新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
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息抜きに『幕末グルメ ブシメシ!』を見て楽しんでいるこの頃です。殿様の御膳に鰺の干物が上がることはないはず、とか、史実に照らすといろいろ言いたくなる気持ちを抑えて、フィクションとして楽しむようにしています。
京都ほか全国各地
京都市、大政奉還150周年記念プロジェクト「幕末維新スタンプラリー」を年末まで実施コンプリートの賞品は「二条城二の丸御殿大広間」で記念撮影
静岡県
「下田幕末開港」通史に ペリー来航など 市教委
北海道
「北海道」名付け親の業績発信へ幕末の探検家・松浦武四郎
福井
橋本左内の足跡を紹介 福井市郷土歴史博物館で企画展
京都
新撰組ゆかりの寺で開幕、京都冬観光
京都ほか全国各地
京都市、大政奉還150周年記念プロジェクト「幕末維新スタンプラリー」を年末まで実施コンプリートの賞品は「二条城二の丸御殿大広間」で記念撮影
京都市は2017年に大政奉還150周年を迎えるにあたり、「大政奉還150周年記念プロジェクト」の一環として、「幕末維新スタンプラリー」を12月31日まで実施する。これは京都市を含めた全国21都市の幕末維新ゆかりの観光資源、22カ所を巡るスタンプラリーで、「全制覇特別賞」として徳川慶喜が大政奉還を諮問した「二条城二の丸御殿大広間」での記念撮影ができるほか、スタンプ数によって抽選で旅行券などの賞品が用意されている。
大政奉還150周年記念プロジェクト「幕末維新スタンプラリー」
実施期間:2017年1月22日~12月31日
賞品:「全制覇特別賞」徳川慶喜が大政奉還を諮問した「二条城二の丸御殿大広間」で記念撮影、「名人コース」(7スタンプ以上)旅行券5万円分を1名、「達人コース」(5スタンプ以上)旅行券1万円分を3名、「手習いコース」(3スタンプ以上)旅行券3000円分を20名 ※5月以降「名産品コース」などが新設される予定
Webサイト:大政奉還150周年記念プロジェクト「幕末維新スタンプラリー」
スタンプ設置施設
福島県会津若松市:会津若松城(鶴ヶ城)
東京都千代田区:日比谷図書文化館
東京都品川区:品川区立品川歴史館
東京都調布市:調布市郷土博物館
東京都日野市:日野市立新選組のふるさと歴史館
長野県上田市:上田市立博物館
静岡県静岡市:静岡市文化財資料館
福井県福井市:福井市立郷土歴史博物館
三重県桑名市:桑名市博物館
和歌山県和歌山市:わかやま歴史館
岡山県高梁市:備中松山城
広島県福山市:福山城博物館
山口県萩市:萩・世界遺産ビジターセンター(1月22日~2月12日)/萩博物館(2月13日~3月3日)/萩・明倫学舎(3月4日)
山口県下関市:下関市立歴史博物館
愛媛県宇和島市:宇和島市立伊達博物館
高知県高知市:高知市立龍馬の生まれたまち記念館
長崎県長崎市:長崎市亀山社中記念館
熊本県熊本市:熊本市田原坂西南戦争資料館
鹿児島県霧島市:塩浸温泉龍馬公園
鹿児島県鹿児島市:鹿児島市維新ふるさと館
京都府京都市:元離宮二条城
京都府京都市:幕末維新ミュージアム 霊山歴史館
スタンプラリーの台紙付きの「幕末維新ガイドブック」は5万部が用意され、スタンプ設置などで配布される。また、大政奉還150周年プロジェクトのWebサイトからPDFを入手して印刷もできる。
静岡県
「下田幕末開港」通史に ペリー来航など 市教委
下田市教委はこのほど、「下田市史別編幕末開港」を刊行した。記述式の通史は初めて。編さん委員会の原秀三郎委員長(静岡大名誉教授)は「下田市史の目玉中の目玉は幕末開港。1854年の開港から59年の鎖港まで、下田が世界史の舞台に躍り出た6年間を中心にまとめた」と話す。
編さん委員会は1978年に発足し、これまで資料編6巻と図説2巻を発行したが、幕末開港を通史編として独立させた。三島市出身で国立歴史民俗博物館の樋口雄彦教授が執筆を担当。資料編を基に、約2年間かけてまとめたという。
A5判の本文355ページ。カラー写真10点、白黒写真110点、図表10点を挿入した。序章と1~6章、終章の構成でペリー来航や吉田松陰の密航未遂事件、ハリスの駐在と通商条約、唐人お吉などの開国史を詳述。下田奉行所を掘り下げ、「役人関係を具体的に明らかにした」といい、突如現れた“異人”と民衆の交流も一つの章として取り上げた。
500部発行し、1部3800円で販売している。問い合わせは下田市教委生涯学習課<電0558(23)5055>へ。
北海道
「北海道」名付け親の業績発信へ幕末の探検家・松浦武四郎
幕末に北海道を調査しアイヌ民族の姿を伝え、「北海道」の名付け親となった三重県松阪市出身の探検家、松浦武四郎(1818~88年)の業績を全国に発信しようと、北海道と三重県が連携することが17日、決まった。高橋はるみ北海道知事が津市を訪れ、鈴木英敬三重県知事と合意した。
2018年は北海道命名から150年目。道は記念事業の一つとして、松阪市に保存されている調査記録や出版物などの展示会を北海道で開催するほか、テレビドラマなどを通じて全国に武四郎の業績を伝えたいとしている。
松浦は1845年から6回にわたり北方領土や樺太まで探検、多数の旅行記を出版した。
福井
橋本左内の足跡を紹介 福井市郷土歴史博物館で企画展
福井市郷土歴史博物館で二十五日、幕末の福井藩士・橋本左内を紹介する企画展が始まった。昨年十一月にポプラ社から発刊された「コミック版 日本の歴史54 幕末維新人物伝 橋本左内」の一部を、関係資料とともにパネルで展示。誕生から刑死までを漫画と資料で分かりやすく紹介している。三月二十一日まで。
初公開の資料として、福井市出身の日本画家島田墨仙(ぼくせん)の「橋本左内像」を展示した。左内の没後五十年を機に市が立像の制作を計画した際、描いたとみられる下絵の一つ。一昨年秋にネットオークションで有志が落札し、同館に昨年、寄贈した。
担当学芸員の藤川明宏さんは「立志式の時期に合わせて開催したので、若い人にぜひ見てほしい」と話していた。
(藤共生)
京都
新撰組ゆかりの寺で開幕、京都冬観光
今年で51回目を迎えるJR西日本による京都デスティネーションキャンペーン『京の冬の旅』。その開催にあたり1月13日、冬晴れのなか「壬生寺」(京都市中京区)でオープニングイベントがおこなわれた。
毎年恒例となった京都市、JR、京都市観光協会の共同により実施されるこの観光キャンペーン。今年のテーマは「大政奉還150年記念」で、幕末ゆかりの寺院を中心に、14カ所で普段は見ることができない庭園や仏像、襖絵、建築など様々な文化財が期間限定で特別公開される。
新撰組ゆかりの寺院でもあり、今回、本堂と狂言堂が特別公開となる「壬生寺」で主催者らが挨拶。門川大作京都市長は、地蔵盆をおこなう壬生寺の歴史や地域社会との関わりに触れながら「暮らしのなかの文化を大事にしてきた京都において、(キャンペーンが)京都観光の大きな役割を果たしてくれると思う」と期待を込めた。また、京都市観光協会の柏原康夫会長は「長い歴史ある京都は訪れるたびに、毎年毎年新しい発見がある。京都の文化財産を大切に守りながら今後も世界中に伝えていきたい」と決意を新たにした。
キャンペーンは3月20日まで。期間中は食を交えた特別コースを運行する観光バスが登場するほか、京の伝統工芸体験ワークショップやウォーキングツアーなどのイベントも企画されている。詳細は公式サイトにて。
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年末から坂本龍馬の暗殺前5日の書状発見のニュースを取り上げましたが、それ以外のニュースを拾います。
大政奉還150年ラリー 21都市きょうスタート
大政奉還150年、ゆかりの地でスタンプラリー 22日から
幕末維新巡り 和歌山市もスタンプラリー
下田の歴史紹介 「幕末開港」刊行
コラム
あんパンはなぜ売れ続ける? 意外と知らない「ロングセラー菓子パン」のトリビア
大政奉還150年ラリー 21都市きょうスタート
江戸幕府が朝廷に政権を返上した大政奉還(1867年)から今年で150年となるのを記念し、京都市など幕末維新にゆかりのある全国の都市が22日から、歴史の舞台となった名所を巡るスタンプラリーを実施する。12月31日まで。京都
参加するのは、多くの維新志士を生んだ山口県萩市や鹿児島市、戊辰ぼしん戦争の激戦地だった福島県会津若松市など21都市。スタンプの意匠は、「高知市立龍馬の生まれたまち記念館」が坂本龍馬、「静岡市文化財資料館」は江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜。京都市では「二条城」(中京区)が二条城唐門、「霊山歴史館」(東山区)は新選組の「誠」の旗となっている。
台紙があるガイドブック=写真=は、スタンプの設置場所で配布される。スタンプをすべてそろえると大政奉還の舞台となった二条城二の丸御殿大広間で記念撮影ができるほか、集めた数に応じて旅行券が抽選で当たる。問い合わせは市文化芸術企画課(075・366・0033)。
大政奉還150年、ゆかりの地でスタンプラリー 22日から
大政奉還(1867年)から今年で150年となるのに合わせ、ゆかりの深い京都市や福島県会津若松市、山口県萩市など21市区が、活躍した先人らを模したスタンプを集めるイベント「幕末維新スタンプラリー」を22日に始める。参加者が観光を楽しめるよう、台帳付きのガイドブックで各地の歴史的な舞台や博物館を紹介する。新撰組ゆかりの寺で開幕、京都冬観光
江戸幕府15代将軍の徳川慶喜が朝廷に政権を返上した大政奉還の舞台となった二条城(中京区)がある京都市が呼び掛け、22日から約1年間、各地で関連事業が予定されている。
スタンプは22種あり、各地の博物館や歴史館で押せる。デザインは高知市の坂本龍馬や、鹿児島市の西郷隆盛ら明治維新の立役者の顔が多いが、会津藩主で京都守護職の松平容保が治めた会津若松市は「藩主の顔を使うのはおそれ多い」と藩の旗印にした。京都市内では二条城で「唐門」、霊山歴史館(東山区)で新選組旗印「誠」の2種を押せる。
スタンプ台帳付きのガイドブックはA5判24ページで5万部を作成。京都市内では22日から、両施設などで無料配布する。市文化芸術企画課は「佐幕派や倒幕派というかつての敵対関係にとらわれず、幕末・維新を切り口に、都市の連携で地方が元気になる取り組みにしたい」としている。
今年で51回目を迎えるJR西日本による京都デスティネーションキャンペーン『京の冬の旅』。その開催にあたり1月13日、冬晴れのなか「壬生寺」(京都市中京区)でオープニングイベントがおこなわれた。和歌山
毎年恒例となった京都市、JR、京都市観光協会の共同により実施されるこの観光キャンペーン。今年のテーマは「大政奉還150年記念」で、幕末ゆかりの寺院を中心に、14カ所で普段は見ることができない庭園や仏像、襖絵、建築など様々な文化財が期間限定で特別公開される。
新撰組ゆかりの寺院でもあり、今回、本堂と狂言堂が特別公開となる「壬生寺」で主催者らが挨拶。門川大作京都市長は、地蔵盆をおこなう壬生寺の歴史や地域社会との関わりに触れながら「暮らしのなかの文化を大事にしてきた京都において、(キャンペーンが)京都観光の大きな役割を果たしてくれると思う」と期待を込めた。また、京都市観光協会の柏原康夫会長は「長い歴史ある京都は訪れるたびに、毎年毎年新しい発見がある。京都の文化財産を大切に守りながら今後も世界中に伝えていきたい」と決意を新たにした。
キャンペーンは3月20日まで。期間中は食を交えた特別コースを運行する観光バスが登場するほか、京の伝統工芸体験ワークショップやウォーキングツアーなどのイベントも企画されている。詳細は公式サイトにて。
取材・文・写真/ヤマザキムツミ
幕末維新巡り 和歌山市もスタンプラリー
慶応3年(1867)の大政奉還から150周年の節目を迎えるのを記念し、京都市を中心に、幕末維新に活躍した先人とゆかりを持つ都市が相互に交流や連携を図る「大政奉還150周年記念プロジェクト」の第1弾となる「幕末維新スタンプラリー」が22日に始まる。和歌山市を含む参画21都市をPRし、観光誘客を図る。静岡
スタンプラリー台紙付きの「幕末維新ガイドブック」は5万部を発行。和歌山市は、わかやま歴史館2階に500部を設置し、同市のシンボルである和歌山城のスタンプを押すことができる。
ガイドブックはA5判カラー、24㌻。大政奉還についての解説をはじめ、黒船来航から戊辰戦争に至る幕末維新の歴史、参画都市の幕末維新関連史跡やミュージアムの紹介などを掲載。同プロジェクトの公式ホームページ(http://www.taiseihokan150.jp/)からダウンロードもできる。
和歌山市以外の各地のスタンプは、高知市が坂本龍馬、鹿児島市が西郷隆盛、下関市が高杉晋作など幕末維新で活躍した人物をはじめ、長崎市は亀山社中記念館、京都市は新選組の「誠」の旗、千代田区は江戸城、高梁市は備中松山城などとなっている。
集めたスタンプの数に応じて、最高5万円分の旅行券などが当たるプレゼント企画もある。また、全制覇すると特別賞として、徳川慶喜が大政奉還を諮問した「二条城二の丸御殿大広間」で記念撮影ができる。
和歌山市政策調整課は「京都市以外の近畿での参画は和歌山市のみなので、多くの方にスタンプラリーを契機に訪問していただきたい」と話している。
下田の歴史紹介 「幕末開港」刊行
◆来月5日、記念講演会
幕末の開港の歴史を紹介した下田市史別編「幕末開港」が刊行された。ペリー来航などで知られる幕末の下田にスポットを当てた通史の市史は初めてで、資料編(6巻)、図説(2巻)に次いで通算9冊目となる。
国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の樋口雄彦たけひこ教授(日本近代史・幕末維新史)が、資料編や独自の研究をもとに2年がかりで執筆した。
1854年の日米和親条約の締結から60年の下田奉行所の廃止までの6年間を中心に、ペリー率いる黒船の来航、下田に往来した勝海舟や吉田松陰、上陸した外国人と日本人との交流、唐人お吉をめぐる論争などについて、写真や図表をふんだんに使って、分かりやすくまとめた。
また、下田を含めた南伊豆の地域的視点から、南伊豆出身で、新撰組に加わった加納通広などゆかりの人物も紹介した。下田市史編さん委員会の原秀三郎委員長(静岡大名誉教授)は、「高齢者にも読みやすく、親しみやすい本になるようにしたので、座右の書として置いてほしい」と話した。
A5判、355ページで500部発行、3800円(税込み)。2月5日午後1時半から下田市民文化会館で刊行記念講演会が開かれ、樋口教授が「幕末開港と下田奉行所の幕臣たち」をテーマに講演する。入場無料。購入などの問い合わせは、下田市教育委員会生涯学習課(0558・23・5055)へ。
コラム
あんパンはなぜ売れ続ける? 意外と知らない「ロングセラー菓子パン」のトリビア
わたしは「あんパン」をよく食べます。そのまま食べるのもおいしいですが、マーガリンを塗って食べるのも好きです。バターではいけません。乳臭すぎるからです。つぶあんマーガリンは日本人が誇れるすばらしい食文化だと思います。
マイ・フェイバリット・あんパンは、「高級つぶあん栗入り」(山崎製パン株式会社)です。マーケットやコンビニに行けば100円前後で買えます。わたしは「高級つぶあん栗入り」にマーガリンを塗りながら食べます。最高の組み合わせです。お試しください。
あんパン誕生前夜
あんパンは明治時代に発明されたものです。すでに江戸時代には「まんじゅう」がありましたが、新元号「明治」に変わった直後の日本人に「あんぱん」を受け入れてもらうためには苦労があったようです。おなじ「小麦生地であんこを包んだ食べ物」なのに、なぜでしょうか?
理由は「パンの風味」でした。『その時歴史が動いた26』(KTC中央出版・刊)所収の「明治天皇あんパンを食す/リストラ武士・木村安兵衛の挑戦」によれば、当時はパン発酵のために「ビール酵母」を使っていたので、仕上がりは硬くて酸っぱかったそうです。
あんパンは武士が作った
「まんじゅう生地」をヒントにして、日本人好みのパンを作ることを思いついたのは、木村安兵衛(きむら・やすべえ)という士族でした。あんパンで有名な「木村屋總本店(文英堂)」の創業者です。もともと武士だった木村安兵衛は、1869年(明治2年)の版籍奉還が実施されるのを知って、いままでの封建制度に見切りをつけて、東京の新橋にパン屋を開業しています。
歴史年表に照らし合わせれば、江戸城無血開城の1年後であり、なんと戊辰戦争の末期ごろです。木村安兵衛がパン屋を開業したのは、明治2年3月。箱館の五稜郭防衛戦で土方歳三が戦死したのは、同年5月。封建社会に属していた武士ふたりの運命が大きく分かれた瞬間です。
当時の酸っぱくて硬いパンを改良するために、安兵衛は「ビール酵母」ではなく「日本酒の酵母(酒種)」を使うことにしました。つまり「酒まんじゅう」の応用です。その後「あんこ」をパンに詰めるという発想の元にもなりました。
パンは健康食品だった!?
明治期にあんパンが普及した理由としては「栄養価」と「画期的なマーケティング」を挙げられます。まず「栄養」について説明します。
幕末から明治にかけて、東京では「脚気(かっけ)」患者が増えていました。ビタミンB1が欠乏することによって、末梢神経障害や心不全を発症します。明治期には、「脚気衝心」による年間2万人の死者が記録されています。
ビタミンB1欠乏症である脚気に「パン食が効果的である」と説いたのは、明治時代に来日していたドイツ人医師ホフマンでした。パンの材料である小麦粉の胚芽には、鉄分や食物繊維やビタミンB1などが多く含まれるからです。脚気を改善したり予防したい人々が買い求めることで、木村安兵衛のパン屋は繁盛しました。
究極の販売促進マーケティング「皇室御用達」
明治時代といえば「文明開化」というキーワードが挙げられます。しかし、元号が「明治」になったからといって、日本人全員がすぐに西洋文明を受け入れたわけではありませんでした。
「あんパン史観」を採用するならば、真の文明開化は明治8年と言えるかもしれません。この年に「新政府側」と「旧幕府側」による歴史的和解がおこなわれたからです。その席上には「あんパン」がありました。
『あんぱんはなぜ売れ続けるのか』(井上昭正・著/清流出版・刊)は、すぐれたマーケティング事例を解説したビジネス書です。一例として「木村屋總本店の桜あんぱん」の歴史が紹介されています。
1875年(明治8年)に、明治天皇と皇后両陛下による花見行幸がおこなわれました。桜が咲きほこる隅田川へ向かう途中に、一行は「旧・水戸徳川藩邸」に立ち寄りました。
行幸を出迎えたのは徳川昭武(とくがわ・あきたけ)でした。十五代将軍・徳川慶喜の実弟です。慶喜は、水戸藩の第9代藩主である徳川斉昭の実子です。水戸徳川家から一橋家に養子に出たあと、将軍になっています。
つまり、明治8年4月4日の花見行幸のために旧・水戸徳川藩邸へ立ち寄ったのは、新時代を象徴する明治天皇が、旧時代を象徴する一族の住まいをおとずれるという歴史的イベントだったのです。
その席上に、木村安兵衛の作った「桜あんぱん」が献上されました。あんパンも新時代を象徴するものでした。
こうして「桜あんぱん」は、水戸屋敷に届けられ、明治天皇のお気に召し、ことのほか皇后陛下(昭憲皇太后)のお口にあったと、大変喜ばれました。
そして「引き続き納めるように」という両陛下のお言葉があり、宮中御用達に加わることになったのです。
(『あんぱんはなぜ売れ続けるのか』から引用)
天皇陛下や皇后陛下が「おいしい」と言ったことは、またたくまに全国へと伝わりました。「文明開化の味」として、あんパンは日本中に広まったというわけです。
(文:忌川タツヤ)
一、将軍江戸を去る(しょうぐんえどをさる)
市川染五郎の慶喜、佐々木愛之助の鉄太郎(後の山岡鉄舟)、又五郎の高橋伊勢守(後の高橋泥舟)は結構いい組み合わせ。
史実好きの私は慶喜が「這々の体で」大阪から帰ってきたというくだりに(°°;)……こいつこっそり開陽丸で将兵置いて先に帰ってきたんですよ〜。
二、大津絵道成寺(おおつえどうじょうじ)
三、沼津(ぬまづ)
途中意識朦朧になってしまったので、なぜ十兵衛が平作と親子だと気づいたのか、なぜお米の夫の敵筋に十兵衛が属しているのかがよくわからず、クライマックスに涙がにじんでこなかった(汗)。
夜の部
一、井伊大老(いいたいろう)
昭和30年につくられた芝居で本来よりも幕や場が少ないみたいなのだが、私には全然作品に入り込めなかった。①井伊直弼意外に違う場に登場する人物がいず、ぶつ切りのような印象。②大きなアクションがなく、花道も一度も使われなかった。内面描写の現代劇風なスタイルはいいが静かすぎる。③幸四郎の直弼と玉三郎のお静が全然合っておらず、貧しい武士の部屋住みから大名になって不幸せになったという年月の積み重ねが感じられない④井伊直弼が三月四日に桜田門近い自宅から出仕しようとしたところを水戸浪士に暗殺されたという史実を知っていると、前の日に世田谷の下屋敷で側室と一緒に過ごす夜という設定は何らか説明がないと無理がある。
二、上 越後獅子(えちごじし)
下 傾城(けいせい)
三、秀山十種の内 松浦の太鼓(まつうらのたいこ)
慶喜の心の葛藤を描いた重厚な一幕本当は三幕あって、彰義隊が出てくる場の前に西郷勝の江戸城明け渡しの場面があって、山岡鉄太郎のやや傍若無人な熱意はその会談に立ち合って共鳴した気持ちを慶喜公に伝えたかったんだね。実際の山岡鉄太郎は身長6尺2寸(188センチ)、体重28貫(105キロ)の巨漢なので、彰義隊の中でも迫力負けすると思う。
朝廷に大政を奉還した徳川慶喜は江戸出発を明日に控え、上野寛永寺で恭順謹慎していましたが、幕臣の主戦論者の意見に心が揺らいでしまい出発延期を願い出ます。そのことを知った高橋伊勢守や山岡鉄太郎は、慶喜を諫めにやってきます。恭順を翻意すれば江戸で戦が起こり、罪もない人々が血を流すことになると鉄太郎が必死に説得し、慶喜はようやく自らの誤った決断に思い至ります。慶喜は江戸を官軍に明け渡すことを決意し、その名残を惜しみながら、水戸へと旅立っていくのでした。
大政奉還から150年という節目の年を迎えて上演される、真山青果作品ならではのせりふ劇にご注目ください。
市川染五郎の慶喜、佐々木愛之助の鉄太郎(後の山岡鉄舟)、又五郎の高橋伊勢守(後の高橋泥舟)は結構いい組み合わせ。
史実好きの私は慶喜が「這々の体で」大阪から帰ってきたというくだりに(°°;)……こいつこっそり開陽丸で将兵置いて先に帰ってきたんですよ〜。
二、大津絵道成寺(おおつえどうじょうじ)
5役を早替りで魅せる変化舞踊ラブリンの藤娘→鷹匠→座頭→船頭→藤娘→鬼の変化が面白かった。
近江の三井寺では鐘供養が行われ、外方が唐子を従えてやってきます。外方が酒宴を始めると、藤娘が鐘を拝ませて欲しいと現れ、外方は舞を所望します。藤娘は舞を始めますが、いつのまにか消えてしまい、今度は鷹を追って鷹匠が現れます。その後、犬とじゃれつきながら座頭が去り、いなせな船頭が現れて踊ります。船頭が去り、再び藤娘が現れたのですが、落ちた鐘の中に姿を消します。しかし、弁慶が祈ると鐘から大津絵の鬼が現れ、駆けつけた矢の根の五郎が祈り伏せるのでした。
大津絵の中に登場する五役を一人の俳優が踊り分ける演出がみどころの舞踊劇をお楽しみください。
三、沼津(ぬまづ)
生き別れた親子の悲しい再会の物語
東海道を旅する呉服屋十兵衛は、沼津のはずれで出会った雲助の平作に頼みこまれ、荷物を持たせることにします。しかし、年老いた平作は怪我をしてしまい、十兵衛は印籠の妙薬で平作を治療します。先を急ぐ十兵衛でしたが、平作の娘お米にひと目惚れしてしまい、平作の家に立ち寄ることにします。その夜、平作から薬の話を聞いたお米は、病に臥している夫のことを思い十兵衛の印籠を盗もうとします。お米と平作の話を聞いていた十兵衛は、驚くべき事実に気づき…。
偶然が重なって起きた悲劇を巧みに描いた義太夫狂言の名作をご覧いただきます。
途中意識朦朧になってしまったので、なぜ十兵衛が平作と親子だと気づいたのか、なぜお米の夫の敵筋に十兵衛が属しているのかがよくわからず、クライマックスに涙がにじんでこなかった(汗)。
夜の部
一、井伊大老(いいたいろう)
国難に立ち向かった男の心情を描いた名作
開国か攘夷かで国中が揺れていた幕末。大老井伊直弼は、開国を断行し暗殺の危機にさらされています。雛祭りの前夜、幼くして命を落とした娘鶴姫の命日に、直弼の旧知の仲である仙英禅師は井伊家の下屋敷を訪れ、側室お静の方に直弼に危機が迫っていることを明かします。下屋敷に現れた直弼は、これから起こるであろう自らの運命を悟り、しんしんと雪が降る中、お静の方と酒を酌み交わし二人きりで語り合うのでした。
北條秀司の名作の一つで、井伊直弼が桜田門外で暗殺される前夜の様子を描いた作品です。美しい桃の節句の雛壇の前で通わせる夫婦の情愛が心を打ちます。
昭和30年につくられた芝居で本来よりも幕や場が少ないみたいなのだが、私には全然作品に入り込めなかった。①井伊直弼意外に違う場に登場する人物がいず、ぶつ切りのような印象。②大きなアクションがなく、花道も一度も使われなかった。内面描写の現代劇風なスタイルはいいが静かすぎる。③幸四郎の直弼と玉三郎のお静が全然合っておらず、貧しい武士の部屋住みから大名になって不幸せになったという年月の積み重ねが感じられない④井伊直弼が三月四日に桜田門近い自宅から出仕しようとしたところを水戸浪士に暗殺されたという史実を知っていると、前の日に世田谷の下屋敷で側室と一緒に過ごす夜という設定は何らか説明がないと無理がある。
二、上 越後獅子(えちごじし)
旅芸人の哀愁を軽妙な踊りで表す舞踊劇鷹之質の若々しく軽やかな踊りが出色。
江戸日本橋。遠く越後の国からやってきて、踊りや軽業を見せて稼いでいる角兵衛獅子が現れます。角兵衛獅子は浜歌やおけさ節、最後には布を波に見立てた布さらしを披露するのでした。
五世中村富十郎が得意とした演目でこの度、七回忌追善狂言として上演いたします。
下 傾城(けいせい)
吉原の情景を艶やかな舞踊で魅せる一幕玉さまもちろん美しいのだけど打ち掛けファッションショーみたいで勿体ない。
吉原仲之町の廓のとある座敷に、吉原一の美貌を誇る松の位の傾城が姿を現します。傾城は愛しい間夫への心情や吉原での出来事を移りゆく四季の詞章に乗せて艶やかに踊ります。四季折々の風情あふれる美しい舞踊をご堪能ください。
三、秀山十種の内 松浦の太鼓(まつうらのたいこ)
四十七士の活躍を陰から見守るもう一つの忠臣蔵ストーリーとしては今日一番面白かった。松浦の殿様をやった染五郎はたぶん年取った役者さんがやったように演じてちょっとすべったんじゃないかな。「ばかもの」を連発していたが味がなかった。
元禄15年12月13日、俳諧師宝井其角は弟子で赤穂浪士の大高源吾に出会います。源吾は「明日待たるるその宝船」と詠んで、その場を去っていきます。翌日、松浦鎮信の屋敷で句会が催されます。鎮信は赤穂浪士が一年経っても未だ仇討ちをしないことに腹を立て、源吾の妹で松浦家に奉公しているお縫に暇を与えますが、其角から源吾の付句の話を聞き、その意味を思案します。そこへ、隣の吉良邸から陣太鼓が鳴り響き、鎮信は赤穂浪士の討入を悟るのでした。
秀山十種の一つであり、赤穂浪士の吉良邸討入の前日から当日を描いた、忠臣蔵外伝物のなかでも屈指の名作です。
発見資料としては超一級だと思います。
福井新聞(東洋経済オンライン)
発見された坂本龍馬書状に暗殺の黒幕示唆か朱書きの付箋を貼り極秘扱いに
坂本龍馬、福井藩を頼る書状発見 暗殺5日前、由利公正の出仕懇願(2017年1月13日午後5時55分)
福井藩、坂本龍馬を「表舞台」導く 第3極としての存在感背景に
坂本龍馬との関係はドラマチック 由利公正の大河化「題材面白い」(2016年8月1日午前7時20分)
毎日
坂本龍馬「新国家」専心 暗殺5日前の書簡発見
時事通信
暗殺直前の龍馬の手紙新たに発見=「新国家」財政担当の出仕を要請
福井新聞(東洋経済オンライン)
発見された坂本龍馬書状に暗殺の黒幕示唆か朱書きの付箋を貼り極秘扱いに
幕末の志士坂本龍馬が1867年、京都で暗殺される5日前に、福井藩重臣の中根雪江(せっこう)に宛てた直筆の書状が見つかった。高知県が13日に発表した。
龍馬の書状は折りたたまれ、封紙に入った状態で見つかった。封紙には「坂本先生遭難(暗殺)直前ノ書状ニテ他見ヲ憚(はばか)ルモノ也」と朱書きの付箋が貼られ、“トップシークレット”の扱いになっていた。
付箋をいつ、だれが書いたのかは不明だが、福井市立郷土歴史博物館の角鹿尚計館長は中根雪江の書体に似ているという。もし中根だとすると「暗殺の黒幕を示唆する史料となるかもしれない」と話す。
付箋が貼られた理由は?
龍馬暗殺の実行犯は京都警護に当たっていた見廻(みまわり)組説が有力だが、黒幕は幕府説、薩摩藩説、土佐藩説、紀州藩説などがあり謎となっている。
角鹿館長が書状で注目するのは、龍馬が幕臣永井玄蕃(げんば)(尚志(なおゆき))と明日(11月11日)に会う予定で、中根に同行してほしいと記している点。永井は徳川慶喜の側近で大政奉還を推進した。龍馬は幕府側の実力者として永井を頼り、度々面談。暗殺前日にも会っていた。幕府上層部が暗殺に関与したとみる角鹿館長は「中根は永井周辺が指示したと考え、暗殺直前の手紙に自分の名前が書かれていることから嫌疑が及ぶことを恐れ、封印したのでは」と推測する。
一方、京都国立博物館の宮川禎一上席研究員は「中根は三岡八郎の新政府への出仕に非協力的だったため、三岡に手紙が見られると具合が悪いと思い付箋をしたのでは」と話している。
坂本龍馬、福井藩を頼る書状発見 暗殺5日前、由利公正の出仕懇願(2017年1月13日午後5時55分)
幕末の志士坂本龍馬が1867年、京都で暗殺される5日前に、福井藩重臣の中根雪江(せっこう)に宛てた直筆の書状が見つかった。高知県が13日に発表した。大政奉還後の新政府樹立に向け奔走する中、財政手腕を高く評価していた同藩士三岡八郎(後の由利公正)を一日も早く出仕させるよう、「新国家」という言葉を使いながら懇願した内容。専門家は「龍馬の活躍や幕末における福井藩の役割の大きさが分かり、幕末史や龍馬研究の進展が期待できる重要な史料」と評価している。
書状は縦約16センチ、横約92センチの和紙に毛筆書き。書状を包んでいた封紙に龍馬が偽名として使った「才谷楳太郎」と記され、本文中は「龍馬」の書名があった。
140点以上あるとされる龍馬の書状の中で、「新国家」という言葉が確認されたのは初めて。
日付は11月10日。10月14日の徳川慶喜による朝廷への大政奉還を受けて、坂本や土佐藩重臣の後藤象二郎らは朝廷中心の新政府樹立に向けた活動を活発化させていた。
こうした中、前福井藩主松平春嶽が11月8日、京都の福井藩邸に到着。書状は同じく上京し同藩邸にいた中根に出され、「(春嶽の)上京は千万の兵を得たような心持ち」とし、中根の尽力に感謝している。
その一方、福井藩の内部事情で「急を要する」三岡の上京、出仕が進まないため、「三岡の上京が一日先になると、新国家の家計(財政)の成立が一日先になる」とまで記し、中根に三岡の上京を藩として早急に許可するよう訴えている。
龍馬は新政府に財源がないことを憂い、福井藩の財政再建を成し遂げた三岡を新政府の財政担当者にと構想。10月下旬から福井を訪れ、藩の政治問題に絡んだ処分で幽閉中の三岡と同月30日に面会した。11月5日に京都へ戻り、会談の様子や三岡への高い評価を記した後藤象二郎宛ての「越行の記」を執筆。3年前に草稿が発見され、今回はこれに続く書状とみられる。
三岡は一月あまり後の12月半ばになって新政府に出仕。太政官札を発行するなど財政責任者として活躍した。
今回の書状を分析した京都国立博物館の宮川禎一上席研究員は「龍馬の他の手紙にはない、『新国家』という言葉が使われているのが貴重。龍馬が死の直前まで新国家建設に専心していた様子をよく示している」と話している。
書状は昨年8月、東京の企画会社isanaが京都国立博物館に持ち込み、複数の専門家が筆跡などから真筆と判断した。入手経緯やこれまでの保管状況は明らかにしていない。
今年は龍馬暗殺や大政奉還から150年。書状は高知県で開かれる「志国高知幕末維新博」に合わせ、3月4日から県立高知城歴史博物館(高知市)で一般公開される。
■龍馬の書状 読み下し
一筆啓上差し上げます。
このたび越前の老侯(松平春嶽)がご上京に成られたことは千万の兵を得たような心持ちでございます。
先生(中根雪江)にも諸事ご尽力くださったこととお察し申し上げます。
しかしながら先頃直接申し上げておきました三岡八郎兄の上京、出仕の一件は急を要することと思っておりますので、なにとぞ早々に(福井藩の)ご裁可が下りますよう願い奉ります。三岡兄の上京が一日先になったならば新国家の家計(財政)の成立が一日先になってしまうと考えられます。
ただ、ここの所にひたすらご尽力をお願いいたします。
誠恐謹言
十一月十日
龍馬
中根先生
左右
追白 今日永井玄蕃頭方へ尋ねていったのですが御面会はかないませんでした。
(永井殿と)談じたい天下の議論が数々あり、明日また訪ねたいと考えているところですので、大兄もご同行がかないますならば実に大幸に存じます。
再拝
■福井藩と坂本龍馬の関係は
>>坂本龍馬の書状、暗殺の黒幕示唆か
>>福井藩、坂本龍馬を「表舞台」導く
>>坂本龍馬、福井藩を頼る書状発見
>>由利と龍馬の関係はドラマチック
福井藩、坂本龍馬を「表舞台」導く 第3極としての存在感背景に
幕末の志士坂本龍馬が1867年、京都で暗殺される5日前に、福井藩重臣の中根雪江(せっこう)に宛てた直筆の書状が見つかった。高知県が13日に発表した。
新たに発見された龍馬の書状からは、激動の幕末維新期に福井藩の果たした役割の大きさがみえてくる。その背後に、ともに平和路線を目指した龍馬と福井藩の強い結びつきがあった。
書状で龍馬は、前福井藩主松平春嶽の上京について「千万の兵を得た」と記した。当時、大政奉還は決まったが、薩長の武力討幕派と幕府側が激しく対立していた。
福井市立郷土歴史博物館の角鹿尚計館長は「政事総裁職も務めた春嶽の動きを周囲は注目していた。流血を避けたかった龍馬は、中立的で(雄藩連合を主張する)公儀政体派の春嶽の上洛(じょうらく)によって、武力討幕派と幕府を支持する佐幕派が一つにまとまると期待したのだろう」とみる。
幕末史は討幕と佐幕の2極で語られがちだが、「福井藩のように、平和的に朝廷と幕府の共存共栄を目指した第3極の存在の重要さがよく分かる書状」と角鹿館長。
一方、こうした動きに呼応した龍馬が、政治の“表舞台”に立つきっかけをつくったのが福井藩だった。
土佐藩脱藩の年、江戸の福井藩邸で龍馬は春嶽と面会した。通常、一介の浪人が藩主に面会することはありえない。両者を取り持ったとみられるのが、今回の書状の宛名、春嶽の近臣中根雪江(せっこう)だ。角鹿館長は「面会させる人物は中根が吟味していたはず。頭角を表し始めた志士らの情報に、常にアンテナを張っていたのだろう」と推測する。
勝海舟の門下となった龍馬は1863年、勝の使者として福井へ春嶽を訪ね、海軍操練所建設資金の支援を求めた。これに対して、福井藩は5千両(千両説も)もの大金を工面。龍馬に対しても同年、活動資金として15両が中根から渡された。姉への手紙で龍馬は「一大藩(福井藩)に頼みにされ、金が必要なら10両20両くらいはなんでもない」と記している。
龍馬は少なくとも2回は福井を訪問。暗殺される約2週間前には、莨屋(たばこや)旅館で三岡八郎と長時間にわたり新政府の富国策を論じあった。「龍馬の歴史舞台の活躍は、福井で始まり、福井行きの旅が最後だった」と角鹿館長。今回の書状を確認した京都国立博物館の宮川禎一上席研究員は「中根の存在を含め、龍馬と福井藩との関わりに関する研究が一層進展するはず」と期待していた。
坂本龍馬との関係はドラマチック 由利公正の大河化「題材面白い」(2016年8月1日午前7時20分)
「幕末明治を福井から描く」をテーマに、時代考証の専門家、ドラマ制作者、地元の歴史家が語り合うシンポジウムが31日、福井市のハピリンで開かれた。激動の中で福井藩主松平春嶽、藩士由利公正らが果たした役割や作り手の視点で見たドラマ性を紹介した。「当時の福井の先進性には現代に通じるテーマがある」と、集まった歴史ファンら約200人に呼び掛けた。
由利を主人公にしたNHK大河ドラマの実現を目指す福井県と、官民でつくる県誘致推進協議会が企画した。
鯖江市ゆかりの人形浄瑠璃作家、近松門左衛門を題材にしたドラマ「ちかえもん」を手掛けたNHKドラマ番組部の梶原登城チーフ・ディレクターが、2010年の大河ドラマ「龍馬伝」のシーンを紹介しながら俳優のせりふや動き、カメラワークに込めた意味を解説した。「史実だけでは成り立たないが、事実から外れすぎれば興味を持ってもらえない。そのあんばいが(時代劇の)面白さであり難しさ」と語った。
主人公としての由利について「(坂本)龍馬との信頼関係はドラマチックで、東京の初代知事を務めて銀座の礎を築いた男でもある。五輪の時期の題材として面白い。1年間を貫く(ドラマの)大きな幹をどうつくるかが大切」とアドバイスした。
多くの大河ドラマに携わっている時代考証学会長の大石学・東京学芸大副学長は「幕末明治は福井の人材抜きでは描けない。レベルの高い思想が広がった福井や(明治維新後の)日常の平和を築くことに苦心した由利らの姿は、英雄でなくても物語になる」と期待を寄せた。
福井市立郷土歴史博物館の角鹿尚計館長は「幕末明治は幕府派、倒幕派の両極端で描かれることが多いが、福井はどちらでもなく(朝廷と幕府を一つにする)公武合体を目指した。中間派の視点から明治維新の本当の姿が分かる」と強調した。その上で、大野の内山兄弟や小浜の梅田雲浜ら県内のさまざまな偉人を取り上げることで、物語に厚みが出せると提案した。
毎日
坂本龍馬「新国家」専心 暗殺5日前の書簡発見
幕末の志士、坂本龍馬が慶応3(1867)年に京都で暗殺される5日前に記した直筆の書簡が見つかった。高知県が13日午後、発表した。約1カ月前に将軍、徳川慶喜が大政奉還したことを受けて福井藩の重臣に宛てた書簡で、文中には「新国家の御家計(財政)」という言葉が使われ、同藩士の新政府の財政担当者への出仕を懇願している。龍馬研究の進展が期待できる一級の史料といえ、研究者は「龍馬が新しい国家の樹立を目指して活動していたことが明確になり、歴史的価値は極めて高い」と評価している。【錦織祐一、最上聡】
福井藩重臣宛て 財政担当者への出仕懇願
書簡は縦16センチ、横92センチで、11月10日の日付。京都の福井藩邸に滞在していた同藩重臣、中根雪江宛てで、本文中には「龍馬」の署名があった。
大政奉還を受け、徳川家の親藩だった福井藩の前藩主、松平春嶽の京都入りを「千万の兵を得たる心中」と歓迎。龍馬は同藩士の三岡八郎(後の由利公正)を新政府の財政担当者に推挙していたが、三岡は幕府に強硬な姿勢だったため謹慎処分中だった。そのため、書簡で「三岡兄の御上京が一日先に相成候得ハ新国家の御家計御成立が一日先に相成候(三岡の京都入りが1日遅れれば、新国家の財政成立が1日遅れてしまう)」と訴えている。
三岡は龍馬暗殺の翌月に京都に入り、新政府の五箇条の御誓文の起草に関わったほか、初期の財政も担当した。
龍馬の書簡で「新国家」という言葉が確認されたのは初めて。鑑定した京都国立博物館の宮川禎一上席研究員は「龍馬が死の直前まで新政府の樹立、新国家の建設に専心していたことをよく示す、貴重な史料だ。龍馬と福井藩との関係の研究も進展する」と話す。
書簡は、大政奉還と明治維新から150年を記念して高知県が開催する歴史博覧会「志国高知・幕末維新博」のため、全国の史料を調査する中で発見された。どのように保管されていたかや発見の詳しい経緯は明らかになっていない。3月4日から県立高知城歴史博物館(高知市)で公開される。龍馬の書簡は、暗殺される2日前の11月13日の日付で海援隊士だった陸奥宗光に宛てたものが現存では最後とされる。
考え色濃く
三浦夏樹・高知県立坂本龍馬記念館学芸員の話 「新国家」建設に向け、龍馬が尽力していたことを示すものだ。龍馬の文字の特徴は出ているが、数ある書状の中でもきれいで丁寧に書かれており、松平春嶽に見られることも意識したのでは。何よりも国家建設には財政・経済が重要で、その任を担えるのが三岡だという、龍馬の考えが色濃く出ている。
時事通信
暗殺直前の龍馬の手紙新たに発見=「新国家」財政担当の出仕を要請
土佐藩出身の幕末の志士、坂本龍馬が150年前の1867年に京都で暗殺される直前に書いた書状が新たに見つかったと13日、高知県が発表した。
〔写真特集〕幕末人物帳
龍馬研究の第一人者である京都国立博物館の宮川禎一上席研究員らが鑑定し、筆跡、内容とも本人のものと判断されたという。暗殺される5日前の日付が記され、福井藩の重役に宛て、同藩士の三岡八郎(後に「五か条の御誓文」を起案した由利公正)を新政府の財政担当として出仕させるよう懇願する文が書かれていた。龍馬はこの直前に福井を訪ね、三岡と会談していた。
龍馬の他の手紙にはない「新国家」という言葉が使われており、大政奉還を受け、設立が急がれていた新政府の財政問題の解決に龍馬が奔走していたことを裏付ける歴史的価値の高い史料だという。
3年前にも、龍馬が暗殺される直前に土佐藩の重臣・後藤象二郎に宛てた書状「越行の記」の草稿が見つかっており、三岡を強く推挙することなどが書かれていた。今回の書状はこれに続くものとみられる。
書状は個人が所蔵し、「他見をはばかるものなり」と書かれた付箋が付いた封紙に折り畳まれて入っていたため、150年も出てこなかったのではないかという。
書状は3月4日から高知市で開かれる「志国高知 幕末維新博」で公開される。(2017/01/13-13:05)
去年はまとまったレビューを書けませんでしたが、毎週『真田丸』を楽しみにしていました。
いろいろなレビューや感想を見てきましたが、『組!』『組!!』残党にとって、下記のレビューが一番しっくりしました。
『真田丸』――『新選組!』から12年、三谷幸喜の円熟を感じさせるただただ楽しい大河の誕生
『真田丸』を見て新たに大河ドラマファンとなった若い方々が多いことを喜ぶ一方、『組!』『組!!』以降の三谷作品を全部ではないけど見てきた三谷ファンとして、他の作品の積み重ねが今回の成功に繋がっているという見方もして欲しいと思っていたので。
いろいろなレビューや感想を見てきましたが、『組!』『組!!』残党にとって、下記のレビューが一番しっくりしました。
『真田丸』――『新選組!』から12年、三谷幸喜の円熟を感じさせるただただ楽しい大河の誕生
――批評家・宇野常寛が主宰するインディーズ・カルチャー誌「PLANETS」とサイゾーによる、カルチャー批評対談──。『組!』『組!!』についてもしごくまっとうな評価をいただき、また『真田丸』について「本当にただただ楽しく観ていて、褒めることしかできなくて、『それでいいのか?』と自分で思うくらい」と評されるのがとても嬉しいです。
宇野常寛[批評家]× 木俣冬[著述家]
『真田丸 完結編』(NHK出版)
ひところの盛り上がりに比べ、近年はやや低調気味だった大河ドラマ。だが2016年は、12年ぶりの三谷幸喜作品によって一躍話題入りを果たした。「『真田丸』ロス」なる動きまで生んだ作品から、12年越しの作家のリベンジを読み解く。
木俣 『真田丸』は本当にただただ楽しく観ていて、褒めることしかできなくて、「それでいいのか?」と自分で思うくらいでした。三谷幸喜さんの新たな代表作になったんじゃないでしょうか。
宇野 僕も、三谷幸喜という作家の円熟を感じさせた作品だったと思います。三谷さんはおそらくはその中核にあるであろうシットコム的なものをやると空回ってしまう一方で、そのエッセンスをキャラクターものに応用すると評価される、ということを繰り返してきた作家だと思うんですよね。多分『HR』【1】のほうが三谷さんにとっては自分のやりたいことをストレートに出しているのだけれども、やっぱりシットコムの手法を別ジャンルに応用した『古畑任三郎』【2】のほうがずっとハマっている。それって多分「笑い」から政治風刺的なものを脱臭してきた、この国の文化空間の問題が根底にあるんだと思うんですよ。三谷さんはもっと欧米の政治風刺的なシットコムに憧れているところがあると思うんですが、それを日本のテレビは受け付けない。だから空気を読んで脱臭してやると『HR』みたいに無味乾燥になって、無理して押し通すと『合い言葉は勇気』【3】や『総理と呼ばないで』【4】のように空回ってしまう。どこが空回っているかというと、三谷さんの考える「正義」というのは基本的に戦後民主主義的というか、学校民主主義的な優等生っぽい「正義」で、端的に言えば淡白でダサい美学に基づいた正義感なんですよ。それを笑いで包むことによって粋に見せたいのだけど、政治と笑いを結びつける回路がこの国のテレビを中心とした文化空間では死んでしまっているわけです。
そこで発見したのがキャラクターものとしての「歴史」という回路だったと思うんですよね。要するに、歴史ものという解釈のゲームに退避することによって、三谷さんの抱えてきた「笑い」と「正義」が初めてちゃんとかみ合うようになった。それが例えば『新選組!』【5】だったはずで、あの1話が劇中の1日になっていて、全50話をかけて近藤勇の人生で重要な50日を描く、なんてやり方なんかは、三谷さんがそれまでやってきたシットコム的なものの応用がハマった例ですよね。あのコメディの枠組みがあるから、新選組という敗者の側に立つことで学校民主主義的なイノセンスを浪花節的に見せる、というベタベタなものが逆に気持ちよく観れる。毀誉褒貶はあったみたいだけれど、僕は『新選組!』はアクロバティックな手法がうまくハマった作品だと思っていて、だから『真田丸』で今更やることがあるのかな? とまで思っていたわけです。しかし蓋を開けてみたらものすごくアップデートされていてびっくりしました。
木俣 本当に、三谷さんの集大成になったな、と思いますね。『新選組!』に対しては、絶賛の一方で、「史実に沿っていない」などの批判もかなりあったじゃないですか。実際はそんなことなかったようで、その誤解に対する悔しさもあったかもしれませんね。それから12年、『真田丸』を描くまでに、三谷さんは結構いろんなことに挑んでいます。以前から好きだった人形劇に挑戦したり(『連続人形活劇 新・三銃士』【6】)、その発展形で文楽をやってみたり(『其礼成心中』【7】)。
『真田丸』を見て新たに大河ドラマファンとなった若い方々が多いことを喜ぶ一方、『組!』『組!!』以降の三谷作品を全部ではないけど見てきた三谷ファンとして、他の作品の積み重ねが今回の成功に繋がっているという見方もして欲しいと思っていたので。
チケット取れないので諦めていたら、イープラスの一日貸切公演で一等席18,000円を9,800円で販売するメールが来て、即取りました。実際行ってみたら、舞台後方ではあったけど、花道脇で役者さんの出と引っ込みがよく見える。正月興行だし襲名披露だし、お得感。
一、源平布引滝 義賢最期
源氏は頼朝より上の世代になると頭に入ってこない(^_^;)のだけど、頼朝のお父さん世代で平清盛に圧倒されていた時代に、ひそかに源氏に心を寄せていた義賢が平氏に離反を疑われて包囲され、壮絶な一人バトルで死ぬという話なんですね。
米吉ちゃんの待宵姫が可愛い。中車はだいぶ古典ものにも馴染んできたように思う。海老蔵は襖倒れとか仏倒れとかスペクタクルなアクションは決まってましたが、すべてを敵に回す壮絶さはなかったかな……。
一、口上
梅玉さんに始まって、成田屋さん澤瀉屋さんなど市川一門のスター総出演の感があります。右近さん改め右團次さんのしっかりしたご挨拶はもちろんですが、こっくりしかけた右近ちゃんが可愛かったです。
一、錣引
うーん……。
一、黒塚
さすが猿之助です。安達ヶ原の鬼女のすさまじさ、人の心に潜むあさましい欲望や執着、憎しみ、怒り、迷い、仏の救いを求める心、童女のあどけなさ、どれだけ沢山の人の心の側面を踊りで描いたでしょうか。二度目ですが、これは何度見ても素晴らしい。
一、源平布引滝 義賢最期
源氏は頼朝より上の世代になると頭に入ってこない(^_^;)のだけど、頼朝のお父さん世代で平清盛に圧倒されていた時代に、ひそかに源氏に心を寄せていた義賢が平氏に離反を疑われて包囲され、壮絶な一人バトルで死ぬという話なんですね。
米吉ちゃんの待宵姫が可愛い。中車はだいぶ古典ものにも馴染んできたように思う。海老蔵は襖倒れとか仏倒れとかスペクタクルなアクションは決まってましたが、すべてを敵に回す壮絶さはなかったかな……。
一、口上
梅玉さんに始まって、成田屋さん澤瀉屋さんなど市川一門のスター総出演の感があります。右近さん改め右團次さんのしっかりしたご挨拶はもちろんですが、こっくりしかけた右近ちゃんが可愛かったです。
一、錣引
うーん……。
一、黒塚
さすが猿之助です。安達ヶ原の鬼女のすさまじさ、人の心に潜むあさましい欲望や執着、憎しみ、怒り、迷い、仏の救いを求める心、童女のあどけなさ、どれだけ沢山の人の心の側面を踊りで描いたでしょうか。二度目ですが、これは何度見ても素晴らしい。
会場がホール仕様でないので席の配置が不自然だとか、お囃子が流れているのに開演ベルを流すとか、落語ファンには心が折れる会場だったけど、談春さんが「佐平次」かけるだけで私は不平をぐっと呑み込む。
小咄/ちはる
去年3月に入門した女性の前座。こはるちゃんひとりでは大変だし真打ちになってもおかしくないレベルになったので、前座周りを引き受けられる弟子としてちはるちゃんには長続きして欲しい。
雛鍔/こはる
すっかり風格が出て来たなぁ。
厩火事/談春
居残り佐平次/談春
私のベストは2010年5月に神奈川音楽堂で談春がかけた、通称・紅葉坂の佐平次。陽気な祟り神が品川の遊郭を自由に往き来し、時々二カッと笑った顔にまがまがしさがあった。なぜか「バナナの歌」も面白かった。
マクラに今年の新年会に談志のご夫人がご挨拶した時の様子。とても素直にいちいち立川流の落語家たちの心にグサグサと突き刺さる、すごい新年のご挨拶でした。
今日の佐平次は「バナナの歌」なしで、若い衆(わかいし)を言葉で煙に巻き、ヨイショで兜町の旦那たちに祝儀を切らせる、悪(ワル)だった。なんかでも、後半の佐平次には談志が宿っていたような気がする、「ヨイショ」の声がそっくりだったもの(笑)。旦那が鉄砲でパーンと打ったふりをするとバッタリ倒れて、ぴくぴく震えて香典代わりに祝儀を要求する芸達者ぶりも談志を思い出させる。談志がやどった談春が演じる佐平次はホントたちが悪い。観客の私たちみながおこわにかけられちゃったよ。
小咄/ちはる
去年3月に入門した女性の前座。こはるちゃんひとりでは大変だし真打ちになってもおかしくないレベルになったので、前座周りを引き受けられる弟子としてちはるちゃんには長続きして欲しい。
雛鍔/こはる
すっかり風格が出て来たなぁ。
厩火事/談春
居残り佐平次/談春
私のベストは2010年5月に神奈川音楽堂で談春がかけた、通称・紅葉坂の佐平次。陽気な祟り神が品川の遊郭を自由に往き来し、時々二カッと笑った顔にまがまがしさがあった。なぜか「バナナの歌」も面白かった。
マクラに今年の新年会に談志のご夫人がご挨拶した時の様子。とても素直にいちいち立川流の落語家たちの心にグサグサと突き刺さる、すごい新年のご挨拶でした。
今日の佐平次は「バナナの歌」なしで、若い衆(わかいし)を言葉で煙に巻き、ヨイショで兜町の旦那たちに祝儀を切らせる、悪(ワル)だった。なんかでも、後半の佐平次には談志が宿っていたような気がする、「ヨイショ」の声がそっくりだったもの(笑)。旦那が鉄砲でパーンと打ったふりをするとバッタリ倒れて、ぴくぴく震えて香典代わりに祝儀を要求する芸達者ぶりも談志を思い出させる。談志がやどった談春が演じる佐平次はホントたちが悪い。観客の私たちみながおこわにかけられちゃったよ。
去年に引き続き、今年も行ってきました。浅草の正月の賑わいや街並みに江戸時代から昭和の雰囲気が色濃く残っており、歌舞伎座周辺の銀座とはまた違った雰囲気がよかったです。
お年玉挨拶は巳之助さん。歌舞伎初めての人に挙手してもらっていましたが、意外に多く、4-5人にひとりという感じでした。歌舞伎入門には手頃なんでしょうね。3等席はもっと多いかも知れません。
双蝶々曲輪日記
一、角力場(すもうば)
放駒長吉 尾上 松也
山崎屋与五郎 中村 隼人
藤屋吾妻 中村 梅丸
濡髪長五郎 中村 錦之助
ライブで見たのは3回目か4回目の演目。素人角力出身の長吉が大関に勝って、最初は卑屈だったのが段々調子に乗ってくる様と、大関の長五郎の貫禄が対照的。実力で勝ったと思っていた試合が長五郎に手抜きされたと知って激高する長吉が意地を張るところで幕。
つっころばしの与五郎と、色っぽい吾妻が笑いと華を添えます。
四世鶴屋南北 作
二、御存 鈴ヶ森(ごぞんじすずがもり)
白井権八 中村 隼人
幡随院長兵衛 中村 錦之助
これは初めて。若衆で手練れの殺人マシン白井権八の凄絶な色気、幡随院長兵衛の侠気、という対比の一幕ものなんですね。史実の平井権八と幡随院長兵衛とでは生きた時代にずれがあり、会ったことはないのだけど、キャラ立ってるフィクションで有名になったのですね。
「お若えの、お待ちなせえ」「待てとお留めなされしは」や、鳥づくしの台詞など、名調子ですね。私は黙阿弥の七五調も好きなんですが、こちらも言葉の活き活き感が名調子として残る所以ですね。
岡村柿紅 作
三、棒しばり(ぼうしばり)
次郎冠者 尾上 松也
曽根松兵衛 中村 隼人
太郎冠者 坂東 巳之助
主人の留守中に酒を呑まないように縛られてしまった太郎冠者と次郎冠者が知恵を絞って酒を盗み飲む仕草や酔って踊る(手を使わずに身体と脚捌きで見せる)のが楽しい一幕。
シネマ歌舞伎で亡き勘三郎さんと亡き三津五郎さんの名舞台を見ているのですが、巳之助さんと松也さんは若さで見せる感じで、これはこれで楽しかったです。
1月19日追記。
“浅草歌舞伎”のリーダーの風格も…成長止まらない尾上松也
歌舞伎界にとって1月の風物詩「新春浅草歌舞伎」が、いま東京・浅草公会堂で上演中だ(26日まで)。37年の歴史を刻む浅草での歌舞伎興行は、20代の花形が中心となって大役に挑んでいる。インターネット特別企画で、主要メンバー4人の素顔を紹介。中村壱太郎、坂東巳之助、中村隼人が登場しましたが、ラストは浅草歌舞伎のリーダー格、尾上松也(おのえ・まつや=31)です。
世代もメンバーも一新しての浅草公演は今年で3年目。すっかり若手を率いるリーダーの責任感、風格も備わってきた。
「とにかくみんな仲が良いんですよ。良いだけに締めるところは、締めていかないといけない面もあります。先輩から受け継いだものを、いずれ引き継ぐときが訪れる。しっかし団結して、きちんと未来に続く公演にしなければならない、と強く思いますね」
昼の部。「義経千本桜 吉野山」の佐藤忠信実は源九郎狐を初役で。夜の部では、こんぴら歌舞伎(08年)で演じたこともある「角力場」の放駒長吉を、「棒しばり」では次郎冠者と大役をいくつも演じ、観客を引きつけいる。
「一度やったことのあるものも、もう一度、ゼロから、初役のつもりで臨んでいます。責任あるポジションが増えるのはとてもありがたい。それと、劇場を満員にしたい、という気持ちも全員同じ思い。毎日必死ですよ」
話す口調に力がこもるのは、「自分の多くの願いが、かなうことの多かった年」と話す昨年の充実ぶりがある。12月は歌舞伎座で中村獅童との共演で見せた新作歌舞伎「あらしのよるに」が大きな話題になった。
「あの作品は、初演の京都・南座公演(15年9月)のけいこ段階から獅童さんと『歌舞伎座でもできる演目に違いない』という確信めいたものがありました。新作歌舞伎には常に賛否両論あると思います。でも小さなお子さんまで歌舞伎を見て大笑いして喜んでくれた。うれしかったですね」
昨夏には新派公演で女優デビューした妹、春本由香とも「婦系図」で共演を果たした。「ずっと妹も舞台に立つことに憧れを持っていましたので。その夢がかなったのは良かったです」と、自分のことのように喜ぶ優しい兄さんの顔をのぞかせる。
さらに来月の大阪・松竹座では「義経千本桜」の「渡海屋・大物浦」で知盛を、尾上右近との共演で「連獅子」を踊る。「公演中に並行して次の月の準備をすることも大事。ホッとしている間はありません」。舞台に登場するだけで華やぐ天性のスター性に口跡の良さ。今後も歌舞伎以外の分野でも注目され続けるだろう。30日で32歳。どこまでも、成長し続けるつもりだ。
◆尾上 松也(おのえ・まつや)本名・井上龍一。85年1月30日東京都生まれ。31歳。6代目尾上松助の長男。90年歌舞伎座「伽蘿先代萩」の鶴千代で2代目尾上松也を名のり初舞台。芝居に秀で子役時代より注目される。09年から毎年自主公演「挑む」を主催。歌唱力にも定評があり「エリザベート」「狸御殿」などミュージカルにも出演。妹は昨年新派に入団した春本由香。屋号は音羽屋。
時代劇チャンネルで「陽炎の辻3」を見ながらアップ中です。
高知
2017年「幕末維新博」へ向け高知城をすす払い 迎春準備整う
幕末の世情克明に 高知市の男性が真覚寺日記を現代文で紹介
アート
幕末の天才絵師・暁斎の海外コレクション作品を一挙公開!
コラム
幕末の力士が参戦した、日本初の「異種格闘技戦」とは?
高知
2017年「幕末維新博」へ向け高知城をすす払い 迎春準備整う
高知城懐徳館で12月26日、年末恒例の「すす払い」が行われた。観光キャンペーン「志国高知 幕末維新博」の開幕などで多くの入場者が予想される2017年に向け、迎春準備が整った。
高知城管理事務所の職員や土佐観光ガイドボランティア協会のメンバーら約40人が参加し、床や写真パネルを水拭きしたり欄間のほこりを落としたり。天守閣では長さ2メートルほどの唐竹を使って、ほこりやクモの巣を丁寧に取り除いた。
普段、城内の園庭整備などをしている金子英省(えいせい)さん(67)はこの日は天守閣の掃除を担当し「遠くからお客さまが大勢来てくれるき、きれいにしとかんとね」と念入りに竹を揺すっていた。
2016年の懐徳館の入場者は2015年より約7100人多い約27万2100人。2017年は3月に幕末維新博が開幕し高知県立高知城歴史博物館も開館することもあり、より多くの人でにぎわいそう。
懐徳館は12月26~31日は休館し、元日は無料で特別開館する。
幕末の世情克明に 高知市の男性が真覚寺日記を現代文で紹介
土佐観光ガイドボランティア協会顧問で高知市の秦史談会長の岩崎義郎さん(89)=高知市薊野北町3丁目=が、現存する幕末期の日記の記述を丁寧に紹介した「安政地震と幕末の世相」(リーブル出版)を出版した。安政地震の揺れや津波の様子が克明に描かれているほか、当時の世情も分かる記録本に仕上がっている。ここから先は有料で購読となります。
土佐市宇佐町にある真覚寺の住職、井上静照(じょうしょう)が1854(安政元)年から68(明治元)年にかけて記した「真覚寺日記」。住職が高知城下や宇佐で見たこと、聞いたうわさ話などが記録されている。...
アート
幕末の天才絵師・暁斎の海外コレクション作品を一挙公開!
幕末から明治にかけて活躍した絵師・河鍋暁斎(かわなべきょうさい)。圧倒的な画力と独特のユーモアセンスで、幅広い題材を自由に描き分けた天才絵師の作品を、世界屈指の暁斎コレクションによって紹介する展覧会がやってくる。その多彩な技に注目を!
◆世界屈指の暁斎コレクション!あらゆる技法を駆使して自在に描き分けた作品がずらり
2017年2月23日(木)から2017年4月16日(日)まで、渋谷のBunkamura ザ・ミュージアムで「ゴールドマン コレクション これぞ暁斎! 世界が認めたその画力」展が開催される。
幕末から明治にかけて活躍した天才絵師・河鍋暁斎。幼い頃から歌川国芳に浮世絵を学び、狩野派の修行を終えたのが19歳だというから驚きの早熟ぶり。その後は、流派にとらわれないさまざまな画法を駆使して、仏画から戯画まで幅広いテーマを描き分けたそう。
そんな暁斎の絵を35年以上に渡って集め、世界屈指の暁斎コレクションで知られるイギリス在住の画商イスラエル・ゴールドマン氏が所蔵する作品を一挙公開。
暁斎といえば、明治時代を代表する西洋建築の「鹿鳴館」などを設計したイギリス人建築家ジョサイア・コンドルが弟子入りしていたり、当時さかんに行われた国内外の博覧会に出品したりと、世界に画力を認められた日本人絵師のひとり。
躍動感あふれる動物画、ユーモラスな妖怪画、荘厳さ漂う宗教画など、一気に仕上げたような大胆な筆づかいから緻密で繊細な表現まで、あらゆる技で描き分けた作品群は見どころたっぷり。
この機会に、天才絵師のバラエティ豊かな作品をお見逃しなく。
問い合わせ:03-5777-8600(ハローダイヤル)
東京都渋谷区道玄坂2-24-1 Bunkamura ザ・ミュージアム
アクセス:JR線「渋谷駅」ハチ公口より徒歩7分、東京メトロ銀座線、京王井の頭線「渋谷駅」より徒歩7分、東急東横線ほか「渋谷駅」3a出口より徒歩5分
※渋谷駅・宮益坂口より無料シャトルバスあり
開催期間:2017年2月23日(木)~4月16日(日)
※会期中無休
開館時間:10:00~19:00(入館は18:30まで)
※毎週金・土曜~21:00(入館は20:30まで)
入館料:一般1400円、大学・高校生1000円、中学・小学生700円
コラム
幕末の力士が参戦した、日本初の「異種格闘技戦」とは?
年末がやってきました。大晦日には「紅白」を観ますか? それとも「RIZIN」を観ますか? いつの日からか日本では大晦日に格闘技が行われ、テレビでも観られるようになりました。ちなみに「RIZIN」は今年で2回目。ミルコ・クロコップやキング・モーなどの有名選手も参加します。そんなわけで、今回は格闘技のお話をご紹介します。
幕末の力士が参戦した、日本初の「異種格闘技戦」とは?
世界のあらゆる国にある「格闘技」。
アメリカならプロレス。韓国ならテコンドー。そして日本はなんといっても相撲です。
国によってルールはさまざまですが、その枠を超えて「誰が強いのか」を純粋に争うのが「異種格闘技戦」。
実はこの異種格闘技戦が日本で初めて行われたのは、江戸時代。幕末のことなんです。
きっかけは、あのペリー来航。
アメリカの東インド艦隊が浦賀に来航した際、幕府は日本の威厳を示すため、江戸の力士たち30人を集め、贈り物の米二百俵を運ばせたのです。
そのとき、アメリカの格闘たちとの異種格闘技戦が行われたと記録されています。
参戦したのは、江戸末期に活躍した力士、小柳常吉。
背は170cmと小柄なものの、体重は150kgとなかなかの体格。
対するアメリカの選手は、レスリングのウィリアムスとブライアン、そしてボクシングのチャンピオンであるキャノンの3人!
小柳は「1人2人は面倒だ。3人いっぺんに来い」と、なんと3対1の勝負を受けて立ったのです。
キャノンの鋭い右ストレートをかわし、小手投げではたきこむ小柳。
するとすかさず2人がかりでタックルをかますウィリアムスとブライアン。
しかし小柳はひるまず、ブライアンを脇に抱え込み、ウィリアムスを足払いで倒した後、ベルトをつかんでつるし上げます。
脚の下には、はたきこんだキャノンの無惨な姿が。
まさに完全勝利! 小柳の強さに、その場にいたすべてのアメリカ人が震え上がったとか。
この様子は、日本の見聞録「黒船談義」に書かれているもの。
ですが、アメリカの「日本遠征日記」にはこの事実は全く載っていません。
あまりの完敗っぷりを、ペリーが公にしたくなかったのかもしれませんね。
文/岡本清香
TOKYO FM「シンクロのシティ」にて毎週月~木曜にお送りしているコーナー「トウキョウハナコマチ」。江戸から現代まで、東京の土地の歴史にまつわる数々のエピソードをご紹介しています。今回の読み物は、12月26日放送「日本初の、異種格闘技戦!!」よりお届けしました。
12月25日から27日まで、26回目の函館旅行に行ってきました。2004年大河ドラマ『新選組!』スタート前のタイミングで行ったのが最初ですが、『組!』本編で箱館は描かれませんでした(苦笑)。以来13年、通算26回ということは年に3回以上行っていた年がざらだったわけで(^_^;)。まぁ、お金があって、休暇が取りやすくて、自分も家族も健康で、という条件がある時に沢山行っておいてよかったです。
今回は、23日に札幌周辺で大雪が降り、飛行機の欠航・遅延で2晩も空港に泊まる人が6000人もいるということで、羽田〜新千歳空港経由のフライトに影響が出ないか心配でした。
新千歳空港で6000人が夜を明かす 2日連続の人も
幸い、25日発の羽田〜新千歳空港便は快晴の新千歳空港に無事着陸し、新千歳〜函館便も機体の都合で小一時間遅れたものの、無事に函館に着きました。
ホテルに荷物を置いて、真っ先に訪れたのはもちろん土方歳三最期の地碑です。
過去には、地碑のすぐ傍まで来たと思ったら急にスコールのような雨でずぶ濡れ、とか。雨女×函館の変わりやすい天候(一日に、晴れ、曇り、雨または雪があるとか、風が強いとか)では函館旅行中の悪天候には驚かないようにしていました。が、今回は数日前の雪の名残りが雪捨て場にあったり、日陰の路上で名残雪がかちかちのアイスバーンになっていたりした程度でした。26日には雨(傘が欲しいとは思いましたが函館は風があるのでちゃちな傘では太刀打ちできないこともあり、何とか傘なしでやり過ごす)、27日には午後に風花のような雪が降りましたが、荒れるというほどでもなく、気温も氷点下にならず、スノーブーツを持っていって履いた割にはあまり必要なかった(でも何度かアイスバーンで強みを発揮)かと。
今回は函館山には上りませんでした。もともと高所恐怖症で足場の安定しないロープウェイがあまり好きではない上に、今月、従業員の死亡事故がありました。何度も冬の函館夜景を見ている自分がわざわざ怖い思いやリスクを冒して行くほどのこともないかと……自分の足で函館山に上ったことはないので、夏のシーズンには一度経験してみたいと思っていますが。
函館山ロープウェイ再開 安全管理を徹底 旅行者、早速山頂へ
今回はゆっくりしたかったので、毎日地碑にご挨拶に行く以外は、二日目に土方歳三最期の地碑から五稜郭まで歩く(史実の土方さんとは逆コース)のみでした。
新幹線開業に伴って駅前の和光が建て替えられてキラリスとなった他、朝市エリアに朝市ひろばが建て替えられていました。また、朝市エリア〜ベイエリアにかけて新しい居酒屋が出来ていたり空き地だったところに新しい建物(新興宗教団体の建物?)が建っていたり、少し整備されたかなと感じました。一方、函館駅前でも、
今回は、23日に札幌周辺で大雪が降り、飛行機の欠航・遅延で2晩も空港に泊まる人が6000人もいるということで、羽田〜新千歳空港経由のフライトに影響が出ないか心配でした。
新千歳空港で6000人が夜を明かす 2日連続の人も
幸い、25日発の羽田〜新千歳空港便は快晴の新千歳空港に無事着陸し、新千歳〜函館便も機体の都合で小一時間遅れたものの、無事に函館に着きました。
ホテルに荷物を置いて、真っ先に訪れたのはもちろん土方歳三最期の地碑です。
過去には、地碑のすぐ傍まで来たと思ったら急にスコールのような雨でずぶ濡れ、とか。雨女×函館の変わりやすい天候(一日に、晴れ、曇り、雨または雪があるとか、風が強いとか)では函館旅行中の悪天候には驚かないようにしていました。が、今回は数日前の雪の名残りが雪捨て場にあったり、日陰の路上で名残雪がかちかちのアイスバーンになっていたりした程度でした。26日には雨(傘が欲しいとは思いましたが函館は風があるのでちゃちな傘では太刀打ちできないこともあり、何とか傘なしでやり過ごす)、27日には午後に風花のような雪が降りましたが、荒れるというほどでもなく、気温も氷点下にならず、スノーブーツを持っていって履いた割にはあまり必要なかった(でも何度かアイスバーンで強みを発揮)かと。
今回は函館山には上りませんでした。もともと高所恐怖症で足場の安定しないロープウェイがあまり好きではない上に、今月、従業員の死亡事故がありました。何度も冬の函館夜景を見ている自分がわざわざ怖い思いやリスクを冒して行くほどのこともないかと……自分の足で函館山に上ったことはないので、夏のシーズンには一度経験してみたいと思っていますが。
函館山ロープウェイ再開 安全管理を徹底 旅行者、早速山頂へ
今回はゆっくりしたかったので、毎日地碑にご挨拶に行く以外は、二日目に土方歳三最期の地碑から五稜郭まで歩く(史実の土方さんとは逆コース)のみでした。
新幹線開業に伴って駅前の和光が建て替えられてキラリスとなった他、朝市エリアに朝市ひろばが建て替えられていました。また、朝市エリア〜ベイエリアにかけて新しい居酒屋が出来ていたり空き地だったところに新しい建物(新興宗教団体の建物?)が建っていたり、少し整備されたかなと感じました。一方、函館駅前でも、
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