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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
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昼の部は7割5分から8割の入りかな。2階席にブロックで空席があった。新作落語に極端にシフトした顔付けのせいか。でもガチガチの落語ファンばかりという感じでもなく、年齢層も広く、温かい雰囲気。

初天神/ぐんま

宗論/萬橘

死神/白酒
 昼の部組に入れられた白酒さんが毒舌を吐きまくる。夜の部に行くような人はこの時間帯は朝日名人会に行ってる、とか。
 色白で太って元気な死神なんて白酒さんの落語じゃないと出て来ない(笑)。すごい友達喋りで、だから内緒で特別に死神の秘密を教えてやるって説得力がある。圓生のとはまったく違う、でも白酒さんらしい死神。

あたま山心中/百栄

落語の仮面第一話 三遊亭花誕生/白鳥
 かつてはキワモノだった白鳥さんが「よってたかって」でトリを取り、「落語の仮面」で万雷の拍手を受ける。落語鑑賞歴10年を越える私が「時代が白鳥さんに追いついた」とも思う。

 夜の部は9割ほどの入り。古典落語ファンでしょう、でも年齢層広めだし、友達と誘い合わせて来たのであまり落語知らない人もいる感じ。それで1,000席のキャパがほぼ埋まるのだから、落語界としてはいいんじゃないかな。

阿弥陀池/じゃんけん
 兼好さんの二番弟子であるためか、寄席(私は落語協会の番組が圧倒的)ではあまり聴かないネタ。「新聞記事」というネタでは似たような展開を聴いたのだが、「天ぷら屋だけに」「揚げた/挙げた」に引っかけた噺。こちらは「阿弥陀が池」と「阿弥陀が行け」に引っかけた噺。

山田真龍軒/松之丞
 先日、お席亭が抜擢での真打ち昇進を落語芸術協会に打診したが否決されたって記事を読んだ記憶がある。うん、落語芸術協会は実力とか関係なく年功で決めるから抜擢ってやらないんだよね。。人気実力共にあって講談界に活気をもたらしている松之丞でも。。。
 一度落語をやってみたいと思い、「鮫講釈」を教えてもらおうと考えてネタを持っている師匠を探した。けど談春師には小言を言われそうな気がする。なので兼好師にさっき楽屋でお願いしたらふたつ返事だった(笑)。
 宮本武蔵が舞子海岸に差し掛かった時に絡んできた鎖鎌使いの虚無僧との戦いの一節。
 熱量が凄い。そして緩急の使い訳で引き込まれる。

風呂敷/兼好
 松之丞との楽屋でのやり取りを兼好さん目線で笑いに。この方は才知があって軽妙なのが持ち味。三遊亭一門のエースと言ったのは白酒さんだったかな。落語the Movieでも兼好さんの持ち味が出たネタで放映されていたのはよかったと思う(六尺棒とか)。
 「風呂敷」もいいね。

元犬/三三
 中入り後で前座もかけるネタを丁寧に、しかし面白く。三三のシロはお母さんと再会するので後味がいい。

らくだ/市馬
 うわー、嬉しい市馬師匠の「らくだ」。しかも市馬師匠のは残酷な匂いがしない(出刃包丁で亡骸の髪を適当に切るとか、菜漬けの樽に亡骸を詰め込む時に骨を折るとか、そういう場面をカットしている)し、口跡がきれいだから、安心感がある。落合の火葬場に間違って願人坊主を連れて行って放り込んでしまうというオチでもきれいに聴ける。

 

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開演よりちょっと遅れて入ったら、上がった天どん師匠とすれ違って「こんばんはー」って挨拶した。

もぐら泥/燕路
 途中からだったので聞き逃して残念。

太神楽曲芸/勝丸

祇園祭/菊太楼

花嫁の父/玉の輔

音楽/のだゆき

新浮世床/ちよりん
 「浮世床」を健康ランドで居眠りしていた女主人公(おばあちゃん)にして、美男大学生と……という展開に。おー、こういう女性落語もアリだな。

漫才/ホームラン
 時間短く切り上げたけど、毎度すごい。キレがいい。

落語の仮面 第9話/二人の豊志賀
 第8話から続いて、いよいよ、立川亜弓さんと三遊亭花ちゃんによる三題噺の本番。古典落語をベースにした亜弓さんと、落語から自由な立場で噺をつくる三遊亭花ちゃんと。
 そしてオチは、新作あるある。
 女性が大口開けて笑える客席っていいねー。『ガラスの仮面』知ってても知らなくても、落語家あるあるネタを知ってても知らなくても、ちゃんと笑えるみたい。もちろん、両方知ってる私も大口開けて笑ってた。

 そして、帰り際、はけてきた白鳥師匠とも顔を合わせる幸運。「今日はありがとうございました」と声掛けられた。
中入り後以降に入ると割引価格2,000円です。

保母さんの逆襲/粋歌

漫才/ホームラン

「落語の仮面」
第8回 高座への螺旋階段/白鳥
 飛ぶ鳥を落とす勢いの立川あゆみの独演会。新味を求める夢空間・土屋社長に三遊亭月影先生はオーディションを提案する。
 第一予選のテーマは三題噺。

 第二予選のテーマは「毒」。そしてオチの台詞は「これが私の切り札」……「ガラスの仮面」ファンなので大爆笑。

 これ以上は書きませんが、柳亭こみち師匠と神田紅師匠がいい味で登場します。
何だかんだで久しぶりの鈴本演芸場。何と2年ぶりでした。そして、「落語の仮面祭り」のせいか、客席は6:4から7:3ぐらいで女性多い(20代30代から70代まで世代広い)という奇跡のような。少数ながら寄席常連っぽい男性客と、これは凄く難しい組み合わせだけどやっぱ白鳥さんの「落語の仮面」シリーズ楽しみにして来てるのね。

太神楽曲芸/勝丸
久しぶり!/天どん
道灌/文蔵
粗忽の釘/馬石

マイナンバー〜お前はもう死んでいる/彦いち
マクラに白鳥さんねたぶっ込む(笑)
・トリでは江戸の風は吹きませんから。
・白鳥師匠に好きなタイプは「PUFFYの真ん中」

粋曲/小菊
壺算/花ごめ
 10日間日替わりで女性落語家が出演というのも、白鳥さんが女性向けにネタをつくってくれるという人脈のおかげです。落語界のダイバーシティ推進に貢献している白鳥師(笑)。
 おぉ、初めて聴きましたがこはるちゃんと同様に地声で男ばかりのネタをやれるのね。今後がますます楽しみです。

「落語の仮面」第5話 恋する宮戸川/白鳥
 三遊亭花ちゃんに破れて引きこもりになった立川亜弓さんが天性の備忘や演技力を捨てて恋する女を体当たりで演じることに開眼するという(笑)。はっぱをかける師匠は、立川談志亡き後に亜弓さんを預かった立川談春という設定。
 楽屋で亜弓さんを酷評しながら彼女の芸開眼に一役買うという役どころにきく姫姐さん。鈴本演芸場で亜弓さんと競う相手に昇太さん、喬太郎さん、白酒さん。もちろん内容はネットに書くなと言われております。大爆笑。
 第8話「高座への螺旋階段」第9話「二人の豊志賀」第10話「走れ元犬」もコンプリートしたいです。

この度の台風21号、また北海道地震により被災された方々にお見舞い申し上げるとともに、亡くなった方々にお悔やみを申し上げます。私が関西に住んでいた兵庫県尼崎市も台風により各地で停電が発生し、今もまだ現場で必死の復旧作業が続いている由。

宮城
戊辰戦争から150年 仙台藩の戦い足跡たどる
 幕末から明治維新に向かう混乱期に繰り広げられた「戊辰戦争」から今年で150年。政府軍に刃向かった「賊軍」と扱われてきた仙台藩の動向をまとめた「仙台藩の戊辰戦争」が地元の出版社「荒蝦夷(あらえみし)」から刊行されるなど、注目が集まっている。朝廷に敵対したとして“汚名”を着せられた仙台藩だが、改めてその足跡を見に行こう。

 戊辰戦争は慶応4(1868)年1月、京都市郊外での鳥羽・伏見の戦いに始まり明治2(1869)年5月の函館戦争(現在の北海道函館市)で終結する一連の内戦。新体制の確立を目指す新政府軍(薩摩、長州藩など)と、旧幕府軍(仙台、会津藩など東北諸藩は奥羽越列藩同盟を結成)が衝突した。戦いは新政府軍の勝利に終わった。

戦いに散った藩士

 仙台藩主、伊達家の霊廟(れいびょう)として知られる「瑞鳳殿(ずいほうでん)」(仙台市青葉区)の山道を行く。一角にひっそりとたたずむ「弔魂碑」があった。

 「仙台藩の戊辰戦争」の著者で郷土史家の木村紀夫さんは「初めて弔魂碑を訪れたときは雑草が生い茂り、国に殉じた藩士たちが仙台市民からも遠ざけられているようで気の毒に思った」と話す。

 碑は戦争で落命した仙台藩士など1260人と民間で犠牲になった多くの人々をまつっている。明治10(1877)年に伊達家と仙台藩士の子孫らの手で建立された。

 奥羽越列藩同盟の中で中心的な役割を果たした仙台藩。複雑な政治状況の中で翻弄され、多くの犠牲を払ったと同情的な見方をする意見も少なくない。

 同市観光課の担当者は「瑞鳳殿は伊達家の霊廟としてスポットを当てられることがほとんど。戊辰戦争150周年を機に弔魂碑を訪ねてほしい」と話す。

 その上で、「新政府軍と奥羽越列藩同盟という対立構図だけでなく当時の政治的状況にも思いをはせてほしい。歴史を再評価するためにも知識をつけるきっかけになってほしい」と碑の意義を強調した。

 仙台市博物館では10月26日~12月9日まで特別展「戊辰戦争150年」が開催される。


激動の人生歩んだ宮さま

 新政府軍の優勢で展開する戦い。同盟軍は後退を余儀なくされる。同盟の盟主と仰がれたのが輪王寺宮(りんのうじのみや)親王。明治天皇の叔父に当たる人物だ。親王は同盟の軍事総督を務めた。

 親王の仙台での暮らしぶりを知りたくなって、「仙岳院(せんがくいん)」に足を向けた。東照宮のほど近くにある寺院だ。江戸時代、承応3(1654)年に建立。以来、東照宮の別当寺として歴代藩主が東照宮を参拝する際などに身支度に立ち寄るなど藩にとって格式高い寺としてその任務をまっとうしてきたという。

 親王は仙岳院で戦局の悪化によって同盟が崩壊するまで約3カ月にわたり生活した。実際に親王が暮らした建物は現存していないが、そこで生活していたことを示す貴重なゆかりの品々を見ることができる。愛用の茶碗、硯(すずり)、印籠…。戊辰戦争後はドイツ留学、日清戦争出征、そして、台湾で死去…。激動の人生を歩んだ。

 住職の吉田真賢(しんげん)さん(58)は「時代に翻弄されたのが輪王寺宮。150年を迎え、改めてここで暮らしていた証しを見に来てほしい」と話した。

 節目の年に仙台藩の足跡をたどってみると、維新の英雄たちの陰に埋もれた歴史を掘り起こす機会になるかもしれない。
(東北総局 塔野岡剛、写真も)

 仙岳院 仙台市青葉区東照宮1の1の16。JR仙山線東照宮駅から徒歩5分。拝観は無料。(電)022・234・3986。

 瑞鳳殿 仙台市青葉区霊屋下23の2。地下鉄東西線「大町西公園」から徒歩15分、JR仙台駅西口バスプールから仙台市営バス「霊屋橋・瑞鳳殿入口」下車、徒歩10分。拝観料は一般550円。(電)022・262・6250。
福島
福島)世良修蔵ゆかりの長楽寺で戊辰戦争の展示会
戊辰戦争で新政府軍の拠点が置かれた福島市の長楽寺で、展示会「福島の戊辰戦争―幕末の動乱と福島藩」が開かれている。2日、多くの人が訪れて幕末の時代に思いをはせていた。

 長楽寺は会津藩を攻めるための奥羽鎮撫(ちんぶ)総督府軍事局が置かれた場所で、開戦の一因となった仙台藩士らによる総督府下参謀・世良修蔵殺害事件に関する資料を保存している。展示会では、世良が薩摩藩士・大山格之助に宛てた密書と見られる書簡や、世良が持っていたとされるミニエー銃など約40点が公開されている。

 曽祖母の法事で長楽寺を訪れた郡山市立明健中3年の小松朋佳さん(14)は「教科書に載ってあることが詳しく書いてあっておもしろい」と話し、興味深そうに展示を眺めていた。長楽寺とともに展示会を主催した福島市・市史編纂(へんさん)室の柴田俊彰さんは「150年前の福島が歴史の流れの中で揺れ動きながら、どのように近代国家へと向かっていったかを感じてもらいたい」と話していた。

17日まで。6日午後1時半か…
 以降は朝日新聞有料版にて。

東京
コラム展「錦絵で見る戊辰戦争」
今年は、1868年に起こった戊辰戦争から150周年。そこで、明治大学博物館では、コラム展『錦絵で見る戊辰戦争』を開催します。 ※常設展示室 刑事部門内の小規模な展示です。また、期間中に展示替えを2回行います。全点入れ替えますので、お目当ての錦絵がある方は展示期間内にお越しください。ご来館お待ちしております。<第一弾:2018年8月29日(水)~10月9日(火)の展示>『山崎大合戦図』照皇斎貞広画※ポスターに使用している錦絵です。ぜひ、展示期間内に実物をご覧ください!『東台戦争落去之図』惺々暁斎画『会津戦争紀聞』真匠銀光画『諸国武者八景函館湾』一魁斎芳年画


神奈川
企画展戊辰戦争と横浜の関わりを多角的に 民衆資料や「開港都市の明治元年」 歴史博物館と開港資料館で同時開催 /神奈川
 明治維新150年を記念し、戊辰戦争(1868~69年)と横浜の関わりをテーマとする企画展「戊辰の横浜」が、横浜市歴史博物館(横浜市都筑区)と横浜開港資料館(同市中区)で同時開催されている。両館による連携企画で、新政府軍と旧幕府勢力が戦った戊辰戦争について、横浜との意外なつながりを多角的にひもとくことができる。

 横浜市歴史博物館は「名もなき民の慶応四年」と題し、戊辰戦争時の横浜を、民衆らが書き残した資料で明ら…
 以降は毎日新聞有料版にて。

佐賀
明治維新と唐津藩(6) 大野右仲新選組・土方の右腕
唐津市近代図書館美術ホールで開催している特別企画展「唐津藩と明治維新―小笠原長行と長国、維新と戦った男」は、九州で初めて本格的に新選組関係の資料を展示したこともあってか、多くの新選組ファン、特に10代から20代の若者たちの来場が見られます。

 企画展では箱館新選組に入隊した唐津藩士大野右仲(おおのうちゅう)にもスポットをあてています。一時期は新選組のトップの頭取として、五稜郭政府樹立後は陸軍奉行添役として、土方歳三付きの副官として共に戦い、土方の最後の命令や亡くなった状況を『函館戦記』に記した人物で、『函館戦記』の草稿や豊岡県時代に権参事を務めていた際の政令等の写しなどを展示しています。

 特にあまり知られていませんが、明治27(1894)年から明治29年にかけて、久敬社の幹事(監事。管理・運営責任者)を務め、寄宿する唐津出身の学生たちの育成に努めています。

 この時期に刊行された『久敬社誌』を見ると、右仲は学生たちにも非常に慕われ、久敬社で集会等が行われた際、右仲がたびたび講演を行っていましたが、ほとんどが戊辰戦争の話をしたと記されています。内容について記されていないのが残念ですが、明治20年代後半になっても、戊辰戦争は右仲にとって、さまざまな意味で一生大事にしたい事象だったと考えられます。

 また、右仲から『函館戦記』(原本)を借りて学生や久敬社役員たちが写した記録も残っており、『久敬社誌』を見ると、今まで知られていない唐津の後輩を育てる教育者としての右仲の姿が垣間見られます。

 写真がほとんど残っていない右仲ですが、久敬社の学生たちと一緒に写り、りりしい顔もはっきり分かる右仲と考えられる人物の写真も展示しています。期間は9月21日までです。


鹿児島
西郷直筆の書や刀展示、戊辰戦争の資料も…南九州
 鹿児島県南九州市立博物館「ミュージアム知覧」で、企画展「戊辰ぼしんの記録 西郷の記憶」が開かれている。明治維新150年にあたり、当時の人々が体験した戊辰戦争や西南戦争に焦点を当て、地元に残る資料約40点を展示している。24日まで。

 戊辰戦争関係では、従軍した人たちの日記を展示している。戦闘がないときは酒盛りや記念撮影、歌舞伎見物をするなど、比較的自由に行動していたことがわかる。また、西南戦争の官軍は「故郷へ帰れなかった」とされるが、官軍の人物を顕彰する武者行列が行われていたことを示す資料もある。

 西郷隆盛の自筆とされる書や刀のほか、西南戦争を伝える錦絵に描かれたひげ面の西郷や、狩猟が好きだった西郷が川辺地域を訪れていたことを示す調査結果も展示されている。

 同館は「戊辰戦争や西南戦争で地元の先祖が果たした役割や、地元に伝わる資料などを知ってほしい」としている。

 水曜休館。入館料は高校生以上300円、小中学生200円。企画展の展示品は撮影可。問い合わせは同館(0993・83・4433)へ。


合間合間の音楽がラテン(志の輔師匠が高座に上がるときも「中の舞」でなくてラテン)。めくりがなくて、スケッチブック風に画用紙に書かれた文字で簡単な挨拶や演者紹介(ホールの雰囲気を壊さず、これはこれでいいかと思ったけど視覚障害者の方も見にいらしてるんだよな……)。

ギター漫談/ぺぺ桜井
寄席風の番組だけどトップバッターに出て来てやりにくそうだった。JR駅の案内メロディに乗せてギャグまじりのトーク、ドレミファソラシドを1音2音上げるとどうなるか、和のメロディはファとシを使わない、沖縄とアラブ風だと、など。

コント/すわ親治
 元ドリフターズの付き人とか、幻の6人目とか。
 無口な夫が結婚30年目で改めて結婚式を上げてくれる日につぶやいた一言。切腹場面の一言。失恋してバーボンで酔っ払う女の真似(中島みゆき?)。
 見せられた3本はどれも面白くなく、生着替えまでつけて見せる関連性もわからず、最後のは特にバーボンを口に含んで吐き出す場面も含めて不愉快。
 この人が出てくる場面はもう見たくない。

浪曲/玉川太福
亡き師匠の奥様、玉川みね子師の三味線つき。「テーブルクロス3本セット」の本格的な浪曲のしつらえは登場する高座の1割あるかないかだそうだ。
 新作浪曲の披露。工事現場で作業員のおじさんと若いのが弁当のおかずを交換するというネタはそれ自体面白かったけど、鮭の皮を口に含んだ若いのが吐き出す場面が出て来たのは、前のネタについた。不快。

茶の湯/志の輔
 先週に続いてまた「茶の湯」……志の輔らくごは古典も面白いんだけど、この茶の湯は吐き戻す場面が何度も出てきて、それが今日3本続いたネタで、今日はまったく笑えなかった。成城ホールで客層は比較的に上品なのに……。
 町田はまだしも『帯久』で口直しできたけど、『茶の湯』だけで帰るのが辛い……。
京都
幕末の豪農日記、初の一般公開 京都、新選組動向記載で注目
 幕末期の東九条村(現京都市南区)の豪農・長谷川軍記が30年近く書き続けた日記が1日~12月2日、南区の国登録有形文化財の長谷川家住宅「長谷川 歴史・文化・交流の家」で公開されている。昨年、新選組の動向を記した新史料として注目された日記で、当時の農村の暮らしぶりも詳述されている。一般公開は初めて。

 日記は、軍記が当主となった1845年から死去した1871年までに書いた計27冊。冊子は縦12センチ、横34センチで1年ごとに記入されている。内容の一部を抜粋したパネルも展示する。

 軍記は農民だが、公家の家来を一時務めていた。日記には侍姿で夜明け前に公家屋敷に出勤したことや、公家と決裂して免職されたことなどが記され、当時の農民と公家の関係性もうかがえる。

 通説では、江戸時代に誕生日を祝う習慣は一般的にはなかったとされるが、毎年自分の誕生日を赤飯で祝ったとの記述もあった。当時、四条橋東詰にあった北座や南座まで芝居見物に出かけたことや、村で悪病よけの踊りが流行したことなども書き残している。

 禁門の変が起きた1864(元治元)年の日記には、東九条村に新選組と会津勢が下宿し洛中に攻め上る長州勢を警戒、撃退したことも記されており、昨年、新史料として注目された。展示では、当時の会津藩兵の軍勢行列図や、下宿の謝礼として会津藩から送られた花鳥図も紹介する。

 展示を監修した伊東宗裕佛教大非常勤講師は「当時の洛南の農村の様子や軍記の人柄も分かる貴重な史料」としている。

 開館は毎週土日・祝日午前10時~午後4時。11月23日休み。大人800円。9月9日、10月14日、11月11日に伊東氏が、10月20日には地元農家田中和久氏がそれぞれ講演する。問い合わせは同交流の家075(606)1956。

滋賀
幕末の倒幕運動「天狗党の乱」、地域有力者が情報収集 「和田峠の戦い」で偽情報も 滋賀・長浜で聞き書き資料発見
 幕末の元治元(1864)年、水戸藩浪士が起こした倒幕運動「天狗(てんぐ)党の乱」で、鎮圧に向かった幕府軍が敗れた和田峠の戦い(長野県)の様子を滋賀県長浜市高月町西野で庄屋を務めていた人物が県内の宿場町で聞き書きした資料が、同地区の子孫の家で見つかった。当時、天狗党は京都を目指して進軍中。県内の通過も予想されたことから、地域の有力者が積極的に情報収集していたことがうかがえるという。

 高月観音の里歴史民俗資料館(長浜市高月町渡岸寺)の西原雄大(たけひろ)学芸員が調査し、明らかになった。

 資料は「水戸藩浪士一条之聞取写(みとはんろうしいちじょうのききとりうつし)」(縦12・3センチ、横35・4センチ)。後書きに、天狗党が降伏する約2週間前の元治元年12月5日、村庄屋の野洌村右衛門(やすそんえもん)が、中山道柏原宿(米原市柏原)で聞いた-などと記されている。

 内容は天狗党の首謀者の名前や戦闘で使われた武具の絵、挙兵後の動き、和田峠の戦いなどを記録。ただ、和田峠の戦いでは「幕府軍が勝利し(天狗党の)600人中400人に戦闘をやめさせた」などと、史実に反する事柄が記されていた。

 西原学芸員は「戦闘中の混乱で誤って伝えられたのか、天狗党に加勢しようとする民衆を抑えるため、偽情報をつかまされた可能性も否定できない」としている。情報元は幕府の役人ではないかと推測する。

 天狗党は挙兵した筑波山(茨城県)から京都に向かう途中、敦賀(福井県)で幕府に降伏。関係者が処刑された。

 今回の資料は、同資料館で開催中の企画展「西野水道と西野のくらし-野洌家文書が語るもの-」で展示している。9月3日まで。問い合わせは同資料館(電)0749・85・2273。

兵庫
仏皇帝の装束、あまり威厳感じず…幕末武士が日記に
 幕末に江戸幕府が初めて欧州に派遣し、兵庫の開港延期交渉などにあたらせた「文久遣欧使節」。その使節の一員だった兵庫県北部出身の武士たちが残した日記や手紙の内容が、近年の研究で明らかになりつつある。東京の品川区立品川歴史館の学芸員、冨川武史(とみかわたけし)さん(日本近世史)が8月26日、兵庫県朝来市で講演し、研究の最前線を語った。

極めてまれな現存史料
 講演会は、朝来市の生野書院で開催中の企画展「サムライが見たヨーロッパ」の関連イベント。企画展では、文久元(1861)年12月から約1年かけて欧州6カ国を巡った文久遣欧使節の全権大使を務め、朝来市を領地とした旗本の京極高朗(たかあき、1823~64)の従者、黒澤貞備(さだよ、1809~92)が残した日記などが紹介されている。

 品川歴史館には京極高朗の欧州派遣中に江戸で留守を任された京極家の家臣・永坂昇太夫(ながさかしょうだゆう、1817~89)家に伝わる多数の文書が寄託され、冨川さんが、永坂家文書に含まれていた訪欧中の黒澤と永坂が交わした往復書簡や京極の日記などを調査中だ。

 講演で冨川さんは、これらの史料について「使節団の首脳と家臣の史料が現存するだけでも極めてまれだが、比較、照合を通じて、彼らがどのように欧州に派遣され、何を見てきたかも知ることができる」と述べ、その価値を評価した。冨川さんによれば、日記の記載などから、京極家では計59通の手紙のやり取りが明らかになった。

英米の対立も
 日本から欧州へ出した手紙は現存しないが、訪欧中の黒澤から江戸の永坂らに書き送った15通の手紙が残る。主人である京極の体調などのほか、旅程の報告など実務的な内容が中心だった。セイロン(現スリランカ)寄港時の手紙には、南北戦争をめぐって英米両国が対立し、その余波を警戒して船中でも臨戦態勢をとったと記されていた。

 手紙の書かれた日付だけでなく、受け取った日付を書き加えたものもある。当時は欧州と中国上海の間には定期郵便船が運航されたが、上海と日本の間は商船や軍艦が手紙を運んだとみられ、日本からドイツのベルリンまで最速2カ月半で届いたことや、郵便事故で4通は届かなかったことなど、幕末の郵便事情も知ることができる。

女性が男性に指図、驚き
 また、黒澤は日記の中で、パリで謁見(えっけん)したフランス皇帝ナポレオン3世の装束について「帝王と申しても、変わりし装束等これなき由(よし)」と記し、あまり威厳を感じなかったことを打ち明けていたほか、家族に宛てた手紙には、西洋では女性が男性の先に立ち、男性に指図することに驚いた、などと書いていた。冨川さんは「黒澤のような一般にはあまり知られていない人物の声を聞くことは、知られざる歴史を掘り起こすことにもつながる。今後も分析を進め、史料の全容を明らかにしていきたい」と語った。

 企画展は9月9日まで。問い合わせは生野書院(079・679・4336)へ。(渡義人)

     ◇

 〈文久遣欧使節〉 兵庫や新潟の開港延期交渉などのため、文久元(1861)年12月から約1年かけ、欧州6カ国を巡った総勢38人の幕府使節団。各国と開港延期で合意し、一定の成果をあげた。

愛媛
維新期に「戦わない」決断下した幕府方・松平定昭 松山で「幕末維新と松山藩」展
 明治150年を記念した特別企画展「幕末維新と松山藩-時代の激流、人々の決断-」が市立子規記念博物館(松山市道後公園)で開かれている。9月3日まで。

 松山藩は江戸幕府の親藩。幕末維新期は幕府方として行動し、新政府から「朝敵」とされた。21歳で老中に就任し、戊辰戦争で幕府軍に加わった同藩14代藩主、松平定昭は抗戦か降伏かの決断を迫られるなか、側近の筆頭家老、奥平弾正や大原観山(正岡子規の祖父)らが尽力し、降伏を決断した。

 展示は、幕末維新期の激流に向き合った藩士らの軌跡を追う展開で、観山の肖像画など初公開資料7点を含め96点を公開。定昭の抗戦の決心や、降伏への説得工作、土佐藩が松山城を開城した際の記録など、難局を乗り越えて新時代へ向かう姿が浮かび上がる構成となっている。

 同館の西松陽介学芸員は「戦わない英断を下したことで、次世代の偉人(秋山好古ら)が育ち、文化人が活躍する源流につながった」と話した。

 火曜日休館。問い合わせは同館(電)089・931・5566。

山口
幕末吉田松陰と弟子の往復書簡発見 徳川光圀の書勧める
 山口県萩市の松陰神社は28日、幕末の思想家・吉田松陰(1830~59年)が、松下村塾の教え子だった長州藩士、前原一誠(まえばらいっせい)(34~76年)とやり取りした往復書簡が見つかったと発表した。松陰は、中国の「四書」や徳川光圀らによる書物など読むべき書物を列挙して前原に伝えており、維新の志士たちを育てた松陰の指導者としての姿が浮かび上がる。

 書簡(縦16.7センチ、横52.3センチ)は2006年、前原の子孫が神社に寄贈した史料約2600点のうち、読書記録の冊子に挟まれていた。1857年に書かれたとみられ、学問の方法について教えを請う前原の手紙の裏面に、松陰が朱色の墨で返信をしたためた。

 四書の他に「国史略」「十八史略」など日中両国の歴史書など計11点を挙げ、前原の意思次第で議論に応じるとつづった。さらに儒学者の林羅山(はやしらざん)や荻生(おぎゅう)徂徠(そらい)ら8人を「心に刺さり、人を動かす言葉がある」と評価。徳川光圀、上杉鷹山(ようざん)ら江戸時代の「名君」6人の書物も読むことを勧めている。

 前原は松下村塾で洋学を学び、尊皇攘夷(じょうい)運動に加わった。維新後は政府の参議などを務めたが、木戸孝允らと対立し1870年に萩へ戻った。6年後、不平士族を率いて「萩の乱」を起こしたが、敗走して捕まり、萩で処刑された。

 書簡は来年4月8日まで同神社の特別展で展示される。【遠藤雅彦】




 私は『西郷どん』第一話で脱落しましたが、下記は必読です。

コラム
これだけはおさえておきたい、幕末についての新常識『西郷どん』をより楽しむために
町田 明広
大河ドラマなどでも人気の幕末維新。幕末というと、必ず持ち出されるのが「尊王攘夷」派vs.「公武合体」派の構図だが、じつは幕末研究ではそうした見方はされなくなっている。これだけは知っておきたい新常識を、大河ドラマ「西郷どん」放映後のTwitterで話題の町田明広神田外語大学准教授が紹介する。
〈尊王〉〈攘夷〉〈公武合体〉は対立しない
2018年は明治維新150年であり、今年に限らず、ここ数年は「~から150年」という具合に、日本中の博物館で関連する企画展が目白押しであり、出版物も溢れかえっている。筆者も明治維新史を専門としているだけに、ありがたいことに講演や出版など、たくさんのお声掛けをいただいている。幕末史は、今も昔も人気が高い時代である。

ところで、2018年の大河ドラマは「西郷どん」である。この1月から3月まで、NHKカルチャーラジオ「西郷隆盛 その伝説と実像」を担当した。そのご縁もあり、また、ドラマで描かれる「伝説」が「実像」と見られてしまい、一人歩きしてしまうことを心配し、毎週ドラマ放映後、可能な限りtwitterでその回の時代背景などを発信しているが、一気にフォロワー数が飛躍的に増え、反応も想像をはるかに超えている。関心の高さに驚かされた。

京都御所。photo by iStock
その一方で、実証的な研究の深化にもかかわらず、なかなか世間では、その成果が浸透していないと感じている。『攘夷の幕末史』(講談社現代新書、2010年)では、幕末史を分かりにくくしている要因として、歴史用語の使い方を指摘した。例えば、一般的に幕末の政争は、「尊王攘夷」vs.「公武合体」と言われつづけている。そもそも、「尊王攘夷」は、後期水戸学を大成した藤田東湖(ふじたとうこ)が生み出した歴史用語であるが、尊王は天皇(朝廷)を尊ぶという思想であり、攘夷は夷狄(外国)を打払うという対外政略である。その二つの異なる概念を、合体させている。また、「公武合体」は、朝廷と幕府を融和して、国内を安定させようとする国体論である。つまり、〈尊王〉〈攘夷〉〈公武合体〉は対立する概念ではないのだ。この時期、日本人であれば多かれ少なかれ全員が〈尊王〉であり、〈攘夷〉であり、〈公武合体〉であった。この件は、その後も機会があるごとに言いつづけているが、残念ながら浸透したとは言い難い。

「未来攘夷」と「即時攘夷」
『攘夷の幕末史』では、当時の政治的対立は何に起因していたのか、この複雑な幕末史を紐解くために、そして、その政争の本質を見抜くために、「攘夷」という歴史的用語を最重要キーワードとして取り上げた。なぜならば、幕末というのは、この攘夷によって衝き動かされ、形作られていたからだ。当時は攘夷の解釈によって、国内は二分されたが、その主たる対立軸は、安政5年(1858)に結ばれた通商条約の是非にあり、その対立する思想は、「大攘夷」と「小攘夷」であると論じた。その後、筆者なりに対外認識論の研究を深め、その成果をまとめたものが『グローバル幕末史』(草思社、2015年)であり、そこでは「未来攘夷」「即時攘夷」論を展開した。

「未来攘夷」「即時攘夷」論を基に、幕末史前半を概観して見よう。幕末の日本は、欧米列強によるウエスタンインパクトの波に飲み込まれ、植民地にされるかもしれない未曾有の危機を迎えた。しかし、ペリー来航(1853)を迎えたまさにその時、国中がパニックになり、なす術もなく植民地化の道を歩んだかというと、そんなことはなかった。それまでに、知らず知らずに欧米列強と接触するじゅうぶんな準備がなされていた。江戸幕府は中国帝国が形成する冊封体制外に日本を位置づけ、東アジア的華夷思想に基づく「日本型華夷帝国」を形成し、海禁の一形態である「鎖国」政策を採用した。その後、18世紀末からロシアが蝦夷地方に南下を始め、イギリスが日本各地に出没をしたことから、幕府は無二念打払令を出すに至った。 

ペリー来航。photo by Getty Images
しかし、アヘン戦争(1840〜42)での清の敗北は、日本中を震撼させるに値した。我が国の対外政策は、撫恤(ぶじゅつ)政策である薪水(しんすい)給与令に改められ、来るべき西洋との接触に備えた。つまり、国是である鎖国は破棄することなく、撫恤政策の枠内で、何とか穏便に欧米列強と交際しようとした。その一方で、後期水戸学の登場によって、尊王攘夷論が勃興し、ナショナリズムの全国への浸透がもたらされていた。しかし、アジアに進出を始めた欧米列強の強大な軍事力を目の当たりにし、攘夷実行の時期や策略をどうするのかが、日本にとって大きな課題となったのだ。

通商条約と孝明天皇
幕府は和親条約の締結(1854)によって、通商は回避して鎖国を守ることが叶ったものの、欧米列強に圧倒的な軍事力の差を見せつけられ、通商条約の締結は免れないものと覚悟した。岩瀬忠震(いわせただなり)ら海防掛は、むしろ積極的に開国し、富国強兵を主目的とした貿易開始の方針を打ち出した。この積極的な開明路線は、老中阿部正弘(あべまさひろ)の支持するところとなり、鎖国から開国への対外方針の大転換が企図された。この積極的な開明路線への転換には、幕閣の世界観が欧米列強との頻繁な接触によってグローバル化したことと、軍事的には欧米列強に歯が立たないという現実的な判断が背景にあった。また、この志向性は多かれ少なかれ、当時の諸侯階級においては、共通の対外認識であった。攘夷を声高に叫びつづけた徳川斉昭(とくがわなりあき)ですら強硬な攘夷行動ではなく、言を左右にして問題を先送りする「ぶらかし」戦法を支持していた。

通商条約は、鎖国から開国への対外方針の転換であると同時に、国体の転換を伴うものであった。問題は、国体の転換が自身の御代に起こることを痛烈に嫌い、勅許を許さない孝明天皇(こうめいてんのう)の存在であった。幕府は列強と朝廷の板挟みとなり、窮した挙げ句に通商条約を勅許なしで調印(1858)してしまった。我が国は通商条約を締結し、対外的には開国政策を取りながら、国内的には、国是は依然として「鎖国」(攘夷)のままであった。そこで幕府は、開明路線から「未来攘夷」へと舵を切った。今回の通商条約は一時的なもので、いずれ攘夷を実行すると宣言したのだ。朝廷に対する方便でもあったが、幕閣の意志はまちがいなく、武備充実後の攘夷実行にあった。

長州と薩摩
一方で、孝明天皇が認めない通商条約を、どうしても許せない勢力が登場する。久坂玄瑞(くさかげんずい)を中心とする松下村塾グループに引っ張られた長州藩や、三条実美(さんじょうさねとみ)などの過激廷臣である。長州藩は、「未来攘夷」策である航海遠略策を捨て、「即時攘夷」を唱えて国政をリードした。富国強兵を図って、世界に雄飛しようとする長州藩の主張は、航海遠略策そのものであり、孝明天皇が承認した対等な立場での通商条約であれば、むしろ歓迎する姿勢を示した。しかし、あくまでも勅許がある通商条約しか容認しない立場であり、尊王をないがしろにした幕府のやり方には断固として抗する強烈な志向があった。

しかし、長州藩は下関戦争(1863〜64)によって、欧米列強の前に沈黙を余儀なくされた。また、八月十八日政変(1863)や禁門の変(1864)によって、国政でも失脚してしまい、引き続き起こった第一次長州征伐(1864)によって、「即時攘夷」を推進する一派は、ここに潰えた。しかも、その1年後に通商条約は勅許されてしまい、理論的には我が国から攘夷は消え失せてしまう。この間に、長州藩も「即時攘夷」から「未来攘夷」へと、世界観の転換を余儀なくされた。

一方で、薩摩藩は島津斉彬(しまづなりあきら)による集成館事業や建艦などの富国強兵策が実行されていた。斉彬も、その路線を引き継いだ久光(ひさみつ)も、海洋国家特有の開明的な世界観を有しており、「未来攘夷」を志向して国政への参加を画策していた。通商条約の締結後は、小松帯刀(こまつたてわき)が中心となって、積極的に軍艦や武器の買い付けに奔走しており、幕府を軽んじて藩地における開港すら視野に入れ、さらなる富国強兵策を推進しようと企図していた。そんななかで起こった外国人殺傷事件の生麦事件(1862)は、まさに偶発的な事件であり、薩摩藩の世界観の変化によって生じた攘夷行動ではなかった。その後の薩英戦争(1863)も、イギリス側は戦闘に及ばないと確信していたほどで、事実、薩摩藩の「未来攘夷」志向はゆるぎのないものであった。しかし、イギリスの要求が誤伝されたため、戦闘に至ってしまうのだが、この衝突が転じて福となり、薩英両国は友好関係を築くことになる。こうした経緯を経て、幕末史は後半の元治慶応期を迎えることになったのだ。

小松帯刀。国立国会図書館蔵
岩瀬忠震という人物
ところで、『攘夷の幕末史』はたくさんの人物にスポットを当てたが、そのなかでも岩瀬忠震を世に送り出せたのではないかと自負している。もちろん、それまでも岩瀬伝はあったものの、かなり時間が経過しており、筆者が再発掘した金山であった。岩瀬は驚くほど開明的な政治家であり、かつ、ずば抜けて卓越した外交官であり、ハリスとの交渉を主導し、安政五ヶ国条約すべての調印に関わった。攘夷の思想を持ちながら、日本の植民地化を阻止し、将来の世界への飛躍を期して武備充実など富国強兵を図るため、あえて開国に踏み切った岩瀬の志を見誤ってはならない。

岩瀬は、「この調印の為に不測の禍(わざわい)を惹起して、あるいは徳川氏の安危に係わる程の大変にも至るべきが、甚だ口外し難き事なれども、国家の大政に預る重職は、この場合に臨みては、社稷(しゃしょく)を重しとするの決心あらざるべからず」(福地桜痴『幕末政治家』)と述べている。岩瀬は、このなかで幕府よりも社稷(国家)が大切であるとの認識を示している。幕府よりも日本国家が重要であると言い放った彼を、後世の我々はきちんと顕彰し、偉大な日本人として記憶に止めるべきであろう。

『攘夷の幕末史』では、その他、坂本龍馬(さかもとりょうま)や近藤長次郎(こんどうちょうじろう)の攘夷思想についても未来攘夷の代表として言及した。しかし、彼らの活躍や政治的スタンスなど、じゅうぶんに論じきれたかは心もとない。両者については、年内刊行予定の『検証 薩長同盟――偽りの薩長藩閥史観を撃つ』(人文書院)を手に取っていただき、ブラッシュアップされた新たな論考をご期待いただきたい。

大河ドラマ「西郷どん」も慶応期に突入し、いよいよ明治維新を迎える。『攘夷の幕末史』では、西郷隆盛には言及がほとんどできなかったが、その後、『歴史再発見 西郷隆盛 その伝説と実像』(NHK出版、2017年)を執筆する機会をいただいた。史実とドラマの差異を発見するなど、存分に楽しんでいただけたら幸甚である。
 年内刊行予定の『検証 薩長同盟――偽りの薩長藩閥史観を撃つ』(人文書院)、楽しみです。

幕末の志士たちは「テロリスト」だったそしてジェダイはダークサイドに落ちた
幕末に尊王攘夷を掲げた志士たちの実像は、為政者や時代の空気によって書き換えられている。『志士から英霊へ』を書いた東京大学大学院人文社会系研究科の小島毅教授に聞いた。
幕末の志士は現在で言えばテロリスト
──「志士から英霊へ」と評価が変わったわけですか。

日本の過去の人物像や歴史的事件に関して、すばらしいもの、褒めたたえるべきものだけを並べればいい、先人たちがした失敗や、ほかの国にかけた迷惑を語るのは自虐的だとの主張がある。だがもちろん、明るい面と暗黒面をきれい事にしてまとめるのは、歴史認識として正しいあり方ではない。

むしろ逆だ。歴史に学ぶとは失敗に学ぶのであって、成功譚を褒めたたえても、それは歴史を学んだことにならない。中国では昔から「歴史を鏡にする」という表現がある。中国人が日本の要人に会うたびに使う言葉だ。同じ失敗をしないために歴史が存在するという考え方といっていい。

明治150年を語るのであればむしろ、その間に起きたことの負の側面を含めて語るべきなのだ。幕末維新の志士という言い方がされてプラスの評価ばかりが目立つが、彼らは暴力に訴えてでも世の中を変えるべき、自分たちの考えと違う政治を行っている政権担当者は殺して構わないという考えを持っていた。つまり現代社会においてはテロリストだ。

それを現在の日本国政府が、つまり世界中に蔓延するテロリズムと戦う姿勢を標榜する政府が、明治150年だからといって過去のそうしたテロリズムを礼賛するのは自己矛盾になる。

──この本は西郷隆盛と吉田松陰の「2人のジェダイ」についてから書き下ろされています。

実は私は「スター・ウォーズ世代」。『スター・ウォーズ』には、西欧にない考え方を映画の中に生かすためなのか、研究対象の中国思想の気(フォース=銀河をつかさどるエネルギー)という言葉が盛んに使われている。

ジェダイ(秩序と平和の守護者)はいわば志士だし、彼らが戦った相手、もしくは作り上げようとしたものがエンパイア。そして暴力やテロリズムに訴えるようになってしまい、ダークサイドに落ちたりもする。この4つのキーワードを遊びの精神から各章タイトルに割り振ってみた。

松蔭は独善的だった
──西郷については「敬天愛人」に絡む話が中心です。

西郷はあるときから敬天愛人を座右の銘にし、好んで揮毫したという。ただ、この言葉の由来について本人は語っていない。関連する記述は、死後に出版された聞き書き本『南洲翁遺訓』の中にある。1868年に教育者の中村正直が「敬天愛人説」という文章を書き、これが当時よく読まれ、西郷も知っていたはずだ。


小島毅(こじま つよし)/1962年生まれ。東京大学文学部卒業。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。専門は中国思想史。東アジアから見た日本の歴史についての著作も多数。著書に『儒教が支えた明治維新』『増補 靖国史観』『朱子学と陽明学』『近代日本の陽明学』など(撮影:吉濱篤志)
──松陰もジェダイだった?

彼はむしろ偏った見方をする人だ。自分の信念を貫くために、それに従わない人たちを間違いと決め付ける。対話や議論を求めていくのではなく、書物や教えを通じて得たものに基づいて作り上げた自身の信念こそ正しいと突き進んでいく。

儒教の古典『孟子』の中にある言葉、至誠を根拠にして、誠を尽くせば皆わかってくれるはず、と独善的に事を運ぶ。思想史的に位置づけ直すと、兵学をあずかる形で養子に行ったことから、責任感を持って軍学を身に付け、その結果として、正真正銘のテロリストになっていった。

──教育者としての評価も。

玖村敏雄の著作『吉田松陰』が1936年に刊行され、その中で教育者として立派だったとの像が打ち出された。これが広く読者に浸透したようだ。戦前における尊皇派、天皇崇拝者としての松陰像が封印され、教育者、人格者としての松陰という像が作られて、今に引き継がれている。

──彼はダークサイドに落ちた?

正義のために戦っているつもりが、闇というものに引き寄せられていく。『スター・ウォーズ』でもよく描かれていると思う。単純な善悪二元論、勧善懲悪ではない。善の中にすむ悪の魅力、それこそが悪の魔力なのであり、最初から悪だとわかっていたら、力を持たない。日本語でいうところの「心の闇」。それを幕末の志士たちの生き方に重ね合わせると、彼らはなぜテロリストになってしまったのかがわかってくる。

自分たちの目指す正義が阻まれていると感じたときに、妨害するものを力ずくで排除しようとする。結局、自分たちが敵と考えていた人たちと同じ側に立ってしまう。他者を抑圧あるいは弾圧する。それがダークサイド。

尊皇攘夷のために暴力に頼った
──いわば絶対正義。

人を引き込む作用をする。『論語』にある身を殺してなすべきこと、殺身成仁に該当する。『太平記』の児島高徳の逸話に学び、太平記を翻案した『日本外史』を読むことでそうした知識を身に付けてあこがれたジェダイたちが、ダークサイドに落ちる入り口の尊王攘夷を目指す草莽(そうもう)の志士に育っていく。

──エンパイアの理念も背景に。

中国の宋学が、水戸学によって幕末期に影響を与えることにつながる。皇帝、日本の場合は天皇を頂点にいただく政治秩序をどう構想したか、それ以前とは違う形でどう作り上げたかという説話がエンパイアの理念だという位置づけになる。それこそがダークサイドに落ちていったジェダイたちが実現しようとしたことで、暴力革命、つまり尊王攘夷のために暴力に頼ることになる。


『志士から英霊へ: 尊王攘夷と中華思想』 (小島 毅 著/晶文社/2000円+税/256ページ)。
──水戸学はなぜ受け入れられたのですか。

思想内容の魅力はもちろんあるが、広めた人として頼山陽に加えて曲亭馬琴の役割が大きい。漢文で物を書く人ではなく、『南総里見八犬伝』や『椿説(ちんせつ)弓張月』が儒教道徳を教えている。ちなみに八犬伝の8つの数珠玉はすべて儒教の徳目だ。必ずしも水戸学と限定されないが、この手の本を通じて、小説を読むことができるような人たちに、儒教思想が取り込まれていく。かつて私は頼山陽を司馬遼太郎になぞらえたが、むしろ馬琴ではないかと最近考えを変えた。

──藤田東湖の役割は。

水戸学の中心人物。非業の死を遂げた人たちを英霊と呼び、靖国神社がこの言葉を取り入れた。反逆の罪に問われて死罪となった松陰は、明治になってよみがえり靖国神社に祭られ、西郷は逆臣として死んだので祭られていない。

昨日は映画館割引の日だったので『銀魂2』二度目鑑賞。今年一番楽しめた映画なので多分7日の声出し鳴り物OKな鑑賞日にペンライト持っていくと思います。
 安倍首相は三度目の自民党総裁選に出馬するに当たって鹿児島を選び「薩長」政府を強調しましたが、引用した平野国臣の句はどう考えても薩摩批判。正しい歴史の知識を持たないまま国民に発信するのは恥ずかしいことだと思います。
 ちなみに戊辰戦争で負けた側に好きな人物が多い私は、戊辰戦争150年です。

秋田
戊辰戦争の供養塔除幕、平和を祈願 大仙市協和・萬松寺
 戊辰戦争(1868~69年)の戦没者を供養している秋田県大仙市協和境の萬松(ばんしょう)寺に、明治150年を記念した供養塔が建てられた。協和地域の住民でつくる交流団体「さどわら会」主催の慰霊祭で、同市と交流のある宮崎市の関係者を招いて除幕し、平和を祈願した。

 戊辰戦争では、新政府側についた秋田藩と、対立する奥羽越列藩同盟軍が戦闘を展開。秋田藩の援軍として現在の宮崎県から参戦した佐土原藩の藩士ら8人が、協和地域で亡くなった。

 協和町(現大仙市)と宮崎県佐土原町(現宮崎市)は、1992年に萬松寺で合同慰霊祭を行って以来、交流を続けている。明治150年の今年は境内に高さ1・8メートルの供養塔を建て、戸敷正宮崎市長の書いた文言を彫り込んだ。
 有料版だとさらに記事が読めそうです。

<戊辰戦争150年>佐土原藩士を手厚く供養した縁 大仙と宮崎、深まる交流 相互訪問、記念酒造りも

戊辰戦争で亡くなった佐土原藩士の慰霊碑=大仙市協和境の万松寺
拡大写真
 秋田戊辰戦争の激戦地大仙市と、新政府軍側で参戦した佐土原藩があった宮崎市が交流を深めている。大仙市協和の境地区で戦死した佐土原藩士8人は現地の万松寺に一時葬られ、住民が手厚く供養した。150年前の悲劇を縁にして中学生や市民が相互訪問し、交流を記念した日本酒を造る事業も大仙市で進む。

 戊辰戦争から124年後の1992年、佐土原町(現宮崎市)の墓参団が万松寺を訪れたのをきっかけに交流が始まった。
 2001年に協和町(現大仙市)と佐土原町が有縁交流協定を締結した。市町村合併後は大仙市が人口約8万、宮崎市が約40万と都市の規模こそ異なるが、どちらも協定を引き継いだ。
 両市の物販施設では互いの特産品を販売。10年には佐土原藩士の慰霊碑が万松寺に建立された。今年は大仙市の事業として協和の酒米農家と酒造会社が記念酒を製造し、両市の交流を全国にアピールする予定だ。
 民間や中学生の交流も活発になり、協和には「さどわら会」、佐土原では「きょうわ会」と相手方の町の名を付けた有志団体がそれぞれの地で発足。大仙市の中学生が宮崎市を訪れてサーフィンを体験し、宮崎市の中学生は大仙市でスキーを楽しんだ。
 行政レベルでは、戸敷(とじき)正宮崎市長が今月19日に大仙市で開かれるシンポジウム「近代への道程 戊辰戦争と人びと」に出席。10月下旬には老松博行大仙市長が宮崎神宮大祭を視察する。
 老松大仙市長は「交流協定を友好協定に発展させたい」と意欲を示す。宮崎市佐土原総合支所の高橋通郎地域市民福祉課長も「8人の藩士を供養していただいた恩を忘れず、さまざまな交流を続けたい」と話す。

[佐土原藩]薩摩藩の支藩で藩主は島津氏。戊辰戦争時は2万7000石。宮崎市北部の旧佐土原町に藩庁を置いた。戊辰戦争では新政府軍に加わって伊勢、会津などを転戦。「境の戦い」では藩士約100人が庄内藩を中心とする奥羽越列藩同盟軍と交戦した。


<戊辰戦争150年>秋田藩 指揮権なき戦い 大仙でシンポ、仙台・庄内の視点も紹介
 秋田藩領が戦場となった秋田戊辰戦争の実態を、秋田、仙台、庄内各藩の視点から研究者が議論するシンポジウム「戊辰戦争と人びと」が19日、大仙市の大曲市民会館であった。市主催で約200人が参加した。
 秋田戊辰戦争は奥羽越列藩同盟からの秋田藩離脱を契機として1868年夏から約2カ月間、同盟軍と新政府軍が交戦した。仙台、庄内藩など同盟軍は久保田城に迫ったが、東北南部の戦況が悪化して兵を引き上げた。
 秋田県立博物館の畑中康博学芸員は「自領に敵を引き入れた防衛戦争だったのにもかかわらず、秋田藩の藩庁は軍事指揮権も前線の人事権も失っていた」と述べ、新政府軍に組み込まれた戦いの様子を示した。
 仙台藩の支藩一関藩は仙台藩の指揮を嫌い、庄内藩大隊の指揮下に入った。東北大大学院文学研究科の栗原伸一郎学術研究員は「仙台藩の指揮系統もかなり混乱があった」と指摘した。
 上山城郷土資料館(上山市)の長南伸治学芸員は明治20年代と大正時代に出版された戊辰戦争関係の文献を解説し「薩長や秋田の視点から描かれた史観に庄内の人々が動揺している姿がうかがえる」と語った。


山形
特別展激動の時代、米沢藩と戊辰戦争 来月15日から 上杉博物館 /山形
幕末から明治初期の激動期に米沢藩がどのような道を選んだのかを紹介する特別展「戊辰戦争と米沢」が9月15日から、米沢市丸の内の「伝国の杜 米沢市上杉博物館」で開かれる。

 同博物館によると、米沢藩は戊辰戦争の際、朝敵とされた会津藩を救うため、奥羽列藩同盟結成で主要な役割を果たし、越後を主戦場に各地で激戦を展開。降伏後は、新政府のもとで新たな体制を模索した。

 特別展では政治的な動向に加え、社会そのものを変えるきっかけとなった軍制改革や、戦場に赴いた兵士の行…
 以下、毎日新聞の有料版にて。

宮城
会津藩士への弔辞見つかる汚名返上の思い伝わる史料
 150年前の戊辰戦争で犠牲になった会津藩士の家族らが、戦争から22年後に移住先の青森県で営んだ法要で読み上げたとみられる弔辞6通が、仙台市の藩士子孫宅から見つかった。専門家は「朝敵の汚名を着せられ、一刻も早く名誉を回復したい会津出身者の思いが伝わる貴重な史料だ」としている。

 弔辞は仙台市の小池純一さん(70)が自宅で発見した。1890年5月、円通寺(青森県むつ市)で開かれた二十三回忌で男女6人が読んだとみられる。

 「弾丸を援軍のない城に受けたが、盾を布団に、矛を枕にして国のために戦死した」「諸君の忠義は世の中の称賛を浴びるだろう」などとつづられていた。


福島
二本松藩戦死者の霊牌発見 戊辰戦争、身分区別なく慰霊
 二本松藩丹羽家の居城だった霞ケ城公園(二本松市)の丹羽霊祠(れいし)殿(通称・丹羽神社)から、戊辰戦争の二本松藩戦死者を弔う約100年前の霊牌(れいはい)が大量に見つかった。霊牌は全て同じ形で約80柱あり、戊辰50年の慰霊祭に合わせて作られたとみられる。

 霊牌には武士や農兵の名前が記され、二本松市の担当者は「当時の二本松藩関係者は戦死者を身分で区別せず、等しく慰霊した。戊辰150年の節目や先人の思いを考える上で貴重な史料だ」とした。

 市によると、丹羽霊祠殿は戦時中に東京の丹羽家から現在の社殿に移った。丹羽家所有だったが昨年、市に寄贈された。

 市が正式に調査した際、御霊舎(みたまや)の中に霊牌があったという。5段の棚に並べられ、数点が木箱に入ったまま見つかった。木箱表面には「戊辰殉難士五十年祭」と記されていた。

 霊牌の概要や保管経緯は不明だが、市の所蔵史料に同じ霊牌がある。「戊辰50年の慰霊祭でもらった」という二本松藩士の子孫から寄贈されたといわれている。

 約100年前に発行された「二本松藩史」では二本松藩戦死者は338人(現在は337人)で、内訳は藩士162人、下級兵と農兵ら176人。戊辰50年の慰霊祭で全員分を用意したが、4分の1程度が遺族の手に渡らず保管されていたとみられる。

 同藩史によると、霊牌に書かれていた名前の一人「丹羽舎人」は上級武士で、戊辰戦争では大目付軍監として白河口の戦いに出陣。旧暦の1868(慶応4)年6月12日に白河・追原方面での銃撃戦で戦死した。

 一方、他の一人の「傳作」(伝作)は下水原村(現・福島市南部)の農民。農兵か運輸方を担い、霞ケ城が落城する旧暦の7月29日に城下で戦死している。

 二本松市都市計画課二本松城跡整備係の佐藤真由美さん(48)は「農兵は武士とは違う扱いが一般的だっただけに、貴重な史料だと思う」とした。二本松藩主丹羽家の18代当主の丹羽長聰さん(74)=東京都=は霊牌が保管されていたことを知らなかったとし「戦死者を等しく慰霊した先人の行いが素晴らしい」とたたえた。

<戊辰戦争150年>東北の視点で経緯再考 福島県立博物館できょうから企画展
 福島県立博物館(会津若松市)で1日、企画展「戊辰戦争150年」が始まる。薩摩、長州両藩中心の新政府側から「朝敵」とされた会津藩と、会津救済に連携した東北、越後諸藩の視点から戊辰戦争を再考する。

 仙台市博物館、新潟県立歴史博物館との共同企画。展示はペリー来航の「開国」に始まり、開戦、降伏、再起など7部構成となる。「官軍」の象徴として新政府側が掲げた「錦旗」、会津藩救済、戦争回避を図れず奥羽越列藩同盟として戦いを余儀なくされた経緯、関係者の苦悩を示す史料など約200点を展示する。
 3館独自の地域史料もそれぞれ紹介。先人がどのような思いを抱き、どう選択したのか地域ごとの視点にも光を当てる。
 展示では実在の会津藩士をモデルにしたキャラクター「源ちゃん」が、展示物の各所で解説する。
 10月14日までの期間中、記念講演会や学芸員の解説会もある。企画展は新潟が既に終了。仙台は10月26日~12月9日に開催する。
 開館は午前9時半~午後5時。観覧料は一般・大学生800円。高校生以下無料。月曜休館(祝日の場合は翌日)。連絡先は福島県立博物館0242(28)6000。

福島)戊辰戦争、会津農村の焼失1100軒 市町村史
 1868年の戊辰(ぼしん)戦争で西軍(新政府軍)が会津藩・鶴ケ城に迫る中、周辺の農村では約1100軒以上の家屋が戦闘に巻き込まれたり、兵士に火をつけられたりして焼失していた。歴史研究会「会津史談会」副会長の簗田直幸さん(65)が、会津地域の市町村史に書かれた被害をまとめた。簗田さんは「どんな時代でも戦争でひどい目に遭うのは民衆だ」と話し、実態把握の必要性を強調している。

 簗田さんは、民間団体「会津戊辰戦争百五十周年事業実行委員会」の幹事長。農村部の被害に関する統計資料が乏しいことから、自治体の記録に着目。市町村合併前の「町史」などに書かれた家屋の焼失に関する記述を集めた。

 西軍は、①二本松藩との境の母成(ぼなり)峠②南側の下野街道③西側の越後街道、などを経由し、現在の会津若松市に向かった。

 母成峠から西軍は猪苗代湖北側を進攻。経路の猪苗代町から磐梯町にかけての旧11村で410軒中176軒が焼失したとされる。

 下野街道を進んだ西軍は下郷町から会津美里町に入り、現在町庁舎がある高田地区が戦場になった。旧会津高田町史によると、300軒中246軒が焼けた。

 越後街道で会津藩など東軍(旧幕府側)は会津坂下町から代官所があった会津若松市神指町高久に退却し、この地域で300軒中249軒が焼失した。城の南側の「南青木組」(同市門田町など)でも、旧11村の合計として1069軒中453軒が焼けたとされる。

 同市河東町の「藤倉村」では、西軍から炊き出しなどを求められた後、9月2日、城に向けて進軍する際に火をかけられ、全村28軒が焼失したと伝えられる。

 簗田さんは「西軍によるものが多いが、中には、退却する東軍が家屋を敵に使わせないため、火を付けたこともあったと考えられる」と話す。

 農村部の被害とは別に、鶴ケ城の城下では武家屋敷以外に1300軒余りが焼けたと見られている。

 これらの調査結果は8月12日に会津若松市で開かれた同実行委主催のシンポジウムで報告された。

 簗田さんは「市町村史で明記されない例もある」と語り、被害の全容は不明だという。「なぜ会津を戦火で包むような軍事占領をしなければならなかったのか、被害を受けた人々に対して補償は行われたのか、本質的な問題は十分解明されていない」と指摘。「会津では『悲劇性』が注目されがちだが『150年』を機会に根本的な課題に着目すべきだ」と話している。(戸松康雄)


白虎隊、死の行軍をたどる 戊辰戦争150年
戦争
 1869(明治2)年、旧会津藩士によって初めて描かれた白虎隊自刃の図(福島県会津若松市提供)【時事通信社】

 自分がいつ、どう死ぬのか想像したことがあるだろうか。病気や事故、災害だけではない。殺される事態もないとはいえない。死が誰にでもいつか必ずやってくると知っていても、たいていの人は自分がどう死ぬのか分からないまま人生を送っている。

 今から150年前、会津藩(福島県)の組織した「白虎隊」という名の軍隊に所属する15~17歳の少年たちは、霧雨が降る山の中で、ふるさとが燃やされる光景を見ながら、自ら首に刃物を突き刺して死んでいった。

 なぜ、彼らはこうなってしまったのか。社会背景を調べ、彼らが行軍した実際の道筋をたどった。(福島支局 菓子翔太)

 白虎隊が自決する15年前の1853(嘉永6)年。当時は江戸幕府が日本を支配し、傘下の藩が各地を治めていた。この年に、アメリカの艦隊(黒船)が浦賀沖(神奈川県横須賀市)に来港する。それをきっかけに、海外との接触を制限する鎖国をしてきた日本が外交の門を開くと、今後の日本のあり方をめぐって国内で争いが激しくなった。

 天皇が住む京都には、テロなどを画策する長州藩(山口県)の藩士をはじめとする過激派が集まった。これらを取り締まるため、幕府の命令で、会津藩は京都の治安維持に当たる「京都守護職」を務める。その働きぶりは、当時の孝明天皇からも評価され、厚い信頼を得ていたという(孝明天皇は1867年1月=慶応2年12月=に崩御。後に明治天皇が即位する)。

 徳川慶喜が大政奉還を朝廷に申し出た建白書の写し。千葉県松戸市の女性宅から発見された=2011年10月、千葉県松戸市の戸定歴史館【時事通信社】

 ところが、1866年3月(慶応2年1月)、薩摩藩(鹿児島県)と長州藩がともに「幕府を倒そう」と手を結んだことから、幕府打倒派(いわゆる「倒幕派」)の勢力が拡大。倒幕に向けて計画が進む中、幕府の第15代将軍徳川慶喜は1867年11月(慶応3年10月)、先手を打ち、政権を朝廷に返す「大政奉還」を行った。

 これにより、幕府を倒すという名義を失ったかに見えた薩摩や長州などによる新政府は、天皇中心の政治に戻す「王政復古の大号令」を発令。さらに、これまで政権の中心にいた徳川家を排除するため、慶喜の官位剥奪と領地返上を決めた。

 当然、会津藩などの旧幕府側は反発した。その上、新政府軍の西郷隆盛が浪士を集めて江戸で行ったゲリラ活動に我慢できず、旧幕府は江戸の薩摩藩邸に報復攻撃した。結果、日本の運命を変える「戊辰戦争」が始まってしまう。初戦となる「鳥羽・伏見の戦い」は衝撃的な展開を迎えた。

 このとき、1868(慶応4)年1月。白虎隊が自刃するまで残り7カ月のことだった。

天皇に逆らった?

 靖国神社の祭神簿。右は鳥羽・伏見の戦いの殉難者を記入した第1号=1963年6月、東京・千代田区九段北【時事通信社】

 この戦いで、旧幕府軍の兵力は新政府軍の約3倍に上ったが、最新兵器を擁する新政府軍に劣勢を強いられた。その上、新政府軍は天皇を象徴する菊の紋が入った「錦の御旗」を掲げたことで、旧幕府軍は天皇に逆らう「賊軍」扱いを受けてしまう。ちなみに、戊辰戦争で国家のため命をささげた人々の御霊を慰め、その事績を永く後世に伝えるという目的で明治天皇の意向により建てられた靖国神社(東京都千代田区)には、新政府側の人間は祭られているが、旧幕府側の会津藩などの人間は祭られていない。最近では、超党派の国会議員が「賊軍」とされた人々も祭るよう呼び掛ける動きがあった。

 話を戻す。「鳥羽・伏見の戦い」の最中、敗色の濃くなった徳川慶喜と会津藩主の松平容保らはひそかに大阪から江戸に逃走した。旧幕府軍もやむなく撤退し、戦いは大敗に終わる。

 戦いの後、「賊軍」となってしまった旧幕府側は多くの藩に見限られた。さらに、本拠地の江戸城を明け渡すところまで陥った。

 日新館前に立っている「什の掟」=2018年8月、福島県会津若松市【時事通信社】

 会津藩も、新政府軍に恭順の意を示し、同じ東北地方の多くの藩もそれに協力した。だが、新政府が会津藩の恭順の意を受け入れることはなかった。東北地方の諸藩は「奥羽越列藩同盟」として手を結び、新政府軍との戦争へ道を進んでいくことになる。

 後に自刃した白虎隊の少年たちは、この間どうしていたのか。会津藩士の子弟は、6~9歳の時に「ならぬことはならぬ」で有名な「什の掟」を学び、10歳になると「日新館」(地図)に入学する。NHK大河ドラマ「天地人」の歴史考証にも携わった歴史家の石田明夫さんによると、日新館はとても教育レベルの高い学校だったという。白虎隊士もその教育課程の最中にあった。

 日新館では、剣術や砲術、水泳の仕方、中国の古典、天文学など、まさに文武両道の授業をしている。その上、勉学にとどまらず、細かいところまで心得をたたき込まれた。抜粋して紹介するが、筆者には厳しくてとても全ては守れそうもない。今の時代に守れる子がいるのだろうかというものばかりだ。

厳しい心得の中身は
 白虎隊士が学んだ日新館を忠実に再現した施設。当時の講義の様子などを紹介している=2018年8月、福島県会津若松市【時事通信社】

 六、父母、目上の方々から用事を言いつけられた時は、謹んでその用件を承り、そのことを怠らないでやりなさい(以下略)。

 十、他人の悪口を言ったり、他人を理由もないのに笑ったりしてはいけません。あるいはふざけて高い所に登ったり、川や池の水の深い所で危険なことをして遊んだりしてはいけません。

 十五、身分の高い人や目上の人が来た場合には、席を立って出迎え、帰る時も見送りをしなければなりません(以下略)。

 十七、みんなで集まってわいわいお酒を飲んだり、仕事もしないで、女の人と遊ぶいかがわしい場所に出掛けるのを楽しみにしたりしてはいけません(以下略)。 (日新館公式ホームページより引用)

 この心得を見ていて、目上の人に対する礼儀に関するものが多いと感じた。それほど、上の身分の人間に尽くす心が大事にされていたということなのだろうか。

 天文学を学ぶ、後の白虎隊士の像。奥には、天体の位置を調べるのに使う天球儀を使う少年の姿が見える。会津は天文学が盛んで、当時の藩校としては珍しく天文台もあった=2018年8月、福島県会津若松市【時事通信社】

 少年たちは日新館で自刃の仕方も学んだ。なお、日新館は戊辰戦争時、臨時の野戦病院となったが、焼け落ちてしまった。

 そんな彼らが白虎隊士になったのは、新政府軍との戦争の足音が近づく中で、会津藩が軍制改革を行ったことによる。会津藩は、50歳以上の玄武隊、36~49歳の青龍隊、18~35歳の朱雀隊、そして、16~17歳の少年たちによる白虎隊を編成した。古代中国で信じられた四つの方位をつかさどる神にのっとったものだ。中には白虎隊に入りたくて、年齢を上にさば読みした隊士もいたという。

 白虎隊の構成は以下の通り。
  士中一番隊から二番隊 各50人前後
  寄合一番隊から二番隊 各50人前後
  足軽一番隊から二番隊 各50人前後

 総勢で約300人。予備隊で城の警備に当たる白虎隊には実際の戦闘に出る予定はなかった。このうち、日新館に学んでいた子どもたちが入ったのは「士中」の隊で、自刃したのは隊士の篠田儀三郎率いる十数人。白虎隊の中でも少数だった。

 白虎隊に編入された彼らは興奮していただろう。そんな彼らが死ぬまで、残り5カ月に迫っていた。


崩れ落ちる“同盟”
 白虎隊士が集まった旧滝沢本陣=2018年5月、福島県会津若松市【時事通信社】

 新政府軍はその後、東北地方の藩へ侵攻を進め、1868(慶応4)年5月1日(旧暦、以下同年の日付はすべて同じ)に白河小峰城(福島県白河市)、7月29日に長岡城(新潟県長岡市)、二本松城(福島県二本松市)、福島城(福島市)と攻め落としていった。二本松の戦いでは、出陣を志願した13~17歳までの少年たち14人も死んだとされている。「奥羽越列藩同盟」の中心だった仙台藩(仙台市に拠点)に至っては二本松城への援護を断り、会津藩を裏切ってしまった。

会津藩は、周りの藩からの援護を失った。

1868年8月20日。白虎隊士が自刃するまで、あと3日。

 新政府軍の猛攻は止まらず、会津までその手は伸びてきた。東側の藩境である母成峠(地図。会津藩の居城、鶴ケ城まで約30キロ)から攻めてきた新政府軍に対し、会津藩や新選組などが抗戦するも敗北。突破されてしまう。

 会津藩は追い詰められた。そして、ついに兵を総動員する。前線に出すはずではなかった白虎隊も戦場に送り込んだ。

早く戦場に

 ここから先は、当時の様子を記しながら、実際に白虎隊が進んだ道をたどる。現地には歴史家の石田明夫さんに同行してもらった。なお、紹介する場所は、森林の中でクマに遭遇する危険性もあるため、1人では行かないでほしい。

 白虎隊士が戦場に向かい歩いた道。今も当時の石畳が残されている=2018年6月、福島県会津若松市【時事通信社】

 8月22日午後0時ごろ。白虎隊士が自刃するまで、残りあと24時間を切った。

 白虎隊の士中二番隊は、警護に当たっていた松平容保に従い鶴ケ城を出て「滝沢本陣」(地図)に到着した。出陣する彼らの中には、それまでの戦争で身内を殺された子どももいる。新政府軍に対して復讐(ふくしゅう)したいという気持ちを持っていただろう。そんな彼らを、親は「お国のために頑張ってきなさい」と送り出した。さみしい気持ちを持っていても、武士たる者はそうしたことを口にできなかった。

 前線に向かう途中、荷物を軽くしようと隊士たちが携帯品を預けた茶屋の跡地がある。石田さんとともにその跡地を訪れた。滝沢本陣から東へ自動車で走り続け、家々から離れて山の方へ。途中で墓が見えた。当時の戦争で亡くなった会津藩側の18人の墓(写真)だ。村人が自主的につくったという。戊辰戦争で亡くなった会津藩士の墓は会津の各地にある。

 車を降りると、あとは歩いた。山中、クマよけとして、木の棒で大木をカンカンたたきながら茶屋跡(地図)に向かった。現地には、彼らがたどった石畳が今も残されていた。石田さんによると、白虎隊士は「現地に早く行きたかった」という。


闇夜に浮かぶ死の恐怖

 会津藩が掘った陣地。高さ約80センチ=2018年6月、福島県会津若松市【時事通信社】

 1868(慶応4)年8月22日午後4時ごろ。白虎隊士が自刃するまで残り約19時間。

 白虎隊は戸ノ口原(地図。鶴ケ城まで約7~8キロ)に到着した。この頃、城下への侵攻を防ぐために壊すつもりだった戸ノ口原近くの十六橋(地図。鶴ケ城まで約9キロ)を既に新政府軍は渡り、戸ノ口原で戦いが始まっていた。雨が降る中、会津藩は徹夜で陣地を築いた。これに白虎隊も参加した。

 当時造られた陣地の跡は今も残っている。茶屋の跡地を訪れた後、石田さんに連れられて見に行った。道から外れ、草木が生える小高い菰土山を登っていくと、山頂に段差が二つできていた。確かに分かりやすく土が盛られ、ここに陣地があったのだと認識できる。高さは約80センチ。石田さんによると、盛り土の上から銃を構え、下から来る敵を撃つためのものだという。

 8月22日午後10時。白虎隊士が自刃するまで残り約13時間。

 白虎隊は、この辺りで露営した。ドラマでは山林の中で露営しているような描写を見掛けるが、石田さんによると、実際には、はげ山だったという。

 白虎隊が一時過ごした菰土山。後に、ここから少し先にある姥山に移った=2018年5月、福島県会津若松市【時事通信社】

 このとき、士中二番隊の日向内記隊長が会津藩の別隊に用があると告げて出掛けていく。2008年に見つかった白虎隊士飯沼貞吉(当時15)の「白虎隊顛末記」には、当時のことについて、以下のように書かれている。

 「(現代語訳)夜明けとなれば、討ち死にと覚悟した少年、三々五々、あちこちでだんらんし、無言の中でいとしい母や姉、妹に別れを告げ、空腹時の補給として与えられた食べ物を腰より取り出して食べ、ともに文武を学んだこれまでのことを話し合い、また、夜が明ければ人に遅れないようにしようと心中を話し、寝る間もなく話していると東の空がまさに明けようとしている。」―。

 当時の感覚を少しでもつかめないかと、石田さんと一緒に訪れたのとは別に、白虎隊が実際に露営していた夜(写真)に訪れてみた。暗闇の中で、死が常につきまとっていたのかと考えると、とても恐かった。現代人の中で、どれだけの人がこの恐怖に耐えられるだろう。

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友達の死

 白虎隊士らと新政府軍が戦った戸ノ口原の戦場=2018年5月、福島県会津若松市【時事通信社】

 1868(慶応4)年8月23日午前5時ごろ。白虎隊士が自刃するまで、残り約6時間。

 夜が明けても日向隊長が戻って来なかったため、篠田儀三郎(当時17)は仲間に号令して前進した。そのうち銃声が近くに聞こえた。しかし、戸ノ口原には身を隠すような障壁が無い。篠田隊は溝に隠れた。新政府軍は、前日に布陣していた会津藩の別隊を打ち破り、銃を撃ちながら街道を進んで来ていた。

 このとき新政府軍が持っていた銃は、飛距離800~1200メートル。それに対し、篠田隊が持っていた銃の飛距離は200~300メートルしかなかった。というのも、白虎隊が持ってきた銃は、城に残っていた性能の良くないものだったからだ。そのため、新政府軍が100メートルほどに近づいてくるまで待ってから、篠田の「撃て」という号令で隊士たちは銃を撃った。銃身が熱くなり、手に持つことが出来なくなるほど発射したという。少年が放った銃弾に殺された兵士もいたのだろうか。

 戸ノ口原で亡くなった白虎隊士のものとみられる墓。山中にひっそりと立つ=2018年6月、福島県会津若松市【時事通信社】

 この戦いの地を訪れてみると、とても広い草原だった。標高が約1800メートルあり、「会津富士」とも呼ばれる磐梯山がよく見える。人が行き来する様子はほとんどなく静かだった。そのまま石田さんと歩き続けたところ、「白虎隊奮戦の地」と書かれた大きな碑が立っているのが見えた。付近には当時亡くなった会津藩士の墓(写真)もある。

 白虎隊士の飯沼貞吉が画家に当時の戦争の様子を描かせた絵(写真)がある。左側にいるのが白虎隊で、右側は新政府軍。銃弾を受けた兵士が倒れている様子や、指揮を執る篠田の姿も描かれている。

 戸ノ口原の戦いでは、白虎隊士も死んだ。伊東悌次郎(当時17)、池上新太郎(同16)、津田捨蔵(同16)の3人だ。津田の兄も近くで亡くなっている。白虎隊が露営した菰土山の近くに、彼らを埋葬したと思われる地蔵の絵が彫られた墓が立っている。他の墓の横にポツンと置いてあり、石田さんと一緒でなければ気づかないくらい小さなものだ。これも、地元の村人が立てたものだ。石田さんは、「子どもを見てかわいそうだなと思ってつくった。(遺体は)たぶんその辺に埋まっているでしょう」と話した。

 小さい頃から一緒に遊び、学んできた友達も死んでしまった。


死地へ

 敗走する白虎隊が新政府軍と銃撃戦を繰り広げた地=2018年6月、福島県会津若松市【時事通信社】

 新政府軍の猛攻に及ばず、会津藩は退却の命令を出した。死んだ3人の遺体は置いていくほかなく、霧雨の中、城を目指して篠田隊は来た道を逃げたが、そこには死体があちこちにあったという。地獄の光景だったろう。死体を見ながら、自分達もいつかこうなると考えたりしたのだろうか。彼らが憧れていた戦地の風景と実際の風景は違ったのだろうか。憎き敵から逃げる彼らは、どれほど心が引き裂かれていたのだろうか。

 1868(慶応4)年8月22日午前8時ごろ。白虎隊士が自刃するまで、残り3時間。

 篠田率いる隊は2キロほど退却し、ようやく新政府軍から逃れることができた。ただ、このとき点呼すると、隊は16人ほどになっており、会津藩の別隊とも離れ離れになってしまっていた。隊士たちは残っていたおにぎりを分け合って食べた。

 8月22日午前9時ごろ。白虎隊士が自刃するまで、残り2時間。

 隊士たちが鶴ケ城を目指して街道を進んでいると、多くの兵に遭遇した。敵か味方か分からず「合い言葉は?」と声を掛けると発砲された。場所は「馬頭観音石碑」のすぐ近く(地図)で、鶴ケ城までわずか約3キロ。新政府軍は城下深くまで入り込んでいたのだった。

 飯盛山では、実際に白虎隊士が通った洞門の出口を見ることができる=2018年5月、福島県会津若松市【時事通信社】

 銃撃戦の最中、隊士の永瀬雄治(当時16)が腰の辺りを撃たれてしまう。周辺は遊び場で、どんな場所かを知っていた白虎隊士たちは用水路(写真)の方へ逃げた。永瀬の傷があったことから山頂を目指すのは諦め、用水路から洞門(写真)をくぐって、飯盛山の中腹へ進むことにした。

 今も残るこの洞門には水が流れている。「8月」は旧暦で、現代の暦では10月に当たる。秋の冷たい水に浸りながら、当時約140メートルあった暗い洞窟を少年たちは進んだ。石田さんは、このときの彼らは「お城やお殿様はどうか」と心配し、早く城に行きたい気持ちだったろうと推測する。

 8月22日午前10時。白虎隊士が自刃するまで、残り1時間。

 冷たい水と暗闇に耐え、洞門を出た隊士たちは厳島神社(写真)の前で一度休憩した。すると、大砲や鉄砲の音が聞こえた。鶴ケ城が心配だった彼らは、城下が見える所まで行こうと水路に沿って山を登っていった。そして彼らは自分たちの死地にたどり着く。


城が燃えていないのは知っていた

 飯盛山にある白虎隊士19人の墓。この奥にも、戦死した白虎隊士の墓が別にある=2018年5月、福島県会津若松市【時事通信社】

 白虎隊の話を聞いたことがある人の中には、「お城が燃えていると勘違いして自殺した」と思っている人もいるだろう。会社の後輩にも聞いてもそうした答えだった。

 だが、飯沼貞吉が書き残した「顛末記」によると、実際は違うという。彼らは城が燃えていないことを知っていた。ならばなぜ、彼らは自ら死を選んだのか。

 彼らが自刃の地にたどり着いた時、燃えているのは城下で、城は燃えていないのが見えた。今後どうするのか、少年たちは話し合った。野村駒四郎(当時17)は「敵と戦おう」と提案。井深茂太郎(同16)は「蒲生氏郷(安土桃山時代の武将)が築いた名城だから落ちることはない。城に戻って戦おう」と話す。議論は1時間も続いた。

 この議論を終わらせたのは、小隊長の篠田だった。「誤って敵に捕まって屈辱を受けるようなことがあれば、主君(藩主の松平容保)や祖先に対して申し訳ない。この場は潔く自刃して、武士の本分を明らかにするべきだ」-。

 石田さんによると、彼らは捕まったら殺されると思っていたという。この案に全員が納得した。

 1868(慶応4)年8月23日午前11時ごろ。

 飯盛山から見た城下の景色。遠く、木々が多く集まっているあたりに小さく鶴ケ城が見える=2018年5月、福島県会津若松市【時事通信社】

 隊士たちは持っていた刀で自らを突き刺した。死ぬ間際、彼らの心中には何が浮かんでいたのだろう。筆者には想像することしかできない。

 石田さんと飯盛山を訪れると、中腹には彼らの墓が横にずらりと並べられていた。多くの観光客が訪れ、線香の煙と香りが漂う。彼らが知る由もない光景だ。

 墓から少し歩いた所にある自刃の地(地図)からは、町を眺めることができた。ここに置かれた白虎隊士の銅像(写真)が見ている方向に目を凝らすと、小さく鶴ケ城が見えた。

 「自分が高校生くらいの年で自刃できるかと考えると、なかなか信じられない」-。白虎隊士の話を石田さんに聞く中で、ふと口に出た。石田さんは「敵に捕まることは武士の恥。当時はそういう教育を受けていた」と語った。

 教育か-。今から70年以上前の日中戦争や太平洋戦争でも「戦陣訓」にまつわる同じような話があったことを聞いた。当時の感覚と今とでは全く違うことは分かるが、環境や教育次第で、人は死を自分から選んでしまうものなのだろうか。


その後も死は続く

 戦後に撮影された鶴ケ城。1874(明治7)年に石垣だけを残して取り壊された。現在の城は、1965年9月に建て直された(福島県会津若松市提供)【時事通信社】

 新政府軍が城下へ突入し、白虎隊士たちが日常生活を過ごしていた町は火に包まれた。会津藩は、藩士やその家族に城内に入るようお触れを出していたが、女性や高齢者、子どもたちの中には、足手まといになるまいと集団自殺した人もいた。会津藩の家老だった西郷頼母の一族は21人が自刃(写真)。2~9歳の3人の娘は頼母の妻・千重子が刀で刺し殺した。

 会津藩の籠城戦は約1カ月続いた。新政府軍に包囲され、鶴ケ城は砲撃を受け続けた。白虎隊の1人で、後に現在の東京大学の総長になる山川健次郎が編集した「会津戊辰戦史」には籠城戦について以下のような記述がある。

 「(現代語訳)戦いが激しくなると、病室は、きりをほとんど刺すことができないほど隙間なく、手が無くなったり足が砕けたりした者、全身の皮膚がただれた者で雑然として、苦しんでうめいていた。しかしながら、皆、悔しさやその姿から、敵と戦おうと思わない者はいない。しかし、西軍の砲撃はますます激烈となり、砲弾は病室または婦人室で破裂し、全身が粉々となり、肉片の塊が飛散して、四方の壁に血痕を残す者がいた。その悲惨な痛ましい光景は表現できないものだ」-。

 仲間とはぐれた白虎隊士の酒井峰治が愛犬のクマと再会した時の銅像。飯盛山中腹の「白虎隊記念館」の前に立っている=2018年5月、福島県会津若松市【時事通信社】

 城内外では、銃やなぎなたを手に取った女性たちや、会津出身ではなかったものの上官とたもとを分かち会津に残った者らが老若男女を問わず、死に物狂いで戦い続けた。その日、もし自らが生き残っても、知人や家族が死んでいく日々が続いた。

 篠田儀三郎とともに敗走した白虎隊の中にも生き残った隊士がいた。飯沼貞吉は自決しようとするも、奇跡的に息を吹き返した。その後、戊辰戦争で敵方だった長州藩に拾われた。酒井峰治は戸ノ口原での戦いの後、仲間とはぐれたが、農民に拾われた。後に愛犬のクマと再会し、籠城戦に参加した。

 白虎隊士が自刃してから約1カ月後の9月22日、会津藩は白旗を揚げ、新政府軍に降伏した。

 会津戦争では、兵員のほか、巻き込まれた農民や婦女らも含めると数千人が犠牲になったとも伝えられている。飯盛山で自決した白虎隊士もその数千人の一部だった。

 この戦争を生き残った飯沼貞吉も酒井峰治も生前、白虎隊について多くを語らなかったという。

【会津若松】新選組隊士の鉢金や鎖かたびら展示 会津新選組記念館の特別展
 会津若松市七日町の会津新選組記念館(高橋一美館長)の戊辰戦争150年後期特別展「会津戦争と新選組」は28日から同館で開かれ、貴重な展示資料の数々が来館者を魅了している。11月末まで。

 同館は「骨董(こっとう) むかしや」の2階にあり、古式鉄砲研究家の高橋館長が長年にわたり収集した個人コレクションが展示されている。戊辰150年の節目に合わせ、前期、中期と開かれてきた特別展の最後となる今年3期目の特別展。

 今回は、会津戦争や、京都の治安維持を担う京都守護職を拝命した会津藩主松平容保(かたもり)のもと「会津藩御預」として活躍した新選組の関係資料を中心に展示した。

 「京都禁門(蛤御門)の変」や「徳川慶喜大坂脱出の図」「江戸無血開城の図」などの錦絵や新選組隊士が頭に巻いた鉢金、新選組筆頭局長芹沢鴨のものと伝わる鎖かたびらなどを展示している。

 また大河ドラマのロケでも使用されたゲベール銃、スナイドル銃、スペンサー銃なども並ぶ。放映中の大河ドラマ「西郷どん」の撮影で使った銃なども展示されている。

 開館時間は午前10時から午後5時ごろまで。不定休。入場料は大人300円、小・中学生200円。問い合わせは同館(電話0242・22・3049)へ。

旧会津藩主・松平容保「助命」に領民奔走 新たな史料など紹介
戊辰150年を機に「戊辰と明治」について考えるシンポジウムが12日、会津若松市で開かれた。西軍側の史料で「開城後、領民は旧会津藩主松平容保(かたもり)に背を向けて冷ややかだった」とされてきたことを覆す内容の史料が紹介され、来場者が熱心に耳を傾けた。

 シンポジウムは同市の郷土史家ら有志による会津戊辰戦争150周年事業実行委員会(阿部隆一会長)の主催。パネル討論では戊辰戦争後の1868(明治元)年11月に会津から上京した10人の村の世話役「肝煎(きもいり)」が手分けをして阿波徳島、肥後熊本、長州、久留米、土佐各藩などに藩主の助命嘆願をするため奔走した史料などが紹介された。

 進行役を務めた会津幕末史研究会の簗田直幸さんは「領民は平和を願っていた。望んでいない戊辰戦争に巻き込まれ、兵火で村落が焼失したが、藩主を冷ややかな目で見るようなことはなかったはず」と述べた。

 助言者の落合弘樹明治大文学部教授(明治維新史学会理事)は「明治政府が政府に都合のいい声だけを拾い集めて歴史をつくり上げた点は否定できない。肝煎が命懸けで藩主の助命嘆願をしていたとすれば、会津の歴史を考える上で非常に興味深い」と語った。

 老幼婦女子の戦闘にも目を向け、会津の歴史研究をさらに発展させる必要性なども指摘された。

 パネル討論に先立って、歴史研究会の大塚セイ子さんが「戊辰戦争後の塩川の役割」、熱海史談会の佐藤秀雄さんが「石筵(いしむしろ)村のできごとについて」をテーマにそれぞれ語った。また、簗田さんが「兵火による村落の焼失について」と題して発表し、幕末史を見直す会の鈴木ひろみさんが「籠城を戦い抜いた婦女子の心の支え」を題に、照姫についての研究成果を発表した。

浜に眠る鳥取藩士 寄宿縁で慰霊継承
いわき市の北隣に位置する広野町も戦いの場になった。戦端は一八六八(慶応四)年七月に開かれた。東軍(旧幕府軍)が広野宿に置いた拠点を巡る攻防だった。
 東軍側の相馬中村藩と仙台藩、磐城平藩、西軍(新政府軍)勢の広島藩と鳥取(因州)藩などが今の二ツ沼総合公園周辺で激突。五日間に及ぶ戦いの末、西軍勢は広野宿を攻略した。
 いわき市久之浜町の外れにある龍光寺境内に鳥取藩士、近藤類蔵(るいぞう)が眠る。
 「歴史が紡いだ不思議な縁を大切にしていきたい」。近くに住む木村芳秀さん(81)は墓碑を前に感慨深げに語る。
 木村家は代々続く名家で、近藤の墓を守り継いでいる。今年も月遅れの盆の入りに当たる十三日に親族と連れだって線香を手向けた。
 墓碑には「因州砲隊長近藤類蔵孝敏墓」と刻まれ、墓が建てられた経緯が側面に記されている。鳥取藩が供養料を出し、奥羽追討参謀だった河田左久馬が建立したとある。
 遺体が龍光寺に葬られた詳しい経緯を知る人は既にいない。だが、木村さんは木村家が墓参を続けるようになったきっかけを伝え聞いている。

◆不思議な縁 

 鳥取藩は広野の戦いに備え、久之浜町で大須賀家という地元の旧家が営んでいた亀田屋に陣を張り、寄宿した。近藤は西軍勢の進撃を食い止めようとする東軍との激しい戦いで負傷し、亀田屋に運び込まれたが、三十七歳で亡くなった。当初は大須賀家が慰霊し、縁戚関係にあった木村家が引き継いだ。
 木村さん方では霊を祭る霊璽(れいじ)と慰霊行事で使った旗を大切に保管している。家屋は東日本大震災の津波で床上まで水に漬かったものの、霊璽と旗は難を逃れた。

◆役目 

 木村さんは戊辰戦争の記憶を次代に伝える活動に力を注いでいる。昨年まで会長を務めていた久之浜・大久地域づくり協議会は戊辰戦争開戦百五十年を記念し、今年秋にも白河、二本松、会津若松各市など県内の戊辰戦争ゆかりの地を研修で訪れる。十一月十八日には市地域防災交流センター「久之浜・大久ふれあい館」で記念講演会の開催を予定している。鳥取市歴史博物館の学芸員伊藤康晴さんが「因州兵の戊辰戦争と久之浜・大久」のテーマで久之浜・大久地区と戊辰戦争との関わりを語る。
 「この地が戊辰戦争に関わっていたと知る人は少なくなった。地域の歴史を理解すれば郷土愛を深められる。記憶を継いでいく役目をしっかりと果たしたい」。節目の年に思いを一層強くしている。

( 2018/08/20 08:28 カテゴリー:主要 )

新潟
企画展「戊辰戦争150年」 26日閉幕 県立歴史博物館 /新潟
 県立歴史博物館(長岡市関原町1)で開催されている企画展「戊辰戦争150年」が26日に閉幕する。同企画展は福島県立博物館、仙台市博物館の共同企画展覧会。展示資料は各地域の戊辰戦争ゆかりの資料も展示するため、会場ごとに増減をしながら福島県会津若松市(9月1日~10月14日)、仙台市(10月26日~12月9日)それぞれの…
 以下は毎日新聞の有料版にて。

神奈川
【神奈川】戊辰戦争 その時、横浜では 開港資料館などで企画展
 明治維新(一八六八年)から百五十年を機に、新政府軍と旧幕府軍が戦った戊辰(ぼしん)戦争(六八~六九年)時の横浜を紹介する企画展「戊辰の横浜」が横浜市中区の横浜開港資料館で開かれている。十月二十八日まで。

 同館によると、英国やフランスなどの外国軍が駐留していた横浜・関内地区では戦闘が発生しないまま、新政府軍に接収された。同展では、現在の京急線日ノ出町駅近くにあった横浜病院で重傷の新政府軍兵士を治療した記録や、接収前に旧幕府軍が横浜港で銃器や蒸気船を購入したことを示す文書など計百点を紹介している。

 吉崎雅規・調査研究員は「横浜港では六七年に十万丁以上の小銃が輸入され、(新政府軍の)薩摩、長州両藩が武器を輸入していた長崎港の一・五倍あった。横浜も戊辰戦争と無関係ではなかった」と解説する。

 同市都筑区の市歴史博物館でも、同名の企画展が九月九日まで開かれている。横浜北部の村などにあった自主防衛組織「農兵隊」が、新政府軍に銃器を強制回収された記録など百二十点を展示している。

 開港資料館の入場料は大人二百円、小中学生百円。歴史博物館は大人五百円、大学・高校生二百円、小中学生百円。両館とも原則月曜休館。問い合わせは開港資料館=電045(201)2100=へ。 (志村彰太)

高知
高知県北川村の中岡慎太郎館が企画展「四国の戊辰戦争」
 戊辰戦争(1868年1月~69年5月)と土佐藩の関わりを史料で読み解く企画展「四国の戊辰戦争」が、高知県安芸郡北川村柏木の中岡慎太郎館で開かれている。「志国高知 幕末維新博」の関連企画で8月27日まで。

山口
毛利敬親企画展名君、注目度上昇 激動の幕末生きた長州藩主、人物像に迫る 山口、防府 /山口
 明治維新150年の今年、幕末の長州藩主・毛利敬親(1819~71年)の人物像に迫る意欲的な企画展が県内各地で開催されている。並み居る志士たちの活躍を支え、尊皇攘夷(じょうい)や禁門の変、戊辰(ぼしん)戦争など激動の時代を生きた名君に改めて注目が集まっている。【坂野日向子、平塚裕介】

 山口市の市菜香亭(083・934・3312)では「藩主毛利敬親の真のキャラクターに迫る」が開催中だ。敬親は、家臣の意見に反対せず「そうせい」と応じたとして、別名「そうせい候」とも呼ばれた。

 展示では、そのようなイメージと異なるエピソードをかるた形式で紹介した。掛け軸一つ買うにも熟考して質…
 以下は毎日新聞の有料版にて。
赤坂ACTの中村仲蔵とか、下北沢本多劇場の牡丹灯籠とか、六本木EXシアターの歓喜の歌とか、あらかじめネタだしされている落語&劇場でない志の輔らくごも聴きたくて、町田まで遠征してしまった(移動に1時間半越えると遠征感ある。1時間以内の、上野鈴本・新宿末廣亭・桜木町というか野毛のにぎわい座や千代田区中央区以南の落語会は守備範囲。1時間では微妙な池袋演芸場、文京区や北区や江戸川区の落語会はアウェー感あり。うん、1時間以内か以上かというのは割と大事)。

狸の札/志の大
 志の輔さん一門で八番弟子と自己紹介。去年見習いから前座に昇進したそうだけど喋りは滑らか。志の輔一門は指導が厳しいと思うが頑張って欲しい。

茶の湯/志の輔
 ベトナムやシンガポールでの巡業の話を振る。そうか、志の輔さん的にも町田は「巡業」の距離なんだよな。ベトナムで初めて本格的な、故郷のこきりこ節を見た話。
 茶の湯に入る。ん、志の輔さんの茶の湯ってこんな下品だったっけ。それとも、これは地方巡業での作品だからくすぐり方が強いのか。談笑さんだったらOKなんだけど志の輔さんがオエッとかやると、私でもちょっと引く。引いたまま、終わってしまった。。

帯久/志の輔
 後半は本格的な大ネタ。帯屋久作のあくどさぶりに半ばは胸が痛むが、後で大岡越前守がちゃんと締めてくれるから。でも前に聞いた時よりもちょっと戯画的な味が強い。地方巡業用にきつく締めているのかな?
八月納涼歌舞伎は十八代勘三郎さんが中心になって始めたもので、中村屋ゆかりの配役だったり、若手を積極的に起用したり、新作に積極的なのが特徴(「大」歌舞伎となっていない)。ただ今年は勘九郎さんが来年の大河ドラマの撮影で出演できないため、勘九郎さんファンの私はちょっと寂しい。

【第一部】
花魁草
扇雀のお蝶、獅童の孝太郎。安政大地震で焼け出された年増の女郎と若い役者の卵が栃木に身を寄せて達磨の絵付けで貧しくとも穏やかに暮らす。お蝶は孝太郎に惚れていたが、身体の関係を拒む。栃木に巡業してきた江戸の一座の座元が孝太郎復活の道をつくる。お蝶は彼と一緒にならず、栃木の郊外の温泉地に引きこもり、生死不明に。大成して栃木に巡業してきた一座の船乗り込みを見る地元の群衆の中で、ひとりひっそりと顔を隠したお蝶がたたずんでいた。
 年上の元女郎が、病に気付いて身を引くという話なんだが……労咳だったら六年後に生きてないだろうし、梅毒でも厳しいかな。でも身体の関係を持たずに身を引き、身を隠して療養するというのは当時の業病だったのだろう。悋気の強い女という設定で累伝説になぞらえる台詞もあるのだけど、つつましい身の処し方だった。
 隣の百姓・米之助を演じた幸四郎さんのほんわかとした雰囲気がよかった。役柄としてはもう少し金に汚いんだろうけど。

龍虎
幸四郎さんの龍、染五郎さんの虎。

心中月夜星野屋
落語「星野屋」をベースに小佐田定雄さん脚本。心中をもちかける星野屋照蔵に中車、妾おたかに七之助、おたかの母お熊に獅童。軽く笑わせてくれる展開は好き。でも冒頭、うっかり寝落ちした部分があって(汗)、なぜ心中話になったのかわからなかった。

【第二部】
再伊勢参!? YJKT
東海道中膝栗毛
 三年目の弥次喜多。今回は猿之助の喜多八が死んで幽霊になり、幸四郎の弥次郎兵衛が地獄まで喜多さんを探しに行く話。中車、七之助、獅童の早替わり六役とか面白いんだけど本筋に絡んでない早替わりなので目先だけ。地獄でいろいろな演し物が出てくるところは比較的にまとまりがあるけど、そこに辿り着くまではどうも面白みが不足。
 若手の御曹司が総出演。八歳の右近くんの可愛さが突出。

雨乞其角
 総髪の俳句師って……うーん、どうもなぁ。若手御曹司たちの踊りは千穐楽なのに少しばらつきが。

【第三部】
盟三五大切
 今月の演し物でダントツに面白かった。パンフレットなどの粗筋を読んでも筋が入ってこないのだけど、実際に芝居を見ると複雑な人間関係が次第に明らかになり、「東海道四谷怪談」や忠臣蔵に話がつながっていくのもわかった。
 一番はまり役だったのは獅童の三五郎。幸四郎演じる源五兵衛を騙して百両巻き上げる悪党だけど、詐欺は父が仕えていた面識のない旧主に用立てるため。七之助さん演じる妲己の小万も妖艶さと悪女ぶり、最後に生首が……ってところがまたいい。幸四郎の源五兵衛は、前半の律儀で誠実な侍というところはいいのだけど、自分を騙した相手をことごとく殺す色悪ぶりが弱い。
 評論家の渡辺保氏が、本来のニンでいえば幸四郎と獅童の配役は逆と指摘していたが、まさにその通り。源五兵衛をニザ様で見たい。。

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