新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 よしながふみ原作『大奥』、映画版見てきました。

映画「大奥」公式サイト

 二宮和也ファンの方がいらっしゃったら申し訳ないのですが、主人公の水野を演じた二宮さんはビジュアル的にちょっとイメージが……あの困っている人っぽい眉と口元が、からっとした貧乏旗本の長男に合わないのです(汗)。

 一番楽しみにしていたのは千秋様こと玉木宏さんの松島(笑)。そして柴咲コウさんの女将軍吉宗、阿部サダヲの杉下、和久井映見さんの加納久通、佐々木蔵之介さんの藤波、といったところでしょうか。

 そして原作ファンとしては原作のイメージを壊さずにどこまで映画化できるかが楽しみであり、怖くもありましたが……グッジョブ。かなーり、いい感じに映画化されてました。

 ネタばれもあるので、以下、たたんでおきます。
 江戸検の受験票が来ちゃった……あっ、何も勉強してないっ(汗)。

岩手
竜馬の精神、地域に勇気 一関で全国ファンの集い
 全国の坂本竜馬ファンが集う第22回全国龍馬ファンの集い岩手一関大会(全国龍馬社中主催)は10日、一関市大手町の一関文化センターで開かれた。東北で開催されるのは今回が初めて。パネルディスカッションや岩手・高知両県知事による近江屋対談、大交流会には多くの市民が参加し、全国の竜馬ファンと交流した。

 全国龍馬社中(橋本邦健会長)の全国大会には竜馬ファンの40団体約200人が参加。橋本会長が「竜馬は眺めているだけではいけない。追い付き追い越すことに意義がある。今回は初めて知事2人が参加した。地域に何ができるか竜馬の精神で考え実行していこう」とあいさつ。次期開催地の高知市に大会旗が引き継がれた。

 全国大会に引き続き行われたパネルディスカッションには市民を含め約600人が参加。長崎龍馬会龍馬楽校の柴崎賀広(よしひろ)校長が「竜馬の死後、戊辰戦争が起きた。竜馬が生きていたら戦争のやり方は変わり、東北の農民が兵士に駆り出されることもなかったかもしれない。そういう意味で竜馬と東北の関係を考えた」と話し会場が沸いた。

 達増知事と尾崎正直高知県知事の近江屋対談は、5月の高知開催に続き2回目。

 前回確認した高知と岩手の頭文字を取った「KI(かい)援隊」交流連携について、達増知事は「両県共同の物産展や赤べこフェアの首都圏開催を企画していきたい。優れた地域資源を生かし県民の所得に結びつけなければならない」と強調。尾崎知事は「高知県は人口減少し経済規模が小さくなっている。地産地消にとどまらず『地産外商』を進めていきたい」と答えた。

 夕方から開かれた大交流会には「岩手の味」が並び、全国の竜馬ファンと一般参加者らが交流を深めた。また、前日に開かれた役員会では仙臺(だい)龍馬会の設立を承認した。

【写真=「四つの龍馬伝」と題し議論する(左から)坂本登さん、小美濃清明さん、柴崎賀広さん、片岡幸嗣さん】


宮城
斗南藩の歴史たどる 「先人の偉大さ痛感」 みやぎ会津会
 戊辰戦争後に移封された会津藩士らによって現在の青森県三沢市などに築かれた「斗南藩」の苦難の歴史をたどろうと、宮城県在住の福島県会津地方出身者でつくる「みやぎ会津会」が2日、「ふるさと訪問ツアー」として三沢市などを訪れた。
 会員15人が参加し、「斗南藩記念観光村・先人記念館」を見学。戊辰戦争後に会津から移り住み、1872(明治5)年に日本初の民間洋式牧場「広沢牧場」を開設した斗南藩士、広沢安任(1830~91年)の写真や刀、文献など、ゆかりの品々を見て回った。
 会長の須佐尚康東洋ワーク社長(福島県金山町出身)は「会津から見知らぬ土地に移り住んだ苦労は並々ならぬものだっただろう。先人の思いと偉大さを痛感した」と感慨深げだった。
 一行は青森県十和田市も訪れ、「十和田会津会」のメンバーと交流を深めた。
 みやぎ会津会は2008年に設立され、会員は約160人。会津藩ゆかりの地を巡り、会津出身者同士や地域間の交流活動を続けている。


福島
河野広中の遺品が一堂に/三春で企画展
 三春町出身で自由民権運動先駆者の河野広中が受けた勲一等旭日大綬章の勲章や河野家に伝わる名刀などを集めた企画展「遺品展」は、9日から12月5日まで三春町歴史民俗資料館内の自由民権記念館で開かれている。
 明治23(1890)年に第1回帝国議会が開かれて120年目を迎えるのを記念。
 昨年11月に広中の孫河野広明さん(千葉県松戸市)が町に寄贈した遺品約335点のうち50点を公開している。
 広中が愛用した筆やすずり、帽子のほか、大正天皇即位の儀式「大正大礼」の文書などを展示した。
 資料館内には、広中が戊辰(ぼしん)戦争時に着ていた陣羽織などもある。
 入場料は大学生・一般300円、高校生以下150円、時間は午前9時から午後4時までで、月曜日休館だが、祝日の場合は開館し翌日休館となる。
問い合わせは同資料館電話0247(62)5263へ。


58年の歴史初! 会津まつり藩校行列中止の裏で…
 会津まつりは、例年9月に行われ、「提灯行列」を皮切りに、「会津磐梯山踊り」「会津藩公行列」「日新館童子行列・鼓笛隊パレード」の諸行事が3日間に渡って繰り広げられる、会津の一大行事だ。

 メインイベントの「藩校行列」は、市民らが歴代の藩主や戊辰戦争を戦った白虎隊、娘子隊などに扮して、市内を行進する行事である。
 58年の歴史を持つ会津まつりであるが、会津藩校行列が台風の影響による大雨の為、58回目にして初めて“中止”となってしまった。
 しかし、会場には侘しいムードが漂うばかりと思いきや、雨天の中行われた「先人感謝祭」においてサプライズが待っていた。
 今回の出演者には1986年の年末時代劇スペシャル『白虎隊』において白虎隊士の一人、伊東悌次郎役で出演した、歌手・俳優の岸浩太郎が一般公募枠より参加し家老・田中土佐役としてゲスト出演した。
 岸は挨拶の席で、『白虎隊』並びに会津へ対する想いを述べると共に、劇中で白虎隊氏が壮絶な自刃を遂げるシーンにおいて、歌い上げた詩吟を実に23年ぶりに披露した。
 参加に際して、岸は「まさか、私のゲスト回に中止にならなくても…藩公行列において、岸の次席家老“田中土佐”を観て頂けなかったのが残念です」とのコメント。

(※伊東悌次郎:安政元年(1854年)生まれ。会津藩士・伊東左太夫の次男。白虎隊に入隊できるのは16、17歳の少年たちであったが、15歳の悌次郎は熱心に志願し、しかも身体が大きかったことから入隊を許された。飯盛山で自刃した19士の一人。
※田中土佐:文政3年(1820年)生まれ。次席家老として会津藩主・松平容保に仕えた。戊辰戦争では、主戦派のひとりとして新政府軍と戦い、会津城下の戦いでは甲賀口の守備を担当。このときの戦いで畳を銃弾を防ぐ壁にしてまで奮戦したといわれるが、重傷を負ってしまい、最期は同じく主戦派の家老である神保内蔵助と共に会津藩の医師・土屋一庵の屋敷で刺し違えたという。享年49。)


千葉
文化審答申:重文に「旧吉田家住宅」 主屋は1854年建造--柏 /千葉
 幕末に建てられ、下総地方の豪農の屋敷の建築様式を残す柏市花野井字原の旧吉田家住宅が、国の重要文化財に指定されることになった。国の文化審議会が15日、文部科学相に指定を答申した。指定は12月ごろの見通し。

 旧吉田家住宅は、主屋と書院、新座敷、長屋門など計8棟からなる。かやぶきの主屋は日米和親条約が結ばれた1854(嘉永7)年に建てられ、3間(げん)四方の居間や5畳の仏間など広い部屋が配されている。

 吉田家は43代続く名主で、04年に柏市に寄贈する数年前まで実際に人が暮らしていた。柏市は一帯を旧吉田家住宅歴史公園として整備し、昨年11月から無料公開している。市教委の友野雅和文化課長は「市民が柏の歴史を知り、親しめる場所として今後も保存・管理していきたい」と話している。

 国の重要文化財(建造物)は県内で計29件となる。【早川健人】


静岡
家康の遺徳をしのび 静岡・久能山東照宮で秋の大祭
 久能山東照宮(静岡市駿河区根古屋)で17日、秋季大祭が開かれ、合わせて弓道同好会「清康会」による、弓の神事、奉射大会が行われた。社殿が国宝に指定されることになったこともあり、県内外から多くの観光客が訪れ、建物や景色に見入った。
 幕末から明治にかけて活動を始めた清康会による奉射大会は今年で136回目。この日は15人が一人につき12射を行った。
 また、家康が幼少期に駿府(現・静岡市)で人質として暮らした臨済寺(同市葵区大岩町)の僧侶が訪れ、家康の遺徳をしのんで供養祭も行った。



京都
勤王隊列 最多168人 実った!時代祭地道なPR
 京都三大祭の最後を飾る時代祭(22日)で、先頭を行く維新勤王隊列に、今年は例年より約40人多い過去最多の168人が参加する。隊士を演じる中高生の確保が、少子化などでしだいに困難になる中、「幼い頃から関心を」と地元小学校で続けてきたPR活動が花開いた形だ。関係者は「例年以上に力強い行列にしたい」と意気込んでいる。

 隊列は、新政府軍と旧幕府軍が争った明治の戊辰(ぼしん)戦争で新政府に加勢した山国村(現・右京区京北地区)の隊士がモデル。笛や太鼓を演奏したり、鉄砲を携えたりした羽織袴(はかま)姿の80人の隊士と、役員ら計129人が例年の人員となる。

 隊士になると、祭の1か月前から連日、演奏の練習があるが、少子化に加え、部活動や塾などがあって集まりにくい状態が慢性化。7、8年前には応募が60人を下回り、過去の参加者に“応援”を求めて80人に近づける苦労が続いた。

 危機感を持った隊列の維持組織「平安講社第8社」が、2006年から地元小学校で衣装や笛などに触れる機会を設けたところ、応募者は増加に転じた。今年の隊士は、昨年より16人多い96人で、うち43人は初参加。ここに役員ら72人が加わる。衣装の不足分は、古いものをクリーニングするなどして補うという。

 隊士は、6節ある行進曲の練習に励んでおり、役員の太田興さん(48)は「広報活動が、今年になってようやく実を結んだ。学校を訪れると、実際に道具に触れた子どもたちの目が輝いているのがわかる」と話す。

 祭の行列は全体で約2000人で、市内の大学から募ったアルバイトも多い。宮野巳代次(みよじ)・平安講社副理事長(75)は「アルバイトの確保は、授業を欠席しにくいなどの事情から難しくなっており、地元からの参加が重要だ。第8社の取り組みは、ほかの講社にも参考になる」と話している。

(2010年10月16日 読売新聞)


和歌山
小梅日記:ゆかりの地を歩く 生誕地など50人が見学--和歌山 /和歌山
 幕末から明治にかけ日常生活を克明につづった「小梅日記」で知られる川合小梅(1804~89年)ゆかりの地を訪ねる「小梅日記ゆかりの地ウオーク」が16日、和歌山市内であり、地元の主婦や小学生など約50人が生誕地などを見学した。

 住民グループ「小梅日記を楽しむ会」(辻健会長)が主催。この日は、会が約1年かけて製作した「小梅日記ゆかりの地マップ」を手渡し、3時間余りかけて市内約4キロを散策。参加者は、市語り部クラブの山本隆造さんの説明を受けながら、小梅が度々まんじゅうを購入した和菓子店の「駿河屋」や、火縄銃を製造していた「出来助本店」などを巡り、明るくユニークな性格だった小梅の姿を思い描いていた。

 初めて参加した市内の主婦は「以前から参加したいと思っていました。マップは分かりやすくて便利ですね」と話していた。

 マップは、和歌山と海南、紀の川の3市67地点を抽出し、計15ルートの散策コースを紹介している。【山中尚登】


愛媛
幕末の蝦夷地図 初公開
「北海道」名付け親が作製 宇和島で30日、シンポも

「北海道」の名付け親で知られる幕末の探検家、松浦武四郎(1818~88)が作製した北海道の地図「三航蝦夷(えぞ)全図」が30日、所蔵する宇和島伊達文化保存会(宇和島市)によって初めて公開されることになった。公開に合わせ、武四郎と宇和島藩主・伊達宗城(むねなり)との交友秘話などを紹介する歴史シンポジウム(宇和島歴史文化研究会など主催)も宇和島市住吉町の市総合福祉センターで催され、関係者は「宇和島に伝わる貴重な史料を多くの人に知ってほしい」と来場を呼び掛けている。

 武四郎は三重県松阪市出身。少年時代から全国各地を旅し、28歳の頃から幕府に命じられるなどして計6回、北海道に渡った。

 3回目の渡航後に描いた三航蝦夷全図は昨年12月、保存会の所蔵品の中から見つかった。14枚の和紙をつなぎ合わせると、縦3・4メートル、横2・5メートルの北海道が描かれた1枚の図になるというもので、1854年のペリー来航の際、宇和島藩がペリーの動向調査を武四郎に依頼しており、この時に宗城に献上された。

 樺太(サハリン)や国後島、択捉島なども描かれているが、実測されたものではなく、北海道自体は縦に押しつぶしたようないびつな形になっている。しかし、宇和島歴史文化研究会や松浦武四郎研究会(北海道八雲町)によると、全国で7点現存している武四郎作製の蝦夷地図の中で、地名など詳細な凡例が自筆で添えられているのは、宇和島伊達文化保存会所蔵の1点だけという。

 地図は14枚のうち一部を30日正午から、武四郎の書簡などとともに総合福祉センターで公開。シンポジウムは同日午後1時から、「松浦武四郎の北海道と宇和島」をテーマに、松浦武四郎研究会の高木崇世芝(たかよし)さんや宇和島歴史文化研究会の近藤俊文会長らが秘話を紹介する。入場無料。問い合わせは同研究会の水野浩一事務局長(090・8970・6252)。




広島
老中阿部正弘の功績を紹介
 福山市西町の広島県立歴史博物館が16日、江戸幕府の老中を務めた幕末の福山藩主・阿部正弘(1819―57年)をテーマにした講演会を開いた。11月23日まで開かれる企画展「幕末の動乱と瀬戸内海」を記念して企画し、210人が参加した。

 明治維新に詳しい東京大大学院の三谷博教授(日本近代史)=福山市出身=が講演。日本に開港を迫る米国のペリーの来航や江戸城の相次ぐ火災など、阿部が老中を務めていた時代の状況を解説した。

 三谷教授は、阿部が自らの政策を途中で鎖国から開国に変えた点に触れ、「長期的な視点で日本の国益を考えた柔軟性と戦略性の高い判断」と評価した。

 企画展では、阿部が吉備津神社(福山市新市町)に奉納したと伝えられる「ペリー来航図」も展示。30日午後2時からは東京大大学院の安達裕之教授が「幕末・洋式船の登場」と題して講演する。

【写真説明】阿部正弘の政策などについて話す三谷教授(右)


幕末の動乱展 いろは丸の絵初公開 福山・県立歴史博物館
 瀬戸内海を舞台にした幕末111件期の事件や、ゆかりの人物を紹介する企画展「幕末の動乱と瀬戸内海」が15日、広島県福山市西町、県立歴史博物館で始まった。

 絵図や古文書などの史料約110点を6つのテーマに分けて展示している。坂本竜馬率いる海援隊を乗せ、同市鞆の浦沖で沈没した蒸気船「いろは丸」の絵は、県内初公開。長崎市歴史民俗資料館で展示されていた洋式船の記録書に絵があることが7月に確認され、話題になった。煙を上げて航行する姿が細かく描写されている。

 竜馬関連では、故郷の土佐への生涯最後の帰省を前に、土佐藩士に宛てた直筆の書簡も目を引く。

 新政府軍の長州藩と徳川幕府の譜代大名だった福山藩との和平交渉のやりとりを伝える古文書、福山藩の尊王(そんのう)攘夷(じょうい)派の重臣・安藤織馬が着用したとみられる甲冑(かっちゅう)など、郷土関係の史料も並ぶ。

 11月23日まで。一般700円、高校・大学生520円、小中学生350円。月曜休館。問い合わせは同博物館(084―931―2513)。


長崎
大浦慶所有の龍馬ら写真を初公開 あすまで長崎歴文博
 幕末の長崎で活躍した女性商人・大浦慶が持っていたとされる坂本龍馬の写真が15日、長崎歴史文化博物館(長崎市立山1丁目)で開催中の「実録・坂本龍馬展」(長崎新聞社、NHK長崎放送局主催)で公開された。公開は17日までの3日間限定。

 この写真は、大浦慶の縁者に当たる長崎市在住の個人が保管。昨年存在が明らかになり、県はことし8月、同時期に撮影されたとみられる洋装の男性の写真と合わせて250万円で購入。今回初めて公開した。

 2枚はいずれも名刺サイズ。龍馬の写真は、長府藩士三吉慎蔵が龍馬から譲り受けた写真と同じ構図で、体を左に向けて、いすに座っている。三吉家所蔵の写真に比べ画像がややぼやけており、長崎歴文博は龍馬暗殺翌年の1868年ごろに複写されたものとみている。洋装の男性は、類似の格好をした写真が残されている海援隊士沢村惣之丞の可能性があるという。

 観覧した山口県下関市の会社員、植杉祐哉さん(31)は「長崎で新たに龍馬の写真が見つかったとは知らなかった。龍馬ファンなので本物の写真を見て感動した」と話した。








 『薄桜鬼 碧血録』が始まって、週半ばに楽しみがひとつできました。

岩手
鋳物の里に歴史公園 奥州・水沢、幕末の名工顕彰
 奥州市の羽田地区振興会(佐藤建樹会長)が同市水沢区羽田町に整備していた水沢鋳物歴史公園の完成除幕式は14日、現地で行われた。公園は幕末の名工の屋敷跡に整備。歴史説明板などを設置し、鋳物産地をアピールする。

 関係者約40人が出席。鋳物で作った太鼓の音に合わせて、説明板が除幕された。

 公園は広さ約600平方メートル。仙台藩のお抱え鋳物師だった及川重右衛門の屋敷跡に整備した。説明板は水沢鋳物の歴史と重右衛門が製造した武器「坂本流大筒」を解説。公園整備中に発見された、江戸時代の鉄を溶かす溶銑炉「甑(こしき)」の貴重な断片も展示する。事業費は76万円。市が50万円補助した。

 公園整備は、4月に部分開通した県道工事がきっかけ。県道が及川家12代当主の宏也さん(73)の敷地内を通るため、分断された県道沿いの土地に重右衛門を顕彰する公園が計画された。土地を無償貸与する及川さんは「代々の土地を生かし、地域に恩返しがしたかった」と語る。

 公園には屋敷にあった樹齢約250年のイロハモミジなども残した。大筒の復元やあずまや整備も検討しており、佐藤会長は「先人の功績を伝え、鋳物の歴史や情報を発信する場にしたい」と語る。

【写真=鋳物の名工の屋敷跡に整備された水沢鋳物歴史公園】


企画展:幕末の長英と崋山 出会いから幕府弾圧 奥州で来月21日まで /岩手
 幕末を生きた奥州市出身の蘭学者・高野長英と三河国田原藩(現愛知県田原市)家老・渡辺崋山をテーマにした企画展「長英と崋山」が、奥州市水沢区の市立高野長英記念館で開かれている。両者の出会いから蛮社の獄による幕府の弾圧までを貴重な資料などで紹介している。11月21日まで。

 長英は洋学教師として田原藩に迎えられたことが縁で崋山と知り合った。その後、崋山らが結成した「尚歯会」に参加し、国内外の情勢を研究。ともに開港論を唱えたために幕府の弾圧を受けた。

 企画展では、崋山が挿絵を担当した長英の飢饉(ききん)対策書「救荒二物考」や、画家としても有名な崋山のスケッチ「囲碁の会」などが展示されている。佐藤玲子館長は「蛮社の獄後の2人の生き方は違うが、目指す所は同じだったことを知ってほしい」と話している。

 月曜休館。入館料は大学生以上200円。【湯浅聖一】



茨城
映画:『桜田門外ノ変』あす封切り ゆかりの地に観光客を 県などパンフ作製 /茨城
◇ロケセットに来訪続々
 幕末の水戸浪士による大老・井伊直弼暗殺事件をテーマにした映画「桜田門外ノ変」(佐藤純弥監督)が16日に全国300館の映画館で公開されるのに合わせ、県全域への観光客誘致の動きが高まっている。映画は地元の市民団体「『桜田門外ノ変』映画化支援の会」が主導し、県内17カ所で撮影。銀幕の中の風景を素材として広範囲で地域活性化を図る計画だ。

 JR東日本は、袋田の滝(大子町)などロケ地8カ所を巡るスタンプラリーの三つ折りパンフレットを6万部作製。首都圏の東京、水戸、大宮支社管内の駅に設置し、鉄道を使った観光を呼びかけている。秋の行楽シーズンと重なり、注目を集めているという。

 県観光物産協会と県は、ロケ地や水戸藩ゆかりの地に郷土料理を組み合わせたモデルコースを掲載した冊子(A5判32ページ)を6000部作り、県内の映画館などで配布する。

 4月から記念展示館に改装された千波湖畔(水戸市)のオープンロケセットへの来訪も封切り前に勢いを増し、今週末までに入場者が15万人を突破する見込みだ。4割が県外からで、福島県など近隣から大型バスを連ねてくる団体客もいる。観光客を案内する「歴史アドバイザー水戸」のメンバー、佐久間庸夫さん(77)は「事件は暴動であり、水戸の者にとってタブーだった。映画によって、当時の浪士たちの国を思う熱い気持ちを全国に伝えたい」と話す。

 国の補助金2500万円を元手に、県や水戸市など全県の支援を得て「支援の会」が発足したのは08年8月。市民向けの歴史や自然の勉強会、撮影に備えた料理教室を行う一方、09年から実際の撮影準備を開始。入場割引券などが付いた映画製作協力鑑賞券(2000円)を約5万セット販売した。

 「支援の会」の谷田部智章事務局次長(37)は、「映画は水戸が中心だが、県内のほかの地域でも勉強会などの自主的な動きが出てきた。上映期間中に多くの人にゆかりの場所に足を運んでもらいたい」と話している。【山崎明子】


群馬
高崎藩英学校 開校140年記念展 群馬
 尾崎行雄、内村鑑三らが学んだ高崎藩英学校が明治3(1870)年に開設されて今年で140年-。文明開化の新しい時代を切り開いた人々と教育の重要性を考える企画展「幕末維新の若者たち」が13日、高崎市上滝町の同市歴史民俗資料館で始まった。
 同校は、西洋の情勢を分析する語学力の習得を目指した当時22歳の知藩事、大河内輝聲(てるな)が創設。教科書として使われた図入り解説書など関連資料約45点を展示している。11月28日まで(月曜休館)、入場無料。問い合わせは同館(電)027・352・1261。



東京
[株式会社阪急阪神ホテルズ]
親子イベント 「古地図を持って、親子で江戸幕末・文明開化を知ろう!」 ~新橋編~

 第一ホテル東京(東京都港区新橋1-2-6 総支配人:西岡省造)では、阪急阪神ホールディングスグループで推進する社会貢献活動「阪急阪神 未来のゆめ・まちプロジェクト」の一環として、「親子イベント~古地図を持って、親子で江戸幕末・文明文化を知ろう~」を、2010年11月20日(土)において開催します。

 江戸から明治・大正・昭和へと歴史の変遷とともに大きく変貌した「新橋」地域について、江戸時代に作成された「古地図」を持って、地図に表記されている場所を探りながら、親子で歴史や史跡を巡ります。また、NPO法人江戸前21 理事長 清田和美さんによるガイド案内やレストランでのデザートをもご用意しております。

【イベント名】 「古地図を持って、親子で江戸幕末・文明開化を知ろう!」

【開催日時】  平成22年11月20日(土) 13:00~15:00

【料  金】  お1人様1,500円

【探索スケジュール】
 (1)虎ノ門御門跡
 (2)文部科学省内の掘割の復原場所
 (3)工部学校跡地
 (4)地図上の掘割を歩く
 (5)幸橋御門跡地
 (6)旧新橋停車場及びプラットホーム
 (7)旧新橋停車場鉄道歴史展示室(11/21まで日光道中-江戸の旅・近代の旅-展示中)
 (8)第一ホテルアネックス トラットリア「ラ・ハ゜ランツア」にて質疑応答など。

【ガ イ ド】  NPO法人江戸前21 理事長 清田和美様

【スケジュール】
  13:00 東京メトロ「虎ノ門」駅 虎の彫刻像前 集合 上記の探索コースをめぐる
  15:00 第一ホテル東京にて質疑応答-ティー・ケーキ提供 解 散

【対 象 者】  大人/小学校4年生~6年生のお子様

【募集人数】  15組30名 

【ご予約方法】 第一ホテル東京公式HPより


社告:葛飾北斎生誕250年記念 「富士と桜」展 長野・小布施の北斎館など /東京
◇長野・小布施の北斎館など3館
 江戸中期から幕末にかけて活躍した絵師、葛飾北斎の生誕250年を記念した特別展「『富士と桜』展-画狂人北斎と中島千波の世界」(北斎館主催、毎日新聞社など共催)が、長野県小布施町の北斎館など3館で11月23日まで開かれています。これを記念して、美術史家の永田生慈さんによる特別講演が16日に、日本画家の中島さんと小説家の高橋克彦さんによる特別対談が11月13日に、いずれも同町の北斎ホール(同町1491の2)で行われます。両日とも先着300人で無料。詳細は次の通りです。

 ▽特別講演「北斎・風景版画の本質-冨嶽三十六景を中心として」10月16日(土)午後2~4時

 ▽特別対談「歴史小説家高橋克彦・日本画家中島千波が語る北斎-江戸と現在」11月13日(土)午後1~4時

 《問い合わせ》北斎館(電話026・247・5206)


神奈川
112年前の日米交友の手紙、ジョン万次郎のひ孫大磯の中濱さんが秘話披露/神奈川
 幕末64件に偶然にも米国に渡って近代文明を学び、帰国後は同郷、土佐藩(現在の高知県)の坂本竜馬や岩崎弥太郎ら英傑に多大な影響をもたらしたといわれるジョン(中濱)万次郎。波乱の生涯を通して日米友好を願い続けた一人だ。万次郎のひ孫で作家の中濱武彦さん(70)=大磯町在住=の手元には代々伝わる一通の手紙がある。送り主は遭難した万次郎を救った捕鯨船船長の息子。「それでは両家にまつわる秘話を教えましょう」―。

◆渡米した初の日本人

 ジョン万次郎の人生はまさに波瀾(はらん)万丈だ。土佐の漁師見習いだった14歳のとき、しけに遭い、太平洋の鳥島に流れ着く。たまたま通りかかった米国捕鯨船のホイットフィールド船長に救われた。家族同様に迎え入れられた万次郎はマサチューセッツ州の私立学校を首席で卒業したといわれる。恵まれた生活だったが、鎖国下にあった祖国を憂い帰国を決意。嘉永4(1851)年、ペリーが開国を迫る2年前、琉球を経て10年ぶりに故郷の地を踏んだ。その後、米国に渡った初の日本人として幕府や藩に登用され、開国や日米友好を訴え続けた。造船、測量、航海などの先進技術や国際情勢も伝え、人材を育て上げる。

 「そんな万次郎が終生忘れなかったのが、ホイットフィールド船長や家族への恩義なんです」。時は明治に移り、新政府の命で、万次郎は通訳として渡米。1870年、公務の合間に同船長が暮らす懐かしの街フェアヘーブンを訪ねた。21年ぶりの再会は万次郎43歳、船長は65歳だった。町民が次々と集まり、お祭り騒ぎになったという。

◆最晩年に託した思い

 そして本題の手紙である。万次郎と同じく海を愛した三男、慶三郎は海軍省経理局の主計大尉になっていた。1898年、米国に初めて出張する際、老父からホイットフィールド家への手紙を託される。最後の再会から28年が過ぎていた。だが、慶三郎が事前に送った手紙には返事がない。約3カ月の滞在も終わりかけたころ、一通の手紙が届く。ホイットフィールド船長の長男マーセラスからだった。そこには郵便の遅配があったこと、父母は亡くなったが生前は万次郎を常に誇りに話していたこと、これを機に両家の友好を深めていきたいことなどがつづられていた。慶三郎はすぐに時間をつくり、米海軍の協力でマーセラスと対面を果たす。

 「このときに私の祖父慶三郎が捜し当てなければ両家は永遠に関係が切れていたかもしれない」。膨大な資料を基に万次郎の生涯を本にまとめてきた中濱さんは、そう感じている。日米が戦火を交える冬の時代も経て、両家の交友は5代にわたり続く。それだけではない。万次郎の故郷土佐清水市とフェアヘーブンは姉妹都市となり、今では短期留学制度も設けられている。「若い世代の異文化交流を残したことが万次郎の一番の功績ではないでしょうか」。中濱さんは曾祖父の冒険譚(たん)を満足そうに語り終えた。


福井
忠直没後350年でシンポ、浮かぶ新人物像 【2000年10月14日】
 暴君のイメージで語られがちな越前二代藩主・松平忠直の没後三百五十年を機に、忠直の復権を図ろうと「松平忠直卿の人間性に光をあてる」と題したシンポジウム(福井新聞社後援)が十四日、福井県福井市のフェニックス・プラザで開かれた。郷土史家らのパネル討論や脚本家・ジェームス三木さんの講演があり、忠直の藩主としての功績や、庶民に慕われた配流先の生活などを紹介、信仰心があつい人情家との人物像を浮かび上がらせた。

 シンポジウムは、同市内の歴史愛好家でつくる「松平忠直卿に光をあてる会」(山本照英会長)と同市歴史ボランティアグループ語り部(河合昭一会長)の主催。山本会長が「忠直の名誉回復を図り、後世に事実を伝えていきたい」とあいさつした。

 パネリストは忠直の配流地、大分市の郷土史家、柴田義弘さん、忠直の供養塔がある鯖江市の長久寺住職、橘照泰さん、同市立郷土歴史博物館学芸員の印牧信明さん、河合会長の四人。福井新聞社の岩永裕介取締役編集・論説担当がコーディネーターを務めた。

 河合会長は「忠直の”乱行”を記した資料は、うわさ話として書かれていることが多く、真相を伝えていない。忠直の家臣にあてた書状は優しさ、いたわりにあふれた文章で、こういう人物が暴虐な振る舞いをするはずがない」と強調。

 柴田さんは、大分では今でも「一伯さま」と慕われているとし、「茶道など文化に通じた教養高い人で、社寺への寄進を繰り返すなど信仰もあつかった。蟄居(ちっきょ)先が一度変えられたのは、幕府の監視人らが忠直の健康を気遣ったから」と話した。

 橘さんは「北陸道の難所だった鯖江市の旧鳥羽野を開拓し、宅地、耕地の無償提供や免税など善政を敷いた」と治績を訴え、印牧さんは大坂の陣の武勲や、幕末40件の福井藩主松平春嶽らによる赦免運動などを紹介した。

 パネル討論に先立ち講演したジェームス三木さんは「歴史をさかのぼることは新たな歴史づくりにつながる。忠直について地元で話し合うのは大切なこと」と話した。



京都
ここで龍馬の葬儀が… 東山霊明神社参道に石碑建立 京都
 坂本龍馬や中岡慎太郎などの葬儀が行われたとされる京都市東山区の霊明神社を広く知ってもらおうと、NPO法人「京都龍馬会」(同市中京区)が同神社の参道に石碑「幕末志士葬送の道」を建立し、13日、除幕式を行った。
 同会は約2年前から、龍馬ゆかりの地に石碑を建てる活動に取り組んでいる。これまでに龍馬の妻、お龍の実家跡(中京区)、龍馬とお龍が挙式した会場跡(東山区)などに建立し、今回が4カ所目。
 除幕式には約30人が参加した。石碑の文面を考えたNPO法人「京都歴史地理同考会」の中村武生理事長があいさつ。龍馬らの葬儀が霊明社(現霊明神社)で行われ、龍馬らの墓が東山招魂社(現京都霊山護国神社)で管理されるようになる前には霊明社所有地にあったとされることに触れ、「多くの龍馬ファンに、葬送の行われた参道や霊明神社を知ってほしい」などと話した。
 石碑は高さ約1メートル。龍馬らの墓が霊明神社から京都霊山護国神社に移された経緯などが書かれている。
 「京都龍馬会」の赤尾博章理事長(58)は「石碑を建てることで、正しい史実をより広く認知してもらえれば」と話している。


和歌山
たいまつで高める防災意識 16日に稲むらの火祭り
 わらに火を放って津波の襲来を住民に知らせたと伝えられる幕末から明治時代初めの実業家・政治家、浜口梧陵をたたえる「稲むらの火祭り」が16日夕、浜口の出身地の広川町で催される。町などでつくる実行委員会は、たいまつを持って町内1.7キロを歩く参加者を募っている。

 安政南海地震(1854年)が発生したとき、暗闇の中で津波に気づいた浜口は、たいまつでわらの束に火をつけて住民たちを高台へ導いたとされる。その後に大規模な堤防の築造を手がけた浜口の志を受け継ぎ、防災意識を高める催し。

 行列は午後6時にたいまつに点火し、町役場前の「稲むらの火広場」から1.7キロ離れた広八幡神社まで40分かけて歩く。たいまつは主催者が用意する。先着順。小学生以下(保護者同伴)は、たいまつの代わりに懐中電灯を持つ。申し込みは町民会館(0737・63・2295)へ。



広島
幕末の歴史ドラマ絵画で紹介<動画あり>
 広島県立歴史博物館の秋の企画展「幕末の動乱と瀬戸内海」(中国新聞備後本社共催)が15日、福山市西町の同館で始まった。明治維新へつながる幕末の歴史ドラマを広島、福山両藩の視点でたどる。11月23日まで。

 111点の文書や絵画を紹介する。1868年の鳥羽・伏見の戦いの直後、徳川幕府の譜代大名だった福山藩を倒幕派の長州藩が攻撃した際の和平交渉の記録は初公開となる。

 第2次長州征討で紀州藩が広島城から江波まで行軍する光景を伝える絵巻、坂本竜馬が最後に土佐へ帰郷した際に乗った広島藩船・震天丸の絵図などもあり、軍備を増強した幕末の緊張感を伝える。

 一般700円、高校、大学生520円、小中学生350円。月曜日休館。


幕末の和平交渉記した古文書
 幕末の鳥羽・伏見の戦いで圧勝した新政府軍の長州藩が、徳川幕府の譜代大名だった福山藩を攻めた1868(慶応4)年1月の戦いで、両藩の和平交渉のやりとりを記した古文書が見つかった。交渉での発言内容を詳しく伝える記録が確認されたのは初めて。

 古文書は和紙7枚をつなぎ、縦23・5センチ、長さ231・9センチ。両藩の発言を「福山言」「長人言」と台本のように記し、やりとりを生々しく伝える。

 福山藩が「徳川が朝廷の敵になったとは聞いていない」と訴えると、長州藩は「朝敵同然の徳川譜代の家へは通達がなかったのだ」と応じ、正当性を互いに主張。福山藩は「戦う力はない。戦いはお断り」とし、長州藩も「天皇は無益な戦いをしないのが国のためと申されており、長州藩と福山藩は国を思う心で同じ」と収拾する。署名はない。

 鳥羽・伏見の戦いから3日後、長州藩が福山城の北側から攻め入り、現在の備後護国神社一帯で銃撃戦となった。福山藩が朝廷への恭順を示したため、当日終結した。

 福山藩士の子孫の男性が5年前に福山市の実家で古文書を発見。同市の広島県立歴史博物館が鑑定した。15日から始まる企画展で初めて公開する。西村直城主任学芸員は「時代の波に翻弄(ほんろう)された福山藩の苦悩が読み取れる。幕末の郷土史に光を当てる貴重な史料だ」と話している。

【写真説明】和平交渉の内容を記録した古文書を解説する西村主任学芸員(撮影・増田智彦)



長崎
大浦慶所有の龍馬ら写真を初公開 17日まで長崎歴文博
 幕末の長崎で活躍した女性商人・大浦慶が持っていたとされる坂本龍馬の写真が15日、長崎歴史文化博物館(長崎市立山1丁目)で開催中の「実録・坂本龍馬展」(長崎新聞社、NHK長崎放送局主催)で公開された。公開は17日までの3日間限定。
 この写真は、大浦慶の縁者に当たる長崎市在住の個人が保管。昨年存在が明らかになり、県はことし8月、同時期に撮影されたとみられる洋装の男性の写真と合わせて250万円で購入。今回初めて公開した。
 2枚はいずれも名刺サイズ。龍馬の写真は、長府藩士三吉慎蔵が龍馬から譲り受けた写真と同じ構図で、体を左に向けて座っている。三吉家所蔵の写真に比べ画像がややぼやけており、長崎歴文博は龍馬暗殺翌年の1868年ごろに複写されたものとみている。洋装の男性は、類似の格好をした写真が残されている海援隊士沢村惣之丞の可能性があるという。
 観覧した山口県下関市の会社員、植杉祐哉さん(31)は「長崎で新たに龍馬の写真が見つかったとは知らなかった。龍馬ファンなので本物の写真を見て感動した」と話した。


長崎日米協会:会長に上田氏 鈴木氏は顧問に /長崎
 長崎日米協会の通常総会が12日、長崎市であり、NBC長崎放送の上田良樹社長を新会長などとする役員人事が了承された。前会長の鈴木一郎・鈴木商店社長は顧問となった。

 この日の総会では、今年度の事業計画案なども提案され、長崎出身で幕末に通訳として活躍した森山栄之助の記念碑建立に向け、長崎南ロータリークラブと連携する方針などが確認された。

 上田会長は「日米関係の安定が非常に大切だと思っている。私のできる限りの努力をしたい」などと語った。


熊本
屏風が変色 熊本市現代美術館で
 熊本市現代美術館は10月12日、屏風5点の変色について報告書をまとめた。変色したのは幕末の絵師金蔵(通称絵金)の屏風で、展示施設「絵金蔵」(高知県香南市)から借り受けたもの。
館は、防虫処理用薬剤について同美術館側の知識不足が原因だったとしている。



文化芸能
正面から幕末を描く気概 佐藤純弥監督「桜田門外ノ変」
 近頃の大河ドラマは随分ヤワになった。権力闘争より愛と友情に、主人公の強さより格好良さに重点を置くようになった。俳優のいでたちは現代的になり、偉人が今どきのイケメンにしか見えない。

 その点、佐藤純弥監督の新作は、幕末の大事件を正面から見据えている。まだオヤジのものであった往年の大河ドラマをほうふつとさせる。

 1860年、大老井伊直弼が江戸城桜田門外で水戸藩士らに襲われて絶命する。井伊の開国政策に対し、水戸藩主だった攘夷(じょうい)派の徳川斉昭の一派が弾圧を受けたためだ。映画は、襲撃に参加した関鉄之介(大沢たかお)を中心に、彼らが井伊殺害を決意する経緯から、次々捕縛されて刑に処せられていくまでを描く。

 しかしまあ古色蒼然(そうぜん)としている。侍はあくまで武骨に。女はあくまで控えめに。一種のアナクロニズムだが、現代的な発想や美意識を排する姿勢には共感を覚える。

 井伊暗殺に呼応して、薩摩藩が3千の兵を京都に送り込む手はずになっていた。ところが薩摩はいくら待っても挙兵しない。その間に暗殺実行者は追いつめられていく。このあたり、歴史のダイナミズムに満ちている。これは時代劇というより歴史劇である。

 ただし、大河ではありえないことをこの映画はやっている。襲撃場面で一面の雪景色におびただしい血が流れる。そして井伊の生首が掲げられる。テレビでは出来ない、映画ならではの場面である。

 茨城県の地域振興を図るための映画だという。確かに水戸藩士の純粋な心は痛いほど伝わる。しかし襲撃現場の鮮血と生首が、事の本質がテロリズムに他ならないことを無言で教える。そこには、地域振興を離れ、正義とテロの密接な関係を問いただす作り手の気概がある。(石飛徳樹)

 16日から全国公開。


コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(83)東大教授・山内昌之 高杉晋作(下) 主権損なう譲歩許さず
 高杉晋作は彦島を租借地に望んだ外国人の講和要求を断固斥(しりぞ)けたという説がある。司馬遼太郎の『世に棲(す)む日日』で有名になった逸話だ。英国のキューパー提督が賠償に加えて彦島の租借を要求した時、高杉はイザナギとイザナミの2神が日本国を創り、その子たる天照大神(あまてらすおおみかみ)こそ高天原(たかまがはら)を治め、天孫降臨によって世々その子孫が国を統治してきたと歴史神話を説いた。彦島の移譲などもってのほかというわけだ。
 キューパーを煙に巻いた話は、交渉の通訳を務めた伊藤俊輔(のちの博文)の回顧によっている(『伊藤博文伝』上巻、原書房)。高杉の拒絶にあった外国人が租借地要求に固執しなかったのは、どの国が彦島を管理するのかについて、足並みが乱れたからだという。しかし、伊藤の証言する事実は他の史料に見当たらず信憑(しんぴょう)性に疑問符も付ける人も多い。
租借地要求拒絶の信憑性
 とはいえ、彦島の担保(保障)占領という考えが4国の外交代表団にあったのは事実である。下関遠征の賠償金を長州藩に完済させるまで、そして海峡沿岸地が徳川将軍か代理人の所有に帰すまで、担保として占領するという構想にほかならない。公使団が各指揮官に交付した覚書(訓令)には、担保占領を要請する条項が入っていた。
 ところで史上有名な担保占領は、1923年にフランスとベルギーによるドイツの賠償支払い遅滞を理由としたルールの占領であろう。これは24年のドーズ案実施により解除されたが、もし彦島が占領されていれば、期間はルールの場合よりも長期化した可能性が高い。
 キューパーは日本にとって幸いなことに、ともすれば長州藩の完全屈服を狙ったオールコックと違い、手持ちの兵力では長州藩領を「永久には」占領できないと考えるリアリストであった。彼が彦島の担保占領に消極的だった点はサトウの日記や回想録からも知られる。キューパー自身も現有兵力での占領は得策でないと海軍省に報告を送っていた。それでも彼は、4国の一部艦船を残して関門海峡を監視する案を温めており、砲台建設の断念や講和の実現に向けて圧力を慎重にかける強硬策までを断念したわけでない。
香港、上海の現実見通す
 いずれにせよ、高杉晋作が宍戸刑馬と名乗り華々しくキューパーの領土割譲要求を斥(しりぞ)けたという事実は、キューパーやサトウらの証言からは確認されない。かといって、伊藤博文の言説が全否定されるべきだとは言えない。「不都合なこと」を外交記録に留(とど)めない場合もあるのだし、非公式な打診や威嚇を高杉が断乎(だんこ)拒絶した可能性も否定できない。
 高杉は、彦島を譲れば香港島のように英国の植民地になる危険性をよく察知し、下関が九龍のように外国や買弁の商人が跋扈(ばっこ)し独立主権を限りなく奪われることを見通せたからだ。
 なぜなら、高杉は文久2(1862)年に、阿片(あへん)戦争の南京条約で開港した上海の悲惨な現実をつぶさに見る機会があったからだ。彼は、上海が英仏の「属地」のようになり、中国人が頤使(いし)される現実に衝撃を受けていた。「支那人は尽(ことごと)く外国人の便役となり、英法(イギリスとフランス)の人街市を歩行すれば、清人皆避けて傍(かたわら)に道を譲る、実に上海の地は支那に属すと雖(いえど)も、英仏の属地と謂(い)ふもまた可なり」(「遊清五録」より)。日本人も中国を見舞った悲運に陥らないとも限らない。事件の本質は「支那の事にあらざるなり」というのである。
 高杉が第3回談判で強硬策を貫いたのは、あからさまな割譲要求でなくても、藩の主権を損なう領土への野心をキューパーらに感じたからかもしれない。そこで高杉は、藩士のなかには身命を賭(と)すことを意に介さぬ者も多く、士気も衰えていないと逆に4国艦隊の指揮官たちを恫喝(どうかつ)した。
 確かに、要求があまりにも法外ならば長州が屈服するよりも戦うという見立てはサトウの分析でもあった(萩原延壽『遠い崖2 薩英戦争』)。
 中国が今度の尖閣事案で日本を脅迫した手口は、パーマストン首相やオールコック公使の幕末砲艦外交の手口に酷似している。パーマストンは外相として阿片戦争を仕切り、日本を離れたオールコックは中国公使として“活躍”した。中国は自らを植民地化した英国の手口を外交史からよく学び、日本は高杉の勇気ある経験を生きた教訓とする意欲を失って久しい。
 菅直人首相は高杉贔屓(ひいき)を自負しながら、歴史哲学を政治外交の血肉としていない点で、歴史をいつも武器とする中国の攻勢にやすやすと屈してしまったのである。(やまうち まさゆき)






 コミックゼノンという雑誌が出るようで、その連載作品のひとつ。

『ちるらん 新撰組鎮魂歌』

 『天翔の龍馬』の原作&マンガのコンビで、土方さん主人公♪ ビジュアルは『天翔の龍馬』のポニテ土方さん以上に好みです(切りっぱなしヘアとつり目は『銀魂』土方十四郎に近いものがあります)。

 すでにコミックス化を楽しみにしておりますわん。
 ここしばらく、落語ライブの後の書き込みが優先で(脳内メモリが超短期でしか保たないもんで……)幕末ニュースはやや遅れがちですが、相変わらず土方さんラブでございます。『薄桜鬼 京都回想録』再生中^_^;。

宮城
幕末の東北、語り合おう 11日、仙台文学館
 東北の幕末を語り合う「トークライブ 幕末の仙台を語ろう 龍馬の時代のみちのく事情」が11日、仙台市青葉区の仙台文学館で開かれる。
 幕末に遣米使節団として世界一周をした仙台藩士・玉虫左太夫の子孫の山本三郎さん(仙台市青葉区)、作家の甲斐原康さん(若林区)、歴史作家の星亮一さん(郡山市)が話し合う。左太夫の生涯や新撰組の土方歳三が仙台に立ち寄り北海道に渡る歩みを語る。
 仙台市の出版社「荒蝦夷(あらえみし)」の主催。荒蝦夷の千葉由香さん(46)=宮城野区=は「幕末といえば坂本竜馬ら維新志士が有名だが、東北で活躍した人も知ってほしい」と話している。午後2~4時。入場無料。定員90人で要予約。連絡先は荒蝦夷022(298)8455。


東京
武州下原刀 八王子ゆかりの刀剣類48点を展示 福生市郷土資料室で9日から
 福生市郷土資料室(同市熊川、市立中央図書館内)は市制四十周年を記念し、九日から特別展示「武州下原刀(したはらとう)展II」を開催する。
 武州下原刀は室町時代末ごろから幕末にかけて、現在の八王子を拠点とした刀工集団「下原鍛冶」が製作した刀剣類。戦後、日本軍の武装解除の一環として連合国軍総司令部(GHQ)が各地で刀剣類を接収したが、その後に返還されたもののうち、一九九九年に文化庁から福生市に、下原刀を含む九十七点が無償譲与された。
 郷土資料室は譲与後に一度、展覧会を開いたが、今回はその第二弾として、研磨・修理などを終えた刀や脇指、槍など四十八点と、関連書物などを展示する。会期は十二月五日まで、月曜休館(祝祭日の場合は火曜休館)。入場無料。
 関連行事として、十月十六日午後二時から、中央図書館二階学習室で記念講演会「大石・後北条・徳川家の抱え工としての下原鍛冶」を開く。先着八十人。参加希望者は郷土資料室=電042(530)1120=に申し込む。
 同十日には多摩川で砂鉄集め、三十日には刀剣研磨の実演も行われる。


神奈川
横須賀沖に大量の砲弾?…ペリー艦隊投げ捨てか
 米海軍・ペリー艦隊の帆船が幕末、横須賀沖で座礁し、海に大量の砲弾を投げ捨てた――。

 神奈川県小田原市国府津の郷土史家、奥津弘高さん(59)が、米ワシントンの国立公文書館に残る同艦隊の航海日誌などに、こんな記述があるのを確認した。

 船を軽くして離礁するための苦肉の策とみられ、専門家は「日本船に助けられては威厳を損なうと判断したのでは」と分析している。

 同公文書館に残る航海日誌に、同艦隊の帆船マセドニアン号が1854年2月11日(嘉永7年1月14日)午後1時40分に座礁し、翌12日、船員が「砲弾を投げ捨てた」との記録がある。また、ニューヨーク公共図書館にある同艦隊の僚船の船員日記にも、座礁したマ号から「数百発の砲弾が海に投げ捨てられた」と記されていた。

 艦隊を率いるペリーにとって、当時、開国を果たせるかどうかの重要な局面だった。研究者の間では、マ号は僚船の助けを借りて座礁を切り抜けたことになっているが、座礁時に砲弾を捨てたという米側の記録が判明するのは初めて。

静岡
幕末の激動映す浮世絵77点公開 県立中央図書館
県立中央図書館は10日まで、収蔵品77点を公開する「幕末から明治の浮世絵展」を静岡市駿河区の同館展示室で開いている。幕末の激動を映した風俗画、躍動感ある役者絵などが並ぶ。
 展示作品は1936年、静岡市に住んでいた陸軍軍人の故上村順太郎さんから寄贈された「上村翁旧蔵浮世絵集」5100枚の一部。国民読書年にちなんだ事業の一環で、普段は閲覧できない浮世絵の名品を公開している。
 幕末から明治期に活躍した浮世絵師5人の作品が中心。大胆な構図で化け猫を描いた歌川国芳の「白須賀十右衛門と猫石の怪」や、月に関する逸話を題材にした月岡芳年の「月百姿」シリーズなどが存在感を放っている。


福井
橋本左内の遺徳しのび住民献花 福井で墓前祭
幕末に活躍した福井藩士で、25歳の若さで処刑された橋本左内の遺徳をしのぶ墓前祭が7日、福井市左内町の左内公園で営まれた。

 福井市民でつくる顕彰会が毎年開いており、左内が処刑された日に合わせて行っている。地元の足羽小6年生や住民ら約150人が出席した。

 法要は公園内にある墓前で行われた。地元住民が献花と献茶をし、読経の中、一人一人焼香し手を合わせた。続いて開かれた式典では、児童が左内をたたえる歌をささげた。左内が獄中で詠んだ歌も市民により吟じられた。


コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(82)「菅首相は尊敬する高杉晋作から決心と胆力を学んだのだろうか」 東大教授・山内昌之 高杉晋作(上) 
砲艦外交への対抗術
 「ごまめの歯軋(はぎし)り」という言葉がある。力のない者がいたずらにいきりたつことを意味する。中国は、尖閣諸島の海域や日中中間線で挑発を繰り返しながら、日本の反応をせいぜい「ごまめの歯軋り」にすぎないと高をくくっているのだろうか。中国の行為は砲艦外交につながる危険な挑発にほかならない。日本はアメリカ依存の気楽な外交安保政策を続けてきたせいか、国家のあり方を現実的に考えない人が政治家の中にも多い。
 その結果、人間なら当然もつ恥や屈辱という感情を忘れた人もいるようだ。さて、尖閣危機が進行し同胞が中国当局に拘束されている時、菅直人首相はいかなる気分で大相撲9月場所の千秋楽に姿を現したのだろうか。ハレの日ならいざ知らず、日本の主権と国民の安全が危険にさらされている瞬間、妙な笑いを浮かべて土俵に上がった首相に、国技館の観客から相当に厳しい野次(やじ)が飛んだ。各社調査の首相支持率急降下にも見られるように、良識ある国民は「ごまめの歯軋り」にも通じる怒りと無力感に苛(さいな)まれたのではないだろうか。
 菅首相はどうやら高杉晋作を尊敬しているらしい。しかし首相は、国の危機に発揮すべき決心と胆力を本当に高杉から学んだのだろうか。
 高杉に限らず幕末の長州人最大の危機は、元治元(1864)年に第1次幕長戦争と4国艦隊の下関砲撃の試練を同時に迎えたことだ。
  
意表を衝きハッタリも
 英仏蘭米の連合艦隊は、長州の攘夷(じょうい)断行への報復として下関砲台を攻撃した。英国公使オールコックは長州藩の本拠たる萩や山口の攻撃も念頭に置いており、「一撃」に留(とど)めて作戦の限定を図ったとは到底言えない。最近の保谷徹氏の研究でも確認されたように、本国のラッセル外相はオールコックの冒険主義に批判的であった(『幕末日本と対外戦争の危機』吉川弘文館)。
艦隊のアームストロング砲と長州の青銅製滑腔砲(かっこうほう)では勝負にならない。4国陸戦隊のライフル(施条銃)と長州藩の滑腔銃の性能にも天と地の差があった。事実、長州の負けっぷりは潔いほどだった。8月8日の第1回講和談判に姿を現した全権使節の宍戸刑馬(ししど・ぎょうま)は、素直に敗北を認めて講和を望んだ。家老宍戸備前の養子とは真っ赤な偽り、その実、正体は高杉晋作にほかならない。首席家老は「えらいひと」(The Great Man)なので外国人も納得するはずだという高杉らしい茶目っ気や人をくった諧謔(かいぎゃく)心があったのかもしれない。礼服の大紋や「黒い絹の帽子」に身を固め純白の下着も見事だったと、英国公使館の通訳アーネスト・サトウは日記に書き留めた(萩原延壽著『遠い崖2 薩英戦争』朝日文庫)。
 外交は意表を衝(つ)く駆け引きの応酬でもある。高杉は虚仮威(こけおど)しのハッタリも忘れないのだ。尖閣の不法行為を正当化する中国の虚実交えた攻勢は、虚とハッタリの部分をよく弁(わきま)えて対応すれば、菅政権もあれほど周章狼狽(ろうばい)しなくてすんだはずだ。
  
弁明押し通す度胸
 意表を衝かれたのは4国の指揮官たちである。高杉の姿は西欧人たちにも威圧感を与えた。「艦上に足を踏み入れたとき、かれは悪魔のように傲然(ごうぜん)としていた」というのだ。しかし彼が、その後に「おどろくほど態度をかえ」るのは、攘夷派のリーダーとはいえ政治リアリズムの洞察力に恵まれていたことを意味する。
 もちろん練達の英国外交官サトウは何やら胡散(うさん)臭い気分を醸しだす正使に不審を感じ、武鑑をひもとき宍戸刑馬の養父宍戸備前なる人物が見当たらないと、刑馬が来ない2回目の談判時に問いただした。父の名前を間違うとは養子にしてもおかしいという英国側の言い分は笑える。
2回目の長州藩の使節は、宍戸美濃は備前と改名、引退して家督を刑馬に譲ったのだから少しも妙でないと、これも人を食った弁明ぶりなのだ。高杉たちの図太(ずぶと)さと度胸は砲艦外交に直面しても変わらず、それは舞台となった彦島をめぐる領土割譲の「逸話」に関連しても発揮された形跡がある。(やまうち まさゆき)
                   ◇
【プロフィル】高杉晋作
 たかすぎ・しんさく 天保10(1839)年、長州(山口県)萩生まれ。藩校明倫館、吉田松陰の松下村塾に学び、英才として知られた。文久2(1862)年、藩命で上海に渡り、太平天国の乱を目撃して危機感を深める。帰国後、英国公使館焼き討ちや奇兵隊の創設など尊皇攘夷運動に奔走。藩論を倒幕に統一し、慶応2(1866)年の第2次長州征討では幕府軍を各地で破るが、肺結核に倒れ翌3年死去。27歳だった。
●=魚へんに單



文学
佐藤賢一さん:長編小説『新徴組』刊行 沖田総司の義兄と庄内藩の重役描く
◇敗者から見据える幕末
 佐藤賢一さんの長編小説『新徴組』(新潮社・2100円)が刊行された。幕末を敗者の側から描きながら、しかも時代が新しく開かれていく明るさを漂わせる力作だ。佐藤さんに新作への思いを語ってもらった。【重里徹也】

 西洋歴史小説のパイオニアとして知られている佐藤さんが日本史に挑むのは2度目だ。前の『女信長』(毎日新聞社)では、織田信長が女性だったという奇想を軸にして戦国時代を読み換えた。「次は幕末をやりたい」とずっと考えていたという。「戊辰(ぼしん)戦争には故郷の庄内地方が深くかかわっているんですね。これを書くとっかかりを探していました」

 そんな折、山形県庄内町にある清河八郎記念館を訪れ、新徴組に沖田総司の義兄の沖田林太郎がいたことを知った。清河は尊皇の志士で、幕府の浪士組結成に参加。やがて、浪士組は京に残った新選組と江戸に帰った新徴組に分かれる。新徴組は江戸の治安や警備にあたることになり、庄内藩預かりとなる。

 今作は、この新徴組の沖田林太郎と、庄内藩の若手重役の酒井吉之丞を中心に、江戸から庄内へと舞台を移しながら、幕末・維新の激動期を描いている。

 「酒井吉之丞は藩の重臣の家に生まれ、神童と呼ばれた人物です。戦が天才的にうまく、結核のために早く亡くなったこともあって、一種、伝説的な男です。ローカルでは人気のあるキャラクターを、何とかメジャーにできないかと考えました」

 林太郎と吉之丞の内面が深く描かれる。林太郎については、妻の弟である総司との葛藤(かっとう)や、息子との関係に力点が置かれる。イデオロギーや志よりも家族を大事にしながら、運命に流され、薩長と戦わざるをえなくなった姿が妙に温かい。一方、吉之丞は血を吐きながら、最新の設備を持ち、西洋の近代的な訓練で鍛えられた強い軍隊をつくり上げる。そして、筋を通しつつ、庄内の人々にとって幸福な道を探る。

 「初めにこういう人物にしようというのがはっきりとあるわけではなく、書き進めるうちにキャラクターができ上がっていきます。一人一人の心の動きを丁寧に追いながら、その積み重ねが歴史になっていくような小説を書きたいと思っています」

 さまざまな権謀術数が渦巻く政治情勢の中で、西郷隆盛の寛大な措置によって、庄内は救われる。「西郷の度量の広さなのか、したたかなクレバーさなのか。巨大な人物で、今後もじっくりと考えたい課題です」。近藤勇や土方歳三が登場するのも楽しい。

 現在、フランス革命を描く大長編を執筆している。ヨーロッパを舞台にするのに比べて、地元の歴史を描くのは、土地勘があって取材はしやすいし、史料は豊富だし、やりやすい面が少なくなかったという。

 『新徴組』の中では、庄内藩の人々は<頑固だが、頑迷ではない>という言葉が特に印象的だった。「人物たちを歴史の中で泳がせているうちに、おのずと土地の持つ風土性も立ち現れてくると思うのですね。無理に人格をつくるのではなく、歴史の実像を示すことで、この土地の人々の姿が浮き彫りになればいいと思い、書き続けました」

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 ■人物略歴

 ◇さとう・けんいち
 1968年、山形県鶴岡市生まれ。代表作に『王妃の離婚』(直木賞)、『二人のガスコン』など。現在、全12巻の『小説フランス革命』が刊行中。同市在住。

 佐藤賢一はフランスを中心とした西洋史を舞台にした作品が多いんだけど、初期作品には『ジャガーになった男』とか日本史を題材にした作品もある。戊辰戦争で西軍に敢闘した庄内藩を題材にしたフィクションだし、読んでみたいな。

エンターテインメント
黒乃奈々絵「ピスメ鐵」6巻発売、京都&渋谷でサイン会
黒乃奈々絵「PEACE MAKER 鐵」の5年ぶりとなる単行本6巻が11月10日に発売となる。これを記念し、11月14日にアニメイト京都で、11月20日にSHIBUYA TSUTAYAにてサイン会が開催される。

サイン会に参加するための整理券配布方法は会場によって異なる。アニメイト京都では「PEACE MAKER 鐵」6巻通常版を全額内金にて予約した人に先着順で配布中。限定版は対象外となる。一方SHIBUYA TSUTAYAでは、発売日の11月10日午前10時より「PEACE MAKER 鐵」6巻限定版を購入した先着120名に配布。電話での予約は関東地方以外の遠方の人のみ受け付けるとのこと。

「PEACE MAKER 鐵」は、両親の仇を討つため新撰組に入隊した少年の活躍を描いた「新撰組異聞 PEACE MAKER」の続編。月刊コミックブレイド(マッグガーデン)にて連載されていたが2005年より休載。2009年秋より携帯コミックサイト「ブレイドα」にて連載を再開している。

なお同日発売となる6巻限定版には、オリジナルドラマCDが付属。キャストはアニメ版と同じで、アニメイト限定版にはボーナストラックとしてキャストトークも収録される。

黒乃奈々絵サイン会

日時:2010年11月14日(日) 13:00 / 14:30
場所:アニメイト京都

日時:2010年11月20日(土) 13:00
場所:SHIBUYA TSUTAYA

 お、あの油小路の続きが読めるんだ。

日曜劇場『JIN-仁-』がカンヌMIPCOMバイヤーズ・アワード受賞!
現在、世界的な国際テレビ番組見本市MIPCOM(ミプコム)が開催されているフランス・カンヌで、昨年10月に放送されたTBSの日曜劇場『JIN-仁-』(2009年10月11日~12月20日毎週日曜よる9時)が、カンヌMIPCOM・バイヤーズ・アワードに輝いた。

カンヌMIPCOM・バイヤーズ・アワード(MIPCOM Buyers Award for Japanese Drama)は、国際見本市を運営するリードミデム社が、国際ドラマフェスティバル・イン・東京との連携で主催。フランスなど欧州各国やオーストラリア、UAEなど12ヶ国からの審査員が、民放各局のエントリー作品から「世界各国の番組を購入するバイヤーが最も買いたい日本ドラマ」を試写の上、項目別に審査、最も高い総合点を獲得した作品に贈られる賞。カンヌで行われた審査会では『JIN-仁-』について、医者が「サムライ」時代にタイム・スリップするという日本的コンセプトや、現代と江戸時代の丁寧な描写が高く評価された。

授賞式は、見本市初日のオープニング・パーティーで行われ、各局エントリー作品紹介後、受賞作の発表があり、受賞したTBS関係者に記念の楯が贈られた。登壇しスピーチを行ったTBSテレビ・新田良一メディアビジネス局長は「このような素晴らしい賞を頂き感謝している。このドラマは医師である主人公がタイム・スリップする物語だが、医療技術のレベルに差はあってもいつの時代も"人間の愛"は変わらないというのが大きなテーマ。番組というものは国境・民族・宗教を超えてお互いを理解するのに大きな役割を果たしていると思うが、『JIN-仁-』を世界中の皆さんにご覧頂き、この"愛"を感じていただけるよう心から祈っている」と挨拶し会場の喝采をあびた。

『JIN-仁-』はこれまでに国内外で25以上の賞を受賞しており、先月行われたソウルドラマ賞ミニシリーズ部門・優秀作品賞に続いての快挙。
『JIN-仁-』は幕末の江戸へタイム・スリップしてしまった脳外科医・南方仁が満足な医療器具も薬もない環境で人々の命を救っていき、その医術を通して坂本龍馬、勝海舟、緒方洪庵ら幕末の英雄たちと交流を深め、いつしか自らも歴史の渦の中に巻き込まれていくという超歴史スペクタクル&SFヒューマンエンタテインメント。村上もとか原作で集英社「スーパージャンプ」に掲載されている。

TBSは海外への番組販売に40年間にわたり積極的に取り組んでおり、これまでに数百タイトル、数千話に及ぶTBSの良質なドラマやアニメ、バラエティー番組などを、累計で世界120ヶ国以上に販売している。すでに『JIN-仁-』も全世界的に販売しており、TBSは放送局としてだけでなく「コンテンツ・プロバイダー」としても世界におけるプレゼンスを増している。





 無念……仕事で遅くなって「居残り佐平次」聞き逃した(;O;)。

「居残り佐平次」談笑

中入り

「品川心中」談笑

別冊付録『談笑に訊け!』聞き手 広瀬和生


 幇間もすれば、客の投資運用の相談にも乗る、女郎の化粧にアドバイスもすれば、三味線や都々逸だけじゃなくお寝間の指南までしてしまうスーパーコンサルタント佐平次が好きなんだよぉ。

 だから談笑版「居残り佐平次」「品川心中」のセットは広瀬さんありがとうコンボだったんだけど、「品川心中」後半だけとは……とほほ。

 でもでも、「品川心中」後半だけでもハッピーにさせられた。オリジナルの「品川心中」はすれっからしの女郎が人のよい男を騙した挙げ句……という噺なんだけど、談笑版はうらぶれた遊郭の片隅に咲いた小さな恋の花みたいになって、後味がいい。そして、ちょこっとだけ登場するスーパーなあの人が、また、いい味出してる。

 何となく、三谷幸喜の映画のラストシーンを見ているような気分になった。そうそう、人をおとしめない描き方とか、ウィットとユーモアがあるラストシーンとか、似てるんだよな。

 9時15分回ってましたが、さらに広瀬さんとの対談までもとサービス満点。談笑さんが改作に込めた思いとか、制作秘話を聞けるのがとってもお得。

 来月は「小言幸兵衛・改」「寝床・改」「堀之内の釘」がセットということで4作分ぐらいのボリュームがあるらしい。

 さらに12月は「文七元結」「芝浜」のセットだなんて。

 平日夜に海浜幕張から下北沢は正直きついです。でも、談笑さんの独演会の中では、これが一番楽しみになってきた自分、来年も続くらしいと知って大拍手です。






 「紅葉坂の佐平次」の次の談春、何たって大ネタの「九州吹き戻し」。開幕早々に出囃子の「鞍馬」、今日もまた前座なしで長講二席ですね。

 「まさか予備知識なしで来たとか、今日が初談春なんてお客様はいないですよね。疲れたらいつでも帰れるように、客席を暗くしておきましたから」と軽口。

 談春さんにしてはちょっと長めのマクラ。

 「九州吹き戻し」はネタおろしが家元が楽屋にいる高座だったとか(CDに収録されているアレでしょうか)。家元が「あいつ何やってんの」前座「九州吹き戻しです」家元「えええっ」みたいな舞台裏だったとか。でも今日は言わなかったけど、家元のお墨付きがCDに収録されているんですよね。

 3年に一回ぐらいかけているネタだけど、かける場所を選ぶ。地方で「九州吹き戻し」かけて慣れないお客さんをげっそりさせるわけにもいかない。で、にぎわい座にしたけど、てっきり来月だと思っていた。あわてて昨日一日でさらったので、間違えるかも知れない、と。いやいや、こういう追い詰められた時の談春師こそ、勝負強さが出ると思うんですよ。むしろ期待しちゃう(笑)。

 さらに小ネタ。談春さんが談志家元のピンチヒッターで頼まれて、鶴瓶さんと市馬さんと三人会に出た。どういう順番にするか、じゃんけんで決めて、自分が前座さんの次に出て「お札はがし」をかけた。楽屋の鶴瓶さん、「じゃんけんで勝っておいて、トリがかけるような噺をやる奴があるかいな」みたいな。さらに、談春さんの前座たちに、談春さんの何の噺を聞いて弟子入りする気になったか聴いてみた。こはるちゃん「九州吹き戻しです」(すごっ)。春樹くん「包丁(とか何とか、難しいネタだった)」春太くん「慶安太平記です」……と、談春一門は大ネタばかり。市馬さんのとこの市楽さん「……牛ほめです」(笑)。さらに、鶴瓶師匠の前座さん「……やさしさ」って、落語ネタかいな? と、長めな助走。「始めてしまうと、引き返せなくなるから」みたいなことを何度か言ってましたね、今日の談春師匠は。




 で、19時5分ぐらいから始まった「九州吹き戻し」が中入りに入ったのが20時10分頃(計算上は65分)。15分の休憩を挟んで20時25分から始めたのが、何と「宿屋の仇討ち」。はねたのが21時15分で、談春さん「遅くなってごめんなさい」と観客に頭を下げた……って、二本目も50分の長講じゃないですか、いったいどんだけタフなんですか談春師匠はっ(汗)。

落語あらすじ千字寄席 九州吹き戻し


 「九州吹き戻し」、CDで何回か聴いてますが、素人ながら「こなれてる〜」と思いました。肥後で江戸屋に拾われて八面六臂の活躍を始める「北里〈きたり〉喜之助」を「肥後のいのどん」と表現し、「へ〜い!」と居残り佐平次のサービスをしたり。「紅葉坂の佐平次」がいまだに記憶に残る自分には、とっても嬉しいサービスでした。

 途中で脱線気味に『赤めだか』のドラマ化や映画化を全部断ったというエピソードを語ったり。脚本家が本来やるべきプロットの構想をしない原作付きのドラマ化は楽し過ぎで受け容れられないという談春さんらしい断り方とか。好きな役者を出していいと言われても、家元に役所広司とか中井貴一とかは違うと思う、中村屋とか志の輔兄さんとか思ったけど急がし過ぎて無理だと思ったって……志の輔さんが談志家元を演じるのを、ちょっと見たかったかも(志の輔さんが過労で死ぬから無理・苦笑)。

 それにしても、すごい長編。

 江戸のちょっとした商家の若旦那に生まれた喜之助が遊び上手で、誘われているうちに両親の残した財産を使い尽くし、借金を踏み倒して江戸を出奔し、わずかに残った金を元手に日本全国を旅して回り、金が尽きたのが肥後の熊本。そこで懐かしい「江戸」屋の提灯が目に入って、無銭飲食覚悟で飛び込み、翌朝挨拶に来た主人が江戸時代に顔見知りだったとわかる。ここまでで3分の1ぐらい。

 そこからは心を入れ替えて働き始めた喜之助が、調理はもちろん、幇間さながらに座を持ち上げ、三味線を弾いたり歌ったり、掛け取りもすれば、昼間は子供たちに手習いや三味線を教えたりと、一生懸命働いて「肥後の文化人」に仲間入りしてしまう。3年で給金以外に100両の心付けがたまり、江戸屋の主人がもう100両がんばってためたら肥後に店を持て、暖簾分けしてやるから親戚づきあいしよう、と破格の待遇。ところが、100両の金を得て、江戸にも戻れる、義理の悪い借金も返せるとわかった途端に江戸への里心が募り、江戸に帰りたくてたまらない。親方の背中を流す時もはばかりに行く時も「江戸」を思い出させる有様で、江戸屋の主人もあきらめ、奉加帳を回して20両を集めてくれた上に、路銀の足しにと5両を差し出してくれた。これらの人々の気持ちをありがたく思うものの、江戸が恋しい喜之助は出発前日から気もそぞろで、旅支度も調えて、思いあまって夜中に江戸屋を旅立つ始末。ここまでで3分の2。

 肥後の城下を通り過ぎ、灯りを見つけて立ち寄ったのが江戸行きの大きな荷船のたまり場で、水夫〈かこ〉たちと意気投合し、彼らが船頭とかけあってくれたおかげで船にこっそり乗り込むことができた。ところが、その船が大時化に遭い、すさまじい暴風雨……砂浜に打ち上げられ、助かったと思ったら目の前に見えるのは桜島。肥後から江戸に向かっていた喜之助、江戸に急ぐ余りに大時化に吹き戻されて鹿児島へ。そこから肥後に戻って江戸屋に駆け込んだ始末。

 それだけ命がけの大冒険をしたんだ、大した話だと言ってくれる江戸屋の主人に喜之助が返す一言がオチなのだけど、ほんとスペクタクルな話ですよね。特に、噺家が消耗する残り3分の1に、台風の場面が来るわけで。

 談春さんが「肥後の佐平次」と表現するように、喜之助は江戸屋の主人やお客様や水夫や船頭に愛されるところがありますね。ただ、決定的に違うのは、佐平次は「居残り」という犯罪を成立させるために行動している悪人〈それも魅力的な悪人〉であるのに対して、喜之助は江戸屋で無銭飲食こそしようとしますが、悪人ではないんですよね。もともと江戸のちょっした商家の若旦那だったという人柄の良さがあるし、仕事のない時間に近所の子供たちを集めて手習いや三味線を教えるのも金欲しさという意地汚さというより手持ち無沙汰を紛らわすためという雰囲気が感じられるのです。

 大スペクタクルなお噺でした。お疲れ様です、師匠。

☆★☆★

 って、中入り後は「宿屋の仇討ち」なんですかっ(大汗)。

 これがまた、面白い。

 マクラにちょこっと「志の輔兄さんみたいな噺をする」とか何とか言って、30秒ぐらい「でなんでございますよ」と志の輔口調だったかな。

 でも、「宿屋の仇討ち」、志の輔さんバージョンだったら、万事世話九郎と築地の三人組の間で振り回される宿屋の伊八が「あーあーあーあー(なんでこうなるの?)」というところが眼目だと思うのですよ。

 談春さん版は、確かに伊八は振り回されているけど、江戸の魚河岸三人組のはじけっぷりとか、万事世話九郎の迫力とか、伊八以外のところが面白い。清六が尻文字で「清ちゃんのせの字はどう書くの〜♪」とかやってたり、相撲の取り組みの描写とか、源ちゃんの色事師噺に入れ込むリアリティがすごいんだけど実は両国の居酒屋で酒飲んでた時に背中で聞いた客の話の受け売りだったとか。やっぱ、ちょいワルを描かせたら談春師はぴか一ですよ(^^)。

 万事世話九郎の武士らしい迫力がぎりぎりまで続いて、最後の最後、ぎりぎりのところでとぼけるところも素晴らしい。

 ごちそうさまでした。来月の「二階ぞめき」、チケット前売り取れません〜(>_<)。何とかしたいのですが。




 

 今日は窓を開けていると秋らしい風が足下をすうすうと吹き抜けていきます。気持ちいい。

宮城
幕末志士描写2様/仙台在住の2人が新刊
 仙台在住の2人の筆者がこのほど、異なる視点で幕末を描いた本を書いた。大河ドラマ「龍馬伝」のブームもあり、注目を集める幕末。筆者に、それぞれの本に込めた思いを聞いた。(松本紗知)
 『戦塵(せん・じん) 北に果つ―土方歳三戊辰戦始末―』(学研パブリッシング/税別1500円)で、新撰組(しん・せん・ぐみ)の一員、土方歳三とその周辺の人々とのかかわりを通して幕末を描いたのは、仙台市若林区の甲斐原康さん(63)。京都に始まり、江戸、宇都宮、会津、仙台と北上し、箱館(北海道函館市)で生涯を終えるまで戦い続けた土方の生き様を浮かび上がらせた。
 「土方は魅力的な男。どんな侍よりも侍らしい」という甲斐原さん。土方は、気に入らない者はすぐに切り捨てる冷徹な側面もあったという。「彼の周囲にいた人は、土方をどう見たのか。切られた人間の目からみて、土方はどう映ったのか」。土方を主人公とはせず、周囲の人々を軸に描いた。
 甲斐原さんが執筆活動を始めたのは5年ほど前。本作で第15回歴史群像大賞優秀賞を受賞した。「文学は祈りだと思う」という甲斐原さんは「それぞれの人の命を物語で描いてあげたい」と小説に込める思いを語る。
 一方、同市青葉区の山本三郎さん(74)は、遣米使節団の従者として幕末に世界一周をした仙台藩士、玉蟲(たま・むし)左太夫の旅日記「航米日録」を現代語訳しつつ解説コラムを加えて『仙台藩士幕末世界一周 玉蟲左太夫外遊録』(荒蝦夷/税別2100円)としてまとめた。山本さんは玉蟲の玄孫にあたるため、コラムには裏話もふんだんに盛り込まれている。
 玉蟲ら使節団が渡米して今年で150年。「玉蟲の日記には、歴史の表に出てこない武士の本音が表れている」と話す山本さん。1人の武士が異国で感じた純粋な驚きの数々が、幕末を身近に感じさせてくれる。
 問い合わせは学研パブリッシング(03・6431・1507)、荒蝦夷(022・298・8455)へ。10月11日には両氏と作家の星亮一さんが幕末の仙台を語るトークライブが仙台文学館(同市青葉区)である。要予約で、問い合わせ・申し込みは荒蝦夷まで。


栃木
宇都宮の歴史スポット:ボランティア団体が紹介マップ 土方歳三訪問の地など /栃木
 宇都宮市のまちづくりボランティア団体「宇都宮プライド創造ボランティア 歴史歩き隊」が幕末の宇都宮の歴史スポットを紹介するマップを完成させた。戊辰(ぼしん)戦争の激戦地の一つだった宇都宮城のエピソードなどもちりばめ、歴史好きをもうならせる仕上がりになった。

 歴史歩き隊のメンバーは宇都宮市在住の男性4人。中心市街地に観光客らを呼び込もうとマップの作製を思いついた。女性にも人気がある新撰組副長、土方歳三が旧幕府軍として訪れた場所や当時の戦いの様子なども紹介されている。

 江戸時代の宇都宮城下の復元図も掲載。歴史的な見どころのほか、カフェや和菓子店、レストランなども案内した。徒歩やバスで回るお勧めコースは所要時間約3時間半という。マップは3000部。宇都宮城址(じょうし)公園と宮カフェで手に入れることができる。【中村藍】


長崎
【動画】実録・坂本龍馬展が開会 長崎歴文博、きょうから一般公開
 幕末の志士坂本龍馬の遺品や手紙などを一堂に集めた企画展「実録・坂本龍馬展」(長崎新聞社、NHK長崎放送局など主催)の開会式と内覧会が1日、長崎市立山1丁目の長崎歴史文化博物館であり、龍馬ゆかりの貴重な品々が報道陣と関係者に公開された。一般公開は2日から。

 同展はNHK大河ドラマ「龍馬伝」に合わせて企画された過去最大の龍馬展。東京、京都、高知を巡回し、長崎歴文博が最後の開催地となる。

 内覧会では、長崎で撮影した懐手にブーツ姿の写真のガラス原板(9~11日の限定公開)など約200点を公開した。愛用の刀、カステラのレシピも書き込まれた海援隊の雑記帳「雄魂姓名録」(重要文化財)など大半が県内初公開。誕生から暗殺まで龍馬の波乱に富んだ生涯を豊富な資料で実感できる。

 開会式には招待客ら約220人が来場した。「龍馬伝」主役の福山雅治さんの母校、長崎市立淵中のブラスバンド部が演奏。関係者がテープカットをして祝った。

 11月3日まで。観覧料は大人1200円、小中高校生700円。2日は午前10時から、京都・霊山(りょうぜん)歴史館学芸課長の木村幸比古氏の講演「龍馬暗殺の真相」などがある。

 ◆陸奥役の平岡さんもテープカット

 「実録・坂本龍馬展」の開会式には、「龍馬伝」で陸奥陽之助(宗光)役の俳優平岡祐太さん(26)が駆け付け、あいさつとテープカットをしてムードを盛り上げた。

 龍馬伝主役の福山雅治さん(41)と同じ芸能事務所に所属。「ドラマでも演技についていろいろ助言を頂いた」。5月の長崎市ロケでは市亀山社中記念館を訪ね「長崎は志を見つけた重要な場所」と感じた。

 「展覧会は本物ばかり。龍馬が陸奥に書いた手紙を見て感動した。ドラマもすごく感動するラストになっている」とさわやかな笑顔を見せた。2日は午前9時から同館である「わたしの龍馬フォト&メッセージ」表彰式に出席する。


佐賀
「海揚がりの陶磁」展開幕
龍馬ゆかりの磁器片も

「いろは丸」から引き揚げられた磁器片
 「海揚がりの肥前陶磁―海に残された有田焼」展が1日、有田町の町歴史民俗資料館で始まった。福岡県岡垣町の海岸に漂着した焼き物を集めた昨年度の企画展「海揚がりの有田焼―筑前芦屋浜を中心に」に続く第2弾。幕末、瀬戸内海で沈んだ坂本龍馬率いる海援隊の用船「いろは丸」から引き揚げた磁器片も展示している。

 18世紀以降、国内でも広く使われるようになった肥前磁器は、筑前商人らによって伊万里から船で各地に運ばれた。今回は北海道から鹿児島まで、28か所の海で採集された難破船の積み荷や漂着物などを集め、肥前陶磁の流通経路や広がりを紹介している。

 展示品は、中国、タイの焼き物などを含む約680点。明治新政府に抵抗し、北海道・江差沖で沈没した旧幕府軍の旗艦「開陽丸」の調査で見つかった日用食器もある。

 アジア水中考古学研究所との共催。11月30日まで。会期中無休。入場無料。

(2010年10月2日 読売新聞)


コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(81)東大教授・山内昌之 児島惟謙
「我攻め」と司法の屈服
 尖閣諸島沖の不法漁船長をめぐる中国の無理無体な要求に驚き怒りを感じるうちに、「我攻(がぜ)め」という言葉を思い出した。どんなに犠牲を払っても無理やりに城を落とす戦法を指す。通常は無理押しや傍若無人を意味する言葉だが、『広辞苑』第6版にも載っていないのは不思議だ。人員の損耗を無視して正面から攻めると犠牲が出るのは当然である。
 中国は、日本相手には人権や外交儀礼を無視しても我攻めに徹すれば、勝敗を早く決せられると改めて確認したはずだ。河北省でフジタ従業員を事実上の人質にとった手段は、我攻めに搦(から)め手や糧道の攻撃を組み合わせた戦術であるが、民主主義国家ではありえない手法である。
 こうした脅迫は今後も繰りかえされる。政府や財界人は、中国にレアアースや市場を頼りながらウィン・ウィンの関係だと楽観的に信じてきた論理が、主権侵害の事実を前に破綻(はたん)する危険性を直視し対中戦略を再構築すべきであろう。
 那覇地検による漁船長釈放の決定理由には、日本国民の利益や日中関係の将来を配慮したとあったが、もとより一地検の判断ではない。当然、最高検との協議で決まったことである。検事総長には法務大臣などを介して首相や官邸の意志が伝えられていたことも、多く指摘されている。今回の事案処理は、司法と行政と外交との入り組んだ領域で進められたが、司法の独立性や自律性の観点から多くの問題を残したことは否めない。
この点で思い出されるのは、明治24(1891)年にロシア皇太子のニコライ(後のニコライ2世)が大津市で警備中の巡査、津田三蔵に斬(き)りつけられ負傷した大津事件である。首相の松方正義ら政府首脳は、旧刑法116条の皇室罪の適用を主張し極刑に処すことを求めた。強大な軍事国家たる隣国ロシアは、日本の安全保障に最大の脅威を与える存在であり、“恐露病”と揶揄(やゆ)されるほど政府首脳はロシアを刺激すまいと細心の注意を払ったからだ。
 ◆皇室罪適用は「汚点に」
 しかし事件直前に大審院長(いまの最高裁長官)に就任した児島惟謙は52歳の若さながら、三権分立の理念を説き、皇室罪の適用が帝国憲法を損ない裁判史に「汚点」を残すと考えた。法で裁くという信念から政治介入を排除した。「法の尊厳と裁判の独立」の堅持こそが「国家の自主性を確保する道」だという理由である。外国皇太子に対する傷害事件には皇室罪でなく謀殺罪を適用すべきだと部内をまとめ、津田に謀殺未遂罪による無期徒刑を宣告させた。
 面白いのは、大津事件を告発した大審院検事総長の三好退蔵の対応である。のちに大審院長にもなる三好は児島と反対に「皇室に対する罪」により死刑に処すべきものと論告求刑した。これは三好が伊藤博文に引き立てられた点を別にしても、究極的に国家や体制の損壊を恐れる検察には外交にあたる政府と利害の共通性も見られることを意味しており、尖閣事案に対する今回の検察と政府の対応を考える上で興味深い。
 確かに児島が司法権の独立維持に貢献した点は高く評価されてよい。この点では、現在の菅直人政権への世論の厳しさと違って当時の日本人はもとより、欧米列強からも司法の自律性という近代国家の原理を守った実例として評価されたのである。宇和島藩に生まれ長崎で坂本龍馬や五代友厚(ごだい・ともあつ)とも交わった勤皇の志士上がりの児島には、薩長何するものぞという気概もあったに違いない。
 ◆裁判官判断の独立性侵害も
 しかし、司法権の独立とは行政府や立法府からの自律性を指すだけでない。個々の裁判官の独立した判断の尊重という点も大事なのである。児島は司法権を外部の干渉から守った半面、部内を自らの判断でまとめるあまり、審理にあたる裁判官の判断の独立性を侵した面もないだろうか。
 検察なら一体の原理で上級庁の判断に従うメカニズムが働く。検事総長が決断すれば意志が統一されるのだろう。しかし、問題は法務大臣を介して首相や官房長官の意志が検察首脳に伝えられたとき、政府機構の一部を構成する検察庁の長が“指揮権の発動なき指揮権”を受けたと感じるのか否かという点ではないか。
 不法漁船長の釈放問題は、“現代の大津事件”として国益と法との関係や如何(いかん)と多面的に議論すべき性質のものだった。そうならなかったのは、“現代の児島惟謙”もおらず、首相が小粒にすぎて内外での緊張感に堪えられる胆力を持ち合わせなかったからであろう。(やまうち まさゆき)

【プロフィル】児島惟謙
 こじま・いけん 天保8(1837)年、宇和島(愛媛県)生まれ。遊学先の高知・長崎で坂本龍馬らと交友、脱藩して倒幕運動に参加。維新後司法省に出仕、名古屋裁判所長などを経て大審院長。大津事件で罪刑法定主義と司法権の独立を守り抜いた。大審院判事らの花札賭博事件で辞任後、衆議院議員などを歴任。明治41(1908)年、71歳で死去。


 TBS落語研究会の定席チケットを友人に譲って、自分は談笑さん独演会へ。

TOKYO FM半蔵門寄席~談笑来襲!お得な3席パックにイラサリマケー!
3席+「イラサリマケー」の、豪華4席!

一、金明竹
一、時そば
一、イラサリマケー

~仲入り~

一、芝浜


 談笑さんの鉄板ネタばかりが4席ですから、これは行くしかない。

 しかも、去年の暮れに「芝浜が聴きたいかも」と「芝浜」を聴き始めて落語にずっぽりはまった自分、初めての生「芝浜」が談笑さん……いきなり応用編かいって感じですが、そこはそれ、三木助から家元、白鳥「千葉浜」も談笑「シャブ浜」も押さえての初ライブですから。

一、「金明竹」

 二番太鼓の後、19時ちょうどに開演を知らせるブザーがビーッと鳴るのはちょっと興ざめでした(汗)が、ちょっと長めに寄席囃子「野球拳」が流れて、談笑さん登場した時には気持ちが切り替わりました。

 談笑師匠、毎日のウォーキングのせいかさらに引き締まって男っぷりが上がってます。しかも髪を黒に近い色に染め直したのが、お似合いです。

 ひとしきり、時事ネタ。うまい具合に(苦笑)中国とか北朝鮮とか、談笑さんお得意のマクラネタが充実している昨今ですから、けっこう長め。4席もこなすというのに、こんなにマクラもやって大丈夫ですかという感じですが。

 津軽弁「金明竹」。談志家元に受けた二大ネタのひとつだと解説が入ったのは、次の「時そば」のマクラでした。北に行くほど受けるネタだそうです(2000人を収容する青森のホールで演じた時は特に大受けだったのだけど、聞こえたヤジは津軽弁で「何言ってるのかわからねぇぞー」という意味のことだったらしい^_^;)。

 iPodでヘビロテしている談笑さんレパートリーのひとつ「金明竹」ですが、今日はCD版に比べて時間をゆったり使ってました。相変わらず「SN」先生と実名を入れてましたね。

 ずっと音源だけで聴いていたので、こういう仕草が入るのかーという発見が沢山ありました。加賀屋佐吉方の仲買いの弥一の使い、大事なことはメモしなさいとか、とっても暖かい人柄なんですよね……言葉が通じないだけで(爆)。

 音源版に比べると全体にゆったりだったけど「坊主が屏風に、その屏風の向こうに……」と繰り返して「これ、何でしょう?」ってところはカットされてましたね。全体の時間の配分かと思います←そういうことを考えながら鑑賞する客って、嫌な奴かも知れない(汗)。

 NHKでかなり圧縮された談笑版「金明竹」を視聴した後だったので、たっぷり聴けて満足です。

一、「時そば」

 わーい、陰々滅々した「時そば」(爆)。家元が聴いて受けた談笑版だそうです。

 自分は白鳥版の「トキそば」と談笑版「時そば」と昇太版「時そば」をヘビロテしているので、実はオーソドックスな「時そば」よりバリエーションの方を好んでいるのかも知れません。

 音源版では実在の店舗をけなしまくるのですが、今回はなかったですね。前半の蕎麦屋よいしょ男の蕎麦の喰い方(3回目からうどん風になる)は音源では仕草がわからないのて「蕎麦だよな?」とダメ押しするのに客席がどっと沸く感じがわからなかったりしたのだけど、やはりライブはいいですねぇ。

 十六文の蕎麦をごまかしている様子を見ていた男が、どこか腑に落ちず、勘定を払う場面を指折って再現する場面のバリエーションの多さに笑ったり。

 おっ母さんを亡くしたばかりの陰々滅々した蕎麦屋さんが、訊かれずとも亡き母の思い出話とかに暴走し、客をおろおろさせる場面に笑ったり。

一、「イラサリマケー」

 お得な3席のおまけネタとしては、美味し過ぎる「イラサリマケー」。「居酒屋」のバリエーションですが、トラディショナルな居酒屋と思って入ったら威勢よく「イラサリマケー」と迎えられる店ってリアル感と、「オスメスエロエロ」なメニューのそれぞれの正体を把握するまでの会話が面白い(下ネタ満載だけど女性客の皆さんも遠慮なく笑ってます。自分は女性同士で談笑さんの噺を聴きに行くほどくだけてませんが・汗)。

 「ゆびくらい」の後、「てさばき」で師匠がうっかり地名を言っちゃったところで自爆感がありましたが、それもまた落語のライブ感でしょう。

一、「芝浜」

 中入り後の一席。「ねぇ、起きてよ」と女性が男性をゆさゆさすると「うーん、もう少し寝かせてくれよ。トラックが」みたいな反応で、家元に封印されている「シャブ浜」かと反応した客が拍手(自分も拍手)。でも、それは夢で、古典の「芝浜」の世界に。

談笑さん自身が改作版の解説を公開している。談笑さんは自分の改作を他の落語家さんが演じてもいいですよと言っているからなぁ。
古典落語の名作『芝浜』を大改編!

 魚勝さんと女房の会話は、かなり現代的(ケンイチとカズエにかなり近い)。魚勝が商売に身が入らず酒浸りになるきっかけが、3年前に親方が亡くなって、親方存命中にはちやほやしてくれた河岸の商人たちが嫌がらせをしたり陰口をきいたりすることに嫌気が差したからだった……という設定が入って、立川流の近未来になるかも知れないみたいな解説(うーん、笑っていい箇所か迷った)。

 上記の解説版では、勝っつぁんが荒れ出したのは昨年親方が亡くなった途端に河岸で嫌がらせをされるようになったという設定になっているが、今回版では親方が亡くなって「三年前」になっていた。家元亡き後の立川流になぞらえるくすぐりが入っていたけど、笑えない自分(苦笑)。

 そして、談笑さん版らしいところは、四十二両拾って浮かれた勝っつぁんが女房に勧められて酒を口にする場面で早くも「よそう、夢になるといけねぇ」という黄金のサゲ台詞を口にしてしまうところ。「げげっ、これかから女房が金を拾ったことを夢だったと言いくるめるのに、この台詞をもう口にしていいのかっ」と焦らせてくれます。

 3年後の魚勝夫婦、借金取りから逃げ回っていた年越しを思い出す。掛け取りを絶妙なやりとりで追い返してくれた「市馬の旦那」(笑)に感謝しつつ、「でもなんであんなに歌いたがるんだろうな」に爆笑(歌いたがる市馬師匠の「掛け取り」も今年中に聴きたい!)。

 途中で涙があふれて止まらなかった。去年の暮れに心身ぼろぼろな時に「……落語でも聴こうか。暮れだったら、確か『芝浜』だったな」と聴き始めて落語にはまり、落語で笑ったり泣いたりしているうち、気がつけば心身も生活環境もV字回復していた。その約1年の泣き笑いを洗い流すような涙だった。

 iPhoneに入っている「芝浜」だけでも、三木助、志ん生、小朝、小三治、談志、談笑(「シャブ浜」と「芝浜」)、志ん朝、白鳥(「千葉浜」)。あと文楽のも聴いたと思う。同じ演目を一番多くの咄家で聴いているはずだ(志の輔、談春、市馬で聴いてないのがちょっと残念)。それぞれに味わいがあり、良さがある。

 女性の聴き手としては、勝つぁんを嘘で言いくるめて更正させることへの後ろめたさもまったくないのは嫌だし、夢だというのは嘘だと知った勝っつぁんが女房を殴ったりするのも聴きたくない。談笑版は、百八つの鐘を聴きながらの最後の場面は若干長いなと思うものの、女房の人物造型については今を生きる聴き手に納得感を持たせる工夫がある。

 前半はわんわん沸いた客席が、クライマックスではしーんとしていた。自分としては今年の高座のベスト3に入りそうな印象。

☆★☆★

 前回の「月刊談笑」がよかったので、次回の「品川心中」「居残り佐平次」のチケットを押さえたのに、出席しなければならない会議で半分は聴けないかも……しくしく。せめて佐平次だけでも聴きたい!








 
 Twitterやブログのせいで演目を知ってしまったんだけど、演目を知ってさらに期待が高まるのが志の輔らくごマジックですね。



1000人入るという圧迫感はなかったです。1階席の後ろから3列目という位置の割に見やすかったし。

一、「バールのようなもの」

 CDやDVDに収録されていない作品なので、楽しみにしてました。浮世根問のような形式なんですね、物知りの隠居さんに八っつぁんがあれこれ質問して、隠居さんがとんちんかんな答えでもって八っっあんを納得させてしまうという。

 私もニュースで「パールのようなもの」という言葉が気になっていたので、とっても楽しかったです。結局、「バールのようなもの」の正体はわかりませんでしたが……「女のような」は女ではない、「ダニのような」はダニではない、「肉のような味」は肉ではない、この辺りの小理屈は納得。でも「妾のような女」とは「妾でしょ」という女房の理屈はもっと納得。

 で、「バールのようなもの」とは、結局、何なんでしょうね(苦笑)。

一、「高瀬舟」

 音曲さんが7〜8人、舟に乗って演奏しながら通過するというご趣向。曲名はわかりませんが、京都の一条から十条まで読み込んで、十条から一条に戻る唄でした。

 で、森鴎外「高瀬舟」。抜き読みというのでもなく、志の輔演出を加えつつ、こういう演じ方をどう表現するのかなぁ。江戸時代が舞台なんだけど、何となくモーパッサンとか近代の小説の作品世界に通じる感じ。

一、「徂徠豆腐」

 前からライブで聴きたかった噺。食うにこと欠いて、豆腐屋さんの豆腐を代金払わずに食べた貧乏学者さんに同情した豆腐屋さんがおからを差し入れるようになるんだけど、豆腐屋さんが体調崩して寝込んだ時にどこかに引っ越していなくなってしまった。

 その豆腐屋さんが大火で焼け出されて商売も再開できずにいる時に、誰かの使いで来た鳶が十両差し出してくれた。それを使って生活しているうちに年が明けて、店が再建されたと知らされて行くと、貧乏学者さんが出世して再建したものだった。

 それが五代将軍綱吉の時代の儒学者、荻生徂徠。忠臣蔵の解説も入ったけど、その赤穂浪士たちに切腹を勧めるという進言をしたのは物語の7年後だったとか(苦笑)。この話では、将軍側用人の柳沢吉保に召し出されて出世したのだが、徂徠は豆腐屋さんの「生きた学問」に触れたおかげと感謝して、という話。

 豆腐屋さんと徂徠のかけあいも楽しく、また豆腐屋とかみさんのかけあいも楽しい(特に、かみさんの妄想が)。ハッピーエンドだし、聴いていて気持ちがすっきりする。

 ありがとうございました、師匠。また聴きにいまきす〜(^○^)。



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