新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
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歴史学者の磯田道史さんのインタビューが東京新聞に掲載されていましたので、ご紹介します。明治維新というか維新を契機とする近代国家化はどう進んでいたのか、萌芽がどこにあったか、「戊辰百五十年」をむしろ言っている私も同意できるような内容です。
<変革の源流 歴史学者・磯田道史さんに聞く> (1)維新がもたらしたもの
<変革の源流 歴史学者・磯田道史さんに聞く> (6)高識字率で一気に浮上
<変革の源流 歴史学者・磯田道史さんに聞く> (7)武力に頼る集権国家に
<変革の源流 歴史学者・磯田道史さんに聞く> (1)維新がもたらしたもの
日本が近代国家として歩み始めた明治元年から、ちょうど百五十年。『「司馬遼太郎」で学ぶ日本史』などの著書で知られる歴史学者の磯田道史さん(47)に明治維新から大正、昭和、平成への時代のつながりを聞いた。(聞き手・中村陽子、清水俊郎)<変革の源流 歴史学者・磯田道史さんに聞く> (2)司馬作品と史実のズレ
-はじめに、「明治百五十年」について、あるいは明治維新について、どうお考えですか。
私は今年のNHK大河ドラマ「西郷(せご)どん」の時代考証を担当しています。歴史家として逸話を出していくわけですが、引き受ける時から、明治をひたすら明るい側面からだけ描くつもりはありませんでした。
明治維新が、日本の社会にとって大きな変化、断絶であったことは事実です。節目を祝う立場ももちろんあるでしょうが、考え直す立場もあってよい。この機に、今に至る歴史のきっかけを見つめたらいいのではないかと思います。
-それではまず、明治という時代の「明るい側面」から伺いましょう。
たとえばこんなことを考えてみます。明治維新によって、私の家系である「磯田家」は得したのだろうか、損したのだろうか。私は、小さい頃は、すごく損したと思っていたんです。そりゃそうでしょう。先祖の家は、岡山藩の百二十石取りのお侍さんで、領地がありました。自宅は保証され、自動的に参政権どころか、執政権まである。それが全部とられて、すっからかんになったんですから。
でも、いや待てよ、と、もう少し考える。もし私が江戸時代に生まれて、歴史学者になりたかったら、家を出て廃嫡(はいちゃく)(※注1)してもらわないと、なれなかった。
当時の人たちは、商売をして楽しく暮らそうとか、天下を取ろうと思っても、思ったようにはできなかったわけですよ。でも今は、何をやってもいいですよね。江戸時代の身分制がなくなり、そういう個人の生き方の自由度が格段にあがりました。
-しかし、明治に起きた変化によって、消えていった文化があります。
私から見ると、今年は明治から百五十年であるのと同時に、江戸消滅から百五十年だという感覚があります。「江戸百五十回忌」とでもいいましょうか。この側面も、忘れてはいけないと思いますね。江戸の中にあったいいもの、明治維新によって失われてしまったものをよく認識する必要がある。悪いところもいっぱいあった社会ですけれども、学ぶべきところはたくさんありますから。
日本は、維新で多様性を失ったともいえるのです。江戸時代には、藩によって重視する政策が異なり、身分制度の中にあっても、特徴に応じたさまざまな人材を出していました。今でいうダイバーシティですね。
軍隊をつくる際も、当初は陸軍はフランスに、海軍はイギリスに学ぶというような多様性がありましたが、やがて国家のモデルをプロイセン・ドイツ型に統一します。だって「富国強兵」という国家目標に沿ったものを上から注入するという形で、効率よく変えるわけですから。雑木林のように豊かだったものを、一回崩れたら倒れやすい杉林のようにして、一気に西洋化を進めていきました。
-維新で失った文化がある一方、現代まで根強く残る旧弊もあります。
敗戦で完全に破壊されて、さらに自由な社会にはなったわけですが、現代に至っても、日本人の根っこの部分には、世襲での経路依存の体質がありますね。経路は来し方という意味です。会社などの組織でも、長く居る人に絶大な信頼を置くでしょう。たとえば入って三日で社長になる、というような例はほとんど聞かない。本当は社の外に、もっと会社を発展させる人材がいるかもしれないのに。働く人も、長く勤めていれば、当然偉くさせてもらえるという考えが、頭から離れていないですよね。
-ドラマ「西郷どん」では、どのような歴史認識をベースに監修を?
西郷隆盛は、明治維新に理想を持っていたけれど、最後は下野して、西南戦争(※2)で死にます。維新の暗い面、良くなかった面でもって、彼の人生は完結しているわけです。ひょっとしたら、後になって「こんなはずではなかった」と思っていたかもしれません。明治維新で政府に入った人が世襲を始めて、利権を分け取りにする。新政府のメンバーは破格の年収。一部の華族には、貴族院の議席まで世襲させるというのです。
「四民平等」を掲げていたはずなのに、自分たちはどうして、議会の議席が世襲されるような制度を作る結果になってしまったのか。日露戦争の後には、百人もの人が爵位を授けられました。そういう政府ですから、結局、軍部の暴走を抑えられず、華族という制度そのものがなくなります。
明治維新は、効率よく近代化、西洋化を進めるという面では非常に「うまく」働いた。中には特権を維持し続ける人もいましたが、個々人の選択を増やすという面でもいいふうに働いた。一方でそれは、植民地を持つことにつながり、東アジア諸国から恨みを買う帰結を迎えました。
◇ことば
※1 廃嫡…家督の相続人の相続権を失わせること。
※2 西南戦争…1877年2~9月、鹿児島の士族らが起こした反政府の反乱。征韓論を巡る政変で下野した西郷隆盛が中心となった。
<いそだ・みちふみ> 1970年、岡山市生まれ。国際日本文化研究センター准教授。慶応義塾大大学院文学研究科博士課程修了。博士(史学)。専門は日本史、社会経済史。著書に『武士の家計簿』『無私の日本人』『「司馬遼太郎」で学ぶ日本史』など。
-現代の日本人が、明治維新と明治時代に抱く歴史認識は、国民作家である司馬遼太郎さんの作品が影響していそうです。小説が伝える歴史は、史実とは少しズレていると指摘されることもありますが、どう捉えればいいのでしょう。<変革の源流 歴史学者・磯田道史さんに聞く> (3)維新はどう芽生えたか
幕末の長州藩の吉田松陰や高杉晋作たちを描いた『世に棲(す)む日日』、薩摩藩から輩出した群像の物語『翔(と)ぶが如(ごと)く』…。これら司馬さんの作品から、歴史の流れを知る人も多いでしょう。史実に近いものもあれば、史実から遠めになっているものもあります。
時代が早いほど、資料が少ないので想像の部分が多いですし、セリフの多くは架空のものです。読者は、それを歴史上の人物が実際に言ったと理解してしまうことがあるわけです。しかし、言ってもおかしくないことが書き込んであるから、分かりやすくなる。
司馬文学は、地図に似ていると私は思っています。地形を表すものとしては、航空写真が一番正確なはずですが、われわれは、写真をそのまま渡されても、目的地までの道はよく分からない。略地図を持って歩くほうがよっぽど歩きやすい。つまり司馬作品は「歴史の略地図」なんです。
実際は長い道が短く書いてあったり、逆もあったりする。現実を理解しやすくした「時代の略地図」だと知った上で読む必要がある。それが「司馬リテラシー(読解力)」だと思うんですよね。
もう一つ言えるのは、司馬さんが『竜馬がゆく』や『坂の上の雲』を書いたのは、今からだいたい五十年前。「明治百年」だった当時と今を比べると、歴史学の認識が進んでいます。さっきの例えで言えば、これまで航空写真が撮られていなかったところも撮影されて、新たな図面が出てきている。そういう部分も意識しておくといいですね。
-研究によって歴史の空白が埋まり、新しい認識、見方ができているということですね。
たとえば明治維新への動きは、司馬さんが小説で書いたよりずっと早くから、いろいろな藩で見られることが分かっています。
司馬さんの時代には、ペリーの来航がきっかけで日本が変わったように語られていました。だからペリーがエイリアン(異星人)のように急に来たと認識している人が多いと思います。でもその後の研究でみると、それは違うんです。
西洋の船は、一八〇〇年を過ぎるとしばしば日本近海へ現れるようになる。水戸、薩摩…。特に外洋に面している藩は、十分に外国の危機を感じていたはずです。
一八二〇年代になると、三角マストの西洋帆船が普通に報告されるようになります。薩摩藩の場合、トカラ列島の宝島で、英国の捕鯨船と交戦状態になります。同時期に、水戸藩にも捕鯨船がやってきています。
-いくつかの藩では、ペリー来航以前から、すでに外国の危機を感じる経験をしていたのですね。<変革の源流 歴史学者・磯田道史さんに聞く> (4)教育・行政 近代化の原点
一七〇〇年代末に、ロシアで暮らした大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)(※注)もいました。帰国してロシア人の格好で徳川将軍に会うわけです。その後は今の靖国神社(東京都千代田区)の場所にあった薬草園に隔離して住まわされるのですが、自由に人とは面会する。好奇心が強い学者たちと交流して、ロシアや西洋の知識をたくさん語りました。
そんなこともあって一八二〇年ごろには、分かる人たちは、もう十分に外国の危機を感じていた。洋学を初期に学んだ学者は、西洋列強が強大な海軍を持っていることを、数量も含めて示しています。
列強は早晩やってくる。日本じゃかなわないような海軍力と、新式の武器も持っている。対処するには日本が藩でバラバラに分かれていたんじゃ話にならないから、オールジャパンで一致結束し、外国の侵略に対処しなければならない…。だから海軍をつくり、統一の指揮下に入れる。そういう意識が生まれてきます。明治維新への一本の道になっていくわけです。
-そこから「他国を侵略する」という発想もでてきたのでしょうか。
これは一八七〇年ごろに開発されたライフル銃とも関係があります。
ここで皆さんに考えていただきたい。西洋人が火縄銃を発明したのは五百年以上前。フランシスコ・ザビエルが日本に来た時にはもう火縄銃があったのに、アジアが西洋の完全な植民地になったかというと、なっていません。他の国を支配することは、火縄銃では無理なんですね。
それはなぜか。一分に二発しか発射できず、百五十メートル離れると、厚手の服を着ていればけがをしない武器だからです。けれどライフルは射程が五百メートルに伸び、さらに連発式が発明される。大砲に応用され、人間をなぎ倒すものになる。
-武器の変化が、社会のありようを変えたのでしょうか。
戦争のやり方が、大量に庶民を徴兵し、ライフル銃の訓練をして、戦場で相手を圧倒する方法になっていきます。国同士で争い、別の地域を植民地として支配する体制ができ上がります。
日本もこれに加わるのか、やられる側に回るのかという二者択一が迫られるわけです。日本は、国民国家をつくって植民地を増やす方向に、かじを切ることになりました。
ちなみに、庶民の参政権の歴史も、武器の変化がつくったといってもいいと私は思っています。徴兵された兵士は政治への参加を求めるようになるので、男性による「民主国家」ができあがります。やがて「銃後の守り」も重要になる物量の戦いになると、工場に徴用される女性も政治参加するようになっていきます。 *次回は9日に掲載します。
◇ことば
※ 大黒屋光太夫…1751~1828年。伊勢国(現在の三重県)生まれの船頭。江戸へ向かう回船が暴風で遭難。ロシア領に漂着し、10年近く過ごした後、帰国した。井上靖、吉村昭らの小説でも有名。
-明治維新により、日本は一気に近代化しました。急速な近代化はどのように始まったのでしょう。<変革の源流 歴史学者・磯田道史さんに聞く> (5)税の概念、富国強兵の礎
そもそも明治維新とは何か、という点から、もう一度考えてみましょう。達成されたことの一つは、江戸時代の身分制が壊れたこと。世襲制を廃止し、学校で勉強ができる人を官僚や軍人にして国家が運営されるようになりました。もう一つは徳川の「公儀」という武家の政府に替わり、新しく「天皇の政府」を作ったこと。その下で富国強兵、つまり工業化と軍事化を進めた。背景には、他国に植民地化されずに独立を保ち、うまくすれば植民地を持つ側に回る、という政治課題がありました。
これらの要素で分けて、それぞれ出発点を説明しましょう。つまり、天皇がまつりあげられたのはいつからか、学校や官僚制度が形作られたのはいつごろか。そもそも西洋をモデルに国造りをするという発想はどのようにでてきたのか…。
最初に全体的なことを言うと、だいたい一七八〇年ごろの「田沼時代(※注)」ぐらいから芽が見られます。司馬遼太郎さんが小説を書かれていたころの一般的な認識と比べると、かなり早くから息吹があったというのが、近年の歴史学の研究成果です。
まず、天皇を日本の中心にまつりあげるという点では、田沼時代のさらに前から芽がある。一七〇〇年より前、だいたい元禄のころでしょう。水戸光圀の「大日本史」などの中で、日本の中心は天皇であると書かれ、「大陸の中国より自分たちの方が忠義・孝行においては尊いのだ」という考えが、頭をもたげてきます。
田沼時代になると、浅草でつじ講釈師が、こうした内容を語って、庶民は喜んで聴いていました。将軍様の国ではあるけれど、本来は天皇の国で、これが長く続いているから自分たちの国は世界で一番優れているのだ、という考え方が、しだいに広がっていきます。
-天皇が中心となる社会を受け入れる思想的な素地ができていたんですね。
けれど現実には、江戸時代の幕府が無力で使い物にならないという認識がないと、明治維新の方向には変わりません。そのきっかけになったものは二つありました。一番大きなものが外国からの危機、もう一つは飢饉(ききん)のたびに財政力を悪化させていた国内政治。内憂外患、内への憂いと外への患いですね。
そこで薩摩や長州、肥前藩では何を始めたかというと、自分の藩の学校です。従来、藩学自体がないか、自由登校であったのを、出席を藩士に義務化するところが出てきます。
長州の場合は、学校の成績を月に数回、藩主に報告し、出世に関わるようにした。肥前などでは、成績が悪いと、親の禄(ろく)を相続する時に大幅に減らされる。そりゃあ必死で勉強しますよ。公職につけるかどうかも、藩校の成績が参考になる。やがて身分によらず、勉強のできる人が尊敬されるようになっていきます。
◇ことば
※ 田沼時代…江戸中期、田沼意次(おきつぐ)が十代将軍徳川家治の側用人・老中となって権勢をふるい、大きな影響力を持った時代。
-藩校開設などで各藩に一種の「実力主義」が導入されたのですね。
その通り。それまでは先祖の勲功によって地位が決まっていました。けれど飢饉(ききん)は続くし財政難ですから、何とかそれを解消したいわけですよ。
藩校でよりすぐった秀才を代官や郡奉行にして使うと、財政改革をやってくれる。それで成功していく。こうすると「富国強兵」が達成できる。
富国強兵という言い方は、今は明治のこととして小中学校で教えられますが、今から二百年ちょっと前の藩政改革の中で生まれたものです。学校の秀才を官僚に登用し、藩の富国強兵を実現する。この要素に西洋化が加わればもう「明治維新」なわけです。
最初にこのモデルを作ったのは、どうも肥後藩の宝暦改革だったらしいと近年分かってきて、私もそう主張しています。細川重賢(しげかた)という殿様が登場して、改革に成功する。取った年貢を農業投資に回して、もっと生産量を増やすということを、効率よく行ったのです。それと、住民からの陳情を細かく受け、それに対応して藩費を支出するという近代行政のもとを作った。
-藩費からの公的な支出が、近世と近代を画する意味があるのですか。
近世までの社会では、取った年貢は「地代」であって、武士の純然たる私生活に使うものだった。極論では、農民が飢えて死のうが、お金を出す理由はなかったわけです。それが地代ではなく「税」になる。出す代わりに、サービスがあるわけです。
例えば港の整備や、用水工事を行うだとか。あるいは、住民の生活保護である「お救い(※注)」に回すということが、きめ細かに行われるようになる。お救いは、江戸時代初期は一部の藩にとどまっていました。農業用の牛を買うお金を貸し付ける藩も少数でした。後期になると、ほとんどの藩が行うようになる。
お救いと同時に、肥後などの藩で始まったのが「殿様祭り」。君主崇拝です。殿様の誕生日に、お酒を飲んだり、祭壇に殿様をまつったりして武運長久を祈るんです。それまで殿様は、領民にとって特別な存在ではなかったのに、神格化されて、領民の心の中に植え込まれていきます。
江戸時代的な身分制が、学校と官僚制で崩れていく一方で、忠義心を持てば「お救い」という形で福祉が与えられる。これを大々的に展開したのが長州藩でした。これが日本全土に広がれば、もう明治の天皇制そのものです。
-近代化をもたらした維新は一夜にしてなったのではなく、明治と江戸との間には連続性があるのですね。初回から今回までで磯田さんによる「維新前後の略地図」の一端を伺いました。ありがとうございました。
◇ことば
※ お救い…飢饉や洪水、火災などで生活に困窮した人のために、領主が仮住まいの小屋を設けたり、食料を施したりすること。撫民(ぶみん)、救恤(きゅうじゅつ)ということもある。
<変革の源流 歴史学者・磯田道史さんに聞く> (6)高識字率で一気に浮上
日本の近代の歩みを、先月に続いて磯田道史さんに聞きます。(聞き手・中村陽子、清水俊郎)
-これまでのインタビューでは、維新に至るまでのさまざまな変化、君主崇拝の芽生えや、身分制が廃止されて教育制度が充実した経緯などについてお聞きしました。
明治維新は、江戸時代から各藩の中で一つずつできた「部品」を組み合わせ、西洋の国のかたちを参考に、日本型のものをつくり上げることで達成しました。一般的には、ペリー来航から大政奉還、榎本武揚らの「蝦夷(えぞ)共和国」の消滅のあたりまでがイメージされますが、これは卵の中で育ったひよこが殻を割る瞬間の話にすぎない。卵の殻の中で起きている変化を見ることが、実は大変重要です。それが分からないと、今後、日本が殻を破り、新しい環境に適応した姿に変わっていくための役には立たないからです。
-明治維新の「明」と「暗」について、もう少し伺いたいと思います。
明治は、急速な近代化を成し遂げた上り坂の時代として、明るい側面から語られることが多いですね。では、なぜそれほど「うまく」西洋近代化が進んだのか。要因の一つに、識字率があると考えられます。
識字率が低すぎると、西洋近代化は難しい。飛行機が一定の速度を超えたら飛び上がるように、識字率がこれだけに達したら近代化が進めやすくなるという「浮上点」があるのです。
-そもそも何をもって「識字」とするのでしょう。
ヨーロッパならアルファベット、日本はひらがなを使い、人の名前や地名などを読み書きして、ある程度の意思疎通ができることを基準に置きましょう。近代化の浮上点は、識字者が成人男女の人口の30~40%に達する辺りにあるのではないかと、私は見ています。
カルロ・チポラ(※注)というイタリアの経済学者が、一八五〇年代のヨーロッパの識字率を調べています。それによると、スウェーデンやノルウェーなど北欧諸国は、識字率がすでに七、八割あるんです。英、独、仏は六~八割。イタリアになると二、三割。ロシアは一割以下という数字です。
同じ時期、日本はどのくらいの識字率だったかというと、おそらくイタリアの上、ベルギーの下で、四割程度という見積もりです。東アジアでは、日本ほどの識字率に達していた国は、ほかになかったと思われます。覚えやすい仮名文字の存在は大きかったでしょうね。
-なぜ識字率と近代化が関係してくるのでしょう。
工業化を進めようとすると、機械を作る知的な頭脳と、取扱説明書に従って機械を操作できるくらいの識字能力は、どうしても必要とされます。江戸時代の終わりに、識字率が四割に達していたことで、日本の近代化はスムーズに進み、多大な富をもたらしました。
世界を見渡してみると、今の一人あたりのGDP(国内総生産)が高い国は、ことごとく百七十年前の日本よりも識字率が高かった国です。ギリシャなど、当時の識字率が三割なかった国の多くは、今なお苦しんでいます。
◇ことば
※ カルロ・チポラ…1922~2000年。イタリア生まれの経済・歴史学者。著書に『読み書きの社会史』『経済史への招待』など。本文中のベルギーの識字率は当時5割ほど。
<変革の源流 歴史学者・磯田道史さんに聞く> (7)武力に頼る集権国家に
-維新の後を「明るい時代」とばかりは言えません。
日本は明治維新で、非常に強い中央集権国家をつくりました。実は、当時の状況を考えると、そんなかたちになる可能性は低かったんです。大政奉還の時点では、土佐藩ほか、ほとんどの藩は、徳川を新政府に参加させることに反対ではなかった。徳川が参加した形でのゆるやかな分権国家でもよかったんですよ。
ところが西郷隆盛や大久保利通、木戸孝允らは「それは承知ならん」と。徳川は、親藩・譜代・天領という形で全国の三分の一の地域に影響力を及ぼしていました。つぶさなければ、新しい国家はできない、と考えたんですね。
-徳川を新政府に受け入れたらどうでしょう。
大名が各地に点在し、幕府の官僚制が、そのまま日本に残ります。海軍ぐらいは統一し、やがてゆっくりと集権国家に向かうにしても、効率はよくなかったはずです。士族も残ったでしょう。西郷らには、それでは江戸時代と変わらない、という不安があった。だから、やはり武力討幕するという考えに至ります。
結果として、出来上がったのは、「プロイセン型」の師団と参謀本部があり、いつでも侵略戦争ができるような強い中央集権国家でした。
-明治維新のころ、その後を見据えていた人はいたのでしょうか。
吉田松陰です。幕末に獄中でつづった思想書「幽囚録(ゆうしゅうろく)」は、日本のたどる道を示した予言の書とも言える内容です。<蝦夷(北海道)の地を開墾して、諸侯を封じ、隙に乗じてカムチャツカ、オホーツクを奪い、琉球を諭して内地の諸侯同様に参勤させ、朝鮮を攻めて質を取って朝貢させ、北は満州の地を割き取り、南は台湾・ルソンを収め、漸次進取の勢いを示せ>。さまざまな提言をしています。
当初は、実際に動員計画があったわけではなく、現実味の薄い内容だったかもしれません。でも松下村塾で松陰に学んだ弟子たちは、頭のどこかに、遺言のようにこびり付いていたのだろうと思います。ここに書かれている思想は、明治以後の外交政策に大きく影響しました。北海道開発、琉球処分(※注)、台湾出兵、日韓併合、満州事変、フィリピン占領と、ほぼ予言の通りに進みました。
-明治の新政府は、ほかにどんな特徴があったのでしょう。
政権の核を担ったのは、廃藩置県を断行した薩摩と長州、土佐だけなんです。政府直属の軍隊として、一万人弱の御親兵というのを集めました。けれどその半分は、実は薩摩の兵士です。中身を見れば、革命を進めた「お友達」が集まった政府、という印象が否めないわけです。特定藩の出身者による「お友達政治」のことを、学術的には「有司(ゆうし)専制」と言います。
この「お友達」すなわち「有司」は、自分たちが決定したことを天皇によって権威づけをし、あたかも天皇の命令であるがごとく実行できる体制をつくりました。新政府で一番問題だったのは、この部分です。
*磯田道史さんに「明治百五十年」について聞くこのシリーズは、三月以降も掲載します。
◇ことば
※ 琉球処分…明治政府が琉球王国を解体し、日本に併合した一連の政策。1872年に琉球藩を設置、79年には沖縄県とした。琉球の士族を中心に強い反対運動があったが、政府は軍隊と警察を派遣して強行した。
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会津、明治維新より「戊辰150年」 長州になお遺恨?
【会津若松】新選組の歴史物語る資料など300点 会津若松で戊辰150年特別展
戊辰戦争と新潟開港テーマに24日講演会
今年は「明治維新150年」を記念する行事が各地で開かれますが、この響きに違和感を持つ人もいます。東北地方など、1868年に起きた戊辰戦争で新政府軍と戦って敗れた藩があった地域に住む人たちです。特に戊辰戦争の激戦地だった旧会津藩では今も遺恨が残っているといわれています。
旧会津藩の城下町、福島県会津若松市。市内には「維新」ではなく「戊辰150周年」ののぼりが立っています。「維新より戊辰のウエートが大きい」。6代にわたり市内に住む小林輝雄さん(68)は街の雰囲気を語ります。自身は戊辰戦争で敵対した旧長州藩の山口県にわだかまりはありません。ただ政府軍に故郷が踏みにじられた話は祖母らから聞いています。小林さんは「当時を根に持つ人のことも理解できる」といいます。
会津では少年兵「白虎隊」などを含め2500人以上の兵員が戦死したと伝えられています。会津若松市の教育長を務めた宗像精さん(84)は「戦いに負けただけでなく、『賊軍』の汚名を長く着せられたのが問題だ」と今も憤慨しています。
賊軍とは政府軍の「官軍」に対する呼び方です。日本思想史を研究する京都造形芸術大学の野口良平さん(50)は「新政府軍が内戦に勝つため用いた『官軍と賊軍』という区分けが、戊辰戦争後も教育などの場に用いられたのが遺恨の要因になった」と分析しています。
遺恨は解きほぐせないのでしょうか。山口県萩市の内科医、山本貞寿さん(78)は昨年11月に宗像さんを萩市に呼んで講演してもらいました。「会津人の本音を聞くことから始めたい」という思いからです。宗像さんは講演で「史実を考慮すると仲直りはできない」と訴えました。「会津の悲惨な歴史をなかったことにするだけでなく、(1600年の)関ケ原の戦いの雪辱を果たした長州人の思いにも背く」と考えたからです。
それでも山本さんと宗像さんは「民間の交流を通じて仲良くすることはできる」という認識では一致しています。実際、11年の東日本大震災後には萩市から会津若松市に義援金が届き、両市の高校が共同制作した歌を合唱したこともありました。
1月22日、両市の関係者が驚く出来事がありました。山口県が地盤の安倍晋三首相が国会での施政方針演説で、会津出身で東京帝国大学の総長になった山川健次郎に触れたのです。山川は白虎隊の出身ながら明治政府に登用され、貧しい若者や女性の教育を後押ししました。
「首相には『会津は賊軍でなかった』と明言してもらいたい」と宗像さんは期待します。150周年の今年、雪解けは進むでしょうか。
■宗像精・会津藩校日新館館長「歴史を消すことはできない」
ならぬことはならぬ――。宗像精さん(84)は会津藩校日新館の館長として全国の子どもたちに会津藩士の教えを伝え続けています。安倍首相が年始の演説で言及した元白虎隊士、山川健次郎を顕彰する会の会長も務める宗像さんに、戊辰戦争150年に寄せる思いを聞きました。
――2017年11月に旧長州藩の山口県萩市を訪れて講演したそうですね。
「虚言(うそ)をいう事はなりませぬ」など会津の教えを伝え続ける宗像精さん。
「会津と長州は仲直りはできないが、仲良くはできると訴えた。戊辰戦争で薩長は目的のために手段を選ばず、権謀術数の限りを尽くした。官軍と賊軍という区分けもその中から生まれたこと。結果的に勝った薩長が官軍、負けた会津が賊軍となったが、長州も一時は賊軍だったし、会津が朝敵となったことはない。だから双方とも賊軍などと言ってはいけないのに、会津だけが長く賊軍の汚名を着せられた。そういう歴史の事実を消すことはできない。歴史をなかったことにして握手する仲直りはできない」
――それでも仲良くはできるというのはどうしてでしょうか。
「心ない人間は会津にもいるし、長州にも立派な武士はいた。私が萩を訪れたのは会津人の思いを伝えるためと、山川健次郎の学業を助けた長州藩士の奥平謙輔と前原一誠の墓参りをして感謝するためだ。両氏の子孫は丁寧に出迎えてくれ、萩の人の誠実さと優しさを感じた。恨みつらみばかり言っても仕方ない。会津も長州も一緒に、世界のために貢献していかなければならないときだ。だから仲直りや和解などとは言わず、民間レベルで黙って仲良くしていけばいい」
――首相が演説で山川健次郎に言及したことをどう捉えましたか。
「どういう意図なのかは分からないが、会津人の反響は大きい。150年の節目に際して、安倍首相に『会津は賊軍でなかった、朝敵でもなかった』とぜひ明言してもらいたい」
――故郷の歴史はどのように語り継いでいくべきでしょう。
「私は歴史家ではないが、小学生時代に会津が賊軍だったと教える歴史の教科書を使わされた。親からは『会津は悪くない』と教えれたものだから、どうしても薩長憎しという感情が残った。戦後の教科書からはそのような記述は消えたが『勝てば官軍、負ければ賊軍』という歴史のとらえ方は今も残っている。会津は賊軍ではなかったし、朝敵でもなかった。その歴史的事実が確かめられるのを見届けてから、あの世に行きたい」
(高橋元気)
【会津若松】新選組の歴史物語る資料など300点 会津若松で戊辰150年特別展
戊辰戦争150年前期特別展「会津・薩摩と新選組~戊辰開戦から上野の戦いまで」は5月末まで、会津若松市七日町の会津新選組記念館で開かれている。
戊辰戦争開戦から上野の彰義隊の戦いまでの関連資料約300点が展示されている。
初代会津藩主保科正之が定めた「会津藩家訓」、錦絵版画「京都 禁門(蛤御門)の変」、新選組隊士が使ったとされる鉢金などが並ぶ。
現在放送中のNHK大河ドラマ「西郷どん」の撮影で使用したスナイドル銃や台本ほか、薩摩藩大隊旗や新政府軍が江戸城に入城する様子を描いた江戸城無血開城・錦絵版画「西城奉還之図」なども展示され、来場者の目を引いている。
時間は午前10時から午後5時ごろまで。入場料は大人300円、小・中学生200円、未就学児無料。不定休。
問い合わせは同館(電話0242・22・3049)へ。
戊辰戦争と新潟開港テーマに24日講演会
新潟市中央区女池南の県立図書館ホールで24日午後1時半~3時、同館の青柳正俊副館長が「戊辰戦争と新潟開港」をテーマに講演する。先着180人で入場無料。同館が定期開催している「ふるさと講座」の一環。来年1月に150周年を迎える新潟港の開港は、戊辰戦争の戦局とともに諸外国の公使や交易商人の思惑が絡み合う中で実現したとされる。青柳氏は当時の状況を振り返りながら、最近になって確認された新事実を紹介する。
申し込みは、同館の総合案内カウンターやホームページの「イベント申し込みフォーム」で。はがきやファクス(025・284・6832)でも受け付ける。問い合わせは同館業務2課(電)025・284・6001。
幕末の新選組隊士 伊東甲子太郎の肉筆 水戸の男性、京都で入手市歴史博物館に寄託 建言書草稿 「長州藩の寛大処置を」
現在のかすみがうら市出身で、幕末に新選組隊士として活躍した伊東甲子太郎(かしたろう)(1835〜67年)の肉筆史料が3日までに、同市の歴史博物館に寄託された。幕府が長州征伐を進める中「長州藩の寛大処置を」と朝廷に訴える建言書の草稿で、所有者の水戸市の男性の「多くの人に見てもらえれば」という申し出を同館が受け入れた。甲子太郎の肉筆史料は珍しいといい、同館は調査を進めた上で近く一般公開する予定。「近く一般公開」とのことで伊東甲子太郎展開催中に間に合うといいなぁ。
草稿は縦約16センチ、横約62センチの和紙に漢文で書かれ、巻物のように巻かれて箱に保管されている。67(慶応3)年8月、親しくしていた公卿(くぎょう)の柳原光愛(みつなる)に宛てた建言書の下書き。所有者の男性が昨年、京都府内の古書店で入手し、12月、同館に「甲子太郎の肉筆ではないか」と連絡。特定の文字の略し方や筆跡を鑑定した結果、1月末に真筆と判明した。
草稿は、尊皇攘夷(じょうい)を掲げた長州藩と幕府軍が京都で戦った蛤御門(はまぐりごもん)の変(64年)を受け、朝敵とされた長州征伐が行われる中、長州が朝廷の支持を受けて国家のために行動したと訴え、寛大な処置をするよう求めている。
文中に「非常寛大」「平常一和」といった言葉が並び、長州を許し、一丸となって国難を乗り切るべきと提言もしている。文末には甲子太郎のほか、新選組高台寺派の斉藤一と藤堂平介、甲子太郎の弟の鈴木三樹三郎らの名前が記されている。
水戸藩学者の藤田東湖が墨の濃淡、文字の強弱を付けて文章を書く「東湖流」の影響が見られるという。
同館の千葉隆司学芸員は「文字を直したり書き加えたりした跡が見られる。建言書はこの後に清書して出されたようだ。清書された原本は見つかっておらず、本当に貴重な史料。散逸せず地元に戻ってきたことで研究も進む」と話した。
甲子太郎は志筑(しづく)藩(現かすみがうら市)に生まれ、13歳で水戸藩で剣術や水戸学を学んだ。江戸に出た後、64年に新選組の隊士募集に応じて合流。京都で活躍するが、長州藩とつながりがあったため、幕府に忠誠を尽くす隊長の近藤勇との間で確執が生まれ、暗殺された。生前、大政奉還後に国家政策の建白書を朝廷に提出したことでも知られる。
同館は3月4日まで、甲子太郎を紹介する企画展を開催している。(綿引正雄)
横浜駅に出てくることは滅多にない。買い物があれば都心に行くし、落語関係で行くとすると桜木町の方が(横浜にぎわい座とか神奈川県民ホールがあるので)確率高い。なので、初めての横浜新都市ホール@横浜そごう。ざっと500人は行けそうないいホールですが、パイプイスは腰痛持ちには辛いかも知れない。。
そして市馬師匠。年末に行くつもりでチケット取っていた歌謡ショー@きゅりあんには右手首骨折入院で行けず、リベンジ。市馬師匠の声で心が浄化されるので、節分立春にはもってこい。
たらちね/市坊
市馬さん門下の前座さん。市馬さん門下は市楽・市江・市弥・市童と二つ目の兄弟子のクオリティ高い。市坊さんも私にとっては初めてお見かけするお弟子さんだけど「たらちね」はかなりこなれた口演で笑わせてくれた。声質がいい。
厄払い/市馬
そうか、今日は節分でしたね。節分の厄払いの口上を市馬師匠で聴ける幸せ。
与太郎が活躍する「厄払い」はライブで聴くの初めて。おじさんに口移しで教えられた口上がまともに言えずとんちんかんな与太郎の口上を楽しみ噺なんだけど、市馬さんの美声を聴くだけで幸せな気分になれる。
転宅/市馬
中入り前に続いてもう一席。落語界の泥棒といったら間抜けで、雷門の仁王様に踏まれる泥棒の噺から「転宅」。市馬師匠はあまり艶っぽい噺を得意とされないのだけど「転宅」「厩火事」は鉄板です。
粋曲 柳家小春
初めてです。柳家紫朝さんの弟子で小菊さんや紫文さんの妹弟子筋なんですね。
今日は都々逸、小唄、端唄、など。「梅は咲いたか」「さのさ」とか好き。
二番煎じ/市馬
小春さんの相撲甚句を取って市馬流で甚句をひとくさり。また歌舞伎の「三人吉三」のお嬢吉三の名台詞「こいつは春から演技がいいわえ」の解説。
まぁいろいろあった一年を市馬師匠の名調子で新年に改めさせていただくありがたさ。
そして「二番煎じ」は「火の用心 さっしゃりましょう」だけでなくあちこちで市馬師匠の美声で楽しめます。寒い冬の夜の夜回り、そして番屋でいただく燗酒と猪鍋。帰りがけ、日本酒の燗で一杯やりたいという声がちらほら。
そして市馬師匠。年末に行くつもりでチケット取っていた歌謡ショー@きゅりあんには右手首骨折入院で行けず、リベンジ。市馬師匠の声で心が浄化されるので、節分立春にはもってこい。
たらちね/市坊
市馬さん門下の前座さん。市馬さん門下は市楽・市江・市弥・市童と二つ目の兄弟子のクオリティ高い。市坊さんも私にとっては初めてお見かけするお弟子さんだけど「たらちね」はかなりこなれた口演で笑わせてくれた。声質がいい。
厄払い/市馬
そうか、今日は節分でしたね。節分の厄払いの口上を市馬師匠で聴ける幸せ。
与太郎が活躍する「厄払い」はライブで聴くの初めて。おじさんに口移しで教えられた口上がまともに言えずとんちんかんな与太郎の口上を楽しみ噺なんだけど、市馬さんの美声を聴くだけで幸せな気分になれる。
転宅/市馬
中入り前に続いてもう一席。落語界の泥棒といったら間抜けで、雷門の仁王様に踏まれる泥棒の噺から「転宅」。市馬師匠はあまり艶っぽい噺を得意とされないのだけど「転宅」「厩火事」は鉄板です。
粋曲 柳家小春
初めてです。柳家紫朝さんの弟子で小菊さんや紫文さんの妹弟子筋なんですね。
今日は都々逸、小唄、端唄、など。「梅は咲いたか」「さのさ」とか好き。
二番煎じ/市馬
小春さんの相撲甚句を取って市馬流で甚句をひとくさり。また歌舞伎の「三人吉三」のお嬢吉三の名台詞「こいつは春から演技がいいわえ」の解説。
まぁいろいろあった一年を市馬師匠の名調子で新年に改めさせていただくありがたさ。
そして「二番煎じ」は「火の用心 さっしゃりましょう」だけでなくあちこちで市馬師匠の美声で楽しめます。寒い冬の夜の夜回り、そして番屋でいただく燗酒と猪鍋。帰りがけ、日本酒の燗で一杯やりたいという声がちらほら。
鳥羽伏見の戦い開戦150年 証言継承目指す 住民ら聞き取り調査 /京都
戊辰の歴史回顧 会津新選組記念館で特別展始まる
戊辰(ぼしん)戦争の端緒となった1868年の鳥羽伏見の戦いから150年の節目を記念し、京都市伏見区の住民らが聞き取り調査などに取り組んでいる。開戦地に近い城南宮(伏見区)も挿絵入りの説明版を設置した。
鳥羽伏見の戦いは、大政奉還から間もない慶応4年1月、薩摩、長州両藩を主力とする勢力と旧幕府軍が鳥羽や伏見、淀を主戦場に交戦した。伏見区に住む歴史愛好家の井口富夫さん(68)や長男の智史さん(32)らが地元住民や観光関係者らに呼びかけ、2016年に「鳥羽伏見の戦い150年プロジェクト会議」を結成。住民目線から戦いを伝える資料は少ないため、これまで60~90代の約40人にインタビューし、祖父母ら戦いを経験した人から聞いた話を中心にまとめた。
当時の仕出し屋が薩摩藩と会津藩の兵士に芋や大根、ニンジンの入った雑炊、おにぎりの炊き出しをしたことや、町衆が戦災を逃れるため桓武天皇陵に逃げ込んだことなどのエピソードが集まった。富夫さんは「記憶が断片的であいまいに伝えられている部分もあるが、教科書には出てこない出来事を掘り起こしたい」と話す。3月まで調査を続け、結果を冊子にまとめる。
また、学生時代から伏見を行き来をしてきた漫画家の越智常子さん(31)=大阪府枚方市=は、伏見の旧市街を題材に絵図にした。2月4日まで伏見区役所で展示している。焼け野原と化した町を描いた絵図では、月桂冠の前身の「笠置屋」に被災者が集まる様子などを描いた。鳥羽周辺を取り上げた絵図も制作中だ。
薩摩藩が滞在したことで知られる城南宮は、入り口付近に説明板(縦1メートル、横2メートル)を設置した。薩摩兵が参道に大砲を据えて旧幕府軍を待ち受けたことや、戦いの後に明治天皇が城南宮に立ち寄ったことなど、城南宮にまつわる出来事を伝えている。権祢宜(ごんねぎ)の山本弘毅さんは「鳥羽伏見の戦いや明治維新への関心が高まってほしい」と話している。【宮川佐知子】
戊辰の歴史回顧 会津新選組記念館で特別展始まる
会津新選組記念館の戊辰戦争150年前期特別展「会津・薩摩と新選組」は29日、会津若松市七日町の記念館で始まった。5月末まで。ロゴマークに「二本松少年隊」 二本松市、戊辰150年事業計画
1868(慶応4)年の戊辰戦争開戦前後から江戸城無血開城、上野の彰義隊の戦いまでを追う歴史資料約300点を展示している。会津藩家訓、会津藩校日新館の教科書、新選組の鉢金をはじめ、薩摩藩関係の西郷隆盛肖像、洋式陣笠などが紹介されている。NHK大河ドラマ「西郷どん」の台本や撮影スケジュール表なども並ぶ。
時間は午前10時から午後5時まで。不定休。入館料は高校生以上300円、小中学生200円、未就学児は無料。問い合わせは電話0242(22)3049へ。
6月以降は後期展として会津戦争に関連する資料などを展示する予定。
( 2018/01/30 10:38 カテゴリー:主要 )
二本松市戊辰の役150年事業実行委員会(会長・三保恵一市長)は、記念事業のテーマを「信義―貫く想い、今」とし、二本松少年隊を象徴するロゴマークを作った。同市役所で31日に開いた会合で戊辰150年に向けた事業計画などを決めた。
テーマとロゴマークでは、戊辰戦争で旧幕府軍の要衝として位置付けられ、奥羽越列藩同盟の義、隣藩会津への義を貫き戦火に巻き込まれた二本松藩を表現。武士道や、郷土のために戦い、若い命を散らした木村銃太郎隊長ら少年隊士の雄姿を描いた。
本年度はテーマとロゴマークを活用したのぼり旗、PRポスター、マグネットステッカー、戊辰めぐりリーフレットを作製。二本松少年隊リーフレットは増刷し、英訳版などを作ってインバウンド(訪日外国人旅行者)に対応する。新年度には「二本松少年隊の灯・煌く霞ケ城(仮称)」「戊辰ゆかりの地めぐりウオーキング」の実施のほか、講演会の開催、会津まつりへの参加などを検討している。
「二本松少年隊の灯~」は、長年にわたり二本松少年隊の顕彰事業に取り組んでいる、実行委メンバーの二本松青年会議所が提案。隊士らの命日に合わせ、供養塔がある大隣寺からの灯を市民が運び霞ケ城にともす計画。天守台には数多くのキャンドルを配置して「きらめく霞ケ城」を演出する見通し。
戊辰の歴史回顧 会津新選組記念館で特別展始まる
安倍首相の施政方針演説に「白虎隊」の違和感明治維新を「1億総活躍社会」に結びつけるな
会津新選組記念館の戊辰戦争150年前期特別展「会津・薩摩と新選組」は29日、会津若松市七日町の記念館で始まった。5月末まで。
1868(慶応4)年の戊辰戦争開戦前後から江戸城無血開城、上野の彰義隊の戦いまでを追う歴史資料約300点を展示している。会津藩家訓、会津藩校日新館の教科書、新選組の鉢金をはじめ、薩摩藩関係の西郷隆盛肖像、洋式陣笠などが紹介されている。NHK大河ドラマ「西郷どん」の台本や撮影スケジュール表なども並ぶ。
時間は午前10時から午後5時まで。不定休。入館料は高校生以上300円、小中学生200円、未就学児は無料。問い合わせは電話0242(22)3049へ。
6月以降は後期展として会津戦争に関連する資料などを展示する予定。
( 2018/01/30 10:38 カテゴリー:主要 )
安倍首相の施政方針演説に「白虎隊」の違和感明治維新を「1億総活躍社会」に結びつけるな
武田 鏡村 : 歴史家
1月22日、安倍晋三首相は施政方針演説の冒頭、会津藩(福島県)の白虎隊(びゃっこたい)出身で東京帝国大学総長を務めた山川健次郎(1854~1931年)を引き合いに出し、「あらゆる日本人にチャンスをつくることで、少子高齢化も克服できる」と1億総活躍社会の実現に意欲を示した。
長州(山口県)出身の安倍首相からすればいわば「敵方」である会津出身者をなぜわざわざ施政方針冒頭で紹介したのか。『薩長史観の正体』の著者である武田鏡村氏に解説していただいた。
まったく「寛容」ではなかった明治新政府
安倍首相は1月22日の施政方針演説を、「150年前、明治という時代が始まったその瞬間を、山川健次郎は、政府軍と戦う白虎隊の一員として、迎えました。しかし、明治政府は、国の未来のために、彼の能力を生かし、活躍のチャンスを開きました」と始めた。
これだけ聞くと、長州と薩摩(鹿児島県)が中心となってつくられた明治新政府は、たいへん寛容で、すばらしい人材登用策を実行したと思われるのではないだろうか。敵方であった会津藩士を許し、平等に活躍のチャンスを与えたのだと……。
しかし、史実はまったく逆である。後に述べるように山川健次郎は例外中の例外であり、ほとんどの会津藩士とその家族たちは極めて重い懲罰を課された。
そしてそれを主導したのは、長州の木戸孝允(桂小五郎)だった。
会津藩は、戊辰戦争で降伏した翌年の明治2年(1869)9月、没収された23万石の代わりに3万石を与えられ、本州北端の下北半島に追いやられた。辺境の地に封じ込めることを強硬に主張したのが木戸孝允である。
木戸は、幕末京都での経緯からか、病的なほどに会津藩士を恐れ忌み嫌い、根絶やしさえも考えていたようである。会津藩側も皆殺しにされることを覚悟していたようで、会津人の血を絶やさぬよう、降伏後の謹慎中、最も優秀な2人の若者を逃がした。このうちの1人が山川健次郎なのである。
一方、会津藩士とその家族たち1万7000人は、下北半島に斗南藩3万石が与えられて移り住んだ。
だが、その地は、寒冷不毛で、実質7000石あるかないかと危ぶまれた。木戸は何が何でも生死にかかわる懲罰を会津藩士に下したかったようである。
薩長閥の中で会津出身者として異端視されながら陸軍大将にまで登りつめた柴五郎は、少年期に斗南藩で悲惨な生活を体験した1人である。
柴家は300石の家禄であったが、斗南では藩からわずかな米が支給されるだけで、それでは足りない。救米に山菜を加えたり、海藻を煮たりするだけでは飽きたらず、馬に食べさせる雑穀など、食べられるものは何でも口にした。
塩漬けにした野良犬を20日も食べ続けたこともあった。最初はのどを通らなかったが、父親から、「武士は戦場では何でも食べるものだ。会津の武士が餓死したとなれば、薩長(さっちょう:薩摩と長州)の下郎(げろう)どもに笑われるぞ」と言われて我慢して口にした。
住まいの小屋には畳はなく、板敷きに藁(わら)を積んで筵(むしろ)を敷いた。破れた障子には、米俵を縄で縛って風を防ぐ。陸奥湾から吹きつける寒風で炉辺でも食べ物は凍りつく。炉辺で藁にもぐって寝るが、少年・五郎は熱病にかかって40日も立つことができず、髪の毛が抜けて、一時はどうなるかわからない病状になった。
こうした困窮の生活で病気になって亡くなる人も少なくなかった。藩の権大参事の山川浩(山川健次郎の兄)は、明治政府や会津の旧庁に救済を願い出たが、はかばかしい結果ではない。「これが天子さまの寛典なのか」といった憤激の声が洩れる。廃藩置県で斗南藩は消滅し、やがて旧会津藩士とその家族は四散していく。
「寛容」とは正反対の、明治政府による「会津処分」であった。
「賊軍」出身者に対する差別
『薩長史観の正体』で詳述したように、武力によって強引に推し進めて勝ち取った明治維新は、薩長側の暴力と強奪、人身毀損の数々の凶行で成り立つものであった。
そうして誕生した明治新政府も、「薩長政府」といわれるように、薩摩と長州の出身者に牛耳られた。当初は、薩摩のほうが力をもっていたが、「西郷どん」の西南戦争で薩摩が賊軍となると、長州のほうが優勢になっていく。長州出身の伊藤博文が初代首相になって以来、長きにわたり首相はほとんど長州と薩摩の出身者で占められている。
ちなみに明治維新150年目の今年、首相は長州出身の安倍晋三だが、50年目は寺内正毅、100年目は佐藤栄作と、節目の年は、すべて長州出身の首相で占められている。
一方、会津など「賊軍」出身者は、政官界で差別され、立身出世の道を閉ざされた。長州陸軍、薩摩海軍といわれるように軍部でも薩長閥は強く、賊軍藩出身者は出世などで差をつけられた。この辺は半藤一利氏と保阪正康氏の対談集『賊軍の昭和史』に詳しいが、賊軍差別の傾向は昭和の時代にまで続いたという。
安倍首相は、施政方針演説での冒頭の言葉の後、山川健次郎が東京帝国大学の総長に登用されたことなどにふれ、「身分、生まれ、貧富の差にかかわらず、チャンスが与えられる。明治という新しい時代~」と、人材活用の面でも優れた時代だと位置づけている。だが、以上のように明治は、「1億総活躍社会」のお手本にするような立派なものではけっしてなかったのである。
にもかかわらず、安倍首相、おそらくは周辺の人たちは、なぜ白虎隊出身の山川健次郎のことをことさら引き合いに出して、強引に明治時代を賛美するようなことを言うのか。
その背景には、今年、「明治維新150年」を迎え、その記念事業に政府が前のめりなことがあるのではないだろうか。
政府は記念事業にたいへん積極的で、内閣官房に「明治150年」関連施策推進室が設けられた。菅義偉官房長官は「大きな節目で、明治の精神に学び、日本の強みを再認識することは重要だ」と述べている。昨年8月には、明治維新150年のロゴを決定したと政府は発表した(選考会座長:佐藤可士和)。安倍首相も、今年1月1日の年頭所感で「本年は、明治維新から150年目の年です」と切り出し、明治維新を賞賛している。
『薩長史観の正体』(書影をクリックすると、アマゾンのサイトにジャンプします)
だが一方で最近は、逆に、明治維新のありように異議を申し立てる書籍が相次いで刊行されている。書店の歴史コーナーでは『明治維新という過ち』『明治維新という幻想』『偽りの明治維新』『明治維新という名の洗脳』『明治維新の正体』『東北を置き去りにした明治維新』といった明治維新に批判的なタイトルが目立つ。
薩摩と長州がつくりあげた歴史観――薩長史観に疑問を投げかける声が大きくなっているのだ(参考:なぜいま、反「薩長史観」本がブームなのか)。1月9日のテレビ朝日「グッド!モーニング」“池上彰のニュース大辞典”でも、薩長史観に異議を唱える本がよく売れていると報道されていた。
このような状況下では、政府もさぞや「明治維新150年記念事業」をやりにくかろう。
「薩長史観」に異をとなえた山川健次郎
そこで、会津藩の白虎隊出身でありながら、会津藩士・秋月悌次郎と親交のあった長州藩士・奥平謙輔に預けられ、後に国費留学生に選ばれて東京帝大総長にまで登りつめた山川健次郎のことを、ことさらに引き合いに出したのではないだろうか。
そして、人材登用にも公平な、すばらしい「明治」と美しく飾り立てようとするのではないか。
確かに長州藩士でありながら彼を預かった奥平のことは高く評価すべきだろう。だが、こうしたことはごくごくまれな例外であり、会津藩やその他賊軍とされた側には多くの血涙史があったことを忘れてはいけない。
山川自身も、後に兄・浩が残した『京都守護職始末』を完成させ、天皇に忠義を尽くした幕末会津藩の立場を明らかにした。薩長史観に異論を唱える嚆矢(こうし)となったのである。
明治維新とそれに続く明治は、安倍首相が施政方針演説で述べたような美談だけで済ませられるものではないのだ。
<戊辰戦争150年>但木土佐たたえ記念碑 宮城・大和で追悼法要
<戊辰戦争150年>会津藩の政策「最も先進的」直木賞作家・中村彰彦さん講演
仙台藩の重臣を務め、戊辰戦争の敗北後に処刑された但木(ただき)土佐(1817~69年)を追悼する恒例の法要が28日、宮城県大和町の保福寺で営まれた。
笹山光紀住職が読経した後、家臣の子孫で組織する土佐会の会員や家族ら17人が墓前で手を合わせた。戦争から150年の節目に合わせ、土佐会と寺が設置した記念碑が披露された。
但木は新政府軍の標的となった会津藩の救済を目指し、奥羽越列藩同盟を主導した。東京で斬首され、墓は港区の東禅寺にあったが1997年、保福寺に移した。
土佐会のメンバーらは6月17日、町内で記念講演などを含む「但木土佐・戊辰の役戦没者150回忌追悼行事」を開く。実行委代表の中山和広さん(77)は「土佐公は全国に人脈を広げ、西の西郷隆盛と比べられる活躍をした。功績を受け継ぎ、土佐会の新たな出発となる年にしたい」と話した。
<戊辰戦争150年>会津藩の政策「最も先進的」直木賞作家・中村彰彦さん講演
今年、戊辰戦争から150周年を迎えることを記念した歴史講演会が28日、会津若松市であった。さまざまな記念事業を展開する予定の会津若松市などがオープニングイベントとして開催。会津藩関係の著書で知られる直木賞作家中村彰彦さん(68)が講演した。
演題は「会津藩の栄光と悲劇の歴史を読み直す-戊辰150年目の視点から」。中村さんは、初代藩主保科正之が90歳以上の全領民に、一人扶持(いちにんぶち)(1日玄米5合)を与えるなど先進的な政策に取り組んだと強調。「正之は『揺り籠から墓場まで』の福祉制度を英国より200年以上前に実践した。徳川300藩の中で最も進んだ理想的な藩だった」と述べた。
また、中興の名家老田中玄宰の業績や、幕末に9代藩主松平容保が京都守護職に就任した背景、会津藩が戊辰戦争で賊軍となった経緯について解説した。
講演会には約500人が来場。オープニングセレモニーでは室井照平市長が「戊辰戦争の悲劇を乗り越えた先人の功績は誇りと勇気を与える。先人の活躍に光を当て、次の世代に伝えることが私たちの責務」とあいさつした。
「浪士姓名簿」を一挙紹介 近藤勇、沖田総司、永倉新八の名も
戊辰戦争150年機に地域振興、東北各地で催し
先人の思い次代に 斗南藩がつなぐ会津と青森 戊辰150年
会津の誇り未来へ 戊辰150年の節目、会津若松で歴史講演会
戊辰戦争で活躍、独立機運 洲本で庚午事変の背景学ぶ講演会
明治改元150年 記念事業多数、建築好きは要チェック
30年ぶりに「名古屋叢書」 蓬左文庫、幕末の武士の記録解く
幕末の京都で徳川将軍の護衛に就き、新選組の前身となった「浪士組」隊士について幕臣が記録した文書を、歴史研究グループ「三十一人会」=会長・小島政孝さん(68)=の会誌が一挙紹介している。 (栗原淳)
文書は「浪士姓名簿」。戦前に古書店の目録に掲載され、存在は知られていたが、世に出ることのない「幻の資料」とされていた。昨年一月、東京大法学部図書館が所蔵しているとの情報がネットに投稿されているのを、同会副会長あさくらゆうさん(48)=荒川区=が見つけ、同図書館で実物と確認した。
同会によると、浪士組の隊士を知ることができる資料は、これまでも数点確認されているが、浪士姓名簿は名前だけでなく、家族構成や居住地まで記載した詳細さが特徴。隊士を募った江戸から京都まで一行を率いた幕臣による記録のため、内容の信頼性も高い。
今の新書判より一回り大きいサイズで、百十九ページにわたり京都到着時の二百三十五人の名が並ぶ。近藤勇の項目は「三十歳」「父妻子三人」、居住地は「市ケ谷加賀屋敷山川磯太郎地借仕候(ちかりつかまつりそうろう)」と記載。のちに新選組幹部となった沖田総司や永倉新八らの項目は「近藤勇方ニ同居」と記している。あさくらさんは「近藤は主を務めた剣術道場『試衛館』のすぐ近くに住居があった。沖田らが住み込みの内弟子だったことは知られているが、当時の公的な記録にも近藤家の住人と登録されていた」と名簿を読み解く。
小島さんは、旧小野路(おのじ)村(町田市小野路町)の名主を務めた小島家の二十四代当主。四代前の鹿之助は、近藤や沖田らを剣術稽古に招いたという。自宅に資料館を開き、新選組ゆかりの資料を公開している小島さんは「浪士姓名簿は、新選組隊士の江戸を出る直前の様子が分かる貴重な資料」と話した。
会誌「幕末史研究」四十四号で名簿の全ページの複写画像を掲載している。購入は、〒195 0064町田市小野路町950「小島資料館」へ現金書留を送る。送料込み二千五百円。資料館は二月末まで休館。
戊辰戦争150年機に地域振興、東北各地で催し
江戸から明治への転換期に起きた戊辰(ぼしん)戦争から150年の節目を、ふるさとの振興につなげるイベントが東北で相次ぐ。国が掲げる「明治150年」とは違う角度から情報発信し、住民が地元を見つめ直す機会をつくりながら、観光客も呼び込む企画が目立つ。敵味方を超えた催しを開く動きもある。
鶴ケ城に立つのぼり旗には「戊辰150周年」に並んで「SAMURAI CITY AIZU」の文字も(25日、福島県会津若松市)
旧幕府軍の中心的存在だった会津藩ゆかりの福島県会津若松市は28日に「オープニング講演会」を開く。会津を舞台にした著作も多い作家の中村彰彦氏が、市民ら400人以上を前に戊辰戦争の歴史的意義を語る。7月下旬を予定する白虎隊の悲劇を題材にした「オペラ白虎」公演には、市民コーラスも参加する。
市は5千万円の予算を投じて内外に会津をPRする特別映像も制作中。5月以降、衛星放送やネットを通じて発信する。「逆賊の汚名を受けながらも戦った先人の心に、市民や観光客が思いをはせる年にしたい」(市観光課)という。
仙台藩、米沢藩など東北諸藩の代表が集まった「白石会議」の舞台、宮城県白石市は「しろいし慕心(ぼしん)プロジェクト」を展開。「戊辰の面影」などをテーマに当時の足跡が残る場所など市内で撮影した写真を募集し、3月にコンテストや展示会を実施する。白石会議は「奥羽越列藩同盟」につながったことから、加盟藩再集結の場を設ける構想もある。
敵味方を超えた企画もある。新政府軍を何度も跳ね返した庄内藩の一部だった山形県酒田市は、処分に寛大だった西郷隆盛との関係にスポットを当てた企画展を今夏に開く予定。同町には西郷をまつる南洲(なんしゅう)神社もあり、NHK大河ドラマ「西郷どん」との相乗効果も期待する。
領民が両軍の戦死者を分け隔てなく弔ったことで知られる福島県白河市のキャッチフレーズは「甦(よみがえ)る『仁』のこころ」。「先人の功績から学び、多くの地域と交流を深めたい」(市文化振興課)とし、7月14日には山口県萩市や鹿児島市など新政府軍側の自治体トップらも招いて合同慰霊祭を開く。
土地によっては戦争のわだかまりは根強い。会津若松市は降伏の日と同じ9月22日に式典を開くが「西軍(新政府軍)を呼ぶことは考えていない」(市観光課)という。
先人の思い次代に 斗南藩がつなぐ会津と青森 戊辰150年
会津藩の魂を継ぎ、未来へ。戊辰戦争開戦から150年を記念したみやぎ会津会のシンポジウムが27日、仙台市で開かれた。会津若松市や、戊辰戦争後に斗南藩として再出発した青森県の関係者が杜(もり)の都に集った。次世代を担う若者3人が登壇し、「先人の思いを受け継ぎ、古里発展に尽くしたい」と前を向いた。
■みやぎ会津会 仙台でシンポ
「将来は古里会津の地域医療に貢献したい」。シンポジウムに登壇した筒井悠巴(ゆうは)さん(19)=会津若松ザベリオ学園高卒、福島医大1年=は言葉に力を込めた。
筒井さんは高校生だった2014(平成26)年、福島民報社と東奥日報社が主催した会津・斗南次世代交流事業に参加した。藩士は会津から斗南に移り辛酸をなめながら再起を誓った。筒井さんたちは斗南藩ゆかりの青森県三戸町やむつ市を訪問し、斗南藩に関係する史跡を巡った。
2015年には青森県の高校生を会津に迎え入れた。「地元に住んでいても知らなかった歴史を学んだ。青森県の高校生とも交流でき、意義深かった」と振り返った。将来は高齢者の病気やけがに対応しながら心のケアもできる医師を目指す。「会津のために頑張りたい」と語った。
川口成美さん(20)=陸上自衛隊八戸駐屯地第九飛行隊=は三戸高に通っているとき交流事業に参加した。礼儀を重んじ、他人を思いやる会津の精神を学び、人として忘れてはいけない内容だと思った。「人のために働きたいと思った初心を忘れず、精いっぱい努力したい」と誓った。
会津松平家第十四代当主の松平保久(もりひさ)さんの長男松平親保(ちかもり)さん(19)=早稲田大政治経済学部1年=も参加した。「自分と同世代の会津と斗南の若者が先人の思いを胸に前進している姿を見てうれしかった。会津の魂を後世につないでほしい」と願った。3人の熱い思いを聞き、言葉を詰まらせる登壇者や涙を見せる出席者もいた。
■魂、未来へ継ぐ 出席者が掛け声
シンポジウムでは会津若松市の室井照平市長、末廣酒造(会津若松)の新城猪之吉社長、斗南会津会の目時(めとき)紀朗相談役、2014、2015年に行われた会津・斗南次世代交流事業に参加した八戸中央高の滝尻善英教頭、宮城県内に住む会津地方出身者らでつくるみやぎ会津会の須佐尚康会長(金山町出身、東洋ワーク社長)が登壇した。
新城社長は、七十七銀行頭取や仙台商工会議所会頭を務め鶴ケ城を後世に残すため尽力した旧会津藩士の遠藤敬止(けいし)を紹介。新城社長は遠藤敬止顕彰会長を務めており、墓がある仙台市内の寺で今年6月に法要を営む計画を明らかにした。
室井市長、目時相談役、滝尻教頭は戊辰戦争、会津や斗南への思いを語った。須佐会長はみやぎ会津会を発足させた経緯などを説明した。
シンポジウムはみやぎ会津会の主催、斗南会津会の協力、福島民報社と東奥日報社の企画。約150人が出席した。最後に出席者全員で掛け声を響かせて両地域の魂を継いで未来に向かうと誓い合った。
福島民報社から花見政行取締役広告局長、熊田光仙台支社長、安斎康史会津若松支社長が出席した。
( 2018/01/28 10:08 カテゴリー:主要 )
会津の誇り未来へ 戊辰150年の節目、会津若松で歴史講演会
「会津に生まれたことを誇りに思った」「歴史を後世につなぐ意義を再確認できた」。
戊辰150年の節目に合わせた記念事業の幕開けとして28日に会津若松市で開かれた直木賞作家・中村彰彦さんの講演会には500人を超える聴衆が集まり、先人が忘れなかった"義の思い"を受け継ぎ、未来を目指すための決意を新たにした。「会津人が賊軍と考えている人は、ここにはいないはず」。中村さんの言葉に聴衆は大きくうなずいた。
中村さんの講演を終え、会津若松市の大橋寛一さん(81)は「会津藩の賊軍の汚名を必ず晴らさなくてはならない。もっと全国に発信してほしい」と言葉に力を込めた。
会津藩の悲劇の象徴でもある白虎隊士。同市の飯盛山にある自刃した隊士の墓守をしている飯盛尚子さん(45)は「今年は自刃した隊士の150年の節目でもある。白虎隊士の心情を察し、誇り高き会津藩士に思いを寄せてほしい」と語った。
同市の寺木利子さん(69)と平野美知子さん(68)は京都や徳島県鳴門市を訪れた際、「会津の人なら」と商品をサービスしてもらったり、施設の開館時間を早めてもらったことを口にし「京都守護職を務めたり、捕虜を人道的に扱ったり、会津の先人が積み重ねてきたことの素晴らしさを感じている」と語った。
歴史講演会は、同市の関係機関134団体でつくる同市戊辰150周年記念事業実行委員会などが節目の年のオープニングとして開催した。今後、鶴ケ城天守閣を多彩な光で彩るプロジェクションマッピングや白虎隊の史実を題材にした「オペラ白虎」の上演、鶴ケ城天守閣での戊辰戦争に絞った収蔵品展・企画展、歴史シンポジウムなど、多彩な行事が企画されている。
同日は海外への配信も想定し制作した特別映像の予告編も上映され、来場者は会津に息づく精神文化を感じ取った。
◆「維新再考」の特大紙面 関心高く福島民友新聞社ブースに列
会場には、福島民友新聞社が毎週月曜日付3面に連載している「維新再考」の特集紙面(号外)などが特大サイズで張り出されたほか、過去に掲載された紙面の保存版を並べ、来場者が持ち帰れるようにした。
維新再考は戊辰150年の節目に合わせて昨年5月からスタートした連載企画で、読者から多くの反響を得ている。福島民友新聞社が設けたブースには順番待ちの長い列ができ、節目の年に戊辰戦争への関心が高まっていることを示した。
戊辰戦争で活躍、独立機運 洲本で庚午事変の背景学ぶ講演会
兵庫県洲本市の洲本城下町で明治時代初期に起きた「庚午事変」の歴史的背景を学ぶ講演会「東征軍稲田隊」(神戸新聞社後援)が28日、洲本市立中央公民館であった。元徳島県立文書館館長の逢坂俊男さん(76)が講演。徳島藩筆頭家老として淡路を任されていた稲田家の家臣が、戊辰戦争で活躍し、独立への機運を高めていった状況などを解説した。(渡辺裕司)
講演会は住民グループ「益習の集い」の主催。講師の逢坂さんは稲田家研究の第一人者で、家臣の子孫でもある。
庚午事変は1870(明治3)年、徳島藩の一部藩士らが、分藩・独立を目指した稲田家と対立し、稲田家家臣の家などを襲った事件。これに先立つ戊辰戦争で、稲田家家臣でつくる稲田隊は、旧幕府軍勢力を制圧する東征軍総督、有栖川宮の親衛隊を務めた。敵方幹部を捕らえるなどの功績から高く評価されたことで分藩・独立の機運が高まり、庚午事変の誘因の一つとなったという。
逢坂さんは稲田家が親衛隊を任された背景について、「稲田家で盛んだった儒学や武術を通じて、家臣が有栖川宮家に出入りするようになり、関係を深めていった」と解説。隊員が現在の千葉や八王子で、旧幕府軍勢力の探索に活躍した例も紹介し、稲田家家臣団の規模や領有していた土地などについても古文書を交えて解説した。
会場では、稲田家や庚午事変、徳島と兵庫両県の歴史を紹介するパネル展示もあり、訪れた人たちは熱心に見入った。洲本市の塾講師(23)は「稲田家で家臣の数が増えた背景など、学校では習わない地元の歴史が分かってよかった」と話していた。
明治改元150年 記念事業多数、建築好きは要チェック
30年ぶりに「名古屋叢書」 蓬左文庫、幕末の武士の記録解く
名古屋市博物館の分館で、尾張徳川家の旧蔵書など約十一万点の史料を持つ蓬左(ほうさ)文庫(名古屋市東区)は、近世の尾張名古屋に関する古文書を解読した史料集「名古屋叢書(そうしょ)」の刊行を三十年ぶりに再開する。当時を知る上で欠かせない基本文献として重宝されてきたが、一九八八年に刊行事業がいったん終了していた。
「名古屋叢書」は、名古屋市制七十周年を迎えた一九五九年から刊行。八八年までの三十年で、一編から三編(計六十五冊)と索引・総目録を出した。
うち、二編で刊行された「金城温古録(きんじょうおんころく)」は「名古屋城の百科事典」として名高い。天守閣の木造化計画を進める河村たかし市長が、会見で「寸分たがわぬ復興ができる世界でただ一つの巨大な歴史的建造物」と説明した際も、計画を可能にする史料の一つに挙げている。
また、映画や漫画で人気を呼んだ『元禄御畳奉行の日記』の基になった尾張藩士・朝日文左衛門の「鸚鵡籠中記(おうむろうちゅうき)」も二編で刊行している。
一般にも販売され、主に歴史学者や郷土史家らが活用。二編までは完売するほど需要があったが、八九年以降は蓬左文庫が所蔵史料のデジタル化などに力を入れた上、予算の制約もあって刊行は途絶えていた。
研究者らの再開を望む声に応じ、三十年ぶりに刊行される四編では、尾張藩家老に仕えた武士・水野正信(一八〇五~六八年)の私的な記録集「青窓紀聞(せいそうきぶん)」を取りあげる。水野は当時“記録魔”として知られ、自らの見聞や公文書、手紙から得た情報などを、全二百四巻の大著にまとめた。
このうち当面は四十三巻分を新年度から年に一冊ずつ、数年がかりで出す方針。新年度当初予算案には、一冊目の初版二百五十部の印刷費と、編集に協力する研究者との会議費を盛り込んだ。
刊行分に記録されているのは、江戸時代後期の一八一四年から米国のペリーの来航(五三年)前までの社会情勢。名古屋城下の祭りや寺社の開帳などの行事から、災害や疫病の流行まで多岐にわたる。
原本は蓬左文庫の所蔵で一九九〇年ごろから解読を続け、九割超は終わっている。
(谷村卓哉)
激動生きた人徳者に光 幕末の志士、伊東甲子太郎展
【東京】「浪士姓名簿」を一挙紹介 近藤勇、沖田総司、永倉新八の名も
30年ぶりに「名古屋叢書」 蓬左文庫、幕末の武士の記録解く
半藤一利「明治維新150周年、何がめでたい」「賊軍地域」出身作家が祝賀ムードにモノ申す
かすみがうら市出身で、幕末に新選組隊士として活躍した伊東甲子太郎(かしたろう)(1835-67年)を紹介する企画展「伊東甲子太郎と幕末の同志」が、同市坂の市歴史博物館で開かれている。今年が明治維新から150年を迎えるのに合わせ、激動の時代に生きた地元の名士に光を当てた。3月4日まで。
甲子太郎は志筑藩(現かすみがうら市)に生まれ、13歳で水戸藩で剣術や水戸学を学んだ。江戸に出て、水戸で栄えた北辰一刀流を伊東道場で身に付け、優れた技術と人格を評され塾頭に推挙された。1864年に新選組の隊士募集に応じて合流。京都で活躍するが、長州藩とつながりがあったため、幕府に忠誠を尽くす隊長の近藤勇との間で確執が生まれ、暗殺された。生前、大政奉還後に国家政策の建白書を朝廷に提出したことでも知られる。
企画展では、甲子太郎を支えた家族や剣術家、新選組の弟子らを紹介。甲子太郎の弟には新選組に一緒に入隊した鈴木三木三郎がおり、剣術は水戸で金子健四郎、江戸で伊東精一郎らに習った。新選組では甲子太郎の勤王思想に心酔する弟子が多く、新選組から分離し高台寺党になる人物もいた。
展示会場には甲子太郎の肖像画や位牌(いはい)、母に当てた手紙、歌集などを写真や資料とともに並べた。
甲子太郎が習得した水戸学や剣術、新選組入隊後の同志たちも紹介。かすみがうら出身で甲子太郎の薫陶を受けた明治の教育者、金澤鎗次郎(そうじろう)の功績も展示した。
同館の千葉隆司学芸員は「甲子太郎は総合学問である水戸学を学び、いろいろな人に慕われ大きくなっていった人徳者。暗殺されなければ、明治期にも活躍したのではないか。その人間性や、亡くなった後にも多くの人々に影響を及ぼしたことを感じ取ってもらえれば」と話した。
月曜休館(祝日の場合は翌日休館)、開館時間は午前9時~午後4時半。入館料は大人210円、小中学生100円。同館(電)029(896)0017。
(綿引正雄)
【東京】「浪士姓名簿」を一挙紹介 近藤勇、沖田総司、永倉新八の名も
幕末の京都で徳川将軍の護衛に就き、新選組の前身となった「浪士組」隊士について幕臣が記録した文書を、歴史研究グループ「三十一人会」=会長・小島政孝さん(68)=の会誌が一挙紹介している。 (栗原淳)
文書は「浪士姓名簿」。戦前に古書店の目録に掲載され、存在は知られていたが、世に出ることのない「幻の資料」とされていた。昨年一月、東京大法学部図書館が所蔵しているとの情報がネットに投稿されているのを、同会副会長あさくらゆうさん(48)=荒川区=が見つけ、同図書館で実物と確認した。
同会によると、浪士組の隊士を知ることができる資料は、これまでも数点確認されているが、浪士姓名簿は名前だけでなく、家族構成や居住地まで記載した詳細さが特徴。隊士を募った江戸から京都まで一行を率いた幕臣による記録のため、内容の信頼性も高い。
今の新書判より一回り大きいサイズで、百十九ページにわたり京都到着時の二百三十五人の名が並ぶ。近藤勇の項目は「三十歳」「父妻子三人」、居住地は「市ケ谷加賀屋敷山川磯太郎地借仕候(ちかりつかまつりそうろう)」と記載。のちに新選組幹部となった沖田総司や永倉新八らの項目は「近藤勇方ニ同居」と記している。あさくらさんは「近藤は主を務めた剣術道場『試衛館』のすぐ近くに住居があった。沖田らが住み込みの内弟子だったことは知られているが、当時の公的な記録にも近藤家の住人と登録されていた」と名簿を読み解く。
小島さんは、旧小野路(おのじ)村(町田市小野路町)の名主を務めた小島家の二十四代当主。四代前の鹿之助は、近藤や沖田らを剣術稽古に招いたという。自宅に資料館を開き、新選組ゆかりの資料を公開している小島さんは「浪士姓名簿は、新選組隊士の江戸を出る直前の様子が分かる貴重な資料」と話した。
会誌「幕末史研究」四十四号で名簿の全ページの複写画像を掲載している。購入は、〒195 0064町田市小野路町950「小島資料館」へ現金書留を送る。送料込み二千五百円。資料館は二月末まで休館。
30年ぶりに「名古屋叢書」 蓬左文庫、幕末の武士の記録解く
名古屋市博物館の分館で、尾張徳川家の旧蔵書など約十一万点の史料を持つ蓬左(ほうさ)文庫(名古屋市東区)は、近世の尾張名古屋に関する古文書を解読した史料集「名古屋叢書(そうしょ)」の刊行を三十年ぶりに再開する。当時を知る上で欠かせない基本文献として重宝されてきたが、一九八八年に刊行事業がいったん終了していた。【茨城】<ひと物語 幕末~明治>日本の金融界の発展に貢献 川崎八右衛門(上)
「名古屋叢書」は、名古屋市制七十周年を迎えた一九五九年から刊行。八八年までの三十年で、一編から三編(計六十五冊)と索引・総目録を出した。
うち、二編で刊行された「金城温古録(きんじょうおんころく)」は「名古屋城の百科事典」として名高い。天守閣の木造化計画を進める河村たかし市長が、会見で「寸分たがわぬ復興ができる世界でただ一つの巨大な歴史的建造物」と説明した際も、計画を可能にする史料の一つに挙げている。
また、映画や漫画で人気を呼んだ『元禄御畳奉行の日記』の基になった尾張藩士・朝日文左衛門の「鸚鵡籠中記(おうむろうちゅうき)」も二編で刊行している。
一般にも販売され、主に歴史学者や郷土史家らが活用。二編までは完売するほど需要があったが、八九年以降は蓬左文庫が所蔵史料のデジタル化などに力を入れた上、予算の制約もあって刊行は途絶えていた。
研究者らの再開を望む声に応じ、三十年ぶりに刊行される四編では、尾張藩家老に仕えた武士・水野正信(一八〇五~六八年)の私的な記録集「青窓紀聞(せいそうきぶん)」を取りあげる。水野は当時“記録魔”として知られ、自らの見聞や公文書、手紙から得た情報などを、全二百四巻の大著にまとめた。
このうち当面は四十三巻分を新年度から年に一冊ずつ、数年がかりで出す方針。新年度当初予算案には、一冊目の初版二百五十部の印刷費と、編集に協力する研究者との会議費を盛り込んだ。
刊行分に記録されているのは、江戸時代後期の一八一四年から米国のペリーの来航(五三年)前までの社会情勢。名古屋城下の祭りや寺社の開帳などの行事から、災害や疫病の流行まで多岐にわたる。
原本は蓬左文庫の所蔵で一九九〇年ごろから解読を続け、九割超は終わっている。(谷村卓哉)
ちょうど百五十年前、長く続いた江戸幕府が倒れ、明治時代が始まった。激動の時代の端境期。新しい国の礎を築くのに活躍した県出身者をノンフィクションライターの岡村青さんに寄稿してもらった。シリーズ一回目は金融界の発展に貢献した川崎八右衛門から。今後、隔週で紹介していく。【今こそ知りたい幕末明治】幻の薩摩藩京都「岡崎屋敷」発見
川崎八右衛門は一八三四(天保五)年十二月、現在の茨城町海老沢で生まれます。八右衛門は同家代々の襲名で、守安(もりやす)が本名です。生家は涸沼河岸で物資などを船で運ぶ回漕(かいそう)業を営むほか、水戸藩所有の山林管理をつとめる郷士の家柄でした。
けれど、「生家は現在、解体して残っていません。当時をしのばせるものといえばこの二つの灯籠だけですね」と、分家にあたる川崎正則さんは庭に立つ灯籠を手で示します。
十五歳で家業を継ぎ、十六歳で加倉井砂山(さざん)の「日新塾」に入門。塾は現在の水戸市成沢町にあり、文芸、兵学、武芸のほか、塾生が討論会を開いて議論を交わすなど個性尊重の私塾でした。そのため、三千名もの塾生を育成したともいわれ、天狗(てんぐ)党の筑波挙兵を果たした藤田小四郎なども学んでいました。
川崎は入門間もなく、砂山の次女世舞子(せんこ)と結婚。砂山が、彼の商才を見込んだためともいいます。砂山は塾に三人の秀才がいるとして、「文章は即(すなわ)ち興野道甫(きゅうのどうほ)あり、義烈は即ち斎藤一徳(いっとく)あり、貨殖は即ち川崎守安あり」と評し、資産を蓄えるのに優れた川崎を認めています。
実際、川崎は六六年、財政再建のために江戸の水戸藩下屋敷に鋳銭座設置が認可されると責任者となって事業を軌道に乗せ、財政を好転させるなど商才を発揮します。
水戸藩最後の藩主徳川昭武は六九年、北海道天塩(てしお)地方の開拓に乗り出し、川崎もこれに加わります。けれど、二年後の廃藩置県発布で事業は北海道開拓使に譲渡し、水戸藩は北海道から撤退します。
川崎の経済界進出欲求は、国内の近代化とともにますます旺盛となり、東京・日本橋に川崎組(後の川崎銀行)を設立し、国内の銀行の草分けとなります。事業も順調に進みます。
特に七七年二月、西郷隆盛らが起こした西南戦争を鎮圧するため、警視庁が派遣する警官隊の費用を調達したことで、さらに事業を拡大し、財界進出の足取りをいっそう速めます。
けれど、川崎は私腹を肥やすことや名利を求める人ではなく、むしろ質素な人でした。そのため、利益は地域発展のために還元しています。 (ノンフィクションライター・岡村青)
慶応2(1866)年正月28日、京都に滞在していた薩摩藩家老の桂久武は、その上京日記に「此日岡崎御屋敷毎月例之通之一陳調練有之由」と、岡崎に設けられた屋敷(調練場)での月例調練について記した。戊辰戦争150年機に地域振興、東北各地で催し 北海道・東北
岡崎屋敷についての記述は他にもあり、一昨年、鴨川以東の岡崎界隈(かいわい)に「薩州ヤシキ」と描かれている古地図の存在が話題になったが、正確な場所などは不明のままであった。
今回、古地図研究第一人者で佛教大学非常勤講師の伊東宗裕氏と、西郷隆盛研究家の原田良子氏が、岡崎屋敷の正確な位置や規模、存続期間がわかる古地図を確認した。
それは、京都女子大学所蔵の「鴨川沿革橋図」巻子(かんす)本(巻物)の中に収められていた。明治31年に京都の篤志家、熊谷直行(鳩居堂第8代当主)が、鴨川の橋についてまとめたものである。従来の古地図と異なり、道路の形状、屋敷の輪郭が比較的正確に描かれている。薩州屋敷の部分には「元治元年四月外柵成慶応四年取払其後此処ヲ分割シテ横須賀大聖寺秋田富山ノ邸ヲ設ク」「ヌエ塚、ヒメ塚、西天王寺(ツカ)」とある。鵺(ぬえ)塚、秘塚という古墳は昭和30年まで現・岡崎公園に存在(その後移設)。そこから場所が特定できた。
面積も「凡 五万二千二百拾坪」と記載されている。おおよその形状から、岡崎公園から西にあるロームシアター京都、平安神宮のほとんどが岡崎屋敷内と推定できる。
元治元(1864)年4月に外柵を成し、月日の記載を欠くが慶応4年に引き払い、分割して、横須賀・大聖寺・秋田・富山藩邸となったことは慶応4年の古地図からも確かめられる。隣接する越前、芸州(安芸)、加賀屋敷の坪数などが明記されている点も画期的である。
元治元年4月、西郷隆盛は沖永良部島から赦免召喚され上洛していた。前月、国父島津久光は尽力した参与会議の解散を余儀なくされた。一橋慶喜が宸翰の草稿問題で久光を警戒し排除したことによる。同4月18日、久光は失意の中、大久保利通を同道して薩摩へ向けて出立し、京都は家老の小松帯刀と西郷隆盛に委ねられた。5月12日付の西郷から国元の大久保への書簡に、久光の意向である禁裏守護に徹していることが記されている。
岡崎屋敷も、この禁裏守護の目的で設けられたと考えられる。屋敷を見下ろす高台にある黒谷・金戒光明寺は、文久2(1862)年、京都守護職として会津藩主、松平容保が本陣としている。翌文久3年、会津藩と薩摩藩は「八月十八日の政変」で力を合わせた。
元治元年7月19日の禁門の変でも薩摩藩は禁裏守護を貫き、西郷が指揮した。その精兵、砲隊の調練は岡崎で間違いない。
2年後の慶応2年正月21日、御花畑で薩長同盟は結ばれた。
その後、桂久武は小松帯刀とともに、洛西衣笠山の麓(現・立命館大学周辺)に新たな調練場を設ける調査などをしている。小松原村の薩摩藩の調練場である。京都での薩摩藩の軍事的存在感は高まる一方であった。
ところで、坂本龍馬が寺田屋で襲撃された際に押収された荷物の中に、薩長の談合に関する書面があった。その内容が、「京坂書通写」(鳥取県立博物館)に書かれており、薩長両藩が協力して会津藩を京都から追放する取り決めがあったことがわかった。
これらのことからも薩長同盟は、場合によって「決戦やむなし」の決意を持った軍事同盟と考えられる。
薩摩藩の調練場では、英国式兵学者の上田藩士赤松小三郎を招き、英国式歩兵への練兵も行われた。鳥羽伏見の戦いでは、その英国式歩兵も錦の御旗とともに最大限に生かされた。
桂久武は、慶応2年2月12日に「幸神口橋普請見物として参候」と御幸橋の普請を見学している。
今回の古地図は御幸橋(現・荒神橋)の解説に付したものであった。その内容は史料の「御幸橋(中略)慶応二年二月、工を興し八箇月にして成るを告く(ぐ)」とも一致する。
久武は、京都見物をしながら反物や清水焼などを買い求めた。前年末にパリ万博の契約がベルギー商社との間で成されており、その準備とも考えられる。
富国強兵は島津斉彬の遺志であった。今回発見された地図は、薩摩藩が軍事力と政治力を発揮し、幕末の難局を乗り越え、明治維新を迎えたことを、再認識させる貴重な史料である。
江戸から明治への転換期に起きた戊辰(ぼしん)戦争から150年の節目を、ふるさとの振興につなげるイベントが東北で相次ぐ。国が掲げる「明治150年」とは違う角度から情報発信し、住民が地元を見つめ直す機会をつくりながら、観光客も呼び込む企画が目立つ。敵味方を超えた催しを開く動きもある。開戦の日、残る傷痕 戊辰150年・鳥羽・伏見の戦い
鶴ケ城に立つのぼり旗には「戊辰150周年」に並んで「SAMURAI CITY AIZU」の文字も(25日、福島県会津若松市)
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鶴ケ城に立つのぼり旗には「戊辰150周年」に並んで「SAMURAI CITY AIZU」の文字も(25日、福島県会津若松市)
旧幕府軍の中心的存在だった会津藩ゆかりの福島県会津若松市は28日に「オープニング講演会」を開く。会津を舞台にした著作も多い作家の中村彰彦氏が、市民ら400人以上を前に戊辰戦争の歴史的意義を語る。7月下旬を予定する白虎隊の悲劇を題材にした「オペラ白虎」公演には、市民コーラスも参加する。
市は5千万円の予算を投じて内外に会津をPRする特別映像も制作中。5月以降、衛星放送やネットを通じて発信する。「逆賊の汚名を受けながらも戦った先人の心に、市民や観光客が思いをはせる年にしたい」(市観光課)という。
仙台藩、米沢藩など東北諸藩の代表が集まった「白石会議」の舞台、宮城県白石市は「しろいし慕心(ぼしん)プロジェクト」を展開。「戊辰の面影」などをテーマに当時の足跡が残る場所など市内で撮影した写真を募集し、3月にコンテストや展示会を実施する。白石会議は「奥羽越列藩同盟」につながったことから、加盟藩再集結の場を設ける構想もある。
敵味方を超えた企画もある。新政府軍を何度も跳ね返した庄内藩の一部だった山形県酒田市は、処分に寛大だった西郷隆盛との関係にスポットを当てた企画展を今夏に開く予定。同町には西郷をまつる南洲(なんしゅう)神社もあり、NHK大河ドラマ「西郷どん」との相乗効果も期待する。
領民が両軍の戦死者を分け隔てなく弔ったことで知られる福島県白河市のキャッチフレーズは「甦(よみがえ)る『仁』のこころ」。「先人の功績から学び、多くの地域と交流を深めたい」(市文化振興課)とし、7月14日には山口県萩市や鹿児島市など新政府軍側の自治体トップらも招いて合同慰霊祭を開く。
土地によっては戦争のわだかまりは根強い。会津若松市は降伏の日と同じ9月22日に式典を開くが「西軍(新政府軍)を呼ぶことは考えていない」(市観光課)という。
1868(慶応4)年1月27日(旧暦1月3日)、戊辰戦争が始まった。緒戦の「鳥羽・伏見の戦い」から1869(明治2)年6月の箱館戦争までの1年余にわたり、東軍(旧幕府軍)と西軍(新政府軍)が戦火を交えた。国の未来を切り開く-。立場は違えど、志を胸に戦った日本人の足跡は、多くの教訓を伝える。150年を経た今もなお、先人が情熱を注いだ国造りへの思いを伝え続けている人々を訪ねる。靖国神社宮司、退任へ 明治維新、歴史認識めぐる発言で波紋 戊辰戦争「幕府軍も日本のこと考えていた」
京都市南東部に位置する伏見区。多くの寺社が連なる静かな街並みの一角に妙教寺はある。本堂のほぼ中央に立つ、直径30センチほどの太い柱にある大穴が目を引く。
「壁を突き破った砲弾は柱を貫き、壁にめり込んで、ようやく止まったと伝え聞いています。恐ろしいまでの破壊力です」。住職の松井遠妙[おんみょう]さん(68)は、150年前に繰り広げられた鳥羽・伏見の戦いの激しさを物語る痕跡に視線を向けた。
鳥羽・伏見の戦いは、現在の京都市南部に当たる鳥羽や伏見、淀が主戦場になった。特に伏見と淀は、淀川や鳥羽街道などを介して大阪に通じる要衝だった。当時、大阪を本拠地としていた東軍は京都に向かう途中で、入京を妨げる西軍と、この地で激突した。
妙教寺は淀川の上流の桂川と鳥羽街道沿いにあり、戦局の鍵となった淀城に近い。境内周辺では激しい砲戦、銃撃戦が繰り広げられた。
大穴は普段、板でふさがれている。裏側には当時の住職日祥が記した戦いの模様を伝える一文が残る。
「明治元年正月4日幕兵は官軍を小橋の畔[あぜ]に拒[ふせ]ぐ。銃丸雨の如くことごとくこの寺に集まる。(中略)猫犬驚き走り身の置くところなし。中に巨砲[おおづつ]ありて勢迅雷[いきおいじんらい]の如く、天地に響動[きょうどう]す。(中略)誤ってこの柱をつらぬき、玄関の屋隅[やすみ]をおかしやぶって止む」
砲弾、銃弾が雨あられのように降り注ぎ、その音は雷鳴のように天地に響いた。猫や犬でさえも恐れおののき、逃げ惑った-。混乱を極めた様子は想像に難くない。
日祥は、こう締めくくっている。
「しかる後此の柱は新造を加えず、全く其の跡を存し、以って後世伝説の証とする。嗚呼[ああ]危うかりし哉[や]」
あえて柱を新たに造らず、修繕して残した。悲惨で過酷な戦乱の証拠として後世に語り継ぐ-。
地域の平穏と、民の安寧を祈る一人の僧侶のメッセージが、平和とは何かを問い掛ける。
( 2018/01/27 09:01 カテゴリー:主要 )
靖国神社の徳川康久宮司(69)が退任する意向を関係者に伝えていたことが23日分かった。同神社関係者が明らかにした。定年前の退任は異例。徳川氏は「一身上の都合」と周囲に説明している。徳川幕府十五代将軍慶喜を曽祖父に持つ徳川氏が2016年の共同通信のインタビューで示した明治維新に関する歴史認識について、同神社元総務部長が「会津藩士や西郷隆盛ら『賊軍』の合祀(ごうし)の動きを誘発した」と著書などで徳川氏を批判、波紋が広がっていた。以後は有料記事サービスにて。
明治維新のため幕府と戦って亡くなった人々の顕彰という創立の理念に絡んで発言した徳川氏が退任すれば、…
半藤一利「明治維新150周年、何がめでたい」「賊軍地域」出身作家が祝賀ムードにモノ申す
1月1日、安倍晋三首相は年頭所感で「本年は、明治維新から、150年目の年です」と切り出し、明治維新を賞賛した。政府は「明治維新150年」記念事業に積極的で、菅義偉官房長官は「大きな節目で、明治の精神に学び、日本の強みを再認識することは重要だ」と述べている。
明治維新を主導した薩摩(鹿児島)、長州(山口)などではすでに記念イベントが始まっているが、今年は国家レベルでもさまざまな祝賀事業が行われる見通しだ。
だが、こうした動きに対し、異議を申し立てる論者も多い。『日本のいちばん長い日』『昭和史』などの名著で知られ、幕末維新史にも詳しい半藤一利氏もその1人である。『賊軍の昭和史』(保阪正康と共著)の著者でもある半藤氏に話を聞いた。
(聞き手:加納則章)
「明治維新」という言葉は使われていなかった
――そもそも「明治維新」という言葉が使われたのは、明治時代が始まってからずいぶん後のようですね。
私は、夏目漱石や永井荷風が好きで、2人に関する本も出しています。彼らの作品を読むと、面白いことに著作の中で「維新」という言葉は使っていません。特に永井荷風はまったく使っていないのです。
漱石や荷風など江戸の人たちは、明治維新ではなく「瓦解(がかい)」という言葉を使っています。徳川幕府や江戸文化が瓦解したという意味でしょう。「御一新(ごいっしん)」という言葉もよく使っています。
明治初期の詔勅(しょうちょく)や太政官布告(だじょうかんふこく)などを見ても大概は「御一新」で、維新という言葉は用いられていません。少なくても明治10年代までほとんど見当たりません。
そんなことから、「当時の人たちは御一新と呼んでいたのか。そもそも維新という言葉なんかなかったんじゃないか」と思ったことから、明治維新に疑問を持つようになりました。
調べてみると、確かに「明治維新」という言葉が使われだしたのは、明治13(1880)年か14年でした。
明治14年というのは、「明治14年の政変」があり、薩長(薩摩・長州)政府というよりは長州政府が、肥前(佐賀)の大隈重信らを追い出し政権を奪取した年です。このあたりから「明治維新」を使い出したことがわかりました。
半藤一利(はんどう かずとし)/作家。昭和5(1930)年、東京生まれ。東京大学文学部卒業後、文藝春秋入社。『週刊文春』『文藝春秋』編集長、専務取締役などを経て作家。「歴史探偵」を自称。『漱石先生ぞな、もし』(正・続、新田次郎文学賞)、『ノモンハンの夏』(山本七平賞)、『日本のいちばん長い日』、『昭和史1926-1945』『昭和史 戦後篇』(毎日出版文化賞特別賞)、『幕末史』、『山本五十六』、『日露戦争史』(全3巻)、『「昭和天皇実録」の謎を解く』(共著)など著書多数。保阪正康との共著に『そして、メディアは日本を戦争に導いた』(対談)などがある(撮影:風間 仁一郎)
薩長が革命を起こし、徳川政府を瓦解させ権力を握ったわけですが、それが歴史的にも正当性があることを主張するために使った“うまい言葉”が「明治維新」であることがわかったのです。
確かに「維新」と「一新」は、「いしん」と「いっしん」で語呂は似ていますが、意味は異なります。「維新」は、中国最古の詩集『詩経』に出てくる言葉だそうで、そう聞けば何やら重々しい感じがします。
薩長政府は、自分たちを正当化するためにも、権謀術数と暴力で勝ち取った政権を、「維新」の美名で飾りたかったのではないでしょうか。自分たちのやった革命が間違ったものではなかったとする、薩長政府のプロパガンダの1つだといっていいでしょう。
歴史というのは、勝った側が自分たちのことを正当化するために改ざんするということを、取材などを通してずいぶん見てきました。その後、いろいろ調べて、明治維新という名称だけではなく、歴史的な事実も自分たちに都合のいいように解釈して、いわゆる「薩長史観」というものをつくりあげてきたことがわかりました。
「薩長史観」はなぜ国民に広まったのか
――どのようにして薩長史観が広まったのでしょうか。
そもそも幕末維新の史料、それも活字になった文献として残っているものの多くは、明治政府側のもの、つまり薩長史観によるものです。勝者側が史料を取捨選択しています。そして、その「勝った側の歴史」を全国民は教え込まれてきました。
困ったことに、明治以降の日本人は、活字になったものしか読めません。ほとんどの人が古い文書を読みこなせません。昔の人が筆を使い崩し字や草書体で書いた日記や手紙を、専門家ではない私たちは読めません。読めないですから、敗者側にいい史料があったとしても、なかなか広まりません。どうしても薩長側の活字史料に頼るしかないのです。
そこでは、薩長が正義の改革者であり、江戸幕府は頑迷固陋(ころう)な圧制者として描かれています。学校では、「薩長土肥の若き勤皇の志士たちが天皇を推戴して、守旧派の幕府を打ち倒し新しい国をつくった」「幕末から明治にかけての大革命は、すばらしい人格によってリードされた正義の戦いである」という薩長史観が教えられるわけです。
さすがに最近は、こうしたことに異議を申し立てる反「薩長史観」的な本がずいぶん出ているようですが……。
――子どもの頃、半藤さんのルーツである長岡で「薩長史観」の誤りを感じられたそうですね。
私の父の郷里である新潟県の長岡の在に行くと、祖母から教科書とはまったく逆の歴史を聞かされました。学校で薩長史観を仕込まれていた私が、明治維新とか志士とか薩長とかを褒めるようなことを言うと、祖母は「ウソなんだぞ」と言っていました。
「明治新政府だの、勲一等だのと威張っているヤツが東京にたくさんいるけど、あんなのはドロボウだ。7万4000石の長岡藩に無理やりケンカを仕掛けて、5万石を奪い取ってしまった。連中の言う尊皇だなんて、ドロボウの理屈さ」
いまでは司馬遼太郎さんの『峠』の影響もあり、河井継之助が率いる長岡藩が新政府軍相手に徹底抗戦した話は有名ですが、当時はまったく知りませんでした。明治維新とはすばらしいものだったと教えられていた私は、「へー、そんなことがあるのか」と驚いたものです。
また祖母は、薩長など新政府軍のことを「官軍」と呼ばず「西軍」と言っていました。長岡藩はじめ奥羽越列藩同盟軍側を「東軍」と言うわけです。いまでも長岡ではそうだと思います。これは、会津はじめほかの同盟軍側の地域でも同様ではないでしょうか。
そもそも「賊軍」は、いわれのない差別的な言葉です。「官軍」も「勝てば官軍、負ければ賊軍」程度のものでしかありません。正直言って私も、使うのに抵抗があります。
「明治維新」の美化はいかがなものか
――幼少期の長岡でのご経験もあり、「明治維新150年」記念事業には違和感があるのでしょうか。
「明治維新150年」をわが日本国が国を挙げてお祝いするということに対しては、「何を抜かすか」という気持ちがあります。
「東北や北越の人たちの苦労というものを、この150年間の苦労というものをお前たちは知っているのか」と言いたくなります。
司馬遼太郎さんの言葉を借りれば、戊辰戦争は、幕府側からみれば「売られたケンカ」なんです。「あのときの薩長は暴力集団」にほかならない。これも司馬さんの言葉です。
本来は官軍も賊軍もないのです。とにかく薩長が無理無体に会津藩と庄内藩に戦争を仕掛けたわけです。いまの言葉で言えば侵略戦争です。
そして、ほかの東北諸藩は、何も悪いことをしていない会津と庄内を裏切って両藩を攻めろ、法外なカネを支払え、と高圧的に要求されました。つまり薩長に隷属しろと言われたのです。これでは武士の面目が立たないでしょうし、各藩のいろんな事情があり、薩長に抵抗することにしたのが奥羽越列藩同盟だったわけです。
私は、戊辰戦争はしなくてもいい戦争だったと考えています。西軍の側が手を差し伸べていれば、やらなくていい戦争ではないかと。
にもかかわらず、会津はじめ東軍の側は「賊軍」とされ、戊辰戦争の後もさまざまに差別されてきました。
そうした暴力的な政権簒奪(さんだつ)や差別で苦しめられた側に配慮せず、単に明治維新を厳(おごそ)かな美名で飾り立てようという動きに対しては何をかいわんやです。
――賊軍となった側は、具体的にはどのような差別を受けたのでしょうか。
宮武外骨の『府藩県制史』を見ると、「賊軍」差別の様子がはっきりわかります。
これによると、県名と県庁所在地名の違う県が17あるのですが、そのうち賊軍とされた藩が14もあり、残りの3つは小藩連合県です。つまり、廃藩置県で県ができるとき、県庁所在地を旧藩の中心都市から別にされたり、わざわざ県名を変えさせられたりして、賊軍ばかりが差別を受けたと、宮武外骨は言っているわけです。
たとえば、埼玉県は岩槻藩が中心ですが、ここは官軍、賊軍の区別があいまいな藩だった。「さいたま」という名前がどこから出たのかと調べると、「埼玉(さきたま)」という場所があった。こんな世間でよく知られていない地名を県の名にするなんて、恣意的な悪意が感じられます。
新潟県は県庁所在地が新潟市なので名は一致していますが、長岡が中心にありますし、戊辰戦争がなければ長岡県になっていたのではないでしょうか。
県名や県庁所在地だけ見ても、明治政府は賊軍というものを規定して、できるだけ粗末に扱おうとしていることがわかります。
また、公共投資で差別された面もあります。だから、賊軍と呼ばれ朝敵藩になった県は、どこも開発が遅れたのだと思います。
いまも原子力発電所が賊軍地域だけに集中しているなどといわれますが、関係あるかもしれません。
立身出世を閉ざされた「賊軍」藩出身者
――中央での人材登用でも、賊軍の出身者はかなり厳しく制限されたようですね。
賊軍藩の出身だと、官僚として出世できないんですよ。歴史事実を見ればわかりますが、官途に就いて名を成した人はほとんどいません。歴代の一覧を見れば明らかですが、総理大臣なんて岩手県の原敬が出るまで、賊軍出身者は1人もいない。ほとんど長州と薩摩出身者で占められています。
ちなみに明治維新150年目の今年は長州出身の安倍氏が総理ですが、彼が誇るように明治維新50年も(寺内正毅)、100年も(佐藤栄作)も総理は長州出身者でした。
また、明治年間に爵位が与えられて華族になったのも、公家や殿様を除けば、薩長出身者が突出して多いのです。特に最も高い位の公爵と侯爵を見ると、全部が長州と薩摩なんです。
政官界では昭和の戦争が終わるまで、賊軍出身の人は差別されていたと思われるのです。明治以降、賊軍の出身者は出世できないから苦労したのです。
――2013年放映のNHK大河ドラマ「八重の桜」では会津藩出身者の苦労が描かれていましたが、それ以外の負けた側の藩の出身者も差別されたわけですね。
例を1つ挙げれば、神田の古本屋はほとんどが長岡の人が創業しています。長岡出身で博文館を創業した大橋佐平という人がいちばん初めに古本屋を開いて成功したのですが、当時、いちばん大きい店でした。その後、大橋が中心となって、長岡の困っている人たちをどんどんと呼んで、神田に古本屋がたくさんできていったんです。
こんな具合に、賊軍藩の出身者たちは、自分たちの力で生きるしかなかったのです。
――『賊軍の昭和史』でもおっしゃっていますが、軍人になった人も多かったようですね。
前途がなかなか開けない賊軍の士族たちの多くは、軍人になりました。
いちばん典型的なのは松山藩です。司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』で有名な秋山兄弟の出身地です。松山藩というのは四国ですが賊軍藩です。ただ、弱い賊軍で、わずか200人足らずの土佐藩兵にあっという間に負けて降伏しました。
その松山藩の旧士族の子弟は苦労したんです。秋山兄弟の兄の好古(よしふる)さんは家にカネがないから陸軍士官学校へ行った。士官学校はタダですからね。あの頃、タダだった教育機関は軍学校と師範学校、鉄道教習所の3つでした。
弟の真之(さねゆき)さんは、お兄さんから言われて海軍兵学校へ入り直していますが、兵学校ももちろんタダでした。
この兄弟の生き方を見ると、出世面でも賊軍出身の苦労がよくわかります。好古さんは大将まで上り詰めますが、ものすごく苦労しているんです。真之さんも苦労していて、途中で宗教に走り、少将で終わっています。
賊軍藩は、明治になってから経済的に貧窮していた。だから、旧士族の子弟の多くは学費の要らない軍学校や師範学校へ行った。
その軍学校を出て軍人になってからも、秋山兄弟と同様に賊軍出身者は、立身出世の面で非常に苦労しなければなりませんでした。
『賊軍の昭和史』で詳しく触れましたが、日本を終戦に導いた鈴木貫太郎首相も賊軍出身であったため、海軍時代は薩摩出身者と出世で差をつけられ、海軍を辞めようとしたこともありました。
敗者は簡単には水に流せない
――負けた側の地域は、差別された意識をなかなか忘れられないでしょうね。
私は、昭和5(1930)年に東京向島に生まれましたが、疎開で昭和20(1965)年から旧制長岡中学校(現長岡高校)に通いました。有名な『米百俵』の逸話とも関係する、長岡藩ゆかりの学校です。
『賊軍の昭和史』(書影をクリックすると、アマゾンのサイトにジャンプします)
長岡中では、薩長と戦った家老・河井継之助を是とするか、恭順して戦争を避けるべきであったのかを友人たちと盛んに議論しました。先ほども言いましたように、明治に入っても官僚になった長岡人はほとんどおらず、学者や軍人になって自身で道を切り開いていくしかなかった現実があり、私の世代にも影響していました。
私よりかなり先輩になりますが、真珠湾攻撃を指揮した山本五十六海軍大将も、海軍で大変苦労しているのです。
「賊軍」地域は、戊辰戦争の敗者というだけでは済まなかったということです。賊軍派として規定されてしまった長岡にとっては「恨み骨髄に徹す」という心情が横たわるわけです。
いまも長岡高校で歌い継がれているようですが、長岡中学校の応援歌の1つ『出塞賦(しゅっさいふ)』に次のような一節がありました。
「かの蒼竜(そうりゅう:河井継之助の号)が志(し)を受けて 忍苦まさに幾星霜~」
勝者は歴史を水に流せるが、敗者はなかなかそうはいかないということでしょう。
よってたかってシリーズは好きで大体欠かさずチケット取っていたのだけど、喬太郎トリの昼の部チケットが全然取れなかった。ネットオークションでもほとんど出ない。。
でもネット上の感想見ると化学変化を起こす前に終わったかも知れない。狙ったように行かないのも落語会の面白さ。
で、チケット取れた夜の部は前半が新作らくご祭りで、後半はがっつり古典。
黄金の大黒/じゃんけん
兼好さんの二番弟子。
銀座なまはげ娘/粋歌
銀座の高級ジュエリーブランドとなまはげのミスマッチが面白い。
スナックヒヤシンス/きく麿
きく麿さん初めてかも知れない。うーん、白鳥さんの「マキシム・ド・呑兵衛」聴いてるとあまりインパクトないというか。。
秘密の花園/白鳥
いきなり、ほとんどねたおろし。しかも「隅田川母娘」に続く禁断の菊のご紋ネタ。磨けば光るいいネタだと思うけど、次、どこでかけらけるか(^_^;)。個人的には国立演芸場とか、有楽町から三宅坂辺りでまた聴きたい……って白鳥師匠がご無事でいられたらだけど。
猫の皿/兼好
中入り後は、空気を変えるのが上手な兼好師匠。前半のおさらいをしつつも、新作まつりでちょっと空気が「??」みたいな人も安心できる雰囲気にしつつ、古典にいざなう。
そしてオチがきいてる「猫の皿」。じっくり仕込みをして、山里の茶屋で一息つく果師(はたし)が茶屋の店先にうろつく汚い猫のご飯皿に気付いて儲けようとするところまではゆっくり。一杯食わすつもりが食わされるところはさらっと。見事。
鰍沢/三三
こういう寒い冬に絶好のネタ。落語を生で聴き始めて7年になるけど、この大ネタは季節を選ぶし、なまなかな演者ではまともに聴けないので、たぶんまだ数回。1000人収容するよみうりホールで全員を鰍沢の世界に連れて行くのはなまじの巧者でもできることではない。
けど三三は大したものだ。雪の鰍沢に迷い込んだ江戸の旅人、再会した吉原の花魁のなれの果てである「月輪のお熊」の、歌舞伎でいうところの悪婆といったところの存在感。ジェットコースター的でサスペンスとアクション多量なさげ。お見事でございます。
でもネット上の感想見ると化学変化を起こす前に終わったかも知れない。狙ったように行かないのも落語会の面白さ。
で、チケット取れた夜の部は前半が新作らくご祭りで、後半はがっつり古典。
黄金の大黒/じゃんけん
兼好さんの二番弟子。
銀座なまはげ娘/粋歌
銀座の高級ジュエリーブランドとなまはげのミスマッチが面白い。
スナックヒヤシンス/きく麿
きく麿さん初めてかも知れない。うーん、白鳥さんの「マキシム・ド・呑兵衛」聴いてるとあまりインパクトないというか。。
秘密の花園/白鳥
いきなり、ほとんどねたおろし。しかも「隅田川母娘」に続く禁断の菊のご紋ネタ。磨けば光るいいネタだと思うけど、次、どこでかけらけるか(^_^;)。個人的には国立演芸場とか、有楽町から三宅坂辺りでまた聴きたい……って白鳥師匠がご無事でいられたらだけど。
猫の皿/兼好
中入り後は、空気を変えるのが上手な兼好師匠。前半のおさらいをしつつも、新作まつりでちょっと空気が「??」みたいな人も安心できる雰囲気にしつつ、古典にいざなう。
そしてオチがきいてる「猫の皿」。じっくり仕込みをして、山里の茶屋で一息つく果師(はたし)が茶屋の店先にうろつく汚い猫のご飯皿に気付いて儲けようとするところまではゆっくり。一杯食わすつもりが食わされるところはさらっと。見事。
鰍沢/三三
こういう寒い冬に絶好のネタ。落語を生で聴き始めて7年になるけど、この大ネタは季節を選ぶし、なまなかな演者ではまともに聴けないので、たぶんまだ数回。1000人収容するよみうりホールで全員を鰍沢の世界に連れて行くのはなまじの巧者でもできることではない。
けど三三は大したものだ。雪の鰍沢に迷い込んだ江戸の旅人、再会した吉原の花魁のなれの果てである「月輪のお熊」の、歌舞伎でいうところの悪婆といったところの存在感。ジェットコースター的でサスペンスとアクション多量なさげ。お見事でございます。
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