新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
いくつか幕末関係のニュースを拾ったので、ご紹介します。
北海道
軍艦「開陽丸」進水150年、江差で特別展
会津魂の結晶“緋の衣” 「マッサン」ゆかりの余市リンゴ
福島
鶴ケ城の郷土博物館改修終える 1日、全面オープン
東京
近代の「謎」を秘めた山
まつろわぬ者たちの上野
兵庫
姫路城400年、人の力と幸運と 廃城の危機や戦災越えて
山口
松陰の自筆史料68点発見 山口・萩
沖縄
幕末展、週末にぎわう 浦添市美術館
北海道
軍艦「開陽丸」進水150年、江差で特別展
【江差】幕末期に江差沖で沈んだ旧幕府軍の軍艦、開陽丸が今年で進水から150年となるのを記念した特別展が21日、町内の開陽丸青少年センターの今季のオープンに合わせ、同センターロビーで始まった。同船の歴史を紹介している。
同船は1865年(慶応元年)にオランダ・ドルトレヒト市で進水し、1868年(明治元年)に沈没した。1974年から海中発掘調査が行われ、発見された砲弾など多数の遺物は、同センター近くに原寸大で復元された「開陽丸記念館」に展示されている。
特別展では、進水式の様子を撮影した写真の複製や同船の構造図など解説パネル60枚が中心の構成だが、分解された状態の米国製拳銃や軍靴など同記念館で常設公開していない実物資料も展示した。特別展は今季営業中開催。同センターは入場無料。記念館は大人500円、小中学・高校生250円。(山田一輝)
会津魂の結晶“緋の衣” 「マッサン」ゆかりの余市リンゴ
28日に最終回を迎える連続テレビ小説「マッサン」の舞台の一つ北海道・余市は旧会津藩士が明治期に入植し、国内初のリンゴの民間栽培に成功した地。藩士が苦難の末に実らせた品種「緋(ひ)の衣(ころも)」は現在、会津のリンゴ生産農家が栽培し、ジュースに加工している。生産農家は「会津人の苦労を知って」と思いを込める。
緋の衣は明治初期、産業振興のため米国から輸入され、開拓使が入植者に与えた品種。苦難にもあきらめずに栽培を続けた赤羽源八が初めて結実させた。品種名は藩主・松平容保が孝明天皇から賜った「緋の御衣」に由来。戊辰戦争で賊軍とされた藩士にとって”栄光の証し”といえる。ドラマでは亀山政春が興した会社が会津ゆかりの農家から買い取ってジュースにした。
緋の衣は現在、会津地方の生産農家6戸でつくる「会津平成りんご研究会」が栽培する。北海道で唯一原木が残る会津ゆかりの農園から譲り受けた枝約30本を接ぎ木して2000(平成12)年に栽培を開始。試行錯誤の末に結実させ、年々収量を増やしている。研究会の白井康友会長(56)=会津若松市、しらい農園園主=は「ドラマで緋の衣が全国に知られた」と喜び、「学校給食に使われることが目標。食を通じて子どもたちに伝えられれば」と思いを語る。
(2015年3月28日 福島民友トピックス)
福島
鶴ケ城の郷土博物館改修終える 1日、全面オープン
会津若松市・鶴ケ城の若松城天守閣郷土博物館の改修工事が終わり27日、内覧会が開かれた。新たに幕末の会津藩の動向や明治以降に活躍した会津の偉人など、今に伝わる会津武家文化を紹介する。大型観光企画「ふくしまデスティネーションキャンペーン(DC)」開幕に合わせ1日に全面オープンする。
鶴ケ城天守閣再建50周年記念事業で、これまで入場を規制していた三層(3階)と四層(4階)の改装が終わり細部の調整を進めている。三層では「幕末の動乱と会津」をテーマに、京都守護職就任や鶴ケ城籠城戦など会津藩のたどった幕末の歴史を当時の写真や資料などで解説する。四層には、新島八重や山本覚馬などの偉人20人のパネルを展示した。
東京
近代の「謎」を秘めた山
魚住昭の誌上デモ「わき道をゆく」第117回
1月につづいてまた上野のお山に行った。取り立てて言うほどの目的があったわけではない。西荻のわが家の窓から白い富士の嶺を眺めるうち、上野公園をほっつき歩いてみたくなったのである。
富士山と上野公園に何の関係があるかって? そんなことを訊かれても私にもよくわからない。しいて共通点を挙げるなら、どちらも畏敬の念をこめて“お山”と呼ばれることぐらいだろう。
まだ風が寒い。でも午後の日差しは暖かかった。売店で買ったお握りで腹ごしらえをした後、広さ53haの上野公園を1時間、2時間、3時間と夢中で歩き回った。
30分も歩けばへとへとになるはずなのになぜか平気だ。いつもの足腰の重さをまったく感じない。私はお山の混沌とした魅力に取り憑かれてしまったらしい。
その魅力とは何だと訊かれると、これまた答えにくい。突きつめていくと、近代日本の勝者と敗者の明暗ということになるのだが、それではあまりに漠としている。もう少し具体的にご説明したい。
上野公園にはモニュメントが数多ある。有名なものだけ挙げても西郷隆盛像、彰義隊墓碑、正岡子規記念球場、野口英世像、上野公園の生みの親と言われるオランダ人医師ボードワンの胸像・・・・・・。
それだけではない。不忍池の中の弁天島には石碑がぎっしり並んでいる。ふぐ供養碑、スッポン感謝之塔、暦塚、庖丁塚、鳥塚、魚塚、幕末の剣豪碑、めがね之碑など数え上げると切りがない。
歌川広重の不忍の池の浮世絵---〔PHOTO〕gettyimages
たぶん上野公園は日本一モニュメントの多い場所だ。それだけ人々の思い入れが強いということだろう。その理由は公園の歴史を繙くとわかる。中世の上野の山は忍の岡や忍の森と呼ばれ、多くの歌に詠われた名勝の地だった。
それが1603年の徳川幕府の成立後、江戸の聖地になる。江戸城の東北の鬼門を守り、天下太平を祈願する寛永寺(天台宗)が建立されたからだ。起工から74年後に落成した根本中堂は瑠璃殿と呼ばれる壮麗な大伽藍で、上野の山全域が寛永寺の境内になった。
全山に桜の木が植えられたため花見の名所となり、酒宴を張る人々でごった返した。不忍池畔には今のラブホテルにあたる出合茶屋が軒を連ね、町人だけでなく身分を隠した武士も通った。こうして上野界隈は聖と俗が混在するサンクチュアリと化した。
そのほとんどが幕末の戊辰戦争の最中に1日で灰燼に帰する。1868年、旧幕臣らの彰義隊が上野の山に立て籠もった。長州の大村益次郎が率いる官軍は、不忍池越しに砲弾をぶち込んで彰義隊を撃破、大伽藍を焼失させた。
上野の山が日本初の公園の一つに指定されるのはそれから5年後のことだ。以来、内国勧業博覧会などの国家的行事がたびたび催される一方、関東大震災では住民の避難場所、東京大空襲では焼死体の仮埋葬所になり、戦後は戦災者のバラックで埋まった。上野公園は戦火や震災とともに有為転変を重ねてきたのである。
page: 2
午後4時を過ぎ、園内の人影も少なくなりだしたころ、公園西側の東照宮境内に入ったら、意外なものが目に入った。鳩の彫像の中でちろちろと火が燃えている。
被爆者の一人が広島の焼け跡から故郷に持ち帰った「広島の火」と長崎の「原爆瓦」から採火した火を合わせたものだった。壁面には「核兵器をなくし永遠に平和を誓う広島・長崎の火」とあった。
東照宮を出てしばらく歩くと、初代林家三平の妻・海老名香葉子さんらが建てた「時忘れじの塔」にぶつかった。時計の下で遠くの空を見る母子3人の像が立っていた。東京大空襲で亡くなった海老名さんの家族がモデルらしい。
東京大空襲の主力となった戦略爆撃機B29---〔PHOTO〕gettyimages
「関東大震災(大正十二年)東京大空襲(昭和二十年) 東京にも、現在からは想像もできない悲しい歴史があります。今、緑美しい上野の山を行き交う人々に、そのような出来事を思い起こしてもらうとともに、平和な時代へと時をつなげる心の目印として、この時計台を寄贈しました」と記されていた。
上野は、戦争や震災で無念の死を遂げた人々の鎮魂の山だった。
東照宮からここに来る途中のパゴダ(仏塔)の丘にはかつて上野大仏が鎮座していたそうだ。関東大震災でその首が転げ落ち、胴体は戦中の金属類回収令で供出させられた。顔だけは寛永寺の僧侶が境内の檜にくくりつけて隠したので鋳つぶされずにすみ、今もパゴダの脇に安置されている。
このエピソードが語るのは官の統制においそれとは従わない寛永寺の性格だろう。上野の山には国家にまつろわぬ民や旧武士、僧侶らの精神が根付いている。それは、政府が消そうとしても消せなかった歴史の刻印にちがいない。
あまり知られていない話だが、後に靖国神社と呼ばれる東京招魂社は当初、上野の山に創建される案が有力だった。長州閥の木戸孝允が寛永寺の焼け跡を通りかかった際、この「土地を清浄して招魂場と為さんと欲す」(『木戸孝允日記』)との意向を示したからだ。
だが、大村益次郎が自ら指揮した彰義隊との戦の記憶が生々しい上野を「亡魂の地」と敬遠した。結局、幕府の歩兵調練場跡地だった九段坂上が選ばれ、1869(明治2)年6月、仮本殿が落成し、戊辰戦争の官軍戦没者約3600人が合祀された。
それから5年後、上野公園には彰義隊の墓碑が建てられた。以降、旧幕臣の「亡魂の地」であると同時に国家的行事の場でもあるという複雑な性格を帯びながら都市公園として整備されていく。
この日の散策の締めくくりは西郷サンである。彰義隊慰霊碑の前方に立つ高村光雲作の銅像は、身長3・7m、胸囲2・6m。実物(推定身長178㎝)の2倍も大きい。毛ずねの見える単衣に脇差し、愛犬ツンを従え、大きな目玉で虚空をにらんでいる。
西郷ほど民衆の信望を集めた政治家はいない。彼が西南戦争に敗れて自死した後も、人々は夜空に輝く火星を「西郷星」と呼び、彼が中国やインドやシベリアで生きているという噂を信じた。
伝説の英雄をいつまでも野に放っておくのは得策ではないと政府は判断したのだろう。1889(明治22)年の憲法発布にともなう明治天皇の特旨で西郷の賊名が解かれ、正三位が追贈された。
それを契機に薩摩閥を中心に銅像建設に向けた動きが始まり、9年後に完成した。当初案は軍服姿だったが、「逆徒」の経歴ゆえに撤回され、設置場所も皇居前から上野公園に変更された。上野公園は「逆徒」を無害化して「官」の側に取り込む格好の装置としても機能してきたのである。
それにしても、と私は思う。維新最大の功労者・西郷は自ら樹立した政府になぜ反旗を翻したのか。どんな日本を作りたかったのか。夕空に屹立する巨大な銅像が、近代史の謎の塊のように見えた。
*参考:『靖国神社と幕末維新の祭神たち』(吉原康和著・吉川弘文館刊)、『上野公園』(小林安茂著・郷学舎刊)、『西南戦争』(小川原正道著・中公新書)、『地図と愉しむ東京歴史散歩』(竹内正浩著・中公新書)
まつろわぬ者たちの上野
魚住昭の誌上デモ「わき道をゆく」第118回
お花見などで上野のお山に行かれることがあったら、是非、彰義隊の墓を御覧になるといい。西郷サンの銅像の裏手に建っているからすぐに見つかるはずだ。
そこはもともと1868(慶応4)年5月の上野戦争で死んだ彰義隊員(計266人)の遺体を荼毘に付したところだ。16年後に彰義隊生き残りの小川興郷(将軍慶喜の元家臣)らの手で今の墓が建立され、以来120年余、小川一族の手で守られてきた。
墓守の一族の苦労は並大抵のものではなかったらしい。何しろ彰義隊は靖国神社に合祀もされない賊軍だ。西郷隆盛のように没後の名誉回復もなされなかった。「朝敵」の汚名を背負ったまま生きなければならなかったからだ。
彼らが政府から受けた冷遇は墓碑銘が如実に示している。高さ6・7mの大墓石には旧幕臣・山岡鉄舟の筆で「戦死之墓」と刻まれているだけで肝心の彰義隊の3文字がない。つまり上野戦争から16年たっても彰義隊の名を書くことがはばかられたのである。
小川一族にとって救いがあるとすれば、それは彰義隊とともに壊滅的な打撃を被った寛永寺の僧侶たちの配慮だったろう。「戦死之墓」の前に置かれた高さ60cmの小さな墓石を見てほしい。上野戦争の翌年、寛永寺の子院の住職2人が密かに付近の地中に埋納したもので、後に掘り起こされ、今の位置に据えられた。
「慶応戊辰五月十五日 彰義隊戦死之墓」などと記された墓石の裏にはこんな漢詩が刻まれている。
昔時布金地 昔時金地を布く
今日草茫々 今日草茫々たり
誰笑千年後 誰か笑う千年後
却憐古戦場 劫て憐む古戦場
昔は絢爛たる伽藍だったところが、今は草ぼうぼうだ。この変わりようを誰か1000年後に笑うだろうか。いや、かえって古戦場として憐れんでくれるにちがいない―。
漢詩の読みも意訳も私の勝手な解釈だから誤っているかもしれないが、切々とした心情がこめられていることだけは間違いない。
吉村昭さんの『彰義隊』(新潮文庫)によると、上野戦争後、上野の山は彰義隊反乱の地として僧はもとより寺男も出入りを禁じられた。わずかに焼け残った寺が大名家に返還され、住職が帰山届を出し、明治2年2月に許されたが、彰義隊の墓に遺族が参ることは禁じられ、それが許されたのは明治6年末だったという。
いくら何でも酷すぎる仕打ちである。が、裏を返せば、それだけ政府が上野の山を恐れたということだろう。それは一体なぜか。
その訳を探るため上野戦争の歴史を繙いてみよう。始まりは鳥羽伏見の戦いに敗れた将軍慶喜が慶応4年2月、朝廷に恭順の意を示すため寛永寺に入って謹慎したことだ。寛永寺を選んだのは、貫首の輪王寺宮が明治天皇の叔父にあたり、朝廷に一定の影響力を持つと考えられたからだ。
慶喜の期待通り、輪王寺宮は慶喜の助命嘆願に奔走した。が、朝廷軍は強硬姿勢を崩さない。それに憤激した旧幕臣らが結成したのが彰義隊である。彼らは慶喜のいる寛永寺に集結し、その数は1000人余りに上った。
page: 2
この彰義隊の存在に困り果てたのが旧幕府の重臣・勝海舟らだ。彰義隊を解散させ、官軍を穏やかに江戸に迎え入れるのが最も望ましい。かといって解散を命じたら、彼らは暴発し、徳川家に恩義を抱く市民も合流して江戸は大混乱に陥る恐れがあった。
そこで彼らを江戸の治安を守るため利用すべきだという意見が出され、重臣一同が賛成した。彰義隊もこの要請に応え、江戸で横行する略奪や辻斬りなどから市民を守るため巡回することになった。
彼らは夜になると、数名ずつ組んで、円に彰の字を描いた提灯を掲げて上野の山を降り、江戸の町々に散っていった。その成果はめざましいものだったらしい。
〈犯罪は激減し、安らいだ夜を持つことを得た市民は感謝し、主立った者が、連れ立って上野の山の屯所に来て金品を差し出すことも多くなった。(中略)町民たちは円提灯をかかげてやってくる隊員たちに茶菓を出し、酒をすすめる者もいる。隊員と町民たちの結びつきは、日増しに強くなっていた〉と吉村さんは書いている。
同年3月14日、江戸に入った西郷と勝海舟の会談で江戸城の無血開城が決まり、慶喜は水戸に隠退謹慎することになった。西郷は江戸の治安維持を勝らに委ねた。
それから江戸に入った朝廷軍と彰義隊の衝突があちこちで起きるようになる。市民らは、乱暴狼藉を働く朝廷軍に敵意を抱き、治安維持の任にあたる彰義隊に喝采を送った。朝廷軍側の首脳は、やがて2000人以上に膨らんだ彰義隊を危険な集団と判断し、治安維持を託した勝に解散を命じた。
だが、彰義隊を支持する寛永寺がこれを拒んだ。寛永寺は単なる寺ではない。上野の山全域を境内とし、その他に寺領1万2000石を持つ大名並みの勢力だ。さらに彰義隊の背後には江戸市民の絶大な支持がある。彼らは彰義隊の屯所に食糧や金品を続々と届けた。
朝廷軍は江戸城を掌中におさめ、江戸に入る諸街道を封鎖していたものの、広大な町は町民のもので権勢は及ばず、完全占拠にほど遠かった。町の治安は彰義隊の力で維持され、その彰義隊を寛永寺と民心が守っていた。端的に言うと、江戸は朝廷軍と彰義隊+寛永寺の二重権力状態だったのである。
こうなると、朝廷軍にとっての最終的な解決策は武力制圧しかない。放置しておけば、同じような事態が全国に広がりかねない。
同年5月3日、奥羽25藩の家老らが集まり、奥羽列藩同盟を結成。その後、越後の6藩も加盟して徹底抗戦を決議した。これをきっかけに朝廷軍は上野への総攻撃を決める。5月15日の上野戦争の結果を改めて書く必要はないだろう。彰義隊+寛永寺勢力は近代兵器を装備した朝廷軍の猛攻を受け、たった1日の戦闘で瓦解した。
上野一帯に散乱した彰義隊員の遺体は見せしめのため野ざらしにされた。長雨で出水した水の中に沈んだり、浮かんだりした。〈やがて梅雨が明け、それらの死体は耕地や道に露出した。すべてが腐乱していて、蝿におおわれ烏や野犬がむらがり、悲惨な様相を呈していた〉(『彰義隊』)という。
国にまつろわぬ民の心を体現した彰義隊は、政府にとって憎むべき存在だった。江戸に潜在する反逆の気運は、彰義隊の記憶とともに上野の山に徹底的に封じ込めなければならない。だから5年半も出入りが規制されたのである。
「戦死之墓」の小墓石にはこんな和歌が刻まれ、当時の上野の山の寂寥とした風景を伝えている。
あはれとて尋ぬる人もなきたまのあとをし忍ぶ岡の辺の塚
(哀れだと思って訪ねて来る人もない魂の跡をこそ偲ばれる、忍の岡=上野の山の墓)
兵庫
姫路城400年、人の力と幸運と 廃城の危機や戦災越えて
「平成の大修理」を終えた世界文化遺産・国宝姫路城(兵庫県姫路市)の大天守内部が27日から、5年ぶりに一般公開される。築城からおよそ400年。廃城の危機、火災、空襲…。白鷺(しらさぎ)に例えられる美しい姿は、多くの人の尽力と幸運によって守られてきた。今、平成の職人たちの手でよみがえった白亜の城が、未来へと受け継がれる。
現存する大天守は関ケ原の合戦後の1601年、“西国将軍”と呼ばれた池田輝政が築造に着手した。その8年後、日本城郭建築の最高峰と称される城が姿を現す。
「継続的な修理で伝統技術が伝えられ、城は維持された」。26日の完成記念式典。文化庁の青柳正規長官がそう強調したように、城の歴史はまさに「修理の歴史」だった。
当初の姫路城は、優れた防御の工夫で「難攻不落」とされたが、大天守は構造的な弱点を抱えた。基礎の地盤沈下に加え、骨格ともいえる心柱の根元が腐食。完成から約50年後には大規模な修理が行われた。天守の傾きがうわさとなって城下に広まったほどで、歴代城主は修理に腐心した。
幕末。姫路藩は朝敵となり、西の備前藩の砲撃を受ける。廃城は免れたが、建物の傷みは目を覆うばかりだったという。
明治期には、地元市民らが「白鷺城保存期成同盟会」を結成。1910~11年、城を管轄する陸軍が緊急修理を行った。34年には本格的な「昭和の大修理」が始まる。
ところが、日本は戦争に突入し、修理は中断。45年、姫路城下は空襲にさらされ、焼け野原となった。その中で、奇跡的に被害を免れた城を「不死鳥のように見えた」と語ったのは、姫路の詩人大塚徹。その感動を「あゝ白鷺城」などの詩に託した。
「昭和の大修理」は再開され、大天守を全解体し復元した。今回の「平成の大修理」では、風雨で傷んだ瓦をふき直し、壁の漆喰(しっくい)などを塗り直した。
「修理を繰り返し、当初の姿を守ったことで世界文化遺産にも選ばれた。世界に、日本の『木の文化』を理解してもらう大きな役割を果たした」。姫路城の歴史に詳しい兵庫県立大特任教授の中元孝迪さん(74)は、そうたたえる。「まさに、永遠の城だ」(仲井雅史)
山口
松陰の自筆史料68点発見 山口・萩
幕末の思想家、吉田松陰の手紙やメモなど、未発表のものを含む自筆の史料68点が山口県萩市で見つかり、松陰の活動や人柄を知る貴重な史料として注目されます。
萩博物館によりますと、萩市に住む女性からおととし以降、市に託されたおよそ1500点の史料の中に、吉田松陰が書いたとみられる手紙などが見つかったということです。
このため明治維新史が専門で広島大学大学院の三宅紹宣教授に詳しい調査を依頼したところ、筆跡などから手紙やメモなど68点が松陰の自筆のものだと分かったということです。
このうち、「写本録」は松陰みずからが松下村塾で写本をして資金を集めていたことが分かる貴重な資料です。
また、松陰らが萩藩主を通じて朝廷を動かし、尊皇攘夷を実行させる計画を書いた草稿は、紙の余白にまで文字が書き込まれていて、紙を大切にする松陰の人柄や、尊皇攘夷に向けて具体策を練っていた様子がうかがえます。
萩博物館によりますと、女性の先祖が松陰の兄の杉民治と交流があり、杉家が保管していた松陰の史料が今回、見つかったとみられるということです。
萩博物館の樋口尚樹学芸専門監は「68点もの大量の吉田松陰の史料が出てきたことに大変驚いている。多くは『吉田松陰全集』にも載ってなく、非常に貴重なものだと思う」と話しています。
沖縄
幕末展、週末にぎわう 浦添市美術館
浦添市美術館で開かれている「琉球・幕末・明治維新 沖縄特別展」(主催・沖縄産業計画、琉球新報社、共催・浦添市教育委員会)は日曜日の15日、大勢の家族連れや友人同士でにぎわった。
琉球王国が1850年代にアメリカ、フランス、オランダのそれぞれと締結した琉米・琉仏・琉蘭の3修好条約原本が注目を集めていた。条約原本の展示に熱心に見入っていた照喜名直子さん(67)=那覇市=は「新聞で見ていたが実物を目にして感激した。昔の物が残っていたことがすごい」と語った。
同展は29日まで。開館は午前9時半~午後5時(月曜休館、金曜は午後7時まで)。入場料は大人千円、高校・大学生700円、小・中学生500円。問い合わせは琉球新報社事業局、電話098(865)5200。
PR
たまには新選組関係の記事を書かないと。
新選組本 201冊一堂に 4日から市博物館で展示
新選組本 201冊一堂に 4日から市博物館で展示
幕末に京都で尊王攘夷の志士と対決した新選組を題材にした書籍を紹介する企画展「書籍で見る新選組」が4月4日から、流山市博物館で催される。新選組ブームを呼ぶ一翼となった「新人物往来社」(現中経出版)の関連書籍全201冊を解説付きで展示する。入場無料。14日まで。 (飯田克志)
流山市は新選組の近藤勇局長が一八六八(慶応四)年四月、土方歳三副長と別れ、新政府軍に捕らわれたゆかりの地。同市を拠点にする愛好家グループ「新選組流山隊」などが毎年四月に「流山新選組まつり・勇忌」を開催。記念展は今年の同まつりの一環。
同社の新選組本を、一冊目の「新撰組顛末記」(発刊一九七一年)から数多く手掛けた大出俊幸・元社長が同市在住で、流山隊が全書籍を所蔵していることから企画した。
「新撰組顛末記」や一番隊長だった沖田総司の人気に火を付けた小説「沖田総司」(同七二年)、研究の必携書といわれる史料集「新選組日誌」(同九五年)など評伝や研究書、小説、写真集、雑誌「歴史読本」が並ぶ。
流山隊が作製した「新選組現代史年表」も掲示する。新史料の発見や展示書籍の発刊日、関連映画の封切り日などが盛り込まれ、昭和後期からの新選組にまつわる動きが追える。流山隊の松下英治隊長(53)は「新選組の本を選ぶときの参考にしてもらえれば」と話している。
企画展「新選組と流山」も同市の「杜(もり)のアトリエ黎明(れいめい)」で四~十二日まで開催。近藤や土方、新選組の歩みを紹介する。入場無料。
「流山新選組まつり・勇忌」は十二日にあり、長流寺での法要や、史跡をめぐる「巡察会」(予約先着三十人、参加費五百円)、流山福祉会館で作家司馬遼太郎と新選組をテーマにした講演会(当日先着百人、参加費二千円)がある。問い合わせは松下さん=電090(3041)7051=へ。
落語家として三十周年、そして談春さんが家元の「芝浜」を聴いて入門を決意した会場(そして志の輔さんもいた)である国立演芸場。東京周辺の落語ファンがかなりチケット争奪戦をしたようですが、私は第三希望で2枚確保しました。
もう5年になる落語ライブ視聴歴で、談春さんで「百年目」はお初でした。
「井戸の茶碗」
サンマルク半蔵門店で店員さんが2360円の桜チョコクロワッサン5個とコーヒー5個の注文をセット利用で何と1000円にまで下げてくれたエピソード。
そこから、屑屋さんの説明……って、志ん朝さんの持ちネタだからあまりやらないという「井戸の茶碗」。
談春さんならではのエピソードとして、細川の殿様にひっかけて細川護煕さんの変人ぶりと焼き物師としての評価。井戸の茶碗を京都に見に行って、茶碗は見られなかったけど小堀遠州の庭と数々の名画と護煕さんを見たという話。
談春さんが作中にこんなに脱線するのって珍しい。
「談春半生記」
名作「赤めだか」のテレビドラマ化にあわせて。何やら大物が出演快諾してくださったそうで、まもなく発表されるそうです。
原作者と映像化された時の演者のギャップ(談春→二宮和也)の比較対象として、リリーフランキー→オダギリジョー、水木しげる→向井理があがってました(笑)。
そして、家元を演じた北野武さんは、見た目家元で根っこが武、ちらっと武が出てきて根っこは家元というところを行ったり来たりとか。
「百年目」
志ん朝師のものとも、米朝師のものとも、もちろん志の輔さんのものとも、違う談春版。パンフレットに説明がありました。
商家奉公のつらさに、落語家の前座修行を引き合いに出しながら。定吉がいつまでも鼻に火箸の頭を突っ込んでいます(^_^;)。
番頭の治兵衛が着物を預けている駄菓子屋のばあさんと治平の会話は、談春さんらしい、世の中の浮き沈みを見てきた女が「あんたいつまでこんなことやってんのよ」と治兵衛を問い詰める場面があって。
旦那さんと治兵衛の会話場面では「ここであったが百年目と思いました」では落ちず……治兵衛が旦那の肩もみをする場面で、なんか家元が一瞬見えたような気がしました(笑)。
そして、南天のつゆにひっかけた素敵なサゲ。
家元が下りてきた(?)国立演芸場の談春さん、幸せそうでした。
もう5年になる落語ライブ視聴歴で、談春さんで「百年目」はお初でした。
「井戸の茶碗」
サンマルク半蔵門店で店員さんが2360円の桜チョコクロワッサン5個とコーヒー5個の注文をセット利用で何と1000円にまで下げてくれたエピソード。
そこから、屑屋さんの説明……って、志ん朝さんの持ちネタだからあまりやらないという「井戸の茶碗」。
談春さんならではのエピソードとして、細川の殿様にひっかけて細川護煕さんの変人ぶりと焼き物師としての評価。井戸の茶碗を京都に見に行って、茶碗は見られなかったけど小堀遠州の庭と数々の名画と護煕さんを見たという話。
談春さんが作中にこんなに脱線するのって珍しい。
「談春半生記」
名作「赤めだか」のテレビドラマ化にあわせて。何やら大物が出演快諾してくださったそうで、まもなく発表されるそうです。
原作者と映像化された時の演者のギャップ(談春→二宮和也)の比較対象として、リリーフランキー→オダギリジョー、水木しげる→向井理があがってました(笑)。
そして、家元を演じた北野武さんは、見た目家元で根っこが武、ちらっと武が出てきて根っこは家元というところを行ったり来たりとか。
「百年目」
志ん朝師のものとも、米朝師のものとも、もちろん志の輔さんのものとも、違う談春版。パンフレットに説明がありました。
商家奉公のつらさに、落語家の前座修行を引き合いに出しながら。定吉がいつまでも鼻に火箸の頭を突っ込んでいます(^_^;)。
番頭の治兵衛が着物を預けている駄菓子屋のばあさんと治平の会話は、談春さんらしい、世の中の浮き沈みを見てきた女が「あんたいつまでこんなことやってんのよ」と治兵衛を問い詰める場面があって。
旦那さんと治兵衛の会話場面では「ここであったが百年目と思いました」では落ちず……治兵衛が旦那の肩もみをする場面で、なんか家元が一瞬見えたような気がしました(笑)。
そして、南天のつゆにひっかけた素敵なサゲ。
家元が下りてきた(?)国立演芸場の談春さん、幸せそうでした。
ずっと「東京かわら版」に広告掲載されていて、「本寸法」というキャッチコピーが気になっていた三田落語会。初めて聴きに行きました。
三田落語会のサイトを見ると、iTUNESで音源配信しています。過去の出演者それぞれ、ひとり二席で900円。CD購入と比較しても、なかなかにリーズナブルだと思います。
堀之内/ゆう京
お名乗りがなかったのですが、扇遊師匠の前座さん。2010年10月に入門して2011年5月に前座。「堀之内」をかけるくらいですから前座さんとしては二つ目に近い熟練度ですね。
紫壇楼古木/一之輔
寄席や落語会によって客席の様子がまったく違うというネタ、浅草演芸ホールとかTBS落語研究会とかを例に挙げて。コンビニの袋のカサカサ音が浅草演芸ホールではずっと止まないというのは、何か笑えました。おばちゃんが黒飴配るとか。
紫壇楼古木のあらすじ解説は落語あらすじ事典 千字寄席にリンク貼っておきます。圓生、彦六の持ちネタだそうで。扇遊師匠によると今の落語家でかける人が少ないのを一之輔さんがトライしているのはいいことだそうです。
羅宇屋さんという商売がわかりにくいことに加えて、狂歌は元ネタの知識がないと洒落がわからないので耳で聴いてすぐにわかるかどうかが難しいですね。今回は義経弁慶に引っかけた狂歌だったので、割とわかりやすかったです。
古木の爺さん、見た目はともかく中身は粋で渋いですね。
火事息子/扇遊
冬の噺として、江戸の町における火事、火消し組織、半鐘の音の使い分け、火事見物など解説。
しばらく聴いてないなぁと思ってブログを見たら、2010年3月に談春師、2012年12月にさん喬師、とライブでは2回しか聴いていない上にお久しぶりな人情噺。
大商家の跡取り息子に生まれ育ちながら火消しに憧れて出奔してしまう息子と父母が久しぶりに再会するも、筋目や建前が先に立って素直に情を表せない父、情愛から夫に意見する母。
中入り
ねずみ/扇遊
これまた2010年4月に志の輔師で聴いて以来。笑いあり名人譚ありで楽しいネタ。
花見の仇討ち/一之輔
不思議なもので、2010年年明けから落語をライブで聴き始めたのに、今年に入るまで寄席や落語会で出会わなかったネタ。なのに、今年に入って市馬師匠で2回、さらに一之輔さんで3回目。
花見の賑わいの中でご趣向と褒められることをやってやろうとする四人組、仇討ち芝居を仕掛けるがグダグダに。さらに仇討ちを本物と誤解した武士が助太刀に加わって……。
一之輔さんの瞬間ギャグも散りばめられて、マンガちっくに可笑しい。
三田落語会のサイトを見ると、iTUNESで音源配信しています。過去の出演者それぞれ、ひとり二席で900円。CD購入と比較しても、なかなかにリーズナブルだと思います。
堀之内/ゆう京
お名乗りがなかったのですが、扇遊師匠の前座さん。2010年10月に入門して2011年5月に前座。「堀之内」をかけるくらいですから前座さんとしては二つ目に近い熟練度ですね。
紫壇楼古木/一之輔
寄席や落語会によって客席の様子がまったく違うというネタ、浅草演芸ホールとかTBS落語研究会とかを例に挙げて。コンビニの袋のカサカサ音が浅草演芸ホールではずっと止まないというのは、何か笑えました。おばちゃんが黒飴配るとか。
紫壇楼古木のあらすじ解説は落語あらすじ事典 千字寄席にリンク貼っておきます。圓生、彦六の持ちネタだそうで。扇遊師匠によると今の落語家でかける人が少ないのを一之輔さんがトライしているのはいいことだそうです。
羅宇屋さんという商売がわかりにくいことに加えて、狂歌は元ネタの知識がないと洒落がわからないので耳で聴いてすぐにわかるかどうかが難しいですね。今回は義経弁慶に引っかけた狂歌だったので、割とわかりやすかったです。
古木の爺さん、見た目はともかく中身は粋で渋いですね。
火事息子/扇遊
冬の噺として、江戸の町における火事、火消し組織、半鐘の音の使い分け、火事見物など解説。
しばらく聴いてないなぁと思ってブログを見たら、2010年3月に談春師、2012年12月にさん喬師、とライブでは2回しか聴いていない上にお久しぶりな人情噺。
大商家の跡取り息子に生まれ育ちながら火消しに憧れて出奔してしまう息子と父母が久しぶりに再会するも、筋目や建前が先に立って素直に情を表せない父、情愛から夫に意見する母。
中入り
ねずみ/扇遊
これまた2010年4月に志の輔師で聴いて以来。笑いあり名人譚ありで楽しいネタ。
花見の仇討ち/一之輔
不思議なもので、2010年年明けから落語をライブで聴き始めたのに、今年に入るまで寄席や落語会で出会わなかったネタ。なのに、今年に入って市馬師匠で2回、さらに一之輔さんで3回目。
花見の賑わいの中でご趣向と褒められることをやってやろうとする四人組、仇討ち芝居を仕掛けるがグダグダに。さらに仇討ちを本物と誤解した武士が助太刀に加わって……。
一之輔さんの瞬間ギャグも散りばめられて、マンガちっくに可笑しい。
私が見た1月13日は、中入り前が「三方一両損」だったけど、ネタが違う日もあるのね。
[評]志の輔らくご in PARCO 2015
[評]志の輔らくご in PARCO 2015
パルコ劇場(東京・渋谷)でのお正月公演も10年目に入った。(評・舞台)
マクラで「全22回の公演は、武道館なら1回で済む」「私よりも皆さんが働く。頭の中に絵を描く作業をするのは皆さんのほう」などと笑わせながら、一席目はスマートフォンの功罪を描く「スマチュウ」。スマホ中毒の略だそうだ。次の噺はなしとの間に、大きなスマートフォンが舞台へ降りてきて、LINEの他愛もないやり取りが画面に映し出され、笑いを誘った。
続いて、志の輔がはまったというアメリカの人気サスペンスドラマ「24」の話から、三遊亭円朝の「政談月の鏡」を「24」風にアレンジした「月の鏡二十四」。画面を多分割して同時進行する事態をデジタル時計とともに表し、同時進行で起こる犯罪事件を、見事な編集手腕で、手に汗握るストーリーに昇華した。
仲入り後は「先用後利せんようこうり」。志の輔の愛する故郷・富山をテーマにした。富山といえば薬売り、使った分だけ後払いをするビジネスというものが信じられず、うっかり使ってしまった分の薬代が、何十万両も請求されるのではないかと、戦々恐々とする江戸の商人たちをコミカルに描く。事を悪い方へと考えてしまう市井の人を活写するのは、志の輔のお手のものだ。
いくら舞台セットに凝っても、いざ志の輔が上がる時には座布団がポツンと置かれているだけ。より一層落語のシンプルさが際だつ中、古典落語というファンタジーをただやるだけではなく、自分の落語は常に時代とともにあるという自覚、己の関心事も合わせて開示していく勇気をにじませる。それは落語への畏敬の念すらも感じさせるものだった。
(東京かわら版編集人 佐藤友美)
――――1月7日鑑賞。公演は同5日~2月2日。
「志の輔らくご in PARCO 2015」 豊富な笑いと深い郷土愛 東京・渋谷のパルコ劇場での立川志の輔公演。場所借りではなく劇場のプロデュース公演で、しかも落語家1人だけで22公演に計約1万人を集める。他に例のない会だ。1カ月公演の形になって10年目という節目の会を見た(1月26日)。 まずは花束や提灯(ちょうちん)、福引などで華やかなロビーから、普通の落語会…
以降は有料購読(´・ω・`)。
200席ほどのホールなのだが、客席に高低差があって前の席の人の頭が邪魔にならない。椅子は固いものの大きめなので隣の人の肘や肩が気になることはない。
そして、市馬師匠のお客様はおっとりしてマナーがいいので、気持ち良く過ごせる……うーん、今日は市馬師匠が語っている途中で階段を降りて着席するお客様が一名いましたが(汗)。前座さんの高座の間はOKだけど、市馬師匠の高座中に観客席を移動して着席するなんてマナー違反じゃないんでしょうか? 鈴本演芸場だって、高座の替わり目まで背後の立ち見席に待機しているように指導してますけど。
真田小僧/市助
前座さんですが、二つ目が近いせいか、長めの高座でした。
金坊がおとっつぁんから六銭まきあげて逃げただけでなく、おとっつぁんが語る真田幸村の六文銭の旗の由来を聞き覚えて、それを諳んじてさらに六銭まきあげる。
「うーん、うちの真田も薩摩に落ちたか」がオチ。
ところどころ言いよどんだり言い直したりするところがありましたが、あまり気にはなりません。二つ目昇進が楽しみです。
おせつ徳三郎〜花見小僧〜/市馬
正月から早くも節分・立春で、ということで、正月寄席の川柳師匠の様子とか、昨日の節分での寄席の豆まき風景とかをマクラに、商家の跡継ぎの難しさについて……えーと、旦那様が番頭さんを呼ぶのは「片棒」じゃないよね。
ということで「おせつ徳三郎」の序。丁稚の定吉からおせつお嬢様と徳三郎の逢い引きの様子を訊き出す「花見小僧」をゆっくりめに、最後に後半の「刀屋」の紹介をしてサゲ。
リアルで登場するのは旦那と番頭と定吉だけなんだけど、定吉の話の中に、おせつお嬢さん、徳三郎、ばあやさんが出てくる。定吉なんだけど定吉の声色と身振りで演じ分けなきゃいけない。そして、向島の花見風景もいきいきと。
うどんや/市馬
中入り前の噺のマクラに、明日は雪が降るという話題にも触れられました。その季節感からか、「うどんや」。小三治師匠でテレビで何度か見てるけど、市馬さんで生は初めてかも。
屑屋さん、蕎麦屋さん、うどん屋さん、それぞれの呼び声を演じる市馬さんの美声たっぷりに。
そして、うどん屋さんの火鉢にあたりながら、絡んでくる酔っ払いの親方。話が長い。しかもリピートし、水を二杯飲んだ挙げ句にうどんを注文しないで去って行く……ひどい。
呼び声の大きさに赤ん坊を寝かしつけたおかみさんに怒られ、ようやく表通りでお店者に注文を受ける……うどんを食べる仕草がいい。蕎麦とは違う、もっさりした食い方。
私、子供の頃は蕎麦の味がわからなくて、蕎麦屋ではもっぱらうどん食べてたなぁ。月見が一番で、カレーの美味しさがわかる頃になってカレー南蛮も食べるようになった。鍋焼きうどんは蕎麦屋で食べるものではなくて、母が土鍋でつくってくれるものだった。感謝。
そして、市馬師匠のお客様はおっとりしてマナーがいいので、気持ち良く過ごせる……うーん、今日は市馬師匠が語っている途中で階段を降りて着席するお客様が一名いましたが(汗)。前座さんの高座の間はOKだけど、市馬師匠の高座中に観客席を移動して着席するなんてマナー違反じゃないんでしょうか? 鈴本演芸場だって、高座の替わり目まで背後の立ち見席に待機しているように指導してますけど。
真田小僧/市助
前座さんですが、二つ目が近いせいか、長めの高座でした。
金坊がおとっつぁんから六銭まきあげて逃げただけでなく、おとっつぁんが語る真田幸村の六文銭の旗の由来を聞き覚えて、それを諳んじてさらに六銭まきあげる。
「うーん、うちの真田も薩摩に落ちたか」がオチ。
ところどころ言いよどんだり言い直したりするところがありましたが、あまり気にはなりません。二つ目昇進が楽しみです。
おせつ徳三郎〜花見小僧〜/市馬
正月から早くも節分・立春で、ということで、正月寄席の川柳師匠の様子とか、昨日の節分での寄席の豆まき風景とかをマクラに、商家の跡継ぎの難しさについて……えーと、旦那様が番頭さんを呼ぶのは「片棒」じゃないよね。
ということで「おせつ徳三郎」の序。丁稚の定吉からおせつお嬢様と徳三郎の逢い引きの様子を訊き出す「花見小僧」をゆっくりめに、最後に後半の「刀屋」の紹介をしてサゲ。
リアルで登場するのは旦那と番頭と定吉だけなんだけど、定吉の話の中に、おせつお嬢さん、徳三郎、ばあやさんが出てくる。定吉なんだけど定吉の声色と身振りで演じ分けなきゃいけない。そして、向島の花見風景もいきいきと。
うどんや/市馬
中入り前の噺のマクラに、明日は雪が降るという話題にも触れられました。その季節感からか、「うどんや」。小三治師匠でテレビで何度か見てるけど、市馬さんで生は初めてかも。
屑屋さん、蕎麦屋さん、うどん屋さん、それぞれの呼び声を演じる市馬さんの美声たっぷりに。
そして、うどん屋さんの火鉢にあたりながら、絡んでくる酔っ払いの親方。話が長い。しかもリピートし、水を二杯飲んだ挙げ句にうどんを注文しないで去って行く……ひどい。
呼び声の大きさに赤ん坊を寝かしつけたおかみさんに怒られ、ようやく表通りでお店者に注文を受ける……うどんを食べる仕草がいい。蕎麦とは違う、もっさりした食い方。
私、子供の頃は蕎麦の味がわからなくて、蕎麦屋ではもっぱらうどん食べてたなぁ。月見が一番で、カレーの美味しさがわかる頃になってカレー南蛮も食べるようになった。鍋焼きうどんは蕎麦屋で食べるものではなくて、母が土鍋でつくってくれるものだった。感謝。
毎回、安定して楽しませてもらっている「よってたかって」シリーズ。
狸札/市助
大師匠の小さんにも似た丸い顔が、このネタに合ってます。三三さん情報によれば二つ目も近いのではないかとのこと。
転宅/三三
高座に上がった時点で、白鳥さんも一之輔さんも市馬さんも楽屋入りしていない……ということで、この位置では珍しいトリねた。
三三さんのお菊さんは婀娜っぽくていかにも機転の利く姐さん。間抜けな泥棒を手玉に取るのもお茶の子さいさい。
トキ蕎麦/白鳥
前座さん(なな子さんかな?)が高座の座布団を、大きな白座布団に交換。これは、久しぶりにトキそば、来ましたね。
先代志ん馬師匠の江戸っ子風な短気と蕎麦のたぐり方指南、そして座布団を蕎麦に見立ててこねている時にが東京厚生年金ホールで志ん朝小三治師ふたり会の前座として白鳥さんがこれをかけた時の客席の反応を亡き志ん朝師匠が「白鳥くん、これが海だったら潮干狩りができるね」と評したこと(お客様どん引きで客席が寒くなったことをこう表現できる朝様の粋なこと・・・)、と思いで話もサービスつき。
20年もかけてきたこともあり、白鳥らくごも(一部の落語ファンに?)受け容れられたこともあり、お客様もどん引きせず楽しんでました。
がまの油/一之輔
中入り後の一之輔さん、マクラはピンポンだっしゅに続いて、関西弁の女性のトイレねた(すごい実話!?)。で、そこから口上で商売する人の話ということで蝦蟇の油。
一之輔さん独特のくすぐりで面白かったのは「かえるのあせ」でしょうか。ほかにもくすぐりがちりばめられてました。
花見の仇討/市馬
「後始末役」として登場した市馬さん、先日と同じ「花見の仇討」でしたが二度続けて聞いてもやっぱり面白いですね、芝居を試みたけど思ってもいないハプニングが重なって一大事になってしまうという展開なので。市馬さんの喉も何回も聴けて美味しいし。
狸札/市助
大師匠の小さんにも似た丸い顔が、このネタに合ってます。三三さん情報によれば二つ目も近いのではないかとのこと。
転宅/三三
高座に上がった時点で、白鳥さんも一之輔さんも市馬さんも楽屋入りしていない……ということで、この位置では珍しいトリねた。
三三さんのお菊さんは婀娜っぽくていかにも機転の利く姐さん。間抜けな泥棒を手玉に取るのもお茶の子さいさい。
トキ蕎麦/白鳥
前座さん(なな子さんかな?)が高座の座布団を、大きな白座布団に交換。これは、久しぶりにトキそば、来ましたね。
先代志ん馬師匠の江戸っ子風な短気と蕎麦のたぐり方指南、そして座布団を蕎麦に見立ててこねている時にが東京厚生年金ホールで志ん朝小三治師ふたり会の前座として白鳥さんがこれをかけた時の客席の反応を亡き志ん朝師匠が「白鳥くん、これが海だったら潮干狩りができるね」と評したこと(お客様どん引きで客席が寒くなったことをこう表現できる朝様の粋なこと・・・)、と思いで話もサービスつき。
20年もかけてきたこともあり、白鳥らくごも(一部の落語ファンに?)受け容れられたこともあり、お客様もどん引きせず楽しんでました。
がまの油/一之輔
中入り後の一之輔さん、マクラはピンポンだっしゅに続いて、関西弁の女性のトイレねた(すごい実話!?)。で、そこから口上で商売する人の話ということで蝦蟇の油。
一之輔さん独特のくすぐりで面白かったのは「かえるのあせ」でしょうか。ほかにもくすぐりがちりばめられてました。
花見の仇討/市馬
「後始末役」として登場した市馬さん、先日と同じ「花見の仇討」でしたが二度続けて聞いてもやっぱり面白いですね、芝居を試みたけど思ってもいないハプニングが重なって一大事になってしまうという展開なので。市馬さんの喉も何回も聴けて美味しいし。
短いですが、幕末関係のクリッピング記事紹介です。今日はEテレ『先人たちの底力 知恵泉』で榎本さんが取り上げられます。
福島
【復元促進の出発点に】天守閣再建50周年(1月26日)
神奈川
幕末の偉人しのぶ 中島三郎助まつり/浦賀
テレビ
負けても生き残れ!波瀾万丈な人生を送った榎本武揚の思いとは?『先人たちの底力 知恵泉』
福島
【復元促進の出発点に】天守閣再建50周年(1月26日)
会津若松市の鶴ケ城天守閣は今年、再建50周年を迎えた。4月に内部が改装オープンし、9月予定の記念式典まで行事が続く。成功を願う。
東日本最大級の城郭であり、歴史の興亡に彩られた名城だ。本県観光の目玉、市民のシンボルとして愛されている。復元整備は道半ばであり、前向きな議論はあまり聞かない。城の将来を語り合う「市民会議」のような場を設けてはどうか。復元促進の機運を熟成し、城の魅力をさらに高める出発の年としたい。
葦名氏時代の14世紀創建とされる。天正18(1590)年に領主となった蒲生氏郷が天守閣を建て、城下町を整える。現在の市街地の元となった。建造物は戊辰戦争後に壊されたが、天守閣、走り長屋、鉄門は昭和40(1965)年9月に再建された。
再建を前に「全会津の悲願」と推進論の一方、「文化財の破壊」「復古調」の批判が起こる。市議会で39年7月に可決された再建事業特別会計補正予算は18対16の僅差だった。市民を巻き込む激論が再建のエネルギーを生んだことを思い起こしたい。
市は天守閣内の改装に約1億2千万円を投じた。1階の企画展示室、2階の常設展示室を整備する。管理運営する会津若松観光ビューローは展示品を充実させる。記念式典は9月19日の予定だ。21日から始まる会津まつりと相乗効果を上げてほしい。
ただ、再建50周年をお祭りに終わらせてはならない。歴史遺産、観光地としての価値を磨く取り組みを進める契機にすべきだ。市が天守閣再建50周年記念事業方針で掲げた御三階[ごさんかい]の復元は実現していない。天守閣の赤瓦へのふき替えと外壁の塗り替えが完了しただけだ。平成8年度策定の史跡若松城跡総合整備計画で示された干飯櫓[ほしいやぐら]と南走[みなみはしり]長屋復元は13年に実現したものの、裏門、月見櫓、塀などの復元は手付かずだ。
計画をたなざらしにしないためにも議論を喚起する必要がある。「予算がない」「政策的な優先順位が低い」などの意見がある。しかし、復元は地域活性化に直結するはずだ。賛否を含め意見を出し合えば課題が浮き彫りとなり、解決策を講じる一助となる。議論を尽くし、城の将来展望を描くことに意義がある。
東日本大震災、東京電力福島第一原発事故で減った観光客を呼び戻すためにも魅力向上は欠かせない。熊本城、名古屋城などは建造物を次々と復元している。増加する外国人観光客の誘客合戦にも負けてしまう。手をこまぬいてはいられない。(鞍田 炎)
神奈川
幕末の偉人しのぶ 中島三郎助まつり/浦賀
1853年のペリー提督来航時に黒船へ乗船して対応した浦賀奉行所与力、中島三郎助をしのぶ催しが25日、横須賀市浦賀の住友重機械工業機関工場で開かれた。三郎助を描いた垂れ幕の下、多くの家族連れらが幕末の偉人に思いをめぐらせた。
地元住民らでつくる中島三郎助と遊ぶ会の主催で21回目。
三郎助は日本初の西洋式軍艦を浦賀で建造し、桂小五郎(木戸孝允)に造船術を教えた。戊辰戦争では箱館(函館)で新政府軍と戦い、息子とともに戦死。終焉(しゅうえん)の地である函館市中島町は「父子の忠節にちなんで名付けられた」とされる。
会場では三郎助の足跡をたどるパネル展が開かれ、ひ孫の中島恒英さん(69)=海老名市=も来場。展示に見入っていた女性(67)=横須賀市港が丘=は「ペリーとの交渉役を務めたのは有名だが、函館まで行って戦っていたのは初めて知った。勉強になった」と話していた。
模擬店や市立浦賀中学校による吹奏楽演奏、ゴスペルソングなども会場に花を添えた。遊ぶ会会長の大内透さん(68)は「こうして子どもたちや地域住民が集う場をつくることで、浦賀の町を愛していた三郎助の思いを継ぐことにつながってほしい」としていた。
テレビ
負けても生き残れ!波瀾万丈な人生を送った榎本武揚の思いとは?『先人たちの底力 知恵泉』
人々が組織や社会の中で直面している様々な課題、実はそれらは先人たちが取り組んできたものと通底する。現代人の課題や関心事項を毎月1テーマずつ設定し、解決へのヒントを歴史上の人物の知恵と行動から探っていく番組『先人たちの底力 知恵泉(ちえいず)』(NHK Eテレ)。
1月27日(火)は、「負けても生き残れ!」をテーマに、「だから、生きる 榎本武揚 敗北からの復活劇」を放送する。今回取り上げる榎本武揚ほど波瀾万丈の人生を送った人物も少ないのでは? 幕府の御家人として、最後まで明治新政府に抵抗した榎本。その後、一転して政府の高官となったことから、後世からの誤解や批判も多い。しかし実は、その博覧強記ぶりから国に多大な貢献をした人物。これまで光が当たりにくかった榎本の業績を掘り起こしていく。
幕府の旗本の家に生まれ、12歳で昌平坂学問所に入り、長崎の海軍伝習所に学び、さらには、幕府に派遣されてオランダに約4年間留学。その間、儒学、砲術、航海術、数学、化学、国際法、経済、蘭・英・仏・独の各国語など、文系・理系をとわず、あらゆる学問を身につけた、まさに博覧強記の人物だ。
ところが、榎本が1867年に帰国したとき、日本は動乱の真っ最中。将軍・徳川慶喜による大政奉還、翌年には戊辰戦争が勃発する。榎本は江戸城の無血開城に抗し、八隻の艦隊を引き連れ、蝦夷地に向かう。しかし新政府軍によって陥落。榎本も自害しようとするが、官軍総参謀・黒田清隆らに必死で止められる。その後、榎本は以後一転、明治政府の高官として外交や殖産興業に尽力する。なぜ黒田は榎本を生かそうとしたのか。榎本はなぜそれを受けたのか……。榎本の生き方から見えてくるものは?
■『先人たちの底力 知恵泉(ちえいず)』
毎週火曜 23:00~23:24(NHK Eテレ)
時間潰しする必要があったので、映画館で歌舞伎見てました……一月に二本の歌舞伎舞台を見て、自分が十分に歌舞伎を楽しめるとわかったので。落語は子供の頃に演芸番組を見ていたから見当がついていたのだけど、歌舞伎はそういう見当がなかったので、デビューするのに時間がかかってしまいました。
シネマ歌舞伎 二人藤娘/日本振袖始
そして、玉さまは「日本振袖始」は素戔嗚尊の八岐大蛇退治のお話で、岩永姫と八岐大蛇の二役。岩永姫は、瓊瓊杵尊《ににぎのみこと》に嫁いだけど、帝が美しい妹の木花咲耶姫《このはなさくやひめ》を寵愛し、送り返され美しく生まれなかったために愛されず、怨み、妬み、嫉妬などの感情に支配され、八岐大蛇となって毎年生け贄に供される美しい娘を食らって美しい娘を根絶やしにしようとしていた。今回捧げられた稲田姫は素戔嗚尊の思い人で、彼の入れ知恵で振袖の袖に剣を隠していた。さらに現れた素戔嗚尊が八岐大蛇と大スペクタクルな闘いを……。
稲田姫を演じた米吉ちゃん、タレ目とふっくら頬が愛らしくも綺麗……。
人ではなくなってしまった岩永姫の人を超えた美しさと、八岐大蛇の怖ろしさを両方とも演じてしまう玉さま。
そして、日本史ヒーロー中のヒーローのひとり、素戔嗚尊を演じる勘ちゃんの凜々しさ。
衣装、メーク、小道具、舞台装置などなど、電気がない時代に人力や日の光をつかって、娯楽としてやったんだよなぁ、うるうる。
……と浸りたいところだったのだが、背後のシニアカップルの爺さんが「こんな映画とは思わなかった。もっと普通の映画だと思ってきたのに、舞台そのままだ」みたいな愚痴を言い始めた。それがお芝居の邪魔になるような声で、しゃべり出したら止まらない……ううう、空気読まない不届き者め(涙)。私も咳払いなどしてみたが、距離があって届かない。他の観客が係員さんに伝えて、ようやく注意されて黙ったが、たぶん30分ぐらい喋り続けていた(涙)。
出口では、係員さんに、他の女性客たちが口々に苦情。まぁ、ほんと、今回はひどかった……スクリーンは素晴らしかったんだけどなぁ。
シネマ歌舞伎 二人藤娘/日本振袖始
平成二十六年三月に歌舞伎座新開場杮葺落(こけらおとし)公演で上演され、満員の観客を魅了した二演目がシネマ歌舞伎に登場。玉さまと七之助さんの二人藤娘、何てみずみずしい藤の精。最初は娘さんらしく、衣装が替わるほどに艶やかになってきます。女性美の極みなのに生々しくないのが女形ならではでしょうか。
「二人藤娘」は坂東玉三郎と中村七之助が藤の精を艶やかに演じた演目です。舞踊の人気演目である「藤娘」を二人で演じるという新たな演出により平成二十六年一月に大阪松竹座で初演。大きな話題となり、早くも三月歌舞伎座での再演となりました。舞台上いっぱいの藤の花や二度三度と変わる衣裳の数々、そして、何よりも華やかで美しい玉三郎と七之助から目が離せません。
「日本振袖始」は、古事記・日本書紀に記された出雲の八岐大蛇(やまたのおろち)伝説をベースに近松門左衛門が書き上げた演目です。玉三郎は妖艶な姫の姿から恐ろしい大蛇へと変貌。生贄(いけにえ)としてささげられた稲田姫(米吉)を救うため、大蛇退治にやってきた素盞嗚尊(すさのおのみこと)(勘九郎)とダイナミックな大立ち廻りを繰り広げます。
歌舞伎ならではの美しさとエンタテイメントを体感できる豪華二本立てをどうぞお楽しみください。
今回のシネマ歌舞伎では、一筆一筆に集中して化粧をし舞台へと臨む姿、開演直前の幕の中の緊迫感、美しい姫から大蛇の姿へと変わる早替わりの様子など、普段はなかなか目にすることのできない貴重な姿を捉えた舞台裏映像も本編中に盛り込んで上映致します。
そして、玉さまは「日本振袖始」は素戔嗚尊の八岐大蛇退治のお話で、岩永姫と八岐大蛇の二役。岩永姫は、瓊瓊杵尊《ににぎのみこと》に嫁いだけど、帝が美しい妹の木花咲耶姫《このはなさくやひめ》を寵愛し、送り返され美しく生まれなかったために愛されず、怨み、妬み、嫉妬などの感情に支配され、八岐大蛇となって毎年生け贄に供される美しい娘を食らって美しい娘を根絶やしにしようとしていた。今回捧げられた稲田姫は素戔嗚尊の思い人で、彼の入れ知恵で振袖の袖に剣を隠していた。さらに現れた素戔嗚尊が八岐大蛇と大スペクタクルな闘いを……。
稲田姫を演じた米吉ちゃん、タレ目とふっくら頬が愛らしくも綺麗……。
人ではなくなってしまった岩永姫の人を超えた美しさと、八岐大蛇の怖ろしさを両方とも演じてしまう玉さま。
そして、日本史ヒーロー中のヒーローのひとり、素戔嗚尊を演じる勘ちゃんの凜々しさ。
衣装、メーク、小道具、舞台装置などなど、電気がない時代に人力や日の光をつかって、娯楽としてやったんだよなぁ、うるうる。
……と浸りたいところだったのだが、背後のシニアカップルの爺さんが「こんな映画とは思わなかった。もっと普通の映画だと思ってきたのに、舞台そのままだ」みたいな愚痴を言い始めた。それがお芝居の邪魔になるような声で、しゃべり出したら止まらない……ううう、空気読まない不届き者め(涙)。私も咳払いなどしてみたが、距離があって届かない。他の観客が係員さんに伝えて、ようやく注意されて黙ったが、たぶん30分ぐらい喋り続けていた(涙)。
出口では、係員さんに、他の女性客たちが口々に苦情。まぁ、ほんと、今回はひどかった……スクリーンは素晴らしかったんだけどなぁ。
たまたまe-plusの貸切公演への募集があったので、普通よりもチケットが取りやすいのではないかと思って申し込んだら、前から5列目の中央。役者さんの表情がばっちり見える場所でした。
まだ公演中なので、折り畳みます。ネタバレ可の方だけ続きをご覧ください。
まだ公演中なので、折り畳みます。ネタバレ可の方だけ続きをご覧ください。
カレンダー
03 | 2025/04 | 05 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | ||
6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 |
13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 |
20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 |
27 | 28 | 29 | 30 |
カテゴリー
最新記事
(03/25)
(03/24)
(02/03)
(12/20)
(08/11)
最新コメント
[12/14 白牡丹(管理人)]
[12/14 ゆーじあむ]
[11/08 白牡丹(管理人)]
[11/07 れい]
[01/21 ゆーじあむ]
[11/15 白牡丹@管理人]
[11/15 ゆーじあむ]
[05/25 長谷川誠二郎]
[07/23 白牡丹@管理人]
[07/23 伊藤哲也]
最新TB
ブログ内検索
アーカイブ
最古記事
カウンター
プロフィール
HN:
白牡丹
性別:
非公開
自己紹介:
幕末、特に新選組や旧幕府関係者の歴史を追っかけています。連絡先はmariachi*dream.com(*印を@に置き換えてください)にて。
リンク
アクセス解析
Livedoor BlogRoll
本棚