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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
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よくできた舞台なんだろうと思うのですが、身内にいろいろあった直後の私には辛い。。。また状況変わったらビデオか何かで見ます。
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なかなかチケットが取れない人気企画になってきた。夜の新作も見たかったのだけど、何とか2コマだけチケット取れた。

【春爛漫 白酒一之輔二人会】
トーク/白酒一之輔
 落語協会の理事になりました、というエイプリルフールねた。まじ騙された(^_^;)。

四段目/白酒
 定吉の芝居がかった場面が忠臣蔵の四段目、塩冶判官切腹の場。なのでコミカルな旦那や番頭と定吉のやりとりとのコントラストが引き立つように、芝居の場面を大きくやって、良かった。

粗忽の釘/一之輔
 箪笥をかついだ熊さんは、八王子の方まで行ってしまいました。たらいで水浴びした新婚夫婦の「土星踊り」が超受けた。

愛宕山/一之輔
 一之輔さんの「愛宕山」は初めて。期待にたがわず。

文違い/白酒
 白酒さん、以外に(失礼)廓の女性がうまい。

【江戸暦】
やかん/あおもり

短命/菊之丞
 久しぶりの菊之丞。

三方一両損/一朝
 さすがの江戸弁。これぞ江戸っ子。

夢の酒/扇辰
 色っぽい夢の女も、悋気で泣くお花も、いい感じ。

子別れ/文蔵
 けなげなおかみさんと亀に泣けた。
歌舞伎座「三月大歌舞伎」 素晴らしい仁左衛門の知盛
 昼。「義経千本桜 渡海屋(とかいや)・大物浦(だいもつのうら)」の片岡仁左衛門が素晴らしい。渡海屋銀平の花道の出。美しく涼しく、早春の白梅のよう。寒気を貫く気品が辺りに薫る。一転、銀平実は平知盛の修羅の形相のすさまじさ。義経(中村梅玉(ばいぎょく))に守護された幼き安徳帝から「仇(あだ)に思うな」と諭(さと)され平伏する姿に平家滅亡の道理を悟る。「昨日の敵は今日の味方」と感謝するせりふの潔さに特色がある。続く碇(いかり)知盛の最期も、残酷、悲惨なのが「人」ではなく「時」なのだと教える。明解な知盛像である。仁左衛門型と呼べるのではないか。銀平女房お柳実は典侍(すけ)の局に中村時蔵。

 前に真山青果の新歌舞伎「明君行状記」。武家社会の法理を追究し合う藩主(梅玉)と藩士(坂東亀三郎)のせりふ劇。後に坂東三津五郎家所縁の常磐津舞踊「どんつく」を、十代目三津五郎三回忌追善として十代目の長男、巳之助が、尾上(おのえ)菊五郎以下好配役を得てにぎやかに軽やかに踊りしのぶ。
 夜。松本幸四郎の南方十次兵衛(なんぽうじゅうじべえ)で「双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき)」の「引窓」。坂田藤十郎の女五右衛門、仁左衛門の真柴久吉で「けいせい浜(はまの)真砂(まさご)」。最後に「助六由縁江戸桜(ゆかりのえどざくら)」。本狂言に欠かせない河東(かとう)節開曲三百年を祝い、市川海老蔵の助六がいきいき楽しく見せる。理屈抜き江戸歌舞伎一大絵巻物だ。揚巻の中村雀右衛門(じゃくえもん)、くわんぺら門兵衛の中村歌六(かろく)、髭(ひげ)の意休の市川左團次、白酒売新兵衛の菊五郎ら豪華俳優陣が愛嬌(あいきょう)の華を競う。27日まで、東京・銀座の歌舞伎座。(劇評家 石井啓夫)

渡辺保の歌舞伎劇評
 こちらでもニザ様の知盛はベタ褒め。

 夜の「助六」はひたすら長く、最後の方は腰痛で記憶が薄れてしまった。

 昼の「渡会屋」「大物浦」はしゅっとしてカッコイイ銀平、真っ白な知盛、返り血を帯びた勇壮な知盛、平家滅亡は父清盛の専横の応報だと悟る知盛など、魅力満載。シネマ歌舞伎でまた見たい。
かめありリリオホールは6年ぶり。あの時は大工調べだった。
談春独演会 @かめありリリオホール

 開演時は9割ぐらいの入り。年齢層はちょい高め。
 
 談春さんにとっては、ゲストに家元が来ていて自分の噺を袖で聴いていたのが気になって、高座を下りる時に足首をくじいたのがとても思い出のホールだそうだ。

ちはる/小噺
 入門して一年だそうだ。頑張って欲しい

 マクラで喬太郎師の映画を話題にしたり、亡き勘三郎さんに銀座に飲みに連れていってもらった時の思い出。なぜこういうマクラになったかというと、自分たちは遊郭が廃止されてから生まれてきたから遊郭というものを知らない、でも今でも落語界の大御所は大きなイベントの打上げに吉原に繰り出すということがあった、という流れだった。その中で「ルンペンがションベンしてそうな」路地にあるバーの描写。「中に喪黒福造がいそうな」というところが、うん、談春版の佐平次って「キシシ……」って笑うの、やっぱそのイメージなんだなと思った。

 同業者についての噂は、喬太郎さんの映画以外に、例のごとく志らくさんの悪口。『赤めだか』はゴーストライターが書いたと思っている人が結構いて、新聞記者のインタビューでも失礼な質問を受けた、実は志らくも最初、自分が書いたと信じなかったという流れで。

 会話主体でほとんど説明のなかった品川版に比べて、亀有版はこってり言葉の説明が入る。品川の大店に足を踏み入れると自分の顔が映るぐらい磨き込まれた廊下があって、引き付け《しきつけ》と呼ばれる交渉部屋に通される。そこで出てくる「おばさん」つまり遣り手の説明があって、そこでやっと佐平次が登場し、客を小馬鹿にしたおばさんを驚かせる遊び慣れた宴会のリクエスト。宴会場面は短く、同行した四人《よったり》の正体が明かされる。そこからは、お直し、すなわち会計をさせてお金を回収したい若い衆《わかいし》と、はぐらかす佐平次。ぱあぱあとすごくて、どこまでやるのかなーと思っていたら、お金がないと佐平次が言い出して前半幕。何と今日は前後編で佐平次という趣向。

 後半は布団部屋に収まった佐平次が店の繁盛時を狙って店内を歩き回り、若い衆の目が行き届かない客を取り巻き始めた途端に人気者になり、居残り目当ての客がつくという展開。そして、今日は、勘定を踏み倒して居残った上に客を取り巻いた佐平次に五十円と結城の着物一式を献上して表から返す主人の理由の説明が丁寧だった。女性の身体を商売にする稼業で非難されることもあるけど、この稼業にすがらないと生きていけない女性もいるから、これはこれで必要と思ってはいる。けど、こういう稼業だからか、何年かに一回、ああいう奴が来る。「あれは言ってみれば鬼のようなもので」と今回は説明がついた。若い頃は逆らおうとしたが、今となっては、来たら逆らわずに受け容れた上で退散をお願いするしかない。

 下げは談志から引き継いだ版。でも今日はサービスでスタンダード版「旦那の頭がごま塩ですから」も解説付きで。

 品川プリンスでは会話中心で映画のような居残り。今日のはいろいろ解説がついた上に説明が丁寧な居残り。

 「紅葉坂の佐平次」の祟り神的な禍々しさをちょっとだけ感じた。
2010年9月12日 立川談春独演会@神奈川県立音楽堂
去年の二月歌舞伎見逃してすっごく口惜しい思いをしたので、夜の部だけでなく昼の部も。

猿若江戸の初櫓
 江戸歌舞伎390年の歴史を祝うということで、猿若が勘九郎で出雲阿国が七之助ってだけでうれしい。勘九郎さん・七之助さん、夜の部の勘太郎・長三郎初舞台のケアだけでも大変だろうに、昼の部もかなり出演多い。でも猿若祭は中村屋さんが頑張ってくれて盛り上がるというもの。

大商蛭子島
 天明四年に初演された作品の復活狂言。歌舞伎の時代物は、鎌倉時代の出来事を江戸時代の舞台にしたり、江戸時代の出来事を鎌倉時代に脚色したり、衣装や道具や舞台装置を見て混乱する。今回は源頼朝が蛭が小島で北条政子と結婚して(伊藤氏の娘と別れて)、後白河法皇の宣旨を受けて源氏再興をかけて挙兵するという史実を、天明期にお馴染みであったろう寺子屋を舞台にするという……あー、頭が混乱(^_^;)。
 松緑さん主役の舞台はあまり見ていないので、主役で二枚目なのは珍しいかな。
 あと時蔵さん演じるおふじ(実は伊藤氏の辰姫)による「黒髪」が見どころだと思うのだけど、期待していたより少し軽かったかも。

四千両小判梅葉
 河竹黙阿弥の白浪物なのに、私ったら半分以上意識がなかったかも……(°°;)。

扇獅子
 梅玉さんの鳶頭と雀右衛門さんの芸者が日本橋で舞うのがひたすら楽しい。
ついに教科書から「鎖国」の記述がなくりました。
小中で「鎖国」消える…聖徳太子は「厩戸王」に
「鎖国」が消える――。

 文部科学省が14日に公表した次期学習指導要領の改定案では、小中学校の社会科で「鎖国」の表記をやめ、「幕府の対外政策」に改める。文科省は中学歴史でも、「聖徳太子」が没後100年以上たって付いた呼称だとして、「厩戸王うまやどのおう」に変える。

 文科省によると、江戸幕府は長崎でオランダや中国との交易を許し、薩摩(鹿児島県)、対馬(長崎県)、松前(北海道)でも外交と貿易が行われていた。完全に国を閉ざしていたわけではないため、当時の実態に即して表記する。

 「鎖国」は1801年、ドイツ人医師の著書の一部が和訳され、「鎖国論」と名づけられたことから広まったといい、文科省の担当者は「幕府の政策に関し、鎖国という言葉は使われていなかった」としている。これに対し、「開国」という語は、欧米諸国との関係を表す際に使われていたため、現状のまま残す。
 記事の以降は有料版にて。

福島
古書店で『山川健次郎の新資料』発見! 未確認の講演録収録
 東京帝国大総長を務めた会津藩出身の白虎隊士、山川健次郎(1854~1931年)の死後に近親者らがまとめた遺稿の新資料が14日までに、発見された。戦前に刊行されたものなど種類の違う3点の遺稿資料が確認されており、今回が4点目になる。未確認の「白虎隊」に関する講演録が収録されており、研究者は「白虎隊顕彰に積極的だった山川の活動の一端が垣間見える」と評価する。

 小宮京青山学院大准教授(日本現代史)、中沢俊輔秋田大准教授(日本政治外交史)が昨年12月、古書店で見つけた。新資料は「山川博士遺稿」と題が付けられた上・下巻の2冊で、合わせて約500ページある。書店などに流通させない私家版で、山川の死後においらが編さんした。内容は山川の講演録や新聞への寄稿などで、多くがすでに確認されている遺稿資料3点と重複していた。

 新発見資料に、これまでの遺稿資料では未確認の記事や講演録が5編収録されていた。内容は〈1〉白虎隊について〈2〉戊辰戦争の会津藩の火薬庫爆破の伝承〈3〉会津の刀工(三善長道)〈4〉門司駅員自殺問題(明治44年に起きた駅員自殺への所感)〈5〉畏敬する四偉人(明治期の陸軍大将・乃木希典ら)。白虎隊については1928(昭和3)年、兵庫県の赤穂中(現赤穂高)で行った講演録だった。遺稿に白虎隊に関する講演録が収録されるのは、この新資料が唯一という。

 山川は晩年、戊辰戦争を会津藩側の立場から見た「会津戊辰戦史」(山川の死後の1933年出版)の編さんを進めた。確認される遺稿資料の中には、会津藩や戊辰戦争関連の記事が多数含まれており、中沢准教授は「編さん過程の作業原稿とみられるものもあり、山川が熱心に戊辰戦争の調査をしていたことを裏付けるもの」とみている。

長岡藩・河井継之助に焦点 福島・只見、戊辰戦争150周年
 2018年の戊辰戦争150周年に向け、只見町などは新年度から、同町にゆかりのある幕末の長岡藩(新潟県長岡市)家老を務めた河井継之助らに焦点を当てた記念事業を展開する。

 河井継之助は、戊辰戦争で長岡から会津藩に向かう途中、同町塩沢地区で命を落とした。同町の医王寺に墓があるなどゆかりが深い。

 戊辰戦争150周年を契機に、町などは河井継之助を中心とした同町の歴史について町民に改めて理解を深めてもらい、観光振興にもつなげようと記念事業を行う。

 町や会津只見史談会、町観光まちづくり協会、会津ただみ振興公社などの関係機関は3日、戊辰戦争150周年に向けた実行委員会を設立した。

 町役場で第1回会議を行い、新年度は町内の幕末維新に関する史跡などに案内標柱を設置するほか、ガイドブックを作成するなどの記念事業案を了承。18年度は同町と長岡市の史跡を巡るツアーやシンポジウムの開催に向けて今後、具体的な内容を詰めていく方針を確認した。

宮城
<東北の本棚>仙台藩玉虫の夢と挫折
竜は動かず/上田秀人 著

 「竜」とは、幕末の仙台藩の例え。大藩でありながら、戊辰戦争では大きな働きはできなかった。なぜか? 悲運の最期を遂げた仙台藩士、玉虫左太夫の生涯を追った600ページ超の本作を読み、仙台藩の負の遺産を見た思いだ。
 左太夫は藩鷹匠頭の子として生まれ、俊才と言われた。末子の七男であり、才能を開花させる場がない。だが、江戸へ出て学び、やがて幕府外国奉行に見いだされ、日米修好通商条約の批准書交換の遣米使節の一員として渡米する。
 米国では驚きの連続だった。水夫と士官は役目上のことであって、仕事を離れると友人と同じだった。航海中、水夫が病死すると、葬儀に艦長が出て哀悼の意を表した。ワシントンで大統領に会う。「入れ札(選挙)で選ばれている」。当時の日本では考えられぬ制度だった。
 幕末の動乱は、仙台藩に及んだ。帰国した左太夫は会津藩救済に動き、奥羽越列藩同盟成立の実務を仕切った。しかし作戦会議で、戦略を披露しようにも「分をわきまえよ」と藩幹部に制せられる。身分が低いことから重臣たちの恨みを買い、米国帰りが、煙たがられた。
 江戸時代は、全体が身分制社会であった。中でも仙台藩は、特殊な身分制度を取っていたことを指摘しておく。藩祖伊達政宗は攻略した敵の将兵を次々と自らの陣営に迎え入れた。膨張する家臣団を維持するため、藩は伊達氏の血縁、有力家臣を一門、一家、一族などに分けた厳しい家格制度を敷いた。血筋による序列が何百年と、幕末までも続いた。
 共和制の米国を見た左太夫の描いた夢は、公論に基づく新しい国づくりであったはずだ。しかし藩内の派閥抗争に巻き込まれ、ついには反佐幕派に処刑される。享年47歳。厳しい家格制度の前に、左太夫の夢は葬り去られた。
 著者は1959年大阪府生まれ。時代小説で活躍、著書に「孤闘 立花宗茂」など。
 講談社03(5395)5817=上・下各1728円。

佐賀
庄屋「峯家」文書を公開 朝鮮通信使、桜田門外の変など
 江戸時代から明治にかけて唐津市相知町で庄屋を続けた峯家に残る「峯家文書」から32点を厳選した資料展が、相知図書館で開かれている。朝鮮通信使の絵図や赤穂浪士の足跡を記した書冊など、村里の庄屋の旺盛な好奇心がうかがえる。

 17世紀後半から約200年にわたって収集した峯家文書は約5千点で、市指定文化財になっている。多くは行政関係の文書だが、その中から面白く貴重な資料を選んでおり、ほとんどが初公開という。

 江戸時代に12回来ている朝鮮通信使の絵図は、1811年の最後のもので、朝鮮国の服装や行列の様子が分かる。ベトナムや西洋、インドの男女を描いた絵や黒船図もあり、江戸時代の人々の海外への関心ぶりが垣間見える。赤穂浪士の討ち入り、大老井伊直弼(なおすけ)が殺害された桜田門外の変を記したものもある。

 こうした資料は、峯家が18世紀中頃から開いた私塾「希賢堂」の教材にも使われていたと考えられる。

 虹の松原一揆の指導者冨田才治の漢詩もある。一揆以降、関係が発覚するのを恐れて才治の手紙などが処分される中、唯一残った直筆の書。才治が希賢堂を開いた峯復斎に送ったもので、「私の先生になって」と懇願している。

 昨年の企画展で好評だった新撰組土方歳三の最期を記した「大野右仲(すけなか)君(ぎみ)日記抄」も公開。大野は唐津藩士で後に東松浦郡長になり、初代相知町長の峯〓(きとう)に与えたものと考えられる。

〓は火ヘンに卒

 相知市民センター総務教育課で文化財を担当する黒田裕一係長(49)は「庄屋として教養をつけるものだけでなく、江戸や京都の情報を収集しようとしていたことがうかがえる。粋な趣味、教養深さを楽しんでほしい」と語る。

 3月31日までで月曜、祝日、第1水曜は休館日。入館無料。

インタビュー
大久保利通の曽孫「大久保家と西郷家は婚姻関係が結ばれ、実は親戚です」
 大政奉還から150年を記念して、幕末から明治維新という激動の時代を生きた英雄の子孫たちが先祖の知られざる素顔、偉業を語り尽くす。今回は、大久保利通の曽孫・大久保利ひろさんだ。

*  *  *
 大久保利通は私の曽祖父にあたります。2017年は「大政奉還150年」ということですが、私たち大久保家にとっては翌18年の江戸時代を経ての「明治維新150年」ですね。

 薩摩藩の下級藩士の子として生まれ、西郷隆盛と共に成長し、幕末をくぐり抜けて明治維新を推進していきますが、盟友であった西郷とは征韓論で対立、敗れた西郷は政治の中枢から辞し、このとき二人は決別したとされています。その後、西南戦争では西郷は政府軍の前に敗北を知り、自害してしまいます。利通は西郷が挙兵するはずがないと最後まで信じていましたが、挙兵を知ったときは西郷を説得できなかったと悔やみ、それと同時に永遠の別れを覚悟していたと思います。利通が暗殺される直前に西郷からの手紙を読んでいたとも言われていますしね。ただ、西郷は大久保なら自分ができなかったこと、やり残したことを必ずやってくれるはずだと願っていたと思いますね。また利通は「自分ほど西郷隆盛を知っている者はいない」と言っていたぐらいです。西郷と利通は本来はクルマの両輪のような関係だったのです。

 余談ですが、利通のことでよく聞かれるのは大久保家と西郷家との関係です。利通の妹の孫のところに、西郷家からお嫁さんをもらい、大久保家と西郷家は親戚関係になっています。

 岩倉使節団の副使としてアメリカやイギリス、ドイツ、フランスなどを訪れますが、身長が178センチと当時としては長身だったこともあり、なじみやすかったようです。フランスでは家具のカタログを手に入れましたが、よほど興味があったのでしょう、帰国後に机を作らせています。その他にフランス製の陶器の灰皿やガラスの洗面器なども購入していますが、いわゆる「西洋かぶれ」ではなく、実用を重視して自分に合ったもの、使い心地のよいものを取り入れていたにすぎません。手紙は最後まで筆で書いています。ただ利通が使っていた硯や印鑑は大きな体に似合わず小ぶり、本当に小さなもので驚きました。
 利通は家族、特に子どもに対してはとてもやさしくふれあいを喜び、子煩悩で可愛がってくれた、と祖父・利武が話してくれたことがあります。

 利通は使節団で欧米諸国を訪れて海外の諸事情を間近に見て、国力増強の必要性を強く感じました。そのためには産業に力を入れようと西南戦争の最中に第1回内国勧業博覧会を開催します。また農業の発展も急がなくてはと思っていた矢先、福島県で始まっていた開拓事業を知った利通は、この事業成功に腐心し、郡山市で国直轄の農業水利事業第1号、安積開拓を推進します。そのさなか利通は暗殺されますが、利通の遺志を受け継ぎ、工事の開始から3年後の明治15(1882)年に完成します。夢がかなったと言ってよいのではないでしょうか。

 明治維新において、自分の役目を果たすために仕事に真摯に取り組み、そしてやり遂げた。道を拓き、その道を次の世代に託して旅立った、そう思っています。次男の牧野伸顕、跡を継いだ三男で祖父の利武、学者であった父・利謙は、それぞれ違った形でしたが、利通の子孫としての役目を果たしたと思います。私の役目と言えば、まだ手元に残っていた資料を千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館へ寄贈したことでしょうか。それをきっかけにすでに納めてあったものを含めて15年に「大久保利通とその時代」展を開催していただきましたが、常に側にいる、つまり利通との距離感など考えたことはありません。(本誌・鮎川哲也、太田サトル、松岡かすみ)



門出二人桃太郎
 三代目中村勘太郎(七緒也くん)、二代目中村長三郎(哲之くん)の初舞台目当てで行きました。舞台も観客席もみんながふたりのおじいちゃんおばあちゃんになったような、温かな一体感で見守る、この雰囲気。祖父の勘三郎さんがこの場にいれば、という思いがよぎるものの、この温かい祝祭感は他の豆役者ちゃんたちの初お目見えや初舞台をはるかに凌ぐものだった。
 勘太郎くんはちゃんとお芝居をし、見栄を切り、ご挨拶もしっかり。長三郎くんは、他の役者さんたちの挨拶中は爆睡しちゃっておじじ(七之助)さんに支えてもらっていたりするくせに、瞬間的に役に入っている感じ。
 おじいさんが芝翫、おばあさんが時蔵、息子と鬼大将はパパ勘九郎さん、お嫁さんは七之助さん。加えて、犬彦が染五郎、猿彦が松緑、雉彦が菊之助ってすげー豪華。彌十郎、雀右衛門、魁春、梅玉、菊五郎、児太郎、橋之助、福之助、錦吾、亀蔵。

絵本太功記
 自分的に興味湧いたのは舞台が尼崎ってとこだけ。竹藪ちゅうと近松門左衛門ゆかりの公園の辺りに少し竹林が残ってたっけー。
 自分の祖母を(人違いとはいえ)刺しておいて、取り乱しもしない主人公武智光秀に共感持てず、ところどころ意識が飛んだ……。

梅ごよみ
 深川芸者の意地の張り合いを楽しみにしてた。染五郎の、ダメンズだけど色男でモテモテって役は結構ニンに合ってる。勘九郎さんの女形は初めてかも(過去の出演見たら、この役で仁左衛門さん玉三郎さんと共演してたので驚き)。吉原から流れてきた辰巳芸者で丹次郎にひたすら尽くし、かっとなったらちょっとやり過ぎてしまうぐらいのところがかわいい。そして、菊之助さんの仇吉がどこからどこまで見ても深川芸者のいっち売れてる感じ。児太郎ちゃんがまだ15歳のお蝶でこれまたかわいいお嬢様。筋立てやどんでん返しというほどのものはなく、役者と衣装を楽しむ世話物。

東京
新選組150回忌、近藤・土方子孫ら企画 西郷も参加へ
 江戸時代末期に京都で結成された新選組隊士の子孫たちが3月、副長の土方歳三らの出身地、東京都日野市で「百五十回忌総供養祭」を営む。来年は戊辰戦争が始まって150年。関係が深かった会津藩(福島県)藩主の松平家14代当主、激しく争った薩摩藩(鹿児島県)の西郷隆盛の子孫も参加する予定だ。

 発起人は、局長の近藤勇、土方、副長助勤の井上源三郎の兄の子孫、日野宿の名主で新選組を支援した佐藤彦五郎の子孫ら12人。節目を迎え、隊士や関係者の子孫に広く呼びかけ、土方家の菩提(ぼだい)寺でもある高幡不動尊(日野市)で営む。

 子孫は長らく肩身の狭い思いをしてきた。近藤の兄の子孫、宮川清蔵さん(78)=茨城県牛久市=は近藤の出身地の東京都調布市に住んでいた幼少期、「近藤は逆賊と言われた」と振り返る。土方の兄の子孫で土方歳三資料館館長(日野市)の土方愛さん(45)は高校時代に「新選組は人斬り集団」と言われ、苦い思いをした。

 しかし1962年、司馬遼太郎の小説「燃えよ剣」の連載が始まり、土方人気に火が付いた。NHK大河ドラマ「新選組!」(2004年)やゲームの影響で、今では若いファンも増えているという。愛さんは、幕府側、倒幕勢力側どちらにつくか様子見の藩が多いなか、「隊士は幕府のために尽くし、どっちが得かということでは動かなかった。潔さに今の人たちがひかれているのでは」と話す。井上の兄の子孫で井上源三郎資料館館長(日野市)の井上雅雄さん(62)は「薩摩藩や長州藩(山口県)を含め、戦った全員の供養ができればいい」と呼びかけている。

 総供養祭は3月18日、高幡不動尊の五重塔院ホールで。一般の出席も可。参加費2千円。先着順。往復はがきに住所、氏名、電話番号を書き、〒191・0011 東京都日野市日野本町4の11の12 天然理心流勇武館事務局へ。28日の消印有効。出席の可否は返信はがきで伝える。(大室一也)

岐阜
梁川星巌の刀発見 大垣出身、幕末の志士・漢詩人 関鍛冶伝承館で初公開 /岐阜
 大垣市出身の漢詩人・梁川星巌(やながわせいがん)(1789~1858年)が所持していた刀が、関市で見つかった。星巌ゆかりの大垣市の禅寺「華渓寺」の加藤泰寛住職(58)は「星巌は多くの漢詩を残したが、刀が見つかったのは初めて」と話している。

 関市南春日町の関鍛冶伝承館は企画展「刀に名前を刻んだ男たち~幕末の志士・梁川星巌と日本刀」を開催し、星巌の刀を初公開している。

 星巌は1789(寛政元)年、現在の大垣市曽根町の郷士の家に生まれ、華渓寺の僧に儒教や漢詩を学んだ。幕末には、頼山陽、藤田東湖、佐久間象山、吉田松陰、橋本左内ら尊皇攘夷の思想家と親交があり、自らも憂国の志士として行動。危険思想の人物として幕府からにらまれるが、安政の大獄(1858年)の直前にコレラが原因で死去した。

 公開された刀は、関市が所蔵していた一振りで、茎(なかご)と呼ばれる握り部分に「大義翼皇室」で始まる尊皇攘夷思想を詠んだ5字漢詩が8行と「老龍庵帯」「東湖先生侍禄」の所持銘が刻まれている。同伝承館の江西奈央美学芸員(28)が昨年9月、「老龍庵」を星巌の号と判読し、華渓寺の梁川星巌記念館に問い合わせたところ、星巌の所持刀と確認された。

 太平洋戦争の後、連合国軍総司令部(GHQ)が10万振り近い日本刀を接収したが、サンフランシスコ平和条約を締結後、約1000振りが刀産地の関市へ返還され、その中に星巌の刀が含まれていた。

 華渓寺の加藤住職は「『老龍庵』は星巌の戒名に使われている号の一つ。尊皇攘夷派の水戸藩士・藤田東湖から譲られた刀と思われる」と話している。

 企画展では、漢詩の掛け軸、詩稿、印譜など星巌ゆかりの遺品も展示されている。3月20日まで。火曜休館。入館料は高校生以上200円、小中学生100円。問い合わせは同伝承館(0575・23・3825)。【立松勝】

山口
幕末の志士が学んだ萩藩校明倫館の跡地に「萩・明倫学舎」オープン3月4日オープン、山口県萩市の明治維新150年記念事業
 NPO萩明倫学舎(特定非営利活動法人設立認証中)は3月4日、山口県萩市に「萩・明倫学舎」をオープンする。萩・明倫学舎は萩藩校明倫館の跡地にあり、観光インフォメーションセンターやレストランを備え、萩市の観光の起点施設として機能していく。

萩・明倫学舎
開館日:2017年3月4日
開館時間(予定):9時~17時、レストランは11時~21時
所在地:山口県萩市江向602
入館料:本館無料、2号館大人300円、高校生200円、小中学生100円
Webサイト:萩・明倫学舎
 萩藩校明倫館は、1718年に5代藩主である毛利跨吉元が家巨の子弟教育のために萩城三の丸(堀内)に建てた藩校。その後1849年に現在の江向に移転。約5万m2の敷地内に学舎や武芸修練場、練兵場などがあり、吉田松陰や楫取素彦(小田村伊之助)が教鞭をとったことでも知られている。

 萩藩校明倫館は1867年に廃館となったが、その跡地に1935年10月10日に建築されたものが旧明倫小学校の木造2階建ての校舎で、1996年に国登録有形文化財に登録されている。2018年に明治維新150年を迎えることを記念して、この校舎を萩市の新しい観光の起点となるよう改修整備したものが萩・明倫学舎となる。

 萩・明倫学舎は本館、2号館、周辺の遺構などから構成され、本館には観光インフォメーションセンターや萩の名店「割烹千代」がリーズナブルな価格で料理を提供するレストラン、ジオパークビジターセンター、復元教室、復元校長室などを備える。

 2号館には2015年年7月に世界遺産に登録された萩市の5資産を含む「明治日本の産業革命遺産」を紹介する「世界遺産ビジターセンター」、幕末維新期の歴史・科学技術史の実物資料を展示する「幕末ミュージアム」を開設する。


高知
「JIN」で幕末感じて 高知市のまんが館で原画展
 坂本龍馬らが活躍した幕末期を舞台にした人気漫画「JIN―仁―」で知られる漫画家、村上もとかさん(65)の原画展が、高知市九反田の横山隆一記念まんが館で2月11日から始まる。龍馬、中岡慎太郎、西郷隆盛といった実在の人物や、当時の暮らし、文化を映し出した場面など直筆の原画144ページ分が並ぶ。

 村上さんは東京都出身で、1972年にデビュー。「JIN」は「スーパージャンプ」に2000年から10年間連載され、テレビドラマにもなった。

 脳外科医、南方仁が幕末にタイムスリップし、歴史や運命を変えることに悩みながら、現代医学を実践する物語。親友となる龍馬との出会いや暗殺阻止を目指す近江屋でのシーンなどのほか、山内容堂、勝海舟、沖田総司ら実在した人物たちが登場する場面を紹介。

 「手術」「ラブロマンス」「遊郭」など、テーマ別の展示も。仁が龍馬と連れだって行った遊郭で、華やかさとは裏腹に性病に苦しみ死んでいく女性が多くいたなど、闇の部分を描いたことが分かる。ほかのヒット作「六三四の剣」「龍―RON―」の原画もあり、すべて手作業で作画されている。

 展示を担当した高知県まんが・コンテンツ課の近森雄太主査は「作画技術の高さを見ていただきたい」と期待を込めた。

 横山隆一記念まんが館と「まんが王国・土佐推進協議会」の主催で、3月11、12日に開く「第3回全国漫画家大会議」の一環。3月12日まで。

インタビュー
徳川宗家18代当主の徳川恒孝さん 大政奉還をした理由を推測
 薩長同盟、坂本龍馬の船中八策、土佐藩主の山内容堂が徳川幕府最後の将軍・徳川慶喜へ出した建白書、そして大政奉還、龍馬暗殺……。2017年で大政奉還から150年。幕末から明治維新という激動の時代を生きた英雄の子孫たちが先祖の知られざる素顔、偉業を語り尽くす。今回は、徳川宗家18代当主・徳川恒孝さんだ。

*  *  *
 大政奉還として徳川家が天皇家に政権をお戻ししたのは、徳川幕府に大きな問題があったり、政権維持に限界があったりしたからではないと考えています。

 当時、日本を取り巻く外国からさまざまな圧力がかかっていました。その流れに任せてそれぞれの藩が圧力をかける国に個別に対応していたら、日本は分断されていたかもしれません。

 そこでそれぞれの藩が領内を支配する幕藩体制ではやっていけないと幕府は判断したのです。

 徳川家は幕府開府以来、長く天皇家を非常に大切にしてきましたので、ここで天皇家に政権をお戻しして、天皇を中心に今一度日本を統一すべきだと考えたのです。

 さらに徳川幕府は常に海外の情報を得ていました。特に幕末にかけては詳細な情報が幕府に入ってきて、世界の情勢は承知していたのです。イギリスの軍艦が近くにいるとか、アメリカの戦艦が日本に向かっているなど把握していました。そこで世界を見て、もう二度と戦乱の世にしてはならないと考え、大政奉還という決断をしました。

 江戸幕府を起こした家康は常に平和を願い、それを実現させた人です。家康の前の時代、豊臣秀吉は朝鮮へ2度も兵を出しました。 しかし、徳川の世になると朝鮮をはじめとした外国を攻めることはなくなりました。それどころか、朝鮮通信使が再開され友好な関係を築きました。幕府の将軍の代替わりや世継ぎが生まれるたびに朝鮮から使節団が江戸城にいる将軍に謁見にやってきていました。

 ただ、これは徳川家からの見方で、向こうの方々に言わせると、今度の将軍がまた秀吉のような人だったら危ないと、警戒のために将軍の顔を見に来ていたというようです。それで今度の将軍は穏やかでこちらに戦争をしかけてくるようなことはないと安心して帰ったそうです。

 そしてその情報は朝鮮から清の都・北京に伝えられ、今度の将軍も大丈夫だと胸をなでおろしたといいます。それだけ諸国との関係はよかったのです。

 ただ幕末から大政奉還にかけて残念なのは井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されたことです。井伊直弼は海外の状況を鑑み、修好通商条約を締結し、日本を開くことを進めていました。だからあのとき直弼が殺されなかったら、徳川幕府が新たな日本をつくっていったでしょうね。

 徳川政権であったら平和一本で、その後の政府がとったような軍国主義政策はとらなかったに違いありません。明治新政府では征韓論が持ち上がり、その後も日清戦争、日露戦争が起きました。明治以降の歴史はご存じのとおりですね。

 明治の世になって諸藩の大名の子息の多くは海外に留学しました。そしてその人たちは海外の情報や知識を身に着け、明治以降の政府に重用されていきます。

 また、宮内省が大名家同士の婚姻を進めていきました。戊辰戦争で敵対した人の子孫を結びつけたり、かつて、あまり関係がよくなかったという同士の婚姻を決めたりしました。そうすることでそれぞれの家が背負ってきた変なわだかまりはなくなりました。

 大政奉還後、徳川幕府の幕臣が明治政府を支えたり、その後、全国にあった藩の大名の子孫の方々が地域のお祭りに参加して祭りを盛り上げたりしています。かつての殿様の子孫は地域活性化に協力しているといえるでしょう。

 そういう意味でも徳川時代が分断され明治時代になったのではなく、その意志を受け継ぎ、継続しているといってもいいかもしれません。(本誌・鮎川哲也、太田サトル、松岡かすみ)
 うーん、そう言われてしまうと旧幕府軍として戦った人々の思いは……大坂城の将兵を残して江戸に逃げ戻った慶喜の行動をどう思われているのか、問うてみたくなる旧幕府方贔屓です。

私が落語を見始めたきっかけは、遡れば子供の頃はテレビラジオの演芸番組で落語がかかるのが当たり前で、その蓄積があるせいか年末に突然「芝浜」が聞きたくなった、というのが大きな要因。でも他にも伏線はあって、そのひとつは当時毎週購読していた週刊『モーニング』に広瀬和生さんが連載していた「この落語家を聴け!」が毎週とても面白かったこと。で、志の輔らくごや談春の古典落語をライブで聴いたら後は広瀬さんのお勧めを一通り聴きに行くようになっていたのだ。
 もともとはロック雑誌の編集者だけど年間に何百席も落語を聴いている広瀬さんのエッセイは、この落語家はどういう魅力があって、いつどこでかけたどんなネタにどんな魅力があったかを活き活きと描いてくれ、勝田文さんのイラストもすごく魅力的だった。しかも、この落語家さんの落語会は近々こんなのがあってお勧めみたいなガイド風。なので、広瀬さんの連載中に落語に通い始めた私には、ナビゲーターとしてほんとありがたい存在だった。実際、広瀬さんがプロデュースする落語会には何度も行ったし、自分の行く落語会に広瀬さんの染めた長髪を見かけると、しめしめと思ったりした。
 広瀬さんが三遊亭圓丈の始めた実験落語の会やSWAに連なるメンバーの何人かをフィーチャーしてくれたおかげで、高座で座布団を蕎麦打ちに見立ててこねたり格闘したりする白鳥スタイルも、私には受けた。古典芸能の古典(といってもつくられた時には時事ネタであり新作であったはず)の伝統は引き継がねばならないが、そこには常に時事性や時代性をもった新作が流入しなければ古びてしまう。歌舞伎も落語も新作があるから古典も光る。
 ということで、常に新作を創造するプレッシャーとよろこびに身をさらす白鳥さんは、面白い。美内すずえ先生の少女マンガ『ガラスの仮面』からインスパイアされた『落語の仮面』ももう7作ほどできているらしいが、今日は第1作から第3作までを前座なしで語り通す興行。これで本多劇場が満員になった。しかも、今日の挙手アンケートでは、原作『ガラスの仮面』を知らない人の方が、三遊亭白鳥は初めて聴きに来たという人より多かった。これって白鳥さんを聴きに来るファンが結構いるってことだ。しかも、以前は池袋演芸場に集まるコアな落語ファンの醸し出すアングラ感がつきまとっていた白鳥さんの会が、『落語の仮面』シリーズのおかげか、けっこう若い女性が友達同士で来たり、男性もちょい若くてオシャレだったりで、雰囲気変わってきている。『昭和元禄落語心中』の影響もあるかも知れないが、シブラクとか落語界自身の努力もあり、若い世代を獲得できている。

三遊亭花誕生/白鳥
 女優として成長する北島マヤを主人公とする『ガラスの仮面』を落語界に置き換えただけでなく、寺島花すなわち三遊亭花が新作落語家として成長する過程で、彼女を潰そうとする落語協会会長(あくまでもフィクション。ちなみに次の柳屋小三治とか三遊亭圓生とか大名跡をちらつかされると犬になる)や大徳寺芸能会長は男性優位の古典落語の世界観や伝統を守るために女流や新作落語を潰そうとする。その中で、月影先生は、女流落語家の魁として、古典落語の作品の登場人物を単純に男性に置き換えるだけでなく、女性の視点で作品を見直したり新作をつくることを花にさとし教える。
 鈴々舎馬角(れいれいしゃますみ)=紫の○○の人とか、林家桜小路とか、柳屋ミミとか。

嵐の初天神/白鳥
 大都芸能(ちなみに本社は台東区・笑)や落語協会の圧力で前座として寄席に出られない花は、上野公園で路上ライブを始める。そこで出会った落語界のサラブレッド立川亜弓(父は柳家市馬で母は桂あやめ、立川談志最後の弟子で談志の死後は談春に寄り弟子してるって……えー、落語界のサラブレッドかいな・汗)。本当は美人なんだけど容姿で男性ファンが寄りつくのを嫌って金髪刈り上げで顔を黒く縫って水玉の着物……ってたぶん『ガラスの仮面』で亜弓さんが『王子と乞食』の乞食役を実感するために身をやつした姿のリスペクト。亜弓さんがなんで関西弁なんか(^_^;)。
 前座コンテストで広瀬さんも登場して、髪が揺れるとその落語家はヒットするという設定に大笑い。

トキ蕎麦危機一髪/白鳥
 前座コンテストで亜弓さんと同時優勝ながら、落語協会と大都芸能の嫌がらせで出番がない二つ目の花は、NHK落語新人大賞に挑戦。しかし、林家桜小路にやさしくされることを妬んだ柳家ミミの陰謀で、出番前に飲んだ「スーパーちりとてちん」で喉を壊し、しわがれた声しか出ない大ピンチ。事前にネタ出ししていた、屋敷から抜け出す姫様を主人公とした「トキそば」をどうかけるのか。
 『ドキそば』も大笑いでした。



今日は節分。関西に住んでいたので恵方巻は知っているのですが、甘口系の太巻き寿司は好きじゃないし、東京にはもともとない食習慣なので私はパスします。
 『ちるらん 新選組』アニメ版がにぶんのいちキャラのギャグで5分という長さにちょっと物足りなさを感じていましたが、次は何と舞台化。確かに原作をアニメにするといろいろ残虐シーンが出て来ますので2.5次元の作品の方が合うかも。

高知
幕末の土佐藩重役・吉田東洋の新史料を発見 高知県立歴民館
 幕末の土佐藩重役・吉田東洋(1815~1862年)が、1854年12月に発生した安政地震の体験を詠んだ漢詩が、高知県南国市岡豊町の高知県立歴史民俗資料館の収蔵史料の中から発見された。地震後に火災と津波が高知市の沿岸部を襲った状況や被災した民を思いやる心情をつづっている。高知県立歴史民俗資料館は「生の体験を克明に記した貴重な史料」と注目。高知県立歴史民俗資料館で1月29日から始まる企画展「幕末の土佐 書跡にみる人物群像」で初公開される。

 東洋(本名・正秋)は、15代藩主山内容堂の下、仕置役として海防政策や中級武士の登用など藩政改革に尽力。1862年に土佐勤王党に暗殺される。

 東洋に関する新史料は、漢詩2点のほか教本2点、直筆の手紙6点の計10点。高知県立歴史民俗資料館が2016年、企画展を前に個人などから寄贈された史料を再調査した際に発見された。

 漢詩「大震行(だいしんこう)」(縦125センチ、横55センチ)は、東洋が沿岸部の高知市長浜で地震に遭遇した体験を記した史料。「烈火が家屋を覆い、激浪が大地を掠(かす)めて走った」「圧死者と焼死者が丘のように積み重なっている」「西も東も分からず、じいさんを助け、子どもの手を引いて町の入り口をさまよう」などと、甚大な被害を出した巨大地震と火災、津波の恐ろしさを伝えている。

 当時、東洋は江戸で山内氏の親族を殴打する事件を起こし、閉居中で、「土佐罪人 吉田秋」と記述。被災して土地を失った民の暮らしや藩政の在り方にも言及している。

 地震後、東洋は私塾を開いて人材育成に尽力、復職後に再び藩政改革にまい進することから、高知県立歴史民俗資料館の野本亮学芸課長は「衝撃的な地震の体験を通して、東洋は考え方を変え、人間として一皮むけたのではないか」と推測している。


山内容堂に対する愚痴などをこぼした吉田東洋の手紙(高知県南国市の高知県立歴史民俗資料館)
山内容堂に対する愚痴などをこぼした吉田東洋の手紙(高知県南国市の高知県立歴史民俗資料館)
吉田東洋 切れ者だが純粋  新史料に垣間見える素顔

 土佐藩政を牛耳った辣腕(らつわん)政治家というイメージが強い吉田東洋。南国市の高知県立歴史民俗資料館で見つかった教本や直筆の手紙を読み解くと、江戸の学者から学問を学ぶ勉強熱心な一面や、15代藩主・山内容堂に対する愚痴をこぼす弱気な一面、婚礼前の娘を思いやる父親としての一面など、東洋の素顔が垣間見える。

 東洋は船奉行などを務めた30代前半に、江戸で名をはせた朱子学者・安積艮斎(あさかごんさい)に入門。新史料の教本には、安積の添削の跡があり、東洋が当時の最高水準の思想に触れていたことがうかがえる。

 江戸の漢学の師匠、塩谷宕陰(とういん)に宛てた手紙(草稿)は、暴行事件で閉居中の40代前半に書いたもの。漢詩の添削を頼む一方で、藩の重役を担った時のことを回顧し、「家臣に命令するたびに、容堂の心が不安定なことを思って涙を流した」などと愚痴をこぼしている。手紙の最後には「悪口と誤解されるので読み終わったら手紙を焼いてほしい」といった趣旨の文言もある。

 また、46歳で暗殺される1年前に書いたと推測される手紙では、娘の婚礼前に自宅を建て直すため、友人に木材調達を依頼。新しい家で婚礼の準備をさせてあげたいという父親の心情が読み取れる。

 高知県立歴史民俗資料館の野本亮学芸課長は「企画展ではこれらの史料も初公開する。切れ者だが純粋さも持つ東洋の人柄に触れてほしい」と呼び掛けている。
 吉田東洋の再評価につながって欲しい発見です。

京都
春の特別展幕末群像、無名志士に光当て 初公開の自画賛や短刀含む100点 霊山歴史館 /京都
 春の特別展「幕末志士群像 新収蔵品展」が、霊山(りょうぜん)歴史館(京都市東山区)で開かれている。知名度のある新選組や坂本龍馬の資料だけでなく、倒幕のため挙兵しながら失敗に終わった天誅(てんちゅう)組の一人、松本奎堂(けいどう)の自画賛(じがさん)(自作の画の横に詩も書き入れたもの)など、初公開の32点を含む約100点(期間中入れ替えあり)を陳列している。5月7日まで。

 治安維持のため幕府が組織した京都見廻組(みまわりぐみ)に属し、坂本龍馬暗殺に関わったとの説もある桂早之助(はやのすけ)所有の短刀なども初公開する。将軍が約230年ぶりに上洛(じょうらく)した際に街道に立てられ、浪人を取り締まるための高札(こうさつ)など、当時の世情がわかる資料も並ぶ。

 大政奉還から150年を迎え、現在はあまり名を知られていない人物にも注目した構成にしている。木村幸比古(さちひこ)副館長(68)は「歴史資料は勝者のものが多数残るが、維新で破れた幕府側の資料も均等にそろえた。近代日本を作った人たちの精神を知ってほしい」と話した。

 第1期は3月20日まで、第2期は3月22日~5月7日。午前10時~午後5時半。月曜休み。祝日の場合は翌日休館(ただし3月6、13、27日、5月1日は開館)。一般700円、高校生400円、小中学生300円。問い合わせは霊山歴史館(075・531・3773)。【国本ようこ】

東京
戊辰戦争の戦没者を総供養 百五十回忌 新選組子孫らが呼び掛け
 新政府軍と旧徳川幕府軍が争った戊辰(ぼしん)戦争(一八六八~六九年)で亡くなったすべての人々を慰霊しようと、新選組隊士の子孫らの呼び掛けで、百五十回忌総供養祭が三月十八日に日野市の高幡不動尊金剛寺で営まれることになった。 (水谷孝司)
 幕末に京都で討幕派の取り締まりに当たった新選組の隊士の多くは、戊辰戦争では旧幕府軍に加わって戦った。
 これまでは、それぞれの隊士の命日に身内のみで供養をしたり、一部の子孫が集まって定期的なイベントを催したりしてきたが、百五十回忌の節目を迎える今回は、かつての敵味方にこだわらず、戦闘に巻き込まれた市井の人たちも含めた「総供養」の場とすることにした。
 新選組六番隊長井上源三郎の子孫で、日野市の井上雅雄さん(62)によると、戊辰戦争で亡くなったすべての人々の供養祭が実現するのは初めて。新政府軍側の子孫の参列も決まっているといい、「無事に盛大に行いたい」と話している。
 法要は金剛寺五重塔院ホールで行われ、川澄祐勝貫主が大導師を務める。午後一時半からの読経に続いて、会津松平家十四代当主の松平保久さんによる講演「会津藩と新選組」のほか、子孫の紹介、あいさつなどがある。
 井上さんらとともに発起人に名前を連ねる新選組局長近藤勇の子孫宮川清蔵さん(78)は「歴史に埋もれた隊士らもいる。倒幕と佐幕に国論が二分する中、大義のために戦った人たちを供養したい」、副長土方歳三の子孫土方愛さん(45)は「すべての亡くなった人に光が当たるのは意義深いこと」と話した。
 ホールの定員は二百五十人で、招待の縁者や研究家らのほかに、一般の参列希望者も募っている。参加費二千円。
 希望者は往復はがきに住所、氏名、電話番号を記入し、二十八日(消印有効)までに〒191 0011日野市日野本町四の一一の一二、天然理心流勇武館事務局に郵送する。入場できなくても焼香などはできるようにしたいという。問い合わせは井上さん=電042(581)3957。
 敵味方に関わらず、また巻き込まれた市井の人も含めてすべての戦没者を供養するというスタンスに共感できます。

グッズ
戦国武将フレグランスに新作『大谷吉継』『織田信長』・・・そして幕末志士『土方歳三』『沖田総司』が女性向け歴史雑貨ブランド「れもん-歴紋-」より、primaniacs各店にて発売開始!
人気の戦国武将フレグランスに新たに『大谷吉継』『織田信長』が、そしてさらに幕末志士フレグランスとして『土方歳三』『沖田総司』が参戦です。 「歴史に恋をする」をテーマに、戦国武将をモチーフにしたアイテムを提供しつづけている「れもん-歴紋-」の新商品が2月3日よりprimaniacs銀座本店・原宿店にて発売開始です。
人気の戦国武将フレグランスに新たに『大谷吉継』『織田信長』が、そしてさらに幕末志士フレグランスとして『土方歳三』『沖田総司』が参戦です。

「歴史に恋をする」をテーマに、戦国武将をモチーフにしたアイテムを提供しつづけている「れもん-歴紋-」の新商品が2月3日よりprimaniacs銀座本店・原宿店にて発売開始です。
20~30代の女性をターゲットにした、これまでの「れもん」商品と同じく女性目線を強く意識し、「戦国武将フレグランス」からは『伊達政宗』『真田幸村』『石田三成』が発売されています。
primaniacs店内ではフレグランスのテスターが常備されており、香りをお試しいただくことができます。
なおprimaniacsオンラインショップでも商品の購入が可能です。
れもん HP:http://re-mon.com/
primaniacs オンラインショップ:http://shop.primaniacs.com/


【商品概要】
商品ページ:http://primaniacs.com/fragrance_sengoku_2nd/index.html
商品名:primaniacs 戦国武将・幕末志士フレグランス
発売日 : 2017年2月3日より、primaniacs銀座本店・原宿店にて販売開始(オンラインショップでは2月25日以降お届け)
内容量 : 30ml
希望小売価格 : ¥5417(税抜)

【primaniacsとは】
アニメ、コミック、ゲーム、歴史、文学などサブカルチャーにフォーカスしたコンセプトショップ。
20~30代の女性をターゲットに、フレグランス、アクセサリーなどのファッション雑貨を展開。
人気アニメ「おそ松さん」のキャラクターをイメージしたフレグランスが大反響を呼び、日本の香水市場でも異例となる2万本を製造した。
WEBサイト:http://primaniacs.com

【本件に関するお問合わせ先】
株式会社まさめや
土方歳三の香りは
硬質な静けさと強さ 冷たい北の海に広がる紺碧の輝き。

ハーバル調の冷たさとフゼアの色気が混じりあった、力強くも静けさのある香り。
しっとりと広がるマリンのウォータリー感とは裏腹に、
ひんやりと落ち着いた雰囲気が印象的。
己の想いと信念を貫き通した土方歳三にふさわしい、芯の強さを感じる香りです。

TOP:Lemon, Lime
MIDDLE:Jasmine , Lavender , Marine, Rose , Cardamom
LAST:Musk, Raspberry, Amber, Vetiver

沖田総司の香りは
純粋な白さと儚さ 春の訪れを告げる鈴蘭の花。

フレッシュさの中に甘さを潜ませたグリーンフローラルの、ピュアでイノセントな香り。
ほろ苦いグリーン系の香りから、徐々にほのかな甘みが漂い、野に咲く花々を想わせる 香りに変わります。
沖田総司の純粋な人柄と、志半ばで病に倒れた儚さを感じる、透明感のある香りです。

TOP:Green Tea, Lemon
MIDDLE:Jasmine, Muguet, Basil, Rose, Gardenia
LAST:Musk, Amber, Raspberry, Sandalwood
 どちらも好きな系統かも。どこかで試しに嗅いでみたいです。


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