新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 午前中に用事があって出かけたら横殴りの雨……午後はカウチポテトして過ごしました。

秋田
桜田門外の変の記述も、日記刊行 秋田藩家老が記す、公文書館翻刻
 県公文書館は、幕末期に秋田藩の家老を務めた宇都宮孟綱(たけつな)(1801—91年)の日記「宇都宮孟綱日記」第6巻を刊行した。1858(安政5)年5月から60(万延元)年12月までの16冊を翻刻し収録。

 1858年当時、藩政の中心として秋田と江戸を行き来していた孟綱は、13代将軍徳川家定の死去や14代家茂の将軍就任、日米修好通商条約調印などについて記述。安政の大獄で処罰された大名についても触れている。

 60(安政7)年3月3日に起こった桜田門外の変については、事件後に秋田で報告を受け「天下の形勢がどのようになるのか、薄氷を踏む思いだ」と、世相の先行きに不安を抱いていたとみられる感想を記している。

 定価5千円(税込み)。問い合わせは秋田活版印刷TEL018・888・3500


茨城
彦根から水戸へ 震災支援で命友に 桜田門外の変150年 きずな深く
 彦根藩主で幕末の大老井伊直弼が水戸浪士らに暗殺された「桜田門外の変」後、両藩の流れをくむ水戸市と滋賀県彦根市は犬猿の仲とされてきた。その後、両市は関係を修復。東日本大震災では、彦根市が水戸に救援物資を送り、彦根市民もチャリティーイベントを企画するなど官民で水戸を応援している。 (堀尾法道)
 水戸市は震災で一万四千件以上の建物が損壊し、死者二人、負傷者八十一人、最大一万二千人の避難者が出た。すぐに彦根市は備蓄品と買い集めた救援物資を十トントラックで二度にわけて水戸市に送った。水戸市災害対策本部の川上悟さん(39)は「米を炊き出しで使わせてもらった。粉ミルクなどは避難所から要望が多く、たいへんありがたかった」と感謝する。
 チャリティーを提案するのは彦根城近くにある「花しょうぶ通り商店街」。映画を通して町づくりを目指す有志らによる「『桜田門外ノ変』映画化支援の会」(水戸市)と昨年十一月から訪問し合うなど交流している。水戸市内のロケセットで撮影された映画は昨年十月に封切られてヒット。同商店街も関連イベントを開いて映画を盛り上げた。
 チャリティーは五月中旬ごろで、商店街に募金箱を設置し、映画に出演した俳優を招いたり、水戸の特産品の販売を検討したりしているという。チャリティーを発案した商店街の目加田宗彦さん(43)は「昔は敵だったが、今は同志。被害が無かった側が支援するのは当然のこと」と話す。
 支援の会の谷田部智章さん(38)は「水戸のことを思ってくれて本当にありがたい。桜田門外の変がなかったら地方都市の市民がつながることはなかった。昔は敵対心があったかもしれないけど、映画化で交流のきっかけができ、地震で結び付きが強まった」と実感している。
 水戸と彦根は、事件後は報復をたくらむなど険悪な関係だったが一九六八年、水戸と姉妹都市の福井県敦賀市を仲介役に関係を修復し、親善都市となった。事件から百五十年を機に両市長が二〇〇九年と一〇年に互いの市にある事件関係者の墓を参るなど交流が深まっていた。
 水戸と彦根は百五十年の時を超え、命をつなぐパートナーとなっている。


東京
「新選組イラストコンテスト」ネット投票-150周年に向け作品募る
 新選組の隊士をモチーフにしたイラストを募集する「ひの新選組イラストコンテスト」で現在、最優秀作品を決めるためのインターネット投票が行われている。

 日野新選組同好会(日野市高幡)と日野市商工会が共催する同コンテスト。新選組の故郷として知られ、副長・土方歳三が武蔵国多摩郡石田村(現在の日野市石田)で生まれるなど縁が深い日野市。同好会は2000年に結成され、新選組の歴史や情報を市民と共有しようと活動を進めている。今回のイラストコンテストについては、「2年後の2013年には新選組が150周年を迎える上、東京国体も行われる。ここで盛り上げようと企画した」と同会の峯岸会長。

 イラストの応募は今年1月から3月にかけて実施。「成人の部」「小中学生の部」に分けて募集した。「成人の部」については新選組隊士の子孫に当たる宮川豊治さんなどが参加する実行委員会が既に「近藤勇賞」「土方歳三賞」などの各賞を決めているが、101点と数多くの応募があったことから、ベスト5を選出。最優秀作品はこのベスト5の中からインターネット投票で決めることにした。

 投票締め切りまでの間に最多得票数を集めた作品を最優秀賞として選出する。最優秀作品に選ばれた応募者には賞金1万円と土方歳三が使っていたことでも知られる刀・和泉守兼定(いずみのかみかねさだ)のレプリカを贈呈。表彰式は5月7日、高幡不動尊(高幡)で行われるチャリティーイベント「がんばれ宮古!がんばろう日本! 新選組ファンの集い」の場で行う。各入賞作品や「小中学生の部」参加者の作品については同1日~15日、京王線・高幡不動駅の南北通路で展示する予定。

 投票は日野市観光協会のホームページに設けられた特設コーナーから行う。投票受け付けは4月27日23時59分まで。


岐阜
岐阜市歴史博物館で古地図の企画展
 古今東西の地図を通して当時の人の世界観を紹介する企画展「古地図~地域から世界へ」が22日から、岐阜市大宮町の同市歴史博物館で始まった=写真=。

 同展は、7月10日までの長期開催。前期(5月29日まで)は、1570年にベルギーの地理学者、オルテリウスが製作した「アジア図」や、幕末に来日したシーボルトの蔵書印がある日本地図など県図書館が所蔵する古地図計約70点を展示している。

 オルテリウスの地図に描かれた日本列島には北海道がなく、本州と九州が一つの島になっており、京都は「ミヤコ」と表記されている。吉田晋右(しんすけ)学芸員は、「当時のヨーロッパの地理的な関心がうかがえて興味深い」と話している。

 また、伊能忠敬が作製した「官板実測日本図」や、江戸時代に多く製作された美濃地域の国絵図なども展示されている。6月3日から始まる後期の展示では、美濃国や飛騨国など県内各地の絵地図や、岐阜市内の鳥瞰(ちょうかん)図など同博物館所蔵の古地図約70点を紹介する。

 入場料は高校生以上が300円、小中学生が150円。


高知
幕末の志士、吉村虎太郎の生家跡に資料館オープン
 幕末の志士で土佐藩を最初に脱藩した吉村虎太郎の人となりを紹介する「吉村虎太郎資料館」が、津野町芳生野甲の生家跡にオープンした。パネルや写真、手紙など約100点で足跡をたどっている。

 地元住民でつくる顕彰会や町商工会が、高知市の県立坂本龍馬記念館で3月末まで開かれた吉村虎太郎展を生家跡でも開こうと企画。展示物を借りて開いた。17日には生家跡近くの広場でオープニングイベントがあり、約250人がしし汁のふるまいや特産品の販売などを楽しんだ。

 虎太郎は「土佐勤王の四天王」に数えられながら、龍馬人気の陰に隠れ気味。顕彰会の豊田庄二会長は「虎太郎を多くの人に知ってほしい。そして龍馬に先駆けた虎太郎の思いを力にして、地域が元気になりたい」と話した。

 開館は5月31日までの毎日午前9時~午後4時。入場無料。問い合わせは町商工会(0889・55・2034)へ。(釘田寿一)

佐賀
佐賀県 幕末から明治にかけ活躍した七賢人紹介
 名前は聞いたことがあってもどんな仕事をしたのか、その人の少年時代は?など郷土の偉人について意外に知らないことが多い。郷土の偉人を改めて見直し紹介する取り組みが各地で目立っている。佐賀県では幕末から明治にかけて活躍した「佐賀の七賢人(しちけんじん)」がいる。県立佐賀城本丸歴史館のホームページなどによると次の人物だ。

 (1)鍋島直正(なべしま・なおまさ)(17歳で佐賀藩10代藩主となり、改革を実施。近代化を進めた)

 (2)佐野常民(さの・つねたみ)(「博愛社」を創立、「日本赤十字社」と改称し初代社長)

 (3)島義勇(しま・よしたけ)(藩主の命で蝦夷、樺太を探検。北海道開拓、札幌の基礎を築いた)

 (4)副島種臣(そえじま・たねおみ)(藩校・弘道館の教授を務め、明治政府で外務卿などとして活躍)

 (5)大木喬任(おおき・たかとう)(東京遷都建白。新政府で初代文部卿、学校制度をつくった)

 (6)江藤新平(えとう・しんぺい)(東京遷都建白。初代司法卿で司法制度の基礎をつくる)

 (7)大隈重信(おおくま・しげのぶ)(外務大臣、総理大臣など歴任。早稲田大をつくる)

 佐賀県教育委員会は日本の近代化をリードした佐賀出身の人物を広く知ってもらうため「佐賀偉人伝集」の出版事業を始めている。七賢人のほか洋画家で第1回文化勲章受章の岡田三郎助(おかだ・さぶろうすけ)らが登場。平成26年度まで15冊程度を刊行する予定だ。


コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】
(110)東大教授・山内昌之 徳川家定

“地震公方”の決断力

 政権の力が低下し、政治基盤の弱い統治者の時に限って、天変地異や政治不安が生じるのはどうしたことだろうか。

 幕末の徳川家定はつくづく不運な将軍であった。生まれつき身体が虚弱で判断力の鈍い最高指導者なら他にもいた。7代将軍家継(いえつぐ)は幼少のまま政務らしい日々の営みをせずに早世し、9代将軍家重(いえしげ)も家定のように政治を統べる言葉に不自由した将軍である。

 しかし、家継には間部詮房(まなべ・あきふさ)、家重には大岡忠光といった近臣がいて補佐に務め、弛緩(しかん)しながらも幕府の屋台骨を壊すまでには至らなかった。家定にも阿部正弘や堀田正睦(まさよし)のような老中がついており、平時ならさほどの問題がなかったかもしれない。

 ◆相次いだ大きな災難

しかし、家定の在職した安政年間は開国と通商にからむ外交内政の懸案に加えて、大きな災難が相次いだのだ。家定と幕閣は、社会基盤の回復と人心の安定にもエネルギーを割かなくてはならなかった。家定の時代、安政5年7月(1858年8月)には、インドや中国で猛威を振るったコレラが米艦経由で日本に伝染し、数十万人の死者を出している。

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 さらに不幸なことに、安政は日本で多くの大地震が発生した時代である。安政元年11月4日(1854年12月23日)にM8・4の安政東海地震(震源・遠州灘沖)、安政元年11月5日(1854年12月24日)にM8・4の安政南海地震(震源・潮岬沖)が発生し、安政2年10月2日(1855年11月11日)のM6・9の安政江戸地震(通称、安政の大地震。震源は一説に現東京湾北部・荒川河口付近)と合わせて「安政三大地震」と呼ばれるほどだ。さらに、安政元年11月7日には震源を豊予海峡とするM7・4の「豊予大地震」も起きていた。安政元年6月15日(1854年7月9日)にM7・4の伊賀上野地震、安政2年2月1日(1855年3月18日)にM6・8の飛騨地震、安政5年2月26日(1858年4月9日)にM6・7の飛越地震が発生したというから、将軍家定はよくよく不運な為政者であり、かりそめに“地震公方(くぼう)”といわれたとしても仕方がないほどだ。

 安政の大地震の被害規模はおよそ死者4700人から1万1千人ほど、倒壊家屋約1万戸といわれているが、幕府老中たちは深夜にもかかわらず即時登城、翌3日には被害情報の収集を命じ、老中役宅を情報収集の拠点とした。今日でいえば災害対策本部であり、主に老中堀田正睦が震災担当となった。

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 ◆幕閣は的確に震災対応

 今のようにリアルタイムで情報が入る時代ではない。阿部正弘は震災対策でも優柔不断だったといわれがちだが、幕閣はいまの菅政権と比べても、少ない情報から的確な決断を下していた。限られた情報でも下僚の補佐を受けながら決断と実行に責任をもつのがリーダーのリーダーたる所以(ゆえん)である。

 堀田は1週間後に老中首座となり内外の難局に当たるが、震災対策も手早かった。まず御救(おすくい)小屋をつくり、炊き出しを始めて、御救米を出すという「三仕法」に手を打った。仮設住宅ともいうべき御救小屋は、震災3日後の10月5日に早くも浅草雷門と深川海辺新田につくって、それぞれ延べで646人と1268人を収容した(北原糸子『地震の社会史』講談社)。

 その後も堀田らは、上野や深川に小屋をつくり被災民を入れている。いまの菅政権の対応と比べても決して遅くない措置である。窮民、転じて「暴民」と化すのを何としても抑えるべき幕府としては、あれこれ悠長な逡巡(しゅんじゅん)をしていられなかった。

 ◆君主としてのセンス

 目付の岡部長常のように、安政の大地震でも江戸城内を冷静に指揮し混乱を最小限に抑えた実務官僚たちもいた。かれらを使った老中たちの手腕と、官僚を信頼せず会議を乱立させるばかりの菅政権の比較評価は、いずれ歴史家の手で果たされるだろう。

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 安政の大地震が家定に与えたショックは大きかった。病弱な将軍をいただく幕府は、江戸の復興のために巨大な財政支出を余儀なくされ、基礎体力を弱めていく。薩摩や長州は安政の大地震の影響を受けず、ほとんど無傷で震災をくぐり抜けた。もし安政の大地震がなければ、幕府もあれほどむざむざと薩長に屈しなかったという説もあるほどだ。

 それでも家定は、政務を信頼できる老中たちに委ね、将軍継嗣についても一橋慶喜(よしのぶ)を嫌い紀伊慶福(よしとみ)(家茂)を指名する決断力と君主としてのセンスをもっていた。将軍独裁にこだわらず粘着質でなかった家定は、存外に実害のない為政者だったのかもしれない。(やまうち・まさゆき)



【プロフィル】徳川家定

 とくがわ・いえさだ 徳川第13代将軍。文政7(1824)年、12代将軍・家慶の四男として生まれる。嘉永6(1853)年、ペリー来航の直後に将軍襲職。生来病弱のため、老中・阿部正弘が政務を補佐する。安政4(1857)年、米国総領事ハリスを江戸城に招き、対面した。このころ病状が悪化し、子がないために将軍継嗣問題が表面化する。翌5年、紀伊藩主の徳川慶福(のちの14代将軍・家茂)を継嗣とする裁定を下した後、病没。享年34。



エンターテインメント
江戸でドーナツが大ヒット!『JIN-仁-』第2話のみどころ
2009年にTBSで放送され大反響を集めた日曜劇場『JIN-仁-』。4月17日(日)にスタートした続編の初回放送は、視聴率23.7%(瞬間最高視聴率26.0%)を獲得し、2011年の連続ドラマ最高のスタートを切った。

第1話では、咲(綾瀬はるか)の母、栄(麻生祐未)が脚気を患い、仁(大沢たかお)は栄えを助けるために道奈津(どーなつ)を食べさせることを考案。そんな時、京から龍馬(内野聖陽)がやってきて、勝海舟(小日向文世)の師・佐久間象山が新撰組に襲われ、瀕死の重傷を負ってしまい助けてほしいという。京都に向かった仁はなんとか象山の一命を取り止めた。その後、仁は新撰組が連れ去られ、薩摩の西郷吉之助、のちの西郷隆盛の手術を行うことに。仁が西郷の手術を終え、京都を離れ江戸に戻る。すると、咲は道奈津の作り方を覚え、幾度も栄のもとへ通う中で杏道奈津<あんドーナツ>を作りだし、なんとか栄に食べさせ、栄の病状は回復していた。

24日に放送される第2話では、脚気に効く菓子・安道名津〈あんドーナツ〉の評判を聞きつけた皇女和宮(黒川智花)が、仁に献上して欲しいと頼む。しかし、仁は歴史に影響を与えるのではないかと躊躇し悩むのだった。そんな時、仁は職を探しているという野風(中谷美紀)に出会う。そこで仁は仁友堂で働くことを勧めると、咲も快く招き入れる。一方、自分の着物を売ってまで切り盛りしている咲の思いに気づかない仁は、仁友堂の経営難を回避すれば野風も幸せになれると思い、菓子を献上することを決めるのだが、和宮が案道奈津を口にすると思いもよらない事態が起きるのだった...。

仁友堂に明るい兆しが見え始めたその時、仁に訪れた最大の危機。無事、切る抜けることは出来るのか?

■日曜劇場『JIN-仁-』
2011年4月24日(日)21:00~21:54(TBS系)

■関連リンク
2009年に放送された『JIN-仁-』1シーズンを配信
http://dogatch.jp/video/program/982619


永井大、辻本祐樹の殺陣を「天才的」とほめ殺し
 俳優の永井大、宅間孝行、辻本祐樹、前田亜季が21日、都内で行われた司馬遼太郎原作のBS時代劇『新選組血風録』(BSプレミアム)の会見に出席した。時代劇初出演の永井は「辻本くんの沖田総司の立ち回り、身のこなしが素晴らしい。辻本くんの殺陣は天才的だとほめ殺してる。僕が見てきた中で一番上手。僕も負けないように勉強したい」とこの日もほめ殺した。

 混乱の時代を懸命に生きた新選組隊士の人生を、毎回読み切りの形で各隊士にスポットを当てて描く同作。主人公の新選組副長・土方歳三を演じる永井は「土方というヒーローを演じるとまどいや不安があったけど、自分なりの土方を、自分のイメージでやれてるなって思う」と収録も佳境に入り、手応えをにじませた。

 局長・近藤勇役の宅間は「私たち無名の人たちがそろってますが、当時の新選組が成り上がろうとしている思いがリンクしてるよう」と自らをなぞらえて奮起。永井はじめ宅間からも「最高の剣客」と絶賛された辻本は「こんなに褒められるなんてビックリ。自分の中で沖田は素早いイメージがあったので。思い切りやりました」と謙遜しながら充実の笑みをみせた。

 宅間を中心に「常にけなしあってる」現場といい、永井は「コミュニケーションが取れてて仲がいい。普段接する関係も『局長の言うことが全て』というのが浸透してる」とチームワークの良さをアピール。東日本大震災を受け「心を一つにして、今の難を乗り越えるという意味を、新選組を演じて感じてる。決め事を作って動くという部分は、今の日本のチームワークの良さにも通ずると感じる」と語っていた。

 BS時代劇『新選組血風録』は毎週日曜午後6時より放送中。





 マッサージで身体がほかほか、サンデル教授の「究極の選択」見ながら出羽桜の発泡酒楽しんでます。

福島
東日本大震災:山口・萩市が義援金、会津若松市に 「支え合い困難克服」 /福島
 東日本大震災で、大勢の被災者が避難生活を送る会津若松市に、山口県萩市から義援金2200万円と救援物資が送られた。会津若松市の会津藩、萩市の長州藩は戊辰(ぼしん)戦争(1868~69年)の“敵”同士で、年配者を中心に両市には今なおわだかまりが残ると言われる。目録を受け取った菅家一郎・会津若松市長は「今は国家の危機。支え合いながら困難を乗り越えていきたい」と話した

 萩市は、「震災を救援する萩市の会」(会長・野村興児市長)を設け、募金などを実施。歴史的関係や最近は市民レベルの交流がある会津若松市を福島県への窓口として支援物資を贈ることにした。

 萩市の槌田郁利・総合政策部長ら4人が訪問。募金1000万円▽同市一般会計から1000万円▽市幹部職員からの見舞金200万円の計2200万円と、14トントラックに満載した飲料や保存食品、衛生用品、ランドセルなどを運んだ。

 萩市からは今後も、農業団体が炊き出しに訪れたり、風評被害に悩む同市の農産物を買い入れたりするなどの支援を予定している。【太田穣】

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 ■ことば

 ◇戊辰戦争
 会津藩は新政府から攻撃対象とされ、長州藩は薩摩藩などともに城下の会津若松に侵攻した。会津側は数千人が戦死し、戦後も斗南藩への移封などの仕打ちを受け、市民には長く旧長州への反感が残った。1986年には萩市側から「友好都市」の提携の打診があったが、会津若松市側が拒絶した経緯がある。


神奈川
浦賀の鏝絵(こてえ)特別展
左官の腕、彫刻で魅せる
浦賀行政センター2階で5月末まで

 壁を塗る工具の鏝で絵を描いた漆喰(しっくい)彫刻「鏝絵(こてえ)」の特別展が、浦賀行政センターで開かれている。制作したのは、西浦賀在住の現役の左官職人、辰巳忠志さん(67)。飛び出さんばかりに迫ってくる龍や唐獅子、山肌が染まり立体感のある「赤富士」など数点が並び、訪れた人の目を釘付けにしている。展示期間は5月末まで。辰巳さんを講師に鏝絵づくりに挑戦する講座も企画されている。

 幕末から明治にかけて、浦賀には漆喰壁を塗る左官職人が数多く暮らしていたとされる。中でも漆喰細工の名人として全国的にも有名なのが石川善吉だ。その作品は、西叶神社の装飾壁や、八雲神社の「向拝の竜」など、今でも多くの神社で見ることができる。

 辰巳さんが40年以上前に鏝絵を教わったのが、石川善吉の息子の故・石川梅尾氏だ。19歳のときに高知県から浦賀に引っ越し、左官職人としては当時まだ駆け出しだった辰巳さん。盆栽好きという共通の趣味から梅尾氏と知り合い、教わるようになったという。

 しかし、それから1年ほどで梅尾氏が他界。辰巳さんは作品を完成することなく、鏝絵から遠ざかった。再開したのは、一昨年の12月のこと。昭和34年に梅尾氏が川間町内会館(西浦賀)の2階軒下に完成させた「鳳凰」の鏝絵が時間の経過で色あせたため、町内会から修理を頼まれたのがきっかけだった。「まずは自分の作品を創れるようになってから」と、芸術のために鏝を再び手にしたという。

まるで生き物

 鏝絵制作の手順は、石こうで下地を作るところから始まる。生き物や自然などの描く対象を、ある程度形にしてから漆喰を盛る。龍の鱗や口元のような細かい部分は鏝やハケを使って描き、立体感を演出。形が崩れないように、下地にステンレスを埋め込むという。1週間程寝かせると固まるため、その後、水彩絵の具や金粉などで色付けして仕上げる。

 1ヵ月以上かけて完成した『昇り龍』。金粉と漆で色づけされた鋭い眼光が、今にも飛び出してきそうな印象を与える。「口元が一番苦労しました」と話す通り、歯の1本ずつまで繊細に描かれている。作品は1メートル四方で、約40キロの重さがある。「2つと同じものがつくれない」ことが鏝絵の何よりの魅力だ。

 「作品展を開催できる県内唯一の鏝絵彫刻家」を自任する辰巳さん。かつての師匠が手掛けた川間町内会館の漆喰の修理を頼まれたことに運命的なつながりを感じながらも、「まずは、もう10作品完成させる」ことが当面の目標だそう。

 その一方で、辰巳さんは現役の左官職人。「地震で壊れた壁の修理で仕事が増えました」とも話す。忙しい合間を縫って創り上げるオリジナリティあふれる辰巳さんの”芸術”に今後も目が離せない。

 この鏝絵特別展に関する問合せは浦賀行政センター【電話】046(841)4155まで。

鏝絵教室も開催

 浦賀コミュニティセンター分館では5月21日から6月18日までの毎週土曜日に、「鏝絵を学ぶ」講座を開講する(全5回)。時間は各回午前9時から正午まで。初回は浦賀の鏝絵めぐりをし、翌週から辰巳さんを講師に「赤富士」創りに挑戦する。

 対象は18歳以上で、定員20人(抽選)。参加費は2000円。希望者は往復はがきに【1】講座名【2】氏名(フリガナ)【3】年齢【4】住所【5】電話番号を、返信面にも住所・氏名を明記し、〒239-0822浦賀7-2-1浦賀コミュニティセンター分館まで。5月6日(金)必着。問合せは同分館【電話】046(842)4121まで。



山梨
文化審答申:旧外川家住宅、国重文指定へ /山梨
 国の文化審議会は15日、江戸時代から富士信仰登山の宿泊所の役割も果たしてきた富士吉田市上吉田3の御師(おし)の家「旧外川(とがわ)家住宅」を国の重要文化財(建造物)に指定するよう文部科学相に答申した。近く決定する。現在、一般公開されている同住宅で案内役を務める外川和美さん(53)は「光栄です。富士信仰の歴史と文化をますます伝えていきたい」と歓迎している。県内の建造物で国の重要文化財指定は51件目。
 旧外川家住宅は江戸時代の建物。母屋が1768年に東西に長い約2000平方メートルの敷地に、裏座敷(離れ座敷)が幕末期にそれぞれ建てられた。1960年代までは富士講登山者を受け入れていた。04年に市有形文化財、08年に県有形文化財に指定された。
 国は「母屋は年代の明らかなものとして最も古い御師住宅の遺構」などとして、3棟(母屋、離れ座敷、中門)と土地を指定する。同市は04年に外川家から建物と用地を取得し、修復整備を進めてきた。08年4月から御師住宅の中で唯一、一般公開されている。
 同住宅は、13年夏の登録を目指す富士山世界文化遺産の構成資産に入っており、富士五湖とともに国の文化財指定が求められていた。【福沢光一】


京都
新選組隊士歩いた中山道踏破 埼玉の女性、京に到着
 新選組を立ち上げる近藤勇らが歩いて上京した中山道を、埼玉県の石上彩さん(29)が歩き、10日に京都市に到着した。石上さんは近藤が宗家の天然理心流を学んでおり、ゆかりの深い京都市中京区での同流のけいこで木刀を振った。
 石上さんは、新選組研究家を目指している。148年前に隊士が出発した同じ日の3月26日に東京を出発、交代で同行した道場仲間と雪道や峠を越え、約530キロを踏破した。
 石上さんは「京都に来て、死ぬ覚悟だった隊士を思うと気が引き締まった。多くの人のおかげで頑張れた」と喜んだ。


大阪
幕末・明治 金工家の超絶技巧に驚嘆 大阪歴史博物館
 海外の美術愛好家に高く評価された幕末、明治期の金属工芸品を一堂に集めた「幕末・明治の超絶技巧 世界を驚嘆させた金属工芸」が13日、大阪市中央区の大阪歴史博物館6階特別展示室で始まり、精巧な技術に裏打ちされた発想豊かな作品に見学者は見入っていた。

 清水三年坂美術館(京都市東山区)コレクションを中心とする約170点。

 京都出身で大阪造幣局で国内初の金銀貨の原型彫刻を行った東京美術学校彫金科の初代教授、加納夏雄の詩情あふれる鉄地の「月に雁図額」(明治30年)や、銀地にボタンとモクレンの花を優雅に表現した海野勝珉の「花鳥図対花瓶」のほか、岡山出身の正阿弥勝義の遊び心あふれる「柘榴に蝉飾器」などの名品が並ぶ。

 大阪在住の金工、板尾新次郎の作品で可動性が特徴の鉄製自在置物「鷹」なども興味深い。

 「幕藩体制の崩壊と明治9年の廃刀令のあと、刀装金工家たちは自らの技術を芸術世界に高めることで生き残りを図りました。その素晴らしい技と発想を見てもらい再評価につなげたい」と同館の学芸員、内藤直子さんは話している。

 5月29日まで。火曜(3日を除く)と6日休館。大人800円、高校大学生600円。問い合わせは同館(電話06・6946・5728)。


兵庫
歌川国芳展:大阪市立美術館できょうから /兵庫
 幕末の奇才浮世絵師、歌川国芳(1797~1861)の回顧展「没後150年 歌川国芳展」(毎日新聞社など主催)が12日に開幕するのを前に11日、会場の大阪市立美術館(同市天王寺区)で開会式が開かれた。招待客ら約400人が、ユーモアあふれる作品を楽しんだ。

 会場には、勇壮な武者絵や大胆な構図の戯画などが並び、招待客らは熱心に見入っていた。

 今展では、約400点を、前・後期に分けて公開する。6月5日まで。前期は5月8日まで、後期は同10日から。月曜休館。入館は午前9時半から午後4時半。市立美術館(06・6771・4874)。【矢島弓枝】


広島
切り絵で風流 港町・御手洗
■江戸~昭和期、13枚の紙芝居
 国の重要伝統的建造物群保存地区である呉市豊町御手洗(み・た・らい)(大崎下島)の歴史が、切り絵の紙芝居になった。呉観光ボランティアの会が作成し、地元の観光ガイドで活用するほか、市内の学校などに出前公演もする考えだ。
■呉観光ボランティアの会が作成
 御手洗は江戸時代から風待ち潮待ちの港町として栄え、江戸から明治、大正、昭和にわたって建造された家並みが保存されている。
 2008年11月に豊島大橋が開通し、本土から大崎下島まで陸続きになったことで観光客が増加。呉観光ボランティアの会には昨年度、150件(約5千人)のガイド依頼があった。紙芝居は観光客向けにと、同会が広島市安佐南区の美術作家中村鳳善(たか・よし)さん(61)に制作を依頼した。
 完成した紙芝居は切り絵(横42センチ、縦30センチ)で、計13枚。江戸時代のお茶屋(遊郭)で県史跡になっている「若胡子屋跡」や、幕末に倒幕の軍事条約「御手洗条約」を交わしたとされる旧金子邸、戦前から1960年代半ばまで映画館や演芸場として使われた乙女(おと・め)座、「島の時計屋さん」で親しまれる新光時計店などを紹介。御手洗の繁栄の歴史が分かるように描かれている。
 絵の資料が乏しく、制作に苦労したという中村さんは「かつて御手洗はにぎやかな港町だった。これからもっとにぎやかになってほしいという願望を入れて作成した」という。原画をもとに絵はがきも作り、地元の観光施設で販売を始めている。
 ボランティアの会は30代から80代までメンバー約60人。山元利成会長(75)は「紙芝居をきっかけに、御手洗のガイド役を増やしたい。また幼稚園から小中学校、老人施設まで御手洗の歴史を紹介する出前公演も広げたい」と話している。(中川正美)


山口
高杉晋作:「東行忌」で交流誓う 望東尼の顕彰会が参列--下関 /山口
 下関市吉田の東行庵で、14日にあった高杉晋作の145回忌となる供養祭「東行忌」。この日は、江戸末期の女流歌人で晋作を支えた野村望東尼(もとに)の各地の顕彰会メンバーらが集まり「交流をずっと続けていきたい」と喜んだ。
 晋作は幕末、武士や農民を集めた奇兵隊を創設。下関市功山寺で挙兵し、長州藩を倒幕に導くなど、明治維新の先駆けとなった。
 野村望東尼は、生前の晋作を看病するなど心身共に支えた。晋作辞世の句「おもしろき こともなき世に おもしろく」の下の句に「すみなすものは 心なりけり」と付け加えたのは有名だ。
 東行忌への参加は晋作の大ファン、萩市明木の萩焼作家、高見世清光さん(65)が東行庵などに呼び掛けて実現。望東尼の庵がある福岡市の平尾望東会=荒木健七会長(85)▽望東尼の最期の地、防府市の防府野村望東尼会=上山喜誉(かみやまきよ)会長(80)=の計9人が参列した。
 荒木会長は「将来の日本を語り合った2人から、学ぶことはたくさんあります」と熱く語れば、上山会長も「晋作さんを助けたいという望東尼の情熱を受け継いで、来年も墓参させていただきます」と話していた。【尾垣和幸】
〔下関版〕


佐賀
「三重津海軍所跡」パンフレットで紹介
 近代海軍基地の世界遺産登録を目指す佐賀市が、幕末佐賀藩の「三重津(みえつ)海軍所跡」を紹介するパンフレットを作製した。船を修理・建造するためのドック周辺で見つかった鉄や銅を精製した金属加工炉、木製護岸などの遺構を詳しく紹介している。
 
 パンフレットでは、造船施設や射撃演習のための調練場(ちょうれんば)など、4つのエリアに区分し、写真や絵図で当時の様子を伝えている。海軍所跡周辺で出土した鉄や銅のかす、金属加工用の「るつぼ」「ふいご」からは、日本の金属精製技術を用いながらも、西洋の技術を取り込んでいく幕末の時代背景がうかがえる。
 
 三重津海軍所は1858年、佐賀藩が独自に海軍演習を実施するために、現在の佐賀市川副町に設けた練習所が始まり。日本初の西洋実用蒸気船「凌風丸(りょうふうまる)」を自力で建造するなど、日本の造船技術の近代化に大きく貢献した。
 
 市教委の世界遺産調査室は「海軍所跡の歴史や価値を分かりやすく紹介できる資料ができた。世界遺産登録に向け、市民の理解と機運を高めたい」と話している。
 
 パンフレットは1500部作製。市役所大財別館と佐野常民記念館で無料配布している。



鹿児島
長州の善意、薩摩に届く 噴火で悩む霧島地区に見舞金
 鹿児島、山口両県のホテルや旅館業者でつくる「薩長連合会」の山口県側会員が、新燃岳の噴火活動で厳しい状況が続く霧島地区への見舞金を前田終止・霧島市長に手渡した。
 薩長連合会は幕末の「薩長同盟」にちなんで両県の相互交流を図ろうと昨年1月に結成。両県の各9業者が会員になっている。
 山口側の会員9業者は、新燃岳噴火の影響で観光客が減って苦境に立つ霧島地区へ新幹線ツアーを組んで激励に訪れる予定だった。しかし全線開業前日に東日本大震災が発生し延期。「薩摩に長州の気持ちだけでも伝えよう」と見舞金を贈ることにした。
 贈呈式は8日にあり、山口側からは庄司隆治副会長(ホテル西長門リゾート福岡営業所長)、松永繁美事務局長(下関マリンホテル福岡案内所長)が霧島市役所を訪れた。
 庄司副会長らは「見舞金は少額だが、霧島の復興を願っています。日本全体が厳しい中にあるが、鹿児島も山口も元気になるように頑張っていきたい」と語った。霧島ホテルの福冨龍一支配人も同行し、独自に見舞金を渡した。
 薩長連合会では新幹線の車内に「今日は河豚(ふぐ)、明日は黒豚。おいでませ山口へ、おじゃったもんせ鹿児島へ」などと書いた宣伝ポスターを掲示して薩長をアピールしている。


コラム
(109)東大教授・山内昌之 原市之進 情報収集と政治工作の黒幕
「社稷(しゃしょく)の臣の執(と)る所二(ふたつ)あり。曰(いわ)く鎮定。曰く機に応ず」

 江戸後期の儒学者・佐藤一斎の著『言志四録(げんししろく)』にある言葉である(「言志録」52)。国の安危や存亡を一身に受けて事にあたる政治家のなすべき仕事には二つある。それは、民に不安のない生活を営ませるように世を安定させることであり、時と場所に応じて適切な手段を講じることだ。リーダーはこのために自分と一心同体になれる賢い腹心や参謀を必要とする。とくに王や宰相ともなれば、正しい情報を得ながら最良の措置を取ることが欠かせない。

 漢の高祖劉邦(りゅうほう)に張良や蕭何(しょうか)がおり、蜀の劉備に諸葛孔明が欠かせず、唐の太宗李世民(りせいみん)を魏徴(ぎちょう)や房玄齢(ぼうげんれい)が支えたように、大をなしたリーダーには力量のある「王佐」の臣がいた。私の印象にすぎないが、4月10日の統一地方選で惨敗を喫した民主党の菅直人首相を見ると、心を許し信頼しきれる有能な補佐役がいないような気がする。

 政治行動の根拠となる正確な情報と助言を寄せる腹心のいないリーダーは、「鎮定」と「機に応ず」べき時に誤った選択をしがちである。徳川慶喜(よしのぶ)もそうだった。大政奉還までは西郷隆盛や大久保利通さえ翻弄したかに見える慶喜の振舞いが精彩を失い、幕末政治の主役から降りた原因は、奉還直前に原市之進という謀臣が暗殺された痛手と無縁ではない。

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 原は、水戸藩の勘定奉行を務めた父をもち、従弟(いとこ)が藤田東湖であり、当人も江戸の昌平坂学問所に留学した秀才である。藩では弘道館訓導や奥右筆(おくゆうひつ)頭取だった原の人生を変えたのは、文久3(1863)年に水戸藩出身の一橋慶喜の側近となり、翌年にその側用人になったことだ。慶喜の腹心で暗殺された平岡円四郎の後釜に据わったのである。

 慶応2(1866)年に慶喜から幕臣に取り立てられた原は、慶喜の耳目として活躍し、宮中・公卿(くぎょう)はもとより薩摩や会津との外交折衝にも尽力した。しかし、もともと井伊直弼(なおすけ)や安藤信正に襲撃を仕掛けた水戸藩士の黒幕という風聞が消えず、幕臣の間では原の評判はすこぶる悪かった。このあたりも慶喜不人気の一因になったのだろう。

 勝海舟との折り合いも悪く、慶喜に勝の悪口を散々吹きこんだのも原だったらしい。勝も忌々しげに回顧している。「あの頃は、原市と云ふものが付いて居てネ、あれがどう云ふものか、大へん、己を嫌ひなのサ。功を嫉(ねた)むと云ふものか、ごく、陰険で、中々の才子だったがネ、水戸人でネ」(『増補海舟座談』岩波文庫)

 「中々の才子」という表現は、人を滅多に褒めない勝にしては、まずまず高い評価ではないだろうか。

 原には勝に乏しい権謀術策家(マキャベリスト)の面があった。将軍家茂の死に伴い慶喜は、徳川宗家を慶応2(1866)年8月に継承したが、将軍襲職はおよそ半年後である。この空白期をつくったのは原の画策によるものだ。

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 原に言わせるなら、第二次幕長戦争のさなかに将軍職を継ぐのは貧乏籤(くじ)を引くようなものであり、将軍になるにしても幕閣や大名たちにぜひにもと慫慂(しょうよう)させるべきだというのだ。絶対権力行使のために政治基盤を強化する慶喜一途の忠義からではあったにせよ、幕府存亡の危機に根っからの直参旗本であれば言わないセリフであった。

 慶喜は、長州との戦争の始末を勝に命じたが、これも原の画策であろう。交渉に失敗して長州の壮士たちに勝が斬られるならそれもよしといった魂胆が見え透いているから、勝も面白くなかっただろう。慶喜に、「勝は至って、手広いから、何事を仕出すかも知れません、御用が済んだら、早く還す方がいヽ」と言わせたのも、原の画策以外に考えられない。

 幕府目付になった原は、小松帯刀(たてわき)らと図って薩摩との融和を図り、長州の木戸孝允(たかよし)、坂本龍馬にも警戒される。慶応3(1867)年、兵庫開港問題でも開港工作を謀るなど衰勢の幕府でともかく気を吐いていた。勝が原について悪口ばかりを言わないのは、このあたりの覚悟を知っていたからかもしれない。

 しかし、水戸藩きっての攘夷派から開国派に宗旨変えした原への風当たりは強かった。身内のはずの幕臣攘夷派に暗殺されたのは、桜田門外の変や坂下門外の変の因果応報ともいうべきだろうか。原を失った慶喜の打撃は大きかった。情報収集や政治工作を委ねられる腹心を失った慶喜の判断力にも翳(かげ)りが次第に出てくる。大政奉還という逆クーデターに成功しながら、西郷の挑発した鳥羽伏見の戦いに負けたのも、原の死が影を落としている。

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 唇歯輔車(しんしほしゃ)の腹心を欠いた菅首相は、統一地方選挙での民主党敗北の分析をいかに総括するのだろうか。徳川家光に直諫(ちょっかん)した傅役(もりやく)の青山忠俊や、楚(そ)の荘王を諫(いさ)めた伍挙(ごきょ)と蘇従(そじゅう)のように、直言する勇気のある人物が現れて首相に覚悟を求めるのだろうか。民主党の惨敗が大震災後の日本政治に転換を促すことだけは間違いない。(やまうち まさゆき)

                  ◇

【プロフィル】原市之進

 はら・いちのしん 天保元(1830)年、水戸藩士の家に生まれる。藩校の弘道館、江戸の昌平坂学問所に学ぶ。安政2(1855)年に帰藩。弘道館訓導となり、一橋慶喜の側近として仕える。慶喜の将軍就任後は幕府目付に取り立てられ、兵庫開港を推進。慶応3(1867)年、京都で幕臣に暗殺された。


エンターテインメント
春アニメの期待度No.1は「銀魂」、放送再開を待ち望んでいた声が多々。
 レコチョクは4月15日、今年の4月からスタートする(した)アニメの期待度をランキング形式でまとめた「2011年春アニメ期待度ランキング」を発表した。その結果、4月4日から放送が始まった「銀魂」(テレビ東京系)が1位に輝いている。
 このランキングは4月のアニメ新番組放送開始にあわせ、レコチョクのサイトでユーザー投票により決定したもの。1位の「銀魂」は「週刊少年ジャンプ」(集英社)に連載中の幕末を舞台に繰り広げられるSF時代劇で、2006年にテレビ東京系でテレビアニメ化されたものの、内容が原作に追いついてしまったこともあり、2010年3月から一時休止していた。そのため、今回は約1年ぶりの“再開”というわけだ。
 投票したユーザーからは、「念願の再開!! 銀さんのギャグの時とシリアスな時の、絶妙なギャップがたまらないです」(10代・男性)や、「あの放送コードギリギリのお騒がせ銀魂が帰ってくる!! と言うことでワクワクしています♪」(10代・女性)、「銀魂は主題歌やエンディング曲の評判も良いので、そこも楽しみの1つです!!」(10代・女性)など、放送再開を待ち望んでいた声が多く寄せられている。
(以下略)



日曜劇場『JIN-仁-』が世界へ!海外80カ国での放送が決定!! また、オリコン発表の「春のドラマ期待度ランキング」堂々1位を獲得!
(PR TIMES) -

4月17日(日)よる9時から、初回拡大2時間5分スペシャルでスタートするTBS開局60周年記念 日曜劇場『JIN-仁-』が、日本だけでなく、世界各国で放送されることが決定した!放送される国は、アメリカやヨーロッパ各国、ロシア、韓国など現段階でその数80カ国にものぼり、南米以外のほぼ全世界で放送されることになる。

日本で放送する前に、海外との販売契約が成立するケース(プリセール)はTBS史上初の快挙となる。09年秋に放送された『JIN-仁-』は、海外TV番組マーケットのバイヤーが「もっとも購入したい作品」として選ぶカンヌMIPCOM・バイヤーズ・アワードを受賞した事もあり、注目が集まっていた。

また、通常連続ドラマは、日本での放送を全て終了した後に海外の放送が始まるが、今回台湾は日本での放送6日後から放送、また香港でも5月から放送をスタートさせる。その後も、7月から(予定)韓国、ヨーロッパ、タイ、ハワイをはじめとする北米で順次放送する予定だ。今回多くの世界の国々で販売されたことは、海外で同ドラマへの評価が高まっていることを裏付けている。

また、12日にオリコンより発表された最新の「2011年春のドラマ期待度ランキング」でも総合・男性・女性と全ての項目で『JIN-仁-』が1位となり3冠を獲得。圧倒的な強さとオリコンも伝えている。


国内外で注目の集まる『JIN-仁-』完結編、いよいよ4月17日(日)待望のスタート!
<プロデューサー・石丸彰彦コメント>
『JIN-仁-』という作品を一人でも多くの方に見て頂ける機会が増えたことに喜びを感じながら、今回の「完結編」を、精一杯、地に足をつけて頑張っていきたいと思います。いつの時代でも懸命に生きる事の大切さ、人が人を想う気持ちの美しさ、そして人の笑顔の輝き、そんな私達の誇れる日本の姿を伝える事ができればと思っています。

■TBS開局60周年記念 日曜劇場『JIN-仁-』について
『JIN-仁-』は、現代の脳外科医・南方仁(大沢たかお)が、ある事件がきっかけで江戸時代にタイムスリップしてしまい、満足な医療器具もない中で幕末の人々の命を救い、その医術を通して幕末の英雄である坂本龍馬(内野聖陽)らと交流を深めながら、公私に渡り支えとなる橘咲(綾瀬はるか)や吉原の花魁だった野風(中谷美紀)らと共に、自らも幕末の動乱に巻き込まれていく壮大なヒューマンストーリー。

2009年に放送された際の最終回は平均視聴率25.3%を記録、09年度連続ドラマの視聴率第1位を獲得し、まさに世代を超え支持されたドラマとなった。(ビデオリサーチ調べ・関東地区)

完結編となる今作も、キャストは主演の大沢たかおをはじめ、前回の共演者が集結。綾瀬はるか・中谷美紀・内野聖陽・小出恵介・桐谷健太・小日向文世らと共に最終回のその後が描かれる。また西郷隆盛・皇女和宮・近藤勇・中岡慎太郎・佐久間象山ら、新たに歴史上の人物も登場し、仁が歴史の史実とどう対峙していくか注目だ。

注目の第一話では、怪我をした佐久間象山を治療するために京都に来ていた仁が、新撰組に連れ去られてしまう。連れて行かれた先にいたのはあの西郷隆盛だった。西郷は虫垂炎を患っていてすぐに手術をしないと命も危ない状態。果たして仁は西郷を助けるのか-。それは歴史の史実にどう影響していくのか-。

完結編では神が与えた試練でもある「歴史の修正力への挑戦」となり、全ての謎も解き明かされる。

仁の頭の痛みは何だったのか-
仁はタイムスリップして再び現代に戻るのか、それとも江戸で生きるのか-
咲の想いは届くのか-
吉原を離れた野風のその後は-
現代の未来は果たして-
そして刻々と近づく坂本龍馬暗殺という史実-
今を生きる私たちが、その祖先が、魂が、どこかで出会い繋がっていたかもしれない、そんな江戸の町。2011年4月17日、あの江戸が、帰ってくる。



■□■TBS会社概要■□■
社名:株式会社東京放送ホールディングス
    (略称 TBS HD)
   TOKYO BROADCASTING SYSTEM HOLDINGS, INC.
本社所在地:〒107-8006 東京都港区赤坂5丁目3番6号
URL: http://www.tbs.co.jp/


春ドラマ期待度、1位は『JIN-仁-』~TOP3を“続編”が独占
 4月に入り、今週からいよいよ春の新ドラマが続々とスタート。人気作の完結編や実話を基にした学園ドラマなど、さまざまな作品が集結するなか、最も高い期待値が寄せられている作品とは? ORICON STYLEが全国1,000人を対象に『春のドラマ期待度』アンケートを実施したところ、TOP3は続編作品が独占する結果となった。1位は大沢たかお主演の人気医療ドラマ『JIN-仁-』(TBS系)、2位は天海祐希主演の刑事ドラマ『BOSS』(フジテレビ系)、そして3位に吉瀬美智子の連ドラ初主演作『ハガネの女』(テレビ朝日系)の第2弾が続き、いずれも前作での高い満足度がダイレクトに期待値へと直結しているようだ。

 総合、男女でトップとなった圧倒的な強さを見せた完結編『JIN-仁-』は、現代から幕末へタイムトリップしてしまった脳外科医・南方仁が、激動の歴史の渦に巻き込まれながらも医者として真摯に生きる姿を大沢が熱演。内野聖陽が演じる坂本龍馬にヒロインの綾瀬はるか、中谷美紀といった魅力的な配役も見事にハマり、2009年民放ドラマの最高視聴率25.3%(ビデオリサーチ調べ・関東版)を記録した。「45年間生きてきて、最高の作品! 放送終了直後から続編を要望し続けてきた」(京都府/40代/男性)と続編を熱望する声が圧倒的だった。大沢自身も制作会見の場で「続編の挑戦は僕の俳優史上で最も大きな決断です。続編の制作というのは、本当に勇気がいる」と、同作への並々なる想いを明かしている。

 2位は天海祐希演じる大澤絵里子が、タイトル通りの“ボスっぷり”を発揮した『BOSS』の続編。10代、20代では『JIN-仁-』を抑え1位に支持されており、「主役の天海さんがカッコいいから」(大阪府/20代/女性)と特に女性ファンが多い。また、チームを組む刑事達も、協調性ゼロの女刑事に戸田恵梨香、ベテラン刑事に温水洋一、またお笑い芸人のケンドーコバヤシも肉体派刑事を演じるなど、個性派の面々と天海が織りなすコミカルな演技と、シリアスな推理シーンのバランスも期待度の高い要因の1つといえる。

 3位は吉瀬美智子が小学校の女教師として、生徒たちと“闘う”学園ドラマ『ハガネの女』。前作は昨年10月に深夜枠で放送され視聴者に大きな衝撃を与え、異例のスピードで続編の放送が決定。「子どもを持つ親にも観てほしい作品」(東京都/20代/男性)と、今クールはゴールデン枠での放送だけにより幅広い年齢層の視聴者獲得が期待できそうだ。また、7位にはTOKIO・松岡昌宏主演の実話を基にした『高校生レストラン』(日本テレビ系)、8位にアイドルグループ・AKB48が総出演する『マジすか学園2』(テレビ東京系)と、学園ドラマがTOP10に3作ランクイン。安定したジャンルの強さを実証している。

 犯罪心理を暴くサスペンスや、謎解きなどのミステリー作が多かった前クールとは打って変わり、SMAP・香取慎吾主演の “月9”『幸せになろうよ』(フジテレビ系/5位)や、働く女性や母親たちが“幸せの形”を探す『リバウンド』(日本テレビ系/4位)、『生まれる。』(TBS系/6位)など、心温まるヒューマンドラマが多いことも今クールの特徴の1つ。続編が盤石の強さを見せつけるのか? はたまた、新作たちがドラマ界に新風を巻き起こすのか? 結果が楽しみといえそうだ。

【調査概要】
調査時期:2011年3月25日(金)~2011年3月30日(水)
調査対象:合計1,000名(※震災被害の大きい地域は対象外とした/自社アンケート・パネル【オリコン・モニターリサーチ】会員10代、20代、30代、40代の男女各125名)
調査地域:全国(震災被害の大きい地域は対象外)


内野聖陽さん(JIN―仁―)
龍馬の最期 考えない

 写真撮影の前、記者を被写体にカメラマンが事前チェックをしていると、「ほら、笑って、笑って!」と声が飛んできた。ちゃめっ気たっぷりの顔が、会う人が皆、魅せられた、坂本龍馬と重なった。

 幕末の江戸にタイムスリップした現代の医師・南方と、当時の人々のふれあいを描くSF時代劇。2009年の前シリーズでも、南方を支える豪放磊落
らいらく
な龍馬を熱演した。「初回は男の友情物語的で、“いいヤツ・龍馬”だけで押せていけた。でも今回は龍馬が薩長同盟に奔走し、大政奉還へと進んでいく、ますますきな臭い時代。いいヤツだけじゃ終われない」

 撮影の合間、年表を見る機会が多くなった。「行間にある深みを増させるためには、歴史事実や時代の空気感までイメージしておかないと、薄っぺらくなってしまう」

 龍馬暗殺がどう描かれるか。南方は龍馬を救えるのか。だが、「Xデーをクライマックスにして彼の人生を考えないようにしている。純粋に国を思っている男として、明るく生きられたらいいのかなと思っています」と、自然体で臨む。

 (文・泉田友紀 写真・吉川綾美)

Q タイムスリップするとしたら、どの時代がいいですか?

A 恐竜時代。恐竜がズドーン、ズドーンと歩くのを見てみたい。

Q 学生時代、歴史は得意でしたか?

A 世界史は好きでした。でも、日本史は選択していないんです。難しい読み方をする名前の漢字が苦手なので。今も、昔の人の名前の読み方は毎回、調べてます。

Q ストレス解消法は?

A 基本的にジョギングなんですけど、大声を出すのもいい、っていうことが最近、わかりました。でっかい声でセリフを言ってみたり。鬱々
うつうつ
としがちな時に、大きな声で叫んでみると、いいですよ。

Q 一番、感動したことは?

A 初めて立って、歩いている自分の子どもと、それを見る妻の姿に感動しました。

JIN―仁―(17日からTBS系 日曜後9・00)
 尊皇派と佐幕派が激しく争うなか、坂本龍馬(内野聖陽)は、瀕死
ひんし
の重傷を負った佐久間象山(市村正親)の治療を南方仁(大沢たかお)に依頼。一命をとりとめた象山は意外な言葉を口にする。

プロフィール
うちの・まさあき
 1968年9月16日、神奈川県生まれ。早稲田大学在学中に文学座研究所へ入所。96年のNHK連続テレビ小説「ふたりっ子」で人気を得る。NHK大河ドラマ「風林火山」、舞台「イリアス」ほか、テレビ、舞台などで幅広く活躍する。
(2011年4月11日 読売新聞)








 ども、白牡丹です。

 かねてから懸案だったのですが、本宅の第二掲示板を閉じました。拙宅を訪れる方からの書き込みも減り、書き込まれるのはスパムだけ(汗)という状態でしたので。こちらもブログに活動をシフトさせておりますし。

 今までお書き込み下さった方々にお礼を申し上げますm(__)m。お書き込みいただいた内容はログで保存しております。

 今後、ご感想やコメント・ご連絡などは、ブログにコメントでご連絡いただければ幸いです。
 『笑点』と『新選組血風録』の間つなぎに『江〜姫たちの戦国』を見ていますが、身が入りません。今年の大河ドラマは早々に脱落してましたが、3.11以降はますますがっかり感が強いです。

千葉
幕末の私塾を紹介
教科書や倫理書など20点で 酒々井の寺子屋「青樹堂」展

 幕末から明治初期にかけて酒々井に開設されていた寺子屋「青樹堂(せいじゅどう)」で使われていた教科書などを紹介する「今甦る幕末の寺子屋・青樹堂-石井家資料展」が、酒々井町中央公民館入り口ホールで開かれている。展示は10日まで。月曜休館。
 「青樹堂」は、幕末に酒々井下宿で仕立屋を営んでいた石井平兵衛が庶民の子ども向けに開設した私塾。昨年12月、石井家で見つかった関係資料を借り受けた町教委が整理した結果、当時使われた手習書、算術書や仕立て道具など資料は約120点に上った。
 同展では幕末の動乱期に町の庶民教育を担った「青樹堂」について多くの人に知ってもらおうと、教科書を中心に選んだ資料20点に解説パネルを添えて紹介。
 往復の手紙形式の初級教科書「御家庭訓往来」や習字の教材「小倉百人一首」のほか、必読の倫理書となっていた「孟子」の裏表紙に11歳の少年が音読期間を記していたことが確認できる。また地元だけでなく富里、印西などから延べ330人(男229人、女101人)の名が連なる「入塾者名簿」も展示している。
 昨年10月には町教委による小学3、4年生の自主学習の場として「青樹堂」の名が復活した。同公民館に月2回・土曜に集まった児童たちに、教員経験のあるボランティア5人と職員3人が国語、算数を中心に学習のサポートに当たる。
 先月26日には展示担当の町教委文化財調査員の中島丈晴さん(37)が、現在の「青樹堂」で学ぶ児童約20人に資料を前に解説。「今と違い手書きで紙は薄いけど分厚い」「昔の算数は漢字ばかりで難しそう」と“大先輩”の教科書に興味津々の様子。「筆子塚」の説明を受けた女子児童は「先生のお墓をみんな(子弟)でお金を出し合ってつくるなんてすごい」と驚いていた。


長野
幕末の志士追悼 下諏訪で「相楽祭」 菅原文太さんも参加
 幕末に倒幕を志したが、「偽官軍」として処刑された赤報隊隊長相楽総三(1839~68年)を追悼する「相楽祭」が3日、処刑地とされる諏訪郡下諏訪町の魁(さきがけ)塚であった。幕末の動乱に関する対談集出版を予定する俳優菅原文太さん(77)も訪れ、相楽の子孫ら約60人とともに参列した。
 同町の住民有志でつくる「相楽会」が毎年、相楽の命日に開催。神事を行い、参列者が手を合わせた。赤報隊は明治維新直前、官軍の先鋒(せんぽう)隊として新政府の政策「年貢半減」を各地に伝えたが、新政府が撤回した後も宣伝を続けたために討伐された。
 作家半藤一利さんとの対談集を出す予定の菅原さんはこの日、玉串をささげ「(官軍同様に)赤報隊も国を思う気持ちは同じだった」と悼んだ。「歴史は勝者の功績を中心に築かれるが、私は歴史の片隅に追いやられた敗者にひかれる」と話し、対談の中で赤報隊について語りたい-とした。



福井
橋本左内座像が東京にも 原型寄贈の清川さん“初対面”に感激
 幕末に活躍した福井藩士・橋本左内の座像を東京都荒川区に寄贈した清川メッキ工業会長の清川忠さん(60)=福井市=が8日、同区を訪ね、座像を基に新たに制作された左内のブロンズ座像と初対面した。清川さんは「福井の生んだ偉人がこんなに大事にされて…」と感激していた。 (尾崎行雄)
 同区の小塚原回向院には、安政の大獄による刑死者の墓がある。境内整備で取り壊された墓の保護のため、区は左内の墓を覆っていた套(さや)堂を荒川ふるさと文化館に復元、移築を計画し、左内像を据えることにした。
 左内像の制作に当たり、西川太一郎荒川区長が友人の西川一誠知事に相談。知事の知人、清川さんが座像を持っていたため、知事の仲介で寄贈した。
 清川さん所有の座像は、高さ17センチの常滑焼。約8年前、出張先で立ち寄った骨董(こっとう)市で購入した。
 この座像を基に、区無形文化財保持者で、美術鋳金の菓子満さん(74)が、高さ57センチのブロンズ座像を新たに制作した。套堂に安置されたブロンズ像の除幕式は3月23日に同ふるさと館であった。出席した西川知事は「県民は左内の非業の死を惜しみ、その業績や人柄を心から尊敬している」と感謝していた。
 8日、荒川区役所に西川区長をあいさつに訪れた清川さんは、自身が原型を作成、型取りした「お市の方と江姫」の銅製文鎮を贈った。清川さんは「左内の記念碑は福井にもあるが、東京でも大事にされていることに驚いた。知事が『行ってみろ』と言った意味がわかった」と笑顔で話していた。清川さんには荒川区から感謝状が贈られている。  


滋賀
袱紗展:贈る心、包み込み 江戸後期~明治中心に--彦根、20日まで /滋賀
 婚礼などの贈答や祭礼の品々などに掛ける袱紗(ふくさ)を中心に紹介する「袱紗展&春のお道具展」が、彦根市銀座町の「ギャラリー コジマ」で開かれている。20日までで鑑賞無料。
 市内の女性コレクターが提供したもので、江戸後期~明治時代のものを中心に約20点が並ぶ。買い物途中に立ち寄った主婦や観光客らが、ちりめんなどの布地に七福神や宝船、鶴と亀などのめでたい図柄を刺しゅうした袱紗に見入っている。ギャラリーのオーナー、小島充子さん(56)は「贈る側の気持ちが袱紗の模様に込められ、口上が無くても受け手側に伝わる知的な贈答文化を楽しんでください」と話している。
 他にも、幕末から明治にかけて作られた、所番地と名前を書いて幼児の帯に付けたりした「迷子札」や、何枚もの端切れで作り、婚礼や祝儀の際に米を入れて持参した「米袋」、小銭やたばこを入れた「巾着」など35点を展示している。
 午前11時~午後6時。木曜休館。問い合わせは同ギャラリー(0749・22・0347)。【松井圀夫】


大阪
幕末から昭和初期船場の風景紹介 写真展28日まで開催 船場センタービル2・3号館
 幕末から昭和初期の古きよき大阪・船場を撮った古い写真など112点を紹介する写真展「大阪船場今昔物語」が大阪市中央区の船場センタービル2・3号館で開かれている=写真。戦前の祭礼の様子や今はなくなった建造物を収めた古い写真など貴重な作品が並んでいる。無料。28日まで。
 同展は、大阪城天守閣復興80周年記念プロジェクトの一環として、同ビル2・3号館の地下2階飲食店で構成する「ジョイ船場50」が企画。さまざまな表情をもつ船場の魅力を再発見してもらうのがねらい。
 作品は、大阪城天守閣が所蔵する膨大な資料の中から厳選。「白木屋の店じまい大投売り」や「少彦名神社の神農祭」などの古い写真のほか、浮世絵師の歌川国員が描いた三井越後屋呉服店(三越の前身)の錦絵や美人画を用いた引札(ちらし)などが地下通路の壁面に展示され、通行人らの注目を集めている。


香川
幕末の志士 田中河内介父子の哀悼碑移設 香川
 明治天皇の養育係を務めた尊皇攘夷の志士、田中河内介と左馬介父子の遺体が漂着した香川県小豆島町で、父子の顕彰活動を続ける「田中河内介顕彰会」が、漂着地にあった哀悼碑を小豆島霊場84番札所・雲海寺の墓地に移設した。
 河内介は但馬・神美村(現在の兵庫県豊岡市)の生まれで、のちに明治天皇となる祐宮(さちのみや)の養育係を5年間務めた。
 父子は攘夷を訴える薩摩藩士らと京都・伏見の船宿「寺田屋」に集まったところを薩摩藩に捕らえられ、海路を薩摩へ護送中、播磨灘で殺害、海中投棄されたという。
 遺体は文久2(1862)年5月1日、同町の遠手浜に足かせが付いた状態で漂着。河内介は「寺田屋事件」の首謀者として殺害は長く秘匿された。
 哀悼碑は同地区で産出する花崗岩(かこうがん)幅1・4メートル、高さ2・2メートルが台座上にあり、明治の元勲、品川弥次郎による「天下に率先して大義を首唱し」で始まる漢文で、2人の志や悲惨な最期が刻まれ、明治32年5月に建立された。
 同顕彰会事務局の宮原隆昌さん(53)は「多くの人に知ってもらうよう、遺族につながる人たちや研究者から寄贈された資料を整理している」と話し、同寺では資料館の建設を進めている。5月1日には同顕彰会が150年祭を営む。




佐賀
幕末屈指の儒学者・草場佩川 顕彰会が初会合
 1月に発足した「草場佩川(はいせん)の会」(江打正敏会長、48人)の初めての会合が10日、佐賀県多久市の寒鴬(かんおう)亭であった。会員は記念講演などを通じ、多久が生んだ偉大な儒学者の業績を学び、今後の顕彰について意見を交わした。
 同会は、幕末期の国内屈指の儒学者で、佐賀の7賢人を藩校弘道館で教えたとされる佩川の業績を多くの人に知ってもらおうと発足した。
 この日は、同市文化財保護審議会委員で佩川研究家の武田耕一氏が「佩川の絵画 主に人物画について」の演題で記念講演。会員15人が、佩川が何度も摸写している「寿星図」について、描かれた当時の時代背景や絵に添えられた讃(さん)の内容を詳しく学んだ。また、近くの同市郷土資料館で開かれている「草場佩川特別展」にも出向き、70点余りの漢詩や書画を熱心に鑑賞した。
 これに先立つ総会では、顕彰のため作品展を開催することなど本年度の事業計画を決めた。会では会員を募集している。問い合わせは同資料館内の同会事務局、電話0952(75)3002へ。










 雨で花見ができないので、一日落語三昧しようと池袋演芸場へ。昼の部と夜の部入れ替えなしというのがすごい。

 昼の部は前座さんと古今亭朝太さんを見逃し、漫才・笑組(「えぐみ」と読むらしい)の途中から。

昼の部はメモしていたevernoteデータを一旦飛ばしてしまったので、うろ覚え。
笑組/漫才
古今亭志ん丸/お茶汲み
柳亭左龍/真田小僧
ぺぺ桜井/ギター漫談
三遊亭圓丈/シンデレラ伝説
古今亭志ん橋/蜘蛛駕籠
松旭斎美智・美登/奇術・踊り「奴さん」
鈴々舎馬風/漫談
(中入り)
古今亭志ん馬/だくだく
林家正蔵/ハンカチ
翁家和楽社中/太神楽
古今亭志ん輔/品川心中

 「お茶汲み」初めて聴けた。吉原で安く遊んできた友達に触発されて同じ遊女を訪ねていった男が、もてようとして(?)、遊女が友達に話した身の上話を本人に語りだし……って、うーん、どこが面白い噺なんだろう。
 ぺぺ桜井は、なぜかとてつもなくおかしかった。ギター漫談、今や絶滅危惧種だそうだ。長生きしてください。
 昼の部で一番印象深かったのは、正蔵「ハンカチ」。馬風師匠の漫談でいじられていた正蔵、袖で「聴いてました」とマクラで返答。誕生日を迎えた女房にプレゼントを用意できなかった亭主が町内のイベントで愛を叫ぶという噺(どことなく違うが^_^;)。心の中で「やるじゃん!」と思いました。

(前座)古今亭きょう介/子ほめ
古今亭ちよりん/やかん
古今亭菊太楼/まんじゅうこわい
ホンキートンク/漫才
古今亭菊丸/素人鰻
橘家円太郎/羽織の遊び
鏡味仙三郎社中/太神楽
柳家さん喬/締め込み
三遊亭萬窓/紙入れ
柳亭市馬/親子酒
林家正楽/紙きり
古今亭菊之丞/井戸の茶碗

 ホンキートンク、鈴本で聴いた時より面白かった。若い観客が「やばい」とかいいながらとっても笑ってた。
 「素人鰻」「羽織の遊び」初めて聴きました。
 さん喬「締め込み」以降、豪華ラインナップ。「締め込み」の「ウンか出刃か、ウン出刃か?」の夫婦げんかに笑い、「紙入れ」の間男された旦那の間抜けぶりに笑い、「親子酒」の酒好き親子に笑い(そして市馬師匠の歌声に喜び)、「井戸の茶碗」の登場人物たちが正直に無欲になろうと無理するがゆえの騒動に笑い、ああ、素敵な寄席空間。

 池袋演芸場、城南在住の自分にはちょっと遠いのですが昼夜入れ替えなしでずっと居続けられるのがいいです。飲酒禁止なのが残念ですが(爆)。







 池袋昼夜通しと鈴本夜席、どっちにするか悩みましたが、鈴本を選びました。

柳家おじさん「狸の札」
 権太楼門下の前座。確かに、ちょっと老けてるかな。ちょっと力が入り過ぎて、とぼけた感じが出てないかも。

三遊亭天どん「反対俥」
花粉症の天どん、反対俥に出てくる威勢のいい早足の俥屋さんを花粉症にしたてる。冷めたようなとぼけたような、不思議な味わい。

翁勝丸 太神楽
 座ったままでやるのが凄いかも。

桂文雀「表彰状」
 初めて聴く泥棒ネタだったのでネットで検索して、「表彰状」というネタらしいと知った。弟子入りしたばかりの泥棒が、どじった挙げ句に人助けして表彰状をもらうことに。職業がばれるのをおそれて取り消させるために、喧嘩を仕掛けたり無銭飲食したりするが、ますますドツボにはまるという、楽しい噺。

古今亭菊之丞「町内の若い衆」
 わーい、菊之丞さん、このネタはニンに合ってる。女を演じさせると色っぽいし、町内の若い衆をさせると歯切れがいいので、ぴったり。大将のところのできたかみさんは色っぽいししっかりもの、熊公のかかぁは熊公をオットセイよばわり。

柳家紫文 三味線漫談
 とぼけた風味。「火付け盗賊改めかたの長谷川平蔵が、いつものように両国橋のたもとを歩いておりますと、一日の商いが終わったであろう一人の○○が足早に平蔵の脇を通り抜ける。向いから水商売らしき一人の女、 この二人が橋の上ですれ違う、というそのとき、○○の身体が前のめりに崩れ落ちる」のリフレイン……宇宙人まで出てくるんかいっ(苦笑)。

三遊亭白鳥「ナースコール」
 池袋でなくて鈴本にしたのは白鳥さんが目当てだったと言えなくもない(爆)。だって昨日から上野でパンダ公開ですよ、「真夜中の襲名」はともかく「流れの豚次」シリーズとか……持ち時間からすると無理か^_^;。
 で、「ナースコール」でした。これはこれで面白いけど。

柳家喜多八「欠伸指南」
 わーい、「欠伸指南」を生で聴いたのは初めて。喜多八師匠の「欠伸指南」聴きながら、つい、欠伸を連発してしまったのはつまらなかったからではなくて、その退屈そうな欠伸につい誘われてしまったからです(汗)。

中入り

春風亭一朝「芝居の喧嘩」
 イッチョウ懸命の一朝師匠、これまた生で聴くのは初めてな「芝居の喧嘩」。芝居の座席で膝送りしながら、幡随院長兵衛の一派と水野十郎左衛門の一派が喧嘩を始めて、芝居どころではなくなるというような噺。江戸弁アクセントがきれい。

アサダ二世 奇術
 とぼけた風味の奇術。なかなか楽しい。

五街道雲助「幾代餅」
 「紺屋高尾」は談春さんCDで結構聴いているのだけど、「幾代餅」は案外聴いていないので生で聴けるのはラッキー。しかも雲助師匠の「廓噺ふたたび」シリーズのひとつということで、安心して噺の世界に入ることができた。幾代太夫の吉原ことばがとっても素敵な雲助版でした。





 明日18時45分よりBSプレミアムで『新選組血風録』放映開始。楽しみにしています。

長崎
まちなか龍馬館リニューアル お龍の月琴など貴重な史料並ぶ
坂本龍馬を中心とした幕末の歴史と長崎の魅力発信を目的とした「長崎まちなか龍馬館」(長崎市浜町)がリニューアルし、1日、開館式があった。

 同館は長崎市が昨年1月、NHK大河ドラマ「龍馬伝」の放映に合わせてオープン。今年2月にいったん閉館して、展示内容を新しくした。

 海援隊が出版した英語の入門書など貴重な史料を展示品に追加。龍馬の妻、お龍の月琴など8点は、龍馬夫妻や志士たちを支援した実業家、小曽根乾堂の子孫で17代当主の吉郎さんが寄託した。館内に再現した亀山社中で記念撮影できる体験コーナーも増設。来年3月末までの開館期間中、8万人の入場を目指している。

 開館式には、文化関係者や経済団体の代表らが出席。田上富久市長が「龍馬伝人気に伴う観光客増加や経済波及効果を一過性のものにしないようにしたい。観光客だけでなく、市民の皆さんもぜひ足を運んでほしい」とあいさつ。小曽根吉郎さんは「長崎の歴史と文化の素晴らしさを知ってもらうきっかけになれば」と話した。

 問い合わせは同館(電095・821・2112)。




エンターテインメント
トーク:永井大 NHK-BSプレミアム「新選組血風録」主役
◇ナンバー2の生き様「カッコイイ」--NHK-BSプレミアム「新選組血風録」(4月3日午後6時45分)
 初の時代劇、それも主役である。

 「新しい自分が見つけ出せそう」な期待に胸がふくらむ一方、当初はとまどうことも多かった。着物に二本差し、立ち居振る舞い、言葉遣い……。しかも、演じるのは土方歳三という知名度が高い歴史上の人物。人となりを知るために、函館の記念館へ足を運び、ひまを見つけては資料を読み込んだ。リーダーの近藤勇を支えたナンバー2。その生き様を「カッコイイ」と話す。

 「僕もトップに立って指示を出すより、サブのポジションで上の人をたてながらやっていく方が好き。ちょっと似ているところがあるかもしれません。おそらく、近藤勇のためだったら死ねる、ぐらいに考えていたのでしょうね」

 新選組を率いた近藤勇を演じるのは宅間孝行。3年前、宅間が座長を務める舞台に出演した。その際にできた師弟関係は「近藤・土方の間柄のよう」で、今回の撮影現場にそっくり持ち込まれている。

 「宅間さんの収録が終わるのを待ち、隊士役のキャストを集めて食事に誘うのは僕の役目。みんなで酒を飲みに行くタイミングをはかるのも、僕が情報収集して、宅間さんに報告してから決める」

 撮影を離れても、隊士たちの役回りが決まっていて、沖田総司を演じる辻本祐樹は「イジられ役」なのだとか。

 空手で国体入賞経験があるだけに、アクションは得意。過去の時代劇では見られなかったオリジナルの殺陣を披露しようと、意気込んでいる。

 永井流の痛快な殺陣は、新選組初代筆頭局長・芹沢鴨の暗殺シーンで見られそうだ。【岩崎信道】

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 ■人物略歴

 ◇ながい・まさる
 1978年5月20日、新潟県生まれ。小学校時代、社会科の歴史で成績が良かったという。「年号と出来事を暗記すれば点数がとれますから。興味があるのは江戸時代。どんな暮らしだったのかなあ」


コラム
(106)東大教授・山内昌之 明治天皇(上)
 天皇陛下は3月16日、東日本大震災の被災者や国民に向けてビデオメッセージを寄せられた。陛下がビデオでお考えやお気持ちを人びとに述べられるのは初めてだという。私はNHKテレビでメッセージを謹聴していたが、すべての方面への気配りと激励にあふれたお言葉に感動したのは私だけではないだろう。

 犠牲者を悼まれた後、陛下は多くの人びとの無事を願われ、被災者の状況が少しでも好転し、復興への希望につながっていくことを願望された。「何にも増して、この大災害を生き抜き、被災者としての自らを励ましつつ、これからの日々を生きようとしている人々の雄々しさに深く胸を打たれています」

 これは誰にも不平不満を言わず、全力で試練に立ち向かっている被災者に対する国民の敬意を代弁されたものともいえよう。

 さらに、原発関係者の修復努力、自衛隊・警察・消防・海上保安庁の救援、外国人と日本人ボランティアが「余震の続く危険な状況の中で、日夜救援活動を進めている努力」に感謝され、労を深くねぎらっておられるのだ。そして、世界各国の元首の相次ぐ見舞いが届いていることを紹介され、各国国民の気持ちが被災者とともにあると添えられた言葉に触れられ、被災者を激励することをお忘れにならない。

 陛下は、海外でも日本人が「取り乱すことなく助け合い、秩序ある対応を示していることに触れた論調も多い」と述べられた上で、「これからも皆が相携え、いたわり合って、この不幸な時期を乗り越えること」を心から願われた。

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 そして、メッセージの掉尾(ちょうび)を国民のすべてにとって励みとなる素晴らしいお言葉で結んでおられる。

 「被災者のこれからの苦難の日々を、私たち皆が、さまざまな形で少しでも多く分かち合っていくことが大切であろうと思います。被災した人々が決して希望を捨てることなく、身体(からだ)を大切に明日からの日々を生き抜いてくれるよう、また、国民一人びとりが、被災した各地域の上にこれからも長く心を寄せ、被災者と共にそれぞれの地域の復興の道のりを見守り続けていくことを心より願っています」

 これほど見事なバランス感覚に富んだ文章を私は知らない。歴史にも長く残ることであろう。陛下のメッセージが私たちの心を打つのは、少しも飾らない文章が誰にも分かりやすく、お心のうちを包み隠さずに吐露される誠実さが人を感動させるからであろう。

 ◆国難の時、鼓舞する御製

 こうしたメッセージは、国や人びとが困難な状態にあるとき、しばしば歴代天皇によって発せられてきた。なかでも陛下の曽祖父にあたる明治天皇は、生涯の御製(ぎょせい)が九万余首の多きに上り、在世中から世の中に漏れ聞こえてきただけでも五百余首ある。そのなかには今回の大震災のような未曽有の国難や試練に遭ったときに、国家と国民を何とかして鼓舞したいと願った御製も多い。いちばん有名なのは、明治37(1904)年に戦端が開かれた日露戦争の折に詠まれた和歌である。

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 しきしまの大和心のをゝしさは

 ことある時ぞあらはれにける

 日本国民の大和魂は雄々しいものである。たとえ平時には現れなくても、一朝事のある時には自然と外に現れるものではある。もちろん、帝国憲法下の天皇と戦後新憲法の象徴天皇とでは、国制上の位置も役割も当然異なっている。歴史や時代の感性も違うことは述べるまでもない。それでも、明治天皇の御製には「取り乱すことなく助け合い、秩序ある対応を示していること」や「これからも皆が相携え、いたわり合って、この不幸な時期を乗り越えること」を訴えかける陛下のお心に共通する励ましの響きが感じられる。

 ◆勇猛の元は敷島の大和魂

 次に挙げる和歌も同じ明治37年の御製である。

 山をぬく人のちからも敷島の

 大和心ぞもとゐなるべき

 『史記』(項羽本紀)にある「抜山蓋世(ばつざんがいせい)」とは、力は山を抜き気は世をおおうほどに勇壮な気性を表すという意味である。明治天皇は、山を抜くくらいの勇猛な力の出所は敷島の大和魂が基礎である、と詠みたかったのだろう。

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 現代では「大和心」や「大和魂」という表現を日常使う人も少ない。しかし、こうした言葉をあえて使わずとも、東日本大震災の被災者の克己心や救助者らの犠牲的献身ぶりを見るにつけて、日本人としての精神力のたくましさやヒューマニティーを感じざるをえない。そして国民を励まそうとする心こそ、明治天皇の御製から陛下のメッセージに共通するお気持ちではなかろうか。(やまうち まさゆき)

                   ◇

【プロフィル】明治天皇

 めいじてんのう 第122代天皇。諱(いみな)は睦仁(むつひと)。嘉永5(1852)年、孝明天皇の第2皇子として生まれる。慶応4(1868)年に即位、同年「明治」に改元。明治22(1889)年の帝国憲法公布、27~28年の日清戦争、37~38年の日露戦争などを通じ、近代国家日本の君主として国民の畏敬を受ける。明治45(1912)年7月、崩御。


(107)東大教授・山内昌之 明治天皇(中) ローマ賢帝との共通性
 明治天皇の御製(ぎょせい)は、どことなく古代ローマの哲人皇帝、マルクス・アウレリウスの『自省録』のエスプリと似たところがある。

 2人には、哲人あるいは詩人として、他の皇帝や王たちと違う共通の個性が感じられるのだ。その一つは、統治の哲学を短い文章で簡潔に表現する才能に秀でていた点である。実際に明治天皇が明治43(1910)年に詠んだ和歌は味わい深い。

 短くてことの心のとほりたる

 人のふみこそ読みよかりけれ

 2人には大きな相違もあった。マルクス・アウレリウスは8歳の時に失った父の「慎ましさと雄々しさ」を記憶しつつ成長したが、明治天皇は8歳の時から父の孝明天皇に歌を詠む喜びや作法を教わった。

 親子の縁が薄かったマルクス・アウレリウスと違い、明治天皇は16歳まで父帝の慈愛に育まれながら成長したのである。

西郷、山岡から吸収

 王政復古の大号令後の小御所会議で、酩酊(めいてい)した前土佐藩主、山内容堂(やまうちようどう)がうっかり形容した「幼冲(ようちゅう)(おさないこと)」という言葉は、父を失ったときのマルクス・アウレリウスにはあてはまっても、明治天皇にはそぐわない表現であった。実際に容堂は、帝は不世出の英主であられるぞと岩倉具視(ともみ)に切り返されたのも当然なのだ。

 マルクス・アウレリウスは、ストア主義者の師マクシムスから克己(こっき)の精神と確固たる目的をもつことを学んだと告白している。病気の場合でさえも、機嫌良くしていることも教えられた。優しいところと厳格なところがうまく混ざり合った性質や、目前の義務を苦にせず果たすこともマクシムスによる訓練の賜物(たまもの)であった。こうした特性は明治天皇にも共通しており、明治42年の御製には次のような作品がある。

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 己が身は顧みずして人のため

 尽(つくす)ぞひとの務(つとめ)なりける

 まさに東日本大震災で復旧支援に携わる自衛隊員をはじめとした公務員や、原発作業員やボランティアの自己犠牲的な精神にそのまま当てはまる言葉であろう。被災地外の国民も、この献身的な人びとに感謝しなくてはならない。

 明治天皇のマクシムスは果たして誰だろうか。天皇は、多くの賢臣から薫陶を受けている。しかし、統治や統帥(とうすい)、知性や教養の全体を覆うバックボーンは、西郷隆盛や、その推輓(すいばん)で侍従となった幕臣、山岡鉄舟の存在に負うところが多いのではないか。宮中を女官中心の内裏(だいり)の雰囲気から変え、西欧のように武芸から学問にまで通じる活動的な青年君主に育てた人物は、まずこの2人であろう。

 マクシムスがマルクス・アウレリウスに影響を与えたのは、明治天皇が西郷や山岡から吸収した知徳と同じだったことも興味深い。「驚かぬこと、臆さぬこと。決してあわてたり、しりごみしたり、とまどったり、落胆したり、作り笑いしたりせぬこと。また怒ったり、猜疑(さいぎ)の心をおこしたりせぬこと。慈善をなし、寛大であり、真実であること」(『自省録』神谷美恵子訳、岩波文庫)

 この2人の帝王には、労働を愛する心と根気強さ、公共のために忠言を呈する賢臣に耳を貸し、各人にあくまでも公平に接した点においても共通する要素が多い。何よりも食物や衣服など嗜好(しこう)にこだわらず、万事に欲望が少なく質素だった点は驚くほどだ。明治天皇は、どれほど和歌が好きでも、それで政務をなおざりにはしなかった。大臣や重臣が政務を奏上(そうじょう)するときに、詠歌を考えている様子は少しも見受けられなかったという。

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 これはちょうど、今上天皇がどれほど御専門のハゼはじめ生物学の研究をお好きでも、大事な御公務が途中で入ると必ずおやめになられ、研究室の電気をすべて消してからお仕事に戻られる姿勢とも共通している。他方、明治天皇は余裕綽綽(しゃくしゃく)と即興で歌が浮かんだというから、歌人の才は天性のものなのだろう。

風雲の志士が御歌所長

 薩摩出身の侍従高崎正風(まさかぜ)は、御歌掛(おうたがかり)に挙げられたとき、詠歌を嗜好しすぎて大切な国政をなおざりにせぬよう求めた。職を受ける以上は「厳師」になるので「不敬不遜」にならないために、あらかじめ「勅許」を得たいと述べたらしい(大阪毎日新聞社編『明治天皇御百首』)。随分と思い切ったことを言うものだ。

 明治天皇は高崎の言い分すべてを受け入れた。莞爾(かんじ)として笑みを浮かべる天皇の顔が浮かびあがるようである。高崎の父五郎右衛門は島津斉彬(なりあきら)の継嗣問題をめぐる御家騒動、「高崎崩れ」の中心人物であり、正風も寺田屋事件や薩英戦争に深く関わり、戊辰戦争でも参謀として活躍した。革命やテロの風雲を乗り切った志士が天子の御歌所(おうたどころ)長になるのはまず奇観であり、世界史にもほとんど類を見ないことだ。

 天皇も人間である。やはり歌を詠み、好きな歴史書を読む楽しみは格別であった。その時間がないとさりげなく述懐する明治45年の御製に微(かす)かな“ぼやき”の念を感じるのは、私の感性の浅さであろうか。しかし、明治天皇の機知やユーモアの発露とも考えたいのは私だけでないかもしれない。

 繙(ひもと)かむ暇(いとま)なき日のおほきかな

 読むべき書(ふみ)はあまたあれども

 (やまうち まさゆき)









 土曜日に行く予定だった朝日名人会がキャンセルされた時のショックを丸一日引きずってしまった。市馬、志の輔、小三治の三人が一度に出るという豪華な番組だっただけに。

 なので、今日の月刊談笑@北沢タウンホール開催を談笑師匠自身がツイートされた時には、嬉しくて嬉しくて。

 落語は、笑いと涙で人々を元気にする庶民の娯楽だ。敗戦後に一世を風靡した新作落語の三遊亭歌笑は日劇を満員にしたのだそうだ。去年podcastで聴いた歌笑の新作落語は、豚の夫婦がのんびりと畑で昼寝していたら、夫が夫婦そろってトンカツにされる悪夢を見たという、周りを見渡せば夫婦はキャベツ畑で休んでいたのだったという他愛もない内容だった。でも、当時の人々を熱狂させる何かがあった……声の質は確かにいいと思う、声フェチな自分。

 閑話休題。月刊談笑は広瀬和生さんが企画に入っていて、普通の独演会ではネタがかぶってやらないネタを共通テーマで取り上げるという斬新さ、談笑さん独自の視点でネタに加える工夫ゆえにふたつのネタがどこかでリンクするという面白さ、トリねた2本以上という豪華さというか体力勝負の演目(今日は一本目が「らくだ」で中入り後が「井戸の茶碗」^_^;)、さらに談笑師匠と広瀬さんとの対談という豪華付録つき。毎回聴きたいのだけど、平日夜は下北沢で19時開演には無理(涙)……なので、祝日の今回はとっても楽しみにしていた。しかも、こんなタイミングで、キャンセルではないかとぎりぎりまで心配だった。

 談笑版「らくだ」は、昨年11月の独演会@国立演芸小劇場で途中から聴いている。「かんかんのう」を知らない屑屋が歌う曲が何と、という談笑版。フルバージョンで聴いたのは今回が初めて。しかも、オチを前回はよくわかってなかったので、今回聴いて、得心。そうか、その一言で屑屋さんが酒とともに豹変することに納得させたなぁ。

 談笑版「井戸の茶碗」は去年8月のJ亭で聴いてました。あの時の印象は「あれ、正直者の清兵衛さんじゃない?」だったのだけど、広瀬さんとの対談ではまさにあの時のJ亭の高座で、懐に入れた金を猫ばばしようかと心が揺れる屑屋さんという設定に開眼したと知り、なるほど〜と思いました。今回、高木佐久左衛門の中間であるキャラがちょっとうざい印象。古典落語の作品の女性の扱いに敏感な談笑さんが、娘を高木氏に嫁がせることを考えた千代田氏が娘に、どう思う、とちゃんと意思確認する会話を入れていることはとても嬉しいです。そして、サゲも一般的な井戸茶のサゲより女性に受け容れられやすいと思います。

 大ネタ2本の後、さらに広瀬さんとの対談もしてくれる談笑師。いつ頃からそのネタを高座にかけているとか、演じていてどこをどう解釈してやっているかとか、どこをどう変えたとか、他の落語家さんでは知ることが難しい制作裏話みたいなことを聴けるのがこの回の面白いところ。

 久しぶりに談笑落語を聴いて、明日からの仕事に気力を充電しました!!





 『実伝 江川太郎左衛門』仲田正之、読み始めて1センチぐらい進みました。あと4センチはあります^_^;。敬愛する坦庵先生の生涯に関する本ですので、楽しいです。
 そしたら、「江川文庫」に関する新聞記事が!!

代官の蔵から見える幕府 「江川文庫」貴重文書が4万超

 江戸時代に伊豆韮山(静岡県伊豆の国市)の代官をつとめた江川家に伝わる資料群「江川文庫」の調査が最終段階を迎えている。10年に及んだ調査では文書だけでも約4万5千点が確認され、全体像が見えてきた。

 珍しい資料が2月に確認された。幕府転覆を狙ったとされる「慶安の変」(由井正雪の乱、1651年)での手配書で、歌舞伎などで知られる金井半兵衛ら7人の人相や特徴が記されていた。

 勘定奉行から代官にあてた書状の形式で、「この度悪事を企てた徒党」の「男ぶり」(特徴)を伝える。金井半兵衛は「つら長く色くろぐろく候、せいたかくしてすらりといたし」とある。

 計画は密告により発覚し、正雪は7月26日に静岡で自害。手配書はその4日後の30日付で出されていた。半兵衛は正雪門下で丸橋忠弥に次ぐ存在。大阪での決起を担当することになっていたが、手配書の出された同じ日に、大阪で自決した。

 「正雪の死の報が静岡から江戸に届き、東海道筋を押さえることを目指したのだろうが、事件の緊迫感が伝わってくるようだ」と調査した保谷徹東京大教授は話す。

 江川文庫の調査は2002年、江川家41代当主の滉二さんが湯之上隆静岡大教授に依頼したのがきっかけで始まった。江川家は全国の天領の代官のなかでも数少ない世襲。当主は代々、太郎左衛門を名乗っており、幕末に西洋の軍事制度を紹介したことで知られる英龍は36代目に当たる。二つの蔵には伝来の品々がぎっしりとつまっており、「後世に伝えるため、しっかりした態勢が必要だ」として調査団が組織された。団長には東京大教授だった宮地正人さんが就いた。

 調査はまず東蔵から。文書、書画、典籍、工芸品、写真など2万点を調べた。3巻で1200ページにのぼる報告書を刊行すると当初予定の5年は終わってしまった。 計画を5年延長し、西蔵の調査がスタートしたのが07年。内容を確認する作業がようやく終わる見通しがたち、第2次調査の報告書をまとめる作業が4月から始まる予定だ。

 一連の調査を通して江川文庫の全体像が見えてきた。

 当初注目されたのは幕末の軍事資料だった。韮山代官所は幕府の軍制改革センターの役割を果たし、オランダ語の軍事書は国内きってのコレクション。大砲の鋳造、銃隊の訓練、洋式船の建造、東京湾での台場の築造などの資料が保管されていた。「幕府の軍事改革や対外政策の実態を知る貴重な資料」と宮地さん。

 多かったのは代官所の行政書類。「江戸時代の行政がどのように運営されていたのか、どう変わったのかを知ることができる類例のない文書群」と湯之上さんは語る。慶安の変の手配書はその一例で、数年前には大塩平八郎の手配書も見つかった。大名家の文書と比べて、「幕府の行政をそのまま伝えている点で価値が高い」という。

 戦国期の資料も発見され、当初は小田原の北条家に仕えていたことが判明。「戦国と明治維新という激動を江川家は乗り越えた。優秀な人材を登用する仕組みがあったからだ」と保谷さんは語る。

 国の重要文化財に指定される見通しというが、まだ保管のめどは立っていない。「何があるのかがようやくわかっただけで、この資料をもとにした研究はこれからがスタート。そのために研究と保存を両立できる施設がほしいですね。江戸時代研究の拠点になるはずです」と湯之上さんは力を込めた。(渡辺延志)

 これ、すっごい楽しみです。江戸時代〜幕末維新の歴史を書き換えるような発見が出てくるかも知れません。
 江川家が当初は小田原の北条家に仕えていたことも判明、ですか。坦庵先生こと36代英龍のご正室様も北条家出身……小田原北条家につらなる方なんでしょうかね。

三重
松浦武四郎:「蝦夷人機織図」 松阪市、資料保存で購入 8月から公開 /三重
◇8月から記念館「アイヌ展」で公開
 松阪市ゆかりの幕末の探検家で、北海道の名付け親として知られる松浦武四郎が晩年にアイヌの人々の生活を描いた掛け軸「蝦夷人機織図」が東京都の古美術商で発見され、松阪市市教委が武四郎の資料保存のための「コスモス文化振興基金」を活用し、89万2500円で購入した。8月9日から同市小野江町の松浦武四郎記念館で開かれる「武四郎とアイヌ民族展」で、一般公開される。

 「蝦夷人機織図」は幅約51センチ、高さ約30センチで、ニレ科の樹木、オヒョウの樹皮をはぐアイヌの男性や樹皮の繊維を使って機織りをする女性などが描かれている。また、左端には「機織りから無数の着物が織られていく」などと詠んだ七言絶句の自賛と武四郎が好んで押した「北海道人」のほか「甲申春日」の落款があり、武四郎67歳の1884(明治17)年の作と判明した。

 山本命・同記念館学芸員によると、図柄は武四郎が最終の6回目の北海道探検を終えた1859(安政6)年に出した「蝦夷漫画」と似た構図という。ただ、武四郎はアイヌ政策に反発して1870年に政府を去っている。今回の掛け軸は14年後の東京に戻ったころの作であり、アイヌに対する思いを物語る貴重な資料だとしている。【橋本明】


コラム
(105)東大教授・山内昌之 藤田東湖
安政の大地震に母を庇う

 マグニチュード9・0は国内観測史上の最大の地震記録である。東日本大震災で亡くなられた方の御冥福を祈るとともに、行方不明の方々が早く発見されることを願っている。同時に、被災地で苦労の多い生活を強いられている住民に共感し、生存者の捜索に全力を尽くす自治体関係者や自衛隊員の努力にも国民あげて感謝しなくてはならない。

 忘れてはならないのは、福島第1原子力発電所の復旧に危険な最前線で取り組んでいる東京電力と関係企業の作業員への激励である。会社の危機対応や広報能力へのゆきすぎた批判よりも、まずは献身的な作業員と東電幹部を問題解決に集中させる冷静な配慮も政府とメディアの双方に求められている。

 ◆埋め立て地の被害大きく

 幕末最大の震災といえば、何といっても安政の大地震であろう。安政2年10月2日(1855年11月11日)午後10時頃に関東地方南部で発生したマグニチュード6・9の直下型大地震である。震源は東京湾北部・荒川河口付近といわれている。被災地は江戸など関東平野南部の狭い範囲に限られたが、事実上の首都が直撃された被害は甚大であり、死者約4700人、倒壊家屋1万戸以上を出したとされる。

 武蔵野台地の地盤が固い山の手の武家屋敷や、埋没した洪積台地が地表面のすぐ下にある日本橋や銀座は町方でも被害は少なかったが、庶民の住む下町、とくに隅田川から東の深川など埋め立て地の損害は大きかった。武家方でも、江戸城西の丸から日比谷や大手町など谷を埋め立てた地域では被害が大きい。小石川の水戸藩邸が倒壊して、藤田東湖が圧死した悲劇はこの時に起きた。

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 東湖は水戸学者として幕末の尊皇攘夷(じょうい)のイデオロギーと運動に決定的な影響を与えた人物である。尊皇攘夷派のバイブル『弘道館記述義』を著した東湖は、藩主、徳川斉昭(なりあき)の腹心として藩政にも参与し、後の諸生党につながる門閥派との党争にも加わった。東湖は、彰考館(しょうこうかん)総裁の儒者、藤田幽谷(ゆうこく)の子として生まれたのだから、学者としてこれ以上ない毛並みに恵まれていた。しかし、この父はやや物騒なことに、文政2(1819)年に大津浜へ英艦が来着したとき、子に命じて英国人を斬って攘夷を天下に示そうとしたが、艦が退帆(たいはん)したために失敗している。江戸の幕閣が漂着者の前例に従って寛大に扱い、事を穏便に済ますように下達(かたつ)しているのに、幕府の権威をはなから無視しているのだ。

 ◆藩主、斉昭にも痛手

 文政12年の水戸藩主継嗣(けいし)問題に当たって斉昭を擁立して以来、東湖は郡奉行、江戸通事御用役、御用調役と順調に昇進し、天保11(1840)年には側用人として藩政改革に当たる。その後も斉昭が幕府から謹慎処分などを受ければ失脚、海防参与に任じられると東湖も海岸防禦御用掛かいがん防御ご用がかり)として主君の補佐に返り咲くなど、君臣形影(けいえい)のように行動を共にした。それでも東湖には、経世済民の理想と政治リアリズムを併せもつ懐の深さがあった。東湖を大地震で失ったのは、斉昭の痛手となり晩年の政治判断をしばしば狂わせる原因となったのではないか。

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 東湖については、母を地震から庇(かば)って圧死したという逸話を子供のときに何かの本で読んで以来、その名がずっと記憶に沈殿した。正確にいえば、一度は無事に脱出した母が火鉢の火を心配して邸内に戻ったために、東湖も心配して後を追ったらしい。落下してきた鴨居(かもい)か梁(はり)から母を守るために東湖が自分の肩で受け止め、何とか母の命を救って無事に現場から脱出させたというのだ。圧死というのは、自分の体力や気力がついに尽きて木の下敷きになって絶息したからであろう。子供心に自分には東湖のような孝行を尽くせるだろうかと自問したことを憶(おぼ)えている。

 今回の大地震津波でも東湖とその母のような親子は無数にいたはずである。夫婦はもとより、親が子を慈しみ、子が親の命を大切にするのは、緊急時こそ本能的に発揮されるものだ。どちらかの生命を助けるために片方が犠牲になった事例も多いかもしれない。まことに痛ましいことである。死者には、いまはただ安らかに眠りたまえと祈るのみである。(やまうち まさゆき)



【プロフィル】藤田東湖

 ふじた・とうこ 文化3(1806)年、水戸藩士の儒学者、藤田幽谷の次男として生まれる。徳川斉昭を藩主に擁立し、その腹心として藩政改革を推進。嘉永6(1853)年、斉昭の幕政参与とともに海防掛となり、江戸で活躍。尊皇攘夷を説く水戸学の大成者として広く影響を与える。安政2(1855)年、安政の大地震で江戸藩邸が倒壊し、圧死した。


ブックレビュー
ブック】海舟の妹の目から動乱期の幕末描いた大作
★諸田玲子さん「お順 勝海舟の妹と五人の男」毎日新聞社・各1680円

 不良オヤジに努力家の息子。幕末の“父子鷹”、勝小吉と海舟を間近に見て育ったお順は、25歳年上の洋学者、佐久間象山の妻となり、父や兄に負けない波瀾の生涯をたどる。幕末の動乱期、志を持って生きたのは男だけではなかった。自らの意志を貫いた女性、順の目から、幕末を描きあげた大作である。(文・青木千恵、写真・大山実)

 --お順への興味は

 「2007年に作家の半藤一利さんと対談して、“勝海舟の妹のお順が面白いですよ”と勧められたのがきっかけ。私が子供の頃によく遊んでいた清水山(静岡市)のふもとのお寺に順のお墓があるとわかり、俄然、興味がわきました」

 --父、初恋の人、夫、兄、夫の死後恋に落ちた人…。5人の男たちが、順の人生を彩ります

 「順の周りにいた実在の男たちが非常に個性的なので、5人の男とのやり取りから順の生涯と幕末史を描く構成にしました。父は放蕩者、夫は変わり者、惚れた相手は怠け者と、順はなぜかダメ男に縁がある(笑)。でも、5人それぞれに魅力があり、自立心旺盛な順が彼らに惹かれた理由がわかりましたね」

 --兄は英才の勝海舟

 「幕軍も官軍も大勢の武士が戦って命を落とす中、平和裡に生きのびた海舟を批判する声は多くて、私もあまり好きではありませんでした。しかし、この小説を書いて、凄い人だと思いました。とにかく忍耐強い。一方、父の小吉は気性は激しいが人情味豊か。不遇だけど一生懸命に生きている親を見て、海舟や順のような強い子が育ったのでしょう」

 --史料調べは

 「大変でした。勝海舟の史料が大量にあっても、順をはじめ女性についてはほとんど書かれていない。ごく断片的にある事実を点として、点と点の間を想像で結んでいきました。順がなぜ、25歳も年上で、子供もいる象山に嫁いだのか。象山の死後、なぜ俊五郎のようなダメ男に恋してしまったのか。この2点における順の心情が最大の謎でした。断片的な史実から何をとらえて、人物の気持ちをどう解釈するかが重要。納得できないと書けないですから」

 --順の目でみた幕末

 「順が象山に嫁いだのは、当代随一の学者の仕事を支えることで、自分も世の中の役に立ちたいと考えたからだと思います。幕末期は、国の大事に対し国中の人々が志を強くした時代でした。各地で優れた思想や志士が輩出した熱は、女たちにも伝わっていた。象山と吉田松陰、海舟と坂本龍馬ら、私利私欲を捨てた人々が続々登場して、順の生涯を描くのはとても気持ちがよかったですね。幕末は血なまぐさくて苦手でしたが、井伊直弼の愛人の生涯を『奸婦にあらず』で書き、さらに今回、順を書いて、また幕末を書きたいなと思うようになりました」

 ■もろた・れいこ 1954年、静岡県生まれ。上智大学文学部英文科卒業。1996年『眩惑』でデビュー。2003年『其の一日』で吉川英治文学新人賞、07年『奸婦にあらず』で新田次郎文学賞。『天女湯おれん』『美女いくさ』『炎天の雪』など著書多数。

【“歴男”も増えて】

 最近は歴史好きの女性が増え、“歴女”という言葉も生まれている。

 「若い男性には“草食系”が増えているというし、今は荒々しく戦うと生きにくい時代なのだと思います。戦国武将の生きざまなど、過去の日本人の姿を憧憬したブームなのかもしれないですね」(諸田さん)

 昨年は、『お順』のほか4作の単行本と6作の文庫を上梓。平安から現代まで描く時代は極めて広い。「勝小吉と海舟については、子母澤寛氏の名作『父子鷹』があり尻込みもしますけれど、歴史の見方はひとつではないんですね。私は“歴男”も増えてもらいたい。日本人はもっと、自分の国の歴史を知った方がいいと思いますから」

■「お順 勝海舟の妹と五人の男」毎日新聞社・各1680円

 将軍家に仕える直参だが無役で微禄、しかも放蕩者の父・勝小吉のせいで、勝家の家計は常に火の車。そんな勝家の末娘で、父に似て気性が激しい順の、波乱の人生を描いた長編歴史小説。

 昨日書店で手に取りました。5人目の男が村上俊五郎ってのが気になる自分はやっぱり『組!』ファン(苦笑)。「俊五郎のようなダメ男」という諸田さんのコメントに、あ、やっぱりと思っちゃうのは『組!』で山南さん相手にムダにすごむ俊五郎イメージが染みついてますなぁ。






 被災地の方々のご苦難や悲しみを思いつつ、自分は今普通に日常生活を送ろうと思います……小さなひとつひとつのことに感謝しつつ。
 ということで、ためていた幕末ニュースからピックアップして送ります。

神奈川
黒船来航時の大津陣屋と川越藩テーマに企画展、幕末期の様子を解説/横須賀
 幕末期に江戸湾(東京湾)の警護を命じられ、横須賀の大津陣屋で暮らしていた川越藩士たちを紹介する企画展「黒船来航 大津陣屋と川越藩」が8日、京急大津駅前の大津コミュニティセンター3階集会室で始まった。大津観光協会が主催し、市民団体「大津探訪くらぶ」(杉本幸三代表)が企画を担当した。入場自由。13日まで。

 異国船が日本近海にたびたび出現するようになった幕末64 件期、川越藩は幕府から江戸湾口の警護を命じられた。1843(天保14)年には、現在の県立横須賀大津高周辺にあった大津陣屋を拡張・整備し、家族で暮らしていた。

 大津陣屋は広さ約3・2ヘクタールにおよび、最盛期には当時の村の人口に匹敵する1500人が生活していた。寺子屋を開く藩士もいて、村の子どもたちも学んだという。1868(明治元)年に取り壊された。

 会場では、200点を超える資料を基に黒船来航と大津との関係、絵で見る開国など幕末64 件期の様子を解説している。

 特に目を引くのが三浦半島に眠る川越藩士や家族の墓を紹介するコーナー。各寺の過去帳には故郷の土を踏むことなく亡くなった130人余の名が残されており、杉本代表らが現地調査した結果、信誠寺(大津町)の10基を筆頭に計22基が確認できた。この調査結果を地図や写真で細かく紹介している。

 展示資料の一部は今後、埼玉県川越市内でも展示される予定。杉本代表は「今回の企画展が川越市との交流のきっかけになれば」と期待している。


須賀の幕末海上防衛を紹介 「黒船来航 大津陣屋と川越藩」展
 幕末の横須賀で海上防衛を担った川越藩や黒船の訪れた歴史などを紹介する「黒船来航 大津陣屋と川越藩」展が8日から始まる。幕末に浦賀にやってきた米軍艦を描いた絵画や横須賀市大津町周辺の史跡を紹介するパネルなど約200点が並ぶ。同町の町おこしを進める市民団体「大津探訪くらぶ」が企画し、大津コミュニティセンター(大津町)で13日まで開催する。

 日本近海に、通商を求める外国の船が頻繁に姿を見せるようになった幕末。現在の埼玉県川越市を領地としていた川越藩は、天保14(1843)年に、江戸幕府から現在の東京湾の防衛を命じられた。

 同年、川越藩は東京湾を一望できる現在の横須賀市大津町に、藩士が暮らすための広大な屋敷「大津陣屋」を建設。敷地面積3万2000平方メートルの屋敷に、最大で1500人もの藩士が住み込んで外国船の警戒にあたった。川越藩が防衛を務めた10年間に、故郷に帰れないまま横須賀で亡くなった藩士も多かったという。

 同展では、そうした川越藩士の墓などの史跡や大津陣屋にまつわる歴史を、写真や見取り図などさまざまな形で紹介している。探訪くらぶの杉本幸三代表(66)は「江戸時代の海上防衛に、川越藩が果たした役割を、もっと多くの人に知ってほしい」と話している。

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 また、同展には川越藩に関する資料が豊富な川越市立博物館(埼玉)も絵画の貸し出しなどで協力している。13日午後1時半からは、同館の大野政己館長が「黒船来航と川越藩」をテーマに講演を行う。

 大野館長は「川越と横須賀が、江戸時代に密接な関係にあったことは、あまり知られていないが、これを機に両市の交流が進むとうれしい」と期待している。

 入場無料で、期間中は午前10時から午後4時まで開場している。問い合わせは大津観光協会((電)046・836・3531)まで。


静岡
県有形文化財:浄感寺壁画など指定--県教委 /静岡
 県教委は9日、浄感寺本堂(松崎町松崎)の天井画「雲龍図」と壁画「飛天図」=を県有形文化財に指定したと発表した。県文化財保護審議会(会長・金原宏行常葉学園大教授)の答申を受け決めた。これで県指定文化財は計560件になった。

 ともに幕末の1846年ごろ描かれ、今の松崎町で生まれた職人、入江長八の代表作。漆喰(しっくい)による建築装飾の技を磨いた長八が、菩提寺(ぼだいじ)だった浄感寺の再建にあたって腕を振るったとされる。

 墨絵の「雲龍図」は、縦3・5メートル、横5・5メートルの大きさ。竜の険しい顔の周りに、渦を巻く黒い雲を配し、力強く、躍動感ある構図が特徴となっている。

 漆喰で描いた「飛天図」は縦80センチ、横2・7メートル。漆喰をこてでレリーフ状に盛って造形している。雲龍図と対照的に、朱や緑、青などの色を豊かに使って、笛を吹く天女のあでやかな姿を表現している。【平林由梨】


静岡
鉄舟の書など文化財40点 浜松・方広寺で展示
 「山岡鉄舟と奥山方広寺展」(県、県文化財団主催、静岡新聞社・静岡放送後援)が6日、浜松市北区引佐町の方広寺で始まった。21日まで。
 幕末に日本の近代化に貢献した鉄舟や方広寺にまつわる約40点の文化財を展示している。会場には、同寺が所蔵する鉄舟の書「六曲一双屏風(びょうぶ)」、鉄舟が使用していたすずりや印章などが並ぶ。幕末から明治初期の同寺や鉄舟に関するパネル展示も行われている。鉄舟は、1881年の大火災で本堂などほとんどの建物が焼失した同寺の再建に大きく寄与した。
 初日は、鉄舟が建立した全生庵(東京都)の平井正修住職が「山岡鉄舟の人と生涯」と題して特別講演した。12日午後2時半からは、本県出身の講談師宝井馬琴さんと田辺一邑さんの講談が行われる。参加費は2千円(事前申し込みが必要)。問い合わせは方広寺〈電053(543)0003〉へ。


福井
幕末の醤油「ソイソース」復活! 室次醸造場(福井)が発売

 江戸末期に福井藩の輸出品の一つだった醤油(しょうゆ)の醸造元、室次醸造場(福井県福井市田原2丁目、白崎裕嗣社長)はこのほど、当時の方法で醤油「幕末21 件のソイソース」を醸造し、販売を始めた。丸大豆などの原料はすべて県産品。人工甘味料や保存料も無添加という昔ながらの“安全安心”が売りだ。

 同社は元禄2(1689)年創業の老舗。1800年代半ばには3千石(約54万リットル)を醸造する県内最大級の醸造場だった。醤油は、福井藩士由利公正らの殖産振興で長崎の蔵屋敷からオランダ商館を通して輸出され、ヨーロッパでは「ソイソース」として好評だったという。

 しかし、同社は戦後の区画整理などで敷地が半分以下となったことから、主力を石油販売業に移し、醤油づくりは得意先だけに限っていた。

 ところが近年、安全な醤油を求める消費者が増え、同社にも「老舗の醤油屋なら昔ながらの安全な醤油があるだろうと、ここ数年、全国からの問い合わせが増えた」(白崎社長)という。そこでこうした要望に応えようと、醤油業にも本格復帰することにした。

 現代の醤油は発酵時間短縮のため熱を加えたり、防腐剤や人工甘味料などが含まれているものも多い。これに対し同社は防腐剤など使わず、水や丸大豆、小麦、米、こうじなど、すべて県内産の材料。1年をかけて自然熟成、完成させた。

 商品は120ミリリットル(450円)と300ミリリットル(700円)の2種類。「幕末21 件のソイソース」の名で、同社ホームページのほか、リカーワールド華全店、かゞみや福井駅前店で販売。そのほか、県内の観光地や名所旧跡などでの販売も増やしていく予定。

 問い合わせは同社フリーダイヤル(0120)000850。


春嶽の功績、資料で迫る 県文書館で書状や著書展示
 幕末21 件から明治時代にかけての松平春嶽(慶永(よしなが))の功績などに関する資料を紹介する展示「春嶽の生きた時代」が4月10日まで、福井市の福井県文書館で開かれている。福井藩で春嶽が進めた改革や、幕府や明治政府で重要な役割を担っていたことなどを記した資料が並んでいる。

 同館は、福井藩主各代に功績や出来事などを記録した「家譜」のうち春嶽代の53巻を活字化し、資料集「越前松平家家譜 慶永」としてまとめている。3月中旬で全5冊すべてが刊行されることを機に企画、資料10点とパネルを展示している。

 「一橋慶喜感状」は、後の15代将軍一橋慶喜が福井藩に下した書状。禁門の変で皇居の護衛にあたり長州藩と戦った武勲をたたえている。慶喜が春嶽に長州征討の副総督就任を求めたことに関係する書簡などもあり、春嶽が中央政局にも深い関わりを持っていたことがうかがえる。

 また、表舞台から退いた春嶽の著書「逸事史補(いつじしほ)」は、攘夷(じょうい)の象徴とされていた水戸藩の徳川斉昭が、実は開国和親もやむを得ないと春嶽に伝えていたことなどが書き記された興味深い内容となっている。

 このほか、家譜の中から、戊辰戦争や天狗(てんぐ)党の乱などを取り上げたパネルも展示している。13日の午前11時と午後2時から、同館職員による解説(無料)が行われる。月曜休館。



滋賀
井伊直弼の藩政に焦点 彦根城博物館で11日から企画展
 彦根城博物館は11日から、テーマ展「直弼発見! 井伊直弼の藩政」を開催する。幕末の大老としての人物像ばかり注目が集まる井伊直弼について、彦根藩主としての側面にも光を当て、その全体像を探ろうという企画。直弼の藩政への姿勢を示す書状や通達など計23件、36点を展示する。4月12日まで。

 同博物館では、2008年度と09年度に開かれた「井伊直弼と開国150年祭」に合わせ、計10回の「直弼発見!」シリーズを開催したが、10年度以降も毎年、新たな視点から直弼を紹介することにしている。

 今回の展示では、直弼の政治構想や家臣団の綱紀粛正など四つのテーマに分けて構成。清凉寺所蔵の井伊直弼画像のほか、養父の直亮が亡くなった直後に、信頼していた藩士三浦安庸らに宛てた人事構想や藩政運営の姿勢を示した書状、藩校の校風を復古させるよう指示した命令書に加え、直弼の領内巡見の記録などが展示される。主要な文書には現代語訳を添える。

 会期中無休で、観覧料は一般500円、小中学生250円。3月12日午後2時から、藤尾隆志学芸員のギャラリートークがある。


大阪
幕末の風情描く 大阪歴史博物館で森一鳳展を開催
 大阪市中央区大手前の大阪歴史博物館は、幕末の大坂の風情を描いた絵師、森一鳳を紹介する特集展示「幕末大坂の絵師森一鳳」を開催している。

 森一鳳(1798~1871年)は円山応挙の高弟、森徹山を養父とし、江戸時代末期に活躍した絵師。写生を重視した円山派の画風を受け継ぎ、幕末に発行された絵師の番付で上位に位置するなど人気があった。名所風景を題材にした「浪華勝概帖天保山」や養祖父、森狙山が得意とした鳥獣を題材にした「鹿に若松図」など28点が出品されている。

 一鳳は川舟で藻を刈り取る様子を描いた「藻刈舟図」を多く描いているが、これは「藻を刈る一鳳」で「もうかる一方」と見立てられ、商人にもてはやされたという。

 4月4日まで。火曜休館。開館時間は午前9時半~午後5時。入館料は大人600円、大学・高校生400円。中学生以下無料。


奈良
功績たたえ桜植樹 - 奈良公園の基礎作った川路聖謨
 数千株のサクラやカエデを植えて奈良公園の基礎をつくった幕末の奈良奉行、川路聖謨(かわじ・としあきら)の功績を顕彰する「川路聖謨を讃える会」(孝田友禅会長、98人)は6日、川路の功績をたたえようと奈良市登大路町の興福寺「52段」西側に桜の記念植樹を行った。

 同会は平成17年に発足。県内を中心に全国に会員がいる。植樹式には関係者約30人が出席し、孝田会長と治多和夫副会長、小西凉治奈良公園管理事務所長の3人が3メートルの若木を植えた。

 孝田会長は「観光の都で幸せを与える花になってほしい」とあいさつ。北海道に住んでいる同会員でもある川路の子孫から届いたお礼の言葉を伝えた。

 川路聖謨は弘化3(1846)年から5年半、奈良奉行に在職し、生活困窮者の救済に努めたほか、東大寺、興福寺境内にサクラとカエデを数千株植樹し、奉行所付属の官林に50万本の苗木を植えたといわれている。52段の西隣に記念碑「植桜楓之碑」を自ら建立しており、今回はさらにその西側に植樹した。


「川路聖謨を讃える会」結成7年祝い、桜を植樹 興福寺
 幕末に奈良奉行だった川路聖謨(かわじ・としあきら)(1801~68)の業績を現代に伝えようと活動している「川路聖謨を讃(たた)える会」が6日、結成7年を祝って奈良市の興福寺五十二段の横に桜の木を植えた。

 川路は1846年から奈良奉行として5年半在職。東大寺や興福寺境内に数千株の桜やカエデの木を植え、奈良の町づくりに尽力した。

 植樹したのは、樹齢5年、高さ約4メートルのソメイヨシノ。孝田有禅(こうだ・ゆうぜん)会長(85)は「いつまでもこの桜が、奈良の幸せを見守ってくれることでしょう」とあいさつ。孝田会長やメンバーらは根元に丁寧に土をかぶせた。


川路聖謨たたえ植樹
 幕末に奈良奉行を務めた川路(かわじ)聖謨(としあきら)(1801~68)の功績をたたえようと、市民団体「川路聖謨を讃(たた)える会」が6日、奈良市登大路町の興福寺近くで桜を植樹した。

 川路は1846年から奈良奉行を約5年半務め、産業開発や奈良町の環境整備に尽力し、興福寺境内などに数千本の桜やカエデを植えたという。

 同会は2005年に結成、会員98人。この日は、孝田有禅会長(85)ら会員約35人が、桜やカエデの植樹を記念して川路が建立した「植桜楓之碑(しょくおうふうのひ)」横に、スコップなどを使ってソメイヨシノ1本(高さ約3メートル、樹齢約5年)を植えた。孝田会長は「住民の幸せのために心を砕いた川路の思いを語り継ぎたい」と話した。

(2011年3月7日 読売新聞)


兵庫
県重要文化財:堀家住宅など3点指定--県教委 /兵庫
 県教委は7日、「堀家住宅」(たつの市龍野町)=写真・左=の主屋(しゅおく)や内蔵など34棟▽「市之郷(いちのごう)遺跡」(姫路市市之郷)=写真・下ともに県教委提供=出土の土器など44点▽「大乗寺」(香美町香住区)の客殿など2棟--の3点を県の重要文化財に指定すると発表した。県の指定する文化財は今回を含めると828点になる。

 堀家住宅は約6484平方メートルの敷地に、18世紀後半から幕末を中心に築かれた建物21棟と門7棟などが並ぶ。建物群の質と量は、県内の江戸時代の民家としては他に例がなく、播磨地域の豪農の生活を伝えている。

 市之郷遺跡の出土品は、播磨地域で5世紀の渡来文化がどのように受け入れられたかを考える資料として評価されている。

 大乗寺は奈良時代の僧・行基の開山と伝えられる。国の重要文化財に指定された障壁画で飾られた客殿などは、近世後期の上質な建物として知られる。【石川貴教】

〔播磨・姫路版〕


島根
松江歴史館が竣工、新観光拠点に19日開館
 松江藩政下の松江の文化や生活を紹介し、新たな観光拠点に期待される松江歴史館(松江市殿町)の竣工(しゅんこう)式が12日、同館で行われた。19日の開館を前に、経済人や住民ら関係者約270人が、江戸時代から伝わる貴重な歴史資料や、松江城の天守を望める日本庭園などを見学した。

 同館は2009年1月に着工し、市が総事業費39億円をかけて整備。外観は武家屋敷風で、鉄筋コンクリート一部2階建て。延べ床面積は約4200平方メートル。常設展を行う基本展示室や企画展示室、日本庭園越しに松江城の天守を望める約30畳の大広間などがある。

 竣工式で松浦正敬市長は「松江の歴史や文化、観光情報の総合的なガイダンス機能を持つ施設として、市内外にPRしたい」とあいさつした。

 その後、出席者は真新しい館内を見学。幕末の城下町を再現した600分の1の縮尺模型や、松江の茶の湯文化を象徴する茶器、松平家の家老伝来のかっちゅうなどを、じっくりと鑑賞。大広間では抹茶を味わった。

 19日からは、07年に始まった松江開府400年祭のフィナーレとして、同歴史館などをメーン会場とした松江開府400年記念博覧会もスタート。12月4日まで市内を中心に多彩なイベントが開かれる。


山口
九州新幹線全通で薩長駅弁
 九州新幹線の全線開業に合わせ、小郡駅弁当(山口市小郡下郷)は12日、新作駅弁「長州さくら弁当」の販売を始める。山口県と鹿児島県の味を詰め込み、薩長同盟をイメージした包み紙で両県のつながりの強さをアピールした。
 山口の味は、ゆず酢で味付けしたシロサバフグの天ぷら、山口市阿知須の漬物「寒漬け」、岩国レンコンの煮物、萩の夏ミカンのシロップ漬けなど。鹿児島の味は、甘辛く煮込んだ黒豚などが楽しめる。
 JR新山口駅(山口市)では通年、新下関駅(下関市)では土日祝日に1個950円で販売する。縦、横18センチの箱にはサクラのピンクの花びらをデザインし、包み紙には、幕末から明治維新にかけ活躍した高杉晋作と西郷隆盛の顔写真を印刷している。
 同社によると、開通初日の12日は団体予約を含め約600個を製造する。「自慢の味を楽しんでもらいたい」と今井日出夫社長。予約や駅売店での取り置きもできる。同社=電話083(973)0126。

【写真説明】九州新幹線の全線開業を記念した新作「長州さくら弁当」


萩城跡外堀の修理完了
土塀付き土橋や船着場復元

保存修理が完成した萩城跡外堀
 萩市の国指定史跡「萩城跡」の外堀の保存修理事業が15年を経て完成した。江戸後期の形態に整え、北の総門や土塀付きの土橋に加え、船着場や土塁も復元。往時の姿をよみがえらせた。

 築城時、外堀は萩城三の丸と城下町を隔てるために東側と南側に逆L字状に巡らされた。堀幅は完成当初の1622年(元和8年)は約40メートルだったが、1739年(元文4年)までに約28メートル、幕末までに約16メートルに狭められた。

 市は今回、外堀総延長約1400メートルのうち、三の丸東側の南北732メートルを幕末期の幅で復元。水をたたえた景観を再現するために上水道の不用水を流し込んだ。発掘調査で出土した石垣遺構は展示用に残した。外堀に並行する都市計画街路も整備された。

 3か所の総門のうちの「北の総門」は脇戸付き切り妻造りの高麗門。柱間5・9メートル、高さ7メートルと国内最大規模で、樹齢250年のケヤキ材などを用い、2004年に完成した。

 全国的にも珍しい「土塀付きの土橋」(幅5・3メートル)は、北の総門に通じる橋。萩城下町絵図や文献をもとに、両側に高さ2・1メートル、厚さ90センチのしっくい塗りの土塀を37メートルにわたって築いた。

 総事業費は約6億4200万円。29日に完工式が行われる。(横木稔郎)




長崎
近藤長次郎の顕彰碑26日除幕 長崎・中島川公園
 坂本龍馬の片腕といわれた幕末の志士、近藤長次郎の顕彰碑を建立する会(川邉篤次郎会長)は26日、長崎市の中島川公園で顕彰碑の除幕式を行う。

 亀山社中の中心人物として活躍し、薩長同盟の実現に貢献しながら長崎で割腹自殺した長次郎の功績を後世に伝えようと、同会は昨年9月から顕彰碑の建設費用を募り、1月末までに約200万円が全国から寄せられた。

 顕彰碑は眼鏡橋近くの花壇内に設置。高さ1・3メートル、幅1・75メートルの自然石に、諫早市の彫刻家、馬場正邦さん(日展会員)が制作した長次郎のレリーフを埋め込む。

 1日は碑の建設予定地で地鎮祭があり、同会会員と工事関係者8人が出席し、工事の無事を祈った。

 除幕式は午後2時から。長次郎のひ孫・川邉会長=北九州市在住=のほか、長次郎の妹の子孫・千頭(ちかみ)輝雄さん=高知市在住=が出席する予定。


コラム
 鳩山氏を徳川慶喜に比しているのが秀逸。先人と比べると、人物的には小物感が否めませんが。
(104)東大教授・山内昌之 鳩山氏の前原氏批判に見る政敵の不意打ちと進退
政敵の不意打ちと進退

 政治家はいつどこで政敵の不意打ちを受けるか分からない。地位が上になればなるほど、嫉妬や緊張の連続で心が休まらないだろう。

 前原誠司前外相は、政治資金規正法の禁じる外国人からの政治献金受領を国会で取り上げられ、辞職を余儀なくされた。外交の責任者が在日外国人から献金を受けると、対外政策の決定に影響が出るという批判には根拠がある。他方、献金額が5年間で25万円にすぎず、格別の政治的野心もない篤志家の善意ではないかという指摘もあった。しかし、億や数千万円でないといっても、金額の多寡で規正法違反の事実が消えるわけでもなく、前原氏は現職外相として潔く責任をとったのだろう。

 不思議なのは、鳩山由紀夫前首相が規正法の厳しい趣旨に言及しながら、「金額の問題ではない」といちはやく前原氏に進退を迫るかのような発言をしたことだ(『産経新聞』3月6日)。与党政府一体となって国会の予算案通過を乗り切ろうというときに、この言辞に驚きを感じた民主党員も多いのではないか。

 前原氏と比較できないほど多額の金を母親から不法に受けていながら、政治責任を回避した裕福な政治家の発言としては、訝(いぶか)しさを感じる人もいるはずだ。それにしても、鳩山氏の発言を聞くたびに、幕末の一橋(徳川)慶喜(よしのぶ)の言動を時折思い出すのは私だけであろうか。

 一橋慶喜は、慶応元(1865)年に兵庫の開港と大坂の市場開放を決断した外国掛老中の阿部正外と松前崇広(たかひろ)の決意に反対することで、幕府の権威を内側から損ねた。将軍家茂(いえもち)2度目の上洛(じょうらく)は、英仏蘭3国が要請しながら朝廷が反対していた開港開市の問題解決のためでもあった。

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 阿部は松前とともに英仏蘭の公使と交渉したが、いずれも兵庫開港の諾否を明確にしなければ幕府ともはや交渉できない、京都に出かけて天皇や朝廷と交渉すると威嚇したのである。阿部らは幕威の保持と外交権の確保のために、勅許(ちょっきょ)を得ずに開港を決断した。

 すると京から大坂城に着いた慶喜は、勅許を得ずに条約を調印する不可を断固主張して、廟議(びょうぎ)は緊張の極に達した。阿部と松前は、外国が朝廷と直接に交渉するなら幕府は崩壊への道を歩むと条約調印の正当性を譲らなかった。老中の伝統的な政策決定権を京にいる一橋慶喜が奪う権力闘争の性格を察知したからだ。

 いずれにせよ、一橋家に加えて京都守護職の会津藩や京都所司代の桑名藩のいわゆる「一会桑(いちかいそう)」が江戸の幕府老中と政策決定権をめぐって鎬(しのぎ)を削り、ますます徳川幕府の力を内部から弱めたのである。

 幕府にとって最大の問題は、朝廷が阿部らの違勅(いちょく)を咎(とが)めて官位を剥奪し、老中職からの罷免を家茂に命令したことだ。およそ、将軍に補任権のある幕府の老中職罷免を朝廷がじかに強制するという破格があってよいはずがない。これは、政権を委任された徳川将軍家への不信任に等しく、幕府の行政機構がもつはずもない。ここから幕府官僚たちの慶喜に対する不信感がますます強まり、家茂将軍の大権の返上、慶喜中心の政権成立を求める声が沸き起こった。朝廷贔屓(びいき)の慶喜に懸案を任せればよいという意地悪でもある。

 実父の水戸斉昭(なりあき)といい、子の慶喜といい、わざわざ幕府の力を内部から削(そ)ぐことをしていたのだ。島崎藤村が『夜明け前』第11章で阿部らの罷免を家茂が受け入れた点につき、「実に、徳川氏の運命は驚かれるほどの勢いをもってこの時に急転した」というのは、文学者の直観的表現としても優れている。

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 阿部正外は3千石の旗本から出て本家10万石を継いだ人である。しかも旗本のときに、京の禁裏付(きんり)づき)として公武合体と和宮(かずのみや)降嫁に尽力し、外国奉行としても生麦事件の解決に尽力した。江戸町奉行を務めて内政にもかかわり、朝廷工作・外交交渉・国内行政で経験を積んでおり、決して無能の政治家でない。相役の老中松前崇広も部屋住みから本家を継いだ苦労人である。要するに、罷免された阿部は松前とともに大名の実子や嫡男として生まれたのでなく、それなりに苦労を重ねてきたのだ。水戸学の観念や弁論の理屈には冴(さ)えていても、難局からは必ず逃げ出す慶喜と違う育ち方をしてきたのだ。

 大名老中を十把一絡(から)げに扱うのは、さながら金や就職の苦労を知らずに育った鳩山氏と、母子家庭から刻苦勉励しながら党代表や大臣まで自力で上りつめた前原氏を一緒にするようなものだ。

 将来の首相候補者のミスあるいは思い違いを、与党の前首相があえて話題にしたのは品のよいものでなく、民主党のイメージを好んで悪くしている。自分で出処進退を判断しようとしている人間に追い打ちをかけず惻隠(そくいん)の情を催すことも、政治家のリーダーシップに必要な隠れた資質ではなかろうか。

 自民党の石破茂政調会長は6日夜、前原氏が辞意を固めると「責任と立場を自覚した潔い判断だ」と評価した。これこそリーダーにふさわしい惻隠の情というものなのだ。(やまうち まさゆき)

                   ◇

【プロフィル】阿部正外

 あべ・まさと 文政11(1828)年、3千石の旗本の家に生まれる。神奈川奉行、外国奉行、江戸町奉行などを歴任。元治元(1864)年、阿部宗家を継いで白河10万石の藩主となり、老中に就任。幕府強硬派として朝廷と交渉するが、慶応元(1865)年の兵庫無勅許開港の判断を朝廷にとがめられ、老中を解任された。戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に参加。明治20(1887)年、死去。


(103)東大教授・山内昌之 有馬新七

統制に背き信念選ぶ

 菅直人首相の退陣を要求して民主党会派離脱を表明した衆院議員16人は、1日未明の衆院本会議を欠席した。政権のいちばん重要な肝(きも)である予算案に事実上反対したのだから、与党議員としてこれほど思い切った反乱もない。

 このドラマには2つの大きな特徴がある。それは、菅首相の統率力と威信がもはや皆無に近いことを内外に印象づけたことだ。もうひとつは、衆院選マニフェストの実施にこだわる造反議員たちが小沢一郎民主党元代表の立場に近く、今後の新党構想の動きに絡んでいるのではないかという憶測を抱かせる点である。

 いずれにせよ、民主党は公党としての一体性を問われる事態に陥ったといえよう。

西郷に匹敵する人材

 幕末で指導者の統制に服さず藩の一体性を危機に陥れた事件といえば、文久2(1862)年4月の寺田屋騒動を思い出す。薩摩藩の島津久光の率兵入京を機に京都の制圧を狙った有馬新七が土佐や久留米など他藩士や浪士の尊攘(そんじょう)過激派を糾合した際、伏見の船宿寺田屋で藩の鎮撫(ちんぶ)使たちと凄惨(せいさん)な切り合いを演じて8人が殺された事件である。

 文武両道という言葉は有馬のためにあるようなものだ。直心影流(じきしんかげりゅう)と崎門(きもん)学派を学び、詩にもすぐれていた。江戸で学び藩邸学問所教授をつとめながら、尊攘派志士たちとも交流して水戸や長州にも名を知られた人物である。安政の大獄を機に井伊直弼(なおすけ)の暗殺も謀(はか)り、桜田門外の変につながる陰謀も画策したのだから政治性も早くから身につけていた。

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 人望や経綸(けいりん)の才では、薩摩藩でも西郷に匹敵する人物だったのではないか。その主張は過激であっても、寺田屋で鎮撫使を応接した態度は冷静だったあたりに、有馬の真骨頂がある。久光の命を受けた奈良原喜八郎は有馬に藩邸へ戻るように伝え、大殿(久光)の方針が京都で次第に受け入れられているのだから、ここは同志を引率して帰藩してほしいと諭した。有馬は青蓮院宮(しょうれんいんのみや)の御召(おめし)を受けているので、それを済ませてから伺うと、京での蜂起をにわかに中止できないと匂わせた。

 君命を守れぬのか、守れぬなら腹を切れと奈良原がなじると、有馬はたとえ君命とあっても宮の御用を果たすことがまず先だと応じる。

 このあたりから双方のやりとりに厳しさが増す。ついに奈良原は君命を守れぬなら上意討ちをするまでだが、それでもよいのかと有馬に迫る。すると有馬も、やむを得ぬと応じた。奈良原には堂々たる大器の有馬に遠慮があったのだろう。さすがに有馬をすぐ切れなかった。

 しかし、横合いにいた道島五郎兵衛が、どうあっても聴かぬかと叫ぶと、脇にいた田中謙助が今となっては何と申されようと聴かぬと切り返す。

 ここで道島は上意と叫んで田中を切ると、遅れて到着した別の鎮撫使のうち1人が坐ったまま無抵抗の柴山愛次郎の肩を後から切り下げた。首がVの字のように胸から離れた惨事はこの時に起きた。ここから先は玄関の狭い場所での身内同士の切り合いだから凄惨そのものである。

 有馬が刀を抜いて道島に立ち向い、数合(すうごう)切り結ぶうちに刀は折れた。そこで有馬は道島の手元に飛び込んで素手で壁に押し付けて叫んだ言葉が悲痛きわまりない。「オイごと刺せ、オイごと刺せ」。気も動転した若い同志は言われるがままに2人の体を串刺しにした。有馬はすぐ絶息し、悲鳴さえ上がらない。同じ志をもつ誠忠組の知り合いも多く、切られた橋口壮介が鎮撫使の奈良原に自分らが死んでも君らがいる、今後天下の事は君らに頼むと言い終わってから絶息したというから、ますます事件の悲劇性は涙を誘うのだ。

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厳しい代償も覚悟の決行

 有馬新七の死は、幕末薩摩にとって長州の長井雅楽(うた)や周布(すふ)政之助の死に匹敵する人材の損失であった。死んだ人間8人以外に、寺田屋に薩摩藩の者は22名もいた。生き延びたなかには、大山巌(いわお)、西郷従道(つぐみち)、三島通庸(みちつね)、篠原国幹(くにもと)もいたのだから、事件の衝撃ははかりしれない。

 寺田屋事件は、最高指導者の決定に従わず統率に反抗する行為が厳しい代償を伴うことを示した。それでも有馬新七は政治的信念のために、武士にとって「命」よりも大事な君命を斥(しりぞ)ける気骨を発揮したのだ。

 維新と現代では状況も価値観も違うが、今でも政治が命がけの行為であることを現代の議員たちは知っているのだろうか。16人の議員にも、ひとたび抱いた志に忠実であるなら、政治家としての意地だけは最後まで貫いてほしいものだ。(やまうち まさゆき)

                   ◇

【プロフィル】有馬新七

 ありま・しんしち 文政8(1825)年、薩摩(鹿児島)の郷士の家に生まれる。天保14(1843)年、江戸に出て儒者の山口菅山に学び、尊皇攘夷運動に参加。文久2(1862)年、京都所司代の襲撃を計画中、京都・伏見の寺田屋で、藩の実権者である島津久光が派遣した藩士らに討たれた。


エンターテインメント
 表意文字ってすごいですね。外国語なのに意味がわかってしまう。
戀愛加上歷史滄桑 《薄櫻鬼》成功擄獲女性的心
〔本報訊〕根據日本近日發佈的一項調查顯示,戀愛遊戲已然成為日本2009年遊戲產業中營業收入最高的環節,且相對於前1年度的增長幅度竟高達83%,而源自2008年一款深受日本女性喜愛的戀愛遊戲《薄櫻鬼》,不僅搭上此一戀愛遊戲風潮,從遊戲改編動畫,又因為深刻的劇情描寫,以及美麗的畫風成功吸引女性目光,成為近來最受歡迎的動漫作品。

 從2008年發售第1款遊戲以來,《薄櫻鬼》迄今已在各大遊戲平台發售近十部系列作,而在眾女性的追捧下,《薄櫻鬼》更從2010年開始動畫化,截至目前《薄櫻鬼》已推出2期動畫,不但請來以「亂馬1/2」及「逮補令」廣為人知的中嶋敦子擔任作畫監督,動畫OP更有曾為「羅德斯島戰記」作畫的結城信輝坐鎮,還將陸續推出角色OVA,相關精品更於今年國際書展掀起一陣旋風。

 《薄櫻鬼》以日本幕末著名的歷史組織「新選組」為題,描寫組織中的各個人物在歷史潮流中的悲壯起落,其之所以受歡迎,最主要的原因不外乎它忠實呈現了「新選組」悲壯的起落,以往一般人對於女性向戀愛遊戲的刻板印象,總是認為過於傾向浪漫情結而忽略了與歷史的結合性,但《薄櫻鬼》就因為打破了這樣的認知因而受到矚目。

 動畫成功塑造出角色們令人心酸的歷史滄桑感,故事以日本「幕末時代」為背景,幕末在日本史上堪稱是一個變動最為劇烈的時代,當時的日本因為西方勢力的強勢入侵面臨了開國或是閉關自守的命運路口,而因為各方勢力的角力衝擊也就誕生了許多可歌可泣的精彩故事,劇中角色包含雪村千鶴、土方歲三、沖田總司、齋藤一、原田左之助、藤堂平助等人。


 こちらは番長ものと新選組リミックス(笑)。
【「歴史大戦ゲッテンカ」第7弾『襲撃!闇夜の新撰組』カード概要】
●導入時期:
2011年3月11日(金)

●種類:
63種(キャラ16種、キャラ小判16種、武器11種、アイテム11種、レジェンド復興小判8種、プロモ1種)

●特徴:
(ストーリー)
時は幕末!ペリーが開国をせまるさなか、ある異変が起きていた…なんと、幕府(国)の言うことを聞かずに活動する龍馬たちがテキとみなされたのだ!
龍馬たちをとりしまる集団、その名は『新撰組』!

新撰組をとりしきるのは番長コンドウ!
腕っぷしの強さはだれにも負けない男の中の男だ!
さらにTOSHIやおきたんが番長を支えるぞ!
剣の達人集団が京の夜を完全支配!

日本を守り、新しい日本を作りたい龍馬たち!
思い通りに国をコントロールしたい幕府(国)!
同じ国の中で意見がくいちがって大丈夫!?
正義は龍馬か新撰組か?

はたまたペリー?どうなる日本!?

<新登場キャラクター>
番長コンドウ(近藤勇)、土方歳三(TOSHI)おきたん(沖田総司)、一刀流ハジメ(斎藤一)、やんちゃ平助(藤堂平助)

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