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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 4月4日付記事「本門寺松濤園(池上)」にて、無料で松濤園を見学する方法についてご紹介しました。
まず池上本門寺発行の「本門寺散策リーフレット」を寺務所などで手に入れるのが先決です。そこに掲載されている本門寺クイズに答えて朗峰会館フロントに持参すると、リボンを渡され、それを胸に付けて入園するというシステムです。

 パンフレットだけ入手して見学は「近々……」と思っている内に延び延びになってました(汗)が、今日ようやく訪問してきました。



 パンフレットのクイズにあらかじめ回答して持っていきました。11問ありまして、宗徒でない自分は知識がないのでネットで調べて回答しました……でも全問正解かどうかに関わらず見学はできるようです(何十年ぶりかに「たいへんよくできました」のスタンプを戴きました・笑)。

 数日来の雨が上がったせいか、緑が目に優しかったです。また、久しぶりに25度を超える暑い昼下がりでしたが、緑の木々の間を抜けてくる空気が涼しくて清冽です。

 平日の午後、それも朗峰会館内のレストランのランチタイムが終わった頃を見計らって訪問したので、会館・庭園は訪問客がほとんどなく、約四千坪の松濤園の眺めを独占させていただきました(笑)。

 いただいたパンフレットの由来書きより。

 松濤園は、本門寺の旧本坊の奥庭として、桂離宮の建築と造園で名高い小堀遠州(1579~1647)によって作られたものである。作庭に当たっては、この四千坪に広がる庭に遠州茶道の極意を具現し、渓流と池を回遊する名園とした。それはまた本坊客殿より渓谷美を俯瞰できるように作られたものであるといわれている。
 宗祖七百年遠忌の後期事業として修築され、平成3年5月に落慶を見た。


 池の案内板によると、池の水は湧き水だそうです。

 そして、西郷隆盛と勝海舟の会見を記念した石碑。


 再び、いただいたパンフレットの由来書きより。

一、西郷隆盛と勝海舟会見の碑

 慶応四年(1858)四月に西郷隆盛と勝海舟はこの庭のあずまやで江戸城明け渡しに関する会見をしたと伝えられている。(東京都史跡指定)本門寺は当時新政府軍の本陣がおかれた所であった。


戊辰戦争/江戸開城(wikipedia)より、一部引用します。
西郷は3月13日(同4月5日)、高輪の薩摩藩邸に入り、同日から勝と西郷の間で江戸開城の交渉が行われた。なお交渉した場所は諸説あり、 池上本門寺の東屋でも記録が残っている。

 高輪の薩摩藩邸での交渉が有名ですが、何回か行われたうちの一回は、薩長ら西軍(この時点では「西軍」と表記するのが白牡丹の流儀です)が本陣を置いた池上本門寺に勝海舟が足を運んだということなのでしょう……勝海舟、腹の据わり方が凄いなぁ(@_@)。

 案内板によると、当時の東屋は残ってないそうです……それがちょっと残念ですが、広い庭園内にはいくつも茶室があり、雰囲気を楽しみました。





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 ここ数日続いていた雨は今日は降らないようなので、早起きして洗濯しました。

東京
展覧会:絵皿で近現代の日本たどる 東京・町田市立博物館で開催
 陶磁器に描かれた絵文様を通して、日本の近現代史に目を向ける展覧会「皿多一郎コレクション 絵皿は語る 陶磁器で楽しむ明治・大正・昭和の世相と風俗」が、28日まで東京の町田市立博物館(電話042・726・1531)で開催されている。
 会場に並ぶのは、量産体制が確立した近現代に生産された陶磁器約200件。蒸気船、鉄道、気球など当時続々と登場した文明の利器や、西洋風の風俗など、陶磁器の文様としては新奇なものばかりで楽しめる。明治維新以降の社会変化を絵文様として積極的に取り入れた陶磁器生産は、日本特有の文化現象という。
 展示は、大正・昭和の陶磁器にも及ぶ。「のらくろ」や「サザエさん」が描かれた茶わんに懐かしさを覚える人も多いのでは。
 月曜休館。20日午後2時から、担当学芸員によるギャラリートークがある。詳細は問い合わせを。


はとバス、講談師が案内する「江戸幕末!坂本龍馬の軌跡を訪ねて」など2コースを発表
 はとバスは、9月に、講談師が案内する2コース、「江戸幕末!坂本龍馬の軌跡を訪ねて」、「激動の戦後 “白洲次郎”探訪記」を運行する。
 「江戸幕末!坂本龍馬の軌跡を訪ねて」では、2010年のNHK大河ドラマ“龍馬伝”の公開に先立ち、江戸(東京)での坂本龍馬ゆかりの箇所を回るという。昼食には、土佐料理“龍馬御膳”をはとバスオリジナルメニューで作成したとのこと。
 「激動の戦後 “白洲次郎”探訪記」では、戦後の日本で活躍した白洲次郎ゆかりの武相荘(ぶあいそう)や国会議事堂の見学が含まれる。今年6月に、白洲次郎ゆかりの箇所をめぐるツアーを企画したところ、好評であるため、ツアー内容を一部変更し今回は講談師によって白洲次郎を紹介するという。
 幕末に活躍した、坂本龍馬、戦後の日本で活躍した、白洲次郎とも根強いファンがおり、テレビ等各メディアでの取り上げで、今年から来年にかけ、さらに話題になるとみられる。今回は、バスという足回りの良さの特性を生かしながら、ゆかりの箇所をめぐる、バスツアーとして組み込むことで、最近注目を集める、歴女(れきじょ)と呼ばれる、歴史好きの女性や団塊世代の知的好奇心を満たす手段としての利用など、普段バスツアーをあまり利用しない層の利用の新規開拓を目指す考え。


講談師と行く! 坂本龍馬、白洲次郎の都内縁の地をめぐるツアー - はとバス
 はとバスは、歴史上の人物にまつわる都内名所を巡る日帰りツアー「講談師が御案内する歴史探訪シリーズ」の2コースを発表した。両コースとも催行は9月。
 同ツアーは、歴史上の人物にスポットを当て、都内で縁のある名所を講談師が案内する企画。今回発表されたツアーは、「江戸幕末! 坂本龍馬の軌跡を訪ねて」、「激動の戦後"白洲次郎"探訪記」の2コースで、それぞれ午前中に東京駅丸の内南口を出発し、はとバスで日帰りの都内旅行が楽しめるものとなっている。
 「江戸幕末! 坂本龍馬の軌跡を訪ねて」では、安政の大獄の舞台となった「桜田門」をはじめ、勝海舟と龍馬が出会ったとされる「赤坂氷川神社」などを訪れるほか、土佐藩上屋敷跡にあたる、東京国際フォーラムのレストランで土佐料理を味わえる。
 「激動の戦後"白洲次郎"探訪記」では、白洲次郎の旧邸宅である「武相荘」を皮切りに、国会議事堂、鳩山会館を訪れていく。
 ツアー催行日(食事付き)は、坂本龍馬コースが9月5、10、15、19、20日で、大人1名料金は7,900円。白洲次郎コースは9月3、21、23、24日で、大人1名料金は9,400円。
 予約は、同社予約センターにて電話またはウェブサイト、携帯サイトで2カ月前より受け付ける。


兵庫
桂小五郎の潜伏ルートたどる旅 ゆかりの城崎・老舗旅館が企画
 幕末の志士、桂小五郎=木戸孝允(たかよし)=が一時潜伏していた城崎温泉(兵庫県豊岡市)の老舗旅館が、桂の誕生日(6月26日)にちなみ、兵庫県内のゆかりの地を案内する見学会を初めて開催する。旅館は「但馬で時機を待った桂小五郎に思いをはせてほしい」と話している。
 タイトルは「幕末の但馬路~桂小五郎の足跡を巡る旅」。京都で長州藩が薩摩などを相手に戦った「禁門の変」(1864年)後、長州藩士の桂が逃亡先として潜伏していた旅館「つたや」(当時は松本屋)が主催。旅館前には潜伏を示す碑があり、館内には桂の書状などが展示されている。司馬遼太郎も「竜馬がゆく」の執筆で訪れたこともあり、幕末ファンには人気のスポット。
 今月25日に開催予定で、つたやをバスで出発後、桂が役人に取り調べを受けた際、町人に助けられたとされる「久畑の関所」跡(同市)や、名前を変えて荒物店を営んだ「城下町・出石」(同市)、新選組の目を逃れるため隠れていたとされる「西念寺」(養父市)などを見学する。つたやの鳥谷隆治郎社長(55)は「私自身も楽しみ。好評なら毎年行いたい」と話している。宿泊者が対象で、先着8人。問い合わせはつたや(電話0796・32・2511)。


徳島
徳島市地場産業振興協会:企業に弟子入り、橋渡し 木工業の後継者育成 /徳島
◇一から学びたい/身につけ生計を…
 徳島市地場産業振興協会では、地元の伝統工芸・木工業の後継者育成を図り、受け入れ企業と弟子入り希望者の間の橋渡しを請け負っている(17日毎日新聞21面「阿波ひと物語」参照)。同協会では「これまでは、希望者の問い合わせを受けても受け皿が準備できていなかったが、今後は希望に沿えるよう努力したい」と意気込んでいる。
【深尾昭寛】

 徳島木工業のルーツは、江戸時代の徳島藩水軍にさかのぼる。明治維新後、水軍の船を整備していた船大工たちが、家具や仏壇といった木工業に転身。全国でも屈指の技術を誇る高度な産業に育て上げた。だが近年、木工業従事者の高齢化が進行。同協会でも技術継承を目的に、木工講座「阿波の匠塾」を06年度から開講している。


愛媛
民文連創作舞踊劇 晋作と龍馬「維新の妻たち」 6月19日(金)から入場券販売
 新しい日本の夜明けを目指した高杉晋作と坂本龍馬。その妻の回想を通して描く舞踊劇を民文連舞踊団「若竹」が熱演します。第2部では民謡舞踊の数々をお楽しみいただきます。
 【とき・ところ】9月16日(水)新居浜市民文化センター▽同17日(木)今治市公会堂▽同18日(金)四国中央市民会館三島会館 ※開演は各会場とも午後6時半(1時間前開場)
 【入場料】5000円
 【入場券発売所】愛媛新聞社事業部(支社・エリアサービスは取り寄せ)、チケットぴあ<サークルK、サンクス、ファミリーマート(Pコード=395―280)>、ローソンチケット(Lコード=64214)ほか。 ※愛媛新聞社は土、日、祝日は扱いません
 【問い合わせ】MIN-ON四国=電話087(822)9210▽愛媛新聞社事業部=電話089(935)2355
 主催 (財)MIN-ON四国、愛媛新聞社






 再来年のNHK大河ドラマは田渕久美子さん脚本で『江』と決まったとか。お市の方の娘で二代将軍秀忠の正室という人物ですから面白そうです。
 ただ、秀忠がお側女中との間にもうけた息子(後の老中・会津藩主となる保科正之)にとても思い入れがあるので、作品に描かれるのかどうか、描かれるとしたら(お江の方の視点を中心に描くだけに)どんな描かれ方なのか、今からちょっと心配です(汗)。

東京
講談師が案内する 坂本龍馬・白洲次郎ツアー はとバス
 はとバスは、9月に講談師が案内する2コース「江戸幕末!坂本龍馬の軌跡を訪ねて」と「激動の戦後“白洲次郎”探訪記」を運行する。
 「江戸幕末!坂本龍馬の軌跡を訪ねて」では、2010年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」の公開に先立ち、江戸(東京)での坂本龍馬ゆかりの箇所を回る。昼食には、土佐料理「龍馬御膳」をはとバスオリジナルメニューで提供する。
 「激動の戦後“白洲次郎”探訪記」では、戦後の日本で活躍した白洲次郎ゆかりの武相荘や国会議事堂の見学を含む。6月に、白洲次郎ゆかりの箇所をめぐるツアーを企画したところ、好評だったため、ツアー内容を一部変更し今回は講談師によって白洲次郎を紹介する。
  バスという足回りの良さの特性を生かしながら、ゆかりの箇所をめぐる、バスツアーとして組み込むことで、最近注目を集める、歴女(れきじょ)と呼ばれる、歴史好きの女性や団塊世代の知的好奇心を満たす手段としての利用など、普段バスツアーをあまり利用しない層の新規開拓を目指す。

 講談師同行という企画は面白そうですが、自分は歴史家が同行するツアーがあればそっちに参加したいかな……東京に住んで長いのにいまだに「はとバス」に乗ったことがないので、機会があればと前から思ってはいるのですが。


京都
要潤が朗読活劇に初挑戦
 俳優・要潤(28)が17日、自らが語り手を務める朗読活劇レチタ・カルダ「燃えよ剣」京都公演(7月18日・壬生寺)のPR会見を、京都・中京区の同所で行った。
 イタリア語で「熱い朗読」を意味するレチタ・カルダが題名に使われているように、朗読、芝居、音楽が織り交ざった朗読活劇を、初挑戦の要が新撰組ゆかりの地・壬生寺で、司馬遼太郎の同作を読み聞かせながら副長・土方歳三を熱演する。
 要は「国のために自らの人生を全うした土方に感銘を受けました。その美学や人間味を観客のみなさんに伝えたい」と意気込んでいた。東京公演は9月13日、港区の増上寺で行われる予定。

 か、要潤サマが『燃えよ剣』を朗読されるってことは、当然、土方さんの声も演じられるんですよね……(*^。^*)。聞いてみたいです! 
 港区の増上寺での公演、会場はお堂なんでしょうか。あのお声がお堂の音響効果で響くのを想像しただけで、うっとりします。

兵庫
「桂小五郎の足跡を巡る旅」 兵庫・城崎温泉の旅館が企画
「桂小五郎の足跡を巡る旅」 兵庫・城崎温泉の旅館が企画
 幕末の志士、桂小五郎(木戸孝允)が一時潜伏していた城崎温泉(兵庫県豊岡市)の老舗旅館が、桂の誕生日(6月26日)にちなみ、兵庫県内のゆかりの地を案内する見学会を初めて開催する。旅館は「但馬で時機を待った桂小五郎に思いをはせてほしい」と話している。
 タイトルは「幕末の但馬路~桂小五郎の足跡を巡る旅」。京都で長州藩が薩摩などを相手に戦った「禁門の変」(1864年)後、長州藩士の桂が逃亡先として潜伏していた旅館「つたや」(当時は松本屋)が主催。旅館前には潜伏を示す碑があり、館内には桂の書状などが展示されている。司馬●(遼の二点しんにゅう)太郎も「竜馬がゆく」の執筆で訪れたこともあり、幕末ファンには人気のスポット。
 今月25日に開催予定で、つたやをバスで出発後、桂が役人に取り調べを受けた際、町人に助けられたとされる「久畑の関所」跡(同市)や、名前を変えて荒物店を営んだ「城下町・出石」(同市)、新選組の目を逃れるため隠れていたとされる「西念寺」(養父市)などを見学する。つたやの鳥谷●(隆の生の上に一)二郎社長(55)は「私自身も楽しみ。好評なら毎年行いたい」と話している。宿泊者が対象で、先着8人。問い合わせはつたや((電)0796・32・2511)。


 ■桂小五郎(1833~1877) 江戸末期の長州藩士(山口県)。藩校・明倫館で吉田松陰に学んだ後、高杉晋作らとともに倒幕運動の中心的存在になった。剣の達人でもあったが、刀を抜かずに幕府の追っ手から度々うまく逃げ延び、「逃げの小五郎」ともいわれた。のちに木戸孝允と改名。版籍奉還や廃藩置県などに尽力し、西郷隆盛や大久保利通と並び「維新の三傑」とされる。

 いいなぁ、「桂小五郎の潜伏先を御用改めする旅」(違)に私も参加したいです! 


大分
幕末にも騒動?降ったのはドジョウ 儒学者日記に記述
 江戸時代には、ドジョウが降った――。石川県で空からオタマジャクシが降ってきたのと似た現象を、いまの大分県日田市に住んでいた幕末の儒学者、広瀬淡窓が漢文の日記に書きとめていた。
 1850(嘉永3)年7月4日、「雷雨が激しく、魚が庭に降った。水のない所にドジョウが1匹落ちてきた。古い言い伝えは、うそではなかった」との記述がある。
 言い伝えの詳しい説明はない。日記を研究している同市の岩沢光夫さん(83)は「俗っぽい話題に無関心な淡窓にしては珍しい内容。よほど気になったのでは」。

 広瀬淡窓(リンク先はwikipedia)についてはさらっと流してるようですが……幕末、日本最大級の私塾を運営していた超一流の教育者だというくらいには紹介してくれてもよいのでは(苦笑)。



 一昨日昨日と雷を伴う雨が降りましたね。今日は今のところ降る気配はありませんが、明日はまた雷雨があるらしいです(汗)。金曜日からは天気が安定するそうで……天気が安定して欲しいです。

茨城
遊ナビ・アート館:所蔵品展「水彩画の魅力」--県天心記念五浦美術館 /茨城
 私たち日本人にとってもっとも慣れ親しんできた水彩画。その魅力を作品を通して紹介する所蔵品展「水彩画の魅力」が、北茨城市大津町の県天心記念五浦美術館で開かれている。
 水彩画は、幕末から明治にかけて油彩画とともに日本に紹介され、その描法の手軽さなどから広く普及し愛好されるようになった。明治後期になるとヨーロッパで学んだ油彩画家の浅井忠らが優れた作品を描き、その普及にも努めるなど水彩画の全盛期を迎え、大正期には古賀春江などが個性的な作品を残した。昭和に入ってからは中西利雄らによって不透明画法が紹介され、さらに本県出身の小堀進などの活躍によって多彩な表現の広がりを見せるようになった。
 同展では中西作「ルーブルの庭」、小堀作「花と雲」など明治から平成にかけて描かれた秀作25点を展示。「水彩画の作品をメーンにした展示は同館では初めてです」
 7月5日まで。毎週月曜休館。一般180円、高大生110円、小中生80円。問い合わせは同美術館(電話0293・46・5311)へ。【臼井真】



静岡
浜松城:整備構想 天守門と富士見櫓、復元へ 市、発掘進め12年度にも着工 /静岡
 徳川家康の居城だった浜松城(浜松市中区元城町)の天守門と富士見櫓(やぐら)の復元計画が進められている。幕末につくられた「安政元年浜松城絵図」に記されている天守門と富士見櫓の発掘調査を今年度中に行い、12年度にも元の位置での復元に着工する方針だ。
 浜松城は1570年、岡崎城から移った家康が築城し、45歳で駿府城に居城を移すまで17年間を過ごした。家康が江戸幕府を開いた後、歴代城主が幕府の要職に登用されたことから「出世城」とも呼ばれる。明治維新の廃城令で城は取り壊され、1958年に民間の募金によって天守閣が造られた。しかし天守閣があったという史料は残っていないという。
 市は昨年度、浜松城公園歴史ゾーン整備構想を策定、史跡を復元して、観光名所として位置づけたい考え。市公園課は「天守門は石垣が残っており、スムーズに発掘も進むのではないか。その後は天守閣西側の埋門の復元にも取り組みたい」と話している。【大塚仁】


幕末・明治の風物描く 錦絵や広告展示 磐田
 リンク先は静岡新聞社サイト(閲覧に会員登録が必要・無料)です。
 早稲田大図書館が所蔵する錦絵などが並ぶ展示会「幕末・明治のメディア―その世相と風刺―」が7月5日まで、磐田市見付の市立中央図書館で開かれている。月曜と26日は休館。
 展示会は「早稲田フェスタin遠州」の一環で、同大と遠州稲門会、同図書館が主催した。
 錦絵は江戸時代に発達した多色刷りの木版画。幕末から明治にかけ、さまざま出来事を絵で紹介するメディアの1つだったという。明治初期の東京の銀座の様子や大日本帝国憲法発布の式典などを記録した色鮮やかな錦絵46点が並んでいる。庶民生活を題材にした風刺画もある。
 薬品や木炭、食品などの当時の広告「絵びら」も17点展示されている。


福井
【福井】越前松平家の家宝公開 福井市立郷土歴史博物館
 江戸時代の越前松平家に伝わる資料などの展示会が、福井市立郷土歴史博物館で開かれている。幕末の福井藩主・松平春嶽にかかわる書物のほか、江戸から明治時代までのえりすぐりの美術工芸品などが並べられている。7月5日まで。
 会場には、春嶽の温かい人柄や筆まめさが分かる直筆の書状や日記、福井藩の年中行事と風物詩を描いた絵巻など計約20点が展示されている。美術工芸品は「漆芸の名品」「こどもの成長を願って」をテーマに、稚児用の武具などが出展されている。
 江戸の将軍家に仕えていたとされる蒔絵(まきえ)師の作品「菊唐草(きくからくさ)蒔絵重箱」には、重厚で華麗な蒔絵が全面に施されている。初公開の稚児差しは、通常の日本刀に比べて半分ほどの大きさで、七五三の儀式の際に用いたという。
 入場料は210円。中学生以下や高齢者、障害者は無料。
(梅沢あゆみ)


京都
舞鶴の児童◆よろいや火縄銃体験
 舞鶴市倉谷の余内(あまうち)小学校で16日、児童が江戸時代のよろいを着たり、火縄銃に触ったりする体験授業があった。総合学習の一環で、社会科で歴史の勉強をしている6年生約80人を対象に、市民ボランティア「田辺城ガイドの会」のメンバーが講師役になった。
 会のメンバーは、舞鶴の史跡を案内する地図を見せながら、戦国時代の山城や幕末に建てられた「台場」と呼ばれる砲台跡など身近にある史跡を紹介。紙芝居などを使って田辺城築城の経緯や、関ケ原の戦いの直前、初代城主細川幽斎が約500人の手勢で籠城(ろうじょう)し、火縄銃などを使って石田三成方の軍勢約1万5千人に対抗したことなどを解説した。
 その後、児童は重さ3~4キロの江戸期の火縄銃や2キロの模造刀を持ってみたり、よろいを着てみたりして郷土の歴史に思いをはせた。
 高岸庸斗(ゆうと)君(11)は「火縄銃は重くてびっくりした。昔の人は体を鍛えていたんだと思う」と話していた。


大阪
満載:イベント編 堺・泉州 /大阪
◇スポット展示「菘翁・貫名海屋の南画」
 8月2日(日)まで9時半~17時15分、堺市堺区百舌鳥夕雲町2丁の市博物館(JR百舌鳥駅徒歩6分)。徳島藩出身の儒学者で幕末の三筆としても知られる貫名菘翁(ぬきなすうおう)の南画の世界を紹介。入館料200円。高大生100円。小中学生50円。市内在住・在学の小中学生、65歳以上、障害者と介助者無料。月曜休館(7月20日開館、21日休館)。同館(072・245・6201)。


兵庫
CAMERA事始め:第9回上野彦馬展によせて/1 幕末の和洋折衷カメラ /大阪
◇外観は米国風、本体日本製
 日本の写真術の先駆者として知られる上野彦馬にちなんだ「第9回上野彦馬賞九州産業大学フォトコンテスト受賞作品展」(毎日新聞社など主催)が尼崎市総合文化センターで開かれている。同時開催の特別企画展「CAMERA(  カメラ  )事始め-古典カメラから国産カメラへの変遷」では、明治期ごろからの貴重な古典カメラなど約150点を展示。現代のデジタルカメラでは味わえないその魅力について、同センターの学芸員らが4回にわたり解説する。
 はじめに、本展に出品されているカメラの中で最も古い「堆朱(ついしゅ)カメラ」を紹介しよう。
 外観は米国製のダゲレオタイプカメラを模しているが、本体とレンズは日本製というれっきとした国産写真機である。本体には日本の漆芸技術のひとつである堆錦(ついきん)による唐草文様が、また、レンズの鏡胴部とレンズキャップには七宝焼が施されるなど随所に日本的な装飾が取り入れられており、鑑賞的要素も高い。
 本機は福井藩の医師・笠原白翁(かさはらはくおう)が秘蔵していたもの。同種のカメラで現存が確認されるものはわずか3台で、近年の研究によりこれらは文久年間(1861~63)に、名古屋の職人、牧田屋味田孫兵衛(まきたやあじたまごべえ)が製作したとされている。
 ところで、このカメラには「湿板(しっぱん)」と呼ばれるガラスが用いられた。ガラス面に感光材を塗り、それが乾かないうちに撮影することからこのような名前が付けられた。幕末期に海外から輸入されたこの写真技法を長崎の写真師・上野彦馬は自ら研究し、坂本龍馬らに代表される維新の立役者などを撮影することに成功した。
 今から約150年前の日本において、「写真」がどのような存在であったのか。当時のカメラと写真を通して思いを巡らせてみようではないか。(尼崎市総合文化センター学芸員・永井倫子)

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<会期>7月5日(日)まで、火曜休館。入館10時~17時半。
<会場>尼崎市総合文化センター(兵庫県尼崎市昭和通2/阪神尼崎駅下車、立体遊歩道で北へ徒歩5分)
<入場料>一般500(前売り400)円▽大高生400(同300)円▽中学生以下は無料。

 見出しに「大阪」とありますが、上野彦馬展の会場がある尼崎市は大阪府ではなく兵庫県にあります(元市民なので力説^_^;)。

山口
ハナショウブ:晋作が眠る地で開花--下関・東行庵 /山口
ハナショウブ:晋作が眠る地で開花--下関・東行庵 /山口
 幕末の志士、高杉晋作(1839~1867)が眠る下関市吉田、東行庵の池で、ハナショウブが見ごろとなっている。20日ごろまで楽しめそうだ。
 東行庵には晋作の墓があり、晋作が愛した「おうの」(1843~1909)はハナショウブを好んだ。約100種1万株が植えられ、白や紫、ピンクの涼やかな花が美しい。東行庵のハナショウブは他の場所に比べ、毎年1週間ほど長く咲くという。
 晋作没後、おうのは東行庵庵主となって墓を守った。来場者は名物の「晋作餅」を手に「まだ咲いているね」と喜んでいた。

〔下関版〕



佐賀
イベント:映画解説と琵琶演奏+食事--あす佐賀で /佐賀
 映画解説と琵琶演奏を聴いて料理を楽しむイベントが18日午後6時から、佐賀市松原の老舗旅館「松川屋」である。
 テーマは「水無月(6月)に散った侍たちへのレクイエム」。織田信長が命を落とした本能寺の変(1582年6月2日)、新撰組が尊王攘夷派志士を襲撃した池田屋事件(1864年6月5日)にちなみ、薩摩琵琶奏者の北原香菜子さんがこの事件を表現した2曲を演奏する。
 演奏に先立ち、映画評論家の西村雄一郎さんがこれらの事件を映画で解説する。旬が並ぶ料理も味わえる。
 40人限定。6000円。問い合わせ、申し込みは松川屋(0952・24・5285)。【関谷俊介】




長崎
NPO法人:龍馬らの足跡ボランティア案内、「長崎の風」設立 /長崎
◇学童さるくを初開催
 坂本龍馬ら長崎ゆかりの志士の足跡を案内する市民ボランティアガイドらがこのほど、NPO法人「長崎の風」を設立。13日に、龍馬が設立した商社「亀山社中」跡などを子供たちに案内する「学童さるく」を初開催した。幕末の「安政の開港」から150年の今年、龍馬らの研究を進めて観光や街づくりに生かし「志士たちのように、長崎に新しい“風”を吹かせたい」と意気込んでいる。
 長崎市のまち歩き観光「長崎さるく」ガイドの元会社員、黒田雄彦さん(63)=同市=が理事長となり、ガイドら10人で3月に設立。4月に始まった「長崎さるく幕末編」を機に、龍馬や勝海舟、海援隊の長崎でのエピソードなどを掘り起こし、ガイドツアー「学さるく」の新コースを開拓している。
 この日は「子供たちに長崎と龍馬のかかわりを知ってもらい、長崎を好きになってほしい」と企画。高尾小校区の学童保育「みどりっ子」の親子約50人を、龍馬の銅像が建つ風頭公園や亀山社中跡に案内した。
 高尾小5年の森勇吉君(11)は「初めて知ったこともあって面白かった」。黒田さんは「みんな長崎から龍馬のように大きく羽ばたいてほしい」と話していた。【錦織祐一】





コラム
【元気のでる歴史人物講座】(24)副島種臣
■日本の名誉守った外務卿

 明治5年6月、ペルーの船マリア・ルース号が横浜に入港したとき、一清国人が命がけで脱出、船内の231名の清国人がペルー人より奴隷として虐待されていることを訴え出た。この船は奴隷売買船だった。当時、南北アメリカ大陸では貧しい清国人を甘言を以(もっ)てだまし、奴隷として酷使していた。
 時の外務卿(外相)、副島種臣(そえじま・たねおみ)は何より道義公正を重んずる人物であった。わが領海内で起きた事件だから、わが国の裁判にかけて清国人奴隷を救済せんとした。
 しかし、誰もがこう考えたのではない。当時、奴隷売買は公然と行われていた。維新まもない日本はいまだ弱小国だった。余計なことに手を出し外国と厄介な問題をひき起こしたくない。清国人が奴隷にされようと日本にかかわりないことだから黙っていた方がよいという意見が多かったのである。
 だがこの事件を見逃して独立国、日本の名誉と尊厳いずこにありやと思った副島は、事件を扱う権限を外務省に移し、誰からも干渉されないようにして特別裁判所を設け裁判を断行した。
 その間、外国公使の抗議など種々の障害があったが、副島は万難を排して尽力した結果、裁判は日本の勝利となり清国人奴隷は全員解放され帰国できた。近代日本外交における最初の輝かしい成果であり、副島の名声は内外に鳴り響いた。(日本政策研究センター主任研究員 岡田幹彦)

 副島種臣の功績について水を注す気持ちは毛頭もありませんが……この記事には言及されていない、歴史の流れについて、一言、二言。
 清国人の奴隷売買を批判した日本にも人身売買があるではないかと欧米に批判されたのが吉原を初めとする遊郭の娼妓のことでした。1872年(明治5年)、強制的な年季奉公の廃止などを含む芸娼妓解放令が出されますが、「解放」された芸娼妓たちの受け皿はほとんど用意されませんでした。
 公娼地域としての遊郭は、1956年の売春防止法の成立まで続きました。
 現代とはさまざまな価値観や社会経済の制度がまったく違っていますので、たとえば文人の出入りする高級文化サロンとしての役割もあった江戸時代の吉原であるなどの側面も含めて全否定する気はまったくありません。ただ、マリア・ルース号事件だけを取り上げられると、その事件がどう日本の社会に波及したのか・しなかったのかという点までも含めてコメントしたくなってしまうのです(汗)。

イケメン旋風、ここにも到来!? 出版業界を延命させる時代小説
大河ドラマの原作小説がバカ売れ&マンガ化されたり、「私の好きな時代小説」特集が女性誌で組まれたり、若い女性の間で時代小説がアツいらしい。オジサンの読むものだったはずが、いつの間に乙女たちに受けるものになったのか? ブームの発祥と実態を探る。

 今、巷では時代小説ブームが起きている──。こう言い切ってしまうのはいささか大げさかもしれないが、本誌を手に取る読者諸兄の中には、ブームの到来を実感している方も少なくないだろう。書店に足を運べばフェアが開かれ、雑誌を見ても、「小説すばる」の「時代小説が、いま元気だ!」特集や、女性ファッション誌「LEE」(ともに集英社)の「時代小説、私のおすすめ」特集など、以前より「時代小説」の4文字を目にする機会が増えている。しかも、今回のブームの担い手は、若い女性が中心になっているようだ。

 この背景としてまず考えられるのが、NHK大河ドラマのヒットだ。ご存じ"篤姫ブーム"により、最高の形でバトンタッチを受けた『天地人』は、初回24.7%の高視聴率を記録。原作の『天地人』も2009年上半期ベストセラーで4位にランクインするなど絶好調だ。そんな気運の高まりを受けてか、書店員がいま一番売りたい本を選ぶ本屋大賞でも、09年はなんとベスト10のうちの4作品を時代小説が占め、関係者やウオッチャーたちを驚かせた。

 ひとくちに時代小説といっても、扱われる時代は多様だが、相変わらず読者には戦国、幕末が人気だ。同賞第2位にランクインした戦国モノ『のぼうの城』は、"読みやすい時代小説"として評判を呼び、07年12月の発売以来、現在までに累計30万部以上を売り上げた。そのヒットを支えたのは20~30代の女性。「歴女」と呼ばれる、歴史好きな女性から支持を受けたことが、拍車をかけたといわれている。人気の理由を、大手書店の文芸担当者は、こう分析する。

「同作は展開がスピーディーで、池波正太郎や藤沢周平といった大家が書くような作品とは別物という印象。著者はもともと脚本家ですし、ドラマや映画にも似た独特のテンポがあるのだと思います。それが若い女性にとってはとても読みやすいんでしょう」

"別物"という言葉が象徴するように、今回の時代小説ブームは、若い層が過去の名作を楽しむようになったということではない。「時代小説」という枠の中に、これまでとは異なる新たなエンターテインメント性を持った作品が登場し、彼女たちがそれを楽しんでいるということだ。

イケメン揃いのゲームからやがて定番の小説へ

 さて、このブームの立役者とされる歴女だが、彼女たちが歴史の世界に足を踏み入れた要因としては、04年放映のNHK大河ドラマ『新撰組!』や、05年発売のアクションゲーム『戦国BASARA』のヒットが挙げられる。両作はどちらも、イケメンたちが仲間と自分の信念のために戦う物語。その姿が女子の萌え心をくすぐり、彼らがいた時代を詳しく知りたいという探究心を掘り起こしたわけだ。06年開業の歴史モノ専門書店「時代屋」でも、07年頃から客層に変化があったという。

「オープン当初は40代以上の男性が大半でしたが、07年頃から徐々に女性、特に若い世代のお客様が増え始めました。戦国武将や幕末志士についての小説や解説書を探しにくる方が多いですね」(時代屋神田小川町店・大前美鈴さん)

 同店はもともと、年配層にコンスタントに売れる作品を揃えていたが、07年以降、若い女性がどんどん増加し、現在では客層の男女比が五分にまでなった。それに伴って歴女ニーズが高そうな商品を増やしたそうだが、ここ1~2年で出版社もその流れに足並みを揃えてきたという。

「最近、若い方の間でも大御所の作品に挑戦する傾向が強まっています。この動きを受け、『尻啖え孫市』や『坂の上の雲』のカバーが、従来の厳かなデザインから若い世代を意識した少し柔らかいものへと変化しました」(前出・大前さん)

 "ジャケ買い"を狙うなど、出版社側でも読者層拡大を狙った戦略が活発化しているようだ。「『しゃばけ』のドラマ化など、歴史モノのドラマや映画が話題になると女性客が増加する」(前出・書店員)というから、『天地人』が放送されている間は、出版社にとっても、読者層の拡大や、第二、第三の『のぼうの城』を生むチャンスなのだろう。

社会の円熟で"懐古志向"歴史モノは"定番"へ

 こうして見ると、今は時代小説ブームというよりは、ゲーム、マンガ、ドラマ、映画、小説、すべてがつながった「時代モノブーム」といえそうだ。この同時多発的ヒットの要因は3つ考えられると、博報堂生活総合研究所エグゼクティブフェローの関沢英彦氏は言う。

「まずは、現代が成熟した社会であること。社会が高度になると、過去に"学び"を求めたり、自分たちのルーツ探索をする動きが出てくるものなんです。これは現代の生活者の志向といえますね。次に作り手側の問題として、コンテンツ産業の慢性的なネタ不足。『ダ・ヴィンチ・コード』や『レッドクリフ』など世界的に同様の流れがあるのですが、歴史には膨大な物語があるので、それをモチーフにすることでネタ不足を解消しているのです。そして最後に、社会環境がコミュニケーションにもたらす影響。昔なら個人で楽しむしかなかったニッチな趣味も、今だとSNSやオフ会など同好の士とつながるツールが身近にあり、ブームが起きやすい環境なんです」

 ニーズ、作り手側の思惑、コミュニケーション環境。なるほどこのブームは、3要素がガッチリ噛み合って生まれたようだ。この流れは、今後も続いていくのだろうか?

「3つの要因の中で、作り手側のコンテンツ不足は特に深刻な問題のようです。当分解消されそうな気配はありませんので、歴史に依存する傾向は強まっていくでしょう。今は戦国や幕末が人気ですが、琉球王国の激動を描いた『テンペスト』などが評価を得ているように、これまであまり注目されることのなかった時代や地域にフォーカスした作品が増えるのではと思います」(関沢氏)

 どうやら、歴史という題材はコンテンツを生み出す"鉱脈"として、これからもどんどん発掘される運命のようだ。さらに、第一の条件として挙げられたニーズの変化は一過性のものではないはずで、もしかすると、このブームはいずれ、老若男女を問わない「定番」へと収斂していくのかもしれない。
(文=下元 陽[BLOCKBUSTER]/「サイゾー」7月号より)

 「サイゾー」の記事にしては、長文なのに結構面白く読めました。
 でも「さて、このブームの立役者とされる歴女だが、彼女たちが歴史の世界に足を踏み入れた要因としては、04年放映のNHK大河ドラマ『新撰組!』や、05年発売のアクションゲーム『戦国BASARA』のヒットが挙げられる」という文のところで、目が(@_@)!
 しかも「両作はどちらも、イケメンたちが仲間と自分の信念のために戦う物語」……ええっ、『新選組!』って、そんな身も蓋もないストーリーだったっけ!?(イグアスの滝汗) 少なくとも自分は1年間、もっといろいろな感動やワクワク感や涙など感じながら、激動の時代に生きた実在の人々の足跡を辿ったものですが。
 自分は大河ドラマ『新選組!』の放映前から土方さんに恋してましたので、『新選組!』が歴女ブームのきっかけとか言われると「ええっ!?」てリアクションです……土方さん&新選組については司馬遼太郎『新選組血風録』『燃えよ剣』やNETのテレビドラマ版など数々の作品群によるファンが現れており、三国志と並んでヲタク女子に伝統あるジャンル(爆)です。
 「歴女」という言葉が使われ始めたのが最近のことなので、『新選組!』ファンまでも最近流行の「歴女」にひとくくりにされてしまうと、違和感ありあり……なのかなぁ(苦笑)。歴女ブームの先駆者的存在としての『組!』ファン、というのは、わからないでもありません。
 きっかけは何でもいいと思うのですよ。ただ、史跡や墓所を訪問する際には、史実を生きた人々やそのご子孫たちに敬意をもってマナーをわきまえていただきたいと願うのみです。古くは沖田総司の墓がある東京・専称寺、近年では御陵衛士の墓所がある京都・戒光寺、縁のある史跡が一部の心ない訪問者のために公開されなくなったことが残念で残念で……この「歴女」ブームとかで、そのような史跡が増えないことを心から祈ってやみません(特に、自分の先祖がお仕えしたらしき、東北の某雄藩の有力家臣の関連史跡については、いつか自分が訪問する時まで、一般客が出入り禁止とならないことを切に祈っております……滝汗)。



 
 昨夜かなり強く降った雨は一旦上がりましたが、今日は午後からところによって雷雨、夕方から夜にかけては各地で雨とか……今年の梅雨は「降る時は土砂降り」って感じでしょうか(汗)。

神奈川
横浜開港150周年記念 神奈川大学図書館所蔵貴重書にみる「開港期の横浜」展 開催──神奈川大学
 横浜開港150周年を記念し、神奈川大学図書館が所蔵している貴重書の中から、ペリー提督来航から開港にかけての横浜に関する資料や幕末から明治期にかけての関連資料が期間限定で展示される。


 横浜開港150周年を記念し、神奈川大学図書館が所蔵している貴重書の中から、ペリー提督来航から開港にかけての横浜に関する資料や幕末から明治期にかけての関連資料が期間限定で展示される。

【神奈川大学図書館所蔵貴重書にみる「開港期の横浜」展】
◆会期◆
2009年6月15日(月)~10月18日(日)

◆開館時間◆
月~土 9:00~21:30
日・祝・夏季休業期間中 9:30~18:00
※大学の夏季休業期間中は、日・祝日は休館となります。詳細は神奈川大学図書館ホームページでご確認ください。
http://www.kanagawa-u.ac.jp/lib/

◆会場◆
神奈川大学 横浜キャンパス 図書館1階展示コーナー
*東急東横線白楽駅下車徒歩約13分
*横浜駅・東神奈川駅・片倉町駅より横浜市営バス36・82系統利用 六角橋西町下車徒歩約2分

◆主要展示資料◆
・ホークス 『ペリー艦隊日本遠征記』 (1856年)
・五雲亭貞秀 『神奈川横浜新開港図』 (1860年) ほか

◆入場◆
無料

◆主催◆
神奈川大学図書館

◆後援◆
財団法人横浜開港150周年協会

◆問い合わせ先◆
神奈川大学図書館
TEL: 045-481-5661(代表)
http://www.kanagawa-u.ac.jp/lib/


開港記念会館で日米交流セミナー「ペリーは横浜に何をもたらしたか?」
開港記念会館で日米交流セミナー「ペリーは横浜に何をもたらしたか?」
 横浜市開港記念会館(横浜市中区本町1)で6月27日、日米交流セミナー「ペリーは横浜に何をもたらしたか?」が開催される。
  同セミナーは、日米関係の原点であるペリー提督の来航をふまえて、文化の接点である横浜が果たしてきた役割の重要性を見つめ直すもの。米軍根岸住宅や米国国務省日本語研修所があるなど、現在でもアメリカとの関わりが深い中区が、地域の中でのこれからの日米の交流について考えていく。
 セミナーは2部構成で、1部は、日米関係の研究で知られる慶應義塾大学総合政策学部学部長の阿川尚之さんを講師に招き「150年の日米関係、横浜が果たしてきた役割について」というテーマで基調講演を行う。2部は、象の鼻地区整備にも参画した横浜市都市整備局の国吉直行さんのコーディネートでパネルディスカッションが行われる。パネラーは学者でエッセイストの阿川尚之さん、米海軍横須賀基地司令官のダニエル L. ウィード大佐、横浜市立大学学長の布施勉さん、米国国務省日本語研修所所長のダレル・ジェンクスさん。
 主催する横浜市中区役所は、横浜開港150周年の2009年を「第2の開港~開港ルネッサンス」の年と位置付け、新たな文化や創造活動をさまざまな角度から発信する事業を行っている。これまでに、米海軍第7艦隊音楽隊や中区中・高校等が参加した「日本大通りパレード」、幕末から未来までの時代を「衣・食・遊」で体験できる「日本大通りタイムストリート」などを開催している。同セミナーは開港150周年記念の一環で行われる。
 中区地域振興課の石田勝行さんは「中区民約15万人のうち、10人に1人は外国人です。昨年国際交流ラウンジをオープンするなど多文化共生推進に取り組んでいます。同セミナーの開催を通じて、国際交流活動を一層活発化していきたい」と話す。
 開催時間は14時から16時。入場無料。申し込みはEメール、FAX、電話で。定員は先着400人。


福井
越前松平家の家宝公開 福井市立郷土歴史博物館
 江戸時代の越前松平家に伝わる資料などの展示会が、福井市立郷土歴史博物館で開かれている。幕末の福井藩主・松平春嶽にかかわる書物のほか、江戸から明治時代までのえりすぐりの美術工芸品などが並べられている。7月5日まで。
 会場には、春嶽の温かい人柄や筆まめさが分かる直筆の書状や日記、福井藩の年中行事と風物詩を描いた絵巻など計約20点が展示されている。美術工芸品は「漆芸の名品」「こどもの成長を願って」をテーマに、稚児用の武具などが出展されている。
 江戸の将軍家に仕えていたとされる蒔絵(まきえ)師の作品「菊唐草(きくからくさ)蒔絵重箱」には、重厚で華麗な蒔絵が全面に施されている。初公開の稚児差しは、通常の日本刀に比べて半分ほどの大きさで、七五三の儀式の際に用いたという。
 入場料は210円。中学生以下や高齢者、障害者は無料。
(梅沢あゆみ)


岐阜
高張ちょうちん復活
鵜飼い「特別総がらみ」の目印

 明治時代の「特別総がらみ」。鵜飼い船を見る観覧船(右)に高張ちょうちんが掲げられている(岐阜市提供)  岐阜市の長良川鵜飼(うか)いで、鵜飼い船が「特別総がらみ」を実演する際に使われていた高張(たかはり)ちょうちんが、数十年ぶりに復活することになった。伝統文化の継承活動を行っている同市の非営利組織(NPO)法人「花の会」が、市政120周年を迎えるのを期にちょうちんを寄贈した。(金成真也)
 総がらみとは、鵜飼い船全船が一直線に並び、闇夜の水面にかがり火を映す操船術。特別総がらみは、古来、尾張藩主などが見学した際、殿様が乗った観覧船に向かい、文字通り特別に船列を進めたことをいう。明治維新後も要人らが見学した際に行われた。現在は特別料金(6万円)を支払えば見学できるが、実施回数は年に数回程度という。
 鵜飼観覧船事務所によると、高張ちょうちんは30年ほど前まで、鵜匠らが目印にするため、特別総がらみの注文客の観覧船につるされていた。1970年代初め頃までは、客の宿泊する旅館などが屋号の入ったものを用意していたという。観覧船は「高張船」と呼ばれていたが、いつしかちょうちんは使われなくなり、高張船の名も無くなった。
 花の会はここ数年、伝統的な「水遊び」の復元などをテーマに活動している。柴田千鶴子理事長はかつて芸妓(げいぎ)をしており、70年代初め頃、実際に高張船を見たことがあるという。
 ちょうちんは、同会が3万円をかけて特別注文。直径最大44センチ、高さ53センチで、朱色の下地に市章の「井げた」を白抜きでデザインした。15日に市役所を訪れ、細江茂光市長にちょうちんを手渡した柴田理事長は「歴史ある長良川鵜飼いが昔の姿に近づけるお手伝いになれば」と話していた。
(2009年6月16日 読売新聞)


佐賀
「佐賀の乱」にわかに地元白熱 「乱じゃない、戦争だ」
 明治政府樹立後の士族の反乱のうち、佐賀藩出身の江藤新平を中心におきた「佐賀の乱」について、「国を乱したという印象を持たれる。表現を改めるべきだ」という意見が地元で持ち上がっている。新平は「首謀者」として処刑されたが、「新政府に仕組まれた戦争」とする学説も登場。歴史教科書の表記をめぐっても議論が起きている。
 11日の佐賀市議会。自民党系の市議が「中学校の歴史教科書の図表に『佐賀の乱』と記されている。印象が悪く放置できない。『佐賀の役』などと改訂を求めて運動すべきではないか」と質問。田部井洋文教育長は「授業で使う資料集では、最近の研究で佐賀の乱に新しい見方が出てきていることを紹介している。諸説ある中で史実を多面的に教えている」と答えた。
 論争の火付け役は「幕末維新と佐賀藩」(中公新書)などの著書がある毛利敏彦・大阪市立大名誉教授(76)。4月に佐賀市内であった講演では、佐賀の乱を不平士族の反乱とする通説に対し、「大久保利通が一方的に仕掛けた」との自説を紹介した。
 ただ、「乱」を「役」に改めるのには否定的。「『役』という言葉は国家権力の発動によって人民に無理を強いること。史実からすれば、中立的に『佐賀戦争』と言うべきだ」と話している。
 佐賀市内で毎年開かれる新平らの慰霊祭では「佐賀の役」と呼ばれ、「佐賀の役記念碑」もある。新平のひ孫の江藤兵部さん(69)=埼玉県=は「小さな頃から佐賀の乱と言われ続けてきたが、事実と違うという研究が進んできた。子孫の一人としてはありがたい話で、歴史認識を改めるきっかけにしてほしい」と話す。(白石昌幸)

 〈佐賀の乱〉 1874(明治7)年、明治政府の改革に不満を募らせた士族が起こした最初の反乱。政府軍が鎮圧し、明治政府の初代司法卿を務めた江藤新平、秋田県令(知事)を務めた島義勇(よしたけ)らが処刑された。これ以後、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱、西南戦争と、西日本各地で士族の反乱が相次いだ。

 呼称には、言霊が宿るものですし、名は体を表すともいい、まして歴史上の事件の呼び名には歴史観が反映されるものであり……誰にとってもニュートラルな呼び名はないでしょうし、なかなか難しいものですね。





 いつも冒頭に一言書くのですが、「ヤネセン散歩」と称して2本記事を書いたら、ネタ切れになってしまった(汗)今日です。
 

北海道
函館開港150周年 小林亜星さん作曲の記念ソング初練習
 函館開港150周年を記念して、函館市が作曲家の小林亜星さんに依頼した記念ソング「あれから そして今」が完成。7月1日の記念式典などでの披露に向けて13日、市芸術ホールで初練習が行われた。函館合唱連盟の会員が、同会理事長の大坂吉明さんの指揮で音を合わせた。
 歌は「新しい函館の歌」をテーマに、市民から函館の歴史や思い出にまつわる言葉を募集した。これを歌詞に編集し、小林さんが混声4部合唱に作曲した。式典当日、合唱に参加するのは同連盟に加盟している約15団体の約220人。練習はこの日を含めて4回で、初回は約140人が参加した。
 同事業実行委総合プロデューサーの岩堀恭一さんは「後世に残るような曲にしたいと考えた」と説明。大坂さんの指示で、パートごとや全体での音確認を繰り返した。練習後、大坂さんは「親しみやすい割に変化があり、中身の濃い合唱曲だと感じた。歌い手にとって充実感があるので、当日が楽しみ」と話した。
 最終回となる30日の練習には、小林さんも同席する予定。



東京
明治維新 金座跡に建つ「金融センター」

 かつての金座を仕切った後藤家の屋敷があった「本町1丁目」は、現在の日本橋本石町にあたる。日銀の本店の所在地だ。現在の旧館の建築中には、土中から多くの金粒が出てきたとのうわさもたった。
 富士山がよく見えたため、この界隈(かいわい)は昭和7(1932)年ごろまで駿河町と呼ばれた。近くには日本橋魚河岸があり、活気のあふれる商業の町だった。また、金座に近いため、後に銀行となる両替商も軒を連ねていた。
 明治初期のこの町の風景を描いた錦絵からは、文明開化の中で活気にあふれる庶民の生活ぶりと、駿河町が商業と金融の中心地として発達していく様子など、近代国家の息吹が感じ取れる。
 明治5(1872)年12月には国立銀行条例が公布され、近代的な銀行制度が誕生。国立銀行設立が相次ぎ、明治12(1879)年には全国で153行まで増えた。明治政府や国立銀行が発行した不換紙幣が大量に増えるなか、西南戦争の戦費調達で貨幣供給量が増大し、深刻なインフレに見舞われた。
 明治15(1882)年10月、これらの諸問題を解決するために、中央銀行である日本銀行が設立された。設立当初は隅田川にかかる永代橋のたもとの現在の日本橋箱崎町に拠点を構えたが、場所が不便だったことから、現在の場所に新築移転した。
 旧館の設計者は、東京駅のレンガ造り駅舎などを手がけた辰野金吾博士。明治維新当初、国内の様式建築設計は外国人建築技師に頼っていたが、辰野博士は工部大学校を明治12(1879)年に卒業して、日本最初の建築家の一人となった。
 日銀の設計にあたって辰野博士は、海外視察で目にしたベルギーの中央銀行をモデルにネオバロック様式の西洋式建物を採用。明治23年9月に着工し、29年2月に完成した。地下1階、地上3階建ての石積みレンガ造りで、威風堂々とした建て構えを誇った。
 完成翌月に開かれた落成祝賀会は、皇族をはじめ各国大使など約1800人が招待され、万国旗がはためく中、盛大に祝われたという。その後も多くの見物客が訪れ、周辺はさながら観光地と化したという。
 大正12(1923)年に発生した関東大震災では、周辺の建物が倒壊被害に見舞われる中、堅固なつくりの旧館は傾くこともなかった。ただ、破れたガラス窓から周辺の火の粉が建物内に入り火災が発生。必死の消火作業で消し止められたが、2階以上の内部はかなりの部分が消失した。
 大火の翌日も窓口を開き、中央銀行としての機能を中断させることはなかったという。当時も、金融システムの維持がいかに重要な指名だったかがうかがえる。


奈良
幕末制作の鏡板90年ぶり背景に
宇陀・あきの蛍能

 宇陀市大宇陀区迫間の阿紀神社の能舞台で13日、第17回「あきの蛍能」(あきの蛍能保存会など主催)が催され、数百匹のゲンジボタルが舞う幻想的な光景が観客を魅了した。
 舞台は午後6時30分、浦田親良さんの仕舞「清経」で始まり、茂山宗彦さんらが狂言「飛越(とびこえ)」を披露。浦田保親さんらの能楽「田村」の中入りで、明かりが消えた舞台に蛍が放たれた。
 地元では17年前、江戸時代から大正まで続いた同神社の「薪能」を復活。第3回公演から原野悦良・元大宇陀観光協会長が養殖した蛍を放ち、名前も「蛍能」と改めた。今回は、神社の蔵にあった江戸時代末期の作で、老松を描いた舞台背景の「鏡板」を約90年ぶりに使った。
 保存会の太田三千男会長は「鏡板が舞台に彩りを添え、鼓の音も一段とさえ渡った。気をもんだ蛍の羽化も間に合った。住民ぐるみで伝統文化を守りたい」と話している。


山口
玖珂隕石と郷土史を小説に
 「玖珂隕石(いんせき)に光を当てる会」代表の清水秀登さん(72)=周南市呼坂=が、河村秀のペンネームで小説「隕(お)ちてふたたび」を自費出版した。1938年に現在の岩国市周東町川越地区で発見された玖珂隕石と、地区の歴史を絡ませて物語を紡いだ。
 小説は、隕石の発見をきっかけに発足した会の研修旅行を通じて、戦国時代に中国地方で勢力争いを繰り広げた毛利、大内、尼子氏の動きを浮かび上がらせている。
 川越地区には毛利氏の奉行を務めた井上氏の墓があり、その盛衰も紹介。子孫は幕末に活躍した元勲の井上馨と「日本鉄道の父」と呼ばれる井上勝につながる、としている。
 タイトルは、隕石の落下と、一度毛利氏に粛清されながらも復活した井上氏の姿に、清水さん自身の人生などを重ね合わせて付けた。



福岡
知りたい:宮若の福岡藩犬鳴御別館とは /福岡
◇藩主幽閉の場所説も
 「福岡藩最後のお城」といわれる城が宮若市犬鳴の山中にあった。「犬鳴御別館」。開国と近代化で国中が揺れ動いた幕末。有事の際に藩主をかくまう「逃げ城」とされてきたが、近年になって「藩内の反藩主派が藩主を幽閉するために造ったのではないか」との説が浮上している。【入江直樹】

 宮若市から久山町に抜ける犬鳴峠。その山中にある犬鳴ダム沿いの道を上流方向へ車を走らせること5分。車両進入禁止の柵の脇で車を降りて約200メートル歩くと、生い茂る木々の緑の間から古ぼけた石垣が見える。御別館跡地だ。
 福岡藩の居城・福岡城(現・福岡市中央区)は海に近い平山城で、開国を求める列国艦隊の砲撃への防備に不安があった。藩家老、加藤司書は「逃げ城」を造るよう藩主・黒田長溥に意見具申。1865(慶応元)年に着工した。
 当時藩内では親幕府の佐幕派と反幕府の勤皇派の勢力争いが激化。加藤は勤皇派トップだったことから、佐幕派から「藩主を山奥に幽閉し、クーデターを起こすつもりだ」と疑われて同年、数十人の腹心とともに切腹させられた。大政奉還の2年前だった。
 佐幕派の陰謀--。加藤ら勤皇派への弾圧は、長らくこう見られ、加藤らに対する同情も生まれたという。
 しかし、ここにきてクーデター計画は事実とする説が研究者の間で語られ始めたのだ。近年見つかった御別館の見取り図から、玄関らしい玄関がないことが判明し、城としては極めて不自然だからだ。築かれた場所も加藤が以前から製鉄所を開いていた近くで、周辺の地理に詳しかったこともクーデター疑惑の根拠の一つという。
 結局、有力藩の一つだった福岡藩は佐幕派が権力を掌握し、明治新政府樹立の中心になった薩摩・長州両藩とは対照的に影が薄れていく。御別館もそれを象徴するかのように1884(明治17)年に暴風雨で倒壊した。
 長年研究を続けている「福岡藩犬鳴御別館市民の会」事務局長の小方良臣さん(59)は「事実はまだよく分からないが、福岡藩が明治維新に乗り遅れたのは事実。両派どちらが悪いとは言えず、いつの時代も政争の常だ」と話す。

   ◇     ◇

 最近、御別館の建物とみられる一部が近くの民家や寺などに再利用されているのが分かった。築約160年の古民家を改装した温泉旅館「湯原荘」では客室を仕切る板戸や書庫兼作業部屋の畳床が御別館のものだと伝えられる。板戸には墨で桜や松などが描かれ、宿泊客に限って公開している。
 小方さんは「新撰組や坂本龍馬などが活躍した同じ時代に身近なところでもドラマがあった。石垣を整備し、将来は建物を復元して、多くの人に知ってほしい」と語った。

 佐幕派と反幕派(「佐幕vs勤王」という対立軸そのものがどうも自分にはしっくり来ないので、仮にこう書きます)の抗争はあちこちの藩で起こってますが、こうして具体的な事例を知ると生々しいなぁ……。


コラム
景気は「木」から 繁盛願う風刺マンガ
 富や経済繁栄への願いを込めた「金のなる木」の錦絵は、貨幣が庶民に浸透するようになった江戸時代から明治時代に至るまで、数多く描かれてきた。その絵を見ると、昔から庶民が景気と貨幣をしっかりと関連づけていたことが、うかがえる。
 江戸時代になると、庶民の間で、金銭的な豊かさが幸せの一つとしてとらえられるようになった。年の初めになると、庶民は七福神の描かれた錦絵のほか、縁起もよい「金のなる木」の錦絵を買い求めたという。
 著名な浮世絵師の手による、デザイン的にみても優れた作品が多い。
 三代・広重による「樹上商易諸物引下図」は、幕末の物価高騰に悩む庶民の困惑を描いている。庶民が「金のなる木」の枝に高くひっかかった食料品や生活品を地上に落とそうと躍起になっている様子には、物価安定への願いが込められている。
 ちなみに、絵に描かれたコメや紙といった品目は、現在の消費者物価指数の算定対象品と共通しているものが多いという。
 「富世道外遊」は、幕末に貨幣の流通が混乱した様子を描いた錦絵。当時、寛永通宝などが不足したため、幕府は従来の銅製に加えて鉄製の一文銭も鋳造して流通させた。その結果、「銅一文銭1枚=鉄一文銭4枚」といった二重貨幣の相場が形成される事態になった。貨幣が相撲を取る様子は、開港以降の幕府による改鋳政策の混迷を非難しているようにもみえる。
 明治時代になると、錦絵の雰囲気も変わってくる。日銀金融研究所の藤井典子さんは「世論を代弁し、庶民の政治的なメッセージも描き込まれるようになった」と話す。
 明治17年に描かれた「不景気(木)」などは、現代の風刺マンガさながらだ。金融が不景気の原因であることを庶民が熟知していたことが、よく分かり、庶民の経済知識レベルが、非常に高かったことを裏付けている。
 新聞などがまだ広まっていない当時、錦絵は庶民にとって、ある種のマスメディアの役割も果たしていたようだ。






 ヤネセン散歩の話題ふたつめです。幕末つながりなので、カテゴリーを「幕末よもやま話」に。

 谷中霊園に行ったのは初めてでした。高橋お伝と雲井龍雄と川上音二郎の墓が並んでいるという不思議ワールド……(汗)。

 「徳川慶喜の墓」という案内表示が出ていました。英語で案内表示もある……(@_@)。

 そして、大正2年に亡くなった、徳川最後の将軍、徳川慶喜の墓所がありました。

 改築中なのか一部をシートで囲まれてましたが、鉄の柵と門でしっかり囲まれた一角。内部は公開されていませんが、外から様子を見ることができます。

☆★☆★

 そこに、待ちかまえたように、ボランティアガイドらしき方が出てきて、話しかけてくれました。

 その方から伺った話を順不同でざくっとご紹介します。

・ 慶喜の墓所の土地は都立谷中霊園のものではなく、上野寛永寺のものである(実際、東京都教育委員会の史跡解説板には「寛永寺内」とありました)。ネット上ではよく「谷中霊園」「谷中墓地」内とされているが、慶喜の墓所はじめ徳川家関係者の墓所は寛永寺の飛び地である

・ 慶喜、正室美賀子の墓所は墳墓の形をしているが、これは神道の形式の墓。それも慶喜が出身であるところの水戸徳川家の伝統によるものだ

・ 慶喜は、最後の将軍として、死後は寛永寺に埋葬されることを望んだ。しかも、水戸徳川家の伝統を引く尊皇思想の持ち主で、自分は朝廷に刃向かうつもりはまったくなかったのだということを示すためにも、神式で埋葬されることを望んだ。

・ しかし、天台宗のお寺である寛永寺に、神式で墓を建てることが歓迎されるわけもない(神仏分離がなされた後ですし)のはわかっているので、生前に寛永寺に土地を確保させておいた。そして、遺言で神式の墓を造成させた。

・ 神式の墳墓は、自分は朝敵ではないという慶喜の自己主張である。

・ 寛永寺にとっては迷惑以外の何ものでもないので、徳川慶喜公の墓所は寛永寺の土地であるとは大きな声で言っていない。

 ……という内容でした。

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 たとえばwikipediaの徳川慶喜の項目には渋沢栄一『德川慶喜公伝』に言及して、以下のように書かれています。

朝敵とされた自分を赦免した上、華族の最高位である公爵を親授した明治天皇に感謝の意を示すため、慶喜は自分の葬儀を仏式ではなく神式で行なうよう遺言した。このため、慶喜の墓は徳川家菩提寺である増上寺徳川家墓地でも寛永寺徳川家墓地でもなく、谷中霊園に皇族のそれと同じような円墳が建てられた。これは孝明天皇の陵墓が質素であることに感動したためである


 『徳川慶喜公伝』は未読ですが……ご本人が亡くなってから元家臣が故人の顕彰のために書いた本ですし、明治維新後に成立した国家体制を是とした上で徳川慶喜の過去の言動を意味づけようとする意図があっただろうとか、出版意図や時代背景も理解しておく必要があるだろうなと思います。

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 ボランティアガイドさんの説は、『慶喜公伝』の内容より、ずっと生々しいというか、生臭い慶喜公の像がイメージできて、とても面白かったです。鳥羽伏見の戦いで負けた後に家臣たちを置いてさっさと江戸に戻ってしまった行動を振り返り、このお墓を見ながら「あ、明治大正を経ても、この人はこういう人だったんだ……と、腑に落ちてしまったというか(汗)。

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 谷中霊園の後はJR山手線・京浜東北線を渡って反対側の根岸方面に出たのですが、羽二重団子のお店近辺に史跡案内板がありました。その中で、この一帯は上野戦争で敗れた彰義隊らが脱出して潜伏したと解説されていました。

 寛永寺で謹慎して恭順した慶喜公。その寛永寺を最後の砦として戦い、あえなく散っていった、あるいは命からがら落ち延びていった彰義隊の兵士たち。

 様々な人の運命を呑み込み押し流していく時代の奔流を感じずにはいられませんでした。






 昨日は少し蒸し暑かったですが、今日は湿気も少なく、涼しい風が通るようです。

山口
ご近所のお医者さん:/23 吉岡達生さん 岩国藩士・玉乃世履の年譜出版 /山口
◇吉岡達生さん(57)
 広島県呉市の出身。熊本大医学部を卒業、広島大の医局に入り、中電病院(広島市)を経て、妻の実家の岩国で89年1月に開業しました。呉三津田高校時代は岩国基地の米軍放送を聴いていたので縁はあったのかな。ちなみに同じ放送を聴いた高校の後輩の浜田省吾さんは歌手になりました。
 診療で心がけているのはここで治療できるのか、専門的な医療機関を勧めるべきなのかを、スピーディーに見極めること。また、早く治るために必要な情報を提供することも大切にしています。熱心に説明しすぎて患者さんに、うるさがられることもあるけど。
 趣味は郷土史。漢詩・漢文を学び、錦帯橋を詠(うた)った漢詩を読むうちに、幕末から明治に活躍した岩国藩士・玉乃世履(たまのせいり)さん(1825~86年)の漢詩に出会った。第2次長州征伐で農兵を率い、維新後は司法の道に進んで最高裁長官に相当する初代大審院長を務めた方。まとまった伝記がなく、自分で調べて約4年半。約700点の資料に当たり「初代大審院長 玉乃世履-年譜」を02年に出版しました。玉乃さんを研究する人々の基礎資料になると、自負しています。
 今は玉乃さんの門下生で我が国の解剖学の草分け、今田束(つかね)さん(1850~89年)の業績を書いてます。戊辰戦争に従軍し、そのあと解剖学を学び、東大医学部助教授になった方。若くして亡くなられる数年前に「内耳の部位」という論文を発表しています。
 実は、私の博士号論文も内耳の研究なのです。不思議なつながりですね。【聞き手・大山典男】


県:幕末から明治維新の文書や画像…3万4600点をHPで公開 /山口
県:幕末から明治維新の文書や画像…3万4600点をHPで公開 /山口
◇県内10資料館所蔵データ、学習などに活用して
 県は今年度から、幕末から明治維新にかけての文書や画像など計約3万4600点のデータを県のホームページ上で公開している。県内10の資料館が所蔵するもので、吉田松陰や初代総理大臣の伊藤博文、高杉晋作ら郷土ゆかりの人物の画像なども。学校、郷土学習での活用や、幕末維新期に興味を持つ人に県内を訪れるきっかけにしてもらうことが狙い。
 「幕末維新関係資料等データベース」で、県文化振興課のホームページからリンクされている。収蔵施設と資料点数は、県文書館(山口市、約1万6200点)▽岩国徴古館(岩国市、約6500点)▽村田清風記念館(長門市、約5200点)▽毛利博物館(防府市、約2600点)▽下関市立長府博物館(約1500点)--など。
 天保期から明治中期(1830年~1890年)までの文書(書簡、書籍)や絵画、写真などの作成者、作成年代、収蔵施設名を記し、約500点は画像データも公開している。施設ごとやフリーワードでの検索もできる。
 県は3年かけて目録整理などの準備を続けてきたという。5月は前半だけで約100件のアクセスがあった。文化振興課は「山口は幕末維新期に活躍した志士を数多く輩出した。興味を持った人が県内の資料館に足を運ぶことにもつながってほしい」とする。【井上大作】


佐賀
佐賀の乱:教科書記述「佐賀の役」に 「陰謀」説受け問題提起--佐賀市議会 /佐賀
 江藤新平ら旧佐賀藩士の反乱とされる「佐賀の乱」の教科書での記述を「佐賀の役」などに改めるよう求める意見が、佐賀市の6月市議会一般質問で出された。「明治政府の陰謀だった」とする新学説に基づいた主張で、市教育委員会は研究の進展を踏まえたうえで国に意見を述べることも検討する。
 「佐賀の乱」は1874(明治7)年、明治政府に不満を持つ士族が起こした反乱とされる。しかし、明治維新に詳しい毛利敏彦・大阪市立大名誉教授が近年、大久保利通による謀略説を唱えている。地元・佐賀でも江藤新平の名誉回復につながるとして注目されている。
 11日の一般質問で亀井雄治議員は「教科書の記述は偏りがあり、放置できない。改訂を求めて運動すべきではないか」と質問。
 田部井洋文教育長は諸説を示して考えさせるのが歴史学習の基本としたうえで「教科書検定に問題提起すべきという話は検討させてもらいたい」とした。【姜弘修】

 「明治維新に詳しい毛利敏彦・大阪市立大名誉教授が近年、大久保利通による謀略説を唱えている」そうで……教科書の記述にどう反映されるか以前に、この説がどのように評価されるかに注目したいと思います。
 先日の『歴史秘話ヒストリア』でも、江藤が司法大臣だった時に主張していた公正な裁判を与えられずに斬首・梟首されたという経緯が取り上げられてました。古今東西の歴史を紐解いても、政敵に対する口封じとしてよく使われる手法ですからね……。
 『歴史秘話ヒストリア』江藤新平の回についてちょろっと感想を書いた拙ブログ記事にリンク・トラックバックしておきます。
5月20日~21日の幕末ニュース







 今日はちょっと蒸し暑いですね……場所によっては午後から夕方にかけて落雷があるとか(汗)。
 録画しておいた『戦国BASARA』の超展開に吹き出しました。本能寺がああいうことになるとは……(苦笑)。

北海道
14日から「札幌まつり」 古式ゆかしく「みこし渡御」も
14日から「札幌まつり」 古式ゆかしく「みこし渡御」も
 札幌に夏の訪れを告げる「札幌まつり(北海道神宮例祭)」が14日から3日間、行われる。
 16日に行われる「みこし渡御」は今年は130回目の節目。北海道開拓時代の明治11(1878)年に始まり、第2次世界大戦中に2回中止された以外は毎年、行われてきた。
 今年は、第6西創成祭典区が約1000万円をかけて改修した山車(だし)など、計8基の山車と4基のみこしが札幌市中心部を練り歩く。
 平安時代の狩衣(かりぎぬ)や幕末の維新勤王隊などの時代衣装に身を包んだ約1500人が、笛や太鼓を鳴らして練り歩く古式ゆかしい行事だ。さらに、人力車35台も市内を巡る。
 宵宮祭は14日午後6時から、例祭は15日午前10時から、札幌市中央区宮ヶ丘の北海道神宮本殿で執り行われる。
 また期間中、札幌市中央区の中島公園では午前10時から午後10時まで、約530の露店が並び、祭りの雰囲気を盛り上げる。


神奈川
講演会:講談師・松林伯圓の足跡たどる--きょう、鶴見大 /神奈川
 明治天皇の御前講演をした講談師、松林伯圓(はくえん)(1834~1905)の足跡をたどる講演会「鶴見と明治の舌耕文芸」が13日午後2時から、横浜市鶴見区の鶴見大学会館である。伯圓は晩年を鶴見で過ごしており、延広真治帝京大教授(69)が幕末から明治期の活躍を紹介する。
 「断髪に洋服、テーブルで演じ、時代の寵児(ちょうじ)だった」と、延広教授は伯圓を振り返る。伯圓は常陸(現茨城県)の武家に生まれ、1873(明治6)年、浅草寺境内で新聞講談を始めた。自作の「鼠小僧(ねずみこぞう)」など白浪もので人気となり「泥棒伯圓」の異名を取った。
 1892(明治25)年には、明治天皇の前で講談を披露した。中風で倒れ、晩年は総持寺(鶴見区)近くに隠居した。墓は東京・日暮里の寺にあり、命日には講談師らが「伯圓忌」を営んでいる。
 延広教授は「破滅型の芸人で、晩年は不遇だったようだ。なぜ鶴見に住んだか、家がどの辺りだったか分からない。一世を風靡(ふうび)した名人だけに、消息を知っている人がいたら教えてほしい」と呼びかける。
 入場無料。堀川貴司鶴見大教授の講演「明治五年の世界旅行」と同時開催する。【網谷利一郎】



兵庫
上野彦馬賞作品展:尼崎であすから 展示作業、着々と /兵庫
 幕末から明治期にかけて活躍した長崎の写真家、上野彦馬(1838~1904)にちなみ、若手写真家の発掘を目指す「第9回上野彦馬賞九州産業大学フォトコンテスト受賞作品展」が13日から、尼崎市昭和通2の市総合文化センターで始まる。会場では作品の展示作業が進められている。
 同センターと毎日新聞社などが主催。一般部門(39歳以下)と高校生・中学生部門があり、計3428点と過去2番目に多い応募があった。そのうち、入賞者102人の作品が会場に展示される。
 一般部門の最高賞にあたる「上野彦馬賞」を受賞したのは、中国の急速な成長の中、将来への不安で押しつぶされそうになる現代人を写した中国上海市の張笑秋さんの「魂」(5枚組)。高校生・中学生部門は沖縄県立南部工業高の知念愛佑美さんの「雨上がり」がジュニア大賞を受賞した。
 作品展と同時に特別企画展「CAMERA事始め-古典カメラから国産カメラへの変遷」が開催され、上野彦馬が活躍した時代のカメラのレプリカのほか、日本に3台しかないとされている、漆細工の堆朱(ついしゅ)装飾を施したカメラなど大正から昭和中期の貴重なカメラ約150点が展示される。
 7月5日まで。入場料は一般500円、大学・高校生400円、中学生以下無料。火曜休館。問い合わせは市総合文化センター(06・6487・0806)へ。【中里顕】


全国各地
全国各地で「150周年記念イベント」のなぜ
 全国各地で様々な行事・記念イベントが開催されているが、今年は特に横浜の「開国博Y150」が注目を集めている。これは横浜開港150周年を記念するテーマイベントで、市民参加型の様々なプロジェクトが企画されているのがおもしろい。
 蜘蛛を模した巨大ロボットが街を練り歩き、自衛隊のブルーインパルスによる曲芸飛行が披露されるなど、横浜という街全体が巨大なアミューズメントパークと化しているかのようだ。筆者も6月2日に横浜へ繰り出したが、「平日なのに、この人混みは夏休みか!?」と思うほど人の波でごった返していた。
 そんな賑わいを見せる横浜以外にも、同じく150周年を記念するイベントが開催されているのはご存じだろうか? 北海道は函館も、実は開港150周年に当たる。歴史を紐解くと、『1855年3月に締結された日米和親条約に基づいて函館は開港。しかし、これは条約上「寄港地」としての開港であった。函館が正式に「国際貿易港」として開港したのは、現在から遡ること150年前の1859年。幕府は同年5月28日に横浜・長崎・函館の開港を正式に「国際貿易港」とした』とある。
つまり、横浜も函館も長崎も、みな同じく開港150周年なのだ!
 函館では「函館開港150周年記念事業 ハコダテ150」というキャッチコピーのもと、様々な催し物が予定されている。特に8月8日から16日までの9日間にわたって開催されるメインイベント「Dream Box 150」では、歴史や文化、スポーツあり、音楽ありと、多岐にわたるジャンルのショーが目白押しだ。
 長崎は1859年以前から出島での交易があったため、とくに大きなイベントは開催されていないが、今年が開港150周年記念であることに変わりはない。記念切手マニア垂涎の「日本開港150周年記念切手」が発売されたのは記憶に新しいのではないだろうか。横浜、函館、長崎、それぞれを象徴する図案の80円切手シートだけでなく、豪華版ハードカバー切手帳(お値段なんと3,200円!)なる商品も限定5万部で販売されている。
 他にも「150周年記念」をリサーチしてみると、日本プロテスタント宣教150周年、日仏交流150周年、赤十字思想誕生150周年など数多く存在する。それは、江戸幕府が国際交易港として定めたことによるものがほとんど。開港によって世界各国の文化や思想の影響を受けたり、諸外国との外交が広まったためだろう。「歴史のいたずら」というわけではないが、2009年に数多くの“150周年記念イベント”が集中している謎の答えと言えるのではないだろうか。
(渡部仁/studio-woofoo)





 『プチかげ』ワンセグ先行放送、今日の展開、面白かったです。特に最後の場面では笑いました。ビビる猫、やっぱしお前は……(以下略)。

長野
バラまつり市街地イベント
まちなかも盛り上げ

 一本木公園のバラの花が見ごろを迎えているのに合わせて、中心市街地では「なかのバラまつり市街地イベント」が6、7日の2日間、にぎやかに繰り広げられた。
(中略)
 西町本通りでは、幕末から明治にかけての政治家・山岡鉄舟が揮ごうした「五反幟」が、虫干しに合わせて中野商工会議所の屋上からつるされた。虫干しは、善光寺の御開帳の年に行われている。


静岡
フタバアオイ献上「葵使」再現 京都の市民グループ
 江戸時代に京都・上賀茂神社が徳川幕府にフタバアオイを献上していたとされる行事「葵使(あおいつかい)」にならい、同神社の「葵の森」再生を目指す京都市の市民グループのメンバーが11日、静岡市葵区の駿府公園で葵使を再現した。グループの活動に協力している市立葵小にフタバアオイの苗約150株を寄贈した。
 時代衣装に身を包んだメンバーはフタバアオイの鉢を携え、静岡浅間木遣保存会の先導で東御門から入城。公園内の家康像前で、かみしも姿の使者が高木雅宏校長に鉢を手渡した。高木校長は「子どもたちと一緒に大切に育て、葵の森に戻したい」と述べた。
 古文書などによると、葵使は1610年、上賀茂神社の境内に自生していたアオイを駿府城の家康に献上したのが始まりとされ、幕末まで続いたという。近年、環境の変化で自生数が激減したため、市民グループが2006年からアオイを増やす活動を続けている。
 葵小への苗の寄贈は昨年に続いて2回目。苗は葵小児童が育て、10月に6年生が修学旅行で京都を訪れる際、昨年から交流している京都市立上賀茂小に届けるという。


奈良
「奈良町」出土の高坏形状 春日大社祭祀土器と一致
「奈良町」出土の高坏形状 春日大社祭祀土器と一致
「奈良町」出土の高坏形状 春日大社祭祀土器と一致 
 江戸~明治期の町家が残る「奈良町」内の奈良市北室町で出土した室町時代(14世紀末~15世紀初め)の素焼きの高坏約40点が、同市埋蔵文化財調査センターの調査で、現在も春日大社(同市)で使われている祭祀用の高坏「ゴンパイ」と形状が一致していたことが11日、分かった。
(中略)
 大社などによると、幕末の文書に、奈良名物として春日大社の土器が土産物として販売されていた記録があることから、この地域で、土産物として売られていた可能性もあるという。



長崎
夢とロマン満載「龍馬伝説カレー」 幕末の西洋料理を現代風にアレンジ
 長崎市役所内のレストラン「Lu・Chef(ル・シェフ)」にオーナーシェフの坂本洋司さん(62)が幕末の志士、坂本龍馬にちなみ創作した新メニュー「龍馬伝説カレー」がお目見えした。

 30種類のスパイスとコーヒーに、生クリームとチーズを混ぜて煮込み、まろやかな味に仕上げたカレー。サフランライスを盛り、牛ヒレ肉のステーキにはデミグラスソースをかけ、ジャガイモやニンジン、ベーコンなども添えボリューム感たっぷり。価格は500円。

 長崎で活躍した龍馬にちなみ、市民や観光客に喜んでもらえるような新メニューができないかと思案。文献に基づき、龍馬らが結成した日本初の商社とされる亀山社中近くにあった西洋料理店「良林亭」のメニューを現代風にアレンジした。

 坂本さんは「新しいものが好きな龍馬は、慣れていない西洋料理に驚きながら食べたのではないかと思う。夢とロマンを持って創作しました」と笑顔で話した。


龍馬から庶民まで 幕末の写真家彦馬
 日本写真術の開祖と呼ばれる上野彦馬の足跡を訪ねて長崎へ。薩摩の御用商の家に生まれた彦馬は、1862年(文久2年)、営業写真師になった。

 しかし開業当初は「写真は寿命を縮める」などと言われ、誰も写しに来なかった。迷信を恐れなかったのは、幕末の志士たちだった。坂本龍馬の写真はとても有名だ。

 彦馬の作品(レプリカ)は、東山手地区の古写真資料館で見ることができる。路面電車を降りて、オランダ坂をのぼる。私と柴田さんの横を、地図を持った修学旅行生が元気よく追い越していく。この辺りはプロイセン領事館や礼拝堂が立ち、領事館の丘と呼ばれた居留地だ。古写真資料館は当時の洋館で、丘を吹く風が気持ちいい。

 彦馬の写真は、龍馬、高杉晋作、桂小五郎、ニコライ2世など有名人から市井の人々、眼鏡橋など地域の風景まで幅広い。私が心惹かれたのは、幕末から明治の女性たち。えくぼを見せる可愛い少女やきりっとした芸者さん。みなイキイキしている。

 彦馬の家族写真もあったが、本人の笑顔はなし。細面で目も細く、意志が強そうだ。彦馬は西南戦争に従軍し、記録写真も撮った。危険なこともあったはず。彦馬のおかげで、幕末の志士の素顔も歴史の一端も知ることができる。写真の力を実感した。(ペリー荻野 コラムニスト)

(2009年6月10日 読売新聞)



ブックレビュー
『海岸線の歴史』を書いた松本健一氏(評論家、作家、麗澤大学教授)に聞く(1)
視点によって歴史は違った様相を見せる

――海岸線の視点から書かれた歴史書はめずらしい。

 世界で初めてではないか。12年前に着想した。当時『開国・維新』において、権力の変遷や政治の変化を書いたが、開港地や人口の動き、人の住まい方、さらには文化の動向はほとんど書くことができなかった。それを海岸線の変化の視点から対象も広げてまとめた。たとえば横浜は開港することで2000人の住民から大きく変化していく。

――エピソードの引用は文学や軍事史的なものまで広範囲にわたり、トロイアにも言及していますね。

 11歳のときにトロイアの遺跡を発掘したシュリーマンの伝記を読み、シュリーマンのように生きたいと憧れた。そのときから考えると50年後の60歳になるかならないかに、やっとトロイアに行くことができた。長年不思議に思っていたことが氷解するという体験もした。

 トロイアの遺跡は現在は5キロメートル内陸に入ったところにある。そこから海までは穀倉地帯になっている。3000年かかって湾が埋まったためだ。このように海岸線は自然現象としても変わっていく。

――「砂の文明、泥の文明、石の文明」をキーワードにした著書もあります。視点が大切ということですね。

 海岸線という視点を導入すれば、日本のまた違った歴史が見えてくる。新たな視点で見れば、歴史はまた違った様相を見せる。
――例を挙げてください。

 一例を引けば源平の戦い。源氏は騎馬武者の集団、平家は商人上がりの武家集団であり、平家がどこの港を使ったかは気にされてこなかった。平清盛は都を兵庫の福原の泊に移すこともしている。それだけ、海に対する親近感があり、船も多く持つ。その平家が、なぜ壇ノ浦をはじめ、騎馬集団を相手に負けたのか。

 源氏は熊野水軍を使った。実は武蔵坊弁慶は熊野水軍の出身。弁慶が義経側につくということは熊野水軍、つまり九鬼水軍が加担したという歴史的事実の知られざる側面があったからだ。この点でも海の要素を忘れてはならない。

――司馬遼太郎の『街道をゆく』のように、この本を契機に「海岸線をゆく」の長期書下ろしもありえますか。

 ある人からも言われた。司馬さんは『街道をゆく』を25年間にわたり週刊誌に連載した。同じような長期の連載ができるのではないか、と。

 確かに日本には中国の2倍、アメリカの1・5倍の海岸線があり、多くの港を持ちそれも変遷がある。いまもいたるところに津だとか浜とか浦とかの名が付いた地名が残る。もちろんそこには、歴史や文化がある。ということは、港や海岸線にそれぞれの物語がある。日本人は多くが海を渡って渡来してきてもいる。海岸線から見た日本、さらに世界について物語はまだ書き始められたばかりだ。

 ただ、25年連載するとなると、私は100歳に近づいていく。この本の場合も文献で探索するだけでなく、実際にそこに足を運び、見聞していることが、内容の強み、厚みになっている。現場で現在の風景を見ることが大事な要素なだけに、果たして続けることができるだろうか。

(聞き手:塚田紀史 =週刊東洋経済)

まつもと・けんいち
1946年群馬県生まれ。東京大学経済学部卒業。法政大学大学院で近代日本文学を専攻。著書に『近代アジア精神史の試み』(アジア・太平洋賞)、『開国・維新』(吉田茂賞)、『評伝北一輝』(毎日出版文化賞、司馬遼太郎賞)。







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