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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
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あたふたしているうちに月替わり。

北海道
新撰組ゆかりの地巡って 函館市内13カ所地図で紹介 JTB旅館ホテル連盟など企画
 箱館戦争150周年を記念し、函館市内の新撰組ゆかりの地の魅力をPRしようと、JTB協定旅館ホテル連盟と函館ホテル旅館協同組合は共同で専用マップを作成した。土方歳三が最期を迎えたとされる一本木関門(若松町)など、函館市内のゆかりの地13カ所を地図付きで紹介した。

 1万5千部を発行。5月から同連盟と組合の加盟店や、市内観光施設に置いた。箱館戦争で犠牲となった旧幕府軍人を弔うために建てられた新撰組巡礼の聖地の碧血碑(谷地頭町)なども掲載した。

宮城
<戊辰戦争150年>「白石会議」現代に再び 列藩同盟ゆかりの地で歴史の転換点議論
 白石市は6月2日、戊辰戦争150年を記念して、奥羽越列藩同盟の発端となる会合があった白石城で、「白石会議2018」と銘打ったイベントを開く。研究者や列藩同盟にゆかりのある宮城、福島、山形各県の自治体関係者らが歴史の転換点を語り合う。
 白石城本丸広場に特設ステージを設け、東大史料編纂所教授で歴史学者の本郷和人さん(57)が戊辰戦争と幕末をテーマに講演する。引き続き、列藩同盟ゆかりの白石市の副市長、二本松市の教育長、米沢市と白河市の学芸員らが歴史とまちづくりを議論する。
 東北放送ラジオの番組「それいけミミゾー」の公開生放送もあり、山田裕一市長が出演する。
 白石会議は1868(慶応4)年閏(うるう)4月11日、新政府から追討令を受けた会津藩を救済しようと、奥羽14藩が白石城に集結。翌5月の31藩による奥羽越列藩同盟の結成につながった。
 市の記念事業「しろいし慕心(ぼしん)プロジェクト」の一環。甲冑(かっちゅう)やこけし絵付けの体験、各地の物産や軽食が楽しめるブース、賞品がもらえるクイズ大会もある。連絡先は市教委生涯学習課0224(22)1343。

福島
戊辰戦争150年会津の義感じて 地元市などが番組制作
 福島県会津若松市などは、戊辰(ぼしん)戦争150年を記念した特別番組「AIZU」を制作し、26日からBS4局で全国放映する。会津武士道の「義」をテーマに、大義▽道義▽信義▽忠義--の4編で構成。それぞれの視点でドキュメンタリー化した。

 戊辰戦争の歴史と会津の精神を広く発信しようと、市と関係団体で組織する市戊辰150周年記念事業実行委員会が制作した。

 番組は外国人を進行役に据えるなど、会津藩士の「義」にあふれた生きざまから見えるメッセージをグローバルな目線で描いた。会津松平家14代当主の松平保久さんや市民らが出演し、市内の名所やフィクション映像なども織り交ぜた。放映時間は各24分。

 大義編は26日午後1時からBS朝日で、道義編は27日午後4時半からBS日テレで、信義編は6月2日午後5時半からBSフジで、忠義編は同3日正午からBS-TBSで放映する。室井照平市長は「内容も難しくなく、会津の『義』を感じ取ってもらえると思う」と話した。

 6月26日午後6時半からは同市の会津稽古堂で一般公開も予定している。入場は無料で、先着200人。申し込みは市観光課(0242・39・1251)。【湯浅聖一】
戊辰戦争鶴ケ城天守閣など150年記念切手 会津地方で
11日から98郵便局で販売 1000シート限定
 日本郵便東北支社(仙台市)は戊辰(ぼしん)戦争150年を記念したオリジナルフレーム切手を製作し、11日から会津地方の98郵便局で販売する。戊辰戦争に関心を持ってもらい、地元を盛りあげようと企画した。

 図柄は福島県会津若松市の戊辰150年のロゴマークと市が所蔵する史料画像で構成。戊辰戦争の際に砲撃を受けた鶴ケ城天守閣の写真や、会津藩主で京都守護職時代の松平容保(かたもり)を描いた錦絵などをあしらっている。1シートは82円切手10枚で1300円(税込み)。1000シート限定で、うち40シートは15日から日本郵便のネットショップでも扱う。

 発売に先駆けて10日、日本郵便から同市の室井照平市長への贈呈式が市役所であった。室井市長は「どの切手も往時をしのぶ図柄で、いい記念になる」と感謝した。【湯浅聖一】

大阪
大阪の適塾で特別展 明治維新150年、戦争と平和考える機会に
 国指定重要文化財の史跡「適塾」(大阪市中央区北浜3、TEL 06-6231-1970)で5月29日、特別展示「戊辰(ぼしん)戦争~西南戦争をめぐる適塾関係者たち-軍制と医療から」が始まった。主催は大阪大学適塾記念センター(豊中市)。

江戸末期の町屋の遺構でもある「適塾」

 適塾は、医師で蘭(らん)学者の緒方洪庵が江戸末期に開いた私塾。同建物では6月10日の洪庵の命日に合わせて毎年、ゆかりの品々や関係資料を一般公開している。

 明治維新150年となる今年は、戊辰戦争と西南戦争の2つの内戦にフォーカスし、近代軍制の確立に貢献した大村益次郎や、軍医の養成に携わった緒方惟準(これよし)など、適塾関係者の活動を紹介する。

 適塾を研究する大阪大学の松永和浩准教授によると、戊辰戦争での高松凌雲の救護活動、西南戦争での佐野常民の博愛社(日本赤十字社)の設立など、適塾は戦争犠牲者を救済する人材も供給していたという。松永さんは「今年は維新150年だが、歴史の暗部が顧みられることは少ない。今回の展示では戦争の暗部にも光を当てており、戦争と平和の意義について考える機会になれば」と話す。

 開館時間は10時~16時。月曜休館。入場料は、一般=260円、高校生・大学生=140円、中学生以下無料。6月10日まで。

高知
シンポジウム明治150年記念 学芸員ら戊辰戦争語る さまざまな視点から紹介 高知・歴博 /高知
 明治元(1868)年から今年で150年を記念したシンポジウムがこのほど、県立高知城歴史博物館(高知市追手筋2)であった。明治維新期の戊辰戦争ゆかりの地にある博物館や美術館の学芸員らが、さまざまな視点で発表した。

 館の企画展「明治元年の日本と土佐~戊辰戦争 それぞれの信義~」の関連行事として開催。鹿児島県や福島県の学芸員ら4人が登壇した。このうち福島県立博物館の主任学芸員、阿部綾子さんは、元会津藩士の渋谷源蔵(1839~1909年)が明治39(1906)年に残した記録「雪冤一弁(せつえんいちべん)」を紹介。その中に敵だった薩摩藩出身者らから聞いたことを記している点について「明治維新後も、(戊辰戦争時に)誰がどういう風に行動し、感じていたのか、直接インタビューして書いているのが面白い」と話した。【松原由佳】
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10年続いているというACTシアター志の輔らくご。私は2010年、2014年から毎年来ています。今日は同業者の友人と。

大忠臣蔵 〜仮名手本忠臣蔵のすべて

中村仲蔵

 毎年同じ演目を見聞きしているのだけど、涙が出て仕方が無い。

 歌舞伎の歴史始まって以来、例がない、稲荷町から名題への出世を経験した初代中村仲蔵。名題になって初めての役が、仮名手本忠臣蔵のうち斧定九郎の一役のみ。彼の出世に対する嫌がらせであるこの役に仲蔵は一生懸命取り組み、柳島の妙見様への願掛けあってか蕎麦屋で見かけた浪人者の形を写し、色悪というジャンルを初めて開拓する。

 弁当幕と呼ばれる五段目、冷たい水を浴びて花道に注目した客が見たのは、雨に濡れた真っ白い肌の浪人者。。今まで見たことのない定九郎に、みな息を呑む。そして。。

 革新するまでの産みの苦しみの物語でもあり、革新的なものが理解されるまでに時間がかかるという物語でもあり、因習に囚われず仲蔵を名題にまで引き上げた四代目團十郎の目利きの話でもあり、命をかけて一役に取り組む役者魂の話でもあり。。

 まるでそこに花道ができたようなACTシアターの演出も好き。
昼の部夜の部通しで観た。

海老蔵五役: 早変わりといっても……うーん、元の作品が独立した別の作品だからと言ってしまっては元も子もないのだけど、バラバラと独立した章なので早変わりにあまり価値がないというか。鳴神上人と雲絶間姫のくだりは面白かったけど、海老蔵がどうこういう以前に作品として平板だった。

弁天娘女男白浪……菊五郎の弁天が南郷力丸と一緒に浜松屋で騙りゆすりをする場面が本当にドキドキした。これが芸の力だと感心するし、これが音羽屋さんなのだなーと唸る。


(評・舞台)歌舞伎座「団菊祭五月大歌舞伎」 海老蔵の鳴神に孤高の面影
 団菊祭は過ぎ去った日を思い出させる。昼の通し狂言「雷神不動北山桜(なるかみふどうきたやまざくら)」の高僧鳴神上人は、五年祭を迎える十二代目団十郎がおおらかだった。上人は龍神(りゅうじん)を滝壺(たきつぼ)に封じ込め、雨が降らない。雲の絶間(たえま)姫が高僧を破戒させ、龍神を解放して、雨をもたらす。

 海老蔵の鳴神は孤高の面影が濃い。菊之助の絶間姫が捨て身の誘惑を仕掛けると、一本気の性格がガラスのようにぽきりと折れる。この現代的センスが海老蔵である。他に粂寺弾正、早雲王子、安倍清行、不動明王を替わる。

 「女伊達」は、時蔵の女性の侠客(きょうかく)が、大きな間で見事な所作を見せる。

 夜「弁天娘女男白浪(べんてんむすめめおのしらなみ)」の幕が開き、武家娘に化けた菊五郎の弁天小僧が、左団次の南郷力丸を連れて浜松屋に現れると、懐かしさが胸にあふれる。

 屋敷風の奥ゆかしい黒の振り袖が、強請(ゆす)りがばれて片肌脱ぎになると、急によそよそしい借り物になる。娘の身体(からだ)が別人に変わり、「女装する男」が現れる。菊五郎の変幻自在さが、観客を江戸の夢に誘(いざな)う。

 「菊畑」は、団蔵の鬼一法眼の端正なたたずまいと、滋味を含んだせりふが、祖父八代目団蔵を彷彿(ほうふつ)させる。祖父は42年前この役を演じて引退し、孫に未来を託して四国巡礼に出た。その思いが実を結んでいる。

 「喜撰」は、六歌仙の喜撰法師が、江戸の風俗で廓(くるわ)通いをする。名品だった七代目三津五郎の瓢逸(ひょういつ)な味が、若い役者に出せるか。菊之助は正攻法で答えを出している。立役(たちやく)の外輪と女形の内輪の中間を行く難しい振りを正確に踊れば、そこに喜撰がいる。踊りの意味も味も振り付けの中にある。時蔵の祇園のお梶が七代目梅幸に似たスケールの大きさで、喜撰を包んでいる。(天野道映・評論家)

 26日まで。
歌舞伎團菊祭五月大歌舞伎 菊五郎 小悪党小気味よく=評・小玉祥子
 十二世團十郎の没後五年祭。夜の部に見応えがある。最初の菊五郎が弁天小僧を演じる「弁天娘女男白浪(べんてんむすめめおのしらなみ)」は、「浜松屋」から「滑川土橋」まで。菊五郎の時代と世話を使い分けた緩急自在なセリフ術が見事。女装して乗り込んだのが男と見破られ、「肝はふてえや」と居直ってすごむところなど、小悪党ぶりが小気味よく、左團次の南郷との息も合い、最期を遂げる「極楽寺屋根立腹(立ったままでの切腹)」までを運びよく見せる。橘太郎の番頭が軽妙で、梅玉の青砥藤綱がごちそう。海老蔵の駄右衛門、菊之助の赤星、松緑の忠信とそろう。

 中幕が「菊畑」。適材が配役された充実のひと幕。時蔵の虎蔵は、牛若丸らしいきびきびとしたところに加え、「色若衆」らしい色気がある。松緑の智恵内は線が太く、虎蔵への忠義心も感じられた。児太郎の皆鶴姫にいちずさと気性の激しさがうかがえ、坂東亀蔵の湛海が薄手な敵役ぶりを出した。団蔵の鬼一はセリフが明瞭で軍師らしい奥深さがあり、智恵内との腹の探り合いが、よく表現された。

 最後が「喜撰」。菊之助の喜撰の動きが美しく、時蔵のお梶との取り合わせも良い。

 昼が「雷神不動北山桜(なるかみふどうきたやまざくら)」(奈河彰輔演出、藤間勘十郎演出・振り付け)の通し上演。海老蔵が早雲王子、安倍清行、粂寺弾正、鳴神上人、不動明王の5役をつとめるが、やはりおもしろいのは、通常上演される「小野春道館(毛抜(けぬき))」と「北山岩屋(鳴神(なるかみ))」。

 「毛抜」では粂寺弾正がおおらかで、雀右衛門の巻絹に腰元らしい弾んだ風情がある。団蔵の八剣玄蕃、彦三郎の秦民部と周囲もそろう。

 「鳴神」は海老蔵の鳴神上人が前半で堂々とした風情を出し、菊之助の雲の絶間姫の色香に迷っての堕落ぶりとの差異を際立たせた。菊之助は、単身、山奥に乗り込んできた芯の強さを感じさせる造形で、あでやかさもある。

 最後が美とはりのある時蔵の「女伊達(だて)」。【小玉祥子】

東京・歌舞伎座で26日まで
渡辺保
2018年5月歌舞伎座珠玉の「浜松屋」
今夜、私は歌舞伎座の団菊祭で不思議な体験をした。

 江戸の町の呉服屋の店先(黙阿弥の「弁天小僧」では鎌倉雪ノ下になってい

るがむろんこれは江戸の町の話である)。春の日の昼下がり、すでにほの暗い

店の一室で、女装した男の無頼漢の詐欺事件が、いま、私の目の前で起こって

いるという実感がしたのである。「弁天小僧」の浜松屋は、今まで何度見たか

知れない。しかしこの舞台でこんな体験をしたのははじめてだった。いつ見て

もそれは技巧を凝らした「お芝居」であり、役者の「芸」を楽しむものであっ

た。しかし今夜は奇妙なことに、いま、ここで事件が起きている、これは「お

芝居」でも「芸」でもなくて「現実」だという感じがしたのである。こういう

感じは現代劇でも最近は珍しいし、ましてや歌舞伎のような浮世離れした古典

劇では滅多にないことだが、それが演劇の写実の根本であることも事実である。

 どうして「弁天小僧」のような芝居でこんな実感が起きたのか。

 一つは菊五郎の弁天小僧と左団次の南郷力丸が芝居とは思えぬリアリティに

達したいたからであり、もう一つは周囲の役々のアンサンブルが水も洩らさぬ

緊迫感を持っていたからである。菊五郎の目が舞台のスミズミまで行き届いて

いるのがよくわかった。演劇ファン必見の舞台である。

 菊五郎の弁天は、花道へ出たところ、前回の変な化粧が改まって、たよたよ

とおぼつかな 気なところが娘姿にはまって、円熟した老いの艶に輝いている。

しかしそこまでは「お芝居」であり「芸」であった。型を守りながら自由な芸

境も前回に同じ。前回とは違うのは、緋鹿子の半襟をそっと抽斗に混ぜ、後ら

スーッと取るところからである。ここは型どころで難しいところであるが、全

く観客の目にも留まらぬリアルな自然さになる。自由自在というよりも現実な

のである。駄右衛門が出て男と決めつけられるところの微妙なニュアンスも違

っている。ここはギックリしてわざと男の声になるやり方が多いが、今度の菊

五郎は女の声である。その上で「桜の刺青」を指摘されると「シェーッ」と驚

くところもイキ一つで女でありながら男ともとれる微妙な声である。こう書く

となんでもないようであるが、そのイキ、その微妙さが自然でリアルに運んで

いるから、冒頭私がふれたような、いま、ここで事件の現場に立ち会っている

ような現実感になる。それでいて「知らざあ言って聞かせやしょう」はメリハ

リ十分で「悪事はのぼる上の宮」で煙管で下手上の方を指す姿は絵になってい

る。駄右衛門が「生けおく奴ではなけれども」と刀を取るとキッとなって左ひ

ざを立てて手を載せた具合もそのまま絵であった。無言で簪で煙管を通そうと

している姿もリアルな生活感にあふれている。しかもせりふで凄味を聞かせる

無気味さ、いずれもこの事件の中核を描いている。それから花道の引込みまで。

前回の自由さからさらに進んで芝居とは思われぬ、弁天の無頼ぶり目の当たり。

画期的な出来といわなければならない。

 周囲のアンサンブルまた然り。左団次の南郷の、これもまた手慣れて余裕た

っぷりな自在な芝居もいい。団蔵の浜松屋幸兵衛がいかにも大店の主らしく、

市蔵の狼の悪次郎、橘太郎の番頭。この番頭が音頭を取る前後三回の「ヤアヤ

アヤア」がそれぞれその時に応じて不安、驚き、呆然のニュアンスを聞かせて

アンサンブルがとれている。これに交じって種之助の宗之助が柔らか味を出し

ているのは偉い。

 一方海老蔵初役の駄右衛門は、障子を細目に明けて弁天たちのやり取りを聴

いているのはいいが、菊五郎や左団次の間に入るとせりふの輪郭がぼけるのは

期待外れ。松也の鳶頭は動きがもっとキリッと締まるべきだ。

 次が稲瀬川勢揃い。

菊五郎の弁天は花道へ出たところ、逆七三での見得が錦絵の美しさ。しかし舞

台全体は浜松屋の緊密感を失っている。その理由は、この場が浜松屋とは違っ

て様式的だからであり、そうなると菊五郎左団次のベテランに対して、日本駄

右衛門の海老蔵、忠信利平の松緑、赤星十三郎の菊之助の若手三人の、せりふ

廻しの味の格差が大きいからである。

続いて極楽寺大屋根の立腹、山門、滑川の三場。

菊五郎の弁天はさすがに立ち廻りが無理だが、きまった時の姿、顔かたちはや

はり絵である。海老蔵の駄右衛門はこのはなやかな道具の中で意外にも貧相に

見える。睨みもさして効かないのは、こういう形容本位の役が現代の役者には

苦手だからだろう。

最後に青砥藤綱を梅玉が付き合う。脇の侍は秀調と権十郎、捕り手は九団次と

広松。贅沢な大詰である。

夜の部はこの後団蔵、時蔵、松緑の「菊畑」と菊之助、時蔵の舞踊「喜撰」が

あるが、この二本には問題がある。

団蔵初役の鬼一は、その風采がいかにも鬼一らしく、かつはせりふが明晰で客

席に通るが、そのせりふが明晰なのに味がないのは、今日はまだ初日が開いて

二日目のせいもあるだろうが、肚が薄いからであり、言葉の裏の意味、二重三

重の深さが出ていないからである。動きの造形にも深味がない。たとえば「晴

れの草履」などもっと様式的な芝居なはずである。ニンからいえばいい鬼一で

あり、この役は七代目団蔵の当たり芸であり、八代目引退の役でもあって団蔵

家にはゆかりの役。是非練り直してほしいと思う。

時蔵初役の虎蔵は、女形であるためにキッとしようとして、かえって変化に乏

しく色気が薄い。この役はやり過ぎるほど突っ込まないと面白くない。ことに

後半智恵内と二人になってからのノリ地は内輪過ぎてノリが悪く、動きにも義

太夫狂言らしいコクがない

松緑二度目の智恵内は、浅黄幕が振り落とされての第一印象が顔が小さくて引

き立たないのは是非もないが、奴たちの芝居になってからはしっかりして分の

悪さを取り返した。しかし後半はまだ愛嬌が足りず、動きの面白さもやはり義

太夫物らしさが足りない。

児太郎の皆鶴姫は品があるのがいいが、くどきはこれも色気がない。亀蔵の笠

原湛海は憎々しさが足りない。

かくて床の葵太夫、寿治郎の奮闘にもかかわらず水っぽい「菊畑」になってし

まった。現代の歌舞伎役者にとってこういう形容本位の作品が苦手なのはわか

るが、もっと芝居らしい造形を考えなければ折角の名作がつまらなくなってし

まうだろう。

さらに問題なのは菊之助初役の「喜撰」である。藤間勘十郎振付で、いつもと

は居どころが違って喜撰が上手、お梶が下手にいく。お梶が小町のパロディで

あることを考えると逆の方がいいと思うが、それはそれとして菊之助がその居

どころをハッキリ掴んでいないのはよくない。チョボクレになる時の居どころ

が微妙に違ってくるからである。

菊之助の喜撰は、花道へ出たところ、片足男で片足女で踊るという口伝を重く

見たせいか、女流舞踊家が踊っているような、しかも真面目さが出て不思議な

違和感がある。口伝はともかくも喜撰は鼻下に青たいを塗った役である。その

可笑し味、洒脱さがなければならないだろう。こうなるのは、この役がこの人

のニンにないからである。

菊之助は勉強家であるが、この喜撰は振りの意味もよく理解されていないよう

に見える。たとえば花道の振り一つをとっても、「小町桜の眺めに飽かぬ」で

桜の枝を立てて見上げるところは、この桜が小町でありお梶であってただの桜

ではないということが表現されていない。「眺めに飽かぬ」という、その見惚

れる情感がないからである。

時蔵の茶汲み。お迎い坊主は権十郎、歌昇以下若手総出。長唄は勝四郎、巳太

郎、清元は延寿太夫、美治郎。

この夜の部に対して昼の部は十二代目団十郎五年祭の追善とあって海老蔵五役

出ずっぱりという奮闘で「雷神不動北山桜」の通し。

海老蔵の五役はまず口上があって筋が分かり易い。それから登場順に敵役の早

雲王子、白塗りの陰陽師安部清行、裁き役の粂寺弾正、荒事の鳴神上人、最後

が不動明王。なかでは鳴神が図抜けて第一等の出来。その色気といい、線の太

さといい、鷹揚な愛嬌といい、役が手に入って来た余裕といい、いい鳴神であ

る。雲の絶間姫との濡れ場も菊之助の雲の絶間姫との釣り合いもよく、この通

しでは全幕中一番の出来である。

続いて粂寺弾正と行きたいところであるが、鳴神と違ってこっちにはいろいろ

問題がある。まず花道を出たところ、豪放さを出そうとしてか体に締まりがな

い。豪放さと放漫さとは同じではない。この男は荒事の豪快さを含みながら小

野家の悪を一掃する知恵者であり、いわゆる裁き役であって、そこが単なる豪

快さだけではないからである。知性の爽快さがなければならないと思う。

お約束の五つの見得は形がよく出来ているが、手足のスミズミまで力が入って

いなければならないところで多少のスキがある。つい形だけになるのである。

さらに問題なのはせりふ。高音部を引っ張って多用しているが、その高音部が

割れて甘ったるい。鳴神よりも大分成績が下がるのはそのためである。

ユニークなのは安部清行、百歳を生きてなお若々しく美しいという不思議な役

で面白い。海老蔵のニンからいえば白塗り、烏帽子姿の絵から抜け出て来たよ

うな姿がこの人に一番合っている。ただ設定が面白い割には台本上あまり書き

込まれていないために仕どころがなく、かつは早替わりのために印象が散漫に

なった。

不動明王は、原作でも形容だけだからとこういうほどのことはない。

早雲王子は、これも悪の見せ場がないために折角の大目玉を剥いて見せてもあ

まり効かないのは残念である。

周囲の役にふれよう。菊之助の雲の絶間姫は、今月この人三役中一番の当たり。

とかく女形になると冷たく理知的に見える人が、ここでは色気もあり、美しさ

もあり、一切底を割らずに芝居を運んで安定している。ただしこの人の持ち味

で鳴神の寝たあと、お許しなされて下さりませといって、はじめて真情を見せ

る真実味が一番いい。優美で知的なのである。

いいもの。雀右衛門の腰元巻絹。大輪の花といい、前後の気配り、芝居に気が

入っていて、弾正を振っての引込みの「ビビビビビーイ」がうまい。

続いて団蔵の八剱玄蕃。どっしりとして悪が効いてさすがに小野家の御家老職。

次が斎入と市蔵の白雲黒雲。二人のイキの合い方、芝居の自在な運びのうまさ。

これで海老蔵と菊之助がどれだけ引き立ったか。これで花道引込みの「ズボン

ボエエ」がもう一杯派手ならば面白いのに惜しい。

いいものは以上五人。

他に錦之助の関白基経、家橘の小松原中納言、友右衛門の小野春道、市蔵の小

原の万兵衛、彦三郎の秦民部、松也の文屋豊秀、児太郎の秦秀太郎、広松の小

野春風、梅丸の錦の前、九団次の数馬。

この通しのあとに時蔵の舞踊「女伊達」。時蔵がさすがに立女形の格を見せる。

長唄は鳥羽屋里長、栄津三郎。

 


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『渡辺保の歌舞伎劇評』http://homepage1.nifty.com/tamotu/
長谷部浩
【劇評107】豊潤にして澄み渡る心境。菊五郎の弁天小僧
歌舞伎劇評 平成三十年五月 歌舞伎座夜の部

五月團菊祭の歌舞伎座。夜の部は、菊五郎の世話物極め付きというべき『弁天娘女男白浪』が出た。
昭和四十年六月、東横ホールで初めて演じてから、五十年あまりの歳月が過ぎた。今回は満を持して、「浜松屋」と「稲瀬川」だけではなく、菊五郎自身が「立腹」で立廻りを見せ、滑川土橋の場まで半通ししたところにも並々ならぬ意欲を感じた。
五代目菊五郎が初演し、六代目、七代目梅幸、当代と続き、また現・菊之助も襲名以来重ねて演じてきた狂言である。音羽屋菊五郎家の家の藝の代表というべき作品である。菊五郎は、豊潤な色気を失わず、不良の魅力を発散している。しかも、春の澄んだ空と通じるようなむなしさ、悲しみさえ感じさせた。
まず、「浜松屋」では、「見顕し」にすぐれている。作為はほとんど感じさせず、嫁入り前の武家の娘から、稚児上がりの小悪党まですらりと変わっておもしろい。「稲瀬川」では、当然のことながら海老蔵の日本駄右衛門を圧する気迫がある。さらに「立腹」では、立廻りの手は短くなっているものの生きることの懸命さをすっと手放してしまった悪党の心がよく伝わってきた。松也の鳶頭、種之助の宗之助、寺嶋眞秀の丁稚長松を見ていると、世代が確実に交替しつつ、菊五郎劇団のDNAが受け継がれていくのを感じた。
團蔵の幸兵衛、橘太郎の番頭、市蔵の狼の悪次郎、梅玉の藤綱。
続いて久しぶりに『菊畑』が出た。
松緑の智恵内、團蔵の法眼、児太郎の皆鶴姫、時蔵の虎蔵。それぞれの心の葛藤を、義太夫に乗せて芝居にしなければならぬ至難な狂言を次ぎに繋げるために健闘している。時蔵は先月から大変な活躍振りで、立女形としての実力を東都に知らしめている。ただし、色若衆となると、出では女方の色が強く違和感を感じさせた。後半はさすがの実力で若衆ならではの身のこなしを見せつける。
いずれは『六歌仙容彩』の通しが期待される菊之助。女方舞踊だけではなく、立役の舞踊も、勘三郎、三津五郎なきあとは、この人が規矩正しく継承していくのだろう。その試金石となるのが、今月の『喜撰』と六月の『文屋』である。
『喜撰』についていえば、茶屋の女にのぼせた高僧ではあるけれど、品格を決して失わないところがいい。ちょぼくれ、ワリミも軽やかにこなしている。ただ、こうした演目は、技巧の確かさを消していくことが必須となる。それには回数を踊って、自然体を獲得する過程を経なければならない。千穐楽近くにもう一度観てみたいと思わされた。二十六日まで。

どこで間違ったか17時開演を19時開演と思い込んで余裕あると東急本店の書籍コーナーをブラブラしていた。コクーン入り口を17時5分過ぎ覗き込んだら何かシーンとしているので確認したらもう開演してた(汗)。すみません、開演してから係員の方に案内してもらって入場する駄目な客です。。

端の方ではありましたが前から3列目で役者さんたちの生の姿が見えるところでしたので強烈でした。演出上かなり客席側に役者さんが登場することも多かったので七之助さんや梅枝さんが近いところで見られて眼福です。

いいところのボンボンで美男子で放蕩癖がある与三郎が木更津に流れてきて、主ある花のお富と出会って恋に落ちたのが運の尽きで、後はひたすら転落する人生。親分と手下に見つかって袋だたきに遭った。拾ってくれた蝙蝠安とともにゆすりたかりで食べていくしかない。その中でお富と再会し、お富を預かっている旦那は立ち直れるようぽんとお金を出してくれるがすぐにお富と金を使い果たし、次は殺人に巻き込まれる。掴まって島送り。島抜けに成功するものの……。

墜ちていくのに内面がどこかピュアな(お育ちがいいということなのか、ラストで明らかになる素性ゆえのピュアさなのか)与三郎が七之助さんに似合う。

お富さんはひたすら美しい。でも妾稼業で収入のある男に頼らないと生きていけない。与三郎を愛していることと世過ぎの手段は別。

笹野さんのじいやと蝙蝠安の二役も強烈。

歌舞伎じゃなくてコクーン歌舞伎だからか、何か喉にひっかかるような異物感がある。与三郎はリアルの江戸じゃなくて心の中の江戸に焦がれて死んだのかな。。


渡辺保
2018年5月コクーン歌舞伎孤独な与三郎
 エピローグの与三郎の姿が目に沁みる。

晴れ渡った青空、白い雲の湧く下で、たった一人七之助の与三郎が舞台に座っ

て、天に向かって「しがねえ恋の情が仇」という名セリフをつぶやく。

 周囲には誰もいない。お富も安も多左衛門も。むろん装置もない。ついさっ

きまで舞台いっぱいにひしめいていた捕り手の無数の提灯も当時は世界第一の

百万都市であった江戸の群衆もここにはいない。与三郎はたった一人である。

たった一人にならざるを得ない運命を生きて来たからである。人間は本来孤独

だというような話ではない。与三郎だけが一人ぽっち。痛切な孤独感である。

それが身に沁みる。

 こういう与三郎をはじめて見た。原作は「与話情浮名横櫛」であるが、こう

いう与三郎の肖像は、原作にも歌舞伎の舞台にもない。串田和美(演出・美術)

木ノ下祐一(補綴)のつくった「異本」である

 もう一つ私が感心したのは、与三郎の「傷」である。今度の本では二幕目嬲

り斬りにあった与三郎が蝙蝠安に助けられてコンビになる。その時、安はこの

与三郎の傷を強調して人を脅かすことを思いつく。どんなに強がっている人間

も与三郎の傷を一目見るとギョッとしてたちまち安の要求をのむ。余りに無惨

な傷跡だからある。原作では与三郎自身が源氏店で「傷がもつけの幸いに」脅

迫強請をしたといっているのと、次の和泉屋の店先で手代たちがおびえる件り

が書かれているだけだが、今度の台本ではこの傷を看板にした脅迫が無言のう

ちにうまく描かれていてその後にいつもの「源氏店」になる。つまりこの傷の

恐ろしさが強調されている。原作を読めばわかるが、この傷こそが与三郎を孤

独にした原因なのである。

 しかし最近は美男の二枚目役者十五代目羽左衛門の与三郎以来、与三郎の傷

は細く小さく美しくさえなっているが、初演の与三郎の八代目団十郎の弟九代

目団十郎の写真を見ると、この傷は不気味でグロテスクで恐ろしいものなので

ある。

 その傷がドラマの根本にあるのが明確になったのは台本の功績である

 以上二点、私が感心したところである。後は順を追って書いて行こう。

 今度の舞台は三幕仕立て(原作は九幕十八場である)。今度の序幕発端は、

扇雀、亀蔵、  笹野高史らが、原作の序幕のいきさつを口上風にまとめて話

すシーン。つづいて木更津見染め、逢引、嬲り斬りの三場。ここは七之助の与

三郎、真那胡敬三の赤間源左衛門、亀蔵の海松杭の松、いずれもさしたること

もない。梅枝のお富は意外に艶っぽさがうすい。有名な「いい景色だねえ」を、

与三郎と二人っきりでいうのが散文的である。あれは与三郎を見て思わず「い

い男だねえ」というところを周囲の人に気づいて「景色」といいまぎらすとこ

ろに色気が出るので、二人っきりでは気が抜ける。しかしこの序幕はテンポよ

く手早く済んで観客大助かりである。

 十分の幕間で、前述の与三郎が蝙蝠安に救われるところがあって源氏店にな

る。

 七之助の与三郎は序幕はともかくも二幕目になるとどう考えても、女形のこ

の人にはムリな配役であるが、それをとにもかくにも与三郎らしく見せたのは

串田和美の功績である。たとえばあの傷の一件を描いてこれはいつもの与三郎

とは違う、一人の青年の運命としてみせる布石もそうだし、源氏店になると「し

がねえ恋」を歌舞伎調でいわせておいて、「命の綱の切れたのを」で音楽を入

れて途端にせりふはリアルにするという工夫もその一つである。この演出で七

之助は大いに助かっている。それとは別に七之助のいいのは、カドカドの見得

で一度きまってもう一度顔を振り込む、その角度のよさである。いずれも絵に

なっていて、この最後の瞬間にいつもの与三郎らしい味わいを見せたのは偉い。

大手柄である。

 梅枝のお富、扇雀の多左衛門、亀蔵の藤八、笹野高史の安、いずれも大過な

く、異本は異本なりに、源氏店らしくなった。

 次が和泉屋の強請で(この場を「和泉屋兄妹の場」というのは、多左衛門と

お富が兄妹だとわかるからだろうが、この場割の名称は違和感がある)、源氏

店からここにかけては原作を膨らませて一日中一番の見どころである。

 しかしそこからがいささか脱線する。会津屋という男が突然出て来て、お富

に惚れ、与三郎はお富を会津屋の妾にする。ところがそれを弟分のつん助がば

らしてしまうので、与三郎はこれを殺す。「与三郎初殺しの場」というのもお

かしいし、そのあと与三郎の実の母小笹(この女の正体も千葉家のお家騒動を

全面カットした以上、観客にはわからない)が病死するのを蝙蝠安に殺しと見

られ、その安を追っているうちに安は橋から落ちて死んでしまう。そこで捕り

手にかこまれて与三郎逮捕。ここまでが二幕目で、その後に十五分の幕間になる。

 源氏店から和泉屋まではいいが、この脱線は無理がある。第一この一件は逢

引の二番煎じめいているし、芝居としても面白くない。思うに与三郎島流しの

原因に殺人四件(会津屋、小笹、つん助、安)をもって来ようとしたのだろう

が、たとえ冤罪でも四人殺せば打ち首獄門で、島へ流されるはずがない。

 三幕目は原作の「島の為朝」をカットして島抜け、元山町伊豆屋、観音久次

の内、そしてエピローグにつながる。

 島抜けはスペクタクルで、与三郎が大浪のなかを脱出するところ、舞台端に

並んだ岩だか捕手だかの人間たち十数人の人間を与三郎が跳び箱のように飛び

越すと拍手がおこる。人間スペクタクルというべきか。

 元山町伊豆屋は、私にはかつて見た十一代目団十郎の与三郎、三代目左団次

の忠助の別れの、哀切きわまりない舞台がよみがえるが、笹野高史の忠助、七

之助の与三郎ともにあっさりしている。伊豆屋喜兵衛は勘之丞。

 最後の「観音久次」の内は、私ははじめて見たが、原作のくどいところを整

理して、扇雀の久次が舞台を締めている。

 こうしてみるとお富は、与三郎に劣らず有為転変の人生を送っていることが

よくわかるが、梅枝のお富はそのかわり目があまり鮮明ではなかった。もっと

もこれは梅枝のせいというよりも台本、演出の問題かもしれない。

 以上、全篇三時間十五分という大長編である。

 

Copyright 2018 Tamotsu Watanabe All rights reserved.

『渡辺保の歌舞伎劇評』http://homepage1.nifty.com/tamotu/
米国旅行でホテルと機内の乾燥で喉をやられました。熱は今朝方収まりましたが、咳と痰が……明日以降仕事が入っているのでちときつい。

茨城
維新後の困窮如実 水戸藩士、幕末尊攘で脚光県立歴史館研究員 記述の手紙発見 耕雲斎の孫 援助にひれ伏す
幕末の尊王攘夷(じょうい)運動で脚光を浴びた水戸藩の武田金次郎ら上級藩士たちが、明治以降、経済的に困窮し不遇な晩年を送った実情を示す史料が見つかった。維新後、伯爵となった水戸藩出身の幕末志士、香川敬三が書き残した手紙類を、県立歴史館主任研究員の石井裕さん(41)が研究し、今春、「常陸大宮市史研究」で発表した。明治維新150年の今年、激動の時代に翻弄(ほんろう)された旧藩士たちの知られざる悲運が明らかになった。


水戸藩は幕末、尊王攘夷思想に連なる水戸学で吉田松陰ら多くの志士たちに多大な影響を与え、「維新の先駆け」となった。しかし、天狗党、諸生党による激しい藩内抗争で多数の人材を失い、明治維新に乗り遅れたといわれている。

石井さんは、皇學館大学(三重県)が管理する香川敬三の子孫の家に伝わる文書を研究。天狗党を率いた武田耕雲斎の孫、金次郎の晩年の困窮ぶりを、香川が知人に明かした手紙を発見した。

金次郎は天狗党の乱に参加後、王政復古によって朝廷から罪を許され、藩の実権を掌握。維新後、諸生党に対し激烈な報復を行い藩内は極度の混乱に陥った。廃藩置県後の晩年はあまり知られていなかった。

手紙は、1894(明治27)年12月23日付。金次郎が亡くなる約3カ月前の生活苦を生々しい描写で伝えている。手紙によると、香川が栃木県の塩原温泉に赴いた際、道端の粗末な小屋で暮らす、体が不自由な金次郎と出会った。物乞い同然の姿に驚き、香川が金銭を渡すと金次郎は喜んで受け取り、ひれ伏した。その様子に香川は何度も涙したとつづった。

香川は手紙で「自分は廃藩後、金次郎に数百円の援助を行った。旧藩主や旧重臣はどのような援助をしたのか。このまま『見せ物』のように放置した揚げ句、病死でもしたら水戸藩の恥である」とも記した。

金次郎はその後、水戸に連れ戻され、間もなく48歳で亡くなった。

別の手紙には、混迷する幕末の水戸藩を主導した鈴木重義、三木直ら尊王攘夷派の上級藩士に関する記述もあった。鈴木は晩年、経済的に困窮を極め香川や山口正定ら同藩出身の成功者に度々借金を申し出ていた。

三木は徳川光圀を養育した名門の末裔(まつえい)で、余生を神職として送ったが、最晩年は貧困にあえいだ。常磐神社宮司の座を目指したが、かなわなかった。

石井さんは「旧水戸藩士たちの晩年が経済的に苦しかったことがはっきりと分かる貴重な史料」と評価。幕末から明治にかけ、激動の時代を生きた旧藩士の栄枯盛衰に思いをはせ、「武田金次郎らは維新当初、いっときは勝ち組だった。全体を見たとき、果たして勝者と言えたのだろうか」と話した。 (勝村真悟)

千葉
戊辰戦争150年 市川・船橋の戦跡巡る 27日、参加者を募集 /千葉
 明治維新期の戊辰戦争から150年を迎えたのに合わせ、船橋、市川両市周辺が戦地となった「市川・船橋戦争」の戦跡やゆかりの地を巡る「戦跡巡礼まち歩き」が今月27日に開かれる。会津藩や岡山藩など各地から参戦した戦死者を弔うため、各地域の出身者の参加も募っている。

 「ふなばし街歩きネットワーク」など船橋、市川、鎌ケ谷3市のガイドボランティアたちが実行委を作り、企画した。

 市川・船橋戦争は1868年に起きた戊辰戦争の局地戦。江戸城の明け渡しに反発し、江戸から転戦した会津藩などの旧幕府軍が船橋大神宮(船橋市宮本)、中山法華経寺(市川市中山)などに本陣を構えた。福岡藩や岡山藩などの新政府軍と戦い、市川や船橋の村は戦火にさらされた。

 大神宮には焼けたケヤキの木とその脇から新たに育った若木が今も残り、ご神木となっている。藩士らの戦死者は諸説あるが30人を超えたという。

 まち歩きでは、午前10時から、船橋市の海神公民館で郷土史家の綿貫啓一氏が講演。午後1時に出発し、市川コースと鎌ケ谷コースに分かれて戦死者の墓地などを巡る。船橋コースのまち歩きは6月9日に開催する。

 企画した街歩きネットワークの石本拡子さんは「亡くなったのは若い藩士たち。船橋や市川でも戊辰戦争があったことを知ってほしい」と話している。

 参加費は弁当付きで1200円。申し込みはネットワーク(047・422・0596、メールcct@chiba-net.or.jp)。【小林多美子】

東京
新選組隊士800人参上…日野でまつり
 新選組副長・土方歳三が生まれ育った日野市で12、13日、「ひの新選組まつり」が行われた。13日の「隊士パレード」では、全国から新選組ファンら約800人が参加し、隊士に扮ふんしてゆかりの地を練り歩いた。

 土方の命日(5月11日)に合わせた恒例行事。メインの隊士パレードは、土方らが剣術の稽古に汗を流した日野宿本陣周辺で行われ、馬にまたがった土方と、局長・近藤勇役に続き、水色の隊服を着た参加者が続々と登場。沿道に詰めかけた人たちが、さかんにカメラのシャッターを切っていた。

 土方役を務めた大阪府松原市の会社員、三宅智美さん(31)は「ずっと土方に憧れていた。夢の中にいるようで、感慨深かった」と目を潤ませていた。

ひの新選組まつりきょう 大阪の三宅さん、念願の土方役に /東京
 新選組副長を務めた土方歳三の出身地、日野市で13日に行われる「第21回ひの新選組まつり」のパレードの新選組幹部役を選ぶ「隊士コンテスト」が12日、同市の高幡不動尊で行われ、大阪府松原市の会社員、三宅智美さん(31)が土方役に選ばれた。

 祭りは土方の命日の5月11日に合わせて開かれ、全国から約4万5000人が集まる。メインイベントは、新選組愛好家や市内の保育園児ら約800人が新選組の隊士に扮(ふん)して甲州街道を練り歩く「隊士パレード」。土方や局長の近藤勇ら幹部役はコンテストで選んでいる。2次審査では土方が亡くなる前日、函館の五稜郭で戦死した新選組の仲間に思い出を語りかけるセリフを再現して競った。

 三宅さんは8年ほど前からコンテストに参加。念願の土方役を初めて射止めた。「観客がほれぼれとするような土方を演じたい」と抱負を語った。【黒川将光】
〔都内版〕

われらが新選組 いざ参上! 日野で800人パレード 
白馬に乗り堂々と胸を張って進む土方歳三役の三宅さん=日野市で

写真
 日野市出身の新選組副長、土方歳三らの勇姿を再現する隊士パレードが十三日、同市のJR日野駅周辺で開かれた。市最大のイベント「ひの新選組まつり」のハイライトで、約八百人が隊士らになりきって旧甲州街道を進み、声援を浴びた。(栗原淳)

 五月十一日の土方の命日に合わせ、市民や団体でつくる実行委員会が毎年この時期に開いており、今年で二十一回目。

 局長の近藤勇や土方ら、パレードを率いる幹部は、前日の「隊士コンテスト」で選ばれた。コンテストには全国から応募があり、今年の主役・土方は、大阪府松原市の会社員三宅智美さん(31)が務めた。

 市内で剣道に励む子どもたちなどに先導され、羽織はかま姿の隊士が続々と登場。黒の上着を羽織った三宅さんは沿道からの「副長!」「歳三さんかっこいい!」との声に手を振ってほほ笑んだ。一行は時折立ち止まり、剣を抜いて「エイ、エイ、オー」と勝ちどきを上げて盛り上げた。

 三宅さんは、雨のためパレードが途中で中止になったのを残念がりながら「応援が温かかった」と目標の土方役を終えた感想を話した。

 今回初めて、市内の留学生ら十人による外国人隊士を試行的に編成。実行委員長の山口徹雄さん(54)は「近年は若者や海外の人にも新選組ファンが増えている。市民手作りの祭りを国内外に発信したい」と今後への意欲を示した。



ども、白牡丹です。5泊7日の米国出張から無事に戻ってきました。

福島
戊辰戦争鶴ケ城天守閣など150年記念切手 会津地方で
11日から98郵便局で販売 1000シート限定
 日本郵便東北支社(仙台市)は戊辰(ぼしん)戦争150年を記念したオリジナルフレーム切手を製作し、11日から会津地方の98郵便局で販売する。戊辰戦争に関心を持ってもらい、地元を盛りあげようと企画した。

 図柄は福島県会津若松市の戊辰150年のロゴマークと市が所蔵する史料画像で構成。戊辰戦争の際に砲撃を受けた鶴ケ城天守閣の写真や、会津藩主で京都守護職時代の松平容保(かたもり)を描いた錦絵などをあしらっている。1シートは82円切手10枚で1300円(税込み)。1000シート限定で、うち40シートは15日から日本郵便のネットショップでも扱う。

 発売に先駆けて10日、日本郵便から同市の室井照平市長への贈呈式が市役所であった。室井市長は「どの切手も往時をしのぶ図柄で、いい記念になる」と感謝した。【湯浅聖一】

特別展村人が見た戊辰戦争 きょうから福島で /福島
 今年の戊辰(ぼしん)戦争150年を記念した特別展「村人たちの戊辰戦争」が21日、福島市春日町の県歴史資料館で始まる。戦闘の発生を警戒して築かれた陣地や防塁の絵図など、当時の村人が戊辰戦争をどう捉えていたかを伝える史料42点が並ぶ。

 奥羽越列藩同盟が会津藩を支援したため、県内でも新政府軍との戦闘の機運が高まる中、山崎村や藤田村(ともに現在の国見町)に築かれた陣地や防塁を示す「山崎村絵図」からは、戦闘を恐れた村人の様子が伝わる。

 現在の伊達市梁川町に居住していた堀江家に伝わる文書は、戊辰戦争の発端となった鳥羽・伏見の戦いの様子を詳しく伝える。1868(慶応4)年に梁川町で販売されていた「中外新聞」も、旧幕府軍側の視点で戦闘の行方が記され、戦争が村人の大きな関心事だったことを示す。

 戊辰戦争を控えた66年に社会変革の「世直し」を求め、信夫郡と伊達郡の農民が起こした一揆の様子を伝える「信達騒動風説記」、この一揆の参加者が作成した連判状「慶応二年寅五月廻状」なども並ぶ。

 資料館の山田英明専門学芸員は「戦闘に加わらなかった村人に注目することで、戊辰戦争を立体的に見ることができる」と話す。

 8月19日まで。無料。6月中に一部史料を入れ替える。問い合わせは資料館(024・534・9193)。【岸慶太】

会津藩士の刀剣や銃器 会津若松・鶴ケ城で特集展第2期
 戊辰150年の節目に合わせて、刀剣や銃器など通し会津藩士らの戦いを振り返る鶴ケ城特集展示「武器と武具」は11日、会津若松市の鶴ケ城天守閣で始まった。

 幕末期の会津の刀匠が手掛けた名刀や、戊辰戦争で使用されたのと同型の武器などを公開している。7月17日まで。

 本年度行われている幕末と戊辰戦争に関する特集展示の第2期。会津武士にとって所有することがステータスシンボルになっていたという三善長道の名刀など約40点を展示している。

 戦闘によって胸の部分が大きくへこんだ甲冑(かっちゅう)やスペンサー銃なども並ぶ。

 若松城天守閣郷土博物館の湯田祥子学芸員は「実際の戦いの様子がどうだったか、展示を通して感じ取ってほしい」と来場を呼び掛けている。

 時間は午前8時30分~午後5時(入場は同4時30分)。天守閣入場料は大人410円。

 問い合わせは会津若松観光ビューロー(電話0242・27・4005)へ。

東京
ひのたまで観光PRタッグ 多摩市・ラスカル 日野市・新選組
 観光イベントでの集客などにつなげようと、日野、多摩両市は「ひのたま」と名付けた連携事業をスタートさせた。京王線沿線の隣接する自治体同士が、地元ゆかりのキャラクターを相互にPRするなどして、観光振興効果を狙う。(栗原淳)

 「ひのたま」のシンボルとして、人気アニメ「あらいぐまラスカル」に登場する「ラスカル」が新選組の隊旗を掲げるイラストを作成した。アニメは多摩市にスタジオを構える日本アニメーションが制作。新選組副長の土方歳三を生んだ日野市は「新選組のふるさと」をアピールしている。

 四月に観光連携協議会が発足し、両市のほか、映画やドラマのロケを誘致する両市の二団体などが加わった。第一弾として、多摩市の多摩センター駅周辺で今月三~五日に開かれた「こどもまつり」で、土方歳三の写真を拡大プリントしたパネルを展示。新選組にふんしたパフォーマーによる寸劇なども披露された。

 同市の聖蹟桜ケ丘駅前では秋に「ラスカル子ども映画祭」があり、市経済観光課は「『ひのたま』を通じて日野市民にもラスカルを身近に感じてもらい、映画祭にも足を運んでもらえれば」と期待する。

 両市はラスカルや新選組を、地元を特徴づけるコンテンツと位置付け、内外にアピールする。日野市シティセールス推進課は「根強いファンが多い有力なコンテンツを協力して発信し、観光振興や新住民の獲得につなげたい」と話している。

新潟
戊辰戦争死者に鎮魂の祈りを 150周年記念、7月14日に合同慰霊祭 上越市に福島・白河市伝書 /新潟
キャラバン隊「釜子道中記」逆コースで届ける
 福島県白河市から上越市に7日、戊辰戦争150周年を記念して白河市で7月14日に開かれる合同慰霊祭への参加を促す「伝書」が徒歩で届けられた。白河に高田藩の飛び領があった縁で、代表者が7日間かけて350キロ歩いてきたという。【浅見茂晴】

 白河市は、白河戊辰150周年記念事業実行委員会を設置。関係する全国17市にキャラバン隊を仕立てて、合同慰霊祭への参加を呼びかけている。

 この日、キャラバン隊の一行は高田城三重櫓に入り、白河市長が上越市長に宛てた伝書を上越市の影山直志・自治・市民環境部長に手渡した。同実行委の人見光太郎会長は「白河は両軍の戦死者をまつってきた。どうか鎮魂の気持ちをささげに来てほしい」と述べた。

 歩いて伝書を運んだのは有賀一裕さん(36)。江戸時代、高田藩士が高田から飛び領の白河市東釜子までを歩いた旅行記「釜子道中記」にならい、道中記と逆のコースを踏破してきたという。有賀さんは「山越えは苦しかったが、先人が伝えた文化をつなげていきたい」と話した。

 戊辰戦争時、白河では明治新政府軍と奥羽越列藩同盟軍が約100日間の激戦を繰り広げ、両軍合わせて約1000人の犠牲を出した。高田藩は新政府側に立ったが、混乱の中で連絡が届かず、飛び領にいた藩士は奥羽越列藩同盟側で戦い、27人が戦死した。白河市民は両軍の犠牲者を分け隔てなく弔い続けている。


京都
幕末・維新をゆく長谷川家住宅=京都市南区 会津軍の緊迫、日記や柱の傷に
 <ぐるっと兵庫・大阪・京都 ちょい旅>

 かつて京の都に入る南の玄関口だった東九条地区にある「長谷川家住宅」(京都市南区)は江戸時代の農家建築として国の登録有形文化財に指定されている。幕末には藩主の松平容保(かたもり)が京都守護職にあった会津軍の部隊が宿泊し、挙兵した長州軍と戦った。座敷の柱には戦闘に赴く兵士の武具がこすれたとされる傷が残る。座敷に置かれたたんすなどの家具類は江戸や明治の良品。住宅に残る古文書が幕末を中心に地区の知られざる歴史を解き明かしつつある。【高村洋一】

 代々庄屋だったこの家は新築時の棟札から1742年に建てられたとされ、築270年を超える。一帯はかつての農村地帯で、築200年を超える農家が更に残っている。

 土蔵のたんすから9代当主の長谷川軍記が1822(文政5)年から1871(明治4)年までに書いた日記が見つかったのは3年前。中村武生・京都女子大非常勤講師らが解読している。長州軍が会津や薩摩などの幕府側に敗れた「蛤(はまぐり)御門の変(禁門の変)」が起きた1864(元治1)年の夏には京都御所を守る会津藩の軍勢が1カ月余り宿泊した。長州軍が布陣した伏見付近から大砲の音も聞こえた。

 蛤御門の変のあった旧暦7月19日には当時の東九条村で新選組が長州軍の部隊と戦った。「鉄砲を撃ち合い、長州方は撃ち負けて、当村の野辺を西へ逃げ去った」と日記に書かれている。藩の屋敷があった伏見から京都御所に向かうのに長州勢が通ると想定し、住宅の南約500メートルの鴨川に架かる勧進橋(当時は銭取橋)で新選組が待ち構えていたという。

長谷川家住宅などに宿泊していた会津軍の隊列を描いた絵巻(複製)=京都市南区東九条東札辻町で、高村洋一撮影
 裕福だった長谷川家は歴代当主の多くが絵筆を握った。特に11代目の長谷川良雄(1884~1942)が描いた水彩画は鴨川周辺など、当時の京都の風景を伝える。収蔵作品のうち約15点が2階ギャラリーに展示されている。良雄の父清之進は会津軍の隊列を精密に描いた絵巻を残し、複製が展示されている。座敷のふすまには幕末から明治にかけての京都の文人、江馬天江(えまてんこう)の書や水墨画も見られる。

 住宅の保存にあたっている一般財団法人「長谷川歴史・文化・交流の家」代表理事の中川聡七郎さん(82)は良雄の娘婿。「戦後の農地改革で長谷川家は大半の土地を奪われ、生活の糧を失った。今はやっとの思いで歴史遺産を守っています」と話した。


長谷川家住宅(京都市南区東九条東札辻町)
長谷川家住宅
 毎週土・日曜の午前10時~午後4時開館(夏季と冬季に休館あり)。入館料一般600円、小学生300円。京都市営地下鉄烏丸線十条駅を東へ。竹田街道の1筋東を北へ約100メートル。12日午後2時、ソプラノコンサートを開く。入場料1000円。問い合わせは「長谷川歴史・文化・交流の家」(075・606・1956)または中川さん(090・9774・4858)。
山口
直木賞作家の古川薫氏死去…幕末維新の志士描く
 幕末維新の志士らを生き生きと描いた歴史小説で知られる作家の古川薫(ふるかわ・かおる)さんが5日、血管肉腫で死去した。92歳だった。

 告別式は7日午前11時、山口県下関市楠乃2の551の115下関典礼会館。喪主は長男、貴温(きみはる)氏。

 下関市生まれ。山口大教育学部を卒業し、中学教師を経て山口新聞に入社。記者や編集局長を務めた。その傍ら小説を執筆し、1965年、「走狗」が直木賞候補になった。70年に退社して専業作家となり、「塞翁さいおうの虹」「野山獄相聞抄」など幕末維新ものを中心に次々と同賞候補に挙がった。91年、山口県出身のオペラ歌手、藤原義江の生涯を描いた10回目の候補作「漂泊者のアリア」で直木賞を受賞。最多候補歴での受賞が話題になった。

コラム
一番好きな“土方歳三”キャラクターは? 3位「ゴールデンカムイ」、2位「銀魂」、1位は…
本日5月11日は新選組副長・土方歳三の命日です。1869年、戊辰戦争の五稜郭にて新政府軍の狙撃を受けて帰らぬ人となります。享年は34歳でした。

アニメでも土方歳三は人気キャラクターの一人です。さまざまなアニメに彼をモチーフとしたキャラクターが登場します。史実に忠実であったり、大胆なアレンジが加えられていたり…、そんな土方キャラの中で最も人気なのは何の作品なのでしょうか。

そこでアニメ!アニメ!では、「一番好きな“土方歳三”キャラクターは?」と題した読者アンケートを実施しました。5月6日(日)から5月8日(火)までのアンケート期間中に1756人から回答を得ました。
男女比は男性約15パーセント、女性約85パーセントと女性がメイン。年齢層は19歳以下が約38パーセント、20代が約32パーセントと若年層が多めでしたが、30代も約18パーセントと幅広い票が集まりました。

過去アンケート「いちばん好きな新撰組キャラは?」も要注目!
https://animeanime.jp/article/2018/02/27/36908.html

■トップは『薄桜鬼』 その生き様に絶賛の声!
1位は『薄桜鬼』。支持率は約33パーセントでした。『薄桜鬼』シリーズはオトメイトから発売された恋愛アドベンチャーゲームが原作。幕末時代を舞台に、主人公の雪村千鶴と新選組メンバーの交流を描いており、ゲーム、アニメ、ミュージカルなどマルチメディアで人気を博しています。

本作の土方歳三は「鬼の副長」の二つ名に相応しく、厳しい性格の持ち主。しかしそれも新選組を鍛えるためのことであり、実際は誰よりも隊員想いの人物です。ファンからは「生き様がカッコイイ!」といった声が多数寄せられました。中には『薄桜鬼』シリーズをキッカケに歴女になったという人もいるほど。「いちばん好きな新撰組キャラは?」のアンケートでも上位に輝いた人気キャラが、その強さを証明しました。

2位は『銀魂』。支持率は約32パーセントで、トップとの差はごくわずかでした。本作に登場するのは土方歳三ではなく、彼をモデルにした土方十四郎。クールでイケメンですが、あらゆる料理にマヨネーズをかけまくるという変わった味覚の持ち主。マヨラーというほかの土方キャラにはありえない設定のためか、「カッコ良くて面白い」といった投票が集まりました。

3位は『ゴールデンカムイ』。支持率は約6パーセントでした。本作は明治時代の北海道を舞台にした人気コミックが原作。主人公・杉元佐一がアイヌの少女・アシリパとともに隠された金塊を探すというストーリーです。この時代、史実ではすでに亡くなっていますが、『ゴールデンカムイ』では意外なかたちで姿を現わします……。TVアニメ放送中の話題作がトップ3に入りました。

今回のアンケートではアニメはもちろん、マンガ、ゲームと幅広い作品に票が集まっています。『薄桜鬼』シリーズのように舞台化、ミュージカル化された作品も多く、あらゆるメディアで土方歳三は人気であることが分かりました。命日を機に、それぞれの作品で描かれる土方たちを再確認したくなる結果でした。

■ランキングトップ10
[一番好きな“土方歳三”キャラクターは?]

1位 『薄桜鬼 ~新選組奇譚~』
2位 『銀魂』
3位 『ゴールデンカムイ』
4位 『新撰組異聞PEACE MAKER』
5位 『Fate/Grand Order』
5位 『幕末Rock』
7位 『DRIFTERS』
8位 『刀剣乱舞-ONLINE-』
9位 『風光る』
10位 『ちるらん 新撰組鎮魂歌』
※原作表記

(回答期間:2018年5月6日(日)~5月8日(火))
次ページ:ランキング20位まで公開
■ランキングトップ20
[一番好きな“土方歳三”キャラクターは?]
1位 『薄桜鬼 ~新選組奇譚~』
2位 『銀魂』
3位 『ゴールデンカムイ』
4位 『新撰組異聞PEACE MAKER』シリーズ
5位 『Fate/Grand Order』
5位 『幕末Rock』
7位 『DRIFTERS』
8位 『刀剣乱舞-ONLINE-』
9位 『風光る』
10位 『ちるらん 新撰組鎮魂歌』
11位 『陸奥圓明流外伝 修羅の刻』
12位 『北走新選組』
13位 『龍が如く 維新!』
14位 『イケメン幕末 運命の恋』
14位 『銀河烈風バクシンガー』
14位 『艶が~る』
17位 『茜さすセカイでキミと詠う』
17位 『とってもひじかた君』
19位 『あさぎ色の伝説』
19位 『幕末恋華 新選組』
※原作表記

(回答期間:2018年5月6日(日)~5月8日(火))
 1位『薄桜鬼』2位『銀魂』は近年不動だと思いますが、3位に『ゴルカム』のジジイ土方がキタのは作品に勢いがあるからでしょうね。4位『ピスメ』土方を抜いた感があります。5位『幕ロ』土方がついたのはファンとして嬉しい限り、誠仮面という意外性のあるキャラのパワーも加わっているかしら(「私は誠仮面ではない」って主張してる誰かさんの声が聞こえてくる気が)。
 『ちるらん』『北走』の間に『修羅の刻』が来てるのも興味深いです。『バクシンガー』とか『とってもひじかた君』とか『あさぎ色の伝説』とか旧い作品のファンが根強くいることも、嬉しいですねぇ。
ここのところ暑すぎたり寒すぎたりしたりして天候不順ですが、今日は初夏らしく爽やかな天気ですね。土方さんが生まれた日は新暦に直すと6月ですが、梅雨の晴れ間のこんな天気だったのでしょうか。
 昨夜NHK『英雄たちの選択』で土方歳三さん回の再放送していました。磯田道史さんが監修してますし、函館の二股口でのロケにも〜さんが出演するので昨年末に放送されてから保存しているのですが、改めて拝見。先日日野宿本陣で久しぶりに解説に聞いたことも思い出していたのですが、土方歳三の洋式戦法での優れたセンスを語る時に豪農出身だったことよりも姉のぶの嫁ぎ先である佐藤彦五郎の名主としての生活環境に触れていたことにもっと注目した方がいいと思いました。甲州街道の宿場町で、常時馬や人足(特に日野宿は多摩川の万願寺の渡しを管理している)を抱え、日銭を管理する名主だったことが、土方さんのマネジメントセンスの基礎となっていただろうと思うのです。

福島
<戊辰戦争150年>無念の最期に思い寄せて 犠牲となった女性たち慰霊 会津若松で碑前祭
 戊辰戦争で犠牲になった230人を超える会津藩の女性を追悼する「奈与竹之碑」の碑前祭が1日、会津若松市北青木の善竜寺であった。
 顕彰活動を続ける嫋竹(なよたけ)会が主催し、会員や地域住民ら約200人が参列。吉田幸代会長(81)は「戊辰戦争150年の今年は碑建立から90年を迎える。先人に思いを寄せ、多くの人に関心を持ってほしい」と祭文をささげた。近く、参道周辺に新たな案内板を設置することも報告した。
 読経、焼香の後、市謹教小の児童が歌い継ぐ「なよたけの歌」を奉納。葵高の女子生徒15人が舞踏や剣舞を披露し、郷土のために命を落とした女性たちの霊を慰めた。
 戊辰戦争では会津藩士の妻や娘が犠牲になった。足手まといにならないようにと自ら命を絶った女性も少なくなかったという。
 碑は1928年建立。関係者が犠牲者を調べ、判明した233人の名前が刻まれた。「なよたけ」は一族21人が自刃した会津藩家老西郷頼母の妻千恵子の辞世の句から取った。


愛知
尾張音楽史幕末~昭和を追体験 6週連続で講演付き演奏会 11日から一宮 /愛知
 芸どころと言われる尾張名古屋の音楽は、幕末から昭和にかけてどう変遷していったのか--。こんなユニークな視点の6週連続の講演付き演奏会「尾張音楽史」が、11日から一宮市木曽川町内割田の市木曽川文化会館(尾西信金ホール)で開かれる。【長倉正知】

 一宮市市民会館の自主企画で、愛知県立芸術大(長久手市)が協力した。同大芸術創造センター長の井上さつき教授(62)は「尾張というと音楽とは縁遠いイメージがあるが、全然違います」と話す。1回90分のうちテーマに沿った講演と、関連する生演奏が半々になるという。

 テーマは(1)11日「尾張の雅楽」(2)18日「唱歌のはじまり」(3)25日「和洋合奏の楽しみ」(4)6月1日「第三師団軍楽隊の活躍」(5)8日「戦前の名演奏家の時代」(6)15日「鈴木政吉と鈴木弦楽四重奏団」--。講師は(1)は寺内直子神戸大学教授、(4)は丹下聡子県立芸大非常勤講師で、それ以外は井上教授が務める。主に県立芸大の関係者が演奏する。

 「明治に西洋音楽が日本に入ってきて学校で唱歌を教えるようになったが、それを担ったのは雅楽の奏者でした。時系列に沿って西洋音楽がどう展開していくかを分かりやすく解説します」と井上教授。(1)の雅楽は真清田神社(一宮市)の真清伶人会が演奏する。(2)では尾張藩の楽人が作った唱歌や愛知県唱歌などを披露する。(3)では明治から大正にかけてバイオリンがブームになり、琴や尺八と合奏して楽しんだ状況を紹介。(4)と(5)で、名古屋の軍楽隊や、名古屋を訪れた世界的な名演奏家が音楽普及に果たした役割などを明らかにする。

 (6)は明治時代にバイオリン製造を手がけ「日本のバイオリン王」と呼ばれた名古屋の鈴木政吉と、その三男で音楽教育法「スズキメソード」の創始者、鎮一が弟たちと結成した鈴木クワルテットについて語る。海外で評価の高かった政吉のバイオリン(1929年製、県立芸大所蔵)も、いずれかの回で演奏に使う予定という。

 「音楽史というほど難しくないし、当時の人が楽しんだ音楽を追体験できる面白い企画」と井上教授は来場を呼び掛ける。企画を立案した同会館の大嶋英司館長(43)は「音楽を通して埋もれた文化を見直すことで、地域の発展につなげたい」と狙いを話す。

 「尾張音楽史」は毎回午後2時開演。料金は各回800円(全席自由)。一宮市民会館(0586・71・2021)や市木曽川文化会館(0586・86・7581)などでチケットを販売中。

大阪
展覧会浮世絵で描いた戦国 幕末から明治の59点 大阪城で /大阪
幕末から明治に変化した時代の人気絵師の作品を集めた展覧会「浮世絵師が描いた乱世」が、大阪市中央区の大阪城天守閣で開かれている。戦国武将らを描いた武者絵が庶民に喜ばれ、当時の社会観などを知ることができる貴重な資料という。5月6日まで。【山本夏美代】

 「幕末・明治維新150年」がテーマ。反骨精神を秘めた風刺画が得意で、豊臣びいきともいわれた歌川国芳や、その弟子で「最後の浮世絵師」といわれる月岡芳年らの59点が並ぶ。武者絵の実物と、見やすいように高さ約1メートルに拡大したものも展示。背景がうかがえる歴史エピソードも紹介している。

 武者絵は、江戸時代の歴史小説「軍記物」を題材に、多色刷りの木版画で出版された。色鮮やかで躍動感にあふれ、人間味ある表情が特徴となっている。

 風刺要素を含んだ作品も多く、歌川芳虎作の「水攻防戦之図」は「絵本太閤記」の挿絵とほぼ共通するが、外国船が江戸城を攻撃している図にも見立てられ、大評判だったという。

 また、織田信長の最期をダイナミックな構図で描いた作品や、幕府が武士名の表記を禁じたのに「おだ」を「おおた」、「のぶなが」を「はるなが」と記した作品など、絵師らの工夫も見られる。

 岡山県倉敷市の中瀬哲平さん(37)と千春さん(39)夫婦は「興味深い作品ばかりです」と見入っていた。

 入館は午前9時~午後5時半。入館料は大人600円、中学生以下無料。同館(06・6941・3044)。

幕末・維新をゆく妙国寺=堺市堺区 「堺事件」11人切腹の地
<ぐるっと兵庫・大阪・京都 ちょい旅>
 新政府軍と旧幕府軍がぶつかった戊辰戦争のさなか、堺で新政府の今後を左右しかねない事件が起きた。堺の警備を担った土佐藩士がフランス水兵を銃撃した責任を問われ、11人が切腹した「堺事件」。その現場は、室町時代に創建された名刹(めいさつ)、妙国寺だ。壮絶な死を遂げた土佐藩士の足跡を訪ねた。【谷田朋美】
 事件は1868年2月、鳥羽伏見の戦いの直後に起こった。堺を警備中の土佐藩士が、海岸の測量をしていたフランス海軍の水兵とトラブルになり、銃撃して11人の死者が出た。新政府は、「全員打ち首にせよ」とのフランス側の要求を受け入れて、発砲した藩士ら20人に切腹を命じた。

切腹した土佐藩士と、フランス水兵を慰霊する碑が境内に建つ。月命日には今も供養がある=堺市堺区で、谷田朋美撮影
 妙国寺の門をくぐると、色鮮やかな本堂に迎えられた。第二次世界大戦で焼失し、敷地が縮小。切腹した場所は現在、住宅地となり、境内には慰霊碑が建つ。地元の市民らでつくる「堺事件を語り継ぐ会」事務局長の呉竹正さんは「切腹は上級武士だけの特権。屈辱的な要求の中で、新政府は切腹だけは譲らなかった」と話す。

 土佐藩士はなぜ、銃を持たないフランス水兵に発砲したのか。当時、堺は例外的に外国人の遊歩が認められていた。一説には、急きょ派遣された土佐藩士はそのことを知らされていなかったとも。通訳がおらず意思疎通できなかったことは事件を招いた一因だろう。しかし詳しい経緯は分かっていない。高知県立歴史民俗資料館学芸課長の野本亮さんは「資料がほとんど残っていない。意図的に処分された可能性はある」と話す。

 「開国する皇(みかど)の方針を妨げた」とされた土佐藩士。野本さんは「新政府の指導者らは攘夷から開国に急に方針転換した。下の者が簡単に思想を変えないことは分かっていた」と指摘する。発砲から切腹までわずか8日間。新政府が決着を急いだことがうかがえる。


切腹した11人と橋詰愛平の墓=堺市堺区で、谷田朋美撮影
 ソテツの枯山水を右手に眺めながら、本堂の廊下を進むと、突き当たりに、戦火を免れた遺品約30点が並ぶ宝物資料館がある。まず目に入るのが、遺髪20人分の束だ。実際に切腹したのは11人。立ち合ったフランス側が途中で中止を申し入れたからだ。

 切腹の際、隊長の箕浦猪之吉が腰にあてて支えにしたという「三方」には、大量の血の痕が残っていた。切腹の際、飛び出した自分のはらわたをつかみ、居並ぶフランス水兵に向かって投げつけたという話は有名だ。

 妙国寺の向かいの宝珠学園幼稚園の敷地には11人の墓があり、特別に見学させてもらった。11基の墓のわきにもう1基、墓があった。「12番目に切腹する予定だった橋詰愛平の墓。自殺未遂した後、墓守に一生をささげた」と呉竹さん。橋詰ら生き残った9人は流罪となり、明治天皇の即位で恩赦に。精神を病むなど、多くは苦難の人生を歩んだという。


妙国寺(堺市堺区)  ※地図
 「潔く勇敢」「軍人の鏡」「平和に反する」……。彼らほど、時代に評価が左右されてきた維新の志士も珍しい。野本さんは「十分な検証がされてこなかった」として、妙国寺と連携し、遺品調査などを進めてきた。高知県立歴史民俗資料館では1~3月、堺事件を多角的に検証する企画展が開かれた。堺市でも呉竹さんらが「堺事件を語り継ぐ会」を結成した。明治維新150年を機に、堺事件に改めて向き合う機運が高まっている。
岡山
幕末の名刀近藤勇が愛した「乕徹」など9本披露 20日まで、県立博物館 /岡山
 今年が明治元年(1868年)からちょうど150年目であることにちなみ、新撰組・近藤勇の愛刀として知られる「乕徹(こてつ)」など、幕末から明治維新の時期に関わりの深い名刀が県立博物館(岡山市北区)で展示されている。20日まで。

 同館によると、幕末から明治維新の時期は、日本刀が実際に武器として使われており、江戸時代などに比べて実用性が重視された造りが特徴。今回は同館が保管・所蔵する9本がお目見えした。国の重要文化財の乕徹に加え、刀の名産地として知られた備前長船(現・瀬戸内市)の刀工たちの作品や名刀を擬人化したオンラインゲーム「刀剣乱舞」に登場する「加州清光」などを見ることができる。
 刀身だけでなく、鞘(さや)や柄、つばなどの凝った意匠に注目した展示や、レプリカで日本刀の重さを実感できるコーナーもある。

 大人250円ほか。月曜休館。12日午後2~3時に学芸員による展示解説もある。【林田奈々】

高知
幕末の軌跡、史料でたどる 高知県北川村の慎太郎館で企画展
 高知県安芸郡北川村柏木の中岡慎太郎館で、館所蔵の史料で幕末維新の転換点となった出来事を振り返る企画展「収蔵品でたどる幕末維新史」の第1部が開かれている。「志国高知 幕末維新博」の関連企画で6月25日まで。

 第1部は、幕末の動乱が始まったペリー来航(1853年)から、三条実美ら急進的攘夷派の公家7人が京都を追われ、慎太郎脱藩の契機ともなった「八月十八日の政変」(1863年)までを史料46点でたどる。...
 以下、有料記事。



コラム
幕末最強・庄内藩士の強さを支えた「驚きの教育システム」
学校がそこまで自由でいいんですか?
河合 敦 歴史研究家
多摩大学客員教授
江戸幕府は、各藩の教育には口をはさまなかった。だから藩によって士風が大きく異なったことは、前回、薩摩藩と会津藩を例に詳しく述べた通りだ。

(前回の記事『江戸時代のエリートを育成した「驚きの教育システム」』はこちら)

今回は、その第二弾として、庄内藩(山形県鶴岡市)を取り上げたいと思う。

江戸時代のリベラル教育
庄内藩は、現在の山形県鶴岡市を本拠地とする東北地方の藩で、小説家、藤沢周平の作品にしばしば登場する「海坂藩」のモデルとしてご存知の読者もいるかもしれない。

厳しい封建制度が基本の江戸時代において、史実の庄内藩は、領民をかなり手厚く保護し、領民もこれに感謝の念を抱いていた。こうした庄内藩のユニークな風土は、その藩士教育の影響がきわめて強いと思われる。

前回紹介した二藩がいずれも徹底的に厳しく子弟たちを教育したのに対し、庄内藩の教育はきわめて自主性を重んじる、リベラルな教育なのである。

庄内の藩校「致道館」は寛政十二年(1800)、九代藩主の酒井忠徳の強い希望で創建されたが、次代(十代藩主)の酒井忠器は、致道館の講堂で役人たちに政務をとらせ、ときには会議や裁判もおこなわせた。

その理由について忠器は、「藩政にかかわる施策や方法は、学問をすることで身につく。学問を身につける場は藩校。ならば藩校そのものを藩庁(藩の役所)とすべきだ」と述べる。このように、政教一致という変わったスローガンをとなえたのだ。

さらに文化十三年(1868)、忠器は鶴ヶ岡城三の丸に致道館を拡大移築し、藩庁の機能もここに設置した。

なんともユニークな思考だが、致道館の教育も、他藩と違った特徴を持っていた。教育の柱を幕府が正学と認めた朱子学ではなく、徂徠学としたことである。

当時、幕府の学問所(昌平坂学問所)では、朱子学以外の学問を異学として禁止していた。そのため諸藩もこれにならい、朱子学を中心に教育をおこなう藩校が激増する。そんな中、庄内藩はこの流れに逆らい、徂徠学を中核にすえたのである。

理由はいたって簡単で、藩の重臣に徂徠学を学んでいる者が多かったからだ。

徂徠学とは何か
徂徠学とは、荻生徂徠が十八世紀前半に提唱した学派で、古文辞学とも呼ばれる。その特徴は、中国の古典や聖賢の文に直接ふれ、聖人の道を明らかにしようとしたところで、徂徠は将軍徳川吉宗にその著書『政談』を献上するなど、経世論(政治学)にも重点を置いていた。

文化二年(1805)、庄内藩は「被仰出書」という形式で、致道館の教育目標を明らかにした。そこには「国家(庄内藩)の御用に相立候人物」、具体的にいうと「経術を明らかにし、その身を正し、古今に通じ、人情に達し、時務を知る(儒教の文献を解き明かし、品行方正で歴史に詳しく、人の情けを知り、的確に政務がとれる)」人材の育成を目指したのである。ただ、面白いのは、その目標を達成するためにとられた教育方法だった。

初代校長の白井矢太夫は教職員に対し、次のように述べている。

「諸生(学生)の業(学業)を強いて責ぬる(強制する)は由なき(良くない)なり。今度、学校(致道館)建てられたれば、才性(個人の才能)によりて教育の道違はずば、自然(おのずから)俊才の士生ずべし。とにかく学校に有游して、己れが業いつしか進めるを覚えざるが如くなるを、教育の道とするなり」

このように勉学の強要に反対し、「個人によって教育の方法は違うのだから、なんとなく藩校にやって来た学生たちが、自分でも気づかないうちに学業が進んでいる、そうした状況をつくるよう教師は心がけせよ」と命じたのである。さらに、

「学校の儀は、少年輩の遊び所ゆえ、たとえば、稽古所の少し立派なるものと心得、児童の無礼は心付け、その外何事も寛大に取り扱ひ、あくみの心の出来申さざる様致し、面白く存じ、業を教へ遊ばされ候様成され度御趣旨ゆえ、弓矢場なども十五間に致し、又は児輩の面白く存じ候書物にても見せられ候か如何様にも引き立て方これあるべき事ゆえ、一統評議のうえ申し上げ候」(『句読所への口達』)

と依頼したのである。

原文はかなり難しいが、要するに、「学校は子供たちの遊び場なのだから、子供が無礼を働いたりイタズラしても、たいがいのことは大目に見てやれ。教師は子供たちがあくびしないような面白がるような授業を心がけよ、また子供たちの面白がるような本を見せてやれ」と言っているのである。

教育にも(それがいいことかどうかは別にして)サービス精神が求められるようになった現代ならいざ知らず、到底、江戸時代における校長の発言とは思えない。

他の藩校は専任の教師や年長者が下の者を指導するスタイルが一般的だったのと違って、教育課程における自学自習の時間が多かったことも致道館の特徴だ。

「自分でテキストを選び、自らの力で学習する」

それが致道館の方針だった。いわば放任主義である。こうした教育手法も、荻生徂徠の影響であった。

こんなに自由だったとは
徂徠は著書『太平策』のなかで次のように語っている。

「人ヲ用ル道ハ、其長所ヲ取リテ短所ハカマワヌコトナリ。長所ニ短所ハツキテハナレヌモノ故、長所サヘシレバ、短所ハスルニ及バズ」(人を用いるコツは、その長所だけ取り上げ、短所は気にしないことだ。長所と短所は分離できないのだから、長所さえわかればよいのだ。短所など知る必要はない)

「善ク教ヘル人ハ、一定ノ法ニ拘ラズ其人ノ会得スベキスジヲ考ヘテ、一所ヲ開ケバアトハ自ラ力ノ通ルモノナリ」(良い先生というのは、臨機応変にその人が獲得できる能力を考えたうえで、一箇所に風穴を開けてやるもの。そうすれば、あとは本人が自分の力で能力を獲得していくだろう)

「彼ヨリ求ムル心ナキニ、此方ヨリ説カントスルハ、説クニアラズ売ルナリ。売ラントスル念アリテハ、皆己ガ為ヲ思フニテ、彼ヲ益スルコトハナラヌコトナリ」(生徒が自ら学ぼうという気持ちがないのに、先生が教えようというのは、教育ではなく販売である。そんなことをしても、生徒のためにはならない)

少々引用が長くなったが、荻生徂徠の説くところは、自分で自由に物事を決定できる人間を育成する、あたかも戦後に世界各地で流行したドイツ発祥のシュタイナー教育のようである。

こうした致道館の教育方針から、学則もかなり自由だった。

館内での碁や将棋、飲酒、喫煙、楽器演奏などは禁じられたが、それはあくまで原則で、「格別の訳これある節は、祭酒、司業沙汰に及ぶべきこと」という但し書きが付けられており、校長や教頭に一言いえば、酒を飲んでも、煙草を吸っても大丈夫だったというのだから、驚くばかりだ。

しかも、こうした放任主義教育が、武士の質を低下させたかと言えば、決してそうはならなかった。むしろ、このようなユニークな致道館の教育を受けた庄内藩士は、それぞれの個性を存分に伸ばし、己の判断で行動できる役人として、藩に忠勤するようになった。

だがそんな庄内藩は、明治維新で図らずも朝敵になってしまう。
庄内藩がここまで強かったワケ
慶応三年(1867)末、西郷隆盛は徳川家を武力で倒すため、江戸に浪人たちを送り込んで、市中で乱暴狼藉を働かせて新政府に挙兵するよう徳川を挑発した。このとき江戸の治安を守っていた庄内藩は、それに乗って薩摩藩邸を焼き打ちしたのである。こうしたこともあって、戊辰戦争で庄内藩は、会津藩と並んで朝敵とされてしまった。

仕方なく庄内藩は、会津藩や東北諸藩(奥羽越列藩同盟)とともに新政府軍を迎え撃つが、圧倒的な数と軍事力の差によって他藩は次々と降伏してしまった。

ところが庄内藩だけは、緒戦で敵対する周辺諸藩を完膚なきまで叩き、さらに新政府の大軍が襲来した後も、ほとんど藩内への侵攻を許さなかったのである。驚くべき強さであった。

しかし結局、すべての東北諸藩が降伏してしまったため、戦いでは負けていなかったとはいえ、そのまま戦争を続けるのはもはや絶望的だった。ここにおいて庄内藩も、ついに新政府に降伏を申し入れたのである。

ここまで庄内藩が強かった理由だが、一つには、やはり藩士たちが受けてきた教育の効果もあったのではなかろうか。単なる指示待ちではなく、各藩士たちが己の判断によって柔軟に戦えたことが強さの秘密だったと思うのである。

昨年から今年にかけて、新しい小中高の学習指導要領が発表された。学習指導要領は、各教科の目的、教えるべき内容などが記されている、いわば教育課程の大綱的基準である。

新しい学習指導要領が目指すものは「主体的・対話的で深い学び」の実現である。子供たちが自ら意欲をもって学習に取り組み、周囲の人々との対話や協力を重ねながら、自らの力で問題点を見いだして解決策を考えたり、自分の構想を効果的に説明したり、議論する力を身につけさせることである。

そうした人材を育てなければ、人口減少、グローバル化、人工知能の発展など、予測不可能な時代に対応できないと政府は判断しているのである。

けれど今述べたように、すでに同じような教育活動が、江戸時代の庄内藩で実施されていたのである。

歴史には叡智が詰まっている。私たちはもっと過去の日本を知り、そこから智慧を拾って、未来に向けた解決策を見いだすべきではないだろうか──。
福島
戊辰戦争「東軍」足跡たどる宿札 会津若松・歴史資料センター
 会津若松市の歴史資料センター「まなべこ」で、戊辰150年を記念した常設展「会津藩士の戊辰戦争」が、28日から始まる。長岡城の落城後、藩主の牧野忠訓(ただくに)が会津に逃れるためにたどった道のりを明らかにする「宿札」などを初公開。当時の様子を物語る資料を展示し、会津藩をはじめとした東軍の足跡をたどる。来年1月20日まで。

 27日に、内覧会が開かれた。宿札は大名などの宿舎に掲げられたもので、金山町の個人宅で所蔵していた宿札には、忠訓の宿舎であることを示す「牧野備前守様御宿」とあり、裏面には「慶応4(1868)年5月26日」と記されていた。忠訓が若松城下を目指す途中、金山町に宿泊していたことは文献などから分かっていたが、同市教委文化課の近藤真佐夫主査は「混乱のさなかで書かれた文字資料は誤っている場合もあり、裏付けとなる物証は貴重だ」と評価している。このほか、西軍が使用したアームストロング砲や山本八重も手にしたというスペンサー銃の模型も展示され、手に触れることもできる。

 入場無料。時間は午前9時~午後5時(入場は同4時30分まで)。毎週月曜日休館(月曜日が祝日の場合は翌平日)。

東京
東京都 品川にある、幕末に知られた土佐・長州の偉人のお墓を紹介
史跡巡りをしていると、思わぬところで有名人のお墓に出くわすことがあります。今回は都内品川にある、幕末に知られた土佐・長州藩士や大名の墓を紹介します。

板垣退助の墓
襲撃されたときに発した「板垣死すとも自由は死せず」で有名な、元土佐藩士で自由民権運動の父、板垣退助。

彼の墓は京浜急行電鉄の「新馬場駅」からすぐ、品川(ほんせん)神社の裏手にあります。江戸時代は広く江戸を見渡せたという高台にあり、富士山を模した「富士塚」があり大変賑わいました。一見しただけではわかりにくいのですが、社殿の右手に小さな案内板が立っており、なかば訝しんで裏手に回ると、本当に板垣退助の墓があります。

仏教式の墓石ですが、周りには寺はありません。何故ぽつねんと墓だけがあるのかというと、元々は高源院という寺の敷地だったのですが、関東大震災後に世田谷区へ移転してしまったのだそうです。大正8年(1919年)に寺に葬られた板垣の墓は、そのまま残されました。

すぐ目の前は崖になっていて、眼下には民家の屋根が見えます。今は木々の葉陰に空が見える程度ですが、昔は見晴らしがよかったのだと思います。手前には佐藤栄作の揮毫した「自由は死なず」の石碑もありました。

品川神社には、小さいながらも貴重なものばかり収蔵されている宝物殿があり、幕末三舟と言われた勝海舟・高橋泥舟・山岡鉄舟の揮毫した掛け軸などもありますので、幕末の息吹を感じること間違いなしです。


山内容堂の墓
旧東海道の「品川宿」を出てすぐの鮫洲駅近くの小高い丘に、「山内豊信(容堂)墓」はあります。

山内容堂は土佐藩15代藩主。幕末の四賢侯と称された人物でしたが、「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と西郷隆盛ら周囲の志士に揶揄されたように、心から倒幕に賛同していたわけではなかったようです。

明治維新後は内国事務総裁に就任しましたが、かつての下々の者と馴染めず明治2年に辞職。隠居後は妾を十数人も囲い、酒と作詩に明け暮れる日々を送りましたが、長年の痛飲が祟り46歳の若さで脳溢血に倒れ亡くなりました。明治5年(1872年)のことです。

墓所は遺言により「大井村の下総山に葬れ」ということで、かつての土佐藩下屋敷である現・大井公園に葬られました。周りには寺社もなく、本当にお墓しかありません。敷地は幼稚園と隣接しており、墓の向こうには金網越しに遊具が見え、草も生い茂り、かつての名君の墓とはとても思えない雰囲気です。

酒豪ぶりで鯨酔公とあだ名されたほど大酒飲みだった容堂。同じ旧東海道沿いにある「品川利田神社」では、鯨碑があり、なんとなく鯨という言葉に因縁めいたものも感じます。

画像出典:ウィキペディア

伊藤博文の墓
説明不要とは思いますが、元長州藩士で初代内閣総理大臣になった人物。歴史上、吉田松陰の松下村塾の門下生としても知られており、安政4年(1857年)に17歳の時に入塾し、後々尊皇攘夷運動に身を投じました。

文久2年(1862年)には、高杉晋作らとともに、品川の御殿山のイギリス公使館の焼き討ちに参加したほどの過激派でしたが、藩命でイギリスへ密航し現地の大学で学んだあとは、一転して開国派になります。

墓はJR西大井駅の北口から徒歩2分、西大井緑地公園のすぐ裏にあります。独立した神式の墓所で、鳥居があり、その奥には円墳の墓があります。右隣には梅子夫人の墓もあります。

別邸が現在の品川区大井三丁目付近にあったことから、国葬後、近い場所に墓所が造られたとのこと。ちなみに伊藤博文の別邸は、平成10年に解体されたのち一部が山口県萩市に移されています。

画像出典:筆者撮影、無料写真素材 写真AC

いかがでしたか?遠く長州・土佐から離れ、奇しくも品川に葬られることになったかつての名士たち。品川近辺に集中しているので、一日でお参りに行くことも出来ます。

志士とかつての名君がたどった数奇な人生の顛末に思いを馳せながら、お参りしてみてはいかがでしょうか。

GWは幕末の“物語グルメ”をご賞味あれ!
■ ドラマチックな出来事やエピソード込みで味わう

待ちに待ったゴールデンウィーク。今年の大型連休は、明治維新150周年の節目にちなんで、幕末維新のグルメ三昧はいかが? それもただのグルメじゃなくて、ドラマチックな出来事や人物のエピソード込みの“物語グルメ”を味わっちゃおう!

最初にご紹介するのは、壺屋総本店の最中。東京メトロ本郷3丁目駅の近くに店舗を構えるこちらは、江戸根元を掲げる和菓子の老舗で、寛永年間から江戸の人々に愛され続けてきた。この店とゆかりが深いのが、江戸城無血開城でおなじみの勝海舟だ。

慶応4年(1868)正月の鳥羽伏見の戦いに勝った後、薩長を軸とする倒幕勢は徳川慶喜と旧幕府軍を討伐するため、続々と江戸に迫ってきた。この時、勝海舟は無用の戦争を避けて江戸の町を救うべく、倒幕側の西郷隆盛と会談した。これが有名な無血開城の談判で、江戸は戦火から守られることになったが、もう一つ、勝が守ったものがある。それが壺屋なのだ。

明治維新を迎える直前のこの頃、江戸の大店はもちろん昔から徳川びいきで、「薩長の連中に江戸の粋がわかるか!」と廃業してしまうところが多かった。壺屋も暖簾を下ろそうと考えていたところ、この店をひいきにしていた勝海舟が「人々は壺屋の菓子を食べたいと言っているんだから、諦めずに続けるように」と店主を鼓舞。「神逸気旺」と書いた書を贈った。神力に頼らず、己れの気で乗り切れ、という意味だ。このおかげで壺屋は廃業することなく、今、名物の最中を味わえるのも、勝海舟のおかげなのだ。

お次は船橋屋のくず餅。JR亀戸駅から錦糸町方面へ徒歩10分、梅まつりと藤まつりで有名な亀戸天神に寄り添うようにしてこのお店がある。ゆかりの幕末の人物は、江戸城無血開城のもう一人の立役者・西郷隆盛だ。

西郷どんといえば上野の像や肖像画からもわかる通り、ちょっぴり、いや、でっぷり太めの体型でおなじみ。医者からもダイエットを薦められ、狩りや温泉を趣味としたのも体のことを考えていたから。その狩りの休憩に立ち寄ったといわれるのが船橋屋で、お気に入りはくず餅だった。

くず餅はたしかにカロリー低めだけど、当時も現行商品のように黒蜜をかけて食べていたのだとしたら、あまりダイエットにならないのでは……? まあ、心もでっかい西郷どんは、細かいことは気にせず、この甘さと食感に狩りの疲れを吹き飛ばしたのでしょう。

■ あの有名店にも有名な幕末“物語グルメ”あり!

GWには普段にも増して多くの人で賑わう東京観光のメッカ、銀座。GINZA SIXができたこともあり、国内外の人々が訪れるその銀座の中心にも、幕末維新の人物ゆかりのスイーツがある。

銀座四丁目の交差点からほど近い、木村屋銀座本店のあんぱんだ。スーパーやコンビニでも見かけるキムラヤのパンでおなじみの、あのキムラヤの木村屋である。看板商品『酒種あんぱん』が大好物だったのが、剣の達人にして書の達人、さらに禅に深く傾倒した人格者、そして江戸城無血開城の影の功労者・山岡鉄舟だ。奇しくもまたも無血開城がらみの人物になってしまった。

木村屋の創業者・木村安兵衛は元武士で、剣術を通じて鉄舟と知り合い、親交を深めたという。明治維新を境にパン作りに励み、西洋風ではない、日本人の口に合うパンを試行錯誤する中、試作品を鉄舟に食べさせてみた。これに鉄舟大感激! その後ほぼ毎日食べるようになるほどの大好物になった。

それが酒種を生地に練り込んだオリジナルのあんぱんで、山岡鉄舟の薦めで明治天皇への献上品となり、御用達となり、現在まで続く人気商品になったのだ。

幕末の“物語グルメ”といえば、和菓子のとらやも忘れちゃいけない。この記事を執筆している現在、赤坂の本店はリニューアル中だがご安心。とらやは商品を国内外に展開しているので、お取り寄せは容易だ。

このとらやにまつわるエピソードを遺しているのは、江戸幕府の14代将軍・徳川家茂。大の甘党で、ほぼすべての歯が虫歯だったというスイーツ・タイクーンが愛したのが、羊羹『夜の梅』である。家茂が数多くの菓子を注文していたことが、とらやの帳簿に記されていて、中でも『夜の梅』がお気に入り。幕府と朝廷が一致協力して国政にあたるべし、という公武一和の政策を進めたかった家茂は、奥さんの和宮の兄・孝明天皇にこの羊羹を贈っている。

『古今集』の一首「春の夜の 闇はあやなし梅の花 色こそ見えね 香やは隠るる」に詠まれた梅に見立てたこの羊羹。時の将軍と天皇は、同じ味を楽しんで公武一和を成し遂げようとしただろうか。

■ まだまだあるよ! あの人物ゆかりの“物語グルメ”

東京メトロ押上駅から徒歩15分、桜の名所、長命寺の裏手の隅田川沿いに、桜餅の元祖、長命寺桜もちがある。こちらの『桜もち』に、かわいらしくてどこか切ないラブストーリーを与えたのが、徳川幕府のキレ者で老中首座の阿部正弘だった。

幕末の頃、このお店の看板娘・おとよはたいそうな美貌で知られ、ひと目見たさに客が行列をなしたというほど。歌川国貞の『江戸名所百人美女』のモデルにもなったおとよに、現代の総理大臣ともいうべき阿部正弘がひと目惚れしてしまった。母のために桜もちを買いに立ち寄った時、ズキュンと胸を射抜かれたのだ。その後も足しげく通いながら、しかしなかなか声をかけることができない阿部さん。権力にモノを言わせるタイプじゃないのだ。

そんな折、徳川御三卿の一人・田安慶頼もおとよを狙っているとの噂が耳に入り、ついに心を決めた阿部さんは、おとよの父に直談判。側室に迎え入れることができた。しかしその翌年、阿部正弘は病気で急死してしまう。幕府トップと看板娘の、ほんのわずかな時間のロマンスが、この桜もちの隠れた味わいなのだろう。

■ 幕末至高の食通&スター志士の“物語グルメ”

次にご紹介するのは、JR王子駅の近くにある扇屋の『厚焼き玉子』だ。幕末の頃は江戸近郊有数の避暑地として知られた王子権現で、茶店として営業していた扇屋(現在は店頭販売のみ)を、清河八郎がベタ褒めしている。

清河は新選組結成のきっかけを作った人物で、将軍・徳川家茂が上洛する際、その警護を目的に幕府に浪士組を作らせ、ここから新選組ができた。だが、清河本人は勤王家で攘夷主義者であり、京都に到着するや否や浪士組を丸ごと反幕府の組織にしようとする。この経緯から、新選組ファンには悪役のように映る人物である。

しかしそんな清河が、お母さんを連れて「日本“ほぼ”一周旅行」をしたことはあまり知られていない。ちょっと長くなるが、おもしろいのでご紹介しよう。嘉永7年(1854)11月、江戸で念願の私塾を開いたものの、すぐに火事で焼失してしまった悲しみを癒すため、そして母親孝行のため、清河は故郷の出羽庄内清川村から、日本“ほぼ”一周の旅に出た。越後を通って信濃の善光寺から名古屋、松坂に出てお伊勢詣りをし、大坂、京を見物して兵庫から備前岡山、四国に渡り、讃岐の金毘羅さんを参って、多度津から瀬戸内海を遊覧、安芸の宮島、岩国の錦帯橋を観光して帰路についた。この旅の途中、播磨では有馬温泉につかり京では天橋立を眺め、名古屋では七代目市川海老蔵の芝居を観覧し、江戸でも芝居三昧、グルメ三昧し、清川村に帰った。全旅程、お母さんを連れて。帰りの道中も日光や中禅寺湖を楽しみつつ……。

幕末の志士は現代人には想像もつかないほど、旅また旅の人生を送った者が多かったが、清河八郎はその中でもおそらく随一のトラベラーだ。この旅の前の嘉永3年には、九州限定旅をして諸国を遊歴済みで、同5年には蝦夷地にも行っているから、まあ日本全土コンプリートしたと言っていいだろう。ともあれこの母同伴の旅の様子を、自著『西遊草』に克明につづっている。文章がとても平易なのは、母が老後の楽しみに読めるようにとの気遣いだ。どこか怖さと暗さのある「策士」のイメージが強い清河だが、親想いのこんなハートフルな一面もあったのだ。

トラベラー清河は全国のうまいものを食べ歩いた、幕末屈指の食通でもあった。『西遊草』には各地のグルメ話も満載で、王子権現のくだりに「殊に海老やと扇やは別して美々敷」と絶賛されている。江戸の町は騒々しくて何事も手狭だが、扇屋では「滝の川」の水音を枕に酒と食を楽しみ、お湯も浴び、「悠然と八ツ頃まで休游いたし」た。くつろぎすぎて日が暮れてしまい、残りの遊覧予定が忙しくなってしまった、と。

扇屋は幕末の頃から西洋人や外国公使も利用し、維新後には洋館に建て替えられてさらに賑わったが、建物は惜しくも太平洋戦争で焼失してしまった。しかしその味は、今も玉子焼きに受け継がれている。

最後は幕末最大のスター志士・坂本龍馬の“物語グルメ”だ。京急線浦賀駅からバスで「紺屋町」まで行き、そこから徒歩数分、精栄軒本店にたどり着く。ここの看板商品が坂本龍馬のカステラだ!

龍馬が結成した海援隊の雑記帳『雄魂姓名録』に、彼らのカステラレシピが載っている。曰く「玉子百目、うとん七十目、さとふ百目。此ヲ合テヤク也」。精栄軒本店の『おりょうと竜馬の愛したかすていら』は、このレシピに則って作られている。また、ふた駅隣の京急大津駅からほど近い信楽寺に、龍馬の妻・おりょうさんが眠っていることにちなんで、この商品名がつけられた。黒糖を使った独特の風味が人気の商品で、観光客や信楽寺のおりょうさんの墓参りに来たファンの定番だ。

当通信社でも、以前の記事【幕末ミステリーリサーチ File3 東京都内の坂本龍馬を探せ! #04】で、晴野未子隊員が姓名録のレシピ通りにカステラを作っていた。↓その記事はこちら

https://news.walkerplus.com/article/139035/

以上、幕末の人物ゆかりのエピソードと出来事にまつわる、幕末“物語グルメ”をご紹介しました! ゴールデンウィークに各地を訪れて、その味と物語を楽しんでみてはいかがでしょうか!

■ 今週の『西郷どんナナメ斬りッ!』

NHK大河『西郷どん』をより楽しむために! 幕末維新が大好きな俳優や声優、歴ドルたちが、毎週オンエアの翌日に、がっちり考察や幕末ウンチク、妄想トークを繰り広げる動画です。今回は大河の第15回から、島津斉彬が3000人の兵を率いて京に向かおうとするキモのくだりについて、史実を基にガッチリ“反証”! 斉彬本人の言動を史・資料を駆使して探り、彼の真意に迫ります。大河ドラマの描き方とはまた違う、斉彬のスゴさを知ってください♪(東京ウォーカー・ボクらの維新通信社2018/ロバート・ウォーターマン(KUROFUNE-United))

茨城
野外劇幕末の那珂湊、飛田与七描く ひたちなかで8月11、12日 /茨城
 ひたちなか市民らで作る「那珂湊野外劇実行委員会」(磯崎満代表)は23日、幕末の那珂湊で、鉄製の洋式大砲を造るのに必要な反射炉の建設に当たった宮大工、飛田与七を描いた演劇「鎮魂と再生そして世界へ」を8月11、12日、同市湊中央1の湊公園で上演すると発表した。

 那珂湊の反射炉は、水戸藩九代目藩主、徳川斉昭の命で1854~57年に建設されたが、64年に藩内で起きた「天狗党の乱」で破壊された。

 磯崎代表は数年前、旧湊商業学校(同市)の英語教師・関一が戦前に書いた「水戸反射炉の最後」を、遺族が持つ資料から偶然発見。劇作家の錦織伊代さんがこれを基に脚本を作った。

 磯崎代表は「市民参加型の野外劇を通して街を盛り上げたい」と意気込む。

 両日とも午後7時から。入場無料。公募で集まった小学5年~74歳の市民らも出演する。実行委は、出演者を若干名追加募集するほか、上演当日の会場の案内・警備を行うボランティア、企業や個人からの協賛金も募っている。問い合わせは同実行委のメール(nakaminatoyagaigeki@gmail.com)へ。【吉田卓矢】

大阪
展覧会浮世絵で描いた戦国 幕末から明治の59点 大阪城で /大阪
 幕末から明治に変化した時代の人気絵師の作品を集めた展覧会「浮世絵師が描いた乱世」が、大阪市中央区の大阪城天守閣で開かれている。戦国武将らを描いた武者絵が庶民に喜ばれ、当時の社会観などを知ることができる貴重な資料という。5月6日まで。【山本夏美代】

 「幕末・明治維新150年」がテーマ。反骨精神を秘めた風刺画が得意で、豊臣びいきともいわれた歌川国芳や、その弟子で「最後の浮世絵師」といわれる月岡芳年らの59点が並ぶ。武者絵の実物と、見やすいように高さ約1メートルに拡大したものも展示。背景がうかがえる歴史エピソードも紹介している。

 武者絵は、江戸時代の歴史小説「軍記物」を題材に、多色刷りの木版画で出版された。色鮮やかで躍動感にあふれ、人間味ある表情が特徴となっている。

 風刺要素を含んだ作品も多く、歌川芳虎作の「水攻防戦之図」は「絵本太閤記」の挿絵とほぼ共通するが、外国船が江戸城を攻撃している図にも見立てられ、大評判だったという。

 また、織田信長の最期をダイナミックな構図で描いた作品や、幕府が武士名の表記を禁じたのに「おだ」を「おおた」、「のぶなが」を「はるなが」と記した作品など、絵師らの工夫も見られる。

 岡山県倉敷市の中瀬哲平さん(37)と千春さん(39)夫婦は「興味深い作品ばかりです」と見入っていた。

 入館は午前9時~午後5時半。入館料は大人600円、中学生以下無料。同館(06・6941・3044)。

高知
「幕末維新写真展」始まる 織田信福原版も 高知市の自由民権館
 幕末、明治の息づかいを当時の写真から伝える「幕末維新写真展」が4月28日、高知市桟橋通4丁目の市立自由民権記念館で始まった。6月24日まで。

 「志国高知 幕末維新博」の特別巡回展。浜松市の湿板写真家、林道雄さん(36)所蔵の約170点を中心に、幕末から明治初期にかけて撮影された貴重なガラス湿板写真などが展示されている。

 今回は宿毛市出身の自由民権家、織田信福(のぶよし)(1860~1926年)が写ったガラス原版(縦9センチ、横7センチ)も展示されている。...
 以下は有料にて。

佐賀
佐賀)佐賀市内を散歩感覚で 肥前さが幕末維新博覧会
 「肥前さが幕末維新博覧会」が開催中の佐賀。佐賀市内中心部、県庁や佐賀城跡近くにある「幕末維新記念館」(市村記念体育館)は、16施設ある博覧会場のメインパビリオンとなっている。

 幕末維新期、戦いに消極的だった佐賀藩は、「薩長土肥」の薩長両藩に比べ地味とされてきた。しかし、実際は西洋の反射炉の築造、実用蒸気船の建造とも国内初だ。

 記念館では、その藩主鍋島直正の思い、そして当時に居合わせたようなタイムスリップ体験を、迫力あるアニメと音響で感じることができる。

 館を出て1キロほど歩くと、古民家などが集まる柳町に着く。大隈重信ら英傑が学んだ藩校・弘道館の一端に、ミニスクリーンなどを通じて触れられる「リアル弘道館」がある。古民家を改装した近くのカフェや、和紅茶専門店でひと休みも。

 記念館を中心に半径600メートル内の街中は散歩にぴったり。鍋島家伝来品を集めた「徴古館」(松原2丁目)には、直正が見たとされる蒸気車のひながたがある。「佐賀城本丸歴史館」は幕末期の佐賀城の本丸御殿を再現。木造建築物としては国内最大級だ。有田焼を通じたオランダとの交流を伝える「オランダハウス」(旧佐賀銀行呉服町支店)もある。

 維新博事務局の企画・広報担当マネジャー、久保緑さん(49)は「肩苦しく考えず、街歩きをしにきてもらえれば」と話している。(秦忠弘)
歴史友の野間みつねさんと、毎年恒例の日野散策。土方歳三資料館の兼定公開に合わせてゴールデンウィーク前後に設定しております。

 今年は喪中&右手首骨折で元旦に日野に行かなかったので、ひょっとしたら去年のゴールデンウィーク以来でしょうか。私の外出には雨雲がついて回ることが多いのですが、スーパー晴れ女のみつねさんの御利益あり、今年もよい天気です。

石田寺 まずは日野の土方さんの魂にご挨拶
とうかん森 土方家ゆかりのお稲荷さんに手を合わせるのもデフォ
土方歳三資料館 第一陣で特別公開の和泉守兼定など公開品を拝見。

 ここで、山口県岩国市から来られた方と偶然一緒になり、日野周辺は初めてということで、みつねさんと一緒に道案内を買って出ました。
 まずは徒歩で石田寺&とうかん森をご案内し、モノレールで高幡不動へ。門前町の開運そばで早めの昼食を取った後は、高幡不動境内の土方歳三銅像を見上げ、大日堂内のご位牌に手を合わせ。
 土産物の池田屋さんに立ち寄った後は、バスで生活保護センター下車、佐藤彦五郎新選組資料館へ。特別公開の越前康継はじめ公開品を拝見。
 再びバス停へ。ここで土方歳三資料館にてお見かけした川崎市からの高校生がふるさと歴史館に行きたいと声をかけられ、市役所前で下りて徒歩をお知らせ。私達は日野駅までバスで行って、宝泉寺の井上源三郎さんの墓前で手を合わせる。
 街道をてくてく歩いて日野本陣へ。久しぶりにボランティアガイドさんの説明を伺ったが、土方歳三と佐藤彦五郎の絆を中心に松本良順との関係(彦五郎の子孫と松本良順の子孫の間に縁組があった)など人間関係はもちろん、建物についても詳しく伺えて満足。帰りに、八坂神社に立ち寄り、日野駅でJRに乗るところまで岩国の方とご一緒した。

 とても効率よく史跡と公開品を廻れたと思う。お昼は日野館で蕎麦にしたかったのだけど電気系統の故障で営業の目処が立たないとのことで断念したが、開運そばもまずまずだったし。
 みつねさん、ありがとうございました。
「絵本合法衢」
片岡仁左衛門一世一代、千穐楽。
悪の華がふたつ。
鳴り止まない拍手が続く。
そして、歌舞伎には珍しいカーテンコール。
思わず「松嶋屋!日本一!」と叫んでしまった。
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