新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
10月初旬から気の抜けない仕事が連続して入っていたのですが、やっとピークを過ぎました。毎年11月は風邪引いたりなど体調を崩しやすいのですが、それもまぁ何とか。
あまりに寒いので、遠赤外線ストーブで暖めてます。
東京
新扁額:拝島大師に 1世紀ぶり、天然理心流--きょう奉納式 /東京
天然理心流 新扁額奉納へ 昭島
京都
近藤勇:京都で見つかった直筆掛け軸、初公開--東山・霊山歴史館 /京都
薬局もヲタク層にPRする時代です、沖田総司が解説する調剤薬局
事故物件かどうかを調べることができるサイト「大島てる」に、あの歴史的事件が!
うーむ……誰が登録したのやら(°°;)。
兵庫
忠臣蔵・大石家の書状秘蔵か 幕末の勤王志士が記録 兵庫・豊岡
コラム
琵琶湖疏水関係者。
(138)東大教授・山内昌之 北垣国道
(139)東大教授・山内昌之 田辺朔郎
薩長軍の活躍は、失敗の反省から始まった
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東京
新扁額:拝島大師に 1世紀ぶり、天然理心流--きょう奉納式 /東京
昭島市の拝島大師本覚院旧本堂に掲げられている天然理心流心武館が奉納した大扁額(へんがく)に今月、新しい1枚が加わった。1913(大正2)年に初代館長の井上才市が奉納して以来、約1世紀ぶりで、23日午後1時半から境内で奉納式が行われる。同流派の演武とともに午後3時からは新大扁額の除幕式もある。見学無料。
幕末の新選組の近藤勇局長らが身につけた武術として知られる天然理心流は、江戸末期に近藤内蔵之助が創始した総合武術。心武館はその流れをくむ流派で、現在は初代館長の親類にあたる大塚篤さん(63)=茨城県牛久市=が4代目を継承し、昭島市や牛久市などに稽古(けいこ)場を開いている。
昭島消防署長を務めていた4年前にに拝島大師本覚院に掲げられている奉納額を発見。間もなく1世紀を迎えることから、新しい額の奉納を思い立った。
額は縦1・2メートル、横3メートル、重さ約300キロのケヤキの一枚板で、大きさや彫刻は従来と同じ様式にし、現在の門弟や賛助者ら228人の名前が書き込まれている。【河嶋浩司】
天然理心流 新扁額奉納へ 昭島
昭島市の拝島大師旧本堂に、天然理心流心武館の初代館長が1913(大正2)年に奉納した大扁額(へんがく)が掲げられている。約1世紀たった今秋、その額の横に、新しい額が並んだ。23日に奉納式が行われる。
天然理心流は、江戸末期に近藤内蔵之助が創始した剣術、居合術、棒術、柔術などを備えた総合武術。新選組の近藤勇局長、土方歳三副長らが身に着けた武術として知られている。
心武館はその流れをくむ流派で、初代館長の井上才市が創設。現在は縁戚に当たる大塚篤さん(63)=茨城県牛久市在住=が4代目として昭島市や牛久市などにけいこ場を開設、流派の技を引き継いでいる。
大塚さんは、昭島消防署長を務めていた4年前、拝島大師に初代館長による奉納額が昔のままに掲げられているのをみつけた。すすけ、文字はかすれているものの、近隣に住む師範や門人、支援者ら300人ほどの名前が読み取れた。額が掲げられて間もなく100年になるのを機に、新たな額の奉納を思い立った。
形は100年前の額とほぼ同じ。1.2×3メートルのケヤキの一枚板に、同じ彫刻を施した。重さは約300キロ。現在の門弟、賛助者ら228人の名前を書き込んだ。大塚さんは「我々も100年後に残せる技や心を伝えたい。後に続く人たちによって新しい額が掲げられることが夢ですね」。
23日の奉納式は、同大師境内で午後1時半から演武、午後3時から扁額の除幕がある。見学は無料。(ライター・榎戸友子)
京都
近藤勇:京都で見つかった直筆掛け軸、初公開--東山・霊山歴史館 /京都
◇“英雄論”に熱視線 新選組ファンら「感動」
京都市の美術店で先月見つかった新選組局長、近藤勇(1834~68)直筆の掛け軸が、同市東山区の霊山歴史館で初公開されている。近藤の人間像をうかがわせる詩書を見ようと、多くの新選組ファンらが訪れている。【花澤茂人】
詩書は「英雄」のあり方を論じた七言絶句。前段は「隠者のように暮らすべき」「議論するだけの俗人とは違う」と、攘夷派の志士に皮肉ったような内容で、後段は「果たして英雄の心上(しんじょう)のことを識(し)らば、英雄ならざるところぞこれ英雄」と結ぶ。
漢詩に詳しい西村富美子・三重大名誉教授は「英雄は、それを世に誇るべきではない、という意味だろう」と分析。「七言絶句の細かいルールも踏まえておりレベルは高い。ただ、『英雄』という言葉が3度出てくるのは考えられないことで、よほど強調したかったのだろうか」と話す。
同館の木村幸比古・学芸課長は、近藤が入洛した文久3(1863)年ごろの作とみており「意気揚々と職務に燃えていた様子が感じられる」と話している。東京都多摩市から訪れた中央大3年、松村由紀さん(21)は「直接見て感動した。力強い筆遣いが近藤さんらしい」と喜んでいた。
掛け軸は特別展「龍馬と土佐の衝撃」(12月26日まで)に合わせて展示されている。問い合わせは同館(075・531・3773)。
薬局もヲタク層にPRする時代です、沖田総司が解説する調剤薬局
京都・四条堀川の調剤薬局「りぼん薬局」が、女性向けイラストで新撰組の沖田総司を起用した調剤薬局のPRサイトを100日間限定で公開した。
京都では最近、京都市交通局企画課がオリジナルキャラクター太秦萌(うずまさもえ 17歳)というオリジナル萌キャラクターを作成したり、財団法人 京都市都市整備公社がアイドルユニット「自転車利用マナー向上隊 ほっとかナイス」を結成するなど、萌文化に訴求するPR方法が多く採用されている。
今回100日間限定で公開された「りぼん薬局」の特設サイトでは、新撰組の沖田総司が調剤薬局にも病院と同じくかかりつけを利用することを分かりやすく解説。
ちなみに話中で登場する、沖田かかりつけの調剤薬局「りぼん薬局」はこの会話の中で壬生の屯所に近いという設定になっている。
なお、今回特設サイトを公開した「りぼん薬局」の広報担当によると「一般に『お堅い』とイメージされるところが趣向をこらしてアピールする中、調剤薬局は情報発信がやや不足しているようにも思われます。医薬分業のこと、かかりつけ薬局の大切さなど、普段なかなか興味をもたない調剤薬局の役割に少しでも興味を持っていただきたいと、 親しみやすい新撰組をモチーフにした情報発信を行いました。」とコメントしている。
普段あまり意識することのない調剤薬局の“かかりつけ”。これを機会に是非考えてみて欲しい。
事故物件かどうかを調べることができるサイト「大島てる」に、あの歴史的事件が!
過去に物件で何らかの事件・事故が起きていないかを調べることができるサイト「大島てる」に、まさかの「池田屋事件」が!
なんでこれが? と思ったら、どうやらユーザーによって登録されたものみたいです。たしかに事件が起きたことがあるという意味では「事故物件」なのかもしれませんけど...!
ちなみに池田屋事件とは1864年に起こった出来事で、旅館・池田屋に潜伏していた尊王攘夷派志士を新選組が襲撃したというもの。歴史的な事件であり、これまでに何度も小説や映画の題材になってきました。
現在、池田屋跡地は居酒屋の「はなの舞」になっているとのこと。歴史ファンなら一度は訪れたい聖地の一つですね。
なお「大島てる」はマンションやアパートの事故物件情報を集めるためのサイトですので、基本的にはこういう投稿は避けた方がいいかもしれません。
うーむ……誰が登録したのやら(°°;)。
兵庫
忠臣蔵・大石家の書状秘蔵か 幕末の勤王志士が記録 兵庫・豊岡
忠臣蔵で知られる大石内蔵助(くらのすけ)(良雄(よしたか))とその家族がつづった書状や手紙を内蔵助の妻、りくの出身地(兵庫県豊岡市)の大地主が秘蔵していると記録した幕末の書状が、同市の地主の子孫宅に残されていたことが21日、わかった。市出土文化財管理センターは「信憑(しんぴよう)性は高い」として書状全文の解読と手紙などが現存していないか調査に乗り出した。
書状は、のちの明治天皇の養育係を務めた後、勤王志士として尊王攘夷運動に奔走した豊岡出身の田中河内(かわちの)介(1815~62年)が、地元支援者の大地主、田井家のために書いた証明書的な文書。日付は、元禄15(1702)年の赤穂浪士討ち入りから155年後の「安政四年(1857年)」と記されている。
現在解読作業中だが、「赤穂の義士大石良雄…」で始まる文面には、内蔵助の書状や、りくが名乗った「香林院」の手紙、赤穂浪士の一人で長男、良金(主悦(ちから))の幼少期の絵などを、田井家が保管していると記載、他の赤穂浪士の名も登場する。河内介の正式名の「綏猷(やすみち)」の署名と落款も押されている。
同センターの潮崎誠所長は「大地主と大石家の関係など興味深い。新発見につながる可能性もある」と期待している。書状は23日、神美地区公民館(同市三宅)で開かれる河内介の顕彰行事で公開される。
コラム
琵琶湖疏水関係者。
(138)東大教授・山内昌之 北垣国道
革命家から琵琶湖疏水の父
朝まだきの京都・南禅寺には不思議な霊気が漂っている。歌舞伎の『楼門五三桐(さんもんごさんのきり)』で石川五右衛門が「絶景かな絶景かな…」と科白(せりふ)を廻した三門に立ち、水路閣(琵琶湖疏水(そすい)の水道橋)を眺めれば、1200年来の古都とモダンとの絶妙のバランスが霊気のなかに浮かび上がる。
琵琶湖の水をいくつもの山々を穿(うが)った隧道(ずいどう)(トンネル)に通して、京都市東部の山科から市内中心部に運ぶ水路の建設は、いまでいえば新幹線や青函トンネルの開通にも比すべき壮大な工事にほかならない。そして、この掘削を命じた京都府知事・北垣国道と、設計建設にあたった青年技師・田辺朔郎のコンビによる時代を先取りする雄大な構想や、後世に対する責任感の強さに驚嘆する人も少なくない。
但馬国(兵庫県)養父(やぶ)郡の庄屋の家に生まれた北垣は、文久3(1863)年に公卿(くぎょう)の沢宣嘉(のぶよし)に率いられた生野(いくの)銀山の挙兵(生野の変)に参加したのだから、相当にキャリアのある尊皇志士ということになる。義挙の失敗後、あれこれを経て長州に潜伏し、戊辰戦争では山陰道鎮撫(ちんぶ)総督の西園寺公望(きんもち)の下で戦い、やがて北越戦争にも従軍している。
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度肝を抜かれる土木事業
幕末明治の面白いのは、こうした生粋の革命家が民政家に転じても業績をあげる人物の多かったことだ。
高知や徳島の県令を経て京都府知事に就任した北垣は、地下水や北の山々に発する川の貧弱な水量に頼るしかなかった京都の水事情を一変して、東京への奠都(てんと)(新都を定めること)でさびれる一方の京都の活力を蘇生(そせい)する第一歩にしようとした。
大きなスケールの構想に驚くのは明治人だけでなく現代人も同じだろう。まず大津市の三井寺の近くから長等山(ながらやま)を穿つ第1トンネルだけでも2436メートルもあり、江戸時代の安眠から醒(さ)めたばかりの国民にとって度肝を抜かれる土木事業となった。しかし、これこそ国家百年の大計ともいうべき構想であり、その着想力は官僚というよりも政治家の素質である。さすがに生野の変から戊辰戦争の荒波をくぐり抜けてきた志士だけのことはある。
明治18(1885)年の着工から4年8カ月の大工事の末に完成した琵琶湖疏水は、灌漑(かんがい)、上水道、水運、水車の動力補給などを円滑にしただけでなかった。工期途中でアメリカを視察した田辺は、当初の計画になかった水力発電を構想し、日本初の営業用水力発電所となる蹴上(けあげ)発電所を建設した。建物の雄姿の面影は今でも残っている。この水力発電の成功は、明治28年に開通した京都と伏見を結ぶ日本最初の路面電車(京都電気鉄道)の営業運転を可能にする快挙でもあった。
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北垣の事績は、明治25年に北海道庁長官に転じても続いた。着任してすぐ、港湾部が浅く土砂の堆積も重なり大型船接岸が不可能となった函館港の改修を指示し、港内浚渫(しゅんせつ)や防波堤・灯台の新設、埠頭(ふとう)建設などの工事によって、31年にいまの函館港の原型が出来上がった。
北海道の拓殖と国防を兼ねた北海道官設鉄道を計画したのも北垣である。北垣は東京帝国大学教授となっていた田辺を道庁に招聘(しょうへい)し、函館本線の一部、宗谷本線や根室本線の一部となる区間の調査と建設にあたらせた。
目的税受け入れた府民
帝大教授を辞めて道庁鉄道部長になる田辺のこだわりの無さも凄(すご)い。当時の職階意識では、内務大臣兼台湾総督だった児玉源太郎の陸軍参謀次長への降任ほどではなくても、格下げの感もある人事であった。いずれにせよ、必要とされる場所に屈託なく出かける明治初期の逸材たちの姿には頭が下がる。もっとも、疏水工事竣工(しゅんこう)を機に田辺は北垣の娘婿となっており、親子として独特な平仄(ひょうそく)があったのかもしれない。
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それにしても、疏水工事で偉かったのは、北垣や田辺だけでない。この琵琶湖疏水の建設は、国や京都府からの財政支出だけでなく、市債や寄付金にも頼った。そのうえ当時の府民たちが素晴らしいのは、この事業が後世の子孫まで潤す財産になることをしっかりと了見して、疏水建設のために目的税を受け入れたことである。
もちろん、庶民の間には、重税感に不満もあっただろう。それでも、明治初期の聡明(そうめい)な京都人は、権利や受益のためには、負担や義務が伴うことを知っていた。北垣は、京都商工会議所の創設などにも尽力し、近代産業都市としての京都建設に大いに貢献した。北垣ら幕末から明治に生きたたくましい先人を知るには、その同志であり娘婿だった田辺についても次回で触れる必要がありそうだ。(やまうち まさゆき)
◇
【プロフィル】北垣国道
きたがき・くにみち 天保7(1836)年、但馬(兵庫県)生まれ。維新後は高知、徳島県令を経て、明治14(1881)年、京都府知事に就任し、琵琶湖疏水事業を推進。25年、北海道庁長官。晩年は枢密顧問官となり、大正5(1916)年、死去。
(139)東大教授・山内昌之 田辺朔郎
京都と北海道を開いた恩人
京都の蹴上(けあげ)や岡崎のあたりは、私のいちばん好きな場所である。
水路閣という琵琶湖疏水(そすい)の分線が南禅寺の境内を静かに通り、その煉瓦(れんが)造やアーチ構造の優美さは訪れる者を魅了する。南禅寺の歴史に自然に溶け込んだ異国伝来の建築様式は、テレビドラマなどでもすでにお馴染(なじ)みであろう。
南禅寺を出て蹴上のほうに坂を上るとすぐレールにつきあたり、まもなく不思議な台車を見つけることになる。これがインクライン(舟用の傾斜鉄道)の名残にほかならない。文明開化からほど遠からぬ時代に若き日本人技師の手でつくられた最大の洋式意匠が、いまでは京の古典的な建造物や伝統美と巧みに融合している。この調和を見ると、先人の偉業が偲(しの)ばれいつも誇らしい思いになる。
琵琶湖疏水の夢実現へ
水路閣とインクラインという対照的な名称の結構をつくったのは、田辺朔郎である。幕臣・田辺孫次郎の長男として生まれた朔郎は、父が高島秋帆(しゅうはん)門下の洋式砲術家だったせいもあり、理工系に才を伸ばすべく、できたばかりの工部大学校に入学した。その卒業論文が「隧道(ずいどう)建築」つまりトンネルを扱い、琵琶湖疏水の工事を具体的に構想したことが彼の一生を決めた。北垣国道京都府知事に請われて京都府御用掛となった田辺は、さっそく琵琶湖疏水をつくる夢の実現にとりかかった。
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田辺朔郎(京都市上下水道局所蔵)
北垣は、わずか21歳の工学士に、豊臣秀吉このかた幾多の為政者が夢見た野心の実現を託したのだ。このあたりの思い切りのよさや太っ腹なところが、幕末維新の動乱をくぐりぬけた志士たる所以(ゆえん)であろう。安定期に成長した国家官僚とは違う資質なのである。しかも北垣は、疏水工事の進行中に田辺をアメリカ視察に派遣した。後に長女しずを娶(めあ)わせる北垣としては、この前途有望な青年をさらに大きく飛躍させようという好意も含まれていたのかもしれない。
果たして田辺は、府知事というよりも国士の風貌をもつ北垣の期待に恥じなかった。滞米中に疏水から水力発電を起こすヒントを得た彼は、蹴上にインクラインと並ぶハイカラの極致たる発電所をつくったからだ。インクラインを走らせる電気も疏水から引いた水で起こしたものだ。万事に無駄がないのである。
それにしてもインクラインという名前がよいではないか。傾斜鉄道などという野暮(やぼ)な名前を避ける一方、疏水分線の水路橋には水路閣という絶妙の和名をつけるなど、どうして明治の知識人のセンスと教養はかくも高いのだろうか。感動するほかない。
しかも、その設計技術の高い水準にも驚くほかない。浜大津の近辺で琵琶湖水を取り入れた水路は、山に向かって静かに流れているが、この取水口と京都の蹴上との落差はわずかに4メートルにすぎない。また、浜大津から蹴上までの総延長は12キロもあった。それでいて琵琶湖の水がきちんと流れを止めずに、南禅寺の近辺まで届いたのだから驚異である。計算機もコンピューターもない時代に設計した田辺の優秀さはいくら褒めても褒めたりないほどだ。
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田辺朔郎(京都市上下水道局所蔵)
この蹴上から高さ35メートルの急勾配を小ぶりの荷物運搬舟が下り、鴨川経由で京都市街の中心に入っていくために、勾配を下る舟を運ぶ台車が必要となった。そこでインクラインが工夫されたのだ。
子供の頃、父が戦前に京都へ修学旅行をした際に買い求めた絵はがきでインクラインの写真を見たことがある。私も中学生の頃に北海道庁長官の北垣の名を知っていたが、疏水やインクラインに縁のある人物だと知ったのは高校生になってからのことだ。
北の大地の鉄道形作る
北海道人は北垣や田辺の治績に多くを負っている。北海道は新橋-横浜間、大阪-神戸間に次いで、手宮(小樽)-札幌間に鉄道が開通した地である。開拓使の運営する鉄道はやがて払い下げられて北海道炭礦鉄道の所有に帰したが、北海道庁長官の北垣は開拓を成功させるには北海道炭礦鉄道では荷がかちすぎると考えた。道庁が直接に鉄道の建設と運営をおこなうことを決意し、明治29(1896)年に田辺を招いたのである。
帝国大学教授の職を辞し、北海道で再び現場に立った田辺には、技術者としての誇りをもつ明治人らしい健全な愛国心や経世済民の志があったにちがいない。この結果、現在の主要幹線たる函館本線、宗谷本線、根室本線などの原型が次第に建設されたのだ。私を含めて北海道人は、改めて田辺朔郎の開拓貢献に感謝すべきではないだろうか。
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田辺朔郎(京都市上下水道局所蔵)
鉄道事業の骨格をつくって北海道を去った田辺が懐かしの京都で帝国大学教授や工科大学長になったのも、奇縁というべきであろう。平成の私たちはあまりの豊かさを当然とするあまり、田辺や北垣のような先人の偉業に謙虚でない。そして、その存在さえ忘れがちである。心すべきことではないだろうか。(やまうち まさゆき)
◇
【プロフィル】田辺朔郎
たなべ・さくろう 文久元(1861)年、江戸に生まれる。明治16(1883)年、工部大学校(現・東大工学部)卒業後、京都府知事の北垣国道に請われて同府御用掛となり、琵琶湖疏水の設計、工事を手がける(明治23年完成)。北海道庁長官に転任した北垣とともに北海道の鉄道建設にも尽力し、京都帝国大学工科大学学長、土木学会会長などを歴任。昭和19(1944)年、死去。
薩長軍の活躍は、失敗の反省から始まった
幕末を扱った大河ドラマでは、「ゲベール銃」や「ミニエー銃」という言葉がよく出てくる。ゲベールとはオランダ語で「小銃」であるが、日本では前装式滑腔銃の通称となっていた。「前装」とは、火薬と銃弾を銃口から入れ、槊杖(さくじょう)で突き固めて装填する方式である。そして「滑腔」とは、銃身内部にライフルリング(施条)がないという意味だ。
もう1つのミニエー銃は前装式ライフル銃の通称であり、その代表的なものがエンフィールド(エンピール)銃である。ゲベール銃との違いは、銃身にライフルリングが刻み込まれていることだ。このライフルリングによって銃弾が旋転し、ジャイロ効果で弾道が安定するのである。
表が示すとおり、ミニエー銃は遠距離でも命中率が高く、有効射程(実戦で50%の命中率を期待できる射距離)は300ヤード(約274メートル)に達する。それに対して滑腔銃身のゲベール銃は、射距離が長くなると命中率が急激に低下し、有効射程は100ヤード(約91メートル)くらいしかない。
表●射距離と命中率
射距離 ゲベール銃 ミニエー銃
100ヤード 74.5% 94.5%
200ヤード 41.5% 80.0%
300ヤード 16.0% 55.0%
実戦では、この射程の差が非常に重要である。ミニエー銃の射手は、敵のゲベール銃の射程外から一方的に撃ち込むことができるからだ。そのため、1850年代の西欧諸国では、ミニエー銃への更新が進み、大量のゲベール銃がお蔵入りとなった。
ところがミニエー銃の時代は長く続かず、1860年代後半には、スナイドル銃などの後装式ライフル銃が登場した。「後装」とは、火薬と弾丸が一体化した弾薬筒を銃身の後尾から装填する方式である。
これまでの前装銃は、装填に手間がかかるので、熟練兵士でも1分間に4発撃つのが限界である。しかも、装填の際に銃を立てないといけないので敵に狙撃される危険性も高かった。それに対して後装銃は、装填動作が簡単なので未熟な兵士でも前装銃の数倍のペースで射撃できるうえに、匍匐姿勢での装填も容易であった。そのため西欧諸国では、先を争うように後装式ライフル銃を導入したのである。
かくして旧式化したミニエー銃が、さきほどのゲベール銃と共に、幕末の日本に大量に出回ることになった。先進国で要らなくなった中古兵器を武器商人が買い集め、発展途上国である日本に売りつけてボロ儲けをしたというわけだ。このあたりの構図は、今も昔も変わらない。
優秀な銃器を装備していた薩長軍
戊辰戦争における薩摩藩・長州藩の強さは、銃器の差によるところが大きい。両藩ともいち早く軍事改革に着手してミニエー銃を主装備としたうえに、戦争後期には、より高性能のスナイドル銃への更新を進めていた。
これに対して東北諸藩では、洋式装備への切り替えが遅れたことに加えて、軍事技術に疎い購入担当者が武器商人にだまされ、性能の低いゲベール銃を掴まされるケースが少なくなかったという。ちなみに、北越の戦いでは、僅か7万石の長岡藩の健闘がよく知られているが、河井継之助の指導により同藩兵がミニエー銃を装備していたことがその理由である。
あと半年ほど時間の余裕があれば、他の藩も長岡藩と同様に洋式銃を調達し、薩長軍に匹敵する戦力を整備したことだろう。しかし新政府側では、鳥羽・伏見の戦勝後すぐに東征軍を派遣し、武器商人との取引場所である横浜を押さえた。さらに矢継ぎ早に東北地方に侵攻し、敵に立て直しの時間を与えなかった。
その結果、薩長軍は優秀な兵装によって東北諸藩を短期間で圧倒した。まさに「先んずれば人を制す」である。戊辰戦争は我が国最大級の内戦だが、世界標準からすると、死傷者数や被害規模は非常に少なく、外国による紛争介入という最も懸念すべき事態も回避された。勝機を逃さず一気に攻め続けた維新の元勲たちの情勢判断を高く評価すべきだろう。
財政改革で積み上げた資金が倒幕の原動力に
ところで、薩長両藩は、もともとは攘夷の急先鋒であったはずなのに、どうして諸藩に先駆けて洋式兵装の導入を成し遂げたのだろうか。その理由は、攘夷に失敗して実力の差を思い知らされたためである。
薩摩藩は、文久2(1863)年の薩英戦争で、英国艦隊の鹿児島砲撃により軍事施設や城下町を破壊されたことを契機に、逆に英国との友好関係を構築するに至った。長州藩も、その翌年の下関戦争で英仏米蘭の四国連合艦隊に完敗した後は、海外からの先進技術の導入に積極的になった。
その意味では、両藩とも攘夷戦の失敗経験を生かしたことになる。ただし、外国兵器の必要性をいかに痛感したとしても、先立つものがなければ購入できない。
薩摩藩の場合は、1830年代には藩財政が破産状態であったが、調所笑左衛門が徹底した債務整理を行うとともに、砂糖の専売制を導入して税収を拡大した。また、長州藩でも、1840年代に村田清風による改革が行われ、交通の要所である下関で貿易事業を手がけて数百万両の剰余金を積み上げた。こうした潤沢な資金が武器購入や対朝廷の政治資金に充てられ、歴史を動かす原動力となったのである。
拡大戦略を描こうとするのであれば、まずその前に組織内部をしっかり固めないといけない。内部の問題点を放置したままで、薔薇色の成長戦略に期待をかけるのは、現実逃避にすぎないのだ。
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千葉
写真展:幕末から70年代の風景記録--佐倉 /千葉
兵庫
大鳥圭介没後百年記念展 掛け軸など 上郡
コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】
(137)東大教授・山内昌之
写真展:幕末から70年代の風景記録--佐倉 /千葉
佐倉市の国立歴史民俗博物館で、企画展示「風景の記録-写真資料を考える-」が開かれている。幕末から1970年代までの風景を記録した貴重な写真を全国から収集し、街並みの移り変わりを分かりやすく展示している。
会場入り口には、企画展の目玉となる「愛宕山から見た江戸の街並み」のパノラマ写真を古地図と一緒に立体的に展示。写真は江戸時代末期の1863年8月、愛宕山(東京都港区)から見渡した周囲225度の眺望をイタリア人写真師が撮影したもので、眼下に細長い武家屋敷がぎっしりとひしめき合う様子がいっぱいに広がる。
来年1月15日まで。入館料は一般830円▽大学・高校生450円▽中学生以下無料。問い合わせは同館(電話043・486・0123)。【西浦久雄】
兵庫
大鳥圭介没後百年記念展 掛け軸など 上郡
上郡町出身で、明治期の産業育成に奔走した大鳥圭介の没後百年に合わせた特別展「軍人の如楓 文人の如楓」が、同町上郡の町郷土資料館で開かれている。「ダーウィンの進化論を読んだ」と大鳥自身が書いた掛け軸を初めて公開する。
如楓は大鳥の号。戊辰戦争で旧幕府軍を率い、明治維新後は新政府に登用された。語学が堪能で、清国・朝鮮国公使などとして外交に才能を発揮。1911年に亡くなった。
特別展では、書など約20点が並ぶ。ダーウィンの進化論についての記述は今年5月、三重県の夫婦が同資料館に寄贈した掛け軸にあり、記述時期や場所は不明。「人類の祖先を研究していくと、人は猿に似ていると分かるものだ」とも記されていた。同資料館によると、大鳥は1872年にイギリスへ産業視察へ行った際、進化論を知ったとみられる。
同資料館の島田拓学芸員(35)は「日本の近代化に力を発揮した大鳥について、作品を通して深く知ってほしい」と話す。
12月18日まで(11月22日と12月6日に展示の一部入れ替えあり)。午前9時~午後4時半。月曜休館。無料。展示作品の図録を千円で販売。同資料館TEL0791・52・3737
(田中宏樹)
コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】
(137)東大教授・山内昌之
□吉田松陰・番外編(下)
歴史を学習する政治家
吉田松陰は、黒船来航を機にめまぐるしく変転する幕末の状況を、世界史における西洋の衝撃(ウエスタン・インパクト)を受けた日本の危機としてとらえた。
松陰は危機を抽象的な世界観でなく、歴史で人間に示された具体的な行為のなかで理解しようとした。純粋な理屈でなく事実に即して人びとにリアルに訴えるほうが、効果も大きく切実に納得してもらえると信じたからだ。
哲学的観念論でなく賢人や豪傑の仕事ぶりを実例で学ぶ作業のほうが、危機の説明として分かりやすいという主張は現代にも通じる。
松陰は代表作『講孟余話(こうもうよわ)』のなかで、いつも歴史書を読んで古人の仕事を学び自分の志を励ますことを勧めながら、「是亦(則)故而已矣の意なり」という有名な言葉を残した。「これまた故(こ)に則(のっと)るのみ」とは、自分の行いもすべて歴史の故事や偉人の振る舞いに学んだという意味にほかならない。しかし行動派でもある松陰は、西欧に侵略された清帝国やオスマン帝国が洋務運動やタンジマート改革の近代化を始めた動機にもまして、日本の行く末にもっと切迫感をもっていた。その結果、彼は守勢一辺倒でなく積極攻勢に出て侵略をはねかえすべきだと信じるにいたった。
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軍事政略と通商航海の結合
安政5(1858)年に入って修好通商条約の締結が日程に上ると、世上の論議もかまびすしくなるが、条約を拒否する主戦論者の説は古典的な鎖国論にとどまり、平和論者の航海貿易策は欧米諸国に屈従しかねない避戦論であり、一種の“ねじれ”が生じていた。
この矛盾を解くために松陰は、「雄略」というアイデアで軍事政略と通商航海とを有機的に結合し、大攘夷(じょうい)や開国攘夷と称される遠大な戦略デザインを構想した。
彼のデザインは、大艦をつくって海軍を伝習調練し国内各地を往来して航海に習熟した後に、朝鮮・満州や清国とも交渉を始め、広東・ジャガタラ(ジャワ)・喜望峰・オーストラリアに居館をつくり将士を置いて、四方の情勢を分析しながら通商貿易で利をあげるというスケールの大きなものだった。吉野誠氏の要約に従えば、この事業を3年ほどで終わらせた後、米国のカリフォルニアに赴いて交渉に入り、日本にやってきたペリーら使節らの努力に酬いて条約を結べば、「国体」を失わずに列強争覇の世界で日本の独立を堅持できるというのが松陰の壮大な構想なのである(『明治維新と征韓論』明石書店)。
何というスケールの大きさであろうか。全然萎縮したところも卑屈な点もない。この構想は未完に終わったが、松陰独特の開国攘夷論は単純なアジア侵略の第一歩だったとは必ずしも言えない。松陰の未完の言説には少なくとも、明治政府成立から日清戦争や日露戦争に向かう時代の政治感覚との連続性だけで議論できないセンスや志が含まれているからだ。
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政治外交の懸案解決策として武力攘夷や武力遠征だけに頼る愚をたしなめた松陰にとっては、むしろ東アジアからそれを越える大アジアの国々との連携や同盟さえ見えていた可能性も高いからだ。彼が生き永らえ大好きだった歴史への関心を、中国や朝鮮だけでなく、インドやイスラムの世界にまで視野を広げていたなら、同時代の欧米人とは異なる独特な歴史解釈を発展させていたかもしれない。松陰が欧米によるアジアやアフリカの植民地化の動きに単純に追随し模倣したとは思えないのだ。
29歳の若さで刑死した吉田松陰は、「空言」(抽象的言辞)よりも「行事(こうじ)」(具体的仕事)で考える歴史的思考法を大事にした孔子の言葉に何度も触れている。松陰は、孔子が歴史の名著『春秋』を作り、孟子も聖人と賢人の業績について事実を挙げながら具体的に称賛した面を高く評価したからである。
「観察者」であり「行為者」に
政治と歴史を常に結びつけて発想した松陰は、歴史を学習すれば世のために2つの面で役立つと強調した。
第一は、歴史家が時事をきちんと遠慮せずに書くために、官僚も畏怖して不正をおこさないことだ。第二は、時事のプラスマイナスや施策の善悪をきちんと学べば、別の政策を考える場合にも大いに役立つからである。いまの政治家や官僚には是非に耳を傾けてほしい言葉なのだ。
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松陰の考えは、歴史的な実例を手本にすれば宗教と世俗のいずれでも有益な効果をあげられると述べたチュニジア生まれのイブン・ハルドゥーンの言説にも似ている。『歴史序説』を書いた14世紀アラブの歴史家と19世紀の吉田松陰が時空を超えて問題関心を天才的に共有していた点は興味をそそられる。いずれにせよ、政治家と歴史家は、事物の観察スタイルにおいて似通った面がある。それは、過去と現在の人間のいずれを重視するかの違いがあるにせよ、人間の行為の「観察者」であると同時に「行為者」でもあることだ。
政治家は歴史家にもまして、自然科学のような外的な観察でなく、内側から理解する能力がないと務まらない職業なのだ。歴史家に要求されるのは、人びとや物事の動機・態度・意図・出来事を順序だてて整理できる能力である。そして、歴史で重要なポイントを無駄なく指し示せる歴史家の仕事は、政治をできるだけ複雑にせず紛糾させない政治家の営みによく似ている。私が最新著『リーダーシップ』(新潮新書)で強調したように、政治家に過去の偉大な歴史家の古典的書物に接してほしいと願うのはこの点にあるのだ。(やまうち まさゆき)
二日続けて記事をアップするのは久しぶりです。
岩手
「復興助太刀」 新選組が集結 宮古で全国サミット
岩手
「復興助太刀」 新選組が集結 宮古で全国サミット
岩手県宮古市で5日、第12回全国新選組サミットが始まった。幕末に活躍した新選組の全国の同好会10団体や地元有志ら120人が集まって演武などを繰り広げ、会場を沸かせた。
初日は宮古駅前広場で、鍬ケ崎小の児童が大漁祝い唄でサミットを歓迎。参加者は土方歳三ら新選組隊士の装束をまとって演武を披露し、「誠」の旗を掲げて商店街をパレードした。
宮古湾は1869年、土方ら旧幕府軍が新政府軍に海上戦を挑んだ「宮古湾海戦」の舞台となった。その縁もあり、昨年12月にサミットの開催地に決定。東日本大震災でいったん立ち消えになったが、震災復興の応援の場にもしようと、関係者の後押しで開催にこぎ着けた。地元有志代表で、宮古観光協会の沢田克司会長は「全国の同好会から宮古を元気づけたいという言葉をもらった。仲間との絆が強まったと感じている」と話した。
サミットは6日、宮古湾海戦の戦没者、震災の犠牲者を海上から弔う供養をする。
月一回ペースになってしまいましたが、山内先生の連載が自分的にツボな人物を取り上げているのでまとめます。
岩手
新撰組ファン、宮古に集まれ 5、6日に全国サミット
あれっ?み~んな土方歳三 宮古で写真展
静岡
幕末のパン 江川坦庵の製法書もとに再現…静岡
江川英龍の功績のごくごく一部だと思いますが、話題になるのは嬉しいです。
京都
近藤勇 直筆の「英雄論」初公開 東山・霊山歴史館
山口
奇兵隊祭:幕末の志士らを慰霊 吟詠や勇壮な剣舞も披露--下関・桜山神社 /山口
コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】
(133)東大教授・山内昌之 松平定敬(上)
【幕末から学ぶ現在(いま)】
(134)東大教授・山内昌之 松平定敬(下)
【幕末から学ぶ現在(いま)】
(135)東大教授・山内昌之 市川三左衛門
【幕末から学ぶ現在(136)】
吉田松陰・番外編(上) 東大教授・山内昌之
エンターテインメント
ミュージカル「薄桜鬼 斎藤一編」 来春、美少年たちが乱舞
美少年といわれるとちょっと引きます……『薄桜鬼』斎藤一は青年だと思うので(笑)。
”薄桜鬼”がアクションゲームとなって登場!PSP「薄桜鬼 幕末無双録」2012年2月23日発売
岩手
新撰組ファン、宮古に集まれ 5、6日に全国サミット
新撰組ファンが一堂に集う「第12回全国新選組サミットin宮古」は5、6の両日、宮古市内で開かれる。震災の影響で開催が危ぶまれたが、関係団体などの協力で復興支援事業として実現。チャンバラや土方歳三の子孫によるトークショーなど子どもから大人まで楽しめる。
オープニングセレモニーは5日、同市宮町1丁目の宮古駅で行われる。女性パフォーマンス集団が、新撰組と敵軍に分かれてチャンバラを行う「殺陣(たて)パフォーマンス」や全日本刀道連盟の真剣を使った演武などが繰り広げられる。
鍬ケ崎小体育館では、新撰組副長の土方歳三の子孫、土方愛さんと幕末好き歴史アイドル小日向えりさんによるトークショーを開催する。
例年、新撰組と関わりのある地域で開かれ、県内での開催は初めて。宮古市では1869(明治2)年、旧幕府軍と明治新政府軍による宮古湾海戦が繰り広げられた。
【写真=5、6の両日開かれる新選組サミットのポスター。さまざまなイベントが予定されている】
あれっ?み~んな土方歳三 宮古で写真展
新撰組の土方歳三に扮(ふん)した写真を応募する「土方歳三・写真コンテストin宮古」の作品展は6日まで、宮古市の宮古駅前総合観光案内所で開かれている。
作品展は5、6の両日に同市で開催される「第12回全国新選組サミットin宮古」(実行委主催)関連のイベント。
全国各地から応募のあった23点を展示。どの作品も、洋装姿の土方歳三へのなりきり具合が際立つ。土方は、明治初期の宮古湾海戦(1869年)に参戦しており宮古とも縁がある。
先月開かれた審査会で、埼玉県の男性が最優秀賞を受賞した。受賞写真のモデルは、サミット初日に行われる「新選組パレード」の先頭を歩く予定だ。
宮古観光協会の山口惣一事務局長は「応募者それぞれの本気度がよく出た作品と思う」と作品を見つめる。
【写真=土方歳三へのなりきりぶりがユニークな写真展】
静岡
幕末のパン 江川坦庵の製法書もとに再現…静岡
日本で初めて兵糧用のパンを製造し、「パン祖」と呼ばれる幕末の韮山代官、江川坦庵(たんなん)(太郎左衛門英龍)が記したパンの製法書が新たに見つかり、静岡県函南町の製パン会社「石渡食品」が再現した。
まだ試作段階だが、同社は、坦庵が1842年(天保13年)に兵糧用のパンを初めて試作したとされる日にちなんで「パンの日」と制定された、来年の「4月12日」の発売を目指して、改良を重ねている。
新たに見つかった製法書は、「カーネルコックカステイラ」と名付けられたパンのもの。すでにポルトガルから伝わっていたカステラを意味する「カステイラ」に、当時アジア地域で活躍していたオランダの外交官「カーネルコック」の名前を付けたと思われる。
製法書は昨年8月に発見され、日付などは入っていないが、坦庵の直筆。縦66ミリ、横55ミリの円形で、厚さ1センチほどにこんもりと盛り上がった完成イメージとともに、「麦粉百六十目 砂糖四十目 玉子(たまご)五ツ」(1目は3・75グラム、小麦粉600グラム、砂糖150グラム)という材料や、「右三味水にてこね、焼なべにて焼」「焼ナベに油を引(ひき) 狐(きつね)色に焼申候(やきもうしそうろう)」という作り方が墨で記されている。
同社は、今年7月下旬に試作品を製作。8月1日からグランシップ(静岡市駿河区)で開催された展覧会「江川坦庵とゆかりの人々」(県など主催)で、来館者500人に配布した。
江川家に伝わる史料を保管している「江川文庫」(伊豆の国市)の職員、橋本敬之さん(59)によると、坦庵の作ったパンの製法書としては、部下から坦庵に宛てられた書簡が以前から保管されていた。そこに書かれているパンは、小麦と塩を使用し、乾パンのような固さとさっぱりした塩味で1年以上日持ちするもので、これを兵糧用に作ったと見られている。
これに対し、「カーネルコックカステイラ」は、さくさくとした食感でパンというよりお菓子に近い味わい。試作した同社の石渡浩二社長(60)は「当時は砂糖が貴重品のうえ、砂糖を使うと日持ちしなくなるので、兵糧には向かない。日持ちして備蓄しやすい小麦と塩を使う製法が広まったのではないか」と見ている。
石渡社長は「カーネルコックカステイラは、現代風に砂糖の量を増やすなどのアレンジを加えて作ろうと思う。地元の人に親しまれる商品に仕上げたい」と話している。
(2011年10月25日 読売新聞)
江川英龍の功績のごくごく一部だと思いますが、話題になるのは嬉しいです。
京都
近藤勇 直筆の「英雄論」初公開 東山・霊山歴史館
新選組局長として有名な幕末の剣豪、近藤勇が「英雄論」を記した直筆の漢詩が、京都市東山区の霊山歴史館で初公開され、注目を集めている。「まことに英雄の心中を理解できるならば、英雄ではないことが英雄である」との内容が達筆で書かれており、読書家でもあった近藤の実直な人柄が伝わる。
■京で発見 商家へ借金の返礼?
縦136センチ、横60センチの紙に七言絶句の詩形で書かれ、掛け軸に仕立てられている。広島県の医師が京都市内の古美術店で見つけ、霊山歴史館に鑑定を依頼。木村幸比古学芸課長は、数点見つかっている近藤の他の漢詩と筆跡や落款が酷似することから真筆とした。
漢詩は、前半で「人に知られず暮らすべき。議論するばかりの俗人と同じではいけない」と姿勢を論じ、後半は「英雄」の文字を3度繰り返している。詩の脇に添えられた「有感作」の言葉から本心を表現した詩とみられ、「剣客士 近藤書」と記されていた。
木村学芸課長は「目立とうとせず、行動する生きざまの大切さを説くことで、議論に熱心だった当時の倒幕派の志士を皮肉ったのではないか」とみる。
同館によると、近藤が文久3(1863)年に京都入りし、市中警備を担う新選組の拝命を受けるまでの間に、給金がなく、商家から軍資金を借りていた時期があり、今回の漢詩も借金の返礼として書かれた可能性があるという。
特別展「龍馬と土佐の衝撃」(12月26日まで)に合わせて公開する。土佐勤王党盟主の武市半平太が切腹時に使った短刀や、その時の血痕が残る襦袢(じゅばん)など幕末の史料約100点も並んでいる。
月曜休館。霊山歴史館TEL075(531)3773。
山口
奇兵隊祭:幕末の志士らを慰霊 吟詠や勇壮な剣舞も披露--下関・桜山神社 /山口
幕末、長州など各地で起きた戦争や紛争で亡くなった奇兵隊士らを祭る下関市上新地町の桜山神社で4日、第29回奇兵隊祭が厳かに執り行われた。旧下関市の45歳以下の神職が集まる下関青年神職会(野村正和会長)が主催した。
桜山神社は、長州藩が諸外国と戦った下関戦争(1863~64)の犠牲者を弔うため、長州藩士の高杉晋作(1839~67)が創建した。その後の倒幕運動で亡くなった志士をはじめ、幕末の思想家、吉田松陰(1830~59)ら396人を祭っている。
神事では、西日本地区屈指の吟詠コンクールとして知られる毎日吟士権大会審査員で、湖舟流吟剣詩舞道江湖会宗家、一木湖舟さんが「おくれても おくれても また君たちに ちかひしことを あにわすれめや」と、晋作が亡き隊士らにささげた歌を高らかに朗詠。妻江舟さんも勇壮な剣舞を披露。明治維新を待たずに散っていった志士らの御霊(みたま)を慰めた。【尾垣和幸】
コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】
(133)東大教授・山内昌之 松平定敬(上)
政治家の連携と牽制
民主党政権の二元外交の危険がささやかれている。前原誠司政調会長と玄葉光一郎外相との、アメリカや韓国での発言の微妙なズレを危惧する人も多い。
しかし、子細に観察すれば、2人の間には外交理念や政策をめぐる齟齬(そご)というよりも、経験や知識の差からくる格の違いが二元外交めいた印象を与えていることがすぐ分かる。
玄葉氏は、10月に韓国を訪問し金星煥(キム・ソンファン)外交通商相と会談したときに「日韓は死活的利益を共有している」という不用意な発言をした。竹島問題や「従軍慰安婦」といった外交懸案をかかえている2国が同盟国でもないのに、「死活的利益を共有」するはずもない。
それでいながら、8月に韓国の憲法裁判所による元慰安婦の個人補償請求権に関する判断を受けた韓国政府の対応に、「請求権問題は解決済み」という紋切り型の回答をした。これは“政治主導”を自負する政党の政治家らしくない。そこで韓国政府は慰安婦問題の国連提訴の準備を進め、問題の国際化を図ろうとしたわけだ。
玄葉氏は訪韓してもこの問題を解決できなかった。そこで次に訪韓した前原政調会長は、「人道的な観点から考える余地がないか、お互い知恵を出し合い静かな環境で議論したい」と述べて外交的解決への道筋を示したのである。元外交官の佐藤優氏が述べるように、「静かな環境」とは慰安婦問題を国際化しないという意味なのだ。これこそ民主党が本来目指す外交の“政治主導”というべきであろう。こうした踏み込みは、どれほど優秀であっても職業外交官には越軌(えっき)になるからだ。
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見習うべき兄弟の相互補助
佐藤氏は、両者の外交技能を兵隊の位に直せば、玄葉氏が下士官、前原氏が将官だと厳しく言い切っている。ただ玄葉氏の知性と闊達(かったつ)さを考えればもちろん士官は間違いなく、前線の部隊指揮官と帷幄(いあく)にある高級指揮官の感覚、大隊長と師団長の職位感覚の差くらいでもあろうか。
この差は、謙虚さや経験の積み重ねの有無に起因するものだ。謙虚さというのは、同じ松下政経塾8期生としての意地やライバル心にこだわらず、外交では一日の長のある前原氏に兄事し、時にはその経験に頼るのも大事ということだ。この点で見習うべきは、幕末に京都の治安警護の任にあたった会津藩主松平容保(かたもり)と桑名藩主松平定敬の兄弟による連携と相互補助であろう。
京都守護職の容保と京都所司代の定敬は、美濃国高須藩(岐阜県海津市)藩主松平義建(よしたつ)の実子であり、外に養子に出された。兄の尾張藩主徳川慶勝(よしかつ)、一橋家の養子となった茂栄(もちはる)とともに「高須四兄弟」と呼ばれる。いずれも“子柄”のいいという表現がぴったりくる、気品と才気にあふれた兄弟であった。
定敬は、松平定信(老中、8代将軍吉宗の孫)で知られる白河・桑名松平家へ養子に入った後、元治元(1864)年に京都所司代に任命された。すでに実兄の松平容保(会津藩主)は文久2(1862)年に京都守護職になっており、元治元年には一橋慶喜(よしのぶ)も禁裏御守衛総督(きんりごしゅえいそうとく)に任じられていた。いずれも新設の職である。その直後、文久3年の将軍家茂(いえもち)の上洛以来、京都警固の任にあった定敬も京都所司代に任命された。
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徳川幕府の草創期に設けられた京都所司代は、2代目の板倉勝重の治績で知られた重職であり、並の町奉行職ではない。京都の治安維持、朝廷・公家の監察、西国大名の監視、五畿内と近江、丹波、播磨8カ国の民政が当初の職務であった。
とくに初期は家康、秀忠、家光がたびたび上洛したために、所司代は将軍の権威を上方にあまねく広げて朝廷に睨(にら)みをきかせる職でもあった。民生の権限が京都町奉行へ委譲された後、所司代は大坂城代を経て幕府老中に上りつめる譜代大名のキャリアパスの一部となる。
しかし、この職掌の変化が京都所司代の治安維持機能を低下させた結果、所司代と町奉行の警察機能だけでは尊皇攘夷(じょうい)派浪士の跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)を取り締まれず、守護職が置かれたのである。
京都の治安と外交は「会桑」
とはいえ、いずれも会津藩と桑名藩という溜間(たまりのま)、すなわち江戸城内の将軍に近い高位席次、黒書院溜之間(くろしょいんたまりのま)に伺候(しこう)した代表的家門・譜代大名の精鋭部隊が直接京都に進駐し、その最高責任者が実の兄弟であったという重みは大きい。こうして幕末の京都の治安と外交は、江戸の将軍老中の手を離れて、京都で独自の勢力を形成する会津と桑名の両藩、略して「会桑」、一橋慶喜も加えて「一会桑(いちかいそう)」と呼ばれる権力によって担われることになった。
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「会桑」や兄弟の連携は、時に藩の利害を伴う相互牽制(けんせい)で複雑さを帯びるが、それは同じキャリアパターン(松下政経塾)をもつ者同士が協力しながら時には反発する政治の宿命に共通するともいえよう。(やまうち まさゆき)
◇
【プロフィル】松平定敬
まつだいら・さだあき 弘化3(1847)年、美濃(岐阜県)高須藩主松平家の七男として生まれる。伊勢(三重県)桑名藩主松平家に養子に入り安政6(1859)年に家督相続。元治元(1864)年、京都所司代となり京都の治安維持にあたる。戊辰戦争では主戦論を説くが敗北。明治2(1869)年、伊勢の津藩に預けられ、5年に許された。41年死去。
【幕末から学ぶ現在(いま)】
(134)東大教授・山内昌之 松平定敬(下)
敗者復活戦の美学
伊勢国(三重県)桑名藩主・松平定敬(さだあき)は、テロの跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)する京の都で所司代を務めた。兄の会津藩主松平容保(かたもり)が京都守護職を引き受けたのと同じく、天皇の座所と市街地を守る治安維持のためである。
鳥羽伏見の戦いで敗れても、東国大名の兄、容保であれば、京都を引き揚げて会津という国元に下がればよい。しかし京に近い桑名となれば、そうもいかない。
柏崎に移り抵抗覚悟
徳川慶喜(よしのぶ)の姦計(かんけい)にたばかられ無理やりに大坂城を捨て江戸表(えどおもて)に連れていかれた定敬は、この“敵前逃亡”を恥とした。戦闘意欲は衰えなくても、徹底抗戦を貫く力は桑名藩の留守方には残っておらず、定敬の帰国も困難であった。
事実、新政府軍の来襲を恐れた桑名の国元は、先代当主の遺児・万之助(後の定教(さだのり))を跡目に立て恭順することを決める。そこで定敬は、桑名藩の分領である越後国(新潟県)柏崎に移って抵抗する覚悟を固めた。
柏崎には、藩中興の祖たる松平定信が白河藩主だった時分から陣屋が置かれていた。桑名本領の石高は5万石なのに、柏崎領は6万石を誇っていた。しかも、米どころ越後の分領の実高は7万石以上だったという。そこで100名の藩士たちは定敬に従って、ロシア船コリヤ号に乗り柏崎を目指したのである。
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横浜を出帆した船には、会津藩士100名、長岡藩士150名も乗っており、北越戦線でやがて活躍する長岡藩のガットリング機関砲2門はじめ、大量の武器弾薬を満載していたらしい。
この時、ひとまず江戸に残留した藩士のなかには、やがて雷神隊を指揮して新政府軍をさんざんに打ち破る立見(たつみ)鑑三郎(尚文(なおふみ))もいた。
24歳の立見が率いた75人の雷神隊はじめ、致人(ちじん)隊や神風隊など350人ほどの桑名勢は、佐川官兵衛の会津隊、旧幕府歩兵差図役頭取だった古屋佐久左衛門の衝鋒(しょうほう)隊と並んで奥羽越で精強をうたわれた兵力にほかならない。北越戦争では桑名勢の活躍によって「官賊」はしばしば潰走を余儀なくされた。主人定敬の面目躍如というべきであろう。
定敬は北越と会津の2つの戦線で実兄、容保と一緒に新政府軍と戦ってきたが、ついに別れの時がきた。戦況思わしくなく、容保は自分を「阿兄(あけい)」(兄を親しんで呼ぶ敬称)と呼び慕ってきた実弟を会津籠城に付き合わせ桑名藩の社稷(しゃしょく)を危うくすることに忍びなかった。
このために定敬は、会津を去って仙台に向かい榎本武揚の幕府艦隊に身を投じて箱館へ渡った。
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ところが、本藩では家督の継承も無事に済ませ本領も安堵(あんど)されたのに、前藩主がいつまでも弓を引いていると聞こえも悪いどころでない。“朝敵”として藩全体に累が及ぶかもしれない。そこで桑名藩家老の酒井孫八郎はひそかに横浜から箱館に渡り、主君、定敬を説き帰順を勧めた。この結果、定敬はアメリカの蒸気船に坐乗(ざじょう)して箱館を去り、榎本軍降伏の当日に横浜に入った。まもなく尾張藩を通して新政府に帰順の意を伝えたのである。
卑怯未練、少しもなく
定敬は、将軍慶喜の恭順後も戦い続けたのだから、徳川恩顧の義理を十二分に尽くしたつもりであった。また、幕末以来ずっと戦い抜いてきた薩長への意地も貫いた気分だったに違いない。定敬の姿勢や覚悟には、どこを捜しても卑怯(ひきょう)未練な点は少しもない。また、明治10(1877)年に起こった西南戦争では、旧桑名藩士を率いて出征し薩摩人と思う存分に戦うこともできた。会津人ひいては実兄の容保と同じく、“戊辰の復讐(ふくしゅう)”を果たしたともいえる。さしずめ“朝敵回り持ち”ともいうべき不思議な縁を感じたはずである。
作家の中村彰彦氏は、『闘将伝』(文春文庫)のなかで、「前譴(ぜんけん)を償い報効を表わさんとする旧桑名藩士は、旧臣立見尚文に従ってすべからく義勇奉公すべし」という趣旨の定敬の一文を紹介している。
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定敬の許可を得て三重県に出張した立見は、450人の募集者を得たが、そのうち桑名人の応募は304人であった。
また、会津藩領を含む福島県からは1136人が応募している。桑名と会津の両藩出身者で全国の応募者1万3千人の1割以上を占めたのである。“賊徒”や“朝敵”と名指しをされた者たちの深い恨みは、貴種の松平定敬と容保の兄弟にも共通していたに違いない。
定敬は兄の後を継いで日光東照宮宮司の職を襲い、やがて従二位に叙せられて死没するのだから、まずまず以(もっ)て瞑(めい)すべしともいうべき生涯であった。立見は西南戦争終盤の城山攻略戦の最前線で最大の功労者となり、桑名人の名声を高からしめた。
このように“敗者復活戦”がそれなりに機能していたのが日本人の隠れた歴史的美徳である。
尊敬されるリーダーは
さて、政権交代を余儀なくされた自民党には浪々の日々が続く。果たして自民党は敗者復活を果たせるのだろうか。定敬や容保のように部下や民から慕われ尊敬されるリーダーを試練のうちに育てられるのだろうか。野党としての精彩の欠如が気になるところだ。(やまうち まさゆき)
【幕末から学ぶ現在(いま)】
(135)東大教授・山内昌之 市川三左衛門
「政治のねじれ」の厳しさ
「ねじれ」とはもともと、数学で空間内の2本の直線が平行でなく、交わっていない状態を指すようだ。つまり同一平面に2直線が乗れない場合の互いの位置関係を意味した。この用語は、いまの政界では衆議院の多数派たる政権与党が参議院では少数派になり、野党が多数派を占める不規則な状態をもっぱら指す。「ねじれ国会」においては、与党の法案が参議院を通らず政権運営が袋小路に陥ることが多い。
平成19年の参議院選挙以後に常態化した「ねじれ国会」は、自民党の安倍晋三元首相や福田康夫元首相の退陣につながることになった。二院制の議会がこうした状態をまったく想定していなかったとは言いきれない。
そもそも、離合集散が習いの政治では与野党間に外交安全保障や財政金融政策などをめぐってねじれが生じることが珍しくない。綱領をもたない民主党内部では日米同盟すら否定しかねない首相も出るありさまであり、かえって与野党の一部が政策面で近づくねじれが現れている。
党争が恒常化した水戸藩
幕末で政治的なねじれが恒常化していたのは、水戸藩であろう。その藩主徳川斉昭(なりあき)は宗家の社稷(しゃしょく)を守るべき御三家の一員でありながら、尊皇攘夷(じょうい)派の首魁(しゅかい)としてことごとに幕府の開国外交の足を引っ張る異様さであった。そもそも天皇中心の国家をつくるということは、政権を委任された幕府の威信と地位を相対的に低めることになるのだが、この矛盾をついに解決しきれず、幕末の水戸藩は凄惨(せいさん)な内部党争の末に自壊してしまった。
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水戸藩のねじれは政治構造だけでなく、藩士の人間関係にも悲劇をもたらした。なかでも、天狗(てんぐ)党などの尊攘派から保守派門閥と忌み嫌われた市川三左衛門の立ち位置は、ねじれの矛盾の中心にいた故の悲劇で特徴づけられる。
彼は小納戸頭、小姓頭、馬廻(うままわり)頭、大寄合(おおよりあい)頭などの要職を歴任し、門閥の諸生(しょせい)党のリーダーとして天狗党はじめ尊攘過激派と対立する宿命にあった。尊攘派による改革を牽引(けんいん)した徳川斉昭の死去後、藩主慶篤(よしあつ)は藩論の分裂を抑えきれず、いまや伝説の域に入った藩内抗争は激しさを増す一方であった。
政治のねじれは、筑波山を占拠する天狗党など過激派の動きを鎮静化しながら水戸藩の一体性を回復しようとした藩主名代の常陸宍戸藩主、松平頼徳の奇妙な役割にも象徴されている。本来なら頼徳は、水戸城にいちはやく入り市川らを謹慎蟄居(ちっきょ)させる慶篤の意向を伝えて挙藩一致の姿勢を固めるべきなのに、武田耕雲斎(こううんさい)ら激派の供(とも)を許し藤田小四郎ら天狗党が軍列に従う既成事実をやむなく追認してしまった。
討伐すべき対象の天狗党と一緒になって水戸城の国家老たちを罷免する動きを示し藩兵とも戦うはめになったのだから、これ以上の政治のねじれはないだろう。市川はこのねじれを幸いに、支藩の藩主たる頼徳が天狗党に通牒(つうちょう)しているとして、幕府に強い処分を要求する。この結果、頼徳は切腹を命じられた。頼徳は何の因果で名代でありながら死を賜(たま)わったのか、自分の運命を呪うような気分であったろう。
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「忠が不忠になるぞ悲しき」
市川は幕府の援助を受けて天狗党を敗走させた後、執政として藩の最大実力者となったが、よいことばかりではない。天狗党の家族まで処刑した市川は、大政奉還から鳥羽伏見の戦いにいたる政治情勢の急展開と、水戸藩出身の将軍慶喜の水戸謹慎による政治構造の逆転で、思いがけず野党の立場に落とされた。これもねじれなのである。
市川に言わせるなら、諸生党対天狗党の対立といっても藩内の主権をめぐる争いであり、自分たちは京都の朝廷や官軍に弓引くものでないという気分があった。しかし、政治の全国性を見ない屁理屈というものである。このあたりの市川の心理状態は、穂積忠氏の最新作『忠が不忠になるぞ悲しき』(日新報道)にもよく描かれている。
京都では天狗党の別動隊ともいうべき本圀寺(ほんこくじ)党が慶喜を一貫して警護していたが、鳥羽伏見の敗戦以後は官軍としての旗幟(きし)を鮮明にし、故郷の水戸に迫る勢いを示した。水戸に来る官軍が薩長や他藩の部隊なら市川も恭順していたかもしれない。しかし、凄惨な血の復讐(ふくしゅう)が待っている運命を甘受する気は更々なかった。
市川は、諸生党を率いて水戸を脱出、奥羽と越後の各地を転戦して新政府軍と戦う。諸生党の勇敢な戦いは戊辰戦争の隠れたクライマックスである。会津落城後の落魄(らくはく)ぶりと悲惨な境遇には驚きを禁じえない。
行き場のない市川らはまたしても水戸へ帰還し、藩校弘道館に拠(よ)りながら水戸城の本圀寺党らと「弘道館戦争」を展開した。市川は2人の息子を失いながら下総方面へ敗走して、勢力としての諸生党は壊滅した。
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この後、江戸に潜伏した市川は、藩の捕吏に縛されて水戸へ移送され逆磔(さかばっつけ)の極刑に処された。血が逆流して意識を失うまで逆さ吊りにし、また正常位に戻して意識を回復させるサイクルを繰り返す残酷な刑である。市川三左衛門の辞世は、政治が本当にねじれた場合の厳しさを現代人にも教えるかのようだ。
君がため捨つる命は惜しまねど忠が不忠になるぞ悲しき(やまうち まさゆき)
◇
【プロフィル】市川三左衛門
いちかわ・さんざえもん 文化13(1816)年、水戸藩士の家に生まれる。大寄合頭、家老など藩の要職を歴任。元治元(1864)年の天狗党の乱では、佐幕派の諸生党を率いて天狗党関係者を徹底的に弾圧し、自ら執政となり藩の実権を握る。戊辰戦争では各地を転戦した末、国外逃亡を図るが捕らえられ、明治2(1869)年に処刑された。
【幕末から学ぶ現在(136)】
吉田松陰・番外編(上) 東大教授・山内昌之
教えながら学ぶ人
晩秋の10月も押し迫ってから長州萩に出かけてきた。萩博物館で「世界史のなかの吉田松陰」と題して講演するためである。
萩は現在でも、古地図さながらに由緒ある街並みと武家屋敷のたたずまいを残している。この静かで穏やかな住人に接すると、幕末に狂気をはらむエネルギーを発散させた長州人と共通するものがないかに見える。萩市役所や博物館の皆さんはどこまでも物静かで親切このうえもない人たちだからである。
しかし、講演が終わって質疑に移ると、穏健な萩人の内面にひそむ歴史への誇りと先人への奥ゆかしい尊敬心がにじみ出てくる。こと歴史となると、人びとは熱く過去を語り現在に及ぶのである。なかでも「松陰先生」と必ず敬称をつけるのがならいの地では、松陰への敬愛の念が自然ににじみ出てくる人も多く、職業柄歴史上の人物を呼び捨てにする私などはいかにも“異邦人”めいた存在というほかない。それでも、外から来た人間、それもイスラムや中東を本来の専門とする学者の松陰論を虚心坦懐(きょしんたんかい)に聞いてくれるあたりに萩人の懐の深さがあるといえよう。
松陰の生きた時代は、環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)への加盟交渉への参加すら逡巡(しゅんじゅん)し、円高・金融不安に揺れながら、まかりまちがえば沖縄県民の離反を招きかねない日米関係の歪(ゆが)みが進行する現在と共通する点も少なくない。
松陰は、外国人の圧迫で日本が消滅しかねない危機の深化のなかで、日本史と世界史が人びとの日常生活から外交安全保障に至る多領域で切迫した危機を最初に意識した日本人の一人である。
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明治維新の精神的指導者、吉田松陰の肖像 (国立国会図書館蔵)
焦りにも似た義務感
浦賀にペリーの黒船到来と聞くと、松陰は矢も盾もたまらず夜に船を出したが船脚は遅く、風も潮も思わしくなく翌朝10時にやっと品川に着いた。すぐに上陸し陸路で目的地に向かい、夜10時にたどり着いた。
この行動力こそ現代人が松陰から学ぶべき点である。船の方が理屈では早く着き、身体にも疲れが残らないはずだ。しかし自分だけの楽や、わがままを求めないのが松陰なのだ。
風も潮流も順調でなく思いや気だけはせく一方である。それでも、浦賀に寸秒も遅れずに見るべきものがあると信じるからこそ、自分の目で見届けたいのだ。何をおいても気迫が理屈に勝るのが松陰なのである。
自分の見聞が一秒でも遅れるなら、国の滅びもそれだけ早まると考えるのが松陰の発想であった。この焦りにも似た義務感が松陰に陸路をとらせ昼夜兼行の強行軍となった原因である。松陰も初めて見た蒸気船の威容に度肝を抜かれた。
松陰は、日本の台場(砲台)にある大砲の数もすこぶる少ないと地団太(じだんだ)を踏んでくやしがる。こうした混乱状況で松陰の師筋たる佐久間象山と塾生たちも多数集まってきたが、「議論紛々に御座候」と師たちも周章狼狽(しゅうしょうろうばい)するありさまが手にとるように分かる。松陰が幕府の老中など門閥大名はもとより象山とも違うのは、国際情勢など冷静に分析し、何故に日本がかかる事態に陥ったのかを学び、何をなすべきかを検討するあたりであろう。松陰といえば熱情をすぐに連想するが、緻密な冷静さでも際立っていたのである。
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明治維新の精神的指導者、吉田松陰の肖像 (国立国会図書館蔵)
東アジアの国際戦略
松陰は、遅れた軍事力を抱えたまま国際政治のパワーポリティクスに対面した日本が外国軍艦の襲来に対処できる道筋を考えた。第一は西洋兵学の採用による軍事的近代化と貿易勧業による富国強兵への道である。第二は、「帝国主義の時代」が近づく19世紀半ばの東アジアで国際戦略を作りあげることだった。
松陰は、養家の吉田家が山鹿流兵学を教える師範であり、軍事戦略にも関心を示したのも当然である。吉田寅次郎こと松陰は、わずか10歳で藩校明倫館で兵学を講義し、11歳で御前講義をした神童の誉れ高い少年であった。それでいて才に溺れ傲慢になることもない。西洋式の大砲や軍艦の購入や製造から洋式訓練や陣立の導入、外国語教育の実施など説く方向は多岐に渡っていた。
松陰は人に向かって説教するだけでなく、自らも西洋兵法を学ぶことを決意した。懸案があれば、教師でありながら生徒として新たに学ぼうとするのだ。松陰の底知れぬ謙虚さはいつも向学心に結びつくのである。TPPの問題などに直面して狼狽する政治家に必要なのは、松陰のように「教えながら学ぶ」「学びながら教える」といった柔軟な姿勢であろう。(やまうち まさゆき)
◇
【プロフィル】吉田松陰
よしだ・しょういん 文政13(1830)年、長州(山口県)藩士の家に生まれる。藩校明倫館を経て、諸国を遊学。佐久間象山に蘭学や砲術を学ぶ。安政元(1854)年、停泊中のペリー艦隊に乗り込み密航を訴えるが、拒絶され投獄。出獄後、萩で「松下村塾」を開き、高杉晋作ら明治維新で活躍する人材を多く育てた。安政6(1859)年、安政の大獄により江戸で処刑された。
エンターテインメント
ミュージカル「薄桜鬼 斎藤一編」 来春、美少年たちが乱舞
美少女たちの躍動が見られる映画があれば、美少年たちの熱い戦いを見られる舞台もある。エンターテインメント企業のマーベラスAQL(東京都品川区)が来年春に開催予定の「ミュージカル 薄桜鬼(はくおうき) 斎藤一編」は、人気の恋愛シミュレーションゲームで、テレビアニメーション化もされた作品の舞台版。原作では新選組の隊士たちが闇の存在を相手に戦うストーリーのなかに、隊士たちの過去や、互いの関係が描かれ、女性ファンを引きつけた。
ミュージカルは、殺陣のシーンが評判の劇団「30-DELUX」とのコラボレーションで展開。斎藤一役に松田凌(りょう)、沖田総司役に廣瀬大介と、ともに20歳の若手俳優を起用して、アクションもあれば歌もダンスもある情熱のステージを繰り広げる。
「斎藤一役をやらせていただけると聞いたとき、頭の中で整理がつかないくらいうれしかった」と松田。「うれしい気持ちだけでは演じられない。責任を果たせるように頑張りたい」と、大役への強い意欲を見せた。廣瀬は「課題は殺陣。歌もダンスも演技も未熟だが、殺陣は初めての挑戦になるので、沖田総司と思ってもらえるよう頑張る」と、沖田役に向かう決意を示した。
(谷口隆一、写真も/SANKEI EXPRESS)
美少年といわれるとちょっと引きます……『薄桜鬼』斎藤一は青年だと思うので(笑)。
”薄桜鬼”がアクションゲームとなって登場!PSP「薄桜鬼 幕末無双録」2012年2月23日発売
ばったばったとなぎ倒す、爽快アクションここに開幕。
アイデアファクトリーより、PSP専用ソフト「薄桜鬼 幕末無双録」が2012年2月23日に発売される。
同作品は、アドベンチャーゲーム「薄桜鬼 新選組奇譚」をモチーフにした爽快アクションゲーム。プレイヤーは、薄桜鬼に登場する新選組の隊士となって、新選組を勝利に導く事になる。
また、公式webサイトでゲーム画面のスクリーンショットも公開されている。
なお、「薄桜鬼 幕末無双録」」の価格は通常版6,090円(税込)、限定版8,190円(税込)。
【記事:フェイトちゃん】
久しぶりにまとめてみました。
北海道
咸臨丸で町おこしを 木古内サミットに全国200人
新選組サミット:維新期の海戦に思いはせ 「震災復興の力に」 宮古で11月 /岩手
茨城
東日本大震災 「志士の墓」修復 秋季大祭で記念碑 水戸・回天神社
東京
【街角モノがたり】「江戸四宿」の面影残る板橋
府中の大國魂神社で8日から奉祝行事 能や狂言、歌舞伎など披露
新潟
河井継之助の遺徳しのび144年祭 新潟・長岡市の栄凉寺
京都
新選組:局長、近藤勇直筆の掛け軸 京都市内で発見
広島
幕末「神機隊」の歩み紹介
高知
龍馬ふるさと博:JR高知駅前の新パビリオン好評 「龍馬伝・幕末志士社中」 /四国
樋口真吉:新写真見つかる 戊辰戦争前?刀差し、立ち姿 /高知
長崎
洋食屋事始 「自由亭」幕末のメニュー
エンターテインメント
ちば賞大賞の新鋭・桐村海丸の新連載は新撰組の草創期
江口洋介 : 映画「るろうに剣心」で斉藤一を演じる 香川照之と吉川晃司も出演決定
実写版るろ剣に吉川晃司、江口洋介、香川照之が剣心のライバル役で登場!
江口洋介が斉藤一……どんな感じだろう。問題は……蒼志様だな。
ブックレビュー
『新選組 敗者の歴史はどう歪められたのか』大野敏明著
6代目の描く山田方谷、前横浜税関総務部長が小説を出版/神奈川
コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】
(132)東大教授・山内昌之 近藤勇
「近藤は大久保大和、土方歳三(ひじかた・としぞう)は内藤隼人と改名した。これは、甲州人の歴史へのこだわりを察知し、武田家や甲州に縁のある大久保や内藤の姓をあえて称したためだという」……なるほど。
「東山道先鋒(とうさんどうせんぽう)総督府参謀だった土佐藩の乾(いぬい)退助は、信玄の宿老だった板垣信方(のぶかた)の死から320年にあたるため、甲斐源氏の流れを汲む板垣氏の苗裔(びょうえい)という家伝を示して板垣退助と姓を改めたのだ。この策で板垣は甲州人の支持を得て、勝沼の戦いで大久保大和こと近藤勇の甲陽鎮撫隊を撃破したという説もあるほどだ」……こっちは知ってましたが。
「 近藤は甲州での敗戦後、京都以来の同志、永倉新八や原田左之助らと訣別(けつべつ)し、旧幕府歩兵らを率いて下総国流山に屯集(とんしゅう)した。だが香川敬三率いる新政府軍に包囲され、やがて出頭、板橋宿まで連行された。そこで正体が見破られ、捕縛後に斬首されたことはよく知られている。しかし近藤にとって、甲州での勝ち戦さが成らなかったにせよ、人生の最期を故郷で晴れがましく送れたのは幸いであった」……山内先生、近藤勇に暖かい視点でありがとうございます。
北海道
咸臨丸で町おこしを 木古内サミットに全国200人
【木古内】日本初の太平洋横断を成し遂げた幕末14 件の軍艦「咸臨丸(かんりんまる)」が渡島管内木古内町の沖合に座礁沈没して今年で140年になることを記念し、全国のゆかりの地から関係者を集めた初の「咸臨丸全国まちづくりサミット」が24日、同町中央公民館で開かれた。
咸臨丸の建造国であるオランダ大使館からも含め約200人が参加した。
討論会では国内各地の代表者ら13人がそれぞれの取り組みを報告した後、木古内町サラキ岬沖に沈んでいるとみられる船体について議論した。
新選組サミット:維新期の海戦に思いはせ 「震災復興の力に」 宮古で11月 /岩手
新選組副長の土方歳三や日露戦争時の連合艦隊司令長官、東郷平八郎らが明日の日本を夢見て死闘を繰り広げた「宮古湾海戦」の舞台となった宮古市で11月、「第12回全国新選組サミット」が開かれる。新選組ゆかりの全国各地の同好会と宮古市の有志が東日本大震災復興の理想を掲げて開催するもので、海戦戦没者や震災犠牲者を洋上から弔う供養も予定されている。【鬼山親芳】
宮古開催は昨年11月、京都であったサミットで、宮古の関係者が宮古湾海戦の話をしたのがきっかけで内定していた。3月11日の大震災でいったんは立ち消えになったが、京都の関係者から「祇園祭は1000年に1度とされる貞観地震(869年)のあった時代に京の都に流行した疫病の汚れを払う復興の祈りが始まりだった」として震災復興のためにも宮古開催を望む声が出され、決定した。
宮古市では「宮古港海戦の会」(会長・沢田克司宮古観光協会長)が中心となってイベントを企画。初日の11月5日には宮古駅前広場で、鍬ケ崎小学校児童による大漁祝い唄で幕を開け、新選組隊士の装束をした一団が目抜き通りの末広町商店街をパレード。鍬ケ崎小や周辺では祇園囃子の演奏や土方歳三の末えいによるトークショーなどのほか、夜はホテルを会場に交流会を予定。鎮魂の洋上供養は最終日の6日に行われる。
沢田会長は「142年前、土方歳三らが宮古の海を駆け抜けていった歴史に思いをはせ、震災復興の力になってくれればうれしい」と話す。問い合わせは同会(電話0193・62・3632)。
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◇宮古湾(港)海戦
明治2(1869)年3月25日(新暦5月6日)、箱館に独自の政権を樹立した榎本武揚ら旧幕府軍の軍艦「回天」が宮古湾に停泊する新政府(官軍)の「甲鉄」ら艦船に急襲をかけた海戦。午前5時ごろから約30分間の白兵戦だったが、敗走した回天側に艦長の甲賀源吾ら17人、官軍側にも4人の計21人の死者が出た(「宮古・閉伊秘話」小島俊一著)。
茨城
東日本大震災 「志士の墓」修復 秋季大祭で記念碑 水戸・回天神社
東日本大震災で被害を受けた水戸市指定史跡「水戸殉難志士の墓」など回天神社(同市松本町)境内の復旧事業が終了し、14日に開かれる秋季大祭では「東日本大震災復旧記念碑」が建立される。震災でほぼ全てが倒壊した幕末志士の墓は約7カ月ぶりに復旧、関係者は安堵の表情を見せた。(三保谷浩輝)
◇
同神社は、幕末の安政の大獄や桜田門外の変、天狗(てんぐ)党の変、戊辰戦争などで亡くなった水戸藩に関係する志士らの霊を慰めるために建てられた。境内には昭和8年建立の「忠魂塔」や天狗党の変などで命を落とした志士らの墓、天狗党最後の地・敦賀(福井県)で一行が監禁された鰊蔵(にしんぐら)を移築した回天館などがある。
震災では、回天館は無事だったが、「忠魂塔」の笠石(かさいし)などが落下したほか、本殿を取り囲む玉垣が全壊。また、大正3年に建てられた「水戸殉難志士の墓」371基のうち4基を残して倒れ、破損した。
同神社代表役員の滝田昌生さん(79)は「被災であっちも駄目、こっちも…と、無残な状況におののいた」と振り返る。だが、4月には復旧事業を立ち上げ、秋季大祭を目指して順次工事を始めた。中でも志士の墓は、墓石が割れ、修復困難な10基を造り直すなどして今月4日に完成。約7カ月ぶりに371基がそろった。
墓石の完成で復旧作業は完了。秋季大祭では「惨禍を忘れず災害復旧記念の証とす」などと記した東日本大震災復旧記念碑を建立、除幕式が開かれる。碑は台座を含めて高さ約2メートル、幅約90センチ。題字は天狗党の一勢力に名を連ねた水戸藩士の遺族で、本紙「正論」メンバーの田久保忠衛・杏林大学名誉教授が書いた。
滝田さんは「復旧できてホッとした。これで明治維新回天の業の礎となった先人の思いを継承し、日本の国をよくする足がかりにできる」と話している。
東京
【街角モノがたり】「江戸四宿」の面影残る板橋
JR埼京線で池袋の次が板橋。駅近くから北に延びる旧中山道は近代的な商店街に変貌しているが、地名の起こりになった橋「板橋」や新選組・近藤勇の墓碑など、名所旧跡に事欠かない。
板橋は品川(東海道)、千住(日光・奥州街道)、内藤新宿(甲州街道)と並ぶ「江戸四宿」の一つ。昔の旅人は徒歩だったが、現在は地下鉄の都営三田線が移動に便利だ。新板橋から志村坂上へ北上して地上に出ると、国指定史跡「志村一里塚」がある。江戸日本橋から3番目の一里塚で、今も当時と同じ場所に立っている。
板橋本町まで戻り、縁切榎を目指して南へ。悪縁切りを祈願する樹木として、3代目の今も信仰を集める。絵馬には配偶者や兄弟姉妹、職場の同僚との縁切りを願う強い思いが込められ、その切実さに胸を突かれる。
石神井川に架かる板橋は、古くは源頼朝が渡ったとも伝えられる。現在はコンクリート製だが、木目調の欄干と木々の緑が調和して落ち着いたたたずまいを見せる。桜の季節にはたくさんの人が訪れるという。
旧道の適度な道幅は人に優しい。行き交う自転車や歩く人々には、どこかのんびりとしたムードが漂い、並走する中山道(国道17号)の騒がしさは、まるで別世界の出来事のよう。
橋の南から区役所前付近までが、一番にぎやかな仲宿商店街。江戸時代にも宿場で一番栄えた場所だが、「今も昔と変わっていないんだよね」と喫茶店のママさんは笑って話してくれた。
短い旅の最後、板橋駅前の「むすびのけやき」に良縁をお願いした。歩き疲れて偶然口にした菓子店「はちや」の蜜蜂焼は絶品。これもご縁だろうか。
【メモ】いたばし観光センターには、初代の縁切榎が保管されている。悪縁を切りたい人は念には念を入れたい。
府中の大國魂神社で8日から奉祝行事 能や狂言、歌舞伎など披露
建立から1900年を迎えた大國魂神社(東京都府中市宮町)で8日から3日間、奉祝行事として能、狂言、歌舞伎などさまざまな郷土芸能が披露される。
8日は前橋市指定無形文化財の「総社神楽」、台東区指定無形文化財の小野雅楽会による雅楽、10日はあきる野市に伝わる農村芸能の秋川歌舞伎や能、狂言などが演じられる。
このほか、今年は江戸末期の新選組局長、近藤勇が同神社で天然理心流宗家の襲名披露をしてから150年目にあたり、これを記念して9日午後0時半から、近藤の生家の子孫ら12人による天然理心流の奉納演武が披露される。
同神社では室町時代や江戸時代などに奉納され、宝物殿に所蔵している刀、脇差などの刀剣17本を初めて一般公開している。公開は30日まで。
新潟
河井継之助の遺徳しのび144年祭 新潟・長岡市の栄凉寺
戊辰戦争で新政府軍に徹底抗戦した長岡藩の家老、河井継之助(1827-1868)の没後144年祭の法要が9日、継之助の眠る新潟県長岡市東神田の栄(えい)凉(りょう)寺でしめやかに営まれ、市民ら約40人が継之助の遺徳をしのんだ。
継之助は藩財政を再建、フランス式調練を取り入れるなど軍を近代化。武装中立を唱えるが、戊辰戦争では軍事総督となり、1度は奪われた長岡城の奪還に成功したものの、その際に左ひざを負傷。再び城を奪われ、落ちのびる途中、会津・塩沢村(現福島県只見町)で死去した。現在の暦で10月1日だった。
法要は河井継之助記念館友の会主催で、長岡藩牧野家17代当主の牧野忠昌さんが祭文を読みあげ、「不当なる要求を突きつけた新政府軍に敢然と戦いを挑んだ」と継之助をしのび、戦いの犠牲になった継之助や当時の長岡の人たちの冥福を祈った。
河井家8代当主で、継之助のひ孫にあたる河井弘安さん(49)も東京都内から駆けつけて墓前に手を合わせ、「144年たち、今も皆さまから慕われていることはありがたい。本人も長岡のために尽くして良かったと思っているのではないか」と話していた。
京都
新選組:局長、近藤勇直筆の掛け軸 京都市内で発見
幕末の京都で活躍した新選組局長、近藤勇(1834~68)直筆の掛け軸が京都市内で見つかったことが分かった。「英雄」をテーマにした自作の漢詩で、近藤が活動資金調達のために豪商などから金を借りる際にお礼として書いたものと見られる。近藤直筆の掛け軸は数点しか見つかっておらず、近藤の人間像を知るうえで貴重な発見という。
掛け軸は縦196センチ、横63センチ(書は縦136センチ、横60センチ)。同市内の美術店が08年に大阪府内で入手して所蔵していたものを今月、広島県尾道市の医師が購入した。幕末を中心とした歴史博物館「霊山(りょうぜん)歴史館」(京都市東山区)に持ち込まれ、木村幸比古・学芸課長(幕末史)が筆跡や落款(らっかん)などから真筆と判定した。
書の詳しい内容は未解明だが、「英雄」に対する心情を披露し、最後に「剣客士 近藤書」と書かれている。
木村課長によると、近藤らが関東から入洛(にゅうらく)した文久3(1863)年ごろに書かれた掛け軸(東京国立博物館所蔵)と形式などが似ており、同時期の書と見られる。同年、近藤らは武功を評価されて「新選組」の名を与えられ、倒幕運動の過激派志士の取り締まりに当たった。大阪や京都の豪商らから強引に金を借り、こうした書を残すことがあったという。
木村課長は「漢学者の頼山陽(らいさんよう)の書を好み、まねをしていた近藤の筆跡に間違いない。憧れの武士となって意気揚々としていた当時の近藤の様子が伝わってくる」と話している。【花澤茂人】
広島
幕末「神機隊」の歩み紹介
江戸時代末期の倒幕運動に加わった、東広島市の「神機隊」関連資料の展示会「東広島の明治維新」が27日、同市西条町御薗宇のフジグラン東広島2階の市民ギャラリーで始まった。10月2日まで。無料。
神機隊は幕末に志和町で結成され、農家の若者たち約1200人が入隊した。規律案や入隊希望者の推薦状などの資料に加え、主催する東広島郷土史研究会の会員が作った地図や年表を含む計54点を展示。時代の激動が庶民にも浸透していたことがうかがえる。
午前10時~午後6時(最終日は午後5時まで)。
【写真説明】神機隊に関する資料に見入る来場者
高知
龍馬ふるさと博:JR高知駅前の新パビリオン好評 「龍馬伝・幕末志士社中」 /四国
◇ブーム逃さんぜよ
◇来場者数15万人へ、土佐の魅力アピール
昨年放送されたNHK大河ドラマ「龍馬伝」の反響で、空前の“龍馬ブーム”となった高知県。今年3月からは新観光イベント「志国高知 龍馬ふるさと博」が始まった。7月に高知市のJR高知駅前にオープンした新パビリオン「龍馬伝・幕末志士社中」は、今月17日で来場者が5万人に達し、好評を得ている。また、ご当地アイドル「土佐おもてなし勤王党」が結成されるなど、龍馬ブームの流れを止めてなるものかと、今年も県は観光事業に力を入れている。【倉沢仁志】
年間来場者数15万人を目指す新パビリオンには「龍馬伝」の撮影で使用された生家セットが設置され、室内に水を引くなどして龍馬の生まれ育った家を忠実に再現した造りになっている。この他、龍馬を演じた福山雅治さんら各俳優の着用した衣装なども展示されている。
JR高知駅前にある特設ステージでは「土佐おもてなし勤王党」や「よさこいおもてなし隊」が定期的にミュージカルや踊りを披露し、観光客に高知の魅力をアピール。さらに土佐勤王党結成150周年を記念し、JR高知駅前に坂本龍馬、武市半平太、中岡慎太郎の「3志士像」を期間限定で設置して盛り上げている。
10月1、2両日には、高知の食を味わってもらう企画「土佐豊穣祭」として、県内の素材を使ったB級グルメの出店ブースが3志士像近くに並ぶ。
樋口真吉:新写真見つかる 戊辰戦争前?刀差し、立ち姿 /高知
坂本龍馬と親交があった土佐藩下級役人の樋口真吉(1815~70年)の新しい写真が30日、見つかった。四万十市立郷土資料館が子孫から預かっていたものを徳島大学の渋谷雅之名誉教授(69)が確認した。【真明薫】
新しく見つかった写真は立ち姿で、右手に乗馬用の鞭(むち)を持ち、長い刀を左に差している。ガラス板を使った縦10センチ横7・5センチの湿板写真。顔や刀の長さが酷似し、撮影した場所のじゅうたんの模様、足下の石畳などから慶応4(1868)年4月ごろに横浜市内で撮影されたものらしい。真吉が53歳ごろのもので、戊辰戦争に行く前に撮影したとみられる。
真吉は土佐・中村(現四万十市)生まれで、剣豪としても知られ、幡多郡の志士らの代表的存在。龍馬を少年期から目にかけ、隠れ家の手配をしたり、脱藩した龍馬に大阪で会い1両を渡すなどしたとされる。
長崎
洋食屋事始 「自由亭」幕末のメニュー
「長崎で今日のクリーニング店を開業しています」。さらに「日本人として最初の西洋式洗濯屋」だったと続く。
草野丈吉(1840~86)について、玄孫(やしゃご)の草野敏彦さん(77)(大阪)が述べている談話(「日本の『創造力』」第3巻所収)は意外だった。
丈吉らの小伝を記した私家版の「暁霞生彩(ぎょうかせいさい)」(星丘重一氏・編)にあるらしい。
幕末、長崎・出島のオランダ人にボーイとして雇われた丈吉が習い覚えた西洋式の洗濯のわざを生かし、文久3年(1863年)に外国船の乗組員を相手に洗濯業を始めたというのだ。
「なかでも丈吉がもっとも影響を受けたのはデ・ウィットのところにいたころでしょう」
大阪市史編纂(へんさん)所長の堀田暁生さん(65)は、月刊誌に長期連載した「大阪開化自由亭物語」をはじめ、大阪の近代史の一ページを彩った丈吉の研究を四半世紀重ねてきた人だ。
挙げたのは当時のオランダ総領事の名である。17歳で出島出入りの日本人商人に奉公した丈吉は2人のオランダ人を経て、そのデ・ウィットに雇われた。
「料理、客をもてなす態度も仕込まれたでしょうね」。丈吉は江戸へも随行したようだ。農家出身の若者には洗濯屋、そして、やがて洋食屋の草分けとして名を残すことにつながる濃密な西洋体験の連続だったろう。
◎
デ・ウィットの帰国後、丈吉は伊良林(長崎市)の実家に戻り、所帯を持って洗濯屋に。ほどなくして西洋料理の専門店「良林亭」も開く。
洋食屋の誕生には五代才助(友厚)のすすめがあったと伝えられる。五代は、長崎においてはグラバーらとも親交があった薩摩藩士。薩英戦争などあわただしい時代に、丈吉とのどんな出会いがあったのだろうか。
ともあれ五代が所望し食べたとされる西洋料理は、鮮魚のフライ、冷肉薫製、精肉の焼き肉、生野菜などだったようだ。
その伊良林を、敏彦さんも4年前歩いた。住宅の密集する坂道に「良林亭跡」の看板がある。〈六畳一間の部屋で、6人以上のお客様はお断りだった〉当時の様子も記されている。
良林亭はまもなく場所を移し、「自遊亭」「自由亭」と改称。長崎奉行らも訪れたそうだ。
丈吉は慶応4年(68年)、土佐の後藤象二郎の求めで大阪へ向かい、山内容堂公にもかわいがられたという。そのころ、大阪に設けられた外国人止宿所の司長を任される。外国官権判事で、大阪にいた五代の依頼だったとみられている。
西洋料理とクリーニング技術の習得が「ホテル経営につながった」。敏彦さんの談話(前掲書)に添えられた指摘はよくうなずけた。
◎
明治10年(77年)には神戸で、明治天皇に自由亭の西洋料理が献じられた。その献立を載せた新聞記事が「自由亭物語」に登場する。〈ロブスタサラド(海老 花玉子 チシャ)〉、〈ゲンパイ(鴨 山鴨 鰻 鶉 豚 牛)〉などである。
翌11年、丈吉は再び長崎市で自由亭を開く。店は諏訪神社前。12年には、長崎を訪れた前米大統領、グラント将軍も自由亭の料理を食したという。
「伊太利国皇族接待日誌」というメニューのコピーを、「現代の名工」のシェフ坂本洋司さん(64)(長崎市)がみせてくれた。これも同じ年、自由亭の調理だそうだ。
〈フライコローツキ〉はコロッケ、〈マカラニチイス〉がマカロニグラタンなど、現代につながる料理名がおもしろい。
「丈吉はトップクラスの料理人」と坂本さんは絶賛する。堀田さんによれば、英国の外交官アーネスト・サトウ編集の旅行案内にも、大阪・中之島の自由亭ホテルの食事、サービスは優秀と紹介されているそうだ。
長崎市歴史民俗資料館長の永松実さん(60)も丈吉にひかれる一人だ。「食を通じて著名な人たちとこれほどのつながりをもった丈吉は、もっと知られていい人物ですよ」
一昨年12月から昨年2月にかけて資料館で、「西洋料理店の魁 草野丈吉展」を開いた。オランダの船で丈吉が訪れたとされる北海道・函館にも立ってみた。丈吉の物語をまとめたい思いが強くなったという。
元高校教師の敏彦さんには、生い立ちを描いた著書「くるみの木」がある。そこでも、祖母が丈吉の孫で、一方の祖父は学者であったという系譜を大切にみつめている。後継ぎのなかった草野家の姓は父親が継いだ。だが、丈吉の味が子孫につながることはなかった。
開化を彩ったホテル
幕末の文久3年といえば、丈吉が長崎に洋食屋を開いた年だが、そのころ、開港地の横浜にレストランやバーのあるホテルが建てられた、と「日本のホテル小史」(村岡實・著)にある。
東京では、築地ホテルが慶応3年(1867年)に起工、完成は翌年8月だった。暖炉やベランダなども備えられていたそうだ。それからまもなく、大阪にも「外国人止宿所」が設けられた。長崎の人・丈吉は、その外国人向けホテルの司長、〈ジェネラル・マネージャー〉(前掲書)となる。
「大阪の歴史71」(大阪市史料調査会発行)所収の堀田さんの論考は、明治2年(69年)の英字新聞の広告から止宿所が当初から「自由亭ホテル」と名乗っていたと指摘している。その後、自由亭は西洋料理を調理できる場として名声を得ながら、5店舗に拡大。大阪・中之島にも14年、自由亭ホテルが開業した。
19年、丈吉が急病で亡くなった後、長女の錦(きん)が後を継ぎ、28年に大阪ホテル東店、29年に同西店を開業させたが、錦を支えた星丘安信の没後、32年に売却。草野家と西洋料理とのかかわりも途絶えてしまう。
「ホテル小史」に戻ると、明治3、4年に、長崎では4軒のホテルが相次いで開業し、好評だったと記されている。どのホテルにもボウリングやビリヤードといったレジャー施設がすでに整えられていたというのが興味深い。
「150年前の料理」再現
グラバー邸の一室に料理の模型がずらりと並んでいる。「150年前の西洋料理」と題し、坂本さんら料理人たちが当時の正月料理をこしらえ、模型にして残したものだ。2003年のこと。自由亭の献立記録などを参考にしたという。
その後も時折、幕末・明治の西洋料理を再現する機会がある。「これは3年ほど前」と坂本さんが差し出した写真には、おいしそうな料理が盛られていた。一つずつ、「現代の名工」に解説してもらった。
手前はロストルヒス。タイの塩焼きだ。前列を左へ、まずケレーフトソップ。伊勢エビを二つに割ってタマネギやパン粉などを詰め、ボートル(バター)で揚げ、ブイヨンを入れた白ブドウ酒で煮る。次のブラートルボックは野牛の股(もも)丸焼きで味つけは塩、コショウ、酢。左端のブラートルエンゲホーゲルは鴨(かも)肉の丸焼き。
奥の列には、ホウレンソウとゆで卵のスペナーンや、シカ肉を焼くハルトベーストなど。豪華そうだが、坂本さんによれば「オランダの素朴な料理」という。
(2011年9月27日 読売新聞)
エンターテインメント
ちば賞大賞の新鋭・桐村海丸の新連載は新撰組の草創期
本日10月6日に発売されたモーニング45号(講談社)にて、「しおかぜ」で第59回ちばてつや賞一般部門大賞を受賞した桐村海丸の短期集中連載「とんがらし」がスタートした。
「とんがらし」は新撰組22 件隊士の若き日々を描く物語。第1話では沖田総司と原田左之助の出会いが描かれた。
このほか今号では、うえやまとち「クッキングパパ」の江戸時代編「遠山のくっ金さん」を収録。巻頭カラーでは、同心1ヶ月分の給料で作れる、江戸時代のご馳走を再現したグルメ企画が行われている。
江口洋介 : 映画「るろうに剣心」で斉藤一を演じる 香川照之と吉川晃司も出演決定
俳優の佐藤健さん主演で実写映画化される「るろうに剣心-明治剣客浪漫譚-」(大友啓史監督)の追加キャストが4日、発表され、俳優の江口洋介さんが旧幕府軍・新撰組三番隊組長の斉藤一を演じることが明らかになった。また、歌手で俳優の吉川晃司さんが浮浪(はぐれ)人斬り・鵜堂刃衛役、俳優の香川照之さんが悪の親玉・武田観柳役で出演することも発表された。江口さんは、作品について「今まで経験したことのない大友監督の撮影方法に新たな可能性を感じ、僕自身どう仕上がるのかが、今から楽しみでいます。きっと今までにないエンターテインメントをご披露できるのではないかと思いますので、ご期待ください」とコメントを寄せている。
「るろうに剣心」は、94~99年に「週刊少年ジャンプ」(集英社)で連載され、コミックスは全28巻で累計5000万部以上を発行した大ヒットマンガ。幕末に「人斬り抜刀斎」として恐れられた緋村剣心(ひむら・けんしん)が、明治維新後「不殺(ころさず)」を誓った流浪人(るろうに)として、さまざまな人たちとの出会いや、宿敵との戦いをへて、新たな時代の生き方を模索していくという物語で、映画では主人公の剣心を佐藤さん、ヒロイン・神谷薫を女優の武井咲さん、剣心を慕う美人女医の高荷恵を女優の蒼井優さんが演じる。大河ドラマ「龍馬伝」を手がけ、4月に20年間在籍したNHKを退局した大友監督がメガホンを取る。
江口さんが演じる斉藤一は、新撰組を経て、明治維新後は明治政府の警官となり、密偵として暗躍する……という原作でも人気のキャラクター。江口さんは、作品の舞台について「明治になり国から魂である刀を奪われた。そんな人間たちが明治という時代をどう生き抜いていくのかが、この作品には詰まっている」と話し、「『るろうに剣心』を通して日本人が生きてきたルーツみたいなものを少しでもスクリーンの中から感じとってもらえればと思う」と作品への思いを語っている。
また、吉川さんは、鵜堂刃衛について「敵味方の分別を忘れただひたすらに切りまくるは、己にふさわしい死に場所を得るためか。そのまとう寂しさに“ゾクッ”とさせられながら演じられる幸せ。奇々怪々です!」とコメント。「龍馬伝」から引き続き大友監督作品に出演する香川さんは「監督からは『新しい悪、ただの悪ではないもの』を目指すと言われて、役作りと同時に、いろいろな小道具だったり、メークだったり、髪の毛だったり、衣装だったり、外見の造作には非常にこだわっています。観柳は自由勝手に生きた人なので、僕も作品の中で自由に振る舞えればいいなと思っています」と意気込みを話している。
製作はワーナー・ブラザース映画で、12年夏に公開予定。(毎日新聞デジタル)
実写版るろ剣に吉川晃司、江口洋介、香川照之が剣心のライバル役で登場!
単行本全28巻の累計発行部数が5000万部を超える剣客漫画を実写映画化した『るろうに剣心』に、吉川晃司、江口洋介、香川照之が出演することがわかった。
本作の物語は、明治維新のために伝説の人斬りとして生きてきた剣心が、維新以後、殺さずの誓いをたて、町から町へ流浪の旅をしているというところから始まる。吉川、江口、香川は、緋村剣心(佐藤健)の前に立ちはだかる最強のライバルたちを演じる。
吉川晃司は、ただただ人を殺すことを楽しみ、己の欲望を満たすために金で人斬りを請け負っていた浮浪人斬りの鵜堂刃衛を演じる。吉川は「敵・味方の分別を忘れ、ただひたすらに斬りまくるは、己に相応しい死に場所を得るためか。そのまとう寂しさに、ゾクッとさせられながら演じられる幸せ。奇々怪々です!」と出演の喜びを語った。ただの殺人鬼ではなく、独自の殺しの美学を持つなど、剣心とは対照的な最凶キャラクターを演じる吉川のその圧倒的な存在感に今から期待が寄せられる。
維新時代に新政府の人斬りである剣心と対峙する旧幕府軍・新撰組三番隊組長・斎藤一を演じるのは江口洋介。維新後は明治政府の警察官となるが、剣心たちとは決して相容れない孤高のダークヒーローを熱演する。「江戸時代の頃、侍は刀を魂と信じて生きていた。それが明治になり、国から魂である刀を奪われた。そんな人間たちが明治という時代をどう生き抜いていくのかが、この作品には詰まっている。『るろうに剣心』を通して日本人が生きてきたルーツみたいなものを少しでもスクリーンの中から感じとってもらえれば」と本作の魅力を語る。初参加となる大友組については、「今まで経験したことのない大友監督の撮影方法に新たな可能性を感じ、僕自身、どう仕上がるのかが今から楽しみ。きっと今までにないエンターテインメントをご披露できるのではないか」と話しており、どのような化学反応を起こすかにも注目だ。
香川照之が演じるのは、高荷恵(蒼井優)を手下として利用し、薫(武井咲)が師範代を務める神谷道場を乗っ取ろうとし、さらに新政府に代わって自分の帝国を築こうとする悪の親玉・武田観柳だ。蒼井同様、大河ドラマ「龍馬伝」から引き続いて大友組に参加が決まった香川は、「監督からは『新しい悪、ただの悪ではないもの』を目指すと言われ、役作りと同時に、色々な小道具やメイク、髪の毛や衣裳など、外見の造作には非常にこだわっています。観柳は自由勝手に生きた人なので、僕も作品の中で自由に振る舞えれば良いなと思う」とコメントを寄せた。原作の持つ冷徹で不気味なキャラクターをどう演じるのか、香川版観柳への期待が高まると共に、観柳邸でのガトリングガンを使用したアクションシーンが実写でどう表現されているかも大きなポイントになるだろう。【Movie Walker】
江口洋介が斉藤一……どんな感じだろう。問題は……蒼志様だな。
ブックレビュー
『新選組 敗者の歴史はどう歪められたのか』大野敏明著
新選組ブームだそうだ。新選組をテーマにした映画やテレビドラマ、あるいは小説は、数多く作られてきたが、著者は、それらの多くは歪められ、史実とは異なっているという。例えば池田屋事件は警察行動であったとする。「局中法度書」は本当にあったのか。松原忠司の死の真相は。分裂してからも行動をともにした高台寺党など。
さらには土方歳三戦死後の新選組局長が、明治になってから切腹した話、十番組長の原田左之助が満州に行き、馬賊になったという説、沖田総司の姉が中国の大連で亡くなっていたことなど、テレビドラマからでは分からない新選組の物語が、あくまで史実にこだわってふんだんにつづられる。(じっぴコンパクト新書・800円)
6代目の描く山田方谷、前横浜税関総務部長が小説を出版/神奈川
徳川幕府の政治指南役として15代将軍・慶喜や筆頭老中・板倉勝静(かつきよ)を支えた改革派の学者・山田方谷(ほうこく)(1805~1877)の生涯を通じて、幕末の政権交代のドラマをつづった「小説 山田方谷の夢」(明徳出版社、2415円)が出版された。
作者は方谷の6代目にあたる野島透・財務省関東財務局総務部長(50)。執筆は前任の横浜税関総務部長(2009年7月~11年7月)の時代で「開港の地である横浜で生麦事件など歴史の現場に接し、先祖を振り返る気持ちが高まったことが理由」という。
方谷は備中松山藩(現岡山県高梁(たかはし)市一帯)の藩主・勝静の下、財務大臣役を担って破綻状態にあった藩財政を立て直した。信頼を失った旧藩札の一斉焼却処分と新藩札の発行、鉄をはじめとした特産品の育成、農民の現金収入につながる河川改修など大規模公共事業の実施―といった七大政策は、財政再建のお手本として語り継がれている。
藩政改革の功を評価され、勝静とともに幕政に携わった。大政奉還の案文も手掛けたという。方谷と新選組2 件のつながりなど、多彩な人間模様を交え先祖の功績をまとめた野島氏は「難局に立ち向かう幕末の人々の姿は、震災復興に臨む私たちに勇気を与えてくれる」と話している。
コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】
(132)東大教授・山内昌之 近藤勇
■甲州人と甲陽鎮撫隊
甲州(甲斐)はいまの山梨県である。その政治風土は独特な気風をもっているようだ。
そのせいか甲州は政党政治家でも、自民党幹事長を務めた故金丸信氏や、参院議員でありながら民主党幹事長に就任した輿石東氏など、野党との間にも太いパイプをもち、国会対策にも熟達する政党人を生んできた。
◆国会対策に熟達の政党人
輿石氏の人脈の広さも相当のものらしい。小沢一郎氏との深い関係がある一方、前原誠司氏との仲も悪くないようだ。それでいて、小沢氏の党員資格停止処分の見直しに慎重であり、旧社会党や日教組の出身らしく「機関決定」を尊重する衆議一決のルールにも忠実である。政治家を外貌や印象だけで判断してはならない。存外に輿石氏は“懐が深い”のかもしれない。
もちろん甲州が格別に閉鎖的であるとか、甲州人が排他的というわけではない。しかし、同じ内陸国でも「近江」(近い海)という琵琶湖をもつ江州(滋賀県)とも違う山がちの地として、武田信玄が隣国の塩攻めで苦しんだ過去もある。鮑(あわび)の煮貝(にがい)などの保存加工された海産物に蛋白(たんぱく)質を頼る、海のない国ぶりが人びとに忍耐を教え、戦国時代に「甲軍」と畏怖された精強さや粘り強さを甲州人に与えたのかもしれない。
江戸時代でも、将軍綱吉から松平姓を賜った柳沢吉保(よしやす)の時代を例外として、甲州は天領か将軍一門の知行地であった。甲州人の耐久力を支えてきた要因として、武田信玄や徳川家康や将軍家に直轄統治されたというプライドの高さも無視できない。
◆歴史へのこだわりを察知
実際に幕末の慶応4(1868)年3月、鳥羽伏見で敗れて江戸に戻った近藤勇ら新選組が甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)と名を改め甲州を目指したとき、いまや若年寄格となった近藤は大久保大和、土方歳三(ひじかた・としぞう)は内藤隼人と改名した。これは、甲州人の歴史へのこだわりを察知し、武田家や甲州に縁のある大久保や内藤の姓をあえて称したためだという。
面白いのは新政府軍のほうも同様だったことだ。東山道先鋒(とうさんどうせんぽう)総督府参謀だった土佐藩の乾(いぬい)退助は、信玄の宿老だった板垣信方(のぶかた)の死から320年にあたるため、甲斐源氏の流れを汲む板垣氏の苗裔(びょうえい)という家伝を示して板垣退助と姓を改めたのだ。この策で板垣は甲州人の支持を得て、勝沼の戦いで大久保大和こと近藤勇の甲陽鎮撫隊を撃破したという説もあるほどだ。
近藤の甲陽鎮撫隊は、70人余の新選組に加え新規募集の浅草弾左衛門の配下約200名の陣容であったが、大砲2門と小銃500挺(ちょう)ではあまりにも火力に乏しく、軍資金5千両も武州三多摩の近藤や土方の故郷などで豪遊を繰り返すうちに乏しくなった。なにしろ若年寄や寄合になったというのだから、故郷に錦を飾りながら道々で歓待を受けたのも無理はない。
そのうちに、空城だった甲府城の接収が板垣退助らの東山道軍に先んじられたのだからたまらない。いまの甲州市(旧勝沼町)で野戦に打って出たが、甲陽鎮撫隊の戦意は乏しく、兵器も優勢な新政府軍に撃破され1日たらずで壊滅してしまった。甲陽鎮撫隊は国境の上野原まで退却後、めいめいばらばらに江戸まで潰走する始末であった。
近藤は甲州での敗戦後、京都以来の同志、永倉新八や原田左之助らと訣別(けつべつ)し、旧幕府歩兵らを率いて下総国流山に屯集(とんしゅう)した。だが香川敬三率いる新政府軍に包囲され、やがて出頭、板橋宿まで連行された。そこで正体が見破られ、捕縛後に斬首されたことはよく知られている。しかし近藤にとって、甲州での勝ち戦さが成らなかったにせよ、人生の最期を故郷で晴れがましく送れたのは幸いであった。
◆粘りと忍耐で果たせるか
輿石氏も参院から党幹事長になるのは、政党人としてこれ以上に名誉なことはない。その重責を甲州人らしい粘りと忍耐力で果たせるのか、甲陽鎮撫隊と若年寄格で舞い上がった近藤のように肝心の修羅場で力を発揮できないのか。野田政権の肝を握る輿石氏の力量が試される日々が続く。(やまうち まさゆき)
◇
【プロフィル】近藤勇
こんどう・いさみ 天保5(1834)年、武蔵国(東京都)多摩に生まれる。天然理心流の剣術を学び、文久3(1863)年、幕府の浪士隊に加わって京都に行き、新選組を結成。隊内の粛清を経て局長となり、反幕派を取り締まる。慶応4(1868)年の鳥羽・伏見の戦いののち江戸に退き、甲府へ進軍するが敗北。同年、捕らえられて斬首された。
「近藤は大久保大和、土方歳三(ひじかた・としぞう)は内藤隼人と改名した。これは、甲州人の歴史へのこだわりを察知し、武田家や甲州に縁のある大久保や内藤の姓をあえて称したためだという」……なるほど。
「東山道先鋒(とうさんどうせんぽう)総督府参謀だった土佐藩の乾(いぬい)退助は、信玄の宿老だった板垣信方(のぶかた)の死から320年にあたるため、甲斐源氏の流れを汲む板垣氏の苗裔(びょうえい)という家伝を示して板垣退助と姓を改めたのだ。この策で板垣は甲州人の支持を得て、勝沼の戦いで大久保大和こと近藤勇の甲陽鎮撫隊を撃破したという説もあるほどだ」……こっちは知ってましたが。
「 近藤は甲州での敗戦後、京都以来の同志、永倉新八や原田左之助らと訣別(けつべつ)し、旧幕府歩兵らを率いて下総国流山に屯集(とんしゅう)した。だが香川敬三率いる新政府軍に包囲され、やがて出頭、板橋宿まで連行された。そこで正体が見破られ、捕縛後に斬首されたことはよく知られている。しかし近藤にとって、甲州での勝ち戦さが成らなかったにせよ、人生の最期を故郷で晴れがましく送れたのは幸いであった」……山内先生、近藤勇に暖かい視点でありがとうございます。
なかなか先の予定を立てる余裕がなかったのですが、函館旅行の予約を入れてしまいました……一応連休なので大丈夫とは思いますが、仕事の予定は何かすごいことになるかも知れない予感(^_^;)。
栃木
郡上おどり:幕末思いはせ--塩原温泉 /栃木
東京
幕末の旅館と昭和の乾物屋、移築・復元
福井
坂本龍馬の書状、福井で発見 【2001年9月10日】
幕末の執務日誌を紹介 春嶽、小楠の様子記す
京都
「新選組」姿で清掃ボランティア 木屋町通で造形芸大生
徳島
阿波の海運、隆盛伝える 徳島城博物館で企画展
コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】
(128)東大教授・山内昌之 松浦武四郎(下)
栃木
郡上おどり:幕末思いはせ--塩原温泉 /栃木
岐阜県郡上市の一行約100人が10日、塩原温泉(那須塩原市)を訪れた。雨の中、郡上市に伝わる国指定重要無形民俗文化財「郡上おどり」を披露した。塩原側の市民らも踊りの輪に加わった。
郡上市の日置敏明市長(67)を団長とする郡上おどり保存会員ら。戊辰戦争で郡上藩凌霜(りようそう)隊がたどった塩原温泉と会津若松市を訪ね、踊りを披露する旅として初めてやってきた。
一行は午後7時半、浴衣姿で塩原もの語り館駐車場に勢ぞろい。日置市長は「東日本大震災の犠牲となった方々と凌霜隊の隊士に鎮魂の願いを込めて踊ります」とあいさつした。この後、やぐらを囲んで唄やお囃子(はやし)に合わせ1時間半にわたって踊った。観客たちは江戸時代に藩主が奨励したのを起源に7月下旬から延べ30日余も踊られるという日本有数の踊りを堪能した。【柴田光二】
東京
幕末の旅館と昭和の乾物屋、移築・復元
幕末ごろに建てられた旅館と昭和初期建築の乾物屋が、「江戸東京たてもの園」(小金井市桜町)に移築・復元され、3日から一般公開された。復元されたのは、江戸時代末から明治初期に建築されたと推定される「万徳旅館」(旧所在地・青梅市)、1928(昭和3)年建築の乾物屋「大和屋本店」(同・港区白金台)の2棟。いずれも現存していた建物を移築・復元した。
万徳旅館は青梅街道沿いにあり、90年代前半まで営業を続けていた。今回、建物自体は創建当初に近い姿に、室内は旅館として営業していた1950年ごろの様子を復元したという。
大和屋本店は木造3階建てで、創建当時から乾物類の販売を手がけ、海産物の手入れが困難になった昭和10年代後半以降は主にお茶とノリを売っていたという。
9~10月にかけて、講演会や寄席など公開記念イベントも開かれる。入園料は一般400円、中学生(都外)・高校生200円、大学生320円、65歳以上200円。問い合わせは同園(042・388・3300)へ。
福井
坂本龍馬の書状、福井で発見 【2001年9月10日】
1863(文久3)年7月、幕末41 件の志士・坂本龍馬が福井藩士の村田巳三郎(氏寿)にあてたとみられる書状が10日までに、福井市内で見つかった。龍馬の資料に詳しい霊山歴史館(京都市東山区)の木村幸比古・学芸課長が鑑定、直筆と断定した。薩長同盟の立て役者として知られる龍馬が、定説より1年早く薩摩藩と接触していたことを裏付ける内容で、維新史上、貴重な資料。福井県内で龍馬関係の資料が確認されたのは初めて。
書状は縦16センチ、横60センチで、軸装されている。福井市内の骨とう商が4年ほど前、村田家の縁者から手に入れたらしい。骨とう商からこの話を聞いた越前龍馬会の牧田活宜会長が、先月18日、講演で小浜市を訪れた木村課長に書状の写真を見せた。木村課長は今月1日にこの骨とう商を訪ね、龍馬の筆跡と確認。同歴史館がこの書状を買い取った。
木村課長によると、書状は明治時代後期に原本を撮影した上、和紙に焼き付けてあり、村田家が親類縁者に配布したものらしい。書状の原本は、福井震災などで焼失した可能性が高いという。
書状の内容は、龍馬が、福井藩主・松平春嶽の補佐役として活躍した村田を京都藩邸に訪ね、京の情勢や国事についてあれこれ談じたことを、伏見の薩摩藩邸にいる薩摩藩士、吉井幸輔に手紙で伝えてほしいと依頼している。
これまで龍馬と薩摩藩のつながりは、1864(元治元)年7月の蛤御門の変以降とみるのが定説だった。しかし、この書状により龍馬と薩摩藩の接触が、さらに1年早かったことが裏付けられた。木村課長は「福井藩の動向と薩摩藩の動向を意思統一しようとする龍馬の政治的仲立ちが見て取れる。第一級の資料」と太鼓判を押す。
また書状の末尾には「龍馬」をもじったとみられる花押が記されている。これまで全国で発見されている龍馬の書状133通には、花押らしきものはなく、確認されたのは初めて。木村課長は「神戸海軍操練所設立の資金調達で、福井藩主の松平春嶽から約束を取り付け、その後の国事奔走に自信を深めたため、高揚した気分で記したのではないか」と推測している。
幕末の執務日誌を紹介 春嶽、小楠の様子記す
幕末期、熊本藩から政治顧問として招かれた横井小楠と福井藩の関わりや福井藩主・松平春嶽の日々の動きなどを記した執務日誌「御用(ごよう)日記」などを紹介する展示会「文久三年のあつい夏」が、福井市下馬町の県文書館で開かれている。原本やパネル約50点が並ぶ。10月26日まで。
文久3(1863)年、福井藩は農兵4000人で上洛(じょうらく)し、朝廷と幕府の混乱を打開する「挙藩上洛計画」を進めていた。ところが、京都の様子を探りに行った春嶽の側近が「いまだその機にあらず」と報告。御用日記には、その報告を受けて春嶽や小楠らが協議する内容などが記され、緊迫した当時の世情がうかがえる。計画は最終的に中止になった。
そのほか、復元福井城下絵図もあり、春嶽が視察したルートなども作図されている。 (平林靖博)
京都
「新選組」姿で清掃ボランティア 木屋町通で造形芸大生
京都造形芸術大の学生らが毎月、新選組隊士に扮(ふん)して木屋町通の清掃ボランティアを行い、観光客や地域住民の目を引いている。学生らは「興味を持ってくれる人が増えて、市民活動として広がれば」としている。
坂本龍馬の姿に装って木屋町通近くで観光ガイドをする俳優吉田信夫さん(61)が「地域に貢献したい」と一帯の掃除をすることにした。知人を通じて同大学の女大衆演劇サークル「桃色女剣劇団」のメンバーに呼び掛け、3月から始めた。
学生の授業やサークル活動の兼ね合いで実施日は不定期で毎回、メンバーのうち5、6人が参加。吉田さん自作の新選組衣装を着て、木屋町通の二条-三条間を約1時間かけて、ごみ袋を持って回る。毎回、たばこや空き缶、包装袋などで大きなごみ袋がいっぱいなる、という。
龍馬姿の吉田さんと、新選組の学生が仲良く清掃する“呉越同舟”の様子に、観光客が声をかけたり、外国人が写真を撮ったりするという。
同サークルの代表、石岡美咲希さん(20)は「ボランティアをしたいというメンバーも多く、喜んでやらせてもらっている。人目を引く格好をしているので、見て楽しんでもらえたら」と話す。
次回は9月4日に実施する予定。
徳島
阿波の海運、隆盛伝える 徳島城博物館で企画展
幕末24 件から明治期にかけて隆盛を極めた鳴門の廻船問屋、山西家を紹介する企画展「阿波の海運 廻船問屋山西家と金光山仙龍寺」が27日、徳島市の徳島城博物館で始まった。10月10日まで。
撫養港を拠点に特産の藍玉や塩、砂糖を売って財を成した山西家に関する資料約50点を展示。商取引を記載した帳簿や古文書、北前船の模型、山西家から依頼されて勝海舟が筆を執ったとされる書などが関心を集めている。
仙龍寺(鳴門市撫養町)は初代山西庄五郎が建立した寺院で、花鳥やヒョウタンなど、岩絵の具で色彩豊かに描かれた本堂の天井絵も展示。絵は撫養港に出入りする関東から九州までの船乗りらから奉納されており、山西家が全国的に活躍したことを物語っている。
9月18、24日には講演会があり、研究者が天井画の意味合いや美術的な価値について講演する。
【写真説明】山西家の繁栄を伝える天井絵などが並ぶ企画展=徳島城博物館
コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】
(128)東大教授・山内昌之 松浦武四郎(下)
アイヌ保護策の挫折
強力な民族と弱体な民族が接触し遭遇すると、未知の伝染病など疾病の深刻な打撃を受けることは世界史の常識である。
病気の伝染は、拡大しつつある商業活動の副産物でもあった。アイヌと日本人との交易、山丹(さんたん)交易と呼ばれる沿海州やサハリンとの交流は、アイヌの知らなかった病気をかれらの生活にもちこんだ。
◆疾病で民族の活力が衰弱
ことに梅毒の流行は、オーストラリアの先住民の場合のように、先住民族の女性の出生率を下げて胎児の流産や未熟児化をもたらした。これは民族の活力を確実に衰弱させる大きな要因となっていく。
松浦武四郎は石狩漁場の和人の番人が、アイヌの男を小樽(オタルナイ)に送った留守を狙って、その妻を犯し梅毒をうつした例を紹介している。また松浦は、釧路(クスリ)の41人の番人のうち36人が、アイヌを近くの厚岸(アッケシ)場所の仕事に送り出したのち、その妻たちを「妾(めかけ)」にしていた没義道(もぎどう)を記録していた。
これは、箱館、松前、江差(えさし)の遊郭や色町などを通した感染と並んで、アイヌに抵抗力のなかった梅毒を広げる原因の一つになった。
また寛政12(1800)年に記録を残した松田伝十郎は、天然痘の流行が人口激減と村落破壊の大きな原因になったと語っている。松前藩の放置政策は、都合が悪くなると、蝦夷(えぞ)のアイヌ居住地が異民族の住む異国であり、統治責任の外にあるとして疫病対策をとろうともしなかった。この認識は、時に不法となる経済搾取の事実と矛盾するはずであったが、そうしたギャップは松前藩にはなかったようである。
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親交があった絵師、河鍋暁斎に自らの臨終シーンを釈迦になぞらえて描かせた「武四郎涅槃図」(国重文、画像は中央部分の拡大)=三重県松阪市の松浦武四郎記念館提供
しかし、この不正を鋭く告発したのが松浦武四郎であった。
松浦は、文化4(1807)年に2万6256人と記録された北海道アイヌの人口が47年後には1万7810人に減少し、32%も人が減った悲劇を調査している。その一例を挙げるなら、東蝦夷地の厚岸のアイヌ人口は1809年には177軒と874人を数えたのに、安政3(1856)年になると53軒と217人に激減し、47年間のうちに75%も衰退してしまったのだ。東部の根室(ネモロ)では19世紀初頭に1200人以上のアイヌが住んでいたのに、1850年代になると人口は511人に減った。57%も激減した勘定になる(ブレット・ウォーカー『蝦夷地の征服』第7章)。
伝染病境界線ともいうべき寄せ波が限りなく北上し、蝦夷地に新たな疫病を持ちこんだのである。アイヌの自治力が弱体化し、その土地の日本領土への統合に抵抗する能力を失わせた大きな原因は、疾病の拡大と抵抗力の減退であった。
すでに幕末には、大久保一蔵(利通)、西郷吉之助(隆盛)、桂小五郎(木戸孝允)らは蝦夷地情報を知るために、松浦の家を訪れていた。明治新政府が成立すると、松浦を高く評価していた大久保は政府に彼を登用させ、「蝦夷地開拓御用掛(ごようがかり)」に任じている。
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親交があった絵師、河鍋暁斎に自らの臨終シーンを釈迦になぞらえて描かせた「武四郎涅槃図」(国重文、画像は中央部分の拡大)=三重県松阪市の松浦武四郎記念館提供
明治2(1869)年に戊辰戦争が終結し開拓使が設置されると、これまでの調査実績を認められ蝦夷地通として、ややあって開拓判官(はんがん)の職に任命された。長官、次官に次ぐポストである。新天地で理想の政治を目指すには十分な職であった。
◆真面目な政策に抵抗勢力
松浦は、アイヌ民族の生活と伝統的な生態系を守ろうとする真面目な政策を公に採用しようともがき続けた。和人とアイヌが共存しながら、アイヌが安心して暮らせる日々を夢見ていた松浦は、抵抗勢力とぶつかることになる。それは、江戸時代の商場知行制(あきないばちぎょうせい)のように商人たちが勝手気儘(きまま)にアイヌの男女労働力を酷使する悪習を守るか、廃止するかという争いでもあった。
開拓長官となった公家の東久世通禧(ひがしくぜ・みちとみ)は、商人たちに賄賂攻勢をかけられて、松浦の提言を骨抜きにしたようだ。また松浦は、律令制度における遥任(ようにん)のように東京で勤務させられて、北海道現地で手腕を振るうこともできなかった。
孤立した松浦は、開拓使を辞めてしまった。それでも終身15人扶持(ぶち)(米価換算150万円ほど)を給された異例の厚遇は、新政府の後ろめたさからであろう。
その後に雅号として「馬角斎(ばかくさい)」を名乗ったともいわれるが、それは明治新政府に対するあてつけでもあろうか。(やまうち まさゆき)
お暑うございます。細々と幕末ニュースをお届けします。
北海道
函館野外劇フィナーレ 壮大な歴史絵巻に1300人感動
文化芸能
幕末を駆け抜けた新選組隊士たちを描く人気時代劇シリーズが開幕
エンターテインメント
人気乙女ゲーム最新作「薄桜鬼 幕末無双録」を発表、PSP向けに発売へ。
北海道
函館野外劇フィナーレ 壮大な歴史絵巻に1300人感動
第24回市民創作函館野外劇「星の城、明日に輝け」(NPO法人市民創作「函館野外劇」の会主催)の最終公演が6日夜、特別史跡五稜郭跡の特設ステージで行われた。天気に恵まれ市民ら1300人が来場。壮大な歴史絵巻に酔いしれ、来年の再会を誓い合った。
この日は午後6時40分の開場前から長蛇の列ができた。同7時40分にステージが始まると、観客は大規模なフラッグダンスや五稜郭の築城、迫力の箱館戦争シーンにくぎ付け。出演者全員が登場したフィナーレでは、テーマ曲「星のまちHAKODATE」を合唱。ペンライトを振りかざしながら、函館への思いを新たにした。
終演後、同会の中村由紀夫副理事長が「今年は東日本大震災があったが、函館も何度も災害に見舞われながら復興を遂げてきた。出演者も被災者への思いを大切に演じたはず」と振り返り、「来年以降も今以上に函館市民に野外劇の良さを認識してもらい、国内外の人々に伝えていってほしい」とあいさつした。
今年の公演は7月8日開幕。雨天中止となった16日を除き10回公演した。期間中の入場者数は約8100人で、3年連続で1万人を割り込んだ。
初めて観劇した七飯町の会社員、岩渕祐一さん(53)は「感動的なパフォーマンスで歴史を再認識することができた。素晴らしかった」と話していた。
文化芸能
幕末を駆け抜けた新選組隊士たちを描く人気時代劇シリーズが開幕
“人が人を想う気持ち”をテーマに、物語を紡ぎ続ける演劇集団キャラメルボックス。本作は高い人気を誇る時代劇シリーズ『風を継ぐ者』『裏切り御免!』の両方に登場する架空の隊士で、新選組で一番足が速かった男・立川迅助の第三の物語となる。新選組で土方歳三や沖田総司と出会い京都の町を文字通り駆け回った迅助が、今度は慶応4年の江戸を駆け抜けながら物語は進んでいく。歴史上のヒーローではなく、迅助という“普通の人”からの目線は、まさに私たちと同じもの。2年ぶりの時代劇ということもあり、8月6日に開幕した東京・サンシャイン劇場は多くの観客にあふれていた。
慶応4年。鳥羽伏見の戦いに敗れた新選組は江戸で再起を誓う。だが池田屋騒動の頃の勢いはすっかり陰を潜め、隊士も半減。会計方の三鷹 銀太夫(阿部丈二)ら隊士たちは転身すら考え出す始末だ。そんな中、隊士の立川迅助(左東広之)は、かつて剣の稽古をつけてもらった 沖田総司(畑中智行)の世話係を土方歳三(三浦剛)から任される。労咳が悪化した沖田は、植木屋のおかみ・とき(岡内美喜子)や下働 きのみい(實川貴美子)らに見守られ静養することに。一方、剣の立つ友人・昭島捷平(大内厚雄)の入隊に喜ぶ迅助だったが、昭島が偶 然、新政府軍の室戸策太郎(岡田達也)と接触したことで事態は大きく変わり始め……。
友情と愛、志と思想、そして理想と現実――。志の違いによって悩みながら幼なじみと袂を分かち合い、かつての敵とも共鳴すれば仲間と なるなど、真摯に生きようとすればするほど悩み惑う時代。隊士とはいえ、どこにでもいるような男・迅助も、まさにその問題に直面する 。新選組への周囲の視線が徐々に冷めていくなか、「何のために生きているのか」という迅助の問いは、戦うことに己をまっとうしようと する沖田や、己の誠に殉じる土方ら“ヒーロー”たちとは真逆のものだ。だからこそ何を信じ、何を基準に生きればいいのか分からなくな っている私たちに、迅助の想いはストレートに響く。その答えを求めるように、隊の伝令役として江戸の町をひたすら走る迅助の姿に、胸 が熱くなってしまうのだ。市井の人々のなにげない日常を、歴史やファンタジーとリンクさせるのはキャラメルボックスの真骨頂。劇中、 心の中に沖田の声を聞きながら必死に戦う“普通の人”迅助に、人の意思を受け継ぐことの意味を改めて考えさせられた。
公演は8月28日(日)まで、東京・サンシャイン劇場にて上演。9月3日(土)から4日(日)に愛知・名鉄ホールにて、 9月10日(土)から18日(日)まで神戸・新神戸オリエンタル劇場にて公演。 また、東京公演限定の親子特別チケット、当日引換券(公演前日まで販売)、ステージシーンや貴重なオフショットをフォトカードにしてお届けする『ぴあメモリアルカードサービス(メモカぴあ)』も発売中。
エンターテインメント
人気乙女ゲーム最新作「薄桜鬼 幕末無双録」を発表、PSP向けに発売へ。
大人気の女性向け恋愛ゲーム「薄桜鬼」の最新作が、PSP向けに発売されることがわかった。アイディアファクトリーの公式サイトによると、タイトルは「薄桜鬼 幕末無双録」。現在ディザーサイトを公開しており、ソフトの公式サイトは「近日公開予定」としている。
「薄桜鬼」は、幕末の新撰組を舞台とした女性向けゲームで、第1弾は2008年9月18日に発売されたプレイステーション2向けソフト「薄桜鬼 ~新選組奇譚~」。カズキヨネの繊細で美しいイラストや、魅力的なキャラクター設定、シリアスなストーリーが女性のハートをわしづかみにし、その後、 PSPやDSへの移植やファンディスク、「薄桜鬼 ~新選組奇譚~」以前を描いたゲームなどが相次いで発売された。
また、2010年4月にはテレビアニメ化されたほか、同年10月には早乙女太一主演で舞台化。さらに2011年8月にはキャラクターに焦点をあてたOVAシリーズ「薄桜鬼 雪華録」が発売予定となっており、今後も「薄桜鬼」旋風が吹き荒れそうだ。
なお、ゲーム最新作については、タイトルと対応ゲーム機以外の情報は不明。続報を楽しみに待ちたい。
忙しくなり、なかなかアップデートできてませんが、細々ながら続けていきます。拾い損なった記事も多々あるかも知れませんが、そこはご勘弁を。
北海道
五稜郭跡の兵糧庫 一般公開
箱館奉行所開館1年 幕末ブームで33万人
東京
土方歳三ら、新選組の子孫が集結! 土方歳三のすべてがわかるイベントを開催
タイトルがミーハーっぽいのがなぁ……どのくらい集まるかしら。
真夏の新選組祭!「コミックマーケット80」「オトメイト 薄桜鬼 夏の市 2011」グッズ販売情報公開
大分
SL復元模型:「からくり儀右衛門」製作、日田・豆田町で公開 /大分
ブックレビュー
『兵馬の旗』第1巻、現代感あふれる幕末物
この作品の続きを読みたくて、おじさん雑誌だと思っていたビッグコミックを買うようになりました(^_^;)。
コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】
(125)東大教授・山内昌之 奈良原喜左衛門
北海道
五稜郭跡の兵糧庫 一般公開
国の特別史跡五稜郭跡にある兵糧庫の一般公開が、1日から始まった。初日は749人が来館し、発掘調査で出土した美術品など、貴重な展示物に目を見張った。
兵糧庫は1864年ごろに土蔵として建設。その後、数回の補修工事を行うなどして現代に受け継がれ、2年ぶりに一般公開された。
庫内には20年以上前に箱館奉行所跡から発掘された陶器やガラス瓶などの遺物数点、五稜郭築造時に堀や郭内に引き込まれていた上水道の木樋などが展示されている。また兵糧庫の歴史を映したパネルも設置され、観光客や市民らは、函館の文化を色濃く残す展示物を興味津々に眺めていた。
箱館奉行所の沼崎孝男副館長は「貴重な建物。幕末の時代から残されてきた歴史を感じ取ってもらえれば」と話す。釧路市から旅行で訪れた黒島章一さん(62)は「初めて見たが歴史を感じた。道具も精巧に作られていて、昔の人はすごいと思った」と感心した様子だった。
一般公開は31日まで。公開時間は午前10時から午後3時。入館無料。問い合わせは市教委文化財課TEL0138・21・3456。
箱館奉行所開館1年 幕末ブームで33万人
【函館】函館市が国特別史跡・五稜郭内に復元した箱館奉行所が29日、開館1年を迎える。幕末17 件ブームの追い風もあり、28日までに初年度目標(15万人弱)の2倍を超える33万1368人が入館した。
箱館奉行所は1864年(元治元年)に幕府が北方警護のため建設。68年(明治元年)には旧幕府脱走軍が占拠して箱館戦争の舞台になり、71年(同4年)、明治政府により解体された。
昨年7月、市が27億円をかけて139年ぶりに史実に基づき復元した。
3月の東日本大震災の直後には団体客のキャンセルが相次ぎ、客足が伸び悩む時期もあったが、ゴールデンウイーク期間中の5月3日には、1日で最高の4658人の入場者を記録した。
東京
土方歳三ら、新選組の子孫が集結! 土方歳三のすべてがわかるイベントを開催
株式会社角川コンテンツゲート(東京都千代田区:代表取締役社長 浜村弘一)が制作するFan+(ファンプラス)「歴メン 土方歳三」のサイトリニューアルを記念し、8月20日(土)、お台場「TOKYO CUTURE CUTURE」にて、「歴メン 土方歳三のすべて」と題したイベントを開催します。土方歳三、近藤勇、井上源三郎の子孫が集結、土方歳三の全てに答えるほか、土方らが入門した総合武術「天然理心流」の実演も見ることができるなど、盛りだくさんの内容のイベントです。
<イベント概要>
○Fan+ presents「歴メン 土方歳三のすべて」
○開催日:2011年8月20日(土) 開場:12:00 開演:12:30(15:00終了予定)
○場所:TOKYO CULTURE CULTURE (http://tcc.nifty.com/accessmap/)
(ゆりかもめ「青海駅」前/ りんかい線「東京テレポート駅」より徒歩5分)
○出演者:総合司会 渡部麗(歴史クリエイター/“レキシズル”プロジェクト代表)
土方愛(土方歳三の子孫)/菊地明(幕末研究家)/宮川清蔵(天然理心流9代目宋家)/
井上雅雄(井上源三郎5代目子孫)/小日向えり
○主催・企画:NTTプライム・スクウェア、制作:コンテンツ・キッズ、
協力:角川コンテンツゲート・新人物往来社・レキシズル
<イベント内容>
【第1部】土方歳三の疑問すべてに答えます
歳三の子孫・土方愛氏と新選組研究の第一人者・菊地明氏が土方ファンの疑問・質問にすべて答えます。
【第2部】必見!天然理心流実演
近藤勇の流れをくむ天然理心流9代目宋家宮川清蔵氏と、新選組六番組組長・井上源三郎の5代目子孫に当たる井上雅雄氏による
天然理心流の演武。また「池田屋事件ではどのような戦術で闘ったのか?」などといった武道家ならではの視点による解説も。
【第3部】「歳さんに恋して」番外編
Fan+「歴メン 土方歳三」内の歴史紀行「歳さんに恋して」に出演中の歴史アイドル、小日向えりさんを迎え、「歴メン 土方歳三」の楽しみ方や、歳三クイズなど
ファンの皆さんと楽しく歳三を語り合います。
<チケット情報>
※ご入場の際にはデジタルチケットが必要です。
チケット料金:525円(1ドリンク付き、税込)
詳しくはこちら
http://fanplus.jp/_rekimen_/feature/event
<本件に関するお問合せ>
『歴メン 土方歳三のすべて』に関して
event@nttps.co.jp
Fan+に関して
https://fanplus.jp/inquiry/
タイトルがミーハーっぽいのがなぁ……どのくらい集まるかしら。
真夏の新選組祭!「コミックマーケット80」「オトメイト 薄桜鬼 夏の市 2011」グッズ販売情報公開
オトメイトにて「コミックマーケット80」・「オトメイト 薄桜鬼 夏の市 2011」グッズ販売情報が公開された。
薄桜鬼をはじめとするオトメイトの新作グッズを「コミックマーケット80」及び「オトメイト 薄桜鬼 夏の市 2011」の2会場で販売することが決定。「オトメイト 薄桜鬼 夏の市 2011」は2011年8月6日から8月14日まで開催される予定だ。
公式ページでは販売されるグッズ情報が公開されている。コミックマーケットでは薄桜鬼グッズのみだが、「オトメイト 薄桜鬼 夏の市 2011」では「ワンドオブフォーチューン」「二世の契り」「華ヤカ哉、我ガ一族」など、オトメイトを代表する作品のグッズも販売される。興味のある方はチェックしておこう。
【イベント情報】
◆オトメイト 薄桜鬼 夏の市 2011
会場:新宿マルイワン 7F
期間:2011年8月6日(土)~8月14日(日)
平日・土曜11:00~21:00、日曜11:00~20:30
◆コミックマーケット80
会場:有明・東京ビッグサイト コミックマーケット80 西4階企業ブース「336」RONDO ROBE内
期間:2011年8月12日(金)~8月14日(日)
※8月12日(金)、8月13日(木)は10:00~17:00
8月14日(日)は10:00~16:00になります。
大分
SL復元模型:「からくり儀右衛門」製作、日田・豆田町で公開 /大分
「からくり儀右衛門」と呼ばれ、後の東芝の創業者になった発明家、田中久重(1799-1881年)=福岡県久留米市出身=製作の蒸気機関車模型(復元)が31日、日田市豆田町で公開された。子供たちや鉄道ファンは蒸気でピストンを回し、ゆっくり線路を走る雄姿にうっとり。
からくり人形や万年自鳴鐘などの発明家として知られる田中は幕末の佐賀藩精錬方に招かれ、蒸気船やわが国最初の蒸気機関車ひな型などを製作した。模型は1855年に作り、久留米高専が約20年前に精巧に復元した。ボイラーの長さは約18センチと可愛い。
日田市筑後軌道調査会が豆田町の天領日田資料館で8月末まで開催中の「筑後軌道展」のイベントとして公開した。ただ調整が難しく、しばしば立ち往生する場面も。【楢原義則】
ブックレビュー
『兵馬の旗』第1巻、現代感あふれる幕末物
かわぐちかいじがビッグコミックで連載中の歴史漫画『兵馬の旗~Revolutionary Wars~』第1巻が、7月29日に発売された。『沈黙の艦隊』や『ジパング』、『太陽の黙示録』と壮大なスケールで日本という国家像を問うてきた、かわぐちかいじの新作は一転して幕末物になった。しかし、過去の作品と同一線上の現代感あふれる作品になっている。
主人公は幕府旗本の宇津木兵馬で、幕府側の立場から戊辰戦争を描く。兵馬はロシア留学経験のある開明派で、帰国後は幕府の西洋式精鋭部隊・伝習隊の将校となる。物語は鳥羽・伏見の戦いで幕を開ける。史実通りに幕府軍は敗退するが、宇津木の一隊は最新の軍備を活かして奮闘する。幕府の大敗と記録される鳥羽伏見の戦いであるが、様々な局面があり、薩長も危険な綱渡りをしていた状況が描かれる。
かわぐちかいじは、これまで現代社会を主な舞台として、自分で考え行動する強烈な近代的自我を持った人間を描いてきた。それは『兵馬の旗』でも健在である。『兵馬の旗』の登場人物には忠義という封建的思想は希薄である。鳥羽・伏見の戦いという幕末の終わりから物語が始まるため。尊王や攘夷という幕末を熱狂させた思想も希薄である。
薩長軍に錦の御旗が掲げられ、朝敵の汚名を怖れた幕府軍の士気が低下する点は史実と同じであるが、本書では登場人物達が錦の御旗の効果を冷静に計算している。朝廷側すら錦の御旗を掲げれば安泰とは考えていない。新選組の土方歳三も登場するが、世の中を達観した人物として描かれている。幕末を舞台としているが、登場人物の思考形態は近代人のものである。
また、兵馬の属する伝習隊はフランス式軍制に則っており、洋装の軍服や最新式の小銃を標準装備し、大尉や中尉などの階級で呼び合っている。史実通りの設定であるが、かわぐちかいじの画では戦前の日本軍のように見えてしまう。まるで『ジパング』のように、近代軍の一部隊が幕末にタイムスリップした物語かと勘違いしそうである。
何よりも主人公の兵馬が近代人である。日本ではチョンマゲを結った和装の兵馬であるが、回想シーンのヨーロッパでの洋装の兵馬の方が活き活きとしている。これらの現代感は、歴史物として新鮮という好感と歴史物らしくないとの不満に意見が分かれるところである。テレビの時代劇がチョンマゲを付けた現代劇と言われて久しい。チョンマゲを付けた現代劇の漫画作品にも注目である。
(林田力)
この作品の続きを読みたくて、おじさん雑誌だと思っていたビッグコミックを買うようになりました(^_^;)。
コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】
(125)東大教授・山内昌之 奈良原喜左衛門
生麦事件と子ども手当
政治は結果責任である。たとえ、政治家の意図がどれほど高邁(こうまい)で理想にあふれていたとしても、成果を出せないとなると無責任な評論に堕してしまう。
もし政治が主観的な善意で評価されるべきだと政治家が信じるなら、選挙のために有権者の耳に快く響く公約を乱発すればよいことになる。財源の裏付けもないのに、国民各層に好都合な政策を打ち出せば政治が行き詰まることは分かっている。
とくに政権与党の場合、ひとたび無理筋だと認識するなら、公約やマニフェストの変更や廃棄をするのは当然であろう。それができないでいる点に今日の政局混迷の因がある。
衆参両院のねじれのために、与野党の歩み寄りが必要とされるのに、政権与党が財源面で実施が不可能と分かっている子ども手当の堅持にこだわり、新税の必要性からも逃げるとなると、政策の実施財源はどうなるのだろうか。
政治は生き物であり、政策を実行するには当初のもくろみと違った形や結果を甘受しなければならないこともある。この基本がどうやら民主党の一部議員には分かっていないようだ。選挙で当選するためなら何を約束してもよく、実現できなくても看板を下ろすべきではないというのは、モラル・ハザードにほかならない。これでは菅直人首相の居座りを批判する資格もないだろう。
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日本の進路が急展開
ある事件の結果が歴史の複雑さでまったく別の様相をもたらすこともある。政治家は刻々と動く歴史の流れと方向を見抜き、的確な措置をとらなくてはならないからだ。
文久2(1862)年の生麦事件は、さしずめ日本の進路を急旋回させた大事件であった。その直接の下手人だった奈良原喜左衛門は、自分の行為が薩摩の藩論を大きく変え、国論さえ攘夷(じょうい)から開国にまとめあげる結果をもたらすとは想像だにしなかったであろう。
ことは、文久2年に島津久光が率兵入京し、寺田屋事件で尊皇過激派の藩士・有馬新七らの挙兵を阻止したことに始まる。久光の供頭(ともがしら)として寺田屋事件の鎮撫(ちんぶ)にもあたった奈良原らは、さらに江戸に随従したのち京都に戻る途中、生麦(現横浜市鶴見区)で行列のなかに馬を乗り入れてきた英国人チャールズ・リチャードソンら4人の外国人を斬り捨てた。薬丸(やくまる)半左衛門に薬丸自顕流(じげんりゅう)を学び、弓術にもたけていた奈良原の剣先は鋭かった。
大名行列を乱す行為は、国内法で重大犯罪だというのが薩摩側の言い分であった。しかも、薩摩藩にすればリチャードソンらに再三再四下馬を要求し、道脇に寄るように説いた上で従わなかったので、臨機の措置として斬り捨てたのは当然だというのだ。
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開国へ舵切った薩摩藩
しかし、英国はじめ横浜の外交団居留民は収まらない。かれらは薩摩藩に下手人の処罰と賠償などを要求するが、藩庁は奈良原らが逃亡し、すでに島津家中でないとシラを切る。この事件が発端で薩英戦争が起きた。奈良原も海江田武次(たけじ)とともに英艦奪取を計って切りこもうとするが失敗した。海江田は後の信義であり、生麦事件の際の仲間である。
とはいえ薩摩藩は、戦の教訓として攘夷の不可能を悟り、開国に向けて大きく舵(かじ)を切った。抜本的な政策の見直しである。それどころか、幕府の力の限界を見抜いた薩摩藩は、大胆にも倒幕路線を突き進むことになった。これは根本的な政策の変更と旋回にほかならない。
これが歴史の因果関係の皮肉であり複雑なところである。島津久光にしても、奈良原と海江田の2人にしても、無礼な英国人斬りが開国政策への転換の発端になるとは思わなかったに違いない。
複雑だったのは、リチャードソンを斬った奈良原であった。藩の外交的説明として脱藩逃亡とされたのは、薩摩隼人として納得できない気持ちであったろう。それでも彼は、元治元(1864)年の禁門の変に出水隊の指揮をとり活躍した。
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犠牲を伴う政策の終焉
彼が倒幕の大業を見ずに慶応元(1865)年5月に京都二本松の薩摩藩邸で没したのは、当人にとっても薩摩藩にとってもある意味で幸せであった。英国人を堂々と斬った人間が明治新政府の要人になるのは外交上も好ましくなく、新リーダーの薩人に攘夷の古傷をうずかせることにもなりかねなかったからだ。
一つの政策の終焉(しゅうえん)は誰かの犠牲を伴う。そして、新たな政策の開始はある歴史的事業の清算をもたらすものだ。これは生麦事件であれ、子ども手当の措置であれ、変わらない歴史の真理なのだ。(やまうち まさゆき)
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【プロフィル】奈良原喜左衛門
ならはら・きざえもん 天保2(1831)年、薩摩藩士の家に生まれる。明治後期に沖縄県知事を長く務めた繁は弟。薩摩藩きっての剣の達人として知られ、安政6(1859)年、藩内若手改革派の誠忠組に加盟。文久2(1862)年、島津久光に随行して京都入りし、誠忠組の急進派の説得に当たるが失敗。同年、生麦村(横浜市鶴見区)で久光の行列に馬で乗り入れた英国人を斬殺。その後も京阪方面で活動し、慶応元(1865)年、京都の薩摩藩邸で病没した。
こんばんは、白牡丹です。幕末歴史ブログから落語鑑賞ブログに変質しかけているので、久しぶりに幕末ニュースねたを掘ってみます。だいぶさぼったので、最後の幕末ニュースから収集しそこねたものがあるかも知れませんが、その点はご容赦ください。
北海道
箱館奉行所開館1年 幕末ブームで33万人
福島
「白河口の戦い展」 白河・楽蔵で30日〜
少年隊慰霊「顕彰祭」で剣舞披露 二本松
京都
京都新選組同好会、祇園祭でパレード
コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】
人命最優先の「鉄道の父」
維新から積み上げた技術
中国高速鉄道の事故のすさまじさにも驚くが、もっと声を失ったのは、生存者の確認や救出もそこそこに、営業を事故翌々日に再開した手早い措置であろう。
事故原因の特定や、犠牲者の総数など、利用者を安心させる措置を何ひとつ取っていない点も、日本人の常識では考えられないことだらけだ。なかでも、高架から無残にぶらさがっている車両をこともなげに下に突き落とす乱暴な手法や、破壊された車両を重機で穴のなかに埋め込む作業は、どうみても事故原因の真相を突き止めようとする姿勢から遠いものだ。
しかも、スポークスマンの言い草がふるっている。下が泥土のために救助作業を促進できないので、車両を穴に埋めてその上に土をまき、足場を固めてから救出するために車両を破壊して埋めたというのだ。
世界最速を自慢する国らしく事故処理も超特急であるが、事故原因の特定や現場検証のやり方のお粗末さはたとえようもなく恥ずかしい。
そもそも新幹線や高速鉄道の技術などは一朝一夕に出来上がるはずもない。日本の場合も、明治の新時代から長い年月をかけて積み上げてきた高いテクノロジーがあって初めて成り立ったのだ。
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日本の鉄道を考えるとき、すぐ脳裏に浮かぶのは、伊藤博文や井上馨(かおる)とともにイギリスに密航した「長州ファイブ」の一人、井上勝である。
長州藩士の三男に生まれた井上勝は、文久3(1863)年に脱藩して渡英し、明治元(1868)年までロンドンに留学した。そのユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)で鉱山・鉄道・土木を学んでいる。帰国してから1年後に造幣頭(ぞうへいのかみ)を兼ねて鉱山正(こうざんのかみ)となり、すぐ鉄道建設にとりかかった。
以後の井上の足跡は、そのまま日本の鉄道の道のりと重なるといってよい。明治7年に鉄道頭(てつどうのかみ)に再任された勝は、自ら大阪に出張して阪神間と京阪間の鉄道敷設工事にあたった。その後も工部少輔や鉄道局長、技監や工部大輔と累進し、鉄道建設の意味を旧友の伊藤博文や井上馨に訴え続け、人や技術面での外国への依存から脱却すべきことを説いた。
このように、明治の日本でも外国の技術力から離れるには10年以上を閲(けみ)している。こうした慎重な動きを考えると、今回の中国の純国産なる高速鉄道技術の危うさが、ますます見えてくるというものだ。
井上勝は、明治16年に中山道経由と決定した東京-京都間の鉄道路線を東海道に変更させた。内閣直属となった鉄道局長官として、旧友伊藤を説いての結果である。さらに東京-神戸の全線開通も、先頭に立って工事を督励した勝の功績にほかならない。鉄道事業が内務省なり逓信(ていしん)省なりに移っても、鉄道庁や鉄道局の長官としていつも井上の姿があった。鉄道事業における彼の後継者は、原敬(はらたかし)と後藤新平にほかならない。
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勝は、熱心な鉄道国有化論者であり、早くも鉄道局長時代の明治14年には、民営鉄道の利益優先主義が日本の鉄道発展の利益にならないと論じた。また、24年の「鉄道政略に関する議」は、幹線鉄道の国有化を主張し、やがて鉄道敷設法や鉄道国有法を生むことになった。
鉄道敷設法をめぐっては、民営鉄道こそが鉄道の発展を促すという考えも根強く、鉄道各社の株主だった議員たちが法案の成立に抵抗した結果、同法は民営鉄道促進の余地を広げるために修正され、怒った井上は26年に鉄道庁長官を辞職する。
ともかく風貌から「井上おさる」と渾名(あだな)された勝は、同僚に親しまれただけでなく、民営化論者から蛇蝎(だかつ)のように憎まれたが、「おさる」の鉄道への情熱は誰もが認めるところであった。晩年は機関車の国産化に意を傾け、鉄道院(後の国鉄)顧問として渡欧し、青春の思い出の地ロンドンで客死した。
鉄道に生涯を賭ける
最初から最後まで鉄道一筋の人生だった井上勝からすれば、今回の中国の事故処理は言語道断であろう。いくら鉄道事業に熱意を燃やしたといっても、彼には人命を軽視する発想など微塵(みじん)もなかった。ナショナリズムの熱に浮かれた青春を清算しながら鉄道事業に生涯を賭けた井上勝の延長線上に、人命と安全を重視する現在のわが鉄道技術があることを日本人は誇りに思うべきだろう。(やまうち まさゆき)
◇
【プロフィル】井上勝
いのうえ・まさる 天保14(1843)年、長州藩士の三男として生まれる。文久3(1863)年に脱藩し、英国に留学。鉄道・鉱山技術を学び、明治元(1868)年に帰国した。新政府の下で鉄道頭、鉄道庁長官などを歴任し、5年の日本初路線(新橋-横浜)開業など鉄道事業の発展に力を尽くした。43(1910)年、死去。
【幕末から学ぶ現在(いま)】
(123)東大教授・山内昌之 大山捨松
幕末明治で一二を争う美人ではないかと思う、捨松さん。
北海道
箱館奉行所開館1年 幕末ブームで33万人
【函館】函館市が国特別史跡・五稜郭内に復元した箱館奉行所が29日、開館1年を迎える。幕末19 件ブームの追い風もあり、28日までに初年度目標(15万人弱)の2倍を超える33万1368人が入館した。
箱館奉行所は1864年(元治元年)に幕府が北方警護のため建設。68年(明治元年)には旧幕府脱走軍が占拠して箱館戦争の舞台になり、71年(同4年)、明治政府により解体された。
昨年7月、市が27億円をかけて139年ぶりに史実に基づき復元した。
3月の東日本大震災の直後には団体客のキャンセルが相次ぎ、客足が伸び悩む時期もあったが、ゴールデンウイーク期間中の5月3日には、1日で最高の4658人の入場者を記録した。
福島
「白河口の戦い展」 白河・楽蔵で30日〜
白河市中町の集客施設「楽蔵(らくら)」内の白河見聞館で30日から企画展「戊辰戦争白河口の戦い展」が始まる。
歴史愛好家でつくる戊辰東北戦争研究会が企画した。
慶応4(1868)年に約百日間にわたり白河で繰り広げられ、死者約千人を出した激戦がテーマ。
歴史的な流れを解説、実際の戦いで用いられた砲弾や参戦した新撰組隊士が使ったとされる防具の鉢金、手甲を展示する。
会津藩主松平容保の直筆の和歌も並ぶ。
時間は午前9時から午後5時まで。
少年隊慰霊「顕彰祭」で剣舞披露 二本松
戊辰戦争で散った二本松少年隊を慰霊する「二本松少年隊顕彰祭」は28日、二本松市の二本松北小で行われた。
二本松城が落城した1868(慶応4)年7月29日にちなみ毎年この時期に催しているが、放射線量を考慮し、学校内体育館を会場にした。
県内外から約300人が詰め掛けた。
二本松少年隊顕彰会長の三保恵一市長が「少年隊の精神は二本松の誇り」、旧二本松藩主の丹羽家18代当主丹羽長聡氏が「被災を乗り越えることが少年隊の弔いになる」とあいさつした。
福島岳風会二本松吟詠会が「戒石銘」「二本松少年隊を弔う」を吟じた。
二本松北小剣舞クラブの21人は縦じまのはかまに紫色のたすきを掛け、男舞といわれる剣舞「二本松少年隊」を舞った。
岳下小居合道部の12人は居合を披露した。
二本松南小は舞踊部の23人が登場。
紫色のはかまに金銀地の扇子を使う鮮やかな女舞「二本松少年隊」を踊った。
最後に二本松剣友会が日本剣道形を披露した。
京都
京都新選組同好会、祇園祭でパレード
全国の新選組愛好家たちでつくる京都新選組同好会(本部・京都市中京区)は16日、だんだら模様の羽織に高げたをはいた隊士姿になって祇園祭でにぎわう京都市中心部などを練り歩き、沿道の人たちを楽しませた。
元治元(1864)年、祇園祭の宵々山から宵山にかけて倒幕派の集まる旅館に新選組が討ち入った「池田屋騒動」にちなみ、毎年行っている。
36回目の今回は35人が参加。同市中京区の壬生寺で隊士の墓を参った後、「誠」の旗を掲げて東山区の八坂神社までの約3・5キロをパレードし、隊士たちのかつての雄姿をしのんだ。
また、東日本大震災を受け、今回参加できなかった福島県会津若松市の愛好家たちの思いも込め、同神社では復興を祈願する口上が述べられた。
コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】
(124)東大教授・山内昌之 井上勝
人命最優先の「鉄道の父」
維新から積み上げた技術
中国高速鉄道の事故のすさまじさにも驚くが、もっと声を失ったのは、生存者の確認や救出もそこそこに、営業を事故翌々日に再開した手早い措置であろう。
事故原因の特定や、犠牲者の総数など、利用者を安心させる措置を何ひとつ取っていない点も、日本人の常識では考えられないことだらけだ。なかでも、高架から無残にぶらさがっている車両をこともなげに下に突き落とす乱暴な手法や、破壊された車両を重機で穴のなかに埋め込む作業は、どうみても事故原因の真相を突き止めようとする姿勢から遠いものだ。
しかも、スポークスマンの言い草がふるっている。下が泥土のために救助作業を促進できないので、車両を穴に埋めてその上に土をまき、足場を固めてから救出するために車両を破壊して埋めたというのだ。
世界最速を自慢する国らしく事故処理も超特急であるが、事故原因の特定や現場検証のやり方のお粗末さはたとえようもなく恥ずかしい。
そもそも新幹線や高速鉄道の技術などは一朝一夕に出来上がるはずもない。日本の場合も、明治の新時代から長い年月をかけて積み上げてきた高いテクノロジーがあって初めて成り立ったのだ。
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日本の鉄道を考えるとき、すぐ脳裏に浮かぶのは、伊藤博文や井上馨(かおる)とともにイギリスに密航した「長州ファイブ」の一人、井上勝である。
長州藩士の三男に生まれた井上勝は、文久3(1863)年に脱藩して渡英し、明治元(1868)年までロンドンに留学した。そのユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)で鉱山・鉄道・土木を学んでいる。帰国してから1年後に造幣頭(ぞうへいのかみ)を兼ねて鉱山正(こうざんのかみ)となり、すぐ鉄道建設にとりかかった。
以後の井上の足跡は、そのまま日本の鉄道の道のりと重なるといってよい。明治7年に鉄道頭(てつどうのかみ)に再任された勝は、自ら大阪に出張して阪神間と京阪間の鉄道敷設工事にあたった。その後も工部少輔や鉄道局長、技監や工部大輔と累進し、鉄道建設の意味を旧友の伊藤博文や井上馨に訴え続け、人や技術面での外国への依存から脱却すべきことを説いた。
このように、明治の日本でも外国の技術力から離れるには10年以上を閲(けみ)している。こうした慎重な動きを考えると、今回の中国の純国産なる高速鉄道技術の危うさが、ますます見えてくるというものだ。
井上勝は、明治16年に中山道経由と決定した東京-京都間の鉄道路線を東海道に変更させた。内閣直属となった鉄道局長官として、旧友伊藤を説いての結果である。さらに東京-神戸の全線開通も、先頭に立って工事を督励した勝の功績にほかならない。鉄道事業が内務省なり逓信(ていしん)省なりに移っても、鉄道庁や鉄道局の長官としていつも井上の姿があった。鉄道事業における彼の後継者は、原敬(はらたかし)と後藤新平にほかならない。
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勝は、熱心な鉄道国有化論者であり、早くも鉄道局長時代の明治14年には、民営鉄道の利益優先主義が日本の鉄道発展の利益にならないと論じた。また、24年の「鉄道政略に関する議」は、幹線鉄道の国有化を主張し、やがて鉄道敷設法や鉄道国有法を生むことになった。
鉄道敷設法をめぐっては、民営鉄道こそが鉄道の発展を促すという考えも根強く、鉄道各社の株主だった議員たちが法案の成立に抵抗した結果、同法は民営鉄道促進の余地を広げるために修正され、怒った井上は26年に鉄道庁長官を辞職する。
ともかく風貌から「井上おさる」と渾名(あだな)された勝は、同僚に親しまれただけでなく、民営化論者から蛇蝎(だかつ)のように憎まれたが、「おさる」の鉄道への情熱は誰もが認めるところであった。晩年は機関車の国産化に意を傾け、鉄道院(後の国鉄)顧問として渡欧し、青春の思い出の地ロンドンで客死した。
鉄道に生涯を賭ける
最初から最後まで鉄道一筋の人生だった井上勝からすれば、今回の中国の事故処理は言語道断であろう。いくら鉄道事業に熱意を燃やしたといっても、彼には人命を軽視する発想など微塵(みじん)もなかった。ナショナリズムの熱に浮かれた青春を清算しながら鉄道事業に生涯を賭けた井上勝の延長線上に、人命と安全を重視する現在のわが鉄道技術があることを日本人は誇りに思うべきだろう。(やまうち まさゆき)
◇
【プロフィル】井上勝
いのうえ・まさる 天保14(1843)年、長州藩士の三男として生まれる。文久3(1863)年に脱藩し、英国に留学。鉄道・鉱山技術を学び、明治元(1868)年に帰国した。新政府の下で鉄道頭、鉄道庁長官などを歴任し、5年の日本初路線(新橋-横浜)開業など鉄道事業の発展に力を尽くした。43(1910)年、死去。
【幕末から学ぶ現在(いま)】
(123)東大教授・山内昌之 大山捨松
幕末明治で一二を争う美人ではないかと思う、捨松さん。
元祖・なでしこジャパン
7月18日の朝はいつもより早く起きた人も多かったのではないか。私も、サッカーの女子ワールドカップ(W杯)の日本代表「なでしこジャパン」とアメリカとの決勝戦を観(み)た1人である。
19日の帰国早々、初優勝を果たしたなでしこの面々は、首相官邸を訪れた。菅直人氏が祝福したのは当然としても、沢穂希(ほまれ)キャプテンに向かって「今から間に合うか分からないが勉強したい」と、彼女のリーダーシップに学びたいという趣旨の発言をしたのには驚いた。
もちろん、彼女の素晴らしい人柄と率先垂範の高い統率力は誰の目にも明らかである。しかし一国の首相がこうも簡単に、これからリーダーシップの秘訣(ひけつ)を学びたいと平然と述べるセンスにも驚くほかない。
◆運命を変えた米国留学
幕末から明治にかけて外国人に大和撫子(なでしこ)の存在感を見せつけた女性といえば、何よりも大山捨松であろう。捨松は、会津藩の家老職の家柄に生まれ、長兄が陸軍少将の山川浩、次兄が東京帝国大学総長となる健次郎である。“賊軍”の身内だった捨松の運命を変えたのは、北海道開拓使がアメリカに派遣した5人の女子留学生に選ばれたことだ。後に津田英学塾(現・津田塾大学)をつくる津田うめ(後の梅子)もそのなかにいた。女子の派遣は、アメリカの西部開拓を男子と一緒に担った女性たちのたくましさに感銘を受けた長官・黒田清隆の卓見によるものだ。
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日本初の女子留学生として米国に渡った大山捨松(国立国会図書館蔵)
捨松は、コネティカット州の高校を経て、ニューヨーク州のヴァッサー大学に進んだ。会津の籠城戦に加わったサムライの娘は、まさに才色兼備の女性であり、2年になると学年会会長に選ばれるほどの人気者であった。捨松は、大和撫子ここにありとの気概や自覚をもって多くの分野を学んだ。なかでも看護学と慈善事業への関心は生涯のものとなる。
幼くして渡米した捨松の英語は、ほとんど母語となった代わりに、津田うめも苦しむように日本語の力がかなり落ちてしまった。しかし、帰国後異常な努力で日本の文化と社会に再適応し、薩摩の陸軍軍人、大山巌(いわお)の後添(のちぞ)いに迎えられ、明治の日本で独特な輝きを放つことになった。
◆語学堪能な社交界の花形
条約改正など近代国家としての日本を確立するには、外交や政治でも能力のある女性の存在を必要とした。英語をはじめ西洋語の堪能な捨松は、独仏語を自由に駆使した大山の配偶者として、外国人が集う社交界でも花形となり、夫婦ぐるみの付き合いで信頼を得るに至った。
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日本初の女子留学生として米国に渡った大山捨松(国立国会図書館蔵)
会津若松城に砲弾を撃ち込んだ薩摩の大山との結婚は、兄の反対もあってすんなりとはいかなかった。しかし、いかにも西洋流なデートを重ねることで、日露戦争で将器を評価される巌の人柄にひかれたのである。輝くばかりの知性と社交力を併せもつ一方、“朝敵”に仕立てあげられた会津武士の娘の誇りを失わなかった大山捨松は、まさに統一国家をつくる新政府高官の妻にふさわしい存在であった。
捨松は、日本初の本格的なチャリティー・バザーを鹿鳴館で開き、最初の看護婦学校になる有志共立病院看護婦教育所を設立している。彼女には何でも日本初という形容詞がつきまとう。日清・日露の両戦争では、主人の巌が第2軍司令官や参謀総長、満州軍総司令官となり、捨松も妻として寄付金集めや婦人会活動を組織した。自ら日本赤十字社で戦傷者の看護にもあたり、政府高官夫人たちにもボランティアとして包帯を作らせた。
◆国際世論に日本の主張
特筆すべきは積極的にアメリカの新聞に投稿し、日本の主張を堂々と国際世論に訴えたことだ。なにしろ派遣軍の総司令官夫人がアメリカの学士だったのだから、明朗闊達(かったつ)な女性を愛するアメリカ人の気風に合わないはずがない。
西洋かぶれの巌とアメリカ仕込みの捨松との間には、本物の愛情もさることながら、互いへの尊敬心も潜んでいたに相違ない。
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日本初の女子留学生として米国に渡った大山捨松(国立国会図書館蔵)
アメリカで少女の時から本物と競い合った捨松には、プロのアメリカ人女性の闘争心にくじけずサッカーへの志を貫いた沢さんとも共通する要素がある。それは凛(りん)とした美しさとでもいうべきものだ。大和撫子という言葉が時空を隔てて「なでしこジャパン」という国際語として蘇(よみがえ)ったことをいちばん喜ぶのは、女性として日本とアメリカとの間に最初の橋を懸けた山川改め大山捨松なのかもしれない。(やまうち まさゆき)
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【プロフィル】大山捨松
おおやま・すてまつ 安政7(1860)年、会津藩家老の娘として生まれる。明治4(1871)年、日本初の女子留学生として津田うめら4人と渡米。名門女子大ヴァッサー大を優秀な成績で卒業し15年帰国。翌年陸軍卿の大山巌と結婚し、鹿鳴館時代の社交界で活躍。社会活動や女子教育の分野でも力を尽くした。大正8(1919)年に死去。
気分転換に深川江戸資料館に行ってきました。
暫くぶりの再訪。江戸後期の深川の商店や船宿、長屋を再現した空間に、ちょっとしたタイムトリップ気分になれます。
落語にすっかりのめりこんでいるので、もやってある猪牙船を見て「おぉ、『船徳』の若旦那は、この舟の扱いにきりきり舞いしたんだよな」とか。
私が一番好きなのは、ちょっと訳ありっぽい三味線手習い師匠のお志津さんの部屋です。

暫くぶりの再訪。江戸後期の深川の商店や船宿、長屋を再現した空間に、ちょっとしたタイムトリップ気分になれます。
落語にすっかりのめりこんでいるので、もやってある猪牙船を見て「おぉ、『船徳』の若旦那は、この舟の扱いにきりきり舞いしたんだよな」とか。
私が一番好きなのは、ちょっと訳ありっぽい三味線手習い師匠のお志津さんの部屋です。
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