新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
会社の創立記念日イベントで日曜出勤してきました。昨日とはうってかわって好天だったのがありがたいです。立ち仕事だったので腰に疲れが……(^_^;)。
北海道
中3熱演、新撰組
広島
幕末以来の窯跡、保存助けて
長崎
「龍馬館」が閉館
長崎歴史文化博物館:常設展新装、きょうオープン--内覧会 /長崎
コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】
(155)東大教授・山内昌之 連載を振り返って
ブックレビュー
今週の本棚:川本三郎・評 『佐幕派の文学史-福沢諭吉から夏目漱石まで』=平岡敏夫・著
エンターテインメント
松坂桃李、新撰組の沖田総司に扮して時代劇シーンに初挑戦
【アニメ最終回を惜しみつつ『銀魂』の魅力を振り返る】『銀魂』のサド王子・総悟の初期設定
新選組隊士達が抱く夢とは!?「薄桜鬼 黎明録 DS」プロモーションムービー公開
スマートフォン向け「薄桜鬼」スタンプリー,事前登録の受付を本日スタート
川村陽介の主演舞台が開幕 見どころは「人間性で仲間を率いるところ」
北海道
中3熱演、新撰組
帯広第五中学校(辻敦郎校長)演劇団の創作音楽劇「走れ!」が28日午後6時半、帯広市民文化ホール小ホールで開かれた。
卒業した3年生が幕末の志士・新撰組の物語を熱演。舞台を駆け回り若いエネルギーを発散させた。
かつて劇団を主宰した辻校長が演出と監督を務めた。昨年10月に五中の演劇同好会が文化祭で演じた作品に手を加え、南町中の演劇部からも3人が新たに出演した。現代の中学生が時空を超えて、幕末にタイムスリップ、新政府軍と戦った新撰組の友情と葛藤を描くストーリー。光と音を駆使した演出などで観客を沸かせた。
鑑賞した同校卒業生の笹野君は「友人の普段とは違う一面を知って格好良かった」と話し、江別市から訪れた星野郁子さん(60)は「中学生とは思えず、素晴らしかった」と感動していた。収益は同校生徒会を通じて、東日本大震災の義援金に充てられる。
広島
幕末以来の窯跡、保存助けて
福山市鞆町の住民グループ「太田家住宅を守る会」による鞆皿山窯跡の整備活動が難航している。60~80歳代の7人が週2回程度、草刈りなどをしているが、約500平方メートルに茂る雑草や竹といたちごっこ。窯の天井が崩れるなど傷みも目立ってきた。会は一緒に作業するボランティアを募っている。
窯跡は登り窯で、全長約51メートルに12カ所の焼成室が連なる。特産の保命酒などの陶器を焼くため、1865(慶応元)~1938(昭和13)年に使用されていた。
同会は雑草を刈り終えてから、窯跡のひびにセメントを流し込み補修する方針。2月には県道鞆松永線と窯跡を結ぶ作業道を整備した。瀬戸内海を一望できる場所のため、住民が集えるようさらに環境を整えたいという。
同会メンバーで鞆町の岡本純夫さん(60)は「鞆は瀬戸内海の拠点として栄えた。先人の文化を守りたい」とボランティア協力を求めている。希望者は岡本さん=電話084(982)3553。
【写真説明】雑草や竹が伸び、窯跡が傷んだ状態を説明する岡本さん
長崎
「龍馬館」が閉館
坂本龍馬や幕末の志士に関する史料などを集めた長崎市浜町、長崎まちなか龍馬館が31日閉館し、展示品の寄託者に感謝状が贈られた。
同館はNHK大河ドラマ「龍馬伝」の放送に合わせ、市や長崎商工会議所などでつくる実行委員会が空き店舗を活用し、2010年1月にオープンさせた。
11年2月で運営を終える予定だったが、同市の長崎歴史文化博物館が幕末展示コーナーを拡充するまで延長することになり、昨年4月には市が運営を引き継いでいた。龍馬ゆかりの人物の品々や、龍馬の長崎での活躍を紹介する映像などが人気を集め、2年3か月で約27万8000人が訪れた。
同館では、勝海舟の手紙など26点を貸し出した同市小曽根町、小曽根吉郎さん(64)夫妻ら4組・団体が田上富久市長から感謝状を渡され、館内を見学した。小曽根さんは「歴史を知るには本物を見るのが一番いい。多くの人に見ていただき、うれしい」と話していた。
(2012年4月1日 読売新聞)
長崎歴史文化博物館:常設展新装、きょうオープン--内覧会 /長崎
◇新設「体感」ミニシアター、「参加体験」コーナー
昨年11月から常設展示室を改装していた長崎歴史文化博物館(長崎市立山)が1日、リニューアルオープンする。新しい常設展は、訪れる人たちの関心が高い幕末・維新期の展示スペースを約2倍にして、古写真などの実物資料も増やした。新たな長崎の魅力の発信に向け、大堀哲館長は31日の内覧会で「これからも進化し続ける博物館を目指します。全国からも多くのご来場を」と呼びかけた。
展示ゾーンは「西洋との出会い」や「朝鮮との交流」など、八つのゾーンに計約300点を展示する。また「体感」をテーマに、縦2・5メートル、横9メートルの大型スクリーンが設置され、坂本龍馬や天正遣欧使節など、五つのストーリーを迫力満点に放映するミニシアター「長崎交流史列伝」も新たに設けた。
そのほか、江戸期の貿易品などに触れることができる参加体験型の展示や、大きくて読みやすい解説パネルの導入など、子どもから大人まで楽しめるよう工夫を凝らした。さらに最新のタブレット型検索端末を導入して、詳しいデータを必要に応じて引き出すことができるようにもなった。
今回の改装費用は約2億円で、県と市が負担した。31日の内覧会には約140人が招待され、一足早く展示を楽しんだ。
同館は05年11月、海外交流史をテーマにオープンし、これまでに延べ375万人以上が来館した。開館時間は8時半~19時で、休館日は毎月第3火曜日(祝日の場合は翌日)。
問い合わせは同館095・818・8366。【梅田啓祐】
コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】
(155)東大教授・山内昌之 連載を振り返って
「偉人」は何故生まれるのか
幕末維新のときに多数の人材が輩出して、良きリーダーが日本を指導したのに、現在の日本は何故に指導者に恵まれないのかという声を最近よく聞く。
総じて、いまの日本では「偉人」という言葉も使われなくなって久しい。小学校でも子供に夢をもたせる偉人伝を読まないというし、リーダーの必要性も否定して皆が“平等”であるべきだという幻想を教育の場に持ちこむ国で、リーダーの資質を磨く訓練がなされるはずもない。
逆境をプラスに転化
危機のときにしかるべき人材が出た幕末維新において、封建的差別の苦しみを経験していた下級武士たちの間から西郷隆盛や大久保利通や勝海舟のような偉材が出た。それは、差別や貧しさが人の逆境をプラスに転化させるエネルギーを生んだからである。
それに引き換え、現在の日本人は、先人の苦しみや犠牲の上に築き上げられた繁栄や平和を当然視し、その維持や強化のために自己犠牲や負担を背負うという気概が見当たらない。高齢者は恵まれた年金や保険を当たり前のように考え、若い世代の負担を思いやることもないのだ。消費税率引き上げや医療費窓口負担の増加などを拒否し、恵まれた自分の老後の既得権を少しでも手放すまいとする姿は、おぞましいほどである。若者たちの気概をどうこう語る前に、私を含めた高齢者たちは、もっと自主自存に徹して、次に来る世代の負担を少しでも軽くするように努力すべきではないだろうか。
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幕末が生んだ大人物の代表、西郷隆盛=東大法学部明治新聞雑誌文庫所蔵(東大史料編纂所古写真データベースから)
それはともかく、幕末維新に限らず、「偉人」が出現する条件とはいかなるものなのだろうか。
草創期の京都帝国大学の日本史教授だった三浦周行(ひろゆき)は、その条件として次の5点をあげていた。(1)時局の行き詰まったとき(2)旧勢力の「力」ではもはやどうすることもできなくなったとき(3)最もよく新たな時代の型にはまった人(4)すこしも前例や時勢にとらわれないで思い切った仕事をできる人(5)その人の出現する前に先人がすでにある程度の準備行動をとっていたこと(「史的人物の批判」『新編 歴史と人物』岩波文庫)。
幕末が(1)の時期に相当することは間違いない。また、(2)については、幕府の老中主導官僚体制や幕藩体制がもはや機能しなくなっていた意味と思えばあてはまる。(3)は、大久保利通や伊藤博文など明治維新後に実務的に活動する政治家が志士として出現したことを考えればよい。西郷隆盛や坂本龍馬や小栗上野介(こうずけのすけ)などは(4)の類型そのものであろう。さらに、(5)は吉田松陰や久坂玄瑞(げんずい)や近藤勇など非業の死を遂げた「偉人」の悲劇もさることながら、かれらの出現前夜に、藩内闘争や大獄や内戦の悲劇があったことも忘れてはならない。
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幕末が生んだ大人物の代表、西郷隆盛=東大法学部明治新聞雑誌文庫所蔵(東大史料編纂所古写真データベースから)
若い世代に歴史の学習を
これと比べるなら、現代はどうであろうか。(1)と(2)の機運はすでに客観的に熟しているといえよう。しかし、(3)や(4)はどうであろうか。いまの日本は、まだ(5)の段階なのかもしれない。いずれにせよ、本格的な「偉人」の出現までにはまだ時間がかかりそうなのだ。
国民にできることは、せめて「偉人」をけなしたり批判せずに、子供たちに社会をリードする仕事の素晴らしさ、国民に責任をもつ政治リーダーの義務感の尊さなどを教えることであろう。そのためには、心技体という立派な日本語が示しているように、知と徳と力のバランスのとれた若者を歴史の学習を通して育てていくことである。
3年間にわたって連載した「幕末から学ぶ現在」が目指したのは、ひたすら若い世代に世界史や日本史を通して現代を見る視点を涵養(かんよう)してほしいという一点に尽きる。蕪雑(ぶざつ)な連載にお付き合いいただいた読者諸賢、歴代編集担当者に心から御礼申し上げたい。(やまうち まさゆき)
◇
次回から「世界史の遺風(いふう)」
「幕末から学ぶ現在」は今回で終了します。来週からは古代ローマ史の第一人者として知られる本村凌二(りょうじ)・東大教授の歴史随筆「世界史の遺風(いふう)」が始まります。
ブックレビュー
今週の本棚:川本三郎・評 『佐幕派の文学史-福沢諭吉から夏目漱石まで』=平岡敏夫・著
◇「敗者」が切り開いた明治文学を読み直す
明治文学は、佐幕派の文学だった。
その太い論理で明治文学を読み直してゆく。面白い。熱がこもっている。佐幕派びいきの人間としては、研究書でありながら、一貫して佐幕派寄りのこの文学史に興奮を禁じ得なかった。これほどいい意味で偏(かた)よった文学史も珍しい。
佐幕派とは、いうまでもなく、日本の近代の命運をわけた戊辰(ぼしん)戦争の敗者、つまり、薩摩、長州藩を中心とした官軍に敗れた、幕府側のこと。近代を敗れた側として迎えた。
明治文学を担ってきた多くの文学者は、よくよく見れば、大半が、この敗れた佐幕派に出自を持つ。著者はそのことに着目し、敗れた人間たちこそが明治文学を切り開いてきたのだと力説してゆく。文学とは、敗者のよりどころであることが分かってくる。
著者に教えられるままに明治文学を振返れば、明治の文学者、文人には、実に佐幕派が多い。敗れた幕府側の人間たちである。
たとえば福沢諭吉は、「痩我慢(やせがまん)の説」で、旧幕臣(佐幕派)でありながら明治維新後、薩長の主導する新政府に仕官し(それも出世し)た勝海舟と榎本武揚を激しく指弾した。徳川幕府に仕えた人間が新時代になったからといって、おめおめと旧敵に仕えていいのか。在野であるべきではないのか。
いうまでもなく、そう峻烈(しゅんれつ)に勝と榎本を痛罵する福沢は、佐幕派の豊前中津藩(大分県)の下級武士の出身。新政府に出仕することなく、在野の思想家として官尊民卑の風潮と戦った。
さらに夏目漱石がいる。『坊っちゃん』は、一般に明治の明るい青春小説と語られるが、よく読めば実は佐幕派小説である、と著者はいう。
主人公は、東京から松山(小説中はそれと明示されていないが)の中学に赴任してきた、「これでも元は旗本だ」という佐幕派。彼と共に学校の管理体制と戦う数学の先生「山嵐」は、戊辰戦争で最後まで戦い、そして敗れた会津藩の出。「うらなり」も佐幕派、松山の士族の出。
つまり漱石の『坊っちゃん』は、まぎれもなく「佐幕派小説」である。坊っちゃんを可愛がる、かの清(きよ)も、出身は佐幕派と教えられると、なるほどと納得せざるを得ない。
さらに明治文学の主要作家である北村透谷、山路愛山、尾崎紅葉、幸田露伴、樋口一葉、国木田独歩の出自をよく見ると、すべて佐幕派(旧幕派)であるという。
この事実には改めて驚く。まさに明治文学は佐幕派の文学だった。文学というものが、本来、敗れてゆく者の拠であるから当然といえば当然のことだが、ここまで近代日本文学史を敗者の側に寄り添って語った研究書は珍しいのではないか。
明治初期の政治小説として文学史上有名な『佳人之奇遇』の著者東海散士は会津藩士の子。当然小説のなかでは戊辰戦争に敗れた会津藩の苦難が語られる。明治文学は当初から佐幕派の文学だった。
また、本論とは少しずれるが、樋口一葉が、翻訳で出版されていたドストエフスキーの『罪と罰』の影響を受け、『にごりえ』を書いたのではないか、という推論も面白い。
純文学の話だけでなく、司馬遼太郎の『燃えよ剣』や、藤沢周平原作で、映画にもなった『たそがれ清兵衛』まで「佐幕派」の視点から熱っぽく論じられている。
考えてみれば、日本文学の大きな柱である時代小説もまた「佐幕派」の文学である。彰義隊で戦った祖父を持つ子母沢寛が、『新選組始末記』を書いたことで佐幕派を復権させたことにそれがあらわれている。
エンターテインメント
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お彼岸の日、祝日で寝坊できたことがひたすらありがたい(^_^;)。
神奈川
幕末の海防読み解く200点、江戸湾警備の肥後藩紹介/横須賀
幕末・明治、色鮮やか 横浜開港資料館
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大垣祭 幕末の形式今と同じ
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神奈川
幕末の海防読み解く200点、江戸湾警備の肥後藩紹介/横須賀
幕末20+ 件期に江戸湾(東京湾)の警備を命じられ、横須賀の大津陣屋に常駐し任務にあたった肥後藩の足跡を紹介する企画展「黒船来航 火の国熊本から大津陣屋へ」が16日、京急大津駅前の大津コミュニティセンターで始まった。横須賀市大津観光協会の主催で、市民団体「大津探訪くらぶ」が企画。初日は朝から100人近い来場者が訪れ、貴重な資料を見て回った。19日まで。
幕末20+ 件期、日本近海には通商を求める異国船がたびたび出現するようになり、海防強化が重要視されていた。1842(天保13)年に江戸湾口の警備を命じられた川越藩が、現在の県立横須賀大津高校周辺にあった大津陣屋を建設。53年のペリー来航後は肥後藩に警備任務が引き継がれた。
会場では、肥後藩士の子孫から提供を受けた200点近くの関連資料を展示。肥後藩士による熊本から大津陣屋に到着するまでの道中記などを解読文とともに紹介。2度にわたり遭遇した安政の大地震の被害状況などを克明に記録しており、苦難を乗り越えた藩士の姿を読み取ることができる。
このほか、観音崎の砲台などに配備された大砲の大きさなどが詳細に記された肥後藩作成の絵図3点の写真を、解読図とともに関東で初公開している。同団体の杉本幸三代表(67)は「幕末20+ 件の海防史は解明されていないことが多いので、企画展でぜひ関心を高めてほしい」と来場を呼び掛けている。
入場自由。午前10時~午後4時。問い合わせは、同観光協会電話046(836)3531。
幕末・明治、色鮮やか 横浜開港資料館
日本画に使う顔料でモノクロ写真に色づけする彩色写真。カラーのない時代に横浜で生まれたとされる独特の技法で、海外にも輸出された。全国有数のコレクションを誇る横浜開港資料館で、初公開を含む写真が多数展示されている。
彩色写真は、一大生産拠点だった横浜から国内外に広がり、横浜写真とも呼ばれた。日本写真の開祖の一人で、日本画家の下岡蓮杖が創始者という説や、幕末に居留地で写真館を経営したフェリックス・ベアトが広めたという説もある。
絵付け師が1枚1枚色づけし、カラー写真と見間違う仕上がりになっている。大手写真館には大勢の絵付け師が働き、20人近い絵付け師を抱える外国写真館もあったという。
西洋の写真技術と日本画の伝統技術が融合した工芸品で、外国人旅行者や帰国者が持ち帰り、日本の風俗や風景の紹介にひと役かった。明治中期が最盛期だったという。
企画展「フォトスタジオの聖地・横浜」では、前田橋(中区)から見る堀川沿いの街並みや山手から望む外国人居留地や横浜港、実際に筆で彩色している絵付け師など貴重な写真が展示されている。4月15日まで。
(佐藤善一)
岐阜
大垣祭 幕末の形式今と同じ
行列描いた画帳見つかる
山車13両、綱で引く姿確認
幕末の大垣祭の様子を描いた画帳
360年以上の歴史を誇る大垣祭について調査を進める大垣市教委は、幕末の同祭の様子を描いた画帳が見つかったと、発表した。昔の大垣祭の様子はこれまで、昭和初期の写真でしか確認されていなかったが、幕末には既に山車を綱で引くなど現在と同じ祭の形式であったことが判明した。
見つかったのは、1891年に元大垣藩士の月岡一侃斎(いっかんさい)が描いた画帳。縦28センチ、横20センチとA4判を少しこぶりにした大きさで、93ページ。大垣祭の行列は、27点にわたって色つきで描写されている。
画帳は、大垣市出身で京都在住の女性が所有していることが分かり、市教委が女性から借り受け、調査を進めていた。市教委によると、街を引き回される山車「■(やま)」が13両あることや、警護役がいることなど、これまで文献でしか分からなかったことが、確認されたという。
大垣祭記録保存委員会副委員長の清水進・市史編纂室長は「■を綱で引くこともこの画帳で分かった」と話している。2010年度から4か年計画で大垣祭の調査を進める同市教委は14年度に調査報告書をまとめる予定だ。
大垣祭は1648年(慶安元年)、大垣藩の初代藩主、戸田氏鉄(うじかね)公が城下町の総氏神だった八幡宮を再建したことを受け、本町、中町、新町など各町が喜びを表すために、■を造って引き回したのが始まりとされる。今年は5月12、13日、13両の■が大垣の城下町を巡る。
(■は「車」へんに「山」)
(2012年3月15日 読売新聞)
山口
幕末期の岩国藩の史料70点…岩国徴古館で企画展
企画展「幕末の動乱と岩国」が18日、岩国市横山の岩国徴古館で始まった。5月13日まで。入場無料。
12代岩国藩主・吉川経幹(つねまさ)が幕府の長州征討に対峙(たいじ)する姿を記録した「経幹公御周旋記」、征討軍との戦いの様子を描いた地図など、幕末期の岩国藩に関する史料約70点を展示している=写真=。史料に見入っていた岩国市川下町の藤井愛子さん(68)は「先人たちの苦労が改めて伝わってきた」と感慨深そうだった。
月曜休館(月曜が祝日の場合は翌日)。問い合わせは岩国徴古館(0827・41・0452)へ。
ブックレビュー
今度の歴史魂は新選組を総力特集! 蒼狼たちの生き様を知れ!
エンターテインメント
松坂桃李、新撰組の沖田総司に扮して時代劇シーンに初挑戦
『薄桜鬼~京都探訪~二〇一二・春』販売中!津田健次郎さんとのファンイベントも!
あれから1年……さまざまな思いがあり、いまだ言葉になりません。14時46分に黙祷しました。
神奈川
連続歴史講座
ふるさと幕末人物伝
富山
北前船史料1万点寄贈 加賀の大家家
京都
新撰組隊士が京都をガイド! “薄桜鬼~京都探訪録~二〇一二・春”の販売がスタート
薄桜鬼~京都探訪~二〇一二・春 本日販売開始!
ゲーム「薄桜鬼」公式ツアー発売-新選組ゆかりの地を声優イヤホンガイドで巡る
山口
福島の作家星さん萩で15日に講演
コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】
(152)東大教授・山内昌之 鮫島尚信
エンターテインメント
新選組隊士達が抱く夢とは!?「薄桜鬼 黎明録 DS」プロモーションムービー公開
優しいヤツほど気をつけろ!『るろうに剣心』新ポスタービジュアルが解禁
“封印された狂気”をテーマにする映画『るろうに剣心』最新画像を初公開
神奈川
連続歴史講座
ふるさと幕末人物伝
幕末を生きた三浦半島の人物に迫る歴史講座「ふるさと幕末人物伝」が今月末に開講する。主催は三浦半島の文化を考える会。市内郷土史家らが講師を務める。
日程は、3月31日(土)「浅葉仁三郎―日記から見た人物像」、4月7日(土)「海防期に躍進する小坪の浜名主」、4月14日(土)「浦賀周辺の文人―加藤山寿を中心に」。いずれも時間は午後1時半〜3時半で、会場はヴェルクよこすか。参加費1500円(3回分・資料代)。希望者ははがきに住所・氏名・【電話】を明記し、〒238―0035池上2の1の5三浦半島の文化を考える会事務局(久保木実さん方)。3月24日(土)必着。(問)【電話】046・852・0714
富山
北前船史料1万点寄贈 加賀の大家家
幕末から明治にかけて北前船の一大拠点だった加賀市大聖寺瀬越町の二大船主の一つ、 大家(おおいえ)家から1万点を超える史料が金沢市立玉川図書館近世史料館に寄贈され 、同館は新年度から整理、調査に乗り出す。北前船で栄えた同町はかつて、日本有数の「 富豪村」とも称され、史料から大家家の北前船主としての規模や各港での取引状況を読み 解く。
史料は昨年7月、同町の大家家現当主、大家紹嘉(つぐよし)さんから寄贈された。各 港でどんな品物が、どんな価格で売買されたかを記録した「仕切(しきり)帳」が中心で 、北前船での航海や遭難、造船の状況が分かる史料もある。船を任せた船頭や水主(乗組 員)、各港から、船主に取引の指示を仰ぐ手紙も残っていた。
同館によると、大家家は天保年間、船頭だった二代目の七三郎が船主として独立、幕末 から昭和にかけての四代目、七平の時代に最も栄えた。明治期は蒸気船の登場や鉄道網の 発達などで、北前船主を取り巻く状況は大きく変化しており、史料を整理すれば、石川の 海運業の状況が明らかになる可能性がある。
古文書の知識がある市民の協力を得て、新年度から整理を始めるが、史料が膨大なため 1年以上かかるとみられる。整理した史料は目録を作成し、一般公開する。同館の袖吉正 樹さんは「北前船は全国に研究者がおり、調査に役立ててほしいというのが現当主の意向 でもある。これだけ多くの史料があれば、新たなことが分かるだろう」と話した。
京都
新撰組隊士が京都をガイド! “薄桜鬼~京都探訪録~二〇一二・春”の販売がスタート
薄桜鬼~京都探訪~二〇一二・春 本日販売開始!
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山口
福島の作家星さん萩で15日に講演
東日本大震災の被災地を巡った福島県在住の作家星亮一さん(76)が15日午後6時半から、萩市の萩市民館小ホールで講演する。演題は「東北は負けない~会津藩に学ぶ復興の半世紀~」。被災地の苦しい状況を、戊辰戦争後に朝敵とされた旧会津藩の苦難の歴史と照らし合わせて復興への思いを語る。
萩市や福島県内の歴史研究家らでつくる「萩と会津の友好を考える会」などが企画した。
星さんは震災後4か月間、福島、宮城、岩手県内の被災地を巡回。高さ10メートルの防潮堤を超えた津波が町を根こそぎ流してしまった光景や、原発事故で多くの人が故郷を離れて地域の共同体が崩壊している様子を目の当たりにした。
星さんは「東北の人たちは意気消沈していない。以前の豊かな東北を取り戻そうと、不屈の精神で復興を目指している」と見ている。講演では「東北人の魂」を伝え、萩市民が会津若松市などを支援してくれたことに感謝する。
原発の廃炉などを終えて被災地が復興を果たすためには、旧会津藩が朝敵とされて苦しんだ約半世紀くらいの歳月がかかるという観点で、同藩の歴史に触れる。
星さんは福島県の新聞社、民放テレビ局勤務を経て作家になった。戊辰戦争研究会代表も務めている。当日先着順で定員80人。無料。問い合わせは萩市企画課(0838・25・3102)へ。
(2012年3月7日 読売新聞)
コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】
(152)東大教授・山内昌之 鮫島尚信
「外交官第一号」の胆力
尖閣諸島や北方領土の問題といい、「従軍慰安婦」の問題といい、最近の日本外交はいいところがない。外交懸案が生じても、きちんと押し返せないのである。
沖縄の米軍普天間飛行場の移転問題にしても、政治主導にこだわるあまり当事者間で慎重につめてきたガラス細工のように繊細な合意を一夜にして壊してしまった。最大の責任者が鳩山由紀夫氏であることは論をまたない。日本の外交安全保障の要を毀損(きそん)した人物が民主党の外交担当最高顧問に就くと聞いて絶句した人も多いのではないか。
知識が少しばかりあっても、物に動じない胆力や健全な愛国心をもたない人間は政治家であれ外交官であれ、国の危機にも鈍感である。反対に、言葉や経験が未熟でも、国のために何をなすべきかと自問した幕末明治人は、まず理屈でなく体が本能的に動いた。慶応元(1865)年に、薩摩藩留学生として森有礼(ありのり)や五代友厚らと一緒に英国に留学した鮫島尚信もその一人である。
ロンドン大学で1年間学んだ後、森ら5名と一緒に渡米したが、3名が帰国しても鮫島は森らとともに残り、ブドウ園で働きながら学んだ。いくつになっても親がかりの苦労知らずとは違うのだ。
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帰国した鮫島は、条約改正のための「弁務使」として欧州に派遣されることになり、ややあって明治4(1871)年に政府は「第四等のジプロマチクエゼント(diplomatic agent)」として彼を処遇するように英仏プロイセンの3国に求めた。これを犬塚孝明氏は「外交官第一号の誕生」と呼ぶ。鮫島は、英国では留学生上がりの青二才扱いをされたが、フランスではまずまずの接遇を受けた(『明治外交官物語』吉川弘文館)。
パリでの努力大きく実る
パリでは、事情通の英国人秘書フレデリック・マーシャルを雇い、情報収集と人間関係の拡大に努めた。鮫島は、ワシントンに派遣された森有礼とともに、外交実務の研究、条約改正の交渉実務、留学生の調査監督、お雇い外国人との契約交渉、在留日本人や渡航者たちの世話にあたったのだ。かれらは「日本にとって不慣れな外交を国際社会が認める水準にまで引き上げた二人の努力を忘れるわけにはいかない」と犬塚氏もいとおしげに述べている。
鮫島にとってフランスはイギリスよりも穏やかで親切であった。とくに文化交流には熱心で、岩倉使節団が訪れたときも、希望する施設をすべて開放し見学の便宜を与えてくれたようだ。しかし、フランスに限らず欧州各地で使節団らがまごつかなかったのは、鮫島が欧州の外交慣行や儀礼にのっとって、あらかじめ便宜供与や調査協力を依頼していたからだ。鮫島の外交努力や、彼が築いた外交界の人びととの信頼関係、それに積極的な文化交流活動がなければ、岩倉使節団も成果を挙げられなかったかもしれない。
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また、日本の近代諸法典を指導したフランス人ボアソナードを日本人留学生たちに引き合わせたのも鮫島である。日本公使の熱意にほだされたボアソナードは日本行きを決心し、20年の長きにわたり日本に滞在することになった。犬塚氏は、法学教育を通して日本にフランス文化を根付かせたいという鮫島の熱い思いが、ボアソナードの心を動かしたと考える。鮫島の情熱とボアソナードの善意の共鳴を語る犬塚氏の見方はまことに好ましく、共感をそそられる。そして、鮫島が教育と文化を通して、国際交流を進めていくことこそ、外交官が果たすべき重要職務と考えたという指摘も興味深い。
鮫島がレジオン・ドヌール勲章オフィシエに叙されたのは当然であろう。いまのように日本人叙勲者が珍しくない時代のことではない。
外国交法案内を執筆刊行
しかし、鮫島の真面目(しんめんもく)は、後進の若い外交官のためにマーシャルの協力を得た英書『外国交法案内』(Diplomatic Guide)の執筆刊行であった。私はまだ読んでいないが、日本人による最初の外交官心得や外交慣例入門ともいうべき実務の書物である。パイオニアはいつの時代も、どの分野でも偉大である。日本語でなく英語で出したあたりに幕末明治人の心意気と自負心がうかがわれ、現代日本人の向上心をも刺激する。
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外務大輔(だゆう)(いまの外務次官)となって帰国した鮫島は、再び特命全権公使として渡仏した。条約改正に執念を燃やす外務卿寺島宗則の懇請によるものだ。余人をもって代え難いとはこのような場合に言うのだろう。鮫島は、外国郵便物をすべて日本が扱うことを認めさせるなど着実に不平等の基盤を切り崩していった。それでも、改正交渉は欧州各国の結束で挫折を余儀なくされた。激務と心労の結果、鮫島は明治13年師走に倒れた。意識朦朧(もうろう)となっても国家の行末を思って怒気を発したというから凄(すご)い。肺病だったのだろう。
35歳の若さで死んだ鮫島は、モンパルナスの墓地に葬られた。大統領名代をはじめ各国大公使も列席した。改正交渉に挫折した鮫島の死は、同情をもって迎えられたはずだ。ここでも犬塚氏の筆は、「ヨーロッパ外交界が純粋な気持で勢いっぱい示してくれた敬意でもあった」とあたたかい。政治家と官僚外交官の敷居をやすやすと乗り越えた維新明治の先人には学ぶべき点が多い。(やまうち まさゆき)
◇
【プロフィル】鮫島尚信
さめしま・なおのぶ 弘化2(1845)年、薩摩(鹿児島)藩医の家に生まれる。慶応元(1865)年、薩摩藩留学生として英国ロンドン大に学ぶ。同3年、渡米し苦学。明治元(1868)年に帰国し、新政府の外務大輔などを歴任。11年に駐仏特命全権公使に任じられるが、13(1880)年にパリで病没した。
エンターテインメント
新選組隊士達が抱く夢とは!?「薄桜鬼 黎明録 DS」プロモーションムービー公開
優しいヤツほど気をつけろ!『るろうに剣心』新ポスタービジュアルが解禁
“封印された狂気”をテーマにする映画『るろうに剣心』最新画像を初公開
今日は長めの読み物記事が多めです。
千葉県
首都圏きってのミニ路線…流鉄流山線途中下車(後編)
静岡
幕末のパン再現、商品化へ 江川坦庵の製造書基に(2/21 14:46)
京都
愛用品から直弼の実像知る展示 東山の井伊美術館
ブックレビュー
『西郷の貌(かお) 新発見の古写真が暴いた明治政府の偽造史』
社会
第1回「新選組検定」申込締め切り迫る
激動の幕末期、「誠」の旗のもとに集い「義」のために戦った新選組について学ぶ、第1回「新選組検定」を2012年3月18日(日)に東京と京都で開催いたします。企画・運営は日本出版販売株式会社(本社:東京都千代田区 代表取締役:古屋 文明、略称:日販)とヒューマンリソシア株式会社(本社:東京都新宿区、代表取締役:桑原 加鶴子)が行います。
第1回目は初級者向けの3級、中級者向けの2級を実施し、3級合格者は「組長」、2級合格者は「副長」としてそれぞれ認定、合格認定証を付与します。また、合格者限定の有料特典として合格認定カードと合格認定名刺を販売します。合格認定カードは裏面に土方歳三の写真、もしくは人気沸騰中の新選組をモチーフにした恋愛アドベンチャーゲーム「薄桜鬼」カズキヨネのキャラクターイラスト5種(土方・沖田・斎藤・藤堂・原田)から好きな絵柄(コメント入り)を選べる特別仕様になっており、生粋の歴史ファンからゲームやマンガをきっかけに新選組ファンになった若い女性まで満足いただける内容になっております。詳細については、合否結果通知に同封いたします。
新選組検定は書店店頭に設置される願書(郵便払込票)( http://www.kentei-uketsuke.com/shinsen-gumi/popup/entry_store.html )もしくは日販が運営するWebサイト「検定、受け付けてます」( http://www.kentei-uketsuke.com/shinsen-gumi/ )にて2月16日まで申し込みを受け付けております。受験者特典として受験者全員に松平容保ピーを贈呈します。
日販は一昨年実施した「坂本龍馬 幕末歴史検定」を皮切りに、幕末歴史検定シリーズの第二弾として「新選組検定」を実施し、今後も幕末歴史ファンのコミュニケーション活性化に役立つ検定として発展させてゆきます。
◆「新選組検定」合格対策講座開催決定
2月24日(金)に早稲田予備校13時ホール6階にて100名限定で「新選組検定」合格対策講座を実施します。当検定の問題監修者である菊地 明先生、土方歳三の子孫にあたる土方 愛さんをお迎えし、問題解説から新選組にまつわるエピソードまで盛りだくさんの内容となっております。お申込み、詳細は検定オフィシャルサイト( http://www.kentei-uketsuke.com/shinsen-gumi/ )をご確認ください。
◆ 第1回新選組検定 概要
検定名 :第1回新選組検定
主催 :新選組検定運営事務局
後援 :日野市/日野市観光協会/日野市商工会/会津若松市/函館市/
流山市/調布市/調布市観光協会
特別協力:歴史街道(株式会社PHP研究所)
協力 :新選組友の会/全国新選組サミット
運営 :日本出版販売株式会社/ヒューマンリソシア株式会社
実施日 :2012年3月18日(日)
実施都市:東京・京都
申込締切:2012年2月16日(木)
受験料 :3級(組長) 4,700円/2級(副長) 5,400円(すべて税込)
※2・3級は併願受験可能 併願割引9,800円(税込)
受験資格:新選組を愛する方ならどなたでも。何級からでも受験可能です。
問題形式:3級・2級/マークシート4者択一方式
合格基準:2級/全100問中、70問以上正答者は合格
3級/全100問中、70問以上正答者は合格
公式ホームページ: http://www.kentei-uketsuke.com/shinsen-gumi/
◆ 合格者有料特典カード 裏面案(薄桜鬼 土方版)
http://www.atpress.ne.jp/releases/25458/A_1.jpg
◆ 合格者有料特典 認定名刺案
http://www.atpress.ne.jp/releases/25458/B_2.jpg
◆ 松平容保ピー
http://www.atpress.ne.jp/releases/25458/D_4.jpg
■運営事務局 日本出版販売株式会社
日販は、当検定の運営業務全般をサポートいたします。新選組検定の運営事務局として、書店店頭を使った受験者の募集から、検定ポータルサイト「検定、受け付けてます」での受験者獲得、受験者からの問い合わせ対応や受験票の発送、受験会場の運営、また合否結果の通知まで、検定運営にまつわるすべての業務を総合的にサポートいたします。
※日販の検定ポータルサイト 「検定、受け付けてます」
http://www.kentei-uketsuke.com/
※日販の検定事業トータルパッケージに関してはこちら
http://www.kentei-uketsuke.com/business/index.html
コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】
幕府最初の防衛大臣
野田首相はどうして、こうも能力の低い防衛大臣を立て続けに任命したのであろうか。
民主党幹事長の属する参議院対策などの党内事情もあるのだろうが、防衛大臣はどの国においても外務大臣とコンビで同盟国や関係各国と交渉することも多い“国の顔”である。この人事だけはいただけない。
一川保夫前大臣も田中直紀現大臣も、陳情受け付けなどでは、たぶん人情味あふれる地方政治家の一面をもつのであろう。しかし、安全保障環境が激変している北東アジアの危機対応や、アメリカの新防衛戦略への弾力的対応をこなせる国際通の人材とは到底思えない。
毛並みのよい人材
外交安全保障と防衛力の基盤整備はいつの時代も国の命運を左右する領域である。幕末でも改革は、防衛力の整備強化から始まった。
徳川幕府は、文久の改革によって西洋式兵制(歩兵・騎兵・砲兵の三兵制度)の導入や、兵賦令(旗本から石高に応じた農兵の供出や金の徴収)を発した。注目すべきは、文久2年12月(1863年2月)に、阿波藩主蜂須賀斉裕を陸軍総裁に任命したことである。斉裕は海軍総裁も兼任した。いわば幕府初の防衛大臣に就任したのである。
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外様大名ながら幕府の陸海軍総裁となった蜂須賀斉裕の肖像(徳島城博物館蔵)
この人事は多くの点で異例ずくめであった。第一に、蜂須賀家は禄高こそ25万7千石の国主であったが、幕政に関与しなかった外様大名だったことである。第二に、幕府が満足な陸海軍予算を計上できないのに、果たして斉裕に陸海軍総裁を務める力があったのかという疑問である。
蜂須賀斉裕に白羽の矢がたったのは、家柄よりも血筋からである。彼は11代将軍家斉(いえなり)の二十二男であり、幕末動乱期の13代将軍家定の叔父にあたる。徳川幕府危急のときに軍制改革を託するに足る毛並みのよい人材であり、徳川宗家への忠誠心も抜群だったからであろう。
蜂須賀家は歴代従四位上侍従を極官としたが、斉裕は正四位上参議に上り中将を兼ねている。外様大名で代々参議と中将とを兼帯し「宰相中将」と称せられたのは、加賀藩前田家だけであったから、阿波藩の家格は一挙に跳ね上がったことになる。
しかし幕府の真意はどこにあったのだろうか。赤字財政に苦しむ一方の幕府もしたたかなのだ。阿波と淡路の2国を領し実高が40万石以上といわれ、藍や染料などの物産交易でも潤っていたのが、裕福さでは外様大名屈指の阿波藩であった。蜂須賀家の財力をあてこんだのかもしれない。とはいえ、斉裕はいくばくもなく総裁職を辞任した。あまりにかさんだ財政出費に藩が音をあげたという説も無視できない。
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外様大名ながら幕府の陸海軍総裁となった蜂須賀斉裕の肖像(徳島城博物館蔵)
藩の軍制をイギリス式に改めるなど開明的な君主だった斉裕ほどの人物である。淡路島の岩屋や由良の砲台新設など海防においても成果を挙げていた。斉裕が陸軍総裁を辞したのは、公武合体論者として幕政への独自の抱負ももっていたのに、伝統的な老中合議体制のもとで自らの意見がほとんど顧みられないのに嫌気がさしたこともあるのだろう。
独自の意見と信念
彼には譜代大名や旗本官僚とは違う生まれへの矜持(きょうじ)も大きかったことはいうまでもない。その構想力や実行力も平凡でなく、家斉の子としては出色の部類だったのである。
その子もオックスフォード大学で学び、駐仏大使から貴族院議長になったり、ひ孫は世界的な鳥類学者にもなっている。斉裕の血に流れていた政治家としてのセンスや知的な聡明(そうめい)さを受け継いでいたのだろう。
その斉裕にしても、淡路洲本城代の家老稲田氏など家臣内部の尊皇攘夷(じょうい)派を無視できず、藩論を統一できぬままに慶応4(1868)年1月に死去したのである。斉裕のいない阿波藩が明治維新の激流を乗り切るのはむずかしく、積極的に新政府に関わることはできなかった。それでも蜂須賀家が前田家と同じく侯爵になったのは、斉裕の余薫(よくん)ともいうべきだろうか。
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外様大名ながら幕府の陸海軍総裁となった蜂須賀斉裕の肖像(徳島城博物館蔵)
彼は、育ちの良さにもかかわらず、大名としては海防や兵制改革に独自の意見をもち、公武合体論ながら内外の危急に対処する信念をもっていたからだ。斉裕なら、優秀な防衛官僚やブレーンに補佐されると、現代日本の安保政策でも失言を犯さずに対処できたであろう。
しかし、ここ2代の防衛大臣が幕末にタイムスリップしても、斉裕ほどの安定感をもち実績を挙げられるとはかぎらないあたりが平成の日本人にはつらいところだ。(やまうち まさゆき)
◇
【プロフィル】蜂須賀斉裕
はちすか・なりひろ 文政4(1821)年、第11代将軍徳川家斉の二十二男として生まれる。同10年、阿波(徳島県)藩主の蜂須賀家の養子となり、天保14(1843)年家督を継ぐ。藩主として軍制改革に注力。文久2年12月(1863年2月)に幕府の陸軍総裁。海軍総裁も兼ねたが、3年辞任。慶応4(1868)年、死去。
「征韓論」生んだ西郷のストレス太り 病気が変えた幕末維新
(日経新聞サイトのリンク先アドレスがMacだとうまく読めないようなのでリンク省略します)
エンターテインメント
「新選組血風録」俳優の左右田一平氏が死去
自分にとっては、大河ドラマ『新選組!』以前の映像作品の中ではベスト作品だった『新選組血風録』の斎藤一、『燃えよ剣』の裏通り先生。飄々とした風貌だけど芯は侍な斎藤像をありがとうございました。合掌。
今春スタートの薄桜鬼「スタンプリー」,2月26日開催イベントで事前登録実施
龍之介と新選組隊士達はどう関わっていくのか!?「薄桜鬼 黎明録 DS」オープニングムービー公開!
千葉県
首都圏きってのミニ路線…流鉄流山線途中下車(後編)
旅情は甘いヨーグルト風味
「美しまや」に並ぶ流山にゆかりの菓子
「流山旅情」「しあわせの流山焼」「流山銘菓 新撰組 誠」……。流鉄流山線の鰭ヶ崎
ひれがさき駅前。東洋学園大学に続く道沿いの「流山せんべい」のご主人に教えられ細い路地に入り、上生菓子の店「美しまや」を訪ねると、流山名義の品を中心に菓子が並んでいた。ご主人は白い調理服、調理帽姿で満面の笑み、白い歯が覗のぞく。店はもう創業から30年以上経たつという。
「この辺りも続いている店が少なくなりました。すぐそこにトンカツ屋があったけど、ご主人が亡くなられて。ほかに昔から続いているのは、クリーニング屋くらいかなあ」
「美しまや」の主人。笑顔が温かい
「流鉄は意外と便利ですよ。都心へのアクセスもいいし、終電は0時20分過ぎまであるしね」
店に入った早々から会話が弾み、ご主人は笑顔を絶やさない。そして店の外を近所の知り合いが通るたび「こんにちはー」「今日は寒いね」と必ず声をかける。
鰭ヶ崎駅は小さくて、駅前の街もこぢんまり。でも素朴な菓子と笑顔の主人が、ここに降り立つ者を立て続けに迎えてくれる。
ヨーグルト入りの「流山旅情」を買い、店を出た。どうしてもひとつ食べたくなり、路上で包みを解き一口パクリ。優しい甘さが口いっぱいに広がり、その名の通り「旅情」がこみ上げるのを感じずにいられなかった。
新撰組が再起を懸けて集結
鰭ヶ崎駅に戻ると「青空」号がちょうどやって来て、再び乗車。続く平和台駅前は大手スーパーがデンと立ち、新興住宅街の雰囲気だ。ここでは降りず、その先へ。列車はあっという間に終点・流山駅に滑り込んだ。
車庫から出て流山駅のホームに向かう「青空」号
「足元にお気をつけください」
ホームでは到着した列車を駅員さんが総出で出迎え。車庫には色とりどりの2両列車が並び、さながら鉄道博物館のようだ。そして赤い三角屋根の駅舎は民家のように小さく、駅前ロータリーはシンと静か。片田舎のローカル線の終着駅に降り立った気分になる。
「ようこそ下総流山へ」と書かれた看板が立っている。その近くには「近藤勇・土方歳三 離別の地」の案内版も。
幕末。新撰組は鳥羽・伏見の戦いや甲州勝沼の戦いで新政府軍に敗走を重ね、総勢227人が再起をかけて流山に集結、醸造家・永岡三郎兵衛方を本陣とした。しかし形勢は逆転できず、近藤は土方と別れ流山を離れるが、板橋宿で捕まり斬首された。
駅前の地図に従い、今も残る本陣跡へ。流山街道から閻魔えんま堂横丁に入ると、民家に挟まれ本陣跡はひっそり残っていた。この日の気温はわずか5度。日曜日だが、寒さのせいか訪れる人の姿はない。それでも鉄の扉や格子に守られた重厚な外壁を見上げるほどに、激動の幕末の空気が伝わってきて――寒風に耐えて僕はしばらく、本陣跡を眺め続けた。
江戸川に向かうと、新政府軍が三手に分かれた三叉さんさ路から流山広小路に出る。街灯に「しにせぞろいの広小路」と書かれた看板が下がり、小京都の風情に誘われ、平和台方面に向け歩いてみる。……とはいうものの歩道はなく道幅も狭く、交通量は多い。時おりトラックが肩先をかすめヒヤッとするが、そんな中で見つけたのが、歴史を感じる木造の「清水屋」。引き戸のガラスに「陣屋もなか」と書かれた貼り紙も。中に入ると作務衣さむえ姿のご主人に迎えられ、もなかと「流山羊羹ようかん」を1棹さお買う。
古風なたたずまいの「清水屋本店」。看板は右書き
「店も建物も明治35年からで、110年になります」
そしてご主人はもう4代目――そこまで聞いたところで店の前をトラックが走り抜け、引き戸がガタガタと揺れた。「交通量が増えてね……」とご主人は苦笑い、そして「昔はこんな感じでした」と、大きく引き伸ばした白黒写真を見せてくれる。昭和5年に店の前の通りを写したもので、道は土、電柱は木製。道筋は当時から変わっていないという。
店内の戸棚には、鯛たいや海老えびを象かたどった木型がズラリ。
「昔は結婚式やお祝いがあると、お菓子の注文を受けて、この型で作ったものです。餅を砂糖で味付けして……当時は今のようにお菓子もいろいろなかったから、喜ばれましたね」
「でも、結婚式を家じゃなく式場でやるようになって、祝い菓子の注文も徐々に少なくなって」――木型を使う機会はめっきり減った。時代の流れ。しかし、その波を一身に浴びながらも、この店は110年間、変わらぬ姿でここにあり続けている。
「待ってー」って電車に叫べば
店を出てさらに道を進むと、道端に木の立て札の道案内が。消えそうな文字で「←平和台駅」と書いてある。ひと駅分歩いてしまったようだ。川を背にして左折し、流山街道に続く道を進む。
……ここに店?
極細の路地沿いにある「さくら」。のれんやお品書きがなければ普通の民家のようだ
人がスレ違うのも難儀する極細の砂利道に「お好み焼」のノボリが揺れている。砂利を踏みしだいて向かった「お好焼 もんじゃ焼 さくら」は、どう見ても普通の民家だ。靴を脱いで中に入ると、畳の部屋に鉄板を装着したテーブルが3卓。先客はご近所らしいご婦人が2人、ちょうど食べ終わったところで、僕に「ごゆっくり」と声をかけ席を立った。
お好み焼きはボリュームたっぷりで500円。食べ終わり茶をすすっていると、店の奥さんが食器を下げにくる。
「つくばエクスプレスが通って、流鉄のお客が減った? この辺は、それはないですね。平和台駅がいちばん近くて便利だし」
よかった。この界隈
かいわい
では電車といえば、まず流鉄のようだ。
「最近はもう、こういう電車も少ないでしょうね。目の前で電車が出そうになっても〈待ってー〉って叫べば待ってくれるの。今どきは珍しいわよね、そういうのも」
「昔、映画で何だったかしら、舞台は北海道だけど、北海道まで行かず流山駅でロケをしたって聞いたことがありますよ」
確かに流山駅はポツンと佇たたずむ姿が、どこか日本の果てに来た雰囲気を感じさせる。そんな話が尽きなくて、お茶を片手にしばし、畳の部屋にグズグズと居座ってしまった。
「乗っちゃってください」と優しい駅員
外に出るともう夕暮れ、流山街道沿いの居酒屋で、駅前散策旅・恒例の一杯。大きな店で客も満杯、店の人と話す暇はなかったが、料理はボリューム満点で値段も安い。客はオジさん、オバさんばかりで、どう見ても僕が最年少。頼んだ料理がなかなか来なくて(満員だから仕方ない)先に出てきた熱燗かんを飲み干してしまうと、
夜の静寂に包まれる流山駅
「来ないね。(熱燗が)2本目行っちゃうね」
と隣の見知らぬオジさんが言って、穏やかに笑った。100点満点。
店を出て、千鳥足で流山駅に向かう。自動改札はないので、財布から小銭を出し切符をグズグズ――買おうとしていると「ジリリ」と発車のベルが鳴る! あわてて財布の中の小銭をまさぐると、
「乗っちゃってください。降りる駅で精算してください!」
駅員さんが僕にそう言った。お言葉に甘えて改札を通り抜け、無事に乗車。僕が乗ったのを見届けると、扉はスルルと閉まった。
優しい駅、優しい駅前の街。列車はゆっくり動き出し、車窓の闇の中を、点々と灯ともる住宅の明かりが右から左へ流れていく。
「待ってーって叫べば待ってくれる」
お好み焼き屋の奥さんの言葉を噛かみ締めながら、ガタンゴトンと列車に揺られ、僕は流山をあとにした。
静岡
幕末のパン再現、商品化へ 江川坦庵の製造書基に(2/21 14:46)
日本のパン製造の開祖とされる幕末の韮山代官江川坦庵(1801~1855年)が記したパンの製造書が新たに見つかった。これまでにも当時の兵糧用のパンなどを再現した函南町上沢の製パン会社石渡食品が、商品化しようと試行錯誤を続けている。
新たに見つかったのは「カーネルコックカステイラ」と呼ばれるパンの製造書。江川家に伝わる史料を保存している江川文庫(伊豆の国市)の史料総合調査で発見された。兵糧用のパンは酒種で発酵させ、塩で味付けした長期保存が可能のパンに対し、カーネルコックカステイラは砂糖や卵の分量などが記されていた。名前は日本に伝来していたカステラに、オランダの外交官の名前を付けたものとみられる。
同社は昨年7月に試作品をつくり、8月に静岡市駿河区で開かれた展覧会「江川坦庵とゆかりの人々」で来館者500人に配布。その後、現代風の味付けにするため砂糖の量を増やすなど手を加え、今年1月21、22日に伊豆の国市で開催された「第6回パン祖のパン祭」で1個100円で千個を販売し、好評を得た。江川坦庵が兵糧用のパンを初めて作った日とされる4月12日の「パンの日」の発売を目指し、改良を続けている。同社の石渡浩二社長は「幕末のパンの味を多くの人に味わってもらい、地元の活性化に貢献したい」と話している。
京都
愛用品から直弼の実像知る展示 東山の井伊美術館
幕末の大老、井伊直弼に焦点を当てた特別展「人間 井伊直弼 生涯の実像」が、京都市東山区の井伊美術館で開かれている。恋心を詠んだ歌が書かれ、同館が直弼の自筆と判断した書状をはじめ、茶道具などの愛用品を展示し、直弼の実直な一面を伝えている。
「安政の大獄など政治家としての側面が注目されてきた直弼の人柄を想像してほしい」と同館が企画した。
書状は、後に倒幕派の情報を集める役割を担った村山たか宛てとみられ、会えない寂しさなどがつづられている。直弼が愛用した後に茶道の弟子に譲った茶わんや、素振りで使い込んだという刀など約100点が並び、来館者が直弼の人となりに思いをはせている。
11月15日まで。午後1時~5時。不定休。大人1500円。井伊美術館TEL075(525)3921。
ブックレビュー
『西郷の貌(かお) 新発見の古写真が暴いた明治政府の偽造史』
■「長身の若侍」が若き日の…
その「写真」を著者とともに初めて見たときは、まさに衝撃的でした。居並ぶ13人の武士。とりわけ向かって右端に立つ若侍の精悍(せいかん)な顔つきと、180センチはあろうかという長身が目を引きます。「薩摩藩の島津公 慶應年間の記念写真」というキャプション。幕末の古写真が数ある中で、この衝撃は「フルベッキ写真」以来のものでした。
「フルベッキ写真」は維新の志士たちの集合写真といわれ、かつて著者は『幕末 維新の暗号』(文庫版と合わせ累計12万部)で題材にしています。今回の写真が衝撃的なのは、「長身の若侍」が、著者が「フルベッキ写真」で西郷隆盛に比定した大男と酷似していたからです。
よく知られるように、西郷隆盛その人を撮影した写真は一枚も確認されていません。私たちになじみのある肖像は西郷の死後、外国人技師が親族(実弟と従兄弟(いとこ))の顔からモンタージュした想像の産物です。この肖像画が元になり、「西郷の顔」と言えば、どんぐり眼(まなこ)に太い眉が定着しました。
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「西郷の貌」
しかし歴史の定説は、いつも覆されます。とくに時の権力者が都合よく書き換えていた場合に綻(ほころ)びが見えやすくなります。著者はその綻びを見抜きました。
明治政府には西郷の本当の顔を封じ込めなければならない理由があった--本書はその謎を解読しながら「長身の若侍」が若き日の西郷であることを立証してゆきます。そして13人の武士たちの素性も明らかになりました。
明治維新の裏面を描く上質の歴史ミステリーです。(加治将一著/祥伝社・1890円)
祥伝社書籍出版部 岡部康彦
社会
第1回「新選組検定」申込締め切り迫る
合格者有料特典 薄桜鬼のイラスト付き認定カードの販売が緊急決定!
激動の幕末期、「誠」の旗のもとに集い「義」のために戦った新選組について学ぶ、第1回「新選組検定」を2012年3月18日(日)に東京と京都で開催いたします。企画・運営は日本出版販売株式会社(本社:東京都千代田区 代表取締役:古屋 文明、略称:日販)とヒューマンリソシア株式会社(本社:東京都新宿区、代表取締役:桑原 加鶴子)が行います。
第1回目は初級者向けの3級、中級者向けの2級を実施し、3級合格者は「組長」、2級合格者は「副長」としてそれぞれ認定、合格認定証を付与します。また、合格者限定の有料特典として合格認定カードと合格認定名刺を販売します。合格認定カードは裏面に土方歳三の写真、もしくは人気沸騰中の新選組をモチーフにした恋愛アドベンチャーゲーム「薄桜鬼」カズキヨネのキャラクターイラスト5種(土方・沖田・斎藤・藤堂・原田)から好きな絵柄(コメント入り)を選べる特別仕様になっており、生粋の歴史ファンからゲームやマンガをきっかけに新選組ファンになった若い女性まで満足いただける内容になっております。詳細については、合否結果通知に同封いたします。
新選組検定は書店店頭に設置される願書(郵便払込票)( http://www.kentei-uketsuke.com/shinsen-gumi/popup/entry_store.html )もしくは日販が運営するWebサイト「検定、受け付けてます」( http://www.kentei-uketsuke.com/shinsen-gumi/ )にて2月16日まで申し込みを受け付けております。受験者特典として受験者全員に松平容保ピーを贈呈します。
日販は一昨年実施した「坂本龍馬 幕末歴史検定」を皮切りに、幕末歴史検定シリーズの第二弾として「新選組検定」を実施し、今後も幕末歴史ファンのコミュニケーション活性化に役立つ検定として発展させてゆきます。
◆「新選組検定」合格対策講座開催決定
2月24日(金)に早稲田予備校13時ホール6階にて100名限定で「新選組検定」合格対策講座を実施します。当検定の問題監修者である菊地 明先生、土方歳三の子孫にあたる土方 愛さんをお迎えし、問題解説から新選組にまつわるエピソードまで盛りだくさんの内容となっております。お申込み、詳細は検定オフィシャルサイト( http://www.kentei-uketsuke.com/shinsen-gumi/ )をご確認ください。
◆ 第1回新選組検定 概要
検定名 :第1回新選組検定
主催 :新選組検定運営事務局
後援 :日野市/日野市観光協会/日野市商工会/会津若松市/函館市/
流山市/調布市/調布市観光協会
特別協力:歴史街道(株式会社PHP研究所)
協力 :新選組友の会/全国新選組サミット
運営 :日本出版販売株式会社/ヒューマンリソシア株式会社
実施日 :2012年3月18日(日)
実施都市:東京・京都
申込締切:2012年2月16日(木)
受験料 :3級(組長) 4,700円/2級(副長) 5,400円(すべて税込)
※2・3級は併願受験可能 併願割引9,800円(税込)
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3級/全100問中、70問以上正答者は合格
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コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】
(150)東大教授・山内昌之 蜂須賀斉裕
幕府最初の防衛大臣
野田首相はどうして、こうも能力の低い防衛大臣を立て続けに任命したのであろうか。
民主党幹事長の属する参議院対策などの党内事情もあるのだろうが、防衛大臣はどの国においても外務大臣とコンビで同盟国や関係各国と交渉することも多い“国の顔”である。この人事だけはいただけない。
一川保夫前大臣も田中直紀現大臣も、陳情受け付けなどでは、たぶん人情味あふれる地方政治家の一面をもつのであろう。しかし、安全保障環境が激変している北東アジアの危機対応や、アメリカの新防衛戦略への弾力的対応をこなせる国際通の人材とは到底思えない。
毛並みのよい人材
外交安全保障と防衛力の基盤整備はいつの時代も国の命運を左右する領域である。幕末でも改革は、防衛力の整備強化から始まった。
徳川幕府は、文久の改革によって西洋式兵制(歩兵・騎兵・砲兵の三兵制度)の導入や、兵賦令(旗本から石高に応じた農兵の供出や金の徴収)を発した。注目すべきは、文久2年12月(1863年2月)に、阿波藩主蜂須賀斉裕を陸軍総裁に任命したことである。斉裕は海軍総裁も兼任した。いわば幕府初の防衛大臣に就任したのである。
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外様大名ながら幕府の陸海軍総裁となった蜂須賀斉裕の肖像(徳島城博物館蔵)
この人事は多くの点で異例ずくめであった。第一に、蜂須賀家は禄高こそ25万7千石の国主であったが、幕政に関与しなかった外様大名だったことである。第二に、幕府が満足な陸海軍予算を計上できないのに、果たして斉裕に陸海軍総裁を務める力があったのかという疑問である。
蜂須賀斉裕に白羽の矢がたったのは、家柄よりも血筋からである。彼は11代将軍家斉(いえなり)の二十二男であり、幕末動乱期の13代将軍家定の叔父にあたる。徳川幕府危急のときに軍制改革を託するに足る毛並みのよい人材であり、徳川宗家への忠誠心も抜群だったからであろう。
蜂須賀家は歴代従四位上侍従を極官としたが、斉裕は正四位上参議に上り中将を兼ねている。外様大名で代々参議と中将とを兼帯し「宰相中将」と称せられたのは、加賀藩前田家だけであったから、阿波藩の家格は一挙に跳ね上がったことになる。
しかし幕府の真意はどこにあったのだろうか。赤字財政に苦しむ一方の幕府もしたたかなのだ。阿波と淡路の2国を領し実高が40万石以上といわれ、藍や染料などの物産交易でも潤っていたのが、裕福さでは外様大名屈指の阿波藩であった。蜂須賀家の財力をあてこんだのかもしれない。とはいえ、斉裕はいくばくもなく総裁職を辞任した。あまりにかさんだ財政出費に藩が音をあげたという説も無視できない。
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外様大名ながら幕府の陸海軍総裁となった蜂須賀斉裕の肖像(徳島城博物館蔵)
藩の軍制をイギリス式に改めるなど開明的な君主だった斉裕ほどの人物である。淡路島の岩屋や由良の砲台新設など海防においても成果を挙げていた。斉裕が陸軍総裁を辞したのは、公武合体論者として幕政への独自の抱負ももっていたのに、伝統的な老中合議体制のもとで自らの意見がほとんど顧みられないのに嫌気がさしたこともあるのだろう。
独自の意見と信念
彼には譜代大名や旗本官僚とは違う生まれへの矜持(きょうじ)も大きかったことはいうまでもない。その構想力や実行力も平凡でなく、家斉の子としては出色の部類だったのである。
その子もオックスフォード大学で学び、駐仏大使から貴族院議長になったり、ひ孫は世界的な鳥類学者にもなっている。斉裕の血に流れていた政治家としてのセンスや知的な聡明(そうめい)さを受け継いでいたのだろう。
その斉裕にしても、淡路洲本城代の家老稲田氏など家臣内部の尊皇攘夷(じょうい)派を無視できず、藩論を統一できぬままに慶応4(1868)年1月に死去したのである。斉裕のいない阿波藩が明治維新の激流を乗り切るのはむずかしく、積極的に新政府に関わることはできなかった。それでも蜂須賀家が前田家と同じく侯爵になったのは、斉裕の余薫(よくん)ともいうべきだろうか。
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外様大名ながら幕府の陸海軍総裁となった蜂須賀斉裕の肖像(徳島城博物館蔵)
彼は、育ちの良さにもかかわらず、大名としては海防や兵制改革に独自の意見をもち、公武合体論ながら内外の危急に対処する信念をもっていたからだ。斉裕なら、優秀な防衛官僚やブレーンに補佐されると、現代日本の安保政策でも失言を犯さずに対処できたであろう。
しかし、ここ2代の防衛大臣が幕末にタイムスリップしても、斉裕ほどの安定感をもち実績を挙げられるとはかぎらないあたりが平成の日本人にはつらいところだ。(やまうち まさゆき)
◇
【プロフィル】蜂須賀斉裕
はちすか・なりひろ 文政4(1821)年、第11代将軍徳川家斉の二十二男として生まれる。同10年、阿波(徳島県)藩主の蜂須賀家の養子となり、天保14(1843)年家督を継ぐ。藩主として軍制改革に注力。文久2年12月(1863年2月)に幕府の陸軍総裁。海軍総裁も兼ねたが、3年辞任。慶応4(1868)年、死去。
「征韓論」生んだ西郷のストレス太り 病気が変えた幕末維新
(日経新聞サイトのリンク先アドレスがMacだとうまく読めないようなのでリンク省略します)
西郷隆盛はストレス過多、高杉晋作や木戸孝允らも体調を崩しがちで、坂本龍馬は風邪に悩まされていた――。幕末・維新史をキーパーソンの健康状態から読み解こうとする研究が始まっている。幕末の日米修好通商条約から王政復古、明治の征韓論など転換期に体調問題がどんな影響を及ぼしたのか。残された史料、書簡から専門医が精神分析するなど真相を一段階深くえぐった近代史の構築を試みている。
■大久保利通にも「持病の下痢」
明治維新を主導した西郷隆盛。実はさまざまなストレスと体調不良に悩まされていた
「西郷隆盛は感情量が豊かで、緻密・繊細な性格。ストレスもためやすかった」とみるのが大阪経済大学の家近良樹教授だ。「度量の広い東洋的な大人物」といった従来のイメージとは異なった西郷像を著書の「西郷隆盛と幕末維新の政局」(ミネルヴァ書房)で描きだした。西郷関連の書簡を分析すると「対象相手に感情移入しやすいタイプ。部下への指示も細かく念入りだった」(家近教授)という。
西郷には喫煙の習慣もあったという。さらに日本医史学会理事長の酒井シヅ・順天堂大名誉教授は「風土病のフィラリア症にも悩まされていたようだ」と指摘する。
一方、ストレスの原因は事欠かない。2度の遠島暮らし、主君の島津久光との不和、徳川慶喜の政略には度々翻弄され、自ら樹立したはずの明治政府にも不満が高まった。西郷は書簡では下痢に悩まされた事を吐露する一方、「恨を生じ」「憤怒に胸を焦がし」などの表現もみられる。思うように活動できず自らのストレス太りを自嘲している文面もあるという。
ただ西郷周辺の人物も健康良好とはいえなかったようだ。大久保利通には「持病之下痢」があり、島津久光は脚気(かっけ)、薩摩藩家老の小松帯刀もは足痛の持病があったという。
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■「王政復古」は協調派の病気も遠因に
こうした各人の体調不良が大きく影響したのが、慶応3年12月(1868年)の王政復古のクーデターと家近教授は説く。徳川慶喜の大政奉還後、幕府側も含めた新体制に移ろうとする政局の流れを、京都にいた西郷、大久保ら薩摩急進派が半ば強引に朝廷を倒幕方針へ転換させてしまったケースだ。幕府と協調を目指す久光は帰国中。脚気からくる腰痛が悪化し藩政にすらタッチできない病状だった。倒幕方針から距離を置くようになっていた小松帯刀も鹿児島県から動けず、協調派の主軸が病気で政治の中心にいなかったことが「西郷らが主導権を握ることを容易にさせた」(家近教授)
さらに明治6年(1873年)の「征韓論」では逆に西郷の健康状態が影響しているという。肥満対策で下剤を常用していた西郷は、加齢もあって時に閣議に出られないほど体調が悪かった。「自分が韓国に赴いて殺害されるのをきっかけに開戦する」という無謀に見える西郷の論理は今でも近代史学の議論の対象になっている。家近教授は「健康悪化が死の誘惑につながったのではないか」と推測する。
「江戸時代は特に胃腸病などの多かった時代」と酒井名誉教授は指摘する。白米食の普及につれ脚気も多く、古くは貞観4年(862年)から記録されているインフルエンザも世界的な流行期と同調して度々江戸を襲った。
一坂太郎・山口福祉文化大学特任教授は幕末の高杉晋作も度々風邪で休んだという。「同僚が風邪で休んだことをどう思っているか気にしている日記も残っている」(一坂氏)。上海視察に渡航した際も現地で風邪に悩まされた。
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■坂本龍馬の暗殺、風邪で刺客の接近容易に
坂本龍馬暗殺の時、風邪で体調不良だったという(高知県高知市)
一坂氏は「高杉は藩の重役に就いたり、奇兵隊を率いたりといった活動期と隠退期を交互に繰り返した。健康問題も関係したのではないか」とみる。明治に入ってから急激に健康を悪化させたかにみえる木戸孝允も慶応年間に下痢などを訴える書状があるという。
一見病気とは無縁に思える坂本龍馬。しかし高知県立坂本龍馬記念館の前田由紀枝学芸員は「風邪の事などを記した手紙がある」としている。さらに龍馬のメモ日記には慶応元年(1865年)に山口県で「曽病アリ」と病気で宿を代えた記述がある。ちょうど龍馬が薩長間の仲介に奔走していた時期で、西郷と木戸を会わせ薩長同盟が成立する約半年前だ。
「船中八策」を構想し、大政奉還が実現した同3年に龍馬は京都・近江屋で暗殺された。この時、龍馬は風邪だったという。用心のため潜伏していた土蔵から温かい母屋に移っていたことが暗殺者の接近を容易にさせた。歴史に「イフ」はないが龍馬が健康な状態だったら維新史はどうなっていただろうか。
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一方、日米修好通商条約を締結した徳川幕府の大老・井伊直弼を臨床医の立場から分析したのが大阪精神科診療所協会の大原和雄名誉会長。井伊家の史料、書簡を渉猟し井伊が精神医学で扱う「自己愛性パーソナリティー」だと推論した。
自己愛性パーソナリティーは成功や賞賛、理想的な愛を求める一方、完全主義で批判を受け入れられず、他人の気持ちを推し測るのが苦手なため「世渡りベタ」とされるケースが多い。大原氏は井伊に詩人の石川啄木、作家の太宰治らに共通する性格を見出せるとしている。
井伊にもストレスが多かった。青年期を不遇の部屋住みで過ごし跡継ぎの「世子」になってからも藩主の兄の干渉に悩まされた。江戸城内では老中、奉行らに軽視され孤立することもあった。大老になってからは開国問題と次期将軍選びの2大課題に忙殺された。
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■「自己愛」が強かった井伊直弼
それでも完全主義の性質と逆境をバネに茶道、和歌、禅に上達し、大老就任の初日から幕僚らと議論を始めた。従わない老中は解任、政敵は弾圧し「安政の大獄」を徹底するものの、必ず裁判を通す原則は崩さなかった。手紙には「火中に」と燃やすよう付け加えて証拠を残さないように用心することもあったという。こうした井伊の行動は自己愛性パーソナリティーの一面を表しているという。
万延元年(1860年)3月3日の「桜田門外の変」では以前から暗殺情報が井伊にも伝えられていた。しかし周囲から勧められた様々な対抗策は全く採らなかったという。大原氏は「自己愛性障害抑うつ」の可能性を指摘している。
酒井名誉教授は「ストレスの原因は現在と過去で異なるから慎重に考えるべきだ。しかしストレスが身体に与える影響は昔も今も変わらない」と歴史学と医学のコラボレーションの展開に期待を寄せる。政治、経済界トップの健康問題はいつの時代でも重要なテーマになる。過去の歴史を新たな視点で掘り返すことで今日につながる教訓を得られるかもしれない。
(電子整理部 松本治人)
エンターテインメント
「新選組血風録」俳優の左右田一平氏が死去
左右田一平氏 81歳 (そうだ・いっぺい、本名・廣田信夫=ひろた・のぶお=俳優)10日、S状結腸がんで死去。
告別式は近親者で済ませた。喪主は長男、圭一朗氏。
札幌市出身。1956年「真昼の暗黒」で映画デビューし、味のある脇役として活躍。テレビ時代劇「新選組血風録」の斎藤一役で人気を集めた。
自分にとっては、大河ドラマ『新選組!』以前の映像作品の中ではベスト作品だった『新選組血風録』の斎藤一、『燃えよ剣』の裏通り先生。飄々とした風貌だけど芯は侍な斎藤像をありがとうございました。合掌。
今春スタートの薄桜鬼「スタンプリー」,2月26日開催イベントで事前登録実施
大人気アニメ“薄桜鬼”がついに今春“スタンプリー”に登場!
オリジナルWebMoney カードをプレゼントする
事前登録キャンペーンを併せて実施!!
http://www.stamplly.jp/
株式会社インフォ・クエスト(本社:東京都文京区、代表取締役社長:家永慎次郎)は、フィーチャーフォン(携帯電話)やスマートフォン・PC にて、現在地や時間、そして日付などさまざまな条件のもとに発行されるスタンプを探し出して集めるモバイル/PC 向けリアルトレジャーゲーム『スタンプリー』におきまして、大人気アニメ「薄桜鬼」とのコラボレーションが決定したことをお知らせいたします。
また、2月26日(日)にパシフィコ横浜にて開催されるイベント『「薄桜鬼 雪華録」~春の夢~』にて、今春スタート予定の「薄桜鬼」スタンプリーの事前登録を実施させていただきます。
龍之介と新選組隊士達はどう関わっていくのか!?「薄桜鬼 黎明録 DS」オープニングムービー公開!
オトメイトは、2012年4月26日発売予定ニンテンドーDS専用ソフト「薄桜鬼 黎明録 DS」公式サイトにて、オープニングムービーを公開した。
公式サイト「スペシャル」ページに、「薄桜鬼 黎明録 DS」のオープニングムービーが公開。PSP版のオープニングムービーとはひと味違う仕上がりになっている。
また、「主題歌」ページでは、オープニング曲とエンディング曲を確認することができる。どちらの曲もPSP版とは違う曲に変更されているので確認してみてほしい。
昨日今日あたり、日差しが春めいてきました。土方さんの好きな梅の花の季節ですね。
千葉
歴史の波にのまれ忘れ去られ 戊辰戦争時に沈没の米蒸気船 13日に初の米国人慰霊祭 千葉・勝浦市
神奈川
幕末に思いはせ、「中島三郎助まつり」開催/横須賀
幕末藩士の生涯
盛本さんの文化講演会
京都
NHK大河ドラマ:「八重の桜」 新島八重が愛したひな人形、同志社女子大・今出川で展示 /京都
元気に変身! 三条会商店街でおばけパレード
愛媛
明治維新の立役者・大村益次郎宅跡地の民家全焼
鳥取
鳥取城の橋脚出土 大手登城路・擬宝珠橋
佐賀
幕末の西洋砲ずらり モルチール砲…
コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】
(148)東大教授・山内昌之 橘曙覧(上)
【幕末から学ぶ現在(いま)(147)】
松平主税助 政治家の貴種伝説(東大教授・山内昌之)
【決断の日本史】
(109)1868年9月22日 会津藩、降伏す
江戸の町のB級グルメは?
エンターテインメント・海外
「壬生の狼」ロシアを駆け巡る
手塚治虫「陽だまりの樹」市原隼人&成宮寛貴主演で実写化
上川隆也×吉川晃司 W主演で手塚マンガを舞台化
千葉
歴史の波にのまれ忘れ去られ 戊辰戦争時に沈没の米蒸気船 13日に初の米国人慰霊祭 千葉・勝浦市
戊辰戦争中の明治2(1869)年2月13日に千葉県沖で沈没した米蒸気外輪船の米国人犠牲者22人を弔う慰霊祭が13日、同県勝浦市の津慶寺で初めて開催される。地元有志が約140年という歴史の波にのまれ忘れられていた事故の詳細を調査した成果の一端だ。有志らは遺族を捜す努力も続けており、「慰霊を通じて日米友好に少しでも貢献できれば」と話している。
慰霊はこれまで、他の事故の水難者らも合わせて同寺で8月に行われていた。
沈没した米船は木造蒸気外輪船ハーマン号で、米海運会社が運航し日本国内で輸送事業に従事。官軍側の肥後藩が函館・五稜郭に籠城する榎本武揚軍討伐のため、藩士や武器弾薬、軍資金を輸送する目的で傭船した。明治2年2月12日に肥後藩士ら350人と米国人乗組員80人を乗せ高輪沖(現品川沖)を出航。だが、13日夜に暴風雨により現在の勝浦市川津沖で座礁、沈没した。水死・行方不明者は日本人200人以上、米国人22人とされる。
事故後、明治11年には事故現場が見渡せる丘に慰霊碑が建立され、現在も「官軍塚」として勝浦市の歴史文化財に指定されているが、米国人乗組員が犠牲になったことは碑文に表記がなく、22人の名前も分かっていない。米国人犠牲者の存在自体が「完全に忘れ去られていた」(市社会教育課)という。
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ハーマン号を描いた油絵の写真(大野幹雄さん提供)
元外国航路船長の大野幹雄さん(68)は、勝浦市への転居を機に水中考古学者から関連の資料を入手。米国人犠牲者がいたことを知り、「他国の内戦に巻き込まれて亡くなったのに、きちんと慰霊されないのは気の毒だ」と身元調査を始めた。だが、ハーマン号を運航していた海運会社の売却先などに調査を依頼したものの、資料は現在のところ見つかっていない。
ただ、肥後藩士が作らせた絵巻物に地元の漁師らが救助にあたっている様子が描かれていることなどから、「当時の日本人が懸命に米国人を助けようとしたハーマン号事件を多くの人に知ってもらう契機になれば」と奮起。先祖が旧川津村の網元で救助に携わったといわれている子孫らの有志とともに、事故が起きた今月13日に日米双方の犠牲者を弔う慰霊祭を開くことを決めた。
慰霊祭には、肥後藩士の遺族を招く予定で、来年以降は米国の関係者にも参加を呼びかけるという。(田中靖人)
神奈川
幕末に思いはせ、「中島三郎助まつり」開催/横須賀
幕末20+ 件にペリー艦隊が来航した際にアメリカ側との折衝に当たった浦賀奉行所の役人・中島三郎助の功績をたたえるイベント「中島三郎助まつり」が29日、横須賀市浦賀の住友重機械工業浦賀工場(浦賀ドック)で開かれた。
市民グループ「中島三郎助と遊ぶ会」などの共催。三郎助の誕生日に合わせて毎年開催している。
特設ステージには三郎助を描いた垂れ幕が掲げられ、郷土史家の山本詔一さんが講演したほか、日本舞踊やフラダンス、ブラスバンド演奏などが披露された。ペリー艦隊来航にちなんだ「黒船シチュー」は用意した300食が昼すぎに完売する人気ぶりだった。
遊ぶ会の大内透会長は「三郎助の素晴らしい人間性や功績を地元の人に広く知ってもらいたい」と話していた。
幕末藩士の生涯
盛本さんの文化講演会
金沢の文化講演会「武州金沢藩・上級家臣 萩原唯右衛門則嘉」が2月18日(土)、金沢公会堂(区役所隣)で開催される。午後1時30分から3時30分。
講師は文学博士・歴史研究家の盛本昌広さん。1853年、米国のペリー提督来航時に乙艫浜と浦賀製鉄所の警備にあたり、江戸藩邸や浦賀奉行所との連絡・情報収集に活躍するなど、幕末動乱期に生きた萩原唯右衛門の生涯について講演する。定員は先着400人(予約不要)。参加費は200円(資料代)。
問い合わせはNPO法人横浜金沢文化協会【電話】045・781・8665(白井さん)へ。
京都
NHK大河ドラマ:「八重の桜」 新島八重が愛したひな人形、同志社女子大・今出川で展示 /京都
◇穏やかで優しかった「女傑」の人柄知って
来年のNHK大河ドラマ「八重の桜」のヒロイン、新島八重(1845~1932)ゆかりのひな人形が京都市上京区の同志社女子大今出川キャンパスで展示されている。同志社の創設者・新島襄の妻であり、よきパートナーとして女子教育にも尽くした八重の人となりを知ってもらおうと企画した。
会津藩砲術師範の家に生まれ、戊辰戦争では自らも銃を執り戦った女傑といわれる八重だが、おひな様の道具類をいくつか持っていたという。「毎年三月になると押し入れからお人形を大事にとりだして、久しぶりに会う人に話しかけるようにあいさつしながら、一つ一つ丁寧に顔を絹のきれでふき、ひな壇にかざって楽しんでおられた」と、晩年を知る人が回想している。
今回は新島家と親交があり、同志社女学校校長などを務めた末光信三(1885~1971)に八重が贈ったひな人形を特別に借り受け、展示した。
会場を訪れた信三の二女清子さん(88)は「八重さんは女傑と言われるが、私たちには穏やかで優しい女性でした。“新島のおばあちゃん”と呼んでずいぶん甘えさせてもらった。ひな人形を通して、今の若い人にも八重さんの人柄を知ってほしい」と話していた。
女子大と女子中学・高校、同志社同窓会の共催。4月25日までの平日午前10時~午後4時、ジェームス館1階史料室で一般の見学も可能。問い合わせは同史料室(075・251・4200)。【榊原雅晴】
元気に変身! 三条会商店街でおばけパレード
節分の夜に老若男女が扮装する風習「おばけ」を現代に復活させた、おばけパレードが4日、京都三条会商店街(京都市中京区)で行われ、大学生ら約100人が練り歩きました。
年齢や性別を飛び越えて異装する「おばけ」の面白さを知ってもらおうと京都精華大学人文学部教授の真下美弥子さん(京都学)が提唱したもので、同大学生らでつくる「精華おばけ会」が主催し、今年で3回目。
この日は、巫女に扮した男性や新選組隊士姿の女性をはじめ、アンパンマン着ぐるみ、アニメキャラのコスプレなど多彩に扮装した大学生や中京女性会のメンバーら約100人が参加。800メートルある商店街の中を阿波おどりの曲や中京音頭にあわせて踊りながら歩きました。
「生徒会長」の金文字が入った学ラン姿で元気よくパレードの先頭を歩いた上田製菓本舗店主の上田昇さん(63)は、「50年前にタイムスリップしたつもりで歩きました。恥ずかしかったですが、楽しかったです」と話していました。
愛媛
明治維新の立役者・大村益次郎宅跡地の民家全焼
11日午前10時15分頃、愛媛県宇和島市神田川原の無職松本百合子さん(80)方から出火、2階建て約130平方メートルを全焼した。
松本さんは逃げ出して無事だった。
宇和島署の発表では、一人暮らしの松本さんが同7時30分頃から、1階にある仏壇のろうそくに火をつけたままにしていたという。同署は、その火が何かに燃え移ったのではないかと見て調べている。
◇
宇和島市などによると、松本さん方は、幕末から明治期にかけて日本軍隊の基礎を築いた大村益次郎(村田蔵六)の住居跡地。作家司馬遼太郎が、大村を主人公に描いた小説「花神」がNHKの大河ドラマで放送された1977年には、観光バスで見学に訪れる人も多かった。
大村ファンだった松本さんの祖父が、約100年前に土地を購入。現在は市指定史跡になっているが、当時の面影は残っていない。
(2012年2月12日10時14分 読売新聞)
鳥取
鳥取城の橋脚出土 大手登城路・擬宝珠橋
鳥取城の大手橋に当たる擬宝珠(ぎぼし)橋の橋脚が出土したと9日、鳥取市教委が明らかにした。江戸から明治時代にかけて3回の架け直しが確認され、市教委が復元を目指している幕末期の橋脚の幅は約5・4メートルで、材種はマツだったとみられる。復元する際の資料となる。
幕末期の擬宝珠橋の橋脚。左の高い橋脚は明治以降、その右にある低い橋脚は幕末期以前のもの=9日、鳥取市東町2丁目の大手橋下
明治初期の写真に写る擬宝珠橋。この橋脚の一部が見つかった=鳥取市教委提供
擬宝珠橋は、幅が約30メートルの内堀に架かり、正門である中ノ御門につながる。幕末期には、明治初期の写真からアーチ橋だったことが分かっていた。
大手登城路の復元整備の一環で鳥取市教委が昨年12月から擬宝珠橋跡を発掘。橋脚の一部が62本出土した。
橋脚が打ち込まれた堆積部分の新旧関係や橋脚の並び方などから、幕末期(マツ材)▽幕末期以前(クリ材)▽明治以降(マツ材)-の橋脚が確認された。
このうち幕末期の橋脚は、直径30センチ前後のマツを横に3本並べたものが4列出土。幅は5・4メートルほどだった。現在の橋脚の下にあと2列があったと想定され、全部で6列だったとみられる。
幕末期以前の橋脚の年代は不明。明治以降の橋脚は、1889年ごろに幕末期のアーチ橋から架け替えられ、1963年に現在のコンクリート橋に架け替えられた木造橋のものとみられる。
市教委文化財課の坂田邦彦文化財専門員は「調査前には残っていないと思っていた橋脚が、意外に良好な形で残っていた。これほど大規模な城の橋跡の調査は珍しい」と話している。
現地説明会は11日午後1時から開かれる。
佐賀
幕末の西洋砲ずらり モルチール砲…
江戸後期から幕末にかけ武雄での西洋砲の鋳造などの取り組みが、佐賀藩や日本の近代化に果たした役割を探る武雄市図書館・歴史資料館(愛称、エポカル武雄)の特別企画展「武雄の時代 西洋砲術導入の軌跡」が11日から始まる。3月20日まで。無料。
28代武雄領主・鍋島茂義(1800~1862)は1830年ごろ、長崎警備を担当した際にオランダ船を見学し、西洋の進んだ科学力に感銘した。その後、積極的に蘭学(らん・がく)の導入に踏みきり、西洋砲術の習得や大砲鋳造に取り組んだ。
領主命で、武雄領の下級武士の平山醇左衛門(じゅん・ざ・え・もん)に、長崎の西洋砲術の第一人者の高島秋帆(しゅう・はん)から砲術を学ばせた。自らも砲術の基本原理などを習得。1835(天保6)年4月には、秋帆の指導で日本初の野戦砲「モルチール砲」を鋳造。試射にも成功している。
1840年9月、神埼・岩田射的場(現在の神埼市神埼町尾崎)であった砲術訓練で、上覧していた第10代佐賀藩主・鍋島直正から武雄武士の砲術は高い評価をうけた。その技術は佐賀本藩にもたらされ、反射炉建造や鉄製大砲の鋳造成功につながったとされる。
特別展では、初めて日本で鋳造され、武雄鍋島家の「抱銀杏(だき・い・ちょう)」の家紋がはめ込まれた「モルチール砲」や「ボンベン野戦砲」「ナポレオン式四斤野砲」「カノン砲雛(ひな)型」などを展示。大砲鋳造絵巻や大砲設計図など含め約150点を集め、佐賀藩や幕末期の幕府に武雄領がどんな影響を与えたのかをたどっている。
11日、25日、3月11日、20日の午後1時半から学芸員による展示解説が予定されている。今回の特別展図録(千円)もある。開館は午前9時~午後5時。休館日は毎週月曜日と第3木曜日。問い合わせは武雄市図書館・歴史資料館(0954・20・0222)。(長沢豊)
コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】
(148)東大教授・山内昌之 橘曙覧(上)
楽観と人間愛の幕末歌人
2月最初の週末、越前は福井に2日ほど遊んだ。セーレン社長の川田達男氏とご夫人の案内で訪れた福井市橘曙覧記念文学館は小ぶりであったが、市民が橘曙覧に寄せるほのぼのとした尊敬心が控えめに発露された施設で、福井人の奥ゆかしさが好ましく感じられた。
「独楽吟」52種の連作陳列
なかでも、曙覧の「独楽吟(どくらくぎん)(ひとりたのしめるうた)」52種の連作が照明スタンドに浮かび上がるように陳列されているのは、郷土の生んだ偉大な国学者歌人の名作を現代の若者にも近づけようという工夫なのだろう。
曙覧は、歌道や学問ですぐれていただけでなく、人柄でも幕末越前の名士たちに愛された。藩主、松平春嶽(しゅんがく)やその重臣、中根雪江(せっこう)らとの交流もあり、その門人の一人が三岡八郎(由利公正(きみまさ))であった。
明治に改元される直前の慶応4(1868)年に56歳で物故したために、維新の事業には関わらなかった。また、たとえ明治維新を生きて迎えたとしても、城への出仕と進講を求めた春嶽の誘いを歌で婉曲(えんきょく)に断ったくらいだから、政治に関わる可能性は少なかったかもしれない。
それでも曙覧がいまの日本人の心を引き付けるのは、幕末という動乱期にあって、歌のモチーフとして素直に人間や家族の愛を取り上げ、日々のかけがえのない生活をつつましく読み込んだ楽観主義にあるのではないか。
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福井市橘曙覧記念文学館内に再現された、曙覧の住居「藁屋」のジオラマ=福井市(山内昌之撮影)
現代人慰謝するエスプリ
「たのしみは~とき」の形で詠まれた作品の独楽吟には、歌人や国学者だった曙覧が家庭人としても円満だったことを知る歌が多く収められている。それらは公人と私人の領域をいかに円滑につなげるかで苦労する現代人の心を慰謝するエスプリにあふれている。
たとえば、日ごろは質素な食事に甘んじている曙覧も、たまには子供の喜ぶ姿を見たくて、奮発した魚を煮物にして夕餉(ゆうげ)をとった。すると、「父上おいしい、おいしい」と子供が喜ぶさまを詠った作品がある。
たのしみはまれに魚烹(いおに)て児等(こら)皆(みな)が
うましうましといひて食ふ時
歌だけでも楽しそうな情景が浮かび上がる。橘曙覧記念文学館に出かけられる人なら、2階の陳列室のすぐ入り口に飾ってある一家団欒(だんらん)の人形を見て顔がほころぶ人も多いだろう。この歌の情景がありありとしのばれる曙覧の家族団欒の絵模様だからである。
米大統領、歓迎式典で引用
橘曙覧の作品には洋の東西を超えて人の心を打つ要素が秘められているようだ。有名なのは、平成6年6月の天皇皇后両陛下のアメリカご訪問の折、クリントン大統領が歓迎式典のスピーチで曙覧の歌を引用したことであろう。
たのしみは朝おきいでて昨日まで
無かりし花の咲ける見る時
朝早く寝床から起き出して、庭にふと目をやると、昨日まで咲いていなかった朝顔が美しく咲いていることに明日ひいては未来への希望を託したともいえる歌なのだろう。
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福井市橘曙覧記念文学館内に再現された、曙覧の住居「藁屋」のジオラマ=福井市(山内昌之撮影)
クリントンはこの歌を引いて、「その伝える心は時代を超えたもの」だとした。「一日一日新たな日とともに確実に新しい花が咲き、ものごとが進歩し、日米両国民の間の友好をはぐくむのです」というスピーチの内容は、橘曙覧の詩想からさほど隔たったものではないだろう。
さて私は東大教養学部の新入生に対して、橘曙覧もたたえた楽しい読書の世界に没入するように勧めたことがある。ある読書ガイドを岩波文庫の『橘曙覧全歌集』を紹介しながら結んだのである。
たのしみは珍しき書(ふみ)人にかり
始め一ひらひろげたる時(「古典の力--和漢洋印回の魅力」『教養のためのブックガイド』東京大学出版会)
その結果は、曙覧ぶりを発揮するとすれば、次のようなものでもあろうか。
たのしみは紅顔可憐の若者が噴水背にし
曙覧耽読(たんどく)するをひそかに見る時(やまうち まさゆき)
◇
【プロフィル】橘曙覧
たちばなの・あけみ 文化9(1812)年、越前国(福井県)福井城下の商家に生まれる。天保10(1839)年、家督を弟に譲り隠棲(いんせい)。国学者・本居宣長の弟子の田中大秀に国学や歌を学ぶ。福井に居を構えて清貧の生活を送り、歌作と学問研究に没頭。慶応4(1868)年、死去。その歌風は正岡子規らに大きな影響を与えた。
【幕末から学ぶ現在(いま)(147)】
松平主税助 政治家の貴種伝説(東大教授・山内昌之)
政治家は、有権者にまず名前をおぼえてもらわないと仕事が始まらない。時に国会議員に会う機会もあるが、異様に大きな活字で名前を印刷した名刺をもらって仰天することも多い。時にはカラー写真付きの名刺をもらうこともある。学者間の付き合いでは写真の付いた名刺をもらったこともなく、名前の印字も互いに慎ましやかなものだ。
政治家は一種の“人気稼業”という点で芸能人とも似ている。何かで出自や家系が誤解された場合でも、自ら詐称したものでない限り、全員が正確に訂正するわけではないらしい。貴種(きしゅ)の評判や名門の伝説も、集票の役に立てば、それもよしというところなのだろう。
伝説をつくりやすい家系
似たようなことは幕末史にもある。文久2年12月(1863年1月)に、幕府の武芸訓練機関である講武所(こうぶしょ)の剣術教授方(きょうじゅかた)と兼任する形で新選組の前身、浪士組をとりまとめる浪士取扱に就任した松平忠敏もその類であろう。松平主税助や上総介(かずさのすけ)として知られる人物である。
彼が長沢松平家の出身であり当主の地位を継いだのは事実であるが、彼が徳川家康の六男、松平忠輝(ただてる)の血を継ぐというのは怪しい。しかし、新徴組支配を命じられた主税助は、京の浪士たち、なかでも新選組の近藤勇や土方歳三(ひじかた・としぞう)などの活躍と二重写しになって高貴な“家門”として人気を呼んだのだろう。
長沢松平という家系が実にスター伝説をつくりやすい仕掛けになっていた。江戸幕府が開かれてまもなくその家の養子となった松平忠輝は、伊達政宗の娘五郎八(いろは)を妻に迎え前途洋々にも見えながら、兄の将軍秀忠に嫌われて改易(かいえき)されてしまった。
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しかし、忠輝には別に娘がいたらしく、分家の人物が彼女を迎えて長沢松平家を再興したとされるが、幕府はこの流れを嫌い、公に認められたのは享保4(1719)年のことらしい。しかも無易(むろく)であり、どうにか幕府から俸禄が下されたのは天保5(1834)年であった。
それも10人扶持(ぶち)だったというから御家人の軽輩身分くらいの待遇であった。このあたりが佐々木味津三(みつぞう)の小説『旗本退屈男』の「ぐずり松平」の殿様のモデルになった所以(ゆえん)であろう。東海道は三河国長沢村(現在の愛知県豊川市)に陣屋を構える由緒正しき貧乏殿様の松平源七郎が、将軍家からの書き付けを根拠に道中往還の大名家から石高相応の貢物(こうもつ)をせしめとる話である。
退屈男の早乙女主水之介(もんどのすけ)は源七郎のために、薩摩の島津家から3万両を葵の御紋と口舌でまんまと取り立てた。もとより源七郎は実在の人物でなく、忠輝と同じように兄の将軍家光に盾突いて改易された駿府藩主、徳川忠長(ただなが)の伝説上の長男なる長七郎の名からヒントを得たものだろう。しかし現代ともなれば長七郎の実在自体が疑わしい。ともかく、この不遇の名跡には、どこか歴史伝説をつくらせる魅力があったのだろう。
主税助忠敏はこの長沢松平家当主親芳の三男として文政元(1818)年に長沢に生まれ、後に兄の忠道の養子となって家督を継いだのである。
天保13(1842)年に江戸へ出たというから、貴種とはいえ都市型の柔弱な殿様ではなかった。幼少から柳剛流剣術を修め、後には心形刀流(しんぎょうとうりゅう)の伊庭(いば)軍兵衛にも学んだようだが、近藤勇ら浪士のように本物の剣士だったわけではないだろう。
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文久3(1863)年正月に講武所の剣術師範役並に昇進し、上総介に任官して80人扶持を給されたあたりからやや生活も安定しはじめる。同年の将軍家茂上洛に際し、治安が悪化した京都での警護役として募った浪士組を指揮する浪士取扱の役にも任じられたが、集まった過激な面々を見て何らかの不都合を感じたためか、この職は早々に辞している。その後、大政奉還後の慶応4(1868)年に2千石をもらう小普請支配となったのが家運の絶頂であった。
血筋の割には恵まれず
主税助は血筋や家格の割には恵まれない生涯を過ごした。封建社会でも家柄だけでは何ともならない不条理が作用して、禄高や公職に恵まれない才人もいたのである。
後世の時代小説家たちは、その家系を忠長や長七郎の伝説と知ってか知らでか混同し、また貴種にしては達者だった剣術の才を近藤や土方レベルの腕前と思いこみ、一大スターに仕立て上げたのである。これも幕末という動乱の時代が背景になければ起こりえなかったことだ。
つくられた伝説や思い込みも、政治家にとっては大切な武器であろう。ただし行き過ぎると、“宇宙人”などと自他ともに面白がった末に、日本の国を危うくしかねない“貴種”政治家も現れる。
いつの時代でも、育ちと実力が整合して、胆力も兼備する政治のリーダーを見いだすのはむずかしいことなのだ。(やまうち まさゆき)
◇
【プロフィル】松平主税助
まつだいら・ちからのすけ 本名は忠敏(ただとし)。文政元(1818)年、三河国(愛知県)生まれ。長沢松平家の当主となり、天保13(1842)年に江戸に出る。安政3(1856)年、講武所剣術教授方。文久2年12月(1863年1月)、浪士取扱に就任したが、翌3年に辞任。慶応4(1868)年、小普請支配。明治15(1882)年、死去。
【決断の日本史】
(109)1868年9月22日 会津藩、降伏す
京都守護職・松平容保の意地
会津23万石の第9代藩主、松平容保(かたもり)(1835~93年)ほど維新動乱の悲劇を体験した人物はいないのではないか。文久2(1862)年、京都の治安を担う「京都守護職(しゅごしょく)」が設けられると、その任に就いた。重臣たちは「薪を負い火中に飛び込むつもりでしょうか」と大反対した。
当時の京都は尊王攘夷(じょうい)を叫ぶ志士たちが集結し、暗殺や略奪が横行する無法地帯となっていた。容保は千人の家臣団のほか新撰組も配下に置き約5年間、難しい職を務めた。働きぶりは孝明天皇からも深く信頼された。
しかし、薩摩・長州の同盟により倒幕という大きな流れができあがった。「鳥羽・伏見の戦い」で敗れた容保は最後の将軍、徳川慶喜とともに江戸へ逃げ帰る。慶喜がひたすら恭順の姿勢を示したのに対し、容保は徹底抗戦の意思を捨てず、会津に戻った。
会津は藩祖・保科正之が徳川家光の異母弟にあたり、「将軍家への忠勤」を藩是(はんぜ)としていた。その将軍が降伏したのに、容保はなぜ矛(ほこ)を収めなかったのだろう。彼の目には、薩長勢力が天下の大権を私物化しているとしか映らず、許せなかったのではないか。
明治元(1868)年8月23日、新政府軍が会津に攻め込んだ。容保は藩士ら約5千人とともに鶴ケ城(つるがじょう)に籠もった。少年兵が自刃した白虎隊の悲劇などは知られる通りである。
新政府軍約3万の猛攻の前に、籠城軍はよく耐えた。しかし1カ月後の9月22日、容保は降伏を申し出た。京都時代以降、戊辰(ぼしん)戦争での会津藩の死者は約2500人にものぼる。
将軍に裏切られ、「朝敵」の不名誉も受けた容保だったがのち許され、東照宮宮司などを務めた。しかし自らの思いを口にすることはなく、藩士らの菩提(ぼだい)を弔いつつ、明治26年12月5日、59歳で亡くなった。(渡部裕明)
江戸の町のB級グルメは?
江戸の四大グルメといわれた、うなぎ、そば、天ぷら、すし。
これらは元々、町の屋台で売られたものでした。つまり、B級グルメの出身だったのです。
うなぎは、万葉集にも登場する、古くからの食べ物です。江戸の初期には、うなぎを丸ごと串刺しにして、火であぶったものを屋台で売っていました。脂っこくて、まずいのですが、「精がつくから」と主に肉体労働に従事する人たちが食べていました。
それが、江戸中期に「蒲(かば」焼き」という調理法が考案され、さらに「土用の丑(うし)の日」(平賀源内の発案と言われていますが、確証はありません)が定着したため、爆発的に普及したのです。B級屋台を卒業して、特Aクラスのうなぎ専門店へ。文字通り、うなぎ登りの出世です。
落語の「時そば」に登場するのは、そばの屋台です。二八の16文で売っていたので、通称「二八そば」。当時のそば1杯は、現在よりもかなり量が少ないものだったようで、メーンの食事というよりも、おやつ、あるいは間食という位置づけです。大きな商家の奉公人や、夜鷹などが夜中に小腹を満たすのに絶好の軽食でした。
天ぷらや、すしも、始まりは屋台のメニューでした。揚げたての天ぷらや、目の前でにぎってもらうすしは、気の短い江戸っ子にぴったり。早くて安直なファストフードだったようです。
ただ、どちらも幕末には、料理店、専門店のメニューに加わり、あっという間に、庶民には手の届かない高級料理になってしまいました。
江戸のB級グルメは、そのほとんどが、屋台から生まれたものでした。
(編集委員・長井好弘)
エンターテインメント・海外
「壬生の狼」ロシアを駆け巡る
2月6日は演劇「壬生のオオカミ」の誕生日です。この作品の初演はちょうど2年前にニージニー・ノブゴロドで行われた。
ニージニー・ノブゴロドは、ヴォルガ川とオカ川が合流する場所に位置する。壬生は、前世紀の中ごろまで日本の都だった京都の郊外に位置地する場所となっている。まさにこの京都で、江戸幕府と尊皇派が激しい戦いを繰り広げた。新選組は将軍を守護するために集められた若い侍たちだった。新選組は「壬生の狼」との別名を取っていた。
遠い日本の遠い昔の出来事にロシアの若者が関心を持つのは不思議なことだ。皮膚科医のアラ・グリゴリエワさんと技師のエレーナ・ペレヴェルタイロさんは、ヘリガ・エン・ケンチとエニドという名前のもと、演奏家と若者向けフェスティバルのオーガナイザーを務め、個性的な音楽劇を作り上げた。この音楽劇は、日本の宝塚と芸者と舞妓の舞台をもとにして作られている。このチャンバラを含む音楽劇は、ロシア国内の多くの都市で大成功を収めた。インターネットにはこの劇のファンサイトまで作成された。
このビデオの提供者はヘリガ・エン・ケンチ
「壬生の狼」公演2周年を記念して、ヘリガ・エン・ケンチさんは「ロシアの声」の記者、ヴェロニカ・クリモワのインタビューに答えた。
「ヘリガさん、このお芝居の特徴はなんだと思いますか?」
「『壬生の狼』は音楽劇です。上演時間は2時間で、19世紀の幕末の日本でおきた史実に基づいて構成されています。この劇のもっとも重要なテーマは「誠」です。すべての登場人物には、自分の誠と正義の考えがあります。でも、彼らは遅から早かれ、運命を決する決断を下し、難しい選択をしなければなりません。ある者は、大義のために自身の誠を曲げ、ある者はその反対に、死を選びます。そのどちらが正しいのかは、観客が決めることです。
私たちの演劇では、女性がすべての役を演じます。これは、ロシアの演劇の伝統には背きますが、日本の演劇からヒントを得た演出です。
この劇の演出は、京都の「都踊り」から直接的な影響を受けています。幕が開くと、女性の衣装を身に着けた俳優が、劇の歴史的背景を物語り、これから上演される場面について観客に語ります。そして、その間に、女性の衣装を着た何人かの俳優は、様式的な男性の衣装に着替え、物語の始まりが様式的に示されます。」
「観客の『壬生の狼』への反応はいかがですか?」
「この劇は2年間上演されていますが、その間にファンクラブができて、ファンたちは毎回の上演に通い、感想を書き、似顔絵を描き、劇のモチーフをもとにしたヴィデオクリップを作成してくれています。毎年私たちは大晦日に観客の創作作品のコンクールを行っています。もちろん私たちは自分たちがプロの劇団だと名乗るつもりはありませんし、まだまだ練習を積まなければならないと思っていますが、今既に達成していることを誇りに思っています。
今日、ロシアには幕末に関心を持つ人が増えており、情報を探したり、翻訳を発表したりしています。そして、それらの人々の多くは、ミュージカル「壬生の狼」を観てから幕末に関心を持ったと話しています。」
「坂本竜馬に関する演劇を準備中だと伺いましたが。」
「3月10日にモスクワで、幕末を特集したフェスティバルを開催することを計画中です。このフェスティバルでは、幕末のファンが出会い、交流し、知識を交換し、舞台に出演することが可能です。私たちのミュージカル「壬生の狼」も上演予定ですし、新作品も公開に向けて現在準備中です。新作品は「袖の中の龍」と名付けられており、幕末の志士、坂本竜馬に捧げられています。
「壬生の狼」の初演の時から、観客から、「どうして坂本竜馬はでてこないんですか?」との質問がありました。そうしたとき、私たちは、坂本竜馬は日本を大きく変えた人物なので、別個の作品で取り上げますと答えてきました。私たちの観客はとうとうこの偉大な人物を舞台で見ることができるのです。
「袖の中の狼」では、「壬生の狼」とは異なる演出方法が採られます。この新しい作品を私たちの常連の観客が気に入ってくれて、さらに新しい観客が集まることを期待しています。」
手塚治虫「陽だまりの樹」市原隼人&成宮寛貴主演で実写化
手塚治虫の「陽だまりの樹」が実写化される。NHK BSプレミアムのTVドラマとして、4月から放送が始まる予定だ。
「陽だまりの樹」の舞台は幕末。開国、戊辰戦争15 件、明治維新と大変革の時代に、友情で結ばれた対照的な2人の若者を描いた時代劇だ。主役の伊武谷万二郎役は市原隼人、手塚の曽祖父に当たる手塚良庵役は成宮寛貴が演じる。
そのほかにも、おせき役は黒川芽以、藤田東湖役は津川雅彦、伊武谷千三郎役は西岡徳馬、おとね役は池上季実子、手塚良仙役は笹野高史、お中役は古手川祐子、おつね役は大塚シノブ、お品役は笛木優子、綾役は大塚千弘と発表された。
上川隆也×吉川晃司 W主演で手塚マンガを舞台化
手塚治虫の長編歴史漫画の代表作として知られる『陽だまりの樹』が、上川隆也と吉川晃司のダブル主演で上演される。ふたりの共演は今回が初めてで、吉川はストレートプレイ初挑戦となる。今年4月の上演に先立ち、1月19日に制作発表記者会見が行われ、意気込みを語った。
『陽だまりの樹』チケット情報
『陽だまりの樹』は、テレビアニメ化や過去4回の舞台版をはじめ、数多く上演されている作品。太平の世の中にあり、いつの間にか内部が腐ってしまった徳川幕府が終わりを迎えようとしている幕末の時代に、エリートだが夢想家でノンポリな医者の手塚良庵(上川)と、無骨で真面目な性格で模範的な武士の伊武谷万二郎(吉川)の、対照的なふたりが絆を深めながら混乱の時代を生き抜く物語だ。種痘所開設や黒船来航、戊辰戦争、西南戦争と激動する時代の中で、理想と現実にもがき苦しみながらも精一杯生きるふたりの姿が描かれる。
女にだらしなく情に厚い良庵を演じる上川は「こういった軟派な役がらは、実は今まであまりやらせてもらったことがなく、新鮮な気持ちでお受けしました。僕は殺陣もなく体力的な心配はありませんので、良庵の人となりをしっかり考えながらやってみたい」と語った。自身の役について質問を受けた吉川は「知力面は上川さんにおまかせして、僕は体力面かなと。セリフが少ないと(下手が)バレなくていいな」と冗談をとばしつつも「ミュージカルの経験はあるが、ストレートなお芝居は初めてなので、とにかく無心で真っ白なキャンバスとして余計なものを持ちこまないようにしたい。練習では恥をかきにいけることが嬉しいし、ありがたい。胸をお借りして学ばせてもらう」と謙虚な姿勢をみせた。そんな吉川について上川は「何をしてくれるかの方が楽しみ。他にも経験豊かな役者が揃いますが、皆さんが刺激を受けるのはやっぱり吉川さんからだろうと思います」とコメント。また、初共演については「僕とは同い年なので、舞台の上以外でのコミュニケーションも楽しみです。同じ時代感を持っているというのは、きっと舞台にも現れてくるでしょうね。主に音楽をやってこられた吉川さんと、芝居しかやってこなかった僕とで生まれる異文化交流もあるでしょうし、共通する部分と異なった部分からのハイブリッド感が出ればいいなと思っています」と期待を語った。
現代日本にも通じる激動の時代背景で展開する本作。舞台経験の豊富な上川と、音楽での実績をもつ吉川。ジャンルは違えど生のステージを得意とするふたりが、手塚マンガをどのようなコンビネーションで舞台化するのか見ものだ。
東京公演は4月13日(金)から23日(月)まで東京・サンシャイン劇場、大阪公演は5月4日(金・祝)から20日(日)まで新歌舞伎座、名古屋公演は5月24日(木)から27日(日)まで中日劇場で上演。チケットは東京・大阪公演は1月28日(土)10:00より、名古屋公演は3月26日(月)より発売開始。
昨日書店に立ち寄って、こんなものを見つけました。
新選組検定
異説も多い新選組の歴史で検定がどこまで成り立つのかも興味あり、今日がインターネット割引の最終日でもあり、申し込んでみました。記憶力ががた落ちで暗記物には自信まったくありませんが、まずは体験してみます。
山口
山県有朋遺稿など復刻出版
長崎
幕末のゲベール銃初公開 まちなか龍馬館
エンターテインメント
陽だまりの樹 : 手塚治虫の名作 市原隼人主演でドラマ化 成宮寛貴が初共演
乙女ゲーム業界のウラに迫る
アイディアファクトリーが語る、『オトメイト』作品製作背景と乙女の"萌え"トレンド
新選組検定
異説も多い新選組の歴史で検定がどこまで成り立つのかも興味あり、今日がインターネット割引の最終日でもあり、申し込んでみました。記憶力ががた落ちで暗記物には自信まったくありませんが、まずは体験してみます。
山口
山県有朋遺稿など復刻出版
幕末・明治維新史に関する書籍を中心に扱うマツノ書店(山口県周南市)は、維新の元勲、山県有朋(1838~1922年)の戊辰戦争手記などの著作をまとめた『山県公遺稿・こしのやまかぜ』(1万2千円)など3冊を出版する。いずれも限定300部。『山県公遺稿・こしのやまかぜ』は昭和54年に東京大学出版会から原本が刊行され、古書店で数万円の値が付く入手困難本。
ほかの2冊は、池田屋事件で新選組と斬り結んで死んだ松下村塾の俊才の手紙や日記を集めた『吉田年麻呂史料』(1万8千円)、維新三傑の一人、木戸孝允について明治30年という早い時期に刊行されたエピソード満載の本格的人物伝『松菊余影』(7千円)。
今回の3冊については、20日までに予約すると2割程度割引した価格で購入できる。同書店(電)0834・21・2195。
長崎
幕末のゲベール銃初公開 まちなか龍馬館
長崎の幕末の歴史を紹介する「長崎まちなか龍馬館」(長崎市浜町)に、坂本龍馬率いる亀山社中と英国商人トーマス・ブレイク・グラバーが取引したものと同型の洋式小銃「ゲベール銃」(長さ約1・7メートル)がお目見えした。同館が閉館する3月末まで展示される。
龍馬は1865年、江戸幕府と対立し近代的な洋式船や武器の購入に苦慮していた長州藩のために、グラバーから薩摩藩名義で蒸気船ユニオン号を購入。同時に7300丁のゲベール銃もあっせんし、両藩の和解と薩長同盟を実現させた。
ゲベール銃は江戸末期に大量に輸入され、各地の内戦に使われた。展示されているゲベール銃はグラバー園(同市南山手町)に長年保管されていたが、生産国や詳しい入手経路は分からず、今まで公開されたことはなかったという。
このほか、龍馬を支援した幕末長崎の豪商で、篆刻(てんこく)家としても知られた小曽根乾堂が、明治初めに手掛けた天皇の印章「御璽(ぎょじ)」の印影なども展示物に新たに加わった。
問い合わせは長崎まちなか龍馬館(電095・821・2112)。
エンターテインメント
陽だまりの樹 : 手塚治虫の名作 市原隼人主演でドラマ化 成宮寛貴が初共演
幕末を舞台とした手塚治虫さんの名作マンガ「陽だまりの樹」が、俳優の市原隼人さん主演で、4月からNHKの衛星放送チャンネル「BSプレミアム」のBS時代劇枠でテレビドラマ化されることが15日、明らかになった。初の時代劇主演となる市原さんは、武骨で一本気な武士・伊武谷万二郎を演じ、万二郎と“恋敵”となる原作者の手塚さんの曽祖父で蘭方医・手塚良庵役で俳優の成宮寛貴さんが初共演する。
市原さんは、万二郎を演じることについて、「改革を志す武士の生き様と葛藤、不器用だか真面目に物事をとらえ、考える姿に魅了され、殺陣の見せ方、集中、緊張感を大切にしています」と話し「日本人としてとても光栄な経験をさせていただける機会であり、現在を生きている皆さまに今の時代ができる前の自分の生まれた国の歴史や心構えを伝えたいと同時に自分自身も積極的に学んで生きたいと思います」と意気込んでいる。
原作は、81~86年に「ビッグコミック」(小学館)で連載された手塚さんの代表作の一つで、00年にはテレビアニメ化されている。愚直なほど幕府に忠誠を尽くす万二郎と、女にだらしないが、情に厚い良庵が、幕末、戊辰戦争、明治維新という時代の流れの中、藤田東湖、福沢諭吉、西郷隆盛ら歴史上の人物たちとの交流を経て、成長し、友情を深めていく姿を描く。2人が思いを寄せるおせき役に女優の黒川芽以さん、万二郎が敬愛する水戸藩の政治家・藤田東湖役として俳優の津川雅彦さんが登場。万二郎の父・千三郎を俳優の西岡徳馬さん、母・おとねを女優の池上季実子さん、良庵の父・良仙を俳優の笹野高史さん、母・お中を女優の古手川祐子さんが演じる。
成宮さんは「市原君との共演は初めてですが、いい形で化学変化を起こし、万ニ郎と良庵のライバルでありつつ戦友という関係性を表現できればと思います」と意気込み、「これからの自分の俳優人生において、糧となる作品になると思います」と作品への思いを語っている。
ドラマの制作は19日にスタートし、放送は4月を予定している。(毎日新聞デジタル)
乙女ゲーム業界のウラに迫る
アイディアファクトリーが語る、『オトメイト』作品製作背景と乙女の"萌え"トレンド
今やエンタメ業界からも注目される年末の一大イベントとなった「コミックマーケット81(コミケ81)」(2011年12月29~31日)の参加者総数が50万人を記録した。震災・超円高により海外から遠征する参加者や「本番の最終日」と呼ばれる3日目の来場者数は減少したものの、女性向けサークルが数多く参加・出展した初日と2日目の動員数はトータルで昨年より1万人増加したという。
ところがゲーム好き女子にとって、今年の冬の本命は、コミケ会場の外にあった模様。新宿マルイワン(2011年12月30日に終了)と京都マルイ(1月6日~9日まで)にて開催の、女性向け恋愛ゲームブランド「オトメイト」(アイディアファクトリー株式会社)のイベント『薄桜鬼 冬の市&オトメイト ウィンターマーケット』だ。新宿マルイワンでは、シュシュやバッグチャームなどが入った数量限定の「トレンドグッズセット」が早くも完売し、異例の追加再販となった。また、同社の人気タイトル『薄桜鬼』は居酒屋チェーン・はなの舞とコラボメニューを展開、「隊士カクテル」のほか「薄桜鬼コース」までそろえた充実ぶり。まさに「オタ友(オタク友達)オンリー女子会」対応と呼べそうだ。
乙女ゲーム業界の寵児となった「オトメイト」は創立以来、半期に3~4作品のハイペースで女性向けゲームをリリースしているブランドだ。中でも2008年9月の発売から現在もなお人気の高い『薄桜鬼』シリーズは、業界に新風を吹き込んだだけでなく、コミック・小説・ドラマCDなどのメディアミックス展開や、2010年のTVアニメ『薄桜鬼』『薄桜鬼 碧血録』放映によって、ゲームファン以外にも広く認知されるタイトルとなった。また、2012年2月には最新作『薄桜鬼 幕末無双録』(PSP対応)の発売も控えている。
今回はオトメイト作品を手掛けるアイディアファクトリー(株)のプロデューサー氏に、乙女ゲーム業界の動向から女性の萌えの変遷、そして今後の展望と勝算をうかがった。
■メディアミックスが大きく当たった『薄桜鬼』
――『薄桜鬼』シリーズ以前と以降で、乙女ゲーム市場を取り巻く環境は変わったのでしょうか?
IFプロデューサー氏 身近なところだと、弊社から発売される乙女ゲームのタイトル数が増えましたね(笑)。というのも、それまで弊社は多くの乙女ゲームをコンスタントにリリースしていたのですが、他社様からも多くの乙女ゲームが開発されるようになり、それに比例して弊社のリリースタイトル数も増える結果になりました。よく、業界の転機として『薄桜鬼』が取り上げられるのですが、単純に乙女ゲームという市場が一般に認知され始めた時期に『薄桜鬼』を発表できたという幸運も手伝っていると思います(笑)。"オタク志向"の女性層が徐々に世間に広まってきた時期もこのあたりだと思いますし。
――「オトメイト」の歴史や、女性向けゲームブランドを立ち上げたきっかけを教えてください。
IFプロデューサー氏 2005年に発売されました『ふしぎ遊戯 玄武開伝 外伝 鏡の巫女』が、弊社で最初の女性向けタイトルですね。その後『星の降る刻』をリリースし、だんだんと女性向けゲームのノウハウや市場がわかってきました。そして『緋色の欠片』がリリースされます。『緋色の欠片』も、初めはまずまずのセールスでしたが、同タイトルのファンディスクの発売をきっかけに人気が伸びてきた印象です。そこからタイトル数を着々と増やしていき、その中で『薄桜鬼』が発売され、現在の体制になりました。
――「オトメイト」ブランドが得意とするゲームジャンルや世界観、他社ブランドとの差別化で気を付けている点は?
IFプロデューサー氏 「オトメイト」としては、高品質のアドベンチャーゲームをコンスタントにユーザーに供給することに気をつけています。また『薄桜鬼』シリーズや『緋色の欠片』シリーズをはじめ、長くユーザー様から愛されるシリーズタイトルが多くあるのも特徴だと思います。
また、女性に受け入れられる「ゲーム難易度」というのを、常に気にしています。弊社のブランドの特色の一つとして、コンシューマーゲームに初めて触れる女性ユーザーの方が多数おります。ですので、それらの方々にも受け入れられやすい難易度で、なおかつ従来のユーザーの方にもご満足いただける難易度、といったようにゲームバランスの絶妙な調整に力を入れております。
――『薄桜鬼』シリーズの魅力とは?
IFプロデューサー氏 『薄桜鬼』シリーズの魅力として真っ先に思いつくのが、カズキヨネ氏がデザインしたキャラクターたちです。幕末の時代を生きた新選組隊士たちの、猛々しくもあり、それでいて優美なデザインは、多くのユーザーの方の心に響いていると実感しております。それに名実共に力をお持ちである声優の方々による甘いセリフも魅力の一つです。また、ストーリーも重要な魅力の一つです。隊士たちの生き様を儚く描いた本作は、単純に読み物としても完成度が高く、女性だけでなく多くの男性にもプレイしていただきたいですね。
――オトメイト作品のファン層(ターゲットおよびコア)について教えてください。
IFプロデューサー氏 弊社のタイトルは幅広い層の女性をターゲットとしております。その中でも10代から20代の比較的若い層、特に学生が多くを占めている印象です。オトメイトの場合、さまざまなタイプの作品がございますので、タイトルによってもファン層が違いますね。
また、『薄桜鬼』のアニメ化によって男性ユーザーが増えました。そちらからはストーリーと女性キャラクターを評価していただいているようです。
――アニメ化をはじめとするメディアミックスによって、ファン層はどのくらい拡大したでしょうか?
IFプロデューサー氏 爆発的に拡大しましたね。『薄桜鬼』のアニメ化によって、"普段アニメは見るけどゲームはしない"という女子層が乙女ゲームへ興味を持っていただけたことが大きかったです。アニメを見てゲームの『薄桜鬼』をプレイしていただき、その後、他の「オトメイト」タイトルにも興味を持っていただくことができました。
■乙女の萌えトレンドと、ゲームブランド「オトメイト」の挑戦
――女性ユーザーから求められる「萌え」に流行はあると感じられていますか?
IFプロデューサー氏 女性向けキャラクターで流行の変化はあまり感じられませんね。昔も今もクールなキャラクターやドSキャラは人気がありますし。ただ今は、キャラクターの個性が一つだと飽きられてしまうので、「○○で××」のような「複合キャラクター」ですね。「普段はだらしないのに、いざという時は決める」や「普段は優しいのに、私にだけは鬼畜」のようなキャラクターは人気がある印象です。
――個人的に注目されている女性向けの「萌え」トレンドはありますか?
IFプロデューサー氏 ここ最近「オヤジ萌え」の女性が増えてきていると思います。オトメイト作品でも攻略キャラクターとしてオヤジキャラが何人かいますが、どのキャラクターも人気がありますね。ただ設定が30代のキャラクターは、それだけでオヤジキャラ認定されているようで、周りの男性スタッフはなんとも複雑な気持ちのようです(笑)。
――『薄桜鬼』など既にケータイアプリ化もされたタイトルもありますが、携帯電話やスマートフォン用アプリに対する可能性は感じていますか?
IFプロデューサー氏 モバイルコンテンツには多くの可能性を感じますね。現在進行形でスマートフォン市場が活性化していますので、今後も女性向けのコンテンツを発表していきたいです。やはり、携帯電話は今や生活の中でなくてはならないアイテムですので、そこに乙女ゲームが参入することは、業界にとっても重要なことだと思います。
――今後のリリース作品で挑戦してみたいことがあれば教えてください。
IFプロデューサー氏 『薄桜鬼』に続く、爆発的ヒットタイトルを生み出したいです。"アニメ化"はヒットの起爆剤として非常に有効な手段ですので、現在発売中のタイトルがアニメ化できればいいですね(笑)。また、2012年の春先から新作タイトルが多くリリースされるので、未来のヒットタイトルがこの中から生まれるのでは? とひそかに期待もしております(笑)。
――発売間近の『薄桜鬼 幕末無双録』への意気込みをひと言お願いします。
IFプロデューサー氏 シリーズ初のアクションゲームです。今回のタイトルで、初めてアクションゲームに触れるユーザーの方もいると思いますが、すべての女性ユーザーに受け入れられるゲーム難易度で調整しておりますので「アクションゲームは......」などと物おじせずに、ぜひプレイしてみてください。また、『薄桜鬼』本編とは違う"もしも"のストーリーが楽しめるのが特徴です。本作オリジナルの新キャラクター「西郷隆盛(CV:置鮎龍太郎)」と「桂小五郎(CV:KENN)」の二人も登場します。攘夷派の志士たちの登場で、薄桜鬼の物語がどう変わっていくのか、楽しんでください。
(※編集部注:「CV」とは、キャラクターの声を演じる声優のこと)
硬派なやり込み型ゲームが流行したのも今は昔。気になるストーリーの中でイケメンからささやかれる「甘いセリフ」のご褒美に加えて、先に進みやすい難易度で最後まで遊べるゲームが多くのリピーターに支持されていたのだ。また、最新作を携帯ゲーム機対応ソフトのみで発売する点や、モバイル対応ソフトへの意欲からも、それらが"好きなものといつも一緒にいたい"という女心をくすぐる要素のひとつだということは想像に難くない。だが"財布の紐が堅い"とされる女性たちが、どのハード(ゲーム機)やキャリア(携帯電話端末)を支持するのかによって、乙女ゲーム業界の展開は大きく変わりそうだ。また「オヤジ萌え」という新たな萌えトレンドはどんな乙女ゲームに結実していくのかーー乙女ゲームの世界はまだまだ成長していきそうだ。
(山口小夏)
『薄桜鬼 ~幕末無双録~(通常版) 特典 設定ガイドブック付き』(PSP)
最新作『薄桜鬼 ~幕末無双録~』。薩長土を中心とした新政府軍と、徳川家臣を中心とした旧幕府軍との熾烈な争いが描かれる。
年明けて最初の幕末ニュースです。このブログも8年超えます。更新頻度は以前ほど頻繁ではありませんが、今年もよろしくお願いします。
北海道
奉行所写真 田本研造が撮った 中央図書館に本人示す台紙
「箱館奉行所」防寒強化 じゅうたんやプラスチック板設置
12月に来訪した時には、前より随分と過ごしやすくなってました。
「高龍寺」国登録有形文化財に
「箱館奉行所」が道赤レンガ建築賞
三重
「ええじゃないか」と社会の不安を跳ね返そうと江戸幕末の伊勢参り再現
ええじゃないか!華のお伊勢参り:きょう再現、和装の参加者募集 /三重
京都
観光振興で相互交流 京都市と会津若松市 3月に「宣言」
香川
「幕末志士」倉庫で語ろう
龍馬伝・幕末志士社中:来館者10万人に 群馬の白波瀬さん夫妻に記念品 /高知
鹿児島
益満休之助の戦傷死
北海道
奉行所写真 田本研造が撮った 中央図書館に本人示す台紙
函館市の五稜郭にある箱館奉行所の復元の決め手となった古写真の撮影者が、函館の写真文化を築いた一人、田本研造(1832~1912年)である可能性が強まった。函館市中央図書館で台紙付きの古写真が見つかり、専門機関でも確認。関係者は「撮影者を示す原物が出てきたのは初めてで今後の研究に弾みがつく。写真の価値や田本の功績が改めて見直されるのでは」と喜んでいる。来る2012年は田本没後100年―。
箱館奉行所の復元は、1983年からの五稜郭跡復元整備の一環で同年に試掘調査が始まり、2006年に復元整備工事を開始。市はその際、フランスで見つかり、戦前に日本へ戻った古写真を外観設計の参考とした。撮影者を割り出す根拠がなく、フランス人説などとこれまで謎だった。
一方、台紙付きの古写真は、横浜市の小森恵己子さん(81)が2009年7月、同図書館に寄贈した複数の写真から見つかった。明治初期に函館で商人をしていた先祖から受け継いだものという。
2枚の写真は非常に似ており、デジタル画像解析の結果、撮影角度や陰影などを含め全く同じものであることが分かった。台紙は縦6・3㌢×横10㌢で「田本研造製」の朱印が読み取れる。写真はフランスで見つかったものより鮮明で両側が数㌢長い。
五稜郭跡復元整備に初期から関わる、市立函館博物館の田原良信館長は「自然に考えて田本撮影でほぼ間違いない」とし、文献から1868(慶応4)年に撮影された可能性が高いとみる。雪が写っており、同年10月26日に榎本武揚(蝦夷地仮政権総裁)や土方歳三(新選組副長)らが五稜郭を占拠した後が有力で「田本が榎本や土方を撮影したという記録があり、出張撮影の際に頼まれて奉行所にカメラを向けた可能性もある。田本が函館で写真館を創業する前に当たることから、事実とすれば写真活動の初期の様子を見てとれる貴重なもの」と話す。
同図書館では、新しく見つかった古写真を新年早々に一般公開する予定で、主任主事の奥野進さんは「田本没後100年に公開できることに縁を感じ、この写真の意味合い、函館にどう関係してきたかを考えてもらえるきっかけになれば」と期待する。
また道立函館美術館でも東京都写真美術館などの協力で13年に、田本作品を目玉の一つとする展覧会を開催する予定で、主任学芸員の大下智一さんは「台紙が意味するのは田本がこの写真に深く関わっていたという事実。展覧会開催への心構えも変わってくる」と準備に余念がない。 田本直系の写真館「谷杉写真館」(美原3)の谷杉アキラさんは「台紙の話を聞いて、改めて写真の力を感じた。田本が残してくれた財産、功績に敬意を示したい」と声を張る。
そして、田本の子孫に当たる市内の自営業、田本英司さん(53)は奉行所の写真撮影者について「先祖の生きた証しが今の函館の魅力づくりに役立っていることが何より」と話している。 ◆田本研造
三重県熊野市生まれ。幕府の通訳として1859年に長崎から来函後、凍傷で片足を切断した。治療したロシア人医師ゼレンスキーから写真技術を学び、66(慶応2)年ごろから写真師として活動。69(明治2)年に道内初の写真館を函館に創設、明治政府の依頼で北海道開拓の記録写真など多くの映像資料を残した。
「箱館奉行所」防寒強化 じゅうたんやプラスチック板設置
昨年7月、国の特別史跡・五稜郭跡に復元オープンした「箱館奉行所」(五稜郭町44)は、昨冬観光客からの「館内が寒い」といった苦情を受け、防寒対策を強化している。風の通り道を防いだり、通路にじゅうたんを敷くなど、より快適な見学ができるようになった。
同所は幕末に建てられた当時の工法で忠実に再現しているため、構造上、外の気温に左右されやすい。「歴史発見ゾーン」や一部の通路などには床暖房が入っているが、当時の空間を忠実に復元した「再現ゾーン」の部屋には10度以下になるところもあった。
そのため、同所は「可能な限り、観光客の要望に応えよう」と、今月上旬に床暖房の入っていない主な通路に厚さ約1㌢のじゅうたんを敷いた。これにより、足元の寒さを軽減した。
先月には、寒風の通り道だった同ゾーンの天井開口部に透明なプラスチックの「ポリカーボネート」材質の板を設置した。同所の沼崎孝男館長代行は「苦情は昨年度と比べて、格段に少なくなった」と手ごたえを口にする。
また「暗い」という苦情にも対応。冬期間、再現ゾーンの外側通路は雨戸を閉めなければならず日光が遮られていたが、プラスチック板を2カ所はめ込むことで光を取り込んだ。
沼崎館長代行は「再現ゾーンなどは床暖房を入れることができないため、寒い季節は厚めの靴下をはいて来館を」と呼び掛ける。
市教委は「再現ゾーンの通路にはプラスチック板をもう1カ所設置する予定。今後も施設のコンセプトを守りつつ、来館者が満足できるよう工夫していきたい」としている。
12月に来訪した時には、前より随分と過ごしやすくなってました。
「高龍寺」国登録有形文化財に
函館市船見町21にある市内最古の曹洞宗寺院「高龍寺」所有の建造物10件が9日、国の文化審議会で文部科学大臣に答申され、登録有形文化財への登録が決まった。函館では6年ぶりの登録で、市内の登録件数は合わせて17件に。永井正人住職は「登録は昨年4月に亡くなった先代(永井康人前住職)の思いでもあった。先代も喜んでいると思う」と話している。
登録は建設後50年が経過し、①国土の歴史的景観に寄与している②造形の規範となっている③再現することが容易でない―ことが基準。市は7月に登録へ向けた書類を文化庁に提出し、その後文化庁から文化審議会に諮問し、同日答申された。
高龍寺は1899年ごろに建築された本堂や、1907年の火災後に新しく建てられた山門、金毘羅堂などで構成。道有形文化財の「釈迦涅槃図(しゃかねはんず)」を所蔵しているほか、毎年10月に開催する「金毘羅尊天例大祭」など、年間を通して多彩な行事が行われている。見学は無料。
登録されたうち、「本堂」は良質なケヤキを使用した太い柱と梁(はり)で支え、力強い内部空間をつくる。周囲に下屋と縁をめぐらせ、東西に回廊を付属させる。堂内は9室あり、正面の向拝などには立体的で精巧な彫刻を飾るなど、大規模かつ装飾豊かな点が評価された。
「山門及び袖塀」は境内正面に建つ木造八脚門で、門の左右には桟瓦葺の袖塀を延ばしている。東北以北最大の山門で、雲龍や獅子、花鳥などの彫刻が施されるなど、意匠をこらした外観が特徴だ。
また、市内に現存する煉瓦造建築として代表的な「開山堂」や、延焼を防止するために設けられ、大火が頻発していた近代函館を象徴する「防火塀」、境内で最も装飾豊かな「金毘羅堂」などのほか、「水盤舎」「鐘楼」「宝蔵」「位牌堂」「土塀」が登録となった。
正式登録は数カ月後の登録原簿登載を経て決まる。市教委文化財課は「函館の歴史を物語るお寺が国に認められてうれしい。これからも後世に引き継がれてほしい」と祝福。永井住職は「これまでと同じように地域に密着したお寺であり続けたい」と話している。
「箱館奉行所」が道赤レンガ建築賞
国の特別史跡「五稜郭跡」に復元され昨年7月にオープンした「箱館奉行所」が、地域の発展に貢献する創造性豊かな建築物を対象とする北海道赤レンガ建築賞を受賞した。道南では2001年度の公立はこだて未来大学以来、10年ぶり。同館の沼崎孝男館長代行は「建築関係者もひと目見ようと訪れるほど。道を代表する建築物として認めてもらいとてもうれしい」と話している。
箱館奉行所は道内最大級の木造建築物で、総工費約28億円をかけ、4年間の工事を経て完成した。幕末当時、約2700平方メートルあった同奉行所のうち、約1000平方メートルを復元した。建物は発掘調査結果などを基に、スギやヒノキなどの材質をはじめ、細部まで忠実に復元することにこだわった。
入館者数はオープン後から今年11月末現在までで、44万3313人。生涯学習施設として道内外から修学旅行生も多く訪れ、函館観光を下支えしている。
本年度は23の応募作品があり、10月下旬から11月上旬まで行った第二次審査の現地審査などを経て受賞が決まった。現代技術を駆使した伝統的工法によって復元された点や、北海道の建築創造活動の促進に寄与したこと、函館の文化振興に貢献したことなどが選考理由となった。
市教委の山本真也教育長は「復元工事に携わった全国の職人に感謝の気持ちでいっぱい。入館者数も予想以上で、函館を代表する建築物をもっと多くの人に知ってほしい」と祝福する。
沼崎館長代行は「これまで以上に全国から観光客が来てくれるよう、魅力をさらに発信していきたい」と意気込んでいる。
三重
「ええじゃないか」と社会の不安を跳ね返そうと江戸幕末の伊勢参り再現
国会の空転、景気の停滞、東日本大震災、原発事故など今の世の人々の不安な気持ちを吹き飛ばそうと1月8日、「伊勢ええじゃない会」(石川雄一郎会長)が「ええじゃないか、ええじゃないか」と明るく騒ぎながら伊勢神宮外宮から内宮までの約3キロの距離を練り歩いた。
同会は、幕末に「ええじゃないか」「ええじゃないか」と明るく騒ぎ、社会不安を吹き飛ばそうと民衆の間から巻き起こった社会現象を再現し、明るく楽しい世にしていこうと毎年仮装による伊勢参りを実施、今回で8回を数える。
傾奇(かぶき)者や女装、忍者などに仮装し「ええじゃないか」と連呼しながら歩く集団が、内宮の門前町として栄え今も大勢の参拝客が行き交うおはらい町通りに差し掛かると、一般人も巻き込みながら楽しく「ええじゃないか、ええじゃないか」と盛り上がった。成人式を終えた新成人を見つけると取り囲み、「新成人、新成人」と掛け声で祝った。
同集団に捕まった同市出身の新成人は「社会不安だらけのニッポンだけど、社会のために何か貢献し、私たち新成人が明るい社会を作っていかなければいけないと思った。捕まってビックリしたけど、とっても良い事が起こりそう」と感想を漏らした。
ええじゃないか!華のお伊勢参り:きょう再現、和装の参加者募集 /三重
幕末に流行した熱狂的な踊り「ええじゃないか」を再現して、法被や着物の和装で伊勢神宮へにぎやかに参拝する催し「ええじゃないか!華のお伊勢参り」が8日、JR伊勢市駅前から伊勢神宮まで行われる。市民有志でつくる「伊勢ええじゃない会」(石川雄一郎会長)が参加者を募っている。
伊勢ならではの初詣スタイルを再現し、景気の停滞ムードも吹き飛ばそうと、05年から続けている。
当日は旅装束や侍姿などに仮装した人たちが午前11時にJR伊勢市駅前を出発。伊勢神宮外宮、古市街道を経て猿田彦神社、同神宮内宮までの約5キロを練り歩く。また、おはらい町通りの五十鈴塾左王舎前に午後1時ごろに集合し、成人式を済ませた若者たちにも呼び掛けて「着物でお伊勢参り」を繰り広げる。参加希望者は着物や法被など自前の和装で出発地に集合。予約不要で参加無料。問い合わせは石川会長(080・5103・0989)へ。【木村文彦】
〔三重版〕
京都
観光振興で相互交流 京都市と会津若松市 3月に「宣言」
東日本大震災で落ち込む観光の振興を目指し、京都市と福島県会津若松市が「相互交流宣言」を3月にする。両市が舞台となるNHK大河ドラマ「八重の桜」の2013年放映が決まったことを受け、両市共同の観光PRのほか、小学校間の文化・教育交流も予定している。
■学校連携も
福島県西部の会津若松市には猪苗代湖や鶴ケ城など県内有数の観光地がある。大震災による大きな被害はなく、福島第1原発からも100キロ近く離れているが、訪れる修学旅行生が9割も減少するなど観光客が大きく減っているという。
放映が決まった「八重の桜」は同志社大(京都市上京区)を創設した新島襄の妻・八重の生涯を描く作品で、八重は現在の会津若松市に生まれた。新島夫妻でつながる京都、会津若松両市が震災復興や原発災害の克服に力を合わせようと、相互交流を進めることにした。
今年3月に京都で催される「東山花灯路」に合わせて会津若松市の室井照平市長が京都を訪れ、相互交流宣言した後に特産品を展示即売する。また「八重の桜」放映にちなんだ共同観光PRを首都圏で展開する。幕末に京都守護職を務めた会津藩主・松平容保が本陣を置いた金戒光明寺(左京区)など京都市内の会津ゆかりの地を巡るツアーも企画。両市の学校をインターネット回線でつないで歴史や文化を学び合う学校間連携も行うことにしている。
会津若松市総務課は「京都市とのつながりを生かし、息の長い交流を続けたい」。京都市政策調査課も「行政間だけでなく、幅広い市民の交流につなげて復興支援にとどまらない両市の発展を目指したい」としている。
香川
「幕末志士」倉庫で語ろう
香川のファン 「志持つ人 集まって」
坂本龍馬らの複製写真を展示した多目的スペース(香川県善通寺市で)
坂本龍馬ら幕末の志士らの写真を展示した倉庫が、香川県善通寺市で話題を集めている。龍馬の大ファンという同市善通寺町、屋根工事業長田謙司さん(65)が会社倉庫を多目的スペースとして改装したもの。懇談会や同窓会などの会場として開放しており、「志を持った人たちの集まりに利用してもらえれば」と話している。
長田さんは中学3年の頃、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」を読んで龍馬の生き様に感動。その後も関係書物を読み続け、高知市の桂浜や資料館などに何度も足を運び、「異色でこんな大きな人はほかにはいない」と、魅力に取り付かれたという。
龍馬らについて語り合える場がほしいと、会社敷地内の木造2階建て倉庫1階(約100平方メートル)を一人で改装。仕事で利用しなくなった木材などを使い、約1年かけて昨年1月に完成させた。
畳敷きで壁は板張り。龍馬のほか、高杉晋作、中岡慎太郎、桂小五郎ら6人の複製写真(縦約60センチ、横約40センチ)を壁に飾り、高知市内の美術愛好家から購入した龍馬を模した陶製の像(高さ約60センチ)も配置。写真が浮かび上がるよう、照明も工夫している。
龍馬好きの知人らを集めた懇親会や同窓会などを開催してきた長田さんは「龍馬だけでなく、幕末の歴史に興味がある人たちが自由に議論してほしい」と話している。
最大約20人で利用でき、調理場も完備。使用料は相談に応じる。見学は無料。問い合わせは長田さん(090・1008・3455)。
(2012年1月8日 読売新聞)
龍馬伝・幕末志士社中:来館者10万人に 群馬の白波瀬さん夫妻に記念品 /高知
JR高知駅前の「龍馬伝」幕末志士社中の来館者が5日、10万人に達し、群馬県渋川市から訪れた会社員、白波瀬雄一さん(44)と里香さん(41)夫妻に記念品が贈られた。
白波瀬さん夫妻は、坂本龍馬の古里を見てみたいと、3日から3泊4日の予定で来県。雄一さんは「いきなり10万人目と言われてびっくりした。良い思い出になります」と笑顔。里香さんは「社中に展示されている龍馬生家のセットがリアルで感動しました」と話し、10万人目の認定証やカツオのたたきなどを受け取った。
志士社中は、県観光イベント「志国高知 龍馬ふるさと博」の目玉施設として昨年7月に開館。県龍馬ふるさと博推進協議会事務局によると、181日目の10万人達成は、当初見込みより13日遅いという。事務局は3月末までに来館者15万人を目指してPRを続けている。【倉沢仁志】
鹿児島
益満休之助の戦傷死
■斥候中の負傷で破傷風
幕末5 件維新期の薩摩藩で、隠密活動家として伊牟田いむた尚平しょうへいとともに異彩を放っているのが益満ますみつ休之助きゅうのすけ(行武ゆきたけ、一八四一~一八六八)である。
益満といえば、直木なおき三十五さんじゅうごの「南国太平記」で縦横無尽の活躍をすることで知られる。しかし、小説の舞台は高崎崩れ(いわゆるお由羅ゆら騒動)のころで、益満はまだ少年であり、明らかに時代が違うから、直木が創作したフィクションである。
益満は鹿児島城下高麗町の生まれ。父行充と母ヨシの二男である。益満家は小番こばん
の家格で御小姓組おこしょうぐみだった西郷隆盛や大久保利通などより少し上である。
慶応三(一八六七)年十二月、幕府軍により江戸の薩摩藩邸(芝本邸)が焼き打ちにあったとき、浪士隊の江戸かく乱工作を指揮していた益満は捕虜となったが、勝安芳やすよし
(のち海舟)に保護され、九死に一生を得た。
翌四年三月、東征軍が江戸に迫っているとき、益満は勝の計らいにより釈放され、旧幕府側の使者・山岡鉄太郎を駿府に先導して西郷吉之助との会見を実現、江戸開城の露払いの大役を果たしたことでも知られる。
江戸開城後の五月十五日、上野に立てこもった彰義隊しょうぎたいとの戦いが始まる。薩摩藩は西郷みずから指揮し、苦戦が予想される正面の黒門口を担当した。益満は隊外斥候せっこう役となり、自由な立場での戦況偵察の任にあたった。
早朝から始まった戦闘は激烈をきわめたが、夕刻に彰義隊の敗北で終わった。薩摩藩は彰義隊の抵抗に苦しみ、戦死者八名、負傷者四十名を出した。これは戦闘に参加した諸藩兵のなかで最多の死傷者数だった。
この負傷者四十名のうち、八名がのちに死亡したが、そのなかに益満も含まれていた。政府軍の軍医・関寛斎の日記に益満の死亡記事がある(「奥羽出張病院日記」)。「右脚下部貫通創脛骨けいこつ挫傷、テタニユスにて廿六日死す、 益満休之助」
益満は右脚のスネあたりに銃弾を受けた。テタニユスとは破傷風のことである。益満の負傷は致命傷ではなかったが、不運にも傷口から破傷風菌が入って死亡したのである(二十六日死亡は間違い)。当時、破傷風の治療法はまだなかった。不忍池しのばずのいけ近くの加賀藩邸(現・東京大学)周辺は破傷風菌が多いことで知られていたという(高山坦三「伝説史話の詮議誌」)。
負傷した益満は関が病院長をつとめる神田小川町の野戦病院(旧幕府の講武所跡)に収容された。西郷は翌十六日、負傷者を横浜の軍陣病院に搬送するよう指示するとともに、益満の負傷を知って大変心配し、配下の小荷駄こにだ方(物資・兵糧係)にその収容先を探すよう命じ、「益満だけは別にお手当下さるべく候」と書いている。西郷は益満を特別待遇で治療させようとした(「西郷隆盛全集」二)。
益満が横浜に移送されたのは二十日だったが、すでに手の施しようがなく、二日後の二十二日夕方七時に息を引き取った(「横浜軍陣病院日記」)。享年二十八歳。
戦闘中、益満がどのような行動をとり、どこで負傷したのか、信頼できる史料には記されておらず不明である。本郷の切通きりとおし坂周辺で負傷したとか、千駄木から谷中やなか
に向かう団子坂で負傷したとか諸説ある。戦闘は正面の黒門口と長州藩などの本郷方面で同時に開戦する手はずになっていたが、西郷は本郷方面がなかなか開戦しないのを気にしていた(「慶明雑録」)。もしかしたら、益満は西郷の命で本郷方面に長州藩との連絡に出かけて銃撃され、負傷したのかもしれない。
(歴史作家・桐野作人)
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立川談志家元の追悼番組@BS-TBSを見ながら書いています。
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東京
映画「幕末太陽傳」復活、盛り上がる品川 東京
旧東海道の品川宿を舞台にした映画「幕末太陽傳(でん)」(1957年)のデジタル修復版が23日、全国で公開される。公開に合わせ、品川宿のあった旧東海道沿いの商店街がキャンペーンを始めた。映画のパネル展を店で開いたり、品川の伝統野菜を使った料理を出したり。映画で品川宿に興味を持った人たちに、足を運んでもらおうという企画だ。
映画の冒頭シーン。昭和30年代の旧品川宿の様子が映る。商店街の人たちが忙しく行き交う姿が映っている。現在の東京都品川区北品川1丁目辺りだ。
この地で生まれ育った大越章光さん(49)は、生まれる前に亡くなった祖父に映画の中で初めて出会ったという。「子どもの頃、テレビかなにかで映画をやった時『これがおじいちゃんだよ』と聞かされたのを覚えている」という。
「幕末太陽傳」は地元の人たちにとって、特別な映画だという。「今も商店街にいるような、おっちょこちょいで人のいい連中が大勢出てくる。昔からそういう連中がいたんだよね、と思ってしまう映画」と大越さんは言う。
京急北品川駅から新馬場駅周辺の旧品川宿周辺の商店街は、フランキー堺や左幸子、石原裕次郎ら映画出演者が登場する旗100枚余りを掲げ、雰囲気を盛り上げている。
映画冒頭のシーンを撮影したとみられる場所は今、家庭料理を出す畳敷きのカフェ「クロモンカフェ」になっている。
店主の薄葉聖子さん(47)も地元で育った。「今も残る品川っ子気質がよく出ていて、私たちの映画と思っている人が多い」と話す。店では、地元の八百屋が復活させた江戸野菜「品川蕪(かぶ)」を使ったシチューを映画とタイアップしてメニューにのせた。「映画でも描かれた、品川の持つおもてなしのDNAを大事にしたい」と話す。
旧品川宿周辺の居酒屋やレストランなど、6店で「映画公開記念」として特別メニューを出すなどしている。7店で映画のパネルを展示している。
また、旧品川宿から少し離れた区立品川歴史館(大井6丁目)では、「幕末太陽傳に見る品川宿」と題し、映画の撮影風景などのパネルを1月29日まで展示している。
デジタル修復版は、映画を製作した日活の創立100周年記念事業の一環だ。日活は「よみがえった映画を見て旧品川宿を歩いてもらい、今も残る雰囲気を体感してほしい」と話す。
都内では、テアトル新宿、ヒューマントラストシネマ有楽町、キネカ大森で上映する。(桑山敏成)
品川区で「幕末太陽傳」映画写真展を開催
品川宿を舞台にした映画「幕末太陽傳(でん)」(昭和32年、日活)の写真パネル展が東京都品川区大井の品川歴史館で行われている
。来年1月29日まで。
日活の協力で、映画内の場面写真や出演者のフランキー堺さん、石原裕次郎さん、南田洋子さん、左幸子さんらの撮影現場写真など53点を紹介。未定稿のシナリオなども展示されている。
また、品川宿周辺の北品川本通り商店会、北品川商店街、京急新馬場商店街では、街路灯に「幕末太陽傳」のフラッグを合計約100本飾りPRしている。
「幕末太陽傳」は江戸末期の品川遊郭を舞台に、主人公の佐平次(フランキー堺)が、遊郭の人々や勤王の志士らを巻き込んで織りなす喜劇映画で川島雄三監督の代表作とされる。
開館は午前9時~午後5時(入館は午後4時30分まで)。月曜、祝日、29日~1月3日と1月10日休館。観覧料は一般100円、小中学生50円。
◇
「幕末太陽傳」のデジタル修復版が日活創立100周年記念として都内などで上映されている。
坂本龍馬ら幕末の志士がオススメするご当地カレーが発売中!
坂本龍馬や武市半平太、岡田以蔵といった幕末の志士に扮した男女6人によるご当地アイドルグループ「土佐おもてなし勤王党」。JR高知駅前の広場でダンスパフォーマンスを繰り広げたり、様々なステージイベントに出演したり、多方面で大活躍中の彼らがパッケージにデザインされた「おもてなし勤王党オフィシャルカレー」が、ただいま高知県内の土産物店やホテルで好評発売中だ。
このカレーは、現在6種類が発売されていて、坂本龍馬のパッケージは「軍鶏カレー」、武市半平太は「鰹カレー」、岩崎弥太郎は「ナスカレー」、中岡慎太郎は高知県鶏が入った「土佐ジローカレー」といったように、それぞれに地元の特産品が入っている点が特徴だ。また、いずれの商品にも「土佐おもてなし勤王党」メンバーのブロマイドが1枚ずつ付いてくるので、コンプリートを目指して全種類食べ比べてみるのも面白いかも。
なお、商品は650円と735円の2種あり、いずれもネットでの販売が予定されているので、現地まで買いに行けない人はブログなどで彼らの活動を追いつつ、商品の発売を楽しみに待っておこう。【東京ウォーカー】
ブックレビュー
新選組 永倉新八のひ孫がつくった本
浅田次郎、黒鉄ヒロシ、立川談志ら著名人、
新選組隊士らの子孫、
研究家が永倉新八を熱く語る、アンソロジー。
ひ孫だからこそ聞き出せた話が満載!
【もくじ】より抜粋
・英雄像ではない、もっと身近な新選組の魅力
……浅田次郎
・新選組に差す一筋の光明――永倉新八
……黒鉄ヒロシ
・新八は江戸っ子だから照れるんだ!
……立川談志
・新選組をスピリチュアル・カウンセリング!
近藤勇と袂を分かった永倉新八
……江原啓之
その他、近藤勇、沖田総司、土方歳三、池田屋惣兵衛らの子孫も登場!
《編著者プロフィール》杉村悦郎
昭和25年6月27日、北海道生まれ。大学卒業後、札幌に舞い戻り、タウン誌編集、企画制作会社イザに勤務。「新選組永倉新八外伝」(新人物往来社刊)「曾祖父・永倉新八と妻よね」(河出書房新社刊「新撰組11 件人物誌」掲載)他。
杉村和紀
昭和42年2月13日生まれ。札幌市在住。O型。テレビ番組制作会社ユープロダクション勤務。職種はディレクター。平成16年、北海道文化放送制作のテレビ番組「新選組。永倉新八からの伝言」でディレクターを担当。
コラム
【幕末から学ぶ現在(144)】
友誼と律義の政治家 勝海舟・番外編 【東大教授・山内昌之】
福沢諭吉に「痩我慢(やせがまん)の説」で散々にやられた勝海舟であったが、江戸っ子らしい気風の良さや徳川の忠臣だった点では人後に落ちない。
また、政治家に必要な義理堅さも相当なものだ。松浦玲氏の最新著『勝海舟と西郷隆盛』(岩波新書)を読むと、この2人の友誼(ゆうぎ)と信頼感の厚さが改めてしのばれる。
2人が最初に出会ったのは、元治元(1864)年9月、大坂の海舟の宿を西郷が訪れたときのことだ。西郷はすぐに勝の器量に心服し、国許(くにもと)の大久保一蔵(利通(としみち))にあてて「ひどくほれ申候(もうしそうろう)」と手紙を書いている。数えで勝は42歳、西郷は37歳であった。西郷は大久保に向かって、勝は実に驚き入る人物、どれだけ智略があるやら底知れぬ英雄肌合(はだあい)の人と称揚している。
現場なら…西郷ベタ褒め
面白いのは、佐久間象山(しょうざん)と比較していることだ。学問と見識では象山が抜群である。しかし、現場に臨みては「勝先生」だというのだ。象山よりも一層できるとべた褒めなのである。松浦氏は、もともと西郷の象山評価も高いので、それを上回る海舟への褒め言葉は最大級のものだと指摘する。
氏の本を読み進めると、勝と西郷との個人的な友誼がなければ江戸無血開城がむずかしく、譲歩したことで西郷が新政府部内で苦しい立場に陥った状況も浮かび上がる。
松浦氏はそれとは書いていないが、江戸城明け渡し交渉で得をしたのは勝だったような気がする。勝はこれを生涯、西郷の徳としたのかもしれない。不遇になった西郷の晩年や死後の遺族に対する勝の好意には、全然無理なところがない。
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とにかく、2人は俗にいう「ウマが合った」のだろう。西南戦争が起こると、西郷贔屓(びいき)の勝には岩倉具視(ともみ)あたりから、鹿児島に行って収めてくれまいかと御馳走(ごちそう)を受けたりもするが、全権をくれたら出かけてもよいとうそぶく。「どンな事をするか、知れませんよ」と脅すと、岩倉がギクっとするのがおかしい。大久保や木戸孝允(たかよし)でも免職させるかもしれぬ、と人を喰ったことを言うのはいかにも勝らしい。
とにかく西郷が好きな勝のもとには、薩軍に参加した父兄弟をもつ新納(にいろ)某なる人物はじめ多数の在京薩摩人がやってくる。彼らの無心に応じて気前よく金を貸与するが、徳川家から預かった金まで貸し出したのは、もし西郷が勝った暁には賭け金が倍になって戻ってくると当て込んだせいだろうか。だが、そこまで計算高いはずもなく、悲壮の極みにある薩人への素朴な同情心があったに違いない。
それにしても、新納なるいかにも薩摩藩の上級家臣らしい姓を名乗った男が、実は偽者で信州人だったというのもおかしい。鹿児島にしばらくいたというから、薩摩弁もどきを話して勝をたぶらかしたのだろう。もっとも勝ほどの男が真贋(しんがん)を見極められないはずもないという気もする。嘘を承知で勝が金を出したと考えるのも、彼の幕臣に対する鷹揚(おうよう)な接し方を見れば、まんざら荒唐無稽とばかりはいえまい。
勝は本当に西郷を好きだった。西郷が城山で自刃した明治10(1877)年にすぐ追悼集『亡友帖』の作成にとりかかり、翌年に発行している。まだ西郷を逆賊扱いする気分が強いときのことだ。勝は遠慮会釈せずに追悼集を出したが、この胆力には驚くほかない。
そのうえ明治12年には西郷の記念碑建立を思いたって、勝が管理する徳川家の屋敷のあった木下川(きねがわ)(現葛飾区)の浄光寺に留魂碑(りゅうこんひ)を建ててしまった。この度胸もたいしたものである。
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この碑の表面は西郷が沖永良部島に流罪になったときの詩で、勝が裏面に彫らせた文章のなかに西郷を思う有名な個所があるのだ。
嗚呼君能知我 而知君亦莫若我
「ああ君よく我を知れり、而(しか)して君を知る亦(また)我に若(し)くは莫(な)し」とは、何たる友情の発露であろうか。西郷の敵となった政府高官の薩人はもとより、日和見を決めこんだ薩人にとっても、西郷の記念碑をつくる資格や余裕はなかっただろう。だが、少なくとも英雄の死に忸怩(じくじ)たる思いがあったに違いない。そこで勝の出番となる。松浦氏のいうように、「独力で留魂碑を建てようとする海舟は、この自負を刻む資格があるだろう」とみるのは正しい。
一端しか伝えない福沢評
勝の西郷への律義さはまだ続く。伊藤博文などに働きかけて嫡子の西郷寅太郎を参内(さんだい)させ、海外留学に明治天皇の手許金を下賜(かし)させた。勝は寅太郎の婚礼にも出席し、西郷未亡人の糸子とも会って愉快な句を詠んでいる。
西郷の後家とはなすや夢のあと
そのうえ、明治31年師走に上野の西郷銅像の除幕式に出たあと、年が明けてまもなく1カ月たらずで海舟も西郷のもとに旅立った。もはや、ただの大往生ではない。激動の歴史で敵味方として交差した西郷との友誼を律義に果たした死には、後世のわれわれも学ぶべき点が多い。
やはり勝は只者(ただもの)ではない。福沢の勝評は事実の一端しか伝えていない。幽界で勝に感謝したはずの西郷の心持ちを思うとき、現代の政治家も祖父や曽祖父の代にはあったような、恩人や友人に感謝する心を忘れない律義さに思わず襟を正すかもしれない。
勝海舟と西郷南洲との交誼に改めてスポットをあてた松浦氏も息の長い歴史家である。私は日本史専攻でなかったが、学生だった時分に、デビューしたばかりの松浦氏の著作にひかれて以来の読者である。また好きな氏の本が書棚に増えたことはうれしい。(やまうち まさゆき)
宮古湾海戦の顛末
■知られざる薩軍戦死者
宮古湾海戦の官軍墓地。左が墓石=岩手県宮古市鍬ヶ崎上町
戊辰戦争の最後の戦いとなった箱館戦争。その一コマとして宮古湾海戦は比較的よく知られている。しかし、それは榎本艦隊から見た視点であり、攻撃された薩摩藩側の動向はほとんど注目されていない。
慶応四(一八六八)年八月、旧幕府の海軍副総裁だった榎本武揚は幕府艦隊八隻を率いて品川沖を脱出、十月には箱館(現・函館市)に入り、蝦夷島
えぞとう
政府の樹立を宣言した。榎本艦隊旗艦の開陽(二五九〇トン、砲二六門)は当時、わが国最大の軍艦であり、明治政府の海軍でも太刀打ちできなかった。
しかし、頼みの開陽が同年十一月、暴風のため江差沖で沈没してしまう。そのころ、旧幕府がアメリカに発注していた装甲艦ストーンウォール号が到着したが、翌明治二(一八六九)年二月、明治政府がこれを買い取り、甲鉄
こうてつ
と名づけて、箱館戦争に投入した。これにより、彼我の海軍力は逆転してしまった。
榎本政府が起死回生の秘策として実施したのが、アボルダージュ(接舷戦法)だった。政府海軍が停泊する宮古湾(岩手県宮古市)に偽装して接近し、奇襲攻撃をかけて甲鉄艦を奪取してしまおうという作戦だった。
この攻撃に投入されたのは回天、蟠龍、高雄の三艦だったが、暴風雨のため、作戦を実施できたのは回天だけだった。同艦には陸軍奉行並
なみ
で元新選組副長の土方歳三と兵士五十名ほどが乗り組んでいた。
宮古湾には青森に向かう政府艦船八隻が停泊していた。そのなかに甲鉄艦のほか、薩摩藩軍艦の春日(艦長・赤塚源六)がおり、箱館攻めの参謀・黒田清隆や、のちの連合艦隊司令長官・東郷平八郎も士官として乗り組んでいた。陸兵は薩摩藩の兵具
ひょうぐ
三番隊(小隊長・恒吉休右衛門)が芸州藩の豊安丸と阿波藩の戊辰丸に分乗していた。
三月二十五日早朝、宮古湾に忍び寄った回天は甲鉄艦に接舷したものの、外輪船のため、横付けできずに乗り上げてしまい、上甲板に三メートルの高低差が生じた。そのため、甲鉄艦への乗り移りが困難を極めた。
その間に態勢を立て直した甲鉄艦は備え付けのガトリング砲(機関銃の前身)を猛射して回天の斬り込み隊をなぎ倒し、さらに回天の船橋にいた艦長の甲賀源吾も戦死させた。
回天の決死のなぐり込みは失敗に終わった。回天側では甲賀のほか、元新選組の野村利三郎など十数名が戦死したという。
一方、政府海軍側の死傷者は諸説あるが、「蝦夷戦記」(「復古記」十四)がかなり正確だと思われる。それによれば、甲鉄艦が負傷者八名、飛龍丸が負傷一名、戊辰丸が戦死三名、負傷五名、行方不明三名となっている。戊辰丸の被害が多かったのは甲鉄艦のすぐ近くに停泊していて、回天から激しく銃撃されたためだった。
現在、宮古湾を見下ろす高台の本照寺に「官軍勇士墓碑」が立ち、一基の墓石がひっそりとある。そこには四名の戦死者の戒名が刻まれている。この四名は誰なのか。戊辰丸の戦死者三名は含まれると思われるが、行方不明者三名が含まれるとすれば数が合わない。
それでは、薩摩藩の兵具三番隊の戦死者はいたのだろうか。上の死傷者一覧にはいないが、ほかにも豊安丸に乗り組んでいた同隊から三名の死傷者が出ている(「薩藩出軍戦状」二)。それによれば、戦死者が嶋田市次郎、負傷者が兵士の内藤直太郎と軍夫の仁助である。
上の墓碑に刻まれたのは戊辰丸の三名と、豊安丸の嶋田ではないだろうか。
土方歳三やアボルダージュで知られる宮古湾海戦だが、薩摩藩側の視点も忘れてはならない。
(歴史作家・桐野作人)
映画館で観た名作映画編 「幕末太陽傳」はフランキー堺の羽織をはおる仕草が粋で格好いい
レンタル店の充実、BS放送の多チャンネル化などで、映画の古今東西の名作を観る機会は、年々確実に増えている。しかし、東京都内では、一部の名画座や映画祭などで、まだまだ、それら名作映画を楽しむことができる。2011年に映画館で観た名作映画の中から、珠玉の3本を紹介する。
(1)「幕末太陽傳 デジタル修復版」(12月23日、テアトル新宿=東京・新宿)
日本映画黄金期の昭和32年に公開された川島雄三監督の代表作。川島監督は、45年の短い生涯の間に、51本もの映画を撮ったが、1本をあげろといわれれば、これになる。日本映画史上に残る傑作といっていい。
落語をもとに、幕末の品川宿を舞台にした喜劇だが、物語のおもしろさというよりも、遊びの代金を踏み倒してわざと遊郭に居残った町人、佐平次を演じたフランキー堺の動きに注目してほしい。美術監督、中村公彦による遊郭のセットを、縦横無尽に走り回る。そして、着物を羽織る粋な仕草。何とも、格好いい。
「風だ、風だ、こいつを見た奴は誰もいない」と、川島監督は言ったらしいが、フランキーが動くことで、周囲の空気が、ふわりとゆらぐ。まるで、風が見えるようだ。その空気感を、名手、高村倉太郎(くらたろう)が、カメラにとらえた。
本作は、来年の日活100周年を記念し、デジタル技術で当時の鮮明な映像と音がよみがえった“リマスター版”だが、高村の映像の美しさが、本当によく分かる。
ちょうど上映中なので、ぜひ、映画館で観てほしい。
(以下略)
エンターテインメント
新たな時代が幕を開ける、「薄桜鬼 幕末無双録」キャラクター衣装追加
オトメイトより2012年2月23日発売予定の爽快アクションゲーム「薄桜鬼 幕末無双録」公式サイトにて、キャラクター衣装が追加された。
公式サイト「キャラクター」ページにて登場人物の衣装を追加。それぞれのページで別衣装を見ることができる。新選組の衣装も見ることができるので是非チェックしてみよう。
また、「製品情報」ページでは限定版・予約特典情報を公開中。購入予定の方はこちらを確認しておこう。
【関連乙女商品】
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【関連サイト】
・薄桜鬼 幕末無双録 公式サイト
http://www.otomate.jp/hakuoki_musouroku/
・オトメイト 公式サイト
http://www.otomate.jp/
(by 玄米)
山南敬助と永倉新八も参戦!「薄桜鬼 幕末無双録」キャラクター・店舗特典追加
オトメイトより2012年2月23日発売予定の爽快アクションゲーム「薄桜鬼 幕末無双録」公式サイトにて、キャラクター・店舗特典が追加された。
公式サイト「キャラクター」ページにて登場人物・山南敬助(CV.飛田展男)と永倉新八(CV.坪井智浩)の2人を追加。どちらも操作可能キャラクターとなっている。
さらに、「製品情報」ページでは店舗特典情報を追加。購入される方は特典情報もチェックしておいてほしい。
【特典情報】
◆アニメイト
・PSPデコシール
◆あみあみ
・図書カード
◆ステラワース
・ブロマイド6枚セット
◆中央書店コミコミスタジオ
・図書カード
◆ネオ・ウィング
・2Lサイズポートレート
◆メディアランド
・オリジナルブロマイド
◆楽天ブックス
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講談社現代新書で『池田屋事件の研究』中村武生が出版されてたのに気づいて買いました。通常の新書の倍の厚さで読み応え十分です。古高俊太郎とは何者なのか、というところから検討していて面白いです。
千葉
多彩な人脈 伊能忠敬の素顔に迫る企画展 千葉・佐原
伊能忠敬といえば、志の輔らくご『大河への道』でますます興味を持つようになりました。
江川英毅が伊能忠敬から天文学を学んだというところに興味が……。
佐賀
北海道開拓の父 佐賀偉人伝「島義勇」発刊
コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)(141)】黒田清隆(下)■開拓長官の志と私心の間 (東大教授・山内昌之)
エンターテインメント
キャラをデザインする“アキバスタイル”なネイルサロン登場 名シーンが爪でよみがえる!?
ネイルサロンのサイトはこちら。ただいま沖田総司ネイルと斎藤一ネイルの写真画像紹介中です。
「Over Drive」安田剛士の新連載は沖田総司の青春記
新選組ものはなかなか完結しない作品が多いので(汗)最後まで読めますように期待しております。
千葉
多彩な人脈 伊能忠敬の素顔に迫る企画展 千葉・佐原
江戸時代に日本初の実測地図を作った伊能忠敬を支えた人物やその子孫にスポットを当てた企画展「忠敬の協力者たち-〈江戸〉のクロスポイント」が、香取市佐原の伊能忠敬記念館で開かれている。貴重な書簡など国宝級の資料を展示。戊辰戦争、オランダ、造り酒屋…とさまざまなキーワードで彩られた幅広い人脈をたどり、忠敬の素顔に迫っている。
企画展は、忠敬の関係資料2345点が昨年6月に国宝指定された記念として開催。テーマを設けて展示替えし、第4回を迎える今回は忠敬と親交の深かった人物を中心に取り上げた。
書状や日記など、国宝や国宝級の資料を展示している。登場人物は、戊辰戦争で旧幕府艦隊を率いた榎本武揚の父でもある弟子の箱田良助、忠敬の全国測量を支援した幕府若年寄の堀田正敦、測量器具を作製した大野弥三郎、「世直し江川大明神」といわれた伊豆韮山代官、江川英龍の父で忠敬から天文学を学んだ英毅、と地域も地位も多彩だ。
のちに大野弥三郎の子の規周と榎本武揚が同じ船に乗ってオランダ留学に赴くといった、子孫同士に交流があったことも分かる。
また、忠敬は造り酒屋の主人だったが酒を口にせず、酒飲みの弟子は破門にするなど厳しかったという。一方で、孫に対しては目に入れても痛くないほどかわいがっていたというエピソードもあり、忠敬の知られざる一面が見られる。
これらの資料から、同館学芸員の酒井一輔さん(25)は「忠敬の人間味あふれる意外な素顔を知ることができる」と話す。企画展は来年1月22日まで。月曜休館。
伊能忠敬といえば、志の輔らくご『大河への道』でますます興味を持つようになりました。
江川英毅が伊能忠敬から天文学を学んだというところに興味が……。
佐賀
北海道開拓の父 佐賀偉人伝「島義勇」発刊
幕末20+ 件・明治期に活躍した佐賀県の人物に脚光を当てる佐賀偉人伝の第5弾「島義勇」が10日、発刊される。明治初期に開拓判官として北海道に入り、今も“北海道開拓の父”と呼ばれる足跡を書や絵図などを盛り込んで検証する。電子書籍も同時に発売。17日午後1時半からは、著者で札幌市文化資料室の榎本洋介さんによる講演会を開く。
島は「佐賀の七賢人」の一人で、1822年、佐賀城下精(しらげ)小路(佐賀市与賀町)に生まれた。幕末20+ 件、佐賀藩主鍋島直正の命で蝦夷(えぞ)地を調査し、報告書『入北記』をまとめた。維新後の69年、直正は北海道開拓使の初代長官、島は次官に当たる首席判官に就き、未開の大地で開拓者精神を発揮。札幌市庁舎ロビーに銅像が建つなど、札幌の礎を築いた先覚者として今もしのばれている。
榎本さんは「頑固さとしなやかさを併せ持つ人物」と評価。当時、未開の札幌を中心に都市を建設するなど、先見性と卓越した実行力に対して「西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允の維新の三傑と比べても何ら遜色ない」とたたえている。
A5判、112ページ。千円。電子版はパソコンのほかiPad、iPhone、アンドロイドに対応する。著者講演会は佐賀城本丸歴史館で。問い合わせは同館、電話0952(41)7550。
コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)(141)】黒田清隆(下)■開拓長官の志と私心の間 (東大教授・山内昌之)
黒田清隆は、明治3(1870)年から7年まで開拓次官、7年から15年まで開拓長官を務めた。五稜郭戦争で榎本武揚を助命して武人の亀鑑とたたえられて以来、10年以上にわたり北海道の開拓行政にあたったことは他の政治家に類を見ない。
ところで、黒田を開拓使長官と呼ぶ向きもあるが、正しくは開拓長官というのである。開拓使の「使」とは、按察使(あぜち)や巡察使といった律令制官職に由来する名称であり、省と同格の中央官庁として、北海道開拓を統一国家の最重要任務とする気概の表れであった。
大蔵省大臣でなく大蔵大臣と呼ぶように、開拓使長官という官職は存在しないのである。
黒田と開拓使との深い縁は、樺太よりも北海道の拓殖と国防を重視すべきという建議を出すことで、明治4年8月に10年間1千万円の大規模予算を策定して以来のことだ。これが開拓使10年計画にほかならない。もっとも長官になった黒田は、いわゆる遥任(ようにん)によって札幌には赴かず、東京で執務した。
多数のアメリカ人を招聘
北海道開拓に尽くした黒田の最大業績は、多数のアメリカ人をお雇い外国人として招聘(しょうへい)し、気候風土のよく似た北米をモデルに北海道で日本近代化の礎を造ったことであろう。
明治4年に渡米した黒田は、グラント大統領と談判して農務長官ホーレス・ケプロンを開拓顧問に招いた。彼と一緒に来日した技師やその薫陶を受けた専門家には、地質・鉱山学のライマンや酪農家のエドウィン・ダン、鉄道敷設のクロフォードなど、私の小学校時代なら北海道の子供が名を学んだ懐かしい顔ぶれが多い。
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ケプロンの提言によって創られた札幌農学校の初代教頭として農学、数学、化学を教えた人物がウィリアム・クラークだったことは語るまでもない。ケプロンの指導によって創られた開拓使麦酒醸造所が今日のサッポロビールの濫觴(らんしょう)だったように、78人のお雇い外国人(うちアメリカ人48人)は黒田の期待を裏切らなかった。技術指導だけでなく、勤勉さや人格の面でも日本人の若者たちに大きな影響を与えた人物も多い。
ともかく黒田は開拓長官として、潤沢な予算を惜しげもなく39ほどの各種官営工場の設立と経営につぎこみ、幌内炭山の開発と石炭輸送のために幌内と手宮(小樽)との間に鉄道を敷設したのだ。
北方警備と開拓とを兼任させる屯田兵制の開始(明治7年)も黒田の献策に負う点が少なくない。札幌農学校や札幌などの農事試験場も、開拓技術者の養成と洋式農法の導入に大きく貢献した。ビール以外にも、製糖や製麻などの農産加工や各種の製造業や鉱山業などの官営事業を営んだのも黒田の功績である。
民営化で大きく傷つく盛名
しかし、好事魔多しとはよくいったものだ。黒田の盛名はこの官営事業の民営化で大きく傷つくことになる。
10年計画の満期が近くなった明治14年に開拓使の廃止方針が固まると、黒田は開拓使事業を継承させるために、部下の官吏を退職させ起業させることを考えついた。問題は、事業には私利で動かない役人出身者を充てるべきだという議論の当否もさることながら、事業が赤字だったことを理由に常識外の安値で部下らに払い下げようとした点にある。
その対象は麦酒、砂糖などの工場、炭鉱などの鉱山業、農園、船舶、倉庫など広範にわたっている。1400万円の巨費を投じた国家財産をわずか38万円(無利息30年賦)で払い下げるというのだから、強い反対が出ないはずがない。
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開拓使の大書記官だった安田定則らの北海社が事業経営に当たるとされたが、実際には資金不足のために関西貿易商会(経営者は黒田と同じ薩摩出身の政商、五代友厚)が払い下げを受けるというのは、何にしても醜聞もどきには違いなかった。
反対する側の動機も、やや腐臭が漂うものだ。三菱の岩崎弥太郎(土佐)と参議大隈重信(肥前)が手を組んで薩摩閥の横暴を許すまじというのだから、明治新政府内外の藩閥の利益配分に絡んでいたのかもしれない。薩摩人でも、村橋久成のような開拓使の若き傑物が辞表をたたきつけて行方不明になる悲劇もこの時に起きたのである。
黒田の強引さは、明治天皇の勅許まで得て払い下げを決定したことだ。しかし、長州閥の参議伊藤博文としては、共闘する薩摩閥の泰斗(たいと)黒田を失うわけにはいかない。そこで仕掛けたのが明治14年の政変であり、大隈は政府から追放され、世論を抑えるために国会開設の詔勅を出し、払い下げも中止したのである。
ただし黒田も開拓長官を辞めて北海道の事業から手を引かざるをえなかった。明治維新以降、手塩にかけて育てた北海道開拓の志を捨てざるをえなかったのは、まさに九仞(きゅうじん)の功を一簣(いっき)に虧(か)くというものであった。これが政治の怖いところである。
しかし、北海道への黒田のこだわりと同じほどの思いを、いまの沖縄にもつ民主党リーダーを寡聞にして知らない。せめて10年の単位で沖縄の振興や基地問題に取り組んできた民主党幹部がいたなら、自民党の物故した首相たちや引退した幹事長らに匹敵する信頼を県民から得られたはずである。
私が子供の時分に受けた教育では、黒田を悪くいう小中学校教師は記憶にない。もちろん払い下げ事件も郷土史の一こまとして習った。マクロの評価を忘れず大局観をもつ先生たちの教えが今更ながらに懐かしく思い出される。(やまうち まさゆき)
エンターテインメント
キャラをデザインする“アキバスタイル”なネイルサロン登場 名シーンが爪でよみがえる!?
アニメやゲームのキャラをモチーフにした“アキバスタイル”なネイルアートを提供するお店が登場。第1弾として恋愛ゲーム「薄桜鬼 ~新選組奇譚~」とコラボする。
アニメやゲームのキャラクターネイルを施術する“アキバスタイル”なネイルサロン「あゆみーの」が12月15日、東京・秋葉原にオープンする。あのキャラクターのモチーフ、名シーンがあなたのネイルによみがえる!
キャラクターをモチーフにしたネイルアートを楽しめる。正式にライセンス許諾を受けたキャラクターを採用しており、第1弾として恋愛ゲーム「薄桜鬼 ~新選組奇譚~」とコラボ。例えば「沖田総司ネイル」は緑の着物をモチーフにスワロフスキーなどをあしらっており、価格は10本で1万3250円。
場所は東京都千代田区神田佐久間町2-11 小林ビル1F。営業時間は午前11時~午後10時(最終受け付けは午後8時まで)。今後もほかのキャラクターがネイルアートとして続々と登場する予定になっている。
ネイルサロンのサイトはこちら。ただいま沖田総司ネイルと斎藤一ネイルの写真画像紹介中です。
「Over Drive」安田剛士の新連載は沖田総司の青春記
本日12月6日に発売された月刊少年マガジン2012年1月号(講談社)にて、「Over Drive」で知られる安田剛士の新連載「黒猫DANCE」がスタートした。
「黒猫DANCE」は沖田総司の青春記を描く剣客時代劇。少年の沖田惣次郎は、自分に「近藤さんも死んだ。新撰組20+ 件は壊滅だ」と語りかける男の夢を見る。そんな沖田が、夢で見た男に出会ったことから物語は展開。天性の俊敏さと剣の才能を発揮する沖田の活躍が描かれる。
(以下略)
新選組ものはなかなか完結しない作品が多いので(汗)最後まで読めますように期待しております。
ここ数日ものすごく寒かったのが、雨上がって陽がさしてちょっと暖かくなった土曜日の午後。
福島
新島八重の資料並ぶ 會津稽古堂
東京
幕末の名医、尾台榕堂の記念碑建立
京都
幕末の京、描いた銅版画 宇治で30日から企画展
岡山
幕末女医の半生紹介 洋学資料館で光後玉江展
山口
愛用のシルクハットも 山口・周南で児玉源太郎展
佐賀
幕末佐賀の海軍所跡、ドッグ奥行き45メートル超
熊本
幕末・明治の県出身偉人紹介
エンターテインメント
あ、実写版の写真きた。
るろうに剣心 : 実写版ビジュアル公開 主演の佐藤健「原作ファン見て」と自信
GREE「幕末志士の恋愛事情」小説第二弾、ドラマCD発売日が決定!発売記念キャンペーン開催
土方歳三がデコだったり、坂本龍馬が純情そうだったり、何かアレ?と思うキャラ絵だと思うのは新選組贔屓だからかなぁ。
コラム
特別記者・千野境子 会津を歩き「災後」を思う
【幕末から学ぶ現在(いま)】
(140)東大教授・山内昌之 黒田清隆(上)
福島
新島八重の資料並ぶ 會津稽古堂
会津若松市の会津図書館所蔵資料展は2、3の両日、市生涯学習総合センター「會津稽古堂」で開かれている。
会津藩士の娘で同志社大の創始者・新島襄の妻となった新島八重に関する資料などが並んでいる。
新島八重は平成25年のNHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公に決定しており、その生涯に注目が集まっている。
会場には昭和3年に撮影した晩年の八重の写真、直筆の和歌や手紙などが並ぶ。
八重の名前が記された明治4年の旧北会津郡役所「各府県出稼戸籍簿」などもある。
八重が戊辰戦争で男装して鶴ケ城に籠城し、西軍と戦ったことや会津若松市にある八重ゆかりの場所なども写真やパネルで紹介している。
来場者は貴重な資料にじっくりと見入り、“幕末のジャンヌダルク”と呼ばれた八重に思いをはせていた。
入場無料。
時間は午前9時から午後5時まで。
東京
幕末の名医、尾台榕堂の記念碑建立
幕末の江戸で名医として知られた尾台榕堂(1799~1870年)のブロンズ像記念碑が、旧居跡の東京・JR東京駅八重洲中央口近くにお目見えした。
榕堂は現在の新潟県十日町市に生まれ、江戸で医学などを学んだ。故郷に帰って開業したが、10年後に江戸へ戻り、師の家を継ぐ。著書も多く、日本における漢方医学の基盤を築いた一人とされる。記念碑は、古地図にも記載されている榕堂の居宅に近い「柳通り」沿いにある。台座を含め高さ約1・5メートル。没後140年記念事業の実行委員会が建立した。
FUJIFILM SQUARE 写真歴史博物館 企画展
『幕末・明治の記録 - 日本を紹介した「横浜写真」アルバムより - 』展開催のお知らせFUJIFILM SQUARE(フジフイルム スクエア)は、写真歴史博物館にて、『幕末・明治の記録 - 日本を紹介した「横浜写真」アルバムより - 』展を、2011年12月1日(木)から2012年2月29日(水)まで開催いたします。
「横浜写真」アルバムとは、幕末から明治にかけて、日本各地の風景、当時の人々の様子や生活を撮影し、絵師が彩色を施した写真を、蒔絵(まきえ)や螺鈿(らでん)を施した漆塗りの木製表紙のアルバムとして商品にしたものです。撮影は来日した外国人写真家や写真術を学んだ日本人写真師が実施し、外国人旅行者や居留地外国人の土産物として販売されていました。外国人向けの商業写真文化が開港都市となった横浜で花ひらいたことから、地名をとって「横浜写真」と呼ばれています。
「横浜写真」は四切サイズ程度のプリントで、多くは鶏卵紙印画によるものです。この写真を50~100枚まとめたものが「横浜写真」アルバムで、その豪華な作りから、西洋の写真文化と日本の伝統工芸が融合した和洋折衷の美術工芸品と呼べます。本展では、「横浜写真」アルバムより、86点を展示します。約150年ほど前の日本の風景、建物、生活、人物をお楽しみください。
※展示作品はオリジナルを忠実に再現した高画質の銀塩写真プリントです。
FUJIFILM SQUARE 写真歴史博物館 企画展『幕末・明治の記録 - 日本を紹介した「横浜写真」アルバムより - 』展の詳細は富士フイルムのウェブサイトをご覧ください。
⇒ http://www.fujifilm.co.jp/corporate/news/articleffnr_0583.html?link=n2u
<FUJIFILM SQUARE(フジフイルム スクエア)>
写真を中心とする富士フイルムのフォトギャラリー&ショップ。入館無料で、どなたでもお気軽にご覧いただけます。
クオリティの高いさまざまなジャンルの写真を展示する富士フイルムフォトサロン、写真とカメラの歴史を学べる写真歴史博物館のほか、最新の富士フイルム製品をご体験いただけるコーナーや、テレビCMでおなじみの「ASTALIFT(アスタリフト)」をはじめとするスキンケア・サプリメント商品の販売を行うショップもあり、幅広い層の方にお楽しみいただける施設です。皆さまお誘いあわせの上、ぜひご来場ください。
FUJIFILM SQUARE(フジフイルム スクエア)
⇒ http://fujifilmsquare.jp/index.html?link=n2u
京都
幕末の京、描いた銅版画 宇治で30日から企画展
京都府宇治市宇治の源氏物語ミュージアムで30日から、企画展「銅版画に見る京名所」が始まる。幕末の京の名所を精巧に描写し、目新しい土産物として注目を集めた銅版画やパネルが並ぶ。
銅版画は、江戸時代後期にオランダから伝来し、土産物として普及した。縦7~8センチ横14~15センチの絵はがきほどの大きさで、精巧な描写が人気を集めた。企画展では、個人が収集した銅版画を一冊にまとめた市歴史資料館所蔵の資料7点と、拡大パネル40点が展示される。
描かれているのは、平等院から嵐山、鞍馬、比叡山まで京都一円が描かれた「皇都名勝全覧図」のほか、平等院や清水寺、下鴨神社などの観光名所。また、源氏物語にちなんだ宇治十帖の古跡も展示される。
来年2月19日まで。入館有料。月曜休館。問い合わせは同ミュージアムTEL0774(39)9300。
岡山
幕末女医の半生紹介 洋学資料館で光後玉江展
幕末20+ 件から明治にかけて、現在の美咲町を中心に活躍した女医・光後玉江(1830〜1905年)の半生を紹介する企画展が、津山市西新町の津山洋学資料館で開かれている。来年4月15日まで。
光後が診療を行っていた興禅寺(同町錦織)に伝わる史料約30点を展示。津山藩医・箕作阮甫が光後の医業に影響を与えていたことをうかがわせる手紙や本、愛用の医療器具などに来場者が見入っている。
中でも1880〜1902年に患者に処方した薬を記録した「処剤録」(19冊)には、漢方薬のほか、サフラン、キニーネなど当時海外から輸入されていた薬も使われており、光後が治療に西洋医学を積極的に使っていたことが分かる。
山口
愛用のシルクハットも 山口・周南で児玉源太郎展
日露戦争でロシア陸軍を破った名参謀、児玉源太郎の生涯を紹介する「児玉源太郎と近代国家への歩み展」が2日、出身地である山口県周南市の市美術博物館で開幕した。
児玉源太郎は幕末長州藩の支藩、徳山藩の中級藩士の家に生まれ、戊辰戦争に従軍、陸軍軍人として西南戦争では熊本城を守る鎮台参謀副長として西郷軍の進撃を阻んだ。
その後日本陸軍の兵制改革を行い、また台湾総督、内相などを歴任して明治政府の基礎を作った。日露戦争での活躍は、司馬遼太郎の「坂の上の雲」で紹介され、広く知られている。
同展では、児玉ゆかりの資料や幕末明治の世相事件を描いた錦絵、同時代に活躍した政治家、軍人の資料など約140点が展示されている。
中でも、児玉が使っていた兵学書「仏国歩兵陣中要務実地演習軌典」には、赤ペンの書き込みが多くみられ、勤勉な姿勢がうかがえる。また、愛用のシルクハットの箱には「G・KODAMA」の文字が確認できる。
児玉は、地元徳山(現周南市)に私財を投じて図書館「児玉文庫」を開設するなど、教育文化育成にも力を注いだ。
同展は1月15日まで。入場料一般700円、大学生500円(18歳以下、70歳以上、身体障害者は無料)。月曜と12月29日~1月3日は休館(1月9日は開館、翌日休館)。問い合わせは市美術博物館((電)0834・22・8880)。
佐賀
幕末佐賀の海軍所跡、ドッグ奥行き45メートル超
佐賀市教委は1日、世界遺産への登録を目指す「九州・山口の近代化産業遺産群」の一つである幕末期の三重津海軍所跡(佐賀市川副町・諸富町)の発掘調査で、船を修理する「ドック」の奥行きが、少なくとも45メートル以上あることが判明したと発表した。10日に現地説明会を開く。
市教委によると、これまでの調査で、遺構などからドックの奥行きは、早津江川から内陸に約30メートル以上に及ぶことは確認されていた。今回の調査で、遺構などからさらに長いことが分かったという。佐賀藩がオランダから購入した蒸気船の軍艦「電流丸」の全長が45・5メートルだったことから、市教委は「電流丸の修復で使用されたドックとみてほぼ間違いない」としている。ドックは、1861年(文久元年)頃に完成し、船底の銅板の張り替えなどの修理が行われたとされる。
発掘場所は佐野記念公園内で、10日の現地説明会は午前9時半、同10時半、同11時半の計3回。問い合わせは、市教委文化振興課世界遺産調査室(0952・40・7368)へ。
熊本
幕末・明治の県出身偉人紹介
幕末から明治時代にかけて活躍した熊本出身の人物を紹介する特別展「熊本城下の青春 幕末・明治編」が、熊本市の熊本近代文学館で開かれている。5日まで。
九州新幹線鹿児島ルートの全線開業を記念し、熊本の魅力を知ってもらおうと企画した。
幕末の池田屋事件(1864年)で命を落とした肥後勤王党の宮部鼎蔵(ていぞう)の旅日記、明治憲法、教育勅語などを起草した政治家井上毅(こわし)の書簡、井上の義父でこれまであまり知られていなかった儒学者木下■村(いそん)の遺稿など263点を展示している。
井上智重館長は「興味深そうに長時間見学する人が多い。熊本が輩出した人物や人脈のすごさが伝わるはず」と話している。入場無料。
エンターテインメント
あ、実写版の写真きた。
るろうに剣心 : 実写版ビジュアル公開 主演の佐藤健「原作ファン見て」と自信
俳優の佐藤健さん主演で実写映画化される「るろうに剣心」(大友啓史監督)が、11月21日にクランクアップを迎え、佐藤さん扮(ふん)する主人公・緋村剣心(ひむら・けんしん)のビジュアルが公開された。佐藤さんは「ケガなく無事に撮影を終えることができてホッとしたのと、解放感で思わず『終わったー!』って叫んじゃいました。たくさんの方に見ていただきたいですが、特に原作ファンに見ていただきたいです」とコメントしている。
8月にクランクインした同映画は、京都府、滋賀県、鳥取県、岡山県、兵庫県、大阪府の2府4県で約4カ月という長期の撮影を行い、各地で延べ1200人のエキストラが参加する大掛かりなものとなった。製作総指揮のウィリアム・アイアトンさんは、世界マーケットへのデビュー、そして海外配給に向け準備を始めているといい、「我々は剣心が世界中の観客に愛されると信じています」と同映画へ期待を寄せている。
「るろうに剣心」は、94~99年に「週刊少年ジャンプ」(集英社)で連載され、コミックスは全28巻で累計5000万部以上を発行した大ヒットマンガ。幕末に「人斬り抜刀斎」として恐れられた緋村剣心が、明治維新後「不殺(ころさず)」を誓った流浪人(るろうに)として、さまざまな人たちとの出会いや、宿敵との戦いをへて、新たな時代の生き方を模索していくという物語で、映画では主人公の剣心を佐藤さん、ヒロイン・神谷薫を女優の武井咲さん、剣心を慕う美人女医の高荷恵を女優の蒼井優さん、旧幕府軍・新撰組三番隊組長の斉藤一を俳優の江口洋介さんがそれぞれ演じる。
映画は来春完成予定。17、18日に千葉県の幕張メッセで開催される「ジャンプフェスタ2012」の会場では、数量限定のジャンプ限定ビジュアル劇場前売り券が発売される。製作はワーナー・ブラザース映画で、12年8月25日全国公開予定。(毎日新聞デジタル)
GREE「幕末志士の恋愛事情」小説第二弾、ドラマCD発売日が決定!発売記念キャンペーン開催
タイトーは、「GREE」にて配信中のフィーチャーフォンおよびiPhone/Android端末向けソーシャルゲーム「幕末志士の恋愛事情 for GREE」において、ノベライズならびにドラマCDの発売を記念した記念シナリオ配信キャンペーンを実施する。
「幕末志士の恋愛事情」は、幕末に活躍した維新志士たちとの、ピュアで熱い恋愛を楽しむことができる恋愛シュミレーションゲーム。2009年よりキャリア公式サービス向けに登場して以来、2010年8月にはソーシャルゲームとして「GREE」向けに、さらに2011年には小説第一弾が文芸社より発売されている。
土方歳三がデコだったり、坂本龍馬が純情そうだったり、何かアレ?と思うキャラ絵だと思うのは新選組贔屓だからかなぁ。
コラム
特別記者・千野境子 会津を歩き「災後」を思う
◆避難に戊辰戦争を想起
今年、地震と津波、原発に風評被害の福島から被災者たちが避難を余儀なくされたとき、連想されたのは維新・戊辰戦争だった。
敗れた会津藩は解体離散し、遠く太平洋を越え米カリフォルニア州へ農業移住した若松コロニーのその後について、かつて本紙連載「日本人の足跡」で取り上げたことがあったからである。
戊辰戦争の二の舞いはあってはならないし、歴史は繰り返すわけでもない。会津は東日本大震災で今度は避難の受け入れ側となり、会津若松市には福島第1原発のある大熊町が町ごと移った。浜通りの温暖な町から雪深い会津若松へ。町は原発財源の豊かさゆえ時に羨望の対象でもあった。
そんな異なる自治体の共生や協働を、未曽有の大震災は半ば強制的に津々浦々に現出させた。会津若松と大熊町は一例にすぎない。そしてこうした緊急避難から、本物の共生や協働が新たに生まれ、社会に定着していくのか否か、答えはまだ見えない。
◆風評という妖怪の跋扈
冬の気配の濃くなった11月半ば、会津若松と近郊を歩いた。鶴ケ城や東山温泉、猪苗代、裏磐梯…東北有数の観光地というのに、賑(にぎ)わいは戻っていない。
修学旅行も外国人観光も軒並みキャンセル。案内役の塾経営、大谷春之さんは県外ナンバーの車を見かけるたびに「うれしいですね」と喜ぶ。けれど裏磐梯では車自体がまれなのだった。
長年、冬場はスキー指導員をしてきた大谷さんにスキー学校から早々と断りの詫(わ)び状が届いた。W杯会場にもなった猪苗代の有名スキー場もまだ予約が数件。開業以来の惨状だ。地元客ばかりが目立つホテルは寂しく寒々しい。
厄介な原発さえ遅々とはいえ工程表をクリアしつつあるのに、風評は収まるどころか妖怪のように跋扈(ばっこ)し、被災者たちを苦しめる。支援に福島産野菜を購入し(放射能汚染が怖いと)食べずに捨てるという信じがたい話まである。
確かに低線量の人体への影響は専門家の間でも見解は分かれる。しかし産地だけで忌避するのは理不尽だ。放射線への過剰な警戒心が風評を倍加させている現実。しかも支援というオブラートに包まれて。二重に残酷だと思う。
世界が3・11で日本人に感動したのは、痛みを共に分かち合う姿だったはずなのに、である。
災害では公助より共助、それにもまして自助が大切と言われてきた。自助なしに復興はない。しかし東北とくに福島の風評被害が自助の域を超えるいま、共助と公助こそ出番だ。瓦礫(がれき)受け入れにつづき、再来年の冬季国体で一部競技を福島県開催にするという東京都を他府県も見習いたいものだ。
◆故郷は根っこ、必ず戻る
重い空気を少し払ってくれたのは仮設住宅で会った大熊町のSさん(86)だ。農業の傍ら福島第1原発の建設にも従事した。
「(原発に)恩恵を受け、良い思いもした。それが今になって悪口ばかり言っては罰が当たる。でも(原発が)始末ならないものだということもよく分かった」
人生の一部にも等しかった原発への揺れる気持ちが伝わる。今後について尋ねると、迷いのない口調でこう言った。
「先が見えないから若い者は第二の生活を求めて去っていくが、故郷は根っこ、厳しくても現実と向き合わねばダメだ。除染し戻りたい。送電線は無事だから今度は再生エネルギーで(社会に)もう一度貢献するのがいいと思う。自分だけでなく、ここ(仮設住宅)にいる多くの者の気持ちだ」
Sさんの思いに国や県、町は応えられるだろうか。全域警戒区域の大熊町の町長選(11月20日)で「町への帰還」を訴えた現職町長が勝利したのは、多くのSさんがいるからに違いない。
市立東山小学校に若松コロニー移住の地、カリフォルニア州エルドラド郡の小学校から、義援金や見舞いの手紙、絵画が届いていたのも心和むニュースだった。
かの地で早世したコロニーの女性、おけいが取り持つ縁で、両校は交流をつづけている。
学校の計らいで6年生の授業で話をする機会を頂いた。話題は2つ。若松コロニーと88年前の関東大震災について。当時の東京市が編纂(へんさん)した小学校高等科生徒たちの震災記念文集を紹介した。
復興に一丸となった時代の熱気を映し、文集は大人顔負けの内容で現在の小学生には難しいとは思ったが、彼らにも東日本大震災のことを書いてほしいと思ったからだ。幼くても子供でしか書けない経験や感情を文章に残すことは、本人たちはもとより後世にもきっと貴重な記録となるはずだ。
皆、一日先生の宿題を忘れないでくれたらうれしいのだが。(ちの けいこ)
【幕末から学ぶ現在(いま)】
(140)東大教授・山内昌之 黒田清隆(上)
毀誉褒貶相半ばする先駆者
人に毀誉褒貶(きよほうへん)はつきものである。政治家ともなれば、なおのこと敵方から放たれる悪意の矢は、時に心臓を貫くほどに鋭いものがある。
民主党内から輿望(よぼう)を担って登場した感のある野田佳彦首相でさえ、環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)や消費増税の問題をめぐって党の内外から十字砲火を浴びている。
福沢諭吉の批判を勝海舟がさらりとかわした言葉は、野田氏のような現代の政治家でも心に染み入るのではないか。「行蔵(こうぞう)は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与(あず)からず我に関せずと存候(ぞんじそうろう)」
そもそも政治家には他人の評価や批判などは気にしない図太さが必要である。野田氏は気配りとともに胆力も十分あるように見受けられるが、大阪市長に当選した橋下徹氏のように大胆な中央突破力もこれからは必要になるだろう。
市長選挙直前にマスコミから放たれた虚実取り混ぜた“紙のつぶて”はひどかった。それをはねかえした橋下氏のタフさと決心のほどは、政治主張の当不当はともかく、危機と試練の時代に政治家に求められる資質なのかもしれない。この意味でも、今後の橋下氏はますます毀誉褒貶相半ばする政治家として際立つ存在になるだろう。
他方、幕末維新の政治家に目を転じれば、黒田清隆ほど歴史の評価が分かれる人物も少ない。
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まず黒田は、伊藤博文の後を受けて第2代の内閣総理大臣となり、大日本帝国憲法の発布当時の内閣首班という輝かしいキャリアをもっている。その割には帝国憲法の制定にあまり関与していなかったらしい。
そのうえ、憲法公布の翌日に鹿鳴館でおこなった超然主義演説は彼の評判を悪いものとした。超然主義とは、明治政府が議会や政党の意思に制約されずに、独自の政治姿勢を超然と貫くべきだという黒田の主張に言葉の由来がある。黒田は、戦後歴史学のなかであまり評判のよいほうではないのだ。
しかも、北海道開拓使官有物払い下げ事件に象徴されるように、同郷薩摩人の五代友厚に商益の便宜をはかったという芳しくない風評も根強かった。薩摩の芋づると呼ばれた郷党贔屓(ひいき)が盛んだったことも、彼の人気を低いものとしたのだ。
悪評…妻斬殺の噂まで
しかも伝説的な醜聞が彼の悪評に輪をかけた。それは、明治11(1878)年3月に妻の清(せい)が死んだとき、酒乱の癖があった黒田が泥酔して妻を殺したという噂がまことしやかに流れたことだ。
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何にしても、現役の首相が妻を斬殺したとあれば、外聞も悪いだけでない。とくに外国との不平等条約改正交渉を進めていた内閣の最高責任者が、酒をしたたかに飲んでれっきとした犯罪に手を染めたというのは、とても文明国とはいえない。日本で領事裁判権を廃棄するなど時期尚早という印象を欧米各国の政府外交官の間に広めたにちがいない。
ともかく、同じ薩摩閥の大警視川路利良(としよし)は噂を受けて清の墓を開け、その死因は病死に相違ないと内外に声明を発したほどだというから、封建の時代にも稀(まれ)なスキャンダルといってもよい。
この事件の少し前に、開拓使の長官当時に商船へ乗ったときにも大失態を演じてしまった。それは、酒に酔った座興で船の大砲を使ってなぐさみに岩礁に狙いを定めながら、誤射で住民を殺害したことだ。これはもはや薩摩人らしい豪放さやチャリ(冗談)ですむ話ではない。
豊かな総合力と大局観
示談金によって内済ですませたとはいえ、酒を飲めば人格も変わる黒田の性癖に、人びとは不安を感じたにちがいない。それでも、西郷隆盛や大久保利通が不慮の死を迎えた後、薩摩人が政治力や包容力で頼れる人物は少なかった。いきおい黒田は、長州閥の伊藤博文の後を受けて首相に押し出される。
page: 4
しかし、薩英戦争に参加し薩長同盟の実務上の交渉者として、大坂で西郷隆盛と桂小五郎の会見を実現させるなど、周旋の才と豪胆さを見せた黒田了介なのである。明治の政治家になっても酒乱の徒だけであるなら、首相の座に上りつめるはずもなかった。
幕末から明治新政府にかけての彼の事績を眺めるなら、政治のリーダーに要求される豊かな総合力と大局観に恵まれていたこともすぐ分かるだろう。黒田は北海道開拓の歴史に名を残す政治家であり、北垣国道や田辺朔郎らとともに北海道の原野を切り開いた功労者のパイオニアでもあった。(やまうち まさゆき)
◇
【プロフィル】黒田清隆
くろだ・きよたか 天保11(1840)年、薩摩(鹿児島)藩士の家に生まれる。通称は了介。西郷隆盛の下で薩長同盟の成立に尽力。維新後、明治7(1874)年に参議兼開拓長官となったが、14年の開拓使官有物払い下げ事件で世論の攻撃を受けた。21年、第2代首相に就任。しかし、条約改正交渉に失敗し、翌年、辞任した。28年、枢密院議長。33年、死去。
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