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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 平日夜だとなかなか行けないのだが、たまたま日曜の昼間の開催だったので。

金明竹/談笑
 高座に上がる時の出囃子がいつもと違う。そして、虹色のライトも違う。なんか、今日の東京マラソンを表現したかったそうで。

粗忽長屋/談笑

 「金明竹」「粗忽長屋」ともに鉄板なだけに出来は悪くないと思うのだけど、久しぶりに国立演芸場まで来て鉄板ネタが続くとちょっと食傷……場面場面の中で新しい描写があったりして、決してまったく同じという訳ではないけど。でも爆死覚悟で果敢に挑戦する談笑独演会という期待をもって来てしまっただけに、ちょっと違う気がする。

中入り

鼠穴改/談笑

 CDでは聴いているけどライブでは初めての『鼠穴』がトリネタでよかった。そして、明らかにこのネタに賭けているような熱演でよかった。
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 三遊亭白鳥がトリを務めるので、足を運ばねば。白鳥さんサイトでネタ出ししていたので、楽しみにしていた。

転失気/しあわせ

遅刻ホスト/ぬう生
 三遊亭白鳥を知っている人、挙手〜……ざっと三分の一ぐらいか。
 自分と白鳥以外はまともな古典やるから、と前置き。
 いまどきの若者風なホストの翼くんのお話。

漫才/にゃん子金魚
 代演もあったりするのが寄席の常なのだが、今日は出演の順番の入れ替えもだいぶありそうだな……中入り後に予定しているにゃん子金魚がさら口に近いところで出演だわ。
 金魚ちゃんの髪にはひな人形が。あれ手作りかな。

近日息子/今松
 喜多八師匠の得意ネタだよな……ライブで聴いたのは初めて。

身投げ屋/雲助
 琴調さんの代演かしら、随分と浅いところでの出演であられるなぁ、やっぱり今日は出番がかなり入れ替わるみたいと思いつつ、お得意の『身投げ屋』を聴く。
 末廣亭の館内の暖房が効き過ぎて、途中でちょっと意識が途切れる(汗)。

紙切り/正楽
 挨拶代わりの相合い傘の後、ひな人形がふたつリクエストされる……でもちゃんと違うパターンの絵柄。
 最後にサービスで舞浜のネズミーランドのアイドル。他の寄席だとシルエットだけだけど、末廣亭だからちゃんと中まで切り込むって冗談で言っておられた。

強情灸/志ん彌
 江戸っ子の強情さと見栄が楽しい一品。

初天神/左龍
 得意ネタだと思う。巧いと思う。でも自分には金坊が濃すぎてあざといと感じる。

ギター漫談/林家ペー
 実物見たの初めて。ピンクのTシャツ、ピンクのスエットパンツ、ピンクのギター……。

長屋の花見/小さん
 短めの『長屋の花見』。ござの毛氈は出て来ない。

遊び心を持ちましょう/歌之介
 短めの漫談をつなぎ合わせたようなネタなんだけど、歌之介ってやっぱ面白い。げらげら笑わせてもらった。

中入り

千早ふる/文左衞門
 古典落語のネタをちりばめてご通過を喜ばせる。UFJは「歌武蔵 ふたりいたら 邪魔」と歌武蔵をネタにする。そして最後は「とはの由来」を白鳥に振る。
 最高(^^)。大好きだー。

漫才/とんぼまさみ
 初めてライブ。関西漫才。割と面白いかも。

支度部屋外伝/歌武蔵
 中入り後は文左衞門・歌武蔵・白鳥と私好みの落語家さんがラインナップされていて充実。
 相撲ネタと落語家ネタを散りばめた「支度部屋外伝」。関西で100キロ超の落語家が5人出演する落語会に出ているそうで、東京でも同じ企画をやりたいそうな。歌武蔵師匠以外に、キョン師と白酒さんが出演資格をクリアしているとか。

居酒屋/ひな太郎
 好きなネタなんだけど、文左衞門・歌武蔵・白鳥のラインナップに入るとちょっと存在感が弱い印象。

太神楽/勝丸
 Twitterでつぶやかないでくださいと言われたような気がする。でもハプニングがあった方が寄席はスリリング。

居酒屋ジョニー/白鳥
 去年秋の池袋演芸場の三大噺で生まれた作品だそう。ゴッドファーザーとロミオとジュリエットと柳生一族の陰謀が混じったような、でも舞台は椎名町のスーパーライフで、登場人物は擬人化された豆腐やチーズなどという白鳥ワールド。今日は白鳥さんを知らないお客さんも多かったが結構受けた。
 そして私は大喝采。スーバーで縄張り争いをする豆腐一家とチーズファミリーの構図の中で許されない愛を語り合う豆腐屋ジョニーとクリームチーズのマーガレット。「あったかメニュー」特集をめぐってスーパーの売り場を増やさんと、公家のマロニーを引き入れようとする両家だが裏切りにあってついに全面戦争に。
 豆腐フォンデュ、結構いいセンスのメニューだな。そして、今日の高座のために直前に椎名町のスーパーライフでロケハンしたとかで、小ネタも放り込んで、いい噺に仕上がった。ぱちぱち。


 大河ドラマ『八重の桜』、容保様がご上洛されて京都守護職に着任される今日の放送分、『組!』スキーな私はあのドラマを思い出しながら幕末史を振り返る時間になるでしょう。

福島
「八重のゆかり号」「戊辰の軌跡号」運行中 会津バス
会津バス・タクシーを運営している会津乗合自動車(福島県会津若松市)は、2013年内限定で企業再生と地域再生成就に向け、新島八重ゆかりの地を巡る、期間限定・特別仕立ての定期観光バスを運行する。コースは午前「八重のゆかり号」・午後「戊辰の軌跡号」の2コース、ガイド付き。会津若松駅や宿泊施設(東山温泉)から出発し、八重や戊辰戦争のゆかりの地を巡る。効果的に観光スポットを網羅している。運行は原則、各月の土日・祝日、8月のお盆も運行する。

 午前「八重のゆかり号」は、会津若松駅を出発、東山温泉駅を経て、大河ドラマ館、鶴ケ城、八重の生誕の地などを巡り、会津若松駅にもどる約3時間30分コース。料金は大人が3000円、小人2000円。午後「戊辰の軌跡号」は、会津若松駅を出発、日新館、飯盛山、武家屋敷などを巡り、会津若松駅にもどる4時間のコース。料金は大人が3500円、小人2500円(いずれも税、入館料など込み)。2コースとも昼食はつかない。

 2コースとも事前の申し込みは必要だが、現地発現地着のプランなので、会津若松に着いた後の午後、あるいは宿泊施設に宿泊の後の午前に観光を予定なら、会津バス若松営業所(電話0242-22-5555  9:00-18:00受付)に問い合わせるとよい。事前予約は、電話のほか、インターネットでも受け付けている。


福島・会津藩校日新館:大河ドラマ「八重の桜」効果 入場者が5割増
 大河ドラマ「八重の桜」放映開始以来、福島県会津若松市でロケに使われた歴史施設の入場者数が回復し、震災前を上回るところも出てきている。中でも「ならぬことはならぬものです」に象徴される藩士の教育拠点を再現した「会津藩校日新館」には昨年の3倍、震災前の5割増と多くの観光客が訪れ、再評価されている。【乾達】

 日新館は、会津藩が藩政改革の中心となる人材養成機関として、1803年に鶴ケ城の西隣に建設。10歳になった藩士の子息が通い、学問や武芸に加え、「什(じゅう)の掟(おきて)」など会津の武士道精神を学んだ。全国の藩校の中で随一とも言われ、ドラマの主人公・山本八重の兄覚馬や、白虎隊士も通った。しかし、戊辰戦争で焼失し、現在の建物は86年に同市北部の河東町に地元有志の手で再建された。

 2000平方メートル以上の敷地に、残っていた図面を基に弓道場や水練池まで再現。白虎隊士らが学ぶ様子や史料の展示に加え、宿泊可能な研修施設の機能も持つ。さらに同市では什の掟を基にした「あいづっこ宣言」を小学生が暗唱し、同館で小学4年生が講話や座禅を体験し、10歳の立志をする「半成人式」を行う学校も周辺地域を含め40校以上に上るなど地域の道徳教育の支柱的存在になっている。

 脚本家の山本むつみさんや主演の綾瀬はるかさんらドラマ関係者も見学に訪れ、ストーリーや役作りのヒントを得た。初回の放送では什の掟をはじめ会津の精神文化がクローズアップされ、日新館の名もセリフの中に何度も登場した。そのお陰で、週末を中心に大雪が降る悪条件にもかかわらず、関心を持った個人客が県内外から訪れ、春先の団体予約も次々に入っている。

 見学者の案内を務める観光事業部長の仮名則嗣(かりなのりつぐ)さんは「綾瀬さんは背筋が伸びる思いがすると感想を語ってくれた。ドラマを見て訪れる人もそういう空気を体感して、先人の生き方や歴史に思いをはせてほしい」と話した。

 この他、昨年度は原発事故の影響で約2割減の約49万人に入場者が落ち込んだ鶴ケ城天守閣も、“八重効果”で昨年11月以降は平年並みを回復、1月は隣接する大河ドラマ館オープンの相乗効果もあって15%上回った。2月も昨年の2倍のペースで、来年度は70万人超えを目指す。ドラマ館も2月15日に入場者が3万人に達した。関係者は「週末ごとに大雪が降る中で上々の滑り出し」と話す。

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大雪の中でも来館者が大幅に増えている会津藩校日新館
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 ◇歴史施設の1月入場者状況◇

鶴ケ城天守閣        震災前より15%増

御薬園(松平家庭園)    震災前並みを回復

会津藩校日新館       前年比3倍

会津武家屋敷(西郷頼母邸) 前年比5割増

大河ドラマ館        2月15日で3万人


栃木
黒羽藩主・大関増裕の死に関わり? 那須神社で洋式銃見つかる 栃木
■来月13日から与一伝承館で初公開

 黒羽藩主、大関氏の氏神として信仰を集めた那須神社(栃木県大田原市南金丸)で、同藩が幕末に装備していたとみられる洋式銃「エンフィールド銃」1丁が見つかった。近くの那須与一伝承館が同神社の調査を進める中で明らかになった。同館で開かれるテーマ展「大田原藩と戊辰戦争」(2月13日~3月24日)で初めて公開される。(伊沢利幸)

                   ◇

 「エンフィールド銃」はイギリスで開発された前装式小銃で、イギリス軍が制式小銃として使用したほか、アメリカ南北戦争でも使われた。日本には幕末に大量に輸入され、戊辰戦争で新政府軍の主力小銃となった。宇都宮藩や黒羽藩などでも装備された。

 同館ではテーマ展に向けて昨年から同神社の調査を進め、今年に入り本殿の祭壇下にあった銃を確認。黒羽藩が装備していた銃の一部とみられるが、その存在はこれまで知られていなかった。全長125センチ、重さ3・8キロ。さびが目立ち、「一時的に埋められた可能性もある」(同館)という。

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那須神社で見つかったエンフィールド銃

 同神社付近では幕末、陸海軍奉行を務めた15代黒羽藩主、大関増裕(1837~67年)が謎の死を遂げている。増裕の死には、所持していた洋式銃が暴発したという事故説や自殺説、また着用していたコートに残る弾痕の入射角度などから、銃弾を背中から受けたとみる暗殺説もある。

 同館の前川辰徳学芸員は「洋式銃をだれが神社に持ち込んだかなど不明で、謎が多い。増裕の死との関わりがある可能性もあり、今後、解明していきたい」と話す。

 テーマ展では戊辰戦争で激戦となった大田原城を取り上げ、書簡や古地図、最後の大田原藩主、大田原●丸(としまる)(1861~1930年)の写真、同藩士が戊辰戦争で付けていた袖印などが公開される。2月17日と3月3日、同17日にはギャラリートークを開催。問い合わせは同館(電)0287・20・0220。

 大関増裕(おおぜき・ますひろ) 西洋事情に精通し幕府の陸海軍奉行を務め、勝海舟も軍艦奉行として仕えた。西洋兵術による軍制改革に力を入れた。慶応3(1867)年12月9日、那須神社付近の林で狩猟中に急死した。

●=金へんに生


東京
豪華な岩倉具視邸、ネット競売で古写真発見
 幕末から明治初期に活躍した公家・政治家の岩倉具視(1825~83年)が東京・丸の内に住んでいた頃の邸宅を写したとみられる古写真が見つかった。
 門前にガス灯があり、馬車が止まっているなど、 豪奢
ごうしゃ
な暮らしがうかがえる。当時の政府有力者の自宅を写した写真は珍しく貴重な発見だ。
 倉持基・東大特任研究員(歴史写真学)らが昨春、ネットオークション上で発見した。縦5・8センチ、横10センチで、裏側に「岩倉公邸ノ内」とあり、写っている門や建物が、岩倉家旧蔵の絵図面や記録などと一致することから、1870年秋から84年頃まで岩倉邸だった建物の表門付近の写真とみられる。撮影者、写真の来歴などは不明。
 具視は71年に右大臣となり、同年から73年に特命全権大使として欧米を視察するなど、新政府の中心人物として活躍。邸宅はもと 忍
おし
藩(埼玉県)の藩邸で、具視の死後、一家は移転し、建物も壊されたとされる。岩倉家に関する図像資料を調査してきた 研谷
とぎや
紀夫・関西大准教授(文化資源情報学)は「旧岩倉邸は複数の絵図などに描かれているが、写真は極めて珍しい。旧大名屋敷を転用した厳かな門構えから、権勢の大きさを改めて認識できる」と話している。



神奈川
「黒船に乗り込んだ男」中島三郎助、記念イベント-浦賀ドック跡地で開催
 幕末に黒船に乗り込んで交渉役を務めた浦賀奉行所与力・中島三郎助をしのぶイベント「中島三郎助まつり」が1月20日、浦賀の住友重機・浦賀工場跡地(横須賀市浦賀4)で開催される。主催は「中島三郎助と遊ぶ会」。今年で6回目。

【画像】イベント会場は歴史遺産「浦賀ドック」の機関工場跡

 普段は入ることのできない旧浦賀ドック機関工場を開放して行う歴史イベント。工場内では、函館観光大使・浅岡勤さんによる講演「中島三郎助を語る」、歴史パネル展示、当時をしのぶ創作料理「黒船シチュー」などの飲食ブース、日本舞踊やカントリーダンスなどのステージショーも。

 幕末に浦賀奉行所与力だった中島三郎助は、ペリー来航時(1853年)に日本人として最初に黒船「サスケハナ」に乗り込み、幕府の交渉役を務めた。その後、日本初の洋式軍艦「鳳凰丸(ほうおうまる)」建造の中心人物として活躍。安政6(1859年)には日本最初のドライドックが造られ、太平洋横断直前の咸臨丸の修理も行われた。

 明治2(1879)年、函館・五稜郭で新政府軍との戦いに参加し、息子2人とともに49歳で戦死。業績をしのび、浦賀の愛宕山に「中島三郎助招魂碑」が建てられた。

 開催時間は10時~15時。問い合わせは同会(TEL 046-841-1509)まで。


静岡
戸田とロシア、絆の足跡巡る 大使館関係者ら歴史探訪
 日本とロシアの交流団体でつくる「日ロ友好フォーラム21」と駐日ロシア大使館の関係者が16日、沼津市戸田地区を訪れ、「歴史探訪の旅」として両国交流の足跡を巡った。
 戸田は、1854年の安政東海地震の津波で大破したロシア使節団を乗せた軍艦「ディアナ号」の代用船「ヘダ号」が建造された地。戸田の船大工や村人の献身的な協力で、大勢のロシア人が帰国を果たした。
 歴史探訪では、ロシア使節団を率いたプチャーチン提督が滞在した宝泉寺の一室や、ディアナ号の乗組員の墓、戸田造船郷土資料博物館などに足を運び、先人が育んだ両国間の友情に思いをはせた。
 一行は17日、幕末の外交の舞台となった下田市を訪れ、日ロ友好にゆかりのあるクロンシュタット広場などを訪ねるという。
 ロシア連邦交流庁駐日代表部のヴィノグラドフ・コンスタンチン部長は「日本の皆さんが当時のロシア人の記録を大切に残してくれていて感激した。将来にわたり、両国の良い関係を築いていきたい」と話した。


三重
写真・パネル展:土方歳三を撮影、写真師の企画展−−熊野 /三重
県立熊野古道センターの企画展「幕末の写真師 田本研造〜土方歳三を撮った男」が2日、熊野市井戸町の市文化交流センターで始まった。幕末の函館で戦死した元新選組副長の土方歳三や明治15年の函館の開拓風景など計120枚の写真、パネルが並ぶ。24日まで。入場無料。

 田本は熊野市神川町の生まれ。長崎で医学と写真を学び北海道に渡った。開拓写真を多く手掛けたことから「ドキュメンタリー写真の祖」と呼ばれる。

 写真展は函館市中央図書館、北海道大、旧田本写真館を引き継ぐ谷杉アキラ氏の協力を得て、ガラス製のネガから現像された。

 3月16日〜5月19日には、尾鷲市の県立熊野古道センターに会場を移す。半分以上の写真を入れ替えて展示するという。【汐崎信之】

〔三重版〕


「朝敵」桑名藩読み解き本に 桑名の水谷さん出版
 幕末の戊辰戦争で幕府側につき「朝敵」とされた桑名藩の歴史を県立博物館臨時職員の水谷憲二さん(37)=桑名市多度町=がまとめ、「『朝敵』から見た戊辰戦争 桑名藩・会津藩の選択」(洋泉社)を出版した。
 戊辰戦争の初戦の鳥羽伏見の戦いで敗れた桑名藩は、会津藩らとともに朝敵とされた。その後も徹底抗戦した会津藩は戦争に至ったのに対し、桑名藩は城を明け渡し戦争を回避した。著書では盟友だった二つの藩の選択が分かれた理由や、桑名藩の開城に尽力した酒井孫八郎の功績などを記している。
 今回の著書は、水谷さんが以前に出した研究書を一般向けにまとめ直した。幕末期に多くの犠牲者を出した会津藩と比べ、桑名藩の当時の歴史は研究が進んでおらず、このような視点からまとめた本は数少ないという。
 水谷さんは「地元でも知られていない桑名藩の歴史を知ってもらえれば」と話している。
 新書判の二百三十八ページ、八百九十円(税別)。問い合わせは、水谷さん=電090(7697)6976=へ。
 (渡辺聖子)




奈良
郡山藩支えた柳沢家当主紹介 大和郡山で「ふるさと歴史塾」 奈良
 徳川幕府の要職を担いながら、江戸時代中期から幕末までの郡山藩主などを務めた柳沢家7代の当主を紹介する講演会「柳沢文庫ふるさと歴史塾」が16日、大和郡山市の市中央公民館で開かれ、歴史愛好家らが熱心に耳を傾けた。

 地方史誌の専門図書館「柳沢文庫」(同市)が開催。同館の平出真宣学芸員が講師を務めた。

 会場では歴史資料などをもとに徳川綱吉に重用された柳沢吉保(よしやす)から、幕末に京都守護を任された保申(やすのぶ)までの当主を紹介。桜田門外の変などで軍事的緊張が高まり、軍役の負担が増す中、当主や家中の力で苦境を切り開いた歴史を伝えた。

 図書館では3月17日まで、関連資料を紹介する常設展を開催しており、平出さんは「歴代当主の文化的な側面を示す花鳥画なども展示しているので楽しんでほしい」と話していた。


滋賀
湖国の人たち:「新選組 試衛館の青春」を出版した、松本匡代さん /滋賀
◇一途な若者の群像劇 史実踏まえ生き生きと−−松本匡代さん(55)=大津市

 土方歳三、山南敬助、沖田総司、藤堂平助、斎藤一(はじめ)−−。後に新選組の中核を担う若者らがいた江戸の道場、試衛館時代を取り上げた小説「新選組 試衛館の青春」(上下巻、サンライズ出版)。家族のような温かい交流を軸に、京都に上るまでの全40話からなる青春群像劇だ。大津市在住の著者、松本匡代(まさよ)さん(55)に執筆の思いなどを尋ねた。【姜弘修】

 ◆小説を書くようになった経緯は。

 古い話ですが、大学進学の時、好きな物理がしたかった。志望校に受からず、薬学部に入学しましたが、数学や物理は好きでも、化学や生物はそうでもない人間にとって薬学部の勉強は面白くない。うつうつとした日々を過ごしていた時、ふと立ち寄った本屋で手にとったのが司馬遼太郎先生の「花神」。面白くて、それから司馬先生の作品をむさぼるように読みました。やがて「燃えよ剣」に行き当たり、(主人公の)土方歳三にほれてしまいました。現実逃避で頭の中で妄想するように物語を作り、就職する時に記念に自主出版したのが1冊目の「夕焼け 土方歳三はゆく」でした。

 ◆新選組のどこにひかれますか。

 一生懸命に武士でありたい、という一途(いちず)な思いですね。そもそも私の場合、小説を書くことは新選組から始まっていて、本になった時はものすごくうれしかった。

 ◆新選組結成前の試衛館時代を取り上げた理由は。

 就職後は時間も余裕もなく、小説を全く書いていなかった。45歳で勤めを辞め、また書きたくなり、小説の勉強会に入れてもらいました。そこの最初のテーマが独白で「斎藤一〜明治二年五月・越後高田謹慎所にて」を書き、シリーズ化もしましたが、話が暗く、切ないんです。今度はぱあっと明るいものが書きたくなって、今回の作品になりました。

 ◆史実を踏まえた上で、各登場人物が生き生きと描かれています。人物の造形や挿話の発想は。

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 書き始めたのは第2話で、最初は推理小説にしようと思ったんです。でも、登場人物を付け狙う人物がいつの間にか「いい人」になったりと、知らないうちに趣の違った話になって、斎藤一を試衛館の一員にしようと第1話を入れて。メーンの5人だけでなく、原田左之助や永倉新八、井上源三郎の話も入れたり、近藤勇も1話ぐらい入れないとまずいかなと第16話を書いたりと、まあ、ええかげんなものです(笑)。9人の人物像は今までいろんな本や映画、ドラマで見たものを私好みにブレンドしました。

 ◆理系出身は小説を書く上で役立っていますか。

 文系出身ではないので、修飾語の多い長い文章って読むのも苦手で、読みやすい簡潔な文章を心がけたつもりです。そこは理系かな。でも学生時代、書いた論文が「小説じゃないんだ」と先生に怒られたこともあります。子どものころから文章を書くのは好きで、先天性脳性まひで言語障害もあるので、書くことで自分を表現していたのかもしれません。

 ◆今作の読みどころと次回作の構想を。

 読みどころは優しさ、思いやり、一途さかな。良い人ばかりの中で(登場する)「お栄」の“ちょい悪”の哀(かな)しさも。次回作の構想はいろいろあります。独白シリーズで書いた土方と山南の関係を皆さんに広く読んでもらいたい。県文学祭で特選をもらった小説「和算入門」のシリーズ化や、最近知った幕末志士の赤松小三郎という人、母方の先祖にあたる江戸時代の医師で紀行文を残した橘南谿のことも調べたい。あと科学小説も書いてみたいですね。

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 ■人物略歴

 ◇まつもと・まさよ

 1957年、三重県伊勢市生まれ。名城大薬学部を卒業して薬剤師の資格を取得。奈良女子大理学部物理学科に入り直し、同大学院理学研究科を修了後、日本IBMでシステムエンジニアとして勤務。2002年退社。著書に「夕焼け 土方歳三はゆく」がある。「新選組 試衛館の青春」は全国の主な書店で販売中。


京都
岩倉具視旧宅を京都市に寄贈 幕末に隠棲、歴史の裏舞台
 明治政府の重鎮、岩倉具視が隠棲(いんせい)生活を送った京都市左京区岩倉の国史跡「岩倉具視幽棲旧宅」を管理する岩倉公旧蹟保存会が、旧宅を京都市へ寄贈することを決めた。保存会が高齢化などを理由に解散するため、収蔵する多数の重要文化財とともに引き継ぐ。市は一般公開を続ける方針で、積極的にPRしていく。

 幽棲旧宅は、徳川家への皇女和宮降嫁の推進などで尊皇攘夷派から命を狙われた具視が1862年から5年間隠れ住んだ。ここで薩摩藩士らとの協議や政策提言が行われ、大政奉還(1867年)の裏舞台となった。

 旧宅の敷地内(約1500平方メートル)には洋館の対岳(たいがく)文庫(1928年建築)もあり、薩摩藩を討幕へ促した具視の著作「叢裡鳴虫(そうりめいちゅう)」を始めとする重文約千点のほか、明治維新前後の文書や愛用品などの収蔵品とともに市に寄贈する。

 保存会は1925年に設立。入館料収入で旧宅を維持してきたが、近年の見学者は3、4千人にとどまっていた。加えて、役員の高齢化や財団法人から公益財団法人への移行にかかる費用の確保が難しく、解散を決めた。

 具視から5代目にあたる京都大名誉教授の岩倉具忠会長(79)は「手放すことに申し訳ない思いもあるが、安心できる市に譲れてよかった。多くの人に知ってもらえるように活用してほしい」と話した。解散後も具視の命日(7月20日)に行ってきた慰霊祭は継続する方針という。

 市文化財保護課は「幕末の激動期に関わる計画がなされた建物がそのまま残り、当時をしのばせる貴重な場所。保存会の思いを引き継ぎ、一般公開を続けていきたい」としている。


八重の署名発見 京都府立図書館蔵書から
 同志社を創立した新島襄の妻で、NHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公、八重の直筆署名が京都府立図書館(京都市左京区)の蔵書から見つかった。府に寄贈されてから30年以上を経ての発見に関係者は驚いている。

 平石弁蔵著「会津戊辰戦争」改訂増補第4版の裏見返し部分に「昭和四年四月」「新島八重子」「八十五歳」と墨書されていた。今月3日に本を閲覧した利用者が署名に気付いた。

 本は、京都市長を務めた高山義三の長男で元府議の寛さんが1979年に府立総合資料館に寄贈、2000年に図書館に移管されていた。1928(昭和3)年12月発行の第4版から八重への聞き取りが追加されており、八重が同志社の職員だった義三の父、中村栄助に贈ったとみられる。

 同志社社史資料センターによると、名前に子を付けるのは当時の流行で、肖像写真の裏書きにも八重子の記載があるという。

 14日から3月27日まで図書館1階で展示する。


岡山
山田方谷:幕末の備中松山藩で財政再建、大河ドラマ化目指す 16万人が賛同署名 知事、NHKに直訴へ /岡山
 幕末に備中松山藩(高梁市)の財政を再建した山田方谷(ほうこく)(1805〜77)のNHK大河ドラマ化を目指す運動が展開されている。高梁市や県経済界が主導し、観光客誘致などを狙う。100万人を目標にした署名は既に16万人分集まり、24日には伊原木隆太知事が東京のNHKを訪問しドラマ化を直訴する。関係者は「岡山初の大河を」と意気込んでいる。

 実行委によると、方谷は備中松山藩の藩政改革で、現在の200〜300億円に当たる10万両の借金を返済。備中ぐわや葉たばこの特産品販売にも成功、「経営者の鏡」と尊敬される人物だ。

 大河ドラマ化は、同市の近藤隆則市長が11年に「郷土の偉人を知ってもらいたい」と発案。同市出身の大橋洋治全日空会長らが「財政再建は今の時代が求めるテーマ」と賛同。県商議所連合会なども加わり、昨年10月に署名運動を始めた。

 少しでも知名度を上げようと放映中の大河ドラマ「八重の桜」で主人公の夫・新島襄が倉敷市の玉島港に立ち寄った史実に着目。昨年12月には近藤市長らがNHKの松本正之会長に「ドラマ中で玉島で方谷と新島襄が会ったという設定を作ってほしい」と要望した。

 経済界出身の伊原木知事は松本会長に直接売り込む。実行委世話人の藤井義和さん(63)は「方谷は産業振興に加え、私塾を開いて後進の育成にもあたった。勤勉な岡山の県民性も全国にアピールできる」と話している。【井上元宏】


新島八重、岡山で講演の記録 1909年、山陽高等女学校で
 NHK大河ドラマ「八重の桜」のヒロインとして注目を集める新島八重(1845〜1932年)が山陽高等女学校(山陽女子中・高の前身、岡山市中区徳吉町)で09年に行った講演の記録が広報誌に残っている。会津藩の教えを守り、“ハンサムウーマン(美しい行いをする人)”とたたえられた八重。20世紀を迎えたばかりの講演では、女子生徒に学問で将来を切り開くよう訴えている。

 八重は戊辰(ぼしん)戦争(1868〜69年)でスペンサー銃を手に、男装して戦闘に加わるも藩は降伏。同志社大(京都市)を創立した新島襄(43〜90年)の妻となり、日清・日露戦争の際は看護婦として活動するなど波乱の人生を歩み、皇族以外の女性として初めて叙勲を受けた。

 講演は、広報誌「みさを 第42号」(A5判84ページ)に2ページ半にわたって掲載されている。山陽学園大(同平井)の図書館書庫に収められていた。

 タイトルは「白虎隊」で、自らが砲術を教えた隊士が所属していた白虎隊の戦いや自決の様子などを語りながら「ならぬことはならぬ」などの教えで知られる会津藩の教育が大きな影響を与えていたことを説明。「君につかへ、親につかふる道を知らせてゐました」と述べた。

 また、「女子は国の栄の基礎となるものです。故に意志を強く忍耐力に富んでゐなければならぬ、堅い決心をもつて學びの道を辿(たど)られんことを希望します」と強調している。




鹿児島
幕末薩摩のちびっこ教育がものすごかったという話
「日本を取り戻す!」って総理大臣も叫ぶけど、実際、過去の何を取り戻したらいいのだろうか。だいたい、そんな簡単に「昔のいいトコ」だけ取り戻せるものなんだろうか。映画化もされたベストセラー歴史本『武士の家計簿』の著者でもある磯田道史先生は、明治維新をリードした薩摩(さつま)藩出身者たちが“ちびっこ”時代に学んだ教育システムには、今の日本にとってさまざまなヒントがあるという。

■それは戦国時代の知恵の生き残り

磯田 幕末から日露戦争にかけ、かなりの確率で勝てる政治判断を下した人材を、薩摩藩は多く生み出しました。そんな薩摩藩では、武士の子供たちに「郷中(ごじゅう)教育」という独特の教育が行なわれていたんです。「郷中教育」とは、方限(ほうぎり:地域のこと)ごとに6歳から15歳くらいの少年が集まり、そこに15歳以上の先輩がついて行なう自習システム。今の教育はもちろん、幕末に日本中に広まっていた「藩校」ともまったく異なる制度でした。

―そこでちびっこたちは何を学んでいたんですか?

磯田 薩摩の子供は、まず早朝にひとりで先生(主に近所のインテリ武士)の家に行って儒学や書道などの教えを受けるのですが、誰を先生に選び、何を学ぶかは、子供が自分で勝手に決めていいんです。そして次は子供だけで集まって、車座(くるまざ)になり「今日は何を学んだか」を各自が口頭で発表します。決まった校舎や教室はなくて、毎日、子供が順番で、地域の家に「今日はこの家を教室に貸してください」と交渉します。社会性も身につきますよね。

何より大事なのは、皆の先生がバラバラなことです。思想が統一されないし、話す本人は復習になるし、口伝え・耳聞きによって、知識を皆で効率よく共有できる。ちゃんと理解してるか、親よりも厳しく仲間同士でチェックし合います。とにかく先輩は怖い。

―ものすごい会話コミュニケーション重視の学習なんですね。

磯田 対話重視という意味で、郷中教育の中で特に重視されたのが「詮議(せんぎ)」というメソッドでした。今でいう「ケーススタディ」で、起こり得るけど簡単には答えが出ないような状況をいろいろ“仮想”し、その解決策を皆で考え合う訓練です。

例えば「殿様の用事で急いでいるが、早駕籠(はやかご)でも間に合わない。どうするか」とか、「殿様と一緒に乗っていた船が難破した。向こうから一艘(そう)の助け船が来たが、乗っているのは自分の親の敵(かたき)だった。どうするか」とか、「道で侮辱された。どうするか」といったリアルな設問を次々と挙げ、各自が自分だったらどうするかを述べ、皆で議論する。「ハーバード白熱教室」みたいですよね。あの番組は日本でも大人気でしたが、日本人のDNAに、アメリカより先にこれをやってきた記憶があるとさえ思えます。

―あれ? これって薩摩藩だけの教育システムだったのでは?

磯田 実は「詮議教育」は、戦国時代くらいまでは日本中で行なわれていたようです。江戸時代になるまでは、公家や荘官や守護大名のようなごく一部のエリート以外は字を読めなかったので、一般的に武士は、戦(いくさ)の成功・失敗事例を文字でなく耳で学び、皆で議論し、実践的スキルを向上させる学習会を行なっていた。

江戸時代に入ると、藩校のようにテキスト重視の教育が普及していきますが、文字は使わないけど、極めて非常に実践的な中世式の教育スタイルが、九州の端っこにだけ「子供版」として残っていたわけです。実際、当時の薩摩は、国内で最も識字率の低い土地でした。しかし、「明治国家をつくり出した判断力」が、文字でなく口伝えの教育で育まれたのが面白いところで。

―道徳教育はあったんですか?

磯田 これも文字でなく、「日新公(じっしんこう)いろは歌」(日新公は島津の殿様)というのを毎日毎日、それこそ大人になるまでに何万回も唱えました。ちなみに最初の「い」は「いにしえの道を聞きても唱えても わが行ないにせずばかいなし」といって、「どんな昔の教えを聞いても自分で実践しなければなんの意味もない」という意味。やはりすごく実践的な教えですね。

―それをひたすら暗記する?

磯田 文字が読めなくてもリズムで暗唱できるようになっていますが、郷中教育では、例えば「『義』とは何か」といったテーマで議論を繰り返したりして、そうした日常生活の規範を、それぞれが内面化していくんです。
■西郷隆盛が抜擢された理由

―薩摩式教育で、子供たちは何を得られたと思います?

磯田 判断力、決断力、実行力を伴った、まさに「知恵」ですね。定まった知識をテキストで身につけるのでなく、(1)あらゆる事態を仮想し、(2)それに対処するアイデアを考え出し、(3)その中から正しいものを選択し、(4)実行する“度胸”を持つという。「野村ID野球」なんか、ちょっとそれに近かったんじゃないかな。野村監督は古田たちに「野球とは何か」まで質問して。予算はなくても当時のヤクルトは強くなりましたよね。

―ただ、講義やテキストではなく、主に対話だけで学ぶ学習って、グループリーダーの力量にすごく左右されそうですよね。

磯田 それはあります。郷中教育におけるグループリーダーを「二才頭(にせがしら)」と呼んだのですが(二才[にせ]は薩摩で若者の意)、例えば薩摩の城下町で「名二才頭」と噂になっていたのが、下級武士だった西郷隆盛でした。西郷の地元では、子供たちも行儀よく、顔つきも違うと評判だった。西郷は島津斉彬(なりあきら)に抜擢されますが、つまり、天才的な殿様にいきなり召し出されたわけではなく、6歳から20歳ぐらいの間でちゃんと、あいつは指導力があると自然に現場で証明されてたわけです。

だから薩摩藩は校舎も教師もなかったけど、郷中教育で「名二才頭」と呼ばれる若者を採用すれば、後に明治の国家をつくるような人材を効率的に選べた。話が飛ぶけど、今の日本で良い政治家がいないとよくいわれますが、やはり草の根の根っこのところでお互いがお互いを選び合うようなシステムがないと、それは難しいものです。あと、もし今、本当のエリート官僚を選びたいなら、やはり数回のペーパーテストと面接では無理でしょう。選挙もテストも一見公平な方法ですが、リーダーの選び方において今の日本社会は怠けてると僕は思う。もっとしっかり長い時間をかけ、実際の行動のなかから指導者を選んでいくシステムを復活させないと。
―人材を育てるだけでなく、人材発掘の面でも、今の日本にとってヒントがあると。

磯田 あと、今の日本に特に必要という意味では、さっきも話した、あらゆる事態を想定しておく「仮想力」です。明治以降の日本は欧米へのキャッチアップが目標だったから、生きる知識も学校で注入できました。しかし今は、記憶だけでは生きていけない事態を前提とした教育が求められています。それに日本人は、起きたら困るようなことは考えないようにしがちですから。まさに原発事故が、その象徴でした。

―ただ、さすがの薩摩武士たちにとっても、生麦(なまむぎ)事件(1862年、島津久光(ひさみつ)の行列を横切ったイギリス人をその場で斬り殺し、薩摩藩がイギリス軍と戦争する原因となった事件)なんかは想定外だったんじゃないですか?

磯田 そういう事態すら彼らの念頭にあったのではと僕は思うんです。「刀はめったなことでは抜くな。抜いたらただでは収めるな」というのが薩摩武士の道徳教育だったから、とどめは刺した。けど、その直後、島津久光の駕籠をとにかく内陸へ向け必死に走らせるわけ。実際、イギリス陸戦隊は即座に上陸し、島津久光の身柄を拘束しようとしていたんですから。

―では、絶対に負けるとわかっていた、イギリス軍との戦争にはどう対処したんでしょうか。

磯田 薩摩藩はすごいリアリストたちですから。彼らはイギリス軍の大将が乗った旗艦へ向けて砲弾を集中させ、相手の艦長を戦死させるんです。確かに薩摩はあちこち焼き払われ、とても勝ったとはいえないけど、イギリスにその実力は認めさせた。結果的には、「これは簡単に占領できる相手ではない。日本に親イギリス政権を樹立するために組む相手だ」って信用されたんですね。

―最後に、郷中教育は、なんらかの形で、今の日本でも復活させるべきだと思いますか。

磯田 そこには多くのヒントがあります。ただ、薩摩の郷中教育はあくまで忠孝(ちゅうこう)思想なんです。君に忠義、親に孝行。下の者に対し「慈悲をかけよ」という部分も少しはあるけど、根本は上に対する責任を持たせるのが目的の教育です。

でも、これからの日本に必要なのは、そうした身分制社会の教育ではなく、社会的弱者をどう救済するかとか横の関係とかですよね。さらに、郷中教育はやはり戦士の教育なんです。討ち死にしてでもとにかく敵を打ち負かす、チームとして戦に勝つための合理性を追求した教育であり、そこは情報化社会における合理性とは異なる。そこは組み替えないといけません。しかしこの教育が、当時の「人づくり」に大きな成果を挙げたことは間違いありません。

(撮影/本田雄士)

■磯田道史(いそだ・みちふみ)
1970年、岡山県生まれ。静岡文化芸術大学准教授。古文書を読み解き、当時の人々の生活や感情までをも生き生きと描きだす日本史の達人。近年は歴史地震学にも興味を持つ


ブックレビュー
幕末鼓笛隊 奥中康人著 隊列束ねる音楽 源流探る
 江戸時代のおわりごろから、西洋のいわゆる列強は日本に姿を見せだした。あちらの文化を、日本へつたえるようにもなっている。もちろん、音楽も。じじつ、この時期、日本各地で鼓笛隊とよばれるマーチング・バンドが、できている。

 西洋の軍楽には、軍隊の行進をたばねる力がある。隊列のうごきをととのえる効果が、期待できる。幕末期の諸藩が、これをとりいれようとしたのも、そのためである。

 そのころに演奏された鼓笛隊の音楽は、ならばどのようなものであったのか。著者は、日本各地にのこる演奏から、幕末の源流へさかのぼる。フォークロアとして保存されてきた芸能から、舶来の姿をうかびあがらせようとする。俗耳になじんだ「宮さん宮さん……」があやしいことも、おぼろげながら見えてきた。

 もちろん、140年をこえる伝言ゲームのせいで、もとの形はわかりにくくなっている。伝統芸能だという思いこみで、邦楽味をつけすぎた保存例も、なくはない。そうした限界もわきまえつつ、著者は遡及の旅にでる。伝承された芸能と、われわれはどうむきあえばよいのかを、深く考えさせられた。

★★★★★

(風俗史家 井上章一)

[日本経済新聞夕刊2013年2月6日付]

★★★★★ これを読まなくては損をする
★★★★☆ 読みごたえたっぷり、お薦め
★★★☆☆ 読みごたえあり
★★☆☆☆ 価格の価値はあり
★☆☆☆☆ 話題作だが、ピンとこなかった

エンターテインメント
大河ドラマ「八重の桜」を彩る華やかなイケメン俳優陣に注目!!
女性ヒロインを意識した演出で脚光を浴びたNHK総合で放送中の大河ドラマ「八重の桜」だが、綾瀬はるかなど女優陣に注目が集まる一方、イケメン俳優陣たちの出演が話題を呼んでいる。

西島秀俊は山本八重(綾瀬はるか)の兄である山本覚馬を演じるが、第3回「蹴散らして前へ」の回では、「腰抜け武士」と罵られた覚馬が、道場で槍の試合を行うシーンにおいて会津藩士としての誇りを堂々と見せ付け、その男気が注目を集めた。また、第6回「会津の決意」から登場している工藤阿須加は、元プロ野球選手・工藤公康氏の息子で、本作が本格的な俳優デビュー作となる。

八重の最初の夫となる川崎尚之助を演じる長谷川博己や、第9代会津藩主の松平容保を演じる綾野剛をはじめ、第5回「松蔭の遺言」で自身の信念を貫き、安政の大獄で処刑された吉田松陰を演じた小栗旬、容保率いる会津藩の家臣として外交官として活躍する神保修理を斎藤工、人情にも厚く武勇に秀でている武士・佐川官兵衛を中村獅童、抜群の政治手腕を持つ梶原平馬を池内博之などの若手俳優人が会津を支えていく人物を演じる。

さらに、幕府政策を擁護する佐幕派には徳川家最後の将軍の座につく徳川慶喜を小泉孝太郎、新撰組副長として市中の警護にあたる土方歳三を村上淳、新撰組三番隊隊長の斎藤一を降谷建志が、対する倒幕派には長州藩のリーダー・木戸孝允を及川光博、西郷隆盛を吉川晃司など幕府を取り巻くイケメン俳優たちの演技にも期待が集まる。

2月17日(日)放送の第7回「将軍の首」では、京都守護職に就任した容保に追随して、覚馬も都へ旅立つことになる。京都への上洛を控えた覚馬が八重や尚之助、三郎とともに出立前の時を家族と過ごすため東山温泉へと向かうシーンに注目だ!


幕末奇譚 SHINSEN5~剣豪降臨~
チェック:『スイッチを押すとき』などの中島良がメガホンを取り、激動の幕末を舞台に描くスタイリッシュな時代劇アクション。幕府崩壊をたくらむ藩士や陰陽師相手に、固いきずなで結ばれた新撰組メンバーたちが戦いを挑む姿を描く。剣客たちを演じるのは、ミュージカル「テニスの王子様」の馬場徹、神永圭祐、馬場良馬、八神蓮、広瀬友祐ら若手注目俳優たち。フレッシュなメンバーたちによる高度な殺陣や驚きのストーリー展開に熱中する。

ストーリー:新撰組八番隊組長の藤堂平助(八神蓮)は、幕府の目付役の護衛中に何者かの襲撃を受ける。何とその正体は、幕府転覆を狙う長州藩の吉田稔麿(高崎翔太)と陰陽師である土御門源春(佐々木喜英)に操られた柳生十兵衛だった。仲間の危機を救うため、新撰組三番隊組長斎藤一(馬場良馬)をはじめ、副長の土方歳三(馬場徹)らが立ち上がる。


三谷幸喜、憧れの天才・野田秀樹への複雑な感情を告白
三谷幸喜と野田秀樹という日本演劇界のトップに立つ2人が初めて舞台でタッグを組む「おのれナポレオン」の制作会見が1月23日(水)、東京芸術劇場にて行われ、作・演出の三谷さん、主演の野田さんを始め、天海祐希、内野聖陽、山本耕史が出席した。

セントヘレナ島に島流しになったナポレオンと彼を取り巻く人々を描いた作品で、自身の作・演出による芝居以外に役者として出演するのは、今回がほぼ初めてとなる野田さんがナポレオンを演じる。そのほか今井朋彦、浅利陽介が出演する。

三谷さんが脚本を執筆したNHK大河ドラマ「新選組!」で三谷さんたっての希望で野田さんが勝海舟役を演じたが、三谷さんは「そのときから役者・野田秀樹に魅力を感じ、舞台で僕が書いたセリフを言ってほしいと思ってました」と語る。三谷さんが考える野田さんの俳優としての魅力を尋ねると「『新選組!』で見て、ビジュアル的にカッコいいなと思いました。セリフの一つ一つは大河的でも、TV的でもないし、何を言ってるか分からないところがあるんだけど(笑)、気持ちが入ってた」と語った。

劇団「夢の遊眠社」を率い、その後も「NODA MAP」で数多のプロデュース公演を行ない“天才”と称されてきた野田さんを、三谷さんはどのように見ていたのか? 三谷さんは「“二大○○”などという言われ方をしてますが、とんでもないです。僕にとっては学生のころから憧れていた大先輩」と尊敬の念を込めて語る。一方で「僕の周りでみんなが『野田だ!』、『遊眠社だ!』って言ってたので、絶対に見に行かないようにしてました。僕は知人が出てないと芝居は見ないんだけど、別れた奥さん(小林聡美)が出てた作品(2003年の『オイル』)を見に行きました。そう言いつつDVDはちょっと見たり…でも、僕の中でそれはOKで劇場に行ったら負けで…(笑)」と憧れと対抗心がない混ぜになった心の内を明かした。

野田さんは3分の1ほど脚本を読んで「三谷さんが私をどう見ていたのかしみじみと実感しています。『申し訳なかったな』、『イヤな思いをさせてたんだな』と感じるようなイヤな奴に描かれてます。『偉くなり過ぎて、言ってくれる奴が周りにいない』というセリフがあって、(自分は)そういう奴なのかな? と反省する部分が多いです(苦笑)」と脚本を通して三谷さんからのメッセージ(?)を受け止めた様子だ。

野田さんの方は三谷さんをどう見ていたのか? について、1992年から93年のロンドン留学から帰国後すぐに「面白いと勧められて『ショウ・マスト・ゴー・オン~幕をおろすな』を見に行った」と明かし、「自分では作れないテイストの違いがあり、尊敬して見てました。つかこうへいさんも『いま、面白い作家は三谷幸喜』と仰っていたのを覚えています」と語った。

今回、三谷さんの演出を受けることになるが「いままで知らなかった役者の気持ちを思い知るんだろうと思います。稽古場にいると、役者が背後でしゃべってるけど、あの楽しい雰囲気に入っていけるんだと楽しみです」と期待を語った。

稽古場でどんなやりとりが繰り広げられるのか楽しみだが、内野さんは「ケンカになったら嫌だなと思ってます(笑)」と心配そうに語るが、三谷さんは「ぶつかることはないと思いますよ」。一方の野田さんは「お望みなら1日くらい、ネチネチと台本のこととか言ってもいいですよ(笑)」と闘志満々だった。

天海さんは「こうやって顔を合わせると、客席で見てみたかったと思います」とワクワクした様子で語り、山本さんも「客席で見られないのが悔しくなるような芝居にしたい」と意気込みを明かした。

「おのれナポレオン」は4月9日(火)より5月12日(日)まで東京芸術劇場プレイハウスにて上演。
 『八重の桜』、毎回、覚馬お兄ちゃんと殿にときめいております。

千葉
ちばみなと研究所:房総半島を探求する 幕末 下総の博徒たち 治安維持任され…「警察役」も /千葉

 「博徒(ばくと)」と聞くと、賭博(とばく)やかつての任〓(にんきょう)映画を思い浮かべる人もいるだろうか。江戸時代に名をはせた博徒たちの出身地といえば、国定忠治の上野(こうずけ)(いまの群馬県)や、清水次郎長の駿河(静岡県の一部)が講談や映画などでなじみ深いが、千葉県北部を中心に茨城県南西部にも広がる下総(しもうさ)も負けず劣らず有名だった。こうした力を持つ博徒の中には、幕府から地域の治安維持を任され、警察的な役割を果たしたケースもあるという。バクチ打ちが警察官? 現代なら大不祥事になりそうな話だが、一体どういうことなのか。江戸時代末期を中心に県内の治安状況を調べてみた。【研究員・小林祥晃】

 ■〓客人気ランクの3割

 一般に、博徒は賭博行為を日常的にする人々を指す。現在は法律で禁じられている賭博だが、江戸時代などかつては、飢饉(ききん)などで農村社会から離れてしまったような「無宿者(むしゅくもの)」の生きる糧になっていた。

 無宿者は、江戸時代には戸籍や住民登録のような役割もあった各寺にある信徒の名簿「宗門改帳(しゅうもんあらためちょう)」に記載のない人々で、いわば「住所不定」。安定した生活は営めず、賭博の世界に足を踏み入れ、似たような無職者たちと支え合うように博徒の集団を形成した。強きをくじき、弱きを助ける任〓の道を説く場合が多いが、現代の暴力団のように、任〓を暴力行為の正当化のキーワードにしてしまうアウトローもいた。

 単なる賭博好きではないこうした博徒が下総にいかに多かったかをうかがわせる資料がある。幕末に世間を闊歩(かっぽ)した〓客の人気ランキングをまとめた「近世〓客有名鏡(きんせいきょうきゃくゆうめいかがみ)」だ。幕末の博徒が浪曲や講談などで広く紹介されるようになった1890(明治23)年に発行されたもので、相撲の番付表のように「大関」「小結」「前頭」などの順で、東日本の博徒149人の名前が連なっている。

 前述の「国定忠治」「清水次郎長」の名前も見えるが、県内ではなじみ深い「飯岡助五郎」やその親分の「銚子ノ五郎蔵」、助五郎と抗争を繰り広げた「岩瀬ノ繁蔵」(笹川繁蔵)「勢力(せいりき)富五郎」(勢力佐助)などの名前も関脇や前頭などの上位にランクイン。そして驚くのは、下総を拠点としている者の人数が149人中、なんと40人にも上り、地域別人数では1位だということだ。
 ちなみに国定忠治の上野は2位(31人)、3位武蔵(22人)、4位甲斐(11人)、5位江戸(10人)と続く。現在の千葉県中南部にあたる上総・安房は計4人で、やはり下総の突出ぶりが際立つ。

 ■相次ぐ凶悪事件

 なぜ千葉に博徒が多かったのかは後述するとして、これだけ博徒が多いと、しばしば社会を震撼(しんかん)させる事件も起きた。

 下総の博徒が起こした有名な二つの事件がある。

 ひとつは喜代松(きよまつ)という無宿者のグループが村の娘を数カ月連れ回すという1810(文化7)年の「無宿喜代松一件」で、本格的な誘拐・拉致事件。もうひとつは1849(嘉永2)年の「勢力佐助一件」。博徒の勢力争いに端を発する銃撃・抗争事件で、かかわった博徒たちは、浪曲や映画で有名な「天保水滸伝(てんぽうすいこでん)」にも描かれている。

 銚子市文化財審議委員で近世史が専門の米谷博さんは、両事件を題材に当時の下総の自警組織について考察し、論文「近世東下総における悪党の捕縛と組合村」(千葉県史研究第11号別冊)にまとめている。それらによると−−

 ◇その一 無宿喜代松一件

 喜代松は当時、寺社の祭礼で「けがをした」などと言いがかりをつけ、薬代を村からせしめるなど、今で言う恐喝などでしのぐ「チンピラ」。この喜代松とそのグループ4、5人が3月の岩井村不動尊のご開帳の場で、母親と一緒に参詣していた幾世村の娘、せきを襲う。一味は脇差しをちらつかせ、母親とせきを引き離し、連れ去った。

 村の若者でつくる自警団が、近隣の村々の若者と連携して捜索し、喜代松は3日後に現場近くをうろついていたところを捕まる。しかし、せきは仲間の長次郎に連れられて利根川を渡り、いまの茨城県にあたる隣国・常陸に連れ込まれていた。喜代松はせきの居場所を供述せず、事件は迷宮入りかと思われたが、5月、江戸にまで連れ去られていたせきが当局に逃げ込む形で発見され、ようやく関係者は検挙された。

 ◇その二 勢力佐助一件

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 幕末の博徒として有名な九十九里沿岸の飯岡(いまの旭市飯岡地区)を拠点とする飯岡助五郎と、利根川沿いの笹川(東庄町)を拠点とするライバル笹川繁蔵の抗争が発端。1844(天保15)年、以前から対立していた両勢力は利根川で大乱闘。この時は助五郎が事実上敗北したが、3年後、助五郎の子分が繁蔵を殺害する事件が起き、対立は頂点に。そして1849年3月8日、助五郎側は、笹川一派を継いだ勢力佐助(勢力富五郎)の掃討作戦を始めた。

 この際、助五郎側は関東地方の治安維持をはかる幕府の役人まで味方につけ、約500人以上の軍勢で佐助を追い込むが、佐助側も負けてはいない。鉄砲を使って銃撃戦を繰り広げた。佐助側は少なくとも10丁の鉄砲を持っていたといい、当時の博徒は立派な武装集団だったことがうかがえる。

 とはいえ、佐助も力尽き、ついに4月28日に小南村(東庄町南部)の金毘羅山で自殺。親分が死亡したことで事態は収束し、約50日間にわたる抗争事件は幕を閉じた。

 ◇関東、幕府の統治力弱く

 ■実働部隊の「道案内」

 なんとも物騒な話だが、しかし、当時の下総にはなぜそんなに荒くれ者が集まっていたのか。これについて、県文書館の田島新・副主幹は次のような背景を挙げる。

 まず、地引き網漁や肥料となる干鰯(ほしか)作りが盛んな九十九里浜があり、地域外からの労働力が必要とされていたこと。もうひとつは利根川が重要な物資輸送路で、人、モノの行き来が盛んだったことだ。

 前者は助五郎の拠点、飯岡。後者は、繁蔵の陣取った笹川にあてはまる。田島さんは「無宿者や博徒らにとって、下総は『食べていける土地』だった。それだけ経済活動が活発でもあったと言えるでしょう」と話す。

 さらに当時の関東地方は、幕府による統治力が弱かったことも事態を悪化させた。

 当時、犯人を捕らえることができるのは、領地を治める領主だけ。自分の領地で悪事を働いた容疑者が他の領地に逃げ込んだ場合、その場所の領主に許可を得る必要があったが、当時の関東地方には幕府領や藩領、旗本領などが混在。「隣の家は別の領主、その隣はまた別の領主」というケースも珍しくなかった。

 これでは容疑者の迅速な「逮捕」はできず、取り逃がすことにもなりかねない。

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 そこで幕府は1805(文化2)年、幕府直轄領や旗本領、寺社領などにかかわらず、逮捕権限を持つ「関東取締出役(かんとうとりしまりしゅつやく)」を設置。治安の強化を試みた。アメリカのFBI(連邦捜査局)のようだが、発足当初の関東取締出役はわずか8人。このため、実働部隊として国ごとに4、5人の「道案内」が置かれた。

 道案内とは、関東取締出役が村を視察する時に、文字通り道案内などの手助けをするのが任務。十手を持たされ、犯罪者の逮捕や担当区域内の治安状況の報告・情報収集なども任された。現代社会なら警察署長か、それ以上の権限を持つ警察幹部に当たるだろうか。

 驚くのは前述の博徒、飯岡助五郎も、実は道案内だったということだ。助五郎側が約500人もの軍勢で佐助を追い込んだ際、「味方」となった幕府の役人はこの関東取締出役なのだ。

 助五郎は一連の抗争で、関東取締出役から「繁蔵や佐助を逮捕するように」との命令を受けており、地域社会に彼らをかくまう仲間がいれば、幕府の威光で厳しく取り締まれた。事件後処罰された佐助の子分や協力者らは50人以上いたが、およそ半数は佐助らに金銭や食事を与えたり、宿を提供したりした者だった。

 ■社会との微妙な関係

 しかし、なぜ博徒が治安維持の最前線を担う道案内になることができたのだろうか?

 米谷さんによると、「道案内」は地域の隅々にまで精通していることが必要だが、そのほかにも、けんかや争いごとの仲裁、緊急時には危険な現場に踏み込む度胸や機動性も要求されたという。米谷さんは「表の世界だけでなく、裏社会にも顔の利く人物でなければ務まらない。そういった事情から、道案内には地域の名士など身元のしっかりした者だけでなく、博徒なども任されるようになったのでしょう」と解説する。

 道案内は地域社会で「親分さん」と呼ばれていたという。事件の解決や犯罪の防止には、昔も今も地域住民からの情報提供が不可欠なだけに、博徒であろうとなかろうと、村人から頼りにされる人物が治安維持の最前線に立っていたということかもしれない。

 当時の博徒は「やくざ」とも呼ばれたが、「やくざ」のあて字として「厄座」や「役座」という表記があるそうだ。「厄」となるか「役」となるか。社会とアウトローの微妙な関係について、考えさせられた。

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 ◇研究所長の感想

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 時間のつながりを感じずにはいられない。博徒同士の抗争やかどわかしなど、現代の裏社会の事件簿を読んでいるようだ。そこから私たちは、得てして「人の世はいつも同じ」などと情緒的にとらえがちだが、注意が必要だ。暴力も権力者との癒着も、決して今に引きずってはいけない歴史だろう。【清水忠彦】


神奈川
開国期に活躍した江戸幕臣、中島三郎助の功績しのびイベント/横須賀
 開国期から維新にかけて活躍した江戸幕臣、中島三郎助(1821~69年)の功績をしのぶイベント「中島三郎助まつり」が20日、ゆかりの地の横須賀市浦賀で開かれた。地元住民でつくる「中島三郎助と遊ぶ会」が主催する恒例行事で、今回は設立20周年の記念を兼ねた。

 中島三郎助は浦賀奉行与力の家に生まれ、自らも与力となった。1853年に米海軍ペリー提督が浦賀に来航した際、「黒船」の旗艦に乗船して対応する役を務め、日本初の洋式軍艦の建造にも関わった。

 戊辰戦争が始まると江戸を脱出し、箱館(函館)で新政府軍と戦い、戦死している。

 会場となった住友重機械工業の旧・機関工場内では、中島の足跡をたどるパネル展示や、来航時のペリー艦隊に由来するシチューの試食など、さまざまなイベントが催され、大勢の来客でにぎわった。

 「中島三郎助と遊ぶ会」は中島が最期を遂げた函館とも交流しながら、功績を広める活動を続けている。三浦一幸事務局長は「日本の開国と近代化に関わった人物だが、同世代の土方歳三に比べるとうずもれており、多くの人に知ってほしい」と話していた。


貴重な文化財守れ、箱根関跡で防火訓練/神奈川
 26日の文化財防火デーを前に、箱根町箱根の国指定史跡「箱根関跡」で25日、防火訓練が行われた。

 文化財防火デーは、1949年1月26日に法隆寺金堂壁画が焼損したことなどから定められた。箱根関所は、戊辰戦争時に火を付けられたことがあるという。

 消防や関所関係者約20人が参加。関所内の大番所から出火したとの想定で、初期消火を行い、観光客への避難の呼び掛けも実施。駆け付けた消防隊員が雪の残る関所の建物に向かって放水した。

 小林恭一教育長は「訓練を契機に防災の気構えをしっかり持ってほしい」と話していた。


静岡
展示:幕末維新の志士の書、下田で /静岡
 幕末・明治期に活躍した人物の書を展示した「幕末三舟名墨展」と「幕末維新の志士名墨展」が下田市の下田市民文化会館で開かれている。

 「幕末の三舟」こと幕臣の勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟はそれぞれ能書家として知られ、多くの書を残している。風待ち港の下田は江戸と京都の海上交通の要所で、三舟や維新の志士らも滞在したといい、関係者の書が多く残っている。

 徳川家康の遺訓を書いた海舟の「東照公御遺訓」や、鉄舟の菊の花の墨絵に詩を添えた「菊花自画讃」、泥舟の富士山の絵と詩の「富士画賛」など、詩書画に通じた文人ぶりが伺える。

 また、山県有朋や有栖川宮、大久保利通などの書も展示され、珍しい平賀源内の書画もある。14日まで。入場料500円。【扇沢秀明】


岡山
山田方谷:幕末の備中松山藩で財政再建、大河ドラマに 16万人が賛同署名 知事、NHKに直訴へ  /岡山
 幕末に備中松山藩(高梁市)の財政を再建した山田方谷(ほうこく)(1805〜77)のNHK大河ドラマ化を目指す運動が展開されている。高梁市や県経済界が主導し、観光客誘致などを狙う。100万人を目標にした署名は既に16万人分集まり、24日には伊原木隆太知事が東京のNHKを訪問しドラマ化を直訴する。関係者は「岡山初の大河を」と意気込んでいる。

 実行委によると、方谷は備中松山藩の藩政改革で、現在の200〜300億円に当たる10万両の借金を返済。備中ぐわや葉たばこの特産品販売にも成功、「経営者の鏡」と尊敬される人物だ。

 大河ドラマ化は、同市の近藤隆則市長が11年に「郷土の偉人を知ってもらいたい」と発案。同市出身の大橋洋治全日空会長らが「財政再建は今の時代が求めるテーマ」と賛同。県商議所連合会なども加わり、昨年10月に署名運動を始めた。

 少しでも知名度を上げようと放映中の大河ドラマ「八重の桜」で主人公の夫・新島襄が倉敷市の玉島港に立ち寄った史実に着目。昨年12月には近藤市長らがNHKの松本正之会長に「ドラマ中で玉島で方谷と新島襄が会ったという設定を作ってほしい」と要望した。

 経済界出身の伊原木知事は松本会長に直接売り込む。実行委世話人の藤井義和さん(63)は「方谷は産業振興に加え、私塾を開いて後進の育成にもあたった。勤勉な岡山の県民性も全国にアピールできる」と話している。【井上元宏】


コラム
幕末の美貌尼・太田垣蓮月 言い寄る男を拒むため歯を抜いた
 利己主義、個人主義の蔓延は、血縁や地縁の絆が強かった時代に比べて社会の弱体化を招いている。しかし、これは日本人本来の姿ではない、と日本史家の磯田道史氏はいう。江戸時代に生きた人々の「無私の精神」は、とかく利益や我欲に傾きがちな現代日本人の人生観に深い余韻を与えるはずだ。焼き物で稼いだ金で橋を架け、書画を人に与えた美貌の尼・太田垣蓮月の生き様を、磯田氏が紹介する。
 * * *
 太田垣蓮月(1791~1875)は幕末の乱世に京都で生き、無私を実践し尽くしました。蓮月は大変な美貌のうえ、詩作から陶芸、書画と幅広く手を染めています。ただ、彼女の作品が一流かというと、首を傾げたくなる。各界の達人の逸品と並べると、どうしても見劣りします。でも、彼女の人生と無私を希求した姿勢は間違いなく超一流。高潔で清廉、誰にも真似のできないオリジナリティに満ちています。
 中でも、二度の不本意な結婚に破れ、得度(出家)してからの後半生が凄まじい。陋屋(ろうおく)に住まい、言い寄る男どもを排するために、歯を抜いて美しい顔を台無しにしてまで、無私の境地へと疾走していくんです。
 彼女は、世俗的には汚く無価値である泥をこね、焼き物という価値あるものを作り出すことに力を注ぎます。ことに彼女の埴細工は安政の頃、結構な値で取引されました。その金を使わずに貯め、京都の鴨川に今もある丸太町橋を架けます。
 本人は家財道具を持たず、来客があると木の葉の上に飯を盛っていた。しかも、埴細工や書画を人にくれてやる。挙句の果てには、贋作にまで自分の作だと保証を与えて他人を儲けさせました。蓮月の無私が際だったのは、江戸無血開城への提言です。彼女は西郷隆盛に和歌を送りました。
「あだ味方 勝つも負くるも 哀れなり 同じ御国の人と思へば」
 この一首が西郷を感動させ、江戸を無益な殺戮と破壊から守りました。かような芸当ができたのも、彼女が無私に生きていたからにほかなりません。蓮月こそ、泥の池に咲いた美しき蓮といっていいでしょう
※週刊ポスト2013年1月25日号
昼夜たっぷり落語漬け。

【昼の部】

元犬/扇
 間もなく二つ目になる扇ちゃん、シロがマンガチック。

黄金の大黒/一之輔
 前日、岩手で高座があり、飲み過ぎて自宅のトイレで……というマクラ。確かによみうりホールの形状はアレに似ている(苦笑)。
 鉄板ネタではあるのだけど、今日も『黄金の大黒』でした。出番が浅いところなので、確かに似合いではあるのだけど。そして、またかと思いつつも、やっぱり大笑いしてしまう。

味噌蔵/市馬
 わーい、生で聴くのは初めてなネタ。そして市馬さんの喉で調子っ外れな磯節を聴けた。
 頻出する「ドガチャガする」が楽しい。

(中入り)

曲独楽/紋之助
 暖かい観客に励まされ、今日は頑張ったなぁ。最前列のお客様に協力してもらってトトロの綱渡りも大成功。最後は観客席を回って披露するサービス。

抜け雀/白酒
 トリの白酒師匠、マクラは今日の落語会のバッティングぶり……一之輔さんと市馬さんは大田区の落語会に飛んでいった(三三さんとの三人会……「よってたかって」昼夜とバッティングしたため、涙を呑んで諦めたんだよなぁ)とか。
 もともと好きなネタではあるのだけど、今日の白酒さん、たっぷり聴かせてくれた。相模屋の女房が「ふぐ」に例えられるところに笑ったなぁ。

【夜の部】
つる/さん坊
格安自殺ツアー/百栄
 ……すみません、睡魔に襲われました(^_^;)。

締め込み/三三
 好きなネタなのに睡魔に襲われ「うん出刃」聴き損ねたことに凹みます……。

漫談/ロケット団
 寄席で聴く漫才の中で一番笑わせてもらっていると思う。古いけど『北の国から』ネタにいつも爆笑させられる。

錦木検校/喬太郎
 初めて生で聴くことができた『錦木検校』。元は『三味線栗毛』だが、喬太郎版は落とし噺ではなく、子劇的な場面で人情噺に仕立てている。
 風邪で声が枯れていいコンディションではなかったが、しんみりするラスト。


 志の輔らくごinPARCOを見なければ年が明けた気がしない体質になってしまった。

(これから志の輔らくごを見る人のために、畳んでおく)
 昨日はとても悩ましい夜でした。渋谷文化総合センター大和田 さくらホールで談笑師匠、伝承ホールで白酒師匠二席にゲスト市馬師匠、渋谷パルコで志の輔らくごは別の日にチケット取っているので選択肢には入りませんでしたが、他にもイイノホールで三三さんが一之輔さんゲスト、内幸町ホールで白鳥さんが女性落語家たちと落語会、と、わざわざバッティングさせなくてもいいじゃんって企画がメジロ押しでした。特に白酒・市馬と談笑の両方チケット取れちゃった私は最後まで悩んだ末に談笑さんを選びました。

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真田小僧/笑二

 笑二くんの面白さが少し分かってきました。ちょっとしたことなんだけど、おかしみを感じさせるっていう芸風ですね……談笑師匠がどう育てていくのか楽しみです。

スタンダップコメディ山中ショー付き/松元ヒロ
 去年の談志家元一周忌の一門会でゲスト出演したので二度目かな。いきなり阿部・麻生のものまねから始まり、反原発デモに参加した時の様子を熱く語り、労働組合や平和運動イベントのゲストで稼いでいるといい(家元には「平和を食い物にしている」といわれたらしい・苦笑。でも戦争を食い物にしているとか原発を食い物にしているとかよりはずっといい)。
 「山中ショー」というのは、楽屋に遊びに来たフジテレビの元アナウンサーであるところの山中さんを壇上にあげ、今日のニュースと天気予報を読んでもらって、ヒロさんがパントマイムでそれを表現するというもの……下ネタ満載ですが場内爆笑の渦でした。

千早振る 変形A/談笑
 談笑師匠のネタでは初めて聴きました。前半は典型的な「千早振る」。後半にもうひとつの百人一首ネタで小野篁(おののたかむら)の「わたの原 八十島(やそしま)かけて 漕(こ)ぎ出でぬと人には告げよ 海人(あま)の釣り舟」をトンデモ解説するという。

冗談音楽/ポカスカジャン
 初めて見たけど、面白かったです。映画『ロッキー』のテーマを和楽にアレンジするとか、津軽弁での言葉をボサノバ風にアレンジするとか、築地市場のセリの様子をフラメンコにするとか、こういう方向性は大好き。『笑点』のテーマをベンチャーズ風にする時にギターのピックが飛んで不明になり、やむなく指で弾くという右側の人、指切れませんでしたか。お疲れさまでした。

黄金餅/談笑
 お正月なので目出度い噺から(苦笑)……って、特に談笑版は下手人誰だよってアレンジが入るので決して目出度くはないのですが、落語界の貧乏長屋の中でも一番底にいるらしい西念坊主と金蔵の金への執着が因果だなぁという噺です。途中の言い立てやら、談笑流のブラックジョーク的な入れごとがあったりして、陰々滅々ではないですが。

 最後のご挨拶で、四日ほど前の夢に家元が登場したとか。その夢の中での家元の振る舞いが、自分やその他の弟子たち、またお客様たちに挨拶に出てきたようだったので報告しますって内容……家元と談笑さんの絆を思って、じわーんとしました。
 ブログ開設して満十年です。今年も落語ブログ化しない程度に幕末の話題を取り上げていきたく存じます。

北海道
鬼瓦を雪から守れ 箱館奉行所で屋根の除雪
 今年は鬼瓦を雪から守ります―。箱館奉行所(五稜郭町)で10日、屋根の雪下ろしが行われた。昨冬は大雪の影響で屋根に取り付けられている1枚10万円相当の鬼瓦が折れたため、対策に乗り出した。

 鬼瓦は数少ない福井県の「鬼師」と呼ばれる職人が1カ月以上かけて作るもので、奉行所では大小20枚が取り付けられている。

 しかし昨冬は、屋根の除雪をしなかったため重さに耐えきれずに地面に落ちて壊れた。観光客が出入りする玄関の屋根は丹念に除雪していたが、建物全体を支える幅約30メートルの屋根は危険性を考慮して除雪していなかったという。

 このため今冬は、雪が大量に積もる前に除雪。市内の業者が長さ12メートルの移動式クレーンに乗りながら、鬼瓦の周辺部分をプラスチックのスコップで傷つけないように取り除いていった。

 奉行所の沼崎孝男館長は「昨年は様子見で除雪をしなかったことが裏目に出た。屋根の面積が広いため除雪方法はまだ試行錯誤の段階だが、鬼瓦は高価なものなのでなんとか守りたい」と話していた。


京都の竹内さん、新島八重の前夫・川崎尚之助と函館との関わり小冊子に
 京都市在住の竹内力雄さん(79)が、6日に放映が始まるNHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公新島八重の初婚の相手、川崎尚之助(1837~75年)について書いた小冊子「八重の夫・川崎尚之助の真実」をまとめた。コメ調達に奔走し函館へ渡った様子が記され、函館と川崎の深い関わりを解き明かしている。

 竹内さんは、元同志社社史史料編集所(現社史史料センター)職員や明石短期大学(現神戸ファッション造形大学短期大学部)講師などを務めた。同志社大校友会機関誌「同志社タイムス」(月刊)に、昨年4月から連載中の文を若干手直しして小冊子(B5判32ページ)を作成した。

 2011年、道立文書館(札幌)で川崎に関する史料が見つかり、竹内さんが史料の複写を入手して調べた。

 川崎は兵庫県但馬の出石藩出身。会津藩士だった1868(慶応4)年に、八重らと戊辰戦争の会津籠城戦で新政府軍に立ち向かったが、その際に行方不明になったとされる。その後、仲間と斗南藩(青森県)に移り、飢餓を救おうと奮闘。藩の意を受け、函館に渡って外国米と収穫予定の大豆との交換契約を結ぶが、コメの手形を差し押さえられたため蔵から出せなくなった。契約不履行によって外国人商人らに提訴された。

 竹内さんは「川崎は飢餓を放っておけず、自分一人の意思での契約だとして自らを犠牲にする。見事なる侍というべきだ」と指摘。川崎が自らの身を犠牲にした背景については「出石藩は小さな藩で、会津藩で教べんを取っていた川崎にとっては大変な出世。藩に対して恩義を感じていたのだろう」と推測する。

 ドラマでは川崎を長谷川博己さんが演じる。竹内さんは「八重の会津時代にとって川崎はメーンとなる人物。ほとんど知られていなかったが、世の中に知れ渡れば鎮魂になるのでは」と話している。



関寛斎の妻あいが主人公 陸別
【陸別】「みをつくし料理帖(ちょう)」シリーズなどで知られる人気作家高田郁さんが、陸別開拓の祖関寛斎(1830~1912年)の妻あいを主人公とする長編小説「あい 永遠に在り」(角川春樹事務所)を刊行した。戊辰戦争で医師として活躍し、老年期に開拓に身をささげた寛斎を、終生支え励ました妻あいの生涯を深い共感をもって描いている。

 高田さんは、十数年前から町を訪れて町民と深い交流がある。寛斎の生誕の地・千葉県東金市や、寛斎が長く居住した徳島市など全国各地を取材し、数多くの文献を調査して作品の構想を練ってきた。

 作品では、貧しいながらも強い倫理観と思いやりのある女性として育った、あいが、寛斎と結ばれ、幕末から明治にかけての激動の時代に子供を産み育てながら、時に周囲と衝突する寛斎を優しくいたわり、支えた人生の軌跡を描いている。「あい―」は352ページ、定価1680円。

 また、今回の出版を記念し、高田郁さんが出席するトークとサイン会、あいさんをしのぶ特別展が13日午後2時から陸別町内の関寛斎資料館で開かれる。入場無料。(高橋力)



宮城
塩釜の歴史遺産、保存を 幕末・明治の遊郭建築、解体の危機
 歴史的建築物の保存活動を続けている宮城県塩釜市のNPO法人「みなとしほがま」(菅原周二理事長)は12日、東日本大震災で被災し、解体の危機にある同市本町の茶舗「松亀園」(旧えびや旅館)の見学会を開いた。同法人は土地建物の買い取りを目的とした募金活動も始めており、「貴重な建物の保存と活用を」と市民からの協力を求めている。

 建物は江戸末期から明治初期に建てられた木造3階建て。内部は昭和初期まで旅館・遊郭として使われた当時の意匠をとどめる。長押(なげし)に貝殻細工など港町らしいデザインが見られるほか、一面に満開の桜の花が描かれた天井も残る。
 震災による津波で一部浸水し、老朽化が進んでおり、松亀園は昨年11月で店舗での営業を終了。今月中にも解体の予定だったが、東北工大の高橋恒夫教授(日本建築史)らの調査で、歴史的価値の高い建物であることが分かった。「みなとしほがま」が所有者と協議し、解体を延期している。
 高橋教授は「明治初期の木造3階建ては塩釜では他になく、県内唯一の遊郭建築として残していくべきだ。床組みもしっかりして耐久性もある。御釜神社の真向かいにあり、塩釜の歴史を物語る遺産となり得る」とその価値を語る。
 同法人では、1000万円を当面の目標に募金活動を展開。今月中にも解体の中止と保存活用に向けての方針を決めたいとしている。
 見学会には約40人の市民が集まった。見学者の一人は「こういう建物は二度と造ることができない。文化を守るために何とか保存を実現してほしい」と話す。
 見学会は19日午後2時からも開催する。連絡先はNPOみなとしほがま事務局(旧亀井邸)022(364)0686。


福島
【日本の名城】白河小峰城 東北では珍しい総石垣造り
 白河(福島県)といえば、「これよりみちのく」という、奥州への入り口に位置し、古代には日本三古関の1つ白河関が置かれていた。

 この地に丹羽長重(にわ・ながしげ)が徳川幕府に命じられて、寛永4(1627)年、以前からあった城を改修し、10万石の居城にふさわしい城郭として築城したのが白河小峰城である。ちなみに長重は、安土城の総普請奉行で岐阜城および信長再築大坂城の普請奉行をも務めた名築城家の丹羽長秀(ながひで)の嫡流。

 白河小峰城は東北では珍しい総石垣造りの城で、盛岡城(岩手県盛岡市)、鶴ヶ城(福島県会津若松市)とともに東北三名城の1つにも数えられている。

 現在も残る石垣はこのときの築城のもので、本丸の石垣は、高さといい、曲線といい、東北屈指の美しい姿を見せている。石垣の組み方は基本的には打ち込みはぎで、加工した石をランダムに積んでいく技法なのだが、一部には同心円状に石を組んだ部分がある。ほかの城郭ではなかなか見られない独特の石組みとなっている。

 丹羽氏は嘉永20(1643)年、二本松(福島県二本松市)に転封となる。その後は白河小峰城には明治維新まで徳川譜代・親藩の大名が次々と入城を繰り返し、江戸の北面を守る奥州の関門という位置づけの城となる。

 慶応4(1868)年、白河小峰城は戊辰戦争奥羽越列藩(おううえつれっぱん)同盟と官軍の激戦地となり、御三階櫓(天守に相当)などを焼失し落城した。

 城跡には郭・土塁・石垣・水堀を残すのみだったが、平成3(1991)年、本丸跡に発掘調査と絵図などをもとにして、木造による伝統工法で御三階櫓が、平成6年には前御門が復元され、「平成の城復元ブーム」の先駆けとなる。

 現在、東日本大震災により石垣などが崩壊したため、御三階櫓も含め本丸は立ち入り禁止となっている。
【所在地】福島県白河市郭内
【城地の種類】平山城
【交通アクセス】JR東北本線「白河」駅から徒歩10分。

 ■濱口和久(はまぐち・かずひさ) 1968年、熊本県生まれ。防衛大学校卒業。陸上自衛隊、舛添政治経済研究所、栃木市首席政策監などを経て、現在、拓殖大学客員教授、国際地政学研究所研究員。日本の城郭についての論文多数。


史料30点を新公開 県歴史資料館12日から展示
 福島県歴史資料館の平成24年度の新公開史料展は12日から3月31日まで福島市の県文化センターに隣接する同館で開かれる。目玉として、戊辰戦争で戦死した会津藩士らを記録した旧若松県の行政文書「旧会藩士戦死名簿」を開幕翌日の13日から展示する。
 今回新たに公開されるのは、国見町小坂地区に伝わる江戸時代の文書や絵図、福島市の個人が所有する文書、県所蔵の官報など約30点。
 小坂地区の史料からは当時の土地の利用状況や人口動態などを知ることができ、郷土史家の関心を集めそうだ。地域内の樹木の種類や本数などを記した帳簿といった、ユニークな資料もある。
 13日から展示される「旧会藩士戦死名簿」には、NHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公新島(山本)八重の父・権八や弟・三郎らの名前が載っている。
 入場無料、会期中無休。時間は午前8時半から午後5時(最終入館は午後4時半)。初日の12日と2月10日、3月9日は午後一時から解説会を催す。
 問い合わせは同館 電話024(534)9193へ。
 開幕を前に11日、内覧会が開かれた。


栃木
(4)宇都宮市・宇都宮城址公園 戊辰戦争で見せた!土方「軍略の才」
 慶応4(1868)年、宇都宮城が焼失してから今年で145年になる。新政府軍と旧幕府勢力による戊辰戦争の「宇都宮城の戦い」で周辺の街並みとともに城の大部分が焼失した。

 宇都宮城の戦いは戊辰戦争でターニングポイントの一つとなった。戊辰戦争というと、最新兵器の新政府軍に対し、刀を手に戦う旧幕府勢力が北へ北へと追い立てられていくイメージが強いが、栃木県立博物館主任研究員の岸明さん(43)は「宇都宮城の戦いまでは両軍ともに武装に差はなく、戦いは拮抗(きっこう)していた」と話す。

 江戸城無血開城後、徳川家康を祭る日光で兵を集め、新政府軍と戦おうと考えた旧幕府勢力は、江戸を脱走し日光を目指す。その過程で、土方(ひじかた)歳三らが率いる約1千人の軍勢が宇都宮城に攻め込んだ。

 「宇都宮城の戦いは土方の軍略家としての初陣」と岸さん。新撰組の土方は腕の立つ剣士としてのイメージが強いが、優れた軍略家としての才能が開花したのが宇都宮城の戦いだという。

 守りの薄い城の東と南を狙った土方の戦略は当たった。難攻不落といわれ、関東七名城にも数えられる宇都宮城をわずか半日で落としてしまった。岸さんは「城を守る宇都宮藩は新政府側につくと決めて間がなく、兵士たちの間にも迷いがあった。その士気の低さを土方は見抜いていたのではないか」と分析する。

 こうして城を手に入れた土方らだったが、誤算があった。宇都宮藩側は敗走する際に城に火を放ち、期待していた弾薬の補給ができなかったのだ。3日後、援軍を得た新政府軍に城を奪い返され、日光へと退却する。岸さんは「これ以降、戊辰戦争は旧幕府側の劣勢へと傾いていった」。

 この戦いで城の建物はほとんど焼失。宇都宮城跡は戦後、その一部が御本丸公園として整備され、市民の憩いの場として親しまれてきたが、周辺は都市開発の中で城の遺構はほとんど失われた。

 地元住民や商工関係者らの間に城の復元を求める動きが本格化したのは平成以降だ。市が本丸跡の整備に着手し、「宇都宮城址公園」と改称。平成19年3月、櫓や土塁、堀などの外観を復元した上で新たに開園式を迎えた。宇都宮城の戦いを再現した「風雲!宇都宮城」などを開催。秋恒例の宇都宮餃子祭りも昨年初めて同園で開かれ、大勢の市民でにぎわった。

 また、市都市ブランド戦略室は宇都宮城の戦いでの土方ゆかりの地をめぐる観光マップの発行や定期的な観光ツアーなど歴史を活用した街おこしの動きもある。園内の宇都宮城ものしり館では、宇都宮城の歴史をボランティア解説員が説明する。(桑島浩任)

 【場所と行き方】宇都宮城址公園は宇都宮市本丸町1の15。市役所東側。JR宇都宮駅から関東バス「市内循環線(きぶな号)」15分、「宇都宮城址公園入り口」下車。

 当時は難攻不落とされていたので、土方さんが半日で宇都宮城を陥落したと知った大鳥さんは「虚実はかりがたし(現代語訳「マジ?」)」と言ったんですよね(苦笑)。

山梨
幕末-明治期文人の息吹 県立美術館で豪商「十一屋」秘蔵品展 山梨

 江戸時代中期に甲府柳町(現在の甲府市中央4丁目)で酒造業を営み、後にしょうゆ醸造も兼ねて繁栄した豪商、野口家(屋号・十一屋(じゅういちや))が所蔵する書画、書、美術品などを紹介する特別展「十一屋コレクションの名品~野口柿邨(しそん)をめぐる文人たち」(産経新聞甲府支局など後援)が、甲府市貢川の県立美術館で開かれている。半数が初公開という十一屋“秘蔵”の展示品約200点から、幕末から明治期にかけての文人たちの息吹、交流を感じ取れる内容になっている。

                  ◇

 展示は、文人画家の富岡鉄斎、日根対山(ひね・たいざん)らと交流した4代目当主、正忠(1822~93年、号・柿邨)が収集した作品が中心。柿邨の長男に嫁ぎ、南画家として名高い野口小蘋(しょうひん)の作品、伊藤博文の書など“お宝”も少なくない。

 現在の滋賀県に本拠を置く近江商人だった野口家は安永元(1772)年、甲府に醸造所を設けた。後の寛政年間から明治維新までは旗本らの代わりに幕府から扶持(ふち)米を受け取り、その委託販売を許されるなど甲斐国を代表する豪商だった。十一屋の由来は、11人の近江商人が結束して甲府にやってきて商売をしたからとする説がある。

 柿邨は自らも文人であり、鉄斎や対山の他、漢詩人の梁川星巌(やながわ・せいがん)、儒学者の頼三樹三郎(らい・みきさぶろう)らと交流する中で美術品や書などの収集に努めた。今回初公開されたのは、江戸絵画の与謝蕪村(よさ・ぶそん)『柳渓舟行図屏風』、曽我蕭白(しょうはく)『山水百老図』、小蘋に贈られた伊藤博文の『七律詩』など。柿邨が特に好んだとされる江戸中期の禅僧、白隠(はくいん)の墨画、墨書も紹介されている。

 同美術館の平林彰学芸員は「まず柿邨の人脈と収集への熱意があり、豪商の一つのコレクションが散逸せずにこれだけ伝わっているのは驚き。作品と十一屋の関わりなどは今後解明が進められるべきで、特別展をその出発点としたい」と話している。開催は2月11日まで(展示替えあり)。今月15日と最終日を除く月曜日は休館。観覧料は一般1千円。(電)055・228・3322。


京都
八重の不屈の魂にスポット 霊山歴史館で特別展
 幕末から明治維新の激動期の新島八重に焦点を当てた特別展「会津の武士道・八重の時代」が、京都東山区の霊山歴史館で開かれている。戊辰戦争で会津武士の子として籠城戦を戦い抜いた八重の不屈の魂を伝えている。
 NHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公で「幕末のジャンヌ・ダルク」とも呼ばれる八重や幕末の会津藩を、写真パネルや戦地の略図、関係者の書など約100点の史料でたどる。
 戊辰戦争関連では、八重らが籠城戦を展開するも政府軍の攻撃で無残な姿となった会津・鶴ケ城の写真や、八重が使用したのと同じ型の銃などが戦いの壮絶さを物語る。
 兄の山本覚馬を頼って京都に出てきた八重が働いた日本最初の女学校「女紅場」(現鴨沂高)の扁額(へんがく)や新島襄との新婚時代の写真なども展示されており、新たな人生を踏み出す八重の姿も浮かび上がらせている。
 同歴史館の木村武仁主任学芸員は「八重には朝敵のイメージもあるが、展示では会津藩から見た姿も取り上げた。激動期を力強く生きた八重を感じ取ってほしい」と話している。
 5月6日まで。入館有料。

山口
「戊辰戦争」展:長州藩士の活躍に迫る 書状や遺品など51点公開--下関・東行記念館で来月11日まで /山口
 今年は幕末の志士、高杉晋作(1839~67)が奇兵隊を創設して150年。晋作の菩提(ぼだい)寺「東行庵」の境内にある下関市吉田の市立東行記念館では、戊辰(ぼしん)戦争における奇兵隊ら長州藩士の活躍に迫った企画展「戊辰戦争」が開かれている。

 戊辰戦争は、1868(明治元)年に始まった新政府軍と旧幕府軍による内戦。日本各地での武力衝突を経て69年、箱館戦争で新政府軍が勝利。日本は本格的に近代国家に向かっていく。
 奇兵隊や長府藩報国隊はこの戦争に新政府軍の一員として参戦。書状などに詳細な記録を残した。企画展ではこれらの書状や遺品など51点を展示。山縣有朋が率いた軍が新潟で苦戦を強いられている際に詠んだ自筆とみられる歌書のほか、奇兵隊の長嶋義輔が戦地から父に宛てて戦況をつづった書状、戦時に使われた報国隊の太鼓「陣鼓(じんこ)」などが並ぶ。同記念館の溝口純一学芸員は「遠い地で戦った彼らの心情を感じ、内戦の意義を考えてほしい」と話している。
 2月11日までで、午前9時半~午後5時。月曜(祝日除く)▽祝日の翌日は休館。入館料は大人300円、大学生200円。市立東行記念館(083・284・0212)。【平川昌範】
〔下関版〕
1月12日朝刊


エンターテインメント
「テニミュ」キャストが新撰組に!
 [シネマトゥデイ映画ニュース] ミュージカル「テニスの王子様」で精彩を放った馬場徹、八神蓮、高崎翔太、佐々木喜英が5日、東京・ニッショーホールにて行われた映画『幕末奇譚 SHINSEN5~剣豪降臨~』完成披露試写会&トークショーに、劇中の衣装で登壇、会場からは黄色い声援が飛んだ。

「テニミュ」キャストが新撰組に! 画像ギャラリー

 本作は、陰陽師が呪術で召喚した柳生十兵衞などの剣豪たちと、新撰組の精鋭5人が戦う新感覚時代劇。その中で、新撰組副長・土方歳三を演じた馬場は、「歴代の土方は、35歳ぐらいの俳優の方が演じる場合が多いのですが、自分は24歳なので、どうやったら新撰組を引っ張るリーダーになれるか、苦労しました」と語る。特に隊員を叱咤するような厳しいシーンでは、「低い声を出すように意識した」といい、結果、スクリーンでは見事なリーダーっぷりを発揮している。

 対する佐々木は、敵役の陰陽師・土御門源春を演じ、「ずっと悪役をやりたかったのでうれしいです」と満足げ。役作りにあたって、中島良監督から、「ナルシストで、見た人がエクスタシーを感じる人物」だとアドバイスされたそう。それを聞いた八神が、「テニミュ」で「エクスタシー」の台詞が登場するワンシーンを即興で演じ、客席のファンを笑わせる一幕も。

 そんな観客の笑いを取っていた八神だが、本作の見どころとなると、「腕相撲の回想シーン」と真面目な顔でコメント。同じく見どころを、高崎が「最後の大立ち回りのシーンです」と口にすると、全員から「(そこのシーンに)出てないじゃん」と突っ込まれ、終始和気あいあいとした雰囲気で、会場を盛り上げていた。(取材・文:尾針菜穂子)

映画『幕末奇譚 SHINSEN5~剣豪降臨~』は2月23日より渋谷シアター・イメージフォーラムにてレイトショー公開
 去年は1回しかチケット取れなかった談春さん、今年は「デリ春」と称して都内の地域ホールでの公演を多く入れてくれるようなので沢山見たいと思うのだが、チケット争奪戦はますます厳しい。先行販売での抽選に落ちること落ちること。
 それでも何とか取れたこの公演。ネタ出ししていて「初天神」「芝浜」。

こはる「家見舞」
 春師いわく、デリ春では「開口一番」ではなく「トッピング」なのだそうだ。
 二つ目決まってからこはるさんを聴くのは初めて、一年半ぶりというところだが、二つ目としては一人前以上に巧くなってる。

談春「初天神」
 「家見舞」を先代圓楽師の前で演じた時、サゲの一言を「瓶の水を一杯」といったところ、「瓶の」がムダだと指摘されたという思い出話。その一言を減らしただけで三倍受けたそうだ。
 それを言うためにサワリのところを演じるのだが、こはるさんで十分に巧いと思っていたのが春師にかかるとべらぼうに巧くなってしまう。これは弟子に対する指導なんでしょうか(汗)。
 先代圓楽師匠に関するエピソードをふたつみっつ。新幹線の食堂車でピラフを7人前召し上がったとか、熊本公演の飛行機が熊本に着陸できず博多に着陸するとなった時にパラシュートで降りようとしたとか、やっぱり只者ではないようで。
 「初天神」は高座でかけたのは一回くらいとか言われてましたが、やっぱり言葉の選び方とかリズムとか、談春さんだなぁと思う。飴屋の後に団子屋でなく凧屋のエピソードをやって、凧揚げに夢中になるおとっつぁんを取るのも談春さんらしい。

談春「芝浜」
 もしやと思って調べてみたら、やっぱり……談春師の「芝浜」、初ライブでした。広瀬さんのエッセイのおかげで、談春「芝浜」の内容は知っているのだけど、知っているということと実際に生で聴くというのはまったく別物。
 暮れに「芝浜」をかけるのは他の落語家もやっているだろうから、比較されにくい年明けにかけるというのが談春さんらしい。そして「芝浜」というと、家元が演じ、志の輔さんに弟子入りを決意させ、談春さんに落語開眼させた、伝説となった高座の客席側の自分が原点となってしまうとか。
 噺に入るきっかけをつかめず、テレながらマクラを10分ちかく……そして、全編75分の長大な「芝浜」。それでも千人ほどの観客の集中力を切らさずに最後まで持って行くのはさすが談春師だと思う(もちろん泣かせるんだ……)。
 家元のおかみさんのように「捨てないで」と泣いてすがるのではなく、42両拾って届け出ずに散財してしまえば亭主の首はないものと知り、無理矢理にでも「夢にしてしまう」覚悟というか決意でもって亭主に腹をくくらせる、腹の据わったおかみさん。
 そして、魚勝が酒をやめて商売に精を出す場面で、「性格が変わったというわけではない。根っこは同じ。自分がかつてそうだった(競艇にはまっていた時のこと?)からわかるんだが、根っこは変わらないものの生活を変える」というような解説が入るところが談春さん風味。
 落語を聴き始めたきっかけが、2009年の暮れに「芝浜」聴きたくなったこと。それから3年ちょっと。昨年はほぼ50近い寄席・落語会に通ったけど、聴きたかったもののひとつが談春「芝浜」で、その念願がかなった。感謝。

 年明け初めての寄席は超満員。それでも何とか座れた。

ちよりん「 動物園」
夢葉/奇術
馬石「鮑のし」
文左衛門「手紙無筆」
ギター漫談/ぺぺ桜井
菊千代「権助魚」
一の輔「黄金の大黒」
紙切り/正楽
はん治「背なで老いてる唐獅子牡丹」
漫才/遊平かほり
歌武蔵「ぼやき酒屋」
玉の輔「宗論」
ジャグリング/ストレート松浦
菊之丞「子別れ」

ちよりん「動物園」
 『どうらく息子』6巻で、ちよりんを連想させる風貌の女落語家が「動物園」を女主人公として高座にかける場面がある。今日のちよりんは主人公を男性として演じ、女性が男性を演じることに違和感をまったく感じさせなかった。

馬石「鮑のし」
 いつものように五街道雲助一門の突飛な芸名をマクラにした後、「鮑のし」。

文左衞門「手紙無筆」
 寄席での文左衞門師匠、出番が浅い時はこのネタが多いのだけど、何度聴いても面白いんだよなぁ。そして「何ですと?」がどこで出てくるのかが楽しみで仕方ない。

菊千代「権助魚」
 「権助魚」、初めて聴いたのが談春さんの弟子で近ごろ目出度く二つ目に昇進したこはるさんの高座だったっけ。女性でもかけやすい演目なのかな。

一之輔「黄金の大黒」
 鉄板な東武野田線のマクラから。長屋の住人が唯一持っている羽織が、三処紋がなぜか立川談志と古今亭志ん朝と林家一門で(「嫌がらせかい」ってツッコミがあったな^_^;)、袖が絽で見頃が羽二重で裏が畳表……で、着ると畳表がちくちくして痛い。
 長屋の住人たちが羽織なしで宴会で騒ぎ始めたところでサゲ。

はん治「背なで老いてる唐獅子牡丹」
 久しぶりのこのネタ。

歌武蔵「ぼやき居酒屋」
 はん治さんが中入り前で「ぼやき居酒屋」でなかったので、すかさず歌武蔵さんがかける。内容は同じなんだけど、客の居酒屋亭主いじりがさらに豪快な印象。

玉の輔「宗論」
 これも鉄板ネタで何度も聴いているんだけどやっぱり笑ってしまう。

菊之丞「子別れ」
 菊之丞さんで聴くのは初めて。菊師だとおっかさんがとってもいい女になってしまう……そんなおっかさんを叩きだして吉原の女を引き込む熊さん、ほんと女を見る目がない。亀ちゃんもちょっときかん気でこまっしゃくれてるけどいい子なんだよな。

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