう主張しています。細川重賢(しげかた)という殿様が登場して、改革に成功する。取った年貢を農業投資に回して、もっと生産量を増やすということを、効率よく行ったのです。それと、住民からの陳情を細かく受け、それに対応して藩費を支出するという近代行政のもとを作った。

 -藩費からの公的な支出が、近世と近代を画する意味があるのですか。

 近世までの社会では、取った年貢は「地代」であって、武士の純然たる私生活に使うものだった。極論では、農民が飢えて死のうが、お金を出す理由はなかったわけです。それが地代ではなく「税」になる。出す代わりに、サービスがあるわけです。

 例えば港の整備や、用水工事を行うだとか。あるいは、住民の生活保護である「お救い(※注)」に回すということが、きめ細かに行われるようになる。お救いは、江戸時代初期は一部の藩にとどまっていました。農業用の牛を買うお金を貸し付ける藩も少数でした。後期になると、ほとんどの藩が行うようになる。

 お救いと同時に、肥後などの藩で始まったのが「殿様祭り」。君主崇拝です。殿様の誕生日に、お酒を飲んだり、祭壇に殿様をまつったりして武運長久を祈るんです。それまで殿様は、領民にとって特別な存在ではなかったのに、神格化されて、領民の心の中に植え込まれていきます。

 江戸時代的な身分制が、学校と官僚制で崩れていく一方で、忠義心を持てば「お救い」という形で福祉が与えられる。これを大々的に展開したのが長州藩でした。これが日本全土に広がれば、もう明治の天皇制そのものです。

 -近代化をもたらした維新は一夜にしてなったのではなく、明治と江戸との間には連続性があるのですね。初回から今回までで磯田さんによる「維新前後の略地図」の一端を伺いました。ありがとうございました。

◇ことば
 ※ お救い…飢饉や洪水、火災などで生活に困窮した人のために、領主が仮住まいの小屋を設けたり、食料を施したりすること。撫民(ぶみん)、救恤(きゅうじゅつ)ということもある。

<変革の源流 歴史学者・磯田道史さんに聞く> (6)高識字率で一気に浮上
日本の近代の歩みを、先月に続いて磯田道史さんに聞きます。(聞き手・中村陽子、清水俊郎)

 -これまでのインタビューでは、維新に至るまでのさまざまな変化、君主崇拝の芽生えや、身分制が廃止されて教育制度が充実した経緯などについてお聞きしました。

 明治維新は、江戸時代から各藩の中で一つずつできた「部品」を組み合わせ、西洋の国のかたちを参考に、日本型のものをつくり上げることで達成しました。一般的には、ペリー来航から大政奉還、榎本武揚らの「蝦夷(えぞ)共和国」の消滅のあたりまでがイメージされますが、これは卵の中で育ったひよこが殻を割る瞬間の話にすぎない。卵の殻の中で起きている変化を見ることが、実は大変重要です。それが分からないと、今後、日本が殻を破り、新しい環境に適応した姿に変わっていくための役には立たないからです。

 -明治維新の「明」と「暗」について、もう少し伺いたいと思います。

 明治は、急速な近代化を成し遂げた上り坂の時代として、明るい側面から語られることが多いですね。では、なぜそれほど「うまく」西洋近代化が進んだのか。要因の一つに、識字率があると考えられます。

 識字率が低すぎると、西洋近代化は難しい。飛行機が一定の速度を超えたら飛び上がるように、識字率がこれだけに達したら近代化が進めやすくなるという「浮上点」があるのです。

 -そもそも何をもって「識字」とするのでしょう。

 ヨーロッパならアルファベット、日本はひらがなを使い、人の名前や地名などを読み書きして、ある程度の意思疎通ができることを基準に置きましょう。近代化の浮上点は、識字者が成人男女の人口の30~40%に達する辺りにあるのではないかと、私は見ています。

 カルロ・チポラ(※注)というイタリアの経済学者が、一八五〇年代のヨーロッパの識字率を調べています。それによると、スウェーデンやノルウェーなど北欧諸国は、識字率がすでに七、八割あるんです。英、独、仏は六~八割。イタリアになると二、三割。ロシアは一割以下という数字です。

 同じ時期、日本はどのくらいの識字率だったかというと、おそらくイタリアの上、ベルギーの下で、四割程度という見積もりです。東アジアでは、日本ほどの識字率に達していた国は、ほかになかったと思われます。覚えやすい仮名文字の存在は大きかったでしょうね。

 -なぜ識字率と近代化が関係してくるのでしょう。

 工業化を進めようとすると、機械を作る知的な頭脳と、取扱説明書に従って機械を操作できるくらいの識字能力は、どうしても必要とされます。江戸時代の終わりに、識字率が四割に達していたことで、日本の近代化はスムーズに進み、多大な富をもたらしました。

 世界を見渡してみると、今の一人あたりのGDP(国内総生産)が高い国は、ことごとく百七十年前の日本よりも識字率が高かった国です。ギリシャなど、当時の識字率が三割なかった国の多くは、今なお苦しんでいます。

◇ことば
 ※ カルロ・チポラ…1922~2000年。イタリア生まれの経済・歴史学者。著書に『読み書きの社会史』『経済史への招待』など。本文中のベルギーの識字率は当時5割ほど。

<変革の源流 歴史学者・磯田道史さんに聞く> (7)武力に頼る集権国家に
-維新の後を「明るい時代」とばかりは言えません。

 日本は明治維新で、非常に強い中央集権国家をつくりました。実は、当時の状況を考えると、そんなかたちになる可能性は低かったんです。大政奉還の時点では、土佐藩ほか、ほとんどの藩は、徳川を新政府に参加させることに反対ではなかった。徳川が参加した形でのゆるやかな分権国家でもよかったんですよ。

 ところが西郷隆盛や大久保利通、木戸孝允らは「それは承知ならん」と。徳川は、親藩・譜代・天領という形で全国の三分の一の地域に影響力を及ぼしていました。つぶさなければ、新しい国家はできない、と考えたんですね。

 -徳川を新政府に受け入れたらどうでしょう。

 大名が各地に点在し、幕府の官僚制が、そのまま日本に残ります。海軍ぐらいは統一し、やがてゆっくりと集権国家に向かうにしても、効率はよくなかったはずです。士族も残ったでしょう。西郷らには、それでは江戸時代と変わらない、という不安があった。だから、やはり武力討幕するという考えに至ります。

 結果として、出来上がったのは、「プロイセン型」の師団と参謀本部があり、いつでも侵略戦争ができるような強い中央集権国家でした。

 -明治維新のころ、その後を見据えていた人はいたのでしょうか。

 吉田松陰です。幕末に獄中でつづった思想書「幽囚録(ゆうしゅうろく)」は、日本のたどる道を示した予言の書とも言える内容です。<蝦夷(北海道)の地を開墾して、諸侯を封じ、隙に乗じてカムチャツカ、オホーツクを奪い、琉球を諭して内地の諸侯同様に参勤させ、朝鮮を攻めて質を取って朝貢させ、北は満州の地を割き取り、南は台湾・ルソンを収め、漸次進取の勢いを示せ>。さまざまな提言をしています。

 当初は、実際に動員計画があったわけではなく、現実味の薄い内容だったかもしれません。でも松下村塾で松陰に学んだ弟子たちは、頭のどこかに、遺言のようにこびり付いていたのだろうと思います。ここに書かれている思想は、明治以後の外交政策に大きく影響しました。北海道開発、琉球処分(※注)、台湾出兵、日韓併合、満州事変、フィリピン占領と、ほぼ予言の通りに進みました。

 -明治の新政府は、ほかにどんな特徴があったのでしょう。

 政権の核を担ったのは、廃藩置県を断行した薩摩と長州、土佐だけなんです。政府直属の軍隊として、一万人弱の御親兵というのを集めました。けれどその半分は、実は薩摩の兵士です。中身を見れば、革命を進めた「お友達」が集まった政府、という印象が否めないわけです。特定藩の出身者による「お友達政治」のことを、学術的には「有司(ゆうし)専制」と言います。

 この「お友達」すなわち「有司」は、自分たちが決定したことを天皇によって権威づけをし、あたかも天皇の命令であるがごとく実行できる体制をつくりました。新政府で一番問題だったのは、この部分です。

 *磯田道史さんに「明治百五十年」について聞くこのシリーズは、三月以降も掲載します。 

◇ことば
 ※ 琉球処分…明治政府が琉球王国を解体し、日本に併合した一連の政策。1872年に琉球藩を設置、79年には沖縄県とした。琉球の士族を中心に強い反対運動があったが、政府は軍隊と警察を派遣して強行した。



会津、明治維新より「戊辰150年」 長州になお遺恨?
 今年は「明治維新150年」を記念する行事が各地で開かれますが、この響きに違和感を持つ人もいます。東北地方など、1868年に起きた戊辰戦争で新政府軍と戦って敗れた藩があった地域に住む人たちです。特に戊辰戦争の激戦地だった旧会津藩では今も遺恨が残っているといわれています。

 旧会津藩の城下町、福島県会津若松市。市内には「維新」ではなく「戊辰150周年」ののぼりが立っています。「維新より戊辰のウエートが大きい」。6代にわたり市内に住む小林輝雄さん(68)は街の雰囲気を語ります。自身は戊辰戦争で敵対した旧長州藩の山口県にわだかまりはありません。ただ政府軍に故郷が踏みにじられた話は祖母らから聞いています。小林さんは「当時を根に持つ人のことも理解できる」といいます。

 会津では少年兵「白虎隊」などを含め2500人以上の兵員が戦死したと伝えられています。会津若松市の教育長を務めた宗像精さん(84)は「戦いに負けただけでなく、『賊軍』の汚名を長く着せられたのが問題だ」と今も憤慨しています。

 賊軍とは政府軍の「官軍」に対する呼び方です。日本思想史を研究する京都造形芸術大学の野口良平さん(50)は「新政府軍が内戦に勝つため用いた『官軍と賊軍』という区分けが、戊辰戦争後も教育などの場に用いられたのが遺恨の要因になった」と分析しています。

 遺恨は解きほぐせないのでしょうか。山口県萩市の内科医、山本貞寿さん(78)は昨年11月に宗像さんを萩市に呼んで講演してもらいました。「会津人の本音を聞くことから始めたい」という思いからです。宗像さんは講演で「史実を考慮すると仲直りはできない」と訴えました。「会津の悲惨な歴史をなかったことにするだけでなく、(1600年の)関ケ原の戦いの雪辱を果たした長州人の思いにも背く」と考えたからです。

 それでも山本さんと宗像さんは「民間の交流を通じて仲良くすることはできる」という認識では一致しています。実際、11年の東日本大震災後には萩市から会津若松市に義援金が届き、両市の高校が共同制作した歌を合唱したこともありました。

 1月22日、両市の関係者が驚く出来事がありました。山口県が地盤の安倍晋三首相が国会での施政方針演説で、会津出身で東京帝国大学の総長になった山川健次郎に触れたのです。山川は白虎隊の出身ながら明治政府に登用され、貧しい若者や女性の教育を後押ししました。

 「首相には『会津は賊軍でなかった』と明言してもらいたい」と宗像さんは期待します。150周年の今年、雪解けは進むでしょうか。

■宗像精・会津藩校日新館館長「歴史を消すことはできない」

 ならぬことはならぬ――。宗像精さん(84)は会津藩校日新館の館長として全国の子どもたちに会津藩士の教えを伝え続けています。安倍首相が年始の演説で言及した元白虎隊士、山川健次郎を顕彰する会の会長も務める宗像さんに、戊辰戦争150年に寄せる思いを聞きました。

 ――2017年11月に旧長州藩の山口県萩市を訪れて講演したそうですね。


「虚言(うそ)をいう事はなりませぬ」など会津の教えを伝え続ける宗像精さん。
 「会津と長州は仲直りはできないが、仲良くはできると訴えた。戊辰戦争で薩長は目的のために手段を選ばず、権謀術数の限りを尽くした。官軍と賊軍という区分けもその中から生まれたこと。結果的に勝った薩長が官軍、負けた会津が賊軍となったが、長州も一時は賊軍だったし、会津が朝敵となったことはない。だから双方とも賊軍などと言ってはいけないのに、会津だけが長く賊軍の汚名を着せられた。そういう歴史の事実を消すことはできない。歴史をなかったことにして握手する仲直りはできない」

 ――それでも仲良くはできるというのはどうしてでしょうか。

 「心ない人間は会津にもいるし、長州にも立派な武士はいた。私が萩を訪れたのは会津人の思いを伝えるためと、山川健次郎の学業を助けた長州藩士の奥平謙輔と前原一誠の墓参りをして感謝するためだ。両氏の子孫は丁寧に出迎えてくれ、萩の人の誠実さと優しさを感じた。恨みつらみばかり言っても仕方ない。会津も長州も一緒に、世界のために貢献していかなければならないときだ。だから仲直りや和解などとは言わず、民間レベルで黙って仲良くしていけばいい」

 ――首相が演説で山川健次郎に言及したことをどう捉えましたか。

 「どういう意図なのかは分からないが、会津人の反響は大きい。150年の節目に際して、安倍首相に『会津は賊軍でなかった、朝敵でもなかった』とぜひ明言してもらいたい」

 ――故郷の歴史はどのように語り継いでいくべきでしょう。

 「私は歴史家ではないが、小学生時代に会津が賊軍だったと教える歴史の教科書を使わされた。親からは『会津は悪くない』と教えれたものだから、どうしても薩長憎しという感情が残った。戦後の教科書からはそのような記述は消えたが『勝てば官軍、負ければ賊軍』という歴史のとらえ方は今も残っている。会津は賊軍ではなかったし、朝敵でもなかった。その歴史的事実が確かめられるのを見届けてから、あの世に行きたい」

(高橋元気)

【会津若松】新選組の歴史物語る資料など300点 会津若松で戊辰150年特別展
 戊辰戦争150年前期特別展「会津・薩摩と新選組~戊辰開戦から上野の戦いまで」は5月末まで、会津若松市七日町の会津新選組記念館で開かれている。

 戊辰戦争開戦から上野の彰義隊の戦いまでの関連資料約300点が展示されている。

 初代会津藩主保科正之が定めた「会津藩家訓」、錦絵版画「京都 禁門(蛤御門)の変」、新選組隊士が使ったとされる鉢金などが並ぶ。

 現在放送中のNHK大河ドラマ「西郷どん」の撮影で使用したスナイドル銃や台本ほか、薩摩藩大隊旗や新政府軍が江戸城に入城する様子を描いた江戸城無血開城・錦絵版画「西城奉還之図」なども展示され、来場者の目を引いている。

 時間は午前10時から午後5時ごろまで。入場料は大人300円、小・中学生200円、未就学児無料。不定休。

 問い合わせは同館(電話0242・22・3049)へ。

戊辰戦争と新潟開港テーマに24日講演会
 新潟市中央区女池南の県立図書館ホールで24日午後1時半~3時、同館の青柳正俊副館長が「戊辰戦争と新潟開港」をテーマに講演する。先着180人で入場無料。同館が定期開催している「ふるさと講座」の一環。来年1月に150周年を迎える新潟港の開港は、戊辰戦争の戦局とともに諸外国の公使や交易商人の思惑が絡み合う中で実現したとされる。青柳氏は当時の状況を振り返りながら、最近になって確認された新事実を紹介する。

 申し込みは、同館の総合案内カウンターやホームページの「イベント申し込みフォーム」で。はがきやファクス(025・284・6832)でも受け付ける。問い合わせは同館業務2課(電)025・284・6001。
幕末の新選組隊士 伊東甲子太郎の肉筆 水戸の男性、京都で入手市歴史博物館に寄託 建言書草稿 「長州藩の寛大処置を」
現在のかすみがうら市出身で、幕末に新選組隊士として活躍した伊東甲子太郎(かしたろう)(1835〜67年)の肉筆史料が3日までに、同市の歴史博物館に寄託された。幕府が長州征伐を進める中「長州藩の寛大処置を」と朝廷に訴える建言書の草稿で、所有者の水戸市の男性の「多くの人に見てもらえれば」という申し出を同館が受け入れた。甲子太郎の肉筆史料は珍しいといい、同館は調査を進めた上で近く一般公開する予定。

草稿は縦約16センチ、横約62センチの和紙に漢文で書かれ、巻物のように巻かれて箱に保管されている。67(慶応3)年8月、親しくしていた公卿(くぎょう)の柳原光愛(みつなる)に宛てた建言書の下書き。所有者の男性が昨年、京都府内の古書店で入手し、12月、同館に「甲子太郎の肉筆ではないか」と連絡。特定の文字の略し方や筆跡を鑑定した結果、1月末に真筆と判明した。

草稿は、尊皇攘夷(じょうい)を掲げた長州藩と幕府軍が京都で戦った蛤御門(はまぐりごもん)の変(64年)を受け、朝敵とされた長州征伐が行われる中、長州が朝廷の支持を受けて国家のために行動したと訴え、寛大な処置をするよう求めている。

文中に「非常寛大」「平常一和」といった言葉が並び、長州を許し、一丸となって国難を乗り切るべきと提言もしている。文末には甲子太郎のほか、新選組高台寺派の斉藤一と藤堂平介、甲子太郎の弟の鈴木三樹三郎らの名前が記されている。

水戸藩学者の藤田東湖が墨の濃淡、文字の強弱を付けて文章を書く「東湖流」の影響が見られるという。

同館の千葉隆司学芸員は「文字を直したり書き加えたりした跡が見られる。建言書はこの後に清書して出されたようだ。清書された原本は見つかっておらず、本当に貴重な史料。散逸せず地元に戻ってきたことで研究も進む」と話した。

甲子太郎は志筑(しづく)藩(現かすみがうら市)に生まれ、13歳で水戸藩で剣術や水戸学を学んだ。江戸に出た後、64年に新選組の隊士募集に応じて合流。京都で活躍するが、長州藩とつながりがあったため、幕府に忠誠を尽くす隊長の近藤勇との間で確執が生まれ、暗殺された。生前、大政奉還後に国家政策の建白書を朝廷に提出したことでも知られる。

同館は3月4日まで、甲子太郎を紹介する企画展を開催している。(綿引正雄)
「近く一般公開」とのことで伊東甲子太郎展開催中に間に合うといいなぁ。
横浜駅に出てくることは滅多にない。買い物があれば都心に行くし、落語関係で行くとすると桜木町の方が(横浜にぎわい座とか神奈川県民ホールがあるので)確率高い。なので、初めての横浜新都市ホール@横浜そごう。ざっと500人は行けそうないいホールですが、パイプイスは腰痛持ちには辛いかも知れない。。
 そして市馬師匠。年末に行くつもりでチケット取っていた歌謡ショー@きゅりあんには右手首骨折入院で行けず、リベンジ。市馬師匠の声で心が浄化されるので、節分立春にはもってこい。

たらちね/市坊
 市馬さん門下の前座さん。市馬さん門下は市楽・市江・市弥・市童と二つ目の兄弟子のクオリティ高い。市坊さんも私にとっては初めてお見かけするお弟子さんだけど「たらちね」はかなりこなれた口演で笑わせてくれた。声質がいい。

厄払い/市馬
 そうか、今日は節分でしたね。節分の厄払いの口上を市馬師匠で聴ける幸せ。
 与太郎が活躍する「厄払い」はライブで聴くの初めて。おじさんに口移しで教えられた口上がまともに言えずとんちんかんな与太郎の口上を楽しみ噺なんだけど、市馬さんの美声を聴くだけで幸せな気分になれる。

転宅/市馬
 中入り前に続いてもう一席。落語界の泥棒といったら間抜けで、雷門の仁王様に踏まれる泥棒の噺から「転宅」。市馬師匠はあまり艶っぽい噺を得意とされないのだけど「転宅」「厩火事」は鉄板です。

粋曲 柳家小春
 初めてです。柳家紫朝さんの弟子で小菊さんや紫文さんの妹弟子筋なんですね。
 今日は都々逸、小唄、端唄、など。「梅は咲いたか」「さのさ」とか好き。

二番煎じ/市馬
 小春さんの相撲甚句を取って市馬流で甚句をひとくさり。また歌舞伎の「三人吉三」のお嬢吉三の名台詞「こいつは春から演技がいいわえ」の解説。
 まぁいろいろあった一年を市馬師匠の名調子で新年に改めさせていただくありがたさ。
 そして「二番煎じ」は「火の用心 さっしゃりましょう」だけでなくあちこちで市馬師匠の美声で楽しめます。寒い冬の夜の夜回り、そして番屋でいただく燗酒と猪鍋。帰りがけ、日本酒の燗で一杯やりたいという声がちらほら。

鳥羽伏見の戦い開戦150年 証言継承目指す 住民ら聞き取り調査 /京都
 戊辰(ぼしん)戦争の端緒となった1868年の鳥羽伏見の戦いから150年の節目を記念し、京都市伏見区の住民らが聞き取り調査などに取り組んでいる。開戦地に近い城南宮(伏見区)も挿絵入りの説明版を設置した。

 鳥羽伏見の戦いは、大政奉還から間もない慶応4年1月、薩摩、長州両藩を主力とする勢力と旧幕府軍が鳥羽や伏見、淀を主戦場に交戦した。伏見区に住む歴史愛好家の井口富夫さん(68)や長男の智史さん(32)らが地元住民や観光関係者らに呼びかけ、2016年に「鳥羽伏見の戦い150年プロジェクト会議」を結成。住民目線から戦いを伝える資料は少ないため、これまで60~90代の約40人にインタビューし、祖父母ら戦いを経験した人から聞いた話を中心にまとめた。

 当時の仕出し屋が薩摩藩と会津藩の兵士に芋や大根、ニンジンの入った雑炊、おにぎりの炊き出しをしたことや、町衆が戦災を逃れるため桓武天皇陵に逃げ込んだことなどのエピソードが集まった。富夫さんは「記憶が断片的であいまいに伝えられている部分もあるが、教科書には出てこない出来事を掘り起こしたい」と話す。3月まで調査を続け、結果を冊子にまとめる。

 また、学生時代から伏見を行き来をしてきた漫画家の越智常子さん(31)=大阪府枚方市=は、伏見の旧市街を題材に絵図にした。2月4日まで伏見区役所で展示している。焼け野原と化した町を描いた絵図では、月桂冠の前身の「笠置屋」に被災者が集まる様子などを描いた。鳥羽周辺を取り上げた絵図も制作中だ。

 薩摩藩が滞在したことで知られる城南宮は、入り口付近に説明板(縦1メートル、横2メートル)を設置した。薩摩兵が参道に大砲を据えて旧幕府軍を待ち受けたことや、戦いの後に明治天皇が城南宮に立ち寄ったことなど、城南宮にまつわる出来事を伝えている。権祢宜(ごんねぎ)の山本弘毅さんは「鳥羽伏見の戦いや明治維新への関心が高まってほしい」と話している。【宮川佐知子】

戊辰の歴史回顧 会津新選組記念館で特別展始まる
 会津新選組記念館の戊辰戦争150年前期特別展「会津・薩摩と新選組」は29日、会津若松市七日町の記念館で始まった。5月末まで。
 1868(慶応4)年の戊辰戦争開戦前後から江戸城無血開城、上野の彰義隊の戦いまでを追う歴史資料約300点を展示している。会津藩家訓、会津藩校日新館の教科書、新選組の鉢金をはじめ、薩摩藩関係の西郷隆盛肖像、洋式陣笠などが紹介されている。NHK大河ドラマ「西郷どん」の台本や撮影スケジュール表なども並ぶ。
 時間は午前10時から午後5時まで。不定休。入館料は高校生以上300円、小中学生200円、未就学児は無料。問い合わせは電話0242(22)3049へ。
 6月以降は後期展として会津戦争に関連する資料などを展示する予定。

( 2018/01/30 10:38 カテゴリー:主要 )
ロゴマークに「二本松少年隊」 二本松市、戊辰150年事業計画
 二本松市戊辰の役150年事業実行委員会(会長・三保恵一市長)は、記念事業のテーマを「信義―貫く想い、今」とし、二本松少年隊を象徴するロゴマークを作った。同市役所で31日に開いた会合で戊辰150年に向けた事業計画などを決めた。

 テーマとロゴマークでは、戊辰戦争で旧幕府軍の要衝として位置付けられ、奥羽越列藩同盟の義、隣藩会津への義を貫き戦火に巻き込まれた二本松藩を表現。武士道や、郷土のために戦い、若い命を散らした木村銃太郎隊長ら少年隊士の雄姿を描いた。

 本年度はテーマとロゴマークを活用したのぼり旗、PRポスター、マグネットステッカー、戊辰めぐりリーフレットを作製。二本松少年隊リーフレットは増刷し、英訳版などを作ってインバウンド(訪日外国人旅行者)に対応する。新年度には「二本松少年隊の灯・煌く霞ケ城(仮称)」「戊辰ゆかりの地めぐりウオーキング」の実施のほか、講演会の開催、会津まつりへの参加などを検討している。

 「二本松少年隊の灯~」は、長年にわたり二本松少年隊の顕彰事業に取り組んでいる、実行委メンバーの二本松青年会議所が提案。隊士らの命日に合わせ、供養塔がある大隣寺からの灯を市民が運び霞ケ城にともす計画。天守台には数多くのキャンドルを配置して「きらめく霞ケ城」を演出する見通し。
戊辰の歴史回顧 会津新選組記念館で特別展始まる
 会津新選組記念館の戊辰戦争150年前期特別展「会津・薩摩と新選組」は29日、会津若松市七日町の記念館で始まった。5月末まで。
 1868(慶応4)年の戊辰戦争開戦前後から江戸城無血開城、上野の彰義隊の戦いまでを追う歴史資料約300点を展示している。会津藩家訓、会津藩校日新館の教科書、新選組の鉢金をはじめ、薩摩藩関係の西郷隆盛肖像、洋式陣笠などが紹介されている。NHK大河ドラマ「西郷どん」の台本や撮影スケジュール表なども並ぶ。
 時間は午前10時から午後5時まで。不定休。入館料は高校生以上300円、小中学生200円、未就学児は無料。問い合わせは電話0242(22)3049へ。
 6月以降は後期展として会津戦争に関連する資料などを展示する予定。

( 2018/01/30 10:38 カテゴリー:主要 )

安倍首相の施政方針演説に「白虎隊」の違和感明治維新を「1億総活躍社会」に結びつけるな
武田 鏡村 : 歴史家
1月22日、安倍晋三首相は施政方針演説の冒頭、会津藩(福島県)の白虎隊(びゃっこたい)出身で東京帝国大学総長を務めた山川健次郎(1854~1931年)を引き合いに出し、「あらゆる日本人にチャンスをつくることで、少子高齢化も克服できる」と1億総活躍社会の実現に意欲を示した。
長州(山口県)出身の安倍首相からすればいわば「敵方」である会津出身者をなぜわざわざ施政方針冒頭で紹介したのか。『薩長史観の正体』の著者である武田鏡村氏に解説していただいた。
まったく「寛容」ではなかった明治新政府
安倍首相は1月22日の施政方針演説を、「150年前、明治という時代が始まったその瞬間を、山川健次郎は、政府軍と戦う白虎隊の一員として、迎えました。しかし、明治政府は、国の未来のために、彼の能力を生かし、活躍のチャンスを開きました」と始めた。

これだけ聞くと、長州と薩摩(鹿児島県)が中心となってつくられた明治新政府は、たいへん寛容で、すばらしい人材登用策を実行したと思われるのではないだろうか。敵方であった会津藩士を許し、平等に活躍のチャンスを与えたのだと……。

しかし、史実はまったく逆である。後に述べるように山川健次郎は例外中の例外であり、ほとんどの会津藩士とその家族たちは極めて重い懲罰を課された。

そしてそれを主導したのは、長州の木戸孝允(桂小五郎)だった。

会津藩は、戊辰戦争で降伏した翌年の明治2年(1869)9月、没収された23万石の代わりに3万石を与えられ、本州北端の下北半島に追いやられた。辺境の地に封じ込めることを強硬に主張したのが木戸孝允である。

木戸は、幕末京都での経緯からか、病的なほどに会津藩士を恐れ忌み嫌い、根絶やしさえも考えていたようである。会津藩側も皆殺しにされることを覚悟していたようで、会津人の血を絶やさぬよう、降伏後の謹慎中、最も優秀な2人の若者を逃がした。このうちの1人が山川健次郎なのである。

一方、会津藩士とその家族たち1万7000人は、下北半島に斗南藩3万石が与えられて移り住んだ。

だが、その地は、寒冷不毛で、実質7000石あるかないかと危ぶまれた。木戸は何が何でも生死にかかわる懲罰を会津藩士に下したかったようである。

薩長閥の中で会津出身者として異端視されながら陸軍大将にまで登りつめた柴五郎は、少年期に斗南藩で悲惨な生活を体験した1人である。

柴家は300石の家禄であったが、斗南では藩からわずかな米が支給されるだけで、それでは足りない。救米に山菜を加えたり、海藻を煮たりするだけでは飽きたらず、馬に食べさせる雑穀など、食べられるものは何でも口にした。

塩漬けにした野良犬を20日も食べ続けたこともあった。最初はのどを通らなかったが、父親から、「武士は戦場では何でも食べるものだ。会津の武士が餓死したとなれば、薩長(さっちょう:薩摩と長州)の下郎(げろう)どもに笑われるぞ」と言われて我慢して口にした。

住まいの小屋には畳はなく、板敷きに藁(わら)を積んで筵(むしろ)を敷いた。破れた障子には、米俵を縄で縛って風を防ぐ。陸奥湾から吹きつける寒風で炉辺でも食べ物は凍りつく。炉辺で藁にもぐって寝るが、少年・五郎は熱病にかかって40日も立つことができず、髪の毛が抜けて、一時はどうなるかわからない病状になった。

こうした困窮の生活で病気になって亡くなる人も少なくなかった。藩の権大参事の山川浩(山川健次郎の兄)は、明治政府や会津の旧庁に救済を願い出たが、はかばかしい結果ではない。「これが天子さまの寛典なのか」といった憤激の声が洩れる。廃藩置県で斗南藩は消滅し、やがて旧会津藩士とその家族は四散していく。

「寛容」とは正反対の、明治政府による「会津処分」であった。

「賊軍」出身者に対する差別
『薩長史観の正体』で詳述したように、武力によって強引に推し進めて勝ち取った明治維新は、薩長側の暴力と強奪、人身毀損の数々の凶行で成り立つものであった。

そうして誕生した明治新政府も、「薩長政府」といわれるように、薩摩と長州の出身者に牛耳られた。当初は、薩摩のほうが力をもっていたが、「西郷どん」の西南戦争で薩摩が賊軍となると、長州のほうが優勢になっていく。長州出身の伊藤博文が初代首相になって以来、長きにわたり首相はほとんど長州と薩摩の出身者で占められている。

ちなみに明治維新150年目の今年、首相は長州出身の安倍晋三だが、50年目は寺内正毅、100年目は佐藤栄作と、節目の年は、すべて長州出身の首相で占められている。

一方、会津など「賊軍」出身者は、政官界で差別され、立身出世の道を閉ざされた。長州陸軍、薩摩海軍といわれるように軍部でも薩長閥は強く、賊軍藩出身者は出世などで差をつけられた。この辺は半藤一利氏と保阪正康氏の対談集『賊軍の昭和史』に詳しいが、賊軍差別の傾向は昭和の時代にまで続いたという。

安倍首相は、施政方針演説での冒頭の言葉の後、山川健次郎が東京帝国大学の総長に登用されたことなどにふれ、「身分、生まれ、貧富の差にかかわらず、チャンスが与えられる。明治という新しい時代~」と、人材活用の面でも優れた時代だと位置づけている。だが、以上のように明治は、「1億総活躍社会」のお手本にするような立派なものではけっしてなかったのである。

にもかかわらず、安倍首相、おそらくは周辺の人たちは、なぜ白虎隊出身の山川健次郎のことをことさら引き合いに出して、強引に明治時代を賛美するようなことを言うのか。

その背景には、今年、「明治維新150年」を迎え、その記念事業に政府が前のめりなことがあるのではないだろうか。

政府は記念事業にたいへん積極的で、内閣官房に「明治150年」関連施策推進室が設けられた。菅義偉官房長官は「大きな節目で、明治の精神に学び、日本の強みを再認識することは重要だ」と述べている。昨年8月には、明治維新150年のロゴを決定したと政府は発表した(選考会座長:佐藤可士和)。安倍首相も、今年1月1日の年頭所感で「本年は、明治維新から150年目の年です」と切り出し、明治維新を賞賛している。


『薩長史観の正体』(書影をクリックすると、アマゾンのサイトにジャンプします)
だが一方で最近は、逆に、明治維新のありように異議を申し立てる書籍が相次いで刊行されている。書店の歴史コーナーでは『明治維新という過ち』『明治維新という幻想』『偽りの明治維新』『明治維新という名の洗脳』『明治維新の正体』『東北を置き去りにした明治維新』といった明治維新に批判的なタイトルが目立つ。

薩摩と長州がつくりあげた歴史観――薩長史観に疑問を投げかける声が大きくなっているのだ(参考:なぜいま、反「薩長史観」本がブームなのか)。1月9日のテレビ朝日「グッド!モーニング」“池上彰のニュース大辞典”でも、薩長史観に異議を唱える本がよく売れていると報道されていた。

このような状況下では、政府もさぞや「明治維新150年記念事業」をやりにくかろう。

「薩長史観」に異をとなえた山川健次郎
そこで、会津藩の白虎隊出身でありながら、会津藩士・秋月悌次郎と親交のあった長州藩士・奥平謙輔に預けられ、後に国費留学生に選ばれて東京帝大総長にまで登りつめた山川健次郎のことを、ことさらに引き合いに出したのではないだろうか。

そして、人材登用にも公平な、すばらしい「明治」と美しく飾り立てようとするのではないか。

確かに長州藩士でありながら彼を預かった奥平のことは高く評価すべきだろう。だが、こうしたことはごくごくまれな例外であり、会津藩やその他賊軍とされた側には多くの血涙史があったことを忘れてはいけない。

山川自身も、後に兄・浩が残した『京都守護職始末』を完成させ、天皇に忠義を尽くした幕末会津藩の立場を明らかにした。薩長史観に異論を唱える嚆矢(こうし)となったのである。

明治維新とそれに続く明治は、安倍首相が施政方針演説で述べたような美談だけで済ませられるものではないのだ。
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