新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
<戊辰戦争150年>但木土佐たたえ記念碑 宮城・大和で追悼法要
<戊辰戦争150年>会津藩の政策「最も先進的」直木賞作家・中村彰彦さん講演
仙台藩の重臣を務め、戊辰戦争の敗北後に処刑された但木(ただき)土佐(1817~69年)を追悼する恒例の法要が28日、宮城県大和町の保福寺で営まれた。
笹山光紀住職が読経した後、家臣の子孫で組織する土佐会の会員や家族ら17人が墓前で手を合わせた。戦争から150年の節目に合わせ、土佐会と寺が設置した記念碑が披露された。
但木は新政府軍の標的となった会津藩の救済を目指し、奥羽越列藩同盟を主導した。東京で斬首され、墓は港区の東禅寺にあったが1997年、保福寺に移した。
土佐会のメンバーらは6月17日、町内で記念講演などを含む「但木土佐・戊辰の役戦没者150回忌追悼行事」を開く。実行委代表の中山和広さん(77)は「土佐公は全国に人脈を広げ、西の西郷隆盛と比べられる活躍をした。功績を受け継ぎ、土佐会の新たな出発となる年にしたい」と話した。
<戊辰戦争150年>会津藩の政策「最も先進的」直木賞作家・中村彰彦さん講演
今年、戊辰戦争から150周年を迎えることを記念した歴史講演会が28日、会津若松市であった。さまざまな記念事業を展開する予定の会津若松市などがオープニングイベントとして開催。会津藩関係の著書で知られる直木賞作家中村彰彦さん(68)が講演した。
演題は「会津藩の栄光と悲劇の歴史を読み直す-戊辰150年目の視点から」。中村さんは、初代藩主保科正之が90歳以上の全領民に、一人扶持(いちにんぶち)(1日玄米5合)を与えるなど先進的な政策に取り組んだと強調。「正之は『揺り籠から墓場まで』の福祉制度を英国より200年以上前に実践した。徳川300藩の中で最も進んだ理想的な藩だった」と述べた。
また、中興の名家老田中玄宰の業績や、幕末に9代藩主松平容保が京都守護職に就任した背景、会津藩が戊辰戦争で賊軍となった経緯について解説した。
講演会には約500人が来場。オープニングセレモニーでは室井照平市長が「戊辰戦争の悲劇を乗り越えた先人の功績は誇りと勇気を与える。先人の活躍に光を当て、次の世代に伝えることが私たちの責務」とあいさつした。
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「浪士姓名簿」を一挙紹介 近藤勇、沖田総司、永倉新八の名も
戊辰戦争150年機に地域振興、東北各地で催し
先人の思い次代に 斗南藩がつなぐ会津と青森 戊辰150年
会津の誇り未来へ 戊辰150年の節目、会津若松で歴史講演会
戊辰戦争で活躍、独立機運 洲本で庚午事変の背景学ぶ講演会
明治改元150年 記念事業多数、建築好きは要チェック
30年ぶりに「名古屋叢書」 蓬左文庫、幕末の武士の記録解く
幕末の京都で徳川将軍の護衛に就き、新選組の前身となった「浪士組」隊士について幕臣が記録した文書を、歴史研究グループ「三十一人会」=会長・小島政孝さん(68)=の会誌が一挙紹介している。 (栗原淳)
文書は「浪士姓名簿」。戦前に古書店の目録に掲載され、存在は知られていたが、世に出ることのない「幻の資料」とされていた。昨年一月、東京大法学部図書館が所蔵しているとの情報がネットに投稿されているのを、同会副会長あさくらゆうさん(48)=荒川区=が見つけ、同図書館で実物と確認した。
同会によると、浪士組の隊士を知ることができる資料は、これまでも数点確認されているが、浪士姓名簿は名前だけでなく、家族構成や居住地まで記載した詳細さが特徴。隊士を募った江戸から京都まで一行を率いた幕臣による記録のため、内容の信頼性も高い。
今の新書判より一回り大きいサイズで、百十九ページにわたり京都到着時の二百三十五人の名が並ぶ。近藤勇の項目は「三十歳」「父妻子三人」、居住地は「市ケ谷加賀屋敷山川磯太郎地借仕候(ちかりつかまつりそうろう)」と記載。のちに新選組幹部となった沖田総司や永倉新八らの項目は「近藤勇方ニ同居」と記している。あさくらさんは「近藤は主を務めた剣術道場『試衛館』のすぐ近くに住居があった。沖田らが住み込みの内弟子だったことは知られているが、当時の公的な記録にも近藤家の住人と登録されていた」と名簿を読み解く。
小島さんは、旧小野路(おのじ)村(町田市小野路町)の名主を務めた小島家の二十四代当主。四代前の鹿之助は、近藤や沖田らを剣術稽古に招いたという。自宅に資料館を開き、新選組ゆかりの資料を公開している小島さんは「浪士姓名簿は、新選組隊士の江戸を出る直前の様子が分かる貴重な資料」と話した。
会誌「幕末史研究」四十四号で名簿の全ページの複写画像を掲載している。購入は、〒195 0064町田市小野路町950「小島資料館」へ現金書留を送る。送料込み二千五百円。資料館は二月末まで休館。
戊辰戦争150年機に地域振興、東北各地で催し
江戸から明治への転換期に起きた戊辰(ぼしん)戦争から150年の節目を、ふるさとの振興につなげるイベントが東北で相次ぐ。国が掲げる「明治150年」とは違う角度から情報発信し、住民が地元を見つめ直す機会をつくりながら、観光客も呼び込む企画が目立つ。敵味方を超えた催しを開く動きもある。
鶴ケ城に立つのぼり旗には「戊辰150周年」に並んで「SAMURAI CITY AIZU」の文字も(25日、福島県会津若松市)
旧幕府軍の中心的存在だった会津藩ゆかりの福島県会津若松市は28日に「オープニング講演会」を開く。会津を舞台にした著作も多い作家の中村彰彦氏が、市民ら400人以上を前に戊辰戦争の歴史的意義を語る。7月下旬を予定する白虎隊の悲劇を題材にした「オペラ白虎」公演には、市民コーラスも参加する。
市は5千万円の予算を投じて内外に会津をPRする特別映像も制作中。5月以降、衛星放送やネットを通じて発信する。「逆賊の汚名を受けながらも戦った先人の心に、市民や観光客が思いをはせる年にしたい」(市観光課)という。
仙台藩、米沢藩など東北諸藩の代表が集まった「白石会議」の舞台、宮城県白石市は「しろいし慕心(ぼしん)プロジェクト」を展開。「戊辰の面影」などをテーマに当時の足跡が残る場所など市内で撮影した写真を募集し、3月にコンテストや展示会を実施する。白石会議は「奥羽越列藩同盟」につながったことから、加盟藩再集結の場を設ける構想もある。
敵味方を超えた企画もある。新政府軍を何度も跳ね返した庄内藩の一部だった山形県酒田市は、処分に寛大だった西郷隆盛との関係にスポットを当てた企画展を今夏に開く予定。同町には西郷をまつる南洲(なんしゅう)神社もあり、NHK大河ドラマ「西郷どん」との相乗効果も期待する。
領民が両軍の戦死者を分け隔てなく弔ったことで知られる福島県白河市のキャッチフレーズは「甦(よみがえ)る『仁』のこころ」。「先人の功績から学び、多くの地域と交流を深めたい」(市文化振興課)とし、7月14日には山口県萩市や鹿児島市など新政府軍側の自治体トップらも招いて合同慰霊祭を開く。
土地によっては戦争のわだかまりは根強い。会津若松市は降伏の日と同じ9月22日に式典を開くが「西軍(新政府軍)を呼ぶことは考えていない」(市観光課)という。
先人の思い次代に 斗南藩がつなぐ会津と青森 戊辰150年
会津藩の魂を継ぎ、未来へ。戊辰戦争開戦から150年を記念したみやぎ会津会のシンポジウムが27日、仙台市で開かれた。会津若松市や、戊辰戦争後に斗南藩として再出発した青森県の関係者が杜(もり)の都に集った。次世代を担う若者3人が登壇し、「先人の思いを受け継ぎ、古里発展に尽くしたい」と前を向いた。
■みやぎ会津会 仙台でシンポ
「将来は古里会津の地域医療に貢献したい」。シンポジウムに登壇した筒井悠巴(ゆうは)さん(19)=会津若松ザベリオ学園高卒、福島医大1年=は言葉に力を込めた。
筒井さんは高校生だった2014(平成26)年、福島民報社と東奥日報社が主催した会津・斗南次世代交流事業に参加した。藩士は会津から斗南に移り辛酸をなめながら再起を誓った。筒井さんたちは斗南藩ゆかりの青森県三戸町やむつ市を訪問し、斗南藩に関係する史跡を巡った。
2015年には青森県の高校生を会津に迎え入れた。「地元に住んでいても知らなかった歴史を学んだ。青森県の高校生とも交流でき、意義深かった」と振り返った。将来は高齢者の病気やけがに対応しながら心のケアもできる医師を目指す。「会津のために頑張りたい」と語った。
川口成美さん(20)=陸上自衛隊八戸駐屯地第九飛行隊=は三戸高に通っているとき交流事業に参加した。礼儀を重んじ、他人を思いやる会津の精神を学び、人として忘れてはいけない内容だと思った。「人のために働きたいと思った初心を忘れず、精いっぱい努力したい」と誓った。
会津松平家第十四代当主の松平保久(もりひさ)さんの長男松平親保(ちかもり)さん(19)=早稲田大政治経済学部1年=も参加した。「自分と同世代の会津と斗南の若者が先人の思いを胸に前進している姿を見てうれしかった。会津の魂を後世につないでほしい」と願った。3人の熱い思いを聞き、言葉を詰まらせる登壇者や涙を見せる出席者もいた。
■魂、未来へ継ぐ 出席者が掛け声
シンポジウムでは会津若松市の室井照平市長、末廣酒造(会津若松)の新城猪之吉社長、斗南会津会の目時(めとき)紀朗相談役、2014、2015年に行われた会津・斗南次世代交流事業に参加した八戸中央高の滝尻善英教頭、宮城県内に住む会津地方出身者らでつくるみやぎ会津会の須佐尚康会長(金山町出身、東洋ワーク社長)が登壇した。
新城社長は、七十七銀行頭取や仙台商工会議所会頭を務め鶴ケ城を後世に残すため尽力した旧会津藩士の遠藤敬止(けいし)を紹介。新城社長は遠藤敬止顕彰会長を務めており、墓がある仙台市内の寺で今年6月に法要を営む計画を明らかにした。
室井市長、目時相談役、滝尻教頭は戊辰戦争、会津や斗南への思いを語った。須佐会長はみやぎ会津会を発足させた経緯などを説明した。
シンポジウムはみやぎ会津会の主催、斗南会津会の協力、福島民報社と東奥日報社の企画。約150人が出席した。最後に出席者全員で掛け声を響かせて両地域の魂を継いで未来に向かうと誓い合った。
福島民報社から花見政行取締役広告局長、熊田光仙台支社長、安斎康史会津若松支社長が出席した。
( 2018/01/28 10:08 カテゴリー:主要 )
会津の誇り未来へ 戊辰150年の節目、会津若松で歴史講演会
「会津に生まれたことを誇りに思った」「歴史を後世につなぐ意義を再確認できた」。
戊辰150年の節目に合わせた記念事業の幕開けとして28日に会津若松市で開かれた直木賞作家・中村彰彦さんの講演会には500人を超える聴衆が集まり、先人が忘れなかった"義の思い"を受け継ぎ、未来を目指すための決意を新たにした。「会津人が賊軍と考えている人は、ここにはいないはず」。中村さんの言葉に聴衆は大きくうなずいた。
中村さんの講演を終え、会津若松市の大橋寛一さん(81)は「会津藩の賊軍の汚名を必ず晴らさなくてはならない。もっと全国に発信してほしい」と言葉に力を込めた。
会津藩の悲劇の象徴でもある白虎隊士。同市の飯盛山にある自刃した隊士の墓守をしている飯盛尚子さん(45)は「今年は自刃した隊士の150年の節目でもある。白虎隊士の心情を察し、誇り高き会津藩士に思いを寄せてほしい」と語った。
同市の寺木利子さん(69)と平野美知子さん(68)は京都や徳島県鳴門市を訪れた際、「会津の人なら」と商品をサービスしてもらったり、施設の開館時間を早めてもらったことを口にし「京都守護職を務めたり、捕虜を人道的に扱ったり、会津の先人が積み重ねてきたことの素晴らしさを感じている」と語った。
歴史講演会は、同市の関係機関134団体でつくる同市戊辰150周年記念事業実行委員会などが節目の年のオープニングとして開催した。今後、鶴ケ城天守閣を多彩な光で彩るプロジェクションマッピングや白虎隊の史実を題材にした「オペラ白虎」の上演、鶴ケ城天守閣での戊辰戦争に絞った収蔵品展・企画展、歴史シンポジウムなど、多彩な行事が企画されている。
同日は海外への配信も想定し制作した特別映像の予告編も上映され、来場者は会津に息づく精神文化を感じ取った。
◆「維新再考」の特大紙面 関心高く福島民友新聞社ブースに列
会場には、福島民友新聞社が毎週月曜日付3面に連載している「維新再考」の特集紙面(号外)などが特大サイズで張り出されたほか、過去に掲載された紙面の保存版を並べ、来場者が持ち帰れるようにした。
維新再考は戊辰150年の節目に合わせて昨年5月からスタートした連載企画で、読者から多くの反響を得ている。福島民友新聞社が設けたブースには順番待ちの長い列ができ、節目の年に戊辰戦争への関心が高まっていることを示した。
戊辰戦争で活躍、独立機運 洲本で庚午事変の背景学ぶ講演会
兵庫県洲本市の洲本城下町で明治時代初期に起きた「庚午事変」の歴史的背景を学ぶ講演会「東征軍稲田隊」(神戸新聞社後援)が28日、洲本市立中央公民館であった。元徳島県立文書館館長の逢坂俊男さん(76)が講演。徳島藩筆頭家老として淡路を任されていた稲田家の家臣が、戊辰戦争で活躍し、独立への機運を高めていった状況などを解説した。(渡辺裕司)
講演会は住民グループ「益習の集い」の主催。講師の逢坂さんは稲田家研究の第一人者で、家臣の子孫でもある。
庚午事変は1870(明治3)年、徳島藩の一部藩士らが、分藩・独立を目指した稲田家と対立し、稲田家家臣の家などを襲った事件。これに先立つ戊辰戦争で、稲田家家臣でつくる稲田隊は、旧幕府軍勢力を制圧する東征軍総督、有栖川宮の親衛隊を務めた。敵方幹部を捕らえるなどの功績から高く評価されたことで分藩・独立の機運が高まり、庚午事変の誘因の一つとなったという。
逢坂さんは稲田家が親衛隊を任された背景について、「稲田家で盛んだった儒学や武術を通じて、家臣が有栖川宮家に出入りするようになり、関係を深めていった」と解説。隊員が現在の千葉や八王子で、旧幕府軍勢力の探索に活躍した例も紹介し、稲田家家臣団の規模や領有していた土地などについても古文書を交えて解説した。
会場では、稲田家や庚午事変、徳島と兵庫両県の歴史を紹介するパネル展示もあり、訪れた人たちは熱心に見入った。洲本市の塾講師(23)は「稲田家で家臣の数が増えた背景など、学校では習わない地元の歴史が分かってよかった」と話していた。
明治改元150年 記念事業多数、建築好きは要チェック
30年ぶりに「名古屋叢書」 蓬左文庫、幕末の武士の記録解く
名古屋市博物館の分館で、尾張徳川家の旧蔵書など約十一万点の史料を持つ蓬左(ほうさ)文庫(名古屋市東区)は、近世の尾張名古屋に関する古文書を解読した史料集「名古屋叢書(そうしょ)」の刊行を三十年ぶりに再開する。当時を知る上で欠かせない基本文献として重宝されてきたが、一九八八年に刊行事業がいったん終了していた。
「名古屋叢書」は、名古屋市制七十周年を迎えた一九五九年から刊行。八八年までの三十年で、一編から三編(計六十五冊)と索引・総目録を出した。
うち、二編で刊行された「金城温古録(きんじょうおんころく)」は「名古屋城の百科事典」として名高い。天守閣の木造化計画を進める河村たかし市長が、会見で「寸分たがわぬ復興ができる世界でただ一つの巨大な歴史的建造物」と説明した際も、計画を可能にする史料の一つに挙げている。
また、映画や漫画で人気を呼んだ『元禄御畳奉行の日記』の基になった尾張藩士・朝日文左衛門の「鸚鵡籠中記(おうむろうちゅうき)」も二編で刊行している。
一般にも販売され、主に歴史学者や郷土史家らが活用。二編までは完売するほど需要があったが、八九年以降は蓬左文庫が所蔵史料のデジタル化などに力を入れた上、予算の制約もあって刊行は途絶えていた。
研究者らの再開を望む声に応じ、三十年ぶりに刊行される四編では、尾張藩家老に仕えた武士・水野正信(一八〇五~六八年)の私的な記録集「青窓紀聞(せいそうきぶん)」を取りあげる。水野は当時“記録魔”として知られ、自らの見聞や公文書、手紙から得た情報などを、全二百四巻の大著にまとめた。
このうち当面は四十三巻分を新年度から年に一冊ずつ、数年がかりで出す方針。新年度当初予算案には、一冊目の初版二百五十部の印刷費と、編集に協力する研究者との会議費を盛り込んだ。
刊行分に記録されているのは、江戸時代後期の一八一四年から米国のペリーの来航(五三年)前までの社会情勢。名古屋城下の祭りや寺社の開帳などの行事から、災害や疫病の流行まで多岐にわたる。
原本は蓬左文庫の所蔵で一九九〇年ごろから解読を続け、九割超は終わっている。
(谷村卓哉)
激動生きた人徳者に光 幕末の志士、伊東甲子太郎展
【東京】「浪士姓名簿」を一挙紹介 近藤勇、沖田総司、永倉新八の名も
30年ぶりに「名古屋叢書」 蓬左文庫、幕末の武士の記録解く
半藤一利「明治維新150周年、何がめでたい」「賊軍地域」出身作家が祝賀ムードにモノ申す
かすみがうら市出身で、幕末に新選組隊士として活躍した伊東甲子太郎(かしたろう)(1835-67年)を紹介する企画展「伊東甲子太郎と幕末の同志」が、同市坂の市歴史博物館で開かれている。今年が明治維新から150年を迎えるのに合わせ、激動の時代に生きた地元の名士に光を当てた。3月4日まで。
甲子太郎は志筑藩(現かすみがうら市)に生まれ、13歳で水戸藩で剣術や水戸学を学んだ。江戸に出て、水戸で栄えた北辰一刀流を伊東道場で身に付け、優れた技術と人格を評され塾頭に推挙された。1864年に新選組の隊士募集に応じて合流。京都で活躍するが、長州藩とつながりがあったため、幕府に忠誠を尽くす隊長の近藤勇との間で確執が生まれ、暗殺された。生前、大政奉還後に国家政策の建白書を朝廷に提出したことでも知られる。
企画展では、甲子太郎を支えた家族や剣術家、新選組の弟子らを紹介。甲子太郎の弟には新選組に一緒に入隊した鈴木三木三郎がおり、剣術は水戸で金子健四郎、江戸で伊東精一郎らに習った。新選組では甲子太郎の勤王思想に心酔する弟子が多く、新選組から分離し高台寺党になる人物もいた。
展示会場には甲子太郎の肖像画や位牌(いはい)、母に当てた手紙、歌集などを写真や資料とともに並べた。
甲子太郎が習得した水戸学や剣術、新選組入隊後の同志たちも紹介。かすみがうら出身で甲子太郎の薫陶を受けた明治の教育者、金澤鎗次郎(そうじろう)の功績も展示した。
同館の千葉隆司学芸員は「甲子太郎は総合学問である水戸学を学び、いろいろな人に慕われ大きくなっていった人徳者。暗殺されなければ、明治期にも活躍したのではないか。その人間性や、亡くなった後にも多くの人々に影響を及ぼしたことを感じ取ってもらえれば」と話した。
月曜休館(祝日の場合は翌日休館)、開館時間は午前9時~午後4時半。入館料は大人210円、小中学生100円。同館(電)029(896)0017。
(綿引正雄)
【東京】「浪士姓名簿」を一挙紹介 近藤勇、沖田総司、永倉新八の名も
幕末の京都で徳川将軍の護衛に就き、新選組の前身となった「浪士組」隊士について幕臣が記録した文書を、歴史研究グループ「三十一人会」=会長・小島政孝さん(68)=の会誌が一挙紹介している。 (栗原淳)
文書は「浪士姓名簿」。戦前に古書店の目録に掲載され、存在は知られていたが、世に出ることのない「幻の資料」とされていた。昨年一月、東京大法学部図書館が所蔵しているとの情報がネットに投稿されているのを、同会副会長あさくらゆうさん(48)=荒川区=が見つけ、同図書館で実物と確認した。
同会によると、浪士組の隊士を知ることができる資料は、これまでも数点確認されているが、浪士姓名簿は名前だけでなく、家族構成や居住地まで記載した詳細さが特徴。隊士を募った江戸から京都まで一行を率いた幕臣による記録のため、内容の信頼性も高い。
今の新書判より一回り大きいサイズで、百十九ページにわたり京都到着時の二百三十五人の名が並ぶ。近藤勇の項目は「三十歳」「父妻子三人」、居住地は「市ケ谷加賀屋敷山川磯太郎地借仕候(ちかりつかまつりそうろう)」と記載。のちに新選組幹部となった沖田総司や永倉新八らの項目は「近藤勇方ニ同居」と記している。あさくらさんは「近藤は主を務めた剣術道場『試衛館』のすぐ近くに住居があった。沖田らが住み込みの内弟子だったことは知られているが、当時の公的な記録にも近藤家の住人と登録されていた」と名簿を読み解く。
小島さんは、旧小野路(おのじ)村(町田市小野路町)の名主を務めた小島家の二十四代当主。四代前の鹿之助は、近藤や沖田らを剣術稽古に招いたという。自宅に資料館を開き、新選組ゆかりの資料を公開している小島さんは「浪士姓名簿は、新選組隊士の江戸を出る直前の様子が分かる貴重な資料」と話した。
会誌「幕末史研究」四十四号で名簿の全ページの複写画像を掲載している。購入は、〒195 0064町田市小野路町950「小島資料館」へ現金書留を送る。送料込み二千五百円。資料館は二月末まで休館。
30年ぶりに「名古屋叢書」 蓬左文庫、幕末の武士の記録解く
名古屋市博物館の分館で、尾張徳川家の旧蔵書など約十一万点の史料を持つ蓬左(ほうさ)文庫(名古屋市東区)は、近世の尾張名古屋に関する古文書を解読した史料集「名古屋叢書(そうしょ)」の刊行を三十年ぶりに再開する。当時を知る上で欠かせない基本文献として重宝されてきたが、一九八八年に刊行事業がいったん終了していた。【茨城】<ひと物語 幕末~明治>日本の金融界の発展に貢献 川崎八右衛門(上)
「名古屋叢書」は、名古屋市制七十周年を迎えた一九五九年から刊行。八八年までの三十年で、一編から三編(計六十五冊)と索引・総目録を出した。
うち、二編で刊行された「金城温古録(きんじょうおんころく)」は「名古屋城の百科事典」として名高い。天守閣の木造化計画を進める河村たかし市長が、会見で「寸分たがわぬ復興ができる世界でただ一つの巨大な歴史的建造物」と説明した際も、計画を可能にする史料の一つに挙げている。
また、映画や漫画で人気を呼んだ『元禄御畳奉行の日記』の基になった尾張藩士・朝日文左衛門の「鸚鵡籠中記(おうむろうちゅうき)」も二編で刊行している。
一般にも販売され、主に歴史学者や郷土史家らが活用。二編までは完売するほど需要があったが、八九年以降は蓬左文庫が所蔵史料のデジタル化などに力を入れた上、予算の制約もあって刊行は途絶えていた。
研究者らの再開を望む声に応じ、三十年ぶりに刊行される四編では、尾張藩家老に仕えた武士・水野正信(一八〇五~六八年)の私的な記録集「青窓紀聞(せいそうきぶん)」を取りあげる。水野は当時“記録魔”として知られ、自らの見聞や公文書、手紙から得た情報などを、全二百四巻の大著にまとめた。
このうち当面は四十三巻分を新年度から年に一冊ずつ、数年がかりで出す方針。新年度当初予算案には、一冊目の初版二百五十部の印刷費と、編集に協力する研究者との会議費を盛り込んだ。
刊行分に記録されているのは、江戸時代後期の一八一四年から米国のペリーの来航(五三年)前までの社会情勢。名古屋城下の祭りや寺社の開帳などの行事から、災害や疫病の流行まで多岐にわたる。
原本は蓬左文庫の所蔵で一九九〇年ごろから解読を続け、九割超は終わっている。(谷村卓哉)
ちょうど百五十年前、長く続いた江戸幕府が倒れ、明治時代が始まった。激動の時代の端境期。新しい国の礎を築くのに活躍した県出身者をノンフィクションライターの岡村青さんに寄稿してもらった。シリーズ一回目は金融界の発展に貢献した川崎八右衛門から。今後、隔週で紹介していく。【今こそ知りたい幕末明治】幻の薩摩藩京都「岡崎屋敷」発見
川崎八右衛門は一八三四(天保五)年十二月、現在の茨城町海老沢で生まれます。八右衛門は同家代々の襲名で、守安(もりやす)が本名です。生家は涸沼河岸で物資などを船で運ぶ回漕(かいそう)業を営むほか、水戸藩所有の山林管理をつとめる郷士の家柄でした。
けれど、「生家は現在、解体して残っていません。当時をしのばせるものといえばこの二つの灯籠だけですね」と、分家にあたる川崎正則さんは庭に立つ灯籠を手で示します。
十五歳で家業を継ぎ、十六歳で加倉井砂山(さざん)の「日新塾」に入門。塾は現在の水戸市成沢町にあり、文芸、兵学、武芸のほか、塾生が討論会を開いて議論を交わすなど個性尊重の私塾でした。そのため、三千名もの塾生を育成したともいわれ、天狗(てんぐ)党の筑波挙兵を果たした藤田小四郎なども学んでいました。
川崎は入門間もなく、砂山の次女世舞子(せんこ)と結婚。砂山が、彼の商才を見込んだためともいいます。砂山は塾に三人の秀才がいるとして、「文章は即(すなわ)ち興野道甫(きゅうのどうほ)あり、義烈は即ち斎藤一徳(いっとく)あり、貨殖は即ち川崎守安あり」と評し、資産を蓄えるのに優れた川崎を認めています。
実際、川崎は六六年、財政再建のために江戸の水戸藩下屋敷に鋳銭座設置が認可されると責任者となって事業を軌道に乗せ、財政を好転させるなど商才を発揮します。
水戸藩最後の藩主徳川昭武は六九年、北海道天塩(てしお)地方の開拓に乗り出し、川崎もこれに加わります。けれど、二年後の廃藩置県発布で事業は北海道開拓使に譲渡し、水戸藩は北海道から撤退します。
川崎の経済界進出欲求は、国内の近代化とともにますます旺盛となり、東京・日本橋に川崎組(後の川崎銀行)を設立し、国内の銀行の草分けとなります。事業も順調に進みます。
特に七七年二月、西郷隆盛らが起こした西南戦争を鎮圧するため、警視庁が派遣する警官隊の費用を調達したことで、さらに事業を拡大し、財界進出の足取りをいっそう速めます。
けれど、川崎は私腹を肥やすことや名利を求める人ではなく、むしろ質素な人でした。そのため、利益は地域発展のために還元しています。 (ノンフィクションライター・岡村青)
慶応2(1866)年正月28日、京都に滞在していた薩摩藩家老の桂久武は、その上京日記に「此日岡崎御屋敷毎月例之通之一陳調練有之由」と、岡崎に設けられた屋敷(調練場)での月例調練について記した。戊辰戦争150年機に地域振興、東北各地で催し 北海道・東北
岡崎屋敷についての記述は他にもあり、一昨年、鴨川以東の岡崎界隈(かいわい)に「薩州ヤシキ」と描かれている古地図の存在が話題になったが、正確な場所などは不明のままであった。
今回、古地図研究第一人者で佛教大学非常勤講師の伊東宗裕氏と、西郷隆盛研究家の原田良子氏が、岡崎屋敷の正確な位置や規模、存続期間がわかる古地図を確認した。
それは、京都女子大学所蔵の「鴨川沿革橋図」巻子(かんす)本(巻物)の中に収められていた。明治31年に京都の篤志家、熊谷直行(鳩居堂第8代当主)が、鴨川の橋についてまとめたものである。従来の古地図と異なり、道路の形状、屋敷の輪郭が比較的正確に描かれている。薩州屋敷の部分には「元治元年四月外柵成慶応四年取払其後此処ヲ分割シテ横須賀大聖寺秋田富山ノ邸ヲ設ク」「ヌエ塚、ヒメ塚、西天王寺(ツカ)」とある。鵺(ぬえ)塚、秘塚という古墳は昭和30年まで現・岡崎公園に存在(その後移設)。そこから場所が特定できた。
面積も「凡 五万二千二百拾坪」と記載されている。おおよその形状から、岡崎公園から西にあるロームシアター京都、平安神宮のほとんどが岡崎屋敷内と推定できる。
元治元(1864)年4月に外柵を成し、月日の記載を欠くが慶応4年に引き払い、分割して、横須賀・大聖寺・秋田・富山藩邸となったことは慶応4年の古地図からも確かめられる。隣接する越前、芸州(安芸)、加賀屋敷の坪数などが明記されている点も画期的である。
元治元年4月、西郷隆盛は沖永良部島から赦免召喚され上洛していた。前月、国父島津久光は尽力した参与会議の解散を余儀なくされた。一橋慶喜が宸翰の草稿問題で久光を警戒し排除したことによる。同4月18日、久光は失意の中、大久保利通を同道して薩摩へ向けて出立し、京都は家老の小松帯刀と西郷隆盛に委ねられた。5月12日付の西郷から国元の大久保への書簡に、久光の意向である禁裏守護に徹していることが記されている。
岡崎屋敷も、この禁裏守護の目的で設けられたと考えられる。屋敷を見下ろす高台にある黒谷・金戒光明寺は、文久2(1862)年、京都守護職として会津藩主、松平容保が本陣としている。翌文久3年、会津藩と薩摩藩は「八月十八日の政変」で力を合わせた。
元治元年7月19日の禁門の変でも薩摩藩は禁裏守護を貫き、西郷が指揮した。その精兵、砲隊の調練は岡崎で間違いない。
2年後の慶応2年正月21日、御花畑で薩長同盟は結ばれた。
その後、桂久武は小松帯刀とともに、洛西衣笠山の麓(現・立命館大学周辺)に新たな調練場を設ける調査などをしている。小松原村の薩摩藩の調練場である。京都での薩摩藩の軍事的存在感は高まる一方であった。
ところで、坂本龍馬が寺田屋で襲撃された際に押収された荷物の中に、薩長の談合に関する書面があった。その内容が、「京坂書通写」(鳥取県立博物館)に書かれており、薩長両藩が協力して会津藩を京都から追放する取り決めがあったことがわかった。
これらのことからも薩長同盟は、場合によって「決戦やむなし」の決意を持った軍事同盟と考えられる。
薩摩藩の調練場では、英国式兵学者の上田藩士赤松小三郎を招き、英国式歩兵への練兵も行われた。鳥羽伏見の戦いでは、その英国式歩兵も錦の御旗とともに最大限に生かされた。
桂久武は、慶応2年2月12日に「幸神口橋普請見物として参候」と御幸橋の普請を見学している。
今回の古地図は御幸橋(現・荒神橋)の解説に付したものであった。その内容は史料の「御幸橋(中略)慶応二年二月、工を興し八箇月にして成るを告く(ぐ)」とも一致する。
久武は、京都見物をしながら反物や清水焼などを買い求めた。前年末にパリ万博の契約がベルギー商社との間で成されており、その準備とも考えられる。
富国強兵は島津斉彬の遺志であった。今回発見された地図は、薩摩藩が軍事力と政治力を発揮し、幕末の難局を乗り越え、明治維新を迎えたことを、再認識させる貴重な史料である。
江戸から明治への転換期に起きた戊辰(ぼしん)戦争から150年の節目を、ふるさとの振興につなげるイベントが東北で相次ぐ。国が掲げる「明治150年」とは違う角度から情報発信し、住民が地元を見つめ直す機会をつくりながら、観光客も呼び込む企画が目立つ。敵味方を超えた催しを開く動きもある。開戦の日、残る傷痕 戊辰150年・鳥羽・伏見の戦い
鶴ケ城に立つのぼり旗には「戊辰150周年」に並んで「SAMURAI CITY AIZU」の文字も(25日、福島県会津若松市)
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鶴ケ城に立つのぼり旗には「戊辰150周年」に並んで「SAMURAI CITY AIZU」の文字も(25日、福島県会津若松市)
旧幕府軍の中心的存在だった会津藩ゆかりの福島県会津若松市は28日に「オープニング講演会」を開く。会津を舞台にした著作も多い作家の中村彰彦氏が、市民ら400人以上を前に戊辰戦争の歴史的意義を語る。7月下旬を予定する白虎隊の悲劇を題材にした「オペラ白虎」公演には、市民コーラスも参加する。
市は5千万円の予算を投じて内外に会津をPRする特別映像も制作中。5月以降、衛星放送やネットを通じて発信する。「逆賊の汚名を受けながらも戦った先人の心に、市民や観光客が思いをはせる年にしたい」(市観光課)という。
仙台藩、米沢藩など東北諸藩の代表が集まった「白石会議」の舞台、宮城県白石市は「しろいし慕心(ぼしん)プロジェクト」を展開。「戊辰の面影」などをテーマに当時の足跡が残る場所など市内で撮影した写真を募集し、3月にコンテストや展示会を実施する。白石会議は「奥羽越列藩同盟」につながったことから、加盟藩再集結の場を設ける構想もある。
敵味方を超えた企画もある。新政府軍を何度も跳ね返した庄内藩の一部だった山形県酒田市は、処分に寛大だった西郷隆盛との関係にスポットを当てた企画展を今夏に開く予定。同町には西郷をまつる南洲(なんしゅう)神社もあり、NHK大河ドラマ「西郷どん」との相乗効果も期待する。
領民が両軍の戦死者を分け隔てなく弔ったことで知られる福島県白河市のキャッチフレーズは「甦(よみがえ)る『仁』のこころ」。「先人の功績から学び、多くの地域と交流を深めたい」(市文化振興課)とし、7月14日には山口県萩市や鹿児島市など新政府軍側の自治体トップらも招いて合同慰霊祭を開く。
土地によっては戦争のわだかまりは根強い。会津若松市は降伏の日と同じ9月22日に式典を開くが「西軍(新政府軍)を呼ぶことは考えていない」(市観光課)という。
1868(慶応4)年1月27日(旧暦1月3日)、戊辰戦争が始まった。緒戦の「鳥羽・伏見の戦い」から1869(明治2)年6月の箱館戦争までの1年余にわたり、東軍(旧幕府軍)と西軍(新政府軍)が戦火を交えた。国の未来を切り開く-。立場は違えど、志を胸に戦った日本人の足跡は、多くの教訓を伝える。150年を経た今もなお、先人が情熱を注いだ国造りへの思いを伝え続けている人々を訪ねる。靖国神社宮司、退任へ 明治維新、歴史認識めぐる発言で波紋 戊辰戦争「幕府軍も日本のこと考えていた」
京都市南東部に位置する伏見区。多くの寺社が連なる静かな街並みの一角に妙教寺はある。本堂のほぼ中央に立つ、直径30センチほどの太い柱にある大穴が目を引く。
「壁を突き破った砲弾は柱を貫き、壁にめり込んで、ようやく止まったと伝え聞いています。恐ろしいまでの破壊力です」。住職の松井遠妙[おんみょう]さん(68)は、150年前に繰り広げられた鳥羽・伏見の戦いの激しさを物語る痕跡に視線を向けた。
鳥羽・伏見の戦いは、現在の京都市南部に当たる鳥羽や伏見、淀が主戦場になった。特に伏見と淀は、淀川や鳥羽街道などを介して大阪に通じる要衝だった。当時、大阪を本拠地としていた東軍は京都に向かう途中で、入京を妨げる西軍と、この地で激突した。
妙教寺は淀川の上流の桂川と鳥羽街道沿いにあり、戦局の鍵となった淀城に近い。境内周辺では激しい砲戦、銃撃戦が繰り広げられた。
大穴は普段、板でふさがれている。裏側には当時の住職日祥が記した戦いの模様を伝える一文が残る。
「明治元年正月4日幕兵は官軍を小橋の畔[あぜ]に拒[ふせ]ぐ。銃丸雨の如くことごとくこの寺に集まる。(中略)猫犬驚き走り身の置くところなし。中に巨砲[おおづつ]ありて勢迅雷[いきおいじんらい]の如く、天地に響動[きょうどう]す。(中略)誤ってこの柱をつらぬき、玄関の屋隅[やすみ]をおかしやぶって止む」
砲弾、銃弾が雨あられのように降り注ぎ、その音は雷鳴のように天地に響いた。猫や犬でさえも恐れおののき、逃げ惑った-。混乱を極めた様子は想像に難くない。
日祥は、こう締めくくっている。
「しかる後此の柱は新造を加えず、全く其の跡を存し、以って後世伝説の証とする。嗚呼[ああ]危うかりし哉[や]」
あえて柱を新たに造らず、修繕して残した。悲惨で過酷な戦乱の証拠として後世に語り継ぐ-。
地域の平穏と、民の安寧を祈る一人の僧侶のメッセージが、平和とは何かを問い掛ける。
( 2018/01/27 09:01 カテゴリー:主要 )
靖国神社の徳川康久宮司(69)が退任する意向を関係者に伝えていたことが23日分かった。同神社関係者が明らかにした。定年前の退任は異例。徳川氏は「一身上の都合」と周囲に説明している。徳川幕府十五代将軍慶喜を曽祖父に持つ徳川氏が2016年の共同通信のインタビューで示した明治維新に関する歴史認識について、同神社元総務部長が「会津藩士や西郷隆盛ら『賊軍』の合祀(ごうし)の動きを誘発した」と著書などで徳川氏を批判、波紋が広がっていた。以後は有料記事サービスにて。
明治維新のため幕府と戦って亡くなった人々の顕彰という創立の理念に絡んで発言した徳川氏が退任すれば、…
半藤一利「明治維新150周年、何がめでたい」「賊軍地域」出身作家が祝賀ムードにモノ申す
1月1日、安倍晋三首相は年頭所感で「本年は、明治維新から、150年目の年です」と切り出し、明治維新を賞賛した。政府は「明治維新150年」記念事業に積極的で、菅義偉官房長官は「大きな節目で、明治の精神に学び、日本の強みを再認識することは重要だ」と述べている。
明治維新を主導した薩摩(鹿児島)、長州(山口)などではすでに記念イベントが始まっているが、今年は国家レベルでもさまざまな祝賀事業が行われる見通しだ。
だが、こうした動きに対し、異議を申し立てる論者も多い。『日本のいちばん長い日』『昭和史』などの名著で知られ、幕末維新史にも詳しい半藤一利氏もその1人である。『賊軍の昭和史』(保阪正康と共著)の著者でもある半藤氏に話を聞いた。
(聞き手:加納則章)
「明治維新」という言葉は使われていなかった
――そもそも「明治維新」という言葉が使われたのは、明治時代が始まってからずいぶん後のようですね。
私は、夏目漱石や永井荷風が好きで、2人に関する本も出しています。彼らの作品を読むと、面白いことに著作の中で「維新」という言葉は使っていません。特に永井荷風はまったく使っていないのです。
漱石や荷風など江戸の人たちは、明治維新ではなく「瓦解(がかい)」という言葉を使っています。徳川幕府や江戸文化が瓦解したという意味でしょう。「御一新(ごいっしん)」という言葉もよく使っています。
明治初期の詔勅(しょうちょく)や太政官布告(だじょうかんふこく)などを見ても大概は「御一新」で、維新という言葉は用いられていません。少なくても明治10年代までほとんど見当たりません。
そんなことから、「当時の人たちは御一新と呼んでいたのか。そもそも維新という言葉なんかなかったんじゃないか」と思ったことから、明治維新に疑問を持つようになりました。
調べてみると、確かに「明治維新」という言葉が使われだしたのは、明治13(1880)年か14年でした。
明治14年というのは、「明治14年の政変」があり、薩長(薩摩・長州)政府というよりは長州政府が、肥前(佐賀)の大隈重信らを追い出し政権を奪取した年です。このあたりから「明治維新」を使い出したことがわかりました。
半藤一利(はんどう かずとし)/作家。昭和5(1930)年、東京生まれ。東京大学文学部卒業後、文藝春秋入社。『週刊文春』『文藝春秋』編集長、専務取締役などを経て作家。「歴史探偵」を自称。『漱石先生ぞな、もし』(正・続、新田次郎文学賞)、『ノモンハンの夏』(山本七平賞)、『日本のいちばん長い日』、『昭和史1926-1945』『昭和史 戦後篇』(毎日出版文化賞特別賞)、『幕末史』、『山本五十六』、『日露戦争史』(全3巻)、『「昭和天皇実録」の謎を解く』(共著)など著書多数。保阪正康との共著に『そして、メディアは日本を戦争に導いた』(対談)などがある(撮影:風間 仁一郎)
薩長が革命を起こし、徳川政府を瓦解させ権力を握ったわけですが、それが歴史的にも正当性があることを主張するために使った“うまい言葉”が「明治維新」であることがわかったのです。
確かに「維新」と「一新」は、「いしん」と「いっしん」で語呂は似ていますが、意味は異なります。「維新」は、中国最古の詩集『詩経』に出てくる言葉だそうで、そう聞けば何やら重々しい感じがします。
薩長政府は、自分たちを正当化するためにも、権謀術数と暴力で勝ち取った政権を、「維新」の美名で飾りたかったのではないでしょうか。自分たちのやった革命が間違ったものではなかったとする、薩長政府のプロパガンダの1つだといっていいでしょう。
歴史というのは、勝った側が自分たちのことを正当化するために改ざんするということを、取材などを通してずいぶん見てきました。その後、いろいろ調べて、明治維新という名称だけではなく、歴史的な事実も自分たちに都合のいいように解釈して、いわゆる「薩長史観」というものをつくりあげてきたことがわかりました。
「薩長史観」はなぜ国民に広まったのか
――どのようにして薩長史観が広まったのでしょうか。
そもそも幕末維新の史料、それも活字になった文献として残っているものの多くは、明治政府側のもの、つまり薩長史観によるものです。勝者側が史料を取捨選択しています。そして、その「勝った側の歴史」を全国民は教え込まれてきました。
困ったことに、明治以降の日本人は、活字になったものしか読めません。ほとんどの人が古い文書を読みこなせません。昔の人が筆を使い崩し字や草書体で書いた日記や手紙を、専門家ではない私たちは読めません。読めないですから、敗者側にいい史料があったとしても、なかなか広まりません。どうしても薩長側の活字史料に頼るしかないのです。
そこでは、薩長が正義の改革者であり、江戸幕府は頑迷固陋(ころう)な圧制者として描かれています。学校では、「薩長土肥の若き勤皇の志士たちが天皇を推戴して、守旧派の幕府を打ち倒し新しい国をつくった」「幕末から明治にかけての大革命は、すばらしい人格によってリードされた正義の戦いである」という薩長史観が教えられるわけです。
さすがに最近は、こうしたことに異議を申し立てる反「薩長史観」的な本がずいぶん出ているようですが……。
――子どもの頃、半藤さんのルーツである長岡で「薩長史観」の誤りを感じられたそうですね。
私の父の郷里である新潟県の長岡の在に行くと、祖母から教科書とはまったく逆の歴史を聞かされました。学校で薩長史観を仕込まれていた私が、明治維新とか志士とか薩長とかを褒めるようなことを言うと、祖母は「ウソなんだぞ」と言っていました。
「明治新政府だの、勲一等だのと威張っているヤツが東京にたくさんいるけど、あんなのはドロボウだ。7万4000石の長岡藩に無理やりケンカを仕掛けて、5万石を奪い取ってしまった。連中の言う尊皇だなんて、ドロボウの理屈さ」
いまでは司馬遼太郎さんの『峠』の影響もあり、河井継之助が率いる長岡藩が新政府軍相手に徹底抗戦した話は有名ですが、当時はまったく知りませんでした。明治維新とはすばらしいものだったと教えられていた私は、「へー、そんなことがあるのか」と驚いたものです。
また祖母は、薩長など新政府軍のことを「官軍」と呼ばず「西軍」と言っていました。長岡藩はじめ奥羽越列藩同盟軍側を「東軍」と言うわけです。いまでも長岡ではそうだと思います。これは、会津はじめほかの同盟軍側の地域でも同様ではないでしょうか。
そもそも「賊軍」は、いわれのない差別的な言葉です。「官軍」も「勝てば官軍、負ければ賊軍」程度のものでしかありません。正直言って私も、使うのに抵抗があります。
「明治維新」の美化はいかがなものか
――幼少期の長岡でのご経験もあり、「明治維新150年」記念事業には違和感があるのでしょうか。
「明治維新150年」をわが日本国が国を挙げてお祝いするということに対しては、「何を抜かすか」という気持ちがあります。
「東北や北越の人たちの苦労というものを、この150年間の苦労というものをお前たちは知っているのか」と言いたくなります。
司馬遼太郎さんの言葉を借りれば、戊辰戦争は、幕府側からみれば「売られたケンカ」なんです。「あのときの薩長は暴力集団」にほかならない。これも司馬さんの言葉です。
本来は官軍も賊軍もないのです。とにかく薩長が無理無体に会津藩と庄内藩に戦争を仕掛けたわけです。いまの言葉で言えば侵略戦争です。
そして、ほかの東北諸藩は、何も悪いことをしていない会津と庄内を裏切って両藩を攻めろ、法外なカネを支払え、と高圧的に要求されました。つまり薩長に隷属しろと言われたのです。これでは武士の面目が立たないでしょうし、各藩のいろんな事情があり、薩長に抵抗することにしたのが奥羽越列藩同盟だったわけです。
私は、戊辰戦争はしなくてもいい戦争だったと考えています。西軍の側が手を差し伸べていれば、やらなくていい戦争ではないかと。
にもかかわらず、会津はじめ東軍の側は「賊軍」とされ、戊辰戦争の後もさまざまに差別されてきました。
そうした暴力的な政権簒奪(さんだつ)や差別で苦しめられた側に配慮せず、単に明治維新を厳(おごそ)かな美名で飾り立てようという動きに対しては何をかいわんやです。
――賊軍となった側は、具体的にはどのような差別を受けたのでしょうか。
宮武外骨の『府藩県制史』を見ると、「賊軍」差別の様子がはっきりわかります。
これによると、県名と県庁所在地名の違う県が17あるのですが、そのうち賊軍とされた藩が14もあり、残りの3つは小藩連合県です。つまり、廃藩置県で県ができるとき、県庁所在地を旧藩の中心都市から別にされたり、わざわざ県名を変えさせられたりして、賊軍ばかりが差別を受けたと、宮武外骨は言っているわけです。
たとえば、埼玉県は岩槻藩が中心ですが、ここは官軍、賊軍の区別があいまいな藩だった。「さいたま」という名前がどこから出たのかと調べると、「埼玉(さきたま)」という場所があった。こんな世間でよく知られていない地名を県の名にするなんて、恣意的な悪意が感じられます。
新潟県は県庁所在地が新潟市なので名は一致していますが、長岡が中心にありますし、戊辰戦争がなければ長岡県になっていたのではないでしょうか。
県名や県庁所在地だけ見ても、明治政府は賊軍というものを規定して、できるだけ粗末に扱おうとしていることがわかります。
また、公共投資で差別された面もあります。だから、賊軍と呼ばれ朝敵藩になった県は、どこも開発が遅れたのだと思います。
いまも原子力発電所が賊軍地域だけに集中しているなどといわれますが、関係あるかもしれません。
立身出世を閉ざされた「賊軍」藩出身者
――中央での人材登用でも、賊軍の出身者はかなり厳しく制限されたようですね。
賊軍藩の出身だと、官僚として出世できないんですよ。歴史事実を見ればわかりますが、官途に就いて名を成した人はほとんどいません。歴代の一覧を見れば明らかですが、総理大臣なんて岩手県の原敬が出るまで、賊軍出身者は1人もいない。ほとんど長州と薩摩出身者で占められています。
ちなみに明治維新150年目の今年は長州出身の安倍氏が総理ですが、彼が誇るように明治維新50年も(寺内正毅)、100年も(佐藤栄作)も総理は長州出身者でした。
また、明治年間に爵位が与えられて華族になったのも、公家や殿様を除けば、薩長出身者が突出して多いのです。特に最も高い位の公爵と侯爵を見ると、全部が長州と薩摩なんです。
政官界では昭和の戦争が終わるまで、賊軍出身の人は差別されていたと思われるのです。明治以降、賊軍の出身者は出世できないから苦労したのです。
――2013年放映のNHK大河ドラマ「八重の桜」では会津藩出身者の苦労が描かれていましたが、それ以外の負けた側の藩の出身者も差別されたわけですね。
例を1つ挙げれば、神田の古本屋はほとんどが長岡の人が創業しています。長岡出身で博文館を創業した大橋佐平という人がいちばん初めに古本屋を開いて成功したのですが、当時、いちばん大きい店でした。その後、大橋が中心となって、長岡の困っている人たちをどんどんと呼んで、神田に古本屋がたくさんできていったんです。
こんな具合に、賊軍藩の出身者たちは、自分たちの力で生きるしかなかったのです。
――『賊軍の昭和史』でもおっしゃっていますが、軍人になった人も多かったようですね。
前途がなかなか開けない賊軍の士族たちの多くは、軍人になりました。
いちばん典型的なのは松山藩です。司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』で有名な秋山兄弟の出身地です。松山藩というのは四国ですが賊軍藩です。ただ、弱い賊軍で、わずか200人足らずの土佐藩兵にあっという間に負けて降伏しました。
その松山藩の旧士族の子弟は苦労したんです。秋山兄弟の兄の好古(よしふる)さんは家にカネがないから陸軍士官学校へ行った。士官学校はタダですからね。あの頃、タダだった教育機関は軍学校と師範学校、鉄道教習所の3つでした。
弟の真之(さねゆき)さんは、お兄さんから言われて海軍兵学校へ入り直していますが、兵学校ももちろんタダでした。
この兄弟の生き方を見ると、出世面でも賊軍出身の苦労がよくわかります。好古さんは大将まで上り詰めますが、ものすごく苦労しているんです。真之さんも苦労していて、途中で宗教に走り、少将で終わっています。
賊軍藩は、明治になってから経済的に貧窮していた。だから、旧士族の子弟の多くは学費の要らない軍学校や師範学校へ行った。
その軍学校を出て軍人になってからも、秋山兄弟と同様に賊軍出身者は、立身出世の面で非常に苦労しなければなりませんでした。
『賊軍の昭和史』で詳しく触れましたが、日本を終戦に導いた鈴木貫太郎首相も賊軍出身であったため、海軍時代は薩摩出身者と出世で差をつけられ、海軍を辞めようとしたこともありました。
敗者は簡単には水に流せない
――負けた側の地域は、差別された意識をなかなか忘れられないでしょうね。
私は、昭和5(1930)年に東京向島に生まれましたが、疎開で昭和20(1965)年から旧制長岡中学校(現長岡高校)に通いました。有名な『米百俵』の逸話とも関係する、長岡藩ゆかりの学校です。
『賊軍の昭和史』(書影をクリックすると、アマゾンのサイトにジャンプします)
長岡中では、薩長と戦った家老・河井継之助を是とするか、恭順して戦争を避けるべきであったのかを友人たちと盛んに議論しました。先ほども言いましたように、明治に入っても官僚になった長岡人はほとんどおらず、学者や軍人になって自身で道を切り開いていくしかなかった現実があり、私の世代にも影響していました。
私よりかなり先輩になりますが、真珠湾攻撃を指揮した山本五十六海軍大将も、海軍で大変苦労しているのです。
「賊軍」地域は、戊辰戦争の敗者というだけでは済まなかったということです。賊軍派として規定されてしまった長岡にとっては「恨み骨髄に徹す」という心情が横たわるわけです。
いまも長岡高校で歌い継がれているようですが、長岡中学校の応援歌の1つ『出塞賦(しゅっさいふ)』に次のような一節がありました。
「かの蒼竜(そうりゅう:河井継之助の号)が志(し)を受けて 忍苦まさに幾星霜~」
勝者は歴史を水に流せるが、敗者はなかなかそうはいかないということでしょう。
先週から始まった『西郷どん』ですが、私は早くも流し見モードです。原作者と脚本家に対する好みの問題が大きいのですが、幕末の歴史好きとして勝てば官軍的な宣伝臭が苦手なのです。
西郷隆盛 幕末維新の立役者は「工作員」だった? 倉山満
2018.1.2 07:00【鳥羽伏見の戦いから150年】日本近代化への扉開いた決戦 西郷を奮い立たせた1発の銃声
観光マップ土方歳三の世界へ 戊辰戦争、一次資料に忠実に改訂 /栃木
企画展幕末の奈良町を伝える 28日まで、奈良・市史料保存館 /奈良
「幕末・明治-激動する浮世絵」展 時代の空気リアルに伝え
毎日新聞出版 英龍伝 著者佐々木 譲
影山貴彦のテレビ燦々「風雲児たち~蘭学革命篇~」 最も見応えのあった正月ドラマ
西郷隆盛 幕末維新の立役者は「工作員」だった? 倉山満
明治維新150年の節目、平成30年のNHK大河ドラマは「西郷どん」である。主人公、西郷隆盛は木戸孝允、大久保利通とともに維新三傑に挙げられる英雄だが、その波乱な人生から「幕末の功臣にして明治の賊臣」との評価もある。西郷隆盛とはどんな人物だったのか。知られざる実像に迫る。(iRONNA)
◇
私の近著『工作員・西郷隆盛 謀略の幕末維新史』(講談社)のタイトルを見て「清廉潔白で人格者の西郷さんが工作員? 何を考えているのか、イロモノ本か?」と思われたであろうか。そもそも西郷は近現代で伝記の発刊点数が最も多い人物だ。そして、明治以来現在まで、一度も不人気になったことがない英雄である。中には「全人類の中で最も偉大な人物は西郷である」と信じて疑わない人もいる。
ただ、ここで言う「工作」とは、最近の流行語で言うと、「インテリジェンス」である。では、インテリジェンスとは何か。情報を収集し、分析することである。では、何のために情報を収集して分析するのか。自らの意思を相手に強要するためである。これをコントロールとも言う。コントロールには他に「支配する」などの意味がある。
斉彬の「お庭方」
青年時代からこうした意識をもって勉学に励んでいたのが西郷である。11代薩摩藩主、島津斉彬に見いだされてからは「お庭方」(つまり工作員)として情報収集に励む。情報収集には、人間関係の構築が何よりだ。ここに青年期の勉学が生きた。江戸の教育は世界最高だったといわれるが、西郷はその知的空間の一員として活動した。のみならず、そのような知的階層こそが、維新へのうねりを生み出していく。
とはいえ、若いころの西郷は、何をやってもうまくいくという才人ではなく、苦労も経験している。あるいは人間臭い面もある。たとえば、単身赴任の妻に家庭のもめ事を押し付け、自分は仕事と称して女遊びに励むなど。そして、主君斉彬の死、幕府の大老井伊直弼の大弾圧、二度にわたる島流しなどを経て、さらに自らの勉学を磨く。
しかし不遇の地位にあっても、限られた情報を頼りに己の未来を描いていた。そして常に、「皇国」の運命を思っていた。インテリジェンスオフィサーとしての西郷の真価が発揮されるのは、こうした苦労を経て帰還してからである。西郷は、薩摩藩重役として、幕末政局で多くの謀略を主導する。
そして西郷の復帰に尽力したのが大久保利通である。大久保は常に西郷を指導者として立てていたが、西郷の失脚により政治家として目覚め、そして西郷の帰還により政治的盟友として御一新へと突き進んでいく。しかし、障害があった。徳川慶喜である。慶喜は常に西郷や大久保らの前に立ちはだかった怪物政治家だった。文久の政変で薩摩を利用して政権を奪取して以降、朝廷・将軍家・幕府・諸大名、そして外国勢力をも変幻自在に操り、幕末政局の中心に位地した。
奇跡の「鳥羽伏見」
最近、明治維新は誤りであったとの説が流布している。「慶喜こそ真に日本の指導者にふさわしく、慶喜に任せておけば当時最高の人材を網羅した政府ができたはずだ。それを吉田松陰の弟子たちの長州や西郷に率いられた薩摩らテロリストがぶち壊した」と。これは謬(びゅう)論である。そのような政権で、富国強兵、殖産興業、日清、日露戦争の勝利以上の成果が見込めたのか。既成勢力の寄せ集めなど、しがらみだらけで何もできまい。
一方で、大久保には未来が見えていた。その大久保を支え、泥をかぶったのが西郷だった。大久保の智謀と西郷の実行。この二つが掛け合わされたとき、奇跡が起きた。鳥羽伏見の戦いである。西郷が3倍の敵の猛攻を支え、大久保が錦の御旗を翻したとき、徳川軍は雪崩現象を起こして潰走した。大久保にとっては国づくりの始まりだが、「工作員」としての西郷の人生はここに完結する。
その後、2人は愛憎入り交じる中で悲劇的な最期を遂げることとなる。2人の行き違いは、討幕御一新をどのようにとらえたかの違いだろう。大久保にとって討幕は、政治家人生の通過点だったが、西郷にとっては終着点だったといえよう。
◇
【プロフィル】倉山満(くらやま・みつる) 憲政史家。昭和48年、香川県生まれ。中央大大学院文学研究科日本史学専攻博士後期課程単位取得退学。在学中から国士舘大で日本国憲法などの教鞭(きょうべん)をとる。現在、倉山塾塾長を務めるとともに、ネット放送局「チャンネルくらら」を主宰。著書に『嘘だらけの日英近現代史』(扶桑社)など多数。
2018.1.2 07:00【鳥羽伏見の戦いから150年】日本近代化への扉開いた決戦 西郷を奮い立たせた1発の銃声
260年あまりにわたった徳川幕府の世に終わりを告げ、明治維新に向かう戊(ぼ)辰(しん)戦争の緒戦となった鳥羽伏見の戦いが起きたのは、大政奉還翌年の慶応4(1868)年1月。今年の正月、日本史の転換点からちょうど150年の時が流れる。近代国家建設を目指した新政府軍と旧幕府軍がにらみあった激戦の地(現・京都市南区、伏見区)は今、どのように変化し、痕跡を残しているのか。霊山歴史館(同市東山区)の木村幸比古(さちひこ)副館長(69)とともに訪ね歩いた。(池田祥子)
伏見
「明治維新は、王政復古の大号令と、段階的に新国家像を描きながら進んだ改革。戦いは日本の平定に必要な前哨戦だった」。当時の事情に詳しい木村氏が、改めて鳥羽伏見の戦いの意義を語った。
正月早々4日間にわたった戦いは、鳥羽と伏見の2つの地が舞台となった。城下町として栄えた伏見では、御香宮(ごこうのみや)神社に陣取る薩摩軍と、南約50メートルの伏見奉行所に本陣を置く旧幕府軍がにらみ合った。
伏見の戦の端緒は、1月3日、北西約3キロの鳥羽・小枝橋で薩摩兵が放った1発の銃砲だった。奉行所にいた旧幕府方の新選組副長、土方歳三も銃声と閃光(せんこう)を確認したという。火ぶたが切られ、激戦が続いたが、薩摩軍が撃った砲弾が奉行所の火薬庫に命中し、大爆発した。
この砲弾が放たれたのは、同神社東側の高台。眼下には現在マンションが立ち並んでおり、奉行所があった場所は視界から遮られているが、木村氏は「かつてはしっかりと奉行所が見渡せたはずだ」と思い巡らせる。広大な奉行所跡は明治以降、旧陸軍が所有し、現在は市営桃陵(とうりょう)団地に。敷地からは薩摩軍のものとみられる砲弾も見つかった。
近くの料亭「魚三楼(うおさぶろう)」の表の格子には、生々しい当時の銃撃戦の弾痕がある。この戦乱で伏見の街の南半分が焼失したが、この店は運良く免れ、同神社の杜とともに往事をしのばせる。
4日、明治天皇の命令を受けた仁和寺宮嘉彰親王が征東大将軍になり、5日に新政府軍は「錦の御旗」を掲げた。旧幕府軍は兵力では圧倒していたが、たちまち「賊軍」となり、勝負は決した。
「新政府軍だけでなく、徳川慶喜も、おそらく大政奉還の先に新たな国家を見据えていただろう」。木村氏はそう推察し「世界地図を念頭に新しい国を生み出すために、明治維新は避けては通れない道だった」と語った。
鳥羽
鳥羽の戦いは、城南宮周辺で起こった。木村氏は、境内にある文久元(1861)年建立の石造りの鳥居を見上げ「戦の一部始終を見ていただろう」と思いをはせた。
慶応4年1月3日、新政府軍は城南宮から小枝橋に続く参道に陣を構え、旧幕府軍と長時間対峙(たいじ)した。
突如、小枝橋で薩摩兵が挑発のため撃った一発で戦いの幕は上がった。
〈鳥羽一発の砲声は、百万の味方を得たるよりも嬉しかりし〉
北に約3キロ離れた薩摩軍の本陣、東寺(南区)の五重塔から遠眼鏡で状況を見守っていた総指揮官の西郷隆盛は喜んだという。「倒幕が目的だった西郷としては、戦が勃発したことで旧幕府軍を朝敵として討てるという大義名分ができた」。木村氏が説明する。
城南宮の西350メートルの小枝橋周辺。木村氏によると、戦後は田畑が多かったが、現在は住宅や工場が立ち並び、西郷がいた五重塔も見えない。150年前の記憶は、小枝橋近くと鳥羽離宮跡公園にある石碑のみに刻まれている。
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鳥羽伏見の戦い 王政復古の大号令の後、将軍家の領地返納を強行採決した薩長両藩に対し旧幕府側が1万5千人で挙兵。大坂から京に進攻し、両藩兵ら4500人が迎え撃った。慶応4年1月3日、鳥羽と伏見で衝突したが、「官軍」となった新政府軍が旧幕府軍を圧倒し、6日に戦が終わり、徳川慶喜は江戸へ逃れた。
観光マップ土方歳三の世界へ 戊辰戦争、一次資料に忠実に改訂 /栃木
地域おこしに取り組む宇都宮市の市民団体「黄ぶな愉快プロジェクト」は、戊辰(ぼしん)戦争で戦場となった同市内の史跡などを集めた改訂版観光マップ「新撰組土方歳三と幕末の宇都宮へタイムスリップ」を作製した。幕末・維新を生きのびた、日本橋の大店たち榮太樓、西川、柳屋・・・試練を乗り切った老舗
同プロジェクトは2011年、「歴女」ブームを受け、司馬遼太郎の小説「燃えよ剣」の内容に沿ったマップを作った。しかし小説は、実際には戦いに参加していない人物も登場するなど、史実に反する部分もあった。
このため、宇都宮藩の資料や戦争参加者の日記など、一次資料に忠実な改訂版を作成。一般的には土方歳三が快進撃したと思われがちな第1次宇都宮城攻防戦が、実際には少ない兵力で宇都宮藩側が一時旧幕府軍を食い止めていたことなどが紹介されている。
マップはアンテナショップ「宮カフェ」(同市江野町)で缶バッジ(200円)とセットで販売。また、宇都宮新撰組同好会ホームページ上にもPDFファイルで公開されている。【高橋隆輔】
明治末期のある日、取材記者の石井研同(陸奥国郡山)は、三ノ輪の埃っぽい裏路地にある長屋を訪ねた。「零落した豪商が住んでいる」と聞き込んだからだ。幕末明治・横浜の西洋犬事情は 浮世絵から伝わる驚き
6畳1間の主は伊勢屋加太八兵衛(かぶとはちべえ)。かつて麹町7丁目で呉服店を営み、「山手随一の豪商」と言われた「伊勢八」である。幕府御用商人として苗字帯刀を許され、旗本や諸大名の資金調達も担ったが、維新ですべて踏み倒された。「諸大名に数万金の貸し流れあり、その証書のみにて、つづら籠一つに満つ」(『明治事物起源』)。
明治維新で、たびたび御用商人に課せられた「御用金」など、幕府への債権は貸し倒れとなった。各藩への売掛債権の返済は新政府が肩代わりするが、20年以上前の天保年間以前のものは時効、それ以降は50年債での返済とされ、実際には棒引き。伊勢八はたまらず倒産したのだ。
幕末、幕府の統制が揺らぐと江戸の治安は悪化。ある日、日本橋西河岸の榮太樓の店に、京都・大覚寺の寺侍を名乗る数人の武士が訪れ、「誰の許しを得て『榮太樓』を名乗っているのか。『樓』は高貴な文字だ」と脅した。こんな謂われのないゆすりが横行し、群衆が大店に暴れ込んでの略奪や打ち毀(こわ)しも相次いだ。彼らは「天狗がやった、やったのは天狗だ」とうそぶいたという。今に続く老舗は、存亡をかけた試練をどうやって乗り切ったのか。
業態を華麗に変更した「ふとんの西川」
本記事は『東京人』2018年2月号(1月4日発売)より一部を転載しています(書影をクリックするとアマゾンのページにジャンプします)
日本橋の南側、日本橋通りをはさんでの通1丁目は「間口一間値千両」と言われた江戸第一級の商業地で、近江商人の店が集中した。豊臣の楽市楽座政策を機に、近江商人は全国に活躍の場を求め、御朱印貿易にも携わった。
今でも近江八幡や五個荘(ごかしょう)など北国街道沿いの街並みを歩くと、他の地方には見られぬ「勢い」が感じられる。
橋を渡ってすぐの「西川」は「近江八幡の御三家」、初代西川仁右衛門(にえもん)が元和元(1615)年、畳表や蚊帳を商う近江本店の支店として設けた。江戸はまだ普請中、畳表は江戸城や武家屋敷からの引き合いが多く、町屋向けに手代が売り歩いた蚊帳への需要も、江戸の街と一緒に膨張し続ける。売上は右肩上がりだった。
西川は経営の近代化に熱心だった。売上から運転資金、原材料費、当時多かった大火などの損失引当金を引いた分を従業員に分配する「三ツ割銀制度」は現代の会計理論にも通じ、寛文7(1667)年の勘定帳は、わが国に残る最古の帳簿とされる。「近江八幡の本家で拝見しました」と日本橋西川の店長・執行役員の伊藤敦司さんは語る。売り手、買い手、世間の「三方よし」とともに、近江商人の先進性と精神を現代の社員たちに伝える存在だ。
幕末、第2次長州征伐にあたり、幕府は西川に冥加金(みょうがきん)1800両の上納を命じている。さらに明治元年、旧幕府への売掛金2550両を新政府に「上納」した。債権放棄である。だが、社史に掲載されている当時の年商からざっと計算すると、西川にとって経営の屋台骨を揺さぶる額ではなかったようだ。さらに成長分野を見極め、大阪店の開店、木綿の扱いの開始などに続き、ついに明治20年、現在の主力商品である蒲団(ふとん)の扱いを開始した。
寛文7(1667)年の、日本で現存する最古の勘定帳。西川家が江戸時代初期から早くも近代的な「計数管理」に基づく経営を行い、在庫管理や利益管理の概念のもとに運営されていたことがわかる(提供・西川)
近くに店を構える柳屋は、鬢付油「栁清(りゅうせい)香」で名を馳せた。唐人の漢方医・呂一官(ろいっかん)が、徳川家康の江戸入城と同時に通2丁目に御朱印地を拝領、「紅屋」として紅、白粉(おしろい)、香油の製造販売を開始した。のち近江商人の外池(といけ)家が継承、店は隆盛を誇る。だが維新により思わぬ危機が訪れた。明治4年の断髪令で、男性用鬢付油が不要になったのだ。しかし、女性用油「瓊姿香(けいしこう)」が柳屋を支え、大正9年の「柳屋ポマード」の大ヒットでさらに飛躍する。日本橋交差点角の、ガラスブロックが美しい柳屋ビルディング(昭和39年竣工)の場所こそが、創業の御朱印地なのである。
醤油醸造業から食品問屋へ国分の変身
西川の向かいに店を構える国分のルーツは、「近江商人と日本橋を二分する」伊勢商人だ。四代國分勘兵衛が射和(いざわ)(現在の松阪)から元禄時代に江戸に出、正徳年間に日本橋で「大国屋」の屋号で呉服商を始めたと伝えられているが、同じ頃、土浦で醤油醸造業にも着手する。続く五代勘兵衛は江戸店を本町から現在の国分本社がある西河岸町に移した。醤油の日本橋川からの陸上げを考えてのことだろう。宝暦7(1756)年「亀甲大(キッコーダイ)醤油」の販売を開始、最上級の醤油との評価を得て、日本橋でトップクラスの問屋となった。
国分は創業期より決め事、順守すべき事柄を「式目、定目」として明文化し、従業員のモラルを高く保った。これらは時代とともに何度か書き改めながらも、現在もその精神は「平成の帳目(ちょうもく)」として受け継がれている。
幕藩体制の崩壊は、江戸城や土浦藩などの大口需要先が失われ、御用金も貸し倒れとなった。加えて新政府が金銀の国外流出対策で貨幣価値を切り下げると、インフレが進行して原材料費が高騰。低価格品の醤油も出回りはじめたことは、亀甲大醤油を売り物とした店にとって打撃であった。
八代勘兵衛は、安政年間から製茶の輸出も手がけており、明治13(1880)年、大国屋は170年弱続いた醤油醸造を断念、新時代に沿った食品を扱う事業に大きく転換した。日本人の伝統の食を扱い続けると同時に、洋風化への貢献を一貫して続けている。
幕末、第2次長州征伐にあたり、幕府は西川に冥加金(みょうがきん)1800両の上納を命じている。さらに明治元年、旧幕府への売掛金2550両を新政府に「上納」した。債権放棄である。だが、社史に掲載されている当時の年商からざっと計算すると、西川にとって経営の屋台骨を揺さぶる額ではなかったようだ。さらに成長分野を見極め、大阪店の開店、木綿の扱いの開始などに続き、ついに明治20年、現在の主力商品である蒲団(ふとん)の扱いを開始した。
寛文7(1667)年の、日本で現存する最古の勘定帳。西川家が江戸時代初期から早くも近代的な「計数管理」に基づく経営を行い、在庫管理や利益管理の概念のもとに運営されていたことがわかる(提供・西川)
近くに店を構える柳屋は、鬢付油「栁清(りゅうせい)香」で名を馳せた。唐人の漢方医・呂一官(ろいっかん)が、徳川家康の江戸入城と同時に通2丁目に御朱印地を拝領、「紅屋」として紅、白粉(おしろい)、香油の製造販売を開始した。のち近江商人の外池(といけ)家が継承、店は隆盛を誇る。だが維新により思わぬ危機が訪れた。明治4年の断髪令で、男性用鬢付油が不要になったのだ。しかし、女性用油「瓊姿香(けいしこう)」が柳屋を支え、大正9年の「柳屋ポマード」の大ヒットでさらに飛躍する。日本橋交差点角の、ガラスブロックが美しい柳屋ビルディング(昭和39年竣工)の場所こそが、創業の御朱印地なのである。
醤油醸造業から食品問屋へ国分の変身
西川の向かいに店を構える国分のルーツは、「近江商人と日本橋を二分する」伊勢商人だ。四代國分勘兵衛が射和(いざわ)(現在の松阪)から元禄時代に江戸に出、正徳年間に日本橋で「大国屋」の屋号で呉服商を始めたと伝えられているが、同じ頃、土浦で醤油醸造業にも着手する。続く五代勘兵衛は江戸店を本町から現在の国分本社がある西河岸町に移した。醤油の日本橋川からの陸上げを考えてのことだろう。宝暦7(1756)年「亀甲大(キッコーダイ)醤油」の販売を開始、最上級の醤油との評価を得て、日本橋でトップクラスの問屋となった。
国分は創業期より決め事、順守すべき事柄を「式目、定目」として明文化し、従業員のモラルを高く保った。これらは時代とともに何度か書き改めながらも、現在もその精神は「平成の帳目(ちょうもく)」として受け継がれている。
幕藩体制の崩壊は、江戸城や土浦藩などの大口需要先が失われ、御用金も貸し倒れとなった。加えて新政府が金銀の国外流出対策で貨幣価値を切り下げると、インフレが進行して原材料費が高騰。低価格品の醤油も出回りはじめたことは、亀甲大醤油を売り物とした店にとって打撃であった。
八代勘兵衛は、安政年間から製茶の輸出も手がけており、明治13(1880)年、大国屋は170年弱続いた醤油醸造を断念、新時代に沿った食品を扱う事業に大きく転換した。日本人の伝統の食を扱い続けると同時に、洋風化への貢献を一貫して続けている。
犬はいつごろからペットとして飼われるようになったのだろうか。戌年(いぬどし)に合わせ、そんな歴史をひもとくミニ展示企画「幕末明治 横浜犬事情」が横浜開港資料館(横浜市中区)で開かれている。女性のそばに座る犬、飼い主と散歩する犬、台所をうろつく姿……。開港したばかりの横浜で描かれた西洋の犬に焦点をあてた。幕末~明治の「イヌ事情」に迫る 横浜開港資料館で展示
特集:どうぶつ新聞
幕末から明治初期にかけて、浮世絵師の歌川貞秀(さだひで)は横浜で、外国人の風俗や商館などを題材に数多くの浮世絵を描いた。「横浜絵」と呼ばれ、庶民の間でブームに。その中に、洋犬も数多く描かれていた。
「最初は洋犬が珍しいから貞秀が描いたと思っていた。でも、それだけではなかったようです」。同資料館の伊藤泉美・主任調査研究員は、史料や文献に当たるうちに気付いた。
江戸時代までは、富裕層が室内で飼っていた小型の「狆(ちん)」や猟師が飼う猟犬を除き、個人で犬を飼うことは珍しかった。「犬公方」と呼ばれた5代将軍・徳川綱吉も江戸城で狆を飼っていた。集落周辺に住む里犬や町犬はいたが、「地域の番犬」の役割は果たしても、各戸で飼われていたわけではなかったという。
明治時代に各道府県で「畜犬規則」が定められてから、個人の所有が増えていく。それまでの里犬たちは外国人らから「未開の象徴」とみられたこともあり、処分の対象になっていったという。「居留地で洋犬が飼い主に行儀よく従う姿は、貞秀にとっては驚きの光景だったのでしょう」と伊藤さんは話す。約10点の関係資料を紹介するミニ展示は2月末まで。(佐藤善一)
二〇一八年の戌(いぬ)年にちなみ、幕末~明治の「イヌ事情」に迫った資料展が、横浜市中区の横浜開港資料館ミニ展示コーナーで開かれている。二月二十八日まで。 (志村彰太)最近はワンちゃんに「カメ」という名前をつけることもなくなったようですが、一時はポピュラーな名前だったそうです。横浜辺りで"Come here!"と英語で呼ぶのを聞きつけた人が、「カメ」を犬の名前と思ったのが始まりとか。
同館によると、江戸時代は猟犬や狆(ちん)という小型犬を除き、個人がイヌを飼うことはなかった。雑種とみられるイヌが群れをなして地域内で暮らすのが普通で、現在の地域猫のような存在だった。幕末の開港後、海外から品種改良された西洋犬が流入。文明開化の象徴として室内や犬小屋で個人が飼い、散歩に連れて行く生活様式が定着していった。
会場には、横浜を題材にした浮世絵で知られる歌川貞秀(さだひで)(一八〇七年~没年は不明)が、西洋犬を散歩させる外国人を描いた浮世絵や、明治期に横浜で撮影された飼い犬の写真など十点を展示。担当者は「幕末の開港が日本人とイヌの関係を変えたことが伝えられれば」と話している。
入館料は大人二百円、小中学生百円。年末年始と原則月曜休館。問い合わせは同資料館=電045(201)2100=へ。
企画展幕末の奈良町を伝える 28日まで、奈良・市史料保存館 /奈良
明治維新150年に合わせ、奈良市脇戸町の市史料保存館で企画展「幕末の奈良町」が開かれている。1854年の伊賀上野地震を伝える瓦版など、幕末~維新期の奈良町の出来事を記した資料が並ぶ。無料。28日まで。以下は有料版にて。
瓦版には、同地震により「南都」(奈良)で350人が死亡し、火災や池の堤防の決壊による被害が記され…
「幕末・明治-激動する浮世絵」展 時代の空気リアルに伝え
平成30年の今年は明治維新から150年となる。幕末から明治へと、社会が大きく変わっていく中で浮世絵も様変わりしていった。その時代の作品に焦点を当てた「幕末・明治-激動する浮世絵」展が、東京の太田記念美術館で開かれている。【号泣】佐賀県、大河ドラマに無視されすぎ問題
約260年続いた江戸時代が終わり明治時代を迎えると、都市ではモダンな洋風建築が建ち始めた。文明開化の香りを感じさせるのが昇斎一景(しょうさいいっけい)の「東京名所 銀座繁栄之図」だ。ピンクの花を咲かせた華やかな桜並木。人々が歩き、馬車や人力車が行き交う。和装の女性がいれば洋装の紳士の姿もある。桜の背後には煉瓦造りの建物。和洋混交の不思議な光景は活気にあふれ、明治という新しい時代の高揚感を感じさせる。作者の昇斎一景は明治初期、「開化絵」といわれる東京の町並みや風俗を描いていたが、生没年や詳しい来歴もわかっていない。いわば謎の浮世絵師だ。
急速に近代化が進んだ明治。5年には日本初の鉄道路線が新橋-横浜間で開通。明治に活躍した四代歌川広重の「高輪 蒸気車通行全図」はその鉄道をモチーフにした。ただ制作されたのは開通前で、実際に見て描いたわけではなく資料などを基に想像で表現したという。そのため、客車部分は馬車のようでちょっと変。現代の目で見るとユーモラスだが、この絵を見た当時の人たちはまだ見ぬ未知の乗り物にどれだけ心を躍らせていたのだろうか。
浮世絵は絵として純粋に楽しむ一方、明治になると情報をもたらすメディアにもなった。「江戸時代は幕府の批判につながるということで、リアルタイムな事件を浮世絵にすることは禁じられていたが、明治になると制限はなくなり西南戦争なども絵にすることができるようになった。浮世絵は庶民が欲していた情報をもたらすものでもあった」と同館の日野原健司主席学芸員は話す。
小林清親の「明治十四年一月廿六日出火 両国大火浅草橋」は、大火を題材にした。立ち上る赤い炎はすさまじく、天まで昇る勢いだ。明治14年1月26日に起こった大火災を、清親は写生帖を手に、一晩中火の行方を追ってスケッチした。灰燼(かいじん)に帰した焼け跡の絵も残したように、何枚も作品にした。そのため、帰宅したときには自分の家まで焼失していたというエピソードも。画題には、場所や日時が記されていることからジャーナリスティックな目を持っていたことがうかがえる。
清親は明治初期、江戸から東京となった都市を光や影を駆使し情感たっぷりに描いた「光線画」と呼ばれる浮世絵版画で人気があった。「大川岸一之橋遠景」もその一つで明暗のコントラストが鮮やか。「従来の浮世絵は輪郭線があったが、ヨーロッパの絵画は基本的に輪郭線がなく陰影で立体感を表現した。そうした手法を木版画に取り入れようとし、浮世絵らしくない油絵のような世界を生み出した」(日野原主席学芸員)
明治期、近代化によって江戸の面影が失われたものの、新しい名所が各地に誕生していった。展示された約150点の作品からは、時代のリアルな空気を感じることができる。(渋沢和彦)
■りりしい西郷どん
明治維新をなしとげた人物として人気があるのが西郷隆盛だろう。本展には西郷を描いた鈴木年基の「文武高名伝 旧陸軍大将正三位 西郷隆盛」が出品されている。ひげをたくわえ、軍服姿でりりしい姿だ。制作されたのは明治10年。西南戦争がすでに始まり、西郷軍の劣勢が伝えられていた時期で、作者の年基は実際会って描いたわけではない。東京の上野公園にある、犬を連れた親しみのある銅像の姿とはイメージが違う。西郷の絵は数多いが、上半身アップの作品は少ないという。作者の年基は明治初期に活躍し、名所絵などを描いていた浮世絵師で生没年は不明だ。
本展には、西郷関係の浮世絵が前期・後期あわせて8点出品。西郷が自刃して幽霊となった不気味な姿を見せる月岡芳年(よしとし)の「西郷隆盛霊幽冥奉書」(後期)も展示され、さまざまな偉人像に触れることができる。
NHKの大河ドラマ「西郷(せご)どん」も始まり、すでに多くの本が出版されている。ブームが起こっているが浮世絵の「西郷どん」も必見だ。
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【ガイド】「明治維新150年 幕末・明治-激動する浮世絵」展は東京都渋谷区神宮前1の10の10、太田記念美術館。前期1月28日まで、後期2月2~25日(前後期で展示替え)。月曜休。一般700円、大高生500円、中学生以下無料。問い合わせはハローダイヤル(電)03・5777・8600。
遂に始まりました、大河ドラマ『西郷どん』。方言が激しくてテロップがないと何を言ってるかわからないって話題になってますが、こういう時字幕放送は便利ですね。私は相変わらず江川英龍の大河ドラマ化を希望する者ですが、佐々木譲さんの歴史小説三部作の三作めとして『英龍伝』が刊行されて嬉しい限りです。
いやぁ、それにしても10年くらい前から幕末、戦国、幕末、戦国、ひとつ飛ばしてまた幕末、戦国、幕末、戦国、戦国、幕末と、幕末と戦国を行ったりきたりしている大河ドラマ。『篤姫』『龍馬伝』『八重の桜』に『花燃ゆ』と、薩摩、土佐、会津に長州……日本史でも習いましたもんね。明治維新は幕末の雄藩「薩長土肥」が主力となってなされたって……うん、うん、うん……って、おーい!
肥(肥前)はどこへ行ったよ!!!
肥前どこ行ったよ!明治維新の立役者と日本史の授業やテストで出題され、漫画とかでもよく登場するこの言葉「薩長土肥」。今で言うと、
薩摩 → 鹿児島
長州 → 山口
土佐 → 高知
肥前 → 佐賀
肥は?ねえ肥は??肥、僕の地元なんですけど?何でまた薩摩?10年前に『篤姫』やったじゃん!なぜ、ここでまた薩摩の『西郷さん』??もっといえば、西郷隆盛は1990年に『翔ぶが如く』でやってるじゃん!
『ブラタモリ』未踏の地、佐賀県
大河だと秀吉が朝鮮攻めするとき名護屋城がチラッとセットで出てくる程度の扱い。そして、もう直ぐ100回に手が届きそうなのにあのタモリさんが一度もブラついてない『ブラタモリ』未踏の地の一つ、それが我が地元佐賀県。
朝ドラだって、主人公の出身地どころか『おしん』(1983)以来舞台にもならない佐賀県。『信子とおばあちゃん』(1969)では主人公の出身地だったらしいけど、それも半世紀以上前の話。だいたいその『おしん』だって、嫁いで佐賀に来てみたら旦那も姑も酷い奴らでイビられ倒されたあげく右手が使えなくなるという地獄設定。どうよ、この冷遇ぶり!佐賀県民だって受信料払ってんだぞ!
幕末佐賀藩大河ドラマ
え?だって、佐賀でしょ?大河になりそうな人いるの?って声も聞こえてきそうなんで、歴史それほど詳しくないですがこの際なので『幕末佐賀藩大河ドラマ』のプレゼンをさせていただきます。
肥前の妖怪『鍋島直正(鍋島閑叟)』
若干17歳で家督を継いだら、浪費家だった父親のツケが溜まりに溜まってて藩は財政破綻状態。そうとは知らず江戸藩邸から佐賀に向けて出発しようとしたら、商人たちが金返せと押しかけ大名行列がストップしてしまったという超苦労人。口癖は「腹を割って話そう」「一丸になろう」。
国元に帰ったら「ソロバン大名」と揶揄されるほどの質素倹約で財政改革、教育改革、農村復興を推し進め、結果佐賀藩は今だったら『ガイアの夜明け』(テレ東)で取材されちゃうんじゃないかって勢いで奇跡のV字回復!
また、日本初の実用反射炉でアームストロング砲を完成させ、極秘裏に洋式陸海軍を備え蘭学・英学を奨励。海外文明を積極的に移植し近代化に成功。幕末最強の科学・技術・軍事力を持ってるにもかかわらず最後の最後まで佐幕派からも倒幕派からも距離を保って加わろうとせず、あまりにも得体が知れない存在だったため「肥前の妖怪」と呼ばれたキレモノ且つ、クセモノなお殿様。
司馬遼太郎先生も短編集『酔って候』の中で「肥前の妖怪」ってタイトルで小説書いてるし、ちょっとググったら逸話がわんさと出てくるしネタには困りませんよNHK様!
佐賀にもいるぞ維新志士
直正公を含め、佐賀の七賢人とか呼ばれてるので何人かご紹介。
不遇の才物『江藤新平』
桂小五郎や伊藤博文とも交流のあった佐賀の維新志士。最下層の出身から薩長が圧倒的権力を握っている新政府の中枢で司法卿になった超逸材。この人の献言で「江戸」が「東京」と改称された。犬猿の仲だった大久保利通と大モメ、そして下野。「新政府クソくらえ!」と武力蜂起しようとする地元佐賀の不平士族を諌めようと帰郷したら、逆に担ぎ上げられ佐賀の乱が勃発。大久保の策略で正式な裁判にもかけられず斬首の上、さらし首にされた(ほとんど見せしめ)という不遇の人。
司馬遼太郎先生も『歳月』って小説を書いちゃうくらいなので、そろそろまともに評価してあげて!佐藤健くんとかイケメンだけど哀愁感のある演技派に演じてもらいたい。
あだ名はハゼ『大隈重信』
落ち着きが無く激しく動き回ることからあだ名はハシクリ(ハゼ)。藩校では常にトップの成績をおさめるも直正の教育方針に批判的だったアンチ閑叟。佐賀の特色である『葉隠』的教育に反発し退学。蘭学寮に入学し、閑叟にオランダ憲法を講義するまでに至る。副島種臣と将軍・徳川慶喜に大政奉還を進めることを計画し、脱藩するも失敗。
大政奉還後は「直ちに兵を率いて上洛いたしましょう!」と藩主の直正に熱弁するもスルーされる。相性悪そうなこの2人のやりとりを大河で見てみたい。
大河ドラマ『直正 -肥前の妖怪-』(主演:大泉洋)
維新の後は、北海道開拓と防衛の必要性にいち早く気づき北海道初代開拓使長官に任命され「北海道開拓の父」と言われる島義勇を送り込んだり他藩が尻込みするなか600人以上集団移住させたりと、意外にも北海道と繋がりがある直正公。
ここは是非、北海道出身の大スター大泉洋さんに主演をやっていただき、脇を安田顕さんとかTEAM NACSで固め『直正 -肥前の妖怪-』とかいうタイトルで大河やっちゃいましょう!大泉さんが大河主演!北海道の視聴率も取れる筈(多分)!
というわけで、次の幕末大河ドラマは是非、「薩長土肥」の肥!肥前でお願いします!
毎日新聞出版 英龍伝 著者佐々木 譲
ISBN:978-4-620-10833-9幕末遣米使節随員・玉虫左太夫~近代への大いなる目覚めと挫折~「航米日録」記した悲運の逸材
定価:本体1,800円(税別)
判型:四六判
頁数:320頁
ジャンル:小説・評論
平和的開国に尽力した知られざる異能の行政官。その不屈の生涯。
開国か戦争か。いち早く「黒船来航」を予見、未曽有の国難に立ち向かった伊豆韮山代官・江川太郎左衛門英龍。誰よりも早く、誰よりも遠くまで時代を見据え、近代日本の礎となった希有の名代官の一代記。明治維新から180年。新たな幕末小説の誕生。
『武揚伝』『くろふね』に続く、幕臣三部作、堂々完結!
【江川太郎左衛門英龍 1801-1855】
伊豆韮山の世襲代官だったが、「黒船来航」の十年以上前から幕府に海防強化の建議を繰り返し、ペリー来航時には海防掛に任命され、江戸湾台場築城を指揮した。
高崎 哲郎2月に史跡足利学校で清光、安定の日本刀展示 新選組の沖田総司愛用の刀工
1948年、栃木県生まれ、NHK政治記者などを経て帝京大学教授(マスコミ論、時事英語)となる。この間、自然災害(水害・土石流・津波など)のノンフィクションや人物評伝等を刊行、著作数は30冊にのぼる。うち3冊が英訳された。東工大、東北大などの非常勤講師を務め、明治期以降の優れた土木技師の人生哲学を講義し、各地で講演を行う。現在は著述に専念。
玉虫左太夫墓(仙台市・保春院、提供:高崎氏)
異文化の衝撃、サムライの覚醒
激動の幕末に太平洋を渡った遣米使節団(77人)のうち、私は使節団正使・新見豊前守正興(にいみぶぜんのかみまさおき)の従者(随員)である仙台藩士・玉虫左太夫(たまむしさだゆう)に注目する。彼の克明な「航米日録」(航海日誌)に強くひかれるからである。
左太夫は、文政6年(1823)仙台に生まれた。学問を究めたい一心から、24歳の時脱藩し江戸に出て大学頭林復斎の門に入った。高い教養が認められ塾長を命じられ、大名などに復斎の代講をつとめるまでになった。万延元年(1860)、幕府がアメリカと通商条約締結のため使節団を送ることになった。彼は正使新見豊前守の従者に選ばれアメリカの軍艦ポーハタン号で太平洋を渡った。未知の国への旅立ちであった。
日本を離れるとすべてが新しく、奇異に映るのは当然であった。左太夫は外国語の知識に欠け、海外事情にもそれまで無縁であった。だが、俊才の彼は儒学の素養と鋭い観察眼によって異国をつぶさに観察し、詳細かつ正確な記録を残した。「航米日録」(8巻)である。比類ない観察記録といえる。副使・村垣淡路守範正(のりまさ)の日記が、アメリカの進んだ文物に接しながら、「えみしらも あおぎてぞ見よ 東なる 我日本(ひのもと)の 国の光を」と31文字に読む国粋ぶりとは異なり、左太夫は知的に、客観的に見聞を詳細に書き留めた(批判的記述は別の日誌に書き止め他見に供しなかった)。米艦ポーハタン号乗艦から世界一周を果たして横浜帰港までの9カ月の間、果敢な取材や観察をもとに具体的数字を挙げて実証的に記述するその手法には類を見ない価値がある。彼は緻密で冷静な頭脳の持ち主であった。
遠藤周作の左太夫評価
文学者・遠藤周作は左太夫の近代化への目覚めに注目した最初の作家である。「走馬灯」の「玉虫左太夫のこと」より引用する。
「左太夫の『航米日録』は、その素直な感受性と率直な批判精神で書かれた得がたい外国体験の記録である。まず彼には、その後の留学生たちに見られるような卑屈なコンプレックスは毛頭なかったが、と言って無意味な強がりや偏見もない眼で、米国を見ようとしたのである。彼は最初、米国を聖道のない国と考えていた。米国人を礼節をわきまえぬ国民と考えていた。その定太夫が、幕府の遣米使節の最下級の属官として米国船に乗りこんだのである。そして彼は、毎日の船旅で少しずつ、自分のこの考えが間違いであったことに気づいていくのだ」。
遠藤は左太夫の目覚めを具体的に記す。
「日本を離れると、船はたびたび暴風にあった。属官である彼は正使、副使たちと違い、もっともひどい場所に起居していたため風波に持物を濡らし、ずぶ濡れになったが、その都度、親切に助け、慰めてくれたのは同乗した日本人の上司たちではなく、ほかならぬ米国人の下級船員たちだった。彼は米国人にたいする偏見がまず薄れたのはこの時である。
左太夫は、この船内で士官と水兵とが互いに助けあい、協力しあい、その交情の親密なことに気づき始めた。これは、彼が受けた儒教的教養にたいする最初の衝撃だった。米国人には聖道はないかもしれぬが、そのかわり人間的な暖かさがあると彼は気づいたのである。
『我国にては礼法、厳にして、総主などには容易に拝謁するをえず、少しく位ある者は…下を蔑視し、情交、かえって薄く、兇事ありといえども悲嘆の色を見ず』と彼は書いた。『しからば、礼法厳にして情交薄からんよりは、寧(むし)ろ、礼法薄くとも情交、厚きを取らんか』
なんと爽やかで、率直な観察と結論であろう。玉虫左太夫は厳しい儒学的教育を受けて育った侍だっただけに、この彼の反省は我々もしみじみと受け取れるのだ。
こうして太平洋を渡り米国に赴く船のなかで、左太夫の心には少しずつだが微妙な変化が始まった」
「属官である彼が、自分の船内観察や考えが上司に伝わるのを怖れて、自分だけの日記をつけだしたのもこの時からである。その日記には、同船の日本人上司にたいする痛烈な批評も書き込まれている。たとえば、同船の日本人たちは船内の食事に不平を言いつづけているが、連中は平生は家にあっては一汁一菜しか食べていないくせに、こういう旅行の際には『俄(にわ)かに奢侈の言を発して美味を好む』とは不思議であると、彼は言っている。
(中略)。左太夫の上司にたいする批判は彼自身が属官であるゆえんの不平も感ぜられないではないが、しかし、いかにも外国旅行に行く日本人的な性格を浮き彫りにしていて、今も昔も変わらない部分を衝いているのが面白い。いずれにせよ、『航米日録』には、初めて接する異国の人によって目ざめていく若い日本青年の心の変化が、手に取るように書かれている」。
ワシントンでの観察と見解
首都ワシントンでの観察を見てみたい。玉虫左太夫は、副使村垣と異なり、女性の存在に驚いたり、複雑な礼儀に欠けていることに苛立ちを覚えたりすることはなかった。また、議事堂の訪問に際しても、村垣とは全く違った感想を述べている。
「又行くこと2町計にして議事堂あり、カビテンハウス(注:キャピトルハウス)と云う。花盛頓府(ワシントン府)第一の巨屋高さ3、4層なり。出入口四方にあり、周囲10町計にして・・・事を議するときは中央卑き所に官吏及び書記官等列出、而(しか)して其事に管する者都(ルビすべ)て毎階に列し、高きより卑き臨む。故に官吏の公私分明に見え衆をして怨を抱かしめざるなり。」(原文カタカナ、ちなみに副使村垣は議会を「我が日本橋の魚市のさまによく似ている」と愚かにも記して、同行の監察(ナンバー3)小栗忠順の失笑を買っている)。
左太夫にも他の同行者らと同様に儒教思想の背景があり、彼はまた、その後半生を徳川幕府の封建体制支持に傾倒して生きたサムライであった。彼の記録には権力の側の価値観に対する明らかな批判や挑戦を指摘することが出来る。近代西洋文明に触れた目には、忠義という縦のつながりが弛緩しているとさえ感じられる。玉虫の体制批判は控えめである。が、それでも彼は、極度に異なったアメリカ文化の中で自国に欠けていると痛切に感じた制度を発見した数少ない使節一行の一人であった。
◇
万延元年(1860)遣米使節及び咸臨丸の随員が残した旅行記、回想録のうち現存するものは約40を数えるとされる。(新見、村垣のような徳川幕府の高級官僚(幕臣)や、福沢諭吉、勝海舟のような蘭学の教養を身に着けた才気あふれる人物、さらには玉虫のような外様藩士たち、もっと身分の低い武士ではない奉公人にいたるまで、すべての階層の人びとによって書かれたこれらの記録は、未知の西洋と遭遇した際の、近代日本の夜明けの時代の徳川精神を最も適切に表している。だが「航米日録」に勝る観察記録はない。
帰国後の玉虫左太夫は、世界一周の体験や見聞に基づいて技術の重要性を感じ、食塩の製造法を研究した。文久3年(1863)、40歳の時に「食塩製造論」を著し、3年後には自ら属する東北の雄藩・仙台藩気仙沼の浜辺に製塩場を建設した。だが左太夫は不運であった。仙台藩重臣に取り立てられ小姓組並、江戸勤務学問出精を命じられ、また仙台藩学問所養賢堂指南頭取(学長)となった。
慶応4年(1868)仙台藩主の命を受けて、会津に赴き、藩主松平容保に会い佐幕連盟の約を果たした。が、仙台藩内が勤王、佐幕に分裂し、明治新政府に組しない立場を貫いた左太夫は劣勢となった。左太夫は、幕府の軍艦奉行榎本釜次郎(後に武揚)が軍艦を率いて蝦夷地(北海道)へ向かうことを聞き知って、これに乗って蝦夷地に一緒に逃げようとし、自ら造った気仙沼の製塩場に行って塩を集めて、これを榎本の軍艦に積み込み持っていこうとした。榎本武揚も、軍艦を気仙沼に寄港させ左太夫と同志門弟16人を救出しようと試みた。だが、わずか1日の差で左太夫らは捕吏に捕えられた。反対派の桜田良佐らの策謀によって反逆者の烙印を押されて、翌明治2年(1869)4月切腹自刃に追い込まれた。
享年46歳。左太夫の無念の思いはいかばかりであったろうか。明治維新後、玉虫家は家名を奪われ相続も許されず、明治22年(1889)憲法発布まで家名復興を許されなかった。明治新政府に反抗した者を容赦なく追及し罰してやまなかった非情な暴挙を、まざまざとここに見る。
参考文献:「走馬灯」(遠藤周作)、「我ら見しままに 万延元年遣米使節の旅路」(マサオ・ミヨシ)、「西洋見聞集 日本思想大系」(岩波書店)
(つづく)
刀剣ブームに沸く栃木県足利市で、刀剣女子に人気の刀工「加州清光(かしゅうきよみつ)」と「大和守安定(やまとのかみやすさだ)」の日本刀などが特別展示されることが決まった。新選組の一番隊隊長の沖田総司が愛用の日本刀を作った刀工の作で、2月2~25日、史跡足利学校(同市昌平町)で展示される。所蔵家の好意で実現したもので、全国から多くのファンが訪れそうだ。(川岸等)うーん、「伝・加州清光」だと思うんですが、確定的に伝えられるのはどうなんでしょうね。土方さんの和泉守兼定のように実物が残ってないので。。
清光は室町時代から続く加賀(石川県)の刀工で、展示されるのは刃長69センチ。安定は江戸時代に活躍した武蔵(東京都など)を代表する刀工で、展示品は同82センチ。また、江戸時代の足利の刀工・源景国(みなもとのかげくに)の刀、同70センチも展示される。
清光と安定の刀は幕末、沖田総司が愛用したことで知られ、清光は新選組が尊王攘夷派志士を襲撃した池田屋事件で使用されたといわれる。いずれも、刀剣ブームの火付け役となったオンラインゲーム「刀剣乱舞」で擬人化され、刀剣女子と呼ばれる若い女性の間で人気が高い。
足利市では昨年春、開催した地元ゆかりの刀工・堀川国広の名刀・山姥切(やまんばぎり)国広展にファン約4万人が訪れたのを契機に、市と地元商店会など官民連携で夏、秋と刀剣関連イベントを開催し、刀剣による地域活性化に力を入れている。
今回は複数の個人所蔵家から足利学校に対し打診があり、学校側は「刀剣を通して足利および足利学校の歴史を深く知ってもらう絶好の機会」と急遽(きゅうきょ)企画。会期中、専門家による刀剣鑑賞会なども検討している。
また期間中、市内では「足利冬物語」として伝統行事の節分鎧年越(よろいどしこし)など多彩なイベントが予定されており、地元商店会関係者は「話題の刀がまた足利で展示されることになり、大きな反響を呼ぶのではないか」と期待している。
影山貴彦のテレビ燦々「風雲児たち~蘭学革命篇~」 最も見応えのあった正月ドラマ
今年の正月のテレビも、見かけは華やかだが中身の薄い長尺番組が少なくなかった。長らく思っていることだが、正月こそ質の高い番組を数多く制作してはどうだろう?「正月三が日のテレビは面白くない」と感じている視聴者の先入観を打ち破る時代になってほしいと願っている。
もちろん、素晴らしい番組もいくつか放送された。優れた作品を探し出して見るのも無類のテレビ好きとしての楽しみである。特に良かったのが、元日の「風雲児たち~蘭学革命(れぼりゅうし)篇~」だった(NHK総合)。
みなもと太郎原作の大河歴史ギャグ漫画をスペシャルドラマの脚本に仕上げたのは、名手・三谷幸喜である。このドラマを見たおかげで、正月ボケがなかった。優れたエンターテインメントは、触れる者に大いなるエネルギーを与えてくれる。
史上初の西洋医学書の和訳本、「解体新書」の名を知らない人はいないだろう。その執筆、出版にあたり多大な貢献をした前野良沢と杉田玄白の間で繰り広げられた人間模様を描いたドラマだ。なぜ良沢の名は「解体新書」に載らなかったのか。「医術のため」との熱き信念で結ばれていながら、互いに心離れてゆく様を描いた三谷の脚本が卓越していた。
前野良沢を片岡愛之助が、杉田玄白を新納慎也が熱演した。他の共演者も素晴らしかったが、特に輝いていたのが、平賀源内役の山本耕史と田沼意次役の草刈正雄だった。そして忘れてならないのが、NHKの有働由美子アナウンサーだ。彼女の語りはうまさを超えている。
■人物略歴
かげやま・たかひこ
同志社女子大学教授(メディアエンターテインメント論)。1962年生まれ。元毎日放送プロデューサー。日本笑い学会理事。
偉人ゆかりの地巡る幕末の宇和島、歩いて体感 明治150年で記念イベント
古賀穀堂と直正
【神奈川】市が1999年設置「六道の辻通り」の石碑 なぜ違う通りにあるの?
松前藩からアイヌ有力者宛てに出された文書 ロシアで発見
戊辰150年
明治150年にあたり、幕末明治に活躍した宇和島の偉人を知ってもらおうと、愛媛県の宇和島市観光物産協会が企画している「四国・宇和島の幕末の偉人めぐり」に合わせ、ゆかりの場所を巡るイベントが7日、同市内であった。
古賀穀堂と直正
「お父さんもすごいけど、この人も傑物」。佐賀県立図書館近世資料編さん室の伊香賀隆さん(45)は、感心することしきりだ。江戸後期、佐賀藩10代藩主鍋島直正の教育係、相談役を務めた儒者、古賀穀堂である◆「寛政の三博士」の一人、古賀精里の長男。遺稿が東京国立博物館に収蔵されており、伊香賀さんら10人ほどの手で解読が進められている。難解な漢文なので埋もれたままだった。句読点を入れ、重要なものは書き下し文にする。ゆくゆくは『佐賀県近世史料』として本にまとめられる予定◆原文を読み解くうち、穀堂が若き日から気宇壮大な志を持ち、ひいては直正を通し政治の正しいあり方を実践していったさまが見えるそうだ。例えば幕末の佐賀藩が、蝦夷地など北方に強い関心を寄せていたことにも、「起点は穀堂にあった」と伊香賀さんはみる◆江戸遊学中の東北見聞を記した資料があり、経験に基づいた直正への進言が、説得力を増したことがうかがえる。幕末期の基礎資料の解読は鹿児島、山口県と比べ、遅れをとっている佐賀。読みやすくすることで小説の下地となり、いつか大河ドラマにもつながろうというものだ◆直正が考えたことの多くの源が、穀堂にあるとすれば、今回の読み解きが果たす役割は大きい。お宝からどんな新史実が飛び出すか、楽しみだ。(章)
【神奈川】市が1999年設置「六道の辻通り」の石碑 なぜ違う通りにあるの?
横浜市中区常盤町5の市道に「六道(ろくどう)の辻通り」と刻印された石碑がある。明治初期から関東大震災(1923年)まで交通の要衝として多くの人が行き交った六差路「六道の辻」にちなんで建てられたにもかかわらず、実際とは違う通りに立っている。いったい何があったのか-。 (志村彰太)
六道の辻は幕末から明治初期にかけて関内地区を埋め立てる過程でできた。横浜開港資料館の伊藤泉美・主任調査研究員は「この場所には、埋め立て地の排水のために設けた川が街区を斜めに横切るように走っていた。明治初期に川を埋め立て、六差路になったようだ」と解説する。
「中区史」は六道の辻を「にぎわいの中心的存在」である吉田橋などとつながる交通の要衝だったと記述。関東大震災後の区画整理で、現在のような交差点になった。
石碑は一九九九年、馬車道から北西に一本入った、本来の六道の辻から五十メートルほど離れた場所に市が設置した。市中土木事務所の岡哲郎副所長は「馬車道商店街から要望があったようだが、文書が残っていないため詳細は不明」と説明。歴史的に正しい場所か検証した形跡はないという。
場所が違うのは、地元商店主らでつくる「関内を愛する会」(解散)がそもそもの原因をつくったとみられる。同会は九二年三月、関内地区の市道の愛称を公募。半年後、有識者、市幹部らと共に、後に石碑が設置される通りを「六道の辻通り」とする案を採用した。馬車道商店街協同組合の山口和昭副理事長は「多数の応募から選んだと思うが、資料が残っておらず、どの程度史料を検討したかは分からない」と話す。
市のまちづくりの歴史に詳しい市都市デザイン室の担当者は「石碑は六道の辻につながる斜めの道路の跡地に近く、完全に誤っているわけではない」と唱えるものの、史料の確認が不十分だったのが真相のよう。山口副理事長は「この謎めいたところも、馬車道周辺の魅力を引き立てているのでは」とプラスに評価している。
松前藩からアイヌ有力者宛てに出された文書 ロシアで発見
今から240年前の江戸時代に松前藩からアイヌの有力者に宛てて出された公式文書がロシアで見つかり、調査に参加した専門家は「公式文書の原本としては、最も古いものと見られ、貴重な発見だ」と話しています。
この文書は、東京大学史料編纂所がロシアのサンクトペテルブルクで行った調査で見つかりました。
文書は240年前の1778年、安永7年7月に松前藩の「蝦夷地奉行」から現在の根室市にあった「ノッカマップ」というアイヌの集落の有力者、「ションコ」に宛てて出されました。
文書ではションコに対して、アイヌの人と和人が交易などを行う拠点施設の「運上小家」の管理を徹底することや、和人が海で遭難したときは手当てをしたうえで、周辺のアイヌの集落と協力して松前藩まで送り届けることなどを求めています。
北海道博物館によりますと、松前藩の文書は幕末の混乱などで多くが失われていて、今回の文書は、松前藩からアイヌの有力者に宛てて出された公式文書の原本としては、最も古いものと考えられるということです。
調査に参加した北海道博物館の東俊佑学芸主査は「松前藩が、北海道東部へ支配を及ぼした時期を解明するうえで貴重な資料で、なぜロシアに残されていたのかなどについても、今後調べていきたい」と話しています。
戊辰150年
仙台藩祖伊達政宗の生誕450年だった昨年、連載企画などで政宗とその時代を多角的に取り上げた。
その中で印象に残ったのは、東北の独特な戦国事情だ。大名同士が政略結婚や養子縁組で縁戚関係となり、紛争が起きてもほどほどの戦闘でとどめ、徹底的に滅ぼすことはない。
「冬が厳しく助け合わないと生きていけない事情もあるのだろう。白河関を境に国家観が違っていたのではないか」。政宗の一代記「鳳雛(ほうすう)の夢」を書いた作家上田秀人さんは、こう語っていた。東北には共生、共助の精神を育む風土性があるのかもしれない。
今年は「戊辰戦争150年」だ。東北が苦難の道を歩んだ戦い。あの時代と今をつなぐ多くの記事が紙面をにぎわせるだろう。
仙台市の作家熊谷達也さんは現在、幕末期の仙台藩をテーマとした小説の準備を進めている。奥羽越列藩同盟を巡る動きなどは、物語の中心になっていくに違いない。
列藩同盟が会津藩を救済しようと立ち上がったことも、共助の精神の表れだろうか。「戊辰」を足掛かりに東北人の世界観を探る一年になりそうだ。(生活文化部次長 加藤健一)
「幕末・明治-激動する浮世絵」展 時代の空気リアルに伝え
平成30年の今年は明治維新から150年となる。幕末から明治へと、社会が大きく変わっていく中で浮世絵も様変わりしていった。その時代の作品に焦点を当てた「幕末・明治-激動する浮世絵」展が、東京の太田記念美術館で開かれている。幕末~明治の「イヌ事情」に迫る 横浜開港資料館で展示
約260年続いた江戸時代が終わり明治時代を迎えると、都市ではモダンな洋風建築が建ち始めた。文明開化の香りを感じさせるのが昇斎一景(しょうさいいっけい)の「東京名所 銀座繁栄之図」だ。ピンクの花を咲かせた華やかな桜並木。人々が歩き、馬車や人力車が行き交う。和装の女性がいれば洋装の紳士の姿もある。桜の背後には煉瓦造りの建物。和洋混交の不思議な光景は活気にあふれ、明治という新しい時代の高揚感を感じさせる。作者の昇斎一景は明治初期、「開化絵」といわれる東京の町並みや風俗を描いていたが、生没年や詳しい来歴もわかっていない。いわば謎の浮世絵師だ。
急速に近代化が進んだ明治。5年には日本初の鉄道路線が新橋-横浜間で開通。明治に活躍した四代歌川広重の「高輪 蒸気車通行全図」はその鉄道をモチーフにした。ただ制作されたのは開通前で、実際に見て描いたわけではなく資料などを基に想像で表現したという。そのため、客車部分は馬車のようでちょっと変。現代の目で見るとユーモラスだが、この絵を見た当時の人たちはまだ見ぬ未知の乗り物にどれだけ心を躍らせていたのだろうか。
浮世絵は絵として純粋に楽しむ一方、明治になると情報をもたらすメディアにもなった。「江戸時代は幕府の批判につながるということで、リアルタイムな事件を浮世絵にすることは禁じられていたが、明治になると制限はなくなり西南戦争なども絵にすることができるようになった。浮世絵は庶民が欲していた情報をもたらすものでもあった」と同館の日野原健司主席学芸員は話す。
小林清親の「明治十四年一月廿六日出火 両国大火浅草橋」は、大火を題材にした。立ち上る赤い炎はすさまじく、天まで昇る勢いだ。明治14年1月26日に起こった大火災を、清親は写生帖を手に、一晩中火の行方を追ってスケッチした。灰燼(かいじん)に帰した焼け跡の絵も残したように、何枚も作品にした。そのため、帰宅したときには自分の家まで焼失していたというエピソードも。画題には、場所や日時が記されていることからジャーナリスティックな目を持っていたことがうかがえる。
清親は明治初期、江戸から東京となった都市を光や影を駆使し情感たっぷりに描いた「光線画」と呼ばれる浮世絵版画で人気があった。「大川岸一之橋遠景」もその一つで明暗のコントラストが鮮やか。「従来の浮世絵は輪郭線があったが、ヨーロッパの絵画は基本的に輪郭線がなく陰影で立体感を表現した。そうした手法を木版画に取り入れようとし、浮世絵らしくない油絵のような世界を生み出した」(日野原主席学芸員)
明治期、近代化によって江戸の面影が失われたものの、新しい名所が各地に誕生していった。展示された約150点の作品からは、時代のリアルな空気を感じることができる。(渋沢和彦)
■りりしい西郷どん
明治維新をなしとげた人物として人気があるのが西郷隆盛だろう。本展には西郷を描いた鈴木年基の「文武高名伝 旧陸軍大将正三位 西郷隆盛」が出品されている。ひげをたくわえ、軍服姿でりりしい姿だ。制作されたのは明治10年。西南戦争がすでに始まり、西郷軍の劣勢が伝えられていた時期で、作者の年基は実際会って描いたわけではない。東京の上野公園にある、犬を連れた親しみのある銅像の姿とはイメージが違う。西郷の絵は数多いが、上半身アップの作品は少ないという。作者の年基は明治初期に活躍し、名所絵などを描いていた浮世絵師で生没年は不明だ。
本展には、西郷関係の浮世絵が前期・後期あわせて8点出品。西郷が自刃して幽霊となった不気味な姿を見せる月岡芳年(よしとし)の「西郷隆盛霊幽冥奉書」(後期)も展示され、さまざまな偉人像に触れることができる。
NHKの大河ドラマ「西郷(せご)どん」も始まり、すでに多くの本が出版されている。ブームが起こっているが浮世絵の「西郷どん」も必見だ。
◇
【ガイド】「明治維新150年 幕末・明治-激動する浮世絵」展は東京都渋谷区神宮前1の10の10、太田記念美術館。前期1月28日まで、後期2月2~25日(前後期で展示替え)。月曜休。一般700円、大高生500円、中学生以下無料。問い合わせはハローダイヤル(電)03・5777・8600。
二〇一八年の戌(いぬ)年にちなみ、幕末~明治の「イヌ事情」に迫った資料展が、横浜市中区の横浜開港資料館ミニ展示コーナーで開かれている。二月二十八日まで。 (志村彰太)幕末・維新グルメ明治改元150年/5止 武市と玉子とじ 獄舎へ届けた妻の愛 /高知
同館によると、江戸時代は猟犬や狆(ちん)という小型犬を除き、個人がイヌを飼うことはなかった。雑種とみられるイヌが群れをなして地域内で暮らすのが普通で、現在の地域猫のような存在だった。幕末の開港後、海外から品種改良された西洋犬が流入。文明開化の象徴として室内や犬小屋で個人が飼い、散歩に連れて行く生活様式が定着していった。
会場には、横浜を題材にした浮世絵で知られる歌川貞秀(さだひで)(一八〇七年~没年は不明)が、西洋犬を散歩させる外国人を描いた浮世絵や、明治期に横浜で撮影された飼い犬の写真など十点を展示。担当者は「幕末の開港が日本人とイヌの関係を変えたことが伝えられれば」と話している。
入館料は大人二百円、小中学生百円。年末年始と原則月曜休館。問い合わせは同資料館=電045(201)2100=へ。
坂本龍馬の盟友として知られる土佐勤王党の盟主・武市半平太(1829~65)。昨年には俳優・市原隼人さん主演の映画「サムライせんせい」が公開され、新たな資料も見つかるなど、その生涯に改めて注目が集まっている。そんな武市が愛した「幕末維新グルメ」。それは妻・冨との愛情を感じる「玉子(たまご)とじ」だった。巡回展幕末志士らの肖像、湿板写真で伝える 撮影や焼き付け体験 いの /高知
現在の高知市仁井田に当たる吹井村に生まれた武市は、龍馬とは「武市のアギ(あご)」「龍馬のアザ(あばた)」と呼び合う仲だったという。1861(文久元)年に尊王攘夷(じょうい)を進めようと土佐勤王党を結成。土佐勤王党は政敵の吉田東洋の暗殺などを決行するが、武市は1863(文久3)年には入獄を命じられ、過酷な獄舎での生活を余儀なくされる。
本来は許されない冨との手紙だが、ろう役人の計らいもあり、2人のやり取りは現在も残されている。冨は獄内の武市のために毎日、食事を作って夫へと届けさせた。体調を考えての麦飯や鯛飯、牛肉については食べると「のぼせて悪い」という記述が。薄暗い獄舎の中でせめて季節を感じられるようにと、食事の他に桜の花を差し入れたこともある。
そうした食事の中で武市が特に「うまい」と好んだものの一つが、冨の差し入れた玉子とじだ。
松崎淳子・県立大名誉教授(調理学)にアドバイスをもらい、冨が作ったであろう当時の「玉子とじ」の味を再現してみた。だしは、その頃に一般的だったじゃこ(イワシの小魚)でとり、しょうゆで味付けする。煮込んだネギに当時は高級品だった卵を絡めれば、作り方こそ簡単だが、素朴な野菜の甘みにじゃこのうまみが溶け込み、優しい味がする。
「あいたい事はいわいでもしれたこと」と武市は冨に宛てた手紙で書いている。だが、1865(慶応元)年うるう5月11日、武市は切腹。付近には、今も「武市瑞山先生殉節之地」の碑(高知市帯屋町)が残っている。
歴史研究家の松岡司・佐川町立青山文庫名誉館長は「武市が冨のことを思い、冨もまた武市の教えを守ろうとした2人のつながりが手紙のやりとりから見えてくる」と話す。【岩間理紀】=おわり
貴重な幕末のガラス湿板写真を中心に展示する「幕末維新写真展」がいの町幸町のいの町紙の博物館で開かれている。2月18日まで。「志国高知 幕末維新博」の一環で開かれている巡回展で、維新博推進協議会主催。<東京人>明治を支えた幕臣・賊軍人士たち 敵味方なく人材登用
湿板写真は幕末に伝わった写真の技法。ガラス板に硝酸銀溶液を塗り、感光性を持たせることで、ガラス板がフィルムと同じ役割を果たす。現像や定着を、ぬれた状態ですることから湿板写真と名付けられた。
会場では坂本龍馬ら、幕末から明治にかけて活躍した志士らの肖像写真や江戸時代末期に日本各地を撮影したイギリスの写真家フェリーチェ・ベアトが使用したとされる大判カメラなど約160点を展示している。
湿板写真が並ぶ「幕末維新写真展」の会場=高知県いの町幸町のいの町紙の博物館で、柴山雄太撮影
巡回展としては初めて公開された「手彩色写真」は、モノクロの写真に人が手作業で色を付けた写真で、茶摘みや相撲取り、芸妓(げいこ)らの様子が生き生きと浮かび上がってくる。
担当の掛水志歩三さんは「幕末から明治にかけての技術の変遷を見てほしい」と来場を呼び掛けている。期間中には「ガラス湿板写真撮影体験」と「鶏卵紙焼き付け体験」も実施される。入場料は大人500円、小中高生100円。体験参加費は無料。問い合わせは紙の博物館(088・893・0886)。【柴山雄太】
江戸無血開城を成功させた勝海舟、近代資本主義の父と言われる渋沢栄一、第二十代総理大臣を務めた高橋是清、「学問のススメ」で西洋文明を紹介し、慶応義塾大学を創立した福沢諭吉-。幕末に生まれ、明治時代に功績を残した彼らは皆、徳川幕府に仕えた「幕臣」です。湿板写真150年前の京都、発見 写真師・堀内信重のガラス原板 高い技術、屋外でもくっきり /京都
一九六八年に誕生した明治新政府は西欧列強にならい、富国強兵、文明開化を押し進めますが、巨大政府を切り盛りした経験のない薩長土肥は、深刻な人材不足に直面しました。そこで、海外使節などを経験し、幕府の下で行政経験のある幕臣たちが多く登用されました。薩長土肥は、敵味方関係なく、優れた人材を集める寛大さがあったとも言えるでしょう。
東京人2月号では、幕末に生まれ、明治期に活躍した幕臣・賊軍人士たちを、政治、実業、ジャーナリズム、医療、文芸、学問・思想の六つのジャンルに分けて紹介します。作家の中村彰彦氏は「会津籠城四人組」と題し、会津出身の井深梶之助、山川健次郎、大山捨松、新島八重の教育界への貢献などを語ります。医療分野では、順天堂大学創立者の佐藤泰然をはじめ、西洋医学の流れを作った幕臣たちを作家の山崎光夫氏がまとめました。
次週からは幕臣・賊軍人士たちが多く集まった明六社や沼津兵学校、特集のメイン記事である御厨貴氏、関川夏央氏、幸田真音氏による座談会を紹介します。(「東京人」編集部・久崎彩加)
「都市を味わい、都市を批評し、都市を創る」をキャッチコピーに掲げる月刊誌「東京人」の編集部が、2月号の記事をもとに都内各地の情報をお届けします。問い合わせは、「東京人」編集部=電03(3237)1790(平日)=へ。
幕末から明治初期にかけて京都で活躍した写真師、堀内信重(のぶしげ)(1841年ごろ~76年)が、下鴨神社や八坂神社などの名所を撮影した際に使った湿板写真のガラス原板18枚が見つかった。ガラス板は洗って再利用されていたため、撮影したままネガの状態で見つかるのは珍しく、黎明(れいめい)期の写真技術の様子がうかがえる。
湿板写真は江戸時代末期から明治初期に用いられた写真術で、ガラス板に薬剤を塗って感光性を持たせ、フィルムとして利用。ただ、薬剤が乾くまでに撮って現像しなければならない上、屋外で撮影する場合は機材一式を持ち歩く必要があった。
信重は寺侍として知恩院(京都市東山区)の警護に当たる傍ら、写真の技術を習得。来日していたお雇い外国人らに、京都を訪れた記念品として名所旧跡を撮り、売っていたと考えられている。
ガラス原板は2016年夏、知恩院の近くでかつて信重が住んでいた家屋を解体することになり、荷物の整理中に「東山寫(しゃ)真堂」と書かれた木箱から見つかった。内側には等間隔で溝が刻まれ、縦30センチ横24センチの原板が重ならないように1枚ずつ離して保管されていた。
箱には「寫真種板」との張り紙があり、ふたの裏側には明治11(1878)年7月と書かれていた。信重の死後、ゆかりの品を残すために箱を用意したとみられる。
原板に光を当てると、知恩院の三門や、西本願寺の大谷本廟(びょう)にある円通橋がうっすらと浮かび上がった。焼き付けた写真はレトロな雰囲気を帯び、150年も昔に撮影したとは思えないほど建物や人物がくっきりと写っていた。下部にはアルファベットで撮影場所が記されているが、慣れていなかったためか、文字の上下や左右が逆になっているものもあった。
信重を研究している写真家の中川邦昭さん(74)は「条件が一定しない屋外での撮影は難しく、信重は高い技術を持っていたのではないか」と指摘。「写真技術だけでなく、当時の京都の様子を知る上でも大きな手掛かりになる史料だ」と話している。
原板と焼き付けた写真の一部は、京都市上京区の市歴史資料館で17日まで展示中。
〔京都版〕
昨日はNHKプレミアム『明治維新150年スペシャル「決戦!鳥羽伏見の戦い 日本の未来を決めた7日間」』を楽しみました。
歴女のお供に「戊辰戦争・宇都宮攻防戦マップ」改訂 宇都宮の市民グループ
近藤勇や沖田総司、土方歳三の本当の姿は?
歴女のお供に「戊辰戦争・宇都宮攻防戦マップ」改訂 宇都宮の市民グループ
【宇都宮】宇都宮の魅力向上などに取り組む市民グループ「黄ぶな愉快プロジェクト」は、戊辰戦争をテーマにした観光マップを6年ぶりにリニューアルした。市内を舞台にした攻防戦を図解で紹介したほか、宇都宮城などゆかりの地をマップで案内。歴史好きの女性「歴女」に人気の高い新選組の副長土方歳三(ひじかたとしぞう)を前面に出し、宇都宮の戦跡巡りブームにつなげたい考えだ。
マップのタイトルは「新選組土方歳三と幕末の宇都宮へタイムスリップ」。布陣や戦況の推移を当事者らの日記や紀行文を参考に図解で紹介した。裏面には二荒山神社や簗瀬橋など戊辰戦争ゆかりの12カ所や、まちなかでお薦めの飲食スポットを掲載した。
市職員でメンバーの荒瀬友栄(あらせともしげ)さん(39)は「歴史に詳しい歴女から初心者まで楽しめる内容。宇都宮にはギョーザ以外にもたくさんの魅力があることを知ってほしい」と話している。
マップは折り畳みA6サイズで2千部製作。1月2日から宮カフェで「明治150周年記念のミヤリー缶バッジ」購入者に進呈する。
近藤勇や沖田総司、土方歳三の本当の姿は?
書名
歴史のなかの新選組
監修・編集・著者名
宮地正人 著
出版社名
岩波書店
出版年月日
2017年11月17日
定価
本体1360円+税
判型・ページ数
文庫・336ページ
ISBN
9784006003692
BOOKウォッチ編集部コメント
近藤勇や沖田総司、土方歳三ら錚々たるメーンキャラクターでおなじみの新選組。小説や映画、テレビドラマなどで盛んに取り上げられ、最近は漫画やアニメ、ゲームでも大人気だ。
登場人物たちは幕末の動乱で主役の一翼を担い、さまざまな事件に関与する。ただし大きな問題はどこまでが史実か、はっきりしないことだ。
「時代小説からの決別」
『歴史のなかの新選組』は、東京大学史料編纂所教授や、国立歴史民俗博物館館長などを務めた近現代史研究者の宮地正人さんが、学者の目で新選組について検証した本だ。もともとは2004年、単行本として出版され多数の書評で取り上げられた。NHK大河ドラマで「新選組!」が放映されたころだ。それを文庫化したのが今回の新版だ。
単にサイズをコンパクトにしたというものではない。この10年余りで新選組についての研究はかなり進んだという。特に新選組の母体となった浪士組や、江戸の新徴組に関する研究が進んだそうだ。それらをベースに補足や修正を加えているのが本書だ。
アカデミズムの世界にいる宮地さんが単行本のときからこだわっているのは、語られている様々な出来事が史実かどうかということ。本書でも「前置き」として、「時代小説からの決別」と、徹頭徹尾史料を基に論を展開することを強調している。
具体的には第10章「史実と虚構の区別と判別」に詳しい。新選組を多くの日本人に広めたのは子母沢寛の『新選組始末記』(1928年)だ。その「子母沢本」にはタネ本があった。西村兼文による評伝『新撰組始末記』(1889年脱稿)だ。ところがこの「西村本」をきっちり読んでみると、いくつものおかしいところが見つかる。ゆえに宮地さんは「西村本」についてこう記す。
「ある事実なり事件を手掛かりとして、彼の判断で事実の創作をおこなっていないか、という疑いがある」「一八六五(慶応元)年閏五月以前の記述に関しては、すべての点で、他の史料によって裏を取る必要がある」
「近藤勇書簡集」がない
このほか宮地さんが史料の不備を憂えるのは、新選組の中心人物、近藤勇についてだ。様々な伝説が残り、人物像が語られ、書状なども部分的に紹介されている。しかし、残念なことに、現在に至るまで「近藤勇書簡集」というものが編纂されていない。そのため、部分的に公開されている書状の全文を見ようと思っても見られない。これまでに新選組の本で儲けた出版社が、きちんとした校訂のもとに、書簡集を出版すべきではないかと提案している。
一方で、新選組の関係者は地方出身者が多いので、それぞれの地元などでは、独自にコツコツと実証的な研究が行われ、良書も出版されていることも伝える。とりわけ日野市立新選組のふるさと歴史館など各地域の資料館の取り組みを高く評価、本書では2004年以降のそうした研究について「補章」を立てて詳しく紹介している。現時点の新選組研究の、一つの到達点を示したものだろう。
かつては非情な殺戮者。その後、卓越した市井の剣客集団として再評価。さらに滅びの美学が加わり、沖田や土方がキャラ立ちして女性の人気も高まるなど、小説やドラマの世界での「新選組像」も時代とともに変化している。いったいどれが本当の新選組なのか。史料を基にした実像の構築に期待しているファンも多いのではないか。今後もさらなる研究の深化が待たれる。
大阪産経の連載記事が終わったようです。
相手が悪かった? 力士を血祭りにした「狼藉現場」蜆橋 新選組なにわを奔(はし)る(1)
謎広がる大坂与力暗殺、「殺人集団」をめぐる事件の真相は…維新150年大阪の痕跡・新選組なにわを奔る(2)
阻止された大坂城焼き討ち計画 新選組なにわを奔(はし)る(3)
大坂豪商からの借金も踏み倒し 新選組なにわを奔(はし)る(4完)
相手が悪かった? 力士を血祭りにした「狼藉現場」蜆橋 新選組なにわを奔(はし)る(1)
大正から昭和にかけて、幕末を描いた無声映画といえば、チャンバラだった。「東山三十六峰、草木も眠る丑三(うしみ)つ時…たちまち起こる剣戟(けんげき)の響き…」。活動弁士の口上で繰り広げられる尊王志士と新選(撰)組の死闘-。そう、新選組の舞台はいつも京都だった。
ところが彼らの行動を辿(たど)ると、意外にもその足跡は大阪に多い。理由はある。
ひとつには、新選組が京都守護職、会津藩預かり=直属の武闘集団、諜報機関であったこと。2つ目に、その京都守護職が京都所司代のみならず、大坂城代、大坂町奉行を支配していたこと。さらに彼らの資金源の多くが大坂にあったこと-。自然、新選組の行動範囲は大坂に及ぶことになる。
文久3(1863)年6月3日、新選組がまだ前身の「壬生(みぶ)浪士組」だったころ、事件は大坂で起きた。
近藤勇(いさみ)、芹沢鴨(せりざわかも)、沖田総司ら約10人が大坂町奉行の要請で不逞(ふてい)浪士取り締まりのため大坂にきていた。
さすがに仕事が早い。2日後には浪士2人を捕縛すると、近藤らを除く隊士8人は、定宿の八軒家(はちけんや)浜から夕涼みとしゃれて大川に川遊びに出る。
途中、隊士の一人が不調を訴えたため船を下(お)り、徒歩で北新地の住吉楼に向かうことになった。下船したのは、鍋島藩屋敷前の堂島川鍋島河岸(がし)、今の大阪市北区西天満2丁目、裁判所のあたりだ。
一行が新地に入り、蜆(しじみ)橋を渡ろうとしたとき、向こう側から大坂相撲の力士が渡ってきた。先頭の芹沢。「道を開けろ」「そっちこそ退(ど)け」。口論が始まり、激高した芹沢がいきなり鉄扇で力士を殴りつけた。
退散する力士。これでその場は収まったかにみえたが、8人が住吉楼に上がり、上機嫌で飲んでいると、八角棒を手にした力士の集団20~30人(一説では50人以上)が、仲間の意趣返しとばかり、押しかけてきたものだから、収まらない。酒が入り、血気にはやる隊士らは「返り討ちにしてしまえ」と抜刀(ばっとう)し、大乱闘になったのである。
数と力で勝る力士たちも剣客集団にはかなわない。結局、死者1人、負傷者十数人(死者5人、負傷者二十数人とも)の被害を出した。しかも「無礼討ち」が認められたため、翌日、大坂相撲側が酒1樽、金50両を添えてわびを入れ、落着したというから、相手が悪かったというしかない。
以後、壬生浪士組は「壬生浪(みぶろ)、壬生浪」と呼ばれ、京、大坂の市民を震え上がらせた。
× × ×
北区曽根崎新地1丁目。御堂筋と堂島上通りが交わる滋賀銀行ビルの外壁に「しじみばし」の碑が埋め込まれている。かつて堂島川から分岐した蜆川に架けられた小橋で、南から淀屋橋、大江橋、蜆橋と渡ればお初天神に至ることが、落語「池田の猪買(ししか)い」に描かれている。
江戸時代、川をはさんで南に堂島新地が開かれ、あの「曾根崎心中」の舞台にもなったが、後に米会所が設けられると、堂島はビジネス街に変わり、遊里としてのにぎわいは北の曽根崎新地に移っていく。
明治42(1909)年の大火(天満焼け)で川は埋められ、住吉楼の場所も不明だが、蜆橋は新選組の最初の狼藉(ろうぜき)現場としてその名を残している。(今村義明)
◇
壬生浪士組 文久2(1862)年、清川八郎の献策で募集された「浪士組」が、京都到着後に分裂した後、近藤勇、芹沢鴨ら京都残留組を中心に翌年3月に結成された武装組織。幕府の職制では非正規組織だったが、京都守護職だった会津藩の預かり=大名と雇用関係のある士分=となり、月3両が支給された。尊攘派志士の探索、検挙など京、大坂の治安維持を任され、文久3年8月、「8月18日の政変」の功績により「新選組」の名称を許された。
謎広がる大坂与力暗殺、「殺人集団」をめぐる事件の真相は…維新150年大阪の痕跡・新選組なにわを奔る(2)
本町通から松屋町筋を北に歩く。左手に都市型展示場「マイドームおおさか」(大阪市中央区)が現れる。屋根にアーチ型ドームを戴(いただ)くユニークな外観から視線を落とすと、植え込みの中に小さな石碑がある。「西町奉行所址」。江戸時代、東町奉行所とともに大坂市中を治めた役所の跡だ。
広さ約9600平方メートル。南に隣接する大阪商工会議所と西側のホテルもその敷地に含まれ、明治に入り初代大阪府庁舎にも使われたというからその大きさがうかがえる。ちなみに、東町奉行所は今の府立大手前高校の北、近畿経済産業局などが入る大阪合同庁舎1号館近くにあった。両奉行所の間は直線で1キロと離れていない。
元治元(1864)年5月20日夜、天神橋(天満橋という説も)で、西町奉行所与力、内山彦次郎が仕事帰りに襲われ、殺害された。67歳だった。
彼はただの与力ではない。天保8年(1837年)の大塩平八郎の乱の平定で功があったばかりでなく、経済・政策通で知られ、大坂の東西60騎の与力で初めて譜代御家人、つまり将軍へのお目見えも許される旗本格-に栄進した。旗本の町奉行が中央のキャリア組とするなら、与力は地元の“たたき上げ”の中級役人にすぎない。その中で、大出世を果たしたのが、内山だった。
現場には「天下の義士此(これ)を誅(ちゅう)す」との斬奸状(ざんかんじょう)=犯行声明=が残され、尊攘浪士による天誅(てんちゅう)=テロ事件=として世間を震え上がらせた。
それが明治になって、元新選組副長助勤(ふくちょうじょきん)の永倉新八が、晩年の口述記「新選組顛末(てんまつ)記」で、近藤勇(いさみ)、沖田総司、永倉ら5人で襲ったと暴露したことから、新選組犯行説が急浮上する。
動機に諸説がある。前年の文久3(1863)年6月の力士との乱闘事件で奉行所に届け出た近藤に対し、吟味に当たった内山の態度が高圧的で不遜だった-とする怨恨(えんこん)説。内山が尊攘派と結託して米や油の価格を不正に操作した-とする私刑説。新選組の強引な金銭借り入れに関し、内山が内偵を始めたことに先手を打った-とする証拠隠滅説など、新選組の犯行だとしても真相は藪(やぶ)の中だ。
一方で新選組犯行説を否定する研究も多い。たとえば、乱闘事件で近藤が届けたのは当番の東町奉行所で、内山の管轄外だったこと。永倉が顛末記の前に書いた日記では事件にまったく触れていないこと。さらに、顛末記には事実誤認、混同が多く、永倉自身の誇張や編集者の脚色も見られること-などから、坂本龍馬暗殺説と同様、新選組「濡(ぬ)れ衣(ぎぬ)」説も根強い。
× × ×
ふたたび松屋町筋を北へ歩く。西町奉行所址から7、8分で天神橋に至り、ここからが天神橋筋。その橋を渡る。南行き5車線の橋の歩道からは、中之島公園の東端、剣先公園に下りることもできる。ただし、当時は中之島がもっと下流にあり、大きな木橋1本で今より広い大川の両岸を繋(つな)いでいたことになる。
天神橋筋商店街に入り、大阪天満宮を過ぎると、ほどなく国道1号に出る。国道を渡ると、その北東の辺りが「与力町」と「同心」だ。高層マンションに囲まれた「与力町グラウンド」では夕闇迫る中、子供らが野球の練習をしていた。
果たして新選組の犯行なのか、否か-。いずれにしても、天誅と称する殺戮(さつりく)が幕末の大坂で横行していたのは事実で、シロにせよ、殺人集団の新選組がいかに世間から恐れられ、嫌われていたかを示す事件の一つであることに間違いない。
(今村義明)
◇
大坂町奉行 江戸幕府直轄の大坂城下(大坂三郷)の民政、警察、および大坂、摂津、河内の訴訟を担当した江戸幕府の職制。老中支配の下に東西各1人の奉行が置かれ、月番交代制をとった。奉行は千~3千石の旗本から選任され、その下に与力各30騎、同心各50人が配属された。与力には80石(知行高200石)が支給され、しだいに地付(じつ)き(土着)、世襲の役職となる。大坂天満に屋敷地(与力500坪、同心200坪)が与えられ、現在、大阪市北区に地名として残る。
(10月31日掲載)
阻止された大坂城焼き討ち計画 新選組なにわを奔(はし)る(3)
美容室が1階に入るビルの前に、そのモニュメントはあった。人形と玩具のまち、松屋町(まっちゃまち)商店街を南へ歩き、空堀(からほり)商店街の1本南の交差点。「大利鼎吉(おおりていきち)遭難之地」(大阪市中央区瓦屋町)とある。新選組が土佐浪士の潜伏先を急襲した、世に言う「ぜんざい屋事件」の顕彰碑だ。大坂の“池田屋事件”ともいわれる騒動の地を訪ねると、幕末の志士の数奇な運命を知ることになる。
元治元(1864)年の晩秋。「蛤御門(はまぐりごもん)の変」を受けて、大坂城を拠点に長州征伐(第1次)が始まろうとしていたころ、松屋町のぜんざい屋「石蔵屋」に、大利鼎吉と田中光顕(みつあき)ら土佐勤王党出身の浪士5人が潜伏していた。老母と妻とで店を営む主人は、武者小路(むしゃのこうじ)家の元家臣、本多大内蔵(おおくら)の世を忍ぶ仮の姿、大利らの同志である。
長州シンパでもあるこの過激派グループはとんでもない計画を秘めていた。大坂市中に火を放ち、大坂城を焼き払うことで、征長軍の後方を撹乱(かくらん)し、一気に倒幕の先鋒(せんぽう)になろうというのだ。妄想にも近い書生論だが、これが幕末の熱というものだろう。田中も後に「当時は誰もが信じて疑わなかった。浪華(なにわ)城(大坂城)が炎に包まれるのを想像しただけで、意気は天を衝(つ)いた」と回想している。
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計画は露見した。明けて元治2年(慶応元年)1月8日、実行の12日前のことだった。おそらくは密告だろう。過激派の謀議(ぼうぎ)とアジトをつかんだのは、新選組隊士で、大坂・南堀江で道場を開いていた谷万太郎。さしずめ新選組大坂出張所長といったところ。兄は副長助勤(ふくちょうじょきん)で後に七番隊組長となる三十郎、弟は近藤勇の養子になった周平だ。
万太郎は、すぐさま大坂西町奉行所に連絡し、大坂城代の命令で定番(じょうばん)の藩兵が松屋町を幾重にも包囲する中、たまたま大坂にいた兄、三十郎と道場の門弟2人で石蔵屋を急襲した。
4人は功をあせったのか、手柄の独占をねらったのか、新選組本部には「火急のことゆえ、われらだけで討ち入る」と、飛脚を送るのみだった。が、さすがに準備不足は否めない。このとき石蔵屋には、大利と本多、それにその母と妻がいただけで、田中らほかの浪士4人が不在という情報を持っていなかったのだ。
万太郎らが突入した瞬間、本多は身を翻(ひるがえ)して逃走し、大利1人が4人を相手に奮闘したが衆寡敵(しゅうかてき)せず、1時間余の戦いの末、3人に深手を負わせたものの憤死した。大利24歳の時だった。
幕府側は大坂城焼き打ちを未然に阻止したとして万太郎ら新選組をたたえたが、土方歳三(ひじかたとしぞう)だけは「4人で乗り込んでたった1人か」と吐き捨てたという。
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碑には「昭和12年2月建立」と刻まれ、揮毫(きごう)は「田中光顕」とある。建てたのは「奥野伊三郎」氏と「前田重兵衛」氏。奥野氏の消息は判明しないが、前田氏は近くの製菓原材料卸販売「前田商店」社長、前田重兵衛氏(74)の父で、3代目重兵衛氏=平成8年逝去=だとわかった。前田商店は奇(く)しくも事件があった慶応元年の創業で、当初は和菓子店だったという。
3代目重兵衛氏と奥野氏は建碑の経緯を大略次のように伝えている。
《血なまぐさい事件に(近所)みな震え上がり、戸を閉ざして息をひそめていたことを父祖から伝え聞いていたが、事件が何か、誰もわからなかった。昨年(昭和11年)夏に伯爵の回想録が世に出て事件の真相を知る。折しも2年前に松屋町筋の拡張工事で石蔵屋が取り壊されたことから、伯爵に手紙を書いたところ、自ら筆を執って快諾してくれた》
4代目の前田社長が振り返る。「父からは、本多の母と妻はうちの便所に匿(かくま)ったと聞いています。伯爵が2回も家に来たことを大変喜んでいましてね。あれは私が小学校の時だったか、父ら有志がぜんざいを炊き出し、町中にふるまって志士らを偲(しの)んだことを思い出します」
24歳で新選組の凶刃に斃(たお)れた大利鼎吉。不在で難を逃れ、明治、大正、昭和を生き抜いた田中光顕。長寿の秘訣(ひけつ)を聞かれ、田中は「殺されざれしため」と答えている。(今村義明)
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田中光顕 天保14(1843)念、土佐(高知県)生まれ。通称・顕助。武市瑞山(たけちずいざん)の土佐勤王党に坂本龍馬らとともに参加、藩参政、吉田東洋暗殺にも関与したという説もある。ぜんざい屋事件後、十津川に潜伏したが、中岡慎太郎に見いだされ、陸援隊に幹部として参加する。維新後、警視総監、学習院長、宮内大臣を歴任。昭和14年、95歳で没。
大坂豪商からの借金も踏み倒し 新選組なにわを奔(はし)る(4完)
大阪市中央区を流れる東横堀川に架かる橋のうち、北から2つ目の「今橋」を起点に西に向かった。子育て世代などの都心回帰を象徴する高層マンションが目に入る。その足元の市立開平小学校前に、「天五に平五 十兵衛横町」と記された風変わりな碑があった。江戸時代の豪商、天王寺屋五兵衛(天五)と平野屋五兵衛(平五)の屋敷跡で、東西に軒を並べていたことから、五兵衛と五兵衛を足し算して十兵衛となった。
堺筋を渡り、さらに西へ行くと、大阪美術クラブが入るビルの脇に「鴻池本宅跡」とある。幕府公認「十人両替」の一人、鴻池善右衛門の屋敷跡だ。今や豪商らの面影もない今橋だが、証券会社や銀行、保険会社が集まる金融センターとしてのルーツがここにあったことは容易に想像できよう。
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新選組の足跡は、活動拠点の京都に集中するが、資金源が大坂にあったことはあまり知られていない。そもそも幕府も大名もお金に困っていた時代。富んでいたのは、全国から産物が集まり、米相場や為替相場を動かした大坂、いや大坂の豪商だった。天下の富の7割が集まったとされる大坂の財力を、新選組は見逃さなかった。
文久3(1863)年4月、結成直後の新選組、当時は壬生浪士組を名乗った芹沢鴨、近藤勇らは今橋の平野屋を訪れ、金100両(当時の米価換算で1両=約5万円)の借金を申し込む。
困り果てた平野屋は町奉行所に相談するが、奉行所は後難を恐れてか、今で言う「民事不介入」の態度だから泣く泣く応じるほかない。当時流行した“押し借り”である。もちろん、返済の形跡はない。500万円を手にした新選組は京の大丸呉服店で、あの浅葱(あさぎ)色で袖がだんだら模様の隊服をあつらえたとされる。
同年7月、新選組が続いて訪れたのが鴻池で、武器調達費などを名目に230両を出させている。ただ、交渉は穏便に行われたようで、その伏線(ふくせん)として、新選組が京の鴻池別邸に押し入った不逞(ふてい)浪士を摘発した礼に、善右衛門の方から近藤らを大坂に招いたという説が有力だ。近藤の愛刀「虎徹(こてつ)」もこの時、鴻池から贈られたものらしい。
鴻池の本心はわからない。近藤らに心酔してパトロンになろうとしたのか、ただ京大坂の治安を鑑(かんが)み、新選組を用心棒にしてみかじめ料として金品を提供したのか。いずれにせよ、新選組はこれを機に鴻池を窓口に、大坂商人から金を吸い上げることになる。
元治元(1864)年12月、近藤は大坂の富商22家から、長州征伐の軍費を名目に銀6600貫、金換算で7万両、約35億円を借用する。いくら新選組でも単独の軍費としては多額すぎる。この借金に限っては会津藩が新選組を使って集めさせ、藩の裏金として処理したとの見方が強い。
このあたり、大坂商人は先刻承知だったようで、鴻池はともかく、他の商家らは「会津公、大坂町人へお借り入れを浪人局長(近藤勇)と申す人、押しがり致され、誠に誠に市中だいめいわくなこと」(幕末維新大坂町人記録)と、怨嗟(えんさ)に似た恨み節を残している。
× × ×
肥後橋の大同生命ビル。NHKの朝ドラ「あさが来た」のヒロインのモデル、広岡浅子が嫁いだ豪商、加島屋がここにあった。2階の特別展示室に新選組の借用書が展示されている。
「預申金子之事(あずかりもうすきんすのこと)」で始まる証文には、金400両(約2千万円)を月4朱(0・4%)の利息で借り、翌年5月までに返す-とある。借り主として土方歳三(ひじかたとしぞう)が、保証人として近藤勇が署名、捺印(なついん)している。日付は「慶応3(1867)年12月」。鳥羽伏見の戦いの1カ月前で、他の多くの借金とともに反故(ほご)にされたのは疑いない。
維新の後、新政府は京大坂の豪商を二条城に集め、「御一新(ごいっしん)のため」と300万両(約1500億円)の拠出を要請した。浅子が「新選組の借金なんてかわいいもんや」と言ったとか、言わなかったとか…。(今村義明)
◇
鴻池善右衛門(こうのいけ・ぜんえもん) 江戸時代の大坂を代表する豪商。山中鹿介(しかのすけ)を祖とし、摂津・鴻池村(現・兵庫県伊丹市)で酒造業を興した幸元の八男を初代とする。海運業から両替商、大名貸しで財をなし、3代目が開発した新田は鴻池新田(大阪府東大阪市)として知られる。江戸後期、融資した大名は100藩以上に上り、参勤交代で大坂を通過する際、家老を挨拶(あいさつ)に行かせる大名もいたといわれた。幕末、維新時は10代目。
茨城
古河で「幕末・明治」展 高札や宿泊日記44点26日まで 戊辰戦争の史料公開
県歴博発表幕末の松山・ポルトガルつなぐ時計発見
大分
解体新書と前野良沢を探る 宝暦年中分限帳など初公開 中津市で特別展 [大分県]
古河で「幕末・明治」展 高札や宿泊日記44点26日まで 戊辰戦争の史料公開
古河市三和地区に残された戊辰(ぼしん)戦争(1868〜69年)や明治黎明(れいめい)期の史料に光を当てた「館蔵資料にみる幕末・明治」展が、同市仁連の三和資料館で開かれている。五榜(ごぼう)の掲示を知らせる高札や、大鳥圭介(1833〜1911年)率いる旧幕府軍が、日光への行軍途中で同地区に宿泊した際を記す日記などが興味を引く。会期は26日まで。
新政府と旧幕府の両軍が激戦を繰り広げた戊辰戦争は、鳥羽伏見の戦いや会津戦争、箱館戦争などが有名。現在の結城市などでも1868年4月16、17の両日、江戸を脱走した大鳥らの旧幕府軍と、宇都宮から駆け付けた新政府軍が4度の戦火を交えた(下野小山の戦い)。
同展はこれらの歴史を地元や県民に知ってもらおうと、来年の明治改元150年を記念して企画された。展示品計44点のうち、多くが初めての公開。
高札は4枚あり、いずれも現在の内閣府に当たる「太政官」の文字が目を引く。2枚は冒頭に永続的な決まり事を示す「定(さだめ)」と記され、徒党や逃散(ちょうさん)、キリスト教の禁止を示したもの。残りは一時的な決定を示す「覚(おぼえ)」と、国際法の順守や許可なく土地を離れることの禁止が示されている。
館蔵資料では、仁連新田の代名主や諸川宿の町名主が記した「当用雑手控書留(とうようざつてびかえかきとめ)日記」「戊辰年(ぼしんのとし)日記」などが並ぶ。小山の戦い直前の旧幕府軍の規模、大鳥らの宿泊の過程、軍勢の様子などが記されており、突然現れた数百人の軍勢に町が混乱する様子がうかがえる。
このほか廃藩置県により、1871年7月から4カ月間だけ存在した「古河県」を示す公文書なども展示した。
同館の白石謙次学芸員(44)は「古河市には当時の貴重な史料が多く残されている。身近にあった戊辰戦争などに触れて、歴史や地域への関心を高めてもらえたら」と話した。
開館は午前10時〜午後6時(入館は同5時半まで)。入場無料。問い合わせは(電)0280(75)1511。
(溝口正則)
県歴博発表幕末の松山・ポルトガルつなぐ時計発見
県歴史文化博物館(愛媛県西予市)は14日、明治時代初期にポルトガル領事が松山藩知事に贈った懐中時計が見つかったと発表した。松山市の個人から今年3月に寄贈され、調査を進めていた。同館の井上淳学芸課長は「幕末に松山藩が軍艦を購入した経緯や、ポルトガル領事との深いつながりを示す貴重な史料」としている。
大分
解体新書と前野良沢を探る 宝暦年中分限帳など初公開 中津市で特別展 [大分県]
明治の巨人・福沢諭吉が「文明開化の濫觴(らんしょう)(原点)」と評した解剖書「解体新書」を著した1人で、中津藩医前野良沢(1723~1803)。良沢の活躍を描くNHK正月時代劇「風雲児たち~蘭学革命編」(来年1月1日)が放映されるのを前に、同市は大江医家史料館で特別展「『解体新書』と前野良沢」を開催中だ。「解体新書」のドイツ語原著をはじめ、今回発見された良沢の名が記された唯一の藩士一覧表「宝暦年中分限帳」など初公開史料4点を含む23点が展示されている。来年2月12日まで。
良沢は本道医と呼ばれる漢方医。中津3代藩主奥平昌鹿の母親の骨折を、長崎の大通詞(通訳)で蘭方医・吉雄耕牛(1724~1800)が見事に直した技術に衝撃を受ける。「宝暦年中分限帳」の記載では、藩医の3番目に位置。安定した身分が保障されているにもかかわらず、40歳を過ぎてから猛然と蘭学を学び始めた。今と違い、内科主体の漢方医と外科中心の蘭方医との間には明らかな格差があった時代。市教育委員会文化財室の曽我俊裕さんは「格下ともいえる蘭方医の高い技術力を素直に認め、自分のものにしようとした学問への探求心は良沢らしい」と話す。
昌鹿の庇護(ひご)の元、長崎遊学も果たし、吉雄にも師事。「解体新書」を著すきっかけとなるオランダ語版の「ターヘル・アナトミア」もこのとき入手したとされる。偶然、同書を持っていた小浜藩医・杉田玄白と江戸で死体の解剖を見学したことがきっかけで、同書の正確さに驚き、翻訳を決意する。良沢は、当時、医者の主流だった漢方医に向けた解剖書を目指した。例えば「神経」という用語は全ての生理活動の元を表す「神気」と、気や血の循環経路を表す「経絡」からの合成で、「漢方の考え方に基づく用語の創造は、多くの漢方医に違和感なく理解してもらうためでは」と曽我さん。
蘭日辞書などない時代。中津藩江戸中屋敷(東京都中央区)で始まった作業は、オランダ語が分かる良沢をしても困難を極めた。今回、展示されているフラソンワ・ハルマ著「蘭仏辞書」も良沢は駆使。訳出困難なオランダ語はフランス語に一度翻訳。それを長崎にいたフランス語にたけた知人の通詞に日本語への再翻訳を依頼する手法で一つ一つつぶしていった。
それでも翻訳不能な箇所は膨大だったことから問題が起きる。良沢は“不完全な”「解体新書」刊行を渋ったとされる。曽我さんは「完璧主義者の良沢は同書の不完全さを誰よりも熟知し、精度を高めることを主張。出版を急ぐ玄白と対立し、著者名の中に自分の名前を入れることを拒絶したのだろう」と想像する。
「解体新書」出版後、良沢は表舞台から姿を消す。今回展示されている良沢が著したロシア歴史書「魯西亜(ろしあ)本紀」に、曽我さんはヒントを見いだす。ロシアは18世紀後半から、樺太や千島列島(クリール諸島)への軍事的圧力を強化。江戸幕府は北方対策に追われる。ロシア対策に腐心した老中松平定信とじっこんだった4代藩主昌男を通じて、オランダ語のロシア関連書籍翻訳を指示されたのではないか。曽我さんは「弟子の大槻玄沢も幕府直属の蕃書和解御用(東京大前身の一つ)となり、ロシア関連書籍の翻訳にも当たっている。良沢の晩年は、ロシアの歴史やカムチャツカ半島の地理などに精通しており符合する」と話す。
同展では、16日午後1時半から、中津の医学史料の研究を行う九州大名誉教授のヴォルフガング・ミヒェル氏による記念ギャラリートークもある。火曜休館。午前9時~午後5時(入館は午後4時半まで)。28日から来年1月3日まで無料開放。一般210円、大学・高校生100円、中学生以下無料。
=2017/12/16付 西日本新聞朝刊=
まだ超歌劇『幕末Rock!』雷舞のストリーミング配信が続いているため、毎日のように視聴しています。ちゃんと覚えていたはずなのに、歌詞が出て来なくなったのは大丈夫か自分(汗)。
高知
幕末の志士 武市半平太 田畑など売却を示す直筆証文発見
尾道文治謎の落語家 高まる再発見の機運 広島
島根
浜田城跡に「葵の紋」入り鬼瓦としゃちほこ片発見
平田家住宅座敷棟「慶応2年建設」墨書発見 小郡市指定有形文化財 /福岡
高知
幕末の志士 武市半平太 田畑など売却を示す直筆証文発見
尊皇攘夷を唱えた幕末の志士、武市半平太が、後の「土佐勤王党」の一員となる志士などが通った剣術道場を開いたあと、田畑などを売ったことを示す直筆の証文が見つかりました。専門家は「資金を道場の運営などに充てたと見られ、当時の状況を物語る貴重な資料だ」と指摘しています。武市半平太、田畑売る証文/剣術道場の運営資金か
武市半平太は、坂本龍馬などとともに「土佐勤王党」を結成し、尊皇攘夷運動を展開しました。
ゆかりの深い地元の豪農の子孫が所有する高知市の蔵を調べたところ、嘉永5年(1852年)に当時24歳だった武市半平太が、田畑や山林を売ったことを示す証文が見つかりました。
「考えるところがあって売ります」という内容が、丁寧な字で記され、高知県の佐川町立青山文庫の松岡司名誉館長が鑑定した結果、直筆で署名と黒い印章も本人の物と確認されました。
この時期は、岡田以蔵など後に土佐勤王党の一員となる志士も通った剣術道場などを建てた2年後にあたるということです。
松岡名誉館長は「売却で得た資金を道場の運営や生活に充てたと見られる。暮らしに関連する直筆の資料が見つかったのは初めてで、当時の状況を物語るとともに、きちょうめんな性格がにじみ出た資料だ」と話しています。
このほか本人が使ったと見られる刃渡り55センチの脇差しや明治以降に描かれた珍しい立ち姿の肖像画なども見つかり、松岡名誉館長は、「本人の息づかいが感じられる貴重な資料だ」と指摘しています。
武市半平太 新たな発見は8点
今回見つかったのは、武市半平太に関係する8点の資料です。
このうち直筆と確認された証文は、嘉永5年、1852年の年末、田畑や山林を地元の豪農に売った際のものです。署名や黒い印章の「黒印」が添えられ、「考えるところがあって、あなた様に売ります」という内容が書かれ、「八十文銭三貫八百目」を受け取ったと記されています。
また本人が使ったと見られる刀は、刃渡り55センチの脇差しです。切腹で生涯を閉じたあと、生活に困っていた妻から買い取ったという話が、代々伝えられてきたということです。
松岡名誉館長は、両家の関係の深さから武市の刀である可能性が高いと見ています。
珍しい立ち姿を描いた肖像画も見つかりました。明治から昭和のはじめにかけて活躍し、坂本龍馬の肖像画をかいたことでも知られる高知市出身の画家、公文菊僊が手がけたもので、縦1メートル15センチ、横40センチで、りんとしたはかま姿が描かれています。
立ち姿の肖像画は初めてだということで、松岡名誉館長は「これまで見たことのない剣士の姿を描いていて、価値の高い資料だ」と話しています。
武市半平太とは
土佐の幕末の志士、武市半平太は、天皇を中心とした新しい国をつくろうと坂本龍馬などとともに「土佐勤王党」を結成し、尊皇攘夷運動に力を注ぎました。剣術の腕前でも知られ、地元で立ち上げた道場には、後に土佐勤王党の一員となった岡田以蔵なども通ったということです。
尊皇攘夷の気運が、一時衰えた際藩内の主導権争いをめぐって切腹を命じられ、明治維新を目前にした慶応元年(1865年)5月11日、志半ばで37歳の生涯を閉じました。出身地の高知市仁井田には、墓と生家が残り、業績を紹介する瑞山記念館が建てられています。地元の人たちは、毎年の命日に慰霊祭を行っています。
坂本龍馬らが参加した土佐勤王党を結成した幕末の志士武市半平太(瑞山)が1852(嘉永5)年、田畑などを売ることを示した直筆とみられる証文が見つかったことが7日、分かった。高知市の歴史研究家松岡司さん(74)が筆跡などから鑑定した。半平太は当時、剣術道場を開いており、松岡さんは「運営資金に充てた可能性がある」とみている。広島
証文によると、半平太は現在の高知市の生家近くにある豪農に田畑や山林を「思うところがあって」売り、資金を受け取ったとみられる。和紙に毛筆で書かれており、豪農の子孫が掛け軸にして保管していた。
尾道文治謎の落語家 高まる再発見の機運 広島
幕末から明治にかけ、「尾道文治」の名で知られた落語家、桂文治を再発見する取り組みが終焉(しゅうえん)の地となった広島県尾道市で進んでいる。怪談噺を得意とし、六代目桂文治(1843~1911年)と親しかったともいわれるが、その生涯は謎に包まれている。【渕脇直樹】以下は有料記事です。
「今夜はしっかり笑ってもらえれば、文治のためになる」。尾道市東土堂町の信行寺で11月26日に開かれた尾道文治をしのぶ落語会で、鶴山豊教住職は約80人の落語ファンに呼びかけた。寺には文治の墓があり、「丹頂文治藝姓桂 享年九十三才」と刻まれている。
市史編さん委員会事務局の林良司さん(40)によると、尾道文治は現在の尾道市久保1丁目付近に居を構え…
島根
浜田城跡に「葵の紋」入り鬼瓦としゃちほこ片発見
島根県浜田市殿町の浜田城跡で、天守に使われていたとみられる徳川家の家紋「葵の紋」入りの鬼瓦と、しゃちほこの目玉周辺部が見つかった。浜田城は幕末の第2次長州征伐の際に藩主が「自焼退城」し、天守は残っていないため、遺物は往時の城のしつらえを伝える希少な史料。鬼瓦は、藩主が代わった際に瓦替えが行われたことも示している。市は2019年の浜田藩開府400年に向けた機運醸成に活用する考えで、17日に一般公開する。福岡
【詳しくは本紙紙面をご覧ください】
平田家住宅座敷棟「慶応2年建設」墨書発見 小郡市指定有形文化財 /福岡
小郡市の市指定有形文化財「平田家住宅」の座敷棟で、建設年代が1866(慶応2)年であることを示す墨書が見つかった。座敷棟は主屋と同じ1879(明治12)年の建設と推定されていたが、10年以上さかのぼることになった。市文化財課は「建設時期を具体的に示す貴重な発見だ」と評価している。
墨書は座敷棟の玄関部分の壁板から発見さ…(以下、有料記事)
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