新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
夜の部だけでなく、昼の部も見たいと思って、今日は花道近くの左2列。背もたれがあって、長い時間も背中をもたせかけられるので楽でした。
 横綱白鵬さんが客席に現れた時には、客席がどよめき、拍手が起こりました。やはり、一瞬でわかるオーラがありました。

歌舞伎美人サイトより。
 昼の部の幕開きは、『双蝶々曲輪日記』より、貫禄たっぷりの関取と素人角力出身の小兵、ふたりの好対照が魅力の「角力場」。続いて主人義経を必死に守る弁慶とその思いに動かされた富樫との胸を打つドラマ、歌舞伎十八番の中でも屈指の人気演目『勧進帳』。そして活き活きとした江戸の庶民を描いた河竹黙阿弥の傑作『魚屋宗五郎』は、江戸情緒が色濃く残る浅草の地によく似合います。
一、双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき)
角力場

濡髪長五郎 坂東 彌十郎
山崎屋与五郎/放駒長吉 中村 獅童

獅童が大坂の大商家のひよわなボンと小兵ながら威勢のいい長吉を演じ分けたのが面白い。

二、歌舞伎十八番の内 勧進帳(かんじんちょう)

武蔵坊弁慶 中村 橋之助
源義経 中村 七之助
富樫左衛門 中村 勘九郎

 圧巻は弁慶の「勧進帳」読み、踊り。七之助演じる義経の気品。勘九郎演じる富樫、関所の責任者としての厳しさ、情を解する優しさ、自分の腹と引き換えに義経一行を見逃す決断をわずかな表情だけで演じ分けていた。

三、新皿屋舗月雨暈 魚屋宗五郎(さかなやそうごろう)

魚屋宗五郎 中村 勘九郎
女房おはま 中村 七之助
召使おなぎ 中村 児太郎(4月18日~5月3日)
磯部主計之助 中村 獅 童
浦戸十左衛門 坂東 彌十郎

 魚屋宗五郎が妹の不審死に悲しみとやりきれなさから酒に手を出し、飲むほどに変化し、旗本磯部家に乗り込むまで気勢を上げるのが見物。また、磯部邸での暴れぶり、酔いが醒めていく様も面白い。そしておはまの世話女房ぶり、七様を女房に欲しい……と思った。
 若手女形として可憐さが目をひく児太郎さんのおなぎも良かった。

 新聞記事の評も出そろってきたようです。
中村七之助 父・勘三郎が「もう一回やりたい」といった役に挑む
 3年ぶりに戻ってきた「平成中村座」。東京・浅草寺本堂の裏手すぐ、5月頭まで仮設テントの芝居小屋が立っている。江戸時代の芝居小屋を再現した平成中村座は、2012年12月に逝った十八代目中村勘三郎が00年に始めた。今回の平成中村座に出演している、中村勘九郎、七之助兄弟は、次世代の柱となる期待の役者だ。

*  *  *
 中村屋ファンにはもちろん、勘九郎と七之助の勘三郎ジュニアの成長ぶりが最大の楽しみだろう。「兄弟仲良く」との父の言いつけを守りながら、兄は立役、弟は女形として精進する。

 勘九郎は夜の部「高坏」で次郎冠者を勤める。父も得意とした下駄でのタップダンスで知られる演目。ただし、タップはあくまで「おまけ」という。「踊りのところだけではなく、全体が良くないとダメだよ」という父の言葉どおり、タップの前の、太郎冠者や大名相手の軽快なやり取りの場面から会場を沸かせた。

 声も演技もますます父に似てきた勘九郎だが、父以上との期待もかかる。

「父の当たり役を引き継ぐのは良しだが、父より線が太いから勘九郎は父にできなかったものもできる。独自の芸風を切り開いていってほしい」(演劇評論家の渡辺保さん)

 祖父・芝翫を継いで真女形に邁進する七之助は、スッとした切れ長の目元が美しい。今回の中村座では「妹背山婦女庭訓 三笠山御殿」のお三輪を演じる。12年9月の勘九郎襲名公演で演じる前に、病室で勘三郎から「実は俺がもう一回やりたいんだよ。いい役だろう」と言われた。「父が亡くなって初めての中村座では、古典物ならぜひお三輪をやりたいとお願いした」(七之助)こだわりの役だ。

 紛れ込んだ屋敷で女官たちにいびられまくる責め場では、好きな男に会いたい一心で耐える田舎娘のいじらしさ、けなげさを見せる。「極付幡随長兵衛」の女房お時では、中年女性の貫禄を演じてみせた。

※週刊朝日 2015年5月8-15日号
「全部父のおかげ」中村兄弟が感じた故・勘三郎の偉大さ
 常に笑顔でハキハキしているしっかり者の兄・中村勘九郎と、合間にフラリとスタジオ内を見学する自由奔放な弟・七之助──それが中村兄弟の撮影中の印象だ。しかし歌舞伎の話になると、二人とも、まっすぐで、熱い。二人に話を聞いた。

“父のおかげ”。インタビュー中、二人がもっとも口にした言葉だ。稀代の人気役者・十八世中村勘三郎の息子としてのプレッシャーをたずねると、勘九郎さんはまっすぐな眼差しでこう答えた。

「父が走り続けてくれたおかげで、普通では味わえない体験をさせてもらえた。感謝しかないですね」

 昨年6月の「コクーン歌舞伎」、7月の「平成中村座ニューヨーク公演」、そして現在、東京・浅草で上演中の「平成中村座」など、兄弟の活躍は続いている。それでも七之助さんは、「今は100対0で父のおかげ」と言い切る。

「父が愛されていない人だったら、浅草に小屋を建てさせてなんかもらえません。チケットが売れたからといって安心してはいけない。一歌舞伎役者として、本当に一生懸命やらなくてはいけない時です」

 その言葉に、勘九郎さんも強くうなずく。

「役をやる大変さは常に感じているし、今後もそれは変わらない。100年後、200年後のお客様に喜んで見てもらえる演目を、僕たちで残していかなくては」

 4月中旬、浅草の「平成中村座」をたずねた。古典演目を丁寧に演じる二人の芝居に、拍手が鳴りやまない。一方で、「オヤジの時は……」と、勘三郎さんと比べるおしゃべりも聞こえてきた。

 名門を背負う宿命──二人はそれをまっすぐ受け止め、成長の糧にするだろう。

※週刊朝日 2015年5月8-15日号
平成中村座 陽春大歌舞伎 若手で古典に取り組む
 平成中村座は故十八代目中村勘三郎が自ら構想し実現させた劇場だが、没後早くも3年目のこの春、亡父の志を継ぐ勘九郎・七之助兄弟の手で再開場された。江戸の芝居小屋の空間を仮設劇場として再現。その臨場感の中に観客との連帯を現代の歌舞伎によみがえらせるのが勘三郎の求めたことだが、今回は古典の有名作が並ぶ。若い一座で、まずしっかりと古典に取り組もうという姿勢がうかがえる。

「魚屋宗五郎」の勘九郎の宗五郎(左)と七之助のおはま(C)松竹
 上置きの座頭として兄貴分の橋之助が弁慶、勘九郎の富樫、七之助の義経という「勧進帳」が注目の的だが、橋之助の時代物役者としての骨格の大きさ、勘九郎の規矩(きく)正しい正統派の演技、七之助の気品が長所として挙げられる。

 勘九郎は河竹黙阿弥の生(き)世話物「魚屋宗五郎」に挑戦。持てる力を発揮して好演だが、後は緻密に出来上がったチームプレーの綾(あや)をいかに段取りに追われず我が物とするかだ。七之助の女房、亀蔵の老父ほか好助演。「磯部邸」で詫(わ)び金を受け取るくだりが飛んでしまったのは所見日(2日)だけのミスだろう。

 七之助の出し物は「妹背山(いもせやま)婦女(おんな)庭訓(ていきん)」の「御殿」。前段をカットした「姫戻り」からの上演だから初めての観客には筋がのみ込めまいが、七之助のお三輪は仁(にん)にも合い、将来が楽しみな好演。

 これらは演出が完全に出来上がった演目だが、「幡随長兵衛」の序幕「村山座」の場は芝居小屋という場面と平成中村座の場内を一体化させ、この劇場ならではの面白さが存分に発揮される。橋之助の長兵衛がここでも立派な座頭ぶり。勘九郎らの「高坏(たかつき)」でも舞台後方を開け放って本物の夜桜を見せるのが効果満点。開幕の「双蝶々(ふたつちょうちょう)」は弥十郎と獅童の力士ぶりがいい。浅草寺境内で5月3日まで。

(演劇評論家 上村 以和於)
[評]平成中村座 陽春大歌舞伎
勘九郎と七之助、初役で共演

 亡き中村勘三郎の遺志を継ぐ平成中村座。仮設の芝居小屋ならではの親密な空間の中で、様々な古典歌舞伎が大衆性を取り戻していくのが面白い。


 昼の部「魚屋宗五郎」は、中村勘九郎の宗五郎と中村七之助の女房おはまが初役で共演する。

 妹が奉公先で手討ちにされた宗五郎は、禁酒の誓いを破って旗本屋敷へ踏み込む。次第に酔いが回っていく過程が見どころだが、勘九郎は酒を飲んでも酔いきれない沈痛な気持ちを忘れず、滑稽な内にも鋭敏なところがある。

 「矢でも鉄砲でも持ってきやァがれッ」と息巻く花道の引っ込みも若さみなぎる。正気に戻ってからの述懐は、七五調の名台詞ぜりふをもう少し声量たっぷり聞かせたい。勘九郎らしい誠実な青年像を見ていると、どんな運命の前にも屈服せざるをえない人間というものが愚かしくとも愛いとおしく思われる。

 七之助のおはまは化粧気のない世話女房を体当たりで演じ、台詞も小気味よく、女方としての器量をまた一つ大きくした。中村いてうが子分の三吉に起用されて一門で息の合ったところを見せる。親父の太兵衛は片岡亀蔵が好演。宗五郎に過ちを詫わびる磯部主計之助かずえのすけは中村獅童で、身分を超越した殿様の存在感がある。家老の浦戸十左衛門は坂東弥十郎が引き受けて手堅い幕切れになった。(演劇評論家 大矢芳弘)

――5月3日まで。浅草寺境内の平成中村座。
(評・舞台)平成中村座 勘九郎、初役と思えぬ充実
 中村勘三郎が没して2年半、最後の舞台だった平成中村座が浅草に帰ってきた。中村橋之助を上置きに、中村勘九郎・七之助兄弟が古典演目を並べての大入りは、何よりの孝養だろう。

 昼の「魚屋宗五郎」は、勘九郎が江戸の世話物の骨法を守って、慎み深い前半がとくにいい。妹の死の真相を知って禁酒を破る眼目も、初役とは思えぬ充実だが、時に現代語調が混じるのが惜しい。七之助の女房、片岡亀蔵の父、坂東新悟のおなぎ(18日からは中村児太郎)らのアンサンブルも健闘。

 夜の「妹背山」御殿は七之助のお三輪が哀れ深く、輪郭のはっきりとした好演。父は白木の大道具だったが、古風な黒塗り。演じ方は文楽に則(のっと)った坂東玉三郎の新演出を踏襲する。官女のいじめの後、すぐに嫉妬の感情を爆発させるが、そこまでにくよくよ悩む一人舞台のある伝統的な演出でも見てみたい。

 昼は他に、橋之助が東京で初めて弁慶を演じる「勧進帳」。武人の面影濃厚な勘九郎の富樫ともども、見た目の迫力に比して演技は柔らかい。「角力場」は、坂東弥十郎が行き届いた濡髪。中村獅童の放駒と与五郎は、歌舞伎をはみ出した現代風の造形に個性がある。

 夜は他に、勘九郎の軽やかな「高坏」と、劇場の機構をいかした「極付幡随長兵衛」で、芝居小屋の中の喧嘩(けんか)騒ぎを臨場感あふれる工夫で面白く見せる。

 橋之助の長兵衛は、せりふには身分の意識や言い回しの妙が足りないが、貫禄十分で無言の思い入れが効き、仕立て下ろしの羽織袴(はかま)に着替えるくだりなど、男子の本懐ともいうべきか。

 昼夜とも、勘三郎の部屋子の中村鶴松はもちろん、名題昇進の中村いてう、芸達者な中村橋吾らが抜擢(ばってき)され活躍している。(児玉竜一・歌舞伎研究)

 5月3日まで。
五稜郭では桜が咲いたようです。東京では、予報に最高気温28度と聞き及んだんだけど、本当(汗)?

北海道
五稜郭 夜桜満開
 ゴールデンウィーク初日の25日、函館市の五稜郭公園で、満開となった桜の夜間電飾が始まった。観光客らが、幻想的に浮かび上がった桜を楽しんだ。

 ソメイヨシノなど桜約1600本がある五稜郭公園について、函館地方気象台は24日に満開と発表した。満開は2002年の4月21日に次いで、史上2番目に早い。公園全体が桜色に染まり、多くの花見客が訪れている。午後7時からは公園南側の一角に提灯型の電飾数百個がともされ、夜空に桜が浮かび上がる。

 夜間電飾は平日は午後9時まで、土日祝日は午後10時までで、5月17日まで。

岩手
宮古港海戦学ぶ講座
江戸から明治へと時代が移る戊辰戦争で宮古を舞台に繰り広げられた宮古港海戦を学ぶ講座がきょう行われました。
これは宮古港の開港400周年を記念し、市民有志で結成された「宮古海戦組」が今回初めて企画したものです。戊辰戦争の終盤の明治2年、旧幕府軍は宮古湾に停泊していた新政府軍の軍艦を奪う作戦を決行し、失敗に終わりました。新選組の土方歳三も参加した宮古港海戦です。講座には子供たちを中心におよそ50人が参加し、紙芝居と歌を交えながら戦いの様子が紹介されました。宮古海戦組は「宮古港が歴史的な戦いの舞台であったことをPRしたい。」と話していました。
福島
若松市民参加舞台「浮かれ勧進帳」制作発表
 会津若松市民が3年に1度、地域の人物や事柄をテーマに制作、上演する第7回市民参加のてづくり舞台「浮かれ勧進帳~米騒動悲恋道行(こめさわぎこいのみちゆき)~」の制作発表が25日行われた。大正時代の米騒動を背景に、芝居に打ち込む若者の姿と恋を描く舞台。8月1、2の両日公演する。
 会津若松文化振興財団の主催、福島民報社など後援。公募で選ばれた会津地方の小学生から60代までの男女約40人が参加し、昨年12月から稽古を重ねている。現代劇の繊細な演技に歌舞伎や大衆演劇の要素、ユーモア、大正ロマンの雰囲気を取り入れる。市民が着物などの衣装を提供している。
 公演会場となる會津風雅堂で行われた制作発表では長谷川守夫財団理事長が「公演に向け一丸となって練習している。多くの人に見てほしい」とあいさつした。森田寅運営委員長に続き、脚本・演出の佐藤雅通・大沼高教諭が「戊辰戦争後の復興には人々の芸術・文化に対する熱意も一役買った。震災・原発事故からの復興に向かう心意気を示すことにもつながる」と説明した。
 主役の1人を務める市内の主婦鈴木明実さん(64)は「大正時代の若松を楽しんでほしい」と呼び掛け、最年少の坂下南小6年、佐藤瞳さん(11)は「お芝居が好きなので、楽しんで演じたい」と意欲を語った。
 公演は8月1日午後6時半と同2日午後1時半に開演する。5月9日に會津風雅堂などで前売りを開始する。前売り券は一般1500円、大学生以下500円(当日は各200円増し)。問い合わせは會津風雅堂 電話0242(27)0900へ。

小峰城跡修復4年ぶりに一般開放・白河
 東日本大震災で石垣が崩落するなどした白河市の小峰城跡(国指定史跡)の修復工事が一部で完了し、市は19日、4年ぶりに城跡の一般開放を再開した。三重櫓(やぐら)までの見学ルートが通れるようになり、大勢の市民が市のシンボル復活を喜んだ。
 JR白河駅北側にある小峰城跡を取り囲む石垣は総延長約2キロ。10カ所計160メートル(7000個)にわたり崩れたほか6カ所で石の隙間が広がるなどの被害を受けた。城郭の遺構を活用した公園として親しまれたが、本丸の敷地への立ち入りはできなくなった。
 市は2011年12月に修復作業に着手し、本丸敷地内の三重櫓に至るルート付近3カ所を優先して実施した。昨年12月、最大の崩落箇所だった本丸南面(幅45メートル、高さ10メートル)の積み直しを終了。伝統工法を用いて崩れた石を積んだほか、新たに白河産の石も用いた。
 1991年に復元された三重櫓も地震の被害を受け、壁などの修復が3月までに完了した。石垣の全面修復にはまだ時間を要するが、櫓までの散策ルートが復活したことで集客向上へ大きな弾みとなる。
 同市の長田シゲ子さん(77)は「石垣が崩れた時は、言葉にならないぐらいしょんぼりしていた。立派に修復されて、街もにぎわってうれしい」と喜んだ。復興式典に出席した鈴木和夫市長は取材に「小峰城跡に再入場できるようになったことは、白河の復興のシンボルとなる」と語った。
 小峰城は、初代白河藩主の丹羽長重が大改修をして完成。交通要衝の重要拠点として役割を担ったが、戊辰戦争で大部分を失った。

東京
江戸の消防㊦ 幕末、町火消しの隆盛
 1657(明暦3)年正月18~19日の大火は江戸最大のものであった。火元は本郷の本妙寺。折からの北西風にあおられ、火勢は外濠の内側と深川の一帯、江戸の街の6割を灰じんに帰した。江戸城の天守、本丸、二の丸を全焼。大名屋敷500カ所、旗本屋敷770カ所、寺社350カ所、橋60カ所、町屋400カ所を焼き尽くした。振り袖火事と呼ばれるこの火事は、本妙寺の大施餓鬼に亡き娘の供養に燃やした振り袖が舞い上がり本堂の屋根に着火したといわれる。焼死者10万人を超える大惨事に至った。  この大火から63年後、享保の改革を担った町奉行、大岡忠相によって1718(享保3)年に町火消しが創設される。1720(享保5)年には、いろは48組、深川16組が組織された。総勢1万人分の費用は町負担とされた。  編成は頭取、纒持ち、梯子持ち、道具持ち、平人(鳶口)、工手人足(火事場には出動しない)である。火事のとき、鳶など火消し人足は町内の自身番に集結。頭取の指揮のもと現場に駆けつけた。装束は刺子長半てんに猫頭巾を着用し、水をかぶって消火にあたった。  江戸の街が参勤交代などで巨大化し、人口が100万人を超える世界最大の都市にまで発展すると消防能力が追いつかなくなる。機能が徐々に定火消しから、町火消しに委ねられることになる。  1747(延享4)年、江戸城二の丸火事では、初めて町火消しが城内に入り、消火にあたった。幕末には定火消し屋敷はついに1カ所になって消火は完全に町火消しに依存することとなった。 鳶頭・新門辰五郎  新門辰五郎は町火消しを象徴する存在である。1800(寛政12)年江戸に生まれ、浅草寺の塔頭、伝法院新門の門番であったので新門を名乗る。  浅草十番組「を」組頭であった町田仁右衛門に身を寄せ、頭角を現す。娘をもらい養子となり「を」組を継承する。  一橋慶喜が京都の禁裏守護を命ぜられると、ともに上京、二条城の警備にあたる。徳川慶喜が謹慎中は、寛永寺の警護。水戸、駿府に移住すると同行し警護にあたった。1875(明治8)年75歳で没する。  ちなみに江戸の三大大火は、明暦の大火、目黒行人坂の大火=1772(明和9)年、丙寅の大火(高輪車町)=1806(文化3)年である。

静岡
幕末に思いをはせ “坦庵のパン”に舌鼓
◆伊豆の国市でフェスタ

 幕末の韮山代官・江川坦庵(たんなん)(一八〇一~五五年)が日本で初めて焼いたとされるパンを再現するパンフェスタが十二日、伊豆の国市の代官屋敷江川邸であった。来場者は、幕末に思いをはせながら「パン祖」のパンの味を楽しんだ。

 世界文化遺産登録を目指す韮山反射炉の建造を指揮したことでも知られる坦庵の没後百六十年を記念し、江川家の資料を管理する江川文庫が初めて企画。坦庵がつくったレシピ通りに小麦粉と塩、水、酒種を混ぜた生地を、江川邸の土間にある石窯と鉄鍋を使って十~十五分焼き、来場者に振る舞った。

 パン作りと解説を担当した石渡食品(函南町)の石渡浩二社長(63)は「坦庵公はパンや反射炉以外にも品川台場築造などで今の時代の礎をつくった人。業績を広く知ってもらいたい」と話した。

(山田晃史)
 かちかちなんで、そんなに美味しいもんじゃないです。でも、坦庵公のパン、伝えて欲しいです。

幕末の史跡で歴史に触れる、レトロな「下田」で週末大人旅
史跡めぐりで黒船来航をしのぶ


伊豆半島南端の街、下田。夏は海水浴客で賑わい、冬はいち早く咲く水仙やアロエの花目当てに観光客が訪れます。しかし、意外と忘れられがちなのが、下田は史跡の街だということ。1854年の日米和親条約が締結された後、日本で函館と並んで初めて開港されたのがこの下田なのです。

【下田】幕末の史跡をたどる週末大人旅
(C)Flickr/bryan…

市街地の一角には、風情たっぷりのレトロな通りがあります。「ペリーロード」と呼ばれるこの道は、ペリーが日米和親条約を締結するために行進しました。現在では、この道沿いにカフェや土産物屋などが軒を連ねています。

【下田】幕末の史跡をたどる週末大人旅
(C)Flickr/Izu navi

そして、日米和親条約が締結された場所が、この了仙寺です。5月下旬には1000株のアメリカジャスミンが見ごろを迎え、境内は濃厚な甘い香りで包まれます。

ほかにも、米国総領事のハリスが滞在した玉泉寺や、日露和親条約が調印された長楽寺、ハリスに仕えて非業の死を遂げた唐人お吉の菩提寺である宝福寺など、史跡の見どころは満載。幕末ファンが訪れたくなるスポットが目白押しです。

毎年5月には黒船祭が開催され、パレードが行われるほか、時代衣装を着て街を散策することもできます。2015年は5月15~17日に開催されるので、イベントを狙って訪れてみるのもよいでしょう。
絶景そして海の幸

もちろん、下田は史跡以外にも観光スポットがたくさんあります。

【下田】幕末の史跡をたどる週末大人旅
(C)Flickr/hiro

爪木崎の灯台から望める雄大な大海原を前にすると、日常の疲れが吹き飛びそう。

【下田】幕末の史跡をたどる週末大人旅
(C)Flickr/bryan…

下田ロープウェイに乗り、寝姿山から見下ろす風景は、伊豆三景のひとつともいわる絶景です。頂上にある愛染堂は縁結びのパワースポットとしても知られています。

また、下田は海の幸がおいしいことでも有名です。名物のキンメダイは、煮つけで味わうのが定番ですが、ちょっと変わり種のメニューといえば、キンメダイのフライが入った「下田バーガー」です。

幕末の史跡で歴史に触れる、レトロな「下田」で週末大人旅
(C)Flickr/Yamaguchi Yoshiaki

くせのないキンメダイが、ソースとよく合います。ふわふわの食感で幸せな気分になりますよ!下田バーガーは、道の駅開国みなと内にある「Ra-maru」で味わうことができます。

史跡に絶景に食にと、さまざまな観光資源に恵まれた下田。5月の下田も魅力満載です。

[伊豆下田観光ガイド]
(今井明子)

福岡
『福岡県の幕末維新』 アクロス福岡文化誌 編纂委員会編  (海鳥社・1944円)
 ペリー来航から明治維新にかけての激動期。時代の中心にいた薩摩藩や長州藩ではなく、現在の福岡県内にあった福岡藩、小倉藩、久留米藩、柳川藩の動向に目を向けた。福岡県の歴史や文化が地域性に富んでいる遠因が見えてくる。
 尊皇攘夷(じょうい)か、公武合体か。佐幕か、倒幕か。各藩は揺れた。久留米藩で尊攘派志士の真木和泉が一時活躍した一方で、佐幕派の小倉藩は第2次長州戦争で長州藩に敗れた。戊辰戦争で財政が悪化した福岡藩は「贋札・贋金事件」に手を染め、事実上の廃藩に。柳川藩は明治維新後の士族の反乱を巧みに抑えた。ひとくくりにできない複雑な歴史が福岡県にはある。
 各藩で活躍した人物を紹介するコラムも載せた。福岡藩における明治維新の語り部となった早川勇。新選組を離脱し、後に実業家となった久留米藩の篠原泰之進。あまり知られていない人物にも光を当てた。
 アクロス福岡文化誌の第9巻。同誌編纂(へんさん)委員会長を務める丸山雍成・九州大学名誉教授(日本近世史)ら県内の研究者や学芸員計12人が執筆を担当した

=2015/04/26付 西日本新聞朝刊=

エンターテインメント
沖田総司の強さ、はかなさ 宝塚歌劇雪組公演「星影の人」
 5月2日からの博多座(福岡市博多区下川端町)は宝塚歌劇雪組公演。今年1月にお披露目された新生雪組のトップスター早霧せいなは長崎県佐世保市生まれ、トップ娘役咲妃みゆは宮崎県高鍋町生まれで、宝塚歌劇初の九州出身トップコンビが博多座の舞台に立つ。25日まで。
 第1部は“日本物の雪組”にふさわしいミュージカル・ロマン「星影の人‐沖田総司・まぼろしの青春‐」。1976年に汀夏子主演で雪組で初演された名作の再演だ。
 舞台は幕末の京都。新撰組一番隊組長の沖田は祇園の芸妓玉勇と出会い、淡い恋に落ちる。沖田は病に倒れ、2人に残された時間はあまりにも短かった…。虚実が交じった物語が展開する。
 「沖田がどう戦い、どう恋をして死んでいったのか、強さとはかなさを併せ持つ沖田を表現したい」と早霧。「艶やかで魅力的な早霧先輩に少しでも近づきたいと思っています」と咲妃。
 第2部はファンタスティック・ショー「ファンシー・ガイ!」。パリ、ローマ、ウィーン、マドリードなどを舞台に華麗なダンスを繰り広げる。客席に降りてファンと交流する場面では九州弁を披露する機もうかがう。
 A席8800円、特B席7800円、B席6200円、C席4000円。博多座電話予約センター=092(263)5555。
平成中村座を見たのは初めて。勘三郎さんの生きていた時に見ておけばよかった(;_:)。

平成中村座 陽春大歌舞伎
一、妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)
三笠山御殿

杉酒屋娘お三輪 中村 七之助
漁師鱶七実は金輪五郎今国 中村 獅 童
橘姫 中村 児太郎
豆腐買娘お柳 波野 七緒八
豆腐買おむら 中村 勘九郎
烏帽子折求女実は藤原淡海 中村 橋之助
二、高坏(たかつき)

次郎冠者 中村 勘九郎
高足売 中村 国 生
太郎冠者 中村 鶴 松
大名某 片岡 亀 蔵
三、極付 幡随長兵衛(ばんずいちょうべえ)
「公平法問諍」

幡随院長兵衛 中村 橋之助
女房お時 中村 七之助
出尻清兵衛 中村 勘九郎
伊予守源頼義 坂東 新 悟
御台柏の前 中村 児太郎
子分極楽十三 中村 国 生
同 雷重五郎 中村 宗 生
同 閻魔大助 中村 宜 生
同 笠森団六 中村 鶴 松
近藤登之助 片岡 亀 蔵
唐犬権兵衛 中村 獅 童
水野十郎左衛門 坂東 彌十郎

夜の部は、重厚な時代物『妹背山婦女庭訓』より、変化に富んだ物語の展開が魅力の「三笠山御殿」で幕開き。十七世勘三郎が復活させた軽妙洒脱な舞踊『高坏』は下駄タップという楽しい趣向で。俠客として知られる幡随院長兵衛を取り上げた様々な演目の中でも決定版といわれる『幡随長兵衛』は、江戸の町奴と旗本の姿を鮮やかに描いた黙阿弥の名作です。

 『妹背山婦女庭訓』は何と蘇我入鹿が敵役という時代もの。求という青年に片想いをしていたお三輪が、迷い込んだ三笠山御殿で官女達にさんざんなぶられた上、藤原淡海(求の真の顔)の部下である金輪五郎に、入鹿への復讐のために必要だからと殺されてしまう……うーん、『トゥーランドット』のリウに比肩する、低い身分のために犠牲になる可愛そうな娘。

『高坏』は花見に来たお殿様と太郎冠者次郎冠者が繰り広げる喜劇と下駄タップ。次郎冠者の勘九郎が何ともかわいい。

そして『幡随長兵衛』。歌舞伎が一番有名なんだろうけど、落語でも『芝居の喧嘩』に出てくる。幡随院長兵衛ら町奴と白柄組の水野十郎右衛門らの抗争。

 勘九郎がどんどんお父さんに似てくるのが嬉しい。本人、すごくプレッシャーだと思うけど、でも、勘三郎の名を継げるよう精進しているんだよね。
いくつか幕末関係のニュースを拾ったので、ご紹介します。

北海道
軍艦「開陽丸」進水150年、江差で特別展
 【江差】幕末期に江差沖で沈んだ旧幕府軍の軍艦、開陽丸が今年で進水から150年となるのを記念した特別展が21日、町内の開陽丸青少年センターの今季のオープンに合わせ、同センターロビーで始まった。同船の歴史を紹介している。

 同船は1865年(慶応元年)にオランダ・ドルトレヒト市で進水し、1868年(明治元年)に沈没した。1974年から海中発掘調査が行われ、発見された砲弾など多数の遺物は、同センター近くに原寸大で復元された「開陽丸記念館」に展示されている。

 特別展では、進水式の様子を撮影した写真の複製や同船の構造図など解説パネル60枚が中心の構成だが、分解された状態の米国製拳銃や軍靴など同記念館で常設公開していない実物資料も展示した。特別展は今季営業中開催。同センターは入場無料。記念館は大人500円、小中学・高校生250円。(山田一輝)

会津魂の結晶“緋の衣” 「マッサン」ゆかりの余市リンゴ
 28日に最終回を迎える連続テレビ小説「マッサン」の舞台の一つ北海道・余市は旧会津藩士が明治期に入植し、国内初のリンゴの民間栽培に成功した地。藩士が苦難の末に実らせた品種「緋(ひ)の衣(ころも)」は現在、会津のリンゴ生産農家が栽培し、ジュースに加工している。生産農家は「会津人の苦労を知って」と思いを込める。
 緋の衣は明治初期、産業振興のため米国から輸入され、開拓使が入植者に与えた品種。苦難にもあきらめずに栽培を続けた赤羽源八が初めて結実させた。品種名は藩主・松平容保が孝明天皇から賜った「緋の御衣」に由来。戊辰戦争で賊軍とされた藩士にとって”栄光の証し”といえる。ドラマでは亀山政春が興した会社が会津ゆかりの農家から買い取ってジュースにした。
 緋の衣は現在、会津地方の生産農家6戸でつくる「会津平成りんご研究会」が栽培する。北海道で唯一原木が残る会津ゆかりの農園から譲り受けた枝約30本を接ぎ木して2000(平成12)年に栽培を開始。試行錯誤の末に結実させ、年々収量を増やしている。研究会の白井康友会長(56)=会津若松市、しらい農園園主=は「ドラマで緋の衣が全国に知られた」と喜び、「学校給食に使われることが目標。食を通じて子どもたちに伝えられれば」と思いを語る。
(2015年3月28日 福島民友トピックス)


福島
鶴ケ城の郷土博物館改修終える 1日、全面オープン
 会津若松市・鶴ケ城の若松城天守閣郷土博物館の改修工事が終わり27日、内覧会が開かれた。新たに幕末の会津藩の動向や明治以降に活躍した会津の偉人など、今に伝わる会津武家文化を紹介する。大型観光企画「ふくしまデスティネーションキャンペーン(DC)」開幕に合わせ1日に全面オープンする。
 鶴ケ城天守閣再建50周年記念事業で、これまで入場を規制していた三層(3階)と四層(4階)の改装が終わり細部の調整を進めている。三層では「幕末の動乱と会津」をテーマに、京都守護職就任や鶴ケ城籠城戦など会津藩のたどった幕末の歴史を当時の写真や資料などで解説する。四層には、新島八重や山本覚馬などの偉人20人のパネルを展示した。

東京
近代の「謎」を秘めた山
魚住昭の誌上デモ「わき道をゆく」第117回
1月につづいてまた上野のお山に行った。取り立てて言うほどの目的があったわけではない。西荻のわが家の窓から白い富士の嶺を眺めるうち、上野公園をほっつき歩いてみたくなったのである。

富士山と上野公園に何の関係があるかって? そんなことを訊かれても私にもよくわからない。しいて共通点を挙げるなら、どちらも畏敬の念をこめて“お山”と呼ばれることぐらいだろう。

まだ風が寒い。でも午後の日差しは暖かかった。売店で買ったお握りで腹ごしらえをした後、広さ53haの上野公園を1時間、2時間、3時間と夢中で歩き回った。
30分も歩けばへとへとになるはずなのになぜか平気だ。いつもの足腰の重さをまったく感じない。私はお山の混沌とした魅力に取り憑かれてしまったらしい。

その魅力とは何だと訊かれると、これまた答えにくい。突きつめていくと、近代日本の勝者と敗者の明暗ということになるのだが、それではあまりに漠としている。もう少し具体的にご説明したい。

上野公園にはモニュメントが数多ある。有名なものだけ挙げても西郷隆盛像、彰義隊墓碑、正岡子規記念球場、野口英世像、上野公園の生みの親と言われるオランダ人医師ボードワンの胸像・・・・・・。
それだけではない。不忍池の中の弁天島には石碑がぎっしり並んでいる。ふぐ供養碑、スッポン感謝之塔、暦塚、庖丁塚、鳥塚、魚塚、幕末の剣豪碑、めがね之碑など数え上げると切りがない。


歌川広重の不忍の池の浮世絵---〔PHOTO〕gettyimages
たぶん上野公園は日本一モニュメントの多い場所だ。それだけ人々の思い入れが強いということだろう。その理由は公園の歴史を繙くとわかる。中世の上野の山は忍の岡や忍の森と呼ばれ、多くの歌に詠われた名勝の地だった。

それが1603年の徳川幕府の成立後、江戸の聖地になる。江戸城の東北の鬼門を守り、天下太平を祈願する寛永寺(天台宗)が建立されたからだ。起工から74年後に落成した根本中堂は瑠璃殿と呼ばれる壮麗な大伽藍で、上野の山全域が寛永寺の境内になった。

全山に桜の木が植えられたため花見の名所となり、酒宴を張る人々でごった返した。不忍池畔には今のラブホテルにあたる出合茶屋が軒を連ね、町人だけでなく身分を隠した武士も通った。こうして上野界隈は聖と俗が混在するサンクチュアリと化した。

そのほとんどが幕末の戊辰戦争の最中に1日で灰燼に帰する。1868年、旧幕臣らの彰義隊が上野の山に立て籠もった。長州の大村益次郎が率いる官軍は、不忍池越しに砲弾をぶち込んで彰義隊を撃破、大伽藍を焼失させた。

上野の山が日本初の公園の一つに指定されるのはそれから5年後のことだ。以来、内国勧業博覧会などの国家的行事がたびたび催される一方、関東大震災では住民の避難場所、東京大空襲では焼死体の仮埋葬所になり、戦後は戦災者のバラックで埋まった。上野公園は戦火や震災とともに有為転変を重ねてきたのである。

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午後4時を過ぎ、園内の人影も少なくなりだしたころ、公園西側の東照宮境内に入ったら、意外なものが目に入った。鳩の彫像の中でちろちろと火が燃えている。
被爆者の一人が広島の焼け跡から故郷に持ち帰った「広島の火」と長崎の「原爆瓦」から採火した火を合わせたものだった。壁面には「核兵器をなくし永遠に平和を誓う広島・長崎の火」とあった。

東照宮を出てしばらく歩くと、初代林家三平の妻・海老名香葉子さんらが建てた「時忘れじの塔」にぶつかった。時計の下で遠くの空を見る母子3人の像が立っていた。東京大空襲で亡くなった海老名さんの家族がモデルらしい。


東京大空襲の主力となった戦略爆撃機B29---〔PHOTO〕gettyimages
「関東大震災(大正十二年)東京大空襲(昭和二十年) 東京にも、現在からは想像もできない悲しい歴史があります。今、緑美しい上野の山を行き交う人々に、そのような出来事を思い起こしてもらうとともに、平和な時代へと時をつなげる心の目印として、この時計台を寄贈しました」と記されていた。

上野は、戦争や震災で無念の死を遂げた人々の鎮魂の山だった。
東照宮からここに来る途中のパゴダ(仏塔)の丘にはかつて上野大仏が鎮座していたそうだ。関東大震災でその首が転げ落ち、胴体は戦中の金属類回収令で供出させられた。顔だけは寛永寺の僧侶が境内の檜にくくりつけて隠したので鋳つぶされずにすみ、今もパゴダの脇に安置されている。

このエピソードが語るのは官の統制においそれとは従わない寛永寺の性格だろう。上野の山には国家にまつろわぬ民や旧武士、僧侶らの精神が根付いている。それは、政府が消そうとしても消せなかった歴史の刻印にちがいない。

あまり知られていない話だが、後に靖国神社と呼ばれる東京招魂社は当初、上野の山に創建される案が有力だった。長州閥の木戸孝允が寛永寺の焼け跡を通りかかった際、この「土地を清浄して招魂場と為さんと欲す」(『木戸孝允日記』)との意向を示したからだ。
だが、大村益次郎が自ら指揮した彰義隊との戦の記憶が生々しい上野を「亡魂の地」と敬遠した。結局、幕府の歩兵調練場跡地だった九段坂上が選ばれ、1869(明治2)年6月、仮本殿が落成し、戊辰戦争の官軍戦没者約3600人が合祀された。
それから5年後、上野公園には彰義隊の墓碑が建てられた。以降、旧幕臣の「亡魂の地」であると同時に国家的行事の場でもあるという複雑な性格を帯びながら都市公園として整備されていく。

この日の散策の締めくくりは西郷サンである。彰義隊慰霊碑の前方に立つ高村光雲作の銅像は、身長3・7m、胸囲2・6m。実物(推定身長178㎝)の2倍も大きい。毛ずねの見える単衣に脇差し、愛犬ツンを従え、大きな目玉で虚空をにらんでいる。

西郷ほど民衆の信望を集めた政治家はいない。彼が西南戦争に敗れて自死した後も、人々は夜空に輝く火星を「西郷星」と呼び、彼が中国やインドやシベリアで生きているという噂を信じた。

伝説の英雄をいつまでも野に放っておくのは得策ではないと政府は判断したのだろう。1889(明治22)年の憲法発布にともなう明治天皇の特旨で西郷の賊名が解かれ、正三位が追贈された。
それを契機に薩摩閥を中心に銅像建設に向けた動きが始まり、9年後に完成した。当初案は軍服姿だったが、「逆徒」の経歴ゆえに撤回され、設置場所も皇居前から上野公園に変更された。上野公園は「逆徒」を無害化して「官」の側に取り込む格好の装置としても機能してきたのである。

それにしても、と私は思う。維新最大の功労者・西郷は自ら樹立した政府になぜ反旗を翻したのか。どんな日本を作りたかったのか。夕空に屹立する巨大な銅像が、近代史の謎の塊のように見えた。

*参考:『靖国神社と幕末維新の祭神たち』(吉原康和著・吉川弘文館刊)、『上野公園』(小林安茂著・郷学舎刊)、『西南戦争』(小川原正道著・中公新書)、『地図と愉しむ東京歴史散歩』(竹内正浩著・中公新書)

まつろわぬ者たちの上野
魚住昭の誌上デモ「わき道をゆく」第118回
お花見などで上野のお山に行かれることがあったら、是非、彰義隊の墓を御覧になるといい。西郷サンの銅像の裏手に建っているからすぐに見つかるはずだ。
そこはもともと1868(慶応4)年5月の上野戦争で死んだ彰義隊員(計266人)の遺体を荼毘に付したところだ。16年後に彰義隊生き残りの小川興郷(将軍慶喜の元家臣)らの手で今の墓が建立され、以来120年余、小川一族の手で守られてきた。

墓守の一族の苦労は並大抵のものではなかったらしい。何しろ彰義隊は靖国神社に合祀もされない賊軍だ。西郷隆盛のように没後の名誉回復もなされなかった。「朝敵」の汚名を背負ったまま生きなければならなかったからだ。

彼らが政府から受けた冷遇は墓碑銘が如実に示している。高さ6・7mの大墓石には旧幕臣・山岡鉄舟の筆で「戦死之墓」と刻まれているだけで肝心の彰義隊の3文字がない。つまり上野戦争から16年たっても彰義隊の名を書くことがはばかられたのである。

小川一族にとって救いがあるとすれば、それは彰義隊とともに壊滅的な打撃を被った寛永寺の僧侶たちの配慮だったろう。「戦死之墓」の前に置かれた高さ60cmの小さな墓石を見てほしい。上野戦争の翌年、寛永寺の子院の住職2人が密かに付近の地中に埋納したもので、後に掘り起こされ、今の位置に据えられた。

「慶応戊辰五月十五日 彰義隊戦死之墓」などと記された墓石の裏にはこんな漢詩が刻まれている。

昔時布金地 昔時金地を布く
今日草茫々 今日草茫々たり
誰笑千年後 誰か笑う千年後
却憐古戦場 劫て憐む古戦場

昔は絢爛たる伽藍だったところが、今は草ぼうぼうだ。この変わりようを誰か1000年後に笑うだろうか。いや、かえって古戦場として憐れんでくれるにちがいない―。

漢詩の読みも意訳も私の勝手な解釈だから誤っているかもしれないが、切々とした心情がこめられていることだけは間違いない。

吉村昭さんの『彰義隊』(新潮文庫)によると、上野戦争後、上野の山は彰義隊反乱の地として僧はもとより寺男も出入りを禁じられた。わずかに焼け残った寺が大名家に返還され、住職が帰山届を出し、明治2年2月に許されたが、彰義隊の墓に遺族が参ることは禁じられ、それが許されたのは明治6年末だったという。
いくら何でも酷すぎる仕打ちである。が、裏を返せば、それだけ政府が上野の山を恐れたということだろう。それは一体なぜか。

その訳を探るため上野戦争の歴史を繙いてみよう。始まりは鳥羽伏見の戦いに敗れた将軍慶喜が慶応4年2月、朝廷に恭順の意を示すため寛永寺に入って謹慎したことだ。寛永寺を選んだのは、貫首の輪王寺宮が明治天皇の叔父にあたり、朝廷に一定の影響力を持つと考えられたからだ。

慶喜の期待通り、輪王寺宮は慶喜の助命嘆願に奔走した。が、朝廷軍は強硬姿勢を崩さない。それに憤激した旧幕臣らが結成したのが彰義隊である。彼らは慶喜のいる寛永寺に集結し、その数は1000人余りに上った。

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この彰義隊の存在に困り果てたのが旧幕府の重臣・勝海舟らだ。彰義隊を解散させ、官軍を穏やかに江戸に迎え入れるのが最も望ましい。かといって解散を命じたら、彼らは暴発し、徳川家に恩義を抱く市民も合流して江戸は大混乱に陥る恐れがあった。
そこで彼らを江戸の治安を守るため利用すべきだという意見が出され、重臣一同が賛成した。彰義隊もこの要請に応え、江戸で横行する略奪や辻斬りなどから市民を守るため巡回することになった。

彼らは夜になると、数名ずつ組んで、円に彰の字を描いた提灯を掲げて上野の山を降り、江戸の町々に散っていった。その成果はめざましいものだったらしい。

〈犯罪は激減し、安らいだ夜を持つことを得た市民は感謝し、主立った者が、連れ立って上野の山の屯所に来て金品を差し出すことも多くなった。(中略)町民たちは円提灯をかかげてやってくる隊員たちに茶菓を出し、酒をすすめる者もいる。隊員と町民たちの結びつきは、日増しに強くなっていた〉と吉村さんは書いている。

同年3月14日、江戸に入った西郷と勝海舟の会談で江戸城の無血開城が決まり、慶喜は水戸に隠退謹慎することになった。西郷は江戸の治安維持を勝らに委ねた。
それから江戸に入った朝廷軍と彰義隊の衝突があちこちで起きるようになる。市民らは、乱暴狼藉を働く朝廷軍に敵意を抱き、治安維持の任にあたる彰義隊に喝采を送った。朝廷軍側の首脳は、やがて2000人以上に膨らんだ彰義隊を危険な集団と判断し、治安維持を託した勝に解散を命じた。

だが、彰義隊を支持する寛永寺がこれを拒んだ。寛永寺は単なる寺ではない。上野の山全域を境内とし、その他に寺領1万2000石を持つ大名並みの勢力だ。さらに彰義隊の背後には江戸市民の絶大な支持がある。彼らは彰義隊の屯所に食糧や金品を続々と届けた。
朝廷軍は江戸城を掌中におさめ、江戸に入る諸街道を封鎖していたものの、広大な町は町民のもので権勢は及ばず、完全占拠にほど遠かった。町の治安は彰義隊の力で維持され、その彰義隊を寛永寺と民心が守っていた。端的に言うと、江戸は朝廷軍と彰義隊+寛永寺の二重権力状態だったのである。

こうなると、朝廷軍にとっての最終的な解決策は武力制圧しかない。放置しておけば、同じような事態が全国に広がりかねない。

同年5月3日、奥羽25藩の家老らが集まり、奥羽列藩同盟を結成。その後、越後の6藩も加盟して徹底抗戦を決議した。これをきっかけに朝廷軍は上野への総攻撃を決める。5月15日の上野戦争の結果を改めて書く必要はないだろう。彰義隊+寛永寺勢力は近代兵器を装備した朝廷軍の猛攻を受け、たった1日の戦闘で瓦解した。

上野一帯に散乱した彰義隊員の遺体は見せしめのため野ざらしにされた。長雨で出水した水の中に沈んだり、浮かんだりした。〈やがて梅雨が明け、それらの死体は耕地や道に露出した。すべてが腐乱していて、蝿におおわれ烏や野犬がむらがり、悲惨な様相を呈していた〉(『彰義隊』)という。

国にまつろわぬ民の心を体現した彰義隊は、政府にとって憎むべき存在だった。江戸に潜在する反逆の気運は、彰義隊の記憶とともに上野の山に徹底的に封じ込めなければならない。だから5年半も出入りが規制されたのである。
「戦死之墓」の小墓石にはこんな和歌が刻まれ、当時の上野の山の寂寥とした風景を伝えている。

あはれとて尋ぬる人もなきたまのあとをし忍ぶ岡の辺の塚
(哀れだと思って訪ねて来る人もない魂の跡をこそ偲ばれる、忍の岡=上野の山の墓)

兵庫
姫路城400年、人の力と幸運と 廃城の危機や戦災越えて
 「平成の大修理」を終えた世界文化遺産・国宝姫路城(兵庫県姫路市)の大天守内部が27日から、5年ぶりに一般公開される。築城からおよそ400年。廃城の危機、火災、空襲…。白鷺(しらさぎ)に例えられる美しい姿は、多くの人の尽力と幸運によって守られてきた。今、平成の職人たちの手でよみがえった白亜の城が、未来へと受け継がれる。

 現存する大天守は関ケ原の合戦後の1601年、“西国将軍”と呼ばれた池田輝政が築造に着手した。その8年後、日本城郭建築の最高峰と称される城が姿を現す。

 「継続的な修理で伝統技術が伝えられ、城は維持された」。26日の完成記念式典。文化庁の青柳正規長官がそう強調したように、城の歴史はまさに「修理の歴史」だった。

 当初の姫路城は、優れた防御の工夫で「難攻不落」とされたが、大天守は構造的な弱点を抱えた。基礎の地盤沈下に加え、骨格ともいえる心柱の根元が腐食。完成から約50年後には大規模な修理が行われた。天守の傾きがうわさとなって城下に広まったほどで、歴代城主は修理に腐心した。

 幕末。姫路藩は朝敵となり、西の備前藩の砲撃を受ける。廃城は免れたが、建物の傷みは目を覆うばかりだったという。

 明治期には、地元市民らが「白鷺城保存期成同盟会」を結成。1910~11年、城を管轄する陸軍が緊急修理を行った。34年には本格的な「昭和の大修理」が始まる。

 ところが、日本は戦争に突入し、修理は中断。45年、姫路城下は空襲にさらされ、焼け野原となった。その中で、奇跡的に被害を免れた城を「不死鳥のように見えた」と語ったのは、姫路の詩人大塚徹。その感動を「あゝ白鷺城」などの詩に託した。

 「昭和の大修理」は再開され、大天守を全解体し復元した。今回の「平成の大修理」では、風雨で傷んだ瓦をふき直し、壁の漆喰(しっくい)などを塗り直した。

 「修理を繰り返し、当初の姿を守ったことで世界文化遺産にも選ばれた。世界に、日本の『木の文化』を理解してもらう大きな役割を果たした」。姫路城の歴史に詳しい兵庫県立大特任教授の中元孝迪さん(74)は、そうたたえる。「まさに、永遠の城だ」(仲井雅史)


山口
松陰の自筆史料68点発見 山口・萩
幕末の思想家、吉田松陰の手紙やメモなど、未発表のものを含む自筆の史料68点が山口県萩市で見つかり、松陰の活動や人柄を知る貴重な史料として注目されます。
萩博物館によりますと、萩市に住む女性からおととし以降、市に託されたおよそ1500点の史料の中に、吉田松陰が書いたとみられる手紙などが見つかったということです。
このため明治維新史が専門で広島大学大学院の三宅紹宣教授に詳しい調査を依頼したところ、筆跡などから手紙やメモなど68点が松陰の自筆のものだと分かったということです。
このうち、「写本録」は松陰みずからが松下村塾で写本をして資金を集めていたことが分かる貴重な資料です。
また、松陰らが萩藩主を通じて朝廷を動かし、尊皇攘夷を実行させる計画を書いた草稿は、紙の余白にまで文字が書き込まれていて、紙を大切にする松陰の人柄や、尊皇攘夷に向けて具体策を練っていた様子がうかがえます。
萩博物館によりますと、女性の先祖が松陰の兄の杉民治と交流があり、杉家が保管していた松陰の史料が今回、見つかったとみられるということです。
萩博物館の樋口尚樹学芸専門監は「68点もの大量の吉田松陰の史料が出てきたことに大変驚いている。多くは『吉田松陰全集』にも載ってなく、非常に貴重なものだと思う」と話しています。

沖縄
幕末展、週末にぎわう 浦添市美術館
 浦添市美術館で開かれている「琉球・幕末・明治維新 沖縄特別展」(主催・沖縄産業計画、琉球新報社、共催・浦添市教育委員会)は日曜日の15日、大勢の家族連れや友人同士でにぎわった。
 琉球王国が1850年代にアメリカ、フランス、オランダのそれぞれと締結した琉米・琉仏・琉蘭の3修好条約原本が注目を集めていた。条約原本の展示に熱心に見入っていた照喜名直子さん(67)=那覇市=は「新聞で見ていたが実物を目にして感激した。昔の物が残っていたことがすごい」と語った。
 同展は29日まで。開館は午前9時半~午後5時(月曜休館、金曜は午後7時まで)。入場料は大人千円、高校・大学生700円、小・中学生500円。問い合わせは琉球新報社事業局、電話098(865)5200。
たまには新選組関係の記事を書かないと。

新選組本 201冊一堂に 4日から市博物館で展示
 幕末に京都で尊王攘夷の志士と対決した新選組を題材にした書籍を紹介する企画展「書籍で見る新選組」が4月4日から、流山市博物館で催される。新選組ブームを呼ぶ一翼となった「新人物往来社」(現中経出版)の関連書籍全201冊を解説付きで展示する。入場無料。14日まで。 (飯田克志)
 流山市は新選組の近藤勇局長が一八六八(慶応四)年四月、土方歳三副長と別れ、新政府軍に捕らわれたゆかりの地。同市を拠点にする愛好家グループ「新選組流山隊」などが毎年四月に「流山新選組まつり・勇忌」を開催。記念展は今年の同まつりの一環。
 同社の新選組本を、一冊目の「新撰組顛末記」(発刊一九七一年)から数多く手掛けた大出俊幸・元社長が同市在住で、流山隊が全書籍を所蔵していることから企画した。
 「新撰組顛末記」や一番隊長だった沖田総司の人気に火を付けた小説「沖田総司」(同七二年)、研究の必携書といわれる史料集「新選組日誌」(同九五年)など評伝や研究書、小説、写真集、雑誌「歴史読本」が並ぶ。
 流山隊が作製した「新選組現代史年表」も掲示する。新史料の発見や展示書籍の発刊日、関連映画の封切り日などが盛り込まれ、昭和後期からの新選組にまつわる動きが追える。流山隊の松下英治隊長(53)は「新選組の本を選ぶときの参考にしてもらえれば」と話している。
 企画展「新選組と流山」も同市の「杜(もり)のアトリエ黎明(れいめい)」で四~十二日まで開催。近藤や土方、新選組の歩みを紹介する。入場無料。
 「流山新選組まつり・勇忌」は十二日にあり、長流寺での法要や、史跡をめぐる「巡察会」(予約先着三十人、参加費五百円)、流山福祉会館で作家司馬遼太郎と新選組をテーマにした講演会(当日先着百人、参加費二千円)がある。問い合わせは松下さん=電090(3041)7051=へ。
落語家として三十周年、そして談春さんが家元の「芝浜」を聴いて入門を決意した会場(そして志の輔さんもいた)である国立演芸場。東京周辺の落語ファンがかなりチケット争奪戦をしたようですが、私は第三希望で2枚確保しました。
 もう5年になる落語ライブ視聴歴で、談春さんで「百年目」はお初でした。



「井戸の茶碗」
 サンマルク半蔵門店で店員さんが2360円の桜チョコクロワッサン5個とコーヒー5個の注文をセット利用で何と1000円にまで下げてくれたエピソード。
 そこから、屑屋さんの説明……って、志ん朝さんの持ちネタだからあまりやらないという「井戸の茶碗」。
 談春さんならではのエピソードとして、細川の殿様にひっかけて細川護煕さんの変人ぶりと焼き物師としての評価。井戸の茶碗を京都に見に行って、茶碗は見られなかったけど小堀遠州の庭と数々の名画と護煕さんを見たという話。
 談春さんが作中にこんなに脱線するのって珍しい。

「談春半生記」
 名作「赤めだか」のテレビドラマ化にあわせて。何やら大物が出演快諾してくださったそうで、まもなく発表されるそうです。
 原作者と映像化された時の演者のギャップ(談春→二宮和也)の比較対象として、リリーフランキー→オダギリジョー、水木しげる→向井理があがってました(笑)。
 そして、家元を演じた北野武さんは、見た目家元で根っこが武、ちらっと武が出てきて根っこは家元というところを行ったり来たりとか。

「百年目」
 志ん朝師のものとも、米朝師のものとも、もちろん志の輔さんのものとも、違う談春版。パンフレットに説明がありました。
  商家奉公のつらさに、落語家の前座修行を引き合いに出しながら。定吉がいつまでも鼻に火箸の頭を突っ込んでいます(^_^;)。
 番頭の治兵衛が着物を預けている駄菓子屋のばあさんと治平の会話は、談春さんらしい、世の中の浮き沈みを見てきた女が「あんたいつまでこんなことやってんのよ」と治兵衛を問い詰める場面があって。
 旦那さんと治兵衛の会話場面では「ここであったが百年目と思いました」では落ちず……治兵衛が旦那の肩もみをする場面で、なんか家元が一瞬見えたような気がしました(笑)。
 そして、南天のつゆにひっかけた素敵なサゲ。

 家元が下りてきた(?)国立演芸場の談春さん、幸せそうでした。
ずっと「東京かわら版」に広告掲載されていて、「本寸法」というキャッチコピーが気になっていた三田落語会。初めて聴きに行きました。
 三田落語会のサイトを見ると、iTUNESで音源配信しています。過去の出演者それぞれ、ひとり二席で900円。CD購入と比較しても、なかなかにリーズナブルだと思います。

堀之内/ゆう京
 お名乗りがなかったのですが、扇遊師匠の前座さん。2010年10月に入門して2011年5月に前座。「堀之内」をかけるくらいですから前座さんとしては二つ目に近い熟練度ですね。

紫壇楼古木/一之輔
 寄席や落語会によって客席の様子がまったく違うというネタ、浅草演芸ホールとかTBS落語研究会とかを例に挙げて。コンビニの袋のカサカサ音が浅草演芸ホールではずっと止まないというのは、何か笑えました。おばちゃんが黒飴配るとか。
 紫壇楼古木のあらすじ解説は落語あらすじ事典 千字寄席にリンク貼っておきます。圓生、彦六の持ちネタだそうで。扇遊師匠によると今の落語家でかける人が少ないのを一之輔さんがトライしているのはいいことだそうです。
 羅宇屋さんという商売がわかりにくいことに加えて、狂歌は元ネタの知識がないと洒落がわからないので耳で聴いてすぐにわかるかどうかが難しいですね。今回は義経弁慶に引っかけた狂歌だったので、割とわかりやすかったです。
 古木の爺さん、見た目はともかく中身は粋で渋いですね。

火事息子/扇遊
 冬の噺として、江戸の町における火事、火消し組織、半鐘の音の使い分け、火事見物など解説。
 しばらく聴いてないなぁと思ってブログを見たら、2010年3月に談春師2012年12月にさん喬師、とライブでは2回しか聴いていない上にお久しぶりな人情噺。
 大商家の跡取り息子に生まれ育ちながら火消しに憧れて出奔してしまう息子と父母が久しぶりに再会するも、筋目や建前が先に立って素直に情を表せない父、情愛から夫に意見する母。

中入り

ねずみ/扇遊
 これまた2010年4月に志の輔師で聴いて以来。笑いあり名人譚ありで楽しいネタ。

花見の仇討ち/一之輔
 不思議なもので、2010年年明けから落語をライブで聴き始めたのに、今年に入るまで寄席や落語会で出会わなかったネタ。なのに、今年に入って市馬師匠で2回、さらに一之輔さんで3回目。
 花見の賑わいの中でご趣向と褒められることをやってやろうとする四人組、仇討ち芝居を仕掛けるがグダグダに。さらに仇討ちを本物と誤解した武士が助太刀に加わって……。
 一之輔さんの瞬間ギャグも散りばめられて、マンガちっくに可笑しい。
私が見た1月13日は、中入り前が「三方一両損」だったけど、ネタが違う日もあるのね。

[評]志の輔らくご in PARCO 2015
 パルコ劇場(東京・渋谷)でのお正月公演も10年目に入った。

 マクラで「全22回の公演は、武道館なら1回で済む」「私よりも皆さんが働く。頭の中に絵を描く作業をするのは皆さんのほう」などと笑わせながら、一席目はスマートフォンの功罪を描く「スマチュウ」。スマホ中毒の略だそうだ。次の噺はなしとの間に、大きなスマートフォンが舞台へ降りてきて、LINEの他愛もないやり取りが画面に映し出され、笑いを誘った。

 続いて、志の輔がはまったというアメリカの人気サスペンスドラマ「24」の話から、三遊亭円朝の「政談月の鏡」を「24」風にアレンジした「月の鏡二十四」。画面を多分割して同時進行する事態をデジタル時計とともに表し、同時進行で起こる犯罪事件を、見事な編集手腕で、手に汗握るストーリーに昇華した。

 仲入り後は「先用後利せんようこうり」。志の輔の愛する故郷・富山をテーマにした。富山といえば薬売り、使った分だけ後払いをするビジネスというものが信じられず、うっかり使ってしまった分の薬代が、何十万両も請求されるのではないかと、戦々恐々とする江戸の商人たちをコミカルに描く。事を悪い方へと考えてしまう市井の人を活写するのは、志の輔のお手のものだ。

 いくら舞台セットに凝っても、いざ志の輔が上がる時には座布団がポツンと置かれているだけ。より一層落語のシンプルさが際だつ中、古典落語というファンタジーをただやるだけではなく、自分の落語は常に時代とともにあるという自覚、己の関心事も合わせて開示していく勇気をにじませる。それは落語への畏敬の念すらも感じさせるものだった。

  (東京かわら版編集人 佐藤友美)

 ――――1月7日鑑賞。公演は同5日~2月2日。
(評・舞台)
「志の輔らくご in PARCO 2015」 豊富な笑いと深い郷土愛 東京・渋谷のパルコ劇場での立川志の輔公演。場所借りではなく劇場のプロデュース公演で、しかも落語家1人だけで22公演に計約1万人を集める。他に例のない会だ。1カ月公演の形になって10年目という節目の会を見た(1月26日)。 まずは花束や提灯(ちょうちん)、福引などで華やかなロビーから、普通の落語会… 

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200席ほどのホールなのだが、客席に高低差があって前の席の人の頭が邪魔にならない。椅子は固いものの大きめなので隣の人の肘や肩が気になることはない。
 そして、市馬師匠のお客様はおっとりしてマナーがいいので、気持ち良く過ごせる……うーん、今日は市馬師匠が語っている途中で階段を降りて着席するお客様が一名いましたが(汗)。前座さんの高座の間はOKだけど、市馬師匠の高座中に観客席を移動して着席するなんてマナー違反じゃないんでしょうか? 鈴本演芸場だって、高座の替わり目まで背後の立ち見席に待機しているように指導してますけど。

真田小僧/市助
 前座さんですが、二つ目が近いせいか、長めの高座でした。
 金坊がおとっつぁんから六銭まきあげて逃げただけでなく、おとっつぁんが語る真田幸村の六文銭の旗の由来を聞き覚えて、それを諳んじてさらに六銭まきあげる。
「うーん、うちの真田も薩摩に落ちたか」がオチ。
 ところどころ言いよどんだり言い直したりするところがありましたが、あまり気にはなりません。二つ目昇進が楽しみです。

おせつ徳三郎〜花見小僧〜/市馬
 正月から早くも節分・立春で、ということで、正月寄席の川柳師匠の様子とか、昨日の節分での寄席の豆まき風景とかをマクラに、商家の跡継ぎの難しさについて……えーと、旦那様が番頭さんを呼ぶのは「片棒」じゃないよね。
 ということで「おせつ徳三郎」の序。丁稚の定吉からおせつお嬢様と徳三郎の逢い引きの様子を訊き出す「花見小僧」をゆっくりめに、最後に後半の「刀屋」の紹介をしてサゲ。
 リアルで登場するのは旦那と番頭と定吉だけなんだけど、定吉の話の中に、おせつお嬢さん、徳三郎、ばあやさんが出てくる。定吉なんだけど定吉の声色と身振りで演じ分けなきゃいけない。そして、向島の花見風景もいきいきと。

うどんや/市馬
 中入り前の噺のマクラに、明日は雪が降るという話題にも触れられました。その季節感からか、「うどんや」。小三治師匠でテレビで何度か見てるけど、市馬さんで生は初めてかも。
 屑屋さん、蕎麦屋さん、うどん屋さん、それぞれの呼び声を演じる市馬さんの美声たっぷりに。
 そして、うどん屋さんの火鉢にあたりながら、絡んでくる酔っ払いの親方。話が長い。しかもリピートし、水を二杯飲んだ挙げ句にうどんを注文しないで去って行く……ひどい。
 呼び声の大きさに赤ん坊を寝かしつけたおかみさんに怒られ、ようやく表通りでお店者に注文を受ける……うどんを食べる仕草がいい。蕎麦とは違う、もっさりした食い方。
 私、子供の頃は蕎麦の味がわからなくて、蕎麦屋ではもっぱらうどん食べてたなぁ。月見が一番で、カレーの美味しさがわかる頃になってカレー南蛮も食べるようになった。鍋焼きうどんは蕎麦屋で食べるものではなくて、母が土鍋でつくってくれるものだった。感謝。

毎回、安定して楽しませてもらっている「よってたかって」シリーズ。

狸札/市助
 大師匠の小さんにも似た丸い顔が、このネタに合ってます。三三さん情報によれば二つ目も近いのではないかとのこと。

転宅/三三
 高座に上がった時点で、白鳥さんも一之輔さんも市馬さんも楽屋入りしていない……ということで、この位置では珍しいトリねた。
 三三さんのお菊さんは婀娜っぽくていかにも機転の利く姐さん。間抜けな泥棒を手玉に取るのもお茶の子さいさい。

トキ蕎麦/白鳥
 前座さん(なな子さんかな?)が高座の座布団を、大きな白座布団に交換。これは、久しぶりにトキそば、来ましたね。
 先代志ん馬師匠の江戸っ子風な短気と蕎麦のたぐり方指南、そして座布団を蕎麦に見立ててこねている時にが東京厚生年金ホールで志ん朝小三治師ふたり会の前座として白鳥さんがこれをかけた時の客席の反応を亡き志ん朝師匠が「白鳥くん、これが海だったら潮干狩りができるね」と評したこと(お客様どん引きで客席が寒くなったことをこう表現できる朝様の粋なこと・・・)、と思いで話もサービスつき。
 20年もかけてきたこともあり、白鳥らくごも(一部の落語ファンに?)受け容れられたこともあり、お客様もどん引きせず楽しんでました。

がまの油/一之輔
 中入り後の一之輔さん、マクラはピンポンだっしゅに続いて、関西弁の女性のトイレねた(すごい実話!?)。で、そこから口上で商売する人の話ということで蝦蟇の油。
 一之輔さん独特のくすぐりで面白かったのは「かえるのあせ」でしょうか。ほかにもくすぐりがちりばめられてました。

花見の仇討/市馬
 「後始末役」として登場した市馬さん、先日と同じ「花見の仇討」でしたが二度続けて聞いてもやっぱり面白いですね、芝居を試みたけど思ってもいないハプニングが重なって一大事になってしまうという展開なので。市馬さんの喉も何回も聴けて美味しいし。
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