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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 江戸検の受験票が来ちゃった……あっ、何も勉強してないっ(汗)。

岩手
竜馬の精神、地域に勇気 一関で全国ファンの集い
 全国の坂本竜馬ファンが集う第22回全国龍馬ファンの集い岩手一関大会(全国龍馬社中主催)は10日、一関市大手町の一関文化センターで開かれた。東北で開催されるのは今回が初めて。パネルディスカッションや岩手・高知両県知事による近江屋対談、大交流会には多くの市民が参加し、全国の竜馬ファンと交流した。

 全国龍馬社中(橋本邦健会長)の全国大会には竜馬ファンの40団体約200人が参加。橋本会長が「竜馬は眺めているだけではいけない。追い付き追い越すことに意義がある。今回は初めて知事2人が参加した。地域に何ができるか竜馬の精神で考え実行していこう」とあいさつ。次期開催地の高知市に大会旗が引き継がれた。

 全国大会に引き続き行われたパネルディスカッションには市民を含め約600人が参加。長崎龍馬会龍馬楽校の柴崎賀広(よしひろ)校長が「竜馬の死後、戊辰戦争が起きた。竜馬が生きていたら戦争のやり方は変わり、東北の農民が兵士に駆り出されることもなかったかもしれない。そういう意味で竜馬と東北の関係を考えた」と話し会場が沸いた。

 達増知事と尾崎正直高知県知事の近江屋対談は、5月の高知開催に続き2回目。

 前回確認した高知と岩手の頭文字を取った「KI(かい)援隊」交流連携について、達増知事は「両県共同の物産展や赤べこフェアの首都圏開催を企画していきたい。優れた地域資源を生かし県民の所得に結びつけなければならない」と強調。尾崎知事は「高知県は人口減少し経済規模が小さくなっている。地産地消にとどまらず『地産外商』を進めていきたい」と答えた。

 夕方から開かれた大交流会には「岩手の味」が並び、全国の竜馬ファンと一般参加者らが交流を深めた。また、前日に開かれた役員会では仙臺(だい)龍馬会の設立を承認した。

【写真=「四つの龍馬伝」と題し議論する(左から)坂本登さん、小美濃清明さん、柴崎賀広さん、片岡幸嗣さん】


宮城
斗南藩の歴史たどる 「先人の偉大さ痛感」 みやぎ会津会
 戊辰戦争後に移封された会津藩士らによって現在の青森県三沢市などに築かれた「斗南藩」の苦難の歴史をたどろうと、宮城県在住の福島県会津地方出身者でつくる「みやぎ会津会」が2日、「ふるさと訪問ツアー」として三沢市などを訪れた。
 会員15人が参加し、「斗南藩記念観光村・先人記念館」を見学。戊辰戦争後に会津から移り住み、1872(明治5)年に日本初の民間洋式牧場「広沢牧場」を開設した斗南藩士、広沢安任(1830~91年)の写真や刀、文献など、ゆかりの品々を見て回った。
 会長の須佐尚康東洋ワーク社長(福島県金山町出身)は「会津から見知らぬ土地に移り住んだ苦労は並々ならぬものだっただろう。先人の思いと偉大さを痛感した」と感慨深げだった。
 一行は青森県十和田市も訪れ、「十和田会津会」のメンバーと交流を深めた。
 みやぎ会津会は2008年に設立され、会員は約160人。会津藩ゆかりの地を巡り、会津出身者同士や地域間の交流活動を続けている。


福島
河野広中の遺品が一堂に/三春で企画展
 三春町出身で自由民権運動先駆者の河野広中が受けた勲一等旭日大綬章の勲章や河野家に伝わる名刀などを集めた企画展「遺品展」は、9日から12月5日まで三春町歴史民俗資料館内の自由民権記念館で開かれている。
 明治23(1890)年に第1回帝国議会が開かれて120年目を迎えるのを記念。
 昨年11月に広中の孫河野広明さん(千葉県松戸市)が町に寄贈した遺品約335点のうち50点を公開している。
 広中が愛用した筆やすずり、帽子のほか、大正天皇即位の儀式「大正大礼」の文書などを展示した。
 資料館内には、広中が戊辰(ぼしん)戦争時に着ていた陣羽織などもある。
 入場料は大学生・一般300円、高校生以下150円、時間は午前9時から午後4時までで、月曜日休館だが、祝日の場合は開館し翌日休館となる。
問い合わせは同資料館電話0247(62)5263へ。


58年の歴史初! 会津まつり藩校行列中止の裏で…
 会津まつりは、例年9月に行われ、「提灯行列」を皮切りに、「会津磐梯山踊り」「会津藩公行列」「日新館童子行列・鼓笛隊パレード」の諸行事が3日間に渡って繰り広げられる、会津の一大行事だ。

 メインイベントの「藩校行列」は、市民らが歴代の藩主や戊辰戦争を戦った白虎隊、娘子隊などに扮して、市内を行進する行事である。
 58年の歴史を持つ会津まつりであるが、会津藩校行列が台風の影響による大雨の為、58回目にして初めて“中止”となってしまった。
 しかし、会場には侘しいムードが漂うばかりと思いきや、雨天の中行われた「先人感謝祭」においてサプライズが待っていた。
 今回の出演者には1986年の年末時代劇スペシャル『白虎隊』において白虎隊士の一人、伊東悌次郎役で出演した、歌手・俳優の岸浩太郎が一般公募枠より参加し家老・田中土佐役としてゲスト出演した。
 岸は挨拶の席で、『白虎隊』並びに会津へ対する想いを述べると共に、劇中で白虎隊氏が壮絶な自刃を遂げるシーンにおいて、歌い上げた詩吟を実に23年ぶりに披露した。
 参加に際して、岸は「まさか、私のゲスト回に中止にならなくても…藩公行列において、岸の次席家老“田中土佐”を観て頂けなかったのが残念です」とのコメント。

(※伊東悌次郎:安政元年(1854年)生まれ。会津藩士・伊東左太夫の次男。白虎隊に入隊できるのは16、17歳の少年たちであったが、15歳の悌次郎は熱心に志願し、しかも身体が大きかったことから入隊を許された。飯盛山で自刃した19士の一人。
※田中土佐:文政3年(1820年)生まれ。次席家老として会津藩主・松平容保に仕えた。戊辰戦争では、主戦派のひとりとして新政府軍と戦い、会津城下の戦いでは甲賀口の守備を担当。このときの戦いで畳を銃弾を防ぐ壁にしてまで奮戦したといわれるが、重傷を負ってしまい、最期は同じく主戦派の家老である神保内蔵助と共に会津藩の医師・土屋一庵の屋敷で刺し違えたという。享年49。)


千葉
文化審答申:重文に「旧吉田家住宅」 主屋は1854年建造--柏 /千葉
 幕末に建てられ、下総地方の豪農の屋敷の建築様式を残す柏市花野井字原の旧吉田家住宅が、国の重要文化財に指定されることになった。国の文化審議会が15日、文部科学相に指定を答申した。指定は12月ごろの見通し。

 旧吉田家住宅は、主屋と書院、新座敷、長屋門など計8棟からなる。かやぶきの主屋は日米和親条約が結ばれた1854(嘉永7)年に建てられ、3間(げん)四方の居間や5畳の仏間など広い部屋が配されている。

 吉田家は43代続く名主で、04年に柏市に寄贈する数年前まで実際に人が暮らしていた。柏市は一帯を旧吉田家住宅歴史公園として整備し、昨年11月から無料公開している。市教委の友野雅和文化課長は「市民が柏の歴史を知り、親しめる場所として今後も保存・管理していきたい」と話している。

 国の重要文化財(建造物)は県内で計29件となる。【早川健人】


静岡
家康の遺徳をしのび 静岡・久能山東照宮で秋の大祭
 久能山東照宮(静岡市駿河区根古屋)で17日、秋季大祭が開かれ、合わせて弓道同好会「清康会」による、弓の神事、奉射大会が行われた。社殿が国宝に指定されることになったこともあり、県内外から多くの観光客が訪れ、建物や景色に見入った。
 幕末から明治にかけて活動を始めた清康会による奉射大会は今年で136回目。この日は15人が一人につき12射を行った。
 また、家康が幼少期に駿府(現・静岡市)で人質として暮らした臨済寺(同市葵区大岩町)の僧侶が訪れ、家康の遺徳をしのんで供養祭も行った。



京都
勤王隊列 最多168人 実った!時代祭地道なPR
 京都三大祭の最後を飾る時代祭(22日)で、先頭を行く維新勤王隊列に、今年は例年より約40人多い過去最多の168人が参加する。隊士を演じる中高生の確保が、少子化などでしだいに困難になる中、「幼い頃から関心を」と地元小学校で続けてきたPR活動が花開いた形だ。関係者は「例年以上に力強い行列にしたい」と意気込んでいる。

 隊列は、新政府軍と旧幕府軍が争った明治の戊辰(ぼしん)戦争で新政府に加勢した山国村(現・右京区京北地区)の隊士がモデル。笛や太鼓を演奏したり、鉄砲を携えたりした羽織袴(はかま)姿の80人の隊士と、役員ら計129人が例年の人員となる。

 隊士になると、祭の1か月前から連日、演奏の練習があるが、少子化に加え、部活動や塾などがあって集まりにくい状態が慢性化。7、8年前には応募が60人を下回り、過去の参加者に“応援”を求めて80人に近づける苦労が続いた。

 危機感を持った隊列の維持組織「平安講社第8社」が、2006年から地元小学校で衣装や笛などに触れる機会を設けたところ、応募者は増加に転じた。今年の隊士は、昨年より16人多い96人で、うち43人は初参加。ここに役員ら72人が加わる。衣装の不足分は、古いものをクリーニングするなどして補うという。

 隊士は、6節ある行進曲の練習に励んでおり、役員の太田興さん(48)は「広報活動が、今年になってようやく実を結んだ。学校を訪れると、実際に道具に触れた子どもたちの目が輝いているのがわかる」と話す。

 祭の行列は全体で約2000人で、市内の大学から募ったアルバイトも多い。宮野巳代次(みよじ)・平安講社副理事長(75)は「アルバイトの確保は、授業を欠席しにくいなどの事情から難しくなっており、地元からの参加が重要だ。第8社の取り組みは、ほかの講社にも参考になる」と話している。

(2010年10月16日 読売新聞)


和歌山
小梅日記:ゆかりの地を歩く 生誕地など50人が見学--和歌山 /和歌山
 幕末から明治にかけ日常生活を克明につづった「小梅日記」で知られる川合小梅(1804~89年)ゆかりの地を訪ねる「小梅日記ゆかりの地ウオーク」が16日、和歌山市内であり、地元の主婦や小学生など約50人が生誕地などを見学した。

 住民グループ「小梅日記を楽しむ会」(辻健会長)が主催。この日は、会が約1年かけて製作した「小梅日記ゆかりの地マップ」を手渡し、3時間余りかけて市内約4キロを散策。参加者は、市語り部クラブの山本隆造さんの説明を受けながら、小梅が度々まんじゅうを購入した和菓子店の「駿河屋」や、火縄銃を製造していた「出来助本店」などを巡り、明るくユニークな性格だった小梅の姿を思い描いていた。

 初めて参加した市内の主婦は「以前から参加したいと思っていました。マップは分かりやすくて便利ですね」と話していた。

 マップは、和歌山と海南、紀の川の3市67地点を抽出し、計15ルートの散策コースを紹介している。【山中尚登】


愛媛
幕末の蝦夷地図 初公開
「北海道」名付け親が作製 宇和島で30日、シンポも

「北海道」の名付け親で知られる幕末の探検家、松浦武四郎(1818~88)が作製した北海道の地図「三航蝦夷(えぞ)全図」が30日、所蔵する宇和島伊達文化保存会(宇和島市)によって初めて公開されることになった。公開に合わせ、武四郎と宇和島藩主・伊達宗城(むねなり)との交友秘話などを紹介する歴史シンポジウム(宇和島歴史文化研究会など主催)も宇和島市住吉町の市総合福祉センターで催され、関係者は「宇和島に伝わる貴重な史料を多くの人に知ってほしい」と来場を呼び掛けている。

 武四郎は三重県松阪市出身。少年時代から全国各地を旅し、28歳の頃から幕府に命じられるなどして計6回、北海道に渡った。

 3回目の渡航後に描いた三航蝦夷全図は昨年12月、保存会の所蔵品の中から見つかった。14枚の和紙をつなぎ合わせると、縦3・4メートル、横2・5メートルの北海道が描かれた1枚の図になるというもので、1854年のペリー来航の際、宇和島藩がペリーの動向調査を武四郎に依頼しており、この時に宗城に献上された。

 樺太(サハリン)や国後島、択捉島なども描かれているが、実測されたものではなく、北海道自体は縦に押しつぶしたようないびつな形になっている。しかし、宇和島歴史文化研究会や松浦武四郎研究会(北海道八雲町)によると、全国で7点現存している武四郎作製の蝦夷地図の中で、地名など詳細な凡例が自筆で添えられているのは、宇和島伊達文化保存会所蔵の1点だけという。

 地図は14枚のうち一部を30日正午から、武四郎の書簡などとともに総合福祉センターで公開。シンポジウムは同日午後1時から、「松浦武四郎の北海道と宇和島」をテーマに、松浦武四郎研究会の高木崇世芝(たかよし)さんや宇和島歴史文化研究会の近藤俊文会長らが秘話を紹介する。入場無料。問い合わせは同研究会の水野浩一事務局長(090・8970・6252)。




広島
老中阿部正弘の功績を紹介
 福山市西町の広島県立歴史博物館が16日、江戸幕府の老中を務めた幕末の福山藩主・阿部正弘(1819―57年)をテーマにした講演会を開いた。11月23日まで開かれる企画展「幕末の動乱と瀬戸内海」を記念して企画し、210人が参加した。

 明治維新に詳しい東京大大学院の三谷博教授(日本近代史)=福山市出身=が講演。日本に開港を迫る米国のペリーの来航や江戸城の相次ぐ火災など、阿部が老中を務めていた時代の状況を解説した。

 三谷教授は、阿部が自らの政策を途中で鎖国から開国に変えた点に触れ、「長期的な視点で日本の国益を考えた柔軟性と戦略性の高い判断」と評価した。

 企画展では、阿部が吉備津神社(福山市新市町)に奉納したと伝えられる「ペリー来航図」も展示。30日午後2時からは東京大大学院の安達裕之教授が「幕末・洋式船の登場」と題して講演する。

【写真説明】阿部正弘の政策などについて話す三谷教授(右)


幕末の動乱展 いろは丸の絵初公開 福山・県立歴史博物館
 瀬戸内海を舞台にした幕末111件期の事件や、ゆかりの人物を紹介する企画展「幕末の動乱と瀬戸内海」が15日、広島県福山市西町、県立歴史博物館で始まった。

 絵図や古文書などの史料約110点を6つのテーマに分けて展示している。坂本竜馬率いる海援隊を乗せ、同市鞆の浦沖で沈没した蒸気船「いろは丸」の絵は、県内初公開。長崎市歴史民俗資料館で展示されていた洋式船の記録書に絵があることが7月に確認され、話題になった。煙を上げて航行する姿が細かく描写されている。

 竜馬関連では、故郷の土佐への生涯最後の帰省を前に、土佐藩士に宛てた直筆の書簡も目を引く。

 新政府軍の長州藩と徳川幕府の譜代大名だった福山藩との和平交渉のやりとりを伝える古文書、福山藩の尊王(そんのう)攘夷(じょうい)派の重臣・安藤織馬が着用したとみられる甲冑(かっちゅう)など、郷土関係の史料も並ぶ。

 11月23日まで。一般700円、高校・大学生520円、小中学生350円。月曜休館。問い合わせは同博物館(084―931―2513)。


長崎
大浦慶所有の龍馬ら写真を初公開 あすまで長崎歴文博
 幕末の長崎で活躍した女性商人・大浦慶が持っていたとされる坂本龍馬の写真が15日、長崎歴史文化博物館(長崎市立山1丁目)で開催中の「実録・坂本龍馬展」(長崎新聞社、NHK長崎放送局主催)で公開された。公開は17日までの3日間限定。

 この写真は、大浦慶の縁者に当たる長崎市在住の個人が保管。昨年存在が明らかになり、県はことし8月、同時期に撮影されたとみられる洋装の男性の写真と合わせて250万円で購入。今回初めて公開した。

 2枚はいずれも名刺サイズ。龍馬の写真は、長府藩士三吉慎蔵が龍馬から譲り受けた写真と同じ構図で、体を左に向けて、いすに座っている。三吉家所蔵の写真に比べ画像がややぼやけており、長崎歴文博は龍馬暗殺翌年の1868年ごろに複写されたものとみている。洋装の男性は、類似の格好をした写真が残されている海援隊士沢村惣之丞の可能性があるという。

 観覧した山口県下関市の会社員、植杉祐哉さん(31)は「長崎で新たに龍馬の写真が見つかったとは知らなかった。龍馬ファンなので本物の写真を見て感動した」と話した。








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 『薄桜鬼 碧血録』が始まって、週半ばに楽しみがひとつできました。

岩手
鋳物の里に歴史公園 奥州・水沢、幕末の名工顕彰
 奥州市の羽田地区振興会(佐藤建樹会長)が同市水沢区羽田町に整備していた水沢鋳物歴史公園の完成除幕式は14日、現地で行われた。公園は幕末の名工の屋敷跡に整備。歴史説明板などを設置し、鋳物産地をアピールする。

 関係者約40人が出席。鋳物で作った太鼓の音に合わせて、説明板が除幕された。

 公園は広さ約600平方メートル。仙台藩のお抱え鋳物師だった及川重右衛門の屋敷跡に整備した。説明板は水沢鋳物の歴史と重右衛門が製造した武器「坂本流大筒」を解説。公園整備中に発見された、江戸時代の鉄を溶かす溶銑炉「甑(こしき)」の貴重な断片も展示する。事業費は76万円。市が50万円補助した。

 公園整備は、4月に部分開通した県道工事がきっかけ。県道が及川家12代当主の宏也さん(73)の敷地内を通るため、分断された県道沿いの土地に重右衛門を顕彰する公園が計画された。土地を無償貸与する及川さんは「代々の土地を生かし、地域に恩返しがしたかった」と語る。

 公園には屋敷にあった樹齢約250年のイロハモミジなども残した。大筒の復元やあずまや整備も検討しており、佐藤会長は「先人の功績を伝え、鋳物の歴史や情報を発信する場にしたい」と語る。

【写真=鋳物の名工の屋敷跡に整備された水沢鋳物歴史公園】


企画展:幕末の長英と崋山 出会いから幕府弾圧 奥州で来月21日まで /岩手
 幕末を生きた奥州市出身の蘭学者・高野長英と三河国田原藩(現愛知県田原市)家老・渡辺崋山をテーマにした企画展「長英と崋山」が、奥州市水沢区の市立高野長英記念館で開かれている。両者の出会いから蛮社の獄による幕府の弾圧までを貴重な資料などで紹介している。11月21日まで。

 長英は洋学教師として田原藩に迎えられたことが縁で崋山と知り合った。その後、崋山らが結成した「尚歯会」に参加し、国内外の情勢を研究。ともに開港論を唱えたために幕府の弾圧を受けた。

 企画展では、崋山が挿絵を担当した長英の飢饉(ききん)対策書「救荒二物考」や、画家としても有名な崋山のスケッチ「囲碁の会」などが展示されている。佐藤玲子館長は「蛮社の獄後の2人の生き方は違うが、目指す所は同じだったことを知ってほしい」と話している。

 月曜休館。入館料は大学生以上200円。【湯浅聖一】



茨城
映画:『桜田門外ノ変』あす封切り ゆかりの地に観光客を 県などパンフ作製 /茨城
◇ロケセットに来訪続々
 幕末の水戸浪士による大老・井伊直弼暗殺事件をテーマにした映画「桜田門外ノ変」(佐藤純弥監督)が16日に全国300館の映画館で公開されるのに合わせ、県全域への観光客誘致の動きが高まっている。映画は地元の市民団体「『桜田門外ノ変』映画化支援の会」が主導し、県内17カ所で撮影。銀幕の中の風景を素材として広範囲で地域活性化を図る計画だ。

 JR東日本は、袋田の滝(大子町)などロケ地8カ所を巡るスタンプラリーの三つ折りパンフレットを6万部作製。首都圏の東京、水戸、大宮支社管内の駅に設置し、鉄道を使った観光を呼びかけている。秋の行楽シーズンと重なり、注目を集めているという。

 県観光物産協会と県は、ロケ地や水戸藩ゆかりの地に郷土料理を組み合わせたモデルコースを掲載した冊子(A5判32ページ)を6000部作り、県内の映画館などで配布する。

 4月から記念展示館に改装された千波湖畔(水戸市)のオープンロケセットへの来訪も封切り前に勢いを増し、今週末までに入場者が15万人を突破する見込みだ。4割が県外からで、福島県など近隣から大型バスを連ねてくる団体客もいる。観光客を案内する「歴史アドバイザー水戸」のメンバー、佐久間庸夫さん(77)は「事件は暴動であり、水戸の者にとってタブーだった。映画によって、当時の浪士たちの国を思う熱い気持ちを全国に伝えたい」と話す。

 国の補助金2500万円を元手に、県や水戸市など全県の支援を得て「支援の会」が発足したのは08年8月。市民向けの歴史や自然の勉強会、撮影に備えた料理教室を行う一方、09年から実際の撮影準備を開始。入場割引券などが付いた映画製作協力鑑賞券(2000円)を約5万セット販売した。

 「支援の会」の谷田部智章事務局次長(37)は、「映画は水戸が中心だが、県内のほかの地域でも勉強会などの自主的な動きが出てきた。上映期間中に多くの人にゆかりの場所に足を運んでもらいたい」と話している。【山崎明子】


群馬
高崎藩英学校 開校140年記念展 群馬
 尾崎行雄、内村鑑三らが学んだ高崎藩英学校が明治3(1870)年に開設されて今年で140年-。文明開化の新しい時代を切り開いた人々と教育の重要性を考える企画展「幕末維新の若者たち」が13日、高崎市上滝町の同市歴史民俗資料館で始まった。
 同校は、西洋の情勢を分析する語学力の習得を目指した当時22歳の知藩事、大河内輝聲(てるな)が創設。教科書として使われた図入り解説書など関連資料約45点を展示している。11月28日まで(月曜休館)、入場無料。問い合わせは同館(電)027・352・1261。



東京
[株式会社阪急阪神ホテルズ]
親子イベント 「古地図を持って、親子で江戸幕末・文明開化を知ろう!」 ~新橋編~

 第一ホテル東京(東京都港区新橋1-2-6 総支配人:西岡省造)では、阪急阪神ホールディングスグループで推進する社会貢献活動「阪急阪神 未来のゆめ・まちプロジェクト」の一環として、「親子イベント~古地図を持って、親子で江戸幕末・文明文化を知ろう~」を、2010年11月20日(土)において開催します。

 江戸から明治・大正・昭和へと歴史の変遷とともに大きく変貌した「新橋」地域について、江戸時代に作成された「古地図」を持って、地図に表記されている場所を探りながら、親子で歴史や史跡を巡ります。また、NPO法人江戸前21 理事長 清田和美さんによるガイド案内やレストランでのデザートをもご用意しております。

【イベント名】 「古地図を持って、親子で江戸幕末・文明開化を知ろう!」

【開催日時】  平成22年11月20日(土) 13:00~15:00

【料  金】  お1人様1,500円

【探索スケジュール】
 (1)虎ノ門御門跡
 (2)文部科学省内の掘割の復原場所
 (3)工部学校跡地
 (4)地図上の掘割を歩く
 (5)幸橋御門跡地
 (6)旧新橋停車場及びプラットホーム
 (7)旧新橋停車場鉄道歴史展示室(11/21まで日光道中-江戸の旅・近代の旅-展示中)
 (8)第一ホテルアネックス トラットリア「ラ・ハ゜ランツア」にて質疑応答など。

【ガ イ ド】  NPO法人江戸前21 理事長 清田和美様

【スケジュール】
  13:00 東京メトロ「虎ノ門」駅 虎の彫刻像前 集合 上記の探索コースをめぐる
  15:00 第一ホテル東京にて質疑応答-ティー・ケーキ提供 解 散

【対 象 者】  大人/小学校4年生~6年生のお子様

【募集人数】  15組30名 

【ご予約方法】 第一ホテル東京公式HPより


社告:葛飾北斎生誕250年記念 「富士と桜」展 長野・小布施の北斎館など /東京
◇長野・小布施の北斎館など3館
 江戸中期から幕末にかけて活躍した絵師、葛飾北斎の生誕250年を記念した特別展「『富士と桜』展-画狂人北斎と中島千波の世界」(北斎館主催、毎日新聞社など共催)が、長野県小布施町の北斎館など3館で11月23日まで開かれています。これを記念して、美術史家の永田生慈さんによる特別講演が16日に、日本画家の中島さんと小説家の高橋克彦さんによる特別対談が11月13日に、いずれも同町の北斎ホール(同町1491の2)で行われます。両日とも先着300人で無料。詳細は次の通りです。

 ▽特別講演「北斎・風景版画の本質-冨嶽三十六景を中心として」10月16日(土)午後2~4時

 ▽特別対談「歴史小説家高橋克彦・日本画家中島千波が語る北斎-江戸と現在」11月13日(土)午後1~4時

 《問い合わせ》北斎館(電話026・247・5206)


神奈川
112年前の日米交友の手紙、ジョン万次郎のひ孫大磯の中濱さんが秘話披露/神奈川
 幕末64件に偶然にも米国に渡って近代文明を学び、帰国後は同郷、土佐藩(現在の高知県)の坂本竜馬や岩崎弥太郎ら英傑に多大な影響をもたらしたといわれるジョン(中濱)万次郎。波乱の生涯を通して日米友好を願い続けた一人だ。万次郎のひ孫で作家の中濱武彦さん(70)=大磯町在住=の手元には代々伝わる一通の手紙がある。送り主は遭難した万次郎を救った捕鯨船船長の息子。「それでは両家にまつわる秘話を教えましょう」―。

◆渡米した初の日本人

 ジョン万次郎の人生はまさに波瀾(はらん)万丈だ。土佐の漁師見習いだった14歳のとき、しけに遭い、太平洋の鳥島に流れ着く。たまたま通りかかった米国捕鯨船のホイットフィールド船長に救われた。家族同様に迎え入れられた万次郎はマサチューセッツ州の私立学校を首席で卒業したといわれる。恵まれた生活だったが、鎖国下にあった祖国を憂い帰国を決意。嘉永4(1851)年、ペリーが開国を迫る2年前、琉球を経て10年ぶりに故郷の地を踏んだ。その後、米国に渡った初の日本人として幕府や藩に登用され、開国や日米友好を訴え続けた。造船、測量、航海などの先進技術や国際情勢も伝え、人材を育て上げる。

 「そんな万次郎が終生忘れなかったのが、ホイットフィールド船長や家族への恩義なんです」。時は明治に移り、新政府の命で、万次郎は通訳として渡米。1870年、公務の合間に同船長が暮らす懐かしの街フェアヘーブンを訪ねた。21年ぶりの再会は万次郎43歳、船長は65歳だった。町民が次々と集まり、お祭り騒ぎになったという。

◆最晩年に託した思い

 そして本題の手紙である。万次郎と同じく海を愛した三男、慶三郎は海軍省経理局の主計大尉になっていた。1898年、米国に初めて出張する際、老父からホイットフィールド家への手紙を託される。最後の再会から28年が過ぎていた。だが、慶三郎が事前に送った手紙には返事がない。約3カ月の滞在も終わりかけたころ、一通の手紙が届く。ホイットフィールド船長の長男マーセラスからだった。そこには郵便の遅配があったこと、父母は亡くなったが生前は万次郎を常に誇りに話していたこと、これを機に両家の友好を深めていきたいことなどがつづられていた。慶三郎はすぐに時間をつくり、米海軍の協力でマーセラスと対面を果たす。

 「このときに私の祖父慶三郎が捜し当てなければ両家は永遠に関係が切れていたかもしれない」。膨大な資料を基に万次郎の生涯を本にまとめてきた中濱さんは、そう感じている。日米が戦火を交える冬の時代も経て、両家の交友は5代にわたり続く。それだけではない。万次郎の故郷土佐清水市とフェアヘーブンは姉妹都市となり、今では短期留学制度も設けられている。「若い世代の異文化交流を残したことが万次郎の一番の功績ではないでしょうか」。中濱さんは曾祖父の冒険譚(たん)を満足そうに語り終えた。


福井
忠直没後350年でシンポ、浮かぶ新人物像 【2000年10月14日】
 暴君のイメージで語られがちな越前二代藩主・松平忠直の没後三百五十年を機に、忠直の復権を図ろうと「松平忠直卿の人間性に光をあてる」と題したシンポジウム(福井新聞社後援)が十四日、福井県福井市のフェニックス・プラザで開かれた。郷土史家らのパネル討論や脚本家・ジェームス三木さんの講演があり、忠直の藩主としての功績や、庶民に慕われた配流先の生活などを紹介、信仰心があつい人情家との人物像を浮かび上がらせた。

 シンポジウムは、同市内の歴史愛好家でつくる「松平忠直卿に光をあてる会」(山本照英会長)と同市歴史ボランティアグループ語り部(河合昭一会長)の主催。山本会長が「忠直の名誉回復を図り、後世に事実を伝えていきたい」とあいさつした。

 パネリストは忠直の配流地、大分市の郷土史家、柴田義弘さん、忠直の供養塔がある鯖江市の長久寺住職、橘照泰さん、同市立郷土歴史博物館学芸員の印牧信明さん、河合会長の四人。福井新聞社の岩永裕介取締役編集・論説担当がコーディネーターを務めた。

 河合会長は「忠直の”乱行”を記した資料は、うわさ話として書かれていることが多く、真相を伝えていない。忠直の家臣にあてた書状は優しさ、いたわりにあふれた文章で、こういう人物が暴虐な振る舞いをするはずがない」と強調。

 柴田さんは、大分では今でも「一伯さま」と慕われているとし、「茶道など文化に通じた教養高い人で、社寺への寄進を繰り返すなど信仰もあつかった。蟄居(ちっきょ)先が一度変えられたのは、幕府の監視人らが忠直の健康を気遣ったから」と話した。

 橘さんは「北陸道の難所だった鯖江市の旧鳥羽野を開拓し、宅地、耕地の無償提供や免税など善政を敷いた」と治績を訴え、印牧さんは大坂の陣の武勲や、幕末40件の福井藩主松平春嶽らによる赦免運動などを紹介した。

 パネル討論に先立ち講演したジェームス三木さんは「歴史をさかのぼることは新たな歴史づくりにつながる。忠直について地元で話し合うのは大切なこと」と話した。



京都
ここで龍馬の葬儀が… 東山霊明神社参道に石碑建立 京都
 坂本龍馬や中岡慎太郎などの葬儀が行われたとされる京都市東山区の霊明神社を広く知ってもらおうと、NPO法人「京都龍馬会」(同市中京区)が同神社の参道に石碑「幕末志士葬送の道」を建立し、13日、除幕式を行った。
 同会は約2年前から、龍馬ゆかりの地に石碑を建てる活動に取り組んでいる。これまでに龍馬の妻、お龍の実家跡(中京区)、龍馬とお龍が挙式した会場跡(東山区)などに建立し、今回が4カ所目。
 除幕式には約30人が参加した。石碑の文面を考えたNPO法人「京都歴史地理同考会」の中村武生理事長があいさつ。龍馬らの葬儀が霊明社(現霊明神社)で行われ、龍馬らの墓が東山招魂社(現京都霊山護国神社)で管理されるようになる前には霊明社所有地にあったとされることに触れ、「多くの龍馬ファンに、葬送の行われた参道や霊明神社を知ってほしい」などと話した。
 石碑は高さ約1メートル。龍馬らの墓が霊明神社から京都霊山護国神社に移された経緯などが書かれている。
 「京都龍馬会」の赤尾博章理事長(58)は「石碑を建てることで、正しい史実をより広く認知してもらえれば」と話している。


和歌山
たいまつで高める防災意識 16日に稲むらの火祭り
 わらに火を放って津波の襲来を住民に知らせたと伝えられる幕末から明治時代初めの実業家・政治家、浜口梧陵をたたえる「稲むらの火祭り」が16日夕、浜口の出身地の広川町で催される。町などでつくる実行委員会は、たいまつを持って町内1.7キロを歩く参加者を募っている。

 安政南海地震(1854年)が発生したとき、暗闇の中で津波に気づいた浜口は、たいまつでわらの束に火をつけて住民たちを高台へ導いたとされる。その後に大規模な堤防の築造を手がけた浜口の志を受け継ぎ、防災意識を高める催し。

 行列は午後6時にたいまつに点火し、町役場前の「稲むらの火広場」から1.7キロ離れた広八幡神社まで40分かけて歩く。たいまつは主催者が用意する。先着順。小学生以下(保護者同伴)は、たいまつの代わりに懐中電灯を持つ。申し込みは町民会館(0737・63・2295)へ。



広島
幕末の歴史ドラマ絵画で紹介<動画あり>
 広島県立歴史博物館の秋の企画展「幕末の動乱と瀬戸内海」(中国新聞備後本社共催)が15日、福山市西町の同館で始まった。明治維新へつながる幕末の歴史ドラマを広島、福山両藩の視点でたどる。11月23日まで。

 111点の文書や絵画を紹介する。1868年の鳥羽・伏見の戦いの直後、徳川幕府の譜代大名だった福山藩を倒幕派の長州藩が攻撃した際の和平交渉の記録は初公開となる。

 第2次長州征討で紀州藩が広島城から江波まで行軍する光景を伝える絵巻、坂本竜馬が最後に土佐へ帰郷した際に乗った広島藩船・震天丸の絵図などもあり、軍備を増強した幕末の緊張感を伝える。

 一般700円、高校、大学生520円、小中学生350円。月曜日休館。


幕末の和平交渉記した古文書
 幕末の鳥羽・伏見の戦いで圧勝した新政府軍の長州藩が、徳川幕府の譜代大名だった福山藩を攻めた1868(慶応4)年1月の戦いで、両藩の和平交渉のやりとりを記した古文書が見つかった。交渉での発言内容を詳しく伝える記録が確認されたのは初めて。

 古文書は和紙7枚をつなぎ、縦23・5センチ、長さ231・9センチ。両藩の発言を「福山言」「長人言」と台本のように記し、やりとりを生々しく伝える。

 福山藩が「徳川が朝廷の敵になったとは聞いていない」と訴えると、長州藩は「朝敵同然の徳川譜代の家へは通達がなかったのだ」と応じ、正当性を互いに主張。福山藩は「戦う力はない。戦いはお断り」とし、長州藩も「天皇は無益な戦いをしないのが国のためと申されており、長州藩と福山藩は国を思う心で同じ」と収拾する。署名はない。

 鳥羽・伏見の戦いから3日後、長州藩が福山城の北側から攻め入り、現在の備後護国神社一帯で銃撃戦となった。福山藩が朝廷への恭順を示したため、当日終結した。

 福山藩士の子孫の男性が5年前に福山市の実家で古文書を発見。同市の広島県立歴史博物館が鑑定した。15日から始まる企画展で初めて公開する。西村直城主任学芸員は「時代の波に翻弄(ほんろう)された福山藩の苦悩が読み取れる。幕末の郷土史に光を当てる貴重な史料だ」と話している。

【写真説明】和平交渉の内容を記録した古文書を解説する西村主任学芸員(撮影・増田智彦)



長崎
大浦慶所有の龍馬ら写真を初公開 17日まで長崎歴文博
 幕末の長崎で活躍した女性商人・大浦慶が持っていたとされる坂本龍馬の写真が15日、長崎歴史文化博物館(長崎市立山1丁目)で開催中の「実録・坂本龍馬展」(長崎新聞社、NHK長崎放送局主催)で公開された。公開は17日までの3日間限定。
 この写真は、大浦慶の縁者に当たる長崎市在住の個人が保管。昨年存在が明らかになり、県はことし8月、同時期に撮影されたとみられる洋装の男性の写真と合わせて250万円で購入。今回初めて公開した。
 2枚はいずれも名刺サイズ。龍馬の写真は、長府藩士三吉慎蔵が龍馬から譲り受けた写真と同じ構図で、体を左に向けて座っている。三吉家所蔵の写真に比べ画像がややぼやけており、長崎歴文博は龍馬暗殺翌年の1868年ごろに複写されたものとみている。洋装の男性は、類似の格好をした写真が残されている海援隊士沢村惣之丞の可能性があるという。
 観覧した山口県下関市の会社員、植杉祐哉さん(31)は「長崎で新たに龍馬の写真が見つかったとは知らなかった。龍馬ファンなので本物の写真を見て感動した」と話した。


長崎日米協会:会長に上田氏 鈴木氏は顧問に /長崎
 長崎日米協会の通常総会が12日、長崎市であり、NBC長崎放送の上田良樹社長を新会長などとする役員人事が了承された。前会長の鈴木一郎・鈴木商店社長は顧問となった。

 この日の総会では、今年度の事業計画案なども提案され、長崎出身で幕末に通訳として活躍した森山栄之助の記念碑建立に向け、長崎南ロータリークラブと連携する方針などが確認された。

 上田会長は「日米関係の安定が非常に大切だと思っている。私のできる限りの努力をしたい」などと語った。


熊本
屏風が変色 熊本市現代美術館で
 熊本市現代美術館は10月12日、屏風5点の変色について報告書をまとめた。変色したのは幕末の絵師金蔵(通称絵金)の屏風で、展示施設「絵金蔵」(高知県香南市)から借り受けたもの。
館は、防虫処理用薬剤について同美術館側の知識不足が原因だったとしている。



文化芸能
正面から幕末を描く気概 佐藤純弥監督「桜田門外ノ変」
 近頃の大河ドラマは随分ヤワになった。権力闘争より愛と友情に、主人公の強さより格好良さに重点を置くようになった。俳優のいでたちは現代的になり、偉人が今どきのイケメンにしか見えない。

 その点、佐藤純弥監督の新作は、幕末の大事件を正面から見据えている。まだオヤジのものであった往年の大河ドラマをほうふつとさせる。

 1860年、大老井伊直弼が江戸城桜田門外で水戸藩士らに襲われて絶命する。井伊の開国政策に対し、水戸藩主だった攘夷(じょうい)派の徳川斉昭の一派が弾圧を受けたためだ。映画は、襲撃に参加した関鉄之介(大沢たかお)を中心に、彼らが井伊殺害を決意する経緯から、次々捕縛されて刑に処せられていくまでを描く。

 しかしまあ古色蒼然(そうぜん)としている。侍はあくまで武骨に。女はあくまで控えめに。一種のアナクロニズムだが、現代的な発想や美意識を排する姿勢には共感を覚える。

 井伊暗殺に呼応して、薩摩藩が3千の兵を京都に送り込む手はずになっていた。ところが薩摩はいくら待っても挙兵しない。その間に暗殺実行者は追いつめられていく。このあたり、歴史のダイナミズムに満ちている。これは時代劇というより歴史劇である。

 ただし、大河ではありえないことをこの映画はやっている。襲撃場面で一面の雪景色におびただしい血が流れる。そして井伊の生首が掲げられる。テレビでは出来ない、映画ならではの場面である。

 茨城県の地域振興を図るための映画だという。確かに水戸藩士の純粋な心は痛いほど伝わる。しかし襲撃現場の鮮血と生首が、事の本質がテロリズムに他ならないことを無言で教える。そこには、地域振興を離れ、正義とテロの密接な関係を問いただす作り手の気概がある。(石飛徳樹)

 16日から全国公開。


コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(83)東大教授・山内昌之 高杉晋作(下) 主権損なう譲歩許さず
 高杉晋作は彦島を租借地に望んだ外国人の講和要求を断固斥(しりぞ)けたという説がある。司馬遼太郎の『世に棲(す)む日日』で有名になった逸話だ。英国のキューパー提督が賠償に加えて彦島の租借を要求した時、高杉はイザナギとイザナミの2神が日本国を創り、その子たる天照大神(あまてらすおおみかみ)こそ高天原(たかまがはら)を治め、天孫降臨によって世々その子孫が国を統治してきたと歴史神話を説いた。彦島の移譲などもってのほかというわけだ。
 キューパーを煙に巻いた話は、交渉の通訳を務めた伊藤俊輔(のちの博文)の回顧によっている(『伊藤博文伝』上巻、原書房)。高杉の拒絶にあった外国人が租借地要求に固執しなかったのは、どの国が彦島を管理するのかについて、足並みが乱れたからだという。しかし、伊藤の証言する事実は他の史料に見当たらず信憑(しんぴょう)性に疑問符も付ける人も多い。
租借地要求拒絶の信憑性
 とはいえ、彦島の担保(保障)占領という考えが4国の外交代表団にあったのは事実である。下関遠征の賠償金を長州藩に完済させるまで、そして海峡沿岸地が徳川将軍か代理人の所有に帰すまで、担保として占領するという構想にほかならない。公使団が各指揮官に交付した覚書(訓令)には、担保占領を要請する条項が入っていた。
 ところで史上有名な担保占領は、1923年にフランスとベルギーによるドイツの賠償支払い遅滞を理由としたルールの占領であろう。これは24年のドーズ案実施により解除されたが、もし彦島が占領されていれば、期間はルールの場合よりも長期化した可能性が高い。
 キューパーは日本にとって幸いなことに、ともすれば長州藩の完全屈服を狙ったオールコックと違い、手持ちの兵力では長州藩領を「永久には」占領できないと考えるリアリストであった。彼が彦島の担保占領に消極的だった点はサトウの日記や回想録からも知られる。キューパー自身も現有兵力での占領は得策でないと海軍省に報告を送っていた。それでも彼は、4国の一部艦船を残して関門海峡を監視する案を温めており、砲台建設の断念や講和の実現に向けて圧力を慎重にかける強硬策までを断念したわけでない。
香港、上海の現実見通す
 いずれにせよ、高杉晋作が宍戸刑馬と名乗り華々しくキューパーの領土割譲要求を斥(しりぞ)けたという事実は、キューパーやサトウらの証言からは確認されない。かといって、伊藤博文の言説が全否定されるべきだとは言えない。「不都合なこと」を外交記録に留(とど)めない場合もあるのだし、非公式な打診や威嚇を高杉が断乎(だんこ)拒絶した可能性も否定できない。
 高杉は、彦島を譲れば香港島のように英国の植民地になる危険性をよく察知し、下関が九龍のように外国や買弁の商人が跋扈(ばっこ)し独立主権を限りなく奪われることを見通せたからだ。
 なぜなら、高杉は文久2(1862)年に、阿片(あへん)戦争の南京条約で開港した上海の悲惨な現実をつぶさに見る機会があったからだ。彼は、上海が英仏の「属地」のようになり、中国人が頤使(いし)される現実に衝撃を受けていた。「支那人は尽(ことごと)く外国人の便役となり、英法(イギリスとフランス)の人街市を歩行すれば、清人皆避けて傍(かたわら)に道を譲る、実に上海の地は支那に属すと雖(いえど)も、英仏の属地と謂(い)ふもまた可なり」(「遊清五録」より)。日本人も中国を見舞った悲運に陥らないとも限らない。事件の本質は「支那の事にあらざるなり」というのである。
 高杉が第3回談判で強硬策を貫いたのは、あからさまな割譲要求でなくても、藩の主権を損なう領土への野心をキューパーらに感じたからかもしれない。そこで高杉は、藩士のなかには身命を賭(と)すことを意に介さぬ者も多く、士気も衰えていないと逆に4国艦隊の指揮官たちを恫喝(どうかつ)した。
 確かに、要求があまりにも法外ならば長州が屈服するよりも戦うという見立てはサトウの分析でもあった(萩原延壽『遠い崖2 薩英戦争』)。
 中国が今度の尖閣事案で日本を脅迫した手口は、パーマストン首相やオールコック公使の幕末砲艦外交の手口に酷似している。パーマストンは外相として阿片戦争を仕切り、日本を離れたオールコックは中国公使として“活躍”した。中国は自らを植民地化した英国の手口を外交史からよく学び、日本は高杉の勇気ある経験を生きた教訓とする意欲を失って久しい。
 菅直人首相は高杉贔屓(ひいき)を自負しながら、歴史哲学を政治外交の血肉としていない点で、歴史をいつも武器とする中国の攻勢にやすやすと屈してしまったのである。(やまうち まさゆき)






 ここしばらく、落語ライブの後の書き込みが優先で(脳内メモリが超短期でしか保たないもんで……)幕末ニュースはやや遅れがちですが、相変わらず土方さんラブでございます。『薄桜鬼 京都回想録』再生中^_^;。

宮城
幕末の東北、語り合おう 11日、仙台文学館
 東北の幕末を語り合う「トークライブ 幕末の仙台を語ろう 龍馬の時代のみちのく事情」が11日、仙台市青葉区の仙台文学館で開かれる。
 幕末に遣米使節団として世界一周をした仙台藩士・玉虫左太夫の子孫の山本三郎さん(仙台市青葉区)、作家の甲斐原康さん(若林区)、歴史作家の星亮一さん(郡山市)が話し合う。左太夫の生涯や新撰組の土方歳三が仙台に立ち寄り北海道に渡る歩みを語る。
 仙台市の出版社「荒蝦夷(あらえみし)」の主催。荒蝦夷の千葉由香さん(46)=宮城野区=は「幕末といえば坂本竜馬ら維新志士が有名だが、東北で活躍した人も知ってほしい」と話している。午後2~4時。入場無料。定員90人で要予約。連絡先は荒蝦夷022(298)8455。


東京
武州下原刀 八王子ゆかりの刀剣類48点を展示 福生市郷土資料室で9日から
 福生市郷土資料室(同市熊川、市立中央図書館内)は市制四十周年を記念し、九日から特別展示「武州下原刀(したはらとう)展II」を開催する。
 武州下原刀は室町時代末ごろから幕末にかけて、現在の八王子を拠点とした刀工集団「下原鍛冶」が製作した刀剣類。戦後、日本軍の武装解除の一環として連合国軍総司令部(GHQ)が各地で刀剣類を接収したが、その後に返還されたもののうち、一九九九年に文化庁から福生市に、下原刀を含む九十七点が無償譲与された。
 郷土資料室は譲与後に一度、展覧会を開いたが、今回はその第二弾として、研磨・修理などを終えた刀や脇指、槍など四十八点と、関連書物などを展示する。会期は十二月五日まで、月曜休館(祝祭日の場合は火曜休館)。入場無料。
 関連行事として、十月十六日午後二時から、中央図書館二階学習室で記念講演会「大石・後北条・徳川家の抱え工としての下原鍛冶」を開く。先着八十人。参加希望者は郷土資料室=電042(530)1120=に申し込む。
 同十日には多摩川で砂鉄集め、三十日には刀剣研磨の実演も行われる。


神奈川
横須賀沖に大量の砲弾?…ペリー艦隊投げ捨てか
 米海軍・ペリー艦隊の帆船が幕末、横須賀沖で座礁し、海に大量の砲弾を投げ捨てた――。

 神奈川県小田原市国府津の郷土史家、奥津弘高さん(59)が、米ワシントンの国立公文書館に残る同艦隊の航海日誌などに、こんな記述があるのを確認した。

 船を軽くして離礁するための苦肉の策とみられ、専門家は「日本船に助けられては威厳を損なうと判断したのでは」と分析している。

 同公文書館に残る航海日誌に、同艦隊の帆船マセドニアン号が1854年2月11日(嘉永7年1月14日)午後1時40分に座礁し、翌12日、船員が「砲弾を投げ捨てた」との記録がある。また、ニューヨーク公共図書館にある同艦隊の僚船の船員日記にも、座礁したマ号から「数百発の砲弾が海に投げ捨てられた」と記されていた。

 艦隊を率いるペリーにとって、当時、開国を果たせるかどうかの重要な局面だった。研究者の間では、マ号は僚船の助けを借りて座礁を切り抜けたことになっているが、座礁時に砲弾を捨てたという米側の記録が判明するのは初めて。

静岡
幕末の激動映す浮世絵77点公開 県立中央図書館
県立中央図書館は10日まで、収蔵品77点を公開する「幕末から明治の浮世絵展」を静岡市駿河区の同館展示室で開いている。幕末の激動を映した風俗画、躍動感ある役者絵などが並ぶ。
 展示作品は1936年、静岡市に住んでいた陸軍軍人の故上村順太郎さんから寄贈された「上村翁旧蔵浮世絵集」5100枚の一部。国民読書年にちなんだ事業の一環で、普段は閲覧できない浮世絵の名品を公開している。
 幕末から明治期に活躍した浮世絵師5人の作品が中心。大胆な構図で化け猫を描いた歌川国芳の「白須賀十右衛門と猫石の怪」や、月に関する逸話を題材にした月岡芳年の「月百姿」シリーズなどが存在感を放っている。


福井
橋本左内の遺徳しのび住民献花 福井で墓前祭
幕末に活躍した福井藩士で、25歳の若さで処刑された橋本左内の遺徳をしのぶ墓前祭が7日、福井市左内町の左内公園で営まれた。

 福井市民でつくる顕彰会が毎年開いており、左内が処刑された日に合わせて行っている。地元の足羽小6年生や住民ら約150人が出席した。

 法要は公園内にある墓前で行われた。地元住民が献花と献茶をし、読経の中、一人一人焼香し手を合わせた。続いて開かれた式典では、児童が左内をたたえる歌をささげた。左内が獄中で詠んだ歌も市民により吟じられた。


コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(82)「菅首相は尊敬する高杉晋作から決心と胆力を学んだのだろうか」 東大教授・山内昌之 高杉晋作(上) 
砲艦外交への対抗術
 「ごまめの歯軋(はぎし)り」という言葉がある。力のない者がいたずらにいきりたつことを意味する。中国は、尖閣諸島の海域や日中中間線で挑発を繰り返しながら、日本の反応をせいぜい「ごまめの歯軋り」にすぎないと高をくくっているのだろうか。中国の行為は砲艦外交につながる危険な挑発にほかならない。日本はアメリカ依存の気楽な外交安保政策を続けてきたせいか、国家のあり方を現実的に考えない人が政治家の中にも多い。
 その結果、人間なら当然もつ恥や屈辱という感情を忘れた人もいるようだ。さて、尖閣危機が進行し同胞が中国当局に拘束されている時、菅直人首相はいかなる気分で大相撲9月場所の千秋楽に姿を現したのだろうか。ハレの日ならいざ知らず、日本の主権と国民の安全が危険にさらされている瞬間、妙な笑いを浮かべて土俵に上がった首相に、国技館の観客から相当に厳しい野次(やじ)が飛んだ。各社調査の首相支持率急降下にも見られるように、良識ある国民は「ごまめの歯軋り」にも通じる怒りと無力感に苛(さいな)まれたのではないだろうか。
 菅首相はどうやら高杉晋作を尊敬しているらしい。しかし首相は、国の危機に発揮すべき決心と胆力を本当に高杉から学んだのだろうか。
 高杉に限らず幕末の長州人最大の危機は、元治元(1864)年に第1次幕長戦争と4国艦隊の下関砲撃の試練を同時に迎えたことだ。
  
意表を衝きハッタリも
 英仏蘭米の連合艦隊は、長州の攘夷(じょうい)断行への報復として下関砲台を攻撃した。英国公使オールコックは長州藩の本拠たる萩や山口の攻撃も念頭に置いており、「一撃」に留(とど)めて作戦の限定を図ったとは到底言えない。最近の保谷徹氏の研究でも確認されたように、本国のラッセル外相はオールコックの冒険主義に批判的であった(『幕末日本と対外戦争の危機』吉川弘文館)。
艦隊のアームストロング砲と長州の青銅製滑腔砲(かっこうほう)では勝負にならない。4国陸戦隊のライフル(施条銃)と長州藩の滑腔銃の性能にも天と地の差があった。事実、長州の負けっぷりは潔いほどだった。8月8日の第1回講和談判に姿を現した全権使節の宍戸刑馬(ししど・ぎょうま)は、素直に敗北を認めて講和を望んだ。家老宍戸備前の養子とは真っ赤な偽り、その実、正体は高杉晋作にほかならない。首席家老は「えらいひと」(The Great Man)なので外国人も納得するはずだという高杉らしい茶目っ気や人をくった諧謔(かいぎゃく)心があったのかもしれない。礼服の大紋や「黒い絹の帽子」に身を固め純白の下着も見事だったと、英国公使館の通訳アーネスト・サトウは日記に書き留めた(萩原延壽著『遠い崖2 薩英戦争』朝日文庫)。
 外交は意表を衝(つ)く駆け引きの応酬でもある。高杉は虚仮威(こけおど)しのハッタリも忘れないのだ。尖閣の不法行為を正当化する中国の虚実交えた攻勢は、虚とハッタリの部分をよく弁(わきま)えて対応すれば、菅政権もあれほど周章狼狽(ろうばい)しなくてすんだはずだ。
  
弁明押し通す度胸
 意表を衝かれたのは4国の指揮官たちである。高杉の姿は西欧人たちにも威圧感を与えた。「艦上に足を踏み入れたとき、かれは悪魔のように傲然(ごうぜん)としていた」というのだ。しかし彼が、その後に「おどろくほど態度をかえ」るのは、攘夷派のリーダーとはいえ政治リアリズムの洞察力に恵まれていたことを意味する。
 もちろん練達の英国外交官サトウは何やら胡散(うさん)臭い気分を醸しだす正使に不審を感じ、武鑑をひもとき宍戸刑馬の養父宍戸備前なる人物が見当たらないと、刑馬が来ない2回目の談判時に問いただした。父の名前を間違うとは養子にしてもおかしいという英国側の言い分は笑える。
2回目の長州藩の使節は、宍戸美濃は備前と改名、引退して家督を刑馬に譲ったのだから少しも妙でないと、これも人を食った弁明ぶりなのだ。高杉たちの図太(ずぶと)さと度胸は砲艦外交に直面しても変わらず、それは舞台となった彦島をめぐる領土割譲の「逸話」に関連しても発揮された形跡がある。(やまうち まさゆき)
                   ◇
【プロフィル】高杉晋作
 たかすぎ・しんさく 天保10(1839)年、長州(山口県)萩生まれ。藩校明倫館、吉田松陰の松下村塾に学び、英才として知られた。文久2(1862)年、藩命で上海に渡り、太平天国の乱を目撃して危機感を深める。帰国後、英国公使館焼き討ちや奇兵隊の創設など尊皇攘夷運動に奔走。藩論を倒幕に統一し、慶応2(1866)年の第2次長州征討では幕府軍を各地で破るが、肺結核に倒れ翌3年死去。27歳だった。
●=魚へんに單



文学
佐藤賢一さん:長編小説『新徴組』刊行 沖田総司の義兄と庄内藩の重役描く
◇敗者から見据える幕末
 佐藤賢一さんの長編小説『新徴組』(新潮社・2100円)が刊行された。幕末を敗者の側から描きながら、しかも時代が新しく開かれていく明るさを漂わせる力作だ。佐藤さんに新作への思いを語ってもらった。【重里徹也】

 西洋歴史小説のパイオニアとして知られている佐藤さんが日本史に挑むのは2度目だ。前の『女信長』(毎日新聞社)では、織田信長が女性だったという奇想を軸にして戦国時代を読み換えた。「次は幕末をやりたい」とずっと考えていたという。「戊辰(ぼしん)戦争には故郷の庄内地方が深くかかわっているんですね。これを書くとっかかりを探していました」

 そんな折、山形県庄内町にある清河八郎記念館を訪れ、新徴組に沖田総司の義兄の沖田林太郎がいたことを知った。清河は尊皇の志士で、幕府の浪士組結成に参加。やがて、浪士組は京に残った新選組と江戸に帰った新徴組に分かれる。新徴組は江戸の治安や警備にあたることになり、庄内藩預かりとなる。

 今作は、この新徴組の沖田林太郎と、庄内藩の若手重役の酒井吉之丞を中心に、江戸から庄内へと舞台を移しながら、幕末・維新の激動期を描いている。

 「酒井吉之丞は藩の重臣の家に生まれ、神童と呼ばれた人物です。戦が天才的にうまく、結核のために早く亡くなったこともあって、一種、伝説的な男です。ローカルでは人気のあるキャラクターを、何とかメジャーにできないかと考えました」

 林太郎と吉之丞の内面が深く描かれる。林太郎については、妻の弟である総司との葛藤(かっとう)や、息子との関係に力点が置かれる。イデオロギーや志よりも家族を大事にしながら、運命に流され、薩長と戦わざるをえなくなった姿が妙に温かい。一方、吉之丞は血を吐きながら、最新の設備を持ち、西洋の近代的な訓練で鍛えられた強い軍隊をつくり上げる。そして、筋を通しつつ、庄内の人々にとって幸福な道を探る。

 「初めにこういう人物にしようというのがはっきりとあるわけではなく、書き進めるうちにキャラクターができ上がっていきます。一人一人の心の動きを丁寧に追いながら、その積み重ねが歴史になっていくような小説を書きたいと思っています」

 さまざまな権謀術数が渦巻く政治情勢の中で、西郷隆盛の寛大な措置によって、庄内は救われる。「西郷の度量の広さなのか、したたかなクレバーさなのか。巨大な人物で、今後もじっくりと考えたい課題です」。近藤勇や土方歳三が登場するのも楽しい。

 現在、フランス革命を描く大長編を執筆している。ヨーロッパを舞台にするのに比べて、地元の歴史を描くのは、土地勘があって取材はしやすいし、史料は豊富だし、やりやすい面が少なくなかったという。

 『新徴組』の中では、庄内藩の人々は<頑固だが、頑迷ではない>という言葉が特に印象的だった。「人物たちを歴史の中で泳がせているうちに、おのずと土地の持つ風土性も立ち現れてくると思うのですね。無理に人格をつくるのではなく、歴史の実像を示すことで、この土地の人々の姿が浮き彫りになればいいと思い、書き続けました」

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 ■人物略歴

 ◇さとう・けんいち
 1968年、山形県鶴岡市生まれ。代表作に『王妃の離婚』(直木賞)、『二人のガスコン』など。現在、全12巻の『小説フランス革命』が刊行中。同市在住。

 佐藤賢一はフランスを中心とした西洋史を舞台にした作品が多いんだけど、初期作品には『ジャガーになった男』とか日本史を題材にした作品もある。戊辰戦争で西軍に敢闘した庄内藩を題材にしたフィクションだし、読んでみたいな。

エンターテインメント
黒乃奈々絵「ピスメ鐵」6巻発売、京都&渋谷でサイン会
黒乃奈々絵「PEACE MAKER 鐵」の5年ぶりとなる単行本6巻が11月10日に発売となる。これを記念し、11月14日にアニメイト京都で、11月20日にSHIBUYA TSUTAYAにてサイン会が開催される。

サイン会に参加するための整理券配布方法は会場によって異なる。アニメイト京都では「PEACE MAKER 鐵」6巻通常版を全額内金にて予約した人に先着順で配布中。限定版は対象外となる。一方SHIBUYA TSUTAYAでは、発売日の11月10日午前10時より「PEACE MAKER 鐵」6巻限定版を購入した先着120名に配布。電話での予約は関東地方以外の遠方の人のみ受け付けるとのこと。

「PEACE MAKER 鐵」は、両親の仇を討つため新撰組に入隊した少年の活躍を描いた「新撰組異聞 PEACE MAKER」の続編。月刊コミックブレイド(マッグガーデン)にて連載されていたが2005年より休載。2009年秋より携帯コミックサイト「ブレイドα」にて連載を再開している。

なお同日発売となる6巻限定版には、オリジナルドラマCDが付属。キャストはアニメ版と同じで、アニメイト限定版にはボーナストラックとしてキャストトークも収録される。

黒乃奈々絵サイン会

日時:2010年11月14日(日) 13:00 / 14:30
場所:アニメイト京都

日時:2010年11月20日(土) 13:00
場所:SHIBUYA TSUTAYA

 お、あの油小路の続きが読めるんだ。

日曜劇場『JIN-仁-』がカンヌMIPCOMバイヤーズ・アワード受賞!
現在、世界的な国際テレビ番組見本市MIPCOM(ミプコム)が開催されているフランス・カンヌで、昨年10月に放送されたTBSの日曜劇場『JIN-仁-』(2009年10月11日~12月20日毎週日曜よる9時)が、カンヌMIPCOM・バイヤーズ・アワードに輝いた。

カンヌMIPCOM・バイヤーズ・アワード(MIPCOM Buyers Award for Japanese Drama)は、国際見本市を運営するリードミデム社が、国際ドラマフェスティバル・イン・東京との連携で主催。フランスなど欧州各国やオーストラリア、UAEなど12ヶ国からの審査員が、民放各局のエントリー作品から「世界各国の番組を購入するバイヤーが最も買いたい日本ドラマ」を試写の上、項目別に審査、最も高い総合点を獲得した作品に贈られる賞。カンヌで行われた審査会では『JIN-仁-』について、医者が「サムライ」時代にタイム・スリップするという日本的コンセプトや、現代と江戸時代の丁寧な描写が高く評価された。

授賞式は、見本市初日のオープニング・パーティーで行われ、各局エントリー作品紹介後、受賞作の発表があり、受賞したTBS関係者に記念の楯が贈られた。登壇しスピーチを行ったTBSテレビ・新田良一メディアビジネス局長は「このような素晴らしい賞を頂き感謝している。このドラマは医師である主人公がタイム・スリップする物語だが、医療技術のレベルに差はあってもいつの時代も"人間の愛"は変わらないというのが大きなテーマ。番組というものは国境・民族・宗教を超えてお互いを理解するのに大きな役割を果たしていると思うが、『JIN-仁-』を世界中の皆さんにご覧頂き、この"愛"を感じていただけるよう心から祈っている」と挨拶し会場の喝采をあびた。

『JIN-仁-』はこれまでに国内外で25以上の賞を受賞しており、先月行われたソウルドラマ賞ミニシリーズ部門・優秀作品賞に続いての快挙。
『JIN-仁-』は幕末の江戸へタイム・スリップしてしまった脳外科医・南方仁が満足な医療器具も薬もない環境で人々の命を救っていき、その医術を通して坂本龍馬、勝海舟、緒方洪庵ら幕末の英雄たちと交流を深め、いつしか自らも歴史の渦の中に巻き込まれていくという超歴史スペクタクル&SFヒューマンエンタテインメント。村上もとか原作で集英社「スーパージャンプ」に掲載されている。

TBSは海外への番組販売に40年間にわたり積極的に取り組んでおり、これまでに数百タイトル、数千話に及ぶTBSの良質なドラマやアニメ、バラエティー番組などを、累計で世界120ヶ国以上に販売している。すでに『JIN-仁-』も全世界的に販売しており、TBSは放送局としてだけでなく「コンテンツ・プロバイダー」としても世界におけるプレゼンスを増している。





 「紅葉坂の佐平次」の次の談春、何たって大ネタの「九州吹き戻し」。開幕早々に出囃子の「鞍馬」、今日もまた前座なしで長講二席ですね。

 「まさか予備知識なしで来たとか、今日が初談春なんてお客様はいないですよね。疲れたらいつでも帰れるように、客席を暗くしておきましたから」と軽口。

 談春さんにしてはちょっと長めのマクラ。

 「九州吹き戻し」はネタおろしが家元が楽屋にいる高座だったとか(CDに収録されているアレでしょうか)。家元が「あいつ何やってんの」前座「九州吹き戻しです」家元「えええっ」みたいな舞台裏だったとか。でも今日は言わなかったけど、家元のお墨付きがCDに収録されているんですよね。

 3年に一回ぐらいかけているネタだけど、かける場所を選ぶ。地方で「九州吹き戻し」かけて慣れないお客さんをげっそりさせるわけにもいかない。で、にぎわい座にしたけど、てっきり来月だと思っていた。あわてて昨日一日でさらったので、間違えるかも知れない、と。いやいや、こういう追い詰められた時の談春師こそ、勝負強さが出ると思うんですよ。むしろ期待しちゃう(笑)。

 さらに小ネタ。談春さんが談志家元のピンチヒッターで頼まれて、鶴瓶さんと市馬さんと三人会に出た。どういう順番にするか、じゃんけんで決めて、自分が前座さんの次に出て「お札はがし」をかけた。楽屋の鶴瓶さん、「じゃんけんで勝っておいて、トリがかけるような噺をやる奴があるかいな」みたいな。さらに、談春さんの前座たちに、談春さんの何の噺を聞いて弟子入りする気になったか聴いてみた。こはるちゃん「九州吹き戻しです」(すごっ)。春樹くん「包丁(とか何とか、難しいネタだった)」春太くん「慶安太平記です」……と、談春一門は大ネタばかり。市馬さんのとこの市楽さん「……牛ほめです」(笑)。さらに、鶴瓶師匠の前座さん「……やさしさ」って、落語ネタかいな? と、長めな助走。「始めてしまうと、引き返せなくなるから」みたいなことを何度か言ってましたね、今日の談春師匠は。




 で、19時5分ぐらいから始まった「九州吹き戻し」が中入りに入ったのが20時10分頃(計算上は65分)。15分の休憩を挟んで20時25分から始めたのが、何と「宿屋の仇討ち」。はねたのが21時15分で、談春さん「遅くなってごめんなさい」と観客に頭を下げた……って、二本目も50分の長講じゃないですか、いったいどんだけタフなんですか談春師匠はっ(汗)。

落語あらすじ千字寄席 九州吹き戻し


 「九州吹き戻し」、CDで何回か聴いてますが、素人ながら「こなれてる〜」と思いました。肥後で江戸屋に拾われて八面六臂の活躍を始める「北里〈きたり〉喜之助」を「肥後のいのどん」と表現し、「へ〜い!」と居残り佐平次のサービスをしたり。「紅葉坂の佐平次」がいまだに記憶に残る自分には、とっても嬉しいサービスでした。

 途中で脱線気味に『赤めだか』のドラマ化や映画化を全部断ったというエピソードを語ったり。脚本家が本来やるべきプロットの構想をしない原作付きのドラマ化は楽し過ぎで受け容れられないという談春さんらしい断り方とか。好きな役者を出していいと言われても、家元に役所広司とか中井貴一とかは違うと思う、中村屋とか志の輔兄さんとか思ったけど急がし過ぎて無理だと思ったって……志の輔さんが談志家元を演じるのを、ちょっと見たかったかも(志の輔さんが過労で死ぬから無理・苦笑)。

 それにしても、すごい長編。

 江戸のちょっとした商家の若旦那に生まれた喜之助が遊び上手で、誘われているうちに両親の残した財産を使い尽くし、借金を踏み倒して江戸を出奔し、わずかに残った金を元手に日本全国を旅して回り、金が尽きたのが肥後の熊本。そこで懐かしい「江戸」屋の提灯が目に入って、無銭飲食覚悟で飛び込み、翌朝挨拶に来た主人が江戸時代に顔見知りだったとわかる。ここまでで3分の1ぐらい。

 そこからは心を入れ替えて働き始めた喜之助が、調理はもちろん、幇間さながらに座を持ち上げ、三味線を弾いたり歌ったり、掛け取りもすれば、昼間は子供たちに手習いや三味線を教えたりと、一生懸命働いて「肥後の文化人」に仲間入りしてしまう。3年で給金以外に100両の心付けがたまり、江戸屋の主人がもう100両がんばってためたら肥後に店を持て、暖簾分けしてやるから親戚づきあいしよう、と破格の待遇。ところが、100両の金を得て、江戸にも戻れる、義理の悪い借金も返せるとわかった途端に江戸への里心が募り、江戸に帰りたくてたまらない。親方の背中を流す時もはばかりに行く時も「江戸」を思い出させる有様で、江戸屋の主人もあきらめ、奉加帳を回して20両を集めてくれた上に、路銀の足しにと5両を差し出してくれた。これらの人々の気持ちをありがたく思うものの、江戸が恋しい喜之助は出発前日から気もそぞろで、旅支度も調えて、思いあまって夜中に江戸屋を旅立つ始末。ここまでで3分の2。

 肥後の城下を通り過ぎ、灯りを見つけて立ち寄ったのが江戸行きの大きな荷船のたまり場で、水夫〈かこ〉たちと意気投合し、彼らが船頭とかけあってくれたおかげで船にこっそり乗り込むことができた。ところが、その船が大時化に遭い、すさまじい暴風雨……砂浜に打ち上げられ、助かったと思ったら目の前に見えるのは桜島。肥後から江戸に向かっていた喜之助、江戸に急ぐ余りに大時化に吹き戻されて鹿児島へ。そこから肥後に戻って江戸屋に駆け込んだ始末。

 それだけ命がけの大冒険をしたんだ、大した話だと言ってくれる江戸屋の主人に喜之助が返す一言がオチなのだけど、ほんとスペクタクルな話ですよね。特に、噺家が消耗する残り3分の1に、台風の場面が来るわけで。

 談春さんが「肥後の佐平次」と表現するように、喜之助は江戸屋の主人やお客様や水夫や船頭に愛されるところがありますね。ただ、決定的に違うのは、佐平次は「居残り」という犯罪を成立させるために行動している悪人〈それも魅力的な悪人〉であるのに対して、喜之助は江戸屋で無銭飲食こそしようとしますが、悪人ではないんですよね。もともと江戸のちょっした商家の若旦那だったという人柄の良さがあるし、仕事のない時間に近所の子供たちを集めて手習いや三味線を教えるのも金欲しさという意地汚さというより手持ち無沙汰を紛らわすためという雰囲気が感じられるのです。

 大スペクタクルなお噺でした。お疲れ様です、師匠。

☆★☆★

 って、中入り後は「宿屋の仇討ち」なんですかっ(大汗)。

 これがまた、面白い。

 マクラにちょこっと「志の輔兄さんみたいな噺をする」とか何とか言って、30秒ぐらい「でなんでございますよ」と志の輔口調だったかな。

 でも、「宿屋の仇討ち」、志の輔さんバージョンだったら、万事世話九郎と築地の三人組の間で振り回される宿屋の伊八が「あーあーあーあー(なんでこうなるの?)」というところが眼目だと思うのですよ。

 談春さん版は、確かに伊八は振り回されているけど、江戸の魚河岸三人組のはじけっぷりとか、万事世話九郎の迫力とか、伊八以外のところが面白い。清六が尻文字で「清ちゃんのせの字はどう書くの〜♪」とかやってたり、相撲の取り組みの描写とか、源ちゃんの色事師噺に入れ込むリアリティがすごいんだけど実は両国の居酒屋で酒飲んでた時に背中で聞いた客の話の受け売りだったとか。やっぱ、ちょいワルを描かせたら談春師はぴか一ですよ(^^)。

 万事世話九郎の武士らしい迫力がぎりぎりまで続いて、最後の最後、ぎりぎりのところでとぼけるところも素晴らしい。

 ごちそうさまでした。来月の「二階ぞめき」、チケット前売り取れません〜(>_<)。何とかしたいのですが。




 

 今日は窓を開けていると秋らしい風が足下をすうすうと吹き抜けていきます。気持ちいい。

宮城
幕末志士描写2様/仙台在住の2人が新刊
 仙台在住の2人の筆者がこのほど、異なる視点で幕末を描いた本を書いた。大河ドラマ「龍馬伝」のブームもあり、注目を集める幕末。筆者に、それぞれの本に込めた思いを聞いた。(松本紗知)
 『戦塵(せん・じん) 北に果つ―土方歳三戊辰戦始末―』(学研パブリッシング/税別1500円)で、新撰組(しん・せん・ぐみ)の一員、土方歳三とその周辺の人々とのかかわりを通して幕末を描いたのは、仙台市若林区の甲斐原康さん(63)。京都に始まり、江戸、宇都宮、会津、仙台と北上し、箱館(北海道函館市)で生涯を終えるまで戦い続けた土方の生き様を浮かび上がらせた。
 「土方は魅力的な男。どんな侍よりも侍らしい」という甲斐原さん。土方は、気に入らない者はすぐに切り捨てる冷徹な側面もあったという。「彼の周囲にいた人は、土方をどう見たのか。切られた人間の目からみて、土方はどう映ったのか」。土方を主人公とはせず、周囲の人々を軸に描いた。
 甲斐原さんが執筆活動を始めたのは5年ほど前。本作で第15回歴史群像大賞優秀賞を受賞した。「文学は祈りだと思う」という甲斐原さんは「それぞれの人の命を物語で描いてあげたい」と小説に込める思いを語る。
 一方、同市青葉区の山本三郎さん(74)は、遣米使節団の従者として幕末に世界一周をした仙台藩士、玉蟲(たま・むし)左太夫の旅日記「航米日録」を現代語訳しつつ解説コラムを加えて『仙台藩士幕末世界一周 玉蟲左太夫外遊録』(荒蝦夷/税別2100円)としてまとめた。山本さんは玉蟲の玄孫にあたるため、コラムには裏話もふんだんに盛り込まれている。
 玉蟲ら使節団が渡米して今年で150年。「玉蟲の日記には、歴史の表に出てこない武士の本音が表れている」と話す山本さん。1人の武士が異国で感じた純粋な驚きの数々が、幕末を身近に感じさせてくれる。
 問い合わせは学研パブリッシング(03・6431・1507)、荒蝦夷(022・298・8455)へ。10月11日には両氏と作家の星亮一さんが幕末の仙台を語るトークライブが仙台文学館(同市青葉区)である。要予約で、問い合わせ・申し込みは荒蝦夷まで。


栃木
宇都宮の歴史スポット:ボランティア団体が紹介マップ 土方歳三訪問の地など /栃木
 宇都宮市のまちづくりボランティア団体「宇都宮プライド創造ボランティア 歴史歩き隊」が幕末の宇都宮の歴史スポットを紹介するマップを完成させた。戊辰(ぼしん)戦争の激戦地の一つだった宇都宮城のエピソードなどもちりばめ、歴史好きをもうならせる仕上がりになった。

 歴史歩き隊のメンバーは宇都宮市在住の男性4人。中心市街地に観光客らを呼び込もうとマップの作製を思いついた。女性にも人気がある新撰組副長、土方歳三が旧幕府軍として訪れた場所や当時の戦いの様子なども紹介されている。

 江戸時代の宇都宮城下の復元図も掲載。歴史的な見どころのほか、カフェや和菓子店、レストランなども案内した。徒歩やバスで回るお勧めコースは所要時間約3時間半という。マップは3000部。宇都宮城址(じょうし)公園と宮カフェで手に入れることができる。【中村藍】


長崎
【動画】実録・坂本龍馬展が開会 長崎歴文博、きょうから一般公開
 幕末の志士坂本龍馬の遺品や手紙などを一堂に集めた企画展「実録・坂本龍馬展」(長崎新聞社、NHK長崎放送局など主催)の開会式と内覧会が1日、長崎市立山1丁目の長崎歴史文化博物館であり、龍馬ゆかりの貴重な品々が報道陣と関係者に公開された。一般公開は2日から。

 同展はNHK大河ドラマ「龍馬伝」に合わせて企画された過去最大の龍馬展。東京、京都、高知を巡回し、長崎歴文博が最後の開催地となる。

 内覧会では、長崎で撮影した懐手にブーツ姿の写真のガラス原板(9~11日の限定公開)など約200点を公開した。愛用の刀、カステラのレシピも書き込まれた海援隊の雑記帳「雄魂姓名録」(重要文化財)など大半が県内初公開。誕生から暗殺まで龍馬の波乱に富んだ生涯を豊富な資料で実感できる。

 開会式には招待客ら約220人が来場した。「龍馬伝」主役の福山雅治さんの母校、長崎市立淵中のブラスバンド部が演奏。関係者がテープカットをして祝った。

 11月3日まで。観覧料は大人1200円、小中高校生700円。2日は午前10時から、京都・霊山(りょうぜん)歴史館学芸課長の木村幸比古氏の講演「龍馬暗殺の真相」などがある。

 ◆陸奥役の平岡さんもテープカット

 「実録・坂本龍馬展」の開会式には、「龍馬伝」で陸奥陽之助(宗光)役の俳優平岡祐太さん(26)が駆け付け、あいさつとテープカットをしてムードを盛り上げた。

 龍馬伝主役の福山雅治さん(41)と同じ芸能事務所に所属。「ドラマでも演技についていろいろ助言を頂いた」。5月の長崎市ロケでは市亀山社中記念館を訪ね「長崎は志を見つけた重要な場所」と感じた。

 「展覧会は本物ばかり。龍馬が陸奥に書いた手紙を見て感動した。ドラマもすごく感動するラストになっている」とさわやかな笑顔を見せた。2日は午前9時から同館である「わたしの龍馬フォト&メッセージ」表彰式に出席する。


佐賀
「海揚がりの陶磁」展開幕
龍馬ゆかりの磁器片も

「いろは丸」から引き揚げられた磁器片
 「海揚がりの肥前陶磁―海に残された有田焼」展が1日、有田町の町歴史民俗資料館で始まった。福岡県岡垣町の海岸に漂着した焼き物を集めた昨年度の企画展「海揚がりの有田焼―筑前芦屋浜を中心に」に続く第2弾。幕末、瀬戸内海で沈んだ坂本龍馬率いる海援隊の用船「いろは丸」から引き揚げた磁器片も展示している。

 18世紀以降、国内でも広く使われるようになった肥前磁器は、筑前商人らによって伊万里から船で各地に運ばれた。今回は北海道から鹿児島まで、28か所の海で採集された難破船の積み荷や漂着物などを集め、肥前陶磁の流通経路や広がりを紹介している。

 展示品は、中国、タイの焼き物などを含む約680点。明治新政府に抵抗し、北海道・江差沖で沈没した旧幕府軍の旗艦「開陽丸」の調査で見つかった日用食器もある。

 アジア水中考古学研究所との共催。11月30日まで。会期中無休。入場無料。

(2010年10月2日 読売新聞)


コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(81)東大教授・山内昌之 児島惟謙
「我攻め」と司法の屈服
 尖閣諸島沖の不法漁船長をめぐる中国の無理無体な要求に驚き怒りを感じるうちに、「我攻(がぜ)め」という言葉を思い出した。どんなに犠牲を払っても無理やりに城を落とす戦法を指す。通常は無理押しや傍若無人を意味する言葉だが、『広辞苑』第6版にも載っていないのは不思議だ。人員の損耗を無視して正面から攻めると犠牲が出るのは当然である。
 中国は、日本相手には人権や外交儀礼を無視しても我攻めに徹すれば、勝敗を早く決せられると改めて確認したはずだ。河北省でフジタ従業員を事実上の人質にとった手段は、我攻めに搦(から)め手や糧道の攻撃を組み合わせた戦術であるが、民主主義国家ではありえない手法である。
 こうした脅迫は今後も繰りかえされる。政府や財界人は、中国にレアアースや市場を頼りながらウィン・ウィンの関係だと楽観的に信じてきた論理が、主権侵害の事実を前に破綻(はたん)する危険性を直視し対中戦略を再構築すべきであろう。
 那覇地検による漁船長釈放の決定理由には、日本国民の利益や日中関係の将来を配慮したとあったが、もとより一地検の判断ではない。当然、最高検との協議で決まったことである。検事総長には法務大臣などを介して首相や官邸の意志が伝えられていたことも、多く指摘されている。今回の事案処理は、司法と行政と外交との入り組んだ領域で進められたが、司法の独立性や自律性の観点から多くの問題を残したことは否めない。
この点で思い出されるのは、明治24(1891)年にロシア皇太子のニコライ(後のニコライ2世)が大津市で警備中の巡査、津田三蔵に斬(き)りつけられ負傷した大津事件である。首相の松方正義ら政府首脳は、旧刑法116条の皇室罪の適用を主張し極刑に処すことを求めた。強大な軍事国家たる隣国ロシアは、日本の安全保障に最大の脅威を与える存在であり、“恐露病”と揶揄(やゆ)されるほど政府首脳はロシアを刺激すまいと細心の注意を払ったからだ。
 ◆皇室罪適用は「汚点に」
 しかし事件直前に大審院長(いまの最高裁長官)に就任した児島惟謙は52歳の若さながら、三権分立の理念を説き、皇室罪の適用が帝国憲法を損ない裁判史に「汚点」を残すと考えた。法で裁くという信念から政治介入を排除した。「法の尊厳と裁判の独立」の堅持こそが「国家の自主性を確保する道」だという理由である。外国皇太子に対する傷害事件には皇室罪でなく謀殺罪を適用すべきだと部内をまとめ、津田に謀殺未遂罪による無期徒刑を宣告させた。
 面白いのは、大津事件を告発した大審院検事総長の三好退蔵の対応である。のちに大審院長にもなる三好は児島と反対に「皇室に対する罪」により死刑に処すべきものと論告求刑した。これは三好が伊藤博文に引き立てられた点を別にしても、究極的に国家や体制の損壊を恐れる検察には外交にあたる政府と利害の共通性も見られることを意味しており、尖閣事案に対する今回の検察と政府の対応を考える上で興味深い。
 確かに児島が司法権の独立維持に貢献した点は高く評価されてよい。この点では、現在の菅直人政権への世論の厳しさと違って当時の日本人はもとより、欧米列強からも司法の自律性という近代国家の原理を守った実例として評価されたのである。宇和島藩に生まれ長崎で坂本龍馬や五代友厚(ごだい・ともあつ)とも交わった勤皇の志士上がりの児島には、薩長何するものぞという気概もあったに違いない。
 ◆裁判官判断の独立性侵害も
 しかし、司法権の独立とは行政府や立法府からの自律性を指すだけでない。個々の裁判官の独立した判断の尊重という点も大事なのである。児島は司法権を外部の干渉から守った半面、部内を自らの判断でまとめるあまり、審理にあたる裁判官の判断の独立性を侵した面もないだろうか。
 検察なら一体の原理で上級庁の判断に従うメカニズムが働く。検事総長が決断すれば意志が統一されるのだろう。しかし、問題は法務大臣を介して首相や官房長官の意志が検察首脳に伝えられたとき、政府機構の一部を構成する検察庁の長が“指揮権の発動なき指揮権”を受けたと感じるのか否かという点ではないか。
 不法漁船長の釈放問題は、“現代の大津事件”として国益と法との関係や如何(いかん)と多面的に議論すべき性質のものだった。そうならなかったのは、“現代の児島惟謙”もおらず、首相が小粒にすぎて内外での緊張感に堪えられる胆力を持ち合わせなかったからであろう。(やまうち まさゆき)

【プロフィル】児島惟謙
 こじま・いけん 天保8(1837)年、宇和島(愛媛県)生まれ。遊学先の高知・長崎で坂本龍馬らと交友、脱藩して倒幕運動に参加。維新後司法省に出仕、名古屋裁判所長などを経て大審院長。大津事件で罪刑法定主義と司法権の独立を守り抜いた。大審院判事らの花札賭博事件で辞任後、衆議院議員などを歴任。明治41(1908)年、71歳で死去。


 今日は友人と「志の輔らくごinACT」に行ってきます。twitterなどで演目を知ってしまった(汗)のですが、まだライブで聴いていない作品ばかりなので楽しみです。

福島
京都「容保桜」苗木を来春、若松に植樹
 幕末に京都守護職上屋敷があった京都府庁旧本館中庭(上京区)の「容保(かたもり)桜」の苗木が来春にも会津若松市に植樹されることになり、命名者である京都府の桜守・佐野藤右衛門さんが24日、同市の鶴ケ城を訪れる。
 容保桜は旧本館の中庭にあるヤマザクラのうちの1本で、オオシマザクラの特徴も併せ持つ珍しい品種であることが佐野さんの調査で分かっている。
 府庁は京都守護職上屋敷跡地で、幕末に会津藩主・松平容保公が京都守護職を務めていたことから今春、佐野さんが「容保桜」と命名した。
 桜守として知られる佐野さんは「容保桜」の種子から苗を育てていて、苗を容保公ゆかりの地である会津若松市に移植したいと申し出ている。
 24日は佐野さん自ら桜の名所でもある鶴ケ城などを訪れ、植樹に最適な場所を探す。
 佐野さんによって適地が決まれば、来春にも「容保桜」の植樹が行われる見通しという。


会津まつり:「藩公行列」が雨で初の中止 /福島
 
会津若松市の「会津まつり」で23日、メーン行事の「藩公行列」が雨天のため中止になった。事務局の会津若松観光物産協会によると、58回目で初の中止という。
 同まつりは、戊辰戦争で鶴ケ城を明け渡した9月23日を中日にした3日間、戦死者の慰霊を兼ねて同城や中心市街地で開かれる同市の秋祭り。1953年に始まった。
 今年も22日、子供たちによる稚児行列で開幕。しかし、雨が降り続き、23日も回復が見込めなかったため、事務局が同日朝、行列の中止を決めた。行列は、市民らが歴代の藩主や戊辰戦争を戦った白虎隊、娘子隊などにふんして、市内を行進する。今年は青森県むつ市など会津藩ゆかりの県外勢も含め、約460人が参加予定だった。【太田穣】


白虎隊士らを慰霊 若松で墓前秋季祭礼
 戊辰戦争で散った白虎隊士ら少年武士の霊を慰める墓前秋季祭礼は24日、会津若松市の飯盛山で行われた。
 会津弔霊義会の主催で毎年春と秋に催している。
 神事で少年らを追悼した後、同会の芳賀公平理事長が「白虎隊士の『国や古里を守る』という精神を伝えていきたい」と祭文を読み上げた。
 菅家一郎市長ら関係者が墓前に玉ぐしをささげた。
 続いて多くの参拝者が見守る中、会津高剣舞委員会の生徒が厳かに伝統の剣舞を奉納した。
 市中心部では同日、会津まつりのフィナーレを飾る日新館童子行列も繰り広げられ、武者姿などに扮(ふん)した子どもたちが行進した。


神奈川
勝海舟の肖像画も披露 咸臨丸遣米150周年式典
 江戸時代末期の一八六〇(万延元)年、幕府の遣米使節団を乗せた咸臨丸の太平洋横断から百五十周年を祝う記念式典が二十五日、横須賀市本町で開かれた。操船を手伝うため咸臨丸に同乗した米海軍大尉のひ孫で、米国の陸軍大学で歴史学を教えているジョージ・ブルック三世さん(65)が、咸臨丸と日米交流をテーマに講演した。
 ブルックさんの曾祖父ジョン・ブルック大尉は幕末当時、米海軍の測量技師として日本近海の海底調査のため来日。「日本人単独の初の太平洋横断」を目指す遣米使節団の操船技術を心配し、自ら同乗を申し出て幕府に許可されたという。
 ブルック大尉は航海中に艦長の勝海舟と交流を深め、米国に到着後、海舟の肖像画を記念に描かせた。ブルック家が今も保管する肖像画は、スライドで映し出され、来場者から驚きの声が漏れた。 (新開浩)


石川
見る者圧倒 力強い書 羽咋・永光寺 山岡鉄舟の4点初公開
 羽咋市酒井町、曹洞宗永光(ようこう)寺は二十三日から二十八日まで、所蔵する山岡鉄舟の書四点を特別公開する。能登半島広域観光協会が主催する能登ふるさと博事業の「能登秘宝めぐり」の一環。
 山岡鉄舟は幕末から明治にかけて活躍した武士、政治家で、剣、禅、書の達人としても知られる。
 同寺によると、書はそれぞれ縦百八十センチ、横九十五センチ。四点は「金毛」「獅子」「奮威」「出塵」と記されており、「金毛の獅子 威を奮い 出塵す」という禅語。明治時代、困窮していた同寺が鉄舟に書を依頼し、一八八六(明治十九)年に額や軸一万枚の寄進を受け寺の再建費用に充てたとされ、今回公開される四点は当時のもの。これまで公開はしておらず、初公開になるという。
 屋敷智乗監寺(57)は「見るものを圧倒する力強さがある。気迫が伝わってくる」と話している。特別拝観料は五百円。 (島崎勝弘)



富山
そろばん侍、直之が記した幕末加賀藩 磯田氏が文書確認
 映画「武士の家計簿」の原作者、磯田道史茨城大准教授は25日までに、加賀藩士・猪 山直之が最後の藩主・前田慶寧(よしやす)の発言を書き抜きした文書を、金沢市立玉川 図書館近世史料館で確認した。文書には、旧幕府軍と新政府軍が戦った鳥羽・伏見の戦い に出兵する藩士に対し、新政府軍と一戦する覚悟で粉骨を尽くすよう、慶寧が命じる場面 もある。幕末加賀藩の実態と、直之の忠実な仕事ぶりを示す史料として注目される。
 磯田氏が確認した文書「御意之趣書抜(ぎょいのおもむきかきぬき)」には、14代藩 主慶寧が1854(嘉永(かえい)7)年1月から68(慶応4)年10月までに発言し た内容を抜粋して記してある。
 表紙に書き手として「猪山」の名があり、猪山家の家計簿を研究する磯田氏は「筆跡か ら、藩主の御次執筆(おつぎしっぴつ)役(書記官)を務めた直之が記したものに間違い ない」と指摘した。
 1868年の鳥羽・伏見の戦いでは、1月6日から8日にかけて藩軍の隊長らをグルー プ別に「御居間書院」に呼び出し、皇国のために内府公(15代将軍徳川慶喜(よしのぶ ))と協力し、軍を派遣する旨を伝えている。慶寧は「必ず一戦に及ぶだろうから、粉骨 を尽くして忠勤に励め」という趣旨の発破を掛けている。
 鳥羽・伏見の戦いでの加賀藩の立ち位置については、本気で戦闘に参加する意思はなく 、深い縁戚(えんせき)関係にある徳川側に配慮して消極的に出兵したとの研究分析もあ るが、磯田氏は「薩長(さっちょう)と相まみえる覚悟だったことをはっきりさせる重要 な史料」と指摘した。
 文書は明治に入り、直之が藩主の発言をまとめた資料を基に重要な部分を抜粋してあら ためて書き残したものとみられる。磯田氏は「新政府が権勢を振るっている時期、前田家 にとっては都合の悪い文書だったのではないか」と推測。それでも直之が書き残したこと について「歴史にうそをつかず、記録係としての仕事を忠実にこなそうとした。直之のま じめな性格が出ている」と話した。


兵庫
幕末の砲台保護へ 兵庫県教委が現地調査開始
 兵庫県沿岸部に残る幕末の砲台、台場(だいば)跡について、県教育委員会が現地調査を始めた。文献などから、勝海舟ゆかりの和田岬砲台(神戸市兵庫区)など約50件があったとみられるが、国の史跡として保護されているのは4件のみ。県教委は「緊迫した歴史情勢や当時の海外知識が読み取れる歴史文化遺産」と位置づけ、今後3年で現状を把握し、保存活用に弾みをつけたい考えだ。
 幕末の砲台、台場は強固な石垣や土塁で防護した要塞(ようさい)。県沿岸部では外国船の脅威が高まった1850~60年代、幕府のほか尼崎、明石、姫路、徳島、豊岡など諸藩が相次いで築造した。由良要塞本部(洲本市)のように明治時代に陸軍が築いたものもある。
 しかし、国や地方自治体の文化財保護が長らく近世以前を中心に扱ってきたため、大正時代に和田岬砲台と西宮砲台(西宮市)、2006年に松帆(淡路市)、07年に舞子(神戸市垂水区)の台場跡が国史跡に指定されたのみ。ほかは保護対象ではないため、開発から遺跡を守るために行政が遺跡のある場所を示す地図に記載されていない例も多く、中には破壊されたものもある。
 ところが近年、近代化の歩みを伝える遺産として国の評価が高まったことなどから、県教委文化財室は研究者らによる調査研究検討会を7月下旬に結成。現存する数さえ把握されていないため、淡路地域から調査を始めた。
 県教委は「日本海と瀬戸内海の双方に面した兵庫県は多様な形状の砲台、台場がある“博物館”。調査の成果を住民に分かりやすく還元したい」と話している。
(仲井雅史) 


広島
竜馬にふんして観光客ご案内
 幕末の志士坂本竜馬にふんして10~11月に福山市鞆町で観光客と交流する「鞆龍馬おもてなし隊」の研修会が25日、福山市役所であった。
 おもてなし隊は女性1人を含む市内の20~70代計20人。うち13人が研修会に参加した。市観光課の職員は「記念撮影には積極的に応じましょう」などと指導。名所や土産物を説明する際の想定問答も紹介した。
 全員が現場で着る黒の羽織とはかまを試着。竜馬の写真を見ながら、襟元は詰めて、はかまのすそは低めにするなど、竜馬らしい着こなしを研究した。
 おもてなし隊は、近くNHK大河ドラマ「龍馬伝」で鞆町を舞台としたシーンが放送されるのを受け、福山市などでつくる福山観光キャンペーン実行委員会が公募した。期間は10月2日から11月29日まで。毎週金曜日から月曜日までと祝日に、午前10時半から午後3時半まで2人が交代で町内を回る。

【写真説明】竜馬をイメージした衣装を試着するメンバー


書簡や絵図で幕末の福山紹介
 企画展「幕末の福山藩」が、福山市丸之内の福山城博物館で開かれている。幕府の老中として日米和親条約を結び、開国に大きな役割を果たした7代藩主阿部正弘(1819~57年)を中心に紹介する。11月14日まで。

 正弘が着た「紺糸菱綴五枚胴具足(こんいとひしつづりごまいどうぐそく)」、アメリカ使節との交渉について部下に指示した書簡など計約120点を展示している。幕府側として長州藩に敗れた第2次長州戦争、明治に入っては幕府を相手に戦った福山藩の歩みも絵図でたどる。

 阿部家が藩主となった1710年から300年の記念展。月曜日休館。500円。同館=電話084(922)2117。

【写真説明】阿部正弘が着用したよろいなどに見入る来館者


鳥取
鳥取城下の変化一目
幕末地図と航空写真対比 やまびこ館
幕末の鳥取城下の精巧な測量図を、現代の航空写真と対比して見ることができる特別展「ここはご城下にござる」(読売新聞鳥取支局など後援)が、鳥取市上町の市歴史博物館「やまびこ館」で開かれている。10月31日まで。

 測量図は、鳥取藩が1857~59年の安政年間に下級武士に作らせた「鳥取城下全図」(県立博物館所蔵)。2005年に市が撮影した航空写真を6メートル四方の樹脂シートに印刷して床いっぱいに広げ、分割してフィルムにコピーした城下全図と重ね合わせると、150年間のまちの変化が一目で分かる。

 自分が住む地域にフィルムを重ねた来館者は、鳥取地震(1943年)や鳥取大火(52年)に遭いながらも幕末当時の道が残っていたり、堀が道路に姿を変えていたりすることに関心を示していた。

 人口が増えた城下町で、藩がごみの回収や処理に悩んだり水道施設の整備に力を注いだりしたことを紹介する資料も展示。同市新町、小売業柴田太一さん(39)は「これまでにない視点で歴史を体感できる」と興味深そうに見入っていた。

 10月9、30日の午後1時から学芸員による解説、同17日午後2時から講座がある。祝日の翌日と月曜は休み。問い合わせは、やまびこ館(0857・23・2140)。

(2010年9月24日 読売新聞)



佐賀
佐賀15人の偉人伝
 県教委と佐賀城本丸歴史館(佐賀市)が、幕末~明治期に活躍した佐賀の偉人たちを、1人1冊ずつのシリーズで出版する事業に今年度から取り組んでいる。毎年度3冊出版し、5年間で15冊、計15人の偉人たちをとり上げる予定。郷土の偉人たちの業績を知ってもらい、地域の観光や文化振興に役立ててもらうのが狙いだ。(吉村治彦)
 出版が決まっているのは、佐賀藩主の鍋島直正、北海道開拓に貢献した島義勇、日本赤十字社を創設した佐野常民、外務卿などを務めた副島種臣、教育制度を整備した大木喬任、司法制度の基礎を作った江藤新平、早稲田大学を創立した大隈重信の「佐賀の七賢人」と、画家として第1回の文化勲章を受けた岡田三郎助の8人。
 郷土史家や学者らでつくる編集委員会が7月に開かれ、今年度は11月に鍋島直正、1月に大隈重信、3月に岡田三郎助を出版することが決まった。初回に鍋島直正を選んだのは、佐賀藩の近代化を主導し、多くの人材を育てた功績のためで、元佐賀大教授の杉谷昭・佐賀城本丸歴史館長が執筆する。同館によると、出版が決まった8人以外では、種痘普及を進めた伊東玄朴や東京駅の設計を担当した辰野金吾も有力という。
 同館は今年度、来館者や県高齢者大学の受講生ら計約560人に、代表的な偉人30人の氏名と簡単な業績を記したアンケート用紙を利用し、興味のある偉人などを尋ねる調査を実施。大隈や江藤のほか、佐賀の砲術のリーダーだった平山醇左衛門や、知的障害児の教育に尽力した石井亮一は認知度が低いにもかかわらず、関心度は高かったという。編集委員会は今後、アンケートの結果を参考にしつつ、地域性も考えて残りの偉人を選定する方針。
 本はA5判の112ページで、1冊千円の予定。全国の主要書店で販売する。また、紙の本だけではなく、電子書籍も発行し、インターネット上の電子書店で販売することも検討している。
 出版事業を担当している本丸歴史館の古川英文副館長は「できるだけ読みやすいものにしたいが、最新の研究成果も盛り込みたい。日本の近代化に尽力した偉人に関心をもってもらい、地域の振興に利用してもらいたい」と話している。

長崎
これが本物 実録・坂本龍馬展・6 異国船図
妖怪に例えられた黒船

 19世紀半ば、東アジア市場での自由貿易拡大を図る欧米列強の使節が長崎に来航するようになり、これを拒絶する徳川幕府との間で駆け引きが続いた。江戸から遠く離れた長崎での交渉は日数がかかるため、交渉はいつも不調に終わった。
 嘉永6(1853)年、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーは、軍艦4隻を率いて江戸湾に近い浦賀へ寄航。長崎での交渉に限界を感じ、直接交渉を企図していた。このとき若き龍馬は江戸で剣術修行に励んでいた。周辺は緊迫し、龍馬も戦争のときには異国人の首を取ると意気込んでいた。この「黒船来航」が龍馬そして日本の運命を大きく変えることになる。
 「異国船図」は、幕末の風刺画である。不気味に黒い煙をはきながら大砲を放ち、船首と船尾には鬼の顔が付いている。ペリー来航をきっかけに、幕府は欧米諸国と通商条約を結び貿易を開始する。しかし、この開国はインフレという経済混乱と、攘夷(じょうい)テロという治安悪化を招いた。社会不安をもたらした黒船来航は「異界からの妖怪」として庶民の心に映ったのである。
 NHK大河ドラマ特別展「実録・坂本龍馬展」は10月2日~11月3日、長崎歴史文化博物館3階企画展示室で開催。問い合わせは同館(電095・818・8366)。


腰掛け龍馬の写真10月公開 大浦慶の縁者から県が購入
 長崎歴史文化博物館(長崎市立山1丁目)は24日、幕末の長崎で活躍した女性商人大浦慶の縁者が所有していた坂本龍馬の写真など2枚を、10月に期間限定で公開すると発表した。
 公開するのは、坂本龍馬と洋装の男性がそれぞれいすに腰掛けている写真。いずれも同時期に撮影されたとみられ、大浦家の親類に当たる長崎市の竹谷家が慶の遺品として保管していた。県が8月、同家から250万円で購入した。
 龍馬の写真は縦7・7センチ、横4・8センチ。長崎歴文博は龍馬暗殺後の1868(慶応4)年ごろに焼き直されたものと推測している。
 洋装の男性の写真は縦9・2センチ、横5・7センチ。同様の格好をした肖像写真が残っている海援隊士沢村惣之丞(そうのじょう)の可能性もあるとみて、今後調査を進める。
 竹谷家所有の龍馬写真は昨年存在が明らかになり、龍馬と慶の交友関係を示唆する新資料として話題を呼んでいた。一般公開は初めてとなる。
 写真は10月15~17日の3日間、「実録・坂本龍馬展」(10月2日から)で展示する。


鹿児島
西郷さんに一筆絵付け 鹿児島中央駅
 鹿児島が生んだ幕末の偉人、西郷隆盛(1828-77)の命日に当たる24日、鹿児島市中央町のJR鹿児島中央駅の利用者に、西郷さんの似顔絵に一筆ずつ色を付けてもらうイベントがあった。

 西郷隆盛の顕彰を続ける同市の市民グループ「城山林間研修会」(礒城泉会長)が十数年前から毎年続けている。これまでは、同市城山町の西郷銅像前や城山展望台で行っていたが、九州新幹線全線開通をにらみ、初めて中央駅で開いた。

 今年の下絵は、西郷さんの顔と噴煙を上げる桜島のデザインに、全線開通で鹿児島と大阪を結ぶ「さくら」も新たに加わった。この日は、改札口前の通路の一角に下絵を飾り、買い物客や通勤・通学客にクレヨンを渡して、自由に色を付けてもらった。

 礒会長は「新幹線開通でたくさんの観光客が鹿児島に来る。楽しみながら西郷さんの魅力を知ってもらいたい」と話した。完成した絵は、来年3月の全線開通に合わせ、中央駅に展示する予定という。






 暑さ寒さも彼岸まで、お彼岸の中日になってようやく猛暑から解放されたようですね。秋が短くなるという予報で、春と秋が好きな自分はちょっと悲しいです。

宮城
土方歳三軸に描く戊辰戦争 「戦塵 北に果つ」
仙台・甲斐原さん作家デビュー

 戊辰(ぼしん)戦争で最後まで新政府軍に抵抗した新撰組副長の土方歳三を軸に、東北、北海道などでの戦いを描いた小説「戦塵 北に果つ―土方歳三戊辰戦始末」(学研)が出版された。作者は仙台市在住の甲斐原康(かいばらこう)さん(63)で、今作品がデビュー作。「東北でも激戦が繰り広げられた。英雄の背後に名も無き人がいる。それぞれの思いをかけて戦った人が日本を作っていったことを知ってほしい」との思いを込めた。
 大阪市出身の甲斐原さんは流通会社に勤務後、30年ほど前に仙台市の財団に転職し、仙台に居を構えた。市民センターや児童館の館長などを歴任し、今年3月、定年退職した。
 仙台で暮らし始めた頃、散歩の途中で幕末の仙台藩士・玉蟲左太夫(たまむしさだゆう)の墓を訪れた。奥羽越列藩同盟の結成に尽力するなどし、責任を問われて切腹させられた玉蟲の生涯に触れ、東北での幕府軍と新政府軍の戦いを初めて身近に感じたという。
 文献にもあたり、長年構想を練って執筆した同作品が昨年、歴史群像大賞(学研主催)の優秀賞に選ばれ、出版の運びとなった。
 物語は土方を軸に、幕府軍に加わった元江戸の町火消し・佐吉を語り部に展開する。戦場で抜群の剣の冴(さ)えと統率力を示し、おじけづく味方を容赦なく切り捨てる冷徹さから戦鬼と呼ばれた土方。反面、平時は部下への優しい心配りを示す土方への、愛憎半ばする周囲の思いが描かれる。
 仙台出身で、新撰組内の路線対立から切腹させられたとされる山南敬助も登場するほか、当時の国分町のにぎわいも再現される。
 江戸を脱出後、幕府軍は負け続け、東北を北上する。新時代を前に揺らぐ人たちを前にしても、土方は自らが掲げた武士の道に殉じ、戦い続ける。
 甲斐原さんは「土方は潔く、正義だが危うい。自分なりの誠を貫き、その誠に周りが巻き込まれていった」と分析している。
 本は四六判256ページで1500円(税別)。


神奈川
「龍馬」講演会
 「18歳当時の龍馬の考えについて−龍馬没後の土佐人の思想−」と題した公開講座が25日(土)市民会館で開催される。主催は相模原地域大学。14時から16時。講師は、「さがみ龍馬先生顕彰会」会長の溝渕誠之氏。幕末動乱期の龍馬の生き方を通じて、現代の私たちが学ぶべきものを探る。定員は先着150人。要資料代500円。希望者は本日23日中に、主催事務局(【電話】042・747・2913)へ。


大阪
高槻藩士が着用か 寄贈陣羽織を公開
 高槻藩士が幕末に着用したとみられる陣羽織=写真=が高槻市教委に寄贈され、10月2日から同市城内町の市立しろあと歴史館で特別公開される。同館は「高槻藩に関する資料の多くは明治維新以降に散逸しており、藩士の陣羽織の実物を確認したのは初めて」と説明している。
 同館によると、陣羽織「緋羅紗地八角(ひらしゃじはっかく)に桔梗紋(ききょうもん)」(身丈95・6センチ、肩幅54・6センチ)は当時、舶来の高級毛織物だった「羅紗(らしゃ)」の赤い生地を使い、背面に「八角に桔梗」の家紋がかたどられている。両肩に皮製の肩飾りがあり、西洋式軍服の影響で陣羽織に肩飾りをつけることが流行した幕末に作られたとみられる。
 陣羽織を寄贈したのは熊本県菊陽町の飲食業石田雅陽(まさひ)さん(46)。石田家の墓は乾性(けんしょう)寺(高槻市天神町1丁目)にあり、陣羽織は藩士だった先祖のものと伝えられていた。幕末の高槻城下を描いた絵図に、石田姓の中堅武士の屋敷が三の丸にあることなどから、この人物の陣羽織だった可能性があるという。
 同館の千田(ちだ)康治学芸員は「陣羽織は役職を持つ藩士が公用の外出時などに着用した。保存状態もよく、貴重な資料だ」と話している。
 特別公開は同館の1階エントランスで10月2日から11月28日まで。無料。休館日は祝日を除く月曜と祝日の翌日。問い合わせは同館(072・673・3987)へ。


兵庫
ブームに乗って 龍馬の和歌、風呂敷に 明石
 明石観光協会は、幕末の志士坂本龍馬が「明石にて」と題して詠んだ和歌をあしらった風呂敷を作成した。
 「うき事を独明しの旅枕磯うつ波もあわれとぞ聞」。龍馬が神戸の海軍操練所で活動していた1863年ごろ、当時は明石藩の領内だった舞子砲台を訪れ、近くの旅館に泊まった際に詠んだとされる。「龍馬詠草」として京都国立博物館に所蔵されている。
 風呂敷は紺色の71センチ四方で、坂本家の家紋である「組み合わせ角に桔梗紋」を添えている。同協会の榎本伸行専務理事は「遅ればせながら、龍馬ブームに参戦しました」。1800円。明石駅の観光案内所などで販売中。同協会TEL078・918・5080
(森本尚樹)


山口
高杉晋作の書簡、きょうから公開 小郡文化資料館 山口
 幕末の長州藩で「正義派」と「俗論派」の攻防が激化してきた元治元(1864)年9月に高杉晋作が吉田松陰の兄、杉梅太郎に記した書簡が、山口市小郡文化資料館で22日から初公開される。
 手紙が書かれたのは、長州藩が「禁門の変」を起こして幕府から征伐令が出され、さらに下関が四国艦隊の砲撃を受けた後のまさに激動の時期。書面では、高杉が藩から「石州口御軍政取計」という職を与えられようとしている状況などを、杉に報告している。杉と高杉は信頼関係が強く、たびたび手紙をやり取りしていたという。
 こののち、急進的な正義派は衰退し、幕府に恭順を示す俗論派が主導権を掌握。高杉は、身の危険を感じて一時九州へ逃れる。
 資料は、所有していた市内の収集家の遺族が平成6年、同資料館に寄贈。市教委の調査や整理を経て、同資料館で22日から10月31日まで開かれる企画展の中で初めて公開される。


福岡
特別展:「村上仏山」の業績しのぶ 行橋市歴史資料館で生誕200年展 /福岡
◇書、日記、手紙など108点
 幕末から明治時代、上稗田村(現行橋市上稗田)に私塾「水哉(すいさい)園」を開き、優秀な門人を輩出した漢学者、村上仏山(ぶつざん)(1810~79年)の生誕200年記念特別展「村上仏山」(行橋市教委など主催)が、行橋市中央の市歴史資料館で開かれている。11月5日まで。火曜休館。
 村上が残した書、日記、手紙、塾の教材、門下生の名簿など108点を展示。卒塾した門下生と飲んでは語った愛用の酒用ひょうたんもある。
 村上は9歳の時、近くの神官から漢学を教わり26歳で水哉園を開いた。儒教を基に漢詩文を中心にした講義を展開し、明治の内相、末松謙澄(1855~1920年)や元号「昭和」を考案した宮内省編修官、吉田学軒(1866~1941年)ら約3000人が学んだ。
 資料館の山中英彦館長は「日本の歴史を動かす人材を輩出した水哉園は、蔵春園(豊前市)などと並ぶ優れた私学校だった」と語る。
 26日午後1時、同市大橋の市中央公民館で、村上のやしゃごで元高校教諭の村上良春さんらの記念講演(入場無料)▽10月24日は水哉園跡など村上ゆかりの地を巡る「ゆくはし探訪」(1000円、10月7日申し込み締め切り)もある。同館0930・25・3133。【降旗英峰】
〔京築版〕





佐賀
幕末と今・・・有田「今昔図」完成
古絵図手に住民調査 26日に歩こう会
 江戸時代の有田と現在の有田町の違いが一目でわかる今昔図「新有田郷図」が完成した。同町のNPO法人「アリタ・ガイド・クラブ」(大橋康二理事長)と町歴史民俗資料館(尾崎葉子館長)が参加者を募り、約150年前の絵図を元に町を歩いて移り変わりをチェック、現在の地図に重ね合わせた。26日には新郷図を使った歩こう会を開く。
 絵図は県立図書館(佐賀市)所蔵の「松浦郡有田郷図」。幕末の安政6年(1859年)、鍋島藩が作製した。現在の有田陶器市のメーン会場、内山地区を中心に描かれている。
 調査には小学生から80歳代まで約60人が参加。地区を5ブロックに分けて「歩こう隊」を組織し、昨年11月から約5か月間、絵図を見ながら通りや住居、川の流れなどを確認した。
 その結果、主要道路や川筋は幕末から大きく変わっておらず、絵図に残るほこらや鳥居なども正確に描かれていることがわかった。
 新郷図は縦42センチ、横59センチ。現存するものは実線、未確認のものは点線で透明フィルムに印刷、現在の地図の上に置いて2枚重ねにしており、すでにない登り窯などの位置もわかる。
 500部作製。巻物風にして、隊員が絵付けをした磁器の帯留めとヒモで結んでいる。1部1500円で同資料館などで販売。
 「住民が地域を見つめ直す機会になったと思う。新郷図を観光にいかし、有田に元気を呼び込みたい」と同クラブ。歩こう会は参加無料。問い合わせは同クラブ(050・5539・5349)へ。




コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(80)東大教授・山内昌之 西郷隆盛(下)
「正義」「正道」信じ生きた
  
 菅直人首相を支える新たな顔ぶれはまことに味わい深い。留任した仙谷由人官房長官に加え、新任の岡田克也民主党幹事長と前原誠司外相は、“小沢一郎何するものぞ”という気概に溢(あふ)れた政治家たちである。この3人が時に揺れ動いた菅首相を叱咤(しった)激励しなければ、小沢陣営の気迫に菅陣営はたじろぎ苦杯を嘗(な)めていたかもしれなかった。
 このトリオで、民主党代表選のさなかに尖閣諸島沖を侵犯した中国漁船による海上保安庁巡視船への不法行為を原理と原則に基づいて処理してもらいたい。もし鳩山由紀夫前首相と小沢一郎元幹事長のコンビであれば、法律に照らして正当な中国人船長の逮捕や起訴に踏み切るか否か、疑問も残ったのである。
 ◆主権や国威を忘れず
 「友愛の海」で中国の勝手な跳梁(ちょうりょう)を許し抗議もしなかった鳩山氏や、多数の民主党議員を嬉々(きき)と胡錦濤国家主席との記念写真に応じさせた小沢氏と異なり、菅新政権の核の3人には、どの国が相手であろうと日本の主権と国民の安全を犯す行為に厳しく対処することを内外に闡明(せんめい)してもらいたいものだ。ここでも西郷隆盛の言葉を思い出さざるをえない。
 「正道を踏み国を以(もっ)て斃(たお)るるの精神無くば、外国交際は全(まった)かる可(べ)からず。彼の強大に畏縮し、円滑を主として、曲げて彼の意に順従する時は、軽侮を招き、好親却(かえっ)て破れ、終に彼の制を受るに至らん」(岩波文庫『西郷南洲遺訓』一七)
 西郷隆盛の遺(のこ)した文章のなかでも、この言葉ほど日本の外交環境を憂える者に勇気を与える表現はない。西郷の言葉は、国土交通相だった前原氏も高く評価した海上保安官たちの毅然(きぜん)とした対応や司法当局の自律性とさながら重なるかのようであり、日本人の耳朶(じだ)を打ってやまない。現代語に訳しても、西郷発言の格調の高さは変わらない。
 正義のために正道を歩み、国家と一緒に倒れてもよい精神がなければ、外国との交際は満足にできない。その強大さに畏(かしこ)まって小さくなり、揉(も)めずに形だけすらすらと進めばよいと考えるあまり、主権や国威を忘れてみじめにも外国の意に従うならば、ただちに外国からあなどりを招く。その結果、かえって友好的な関係は終わりを告げ、最後には外国による命令を受けることになる。
外国に対し毅然と
 小沢氏が好きな人物として西郷を挙げるのは心強い限りだが、西郷からは外国に対する毅然とした精神と姿勢も学んでほしいものだ。鳩山・小沢コンビにはアメリカにはことさら厳しく、中国には訳もなく甘いところがあった。ことに鳩山前首相は、その在任中に中国海軍が沖縄近辺海域を何度も示威航行し、日本の排他的経済水域で挑発行為を繰り返しても、抗議もせず不快感を表明するでもなかった。今度の事案でも自分の首相在任中には日中関係が良くなっていたと呑気(のんき)なことを語っている。
 鳩山氏の姿勢は、「彼の強大に畏縮し、円滑を主として、曲げて彼の意に順従する」典型と言われても仕方がない。氏に「正道を踏み国を以て斃るるの精神」がないのを今更あげつらうつもりもない。しかし、アメリカから自立するポーズをどれほど取ろうとも、国益を毀損(きそん)し中国の「制を受るに至らん」危険を生むなら、何のための自主自立外交なのかという疑念が湧(わ)かないのだろうか。
 対米外交で失敗した氏は対露外交で復権を狙っているという観測もある。しかし首相を退いた氏の最優先事項は、米軍普天間問題解決の下支えのために粘り強く働き、県民の素意と日米同盟の重要性を両立させる方策を探り名誉挽回(ばんかい)に努めることではないのか。氏の姿勢ではアメリカや中国に加えて、ロシアからも「軽侮」を招くことは必至であろう。
 西郷は、「正義」や「正道」を人間の守るべき大事な価値と信じて生き抜いた。彼は、この2つを国際関係でも実現されるべき要素と確信していたからだ。この信念のためなら、自分の命も天にささげる覚悟をもっていたがために、その発言に気迫がみなぎっていたのである。ここにこそ現代の政治家と国民が西郷に学ぶべき点があるといえよう。(やまうち まさゆき)


文化芸能
西郷隆盛の側近「半次郎」映画公開 「鹿児島から世界へ発信」 榎木さん舞台あいさつ
 幕末から明治初期にかけて「人斬(き)り半次郎」の異名で知られ、西郷隆盛を側近として支えた中村半次郎(桐野利秋)を描いた映画「半次郎」(五十嵐匠監督)の公開初日の18日、主演の俳優榎木孝明さん(54)=鹿児島県伊佐市出身=が、鹿児島市中央町の映画館「鹿児島ミッテ10」で舞台あいさつした。
 2009年9月17日の撮影開始からちょうど1年。映画を企画した榎木さんは「やっとこの日が来ました。表現者の一人として鹿児島から何かを伝えたかった。この作品を鹿児島から世界へ発信できてうれしい」と笑顔であいさつ。会場を埋めた観衆350人から拍手がわき起こった。
 ヒロイン役の白石美帆さんは「榎木さんの思いが現場のスタッフ、エキストラのみなさんに伝わり、いいものを作ろうと一丸になれました」と撮影を振り返った。
 映画は、征韓論に敗れて隆盛とともに東京から郷里鹿児島に戻った半次郎が、隆盛を擁して決起、政府軍を相手に戦い抜き、壮絶な死を遂げる姿を描いている。18日から福岡、熊本、鹿児島で先行公開。来月9日から全国上映される。








 暑さ寒さも彼岸までとはよく言われますが、彼岸入りの今日も30度(汗)。一週間で秋らしくなるかなー。

岩手
竜馬直筆の手紙、二戸で発見 下関の豪商あて資金相談か
 幕末の志士・坂本竜馬が長州・下関の豪商伊藤九三あてに送った手紙が、岩手県二戸市の民家で見つかり、高知県立坂本龍馬記念館(高知市)の三浦夏樹主任学芸員が18日、直筆と確認した。

 三浦学芸員によると、手紙は縦24.6センチ、横33.2センチで、慶応3(1867)年3月13日に書かれたものとみられる。文末には独特の字体で書かれた「龍」の署名が確認できた。
 竜馬直筆の手紙はこれまで、伊藤あてに書いた14通を含め141通確認されているが、東北で見つかるのは極めて珍しいという。
 手紙は、長州藩の支藩だった長府藩の関係者と一緒に下関を訪問後、自分だけ下関を離れた後に執筆。ともに行動していたとみられる「野村老次子」という人物の宿泊先を知らせた上で、「ご用があればお尋ねください」と記している。
 三浦学芸員は「現時点で詳細は分からないが、伊藤に資金面などで相談していた可能性がある」としている。伊藤は竜馬の支援者として知られ、資金面で活動を支えたり、自宅の一角を新婚だった竜馬に提供したりした。
 手紙を所有しているのは二戸市内の女性で、夫方の祖父が譲り受けたという。女性が9月10日、盛岡市の石川啄木記念館に相談。龍馬記念館の三浦学芸員が鑑定を進めていた。


茨城
幕末「水戸派」語る新選組まつり開幕 行方でシンポ
 「第6回なめがた新選組まつり」(行方市観光協会など主催)が18日、同市玉造甲の霞ケ浦ふれあいランドで始まった。初日は、シンポジウム「新選組水戸派談義~新選組と茨城の志士たちを語る~」が開かれた。19日は同市の法眼寺で芹沢鴨・平間重助追善供養、お梅顕彰碑除幕式、ふれあいランドでまちづくり市民劇団「玉造座」の公演などを行う。
 新選組初代筆頭局長の芹沢鴨と、同副長助勤の平間重助は同市芹沢地区の出身。NHK大河ドラマ「新選組!」放送をきっかけに同市内で毎年、新選組に関するイベントが行われている。
 シンポジウムで県立歴史館の永井博学芸課長は、「(幕末に大きな影響を与えた)水戸学は『尊皇攘夷(じょうい)をやるのは幕府』という考え方。決して幕府を否定することではない。新選組もある意味、その考え方」と指摘した。
 かすみがうら市立郷土資料館の千葉隆司学芸員は、新選組に一時期所属した伊東甲子太郎・鈴木三樹三郎兄弟を生んだ志筑(かすみがうら市)の本堂家について説明した。
 幕末史研究家のあさくらゆうさんは「新選組局長は、初代の芹沢鴨も最後の相馬主計も茨城出身。そのことをもっと発信すべき」と強調。「行方市玉造新選組まちづくりの会」の篠本圭司さんは「幕末、多くの人が遠くから集まって議論した。私たちも見習い、行政の垣根を越え、地域を盛り上げないといけない」などと話した。

 芹沢鴨たち水戸派、伊東甲子太郎・鈴木三樹三郎兄弟にスポットを当てたシンポジウムが大河ドラマ『新選組!』以降も続いているのは嬉しい限りです。

広島
福山藩主・阿部家ゆかりの品展示 福山城博物館で秋季特別展
 福山市丸之内の福山城博物館で18日、阿部家が1710年に福山藩主になって300年の節目を記念した秋季特別展「幕末101件の福山藩」が始まった。幕末から明治にかけての阿部家ゆかりの甲冑(かっちゅう)や古文書、絵図など約120点に入館者らが見入っている。11月14日まで。
 阿部家は1869年まで10代にわたり福山藩主。特別展ではペリー来航(1853年)時、幕府の老中首座として日米和親条約を締結し、鎖国政策を転換した第7代阿部正弘ら歴代藩主の肖像画のほか、第9代正方が元服時に着た「紺糸威胴丸童具足(こんいとおどしどうまるわらべぐそく)」、第4代正倫が土をこねて作った茶わんなどが並ぶ。「箱館戦争出兵図」には現在の市章コウモリに似た指揮旗が描かれている。
 10月3日午後2時から福寿会館(同市丸之内)で、萩博物館(山口県萩市)の道迫真吾主任研究員による「幕末101件における長州藩と福山藩」と題した記念講演会(無料)もある。


香川
咸臨丸、太平洋横断から150年
 幕末の幕府の軍艦「咸臨丸」が太平洋横断に成功して今年で150年になるのを記念したイベント「咸臨丸と塩飽本島」が、丸亀市の本島で開かれている。勝海舟やジョン万次郎らと咸臨丸に乗り組んだ塩飽諸島の若者らを知ってもらおうと、地元住民らの実行委員会が計画した。
 咸臨丸は1860年、日米修好通商条約の批准書交換のため太平洋を横断した。実行委によると、本島の石川政太郎、佐柳島の前田常三郎、広島の向井仁助ら塩飽諸島出身の水主(か・こ)35人が乗船したという。
 塩飽勤番所では10月1日から、当時の本島を再現したジオラマ(縦1・5メートル、横2メートル)を展示。本島観光案内所では11月30日まで、咸臨丸の大型模型(縦2メートル、横3メートル)や絵画(縦1・8メートル、横3メートル)などが見られる。勤番所などでは講演会も。咸臨丸研究家木村秀雄さんの「咸臨丸の水主たち」(9月23日)、郷土史家入江幸一さんの「咸臨丸と塩飽」(10月24日)などが予定されている。
 10月24日に本島港で水主の顕彰碑の除幕式がある。問い合わせは本島市民センター(0877・27・3222)へ。

高知
高知県文化財の屏風絵、貸出先が変色させ謝罪
 「絵金」の名で知られる幕末の絵師・金蔵(1812~76)が描いた高知県指定有形文化財の屏風絵
びょうぶえ
5点を、貸出先の熊本市現代美術館が変色させていたと、同美術館を運営する熊本市美術文化振興財団が16日発表した。

 殺虫作業で使った薬剤成分が原因とみられ、緑色の顔料が黒くなった。美術館側は、所蔵する高知県香南市の保存会など関係者に謝罪し、修復方法を検討するという。

 発表によると、変色したのは「蘆屋道満大内鑑 葛の葉子別れ
あしやどうまんおおうちかがみくずはこわか
」「鎌倉三代記 三浦別れ」など、いずれも香南市赤岡町の「絵金蔵」が保管している絵金の芝居絵。着物、畳、コケなど、広範囲に黒くなっていた。

 同財団は、美術館で開催する「小泉八雲 生誕160年記念・来日120年記念 へるんさんの秘めごと展」(6月26日~9月5日)に展示するため、絵金蔵から7月19日に借り受けた。専門業者に作品の殺菌、殺虫作業を委託し、27日に作品を開封したところ、一部が黒く変色しているのがみつかった。

 東京文化財研究所が調査したところ、使用した薬剤成分の影響で、緑色の顔料に含まれる酸化銅と化学反応を起こし、黒変したことがわかった。

 同財団は今月上旬、香南市を訪れて謝罪。作品は美術館で保管している。16日の記者会見で同美術館の桜井武館長は「大変申し訳ない。二度と同じことが起きないように注意したい」と陳謝した。

 絵金は、赤を多用して血しぶきを描くなど、躍動的な芝居絵で知られる。5点の一つ「蝶花形名歌島台
ちょうはながためいかのしまだい
小坂部館
こさかべやかた
」は、軍略家の父を味方に付けるために姉妹が激しくつかみ合う浄瑠璃の場面を描いた作品。所蔵する赤岡町本町2区絵金屏風絵保存会の会長を務める米穀店経営島崎信将さん(65)は「先祖代々、引き継いできた絵は、町の文化そのもの。なんとか元通りに修復してほしい。このようなことがあっては、貸し出し方法も検討しなければならない」と残念がった。

 香南市は「所蔵者にも申し訳ない気持ちでいっぱいだ。元の状態に戻るよう修復に最善を尽くしてほしい」とコメント。県教委文化財課は「たいへん残念。関係者と協力して、修復作業を支援していきたい」としている。

(2010年9月19日15時04分 読売新聞)

長崎
表敬訪問:ジョン万次郎直系5代目・中濱さん、長崎市長を きょうから講演会 /長崎
 ジョン万次郎(中濱万次郎)直系5代目子孫の中濱京(なかはまきょう)さん(46)=名古屋市天白区=が18日、長崎市のグラバー園を訪れ、田上富久市長を表敬訪問した。
 ジョン万次郎は1841(天保12)年、出漁して遭難し、米国捕鯨船に救助されてそのまま渡米。英語や航海術などを学び、帰国後、坂本龍馬ら幕末の志士たちに大きな影響を与えた。
 中濱さんは19、20両日、県内で講演するために訪れ、「ジョン万次郎は龍馬と同じころ、長崎に滞在していた。万次郎と長崎との関係などを紹介したい」。田上市長は「『龍馬伝』放送をきっかけに、当時のつながりのある人たちが訪れてくれる」と喜んだ。
 講演テーマは「ジョン万次郎のすべて」。19日は午前11時、長崎市立図書館多目的ホール(1000円)▽20日は午後2時、大村市のシーハットおおむらさくらホール(無料)で開かれる。【阿部義正】







 やっと猛暑が収まり、いくらか過ごしやすくなって連休に突入なう。

薩長密約の龍馬の裏書き 公開
 幕末の志士、坂本龍馬が薩長同盟の密約を保証した裏書きなど、宮内庁で保管されてきた貴重な図書や文書が18日から皇居で一般公開されます。
 これは、皇室に伝わる図書や文書などを保管してきた宮内庁の書陵部が、45万点を超える所蔵品の中から、特に歴史的価値の高い古代から近代までの日記や絵巻、文書など、あわせて40点余りを選んで開くものです。このうち、幕末の志士、坂本龍馬自筆の書は、薩長同盟の密約の立会人となった龍馬が、長州藩の木戸孝允に密約を保証した裏書きで、最後に龍馬の名前の一部が記されています。また、今回初めて公開される、囲いを伴った家形の埴輪(はにわ)は、おととし大阪・堺市の百舌鳥陵墓(もずりょうぼ)参考地から出土したもので、古墳時代中期の5世紀に儀式などで使われていた建物を表したものとみられています。宮内庁で保管されてきた貴重な図書などがまとまった形で一般公開されるのは初めてで、皇居にある三の丸尚蔵館で、平日の月曜日と金曜日など一部の休館日を除いて来月17日まで開かれます。


北海道
復元の箱館奉行所、開館50日目で入館10万人達成
 函館・五稜郭公園に復元された箱館奉行所の入館者が16日、10万人に達した。開館から50日目のスピード達成で、10万人目となった青森市の公務員小形圭史さん(27)に記念品が贈られた。
 家族旅行で訪れた小形さんと妻洋子さん(29)、長男悠大ちゃん(2)に対し、奉行所の指定管理者である名美興業の阿相博志社長が記念品を手渡した。
 小形さんは「良い思い出になりました。(幕末20件)当時のものに興味があり、奉行所に来たいと思っていました」と話していた。
 7月29日の開館以来、入館者は予想を上回るペースで推移。初年度の目標14万7千人は10月中に達成できる見込みという。(渡辺創)


箱館奉行所 オープン50日で10万人突破
 箱館奉行所(加納裕之館長)の入館者数が16日、7月29日のオープンからちょうど50日目で10万人を突破した。オープン効果や夏休み期間と重なったことなどが影響し、当初見込みよりも1週間早い達成となった。同奉行所は「和建築の趣ある雰囲気が来館者の心に響いているのでは」と好調な集客数の要因を分析する。
 10万人目となったのは、青森市から来場した小形圭史さん(27)。妻の洋子さん(29)と長男の悠大ちゃん(2)と訪れた。小形さんは館内大広間の「壱之間」で、同奉行所の指定管理者「名美興業」の阿相博志社長から記念品の贈呈を受けた。小形さんは「記念すべき10万人目でびっくり。往時の姿を再現したと聞き、前から来てみたかった」と話していた。
 同奉行所の来館者数は7月が6673人、8月は6万5843人だった。アンケートの調査結果によると、訪れた人の割合は道外が約37.5%、道内が約35%、市内居住者が約28%。
 9月は修学旅行など団体利用が大きく伸びたほか、遠足などで市内の小学生が訪れる姿が目立つという。初年度の入館見込み数は14万7000人としており、同奉行所は「現在も多くの人が来館してくれている。見込み数も10月中には達成可能」と話す。
 同奉行所は国の特別史跡「五稜郭跡」に、2006年から4年の工期を経て完成。解体前の古写真や発掘調査、古図面、文献資料を基に、当時の資材や工法をできる限り使用。総工費は約28億円。幕末当時、約2700平方メートルあった同奉行所の3分の1に当たる、約1000平方メートルが復元された。


東京
【TOKYOウオーク2010】2447人が日野市の歴史と自然満喫
 東京都内の名所を巡る「TOKYOウオーク2010」(共催・産経新聞社、特別協賛・ライオン、協賛・アシックス)の第4回大会が11日、日野エリアで行われた。
 正午前に30度を超える厳しい残暑となったが、2447人が約7~20キロの3コースを歩き、歴史を感じさせる日野市立新選組歴史博物館や高幡不動尊、多摩川、浅川の水辺の自然などを楽しんだ。
 調布市の主婦、星野美矢子さん(45)は暑さ対策でペットボトルの水を凍らせて持参。小学3年の長男と約7キロを完歩した埼玉県所沢市の会社員、吉田康隆さん(39)は「厳しい暑さの中、親子で歩く貴重な体験を共有できた」と話した。
 次回は11月20日に神宮外苑エリアで行われる。


長崎
くんち奉納の歴史といま 長崎、2カ所で展示
 長崎くんち(10月7~9日)に合わせ、「くんち376年展」が長崎市立山1丁目の長崎歴史文化博物館で、「くんち資料展」が同市平野町の市歴史民俗資料館で開かれている。
 376年展では、主に江戸時代のくんち奉納に使われていた衣装や傘鉾(かさぼこ)の垂れなどが並ぶ。幕末の茶輸出商人の大浦慶が油屋町に寄進した朱色に波が描かれた傘鉾の垂れ、上野彦馬撮影局が1891年に撮影したくんちの写真も展示されている。また、常設展示室のくんちコーナーには、今年の踊町の馬町の傘鉾が飾られている。10月18日まで。入場料一般500円、高校生以下250円。
 資料展では、江戸時代から昭和にかけて奉納に使われた太鼓や笛、衣装など約100点が見られる。今年の踊町の築町が御座船を初めて奉納した1932年の資料では、構想段階での船の絵図、完成した船や衣装を色彩豊かに描いた絵巻、実際の写真が並ぶ。10月17日まで。入館無料。


鹿児島
西南戦争の激戦地で『半次郎』プレミア上映。前売券5,000枚完売の大盛況
 幕末維新、西郷隆盛の右腕として活躍した薩摩の侍、中村半次郎(後の桐野利秋)の生涯を描いた映画『半次郎』のプレミア上映会が、9月11日・12日の両日、西南戦争の激戦地・鹿児島県伊佐市にて開催された。
 会場となったのは伊佐市文化会館大ホール。計6回上映のために用意された前売券5,000枚は完売。上映に際しては舞台挨拶も行われ、伊佐市出身で主演の榎木孝明、ヒロインの白石美帆らが登壇。会場を大いに沸かせた。
 本作の企画者でもある主演の榎木孝明は「企画から13年、ついに完成した『半次郎』の披露上映を故郷・伊佐市で迎えることができ、感無量」とコメント。「日本人の良さ、精神文化の美しさが描かれたこの作品を、伊佐市から発信し日本全国さらには世界へと拡げていきたい」と語った。
 半次郎を心を通わせる京都の商家の娘役で出演した白石美帆からは「撮影中は、地元の方々から、多くのお力をいただきました」という挨拶に続き「榎木さんをはじめ関わった方々の熱い想いが隅々にまでこもった作品で、観れば何か湧き出てくるものがある、大きな作品に仕上がりました」と語った。
 本作は、西南戦争の大規模な会戦シーンや山中でのリアルな戦闘描写なども見どころの戦争スペクタクル大河ロマン。撮影は全て鹿児島・熊本・宮崎など南九州で行われ、実際の戦跡も数多く登場する。時代劇初挑戦となるEXILEのAKIRAが魅せる圧巻の殺陣にも注目が集まっている。
 『半次郎』は、9月18日(土)より九州先行公開後、10月9日(土)より、シネマート六本木ほか全国にて上映される。

コラム
【龍馬を慕(おも)う】(24)京都・壬生 新選組が持つ魅力と魔力
 壬生(みぶ)寺に入るとすぐ右手に、ちいさな池に包まれるようにして壬生塚があった。正面には、いかめしい表情をした近藤勇の銅像があった。
 その右手には、勇像のスタンプが押された絵馬がびっしりと掲げられていた。これがおもしろい。
 「尊敬する近藤さん、土方さん、沖田さんのような素敵(すてき)な方とめぐり会えますように」
 「新選組が大好きです。刀一本に命と志をかけて生きた姿を見習いたい」
 「沖田総司と結婚したい!! もう別人でもいい!! 沖田の名字が欲しい!!」
 たいていは若い女性の文字である。だが龍馬暗殺もくわだてた新選組という異様な結社の歴史は、疑心と内訌(ないこう)と裏切りと残酷さに満ちていた。残念ながら、「素敵」とは、とても思えない。
 ●わずか17人で結成
 浪士組という、幕府公認の奇妙な武士団が江戸から、二条城にちかい壬生寺周辺の郷士や豪農宅にやってきたのは、文久3(1863)年2月である。現存する八木邸や前川邸など3カ所が屯所とされた。総勢250人にのぼる大集団である。
 リーダーは庄内藩出身の郷士、清河(きよかわ)八郎である。清河は徹底した尊王攘夷思想の持ち主であった。攘夷を曖昧(あいまい)にしておきたい幕府とは折りあいがつかず、翌3月にはほとんどの浪士たちとともに江戸に帰ってしまった。
 だが芹沢鴨(かも)や近藤勇、土方歳三(としぞう)、沖田総司といったおなじみの面々は京に残った。その数はわずか17人であった。これが新選組のはじまりである。
 身分上は守護職会津藩主御預り。職務は京都にいる不穏な分子を斬(き)れ、であった。いわば会津藩の私設治安部隊である。
 壬生寺を出て、すぐ斜め向かいの前川邸に入った。邸内の見取り図が展示されていた。
土方が拉致した尊攘派の志士に拷問をくわえ、池田屋事件の謀議を自白させた「東の蔵」もあった。逆さ吊(つ)りにしたうえ、足の甲に五寸釘(くぎ)を打ちつけたというから、とても「素敵な方」のふるまいとは思えない。
 邸内奥の6・5畳間の「ここで山南敬助(やまなみ・けいすけ)切腹」の説明文に目が引かれた。新選組副長でもあった山南の切腹にはナゾが多い。
 表向きは手狭になった屯所を、尊攘派に通じているとされた西本願寺に移す計画について、西本願寺を見張るようで見苦しいと反対したとされる。移したのは慶応元(1865)年3月、山南の切腹はその直前である。
 千葉道場出身で、坂本龍馬とも顔なじみでもあった山南は、龍馬に親近感を抱いていた。もう幕府はダメだと思っていたフシもある。司馬遼太郎の『竜馬がゆく』でも、山南にこう言わせている。
 「私は、この時勢に対する考え方というものは、坂本さんと同じなつもりだ」
 こういう考え方が、近藤らに勘(かん)づかれのではないだろうか。
 ●隊員の無惨な最期
 何十年ぶりかで、堀川七条にある興正寺(こうしょうじ)との間の北小路門から、西本願寺の境内に入った。白い築地塀をしばらく行くと、奢(しゃ)を極めた唐門(からもん)がある。
 さらに行くと本願寺中央幼稚園の入り口があった。中に入ると、左手には龍谷(りゅうこく)大学の図書館、中央にはビャクシンの大樹、そして右手は駐輪場になっていた。
この駐輪場付近には、かつて木造平屋建ての、古ぼけた宗教記者室があった。筆者も宗教記者として、2年間ほど、手前の入り口から、なんども靴を脱いで入った。
 すぐ右手の窓際には、洋風の長椅子(いす)があった。だいぶ年季が入っており、布地は薄い緑色に褪色(たいしょく)していた。理髪店の長椅子のように頭部のほうが反りあがっているので、寝ころびながら本を読むには便利だった。
 いつもそこで本を読んでいると、顔見知りの長老の宗会議員がフラリと顔を見せ、「最近、モノを書いている福田クンは元気かね」と訊(き)いてきた。首を傾(かし)げると、「福田クンもいつも、そこで本を読んでいたナ」となつかしそうに言った。
 「福田クン」とは福田定一、筆名・司馬遼太郎である。「福田クン」と同じ新聞社につとめ、「福田クン」と同じ宗教記者となり、「福田クン」と同じように長椅子で本ばかり読んでいたが、とうとう「福田クン」のようにはなれなかった。
 境内をぐるりとまわって、御影堂や阿弥陀堂の大伽藍(がらん)のまえを通った。境内をほぼ一周したが、新選組の屯所跡を示す碑などはなかった。
 新選組が西本願寺を出て、京都駅ちかくの不動堂村に移ったのは慶応3年6月である。ここには屯所跡の碑はあった。
 土地の確保から移転費用、新屯所の建物などは、すべて西本願寺が負担した。西本願寺の寺侍が書きのこした記録には、
 「疫病神ヲ送リ出シタル心地シテ門主及ビ一家ノ歓喜カギリナシ」
 と書かれていた。「疫病神」の最期は無惨(むざん)であった。近藤勇や土方歳三以下、多くの隊員はたいてい横死した。(文 福嶋敏雄)
                   ◇
 ≪メモ≫
 壬生寺(京都市中京区)は律宗の寺で奈良時代、鑑真が開いたとされる。鎌倉時代に円覚によって再興され、仏教の教えを説く無言劇の壬生大念仏狂言(国重要無形民俗文化財)で知られる。阪急京都線「大宮」駅下車3分。西本願寺(下京区)は浄土真宗本願寺派の本山で、広大な境内に大伽藍が並び、世界遺産にも登録されている。京都駅から徒歩約15分。
                   ◇
 ≪きょうの龍馬伝≫
 ■NHK総合 午後8時~ ほか
 寺田屋の襲撃で死のふちをさまよった龍馬(福山雅治)は、薩摩藩邸でお龍(真木よう子)の看病を受けて何とか動けるようになる。不自由な体で木戸(谷原章介)が送ってきた密約の文書に裏書きし、西郷(高橋克実)の勧めで安全な薩摩で療養することになる。龍馬はお龍に妻として一緒に行こうと言い、お龍はうなずく。長崎に立ち寄った2人。お龍は亀山社中の面々に紹介されたものの、龍馬はすぐ忙しく今後の相談を社中と始め、次は1人でグラバー邸に出掛けてしまう。グラバー邸には海外へひそかに行こうとする高杉(伊勢谷友介)がいて、これから2人で一緒に面白いことをやろうと誓うが、実はこの時、高杉の体は病魔にむしばまれていた。


【幕末から学ぶ現在(いま)】(79)東大教授・山内昌之 西郷隆盛(中)
手段よりも人物こそが宝
 民主党代表選は、円高株安や尖閣諸島海域への中国漁船の不法侵入など内外情勢多難な折に行われたが、菅直人首相の選出でひとまず決着した。ともかく、この選挙は菅首相と小沢一郎氏にとり、それぞれの思惑で奇貨(きか)居(お)くべしと、つかみとった「機会」への挑戦であった。
 菅首相は当初から追求してきたクリーンな政治確立につながる好機と考え、小沢氏は自民党幹事長を経験して以来掲げた官僚統治構造の改変を実現する「天命」の到来と理解したのである。2人の建前は美麗すぎるにしても、両者ともに今回を遇機(機会にあう)逸すべからずと鎬(しのぎ)を削った点は事実であろう。
 その意味では、政治家らしい緊迫した対決であり、天与の機会を避けずに争っただけに、今後の民主党は分裂含みの対立がますますあらわになるはずだ。
 ◆2種類の機会
 ところで、「天命」といえば、「天」と、その理と、その機会を信じた西郷隆盛をすぐに思いだす。西郷は政治家として機会をとらえる重要性を強調していた。
 「事の上にて、機会といふべきもの二つあり。僥倖(ぎょうこう)の機会あり、又(また)設け起す機会あり。大丈夫僥倖を頼むべからず、大事に臨(のぞん)では是非機会は引起さずんばあるべからず。英雄のなしたる事を見るべし、設け起したる機会は、跡より見る時は僥倖のやうに見ゆ、気を付くべき所なり」(岩波文庫『西郷南洲遺訓』所収「南洲答」六)
 西郷の言いたかったのは、機会に2種類あるということである。求めずに偶然に幸運が訪れる機会。或(あ)る目的のために人為的に作り出す機会。立派な男子たる者は、偶然の幸運を頼んではならないのだ。大事なときには、何としても機会を作り出さなければならない。歴史上の英雄が果たした事績を見なくてはならない。人為的に作り出した機会は、後世から見ると偶然の幸運のようにも見えるが、そうでないことに注意を払うべきだと西郷はいうのだ。
 ◆制度の論議は第一ではない
 今回の民主党代表選は、偶然の機会でなく、時勢に応じ理にかなった人びとが行動することで訪れた真の機会と符合したといえるのかもしれない。しかし西郷のような見方からすれば、代表選の勝敗そのものが目的であるはずもない。
 政治家は、制度をいくら変えいじくっても政治を動かすことにはならない。官僚統治構造の打破を謳(うた)い政治主導を賛美するなら、政治家は官僚に勝る知恵と政策力を身につけなくてはならない。これはすでに西郷が強調していた点でもあった。
 「何程制度方法を論ずる共、其人に非(あら)ざれば行はれ難し。人有て後方法の行はるるものなれば、人は第一の宝にして、己れ其人に成るの心懸(こころが)け肝要なり」(同『西郷南洲遺訓』所収「遺訓」二〇)
どれほど政治の制度や手法のことを論じようとも、それを動かす能力をもつ人がいなければ駄目である。まず人物、次が手段手法のはたらきという順番になるので、人物こそ第一番目の宝物であり、我々(われわれ)はみな人物になるよう心がけることが重要である、と。
 こうした観点から今回の民主党代表選を眺めると、ほとんど別個の政党に属するかのように主張も見紛(みまが)う2人の間で戦われた印象が強い。代表選が終わっても、曖昧(あいまい)な妥協や馴(な)れ合いで形式だけの挙党一致をはかるのがよいのか、それとも将来の福祉社会の安定化を睨(にら)んだ消費税問題や外交安全保障政策を基準とした政界再編成がよいのか。今回の代表選の余燼(よじん)はまだくすぶるだろう。
 ◆互いに探り合う妙手
 〈敵を苦しめ 味方を愛することこそ
 人たるものの生き方である〉
 14世紀のイスラームの統治論、イブン・アッティクタカーの『アルファフリー』(平凡社東洋文庫)に見える詩である。西郷は大義の前に友人の大久保利通(としみち)と訣別(けつべつ)し、高杉晋作は寡勢(かぜい)をものともせず決起し俗論派の椋梨藤太(むくなし・とうた)らを失脚に追いこんだ。
 この2人を尊敬する小沢氏と菅首相が打つ次の一手は何であろう。或(ある)いは何事もなかったかのように、挙党一致を演出する可能性もなくはない。確かにイブン・アッティクタカーも「罪を許し、過失をよく許すのも王者に望まれる性質のひとつである」と述べたものだ。碁敵(ごがたき)でもあった2人に妙手はあるのだろうか。興味の尽きないところである。(やまうち まさゆき)






 眉とまぶたの間に吹き出物ができました(汗)。腫れにまぶたが引っ張られて、ちょっと嫌な感じです……ごくわずかな違和感も、薄い皮膚には敏感に伝わりますね。

北海道
はこだて外国人居留地研 函館、中国の交流史一枚に あすの見学会でも活用
【函館】函館の歴史研究グループ、はこだて外国人居留地研究会(岸甫一代表)は、函館と中国の交流史について最新の研究成果をまとめたリーフレット「はこだてと外国人居留地 中国編」を作成した。12日の函館中華会館創立100周年記念シンポジウムに合わせ、11日に開かれる中華会館(函館市大町)の特別見学会などで活用する。
 函館では1865年(慶応元年)、長崎会所が独占していた幕府専売の俵物と称される海産物の売買が自由にできるようになった。長崎の独占が崩れたことで幕末20件から明治にかけ、函館には多くの中国人が流入した。リーフレットでは、こうした函館と中国の交流史を詳しく解説。中華会館など西部地区にあるゆかりの地を紹介する地図や、写真を添えた各種エピソードも掲載した。
 両面カラーで3千部印刷。市地域交流まちづくりセンターで無料配布している。
 11日は午後1時から、シンポジウムの一環として函館華僑総会の任道治理事の案内で中華会館特別見学会と船見町の中華山荘(中国人墓地)の説明会を行う。
 続いて、はこだて外国人居留地研究会が、1890年代に現在の弥生町に存在した清国領事館の跡地、大町の外国人居留地跡を紹介する散策会を開く。中華会館の入館料600円と、中華山荘までの路線バス代200円がかかる。
 参加希望者は当日中華会館横の駐車場に集まればよい。
 シンポジウムは12日午前10時~午後4時、函館市中央図書館で開催。曽士才(そうしさい)・法政大教授の記念講演や川嶋稔夫・公立はこだて未来大教授らの研究報告が行われ、リーフレットが配布される。参加無料。参加希望者は当日会場へ。(小森美香)


福島
坂下で戊辰戦争受難者の慰霊祭
 戊辰戦争で会津藩の娘子(じょうし)軍隊長を務めた中野竹子の墓前祭と、同戦争の受難者の慰霊祭は10日、会津坂下町の法界寺で行われた。
 竹子は、なぎなたを手に新政府軍と戦い亡くなった。
同寺に墓が残っていることから、町内の女性でつくる町小竹会が主催し毎年、実施している。
 会員や関係者ら約100人が参列した。
 竹子の生きざまを歌った「護領の若竹」を全員で合唱。
 詩吟を奉詠する中、会員が花や茶をささげた。
 山口金子会長が式辞を述べ、同寺の井上文雄住職はじめ町内各寺の住職が読経し、竹子や戊辰戦争の殉難者を慰霊した。
 坂下婦人会の斎藤京子会長らが追悼の言葉を述べた。
 焼香の後、舞踊団体のひだまり会の二瓶淑さん、スポーツ民踊の後藤操さんが舞を奉納した。


栃木
幕末の酒蔵で10月コンサート 小山の若駒酒造が創業150年記念に
【小山】創業150年を迎えた小薬の若駒酒造は10月9日、酒蔵で記念コンサートを開く。出演するのは、ともに同酒蔵とゆかりがある「アンサンブル・キャナライズ」と「パパ・サラ」。柏瀬福一郎社長は「国登録文化財にもなっている酒蔵で音楽とこだわりの酒を楽しんでほしい」と話している。
 若駒酒造は幕末30件の1860(万延元)年創業。現存する建物は当時建てられたとされ、このうち煙突のある主屋など3棟が2007年、国登録文化財になった。同社は、人々が集う酒蔵を目指して旧貯蔵庫を多目的ホール「醸楽蔵」と名付け、音楽会や地元芸術家の作品展などを開いている。
 今回出演する「キャナライズ」は、女性4人のフルートとピアノのアンサンブル。06年から毎年、「醸楽蔵」でコンサートを続け、07年にはオリジナルCDと同社の日本酒をセット販売したこともある。
 「パパ・サラ」は南米アンデス地方の音楽「フォルクローレ」を日本語で歌い演奏するグループ。昨年春と秋の2回、「醸楽蔵」でコンサートを開いた。
 記念コンサートは午後2時と同6時開演の2回。開場はそれぞれ1時間前。休憩時には同社の日本酒、仕込み水の試飲もできる。柏瀬社長は「昨年はここでテレビドラマの撮影も行われた。登録文化財にもなっている酒蔵をぜひ多くの人に見てもらいたい」と話している。
 定員は各100人程度。チケットは前売り2000円、当日2500円。小中高生は1500円。事前に申し込めばJR思川駅まで送迎するという。申し込み、問い合わせは同社電話0285・37・0429。


茨城
二の丸御殿調査用排水路跡など出土 茨城
 県教委が6月から行っている水戸城跡の二の丸御殿部分の初調査で、発掘調査を受託する県教育財団は10日、調査状況を報道陣に公開した。
 県立水戸第三高校(水戸市三の丸)の敷地内を発掘。整地された地面が8層あることが分かったほか、石組みの用排水路や井戸の跡などが出土した。
 同財団によると、時代の違う遺構が同じ位置に配置されていることから、前代の工事を活用した効率的な工事が行われたと推定されるという。領主が替わるなどして何度も建て替えられた御殿部分の変遷が確認された。発掘部分は図面から、幕末期には食堂や家老の部屋として使われた部分という。


東京
【TOKYOウオーク2010】2447人が日野市の歴史と自然満喫
 東京都内の名所を巡る「TOKYOウオーク2010」(共催・産経新聞社、特別協賛・ライオン、協賛・アシックス)の第4回大会が11日、日野エリアで行われた。
 正午前に30度を超える厳しい残暑となったが、2447人が約7~20キロの3コースを歩き、歴史を感じさせる日野市立新選組歴史博物館や高幡不動尊、多摩川、浅川の水辺の自然などを楽しんだ。
 調布市の主婦、星野美矢子さん(45)は暑さ対策でペットボトルの水を凍らせて持参。小学3年の長男と約7キロを完歩した埼玉県所沢市の会社員、吉田康隆さん(39)は「厳しい暑さの中、親子で歩く貴重な体験を共有できた」と話した。
 次回は11月20日に神宮外苑エリアで行われる。


漫画や映画の近藤勇に迫る! 調布市郷土博物館「近藤勇展」!!
 皆さん、こんにちは。ぬらりひょん打田です。
 今回は東京都調布市の郷土博物館による『映画や漫画に登場する近藤勇展』を紹介します。
 東京都調布市は、かの有名な新選組局長「近藤勇」の出身地です。市内には近藤の生家跡があります。そんな調布市の郷土博物館が今回、近藤勇をテーマに展示を行っています。実在の近藤勇のほか、漫画や映画の中で活躍した近藤や新選組の姿を紹介しているんです。様々に描かれる近藤勇の姿が見られますよ!!

 まずは展示室で、大きな近藤の像が出迎えてくれます。
 古いものでは紙芝居の『鞍馬天狗』が展示されていますが、ここでは新選組は敵役として登場します。そして昭和に入り新しい解釈がなされ、昭和30年代以降に新選組ブームは広がりを見せたようです。
 映画に関しては『新撰組血風録』などの古い映画の写真をはじめ、比較的新しい『御法度』などのパンフレットもあります。
 漫画は、調布市にお住まいの水木しげる先生が描いた近藤勇関係の作品をはじめ、手塚治虫先生、石ノ森章太郎先生などの作品も展示されています。一部はその場で読むこともできますよ。
 この展示を見てわかることは「どういう価値観や思想を軸にして考えるかで、新選組の見え方が変わってくる」ということです。大衆文化に現れ始めたときの新選組は悪役として描かれることが多かったようですし、占領下の昭和20年代、チャンバラ映画は封建的精神を助長するということで禁止されていました。娯楽も、やはり時代を映す鏡なんですね。…と、実は展示の漫画の絵を見ているだけで楽しかったので、そんな難しいことは考えていなかったんですが(笑)。
 いろいろと権利関係で苦労があると思いますが、こういうテーマで歴史上の人物を扱う催しは珍しいと思います。他の人物の展示も見てみたいですね。「聖徳太子」「織田信長」「真田幸村」「伊達政宗」…などなど。昨今のゲームに登場するのも含めると、いっそう楽しいと思います!! どこかやってくれませんかね…?

「映画・漫画に登場する近藤勇」
2010年9月23日まで
会場:調布市郷土博物館
開館時間:午前9時から午後4時 入館無料
休館日:月曜(祝日の場合は翌日)
住所:東京都調布市小島町3-26-2
アクセス:京王線 京王多摩川駅下車 徒歩4分

(「妖怪コスプレ記者」ぬらりひょん打田 山口敏太郎事務所)

参照 山口敏太郎公式ブログ「妖怪王」
http://blog.goo.ne.jp/youkaiou


京都
【龍馬を慕(おも)う】(23)京都・三条小橋 「池田屋事件」の舞台はいま
 河原町通を北上し、三条通を右に折れた。高瀬川にかかる三条小橋の手前まできたとき、ちょっと目をむいた。維新史のなかでももっとも血なまぐさい池田屋事件の跡地に、「池田屋」という海鮮茶屋ができていたのである。店のまえの、
 「池田屋騒動之址(あと)」
 という石碑は、むかしのままである。だがかつて、その石碑のまえには、パチンコ店があったはずである。なんどか斬(き)り込み、ほとんど負けたから、覚えている。
 店頭には、事件のあらましを書いた解説文と、死んだ志士たちの名前、年齢、出身地の一覧表が掲げられていた。解説文の最後のほうに、「この事件で倒幕が一年遅れたといわれる」とあったが、これはちょっとおおげさであろう。
 三条小橋周辺は、江戸期から旅宿が立ちならび、池田屋も昭和の初期まであったという。その池田屋がパチンコ店などを経て、旅宿ではないが、海鮮茶屋となって復活したことになる。思わず斬り込む、ではなく、入店してみようかと思ったが、ひとりで酒を飲むのも味気ないので、遠慮した。
 ●3藩のあやうい均衡
 新選組による池田屋襲撃事件が起きたのは、元治元(1864)年6月5日午後10時ごろである。双方の斬り合いは、3時間も続いたという。
 このころの京の政治情勢をざっと俯瞰(ふかん)すると、前年の文久3年までは、薩摩、会津、長州の3藩があやうい均衡をたもっていた。
 だが長州系の公卿(くぎょう)、姉小路公知(きんとも)の暗殺事件が起き、薩摩の田中新兵衛が犯人と疑われた。薩摩は一時、京の政界から脱落した。
 長州が朝廷を牛耳るようになり、同年8月には、孝明天皇の大和行幸(ぎょうこう)をくわだてた。神武天皇陵などに参拝し、いっきに攘夷を進めようという計画だった。これに呼応し、土佐・檮原(ゆすはら)村出身の吉村寅太郎がリーダーとなり、先鋒(せんぽう)隊を堺から奈良・五条まで進め、代官所を襲った。天誅組(てんちゅうぐみ)の乱である。
 少々、無謀な計画に対し、薩摩は会津と軍事同盟を結び、宮中クーデターを起こし、尊王攘夷派の公卿たちを追放した。「8月18日の政変」である。
 長州藩は追放され、公卿たちとともに、長州にのがれた。いわゆる「七卿(しちきょう)落ち」である。
 このあたりの薩摩の政治的リアリズムは、すさまじい。なにしろ、その2年後には長州と軍事同盟を結び、会津と敵対することになるからだ。司馬遼太郎の『竜馬がゆく』でも、
 「薩摩藩の眼からみれば、会津藩も長州藩もこどものようなものであった」
 と書かれている。
 ●「こども」じみた計画
 たしかに追い込まれた志士たちは、「こども」のようにラディカルになった。御所に火を放ち、幕府側の要人を暗殺したうえで、天皇を長州に連れさる--という「こども」じみた計画を立てた。無謀を通りこして、すでにパラノイア症状(妄想障害)を起こしていた。
 この情報が新選組にもれた。志士たちが木屋町三条にある四国屋か、この池田屋のどちらかで謀議をしていることを突きとめ、近藤勇や沖田総司ら10人が池田屋、土方歳三ひきいる24人が四国屋にむかった。
 近藤は表口と裏口に6人を配置させ、沖田ら4人とともに池田屋内に入った。『竜馬がゆく』によれば、近藤は、
 「亭主はおるか、御用改めであるぞ」
 と土間に入って呼びかけた。すると、2階から話し声が聞こえた。抜刀した近藤らは、土足のまま一気に2階にかけあがった。これ以降の大チャンバラは、あまりにも有名である。二十数人いた志士のうち、座長格であった肥後の宮部鼎蔵(ていぞう)ら9人が死んだ。
 神戸海軍操練所に所属していた土佐の望月亀弥太は重傷を負いながら逃げ出したが、追っ手に追いつかれ、自害した。蓆(むしろ)をかけられた望月の遺骸(いがい)を、騒動を知って駆けつけたお龍は目撃している。坂本龍馬を通じ、望月とは顔見知りだった。後年の聞き取りでは、
 「私は頭の髪か手足の指か、何かひとつ形見に切っておきたいと思いましたが、番人がいっぱいおって取れないのです」
 と語っている。髪はわかるが、手足の指を切る、という発想にはたまげる。
 事件のとき、龍馬は勝海舟に会うために、江戸に向かっていた。神戸に帰ってきた、おそらく6月末には事件を知ったはずだが、どんな反応を示したのかは分からない。6月28日付の姉、乙女への手紙のなかに、こんな一節がある。
 「天下に事をなすものハ ねぶともよく●は(腫)れずてハ、はり(針)へハうみ(膿)をつけもふさず候」
 幕府という腫れ物を倒すには、膿がもうすこしたまってからだ、という意であろう。ようするに時期尚早論である。
 新選組の名前は京中に響きわたり、志士たちを畏怖(いふ)させた。この異様なテロリスト集団について考えるためには、屯所(とんしょ)のあった壬生に向かわなければならない。(文 福嶋敏雄)
                   ◇
 ≪メモ≫
 鴨川にかかる三条大橋は東海道の出発点で、京都への玄関口でもあった。現在も木製の欄干が残り、京情緒を感じさせる景観となっている。「池田屋騒動之址」の碑へは、京阪電鉄「三条」駅か、京都市営地下鉄東西線「京都市役所前」駅を下り、徒歩約2分。長州藩邸の跡や土佐藩邸跡、坂本龍馬と中岡慎太郎が見廻組に襲われ、暗殺された近江屋跡などもごく近い。
                   ◇
 ≪きょうの龍馬伝≫
 ■NHK総合 午後8時~ ほか
 薩長同盟を成し遂げ、寺田屋に戻った龍馬(福山雅治)は、弥太郎(香川照之)に薩長が手を結んだこと、そして日本の仕組みが大きく変わり、幕府の時代が終わりを告げるであろうこと、その中で弥太郎が何をすべきか考えろと告げる。西郷(高橋克実)が密約を文書にしなかったことを危ぶむ木戸(谷原章介)が、文書化を主張。龍馬は証明の裏書きをするまで、寺田屋に残ることになる。もう京へ戻ることはないという龍馬にお龍(真木よう子)は複雑な思いを抱き、龍馬もお龍が気になる。京都守護職・松平容保(長谷川朝晴)は、伏見奉行に龍馬を捕らえるよう命じる。深夜、風呂に入っていたお龍が寺田屋を囲む捕り方に気付き、風呂を飛び出して龍馬と三吉慎蔵(筧利夫)に知らせる。
●=くの字点


大阪
【関西あれこれアニバーサリー】緒方洪庵生誕200年 医者志す若者の聖地
医学者、蘭学者で、江戸時代の大坂に「適塾」を開いた緒方洪庵の生誕から、今年で200年。翻訳をもとに日本に西洋医学を伝え、天然痘やコレラの予防にも尽力する一方、適塾では自由闊達(かったつ)な雰囲気のもと、慶応義塾創始者の福沢諭吉、明治維新で活躍した大村益次郎ら、数々の有能な人材を輩出した。適塾には、洪庵の遺徳をしのび、今もたくさんの人が訪れている。(吉田智香)
 洪庵は文化7(1810)年、備中足守藩(現在の岡山市)で生まれた。足守藩士の父が大坂蔵屋敷留守居役となったのを機に、16歳で大坂に出てきた。
 体が丈夫でなかったことから医学を志し、知識を深めた。天保9(1838)年に大坂で医院を開業。腕は確かで、2年後には医師を格付けした番付表に名前が載るようになり、後に大関に上り詰める。
 適塾を開いたのも開業の年。その名は「荘子」に由来するという洪庵の号の一つ「適々斎」にちなんだ。評判が高まるにつれて塾生が増えて手狭になり、7年後に現在の場所(大阪市中央区北浜)に移転した。
 適塾には、最新の学問を身に付けたい若者が続々と集まった。オランダ語の原書を訳す会読が中心で、習熟度に応じて級分けされ、塾生は辞書を頼りに独力で翻訳し、正確さを競った。
 蘭和辞書が置いてあるヅーフ部屋では、塾生が予習のために辞書を奪い合ったという逸話も。諭吉は自伝で「勉強ということについてはこのうえにしようもないほどに勉強した」と振り返っている。
 「洪庵は直訳ではなく、文章の要旨をくんで訳すことを重視した。塾生は原書を正確に訳すだけではなく、解釈をめぐって議論を交わした」と、適塾記念会の橋本孝成資料専門員(38)。「それが個性を伸ばすことにつながり、能力も高まった」と話す。
 一方で、適塾は他の蘭学塾に比べて規則が緩く、飲酒もとがめられなかったという。血気盛んな若者たちのこと。時には“暴走”もあったようで、塾生が寝起きした大部屋の柱には無数の刀傷が残っている。
 洪庵はこのほか、天然痘予防のため種痘所を設けたり、医師向けにコレラの治療法の本を発刊したりして流行を防いだ。大阪大学大学院文学研究科の村田路人教授(55)=日本近世史=は「優れた蘭学者、医学者だっただけでなく、予防という医者の社会的責務を信念を持って実践し、多くの人の命を救った」と話す。
 適塾は今も一般公開されており、昨年は約2万8千人が来館。社会見学の小学生らに交じり、医学部志望の受験生も訪れる。備え付けのノートには「洪庵先生のような医者になりたい」と決意が記されていた。




兵庫
幕末ビールで景気づけ 三田の幸民まつり
 三田藩出身の蘭学者川本幸民(1810~71年)の業績に親しむ催し「幸民まつり」のプレイベントが10日、三田駅前のペデストリアンデッキ(三田市駅前町)で開かれた。幸民が日本で初めてビールを造ったことにちなみ、屋台を開催。会社帰りのサラリーマンら数百人が、郷土の歴史に思いをはせながら舌鼓を打った。(本田純一)
 今年は幸民生誕200年を記念してまつりを2日間に延長し、前夜祭としてこの日、プレイベントを企画した。
 露店やいすなどを設け、市内の飲食店などが出店した。小西酒造(伊丹市)が幸民のビールを再現した「幕末のビール復刻版 幸民麦酒」の生ビールを販売。地場野菜や三田牛、三田ポークなどをふんだんに用いたコロッケやギョーザ、鉄板焼き、焼きそばなども並んだ。
 午後5時の開店直後から、サラリーマンや近隣住民らが次々に立ち寄り、ビアガーデン気分で盛り上がった。西宮市の主婦(50)は「日本初のビールなんてロマンチック。幸民を機に、三田の魅力を知りました。もっとPRしてほしい」と満面の笑み。神戸市北区道場町の妻(64)と妻(60)は「幸民まつり本番が楽しみです」と話していた。
 まつりは11、12日に市内各地で開かれる。


高知
龍馬使用と同型銃、展示は銃刀法違反? 高知県立記念館
 幕末に坂本龍馬が京都・寺田屋事件で使ったとされる拳銃と同型の古い銃が今夏見つかり、高知県立坂本龍馬記念館が一時展示したのち、高知県警から銃刀法違反(所持禁止)の疑いがあると指摘を受けて撤去した。警察庁は10日、記念館職員を県の職員とするなどの方法で展示が可能になるよう、県と県警の間で調整が進んでいることを明らかにした。
 問題となった拳銃は、スミス&ウエッソン社製の回転式6連発「モデル2アーミー」(32口径)。幕末から明治にかけて製造されたとみられる。警察庁によると、市販している銃弾を詰めれば発射が可能で、銃刀法の規制対象となる。
 松山市の民家で今夏見つかり、8月に高知県に寄贈された後、8月22日から5日間展示された。記念館の職員が地方公共団体の職員であれば展示に法的な問題はなかったが、財団法人の職員だったことから、県警から法令違反の疑いがあると指摘を受け、撤去された。菅内閣で進めている「日本を元気にする規制改革100」の中にこの問題が取り上げられ、内閣府から警察庁に相談があったため、同庁と県警、県で検討していた。


佐賀
九州創発塾最終日 出島などで事例体験学習
 「九州が生み出す維新~イノベーションで明日を照らす」をテーマに長崎市で開かれていた「九州創発塾2010長崎大会」(佐賀新聞社など7新聞社主催、九州経済連合会・中小企業基盤整備機構九州支部共催、旭化成後援)は11日、五つの事例体験学習で地域活性化のヒントを学び、2日間の日程を終えた。総合コーディネーターで脳科学者の茂木健一郎氏が「みなさんの行動が歴史を作ることを知ってほしい」と総括した。
 シュガーロードをテーマにした事例体験は出島を見学、江戸時代に輸入された砂糖が長崎街道を通じて全国に広がったことを学んだ。2008年から佐賀、福岡の自治体や菓子組合と地域活性化に取り組んでいる長崎市の担当者は「武雄市とのシンポジウム実施や、福岡でのアンテナショップ開店など成果が出てきた」と話した。
 茂木さんは「幕末の志士や市民の行動なしには、明治維新やフランス革命は起きなかった。みなさんの行動が大きな変革につながることに気づいてほしい」と話した。
 佐賀市職員の緒方玲子さん(32)は「地域づくりのヒントや元気をいっぱいもらった。新しい価値を生み出す仕事をしたい」と話した。


長崎
聖福寺:龍馬ゆかりの唐寺 大雄宝殿修復へ募金活動 /長崎
 1677年に創建された黄檗(おうばく)宗の唐寺で、幕末の志士・坂本龍馬にもゆかりの深い聖福(しょうふく)寺(長崎市玉園町)が老朽化したため、市民有志が募金活動を今月から始めた。特に本堂「大雄宝殿(だいゆうほうでん)」(県指定有形文化財)の傷みが激しく、2年をかけて1億円を集め、修復を目指す。【錦織祐一】

◇長崎市民有志、「協力会」を設立
 聖福寺は、長崎出身の禅僧・鉄心道胖(1641~1710年)が建立。黄檗宗の大本山・万福寺(京都府宇治市)にならった建築様式が貴重とされ、大雄宝殿▽天王殿▽山門が県の有形文化財に指定されている。1867年に、坂本龍馬の海援隊が運航し、瀬戸内海で紀州藩船と衝突して沈んだ蒸気船「いろは丸」の賠償交渉が解決した場となったことでも知られる。
 だが、日中貿易で来日した広東省出身者が檀家の中心だったため、長崎での貿易が衰えた戦後は檀家が減少。寺勢も衰え、伽藍(がらん)も老朽化した。現在は、屋根が草むして崩れ出し、軒先は崩落寸前の状態だ。
 このため、郷土史家ら市民有志が今月1日に「大雄宝殿修復協力会」を設立。募金活動を決めた。世話人代表の一人、原田博二・長崎史談会長(64)は「国の文化財になり得る貴重な名刹(さつ)。抜本的に改修したい」と話している。問い合わせは同会事務局(090・4992・5037)。
〔長崎版〕


龍馬パフェ」観光客に人気 長崎のカフェオリンピック
 長崎市浜町のカフェオリンピックで、パフェの上面に幕末の志士、坂本龍馬の顔を描いた「龍馬パフェ」(788円)が観光客らに人気。
 フルーツやパンナコッタ、アイスなどを詰め込み、その上にソフトクリームを。最後に龍馬の顔の型を乗せ、ココアパウダーを振り掛けると出来上がり。
 龍馬ブームが高まる中、「自分も地元を盛り上げたい」と中山陽三店長(58)が考案。「これを食べると、日本の歴史を動かした龍馬の勇気にあやかれるかもしれませんね」


鹿児島
雑記帳:ランタンの龍馬とお龍、鹿児島へ「新婚旅行」/霧島で展示へ
 長崎市が中心市街地に設置する幕末の志士、坂本龍馬と妻お龍のランタン(中国ちょうちん、高さ約2~2・5メートル)=写真=が10日、鹿児島県に向け、“特別派遣”された。
 2人のランタンは大河ドラマ「龍馬伝」放映と、今年2月の長崎ランタンフェスティバルに合わせ、台湾で製作。鹿児島での長崎物産展(15~27日)を機に派遣が決まった。
 ランタンは15~20日、2人が新婚旅行をした鹿児島県霧島市で展示される。長崎市の担当者は「2人が新婚生活を送った長崎に、鹿児島からもぜひ」とPRを忘れなかった。【錦織祐一】


コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(78)小沢氏と西郷隆盛の違い 東大教授・山内昌之
■敬天愛人の政治
 民主党内には代表選を西南戦争に擬(なぞら)える雰囲気があるらしい。実際に9月1日夜、菅直人首相は支持者の会合で「明治維新に西郷隆盛の力は必要だったが、西南戦争があって本格的な明治政府ができた」(産経新聞9月2日朝刊)と語っている。代表選は明治10年の西南戦争に相当し、小沢一郎氏の政治生命を絶ついくさになるというわけだ。
 それにしても、「菅軍」なる音を官軍にかけるのは上品なたとえとはいえない。しかし小沢氏の政敵たちは、維新つまり政権交代の功労者、小沢氏の行く末を西郷の運命に重ねたかったのだろう。
 確かに小沢氏自身も、5日のテレビ番組で「情的に好きな」人物として西郷を挙げ、その理由として「いかにも日本人的だから」(読売新聞9月6日朝刊)と答えている。
  
すべてを始動させる原動力
 西郷隆盛は、無教会派キリスト者の内村鑑三でさえ日本史でいちばん偉大な人物と讃(たた)えたほどの人物である。維新後の西郷は経済改革について無能だったかもしれず、内政についても木戸孝允(たかよし)や大久保利通(としみち)の方が精通していたに相違ない。また、国家の平和的安定をはかる点では、公家の三条実美(さねとみ)や岩倉具視(ともみ)でさえ西郷よりも有能だったかもしれない。

内村も語るように、新たな明治国家はこの人びとの全員がいなくては、実現できなかったともいえる。
 しかし、西郷がいなければ、“明治革命”そのものが不可能だったであろう。木戸や三条を欠いたとしても、革命は上首尾ではないにせよ、たぶん実現を見ていたという内村の見方は正しい。
 「必要だったのは、すべてを始動させる原動力であり、運動を作り出し、『天』の全能の法にもとづき運動の方向を定める精神でありました」(内村鑑三著『代表的日本人』)。この内村の指摘をまつまでもなく、一度動き始め進路さえ決まれば、あとは比較的簡単に処理できるのも政治運動のメカニズムなのである。その多くは、西郷より器量が劣る人間でも自動的にできる仕事だという指摘も基本的に正しい。
  
犠牲最小、効果大の革命
 江戸城の無血開城をクライマックスとする明治維新は、犠牲者の少ない歴史上いちばん「安価な革命」であったが、これを効果的に実現したのが西郷にほかならない。実際に、西郷の偉大さは、犠牲者を最小にしながら効果の大きい革命を実現した点にあるといってもよい。
 現代の政治家たちが西郷を尊敬し好きだと公言するのはまだよいだろう。それは格別に自分を美化し顕示するわけでもないからだ。また、自らの経綸(けいりん)を西郷に重ねてアナロジー(類推)にするほどの自信家がいるとも思われない。他方、たとえ政敵批判のためであっても、小沢氏を西郷に擬えるアナロジーにも慎重でなくてはならない。

 何よりも西郷には「敬天愛人」のような聖者や哲人めいた政治思想があった。天はすべての人を同一に愛するがゆえに、われわれも自分を愛するように人を愛さなければならない。こうした敬天愛人の思想、あるいはそれに匹敵する政治理念をもつ哲学的政治家が果たして現在いるのだろうか。
  
命もいらず、名もいらず
 西郷には、「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るもの也」(『西郷南洲遺訓』)という有名な言葉がある。こういう人物でないと、悩みや苦しみを共にしながら国家の大業を果たすことはできないというのだ。
 ひょっとして、小沢氏の周辺に集(つど)う議員のなかには、苟安(こうあん)(目先の安楽をむさぼること)を謀らない人がいるのかもしれない。しかし、当の小沢氏は果たして「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人」といえるのだろうか。異論のある有権者も多いに違いない。(やまうち まさゆき)
                   ◇
【プロフィル】西郷隆盛
 さいごう・たかもり 文政10(1828)年、薩摩(鹿児島県)生まれ。薩摩藩主、島津斉彬(なりあきら)に取り立てられる。斉彬の死後、島津久光と折り合わず流罪に。禁門の変の後、大久保利通らとともに討幕運動の中心となり、薩長連合や王政復古を成し遂げ、勝海舟とともに江戸城無血開城を実現させた。新政府で陸軍大将・参議を務めるが、征韓論政変で下野。明治10(1877)年、私学校生徒に擁され挙兵する(西南戦争)が、政府軍に敗北し、城山(鹿児島市)で自刃した。49歳だった。








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