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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 昨日買った志の輔午前様らいぶ『三軒長屋』を見ながら。

山形
清河八郎 再評価の動き
「町人無礼切り」覆す新資料

 旧清川村(現庄内町)出身で、尊皇攘夷運動などに携わった幕末の志士・清河八郎(1830~63年)が今年生誕180年を迎えたのを記念して、東京都内で来月5日、シンポジウムが開催される。地元からはバスツアーが企画され、山形大の山本陽史教授が、清河の再評価をテーマに基調講演を行う。清河の活動歴に暗い影を落としていた「酔って町人を切り、幕府に追われた」との通説を覆す新資料も見つかるなど、区切りの年に故郷の偉人を見直す動きが広がっている。

 清河は若くして江戸に学び、文武両道を修めた才人で、新撰組の前身で尊皇攘夷を目指す「浪士組」を結成するなど尊皇攘夷、倒幕運動の先駆けとして活躍した。

 新資料は、東京都千代田区の区立四番町歴史民俗資料館が数年前に収集した北町奉行所の同心・山本啓助の手帳。全6冊ある手帳のうちの一つに、逃亡する清河を追って新潟や山形などに出張した様子が記されている。

 山本の手帳では、清河が町人を切ったとされる1861年5月20日の前日に、南北の町奉行所で清河ら8人を捕まえる命令が出され、打ち合わせをする記述があったという。今年3月、同資料館で手帳を活字化した際に発覚した。

 日本近世史の研究をしている早稲田大非常勤講師の西脇康さん(54)は、「無礼を働いたとされる町人は清河を捕まえる手先だと考えられる。危機を察した清河は逃げたが、捕まえ損なった奉行所が失敗を隠そうと、清河が酔って一般の町民を切ったという話にすり替えたのでは」と推測する。

 庄内町にある清河八郎記念館の斎藤清館長(80)も、「造り酒屋に生まれた清河が町人を切るほど酔うはずがないと思っていた。『町人無礼切り』の汚名が晴れてうれしい」と話している。

 来月5日に大正記念館(東京都江東区)で行われるシンポジウムでは、山本教授が「清河八郎『回天の門』を再評価する」と題して基調講演を行うほか、山本教授や斎藤館長らによるパネルディスカッションも予定。6日には清河塾跡や北辰一刀流を学んだ千葉周作道場跡など、ゆかりの地を巡る見学会も行われる。

 シンポジウムと見学会には庄内町からのバスツアーも企画されている。参加費は宿泊料なども含めて1人3万3000円。問い合わせや申し込みは日本海トラベル(0234・43・4312)へ。

(2010年11月14日 読売新聞)


東京
幕末動乱、幕開けの地桜田門 「桜田門外」の官庁街
 幕府の大老、井伊直弼を水戸、薩摩浪士が暗殺した1860年の大事件を描く新作映画「桜田門外ノ変」。幕末動乱の幕開けを見届けた旧江戸城の桜田門(東京都千代田区)は、外国人観光客ら多くの人々でにぎわう。

 映画の大老襲撃シーンは血みどろの激闘だ。大沢たかおさん演じる現場指揮官の関鉄之介がいたのは、今の桜田門交差点辺り。井伊家の彦根藩邸は約400メートル西の国会前庭にあったという。雪の中、かごで登城中だった直弼を“怪優”伊武雅刀さんが熱演。断末魔にあえぐ顔に無念がにじむ。

 現在の“門外”には、「桜田門」の異名を持つ警視庁本部がそびえ、霞が関の中央官庁街が広がる。片側4車線の桜田通りは歩道も広々。農林水産省の前はカツラ、財務省はヒマラヤスギと多彩な街路樹も楽しめる。

 襲撃の前夜、浪士18人が気勢を上げた品川の妓楼は跡形もないが、当日朝に集合した愛宕神社(東京都港区)は健在だ。86段の「男坂」を上った境内には「桜田烈士」の碑。呼応して挙兵するはずの薩摩藩が沈黙し、鉄之介が「桜田烈士か…」と劇中で自嘲(じちょう)する。

 神社のある愛宕山の山頂は、東京23区内の自然地形の山では最も高い標高26メートル。勝海舟が西郷隆盛を誘って市中を見渡し、江戸城の無血開城をかけ合ったとの逸話が残る。

 20分も歩けば桜田門。映画の終盤、官軍を率いて入城する西郷がつぶやく。「ここからでごわす。あっという間でござった」。決死の“義挙”から8年。歴史を変えた浪士たちの熱情を思った。

 【ちなミニ】

 愛宕神社境内の「和食T」は、東京産の食材にこだわる人気店。定番ランチ「愛宕丼」は、低脂肪のブランド鶏肉「東京しゃも」を使った親子丼に野菜汁などが付いて1500円。


品川・立会川の龍馬像が20歳に若返り-除幕式に島崎和歌子さんも
 京急立会川駅前の品川区立北浜川児童遊園(品川区東大井2)で11月13日、「20歳の龍馬銅像除幕式」が行われた。

 これまで設置されていた龍馬像は、高知市より寄贈されたプラスチック製。NHK大河ドラマ「龍馬伝」の影響で龍馬ブームとなり、立会川に訪れる観光客が増えたことから、地元有志がブロンズ像の制作を企画した。中心メンバーは東京京浜ロータリークラブ。

 坂本龍馬が19歳の時、立会川の土佐藩が築いた浜川砲台で警備に加わったという説が残っていることから、新しい銅像は「20歳の龍馬像」。

 除幕式には、若き日の龍馬を一目見ようと多くの人が詰め掛け、児童遊園前の商店街は見物客であふれ返った。濱野健品川区長、高地市商工観光部の古味勉部長、幕末史研究家の小美濃清明さんほか、ゲストには「龍馬伝」で坂本龍馬の兄嫁役を演じた島崎和歌子さんが登場した。

 「多くの方にご協力いただき、この日を迎えられて感無量。品川の新しい名所となれば」とスピーチしたのは、東京京浜ロータリークラブの井上忠道会長。岡崎誠也高地市長の代読を務めた古味さんは「『龍馬伝』を契機に、龍馬にゆかりのある街同士が相互に協力していきたい。ぜひ高知の皆様にもお越しいただければ」とアピール。島崎さんが「私も坂本龍馬のような人を探したい。今日も探しに来たが、なかなか見当たらない」と、見物客の笑いを誘う場面も。

 品川区在住で主婦の山本さんは「除幕式があると聞いて見に来たが、こんなに大勢の人がいるとは思わなかった。新しい龍馬像はりりしくてかっこよくなった」とほほ笑む。

 龍馬像を富山の工場から運んだ運送事業を展開するハーツ(南大井5)の山口裕詮さんは、「銅像は520キロで、運搬距離は約440キロメートル。クレーン付きのトラックで往復12時間かけて運び、銅像を台座に差し込むのが大変だった。これを機に、地元・立会川がますます盛り上がれば」と期待を寄せる。

 新しいブロンズ像設置によってプラスチック製の龍馬像は、土佐藩の下屋敷跡にある区立浜川中学校に移動した。



福井
福井藩と竜馬のかかわり浮き彫り  県文書館で幕末を紹介の企画展
 幕末52件維新期の福井藩士が書いた書簡や手紙などに焦点を当てた福井県文書館の企画展「知られざる幕末維新 福井藩士の記録」が12月23日まで、福井市の同館で開かれている。未刊行の書簡集や史料を中心に展示してあり、松平春嶽と坂本竜馬のかかわりや、重要な役割を担いつつあった福井藩の実情などが浮かび上がる構成となっている。

 原本24点、パネル5点、複製本53冊を展示。目付・青山小三郎の京都滞在時の記録「上京中日記」や、情報収集に当たっていた探索方・山本龍二郎(後の関義臣)の書簡「風雪書」などが展示されている。

 県内初公開となる「上京中日記」は、1863(文久3)年6~8月の記録。竜馬が勝海舟の代理として京都の福井藩邸を訪れ春嶽の上京を促したのに対し、春嶽が藩を挙げて上京し武力で開国か鎖国か解決する考えであることを伝えたところ、竜馬が大変喜んだ―など、興味深い内容が記されている。

 また、4千冊以上ある「大日本維新史料稿本」の中から、中老・中根雪江の「枢密備忘」を抜粋し紹介。春嶽の側近だった中根の記録から、春嶽の日々の政治的行動がうかがい知れる内容となっている。同館の吉田健・古文書調査専門員は「文久2年12月に竜馬のほか、高杉晋作や武市半平太、桂小五郎らが春嶽公に会いに来たが、実際に話をできたのは竜馬のみと記述されている。竜馬の考え方はこのとき既に高杉ら尊皇攘夷派と違い、春嶽と近かったと考えられる」と推測。また、最初は竜馬の名前を間違えて記述してあることなどから「春嶽と竜馬が初めて会ったのはこの時だろう」とも指摘する。

 11月25日からは展示を入れ替え、ペリー来航時の緊迫した状況を伝える「遺愛帖(ちょう)」、春嶽側近による「御用日記」などの原本を紹介する。


京都
龍馬と新選組の熱き思い、京の街ではじける
 幕末京都さながらに、坂本龍馬と新選組それぞれの熱い思いを引き継いだ二つのイベントが13日、京都市内で行われた。「龍馬よさこい10」では学生たちが「坂本龍馬に届け」と力強く踊り、「全国新選組サミット」(14日)の参加者たちはサミットを前に隊士の装いで京のまちを練り歩いた。
 「龍馬よさこい10」は学生の実行委と霊山社中が開き、今年で3回目。昨年の倍の43チーム約1700人の学生が全国から集まり、高知の「よさこい踊り」や京都の「京炎そでふれ」などの創作踊りを市内3会場で披露した。
 京都三条会商店街(中京区)では学生たちが「せい」「やー」と声を張り上げて踊りながら商店街を行進、熱気に包まれた。
 「全国新選組サミット」は京都市では2回目の開催で、14日に壬生寺(同区)で開かれる。13日は、土方歳三が生まれた東京都日野市など新選組ゆかりの地の関係者ら16団体53人が集まり、壬生寺から三条通の池田屋跡まで歩いた。
 羽織や鉢金を身に着けた一行が道中で「えい、えい、おー」と勝ちどきをあげると、道行く人は写真を撮って笑顔を見せていた。

兵庫
和田岬砲台 勝海舟が指導、龍馬も見たぜよ 金具など部品公開
【兵庫】幕末に外国船を攻撃する目的で作られた和田岬砲台(神戸市兵庫区)を解体修理で取り外した金具などが来月18日、同区の兵庫公会堂で公開される。神戸市教委は「砲台が完成した1864年は、神戸海軍操練所が設置された年。建設中の砲台を坂本龍馬も間違いなく見ていた」と話している。

 発表した市教委によると、三菱重工業神戸造船所内にある同砲台は直径約15メートル、高さ約12メートルの円形で、勝海舟の指導で完成。幕末期の建物には珍しく木造建築に鉄製のボルトやくぎなどが使われるなど西洋技術を模倣しており、修理後は元に戻されるために部品が間近で見られるのは今回が唯一の機会という。内部は木造、外部は花崗岩製の2階建てで、11カ所から大砲を放つことが可能だが、実際に大砲が配置されたかは不明。現在は国の史跡に指定されている。

 同砲台は木造部が腐敗したため07年度から文化庁と県、同市の補助で同社が初の本格的な解体修理工事を開始し、13年3月に終了する予定。公開は午後1時~2時半で、砲台を設置する台場に詳しい東京都品川区立品川歴史館の学芸員による講演会などもある。

 定員200人。参加には応募が必要で、往復はがきに「砲台講演会希望」と記し、参加者全員(最大3人)の住所▽氏名▽電話番号と、返信用はがきに返信先の住所と氏名を記入し、〒652-8570 兵庫区まちづくり課「砲台講演会」係まで(住所は不要)。今月19日必着。【吉川雄策】


米国
北米初の邦人入植地保存へ 会津出身「若松コロニー」
【ロサンゼルス共同】米カリフォルニア州の自然保護団体アメリカン・リバー・コンサーバンシー(ARC)は12日までに、1869年に福島県からの移民団が移住した北米最初の日本人入植地「若松コロニー」(同州ゴールドヒル)の跡地を、保存のため買い取ったことを明らかにした。

 ARCは、入植者は米国の農業や技術などの進歩に貢献したと指摘。「若松コロニーの物語は(北米大陸初の英国人の永続的な入植地)ジェームズタウンや(英国のピルグリム・ファーザーズを乗せた)メイフラワー号(をめぐる歴史)と同じぐらい感動的だ」と強調した。跡地は、将来的に公園や博物館にする計画という。

 入植者は戊辰戦争204件(68~69年)で敗れた会津藩の出身者らで、コロニーでは養蚕業や農業が行われたが、数年で崩壊。71年に19歳で亡くなった女性の墓や家畜小屋などが残っている。

 資金集めには地元日系人団体なども協力したという。



史実
「大警視」川路利良、鳥羽・伏見の戦いをつづる
 旧薩摩藩士で近代警察の父、「大警視」川路利良
かわじとしよし
が、鳥羽・伏見の戦い(1868年)に従軍した未発表の陣中書簡が、東京都内の川路家に残されていることが分かった。

 砲弾飛び交う戦場の生々しい様子や、次々に倒れる戦友への思いなどが活写されている。

 書簡は約2・8メートルの長さ(縦約16センチ)があり、開戦から2日がたった1月5日の戦闘から記述されている。川路は当時、35歳で足軽部隊の「兵具方
ひょうぐがた
一番隊長」を務めていた。

 最大の激戦となった石清水八幡宮(京都府八幡市)の戦いでは、大砲の弾が飛ぶ中、長州軍などと共に「馬追いのごとく」突撃し、幕府軍を敗走させた。

 書簡では、「世の中に戦ほど面白いものはない。戦も上手になったので討ち死にすることはないから心配しないでほしい」と自信を見せ、「江戸城へ乗りこみ徳川慶喜
よしのぶ
の首をとる」と意気込む様子も記されている。

 大坂城の慶喜が江戸へ船で逃げたあとに、郷里の薩摩へ書き送ったらしい。

 磯田道史・茨城大准教授(幕末史)は「薩摩人は基本的に寡黙だが、この書簡では親類の死を『愁嘆
しゅうたん
限りなき候』と後から書き加えるなど、感情を交え生き生きとした描写があり、とても貴重」と話している。


川路利良(川路利永さん提供)
 ◆川路利良=1834~79年。戊辰戦争で活躍し、維新後、新政府に東京の治安維持担当に登用される。明治5年(1872年)に近代警察制度を学ぶためにヨーロッパへ渡り、帰国後の74年に東京警視庁が創設されると大警視(警視総監)となった。西南戦争では、官軍として西郷隆盛率いる薩摩軍と戦った。

(2010年11月13日12時54分 読売新聞)







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 今日の午後は志の輔らくご♪

北海道
【白老】元陣屋の立役者 三好監物の生涯が漫画に
 幕末の白老元陣屋ゆかりの仙台藩士三好監物の生涯が、漫画になった。仙台市で暮らす、やしゃごの三好彰さん(59)が監修した。白老発展の礎を築いた監物の横顔を分かりやすく紹介している。

 白老元陣屋は、ロシアの南下政策に対抗する北の警備拠点。幕府の命で仙台藩士が派遣され、三好監物は2代目御備頭(おそなえがしら)を1857年から務めた。当初陣屋は、勇払(苫小牧市)に、との命令を、実地調査を行った監物らの進言で白老に変更された、というエピソードもある。

 タイトルは「三好監物物語~仙台藩蝦夷地へ・激動の幕末史」。B6判、42ページ。監物が白老元陣屋に赴任するまでに始まり、前半は、藩士が寒さと食料不足に苦しみながら警護に当たった様子を描いている。後半は帰藩後の監物。信念を貫く言論で大老・井伊直弼の怒りを買い、藩内で少数派の尊皇攘夷論を唱えて命を狙われたこともあった。1868年、54年の生涯を閉じる。自害だった。

 三好彰さんは、仙台市内で耳鼻咽喉科クリニックを営む。1988年から毎年、白老を訪れて子供たちの耳鼻科健診を行うなどまちとのかかわりを持ち続けている。「三好監物物語」は、2007年に白老元陣屋資料館に寄贈した医学漫画から抜粋し、編集した。

 彰さんは「監物の生涯を多くの町民に知ってもらい、歴史的関係を共有する白老と仙台の友好発展につなげてほしい」と話している。漫画は150部ほど用意し、資料館で無料配布している。問い合わせは仙台藩白老元陣屋資料館 電話0144(85)2666。


雑記帳:戊辰戦争の縁「登別・白石カレンダー」
 姉妹都市の宮城県白石市と北海道登別市は、初めて共同で2011年の「登別・白石カレンダー」を作製した。白石は「白石城」、登別は「登別温泉・地獄谷」など自慢の観光名所を紹介している。

 戊辰(ぼしん)戦争(1868~69年)で敗北した白石城主が、新天地を求めて北海道に渡り開拓した土地が登別の基礎になったという。登別市が今年1月、「11年は合同で作製しよう」と、白石市に持ち掛けた。

 カレンダーは1部1000円。付属のはがきを送ると、抽選で両市の協賛企業提供の特産品が当たるプレゼントも。両市は「歴史的なつながりを大事にし、1年といわず末永く協力したい」。【豊田英夫】


北海道坂本龍馬記念館15日に開館1年
 函館西部地区の新観光名所「北海道坂本龍馬記念館」(末広町8)が、15日で開館1年を迎える。これまでの来場者数は6万人を突破。観光客だけでなく、市民にも愛される地域施設に成長した。同記念館の三輪貞治館長(46)は「今までは館の意義を知ってもらう期間。これからはステージアップさせて、社会教育事業や観光振興などにも寄与していきたい」と2年目に向けて力を込める。

 現在放送中のNHK大河ドラマ「龍馬伝」の人気や昨今の幕末ブーム、箱館奉行所のオープンなどの相乗効果もあり、連日多くの人たちが詰めかける同記念館。これまでのボランティアスタッフに加え、今年10月からは林洋二理事(50)が札幌から函館へ転居。解説案内などを通して館の運営を支えるなど来場者の受け入れ態勢を手厚くした。さらに、展示品を増やすなど飽きさせない工夫も凝らしている。

 三輪館長と林理事はこの1年を振り返り「たくさんの出会いに恵まれた年だった。地元の人たちの温かさにも触れることができた」と話す。今後は感謝の心と龍馬の遺志を伝えようと、子どもたちを対象にした龍馬塾を開き、社会教育や人材育成にも力を入れる。

 14日には、開館1周年記念で同記念館向かいに製作された「坂本龍馬像」の除幕式を皮切りに、「龍馬祭」を年末まで開催。多数のイベントも企画中で、同祭を契機により地域に根ざした記念館を目指していく。

 同館では、銅像基金賛同者を募集している。詳しくは同館電話0138-24-1115まで。


山形
清河八郎生誕180年の節目に完成 庄内・清河神社、善意が支えた屋根改修
 清河神社(正木尚文宮司)=庄内町清川=の、老朽化に伴う屋根改修工事が無事完了した。地域住民が昨年10月に実行委員会(松田広委員長)を設立し、これまで募金活動を展開。神社に祭られている幕末の志士・清河八郎(1830~63年)の全国のファンらも善意を寄せた。7日に竣工(しゅんこう)式典が行われた。

 式典には地元住民ら約140人が出席。清河八郎顕彰会の斎藤清会長や松田委員長が「清河生誕180周年の節目の年に屋根を改修することができ、この上ない喜びを感じている」とあいさつ。正木宮司は「神社を後世まで引き継ぐことができるようになった。県内外の協力者に感謝している」と述べた。

 実行委によると、清川の住民や清河ファンら延べ618の個人・団体が賛同し、計1173万円の善意を寄せた。総工事費は1135万円。5月に工事に着工し、敷き詰められていた瓦をすべて取り除いて鉄製の鋼板にふき替え、8月に完成した。


地域住民らが出席した竣工式典
 清川出身の八郎を祭る同神社は、地元小学生がみこ舞を披露する例大祭(5月)など、住民にとってなじみのイベントが開かれている。1933(昭和8)年の創建以降、改修したことがなく、屋根の腐食による雨漏りが年々悪化、改修が急務となっていた。




福島
会津っぽが温泉街ガイド「アルクべ東山」
「会津っぽと・そぞろ歩き・体感散策ウオーク・いにしえアルクベ東山」が7日、会津若松市東山地区で開かれた。
県内外から参加した約200人が地元のボランティアガイドの案内で歴史のまちを巡り、ウオーキングを楽しんだ。
東山温泉観光協会、いにしえ夢街道協議会、NPO法人会津地域連携センターなどが組織する実行委員会の主催で、県地域づくり総合支援事業の補助金を受けて実施した。
参加者は10班に分かれ、ボランティアガイドの先導で東山温泉旅館共同駐車場をスタート。
東山温泉街を抜けて会津藩主松平家墓所に向かい、新選組隊長近藤勇の墓がある天寧寺や会津藩祖保科正之公の菩提(ぼだい)寺である大龍寺などを訪ねた。
この日の会津若松市は朝方こそ冷え込んだものの、快晴に恵まれ、美しい紅葉が参加者を迎えた。
ボランティアガイドの説明も彩りを添え、歴史ファンや家族連れらは秋の東山路を満喫していた。


茨城
シンポ:「桜田門外の変」映画化が縁 水戸浪士ら子孫14人100年ぶり集結 /茨城
◇ルーツ再確認
 幕末の大老暗殺事件「桜田門外の変」に加わった水戸浪士らの子孫14人が10日、水戸市三の丸の県立図書館でのシンポジウムで集結した。事件の映画化を通じ、縁を持った歴史愛好家が呼び掛けて実現。子孫らは自らのルーツを再確認するとともに、事件後途切れていた仲間意識をあたためた。

 主催したのは、同事変研究同好会(会長=中村康雄・那珂歴史同好会会長)。三上靖彦・「桜田門外ノ変」映画化支援の会事務局長らが機運作りに奔走していたのに刺激を受け、歴史資料や関係者の調査をする中で、子孫らと知り合った。中村会長によると、事件から50年目の1910年、靖国神社で約500人が参加して記念式典があり、浪士らの子孫も顔を合わせたが、これだけの人数の子孫が集まるのはそれ以来100年ぶり。

 シンポジウムでは那珂市歴史民俗資料館の仲田昭一館長が「桜田門外の変と時代背景」という演題で基調講演。水戸藩は徳川家でありながら朝廷と幕府の君臣関係に基づき、朝幕対立の際には朝廷側につくことが光圀公の時代からの家訓だったこと、彦根藩は朝廷監視役としての自負があったこと、幕末は朝廷と幕府の力のバランスが変化していったことなどを説明した。

 その後のパネルディスカッションでは三上氏や、井伊直弼公の首を切り落としたとされる薩摩藩浪士の有村次左衛門のひ孫、有村幸三さん(64)=神奈川県茅ケ崎市=も加わり、映画の感想などを語り合った。有村さんは「曽祖父の斬(き)り合いシーンは見ていてゾッとした」と話しながらも、子孫らが集まったことに「いきなり親類が増えたよう」と顔をほころばせていた。【山崎明子】


栃木
カメラ8000台、東京へ 閉館した益子の博物館所蔵品
 昨年7月、惜しまれつつ閉館した益子町の「ペンタックスカメラ博物館」の所蔵品が、東京都千代田区の「日本カメラ博物館」に移されていたことが分かった。ファンから「今後どうなるのか」と心配された、貴重なコレクション。新たな場所で命脈を保つことになった。

 東京に移されたのは、世界各国のカメラ約8千点と古写真などの蔵書だ。コレクションの中には1860年代に製造され、幕末から明治の写真店に置かれていた大型の木製カメラや、ドイツ・ライカ社の1920年代の貴重品「1(B)」などの名機も含まれる。

 ペンタックスカメラ博物館は67年に東京で開館。93年には規模拡大のため、工場がある益子町に移された。運営するHOYAペンタックスは事業縮小にともなって昨年6月に閉鎖を発表し、所蔵品の引受先を探していた。同社や日本カメラ博物館によると、自社製の試作機など一部を除いて、所蔵品は5月までに日本カメラ博物館を運営する「日本カメラ財団」に売却されたという。

 日本カメラ博物館は、古今東西のカメラ1万点以上を収蔵する国内最大級のカメラ博物館。ペンタックスコレクションの合流により一部に重複する機種もあるものの、展示内容はより充実することになる。現在、整理が進められており、30日からの特別展「ポラロイド・カメラ展」では一部が展示される予定だという。

 日本カメラ博物館学芸員の山本一夫さん(40)は「これだけのコレクションはバラバラになるともう集まらない。絶対に散逸させてはいけない、という思いから引き受けることが決まった」と話している。明治期の木製カメラなどは常設展に組み込まれることが決まっているほか、将来的には「ペンタックス博物館展」として特別展を開くことを検討しているという。(矢吹孝文)


東京
社告:北斎生誕250年特別展 23日まで、長野・小布施で開催中 /東京
 江戸中期から幕末にかけて活躍した絵師、葛飾北斎の生誕250年を記念した特別展「『富士と桜』展-画狂人北斎と中島千波の世界」(北斎館主催、毎日新聞社など共催)が、長野県小布施町の北斎館、高井鴻山記念館、おぶせミュージアム・中島千波館の3館で11月23日まで開かれています。「冨嶽三十六景」や「北斎漫画」で知られる北斎が晩年に滞在した小布施に、肉筆、版画、摺物(すりもの)、版本など280点余りが展示されています。

 また、特別イベントとして、11月13日(土)午後1時から同町の北斎ホールで、「歴史小説家高橋克彦・日本画家中島千波が語る北斎-江戸と現在」をテーマにした特別対談もあります。

 3館の開館時間は午前9時~午後5時。入館は閉館の30分前。入館料は北斎館=大人500円、高校生300円▽鴻山記念館=同300円、150円▽中島千波館=同500円、250円。3館とも中学生以下無料。3館共通の特別展入館券は大人1000円、高校生500円。問い合わせは、北斎館(電話026・247・5206)。


神奈川
「写真の開祖・上野彦馬」展:13・14日、産業能率大で /神奈川
◇坂本龍馬の立位像写真も
 日本初の営業写真館を開いた上野彦馬(1838~1904年)のおいが創立した産業能率大の湘南キャンパス(伊勢原市上粕屋)で、館撮影の坂本龍馬らの写真展「産業能率大学と写真の開祖・上野彦馬」が13、14日に開かれる。同大は「激動の時代に思いをはせ、彦馬から続く進取の精神を感じ取ってほしい」と来場を呼びかけている。【井崎憲】

 絵師の家に生まれた彦馬はほぼ独学で撮影術を学んだ。幕末の志士やニコライ2世ら外国要人、当時の風俗などを撮影し、横浜の下岡蓮杖(れんじょう)と並んで日本ではカメラマンの祖とされる。1862(文久2)年、長崎に写真館「上野撮影局」を開設。龍馬の肖像写真で最も有名な、懐手に立つポーズの「立位像」もここで撮影された。

 彦馬の養育も受けたおいの故・上野陽一氏は東京帝国大を卒業後、米国の科学的管理法を「能率学」と邦訳したマネジメント思想の先駆者で、大学前身の産業能率短大を1950年に設立した。

 今年はNHK大河ドラマ「龍馬伝」が放映されており、大学祭のある両日、立位像(複写)の他、当時来日した外国人や風景など大学で収蔵していた彦馬ゆかりの写真約50点を同キャンパス図書館で展示することが決まった。

 14日の同キャンパスでは、陽一氏の長男で古写真にも造詣が深い産能大最高顧問・一郎氏が大学と彦馬について講演、彦馬撮影の写真スライドを交えて当時の風俗も解説する。

 ◇所蔵の50点を展示
 同大図書館の関郁夫館長は「ビジネスのイメージが強い大学だが、新しいモノを目指すDNAが受け継がれていることを内外の人に知ってほしい」と話している。

 写真展は13日が午前10時半~午後4時、14日は午後5時まで。一郎氏の講演は午後2時半から1号館205号教室で。同教室では、龍馬伝を執筆した脚本家、福田靖さんの講演(14日午後1~2時)もある。いずれも入場無料。問い合わせは同大図書館(0463・92・2218)。


新潟
新潟大神宮:会津藩士慰霊碑を修復 建立120年、関係者70人が除幕式 /新潟
 戊辰(ぼしん)戦争(1868~69年)で戦場になった新潟で戦死した会津藩士を弔うため、明治時代に新潟大神宮(新潟市中央区西大畑町)に建てられた慰霊碑が修復され、3日、除幕式が行われた。碑建立から今年は120年の節目に当たり、新潟、福島県会津若松市の関係者約70人が出席し、歴史を語り継いでいくことを誓い合った。
 戊辰戦争では東北、越後の諸藩が奥羽越列藩同盟を結び、薩長などと戦い敗れた。慰霊碑は1890(明治23)年、墓も作ることを許されなかった会津藩戦死者を慰霊するため、新潟に移り住んだ会津藩の生き残りが地元の人の協力を得て建立した。「殉節之碑」と名が付けられたが、明治政府の目をおそれ、神社片隅の目立たない場所に建てられた。
 長い歳月がたち、碑にひびが入り、碑文の字も見えにくくなったため、新潟市内の有志が寄付を募り、修復事業に取り組んだ。一新された碑は高さ2・2メートルで、境内の見やすい場所に移された。碑文には会津藩が賊軍の汚名を着せられ、明治後も苦難の道を歩んだことが刻まれている。
 除幕式には、碑の伝承活動に取り組んでいる新潟市民のほか、菅家一郎・会津若松市長らが出席。120年前の碑建立に尽くした旧会津藩士の子孫という斎藤兵市郎さん(79)=新潟市東区=は「碑は新潟と会津のきずなの象徴。これを機会に市民に広く知ってもらい、交流を深めていきたい」と感慨深げに話した。【小川直樹】

京都
龍馬も通った花街、組合解散前に「石畳」整備
 かつて花街として栄えた京都市下京区の島原で、石畳風に舗装された道路が完成した。

 坂本龍馬ら幕末の志士が通い、太夫らも華やかに行き交ったが、戦後は衰退。近く解散する「島原貸席お茶屋業組合」が、「風情と文化の薫りを石畳にとどめ、多くの人に散策してほしい」と整備した。

 島原は江戸時代初期、遊郭としてでき、中期には与謝蕪村ら文化人による「島原俳壇」が多くの作品を生み出した。幕末には龍馬や新撰組を率いた近藤勇らも訪れ、にぎわったという。

 しかし、終戦後に約100軒あったお茶屋は激減し、今では1軒だけになった。解散を決めた組合は、閉鎖した歌舞練場の跡地の売却収入を使って、これまでに「島原大門」の修復や文芸碑の建立などを行ってきた。今回、清算事業の最後に約4500万円で道路を整備することにした。

 「角屋もてなしの文化美術館」付近の延長910メートルの路上に、乳白色の加工セメントを薄く塗り、表面を削って四角の切れ込みを入れ、御影石を敷き詰めたような風合いに仕上げた。7日は記念式典を開き、太夫らが通り初めを行う。

(2010年11月13日10時16分 読売新聞)


町の歴史資料館で幕末・維新激動期の大山崎紹介
「幕末・維新期の大山崎」と題した企画展が、京都府大山崎町大山崎の町歴史資料館で開かれている。1864年の「禁門の変」で敗れた長州藩の志士たちが天王山で自決する姿を描いた絵や、町や社寺の被災ぶりを記した文書など約60点が並ぶ。

 激動期の大山崎の様子を伝えようと資料館が催した。家々が燃え、兵馬が駆け回り、町人が逃げまどうなど、禁門の変で戦場となった京都の騒乱を克明に書いた絵が展示されている。薩摩、会津両藩と戦った長州藩の真木和泉の肖像画や、真木ら17人の志士が使ったとされる弁当箱、敗走後に17人が天王山で自刃する姿を描いた絵も並んでいる。

 さらに、会津藩が大山崎を砲撃した際、観音寺(山崎聖天)の僧が本堂の仏像を池に入れて隠し、柳谷(現長岡京市)を経て逃げる様子を記録した史料や、戦火を逃れて避難した住民に、同藩が戦闘終了後、帰還を呼び掛けた木製の高札も展示されている。

 このほか、維新後の廃仏棄釈の影響で、現在の大阪府島本町山崎にあった「西観音寺」が、神社への変更を余儀なくされたという史実も写真などで紹介している。訪れた人々は、激動期の大山崎の様子を思い浮かべながら展示品を眺めていた。28日まで。大人300円、小中生は無料。




京大、竜馬の手紙公開 薩長「両方の志」に配慮
「急成ハかへりて両方の志通しかね候へハ」(急ぐとかえって両方の志が通じかねる)。薩長同盟の橋渡しをした坂本竜馬が関係者にあてた手紙が13日、京都大総合博物館(京都市)の特別展で公開された。21日まで。

 同盟成立の約3カ月前に当たる慶応元(1865)年10月に書かれており、同博物館の岩崎奈緒子教授は「大詰めの協議を慎重に進めようとする竜馬の意向がうかがえる」と話している。

 手紙は竜馬と長州藩のパイプ役を務めた長府藩(長州の支藩)の藩士印藤聿にあてたもの。「両方より道也義也と論を吹合候よふニなれハ、かへりてがいを生し」(両方が道理だ義だと言い合うようでは障害が生まれる)、「談笑中ニともに宜を求め候よふでなけれハ、とても大成ハなりかたく」(談笑の中で互いに友好を求めるようでなければ大きな成功はない)などとつづっている。

 手紙は明治時代の政治家品川弥二郎が、幕末1605件期に活躍した志士らを追悼するため京都につくった「尊攘堂」に収蔵された後、京都大に寄贈された。


兵庫
みみより情報:展覧会「幕末を翔けぬけた人々」 川西市で28日まで /兵庫
◇所蔵資料50点を展示--大阪青山歴史文学博物館
 ◇幕府の軍艦「開陽丸」の絵や横井小楠自筆「国是十二条」
 NHK大河ドラマ「龍馬伝」の舞台にもなっている幕末の動乱の時代に活躍した人々の軌跡を追う展覧会「幕末を翔(か)けぬけた人々」が、川西市長尾町の大阪青山歴史文学博物館で開かれている。

 展覧会では、同館が所蔵する資料約50点が展示されている。幕末に徳川幕府の軍艦であった「開陽丸」の絵のほか、坂本龍馬が新しい時代の日本の方針を提案した「船中八策」に大きな影響を与えたと言われる横井小楠の「国是十二条」の自筆原本など、幕末に活躍した人々の肉筆が多数、出展されている。

 同館の外観はかつて付近にあった山下城の復元をイメージした城郭建築で、ひときわ異彩を放っている。また、最上階には展望室が作られており、能勢妙見山などの山並みが一望できるという(雨天時は閉室)。

 28日まで。入館時間は午前10時から午後4時半まで。月曜は休館。入館料は一般600円、65歳以上500円、大学生400円、高校生300円、中学生以下無料。問い合わせは同館(072・790・3535)。


和田岬砲台の金具初公開 築造当時の工法知る貴重な資料 兵庫
 昭和初期以来、約80年ぶりの“平成の大修理”が進む和田岬砲台(神戸市兵庫区)で、内部の木造部分の解体に伴い取り外された建築部材や金具が12月18日、同区の兵庫公会堂で初めて公開される。木造の柱や梁(はり)の結合などに使用された金具類は、築造当時の建築工法を知る貴重な資料。修理後の組み立て工事で再び使用されるため“最初で最後”の公開になる。
 建築部材が取り外されたのは築造以来初めて。同砲台は西洋の築城技術を参考に、伝統的な日本の建築工法を駆使して建てられており、当時の最先端の技術が垣間見える。取り外された部材はボルトやナット、釘(くぎ)など数百点で、このうち約50点が公開される。
 公開に合わせ、神戸市教委などが12月18日午後1時半から4時まで、兵庫公会堂で歴史講演会を開く。公開後、東京都品川区立品川歴史館学芸員の冨川武史氏による講演がある。
 同砲台は幕末に、外国艦船の来襲に備えて、軍艦奉行の勝海舟が築造した。三菱重工業神戸造船所の敷地内にあり、同社が所有している。大正10年に県下の第1号史跡に指定された。今回の大がかりな解体修理は平成24年度末に終了する予定。
 講演会、公開(午後1時~2時半)とも無料だが、講演会は往復はがきによる申し込みが必要。申し込み締め切りは11月19日。定員は200人で超えた場合は抽選する。問い合わせは兵庫区まちづくり課((電)078・511・2111)。

幕末の動乱語る 和田岬砲台史料を初公開
 外国船が日本沖に姿を現し始めた幕末期、勝海舟の提言を受けて江戸幕府が造った要塞(よう・さい)「和田岬砲台」(神戸市兵庫区)の建築部材や金具類が12月18日、神戸市兵庫区の兵庫公会堂で初公開される。最新の西洋技術を模倣して苦労しながら造った跡がうかがえる貴重な史料だ。(日比野容子)
 和田岬砲台は、大阪湾岸の警備のため築造された四つの要塞のうちの一つ。夙川の河口にある西宮砲台も現存しているが、砲台内部が当時の姿のまま残っているのは和田岬砲台だけで、県第1号の国史跡に指定されている。
 勝海舟が「神戸海軍操練所」を創設した1864年に完成。市教委文化財課は「海舟の弟子だった坂本龍馬も足を踏み入れたに違いない」と推測する。函館・五稜郭のような星形土塁に囲まれた円筒形の砲台外郭部は、花崗岩(か・こう・がん)製。2階建ての2階部分に大砲発射用の11の窓を備えるが、4年後の神戸開港で必要性が薄れ、使われることはなかった。
 砲台の解体修理事業は、所有者の三菱重工が文化庁、県、神戸市の補助金を受けて2007年度から始まった。砲台内の柱や梁(はり)がシロアリや浸水によって腐食が進んだためで、来年度から老朽化した部材を入れ替えて組み立て直す。総事業費は約5億6千万円で、2013年3月に終わる予定だ。
 今回展示するのは約50点。中でも興味深いのは、築造以来外されたことのないクギ、ネジ、ボルトなど、木と木を組み合わせて固定するのに使った金具類だ。神戸大大学院工学研究科の足立裕司教授(近代建築史)は「日本古来の木組み技術で建造することが可能だったにもかかわらず、当時最新と考えられていた西洋技術を何とか採り入れようとした跡が読み取れる重要な史料」と指摘する。
 当日は午後1時~同2時半の公開に合わせて午後1時半~同4時、修理工事についての報告と東京都品川区立品川歴史館学芸員の冨川武史さんが砲台築造の歴史的背景に迫る講演「江戸湾防備から摂海防備へ~品川御台場から見た和田岬砲台~」をする。
 講演の聴講には申し込みが必要。往復はがきに住所、氏名、電話番号を書き、今月19日必着で、〒652・8570 兵庫区まちづくり課「砲台講演会」係まで申し込む。詳しくは同課(078・511・2111内線214)、または市教委文化財課(078・322・5799)へ。


岡山
新選組サミット初参加 県内の団体 岡山との縁アピール
 県内の新選組ファン、隊士の子孫らでつくる「岡山新選組準備会」が13、14日に京都市で開催される「第11回全国新選組サミット」に初めて参加する。隊士にふんした参加者が京の町を練り歩くパレードにも加わる予定で、会員は「岡山が新選組との縁が深いことをPRしたい」と楽しみにしている。

 同準備会は、今年4月に発足。現在、会員は10~80代の男女28人で、定期的に会合を持つなど新選組について学んでいる。

 サミットは、新選組にちなんだまちづくりを進めようと、京都市、福島県会津若松市などゆかりの地で毎年開催。今回は全国の愛好者グループなどから100人以上が参加。パレードのほか、各団体の活動発表、史跡見学、専門家の講演などが予定されている。

 同準備会は、20人以上の隊士を送り出したという岡山と新選組のかかわりをアピールするとともに、他地域のファンと交流を深めようと参加を決めた。

 同準備会は会員を募集中。問い合わせは、同準備会ホームページ(http://okayamashinsengumi.web.fc2.com)。


福岡
上野彦馬賞フォトコンテスト:あすから作品展 九産大美術館で準備作業 /福岡
 第11回上野彦馬賞九州産業大学フォトコンテスト(同大、毎日新聞社主催)の作品展が13日から東区の同大美術館で始まるのを前に、搬入作業が11日から始まった。作品展は28日まで。入場無料。

 計2574点の応募作から選ばれた一般部門29点、高校生・中学生部門75点の入賞作を展示。最高賞の上野彦馬賞を受賞した九州産業大1年、知念愛佑美さん=福岡市=の「祖母の日課」(カラー5枚組み)や、ジュニア大賞の八代白百合学園高3年、中西彩さん=熊本県八代市=の「猛暑日」など、若手写真家たちの感性が光る作品がそろった。

 また、企画展として、上野彦馬が活躍した幕末~明治期に撮影された写真展も同時開催。萩博物館(山口県萩市)が所蔵する高杉晋作や伊藤博文の肖像写真など50点が展示される。【徳野仁子】

〔福岡都市圏版〕


佐賀
偉人伝出版を「七賢人しおり」で応援=佐賀県書店組合 
 佐賀県教育委員会が「佐賀偉人伝」シリーズを11月から順次出版することを受け、佐賀県書店商業組合が「佐賀七賢人しおり」を作成し た。幕末・明治期の県出身者7人、1枚で1人ずつ紹介するもので、偉人伝をPR。県内の書店で無料でもらえる。
 しおりは計7万枚作成。大隈重信や佐野常民ら「佐賀の七賢人」それぞれの写真が載っているほか、経歴や功績などを簡単に紹介してい る。組合に加盟している約60店舗で希望者に無料配布される。
 同組合は「ふるさとの偉人は名前は知っていても中身は忘れがち。幕末明治の偉人に改めて関心を持ってもらいたい」(岩永藤房理事長) と説明。「今年は国民読書年ということもあり企画した」という。
 佐賀偉人伝は、幕末・明治期に活躍した県出身者を紹介するシリーズ。「鍋島直正」が11月に出版されるのを皮切りに、5年間で七賢人を含 む15人程度を対 象に15冊程度が出版される。郷土教育や観光に活用されるほか、「九州・山口の近代化産業遺産群」の世界遺産登録に向け県民意識の高揚を 図る目的もある。【もぎたて便】
(2010/11/10-09:00)


コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(87)東大教授・山内昌之 水野忠徳
■「屏風外相」の見識と胆力
 いつの時代でも閣老や首相には、肝心の政策について関係者の質問にきちんと答えられない者がいる。
 幕末の老中でいえば、米国公使ハリスの金銀貨幣の品位量目に関する問いに窮した間部詮勝(まなべ・あきかつ)の例が想い起こされる。返答につまった間部は、日本では大名たる者、金銀の事情に通じる必要もなく、幕府では勘定奉行、藩には家老がいて処理するので、ここにいる勘定奉行に聞いてくれと珍答を返した。さしものハリスも、日本では財政金融の根本原理を知らないで総理が務まるのかと絶句したというのだ。
 折から出張中のオマーンで菅直人首相の表情をNHKで観たが、その生気の無さに愕然(がくぜん)とした。菅首相を間部と比較するのは、平成の日本人にとって辛(つら)いことである。
 しかし、首相が国会答弁や記者会見で見せる自信なげな表情に接すると切なくなる。予算委員会で答弁する仙谷由人官房長官の迫力と存在感が増すのも致し方ない。首相の発言が不安な今日、政権維持のために官房長官が前面に出る機会も増えるのは仕方がないからだ。
◆最後まで戦い抜いた生涯
 幕末でも閣老が外国公使と交渉する時には、とても素人の老中に任せられないので、「屏風(びょうぶ)」の後に隠れて談判の要領をふきこむ黒衣(くろこ)めいた顧問格もいた。「屏風水野」の異名で知られる水野忠徳こと痴雲(ちうん)である。水野は、鎖国の不可を悟った最初の幕府官僚であるが、改革を唱えながらも軽挙妄動を排した穏健慎重な面をもっていた。
 しかし、その保守的合理主義は剛直な胆力に支えられている。修好通商条約で神奈川開港を約しながら横浜を選定して外国から抗議を受けた時も、居留民の安全や貿易の利便から横浜が勝るとかわしたのも水野である。また、金銀貨の同種同量交換を公平に解決しようと苦労したのも彼にほかならない。しかも時に屏風の後から表へ姿を現す水野の凄(すご)みは胆力や度胸も並でない点にあった。
 文久3(1863)年の老中小笠原長行(ながみち)の率兵入京の戦略を描いたのは水野忠徳らしく、この武力クーデターによって一挙に尊皇攘夷(じょうい)派を朝廷や京から一掃しようとした。ひょっとして念頭には、北条義時が後鳥羽上皇らを廃した承久の変の先例もあったのかもしれない。将軍家茂(いえもち)の命によって水野らの野心的な計画は挫折し、幕威の衰微はますます明らかになるが、謹慎処分を受けた彼はこれで屈しなかった。鳥羽伏見の戦いに負けても、水野は江戸城の評定(ひょうじょう)で徹底抗戦を主張した。将軍慶喜(よしのぶ)の恭順を機に隠居し武蔵布田宿(ふだしゅく)に移住した水野は、まもなく慶応4(1868)年7月に絶命した。まさしく、憤死したというべきであろう。
◆苦しい中でも国土守る
 水野は日本の政治外交の基礎になる多くの仕事を果たした。長崎奉行としてオランダから軍艦を購入し、海軍伝習所の開設など日本海軍の礎をつくったのも水野である。特筆すべきは、ペリー来航で米英2国が領有の野心を抱いた小笠原諸島への侵略を阻止するために、島へわざわざ渡航し日本の領土権を宣言したのだ。
 幕府が苦しい時世でも、琉球(沖縄)や蝦夷地(北海道)の国境を守るべきだという水野の主張について、属僚として働いた福地源一郎(桜痴(おうち))はこう語る。「これを忽(ゆるが)せに附し去るべからずと切論し外国のために我国の版図を侵略せらるるの恐れありと痛議したるは、数回に止(とどま)らざりけり」(『幕末政治家』)
 すでに屏風の後から姿を現して政権の主役となった感のある仙谷官房長官には、小笠原について「日本の版図たる事を分明に定めたり」と評価された水野の見識に倣(なら)いながら、中国に過剰な敬語を使わず豪胆に尖閣問題などの難局を打開してほしいものだ。(やまうち まさゆき)
                   ◇
【プロフィル】水野忠徳
 みずの・ただのり 文化7(1810)年または12年生まれ。禄高500石の旗本だったが、老中阿部正弘の抜擢(ばってき)を受けて嘉永5(1852)年に浦賀奉行。長崎奉行、外国奉行なども歴任し、各国との条約交渉など外交の一線に立った。公武合体策に反対したが容(い)れられず、文久2(1862)年に隠居し、痴雲と号した。その後も、尊皇攘夷派の打倒と幕府の権威回復に奔走したが挫折。慶応4(1868)年、幕府崩壊後ほどなく没した。


【次代への名言】非常の師弟編(30)

■「思想が時代に先立つ者は、守旧派から阻害されることになる。しかし、先立つ者がいなければ、後生はどうして覚醒(かくせい)できるのか」(勝海舟)
 幕末・維新期における幕臣の雄、勝海舟は、洋学者・佐久間象山の門弟の一人である。また、勝の妹、順子が象山の正妻に迎えられたから、干支(えと)でひと回り年下ながら、勝は象山の義兄にあたる。
 「いかにもおれは天下の師だというように、厳然と構えこんで、漢学者が来ると洋学をもって威(おど)しつけ、洋学者が来ると漢学をもって威しつけ、ちょっと書生が訪ねて来ても、じきに叱(しか)り飛ばすという風でどうも始末にいけなかったよ」
 勝の象山評だ。身内をほめることに対する江戸っ子特有の“照れ”があると思う。というのも、象山の遭難を「国家のため、痛憤胸間に満つ」と嘆き、象山の主著『省●録(せいけんろく)』が明治になって出版されたとき、費用を工面し、冒頭の序文をつづって追悼したのが勝だったからだ。
 「自分は人の知りえないことを知り、人のできないことができる。この天恵を自分のためだけに用い、天下のために用いなければ、天に背くその罪は重い」
 『省●録』の一節。確かに自信家である。しかし、報いられることが少なかったにもかかわらず、彼が一心に、その非常の才のすべてを危機にあった国を救うためにささげたことも事実である。
 まな弟子の吉田松陰が至誠の人なら、象山は覇気の人だった。そしてこの師弟はともに、時代にさきがけたがために、ついに維新を目にすることはなかった。(文化部編集委員 関厚夫)
●=侃の下に言



 明日は全国各地で紅葉狩りに絶好のお天気だそう。小春日和ですって。

北海道
【白老】元陣屋の立役者 三好監物の生涯が漫画に
 幕末の白老元陣屋ゆかりの仙台藩士三好監物の生涯が、漫画になった。仙台市で暮らす、やしゃごの三好彰さん(59)が監修した。白老発展の礎を築いた監物の横顔を分かりやすく紹介している。

 白老元陣屋は、ロシアの南下政策に対抗する北の警備拠点。幕府の命で仙台藩士が派遣され、三好監物は2代目御備頭(おそなえがしら)を1857年から務めた。当初陣屋は、勇払(苫小牧市)に、との命令を、実地調査を行った監物らの進言で白老に変更された、というエピソードもある。

 タイトルは「三好監物物語~仙台藩蝦夷地へ・激動の幕末史」。B6判、42ページ。監物が白老元陣屋に赴任するまでに始まり、前半は、藩士が寒さと食料不足に苦しみながら警護に当たった様子を描いている。後半は帰藩後の監物。信念を貫く言論で大老・井伊直弼の怒りを買い、藩内で少数派の尊皇攘夷論を唱えて命を狙われたこともあった。1868年、54年の生涯を閉じる。自害だった。

 三好彰さんは、仙台市内で耳鼻咽喉科クリニックを営む。1988年から毎年、白老を訪れて子供たちの耳鼻科健診を行うなどまちとのかかわりを持ち続けている。「三好監物物語」は、2007年に白老元陣屋資料館に寄贈した医学漫画から抜粋し、編集した。

 彰さんは「監物の生涯を多くの町民に知ってもらい、歴史的関係を共有する白老と仙台の友好発展につなげてほしい」と話している。漫画は150部ほど用意し、資料館で無料配布している。問い合わせは仙台藩白老元陣屋資料館 電話0144(85)2666。


山形
清河八郎生誕180年の節目に完成 庄内・清河神社、善意が支えた屋根改修
 清河神社(正木尚文宮司)=庄内町清川=の、老朽化に伴う屋根改修工事が無事完了した。地域住民が昨年10月に実行委員会(松田広委員長)を設立し、これまで募金活動を展開。神社に祭られている幕末の志士・清河八郎(1830~63年)の全国のファンらも善意を寄せた。7日に竣工(しゅんこう)式典が行われた。

 式典には地元住民ら約140人が出席。清河八郎顕彰会の斎藤清会長や松田委員長が「清河生誕180周年の節目の年に屋根を改修することができ、この上ない喜びを感じている」とあいさつ。正木宮司は「神社を後世まで引き継ぐことができるようになった。県内外の協力者に感謝している」と述べた。

 実行委によると、清川の住民や清河ファンら延べ618の個人・団体が賛同し、計1173万円の善意を寄せた。総工事費は1135万円。5月に工事に着工し、敷き詰められていた瓦をすべて取り除いて鉄製の鋼板にふき替え、8月に完成した。


地域住民らが出席した竣工式典
 清川出身の八郎を祭る同神社は、地元小学生がみこ舞を披露する例大祭(5月)など、住民にとってなじみのイベントが開かれている。1933(昭和8)年の創建以降、改修したことがなく、屋根の腐食による雨漏りが年々悪化、改修が急務となっていた。


茨城
シンポ:「桜田門外の変」映画化が縁 水戸浪士ら子孫14人100年ぶり集結 /茨城

◇ルーツ再確認
 幕末の大老暗殺事件「桜田門外の変」に加わった水戸浪士らの子孫14人が10日、水戸市三の丸の県立図書館でのシンポジウムで集結した。事件の映画化を通じ、縁を持った歴史愛好家が呼び掛けて実現。子孫らは自らのルーツを再確認するとともに、事件後途切れていた仲間意識をあたためた。

 主催したのは、同事変研究同好会(会長=中村康雄・那珂歴史同好会会長)。三上靖彦・「桜田門外ノ変」映画化支援の会事務局長らが機運作りに奔走していたのに刺激を受け、歴史資料や関係者の調査をする中で、子孫らと知り合った。中村会長によると、事件から50年目の1910年、靖国神社で約500人が参加して記念式典があり、浪士らの子孫も顔を合わせたが、これだけの人数の子孫が集まるのはそれ以来100年ぶり。

 シンポジウムでは那珂市歴史民俗資料館の仲田昭一館長が「桜田門外の変と時代背景」という演題で基調講演。水戸藩は徳川家でありながら朝廷と幕府の君臣関係に基づき、朝幕対立の際には朝廷側につくことが光圀公の時代からの家訓だったこと、彦根藩は朝廷監視役としての自負があったこと、幕末は朝廷と幕府の力のバランスが変化していったことなどを説明した。

 その後のパネルディスカッションでは三上氏や、井伊直弼公の首を切り落としたとされる薩摩藩浪士の有村次左衛門のひ孫、有村幸三さん(64)=神奈川県茅ケ崎市=も加わり、映画の感想などを語り合った。有村さんは「曽祖父の斬(き)り合いシーンは見ていてゾッとした」と話しながらも、子孫らが集まったことに「いきなり親類が増えたよう」と顔をほころばせていた。【山崎明子】


京都
町の歴史資料館で幕末・維新激動期の大山崎紹介
「幕末・維新期の大山崎」と題した企画展が、京都府大山崎町大山崎の町歴史資料館で開かれている。1864年の「禁門の変」で敗れた長州藩の志士たちが天王山で自決する姿を描いた絵や、町や社寺の被災ぶりを記した文書など約60点が並ぶ。

 激動期の大山崎の様子を伝えようと資料館が催した。家々が燃え、兵馬が駆け回り、町人が逃げまどうなど、禁門の変で戦場となった京都の騒乱を克明に書いた絵が展示されている。薩摩、会津両藩と戦った長州藩の真木和泉の肖像画や、真木ら17人の志士が使ったとされる弁当箱、敗走後に17人が天王山で自刃する姿を描いた絵も並んでいる。

 さらに、会津藩が大山崎を砲撃した際、観音寺(山崎聖天)の僧が本堂の仏像を池に入れて隠し、柳谷(現長岡京市)を経て逃げる様子を記録した史料や、戦火を逃れて避難した住民に、同藩が戦闘終了後、帰還を呼び掛けた木製の高札も展示されている。

 このほか、維新後の廃仏棄釈の影響で、現在の大阪府島本町山崎にあった「西観音寺」が、神社への変更を余儀なくされたという史実も写真などで紹介している。訪れた人々は、激動期の大山崎の様子を思い浮かべながら展示品を眺めていた。28日まで。大人300円、小中生は無料。


兵庫
みみより情報:展覧会「幕末を翔けぬけた人々」 川西市で28日まで /兵庫
◇所蔵資料50点を展示--大阪青山歴史文学博物館
 ◇幕府の軍艦「開陽丸」の絵や横井小楠自筆「国是十二条」
 NHK大河ドラマ「龍馬伝」の舞台にもなっている幕末の動乱の時代に活躍した人々の軌跡を追う展覧会「幕末を翔(か)けぬけた人々」が、川西市長尾町の大阪青山歴史文学博物館で開かれている。

 展覧会では、同館が所蔵する資料約50点が展示されている。幕末に徳川幕府の軍艦であった「開陽丸」の絵のほか、坂本龍馬が新しい時代の日本の方針を提案した「船中八策」に大きな影響を与えたと言われる横井小楠の「国是十二条」の自筆原本など、幕末に活躍した人々の肉筆が多数、出展されている。

 同館の外観はかつて付近にあった山下城の復元をイメージした城郭建築で、ひときわ異彩を放っている。また、最上階には展望室が作られており、能勢妙見山などの山並みが一望できるという(雨天時は閉室)。

 28日まで。入館時間は午前10時から午後4時半まで。月曜は休館。入館料は一般600円、65歳以上500円、大学生400円、高校生300円、中学生以下無料。問い合わせは同館(072・790・3535)。

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 ◇プレゼント
 この展覧会のチケットを2枚1組で10人にプレゼントします。はがきに「幕末展チケット希望」と書き、郵便番号、住所、氏名、電話番号も記入して、〒660-0892 尼崎市東難波町5の16の29、毎日新聞阪神支局みみより情報係へ。17日まで必着。応募多数なら抽選します。


幕末の動乱語る 和田岬砲台史料を初公開

 外国船が日本沖に姿を現し始めた幕末期、勝海舟の提言を受けて江戸幕府が造った要塞(よう・さい)「和田岬砲台」(神戸市兵庫区)の建築部材や金具類が12月18日、神戸市兵庫区の兵庫公会堂で初公開される。最新の西洋技術を模倣して苦労しながら造った跡がうかがえる貴重な史料だ。(日比野容子)
 和田岬砲台は、大阪湾岸の警備のため築造された四つの要塞のうちの一つ。夙川の河口にある西宮砲台も現存しているが、砲台内部が当時の姿のまま残っているのは和田岬砲台だけで、県第1号の国史跡に指定されている。
 勝海舟が「神戸海軍操練所」を創設した1864年に完成。市教委文化財課は「海舟の弟子だった坂本龍馬も足を踏み入れたに違いない」と推測する。函館・五稜郭のような星形土塁に囲まれた円筒形の砲台外郭部は、花崗岩(か・こう・がん)製。2階建ての2階部分に大砲発射用の11の窓を備えるが、4年後の神戸開港で必要性が薄れ、使われることはなかった。
 砲台の解体修理事業は、所有者の三菱重工が文化庁、県、神戸市の補助金を受けて2007年度から始まった。砲台内の柱や梁(はり)がシロアリや浸水によって腐食が進んだためで、来年度から老朽化した部材を入れ替えて組み立て直す。総事業費は約5億6千万円で、2013年3月に終わる予定だ。
 今回展示するのは約50点。中でも興味深いのは、築造以来外されたことのないクギ、ネジ、ボルトなど、木と木を組み合わせて固定するのに使った金具類だ。神戸大大学院工学研究科の足立裕司教授(近代建築史)は「日本古来の木組み技術で建造することが可能だったにもかかわらず、当時最新と考えられていた西洋技術を何とか採り入れようとした跡が読み取れる重要な史料」と指摘する。
 当日は午後1時~同2時半の公開に合わせて午後1時半~同4時、修理工事についての報告と東京都品川区立品川歴史館学芸員の冨川武史さんが砲台築造の歴史的背景に迫る講演「江戸湾防備から摂海防備へ~品川御台場から見た和田岬砲台~」をする。
 講演の聴講には申し込みが必要。往復はがきに住所、氏名、電話番号を書き、今月19日必着で、〒652・8570 兵庫区まちづくり課「砲台講演会」係まで申し込む。詳しくは同課(078・511・2111内線214)、または市教委文化財課(078・322・5799)へ。


岡山
新選組サミット初参加 県内の団体 岡山との縁アピール
 県内の新選組ファン、隊士の子孫らでつくる「岡山新選組準備会」が13、14日に京都市で開催される「第11回全国新選組サミット」に初めて参加する。隊士にふんした参加者が京の町を練り歩くパレードにも加わる予定で、会員は「岡山が新選組との縁が深いことをPRしたい」と楽しみにしている。

 同準備会は、今年4月に発足。現在、会員は10~80代の男女28人で、定期的に会合を持つなど新選組について学んでいる。

 サミットは、新選組にちなんだまちづくりを進めようと、京都市、福島県会津若松市などゆかりの地で毎年開催。今回は全国の愛好者グループなどから100人以上が参加。パレードのほか、各団体の活動発表、史跡見学、専門家の講演などが予定されている。

 同準備会は、20人以上の隊士を送り出したという岡山と新選組のかかわりをアピールするとともに、他地域のファンと交流を深めようと参加を決めた。

 同準備会は会員を募集中。問い合わせは、同準備会ホームページ(http://okayamashinsengumi.web.fc2.com)。
 明日は全国各地で紅葉狩りに絶好のお天気だそう。小春日和ですって。

北海道
【白老】元陣屋の立役者 三好監物の生涯が漫画に
 幕末の白老元陣屋ゆかりの仙台藩士三好監物の生涯が、漫画になった。仙台市で暮らす、やしゃごの三好彰さん(59)が監修した。白老発展の礎を築いた監物の横顔を分かりやすく紹介している。

 白老元陣屋は、ロシアの南下政策に対抗する北の警備拠点。幕府の命で仙台藩士が派遣され、三好監物は2代目御備頭(おそなえがしら)を1857年から務めた。当初陣屋は、勇払(苫小牧市)に、との命令を、実地調査を行った監物らの進言で白老に変更された、というエピソードもある。

 タイトルは「三好監物物語~仙台藩蝦夷地へ・激動の幕末史」。B6判、42ページ。監物が白老元陣屋に赴任するまでに始まり、前半は、藩士が寒さと食料不足に苦しみながら警護に当たった様子を描いている。後半は帰藩後の監物。信念を貫く言論で大老・井伊直弼の怒りを買い、藩内で少数派の尊皇攘夷論を唱えて命を狙われたこともあった。1868年、54年の生涯を閉じる。自害だった。

 三好彰さんは、仙台市内で耳鼻咽喉科クリニックを営む。1988年から毎年、白老を訪れて子供たちの耳鼻科健診を行うなどまちとのかかわりを持ち続けている。「三好監物物語」は、2007年に白老元陣屋資料館に寄贈した医学漫画から抜粋し、編集した。

 彰さんは「監物の生涯を多くの町民に知ってもらい、歴史的関係を共有する白老と仙台の友好発展につなげてほしい」と話している。漫画は150部ほど用意し、資料館で無料配布している。問い合わせは仙台藩白老元陣屋資料館 電話0144(85)2666。


山形
清河八郎生誕180年の節目に完成 庄内・清河神社、善意が支えた屋根改修
 清河神社(正木尚文宮司)=庄内町清川=の、老朽化に伴う屋根改修工事が無事完了した。地域住民が昨年10月に実行委員会(松田広委員長)を設立し、これまで募金活動を展開。神社に祭られている幕末の志士・清河八郎(1830~63年)の全国のファンらも善意を寄せた。7日に竣工(しゅんこう)式典が行われた。

 式典には地元住民ら約140人が出席。清河八郎顕彰会の斎藤清会長や松田委員長が「清河生誕180周年の節目の年に屋根を改修することができ、この上ない喜びを感じている」とあいさつ。正木宮司は「神社を後世まで引き継ぐことができるようになった。県内外の協力者に感謝している」と述べた。

 実行委によると、清川の住民や清河ファンら延べ618の個人・団体が賛同し、計1173万円の善意を寄せた。総工事費は1135万円。5月に工事に着工し、敷き詰められていた瓦をすべて取り除いて鉄製の鋼板にふき替え、8月に完成した。


地域住民らが出席した竣工式典
 清川出身の八郎を祭る同神社は、地元小学生がみこ舞を披露する例大祭(5月)など、住民にとってなじみのイベントが開かれている。1933(昭和8)年の創建以降、改修したことがなく、屋根の腐食による雨漏りが年々悪化、改修が急務となっていた。


茨城
シンポ:「桜田門外の変」映画化が縁 水戸浪士ら子孫14人100年ぶり集結 /茨城

◇ルーツ再確認
 幕末の大老暗殺事件「桜田門外の変」に加わった水戸浪士らの子孫14人が10日、水戸市三の丸の県立図書館でのシンポジウムで集結した。事件の映画化を通じ、縁を持った歴史愛好家が呼び掛けて実現。子孫らは自らのルーツを再確認するとともに、事件後途切れていた仲間意識をあたためた。

 主催したのは、同事変研究同好会(会長=中村康雄・那珂歴史同好会会長)。三上靖彦・「桜田門外ノ変」映画化支援の会事務局長らが機運作りに奔走していたのに刺激を受け、歴史資料や関係者の調査をする中で、子孫らと知り合った。中村会長によると、事件から50年目の1910年、靖国神社で約500人が参加して記念式典があり、浪士らの子孫も顔を合わせたが、これだけの人数の子孫が集まるのはそれ以来100年ぶり。

 シンポジウムでは那珂市歴史民俗資料館の仲田昭一館長が「桜田門外の変と時代背景」という演題で基調講演。水戸藩は徳川家でありながら朝廷と幕府の君臣関係に基づき、朝幕対立の際には朝廷側につくことが光圀公の時代からの家訓だったこと、彦根藩は朝廷監視役としての自負があったこと、幕末は朝廷と幕府の力のバランスが変化していったことなどを説明した。

 その後のパネルディスカッションでは三上氏や、井伊直弼公の首を切り落としたとされる薩摩藩浪士の有村次左衛門のひ孫、有村幸三さん(64)=神奈川県茅ケ崎市=も加わり、映画の感想などを語り合った。有村さんは「曽祖父の斬(き)り合いシーンは見ていてゾッとした」と話しながらも、子孫らが集まったことに「いきなり親類が増えたよう」と顔をほころばせていた。【山崎明子】


京都
町の歴史資料館で幕末・維新激動期の大山崎紹介
「幕末・維新期の大山崎」と題した企画展が、京都府大山崎町大山崎の町歴史資料館で開かれている。1864年の「禁門の変」で敗れた長州藩の志士たちが天王山で自決する姿を描いた絵や、町や社寺の被災ぶりを記した文書など約60点が並ぶ。

 激動期の大山崎の様子を伝えようと資料館が催した。家々が燃え、兵馬が駆け回り、町人が逃げまどうなど、禁門の変で戦場となった京都の騒乱を克明に書いた絵が展示されている。薩摩、会津両藩と戦った長州藩の真木和泉の肖像画や、真木ら17人の志士が使ったとされる弁当箱、敗走後に17人が天王山で自刃する姿を描いた絵も並んでいる。

 さらに、会津藩が大山崎を砲撃した際、観音寺(山崎聖天)の僧が本堂の仏像を池に入れて隠し、柳谷(現長岡京市)を経て逃げる様子を記録した史料や、戦火を逃れて避難した住民に、同藩が戦闘終了後、帰還を呼び掛けた木製の高札も展示されている。

 このほか、維新後の廃仏棄釈の影響で、現在の大阪府島本町山崎にあった「西観音寺」が、神社への変更を余儀なくされたという史実も写真などで紹介している。訪れた人々は、激動期の大山崎の様子を思い浮かべながら展示品を眺めていた。28日まで。大人300円、小中生は無料。


兵庫
みみより情報:展覧会「幕末を翔けぬけた人々」 川西市で28日まで /兵庫
◇所蔵資料50点を展示--大阪青山歴史文学博物館
 ◇幕府の軍艦「開陽丸」の絵や横井小楠自筆「国是十二条」
 NHK大河ドラマ「龍馬伝」の舞台にもなっている幕末の動乱の時代に活躍した人々の軌跡を追う展覧会「幕末を翔(か)けぬけた人々」が、川西市長尾町の大阪青山歴史文学博物館で開かれている。

 展覧会では、同館が所蔵する資料約50点が展示されている。幕末に徳川幕府の軍艦であった「開陽丸」の絵のほか、坂本龍馬が新しい時代の日本の方針を提案した「船中八策」に大きな影響を与えたと言われる横井小楠の「国是十二条」の自筆原本など、幕末に活躍した人々の肉筆が多数、出展されている。

 同館の外観はかつて付近にあった山下城の復元をイメージした城郭建築で、ひときわ異彩を放っている。また、最上階には展望室が作られており、能勢妙見山などの山並みが一望できるという(雨天時は閉室)。

 28日まで。入館時間は午前10時から午後4時半まで。月曜は休館。入館料は一般600円、65歳以上500円、大学生400円、高校生300円、中学生以下無料。問い合わせは同館(072・790・3535)。

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 ◇プレゼント
 この展覧会のチケットを2枚1組で10人にプレゼントします。はがきに「幕末展チケット希望」と書き、郵便番号、住所、氏名、電話番号も記入して、〒660-0892 尼崎市東難波町5の16の29、毎日新聞阪神支局みみより情報係へ。17日まで必着。応募多数なら抽選します。


幕末の動乱語る 和田岬砲台史料を初公開

 外国船が日本沖に姿を現し始めた幕末期、勝海舟の提言を受けて江戸幕府が造った要塞(よう・さい)「和田岬砲台」(神戸市兵庫区)の建築部材や金具類が12月18日、神戸市兵庫区の兵庫公会堂で初公開される。最新の西洋技術を模倣して苦労しながら造った跡がうかがえる貴重な史料だ。(日比野容子)
 和田岬砲台は、大阪湾岸の警備のため築造された四つの要塞のうちの一つ。夙川の河口にある西宮砲台も現存しているが、砲台内部が当時の姿のまま残っているのは和田岬砲台だけで、県第1号の国史跡に指定されている。
 勝海舟が「神戸海軍操練所」を創設した1864年に完成。市教委文化財課は「海舟の弟子だった坂本龍馬も足を踏み入れたに違いない」と推測する。函館・五稜郭のような星形土塁に囲まれた円筒形の砲台外郭部は、花崗岩(か・こう・がん)製。2階建ての2階部分に大砲発射用の11の窓を備えるが、4年後の神戸開港で必要性が薄れ、使われることはなかった。
 砲台の解体修理事業は、所有者の三菱重工が文化庁、県、神戸市の補助金を受けて2007年度から始まった。砲台内の柱や梁(はり)がシロアリや浸水によって腐食が進んだためで、来年度から老朽化した部材を入れ替えて組み立て直す。総事業費は約5億6千万円で、2013年3月に終わる予定だ。
 今回展示するのは約50点。中でも興味深いのは、築造以来外されたことのないクギ、ネジ、ボルトなど、木と木を組み合わせて固定するのに使った金具類だ。神戸大大学院工学研究科の足立裕司教授(近代建築史)は「日本古来の木組み技術で建造することが可能だったにもかかわらず、当時最新と考えられていた西洋技術を何とか採り入れようとした跡が読み取れる重要な史料」と指摘する。
 当日は午後1時~同2時半の公開に合わせて午後1時半~同4時、修理工事についての報告と東京都品川区立品川歴史館学芸員の冨川武史さんが砲台築造の歴史的背景に迫る講演「江戸湾防備から摂海防備へ~品川御台場から見た和田岬砲台~」をする。
 講演の聴講には申し込みが必要。往復はがきに住所、氏名、電話番号を書き、今月19日必着で、〒652・8570 兵庫区まちづくり課「砲台講演会」係まで申し込む。詳しくは同課(078・511・2111内線214)、または市教委文化財課(078・322・5799)へ。


岡山
新選組サミット初参加 県内の団体 岡山との縁アピール
 県内の新選組ファン、隊士の子孫らでつくる「岡山新選組準備会」が13、14日に京都市で開催される「第11回全国新選組サミット」に初めて参加する。隊士にふんした参加者が京の町を練り歩くパレードにも加わる予定で、会員は「岡山が新選組との縁が深いことをPRしたい」と楽しみにしている。

 同準備会は、今年4月に発足。現在、会員は10~80代の男女28人で、定期的に会合を持つなど新選組について学んでいる。

 サミットは、新選組にちなんだまちづくりを進めようと、京都市、福島県会津若松市などゆかりの地で毎年開催。今回は全国の愛好者グループなどから100人以上が参加。パレードのほか、各団体の活動発表、史跡見学、専門家の講演などが予定されている。

 同準備会は、20人以上の隊士を送り出したという岡山と新選組のかかわりをアピールするとともに、他地域のファンと交流を深めようと参加を決めた。

 同準備会は会員を募集中。問い合わせは、同準備会ホームページ(http://okayamashinsengumi.web.fc2.com)。
 NHK「ブラタモリ」再放送視聴中なう。今日は二子玉川周辺なんで、江戸のうんちくが出てこないのが残念。でも、子供の頃から丸子橋周辺の風景が目になじんでるんで、多摩川べりの風景は、やはり和みます。

神奈川
年に一度の『船越の舞台』 多摩区・日本民家園 農村歌舞伎に400人
 「文化の日」の三日、川崎市立日本民家園(多摩区枡形)で民家園まつりが開かれた。幕末に造られた「船越の舞台」では農村歌舞伎が披露され、来場者約四百人が楽しんだ。
 船越の舞台は一八五七(安政四)年、三重県の神社に建てられ、村人らの芝居奉納に使われた。充実した舞台装置が特徴で、一九七三年に同園に移築され、七六年に国の重要文化財に指定された。同園の木下あけみ園長によると、現在、舞台が使われるのは年に一度という。
 この日は、東京都あきる野市で農村歌舞伎の伝承活動をしている「秋川歌舞伎あきる野座」が「菅原伝授手習鑑(てならいかがみ) 寺子屋の場」を披露。恩のある菅原道真の子を守るため、「松王丸」が愛息を身代わりにする悲劇で、松王丸が見えを切る場面では、会場からおひねりが舞った。
 中原区の市立大谷戸(おおがやと)小学校一年、大内彩寧(あやね)さん(7つ)は「面白そうだから前から歌舞伎を見てみたかった。楽しかった」と満足げ。父親の貴史さん(41)も「また観劇に連れて行く、いいきっかけになった」と話していた。 (北条香子)


新潟
新潟大神宮:会津藩士慰霊碑を修復 建立120年、関係者70人が除幕式 /新潟
 戊辰(ぼしん)戦争(1868~69年)で戦場になった新潟で戦死した会津藩士を弔うため、明治時代に新潟大神宮(新潟市中央区西大畑町)に建てられた慰霊碑が修復され、3日、除幕式が行われた。碑建立から今年は120年の節目に当たり、新潟、福島県会津若松市の関係者約70人が出席し、歴史を語り継いでいくことを誓い合った。
 戊辰戦争では東北、越後の諸藩が奥羽越列藩同盟を結び、薩長などと戦い敗れた。慰霊碑は1890(明治23)年、墓も作ることを許されなかった会津藩戦死者を慰霊するため、新潟に移り住んだ会津藩の生き残りが地元の人の協力を得て建立した。「殉節之碑」と名が付けられたが、明治政府の目をおそれ、神社片隅の目立たない場所に建てられた。
 長い歳月がたち、碑にひびが入り、碑文の字も見えにくくなったため、新潟市内の有志が寄付を募り、修復事業に取り組んだ。一新された碑は高さ2・2メートルで、境内の見やすい場所に移された。碑文には会津藩が賊軍の汚名を着せられ、明治後も苦難の道を歩んだことが刻まれている。
 除幕式には、碑の伝承活動に取り組んでいる新潟市民のほか、菅家一郎・会津若松市長らが出席。120年前の碑建立に尽くした旧会津藩士の子孫という斎藤兵市郎さん(79)=新潟市東区=は「碑は新潟と会津のきずなの象徴。これを機会に市民に広く知ってもらい、交流を深めていきたい」と感慨深げに話した。【小川直樹】


福井
龍馬とのかかわり記録に 県文書館、福井藩士の残した資料展示
 坂本龍馬と福井藩のかかわりを記録した資料などを集めた企画展「知られざる幕末維新 福井藩士の記録」が、福井市下馬町の県文書館で開かれている。NHK大河ドラマで話題の龍馬を取り上げ、幕末の福井藩に関心を深めてもらう。12月23日まで。
 展示しているのは、松平春獄・17代藩主のブレーンとして活躍した鈴木主税の書簡集「遺愛帳」、側近の中根雪江の記録「枢密備忘」、国事に奔走した青山小三郎の「上京中日記」など5点や、藩士が残した「昨夢紀事」「再夢紀事」などを合わせた約80点。
 龍馬が、文久3(1863)年に姉にあてた書状(コピー、京都国立博物館所蔵)は「一大藩に信頼されて2、300人あずかり、10両、20両の金は容易に融通できる」と福井藩について記している。
 京都の福井藩邸に現れた龍馬の言葉を記録した「上京中日記」は、「老中格小笠原長道の暗殺計画を持ちかけてきた長州人を龍馬が説得した」「春獄公の登京がないことに対する詰問」などについて記している。
 「枢密備忘」では、文久2年に龍馬が春獄に面会の予約をしたが、会えなかったことなどが記されているという。家臣の関義臣が書きとどめた「風説書」などは福井藩の勝海舟に対する特別な思いや、福井藩と龍馬が描いた海軍構想が頓挫した経緯がわかる。


鳥取
県指定保護文化財「河本家住宅」 一般公開始まる
 鳥取県琴浦町箆津の県指定保護文化財「河本家住宅」の一般公開が3日から始まった。同住宅は、国の文化審議会が国重要文化財に指定するよう答申中。公開初日には文化講演会も行われ、県内外から多くの古民家ファンらが訪れた。一般公開は7日まで。
 河本家は尼子氏の家臣を祖とすると伝えられ、代々大庄屋などの要職を務めた。1978年の母屋の屋根ふき替えの際、棟札の調査で貞亨5年(1688年)の建築と判明し、建築年代の明らかな民家としては山陰地方で最古に属す。
 初めて同住宅を訪れたという淀江町西原の出来弘さん(70)は「立派な建物。伝統的な建物が残っていることが素晴らしい」と豪壮な建物に興味深く見入っていた。
 文化講演会では、同住宅に残る古文書を調査している県公文書館県史編さん室の坂本敬司室長が講演。幕末当時の当主が記した公務記録「諸事御用日記」を基に、庄屋の仕事を解説した。
 4日は、鳥取環境大学環境デザイン学科の浅川滋男教授が同住宅の建築様式について講演する。


コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(86)東大教授・山内昌之 堀利煕(下)
■領土の捨て置き拒否
 徳川幕府は鎖国を唱えながら、国境や領土の観念をあいまいにするところがあった。ことに松前口と呼ばれる蝦夷地(北海道)や北蝦夷地(樺太)など北辺の地は、19世紀にロシアの影響力が浸透するに及んで、松前藩の力では先住民族のアイヌ人、ニブヒ(ギリヤーク)人、ウィルタ(オロッコ)人との関係を円滑に処理できなくなっていた。
 この難しい局面で樺太に出張し、日本の主権を守ろうとした幕吏こそ堀織部正利煕(おりべのしょう・としひろ)なのである。
 ペリー来航と同じ嘉永6(1853)年にロシアの東洋艦隊司令長官プチャーチンが長崎に入港すると、幕府は筒井政憲(まさのり)と川路聖謨(としあきら)を送って談判させた。同じころ、樺太の久春古丹(クシュンコタン、後の大泊(おおどまり))に露艦1隻が投錨(とうびょう)し、兵が上陸し駐屯地をつくった。そこで幕府は目付の堀と勘定吟味役の村垣範正(のりまさ)(のちの遣米使節)を巡見使に任命し、ロシアの南下政策に直面する蝦夷地を松前藩から公収すべきか否かを検討させた。松前藩も樺太の西岸は北緯50度、東岸は48度まで支配権を及ぼし、清国も南樺太が日本領であることを事実上認めていたようだ。
 プチャーチンが樺太現地での国境画定を希望してきたので、幕府は堀らを樺太までさらに出張させた。ところが欧州のクリミア戦争に追われるロシアは、久春古丹の守備隊を撤退させ、プチャーチンの樺太行きも取りやめになった。
 ◆樺太を探検調査し報告書
 それでも堀は1カ月も費やして樺太を探検調査した。堀らがまとめた報告書は実に素晴らしいものだ。
 「御国疆(きょう)境見込之場所」(わが国の領土と境界となる見込みの場所)の調査で感心するのは、先住民族の生活実態やロシア船渡来の状況に詳しいだけでなく、提言の内容が的確なことだ。現状では本蝦夷地(北海道)の警衛を優先し、北蝦夷地は当座の手当てにとどめるにせよ、領土を捨て置きにしていない証拠をきちんと見せておき外国の干渉に口実を与えないように工夫すべきだというのだ。具体的に力を行使できない現在、さしあたり国境の具体的画定を延期するのが得策だと政治リアリズムにも徹している(綱淵謙錠『幕臣列伝』、『函館市史』第2巻などによる)。
◆領土の実効支配主張
 堀は、将来の領土と国境の画定に備えた実際の対応策も忘れていない。樺太の先住民族はロシアに服従していないので、将来の正式領有に備え来春早々から本格的に道路を切り開き、郵便や糧米の運送に障(さわ)りが出ないように措置を講ずるべきだと主張する。領土の実効支配を口先で御題目のように繰り返すだけでは、不法な国や外国人の野心を覆すには十分ではない。それは尖閣諸島の事例で現代の日本人も毎日痛感しているところだ。堀は歴史の先を見越して実効支配の証しをきちんと立てることを毅然(きぜん)と主張したのだ。
 この現実的な意見は、安政元年の日露和親条約交渉に生かされ樺太は両国雑居地と定められ、幕府による蝦夷地再直轄(ちょっかつ)の決め手にもなった。堀がすぐ箱館奉行に任じられたのは当然である。堀が樺太でたどった足跡は興味深い。アニワ湾の久春古丹から西海岸の白主(シラヌシ)を経由して来知志(ライチシカ)に至った。北緯48度30分である。こうして堀の調査探検以来、北緯50度を日露の境界として分ける考えが日本側で浮上する。堀はいかにも江戸人らしく、ロシアの侵攻への守護神として八幡宮を勧請(かんじょう)して引き返した。堀はナヨロの海上で雄渾(ゆうこん)な詩をつくったが、綱淵氏が訓をつけた一部を挙げておきたい。
 海湾行き尽して又層峰
 万里の風塵(ふうじん) 一短●(いちたんきょう)
 吟は江山に渋して助け少なきを嘆き
 程は天地を遐(はる)かなるも能く容(い)れらるるを喜ぶ
 堀利煕は、国益を背負って海岳(かいがく)をものともせず北域に至った。万里の風塵を一本の短い杖(つえ)でしのぎながら、ロシアとの境界とすべき北緯50度に近づく堀の勇姿が寒風ふきすさぶ北冥(ほくめい)に影絵のように浮かび上がる。堀の偉業で思い出すのは、歴代の自民党政権が尖閣諸島を「捨て置き」同然にし主権の証しを公に刻まなかったことだ。野党自民党は民主党外交を追及するだけでなく、その政権下で尖閣の作為や不作為が何故に起きたのか、固有の領有権が外国の理不尽な否定に毎日曝(さら)される遠因は何なのか、自民党政権の長年の失策を堀の勇気と胆力に学びながら謙虚に検証すべきであろう。(やまうち まさゆき)
●=竹かんむりに功の力がおおざと






 季節の変わり目なのか、身体がだるくて一日横になって休息してました。こういう日もありますね。

北海道
<雑記帳>戊辰戦争の縁「登別・白石カレンダー」 
 姉妹都市の宮城県白石市と北海道登別市は、初めて共同で2011年の「登別・白石カレンダー」を作製した。白石は「白石城」、登別は「登別温泉・地獄谷」など自慢の観光名所を紹介している。
 戊辰(ぼしん)戦争(1868~69年)で敗北した白石城主が、新天地を求めて北海道に渡り開拓した土地が登別の基礎になったという。登別市が今年1月、「11年は合同で作製しよう」と、白石市に持ち掛けた。
 カレンダーは1部1000円。付属のはがきを送ると、抽選で両市の協賛企業提供の特産品が当たるプレゼントも。両市は「歴史的なつながりを大事にし、1年といわず末永く協力したい」。【豊田英夫】



東京
「イケメン俳優」テーマにロケ地巡る-多摩地域のフィルムコミッションが企画
 多摩のイケメンといったら、幕末指折りのイケメンである、あの方(笑)。
 多摩地域フィルムコミッション連絡会(日野市日野)は11月24日、テレビドラマや映画などのロケ地として使われた各所を巡るツアー「イケメン俳優が演じたロケ地めぐり」を行う。
 フィルムコミッションは、映画やテレビドラマ、コマーシャルなどの撮影の際にそのロケの誘致や準備、実際の撮影の手助けを行う組織。同会は多摩地域のフィルムコミッションをつなぐ組織として、八王子のほか国分寺・立川・多摩・調布・日野・福生の各市の団体や自治体の担当部署などが参加する。
 同会では今年から新規事業として「ドラマチック@TAMA AREAロケ地巡りモニターツアー」を開始。8月に開始した八王子出身のヒップホップミュージシャン「ファンキーモンキーベイビーズ」ゆかりの地を巡るスタンプラリー「ファンキーモンキーベイビーズ ふるさとめぐり」を皮切りに、さまざまなツアーを行っている。
 今回は日野から八王子にかけて、これまでロケ地として使われた各所を巡るツアーを企画。「ロケの際には俳優など数多くのイケメンが訪れている。このような場所に行きたがる人も多いと思い企画した」と日野市のフィルムコミッションとして活動するNPO法人「日野映像支援隊」(日野市日野)の中川さん。
 今回のツアーでは、徒歩とバス移動の2部で構成。前半は日本体育大学(世田谷区)の学生によるウオーキングレッスンを受けながら、幕末時代のイケメン・土方歳三の史料を展示する「土方歳三資料館」(日野市石田2)や2005年にフジテレビ系で放送された木村拓哉さん主演のドラマ「エンジン」などでロケ地として使われている「万願寺歩道橋(通称ふれあい橋)」を市民ガイドの解説を受けながら徒歩で巡る。
 後半は日野市立病院(多摩平4)やデジタルハリウッド大学八王子キャンパス(八王子市松が谷)など、さまざまなロケ地をバスで巡る。昼食の場所は日野自動車(日野市日野台3)内の食堂「日野食堂」。同社は映画「20世紀少年」の制作に協力し、ロケが行われた際には同食堂が弁当を担当したという。今回は「700円相当の『ロケ弁』を食べていただく」と中川さん。
 申し込み・問い合わせは、JTB西東京支店(立川市、TEL. 042-521-5550)まで。申し込み締め切りは11月8日。参加費は1人2,500円。


神奈川
人柄伝える写真で伊藤博文の生涯たどる、旧金沢別邸で展示/横浜
 横浜市指定有形文化財の旧伊藤博文金沢別邸(同市金沢区野島町)で初代内閣総理大臣、伊藤博文の生涯を写真でたどるパネル展示が始まった。開館1周年の記念事業として企画した展示で、子孫から貴重な写真の提供を受けた。
 管理する財団法人「横浜市緑の協会」によると、別邸ではこれまで建物内部の見学や茶会などの行事を開催。ただ愛好者から伊藤の人物像について質問される機会も多かったことから、より人間性が伝わりやすい展示にしようと、ひ孫にあたる東京都在住の伊藤博昭さん(64)に協力してもらい、借り受けた写真の展示を企画した。
 パネル写真は、幕末69件から明治にかけて撮影された23点。長州藩士らとおどけた表情で納まった一枚や、梅子夫人ら親族と写ったものもある。同協会では「身内と写ったものは見る機会が少ない。写真で伊藤の足跡をたどり、親しみを持つきっかけになればいい」と話している。
 問い合わせは同別邸電話045(788)1919。


福井
志士伝説の旅館「莨屋」跡示す記念碑除幕
 一八六一年、幕末49件の志士・坂本竜馬と福井藩士・由利公正が夜を明かし日本の将来を語ったとされる伝説の旅館「莨屋(たばこや)」を記す石碑とレリーフの除幕式が三日、福井県福井市照手一丁目の旅館跡地で行われた。
 石碑は高さ約一メートル、幅三十センチの白御影石製で、正面に「莨屋旅館跡」の文字が入っている。レリーフも幅七十センチの白御影石製。旅館の図や付近の地図とともに竜馬と由利の会談した歴史が書かれている。市民サークル「莨屋塾」(牧田活宜塾長)と財団法人・歴史のみえるまちづくり協会(市橋保理事長)が現在駐車場となっている跡地に、道路に面して二体を設置した。
 除幕式には、塾生や付近の住民ら約百人が出席。牧田塾長が「坂本竜馬と由利公正がこの地で日本の将来を語った。福井の町おこしの一環となればと思う」とあいさつ。竜馬が来た当時の旅館主の孫、竹内三七子さん(64)=同市江尻ケ丘町=と奈良一機副市長ら六人がテープカットし、完成を祝った。
 莨屋は明治三十五(一九〇二)年の大火で焼失したとされ、その後詳しい存在が不明だった。しかし、旅館の歴史に興味を持つ人たちで結成した莨屋塾が、数少ない資料を掘り起こし跡地を解明。仲間のカンパで碑を建てることにした。まちづくり協会もこれに同調し、一連の事業の一環としてレリーフを設置した。




京都
雑記帳:「ハッピーバス」京都で運行
 京都市交通局は2日、市バス内に新選組グッズを飾った「ハッピーバス」の運行を始めた。全765台のうち1台しかなく、「乗れば幸せになれる」との触れ込みだ。
 一目でハッピーバスと気付いてもらえるよう、誰もが知っている新選組を採用。対面式の最後部座席のカバーにだんだら模様の法被を用い、隊旗や和傘を飾った。
 車内に漂うにおい袋の香りが気分を和らげる仕掛けも。二条城や平安神宮を走る路線に投入される。ただし、幸せになれるのが「誠」かどうかは乗客の気の持ちよう次第。【田辺佑介】


和歌山
【6】 実行犯?紀三井寺で死す
◎謎を呼ぶ暗殺犯
 坂本龍馬を暗殺したのは、いったい誰なのか。新選組の原田左之助(さのすけ)、御陵衛士の伊東甲子太郎(かしたろう)一派、薩摩藩士の中村半次郎……。黒幕まで含めると、様々な名が取りざたされて、謎が謎を呼ぶ。最も有力とされる一人が和歌山市紀三井寺の地に眠る。
 佐々木只三郎(たださぶろう)。紀三井寺の前田泰道・副住職(52)によると、会津藩士の三男で、27、28歳ごろ、江戸に出て遠縁の旗本の養子に入った。武術に優れ、特に「小太刀を使わせたら日本一」と評判に。旗本の子弟を集めた京都見廻組を指揮する与頭(くみがしら)に抜擢(ばってき)、新選組とともに志士に恐れられた。「和歌も学び、文武両道の才人でした」
 一方の龍馬。ろうそくの炎が最後に輝きを増すかのように、薩長同盟を実らせ、大政奉還を成し遂げた。命の火を吹き消されたのは慶応3(1867)年11月15日。数人の男に京都・近江屋で襲われた。犯人は当初わからなかったが、明治以後、生き残った見廻組隊士が龍馬暗殺を告白。只三郎らが実行犯との見方が強まった。
 その只三郎も龍馬同様、新時代を目にすることはなかった。慶応4(1868)年1月3日、幕府軍と新政府軍が鳥羽伏見の戦いで激突した。只三郎は腰に銃弾を受けて負傷し、戸板に乗せられて紀州に落ちのびた。
 しかし、城下に入れず、運ばれたのは紀三井寺。塔頭、瀧本院だったといわれる。同院の稲塚正勝住職(65)は「紀州藩は徳川御三家の一つ。かくまってもらえると思ったが、官軍の目を恐れた藩から庇護(ひご)を受けることはできなかったらしい。仲間と紀三井寺の山内寺院や門前の民家に分宿したようです」と話す。只三郎は数日後、同院で息を引き取ったという。同院に残る記録では享年36歳。
 寺の急な階段を上り、さらに奥へ進むと瀧本院の墓所がある。墓碑には、「徳川家臣 佐々木只三郎源高城墓」と刻まれてあった。数十年前まで現地にあった本当の墓は、有志の手で福島県会津若松市へ移され、今残るのはレプリカだ。「毎年、お参りに訪れるのは只三郎直系の親族ぐらいでしょうか」と稲塚住職。
 龍馬と異なる立場ながら、動乱を懸命に生きた只三郎。歴史の敗者の墓周辺は木漏れ日の中、ひっそりとしていた。
(中野裕也)=おわり


山口
まげ結った高杉晋作像…伊勢谷友介さん除幕式に
 幕末の志士、高杉晋作の銅像「高杉晋作立志像」が誕生地に近い山口県萩市呉服町の晋作広場に建立され、31日、除幕式が行われた。
 京都市在住で日展評議員の彫刻家、江里敏明氏が制作。式にはNHK大河ドラマ「龍馬伝」で晋作役を演じている俳優の伊勢谷友介さんも招かれ、大勢のファンでにぎわった。
 像は高さ1・8メートル(台座含め約3メートル)。まげを結い、羽織りはかまに両刀を差した立ち姿で萩城の方向を向いている。官民で構成する「萩まちじゅう博物館銅像建立委員会」が企画した第1号作品で、制作費840万円は100人からの寄付金などでまかなった。
 式典で江里氏は「萩で志を立てたことを表現しようとまげ姿にした。萩のシンボルとして愛され、かわいがられる像になってほしい」と思いを述べ、伊勢谷さんは「高杉晋作さんの行動力に感動している。今後、萩の町づくりにも協力していきたい」と話していた。


長崎
亀山社中記念館30万人達成 弥太郎役の香川さんも祝う
「わしのカンパニーの30万人目のお客さまですき」-。幕末の志士、坂本龍馬ゆかりの地として復元整備され、昨年8月1日に開館した亀山社中記念館(長崎市伊良林2丁目)の入館者が10月31日、30万人を突破した。30万人目となった茨城県日立市の会社員、須藤裕さん(47)、晃子さん(41)夫婦に長崎市から記念品が贈られた。
 同館は日本初の商社とされる亀山社中が使った家屋を同市が改装。龍馬が身に着けた紋服、刀、ブーツ(いずれも複製品)などを展示している。当初、年間2万5千人の入館者を想定していたがNHK大河ドラマ「龍馬伝」の効果で、10万人目は206日で達成。その後、20万人は143日、30万人は107日でそれぞれ達成し、入館者は加速度的に増えている。
 記念式では龍馬に扮(ふん)した男性が須藤さん夫婦に「おめでとうございます。どうぞお入りください」と歓迎し、智多正信副市長が記念品として龍馬グッズを贈った。「龍馬伝」で岩崎弥太郎役の俳優、香川照之さんも仕事で来崎中。式後に亀山社中を訪れ2人を祝福、亀山社中のパンフレットをプレゼントした。
 須藤さん夫婦は2度の“サプライズ”に「びっくりした。毎週『龍馬伝』を見ており、いい記念になった」と満面の笑顔で話した。




コラム
【次代への名言】非常の師弟編(22)
「たとえ完全勝利を得たとしても国を戦場にするは上策に非(あら)ず。自然とわが国を恐れ、つけいる気をおこさせないのが最上の策である」(佐久間象山)
 《百戦百勝するは善の善なるものに非ざるなり。戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり》(『孫子』)
 この中国古代の兵法書の箴言(しんげん)をいま、どう応用すればよいのか。佐久間象山の答えが冒頭の一文である。
 理念だけではない。彼は国とその名誉を守る海軍の創設、そのために外国から軍艦を購入し、海戦や航海術などが専門のお雇い外国人を招く具体策を、幕府の老中で外相兼国防相の地位にある主君の真田幸貫(ゆきつら)(松代藩主)に進言した。
 この提案がなされたのは1842年である。「黒船来航」は11年後、象山の精神を継ぐかっこうで日本の近代化を進めていった明治政府の誕生は四半世紀のちのことだ。徳川幕府が象山の意見を採用していたら、「幕末のかたち」はさぞかし変わっていたことだろう。
 さて、黒船を率い、10日間にわたって恫喝(どうかつ)外交を展開した米国の「蒸気海軍の父」、ペリーは53年6月13日、「来春、開国条約締結のために再来日する」と言い残して浦賀から去った。象山はこれを機に海外の技術と情報を取得するために“留学生”を派遣するよう幕府高官に働きかけるが採用になる様子はない。
 鎖国下である。海外渡航は発覚すれば死罪だ。「しかし、国を救うために非常の功を立ててはみぬか」。そんな象山の呼びかけに応じた門人がいた。吉田松陰だった。(文化部編集委員 関厚夫)


IT
パソコン工房、「坂本龍馬」デザインのネットブック
株式会社ユニットコムは、「坂本龍馬」のデザインをあしらったネットブック「VN-坂本龍馬/7HP-N470502G/KOF」をパソコン工房ブランドで発売した。価格は59,800円。
 幕末に活躍した坂本龍馬の写真を天板にプリントしたネットブック。同デザインの壁紙も収録する。
 主な仕様は、CPUにAtom N470(1.83GHz、ビデオ機能内蔵)、メモリ2GB、Intel NM10 Expressチップセット、500GB HDD、1,024×600ドット(WSVGA)表示対応10.1型ワイド液晶ディスプレイ、OSにWindows 7 Home Premium(32bit)、キングソフトオフィス2010スタンダードなどを搭載する。
 インターフェイスは、SDカード/メモリースティック(PRO)対応カードリーダ、USB 2.0×3、ミニD-Sub15ピン、Ethernet、IEEE 802.11b/g/n対応無線LAN、30万画素Webカメラ、音声入出力などを備える。
 バッテリはリチウムイオンで、駆動時間は約2時間30分。本体サイズは266×185×18.5~26.6mm(幅×奥行き×高さ)、重量は約1.2kg。

□パソコン工房のホームページ
https://www.pc-koubou.jp/
□製品情報
http://www.pc-koubou.jp/pc/ryoma.php


文化芸能
堺雅人、殺陣じゃなく1か月そろばん猛特訓…「武士の家計簿」
 俳優・堺雅人(37)が1日、大阪市内で主演映画「武士の家計簿」(12月4日公開、森田芳光監督)のPR会見を行った。
 財政悪化に直面した加賀藩を舞台に、そろばんを手に幕末維新を生き抜いた実在の侍の物語。時代劇は映画も主演も初めてだが、殺陣ではなく、そろばんを1か月特訓し、「立ち回りぐらい大変でしたが、何とかうまくごまかせたかな」。自身は理数系ではなく文系だそうで「算数が苦手で、3年生の通分でつまずいたぐらい。理系を演じていて、自分の中でクスクス笑っていました。中学、高校の先生に見せてあげたい」と苦笑いでアピールした。





 明日から11月ですねぇ(汗)。昨日は談笑師匠の『富久』を聴いて、あぁもぉ年の瀬ネタなのねと感じました。

茨城
映画「桜田門外ノ変」人気 発案は県職員「街を元気に」
 水戸浪士らが幕末に起こした事件を描いた映画「桜田門外ノ変」が、全国公開後10日余りで40万人を動員する好調ぶりだ。作品化の発端は、映画作りで地域を活性化したいというある県民の一念。賛同した5千人のボランティアが地元ぐるみで制作を盛り立てた。「暗殺」という難しい題材。挑んだ人たちの思いを聞いた。

■「地域の映像文化発信」

 映画化は、県庁職員の橘川栄作さん(48)が発案した。2005年、東京都内の居酒屋で友人の映像プロデューサーと交わした「映画で街を元気にしたい」という会話がきっかけだ。自分の中でどんどん膨らんだ構想を会う人に語るうち、賛同者が次々と集まった。07年の春に題材を吉村昭の同名の小説に決め、80人で「映画化支援の会」を立ち上げた。
 07年暮れから本格的に動き出した。しかし先立つものがない。内閣府の予算「地方の元気再生事業」以外、ほとんどは個人からの援助。撮影開始1カ月前の段階で予定5億円のうち500万円しか集まらず、プロデューサーが辞任した。映画化の危機を知った地元の有志が出資組合を立ち上げ、寄付をかき集めた。
 地元を盛り上げようという映画作りに、多くの県民が加わった。県内16カ所のロケ地では、炊き出しや交通整理に携わり、エキストラとしても出演。オープンセットが作られた水戸市では、暗殺場面の降り積もった雪を再現するため、砕いた純白の石を70トン敷き詰めた。ボランティアは計5千人にのぼる。
 地元の強固な支援態勢を見て、大手配給会社の東映も動き、配給を決めた。これまでの地方発映画はミニシアターでの上映がほどんど。同社は「今後の地方の映画・文化発信の新しいモデルとなる可能性がある」と評価する。
 「支援の会」の谷田部さんは「映画のクレジットに出てこない支援者もたくさんいる。誰一人欠けても映画はできなかった」。しみじみ振り返った。(中村真理、伊藤弘毅)

■子孫が事件を小説化
 桜田門外の変の志士・鯉渕要人(こいぶち・かなめ)の子孫にあたる、ひたちなか市中根の鯉渕義文さん(64)が、映画公開初日の16日、事件を描いた小説「情念の炎 上巻」を自費出版した。映画は襲撃を指揮した関鉄之介の視点で描かれているが、小説は18志士一人ひとりの心の動きに光を当てた。「国が困難に直面しても、時代から目をそらさず立ち向かった志士たちの迫力を感じてもらえたら」と話す。
 水戸領の上古内(現在の城里町)の神官だった要人は、水戸藩の武士とともに大老井伊直弼の襲撃に参加。18人の志士の中で最年長の51歳だった。現場で深手を負った後に自刃した。
 鯉渕さんは県内の有志で作る「『桜田門外ノ変』映画化支援の会」が主催する歴史講座に通い、時代背景や事件に至る過程を深く知るうちに、「18志士の視点で時代を描きたい」と思うようになった。
 昨年9月から執筆に取りかかり、10カ月で300ページを書き上げた。上巻は事件の前段階の時代、黒船来航前後の歴史背景や幕府と諸藩の動きを追う内容が中心だ。
 来月からはいよいよ、桜田門外の変へと志士たちが動き出す下巻の執筆を始める。
 「情熱の炎 上巻」は1900円(税抜き)。購入希望者は、鯉渕さんの電話(029・274・1458)かメール(y8823k@yahoo.co.jp)へ。


東京
台風14号接近で週末のイベント中止・縮小も
 台風14号が、30日から31日にかけて関東地方に接近する予想が伝えられる中、区内のイベントも中止や縮小が相次いでいる。
 30日に、綾瀬駅前のはと公園とマリアージュで開催予定の『綾瀬伝 綾瀬の歴史と新選組』は、天候により、はと公園の特設ステージをマリアージュで行う。また、新選組隊士らによる防犯あやせ作戦!パレードは中止が決まった。問合せは、綾瀬文化のまちづくり実行委員会事務局まで。電話03−3838−1636、芝園開発株式会社内。
 一方、31日に行われる予定だった足立区谷在家障がい福祉施設の「とんがりぼうしカーニバル」は中止となった(順延はなし)。問合せは、谷在家障がい福祉施設(電話03−3853−0632)。
 この他にも、地区対の運動会なども順延を決定しているところもある。


龍馬が駆けた道 雨の中250人堪能
【産経大江戸ウオーク】

 大江戸ウオーク「幕末・龍馬が駆けた江戸」(品川編)が30日、東京・品川の立会川駅周辺のコースで開かれた。時折、強い雨が降る中、約250人が参加。幕末、坂本龍馬が駆け抜けた道をたどった。この日は、あいにくの空模様となったものの、スタート地点の大井公園には、受け付け前から多くの参加者が集まった。台風の影響で急遽(きゅうきょ)、大井競馬場をゴールとする約5キロのコースに変更して行われた。

 台東区の渡辺幸司さん(61)とひろみさん(59)の夫婦は「浜川砲台跡で、龍馬と品川のかかわりなどについて話を聞けたのがよかった」と話していた。

 ガイド役を務めた日本ウオーキング協会のメンバーも「雨も自然のうち。自然を楽しみながら歩くのが、本来のウオーキングですから」と参加者に声をかけていた。



神奈川
三浦半島の文化を考える会が発足20周年記念で機関紙発行
 地域史研究グループ「三浦半島の文化を考える会」(白根貞夫代表、約60人)が、発足20周年を記念した機関誌「三浦半島の文化」を発行した。幕末68件の庶民の不安や恐怖をつづった日記の紹介をはじめ、興味深い内容となっている。
 同会は1990年、三浦半島の文化に関する調査、研究、学習を目的に発足。毎年機関誌を発行しているほか、各種講座などを実施している。
 記念号はA5判、108ページ。辻井善彌さんの「浜浅葉日記にみる不安と恐怖」では、相州三浦郡大和田村の農家が幕末68件に書き留めた日記を紹介している。
 1853(嘉永6)年にペリーの黒船が来航した10日間は、2回も浦賀へ出向いたり、陣屋に非常米を届けたりと慌ただしかった。幕末は治安が乱れ、裕福な上層農民だった浜浅葉家は約20年の間に5回も盗みに入られたという。
 機関誌では、幕末の庶民と領主の借金事情や、1862(文久2)年の生麦事件後に警備を強化する浦賀の様子も紹介している。
 白根代表は「これからも身近なテーマを掘り起こしていきたい」と話している。
 希望者には千円(送料別)で頒布する。問い合わせは、久保木さん電話046(852)0714。


「小田原幕末伝」再演、創立65周年の市民劇団「こゆるぎ座」が激動の時代演ず/小田原
 戦後間もなく小田原で産声を上げた市民劇団「こゆるぎ座」の創立65周年記念公演が30、31の両日、小田原市民会館(同市本町)で行われる。
 タイトルは「小田原幕末68件伝 おさらばでござります」。
 長らく佐幕派だった小田原藩が、明治維新を経て勤皇へと傾いていく史実を軸に、青年剣士と町娘の純愛が描かれている。
 座付き作家だった故・後藤翔如(しょうご)さんが手掛けた作品で、18年ぶりの再演となる。
 高校1年生から74歳までの劇団員23人に、OBを加えた総勢約40人が舞台に臨む。6月の台本読み合わせから始まり、8月からは毎日曜に8時間のけいこを重ねてきた。
 関口秀夫座長(71)は「激動の今にぴったりの演目。節目の年に観客の胸を打つようないい芝居をお見せしたい」と意気込んでいる。
 2幕6場で約2時間半。30日は午後6時、31日は同1時に開演する。入場料千円。問い合わせは、同劇団電話0465(22)2988。


静岡
遠江で活躍の村松以弘など門下生紹介 掛川で『渡辺崋山と弟子』展
花鳥画など重文含む26点
渡辺崋山の弟子たちが描いた「山水図屏風」に見入る来場者=掛川市で

 幕末の画家、蘭学者として知られる渡辺崋山(1793~1841年)と、遠江で活躍した弟子たちの作品を紹介する「渡辺崋山とその弟子たち」展が11月28日まで、掛川市二の丸美術館で開かれている。 (佐野太郎)
 渡辺崋山は三河の田原藩士の子として江戸で生まれ育ち、晩年を今の愛知県田原市で過ごした。「遠江の南画の師」として多くの人々に影響を与え、彼らが描いた人物画や花鳥画、山水画は遠近や陰影に西洋の画法を取り入れたのが特徴。
 今回の展示は、崋山の作品を数多く所蔵する田原市博物館と浜松市美術館の協力で、重要文化財8点を含む26点を並べた。
 崋山が46歳のときの作品「孔子像」などのほか、後に掛川藩お抱え絵師となった村松以弘をはじめ、「崋山十哲」として知られる見付出身の福田半香、榛原出身の平井顕斎らの優れた作品を、来場者が興味深そうに鑑賞していた。
 観覧料は一般200円。小・中学生100円。開館時間は午前9時~午後5時(入館は4時半まで)。休館は月曜(祝日は開館)、祝日の翌日。問い合わせは同美術館=電0537(62)2061=へ。


石川
映画:「武士の家計簿」完成 御算用者の暮らし描く /石川
 幕末の加賀藩を舞台に下級武士「御算用者(ごさんようもの)」の暮らしを描いた映画「武士の家計簿」(森田芳光監督)がこのほど完成。28日、金沢市内で森田監督や出演者が完成披露記者会見を開いた。
 原作は磯田道史・茨城大准教授の「武士の家計簿『加賀藩御算用者』の幕末維新」(03年、新潮社)。加賀藩の会計の専門家として働く武士の生活と、暮らしを支える家族のつながりを描いた。
 会見には森田監督のほか、主人公・猪山直之役の堺雅人さん、直之の父、信之役の中村雅俊さんが出席。堺さんは印象に残った撮影シーンに家族の食卓を挙げ「どの時代にも温かい思い出や営みがあるのは同じ。笑ってばかりの楽しい現場だった」と語った。
 映画は27日から県内6映画館で先行上映され、12月4日から全国でも上映される。【宮嶋梓帆】




奈良
歴史学び きずな継承
◇ルーツたずねて
 ▼新十津川 移住120年(下)
 十津川村から遠く約1200キロ隔てた北海道への移住から120年。距離と時間を超えて、きずなは今も途絶えていない。
 7月29日、村役場を訪れた小中学生23人らを、村民ら約30人が盛大な拍手で迎えた。新十津川町の一行だ。
 23人は体育館で町の歴史などをスクリーンに映しながら紹介。北海道弁も披露した。「初対面じゃないような熱烈な歓迎ぶり。とてもうれしかった」と驚きを隠せない新十津川中2年の藤井梨菜絵さん(14)。森本里梨花(りりか)さん(13)も声を弾ませた。「関西弁がかっこよかったので教えてもらった。方言を教え合い、楽しかった」
 子どもたちは、村に伝わる国の重要無形民俗文化財「武蔵の大踊り」も習った。その姿に、武蔵踊り保存会会長の尾中修さん(72)は目を細めた。「高齢化し、引き継ぐ人がいなくなるのではと不安。でも新十津川の若い人たちに伝え、残していきたい」
 町では十津川村のことを「母村(ぼそん)」と呼んでいる。「親子関係みたいな感じですね」と町教育委員会社会教育グループ主任の竹村大樹さん(35)。町唯一の新十津川小学校では、大水害から移住までの歴史を10ページにわたって載せた副読本で学び、「遠きふるさと十津川」の一節のある校歌を歌う。
 交流には剣道も欠かせない。
 十津川郷士の時代から、村の剣道の強さは有名だった。北海道移住の途上でも、天皇の誕生日を祝った「天長節」や長旅の慰安のために剣道の試合を行ったという。移住から20年後には町に剣道団体「尚武(しょう・ぶ)会」ができ、1960年、村の剣士10人が町に招待されたのをきっかけに、5年ごとの行き来が続いている。
 小中学生の訪問から1カ月後。今度は村から十津川剣道クラブの会員らが町を訪問。個人戦と団体戦を行い、団体戦は十津川剣道クラブが勝利した。クラブの片山武夫会長(63)が「試合が近くなるとみんな必死に練習し出す。恥ずかしい試合はできないから」と言えば、尚武館館長の後木(うしろぎ)祥一さん(59)も「年の近いライバルも多い。対戦は負けられない」と真剣そのものだ。
 20~30代の青年団も36年前から互いに行き来し合う。カップルも成立した。東(あずま)勝美さん(43)、珠美さん(41)夫婦だ。
 村の珠美さんが91年に町を訪問、文房具店で働く勝美さんとの交際が始まった。1年後、音楽教師だった珠美さんは北海道の教職員採用試験を受けて町に移住し、結婚。先祖が村出身の勝美さんは「本当の意味での里帰りが一緒にできるのでうれしい」と喜ぶ。
 ●お互い先人に感謝
 現在、先祖が村出身の町民は1割を割ったというが、いずれの首長もきずなは揺るぎないようだ。植田満町長(65)は先祖が四国出身だが、「この町に住んでいると、自然と十津川村を母村と思う気持ちになる。120年の流れは消えないし、消してはいけない」。更谷慈禧村長(63)も「お互いに合併せずに単独でやってきているが、もしどうしても合併しなければならない時は、一緒にしようかと冗談で話したことも。これからもお互いに先人に感謝し、関係を守り続けていきたい」と話す。
 自分のルーツを知りたいと始めた取材。大変な苦労を高祖父が経験し、北海道開拓の一端を担っていたことを誇りに感じた。(この連載は伊藤あかりが担当しました)
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 ■シンボルマーク 十津川村の村章は、十字をひし形が囲んだ「菱十(ひしじゅう)」。十津川郷士が京都御所を交代で警備した功績から、幕末に朝廷から賜ったという。新十津川町も同じマークを町章に使い、十津川郷士の誇りを受け継いでいる。北海道に移住した際、移民らは「新しい村を造っても、十津川郷とは幾世代に亘(わた)ってその因縁を保ち、由緒を継続する」との宣誓文を作った。


愛媛
蝦夷調査探検家と伊達藩とのかかわり探る 宇和島
 幕末に蝦夷(えぞ)地を調査して全国に情報発信した探検家・松浦武四郎と、宇和島とのかかわりを探る歴史シンポジウム(宇和島歴史文化研究会など主催)が30日、宇和島市住吉町1丁目の市総合福祉センターで開かれた。
 出身地の三重県松阪市や北海道などから研究者が集結。吉田松陰ら幕末の志士や各地の幕臣たちに、独自のネットワークで外交などの情報を伝えた武四郎の功績を、県内外から集まった約120人の歴史ファンらを前に語った。
 武四郎はペリー来航時、宇和島藩家老の依頼で下田を調査。その礼金5両を元に蝦夷地図を完成させ、藩主伊達宗城(むねなり)に献上している。その自筆地図「三航蝦夷全図」(宇和島伊達文化保存会所蔵)も初めて公開された。保存状態が良く鮮やかな色のまま、アイヌ民族が住む場所などの記載や解説文がはっきり読み取れる貴重な史料に参加者は見入った。


高知
ジョン万次郎の生家、募金で復元…1日から公開
 幕末、出漁中に遭難し、米国の捕鯨船に助けられて日米友好の橋渡し役となったジョン万次郎(1827~98)の出身地、高知県土佐清水市中浜に万次郎の生家が復元された。

 日本の発展、国際交流に多大な貢献をした英雄に思いをはせる、新たな名所となりそう。31日に落成式が行われ、1日から無料公開される。

 開催中の「土佐・龍馬であい博」に合わせ、土佐清水商工会議所など地元30団体の復元実行委が昨年末から募金活動を行っていた。龍馬ブームに伴い、龍馬の世界観に影響を与えた万次郎への注目度も高まっており、県内外から集まった募金総額は目標の1000万円を超す、1250万円に。建設には、このうち1155万円を充てたという。
 復元された生家は残された古い写真をもとに設計されており、かやぶき屋根の木造平屋(約28平方メートル)で、板の間や土間、かまどなども再現されている。内部には古い民具も置く。周囲は石塀で囲まれており、近くには万次郎が使った井戸もある。
 であい博の土佐清水市サテライト会場に向かう途中に万次郎の生家跡を訪れた徳島県鳴門市の建築設計業堀和英さん(58)、恭子さん(58)夫婦は「復元を知らずに来たのでいい記念」と喜んだ。
 31日には、土佐清水市養老のあしずり港岸壁で「第3回土佐清水ジョン万祭り」も開かれ、万次郎の子孫による講演会や仮装コンテスト、沖縄ジョン万次郎会の舞踊が披露されるなど、地域は万次郎一色になる。
 公開は午前9時~午後4時で、地区住民が生家の管理や観光客らの案内をするという。問い合わせは平日に中浜区長場(0880・82・9027)へ。
(2010年10月31日12時56分 読売新聞)

佐賀
佐賀七賢人しおり、県内書店で無料配布
 佐賀県書店商業組合(岩永藤房理事長)は、秋の読書シーズンにあわせ、「佐賀七賢人しおり」計7万枚を作成、今月から県内の書店で無料で配布している。
 しおりは、県教育委員会が幕末や明治期に活躍した佐賀県出身者を紹介する「佐賀偉人伝集」(全15巻)を今秋から5カ年計画で出版することや、今年が「国民読書年」となっていることから作成。鍋島直正や大隈重信、江藤新平ら明治維新で活躍した七賢人の顔写真や略歴が掲載されている。
 同組合では七賢人各1万枚、計7万枚を作成。岩永理事長は「幅広い年齢層の方たちに、ふるさとの偉人について知ってもらうきっかけになれば」と話している。


武雄領主、“定説”より2年早く写真機使用か
 諸説あるものの1848(嘉永元)年、日本人が海外の写真機を初めて購入。だが、武雄の第28代領主鍋島茂義は、その2年前に長崎から写真機を取り寄せていた-。写真史の“定説”を覆すような貴重な史料が、武雄市の市図書館・歴史資料館で開催中のミニ企画展「写真に観る武雄」で紹介されている。江戸期の撮影機材などを含め、来年1月19日まで展示する。
 同館によると、海外の写真機を手に入れたのは、長崎で日本初の写真館を開いた上野彦馬の父で、長崎の時計師だった上野俊之丞。本人の記録帳「上野俊之丞書留」によると、1848年にオランダ船から購入したことが記されているという。
 しかし、武雄領主による輸入品の手配などを記述した古文書「長崎方控(かたひかえ)」は1846(弘化3)年10月5日、「写真鏡小(写真機) 一筥(はこ)」を取り寄せ、同21日に俊之丞へ返品したことを明記。少なくとも2年前に海外製の写真機が日本で使われていた可能性があるという。
 「『初購入』の時期については依然、研究課題だが、武雄領主が極めて早い時期に写真機を取り寄せたのは間違いなさそう。進取の気性に富んだ様子を垣間見ることができる」と担当者。
 資料館内の「蘭学館」の一角に設けられた会場では「長崎方控」のパネルのほか、武雄領主が幕末に購入した英国製の写真撮影時の照明器具「ガルハ焼入器」、長崎で写真修業をした武雄鍋島家家臣の木々津又六(1835-没年未詳)が帰郷時に持ち帰った古写真、昭和初期の武雄の様子を伝えるガラス乾板写真による作品など計26点を公開。入場無料。同館=0954(20)0222


大分
日田の先哲・平野五岳の詩文 本格的に解析
 日田市出身の先哲、平野五岳(1809~93)の子孫にあたる、専念寺の平野法好住職(60)=同市亀山=が「平野五岳詩選訳注」を発行。27日、佐藤陽一日田市長らに献本した。五岳の詩文を本格的に解析した本は初めてという。

 著者は五岳研究の第一人者の河内昭円・大谷大学名誉教授。掛け軸などに独特の草書で書かれた五岳の詩218首を正漢字におこし、書き下し文、現代語訳、注釈、余話を付けている。河内名誉教授は「黒船来航、安政の大獄、明治維新など、情勢を極めて細かくとらえて詩に読み込んでおり、当時の日田や幕末の新しい一面が見える。詩もスケールが大きくて素晴らしい。日田の宝」と絶賛。五岳は優れた画家として知られているが「詩人としてもっと全国的に知られてよいのではないか。研究者も増えてほしい」と話した。
 平野住職、五岳上人協賛会の松永敦海さんは「詩文がいかに素晴らしいか全国にアピールしたい。一人でも多くの人に読んでもらいたい」。佐藤市長は「この本をきっかけに多くの人に五岳のすごさを知ってもらいたい」と謝辞を述べた。
 市淡窓図書館などにも寄贈している。A5判・457ページ。6825円。申し込み、問い合わせは専念寺(TEL0973・22・2380)へ。


史実
坂本竜馬の「新政府綱領」に新説?
 幕末の英雄で、ブームの真っただ中にいる坂本竜馬。その歩みには多くの謎がある。そのひとつが「船中八策」と「新政府綱領八策」という文書。前者は竜馬が発案し、倒幕後の国家体制の基本方針を記した文書とされているが、原文書は存在していない。後者は竜馬直筆の文書で、前者とほぼ同内容だ。双方については長年、論争の的となってきたが、そこに一石を投じそうな資料が見つかった。 (秦淳哉)


コラム
【龍馬を慕(おも)う】(31)下関・馬関海峡 長州に協力 幕府軍を破る
「八十斤加農(カノン)砲」が、馬関(関門)海峡に砲身を向けている。青銅製のため、くすんだ青みがかった色をしている。全部で5基。もちろんレプリカである。壇(だん)ノ浦砲台と呼ばれ、西側の上方に関門橋が架かる「みもすそ川公園」に展示されている。
 海峡が大河のようにうねりながら流れている。波がときたま弾け飛び、波頭が白くめくれあがった。流れは1日に4回も変わり、海流は最速約10ノット(時速18キロ)に達するという。
 幕末の長州藩はこの海流のように、激しい勢いで維新の動乱にのめりこんでいった。藩全体が、精神病理学の対象となってもいいほど沸騰しまくった。時に激怒し、時に沈鬱(ちんうつ)となり、時にヤケクソになり、時に大笑し、時に滂沱(ぼうだ)の涙を流した。
 それでも自恃の念だけは失わなかった。関ケ原の戦いで領地を大幅に減らされた結果、「反徳川」の思いは通奏低音となって、二百数十年の間、藩士たちの意識の底でか細い響きをはなちつづけていた。
 カノン砲は壇ノ浦と、東に1キロほどいった「前田」という場所に設置された。文久3(1863)年5月、幕府のいやいやながらの攘夷決行を受け、長州藩は翌6月にかけ、海峡を航行する外国船に向け、一斉に砲撃を加えた。
 長州藩は翌元治元年7月、「蛤(はまぐり)御門の変」を起こし、大敗北を喫した。その直後の翌8月、アメリカ、イギリスなど4カ国の連合艦隊17隻が壇ノ浦、前田の両砲台を徹底的に破壊した。上陸され、占領までされてしまったのだから、完敗であった。
 ついで第一次長州戦争で降参し、藩そのものが幕府への絶対恭順派によってかためられた。だが奇兵隊をひきいる高杉晋作の獅子奮迅の活躍で、恭順派を追い落とし、慶応2(1866)年6月から、幕府軍と戦闘に入った。第二次長州戦争である。
 この間、わずか3年ほどである。通奏低音がじょじょにシンクロナイズし、とうとう大音声(おんじょう)を響かせたわけである。この時期の長州はスーパーマンなみの大活躍を演じた「スーパー藩」であった。
 ●高杉晋作からの依頼
 坂本龍馬は、外国船の攻撃にも、蛤御門の変にも、第一次長州戦争にもかかわっていない。かかわったのは、第二次長州戦争である。
 薩長同盟の締結を受け、龍馬は長崎の亀山社中を通じて、薩摩藩名義で軍艦や大量の銃器を外国商社から買いつけ、長州藩に提供した。長州軍は大村益次郎の指揮によって、軍隊をいっきに近代化させることに成功した。
 龍馬は戦闘にも加わった。目の前に広がる馬関海峡で、高杉ひきいる長州艦隊のうちの乙丑(いっちゅう)丸に乗り込んだ。乙丑丸は亀山社中が薩摩藩名義で買いつけた桜島丸のことである。
 三田尻に本拠を置く長州海軍には、乙丑丸を含め、丙寅(へいいん)丸、癸亥(きがい)丸、庚申(こうしん)丸、丙辰(へいしん)丸の計5艘の軍艦があった。高杉の狙いは、対岸の小倉口を占拠し、幕府側の小倉藩をたたくことであった。司馬遼太郎の『竜馬がゆく』によると、高杉は下関の酒席で龍馬と会い、
 「坂本さんに、わが艦隊の半分をまかせるゆえ、幕府海軍を制圧してもらえんだろうか。あとの半分はわしがひきいる」
 と、門司浦の襲撃を頼んだ。6月16日深夜、乙丑丸は庚申丸をひきい、門司浦に向かった。高杉は旗艦の丙寅丸に乗り込み、門司浦の反対側の田野浦方面を目指した。
 対岸の門司一帯には、砲台や幕府軍陣地が並んでいた。長州艦隊は翌17日未明、一斉に砲撃をはじめた。まだ幕府側の艦隊は、馬関には着いていなかった。攻撃は一方的であった。
 龍馬もずいぶん楽しかったらしい。同年12月4日、兄、権平宛(あて)の手紙には、海戦図まで描いたうえ、
 「長州の軍艦を引て戦争セしに、是ハ何之心配もなく、誠ニ面白き事にてありし」
 と書き送っている。
 ●「小さな珠」が標的
 第二次長州戦争は、小倉口のほか、瀬戸内側の芸州口、山陰側の石州口などで展開されたが、幕府軍の完敗に終わった。とくに小倉口では、奇兵隊員が上陸し、小倉城を陥落させてしまった。
この敗北は、幕府にとっては決定的だった。熊本藩が戦の途中から国に引き揚げてしまったうえ、日本最大の洋式軍隊を持っていた佐賀藩にいたっては、幕府の出動命令を無視した。
 陽(ひ)が落ちてきた。わずか700メートル先にある門司のビルや建物群の灯(あかり)がともりはじめた。この公園ちかくで幼少期をすごした作家、松本清張はエッセー「半生の記」の中で、
 「夜になると、門司の灯が小さな珠(たま)をつないだように燦(きらめ)く」
 と書いている。門司浦の戦いのさいにも、幕府軍は台場や陣地ごとにかがり火を焚(た)いた。龍馬にとっては、「小さな珠」をつないだようなかがり火が、うってつけの標的になったはずである。
                   ◇
 ≪メモ≫
 下関までは東京(羽田)からだと山口宇部空港か、北九州空港へいずれも約1時間半。下関へは空港バスを利用していずれも約70分。新大阪からだと新幹線で新下関まで約2時間半。下関市吉田町には高杉晋作を葬った墓と、最期を看取(みと)った愛人・うのが住んだ東行(とうぎょう)庵がある。また、下関はこれからフグの季節で、彦島の南風泊(はえどまり)市場に水揚げされたフグ料理を味わいたい。
                   ◇
 ≪きょうの「龍馬伝」≫
NHK総合 午後8時~ ほか 
   
 薩土盟約を受け、後藤象二郎(青木崇高)は土佐に戻り、山内容堂(近藤正臣)に大政奉還論を説くが、容堂は拒否する。土佐の挙兵のために必要な銃を仕入れるために長崎に戻った龍馬(福山雅治)だったが、白ばかまの武士がイカルス号という船の英国人水夫を殺した事件で海援隊に犯人の嫌疑が掛かってしまう。英国公使・パークス(ジェフ・ワスティラー)は弥太郎(香川照之)に、犯人を引き渡さなければ英国艦隊が土佐を攻撃すると脅す。奉行に追われる龍馬の代わりに、惣之丞(要潤)が奉行所に連行され、隊士たちは真犯人を捜し始める。


【次代への名言】非常の師弟編(19)
■「ときは一度すぎると千年たっても再来せず、肉体と精神は朽ちれば永久に再生しない。だから学問・事業をのんびりと考えてはならぬ」(佐久間象山)
 佐久間象山は偉大だった。ほとんどの洋(蘭)学者が漢訳の洋書をもとに研究していた時代に、原書から西洋の科学技術や軍事に関する知識を得るため、33歳という年齢で、オランダ(蘭)語に挑み、1年ほどで習得に成功したのだ。
 それだけではない。このころの洋学の大家は「誤りだらけの翻訳書にもかかわらず、それを秘中の秘として、同じ日本人に対して隠匿する」(象山が友人に寄せた書簡)という傾向があった。対する象山は「自分の講義は、ひとえに天下国家のために微力を尽くすだけであって、出世や他人を見下すのが目的ではない。それゆえ刻苦精励して得た技術もそれを隠したりはせず、日本で一人でも多く有意義に活用してもらうために公開する」
 だから、「黒船来航」の数年前に象山が江戸で開いた私塾には俊才が集った。幕臣の勝海舟、いまをときめく坂本龍馬、若き大器の橋本左内、吉田松陰。多くは師同様、非命に斃(たお)れるが、幕末を雄飛した志士たちの登竜門の観がある。
 冒頭のことばにあるように、象山は時間と競争するように学問と事業にのぞんだが、半面、失敗も多かった。「撃てばひしげる高慢の鼻 後の始末をなんとしょうざん(象山)」。大砲の試射に失敗し、こんな戯(ざ)れ歌が流行したとき、象山は傲然(ごうぜん)と言いはなったという。「失敗は成功の基。失敗も結局は日本のためになる」(文化部編集委員 関厚夫)








 昨日はさっそく風邪引いて一日寝込みました(苦笑)。明日明後日は落語鑑賞を予定に入れているので、今晩中に治したいです。

北海道
松前藩の歴史、漫画に 地元観光協会が3千部を発売
【松前】渡島管内松前町の松前観光協会(疋田清美会長)は11月1日、松前の中世から幕末17件の歴史を手軽に学べる漫画「松前藩物語」を発売する。松前は和人の歴史が道内で最も古く、歴史ファンに注目されそうだ。

 物語は女子中学生と実在の松前藩家老蠣崎波響(かきざきはきょう)らが案内役となり、15世紀の藩の起こりから300年余りを旅しながら、各時代の様子を紹介する。

 作画は、数々の漫画週刊誌で新人賞を受賞している東京の新進女性漫画家竹村いづみさんが手掛けた。

 全5章と年表から成り、蝦夷地(えぞち)に和人の拠点が築かれた経緯や、アイヌ民族と和人のかかわり、交易を中心とした藩経済のほか、「夷酋列像(いしゅうれつぞう)」を描いた絵師としても知られる波響の活躍などを紹介。終章では、戊辰戦争や松前城落城の様子も描いている。

 四六判、375ページで千円。町内の飲食店などで買えるほか、電話で注文できる。送料は160円。申し込みは同協会(電)0139・42・2726へ。


松前藩物語:藩史を漫画に 町が出版
 松前町は子供たちに松前藩の歴史や文化を親しんでもらおうと、漫画本「松前藩物語」を発行した。地元の女子中生がタイムスリップして松前藩家老で画家の蠣崎波響と出会う。2人が案内人となり、15世紀に安東政季らが蝦夷地に渡った時代から1871(明治4)年、廃藩置県によって藩が消滅するまでを旅する物語だ。

 漫画本は白黒で四六判375ページ。町教委の専門家らの協力で原作を仕上げ、東京の女性漫画家、竹村いずみさんが作画した。

 全5章からなり、アイヌ民族との交流や争い、交易で栄える藩の様子や波響の名画「夷酋列像(いしゅうれつぞう)」が描かれた経緯などが分かる。最終章の幕末では落城を伝え「新しい時代」を松前の若者に託して終わる。

 町は、町内の小5~高3の549人と教職員などに計2000部を配布した。11月からは松前観光協会で1部1000円で販売する。問い合わせは観光協会(0139・42・2726)。

【近藤卓資】


青森
幕末明治維新展:「斗南藩」たどる--三沢・来月14日まで /青森
 幕末の戊辰戦争で幕府方に付いた会津藩が明治時代になって再興を許され、下北や三沢地方で一時存在した「斗南(となみ)藩」にまつわる資料を展示した「地方発 幕末明治維新展-斗南藩-」が三沢市谷地頭の先人記念館(道の駅みさわ斗南藩記念観光村内)で開かれている。11月14日まで。

 斗南藩は1869(明治2)年、京都守護職だった藩主、松平容保(かたもり)の嫡男容大(かたはる)が初代藩主となったが、1871年の廃藩置県に伴い、わずか2年で消滅した。

 同展では容保公と容大公の写真や容大公が幼少時に遊んだといわれる木馬など46点を展示。藩士が生活維持のため使った養蚕の道具も並ぶ。「論語」の冊子などもあり、苦しい中、子孫の教育に熱心だったことがうかがえる。

 入館は午前9時~午後5時。入館料は高校生以上100円、小中学生50円(小中学生のみ土曜無料)。月曜休館。問い合わせは同館(電話0176・59・3009)。【松沢康】

東京
龍馬と一献、飲んで語るぜよ 都内に週1「歴史バー」
 坂本龍馬とおりょうが、何でまたこんなところに? 27日夜、東京・御茶ノ水のバーに、龍馬らに扮した男女十数人が集まった。歴史好きな女性「歴女」だけではない。硬派な歴史好きを自任する男性「歴士」も気炎を上げた。

 バーは2年前に開店。毎週水曜夜は“歴史バー”に変身する。毎回、歴史的事件が起きた日などを意識してテーマを設定。今回は、NHK大河ドラマ「龍馬伝」が佳境に入ってきたことにちなみ、「幕末」と決めた。客には、実名が坂本龍馬という歴士も。

 企画運営するのは自らも歴士で広告会社社長の渡部麗(りょう)さん(36)。「歴史から多くを学び、明日の自分の行動につなげてほしい」



静岡
静岡で海の幸と歴史浪漫堪能 冷凍マグロ水揚げ日本一
 静岡・清水(静岡市清水区)といえば幕末・明治の侠客、清水次郎長で有名だが、冷凍マグロの水揚げが日本一を誇る清水港も有名。海の幸を堪能してきた。

 清水駅を降りると潮の香りが漂ってくる。駅から歩いてすぐの場所に清水魚市場“河岸の市”。新鮮な魚介類や海産物が安く買えるうえに、食事もできる。昼時はマグロ目当てに毎日行列ができるという。

 市場の中にある「のっけ家」という店で「まぐろ贅沢丼」(1600円)を注文。大トロ、ウニ、イクラ、マグロの赤身などがド~ンとご飯の上に置かれた文字通り贅沢な丼だ。

 腹ごしらえした後は、歴史の教科書でもおなじみの「登呂遺跡」に。ここでは弥生時代の住居や祭殿、倉庫などが再現されているほか、水田も復元されて当時のまま粟(あわ)や稗(ひえ)が育てられている。

 リニューアルオープンした博物館では、弥生時代をリアルに感じられるさまざまな体験もできる。「1943年に軍需工場を作る際、この場所を掘り起こしたら丸太が発見されました。52年に特別史跡に指定されました。弥生時代の農村がこれだけ集合している例は非常に珍しいものです」(登呂博物館・山本多美子館長)。

 子供向けの教育の場と思われがちだが、「もっと普通の若い女性にも見にきてほしいですね。歴女の次は“古女”が増えてほしいです」と山本館長は語っていた。

 歴女の言葉が出たついでに近くの「掛川城」に出かけた。今川家の家臣、朝比奈氏が築城したもので、名古屋城の陰に隠れた存在だが、なかなかの名城。徳川家康に約5カ月間攻められながら、なかなか落ちず、話し合いで家康に明け渡したことで知られる。

 攻められたときに井戸から霧が出て、城をすっぽりと包んで敵から防いだ言い伝えから、別名“雲霧城”とも呼ばれている。掛川城職員の水野亮さんは「この城は1日だけの城主もおり、32代に渡って続きました」と教えてくれた。

 資料によると1590(天正18)年に全国を平定した豊臣秀吉は掛川城に山内一豊を配し、戦乱で傷んだ城の改築をして、このとき初めて天守閣を造った。ところが、安政元年(1854年)の東海大地震で天守閣の大半が倒壊。明治になって廃城になった。それを市民の熱意で1994年に再建。140年ぶりに天守閣が復活した。こぢんまりした城だが、妙に落ちつく城である。(城山仁)

◇清水魚市場…JR清水駅東口徒歩1分。東名清水ICから約10分

◇登呂遺跡(登呂博物館)…JR静岡駅南口から「登呂遺跡」行きバスで20分。静岡ICから約10分

◇掛川城…JR掛川駅から徒歩5分。東名高速、浜松ICから約16分


三重
企画展:桑名・諸戸家の器展 明治の豪商、135点を展示--市博物館 /三重
 明治時代、「桑名の豪商」と言われた諸戸家に伝わる食器などを展示する企画展「諸戸家のうつわ」(毎日新聞社など後援)が、桑名市京町の市博物館で開かれている。唐津や黄瀬戸など5カ所の焼き物を取り合わせた「寄(よせ)猪口(ちょく)向付(むこうづけ)」など計135点を展示、愛陶家には見逃せない展示会となっている。

 諸戸家の初代、清六は明治時代、「山林王」とも呼ばれ、実業家として知られていた。次男の精太と二代目清六となった四男の清吾の屋敷跡が現在、諸戸氏庭園や六華苑として開放されている。今回、諸戸家の庭園や建築物、美術品などを管理する「諸戸会」との共催で企画展が実現した。

 花見など野外の宴で使われた漆器の重箱「好古斎(こうこさい)好蒔絵提重(このみまきえさげじゅう)」や「有節萬古」と言われ、幕末から明治にかけての桑名の陶芸家、森有節作の「萬古焼松竹梅絵三ツ組鉢」、田楽を入れる焼き物「赤楽扇形絵替(あからくおうぎがたえがわり)田楽箱」(大野鈍阿作)などが並んでいる。

 入場料は高校生以上300円、月曜休み。大塚由良美館長は「器は日常よく使うもの。自分なりに何を入れるか想像を膨らませ見ると楽しい」と話している。11月30日まで。【沢木繁夫】


岐阜
九里半街道ウォーキング:古里の歴史学ぶ--大垣 /岐阜
大垣市上石津町牧田でこのほど、幕末まで物流街道として栄えた九里半街道を歩く「九里半街道ウォーキング」があり、参加者は散策を楽しみながら、古里の歴史を学んだ。

 同町有志の研究会「九里半歴史文化回廊」(高桐秀夫会長)の企画。町民ら約200人が参加。上石津総合体育館をスタート、ゴールとする約5キロのコースを歩いた。

 街道沿いでは、地元で牛の観音様と呼ばれている「四方四里(よもより)神社」や、自然石の常夜灯では街道一番の大きさを誇る「金比羅(こんぴら)大権現」などの由緒の説明を会員から受けた。牧田川堤防では、自然の美しさを満喫した。

 同街道は養老町と滋賀県米原市を結び、距離が九里半(約38キロ)あることから、「九里半街道」と呼ばれていた。【子林光和】



京都
お出かけポータル「MapFan(R) Web」観光楽地図 『秋が旬の京都へ行こう~幕末の歴史と紅葉ライトアップ~』公開!坂本龍馬に出会う旅シリーズ、いよいよ最終回の第3弾は“京都”編!
インクリメントP株式会社はこのたび、お出かけポータル「MapFan Web(マップファン・ウェブhttp://www.mapfan.com/)」内の観光情報コンテンツ「観光楽地図」にて、『坂本龍馬に出会う旅~京都編~ 秋が旬の京都へ行こう -幕末の歴史と紅葉ライトアップ-』を公開いたしました。
高知編、長崎編に続き、大河ドラマ「龍馬伝」で話題の、坂本龍馬ゆかりの観光地を案内するシリーズ特集第3弾(最終回)です。さらに本特集では秋の京都ということで、おすすめの紅葉ライトアップスポットも紹介しています。また、京都への宿泊予約などが簡単にできる特設リンクも設置し、旅のプラン作りから現地観光まで、「京都の旅」をお手伝いします!

坂本龍馬に出会う旅 ~京都編~
◆◆秋が旬の京都へ行こう ~幕末の歴史と紅葉ライトアップ~◆◆
http://www.mapfan.com/kankou/special/ryoma_kyoto/?ref=release


兵庫
幕末の文化拠点 復元/養父に来月開館
 幕末から明治維新にかけて儒学者として活躍した池田草庵(1813~78)が、現在の養父市八鹿町で開いた漢学塾「立誠舎」の建物が復元された。11月末にオープンし、来年正式発足する八鹿地区自治協議会が地域の交流、学習拠点として活用する計画だ。
 草庵は現在の同市八鹿町宿南に生まれ、京都で学んだ。建物を建てた当時の八鹿村庄屋の西村庄兵衛の願いもあって帰郷し、天保14(1843)年から立誠舎で教え始めた。塾は後に門人が増えて手狭になり、青谿書院として移転するが、立誠舎は八鹿地区の教育文化の「源泉」だとして、住民らが建物を保存、活用することになった。
 復元された建物は木造平屋建て約71平方メートル。約200年前の建築と推定されるが、柱などの骨組みは良好な状態で残っており、補強をするなどしてできるだけそのまま使った。屋根はかつて地元の土を焼いて作られていたという八鹿瓦を使い、足らない部材は他の古民家から調達した。県の補助事業に採用され、工事費は約1900万円。
 オープン後は自由に見学できる予定。同協議会準備会では、立誠舎を拠点に草庵を顕彰する活動や、地域の昔話の出版や紙芝居化、昔遊びを通じた異年齢交流、食文化講座などを計画。地域文化を掘り起こし、まちづくりに生かしていく予定だ。


高知
【遊&You】土佐・龍馬 であい博 維新の偉人ルーツと雄大な自然
 年末に向け、いままさに佳境に入ろうとしているNHK大河ドラマ「龍馬伝」。その舞台となった坂本龍馬ゆかりの地、高知県でいま、「土佐・龍馬 であい博」が開かれている。この秋、龍馬一色に染まっている高知を旅した。
 土佐(現在の高知県)の国から韮ケ峠(にらがとうげ)を越えれば、そこは伊予(現在の愛媛県)の国。その山深い土佐側のふもとに広がる梼原(ゆすはら)町にいま、「坂本龍馬脱藩の郷」として熱心な龍馬ファンの目が向けられている。
 ■「脱藩の道」めぐり
 坂本龍馬(1836~67年)は1862(文久2)年3月26日、一夜をすごした梼原から一気に韮ケ峠を越えて脱藩し、幕末を生き、日本を変える「幕末の志士」へと姿を変えた。維新を夢見た志士を多く輩出したことでも知られる梼原で、その史実を訪ね歩く「龍馬・脱藩の道」めぐりが、ファンのお目当てだ。
 その梼原をはじめ県内各地で繰り広げられているのが「土佐・龍馬 であい博」(2010年1月16日~11年1月10日)だ。この地方博の売りは、全県を挙げたイベントの盛り上げにある。高知市中心部のJR高知駅前に設けたメーンパビリオン「高知・龍馬ろまん社中」に加え、県内3カ所にサテライト(衛星)パビリオンを設けた点をとっても、その意図がうかがえる。
 梼原町に設置した「ゆすはら・維新の道社中」もその1つだ。メーンと3つのサテライトを合わせたパビリオンへの来場者数は9月末で70万4228人に達し、開催期間中65万人の目標を上回った。100万人の大台突破も不可能ではない。
 博覧会人気を支えるのは、「龍馬伝」効果であることは言うまでもない。サテライトパビリオンも、梼原町のほか、三菱グループの創始者、岩崎弥太郎(1835~85年)の視点で描いた「龍馬伝」のストーリーに沿って、岩崎と、日本人で初めてアメリカに渡ったジョン万次郎こと中浜万次郎(1827~98年)のそれぞれのふるさとである安芸(あき)市、土佐清水市に設けている。
 主催者側には、博覧会を通じて、「龍馬伝」の世界と、土佐が生んだそれぞれの偉人たちのルーツを体験してもらいたいとの思いが強い。
 ■海、山、川の風景広がる
 高知県は「日本最後の清流」四万十(しまんと)川、あるいは四国最南端に位置する足摺岬(あしずりみさき)に代表されるように、その自然から「日本の原風景」を堪能できる。今回は高知市内から梼原町、土佐清水市のサテライトを起点に、四万十川が流れる山中から太平洋が望める足摺岬まで高知県西部をぐるりと回った。
 高知市内から標高1500メートル近い四国カルスト高原のふもとにある梼原町に向かうまで、土佐湾に沿って、海、山、川の風景が広がる。梼原町からは「土佐の小京都」と呼ばれる中村(四万十市)まで、山間をぬうように流れる四万十川の支流、さらにどちらが上流か下流か分からないほどゆったりと流れる四万十川本流を眺めながら、一気に南下する。途中、四万十川では観光遊覧船やカヌーも楽しめる。
 四万十川河口に近い中村から、土佐清水市のサテライト会場まで一気に南に下れば、足摺岬はもうすぐ。四国最南端の地に立てば、黒潮の流れる太平洋を望む雄大な景色を堪能できる。もちろん自然に恵まれた土地柄でもあり、立ち寄った各地では山・川の幸、海の幸に舌鼓を打てる。
 「龍馬伝」をベースにした「土佐・龍馬 であい博」は、龍馬をはじめ高知県が生んだ偉人をテーマに、地元の食や人、自然、歴史、文化とのふれあいを通じて、高知県の良さを認識してもらおうと企画された、まさに“出会い”の博覧会でもある。
 各地のパビリオンから少し足を伸ばせば、龍馬だけではない、高知県との新鮮な出会いが待ち受けているかもしれない。(文・写真:鈴木伸男/SANKEI EXPRESS)
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土佐・龍馬 であい博 ryoma-deaihaku.jp


山口
晋作像除幕に伊勢谷さん参加
 萩市出身の幕末の志士、高杉晋作(1839~67年)の銅像除幕式が31日午前10時から、同市呉服町の晋作広場である。NHK大河ドラマ「龍馬伝」で晋作を演じた俳優伊勢谷友介さんも特別ゲストとして駆け付ける。

 松下村塾に通っていた20歳のころの姿をモチーフとする高杉晋作立志像(高さ1・8メートル)。萩まちじゅう博物館銅像建立委員会(会長・野村興児市長)の依頼で、日展評議員の彫刻家江里敏明さん(京都市)が制作した。制作費は840万円。同委員会の呼び掛けに、晋作ファンや市民から500万円の寄付が寄せられた。

 同広場は市が9月下旬から約1500平方メートルの多目的スペースとして整備中。11月末の完成を予定している。

 午後1時からは同市堀内の萩博物館で記念講演会がある。江里さんが「立志像ができるまで」、同館の一坂太郎特別学芸員が「晋作と龍馬」と題して講演する。講演会は先着100人で無料。

【写真説明】お披露目される高杉晋作の銅像の原型(萩市提供)


鹿児島
顕彰像 薩摩出身者だけ 幕末英国使節団 19人なのに17人!?
 鹿児島市のJR鹿児島中央駅前に幕末の薩摩藩英国使節団の記念碑「若き薩摩の群像」(高さ12メートル)がある。使節団は19人なのに像は17人しかない。28年前の建立時、市が薩摩出身者以外の2人を除外したためだ。3年前、心苦しく感じた市民有志は「九州新幹線鹿児島ルート全線開通までに追加を」と市に求めたが、今もそのまま。要請者の一人で薩摩藩主島津家32代当主、島津修久(のぶひさ)さん(72)は「薩摩の度量の広さを示してほしい。追加は無理でも一緒に顕彰を」と願っている。

 19人の使節団は幕末の1865年、国禁を犯して英国に渡り、西洋文化を吸収して明治維新後の近代国家形成に貢献した。初代文部大臣の森有礼(ありのり)、サッポロビール創始者の村橋久成、東京開成学校(東大の前身)初代校長の畠山義成、大阪商工会議所初代会頭の五代友厚(ともあつ)…。そうそうたる面々だった。

 その功績をたたえる群像は鹿児島市が1982年、50万都市達成記念で建立した。事業費約1億4千万円。八角形の台座に多様なポーズのブロンズ像が並ぶ。作者は市内の彫刻家で文化勲章受章者の中村晋也さん(84)だった。

 だが、群像には通訳として同行した長崎出身の堀孝之と土佐藩を脱藩後、薩摩藩士となった高見弥一の姿はない。碑文も「藩士十七名の留学生を英国に派遣」と2人の存在を無視している。

 建立時の議会答弁で、当時の山之口安秀市長は「堀は通訳で長崎の人」。高見は土佐藩参政・吉田東洋の暗殺関与の可能性を挙げ「純粋な薩摩藩士だけにした。制作の技術的、意図も考え合わせた」と述べた。

 「2人を外すのはおかしい」との声は当時からくすぶり続け、07年8月には島津さんや経済人、大学教授、使節団の子孫たちが「若き薩摩の群像を完成させる会」を発足。同9月、森博幸市長に追加建立を要望したが、市側は「像は完成された美術品」と拒否した。

 制作した中村氏も「当時の市長から、像は『留学生』ではなく、薩摩の若者の気概を表すのが目的と聞いた」「既に市民に定着している作品。今から2人を追加するのも変だろう」と語る。

 市は本年度、6千万円をかけて坂本竜馬夫妻や西郷隆盛の弟の従道(つぐみち)などの像を市の中心部7カ所に設置した。中村さんに依頼して天璋院篤姫の銅像制作も進む。

 群像を完成させる会事務局長で、使節団の特別番組も作った元民放テレビ局役員小笠原弦さん(64)は「先にやるべきことがあるだろうと思う。いつまでも鹿児島の恥をさらしてほしくない」と話す。会は休眠状態だが、賛同署名は千人近く集まった。島津さんも「重要な役割を担い薩摩藩士として渡航した2人。新幹線から降りた人もなぜ17人なのかと思うだろう」と気になったままだ。


コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(85)東大教授・山内昌之 堀利煕(上)
■死で贖(あがな)った外交成果
 悲劇の幕吏、堀織部正(おりべのしょう)利煕の名を知る人はいま少ない。幕府有数の外交家、堀の自死は行政の政治家主導と官僚機構との関係を考える上でも示唆に富む。幕末には堀の死諫(しかん)の書なるものがしきりに喧伝(けんでん)された。それは直参旗本堀の自害を老中安藤信正の外国迎合への抗議だったとする。実際、坂下門外の変で安藤を襲った攘夷(じょうい)浪士たちは、外国との通商条約締結に際して安藤が罪を重ねたと怒り狂っていた。安藤が米国総領事ハリスと昵懇(じっこん)になり、金品を贈与しあった上に侍妾(じしょう)を提供するなど国辱的行為を繰り返したというのだ。
 ◆安藤との間に生じた懸隔
 しかし、天皇の廃位を企てた安藤に死をもって諫言したというのは俗説であろう。死諫の書は、2人の下で外交実務にあたった福地源一郎(桜痴)が「全くその痕跡なき」偽書と述べたように、攘夷派の捏造(ねつぞう)という説がいまでは有力である(『幕府衰亡論』平凡社東洋文庫)。
 とはいえ、或(あ)る事件をめぐり、堀と安藤との間に懸隔が生じたのも事実である。福地と同格の田辺太一は幕臣三傑として岩瀬忠震(ただなり)や永井尚志(なおゆき)とともに堀を挙げたが(『幕末外交談』東洋文庫)、目付上がりの出色の外務官僚堀は、門閥の老中には珍しく欧米強国の外務大臣並みの判断力をもつ安藤を「ほんとうの閣老(ミニストル)」として大歓迎していた。しかし悲劇は、安藤に外国事務専掌の辞令がおりた万延元(1860)年11月5日から翌6日にかけて起こった。
5日、堀はプロイセンの使節オイレンブルクと交渉中の修好通商条約草案を安藤に提出した。草案を浄書した福地は、幕府が締結相手をプロイセン1国と考えていたのに、案には「附庸(ふよう)せる諸国」も含まれており、安藤が「頻(しき)りに堀氏の不行届きを論責」し堀も外国の例を挙げて弁じたが安藤の納得を得られなかったと証言する。しかし自殺との因果関係には触れていない。
 問題の核心は、当時のドイツが統一国家でないという点にあった。
 交渉がほぼ妥結に近づいた段階で、ドイツの領邦国家の強国プロイセンを代表したオイレンブルクは、関税同盟を組むザクセンやバイエルンやハノーファーなどの王国、ハンブルクやブレーメンらのハンザ自由都市やメクレンブルクの両大公国など30カ国の名を列記した条約草案を出し抜けに示したのだから、堀も驚いたに違いない。もちろん、練達の堀はまったくなじみのない国々が列挙された草案に納得せず、いずれ談判すると留保して引き取った。
 しかし安藤は、井伊直弼(なおすけ)が朝廷や攘夷派を抑えて米蘭露英仏5カ国と条約を結ぶだけでも苦労した故実を忘れていない。プロイセン1国どころか未知の30カ国と条約調印する前途の険しさを思い、つい堀の不手際を難詰したのだろう。これは閣老(大臣)のほうに余裕がなさすぎる。外国奉行の堀はプロイセン中心のドイツ諸邦と国交を開く可能性を政治家安藤に期待したのかもしれない。堀の絶望感は深かったであろう。
◆最期には言語に絶する凄み
 小説家の綱淵謙錠(けんじょう)氏は鋭い洞察力で、締結をプロイセン1国に留(とど)めよと厳命された堀とオイレンブルクとの複雑な葛藤(かっとう)を描いている(『幕臣列伝』中央公論社)。オイレンブルクには「うしろめたさ」があった。長い交渉で2人の間には信頼感も芽生えていたのに、最後にいきなり30カ国の名を挿入するのは、堀を騙(だま)し討ちにしたようなものだ。堀は安藤の意を受け、強引なオイレンブルクの背信にくさびを打ち込むには尋常の手段では不可能と悟った。あれこれの弁でなく死による抗議こそ相手を確実に譲歩させる手段と考えたというのが綱淵氏の解釈なのだ。
 感動的なほどの説得力がある。非常時に死を覚悟するのが武士とはいえ、堀の壮絶な最期には言語に絶する凄(すご)みがある。オイレンブルクが〈オリベノショー〉と呼んでいた堀の死から受けた衝撃は大きかった。堀の自刃から7日たった11月13日、安藤はオイレンブルクとプロイセン1国との条約を結ぶことに成功した。ドイツ人は昨日までの高圧的なそぶりも影をひそめ、条約調印の後暗然として日本を去った。
 政治家が外交を主導するのは当然である。しかし、鳩山由紀夫前首相のように不用意な言葉や思いつきで地味な外交努力の蓄積を無にしてはならない。前原誠司新外相は、中国の非常識な政治姿勢を「ヒステリック」と的確に表現したが、オイレンブルクならぬ中国人には自省や自制という意味を理解できない者が多すぎる。あまりに中国が無体を働けば日中いずれにも犠牲者が出ると恐れるのは私だけではないだろう。(やまうち まさゆき)
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【プロフィル】堀利煕
 ほり・としひろ 文政元(1818)年、大目付・堀利堅の四男として生まれる。安政元(1854)年に箱館奉行に任じられ、織部正に叙任。5年に外国奉行となり、翌6年には神奈川奉行も兼務。各国修好通商条約の締結や横浜開港などに尽力する。万延元(1860)年、プロイセン使節との条約協議に際し、老中・安藤信正と意見が対立。謎の自刃を遂げた。42歳だった。




 足下が冷えると思ったら、雨が降ってきました。来週の週末は月末……速っ(汗)!!
 NHK杯を見ています。15才でシニアデビューし、4回転を成功させ、堂々4位をとった羽生選手、これから先が楽しみです。優秀した高橋大輔選手の演技はこれから放送ですが、昨日見たラテンのSPは王者の貫禄でした。

北海道
「箱館奉行所」入場客数14万5000人突破
 国の特別史跡・五稜郭跡内に復元された「箱館奉行所」は14日、函館市教委が当初見込んだ初年度の入場客数14万5000人を超えた。入場者数は同日現在で14万7541人。関係者は「冬場に入り観光客が減る可能性もあるが、今の勢いを保ち続けてほしい」と期待を寄せている。
 箱館奉行所が7月29日にオープンして以降、1日平均2000人を超える人が訪れている。お盆の近くには同4000人近くに膨らみ、9月16日で入場者数10万人を突破していた。同奉行所の沼崎孝男副館長は「好天が続いたのと、9月の大型連休のおかげで集客数を伸ばせた」と分析。
 現在はオープン当初の勢いはないものの、平日でも1日平均1300人前後が訪れ、人気を堅持。同奉行所ではアンケートを取っており、来場者の94%が「満足した」と答えるなど、好評価を受けている。
 主要な来場者は道内外の観光客だが、沼崎副館長は「イベントなどを企画し、市民も気軽に足を運べる場所にしたい」と話す。この日に訪れた市内の主婦川田怜子さん(63)は「奉行所ができて五稜郭も華やかになった。また友人と来たい」と笑顔を見せていた。


龍馬像 函館に建立へ 北海道坂本龍馬記念館1周年記念
 開拓への思い、函館の龍馬像で全国に発信―。昨年11月15日にオープンした函館市西部地区の新たな観光名所「北海道坂本龍馬記念館」(末広町8)の開館1周年を記念した「坂本龍馬像」が、同記念館向かいに建立されることが決まった。「函館に坂本龍馬像を建てる会」(坂本登同実行委員長)も発足し、製作・準備を進めている。除幕式は11月14日に行われる。

 建立計画は今年1月、同記念館の理事会での「北海道開拓を夢見て、志半ばで散った龍馬の遺志を銅像で後世に伝えたい」との要望をもとに、同会が発足し具体化。像の制作は、長崎市の龍馬像も手掛けた彫刻家の山崎和國さんに依頼した。
 像は台座部分が2.5メートル、銅像部分が3.5メートルの計6メートル。右手は天を指差し「たとえ一人でも開拓を…」という強い思いを、左手には国際法律書「万国公法」を持ち、常に先を見据えて行動した龍馬を象徴するようなデザインにした。また、像の周辺は小公園として整備し、休憩や記念撮影に対応するという。
 1700万円に上る建設費用は、個人や企業などからの建立基金や同記念館内に置かれた募金箱への寄付でまかなわれる。基金への賛同者は、像の後ろに設置される石碑に名前が刻まれる。
 函館市都市デザイン課によると、銅像の建設地区は20メートル以上の建物については届け出の必要があるが、像は6メートルのため届け出の必要はなく、都市景観条例上問題はないとしている。
 同記念館の三輪貞治館長は「函館の新たなシンボルとなってくれると思う。多くの人たちに銅像を通じて、龍馬の北海道開拓にかけた思いを感じてもらいたい」と話している。
 同館では引き続き、基金賛同者を募集している。詳しくは同館TEL0138-24-1115まで。

掘り出しニュース:蝦夷地開拓目指していた 龍馬像を函館に建立
【北海道】坂本龍馬(1835~67年)の北海道初の銅像が11月14日、函館市の西部地区に建立される。函館ゆかりの幕末の志士といえば土方歳三や榎本武揚が有名で、龍馬は足を踏み入れていないが、「蝦夷地開拓を目指していた」というのが理由。建立に携わった人たちは「志半ばで凶刃に倒れた龍馬の遺志を伝えたい」と話している。

 企画したのは昨年11月にオープンした「北海道坂本龍馬記念館」を運営するNPO法人メンバーら。同館の向かいに建てられ、制作を他でも龍馬像を造っている長崎市の彫刻家、山崎和国さんに依頼した。高さ6メートル(本体3・5メートル、台座2・5メートル)で、右手が天を指しているポーズ。龍馬は何度か北海道渡航を計画していたとされ、「たとえ独りでも開拓を進める」という意志を表現したという。

 函館では元町の二十間坂上に設置された「自由の女神」像が景観論争になり、8月に撤去されたばかり。今回の龍馬像は市が指定する都市景観形成地域外で、通りにも面していないため、市都市デザイン課は「特に問題はない」としている。

 龍馬記念館の三輪貞治館長は「銅像は力強く、顔の表情もいい。開館1周年に当たる来月14日の除幕式には大勢の人に来てもらいたい」と話している。

 約1700万円の費用は寄付金を募集中。問い合わせは龍馬記念館(0138・24・1115)。【近藤卓資】

 ◇7都県に18体 直接縁ない場所も
 歴史上の人物の中でも特に人気が高い坂本龍馬の像は、全国にある。高知県立坂本龍馬記念館によると、昨年までに把握できる範囲で▽高知▽香川▽愛媛▽長崎▽熊本▽鹿児島▽東京--の7都県で18体が建立され、今年の大河ドラマなどでのブームで、さらに増えているという。

 中には、立ち寄っただけの場所や、龍馬と直接の縁はないとみられる土地もあるが、同館は「それだけ国民に愛されている証拠で、記念館としては構わない」と話している。


岩手
「三閉伊一揆」の先人に光 岩泉・安家中が創作劇
 岩泉町安家の安家中(佐藤雄心校長、生徒6人)の生徒は24日の同校文化祭で、盛岡藩で起きた国内最大級の一揆「三閉伊一揆」の中心人物とされる安家村俊作を描いたオリジナル劇を上演する。生徒らが地元出身の先人の足跡を学ぼうとゆかりの地を訪ねるなどして脚本を練った。俊作の生誕200年に当たる今年、地元の歴史にあらためて光を当てようと生徒のけいこにも熱が入っている。

 オリジナル劇の取り組みは、地元の先人を学ぼうと俊作について4月から総合的な学習で取り組んだのがきっかけ。

 生徒は俊作ゆかりの地元の観音堂や一揆関連資料を展示する田野畑村民俗資料館を7月に訪問。本紙で「幕末維新を駆けた男たち 南部三閉伊一揆」を連載する民族芸術研究所(秋田県仙北市)の茶谷十六(ちゃだに・じゅうろく)さん(69)に8月、話を聞くなど俊作の生涯に触れた。

 生徒と教諭が協力して脚本を9月に完成。主なキャストはいずれも3年生が務め、俊作を小路一基君、妻のきんを水野唯さん、一揆の中心人物の一人、淀屋敷の忠太郎を向川戸さやかさんが演じる。

 小路君は「安家は小さな目立たない地域だと思っていたが、俊作について学び、誇りに思える人がいる、自信が持てる地域だと感じた」と語る。

 1年生の大下堅司君、高井悠太君、中村江里奈さんの3人は一揆側の農民と防ぐ役人の両方を演じる。同校の6人の生徒が、1万人以上が加わったとされる一揆を表現するだけに、お面を使ったり、一揆勢の姿を絵で表すなど工夫。水野さんは「6人全員が出演し、せりふは多いが充実している」と語る。

 本番に向けて向川戸さんは「一揆について地域でも知っている人は少ない。先人の行動を知り、安家に誇りを持つきっかけにしてほしい」と呼び掛ける。

 安家村俊作とは 1810(文化7)年、安家(現岩泉町安家)に生まれた。三閉伊一揆は盛岡藩の度重なる重税に耐えかね、1847(弘化4)年と1853(嘉永6)年に沿岸地方の民衆が決起。俊作は弘化の一揆では盛岡藩への願書案文を執筆するなど中心的な役割を果たした。弘化の一揆後は、捕らえられて下北半島に流された。嘉永の一揆後は解放され、北海道に移住した。


宮城
感激ルーツ探しの旅 亘理伊達家旧家臣の子孫が親類と面会
 戊辰戦争に敗れ、北海道に屯田兵として移住した亘理伊達家旧家臣の子孫3人が「先祖のルーツを知りたい」と18、19の両日、亘理町を訪れた。地元の郷土史家らが調査した結果、曾祖母の親類を突き止めることができた。子孫らは「故郷とのつながりが確認できうれしい」と喜んでいる。

 訪問したのは北海道千歳市の無職斉藤興二さん(70)といとこ2人の計3人。斉藤さんは、曾祖父常吉さん(生年不詳―1885年)が亘理伊達家の旧家臣で、亘理郡長瀞村(現亘理町)から1875(明治8)年、屯田兵村として有名な札幌市西区琴似地区に入植したことを伝えられてきた。
 斉藤さんは「ひいじいさんが亡くなったのは祖父が5歳の時。入植の経緯などが伝えられなかった」と語る。斉藤さんの亡父が二十数年前にも訪問調査を行ったが、手掛かりはなかった。
 この話を知った亘理郷土史研究会(小野敏男会長)の会員と町郷土資料館が調査。斉藤家の戸籍の記載から、常吉さんの妻キヨノさん(生年不詳―1914年)が亘理郡高屋村(現亘理町)の「陰山家」出身であることを手掛かりに調べた。同町逢隈高屋柴地区に、姓は違うがキヨノさんの妹の子孫が住んでいることが分かった。19日に子孫と面会した斉藤さんは「書の大家を出した家柄と聞いた。うちの祖父も達筆だったため、親類の血筋の証かもしれない」と推測する。
 研究会会員の月田秀吾さん(76)は「先祖の故郷を知りたいと北海道から来る人は多いが、親類と面会できるケースはまれ。分かって本当によかった」と喜ぶ。
 斉藤さんは「郷土史会の皆さんのおかげ。成果を基にさらに曾祖父の手掛かりを探りたい」と話している。連絡先は斉藤さん、0123(24)5471。



東京
幕末の志士の姿でパレード 世田谷
 東京都世田谷区で24日、「幕末の志士+奇兵隊パレード」が行われ、志士や新撰組などにふんした人たちが世田谷区役所前から幕末の思想家、吉田松陰の墓所がある松陰神社まで練り歩いた。
 パレードは、23日から開かれた「第19回 萩・世田谷 幕末維新祭り」のハイライト。若林小学校児童による鼓笛隊の先導で、幕末の志士らの姿になった国士舘大生や地元の中学生ら約80人が歩を進めた。
 松陰の門人、高杉晋作らが発案し組織された奇兵隊の役を担った面々は、隊長の命令できびきびと行軍。鉄砲ややりなどを携えた様子は迫力満点で、集まった人たちを楽しませた。
 松陰役を演じた人は「多くの人に歴史好きになってほしい。松陰神社や商店街のことも知ってもらえればありがたい」と語った。


『松陰眼鏡ふき』祭り盛り上げに 世田谷みやげに指定
 幕末の思想家・吉田松陰にちなんだ「眼鏡ふき」を、世田谷区の松陰神社通り商店街にある時計・眼鏡店「美松堂」が作った。区の指定する「世田谷みやげ」にもなった。今年は松陰の生誕百八十周年。店主の佐藤勝さん(57)は、二十三、二十四日に神社周辺で開かれる「萩・世田谷幕末維新祭り」の盛り上げに役立てようと、意気込んでいる。
 眼鏡ふきは二十センチ四方。古典的な柄の地に、松陰の肖像画のシルエットと、松陰が松下村塾に掲げた漢詩をあしらった。「労を惜しまずたくさん本を読んで人の役に立ちなさい」とする解説文を添えた。松陰没後百五十年の昨年、祭りの土産用に作ったところ、「歴女」たちの人気を呼んだ。価格は、七百三十五円。
 松陰神社は松陰亡き後、高杉晋作や伊藤博文ら門人が改葬した墓所に、松陰を祭って建てられた。神社直近の商店街は地域活性化のため十八年前から命日(十月二十七日)に近い土日曜に祭りを開催。各店で松陰にちなむ菓子などが開発され、佐藤さんも約五年前から土産作りを検討していた。神社は学問の神で「受験生のお土産にも最適」とアピール。世田谷みやげで認知度をアップさせ、「今後はネット販売もして松陰ゆかりのまちのPRにつなげたい」と話す。
 祭りでは、松陰が登場する幕末野外劇や、松陰に関する歴史講演会、松陰ら幕末の志士と奇兵隊のパレードが行われる。
  (松村裕子)


日米「桜」交流100年 記念のリキュール、足立できょう発売
 明治時代初期、現在の足立区北部の荒川堤に植えられ、日米交流の象徴としてワシントンにも贈られた「江北の五色桜」にちなんだ桜色のリキュール「あだち五色桜物語」が誕生。新たな足立みやげとして二十四日、同区内で発売される。サクラによる交流の歴史を次の世代に残したいと、地元の人たちが開発した。 (井上圭子)
 「五色桜」は明治維新で大名たちが江戸屋敷を去る際、庭に残していった珍しい品種の桜を、江北村(現・足立区江北)の人々が荒川堤に移植したのが始まり。全長六キロにわたり七十八種三千二百二十五本の濃淡さまざまな桜が咲き乱れ「五彩にたなびく雲のような景観」と称賛された。
 一九一二年、当時の尾崎行雄東京市長が、この桜を接ぎ木した苗三千本を米国へ寄贈。毎年ポトマック河畔を彩ってきたが、本家の五色桜は荒工事や伐採により絶滅。戦後、復活の機運が高まり、八二年に苗木が区内の舎人公園に米国から里帰り。現在、荒川堤で平成の五色桜づくりが進む。
 二〇一二年の寄贈百周年に先立ち、区立郷土博物館の元職員でNPO法人「五色桜の会」理事長の大久保美智子さん(67)が「百年にわたる桜の交流物語を後世に伝えたい」と桜にちなんだ酒の開発を企画。区内十人の若手酒店主でつくる「酒千会」(成田一司会長)に呼びかけ商品化した。
 麦焼酎ベースのリキュールで、水を注ぐと朱色から、透き通った桜色に変わる様子が“五色桜”を思わせる。味わいは「甘くてまろやか」(成田さん)。
 七百二十ミリリットル入り千五百円、三百六十ミリリットル入り九百円。いずれも千住地域にある、「酒千会」加盟十店舗で販売する。問い合わせは成田酒店=電03(3881)6056=へ。


石川
年中行事は娯楽の場 「武士の家計簿とその時代」シンポ
 金沢学院大リレーシンポジウム「武士の家計簿とその時代~幕末維新を生きた家族の物 語を読む~」(本社、学校法人金沢学院主催)の第2回は23日、金沢市の北國新聞20 階ホールで開かれた。同大教授ら4氏が幕末の住宅事情や食生活などを解説し「年中行事 は儀礼だけでなく、娯楽の場でもあった」などと、人付き合いの濃い先人の暮らしを掘り 起こした。
 映画「武士の家計簿」(北國新聞社、アスミック・エース、松竹製作)の12月全国公 開を記念したシンポジウムで、今回のテーマは「百万石城下 金沢の暮らし」。見瀬和雄 教授が進行役を務めた。
 石崎建治准教授は映画で描かれる加賀藩士、猪山直之の勤務形態を紹介。藩主の御(お )次(つぎ)執筆役(しっぴつやく)(書記官)時代は毎日出勤し、ほかの武士に比べ激 務だったことを指摘した。
 馬場先恵子教授は、金沢市片町2丁目にあった猪山家から黒門前緑地にあった御算用( ごさんよう)場(ば)まで、直之の通勤路を推察し「西外惣構堀(にしそとそうがまえぼ り)に架けられた香林坊橋など、城の防御施設をまたいで通勤しており、気が引き締まる 思いだったのではないか」と話した。
 儀礼や行事を重んじた武家の暮らしにも触れられ、陶智子教授は「子どもが丈夫に育つ ことを願う人生行事は家が代々つながることを意味し、非常に重要だった」と解説した。 宴席で出される料理については「金沢らしく食材が多彩。親せきが集まって食をともにす る大きな楽しみもあっただろう」と語った。
 藏角利幸金沢学院短大教授は、主に町人や農民がたしなんだ俳句を武士も楽しんでいた ことを示す貴重な史料の存在を指摘し「俳席を通じた武士と町人の交流が、経済活動にも 結び付いていた可能性がある」と説明した。
 最終回の第3回は11月20日に「幕末~明治、嵐の中の金沢」をテーマに開く。




京都
龍馬逃走、隠し廊下に興味 向日で歴史ウオーク
 向日市文化資料館(同市寺戸町)が主催する歴史ウオーク「幕末の西国街道を歩く」が23日、同市向日町や上植野町などで行われ、参加者が地域の幕末の歴史にまつわる社寺や建造物をめぐった。
 同資料館は年1回、歴史ウオークを催している。今年は11月28日まで開催中の特別展「幕末・維新の乙訓をゆく」に合わせ、同時代にゆかりのある場所を訪れることにした。
 この日は、乙訓2市1町や大阪から約30人が参加。西向日公園を出発し、上植野町の寺や橋、中小路家住宅、さらに向日町の町並みを見て向日神社へと、約4キロを歩いた。
 うち向日神社では、鳥居そばにあり普段は見られない社司六人部(むとべ)邸を見学。六人部是継(よしつぐ)宮司が説明に当たり、邸宅は江戸中期に建てられ、幕末には宮司の是香(よしか)が国学者平田篤胤(あつたね)に師事した関係で多くの志士が邸宅に出入りしていた、と話した。「坂本龍馬が逃げたとされる隠し廊下がある」と案内すると参加者が一斉に詰めかけて、興味深そうに眺めていた。


桓武天皇・龍馬・紫式部…仮装2千人 京都・時代祭
 秋の古都を彩る、京都三大祭りの一つ・時代祭が22日、京都市内で始まった。市民ら約2千人が「千年の都」を象徴する歴史上の人物に扮して、都大路を練り歩いた。

 平安遷都当時の桓武天皇と、東京に首都が移る直前の孝明天皇を祭った輿(こし)「鳳輦(ほうれん)」を2基連ねた「神幸列(しんこうれつ)」が午前9時、平安神宮(左京区)を出発し、京都御苑(上京区)へ。正午からは、幕末の志士・坂本龍馬や戦国武将・織田信長のほか、平安期の「源氏物語」作者の紫式部、「枕草子」の清少納言らの行列が京都御苑から平安神宮へ向かった。(竹田真志夫)


峯山藩主の肖像画並ぶ 京丹後で特別展
 江戸時代の峯山藩について紹介する特別展「峯山藩主京極氏と峯山藩の世界」(京丹後市教委主催)が、同市丹後町の丹後古代の里資料館で開かれている。11月28日まで。

 峯山藩は関ケ原の合戦後、丹後国に封ぜられた京極高知の没後、養子の高通が約1万石を得て成立、明治維新まで12代続いた。

 会場には、高知から10代高景まで京極家の藩主らの肖像画12点をはじめ、領内の庄家が公務を書き残した永代帳や、藩が領民に発令した45カ条のおきてを記した文書などを展示している。有料。

 23日午後1時半からは峰山総合福祉センターで、峯山藩と近世の丹後との関係を考えるセミナーがあり、府立大の水本邦彦名誉教授らが講演する。


大阪
大阪ええトコ再発見
大阪城公園

豊かなドラマ映し出す
 戦国の世で天下統一を果たした豊臣家の繁栄と滅亡-。幕末期には諸外国との外交の舞台となり、太平洋戦争時には軍事拠点として米軍の標的にもなった。
 日本の歴史に残る数々のドラマを今に伝え、大阪を代表する観光名所として国内外からの観光客でにぎわう大阪城公園。その一方で、緑豊かな四季折々の景観の中、ランニングや散策にと気軽に利用され、多彩なイベントが開かれるなど、訪れる人が絶えない。
 大阪城天守閣の北川央研究副主幹は、国内に残る城に比べ、「珍しいものが残っている」と指摘する。
 地上の大阪城遺構は、江戸時代の徳川家の再築以降に造られたもの。徳川幕府の金貨や銀貨の保管庫だった「金蔵(きんぞう)」や、外壁から内部まで花こう岩を敷き詰めて頑丈に造られた火薬庫「焔硝蔵(えんしょうぐら)」などは貴重な建物だ。この2棟を含め、計13棟が国の重要文化財に指定されている。
 また、石垣に巨石が多く使われている城として、全国の城郭の中でも抜きんでた存在。
 城内最大の「蛸石(たこいし)」は高さ最大5・5メートル、横11・7メートルで、重さは推定約130トン。再築工事への参加を命じられた大名は、石高に応じて石垣の長さを割り当てられ、出来栄えを競い合わざるを得なかったとみられている。自分の担当区域を誇示するかのように家紋などの刻印が掘り込まれている例も多いという。
 北川研究副主幹は「大阪城ほど豊かなドラマが残る城はない。目に見えないものを頭に浮かべながら歩いてもらえれば」と呼び掛けている。


兵庫
はばタンと学ぼう:川本幸民って何した人? /兵庫
<兵庫県マスコット>

 ◇ビール醸造や写真撮影--日本近代化学の祖
 今年のノーベル化学賞に鈴木章・北海道大名誉教授ら2人の日本人が受賞しました。この「化学」という言葉を日本で最初に使ったのが、三田藩出身の蘭(らん)学者、川本幸民(1810~71)です。ビール醸造やマッチの試作、写真撮影など、日本初となる技術を数多く成功させ、「日本近代化学の祖」と言われます。実験や試作を繰り返して確かめることを大切にした「科学者」です。

 藩医の三男に生まれ、9歳で藩校・造士館に入学。漢方医の塾で西洋医学の本に出合い、蘭学を志すようになりました。江戸で当時最高の蘭学者・坪井信道の塾「安懐堂」に入門します。後に適塾を開く緒方洪庵とも親交を深めました。

 結婚してまもなく、酒に酔って同僚を刀で切りつける事件を起こしました。順風満帆の人生が一転しますが、5年間の謹慎中に西洋書の翻訳や物理学の解説書などを執筆します。

 こうした才能を薩摩藩主・島津斉彬に見いだされ、薩摩に招かれます。幸民が講義の合間に話した科学余話を薩摩藩士がまとめた「遠西奇器述(えんせいききじゅつ)」には、蒸気機関車や電信機など西洋の最新機器や学問が解説されています。黒船来航で騒然とする中、ペリーが運んできたビールを研究し、日本で初めてビール醸造に成功します。試飲会には桂小五郎らも参加したとされます。

 幕末の動乱期を駆け抜けた幸民。その生涯を描いた演劇「ええお日和(ひより)やなぁ」(毎日新聞阪神支局後援)が23日、三田市総合文化センター・郷の音ホールで上演されます。幸民さんに会いに行ってみてください。【粟飯原浩】


銅像:兄と間違えられ上野公園に33年 初代オランダ領事胸像、神戸へお帰り /兵庫
◇日蘭友好の礎 没後120年、ゆかりの地に
 神戸港の開港直後の明治初期に初代の在神戸オランダ領事を務めたアルベルト・J・ボードワン(1829~90)の胸像の除幕式が23日、中央区港島2のポートアイランド北公園であった。胸像は東京・上野公園創設者の兄と間違われ33年間にわたり同公園に設置され、撤去後は行き場を失いオランダ大使館に眠っていた。没後120年を迎えた今年、ゆかりの神戸に戻った。【井上梢】

 アルベルト・J・ボードワンは幕末にオランダ貿易会社の日本代表として長崎に来日。1868年の神戸港開港直後、初代在神戸オランダ領事に就任し、貿易面から日蘭友好の礎を築いた。

 同氏の胸像は1973年、上野公園に同園創設者で医師だった兄アントニウス・F・ボードワン博士(1820~85)の像として設置されていた。弟の写真を兄と取り違えたのが原因とみられ、指摘を受け06年に兄の銅像が再建されたが、弟の像は撤去されてオランダ大使館に収蔵されたままとなっていた。

 日蘭通商400年の昨年、在大阪・神戸オランダ総領事館が神戸市に寄贈を申し出て、没後120年の今年に像の設置が決まった。

 除幕式にはマルガリータ・ボット在大阪・神戸オランダ総領事や矢田立郎神戸市長らが参加した。

 ボット総領事は「この島から港と素晴らしい神戸の街並みを眺められ、居心地はいいはず」と話し、矢田市長は「140年を超えて神戸におかえりになった。最初の西洋文化を持ち込み、ビジネスの拠点として活躍してもらった。これからの神戸も見守ってくれると思う」と像を眺めた。


兄と間違われ33年 オランダ人胸像、神戸で第二の人生
 東京・上野公園の「生みの親」として公園内に33年間も飾られていた1人のオランダ人の胸像が、神戸市に移された。26年前に兄と間違えられていたことが判明。その後も兄として公園に居続けていたが、4年前に兄の胸像が新設され、行き場を失いかけていた。関係者の尽力で、ゆかりの地・神戸に落ち着くことになった。神戸港を望む公園で22日午後、除幕式がある。

 弟は幕末に来日したアルベルト・ボードワン(1829~90)。1868年の神戸開港とともに、在神戸オランダ領事館の初代領事に就任した。

 兄は、東京・上野公園の「生みの親」として知られるアントニウス・ボードワン(1820~85)。江戸幕府の招きで来日。長崎・出島や大阪仮病院(現・大阪大医学部)で教えた「日本の西洋医学の祖」の一人だ。

 37年前、オランダ政府は、上野公園の創設100年を記念して、公園の生みの親である兄の胸像を制作し、東京都に寄贈した。

 ところが、11年後の1984年、胸像のモデルが実は弟だったことが明らかになる。医学史を研究していた岡山県の医師が、オランダの大学教授から教えられ、新聞紙上で指摘した。

 在大阪・神戸オランダ総領事館によると、胸像制作の際にオランダ政府から写真提供を依頼された親族が、間違えて弟の写真を提供したらしい。ジュリアン・リクード報道文化部担当官は「若はげだった弟の方が年上に見えたんでしょう」と推測する。

 しかし、取り違えがわかった後も、弟の胸像は兄として公園に飾られ続けた。

 さらに21年たった2005年、今度は大阪市中央区の法性寺(ほっ・しょう・じ)の住職を務める山本信行(しん・ぎょう)さん(63)が取り違えを知った。

 兄は1869(明治2)年から約1年間、寺に下宿していた。写真をもとに建てた顕彰碑が境内にあり、山本さんにはひと目で別人とわかったという。
「これはいかん」

 その年はくしくも兄の没後120年。「許可さえいただければ、建て替え費用は全部こちらで集める」。東京都やオランダ側を説得。全国から集めた約400万円の寄付金で、翌年、造り直した兄の胸像を設置した。一方、弟の胸像は、オランダ大使館の倉庫にお蔵入りしてしまった。

 「第二の人生をどこかで歩ませたい」。オランダのディルクヤン・コップ前総領事が昨年2月、神戸市の矢田立郎市長に手紙で訴え、神戸市は神戸港を望むポートアイランドの公園に迎えることにした。

 最近になって、寺には弟も立ち寄っていたことがわかった。「制作から37年。やっとのことで安住の地が見つかり、本当にほっとしました」と山本さん。除幕式に参列し、胸像の前途を市長や総領事とともに祝う予定だ。(日比野容子)



香川
幕末の若者思い、咸臨丸ゆかりの曲聴く 多度津で演奏会
 塩飽諸島の若者が乗り込んだ幕府軍艦「咸臨丸」の渡米150年行事の一つとして、多度津町立資料館で23日、舞曲ポルカの曲「トミー・ポルカ」の演奏会があった。この曲は咸臨丸とともに航海した米軍艦に乗っていた使節団の若い随員にちなんで作曲された。参加した人たちは音楽を通じて幕末に生きた若者たちに思いをはせていた。
 この随員は立石斧次郎。当時17歳。通訳見習いとして使節団に加わった。「トミー」と呼ばれて現地の女性たちに親しまれたことから、米国の音楽家が作曲したという。
 演奏者は音楽家の野田純子さん。電子ピアノで曲を弾き始めると、訪れた約50人の人たちは特徴的なリズムに合わせて首を振って聴いていた。演奏時間は3分ほどだったが、善通寺市の大学院生白井澄さん(33)は「聞いたことがあるようでない、親しみやすい曲でした。自由で活発な人柄が目に浮かぶようでした」と話した。
 ポルカの由来や塩飽の水夫について説明した県地域振興アドバイザーの竹内守善さんは「日本語の詞をつけたい。当時の日本人は個性あふれ、たくましかったことを知ってもらえて良かった」と話していた。


本島で顕彰碑除幕式/咸臨丸渡米150周年記念
 咸臨丸の渡米150周年を記念し、乗組員として活躍した塩飽諸島出身水夫35人の功績をたたえる顕彰碑が、香川県丸亀市本島町の本島港に完成。24日、同所で除幕式が行われた。

 顕彰碑建設は、「島びと自身による島おこし」を合言葉に、地元住民らで結成した咸臨丸渡米150周年記念事業本島実行委員会(吉田智彦委員長)が企画。島民や島出身者らから寄付を募ったところ、約400人の賛同を得た。

 顕彰碑は高さ約1・5メートル、幅約3・3メートル、厚さ約0・3メートル。表面には水夫35人の名前や咸臨丸の写真、「世紀の大業に活躍した塩飽水夫の名をとどめ、その功績を永(なが)く讃(たた)えんとする」などとした碑文を記した。裏面は寄付者の名前を刻んだ。事業費は約300万円。

 式典には新井市長、高木副知事をはじめ、地元住民、関係者ら約250人が出席。吉田委員長は「維新216件前後の歴史に、塩飽水夫の大いなる貢献があったことを後世に長く伝えたい」とあいさつした。

 来賓が顕彰碑にかけられた白い幕を落とすと、出席者から一斉に拍手が沸き上がった。席上、完成を祝うとともに塩飽水夫の冥福を祈る法要も行った。

 この日は本島小学校で、郷土史家の入江幸一さんによる講演も実施。150周年記念事業は11月30日まで、展示会や講演などを島内各地で行う。



山口
育英塾:正座で論語、幕末体験 児童18人参加--萩・須佐歴史民俗資料館 /山口
 萩市須佐の須佐歴史民俗資料館「益田館」で22日、第18回幕末体験「育英塾」(須佐公民館主催)が開かれた。地元の育英小、弥富小の6年生18人が着物で参加し、正座で論語などを学んだ。
 毛利藩永代家老で須佐領主の益田家が、地元に子弟教育ための郷校「育英館」を開設。藩校・明倫館とともに幕末の教育を担った。授業風景を再現し、当時の歴史や志士たちの意気込みを知ってもらおうと毎年開いている。
 授業は、育英館時代の講義、書道、剣術で合計1時間40分。郷土史研究会の西村武正副会長(82)と須佐剣友会の豊田盛さん(61)が指導した。西村さんは「江戸時代はコピーなどなく紙も貴重。真っ黒になるまで書いて勉強した。先生を敬い、自分を磨くのに一生懸命だった」と当時の勉強の環境などを話し、須佐地域の歴史、論語を唱和した。児童たちは、慣れない座り机で正座をしての勉強で、足をしびれさせながらも、熱心に耳を傾けていた。【川上敏文】


平和祈念祭:志士しのび 子孫ら「万骨塔」で慰霊--長府 /山口
 下関市長府川端の市立長府博物館で20日、明治維新を中心に日本のために命を懸けた人たちに思いをはせる平和祈念祭があった。博物館そばに建つ、幕末の有名無名の志士たちの霊石が安置された慰霊塔「万骨塔」前に約50人が集まり、平和への思いを新たにしていた。

 万骨塔は1933年、志士の顕彰と慰霊のため建立された。高杉晋作や西郷隆盛、坂本龍馬を支えた盟友・三吉慎蔵、戊辰(ぼしん)戦争で集団自刃した白虎隊などの霊石が安置され、地元・長府博物館友の会(金田満男会長)が毎年慰霊を続けている。

 この日は、三吉慎蔵のひ孫、三吉治敬さん(72)=長野県上田市▽白虎隊士で唯一生き残った飯沼貞吉の孫、飯沼一元さん(67)=東京都世田谷区=らが塔の前で手を合わせた。

 三吉さんは「先人たちの志、そして平和の尊さを若い人たちに伝えていくことが大切」とし、飯沼さんも「会津と長州は複雑な関係だが、東西問わず義に生きた人たちをまつり、白虎隊の霊石を安置しているのは非常に意義あることだ」と語った。【松田栄二郎】


萩ものがたり:「浪漫陶々」、「長州ファイブ物語」を市内書店などで販売 /山口
◇27・28冊目発行
 萩市のブックレット・シリーズ「萩ものがたり」の27冊目「浪漫陶々(ろまんとうとう)」(80ページ、800円)と、28冊目「長州ファイブ物語-工業化に挑んだサムライたち」(64ページ、600円)が発行された。各A5判。萩市の歴史や文化、人物など後世に語り継ごうと、4、10月に各2冊を発行している。

 「浪漫陶々」は、陶芸家・12代三輪休雪氏が新聞に連載した、エロス(愛)やタナトス(死)をテーマした50回シリーズの随筆。「伝統の根源は革新である」という作家の信念と、学生時代の思い出話や作品完成の舞台裏などを写真入りでつづっている。県立萩博物館・浦上記念館陶芸館開館記念出版。

 「長州ファイブ物語」の著者は、萩博物館の道迫真吾主任研究員。幕末に欧米列強を追い払う海軍術を学ぶため英国密航した伊藤博文ら5人が、西洋文明を学ぶことで欧州諸国に劣らぬ強い国をつくることを決意。帰国後、日本の工業化に挑戦するさまを紹介している。井上勝没後100年記念出版。

 市内の萩博物館や書店、道の駅などで販売。問い合わせは事務局の萩市役所広報課(0838・25・3233)。【川上敏文】



佐賀
佐賀の遺産で歴史を学ぼう 世界遺産フェア
 佐賀藩の近代化産業遺産をテーマにした「世界遺産フェア2010」が24日、佐賀市川副町の佐野常民記念館と佐野記念公園で開かれる。講演会や複製蒸気機関車の走行実演などがあり、楽しみながら佐賀の歴史に触れる。
 
 幕末佐賀藩の功績を顕彰する佐賀伝承遺産研究会(土師俊資会長)と佐賀市の共同事業。会場となる公園は、世界遺産登録を目指す九州・山口の近代化産業遺産群の構成資産の一つ、三重津海軍所跡にある。
 
 記念館では午前9時20分から、長野暹・佐賀大名誉教授と前田達夫・佐賀市教委世界遺産調査室長が日本の近代化に果たした佐賀藩の功績や海軍所跡の発掘状況などについて講演。午後1時からは精煉(せいれん)方製作の蒸気機関車を基に復元したレプリカの走行実演がある。公園では諸富、川副両中吹奏楽部による合同演奏会や消防車などの展示、バザーなども行う。
 
 世界遺産登録には市民の盛り上がりが欠かせない。土師会長は「今まで興味がなかった人も現地に一度足を運んでもらい、佐賀藩が誇る近代化遺産に関心を持って」と来場を呼び掛ける。問い合わせは土師会長、電話090(4515)9717。


タウンたうん:24日に「世界遺産フェア」--佐賀 /佐賀
 24日に開かれる「世界遺産フェア2010」のPRで、佐賀伝承遺産研究会の土師俊資会長らが佐賀市役所を訪れた。

 幕末遺産の三重津海軍所跡の世界遺産登録機運を盛り上げるイベントで、佐賀市川副町の佐野記念公園で開催。公園前の佐野常民記念館で午前9時20分から発掘状況などについて講演がある。

 築地反射炉跡などのパネル展示のほか、佐賀藩が製作した蒸気機関車のレプリカを走らせるなど、親子で楽しめるイベントも。

 近くの「ミゾタ川副事業所」に駐車場を設け、無料シャトルバスを運行する。【姜弘修】


長崎
中岡慎太郎の写真ガラス原板公開 24日まで長崎歴文博
 坂本龍馬の盟友で、薩長同盟実現に奔走した幕末の志士、中岡慎太郎の写真のガラス原板が22日、長崎歴史文化博物館(長崎市立山1丁目)で開催中の「実録・坂本龍馬展」(長崎新聞社、NHK長崎放送局など主催)で公開された。24日までの3日間限定。

 写真は、龍馬と共に暗殺される1年前の1866年11月に京都で撮影。ガラス原板は今夏、慎太郎が京都で下宿していた書店の子孫=富山市在住=宅で見つかったばかり。慎太郎の故郷・高知県以外では今回が初公開となる。

 原板は縦約8センチ、横約10センチ。照れ笑いのような表情を見せてくつろぐ慎太郎が非常に鮮明に写っている。佐賀市の会社員、高野健一さん(40)は「高校生の時、京都への修学旅行で慎太郎の墓参りをしたことを思い出した。きょう、ここで出会えてよかった」と感動の面持ちで写真に手を合わせていた。


ブックレビュー
【書評倶楽部】古美術鑑定家・中島誠之助 『幕末明治傑物伝』 紀田順一郎著
抑え込まれていた能力噴出
 幕末明治という激動の時代を生きた人々の話は坂本龍馬や土方歳三(ひじかた・としぞう)のように倒幕や維新を彩った英傑ばかりが世に知られているが、開港地・横浜を舞台に活躍した先人たちのことは知られていない。
 嘉永6(1853)年の黒船来航を契機にして開かれた横浜は幕府の権力や攘夷(じょうい)派の騒乱が及ばない日本の白地図であり、外国人の治外法権がまかり通る土地であったことが、この本の登場人物たちの重要なポイントになる。
 冒頭を飾る伝道医師ヘボンの業績は誰しもヘボン式ローマ字の創始者だとは知っていても他になにを成したかは知られていない。人気の歌舞伎役者を救った大手術の成功者であり、日本人の可能性を信じた教育者であったことを知る人は少ない。本名のヘプバーンを当時の人たちがヘボンと聞き「平文」と表札を出したことも意外である。
 通行人が店の前を鼻を押さえて駆け去る牛鍋屋を開いた事業家の苦心とそれを応援した福沢諭吉の先見や、横浜に文化財を集めて文化に寄与した生糸商・原三渓の事跡。
登場人物の多彩さも各界にわたる。製パン業や初期の洋画家や新聞の創始者などなど、さらにけた外れの相場師・天下の糸平や易断で豪商一代の高島嘉右衛門などなど、郵便事業の先覚者・前島密(ひそか)やハヤシライスの語源などなど。人間模様の面白さは読者をして幕末の新開地に誘い込む。
 幕末から文明開化を迎える時期の横浜は武士も町人もない実力本位の世界で、身分の差で抑え込まれていた人々の能力が一気に噴出したのだ。そしてそれを可能にしたのは封建時代に培われた各藩の高い教養だったのだ。
 巻末には外人墓地に葬られているイギリス人噺家(はなしか)・快楽亭ブラックが登場する。来日して庶民の中に生きた喜びと哀(かな)しみを横浜生まれの著者は慈愛の筆で結んでいる。(平凡社・1785円)
                   ◇
【プロフィル】中島誠之助
 なかじま・せいのすけ 昭和13年生まれ。東京・青山の骨董通りの名付け親。著書に『ホンモノの人生』『骨董屋からくさ主人』ほか。







 本業が繁忙期に入りつつあり、記事検索と編集になかなか時間が取れません。最近は網羅性に目をつぶり、ぽろぽろと取りこぼしつつも、目に付いた記事を拾う程度にしておりますのでご容赦くださいませ。

茨城
龍馬ゆかりのお宝200点ぜよ 石岡で25・26日展示
 本人の肖像画や妻お龍(りょう)こと楢崎龍の着物など坂本龍馬ゆかりの品を集めた「龍馬の生きた幕末名宝展」が25、26の両日、石岡ジャスコぱれっと(石岡市石岡)の2階イベント広場で開かれる。
 着物文化の普及に努めているNPO法人「京彩都(きょうさいと)」(本部・京都市)の石岡支部などの主催。「龍馬が活躍した幕末の京都を通して、日本の着物文化に親しんでほしい」と企画した。
 古美術研究家の上田有之さん(48)=京都市在住=の個人コレクション約6千点の中から龍馬ゆかりの品約200点を今回借り受けた。
 龍馬の肖像画掛け軸、晩年にあたる寺田屋事件後の龍馬の写真、十二代酒井田柿右衛門の作となる白磁龍馬像、妻お龍所用の京都西陣織の御召(おめし)(単衣〈ひとえ〉の着物)、龍馬がひいきにしていた京都・島原の太夫の打ち掛け・かんざしなどが展示される。
 前野誠人・京彩都石岡支部長は「幕末の激動期を生き抜いた偉人たちが残した重要文化財級の貴重品ばかり。品々それぞれの歴史や由来を知れば、きっとくぎ付けになるはずです」と話している。


東京
東京・新橋を「古地図」を片手に歩く親子イベント 募集中
親子で歴史や史跡を巡りながらスイーツも!
 第一ホテル東京では、阪急阪神ホールディングスグループが現在、推進している社会貢献活動「阪急阪神 未来のゆめ・まちプロジェクト」の一環として「親子イベント~古地図を持って、親子で江戸幕末・文明文化を知ろう~」を、2010年11月20日に開催する。
 今回、江戸から明治・大正・昭和と、歴史の移り変わりとともに大きく変わった「新橋」エリアにスポットを当てる。
 そして、江戸時代に作成された「古地図」を片手に、地図に表記されている場所を探りつつ、親子で歴史や史跡を巡る内容。NPO法人「江戸前21」理事長の清田和美さんによるガイド案内、レストランでのデザートも用意しているという。
 時間は、13時から15時。参加費は1人1,500円。対象はおとなと小学校4~6年生。募集人数は15組30名。第一ホテル東京の公式ホームページから予約を受け付けている。


神奈川
幕末の教会祭壇100年余継承か、地元団体が研究「現存の可能性も」/横須賀
 旧横須賀造船所(横須賀市)内に幕末建設された天主堂(聖ルイ教会)の祭壇が、横須賀三笠教会(同市稲岡町)でも使われていた可能性が高いことが18日、「横須賀の文化遺産を考える会」の長浜つぐお代表の調査研究で分かった。三笠教会が建て替えられるまで、100年以上受け継がれていたとみられる。「横須賀の文化や精神面にも横須賀造船所が大きな礎となっている」と長浜さんは話している。
 聖ルイ教会は横須賀市内で最初のキリスト教教会として、造船所入り口近くのフランス人居留区内に1867(慶応3)年までには建てられたとみられる。80(明治13)年に任務を終えたフランス人が全員帰国し、教会は閉鎖された。しかし、司祭を務めていた神父が再建を目指し、旧教会の資材を運んで83(明治16)年、上町に中里教会を建設した。
 中里教会は太平洋戦争中も活動していたが、終戦後の1948(昭和23)年、稲岡町に移り、カトリック横須賀三笠教会として現在に至っている。
 長浜さんは7月、知人のフランス人から聖ルイ教会の拝殿内にあった祭壇の貴重な写真を入手した。1974年に三笠教会が建て替えられる前の祭壇の写真と比較。祭壇の形状や前面の彫刻のデザインから同一である可能性が高いと分析した。長浜代表は中里教会に通った経験のある信者らの証言を基に、中里教会でもこの祭壇を使っていたとみている。
 長浜代表は「祭壇は貴重なもの。今もどこかに残っている可能性もある」と話している。
 研究結果は11月3日、横須賀市深田台の市自然・人文博物館で開催される郷土研究発表会で長浜代表が報告する。問い合わせは、同博物館電話046(824)3652。


岡山
最後のアカマツ伐採 新見・松原通り 江戸期倒木の恐れ
 新見市中心部の松原通りに、1本だけ残っていた江戸時代のアカマツ(高さ18メートル、目通り周囲1・8メートル)が枯れ、倒れる危険があるため、19日、市が根元から伐採した。一帯は、旧新見藩の家老屋敷などがある観光名所で、アカマツは歴史の生き証人として観光客らに親しまれていただけに、市民らを残念がらせている。
 歴史書などによると、初代藩主・関長治が元禄年間(1688~1704)、藩と庶民を結ぶ道として長さ約100メートルの道路を作り、両側に街路樹の松約40本を植えたとされ、以来、松原通りと呼ばれてきたという。昭和30年頃まで十数本あったが、枯死や道路拡張でなくなり、市立新見図書館前の1本だけになっていた。
 最後の松が枯れた原因はマツクイムシで、市の依頼を受けた市森林組合の作業員がクレーンを使って上部の枝から順に伐採。約1時間で根元から切り倒した。年輪から樹齢約160年で、幕末頃に植え替えられたものらしいことが分かった。
 近くには、松にちなんで名付けられた明治時代の料亭「松葉」「松月」などの建物が残り、お茶会やイベントに開放され、観光ポイントの一つになっている。
 市中心部の活性化を進めている新見御殿町振興会(山本栄一会長)や観光客を案内している「新見まち歩きボランティアの会」(大西洋リーダー)は「残念だが、市民の安全が一番。早く、後継ぎの松を植えたい」としている。


広島
「幕末の動乱」展:歴史博物館で /広島
 福山市西町の県立歴史博物館で、江戸時代から幕末、明治にかけての戦乱や福山、広島両藩の動きをたどる企画展「幕末の動乱と瀬戸内海」が開かれている。11月23日まで。
 展示は第1~6章までの構成で、ペリーの来航や桜田門外の変、幕府軍による長州征討のほか、王政復古の大号令などの江戸から幕末にかけての大きな事件を、福山、広島藩などの瀬戸内海に面した諸藩とからめて紹介している。今年8月に初めて見つかった坂本龍馬率いる海援隊が乗り込んだ「いろは丸」の外観を描いた資料などもある。
 同館(084・931・2513)の開館時間は午前9時~午後5時、月曜休館。入館料は大人700円、高校・大学生520円、小中学生350円。【高山梓】

 
山口
下関市立東行記念館
 010年6月1日、山口県下関市に「下関市立東行記念館」がオープン。
同館は、幕末の志士 高杉晋作の墓がある場所として知られる下関市吉田の東行庵内に開館。萩市が管理する晋作の遺品は所有権をめぐる訴訟の関係で展示せず、当面は奇兵隊関係の資料を紹介する予定という。


福岡
ワイル・ウエフ号の「碇石」か 新上五島、沈没海域を初調査
 NPO法人アジア水中考古学研究所(福岡市、林田憲三理事長)が16日から3日間、幕末の志士、坂本龍馬が長崎で結成した日本初の商社とされる亀山社中の専用船ワイル・ウエフ号が沈没した新上五島町潮合崎沿岸で海底を調査している。同研究所によると、この海域での調査は初めてで、17日までに碇石(いかりいし)2点を確認。使われていた年代やワ号に関係するかどうかは現時点では不明という。
 地元の有川町郷土誌(1994年発行)などによると、ワ号は薩摩藩がトーマス・グラバーから購入した木造帆船で、1866年4月、亀山社中の同志らが乗船して鹿児島に向け長崎を出港したが、暴風雨に遭い漂流。5月に潮合崎で沈没し、12人が水死したとされる。
 船には荒鉄約700石、鍋地金約20石の積み荷があり、大砲7門と小筒16門などが装備されていたともされる。事故後、福江藩が漁民らと協力して遺体や積み荷を収容した。
 今回の調査は、日本財団の助成を受けて同研究所が取り組んでいる全国的な水中遺跡の分布調査の一環。ワ号が沈没した詳しい場所を特定し、船体の残存部や積み荷などの有無、状態を確認するのが目的。
 7人の調査チームが15日に現地入りし、地元の郷土史家などから聞き取りしてワ号が沈没した海域を推定。潮合崎沿岸付近の2カ所で5人が水深18メートル程度まで潜水し、遺物の有無を目視で調査している。
 林田理事長は「今回は初期調査。沈没した場所を特定しながら今後も調査を続け、船や積み荷が今どういう状態にあるのか明らかにしていきたい」と話している。
 現場近くには龍馬が仲間の慰霊のために建てたとされる墓があり、旧有川町は墓の近くに坂本龍馬ゆかりの広場を整備。今年5月には広場の改修とともに「祈りの龍馬像」が建立、除幕され、新たな観光スポットとして注目されている。



長崎
「小曽根乾堂と長崎」テーマに講演 雲仙で17代吉郎さんと育代夫人
 幕末、長崎で坂本龍馬を物心両面で支援した小曽根乾堂(1828~85年)と当時の長崎をテーマにした小曽根家17代当主の吉郎さん(63)、夫人で「お龍さんの長崎日和」著者の育代さん(62)の講演会がこのほど、雲仙市小浜町雲仙の「森の美術館in雲仙」であった。
 同館で開催中の乾堂の書画など約100点を集めた企画展にちなんで開催。市民ら約50人が聴講した。
 育代さんは「乾堂が篆書(てんしょ)で書いた『冷眼視世』は冷めた眼(まなこ)で世の中を視(み)よ、という世代を超えた名言警句で、床の間に飾っている。勝海舟にあてた書簡には『軍艦500隻を揃(そろ)え、日本を守りたい』と記しており、龍馬はこの思想に感銘を受けたに違いない」などと話した。
 吉郎さんは、乾堂が書画に長じ、印鑑を彫っていたことに触れ「乾堂は(書画に)全部、時間と場所を書き込んでいる。印の細い線は抜群の味。竹図も上手だった」などと話しながら作品を解説。当時の社会について「長崎ではやっぱり高島秋帆先生が一番。その弟子が佐久間象山、勝海舟、吉田松陰ら」と述べながら、激動の時代を振り返った。



社会
好きな幕末有名人1位は高杉晋作、2位は?
「好きな幕末の有名人」1位は高杉晋作-。日刊スポーツで隔週木曜日に掲載する「日本史なんでもランキング」はニッカンスポーツコムと連動し、日本史にまつわる人物、出来事などを、ネット投票によって順位を付けます。

 第1回のテーマは「好きな幕末の有名人」で計598人の投票が寄せられ、トップは107票を獲得した高杉でした。

 1位 高杉晋作(107票) 長州藩では吉田松陰の下で学び、尊王攘夷(じょうい)運動に加わる。身分を問わない奇兵隊を設立。1864年8月、長州が英国など4カ国と戦った下関戦争では藩を代表して講和交渉に当たる。同年12月に伊藤俊輔(博文)らと挙兵して藩の実権を握り、討幕、薩長同盟へと動いていく。66年6月の第2次長州征伐では参謀として指揮を執り、幕府軍を敗北に追い込む。結核を患い、67年4月13日死去。享年29。
 2位 坂本龍馬(100票) 土佐藩を脱藩し、亀山社中(海援隊)を設立。薩長同盟成立、大政奉還に大きな役割を担った。1867年11月15日、京都で暗殺される。享年33。
 3位 土方歳三(76票) 新選組副長。戊辰(ぼしん)戦争では鳥羽・伏見の戦いの後、会津、仙台と転戦、最後は箱館で新政府軍と戦う。1869年5月11日、同地で戦死。享年35。
 4位 西郷隆盛(42票) 薩摩藩の中心的存在として薩長同盟、王政復古に尽力。戊辰戦争では江戸総攻撃を前に勝海舟らと会談、無血開城を実現する。1877年、西南戦争で自刃。
 5位 勝海舟(40票) 幕府の軍艦奉行、新政府の海軍卿などを務め、「日本海軍生みの親」といわれる。戊辰戦争では、西郷と交渉し、江戸城無血開城に尽力した。
 6位以下は、河井継之助、吉田松陰、大久保利通、大村益次郎、桂小五郎となりました。
 次回「日本史なんでもランキング」は、11月4日(木)の日刊スポーツでお楽しみください。次回は「好きな戦国武将」のアンケート結果発表です。

 龍馬よりも高杉の方が人気あるというのがなかなか興味深いです。3位に土方さんが入るのは、ま、順当かと(*^_^*)。

コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(84)東大教授・山内昌之 広沢真臣
大官僚政治家の謎
 薩摩の小松帯刀(たてわき)と並ぶ明治新政府の柱、長州の広沢真臣も維新後すぐに世を去った。小松が病死、広沢が暗殺という違いはあるにせよ、もし健在だったなら長州では木戸孝允と同格であり、薩摩の西郷隆盛や大久保利通(としみち)にもゆうに比肩する人物であった。藩官僚から新政府中枢の大官僚政治家に成長を遂げた点で屈指の人材であり、日本の憲政で多かった中央官庁の高級官僚から保守党政治家へ転身する大型のモデルかもしれない。
 ◆とらえどころのない人物
 広沢には謎めいた要素が多い。まず『広沢真臣日記』という刊行史料がありながら、いまでもヴェールに包まれた部分が多い政治家である。
 長州藩時代の家格は、他藩では馬廻(うままわり)に相当する上中士クラスの大組(おおくみ)であり、高杉晋作や木戸や周布(すふ)政之助と同じであったから、藩政の中心に座る資格は十分にあった。事実、広沢は軍制や行政の改革に関係する職を歴任しており、この経験は新政府の行政組織を束ねる上で大きな糧(かて)になったはずだ。それでいて広沢には、どこかとらえどころのない雰囲気を醸し出すところがある。高杉や木戸のような正義派でなく、かといって椋梨藤太(むくなし・とうた)の俗論派にも属さなかった。元治元(1864)年は、禁門の変、下関戦争、第1次幕長戦争と長州にとって多事多難な時であり、主戦派の正義派が恭順派の俗論派に敗れ、多数の藩士が粛清された。その折でさえ、中間派めいた広沢は処刑を免れる。どこか保身術にたけた世渡り上手という印象も受けるのだ。
 その一方、慶応元(1865)年、高杉や伊藤俊輔らが藩の実権を掌握すると、広沢は天下晴れて政務役として藩政に戻り、慶応2年の第2次幕長戦争を指導している。
広沢の名が天下に知られるのは、藩論を一致させ厳島で勝海舟と休戦の事を談判してからのことだ。薩長同盟と討幕運動にもリーダーシップを発揮した広沢は、木戸や西郷や大久保の陰に隠れがちとはいえ、新政府では徴士(ちょうし)、参与、海陸軍務掛、大総督府参謀などを経て、民部大輔(みんぶたいふ)や参議などの顕職を歴任する華やかさであった。
 ◆「府藩県三治制」をリード
 広沢は明治4(1871)年1月に数え39歳で暗殺された。官僚政治家として競争のトップを切るはずの広沢は早々と消え、木戸や高杉のような英雄談にも乏しいせいか、人びとの記憶からも次第に忘れさられてしまった。しかし、『日記』などを読み進めると、広沢がいわゆる「府藩県三治制」の制度化に果たした役割の大きさに気がつくだろう。たとえば、慶応4(1868)年閏(うるう)4月に旧幕領や戊辰戦争で敵対した藩の没収領地から成る府県と、勤王派大名に残された藩領が併存する矛盾を抱えた地方制度が発足した。
 まもなく藩治職制で藩制の統一が図られ、明治2(1869)年に版籍奉還が断行され、郡県制度の徹底を目標とした府藩県三治の統一が目指された。それをリードした中心人物こそ広沢である。この状況は、明治4年7月の廃藩置県により府県制が敷かれるまで続くので、広沢は多数の不平士族から反感をもたれたことは疑いない。時には、薩長閥内部に下手人がいるのではと推測される始末だったが、愛妾(あいしょう)と同衾(どうきん)中に殺された事件が噂(うわさ)に噂を呼び、暗殺の真相は今もって不明である。
政府要人の西郷や大久保、木戸や山県有朋、板垣退助らは、廃藩置県に備えるべく「御親兵」を東京に集め、出身藩の改革を推し進めるためにも、参議の広沢に留守の大任を託して東京を離れることが多かった。
 文字通り、広沢は行政組織最大の実力者となったのである。明治3年7月に一体だった民部省(徴税)と大蔵省(財政)の分離を主導した大久保を支持し、長州閥の木戸や伊藤と対立したこともあった。もし広沢が生きていれば、もっぱら大久保の手で成し遂げられた国内の行政官制や地方組織の整備にも大きな役割を果たしたはずだ。その際に薩長の両巨頭がいかなる関係を取り結んだかを想像するのは、現代の大連立や部分連合の性格を考える“アタマの訓練”としても興味が尽きない。(やまうち まさゆき)
                   

【プロフィル】広沢真臣 
 ひろさわ・さねおみ 天保4(1834)年、長州(山口県)萩生まれ。藩校明倫館に学び、尊皇攘夷派の実務官僚として重用される。慶応元年(1865)年には藩の政務役となり、翌2年の第2次幕長戦争では勝海舟と会談し休戦交渉にあたる。翌3年には薩摩藩の大久保利通らと倒幕の盟約を結ぶ。維新後は民部大輔や参議など新政府の要職を歴任、版籍奉還を推進するが、明治4(1871)年私邸で暗殺された。







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