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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 やっとMyClip機能が復活しました。ありがたや有り難や。
 毎週楽しみにしている山内教授の連載、今日は請西藩主・林忠崇です(旧幕府側に思い入れのある方には、この殿様のファンも多いかと……自分もです)。戊辰戦争後どう生きたかも含めて、文章は短いのに読み応えがありました。

北海道
中華会館、今年も特別公開 7月1日から2カ月
 函館市大町1の函館中華会館が、今年の函館開港150周年に合わせて特別公開することが9日、分かった。期間は7月1日から8月24日までの約2カ月間。同館を管理する社団法人「函館中華会館」の陳上梅理事長(81)は「清朝末期の中国文化を多くの皆さんに知ってもらい、開港150周年を盛り上げたい」と話している。

 同館は建物の老朽化などに伴い2005年から公開を休止していたが、昨年、四川大地震の被災者を支援しようと4年ぶりに公開され、7月5日から8月16日までの約40日間に約6000人が入館した。今年は函館開港150周年を応援しようと、2月に開いた函館華僑総会(会長=陳理事長)の総会で特別公開を決めた。

 函館と中国とのかかわりは深く、1859(安政6)年の開港とともに、中国広東省出身の陳玉松がコンブを買い付けるために来函したのが始まり。同館も1910(明治43)年、函館に住む華僑が出資して作られた。陳理事長は「開館当初は華僑が団結して商売をしていくための集会所として使われていた。開港の節目を機に公開する意味は大きい」と話す。

 建物は中国から大工や彫物師などの技術者を呼び寄せて建設。くぎを1本も使わない純中国式れんが作りの平屋で、2001年には国の登録有形文化財に指定された。館内には中国で最も強い神とされ、華僑の心の支えとなった三国志の英雄「関羽」をまつった関帝壇がある。

 陳理事長は「装飾品の一つ一つに、当時の中国の考えが詰まっている。館内を見て中国を理解し、日中友好のいい機会になれば」と、多くの来場を呼び掛けている。

 開館時間は午前11時半から午後4時半まで。入館料は大人600円、高校生350円、小中学生200円。


福岡
福岡にまつわる2つの歴史 「月形洗蔵」「玄洋社」学ぼう 西日本新聞天神文化サークル 14、25日に講座
 西日本新聞天神文化サークルは14日と25日、福岡市中央区天神2丁目・天神ビル10階の同サークルで福岡にまつわる2つの歴史講座を開講する。

 14日は「筑前勤王党月形洗蔵の生涯」で、講師は筑前藩維新史研究会主宰の力武豊隆さん。25日は「玄洋社と日中戦争」で、講師は福岡地方史研究会会長の石瀧豊美さん。いずれも午前10時半から正午まで、受講料各800円(資料代含む)。

 月形は幕末の福岡藩で筑前勤王党のリーダーとして奔走、薩長の倒幕派と手を結び藩論を尊王倒幕へリードした。だが藩内は勤王、佐幕両派の対立が激化。1865年、月形ら勤王派は前家老加藤司書を筆頭に180人余りが断罪された。西郷隆盛に「士気英果なる、筑前においては無双というべし」と評された月形の思想、行動をたどる。

 玄洋社は頭山満らが結成した政治結社。国家主義的団体として戦後、GHQから解散を命じられる。孫文の革命運動を支援したことは広く知られるが、日中戦争勃発(ぼっぱつ)後、両国の和平に側面から働きかけたことは歴史の中に埋もれている。頭山は孫文の後継者たちに信頼が厚く、近衛内閣はその名声によって蒋介石に和平のメッセージを送った。37年から終戦までの頭山を通した日中和平の軌跡を振り返り、知られざる史実を明らかにする。

 定員は各40人。申し込み、問い合わせは同文化サークル=092(721)3200。


コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(14)東大教授・山内昌之 林忠崇
■高楊枝と“桐の下駄”

 

筋を通す意地や信念

 「武士は食わねど高楊枝(ようじ)」という言葉もほとんど死語と化したかもしれない。しかし、政治には筋を通す意地や主義主張への信念こそ大事であり、損得や“風”を勘定して政界を遊泳する人はどこか尊敬されないものだ。長い目で見ればブレない政治家の生き方に共感する有権者も多い。

 郵政解散時に選挙区へ公認対立候補を立てられ、落選した若い政治家もいる。自民党を離れて4年間、節を曲げずに「武士は食わねど高楊枝」と気張った元議員の返り咲きを期待する声も高い。

 幕末にも筋を通した武士(もののふ)は少なくない。なかでも脱藩大名と謳(うた)われた林忠崇は、その気概と信念で他を圧している。今の千葉県にあった請西(じょうざい)1万石の領地を朝廷に返上し、自ら脱藩浪人となって徳川の恩顧に応えるべく、新政府軍と戦った稀有(けう)の人物である。

 大名自ら脱藩した例は彼以外になく、いまや浪人となった家臣団とともに一藩あげて徳川家のために立ち上がったのだ。死を予期して明治元年に詠んだ辞世は凄絶(せいぜつ)である。

 「真心のあるかなきかはほふりだす腹の血潮の色にこそ知れ」

 林家は小禄とはいえ、正月元旦に徳川将軍より最初に盃(さかずき)を賜る名誉の家柄であった。「丸のうち三つ頭左巴に下一文字」の家紋は丸で賜盃、一文字で一番目を強調している。それは「献兎賜盃(けんとしはい)」なる儀式と関係していた。

 林家の祖先が貧窮を極めながら、徳川(松平)家の遠祖のために元旦の雪の野で兎(うさぎ)を捕まえ、麦飯と兎肉の吸い物で供応したことを歴代の将軍が徳としたからだ。
義と誇りかけ立ち上がる

 加えて林忠崇は、文武両道にすぐれ、将来の幕府を担う譜代大名として嘱目(しょくもく)された逸材であり、徳川を絶家にしようとする新政府の姦計(かんけい)を憎んだのであろう。

 義と誇りをかけて立ち上がった忠崇の颯爽(さっそう)とした姿は、中村彰彦氏の小説『遊撃隊始末』の冒頭にもリアルに描かれている。

 忠崇の凄(すご)みは、大名として家臣団への責任感や反抗への戦略眼に恵まれていた点にもある。頼った仙台藩も新政府に恭順降伏すると、折から徳川家の存続と最後の将軍慶喜の命が保障されたので、これ以上の抵抗は私戦にすぎないと判断した。これは凡(ぼん)な発想ではない。降伏した忠崇は切腹こそ免れたものの、甥(おい)の忠弘に家を相続させても旧大名としての華族礼遇を与えられなかった。こうして忠崇は、旧大名として政治家や官僚に転じる道を封じられてしまう。

 しかし、人間としての本当の凄みはここから始まる。明治5(1872)年に赦免された忠崇は、とても名門の末裔(まつえい)とは思えぬ人生を送る。まず旧領地で鍬(くわ)鋤(すき)を振るう開拓農民となり、東京府の学務課下級官吏、函館の物産商の番頭、大阪府の役所書記などの職を20年以上も転々とした。普通の没落士族でもつらい有為転変である。
 

世襲なげうった心意気

 忠崇のたくましい精神力には驚くほかない。これだけの人生体験をもった旧大名が政治家や官僚になっていたなら、多彩な経験をいかしてどれほどの業績を挙げたであろうか。

 天道是か非か、である。忠崇は、どの時代の政治家が望んでも得られない94歳の長寿をまっとうした。雅号は一夢。人生はまことに一炊の夢のようだというのだ。 彼の悟達は晩年に詠んだ句がよく示している。

 「琴となり下駄となるのも桐の運」

 いま世襲議員の功罪がしきりに取り沙汰(ざた)されている。社会で堅実な下積み経験をもたず、官庁や企業の採用試験も受けずに、20代で家業として政治家を継ぐ若者には、世襲大名を擲(なげう)った忠崇の心意気とまではいわぬが、せめて一時でも“桐の下駄”となる試練だけは味わってほしいものだ。(やまうち まさゆき)

【プロフィル】林忠崇

 はやし・ただたか 嘉永元(1848)年7月、上総請西(かずさじょうざい)=千葉県木更津市=藩主の五男として生まれる。20歳で家督を継ぎ藩主となる。林家はわずか1万石ながら、若年寄など徳川幕府の要職を務める家柄だったため、忠崇も忠誠心に富んでいた。戊辰戦争で、伊庭(いば)八郎らが率いた旧幕府軍の遊撃隊から協力を求められると、忠崇は徳川家や請西藩領民に迷惑をかけまいと脱藩し、出陣したが、敗北。新政府は脱藩を反逆とみなし、忠崇は江戸唐津藩邸に幽閉された。明治5(1872)年、釈放され、帰農した。同26(1893)年、林家の家名復興の嘆願により、華族の一員になった。その後は宮内省や日光東照宮に勤めたが、昭和16(1941)年、都内の次女宅で死去。94歳だった。最後の大名ともされる。





 
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 録画しておいた『名将の采配』毛利元就の回を見ています。大河ドラマ『毛利元就』は割と最初の方で脱落してしまいましたが、「今だったら楽しんで視聴できたかも知れない」と思うほど陶氏との戦いにおける戦略戦術はとても面白いです!今後も面白いネタの本数を確保できるかなぁと思いつつも、『タイムスクープハンター』同様、深夜枠からの独立を期待する番組です。
(拙宅6月4日付記事「趣味の番組」で『名将の采配』ハンニバルの回に言及してますので、リンク&トラックバックしておきます)
 「昨日の放送」「大河ドラマ」つながりの余談ですが……今年の大河ドラマには脱落しました自分は、昨日の『歴史サスペンス劇場』スペシャルで直江兼続とお船のドラマで補習を受けた気になって満足しました(爆)。微妙に似てる俳優さん起用・何となく似てるような気がするBGM採用など、いつものネタではありますが……いつもだったら「また脚色入ってるよ」と苦笑しながらネタとして見ている番組、今年の大河ドラマ視聴から脱落した白牡丹をこのタイミングで救済してくれた制作陣の目のつけどころに感謝です(大苦笑)。


神奈川
日本新聞博物館で「開港5港と新聞」展-新聞は開港場に生まれる
日本新聞博物館で「開港5港と新聞」展-新聞は開港場に生まれる
 「日本新聞博物館 ニュースパーク」(横浜市中区日本大通11)は、開港5都市に生まれた新聞の歴史をたどる企画展「開港5港と新聞」を開催している。
 同展示は、横浜が今年6月に国際貿易港として開港してから150周年を迎えたことを記念して企画されたもので、1858(安政5)年の日米修好通商条約により開港した横浜、長崎、函館、神戸、新潟で発行されている新聞6紙の協力を得て実現。開港5都市に生まれた新聞の歴史に焦点を当て、幕末期に誕生した新聞を中心とする約200点の資料により、開港による人や海外情報、文化の流入など新聞誕生における開港の意味に迫る。
 関連イベントして6月20日に「開港5港と新聞」の開催記念講演会「新聞は開港場に生まれる」を開催。上智大学名誉教授の春原昭彦さんが「開港と新聞の誕生」をテーマに、上智大学文学部教授の鈴木雄雅さんが「外国人居留地と新聞」について講演する。会場は、2階ニュースパークシアターで定員120人(申し込み先着順・聴講無料、当日は博物館の無料見学可能)。
 入場料は、一般・大学生=500円、65歳以上=400円、高校生=300円、小・中学生無料。開館は10時~17時(入館は16時30分まで)。月曜日休館。企画展は2階企画展示室で7月20日まで。
 同展示担当者の平野新一郎さんは「記念講演会では、新聞誕生に開港が与えた影響や、居留地で発行された英字新聞が果たした役割など、幕末・明治期の新聞事情についてお話いただきます。あわせて企画展をご覧いただければ、開港と新聞との深い関わりについて、いっそう知識を深めていただけると思いますので是非ご来場ください」と話す。
 日本新聞博物館は日刊新聞発祥の地である横浜市に2000年10月に開館。常設展示として、新聞の歴史や新聞がつくられるまでを紹介するほか、企画展示室ではテーマに沿った展示を行っている。また、パソコンで新聞の製作体験ができる「新聞製作工房」や全国の主要紙を閲覧できる「新聞ライブラリー」が併設されている。同博物館がある横浜情報文化センターの8階には、放送番組を収集・保存して一般にも公開している「放送ライブラリー」が入居している。


開国当時の総領事室を初公開/横浜
開国当時の総領事室を初公開/横浜
 旧英国総領事館の建物にある横浜開港資料館(横浜市中区)で、当時の総領事執務室が特別公開されている。一般来館者への公開は初めてで、英王室の紋章なども見ることができる。開港150周年記念事業で12月27日まで。
 薄茶の壁と白の天井で囲まれた総領事執務室は約36平方メートルで、2つの大きな窓から木漏れ日が差し込む落ち着いた雰囲気。壁には、1972年まで実際に領事館正門に掲げられていた、ライオンとユニコーンを模した鉄製の英国王室紋章が飾られているほか、明治維新期に日本語書記官として活躍したアーネスト・サトウの木製トランクも展示。調度品が往時の荘厳な雰囲気を再現している。
 旧英国総領事館は、関東大震災で崩壊後、1931年に再建された建物。執務室は来賓用応接室として使用されてきたといい、横浜開港資料館は「貴重な資料を見られる絶好の機会」と話している。
 月曜休館で午前9時半~午後5時まで。資料館は一般200円だが、執務室の観覧は無料。問い合わせは横浜開港資料館電話045(201)2100。


愛知
今年は舟参宮実現
 豊橋青年会議所青年部(YEG)は9日、今年も「ええじゃないか行脚隊」を結成し、7月11・12両日、伊勢市でのPRや伊勢神宮参拝を行うと地元ラジオ局・FM豊橋で発表した。
 幕末の「ええじゃないか騒動」の発祥の地とされている豊橋を内外にPRし「ええじゃないか豊橋」のブランド化を進める試みの一環で、04年から取り組んでいる。「行脚隊」が伊勢に向かうのは今年で4回目。現地では、伊勢YEGメンバーとも交流する。
 権田のり子実行委員長によると、今回の伊勢行きは、江戸時代の「お伊勢まいり」ルートのひとつ「舟参宮」を再現する。当初、忠実に再現するため吉田湊(豊川橋付近)から伊勢に向かう案も考えられたが、実現性の問題から伊良湖岬でフェリーに乗って伊勢に向かうことになった。
 今年の行脚隊は、出発地の豊橋から伊良湖岬まで約50キロを自転車で移動。道中もええじゃないかのPRをしながら進む。11日は、出発前に牟呂八幡宮で道中安全の祈祷(きとう)を受けた後、幕末に三河の国・吉田の牟呂(豊橋市牟呂町)に伊勢神宮のお札が舞い降りたという故事にちなみ「お札まきイベント」を行う。


滋賀
彦根市長が萩の松陰の墓参り計画 因縁払拭 友好築く
 江戸時代末期、安政の大獄(1858~59年)で吉田松陰ら尊皇攘夷派を弾圧した幕府大老、井伊直弼(なおすけ)(1815~60年)の国元にあたる滋賀県彦根市の獅山向洋市長が8月下旬、市の人気キャラクター、ひこにゃんや市民とともに、山口県萩市を訪れ、松陰の墓を参る計画を進めていることがわかった。11月には萩市長らが彦根市を訪問する予定もあり、幕末の因縁が約150年の歳月を経てようやく晴れると期待されている。
 彦根市は「桜田門外の変」で直弼を殺害した水戸藩浪士の地元、水戸市と昭和43年に親善都市提携を結んでいる。しかし、直弼が処罰した尊皇攘夷派側の自治体とは、これまで目立った交流をしてこなかった。
 彦根市は昨年から開催中の観光イベント「井伊直弼と開国150年祭」を機に、獅山市長が尊王攘夷派の志士を生んだ都市との友好親善を発案。吉田松陰の墓参について萩市に打診したところ、萩市側は松陰ゆかりの団体の関係者らが出迎えることになった。
 墓参には公募の市民と井伊家18代当主で、彦根城博物館の井伊直岳館長も参加するという。
 獅山市長は「開国150年を機に心のわだかまりを解き、萩市や他の都市とも市民同士の友好関係を築きたい」と話している。


彦根市長がひこにゃんと松陰の墓参り 150年のわだかまり払拭へ
彦根市長がひこにゃんと松陰の墓参り 150年のわだかまり払拭へ
 江戸時代末期、安政の大獄(1858~59)で吉田松陰ら尊皇攘夷派を弾圧した幕府大老、井伊直弼(なおすけ)(1815~60)の国元にあたる滋賀県彦根市の獅山向洋市長が8月下旬、市の人気キャラクター、ひこにゃんや市民とともに、山口県萩市を訪れ、松陰の墓を参る計画を進めていることがわかった。11月には萩市長らが彦根市を訪問する予定もあり、幕末の因縁が約150年の歳月を経てようやく晴れると期待されている。
 彦根市は「桜田門外の変」で直弼を殺害した水戸藩浪士の地元、水戸市と昭和43年に親善都市提携を結んでいる。しかし、直弼が処罰した尊皇攘夷派側の自治体とは、これまで目立った交流をしてこなかった。
 彦根市は昨年から開催中の観光イベント「井伊直弼と開国150年祭」を機に、獅山市長が尊王攘夷派の志士を生んだ都市との友好親善を発案。吉田松陰の墓参について萩市に打診したところ、萩市側は松陰ゆかりの団体の関係者らが出迎えることになった。
 墓参には公募の市民と井伊家18代当主で、彦根城博物館の井伊直岳館長も参加するという。
 獅山市長は「開国150年を機に心のわだかまりを解き、萩市や他の都市とも市民同士の友好関係を築きたい」と話している。


テーマ展:湖東焼の民間絵付師・自然斎 多彩な作品紹介--彦根城博物館 /滋賀
テーマ展:湖東焼の民間絵付師・自然斎 多彩な作品紹介--彦根城博物館 /滋賀
◇幕末~明治初期、茶道具や燭台--23日まで
 彦根市金亀町の彦根城博物館でテーマ展「湖東焼絵付師 自然斎(じねんさい)」が開かれている。彦根藩領の中山道鳥居本宿で湖東焼の民間絵付師として活動した自然斎(岩根治右衛門)をテーマにした初の展示で、幕末から明治の作品や資料計40点を公開している。23日まで。会期中無休。【松井圀夫】
 湖東焼は江戸末期に始まり、彦根藩窯(はんよう)として焼かれた。自然斎は1856(安政3)年に絵付師仲間3人とともに藩の許可を得て、藩窯とは異なる体制で湖東焼を手掛けた。鳥居本宿で旅籠(はたご)を経営しながら作品を仕上げ、藩に納入したほか、旅人にも販売した。1877(明治10)年に57歳で死去。茶の湯や煎茶(せんちゃ)の道具から飲食器、燭台(しょくだい)や置物まで、多彩な作品を残している。
 展示は個人の所蔵品が中心。菊を主体に秋草や月、コウモリなどを描いた「赤絵秋草蝙蝠図燭台(あかえあきくさこうもりずしょくだい)」、女郎花(おみなえし)などの草花を配した茶道具「色絵花卉図蓋置(いろえかきずふたおき)」は秀作という。
 彦根藩が自然斎らに発行した、民間で絵付けを行うことを許可した「焼付絵窯元鑑札(やきつけえかまもとかんさつ)」や、急須などに絵付けをする43歳当時の自然斎の肖像画、湯飲みの下絵などを描いた自然斎の印章を押した画帳などもあり、同館は「彦根が生んだ絵付師、自然斎の活動を知ってもらえる」としている。
 観覧料は一般500円▽小・中学生250円。問い合わせは同館(0749・22・6100)。



京都
龍馬ゆかりの資料紹介
文化博物館 寺田屋あての手紙など

 海援隊などについて触れた龍馬の手紙(中京区の京都文化博物館で)  幕末の志士、坂本龍馬(1836~67)ゆかりの資料を紹介する特別陳列「龍馬からの手紙~坂本龍馬書簡集と龍馬ゆかりの品々~」が中京区三条高倉の京都文化博物館で開かれている。14日まで。
 龍馬が懇意にしていた寺田屋(伏見区)にあてて送った5通の手紙が一つの巻物にまとめられたものや、寺田屋で襲撃を受けた際に持っていたと伝わる刀のつばなどを展示している。
 手紙は、いずれも寺田屋の主人伊助や妻の登勢あて。伊助への手紙は、龍馬が海援隊長だったことの根拠とされているもので、航海中に紀州藩の船と衝突し、紀州藩の対応に腹を立てたことなどが記されている。
 一方、登勢にあてた手紙は、妻おりょうの母が寺田屋で世話になっていることの礼や、妻の妹の行方を気にかけるなど、龍馬の細やかな心遣いが現れている。
 また、才谷梅太郎や取巻抜六など、偽名を用いており、龍馬が緊迫した状況に置かれていたことも伝わってくる。刀のつばは、寺田屋に残された物とされる。卍形をつないだような「紗綾形紋(さやがたもん)」が地紋として施され、金や銀で装飾した跡もある。
 月曜休館。入館料は一般500円、大学生400円、高校生以下無料。


高知
幕末土佐の絵師・絵金の作品が商店街の軒先に並べられる。おどろおどろしい屏風絵に目が釘付け!
 幕末から明治にかけて土佐で活躍した町絵師・絵金。鮮やかな色彩で描かれた凄惨な絵は、独特の雰囲気を醸し出す。
 「絵金祭り」は、絵金の描いた屏風絵を間近に見られる年に1度の貴重な機会。宵闇迫る頃、商店街の軒先にずらりと絵金の作品が並ぶ。おどろおどろしい作品が百匁ろうそくの灯りの下に浮かび上がり、見る人を妖しげな世界へといざなう。また、特設会場では屏風絵を題材とした「土佐絵金歌舞伎」も上演。
 今も多くのファンを魅了して止まない絵金ワールドを、存分に堪能しよう。


山口
メモ帳から:長州ファイブ /山口
メモ帳から:長州ファイブ /山口
 幕末の長州藩の若者5人に光をあてた映画「長州ファイブ」を見た。密航は死罪という幕府の国禁を侵して英国に留学し、最も進んでいる文明を知って国造りにいかそうという若者だった。
 蒸気機関車、造幣技術。建ち並ぶビルに目を見張る。それが後の国造りをリードしていく。明治維新から140年。長州の血が流れる萩の若者はと考えた。
 市広報5月号の学校だよりで「高校卒業生が萩に残るのはわずか約1割。9割以上が市外・県外へ」とある。萩市と阿武町の今年3月の卒業生535人。市内に残るのは大学5人、就職28人、専修学校など17人の計50人だった。
 萩は明治維新後に夏ミカンが産業になり、お菓子なども発展した。城下町の保存で観光客も多い。若者が旅立ち、地元の1次産業に大きな影響を与える日がくることを期待したい。【川上敏文】




長崎
龍馬から庶民まで 幕末の写真家彦馬
 日本写真術の開祖と呼ばれる上野彦馬の足跡を訪ねて長崎へ。薩摩の御用商の家に生まれた彦馬は、1862年(文久2年)、営業写真師になった。
 しかし開業当初は「写真は寿命を縮める」などと言われ、誰も写しに来なかった。迷信を恐れなかったのは、幕末の志士たちだった。坂本龍馬の写真はとても有名だ。
 彦馬の作品(レプリカ)は、東山手地区の古写真資料館で見ることができる。路面電車を降りて、オランダ坂をのぼる。私と柴田さんの横を、地図を持った修学旅行生が元気よく追い越していく。この辺りはプロイセン領事館や礼拝堂が立ち、領事館の丘と呼ばれた居留地だ。古写真資料館は当時の洋館で、丘を吹く風が気持ちいい。
 彦馬の写真は、龍馬、高杉晋作、桂小五郎、ニコライ2世など有名人から市井の人々、眼鏡橋など地域の風景まで幅広い。私が心惹かれたのは、幕末から明治の女性たち。えくぼを見せる可愛い少女やきりっとした芸者さん。みなイキイキしている。
 彦馬の家族写真もあったが、本人の笑顔はなし。細面で目も細く、意志が強そうだ。彦馬は西南戦争に従軍し、記録写真も撮った。危険なこともあったはず。彦馬のおかげで、幕末の志士の素顔も歴史の一端も知ることができる。写真の力を実感した。(ペリー荻野 コラムニスト)


コラム
【元気のでる歴史人物講座】(23)坂本龍馬
■歌にも詠んだ尊皇の心

 今日、最も人気の高い維新の志士、坂本龍馬は尊皇の心が深かった。坂本家は代々、国学、神道、和歌を学ぶ伝統、家風があり、その感化を受けた龍馬の精神、行動の根本にあったのは、強い皇国意識、神国思想である。これが分からなければ、龍馬は当世風の民主主義者になってしまう。
 和歌を愛し自ら詠んだ龍馬は、宗良(むねなが)親王(後醍醐天皇皇子)が編纂(へんさん)した新葉(しんよう)和歌集を愛誦(あいしょう)した。龍馬は手紙でこう書いている。
 「新葉集とて南朝、楠木正成(くすのきまさしげ)公などの頃(ころ)、吉野にて出来し歌の本なり。これがほしくて京都にて色々求め候えども一向手に入らず。かの吉村よりお借り求めされ、おまえ(坂本家の元お手伝い)のだんなさんにおん写させ、おん願いなされ、何とぞ急におこし下さるべく候」
 新葉集は南朝の天皇及び南朝に忠誠を尽くした人々の歌集で、志士たちの座右の書となったものである。
 龍馬と志士たちが最も尊崇(そんすう)したのは楠木正成である。「月と日のむかしをしのぶ湊川(みなとがわ) 流れて清き菊の下水(したみず)(楠木家紋)」。龍馬の楠公(なんこう)仰慕の歌である。
 「この数ならぬ我々なりと、何とぞして今上(きんじょう)様(孝明天皇)の御心を安めたてまつらんとのこと、朝廷というものは国(土佐藩)よりも父母よりも大事にせんならんというはきまりものなり」。この深厚な尊皇の至情の中に龍馬の真の姿がある。(日本政策研究センター主任研究員 岡田幹彦)



 京都で会津藩士の子孫たちがが献花したというニュースを見て、これは今日中に追加で記事をアップせねばと思いました。

京都
会津藩士の慰霊碑に地元市民ら献花 金戒光明寺塔頭・西雲院
会津藩士の慰霊碑に地元市民ら献花
金戒光明寺塔頭・西雲院

 福島県会津若松市の市民が9日、京都市左京区の金戒光明寺の塔頭・西雲院にある会津藩士の墓地を訪れ、幕末の京都で命を落とした先人をしのんだ。
 京都守護職を務めた会津藩主・松平容保は金戒光明寺に本陣を構えており、会津藩と寺の関係は深い。墓地には蛤御門の変などで亡くなった257人の墓と、鳥羽・伏見の戦いで落命した115人の遺灰を納めた慰霊碑がある。
 この日は、菅家一郎会津若松市長ら市民約100人がゆかりの地を訪ねる親善事業の一環として訪れた。慰霊碑に献花した後、橋本周現・西雲院副住職が読経する中、一人ひとりが焼香して静かに手を合わせた。菅家市長は「会津人としてこの墓地は特別な場所であり、大切に思われている方も多い」と話した。
 また、戦国時代に会津領主だった蒲生氏郷の墓所の大徳寺塔頭・黄梅院(北区)も訪れた。


和歌山
寄贈:詩人・菊池海荘直筆の書24点 子孫らから湯浅町と県立耐久高校に /和歌山
 湯浅町栖原(すはら)出身の詩人、菊池海荘(1799~1881)直筆の書24点が同町と同町の県立耐久高校に寄贈され、贈呈式が同町役場であった。海荘の子孫の菊池武昭さん(67)=東京都大田区南馬込2=と、海荘の子孫と親交があった木村元三さん(86)=神戸市東灘区本山南町3=が、同町に22点、同校に2点寄贈した。海荘自作の漢詩で、季節や故郷を詠んだものが多い。
 海荘は砂糖問屋の次男に生まれ、漢詩を学んで多くの書物を残した。また、1833(天保4)年からの「天保の飢饉(ききん)」で餓死者や貧民が町にあふれると私財を投じて公共事業を行った。異国船の往来が激しくなった幕末には海防論を唱え、大砲を鋳造して沿岸警備に当たった。
 贈呈式で、上山章善町長は「町の宝として大切にし、海荘の大きな功績を後世に伝えていきたい」とあいさつ。耐久高校の山崎正互校長も「国語や歴史、道徳などの教材として役立てたい」と述べ、感謝の気持ちを伝えていた。
 一方、菊池さんは「自分の町に立派な人がいたと知ることで、子どもたちの人格形成に少しでも役立てれば」と語った。親交があった海荘の子孫が、自宅に長年滞在していたことから書を贈られたという木村さんは、「郷土の偉人の功績を全国に伝えてほしい」と話した。【加藤明子】



徳島
展示:船づくりの様子生き生きと 和紙人形で--徳島・木工会館 /徳島
◇「地場産業のルーツ」
 徳島市福島1の市立木工会館入り口にこのほど、「藩政時代の舟大工」と題する徳島藩水軍の船大工の和紙人形が展示された。徳島は国内有数の木工産地だが、ルーツは明治維新で家具製造に転向した藩水軍の船大工たちにさかのぼる。そのシンボルとも言える人形作品が、来館者を誇らしげに出迎えている。
 作品は縦60センチ、横120センチ程度のジオラマ。木板を運び、のこぎりをひき、船を造る大工たちや、作業を手伝う女性、遊びに興じる子どもや高齢女性など、13体の和紙人形が配置され、江戸時代の船づくりの様子が生き生きと表現されている。
 同館を運営する地場産業振興協会によると、倉庫を整理する中で最近出てきたいい、5月中旬ごろから展示を始めた。いつ作られたか、現時点では分かっていないが、「やまと鳳和紙人形グループ」四国支部製作と書かれている。同協会では「地場産業のルーツ・船大工の歴史を表現した作品。多くの方々に見てほしい」と話している。【深尾昭寛】


島根
町おこしイベント:夜明けの街、益田を宣言 /島根
町おこしイベント:夜明けの街、益田を宣言 /島根
 幕末に、幕府軍が初めて敗北した戦いとして知られる「石州口の戦い」の地である益田地域の歴史を振り返り、「近代日本の夜明けを告げた街」としての誇りを持とうと呼びかける町おこしイベント「第4回近代日本夜明けの街宣言」が7日夕、益田市東町の萬福寺などで開かれた。萬福寺前庭では、武道の演武や産土の舞、夜明け太鼓などが披露され、訪れた人たちは熱心に見入っていた。
 市民グループ「一滴水」(田中頼昭代表)の主催。メンバーの一人でもある福原慎太郎市長が、歴史に学び、時代を変革する街として、「夜明けの街益田」を宣言した。
 その後、益田川両岸にペットボトルに入れたロウソク約600本を一斉に点灯した。【上村里花】






 週明けということで週末の幕末関係ニュースが上がってきています……MyClip機能、早く回復して欲しいです。

神奈川
ペリーに食べさせた幕府の料理、10万円でも完売 横浜
 幕末、横浜に上陸したペリーのために幕府が用意した「供応料理」を現代風にアレンジした横浜膳(ぜん)が8日、できあがった。もとは古文書のレシピという。
 約50人の和洋中料理人で作る横浜ガストロノミ協議会が3年かけて、希少な横浜産のノリをウニ料理にまぜたり、相模湾のアマダイを焼いたりして計19品6膳にまとめた。
 賞味のために必要なのは1人10万円だが、28人分限定とあってすぐに完売。協議会は「当時もそうであったように今回も最高です」と値付けの正しさを強調した。

 『風雲児たち 幕末編』でも料亭トップクラスの八百善と百川が腕によりをかけてつくってましたねぇ……アメリカ人の口には合わなかったようですが(汗)。

三重
松阪出身の篤志家・竹川竹斎
伝記復刻版を刊行
 竹川竹斎の伝記の復刻版と発刊した実行委のメンバー(右が竹川隆子さん)  松阪市出身で幕末から明治にかけての篤志家・竹川竹斎(1809~82)の生誕200年を記念して、没後100年(1981年)の時に発行された伝記「竹川竹斎」の復刻版(B6判126ページ)が刊行された。同市教委などが200回目の竹斎の誕生日にあたる5月25日から販売している。
 竹川竹斎を検証する竹斎直系の子孫・竹川隆子さん(77)や地元の自治会でつくる「生誕二百年記念実行委員会」(下村登良男委員長)が復刻した。
 竹斎は、現在の同市射和(いざわ)町にあった御為替御用(両替商)の豪商・竹川家に生まれ、21歳で家督を継いだ。商売の傍ら、幕末に幕府を支えた勝海舟や、その後援者で豪商の渋田利右衛門らと親交を深めるとともに、私財を投じて日本初とされる私設図書館「射和文庫」の創設をはじめ、灌漑(かんがい)池を造ったり、焼き物の射和万古を開窯したりして地域産業の振興に尽力した。
 復刻版の伝記は、竹斎の生い立ちや数々の偉業がわかりやすく紹介されているほか、巻頭に刀を携えた竹斎の肖像画の写真や代表的な著作、竹斎の生家など8ページのカラー写真を追加した。
 1000部作製。県内の図書館や市内の小中学校などに400部を配布、600部を松阪市教委と市歴史民俗資料館で1000円で販売している。問い合わせは松阪市教委文化課(0598・53・4397)。



大阪
中之島で水都時間旅行 8月22日から新クルーズ 3D映像と錦絵上映 大阪
中之島で水都時間旅行 8月22日から新クルーズ 3D映像と錦絵上映 大阪
中之島で"水都時間旅行"「錦絵」と「3D映像」実風景と見比べ
 幕末期などの大阪・中之島周辺を描いた錦絵をモニター画面に上映し、現代の風景と見比べながら船旅を楽しむ「水都の空想博物館 ナカノシマ錦絵クルーズ」が8月22日から就航する。3D映像も駆使して、船上からは見えない川岸の様子も見ることができ、水の都、大阪の新しい観光イベントとして注目を集めそうだ。
 大阪市中心部を流れる堂島川や道頓堀川などで観光遊覧船事業を行っている一本松海運(大阪市北区)が、8月から約2カ月間にわたって開催される市などのイベント「水都大阪2009」に合わせて企画した。
 運航中の観光船(長さ約20メートル、幅約4メートル)の船内4カ所に液晶モニターを設置。初代長谷川貞信が描いた「高麗橋」など、江戸末期の大阪の名所を描いた浮世絵「浪花百景」から約20点を上映、現在の船外の様子と見比べるほか、船上からは見えない上空からの現代の風景をCGを使って映し出す計画となっている。
 乗船場は「八軒家浜船着場」(中央区)「ほたるまち港」(福島区)の2カ所で、中之島周辺を約1時間かけてクルーズ。1日数便を予定しており、定員は各回40人。外国人観光客向けに英語版のオーディオプレーヤーも設ける。
 同社では「水都大阪2009」の終了後も運航を続けることにしており、「BGMなどを検討して、大人を中心にしたナイトカルチャーとしても定着させたい」としている。問い合わせは同社(電話06・6441・0532)。


愛媛
ミュージカルで文化・芸術学習 愛媛・坊っちゃん劇場
 郷土歴史をテーマにミュージカルを上演する愛媛県東温市の常設劇場「坊っちゃん劇場」(山川龍巳支配人)を子供たちの文化・芸術学習の拠点にと、県内の政官財の代表者らが松山市内に集まり、小中高生らに対する観劇助成のための後援会「坊っちゃん劇場子ども芸術体験サポートシステム後援会」(会長・麻生俊介愛媛県商工会議所連合会会頭)を発足させた。麻生会長は「県下全域の青少年が劇場に訪れることができるよう、支援の輪を広げたい」と話している。
 坊っちゃん劇場は秋田県の劇団「わらび座」と、松山市を拠点に食肉販売などを手がける「ビージョイグループ」が共同出資し、平成18年に開館した。今年4月からは、瀬戸内海の大三島(愛媛県今治市)で現在の山口県を拠点に勢力を拡大する戦国武将、大内義隆の侵略に立ち向かう少女の姿を描いたミュージカル「鶴姫伝説~瀬戸内のジャンヌダルク~」を上演中だ。
 これまでにも、高知出身で江戸幕末の志士、坂本龍馬や夏目漱石の小説「坊っちゃん」を題材にミュージカル独特のタッチで四国の地域文化を発信し、県内外の支持を集めてきた。
 今後は法人、個人などから寄付を募集していく。寄付金は学校行事での観劇料や交通費補助のほか、演劇などの講習会助成活動にも充てられるという。寄付の申し込みや問い合わせは同劇場内の後援会事務局((電)089・955・1174)。


長崎
長崎市 2年連続観光客減 08年 外国人宿泊者頭打ち
 長崎市は8日、2008年に同市を訪れた観光客数は2年連続減少し、555万9500人(前年比1.4%減)にとどまったとする観光統計を発表した。ここ2年間、20%強のペースで増えていた外国人宿泊者数は、約16万7000人と過去最高を更新したものの、伸び率は0.3%にとどまり、頭打ちとなった。
 統計によると、観光客のうち宿泊者数は約246万人(同2.4%減)に落ち込み、宿泊費や土産物代などの市内消費額も約758億9000万円(同2%減)に減少。また交通機関別では、ガソリン高騰の影響で自家用車利用の観光客数が同0.9%減少し、船舶利用も国際観光船の入港減によって同12.8%減少した。
 外国人宿泊客については、最も数が多く、増加傾向が続いていた韓国人観光客がウォン安の影響で約3000人減ったほか、米国、中国も世界同時不況の影響で減少。市内のホテル業界が誘客に力を入れた台湾からの宿泊が前年より約6000人増えたため、辛うじて微増となった。
 同市では今後、外国人向けに外国語の「さるくガイド」養成などの受け入れ態勢整備を図るほか、4月に上陸が解禁された端島(通称・軍艦島)観光が好調なことや、幕末の志士坂本竜馬がつくった日本初の商社「亀山社中」の記念館が8月に一般公開されることに期待。「今年こそ減少に歯止めをかけ、年間600万人の目標を達成できるよう長崎の魅力をPRしたい」(市文化観光総務課)としている。


米国・ハワイ
「ひこにゃん」ハワイでも人気
日米交流行事で初の海外遠征

「ひこにゃん」ハワイでも人気 日米交流行事で初の海外遠征
 滋賀県彦根市のキャラクター「ひこにゃん」が日本時間の8日、米国ハワイ州ホノルル市での日米交流行事「まつりインハワイ」で、メーン行事のパレードにゲスト参加した。国内で引く手あまたの人気だが、海外遠征は初。注目度の高まっている奈良市の平城遷都1400年祭キャラクター「せんとくん」と声援の数を競い合った。
 ひこにゃんはオープンカーに乗り、沿道1・7キロをパレード。彦根で開催中の「井伊直弼(なおすけ)と開国150年祭」ののぼり旗とともにゆっくり進むと、「アロハ~」「かわいい」とせんとくんをしのぐ声援が沿道から送られた。
 ひこにゃんの海外遠征は、彦根市が昨年7月に行った「日米修好通商条約締結150年記念式典」の調印式に、幕末に開国を求めて来航したペリー提督の遠縁をハワイから招いたことがきっかけ。
 同行した150年祭実行委員会の北村昌造会長は、想像以上の人気ぶりに「彦根、日本を超えて世界のひこにゃんになったかも」と驚いていた。

 「ゆるキャラ」が海外でどう受けるか、興味津々です。

コラム
おとなのクイズ(1) 日本初の株式会社は?
 株式会社の起源については諸説ありますが、法的な観点からみると、『国立銀行条例』(1872年)に基づいて1873年に渋沢栄一によって設立された、「第一国立銀行」と言われています。
 この第一国立銀行は、現在の「みずほ銀行」の前身。1878年に日本初の株式取引所として開設された「東京株式取引所」(現在の東京証券取引所)において、その「東京株式取引所」に次いで上場した株式会社としても有名です。
 ちなみに、一般会社の法規である『商法』に基づいて最初に設立された株式会社は「日本郵船」(1893年)で、これが実質的に最初の株式会社とも言われています。この「日本郵船」を設立した人物が、三菱財閥の創始者でもある岩崎弥太郎です。
 岩崎は幕末期、坂本龍馬の「海援隊」(前身は、日本の株式会社の起源の一つとも言われる「亀山社中」)で経理を担当していました。意外なところで幕末の英雄と関係しているのは実に興味深いところです。岩崎の元上司という意味では、坂本龍馬を「日本の株式会社の父」と呼んでも差し支えないかもしれません。
 では、世界最初の株式会社は?
 これは世界史の授業で必ずと言っていいほど出てきますので、耳にされたことがある方も多いかもしれません。正解は「オランダ東インド会社」で、設立は1602年です。




 今日もまだMyClip機能は回復してませんが、回復するまで待っていられません(苦笑)……検索に引っかかった記事に直接リンクしてご紹介します。

北海道
函館市中央図書館収蔵資料「デジタルデータ」自由に使って
 函館市中央図書館(五稜郭町、長谷部一弘館長)は、同館に収蔵する資料のデジタルデータをまとめたCD―ROM形式のホームページ素材集「『ひと・まち・もの』語り―幕末・明治の函館」を作成した。個人のホームページ(HP)などでの利用を通して函館の観光情報について多くの人に知ってもらい、同時に利用状況を観察して今後の資料の活用方法を探る。同館は「全国的にも珍しい取り組みで、どのように受け入れられるかが楽しみ」と反応に期待する。
 同館が2003年度から進める、収蔵資料を整理し、保存などのためにデジタルデータ化するデジタルアーカイブ事業の一環。これまでにもHPなどを通じて一部を公開してきたが、今回は特に利用申請の頻度が高く保存状態の良い資料94点(284画像)をまとめて閲覧できるようにした。利用を促進して函館のPRにつなげようとする一方、限られた人数に配布することで活用方法を調査する。
 資料作成には、同事業の一部研究を委託している公立はこだて未来大学の川嶋稔夫教授の協力を得た。(1)箱館開港(2)箱館戦争(3)函館ハイカラ文化(4)鮮やかな絵画の世界―のテーマ別に検索できるようになっていて、「ペリー提督日本遠征記」(1856年)や「函館真景」(1882年)、「箱館奉行所庁舎」(1868年)など、なじみ深い資料も多く、色鮮やかな図画や写真も豊富だ。
 資料を使用する場合には同館への利用申請が必要だが、氏名や住所などを記入しメール送信する簡易な手順でできるようになっている。
 同素材集は1500枚発行し、1000枚を行政機関や教育施設、企業などに、残る500枚を一般向けに無料で配布する。18歳以上の函館市民または市内に通勤、通学している人が対象。希望者は往復はがきに住所、氏名、年齢などの必要事項を記入し、22日(当日消印有効)までに同館に申し込む。詳しい応募要領は同館HP http://www.lib-hkd.jp/ 

 函館市民か市内に通勤・通学している人が対象ですか……欲しいんだけどなぁ(苦笑)。

群馬
史料で見る“真実” 『高崎五万石騒動』今年で140年
 1869(明治2)年、高崎藩の領民が年貢減免を求めて蜂起した「高崎五万石騒動」の発生から今年で140年。大半が初公開の古文書や肖像画など計14点を展示する140周年の企画展が、高崎市上滝町の市歴史民俗資料館で開催されている。一揆として理解されるケースが多いこの騒動だが、知られていない側面からも視点を当てる興味深い展示となっている。 
(菅原洋)

 この騒動は六九年に台風被害と凶作が重なり、不満が頂点に達した領民が団結。十月には二千五百~四千人が高崎城下まで押し掛け、藩士らと対峙(たいじ)する事態にまで発展した。
 藩は領民に譲歩したが、多数の指導者らを逮捕。七〇年の処罰は過酷を極め、指導者の三人が斬首(ざんしゅ)、数人が獄死、十数人が二~十年までの刑となったとされる。
 地元の名主に伝わる古文書は、七〇年二月四日に指導者二人が処刑された当日の日付。罪状と罪名を記し、領民に周知させるために回覧したとみられる。
 同年十月の古文書は、指導者の一人の子孫、丸茂家に伝わる。六十一カ村の代表者が総意に基づき、丸茂元次郎を含む二人の助命を求めて民部省へ提出した嘆願書。二人は懲役十年に減刑された。
 肖像画も展示し、騒動で重要な役割を果たした指導者の一人、羽鳥権平を一九〇七(明治四十)年ごろに描いた。権平は村長も務めたという。
 騒動で使われた「下小鳥村」の村旗も復元品を展示し、交差させた鎌(かま)をシンボルマークとして描いている。市内の六郷小が実物と復元品を保管している。
 館内には、パネル説明や関連する史跡などの地図もあり、分かりやすく見学できる。
 同資料館の担当者は「騒動は実際は、一揆のような武器を持った暴動ではなく、現在のデモのようなイメージだった。領民の要求内容からは知的レベルの高さもうかがえる」と指摘。
 「高崎藩の動きもあまり知られておらず、騒動に絡んでお家騒動もあった。こうした巨視的な視点から、騒動を理解してもらえたら」と呼び掛けている。
 企画展は七月十二日まで。入館無料で、月曜休館。開館は午前九時から午後四時まで。

 <高崎五万石騒動> 高崎藩の領民は長年、年貢の高率や不均衡に悩まされてきた。騒動では、領民たちは▽維新政府への直訴▽藩役所への願書提出▽近隣諸藩への訴え-などの方針を立て、大きな暴動は起こしていない。ところが、藩は佐藤酒造之助、高井喜三郎ら指導者3人を弁明も許さずに処刑した。処刑の約2年前には、勘定奉行などを歴任した有能な幕臣、小栗上野介忠順(1827~68年)も旧倉渕村(高崎市倉渕町)で弁明させずに殺害している。この二つの事件は、県内の幕末・維新史に大きな汚点を残した。


神奈川
開国当時の英軍楽隊演奏を再現/神奈川フィル演奏会
開国当時の英軍楽隊演奏を再現/神奈川フィル演奏会
 横浜開港150周年を記念したコンサート「居留地に響く吹奏楽」が7日、横浜市中区の県庁前特設ステージで開かれた。神奈川フィルハーモニー管弦楽団のメンバーが、英国の軍楽隊が幕末の横浜に響かせた名曲を演奏した。
 主催の横浜開港資料館によると、開港間もない横浜には、1862年の生麦事件(薩摩藩士によって英国人が殺害された事件)をきっかけに山手地区の丘に英仏軍が駐屯。居留外国人の保護ににらみをきかす一方で、軍楽隊は波止場周辺の空き地で定期的に演奏会を開き、今日クラシックの名曲とされる作品を日本に伝える役割を果たしたという。
 今回の記念コンサートはその再現を目指したもので、ロッシーニの「ウィリアム・テル 序曲」、モーツァルト「魔笛 序曲」など計7曲が現代の横浜に鳴り響き、集まった大勢の観客がその音色を楽しんだ。
 演奏に聞き入っていた中区の原田進さん(53)は「素晴らしい演奏だった。またこういう企画をしてほしいね」と満足そうに話していた。
 県庁近くの日本大通りでは中区主催の開港記念イベントも開かれ、出店が並びパレードが行われた。


ゆかりの音色 居留地に/神奈川フィル
 幕末にペリーが上陸したとされる波止場に近い横浜市中区の県庁前で7日、神奈川フィルハーモニー管弦楽団による、開港150周年記念コンサート「居留地に響く吹奏楽」があった。200人以上が足を止めて聴き入った。
 横浜開港資料館の主催。同館の平野正裕・主任調査研究員による歴史的背景の解説を挟みながら、モーツァルトの「魔笛」序曲やロッシーニの「ウィリアム・テル」序曲など、開港後の日本に駐屯した各国の軍楽隊が奏でたというクラシック曲が演奏された。


京都
雅楽や囃子、京の祭り勢ぞろい
平安神宮 優雅な調べ響く

雅楽や囃子、京の祭り勢ぞろい 平安神宮 優雅な調べ響く
 祇園祭や時代祭など京都の伝統芸能が勢ぞろいした「京の祭り舞台」が7日、京都市左京区の平安神宮であり、雅楽や囃子(はやし)の美しい調べが境内に響き渡った。
 京都の神社関係者らでつくる「天皇陛下御即位二十年奉祝実行委(京都)」が、皇室にゆかりの深い京都で奉祝の機運を盛り上げようと企画した。
 平安神宮境内の特設舞台では、時代祭の維新勤王鼓笛隊、石清水祭(八幡市)の胡蝶(こちょう)の舞、祇園祭の綾傘鉾棒振り囃子、北野天満宮(京都市上京区)の北野天神太鼓、丹後板列稲荷神社(与謝野町)の岩滝の獅子神楽が奉納された。
 カメラを手にした観光客らが、普段は同時に見ることができない祭りの個性を楽しんでいた。


長崎
坂本龍馬と長崎の関係学ぶ 県地方史研究会、ゆかりの地見学も
 県内の歴史愛好家や研究者らでつくる県地方史研究会(原田博二会長)は7日、長崎市立山1丁目の長崎歴史文化博物館で、本年度1回目の研究発表会を開き、幕末の志士、坂本龍馬と長崎のかかわりについて、講演や寺めぐりを通じて理解を深めた。
 会員約50人が出席。同市丸山町の史跡料亭、花月の社員、加藤貴行さん(38)が「史跡料亭花月について~龍馬と長崎~」の題で講演し、花月の変遷などを時系列に沿って解説。1867年に英国艦隊イカルス号の水兵2人が殺害された事件で、海援隊士が嫌疑を掛けられたことに対し、龍馬が長崎奉行所に提出した苦情書の下書きが花月に保管されていることなどを紹介した。
 講演後、参加者は亀山社中と紀州藩の船舶事故「いろは丸事件」の談判場所、聖福寺(同市玉園町)など、龍馬ゆかりの地を、原田会長の案内で見学した。






MyClip機能が正常に戻るのは週明けに入ってからだそうです。今日はさらにいくつかの幕末関係ニュースが入ってきたので、MyClipにクリップはしてませんが記事をリンクしてご紹介します。

北海道
「一世一代時代組」、北海道龍馬会の総会に登場 札幌
 札幌市中心部で火ばさみを刀のように使いごみ拾いに励むパフォーマンス集団「一世一代時代組」が6日、幕末に活躍した坂本龍馬のファンでつくる北海道龍馬会の総会に登場した。
 「街や道ばたの悪者になるため生まれたんじゃない~」20代の男性4人組が、ごみの気持ちを代弁したオリジナル曲を歌い、チャンバラやダンスなどを披露した。
 途中には「7月から札幌のごみ収集が有料化されるぞ」とPRのせりふも。間もなく幕を開ける「ごみ維新」を切り開く志士となるか-。


福井
日曜ひろば:福井県ブランド営業課企画主査・荒木一男さん /福井
日曜ひろば:福井県ブランド営業課企画主査・荒木一男さん /福井
◇新ブランド探しに奔走--荒木一男さん(39)
◇福井の知名度アップを
 福井県庁に今年度、観光営業部が設けられた。その中で、役所のイメージを一新した動きで全国に福井の名を売り込む役目を託されたのがブランド営業課だ。同県の知名度は低いと言われるが、冬の味覚「越前がに」や、展示物や研究で世界トップレベルの「恐竜博物館」は観光資源としてなかなかインパクトがある。他に知られていない資源も掘り起こして大勢の人たちに来てもらおうと、日夜奔走する同課企画主査の荒木一男さんに話を聴いた。【大久保陽一】
 ◆ブランド営業課の前身「ブランド推進室」に配属されたのは07年5月。
 当時は、(福井ゆかりの)継体大王即位1500周年関連イベントの企画や準備に追われていました。例えば作家に講演会の講師をお願いするなど、仕事はまさに営業そのもの。公務員としてはまったくの別世界です。相手と交渉したり、物事をその場で即断即決しなければならない仕事ばかりで、新鮮さを感じました。
 それから現場主義も、私たちの職場の大きな特徴。08年度は「知名度が低いと言われる福井を首都圏で売り込んでいこう」と、東京都内の街角に立って「福井を知っていますか」と、アンケートしました。福井県の位置を知らなくても、恐竜の化石がたくさん発掘されるということに都民の皆さんが驚いていたのが印象的で、恐竜大好きの私もうれしくなりました。「恐竜はいけるぞ」と手応えをつかみましたね。また、今年度に入ってからは、県内外の北陸道サービスエリアで職員がのぼりを立てて福井をPRするなどの取り組みもしています。
 ◆福井ブランドと言えば、「越前がに」と「恐竜」。県と民間との連携も順調に進んでいる。
 例年、ズワイガニ漁の解禁日(11月6日)は、兵庫県豊岡市の漁港の様子が全国ニュースで報じられていました。我々としては福井での様子を何とか取り上げてほしかった。そこで昨年の解禁日はマスコミ各社のカメラマンに漁船に乗り組んでもらう同行取材を企画しました。漁船の手配などは大変でしたが、特に毎日新聞には東京本社の夕刊で大きく写真を掲載してもらった。感謝しています。
 恐竜に関しては、既に民間との具体的なタイアップも始まっています。カジュアル衣料品店を全国展開する「ユニクロ」は恐竜博物館(勝山市)の恐竜をイメージしたTシャツの販売を始めていますし、今年4月にはユニクロ世田谷千歳台店(東京都世田谷区)に肉食恐竜フクイラプトルの全身骨格を展示し、大きな反響を得ました。百貨店の催事場や県外の博物館でも出前展示をしたいですね。
 ◆新たな福井ブランドの掘り起こしも計画中だ。
 これからは恐竜や越前がにに加えて、橋本左内、松平春嶽、由利公正ら福井の人たちが活躍した幕末と、全国学力・体力テストの結果が好成績だったことから「子どもの学力・体力日本一」を売り込んでいこうと考えています。特に幕末の話では、作家の築山桂さんらを講師に迎えた「幕末福井講演会」を先月から県内でスタートさせました。まずは、偉人の功績を県民に広く紹介し、機運を盛り上げていこうという方針です。子どもの学力、体力日本一も何らかの企画を立ち上げて、ビッグ・プロジェクトにしたいですね。
 そもそも、観光営業は行政としてまだ前例がない分野。だから、「何でもチャレンジしてやろう」という気持ちになるので、とてもやりがいを感じて仕事をしています。

 ■人物略歴
 ◇あらき・かずお
 1970年福井県大野市生まれ。大学卒業後の92年、県職員に採用され、大野土木事務所勤務などを経て、07年5月、総合政策部ブランド推進室(当時)配属。今年4月から現職。趣味は音楽鑑賞。同市在住。



岐阜
佐藤一斎:没後150周年記念のプレフォーラム、27日に名古屋で /岐阜
◇恵那で10月、本大会
 幕末の岩村藩(現恵那市岩村町)出身の学者、佐藤一斎(1772~1859)の没後150周年を記念したプレ嚶鳴(おうめい)フォーラム「佐藤一斎が現代に語りかけるもの」が27日、名古屋市港区港町の名古屋ポートビル講堂で開かれる。10月に恵那市で開かれる本フォーラムの名古屋大会。
 佐藤一斎は、儒学者として幕府の儒官を務めた。朱子学から陽明学に及ぶ見識を持ち、「陽朱陰王」と呼ばれて尊敬を集めた。40年余りにわたって書きつづった語録「言志四録」(言志録、言志後録、言志晩録、言志耋(てつ)録)は、指導者の“手引”として現代でも読み継がれている。
 嚶鳴フォーラムは、郷里の先人を地域づくりに生かそうと愛知県東海市の呼びかけで全国13自治体が07年に始めた取り組み。
 嚶鳴は中国の詩集「詩経」に出てくる言葉で、鳥が仲間を集めて鳴き交うという意味。仲間とともに学び、成長し合う姿を表すとしてフォーラム名に選ばれた。
 嚶鳴フォーラムin恵那は10月23、24日、恵那峡グランドホテルなどで「市長サミット」や「ふるさと先人交流会」、視察研修会が行われる。24日午後1時半から恵那文化センターで脳科学者の茂木健一郎さんが講演する。
 プレ嚶鳴フォーラムは、名古屋ポートビル講堂で午後1時開会。雅楽や現代舞踊のアトラクションの後、リレー講演会として作家、童門冬二さんが「佐藤一斎と人づくり、心そだて」、東洋大の吉田公平教授が「江戸時代の先人を見直す-文明論から見た佐藤一斎」と題して講演する。入場無料。問い合わせは実行委員会(0573・43・2112)。【小林哲夫】
 ◇のぼり旗の協賛者募集
 佐藤一斎歿(ぼつ)後150年祭「嚶鳴フォーラムin恵那」実行委員会は、イベントを宣伝するのぼり旗の協賛者を募集している。
 縦180センチ、幅45センチのポール付き。下の部分に協賛者の氏名(会社名)などを印刷するようになっている。名前の代わりにメッセージを入れることもできる。展示期間は7~10月で、会場となる恵那文化センターを中心に市内の公共施設に立てる。1本5000円。2本以上申し込むと無料で1本もらえる。問い合わせは実行委員会(0573・43・2112)。


京都
ゆかりの武将の家紋入り 商店街がドッコイセおしぼり
ゆかりの武将の家紋入り 商店街がドッコイセおしぼり
 「ドッコイセ、ドッコイセ」と合いの手を入れる福知山音頭ゆかりの武将の家紋と歌詞を入れた「ドッコイセおしぼり」を、福知山市の広小路商店街が作った。戦国ブームに加え、市のプレミアム商品券「ドッコイセ商品券」の発売を機に相乗効果で知名度アップを狙う。
 もともとは昨夏の福知山花火大会に向け、「10万人の観光客が商店街を通るというのに、黙って見ているようじゃダメ。何か売りだそう」と、氷でキンキンに冷やしたおしぼりを出すことを考えたのが始まり。「白無地のおしぼりじゃ、おもしろくない」ということになり、福知山音頭の普及に一役買おうと、ドッコイセおしぼりを作ることにした。
 「福知山さん葵(あおい)のご紋」と歌われる葵、福知山城を築いた明智光秀の桔梗(ききょう)、幕末まで福知山藩を治めた朽木家の四目菱と、それぞれに関連した歌詞を入れた家紋シリーズが3タイプ。それに紋を入れず、よく知られた「福知山出て長田野越えて…」の歌詞だけを入れたタイプもあり、計4種類。
 昨年のうちに作り、アピールを考えていたところへ、全国で若い女性を中心に戦国・武将ブームが広がり、家紋入り製品の好機が到来。市のプレミアム商品券の名前が「ドッコイセ商品券」になったことから「この機を生かせ!」と、セール開催を決めた。
 商店街の商品券加盟店で商品券を使った先着500人にプレゼントする。福知山観光協会の推奨土産品に申請して売り出すプランもあり、「おしぼりをきっかけに、お客さんと店の会話が弾めばうれしい」と店主らは話している。


兵庫
ジョセフ・ヒコ描いた歌劇上演 元OSKメンバー
 OSK日本歌劇団の元メンバーらによる女性劇団「歌劇★ビジュー」が6日、激動期の日米両国に影響を与えたジョセフ・ヒコを描いた「揺(たゆ)たう潮(うしお)の咲くらばな」を神戸市中央区山本通2、ネザーランズ・センター内の神戸・ウインターランドで上演した。出身地である播磨町の清水ひろ子町長(60)やヒコの童話を書いた作家竹田道子さん(83)=同市北区=も駆け付け、ヒコの人柄に触れる歌劇を楽しんだ。
 ビジューは、元OSKのトップスターらを中心に結成され、神戸・北野を拠点に活動している。
 「揺たう-」は、開国150周年を記念し、文化プロデューサーの河内厚郎さん(56)らが企画。13歳のヒコが乗った船が漂流し、米国商船に助けられて米国へ。成長して再び日本の地を踏むが、幕末から明治初期の祖国に受け入れられず“漂流者”として翻弄(ほんろう)される運命を描いた。
 祖国を懐かしむヒコの心境や、葛藤(かっとう)を抱えながら日本人で初めて米国籍を取得し、「日米の懸け橋に」と誓う思いなどを歌や踊りで表現。盛んに拍手を浴びた。
 竹田さんは「技術が高く、目を見張るよう」と驚き、清水町長は「歌劇なら、若い人にもアピールできる。まちおこしの参考にしたい」と話していた。
 7、12~14日にも上演する。(小西博美)

 

高知
ジョン万次郎:米国に記念館、日米友好のシンボル 尾崎知事「県民の誇り」 /高知
◇開設に尽力、日野原さんに感謝状
 ジョン(中浜)万次郎(1827~98)が米国滞在中に暮らし、長らく空き家となっていた旧家が「ホイットフィールド・万次郎友好記念館」に生まれ変わった。6日、開設の発起人代表として、募金活動を率いてきた聖路加国際病院(東京)理事長の日野原重明さん(97)に、尾崎正直知事から感謝状が贈られた。【千脇康平】
 米東部マサチューセッツ州フェアヘーブンにある旧家は1841年、漁の最中に遭難した万次郎を救助し、米国へ連れて行った捕鯨船のホイットフィールド船長の自宅跡。万次郎はこの家で6年間生活したという。
 荒れ果てた状態で売りに出されていた旧家を修復し、日米友好のシンボルとして活用しようと、08年1月、日野原さんを代表に、県内外の学術関係者ら約40人が「ホイットフィールド・万次郎友好記念館」開設募金発起人会を設立。募金を開始し、4カ月で目標額の8000万円が集まった。旧家を購入し、記念館に改装された。記念館は町に寄贈され、先月7日に開館した。
 この日、日野原さんは高知市内のホテルであった「あおぞら診療所開設10周年・高知潮江開設祝賀会」に記念講演の講師として出席。その席上で尾崎知事が「世界に羽ばたいた万次郎の証しが米国の地に残ることは県民として誇り」とあいさつし、感謝状を手渡した。日野原さんは「立派な感謝状を頂いたことをうれしく思う」と話し、出席した医療関係者ら100人から大きな拍手が送られた。
 ×  ×  ×
 また、日野原さんは贈呈式に先立ち、この日、県立高知南高(同市桟橋通6、垣内守男校長)で「土佐出身のジョン万次郎に学ぶ」と題し、生徒ら約800人を相手に講演。夢を抱くことや苦しい環境に自分を適応させることなどを万次郎から、学ぶべき点に挙げ、「太平洋から世界を見て、一人一人に国民外交をやってほしい。外国に良き友人を作って」と呼びかけていた。

 ◇ジョン万次郎
 現在の土佐清水市中浜の生まれ。1841年、14歳の時に漁に出て太平洋で遭難。米捕鯨船に救出されて渡米。英語や航海術などを学び、51年に帰国した。海外の事情に明るく、幕末の日本に大きな影響を与えた。



長崎
龍馬に会いたい:/5 旧日新館門 /長崎
龍馬に会いたい:/5 旧日新館門 /長崎
◇多くの志士を輩出
 対馬藩10万石の城下町として栄えた対馬市厳原町。今も武家屋敷や石垣塀が随所に残り、街を歩くとタイムスリップしたような感覚に陥る。中でも重厚さでひときわ目をひくのが旧日新館門。1864(元治1)年設立された藩校「日新館」の遺構だ。
 対馬藩が、ここを拠点に幕末に多くの志士を輩出したことはあまり知られていない。特に藩主同士が親族だった長州藩と同盟関係にあり、坂本龍馬と薩長同盟の実現に奔走した桂小五郎(木戸孝允)は池田屋事件の際、対馬藩邸に逃れて難を免れたという。
 悲劇が待っていた。ロシアなど外国からの脅威にさらされて「日新館派」と呼ばれた勤皇派と佐幕派の対立が激化。長州藩が第一次長州征伐で幕府に敗れたのを受け、対馬藩も佐幕派の重臣・勝井五八郎が日新館派100人以上を殺害。その勝井も藩主・宗義達の命で討たれ、双方の人材を失った対馬藩は表舞台から姿を消した。
 郷土史家の永留久恵さん(88)は「対馬藩は幕府から膨大な借財があり、逆らえなかった。人材を失ったうえ、長州藩の窮地を助けられず新政府からも冷遇された」と悲劇を惜しむ。【錦織祐一】
〔長崎版〕





 久しぶりの晴天です。早速洗濯に励みました。かなり暑くなりそうです。
 毎週楽しんで見ている『侍戦隊シンケンジャー』ですが、あっと驚く、誰も「聞いてねぇ」と伏線なしで新キャラクターの投入……でも変身グッズのCMも同時に始まったということは、マジなんですね、あのキャラ。この作品の中でもベタ過ぎる(苦笑)……娯楽時代劇っぽいテイストが子供向けにうまくアレンジされているというべきでしょうか^_^;。
 MyClipが今日も不調なので、クリップせずに直接記事のリンクを貼ります。

北海道
箱館奉行所:維新の舞台、138年ぶり復元中 北海道
箱館奉行所 維新の舞台、138年ぶり復元中 北海道
箱館奉行所 維新の舞台、138年ぶり復元中 北海道
 北海道函館市が来年夏の完成を目指して国の史跡五稜郭跡で進める「箱館奉行所」の復元工事が6日、一般公開された。屋根ふきなどの外観工事はほぼ終わり、今後は内装などの作業に着手する。
 奉行所は、幕末の外交、北方警備の拠点となった五稜郭の本陣として1864年に完成。明治維新時の「箱館戦争」の舞台ともなったが、北海道開拓使本庁(札幌)建設のための材木が必要になり、1871年に壊された。
 奉行所のシンボルだった太鼓やぐらを含め、高さは16.5メートル。当時の建物約3000平方メートルのうち、約1000平方メートルが復元される。【昆野淳】

 こうして形がはっきりしてくると、ますます完成が楽しみになります。

長崎
竜馬の足跡に感激 長崎外大留学生が料亭「花月」見学 「日本つくった人 身近に」
 長崎外国語大学・短期大学(長崎市)で学ぶ留学生たちが6日、江戸時代から続く同市丸山町の料亭「花月」を見学、幕末の志士、坂本竜馬の足跡をたどり長崎の歴史に思いをはせた。
 同大講師で、「長崎さるくガイド」でもあるセバスチャン・フラーさん(35)=同市古川町=が「深い歴史を持つ日本文化への理解を深めてもらおう」と企画。花月の協力を得て米国やフランス、中国など6カ国・地域の約20人を案内した。
 留学生たちは、面積が約2500平方メートルある広大な庭や、広間内の竜馬が刀傷をつけた柱、和洋中の様式が混在した部屋などを見学した。米国出身のローリン・シーリングさん(19)は「竜馬のことを初めて知ったが、今の日本をつくった人を身近に感じられて感激した」と話していた。


コラム
【産経抄】6月7日
 日本生まれのアジサイを広く世界に紹介したのは、幕末に長崎にきていたドイツ人の医師、シーボルトである。ところがその時、アジサイではなく「オタクサ」の名をつけた。その意味は長い間ナゾだったが、後に彼の愛人「お滝さん」であることがわかる。
 ▼お滝さんは本名を楠本滝という長崎の遊郭の女性だった。自分を献身的に支えてくれたこの女性の名を花に献上したらしい。ところが、菱山忠三郎氏の『花木ウォッチング100』によれば、これをカンカンに怒っていたのが植物学者の牧野富太郎博士だそうだ。
 ▼昭和2年の「植物研究雑誌」で、言葉の限りをつくしてシーボルトを批判している。要約すると、シーボルトは勝手に和名を変更して自分が閨(ねや)で目尻を下げた女の名を用い、花の神聖を涜(けが)したという。最後は「アア可哀想ナ我ガあぢさゐヨ」とまで嘆じている。
 ▼菱山氏自身「それほどまでいわなくても…」と書いているぐらいである。もっともその怒りは性に対するストイシズム(禁欲主義)のせいだけではあるまい。牧野博士がこの日本原産の花をいかに愛していたかだ。名前を簡単に変えてほしくないという気が強かったのだろう。
 ▼ことほどさように、梅雨どきに雨に打たれるアジサイは日本人の心をひきつけるようである。だが一方でこの花には「変わりやすい心」という、ありがたくないような花言葉もあるそうだ。青色から白みがかったり、紫を帯びたりと、花の色を変えるからという。
 ▼とはいえその「七変化」を、人間の世界の変心や移り気の例えに使いたくはない。とくに選挙が近くなって発言をコロコロ変える政治家のそれとは似て非なるものだ。牧野博士ではないが、もう少し「神聖」なものにしておきたい。

 「お滝さん」の由来を聞いて、そういうことを言い出す人がいるんじゃないかと気になっていたんですよね。
 「妻の名前をつけた」というと美談で終わってたかも知れない――実際シーボルトは不本意に帰国してなかったら、妻はお滝さんひとりだけだった可能性が高いと思いますし――と考えると、気持ちは複雑です。




 なぜか鹿児島発の記事をMyClipに保存できません(汗)……「URLが存在しません」だそうです。
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また、クリップ機能につきましては、
完全復旧に時間を要しますので、
こちらは来週前半での復旧を目処として復旧作業いたします。



北海道
スナッフルスとありあけ 開港150周年記念のスイーツ
スナッフルスとありあけ 開港150周年記念のスイーツ【函館】
 開港150周年を記念し、函館の「ペイストリースナッフルス」(中澤美樹社長)と横浜の「ありあけ」(藤木久三社長)は2日から、共同企画の商品「ペリーの贈りもの」を販売している。両社の洋菓子を箱詰めしたもので、各社5000個限定、直営店のみで取り扱う。両社は「両市の開港記念にエールを送る商品」としている。
 スナッフルスは焼き菓子「コロッセ」を、ありあけはチョコレートケーキ「黒船ハーバー」で、どちらも開港をコンセプトに開発された。1箱に各3個ずつ入っている。
 コロッセは開港当時に入ったと言われる「コロッケ」をイメージした新商品で、函館市内の菓子メーカーでつくる「函館スイーツの会」の認定商品になっている。ふっくらと焼き上げたきな粉味のブッセに、発酵バターにアズキをブレンドしたクリームが挟みこまれている。洋風の中に和の味を包み込んだ和風洋菓子だ。
 黒船ハーバーは、ありあけのブランド菓子「横濱ハーバー」をベースに作られ、カカオ風味のカステラ生地にチョコレートをふんだんに使い、黒船をイメージしている。
 パッケージはペリー提督にまつわる資料に残された原画が採用され、函館市中央図書館所蔵の「日本遠征記」に挿入された口絵、横浜開港資料館所蔵の「ペリー提督横浜上陸の図」が描かれている。
 価格は1050円。問い合わせはスナッフルス高丘店TEL0138・59・6660。

画像-スナッフルスとありあけ 開港150周年記念のスイーツ【函館】

埼玉
中島敦親族の資料発見 久喜ゆかりの作家
菖蒲の旧家から約30点

 教科書にも登場する「山月記」の作品で知られる久喜市ゆかりの作家中島敦(1909―42年)が生誕100年を迎えた。それに合わせるかのように敦の祖父で漢学者・中島撫山(ぶざん)やその親族の書、絵、手紙などの資料約30点が菖蒲町の旧家で見つかった。敦の小説に登場する叔父が撫山の死去を当日伝えた手紙も含まれている。中島家は漢学者の家系で、中国の古典を題材とした敦の作品世界に影響を与えたとされ、資料からは中島家の漢学の家風がうかがえる。
 敦は撫山の六男・田人(たびと)の長男として生まれた。父母の離婚で1911(明治44)年、2歳の時に久喜町(当時)の祖母に引き取られ、6歳まで過ごした。
 撫山は、幕末、江戸に私塾を開いたが、明治になって久喜本町(現久喜市)に移り、漢学塾「幸魂(さきたま)教舎」を開いた。敦もここで暮らし、儒学的な雰囲気の中で育てられた。弟子は久喜市を中心に幸手市、加須市、羽生市などや茨城県内に及び、地域教育に貢献。明治44年に83歳で死去した。
 長男靖(せい)、次男端(たん)、三男竦(しょう)も漢学者。特に端は敦の小説「斗南先生」に登場し、奇行に富んだその人物像が詳しく書かれている。旧江面村(現久喜市)にあった私立学校「明倫館」の校長も務めた。
 資料が見つかったのは菖蒲町三箇の小林晴夫さん(68)宅。小林家は忍藩の士族で明治初めに同町に移住した。晴夫さんの曽祖父に当たる望さんの妹が靖の妻となったことで中島家と縁戚(せき)関係にあった。
 端の手紙は、望さんに撫山の死去を知らせたもので、封筒には6月24日の日付と「久喜町中島端」と記され、撫山が24日午前5時15分に死去したことを伝えている。中島家の関係者が当日に、小林家に届けたものと推定される。
 このほか撫山の書や絵、撫山の弟で画家の杉陰(さんいん)の絵に撫山が添え書きした珍しい合作作品も見つかった。
 小林家は明治時代からの多数の資料を長く保存。今年になって久喜市文化財審議委員長の石井昇さん(63)が、別の資料を調べている際に見つけた。
 「中島敦の血肉となった中島家の漢学の家風が資料からうかがえる。敦の原点を研究する上で貴重な資料だ。特に手紙は中島家の様子が分かり意義深い」と石井さんは話す。

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 中島敦 1909(明治42)年東京生まれ。東大文学部を卒業し高等女学校の教諭をしながら作品を発表した。42(昭和17)年に「山月記」や芥川賞候補となった「光と風と夢」などが発表され注目されたが、持病のぜんそくのため33歳で亡くなった。死後、代表作の「李陵」「弟子」が発表された。

 あまり小説読みではないせいか、教科書に載っていた小説で本当に面白いと思ったのは『山月記』と森鴎外『舞姫』ぐらいだったかも……そう言えば、今日立ち寄った書店でも中島敦はコーナーがありました。

神奈川
日本大通りと象の鼻パーク一帯で「中区開港ルネッサンス」
 横浜市中区の日本大通りで6月6日と7日、横浜開港150周年を記念し、歴史に触れるイベント「中区開港ルネッサンス」が開催される。
 イベントは「日本大通りがタイムマシンになる!」をテーマに、日本大通りを幕末、明治、大正、昭和、現代・未来と5つのゾーンに分け、それぞれの時代にちなんだ展示や企画、飲食の販売ブースなどを行うもの。
 明治ゾーンでは、横浜発祥のアイス「あいすくりん」の販売、ざんぎりヘアーの展示、昭和ゾーンでは昔の遊びの紹介や街頭テレビで昭和30年代の横浜の映像を上映するほか、横浜都市発展記念館と横浜ユーラシア文化館が共同で「昭和の横浜」ブースを出店。現代・未来ゾーンでは国際支援、地球温暖化防止などの市民活動団体の活動紹介やコスプレイベントなどが行われる。
 7日14時からは、ペリー来航時の曲目を再現した米海軍第7艦隊音楽隊、みなと総合高等学校吹奏楽部・バトン部、仲尾台中学校吹奏楽部などが日本大通りから象の鼻まで行進する「日本大通パレード」を行う。
 また、6月2日の開港記念日にオープンしたばかりの「象の鼻パーク」では、作曲家・ギタリストの中村裕介さんらによる横浜市歌ライブのほか、仮装コンテスト、よさこい・ソーランの踊り、中国獅子舞、韓国サムルノリ、インド舞踊、ベリーダンス、ジャズなどのステージイベントが行われる。
 中区役所隣のなか区民活動センター・国際交流ラウンジでも民族衣装の試着、五大陸の紅茶の試飲、アフリカの太鼓とダンスなどのステージ、京劇ワークショップ、民芸品などの物販が行なわれる。


鹿児島
会津・鹿児島の民俗学会 わだかまり超え交流/和泊町
 鹿児島と福島の3民俗学会の合同発表会が5月30日、和泊町であり、鹿児島民俗学会、えらぶ郷土研究会、会津学研究会がそれぞれ研究報告をした。戊辰戦争で敵味方に分かれた会津と薩摩のわだかまりを超えて「今後も交流を続けたい」としている。
 鹿児島市の黎明館が2007年、企画特別展「樹と竹-列島の文化・北から南から」を福島県立博物館と共同企画し、両館の学芸員らが親しくなったのがきっかけ。翌年、会津学研究会の例会に鹿児島側から5人が参加し、えらぶ郷土研究会の新納忠人さんが「来年は沖永良部で」と誘って実現したという。
 会津学研究会の佐々木長生さんが農業技術書「会津農書」を基に赤米の歴史を紹介し、鹿児島民俗学会の川野和昭さんがラオスを例に焼き畑と赤米について報告。えらぶ郷土研究会の先田光演さんが芭蕉布の呪術(じゅじゅつ)性について発表した。
 福島県立博物館長の赤坂憲雄さんが境界をテーマに講演。沖永良部で集落の境になっている「マタ(谷)」と分かれ道「道股(ちまた)」との共通性について考察した後、「境界は線で考えがちだが、古代では点でとらえていた」と話した。






 今日ワンセグで先行放送された『プチかげ』……今週は本編が放送ないんですよね(; ;)。その分を埋め合わせようかというほど、今回の『プチかげ』、ストーリーがとても詰まっている割に見せポーズや聴かせどころのセリフがばっちり入っていて、お勧めです(詳細を言えないのが辛い^_^;)。総合放送待ちの皆さま、どうぞ次週をお楽しみに。

 今日の幕末ニュースはまだこれ一本ですが、池田屋事件関係ということで早めにご紹介します。

京都
池田屋騒動で散った志士を供養
左京・三縁寺で慰霊祭

池田屋騒動で散った志士を供養  左京・三縁寺で慰霊祭
 幕末の池田屋騒動で戦って死んだ志士の慰霊祭が4日、京都市左京区岩倉の三縁寺で営まれた。参列者は思い半ばで散った志士の菩提(ぼだい)を弔った。
 池田屋騒動は、1864(元治元)年6月5日(現在の7月8日)、旅館・池田屋に集まっていた長州や土佐などの志士を新選組が襲撃した事件で、多くの志士が殺害、捕縛された。
 騒動で死亡した志士9人の墓がある三縁寺は騒動の翌年から、この日に供養を行っている。勝田良昭住職(77)が本堂で読経したあと、参列した志士の子孫たちは境内の墓石前でも焼香した。





 アニメ『銀魂』を見終えると、もう週末だなぁと思います……今回はあまり面白くなかったのですが(苦笑)。

栃木
出版:前澤さん「足利の歴史」改訂新版を /栃木
 足利の歴史について詳細に解説した「足利の歴史」の改訂新版を、県文化財調査委員などを歴任した市内在住の前澤輝政さん(83)が随想舎から出版(A5判319ページ、1500部発行)した。
 「足利の歴史」は70年に初版を出版。83年に加筆した新編から、さらに今回はこれまでの調査研究の成果を踏まえた改訂新版となった。
 内容は、人類の起源から幕末までについて、写真や図を多用し15章で構成している。特に「足利学校の起源と変遷」(6章)、「足利高氏(尊氏)のこと」(11章)はこれまでの調査研究の成果を盛り込んでいるという。
 前澤さんは「一般の方向けに書いた本で、足利氏の歴史などについて正しい理解を深めてほしい」と話している。本購入の希望は前澤さん(電話0284・21・2565)へ。【古賀三男】


神奈川
横浜港に集まった船、船、船
 今年は横浜開港150周年、横浜は盛り上がってます!

 以下、帆船の写真がとてもきれいです。幕末がらみは以下。
 長崎はハウステンボスからやってきた「観光丸」。
幕末の頃の帆船を'89年にオランダの造船所で復元、建造した船だそうです。


新潟
魅力紹介、凧合戦パンフ作製
 7・13水害から5年目を迎える見附市今町と長岡市中之島の両地区で、水害で決壊した刈谷田川を挟み、6日に開幕する大凧合戦に合わせ、地元のまちづくり団体が観戦用のパンフレットを製作した。凧合戦会場でも配る予定で、見物に訪れた人たちに楽しみ方や街の魅力をPRし、被災地域の復興を後押しする。
 同水害では、同川決壊によって、中之島地区で尊い人命、家屋などが失われた。今町地区でも浸水などの被害があった。
 製作したのは、今町地区のまちづくり団体「地域復興調査研究協議会」(飯塚勝義会長)に所属する8人。同協議会は、刈谷田川の改修に伴う土地利用計画を中心に、地域おこしに向けた調査活動を続けている。
 これまでもパンフレットはあったが、初めて合戦を見る観光客にも、より分かりやすく、地域をPRしようと企画した。
 凧合戦の歴史やルールなどをイラスト入りで分かりやすく解説したほか、「100枚張り」と呼ばれる大きな六角凧の製作過程を凧作り職人へのミニインタビューを交えて紹介。また、観光客に地元の味や名産品を知ってもらおうと、食堂や酒店、銘菓「凧もなか」を製造する菓子店のほか、戊辰戦争や大河ドラマ「天地人」にまつわる旧跡を紹介したガイドマップも掲載した。
 編集に当たった同協議会メンバーで、同市今町1、調剤薬局経営佐藤菜穂子さん(43)は「凧合戦で訪れた人に商店や食堂に立ち寄ってもらうことで、街の復興や活性化につなげたい」と期待している。






滋賀
ひこにゃん、ハワイへ初渡航 “国際交流”に一役/滋賀
【滋賀】彦根市の人気キャラクター「ひこにゃん」が7、8の両日、米オアフ島のホノルル市で行われる「第30回まつり イン ハワイ」に参加したり、同市関係者と会って“国際交流”に一役買う。国内では、癒やし系のゆるキャラとして絶大な人気だが、初めての海外進出に関係者は「人気も国際級に」と期待を募らせている。
 彦根市は「井伊直弼と開国150年祭」の関連行事で昨年7月、幕末期に開国を求めて来航した黒船のマシュー・C・ペリー提督の遠戚(えんせき)でホノルル市在住のドナルド・E・ソフ・ディヴァニーさんを招待した。これが縁で両市の交流が深まり、今回はホノルル市から招待状が届き、同祭実行委の北村昌造会長とひこにゃんが出席することになった。
 6日夜にホノルル入りし、7日に日本や世界各地から約2300人が参加するパレードに参加する。暑さ対策もあり、ひこにゃんらはオープンカーに乗って行進する。実行委は「勇猛果敢に駆け抜けた“井伊の赤備え”(井伊家の部隊の赤い武具)にちなみ、真っ赤なオープンカーがレンタルできれば最高」としている。
 8日はホノルル市関係者らと歓談し、10日に帰国する。市や実行委は「世界に彦根を売り込むチャンス。ひこにゃん人気で世界中から観光客が増えれば」とし、期待が高まる。【松井圀夫】


岡山
びょうぶ:友禅作家・あだち幸さん、鑑真をイメージ 唐招提寺にあす奉納 /岡山
 幻想的な「白い仏」を描くことで知られる井原市美星町の手描き友禅作家、あだち幸(さち)さんのびょうぶ「同天の讃--讃仰鑑真和上(さんぎょうがんじんわじょう)」が鑑真(688~763)創建の奈良市・唐招提寺に奉納される。5日に同寺の書院で奉納式がある。【松倉展人】
 あだちさんは京都伝統の手描き友禅に独自の技術を加え、絹の質感と光沢を生かしながら、独特のぼかし技法を20年あまり磨き続けている。作品群は「ほとけ」「コクーン(まゆ玉)」「鬼」「羅刹(らせつ)女伝」「サロメ」など幅広く、人の心の中の鬼と仏、宇宙の生命と神秘を仏たちの姿に描いてきた。
 新選組と壬生(みぶ)狂言で知られる京都・壬生寺本堂の障壁画(高さ2・7メートル、全長30メートル)も「地獄から極楽への浄土絵巻」をモチーフにあだちさんが4年がかりで完成させ、一昨年にお披露目。その縁から壬生寺と同じ律宗の総本山・唐招提寺に奉納することになった。
 今回の作品は高さ145センチ、幅180センチの三曲びょうぶ。画面の二仏は梵天(ぼんてん)と帝釈天(たいしゃくてん)でもあり、日光仏と月光仏でもあり、鑑真に渡日を請う二人の入唐僧でもあるという。画面の外、二仏に対する位置に鑑真をイメージして描いた。
 「山川異域、風月同天(山河は異なれど、吹く風や世を照らす月は同じ天にある)」。鑑真に渡日を決意させたという漢詩を基にした作品に、あだちさんは「心の荒廃が言われますが、鑑真和上のご生涯は人間の中に眠る尊く永遠なるものを思い起こさせます。改めて感動と感謝をささげたく思います」と話す。
 奉納式は鑑真の命日(6月6日)にちなんで徳をしのぶ唐招提寺の開山忌舎利会(かいざんきしゃりえ)初日に行われる。


高知
漫画展:高知を元気にするぞー 今年のテーマは「龍馬」、出展作品募集中 /高知
漫画展:高知を元気にするぞー 今年のテーマは「龍馬」、出展作品募集中 /高知
◇「マンガ時評」連載の澤本さん呼びかけ--プロ・アマ不問
 「“漫画力”で高知を元気にする会」=代表、澤本英世さん(69)=は、龍馬の生まれたまち記念館(高知市上町2)で今年10月24日~11月3日に開く「“漫画力”で高知を元気にする漫画展」への出展作品を募集している。今年のテーマは「龍馬」。澤本さんは「若い漫画家の育成にもつなげたい」と話している。
 同展は、毎日新聞高知面に「マンガ時評」を連載する澤本さんが「疲弊した高知を漫画力で元気づけたい」と昨年から始め、今年で2回目。「高知」がテーマだった前回は高知出身・在住のプロやアマチュア漫画家20人から60点の作品が集まり、昨年11月に同市文化プラザ「かるぽーと」であった「まんさい-こうちまんがフェスティバル」で展示された。
 今年のテーマは坂本龍馬だが、土佐の幕末維新に活躍した人物なら誰でも可。高知に何らかのゆかりがあるプロ・アマ漫画家なら誰でも応募できる。B4判のコマ漫画で。応募作品は同会(〒783-0082 南国市里改田78の2)へ。締め切りは今月30日必着。
 澤本さんは「高知を元気にすると共に、漫画王国の伝統を守り、育てていきたい。同展がその起爆剤になれば」と意欲をみせている。【千脇康平】


山口
下関戦争で英接収の長州砲、萩博物館が製造手法調査
 萩市の萩博物館でイギリスから「里帰り展示」されていた青銅製の和式大砲「長州砲」について、砲身に製造時の継ぎ目跡が約10か所見つかるなど、同市で見つかっている洋式砲と同様の手法で製造されていたことが、同市などでつくる同砲・萩里帰り実行委員会の調査で分かった。
 実行委は3次元レーザー計測なども実施しており、今後、同砲の複製作りにも役立てるという。
 長州砲は、萩城下で藩命を受けて銃砲製造所を営んでいた郡司喜平治が製造した約130門のうちの一つで1844年の製造。1864年、関門海峡で長州藩とイギリスなど4か国との間で起きた下関戦争でイギリスに戦利品として接収された。
 実行委によると、砲身は長さ183・9センチで、継ぎ目跡は鋳型を継ぎ足しながら製造したとみられる。同市椿東の郡司鋳造所跡から出土した洋式カノン砲の鋳型も同じ手法がとられていたという。
 また、イギリスに接収された際に砲身部分に記された番号「29」も確認されており、接収された54門のうちイギリス側のリストに載っている「29番砲」の寸法などのデータともほぼ一致するという。
 現在はロンドン郊外の王立大砲博物館に展示されているが、昨年、明治維新140年と日英国交開設150年を記念して里帰りが実現した。昨年8月から今年5月、萩博物館で展示され、期間中、約7万2000人が訪れた。7月中にイギリスに返される。



佐賀
【連載】唐津7島点描 ①加唐島
【連載】唐津7島点描 ①加唐島
海と山の“味”ぎっしり

 真っ青の玄界灘に、三角の帆を立てた漁船の白い航跡がすっと伸びる。最盛期のイカ漁に向かう船だ。遠くに壱岐、対馬を望む佐賀県最北端の唐津市鎮西町加唐島。古くは朝鮮半島との交通の要衝だった。奈良時代に成立した日本書紀に「各羅嶋」と掲載されている。
 漁業を営む西健司さん(48)は、唐津藩が幕末、黒船の見張り役として派遣した西家の11代目。今はタイの一本釣りや定置網、遊漁船など幅広くを手掛ける。「漁は自然相手。いろいろやらんと、島だけに生きていくのは厳しかとよ」
 港内のいけすでは、約1万5千個の一口アワビを養殖する。えさはワカメやコンブの海藻だけ。「食べてみらんね」。差し出された海から揚げたばかりのアワビは、絶妙の歯ごたえと甘み、ほのかなコンブの風味が口いっぱいに広がった。
 西さんが住む島北部の大泊地区には、幹の直径が20センチ以上もあるツバキが群生する。行政の支援を受け2008年に試作品を作ったつばき油は、島をあげて特産化を目指している。
 南西部のオビヤ浦。日本書紀によると、ここは百済25代・武寧王の生誕地とされる。これを縁に7日には、韓国の市民を招いた生誕祭がある。会場ではつばき油で揚げたイモやイカなどの天ぷらを味わえる。
 加唐島には歴史ロマンに、海と山の“味”がぎっしり詰まっている。


長崎
アジサイ:眼鏡橋に映える--長崎 /長崎
アジサイ:眼鏡橋に映える--長崎 /長崎
 長崎市の花アジサイにちなんだ「長崎あじさいまつり」が始まった。21日まで、長崎市内の眼鏡橋周辺やシーボルト記念館、出島、グラバー園などで10種以上のアジサイが飾られる。
 アジサイは日本原産で、幕末に長崎に滞在した医師シーボルトが、ハイドランゼア・オタクサという学名をつけた。「オタクサ」は、シーボルトが愛した長崎の女性「お滝さん」にちなんだという。
 眼鏡橋周辺では、青や赤など色鮮やかなアジサイが、訪れた市民や観光客の目を楽しませている。アジサイと眼鏡橋を背景に記念撮影した栃木県の70代女性は「眼鏡橋もきれいですが、アジサイはもっときれい」と花を見つめていた。
 まつり期間中の金、土、日曜には「あじさいさるく」も開催。参加者にはあじさいの鉢がプレゼントされる。問い合わせは長崎市のさるく観光課(095・829・1314)。【阿部弘賢】




コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】東大教授・山内昌之 後藤象二郎
■“大風呂敷”の効用

◆“クソ度胸”持ち合わす

 政治家に大事な資質は、ここ一番の大勝負に命を懸ける度胸であろう。自らの政治信念を実現するために伸(の)るか反(そ)るかの勝負に出る気概をもってこそ宰相の器というものだ。

 近年では何といっても、小泉純一郎元首相の郵政解散への賭けと圧勝が印象に残る。それと比べるなら、麻生太郎首相の解散総選挙への姿勢は受け身がちで弱々しい印象を与える。陽気な麻生首相には些事(さじ)にこだわらない美質もあるのだから、勝負を嫌いなはずもあるまい。豪放磊落(らいらく)かつ陽気で“クソ度胸”のある幕末明治の政治家といえば、まず後藤象二郎であろう。

 後藤は、“大風呂敷”といわれたほどの雄弁で人を煙(けむ)にまくのが達者だったが、徳川300年の歴史に引導を渡す度胸を持ち合わせていた。

 土佐藩の執政など重役に昇りつめながら、後藤には坂本竜馬のように勝負勘の鋭い志士気分にも恵まれていた。英国公使パークスが刺客に襲われると、即座に斬り返す勇気さえもっていた。ビクトリア女王から勲剣を下賜(かし)されたのは生涯の得意というべきだろう。

 ◆大雑把さがアダに

 しかし、細事を詰めない大雑把(ざっぱ)な面は時に大魚を逸する失策にもつながり、穴の開いた大風呂敷の印象も強めることになった。もともと坂本のアイデアだった大政奉還を徳川慶喜に受け入れさせ、土佐藩を明治維新のリーダーに辛うじて押し上げたまではよい。しかし、その後がよくない。岩倉具視や大久保利通の陰謀にはめられ、倒幕に舵(かじ)を切らざるをえなくなったからだ。


 余人には及ばない大きなスケールは、時に無節操とみられても仕方がなく、一貫性の無さと表裏一体でもあった。新政府では参議などの要職に就くが、明治6(1873)年の征韓論をめぐる政争に敗れ、下野した。高島炭鉱の起業に参画したり、民撰議院(国会)設立の建白書を出して板垣退助と一緒に自由党を結成する一方、政府の懐柔に応じ、欧州外遊に出かけるあたりは常人ではない。自由民権運動の指導者でありながら、政府に買収されて平気の平左でいられる辺りが、豪快とも無節操ともいわれたゆえんだろう。

 それでいて外遊から帰国すると、朝鮮の志士、金玉均の民族運動を助ける一方、国内では同20(1887)年に藩閥政府を打倒する旧民権派の“大同団結の大運動”を唱えて、保安条例の発布を招いたのである。

 ところが、その2年後に黒田清隆内閣へ逓信大臣として入閣するのだから、彼の政治軌跡はとにかく分かりづらい。新議会では、経済界との癒着や公私混同を攻撃され、同27(1894)年には第2次伊藤博文内閣の農商務大臣を辞任してしまった。これでさすがの後藤も政治生命は絶たれたといってよい。

 ◆時代に合わなかった気風

 彼については、“清濁併せのむ東洋豪傑の風格あり”という評がついてまわった。大風呂敷と揶揄(やゆ)された雄大な着想や幅広い行動範囲は、確かに宰相になっても不思議はなかったが、明治の創業よりも幕末の風雲のほうが向いていた。

 日清戦争当時の外相の陸奥宗光は後藤を指して、「明治世界の産物でなく、中国で混乱を極めた晋末・六朝か、唐末・五代あたりで成功すべき“怪傑”がたまたま日本に現れたのだ」と評したことがあるが、うまいことを言うものだ。後藤の豪快さは、死が近づくと、白楽天の長恨歌を朗々と吟じたあたりにも発揮される。

 有権者の力が強い普通選挙の現在、後藤のようなタイプの政治家は市民にどう迎えられるだろうか。金に身奇麗(みぎれい)なら、政界再編の顔になる資格は十分にあるほどのスターである。テレビ関係者や芸能タレントが政界に出るご時世である。後藤なら相当な好感度と支持を得られるかもしれない。

 しかし、“冗談を言うな。定見もない素人連と我輩を一緒にするな”と厳しい声が泉下から聞こえてきそうな気もする。

 大風呂敷が似合う政治家が現代に少ないのは、なぜか。政治家が小粒になったせいか、それともメディアや有権者が細事にこだわるからなのか。大風呂敷の効用というのも一考の余地があるかもしれない。(やまうち まさゆき)

                   ◇

【プロフィル】後藤象二郎

 ごとう・しょうじろう 天保9(1838)年、高知藩士、後藤助右衛門の長男として生まれる。幼少のころ、義叔父吉田東洋の少林塾で学び、開国論に影響を受けた。同門に長い付き合いとなる岩崎弥太郎がいた。文久2(1862)年、東洋が尊攘派に暗殺され、翌年江戸の開成所で航海術を学ぶ。2年後、高知に戻り、殖産興業の機関・開成館を設立した。明治元(1868)年、新政権が発足すると、参与になる。同6(1873)年、参議となり、西郷隆盛、板垣退助らと征韓論を唱えるが、大久保利通らの反対で辞任。藩閥政府打倒の大同団結運動の中心となるが、同士を見捨て、黒田内閣の逓信大臣に就く。第2次伊藤内閣で農商務相となるが、業者との癒着などにより辞任。同30(1897)年、60歳で死去した。

 後藤象二郎って、やっぱり面白い人物ですねぇ(@_@)。




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