新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 おはようございます、白牡丹です。

 11日の地震当時、千葉市海浜幕張のオフィスエリアにいました。建物に被害はなく(私は7階にいましたが、一部のファイルキャビネットが飛び出す程度。34階はひどかったそうですが、詳細不明)。

 ただちにビルから避難して近くの公園にてしばらく待機していましたが、液状化がひどかったです。




 QVCマリンスタジアムも被害を受け、オープン戦中止。
ロッテQVC閉鎖 2試合中止

 私は交通機関が途絶してしまったため、一晩オフィスにて仮眠。12日4時半、会社の人が出してくれた車で2時間ほどうろうろした末、京成幕張本郷で初発に乗り、京成線で幕張本郷→津田沼→高砂→押上、押上から都営浅草線で五反田、五反田から池上線で蒲田に乗り継ぎ、9時半に帰宅しました。本が何冊か床に落ちた程度でよかった。

 品川区旗の台の実家では、両親は在宅して被害なし。弟は外出中で東京駅で足止めを食っていましたが、東海道線が復旧したので品川駅まで出て、品川駅から歩いて午後9時頃帰宅しました。12日昼頃に実家に立ち寄り、家族全員、顔を合わせました。

 この地震および地震によって生じた災害によって亡くなった方々のご冥福を祈ると同時に、苦難に接している方々、苦難と戦っている方々に、思いを込めて。

 初めての鈴本演芸場。前座の時はまだ空席もあったが、1時回る頃には満席だったみたい。

三遊亭ありがとう 牛ほめ
三遊亭司 六尺棒
三増れ紋 曲独楽
橘家文左衛門 手紙無筆
古今亭志ん輔 替わり目
ロケット団 漫才
入船亭扇遊 たらちね
柳家さん生 天狗裁き
アサダ二世 手品
三遊亭歌之介 幕末龍馬伝

中入り

仙三郎社中 太神楽曲芸
三遊亭金馬 長短
林家彦いち みんな知っている
三遊亭小円歌 三味線漫談
三遊亭歌奴 ちりとてちん


 場内爆笑でどっかんどっかん湧いたのは歌之介。龍馬の話はほんのちょっとで、その間に長嶋英雄や森元首相とかのエピソードが入るのだが、それが面白い。

 志ん輔「替わり目」は好きな作品なのでもちょっと聞きたかったな。扇遊「たらちね」さん生「天狗裁き」は危なげなく。金馬「長短」は長さんが関西弁で。文左衛門「手紙無筆」もよかった。彦いち「みんな知っている」も歌之介に続いて笑わせてもらった。歌奴は元気がよい。

 喬太郎→志ん輔、白鳥→彦いちなのがちょっと残念でしたが、鈴本もこれで敷居が低くなりました。浅草演芸ホールと新宿末廣亭もそのうちデビューしたいです。

 
 近所に紅白の梅が咲いてます。通りかかるたびに、梅の花が好きなあの方のことを心に思い浮かべています。

北海道
仏との交流史、無料配布 函館
【函館】函館の歴史研究グループ「はこだて外国人居留地研究会」(岸甫一代表・34人)は、函館とフランスの交流の歴史をまとめたリーフレット「はこだてと外国人居留地 フランス編」を作成した。幕末16 件期の函館での仏商人の活動など、古文書を基に最新の研究成果を盛り込んだ。(小森美香)

 函館とフランスの交流は1855年、仏軍艦シビル号が来航したのが始まり。フランスとは和親条約が結ばれていなかったが、箱館奉行の計らいで病人の水兵を上陸させ、実行寺で養生させた。

 リーフレットはB3判で両面カラー。こうした交流史や、パリ外国宣教会のメルメ・カション師の活動とカトリック教会、修道院の開設などについて写真と記事、地図、年表で紹介している。岸代表は「函館とフランスの出合いの時期のさまざまな出来事を知ってほしい」と話している。

 3千部印刷。函館市末広町の市地域交流まちづくりセンターで無料配布している。

 同研究会は2008年からロシア、米国、英国、中国と歴史・年表の5冊のリーフレットを作成。国別編集はフランス編が最後となる。


茨城
いばらきイメージアップ大賞に映画「桜田門外ノ変」
 茨城県のイメージ向上に貢献した団体やイベントを表彰する「いばらきイメージアップ大賞」の今年度の大賞に昨年10月に公開された映画「桜田門外ノ変」が選ばれた。地域が水戸藩開藩400年を記念して発案しロケを支援した作品で、観客約60万人を動員する成功を収めた。撮影後から一般公開されている水戸市内の大型オープンロケセットも観光客に人気となるなど、茨城県のブランド構築につながった。

 幕末の大老井伊直弼を水戸、薩摩の浪士が江戸城桜田門外で暗殺した事件を描いた作品。茨城県内12市町17カ所でロケが行われ、県民がエキストラや炊き出しに活躍。水戸市の千波湖畔には桜田門外を再現した大型オープンロケセットも建設された。

 イメージアップ大賞の選考理由には、茨城ゆかりの人物、風景などが多く描写され、作品はもとより、県民のロケ支援の活動などが多くのメディアに取り上げられ、県の知名度アップに貢献したことが挙げられた。

 また、クライマックスの暗殺シーンが撮影された桜田門外の大型オープンセットが併設する記念展示館とともに、多くの観光客を集めている点も評価された。昨年2月20日の公開以来、来場者数は1年間で21万4318人に達している。

 14日には、東京・千代田区の都道府県会館でイメージアップ大賞の表彰式が開かれた。監督の佐藤純彌氏、水戸藩士役を演じた茨城出身の俳優、渡辺裕之氏らが出席。大賞実行委員会の委員長を務める橋本昌・茨城県知事から表彰状などを手渡された。

 表彰式では岡部三十郎役を演じた渡辺氏があいさつし、「県民の皆さまの作品に対する支援を誇りに思う。撮影を通じて自分にも水戸藩士のディー・エヌ・エーがあると感じた。大賞を受賞できて本当にうれしい」と話した。

 また、桜田門外ノ変は「いばらきロケ大賞」の大賞も受賞した。同賞は02年10月のフィルムコミッションの発足以降、ロケ支援作品が2千作品を突破したのを記念して選考した賞。同賞のうち「ロケ支援賞」に関しても、民間の地元有志を中心に約4500人でつくる「『桜田門外ノ変』映画化支援の会」が受賞した。

 支援の会事務局長の三上靖彦氏は「県民の夢をこの作品にのせた。私たちが掲げてきたのは“映画づくりから始まる地域づくり”。本当に大切なのはこれからの地域づくりだ」と今後の活動に意欲をみせていた。

大洗水族館など 奨励賞を受賞
 いばらきイメージアップ大賞は、06年度に創設して以来、今回で5回目を迎えた。大賞以外にも各賞が発表され、橋本県知事から表彰状や副賞が手渡された。桜田門外ノ変関係以外の受賞者、いばらきロケ大賞の受賞者は次の通り。

 《いばらきイメージアップ大賞》奨励賞=アクアワールド茨城県大洗水族館、茨城県立大洗高等学校マーチングバンド部「BLUE—HAWKS」、かすみがうらマラソン兼国際盲人マラソンかすみがうら大会

 《いばらきロケ大賞》ロケ奨励賞=映画「下妻物語」、ロケ支援賞=つくばみらい市エキストラの会


東京
作詞家は新選組隊長の子孫
 新選組六番隊長の井上源三郎(一八二九~六八)の五代目子孫で、日野市日野本町にある資料館館長を務める井上雅雄さん(56)が作詞した「この愛に生きたい」を収めたシングルCDが、日本クラウンから全国発売された。
 井上さんは「井上源太」の名で作詞家として活動し、CD化されるのは今回で四曲目。歌うのは、堺市在住で二〇〇九年にデビューした桜川けんさん。
 「この愛に生きたい」は、桜川さんのセカンドシングル「道途中」のカップリング曲で、愛する男性を待つ女性の気持ちを歌った。井上さんは「これまで新選組を題材とした男っぽい歌が多かったが、今回は、桜川さんの甘い歌声に合うと思い、女性の気持ちをつづってみた」と語る。
 桜川さんは、先月十二日の発売以降、宣伝活動で多摩地域を精力的に回る。「多摩は人情味のあるいい町ですね」と桜川さん。三月二十六、二十七の両日、日野中央公園(日野市神明)で開かれる「スプリングフェスタひの」では、二十七日に桜川さんの歌謡ショーが行われる。CDについての問い合わせは、桜川さんの所属事務所・メーキング=電03(6809)6146=へ。 (堀祐太郎)


三重
一畳敷で旅心触れて 実寸大模型を公開
◆松阪の松浦武四郎記念館
本物そっくりに復元された武四郎の書斎「一畳敷」=松阪市の松浦武四郎記念館で

 北海道の名付け親として知られる幕末の探検家松浦武四郎(1818~88年)が晩年に建てた畳一畳の書斎「一畳敷(じょうしき)」の実寸大の模型が27日から、松阪市小野江町の松浦武四郎記念館で一般公開される。
 一畳敷は、全国を旅した武四郎が、人生を振り返る場所として東京の神田五軒町(当時)の自宅に造り、1887年に完成。旅で知り合った人々に頼み、全国各地の寺や神社などから100点以上の古い木材を集めて部材に用いた。
 武四郎自身は一畳敷の書斎を「草の舎(や)」と名付け、客人を通して長年の旅の思い出に浸り、寝起きをして過ごしたという。部材の由来を記した「木片勧進」には、死後に自分の遺体を一畳敷の木材で焼いてほしいという遺言を残した。
 その建物は保存され、現在は国際基督教大(東京都)の敷地内にあり、国の有形文化財に登録されている。
 一畳敷の模型は、愛知県の住宅総合メーカー「INAX」が昨年6月から全国3カ所で開いた展示会のために制作した。床は縦180センチ、横90センチの畳を入れ、幅15センチの畳寄せがある。壁面は写真パネル仕様。2月中旬に東京での展示を終え、同記念館に寄贈された。
 模型の一畳敷は、中に入ることもできる。同記念館では「書斎に座り、武四郎が一畳にこだわった思いを感じ取ってほしい」と話している。
 (杉原麻央)


松浦武四郎:書斎「一畳敷」複製が記念館へ 27日のまつりから公開--松阪 /三重
 現在の松阪市出身の幕末の探検家、松浦武四郎の書斎「一畳敷」の複製品が、近く同市小野江町の松浦武四郎記念館に届く。全国巡回展として「松浦武四郎と一畳敷」展を開催していた住宅設備機器大手のINAXに山中光茂・松阪市長が譲渡を要請し、実現した。27日の「武四郎まつり」から公開される。

 同館によると、一畳敷は晩年の武四郎が東京に居を構えた時に茶室横に増築する形で建てた。知人に頼み、京都・渡月橋の橋げたや遷宮後の伊勢神宮用材など、有名な寺社仏閣などから91点の材料を集めて造ったという。屋根はススキぶきで、天井には龍の絵が描かれている。一畳の書斎を明治の評論家、内田魯庵は「好事の絶頂」と絶賛したという。

 武四郎は著書「木片勧進」で「後世に残すためではなく、全国各地を歩き、さまざまな人々と交流した思い出のためで、自分が死んだら一畳敷の木材で死体を焼き、骨は大台ケ原に埋めてほしい」と記している。しかし、松浦家は極めて珍しい書斎のため、遺志には従わずに残した。現在は国際基督教大(東京都三鷹市)で国の登録有形文化財として大切に保存されている。

 同館が譲り受けるのはINAXが昨年6月から大阪と名古屋、東京で開いたギャラリーの展示用に造った複製品で、幅1・2メートル、奥行き2メートル、高さ1・8メートル。床の間や障子、天井は本物そっくりに造られている。【橋本明】



京都
園部城跡:空堀と土橋を発見 「本丸が南北に」--南丹 /京都
 府埋蔵文化財調査研究センターは、南丹市園部町小桜町の園部城跡で、現存する絵図に描かれていない、本丸を東西に横切る空堀と土橋が見つかったと発表した。空堀は、江戸時代初めに園部城が陣屋として築造された際に造られたとみられ、城の大規模改造が行われた幕末維新期に埋められたとみられる。同センターは「江戸時代には本丸が南北に分かれていたことが分かり、当初の園部城の形を知るために重要な成果」と話している。

 調査で、空堀は東西に延び、幅12メートル、深さ1・3~1・8メートルで延長18メートルであることを確認。埋め土から幕末維新期ごろの陶器などが出土した。また、空堀の南から北へ地面を削り残して作られた幅2・8メートル、高さ0・95~1・2メートル、長さ7・8メートルの土橋を確認した。北側が3メートル切れており、木橋が架かっていたらしい。大正時代の絵図などから、堀の北側は先祖をまつる場所、南側は政務を行ったり居住したりする機能があったとみられる。

 現地説明会は26日午後2時から開かれる。現地事務所(090・9713・8715)。【野宮珠里】


築造時の空堀、土橋を確認 園部城跡で出土
 京都府埋蔵文化財調査研究センターは24日、南丹市園部町の園部城跡で、江戸時代初期の築造時(1619~1621年)に、本丸内に造られた空堀や土橋が出土したと発表した。これまで伝わる絵図に記載はなく、本丸内での堀の確認は初めて。

 園部高の校舎新築に伴い、昨年末から調査した。本丸の北側部分で東西に走る幅12メートル、深さ1・3~1・8メートル、長さ18メートルの空堀を確認した。幅2・8メートル、長さ7・8メートルの土橋も見つかった。

 空堀の延長線上に凸型をした本丸の外縁が直角に曲がる部分があり、築造時に計画的に掘ったと判断した。空堀からは幕末維新期の陶器などが出土しており、幕末ごろに堀を埋めたと推測される。

 園部城は当初、城としての許可が下りず天守や櫓のない「陣屋」だったが、二重の堀などを備え、構造や規模の面では城に近く作られていた。その後、幕末から明治にかけて京都警備を名目に櫓などを増築。1872年の廃城令までの3年ほどだけ、念願の城となった経緯がある。

 空堀の出土で本丸が少なくとも南北2つに分かれた構造だったことが判明。築造当初から正式な城と同様に、南側は日常生活を送る二の丸、北側は非住居の本丸として利用した可能性があるという。

 堀の途中で途切れる土橋は、非常時に取り外せる木橋を架けたと考えられ、同センターは「二条城西門に似た橋がある。空堀と合わせ、軍事的な側面が強い」とする。

 城の絵図は複数現存するが、江戸時代に本丸内は空白で描かれ、明治以後のものにも空堀の記載はない。同センターは「機密のため描かれなかった中枢部の構造が分かる貴重な遺構」としている。

 現地説明会は26日午後2時から。問い合わせは現地事務所の携帯電話090(9713)8715。


高知
龍馬らと活躍、池道之助の生涯 出身の土佐清水で展示会
 土佐清水市立中央公民館3階ホールで25~27日、同市中浜の出身で、幕末に同郷の中浜(ジョン)万次郎と長崎に同行して坂本龍馬や岩崎弥太郎とともに活躍した池道之助を紹介する資料展示会が開かれる。無料。

 郷土史同好会(中村春利会長、会員約30人)のメンバーが、道之助が長崎での日々を文と絵で書き残した「道之助日記」を月例会で読み終えたのを契機に、道之助の生涯と業績をもっと知ってもらおうと企画した。

 展示内容は、道之助が描いた絵画や長崎までの道のりの地図、龍馬や道之助ゆかりの土佐商会や料亭・花月、長崎奉行所などの位置を示した当時の長崎の地図など。日記には当時の状況が理解しやすいように注釈を付けるなど工夫した。

 午前9時~午後5時(27日は午後3時まで)。展示資料をまとめたA4判の冊子を希望者に実費(500円)で販売する。(菊池均)




佐賀
幕末期の模造大砲 みやきに轟音響く
 みやき町の「成富兵庫茂安公保存会」は26日、同町の白石神社で幕末期のアームストロング砲を模した大砲の「初発式」を開き、空砲による轟音(ごう・おん)をとどろかせた。
 大砲は、地域興しのイベントに役立てようと制作した。江戸時代、成富兵庫茂安の養子だった白石鍋島家の初代藩主鍋島直弘公が、大砲技術に精通していたとされていることにちなむ。保存会によると、全長約3・5メートル、鉄製の砲身は直径15センチ、長さ2・2メートル。鳥よけの爆音機と同じ仕組みで、銃器扱いではない。地元の鉄工所と、約1カ月かけて完成させた。
 保存会の藤永正広代表(61)は「町が大きく発展する起爆剤になってほしい」と話していた。


3.5メートル大砲手づくり みやき町で初発式
 みやき町の地域おこしグループ「成富兵庫茂安公保存会」が、幕末佐賀藩が戊辰戦争(1868-69)で使用した「アームストロング砲」を模した大砲をつくり、26日、同町の白石神社で初発式を開いた。

 同会の藤永正広代表(61)と宮原宏典さん(69)が、筒の部分に似た空洞の鉄などを集めて組み立てた。全長3・5メートルで、直径15センチの筒の中にためたプロパンガスを爆発させて音を出す仕組み。佐賀藩の利水事業に尽力した茂安の養子で、この地域を治めた白石鍋島家領主の直弘が火術に優れていたことにちなんだという。

 初発式で、大砲が「ドンッ」というごう音を響かせると、見守った約50人の住民から拍手がわいた。藤永代表は「イベントの開始合図の号砲などに利用してもらえれば」と話していた。

=2011/02/27付 西日本新聞朝刊=



長崎
上野彦馬を軸に幕末の長崎描く 3月、舞台「ホトガラフィー」
 日本最初のプロ写真家といわれる上野彦馬を主人公に、幕末当時の長崎を描いた芝居「ホトガラフィー~写真師彦馬撮影控~」(県主催、長崎新聞社など後援)が3月13日午後2時から、長崎市築町のメルカつきまちホールで上演される。

 県の「演劇による人づくり事業」戯曲講座の受講生らが「成果を舞台に乗せたい」と昨年4月に制作委を設立。地元劇団「しっぽくパラダイス」(永田文利団長)が制作協力し、団員らが出演。同劇団の松原一成さん(60)が演出を手掛ける。

 舞台は6本のストーリーで構成されるオムニバス作品。彦馬が開業した上野撮影局に日本西洋料理の祖といわれる草野丈吉や女性商人の大浦慶などさまざまな人物が訪れる物語で、写真をめぐって、それぞれの人生や思いを浮かび上がらせる。

 脚本は制作委メンバー3人と松原さんの共作。3人は松原さんの指導を受けて、昨年夏から約半年かけて書き上げた。制作委の牧山雄一郎会長(43)は「原稿を何度も書き直すなど苦労も多かった。照れくささもあるが、本番ではどんな感動を味わえるのか自分自身が楽しみ。長崎にこんなドラマがあることを、多くの人に知ってほしい」と来場を呼び掛けた。

 木戸銭(入場料)は2千円。浜屋プレイガイドで発売中。問い合わせは制作委事務局(電090・4993・3594)。


洋館喫茶:閉店へ さるく幕末編推進委、来月末に解散 長崎市「採算厳しい」 /長崎
◇人気の洋館喫茶、閉店へ
 長崎市などが、旧フランス領事館の洋館「東山手十三番館」(国登録有形文化財、同市東山手町)に09年4月から開いていた喫茶店が、3月末で閉店する。洋館活用の具体策として地域住民や観光客に好評だったが、店を運営していた組織が解散、引き継ぐ市は「採算面で厳しい」と打ち切りを決めた。地元では「せっかくうまくいっていたのに」と惜しむ声が相次いでいる。【錦織祐一】

 十三番館は、1894(明治27)年ごろ建設された木造2階建ての洋館。旧外国人居留地に滞在する外国人の住宅として使われ、昭和初期にはフランス領事館が置かれた。近年は民間の喫茶店だったが、閉店したため、市が07年に洋館活用の一環で取得。09年4月に市民の交流スペースとして開館した。

 市は09年、開港150年記念のまち歩き観光「長崎さるく幕末編」、10年にはNHK大河ドラマ「龍馬伝」に合わせた「英雄(ヒーロー)編」を展開。官民108団体による「さるく観光幕末編推進委員会」(会長・松藤悟長崎商工会議所会頭)が中心となり事業を実施した。

 十三番館の喫茶店も推進委がオープン。レトロな雰囲気の中、コーヒーや期間限定でカクテルが楽しめ、ピーク時は1カ月で約6000人が訪れた。しかし、推進委は3月末で解散。4月から引き継ぐ市文化財課が「喫茶店は採算面から厳しい。当面は休憩施設に」と閉店が決まった。

 地元で街づくりに取り組む「大浦青年会」の桐野耕一会長(55)は「今や『居留地の顔』とも言える観光施設。『お茶一つ出せない』という市の真意が分からない。市ができないなら我々でやりたいぐらいだ」と話している。

〔長崎版〕



エンターテインメント
注目ドラマ紹介:「遺恨あり」 藤原竜也が“最後のあだ討ち”役
 俳優の藤原竜也さん主演のスペシャルドラマ「遺恨あり 明治十三年 最後の仇討」(テレビ朝日系)が26日午後9時から放送される。藤原さんは、明治13(1880)年に“最後のあだ討ち”を果たす青年・六郎をストイックに演じる。法治国家を目指す明治政府による「仇討(あだうち)禁止令」の発布から7年後、六郎が振るった刃は、武士の美徳か、単なる殺人か……実話を基に描いた、“生きる意味”を問う感動の骨太ドラマだ。

 「遺恨あり」は、作家・吉村昭さんの「敵討」(新潮文庫)収録の「最後の仇討」が原作。明治に改元される直前の慶応4(1868)年、九州の小藩・秋月藩の上士の息子だった主人公・臼井六郎(藤原さん)は、国家老・吉田(石橋蓮司さん)にそそのかされた攘夷(じょうい)派の集団に両親を惨殺され、少年の身ながらあだ討ちを決意する。六郎は下手人の一瀬直久(小澤征悦さん)らを討つべく、流浪生活の中で敵を捜し求めるが、やがて新政府は「仇討禁止令」を発布して……という物語。

 六郎を支え続けた下女・なか役を松下奈緒さん、六郎を裁く判事・中江正嗣役を吉岡秀隆さんが演じるほか、幕末の剣豪・山岡鉄舟役に北大路欣也さんを起用するなど豪華キャストが結集。ほかにも、一瀬の妻を戸田菜穂さん、鉄舟の妻を松原智恵子さん、その娘を芦名星さんが演じ、平泉成さん、田口浩正さん、相島一之さんらも出演する。

 放送は26日午後9時~同11時21分。(毎日新聞デジタル)









 久々、イカール星人の新作がアップされました。

イカール星人公式サイト

 空中要塞ゴリョウカクが活躍すると、あの中で土方さんが指揮しているたんだろうなーと、にまにましてしまいます(^^)。
 今年も大河ドラマは脱落しそうな予感……(涙)。

福島
会津キャンペーンクルー複数年活動へ
 会津若松観光物産協会は平成23年度の会津親善大使「会津キャンペーンクルー」の公募を中止する。
 ここ2年間に選ばれたキャンペーンクルー6人が引き続き担う。
数カ月かけ、日本舞踊を習い、幕末を中心とした会津の歴史を詳しく学ぶなど育成は本格的で費用も時間もかかるため、複数年の活動が望ましいと判断した。


群馬
小栗上野介:海自横須賀地方総監が墓参り /群馬
 高崎市倉渕町権田の東善寺(村上泰賢住職)に18日、海上自衛隊横須賀地方総監、高嶋博視海将が訪れ、小栗上野介の墓参りをした。小栗が幕末に横須賀製鉄所を造った縁で、同寺と横須賀市が交流する機会は多いが、同総監の来訪は初めてという。
 高嶋海将は墓参り後、小栗上野介顕彰会の市川平治会長の説明を聞きながら、同寺に展示されている遺品や関連資料を見学。「小栗は日本の夜明けに貢献した人物の一人だが、その思いをさらに強くした」と話した。
 同寺によると、小栗は1860年に遣米使節の目付け役として渡米後に世界を一周。近代化を唱え、勝海舟ら幕臣が反対する中、横須賀に製鉄所建設を推進した。同製鉄所は明治政府に引き継がれて海軍造船所となり、多くの船を製造した。【増田勝彦】


神奈川
横浜開港資料館:「痛っ 歯が痛い」展 発祥地で近代歯科医学の歴史たどる /神奈川
◇足踏み式機械など150点
 横浜が発祥地である近代歯科医学の歴史をたどる展示「痛っ 歯が痛い-歯科医学の誕生と横浜-」が横浜開港資料館(横浜市中区)で開かれている。大正期の足踏み式の歯を削る機械を見れば、歯科医学の進歩に感謝の念が生まれそうだ。
 展示では、江戸時代の木製入れ歯や明治期の歯科医師の写真など県内に伝わる150点を紹介している。
 西洋で1800年代に描かれた歯科治療の様子の絵は、勝ち誇った表情の歯科医師が苦痛に顔をゆがめる患者の歯を抜く構図がコミカルだ。
 大正から昭和初期に使用された治療椅子と足踏み式の歯を削る機械も展示。現在より削り機の回転数が少ないため伝わる痛みは大きかったという。
 現在日本の歯科医療は世界トップ水準とされるが、幕末に西洋人歯科医が来日するまでは抜歯が虫歯の唯一の治療法だった。1903年に県内で21人だった歯科医師も現在約3800人(県歯科医師会登録者数)に上る。
 展示は4月24日まで。企画した同館の石崎康子主任調査研究員は「痛かった経験を思い出してしまうかもしれませんが、展示を見て自分の歯が受けてきた治療も振り返ってみては」と話している。【杉埜水脈】


三重
専修大:創設者・駒井重格の映画「学校をつくろう」 19日から名古屋などで /三重
◇桑名ゆかりの人物描く ぜひ観賞を
 現在の桑名市出身の駒井重格(1853~1901年)ら4人の若者が設立した専修大の創立130周年の記念映画「学校をつくろう」が完成し、15日、県内の同大関係者3人が桑名市役所を訪れ、水谷元市長に桑名ゆかりの人物を描いた映画の観賞を勧めた。
 駒井は桑名藩士、駒井重周の子として生まれた。戊辰戦争には桑名藩の一員として参加、維新後は旧桑名藩主の松平定教とともに米国に留学し、経済学を学んだ。帰国後の1880年、留学中に知り合った相馬永胤ら3人と専修学校(現・専修大)を開校した。
 あらすじは、専修大を創立した駒井ら4人の若者が明治維新の動乱期に命がけで海を渡って米国で勉び、帰国後、当時としては最先端の学問の法律や経済を学ぶ学校の開設までを描いている。原作は志茂田景樹氏の「蒼翼の獅子たち」(河出書房新社)で、「ひめゆりの塔」などを手掛けた神山征二郎さんが監督を務めた。駒井役に柄本時生、相馬役に三浦貴大らが出演している。
 市役所を訪れた専修大校友会県支部の鈴木裕志支部長が「上映を機に、駒井先生のことを桑名の皆さんにもっと知ってもらいたい」と話すと、水谷市長は「桑名で上映されないのが残念」と答えていた。19日から、名古屋市中村区のゴールド劇場など、全国4カ所で上映される。【沢木繁夫】



高知
松平頼該:まつわる品一堂に 書画、人形など60点展示--高松市歴史資料館 /四国
「左近さん」の呼び名で親しまれた高松藩八代藩主の長男、松平頼該(よりかね)(1809~68)の書や絵を集めた「左近さんが居た幕末」が、高松市昭和町1の市歴史資料館で開かれている。3月21日まで。

 頼該は江戸で生まれ、幼少期に高松に移った。鳥羽伏見の戦いで高松藩が朝敵とされた際、天皇を尊重する立場で戦いを回避したという。能や狂言も好み、自ら役者になって芝居を披露したり、県無形民俗文化財の人形芝居「香翆座デコ芝居」を奨励したりした。

 同館や個人が所蔵する頼該にまつわる品約60点を展示。緻密な自画像や、軽い筆さばきでコミカルに舞う役者を描いた「三番叟之図」、法華宗の研究ノート、唯一現存する頼該が与えたデコ芝居の人形などをそろえた。また、松平一族や頼該と親交があった藩士の藤澤南岳や長谷川宗右衛門などの作品も並んでいる。

 午前9時~午後5時。月曜休館。一般200円、大学生150円、高校生以下無料。問い合わせは同館(087・861・4520)。【馬渕晶子】


島根
米子城大改修たたえる俳句 旧家・鹿島家で見つかる
 鳥取県米子市の旧家・鹿島家(同市立町2丁目)で、江戸時代に米子城を預かった荒尾氏の10代・成裕が詠んだ俳句の短冊が見つかった。幕末に鹿島家が米子城の大改修を肩代わりしたお礼に贈られた作品で、専門家は「荒尾氏の鹿島家に対する気の使いようが分かる興味深い資料」としている。
 鹿島家では2008年以降、幕末から明治にかけて詠まれた和歌の短冊約200点、写本十数冊が見つかった。今年1月、これとは別に保管されていた資料を米子高専の原豊二准教授(38)=日本文学=が分析したところ、俳句の短冊5枚が荒尾成裕の作品と分かった。
 このうち「春風の手柄も添えて初ざくら」は「鹿島の精功を賞して」との詞書が添えられており、1852(嘉永5)年に着手した米子城四重櫓の大改修で、豪商の鹿島家が巨額の資金と労力を提供したことをたたえている。
 米子城の大改修では鹿島家の労をねぎらい、四重櫓に飾られていたしゃちほこが同家に与えられたことが広く知られているが、成裕が自ら文芸作品を贈っていたのが分かったのは初めて。
 原准教授は「俳句を作って商人に贈るのは、武士のトップとして最高の敬意を伝える行為。しゃちほこを贈って終わりではなく、その後も俳句を通じた関係が続いたのでは」とみている。
 今回見つかった短冊は4月10日、「城下町米子えーとこ発見フェスタ」の一環として鹿島家で公開する予定。14代当主の鹿島恒勇さん(75)は「短冊は祖先が殿様から褒められることをしていたの証しであり、感慨深い」と話している。



佐賀
「幕末、佐賀が歴史の鍵握った」と作家・星さん講演
 歴史作家の星亮一さんを中心とした「戊辰戦争研究会」の講演会が20日、佐賀市の佐賀城本丸歴史館であった。星さんは「アームストロング砲を有する佐賀藩の参戦が、戊辰戦争終結の要因でもあった」と話し、歴史ファンら約100人が耳を傾けた。
 幕末の会津藩や戊辰戦争についての著書が多い星さんは「佐賀藩のアームストロング砲と戊辰戦争」と題して講演。「上野戦争では命中率が悪かったものの、戊辰戦争では鶴ケ城(会津若松城)にかなりの数が着弾した。砲撃音はすさまじく、開城の決め手にもなった」と臨場感たっぷりに話した。
 また、薩摩、長州の動きなど幕末の政治状況を解説しながら「佐賀藩はキャスチングボートを握った」とも。佐賀藩の功績について佐賀大の伊藤昭広准教授と意見を交わした。
 同研究会は全国各地の会員がインターネット上で戊辰戦争に関する情報や意見を交換している。


ブックレビュー
官軍の側の史観に異議 佐々木譲さん「婢伝五稜郭」刊行

 幕末から明治へと向かう大変革期、官軍と旧幕府軍による戦いの最終場面を迎えた箱館五稜郭。榎本武揚率いる旧幕府軍が降伏したのちも「共和国建設」の夢を追って戦う残党を描いた佐々木譲さんの『五稜郭残党伝』『北辰群盗録』に続く『婢伝(ひでん)五稜郭』(朝日新聞出版)が刊行され、「五稜郭」三部作が完結した。「官軍の側から書かれた歴史に対して、異議申し立てができた」という佐々木さんに聞いた。

    ◇

 冒頭、官軍は箱館病院分院を襲う。ベッドに伏せる傷病兵ばかりか、医師すらも惨殺する。佐々木さんは史実に基づいて書いたという。
 「これまで五稜郭シリーズで、官軍史観におずおずと異議を唱えてきたが、今回ははっきりと虐殺の場面を描き、官軍のやったことを示したかった」
 西洋医学を学び、医師を手伝う志乃の目前で彼女の思い慕う青年医師が殺され、「戦う女」へと変身していく。戦う女性を主人公に据えたのは「観念で戦う男たちと生活実感で戦う女性とを対比したかったから。明治初期の北海道で、具体的に医学という専門性を生かしてアイヌの人たちの力になれる主人公を設定した」。
 青年医師を惨殺した官軍兵への復讐(ふくしゅう)を果たし、追われる身となった志乃が出会うのが榎本軍の残党、三枝弁次郎。共和国建設の夢を捨てきれない三枝と居場所を失った志乃は、迫る官軍と激しく戦いながら、北海道の奥へ奥へと逃げ続ける。途中、迫害されるアイヌの人たちの厳しい現状を知る。
 ともに戦い、心通わせる二人だが、共和国建設という夢に生きる三枝と、今ここで苦しむ人たちを救うことこそが共和国建設だと思い至る志乃。二人の切なくもさわやかなラストが用意されている。
 「五稜郭」三部作は、箱館戦争終結後の後日談にあたる。それに先立つ物語を佐々木さんは『武揚伝』として著している。一連の作品群は、明治維新を別の角度から浮かび上がらせてもいる。
 「明治維新が薩摩長州の視点でしか書かれていないのに疑問があった。幕府と朝廷の対立が前近代と近代の対立のように語られることもあるが、単に日本の西と東の内戦の側面もあった。西の人と東の人ではみえるものが違う。北海道から見ればもっと違う。書いてみて、ぜんぜん違う歴史があるじゃないかとわかった」という。
 「五稜郭」三部作は完結したが、「海軍の残党の話はいずれ書きたい。明治政府側からみれば海賊だが、自らは共和国海軍との思いで戦いを挑んだ男たちの物語です」と話している。(都築和人)








 幕末ニュースクリップ、週一回のペースになってますが、細々とでも続けます。

北海道
奉行所駆ける赤ふん勇姿
2011はこだて冬フェスティバル行事の一つ「五稜郭ファミリーイベント」(同フェス実行委主催、えぞ共和国主管)が12日、五稜郭公園で始まった。大抽選会のほか恒例の赤ふんダービーも行われ、レースを見守る子どもから大人までの歓声が響いた。

 午前11時に市消防音楽隊の演奏で幕開け。箱館奉行所復元に伴い、イベント開催場所は変更され、赤ふんダービーは距離を短くして行われた。北大水産学部の寮生ら約20人が赤ふん姿で登場。同大の女子学生が乗ったタイヤチューブを、腰のベルトに付けたひもで引っ張り、約70㍍のコースで速さを競った。元気良く走る学生に「頑張れ」「負けるな」などと声援が飛んだ。

 和歌山県出身で、今回で4年目の“出走”という北大大学院2年、河内孝文さん(25)は「距離が短くなってレースは難しかった。函館ならではのイベントを楽しめ、学生生活の思い出ができた」と話していた。

 同ファミリーイベントは13日午前9時から、どさんこ馬の乗馬体験、クイズ大会などが開かれる。


「開港150周年」記念ソング 粗大ごみ収集車などで活用へ
一昨年の「函館開港150周年」の記念ソングとして市民から歌詞を公募し、作曲家の小林亜星さんが作曲した「あれから そして今」が新年度から市環境部のごみ収集業務などで活用される見通しだ。今年に入り函館市は著作権の問題もクリアし、これまでなじみの薄かった楽曲の市民への浸透を図っていく。

 開港150周年行事で実行委の中核を担った市港湾空港部が1月上旬、市民へ楽曲を広めようと、歌の著作権を持つ小林さん側と話し合い、使用許可を求めた。小林さん側も快諾し、日本音楽著作権協会(JASRAC)からも使用許可を得た。

 市議会でも市内を巡回するごみ収集車での活用策などの意見があり、市環境部も楽曲の使用許可を取得。楽曲は粗大ごみ収集車やパトロール車がごみの分別を呼び掛けて巡回するときなどに使用する予定で、現在テープを作成しているという。

 一方、ごみ収集車には現在使用している「はこだて賛歌」が市民の間で浸透していることから、不燃・可燃ごみなど家庭ごみの収集時には現行通りとする方針。市港湾空港部では「節目のイベントで生まれた楽曲。より広く市民の耳に届いて、親しみを感じてほしい」と市民への浸透に期待を寄せている。

 市では「あれから―」を市内の中学校などにCDで配布しているほか、市役所本庁舎の総務部の電話保留音として使っている。



福島
赤瓦の天守作業終盤に 会津若松・鶴ケ城
 福島県会津若松市のシンボル、若松城(鶴ケ城)の瓦を幕末当時の赤瓦にふき替える「往時の天守閣再現事業」が終盤を迎えた。現在は、城を覆っていた足場やシートが少なくなり、雪がなければ赤瓦が見える状態に。市などは3月27日の完工に合わせ、特別イベントを企画している。
 昨年3月からの工事では、黒い瓦を赤い瓦に交換する作業が終了し、壁の補修や塗装を進めている。
 市や市観光公社は3月27日、本丸内で完成記念式典を開く。全国の城郭でも数少ない赤瓦を多くの市民に見てもらうため、同日から31日までの5日間、天守閣の入場料(高校生以上400円)を無料にする。
 4月から9月まで4回に分けて有料入場者計5万人に、記念品として赤瓦と黒瓦が描かれた会津塗の箸を贈る。
 天守閣再現事業への市民の関心は高く、赤瓦に自分の名前を記入できるなどの特典がある寄付金は6642件、計約1700万円に上った。



茨城
「桜田門外ノ変」ロケセット公開1年延長 来年3月まで
水戸市・千波湖畔にある映画「桜田門外ノ変」のオープンロケセットについて、市は10日、公開を来年3月末まで1年間延長すると発表した。当初、来月末で打ち切り取り壊すことになっていたが、市民らの要望が高まり、市は「観光振興に寄与する」として支援を決めた。

公開延長を要望していた映画化支援の会事務局長の三上靖彦さんは「私たちの活動は映画づくりから始まる地域づくり。映画公開後のこれからが本番。ロケセットを拠点にさらに地域貢献に励みたい」とコメントした。

ロケセットは、市が管理する同市千波町の千波公園の一部約1・8ヘクタールに立地。映画では、幕末に大老井伊直弼が水戸浪士らに襲撃されるシーンの撮影場所となった。施設内にはメーキングビデオや撮影風景などを撮ったパネル、水戸藩の歴史などを紹介した記念展示館もある。建設費は約3億1千万円。県と水戸市がそれぞれ3千万円補助した。

映画化支援の会によると、ロケセットは昨年2月20日から有料で公開され、入場者は今年1月8日に20万人を達成した。昨年10月16日の上映後は特に入場者が増えた。今月20日に開幕する水戸の梅まつりにより、さらに入場者増が期待される。


東京
蝦夷地探検家の足跡紹介 東京・京橋で松浦武四郎展開催中
 幕末に蝦夷地(現在の北海道)の地形をアイヌ民族と協力して調べ、「北海道」と名付けた探検家、松浦武四郎の足跡を紹介する展覧会が、東京都中央区京橋のINAXギャラリー1で開かれている。

 松浦は文化15(1818)年、現在の三重県松阪市で生まれた。17歳から旅を始め、27歳までに東北から九州までを踏破した。蝦夷地探検は28歳から41歳までに計6回実施。伊能忠敬と間宮林蔵が輪郭の実地測量を終えていたが、空白だった内陸部の原生林を、松浦は1人で巡り、270人以上のアイヌ人の協力を得て山や川の位置を歩測で地図にした。

 明治維新後では、開拓判官に登用され「北海道」と命名したが、明治3年、アイヌ民族への理解と保護をめぐって意見が異なり辞職。晩年も北海道の紹介に努め、調査の成果は地図、鳥(ちょう)瞰(かん)図(ず)、紀行文、アイヌ伝説、9800ものアイヌ語一覧、北海道を紹介するすごろくや、携行可能な案内など、生涯で150冊以上にのぼった。

 会場では、経緯度1度を1枚とする大きな切図「東西蝦夷山川地理取調図」全26枚のうち、十勝平野周辺、稚内・利尻島・礼文島周辺など7点の実物や、木版刷りが美しい動植物の画など計約30点を展示し、学者、探検家、編集者など多彩な側面を紹介している。

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 来場者の注目を集めているのは、松浦が晩年、東京・神田五軒町の自宅の一角に建てた書斎「一畳敷」(実物は東京都三鷹市の国際基督教大学内)。

 全国を旅して知り合った人々から贈られた京都・渡月橋の橋げたや伊勢神宮の遷宮で取り換えられた材木など91カ所の古材を用いており、旅を思い出すようなぜいたくな空間だという。明治の評論家、内田魯庵は「好事の絶頂」と評した。

 「幕末の探検家 松浦武四郎と一畳敷」展は19日まで。日曜祝日休館。無料。(電)03・5250・6530。


日本が封じ込められた1畳の書斎 東京・京橋で展覧会
 「立って半畳、寝て一畳」の言い回し通り、たった1畳のとある書斎を紹介する展覧会が、19日まで東京・京橋のINAXギャラリー1で開かれている(11、13日休み)。「幕末の探検家 松浦武四郎と一畳敷」展だ。同名の本もINAX出版から出ている。

 武四郎は6度の蝦夷地(北海道)探検をもとに、地形や地名が詳細な地図やアイヌ民族の習俗などを記した野帳を残した。

 晩年、東京・神田の自宅敷地内に建てた書斎が「一畳敷」。狭さだけでも驚きだが、柱や天井板などに宮城県から宮崎県まで各地から集めた約90もの古材を使ったという。それも、伊勢神宮の式年遷宮の際に出たものなど由緒あるものばかりだ。

 移築されて今は東京都三鷹市の国際基督教大の敷地内にある。公開は年に数日で、展覧会には写真パネルを使った実物大模型が登場。中に入ると、想像以上に左右からの圧迫感が強い。その狭さに、日本全体が封じ込められているという不思議。

 空間は小さく思いは広く。夢想育む、最高の書斎にして最高の隠れ家に違いない。(編集委員・大西若人)


静岡
北方領土の日・記念史跡めぐりマラソン:男女213人力走--下田 /静岡
 第31回北方領土の日・記念史跡めぐりマラソン大会(北方領土返還要求県民会議など主催)が7日、下田市で開かれ、一般男女、市内の中学生男女合わせて213人が参加した。最年長は77歳、最遠方は愛知県一宮市のともに男性。

 1855年の同日、北方四島が日本固有の領土であることを定めた日露通好条約が下田で締結されたのを記念する大会。午前10時に条約が結ばれた長楽寺前を一般と中学生に分かれてスタートした。

 中間のまどが浜、折り返しの玉泉寺など、幕末外交の舞台を巡る5・1キロは、往路は右、復路は左に海を見て走るフラットなコース。絶好のマラソン日和の中、参加者は潮風を浴びて力走した。

 レース後、北海道根室市から届いたサケの石狩鍋が、ランナーや市民に振る舞われた。【中村隆】


新潟
無料展示:古伊万里に漆器130点--佐渡・きょうまで /新潟
 佐渡に伝わる古伊万里や金彩の施された漆器などを集めた「佐渡に息づく古伊万里と漆器展」が13日まで佐渡市泉の「杜のひろば」で開かれている。
 直径70センチの大皿や角皿、とっくり、水つぎなど、江戸時代中期から幕末の伊万里焼が80点。皿を乗せる鉢台や野外で飲食を楽しんだ「のがけ重」など50点の漆器が並んだ。主催する佐渡の文化を守る会は人間国宝三人展などを毎年開いており今回が4回目。石原孝一会長(62)は「佐渡には大切な地域遺産が残っている。関心を持って伝えてもらいたい」と話した。午前10時~午後4時。無料。問い合わせは夢ハウス佐渡0259・61・1100。【磯野保】


山口
長州維新の道:倒幕へ続く赤間関街道紹介 福岡市の出版社発行 /山口
◇歴史、風景ふんだんに
 下関(赤間関)と萩を結ぶ旧赤間関街道沿いの歴史や風景を盛り込んだ「長州維新の道・上」を、福岡市中央区で出版社・のぶ工房を経営する遠藤薫さん(56)、順子さん(51)夫妻が発行した。幕末の動乱期、重要な歴史の舞台にもなった赤間関街道。「明治維新へとつながる街道の歴史を多くの人に知ってほしい」という。

 同社は九州の唐津街道、長崎街道を紹介する「街道シリーズ」をこれまでに計7冊出版してきた。しかし長州維新の道は「ただの旅行本ではありません」という自信作だ。

 赤間関街道は、幕末の志士、高杉晋作が功山寺で決起後、諸隊を率いて藩都・萩に攻め上った際に使った道。諸隊は各地で長州藩の正規軍に勝利し、幕府に恭順を示していた藩も倒幕へと傾いていった。薫さんは「彼(晋作)の決起がなければ、明治維新はなかった」。さらに「赤間関街道は、まさに維新への“道”だったんです」と力を込める。

 晋作の墓がある下関市吉田の東行庵のほか激戦地となった絵堂宿、晋作の日記を基に晋作が眺めたであろう地蔵や山並みなども紹介。旧街道の地図も添え、ガイドブックとしても最適。地元の歴史研究家に執筆を依頼し、当時の長州の働きが時代に与えた影響も考察している。

 長州維新の道・上は「筑前維新の道」の続編の形となり、今春発行予定の「長州維新の道・下」と合わせ「維新シリーズ3部作」にする予定。全カラー128ページ。2415円(税込み)で、くまざわ書店(下関市竹崎町)、文榮堂(山口市内3店舗)などで販売。のぶ工房(092・531・6353)へ。【尾垣和幸】

〔山口版〕



高知
龍馬や中岡慎太郎の湿板写真公開 県立歴史民俗資料館
 坂本龍馬や龍馬ゆかりの幕末の偉人らの湿板写真13枚が、南国市岡豊町八幡の県立歴史民俗資料館で、20日までの限定で公開されている。
 幕末に日本に伝わった湿板写真は、感光材料などを塗ったガラス板に画像を写し込んだもので、複製の原板になる貴重な資料。13枚を一斉に公開するのは初めてという。
 会場にはショーケース内の湿板写真と、その拡大パネル13枚がずらり。龍馬や後藤象二郎のほか、昨年に見つかった笑顔の中岡慎太郎の湿板写真が一堂に会している。
 高知市の吉永晴香さん(23)は「当時の写真は貴重なはず。こんなに多く残っているとは思いませんでした」と話し、見入っていた。
 午前9時~午後5時開館。観覧料500円(高校生以下無料)。問い合わせは同館(088・862・2211)へ。(滝沢卓)


龍馬や家族、慎太郎 幕末の湿板写真原板13枚
 幕末の志士・坂本龍馬や中岡慎太郎らを撮影した湿板写真の原板を紹介する特別展が、南国市岡豊町八幡の県立歴史民俗資料館で開かれている。龍馬が右腕を懐に入れた有名な写真や兄権平と後妻仲らを撮影したものなど原板13枚を展示。同館は「あまり見られない龍馬の家族の写真もあり、幕末が身近に感じられる」としている。20日まで。(大舘司)

 龍馬らが所属した土佐勤王党が今年で結成150年の節目を迎えることに合わせ、3月5日から同館で始まる「勤王党志士たちの遺墨・遺品展」に先駆けて企画した。

 幕末の頃に使われたカメラはシャッターがなく、レンズのふたを外して数十秒間、露光して再びふたをかぶせた。撮影中は動けないため、こわばった表情で写った人物が多く、白い歯を見せて笑う慎太郎の写真は異色。原板は昨年、富山県で見つかり、「日本で初めて笑顔で写った」とも言われ、京都祇園で1866年(慶応2年)に撮影された。

 右膝に着物がかかっており、隣に女性がいたとみられる。原板が墨のようなもので塗りつぶされているのは維新後、顕彰された慎太郎の姿を伝える上で、ふさわしくないなどの理由で、隠されたという説があるという。

 宮内大臣を務めた田中光顕ら佐川町の勤王家3人を写したものは、光顕が和傘を差し、仲間の大橋慎三が上着をはだけているなど愉快。京都祇園の別のスタジオで67年(慶応3年)に撮影された。同館の野本亮学芸員は「祇園で酒を酌み交した勢いで撮ったのかもしれない。国事に奔走する中で気を許した年相応の表情が見て取れる」と話す。

 土佐藩主山内容堂や重臣後藤象二郎らの写真も並んでおり、高知市中久万、病院職員和田美知子さん(60)は「男性は包容力がありそうな表情で、女性もきれいな顔立ち。時代の雰囲気がよく分かる」と話していた。

<メモ>

 1851年に英国で発明された技法で、感光性のある溶液を平板なガラス板に塗り、湿った状態で撮影した。ガラス板を種板にして、鶏卵紙などに焼き増しすることもでき、坂本龍馬は長府藩士三吉慎蔵ら親しい同志に自身の写真を配っている。より簡単に撮影できる乾板写真が主流となる明治中期までこの技法が利用された。

(2011年2月13日 読売新聞)



大分
“竜馬時代の銃”発見 三重町の筑波さん方
 豊後大野市三重町百枝の医師筑波(ちくば)貞男さん(81)方で、古い拳銃2丁が見つかった。1丁は米国スミス・アンド・ウェッソン社製で、弾倉部分の刻印から江戸末期に製造された可能性があるという。幕末に活躍した坂本竜馬も同社製の拳銃を持っていたことで知られており、「竜馬と同じ時期の銃が家にあったとは」と筑波さん。拳銃は史料として、県立先哲史料館へ寄贈した。
 見つかった銃はいずれも米国製とみられ、スミス・アンド・ウェッソン社製の銃には「1856・April13」の刻印が残されている。
 筑波さん方は旧岡藩の藩医だった家系で、妻まつよさん(78)の曽祖父筑波玄仲(げんちゅう)さんが購入したという。
 記録によると1886年当時、同市大野町の筑波家に強盗が侵入したことから、護身用として所持した。第2次大戦後、銃を壊して保管していたらしい。
 筑波さんによると昨年、竜馬ブームにより、新聞報道などで「竜馬の銃」が話題になったことから銃の存在を思い出した。届け出を受けた豊後大野署が調べ、発射能力、殺傷能力のいずれもないことが判明している。
 筑波さん方は過去にも、玄仲さんの史料などを同史料館へ寄託、寄贈しており、まつよさんは「銃が史料に加わり玄仲も喜んでいるのでは」と話している。
 同史料館は、当時の社会情勢を知る貴重な史料として新年度、展示することを検討している。


佐賀
恒例の蔵開きにぎわう 佐世保市の梅ケ枝酒造
 佐世保市城間町の梅ケ枝酒造で11日、恒例の蔵開きが始まった。多くの来場者が訪れ、期間中しか手に入らない日本酒や焼酎を試飲するなどしていた。13日まで。
 同酒造は1780年ごろ創業。幕末から大正期にかけて建てられた和風の建物群は、国の登録有形文化財となっている。この日、同市の長崎国際大茶道部の学生約15人が、日本家屋に茶席を設け、着物姿でお点前を披露した。
 期間中、新酒のたる酒や甘酒、お汁粉を振る舞うほか、伝統的な酒造り工程の見学会もある。JRハウステンボス駅から無料のシャトルバスを運行。同酒造=0956(59)2311。


鹿児島
薩摩切子復刻 雅号受け活動
 幕末の薩摩藩主島津斉彬が江戸のガラス職人四本(よつ・もと)亀次郎に生み出させた薩摩切子=キーマーク。明治期に一度途絶えたが、約100年後の復興にかかわったカット職人、中根総子(ふさ・こ)さん(49)は島津家から「櫻龜(おう・き)」の雅号を拝命し、精力的に活動している。鹿児島のシンボル桜島と、亀次郎にあやかった名だ。拝命から1年。九州新幹線の全線開業の時期に合わせ、鹿児島市の山形屋で「中根櫻龜」作品の常設販売も決まった。
(三輪千尋)
 兵庫県尼崎市出身。小学生の時、デパートで見たガラス職人の実演に魅せられた。「水あめのようなガラスがあれよあれよという間に動物の形になった。不思議で、やってみたくなった」
 短大で金属工芸を学び、ガラス工芸の専門学校「東京ガラス工芸研究所」に再入学。当時の所長でガラス工芸史研究家の由水常雄氏に勧められ、鹿児島市の島津興業で1984年からの薩摩切子復刻プロジェクトにかかわることになった。
 薩摩切子は透明なクリスタルガラスに色ガラスを被(き)せる。表面をカットし文様を作り出すのがカット職人の仕事。復刻作業は残された薩摩切子を実測し、図面に書き起こすことから始めた。どんな道具を使えばカットできるか検討を続けた。
 1985年に復刻を成功させてからは、そのまま切子づくりに励んだ。色ガラスを二色被せる「二色被せ」の技法を確立させたほか、2008年に放送された大河ドラマ「篤姫」にちなんだシリーズ作品も作った。「いつも新しいことに取り組んできたから、常に刺激があった」。この27年を、あっという間だったと振り返る。
 約5年前から個展も開く。作品には直線の切子文様だけでなく、曲線をデザインに採り入れた。女性らしい柔らかい作品が多い。「錦江湾を眺めると波がきらきら光っている。桜島も、毎日色が変わる」。鹿児島の風土が作品づくりの原点になっている。
 雅号を受けたのは昨年2月。技術を認められ、復刻25周年を機に島津家第32代当主修久(のぶ・ひさ)氏から与えられた。
 個展でのギャラリートークでは薩摩切子が生まれた目的を来場者に話す。カットガラスという単なる工芸品ではなく、その背景を知ってほしいという思いがあるからだ。
 「鹿児島の工芸品の枠に収まっていては駄目」と中根さん。「日本の伝統工芸品は危機的な状況。薩摩切子は100年のブランクがあってこそ、良い形でよみがえった。斉彬の思い同様、世界に胸を張れる工芸品に育てたい」
 工場横のギャラリーには、3月末までほとんどが中根さん作の薩摩切子で作られたひな壇飾りが展示されている。篤姫をイメージして作った作品を多く並べた。
 5月には山口県下関市で個展を開く。「新しいことに、どんどん取り組んでいきたい」。島津家からもらった雅号に恥じない活動をしていく決意だ。
■キーマーク 薩摩切子
 1851(嘉永4)年、薩摩藩主に就いた島津斉彬が西欧列強に対抗し近代化を推し進める「集成館事業」の一つとして始めた。透明なクリスタルガラスに色ガラスを被(き)せ、カットすることで「ぼかし」の美しさを堪能できる。斉彬の死後、1863(文久3)年の薩英戦争で集成館が焼失。1877(明治10)年の西南戦争前後に技術は途絶えたが、1985年に復刻された。


エンターテインメント
[かわぐちかいじ]「ジパング」作者の新作は幕末・戊辰戦争 「兵馬の旗」連載開始
「ジパング」や「沈黙の艦隊」など多くのヒット作を送り出してきたかわぐちかいじさんの新作で、幕末と戊辰(ぼしん)戦争を舞台にした「兵馬(ひょうま)の旗」の連載が、10日発売の「ビッグコミック」(小学館)4号から始まった。広島県尾道市出身のかわぐちさんの同郷というジャーナリストの恵谷治さんが資料協力として名を連ねている。
 「兵馬の旗」は、幕末を舞台した大河ストーリーで、海外留学を経験した旗本の宇津木兵馬の掲げた理想を描く。1話「幕府伝習隊」では、幕府伝習隊でフランス式調練を学んだ兵馬が戊辰戦争の初戦・鳥羽伏見の戦いで、留学中に知り合った薩摩藩士の村田新八郎と敵同士になって対決する。
 同誌では10年の大河ドラマ「龍馬伝」で勝海舟を演じた武田鉄矢さんとかわぐちさんの対談が掲載されており、「『敗者の美学』は要らない。低迷する日本の入り口を見つけたい」などと語りながら、グローバリズムの対立軸としてナショナリズムでなく、地方主義(ローカリズム)を挙げ、「地方主義をこの作品では忘れないで描こうと思っています」と新作への思いを語っている。(毎日新聞デジタル)

 大河ドラマ『獅子の時代』を彷彿とさせる設定だなぁ……でも、この時代を描く非作品は少ないので楽しみ。伝習隊ってことは大鳥圭介も出てくるかなぁと嬉しくなり、「ビッグコミック」買って第一回読みました。今後の展開が楽しみです。

コラム
「歴史楽屋噺」パート5・流刑地で神になった博徒、小金井小次郎
 幕末の侠客で最も有名なのは清水次郎長だろうか。いやいや、「赤城の山も今宵限り」でお馴染みの国定忠治だって、知名度では負けていないだろう。
 両者に共通するのは、「浪曲」の主人公として魅力的に描かれたという点である。
 しかし「浪曲」云々を抜きにして、幕末の侠客でもう一人忘れてはならない人物がいる。小金井小次郎である。現在の東京都小金井市出身。武士の家に生まれるも、思いきりドロップアウトして博徒となり、若い頃からメキメキと頭角を現したという。
 そんな小金井の小次郎だったが、アウトローの宿命か、ある時ついに「御用」となって三宅島に流されてしまう。三宅島で小次郎が見たのは、慢性的な水不足に苦しむ島の人たちの姿であった。
 小次郎は三宅島の人たちを不憫に思ったのか、一肌脱いで掛け替えのないプレゼントをした。大きな井戸を掘ったのである。これによって島の人たちは、乾季が続いても水源を確保できるようになった。井戸を掘ったのは小次郎および、小次郎の三宅島の若い衆たちで、何年もかけて立派な井戸を完成させたのだ。
 その結果、水不足の問題は解決し、井戸は「小次郎井戸」という名で島民に親しまれた。同時に小次郎自身も神様か仏様のように崇められたのであ る。江戸の町では「やくざ者」の小次郎だったが、三宅島では「神様」として有り難がられたのだった。
 三宅島を救った「小次郎井戸」だが、島に近代的な水道システムが確立する昭和の中頃まで普通に使われていたというのだから驚きだ。
 三宅島の人たちは、小次郎が島にいた時は勿論、江戸の町に戻ってからも感謝の念を忘れなかった。ちなみに今でも三宅島の年配者は皆、「小次郎井戸」を知っているという。
 蛇足だが、「江戸の町は水路の発達した世界有数の近代都市だった」という新説が最近発表された。
 「小次郎井戸」はおそらく江戸の町の井戸をモデルに造っており、小次郎が幕末の三宅島に持ち込んだのは、江戸の町が世界に誇る水源確保の技術だったのかもしれない。それなら「神」と呼ばれてもおかしな話ではない。
(みんみん須藤)



【幕末から学ぶ現在(いま)】(100)東大教授・山内昌之 川路聖謨
■ユーモアと機知の外交

露を驚嘆させた交渉術

 昨秋のメドベージェフ露大統領の国後訪問以来、北方領土にひきもきらずロシアの高官が押しかけている。緊張感をもって慎重に扱ってきた外交案件も油断すればどうなるかという見本を見せつけられている。やりきれない気持ちの日本人も多いはずだ。そもそも一国の首相が「日本列島は日本人だけのものではない」といった国家観ゼロの発言をするから、ロシアは得たりやおうとばかりに挑発してきたのではないか。一部の政治家は、まだこの簡単な理屈が分からないらしい。その外交感覚の鈍さに呆(あき)れ果てるばかりでなく、空恐ろしさすら感じてしまう。

 幕末以来の日本とロシアとの長い交渉史では、現在と違ってロシアをたじろがせた政治家や外交官も少なくない。川路聖謨はその代表格である。ゴンチャロフの『日本渡航記』には川路の洗練された横顔がよく描かれている。嘉永6(1853)年7月、開国通商を求めてロシアのプチャーチンが長崎に来ると、勘定奉行の川路聖謨は西丸留守居役の筒井政憲と一緒に現地に出張し、ロシアの開国要求を断固退けた。この提督に随行してきたゴンチャロフによる川路の描写は次のようなものだ。

 「この川路を私達は皆好いていた。(中略)川路は非常に聡明(そうめい)であった。彼は私達自身を反駁(はんばく)する巧妙な論法をもって、その知力を示すのであったが、それでもこの人を尊敬しない訳(わけ)には行かなかった。その一語一語が、眼差(まなざし)の一つ一つが、そして身振りまでが、すべて常識と、ウィットと、烱敏(けいびん)と、練達を示していた。明智はどこへ行っても同じである。民族、服装、言語、宗教が違い、人生観までも違っていても、聡明な人々の間には共通の特徴がある」(井上満訳、岩波文庫)

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 巧みな弁舌と論理にユーモアや機知をからませた川路の外交交渉は、プチャーチンをも驚嘆させた。彼は帰国後に、川路こそ「ヨーロッパでも珍しいほどのウィットと知性を備えた人物」だと称賛している。

 しかし、どれほど川路が練達の外務官僚であっても幕閣のリーダーに揺らぎがあれば折角(せっかく)の外交成果もだいなしになってしまう。川路は幕命を忠実に奉じて開国開港を遅らせたのに、帰路に同じ幕府がペリーの開国要求に屈した恥辱の報をいかなる気分で聞いたのであろうか。

幕府に殉じた律義さ

 川路聖謨は官歴だけを見ればエリート役人に違いなかった。しかし、その出自は三河以来の直参旗本や御家人というわけでない。甲州出身の父は、ゆえあって豊後(大分県)の日田(ひた)にたどりつき天領の郡代の下役となった。そこで同役の娘と結婚して聖謨が生まれたのである。父は日田で蓄えた金を原資に江戸の御家人株を買って青雲の志を果たそうとした。これが子の聖謨にとっても、出世の糸口になったのである。

 本来の才能と勤勉と人格力があいまって、遠国奉行や勘定奉行そして外国奉行のキャリアを重ねた聖謨には、他人と違って幕府に格別の恩を感じる律義さがあった。これこそ、幕府瓦解(がかい)に際して聖謨が自決した悲劇の遠因となる。その一端は、辞世にもうかがわれる。

 天津神に背くもよかり蕨(わらび)つみ飢し昔の人をおもえば

 高天原(たかまがはら)から降臨した神の子孫、天皇の世が来ようとしている。しかし、徳川の臣として新時代に背を向けてもよかろう。周の武王を諫(いさ)めた伯夷(はくい)と叔斉(しゅくせい)の兄弟が周の粟を拒否し蕨だけを食べて餓死した例もあるではないか、と徳川幕府への忠誠心に殉じて自決したのであった。

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オブローモフ反面教師に

 川路聖謨を聡明と常識とウィットの人と呼んだゴンチャロフは、知性をもちながら怠惰な生活で無為に明け暮れる人物を描いた小説『オブローモフ』の著者として知られる。川路がオブローモフでないことは確かだろう。しかし、ここまで日露関係で後れをとり北方領土問題の解決を不透明にした「現代のオブローモフ」たちがどこかにいることは間違いない。それは誰かと問う前に、政権交代に酔いしれて外交の骨格にひびを入れた元政府首脳などは川路聖謨の事績を改めて学び、せめてオブローモフにならない心構えが大事ではないだろうか。(やまうち まさゆき)

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【プロフィル】川路聖謨

 かわじ・としあきら 享和元(1801)年、豊後国(大分県)に生まれる。幕府の勘定所に出仕し頭角を現す。佐渡奉行などを経て嘉永5(1852)年、勘定奉行兼海防掛。長崎、下田でロシア使節と交渉し、安政元(1854)年に日露和親条約を締結する。5年、日米修好通商条約の勅許を得るため奔走するが失敗。安政の大獄(1858~59年)に連座し失脚した。慶応4(1868)年、病床で江戸城開城の話を聞き、切腹の作法を取った上で拳銃で自決した。


ブックレビュー
小説へのいざない:2月 幕末・維新の人々 激動期の肖像鮮やかに
 幕末・維新の時代が繰り返し小説に描かれるのは、権力構造が複雑に乱れ、社会が激しく揺れる中で、一人一人の人間が生き方を問われ、その輪郭がくっきりと見えるということもあるのだろう。読者は彼我を比べて、人生を問い直したり、社会を動かしているものの正体に思いをめぐらしたりすることになる。

 この時期を描いた2人の女性作家の長編小説を楽しむことができた。いずれも、変わりゆく江戸・東京を主舞台に、視点を低くしながら、幕府側に同情しながら、この時代の人間模様を映し出している。

 杉本章子さんの書き下ろし『東京影同心』(講談社、1680円)は、南町奉行所の定町回り同心(警察機能などを担い、江戸市中を巡回する役人)が主人公。まじめな性格で義理堅く、剣の腕も立つが、心が優しく、少し不器用なところもある。父親の後を継ぎ、若くして出世したが、歴史の大きなうねりにのみ込まれていく。

 時代はコレラの流行から、桜田門外の変、そして大政奉還、彰義隊の結成と敗亡、藩閥政治の横行、旧武士たちの反乱へと、めまぐるしく変転する。そんな中、主人公も職を失い、料理茶屋の居候になったり、中外新聞(日本における新聞の先駆的な存在。佐幕派の論調だった)の記者になったりしながら、荒波にもまれて生きていくことになる。

 全体は3章から成り、それぞれにミステリー的な謎解きの趣向も楽しめる。商家から武家に嫁いだ主人公の妻の苦しみ、彰義隊に身を投じる主人公の弟、先見の明があって貿易で成功する主人公の義父、新政府が抱える矛盾にさまざまに光をあてようとする中外新聞の人たち。登場人物は絶えず、生活や社会のあり方を自問することになる。

 文章はすみずみまで血が通っていて、密度が濃い。物語の進行も男女の成り行きも、決して性急にならずに、徐々に時代の空気が伝わってくる。作家が本来の持ち味を出した優品だ。

 諸田玲子さんの大作『お順』(上・下、毎日新聞社、各1680円)=は、副題が「勝海舟の妹と五人の男」。勝の妹お順を主人公に、その父、兄、初恋の相手、夫の佐久間象山、恋に陥る剣客の5人の男たちとの関係を描いている。

 この作品の一番の魅力は、女主人公の肖像だろう。自らの意思をはっきりと持ち、いつも本音で生きようとする。活発で、気が強い。一方、内省的で、少し人見知りなところがあって、繊細な神経も持っている。心が複雑に動く彼女の姿を追ううちに、どんどん読み進んでしまう。

 諸田さんはこのところ、しきりに女性の側から歴史を読み直す仕事をしている。本紙連載中の『四十八人目の忠臣』もその一つだ。

 読者にとって、ヒロインは過去に送り出された探査機といえるのではないか。彼女が送ってくる映像や音声を楽しみながら、これまで気づかなかった歴史の意外な側面を見ることができるのだ。

 今回も、お順の視点から、男たちの表情を楽しめる。父親の勝小吉は不遇をまぎらせるために遊蕩(ゆうとう)ざんまいの日々を送った後、執筆に打ち込むようになる。自負心が強い象山は、そのために時代から取り残されていく。勝海舟の現実的思考の魅力は、全編を通して明らかにされていく。

 頭の中で考えてしまう象山と、敏感に社会の動きを察知する海舟の対比は、この作品の読みどころの一つだろう。

 坂本龍馬や吉田松陰、高杉晋作、土方歳三らも印象的に登場する。女性が相手なので、つわものの彼らも思わぬ素顔を見せる。読者はそんな光景の一つ一つを楽しみながら、女主人公の人生に付き合うことになる。【重里徹也】


サンデーらいぶらりぃ:細谷正充・評『東京影同心』杉本章子・著
◇『東京影同心』杉本章子・著(講談社/講談社税込み1680円)

◆痛快であればこその「哀しさ」

 歴史・時代小説は、室町物や戦国物など、舞台となっている時代で表現されることがある。その伝でいえば本書は、幕末物と明治物の合体といえよう。

 物語は、全三章で構成されている。第一章は、幕末篇だ。主人公は、二十五歳の若さで南町奉行所定回り同心に抜擢された金子弥一郎。父母を亡くし、商家から迎えた妻も妊娠中に死去。肉親といえるのは、他家に養子に行った弟くらいである。徳川幕府が崩壊していく状況の中で、寂しさから逃れるように職務に打ち込む弥一郎。だが彰義隊に加わった弟も死亡。役目を致仕した弥一郎は、配下の岡っ引・常五郎が経営する料理茶屋にやっかいになるのだった。

 作者は冒頭から弥一郎の家族が、しだいに失われていく様子を描き出しながら、一方で彼の同心としての優秀さを表現する。それが、通い番頭の女房が殺された事件だ。死体の爪の間にあった酒粕を手がかりに、きびきびと犯人に迫り、さらには単純に見えた事件の裏まで暴く弥一郎は、まさに有能な同心である。対照的な公私の描写から浮かび上がる、血肉を持った主人公像に、早くも読者は魅了されることだろう。

 続く第二章・第三章は、明治篇である。刑部省に勤務する元同心の成尾小平太から、一緒に働こうと誘われた弥一郎だが、いまひとつ煮え切らない。ひょんなことから中外新聞の記者と知り合い、社主の人柄に惹かれ、こちらに勤めることにする。美人芸者の米八とも出会い、男女の関係になった。

 やっと新時代に居場所を作ったかに見えた弥一郎。しかし、ある事情で新聞社の先行きに暗雲が立ち込める。さらに同心時代の上役の内藤惣太夫から、長州の大楽源太郎絡みの、やっかいな命を受け、同心魂を甦らせるのであった。

 常五郎の世話になり、日々の暮らしの心配はない。米八という恋人もできた。傍から見れば、ありえないほど恵まれた生活である。でも、弥一郎の心は鬱屈している。新たな時代と、うまく折り合いをつけられないからだ。だからこそ彼は、内藤から命を受けるや、同心時代に立ち戻る。そしてこの一件で殺された者のために、犯人を斬り倒すのだ。・南町奉行所同心・の名乗りを上げ、犯人に剣を向ける、弥一郎の姿が痛快である。

 しかしだ。痛快であればあるほど、そこに一抹の哀しさも現れてくる。なぜなら弥一郎の輝きは、江戸の残光だからだ。やがて消え去ることを約束された輝きは、それゆえに美しく、切ないのである。

 また、明治初期の時代の混乱が、しっかりと描写されている点も、本書の美質であろう。明治四年に司法省が誕生するまで、刑部省と弾正台というふたつの警察組織が併存していたなど、興味深い事実が盛りだくさん。実在した元長州藩士・大楽源太郎を巡る騒動を、巧みに取り入れたストーリーも面白い。ひとりの男の曲折に満ちた人生を通じて、新時代の光と影を際立たせた、読みごたえのある作品なのだ。

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すぎもと・あきこ:1979年「男の軌跡」で第4回歴史文学賞に佳作入選。89年『東京新大橋雨中図』で、第100回直木賞を受賞した。歴史への深い造詣には定評がある。

<サンデー毎日 2011年2月20日号より>


史実
維新期の会津・庄内藩、外交に活路 ドイツの文書館で確認
 東大史料編纂(へんさん)所の箱石大准教授らが、会津、庄内両藩が戊辰戦争を前にプロイセン(ドイツ)との提携を模索したことを物語る文書をドイツの文書館で確認した。日本にはまったく記録がないが、薩摩、長州を中心とした新政府軍に追いつめられた両藩が、外交に活路を求めていたことが明らかになった。

 ドイツの国立軍事文書館に関連文書が3通あった。1868年7月31日、プロイセン駐日代理公使フォン・ブラントは「会津、庄内両藩から北海道などの領地売却の打診があった」として、本国に判断を仰ぐ手紙を出した。両藩は当時、北方警備のため、幕府から根室や留萌などに領地を得ていた。手紙には「交渉は長引かせることができる。どの当事者も困窮した状況で、優位な条件を引き出せる」と記されていた。

 船便なので届くのに2カ月ほどかかったようだ。「軍港の候補になるが、断るつもりだ」と宰相ビスマルクは10月8日に海相に通知。この日は、新政府軍が会津若松の城下に突入した日に当たる。ほぼ1カ月後に会津、庄内は降伏。戦争がこれほど早く展開するとは、プロイセン側は予想していなかったのだろう。

◆顧みなかったビスマルク

 ビスマルクは欧米列強間の協調と戦争への中立という視点から、両藩の提案を退けた。それに対して海相は「日本が引き続き混迷の一途をたどった場合は、他の強力な海軍国と同様に領地の確保を考慮すべきだ」と10月18日に返信していた。

 箱石さんらは当時の政治状況や人間関係も調査、研究した。新政府の背後には英国がいて、新式の武器や弾薬は英国商人が供給していた。幕府が頼りにしてきた仏国は中立に転じていた。

 「会津、庄内両藩は新政府軍の最大の標的であり、懸命に活路を見いだそうとしてブラントの意向と合致したのだろう」と箱石さんは見る。

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 ドイツの公文書と同時に東大には貴重な資料がもたらされた。スイス在住のユリコ・ビルト・カワラさん(86)が長年調査したシュネル兄弟の記録だ。会津藩の奉行で戊辰戦争で戦死したカワラさんの曽祖父と親交があった。

 国学院大栃木短大の田中正弘教授によると、新潟港を拠点に東北諸藩に武器をあっせんしたシュネル兄弟は会津藩の軍事顧問をつとめたが、国籍不明で謎の人物とされてきた。兄が政治面を、弟がビジネス面を、分担したという。

 カワラさんの調査で兄弟の出自が判明。プロイセンの生まれで、父の仕事の都合でオランダの植民地だったインドネシアで育ち、開港直後に横浜にやってきていた。

 オランダ語ができたことが兄弟の強みだったようだ。プロイセンの外交文書は、ドイツ語の原文をオランダ語に訳し、2通そろえて幕府に出した。そうした文書が東大史料編纂所に残っており、ボン大のペーター・パンツァー名誉教授が調べて、オランダ語への翻訳に兄のサインを見つけた。武器商人に転じるまで兄はプロイセン外交団の一員だったことが確認された。「会津、庄内両藩とプロイセンを結びつけたのはシュネル兄弟でしょう」と田中さん。

 一連の研究は明治維新に新たな視点をもたらした。「英―仏の対抗図式に目を奪われるあまり、維新や戊辰戦争をより広い世界の中に位置づけることや、東北諸藩が武器、弾薬をどのように調達したのか分析する視点が不足していた」と東大の保谷徹教授は話している。(渡辺延志)

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■1868年の動き(●は確認された文書。日付は新暦)

1月27日 鳥羽・伏見の戦い

5月3日 江戸城開城

6月22日 奥羽越列藩同盟発足

7月4日 新政府軍、上野の彰義隊攻撃

 31日 ●駐日代理公使がプロイセン宰相に書簡。「会津、庄内両藩から北海道の領地を売却したいとの相談を受けた」

10月8日 新政府軍、会津若松城の攻撃開始

 ●宰相が海相に通知。「軍港の候補になるが断るつもりだ」

 18日 ●海相が宰相に返信。「日本の混迷が続けば領地獲得を考慮すべきだ」

11月6日 会津藩降伏

 10日 庄内藩降伏

 とても興味深い記事です。ガルトネル一件と同様のことがあり得たかも知れないのですね。


 第3巻表紙の土方歳三にくらっと来て(いつもこれだ^_^;)、第2巻と第3巻をまとめ買い・まとめ読み。



 第2巻は山南さんの視点で描かれて面白い。山南さんが北辰一刀流から天然理心流に流派を変える経緯が、説得力と迫力ある。

 第3巻で土方歳三推参、ヒラマツ先生が美男も描けることに安心した(笑)。第3巻は歳三さんが主人公みたいなものです。そして、巻末のおまけマンガが大爆笑ものです。

海外
戊辰戦争でプロイセンに提携持ちかけ 会津・庄内両藩
 戊辰戦争での薩摩・長州を中心とした新政府軍との対決を目前に、会津・庄内両藩がプロイセン(ドイツ)との提携を模索していたことが東京大史料編纂(へんさん)所の箱石大・准教授らの研究で明らかになった。ドイツの文書館で確認した資料は、両藩が北海道などの領地の譲渡を提案したが、宰相ビスマルクは戦争への中立などを理由に断ったことを伝えていた。

 ドイツの国立軍事文書館の資料で、10年ほど前にドイツ側の研究者が存在を紹介したが、詳細が不明だった。

 箱石さんらの調査で確認されたのは、1868年の文書3点。いずれも、ボン大のペーター・パンツァー名誉教授に依頼し解読、日本語に翻訳した。

 (1)7月31日付で駐日代理公使のフォン・ブラントがビスマルクへあてたもの。「会津・庄内の大名から北海道、または日本海側の領地を売却したいと内々の相談を受けた。ミカドの政府も財政が苦しく南の諸島を売却せざるをえない模様」として判断を仰いでいる。(2)10月8日付で宰相からフォン・ローン海相あて。「他国の不信、ねたみをかうことになる」と却下の考えを示し、海相の意向を尋ねている。(3)10月18日付で、海相から宰相への返事。

 この年は5月に江戸城が明け渡され、7月初めに上野で新政府軍と彰義隊との戦いが決着。戦争の舞台が東北へ移る緊迫した時期の交渉。両藩は武器入手のルートや資金の確保を目指したとみられるが、ブラントは「北日本が有利になれば、この申し出は大変重要な意味を帯びる」とも記しており、政治的な狙いも込められていたようだ。

 会津は京都を舞台に長州と激しく対立、庄内藩は江戸警備を担当して薩摩藩邸を襲撃したことがあり、両藩は同盟関係にあった。北海道の領地は北方警備強化のために1859年に幕府が東北の有力6藩に与えた。会津藩は根室や紋別を、庄内藩は留萌や天塩を領有していた。

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 箱石さんは「敗者の歴史は忘れ去られ、この交渉も日本にはまったく記録がない。会津と庄内は土地を提供することでプロイセンを味方につけようとしたのだろう。戦争が長引けば明治維新に違う展開があったかもしれない」。

 明治維新を研究する東京大の保谷徹教授は「会津・庄内両藩がよくぞここまで国際活動を展開させたなと驚いた。歴史にはまだまだ知らないことがたくさんあり、その答えが海外に眠っていることを示しているのだろう」と話している。(渡辺延志)

未発表「横浜写真」を一堂に 200枚、スイスで公開
 幕末100+ 件から明治時代にかけて、当時の日本の様子を写した白黒写真に絵付師が彩色した「横浜写真」約200枚の展覧会がスイス南部ルガノで開かれている。大半が未発表写真で、主催者によると、これほど多数の同写真の展示は海外では初めてという。

 写真は、欧州在住の収集家が1970年代から日本や英国、ドイツなどで集め所蔵している約7500枚から選ばれた。イタリア系英国人フェリーチェ・ベアトや日下部金兵衛ら当時の著名写真家による写真も多数含まれている。

 栃木県日光市や長崎市、宮島、富士山など日本各地の風景のほか着物姿で田植えをする人、人力車やかごに乗る人など、当時の日本人の生活ぶりが描かれている。

 同写真は横浜市が制作の中心だったことから横浜写真と呼ばれる。主に当時の外国人の滞在者や旅行者へのお土産用に販売されたもので、絵付師が手書きで彩色したことから、同じ写真でも一枚一枚微妙に色合いが異なるという。

 展覧会を企画したルガノ市文化美術館のパオロ・カンピオーネ館長は「お土産目的だったことなどから安っぽいとみなされることもあるが、19世紀の日本の様子を知る上で貴重な芸術作品だ」と話した。展覧会は27日まで。(ルガノ共同)


コラム
「最強の剣豪」は1位武蔵、2位上泉信綱
 「日本史なんでもランキング」第8回のテーマは「最強の剣豪は誰?」。ニッカンスポーツコムで実施したアンケートには計1477票が寄せられ、「巌流島の決闘」など数々の逸話が語り継がれる宮本武蔵が371票で1位となった。2位は、新陰流創始者で戦国時代に活躍した上泉信綱。3位は塚原ト伝、4位は柳生十兵衛、5位には新選組の斎藤一が入った。

 1位 宮本武蔵(371票) 生まれは播磨(兵庫)とも美作(岡山)ともいわれる。父の新免無二斎(養父説も)に剣の手ほどきを受け、二刀流の「二天一流」を編み出す。生涯で60を超える試合を行い、負けたことはなかったとされる。京の兵法家・吉岡一門との戦いや、佐々木小次郎との「巌流島の決闘」が有名。関ケ原の戦い、大坂夏の陣、島原の乱にも出陣した。

 一方で実像がはっきりしない部分も多い。吉川英治の小説などでは、吉岡一門との試合で兄清十郎、弟伝七郎らに勝ち、逆恨みした門弟たちと一乗寺下り松で決闘したとされる。しかし吉岡側の伝記では、武蔵と試合をしたのは憲法直綱で引き分けだったとされ、「下り松」の記述もない。司馬遼太郎氏はこちらの説を採っている。

 2位 上泉信綱(303票) 戦国時代の上州・上泉城主だったが、北条氏の攻撃を受けて城を明け渡す。箕輪城の長野氏に身を寄せるが、長野氏が武田信玄に滅ぼされると、高弟の疋田景兼らとともに全国を修業の旅に出る。柳生石州斎、宝蔵院胤栄、丸目蔵人らに試合で勝ち、彼らを弟子にしたとされる。盗賊が立てこもった村に通りかかり、これを撃退したという逸話が黒沢明監督「七人の侍」に使われたとも。自らが興した新陰流は柳生家などに受け継がれた。竹刀の原型である「袋竹刀」を考案。

 3位 塚原ト伝(104票) 鹿島の神職の家に生まれ、17歳で修業の旅に出る。19度にわたる真剣の試合を行い、生涯不敗だったとされる。鹿島新当流を創始。宮本武蔵が食事中のト伝に斬りかかり、ト伝が鍋のふたで刀を受け止めたという逸話があるが、これは後世のフィクション。

 4位 柳生十兵衛(97票) 柳生宗矩の嫡男で、剣の才能は、祖父石舟斎の「生まれ変わり」といわれた。徳川家光の小姓を務めていたが、家光の怒りを買い、修業の旅に出たとも。隻眼のイメージがあるが、これは後世の創作のようだ。

 5位 斎藤一(77票) 新選組三番隊組長。新選組に入るまでの経歴は不明な部分も多く、剣の流派もはっきり分からない。戊辰の会津戦争を戦い、藤田五郎と名を改めて警視庁に就職。西南戦争には抜刀隊の一員として従軍した。

 6位 沖田総司(75票) 白河藩の武士の家に生まれ、9歳で天然理心流道場「試衛館」に入門。すぐに頭角を現し、近藤勇の師範代を若くして務めた。新選組一番隊組長として、池田屋騒動などで主力を務める。20代で結核で死去。

 7位 伊東一刀斎(59票) 戦国時代の剣豪で、一刀流を創始した。生まれは伊豆大島など諸説ある。鐘捲自斎の門弟だったが、自斎を試合で下して、修業の旅に出たとも。一刀流は小野忠明らに引き継がれ、江戸の代表的流派の1つに。

8位 柳生石舟斎(55票) 上泉信綱の弟子として新陰流を学び、刀を使わず相手を倒す無刀取りの奥義をきわめた。徳川家康を相手に無刀取りを披露。家康に剣術指南役を要請されたが高齢を理由に固辞、息子の宗矩を推挙したとされる。

9位 千葉周作(42票) 幕末の剣豪で、北辰一刀流の創始者。上州などで流派を広めた後、江戸で開いた「玄武館」は江戸三大道場の1つとされる。北辰一刀流は、坂本龍馬や新選組の山南敬助、藤堂平助ら学んだ。

 10位 柳生宗矩(31票) 柳生石舟斎の五男で、徳川将軍家の剣術指南役を務める。関ケ原の戦い、大坂夏の陣にも出陣。徳川家光に信任され、大和柳生藩1万2500石の藩主となるなど、剣豪としては異例の出世をした

 新選組内では、斎藤の得票が沖田を上回ってます……これって『薄桜鬼』効果でしょうか(苦笑)。

福沢諭吉(上) 「変節」の与謝野氏と「瘠我慢の説」
◆経綸と執着のせめぎ合い

 武士は食わねど高楊枝(ようじ)という言葉があった。また、瘠我慢(やせがまん)を張るという表現もある。いずれも、かなり無理な境遇におかれても我慢して、さも平気そうに見せかけることを意味する。菅直人首相の招聘(しょうへい)に応じて経済財政担当大臣となった与謝野馨氏の出処進退には、自民党はじめ野党各党から厳しい批判が寄せられた。与謝野氏に好意的な人びとであっても言いたいのは、氏には瘠我慢の心がないという点なのだろう。

 もとより政界きっての政策通であり、政治家として安定感を発揮してきた与謝野氏が大臣病にかかって変節したという単純な解釈は成り立たない。政治のために残された時間に限りのある氏の心中では、年来の経綸(けいりん)と政策への執着との間でせめぎ合いが繰り広げられたはずだからである。

 与謝野氏の問題を考えるとき、福沢諭吉の「瘠我慢の説」をどうしても思い出してしまう。明治24(1891)年に脱稿しながら、明治34(1901)年元日の時事新報に初めて掲載された論説である。

 そこでは、旧幕府の重臣でありながら新政府に出仕した勝海舟と榎本武揚(たけあき)が手厳しく批判されている。「徳川家に終わりが近づいたときに、その家臣の一部がもはや大事が過ぎたことを知って、敵に対して抵抗しようとせず、ひたすら講和を結び、進んで徳川家を解散させたことは、いくさによる日本経済の破滅を避け一時的に利益を得たかもしれないが、数百年、千年も養ってきた日本の武士の気風を傷つけた不利は決して小さくない」と。

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 ◆「立国の大本」として推奨

 確かに瘠我慢は、個人の感情から出るものであり、「冷淡なる数理」から論じるものではない。しかし福沢によれば、古今の世界どこでも国家を維持し保存しようとする者は、瘠我慢に立脚せずにはいられない。

 すこし前の江戸時代でも各藩が互いに競争し士気を養ったのも瘠我慢によるものだ。また、封建制を廃して統一された大日本帝国となり、更に視野を広くして文明世界で独立国家の体面を保とうとするなら、瘠我慢に依拠しないわけにいかない。

 こう述べた福沢は、およそ人間社会の事物が現代のようである限り、外面の体裁に文明や粗野の移り変わりはあっても、百年千年後に至るまで瘠我慢を「立国の大本」として重んじ、ますます瘠我慢を培養して、その「原素の発達」を助けることが緊要だと、明治近代国家の基礎にも瘠我慢を置くべきだと強調するのである。

 瘠我慢の説には福沢によって歴史の事実が多くの教訓として並べられている。なかでも中国史で金に圧迫された南宋において、岳飛(がくひ)らの主戦派と秦檜(しんかい)らの和平派に分かれた故実をひっぱりだす。主戦論者はだいたい排斥され、なかには生命を失った者もいたが、後世の評論は和平派の「不義」を憎み主戦派の「孤忠」を憐(あわれ)んだというのだ。福沢は、弱い宋が百戦しても必敗は疑いなく、むしろ恥を忍んで王朝の存続をはかったほうが利益にかなうように見えてその実は違うと主戦派を弁護する。後世に国を治める者が経綸を重んじて士気を養うには、和平派の姑息(こそく)を斥(しりぞ)けて主戦派の瘠我慢を取らねばならないからだと強調する。

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 ◆曖昧さ許さぬ国民性

 結局、福沢諭吉のいう瘠我慢とは日本国民に固有のものであり、勝海舟のように勝敗に決着をつけずに降参する卑怯(ひきょう)を許さないのだ。福沢は、「瘠我慢の大主義を破り、国の士気をゆるめた罪は逃れがたい。江戸を戦災から一時的に救った点と、万世の士気を傷つけた点との功罪は相殺できるのだろうか」と、幕末に勝が江戸を明け渡した挙にも不満を隠さないのである。

 勝海舟にも理屈があったように、与謝野氏には自民党や「たちあがれ日本」に留(とど)まらず瘠我慢に背を向けた言い分も当然あるにちがいない。与謝野氏の肚(はら)の内は、勝と榎本による福沢への反論とも重なって見えてくる気がする。(やまうち まさゆき)



【プロフィル】福沢諭吉

 ふくざわ・ゆきち 天保5年12月(1835年1月)、豊前(大分県)中津藩士の家に生まれる。大阪の適塾(緒方洪庵が開いた蘭学塾)で学び、安政5(1858)年、江戸で蘭学塾を開く(後の慶応義塾)。英語を独習し、万延元(1860)年、咸臨丸で渡米。元治元(1864)年に幕臣となり、外国奉行翻訳方を務める。維新後は新政府への出仕を拒み、在野で教育や言論活動に注力。「学問のすゝめ」「文明論之概略」など多数の啓蒙(けいもう)書を著した。明治34年、66歳で死去。


(99)東大教授・山内昌之 福沢諭吉(下)
■「行蔵は我に存す」    

榎本の出世を批判

 「又、勝(海舟)氏と同時に榎本武揚(たけあき)なる人あり」という福沢諭吉の論調も厳しい。『瘠我慢(やせがまん)の説』のもう一人の主人公は、旧幕府海軍の提督にして蝦夷地政府の総裁だった榎本である。

 福沢は、榎本が新政府軍と一戦を試みた点で「武士の意気地、即(すなわ)ち瘠我慢」をもち、北の海や箱館(はこだて)で戦った「天晴(あっぱれ)の振舞」もあり、彼を勝海舟と同時に語るべきでないとする。利あらずして敵の軍門に降ったのは不運だが、「成敗(せいはい)は兵家の常」であり咎(とが)めるべきでない。しかし問題は、榎本が「放免の後に更に青雲の志を起し、新政府の朝(ちょう)に立つの一段」に至ったことなのである。

 福沢も敗者の新政府奉職をいたずらに否定するわけではない。しかし、榎本の場合には、この普通の例にはあてはまらないというのだ。榎本が立身して特命全権公使や大臣にまで出世したのは、かつて北海の地で彼を首領として仰いだ諸士が苦戦し戦死した悲劇に合わず、榎本の降参によって見捨てられた者たちの落胆や失望は語るまでもないと批判する。

 福沢は、「死者若(も)し霊あらば、必ず地下に大不平を鳴らすことならん」と叱る。五稜郭開城時にも、武門の習(ならい)によって徳川の恩顧に酬(むく)いるために榎本の降参に反対して父子ともに死を選んだ者もいたではないか、と。劉邦に敗れた項羽がもはや死者の肉親を見るにしのびずと故郷の江東に戻らず自刃した故事も引き合いに出す。

 福沢の厳しい追及はこれで終わらない。榎本は幕府海軍の咸臨丸(かんりんまる)の乗組員が清水港(しみずみなと)で新政府軍に殺された悲劇を悼んだ石碑に徳川のために死ななかった自分を恥じるかのような文章を書いたが、福沢は人情からも納得できなかったようだ。

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 「古来の習慣に従へば、凡(およ)そ此種の人は、遁世(とんせい)出家して死者の菩提(ぼだい)を弔(とむら)ふの例」にならうべきだと難詰するのである。出家できないというなら、せめて身を「社会の暗処に隠して其生活を質素にし、一切万事、控目にして、世間の耳目に触れざるの覚悟こそ本意なれ」、すなわち栄達から身を遠ざけるべきではないか、と。

皮肉に富んだ勝の返事

 ここで福沢は独特なリーダーシップ論を展開するのだ。およそ指導者たるものは、成功と失敗の双方に責任があり、成功すれば栄誉を専らにし失敗すれば苦難を甘受する主義を明白にすることが徳行の点で大事だと強調する。これこそ、「国家百年の謀(はかりごと)」において武士の気風を盛んにするために軽視できないと主張したのである。

 勝海舟も、和議のためとはいえ徳川家を滅ぼした因縁が効いて幕府瓦解(がかい)を自分の富貴獲得の方便として使ったように言われては、立つ瀬がなかっただろう。ほぼ同じく富貴を望んだと非難された榎本にしても不愉快極まりなかったはずだ。2人とも手法は違っても徳川のために働いたことに自負と誇りをもっていたからである。

 榎本は五稜郭戦争で徹底抗戦を貫き、下獄後は武人としての自分の過去に訣別(けつべつ)した。新政府に仕えても文官として人生の再出発を切るという覚悟であった。勝は多くの批判を受けても、旧主慶喜(よしのぶ)の雪冤(せつえん)や旗本御家人の生活のたつきを得るために人知れず苦労をしたのである。変節漢や裏切者呼ばわりされながら、借金をして旧幕臣の面倒を見た勝の侠気(きょうき)心は、福沢には縁遠いものだったかもしれない。2人からすれば、幕末にうまく立ち回って、幕府の好意で海外にも出かけ恩顧を蒙(こうむ)った陪臣の福沢こそ、徳川のために何をしたのかと鼻じろむ思いもしたことだろう。

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 「瘠我慢の説」の草稿を2人に送った福沢は、明治25(1892)年2月5日に手紙を送って意見を求めた。2人の反応は早い。同じ日付の榎本の返書は、多忙につきいずれ感想を述べるとにべもないものだった。勝の返事は江戸っ子らしく皮肉と機知に富んでいる。「行蔵(こうぞう)は我に存す、毀誉(きよ)は他人の主張、我に与(あず)からず我に関せずと存候(ぞんじそうろう)。各人え御示御座候(おしめしござそうろう)とも毛頭異存無之候(これなくそうろう)」。行動は私の判断によるもので、けなしたり誉(ほ)めたりの評論は他人様の仕事です。どうぞどうぞ、どなたにでも勝手に御説を公開しても一向に異存ございませんよ。

寡黙も政治家に必要

 菅政権の大臣として“変節”を日々なじられている与謝野馨氏は、勝と同じ江戸っ子らしく「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張」と啖呵(たんか)を切りたいはずだ。瘠我慢を主張する人物ならずとも、政治家なら誰でも「行蔵は我に存す」と言い切りたいだろう。「瘠我慢の説」には勝も榎本も驚くほど寡黙であった。口数が少ないのも、時には政治家に必要な資質である。福沢の多弁さは政治家でなく評論家の質なのだ。

 それでも福沢は聡(さと)い人間である。「瘠我慢の説」を10年後に発表したのは、どこか忸怩(じくじ)たる思いがあったせいでもあろうか。公表は福沢の死の1カ月前であり、勝はその2年前に逝去していた。そして、すでに政界から引退していた榎本は、7年後の静かな死を向島で待つだけの身であった。(やまうち まさゆき)



エンターテインメント
永井大:最期の地・函館で「土方の魂に背中押された」
 4月新設のNHK衛星放送チャンネル「BSプレミアム」で放送される連続時代劇「新選組血風録」で主役を務める永井大さんら出演者が27日、緑山スタジオ(横浜市青葉区)で報道陣の取材に応じ、劇中の扮装で登場した。時代劇初主演で土方歳三を演じる永井さんは、演じる前に土方最期の地・函館にあいさつに行ったといい、「自分の中で抱えていた不安がなくなった。土方さんの魂に背中を押された気がしました」とすっきりとした笑顔を見せた。 

 司馬遼太郎さん原作の「新選組血風録」は、幕末に剣の腕ひとつで郷士や農民から武士に成り上がり、武士であることに異様ともいえる情熱を傾けた新選組隊士たちの激しく切ない人生を、1話完結型で描く新選組外伝で、痛快な殺陣と心に響く人間ドラマが魅力の時代劇。新選組は永井さんのほか、近藤勇役を宅間孝行さん、沖田総司役を辻本祐樹さん、芹沢鴨役を豊島功補さんが務める。また、芹沢鴨に無理やり情婦にされたお梅役を井上和香さん、長州藩士が出入りする京の料亭の一人娘・美代役を前田亜季さんが演じ、ドラマに花を添える。

 永井さんは、新選組の局中法度にちなんで現場での“決まりごと”を作ったといい、「まず、現場に『近藤さん』がいっぱいいるので、近藤さん(宅間さん)のことは『局長』と呼ぼう。あと、局長の言うことは絶対で。局長がお昼を食べると言ったらついていって、チームワークを作っていこう。守れなかったら罰金を取って、差し入れを作ろうと話しています」と説明したが、宅間さんは「さっき僕一人だけ残っていて『お昼、待っています』って言ってたのに、みんな先に食べてた。……切腹です」とぼやき、報道陣を笑わせた。

 放送は、4月3日から毎週日曜午後6時45分~7時30分の連続12回。初回のみ73分版。(毎日新聞デジタル)


ブックレビュー
【書評】『カション幕末を走る』高杜一榮・著
■幕末の親日家外交官の姿活写

 メルメ・カションは、1828年生まれのフランス人で、はじめは宣教師として来日し、日本語に堪能となった。58年に日仏修好通商条約の使節の通辞として来日したときは、条約の訳文をカタカナで作成し、幕府に提出している。

 日本と日本文化をこよなく愛したカションはその後も来日を続け、数年後、浅草の料亭で働いていたお梶を見初めて妻にするところから物語が始まる。

 幕末の日本を舞台に、フランスによる日本の近代化支援の先鋒(せんぽう)となって活躍した外交官カションと、日仏文化のはざまに身を置く形になって、病弱ながらも夫への愛を貫いたその妻・お梶の暮らしぶりを、両者の視点から繊細に描いた感動の歴史ドラマ。(1500円、文芸春秋)


「竜馬がゆく」「天皇の世紀」 歴女おすすめ幕末モノ
「歴女」は市民権を得たようですが、「幕女」はどうでしょうか。幕末好きの女子、のことだそうです。この言葉、昨秋刊行された「萌えよ 幕末女子~蛤御門でつかまえて~」なる本で発見しました。思わず赤面したのは、タイトルのせいばかりではありません。先日、京都御所の蛤御門の弾痕を激写してきた自分の行動を思い出したからでもあります。

 大河ドラマで人気俳優が演じ、ゲームやマンガでイケメンに描かれる幕末の人物は、今や完全に“キャラクター”化された感があります。情勢が刻々と変化し、多数の人物が入り乱れる、この複雑な時代を知るとっかかりとして、“お気に入りのキャラ”から入るのは決して悪いことではないと思います。上野の西郷さんくらいしか知らなかった私も、ゲーム「維新の嵐 幕末志士伝」と小説「竜馬がゆく」で、陸奥陽之助ファンになったのがきっかけで、その後、「峠」、「花神」、「燃えよ剣」、「世に棲む日日」等々、司馬遼太郎作品を読み進め、時代そのものの面白さを知っていきました。

 テレビドラマにも、幕末を扱った作品は多数あります。今回は、キャラ好き幕末女子から、幕末史を極めた男子も納得の、ドラマ作品をご紹介します。

 「JIN-仁-」。2009年にドラマ化され、大ヒットしたSF時代劇です。原作がマンガなだけに、主人公・南方仁(大沢たかお)をはじめとする各キャラクターとストーリー展開にぐいぐい引っ張られます。幕末への興味というのとは少しずれるかもしれませんが、面白いので良しとしましょう。4月からは第2シリーズの放送が始まるので、予習・復習にもおすすめです。

 「篤姫」は、「幕末モノはあたらない」というジンクスを見事破った、2008年放送の大河ドラマ。“激動の時代を生きた女の一生”という図式と、大奥という華麗なる舞台、そして瑛太と堺雅人が演じた篤姫を巡る2人の男性像に、多くの女性が釘付けになりました。個人的には和宮を演じた堀北真希が印象に残ります。

 幕末好きも極まったという方には「天皇の世紀」をおすすめします。原作は作家大佛次郎が、朝日新聞に1967年から73年まで連載した長編史伝で、明治天皇の誕生から江戸城明け渡しまでの動乱の時代を克明に描き、1971年にスペシャルドラマとしてテレビ放映されました。その映像が、40年の時を経て、昨年末、DVDとしてよみがえったのです。この作品に主人公となる登場人物は存在せず、「歴史そのものが主人公である」という視点で制作されています。その意味では“キャラ萌え”の要素はないのですが、時代の動きそのものに興味がある幕末ファン必携の作品といえます。「幕女」にも、いつかは見ていただきたい作品です。

 →今回ご紹介した作品は「朝日イベント・プラス」日本のドラマ特集で。


『幕末のロビンソン 開国前後の太平洋漂流』  岩尾龍太郎著  (弦書房・2310円)
●未来の漂流者たちへ 田村元彦 西南学院大准教授

 帰還することが叶(かな)わぬ、過酷な状況に投げ込まれた何者かが、必死で生き抜こうとする--。運よく生還しえたとしても、願っていたような「帰還」は果たせない。故郷はその者をまるごと受け入れてくれるような甘美なものではもはやなくなっているからである。

 本書は著者の遺作である。登場人物が「死んだこどもたち」として設定されていたという「ひょっこりひょうたん島」の影響を受けて育ち、シベリア抑留などにも強い関心を示していた自称「ロビンソン学者(おたく)」の岩尾は、病魔に冒され生還すること叶わぬ我(わ)が身をクールに見定めながら、前作『江戸時代のロビンソン』と同様に、一次文献に執拗(しつよう)なまでに肉薄していく。汲々としてアカデミックな体裁を整えることや、奔放な空想に惑溺(わくでき)することなどに、彼は一瞥(いちべつ)もくれない。ひたすらテキスト自体と物質的身体的に格闘することで、歴史や国家に翻弄(ほんろう)され、想像の埒外(らちがい)に放逐されてしまった漂流者(ロビンソン)たちの「つぶやき」に耳をすまし、その奥にあるコンテキストを読み解こうとしている。

 著者によって示された知の海図によって、本書を読む者は思いもよらぬ場所へと漂着することになるだろう。例えば、職場を共にした私は、亡くなる少し前の著者に、「『あしたのジョー』の矢吹丈の名前は、新島襄に由来するのではないか?」と質問された。本書においても言及されているが、吉田松陰と寅さんという二人の「寅次郎」を山田洋次が意識的に重ね合わせていたように、熊本バンドの影響下に育ち同志社で学んだ祖父をもつ高森朝雄(=梶原一騎)が、「ジョー」という名前にそうした意味を込めていたとしても何の不思議もない。ところが、提出期限が過ぎた課題レポートを出そうとする劣等生の心持ちで、遅ればせながら原作マンガを再読し関連文献を調べてみても、証拠めいたものさえ見出(みいだ)せず、途方に暮れていた--。

 何たることか。答えはすで著者によって示されていた。「志士的」とも評すべき新島襄の最後の詩が、私に向けて投げ出されるかのように本書に引かれていたのである。《いしかねも透(とお)れかしとてひと筋に射る矢にこむる大丈夫(ますらお)の意地》

 本書は純粋な贈与のごとく届けられた、未来の漂流者(ロビンソン)たらざるをえない現在を生きる者への決然たる問いである。


【書評】『プチャーチン』白石仁章・著
■外交史料が語る日本への愛情

 幕末、黒船で来航して恫喝(どうかつ)的態度で開国を迫ったアメリカのペリーは有名だが、「対話」で友好の道を開いたロシアのプチャーチンを知る人は少ない。

 礼儀正しく玄関(長崎)を訪れ、外交交渉を通じて親日家となり、明治天皇から旭日大綬章が贈られ、幕末から明治期の北方領土問題を解決したロシア軍人である。著者は、勤務する外務省外交史料館で発掘した記録から、その実像に迫る。帰国後も、日本人留学生を厚遇し、ロシア駐在日本人外交官に便宜を図った。死後も遺言で長女のオーリガが来日してディアナ号ゆかりの静岡県・旧戸田(へだ)村に遺産を寄贈するなど終生、日本への愛情を持ち続けたことを本書は明らかにしている。(1470円、新人物往来社)


老剣士が問う、生死の意味 新選組3部作完結、浅田次郎さん
 作家・浅田次郎さん(59)の新選組3部作が『一刀斎夢録』(文芸春秋)で完結した。明治から大正に時代が変わるなか、70歳近くなった元新選組三番隊長の斎藤一(はじめ)が、若き剣士に幕末から西南戦争に至る自らの体験を伝える。多くの命を奪い、戦場では悪鬼のようであった剣士が語る物語でありながら、成長小説の味わいを持ち、生死の意味を問いかけていく。

    ◇

 老剣士は坂本龍馬を殺害した記憶から語り始める。居合の達人である斎藤が龍馬の額を横なぎに斬り、その後、見廻(みまわり)組がとどめを刺した……。「龍馬暗殺の実行犯は京都見廻組という説が有力ですが、こうであっても不思議ではないだろうという仮説です。諸説がいまだにあるのは事実が隠されているからではないでしょうか」

 斎藤一はマンガ『るろうに剣心』の敵役として若い世代に人気があるが、小説ではあまり描かれてこなかった。「沖田総司や土方歳三のように固まったイメージがなく、『壬生義士伝』や『輪違屋糸里』を書いたときからこの無口で偏屈な斎藤を主人公にしたいと思っていました。ニヒルな剣豪というだけではなく、剣にも表れているように合理的なものの考え方をする人だったと思います」

 その合理的な目には、西南戦争は日本の近代化に備えた軍隊の大演習をした芝居と映る。「自衛隊にいたとき何度も聞かされた行進曲『抜刀隊』の歌詞を知ったときには驚きました。西郷隆盛を朝敵ながら古今無双の英雄とうたっているのです。同時代でもその歌詞に込められた意味を見抜く人はいたはずです」

 武士の世の価値観を貫いて生きた斎藤の話を聞く近衛師団の梶原中尉は、明治から大正という時代の変化に戸惑っている。歴史を単純化せず、そこで生きる人々の姿からこまやかに描くスタイルは、昨年のベストセラー『終わらざる夏』にも通じる。「ここ数作、自衛隊にいた経験が生きる小説が続きました。軍隊もまた究極の合理性を求める場で、そこからは政治や社会の非合理性が見えてきます」

 そんな浅田史観が存分に展開されながら、昔ながらのチャンバラ小説好きもうならせる。「最近はゲームのように人がばたばた死ぬ小説が多い。斎藤が100人を斬り殺すのを描くにしても、そこに死生観や哲学を込めて描きたかった」

 斎藤はお気に入りの日本酒を飲みながら、7夜にわたり梶原に語り続ける。酒の味が伝わってきそうな語り芸になっているが、実は浅田さんは一滴も飲まない。「飲まないからこそ観察する時間がたっぷりあって、酔っぱらいが分かるのです」(加藤修)






 本業で一山乗り越えました。今月はまだいくつか小山がありますが、週末は少し休息できてます。

北海道
道南の歴史学びませんか 函館
【函館】道南各地の博物館・郷土資料館の学芸員らが講演する「郷土学連続講座」が6日、函館市地域交流まちづくりセンターで開講する。(久田徳二)
 市立函館博物館など道南の17施設が加盟する道南ブロック博物館施設等連絡協議会(会長・田原良信同館館長)の主催。地元の歴史研究などに携わる専門家が、歴史、文化などについて独自の視点から持論を発信する。
 第1回のこの日は午後1時半開講。歴史編「道南の歴史を知る-幕末13 件から明治初期」として、5講を1日で行う。第2回は「自然」をテーマに夏に開催する計画だ。
 各講30分程度で部分参加も可能。受講は無料。問い合わせは同協議会事務局の知内町郷土資料館(電)01392・5・5066へ。


野外劇にJTB交流文化賞「選考委員特別賞」

1988年から毎年夏に五稜郭公園で開かれている「函館野外劇」を主催するNPO法人市民創作「函館野外劇」の会(フィリップ・グロード理事長)がこのほど、大手旅行代理店のJTB(東京)が主催する「第6回JTB交流文化賞」の交流文化賞・選考委員特別賞に選ばれた。同会理事の里見泰彦さん(67)は「野外劇を支え、応援してくれた市民の総合力のおかげ。全国からの集客につながる」と喜んでいる。

 同賞は、地域固有の魅力を創出し、地域活性化に長年取り組む組織や団体に贈られる。今回は全国から52の応募があり、安島博幸立教大観光学部教授ら6人が選考委員を務め、最優秀賞1、優秀賞2、選考委員特別賞1が決まった。道南での受賞は初。受賞理由についてJTB広報部は「函館市の地域活性化のため、市民による手作りの野外劇を98年から継続している。400人以上の市民出演者と100人以上のボランティアスタッフに支えられ、市民に根付いた交流事業となっている点を評価した」としている。

 同会事務局は、昨年10月に初めて応募し、12月末に受賞の知らせを聞いた。表彰式は20日に東京で、JTBグループの新春懇親会の席上開かれた。里見さんらは全国のJTB関係者などから「23年も続いているのはすごい」「野外劇観劇をポイントとして、全国から函館に観光客を送り込むような商品を考えたい」と意見があったという。

 野外劇が昨年行ったアンケートによると、観客の70%は函館市民で、東北、関東からはそれぞれ数%のみ。里見さんは「全国的な知名度は低かったが、今回の受賞は大きなPRになる」と期待を寄せる。「町民役から場内整理まで、地域おこしに奮闘してきた毎回数百人の力で、全国発信していけるよう頑張りたい」と気持ちを新たにしていた。


箱館奉行所で防火訓練
 「第57回文化財防火デー」の26日、函館市の特別史跡・五稜郭内に昨年復元オープンした箱館奉行所(五稜郭町44)で防火訓練が行われた。来館者の避難誘導など火災発生時の初動対応を確認するとともに、貴重な建造物に対する防火意識を高めた。

 文化財防火デーは1949(昭和24)年1月26日、奈良県で法隆寺金堂が炎上し、壁画が焼損したことをきっかけに文化財保護の意識が高まり、55年に制定された。市では毎年、博物館や重要文化財に指定されている建造物で訓練を実施しており、奉行所では初めて行われた。

 訓練は市教委や市消防本部、指定管理者の名美興業職員ら約45人が参加。建物奥の「武器置所」から出火したとの想定で、職員が初期消火や消防への通報、来館者誘導などを分担し、屋外に避難。現場に到着した消防隊が放水を行った。

 訓練終了後、市東消防署の山田芳弘主査が「避難誘導の声出しが良く、いい訓練だった」と講評。同奉行所の西沢勝郎副館長は「建物はすべて木造で、火を出さないことが大切。スタッフに対する消火器の取り扱い指導や、消火設備の点検を毎日欠かさず行っていきたい」と話し、気を引き締めていた。

福島
二本松藩の私鋳銭?発見 飯野の民家から困窮財政物語る資料
 二本松藩が政府に無断で造った私鋳銭の可能性がある貨幣が30日までに見つかった。明治初期のものとみられ、福島市飯野町出身の高野紀夫さん(63)=東京都練馬区在住=の実家に残されていた。私鋳銭は当時、政府によって回収されたほか、製造者が重い罪に問われたことなどから現存数が少ない。戊辰戦争の敗戦などで困窮していた藩の財政事情などをひもとく資料になりそうだ。
 私鋳銭は明治二分金(にぶきん)と呼ばれる種類で、重さ3グラム、大きさは縦約2センチ、横約1センチ。本物の二分金は金を含んだ銀が使われているが、高野さんが発見した私鋳銭は金が含まれておらず、金メッキが施されていたという。複数の専門家により私鋳銭と判断された。
 「シリーズ藩物語 二本松藩」の著者、糠沢章雄さん(郡山市在住)によると、二本松藩は戊辰戦争の敗戦で二本松城が焼かれるなどして多額の借財があり、財政難は深刻だった。それを解消するため、藩の要職に就いていた羽瀬兵衛らが廃藩置県の2年前の明治2(1869)年に貨幣を造ったが、程なく政府に発覚し、羽瀬は死罪に処せられたとされる。
 高野さんによると、私鋳銭は実家の仏壇の引き出しに保管されていた。祖母からは「悪い人たちが造った“偽金”だ。偽物で使えなかったから残っている」と聞いていた。
 旧飯野町は二本松藩と隣接しているなど関係が深く、糠沢さんは「二本松藩から流れ込んだ私鋳銭の可能性は十分にある」とみている。
 古銭に詳しい鈴木正敏さん(会津若松市在住)によると、私鋳銭は県内では会津藩、二本松藩で造られたという記録がある。会津藩は二分金などを含めて約八百万両分もの私鋳銭が造られたといわれるが、二本松藩の二分金は約千両分で、製造枚数は約2000枚という。
 二本松市教委文化課の根本豊徳課長は「私鋳銭の現物は見たことがない。本物ならば藩の窮状を裏付ける貴重な資料になる」と話す。県立博物館の佐藤洋一専門学芸員も「二本松藩の私鋳銭はおそらく収蔵品にない」とする。
 高野さんは「“偽金”の不思議な光は、幕末から明治へと続く時代の混乱、迷走を映し出しているようだ」と語り、収蔵展示施設への寄託なども検討している。
※私鋳銭 政府が造った貨幣でなく民間などで私的に鋳造されたもの。明治初期にかけて二本松藩をはじめ多くの藩で発行された歴史がある。私鋳銭の製造は極めて重い罪に処せられた。二分金は一両の2分の1の価値がある。

【写真】高野さんの実家から見つかった二分金の私鋳銭(上が表、下が裏とみられる)

東京
北海道の名付け親、松浦武四郎 幕末の探検家 足跡たどる
 北海道の名付け親として知られる探検家・松浦武四郎(1818~88)の足跡を紹介する「幕末の探検家 松浦武四郎と一畳敷展」が、中央区京橋の「INAXギャラリー」で開かれている。戦後、松浦についての本格的な企画展は東京では初めてという。 (井上幸一)
 現在の三重県松阪市出身の松浦は、幕末から明治維新にかけて活躍。十七歳から諸国遍歴を始め全国各地に足跡を残し、二十代後半から国防の危機にさらされていた蝦夷地(現在の北海道)を六度にわたり調査、アイヌ民族と協力して、入り組んだ川の流れや地形の詳細を明らかにした。
 作家、画家、博物学者でもあり、明治新政府にあって先住民であるアイヌ民族の文化を尊重し、北海道の道名、国名(支庁名)、郡名の選定に尽力した。
 会場には、アイヌ語による道内の地名を記した地図「東西蝦夷(えぞ)山川(さんせん)地理取調図」の実物七点が飾られ、当時の北海道の人たちの暮らしを描いた「久摺(くすり)日誌」なども展示。晩年、全国各地の寺院などの古材を組み合わせて東京・神田の自宅に設けた一畳の書斎「一畳敷」も写真パネルで再現した。
 展示物を提供した松浦武四郎記念館(松阪市)の山本命学芸員は「北海道には五十カ所以上の碑がある武四郎だが、東京では知名度は低い。残した大きな業績や、一畳の書斎などから奇想天外な発想の持ち主だったことを知ってほしい」と期待している。
 企画展は二月十九日まで。入場無料。問い合わせは、同ギャラリー=電03(5250)6530=へ。


「日本のダヴィンチ」横山松三郎とは?
江戸東京博物館は、明治初期の写真家・横山松三郎の展覧会「140年前の江戸城を撮った男―横山松三郎展」を2011年1月18日から11年3月6日まで開催している。
横山松三郎は、幕末から明治という日本の転換期にあって、写真や石版、油彩画など、西洋から伝来した当時最先端の様々な知識や技術を独自に研究、習得し、多様な芸術表現を試みた人物。同展では初公開となる「旧江戸城写真ガラス原板」や、横山が独自に編み出した写真と油絵を融合させた技法、「写真油絵」によって制作されたコラージュ作品も出品。横山を「日本のダヴィンチ」とたとえ、当時の先端的マルチ・メディア・アーティストであった横山の多彩な活動を、数多くの資料でたどる。
観覧料は、一般600円。<モノウォッチ>



神奈川
横浜・中区民ミュージカル:公募の75人が熱演 /神奈川
 横浜市中区の関内ホールで30日、中区民ミュージカル「横浜浮世絵物語 空飛ぶ絵師の贈り物」が上演され、4~80歳の75人の熱演に午前・午後の2公演で計約2000人の観客が詰めかけた。

 物語は幕末に活躍した浮世絵師、五雲亭貞秀が主人公。絵師としての技量は高いが、容姿にコンプレックスを抱く貞秀が自らを受け入れられるようになっていく姿を描いている。貞秀は多くの作品を残したが、人となりは謎で、赤い靴記念文化事業団団長で実行委員会副会長の松永春さん(82)が資料を基に原案を作った。脚本、演出、振り付けは舞台芸術家の福島桂子さんが手がけた。

 区民公募のミュージカルは6回目を数え、昨年8月から全員で練習を重ねてきた。松永さんは「何回も参加してくれる人がいるのもうれしい」と話していた。来年公演の公募は7月の予定。中区在住・在勤・在学者のほか、中区の歴史に興味がある人は誰でも応募できる。【杉埜水脈】


静岡
「黒船電車」初の直通運転
河津桜まつりに合わせ 11~13日千葉-伊豆

 JR東日本千葉支社は伊豆急行(静岡県)と共同で11~13日、静岡県河津町で開かれる「河津桜まつり」に合わせ臨時特急列車「河津桜号」(全車指定席)を千葉-伊豆急下田駅間で直通運転する。黒船に見立てた塗装が印象的な「リゾート21・黒船電車」(8両編成)が車両に使用される。

 黒船電車は海向きのパノラマシートを備えるほか、黒船の来航などの幕末の歴史や当時の下田の状況などの資料・図版を車内で展示しているのが特徴。同車両が千葉方面から伊豆急行線へ直通で運転されるのは初めてで、乗り換えなしで伊豆へと出掛けられる。

 行きは午前7時6分に千葉駅発。津田沼、船橋駅などに途中停車し、同10時40分に伊豆急下田駅着。帰りは午後4時17分に伊豆急下田駅発、同8時9分に千葉駅着。片道の運賃(特急料金など含む)は千葉駅発着の場合、伊豆急下田駅まで7200円(グリーン車は9340円)。指定席特急券は各駅のみどりの窓口などで販売する。




三重
日本の昔話、外国語で紹介 明治の「ちりめん本」展示
 和紙を縮ませて加工した「ちりめん本」の英文絵本などを展示する巡回展「日本残像」(放送大学付属図書館主催)が6日まで、津市の県立図書館で開かれている。独特の肌触りのちりめん本や幕末~明治の古い写真など約170点が並ぶ。入場無料。

 ちりめん本の生みの親は商人・長谷川武次郎。1885(明治18)年に英文による「昔噺(ばなし)集」を出版し、翻訳は小泉八雲らが手伝った。桃太郎や猿蟹合戦など、昔話のキャラクターや図柄が色鮮やかで愛らしい。

 明治~昭和初期につくられた本は、海外への土産物として人気で英語のほか仏語、独語版もある。同大学の山本淳一・図書情報課長補佐は「ちりめん布のような肌触りと、浮世絵のような版画技術は、現代の美術としてみても新鮮です」と話す。


松浦武四郎記念館:「たけちゃん」のグッズ、新作2種 /三重
 現在の松阪市の出身で、北海道の名付け親として知られる幕末の探検家、松浦武四郎をモデルにしたキャラクター「たけちゃん」の携帯ストラップとタオルハンカチを松浦武四郎記念館(松阪市小野江町)が作製した。

 2月27日に同記念館で開かれる「武四郎まつり」の会場で発売する。ストラップ(200円)はたけちゃんが両手を上げたデザインで、ハンカチ(300円)は八つのポーズのたけちゃんを描いている。同館が各2000個を作った。

 たけちゃんは99年、武四郎まつりのキャラクターとして誕生した。関連商品はこれまでにキーホルダーや缶バッジなど5点を販売している。【橋本明】


滋賀
特別展:「大通寺の雛人形」 直弼7女の調度品など--長浜城歴史博物館 /滋賀
 長浜城歴史博物館(長浜市公園町)は、彦根藩主で幕末の大老、井伊直弼の7女・砂千代ゆかりの雛(ひな)飾りなどを集めた特別展示「大通寺の雛人形-井伊家の婚礼道具」を開催している。3月9日まで。

 真宗大谷派長浜別院・大通寺(同市元浜町)には、同寺住職に嫁いだ砂千代の調度品が数多く残され、今回は色糸で豪華な刺繍(ししゅう)が施された男雛、女雛の「古今雛(こきんびな)」(江戸時代、同寺蔵)や能楽童子5人の「五人ばやし」(江戸時代)などを展示。また、古代人が祭祀(さいし)道具として使用した人型などの出土品「人形代(ひとかたしろ)」5点も並べ、雛人形の歴史を紹介している。

 同館(0749・63・4611)は会期中無休。午前9時~午後5時(入館は午後4時半まで)。大人400円、小中学生200円。【桑田潔】


兵庫
江戸時代の南海地震津波跡? 神戸・旧居留地遺跡
 神戸市教委は27日、神戸市中央区江戸町の旧神戸外国人居留地遺跡で、江戸時代の南海地震の津波の痕跡を示すとみられる砂の堆積(たいせき)層が見つかったと発表した。地質学の専門家は、海岸線から約500メートル離れた地点に約2.5メートルの高さの津波が押し寄せたとみている。

 市教委文化財課によると、津波の痕跡とみられる砂の堆積層は、厚さ約30センチ、南北約15メートル、東西約2メートル。現在の地表面から約1.5メートル下で見つかった。

 同志社大理工学部環境システム学科の増田富士雄教授(地質学)によると、泥の含有率が少ない砂であることや、砂の大きさが0.5~1ミリと粒ぞろいであること、砂の配列が一定方向と反対方向に折り重なっていることなどから、当時、近くを流れていた生田川のはんらんによる堆積層ではなく、津波の痕跡である可能性が高いという。

 津波の痕跡とみられる地層からさらに約1メートル下には1600年ごろの地層があることから、津波は1600年ごろ以降、外国人居留地が設置された明治初期までに発生したものと推定され、大阪湾周辺で大規模な被害をもたらした宝永の南海地震(1707年)か、安政の南海地震(1854年)のいずれかである可能性が高いという。

 現場は幕末~明治初期の古地図で海岸線から約500メートル北に位置している。現在の標高で1.7~2メートルの地点に分布していることから、波の高さは2~2.5メートル程度だったと推定した。

 市教委文化財課の千種浩・埋蔵文化財調査係長は「どちらの地震であっても、神戸が津波に見舞われたという文献の存在はこれまで知られていない。津波の被害を裏付ける証拠が地下に眠っていたことがわかり、大変貴重な発見だ」と話している。

 旧神戸外国人居留地遺跡は約250平方メートル。市危機管理センターの建設に先立ち、2009年12月から約2カ月間、発掘調査をした。現在は建設工事のために掘削し、実物標本のみが残っている。(日比野容子)


岡山
適塾の蘭方医 緒方郁蔵知って 笠岡の郷土史家が冊子作成
 笠岡市笠岡の郷土史家廣澤澄郎さん(83)が、井原市出身で幕末100+ 件に活躍した蘭方医・緒方郁蔵(1814〜71年)の生涯や業績をまとめた冊子「緒方郁蔵の研究」を作成した。

 緒方郁蔵はもとは大戸郁蔵といい、井原市芳井町簗瀬出身。岡山市北区足守地区出身の蘭学者・緒方洪庵が大坂に開いた蘭学塾・適適斎塾(適塾)に入門した。洪庵とともにドイツの医師フーフェランドの臨床経験を翻訳。約19年かけて計30巻に上る大著「扶氏経験遺訓(ふしけいけんいくん)」としてまとめ、出版した。洪庵から才能を認められ、義兄弟となって緒方姓を名乗り、天然痘予防の除痘館に協力するなど右腕として活躍した。

 冊子はA4判、56ページ。郁蔵が蘭学を学んだ大阪などゆかりの地に出向いて地道に資料を集め、約30年かけて研究結果をまとめた。郁蔵の生い立ちから業績、ゆかりの人物まで多くの写真や家系図などを用いて紹介している。

 歴史が好きだったという廣澤さんは定年退職後、仲間数人と郷土史グループ「笠岡史談会」を立ち上げ、会誌を発行するなどして活動。笠岡の古い街並みや歌人の業績などを調べ、30冊以上のノートにまとめた。研究をはじめたのは、娘の陽子さんが大戸家に嫁いだことがきっかけ。

 冊子は100部作製。郁蔵に縁の深い井原市の教育委員会や図書館、郁蔵の研究者などに寄贈した。廣澤さんは「郁蔵は洪庵の右腕に徹し、歴史の表舞台に出ることはなかった。郷土の埋もれた偉人の業績を多くの人に知ってもらえれば」と話している。


広島
金子邸、呉市に寄贈 有形文化財へ
 呉市豊町御手洗(み・た・らい)の「金子邸」が、市に寄贈された。1日、市教委が明らかにした。幕末の1867年11月、長州(山口)と芸州(広島)両軍が倒幕の軍事条約である「御手洗条約」を交わしたとされる建物だ。市は今年度中に、傷んだ屋根や外壁を直して市有形文化財に指定。さらに2年ほどかけて保存修理し、一般に公開する方針という。
 国の重要伝統的建造物群保存地区にある建物約70平方メートルと土地約230平方メートル。御手洗の庄屋役を務めた金子家が江戸時代後期に建てた。数寄屋座敷や茶室は、参勤交代の大名ら要人の接待や会合に使われたらしい。
 庭には露地門やとび石、井戸なども残る。茶室には一般的な狭い「にじり口」のほか、「貴人口(き・にん・ぐち)」や別の小さな出入り口が設けられ、開放的で明るい空間が特徴だ。市教委文化振興課は、移築せずにある茶室としては、呉市内で最古と説明している。1867年4月には御手洗の港で坂本龍馬が旧友と出会った記録があり、茶室には龍馬来訪の伝説も残る。
 2年前に調査した広島国際大工学部の藤田盟児(めい・じ)教授(建築史)によると、江戸後期の文化年間(1804~18)の仏具や「殿様御成」と墨書きされた箱が残され、「茶室は文化元年に上方で木作りした」との家伝がある。藤田教授は「茶室は飲食する座敷など迎賓空間と一体で使われるが、茶室以外は取り壊されて残らない場合が多い。金子邸は迎賓空間がそのまま残り、歴史的にも文化財的にも価値は高い」と話している。
 20年ほど前まで金子家の関係者が住んでいたが、その後、空き家状態に。旧豊町時代から保存活用の話はあり、最近、横浜市在住の所有者から無償で寄付された。
 建物は雨漏りや外壁の崩壊が進んでおり、市は約600万円かけて今春までに応急補修。新年度から、建物や庭の現状調査にとりかかる予定だ。(中川正美)




高知
気分は幕末志士、龍馬の衣装で写真撮影 とさてらす改装
 JR高知駅すぐ南にある高知観光情報発信館「とさてらす」が改装され、5日にリニューアルオープンした。3月5日に開幕する「志国高知 龍馬ふるさと博」の新パビリオンはこの横に建てられ、7月9日にオープンする。

 とさてらすは、昨年1月開幕の「土佐・龍馬であい博」に合わせてオープン。映像や資料で県内の観光名所を紹介し、土産や名産品を販売した。同博は今年1月に閉幕したが、改装して使うことが決まっていた。

 リニューアルされ、であい博の有料会場内で人気だった「龍馬の衣装を着て記念撮影ができるコーナー」を設けた。坂本龍馬になりきった写真を無料で撮れる。着物姿で観光客に対応する「おもてなしスタッフ」の高橋さくらさん(26)は「去年は県内がにぎわい、うれしかったです。ブームで終わらせず、県の魅力を丁寧に伝えていきたい」と話していた。


龍馬ふるさと博:着工延期 中心施設、「入札不正」匿名情報で /高知
 3月5日に開幕する観光イベント「志国高知 龍馬ふるさと博」の核となる施設で、高知市のJR高知駅南口広場に建設される「『龍馬伝』幕末志士社中」(7月9日オープン予定)の着工が予定していた2日から延期された。建設工事の入札に関する匿名情報が寄せられたため、県観光コンベンション協会が1日夜、延期を決めた。今月内に着工したい考え。

 同協会によると、先月21日に実施した社中の入札には、県内の20業者が参加。落札業者の入札額は、最低制限価格(事後公表)の1億8625万5000円と同額だった。

 先月28日、同協会に情報の不正漏えいを指摘する匿名情報が郵送で届いた。今回の落札業者は「土佐・龍馬であい博」(先月閉幕)のメーン会場の建設工事の入札でも、最低制限価格(事後公表)より1万円高い1億9540万円で落札しているが、その点についても指摘してあったという。

 同協会は「疑義があるなら確認する必要がある」として契約締結を延期し、関係者から事情を聴くなどしている。同協会は「情報の不正漏えいがないと確認でき次第、工事を始めたい」と説明している。【千脇康平】



山口
シンポジウム:山口の近代捕鯨史検証 下関市立大で専門家ら /山口
 第3回鯨資料室シンポジウム「日本とくじら」が5日、下関市大学町の市立大学であった。近世、近代の捕鯨文化について専門家らが話し合った。

 福岡市博物館の鳥巣京一学芸員が、近世の捕鯨の方法について「西海捕鯨と下関」のテーマで講演。江戸時代に福岡、佐賀、長崎などの「西海」では、沿岸の鯨を集団で捕獲する古式捕鯨が行われたと説明。下関は鯨の取引の拠点だったことを当時栄えた鯨問屋などを基に解説した。

 シンポジウムでは、幕末に欧米の捕鯨船団が日本海に進出し、日本の捕鯨が近代化を迫られた状況を、日本鯨類研究所顧問の大隅清治さんらを交えて討論。明治時代、遠洋でモリを発射して鯨を捕獲する「ノルウェー式捕鯨」が山口で始まり「近代捕鯨基地」として下関が栄えたことなどを検証した。

 山口で近代捕鯨が盛んになった理由について議論は白熱。鳥巣学芸員は「古式捕鯨の技術で遅れを取っていた事実が、山口の近代捕鯨を推し進めたのでは」と話していた。【尾垣和幸】

〔下関版〕


会津隠密の墓 長府で清掃
◆「白虎隊の会」昨秋発足の支部
  幕末に敵味方として戦った会津と長州の交流に取り組む「白虎隊の会」下関支部のメンバーらが29日、下関市長府松小田南町にある会津藩士の墓地を清掃した。
  墓には会津藩の隠密として長州に潜入した神戸(かんべ)岩蔵が葬られている。倒幕の動きが活発だった下関に物乞いに変装して入り込み、長州藩の動向を探った。だが、1865(慶応元)年に捕らえられ、長府の山中で処刑された。1919年ごろに下関の有志が墓を建てて弔い、88年に慰霊祭が営まれた。
  この日はメンバーら24人がノコギリや鎌を使って、墓地の周辺に生い茂った竹を切り、傾いた墓石を整えた。清掃が終わると祭壇をしつらえて、赤間神宮の神職青田隆子さんが慰霊の神事を営み、参加者が玉串をささげた。
  吉井克也支部長(64)は「それぞれのしがらみを超えて、幕末に命をかけて尽くした人たちの生き様を学び、地道に活動を重ね、交流を深めていきたい」と話した。
  白虎隊の会下関支部は昨年10月に発足。メンバーは会社員ら約20人で、会津で交流会の開催も検討している。問い合わせは下関支部事務局(083・283・1111)へ。


清掃活動・慰霊祭:会津藩士に思いはせ 県内有志が墓前を--下関 /山口
◇長州藩に幕末潜入し刑死
 下関市長府松小田南町の山中に立つ会津藩士、神戸(かんべ)岩蔵の墓で29日、県内の有志が清掃活動と慰霊祭をした。幕末、長州藩に間諜(スパイ)として潜入するも、見つかって処刑された若き藩士に思いをはせながら、竹を伐採し、墓前で手を合わせた。

 会津藩は幕府擁護派の筆頭で、神戸は倒幕の急先鋒だった長州藩に潜入。京都守護職の任にあった会津藩主・松平容保に情報を送っていたが、1865年5月に捕まり、20歳の若さで長府の山中で処刑された。

 昨年10月、白虎隊の会下関支部を発足させた吉井克也さん(64)が、周囲を竹やぶに覆われている墓の存在を知り、清掃と慰霊祭を計画。この日は会員ら24人が集結し、山道の入り口には看板も立てた。

 吉井さんが、墓前で一心に手を合わせるのには理由がある。美祢市東厚保の吉井さんの先祖宅には、かつて会津藩の白虎隊士が住んでいた。若者で組織された白虎隊は多くが官軍との戦いに敗れ自刃したが、その隊士は一命を取り留め、長州藩士が引き取り美祢で養育していたという。

 「その後、隊士は政府の技官になった。今でも両藩には禍根が残るとも言われるが、こんな温かい話もあったのだと伝えていきたい」。今後も定期的に清掃する予定だ。【尾垣和幸】


会津藩の隠密の墓を清掃 「白虎隊の会」下関支部
 幕末に敵味方として戦った会津と長州の交流に取り組む「白虎隊の会」下関支部のメンバーらが29日、下関市長府松小田南町にある会津藩士の墓地を清掃した。

 墓には会津藩の隠密として長州に潜入した神戸(かんべ)岩蔵が葬られている。倒幕の動きが活発だった下関に物乞いに変装して入り込み、長州藩の動向を探った。だが、1865(慶応元)年に捕らえられ、長府の山中で処刑された。1919年ごろに下関の有志が墓を建てて弔い、88年に慰霊祭が営まれた。

 この日はメンバーら24人がノコギリや鎌を使って、墓地の周辺に生い茂った竹を切り、傾いた墓石を整えた。清掃が終わると祭壇をしつらえて、赤間神宮の神職青田隆子さんが慰霊の神事を営み、参加者が玉串をささげた。

 吉井克也支部長(64)は「会津と長州の友好は思い描いた通りにはいかない。しかし、それぞれのしがらみを超えて、幕末に命をかけて尽くした人たちの生き様を学び、地道に活動を重ね、交流を深めていきたい」と話した。

 白虎隊の会下関支部は昨年10月に発足。メンバーは会社員ら約20人で、会津で交流会の開催も検討している。問い合わせは下関支部事務局(083・283・1111)へ。(崔采寿)


会津藩士の墓を清掃 白虎隊の会下関支部
 幕末に争った長州と会津の交流に取り組んでいる、白虎隊の会下関支部=吉井克也支部長(64)=が29日、下関市長府松小田南町にある会津藩士・神戸(かんべ)岩蔵の墓を清掃し、慰霊祭を行った。

 岩蔵は、竹が生い茂る山中の墓に眠る。1863年に郷土を出発して倒幕を目指していた長州に入り、動向を会津藩に伝えていたが、65年に長府藩に捕らえられて処刑され、20歳の生涯を閉じた。

 支部は、会津藩の白虎隊士で生き残った飯沼貞吉と長州藩士楢崎頼三の交流を語り継いでいこうと、昨年10月に発足。29日はメンバーら24人が約1時間半かけて、墓地周辺の倒れかかった竹を伐採したり、傾いた墓を修復したりした。その後、慰霊祭を行い、岩蔵の冥福を祈った。

 吉井支部長は「会津、長州のしがらみを超えて、幕末の藩士たちの生き様に思いをはせ、交流していきたい。岩蔵さんの命日の8月2日に、支部として再び訪れたい」と話していた。


平成の開国ならぬ里帰り 高杉晋作の雛人形、萩博物館に
 幕末の志士、高杉晋作ゆかりの高杉家に代々伝わる雛(ひな)人形が、出身地の山口県萩市にある萩博物館で特別公開されている。4月3日まで。

 「次郎左衛門雛」と呼ばれる江戸時代初期の形式。高杉家の厚意で萩博物館が借り受け、明治10(1877)年に東京へ移って以来初めての“里帰り”が実現した。

 藩主・毛利氏からの拝領品とみられ、調査した学芸員は「晋作には妹が3人いた。高杉家もこの雛飾りでにぎやかに桃の節句を祝ったんでしょうね」。


佐賀
堅固な「枠工法」確認 三重津海軍所跡・艦船ドック遺構
 幕末佐賀藩の近代海軍基地「三重津(みえつ)海軍所」跡(佐賀市川副・諸富町)の艦船ドック遺構から出土した30メートルの直線護岸の一部から、木材を方形に組んだ堅固な在来土木技術「枠(わく)工法」を駆使した区画が確認されたことが3日、分かった。発掘調査を進める佐賀市教委は既に、この区画に接して炉跡など金属加工関連遺構の密集を確認。「一帯が連動しながら、蒸気船のボイラー製造といった作業場エリアの中枢を担った」としている。

 市教委世界遺産調査室によると、枠工法は、階段状に構築された木組(きぐみ)護岸の各段で採用されていた。新たに出土した木組の最上段と合わせ、方形の一辺は平均1・8メートル。有明海沿岸地域特有の粘土質の軟弱地盤に対応するため、護岸崩壊を防ぐ重厚な構造だった。

 他の護岸はこの区画より簡易な造りであることから、同調査室は、金属加工施設で製造された重量物を蒸気船に取り付けるなどの作業を、この区画で行った可能性が高いとみている。ボイラーなどをつり上げるため、当時のクレーンともいえる何らかの工作物が設置されていたことも、想定されるという。

 枠工法は江戸期、城堀や大名屋敷のため池護岸など、特別な大規模土木工事で採用された工法。これまで、江戸幕府が豊臣家を滅ぼした「大坂の陣」(1614-15年)に際して豊臣方が整備した堀の護岸遺構や、江戸幕府が諸大名に命じる土木工事「天下普請」で築造した高槻城(大阪府高槻市)堀の護岸遺構などで確認例があるという。

 同調査室は「ドックと作業場は密接に連動し、機能した。海軍所の全容解明に一歩近づいたとともに、高い在来土木技術を駆使した佐賀藩の近代化の取り組みを知る上でも重要な発見だ」としている。

=2011/02/04付 西日本新聞朝刊=


 昨日の志の輔らくごに続いて、今日は白鳥・白酒・三三・市馬。わくわくっ。

 チケットを譲った友人が風邪で不調のため、代わりにいらした方と軽く挨拶。地元周辺で何回か落語会を聴いたことがあるそうで、端っこながら2列目の席に喜んでいただいた。



 前座の市也さんも、うまくなってきたなぁ。「高砂や」、調子っぱずれの八っつぁんの「高砂や」が楽しい。さらっとやった都々逸がうまいのは、やっぱり市馬師匠の弟子だからかな。なるほど、新春だからめでたいネタなのね。

 続いて白鳥さん登場。おなじみ、「皆さんの不安げなその拍手が何よりでございます」で始まる。白鳥さん知らない観客が大半ということはないと思うのだけど、ジャージーっぽく白の二本線が入り、白鳥の紋に袂が丸くて翼っぽい着物、お約束のように受ける。
 そして、昨日、林家三平さんが婚約発表したという何というグッドタイミングな寄席。おめでたい話題であるので、三平さんをいじるいじる(何しろ白鳥さんには、一平さんが三平襲名の席で披露しようとしてつくったという『真夜中の襲名』というネタがあるくらいだ)。ついでに「海老で麻生を釣る」海老蔵いじりも入って、飛ばす飛ばす。
 棺桶の上に座布団を敷いて落語をしたことがあるという話も白鳥さんらしくてグッド。
 かけたネタは、シャッター商店街で不景気にあえぐ薬局の老夫婦が受け残りの商品を適当に混ぜて惚れ薬と称して売り出す……「ピンピンマン」はラジオデイズでもまだ聴いてないといいわと思ったら商品名は「ギンギラX」。別のネタかなとひっかかりつつも、老夫婦がB29の絨毯爆撃から逃げ惑いながら恋に陥ったという思い出話から、さえないサラリーマンの吉田君が受付のミドリちゃんに告白するに至るという目出度い話(白鳥さんらしく、オチにひねりあり)。
 終演後に張り出されたネタ表は「ギンギラX」になってた。ネットで調べたら、「ピンピンマン」を「ギンギラX」に改題したらしい。「ピンピンマン」は落語のネタのコンクールで優秀賞になったアマチュアの作品を白鳥さんが噺にしたものだったと記憶している。バージョンアップして改題したのかな?

 続いて登場した白酒さん。データベース見たら、どうやら自分は初白酒さんだった(汗)。すっと白酒ワールドに入れたので、初めてという気がしなかった^_^;。唯一「あれ?」と思ったのは「白鳥兄さん」の一言だけ(爆)。
 白酒さんもいう言う。「もう水戸黄門は見ない」とか「今度会ったら殴ってやる。国分を。目を覚ませといいたい」とか。
 そして「佐々木政談」。ブラボー、初めて聴くネタだよ。そして、南町奉行の佐々木信濃守が田舎侍に身をやつして世情を理解しようと街角を見て回ったところで出会った、ガキたちの奉行ごっこ。そこで奉行役をやった四郎吉くんの、こまっしゃくれて弁が立つこと。
 お奉行様がいたく感心して奉行所に呼び出して頓知合戦をするのだけど、これがまた堂に入ったもので、信濃守様は四郎吉が十五になったら近習に取り立てると約束したという目出度い一席。ぱちぱち。
 白鳥さんの毒舌とは同じようなことを言っていてもドライな感じな白酒さん、古典の噺も巧みで、今年はまたどこかで聴きたいと思った。

 中入り後は、『情熱大陸』で知名度を上げたミミちゃんこと三三さん。我ら柳派はネタにするまいと市馬師匠と約束したといいつつ、かけたネタの「鮑のし」で出てくる婚礼は海老名家のバカ旦那もとい若旦那(爆)、「そこには触れないはずだったじゃないかー」と自己ツッコミ入れて、「我慢できなかった〜」みたいな心の叫びが大受け。
 「鮑のし」もなかなか新鮮だったです。窮地に陥るとしくしく泣き出す、かわいい甚兵衛ん。おかみさんがしっかりもので素敵なのは三三さんらしいのだけど、なかなか覚えの悪い甚兵衛さんを我慢強くしつけるあたりがいいですし、ご隠居さんも「甚兵衛の扱いには一番慣れてる」と「おこらないから言ってごらん」と優しいところが新鮮。
 婚礼のお祝いに鮑を出された場面で高座を上がっちゃったので、「鮑のし」の聴きどころである魚屋の啖呵は聴けなかったけど、三平ネタをうまく入れ込んだ展開が今日限定でよかった。

 そして市馬『竹の水仙』。さすがに落語協会副会長ともなると、下手に三平ネタは入れない。代わりに、かつての彦六師匠が三平の名を海老名家に返したという逸話で彦六師匠を持ち上げ、彦六師匠の寄席での様子も描写。
 『竹の水仙』では、木曽の馬子唄で喉を聴かせてくれた。そして、同じ柳家ながら、喬太郎さんとはディテールが違う『竹の水仙』を堪能した。宿は鳴海なのは同じとして、竹の水仙を買い求めるのは肥後細川越前守、竹の水仙を求めて使いに来る侍は綿貫何とか(宿の主人は「おたぬき様」と言うところが、何となく『たぬき』の話芸が素晴らしい柳家小さんの弟子だよなぁと思う……そういえば喬太郎の「竹の水仙」では、この使者が切れやすい小心者だったなぁ)。
 左甚五郎ものは『ねずみ』にしても『竹の水仙』にしても聴き終わった後が爽快でいいよなぁ……まだ『三井の大黒』『四ツ目屋』は聴いてないけど^_^;。
 
 今日も堪能させていただきました。感謝!!



 
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