新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
夕方になって再び記事がいくつか検索にかかってきましたので、ご紹介します。
東京
ひの新選組まつり、高幡不動尊・日野駅周辺パレードに全国から歳三ファンが。土方歳三没後140年
ちょっと前のことになりましたが、写真付きですので。
神奈川
横浜開港キャラ、純金の「ペリー・テイトくん」150万円
滋賀
ひこにゃん:ハワイへ初渡航 “国際交流”に一役--彦根 /滋賀
ひこにゃん:ハワイへ初渡航 “国際交流”に一役--彦根 /滋賀
ひこにゃん、ハワイでも人気者になるといいですね。真っ赤なオープンカーに白いひこにゃん、絵的に映えそうです。
東京
ひの新選組まつり、高幡不動尊・日野駅周辺パレードに全国から歳三ファンが。土方歳三没後140年
ちょっと前のことになりましたが、写真付きですので。
「誠」を貫いた新選組という若者集団。その強い意志を持った生き方に共感し、全国各地から新選組や土方歳三のファンが多数参加して催された第12回「ひの新選組まつり」。
5月9日・10日の両日、高幡不動尊と日野駅周辺でパレードを中心に繰り広げられた。今年は土方歳三の没後140年に当たることもあり、新選組の衣装に身を固めた多数の隊士をはじめ、コンテストで選ばれた歴代の“ミスター土方”も勢ぞろいするなど、総勢600名を超える参加者で大行列となり、熱く盛り上がった。
今年“ミスター土方”に選ばれのは、北海道札幌市の立成佳子さん(31)。馬に乗ってパレードの主役を務めた。パレードを一目見ようと沿道を埋め尽くした人垣はその後も絶えることなく、高幡不動尊の参道では隊ごとに殺陣パフォーマンスなどが披露され、終日街は新選組一色となった。
回を重ねるごとに知名度を上げ、賑わいを増した「ひの新選組まつり」は、いま“街おこし”本来の使命を果たしつつある。 090601号掲載
神奈川
横浜開港キャラ、純金の「ペリー・テイトくん」150万円
横浜開港150周年記念イベントのマスコットキャラクター「ペリー・テイトくん」の純金製人形が3日から発売。
ペリー・テイトくんは、マスコットキャラクター「たねまる」のライバルで、幕末に来航したペリー提督がモチーフ。
開国博Y150を主催する横浜開港150周年協会が発売する。高さ4.8センチで重さ170グラム、価格は150万円。15体限定で予約販売する。商品は予約から約4週間で届けられる。同価格のたねまるの純金製人形は3月に15体が即日完売した。
予約は製造元の松本徽章(きしょう)工業のフリーダイヤル(0120・153・154)へ。
滋賀
ひこにゃん:ハワイへ初渡航 “国際交流”に一役--彦根 /滋賀
ひこにゃん:ハワイへ初渡航 “国際交流”に一役--彦根 /滋賀
彦根市の人気キャラクター「ひこにゃん」が7、8の両日、米ハワイ島のホノルル市で行われる「第30回まつり イン ハワイ」に参加したり、同市関係者と会って“国際交流”に一役買う。国内では、癒やし系のゆるキャラとして絶大な人気だが、初めての海外進出に関係者は「人気も国際級に」と期待を募らせている。
彦根市は「井伊直弼と開国150年祭」の関連行事で昨年7月、幕末期に開国を求めて来航した黒船のマシュー・C・ペリー提督の遠戚(えんせき)でホノルル市在住のドナルド・E・ソフ・ディヴァニーさんを招待した。これが縁で両市の交流が深まり、今回はホノルル市から招待状が届き、同祭実行委の北村昌造会長とひこにゃんが出席することになった。
6日夜にホノルル入りし、7日に日本や世界各地から約2300人が参加するパレードに参加する。暑さ対策もあり、ひこにゃんらはオープンカーに乗って行進する。実行委は「勇猛果敢に駆け抜けた“井伊の赤備え”(井伊家の部隊の赤い武具)にちなみ、真っ赤なオープンカーがレンタルできれば最高」としている。
8日はホノルル市関係者らと歓談し、10日に帰国する。市や実行委は「世界に彦根を売り込むチャンス。ひこにゃん人気で世界中から観光客が増えれば」とし、期待が高まる。【松井圀夫】
ひこにゃん、ハワイでも人気者になるといいですね。真っ赤なオープンカーに白いひこにゃん、絵的に映えそうです。
芹澤鴨・平間重助ゆかりの地からニュースが来ています。「玉造町」から「行方市芹沢」になったんですね……「新選組を創った男『芹澤鴨・平間重助』」玉造町のサイトはまだ生きてますので、拙ブログからのリンク先はそのままです。
行方市の観光・施設情報の歴史・文化的名所に芹澤鴨生家跡がリストされてます。
茨城
芹沢鴨も飲んだかも? ゆかりの酒、発売中 茨城
芹沢鴨も飲んだかも? ゆかりの酒、発売中 茨城
神奈川
純金 ペリー・テイトくん
「たねまる」君は知っていたけど、こんなキャラいたっけ?……という状態なので、ちょっと探してみました。
ペリー・テイトくんのブログ
「中途採用・非公式キャラ」って(笑)。暴走中ですなぁ。
行方市の観光・施設情報の歴史・文化的名所に芹澤鴨生家跡がリストされてます。
茨城
芹沢鴨も飲んだかも? ゆかりの酒、発売中 茨城
芹沢鴨も飲んだかも? ゆかりの酒、発売中 茨城
新選組初代筆頭局長、芹沢鴨(せりざわ・かも)と同副長助勤の平間重助(ひらま・じゅうすけ)の出身地の茨城県行方市芹沢(旧玉造町)の酒店「沢屋(さわや)商店」が、2人にちなんだ純米酒「尽忠報国(じんちゅうほうこく)」を発売した。“仕掛け人”は、平間重助の親類筋にあたり、同店代表の平間章二(しょうじ)さん(61)。「2人の国に尽くす思いを広く伝え、行方市のスターにしたい」と期待を寄せる。町おこしの起爆剤となるか-。(池田美緒)
芹沢鴨は中世の地元豪族芹沢氏の末裔(まつえい)。郷校で医学を学んだ後、尊皇攘夷(そんのうじょうい)思想に共鳴し天狗(てんぐ)党の前身である天狗組と行動するようになる。文久3(1863)年に平間重助と新選組の前身である浪士組に参加。資金集めに手腕を発揮したが、近藤勇(いさみ)らと対立。同9月に38歳で暗殺された。重助は事件後地元に戻り鴨の死を伝えると、明治7(1874)年に51歳で亡くなるまでひっそりと暮らしたという。
尽忠報国とは、「忠義を尽くして国に報いる」の意味。鴨が愛用した鉄扇に刻まれていたとされる。乱行の一方、豪胆な一面も伝わる鴨。「信念として胸に刻んでいたのだろう。こんな小さな集落で、そんな思いを持った人はまずいない」と平間さんは力を込める。「浪士組をまとめるには、鴨さんの金策の能力が必要だった。尊皇攘夷の思いが強く会津藩にも嫌われていたのだろう」と分析する。
酒は、水戸藩に納入していた老舗蔵元「木内酒造」(那珂市)の県産米100%の純米酒。「江戸時代は純米酒しかなかった。鴨さんも飲んでいたのでは」とロマンをふくらませる。集落に残る鴨の生家や顕彰碑を訪れる観光客にも好評で「酒好きの鴨さんも喜んでくれたらいいな」と笑顔をみせる。
行方市観光協会によると、最近の「歴女(れきじょ)ブーム」の影響からか、春ごろから生家跡などに関する問い合わせが増えているという。鴨の命日である9月に合わせた「行方新選組の日」イベントも、今年は会場を玉造公民館から霞ケ浦ふれあいランド(同市玉造甲)に移して規模を拡大。野外ステージでの殺陣パフォーマンスや史料展示会などで盛り上げる予定だ。
「尽忠報国」は720ミリリットル、1380円。パッケージは、鴨が着ていたとされる着物をイメージした小豆色。問い合わせは沢屋商店(電)0299・55・0381。
神奈川
純金 ペリー・テイトくん
15体限定 150万円
横浜開港150周年記念イベントのマスコットキャラクター「ペリー・テイトくん」の純金製人形が3日から発売される=写真は横浜開港150周年協会提供=。ペリー・テイトくんは、マスコットキャラクター「たねまる」のライバルで、幕末に来航したペリー提督がモチーフ。
開国博Y150を主催する横浜開港150周年協会が発売する。高さ4.8センチで重さ170グラム、価格は150万円。15体限定で予約販売する。商品は予約から約4週間で届けられる。同価格のたねまるの純金製人形は3月に15体が即日完売した。
予約は製造元の松本徽章(きしょう)工業のフリーダイヤル(0120・153・154)へ。
「たねまる」君は知っていたけど、こんなキャラいたっけ?……という状態なので、ちょっと探してみました。
ペリー・テイトくんのブログ
「中途採用・非公式キャラ」って(笑)。暴走中ですなぁ。
今日はおおむね好天、湿度も低くて気持ちのいい一日でした。明日からまた天気が崩れるとか……(汗)。
東京
『最後の与力』原胤昭知って 関連資料を文化財指定 千代田区が講座
興味深い人物です。行ってみたい、かも……。
わらび座ミュージカル「龍馬!」 6月14日
パルテノン多摩で『龍馬!』……ううぅ、余裕があったら行きたいところですが(涙)。
佐賀
「まほろちゃん」 世界遺産目指す佐賀藩史跡PRに一役
「まほろちゃん」他、大和町の萌えキャラ(爆)画像集は下記のサイトにあります。
特設ギャラリー 大和町役場サイトより
うーむ、確かに出来の悪いアニメよりもキャラがかわいい(笑)。
ブックレビュー
【カメラリポート】「風狂のうたびと」発刊
刊行:伊藤之雄・京大教授が『山県有朋 愚直な権力者の生涯』 明治陸軍の統制で新説
東京
『最後の与力』原胤昭知って 関連資料を文化財指定 千代田区が講座
「最後の与力」として知られ、後に江戸の与力の関連資料を収集した社会事業家、原胤昭(たねあき)(一八五三~一九四二)をテーマにした講座が六月、東京都千代田区の四番町歴史民俗資料館で開かれる。千代田区が区所蔵の原の資料を四月に文化財指定したのを受け、地元ゆかりの原と町奉行所などの歴史を知ってもらおうとの狙い。
与力は町奉行所の役人で、現在なら都庁の部長クラス。原は代々与力の家に生まれ、十三歳で与力になると、一八六六年から三年足らず、南町奉行所で働いた。
明治維新後はキリスト教を信仰し、政府を批判、投獄された。一八九七~一九三八年、神保町で出所者の社会復帰を支援する更生施設を運営、「更生保護の父」としても知られる。
文化財に指定されたのは、原が集めた与力の資料や原の講演録など千百十六点。千代田区は二〇〇七年度から資料を解説した調査報告書を作成中で、今春発行分には、与力の勤務日誌や職務メモを掲載、区立図書館などで販売している。
講座では、原の人となりや与力の実態を紹介。来夏には特別展も計画する。区は「原を通じ区内の歴史にも興味を持ってほしい」としている。
講座は十二、二十六日の二回。受講料は四百円。問い合わせは同資料館=電03(3238)1139=へ。
興味深い人物です。行ってみたい、かも……。
わらび座ミュージカル「龍馬!」 6月14日
『龍馬!』は幕末のヒーロー坂本龍馬が国事に恋にと奔走した人生を等身大かつ爽快に描いた作品。西郷隆盛や妻おりょう、寺田屋女将のお登勢等なぜ龍馬の周りには人が集まるのか彼の人間的な魅力に迫る。
日本の伝統文化をいきいきと多彩な表現で人々の“生きる力”になる様々な舞台を創作している劇団わらび座では、昨年に引き続き『龍馬!』を全国巡演中。
※脚本・作詞・演出をジェームズ三木、自由奔放で快活な龍馬の生きざまをタップダンスあり、フラメンコありの型破りなミュージカル形態でお届けします!
◇日時 6月14日(日)15時開演 ◇会場 パルテノン多摩大ホール ◇料金 S席5千円/A席4千円 ◇主催 (財)多摩市文化振興財団 ◇問 ℡048(286)8730わらび座関東事務所/チケットパルテノン℡042(376)8181 090601号掲載
パルテノン多摩で『龍馬!』……ううぅ、余裕があったら行きたいところですが(涙)。
佐賀
「まほろちゃん」 世界遺産目指す佐賀藩史跡PRに一役
佐賀市大和町の肥前国庁跡資料館は、来館記念品として市のマスコットキャラクター「まほろちゃん」の名刺サイズのカードを作成、配布を始めた。カードには世界遺産登録を目指している幕末佐賀藩の近代化史跡のPR文を添付。ネット世界の人気キャラの力で、同館と佐賀藩を全国に発信する。
カードは4種類。8月30日までの約3カ月間配る。同館では3月、来館記念にまほろちゃんのしおりを作ったところネットで話題となり、東京や群馬からも集客。同月の入館者数が前年同期比で3倍を超えるという成果を挙げた。
しおりは作成した112枚がすぐ底をつき、ファンをがっかりさせたため、今回は500枚を印刷、なくなり次第増刷する。市教委文化振興課は「世界遺産化への側面支援。ファンの皆さまも、まほろちゃんと一緒に佐賀藩史跡を応援して」と呼び掛ける。
「まほろちゃん」他、大和町の萌えキャラ(爆)画像集は下記のサイトにあります。
特設ギャラリー 大和町役場サイトより
うーむ、確かに出来の悪いアニメよりもキャラがかわいい(笑)。
ブックレビュー
【カメラリポート】「風狂のうたびと」発刊
幕末から明治時代にかけて、伊那谷を放浪しながら1600余りの俳句を残した漂泊の俳人井上井月。
その井月の俳句とエピソードをまとめた本「風狂のうたびと」が発刊された。
「風狂のうたびと」は朗読会の台本として作られたもので、井月の俳句160句のほか、その解説、今に伝えられているエピソードなどを記している。
この本を執筆したのは、信州井月会代表の春日愚良子さん。長年にわたり、井月の俳句やその足跡について研究してきた。
春日さんは井月の句について、「緊張感があって非常に良い。正岡子規が始めた近代俳句よりも20年も前にこれらの句をつくっていることは、驚くべきことだ」と話す。
春日さんは10年ほど前、伊那市の県伊那文化会館の依頼により、朗読会の台本として「風狂のうたびと」を執筆した。
そして昨年、伊那市と松本市の劇団により再びこの台本による朗読会が開かれた。
春日さんは、「伊那の自然の素晴らしさと、ここに住む人たちの人柄の良さが、井月をこの地に留まらせたのだと思う。井月が残した俳句から当時の伊那谷の情景を感じてもらいたい」と話している。
井上井月の俳句とエピソードを朗読会用にまとめた「風狂のうたびと」は、現在書店で販売している。
刊行:伊藤之雄・京大教授が『山県有朋 愚直な権力者の生涯』 明治陸軍の統制で新説
◇「軍国主義者」の通説覆す
明治~大正期の政治家、山県有朋(1838~1922)の実像を探る評伝『山県有朋--愚直な権力者の生涯』(文春新書・1365円)が出た。権力亡者、頑迷な侵略主義者といった通説とは正反対の人物像を描き、近現代史の再考を迫る力作だ。著者の伊藤之雄・京大教授(日本近現代史)に聞いた。【伊藤和史】
山県は長州藩出身。内閣を2度組織し、陸軍、官僚、貴族院、枢密院に大派閥網を築いた。ことに伊藤博文の死去(1909年)後は、元老の第一人者として絶大な力をふるった。この間、徴兵制や軍人勅諭、教育勅語の制定を主導した。また、一貫して軍備の拡張を主張し、政党の進出に対抗した。
こうした経歴から軍国主義の権化、保守反動の政界の黒幕とみられ、「太平洋戦争の張本人」という評価まである。
本書はそれらを否定し、「山県はまじめでやさしい人。とんでもない主張も多いが、国際規範からは外れない。近代にとってマイナスの人だったとは思わない」と伊藤教授は話す。
そのやさしさが政局の節目で裏目に出て、山県は何度も危機を迎える。例えば明治6(1873)年の征韓論政変。最有力者の木戸孝允(たかよし)と西郷隆盛が対立し、西郷が下野するが、山県の動きは鈍い。2人の恩人の間で悩み、身動きとれないでいたからだと伊藤さんはみる。
「そんな人が権力をとれたのは、結局、他の人々からまじめな人柄が評価されたから」
征韓論政変でも木戸の怒りを買い、参議になれず不遇をかこつ。しかし、大久保利通、とりわけ伊藤博文の後押しで失脚を免れる。そこには隠然たる悪役イメージはなく、周囲に引き立てられながら努力を重ねる、副題通りの愚直な姿が見える。
「理想のために何かをする、そのためには嫌われてもいい。そういう人間のあるべき生(き)まじめさを山県は持っていた。無責任な甘い話やパフォーマンスがもてはやされる現代の風潮の中、一層その姿にひかれます」
485ページと新書では異例の分量。その分、新説が根拠の史料とともに詳説される。
中でも斬新なのが軍の統制問題だ。参謀本部の独立については、従来、政治の軍への影響を恐れた山県が政軍分離を目指して導入したとされてきた。後にこれが統帥権独立と結びついて軍部独走を招いたとして、山県批判の論拠になってきた。
ところが、今回示された実態は全く違う。西南戦争で作戦・戦略担当の専門部署の必要性が明らかになり、一方、竹橋事件(近衛兵の反乱事件・1878年)で責任者・山県の処遇が難しくなった。そうした問題を解決して山県のポストを確保し、政権の安定を図るため、伊藤博文や井上馨(かおる)ら文民政治家が参謀本部独立を図ったというのである。
その背景説明として、維新後、大久保、木戸、伊藤ら文民が確固として軍を統制してきた実態が明らかにされる。山県が牛耳る陸軍という図式とは無縁だ。山県自身、武士だった伊藤らの軍事知識や、軍の近代化には内閣の助力が必要だとの現実を十分認識していたという。
このシビリアンコントロールの実態解明は圧巻。当然、山県の陸軍と太平洋戦争の陸軍との関係も見直される。
「両者はつながりません。満州事変以降、世代が替わって軍が慢心し、『力で(領土を)とればどうにでもなる』と考え始めた。でも、山県は軍備拡張は言っても、謀略で大陸に出ろなどとは生涯一度も言っていない。対華21カ条要求には反対し、シベリア出兵もずっと抑えていた」
こうまで実像から離れた山県像が通説化したのはなぜか? 日本人の歴史とのつきあい方、描く歴史家と受け入れる国民の双方に問題があるという。
「(近代以降を描く)日本の伝記は痛快でスッとはするけれど、人が生まれてから死ぬまで同じ性格であるとかリアリティーがない。歴史は本来そんなに単純ではないのに、トータルに見ず、誰か悪者をつくって責任を押しつけたりする。歴史小説にも同じことを感じる。本格的な伝記を普及させれば日本の政治も大人になると思う。山県を真剣に見ることにより、政財官界で決断をする立場の人々も、自分の課題が見えてくるのではないでしょうか。ですが、まずは『山県って、いい人だったんだな』と感じてもらえればいちばんうれしい」
6月に入りました。昔であれば「衣替え」のタイミングですが、昨今は5月中から真夏日があったりして、とっくに夏物だったりしますね(汗)。
先週からずっとぐずぐずしている空模様で、梅雨の季節も繰り上がっているような気がしなくもありませんし(汗)。
北海道
「いか天おろしそば」で開港150周年祝う
函館開港150周年、商品やPRで企業も応援
満開のフジ棚楽しむ
五稜郭公園の藤棚、存続が決まったんですね。今年も花を見ることはかないませんでした(涙)が、いつか見に行きたいものです。
東京
日英条約の原本初公開 福沢諭吉の写真も、外交史料館
展示内容を確認するため、サイトに行ってみました。
外務省外交史料館
外務省外交史料館 特別展示 日英交流事始―幕末から明治へ―
今回の特別展示は9月30日までですね。
展示資料の解説もPDF版で見られます。外交関係資料が多いので、ちょっととっつきにくいかしら(自分だけか^_^;)。
『組!』ファンには、東禅寺のスケッチや東禅寺事件に功労のあった武士に英国から贈られたメダルとかがちょっと気になるかも(軍兵衛さん……汗)。
文久遣欧使節団関係資料。文久遣欧使節団といえば「スフィンクスと侍」の記念写真が思い浮かびますが、今回の展示資料で比較的にとっつきやすいのが、使節団ご一行様の肖像写真でしょうか(苦笑)。
この使節団に関して、いつもブログ記事を拝見しているAkiさんがブログ『Go Plain!』に記事を書いてらっしゃいます。
スフィンクスと27人のサムライ その1
スフィンクスと27人のサムライ その2
スフィンクスと27人のサムライ その3
Akiさんの記事を拝見しつつ、今回の展示に行こうかどうしようか検討しようと思います……9月末まで開催ということで、急がないし^_^;。
神奈川
尾崎記念館:咢堂の偉業しのぶ 孫の行信さん、初来館--相模原 /神奈川
尾崎記念館:咢堂の偉業しのぶ 孫の行信さん、初来館--相模原 /神奈川
両陛下が開港資料館視察
石川
来訪者まばら「隠れた名所」 金沢・広坂「旧横山男爵邸」
コラム
【連載】 今、歴史から元気をもらおう(24)佐賀の蘭学と英学
九州企業特報というサイトの連載記事です。今回は佐賀の蘭学・英学を取り上げているということでキーワード「幕末」での検索にかかってきました。
先週からずっとぐずぐずしている空模様で、梅雨の季節も繰り上がっているような気がしなくもありませんし(汗)。
北海道
「いか天おろしそば」で開港150周年祝う
函館市内のそば店で作る「函館そばや友の会」(佐々木武充会長)の9店が函館開港150周年を記念し、1日から「いか天おろしそば」を共通メニューとして提供する。同会は「各店の味を楽しんで」と呼び掛けている。
同会は2004年の発足以来、旬の食材を使ったオリジナルメニューを定期的に考案している。今年は、開港150周年を記念したメニューを検討してきたが、函館の特産であるイカを使うことで一致。加盟店の一つ、丸京(豊川町)が元祖と言われる「いか天おろしそば」を提供することに決定した。
同店の「いか天―」は、亀澤賀津雄店主(53)が「他店にはない独自の天ぷらそばを」と1981年に考案。肉厚のイカをサクサクとした衣で包んだ天ぷらに、大根おろしが添えられているのが特長で、インターネットなどを通じて観光客らの間でも人気となっている。
同会に所属する9店では、天ぷらを一口サイズにしたり、具材にカラシ菜やもみじおろしを使うなど、独自のアイデアを披露しており、オリジナルの「いか天おろしそば」の食べ比べも楽しめそうだ。
亀澤店主は「イカのまちならではのメニュー。食べ応えもあります」と話している。各店650円から700円で提供する。
丸京以外の店は次の通り。
やたら家本店(湯川町)、いがら志(柏木町)、東京庵支店(本通)、神山ふでむら(神山)、丸常長寿庵(亀田港町)、かしわ屋(若松町)、東京庵本店(末広町)、長寿庵本店(中島町)
函館開港150周年、商品やPRで企業も応援
函館開港150周年まであと30日―。記念事業の準備が進められている中、函館市内では開港記念を祝うムードを盛り上げようと、市民への周知に協力する企業も相次いでいる。商品や接客などを通じてPRに務める企業の取り組みを紹介する。
土産物の企画、卸の不二屋本店函館店(名取明昭彦社長)は函館開港150周年記念ラベルを使用した「天然アルカリイオン水 ナチュラルミネラルウォーター」を市内の土産物専門店で販売している。
ラベルには記念事業のポスターとロゴマークを使用。七飯町大沼で採取したミネラルウォーターで150周年にちなみ、数量限定で価格も1個150円にした。名取社長は「150周年の記念に何か作りたいと思っていた。本州での物産展でも函館をアピールできる」と話し、「少しでも函館の活性化を応援したい」と話している。
北海道コカ・コーラボトリング(札幌)は市内の人目につく屋外の自動販売機1000台にA3サイズの告知ポスターを掲示したほか、電光掲示板付きの自販機では記念式典までのカウントダウンを表示している。15日(予定)からは道内全域で「函館開港150周年」を印字した記念デザイン缶の2商品を発売する。同社は「市民への周知が大切なので記念事業への協力を通じて地域に貢献できれば」と協力する。
市内・近郊でハンバーガーチェーン店を展開するラッキーピエログループ(王一郎社長)は14店舗と事務所を合わせた15拠点で、電話を取る際、冒頭に「おめでとう開港150周年」と付け加えて応対している。同社では1日1000件の電話を受け取るため、4月から応対時に一言添えて周知に取り組む。同社は「150周年を盛り上げるために何かできることを考え、告知が一番大事だと思い、お祝いの気持ちを表現しています」とPRしている。
函館開港150周年記念事業実行委員会事務局は「事業は実行委だけでなく多くの皆さんの協力で成り立っている。宣伝経費にも限りがあるので企業がPRしてくれるのはありがたい」としている。
満開のフジ棚楽しむ
函館の市民団体「五稜郭の藤の会」(山崎淳子代表)は31日、フジやツツジが見ごろを迎えた五稜郭公園で花見会を開いた。存続運動に携わった市民ら約30人が参加。小雨が白や薄紫の花房をしっとりとぬらしたフジ棚のトンネルで、甘く漂うほのかな香りを楽しんだ。
五稜郭のフジ棚は、同会を中心とした存続運動が実り、昨年12月の市議会で保存が決定している。山崎代表は「今日の雨はフジ棚のうれし涙。1万を超えた署名、市民の声が届き、ずっとこれからも楽しむことができる。子孫にもきれいに残していきたい」とあいさつした。
公園内では、同会の世話人鎌鹿隆美さんがツツジやフジの楽しみ方やスポットを紹介した。また、「五稜郭の藤の花」を作詞した千葉市のシンガーソングライター田口徹さんと埼玉県草加市の作曲家蓬田梓さんも参加。二の橋付近のフジ棚が見下ろせる城郭から、参加者全員で歌を歌い、満開の花に感謝をささげた。
参加した市内の主婦小関千鶴子さん(69)は「昨年よりすき間なく咲き、きれいな花をみることができて感激しました。天気は残念ですが、これからもずっと残ってほしいですね」と話していた。
五稜郭公園の藤棚、存続が決まったんですね。今年も花を見ることはかないませんでした(涙)が、いつか見に行きたいものです。
東京
日英条約の原本初公開 福沢諭吉の写真も、外交史料館
幕末から明治初期の英国との交流をテーマにした特別展が、6月2日から都内の外務省外交史料館で始まる。初公開の日英修好通商条約(1858年調印)原本など、国の重要文化財5点を含む計17点を展示する。
幕末の条約書の多くは関東大震災で焼失したが、日英修好通商条約の原本など数点が奇跡的に焼け残った。同時展示する同条約の日本側批准書(複製)には、徳川幕府14代将軍家茂の署名と印章が入っている。
62年、新潟と兵庫の開港延期交渉などのため派遣された「文久遣欧使節団」がロシアで撮影した肖像写真の現物も展示する。若き日の福沢諭吉ら計24人分で、いずれも直筆の署名入り。
このほか、駐日公使パークスを信任するビクトリア女王の署名入り国書などを展示する。9月30日まで。入場無料。
展示内容を確認するため、サイトに行ってみました。
外務省外交史料館
外務省外交史料館 特別展示 日英交流事始―幕末から明治へ―
今回の特別展示は9月30日までですね。
展示資料の解説もPDF版で見られます。外交関係資料が多いので、ちょっととっつきにくいかしら(自分だけか^_^;)。
『組!』ファンには、東禅寺のスケッチや東禅寺事件に功労のあった武士に英国から贈られたメダルとかがちょっと気になるかも(軍兵衛さん……汗)。
文久遣欧使節団関係資料。文久遣欧使節団といえば「スフィンクスと侍」の記念写真が思い浮かびますが、今回の展示資料で比較的にとっつきやすいのが、使節団ご一行様の肖像写真でしょうか(苦笑)。
この使節団に関して、いつもブログ記事を拝見しているAkiさんがブログ『Go Plain!』に記事を書いてらっしゃいます。
スフィンクスと27人のサムライ その1
スフィンクスと27人のサムライ その2
スフィンクスと27人のサムライ その3
Akiさんの記事を拝見しつつ、今回の展示に行こうかどうしようか検討しようと思います……9月末まで開催ということで、急がないし^_^;。
神奈川
尾崎記念館:咢堂の偉業しのぶ 孫の行信さん、初来館--相模原 /神奈川
尾崎記念館:咢堂の偉業しのぶ 孫の行信さん、初来館--相模原 /神奈川
“憲政の神様”と呼ばれる尾崎咢堂(本名・行雄、1858~1954年)の資料を展示する尾崎記念館(相模原市津久井町又野)を30日、咢堂の孫で元最高裁判事の行信さん(80)=写真左、東京都世田谷区松原=が初めて訪れた。
尾崎さんは娘や孫ら3世代計8人で来館。咢堂の父で幕末に勤皇の志士だった尾崎行正の曽孫に当たる天野望・元津久井町長から、資料や写真の説明を受けた。明治・大正・昭和の政治史に大きな足跡を残した咢堂の偉業をしのんだ。
尾崎さんは、元教師の西川圭三さん(76)が刊行した「咢堂・尾崎行雄の生涯」(論創社刊)の出版祝賀会に招かれ同町を訪れた。祝賀会のあいさつでは咢堂のエピソードを紹介しながら「本を読んで(咢堂が)大きな仕事をしてきたんだと改めて思った」と話した。【高橋和夫】
両陛下が開港資料館視察
天皇、皇后両陛下は31日、横浜市中区の横浜開港資料館を視察され、幕末以降の横浜の歩みを展示しているコーナーや、開港150周年記念展「港都横浜の誕生」を見学した。
午後2時20分すぎ、資料館に到着し、中田宏横浜市長らが出迎えた。中庭にある開港当時から残る「玉楠(たまくす)の木」を鑑賞。館内では、幕末に太平洋を横断した軍艦「咸臨丸」やペリー艦隊の模型などを見て回った。横浜港を通じて世界に輸出された生糸や養蚕に関する資料を見た陛下は「(幕末の)この時期から蚕の卵の輸出が始まったのですね」など話していた。
両陛下はこの日午前、開港150周年記念式典に出席。休息の後、同資料館に足を運んだ。
石川
来訪者まばら「隠れた名所」 金沢・広坂「旧横山男爵邸」
県文化財に指定されている広坂1丁目の県有施設「城南荘(旧横山男爵邸)」が、来訪者もほとんどなく、活用されないままになっている。かつては県職員施設として利用されたが、文化財指定後は希望者にだけ公開され、観光案内にも掲載されない隠れた名所に。県では「今後も外向けに広報する予定はない」としているが、一部で有効活用を求める意見も出ている。
城南荘は加賀家老で明治維新後、尾小屋鉱山を経営した横山隆平が1894(明治27)年に建設した。江戸時代の伝統に明治の感覚を加えた武家建築最後の建物とされ、随所に北陸の鉱山王と呼ばれた横山家の財力をしのばせる技術が施されている。1949(昭和24)年に県が福利厚生施設として買収し、79(同54)年に文化財指定を受けた。
県では嘱託職員1人を常駐させ、平日午前10時から午後4時まで見学者を受け入れているが、観光案内などで紹介していないこともあり、利用はほとんどない状況という。
年間にかかる維持管理費は光熱費や樹木の剪定(せんてい)などで300万円弱。観光関係者などからは「市中心部に位置する施設として、催し物の開催など積極的に活用すべきではないか」との意見もある。
一方で城南荘の向かいに建つ金沢ふるさと偉人館の松田章一館長は「文化財だからといって何でも公開すればいいというものではない」と指摘し、将来的に活用する場合は、加賀藩初の洋式武学校「壮猶(そうゆう)館」があった場所にちなんだ内容を検討してほしいとした。県管財課は「今の段階で今後の活用を検討しているわけではない」とし、現状のまま維持管理を続ける方針だ。
コラム
【連載】 今、歴史から元気をもらおう(24)佐賀の蘭学と英学
九州企業特報というサイトの連載記事です。今回は佐賀の蘭学・英学を取り上げているということでキーワード「幕末」での検索にかかってきました。
鎖国時代、わが国にとって唯一の海外情報源はオランダからのものだった。幕府を中心に蘭学の研究は次第に盛んになっていたが、佐賀藩で蘭学が研究されはじめたのは諸藩にくらべて必ずしも早い方ではなかった。天保5年(1835)には藩がかねてから予定していた医学寮が開設されオランダ医学教育が始まった。寮監に任命されたのは佐賀蘭学の先駆者・島本良順である。医学寮は後に好生館と改称され、やがてその中に蘭学寮が併設されて藩の蘭学研究の拠点となった。
蘭学寮の研究は医学だけにとどまらず、物理学、化学、数学、語学などが研究され、やがて藩の科学技術部門の「火術方」の管理下に移されると、蘭学寮は西洋の最新技術を専門研究を主務とするようになっていく。このころ、朱子学重視の弘道館教育にあきたりなかった大隈重信が、二十数名の学生とともに蘭学寮に入学してきた。大隈らは、ほとんど手探りの状態から勉強を始め、やがて大きく羽ばたいていく幕末佐賀の洋学研究の糸口を開いていくことになる。
万延元年(1860)渡米した咸臨丸には小出千之助ほか数名の佐賀藩士が乗り組んでいた。小出は藩主の鍋島直正にアメリカでの見聞をもとに世界の中心がイギリスとアメリカに移っていることを伝え英学の必要性を進言した。この進言によって直正は、蘭学寮の優秀な数名の学生に英語による洋学の研究を命じた。その後佐賀藩の英学研究は着実に進み、慶応3年(1867)には大隈重信や副島種臣らを中心とする英学校「致遠館」が設置された。英学においては他藩にさきがけての創設である。
英学研究にとくに熱心だったのは大隈重信だった。彼は幕府の長崎英語伝習所のフルベッキ教授をスカウトして致遠館の校長に据えた。深い見識と懇切な指導で人気が高かったフルベッキには他藩の招聘の手も延びていたが、最終的には佐賀藩の知識吸収に向ける熱心さがフルベッキを動かした。勉学を通じて彼と藩士との絆はいよいよ深くなっていった。
フルベッキの講義は一日おきにおこなわれた。宣教師のフルベッキは「新約聖書」を基本教本に「アメリカ合衆国憲法」を主教材として授業を行った。それ以外の授業は大隈重信と副島種臣が担当、欧米の政治や法制を講義し学生たちと議論しあった。フルベッキの在任期間はわずか2年だったが、この時期、学を通じて情報を吸収し議論によってさらに確かな知識とする佐賀洋学の手法が確立されていった。蘭医学に始まり科学技術の進展から英学にいたる佐賀実学は日本の先頭を駆け抜けていった。致遠館をリードした大隈は、後に東京専門学校(現在の早稲田大学)を創設する。
毎週楽しんで見てる『戦国BASARA』ですが、最近は超展開に磨きがかかってます……徳川家康が明智光秀に討たれてしまうとは(汗)。それでも日曜8時の某ドラマと違って、超展開でも許せちゃうんですよね(苦笑)。
北海道
福島・会津高OB、白虎隊剣舞を披露 札幌
広島
ポニョの海、「早咲き」花火で夏気分 福山・鞆の浦
鮮やか大輪2000発 鞆彩り
山口
周南路てくてく 魅力を体験<動画あり>
長崎
老朽化進む聖福寺、倒壊の恐れも 龍馬ゆかりの長崎さるくコース
京都から長崎の幕末史跡探訪 40人が花月など見学
幕末の長崎に思い巡らす 「楽さるく」第1回講演会
北海道
福島・会津高OB、白虎隊剣舞を披露 札幌
福島・会津高OBが三十日、札幌市中央区の札幌第一ホテル敷地内にある「会津藩白虎隊士・飯沼貞吉ゆかりの地」碑前で、同校伝統の白虎隊剣舞を披露した。
同ホテルで同日、道内の旧制会津中学・会津高卒業生が同窓会(会長・太田原高昭北大名誉教授)を設立。そのセレモニーとして、はかま姿の四人が模造刀を振るった。
飯沼は白虎隊の生き残り。明治維新後は逓信省に入り札幌に勤務した。設立総会に参加した約四十人は、先人に奉納される剣舞を見つめ、同郷の結束を確かめ合った。
広島
ポニョの海、「早咲き」花火で夏気分 福山・鞆の浦
アニメ映画「崖(がけ)の上のポニョ」の舞台とされる広島県福山市の鞆(とも)の浦で30日夜、恒例の「福山鞆の浦弁天島花火大会」があり、約2千発の花火が江戸期の商家などが残る港町を彩った。
「早咲き」の花火大会として親しまれている瀬戸内の風物詩。鞆の浦は、幕末に海援隊の商船「いろは丸」が沈没した際に坂本龍馬が立ち寄った港としても知られ、「RYOMA」と浮かび上がるしかけ花火などが次々に打ち上げられ、約6万3千人(主催者発表)でにぎわった。
鮮やか大輪2000発 鞆彩り
福山鞆の浦弁天島花火大会(福山市など実行委主催)が30日、福山市鞆町であった。約2000発の多彩な花火が潮風吹く鞆港一帯を照らし、訪れた約6万3000人(主催者発表)が楽しんだ。
家族連れや浴衣姿の女性たちが海岸沿いを埋め、約200メートル離れた弁天島から上がる色鮮やかな光の「大輪」に歓声を上げていた。
来年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」にちなみ、坂本竜馬に焦点を当てた構成。打ち上げの合間に竜馬が船舶事故「いろは丸事件」で紀州藩と賠償交渉をするため鞆町に滞在したことなどを紹介し、夜空に「RYOMA」の青白い文字を浮かび上がらせた。
山口
周南路てくてく 魅力を体験<動画あり>
周南市内の自然や歴史に親しむ「周南路まるごと2daysウオーク」が30日、市陸上競技場を発着点にあった。地元に加え全国から集まった参加者約660人が、4コースに分かれ、歩いた。
最長の30キロコースは幕末に篤姫が宿泊したとされる旧山陽道沿いの福川本陣跡や、大内家の重臣陶氏の居城だった若山城跡などを巡った。本丸は標高217メートル、急こう配の山道は息を弾ませながら上っていた。
31日にはフグはえ縄漁発祥の地粭島や、平成の名水百選に選ばれた鹿野上の潮音洞を歩くコースもある。
長崎
老朽化進む聖福寺、倒壊の恐れも 龍馬ゆかりの長崎さるくコース
長崎市の代表的な唐寺の一つ、聖福寺(同市玉園町)の老朽化が進み、専門家が「倒壊の恐れもある」と憂慮する事態となっている。同寺は坂本龍馬ゆかりの地で、今年は市の観光事業「長崎さるく幕末編」のコースに設定されて多くの人が訪れている。観光振興の面からも早急な修繕が求められそうだが、費用は一億円は下らないともされ、見通しは立っていない。
同寺は日本に黄檗宗を伝えた隠元禅師の孫弟子、鉄心道胖が一六七七年に創建。興福寺、崇福寺、福済寺とともに「長崎四福寺」と呼ばれる。本尊を祭った大雄宝殿、天王殿、山門が県の有形文化財、梵鐘(ぼんしょう)などが市の有形文化財に指定されている。
市によると、同寺は、坂本龍馬率いる海援隊の蒸気船と紀州藩の蒸気船が衝突した「いろは丸事件」(一八六七年)の賠償交渉の場所だったとされ、龍馬の足跡をたどる史跡としても近年注目されるようになった。
しかし、三百三十年余の歴史を経て、建物の老朽化は顕著。大雄宝殿の屋根の一部が崩れたり、欄干が破損、天王殿の土塀のしっくいがはがれ落ちたりしている。長崎歴史文化博物館研究所の原田博二所長(62)は「修繕には一億数千万円かかると思われるが、手を入れなければ倒壊は免れない」と言う。
県、市とも同寺の現状を把握し、修繕に向けて協議を進める考え。県指定有形文化財の場合、費用の最大四分の三を県、市で補助できるが、四分の一を負担する同寺の財政は檀家(だんか)の減少で厳しいという。
田谷良忠住職(72)は「修繕したいのはやまやまだが、檀家に多額の寄付を求めるわけにはいかない」とため息。檀家総代の上野初太郎さん(84)は「戦争を機に中国出身の檀家が帰国してしまい、今では約四十軒しかいない。できるだけのことはしたいが、限界がある」と歯がみする。
原田所長は同寺について「日本人と中国人が力を合わせ創立した、国際都市長崎を象徴する寺」と歴史的価値を高く評価。「長崎大水害で大きな被害を受けた滝の観音(同市平間町)も市民の募金で復旧できた。市民の協力があれば、修繕はできる」と機運の高まりに期待している。
京都から長崎の幕末史跡探訪 40人が花月など見学
京都市の霊山(りょうぜん)歴史館友の会主催の歴史散歩旅行「龍馬と海援隊の長崎史跡を訪ねて」の参加者四十人が三十日、長崎市を訪れ、幕末の志士坂本龍馬ゆかりの史跡を巡った。
同会は全国の歴史愛好者八百五十人が加入。歴史散歩旅行は毎年一回開催している。長崎市を訪ねるのは初めてで、来年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」を前に長崎と龍馬の関係を知ろうと企画した。三十一日まで亀山社中跡や長崎歴史文化博物館などを巡る。
初日は同館の木村幸比古学芸課長の案内で、グラバー園、史跡料亭花月、晧台寺の小曽根家墓地などを見学した。兵庫県篠山市から参加した藤井一弘さん(38)は「龍馬よりも後藤象二郎や岩崎弥太郎に興味がある。彼らが訪れた場所を実際に歩いてみると、やはり感慨深いものがあります」と話した。
幕末の長崎に思い巡らす 「楽さるく」第1回講演会
江戸末期の「安政の開港」百五十周年を記念し、幕末にスポットを当てた長崎さるく幕末編「楽(らく)さるく」の第一回講演会が三十日、長崎市立山一丁目の長崎歴史文化博物館であり、約二百人の市民らが、幕末の長崎に思いを巡らせた。
「楽さるく」は、講師の説明を聞いて、当時の様子をイメージしながら頭の中で“さるく”。企画した長崎市は「今までは歩いて回るのがメーンだったが、講演会は、足が弱い人でも気軽に参加できる」とメリットを話す。
初回講師は、長崎総合科学大のブライアン・バークガフニ教授と、長崎歴史文化研究所の原田博二所長が務め、「幕末の長崎を知る」をテーマに話した。ブライアン教授は、当時の写真や地図を使いながら、外国人居留地の開設について説明。参加者はメモを取りながら説明に耳を傾けていた。
『プチかげ』ワンセグ先行放送は結局視聴できてません(涙)……総合放送で録画予約しているので、総合放送を待ちます。
宮城
独特の節回しに情感 「余韻の芸術」 詩吟
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神奈川
幕末の横浜 遊女の悲劇 能舞台で一人芝居上演 あす鎌倉
長野
【須坂市無形文化財の古川刀匠】新作名刀展で初の日本一
宮城
独特の節回しに情感 「余韻の芸術」 詩吟
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朗々とした男女の声がハーモニーとなって、仙台市太白区の西多賀市民センターの室内に響き渡る。全国有数の流派、日本詩吟学院岳風会に属する「宮城岳風会」。県内に130教室あり、会長の後藤岳宗さん(72)=太白区山田北前町=も市内5カ所で指導する。
「詩吟は余韻の芸術。いかに余韻を使うかで感情が出てきます」と後藤会長。漢詩や短歌をそらんじるだけでなく、詩の心を最大限に表すため、音に高低や変調を付け、語尾の母音を引っ張る独特の節回しで情感を込めてうたうのが特徴だ。
この日は徳川幕府の文人、石川丈山の漢詩「富士山」が題材。まずは詩を味わい、作者の意図や作品の時代背景などを学ぶ。その後はお手本に習い、生徒たちが一節ずつ吟じていく。
時に低い調子で静かに読んだり、高く声を張り上げたり。吟道には「一節、二声、三品」という教えがあり、暗唱するほど読み込めば自然に声が立ち、節も声も調えば気品が出てくるとされる。
詩吟は藩校で漢詩の素読が行われた江戸時代からあり、特に幕末には勤王の志士が悲憤慷慨(こうがい)をうたい、自らを鼓舞する表現手段として盛んになった。
姿勢を正し、腹式呼吸を使う詩吟は健康にもいいとされるが、何より、古今の英知や哀歓が詰まった詩歌を高らかにうたうことが、すがすがしく晴れ晴れした気持ちをもたらす。
後藤会長は「上手下手は二の次。歴史と教養が身に付くし、吟道は精神修養にもつながる。流派の精神にあるように『吟じ終わりて清風起こる。一吟天地の心』です」と魅力を語る。
◎腹式呼吸鍛えて暗唱
教本には漢詩、和歌、俳句に加え、石川啄木や宮沢賢治などの新体詩も取り上げられており、女性や初心者にも親しみやすい。最近は漫談を吟じるお笑い芸人も登場し、子どもや若者にも知られるようになった。
腹式呼吸を鍛錬し、詩を暗唱するほど吟じ込むのが基本。「洋楽と違い、音階がないので音痴がない。自分の声の高さでいい」と後藤会長。声量が出て、ちょっとした体育館ならマイクなしで後方まで声が通るようになり、カラオケも上手になるという。
かつては40、50代が多かったが、現在は70歳前後で入門する人も珍しくない。習い始めて4年目という太白区西多賀の加藤羊子さん(72)は「腹式呼吸が健康にいい感じがします。暗唱するのも脳の訓練になります」と話している。
神奈川
幕末の横浜 遊女の悲劇 能舞台で一人芝居上演 あす鎌倉
開港百五十年を迎える横浜。この地に開港とともに誕生した港崎(みよざき)遊郭で、「らしゃめん」と呼ばれた外国人相手の遊女が、幕末の歴史に翻弄(ほんろう)されて悲劇の道をたどる創作劇の一人芝居「五十鈴楼 おいとの話」が三十一日、鎌倉市で上演される。 (斎藤裕仁)
公演は、アジアとの文化交流やイベントを行っている市民団体「醒土舎(せいどしゃ)」の主催。代表の田端敏生さん(70)が原作と脚本、演出を担当した。
芝居は、幕府の開国政策でらしゃめんとなった漁師の娘が、外国のスパイに仕立てられて追われ、理不尽な最期を迎える物語。女優原田紗世子さん(22)が一時間余、演じる。
会場は、市景観重要建築物に指定されている「村上邸」内の能舞台。源頼朝の屋敷があったとされる西御門の静かな谷戸にある。私邸のため、一般公演に使われることはまれで、歴史の背景と緑豊かな環境が舞台効果を高めると期待されている。
田端さんは「幕府に利用された揚げ句、都合が悪くなると捨てられたらしゃめんを通し、現代の格差社会に通じる不条理さを訴えたかった」と話す。
能舞台でリハーサルを終えた原田さんは「相手のいない芝居は難しいが、時代に翻弄されながら、精いっぱい生きようとした女性の姿を表現したい。能舞台は、近代的なホールとは音の響きが全く違い、神秘的な力を感じる。この舞台に立てて光栄。力いっぱい演じたい」と意欲を語っていた。
長野
【須坂市無形文化財の古川刀匠】新作名刀展で初の日本一
須坂市指定無形文化財の古川清行刀匠(61、村石町)は、平成21年新作名刀展((財)日本美術刀剣保存協会主催)で日本一に当たる「日本美術刀剣保存協会会長賞」に決まった。受賞式は6月9日、刀剣博物館(東京・代々木)で。同日から21日まで刀剣博物館で、その後は7月1日~20日まで山形県鶴岡市の致道(ちどう)博物館で展覧される=写真は25日、八町薬師に隣接する鍛刀場で。
出展は刀。銘は信濃国清行、平成21年春。長さ約74cm。現在全国で約200人が作刀活動を続けているという。約25人が活躍する宮入一門での最高賞受賞は、人間国宝故宮入行平氏(坂城町)人間国宝天田昭次氏(新潟県)人間国宝大隅俊平氏(群馬県)上林(かんばやし)恒平氏(山形県)河内国平氏(奈良県)宮入小左衛門行平氏(坂城町)に続いて7人目。
日本刀の製作は戦国時代まで鉄の産地に刀かじが存在していた。備前、京、大和、美濃など。江戸時代は各藩のお抱えとなり、刀かじは各地に分散した。平和な時代が続くと美術品として進物用などでも流通したという。
明治の廃刀令以降、刀工はほぼ存在しなくなったが、戦後、古川刀匠の師宮入昭平氏が刀匠を夢見て上京し、腕を磨き、今日全国有数の一門形成に至っている。師は人間的魅力にもあふれ、弟子を熱心に育成。古川刀匠の弟子入り当時は5~6人が住み込み、最盛期の感があったという。
信州では幕末に東部町出身の山浦真雄、清麿兄弟と真雄の子兼虎が活躍し、江戸でも名をはせていた。「(宮入師は)山浦一門を目標に実戦向きでより美しい刀を追い求めた」(古川刀匠)。
「名刀と呼ばれる日本刀は、時代の古い鎌倉時代に多い」と古川刀匠は指摘する。当時の刀はどんなふうに作っていたのか。宮入一門に入門する動機でもある製法の謎を完成品から探る長い旅は、40年の歳月を費やしここに「日本一の栄冠」へと結実した。
「名刀はできた時から名刀で、名刀と認められて残った。古い時代の物と比べるとまだまだだが、表現したい物が少しずつ形になってきたとは思う。頼るのは自分だけ。作者とすれば去年よりわずかでもよかったと言われると気持ちの上ではありがたい。頭の中で精彩を放つ古い刀がライバルなのでいつまでたっても追いつけないが、創作意欲が高まる日本一の評価はうれしい」と話す。
ワンセグ放送が届かないところに外出していたため、『プチかげ』視聴ができず、ちょっと凹んでいる白牡丹です……慣れていないので、一度録画に失敗すると再放送の日時を知っていても録画予約に30分以上かかってしまうんですよ(しかも、これで録画できるかどうかは不明^_^;……どうか、うまく行きますように)。
福島
いわき平東ロータリークラブ:24人、天田愚庵旧宅の周辺を清掃奉仕 /福島
栃木
出版:「図説 にのみやの歴史」 10年にわたる町史編さん事業完結 /栃木
京都
縄文以降「京都」800件登場 高校日本史教科書 教諭調査
佐賀
佐賀市:3億4400万円の補正予算提案へ--6月議会 /佐賀
三重津海軍所跡:遺構に新たな手がかり 佐賀大研究センターが地中探査 /佐賀
コラム
マメに続けた“文章稽古” 作家・半藤一利さん
「物書きに戻って20年、まだ若いんです」
福島
いわき平東ロータリークラブ:24人、天田愚庵旧宅の周辺を清掃奉仕 /福島
いわき平東ロータリークラブ(木村謹一郎会長)は、いわき市平の松ケ岡公園にある天田愚庵(あまだぐあん)旧宅周辺の清掃奉仕活動を行った。
愚庵は1854年に旧平藩士の5男に生まれ、1904年に亡くなった万葉調歌人。戊辰戦争で行方不明になった両親と妹を探して全国を訪ね歩き、清水次郎長の養子になり、次郎長の伝記「東海遊〓伝」を書き上げた。歌人としては正岡子規に影響を与えた。
愚庵が最後の日を迎えた家は66年、同市の有志が京都府から同公園内に移築し、観光拠点の一つになった。
早朝集まったクラブ員ら24人は、草刈り機やカマで、建物周辺に伸びた草を刈り取り、生け垣の芽を刈り込んだ。【田中英雄】
栃木
出版:「図説 にのみやの歴史」 10年にわたる町史編さん事業完結 /栃木
◇古代中世から近現代の史実紹介
99年から始まった旧・二宮町史編さん事業の締めくくりとなる「図説 にのみやの歴史」(二宮町史編さん委員会・編、二宮町発行)が今年2月に出版された。同3月に真岡市との合併が決まり、閉町式を迎えた同町。編集を担当した北島隆行さんは「名前がなくなっても二宮の歴史はなくならない」と話す。
同書は、二宮町の史実を古代中世から近現代まで時代を追って紹介。オールカラーで、写真や図、表を豊富に掲載し、読者に親しみやすいように工夫した。第2編では、二宮町の復興に尽力した二宮尊徳の生い立ちや活躍を分かりやすく紹介し、尊徳の娘、ふみの小話なども収録されている。第3編は、戊辰戦争勃発(ぼっぱつ)に始まり、第二次世界大戦下および終戦時の町の様子などを描写している。
約10年にわたる町史の編さん事業で本書を含め16冊が刊行された。調査先は250カ所を超える。また、同編さん室は執筆者を招いて歴史講座を3年間で30回近く開き、町の歴史の普及活動に努めてきた。
北島さんは「これで二宮町史は完結。年配の方は近現代編を読んで昔を懐かしんでほしいし、小・中学生は図版をめくって『おもしろい』と思って読んでもらえれば」と話している。同書は、真岡市立図書館などで閲覧可能。問い合わせは真岡市歴史資料保存館(電話0285・75・0070)。【松崎真理】
京都
縄文以降「京都」800件登場 高校日本史教科書 教諭調査
高校の日本史の教科書に「京都」がどのように登場するのか。京都・観光文化検定試験(京都検定)の1級に合格した高校教諭が全11冊を調べた。京都関連の記述は、縄文時代の石器の出土場所に始まり、1997年の地球温暖化防止京都会議(COP3)まで計約800件あった。「五山の送り火に合わせて蕎麦(そば)を食べると災難を免れる」など、あまり知られていない見聞記もみられた。
兵庫県の定時制高校で日本史を教える京都市右京区の門脇誠さん(54)。2年前に京都検定1級に合格し、京都産業大の特別客員研究員に迎えられたのを機に、古代から現代までを収録した「日本史B」の教科書全11冊を精読し、京都関連を抽出した。
最も古い記述は縄文時代で、石器の出土場所の写真に「京都府内」との説明が添えられていた。具体的な記述は、弥生時代の石包丁が出土した伏見区の深草遺跡が初出だった。
独自に集計した京都関連の記述は約800件に上り、時代別の件数は江戸(202件)、平安(184件)、室町(167件)、鎌倉(74件)の順に多かった。江戸時代は、京都が歴史舞台の中心になった幕末のほか、風神雷神図屏風(びょうぶ)や友禅染といった文化関連も多かった。平安時代は遷都とともに、貴族文化や仏教文化が花開いた様子を伝える。
また、一部の教科書しか触れられていない逸話もある。桐原書店の「新日本史B」は、江戸末期に京を訪れた江戸の浄瑠璃語り・繁太夫の見聞記として「(送り火の)火が消えるまでのあいだに蕎麦を一杯食べれば悪事災難を免れるとあって、みな物干しなどに登って火を見ながら蕎麦を食う」という庶民の慣習を記している。
門脇さんは「生徒が京都に触れるのは、まずは教科書。明治以降は記述が減るが、観光振興の面からも、相次ぐノーベル賞受賞など京都の新たな魅力が伝わるように、出版社に働きかけてもいいのでは」と話している。
佐賀
佐賀市:3億4400万円の補正予算提案へ--6月議会 /佐賀
佐賀市は28日、6月定例市議会に提出する約3億4400万円の09年度一般会計補正予算案など計29議案を発表した。補正後の一般会計は総額約800億800万円。前年同期より2・4%増える。
補正予算案では、幕末遺産の世界遺産登録推進費として、三重津海軍所跡の追加調査やシンポジウムなどの費用を計上。また、佐賀中央青果市場が整備するバイオマス施設を助成する国庫補助金を盛り込んだ。
一方、市清掃工場で昨年4月、職員が誤って自営業の男性を約2メートル下のごみ投下場所に転落させ、右足に骨折を負わせたとして、256万円の賠償金も計上した。
三重津海軍所跡:遺構に新たな手がかり 佐賀大研究センターが地中探査 /佐賀
◇“世界遺産”化へ生かす
佐賀大地域学歴史文化研究センターは28日、幕末期の佐賀藩の三重津海軍所跡(佐賀市川副町、諸富町)で、地中レーダー探査を実施した。ドックの形や建物の遺構について新たな手がかりが得られたという。探査結果は世界遺産暫定リスト入りを目指す今後の調査に生かされる。
海軍所跡の世界遺産登録を進めるには、海軍所の中心部だったボイラー工場やドックの遺構確認が必要といい、これらの施設があったとされる場所は、市教委が6月から発掘調査する予定。
結果は、地下探査に詳しい佐賀大農学部の半田駿教授が分析。半田教授によると、船大工小屋があったとされる場所の地下約1メートルで、約5メートル四方の建物の基礎とみられる反応があったという。ドックは川に面した入り口が狭い形だった可能性があるといい、1920年代の古絵図とも合致しているという。
一方、ボイラー工場があったとされる範囲では、目立った反応はなかった。
センターは今回の探査結果を市教委に伝え、参考情報として役立ててもらう。【姜弘修】
コラム
マメに続けた“文章稽古” 作家・半藤一利さん
「物書きに戻って20年、まだ若いんです」
傘寿を来年にひかえ、売れっ子ぶりに拍車がかかる半藤一利さん。「昭和史」「幕末史」と近現代史のノンフィクションでベストセラーを連発するが、その旺盛な創作活動の原点となっているのが、50歳から16年にわたり年賀状の返信として旧暦の元旦に送ってきた豆本年賀状だ。その一部がこのほど本になり、これまた「増刷がかかる」ほどの売れっぷりだという「隅田川の向こう側」(創元社)だ。
--始めたきっかけは?
「『日本のいちばん長い日』を書いたのは、週刊誌のトップ記事を山ほど書いていた記者時代。本は出勤前の朝4時に起きて書いていたわけですが、38歳で編集長になってからものを書くのを辞めたんです。しかし、いざ書かなくなるとおっくうになる。これじゃいけないと50歳から始めた、早い話が文章稽古です」
--手がかかっています
「大変なんですよ。正月休みに入ってからダーッと書き出しまして、自分で印刷所に入れて、校正して製本ができるとそれを封筒に入れて切手を張って宛名を書いて…本当に忙しくてバカじゃないかと思いましたね。まさに『あくびと涙』のたまものです」
--多いときで文庫版で100ページ。お金もかかっています
「最初のころは300人。ところが『あいつのところに年賀状を出すと小冊子が返ってくる』と評判を呼んで、最後のころは800冊です。(制作費は)毎回20万から25万円ぐらい。郵送料が高いんですよ」
--でも、無駄ではありませんでした
「ここから(新田次郎文学賞受賞の)『漱石先生ぞな、もし』や『大相撲こてんごてん』の2冊が生まれました。元はとったと思いますね」
「隅田川の向う側」(クリックで拡大) --今後のテーマは
「それを言われると本当に困っちゃう。昭和史をやって幕末史ときたら次は明治・大正史で間を埋めてとなるんですが…3社の出版社が『次は当然うちだ』と譲らない。だから『しばらく休憩いたします』と」
--司馬さんの「坂の上の雲」以降、太平洋戦争開戦までを面白く描いた作品がありません
「ひとつにはめんどくさいんです。日露戦争後、日本が悪くなってくるあの時代はロシア革命があって共産主義や社会主義に中国が台頭してきて、その背景には排日感情があり、さらに大正デモクラシーの時代。誰かがキチッと書いたら非常に昭和史がわかりやすくなるんですが、なかなかみんなやらないんです」
--ご自身が提唱する40年史観で見れば来年は個人の40年の区切りです
「編集長になった40歳頃に物書きを辞めて社業に集中し、(自分で書くのは)この豆本だけで誤魔化してきたわけですが、それがかえって良かったと思います。あの調子で書き続けていたら今頃へばってました。物書きに戻ってまだ20年。そういう目でみればまだ若いんですよね」(文・菊地麻見、写真・荻窪佳)
■「隅田川の向こう側」(創元社・1575円)
近所の支那そば屋の子供、王貞治少年と相撲をとったガキ大将時代の思い出を綴った「隅田川の向う側」、東大ボート部時代の活躍を描いた「隅田川の上で」など“歴史探偵”が体験した「昭和」の青春。
■はんどう・かずとし
1930年、東京向島生まれ。東京大学文学部卒業後、文藝春秋に入社。「週刊文春」「文藝春秋」編集長などを歴任。「日本のいちばん長い日」「ノモンハンの夏」など著書多数。
店頭で見かけました……諸般の事情で『週刊名将の決断』は買ってませんが、土方さんの号を見て心がぐらつきました(苦笑)。
週刊名将の決断 14号
ぐらついたのは、童門さんの書く土方さんが好きだから(苦笑)。
童門さん作品の中には、山南さんや河合さんの視点で描かれたものがあって、その中では土方さんは冷酷で非情なんですが……そうでない作品もいくつかあります。
たとえば、この作品の土方さんは多摩の同郷の人々からの視点で、牛革草の刈り入れの時には絶妙の統率力を見せるけど、普段はもの優しく、とても京都での鬼ぶりが想像できない……という描き方でした。
福武書店の記念出版で限定品なのが残念な本です……この本には童門さんがタイムトリップし流山と鴻の台の土方さんにインタビューするという設定で描かれた架空インタビューなんですが、この土方さんがフィクション作品のベスト3に入る土方さんです。
粗っぽくてぶっきらぼうな上、時期が時期なだけに(汗)気が立っているのですが……多摩の八王子千人同心に代々引き継がれた、土に根ざした「千人隊根性」が骨の髄までしみ込んだ土方さんです。
かといって決して無学ではなく、自分の武士道は田中丘偶とか荻生徂徠など、先達の学者たちが武士に求めた、土に根ざした武士の精神だということも語ったりもします。また、つい一世代ほど前に蝦夷地に移住した八王子千人同心の家族たちの言語に絶する生活と挫折についても、知っていたりします。
そうした歴史を背負って、また流山で投降した近藤さんなどの分も背負って、鴻の台を発つ土方さんの一言一言がとても印象的な架空インタビューでした。
(この架空インタビュー中でケースケこと大鳥圭介の描き方は好きになれませんでしたが……童門先生、大鳥圭介の半生や人柄、どこまでご存じでしょうか……汗)
『週刊名将の決断』最新号の童門さんエッセイを読んで、その土方さんが童門さんの中に生きているんだなぁと、改めて感じました。
ネタばれになりますので、畳んでみます。
週刊名将の決断 14号
敗者【鳥羽・伏見の戦い】土方歳三/勝者【上杉家存続へ】直江兼続
(以下、土方さん関連記事の見出し)
敗者の誤算【鳥羽・伏見の戦い】
体制と心中した
土方の明日なき死闘
童門冬二「決断を斬る!」●土方、敢えて方針を転換せず
組織の達人!
●勝海舟に学ぶパワフル処世術
愛蔵品拝見!
●土方歳三
ぐらついたのは、童門さんの書く土方さんが好きだから(苦笑)。
童門さん作品の中には、山南さんや河合さんの視点で描かれたものがあって、その中では土方さんは冷酷で非情なんですが……そうでない作品もいくつかあります。
たとえば、この作品の土方さんは多摩の同郷の人々からの視点で、牛革草の刈り入れの時には絶妙の統率力を見せるけど、普段はもの優しく、とても京都での鬼ぶりが想像できない……という描き方でした。
福武書店の記念出版で限定品なのが残念な本です……この本には童門さんがタイムトリップし流山と鴻の台の土方さんにインタビューするという設定で描かれた架空インタビューなんですが、この土方さんがフィクション作品のベスト3に入る土方さんです。
粗っぽくてぶっきらぼうな上、時期が時期なだけに(汗)気が立っているのですが……多摩の八王子千人同心に代々引き継がれた、土に根ざした「千人隊根性」が骨の髄までしみ込んだ土方さんです。
かといって決して無学ではなく、自分の武士道は田中丘偶とか荻生徂徠など、先達の学者たちが武士に求めた、土に根ざした武士の精神だということも語ったりもします。また、つい一世代ほど前に蝦夷地に移住した八王子千人同心の家族たちの言語に絶する生活と挫折についても、知っていたりします。
そうした歴史を背負って、また流山で投降した近藤さんなどの分も背負って、鴻の台を発つ土方さんの一言一言がとても印象的な架空インタビューでした。
(この架空インタビュー中でケースケこと大鳥圭介の描き方は好きになれませんでしたが……童門先生、大鳥圭介の半生や人柄、どこまでご存じでしょうか……汗)
『週刊名将の決断』最新号の童門さんエッセイを読んで、その土方さんが童門さんの中に生きているんだなぁと、改めて感じました。
ネタばれになりますので、畳んでみます。
今日は『プチかげ』ワンセグ放送と『陽炎の辻3』BShi先行放送の日……朝クリップした記事だけでも先にご紹介しておきます。
大分
臼杵藩領の地図発見 伊能忠敬地図活用 砲台建設に利用か 臼杵市教委
臼杵藩領の地図発見 伊能忠敬地図活用 砲台建設に利用か 臼杵市教委
佐賀
三重津海軍所跡を佐賀大が地下探査
大分
臼杵藩領の地図発見 伊能忠敬地図活用 砲台建設に利用か 臼杵市教委
臼杵藩領の地図発見 伊能忠敬地図活用 砲台建設に利用か 臼杵市教委
江戸時代の測量家、伊能忠敬(1745‐1818)が作成した全国地図「伊能中図」から、臼杵藩領だけが書き写された地図が、臼杵市の臼杵図書館の書庫から見つかった。臼杵藩が海岸に近い台場に設置していた大砲や砲台の設計図とともに和紙の袋に保存されていたことから、同市教委は「臼杵藩が砲台を配置する場所や方角を定める際、伊能忠敬の地図を活用したのでは」とみている。
地図は和紙製で縦40センチ、横28センチ、厚さ約1ミリ。臼杵藩領だった大分市の大野川から津久見市港町付近までの海岸線が赤色、熊本藩や佐伯藩との領界が灰色の線で書かれ、臼杵藩領内に35の地名が書かれている。
史料を整理していた学芸員が2004年、地図と臼杵市洲崎にあった大砲や砲台の設計図7点が入った和紙の袋を見つけ、今年2月に伊能忠敬記念館(千葉県香取市)に鑑定を依頼。伊能忠敬が作成した地図と完全に一致した。伊能は特定の藩だけの地図は作成しておらず、記念館側は、臼杵藩が伊能の地図を書き写したものとみている。
同市教委によると、臼杵藩は、最後の藩主稲葉久通が藩主だった幕末の1860年ごろ、外国船の来襲に備えて砲台10基を設置した。現在は臼杵市立東中学校グラウンドになっている。
同市教委文化財課の岡村一幸学芸員は「伊能図については、地図の正確さについて研究はされてきたが、利用法については研究されてこなかっただけに、貴重な史料」と話す。
佐賀
三重津海軍所跡を佐賀大が地下探査
ドック痕跡?地質に違い
佐賀大地域学歴史文化研究センターは28日、幕末佐賀藩の遺跡「三重津海軍所跡」(佐賀市川副町、諸富町)で、電磁波や電波を使った地下探査を行い、ドックがあったとされる一帯の地下に、ドックの痕跡ともみられる地質の違いがあることを確認した。データを分析するとともに、6月から発掘調査を予定している市教委に伝える。
市教委の発掘予定地を含む約5000平方メートルを調査した。市教委は、世界遺産の国内候補地リストに入っている「九州・山口の近代化産業遺産群」に三重津海軍所跡を追加登録することを目指しており、4、5月の調査で、初めて当時のものと断定できる建物跡を発見した。
しかし、「産業的な痕跡」が明らかにできていないため、造船や修理機能があったことを証明しようとしている。
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