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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 柳家花緑「あたま山」柳家喬太郎「竹の水仙」を再生しながら書いてます。

北海道
「咸臨丸とサラキ岬に夢みる会」に手づくり郷土賞
【木古内】国土交通省は12日、本年度の国土交通大臣表彰「手づくり郷土(ふるさと)賞」の受賞団体を発表した。道内からは木古内町のまちづくり団体「咸臨丸とサラキ岬に夢みる会」(久保義則会長)など2団体の活動が受賞した。会員らは「地道にやってきた成果。活動の励みになる」と喜んでいる。

 同賞は、自然や文化、歴史など地域の魅力や個性を生かした活動を行う団体に贈られる賞。本年度の道内の受賞は同会など2団体。道南で受賞したのは、2006年度の「函館野外劇の会」以来、4団体目。

 受賞理由で「住民自らが考え行動し観光交流拠点として整備し、地域の活性化に寄与している」と住民のボランティア活動を高く評価した。

 同会は、2004年10月に発足。サラキ岬沖で座礁、沈没した幕末の軍艦「咸臨丸」をまちづくりに結びつけようと活動している。国道228号沿いにあるサラキ岬の公園の整備は、住民有志のボランティアに支えられてきた。これまでに同艦の模型設置や花壇整備を行い、5月初旬に開いているチューリップ祭りには多くの観光客が訪れるようになった。

 久保会長は「訪れる人がもっと楽しめるように、サラキ岬を公園として充実させるため汗を流したい」と気持ちを新たにしている。

 また、今年は同艦が沈没してから140年の節目で、9月には同艦にゆかりのある自治体の関係者を招き、「咸臨丸サミット」開催を予定している。多田賢淳事務局長は「手作りの活動が評価されうれしい。サミット開催に向けて受賞は弾みになる」と話している。認定証の授与式は2月8日に町役場で行う予定。


岩手
宮古で11月、新撰組サミット 模擬海戦や仮装行列も
 宮古観光協会(沢田克司会長)は11月、宮古市内で第12回全国新撰組サミットin宮古を開催する。全国の新撰組や幕末の歴史ファンが集うサミットは県内初の開催。副長の土方歳三らが参戦した宮古港海戦にスポットを当て、ファンが新撰組の羽織を着る仮装パレードや隊士の子孫による講演会などを計画。宮古を歴史ロマンで盛り上げる。

 サミットは、全国の新撰組ファンの交流促進とまちおこしなどを目的に年1回開催。第1回の東京都日野市から京都市、福島県会津若松市など新撰組にゆかりのある全国各地で開かれ例年、全国の新撰組ファン約100人が集う。

 宮古港海戦は1869(明治2)年、宮古市の宮古港で榎本武揚率いる旧幕府軍と明治政府軍が戦った。日本初の洋式海戦として知られ、旧幕府軍には土方らが参戦した。

 住民有志が宮古港海戦を研究し、サミットの開催地に立候補。日野市の日野新撰組同好会(峯岸弘行名誉局長)などのアドバイスを受けて先月、開催地に決まった。

 サミットは11月の2日間開催し、隊士の子孫らによる講演や、市中心部を新撰組の羽織を着て練り歩く仮装パレード、客船を使った模擬海戦などを計画している。浄土ケ浜にある宮古港海戦の碑などゆかりの史跡巡りも予定する。

 今後、サミットに参加する市民ボランティアを募集。5月には、浄土ケ浜でPRイベントを計画している。沢田会長は「宮古の閉塞(へいそく)状況を打破するために、市民も巻き込んだ面白いサミットを開催したい」と意気込む。

 宮古港海戦とは 1869年5月6日に明治政府軍と旧幕府軍が争った海戦。土方歳三が戦艦「回天」に乗り込み、宮古港に停泊していた政府軍の最新鋭艦「甲鉄」奪取を決行したが、失敗した。回天を甲鉄に接舷させて斬り込むアボルダージュ作戦は、映画「ラストサムライ」のモデルといわれるフランス陸軍士官ジュール・ブリュネらが授けたとされる。

【写真=宮古市の浄土ケ浜にある宮古港海戦の記念碑。市内では11月、全国新撰組サミットが県内初開催される】


千葉
江戸の庶民、めざすは料亭、長者… 佐倉で双六展
 佐倉市の国立歴史民俗博物館で、正月の遊びとしておなじみの「双六(すごろく)の小宇宙」展が開かれている。展示は江戸末期、明治の絵双六が中心。当時の世相と都市文化が、大判の色彩鮮やかな絵とともに浮かび上がる。

 同館は約260点の双六を所蔵しており、今回はそのうち30点を展示している。

 興味深いのは「新版御府内流行名物案内双六」。日本橋の朝市を振り出しに、麦飯、そばなどを経て江戸の超高級料亭の「山谷の八百善」「深川の平清」にたどり着く趣向だ。さながら、料理店ガイドで知られる「ミシュラン」の幕末版だ。

 「春興手習(てならい)出精双六」は歌川広重の絵。現代の塾通いとそっくりだ。母親に手を引かれ寺子屋に入門するのが振り出しで、机を担いで去る「はもん(破門)」、罰をくらう「留(とめ)られ」もある。教えに従わず、勉強をしない子には罰が待っていたのだろう。

 「新版主従心得寿語録」は奉公人が長者を目指す、江戸の「人生ゲーム」。小僧の出身地が近江、伊勢となっているのは、江戸で成功した近江商人、伊勢商人が多かったことを映すものだ。

 「御大名出世双六」は幕府の官制の中で奉行、側用人、老中と出世しながら上がりを目指す。ただし「上」のマスには職名がない。当然そこは「将軍」の座。恐れ多いと遠慮したようだ。

 古代からあった白黒の駒で遊ぶ盤双六は、江戸時代には衰え、出世双六や旅、行楽がテーマの道中双六、名所双六、妖怪双六などの絵双六がはやる。数千枚を刷り、今の価格だと1枚数百円から2千円程度で売ったとみられる。

 同博物館の大久保純一教授は「双六は視覚的に知識を伝え、流行を知る機能があった。子どもは遊びながら知識を身につけることにつながった。その時代の人々の関心や、時代の空気を読み取ることもできる」と話している。

 30日まで。入館料は一般が420円、高校・大学生が250円。1~6展示室を見られる。土曜日は高校生無料。問い合わせは同館(043・486・0123)へ。(高山修一)





大阪
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/192 花外楼 /大阪
◆大阪市中央区

 ◇伊助の魂、受け継ぐ 幕末から明治、逸話数多く
 木戸孝允や伊藤博文ら明治の元勲たちが出入りした北浜の料亭、花外楼には、数々の逸話が残る。5代目女将(おかみ)の徳光正子さん(61)に伺った。

 まずは、幕末に花外楼と名を変える前の加賀伊を開いた徳光伊助。「祖母から伝え聞いた話によりますと、伊助は男気があった人。大坂は与力、同心が少ない町で、伊助がウンと言わないと、手を出せなかったそうです」

 幕府に逆らおうとする志士たちと親しく付き合うには、それ相応の覚悟があったはず。「木戸さんも伊藤さんも、当時は若人ですよね。次の時代のリーダーになる人。でも伊助は、そういう人を利用しようという考え方も嫌い」

 花外楼と名を変えた後、伊助は通りを挟んだ南側に3階建てで100畳敷の宴会場を持つ別館を建てた。従来の花外楼を浜座敷、新館を陸座敷と称した。時の府知事が「その両方を結ぶ陸橋を架けてやろう」と勧めたが、伊助は「大阪が橋だらけになる」と断ったという。派手さを嫌い、頑固一徹な人物像が浮かび上がってくる。ゆえに「花街の華やかな人たちからは煙たがられたとも聞いてます」というのも、むべなるかな。

 その気質は、娘のお悦にも引き継がれた。幕末のこと。大久保利通や木戸らが集っていた加賀伊に、新撰組の近藤勇が刀を手に飛び込んできた。「桂(小五郎、木戸孝允のこと)がいるだろう」と問い詰める近藤に、玄関番をしていたまだ幼いお悦は「そんな人はいやはりゃしません」とこともなげに答え、近藤を追い返したというから、えらいものだ。

 お悦は木戸に可愛がられ、御霊神社の夜店に連れて行ってもらって、人形などを買ってもらったという。また、長じては、伊藤博文が宿泊した時、警護のため外で徹夜で立ち番をしている警官を気の毒に思い、伊藤に紙と筆を渡して「何か書いてあげてください」と頼んだとか、陸奥宗光に外遊みやげの洋傘をもらって、うれしさのあまり座敷で差して見せたとか、エピソードに事欠かない。

 その娘で、正子さんの祖母、孝は幼い頃、井上馨に来客があると、後ろからうちわをあおぐのがお役目。眠くなって手が止まると、井上は「お孝、風がのうなったのう」と言ったという。そのお孝さんは、女学校で学んで、跡を継ぐのを嫌っていたが、時の総理大臣、桂太郎に説かれて3代目女将となる。

 余談ながら、お孝さんの兄、衣城は大阪毎日新聞の11代目の社会部長だった。社会部史には「あの花外楼のぼんぼん出身とは考えられぬ獰猛(どうもう)な面構えと、あの炯々(けいけい)たる眼光が、社会部長としての凄(すご)いエネルギーを象徴しているかに見えた。一秒間もジッとしていない社会部長」と横顔が記されている。ああ、恐ろしい。

 長男は代々伊助を継ぐものだったが、跡を継ぐのを嫌って記者になり、衣城を名乗った。正子さんは「鬼瓦みたいな顔をして怖かったですね」と、伯父の印象を語る。正子の名は、実は衣城が付けた。「これからの時代は単純でなきゃあかん」というわけだったそうだ。

 1911(明治44)年に木造3階建てに建て替えられた花外楼が、今のビルに建て替わったのは1964年。蛇足ながら、私の生まれた年だ。それを記念して、花登筺が芝居を書き、東西で上演された。正子さんは言う。「花外楼は大阪の歴史だと思っています。私たちのものであって、私たちのものでない」と。

 窓外には、土佐堀川を挟んで中之島が見える。大阪会議が開かれた時、中之島の東端はまだここまで延びていない。木戸や伊藤が見た景色はまた異なる。

 ユリカモメが乱れ飛び、コンクリートの塀に並んで羽を休める。「うちでパンくずのエサをやってるんです。季節によって、オシドリやサギ、セキレイなんかも来るようになったんですよ」と女将さん。川面が冬の陽(ひ)にきらめいていた。【松井宏員】


高知
「幕末の暮らし」体感施設に 龍馬伝生家セット
 県内で3月5日に開幕する観光イベント「志国(しこく)高知龍馬ふるさと博」の内容を検討する運営委員会の3回目の会合が14日、高知市丸ノ内の高知城ホールで開かれた。JR高知駅前に新設し、NHK大河ドラマ「龍馬伝」で使われた坂本龍馬の生家のセットを展示するパビリオンのイメージ図が完成。幕末の暮らしが体感できる施設にするという。

 新パビリオン「『龍馬伝』幕末志士社中」(約600平方メートル)は7月9日に開館。龍馬の生家のセットが丸ごと移築され、龍馬の部屋や居間などを再現。調度品も幕末頃の物に似せ、「当時の人たちの声が聞こえてくるような雰囲気にする」という。

 新パビリオンと、現在使われている隣接の観光情報発信館「とさてらす」を総称し、駅前会場一帯を「こうち旅広場」と命名した。

 また、ふるさと博初日の3月5日は、同時開幕する「土佐の『おきゃく』2011」のメーン会場・高知市中央公園で、「龍馬伝」の出演者らを招いたイベントを行うことを決めた。歴史好きアイドル「歴ドル」の美甘子(みかこ)さん、県立坂本龍馬記念館職員らも参加し、龍馬についてのトークを行う。会場ではシャモ鍋をふるまう。桂浜でもイベントを行う予定。

 期間中、土佐の偉人を紹介する施設として、佐川町立青山文庫など9施設を選定。さらに「花」「食」などのテーマや季節ごとに関連企画を広げていく。委員の一人は「スタンプラリーのように各施設を巡ってもらい、携帯端末から観光情報を得られる仕組みが必要」と指摘した。

 次回は2月初旬に開き、新パビリオンの具体内容などについて検討する。

(2011年1月15日 読売新聞)


山口
松陰・晋作…かるたに維新志士 萩ゆかり50人の似顔絵
 山口県萩市ゆかりの幕末の志士ら50人の似顔絵がユーモアたっぷりに描かれたかるたができた。吉田松陰や高杉晋作、伊藤博文らそうそうたる面々が並ぶ。

 NPO法人「維新・人・夢浪漫」が、維新の街をPRしようと、週刊朝日の似顔絵塾で入賞歴もある地元のイラストレーター俵屋猛さんに依頼し、3千部作った。

 萩、長門両市の小中高校などに無料で配り、残りは1部1千円で販売する(0838・22・1855)。偉大な先達に、萩の魅力アップと活動資金の確保を託す。


佐賀
三重津海軍所跡:30メートルの直線護岸確認--22日に一般公開 /佐賀
◇市教委「ドック構造解明に前進」
 佐賀藩の幕末遺産の三重津海軍所跡(佐賀市川副、諸富町)の発掘調査で、佐賀市教委は14日、海軍所のドック北側の護岸を30メートルにわたって確認したと発表した。船が出入りした開口部付近の木製護岸も出土し、市教委は「ドックの構造解明に一歩近づいた」と位置づけている。22日に一般公開される。【姜弘修】

 確認されたのは、09年に見つかった階段状の護岸から早津江川に向かって延びた約30メートルの護岸。ドック護岸を曲線的に描いた大正期の絵図と違い、直線的な構造だったことが判明した。

 今回出土した開口部に近い護岸は木板をクイで留める簡易な構造をしており、木板は和船の板材を転用したとみられ、船くぎで固定されていた。

 これでドックは階段状の造りと簡易な造りとが組み合わさった構造と分かり、より強固な階段状の部分には重量のある構造物などがあったと推測されるため、さらに発掘調査を続けている。

 一般公開は22日午前9時半から、現場の佐野記念公園で。少雨決行。遺構は今月末に埋め戻すため、ドック跡を直接見られる貴重な機会という。


長崎
長崎龍馬会が墓前ウォーク 幕末の志士に思いはせ
 幕末の志士、坂本龍馬とともに活躍した海援隊の隊士らが眠る墓などを巡る「亀山社中・海援隊墓前ウォーク」が15日、長崎市内であった。龍馬の顕彰活動に取り組む長崎龍馬会(馬渡善裕会長)の主催で19回目。会員ら10人ほどが参加した。

 一行は風頭公園(同市伊良林3丁目)の龍馬像前をスタート。同公園内の上野彦馬や、晧台寺(同市寺町)にある近藤長次郎、高島秋帆の墓などを訪れた。墓前では線香を供えて手を合わせ、それぞれの功績に思いをはせた。

 同会・龍馬楽校長の柴崎賀広さん(54)は「龍馬伝の放映も終わり、彼らの活躍が認知されてきた今こそ、イベントなどに力を入れていきたい」と話した。


サヨナラ龍馬アバヨ弥太郎-長崎の龍馬伝館、40万人超え閉幕 /長崎
 長崎歴史文化博物館(長崎市立山)の長崎奉行所・龍馬伝館が1月10日、閉幕した。昨年1月9日にオープンして以来、約47万人の入場者が同館を訪れ、当初の目標だった40万人を大きく超えた。(長崎経済新聞)

【画像】 かわち屋による祝餅つきパフォーマンスで会場が盛り上がる

 最終日は、同館のエントランスホールで「サヨナラ龍馬!アバヨ弥太郎!」と題した閉幕記念イベントが開催され、長崎を中心に活動する10組のミュージシャンらが出演。歌や舞、オペラ、和太鼓の演奏、餅つきパフォーマンス、月琴を中心にした長崎らしい音楽などで、終日同館をにぎやかな音色で包み込んだ。龍馬伝館が閉館した19時以降もイベントは続き、多くの人が同館との別れを惜しんだ。

 今回のイベントをプロデュースしたプレイタイム・ロックの高浪慶太郎さんは「龍馬が盛り上げてくれた長崎の宴は終わるが、これを機会に芽生えた幕末長崎への興味をブームに終わらせたくない。この興味を根付かせるための始まりが今日」と笑顔で話す。同館によると、期間中の博物館全体での来場者数は約107万人だったという。

 龍馬伝館の後は、大河ドラマ50作記念企画「長崎奉行所・大河ドラマ館」として生まれ変わる。1963(昭和38)年「花の生涯」から2011年「江~姫たちの戦国~」までの大河ドラマを一挙に紹介する予定。会期は2月11日~10月30日。観覧料は500円

鹿児島
霧島の龍馬館で羽織盗まれる、記念撮影用の特注品
 幕末の志士・坂本龍馬が妻のお龍と「日本初の新婚旅行」で訪れたことにちなむ霧島市牧園町の塩浸
しおひたし
温泉龍馬公園資料館で8日未明、来館者の記念撮影用に展示していた特注の大人用羽織1枚(約10万円相当)が盗まれているのが見つかった。横川署が窃盗などの疑いで捜査している。

 施設を管理する市によると、午前4時25分頃、委託している警備会社の警報が作動。20分後に同社の社員が横川署員とともに駆け付けたところ、受付窓口のガラスが割られて鍵が開けられていた。犯人は逃走した後だったという。

 資料館は7日、平常通り午後6時まで開館していた。盗まれた羽織は、企画展を開いているNHKエンタープライズが展示した資料の一つ。昨年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」で龍馬を演じた福山雅治さんが撮影で使った羽織やサイン色紙などもあったが、ほかに盗まれた物はなかったという。

 前田終止市長は「犯人は、命をかけて日本を変えた坂本龍馬の志を理解し、一刻も早く自首してほしい」とコメントした。

(2011年1月9日 読売新聞)

コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(96)東大教授・山内昌之 寺島宗則(下) 政治原理と暫定措置
「公使の暴走」憂慮
1810年以来3度もオスマン帝国に在勤した英国外交官のストラトフォード・カニング(レドクリフ子爵)は、クリミア戦争の処理にあたった3度目の在勤が1842年から58年まで及んだほどだ。トルコ語で「大・大使」という敬称をつけられたのも理解できる。日本駐在のパークス英公使の力も、カニングほどではないにせよ、かなりの威勢を示した。
 パークスは税権回復に断固反対したが、これは関税自主権回復をさしあたり断念し協定税率の引き上げによる貿易協定の実現に満足すべきだと主張した欧州在勤の日本公使たちの意見にも近い。しかも、英独に駐在する公使は条約改正の国際会議をロンドンで開きたいという英国の提案を各国別交渉ならよいと条件を付けて同意する有り様であった。
 五百旗頭(いおきべ)薫氏が著書の中で時に「日本公使の暴走」と呼ぶような事態は、寺島を嫌な気分にさせたに違いない(『条約改正史』)。どの公使も幕末には薩長の志士であり寺島を同格に見ていたにせよ、交渉開始は大臣の発議によるべきだという“明治の政治家主導”の理念をないがしろにしていたからだ。
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 寺島の理念は正しかったにせよ、大隈重信が条約改正御用掛となり欧州在勤公使にも交渉の善後策をつけるように命じられた。西南戦争後の財政難に苦しむ政府部内には、関税収入の増加を求めるあまり、関税自主権回復を後に回して、改正交渉をとにかく協定関税の引き上げに限定しようとする動きが台頭していた。大蔵卿(きょう)の大隈はその筆頭だったといってもよい。
 しかし寺島は、あくまでも関税自主権の回復を最優先とし、具体的な税目の交渉を始める作業を拒否した。財源の拡充をプラグマチックに求める大隈と、税権回復の原理的立場を譲らない寺島との亀裂は大きすぎる。閣内不一致ともいうべき事態は、完敗した寺島がまもなく外務省を去って文部卿に横滑りすることでひとまず避けられた。
百年の大計正面から
 大隈の主張は傍目(はため)には“軟弱外交”のそしりを免れない。税権を回復できない代償として、満足な改正が失敗した場合に条約を廃棄する権利の承認や行政規則の制定権回復を目指すことが明言されたが、これは世論の批判をかわすためであった。
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 外交の自主性から判断する限り寺島の方針は正論であり、大隈はあまりにも御都合主義にすぎる。寺島は外国語に堪能であり誰よりも泰西(たいせい)事情に通じていた。不平等条約改正という究極的願望はたやすく実現しがたく、大隈のように、何らかの妥協によって暫定的な協定が必要なことも知らないわけでなかった。しかし彼の知性は、暫定措置といえども常に「最終目標の光の下」に位置づけられるべきだったのである。
 こう語った五百旗頭氏は、政治家たる者目標にたどりつくためには状況に対応しながら、いくつもの段階を踏破しなければならず、その態度は主客転じるかのように変転することもあると適切に指摘している。「その間、最終目標の大きな部分をかなり長い間断念しなければならない。このような政治家として振る舞うには、寺島はあまりにも謹厳であった」(『条約改正史』)
 言い換えれば、寺島は大隈のように懸案を何でも実用的に片付けがちな手法を許せず、国家百年の大計にかかわる課題を暫定措置として扱う大雑把(おおざっぱ)さを許せなかったともいえよう。実際に、挫折したとはいえ、条約改正のような大命題をあくまでも正面からとりあげる寺島の気迫と信念には学ぶべき点も多い。
実直さが歴史的意義残す
さて、来年度以降の予算編成には抜本的な税制の見直しが必要なことが誰の目にも否定できなくなった。去年の参院選挙で菅首相が消費税引き上げを示唆したのは正しく、そのまま国民を相手に丁寧に信念を貫けばよかったのである。
 もちろん、先行きは簡単でなく寺島のように条約改正挫折の責任をとって地位を退く危険性もあった。しかし指導者には、どの時代、どの世界でも政治的危機を絶好の機会に変える才も要求される。明治の条約改正は、四面楚歌(しめんそか)の状態でも自説を曲げなかった寺島の先駆的挑戦を基盤に実現したものだ。菅首相が消費税問題でリスクをとり政権交代と民主党政治の意味を後世に残す政治家となるのは難しいことではない。(やまうち まさゆき)








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 こんばんは、白牡丹です。『未完の多摩共和国』著者の佐藤文明さん(リンク先は拙ブログの感想記事)が亡くなったと聞き、力を落としています。多摩の歴史の中で新選組を位置づけ、明治維新から自由民権運動までの流れを書いた良作でしたので、続刊を期待していたものですから……。

北海道
 東奥日報のコラムです。
 2011選挙イヤーが明けた。県議選、知事選と続く決戦の前に、まずは今月10日投票の「箱館偉人選挙」に注目だ。函館市選挙管理委員会のホームページに載っている「選挙公報」を見て驚く。なんと超大物4人が立候補しているではないか。
 「明治維新党、坂本竜馬」「菜の花党、高田屋嘉兵衛」「新選組公認、土方歳三」「無所属、石川啄木」。同市ゆかりのオールスターそろい踏み選挙だ。盛り上がらないわけがない。大河ドラマ人気に乗る坂本候補が叫ぶ。「不景気の今こそ風雲児の出番。函館の夜明けは近いぜよ!」。
 財界のドン高田屋候補も「海運で景気回復」と強気だ。土方候補は軟弱な若者を武士道で鍛え直すと豪語し「若者よ、五稜郭に集え!」と呼び掛ける。石川候補は働いても働いても楽にならなかった過去を振り返り「文学に親しみ、豊かな心を育む街にしたい」と静かに語る。
 市選管が企画した成人の日架空選挙は楽しそうだ。成人を祝う式場に記載台と投票箱を持ち込み、新成人に実際に投票してもらう。模擬投票を通じて一票の大切さを知ってもらうイベントだ。著名人候補の熱い競り合いを演出し、投票率100%を目指す。
 誰に投票するか、大いに悩むところだ。乱世の竜馬か。ロシア外交に強い豪商高田屋か。治安を守る新選組土方か。蟹と戯れる文化人啄木か。魅力あふれる候補者が出ると、選挙はこんなにおもしろくなる。新成人が知っておいて損はない選挙の格言がある。「出たい人より出したい人」

 箱館偉人選挙のサイトはこちらです。自分に投票権があったら……やっぱり土方としぞうに入れちゃうんだろうなぁ(苦笑)。

青森
第9熱唱で会津若松と交流 斗南藩140年記念演奏会 むつ
 戊辰戦争に敗れ、移封された会津藩士らが現在の青森県むつ市を中心に「斗南藩」を築いて140年を迎えたのを記念し、むつ市の下北文化会館で26日、むつ市と会津若松市の市民合唱団員による「ベートーベン第九演奏会」が開かれた。
 むつ市の「むつ下北第九の会」の主催で、同会を中心に、会津若松市の「会津第九の会」の代表9人を加えた93人で合唱団を編成。青森市民交響楽団の演奏に合わせ、情感豊かに第4楽章を歌い上げた。
 姉妹都市のむつ、会津若松両市の市民合唱団が、むつ市で合同演奏会を開くのは、2007年に続き2回目。むつ下北第九の会の村中一文会長(57)は「節目の年に、二つの合唱団が声を合わせたことは意義深い。今後も歌を通じ交流を深めたい」と話した。


山形
「影法師」35年、思いつづる “ベスト盤”付き、記念の本出版
 長井市内のフォークグループ「影法師」(横沢芳一代表)が、結成35周年を記念した本「『現場歌手』35年『影法師』という生き方」を出版した。時代を見つめ、社会にメッセージを発信してきた音楽活動への思いをつづっている。
 影法師は1975(昭和50)年に結成された。国鉄長井線存続運動のテーマソング「今日もあの娘は長井線」、戊辰(ぼしん)戦争で官軍が東北地方を侮辱した言葉とされる「白河以北一山百文」をタイトルにした曲など、メッセージ性の強い歌を発表してきた。
 今回は節目の年に活動記録をまとめようと企画。知人で漫画家の魚戸おさむさんが表紙を手掛け、持ち歌から19曲を選び、当時のエピソードや写真を盛り込みながら16章に編集した。巻尾には19曲が入った“ベスト盤”CDが付いている。長井市の「長井まちづくり基金」を活用して出版した。メンバーの青木文雄さん(57)がメーンライターを務めた。
 長井線を書いた章では、孫に会いに行くおばあさんとの会話を回想し「人は速さ、便利さを追い求め、時間に追われて日々を過ごすようになった。このおばあちゃんに流れている時間、この長井線の時間のスピードが、本当は人間らしい時間なのかもしれない」と記述。
 「白河以北一山百文」の章では、87年の東北自動車道開通時、首都圏で発生する廃棄物が、東北各地に運び込まれて処分されていることに憤り、長井弁の歌を作ったことを紹介し「地方は日本の縮図。地方を歌うことは、この国のすぐそこにある明日を歌うことだと悟った」とつづっている。終章の「美しい村」では、バブル経済にわいた80年代の日本について、当時、記した文章を掲載。「必ずや終焉(しゅうえん)を迎える日がくる。その時この国の人々は虚妄の社会から離れ、命を癒やす共生の世界を目指すはずだ」と記している。
 メンバーの遠藤孝太郎さん(58)は「出版作業を通じ、活動の方向性が間違ってなかったと感じた。日本の経済成長が頭打ちになった今、歌を通じ、人とのつながりの大切さを訴えたい」と話している。本はA5判92ページで2000円。1000部を作った。長井市内の書店や物産館などで取り扱っている。問い合わせは遠藤さん0238(84)6445。


埼玉
越谷で「時代まつり」を・徳川家など歴史遺産PR
 越谷市で「時代まつり」を地元のシンボルイベントとして開催しようと、市民有志が昨年、「越谷時代まつりの実現をめざす会」を設立した。市内の会社員・広瀬知也さんと自営業・田中利昌さん(29)、中村重喜さん(71)の3人が呼びかけたもの。広瀬さんらは「日光街道の越ヶ谷宿、大沢宿を含む越谷には、日光参りの徳川家歴代将軍、参勤交代では伊達家、上杉家など41家の大名たちのほか、松尾芭蕉、近藤勇ら数多くの歴史上の人物が訪れているが、そのことはあまり認識されていない」とし、これらの越谷の歴史と文化を市民と一緒に再発見し、まちのPRと観光によるまちおこしを推進していく考えだ。
 広瀬さんらは、日光街道の宿場町として、最盛期には1000軒を超す商店・旅籠が軒を並べて賑わった歴史や徳川家康公の壮大な御殿があった跡地など、もったいない歴史・文化遺産が市内のあちこちにあるのに、新しい市民にはあまり知られていないという。
 そこで、愛郷心を市民に持ってもらおうと、越谷の歴史と伝統文化を市民に深く認識してもらい、越谷のシンボルとなるようなイベントを企画したいと「越谷時代まつり」の実現に向けて動き出した。千葉県佐倉市の「時代祭り」のように市民が時代衣装に扮した行列をするなどを考えている。
 広瀬さんは山口県下関市出身。16年前、下関市内の観光協会から依頼されて「晋作フォーラムin長府」を企画して開催したのをはじめ、都内の「滝野川新選組まつり」企画などに奔走。会社勤めの傍ら、主に幕末や明治維新に関係した人物に関連したイベント作りのエキスパートだ。
 「時代まつり」は今年実施することが目標。まずは「市民まつり」での仮装行列に参加したり、「日光街道サミット」の開催などを企画している。また越谷に来た人たちに配る「時代観光ガイドブック」の作成なども考えている。
 これまでにない新しい発想でのイベント企画は越谷の歴史を掘り起こし身近なものにするものになりそうだ。地元越谷市も支援する姿勢をしめしている。こうした市民パワーでぜひ実現して、観光都市越谷も夢ではないはずだ。

 高橋 努越谷市長の話「越ヶ谷・大沢宿は日光街道第三次の宿場として栄えました。わずかながら今も往時をしのぶたたずまいが残されています。徳川家康なども鷹狩りに越谷を訪れ、徳川家ゆかりの史跡もあります。こうした資源を観光に活用できたら楽しいですね。こうした事業は、市民サイドから盛り上げていくことが大切です。どのような仕掛けができるのか興味深く見守っていきたいと思います」。


近藤勇も越谷に来ていた?・富田屋伊左衛門方に一泊
 新選組局長、近藤勇も越谷と縁が深い。1868年(慶応4)4月4日、近藤勇は越谷から板橋へ連行される際、綾瀬川にかかる土橋・一の橋のたもとにある「よしずや」という茶店で休憩。その時、樹齢推定約350年といわれる藤の花と綾瀬川を見ながら一首。「綾なる流れに藤の花 にほう 吾が生涯に悔ひはなし」と最後の句を詠む。自分の人生を綾なす糸にたとえながら、藤の花が香るような、すがすがしい生涯に悔いはない、としている。
 新選組はこれより、3日前、下流の綾瀬から北上し、流山に向かっていた。現在の八潮市の潮止の渡しで、現在の三郷市戸ヶ崎へ。戸ヶ崎から中川左岸を谷口へ。谷口から大場川へ出て、大場川右岸を丹後まで行き、丹後の渡しで、現・流山市へ。
 流山到着後、新選組は陣容を整え、4月3日に演習中、留守だった本陣・長岡屋に急襲。近藤勇は拘束され、矢河原の渡しから現・吉川市を経由して、越谷市へ。越谷本町の名主・富田屋伊左衛門方で一泊。ここで、元新選組、伊藤甲子太郎一派の生き残り、加納道之助に、近藤勇であることを見破られる。
 4月4日、越谷から近藤勇は籠に乗せられ、浦和から田島を通り、笹目の渡しを経て板橋へ入ったと伝えられている。途中、越谷と草加の境近くにある「弁天藤」を見て、詠んだ。
 近藤勇と越谷の縁はあまり知られていない。自由の身から捕らわれの身になったのは実は越谷だった。越谷の地から見た綾瀬川の流れと弁天藤を眺めた近藤勇の心境はどのようなものだったのだろうか。越谷の新たなまちおこしの材料になるのかもしれない。


石川
よみがえる「本陣」の姿 宝達志水・県文化財の岡部家
 加賀藩十村役の豪農の家屋の形態を残す宝達志水町荻谷、県指定文化財「岡部家」の保 存修理工事が7日までに終わり、1853(嘉永6)年に加賀藩13代藩主斉泰(なりや す)が能登巡見の際に泊まった本陣の姿が復元された。便所や湯殿は板の間とし、改修で 隠れていた柱を露出させるなど、約160年前のたたずまいを見ることができる。
 岡部家は1736(元文元)年築の茅葺(かやぶ)き入母屋(いりもや)造りで、十村 役所であったほか、能登巡見の際には本陣になった。約270年間に修理や改築が繰り返 されており、町は修復に際し、文化財指定の理由の一つである本陣となった状況を再現す ることにした。
 その際、基にしたのは羽咋市に残された当時の郡奉行加藤儀左衛門家が所蔵した絵図。 藩は本陣とするに当たって岡部家に改修を指示しており、当時の建物の平面図が残ってい た。
 当時、藩主が使った便所は板の間に桶(おけ)を置いていたとされ、保存修理では便器 などは設けなかった。湯殿も板の間で、ここでも風呂桶などは置かなかった。
 岡部家の建造物10棟や土地、古文書などは2004(平成16)年8月、18代当主 から旧志雄町に寄付された。中には3代藩主利常の正室珠姫の愛用品と伝えられる雛御膳 (ひなごぜん)や斉泰の写真など多くの貴重な資料が含まれており、町では4月に予定す る一般公開に向け、展示内容などを詰めている。
 修復工事は県教委や文化庁の指導を受けながら総費用約2億円、4年をかけて行われた 。同町教委生涯学習課の村井伸行課長補佐は「本陣が可能な限り再現された。多くの人に 見てもらい当時の様子を思い浮かべてほしい」と話した。


三重
立見尚文:紹介する資料展--桑名で31日まで /三重
 日清・日露戦争などで活躍した桑名出身の陸軍大将、立見尚文(1845~1907年)を紹介する資料展が桑名市中央町の市中央図書館で開かれている。中には1897(明治30)年に桑名の写真館で撮影したとされる家族写真や、日露戦争で出征の際に受け取った陣中見舞いの礼状はがきなど、珍しい資料を展示している。展示は31日まで。
 立見は旧桑名藩士で、戊辰(ぼしん)戦争では幕府軍の雷神隊隊長として善戦するも降伏。明治になって一時司法省に勤めたが、西郷隆盛らが起こした西南戦争では陸軍少佐として鎮圧に向かい、新撰旅団一個大隊を指揮した。日露戦争では第8師団を率い、激戦の黒溝台(こっこうだい)会戦で殊勲を挙げた。
 家族写真は3年前、立見の親族から同図書館に寄贈され、一昨年「1枚の写真から」と題して公開したところ、出版社や新聞社から「ぜひ引用させて」と依頼が来たという貴重なもの。他に、戊辰戦争や日清・日露戦争における立見のエピソードを紹介するパネルや立見も登場する司馬遼太郎の著作「坂の上の雲」などの本を展示している。司書の飛石真理子さん(58)は「昨年暮れにNHKで放映されたドラマ『坂の上の雲』には立見は出てこなかった。今年はぜひ登場し、名前が全国に広がってほしい」と期待していた。【沢木繁夫】
〔三重版〕


京都
「京北の文化と小学校」展:歴史や教育紹介--下京 /京都
 05年に京都市に編入合併された京北地域(現・右京区)の歴史や文化、学校教育を紹介する企画展「林業のまち 京北の文化と小学校」が3月14日まで、下京区の市学校歴史博物館で開かれている。
 1868(慶応4)年、鳥羽伏見の戦いが始まり、京北の山国から志願した農兵隊「山国隊」が鳥取藩の一隊として戊辰戦争で戦績をあげた。同隊の藤野斎が設けた私塾など、京北の教育の歴史は幕末維新期の寺子屋や塾にはじまる。府の小学校設立奨励の告示により、1873(明治6)年には分校を含め小学校9校が設置されていた。
 同展では校名を揮毫(きごう)した額や、高等小学校卒業記念に生徒らが書いた書道作品、手習いの手本として学校で保存していた政府の禁止令を記した高札など明治時代の資料のほか、戦前の養蚕や農業指導など、地域性を生かした教育の様子を記録した写真や資料を展示。
 さらに、時代祭の「維新勤王隊」のモデルとしても知られる「山国隊」が出征中に学び、今も継承されている鼓笛軍楽の資料や林業の歴史なども紹介。京北地域の特色ある文化を知ることができる。会期中展示替えがある。
 午前9時~午後5時。水曜は休館。入場料は大人200円、小・中・高校生100円(市内の小中学生は土日無料)。【野宮珠里】


高知
龍馬ゆかり「いろは丸」絵図
高知で展示

 幕末の志士・坂本龍馬が結成した海援隊が乗り込んだ蒸気船「いろは丸」を描いたとみられる絵図が、高知市浦戸の県立坂本龍馬記念館で開かれている企画展で展示されている。10日まで。
 いろは丸はイギリスで建造され、1863年(文久3年)に薩摩藩が購入。3年後に大洲藩(愛媛県中南部)が、龍馬らの仲介で買い取った。その後、海援隊が大洲藩から船を借り、初仕事で長崎~大坂間を航行していたが、67年(慶応3年)に瀬戸内海で紀州藩船と衝突し、沈没した。
 絵図は昨年7月、長崎市歴史民俗資料館が展覧会の準備中に見つけた。船印に大洲藩主・加藤家の家紋である「蛇の目紋」が描かれているほか、添え書きされた「十月二十四日」は、佐賀・鍋島藩士が長崎港を出入りする船を記録した「白帆注進外国船出注進」にある、いろは丸の長崎出港日と一致するという。
 坂本龍馬記念館の前田由紀枝・学芸主任は「これまでいろは丸を描いた絵などは見つかっておらず、貴重な資料。海援隊を象徴する船なので、ぜひ見に来てほしい」と話している。
(2011年1月5日 読売新聞)


山口
【都道府県 伝統の教え】山口県 「明倫館」から受け継いだもの
 幕末、維新に活躍した志士たちや、岸信介、佐藤栄作ら戦後の著名な政治家らを輩出した山口県。誠実、剛健の人材を育ててきたイメージがあり、古くから教育に熱心な土地柄で知られる。
 江戸期の長州藩の藩校、明倫(めいりん)館は、水戸藩の弘道館、岡山藩の閑谷(しずたに)学校と並ぶ3大藩校の一つ。幕末の志士たちが師と仰いだ吉田松陰も明倫館で学んだ。
 明倫館は1718年に5代藩主、毛利吉元(よしもと)が萩城内につくり、13代の敬親(たかちか)が藩主時代に萩城下の広大な敷地に移転した。学問だけでなく武芸の稽古も熱心に行われた。
 萩の明倫館は、現在の山口県萩市立明倫小学校の敷地に国史跡の建物が残っている。伝統を受け継ぐ明倫小では毎朝、吉田松陰の言葉を朗唱しているという。学年、学期ごとに朗唱文は変わり、同小のホームページで見ることができる。1年生の1学期は「今日よりぞ幼心を打ち捨てて人と成りにし道を踏めかし」と甘える気持ちを戒める。
 6年生3学期は「天地には大徳(たいとく)あり君父(くんぷ)には至恩(しおん)あり/徳に報ゆるに心をもってし恩を復(かえ)すに身をもってす/此の日再びし難く此の生復(ふたた)びし難し/此の事終えざれば此の身息(や)まず」。天地の徳や人々の恩に言及、少しの時間も無駄にせず一生懸命に、と励ます言葉だ。子供たちは毎日、声に出しているとだんだん意味が分かってくるという。


吉田松陰:処刑前年、悲嘆の書状 同志追悼「此道の一欠事」 山口の学芸員が購入
◇山口の学芸員、骨董店で購入
 長州藩(山口県)出身の幕末の思想家、吉田松陰が自宅軟禁中の1858(安政5)年に、長州藩士の国学者を追悼した書状が見つかった。2人は志士仲間で、松陰は「一人の聚書家(しゅうしょか)(蔵書家)を失い、また此(この)道の一欠事と申すなり」と嘆いている。山口県萩市の萩博物館特別学芸員の一坂太郎さん(44)は「松陰が幕府に処刑される前年に書かれたもの。同志を亡くした悲痛な思いが読み取れる貴重な史料だ」と話している。

 松陰がその死を悼んだのは岸御園(みその)。一坂さんによると、同県防府市在住の岸は私費で書籍を集め、図書館のような役割を果たした篤志家。1857(安政4)年から萩市の松陰の私塾・松下村塾に出入りした。2人は日本史の書籍を貸し借りするなど親交を深めたが、岸は翌58年に病没した。

 書状(縦14センチ、横12センチ)は毛筆で書かれた短い追悼文。岸の学問上の師匠で防府市の防府天満宮の神職、鈴木高鞆(たかとも)に宛てられた。尊皇思想家の鈴木は松陰とも親しかった。書状には1868(明治元)年、旧長州藩士の天野謙吉の書き付けが添えられ「(岸と鈴木は松陰)先生の勤王の親友なり」と記している。

 書状は、防府天満宮歴史館顧問も務める一坂さんが09年、大分県内の骨董(こっとう)店で購入した。松陰から鈴木への書状は珍しく「菅原道真を信奉していた松陰と、(道真を祭る)防府天満宮との交流も裏付ける」という。3月6日、防府天満宮で展示される予定。【中尾祐児】

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 ◇吉田松陰(1830~59)
 長州藩の武士の家に生まれる。1854(安政元)年、下田沖に停泊中のペリーの米軍艦(黒船)に乗り込んで海外渡航を試みたが失敗し、幕府に自首。山口県萩市で自宅軟禁中、松下村塾で高杉晋作や伊藤博文らを教育した。59(安政6)年、幕府が尊皇攘夷派を弾圧した「安政の大獄」で江戸に送られ、老中暗殺計画を企てたことなどで処刑された。


佐賀
偉人伝第2弾「大隈重信」10日発売 著者講演会も
 幕末・明治期に活躍した佐賀人を取り上げるシリーズ「佐賀偉人伝」の第2回配本「大隈重信」が10日、大隈の90回忌に合わせて全国発売される。パソコン用の電子版と同時発売で、執筆した島善高早稲田大学教授の記念講演も同日、佐賀市である。
 昨年11月発行の「鍋島直正」に続く第2弾。大隈は内閣総理大臣を二度務め、早稲田大学を創立。近代国民国家を生みだすために、内政・外政の両面で広く活躍した。本書では大隈の生涯を政治と教育、文明運動の三つの側面から描いている。
 大隈の伝記は1926年以来の刊行。執筆した島教授(58)=佐賀市出身=は「最新の研究成果を盛り込み、新しい大隈像を示せたのではないか」と話す。A5判、112ページ、4千部作成した。千円。
 同時発売の電子版は使用する端末によって機能が異なるが、図版の拡大や人物名・用語の検索機能などを追加。大隈がレコードに吹き込んだ演説の一部を1分半ほど収録している。
 電子版はパソコン、iPad、iPhoneに対応。パソコン版はオンライン書店「シナノブック」、iPad、iPhone版は「APPストア」で購入できる。価格は800円。
 島教授の講演は10日午後1時半から県立美術館ホールで行う。テーマは「大隈重信と近代日本」。入場無料。
 偉人伝シリーズ第3弾は、日本の近代洋画を築いた「岡田三郎助」を3月10日に刊行予定。


熊本
小楠「絶筆」見つかる 明治政府登用の喜び表す
 熊本出身の幕末維新期の思想家、横井小楠(1809~1869年)が、暗殺される直前に書いた「絶筆」とみられる漢詩が京都市の古美術店で見つかった。士籍を剥奪されて5年に及ぶ熊本・沼山津での蟄居[ちっきょ]生活から一転、小楠が明治新政府の参与に登用された翌年で、再び中央政治の表舞台に立った喜びがうかがえる。
 漢詩は「元旦偶作」と題して、「萬里祥雲旭日晴 忽聞黄鳥報春聲 南山清気深無限 都傍高堂盃酒生」と書かれている。昨年、小楠研究家の徳永洋さん(60)=熊本市=が古美術店から連絡を受け、「小楠堂主」という印や書体から小楠直筆と判断した。
 徳永さんによると、「都傍」とは、「(都の)御所のそばで」の意味。小楠は参与登用後の68(明治元)年4月から、暗殺される69年正月5日まで京都に住んでおり、「元旦」とあることから、書かれた時期を69年の正月と判断した。
 漢詩の意味は「遠方にめでたい雲がたなびき、朝日が昇って晴れわたっている。ふと、ウグイスが春を知らせる声を聞いた。南山の清気の深さは限りない。御所のそばで杯に酒を注いでいる」。
 小楠に詳しい猪飼隆明・大阪大名誉教授は「小楠の直筆、絶筆と見て間違いないだろう。上京後は病気がちだったが体調が戻り、すがすがしい新年を迎えたことをうたったのだろう」と話している。(藤本英行)


ドイツ
幕末から昭和、1千点超す写真発見…ボン大学
 幕末から昭和初期の日本の風物を写した1000点超に及ぶ古写真が、ドイツのボン大学で見つかった。
 これほど大量の日本の古写真が海外で確認されるのは極めて珍しい。
 日本文化研究者のフリードリヒ・トラウツ(1877~1952年)が収集した日本関連の書籍や文献などの資料群から、馬場章・東京大教授(歴史情報論)が発見した。今後、日独の研究者で撮影の具体的時期や場所の特定が進めば、往時の日本の姿がどう海外に伝わったかを知る、貴重な資料になりそうだ。
 明治初期のドイツ人外交官が収集し、後にトラウツに渡ったとみられる写真の中には、京都・金閣寺など名所の風景が多く含まれていた。ドイツの出版社が注文に応じて販売していた写真の見本とみられるものもあり、神社を出御するみこしや靖国神社(東京・九段)への参拝、農作業、花魁道中など、昭和初期以前の風物が紹介された写真も確認された。
(2011年1月8日17時41分 読売新聞)




コラム
 四国新聞のコラムです。
1月7日付・ちくわつながり
 遠隔地ながら、なぜか同じ文化を持つ地域がある。例えば長野県には、辛み大根の汁をつゆに混ぜる「高遠そば」や、衣付きの「まんじゅうの天ぷら」という名物があるが、これらは福島県の名物でもある。
 こんなユニークな食べ物が、なぜ500キロも離れて同じように名物になっているのか。信州の高遠藩主・保科正之が、会津藩に領地替えになった際に持ってきたためだという。「藩と県」(草思社)に教わった。
 同様に、戊辰戦争で官軍を率いた西郷隆盛をまつる神社が、なぜか幕府側の旧庄内藩(山形県)に存在する。戦後処理での西郷の温情に心打たれた人々が、降伏後も西郷を慕ったためで、その後も両地で交流が続いたそうだ。
 讃岐もそんな逸話と無縁ではない。塩飽諸島の名物「茶がゆ」で使われているのは、土佐藩の特産・碁石茶。これは土佐藩が参勤交代の際、仁尾港を発着港にしていたことに由来する。
 愛知県豊橋市とも意外なつながりがあると知った。そこの名物はちくわだが、江戸時代に魚問屋が金毘羅参りに行き、そこで見たちくわをまねたとされる。今も香川には練り物業者がたくさんあるが、さてどこのをまねたのか、なんて想像したくなる話だ。
 領地替えや人の交流から、ゆっくりと文化が共有されていく時代があった。今はメディアやインターネットを通じ、ただちに取り入れることも不可能ではない。便利には違いないが、そうして共有するようになったものも文化と呼ぶべきか、分からない。(G)


【幕末から学ぶ現在(いま)】(95)東大教授・山内昌之 寺島宗則(上)
条約改正と政治家主導
 幕末の若者はどの藩に生まれるかで将来の明暗が分かれた。薩摩藩の郷士(ごうし)の子に生まれた寺島宗則は、後に外務卿(きょう)になるなど、幾重にも幸運に恵まれて才を発揮することができた人物である。医師の家に養子に入り、蘭学を究めて幕府の蕃書調所(ばんしょしらべしょ)教授手伝になったのも恵まれていた。幕府の遣欧使節の随員として欧州を実地に眺めただけでなく、薩英戦争では英国艦隊の捕虜となり和戦いずれも経験した西洋通となる。
不平等条約改正交渉に功労
 やがて藩留学生とともに再度渡欧し、帰国後に薩英友好と倒幕に藩論をまとめた功労者の一人である。その真骨頂は、明治6(1873)年の征韓論をめぐる変動期に就任した参議兼外務卿として着手した不平等条約改正交渉でも遺憾なく発揮された。確かに寺島は、条約改正には成功しなかったが、その交渉は官僚(外交官)に対する政治主導、政治家の目標達成までに経験する忍耐と挫折などの点でも、現在の日本政治に対して多くを教えてくれる。
 不平等条約の改正とは、大きく言えば行政権の回復を意味する。それは、日本国内の条約相手国の市民に適用される行政規則を政府が自由に制定し、違反者を処分する権利の回復にほかならない。表向きの旗印が税権回復であれ法権回復であれ、行政権の回復こそ日本政府による条約改正要求の中心に置かれたのだ。
 初期の明治政府の内部には、外国人を日本の法律に服させるために領事裁判権の廃止を求める法権重視の立場と、貿易収支の悪化や正貨流出を危惧して関税自主権の回復を求める税権強調の立場の2潮流があった。条約以上に不平等な日常の生活状況は政治家なら誰でも解決したくなる政治課題であった。
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 “外人の言い草はなんでみんな通るのか”とか“西洋人が人力車夫を殴っても巡査は手を出せず外人は得なものだ”といった怨嗟(えんさ)の声が巷(ちまた)に充ちあふれていた(五百旗頭薫『条約改正史』有斐閣)。とはいえ、国の現状で待ったなしに深刻なのは、地方の金融を停滞させた輸入超過や正貨流出の被害のほうである。
貿易上の不利撤廃目指す
 寺島宗則は、この解決のために関税自主権と貿易規則制定権の回復を目指した。貿易規則とは、貿易への取り締まりや課税に関する規則を広く意味する。
 最初に反応したのは米国政府と駐米公使の吉田清成であった。吉田は寺島に対して、他国からの輸入品よりも高い関税を米国に課さないことを条件に関税自主権回復の条約締結を提案した。
 寺島は、他の条約国の心証を害することを危惧し、米国からは正式な合意でなく言質をとるだけでよいと指示した。結果として寺島は、吉田の提案に同意するが、興味深いのは大蔵少輔から特命全権公使に転出した吉田が大臣の指示に公然と異を唱えたことである。
 これはやがて、欧州でも英仏独駐在の公使たちが寺島に反抗することで、大臣対現地駐在外交官の対立構図にも発展した。吉田も薩摩人であり、後世のように官僚と政治家との間に明白な職分の違いがなかったにせよ、交渉を総攬(そうらん)する大臣の意図をしばしば現地から覆されたのだからたまったものではない。
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大きかった在外公使裁量権
 寺島外務卿が出先を統制できなかったのは、文字通り当時の大公使らが「特命全権」だったからである。五百旗頭氏も指摘するように、その時分の電報は高価であり、船便での通信は日欧で1カ月半、日米で1カ月ほども要した。いまのように、本省からの訓令が暗号デジタル通信で瞬時に届く御時世ではないのである。日本国がまだ小さく大使でなく公使の交換しか許されなかった時代の権力外交でも、在外公使の裁量権は驚くほど大きかった。逆に、東京在住の外国公使たちの権力も大きく、しばしば本国との間に懸隔を生んだものである。(やまうち まさゆき)

【プロフィル】寺島宗則
 てらしま・むねのり 天保3(1832)年、薩摩(鹿児島)生まれ。別名は松木弘安。江戸で蘭学を学び、幕府の蕃書調所教授手伝となる。文久元(1861)年、幕府遣欧使節に参加。翌年の帰国後鹿児島に戻る。維新後、駐英公使を経て明治6(1873)年に参議兼外務卿となり、不平等条約の改正交渉に取り組む。のち元老院議長、枢密院副議長を歴任し、明治26年に死去した。


【ダン吉 南海に駆けた男】将口泰浩(5)差別を受ける土佐郷士
 上士と郷士(ごうし)を含む下士。幕末から自由民権運動までに至る土佐の爆発的エネルギーと複雑怪奇さはこの独特の身分制度に端を発する。
 上士は家老、中老、馬廻、小姓組、留守居組から成り、下士は徒士(かち)、足軽、奉公人などで、その最上位に郷士が位置した。関ヶ原の戦いで東軍についた山内一豊(やまのうち・かずとよ)は「一領具足(いちりょうぐそく)」と呼ばれた長宗我部元親(ちょうそかべ・もとちか)の旧臣を懐柔するため、郷士に取り立てた。新田開発の功績などでも郷士になることができ、一六六四年には上士の三倍に当たる千二十七人に膨らみ、土佐藩は山内家臣団の上士と旧長宗我部家臣団の郷士の二重構造だった。
 その後も生活が困窮した郷士が郷士株を売買するなどして、豪農や豪商が「譲り受け郷士」になり、武道や学問に精通した知識階級を作り上げ、武市半平太を中心にした土佐勤王党の中心メンバーとなり、坂本龍馬を生み、自由民権運動の担い手になった。
 郷士らの下士は上士の差別下にあり常に対立していた。その上、下士の中にも細かい身分制度が敷かれ、幕末に多くの脱藩者を出し、「脱藩」と「暗殺」は土佐の専売特許といわれた。脱藩者は伊予との国境を越えると「これからはおらとおまんでいこう」と言った。
 同じような身分制度があった薩摩藩は脱藩者はほとんど出していない。薩摩は薩摩だけで一つの思考が完結する。親分の西郷隆盛が「行く」と言ったら理由など必要がない。身分の上下を問わず行くだけである。「死ぬ」といえば死ぬだけである。だからこそ身分にとらわれずに接した西郷は下級武士から信頼を得た。これに対し、土佐人には「義」がいる。行くにも、死ぬにも「義」がないと動かない。
 厳しい身分制度から抜け、新世界を求める意欲と太平洋をおらが池と唄った地形が「世界の自由人」である土佐人を作り上げたといえる。
 森家の祖先は土佐東部の田野の開墾を認められ、郷士に取り立てられ、森保助の三男として生まれた可造(かぞう)は船奉行所で勤務していた。しかし、明治元(一八六八)年に版籍奉還。武士階級は路頭に迷うことになった。
 --寄席を出そうか 高利を貸すか やっぱり士族の商法だんべ オヤマカチャンリン
 可造も生活に困窮した一人だった。明治二(一八六九)年十月十五日、可造と加奈の次男として、男児が生まれた。職を失った可造は仁井田から城下の北新町に越していた。
 男児の名前は小弁(こべん)。旧字で弁は小辨と書く。珍しい名である。●は二人並んで誓約することを示し、原告と被告とに争う意味があり、中の刀はものを両断するときに使う。このため、原告と被告双方の主張を聞き、訴訟を裁くという意味になる。
 可造が船奉行所に勤めていた自らを投影した名付けだった。この時代、成長につれ名を変えていくのが通例であるが、森小弁は死ぬまで幼名を通し、「辨」の字源通りの生涯を送ることになる。
●=辛を横に二つ並べる


【ダン吉 南海に駆けた男】将口泰浩(6)板垣死すとも自由は
 小弁(こべん)が誕生した時、可造(かぞう)にはすでに長男の正教、長女の仲、次女の美代がいた。鳥羽伏見の戦いで兄が戦死したため、可造は横目付に昇格したが、それでも版籍奉還後は職がなく、生活は貧窮を極めていた。このころ、特権を失い路頭に迷った不平士族が煽動した反新政府運動が全国で頻発、物々しい雰囲気であった。
 高知でも明治四(一八七一)年、「膏(あぶら)取り一揆」が起きた。
 五台山に建設された吸江(ぎゅうこう)病院では外国人医師が治療に当たっていた。それがなぜか西洋人の滋養強壮のために日本人から膏を取っているというデマとなり、痛くもかゆくもないうちに笑いながら膏を取られ、青くなって死んでいくという。県庁を攻撃目標にし、竹槍や鍬を手にした農民千人が集結する騒ぎになった。
 攘夷攘夷に明け暮れていた幕末から御一新の世になったとたん、異人びいきに変わった新政府に庶民の感覚はついて行けなかったのだ。
 高知には元士族、農民ともに新政府に対する不平不満がたまり、自由民権運動の卸問屋になる素地は十分であった。
 明治五年、可造の就職が大坂裁判所に決まった。役職は解部(ときべ)で、現在の判事に当たる。大阪の土佐堀二丁目に居を構えた。
 さらに十一年には奈良裁判長に出世。小弁も中筋小学校に転校し、小学校に通う傍ら、「おまんは(※)わりことしいや」という理由で、厳格な教育で知られた佐々木漢学塾に通わされ、漢学の素養を身に付けた。順調であれば、中学校に進学し、官僚や軍人になっていたに違いない。しかし十三年十月、可造が急死。小弁は仁井田に舞い戻り、隠居していた祖父である保助の養子となった。祖父の資産を孫が受け継ぐ「嫡孫(ちゃくそん)制度」といわれる。
 小学校を終えると、藩主だった山内(やまのうち)家が軍人養成のために設立した九反田の海南私塾に入学する。学生の多くは陸軍士官学校や海軍兵学校への進学を目指していた。しかし、塾内には軍人とは正反対である自由民権運動に共鳴する雰囲気が濃厚に漂っていた。
 自由民権運動を常にリードしたのは土佐藩の上士出身の板垣退助である。明治六年、征韓論に敗れ、後藤象二郎らとともに下野。高知に戻り、「人民ハ国ノ本ナリ」とする政治結社「立志社」を創立。立志社は立志学舎という学校も設立した。海南私塾の学舎が明治十三年に廃校になった立志学舎の学舎を使用し、その卒業生がそのまま通っていたことも理由に挙げられる。
 小弁は仁井田から塾まで、五台山を抜け鏡川を渡る道のりを毎日、歩いた。佐々木漢学塾とは違うベンサムやミル、ギゾーなどの著書を教科書に使用した西洋思想の講義も新鮮で、片道二時間も苦にならなかった。
 明治十五年四月六日、自由党新聞の号外が高知の街に舞った。
 --板垣、死ストモ自由ハ死セズ


徳川将軍コーヒー:「18代」から、こだわりの味を継承
「徳川18代将軍」がこだわり続けたコーヒー焙煎(ばいせん)の世界から去った。徳川慶朝(よしとも)さん(60)=茨城県ひたちなか市=が追究してきたのは、曽祖父で最後の将軍、徳川慶喜公(1837~1913年)が日本で記録に残る限り最初に宴席でふるまったとされるコーヒーの味や香り。自ら再現した「徳川将軍コーヒー」は、同市を中心に展開するコーヒー専門店の専務ら若手に引き継ぐ。
 慶喜公は1867年の大政奉還が目前に迫った時期、大坂城に欧米の公使を招いて宴席でコーヒーを出したことが他の料理と共に幕末期の外交史料に残されている。しかし、豆の種類や輸入経路は分かっていない。そこで徳川さんは、当時の生産量の多さや交易ルートから豆はインドネシア・ジャワ島産、宴会にはフランス人コックを雇っていたことから味は苦めのフレンチロースト。燃料は炭やコークス……などと推測。江戸幕府成立400年の03年に世に出したのが、「徳川将軍コーヒー」だった。
 このコーヒーの商品化を持ち掛けたのは、「サザコーヒー」専務の鈴木太郎さん(41)だった。鈴木さんは「包装に葵(あおい)の御紋を付ければ売れる」程度の考えだったが、無類のコーヒー好きで写真家の徳川さんが「本物志向の商品開発をしよう」と逆提案、こだわりの味を生み出した。
 その後も、徳川さんは週1回程度、同市内の店に出向いて、小型の直火釜を使っては焙煎。コーヒー豆のはぜる音とタイミングを見計らい、自分の手で深煎りの味に仕上げることにこだわった。
 しかし、昨年12月25日で引退。これからは、趣味の海外旅行を存分に楽しむつもりだ。
 「自分の好きな味の商品を多くの人に買ってもらって良かった」 自ら煎った最後の豆を前に徳川さんは満足そうに8年間を振り返った。【山崎明子】






 明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いします。
 今年の5月で本宅が開設9周年となります。活動の中心をブログに移してしまったので本宅はなかなか新しいコンテンツを用意できてませんが、細々と続けていきたいです。

 では、去年の年末からの幕末ニュース、ぼつぼつ拾ってご紹介します。

北海道
土方歳三がきっかけ はこだて検定に小学生が初合格
 函館の歴史や文化など幅広い知識を問う「函館歴史文化観光検定」(通称・はこだて検定)の初級に、函館市立あさひ小学校6年の渡部響(わたべ・きょう)君(11)が、小学生で初めて合格した。幕末の箱館戦争で活躍した土方歳三への興味をきっかけに「はこだて検定」のテキストをボロボロになるほど愛読して臨んだ。3度目の挑戦で勝ち得た栄誉に「言葉に表せないほどうれしい」と喜んでいる。

 はこだて検定は函館への理解を深めてもらおうと、函館商工会議所が2007年から始めた。出題分野は歴史、建築、美術工芸、文化芸能、風習、方言、料理など各方面にわたる。

 初級と上級があり、初級(100点満点)は70点以上で合格する。今年は11月14日に試験が行われ、初級は384人が受検して合格者は115人。合格率は29.9%(前年23.7%)だった。

 これまでは第1回で合格した14歳の中学生が最年少で、渡部君は一気に3歳更新した。今回、小学生の受検は渡部君だけだった。

 渡部君が使ったテキストは4年ほど前、母親の容子さん(36)が第1回の検定に向けて自分用に買った。渡部君は「最初は土方のページを目当てに読んでいたけど、だんだん他のページも見るようになり、別のことにも詳しくなっていった」。学校にも持って行き、休み時間などにも読んでいた。表紙は破れかけていてボロボロだ。

 容子さんは「どんどん知識を吸収していって、街を一緒に歩いていると私の知らないことも説明してくれるようになった」と話す。検定挑戦を薦めたのも容子さんだ。

 一昨年、昨年と惜しくも合格点に届かなかったが、過去に出た問題を解くなどして勉強を重ね、今年の合格を勝ち取った。

 渡部君は「函館には異国の文化があって歴史もある。そこが好きです。中学生になったら上級に挑戦したい」と意気込んでいる。(中沢滋人)


福島
郡山の石材店、市に安積艮斎の石像贈る
 郡山市の山好佐藤石材店は、江戸時代後期から幕末にかけて活躍した同市出身の儒学者・安積艮斎(ごんさい)の石像を作り、市に寄贈した。
 市は市歴史資料館の1階案内室に石像を展示、市民に公開している。
 28日、贈呈式が行われ、佐藤達好社長が原正夫市長に目録を手渡した。
 艮斎は今年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」にも登場し、知名度がより高まった。
 佐藤社長は「郷土の偉人を子どもから大人まで広く市民に知ってもらいたい」との思いを込めて石像を作ったという。
 石像は台座部分を含めて高さ約80センチ、幅と奥行き約40センチ、重さ約120キロ。
 職人が熟練の技で1つの石から切り出し、約1カ月半をかけて完成させた。
 艮斎の門下生には岩崎弥太郎、吉田松陰、高杉晋作ら近代日本国家建設の功労者が多数いることで知られる。


神奈川
村上もとかさん 自身の企画展に
 「JIN―仁―」や「六三四の剣」などで知られる漫画家村上もとかさん(59)が23日、青春時代を過ごした大和市を訪れ、村上さんの原画などを展示している企画展会場「つる舞の里歴史資料館」を見学した=写真。
 村上さんは、モータースポーツの「燃えて走れ」で1972年にデビュー。山の世界の「岳人列伝」、昭和初期が舞台の長編大作「龍―RON―」などがある。現代の医師が幕末にタイムスリップする「JIN」は昨年、テレビドラマ化されて人気を集めた。企画展では原画やグッズの展示、仕事机を再現している。
 村上さんは、同市の小中学校、県立大和高校を卒業。「当時は何も無い所だったので、空想を膨らませていた。よく展示していただき、感動している」と話した。
 下鶴間ふるさと館では、江戸時代の建物に「JIN」の世界を再現し、台本などを展示している。両会場とも入館無料で、来年1月23日まで。



山梨
甲府市役所建設地で遺構発掘 
江戸期 勤番役宅の可能性 
明治期の県庁舎礎石も

 甲府市役所新庁舎建設に伴って市教委が進めている埋蔵文化財発掘調査で、江戸時代の甲府勤番役宅の可能性がある遺構や、明治時代に建てられた県庁舎の基礎となる「礎石」が見つかった。絵図や文献で現地に甲府勤番の役宅があったことは分かっていたが、これまで遺構の存在は明らかになっておらず、市教委はさらに調査を進め、何の遺構かを特定する。
 市役所建設地は江戸期の柳沢時代に武家屋敷があった。その後、甲府勤番支配の時代(江戸中期-幕末期)には甲府勤番が居住し、業務を行う役宅があった。明治時代に入ると、役宅だった建物は県庁舎として活用。1877年には、藤村式建築の西洋風の県庁舎が役宅の跡地に新たに建設された。
 県庁舎は1930年に、現在地に移転。跡地には甲府市役所が61年に建てられ、新庁舎建設に伴って今年、解体された。
 発掘調査は11月から来年3月までの予定で、敷地北側約1800平方メートルの範囲で実施。礎石を安定させるために敷く「根石」や栗石くりいし(小石)、地下排水路とみられる石列が見つかった。甲府勤番の役宅絵図では、出土地点には「栗石」と記された場所や来庁者の待機室とみられる部屋があり、役宅の遺構の可能性が高いという。
 また、南北に3石、東西に4石延びる礎石が見つかった。出土地点から、藤村式建築の県庁舎東側の柱を支えていた礎石と推察されている。
 市教委の伊藤正彦文化財主事は「役宅の遺構だとすれば、初めての発見となる。県庁舎ともども、山梨の統治拠点となっていた施設の遺構で価値がある」と話している。
 市教委は、1月16日午前10時半と午後1時半からの2回、現地説明会を開く。


大阪
龍馬の365日たどる暦 枚方の愛好家グループ作成 大阪
 「テレビドラマの影響で火がついた坂本龍馬ブームの勢いを新年以降も継続させたい」。そんな思いを強く抱いた龍馬愛好家でつくる「大阪龍馬会」(枚方市)が、龍馬の行動を1日単位で記したカレンダー「龍馬暦(ごよみ)」を作成した。
 同会は創立23年を迎える全国で3番目に結成された龍馬会。会員は150人。龍馬暦は10年ほど前に初めて作られ、今回が2作目。
 「慶応3年(1867年)1月12日 溝淵広之丞らの斡旋(あっせん)で長崎清風亭にて後藤象二郎と会見する」「慶応2年(1866年)1月23日 寺田屋事件 三吉慎蔵と寺田屋を脱出する」-など「坂本龍馬関係文書(もんじょ)」に基づいた龍馬の行動を1日単位で記載している。林慎吾・事務局長は「資料としての価値も十分にあります。幕末の歴史に興味を持つきっかけとなれば」と話している。
 3千部発行。1部1500円。送料500円。問い合わせは大阪龍馬会((電)072・853・9669)。


天誅組研究のバイブル 40年ぶり復刊
 幕末に討幕を目的に最初に武装蜂起した「天誅(てんちゅう)組」について、アマチュア歴史家の故・樋口三郎さんがまとめた著書「実記 天誅組始末」が約40年ぶりに復刊された。樋口さんの遺族とともに尽力した藤井寺市の郷土史家、草村克彦さん(54)は「天誅組研究にとってはバイブル。少しでも多くの人の目に触れれば」と話している。


約40年ぶりに復刊した「実記 天誅組始末」を手にする郷土史家の草村さん
 「天誅組」は文久3(1863)年、土佐脱藩浪士、吉村虎太郎らが討幕の先兵として結成した尊皇攘夷(じょうい)派の集団。幕府の天領だった奈良の五条代官所を襲撃し「御政府」を設立させた。しかし、政変で攘夷派が失脚したことで「暴徒」とされ、討伐された。

 樋口さん(1915~2001年)は人事院の職員などをしながら「天誅組」について調査。約10年にわたり吉野など現地を取材し、1973年に同書を出版した。研究家の間では基礎的な著作として知られていたが、絶版となっていた。

 復刊はことし2月、「天誅組」のイベントを開いていた草村さんの元を、樋口さんの遺族が訪れたことがきっかけ。版はすでになく、原本をコピーしたものから印刷していく手法を取り、9月に復刊にこぎ着けた。

 奈良県の歴史民族資料館などで販売を始めたが、初版の300部はすぐに完売。11月には増刷した。復刊後「天誅組」の子孫からも問い合わせがあったという。

 草村さんは「樋口さんの本は時系列にまとめられていてとても分かりやすい。天誅組については最近注目されるようになり、吉村虎太郎の故郷、高知では特別展なども予定されている。この本などをきっかけに盛り上がれば」と期待している。

 本は282ページ、1200円。購入、問い合わせは電話、ファクス0747(22)0450、「維新の魁(さきがけ)・天誅組」保存伝承・顕彰推進協議会へ。


和歌山
「小梅日記にみる紀州の幕末」、井上さんが冊子に
 和歌山市中之島の井上泰夫さん(80)がこのほど、 「 『小梅日記』 にみる紀州の幕末」 を冊子にまとめた。もともと歴史好きで幕末に興味がある井上さんは、 「日記からは一般庶民の感情や見方が分かるので面白い。歴史というのは一方的な見方だけではいかんと分かってきました」 と話している。
冊子は、1823年の紀州の百姓一揆から、大塩平八郎の乱、開国、安政の大獄、池田屋騒動、大政奉還、坂本龍馬暗殺そして1877年の西南戦争まで、日本の流れと紀州藩内事情を記述し、それらについて紀州藩校の校長の妻、川合小梅が日記に書いた部分を載せた。
「小梅日記を楽しむ会」の発足メンバーである井上さんは、「幕末はいろんな人生模様が表れた時代。人が生きていく道しるべに興味がある」と話す。作業を進める中で感じたのは、見方が違えば歴史は違ってくるということ。 「龍馬の船と紀州藩の船が衝突した事件は 『いろは丸事件』 と言われますが、紀州から見たら 『明光丸事件』 ですから」 と笑う。
小梅の初孫の死因について、知り合いの医師に貴重な意見をもらったともいい、「何かやることで人の輪がつながっていくのがうれしい」と笑みをこぼした。
一番興味があるのは、自宅近くに住んでいた人物で、藩政改革を行い明治新政府の廃藩置県と徴兵令に影響を与えた津田出。西郷隆盛に 「あなたは総理大臣になるべきだ。私はついていく」 と言わせた逸材だという。
井上さんは、 「小梅日記をもう少し深く掘り下げたい。それから津田出についての勉強を完成させたい。津田が藩政改革をした時の小梅日記が見つかってほしいですね」 と話している。
問い合わせは井上さん (TEL073・422・6953)。


兵庫
幕末の志士に思い 姫路で「維新祭り」
 幕末の姫路藩で起きた尊王攘夷(じょう・い)派に対する弾圧事件「甲子(かっ・し)の獄」で処刑された志士たちを追悼する「姫路幕末維新祭り」が命日の26日、姫路市塩町の大蔵前公園で開かれた。市内の歴史愛好家ら約30人が獄舎があったとされる同公園に建てられた「姫路藩勤王志士終焉(しゅう・えん)之地碑」の前で手を合わせ、志半ばで倒れた志士に思いを寄せた。
 甲子の獄は元治元(1864)年12月26日に起きた。多くの尊王攘夷派の藩士が捕らえられ、リーダーだった河合惣兵衛ら8人が処刑された。
 祭りは、市内の会社員や自営業者ら歴史愛好家約20人でつくる「姫路幕末ファンクラブ」が主催。メンバーは日本刀を腰に差し、陣羽織姿で参加して、志士たちの冥福を祈り、志士たちが詠んだ辞世の句を吟じたり、甲子の獄をわかりやすく解説した手作りの漫画などを大蔵前公園を訪れた市民らに配ったりしていた。
 同クラブ会長の不動産会社長、大谷充さん(63)=同市五軒邸2丁目=は、「今の日本は政治や景気が閉塞し、幕末と似ている。こんな時代だからこそ、国の将来を案じた志士たちの働きを顕彰することが必要」と話した。


勤王派の志士しのぶ 姫路で法要と講演会
 約150年前、幕末の姫路藩による、尊王攘夷派(勤王派)の藩士に対する弾圧事件「甲子の獄」が起きた26日、処刑された志士を追悼する法要や講演が姫路市内で催された。(大島光貴)
 姫路の歴史愛好家でつくる「姫路幕末・維新を語る会」準備会の主催。
 法要は勤王派リーダー河合惣兵衛、伝十郎親子をしのび、河合家の菩提寺、善導寺(坂田町)で営まれた。甲子の獄で、惣兵衛は自刃、伝十郎は斬首刑になっており、子孫や市民ら約30人が焼香し、手を合わせた。
 続いて市民会館(総社本町)で、播磨学研究所の藤原龍雄事務局長が甲子の獄後の姫路藩について講演。明治政府に降伏した国元に対し、江戸藩邸は最後まで徳川幕府に従ったことに触れ、「藩主酒井家は徳川家と先祖同士が異母兄弟。その出自が幕末の動きまでつながっている」とした。
 甲子の獄で自刃させられた萩原虎六の子孫、雅さん(53)=五軒邸=も参加。「先祖ら幕末の志士たちに思いをはせた」と話していた。
 大蔵前公園(塩町)でも「姫路幕末維新祭り」があり、多くの人でにぎわった。




高知
一の巻 中岡慎太郎――ユズ栽培
原点は民の救済にあり

 幕末の志士、中岡慎太郎は、土佐で最初にユズ栽培を勧め、ユズの村・北川の礎を築いたとされる。

 村民を救ったという逸話に事欠かない。安政4年(1857年)、19歳の慎太郎は、北川郷の大庄屋見習いとなった。今で言えば北川村長代理。まもなく飢饉(ききん)が襲った。慎太郎は村民にサツマイモを買い与えたが足りず、藩の貯蔵庫を開けて米を出すよう直訴するため、高知城下の家老・桐間蔵人(くらんど)宅へ出向いた。

 もう夕刻のことで、桐間家の取次(とりつぎ)役は「明日まで待て」ととりつごうとしません。慎太郎は一日を争う村民の難儀だと主張して門前を去らず、夜を明かしました。蔵人は早朝、邸内を一巡して来ますと、門前に見知らぬ青年が姿勢を正してすわっています。必死の陳情を聞いた蔵人はその場で、官倉を開くことを許可したそうです。(前田年雄著「中岡慎太郎読本」、一部中略)

 かつて郷土史家が村民から聞いた話だ。実直さと行動力がうかがえる。土佐勤王党への加盟は4年後、坂本龍馬らと国事に奔走し、薩長同盟を成し遂げたのは9年後。志士としての原点は、民の救済に意を砕いたこの頃にあった。



 昨年12月上旬の村は、収穫が終わったばかり。陽光の下、搾りたてのユズの芳香に満ちていた。復元された慎太郎の生家(北川村柏木)周辺では、種から育った実生(みしょう)のユズの木数十本が、実をぶら下げていた。幕末頃の古木もある。

 村の山林面積は95%。貧しかったが、慎太郎は田畑の開墾を奨励し、優良な作物品種を無償で配った。ユズを勧めたのは、高価な塩に代え、魚にかけたり酢飯を作ったりできるからだという。生家に近い中岡慎太郎館の豊田満広学芸員(38)は「家の周りから植え、村民に見本を示したのではないか。『民なくして国はない』と言った慎太郎の愛情が感じられる」と話す。

 今や県のユズ生産量は全国の半分。その中で村の生産面積は県内の7分の1を占め、村の農家の9割がユズを栽培する。1970年代、転作のために山間で本格化した。

 家族への愛情から生まれたユズの物語もある。

 今や定番となったユズジュースは1978年、有機栽培にこだわる池田鉛平(しょうへい)さん(67)(同村柏木)の妻本子さん(67)が初めて考案した。ユズの木にはとげがあり、収穫は見かけ以上につらい。傷付いた鉛平さんの手が膿(う)むのを見てきた本子さんは「手塩にかけた作物。色や形が悪い実でも捨てずに、多くの人に味わってほしい」と思い立ち、砂糖と湯で試作した。

 当時のユズは、あくまで調味料。「気持ち悪い」という声もあったが、自信があった本子さんは高知大丸(高知市)で販売。さわやかな風味が受け、関西の物産展でも評判で、たちまちヒットした。「池田柚華園(ゆうがえん)」のブランドで生産を本格化。5年後には鉛平さんが村役場を辞め、家族総出で手伝った。果汁1斗(約18リットル)を搾るのに一家で徹夜も珍しくなかったが、本子さんは「家族が協力するのは楽しくて、苦労は感じなかった」と笑顔で振り返る。

 同園の加工品は今、ドレッシングやゼリーなど7種類。「村の恵みが全国に届くようになった。慎太郎の思いが何代も後で花開いた」。本子さんは感慨を深める。



 「先祖が飢え死にしていたら、私は生まれなかった」。慎太郎の顕彰会3代目会長の大工、大西学さん(60)(同村加茂)は、慎太郎が飢饉から救った和田地区出身。「偉業を全国に発信し、ご恩に報いたい」とかみしめる。会員は全国に183人。遺髪が埋葬された松林寺で命日の毎年11月17日に墓前祭を営み、観光ガイドも務める。99年、生家に近い高台に銅像を建てた。

 顕彰会理事でJA土佐あき柚子(ゆず)部北川支部長の和田拓司さん(64)は昨年11月、村立北川小学校で、ユズ栽培の歴史について初めて授業をした。「慎太郎先生には時代の先を読む知恵があった。先生の古里への思いを、子どもたちが受け継いでほしい」



 「桃栗三年柿八年、柚子の大馬鹿(おおばか)十八年」。成長の遅いユズを評したことわざだ。百年先の村人の暮らしを案じた慎太郎の優しさは、今も木々とともに根付く。(森本健裕)

中岡慎太郎

(なかおか・しんたろう)

 1838~67年。北川郷柏木の大庄屋の長男として生まれる。55年、藩校の田野学館で武市半平太と出会い、剣術を学ぶ。61年、土佐勤王党血盟文に署名し、当時の中央政界・京都で情報収集にあたった。党が弾圧を受けた63年に脱藩し、倒幕のために薩摩と長州を和解させようと坂本龍馬と奔走し、66年に薩長同盟を実現させた。翌年、京都・近江屋で龍馬とともに暗殺される。

 龍馬、慎太郎、武市半平太……。幕末史に名を刻む志士たちが、土佐勤王党を結成して今年で150年となる。彼らは、時に過激な行動で知られる一方、地域を思うリーダーとして東奔西走し、世の改革に努めた。各地に刻まれた彼らの〈遺産〉は、産業、文化、まちおこし、といった場面で、微(かす)かだが、確かに受け継がれている。ゆかりの地を訪ねた。

(2011年1月1日 読売新聞)



熊本
時代行列祭り計画 甲冑武者ら新幹線~熊本城へ
 3月12日の九州新幹線鹿児島ルート全線開業に合わせ、県内経営者や市民らの有志グループが熊本市中心部で、甲冑[かっちゅう]武者などにふんした千人規模の「時代行列」祭りを計画していることが31日、分かった。旅行客らが乗降する熊本駅や、観光地として知名度が高い熊本城の界わいをパレード形式で練り歩く。城下町一帯の魅力アップと、全線開業後の地域づくりにつなげるのが狙い。来年以降の定期開催も検討している。

 計画では、鹿児島ルート全線開業から1週間後の3月19日に開催。パレードは戦国期から近現代までを想定し、戦国期では加藤清正や細川幽斎ら武将、幕末や近代では思想家・横井小楠ら県ゆかりの偉人にふんする。コースは熊本駅を出発点とし、熊本城を目指す。

 甲冑や人力車など時代風俗の道具を用い、コース途中では伝統芸能の愛好家らに和装姿で唄や踊りなどを披露してもらう考え。

 地場企業を軸に検討しており、1月中に企業や県、熊本市、地域住民などで実行委員会を発足させる。詳しいルート設定や祭りの内容は、県警や道路管理者などの関係機関と協議して詰める。

 企業や行政などと開催に向け調整を進めている県新幹線元年委員会の石原靖也委員長(東光石油会長)は「熊本城築城400年の歴史と、城下町の雰囲気を体感してもらうとともに、県民参加型にして、春恒例の祭りに定着させたい」と話している。(中原功一朗)


コラム
【龍馬を慕(おも)う】最終回 京都・霊山 「非命の魂」やさしく包む
 
京都の市街地が一望に見わたせた。薄青い空の下で、「八坂の塔」がすぐ真下に見える。遠く東本願寺の甍(いらか)や京都タワーがかすんでいた。
 振り向くと、小さな鳥居の下に、坂本龍馬と中岡慎太郎の墓がならんで立っている。手前には、四季の花々がうずたかく供えられていた。
 2つの墓に寄りそうように、左手にあるやや小さめの墓は、2人とともに殺された近江屋下僕の藤吉をまつったものだ。
 ●千柱超す志士まつる
 東山の山腹にある霊山(りょうぜん)護国神社には、茶褐色に朽ちた墓の群れが、はいあがるようにびっしりと建てられている。そんな墓ばかりを見てのぼってきたので、供えられた花々の赤や黄が目に染みた。
 平日の午後だというのに、参拝客が境内の入り口から列をなして、石段を上ってきた。途中で、土佐の吉村寅太郎ら天誅組(てんちゅうぐみ)事件で憤死した志士たちの墓も参拝したが、訪れる人もいなかった。
 幕末維新の志士だけでも、1356柱がまつられているという。龍馬のような横死(おうし)者だけでなく、刑死した志士や自害した志士たちもふくまれている。
 かれらの死は、維新激動の「歴史」という大いなる物語のなかに、やさしくつつまれているようにも思えた。維新以降も、その死が「歴史」となった非命の死者はおびただしく出た。
 だが三島由紀夫の晩年の口吻(こうふん)をかりれば、ここに眠る志士たちが飢(かつ)えたように尊仰した「日本」という国は、すでになくなってしまったのかもしれない。
 慶応3(1867)年11月15日に死んだ龍馬と、その2日後に死んだ慎太郎の葬式が、いつ営まれたかについては2つの説がある。17日夜8時説と、18日午後2時説である。
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 2人の遭難を知った海援隊と陸援隊の志士が中心となり、在京の土佐、薩摩両藩の藩士がつきそった。志士たちは周囲を警戒し、拳銃まで持って、そろそろと霊山に向かった。襲撃犯は新選組と信じられていたから、葬送中の再襲撃をおそれていたのである。
 犯人が新選組ではなく、佐々木唯三郎がひきいる京都見廻組(みまわりぐみ)の武士7人であることが判明したのは、明治3(1870)年になってからである。函館・五稜郭(ごりょうかく)落城のさい、捕縛された元見廻組員で、襲撃にも加わった旗本の息子、今井信郎(のぶお)が証言したからである。
 見廻組は浪人や農民出身の新選組とは異なり、京都守護職に任じられた会津藩の指揮のもとに、旗本の子弟たちで組織されていた。信郎は7人による襲撃を認め、「土州坂本龍馬、不当の筋」があったため、捕縛を命じられたと供述した。問題はこれに続く、次の証言である。
 「万一、手に余り候(そうら)へば討取り候様(よう)、御差図(おさしず)これあるにつき--」
 捕縛などではなく、最初から「殺してしまえ」という「御差図」だったのである。では「御差図」したのは、だれか。今井は「承知仕(つかまつ)らず」と供述したが、常識的にいえば会津藩の上層部が「御差図」したはずである。
 問題はもうひとつある。海援隊や陸援隊員をのぞくと、土佐や薩摩の一部の藩士しか知らなかった龍馬らの居場所を、どうして知ったのか、である。
 龍馬は大政奉還による無血革命を目指していた。武力倒幕に向け、着々と準備を進めていた薩長にとって、すでに目の上のタンコブのような存在になっていた。
 「いろは丸」事件で、莫大(ばくだい)な賠償金を請求された紀州藩にも恨まれていた。
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 当の土佐藩の郷士の一部からも、武市半平太を切腹させた参政、後藤象二郎と急接近したことに対する不満の声もくすぶっていた。
 いったいだれが、会津側にタレこんだのか。諸説あるが、裏づけるものはなにもない。
 ●昭憲皇太后の夢枕に
 龍馬の墓の横手に、大きな石碑が立っている。「贈正四位坂本龍馬君忠魂碑」というタイトルは判読できたが、刻まれた文字がかすんでいるため、とても読み取れない。
 明治37(1904)年2月、日露戦争が勃発した。「時事新報」はこの月、皇后(昭憲(しょうけん)皇太后)が葉山御用邸に滞在中、奇妙な夢を見た、と報じた。白無垢(しろむく)姿の武士が夢に出て、こう語ったという。
 「臣は維新前、国事の為に身を致したる坂本龍馬と申す者にて候。海軍の事は当時より熱心に心掛けたる所に候へば……」
 日本海軍は龍馬が育てたから、ロシアなどには負けない、と夢告したわけである。龍馬を知らない皇后は、側近が取りよせた龍馬の写真を見たところ、「この写真に寸分違ひなしと仰せられた」という。
 大きな石碑は、この「瑞夢」をもとに、刻まれた。このときの宮内大臣は土佐勤王党出身で、龍馬とも顔見知りの田中光顕(みつあき)である。ちょっとできすぎた逸話である。
 事実なら、龍馬は幕府だけでなく、バルチック艦隊も壊滅させたのである。(おわり)
 (文・福嶋敏雄)



エンターテインメント
全国で85万人突破 映画「武士の家計簿」
 加賀藩に実在した御(ご)算用者(さんようもの)(経理担当の武士)の奮闘を描く映 画「武士の家計簿」(北國新聞社、アスミック・エース、松竹製作)の観客動員数が25 日、全国で85万人を超えた。石川県内の上映6館の合計は6万人を突破。根強い人気に 地元の映画館関係者は「家族愛をテーマとした作品であり、家族客が増える年末年始の動 員が楽しみ」と期待を寄せている。
 堺雅人さんが主演、仲間由紀恵さんがヒロインを務める映画は、御算用者として、代々 加賀藩の財政に携わってきた猪山家3代の物語。幕末から明治にかけて激動の時代を前向 きに生きる下級武士とその家族の日常を描く。11月27日に県内先行上映が始まり、4 日から全国公開された。

 冬休みが始まった25日、シネマサンシャインかほく(かほく市)では、荒天にもかか わらず家族連れの来場が相次ぎ、そろばんでつながる家族の絆や、ほほ笑ましいコメディ に見入っていた。

 県内ではほかに、ユナイテッド・シネマ金沢、ワーナー・マイカル・シネマズ金沢、イ オンシネマ金沢フォーラス、金沢コロナシネマワールド、ワーナー・マイカル・シネマズ 御経塚で上映している。









 寒波襲来でめっきり寒くなりました。酷暑の後は寒波が来るという知人の話、当たってます。
 なかなか幕末ニュースをカバーできていないこの頃、少し拾い読みです。

北海道
「はこだて写真帳」発刊 函館の歴史 230枚の写真で紹介
【函館】北海道新聞社は、函館の歴史を写真でたどる連載企画を一冊の本にまとめた「はこだて写真帳」を発刊した。

 企画は2009年4月から10年11月まで、函館支社の地域情報版「みなみ風」に連載され、「箱館から函館へ」「海峡と鉄路」「昭和の街」など全5章。写真帳は連載に、新たな写真と資料を加えて再構成した。

 開拓使函館支庁があった基坂(もといざか)から函館港を望んだ風景=1879年(明治12年)=や函館大火=1934年(昭和9年)=、洞爺丸台風(1954年)など、幕末14件、明治、大正、昭和のセピア色の写真約230枚を掲載している。

 B5判、159ページ、1575円。問い合わせは北海道新聞出版局営業グループ(電)011・210・5744へ。



東京
幕末・明治の名医、日記は貴重な史料 千住の神社で公開
 幕末から明治にかけて現在の足立区などで活動した医師で、幕府医学館にも勤めていた佐藤元萇(げんちょう=1818~1897年)の20年分の日記が見つかり、同区千住仲町の千住氷川神社で公開された。当時の医療の様子に加え、元萇の出身である会津藩や徳川幕府の要人との関わりも記載されており、歴史研究者は医学史などの貴重な資料になるのでは、と期待する。

 日記は嘉永4(1851)年~明治4(1871)年の20年分で、全部で8冊。縦約8センチ、横約16センチの和紙に漢文で書かれている。

 日記では、元萇が千住や会津で種痘法を広めるのに尽力したことが書かれている。松戸や取手など北関東へ往診に行く様子も出てくる。馬で利根川の岸まで行き、舟で川を渡っていた。

 55年には千住に「藁園(わらえん)」という医院兼医塾が開設された。元萇が院長として診療にあたり、若い医師の教育もしていた。

 戊辰戦争中は茨城県の弥柳(いよやなぎ=現つくばみらい市)に1年ほど身を潜めたが、その後は再び千住に移り、1週間かけて南千住で解剖を行うなど医療活動を続けていた。

 日記は2009年4月、元萇のひ孫で静岡県に住む佐藤友哉さん(81)の家で見つかった。千住の歴史を研究している「安藤昌益と千住宿の関係を調べる会」事務局長の矢内信悟さん(61)が発見し、調べる会や足立区立郷土博物館などの10人が今年8月から解読を続けている。

 矢内さんは「元萇は会津藩主の松平容保や15代将軍の徳川慶喜ら当時の要人と会い、密接に関わっていたとみられる。医学史だけでなく政治史の研究にも役立ちそうだ」と話す。いずれは日記の内容を本にまとめる予定という。


江戸で種痘千住が先行か 安藤昌益の謎解明にも期待
 千住ゆかりの幕末の医師、佐藤元萇(げんちょう)(一八一八~九七)の日記の解読を、足立区・千住地域の市民グループが始めた。診療の様子や文化人らとの交流のほか、天然痘の予防接種・種痘を、いち早く元萇が千住で広めていたことをうかがわせる記述もあり、メンバーは「幕末から明治の、空白の医学史などが解明されるのでは」と話している。 (丹治早智子)
 このグループは「安藤昌益と千住宿の関係を調べる会」。事務局長の矢内信悟さん(64)が昨年四月、日記を保管していた元萇のひ孫、佐藤友哉さん(81)=静岡県在住=宅に出向いて日記の解読を申し出て実現した。今年八月から二年間の予定で、同会と区立郷土博物館学芸員の多田文夫さん、昌益研究者らによる作業班が解読作業を進めている。
 日記は漢文でつづられ、全八冊。一八五一(嘉永四)年二月~七一(明治四)年十一月のほぼ二十年間分。
 矢内さんによると日記には、一八六八(慶応四)年の「上野戦争」の様子、明治期に千住のはずれの処刑場「小塚原」(現・荒川区南千住)で一週間にわたり「腑(ふ)分け」(解剖)を行ったことなどが記録されている。
 同会が注目するのが種痘に関する記述。天然痘の予防・治療機関「種痘所」が日本で初めて長崎にできたのは一八四九(嘉永二)年だが、日記には翌々年の五一年二月、元萇が千住で、牛痘による種痘を村人に施したことを示す記述がある。
 江戸で種痘が普及したのは五八(安政五)年「お玉ケ池種痘所」(東大医学部の前身)ができてからとされ、これより七年早く、元萇は千住で種痘を広めていたことになる。
 矢内さんは「幕末から明治の激動期を、幕府医官の冷静な目で記録した一級の史料。日本医学史の種痘の稿を書き直す材料を提供できるかもしれない」と期待する。
 同会は、江戸中期の医師で思想家、安藤昌益(一七〇三~六二)の主著「自然真営道」の草稿が千住で発見されたことから、昌益と千住とのかかわりを調査するため二〇〇四年に結成された。
 元萇の嘉永年間の日記には、当時、昌益の書籍を書き写していたとの説がある千住の医師・橋本玄益を、元萇が足しげく訪ねた記述がみられる。同会会長の相川謹之助さん(74)は「元萇の日記を読み解くことで、昌益の謎も解明できるのでは」と期待を寄せる。
 日記は所有者に返され、公開予定はない。解読後、成果をまとめた冊子を発刊予定。問い合わせは同会=電03(3887)8021、矢内さん=へ。


神奈川
掘り出しニュース:村上もとかさんが漫画人生を語る--大和・歴史資料館
【神奈川】「漫画家・村上もとかの世界」-村上作品の魅力を探る-を開催中の大和市つみき野の市つる舞の里歴史資料館に23日、村上もとかさん(59)が来館し、大勢のファンに囲まれながら、デビュー当時からの作品など約80点を振り返った。

 村上さんは現代から幕末にタイムスリップした医師の物語「JIN-仁-」(集英社)のほか、「龍-RON-」(小学館)や「六三四の剣」(同)などドラマやアニメとしてテレビ放映された作品で知られる。

 現在、都内に住む村上さんは6歳から20代半ばまで市内に在住、県立大和高校に通っていた。

 同校は同館のそばにあり、約40年ぶりに母校近くを訪れたという村上さんは「漫画家になったきっかけは高校の同級生や後輩に漫画のうまい人がいて、その出会いがあったから。漫画家人生に(大和市での暮らしが)大きく影響している」と述べた。

 デビュー当時の作品には「いま見ると、勢いがあったようだ」と懐かしみ「ふるさとが僕のことを忘れていなかったことが、うれしい」と喜んだ。

 来年1月23日まで。問い合わせは同館(046・278・3633)。【長真一、写真も】

京都
駆け抜けた龍馬ブーム 
にぎわい持続 知恵絞ろう

 大政奉還を成し遂げた幕末の志士・坂本龍馬に沸いた1年が過ぎようとしている。生誕地の高知にも負けないほど、多くのゆかりの地がある京都では、訪れた観光客が周辺の商店街を潤すなど、経済効果も上がった。だが、今月に入り、ブームは衰えを見せつつある。来年以降も観光客をつなぎ留め、一過性に終わらせないためには何が必要なのか。(横田加奈)

 12月中旬、龍馬などを紹介する「幕末維新ミュージアム 霊山歴史館」(東山区)。学芸員の木村武仁さんは、人影がまばらな館内を見渡し、「1か月ほど前までは身動きが取れないくらいだったんですよ」。

 NHK大河ドラマ「龍馬伝」の終了後、来場者数は減少傾向に転じてはいるが、龍馬ブームの効果は絶大だった。来場者数は先月末までに、昨年1年間の4倍近い30万人に達し、同「新選組!」が放映された2004年の21万人を大きく上回る過去最多を記録した。

 同歴史館の東隣にあり、龍馬の墓がある京都霊山護国神社。11月15日の命日祭に訪れるファンらは、以前は多くても1000人ほどだったが、ブームが起こり始めた昨年は約3000人に増加。今年も昨年と同じ約3000人だったが、昨年が日曜日で、今年が平日だったことからみれば、龍馬人気がこの1年で、尻上がりに高まったことがうかがえる。

 命日に合わせては、同神社などで、大学生らが2年前から「龍馬よさこい」というイベントを開催しており、木村隆比古宮司は「龍馬に興味を持つ若い参拝者が増え、イベントの盛り上がりに貢献できたのでは」と相乗効果を振り返る。

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 「龍馬人気も来春が限界だろう。商店街全体で誘致策を考えなければいけない」

 龍馬襲撃で知られる寺田屋に近い竜馬通り商店街(伏見区)にある土産店「龍馬館」では今年、関連グッズの種類を2倍に増やし、売り上げは昨年の3倍に上ったが、南条良夫館長は、表情を引き締める。

 行政も同じ課題を抱える。京都市は昨年6月から、ツアーに組み込んでもらうよう龍馬関連の観光地を紹介する写真データを旅行会社に配ったり、同10月には、ゆかりの地79か所を写真と説明文で紹介し、ウオーキングコースを掲載した散策マップ30万部を作成したりするなど精力的に観光客誘致に取り組んできた。

 市観光振興課は「普段は行く機会の少ない場所も訪れてもらい、観光の幅は広がった」とし、龍馬の後は、来年スタートのNHK大河ドラマ「江(ごう)~姫たちの戦国~」や再来年の同「平清盛」にちなんだ事業を検討。ただ、龍馬に比べ、ゆかりの地が圧倒的に少ない点がネックという。

 京都嵯峨芸術大の桑田政美教授(観光学)は「龍馬の魅力に触れながら、京都固有の景観や街並みも楽しめるよう、地域や行政の関係者が協力して集客を図る必要がある」と指摘する。

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 龍馬ブームを背景に生まれたものもある。京都大などが来年1月に実施を予定している、その名も「RYOMAベンチャー検定」。龍馬に関する知識を問うのではなく、日本初の商社「亀山社中」を興した龍馬にちなみ、起業家精神を育んでもらうのが目的だ。

 新しいことに果敢に挑む――。今年の龍馬ブームは昨年夏の政権交代と無縁ではないだろう。歴史的エポックという共通点だけでなく、政権奪取後の民主党の迷走、日常生活の閉塞感がまた、龍馬という人物像や精神への期待となって表れたのかもしれない。折しも生まれた観光面のにぎわいを継続させるためにも、関係者それぞれが<龍馬>となり、新たな取り組みに向けた努力が求められる。


兵庫
激動 幕末の姫路紹介
勤王の志士弾圧「甲子の獄」 26日、市内で祭りや講演

 幕末の姫路藩で起きた尊王攘夷(じょうい)派の弾圧事件「甲子(かっし)の獄」を伝え、処刑された勤王の志士らをしのぶ催しが、志士らの命日にあたる26日に姫路市内で開かれる。歴史ファンらが勤王派のリーダーだった河合惣兵衛らの法要や記念講演を行うほか、今回は3年ぶりに大規模な祭りを企画した。主催者の一人で姫路独協大播磨学研究所の藤原龍雄事務局長は「幕末の研究は道半ば。城下町の人間ドラマを多くの人に知ってほしい」と話している。

 姫路藩主の酒井家は、徳川家とのつながりが深く、佐幕派が占めていた。八代藩主・忠績(ただしげ)が京都所司代代理となったことから、警護のために京に滞在した姫路藩の志士たちが尊皇攘夷の考えに影響を受け、佐幕派の忠績に対し、志士が反発を強めたとされる。

 河合惣兵衛の息子・伝十郎や江坂栄次郎が脱藩。脱藩の経緯を調べる中で、京で佐幕派の商人らを暗殺した志士がいることが分かり、危機感を募らせた藩主が1864年12月26日に志士らを処刑した。

 市内には、惣兵衛を祭る善導寺(坂田町)のほか、大蔵前公園(塩町)には「姫路藩勤王志士終焉之地碑」と記された石碑が残り、河合家の子孫が2004年に伝十郎を惣兵衛と同じ寺に祭ったことをきっかけに法要を毎年開催。今年も26日午後1時から行う。

 また、姫路幕末ファンクラブ(大谷充会長)が午前10時30分から、大蔵前公園で「姫路幕末維新祭り」を行い、石碑への献花のほか、坂本龍馬や新撰組などにふんするコスプレパフォーマンスや、甲子の獄をテーマにした漫画の冊子50部を無料配布する。

 総社本町の市民会館で午後2時から、藤原事務局長が「酒井家の出自と姫路藩の誇り 勤王派と佐幕派の忠義」と題して講演する。

 藤原事務局長は「悲劇に終わるが、新しい時代を切り開こうと理想に燃えた人が姫路にいたことを知ってほしい」と話している。

 祭りの問い合わせは同ファンクラブ(079・223・5555)。法要や講演の問い合わせは播磨学研究所(079・223・2301)へ。


山口
「小松陰」と師、絵馬に登場/萩
 幕末の思想家、吉田松陰をまつる萩市椿東の松陰神社に24日、来年のえとのうさぎに、松陰と卯年(うどし)生まれの松下村塾生、品川弥二郎を描いた特大絵馬(縦2・55メートル、横3・64メートル)が登場した=写真。
  品川は1843(天保14)年生まれ。15歳で松下村塾に入った。苦学して俊才といわれるまでになり、後に小松陰と称された。明治政府で内務大臣を務め、産業組合設立に大きな功績を残した。
  上田俊成宮司は「うさぎは愛くるしいだけでなく、生命力が強いとされる。それにあやかって来年はみな元気に飛躍する1年であってほしい」と話した。
(井口勝夫)


高知
龍馬ブーム 観光客に新資料 続々
 観光客数はざっと昨年の1・3倍。施設によっては3、4倍。今年の県内は〈坂本龍馬ブーム〉に沸いた。

 3月頃から、NHK大河ドラマ「龍馬伝」の終わった11月まで、特に県外からの団体客が急増した。龍馬の生家跡や武市半平太の道場跡、高知城など、高知市街の幕末の史跡を案内する土佐観光ガイドボランティア協会の「土佐っ歩(ぽ)」は、すっかり人気ツアーとして定着。通常の3、4人のガイドでは手が足りず、応援をやりくりし、連日10人前後が出ることもあった。

 「大忙し。次々と団体客が訪れ、時間を気にしながら案内した。ドラマを見て疑問に思ったことを聞く人が多くて、トークも鍛えられた」。ガイドを務める浜田英子さん(69)は充実した表情で笑う。

 土佐っ歩の利用者は、始まった2009年10月は月377人だったが、今年1月以降は平均約1300人と激増。ピークの5月は2508人だった。

 1月、土佐・龍馬であい博が開幕し、県内4会場には目標を20万人も上回る85万人がこれまでに訪れた。4会場以外の観光施設56か所でも、県観光政策課によると、入場者数は09年同期比1・3倍の315万人(11月末現在)。中でも龍馬関連施設は群を抜き、県立坂本龍馬記念館(高知市)には同2・82倍の46万人、北川村の中岡慎太郎館は同4・25倍の2万6700人が押し寄せた。

 宿泊施設や飲食業など観光産業も活況を呈した。日銀高知支店の今年4月の試算では、経済効果は409億円。09年10月は234億円としていたが、大幅に上方修正した。



 龍馬へ関心が高まるとともに、新資料の発見が相次いだ。今年6月、いの町の男性が県立坂本龍馬記念館に持ち込んだ資料は、龍馬が大政奉還を訴える直筆の手紙草案だった。土佐藩重臣の後藤象二郎へ宛てた手紙そのものは残っておらず、「龍馬が時代を動かした瞬間を記録した」とも言える一級資料だった。

 7月には京都市で龍馬の現存最古とみられる手紙が見つかった。遠く岩手県でも手紙を発見。龍馬の資料は「出尽くした」とさえ言われていただけに、各地へ確認に走った同館の三浦夏樹学芸員(38)は「鑑定の依頼が急増し、結果的に歴史が掘り起こされた」と振り返る。龍馬が使ったとされるのと同型の拳銃も館に寄贈され、そうした新資料は展示の目玉となっている。



 「龍馬伝」終了で、高知観光そのものが「ブーム」に終わるとの危機感はある。日銀高知支店は「06年の大河ドラマ後も観光客が減っており、来年は減るだろう」と指摘する。

 すでに、先を見据えた取り組みはある。高知市のホテル城西館は「龍馬だけにとどまらない魅力を売り出す」と、早朝の市中央卸売市場を見学して鮮魚の味を楽しむツアーなどを企画し、好評を得ている。また、土佐っ歩は、12月に入っても好調で、高知市観光振興課は「予想以上の人気。来年も観光の目玉として続けたい」と話す。

 県は11年3月から後継イベント「志国高知龍馬ふるさと博」を開き、集客を図る。ただ、施設の整備だけで「二匹目のドジョウ」を狙うのは難しい。

 11年は、武市半平太が率いた土佐勤王党が結成されて150年の節目の年。県内各地にその歴史の息吹が残っているだけに、箱物だけに頼らず、次につなげる魅力を発掘することが鍵を握りそうだ。(大舘司)


鹿児島
篤姫像が鹿児島にお目見え、観光効果に期待
 激動の幕末期を生き抜き、江戸城無血開城などに尽力した天璋院
てんしょういん
篤姫の銅像が19日、鹿児島市の県歴史資料センター黎明
れいめい
館前庭にお目見えした。完成除幕式には徳川家、島津家、近衛家の当主や、篤姫ファンら約400人が出席した。

 篤姫は薩摩藩・島津家の分家に生まれ、近衛家の養女となって、第13代将軍・徳川家定の正室となった。その生涯を描いたNHK大河ドラマ「篤姫」が2008年に放送された。

 式では森博幸・鹿児島市長が「九州新幹線の全線開通を控え、銅像のお姿で故郷に帰ってこられた。観光の魅力アップにつながると期待している」とあいさつ。大河ドラマの音楽を担当した同市出身の作曲家・吉俣良さん(51)と地元の中高生がテーマ曲を演奏し、花を添えた。

 銅像は高さ約3・1メートル(像約1・8メートル、台座約1・3メートル)。ドラマの放送に合わせて設置されていた「篤姫館」の収益から約4000万円を支出。明治初期の篤姫の写真をもとに、文化勲章受章者で市在住の彫刻家・中村晋也さん(84)が制作した。

 制作にあたり、篤姫が眠る東京・上野の寛永寺で墓参りをしたという中村さんは「激動の時代をたくましく生きた薩摩おごじょのりんとした生き様を感じ取っていただきたい。ご本人は鹿児島へ帰ることはなかったが、本当は帰ってきたかったと思う。鹿児島で多くの人に迎えてもらってよかった」と笑顔で語った。

 霧島市隼人町神宮、主婦野間祥子さん(50)は「大河ドラマで篤姫が好きになり見に来た。銅像はきりっとしていて写真の雰囲気よりもいいと思う」と話していた。



コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(93)東大教授・山内昌之 伊藤博文(中)
■立憲カリスマの本領
◆漸進主義の立憲政治論
 「制度の政治家」といわれる伊藤博文を特徴づけるのは、漸進(ぜんしん)主義の立憲政治論ではないだろうか。この点は、英国流の議院内閣制を主張した大隈重信を明治14(1881)年の政変で政府から追放した翌年に、「憲法取調」の名目で出かけウィーン大学のローレンツ・フォン・シュタイン教授に学んだ後に明白な姿を現すことになる。
 伊藤は学者でなかった以上、憲法の条文に書かれる具体的な文章でなく、立憲国家の全体像と憲法施行後の国家運営の指針に大きな関心を払ったのは当然であろう。その中心に位置したのは、いかに議会と政府が共同して円滑に政治を運営していけるかという点であり、憲政(議会制)は行政の行為なくして無内容に終わり、行政も憲政なくしては無力だというシュタインの考えであった。
 内閣制度の導入や行政機構の改革は、それを担う官僚を育てる大学を必要とする。こうして伊藤は、帝国大学(東京大学)を国家の行政を担うエリート官僚の養魚池として位置づけたのだ。新たな国制に見合った新たな知の制度化を図った伊藤を「知の政治家」と呼んだのは法制史家の瀧井一博氏である(『伊藤博文』中公新書)。
◆脅威は慶應義塾出身者
 知と制度に立脚する伊藤にとっての脅威は、慶應義塾で学び大隈の斡旋(あっせん)で政府に奉職した若き知識人たちであった。そこには、犬養毅(つよし)や中上川(なかみがわ)彦次郎や尾崎行雄といった後年名を挙げる錚々(そうそう)たる若者が入っていた。しかし、かれらはともすれば急進的な自然法を信奉する抽象の議論に終始するきらいがあり、伊藤は明治新国家の安定をかれらに託することに不安を感じたのである。
 大隈の懐刀といわれた小野梓などは、新たにつくられた東京専門学校(早稲田大学)で公然と政府批判を強める。大隈や小野は私立学校で在野精神をもつ政治的人材を育成し、それを政党にリクルートすることを狙った。小野の講義は、まるで政治演説まがいであり、学生に学問の原理を教えるのをそっちのけに自ら信じる弁論にふけったというから壮観だったに違いない。私に限らず、その熱弁を実際に聞いてみたかった人も多いだろう。全校生徒200人はすべて「年少気鋭の政治家」になったと『早稲田大学百年史』は巧(うま)いことを述べている。
 ◆大学は堅固な政体の基礎
 伊藤は、大隈や小野のような「政談的知識人」を嫌い、「科学的知識人」の育成を目指した。かといって伊藤は、有能な官僚がしばしば自分を敬遠して“使いやすい”岩倉具視(ともみ)や井上馨(かおる)に取り入る姿を見ていた。これは官僚としての分を超え“吏道(りどう)”に反すると映ったはずである。しばしば伊藤の分身と見なされる井上毅(こわし)はその典型であった。
井上毅は、プロイセン型の立憲君主制をほぼそのまま日本に導入することに腐心し、国民中心の政治を日本に確立させようとした伊藤としばしば対立することもあったからだ。
 官僚が職分を越えた振る舞いをすることに伊藤は決して寛容ではなかった。制度と知の政治家たる伊藤は、立憲制を支える知の機関の必要性を痛感し、大学を政治エリート供給のための国家機関として整備することを考えたのである。
 伊藤にとって許されないのは、政府に潜り込んで英国モデルの急進的実現を図り立憲国家の安定的基盤を損ねかねない書生だけでなかった。井上毅のようにプロイセン・モデルの導入を譲らない政府部内の相当に有能な「官僚知識人」の存在も危険に映ったことであろう。
 大隈と井上という2人の異質な挑戦者を斥(しりぞ)けるために、大学を「堅固な政体の基礎」と位置づけた伊藤の着眼は非凡であった。瀧井氏が伊藤のことを「立憲カリスマ」と呼ぶのは決して誇張とはいえないのである。(やまうち まさゆき)






 だいぶためてしまいました。

宮城
復活の「仙台ガラス」特産品に ガラス工芸作家が展示会
 仙台を流れる広瀬川や名取川の砂を原料にした茶褐色の「仙台ガラス」。このグラスなどを新たな特産品にする狙いの展示即売会が18日、仙台市青葉区の設計事務所「あとりえ横山」の一角で始まった。幕末から明治にかけ、髪飾りなどを作っていたのが元祖だが、長く断絶。数年前、仙台市太白区のガラス工芸作家、村山耕二さんが試行錯誤の末、復活させたガラスだ。

 元祖は高級なべっこうの代用品として量産されたが、今では現物も少なく、製法も分からない。それに興味を持った村山さんが近所の名取川などの砂で試作。元祖に近い色合いを出し、現代の「仙台ガラス」として数年前から作品に採り入れていた。

 それを設計事務所の横山英子社長が知り、「新たな仙台名物にできないか」。だが、村山さんの作品は制作数も限られ、高価。そこでデザインの専門家らと商品化を目指すチームを結成。およそ1年で展示会にこぎ着けた。

 村山さんのゆったりしたデザインをもとに金型を作り、職人が手作りした。酒杯や小鉢など7種類で、税抜き1500~3800円。村山さんは「何十年後に『昔からあるよね』と言われるものに育ってほしい」と話す。

 展示会は26日までの午前10時~午後7時。問い合わせはあとりえ横山(022・222・3377)へ。(松本紗知)


茨城
龍馬カステイラを再現 茨城
 古河市東の看護栄養専門学校、晃陽学園で18日、来春の卒業生による制作発表会「雪華の大祭」が開かれ、NHK大河ドラマ「龍馬伝」にも登場した長崎のカステラが、当時のレシピを基に再現された。
 調理師を目指す生徒の作品展とともに、幕末の古河藩家老で蘭学者とも交流があった鷹見泉石(たかみ・せんせき)が残した日記を基に当時のオランダ料理を再現、展示した。
 “龍馬カステラ”のレシピは京都国立博物館所蔵の“海援隊日記”「雄魂(ゆうこん)姓名録」記載の「カステイラ」を基にしたもので、材料は卵、小麦粉、砂糖だけで、比率は1対0・7対1。当時は泡立て器がなく手で混ぜ合わせて鉄鍋に入れ、かまどで焼き上げていたが、再現ではオーブンを使用。
 指導した中村裕子教諭は「かなり堅く、口に入れるとむせ返る」という出来になるそうだが、そこは現代風にアレンジ。“龍馬カステラ”は砂糖の配分からかなり甘く「本来は特権階級のみの甘味」(中村教諭)という貴重品だったという。


茨城のイメージアップ大賞に映画「桜田門外ノ変」
大洗水族館など奨励賞
県のイメージを高める取り組みを表彰する本年度の「いばらきイメージアップ大賞」受賞者が16日までに決まり、地域発案で全国公開された映画「桜田門外ノ変」が大賞に選ばれた。奨励賞はアクアワールド県大洗水族館など3件。本年度創設された「いばらきロケ大賞」の大賞も映画「桜田門外ノ変」製作委員会が選ばれた。

「桜田門外ノ変」は水戸藩開藩400年を記念した地域発の映画として、作家吉村昭さんの原作を基に、幕末の水戸脱藩士による井伊直弼大老暗殺を描いた。主演の大沢たかおさんほか、県内出身の俳優が出演。水戸市や大子町など県内12市町17カ所で全体の約7割の撮影が行われた。

地域活性化を目指し市民レベルで映画化支援の会が組織され、千波湖畔(水戸市)のオープンロケセットに県内外から多数の来場者を集めたことなどが評価された。

奨励賞は、大洗水族館のほか、県立大洗高マーチングバンド部とかすみがうらマラソン兼国際盲人マラソンかすみがうら大会。

大洗水族館は年間来場者が100万人を超え、7月に1千万人を達成。2月には韓国・釜山のアクアリウムと姉妹館協定を結び、国際交流への貢献も期待される。

大洗高マーチングバンド部は1985年から26回連続で全国大会に出場し、金賞を13回受賞。県内外のイベントでセレモニーバンドを務め、地域に欠かせない存在となっていることが評価された。

かすみがうらマラソンは県内外から2万人以上の出場者があり、「環境と福祉」をテーマに掲げ、参加者へ意識啓発を行っていることなどが評価された。

ロケ大賞は映像部門の大賞ほか、奨励賞に「下妻物語」(2004年公開)、ロケ支援賞につくばみらい市エキストラの会と「桜田門外ノ変」映画化支援の会が選ばれた。

イメージアップ大賞は2006年度に始まり今回で5回目。表彰式は来年2月、東京都内で開かれる予定。


千葉
幕末の農村改革者を回顧
県立中央博で「大原幽学その生涯と功績」展

 江戸時代末期、香取郡東総地域で飢饉(ききん)や荒廃に苦しむ村を救うため農村改革運動を推進した大原幽学(1797~1858年)。ゆかりの資料を集めた「大原幽学-その生涯と功績-」展が11日、千葉市中央区青葉町の県立中央博物館で始まった。没後、国の重要文化財に指定された遺品や文書類などを通し、郷土の偉人を回顧する展示となっている。1月16日まで。

 幽学は、尾張徳川家の重臣の次男として生まれたとされるが、18歳のときに放浪の旅に出たという。28年間、各地をめぐった後、香取郡長部村(現旭市)にたどり着き、名主の依頼を受けて定住した。

 長部村では儒学の考え方を基にした「性学」を説き、農民の生活改善や先進的な農業経営を提唱。村の救済に活躍したものの、「性学」の急激な発展に嫌疑を抱いた幕府の追及を受け、62歳で自害した。

 同博物館は「子どもでも理解できるような展示にした。幽学が生涯を通して何をしたのか分かってほしい」と話している。

 13、20日と、27日~1月4、11日は休館。一般300円。電話043(265)3111。


東京
龍馬伝、坂の上の雲… 上野公園散策
 大河ドラマ『龍馬伝』が放映され、今年は、幕末が話題となった。NHKスペシャルドラマ『坂の上の雲』第2部放映開始にともない、引き続き、幕末・明治が注目を集める。
 幕末・明治を生きた人間たちの足跡をご紹介したい。

【上野公園】
 上野公園(東京都台東区)に行くと、西郷隆盛像が、上野の山から東京を見下ろしている。薩摩藩の西郷隆盛と、長州藩の桂小五郎の間で密約された薩長同盟を、坂本龍馬が仲介したことは有名だ。

 西郷隆盛像の近くに、彰義隊の墓がある。大政奉還がなされたのち、徳川慶喜の一橋藩主時代からの家来たちが集まった。徳川政権を支持する藩士や、不満を持つ武士らを加え「彰義隊」を結成。上野山(寛永寺)を拠点として新政府軍と対峙した。しかし、上野戦争は、新政府軍の圧勝に終わった。

 彰義隊の墓の大墓石は、明治14年に造立されたが、新政府をはばかって「戦死之墓」と刻まれた。造られたのち地中に埋められ、現在は大墓石の前に置かれている小墓石には「彰義隊戦死之墓」と刻まれている。

【経王寺山門】
 上野公園から谷中霊園を越えた先にある経王寺(東京都荒川区)は、上野戦争のさい、敗走する彰義隊をかくまった。そのため、新政府軍から砲撃を受けた。経王寺山門には、その時につけられた弾痕が残っている。弾痕は大人の親指が通るほどの大きさだが、付近の住民の方に聞くと、昔はもっと小さくて、人々が触るうちに、現在の大きさになったという。

【旧岩崎邸庭園】
 上野公園から、谷中霊園とは反対側の湯島方面へ向かうと、旧岩崎家本邸があった場所に着く。現在は、旧岩崎邸庭園として、邸宅と庭園の一部が残されている。岩崎弥太郎は三菱財閥の創業者であり、海援隊の経理を担当するなど、坂本龍馬と交流があった。

 旧岩崎家本邸は、鹿鳴館を手がけたジョサイア・コンドルが設計した。旧岩崎邸庭園敷地内には、外光を取り入れた洋館と、洋館と連なる和館、そして、別棟として、撞球場(ビリヤード場)がある。撞球場は、当時の日本には珍しいスイスの山小屋ふうの造りだ。
 旧岩崎邸庭園サービスセンター担当者によると、『龍馬伝』の影響か、今年は例年に比べて来園者が増えているとのこと。

 上野公園も、旧岩崎邸庭園も、紅葉が色づいている。幕末・明治の足跡をたどって、上野近辺を散策してみてはいかがだろうか。(竹内みちまろ)


静岡
懐かしゆりの木通り 幕末から昭和の商店主秘蔵品を紹介
 浜松市中区のゆりの木通り商店街で、幕末から昭和にかけての、店主秘蔵の品を紹介する「ゆりの木でノスタルジー~なつかしい物がいっぱい」が開かれている。23日まで。 (柴田久美子)
 江戸時代や明治時代に開業した老舗が多い商店街ならではの企画で、20店舗が参加。初開催の昨年より期間を長くした。
 帽子店「フルサワ」のショーウインドーには、昭和17年に市内の竹細工職人が手掛けた魚釣り用の竹びくを展示。緻密(ちみつ)な編み込みが特徴で、店主の古沢正幸さん(67)の父が愛用していたものといい、古沢さんは「これだけ手の込んだ仕事ができる職人はもういないのでは」と語る。
昭和初期に市内の職人が手作りした竹びく=いずれも浜松市中区で

 ほかにも、江戸城の無血開城に貢献した山岡鉄舟の幕末期の書「亀鶴」(磯村書道教室)や、昭和初期の木炭アイロン(鍋屋)などが飾られている。
 実行委員も務める古沢さんは「こういう機会がないと日の目を見ない、古く懐かしい物がある。来る方にも楽しんでもらえたら」と呼び掛けている。午前10時から午後7時まで。


「駿河藩印」を発見、静岡で展示 徳川記念財団
 徳川記念財団(東京都渋谷区)の所蔵品からこのほど、幕末-明治初期に使われたとみられる「駿河藩印」が発見された。11日から静岡市美術館(静岡市葵区紺屋町)で開催される「家康と慶喜―徳川家と静岡展」に出品される。
 大政奉還翌年の1868年(慶応4年、明治元年)、徳川家は江戸から駿河に移封され駿河藩70万石が誕生。同藩は1869年(明治2年)の版籍奉還で静岡藩に改称した。このため、印章は約1年間だけ使用された。家臣などの通行証に押印例が確認されていたが、印章の所在は不明だった。
 印章は青銅製で高さ5・5センチ、幅6・8センチ、奥行き6・8センチ。ふたに「印判」と書かれたきり箱に収められていた。
 同財団の徳川恒孝理事長は「(通行を)取り締まる側だった江戸幕府の時代には必要がなかったもの。駿河移封にともない、急きょつくる必要があった」と説明した。



長野
木簡から新聞まで380点展示 千曲の県立歴史館で冬季展
 県立歴史館(千曲市屋代)は、文字にまつわる信州ゆかりの史料を集めた冬季展「文字のちから」を開いている。木簡や土器といった古代、識字率が高まった江戸時代の2コーナーに加え、明治以降に県内で発行された新聞の歴史を伝えるコーナーがあり、計約380点を展示。文字と人の関わりの変遷を紹介している。

 会場の中央には長野市松代町出身の幕末の思想家、佐久間象山(1811~64年)直筆の大のぼり2本が飾ってある。縦約10メートル、横約1・6メートルで、1854(嘉永7)年に桑原村(現千曲市)の村人の依頼で筆を振るったという。寄贈を受け、同館が所蔵している。春と秋の祭り用で「春祈膺介福」「秋報楽豊年」とそれぞれ力強い文字が並び、見応えがある。

 新聞の歴史のコーナーでは、県内で発行された新聞の系譜をパネルで説明。1872(明治5)年に松本市で創刊した県内初の「信飛新聞」、大正から昭和にかけて上田地域の市町村の多くで発行された「時報」と呼ばれる地域新聞のほか、日露戦争の戦況を伝える信濃毎日新聞の号外もある。

 古代のコーナーには、品物や労力の調達を命じる奈良時代の木簡や墨書が施された平安時代の土器などが並ぶ。江戸時代では、中山道と北国街道の道中案内書や黒船来航図などを展示した。

 同館の伊藤友久・専門主事は「文字は歴史を知る手掛かり。先人が書き残した物を通して文字の役割を感じてほしい」と話している。

 来年2月27日まで。入館料は一般300円、高校・大学生150円、小中学生70円。問い合わせは同館(電話026・274・2000)へ。

(提供:信濃毎日新聞)


京都
同大に薩摩藩邸の証し、島津の家紋入り磁器片
 幕末に薩摩藩邸があった同志社大今出川校地(京都市上京区)で行われている発掘調査でこのほど、「丸に十の字」で知られる島津家の家紋入りの磁器片が見つかった。同校地内で薩摩藩邸に関する遺物が見つかったのは初めて。

 磁器片は高さ5センチほどの湯のみ様の器の一部で、白地に紺色で島津家の家紋が描かれている。8月に掘り出した破片を洗浄した結果、薩摩藩主・島津家ゆかりの遺物と判明した。調査区域東側の穴から見つかり、割れた器を廃棄したと考えられる。

 発掘場所は相国寺旧境内で、1863(文久3)年から73(明治6)年まで薩摩藩邸が置かれたが、これまでの調査で藩邸に関する建物跡などは見つかっていない。

 同大学歴史資料館は「この地に藩邸があったことを示す確かな証拠といえる」としている。磁器片は同校地ハリス理化学館で開催中の企画展「幕末と同志社」で来年1月末まで展示予定。

 まさしく「丸に十字」。

高知
江戸から手紙届いた気分 古文書教室 南国
歴史の表裏探る醍醐味

一文字ずつを追いながら、講義に聴き入る教室生(南国市久礼田で)
 一度は読んでみたいけれど、取っ付きにくい。いや、さっぱり分からない。「古文書」と聞けばそう思っていた。たまたま文化財や幕末史にかかわる取材が相次ぎ、少しは歴史アレルギーを拭わねばと、南国市の住民らが学ぶ古文書教室におじゃました。使い込んだ字典を手に文字に見入る人たちは、みんな夢中。何が面白いんだろう、と理解できなかったが、「約束事」が分かってくると、難解さがだんだん溶けて、まるで歴史上の人物から手紙をもらったような気分になってきた。ひょっとして、私もはまってる?(畑矢今日子)

 南国市の久礼田公民館で2年前に開講し、「久礼田史談会」のメンバーを中心に、52~85歳の16人が集まる。読みやすく翻刻した活字を読むのを卒業し、本格的な筆書きの原典に当たる講座にレベルアップした。講師は佐川町立青山文庫前館長で歴史家の松岡司さん(67)。

 教材は、幕末の1862年(文久2年)、孝明天皇が公家の三条実万(さねつむ)に右大臣の位を追贈すると伝えた文書の写し。実万は、攘夷(じょうい)派で知られる実美(さねとみ)の父で、正妻は十代土佐藩主山内豊策(とよかず)の娘。実万は天皇の力を回復しようと尽力しただけに、孝明天皇が厚く信頼していた、といったことが書かれているらしい。

          □  ■

 この資料、土佐勤王党の幹部、弘瀬健太(1836~63)の子孫にあたる弘瀬健吾さん(67)(高知市上町)の所蔵品。妻の倍子(ますこ)さん(61)が教室生なのだ。健太は、攘夷実行の勅命を幕府に伝えた公家の護衛として江戸に同行したこともあり、三条家にまつわる資料を持っていたのだろう。

 松岡さんが「このように天皇の命令を伝える文書のことを『宣命(せんみょう)』といいます」と言いながら、文書のコピーを配った。すべて漢字。仮名の草書のような「ミミズ文字」ではないとはいえ、案の定、さっぱり分からない。

 「『宇禮志美』は何と読みますか」。さっそく指名された。「美」だけ小さいので、送り仮名か。「うれしみ……ですか」と答えて正解。クイズのようで、何とか楽しめそう。

 宣命は、読み聞かせるために特殊な「和文体」で書かれている、という。小さな漢字は付属語といって、仮名のように発音を借りているだけで、意味はない。例えば「人民乃(くにたみの)欲憂(うれい)乎痛美寤毛寐毛(をいたみさめてもねても)」では、「乃・乎・美・毛」が付属語。「毛」は、平仮名の「も」に変化したという訳だ。思わず「なるほど」と、教室生たちとうなずき合った。

 持ち主の倍子さんも、かつては歴史には興味がなかったが、「我が家や地元に関係のある資料を読んでみたい」と始めたそうだ。古文書解読を始めた今では、「みんなで考えるのが楽しい」と笑顔だ。

          ■  □

 ほかの住民たちも意欲たっぷり。下田豊さん(82)は「学生時代は戦中で、勉強できる環境になかった。学べてうれしい」。農業沢村茂さん(68)は「観光地にある碑文の漢文が読めるようになった」とうれしそう。

 今後は、田畑の取引につかった文書なども解読するという。「国の大きな動きから、庶民の暮らしまで、歴史の表裏を自分の目で探れるのが醍醐(だいご)味」と松岡さんは話す。

 そう言われると、150年前の舞台に降り立ったかのような感覚を覚えた。まだまだ眠っているであろう「過去からの手紙」を、もっと読みたくなった。

(2010年12月19日 読売新聞)


愛媛
伊予市の旧商家で発見 古文書約500点
 江戸時代などの古い商家建築が残る伊予市湊町地区でこのほど、旧しょうゆ店のふすまの裏張りから幕末から明治にかけての古文書が大量に見つかった。伊予史談会関係者は「あまり知られていない当時の湊町の庶民の暮らしぶりなどが分かるようになるかもしれない」と喜んでいる。
 伊予農高教諭で伊予史談会員の作道茂さん(58)によると、古文書が発見された商家はもともと呉服店で1868(明治元)年の建築という。10月に老朽化に伴い解体された際、近くの美容院経営正岡典子さん(61)らが譲り受けたふすまの裏張りに古文書を発見。作道さんに解読を依頼した。
 文書は約500点あり、これまでに江戸時代後期の1820年代~1893(明治26)年の文書が確認されている。


山口
手紙:志士の妻から晋作の愛人へ 山口市の山野さん、2カ月かけ解読 /山口
◇2通の内容判明 伊藤博文、山県有朋両夫人からおうのへ 晋作死後も続いた交流
 山口市の獣医師、山野洋一さん(70)が所有する古い書簡2通が、明治時代に伊藤博文と山県有朋の両夫人から幕末の志士・高杉晋作(1839~1867)の愛人おうの(後に梅処尼(ばいしょに))に宛てた手紙とみられることが分かった。内容は病気見舞いや旅行の誘いなどで、晋作の死去後も続いた梅処尼と志士仲間の妻らの親しい交流ぶりがうかがわれる。【中尾祐児】

 山野さんによると、書簡は和紙に毛筆で書かれた巻物。2通は文末に「(博文夫人の)梅子より 梅処様」「(有朋夫人の)貞子 梅処様」と書かれていた。山野さんが防府市で古美術店を営んでいた亡父から受け継いだもので、今年8月から専門家の助言を受けながら解読した。

 2通とも日露戦争前年の1903(明治36)年ごろ、両夫人の別邸があった神奈川県の大磯から、梅処尼が晋作の墓を守る下関市の東行庵へ送られた。

 梅子の手紙には「この度は伊藤も馬関(下関)に御前様にも面会に相成り候」と博文が梅処尼を訪問したことを記載。貞子の手紙には「(大阪での)博覧会見物におでかけあそばされたく候」と旅行に誘っていた。

 山野さんは「辞典を引きながら約2カ月かけて解読した。大切に保管したい」という。手紙を読んだ萩市特別学芸員の一坂太郎さん(44)は「梅処尼と、晋作の同志の奥さんたちとの交流を示す史料として貴重だ」と話している。

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 ◇おうの
 下関の芸者として高杉晋作と出会い、身請けされる。晋作の没後、出家して梅処尼と改名し、1909(明治42)年没。東行庵主の生活は伊藤や山県、井上馨ら旧長州藩士が経済的にも支援した。


大分
志士の信念を掛け軸に見る/弥生のムラ
 坂本龍馬や西郷隆盛など近代日本の激動期を生きた志士の信念や心情を詠んだ掛け軸を展示する「幕末・明治の志士 遺墨展」が、国東市国東町の市歴史体験学習館(弥生のムラ)で開かれている=写真。来年2月20日まで。学習館は「当時の世相を知る貴重な歴史資料。ぜひご覧下さい」と話している。
 吉田松陰や木戸孝允、山内容堂、勝海舟、頼山陽、伊藤博文など37人の書が並ぶ。いずれも同市出身の竹工芸家綾部経雲斎さんが1974年に当時の国東町に寄贈した。4町が合併して国東市が誕生してからは初開催という。
 入館料は高校生以上200円、小中学生100円。休館日は月曜(祝日の場合はその翌日)と12月29日~1月4日。問い合わせは学習館(0978・72・2677)。



佐賀
郷土の偉人 足跡暦に
 あと2週間で2010年も終わり。来年のカレンダーの準備はお済みですか。スケジュール管理には不向きですが、こんな変わり種はいかがでしょう。1月1日から12月31日までの佐賀にまつわる出来事をたどる逸品で、「きょうは何の日?」の疑問にお答えします。(谷川季実子)
 今日、12月18日に佐賀観光協会の桜井篤さん(45)の講演に行くとすると――。
 「今日は139年前の明治4年、江藤新平が華士族の職業選択の自由を認めた記念すべき日ですね」
 桜井さんはこう切り出し、「佐賀の方なら、当然ご存じとは思いますが」と続けるはずだ。聴衆は、一瞬ぽかん。そして「そんなこと知るわけないでしょう」と爆笑。それから納得した顔になる。これまでの講演での反応はこんな感じだったそうだ。
 桜井さんの肩書は「魅力発掘プロデューサー」。佐賀には「坂本龍馬のような、ず抜けたカリスマはいないが、近代国家の礎を築いた人々がいる」と注目。幕末~明治維新期の出来事を中心に調べ上げ、カレンダーにした。
 半世紀ほど前にも、同じことを試みた人がいる。現在の唐津市浜玉町出身の葉隠研究家、栗原荒野(あらの)(1886~1976)だ。「われらの郷土 昔の今日」を著し、桜井さんもカレンダーを製作する際に多くを頼ったという。
 荒野の著作は、葉隠の「武士道といふは、死ぬ事と見附(つ)けたり」の一節がもてはやされた戦中にかけて売れたが、戦後は「民主主義の敵」と焼き捨てられもした。一家が赤貧を強いられても書斎にこもる荒野に、一人息子の耕吾さん(78)=佐賀市=は「母の苦労を思うと、怒りすら感じました」と苦笑いする。
 その荒野が1日だけ、「これという材料が見当らない」と記した日がある。それが12月18日だ。桜井さんは様々な文献にあたり、冒頭の江藤新平のエピソードを見つけた。
 季節感にこだわる荒野が陰暦を陽暦に置き換えたのに対し、桜井さんは「記念日は日付が大切」と、陰暦をそのまま記した。すると、また新たに二つのことが分かった。
 一つは、陽暦にはない「2月30日」の出来事。江藤が1871(明治4)年、政府の役職「制度取調専務」に任命され、国家制度の整備に着手したという。
 もう一つは、陽暦にしかない31日(月により30日も)の出来事の記録が極端に少ないことだ。最後まで空いていたのは5月30、31日。1917(大正6)年、大隈重信が「3度目の里帰りの途中、大阪に滞在」した翌日、「神戸に日帰り視察旅行」に出かけたことが、大隈の講演集から分かった。全654件で「1年367日」が埋まった。
 その大隈こそ、1872(明治5)年、日本に陽暦を導入した中心人物だった。「カレンダー作りから、こんな話もできるほどの人材が輩出した。佐賀って、すごいところでしょう」と桜井さん。問い合わせは佐賀観光協会(0952・20・2200)へ。


師走の城下に「ドーン!」 カノン砲が「祝砲」
 師走も半ばの佐賀市の中心街で12日、砲声がとどろいた。幕末に国内最高水準を誇った佐賀藩の科学技術と先覚者たちの業績をたたえる「反射炉まつり」の恒例行事で、復元されたカノン砲が7発のごう音を響かせた。
 
 12月12日は160年前の嘉永3(1850)年、佐賀藩が日本で初めて洋式反射炉に火を入れたその日。佐賀県機械金属工業会連合会(中村敏郎会長)が1977年に復元した24ポンドカノン砲を、保管場所の日新小学校から佐嘉神社駐車場に運び、祝砲を放った。
 
 堀端や歩道橋の上では見物の人たちが、耳を手でふさぎながら、火薬に火縄で点火する作業を見守っていた。


師走の空にカノン砲 佐賀で「反射炉まつり」
 幕末の佐賀藩が、日本で初めて洋式鋳鉄製大砲を製造する反射炉を開発したことを記念した「第36回反射炉まつり」が12日、佐賀市松原2丁目の佐嘉神社外苑駐車場であり、復元されたカノン砲が師走の空にごう音を響かせた。

 同まつりは、1850(嘉永3)年12月12日、佐賀藩が築地(ついじ)(同市長瀬町)に設けた実用反射炉に火が入ったことを記念する行事。「県機械金属工業会連合会」(中村敏郎会長、加盟約200社)が、先人の遺業を後世に伝えようと毎年この日に開催している。

 カノン砲は全長約3メートル、口径約15メートル、重さ約3トン。築地反射炉があったとされる日新小学校敷地内に、記念碑として置かれている復元砲を使用した。関係者が導火線に点火すると、耳をつんざくような「ドドーン」という爆発音が響き、7発の祝砲が佐賀城跡の堀の水面を揺らした。

 点火に先立つ開会式で、中村会長は「最近は世の中が思わしくない。来年は明るい年であることを祈ります」とあいさつした。

 同会の創立50周年を記念した式典も佐嘉神社記念館であり、関係者ら約200人が参加した。


蝦夷地など鍋島家伝来古地図で判明 佐賀藩 北方にも目光らせ
 佐賀藩鍋島家から伝わる財団法人鍋島報效(ほうこう)会(佐賀市)所蔵の蝦夷地(えぞち)や樺太、得撫(うるっぷ)島を描いた古地図全8枚の検証を、北海道開拓記念館(札幌市)と松浦武四郎記念館(三重県松阪市)の専門家が行った。検証の結果、幕末のロシア南進に対する北方の緊張や明治新政府の北海道開拓という国内外の動きに、佐賀藩がいち早く対応した「雄藩」としての存在感を示す貴重な史料であることが分かった。

 8枚は、幕末に蝦夷地を探検した松浦武四郎や、海防の重要性を唱えて「海国兵談」を著した林子平などが作製。検証は、北海道開拓記念館の三浦泰之さん(36)ら学芸員3人が8日、報效会が運営する博物館「徴古(ちょうこ)館」(佐賀市松原2丁目)で行った。

 このうち、北海道や樺太を記した松浦作の「三航蝦夷全図」(1854年)には地図情報に、詳細な航路や船着き場が独自に書き込まれていた。

 54年は日米和親条約が結ばれ、江戸幕府の鎖国体制が崩れた年(55年に日露和親条約締結)。これに先立ち、ロシアは極東進出の動きを見せ、1792年にラクスマンが、1804年にはレザノフが相次ぎ来航。53年はプチャーチンが幕府に開国を迫った。

 三航蝦夷全図からはこうした北方の緊張を受け、長崎港警備を担当していた佐賀藩が国内外の情報収集に熱心に取り組む姿が浮かび上がるという。鍋島報效会によると、55年には後の北海道開拓で活躍する「佐賀の七賢人」の1人、島義勇が蝦夷地探検に派遣された。

 また、同じく松浦作で明治初期に活用された「蝦夷地之図」(59年)は、明治新政府の下で進められた北海道開拓で、佐賀藩関係者が開拓した厚岸(あっけし)など3郡が朱塗りで示され、活用されていたことをうかがい知ることができるという。

 北海道開拓をめぐっては69年、鍋島直正(10代藩主)が初代北海道開拓使長官に当たる蝦夷開拓督務に着任。札幌市街建設を進めた島義勇ら、多くの佐賀関係者が北海道開拓に従事した。

 三浦学芸員は「佐賀藩が、松浦の製作を中心とした蝦夷地図をベースにさまざまな情報を加味して、実用していたことを示す貴重な史料」と評価。鍋島報效会は「古地図から、佐賀藩が長崎警備だけでなく北方にも目を向けていたことが判明した。国内外の政治・社会情勢に俊敏に対応し、雄藩として日本の近代化を支えた一端を知ることができる」としている。


長崎
大浦慶、維新後も活躍 鎌倉の田川さんが伝記出版
 幕末に日本茶を外国へ輸出し成功した長崎の女性商人、大浦慶(1828~84年)が、明治維新後に中央へ出て実業界で活躍する姿を描いた伝記小説「女丈夫(じょじょうふ)大浦慶伝」(文芸社)を、神奈川県鎌倉市の翻訳会社経営、田川永吉さん(74)がこのほど出版した。

 慶は1871(明治4)年、熊本藩士の詐欺事件に巻き込まれ、多額の借金を背負い没落したといわれる。同書は、維新後の慶が、横浜製鉄所の経営や海軍蒸気船の払い下げに関与したことを示す新資料を多数紹介。通説を覆し、晩年まで実業家として活動した新たな一面を明らかにした。

 田川さんは佐賀出身の実業家・松尾儀助のひ孫。昨年出版した儀助の伝記小説に慶を登場させた関係で、慶について調査。早稲田大図書館、国立国会図書館、国立公文書館などで新資料を見いだした。

 同書によると、慶は75(明治8)年8月、官営の横浜製鉄所の払い下げを目指し、長崎の実業家・杉山徳三郎と連名で「長崎に住むわれわれは外国商法・取り引きと製鉄所の運用に通じています」などとアピールする意見書を作成。同年11月には杉山らと連名で、同製鉄所の拝借願を政府へ提出した。

 拝借願は翌年認められ、慶は杉山や長崎出身の実業家・平野富二、元佐賀藩士・神代直宝らと共同経営したとみられる。同製鉄所は77(明治10)年の西南戦争にちなむ特需で利益を挙げ、78(明治11)年に神代が政府に返納した。

 80(明治13)年1月には、福岡出身の実業家・佐野弥平と連名で、海軍省の英国製蒸気船「高雄丸」の払い下げ願を提出。同年3月31日付の読売新聞は「有名な長崎油屋町の大浦おけいは、今度お払い下げになる海軍省の高雄丸を四万七千三百円にて買い請け、去る二十五日品川沖にて海軍省より同人へお渡しになった」と報じていた。

 また「京橋区南鍋町二丁目四番地(現中央区銀座付近)」と住所を書き入れた慶の名刺も見つかり、一時東京に出ていたことも裏付けられた。

 慶は幕末の長崎で、大隈重信や陸奥宗光ら明治政府の要人になった志士の面倒を見たといわれる。田川さんは「慶は九州の実業家と強固なネットワークを持っていた。彼らと手を組み、大隈らを頼って詐欺事件の損害を取り戻そうと奮闘した」と推測。「事件後は中央に出て活動したので、長崎では晩年の活躍が伝わらなかったのだろう」と話している。

 同書は222ページ。価格は1470円。


コラム
【龍馬を慕(おも)う】(38)越前 福井 新政府の財政責任者を発掘
 左手に足羽(あすわ)山のこんもりとした緑をあおぎながら、足羽川に沿った堤の上を歩きはじめた。川は福井市の中心部をくねくねと蛇行して流れている。
 桜の古木がびっしりとしげっていた。春になると、ピンク色の桜の花々がうねるように咲き乱れるのであろう。
 幸橋(さいわいばし)という橋をすぎ、しばらく行くと、堤の下の民家わきに、
 「横井小楠先生寄留宅跡」
 と書かれた石碑が立っていた。熊本藩士であり、先進的な政治思想の持ち主であった横井は越前藩主の松平春嶽(しゅんがく)に招かれ、4度も越前を訪れ、滞在した。越前の富国化をすすめるために、貿易だけではなく、新技術の導入、新紙幣の発行などをうながした。
 勝海舟も、なんどか横井に会っている。『氷川清話』には、こんなくだりがある。
 「おれは、今までに天下で恐ろしいものを二人見た。それは、横井小楠と西郷南洲(隆盛)とだ」
 続けて、「おれなどは、とても梯子(はしご)を掛けても、及ばぬと思つた事がしばしばあつたヨ」と書く。西郷はわかるが、横井の思想をここまで見抜いた勝の眼識はさすがである。
 春嶽は幕末の四賢侯のひとりといわれる。司馬遼太郎の『竜馬がゆく』でも、
 「旧習を屁(へ)ともおもっていない豪儀さと、いい案は多少の弊害があってもどんどんとりあげてゆく度胸が、うまれついてそなわっている」
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 と評価している。春嶽も勝と同じく横井の才能を見抜き、わざわざ熊本からなんども招聘(しょうへい)した。その横井の越前での教え子の優等生が三岡(みつおか)八郎(由利公正(ゆり・きみまさ))であった。
 ●春嶽公を懸命に説得
 慶応3(1867)年10月15日、大政奉還がなると、坂本龍馬は24日には京をたち、近江路を急ぎ足で越前に向かった。新政府の財政政策の責任者として、三岡をオルグするためだった。
 幸橋の下流に架かる桜橋を経て、九十九(つくも)橋から北にのぼった。左手の細い道をしばらく行くと、喫茶店があった。その横手は駐車場で、わきには、
 「莨(たばこ)屋旅館跡」
 という石碑が立っていた。龍馬がこの旅館にワラジをといたのは28日であった。ところが三岡はその過激な思想が春嶽の逆鱗(げきりん)に触れ、蟄居(ちっきょ)閉門中だった。
 龍馬はさっそく春嶽のもとを訪れ、三岡は藩の罪人ではあっても、新政府の罪人ではない、と言って春嶽を説得した。
 30日の朝8時、三岡が監視の役人付きでやってきた。コタツに入って、ふたりは夜9時まで話しつづけた。三岡の後年の回顧によれば、「金札を御作りになつて、天下の経済をお起こしにならねば、財政は廻(まわ)りはせぬと云ふ事を申したのでありました」と話したという。
 金札とは兌換(だかん)紙幣のことである。鳥羽・伏見の戦い以降、大坂入りした三岡は、京や大坂の富豪を集め、かれらを勧進元にしてこの通りの施策を行い、300万両もの軍資金をかき集めた。
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 三岡は維新後には、龍馬の「船中八策」と似た部分もある「五箇条の御誓文」の原案を起案した。三岡を見いだした龍馬の眼識も鋭いが、三岡自身も龍馬を敬愛していた。
 龍馬は11月1日、あわただしく越前を立った。三岡には、記念に自分の写真を与えた。その後、藩の家老に招かれた三岡はその帰途、足羽川をわたっていると、一陣の風が吹き、龍馬の写真の入った懐中物を川に落としてしまった。
 それが11月15日、すなわち龍馬暗殺の日の夜、と三岡は後日譚(たん)として語った。だがこれは記憶違いで、2日ほどの誤差があったらしい。
 三岡は「誠に千秋の遺憾」となげいたが、写真が残っていたら、いまも龍馬の最晩年のブロマイドとして人気を集めていたはずである。
 ●「無かりし花」は見えず
 莨屋旅館跡から、さらに北にのぼると、さくら通りという広い道に出た。現在は「福井市照手」という地名だが、この頃は「三ツ橋」と呼ばれていた。
 寺と民家が1軒ずつしかない荒れ野だった。ここにアバラ屋同然の「藁屋(わらのや)」という寺子屋があった。住んでいたのは、正岡子規をして、源実朝いらいの歌人だと絶賛せしめた橘曙覧(たちばなのあけみ)である。
 龍馬は和歌が好きで、橘を知っていたはずだが、莨屋からの帰りに立ちよった気配はない。京の政情を考えると、それどころではなかった。橘にはこんな歌がある。
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 「たのしみは朝おきいでて昨日(きのふ)まで無かりし花の咲ける見る時」
 平成6(1994)年、天皇、皇后両陛下が訪米されたさい、クリントン大統領が歓迎スピーチで引用したことで知られる。橘の名前すら知らなかった日本人記者はびっくりしたらしい。
 橘は維新成就による天皇親政を心から喜んだ。だが龍馬は「昨日まで無かりし花」が咲くのを、ついに見ることはできなかった。(文・福嶋敏雄)
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 ≪メモ≫
 福井は戦国時代、「北ノ庄」と呼ばれ、柴田勝家が治めた。関ケ原合戦のあと徳川家康の次男、結城秀康が入城し以後、その子孫の越前松平氏が統治した。松平春嶽(慶永、よしなが)は第16代藩主で、藩政改革を行い、坂本龍馬らを援助した名君として知られる。福井へは東京からだと、羽田-小松空港間が約1時間。小松空港から市内までバスで約1時間。大阪からだと、北陸線特急で約2時間で到着する。
                   ◇
山口晃×坂本龍馬 カレンダー発売中
     
 「龍馬を慕う」のイラストから、山口晃さんが自ら選んだ13点をカレンダーにしました。「親鸞」(五木寛之著)の挿絵や成田空港のパブリックアートでも知られる、山口さんの描く幕末の世界を、月替わりで楽しめます。数に限りがありますので、お早めにお申し込み下さい。
 【サイズ】縦30×横26.5センチ(開いた状態で縦60×横26.5センチ)
 【仕様】壁掛けタイプのブックレット式(中綴じ)、フルカラー
 【ページ数】28ページ(2011年1~12月、山口晃さんプロフィル紹介付き)
 【料金】2075円(送料込み・税込み)
 購入ご希望の方は、郵便振替・口座00120-3-148726に住所、氏名、電話番号と通信欄に「龍馬カレンダー」と部数を明記し、加入者名・サンスポ開発へ。
 また、インターネットの「サンスポe-shop」(http://www.sanspo-eshop.com/)でも販売中です。
 【お問い合わせ】産経新聞社営業局(電)03・3275・8674 (平日10~17時)


龍馬が色鮮やかに!150年前の写真カラー化に成功
 写真製版、印刷を手がけるサンメディア社(本社・神戸市兵庫区)の横山稔社長(68)が、特許を取得した独自の技術で、「フルベッキ写真」と呼ばれる1860年代に撮られた写真のカラー化に成功した。

 「フルベッキ写真」とは、1859年(安政5年)に来日したオランダ人宣教師のフルベッキとその子どもが中心に写ったもの。この写真は1970年代、肖像画家の島田隆資氏(故人)が、写真が残っていない西郷隆盛の肖像画を分析し、この写真に写っていると断定。さらに坂本龍馬、高杉晋作、陸奥宗光、大久保利通ら22人を独自に特定したことで注目を集めた。

 横山社長は、知人が米国から入手したこの写真を、特許を取得した独自の技術でカラー化。同時に「島田説」に興味を持ち、警察でも使われる「スーパーインポーズ方式(画像合致法)」を取り入れた。幕末の英雄の別の写真の顔を透明化して重ね合わせ、同一人物かどうか探り、龍馬らのほか伊藤博文、井上馨、江藤新平など明治政府の要職に就いた人物を含め44人を独自に特定した。

 「手に取った人が研究者になったつもりで、それぞれ楽しんでもらえれば」と横山社長。このほど、カラー化された額入り写真に「スーパー―」のCDをセットにして売り出すことに。カラー化により、歴史的ロマンが広がったことは確かだ。

 ◇この写真に関する詳しい情報は、株式会社サンメディアHP(http://www.sun-media.info/)へ。また、販売に関する問い合わせは、報知PRセンター(TEL03・5479・1300)へ。


藤原竜也が“最後の仇討”に命を懸ける青年を熱演!
 テレビ朝日系では、明治十三年に起きた日本で公的に記録されている“最後の仇討”を描いたドラマ「ドラマスペシャル 遺恨あり-」を来春放送することが決定。藤原竜也が暗殺された父母の敵討ちに命を懸けた旧秋月藩士の青年・臼井六郎を熱演する。藤原以外のキャストには、六郎を支え続けた侍女・なか役に松下奈緒、六郎を裁く判事・中江正嗣役に吉岡秀隆、幕末の剣豪・山岡鉄舟役に北大路欣也と、実力派の豪華俳優陣が脇を固める。
明治という新時代を目前にした慶応4年に、九州の山間にある小藩“秋月藩”で、藩の執政・臼井亘理とその妻・清が暗殺される事件が発生。両親を襲った惨劇を目の当たりにした息子・六郎(藤原)の心の中には、誰も消すことのできない怒りの火が芽生えていく。だが、鎌倉以来700年の長きにわたり“武士の美徳”とされてきた敵討ちが、明治に入り“殺人罪”という犯罪に変わる。そして明治十三年に六郎が果たした敵討ちという名の“明確な殺意ある殺人”は、大論争を巻き起こしてしまう。
主演を務めた藤原は「六郎は、生きる目的はただ1つ、敵討ちしかないという思いを抱く、孤独な青年。非常に深いテーマですが、1つの思いのためだけにとてつもない人生を歩む六郎は、役者ならば誰でも絶対にやりたいと思う役。北大路さんにも『六郎は、やりがいのある役。自分も演じたい』とおっしゃっていただきました。その北大路さんとの立ち回りシーンは、とても怖かったです。何かを超えた格好よさ、すごみに圧倒されて、大量に汗が出ました(笑)。キャストの方々も個性豊かで全員が全員、役柄にピッタリ。今までにないどっしりした素晴らしい作品になると思います」とコメントした。


【幕末から学ぶ現在(いま)】(92)東大教授・山内昌之 伊藤博文(上)
政治家のイメージ
   
 政治家に大事なのは今も昔もイメージである。この点でいえば伊藤博文は随分と損をしている。大日本帝国憲法(明治憲法)を制定し、議会を開設しただけではない。初代の首相、最初の政友会総裁として日本政治の制度設計に大きな足跡を残したのに、その功績と比べて評価は必ずしも芳しくない。
 ◆歴史学での評価は散々
 これは彼の本領と関係のないイメージの所産といってもよい。まず一般的なイメージが固定している。この点では、師の吉田松陰が伊藤のことを才が劣り学問も浅く、性質はまっすぐながら華がないと評したことが大きい。農民から中間(ちゅうげん)の養子に入った伊藤は世間ではとかく成り上がりと見られ、その遊興好きとあいまって、生来の楽観主義からくる現実への柔軟な対応力もともすればオポチュニズムと冷笑されがちであった。ことにアカデミズムの歴史学における伊藤の評価は散々である。帝国憲法の制定にしても、功労者は『憲法義解(ぎげ)』の執筆者、井上毅(こわし)であり、伊藤の役割は派手な表面性にとどまるというイメージが強いのだ。
 現代の政治家の間でも伊藤博文の功績を認める人は少ない。2009年は伊藤の没後100周年であり、彼が貢献した帝国憲法発布から120年にも当たっていたのに、目立った行事が国会や政党の内外で催されたとは寡聞にして知らない。おそらく、帝国憲法は統帥権の不可侵性などによってミリタリズムの台頭を招き、伊藤も韓国併合に道を開いたこともあって、その再評価は韓国はじめ国際世論を刺激し有権者の否定的反応を招くと危惧(きぐ)したのだろう。政治はイメージで決まるところが大きいにせよ、単純なイメージ型歴史観に左右されるのも困ったものだ。
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 伊藤には、法制史家の瀧井一博氏が語るように、藩閥政府、政党、枢密院、宮中と意の赴くままに「政界の随所を遊泳する勝手気儘(きまま)さ」や、大隈重信や陸奥宗光や星亨(とおる)といった昨日の敵とこだわりなく「結託する変わり身の早さ」もあった(『伊藤博文』中公新書)。しかし、伊藤をカメレオンもどきの寝業師といった党人政治家として片付ける人もいない。何しろ伊藤は、国会だけでも議事堂中央玄関から入った先の中央広間の一角と、参議院前庭の2カ所に像が立っているのだ。その上、瀧井氏は議事堂の設計者が尖塔(せんとう)の頂に伊藤の像を仮想したという興味深い逸話を紹介している。伊藤を“議会の父”と呼んでも完全に誤りとは言えない。
 「議会の子」という言葉はよく使われるが、そう呼ばれた政治家たちは実績よりもイメージが先行して得をしている。そして、伊藤博文が“議会の父”と呼称されないのは“悪い”イメージが固定しているからだ。これは歴史を虚心に見ない専門家にも責任があるが、伊藤を偉大な先達として見ようとしない現在の政治家も責めを負うべきであろう。
 ◆学ぶべき迫力と自信
 しかし、伊藤には西洋文明を尊敬しながら恐れるに足らずという気迫があり、師の松陰の権威にも屈せず批判する率直さがあった。この迫力と自信こそ外交で失敗を繰り返す民主党政権に学んでほしい点なのである。彼は、松陰が理念として過激でさえあればよく、攘夷(じょうい)論も精神でなく政略から出たと手厳しい。
 その半面、かつて幕末に暗殺を企てた長井雅楽(うた)については、冷静に日本の行方を熟考し外国に対抗する政略を重んじ日本の一致を図ろうとした点を讃(たた)えるようになった。松陰は理想主義に走りすぎ、長井こそ政治リアリズムの徒として教えられる点が多いというのだろう。
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 伊藤は、政治目標を実現するのに政策的思考を積み重ねるタイプであり、理念や精神の思い込みで政治を進める人物ではない。政治の世界は人と組織にそれぞれの思惑があり、なかなかに利害の調整が巧(うま)くいかない。もつれを解きほぐし対立や利害関係を調整する作業に得意だったのが伊藤である。彼の事績には、自民党との大連立から公明党との協力、社民党との連立など多くの組み合わせに腐心する民主党政権も学ぶべき教訓が多いはずだ。誤ったイメージで伊藤の実像から目をそむけるのはまさに食わず嫌いというものだろう。(やまうち まさゆき)
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【プロフィル】伊藤博文
 いとう・ひろぶみ 天保12(1841)年、周防(山口県)の農民の子として生まれる。松下村塾に学び、尊皇攘夷派となるが文久3(1863)年、英国留学を機に開国派に転じ、倒幕運動に尽力。明治4(1871)年、岩倉遣欧使節団の全権副使となる。11年内務卿となり、14年の政変で政府の中心人物となる。18年初代首相に就任。4度にわたる組閣を通じ、憲法制定、不平等条約改正など近代日本の礎を築いた。日露戦争後の38年、韓国統監。42(1909)年、清国ハルビン駅頭で韓国人独立運動家に暗殺された。


「歴史楽屋噺」パート2・江戸城無血開城…一触即発の裏事情
 幕末ブームが続いているようだが、平和裏に行われた「江戸城無血開城」にこそ、和の国、日本の美学を感じずにはいられない。

 「江戸城無血開城」とは何か。江戸幕府が倒れることを前提に行われた勝海舟と西郷隆盛の話し合いで、江戸が誰の血も流さずに明治新政府に受け渡された事を言う。

 勝海舟は自他共に認める「江戸城、徳川慶喜最後の子分」。今で言う高級官僚にあたる。一方の西郷どんは倒幕の旗手。薩長同盟のトップである。

 勝海舟と西郷隆盛の話し合いは長時間に及んだ。この話し合い、実は「無血開城」を前提に行われていた訳ではない。江戸の下町には、勝海舟の子分筋にあたる火消しの親方・新門辰五郎とその後輩の博徒・小金井小次郎の一統が数千人待機していた。「勝海舟の身に何かあったら江戸中を火の海にして しまえ」という命令が下っていたのだ。

 一方で江戸城近辺には、西郷隆盛と共に上京してきた薩摩藩士の猛者達が控え、「もしも西郷どんに何かあったら、構わないから江戸城に殴り込んでしまえ」という命令があったという。

 一歩間違えれば「無血開城」どころか、大勢の死者が出たかもしれないこの場面。平和に解決した勝と西郷はやはり「人物」だったということだろう。勝海舟に関しては、地方の藩士が勝を殺すつもりで会いに行ったはいいが、話しているうちに、最後は子分になってしまったというエピソードもあるぐらいだから、人心掌握に長けていたのかもしれない。

 それにしても、火消しに対して放火命令が出ていたとは、洒落にならない馬鹿げた話ではないか。

(みんみん須藤)








 野間みつねさんと、晩秋の清澄白河庭園を散策してきました。

 フィトンチッドをいっぱい吸収した気がします。


 せっかく記事を書いたのに、うっかり「ウィンドウを閉める」ボタンを押してしまいました……(;o;)。

宮城
企画展:仙台藩ゆかりの人ら紹介--市博物館 /宮城

 仙台市博物館の企画展「仙台人物誌~江戸時代のあんな人、こんな人~」が開かれている。これまであまり脚光を浴びることのなかった仙台藩にゆかりのある人々も含め41人を紹介し、藩史を浮かび上がらせようとするユニークな企画だ。

 (1)仙台藩を支える(2)学び、人を育てる(3)文化でつながる(4)幕末を駆ける--の4章構成。学問では、1万冊近い蔵書を藩に寄付し、日本最初の公共図書館とされる「青柳文庫」の基礎を作った青柳文蔵(1761~1839)らを紹介。幕末では、戊辰戦争で奥羽越列藩同盟に尽力し、非業の死を遂げた玉蟲左太夫(たまむしさだゆう)(1823~1869)、坂英力(1833~1869)らを取り上げた。また、福沢諭吉を通じて洋書を買ったり、高橋是清を米国に留学させた大童信太夫(おおわらしんだゆう)(1832~1900)にも触れている。

 同館の水野沙織学芸員は「藩にはさまざまな人材がいて、藩の歴史はこういう人たちによって作られたということを感じてもらえれば」と話している。

 今月27日、12月11、19日にはいずれも午前10時からクイズイベントがあり、甲冑(かっちゅう)姿で観光客をもてなしている「伊達(だて)武将隊」が答え合わせや記念撮影会を開く。展示は12月19日まで。一般・大学生400円、高校生200円、小中学生100円。【高橋宗男】

福島
会津若松市→九大 交流の胸像
初代総長が縁
 幕末に会津藩士の家に生まれ、九州大学の初代総長などを務めた山川健次郎の胸像が24日、会津若松市から同大に贈られた。同市と同大は、交流促進など連携協力についての協定も締結。今後、市内の高校、大学と九州大との人材交流などを検討しているという。

 胸像は高さ約70センチ、重さ約48キロのブロンズ製。九州大が来年創立100周年を迎えるのに合わせて移転準備中の伊都キャンパス(福岡市西区)に設置され、来年5月に除幕式が行われる。

 会津若松市役所で行われた贈呈式で有川節夫・九州大総長は、胸像について感謝の意を示したうえで、「山川初代総長の建学の精神は今も生きている。総合大学なので、あらゆる分野で協力関係を結べると期待している」と述べた。

 また、生誕150年を記念して胸像を製作し、市に寄贈していた山川健次郎顕彰会の高木厚保会長は「今後、多くの会津出身者の人材育成を、九州大で引き受けてもらえれば」と話した。


茨城
「幕末と明治の博物館」盛況 「龍馬伝」追い風 大洗町営後5割増員 茨城
 
今年6月から大洗町営になった「幕末と明治の博物館」(同町磯浜町)が好調だ。映画「桜田門外ノ変」やNHK大河ドラマ「龍馬伝」の影響もあり、入館者は約5割増に。現在、幕末の志士で、同館創立者の田中光顕(みつあき)にスポットを当てた町営後初の企画展が開かれている。(三保谷浩輝)
 「ご家族連れや若いカップル、女性だけのグループも珍しくなくなりました」
 同館学芸員の尾崎久美子さんは、特に“歴女”ら女性の来館に手応えを感じている。同館によると、町営後6~10月の5カ月間の入館者は、財団法人常陽明治記念会運営だった昨年同期(6225人)に比べ9042人、45・3%の大幅増。好調の要因は他県へのPRやドラマ、映画の影響などが挙げられる。
 また、開催中の企画展「坂本龍馬、中岡慎太郎らと活躍した歴史の証人 田中光顕と常陽明治記念館」も興味深い展示品が並ぶ。
 田中は、天保14(1843)年、土佐生まれ。武市半平太らの土佐勤王党を経て脱藩後、高杉晋作や中岡慎太郎に師事し、坂本龍馬らとも交流。龍馬と中岡の暗殺直後、最初に現場に駆けつけた。維新後は宮内相など要職を務め、昭和14年死去。幕末志士で最長命とされる97歳だった。
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 晩年、勤王の志士の顕彰に力を注ぎ、関係資料の収集、刊行や官位の追贈、記念館や銅像の建設などに積極的だった。この地に同館の前身「常陽明治記念館」を建てたのは土佐時代から水戸学を学び、桜田門外の変なども含め水戸藩の志士らに共感していたため、ともみられる。
 「自分は長生きしてしまったという思いから、新しい日本を築きながら(それを見ずに)亡くなった志士たちの顕彰に熱心になったのでは」と尾崎さん。
 企画展では、志士らの遺墨、肖像画などのほか、伝記「伯爵田中青山」に残した志士たちの人物評(別表)も紹介。さらに、田中が87歳のときに高杉の教えなどを録音した肉声を聞くこともできる。
 12月7日まで。入館料一般700円ほか。水曜休館。問い合わせは(電)029・267・2276。


大阪
「岸和田銃」初の実物発見
 文献でしか知られていなかった旧岸和田藩の鉄砲鍛冶が製作したとみられる火縄銃がみつかり、堺鉄砲研究会主宰の澤田平さん(75)が発表した。岸和田銃の実物が見つかったのは初めてという。岸和田市教委は「展示するなどして市民に紹介できるようにしたい」としている。

 大阪市東成区在住の骨董(こっとう)品収集家の孫から鑑定を依頼され、昨年8月に譲り受けた。全長1・8メートル、口径14ミリ。銃身には「泉岸住 佐藤義定」の銘が刻まれ、佐藤文吉郎義定(生年不明、1868年没)の作とみられるという。

 銃身の先から弾を込める方式で、銃身の鍛え方、銃床の木の細工や発火方式などから、幕末期に作られたもので、澤田さんの鑑定では、当時日本の最高水準だった堺の鉄砲鍛冶と技術的に同レベルという。

 岸和田市教委郷土文化室の山中吾朗・郷土史担当長は「岸和田藩当時は、鉄砲町という地名もあったが、実物の銃が見つかったのは貴重だ」とし、澤田さんは「岸和田はだんじりだけでなく、立派な鉄砲鍛冶もいた城下町だったことが実証でき、うれしい」と話している。


広島
幕末の武士の姿、子孫が出版
 幕末の岩国で吉川家に仕え、勝海舟に師事して変革を志した中級武士、粟屋佐兵衛の生涯を描いた「幕末の胎動 佐兵衛と海舟」が出版された。著者は大竹市出身で佐兵衛の子孫の山本尚さん(65)=東京都。激動の時代に向かう地方の自負と苦悩も重ね合わせた。

 山本さんは母方の祖先の佐兵衛が眠る岩国市錦見の普済寺を10年前に訪問。碑文に刻まれた勝との交流、佐兵衛の門人で後に初代大審院長となる玉乃東平(世履)らとの深い親交を知った。

 その後、岩国に10回ほど通い、岩国徴古館所蔵の文献を調べ、郷土史家を取材。「海舟日記」なども参考にして、歴史小説の形にまとめた。

 「海舟から新しい何かを感じた佐兵衛は、時代の先駆けを求めて楽しく生きた」と山本さん。墓碑前で出版を伝え、「幕末の人々の姿から今の時代を考えてもらえれば」と話した。東京図書出版会発行。四六判292ページ。1400円(税抜き)。千部作製。リフレ出版=電話03(3823)9171。

【写真説明】「佐兵衛に報告できます」。墓碑の前で、著書を手に語る山本さん


香川
塩飽水夫の功績顕彰/咸臨丸渡米150年で企画展
 咸臨丸渡米150年を記念し、多度津町立資料館で企画展「幕末236件に活躍した塩飽の男たち」が開かれ、日本の海運業を支えた郷土の水夫の功績を顕彰している。28日まで。

 ことしは同館の開館20周年でもあり、郷土の先人たちにスポットを当てようと同展を企画。咸臨丸の構造図や航海目録のコピーなど資料約200点を出展している。

 咸臨丸の水夫50人のうち、35人が塩飽諸島の出身者。同町の高見島、佐柳島からは6人が乗船した。中でも佐柳高次(佐柳島出身)は、帰国後、勝海舟の引き合わせで坂本竜馬と出会い、海援隊の前身・亀山社中の同人となり、竜馬の死を妻に伝えたとされている。

 同展では、佐柳がアメリカ土産として持ち帰った絵皿2枚、ギヤマンのコップ2個のほか、竜馬を崇拝していた佐柳が「坂本龍馬神宮」と自筆した縦約122センチ、横約30センチの板なども展示している。

 同館は「塩飽諸島はかつて、日本で重要な地位を占め、優秀な人材を多数輩出していた。過疎化が進む島しょ部に再び注目してほしい」としている。

高知
容堂「日本海のカニ、気味悪い」 春嶽と礼状でやり合い
「初めて見たけど、こんな気持ちの悪いものをよく食べるね」。前土佐藩主の山内容堂が幕末の動乱のさなか、正月に日本海の冬の味覚ズワイガニの足を贈ってくれた前福井藩主の松平春嶽に、そんな礼状を送っていた。容堂がお礼に鯨肉を贈ると、今度は春嶽が「においが厭(いや)で人にあげてしまった」「カニの足が気持ち悪いなんて笑ってしまう」と逆襲。「幕末の四賢侯」にしては、お互いに大人げないような……。

 春嶽の地元、福井県立図書館が保管する「松平文庫」には、春嶽が容堂らとざっくばらんに交わした手紙の写し「御書翰(かん)」「御来翰」が残されている。

 大政奉還の4年ほど前の1864年正月、容堂と春嶽の2人は参預会議のため京都に滞在していた。容堂から「鶴」の肉を贈られたお礼に春嶽がカニの足を贈り、「このカニの足は国元より送ってきたものなので、今晩の祝杯の御用にさし上げます」(現代語訳は福井県文書館による)と書き送った。容堂は「初めて見たけど、気味が悪くて大閉口。この鯨の肉をお礼にさし上げるよ。こんな気持ちの悪いものをよく食べるね」と返信。春嶽はその返信で「鯨肉をいただいたけれど、においが厭で人にあげてしまったよ」「カニの足が気持ち悪いなんて笑ってしまうよ」とやり返した。

 手紙では互いに「酔翁」(容堂)が春嶽を「閑鴎先友」、「九十九橋外史」(春嶽)が容堂を「九十九洋盟台」と呼びあうなど、くだけた親密ぶりがうかがえる。

 一方、手紙は時勢も色濃く反映している。容堂が末尾で「長州の暴発は言語道断。何かご存じ?」と問えば、春嶽は鯨肉の悪口を書く前段で「火船を砲撃、ついに沈没させた(薩摩藩が借用中の幕府汽船長崎丸を長州藩が撃沈した)事件は承知している。ほかに暴発事案があるのか?」と重大な関心を示していた。

 風雲急を告げる幕末の京都で、年始のあいさつと進物のやりとりを装いつつ、情報交換をしていたとは――。さすがは「四賢侯」だ。(福井総局・荻原千明)

佐賀
佐賀偉人伝第1弾 「鍋島直正」発売
 幕末から明治期に活躍した佐賀の偉人をシリーズでつづる人物誌「佐賀偉人伝」の第1弾となる佐賀藩10代藩主「鍋島直正」が完成し、発売された。偉人伝シリーズは、激動の時代に活躍した「佐賀人」の足跡を広く知ってもらおうと、県立佐賀城本丸歴史館(佐賀市城内2丁目)が発行。最新の研究成果や逸話を織り交ぜ、親しみやすい内容を目指している。

 「天下の憂(うれい)に先(さき)んじて憂い、天下の楽(たのしみ)に後(おく)れて楽しむ」(直正揮毫(きごう)の書)-。

 直正(1814-71)の品格をうかがわせる一文。大規模な藩の行財政改革や藩校(弘道館)教育を推進し、大砲や蒸気船製造など日本の近代化を先導。佐賀藩を幕末の雄藩に育てた。シリーズ第1弾では、直正が推し進めた数々の改革と挑戦を、豊富な史料を用いて描く。

 著者の杉谷昭歴史館館長(82)ら編集委員会メンバーは19日、県庁を訪れ、古川康知事に完成を報告。杉谷館長は「教科書に出てこない幕末のうねりを伝えたい」と話した。

 偉人伝シリーズは直正や江藤新平ら「佐賀の七賢人」のほか県出身8人を加えた15人程度を紹介する。本年度の発行予定は、日本初の政党内閣をつくった政治家で早稲田大学の創始者「大隈重信」(来年1月10日)、近代洋画を主導した初の文化勲章受章者「岡田三郎助」(来年3月10日)。

 第1弾の「鍋島直正」はA5判、112ページ。税込み千円。20日から歴史館や書店で発売開始。インターネットの電子書籍でも発売(税込み800円)。杉谷館長による著者講演会が12月5日午後1時半から、歴史館である(入場無料。申し込み不要)。


大浦慶 関東でも活躍?
 幕末から明治初期にかけて活躍し、NHK大河ドラマ「龍馬伝」にもたびたび登場する長崎市出身の女性貿易商・大浦慶(1828~84)。嬉野茶の名声を高めたが、たばこ輸出のつまずきでさびしい晩年を送ったという「定説」は間違いと、神奈川県鎌倉市長谷、翻訳会社経営田川永吉さん(74)が12月に出版する小説「女丈夫(じょ・じょう・ふ) 大浦慶伝」(文芸社刊、四六並判226ページ、本体1400円)で指摘している。多くの史料を読み解き、活躍の場を関東に移した大浦慶が商売人としての生涯を全うしたと推論する。(長沢豊)
 大浦慶は長崎・思案橋近くの油屋町にあった油商店「大浦屋」に生まれた。526戸が焼ける大火に見舞われ、約250年続いた油商が行き詰まる。そこで嬉野茶の輸出を試み、1853(嘉永6)年、出島在留のオランダ人に見本を手渡し販路を英国や米国に求めた。3年後に英国貿易商から1万斤(6トン)の注文を受け、茶の輸出で名声を得た。
 しかし、明治初め、熊本藩士のたばこ輸出売買契約の保証人になり、藩士の裏切りで1500両(現在の約1億5千万円)の保証金返済を求められ、財を失った。その後、慶はさびしい晩年を過ごし、1884(明治17)年4月13日に生涯を閉じた、と伝えられていた。
 田川さんは日本で初の貿易会社を創設、有田焼の輸出など各種事業を手がけた佐賀藩下級武士、松尾儀助の曽孫(ひ孫)。儀助の活躍を小説にし、昨年12月に出版。その中で大浦慶と儀助の関係にも触れ、大浦慶の晩年や人間性、時代への役割についても史料を集めて詳しく書き残そうと思ったという。
 嬉野市の茶製造業者や佐賀市の郷土史家、有田町歴史民俗資料館の協力を受け、国立公文書館アジア歴史資料センターなどに通い、多くの大浦慶の史料や新聞記事などを読み解いた。
 そこから、たばこ輸出契約のつまずき以降、慶は心機一転、横浜の官営製鉄所の払い受けや明治政府所有の軍艦高雄丸の購入と売却などで活躍の場所を関東に移し、商売人としての自負を失わず、晩年も旺盛な活躍を続けていたことが浮き彫りになった。長崎時代に築き上げた大隈重信や陸奥宗光など幅広い人脈をたどり、商いへの飽くなき夢を追い続けた、と結論づけた。
 史実と記録、文書などで裏付けられた個所はノンフィクションで、明らかになっていない部分は史料などから推量し、フィクションで書いた。田川さんは「慶は舞台を横浜、東京に移していた。遠く離れた長崎では特に注目されず、晩年の姿がさびしいものだったとされたのではないか」と話している。


エンターテインメント
[JIN]530万部突破の医療マンガ完結 10年の連載に終止符 来春ドラマ化
 幕末にタイムスリップした医師の活躍を描き、ドラマがヒットした村上もとかさんのマンガ「JIN-仁-」が、24日発売の「スーパージャンプ」24号(集英社)で最終回を迎えた。村上さんは「長い間のご愛読、本当にありがとうございました。来春のドラマもお楽しみに」とコメントしている。

 大学病院の脳外科医だった南方仁が、幕末にタイムスリップしてしまう。満足な医療器具や薬もない状態で人々の命を救う中、坂本龍馬や勝海舟ら幕末の英雄と知り合い、激動する歴史に巻き込まれる物語。00年4月から連載され、コミックスは累計530万部を発行している。

 09年10~12月、大沢たかおさん主演でTBSでドラマ化され、最終回は視聴率25.3%、瞬間最高視聴率29.8%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)を記録した。11年4月から続編の放送も決まっている。最終巻20巻は11年2月発売予定。

 最終回読みました。タイムパラドックスをそういう形で締めてくれて、最後までよかった。









 今日は大河ドラマ『龍馬伝』最終回。風邪気味なので軍鶏鍋を用意したいところですが、刺客亀次郎に襲われるのが怖い(爆)ので平目のあらとキノコをたっぷり入れた鍋にしました。針灸の先生によると、キノコは免疫力アップにいいそうです。

北海道
気合響かせ剣道に汗 新十津川中で公開授業
【新十津川】新十津川中(高瀬裕二校長)で26日、1年生32人が剣道の公開授業に汗を流した。幕末14件に京都御所の警備にも当たった郷士の出身地として知られる奈良・十津川郷の流れをくむ町だけに、剣道熱は盛んで、生徒たちは体育館の中に気合を響かせた。

 同校は昨年から冬季の体育に剣道を取り入れ、この日は町内の他校の教諭らが参加した公開研究会の公開授業。西谷広大教諭(29)=4段=らが1年B組の男女を指導した。

 3人ずつに分かれ、生徒は「三段打ち」を練習した。掛かり手の生徒が気合を込めて小手、面と連続技を繰り出すと、元立ちの生徒はしっかりと受け止め、上達ぶりを見せていた。

 西谷教諭は「竹刀で打っても打たれても、礼節を重んじる心を学んでほしい」と話していた。(塚田博)


宮城
石巻の映画館「岡田劇場」でぼや
 石巻の映画館「岡田劇場」でぼや 27日午後2時56分頃、石巻市中瀬の木造2階の映画館「岡田劇場」(オカダプランニング経営)で外壁の一部を焼いた。けが人はなかった。
 石巻署の発表によると、同劇場の火災報知器が作動したため、同社社員が確認したところ、北側のショーウインドー内に煙が充満していた。近くの国道で道路拡張工事をしており、同署は、工事の火が飛び火した可能性もあるとみている。
 同社によると、同劇場は幕末の芝居小屋が前身。約150年の歴史があるが、現在の建物は戦後に建て替えられたものという。


福島
「七福神の幸せ回廊」で観光誘客 若松
 大正ロマンの町並みで知られる会津若松市七日町通りで、身近な神社や寺院にスポットを当てた門前町構想が動きだす。
七日町通りまちなみ協議会が周辺の神社、仏閣をめぐる「七福神・幸せ回廊」を設定し、地図を作成する。
 阿弥陀寺にあった大仏の再建も視野に入れる。
 七福神は阿弥陀寺、長福寺御姥尊(おんばさま)、笠間稲荷神社、西蓮寺、七日町地蔵尊、常光寺、田中稲荷神社。
 阿弥陀寺には戊辰戦争で戦死した約1280体の東軍墓地や明治になって鶴ケ城から移築した御三階、新選組三番隊組長斎藤一の墓がある。
安産の守り本尊として知られる長福寺の「御姥尊」や、京都・宇治の茶作り商人が家出した息子と出会ったという言い伝えのある常光寺の「めぐりあい観音」もあり、観光客にとっても魅力的なスポット。

 某ゲーム&アニメの影響で、斎藤一の墓、賑わっているだろうなぁ……(汗)。

鶴ケ城:化粧直し中 シャチホコを天守閣に再設置--会津若松 /福島
 屋根瓦のふき替えなど化粧直ししている会津若松市の鶴ケ城で26日、工事のため取り外されていたシャチホコが天守閣に再設置された。工事は3月まで続くが、天守閣の上層部分を覆っているシートは12月中旬までに外され、シャチホコも半年ぶりに姿を見せる予定だ。
 工事は「往時の天守閣再現事業」として行われ、屋根瓦を黒から赤に替えるなどして江戸末期の城の姿に近付ける。シャチホコは1965年、現在の天守閣建設を請け負った準大手ゼネコンの社長から同市に寄贈され、今年6月に取り外されていた。幕末期の城にはなかったが、同市はふき替え後も据え続ける。
 工事の影響で、今年4月から10月の天守閣の入場者は前年同期比33%減の約39万人にとどまっており、年間入場者は過去最低だった02年度の約52万人を下回る見通しだ。同市観光公社は「リニューアル効果で、年末年始から盛り返したい」と話している。【太田穣】


銀のしゃちほこおかえり 会津若松・鶴ケ城天守閣に設置
 瓦のふき替え工事が行われている福島県会津若松市の若松城(鶴ケ城)で、工事に伴って外されていた「銀のしゃちほこ」が26日、5カ月半ぶりに5層の天守閣の上に戻された。
 しゃちほこは1965年に天守閣が再建された際、工事を請け負った当時の建設会社の社長が寄贈した。雌雄一対で高さ1.5メートル、重さは各200キロあり、うろこには銀箔(ぎんぱく)が張られている。
 若松城ではこれまでの黒い瓦を幕末当時の赤瓦にふき替える「往時の天守閣再現事業」が進行中で、しゃちほこは今年6月10日にいったん取り外された。作業員は26日、大型クレーンを使って慎重にしゃちほこを上げ、地上約37メートルの天守閣の上に無事納めた。
 工事は来年3月下旬に完了する予定。天守閣全体を覆っている足場やシートは、年内に3層以上の部分が取り外される。




群馬
小栗上野介展12月4日から高崎で 米国から持ち帰ったねじ等出展
 「遺米使節150周年記念 小栗上野介展」(主催・小栗上野介展実行委員会)が12月4日から14日、群馬県高崎市の高崎シティギャラリー第一展示室で開催される。入場料は無料。
 高崎市にゆかりある幕末の偉人・小栗上野介忠順が遣米使節の一行として日米修好通商条約批准書交換等の任務を果たし帰国してから150周年となる。幕末の変動期に埋もれてしまった遣米使節の史実と日本の近代化の礎を築いた小栗上野介忠順の偉大なる功績をより多くの人々に紹介し、史実に基づいた正しい歴史認識と理解を深めようと、高崎市制施行110周年記念事業の一環として今回の催しが企画された。

 催しでは、遣米使節三船模型(ポウハタン号、ロアノウク号、ナイアガラ号)、アメリカから持ち帰った遺品(ねじ・釘、ピストル、望遠鏡、ハンドドリル)、東郷平八郎の書、関連写真パネルが展示される予定。

 問い合わせは、小栗上野介展実行委員会事務局(電話)027-378-3111(URL)高崎市ホームページ・http://www.city.takasaki.gunma.jp/shisho/kurabuchi/chiiki/oguriten.htm まで。

 ▽後援 群馬県・群馬県教育委員会・高崎市・高崎市教育委員会・朝日新聞前橋総局・産経新聞社前橋支局・上毛新聞社・東京新聞前橋支局・毎日新聞社前橋支局・読売新聞前橋支局・ラジオ高崎・小栗上野介顕彰会

 ▽協力 財団法人德川記念財団

 ▽協賛 東善寺 ※外部リンク

 なお、本紙では2008年11月に「小栗上野介忠順 幕末、米国から持ち帰ったねじ」と題した特集を展開しました。産業の塩と称される「ねじ」の進化、発展の布石を打ったとされる小栗公の歴史を振り返りながら「ねじ」の原点を振り返ってみました。関連記事はこちら


神奈川
27日(土)"龍馬"対談
 今年6月に発足した、「さがみ龍馬先生顕彰会」(溝渕誠之会長)主催による、第三回の勉強会が今週27日(土)、誠心第二幼稚園(南区相模台)で開催される。12時半開場、13時開演。入場は無料(先着100名)。

 今回のテーマは、「不世出の大偉人 坂本龍馬先生を生んだ『土佐』の風土とは」。会長を務める高知出身の溝渕氏と、同会の顧問である大正大学招聘教授の土屋侯保氏が対談形式で、幕末の偉人を当地の独特の風土から解き明かす。問事務局【電話】042・770・7358



山梨
たんすから江戸期古文書
都留・円通院 研究者ら発見
当時の土地利用記す

 学習院大大学院生らでつくる研究グループが都留・円通院で行った収蔵品調査で、江戸時代に下谷村(現都留市谷村地区)の名主が代々引き継いできた検地帳などがこのほど見つかった。同グループによると、当時の土地所有や利用状況を知ることができる史料で、今後、解明を進めていく。
 円通院は谷村藩主・秋元氏ゆかりの寺として知られる。今月下旬から改築工事を行うため、佐々木俊道住職の親せきで遊行寺宝物館(神奈川)の遠山元浩学芸員が調査を提案。同大学院生や歴史研究者と、蔵や庫裏の収蔵品を調査した。
 検地帳は、庫裏に保管されていたたんす(御水帳箱)の中から見つかった。村の領主が名主にあてた、村に年貢の納入を命じる「年貢割付状」や領収書「年貢皆済目録」などもあった。明治以降の文書が確認されなかったことから、幕末期か明治維新後間もなく名主が寺に預けたとみられる。
 こうした古文書は、江戸時代に名主など村役人を務めた家や市町村が保管している事例が多いが、所有者の自宅の改築などに伴って処分されたり、売却されたりしてしまうケースもあるという。
 このほか表紙に「小前(一般村民のこと)連印帳」と書かれた帳簿もあった。村民が何らかの取り決めごとをして連印したとみられる。いずれも「都留市史」編さん時には未確認だった史料で、今後、目録を作成して本格的な調査を行う。
 同大大学院の安藤正人教授(アーカイブズ学)は「保存状態が良く、歴代の名主が大切に引き継いできた様子も分かる。地域の歴史を研究する上で重要な史料で、解明を進めたい」と話している。


静岡
“竜馬暗殺の男”を訪ねて ゆかりの碑、じわり関心
 幕末最大のミステリーといわれる坂本竜馬暗殺。真相は明らかではないが、28日放送のNHK大河ドラマ「龍馬伝」最終回で、実行役として登場するのが京都見廻(みまわり)組の今井信郎(のぶお)(1841~1918年)だ。後半生を過ごした静岡県島田市の初倉地区で、足跡を訪ねる歴史愛好家が増えている。
 今井信郎は直心影流免許皆伝、講武所師範代の剣豪。京都の治安を担う見廻組与力頭となり、大政奉還後は幕府軍として戊辰(ぼしん)戦争を戦い、函館で明治政府軍に降伏。その取り調べで竜馬暗殺の関与を証言した。
 恩赦で出所後、静岡県吏として八丈島で勤務し、30代半ばで当時の初倉村に入植。牧之原台地の茶業振興に尽力し、初倉村長も務め、76歳で亡くなった。
 ゆかりの地の筆頭はかつて墓があり、碑が残る島田市阪本の種月院と屋敷跡。住職の浅倉則安さん(54)は「今は遺骨はないが、檀家(だんか)の記録に法名も残っている。以前よりお参りに来る人が多い」と話す。
 屋敷跡(阪本色尾西)には7年前、幕臣の子孫や茶業者、信郎のひ孫の今井晴彦さん(66)=東京都新宿区=が碑を建てた。「鶴ケ谷」といわれた三方を小高い丘に囲まれたくぼ地にあり分かりにくい。竜馬暗殺を祖父(信郎の三男健彦)から聞いた晴彦さんは「刺客から隠れて住んでいたらしい」と話す。
 問い合わせは、島田市博物館文化財係=電0547(35)3008=へ。

【坂本竜馬暗殺】 1867(慶応3)年11月15日夜、現在の京都市中京区の近江屋2階で、中岡慎太郎と会談中、複数の刺客に襲われた。竜馬はほぼ即死。中岡は2日後に死亡し、「近江屋事件」といわれる。実行犯は京都見廻組が有力だが、新選組、薩摩藩、土佐藩など諸説ある。


石川
映画:加賀藩舞台「武士の家計簿」県内6館で先行上映 仲間さんら舞台でPR /石川
◇家族のつながりを描く
 幕末の加賀藩を舞台に下級武士「御算用者(ごさんようもの)」の暮らしを描いた映画「武士の家計簿」の先行上映が27日、県内6映画館で始まった。野々市町御経塚の映画館「ワーナー・マイカル・シネマズ御経塚」には、森田芳光監督や主人公・猪山直之役の堺雅人さん、直之の妻駒役の仲間由紀恵さんが駆けつけ、舞台あいさつをした。
 映画は加賀藩の会計の専門家としてそろばんを手に働く武士の生活と、質素倹約の暮らしを一丸となって支える家族のつながりを描いた。
 あでやかな加賀友禅で登場した仲間さんは「現場の和やかな雰囲気が映画に表れている。心に残ったことを友達や恋人にも伝えてほしい」とPR。堺さんは「末永く愛していただける映画になった。御礼あいさつでまた石川に来たい」と話した。
 映画は12月4日から全国でも上映される。【宮嶋梓帆】


加賀藩のDNAを継承 金沢工大市民公開講座
 金沢工大市民公開講座「科学立国加賀藩のDNA」(同大、北國新聞社主催)は27日 、金沢市の北國新聞20階ホールで開かれた。同大の研究者2氏がロボットと寺院建築の 分野で藩政期から受け継がれる科学技術を紹介し、現代にも通じる課題や時代背景などを 解説した。
 「大野弁吉は現代のロボットを作るだろうか」と題して講演したロボティクス学科の佐 藤隆一教授は、幕末の科学者大野弁吉の功績が現代に生かされていないのは、技術のシス テム化を重視しない日本の風潮が背景にあると指摘。生物に共通する関節と筋肉の動きを 取り入れたロボット研究を紹介しながら「技術を理論化、システム化することが、今後の 発展につながる」と強調した。

 学生と寺院の図面化に取り組む建築都市デザイン学科の山崎幹泰准教授は、江戸時代に 寺院群が整備され、檀(だん)家(か)の寄進が寺院建築を支えてきたことを紹介。武家 の檀家が多い城下町では、明治維新を機に武士が困窮したため寺院が衰退したと語り、明 治初期に近代技術を凝らして建築された尾山神社神門について「武家が最後の意地を込め たシンボル的な存在だった」と解説した。


滋賀
おりょうの再婚相手、近江八幡の商人だった
 幕末の志士・坂本龍馬の妻おりょうは近江八幡出身の男性と再婚した-。近江八幡市立資料館が、市民にあまり知られていない「おりょうの再婚相手」について史実の発信に力を入れている。冊子にまとめたり時代行列で夫妻役を登場させたりして「意外な歴史を知って」と話している。
 おりょうは京生まれで1864(元治元)年ごろ、龍馬と内々で祝言を挙げた。67年の龍馬暗殺後も「龍馬の妻だった」と思い出を新聞記者に語り、1906(明治39)年に60代後半で没した。
 市立資料館などによると、おりょうは1875年、蒲生郡金田村(現・近江八幡市西庄町)の商人、西村松兵衛と再婚し、横須賀で暮らした。2人の墓も神奈川県横須賀市の信楽寺にかつてあった。
 資料館の河内美代子館長が5年前、松兵衛が近江八幡出身と知り、調べ始めた。西庄町の西村家跡の位置や、跡地に近い円光寺が西村家の菩提(ぼだい)寺である事実を確認した。なれそめは、おりょうの母が八日市(現・東近江市)出身という説や、伏見の寺田屋で知り合ったという説があったが、はっきりしなかった。
 西村家は1894年ごろに金田村から京都に移った。さらに「おりょうは龍馬の妻」の印象が強いことから、再婚の史実は地元・近江八幡市でもほとんど知られていなかった。
 このため、市立資料館は調べた結果をまとめた小冊子「近江八幡四方山(よもやま)話」を今年3月に刊行、実費で配っている。9月に市内で行った時代仮装行列「八幡今昔」では市民がおりょうと松兵衛を演じた。来館者からは「再婚していたとは」と反響があるという。
 河内館長は「松兵衛は、前夫の龍馬について語ることをおりょうに許していた。おおらかで、妻への大きな愛を持った人物だったのでは」と話している。


京都
龍馬の肖像画、向日で発見 「幕末」展で展示
 向日市内でこのほど、明治から昭和の終戦期まで活躍した四条派の日本画家、公文菊僊(くもんきくせん)が描いた坂本龍馬の肖像画が見つかった。公文による同じ構図の肖像画は全国で多数確認されているが、乙訓地域では初めて。市文化資料館は「希少性は高くないものの、龍馬のイメージを後々に定着させた絵」とし、一般公開を始めた。

 公文は高知出身。坂本龍馬をはじめ、武市半平太や中岡慎太郎ら同郷の維新の志士を多く描いた。中でも龍馬の絵は、昭和初期に高知に銅像が建てられたのを機に龍馬ブームが起き、肖像画を求める人が多かったことで描き始めた、とされる。

 向日市内で見つかった肖像画は絹本着色の掛け軸で、絵の大きさは縦約120センチ、横約50センチ。黒の紋付き羽織と縞(しま)の入った袴(はかま)をまとい、左手に刀を持った立ち姿が描かれている。

 上部には、日露戦争(1904~05)の開戦に当たり、昭憲皇太后(明治天皇の皇后)の夢枕に龍馬が立ち勝利宣言した、との内容の漢詩が書かれている。公文作の龍馬の肖像画にある漢詩の多くは、漢学者・中島気崢(きそう)の筆だが、今回は公文が自らが書いている。

 市文化資料館の特別展「幕末・維新の乙訓をゆく」の開催を知った向日市内の男性(58)が、所蔵する龍馬の絵に記された漢詩の意味を知りたいと同館を訪れ、公文の作と判明。その後、同館が、公文作の龍馬の肖像画を所蔵する京都市の霊山歴史館に鑑定を依頼し、本物と確認された。

 特別展は28日で終わるが、肖像画は12月5日まで延長して展示(ただし、11月29、30日休館)する。また、特別展に関連し、28日に同館が開く「日曜談話会」で肖像画の話題も。問い合わせは、同資料館TEL(931)1182。



幕末の暗号を解け 三条小橋商店街28日からイベント
 幕末の志士ゆかりの地、三条小橋商店街(京都市中京区)を巡り、暗号解読を楽しむイベント「龍馬からの暗号~5人の末裔(まつえい)に残したメッセージ」が28日から始まる。主催する同商店街振興組合の小森一宏理事長(56)は「志士のように三条通を駆け巡り、イベントを楽しんで」と話している。

 商店街のある三条通(三条大橋-河原町)には、かつて新選組で知られる池田屋騒動跡の石碑があり、商店街周辺には坂本龍馬や海援隊士をかくまった酢屋もある。ドラマでブームとなった龍馬にちなむイベントを開催し、にぎわいを生み出そうと考えた。

 イベントに参加するには、組合の加盟店で配っている「龍馬の暗号キット」が必要。暗号を解く手がかりはすべて商店街の中にあり、頭と足を使って隠された解答を導き出す。解答を商店街内の応募箱に投函(とうかん)すると抽選で会席料理など加盟店の商品が当たる。

 企画はフリーペーパー発行や参加者体感型イベントを企画する会社「SCRAP」(中京区)に依頼した。期間は12月5日まで。参加費は無料。問い合わせはSCRAPTEL075(334)5999。


奈良
「天誅組」志士が主役の歌舞伎 生駒の歴史研究家が脚本
 五條・吉野地方を舞台にした幕末の倒幕運動「天誅組の変」(1863年)を題材に、生駒市の歴史研究家、舟久保藍さん(37)が、農村歌舞伎のオリジナル脚本「虎太郎魁大和錦(とらたろうさきがけやまとにしき)」を書き下ろした。天誅組の3総裁の一人、吉村虎(寅)太郎(1837~63)が主人公。舟久保さんは「幕末の志士、虎太郎の行動力と理念を貫く姿を訴えたかった」と話す。

 3幕で構成され、第1幕「津野山桜樹(おうじゅ)の段」は、虎太郎が、土佐勤王党をつくった武市瑞山(半平太)と意見が合わず、土佐を脱藩する場面。第2幕「伊吹屋の段」は、京都の旅宿で倒幕派の公家、中山忠光卿と倒幕を計画し、恋人と別れて出陣する場面。第3幕「吉野山紅葉の段」は、五條代官所への襲撃に成功したが、京都の朝廷から倒幕派の公家が追放された「政変」の知らせが入り、吉野の山中を敗走。幕府方の隊士に銃撃され、命を落とす場面。上演時間は約1時間だ。

 執筆のきっかけは、今年の「龍馬ブーム」を受けた虎太郎の故郷、高知県津野町からの依頼だった。

 龍馬らとともに「土佐の四天王」と呼ばれる虎太郎を「地元として何とか目立たせたい」という思いで、町は、本来は4年に1回の農村歌舞伎を1年繰り上げて上演することを計画。町の川上一郎教育長が「虎太郎を語るに右に出る者はいない」と3月、脚本は初めてという舟久保さんに依頼した。

 舟久保さんは半年かけて、フィクションを交えながら脚本を仕上げ、高知市の浄瑠璃の太夫、竹本美園さんが歌舞伎の言い回しに脚色した。

 舟久保さんが、虎太郎の研究に本格的に取り組み始めたのは約12年前。「虎太郎は、土佐の脱藩第1号で、何事にも先駆けてやる実行力が魅力。庄屋の家督を12歳で継ぎ、当時、土佐山間部の庄屋の間で交わされていた『庄屋は、百姓を朝廷から預かっている。常に百姓の味方をすべきだ』という理念を貫き通す姿を脚本に込めた」と言う。

 歌舞伎は10月23日、町の国指定重要有形民俗文化財「高野の廻(まわ)り舞台」で、地元の農村歌舞伎保存会が上演。来年1月11日~3月末には、高知市の県立坂本龍馬記念館が開催する「龍馬の先を駆けた男 吉村虎太郎展」でも上演される予定という。

 川上教育長は「脚本は予想以上の内容で感銘を受けた。役者と裏方を合わせて40人以上が必要でお金もかかるが、天誅組が活動した奈良県での上演もぜひ実現させたい」と話している。(神野武美)


鳥取
海舟や隆盛ら直筆20点 鳥取初公開ギャラリー展示
大政奉還 思いを書に
勝海舟が書いた漢詩
西郷隆盛が晩年、鹿児島で書いた漢詩
 勝海舟や西郷隆盛ら、幕末から明治初期の激動の時代を生きた偉人たちの直筆の手紙や書など約20点を集めた展覧会が、鳥取市本町のギャラリーあんどうで開かれている。市出身の画商久米沢喜一郎さん(71)(神奈川県厚木市)が約40年間かけて集めたもので、県内では初公開。勝の弟子・坂本龍馬を主人公にしたNHK大河ドラマ「龍馬伝」の人気も手伝い、歴史ファンらでにぎわっている。29日まで。(家城健太)

 注目は、勝と西郷が掛け軸に書いた漢詩。勝は「隠士一床の書に対し酒、己身外の事を損つ(酒と床の間の書があれば十分、の意)」とつづった。東京で隠居生活をしていた70歳頃の作で、久米沢さんは「一線を退き、一歩離れて浮世を眺める当時の勝らしい作品」と分析。西郷の作は、坂本龍馬らと大政奉還に向けて駆け回った京都に思いをはせている。下野後、故郷の鹿児島で書いたものらしく、ダイナミックな筆致と対照的に、郷愁あふれる内容という。

 漢詩はこのほか、「忠義を尽くすとは心を尽くすこと」との自説を託した木戸孝允、「過去の偉人の言葉から多くを学ぶべきだ」と記した初代首相の伊藤博文の作品が並ぶ。西郷が後藤象二郎あてに「大政奉還について話したいことがある」としたためた手紙も展示している。いずれも、久米沢さんが関東地方を中心に、先祖が武士だった家を訪ねるなどして収集。書家で二松学舎大教授だった寺山葛常(かつじょう)さんが本物と鑑定したという。久米沢さんは「プロの書家と違い、我流で書いているところが面白い。書き手の人柄を読み取りながら、乱世を生き抜いた人々の息遣いを感じて」と話す。

 会場では、家族連れや若者らが熱心に鑑賞。夫婦で訪れた鳥取市国府町の会社員亀川明郎さん(51)は「動乱の時代を生き抜いた人たちの力強さを感じます」と話していた。

 入場無料。作品(一部を除く)の販売もある。午前10時~午後5時(29日は午後4時)。問い合わせはギャラリーあんどう(0857・21・6155)。



山口
攘夷→開国 見届ける 【下関最発見!】
◆勝山御殿 西日本最後の「城」
  大河ドラマ「龍馬伝」も28日で最終回を迎える。何人もの印象深い人物が登場したが、筧利夫さんが好演した三吉慎蔵もその一人。寺田屋で槍(やり)を振るって坂本龍馬を救った三吉は長府藩士だった。下関市田倉には、彼も出入りしていた長府藩主の居館、勝山御殿の石垣が残る。大政奉還の4年前、1863(文久3)年に建造され、西日本では江戸時代最後の城郭建築とされる。
  最後の城、というのは様々な見方があり、御殿や陣屋を城に含めるかどうかも議論が分かれる。勝山御殿は幕府が認めた城ではないが、総面積4万3千平方メートル、本丸、二の丸、三の丸を備え、その防衛機能を総合的に考えると実質的な城とみる研究者もいる。
  築城のきっかけは、攘夷(じょうい)を目指す長州が関門海峡の外国船を砲撃した下関戦争だ。長府藩主の居館は当時、海岸近くのいまの豊浦高校辺りにあったため、敵の艦砲射撃に備え、三方を山に囲まれた内陸部に移した。それが勝山御殿だ。
 藩主毛利元周が住む本丸から2キロ圏内に造られた土塁や砲台、関門は、大砲の砲弾が本丸に届かないように配置したと考えられている。市文化財保護課の中原周一さんは「海岸線での攻防の後、陸戦も想定していたのでは」とみる。
  御殿はわずか5カ月の突貫工事で完成した。「築城のために村から50人の男を提供したが、ほかの村も同じだった」。宇賀村(現下関市豊浦町宇賀)の医師古谷道庵(どうあん)は日記にこう書き残した。外国との戦に備える藩内の緊張感がうかがえる。領民がこぞって作業に加わったというから、下関市民の祖先のなかにも工事に携わった人は多いかもしれない。
  長府藩はここを本拠に、幕末から明治にかけての荒波を乗り越えていく。三吉慎蔵の日記には、勝山御殿で藩主や重役に薩長同盟の締結や京都の様子を伝えたことが記されている。
  下関戦争で欧米列強の力を見せつけられた長州は、攘夷から開国に舵(かじ)を切り、御殿は攻撃されることもなく役割を終えた。建物は明治に入って取り壊され、本丸の部屋の一部や玄関は長府毛利家の菩提(ぼだい)寺・覚苑(かくおん)寺(長府安養寺3丁目)の庫裏(くり)になった。住職の浜田光明さん(79)は「小さいころは広いなあと思いながら拭(ふ)き掃除しとったよ」と振り返る。本丸の表門は了圓(りょうえん)寺(大平町)の山門に移築された。
  御殿跡にはいまも石垣が残っている。長さは合わせて820メートル。一番高いところで8メートルに達し、往時の威容をしのばせる。
  その遺構は今年、市の公園に生まれ変わった。地元の人たちでつくる「勝山三山を守る会」は荒れ放題だった跡地を草刈りしたり、祭りや運動会を開いたりして、御殿跡の保存やPRに努めてきた。28日午前10時には現地見学会を開く。「勝山御殿は下関の宝。何としても守らなければ」。岡崎義三会長は力を込めた。
(白井伸洋)


高知
米国時代の万次郎が触った?ドアノブ、県に寄贈
 通訳として幕末の日米関係構築に奔走した県出身の「ジョン万次郎」こと中浜万次郎(1827~98)が、米国マサチューセッツ州の港町フェアヘーブンで暮らした家のドアノブや肖像画が26日、県に寄贈された。高知市の会社社長山崎啓輔さん(69)が約20年前、現地で当時の住人から譲り受けたという。山崎さんは「万次郎の功績を広めるために役立てて欲しい」と話している。

 山崎さんが寄贈したのは、万次郎が暮らしたフェアヘーブンの家の鉄製ドアノブ(重さ約1.25キロ)、鉛筆で描いたとみられる万次郎と、万次郎を助けたホイットフィールド船長の肖像デッサン各1枚(ともに縦約40センチ、横約30センチ)。

 この日、山崎さんが尾崎正直知事を訪ねて手渡し、「私が譲り受けた時はノブは不用となっていたが、万次郎も触ったはずです」と説明した。知事は「興味が尽きないですね」などと応じていた。

 県はこれらを万次郎の生まれ故郷、土佐清水市に貸与。同市は来年4月に改装オープン予定のジョン万次郎資料館(仮称)で展示・保管することにしている。

 万次郎は14歳のころ、宇佐港(土佐市)から出漁して遭難。救助された米国の捕鯨船のホイットフィールド船長に気に入られ、フェアヘーブンの船長宅で数年間暮らしながら学校教育を受けた。約10年後に帰国し、幕府の遣米使節団の通訳として咸臨丸で米国を再訪するなど、初期の日米関係の発展に貢献した。

 フェアヘーブン時代の家屋は現在、日本側の寄付で改修保存され、「ホイットフィールド・万次郎友好記念館」になっている。(亀岡龍太)


長崎
掘り出しニュース:「玉川亭」写真見つかる 龍馬ら大政奉還や倒幕議論の舞台/長崎
【長崎】坂本龍馬ら幕末の志士が大政奉還や倒幕を議論した舞台とされる長崎市の料亭「玉川亭」の当時の古写真が、横浜開港資料館(横浜市)所蔵写真から見つかった。判定した長崎大学環境科学部の姫野順一教授(62)が26日、長崎市役所で発表した。姫野教授によると、玉川亭が写った写真が確認されたのは初めて。【蒲原明佳】

 玉川亭は幕末、中島川上流の大井手橋付近(現在の同市八幡町)にあったことが、建物の基礎や塀の遺構から分かっていた。写真は英国の写真家、フェリックス・ベアトが1864~66年、大井手橋より上流にある桃渓(ももたに)橋から下流に向かって撮影したもので、姫野教授は、対岸にあった「出来大工町不動堂」が写真の上方に写っていることから、玉川亭を確認した。

 1867年9月17日、玉川亭で龍馬は土佐藩士・佐々木高行に長州藩士・木戸孝允(桂小五郎)や伊藤俊輔(博文)を紹介し、大政奉還や倒幕について意志を確認。木戸から長州藩船の修理費用の不足を相談され、龍馬らは「土佐商会」の岩崎弥太郎に掛け合い、1000両を調達したとされる。

 姫野教授は「大政奉還の流れの中で重要な会議が行われた幕末の料亭の趣が分かる貴重な資料」と話している。

 複製パネルが27日から、長崎まちなか龍馬館(同市浜町)で展示される。


江戸創業の造り酒屋 往時の趣、幕末期の2棟改修
 江戸時代に創業した造り酒屋・梅ヶ枝酒造(佐世保市城間町)の「旧むろ」と「旧仕込蔵」(いずれも国登録有形文化財)の改修工事が終わり、25日、報道陣に公開された。同酒造は来年2月の蔵開きに一般公開し、往時の趣を楽しんでもらう予定。将来的には、コンサート会場などとしても活用する方針だ。

 1787年(天明7年)の創業。1860年(安政7年)頃の建築とされる建物7棟は2002年度、国の有形文化財に登録された。このうち、旧むろと旧仕込蔵は約30年前まで糀
こうじ
を作り、発酵させる場所だったが、現在は倉庫などとして使われている。

 いずれも木造で、延べ床面積は計418平方メートル。老朽化で柱の亀裂や雨漏りなどが目立つようになったため、文化庁などの指導を受け、09年度から2か年で改修した。総事業費は、国などの補助金を含め、約5000万円。

 旧仕込蔵は全体を35センチかさ上げしたが、江戸時代のカシの柱は取り除かず、新たに杉を接ぐなどした。旧むろの天井の内側は、建設当時の竹で覆う技術を生かし、新しい竹に張り替えた。トタンだった外観は、大正時代の写真などを参考に板壁に戻した。

 長野哲也社長は「100年後も雰囲気が残るようにしたかった。安定感もあり、本来の姿に戻った」と話していた。



熊本
幕末に活躍した高木元右衛門の銅像が完成
今の菊池市出身で幕末の郷土の偉人と言われる髙木元右衛門の銅像が完成しました。今日は菊池市の福村三男市長や御所通り景観形成協議会の会員などが出席して像の除幕式がありました。髙木元右衛門は細川家に仕え、剣術や槍術で名をはせ、元治元年・1864年6月京都の池田屋で近藤勇と戦うなどした人物です。銅像は高さ約4メートルで2520万円をかけて作られ、菊池市は観光の目玉にしたいと話しています。

 「池田屋で近藤勇と戦った」ってことは……古高俊太郎捕縛の報に集まった浪士側の方ですか(汗)。









 ちょっと早めに目を覚ましました。仕事用のiPHONEに上司からのメールが沢山入ってて苦笑い。どこかで作業しないとな(^_^;)。
北海道 「坂本龍馬像」除幕式に600人
 北海道坂本龍馬記念館(函館市末広町8)の開館1周年を記念し、同館向かいに建立された「坂本龍馬像」の除幕式が14日、開かれた。関係者ら約600人が出席し、幕末志士の開拓精神が表現された銅像の完成を祝った。  坂本家9代目当主坂本登さん(73)が実行委員長を務める「函館に坂本龍馬像を建てる会」が建立計画を具体化。長崎市の龍馬像を手掛けた彫刻家の山崎和國さん(75)が製作した。1700万円の建設費用のすべては市民らからの募金でまかなわれた。  像の高さは台座部分が2・5メートル、銅像部分が3・5メートルの計6メートル。「たとえ一人でも開拓を…」という強い精神を天高く指す右手で表現し、左手には国際法律書「万国公法」を持ち、常に先を見据えて行動した龍馬を象徴するデザイン。  除幕式では、修拔(ばつ)式の後、来賓ら11人が像の除幕を行い、姿が現れると大きな拍手が起こった。制作と像を寄贈した山崎さんには、三輪貞治同館長らから感謝状が贈られた。函館青柳小、函館潮見中、函館西高校それぞれの吹奏学部が「龍馬伝のテーマ」などを披露し、式を盛り上げた。  坂本さんは「蝦夷地開拓は成し遂げられなかったが、龍馬の像がゆかりの地、函館に建立されたことはとてもうれしい。函館の新たなシンボルになってくれれば」と話していた。
福島 九州大に山川健次郎の胸像贈る/会津若松市
九州帝大として設立され来年創立100周年を迎える九州大に、会津若松市は会津藩出身で同大初代総長の山川健次郎の胸像を贈る。 同大と連携協力協定も結び、24日、市役所で胸像贈呈式と協定調印式が行われる。 胸像は健次郎生誕150周年の平成16年に山川健次郎顕彰会(高木厚保会長)が作った3体のうちの1体で市に寄贈された。 ブロンズ製の高さ70cm、肩幅65cm、重さ48kg。 ほかの2体は會津藩校日新館と会津高にある。 大学から胸像を譲り受けたいという要望が市に寄せられていた。 高木会長は「もろ手を挙げて賛成した。 九州大で会津の人材を育成してもらえればうれしい」と喜ぶ。 協定は教育活動や文化活動などでの連携を目指す。 市が大学と協定を結ぶのは会津大、福島大に次いで3校目。 贈呈・調印式には九州大の有川節夫総長が出席する。 健次郎は幕末の会津に生まれ、明治時代に米エール大に留学。 東京帝大や京都帝大の総長などを歴任した。
会津藩出身の物理学者 山川健次郎の胸像を九州大へ寄贈
 幕末の会津藩に生まれ、東京帝大総長などを歴任した物理学者山川健次郎(1854~1931年)の胸像が、福島県会津若松市から初代総長を務めた九州大に贈られることになった。来年、創立100周年を迎える九大のたっての希望で実現した。寄贈をきっかけに市と九大は今後、人材育成などで連携を強める。  胸像は生誕150年の2004年、山川健次郎顕彰会(高木厚保会長)が全国から寄付を募り、彫刻家小堤良一さんが制作した。ブロンズ製で、高さ70センチ、肩幅65センチ、重さ48キロ。3体が作られ、市内の「会津藩校・日新館」と会津高、市に贈られた。  市によると、今年7月、山川が1911~13年に総長を務めた九大から「大学の歴史の象徴として、初代総長の胸像を設置したい」と申し出があり、顕彰会などと協議して譲ることを決めた。胸像は来年5月13日、九大が移転統合を進めている伊都キャンパス(福岡市西区)に建てられる。  胸像贈呈を機に、会津若松市と九大は人材育成や文化、教育活動などで連携協力協定を結ぶ。24日に九大の有川節夫総長らが訪れ、胸像の贈呈と協定の調印式が行われる。  山川は会津藩士の家に生まれ、戊辰戦争(1868~69年)当時は白虎隊の隊士だった。明治に入って米国に留学し、エール大で物理学を学んだ。東京帝大理学部で後進の育成に力を尽くし、東京、京都両帝大の総長などを歴任した。  顕彰会の高木会長は「胸像がゆかりの地に行くのをきっかけに、会津若松市と九大が強いきずなで結ばれてほしい」と期待している。
滋賀 京極氏第7代の菩提寺か
米原・能仁寺遺跡 守護大名貴重な資料  県文化財保護協会は19日、米原市清滝の能仁寺(のうにんじ)遺跡で、室町時代の守護大名・京極氏の第7代高詮(たかのり)(1352~1401)の菩提(ぼだい)寺とみられる15世紀の寺院跡が見つかった、と発表した。中世に建てられた守護大名の菩提寺は少なく、同協会では「領地を強力に支配した守護大名と菩提寺とのかかわりがわかる資料」としている。  京極氏代々の墓がある清滝寺(きよたきでら)徳源院(とくげんいん)の南隣約3900平方メートルで、仏堂の基壇とみられる区画(南北12・5メートル、東西14メートル程度)や石垣(長さ14メートル)のほか、参道(同17メートル)、山門の跡とみられる礎石が確認された。  高詮の戒名に「能仁寺」が含まれることなどから、室町幕府の重鎮だった高詮の菩提寺だったとみられる。  鎌倉時代の守護が領地に根付いた、室町時代の守護大名の菩提寺は不明な部分が多かった。京都大大学院工学研究科の山岸常人准教授(建築史)は「中世寺院の実態や守護大名の墓所との関係がうかがえる」としている。  JR東海道線柏原(かしわばら)駅の西約1・3キロで、現地説明会は23日午後1時半。問い合わせは同協会(077・548・9780)。 <京極氏>  室町時代から江戸時代まで続いた数少ない守護大名。源氏の一派で平安後期から近江地方に勢力を持ち、鎌倉時代に京極、六角など4家に分裂。室町幕府成立に尽くし、高詮の代に幕府の重鎮となった。応仁の乱(1467~77)の後は家臣・浅井家の台頭などで衰退したが、その後も徳川家に仕えるなどして幕末まで続いた。

京都
【旬 People】花街文化の再興に挑み10年
★京都・島原「輪違屋」司太夫(つかさだゆう)

「いまにも消えそうな京の伝統の灯に、もういちど命を吹き込み通した。ウチらの時代に消してしもたら、あの寛永の名妓(2代目)吉野太夫に、申し訳のおす」
幕末には新選組も愛した、かつての京の花街・島原。時代の変遷で、現在、置き屋兼揚(あげ)屋としてただ1軒残る「輪違(わちがい)屋」の太夫。10年前、太夫の雅称にちなむ「こったいの会」を発足させ、手作りの新聞発行などを通じて花街文化を広く一般に紹介してきた。
節分の日に仮装で寺社参りをし、厄をはらう町衆の風俗「おばけ」や、年末の餅つき会(え)など、伝統行事の再興、復活に次々と挑んできた。餅つき会は今年12月23日、ホテル日航プリンセス京都での開催で復活10周年を迎える。
「試行錯誤の連続で、失敗して泣いたこともおしたけど、いろんなお方に支えられて、幸せどした」
浅田次郎の小説「輪違屋糸里」では、浅田氏の取材にも協力。作中に登場する主人公・糸里の親友、吉栄のモデルとされている。
1962年、京都市山科区生まれ。幼いころから日舞など芸事が好きで、中学卒業と同時に、つてを頼って祇園甲部に飛び込み、舞妓に。
多芸と持ち前の華やかさで人気を集めたが、6年間の年季明け後は芸妓にならず結婚の道を選んだ。しかし、たまたま同時期に輪違屋の太夫の1人が引退したことからスカウトを受け、以後は家庭生活を営みつつ、島原で活躍してきた。
島原太夫は、江戸・吉原の花魁(おいらん)がその様式を模倣したために混同されやすいが、多彩な芸事の腕や高い教養を持つ芸妓で、かつては正5位10万石の格式を誇った。
「先日、ごひいきさんが急逝しはったんどすが、生前の約束もあり、その方のお嬢さんの結婚式で、神戸で初めてとなる太夫道中を披露させていただきましたんどす。ご家族ぐるみで親しんでいただけて、ありがたいことどす」
12月の餅つき会では、1人娘の朱伽(あやか)さん(23)も、振り袖(見習い)太夫として道中などの行事を彩る。
「どうぞ京の島原の文化に触れてみておくれやす」
餅つき会の問い合わせは司太夫(電075・541・8898)へ。(吉村剛史)

孝明天皇愛用の品も 宝鏡寺で秋の人形展
 人形の寺で知られる宝鏡寺(京都市上京区)で「秋の人形展」が開かれている。皇室ゆかりの御所人形などが並び、観光客がみやびな雰囲気の中で鑑賞を楽しんでいる。  百々御所とも称される宝鏡寺は、歴代皇女が愛用した人形や品を多数所蔵しており、1957年から春と秋にテーマを設けた特別展を実施している。  今回は「幕末・宮廷女性の美」とし、孝明天皇が所有していた御所人形をはじめ、宮内庁が所有する能人形「松風」(20日まで)を紹介した。  エピソードとともに一般から公募した人形を紹介する「思い出の人形展」も初めて企画した。寺宝では、和宮が愛用した蒔絵(まきえ)を施した文箱などが注目を集めていた。幕末に記された寺の日記も閲覧できる。30日まで(午前10時~午後4時)。有料。
大阪府 国史跡に楠葉台場 京都護衛へ幕府築造
 国の文化審議会は19日、幕末当時の軍事施設の姿を残す楠葉(くずは)台場跡(枚方市)を、新たに国の史跡にするよう文部科学大臣に答申した。  府教委によると、楠葉台場は、江戸幕府が京都の護衛のために淀川左岸に築造した砲台場と関門施設。慶応元(1865)年に竣工(しゅんこう)した。  築造の背景には、尊王攘夷(じょうい)派や長州藩への対策として、京都への侵入を取り締まろうとする幕府側の意図があったとみられている。戊辰(ぼしん)戦争の舞台にもなった。  西洋式の要塞(ようさい)として砲座を設け、関門施設として京街道を台場の中に取り込んでいる構造が発掘調査で確認されており、京都を中心に展開した幕末の緊迫した状況を理解する上で重要とされる。府内にあったとみられる台場として唯一、土塁や堀などが当時の姿をとどめているという。  答申ではほかに、金剛寺境内(河内長野市)や安満遺跡(高槻市)など3件の府内の国指定史跡をめぐり、新たに指定の要件が整った部分などを追加指定するよう求めた。  府内の国指定史跡は、特別史跡2件、史跡67件になる。
なにわ人物伝 -光彩を放つ- 造幣局の人たち(2)
日本初の西洋式建築造幣局 新政府の威信かけ建設 竣工した造幣寮(局)=造幣局提供 三善 貞司  明治2(1869)年4月、造幣頭(かみ)井上馨と同判事久世治作は、明治新政府の威信をかけて造幣局(大阪市北区天満1丁目)の建設工事に取り掛かった。  責任技師は煉瓦(れんが)建築のベテラン、ウオートルス(東京銀座の赤煉瓦街や大阪の泉布観(せんぷかん)を建造)で、彼はイギリスから煉瓦を取り寄せ、堺に炉を開いて製造させる。ところが人手が足らぬ。第一西洋建築に不慣れな左官や大工たちは、おろおろしてなかなかはかどらず、おまけに同年11月仮鍛冶場(かじば)から出火し、土木司(つかさ)・鉄山司など工事を指揮する大事な役所が全焼した。このとき猛火の中に飛び込み、重要な文書類を運び出したのが、幕末の三剣豪のひとり斎藤弥九郎(本連載356回参照)である。全身に大やけどを負い、これが原因で死亡した老剣豪の活躍がなかったら、造幣局建設は画餅(がべい)に帰していたかもしれない。  不運はまだ重なる。建築資材を失った馨はイギリスに援助を求め、なんとか買い付けたが、これを積んだ汽船が香港沖で沈没、さすがの馨も火事と合わせて責任を取り辞職、後任に井上勝(まさる)(野村弥吉)が選ばれた。勝は長州藩士だが脱藩して馨や伊藤博文らとロンドンに渡り、鉱山開削や鉄道敷設工事を研究した優秀な技術家である(後に大阪に汽車製造会社を設立した運輸・交通畑の恩人)。  勝は技師長に英国人キンドルを招き、大阪中の石工を集めて再開に着手。昼夜兼行の突貫工事で、同年2月、日本初の西洋式建築造幣局が竣工(しゅんこう)する。総工費55万両。同月15日の祝賀式には右大臣三条実美や大隈重信、イギリス、フランスの公使をはじめ、内外の高官三百数十人が並び、神戸や横浜から集めた外国人コックが腕を競い、1人前15円也もの超高価料理が卓にあふれ、久世治作お手製の花火がポンポン上がり、側(そば)を流れる大川を彩って、誰もが夢心地になったという。  治作といえば前回紹介したように、貨幣の形について正方形や矩形(くけい)がいいと議論百出するなか、円形に定めた技師だが、貨幣第1号の高級品20円金貨のデザインを担当したのが、天才彫金師(ちょうきんし)加納夏雄である。治作が異論を封じるため、「西洋の貨幣は全部円形で、元首や偉人の肖像が刻まれている。人の顔は丸い。円形ならぴったりだ」と主張したのが賛意を集める。しかし日本なら元首は天皇だ。明治天皇がいいと誰かが言うと、「このバカ、そんな恐れ多いことができるか」と再びもめだした。そのとき治作は「陛下のお顔を竜顔と申します。竜の図柄ならいかがでしょう」と知恵を出したから、たちまち拍手となる。  この竜のデザインを考案したのが夏雄だ。彼は文政11(28)年京都に生まれた。幼名治三郎。森田節斎に漢学を、丸山派の画人中島来章に絵画を学んで成育する。生来指先が器用で、来章からお前は絵より彫金に向いていると勧められ、大月派の池田孝寿に師事。25歳で早くも一家をなし、明治2年治作に造幣局技師にほしいと懇望された。少年期に教わった森田節斎は、勤皇攘夷(じょうい)思想の濃い学者だ。当然その影響はある。治作から「造幣局はすべて西洋人が牛耳っておる。科学ではかなわぬが、自分は優秀な日本の伝統芸術を貨幣製造に生かしたい。そのためにはキミが必要だ。な、外国人に負けてたまるものか」と口説かれて感激、入局した気骨のある男だ。ときに41歳。  治作の依頼を受けた夏雄はさっそく水垢離(みずごり)をとって心身を浄(きよ)め、数十枚のデッサンを作る。治作がみんなで相談するから候補の数枚を見せろと求めると、言下に断った。「気の散ることは嫌です。人の意見などぜったいに聞きません。1枚だけ作ります」  それからの彼は寝食忘れ、3カ月もぶっとおしで作業場に籠(こも)った。 (地域史研究者)
江戸・岸和田藩製の火縄銃発見
 江戸幕末期に当時の岸和田藩(大阪府岸和田市など)で作製されたとみられる火縄銃1丁が見つかり、大阪市の郷土史研究グループが18日、発表した。同藩製の火縄銃の発見は初めてという。  大阪市東成区で「堺鉄砲研究会」を主宰する澤田平さん(75)が昨年8月、同区内の男性の祖父が収集した骨(こっ)董(とう)品(ひん)を調査し、火縄銃を見つけた。  長さ105センチ、重さ約2キロ。形状などから江戸後期とみられ、銃身に「泉岸住 佐藤義定作」と職人の銘があった。「泉岸住」は和泉・岸和田藩の意味。  銃身の鉄は丁寧に鍛えられ、銃床には木目のそろった材木を使用。暴発を防ぐ機構も綿密に作られていた。当時、鉄砲鍛冶で日本一の生産量・品質を誇った堺の影響を受けているとみられる。  義定は明治元年、藩に納めた洋式銃が粗悪品だったとして鉄砲隊に殺害されたという説があり、澤田さんは「この火縄銃の質の高い仕上がりからみて、義定は何らかの誤解で殺されてしまったのではないか」と話している。

奈良
「城まつり」控え企画展 土佐勤王党と天誅組を解説 奈良・高取
 高取町で23日に開催される「たかとり城まつり」にちなんだ「土佐勤王党と天誅組(てんちゅうぐみ)」展が20日、同町の土佐街道にある「街の駅城跡」で始まった。23日まで。
尊皇攘夷を掲げて幕末の奈良で挙兵した天誅組の乱は高取城も重要な舞台。展示では、土佐藩士の武市半平太が結成した土佐勤王党との関係から天誅組について解説している。
天誅組三総裁の藤本鉄石自筆の山水画や高取城の復元CGのほか、司馬遼太郎の短編小説「おお、大砲」で知られる高取藩士が天誅組を迎え撃った大砲の複製品も展示している。
展示を担当した天誅組研究家の草村克彦さんは「攻められる側の高取城から見た天誅組を楽しんでほしい」と話している。

広島 三原の江戸末期「舩木氏庭園」 登録記念物に答申 文化審、県内第1号へ 広島
 国の文化審議会は19日、三原市西町の「舩木(ふなき)氏庭園」を登録記念物とするよう文部科学大臣に答申した。江戸時代末期に造られた豪商の庭園で、正式に登録されると、県内での登録記念物第1号となる。  庭園は、江戸時代末期~大正・昭和初期にかけて、酒造業などで財を成した川口氏の別邸で、昭和2年に現在の舩木氏の所有となった。  約1900平方メートルの敷地に、茶室のある数寄屋(すきや)建築の母屋、物見櫓(やぐら)など3棟の建物と、その背景に築山(つきやま)がある。庭には飛び石や石段、井戸、手水鉢(ちょうずばち)、燈籠(とうろう)などを複雑に配置。カシ、松、ツバキなど約50種類もの樹木が植えられ、景観は多彩で変化に富んでいる。  築山は背面を2段の石垣で積み上げ、高さは3メートルに及ぶ大規模なもの。また、飛び石の高さが10~13センチと高いのも特徴という。  5畳の茶室は、幕末~明治に竹原などで活躍した茶人・不二庵の遺作とされる。物見櫓は庭園を眺めるため造られたもので、床面には花文の敷瓦による装飾が施されている。  建物、庭とも江戸時代末期の安政年間(1855~60)に造られ、以降、順次改築されたとみられる。  所有者の不動産管理会社社長、舩木和子さん(80)は、雑草をピンセットで抜くなど60年近くにわたり、苦労して庭園の管理に努めてきたという。「先祖から受け継いできたものを一生懸命守ってきました。次の世代へ伝え、末永く続いてくれたら」と話した。
長州福山和平で23日に解説会
 広島県立歴史博物館(福山市西町)は23日、展示中の長州藩と福山藩の和平交渉の記録について特別解説会を開く。入館者の関心が高く、「幕末の動乱と瀬戸内海」(中国新聞備後本社共催)の最終日に急きょ企画した。  西村直城主任学芸員が午前11時と午後3時の2回行う。古文書は縦23・5センチ、長さ231・9センチ。1868年の鳥羽・伏見の戦いで圧勝した新政府軍の長州藩が譜代大名の福山藩を攻撃した際、両藩が交わしたやりとりを生々しく記している。  入館料が必要。20、21、23日は交渉記録の現代語訳を無料配布する。22日は休館。
山口 唐樋札場跡 国史跡に/萩市
◆萩往還 起点を追加指定   萩往還の萩側の起点となる萩市東田町の「唐樋札場跡(からひふだばあと)」(広さ約404平方メートル)が、すでに国史跡となっている萩往還分に追加指定されることになった。国の文化審議会が19日、文部科学大臣に答申した。 (井口勝夫)   唐樋札場跡は、萩三角州のほぼ中央に位置し、萩往還や赤間関(あかまがせき)街道、石州(せきしゅう)街道などの起点であり、防長両国の一里塚の基点でもあった。多くの人が集まることから、幕府や藩の掟(おきて)を記した高札(こうさつ)を掲げる高札場が設置されていた。その後、跡地に商業施設などができていたが、施設の老朽化に伴って萩市は2006年度から周辺の整備を始め、発掘調査で高札場の敷地や柱穴などの関連遺構を確認。今年4月には当時の高札場も復元した。   萩往還は、萩市から山口市を経て防府市三田尻に至る全長約53キロの街道。関ケ原の戦いに敗れて周防・長門の2カ国に減封された毛利氏が、1604(慶長9)年、萩の地に新たな居城を構え始め、これに伴って萩往還は萩と山陽道を結ぶ幹線道路として整備された。参勤交代路(お成り道)として使われ、幕末の志士たちも往来し、歴史上、重要な役割を果たした。   現在も石畳や一里塚などの遺構が残り、街道沿いに多くの歴史遺産や古い街並みの姿をとどめている。萩往還の古道約9・2キロと涙松跡や駕籠建場(かごたてば)跡、終点(防府側の起点)の「三田尻御茶屋(おちゃや)」など3市にまたがる総計約4万679平方メートルが、1989年に国史跡となり、ウオーキングや観光などに利用されている。
幕末長府ヒーローズ 龍馬や松陰役が決定
 幕末維新史の舞台となった下関市長府地区の魅力を、幕末の志士にふんしてPRする「幕末長府ヒーローズ」の坂本龍馬や吉田松陰役が決まった。20日に同市長府川端の功山寺で開かれるミュージカルでデビューし、様々な機会を通して長府の情報を発信していく。  20、21日に長府地区で開かれるまちおこしイベント「幕末長府・志士たちの夢祭」の一環として、実行委員会が一般公募。演出する下関市民ミュージカルの会の伊藤寿真男代表らが応募者からメンバーを選び、配役を決めた。  配役は、松陰が会社員大西猛さん(39)、中岡慎太郎が専門学校生児玉健志さん(24)、龍馬が会社員宮本真一さん(39)。市嘱託職員菊川裕美さん(29)と会社員山本裕子さん(21)は奇兵隊士を務める。  デビューする「幕末長府night in功山寺」では、市民ミュージカルのメンバーが高杉晋作、三吉慎蔵などとして加わり、計16人で奇兵隊決起、薩長同盟成立など激動の幕末史を歌や踊りで表現する。  「幕末長府・志士たちの夢祭」ではミュージカルのほか、21日午前10時半から、城下町長府を侍にふんした約50人が練り歩く「町中幕末維新」、20、21日の午後5時半から、功山寺、壇具川、長府庭園、長府毛利邸を3000本の竹灯籠(とうろう)で飾る催しがある。  問い合わせは、実行委事務局(083・222・3333)へ。 (2010年11月18日 読売新聞)
佐賀
「佐賀12賢人」知ってる?バッジを試験販売
 佐賀市や佐賀観光協会などは、佐賀ゆかりの賢人12人の似顔絵を描いた缶バッジを制作し、17日から販売を始めた。

 地元の偉人を題材にした手軽な土産品が、ほとんどなかったことから考案した。

 バッジの12人は、初代司法卿・江藤新平や日本赤十字社を創設した佐野常民ら「佐賀の七賢人」のほか、治水の神様と言われる成富兵庫茂安や煎茶の祖・売茶翁、佐賀に上陸した徐福ら5人。1個100円。当面、試験的に各100個限定で、JR佐賀駅の市観光案内所など6か所で販売する。

 制作を企画したのは、市や観光協会などでつくる観光振興組織の歴史プロジェクト班。テレビドラマの影響で、近年、幕末・維新期のブームが国内で続いていることから、同班は「佐賀の七賢人をもっとPRしよう」と考え、バッジづくりに着手。売茶翁の活動を紹介する肥前通仙亭、徐福長寿館など七賢人以外にも、佐賀ゆかりの偉人の関係施設が、市内にあることから、5人を加えることにした。

 また、受験生のお守り代わりになればと、法律家を目指す人は江藤新平、政治を志す人は大隈重信など、分野別にバッジを選べるようにして、販売している。

 バッジには、説明文も付いており、「佐賀の役で悲劇的な最期を遂げる」(江藤新平)、「後に天皇の侍従となり天皇に愛された」(島義勇)などと記載している。

 制作を担当した同協会の桜井篤さん(45)は「佐賀の賢人は清廉潔白で先見性のある人ばかり。お気に入りのヒーローを見つけてほしい」と話している。問い合わせは同協会(0952・20・2200)へ。(遠藤信葉)

佐賀偉人伝・第一弾 は閑叟・鍋島直正
 幕末・明治期に活躍した佐賀人を取り上げるシリーズ「佐賀偉人伝」の第1回配本「鍋島直正」が20日、全国発売される。パソコン用の電子版と同時発売で、激動の時代を率いた第10代藩主鍋島直正(閑叟(かんそう)公)の人物像を浮かび上がらせている。   偉人伝は県教委が5年間で15冊を刊行する。第1回は佐賀の近代化を進め、佐賀藩が多くの人材を輩出する基盤を作った閑叟公を選んだ。  佐賀城本丸歴史館の杉谷昭館長(82)が執筆を担当。閑叟公にかかわった外国人らの言葉を豊富に引用する手法を用いて人物像に命を吹き込んだ。杉谷館長は「閑叟公が教育者だったことをあらためて認識した。限られた紙面だが、閑叟公を通じて、時代を見て取れるように工夫した」と話す。  同時発売(iPad版など一部は近日発売)の電子版は、掲載図版の拡大が可能。本文中の約30カ所で、参考図版へのリンクや人物・用語の検索機能などを追加した。パソコン版はオンライン書店「シナノブック」からダウンロードできる。  「鍋島直正」はA5判、112ページ。書籍は千円、電子版は800円。12月5日午後1時半からは同歴史館で、杉谷館長の記念講演会もある。今後は、早稲田大学の創始者で首相を務めた大隈重信(来年1月10日刊)、日本の近代洋画を築いた岡田三郎助(同3月10日刊)を予定。毎年3冊ずつ刊行する。    杉谷館長と、佐賀偉人伝編集委員会メンバーで佐賀大学の青木歳幸教授、佐野常民記念館の福岡博名誉館長が19日、県庁で古川知事に発刊を報告。古川知事はデモ用のiPad版で大砲を発射する動画を再生し「こんな音が飛び交っていたわけですね。興味を持って読ませてもらいます」と話した。 2010年11月20日更新
 

長崎 弥太郎展:三菱財閥の貴重な史料一堂に 妻あての手紙など、きょうから初公開 /長崎
 三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎(1835~85年)が、幕末に活躍した長崎での足跡や財閥の貴重な史料を一堂に集めた特別展「岩崎弥太郎・三菱の誕生と岩崎家ゆかりのコレクション」が19日、長崎市の長崎歴史文化博物館で始まる。18日、関係者向け内覧会があった。来年1月10日まで。  弥太郎は、土佐藩で身分の低い「地下(じげ)浪人」から登用され、1867年、同藩が長崎に設置していた商社「開成館長崎商会」、通称「土佐商会」の主任となり経営感覚を磨いた。明治維新後は海運業の他、高島炭鉱や長崎造船所といった長崎での事業などで三菱財閥を興した。  会場には史料約180点を展示。弥太郎が1865年に役人に登用されて作った「岩崎彌太郎」と染めたのぼりや、弥太郎が妻にあてた手紙などを初公開。岩崎家が収集した「東洋文庫」「静嘉堂文庫」の美術コレクションも展示するなど、弥太郎らが文化振興に貢献した側面も紹介する。【錦織祐一】 〔長崎版〕
パリ 薩摩焼本来の美の味わい、パリで 「歴代沈壽官展」
 幕末から明治にかけて世界を魅了した薩摩焼。140年余り前、世界の称賛を浴びたパリで、伝統の技を総覧する「歴代沈壽官(ちんじゅかん)展」(朝日新聞社主催)が開かれている。展示を支えるのは、“本物”を知ってほしいという名門窯の思いだ。  「みなさんが薩摩焼と呼んだやきものの核心がこの展覧会。400年余りにわたってつくってきた人々の魂がここに集っている」  「歴代」の展示にこだわった15代沈壽官は、パリの観客を前に、そう語った。  会場に並ぶのは、鹿児島県日置市で窯の火を守る沈家の、初代から15代までの作品約100点。素朴な茶陶、ほほえましい庶民の日常を切り取った人形や動物など大小の捻(ひね)り物、精巧な透かし彫りや浮き彫りを施した香炉、純白に輝く花瓶、豪華な金爛手(きんらんで)……。実に多彩だ。  「洗練されていて、すばらしい」。パリの観客たちは口々に漏らした。彼らの目には、かつて「SATSUMA」として欧州を席巻した薩摩焼とは似て非なるやきものが映っていたはずだ。  薩摩焼は16世紀末、豊臣秀吉の朝鮮出兵で連れてこられた陶工により生まれた。茶陶から庶民の日用品までつくられたが、なかでも薩摩藩主らに重用された「白薩摩」は、乳白色の生地と透明釉(ゆう)を覆う微細な貫入(かんにゅう)(ひび)が高貴な品格を醸し出すやきものとして知られる。  ところが、薩摩藩が参加した1867年のパリ万博で注目を集め、日本の近代化を支える輸出産業の柱となると、多くが横浜や京都でつくられるようになった。西洋趣味に迎合するあまり、金彩と絵付けで埋め尽くす華美さばかりが追求されて粗製乱造の傾向が強まる。中興の祖とされる12代沈壽官はそれを「模造品」と嘆いた。 page: 2  薩摩伝承館(鹿児島県指宿市)の深港恭子学芸員によると、本来の薩摩焼では、絵の具は素地に乗せた金泥の合間を埋めるように塗られる丁寧さがあったが、量産品は手間を省いて絵の具の上に金彩したために、退色を起こしやすくなったという。素地をほどよく残した絵付けから離れ、「本物」とは異なる姿となり、世界での評価をおとしめることになった。  まとわりついた否定的なイメージをぬぐい去り、薩摩焼本来の美を知ってもらうこと。それは、重い伝統を背負ってきた沈一族の願いだ。(編集委員・中村俊介)      ◇  パリの三越エトワールで12月11日まで。来年には帰国展が東京・日本橋三越本店(1月19~31日)、福岡三越(2月8~13日)、名古屋栄三越(3月23~28日)を巡る。  薩摩伝承館(鹿児島県指宿市)の深港恭子学芸員によると、本来の薩摩焼では、絵の具は素地に乗せた金泥の合間を埋めるように塗られる丁寧さがあったが、量産品は手間を省いて絵の具の上に金彩したために、退色を起こしやすくなったという。素地をほどよく残した絵付けから離れ、「本物」とは異なる姿となり、世界での評価をおとしめることになった。  まとわりついた否定的なイメージをぬぐい去り、薩摩焼本来の美を知ってもらうこと。それは、重い伝統を背負ってきた沈一族の願いだ。(編集委員・中村俊介)      ◇  パリの三越エトワールで12月11日まで。来年には帰国展が東京・日本橋三越本店(1月19~31日)、福岡三越(2月8~13日)、名古屋栄三越(3月23~28日)を巡る。
コラム
「歴史楽屋噺」パート1・水戸黄門は危険思想の持ち主!?
 テレビドラマで数字が取れる幕末の志士といえば、何といっても坂本龍馬。なぜか分からないが、「ベビーフェイス」のイメージが国民に浸透しているのと、“泣く子も黙る”新撰組との絡みもあるのが、その人気の秘訣だろうか。
しかし筆者は、幕末の様々な事件で一番ドラマチックだったのは、龍馬とは無縁の「桜田門外の変」であると考える。
「桜田門外の変」とは何か。長州藩の倒幕思想家である吉田松陰を大老(今でいう総理大臣にあたる)・井伊直弼が処刑し(安政の大獄)、これに対する「返し」として、何と水戸藩士たちが井伊直弼を暗殺して吉田松陰の敵を討った事件のことである。
では、なぜ水戸藩士たちが長州藩の敵を討ったのか。これは吉田松陰の尊皇思想が、水戸光圀の著した『大日本史』から多大な影響を受けていたからである。
水戸光圀(=水戸黄門)は行脚の旅などしておらず、彼の生涯は、徳川の将軍よりも、天皇を日本の中心とする「勤皇思想」と共にあったといっても過言ではない。
復讐した水戸藩士たちに言わせれば「吉田松陰先生に手をかけるのは、水戸光圀公のメンツを潰すのと同じ」といったところだろうか。とにかく「桜田門外の変」は動きが早かった。松陰の処刑後、すぐに「返し」た。
逆に普段から「吉田松陰先生に何かあったら、ワシが真っ先に飛んでいくけぇ」と言っていた高杉晋作らは何をやっていたのか。勿論江戸に向けてすっ飛んで行ったのだろうが、単純に情報や地理的な条件で、水戸→江戸の方が近かったともいえる。
(みんみん須藤)


好きな司馬遼太郎作品1位は「坂の上の雲」
好きな司馬作品の1位は「坂の上の雲」-。隔週木曜日に日刊スポーツ(東京本社版)に掲載している「日本史なんでもランキング」第3回のテーマは「好きな司馬遼太郎作品」。ニッカンスポーツコムで実施したアンケートには計1023票が寄せられ、日清、日露戦争を中心に明治という時代を描いた「坂の上の雲」が190票を獲得してトップとなった。2位は坂本龍馬を主人公にした「竜馬がゆく」、新選組土方歳三の生涯を描いた「燃えよ剣」が3位に入った。

1位 坂の上の雲(190票)

「このながい物語は、その日本史上類のない幸福な楽天家たちの物語である。(中略)楽天家たちは、そのような時代人としての体質で、前をのみ見つめながらあるく。のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶(いちだ)の白い雲がかがやいているとすれば、それをのみみつめて坂をのぼってゆくであろう」。単行本第1巻の、有名なあとがきの一節だ。

2位 竜馬がゆく(181票)

産経新聞で62~66年に連載。土佐の郷士の子として生まれた坂本龍馬が維新の大仕事を成し遂げ、33歳で暗殺されるまでを描く。

3位 燃えよ剣(143票)

62~64年、週刊文春に連載。多摩の薬売りだった土方歳三が新選組副長となり、戊辰(ぼしん)の箱館戦争で戦死するまでを描く。

4位以下の作品(4)峠 (5)国盗り物語 (6)関ケ原 (7)世に棲む日日 (8)花神 (9)菜の花の沖 (10)播磨灘物語

次回は12月2日発売の日刊スポーツで「好きな新撰組隊士」の特集です。


ブックレビュー

[読書日和]磯田道史さん 等身大の生と死から幕末を物語る
<龍馬史 文芸春秋(1400円)>
◇「武士の壁」を乗り越えた男

11月15日は坂本龍馬の命日。大政奉還が成った直後の慶応3(1867)年のこの日、龍馬は京都・近江屋で何者かに襲われ殺害された。諸説ある暗殺の背後関係に、虚心坦懐(たんかい)に迫るとともに、虚像が広がる龍馬を等身大に近づけようと試みたのが本書である。
「龍馬は、勝海舟、西郷隆盛、岩倉具視らキーマンに必ず会いにいった。その足取りを追うことで幕末史がおのずと理解できます」
王朝の過去を記すときに用いる「史」をあえて書名に選び、龍馬をもって歴史を語る意味を込めた。
NHK教育テレビで今春放送された「古地図で巡る龍馬の旅」の講師を務め、そのテキストに加筆した。平易な記述に、読みどころがちりばめられている。
そもそも、なぜ龍馬のような人物が出てきたのか。旧来の龍馬像は貧しく虐げられた郷士だが、実家は高知城下屈指の豪商だった。坂本家は近江国(滋賀県)坂本の出身で、明智光秀の関係者ともいわれる。
「忠孝の世界に生きれば明智系の祖先を否定することになるため、武士道徳から自由になりやすかった。豪商の出だったので、商売を卑しむ武士の発想にとらわれませんでした」
江戸の剣術修行の人脈も大きい。千葉道場のつてをたどって松平春嶽や海舟の知遇を得た。龍馬の事績といえば薩長同盟や大政奉還だが、強大な経済力と軍事力を有する海軍を創設し、「武士の壁」を乗り越えたことを高く評価する。
他方で、戦争と平和を両てんびんにかけた幕府とのしたたかな交渉からは単純な平和論者とも言えないと強調した。「日本を今一度せんたくいたし申し候、の前段には、幕府の役人を打ち殺しと書かれています」
経済の状態や社会の様子を政治史に加味した、著者独自の史観が光る。
そして、物語は日本史上最大のミステリーとされる暗殺の論証へ。新撰組黒幕説、紀州藩黒幕説、土佐藩黒幕説、薩摩藩黒幕説。史料を一つ一つ検証し、襲撃犯が証言した逃走ルートを歩いて得た答えとは――。
「龍馬は他の志士に比べると警戒心を持たない。誰にでもすぐ会うから人脈が広がり大仕事はできたのですが、暗殺には弱かった」
複雑な政治も、お龍との新婚旅行も、龍馬は隠さずに姉や友人に書き送った。現代人に近い素顔を伝える直筆の手紙は、実に楽しいものだという。【岸俊光】

……………………………………………………………………………………

■人物略歴

◇いそだ・みちふみ

1970年、岡山県生まれ。慶応大大学院博士課程修了。茨城大准教授。近世史が専門。中学から古文書に親しむ。新潮ドキュメント賞受賞の著書「武士の家計簿」を原作とする同名の映画が12月4日全国公開される。


今週の本棚・本と人:『熱い夜明け』 著者・塩田潮さん
(講談社・1890円)
◇政権交代の起源を求めて--塩田潮(しおた・うしお)さん
民主党の研究で知られるノンフィクション作家が、日本の議会政治誕生のドラマを初の小説として描いた。中江兆民、植木枝盛(えもり)、馬場辰猪(たつい)という土佐出身の民権思想家たちが同郷の作家の手で新たな命を吹き込まれ、政権交代の起源が明かされる。
「2007年参院選で民主党が大勝して、次の総選挙で政権交代が起きるのではという空気になった。前々から資料は集めていたのですが、そのころから本気で書きたくなりました」
第1回衆議院選挙は1890年(明治23)7月。この年11月に帝国議会が召集され、大日本帝国憲法が施行された。それに先立って福沢諭吉は、長くても5年以内の政権交代を唱えた。
だが本格的な政権交代が実現したのは119年後の昨年夏。総選挙で民主党が一気に過半数を獲得し、直前まで単独過半数を握っていた自民党が負けて与野党が入れ替わったのは、憲政史上初の出来事だった。
幕末維新は雄藩による一種の国盗(くにと)り物語として語られることも多い。その背後で政治文化はどのように導入されたのか、中でも立法機関がどう具体化したのかに、関心があったという。
「維新後のキーワードのうち自由は兆民、議会は辰猪、憲法は枝盛、と僕は位置づけます。三人は思想家であり、運動家であり、政治家でもありました」
土佐藩江戸上屋敷での出会いを経て兆民はフランス、辰猪は英国へ。板垣退助の演説を聞いた枝盛は政治を志す。それぞれの人生が交差し、物語は初の総選挙、第1回議会に終着する。
『高知新聞』の連載記事を基に、加筆・修正を加えた。架空の人物などは登場しないが、会話の中身には想像を膨らませたという。ディープな土佐弁が人間臭さを増し、ふるさとに寄せる作家の愛着まで伝わってくるようだ。
「書いていて楽しかったですね。三人は政治の現実に屈しました。しかし彼らの思想は、やがて大正デモクラシーや新憲法の中によみがえったのです」<文・岸俊光/写真・佐々木順一>
エンターテインメント ドラマ初、ゴールデン枠の再放送決定!幕末タイムスリップ時代劇『JIN-仁-』
年末のゴールデンタイム枠に  大沢たかお、綾瀬はるか、中谷美紀らが出演する、2009年10~12月のTBS系連続ドラマ『JIN-仁-』が、年末のゴールデン枠にて計9時間分を一挙再放送する事が17日、判明した。 連続ドラがゴールデンタイム枠で再放送されるのはドラマ史上初めてであるという。 今月までに同局では過去最多となる国内外の各種テレビ賞計30冠を獲得しており、人気ドラマの再放送で更なる成功を図る格好だ。続編製作の企画も進んでおり、今回の再放送は物語の振り返りの意味もある。  漫画原作、幕末にタイムスリップした脳外科医・仁先生の物語は12月27日午後7時、28日午後7時、ディレクターズカット版を4時間半ずつ放送予定。
コラム 【幕末から学ぶ現在(いま)】(88)東大教授・山内昌之 村橋久成、“吏道”を捨てた正義感
 平成17年9月に、北海道知事公館の前庭で或(あ)る胸像の除幕式がおこなわれた。その人物、村橋久成は、北海道開拓使に出仕し麦酒醸造所(サッポロビールの前身)を造った薩摩人である。彼は、道内各地に勧業試験場、製糸所、葡萄(ぶどう)酒醸造所、鶏卵孵化(ふか)場、牧羊場などを創設し、開拓と産業の基礎を築いた北海道の恩人にほかならない。  かつて藩の御小姓組番頭(ばんがしら)だった23歳の村橋は、英国留学生に選抜された毛並みの良さを誇り、維新後も薩摩閥の黒田清隆の引きを受けていたのだから、他の英国留学組のように末は大臣や顕官(けんかん)になってもおかしくなかった。しかし、明治14(1881)年に開拓使を辞めた後に行方不明となり、明治25年に神戸で行路病者(行き倒れ)として保護され3日後に死亡した。村橋の生き方を見ると、つらつら職業への誇りや使命感、それに男の意地といった点でも、いま話題の海上保安官の姿と重なる部分も見えてくる。 黒田と違う理想家の悲劇  村橋の運命は、明治5年に始まった開拓使が10年の計画を終えて廃止された点に関係する。首相になるくらいのリアリストだった黒田と、新日本のモデルを北海道に創(つく)ろうとした理想家肌の村橋の違いが悲劇を呼んだ。黒田は、開拓使事業の効果的な延長を図るために、工場など官有物を破格の安値で薩摩出身の事業家・五代友厚(ともあつ)に払い下げようとした。 page: 2  何しろ1400万円の費用の投資対象を38万円(無利息30年賦)で民間に払い下げるという破天荒なものであり、これが醜聞にならないはずがなかった。これが有名な北海道開拓使官有物払い下げ事件になる。  五代は関西財界をつくった大物として、やがて東京の渋沢栄一と並び称される企業人に成長していく。黒田の理屈は何であれ、薩摩閥の官と民の癒着であり、同郷人への利益誘導ととられても仕方がなかった。  興味深いのは五代も29歳の時に外交使節として村橋ら英国留学生と行をともにした事実である。村橋が突然辞表を出し、黒田らの慰留をふりきって開拓使を去ったのは、払い下げ事件が起きる前年のことである。  官途に見切りをつけた村橋の生き方で真似ができないのは、このあと彼が開拓使や薩摩藩の友人先輩や同僚とも音信不通となり、完全に自ら消息を絶った点にある。  そして11年後の明治25年9月、神戸で身許不明の行路病者が死んだ。その着衣は、木綿シャツ1枚と白木綿三尺帯1本だけでほとんど裸に近かったという。最後に吐いた言葉は、「鹿児島県士族、村橋久成」だったと伝えられる。村橋の心奥(しんおう)を今となっては知る由もない。しかし、同藩同郷の先輩たる五代のあざとさに加え、現実感覚一辺倒の黒田の政治性に鼻じろむ思いがしたことは間違いない。維新の理想と政治の現実との間に横たわる深淵(しんえん)を覗(のぞ)いた官吏村橋は、“吏道”に忠実に生きる可能性を自ら捨てたのである。 page: 3 職への使命感が国を救う  村橋は官途をいさぎよく捨て、海上保安官は懲戒以上の刑事罰を覚悟で情報提供に踏み切った。日夜海上で危険な海防の任にあたる海上保安官が、外国人による不法行為を取り締まる職務遂行を制限され、公開すべき記録を国民の目から隠すよう政府に命じられるなら、国益のために身を粉(こ)にする公務員の尽くすべき国家や政府とは何かという重い問題も提起されている。  保安官も村橋のように、職務に賭ける理想と政治が強いる現実との間で幾度となく苦悶(くもん)したかもしれない。保安官の未来に待ち構える運命はまだ分からない。しかし、忘れ去られていた郷土の恩人を北海道人が復権させたように、政治家の思惑は一時的に効果を顕(あらわ)しても、歴史の永久性には勝てない。開拓使の長官だった黒田の政治力と、勧業課長や勧業試験場長で辞めた村橋の使命感のいずれを重視すべきか、確かに歴史の大局観にはむずかしいところもある。とはいえ、職への使命感や正義感をもつ人材を欠いては、国家や政府の基盤は成り立たない。  歴史は、村橋や海上保安官のような挙を生まずに済む“吏道”をつくる責任が、日常不断に政治家たる大臣にもあることを教訓として教えてくれる。(やまうち まさゆき) 【プロフィル】村橋久成  むらはし・ひさなり 天保13(1842)年(天保11年生まれの説も)、薩摩生まれ。通称、直衛(なおえ)。薩英戦争後の慶応元(1865)年、藩命でイギリスに留学。翌年に帰国し、戊辰戦争に参加。 page: 4  明治4(1871)年北海道開拓使に出仕し、勧業課長などを務めるが、14(1881)年辞職。雲水となり諸国を放浪し、25(1892)年神戸で没した。 何しろ1400万円の費用の投資対象を38万円(無利息30年賦)で民間に払い下げるという破天荒なものであり、これが醜聞にならないはずがなかった。これが有名な北海道開拓使官有物払い下げ事件になる。  五代は関西財界をつくった大物として、やがて東京の渋沢栄一と並び称される企業人に成長していく。黒田の理屈は何であれ、薩摩閥の官と民の癒着であり、同郷人への利益誘導ととられても仕方がなかった。  興味深いのは五代も29歳の時に外交使節として村橋ら英国留学生と行をともにした事実である。村橋が突然辞表を出し、黒田らの慰留をふりきって開拓使を去ったのは、払い下げ事件が起きる前年のことである。  官途に見切りをつけた村橋の生き方で真似ができないのは、このあと彼が開拓使や薩摩藩の友人先輩や同僚とも音信不通となり、完全に自ら消息を絶った点にある。  そして11年後の明治25年9月、神戸で身許不明の行路病者が死んだ。その着衣は、木綿シャツ1枚と白木綿三尺帯1本だけでほとんど裸に近かったという。最後に吐いた言葉は、「鹿児島県士族、村橋久成」だったと伝えられる。村橋の心奥(しんおう)を今となっては知る由もない。しかし、同藩同郷の先輩たる五代のあざとさに加え、現実感覚一辺倒の黒田の政治性に鼻じろむ思いがしたことは間違いない。維新の理想と政治の現実との間に横たわる深淵(しんえん)を覗(のぞ)いた官吏村橋は、“吏道”に忠実に生きる可能性を自ら捨てたのである。 page: 2 職への使命感が国を救う  村橋は官途をいさぎよく捨て、海上保安官は懲戒以上の刑事罰を覚悟で情報提供に踏み切った。日夜海上で危険な海防の任にあたる海上保安官が、外国人による不法行為を取り締まる職務遂行を制限され、公開すべき記録を国民の目から隠すよう政府に命じられるなら、国益のために身を粉(こ)にする公務員の尽くすべき国家や政府とは何かという重い問題も提起されている。  保安官も村橋のように、職務に賭ける理想と政治が強いる現実との間で幾度となく苦悶(くもん)したかもしれない。保安官の未来に待ち構える運命はまだ分からない。しかし、忘れ去られていた郷土の恩人を北海道人が復権させたように、政治家の思惑は一時的に効果を顕(あらわ)しても、歴史の永久性には勝てない。開拓使の長官だった黒田の政治力と、勧業課長や勧業試験場長で辞めた村橋の使命感のいずれを重視すべきか、確かに歴史の大局観にはむずかしいところもある。とはいえ、職への使命感や正義感をもつ人材を欠いては、国家や政府の基盤は成り立たない。  歴史は、村橋や海上保安官のような挙を生まずに済む“吏道”をつくる責任が、日常不断に政治家たる大臣にもあることを教訓として教えてくれる。(やまうち まさゆき) 【プロフィル】村橋久成  むらはし・ひさなり 天保13(1842)年(天保11年生まれの説も)、薩摩生まれ。通称、直衛(なおえ)。薩英戦争後の慶応元(1865)年、藩命でイギリスに留学。翌年に帰国し、戊辰戦争に参加。 page: 3  明治4(1871)年北海道開拓使に出仕し、勧業課長などを務めるが、14(1881)年辞職。雲水となり諸国を放浪し、25(1892)年神戸で没した。 職への使命感が国を救う  村橋は官途をいさぎよく捨て、海上保安官は懲戒以上の刑事罰を覚悟で情報提供に踏み切った。日夜海上で危険な海防の任にあたる海上保安官が、外国人による不法行為を取り締まる職務遂行を制限され、公開すべき記録を国民の目から隠すよう政府に命じられるなら、国益のために身を粉(こ)にする公務員の尽くすべき国家や政府とは何かという重い問題も提起されている。  保安官も村橋のように、職務に賭ける理想と政治が強いる現実との間で幾度となく苦悶(くもん)したかもしれない。保安官の未来に待ち構える運命はまだ分からない。しかし、忘れ去られていた郷土の恩人を北海道人が復権させたように、政治家の思惑は一時的に効果を顕(あらわ)しても、歴史の永久性には勝てない。開拓使の長官だった黒田の政治力と、勧業課長や勧業試験場長で辞めた村橋の使命感のいずれを重視すべきか、確かに歴史の大局観にはむずかしいところもある。とはいえ、職への使命感や正義感をもつ人材を欠いては、国家や政府の基盤は成り立たない。  歴史は、村橋や海上保安官のような挙を生まずに済む“吏道”をつくる責任が、日常不断に政治家たる大臣にもあることを教訓として教えてくれる。(やまうち まさゆき) 【プロフィル】村橋久成  むらはし・ひさなり 天保13(1842)年(天保11年生まれの説も)、薩摩生まれ。通称、直衛(なおえ)。薩英戦争後の慶応元(1865)年、藩命でイギリスに留学。翌年に帰国し、戊辰戦争に参加。 page: 2  明治4(1871)年北海道開拓使に出仕し、勧業課長などを務めるが、14(1881)年辞職。雲水となり諸国を放浪し、25(1892)年神戸で没した。


趣味が同じというのは意外に難しい。萌えの方向や暑苦しさが微妙に違うと、かえって「えっ!?(;゜ロ゜)」ということがあるからだ。

『萌えよ幕末女子』、そういう意味でこわごわ手に取ったが、ツボったツボった(爆)。「新番組」を「新選組」と読み違えるとか、観光ガイドが時々いい加減な知識だったりするとツッコミを入れるとか、実家の墓よりお慕いしている墓にお参りする回数がやたら多いとか。伊東甲子太郎が暗殺された木津屋橋の碑を捜して京都の人に道を聞いたらマイナー過ぎて地元の人もわからないとか。佐幕派ファンで松平容保は「容保様」「容保公」なのに徳川慶喜は「よしのぶ」だったり(「けいき」に加えて「二心公」「豚一公」も使いますが)。

 佐幕派のイラストに新選組のおなじみの面々はもちろん、伊庭八郎、酒井玄蕃、星恂太郎、立見鑑三郎、細谷十太夫を配しているところがいいです。山川大蔵(小編の山川大蔵と龍馬と谷干城が出てくるマンガがよかった)もいいですね。

 佐幕派と倒幕派という分け方になると掲載しにくいけど、伊東甲子太郎も当時の人たちが美男子と語り残してますよん♪ 

そして、ドラマ化された新選組ものの俳優さんから改めて新選組にキャスティングする企画、この人選が自分の好みとどんぴしゃりだったのには驚いた(苦笑)……原田泰造as近藤勇、山本耕史as土方歳三、中川勝彦(しょこたんのパパ)as沖田総司、堺雅人as山南敬助、遠藤憲一as永倉新八、山本太郎as原田左之助、オダギリジョーas斎藤一、中野誠也as山崎丞。左之助は史実で美形だと言い伝えられているのでビジュアルは他の方でもと思うものの、山本太郎が後に馬賊になりそうなキャラっぷりがよかった。欄外に生田斗馬as藤堂平助、佐々木蔵之介as伊東甲子太郎(ここは谷原章介がマイベストなんですが……玉木宏でも見てみたい)、向井理as河合耆三郎、伊勢谷友介as大石鍬次郎、豊川悦司as芹沢鴨(もうちょっと骨太い人がいいと思うけど)……ますますイケメン新選組だなぁ。新見錦は相澤一之さん希望♪

 龍馬は内野聖陽さんと江口洋介さんの間で悩むところです。





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幕末、特に新選組や旧幕府関係者の歴史を追っかけています。連絡先はmariachi*dream.com(*印を@に置き換えてください)にて。
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