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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
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私が見た1月13日は、中入り前が「三方一両損」だったけど、ネタが違う日もあるのね。

[評]志の輔らくご in PARCO 2015
 パルコ劇場(東京・渋谷)でのお正月公演も10年目に入った。

 マクラで「全22回の公演は、武道館なら1回で済む」「私よりも皆さんが働く。頭の中に絵を描く作業をするのは皆さんのほう」などと笑わせながら、一席目はスマートフォンの功罪を描く「スマチュウ」。スマホ中毒の略だそうだ。次の噺はなしとの間に、大きなスマートフォンが舞台へ降りてきて、LINEの他愛もないやり取りが画面に映し出され、笑いを誘った。

 続いて、志の輔がはまったというアメリカの人気サスペンスドラマ「24」の話から、三遊亭円朝の「政談月の鏡」を「24」風にアレンジした「月の鏡二十四」。画面を多分割して同時進行する事態をデジタル時計とともに表し、同時進行で起こる犯罪事件を、見事な編集手腕で、手に汗握るストーリーに昇華した。

 仲入り後は「先用後利せんようこうり」。志の輔の愛する故郷・富山をテーマにした。富山といえば薬売り、使った分だけ後払いをするビジネスというものが信じられず、うっかり使ってしまった分の薬代が、何十万両も請求されるのではないかと、戦々恐々とする江戸の商人たちをコミカルに描く。事を悪い方へと考えてしまう市井の人を活写するのは、志の輔のお手のものだ。

 いくら舞台セットに凝っても、いざ志の輔が上がる時には座布団がポツンと置かれているだけ。より一層落語のシンプルさが際だつ中、古典落語というファンタジーをただやるだけではなく、自分の落語は常に時代とともにあるという自覚、己の関心事も合わせて開示していく勇気をにじませる。それは落語への畏敬の念すらも感じさせるものだった。

  (東京かわら版編集人 佐藤友美)

 ――――1月7日鑑賞。公演は同5日~2月2日。
(評・舞台)
「志の輔らくご in PARCO 2015」 豊富な笑いと深い郷土愛 東京・渋谷のパルコ劇場での立川志の輔公演。場所借りではなく劇場のプロデュース公演で、しかも落語家1人だけで22公演に計約1万人を集める。他に例のない会だ。1カ月公演の形になって10年目という節目の会を見た(1月26日)。 まずは花束や提灯(ちょうちん)、福引などで華やかなロビーから、普通の落語会… 

以降は有料購読(´・ω・`)。
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200席ほどのホールなのだが、客席に高低差があって前の席の人の頭が邪魔にならない。椅子は固いものの大きめなので隣の人の肘や肩が気になることはない。
 そして、市馬師匠のお客様はおっとりしてマナーがいいので、気持ち良く過ごせる……うーん、今日は市馬師匠が語っている途中で階段を降りて着席するお客様が一名いましたが(汗)。前座さんの高座の間はOKだけど、市馬師匠の高座中に観客席を移動して着席するなんてマナー違反じゃないんでしょうか? 鈴本演芸場だって、高座の替わり目まで背後の立ち見席に待機しているように指導してますけど。

真田小僧/市助
 前座さんですが、二つ目が近いせいか、長めの高座でした。
 金坊がおとっつぁんから六銭まきあげて逃げただけでなく、おとっつぁんが語る真田幸村の六文銭の旗の由来を聞き覚えて、それを諳んじてさらに六銭まきあげる。
「うーん、うちの真田も薩摩に落ちたか」がオチ。
 ところどころ言いよどんだり言い直したりするところがありましたが、あまり気にはなりません。二つ目昇進が楽しみです。

おせつ徳三郎〜花見小僧〜/市馬
 正月から早くも節分・立春で、ということで、正月寄席の川柳師匠の様子とか、昨日の節分での寄席の豆まき風景とかをマクラに、商家の跡継ぎの難しさについて……えーと、旦那様が番頭さんを呼ぶのは「片棒」じゃないよね。
 ということで「おせつ徳三郎」の序。丁稚の定吉からおせつお嬢様と徳三郎の逢い引きの様子を訊き出す「花見小僧」をゆっくりめに、最後に後半の「刀屋」の紹介をしてサゲ。
 リアルで登場するのは旦那と番頭と定吉だけなんだけど、定吉の話の中に、おせつお嬢さん、徳三郎、ばあやさんが出てくる。定吉なんだけど定吉の声色と身振りで演じ分けなきゃいけない。そして、向島の花見風景もいきいきと。

うどんや/市馬
 中入り前の噺のマクラに、明日は雪が降るという話題にも触れられました。その季節感からか、「うどんや」。小三治師匠でテレビで何度か見てるけど、市馬さんで生は初めてかも。
 屑屋さん、蕎麦屋さん、うどん屋さん、それぞれの呼び声を演じる市馬さんの美声たっぷりに。
 そして、うどん屋さんの火鉢にあたりながら、絡んでくる酔っ払いの親方。話が長い。しかもリピートし、水を二杯飲んだ挙げ句にうどんを注文しないで去って行く……ひどい。
 呼び声の大きさに赤ん坊を寝かしつけたおかみさんに怒られ、ようやく表通りでお店者に注文を受ける……うどんを食べる仕草がいい。蕎麦とは違う、もっさりした食い方。
 私、子供の頃は蕎麦の味がわからなくて、蕎麦屋ではもっぱらうどん食べてたなぁ。月見が一番で、カレーの美味しさがわかる頃になってカレー南蛮も食べるようになった。鍋焼きうどんは蕎麦屋で食べるものではなくて、母が土鍋でつくってくれるものだった。感謝。

毎回、安定して楽しませてもらっている「よってたかって」シリーズ。

狸札/市助
 大師匠の小さんにも似た丸い顔が、このネタに合ってます。三三さん情報によれば二つ目も近いのではないかとのこと。

転宅/三三
 高座に上がった時点で、白鳥さんも一之輔さんも市馬さんも楽屋入りしていない……ということで、この位置では珍しいトリねた。
 三三さんのお菊さんは婀娜っぽくていかにも機転の利く姐さん。間抜けな泥棒を手玉に取るのもお茶の子さいさい。

トキ蕎麦/白鳥
 前座さん(なな子さんかな?)が高座の座布団を、大きな白座布団に交換。これは、久しぶりにトキそば、来ましたね。
 先代志ん馬師匠の江戸っ子風な短気と蕎麦のたぐり方指南、そして座布団を蕎麦に見立ててこねている時にが東京厚生年金ホールで志ん朝小三治師ふたり会の前座として白鳥さんがこれをかけた時の客席の反応を亡き志ん朝師匠が「白鳥くん、これが海だったら潮干狩りができるね」と評したこと(お客様どん引きで客席が寒くなったことをこう表現できる朝様の粋なこと・・・)、と思いで話もサービスつき。
 20年もかけてきたこともあり、白鳥らくごも(一部の落語ファンに?)受け容れられたこともあり、お客様もどん引きせず楽しんでました。

がまの油/一之輔
 中入り後の一之輔さん、マクラはピンポンだっしゅに続いて、関西弁の女性のトイレねた(すごい実話!?)。で、そこから口上で商売する人の話ということで蝦蟇の油。
 一之輔さん独特のくすぐりで面白かったのは「かえるのあせ」でしょうか。ほかにもくすぐりがちりばめられてました。

花見の仇討/市馬
 「後始末役」として登場した市馬さん、先日と同じ「花見の仇討」でしたが二度続けて聞いてもやっぱり面白いですね、芝居を試みたけど思ってもいないハプニングが重なって一大事になってしまうという展開なので。市馬さんの喉も何回も聴けて美味しいし。
短いですが、幕末関係のクリッピング記事紹介です。今日はEテレ『先人たちの底力 知恵泉』で榎本さんが取り上げられます。

福島
【復元促進の出発点に】天守閣再建50周年(1月26日)
 会津若松市の鶴ケ城天守閣は今年、再建50周年を迎えた。4月に内部が改装オープンし、9月予定の記念式典まで行事が続く。成功を願う。
 東日本最大級の城郭であり、歴史の興亡に彩られた名城だ。本県観光の目玉、市民のシンボルとして愛されている。復元整備は道半ばであり、前向きな議論はあまり聞かない。城の将来を語り合う「市民会議」のような場を設けてはどうか。復元促進の機運を熟成し、城の魅力をさらに高める出発の年としたい。
 葦名氏時代の14世紀創建とされる。天正18(1590)年に領主となった蒲生氏郷が天守閣を建て、城下町を整える。現在の市街地の元となった。建造物は戊辰戦争後に壊されたが、天守閣、走り長屋、鉄門は昭和40(1965)年9月に再建された。
 再建を前に「全会津の悲願」と推進論の一方、「文化財の破壊」「復古調」の批判が起こる。市議会で39年7月に可決された再建事業特別会計補正予算は18対16の僅差だった。市民を巻き込む激論が再建のエネルギーを生んだことを思い起こしたい。
 市は天守閣内の改装に約1億2千万円を投じた。1階の企画展示室、2階の常設展示室を整備する。管理運営する会津若松観光ビューローは展示品を充実させる。記念式典は9月19日の予定だ。21日から始まる会津まつりと相乗効果を上げてほしい。
 ただ、再建50周年をお祭りに終わらせてはならない。歴史遺産、観光地としての価値を磨く取り組みを進める契機にすべきだ。市が天守閣再建50周年記念事業方針で掲げた御三階[ごさんかい]の復元は実現していない。天守閣の赤瓦へのふき替えと外壁の塗り替えが完了しただけだ。平成8年度策定の史跡若松城跡総合整備計画で示された干飯櫓[ほしいやぐら]と南走[みなみはしり]長屋復元は13年に実現したものの、裏門、月見櫓、塀などの復元は手付かずだ。
 計画をたなざらしにしないためにも議論を喚起する必要がある。「予算がない」「政策的な優先順位が低い」などの意見がある。しかし、復元は地域活性化に直結するはずだ。賛否を含め意見を出し合えば課題が浮き彫りとなり、解決策を講じる一助となる。議論を尽くし、城の将来展望を描くことに意義がある。
 東日本大震災、東京電力福島第一原発事故で減った観光客を呼び戻すためにも魅力向上は欠かせない。熊本城、名古屋城などは建造物を次々と復元している。増加する外国人観光客の誘客合戦にも負けてしまう。手をこまぬいてはいられない。(鞍田 炎)

神奈川
幕末の偉人しのぶ 中島三郎助まつり/浦賀
 1853年のペリー提督来航時に黒船へ乗船して対応した浦賀奉行所与力、中島三郎助をしのぶ催しが25日、横須賀市浦賀の住友重機械工業機関工場で開かれた。三郎助を描いた垂れ幕の下、多くの家族連れらが幕末の偉人に思いをめぐらせた。

 地元住民らでつくる中島三郎助と遊ぶ会の主催で21回目。

 三郎助は日本初の西洋式軍艦を浦賀で建造し、桂小五郎(木戸孝允)に造船術を教えた。戊辰戦争では箱館(函館)で新政府軍と戦い、息子とともに戦死。終焉(しゅうえん)の地である函館市中島町は「父子の忠節にちなんで名付けられた」とされる。

 会場では三郎助の足跡をたどるパネル展が開かれ、ひ孫の中島恒英さん(69)=海老名市=も来場。展示に見入っていた女性(67)=横須賀市港が丘=は「ペリーとの交渉役を務めたのは有名だが、函館まで行って戦っていたのは初めて知った。勉強になった」と話していた。

 模擬店や市立浦賀中学校による吹奏楽演奏、ゴスペルソングなども会場に花を添えた。遊ぶ会会長の大内透さん(68)は「こうして子どもたちや地域住民が集う場をつくることで、浦賀の町を愛していた三郎助の思いを継ぐことにつながってほしい」としていた。

テレビ
負けても生き残れ!波瀾万丈な人生を送った榎本武揚の思いとは?『先人たちの底力 知恵泉』
人々が組織や社会の中で直面している様々な課題、実はそれらは先人たちが取り組んできたものと通底する。現代人の課題や関心事項を毎月1テーマずつ設定し、解決へのヒントを歴史上の人物の知恵と行動から探っていく番組『先人たちの底力 知恵泉(ちえいず)』(NHK Eテレ)。

1月27日(火)は、「負けても生き残れ!」をテーマに、「だから、生きる 榎本武揚 敗北からの復活劇」を放送する。今回取り上げる榎本武揚ほど波瀾万丈の人生を送った人物も少ないのでは? 幕府の御家人として、最後まで明治新政府に抵抗した榎本。その後、一転して政府の高官となったことから、後世からの誤解や批判も多い。しかし実は、その博覧強記ぶりから国に多大な貢献をした人物。これまで光が当たりにくかった榎本の業績を掘り起こしていく。

幕府の旗本の家に生まれ、12歳で昌平坂学問所に入り、長崎の海軍伝習所に学び、さらには、幕府に派遣されてオランダに約4年間留学。その間、儒学、砲術、航海術、数学、化学、国際法、経済、蘭・英・仏・独の各国語など、文系・理系をとわず、あらゆる学問を身につけた、まさに博覧強記の人物だ。

ところが、榎本が1867年に帰国したとき、日本は動乱の真っ最中。将軍・徳川慶喜による大政奉還、翌年には戊辰戦争が勃発する。榎本は江戸城の無血開城に抗し、八隻の艦隊を引き連れ、蝦夷地に向かう。しかし新政府軍によって陥落。榎本も自害しようとするが、官軍総参謀・黒田清隆らに必死で止められる。その後、榎本は以後一転、明治政府の高官として外交や殖産興業に尽力する。なぜ黒田は榎本を生かそうとしたのか。榎本はなぜそれを受けたのか……。榎本の生き方から見えてくるものは?

■『先人たちの底力 知恵泉(ちえいず)』
毎週火曜 23:00~23:24(NHK Eテレ)
時間潰しする必要があったので、映画館で歌舞伎見てました……一月に二本の歌舞伎舞台を見て、自分が十分に歌舞伎を楽しめるとわかったので。落語は子供の頃に演芸番組を見ていたから見当がついていたのだけど、歌舞伎はそういう見当がなかったので、デビューするのに時間がかかってしまいました。

シネマ歌舞伎 二人藤娘/日本振袖始
平成二十六年三月に歌舞伎座新開場杮葺落(こけらおとし)公演で上演され、満員の観客を魅了した二演目がシネマ歌舞伎に登場。

「二人藤娘」は坂東玉三郎と中村七之助が藤の精を艶やかに演じた演目です。舞踊の人気演目である「藤娘」を二人で演じるという新たな演出により平成二十六年一月に大阪松竹座で初演。大きな話題となり、早くも三月歌舞伎座での再演となりました。舞台上いっぱいの藤の花や二度三度と変わる衣裳の数々、そして、何よりも華やかで美しい玉三郎と七之助から目が離せません。

「日本振袖始」は、古事記・日本書紀に記された出雲の八岐大蛇(やまたのおろち)伝説をベースに近松門左衛門が書き上げた演目です。玉三郎は妖艶な姫の姿から恐ろしい大蛇へと変貌。生贄(いけにえ)としてささげられた稲田姫(米吉)を救うため、大蛇退治にやってきた素盞嗚尊(すさのおのみこと)(勘九郎)とダイナミックな大立ち廻りを繰り広げます。

歌舞伎ならではの美しさとエンタテイメントを体感できる豪華二本立てをどうぞお楽しみください。

今回のシネマ歌舞伎では、一筆一筆に集中して化粧をし舞台へと臨む姿、開演直前の幕の中の緊迫感、美しい姫から大蛇の姿へと変わる早替わりの様子など、普段はなかなか目にすることのできない貴重な姿を捉えた舞台裏映像も本編中に盛り込んで上映致します。
 玉さまと七之助さんの二人藤娘、何てみずみずしい藤の精。最初は娘さんらしく、衣装が替わるほどに艶やかになってきます。女性美の極みなのに生々しくないのが女形ならではでしょうか。

 そして、玉さまは「日本振袖始」は素戔嗚尊の八岐大蛇退治のお話で、岩永姫と八岐大蛇の二役。岩永姫は、瓊瓊杵尊《ににぎのみこと》に嫁いだけど、帝が美しい妹の木花咲耶姫《このはなさくやひめ》を寵愛し、送り返され美しく生まれなかったために愛されず、怨み、妬み、嫉妬などの感情に支配され、八岐大蛇となって毎年生け贄に供される美しい娘を食らって美しい娘を根絶やしにしようとしていた。今回捧げられた稲田姫は素戔嗚尊の思い人で、彼の入れ知恵で振袖の袖に剣を隠していた。さらに現れた素戔嗚尊が八岐大蛇と大スペクタクルな闘いを……。

 稲田姫を演じた米吉ちゃん、タレ目とふっくら頬が愛らしくも綺麗……。

 人ではなくなってしまった岩永姫の人を超えた美しさと、八岐大蛇の怖ろしさを両方とも演じてしまう玉さま。

 そして、日本史ヒーロー中のヒーローのひとり、素戔嗚尊を演じる勘ちゃんの凜々しさ。

 衣装、メーク、小道具、舞台装置などなど、電気がない時代に人力や日の光をつかって、娯楽としてやったんだよなぁ、うるうる。

 ……と浸りたいところだったのだが、背後のシニアカップルの爺さんが「こんな映画とは思わなかった。もっと普通の映画だと思ってきたのに、舞台そのままだ」みたいな愚痴を言い始めた。それがお芝居の邪魔になるような声で、しゃべり出したら止まらない……ううう、空気読まない不届き者め(涙)。私も咳払いなどしてみたが、距離があって届かない。他の観客が係員さんに伝えて、ようやく注意されて黙ったが、たぶん30分ぐらい喋り続けていた(涙)。

 出口では、係員さんに、他の女性客たちが口々に苦情。まぁ、ほんと、今回はひどかった……スクリーンは素晴らしかったんだけどなぁ。
たまたまe-plusの貸切公演への募集があったので、普通よりもチケットが取りやすいのではないかと思って申し込んだら、前から5列目の中央。役者さんの表情がばっちり見える場所でした。

 まだ公演中なので、折り畳みます。ネタバレ可の方だけ続きをご覧ください。
たまには(汗)幕末ニュースを投稿しておきます。

山形県
酒井家から盗まれた重文の名刀見つかる(山形県)
見つかったのは、国の重要文化財に指定されている日本刀「備州長船住元重」だ。鎌倉時代末期に作られたとされる名刀で、酒井家から戊辰戦争で指揮をとった重鎮に贈られ、その後、再び酒井家に戻されていた。しかし、1986年8月、刀を保管していた酒井家の収納庫に2人組の男が入り口を壊して侵入し、ほかの刀など15点とともに盗み出し、そのまま行方が分からなくなっていた。去年9月、酒井家18代当主で、致道博物館の館長でもある酒井忠久さんのもとに、大阪府のコレクターの男性から「刀を買い取った」と連絡があった。刀は転売が繰り返されたとみられていて、現在も大阪府の男性が所有している。民法では、無償で返還を請求できるのは、盗難・紛失から2年までで、再び酒井家で所有するには刀を買い戻す必要があり、1億円近くかかるという。酒井さんは、国宝や重要文化財などが時効にかかわらずに無償で返還できるような法整備を求めている。酒井さんは買い戻しはしない予定で、今後、コレクターの男性から刀を借り受けるなどして博物館に展示したいと話していた。

福島
現代版「二本松少年隊」結成 古里PR いざ出陣!
ふくしまデスティネーションキャンペーン(DC)に向け、二本松市推進委員会(二本松おもてなし隊)は市をPRする現代版「二本松少年隊」を結成した。10日、推進委員会長の新野洋市長が記者会見し、メンバーを発表した。
 「二本松少年隊」は二本松、郡山両市と大玉村の16歳から31歳までの男女11人。声優を目指す学生や演劇部に所属する高校生、国際協力機構(JICA)二本松青年海外協力隊訓練所の職員らで構成している。
 新野市長は「戊辰戦争で郷土を守るため若くして散った『二本松少年隊』の志を酌み、しっかりと市をPRするためのパフォーマンス集団にする。DCを盛り上げたい」と抱負を述べた。安斎文彦二本松観光協会長も同席し、メンバーを激励した。
 メンバーは今後、毎週土曜日を中心に、戊辰戦争や二本松少年隊などについての座学や殺陣の練習に取り組む。市内の劇団HEROS ACTION CLUB代表の広瀬和重さん(50)が殺陣などアクションを指導し、3月29日に同市市民交流センターでお披露目会を開く。DC期間後も年間を通じて活動し「二本松の菊人形」などのイベントにも参加する。メンバーは次の通り。
 中嶋哲也(二本松、JICA二本松)渡辺晴香(大玉、NOKエラストマー)栗城千鶴(郡山、郡山萌世高一年)鹿野ひとみ(二本松、MTS&プランニング)斎藤倫明(二本松、福島大四年)斎藤葵(二本松、安達高二年)鹿野康平(二本松、福島西高二年)菅野純麗(二本松、ケイセンビジネス公務員カレッジ)渡辺芽斐(二本松、二本松市臨時職員)斎藤美祐紀(二本松、障害者福祉施設・すばる)菅野愛華(二本松、安達高二年)

( 2015/01/11 08:22 カテゴリー:今日の撮れたて )

112歳90日 県内長寿記録更新 若松の佐藤ステさん
 県内最高齢の会津若松市の佐藤ステさんは13日、112歳90日となった。統計がある昭和45年以降での県内最高長寿記録だった112歳88日を突破した。
 佐藤さんは、明治35(1902)年、二本松市生まれ。実家の山岡家は二本松藩士の家柄で、佐藤さんの大叔父に当たる山岡栄治は戊辰戦争時、青山助之丞とともに薩摩の部隊に切り込んで奮戦し「大壇口の二勇士」とたたえられた。
 佐藤さんは現在会津若松市の老人ホームに入所している。佐藤さんの孫で日本精測社長の佐藤光信さん(65)は「会話は難しいが、食欲も旺盛で歌も時折口ずさむなど元気。今年も誕生日を迎えられると思う。長寿日本一を目指してほしい」と話している。
 これまでの最長寿記録者は平成10年に死去した川俣町の古和田チヨさんだった。

福井県
歴博開館1周年、幕末の福井語る
 福井市立郷土歴史博物館の開館一周年を記念した講演会が二十三日、同市宝永三丁目の県国際交流会館で開かれた。専門家が新説を交えながら、幕末の福井藩の藩政改革について話した。

 講師には、幕末の福井藩に詳しい大妻女子大短大部の高木不二教授を招いた。高木教授は▽幕末の藩士、三岡八郎(後の由利公正)による経済政策▽薩摩、福井両藩の交易▽藩士・日下部太郎のアメリカ留学―について、最新の研究成果を織り込んで講演した。

 三岡八郎の経済改革では、生糸など藩内の産物の生産、管理、販売をつかさどる「制産方」という部門が設置されたことを指摘。大きな成果を上げたとした。

 また高木教授は、福井藩が当時は禁じられていた他藩との交易を、薩摩藩と行っていた事実を披露。薩摩藩から英国の商社を通じ、ひそかに中国へ福井産の生糸や茶を輸出、利益を得ていたことを明かした。

山口県
講演会:晋作の“語り人” 幕末振り返る−−下関 /山口
下関の歴史や文化を語り合う下関夜話会が21日、下関市中之町の亀山八幡宮儀式殿であった。幕末の志士、高杉晋作の“語り人”として活動している福岡市の亀田真砂子さん(55)が「高杉晋作と下関〜長府・清末藩の人々と関わり〜」と題して講演し、約50人が耳を傾けた。

 亀田さんは晋作にまつわる人物のプロフィルや年表を示しながら幕末を振り返り、「下関はまさに維新の舞台。大..(以下有料記事)

コラム
『明治維新と幕臣 「ノンキャリア」の底力』
レビュアー:麻木 久仁子

来年の大河ドラマは『花燃ゆ』。吉田松陰の妹・文を主人公に、松蔭はもちろん、久坂玄瑞や高杉晋作など長州の志士たちが、その生き様をたっぷりと魅せてくれるであろう。大河ドラマで幕末物は当たらないなどというジンクスはいつのことやら、『篤姫』『龍馬伝』『八重の桜』、そして今回の『花燃ゆ』とつづくのも、近代日本の立ち上がりを振り返り、このところの閉塞感を打破するヒントを得たいという空気があるのだろうか。ちなみに長州が舞台となるのは1977年の『花神』以来、38年ぶりだそうである。明治維新以来、現総理も含めてもっとも多くの総理大臣を輩出した地である。地元の皆さんはさぞかし期待しているに違いない。

さて、となればまた維新と「志士」の本はたくさん出版されることだろうと思うのだが、今回ご紹介する本は維新と「幕臣」の本である。

旧態依然とした幕府と、保身に汲々とするのみで時代の流れに取り残された幕臣。それに対して進取の気風に富み時代を読み、日本を近代化すべく戦った薩長をはじめとする西南雄藩と志士たち。

しかしこうしたイメージは修正されつつある。

たとえば戊辰戦争における鳥羽・伏見の戦いのイメージはどうだろう。三分の一の兵力しか持たなかった倒幕軍に敗れたことから「幕府軍は数ばかりで、装備は古くさい鎧兜」だったのかと思いきや。実際には洋式装備の歩兵隊が八個連隊・9800人もおり、フランス軍事顧問団の指導を受けた精鋭部隊も擁していたという。海軍ともなれば幕府軍が圧倒的で、主力艦の「開陽丸」も当時世界最大級の軍艦だったし装備も極めて優秀だった。薩長ふくめ、対抗できる戦力は国内には存在しなかったのである。幕府も時代の変化には充分に危機感をもち、軍制や税制、そのほか様々な改革をすこしずつ積み重ねてはいた。そもそも開国・近代化を目指したのは幕府の方がさきだったではないか。だが残念ながら幕府はガバナンスに失敗し、蓄えた優秀かつ大切なリソースも生かしきれず、明治維新となる。

では幕府がそれまでに積み重ねたものはすべて無駄になったのかというと、じつはそうではない、というのが本書のテーマである。明治維新は非常に大きな政治変動ゆえに、その変化ばかりに目を奪われがちだが、「いかにして統治したか」という行政の面からみると、江戸から明治への連続性が見えてくるというのである。

"明治維新に際して、戊辰戦争において戦地となった場所は例外として、全国津々浦々が混乱を極め、略奪や暴行が横行したという事態に至っていないということは、少なくとも社会生活を維持できるような秩序が保たれていたということになる。つまり、行政が機能しない状態にはほとんどならなかったということになろう。"

例えば大災害のときなどでも、日本人は秩序正しくふるまうことが折々話題になるが、道徳心もさることながら、行政に対する信頼感が実はとても大きいのである。行政がきっと対応する、援助がくると信じられるからこそ、暴動や略奪にはならない。

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天下の体制ががらりと変わっても、幕末の人々が落ち着いていられたのも、日常生活に直結する行政が機能し続けていたからなのである。

新政府による旧幕臣の登用というと、勝海舟や榎本武揚、渋沢栄一などの大物の名前を思い浮かべるが、ここで頑張ったのは旗本や御家人などの幕臣たちであった。今風にいえばノンキャリの官僚たちである。薩長土肥や越前・尾張などの雄藩は、藩の規模、いわば地方自治の規模での統治の経験しかなく、全国規模の統治は未経験だった。そのノウハウや人材を持っていたのは幕府のみだったのだ。明治政府による旧幕臣の登用については「国難にあたり、敵味方の分け隔てなく優秀な人材を登用した明治政府の度量」という見方もあるが、実情は徳川400万石の幕領を統治する行政組織をそのまま活用しなければどうにも事が動かない、というのが実情だったようだ。

"見方によっては皮肉ではあるが、明治政府は、江戸幕府という前政権が有効に機能していたからこそ、全国政権としての体裁を為すことができたともいえよう。"

「岩倉使節団」は、欧米の制度や法制を視察・研究するために派遣された専門官のほかに、実務にあたる書記官を多数含んでいたが、書記官の多くが幕末期の外交交渉にあたった旧幕臣であったという。それゆえにかれらは、使節団における地位は低くとも知識や経験は豊富だった。現実の外交交渉の場ではかれらに頼らざるをえず、岩倉さえも頭が上がらない始末。しまいにはホテルの部屋割りにいたるまでバチッと仕切ってしまったという。260年にわたりこの国を平穏に運営してきた幕府の官僚たちの意地を感じるエピソードである。

変革の時、人々はヒーローを求める。新しいビジョンを示す人物を求める。しかし、どんな優秀な人物がどれほど素晴らしいビジョンを描こうとも、それを実現するためには組織が必要であり、最前線で実行していく力をもつ人材が不可欠なのだ。その人材の層にどれほどの厚みがあるかが、その社会の力、基礎体力ともいうべきものだろう。それがしっかりしていれば、どんな社会変動があっても乗り越えてゆけることを、幕臣たちの働きが教えてくれる。

明治政府の改革をささえた無名の幕臣たちを思いながら、「人」の力の大切さを軽んじるような世の中になりませんようにと願うのである。


『明治維新と幕臣 - 「ノンキャリア」の底力 (中公新書)』

作者:門松 秀樹
出版社:中央公論新社

内容紹介
幕府は本当に組織が劣化し、すぐれた人材を欠いていたのか? 行政実務に通じ、新政府に継続登用された中・下級官僚層に光を当てる。

会場の水天宮 日本橋劇場(中央区日本橋公会堂)は久しぶりでした。市馬三の独演会で何度か訪れた場所だったので、脊髄反射的に人形町に来てました。チケット見て「あれ、日本橋だった?」と焦りました……会場名にちょっと混乱しましたが、やはり日本橋公会堂で、人形町から歩いて10分以内なので、結果オーライでした。
 菊之丞さんがマクラで説明されていましたが、もともと池袋演芸場でやっていた二人会、会場に100人も入らないので手狭に感じて日本橋劇場に移ってきて2回目だそうです。池袋演芸場では入りきらない人数とはいえ、この会場のキャパにしてはちょっと寂しい入りでした(;o;)……20人で一列の5列目まではかなりぎっしりでしたが、10列目ぐらいになると半分の入り……15列ほどまである1階席の後方は空席が目立つ感じ……2階席はたぶん空けていません。ざくっと計算して170人ちょっとという感じでしょうか。氷雨が降る、天候不順の日とはいえ、前売り先行の落語会なので、この顔付けなのに勿体無い……と思います。



子ほめ/市丸

初天神/市馬
 市馬さんが前座ネタの初天神をかけるのは新鮮です。金ちゃんが飴、団子、凧をせがむという長めの展開でした。

愛宕山/菊之丞
 昨年9月以来の菊之丞さんです。好きな落語家さんのひとりではあるのですが、正直、レパートリーが限られているように思い、間を空けておりました。
 愛宕山、江戸から旦那と幇間の一八が京都見物に行っての設定というところは、先代文楽が構築した江戸落語のスタイルをベースにしていて、古今亭志ん朝さんの語り口に一番影響を受けているのが丞さまスタイルでしょうか。華やかで軽くて時にはオーバーアクションのネタが菊之丞さんには合っていると思います。

中入り

紙入れ/菊之丞
 これまた菊之丞さんの得意ネタ。ニンに素晴らしく合っているのは間違いないのですが……ちょっと聴き過ぎたようです(汗)、またか感が避けられない……。

花見の仇討/市馬
 市馬さんの「花見の仇討」はライブで聴くの2回目ですが、季節の先取り(今日の午前中は東京で霰とか雪とかいってる寒さでしたよ……)だからこそ、余計に楽しかったです。
新選組局長の芹澤鴨「芹沢村出身にあらず」 行方の箱根さんが異説
 常陸国行方郡芹沢村(現在の行方市)出身が通説とされてきた新選組局長の芹澤鴨(せりざわかも)が、同村の出身でないとする説を、地元の郷土史研究家の箱根紀千也(きちや)さん(59)=行方市玉造甲=が唱えている。四月発行予定の研究論文誌「霊山(りょうぜん)歴史館紀要第二十二号」に掲載される見込みの原稿「新選組芹澤鴨と新見(にいのみ)錦と水戸藩浪士」で、詳しく論じている。
 箱根さんによると、新選組メンバーだった永倉新八が明治初期に書いた「浪士文久報国記事」で、「芹澤鴨は芹沢村浪人」とされて以来、鴨は芹沢村出身と言われ続けてきた。
 今回の論文で箱根さんは、文久三(一八六三)年に、京都の鴨を兄二人が訪ねたとされていることについて、「当時、芹沢村の芹澤家本家の中に鴨に面会に行ける人物がいたとは言えない」と指摘。「これに対し、水戸藩士である芹澤家分家には、当時京都にいた人物が三名いる」とした。そして、鴨が本家の三男であるとの説を、家系図や寺の記録の文字の分析などで否定し、鴨の「芹澤家分家出生説」の仮説を立てている。
 箱根さんは「仮説を立てたことに対し、研究者らから、仮説であるなら通説を信じると言われている。鴨が誰かはっきりしないうちは、新聞や雑誌に掲載するほどの内容でないとも言われている。しかし、百四十年もの間、芹沢村出身と言われてきたことが、変わろうとしている。この発見だけでも、すごいこと」と強調。「別の角度からすでに調査を行っており、他の研究家よりは早い時期に鴨が誰であるか明らかにできる」としている。

 「芹澤家分家出生説」なんですね。
2009年の暮れに突然『芝浜』が聴きたくなり、落語にはまって明けて2010年1月の志の輔らくご in PARCOを見たのが決定打で、それから年間40本以上は生落語を聴きに行くことになろうとは……。


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