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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
久しぶりに幕末の史実に関する話題の大物が来ました。

第一声は「御上意」? 「池田屋事件」で近藤勇
 幕末の京都で、長州や土佐などの過激派志士が襲撃された「池田屋事件」の際、二階に踏み込んだ新選組局長の近藤勇が発した第一声は、将軍や主君の意思であることを示す「御上意(ごじょうい)」だった可能性があることが、宮内庁宮内公文書館に保管されている会津松平家の資料で分かった。
 ドラマなどでは「手向かいすれば容赦なく斬る」と警告する場面が多いが、今回の資料にこの言葉はなかった。これまで知られていなかった新たな言葉の登場は、歴史ファンの関心を呼びそうだ。資料は「維新階梯雑誌(いしんかいていざっし)」で、会津藩主松平容保が京都守護職になった一八六二年以降の出来事を明治時代に編さん。一部が引用されるなどして存在は知られていたが、三十一冊が同館にそろっているのを埼玉県の歴史研究家伊藤哲也さん(47)が確認した。
 六四年の池田屋の場面では、近藤が亭主とやりとりした後、二階に上がると、六、七人が車座になっていたと記述。「座中を割って奥へ赴けば、一同(刀を)抜いて斬り掛かってきた」「此の方御上意と大音声で(叫んで)踏み込んだ」と続く。
 後に近藤が「(相手は)御上意に恐れをなした様子。いまだ徳川のご威光は尽きず」と述懐したとも書かれている。
 これまでは、一階にいた幹部隊士で、大正まで生きた永倉新八の回顧録から、近藤はまず「手向かい致すにおいては容赦なく斬り捨てる」と警告したとされてきた。
1862年以降の出来事を記した会津松平家の資料「維新階梯雑誌」=宮内庁宮内公文書館蔵
写真
 新選組はこのころまだ目立った功績がなく、近藤は攘夷(じょうい)を実行しない幕府に失望し、解散の意向を伝えるなど進退に悩んでいた。しかし、事件後ほどなくして西洋の軍事力の強さを知り、佐幕の傾向を強めていったとされる。
 新選組研究の第一人者として知られる菊地明さんは「上意という言葉は初めて知った。『手向かい致せば』も言っていたとしても矛盾はしないと思う。予想外に相手がひるんだので将軍の威光を見直し、あくまで徳川が力を持つことで攘夷を目指す思想につながったのかもしれない。膨大な資料は大きな価値がある」としている。
<池田屋事件> 1864年6月5日夜、京都三条の旅館「池田屋」に集まっていた長州や土佐、肥後などの過激派志士20人ほどが新選組に襲撃され、10人以上が死亡、捕縛された事件。新選組は会津藩などの援軍がないまま単独での突入を決意。近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助の4人で踏み込み、その後土方歳三らの別隊が駆け付けた。主に幕府側の資料によると、志士たちは京に火を放って天皇を長州に連れ去ることを企てていたとされる。新選組は少人数で暴挙を阻止したとして一躍名を上げ、後に全員が幕臣に取り立てられるまでに至った。

 「御上意である」と聴いたらひれ伏すのが幕府の威光に従う人たち、無視するのが浪士たち、という人改めを即座にしたんでしょうか。テロリストを取り締まってる感がします。

池田屋事件、近藤勇の第一声「御上意」か 会津松平家の資料
 幕末の京都で、長州や土佐などの過激派志士が襲撃された「池田屋事件」の際、2階に踏み込んだ新選組局長の近藤勇が発した第一声は、将軍や主君の意思であることを示す「御上意」だった可能性があることが18日、宮内庁宮内公文書館に保管されている会津松平家の資料で分かった。

 ドラマなどでは「手向かいすれば容赦なく斬る」と警告する場面が多いが、今回の資料にこの言葉はなかった。これまで知られていなかった新たな言葉の登場は、歴史ファンの関心を呼びそうだ。

 資料は「維新階梯(かいてい)雑誌」で、会津藩主松平容保が京都守護職になった1862年以降の出来事を明治時代に編さん。一部が引用されるなどして存在は知られていたが、31冊が同館にそろっているのを埼玉県の歴史研究家、伊藤哲也さん(47)が確認した。

 64年の池田屋の場面では、近藤が亭主とやりとりした後、2階に上がると6、7人が車座になっていたと記述。「座中を割って奥へ赴けば、一同(刀を)抜いて斬り掛かってきた」「此の方御上意と大音声で(叫んで)踏み込んだ」と続く。後に近藤が「(相手は)御上意に恐れをなした様子。いまだ徳川のご威光は尽きず」と述懐したとも書かれている。

 これまでは、1階にいた幹部隊士で、大正まで生きた永倉新八の回顧録から、近藤はまず「手向かい致すにおいては容赦なく斬り捨てる」と警告したとされてきた。

 新選組はこのころまだ目立った功績がなく、近藤は攘夷を実行しない幕府に失望し、解散の意向を伝えるなど進退に悩んでいた。しかし事件後、幕府を支える傾向を強めていったとされる。

 新選組研究の第一人者として知られる菊地明さんは「上意という言葉は初めて知った。『手向かい致せば』も言っていたとしても矛盾はしないと思う。予想外に相手がひるんだので将軍の威光を見直し、あくまで徳川が力を持つことで攘夷を目指す思想につながったのかもしれない。膨大な資料は大きな価値がある」としている。〔共同〕

福島
戊辰戦争の資料展示 会津若松で150年に向け「戊辰と明治展」
 戊辰戦争から150年となる2年後の節目に向け、会津若松市の歴史研究家ら有志でつくる「会津戊辰戦争150周年事業実行委員会」の記念事業「戊辰と明治展」は11日、同市文化センターで開幕し、鶴ケ城の写真など当時をしのぶ資料を紹介している。12日まで。

 「会津の戊辰戦争から明治復興の姿まで」をテーマに開き、古記録、絵地図、明治期のはがき写真、寺社の複写、町家の記録などを展示している。旧会津藩士が政府を相手に裁判を起こし、公債発行(復禄)を勝ち取った復禄訴訟の記録も紹介している。

 同実行委は2018(平成30)年の150周年に向け、全6回の展示会などの事業を企画している。12日は午前9時~午後3時。

京都
京都祇園祭、大船鉾「竜頭」復活 幕末以来
 京都・祇園祭の山鉾のうち2014年に復活した「大船鉾」の船首を飾る「竜頭」などが新たに完成し、京都市内で18日、披露式典が行われた。

 竜頭はヒノキ材の彫刻で、高さ約2メートル、重さ約200キロ。滋賀県米原市の彫刻師森哲荘氏(69)が手がけた。大船鉾は幕末の「蛤御門の変」で焼失。14年に150年ぶりに巡行に復活したが、竜頭は設計図がなかった。

 復元に向け、保存会が専門家と調べたところ、竜頭は江戸後期の京都で有名だった彫刻師九山新之丞と息子が彫った可能性が高いと判明。息子の作とされ、竜頭と構造も類似していた滝尾神社(京都市東山区)の竜を設計の参考にした。

(共同)

佐賀
幕末の「牛津駅絵図」公開 宿場町にぎわい伝える小城市立歴史資料館
 幕末期、長崎街道沿いの牛津宿の様子を描いた「牛津駅絵図」が、同市小城町の市立歴史資料館に展示されている。絵図には、宿に住んでいた人たちの住居をはじめ、寺社や藩施設など建物の形がびっしりと記され、宿場町のにぎわいと共に、鍋島藩にとって牛津がいかに交通の要衝地であったかがうかがい知れる貴重な史料を見ることができる。7月3日まで。

 「牛津駅絵図」は今年3月、幕末期の牛津宿の様子が分かるとして市重要文化財に指定された。市教育委員会文化課によると、絵図は何の目的で誰が描いたのかは不明で、「牛津宿」を「牛津駅」とした意図は分からないという。

 制作年代の決め手となったのは、絵図に記されたある世帯主名。街道沿いの寺にある墓碑と照らし合わせ、「久本兵五郎」(1825~71年)が居住していたことが特定できた。さらに小城藩が出した営業許可の文書(もんじょ)などで、宿場町で薬種業を営んでいた事実も分かった。

 他にも、絵図には藩の使いが滞在した「上使屋」や馬を飼い置いた「馬立」など藩の重要な施設も描いてある。

 絵図の最大の特徴は、どの建物にも屋根を記し、黒色と茶色に描き分けている点という。同文化課学芸員の田久保佳寛さんは「黒色は瓦葺(かわらぶ)きで茶色は茅(かや)葺きを表している。屋根の色の違いで財力の差を伝えたかったのでは」と言い、「街道沿いの空き地みたいな空白部分には『焼跡』と記されるなど、宿場町は頻繁に火事に見舞われ、防災マップの意味合いもあったのでは」と推察する。

 12日午前11時と午後1時に職員による展示案内がある。「牛津駅絵図」展の問い合わせは同資料館、電話0952(71)1132。

コラム
刀剣ブーム…にわかファンでもわかる日本刀の“楽しみ方”をプロに聞いた!
 富山市中心部に6月11日、個人収集家の日本刀コレクションをはじめ、貴重な美術品を展示する森記念秋水美術館がオープンする。刀剣ブームに乗った“にわかファン”としては、付け焼き刃ではなく、名刀の真価が分かる鑑賞眼を身につけたいところ。開館に先立ち同美術館を訪ね、専門家から日本刀の見方について聞いてみた。

 同美術館学芸課長の山誠二郎さんによると、館名にある「秋水」とは、曇りのない研ぎ澄まされた日本刀を意味する言葉とのこと。同館では刀剣200振、刀装具・甲冑(かっちゅう)、兜(かぶと)など数十点を所蔵している。コレクションは、地元の医薬品メーカー・リードケミカルの社長、森政雄さんが長年にわたって収集してきたものだ。

 同館では、2階の鑑賞室で重要文化財5点や、重要美術品10点を含む日本刀・刀装具・武具などのコレクションを、3カ月ごとに年4回入れ替えて展示する。また、3階の鑑賞室では特別展を開催、開館記念として「細川護熙の美と永青文庫の至宝」が行われている。1階は富山県ゆかりの作家の作品などを展示するギャラリーだ。

 収蔵品の中で最も注目を集めそうなのは重要文化財で、「住東叡山忍岡辺長曾祢虎入道 寛文拾一年二月吉祥日」の銘がある刀ではないだろうか。甲冑師・刀工だった長曾祢興里虎徹(ながそねおきさとこてつ)の作である。

 新選組局長・近藤勇の愛刀だったともいわれている「虎徹」は、「乕徹」、「虎入道」など銘が変わり、後年につくられたものほど優れていると評価される。「虎入道」は興里が円熟期のころの作である。「美しく、よく切れると言われています。美と機能と力強さを併せ持つのが虎徹の特徴です」(山さん)とのこと。

 美と機能という、二つのポイントから日本刀を鑑賞するポイントを教えてもらった。初心者はまず、鞘(さや)や鍔(つば)などの装飾に目を奪われがちである。大名が将軍家に献上した拵(こしらえ)などは、葵の御紋がちりばめられていて豪奢である。しかし、刀本来の美しさは刃にあるらしい。
「刀身そのものの美術性に着目してください。まずは刃文(はもん)の形をじっくりと見てほしい。そして例えば松の幹のような“松皮肌”など地がねの模様などを見れば、折返し鍛錬の跡が分かります。江戸時代の前までは作刀された地域ごとにそれぞれ独自の特色を有しています」(山さん)

 見方が分かると、がぜん刀を鑑賞することが楽しくなってくる。個人的に、最も気に入ったのは、鑑賞室の中央にあるケースに展示された薩摩の拵(こしらえ)だ。黒色で統一され、鞘の部分には島津家の家紋が入り、全体的にコンパクトなつくりで、デザイン性が高い。「よく見てください。鍔が小さいでしょう? 薩摩示現流の影響を受けていると考えられます」と山さん。美しい刀はすべて機能性が高いということだろう。

 刀の形にはそれぞれ、さまざまな意味がある。「公家文化なのか、武家文化なのか? 当時の戦術は? など時代背景によって切っ先が大きくなったり小さくなったりするなど、刀の形は変わります」と山さん。刀剣の鑑賞は、奥が深い。

 2階の鑑賞室は黒を基調とした内装で、静か。静謐な雰囲気が漂っている。吸い寄せられるようにして刀に見入った後、「少しは鑑賞眼を養うことができたかも……」と思うにわかファンの一人である。(文・若林朋子)

日本に根づいた? 日本で生まれた? ロシアの食べ物
6月12日は「ロシアの日」。1990年のこの日に、ロシア共和国が主権宣言を採択したことから定められました。
ロシアは日本の隣国のひとつ。両国のさまざまな交流、互いに影響を与えあってきた歴史を、シリーズでご紹介しています。
今回、取り上げるのはロシアの「食べ物」です。
ロシアにとくに関心がない方でも、「ボルシチ」「ピロシキ」「ビーフストロガノフ」……など、聞いたことがある料理が多いのではないでしょうか。
いつ頃から日本に伝わり、これほど親しまれるようになったのでしょうか?

ロシア料理を日本に伝えたのは、あの有名な教会?

ロシア料理が日本に伝わった時期は、よくわかっていません。以下にご紹介するのは有力な一説です。
1858年、函館にロシア領事館が設置されます。
その数年後、領事館の敷地内に、有名な「ハリストス正教会」が建てられました。
ちなみに、この教会に迎えられたのが、東京・神田の「ニコライ堂」にその名を残すニコライ神父です。
このハリストス正教会で、ロシア料理を学んだ日本人がいました。
それが、函館の老舗レストラン「五島軒」の初代コック長である五島英吉です。
戊辰戦争で、旧幕府軍の一員だった英吉は、ニコライ神父に匿われ、やがて教会の従者として働くようになります。その中で、ロシア料理の作り方、パンの焼き方などを習い覚えたのだそうです。
もちろん、日本にロシア料理が伝わった時期は、これだけではありません。
20世紀初頭のロシア革命では、多くのロシア人が国外に脱出しました。
大多数のロシア人は欧米への移住を希望しましたが、一部の人びとは日本に住み続け、ロシア料理店を開業したり、日本人にロシア料理を教えたのです。
また、いったんは中国やアメリカに亡命したロシア人が、近代化が進む日本にビジネスチャンスがある、と来日したケースも多かったようです。
第二次世界大戦後には、日本人によるロシア料理店も増加しました。その担い手となったのは、戦前に中国東北部に移民していた人びと。現地で習い覚えたロシア料理を、帰国後に日本で再現したのです。

ボルシチは、盲目のロシア人作家が伝えた?

もともとウクライナの郷土料理だった「ボルシチ」。
地域によって、牛肉や豚肉、鶏肉、羊肉、野菜や豆などさまざまな具材が使われます。どこか素朴な味わいが、ほっとさせてくれる料理ですよね。
寒い時期に食べたくなるボルシチですが、夏向きのボルシチもあります。
それは、リトアニアで「ハラドニーク」と呼ばれる、冷たいボルシチ。ビーツやきゅうり、タマネギなどの具がたっぷり入った、夏によく作られる料理です。
このボルシチを日本に伝えたのは、ロシア人の作家だという話があります。
それは、1914年に来日したワシーリー・エロシェンコ氏。盲目だった彼が来日した理由は、「日本では(マッサージなどの仕事で)目の不自由な人が自活している」という噂を聞いたからでした。
エロシェンコ氏が身を寄せたのは、「新宿中村屋」。
創業者である相馬夫妻を中心に、国内外の作家やジャーナリスト、画家などが交流する、国際文化サロンのような場になっていました。
その交流の中で、インド独立の闘士ボース氏がカレーを、エロシェンコ氏がボルシチを伝えたのだそうです。

あの寿司ネタも、おつまみも、ロシア語由来の名前

寿司ネタでもおなじみ「イクラ」が、ロシア語で「魚の卵」を意味する、というのはご存じの方が多いかもしれませんね。
ロシア語では、鮭の卵に限らず、魚の卵ならすべて「イクラ」。
日本で言うイクラは「赤いイクラ」、チョウザメの卵(キャヴィア)は「黒いイクラ」と呼ばれます。
ちなみに、日本で現在のようにイクラが食べられるようになったのは、大正時代以降のこと。
それ以前の、保存技術が発達していなかった時代には、スジコをばらして乾燥させた加工食品などが出まわっていたようです。
コンビニでもおなじみのセミドライソーセージ「カルパス」。
このカルパスも、ロシア語でソーセージを意味する「カルバーサ」に由来しているそうですよ。

日本生まれの「ロシア料理」がある!?

最後にご紹介するのは、日本でしか知られていない(?)ロシア料理です。
それは「シャリアピン・ステーキ」。ロシア人の声楽家フョードル・シャリアピン氏のリクエストで生まれた料理です。
ロシア革命後の、日本に滞在するロシア人が増えていた時代のこと。
来日したシャリアピン氏は、宿泊先の帝国ホテルで、「私は歯が悪いので、何かやわらかい料理を」と注文しました。
その求めに応じて、帝国ホテル「ニューグリル」の料理長・高山(筒井)福夫氏が考案したのがシャリアピン・ステーキ。命名にあたっては、シャリアピン氏の了承も得たのだとか。
日本の「西洋風ホテル」とロシア人については、興味深い歴史があります。そのお話は、またあらためてご紹介します!
次回は、ロシアの「お菓子」についてのお話をお届けしたいと思います。
参考:長塚英雄責任編集「ドラマチック・ロシアin Japan 文化と歴史の探訪」(生活ジャーナル)
荻野恭子・沼野恭子著「家庭で作れるロシア料理 ダーチャの菜園の恵みがいっぱい!」(河出書房新社)
荻野恭子著「ロシアの郷土料理 大地が育むユーラシアの味」

幕末を駆け抜けた坂本龍馬は何を見て、何を考え、何を夢見たのか
幕末の偉人ランキングで圧倒的な人気を誇る、坂本龍馬。薩長同盟や、龍馬が暗殺された近江屋事件などは歴史にそれほど関心の無い方でもご存知のことでしょう。無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』に、そんな龍馬に関する数々のエピソードが綴られています。

人物探訪:坂本龍馬、海洋立国の夢

アメリカに漂流して、彼の地で航海術などを学び、日本に戻ってきたジョン万次郎に、坂本龍馬が初めて会ったのは嘉永5(1852)年の末頃であったと言われている。友人に勧められて、万次郎の話を聞きに行ったのである。龍馬18歳の時であった。

万次郎が滞在したヌーベッポー(ニューベッドフォード)という町には何百隻もの巨大な捕鯨船が浮かんでいて、その港の砲台には大砲が20門ほど置かれている。大きなものは口径8寸(24センチ)もある。お城の石垣程度のものなら、弾丸一発で打ち砕いてしまう。蔵にはその砲弾を何千発とも知れないほど収めているという。

軍艦はそんな大砲で撃たれてもなかなか砕けない。1隻に500人ほど乗る船は珍しくなく、戦のときには1,500人も乗り込むそうである。

龍馬はさらに航海の術について尋ねた。万次郎は、アメリカで一等航海士という偉い船頭の資格をとっており、地図とオクタント(六分儀)と磁石さえあれば、陸の影も見えない大洋に船を乗り出しても迷わないという。

龍馬は夢の中の出来事を聞いているような気がした。胸が躍ってならなかった。

黒船来る

翌嘉永6(1853)年、龍馬は剣術修行のために江戸に出た。江戸に着いてまもない6月4日の朝、アメリカの黒船が浦賀沖に現れたという知らせが届いた。万次郎の語ったアメリカの軍艦を直接目にすることになったのである。

旗艦サスケハナ号は長さ約78メートル、幅14メートル、数十門の大砲を備えていて、日本人には巨大な浮城のように見える。そんな黒船が4隻も現れた。

龍馬は土佐藩の品川屋敷のある大森海岸の防備に駆り出され、土手を築き、垣を結んだ。やがて幕府がペリーから受け取ったアメリカ国書の内容は、龍馬たちの耳にも伝わってきた。

蒸気船ならカリフォルニアから、パシフィック・オセアン(パシフィック・オーシャン、太平洋)を渡って18日間で日本に達することができる。カリフォルニアは毎年金6,000万ドルを産し、日本の様々な産物と交易を行えば互いの利益になる。また日本沿岸で捕鯨を行うアメリカ船舶が、日本で石炭、水、食料を補給できるようにしたい。そのために通商交易条約を結びたいというのだ。

日本がそれに応じなければ戦争を仕掛ける、という姿勢で、黒船は品川沖で空砲を鳴らし、沿岸に詰めかけた数万の諸藩兵を驚かせた。

アメリカは近頃メキシコと戦争をして、カリフォルニアを含む領地のおおかたをとってしまったが、その理由はメキシコがアメリカの蒸気船に領地の海辺に近寄るのを咎めたためであるという。

外国と通商することがなぜいけないのか」

龍馬が江戸で師事していたオランダ砲術の権威・佐久間象山は、こう主張していた。

今戦えば我らに勝ち目はない。ひとたび敗れたときは皇国は滅亡、我らは異族の奴隷となるのだ。

江戸の沖に常に5、6隻の黒船がいて、大坂からの千石船を捕らえ、米などの消費物資の海上輸送を遮断すれば、江戸は10日ももたない。廻船の輸送量を牛馬によって陸路で運ぶことは不可能である。

と言う。確かにそのとおりであると龍馬は思った。今はアメリカの要求を入れて通商を行い、それを通じて国力を養って、国防力を充実させるのが、日本の生きのびる道である。

一方、ジョン万次郎は幕府の老中たちに意見を聞かれて、アメリカが日本を攻め取ることはないと答えていた。カリフォルニアのように莫大な金が算出する国であれば戦を仕掛けることもあるが、日本はそれほどの物産はなく、また遠い。軍艦を何十隻も派遣して攻めるよりも、仲良くして石炭などを分けて貰うのが得である、とアメリカは考えるはずだという。

龍馬はこれもまたその通りだと思った。龍馬が幼い頃によく遊びに行っていた遠縁の廻船問屋は江戸に米や鰹節などを運ぶ千石の大廻し船を何隻も運用して、大きな利益を上げていた。

外国と通商することがなぜいけないのか、と龍馬は考えた。

「自由な大海に漕ぎ出したい」

およそ1年ほども江戸に滞在して、龍馬が高知に帰ったのは、安政元(1854)年6月下旬のことであった。翌年正月に龍馬は河田小龍を訪れた。河田はジョン万次郎を自宅に寝泊まりさせて、聞き書きを行っていた人物である。

河田は「このような非常のときに1つの商業を興してはどうじゃ」と龍馬に薦めた。そして万次郎から聞いた話をもとに、こう語った。

アメリカじゃあ商業の元手をこしらえるのに、株仲間のような者を大勢集め自在に大金を融通しゆうがじゃ。お前(ま)んらぁがそこのところを工夫して、株仲間を何とかしてこしらえて1隻の蒸気船を買うてみい。

同志を募り、日本中を往来する旅人やら諸藩の蔵米、産物を運んだら、蒸気船運航に使う石炭、油の費用や同志の給金を払うことができるろうが。

そうやって操船の稽古をすりゃ、しだいに航海の術も身につくというもんぜよ。盗人を捕まえて縄をなうというような有り様で始めても、1日でも早う蒸気船の運用を始めざったら、いつまでたっても外国に追いつけんがじゃ。

小龍の言葉に龍馬は刺激されたが、高度な蒸気船を動かせる秀才は数が少ない、と言うと、小龍はこう応じた。

日頃俸禄を仰山もらいゆう上士にゃ志というものがありゃせん。志を持ちゆう者は、ひと働きするにも元手のない下士、百姓、町民ら下等人民の秀才ぜよ。そがな下等人民の秀才は俺の弟子にも多少はいゆう。働かせりゃ工夫するぜよ。

大洋を自由に航海する蒸気船は、また身分制度からも自由な世界であった。龍馬は自由な大海に漕ぎ出したいと思った。

「蒸気船の扱いを覚えたいがです」

文久2(1862)年3月、龍馬は脱藩した。城下で剣術道場を開く資格は得ていたが、もはや高知に留まる気はなかった。

江戸に出て、ジョン万次郎の紹介状を持って勝麟太郎を訪れ、弟子入りを頼んだ。勝は長崎海軍伝習所で教監を務め、また幕府の使節を乗せた咸臨丸を操って、太平洋横断を果たした人物である。

「俺の弟子になって何をしたいのかね」と聞かれて、龍馬は「蒸気船の扱いを覚えたいがです」と答えた。さらに「尊王と攘夷についてどう考えているのかね」と聞かれて、

「攘夷はとても無理ですろう」

「そうか。それなら無理を言わず異人の言うがままに商いをするのかね」

「そこが知りたいがです。攘夷をやらにゃあ異人がのさばりますろう。けんど今の日本じゃとても勝てん。そうなると、異人と同じ土俵で相撲がとれるほどの力を持つまで待たにゃあいかんですろう」

麟太郎は笑いながら「土佐にいながら天下の形勢をよく知っているじゃないか」と言って、弟子入りを許した。

海軍建設

勝は龍馬を護衛役として側に置きながら、いろいろ話して聞かせた。

攘夷の戦いを日本の側から起こせば、イギリス、フランスは対馬、壱岐、佐渡を占領する。アメリカは伊豆七島、ロシアは蝦夷を占領するだろう。淡路島も乗っ取られかねない。そうなれば航海の道はすべて閉ざされ、全国は籠城の有り様になる。危機に迫られると一揆が方々で起こる。その苦しみに耐えかね、外国につく者が現れると日本は外国の属国になるだろう。

そのような事態を未然に防ぐために、勝は西洋諸国と対抗できるほどの陸海軍を作るという意見書を幕府に提出していた。日本全国を6つの海域に分けて、それぞれに艦隊を置くという案である。

その経費を捻出させるためには、各大名に海外貿易を許し、それを財源に10万石あたり蒸気軍艦1隻などと費用を出させる。この案に従えば、軍艦300隻の海軍を建設することも可能であった。

しかし、軍艦は金で揃えることができても、それを動かす人材が問題である。勝と龍馬は神戸に海軍塾を作る準備を進めた。先頃まで将軍側近であった大久保忠寛(ただひろ)越中守も、それを励ましてくれた。

貴公らが麟太郎と相計って神戸に海軍塾を開く支度をしておるそうだが、それが肝心だ。海軍を大いに発展させるため幕府は、アメリカ、オランダに軍艦を注文している。だが、その操船を自在にいたす航海乗り組みの学生を取り立てねばならんのだ。幕府の先の読めない腑抜け役人どもができることではない。貴公らが操船を自在にできるよう一日も早く学び取らねばならぬのだ。

文久3(1863)年4月、将軍家茂は神戸に海軍操錬所を建設し、その入用金として年3,000両を下すことを決めた。また勝の門人たちを引き連れて、私塾として海軍塾を開くことを許した。龍馬はその設立と運営に奔走した。

亀山社中

元治元(1864)年6月19日、長州勢と幕府方が京都蛤(はまぐり)御門にて衝突した。この際に操錬所生徒である因幡藩士数十名が長州方に味方したとして、勝は江戸表に呼び戻された。

勝は薩摩の西郷吉之助(隆盛)に、龍馬以下6人の土佐藩脱藩者の庇護を頼んだ。西郷は、龍馬の人を引きつける性格と時代を切り開いていく才覚を認め、密貿易をさせつつ、いずれ長州藩に薩長連合を勧める使者として働いて貰おうと考えた。

元治2(1865)年、龍馬らは長崎の町はずれの亀山という山麓の地に宿舎を与えられ、薩摩藩から毎月給金を貰うようになった。彼らの結社は「亀山社中」と呼ばれ、ここを根拠地として密貿易にあたることになった。

5月、龍馬は下関に潜入し、西郷の使者として、長州の指導者・桂小五郎と会った。長州は幕府軍15万の大軍を迎え撃たねばならないという窮地に陥っていた。しかし、薩摩は蛤御門の変で幕府方についていたので、「いまさら薩摩の芋と手を結べるか。そんなことを抜かす奴は首を斬れ」という声が上がるほどだった。
薩長同盟を実現した交易

龍馬は桂にこう持ちかけた。

長州の四境に幕軍が間なしに参りますきに、外国から薩摩の名義で蒸気船、鉄砲を買い入れ、尊藩に持ち込むというのはいかがですろう。

桂は思わず、龍馬の顔を見直した。幕府の大軍を迎え撃たねばならない長州にとって、これはよだれの出るような好餌である。龍馬は亀山社中の同志を使って、最新式の小銃7,500丁と蒸気船1隻を調達し、約束通り、長州に収めてみせた。

一方、薩摩は長州征伐には参加せず、京都に大兵力を集めて、幕府を牽制することとした。西郷はそのための兵糧を長州から借りてくれるよう、龍馬に依頼した。「さしあたって500俵もあればえいですろう」と龍馬は承知して、すぐに山口に行き、桂から快諾を得た。

こうした実利的な助け合いを通じて、薩摩と長州は旧怨を解き、同盟関係を築いていった。その掛け橋となったのが、龍馬の働きだった。

実現した海洋立国の夢

兵糧貸与の話がまとまった後、龍馬は下関で貿易を営む大商人・伊藤助太夫の家に泊まり込んで、杯を交わした。助太夫は、長州と幕府の戦いが終われば、蝦夷の海産物などを買い入れる交易をしたいと言った。北前船は1隻作るのに千両かかるが、蝦夷へ3度も行けば元手がとれるという。

龍馬は感心した。「まっことのう。蒸気船を使うたらなお儲かるろうねや」

龍馬は今は亀山社中の同志と共に、薩長の必要とする武器などの購入を行っているが、戦が収まれば長崎、下関を根拠地に蝦夷や上海、さらには広東からルソンに行き来して貿易をしたいと考えていた。蒸気船を使えば、パシフィック・オセアン(太平洋)を渡ってアメリカとの交易もできる。それによって国を富まし、日本を異国から守れるだけの海軍も持つことができよう。龍馬の夢は広がっていった。

龍馬はその夢を実現するひまもなく、慶応3(1867)年11月、京都にて何者かに暗殺されてしまった。しかし、海外貿易の夢を抱いていたのは龍馬だけではなかった。「海外貿易の志士」森村市左衛門などはその好例である。

さらに神戸の海軍操錬所を淵源の1つとする日本海軍はやがて日清・日露戦争を通じて国家の独立を維持し、英米と並ぶ世界3大海軍の1つとして数えられるまでになった。

龍馬の描いた海洋立国の夢は幕末から明治にかけての日本人全体が共有していたもので、多くの人々の努力によって実現されたと言える。

文責:伊勢雅臣
image by: Shutterstock


エンターテインメント
NHK「歴史秘話ヒストリア」若者意識のリニューアルも視聴率は低下
NHKの「歴史秘話ヒストリア」について、週刊新潮が報じた
4月22日の放送から司会者を交代し、若者を意識するリニューアルをしたそう
元々の視聴率は7~8%だったが、改編後は6%台をうろうろしていると筆者
「歴史ヒストリア」リニューアル失敗 NMB48、イケメンを起用し視聴率低下

2016年6月18日 5時50分 デイリー新潮
 ポップに! 親しみやすく! スケールアップ!

 と、4月22日の放送からリニューアルした「歴史秘話ヒストリア」(NHK総合)だが、なんかヘン――。

 司会は渡邊あゆみアナ(56)から井上あさひアナ(34)へと大幅に若返り、放送日は水曜から金曜、時間は2時間繰り上がって、夜8時からに。週末のゴールデンで若い視聴者を意識したようなのだ。

 初回は「日本でいちばん怖いパパ」として織田信長を取りあげた。確かにポップなのかもしれない……。

 4月29日の「あしたは動物園に行こう」で、もはや歴史番組なのか解らなくなり、5月6日は「愛と悲しみの大奥物語」として、再現ドラマにNMB48から19名を起用。6月10日は、「新選組 ボクらの友情と青春」と題して、賀集利樹、佐藤汛、渡部秀、永瀬匡、佐野岳が出演。彼らが何者かといえば、若いお母さんに人気の仮面ライダーたちで、二番隊組長・永倉新八の「浪士文久報国記事」をもとにイケメン集団“新選組”を描くとか。

 コラムニストの林操氏は、

「アイドル番組じゃないんですから。NHKの歴史教養番組は、誰が出るかより、“秘話”に重きが置かれていた。だが、これでは従来のファンは離れるし、歴史に興味のない若い人はついてこない」

 元々、視聴率7~8%の番組だったが、改編後は6%台をうろうろ――。

「週刊新潮」2016年6月16日号 掲載
 フィクション臭が強くなって、歴史好きの私には面白くないです。

人類廃滅を目指す黒王の謎も徐々に明らかに。『ドリフターズ』新刊5巻がついに発売!
 島津豊久、織田信長、那須与一といった名将から、山口多聞、菅野直といった海軍軍人、陰陽師の安倍晴明、新選組の土方歳三、さらにはハンニバル、ジャンヌ・ダルク、エルフ、ドワーフ、ドラゴンまで……!

 マンガ史屈指のオールスターキャストたちが、異世界での国奪りと自らの威信・存亡をかけた戦いを繰り広げるマンガ『ドリフターズ』(平野耕太/少年画報社)。今年10月からのテレビアニメ放送も決定している本作の1年7カ月ぶりとなる新刊5巻が6月6日に発売された。

 ここまでのあらすじも簡単に振り返っておこう。物語は、己の士道に従い戦に生きる薩摩武士・島津豊久と、狡猾で冷徹な策略家・織田信長、弓の達人・那須与一が異世界で出会い・結託するところから幕が開く。豊久は武士としての本能から、人間が支配する帝国に虐げられたエルフの村を解放。その勢いのまま国奪りを開始する。

 島津豊久ら3人は、どこかの世界からこの異世界に流れ着いたことから「漂流者(ドリフターズ)」と呼ばれている。そこに立ちはだかるのが、同様にこの世界に飛ばされた者ながら、世界を憎み破壊と殺戮を行う「廃棄物(エンズ)」たち。この一団には土方歳三、ジャンヌ・ダルクなどの非業の死を遂げた人物から、怪僧ラスプーチン、そして明智光秀までも加わっている。

 なお廃棄物(エンズ)という呼び名には、“世界から棄てられた彷徨う怨嗟”という意味がある。本作は、怨みを原動力に生きる者たちと、武士道や自らの正義を貫いて生きる者たちとの心の戦いでもあるのだ!

 そして新刊の第5巻では、エンズたちの「奴隷にした人間を食い殺す」といった恐るべき生態や、その一団を率いる黒王の謎も徐々に明らかに。彼らは「人間で無罪の者は一人もいない。人間で無実の者など一人もいない 殺せ 殺せ」と人類の滅亡を目指す侵攻を開始。物語のスケールはさらに大きなものになっていく。

 一方で第5巻では、ドリフターズたちにも見せ場は満載。信長は冷酷無比な策士っぷりを遺憾なく発揮し、島津豊久はその熱き武士道精神で仲間たちを扇動していく。歴史上の偉人たちが、我々の思う人物像に沿ったカッコいい振る舞いを次々と起こしてくれるのは、やはり本作の大きな魅力だ。

 また、島津豊久vs.土方歳三といったあり得ない戦いが起こったり、部下に裏切られまくった信長に多少の改心や成長が見られたりする点も、ファンタジーならではの面白さ。なお光秀vs.信長の異世界での再戦が迫っている様子もうかがえるので、この先の展開にも注目だ。

文=古澤誠一郎
 こういう作品は歴史上あり得なかった人物の対決とか、歴史上あり得なかったテクノロジーや戦法の衝突が面白いのです。土方様がエンズ軍を離脱しそうな気配も見える5巻(もともと黒王を信仰している訳じゃなし)、次巻以降も楽しみです。

太郎左衛門あんぱん発売!~パン祖、江川太郎左衛門が焼いたパンをイメージし開発したあんぱんです~
株式会社バンデロール(本社:静岡県沼津市西島町20-2、代表取締役:結城 馨、以下 バンデロール)は、6月18日よりパン祖と呼ばれる江川太郎左衛門英龍が伊豆韮山で初めて焼いたパンをイメージし懐かしく素朴な生地に特別製法の小豆の風味豊かな低糖あんを包み込み焼き上げたあんぱん「太郎左衛門あんぱん」の販売開始いたします。
太郎左衛門あんぱん発売!

~パン祖、江川太郎左衛門が焼いたパンをイメージし開発したあんぱんです~


株式会社バンデロール(本社:静岡県沼津市西島町20-2、代表取締役:結城 馨、以下 バンデロール)は、6月18日より太郎左衛門あんぱんの販売開始いたします。バンデロールは関東、中部を中心とした焼き立てベーカリーチェーンです。

▼http://www.banderole.co.jp/

■メニューの紹介

太郎左衛門あんぱんの特徴・・・パン祖と呼ばれる江川太郎左衛門英龍が伊豆韮山で初めて焼いたパンをイメージし懐かしく素朴な生地に特別製法の小豆の風味豊かな低糖あんを包み込み焼き上げたあんぱんです。


江戸時代後半に江川英龍がはじめて焼いたパンは「乾パン」に近いと聞いており、そのまま再現するのではなく、それをイメージしつつ、小さなお子様からお年寄りまで美味しく食べられる食材、製法で焼き上げました。
また、代々続く江川邸の歴史の重さのイメージや伊豆の素朴な大自然、反射炉の力強さをイメージした商品としました。

生地はリッチ過ぎず、素朴で懐かしさを感じる配合。
餡は特別製法で糖度を低くし、小豆の風味がより引き立てられるよう、また、粒を多く残すことによって小豆感を感じられるよう工夫をしました。単純な甘い餡ではなくこだわった「餡」です。
見た目は江戸時代に焼かれたパンをイメージしつつ現代風にくるみをトッピングしました。

・価格 本体価格167円 税込価格180円(店舗により異なります)

江川太郎左衛門英龍とは・・・号を坦庵(たんなん)。幕末の韮山代官。日本を欧米の侵略から守ろうと江戸幕府に軍隊制度と海防を提案。そのために品川台場の建設の指揮、そこへ設置する大砲を造るための韮山反射炉の築造を行う。軍隊で食べる兵糧食としてのパンを焼いたので「パン祖」といわれる。

■今後の展開
静岡県東部発祥のパンメーカー(沼津市)として、伊豆韮山発祥のパン祖と呼ばれる「太郎左衛門」の冠をつけたパンを現代風にアレンジし開発していきます。静岡県内をはじめバンデロール店舗で「特別なパン」として取り組みます。同時に、このニュースを各業界に伝え静岡県東部の地域活性化を図ります。

■会社概要
商号   : 株式会社バンデロール
代表者  : 代表取締役 結城 馨
所在地  : 〒410-0835 静岡県沼津市西島町20-2
設立   : 1972年8月
事業内容 :パン・洋菓子・サンドイッチ類の製造及び販売
(ベーカリー、ベーカリーカフェ、ショップの運営)
関東地区44店舗、静岡県下24店舗
東海地区1店舗、洋菓子工場、パン冷凍生地工場
資本金  : 3,000万円
URL     : http://www.banderole.co.jp/
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今日は旧暦で土方歳三さんが亡くなった日、箱館で友人が法要をしてくれます。今日は一日、祈りの気持ちをもって過ごそうと思います。

福島
戊辰戦争の資料展示 会津若松で150年に向け「戊辰と明治展」
 戊辰戦争から150年となる2年後の節目に向け、会津若松市の歴史研究家ら有志でつくる「会津戊辰戦争150周年事業実行委員会」の記念事業「戊辰と明治展」は11日、同市文化センターで開幕し、鶴ケ城の写真など当時をしのぶ資料を紹介している。12日まで。

 「会津の戊辰戦争から明治復興の姿まで」をテーマに開き、古記録、絵地図、明治期のはがき写真、寺社の複写、町家の記録などを展示している。旧会津藩士が政府を相手に裁判を起こし、公債発行(復禄)を勝ち取った復禄訴訟の記録も紹介している。

 同実行委は2018(平成30)年の150周年に向け、全6回の展示会などの事業を企画している。12日は午前9時~午後3時。

【若松の歴史探訪】城下町が見えてくる (6月9日)
 2年後の戊辰戦争150年を見据えたまち歩きイベント「歴史探訪」が今年度から会津若松市で始まる。テーマを変えて3年連続で催す。初年度は郭門[かくもん]跡巡りがテーマ。第一弾として18日に約150人が外堀に設けられた郭門跡を回る。戊辰戦争や市街化で失われた東日本最大級の城下町の往時の姿を体感できるはずだ。教育旅行や外国人観光客誘致につなげたい。
 会津若松観光ビューローなどで組織する実行委員会が初めて企画した。歴史の転換点を再確認し、郷土愛を育む。
 江戸時代の城下町は、鶴ケ城を核に土塁や外堀で囲まれた区域が郭内[かくない]と呼ばれ、上級武士の屋敷、藩校などがあった。16の郭門を造り、外堀に橋を架けた。防御の要であると共に、中・下級武士、商人、職人らが住む郭外[かくがい]との出入り口になった。18日は東半分の9カ所、11月開催予定の第2回は残りを歩く。
 戊辰戦争後、土塁、外堀、郭門は取り壊された。甲賀町口に郭門の石垣、花春町に土塁が残るのみだ。巨大な城下町の全容を思い描くのは難しい。會津風雅堂付近の路上、住宅街、会津工高の校門前…。歩いてみると思わぬ場所に郭門があったことに気付く。道路の屈曲した場所が多い。天守閣など城の中枢を見通せないようにし、敵の侵入を防ぐための工夫だった。
 高低など地形もよく分かる。城下町は湯川や車川の扇状地に造られた。西に向けて傾斜が下がっている。東山や滝沢地区からの水が地下排水溝や一部の水路を音を立てて流れていく。醸造など伝統の食文化を育んだ水資源の豊かさに驚く。山国ながら「水の都」でもあったのだ。以前は水路が縦横に走っていたという。復活させたら、まち並みに潤いを与えるだろう。
 歴史探訪は教育旅行の絶好の教材となる。訪れる児童生徒は東京電力福島第一原発事故発生前の水準に戻っていない。実行委員会は参加者用に詳しいパンフレットを作成する。誘致の素材などに活用してほしい。城や飯盛山など定番に加え、新たな観光ルートに育つ可能性を秘めている。ただ、案内板や道順表示はほとんどない。外国語表記を含めた整備を求めたい。
 鶴ケ城ボランティアガイドが案内役を務める。郭門跡を下見し、歴史や構造を学んでいる。市民総ガイド運動実行委員会とビューローが運営しているが、後継者育成が課題だ。歴史探訪を機にガイドの楽しさが広まり、希望者が増えるといい。おもてなしの充実は観光都市の魅力を向上させるに違いない。(鞍田 炎)

静岡
太郎左衛門あんぱん発売!~パン祖、江川太郎左衛門が焼いたパンをイメージし開発したあんぱんです~
株式会社バンデロール(本社:静岡県沼津市西島町20-2、代表取締役:結城 馨、以下 バンデロール)は、6月18日よりパン祖と呼ばれる江川太郎左衛門英龍が伊豆韮山で初めて焼いたパンをイメージし懐かしく素朴な生地に特別製法の小豆の風味豊かな低糖あんを包み込み焼き上げたあんぱん「太郎左衛門あんぱん」の販売開始いたします。
太郎左衛門あんぱん発売!

~パン祖、江川太郎左衛門が焼いたパンをイメージし開発したあんぱんです~


株式会社バンデロール(本社:静岡県沼津市西島町20-2、代表取締役:結城 馨、以下 バンデロール)は、6月18日より太郎左衛門あんぱんの販売開始いたします。バンデロールは関東、中部を中心とした焼き立てベーカリーチェーンです。

▼http://www.banderole.co.jp/

■メニューの紹介

太郎左衛門あんぱんの特徴・・・パン祖と呼ばれる江川太郎左衛門英龍が伊豆韮山で初めて焼いたパンをイメージし懐かしく素朴な生地に特別製法の小豆の風味豊かな低糖あんを包み込み焼き上げたあんぱんです。


江戸時代後半に江川英龍がはじめて焼いたパンは「乾パン」に近いと聞いており、そのまま再現するのではなく、それをイメージしつつ、小さなお子様からお年寄りまで美味しく食べられる食材、製法で焼き上げました。
また、代々続く江川邸の歴史の重さのイメージや伊豆の素朴な大自然、反射炉の力強さをイメージした商品としました。

生地はリッチ過ぎず、素朴で懐かしさを感じる配合。
餡は特別製法で糖度を低くし、小豆の風味がより引き立てられるよう、また、粒を多く残すことによって小豆感を感じられるよう工夫をしました。単純な甘い餡ではなくこだわった「餡」です。
見た目は江戸時代に焼かれたパンをイメージしつつ現代風にくるみをトッピングしました。

・価格 本体価格167円 税込価格180円(店舗により異なります)

江川太郎左衛門英龍とは・・・号を坦庵(たんなん)。幕末の韮山代官。日本を欧米の侵略から守ろうと江戸幕府に軍隊制度と海防を提案。そのために品川台場の建設の指揮、そこへ設置する大砲を造るための韮山反射炉の築造を行う。軍隊で食べる兵糧食としてのパンを焼いたので「パン祖」といわれる。

■今後の展開
静岡県東部発祥のパンメーカー(沼津市)として、伊豆韮山発祥のパン祖と呼ばれる「太郎左衛門」の冠をつけたパンを現代風にアレンジし開発していきます。静岡県内をはじめバンデロール店舗で「特別なパン」として取り組みます。同時に、このニュースを各業界に伝え静岡県東部の地域活性化を図ります。

■会社概要
商号   : 株式会社バンデロール
代表者  : 代表取締役 結城 馨
所在地  : 〒410-0835 静岡県沼津市西島町20-2
設立   : 1972年8月
事業内容 :パン・洋菓子・サンドイッチ類の製造及び販売
(ベーカリー、ベーカリーカフェ、ショップの運営)
関東地区44店舗、静岡県下24店舗
東海地区1店舗、洋菓子工場、パン冷凍生地工場
資本金  : 3,000万円
URL     : http://www.banderole.co.jp/

兵庫
幕末から明治の偉業紹介
◇益習の集い 岡田鴨里、立木兼善パネルで

 淡路島で生まれ、幕末から明治に活躍した儒学者・岡田鴨里おうりと官僚・立木兼善を紹介するパネル展が、淡路市役所1階ロビーで開かれている。17日まで。

 「庚午こうご事変」を代表とする島の歴史を調査・研究する「益習の集い」の主催。洲本市立淡路文化史料館や神奈川県立歴史博物館所蔵の未公開資料から、2人の偉業を浮き彫りにした。

 岡田鴨里は今の淡路市中田王子地区に生まれた。漢学者・頼山陽に師事し、勤王運動に大きな影響を与えたという。徳島藩の洲本学問所では教授を務め、庚午事変で藩士の暴走を止めようと奔走した。

 現在の同市仮屋地区出身の立木兼善は、官僚として事変の調停にあたった。福島、長野、福岡各県の知事を歴任、争乱の収拾に尽力する生涯だった。

 会場では事変で命を落とした志士の子孫、三宅玉峰さん(63)が解説を担当する。洲本市から訪れた立木浩一さん(75)は「よく調査された企画で頭が下がる。歴史に埋もれた事実をどんどん掘り起こして」と話した。

 無料。午前9時~午後4時。


三重
幕末の記者魂、iPadで伝授 三重・松浦武四郎記念館
 北海道の名付け親として知られる幕末~明治期の探検家、松浦武四郎(1818~88年)は、優れたジャーナリストでもあった。生まれ故郷の三重県松阪市(旧三雲町)にある松浦武四郎記念館には、「記者」の原点とも呼べる史料が所蔵されている。

 中でも記念館の学芸員、山本命(めい)さん(40)が「告発の書」と評するのが「近世蝦夷(えぞ)人物誌」だ。江戸末期、幕府の依頼で蝦夷地を歩き回る中で、支配していた松前藩によるアイヌ民族への弾圧を見聞きした。

 《アイヌ民族に男女問わず強制労働をさせ、病気になっても手当せず、言うことを聞かない者は縄で縛りせっかんし、梅毒をうつされる女性もおり、妊娠すれば堕胎させ、二度と子どもを産めない体になる女性も多い……。》
 ここから先は有料の記事配信で。

佐賀
幕末の「牛津駅絵図」公開 宿場町にぎわい伝える小城市立歴史資料館
 幕末期、長崎街道沿いの牛津宿の様子を描いた「牛津駅絵図」が、同市小城町の市立歴史資料館に展示されている。絵図には、宿に住んでいた人たちの住居をはじめ、寺社や藩施設など建物の形がびっしりと記され、宿場町のにぎわいと共に、鍋島藩にとって牛津がいかに交通の要衝地であったかがうかがい知れる貴重な史料を見ることができる。7月3日まで。

 「牛津駅絵図」は今年3月、幕末期の牛津宿の様子が分かるとして市重要文化財に指定された。市教育委員会文化課によると、絵図は何の目的で誰が描いたのかは不明で、「牛津宿」を「牛津駅」とした意図は分からないという。

 制作年代の決め手となったのは、絵図に記されたある世帯主名。街道沿いの寺にある墓碑と照らし合わせ、「久本兵五郎」(1825~71年)が居住していたことが特定できた。さらに小城藩が出した営業許可の文書(もんじょ)などで、宿場町で薬種業を営んでいた事実も分かった。

 他にも、絵図には藩の使いが滞在した「上使屋」や馬を飼い置いた「馬立」など藩の重要な施設も描いてある。

 絵図の最大の特徴は、どの建物にも屋根を記し、黒色と茶色に描き分けている点という。同文化課学芸員の田久保佳寛さんは「黒色は瓦葺(かわらぶ)きで茶色は茅(かや)葺きを表している。屋根の色の違いで財力の差を伝えたかったのでは」と言い、「街道沿いの空き地みたいな空白部分には『焼跡』と記されるなど、宿場町は頻繁に火事に見舞われ、防災マップの意味合いもあったのでは」と推察する。

 12日午前11時と午後1時に職員による展示案内がある。「牛津駅絵図」展の問い合わせは同資料館、電話0952(71)1132。

エンターテインメント
【尾上松也の古地図で謎解き】貿易商トーマス・グラバーと幕末の志士たちの「物語」
 こんにちは、尾上松也です。「歴史」とは過去に起こったであろう出来事を、残された資料をもとに研究し描き出した物語です。本来この物語に「面白さ」は必要とされません。ただ事実のみを並べればそれで良いのです。

 ですが、そこに面白さを見出し、想像を膨らませられるのが歴史探求の醍醐味。特に物語の登場人物が心の中でどんな事を考え、行動に至ったか?その心情を想像するのが歴史探求最大の楽しみと言えるかもしれません。

 さて、今回の番組では明治維新直前の長崎を舞台に、貿易商トーマス・グラバーと幕末の志士たちの「物語」にスポットを当てます。武器商人として日本に大量の武器を持ち込んだとされるグラバーとはいったいどんな人物だったのか?坂本龍馬、五代友厚など幕末の志士たちがグラバーと深い関係を築いたのは何故なのか? 明治維新後も永住の地として日本を選んだトーマス・グラバーの知られざる素顔と幕末の志士たちとの関係に迫りながら、激動の時代を駆け抜けた若者たちの生き様に迫ります。ぜひ、ご覧ください。

■尾上松也(おのえ・まつや) 1985年1月30日東京都中央区出身。父は六代目尾上松助、叔父は大谷桂三(初代尾上松也)。身長178センチ。5歳のとき、歌舞伎座で初舞台。その後、数々の舞台に出演。昨年6月にコクーン歌舞伎にて「三人吉三」のお坊吉三に抜擢。また近年ではミュージカルにも年1回のペースで出演している。2014年のNHK紅白歌合戦のゲスト審査員。BS11の番組「尾上松也の古地図で謎解き!にっぽん探究」は“初冠番組”となる。番組詳細は(http://www.bs11.jp/)まで。

コラム
幕末を駆け抜けた坂本龍馬は何を見て、何を考え、何を夢見たのか
幕末の偉人ランキングで圧倒的な人気を誇る、坂本龍馬。薩長同盟や、龍馬が暗殺された近江屋事件などは歴史にそれほど関心の無い方でもご存知のことでしょう。無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』に、そんな龍馬に関する数々のエピソードが綴られています。

人物探訪:坂本龍馬、海洋立国の夢

アメリカに漂流して、彼の地で航海術などを学び、日本に戻ってきたジョン万次郎に、坂本龍馬が初めて会ったのは嘉永5(1852)年の末頃であったと言われている。友人に勧められて、万次郎の話を聞きに行ったのである。龍馬18歳の時であった。

万次郎が滞在したヌーベッポー(ニューベッドフォード)という町には何百隻もの巨大な捕鯨船が浮かんでいて、その港の砲台には大砲が20門ほど置かれている。大きなものは口径8寸(24センチ)もある。お城の石垣程度のものなら、弾丸一発で打ち砕いてしまう。蔵にはその砲弾を何千発とも知れないほど収めているという。

軍艦はそんな大砲で撃たれてもなかなか砕けない。1隻に500人ほど乗る船は珍しくなく、戦のときには1,500人も乗り込むそうである。

龍馬はさらに航海の術について尋ねた。万次郎は、アメリカで一等航海士という偉い船頭の資格をとっており、地図とオクタント(六分儀)と磁石さえあれば、陸の影も見えない大洋に船を乗り出しても迷わないという。

龍馬は夢の中の出来事を聞いているような気がした。胸が躍ってならなかった。

黒船来る

翌嘉永6(1853)年、龍馬は剣術修行のために江戸に出た。江戸に着いてまもない6月4日の朝、アメリカの黒船が浦賀沖に現れたという知らせが届いた。万次郎の語ったアメリカの軍艦を直接目にすることになったのである。

旗艦サスケハナ号は長さ約78メートル、幅14メートル、数十門の大砲を備えていて、日本人には巨大な浮城のように見える。そんな黒船が4隻も現れた。

龍馬は土佐藩の品川屋敷のある大森海岸の防備に駆り出され、土手を築き、垣を結んだ。やがて幕府がペリーから受け取ったアメリカ国書の内容は、龍馬たちの耳にも伝わってきた。

蒸気船ならカリフォルニアから、パシフィック・オセアン(パシフィック・オーシャン、太平洋)を渡って18日間で日本に達することができる。カリフォルニアは毎年金6,000万ドルを産し、日本の様々な産物と交易を行えば互いの利益になる。また日本沿岸で捕鯨を行うアメリカ船舶が、日本で石炭、水、食料を補給できるようにしたい。そのために通商交易条約を結びたいというのだ。

日本がそれに応じなければ戦争を仕掛ける、という姿勢で、黒船は品川沖で空砲を鳴らし、沿岸に詰めかけた数万の諸藩兵を驚かせた。

アメリカは近頃メキシコと戦争をして、カリフォルニアを含む領地のおおかたをとってしまったが、その理由はメキシコがアメリカの蒸気船に領地の海辺に近寄るのを咎めたためであるという。

「外国と通商することがなぜいけないのか」

龍馬が江戸で師事していたオランダ砲術の権威・佐久間象山は、こう主張していた。

今戦えば我らに勝ち目はない。ひとたび敗れたときは皇国は滅亡、我らは異族の奴隷となるのだ。

江戸の沖に常に5、6隻の黒船がいて、大坂からの千石船を捕らえ、米などの消費物資の海上輸送を遮断すれば、江戸は10日ももたない。廻船の輸送量を牛馬によって陸路で運ぶことは不可能である。

と言う。確かにそのとおりであると龍馬は思った。今はアメリカの要求を入れて通商を行い、それを通じて国力を養って、国防力を充実させるのが、日本の生きのびる道である。

一方、ジョン万次郎は幕府の老中たちに意見を聞かれて、アメリカが日本を攻め取ることはないと答えていた。カリフォルニアのように莫大な金が算出する国であれば戦を仕掛けることもあるが、日本はそれほどの物産はなく、また遠い。軍艦を何十隻も派遣して攻めるよりも、仲良くして石炭などを分けて貰うのが得である、とアメリカは考えるはずだという。

龍馬はこれもまたその通りだと思った。龍馬が幼い頃によく遊びに行っていた遠縁の廻船問屋は江戸に米や鰹節などを運ぶ千石の大廻し船を何隻も運用して、大きな利益を上げていた。

外国と通商することがなぜいけないのか、と龍馬は考えた。

「自由な大海に漕ぎ出したい」

およそ1年ほども江戸に滞在して、龍馬が高知に帰ったのは、安政元(1854)年6月下旬のことであった。翌年正月に龍馬は河田小龍を訪れた。河田はジョン万次郎を自宅に寝泊まりさせて、聞き書きを行っていた人物である。

河田は「このような非常のときに1つの商業を興してはどうじゃ」と龍馬に薦めた。そして万次郎から聞いた話をもとに、こう語った。

アメリカじゃあ商業の元手をこしらえるのに、株仲間のような者を大勢集め自在に大金を融通しゆうがじゃ。お前(ま)んらぁがそこのところを工夫して、株仲間を何とかしてこしらえて1隻の蒸気船を買うてみい。

同志を募り、日本中を往来する旅人やら諸藩の蔵米、産物を運んだら、蒸気船運航に使う石炭、油の費用や同志の給金を払うことができるろうが。

そうやって操船の稽古をすりゃ、しだいに航海の術も身につくというもんぜよ。盗人を捕まえて縄をなうというような有り様で始めても、1日でも早う蒸気船の運用を始めざったら、いつまでたっても外国に追いつけんがじゃ。

小龍の言葉に龍馬は刺激されたが、高度な蒸気船を動かせる秀才は数が少ない、と言うと、小龍はこう応じた。

日頃俸禄を仰山もらいゆう上士にゃ志というものがありゃせん。志を持ちゆう者は、ひと働きするにも元手のない下士、百姓、町民ら下等人民の秀才ぜよ。そがな下等人民の秀才は俺の弟子にも多少はいゆう。働かせりゃ工夫するぜよ。

大洋を自由に航海する蒸気船は、また身分制度からも自由な世界であった。龍馬は自由な大海に漕ぎ出したいと思った。

「蒸気船の扱いを覚えたいがです」

文久2(1862)年3月、龍馬は脱藩した。城下で剣術道場を開く資格は得ていたが、もはや高知に留まる気はなかった。

江戸に出て、ジョン万次郎の紹介状を持って勝麟太郎を訪れ、弟子入りを頼んだ。勝は長崎海軍伝習所で教監を務め、また幕府の使節を乗せた咸臨丸を操って、太平洋横断を果たした人物である。

「俺の弟子になって何をしたいのかね」と聞かれて、龍馬は「蒸気船の扱いを覚えたいがです」と答えた。さらに「尊王と攘夷についてどう考えているのかね」と聞かれて、

「攘夷はとても無理ですろう」

「そうか。それなら無理を言わず異人の言うがままに商いをするのかね」

「そこが知りたいがです。攘夷をやらにゃあ異人がのさばりますろう。けんど今の日本じゃとても勝てん。そうなると、異人と同じ土俵で相撲がとれるほどの力を持つまで待たにゃあいかんですろう」

麟太郎は笑いながら「土佐にいながら天下の形勢をよく知っているじゃないか」と言って、弟子入りを許した。

海軍建設

勝は龍馬を護衛役として側に置きながら、いろいろ話して聞かせた。

攘夷の戦いを日本の側から起こせば、イギリス、フランスは対馬、壱岐、佐渡を占領する。アメリカは伊豆七島、ロシアは蝦夷を占領するだろう。淡路島も乗っ取られかねない。そうなれば航海の道はすべて閉ざされ、全国は籠城の有り様になる。危機に迫られると一揆が方々で起こる。その苦しみに耐えかね、外国につく者が現れると日本は外国の属国になるだろう。

そのような事態を未然に防ぐために、勝は西洋諸国と対抗できるほどの陸海軍を作るという意見書を幕府に提出していた。日本全国を6つの海域に分けて、それぞれに艦隊を置くという案である。

その経費を捻出させるためには、各大名に海外貿易を許し、それを財源に10万石あたり蒸気軍艦1隻などと費用を出させる。この案に従えば、軍艦300隻の海軍を建設することも可能であった。

しかし、軍艦は金で揃えることができても、それを動かす人材が問題である。勝と龍馬は神戸に海軍塾を作る準備を進めた。先頃まで将軍側近であった大久保忠寛(ただひろ)越中守も、それを励ましてくれた。

貴公らが麟太郎と相計って神戸に海軍塾を開く支度をしておるそうだが、それが肝心だ。海軍を大いに発展させるため幕府は、アメリカ、オランダに軍艦を注文している。だが、その操船を自在にいたす航海乗り組みの学生を取り立てねばならんのだ。幕府の先の読めない腑抜け役人どもができることではない。貴公らが操船を自在にできるよう一日も早く学び取らねばならぬのだ。

文久3(1863)年4月、将軍家茂は神戸に海軍操錬所を建設し、その入用金として年3,000両を下すことを決めた。また勝の門人たちを引き連れて、私塾として海軍塾を開くことを許した。龍馬はその設立と運営に奔走した。

亀山社中

元治元(1864)年6月19日、長州勢と幕府方が京都蛤(はまぐり)御門にて衝突した。この際に操錬所生徒である因幡藩士数十名が長州方に味方したとして、勝は江戸表に呼び戻された。

勝は薩摩の西郷吉之助(隆盛)に、龍馬以下6人の土佐藩脱藩者の庇護を頼んだ。西郷は、龍馬の人を引きつける性格と時代を切り開いていく才覚を認め、密貿易をさせつつ、いずれ長州藩に薩長連合を勧める使者として働いて貰おうと考えた。

元治2(1865)年、龍馬らは長崎の町はずれの亀山という山麓の地に宿舎を与えられ、薩摩藩から毎月給金を貰うようになった。彼らの結社は「亀山社中」と呼ばれ、ここを根拠地として密貿易にあたることになった。

5月、龍馬は下関に潜入し、西郷の使者として、長州の指導者・桂小五郎と会った。長州は幕府軍15万の大軍を迎え撃たねばならないという窮地に陥っていた。しかし、薩摩は蛤御門の変で幕府方についていたので、「いまさら薩摩の芋と手を結べるか。そんなことを抜かす奴は首を斬れ」という声が上がるほどだった。
薩長同盟を実現した交易

龍馬は桂にこう持ちかけた。

長州の四境に幕軍が間なしに参りますきに、外国から薩摩の名義で蒸気船、鉄砲を買い入れ、尊藩に持ち込むというのはいかがですろう。

桂は思わず、龍馬の顔を見直した。幕府の大軍を迎え撃たねばならない長州にとって、これはよだれの出るような好餌である。龍馬は亀山社中の同志を使って、最新式の小銃7,500丁と蒸気船1隻を調達し、約束通り、長州に収めてみせた。

一方、薩摩は長州征伐には参加せず、京都に大兵力を集めて、幕府を牽制することとした。西郷はそのための兵糧を長州から借りてくれるよう、龍馬に依頼した。「さしあたって500俵もあればえいですろう」と龍馬は承知して、すぐに山口に行き、桂から快諾を得た。

こうした実利的な助け合いを通じて、薩摩と長州は旧怨を解き、同盟関係を築いていった。その掛け橋となったのが、龍馬の働きだった。

実現した海洋立国の夢

兵糧貸与の話がまとまった後、龍馬は下関で貿易を営む大商人・伊藤助太夫の家に泊まり込んで、杯を交わした。助太夫は、長州と幕府の戦いが終われば、蝦夷の海産物などを買い入れる交易をしたいと言った。北前船は1隻作るのに千両かかるが、蝦夷へ3度も行けば元手がとれるという。

龍馬は感心した。「まっことのう。蒸気船を使うたらなお儲かるろうねや」

龍馬は今は亀山社中の同志と共に、薩長の必要とする武器などの購入を行っているが、戦が収まれば長崎、下関を根拠地に蝦夷や上海、さらには広東からルソンに行き来して貿易をしたいと考えていた。蒸気船を使えば、パシフィック・オセアン(太平洋)を渡ってアメリカとの交易もできる。それによって国を富まし、日本を異国から守れるだけの海軍も持つことができよう。龍馬の夢は広がっていった。

龍馬はその夢を実現するひまもなく、慶応3(1867)年11月、京都にて何者かに暗殺されてしまった。しかし、海外貿易の夢を抱いていたのは龍馬だけではなかった。「海外貿易の志士」森村市左衛門などはその好例である。

さらに神戸の海軍操錬所を淵源の1つとする日本海軍はやがて日清・日露戦争を通じて国家の独立を維持し、英米と並ぶ世界3大海軍の1つとして数えられるまでになった。

龍馬の描いた海洋立国の夢は幕末から明治にかけての日本人全体が共有していたもので、多くの人々の努力によって実現されたと言える。

文責:伊勢雅臣

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ブックレビュー
新選組が殺した人数は敵よりも味方の方が多かった! 内部事情を粛清された人々の視点から探る
 現在放送中のNHK大河ドラマ『真田丸』の視聴率が好調だ。ここ数年、低視聴率が続いただけに話題になっている。年配の方からはふざけているとの声も多少あがっているようだが、脚本を手がける三谷幸喜らしいポップともいえる演出は親しみやすく見ていて楽しい。三谷幸喜といえば、2004年の『新選組!』も好評だった。こちらも香取慎吾演じる局長・近藤勇を中心に仲間たちの絆が描かれつつ、笑えるシーンもちりばめられ、日曜の夜が明るくなるドラマだった。元々歴史好きには人気のある新選組だが、さらにファンを増やしたに違いない。

 今でこそ幕末のヒーロー的扱いを受ける新選組だが、昭和3年に子母沢寛が『新選組始末記』と題した小説を著すまで、血も涙もない人殺し集団として一般的には嫌われていたことをご存じだろうか。しかも、敵のみならず味方まで多くの人が殺しているという。『新選組 粛清の組織論』(菊地 明/文藝春秋)では、新選組が屯所とした西本願寺の侍臣・西村兼文の『新撰組始末記』や、元幹部隊士・永倉新八の『新選組奮戦記』など、当時を知る人々が残したあらゆる史料を丹念に読み解き、新選組の内部で殺された人々を考察した一冊である。

 まず、新選組には次のようないわゆる局中法度があった(当時の史料を見る限り、「局中法度」などと誰も呼んでないらしいが…)。

第一士道背くこと、第二局を脱すること、第三勝手に金策を致すこと、第四勝手に訴訟を取り扱うこと、四箇条を背くときは切腹申し付くること、またその宣告は同志の面前で言い渡すと定(き)めた。
『新選組奮戦記』

 隊士が増えるにつれて、農民や町人、下級藩士の脱藩者からなる烏合の衆をまとめるものとして必要とされたのだろうが、いくらなんでも切腹とは性急に過ぎる。本書によると、正規の武士であれば、改易や蟄居、隠居などの罪に応じた刑罰があったものの、それは守るべき家があるからこそであり、身ひとつの隊士たちには守るべき家も名誉もなかったからだとする。それにしても、何か不祥事があれば簡単に殺されそうな感がある。

 実際、本書によると殺した敵が26人であるのに対し、殺した味方は40人にのぼるという。殺された理由は、局長批判、脱走、金策、脱退志願、反幕活動、士道不覚悟などが挙げられている。中でも有名な2人について取り上げてみよう。

近藤勇と並ぶ初代局長・芹沢 鴨

 新選組の前身である壬生浪士組創設時の局長は、芹沢鴨と近藤勇。水戸藩郷士の芹沢を中心とするグループと、多摩の農民上がりの近藤勇を中心とするグループから成っていたからだ。彼らをまとめるのは「尊王攘夷」の一点であり、芹沢グループと近藤グループの間には「攘夷」に対するスタンスが違ったとされる。水戸藩出身の芹沢が藩の教えにより朝廷第一に考える「尊王敬幕」であるのに対し、近藤らは幕府を第一とする「尊王親幕」だった。

 さらに、芹沢は型破りで酒癖が悪い乱暴者だったことで知られる。芹沢の金策を断った生糸問屋・大和屋の襲撃事件は新選組ファンの間では有名な話。この事件をきっかけに新選組を預かる会津藩から芹沢の“処置”を命じられた近藤は、これを殺害指令と捉え、芹沢グループの平山五郎や芹沢の愛妾・お梅らとともに寝込みを襲って殺害している。

新選組ナンバー2・山南敬助

 山南敬助は、近藤勇が多摩の天然理心流剣術道場の四代目宗家を務めていた頃からの同志。文武両道でグループのブレーンでもある山南は、壬生浪士組創設時、土方歳三とともに副長の座にあった。しかも、本書は史料を見る限り、近藤グループの中では土方歳三よりも格上で、近藤に次ぐ二番手に位置づけられていたと考察する。

 ところが、慶応元年2月に突如脱走を図り、すぐに沖田総司に連れ戻され切腹し果ててしまう。なぜ規律違反を犯したのか、理由は史料に残っていないため判然とせず、諸説ある。本書では、より親幕に傾倒していた近藤が反幕派の長州藩とつながりが深い西本願寺を監視下に置くべく、西本願寺を新選組の屯所としようとしたことに山南が反対し、山南はそれが近藤に受け入れられなかったために諌死を遂げたとする。近藤は同志である山南の死を望んだはずはないが、局長と副長の対立という事態を隊士に伏せたかったのだと考える。

 つまり、新選組は敵を殺す以前に組織の内部抗争が絶えなかったわけだ。それは、「尊王攘夷」はともかく、幕府に対する態度という点で思想の違いが局長以下をぎくしゃくさせる原因のひとつになったようだ。親幕として組織をまとめた結果、慶応3年、新選組は隊士全員が幕臣となり、近藤は旗本に取り立てられている。

 ただ、粛清を繰り返したことで新選組ばかりを非難することもできない。この時代、長州や薩摩など活発な動きを見せた藩はいずれも、親幕か反幕か、はたまた攘夷か開国かで揺れ動き、内部粛清によるさまざまな事件が起こっている。ご存じの通り、幕府は倒され開国へと突き進んでいくわけだが、その中で新選組は粛清を繰り返すも時代に取り残され散っていった哀しい組織といえる。

文=林らいみ

モスクワ
プチャーチン提督を供養=日ロ交流で斉藤元防衛庁長官
 【モスクワ時事】日ロ交流に力を入れている斉藤斗志二・元防衛庁長官(71)が7日、幕末に下田で日露通好条約を結んだロシアのプチャーチン提督(1803~83年)の功績をたたえ、モスクワのダニーロフ修道院で供養を行った。
 斉藤氏は、プーチン大統領に近いロシア正教会関係者と会談。「安倍晋三首相と大統領が合意した協力プランに含まれる人的交流を推進し、日ロの理解を深めたい」と述べた。

7日、モスクワのダニーロフ修道院で、プチャーチン提督を供養する斉藤斗志二・元防衛庁長官(右)
 プチャーチンは1853年、日本に開国を求めて初来航したが、54年の安政地震による津波で「ディアナ号」が大破。戸田村(現静岡県沼津市)で帰国のため、日本初の洋式船「ヘダ号」を村民と船員が協力して建造した。55年2月7日の日露通好条約は北方領土を日本領と定めた。 
 斉藤氏はかつて、この日ロ友好の逸話を題材としたアニメ「幕末のスパシーボ」の制作に尽力。アニメのビデオは、1997年のクラスノヤルスク会談で当時の橋本龍太郎首相からエリツィン大統領に贈呈された。(2016/06/08-00:10)

鹿児島
幕末薩摩の外交資料120点 黎明館で企画展
 幕末の薩摩藩の外交に関する資料などを展示する企画展「幕末薩摩外交―情報収集の担い手たち―」が鹿児島市の県歴史資料センター黎明館で開かれている。9月11日まで。

 薩長同盟150年を記念した企画。薩長同盟の成功や薩摩藩が幕末に政治的指導力を発揮した背景に、優れた情報収集、分析の能力があったことを紹介しようと、関係資料を集めた。

 展示されているのは、資料約120点とパネル約80点。薩長同盟が締結された場所ともされる京都の近衛家別邸の絵図、薩摩藩英国留学生の町田久成が西郷隆盛と大久保利通に宛てた書簡などが並ぶ。前野良沢らが翻訳した医学書「解体新書」も来館者の目を引いている。

 灰床義博館長は、「薩摩藩は海外から直接情報を入手するなど、情報収集に力を入れていた。国内外の情報ネットワークを駆使した藩の外交について、関心を深めてもらいたい」と話している。

 月曜休館。入館料は常設展と共通で、一般310円、高校・大学生190円、小中学生120円。問い合わせは黎明館(099・222・5100)へ。

福島
<戊辰戦争>150年へ市民ら多様な事業企画
 2018年に150周年を迎える戊辰戦争(1868~69年)の真実を調べ、後世に伝えようと、福島県会津若松市の市民有志が「会津戊辰戦争百五十周年事業実行委員会」を結成し、活動を始めた。今後3年間、さまざまな事業を展開する計画。6月11、12日には市文化センターで史料の展示会「戊辰と明治展」を開く。
 実行委は昨年12月、会津若松市や仙台市の7人の呼び掛けで発足。歴史春秋社(会津若松市)の阿部隆一社長が会長に就任した。
 同市の阿弥陀寺にある「復禄(ろく)記念碑」前で今年3月に碑前祭を開催し、活動をスタート。士族に与えられる金禄公債の交付対象から除外されたため、明治政府を相手に「復禄運動」として展開した集団提訴で勝った旧会津藩士を弔った。
 6月の展示会(入場無料)では、市内の藩士子孫宅で昨年発見された裁判の記録や名簿などを陳列する。実行委幹事長の簗田直幸さん(62)は「勝訴し旧会津藩士約3000人に公債が交付された。会津人が誇りを失わずに闘い続け、旧会津藩の存在が認められたことを示す史料」と話す。
 戊辰戦争のパネル、明治以降の会津の復興を示すはがき写真や銅版画、生活用品なども会場に並べる。
 実行委は9月にシンポジウム、12月に展示会を再び開催。郭門や樹木などを巡って戊辰戦争以前の城下の暮らしを調べるフィールドワークや「会津戊辰復興検定」なども計画する。事業は全て3年間継続する。
 簗田さんは「戊辰戦争は会津の人からも忘れられそうになっている。会津人、日本人にとって戊辰戦争とは何だったのか一つ一つ事実を掘り起こし、若い世代に伝えたい」と話す。
 連絡先は簗田さん090(4555)7347。



東京
ふるさと納税に新選組が「出陣」 日野市、返礼品に土方歳三セットも
 日野市は六月一日から、「ふるさと納税」制度を利用して寄付した人に全国的な知名度を誇る新選組の関連グッズを返礼品として贈呈する。
 新選組関連の返礼品は、クリアファイルや手ぬぐい、扇子などの同市出身の新選組副長土方(ひじかた)歳三セットをはじめ、トートバッグや一筆箋などを詰めた新選組セット、歴史資料をまとめた図録セットの三パターン。どのグッズも市内の資料館で購入できるが、インターネットでは販売していないという。
 ふるさと納税は、出身地や応援したい自治体を選んで寄付すると、一定の住民税や所得税が軽減される仕組み。寄付を募るための自治体間の競争が激化しているが、市によると二〇一五年度のふるさと納税による同市への寄付は二十二万円。一方、他の自治体に寄付したことで、日野市に入ってこなかった税額は二千四十一万円に上るという。
 大坪冬彦市長は三十日の定例記者会見で「出入りの差があまりに大きく、このまま放置するわけにはいかない。寄付金額は年間三百万円を目指す」と述べた。
 新選組グッズのほか、多摩地域最古のビールとされ、市が昨年復刻した「トヨダビール」の六本セットも準備した。どのセットも三千円相当で、一万円の寄付につき一セットを選べる。ふるさと納税専用サイト「さとふる」から申し込む。 (加藤健太)

千葉
幕末の会津藩士を慰霊 古武術演武、墓前で奉納 富津
 幕末に東京湾防備で亡くなった会津藩士を弔おうと、房総半島会津藩士顕彰会は5日、藩士の墓がある富津市竹岡の松翁院で慰霊祭を行った。会津若松市の斎藤勝副市長ら会津の関係者を含めた約20人が参列し、 ・・・

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佐賀
江戸初期から維新激動期まで 佐賀と会津関わり探る佐賀市で講演会 龍造寺氏末裔も参加
 佐賀や会津の幕末維新期をテーマにした講演会「戊辰会津戦争の真実-会津・薩摩・佐賀の関わり」が5月29日、佐賀市の佐賀城本丸歴史館であった。県内外の歴史ファンら約160人が、佐賀藩と会津藩の興味深い関係などについて知識を深めた。

 会では、会津龍造寺氏の末裔(まつえい)である橋本靖明氏が「会津龍造寺家の歴史」の演題で講演。佐賀藩の実権を鍋島家に奪われた龍造寺家が、江戸初期に会津藩に預けられた経緯や、会津松平家の家臣となった後の処遇、子孫が幕末に禁門の変や会津戦争で活躍したことなどを紹介した。

 歴史研究家の大山格氏は「会津の明治二年」の演題で、会津戦争で敗れた松平家が改易された斗南(となみ)藩(青森県東部)での苦労などについて話した。また歴史研究家・中西豪氏は「戊辰会津戦争と佐賀藩の重火器」と題し、アームストロング砲やスペンサー騎兵銃が会津若松城攻略に果たした役割などを話した。

 講演会は、佐賀戦国研究会(深川直也代表)が開き、今回で8回目。2018年に維新150年を迎えるのを前に、県内でなかなかムードが盛り上がらないことなどから幕末維新期をテーマに選んだ。

寄稿 
「幕末佐賀藩の科学技術」上巻・下巻の刊行によせて

■多くの新事項を解明

 三重津海軍所の世界遺産登録を目指して、佐賀市・佐賀県などによって幕末期の佐賀藩の科学技術に関する遺跡の発掘と分析が行われ、多くの新しい事項が解明された。これらの成果を基に「幕末佐賀藩の科学技術」上巻・下巻(岩田書院、平成28年2月)を刊行した。

 上巻は「 ... 以下、同文。

新潟
長岡城:「御三階」を再現 図面もとに30分の1の模型化 牧野家史料館で展示 /新潟
長岡市は、長岡城のシンボルだった「御三階(おさんがい)」の復元模型を作成し、同市幸町2の長岡藩主牧野家史料館に展示している。実物の30分の1の高さ約76センチで、白壁の3階には唐破風(からはふ)と呼ば…
 以下、同文。

愛媛
大洲藩・新谷藩の歴史本 内子の芳我さん
◇江戸~幕末5章形式

 大洲藩と支藩・新谷藩の歴史をまとめた本「大洲藩・新谷藩」を元県立内子高校教頭で内子町誌編集委員の芳我はが明彦さん(61)(内子町)が出版した。好学の藩風が息づき、幕末には勤王藩として明治維新に貢献した歴史を紹介している。

 本は、全国の藩の歴史を紹介する「シリーズ藩物語」の一つ。芳我さんは高校で歴史を教えていたことなどから、出版元の現代書館(東京)から2011年頃に執筆を依頼された。

 古里の歴史を知る良い機会だと思い、大洲市立博物館や内子町が保存する庄屋の記録「高橋文書」などの資料を調べ始めた。

 大洲藩は1609年、淡路国(兵庫県)から脇坂安治が入ったことに始まる。17年には加藤貞泰が伯耆国(鳥取県)から入り、明治まで加藤家が13代にわたって治めた。幕末期、最後の藩主・泰秋は、戊辰戦争に出兵するなど勤王を貫いた。

 著書では基礎固めの江戸時代初期から幕末期までを5章にまとめた。ほかに特産の大洲和紙などについてのコラムも掲載している。

 芳我さんは「調べる時間がなかなかとれなかったが、楽しかった」と言い、「読み物風にまとめたので古里の歴史に興味を持ってもらえると思う」と話している。

 A5判変型、208ページで、1冊1600円(税別)。問い合わせは現代書館(03・3221・1321)。

隠岐で「中沼了三生誕200年展」 維新期に名声高めた地元の名士紹介
 隠岐・島後の隠岐の島町図書館(隠岐の島町西町)で「中沼了三生誕200年展」が開かれている。

孝明天皇からの御下賜品など約30点を展示

 旧隠岐郡西郷町・中村出身で、孝明天皇や明治天皇の侍講(先生)を務め、戊辰(ぼしん)戦争で参謀として活躍した中沼了三の功績を、生誕200年に際し再確認するもの。

 了三の子孫である中沼郁さんから同館に寄贈された孝明天皇からの御下賜品である茶わんや皿、了三の書など約30点を展示。了三の功績や旧・隠岐国で尊王攘夷(じょうい)を目指した思想的背景が垣間見える内容となっている。

 「こんなにすごい人が隠岐出身とは。もっと自慢すればいいのに。隠岐の人は控えめ」という、島外の来訪者からの感想を受けたという同展。感想を受け同図書館では、「了三は、三条実美ら当時の政府要人と考え方の相違から衝突し官職を辞している。生誕200年を迎えるにあたり、隠岐在住の人でも了三について知らない人は多いかも」と話している。

 6月25日には、「暮らしに役立つ図書館講座」として講師に(公財)隠岐の島町教育文化振興財団理事である牧尾実さんを迎え、「中沼了三と錦之御旗」が開催される。

 講座「中沼了三と錦之御旗」は6月25日10時30分~11時30分。いずれも入場無料。問い合わせは隠岐の島町図書館(TEL 08512-2-2341)まで。


エンターテインメント
歴史秘話ヒストリア:永瀬匡や佐野岳ら平成ライダーが新選組隊士に
 俳優の永瀬匡さんや佐野岳さん、渡部秀さんら平成仮面ライダーシリーズの出演者が、6月10日放送の歴史番組「歴史秘話ヒストリア」(NHK総合)の「新選組 ボクらの友情と青春」で、新選組の隊士を演じることが分かった。仮面ライダービーストの永瀬さんが沖田総司、仮面ライダー鎧武の佐野さんが藤堂平助、仮面ライダーオーズの渡部さんが永倉新八、仮面ライダーアギトの賀集利樹さんが近藤勇、仮面ライダーガタックの佐藤じんさんが土方歳三を演じる。

 渡部さんは「今回ライダーの先輩から後輩まで、素敵な役者の方々と新選組という男なら誰もが憧れる集団を演じることができて光栄です。ライダーもしかり、僕らにしか分からない大事なモノがあって、僕らにしか感じることができない友情があるのかもしれません」とコメントを寄せている。佐野さんは「歴代ライダー出演者を新選組に見立てた斬新なキャスティング、僕たち仮面ライダーたちだからこそ出せる空気感をぜひお楽しみください」と話している。

 「新選組 ボクらの友情と青春」では、幕末の京都で活躍した新選組の永倉新八の知られざるドラマに迫る。永倉は、大正時代まで生き残った数少ない隊士で、新選組のイメージの大本となった手記「浪士文久報国記事(ろうしぶんきゅうほうこくきじ)」を残した理由などがテーマとなる。NHK総合で6月10日午後8時から放送。


お待ちかねの超歌劇「幕末 Rock」再演の情報です。

“超歌劇『幕末Rock』黒船来航”のキャスト、公演日程、チケット情報発表!
 新作“超歌劇(ウルトラミュージカル)『幕末Rock』黒船来航”のキャストや公演日程、チケット情報などが発表された。
●新キャラクター、新ストーリー、新楽曲でいくぜよ

 ゲームやアニメで人気の『幕末Rock』の舞台版、“超歌劇(ウルトラミュージカル)『幕末Rock』”の新作となる“超歌劇(ウルトラミュージカル)『幕末Rock』黒船来航”が、東京と京都の2都市で上演決定。キャストや公演スケジュール、チケット情報などが発表された。

 以下、リリースより。


 『幕末Rock』は、2014年2月に原作ゲームがリリースされるや大ヒットし、7月にTOKYO-MX他にてTVアニメが放送され、“幕末”という時代設定のもと、志士(ロッカー)たちが音楽で新しい時代を創る、斬新で魅力的なキャラクターにあふれた大人気コンテンツ。

 その『幕末Rock』を2014年12月に、超歌劇(ウルトラミュージカル)として、吉谷光太郎氏の脚本・演出で舞台化され、本格Rockの楽曲の数々と圧巻の雷舞(ライブ)演出を若手実力派俳優たちがミュージカルで表現し、全公演満席に加え、立見も出る話題作となりました。原作ゲーム、アニメの世界観をそのままに、劇中の演出シーンの一部として、観客が実際にペンライトを振りながら公演を楽しむという観客参加型のライブ要素を取り入れた演出が大好評をいただきました。そして2015年8月には、東京・大阪で再演を上演し全公演即SOLD OUT。千秋楽には全国でのライブビューイングも敢行し大反響をいただきました。

 そしてこの夏 超歌劇(ウルトラミュージカル)『幕末Rock』黒船来航 として2都市で本格ROCKを繰り広げます! 新キャラクターも登場し、新ストーリーに新楽曲! 「新(NEW)」づくし!! 2016年夏の超歌劇『幕末Rock』にぜひご期待ください

日程・会場名
【京都】2016年8月20日(土)~8月21日(日) 京都劇場
【東京】2016年9月3日(土)~9月9日(金) EX THEATER ROPPONGI

チケットスケジュール
・オフィシャル先行一次:6/23(木)12:00~7/3(日)23:59
・オフィシャル先行二次:7/4(月)12:00~7/13(水)23:59
・一般発売:7/23(土)10:00~

<前回までのストーリー>
絶叫!熱狂!超絶頂!時は幕末。開国を拒み、新選組を利用した洗脳ソング「天歌」による強引な泰平化で国と民を支配する徳川幕府。
―「天歌」以外の歌を歌うものは“死罪”―
閉ざされた日本の姿、幕府の行動に疑問と憤りを感じる坂本龍馬をはじめとする志士たちは自由と正義の為に「Rock」の力で世界を変えるべく立ち上がる。


【超歌劇(ウルトラミュージカル)『幕末Rock』黒船来航】
■原作:「幕末Rock」(マーベラス)
■脚本・演出:吉谷光太郎
■音楽制作:テレビ朝日ミュージック

■キャスト:
坂本龍馬 役:良知真次(らちしんじ)/高杉晋作 役:糸川耀士郎(いとかわようじろう)/桂小五郎 役:三津谷亮(みつやりょう)/土方歳三 役:輝馬(てるま)/沖田総司 役:佐々木喜英(ささきよしひで)/お登勢 役:山岸拓生(やまぎしたくお)/徳川慶喜 役:Kimeru(きめる)/マシュー・カルブレイス・ペリー・ジュニア 役:兼崎健太郎(かねさきけんたろう)他

■公演日程:
【京都】京都劇場 2016年8月20日(土)~8月21日(日)
【東京】EX THEATER ROPPONGI 2016年9月3日(土)~9月9日(金)

■チケット取り扱い:EVENTIFY(イベンティファイ)
■チケット価格:一般¥7,200(税込)/プレミアムチケット(パンフレット・限定グッズ付き)¥10,800(税込)
※[プレミアムチケット(パンフレット付き)とは…] 先行予約販売のみでご購入頂けるチケットです。(オフィシャル先行2次・一般発売・当日券での取り扱いはございません。)1階の前方エリア席でご観劇頂けます。劇場にて、公演パンフレット(販売品)とプレミアムチケット限定グッズ(非売品)をセットにしてプレゼント致します。

■チケットスケジュール:
★オフィシャル先行一次:6/23(木)12:00~7/3(日)23:59
★オフィシャル先行二次:7/4(月)12:00~7/13(水)23:59
★一般発売:7/23(土)10:00~

■主催:マーベラス/テレビ朝日ミュージック/NBCユニバーサル・エンターテイメント/NAS
■協力:ギブソン

■チケットに関するお問い合わせ 超歌劇『幕末Rock』チケットサポート<support_brticket@eventify.co.jp>
■公演に関するお問い合わせ マーベラス ユーザーサポート 
TEL:0120-577-405(土日祝日 指定日除く 11:00~17:00)

(C)2014 Marvelous Inc./幕末Rock製作委員会
(C)2014 Marvelous Inc./超歌劇『幕末Rock』製作委員会

 シンディこと高杉晋助役は、太田基裕さんから糸川耀士郎さんに交替。
 センセーこと桂小五郎役は、矢田悠祐さんから三津谷亮さんに交替。
 矢田さんも太田さんも別作品での舞台出演が決まってましたので、長州組が新キャストであることはファンの間でも予想されていました。

 良知龍馬、テルゾーさんとヒデちん、お登勢やん、キメ上様と再会できるのは嬉しいです。
 また、新規登場のペリージュニア……楽しみです(Jは出ないのね)。

 そして、誠仮面のキャストはいったい誰がやるんだろう(お約束)。

 キービジュアルとか予告動画とか楽しみです。刀剣乱舞から輝馬とヒデのファンが合流してくるからチケットはもっと激戦になるとの噂も流れており、チケット取れないファンにライブビューイングも期待しています。

超歌劇幕末rock黒船来航公式サイト
5月後半にほとんど休みを取れなかったので、反動で、歌舞伎も落語も美術展も行っちゃいます。

原安三郎コレクション 広重ビビッド

 名所江戸百景と六十余州名所図会だけですごい点数、しかも初刷りに近い版が中心のコレクションとあって充実していました。しかも混んでる(´・ω・`)……一枚一枚じっくり見る辛抱ができないので、ささっと駆け足で見て、好きな凱風快晴とか神奈川沖浪裏とか大はしあたけの夕立とか亀戸梅屋舗とか深川万年橋とか点数を絞ってちょこっと時間を取りました。それだけで、眼福。とても全点は見切れません。

 ミッドタウンも久しぶり。2ヶ月間だけここで仕事したことがあるのだけど、自分的にはこの建物の豪華さやレストランなどの半端でない高級感がアウェイ感感じさせる……緑はとても素敵なんだけど、考えてみたら毛利家下屋敷跡地だけに、アウェイ感は無理もないか(^_^;)。

今朝、国立劇場のサイトを検索したら席が空いていたので予約入れて行ってきました。

平成28年6月歌舞伎鑑賞教室「新皿屋舗月雨暈(しんさらやしきつきのあまがさ)―魚屋宗五郎(さかなやそうごろう)―」

 中村萬太郎さんによる、わかりやすい歌舞伎入門講座つき。歌舞伎十八番のひとつ「景清」の荒事のさわりと、世話物の代表作として「髪結新三」から弥太五郎源七と新三による深川閻魔堂橋の場のアクションを実演してくれました。

 河竹黙阿弥の作品が最近好きだなと思うのも、幕末好き・幕末好きの私にはふさわしいでしょう。安政年間から幕末にかけて「鼠小僧」「十六夜清心」「三人吉三」「白浪五人男」など白浪物を続けてヒットさせたのは幕末の政情と治安の悪さを反映していますね。美しい七五調の台詞が、落語耳には心地よく響きます。
 そして、明治の世になってヒットさせた作品は「髪結い新三」「三千歳と直侍」「魚屋宗五郎」など、必ずしも盗賊や侠客とは限らないけど、市井の人で社会の底辺で生きる人たち。さらに、失われた江戸や江戸っ子に対するスタイリッシュなノスタルジーがある。落語も、明治期の作品には、薩長など田舎者に江戸を奪われた江戸っ子の意地が感じられる作品があるのと同じ。

 成駒屋こと中村橋之助さんの宗五郞は20年ぶりだそうだけど、去年平成中村座で勘九郎さんが演じた宗五郞は橋之助さんが指導していたと思われるので、デジャブ感あり。ただ、こんなことを言うのはおそれ多いのだけど、橋之助さんはこの役はまだこなせていないように思う。禁酒の誓いを破り、酒を呑みながらだんだん荒れていく場面は、何かがちょっと足りないように思う。
 梅枝さん演じるおはまは最高。すごくこなれている。間の取り方も抜群。

この顔付けは、あまりないなー。さん喬師匠と白鳥さんが楽屋に同時にいることはあっても、落語会に三人だけで集まるなんて。
 ということで、都内の城南地区から、さん喬師匠の地元深川へ。

たらちね/きいち
 おぉ、一之輔さんのところの前座さんが、うまーい。声も、喋りのリズムとか抑揚も、いい。まじでちょっと笑っちゃった。入門2年としてはかなり進んでますね。

座席なき戦い/白鳥
 白鳥さんがアメ横で偶然遭遇した出来事(5番アイアン1本1500円但し一人3本まで、マグロ中トロ刺身1万円買ったらマグロのカマもらった、そのまま帰宅ラッシュの山手線乗って大変な目に)がネタになった噺……三題噺じゃないけど、ネタ3つでどれだけ噺ができるかという挑戦。

 これが落語かといわれたら古典落語が好きな人(特にさん喬ファン)にはどう見えるかわかりませんが、私は終始息が止まるんじゃないかと思うほど笑い転げてました。

 たまたまこんな記事が東洋経済オンラインに掲載されていました。
通勤電車の座席をめぐる「仁義なき戦い」鉄道会社は改善するつもりがあるのか?
「自分の身体の幅より狭い一人分に座る」
自分の幅がわからない馬鹿や想定より太ってしまったデブに電車に乗る資格はない。
 なんか白鳥ワールド。

普段の袴/一之輔
 さすがに白鳥さんに破壊された空気のまま上がるのは難しいので、中入りに。
 高座に上がった一之輔さん、「白鳥兄さん、もらうもんもらったらさっさと帰っちゃいましたよ。独特のキャラですね〜」って感じで白鳥さんをいじる。
 「普段の袴」、市馬さんの音源では聴いたことがあるけど、ライブで聴いたのは初めてです。そして、一之輔さん版も、後半の八っつぁんが破壊力半端なく、すごーくよかったです。

唐茄子屋政談/さん喬
 白鳥さんの後に一之輔さんが上がって、空気がだいぶ落語に戻りました(暴言)。
 大店の息子の徳さんが勘当されて、「お天道様と米の飯はついて回る」と豪語するも、当てにしていた吉原の花魁も友人も金と後ろ盾をなくした若旦那には用はなく、やがて食べるものもなく炎天下を徘徊するホームレレスに。苦しさに身投げするところを助けてくれた叔父さんに唐茄子売りに出る。吉原田圃で売り声を練習し、何とか吉原時代の思い出を断ち切る。かぼちゃ20個の荷をまともに担げないながらも、下町の人たちに助けられて18個まで売ることができた。
 誓願寺長屋(せいがんじだな)の裏長屋で声をかけた貧乏なおかみさんと子供たちに同情して、売りだめと弁当を押しつけて帰ってしまうが、おかみさんは徳に返そうとした売りだめを滞納している家賃のかたに大家に取られてしまう。おかみさんは絶望して首をつるが、幸い、発見が早くて助かる。これを知った徳は大家の家に乗り込み、やかんで大家の頭をぽっかーんと。
 今の西浅草二丁目に田島山誓願寺という寺が明治初年から昭和11年まであったそうで(今は練馬に移転)、その門前に貧乏長屋があったそうです。
 素晴らしいんだけど声なのか喋り方なのか入り込めないんだなぁ、私がひねくれているからなのかしら……。
6月5日までというので、見に行きました。

ボストン美術館所蔵俺たちの国芳 わたしの国貞
2016/3/19(土)-6/5(日)
※会期中無休

テレビやグラビア雑誌がない江戸時代、浮世絵は歌舞伎スターのブロマイドであり、最新のエンターテインメントやファッションを伝える重要なメディアでした。
本展では世界に冠たる浮世絵コレクションで知られるボストン美術館より、幕末に絶大な人気を博した二人の天才浮世絵師、歌川国芳と歌川国貞の選りすぐりの作品で、江戸の世界を体感していただきます。
二人は兄弟弟子でありながらその作風は対照的で、国芳は豪快な武者絵と大胆な構図で、国貞は粋な美人画や緻密な表現で一世を風靡しました。江戸の「俺たち」は国芳が描く任侠の世界に憧れ、物語のヒーローの姿に自らを重ねあわせ、粋で鉄火な美人に恋い焦がれたことでしょう。一方で「わたし」は、国貞が描くキラキラ輝く歌舞伎役者に熱い思いを寄せ、美しい女性の艶姿に夢を馳せたのです。本展では、江戸の国芳・国貞ファンたちと現代の私たちに共通する心情を探りながら、直感的に鑑賞できることを目指します。

日本テレビ ボストン美術館蔵俺たちの国芳 わたしの国貞

 国芳のニャンコが大好きな私にとっては、眼福でありました。
初日に行ったのは初めてです……そして第三部の「狐忠信」は、ニコニコ超会議の初音ミクと中村獅童さんとのコラボ「千本桜」が当たったせいか、猿之助が新歌舞伎座で初の宙乗りをするせいか、3等席が全日売りきりで買えません(; ;)。

六月大歌舞伎
義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)

流転する義経に翻弄された三人の男たち―長編歴史ロマンを三部制で初上演―
 『義経千本桜』は、『菅原伝授手習鑑』、『仮名手本忠臣蔵』と並ぶ歌舞伎三大義太夫狂言の一つとして知られており、現在でも上演を重ねる人気作品です。
 源平争乱の後、源義経がたどる数奇な運命を軸に、平知盛、いがみの権太、狐忠信の三人の物語が描かれています。
 当月は、三人の男に焦点を当て、三部制でご覧いただくことにより、それぞれの人物を取り巻く物語を一層わかりやすく描き出します。源平争乱後の時代を舞台に繰り広げられる三者三様の人間ドラマをご覧いただきます。
第一部
義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)

流転する義経に翻弄された三人の男たち―長編歴史ロマンを三部制で初上演―
 『義経千本桜』は、『菅原伝授手習鑑』、『仮名手本忠臣蔵』と並ぶ歌舞伎三大義太夫狂言の一つとして知られており、現在でも上演を重ねる人気作品です。
 源平争乱の後、源義経がたどる数奇な運命を軸に、平知盛、いがみの権太、狐忠信の三人の物語が描かれています。
 当月は、三人の男に焦点を当て、三部制でご覧いただくことにより、それぞれの人物を取り巻く物語を一層わかりやすく描き出します。源平争乱後の時代を舞台に繰り広げられる三者三様の人間ドラマをご覧いただきます。
〈渡海屋・大物浦〉
義経への復讐を図る知盛の壮絶な最期
 兄頼朝に都を追われた義経一行は、大物浦の船問屋の渡海屋で出船を待っています。実は渡海屋の主人銀平は、壇ノ浦の合戦で死んだはずの平知盛で、典侍の局や安徳帝と共に素性を偽り、平家の恨みを晴らす機会をうかがっていたのでした。知盛は船出した義経一行を襲いますが、返り討ちにあってしまいます。典侍の局は義経に帝の守護を頼んで自害します。それを見た知盛も体に碇綱を巻きつけ、海中へと身を投げるのでした。

 染五郎さんの知盛、割と細身な方ではありますが大きく演じてよく見えました。
 義経の尾上松也さんが、美しいです。そして船宿の女将お柳実は典侍の局、猿之助さんの演じ分けが光ってました。
 また安徳帝を演じたのは市川右近の6歳タケル君。かなり長い台詞回しもありましたが、なかなか頑張っていました。
〈時鳥花有里〉
義経主従のため披露される賑やかな舞踊
 義経は、母常盤御前にゆかりの大和国へ向かおうと、家臣の鷲の尾三郎とともに奈良街道にさしかかります。そこへ、白拍子や傀儡師たちが通りかかり、義経を慰めるため、賑やかに踊ってみせます。実は、白拍子や傀儡師たちは龍田明神の使者で、義経に吉野の川連法眼を頼るようにと神託を下すのでした。

 染五郎さんが今碇を巻いて海に飛び降りたばかりの知盛、静御前、義経、弁慶と踊り分ける軽妙な舞がいいですね。
いがみの権太(いがみのごんた)

〈木の実・小金吾討死〉
権太親子の情愛と小金吾の勇壮な大立廻り
 下市村の茶屋へ、平維盛の行方を探す御台の若葉の内侍と若君の六代、その家来の主馬小金吾がやって来ます。そこへ「いがみ」と呼ばれる無法者の権太が現れ、小金吾に因縁をつけて金を巻き上げます。その後、追手に囲まれた小金吾は奮戦して内侍と六代を逃しますが、ついには討死してしまいます。偶然そこへ通りかかった権太の父の弥左衛門は、小金吾の首を持ち帰ります。

 小金吾の松也さん、哀れなり。
〈すし屋〉
一家を見舞う悲劇と権太の思い
 すし屋を営む弥左衛門は、旧恩ある平重盛の子 維盛を奉公人の弥助として匿っています。弥助に思いを寄せるこの家の娘お里は、若葉の内侍の来訪により真実を知り三人を逃しますが、その様子をうかがっていた権太は、訴人しようと駆け出していきます。そこへ詮議に現れた梶原景時に、維盛の首を携えて再び戻った権太が、内侍親子の身柄を差し出してしまいます。弥左衛門は怒りのあまり、権太を刺してしまいますが…

 いがみの権太の正音が分かるのは最後の最後。このためにある二幕といっていい。幸四郎さんが権太を江戸前のちんぴらなひねくれ者として憎々しく演じてきたから、最後は……。

4年連続の志の輔らくご@ACTシアターです。何といっても千人の観客にガッテンさせるわかりやすさ、そしてACTシアターという演劇空間に合った演出力(パルコ劇場、本多劇場とそれぞれ劇場の特性に合わせて趣向を変えている)。

赤坂ACTシアタープロデュース 恒例「志の輔らくご」

[第一部] 大忠臣蔵~仮名手本忠臣蔵のすべて
 お値段外のサービス(苦笑)。
 史実の赤穂事件と仮名手本忠臣蔵の違いを中心に、史実をもとにしたフィクションである仮名手本忠臣蔵の見どころを全幕通して解説。鉄板。

[第二部] 落語 中村仲蔵
 中村仲蔵が稲荷町出身の役者としては異例中の異例な出世を遂げて名代となるも、最初の興行は忠臣蔵五段目の斧定九郎だけ一役。苦しみながらも役柄を革新する演出を行い、後世に残る。
 今年は特に、仲蔵の葛藤や驚きなどの表現がひとり演劇を強調するように感じた。

 又、来年もチケット取れますように。
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