新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
落語聴きながら記事つくってます。
北海道
五稜郭跡の「箱館奉行所」公開 140年ぶり復元
「箱館奉行所」復元オープンへ準備大詰め 函館・五稜郭公園
壮大な叙事詩開幕 函館
宮城
副島種臣:栗原の収集家、封書入手 幕末から明治の政治家、書家としても名声 /宮城
福島
鶴ヶ城の赤瓦寄付者記名開始
東京
上演:龍馬ロック音楽劇 兵庫の女性劇団が来月7・8日--品川 /東京
京都
山鉾巡行最後の指揮、きりり
祇園祭山鉾連合会理事長の深見さん
京都市、夏の旅キャンペーン開始
「龍馬伝」5万人突破
同大生2人に記念品
高知
「おどろおどろしさ」だけでなかった、絵金「のぼり」初確認…高知
大分
「中津城下絵図」市文化財に指定
長崎
亀山社中記念館20万人 「龍馬伝」追い風に
鹿児島
観光立国へ薩長同盟 “奇兵隊”が萩PR 宣伝隊、鹿児島市を訪問
文化芸能
歌舞伎・快優列伝:三代目澤村田之助/1 14歳の若さで守田座の立女形に
コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(70)東大教授・山内昌之 佐久間象山
北海道
五稜郭跡の「箱館奉行所」公開 140年ぶり復元
北海道函館市の国特別史跡「五稜郭跡」に幕末当時、北方警備の拠点として設置された箱館奉行所が約140年の時を経て復元され、内部が16日、報道陣に公開された。一般公開は29日から。
市文化財課によると、当時の絵図面や発掘調査結果から、間取りや柱の材質など細部まで忠実に再現。東北産のスギ、ヒバなどの木材をふんだんに使った。直径60センチ、長さ9メートルの重厚感のある梁が見えるよう天井板を張っていない部屋もある。
復元工事は2006年6月に開始し、総工費約28億円をかけ、6月30日に完了。内部は72畳の大広間がある「再現ゾーン」など主に五つに区分けされている。奉行所の3分の1に当たる約千平方メートルを復元、残りは隣接する地面に建物の跡を線で描き規模を伝えている。
奉行所は明治新政府軍と旧幕府軍による箱館戦争の舞台にもなり、1871年に解体された。
「箱館奉行所」復元オープンへ準備大詰め 函館・五稜郭公園
函館・五稜郭公園に箱館奉行所が復元オープンする29日まで、あと2週間となった。同奉行所の指定管理者「名美興業」(函館)はスタッフ研修を繰り返すなど、4年に及んだ開設準備はいよいよ大詰め。市教委には早くも道内外から問い合わせが多く寄せられ、職員が対応に追われている。
奉行所は6月末に完成。青森産ヒバや畳の香りが漂う中、9日には展示設備の搬入が始まった。奉行所周辺では芝生広場や散策路など環境整備工事が最終段階に入った。
名美興業では、市教委の学芸員がスタッフ約30人に専門知識を教える研修を7月初旬に開始。見学者への対応を確認するため、27日には実際に約300人の団体客を受け入れるシミュレーションを行う。
同社の筒井孝則次長は「初年度の推定見学者数は14万7千人。最大の課題である混雑対策に現在、最も力を注いでいる」と話す。
一方、市教委では7月に入り、東京や大阪などから問い合わせが急増。多い日は30件寄せられている。文化財課の野村祐一学芸員は「近年なかった大型施設誕生への期待感と大河ドラマを背景にした幕末ブームが重なり、予想以上の反響」と、うれしい悲鳴を上げる。
江戸幕府の北の拠点だった箱館奉行所の復元工事は2006年に始まり、総工費27億円。広さは千平方メートルで、木造建築物としては道内最大級だ。箱館奉行が執務した表座敷などを再現したほか、出土品などを紹介する展示コーナーも備える。(酒井聡平)
壮大な叙事詩開幕 函館
函館の歴史絵巻を約400人の市民が演じる「函館野外劇」が国指定特別史跡・五稜郭の特別ステージで始まった。8月7日までの毎週末に、アイヌ民族の時代から高田屋嘉兵衛、箱館戦争、歌人石川啄木など10の場面が演じられる。
今年で23回目。7月末に五稜郭内に「箱館奉行所」が復元・完成するのにちなみ、完成を知らせる瓦版をまく場面が新たに加えられた。破損で昨年は初日しか出番がなかった軍艦「甲鉄」が修復され、堀を使った「箱館戦争」の海戦の場面が復活した。
大人2500円(前売り1800円)、高校・大学生千円(同900円)、小中生500円(同400円)。問い合わせは事務局(0138・56・8601)。
宮城
副島種臣:栗原の収集家、封書入手 幕末から明治の政治家、書家としても名声 /宮城
佐賀藩出身の幕末から明治期の政治家、副島種臣(そえじまたねおみ)(1828~1905)の封書を、栗原市の古物収集家(61)が岩手県南部の旧家から入手した。副島は書の達人としても知られ、一風変わった書体で現在も人気があるという。
封書は縦17センチ、横131センチの和紙に縦書きで、あて名は同県南部の有力者とされる「佐藤平次郎(殿)」。佐藤から人を介してあった揮毫(きごう)依頼に対し、「……当家ニ於テハ揮毫ノ依頼一切謝絶致シオリ御座候……」とカタカナ交じり文で断わっている内容。収集家によると、副島が明治政府で重きを成し、書家としても名声を得た明治中期ごろのものとみられる。
副島は勤皇の志士の一人で、征韓論争で下野するなど曲折を経て明治政府の要職を歴任した。「蒼海(そうかい)」の号で書をたしなみ、自作の詩文を清朝政府高官と交換する技量の持ち主だった。
収集家は「副島の書は多くはなく私的ながら貴重な書状」と話し、07年に副島没後100年記念展を行った佐賀県の関係美術館に連絡したいとしている。【小原博人】
福島
鶴ヶ城の赤瓦寄付者記名開始
鶴ヶ城天守閣を幕末時の赤瓦にふき替える工事に伴い、会津若松市は14日、寄付者が赤瓦の裏に直接記名できる取り組みを始めた。
赤瓦の寄付は1枚2000円で1人何枚でも可。鶴ヶ城本丸内の受付所で10月24日まで直接記名でき、芳名帳は永年保存する。寄付の募集は6月2日に始まり、これまで集まった約600口については、職員が代理記名する。
また、従来の黒瓦についても寄付者に記念品として贈呈する。紋様入りの「鬼瓦」が1枚5万円(約30枚)、「軒平瓦」と「軒丸瓦」はいずれも1万円(各約100枚)で、往復はがきで9月30日まで申し込みを受け付ける。
問い合わせは、会津若松市観光課(0242・39・1251)へ。
東京
上演:龍馬ロック音楽劇 兵庫の女性劇団が来月7・8日--品川 /東京
兵庫県宝塚市を拠点に活動する女性だけの劇団「OZmate」の辻井奈緒子代表(46)と団員の松本飛路さん(30)が8月の東京公演PRのため、毎日新聞とうきょう支局を訪れた。
同劇団は1991年の設立で、18歳~40歳代の女性25人が団員として活動している。
メッセージ性のあるオリジナルミュージカルの上演を行う。
8月の東京公演は幕末の志士、坂本龍馬を主人公にした幕末ロックミュージカル「Ryoma」を上演する。龍馬役を演じる松本さんは「ヒーローでなく等身大の龍馬を演じたい」と話した。
公演は、8月7日午後6時半からと8日午後1時から。両日とも品川区北品川2の32の3、六行会ホール。当日入場料4300円。問い合わせはスタジオOZ(0797・85・1106)。【遠山和彦】
京都
山鉾巡行最後の指揮、きりり
祇園祭山鉾連合会理事長の深見さん
祇園祭総責任者の祇園祭山鉾連合会理事長として「最後の夏」を迎えた深見茂さん(76)=京都市中京区=。最後の夏は、クライマックスの山鉾巡行の17日になってようやく天気に恵まれ、汗ばむ暑さとなった。午前9時すぎ、裃(かみしも)姿の深見さんは、凛(りん)とした表情で下京区の四条通に立った。扇子を広げ、先頭の長刀鉾に出発の合図を送った。
■“不変”胸に15年「やるだけやった」
巡行の列を見守りながら、「ここまで天気が良いと、人も増える。観光客の方がけがをしないか、心配なんです」と無事を願った。沿道の各所で、ちまきを持って祭りの支援者と笑顔を交わすと、「さみしなりますね」と声が掛かった。
深見さんは5期15年にわたって務めた祇園祭山鉾連合会理事長を今期で引退する。17日の山鉾巡行は、総責任者という重責を担っての最後の祭りとなる。「早くから今期限りと決めていた。最近は、ほんまに体がえらなってきまして」
自宅を出る前、妻の明子さん(76)に裃を着せてもらった。15年続いた習慣だ。二人は6月5日に金婚式を迎えた。明子さんは「毎年、朝、主人の出発を見送り、午後に帰ってきたら、ほっとする。そんな繰り返しでした」と振り返った。
山鉾町の人たちは「例年通りに」とよく口にする。しかし、変化が激しい現代にあって、「不変」を続けることは、実は難しい。
「負けん気」と「個性派」で知られる山鉾町。「祭りを愛する人ほど、外へはみ出す」というのが深見さんの持論だ。しかし、時には行き過ぎもある。「個」を尊重しつつ、いかにして全体をまとめていくのか、常に頭を痛めてきた。
「まあ、いろいろとありましたわ。辞めると言うても、さみしい気持ちはわかへん。やるだけのことは、やらせてもらったということですかなあ」
昨年9月には、念願だったユネスコ無形文化遺産に登録された。幕末に焼失した大船鉾が復興する足掛かりもつくり、祇園祭の発展への布石は抜かりがない。「山鉾町の方々に理解し、協力してもらって、今がある。何と言っても感謝です。これまで元気でいさせてもらったのは、祭りの手伝いをしたからやと思う。ほんまに神さんのおかげです」
誰よりも祇園祭を愛する深見さん。「来年は、その他大勢となって、祭りを存分に楽しみたい」と笑顔を見せた。
京都市、夏の旅キャンペーン開始
京都市と市観光協会は、「京の夏の旅」キャンペーン(後援・日本観光協会、JR西日本、JR東海)を今月1日にスタートさせ、9月末まで展開する。テーマごとにコースを巡る定期観光バスの運行や文化財の特別公開、京都ならではの体験観光プランなどさまざまな夏の京都が楽しめる企画を提案している。8日にはマスコミを対象にした現地取材会を実施し、コースの魅力などをPRした。
キャンペーンは夏季の特別誘致対策事業の一環として毎年実施されており、今年で35回目を迎える。
観光バス特別コースには3コースを設定。現地取材会では定期観光バス特別コース「京の宮御殿と公家屋敷をたずねて」を紹介。平安女学院大学有栖館、有栖川宮旧邸、旧九條家別邸「拾翠亭」など宮家の旧邸、摂関家の別邸、皇室とゆかりの深い門跡寺院の御殿を中心に巡る内容だ。
有栖館は、300年の系譜を持つ四親王家の1つ、有栖川宮家の旧邸。現在は平安女学院大が京都文化、日本文化の研究や教育などの拠点として受け継いでいる。今回特別公開される建物の1つで、幕末から大正時代にかけての宮邸の様子を見ることができる。
旧九條家別邸「拾翠亭」は五摂家の1つ、九條家の別邸として建てられた。200年ほど前の江戸後期の数寄屋風書院造の建物。また、旧嵯峨御所大覚寺の中にある秩父宮御殿は、大正12年に東宮仮御所の霞ヶ関離宮(現在の国会前庭)に建てられ、後に大覚寺に下賜されたもの。一般に初公開される。
他にも定期観光バスには、「京の龍馬伝〜大龍馬展と伏見のまち」「宮廷鵜飼と夕景の嵐山」の2コースを企画。今年注目の坂本龍馬ゆかりの地や京の夏の風物詩である宮廷鵜飼などが楽しめる。
「龍馬伝」5万人突破
同大生2人に記念品
京都市中京区の京都文化博物館で開催中の特別展「龍馬伝」(京都新聞社など主催)の入場者が15日、5万人を突破し、記念のセレモニーが行われた。
5万人目の入場者は同志社大3年の室田紗希さん(20)=宇治市=、木下真希さん(20)=京都市伏見区=。寺田屋など京の幕末ゆかりの地を巡る途中で同展に立ち寄った。
荒巻禎一館長から記念品を手渡された木下さんは「大河ドラマで幕末に興味を持った。驚いたけどうれしい」と喜び、室田さんは「日本を動かした龍馬や志士の生きざまに、心打たれます」と話していた。
同展は、龍馬たちの実像に迫る史料約180点を展示している。19日まで。有料。
高知
「おどろおどろしさ」だけでなかった、絵金「のぼり」初確認…高知
縦4・5m、力強く養老伝説描く
新たに見つかった絵金が描いたのぼり おどろおどろしい芝居絵で知られる幕末の絵師、弘瀬金蔵(通称・絵金、1812~76)が描いた「節句のぼり」が、絵金が一時暮らしたことがある高知県香南市赤岡町で見つかり、絵金の屏風(びょうぶ)を収蔵する同市の絵金蔵が確認した。絵金が描いたのぼりが見つかったのは初めて。昨年には絵金が子どものために描いた絵本も見つかっており、絵金蔵は「おどろおどろしさだけではない、絵金の一面がさらに広がった」としている。赤岡町一帯で絵金の屏風が民家の軒先で公開される絵金祭りにあわせ、19日まで絵金蔵で公開している。
絵金蔵によると、のぼりは縦約4・5メートル、横約40センチ。染織ではなく、綿の布に顔料でじかに描いていた。岐阜県の養老の滝に伝わる親孝行伝説が題材。木こりと年老いた父親、元正天皇が描かれ、3人の目線や指をさす方向で、奥行きや広がりを持たせている。速くて力強い筆致や線の強弱に、絵金の特徴が見られるという。絵金の雅号「友竹斎(ゆうちくさい)」が銘として記されている。
のぼりを見つけたのは、菓子会社「西川屋老舗」(高知市)の池田聡博(あきひろ)社長(53)。西川屋は1688年(元禄元年)の創業で、同市赤岡町の元店舗で保管していた。1865年(慶応元年)に生まれた曽祖父・再平(さいへい)さんの初節句を祝って作られたとみられるという。池田家はほかにも、絵金の屏風絵やふすま絵も所有している。同時代の絵師・宮田洞雪(1828~98)が描いたのぼり3本も見つかった。
のぼりを見た高知市加賀野井の嘱託社員大坪更生さん(78)は「すごい迫力。原色の屏風絵とは違い、子どもの祝いのために品良く作られている」と話していた。
大分
「中津城下絵図」市文化財に指定
中津市教委はこのほど、江戸時代の歴史資料「中津城下絵図」=写真=と「豊前國(こく)中津勝景之図」、史跡の土塁「中津城おかこい山」を市文化財に指定した。市指定文化財は計140件となった。
歴史資料2件はいずれも城下町地域の民家に保存されている。「絵図」は1830年代~1840年代(奥平藩時代)の製作。城下の町割りが描かれ、寺社や町屋、侍屋敷などが9色で塗り分けられている。藩士の名前もあり、研究資料として信頼度が高いことなどが評価された。
「勝景之図」は幕末の製作で、もとは画帳だったものが巻物にし直されている。絵は21点あり、山国川水系や駅館川水系(宇佐市)周辺の景色が描かれ、当時と現在の景観を比べるのに重要とされた。
「おかこい山」は鷹匠町にある。中津城下を守る要塞(よう・さい)として17世紀中頃以前に造られた。おかこい山が残っている城下町は九州では中津だけという。今年度、復元と説明板設置などを行う予定だ。
長崎
亀山社中記念館20万人 「龍馬伝」追い風に
坂本竜馬が幕末の長崎に設立した日本初の商社亀山社中を復元した「亀山社中記念館」(長崎市伊良林2丁目)の入館者が16日、20万人を突破した。
20万人目となったのは北海道から訪れた会社員中井幸代さん(38)と同岡本綾子さん(39)。NHK大河ドラマ「龍馬伝」を毎週見ているという中井さんは「ドラマに出てくる場所を実際に訪れ、もっと歴史を勉強したくなった」と話した。
同記念館は昨年8月、跡地に残っていた建物を修復しオープン。竜馬が持っていたピストルのレプリカなどが展示され、歴史ファンの人気を集めている。
鹿児島
観光立国へ薩長同盟 “奇兵隊”が萩PR 宣伝隊、鹿児島市を訪問
山口県萩市の観光宣伝隊11人が15日、幕末の志士・高杉晋作が組織した「奇兵隊」の姿で鹿児島市に現れ、市民や観光業者、市役所に萩の魅力をPRした。
2011年3月に九州新幹線鹿児島ルートが全線開業し、同5月に山口-萩間の高規格道路が開通すれば、両市は今の半分の3時間程度で結ばれる。11年は薩長同盟締結から145年の節目に当たるため、歴史的につながりの深い鹿児島に観光産業の活路を求めた。
一行は鹿児島市ホテル旅館組合と協力の証しとなる「薩長友好盟約書」を締結。市役所では、大山直幸経済局長に修学旅行誘致への協力を呼び掛けた。鹿児島随一の繁華街・天文館に向かうと、市民に萩焼の湯飲み約200個を配って、笑顔も振りまいた。
高杉晋作役を務めた萩温泉旅館協同組合副理事長の渡辺浩隆さん(49)は「日本の発展に尽くした薩長で、今度は観光立国の先駆けになりたい」と話していた。
文化芸能
歌舞伎・快優列伝:三代目澤村田之助/1 14歳の若さで守田座の立女形に
◆三代目澤村田之助(1845~1878)
病気のために両足を切り落としても舞台に立ち続け、幕末から明治にかけて一世を風靡(ふうび)した女形。それが三代目澤村田之助である。
弘化2(1845)年2月に、江戸歌舞伎の名門、紀伊國屋の五代目澤村宗十郎の次男に生まれた。幼名は由次郎。兄は四代目助高屋高助。嘉永2(1849)年7月に初舞台を踏んだが、同5年に父が死去。安政6(1859)年正月に中村座で三代目田之助を襲名した。
子役時代から才能を発揮し、早い出世を遂げる。万延元(1860)年正月に守田座で一座の女形の筆頭である立女形に、14歳の驚異的な若さでなった。
「本朝廿四孝(ほんちょうにじゅうしこう)」の八重垣姫、「鬼一法眼三略巻」の皆鶴姫などをつとめて人気を高め、江戸で彼の名を使った商品も続々と発売された。新型の髷(まげ)である「田之助髷」が流行し、娘たちは「田之助襟」や「田之助下駄(げた)」をこぞって買い求めた。
文久元(1861)年10月には市村座で「菅原伝授手習鑑」の八重を演じた。夫の桜丸は十三代目市村羽左衛門(五代目尾上菊五郎)。「続々歌舞伎年代記」には、田之助の八重と二代目市村亀蔵の白太夫が好評だったことが記されている。
この時に亀蔵から、羽左衛門と田之助は演技を怒られた。2人は共演の六代目市川団蔵に教えを仰いだが、それでもはっきりと原因が分からない。田之助の家にこもり、死を決意した桜丸と八重のやりとりを約30回もけいこした。寝る間もなしに翌朝、楽屋入りし、同じ場面を上演すると、今度は亀蔵に「うまい」と褒められた(「菊五郎自伝」)。
元治元(1864)年4月。守田座で田之助は、彼にあてて河竹新七(黙阿弥)が書いた「切られお富」のお富を演じることになる。人気作品の「切られ与三郎」の主役を女形に書き換えた作品だが、初日前に同座は全焼。初演は同年7月の再開場に延びたが、同作品を皮切りに、田之助は彼にあてて書かれた新作を、次々と演じるようになった。【小玉祥子】
コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(70)東大教授・山内昌之 佐久間象山
本物の「タレント」
今回の参院選にはスポーツ選手や各種のタレントの立候補が目立った。その25人のうち、当選したのは、女子柔道の金メダリストや元野球選手など5人にとどまった。この候補者らの政治意識や関心のほどがよく分からない。
そもそも立候補前に、かれらの口から政治外交や金融経済に関する抱負を聞いた人がいるだろうか。多数の落選で、テレビタレントやスポーツ選手として多少の名を売った人が比例で当選できるという思い込みや幻想が崩れたとすれば、今回の参院選は将来の日本政治のレベルアップにかなり貢献したことになる。
まだしも本人がタレントなり才人であればともかく、有名スポーツ選手の父であるというだけの理由で議員に当選した人もいる。また、週刊誌で芳(かんば)しくない話題を提供する以外に、さしたる動向を聞かない人もいる。政党も問題であるが、こうした人物に投票する有権者の気構えも問題であろう。
国や国民を舐(な)めきった政党や一部芸能人の態度に良質な有権者たちが、ようやく鉄槌(てっつい)を下したというのであれば、日本の未来も救われるというものだ。本来「タレント」とは才能や才幹を意味し、そこから「才能のある人たち」に転じ、さらに「芸能人」を指すことになった。芸能人がその芸で才能に恵まれたとしても、政策や構想力を鍛える才能を兼備した例をついぞ知らない。
◆兵学、種痘導入…万能
ところで幕末最大の「タレント」といえば、何といっても佐久間象山(しょうざん)であろう。信州(長野県)松代藩士の象山は、若い時分に経学と数学をともに習得し、主君の真田幸貫(ゆきつら)(松平定信(さだのぶ)の実子)が老中となり海防掛に任ぜられて以降洋学を研究するようになった。
彼の知識は、大砲の鋳造など実学としての兵学から、ガラスの製造、地震予知器の開発、牛痘種痘(ぎゅうとうしゅとう)の導入などにも成功し、「タレント」である以上に「ユニバーサルマン」(万能人)ともいうべき存在になった。その分だけ彼は自分を恃(たの)むところが強く、韮山(静岡県)で反射炉をつくった江川太郎左衛門や、義兄となる勝海舟など幕府の洋学者とソリが合わなかった。
開国論や西洋事情の摂取を説いた『省●録(せいけんろく)』とはあやまちを省みる記録の書という意味だが、とても謙虚に自らの不足を反省するといった段ではないのだ。象山は、「私は長いこと海防に意を用いてきた。思うに、私が発明したものは前人が及ばないものであった」と自分の「タレント」ぶりを自画自賛する。
そのうえ象山は、言わずもがなの自信を堂々と披瀝(ひれき)する。現代語に訳するとこうだ。「およそ学問は必ず積み重ねを必要とするものだ。一朝一夕でたやすく詳細に知ることはできない。海防論も簡単に通暁(つうぎょう)できない一つの大きな学問なのだ」
吉田松陰の密航事件に連座して捕らえられたとき、獄中で書いた『省●録』は、弁解の書というよりも気迫の書ともいうべき活気にあふれた記録である。黒船襲来という国難に対応できる才人は自分しかいないという口ぶりなのだ。むかしから洋学を修め提言や警告もしてきたのに、幕府がそれを無視してきた高いツケが今日の危機をもたらしたと言いたげなのである。
◆門下から多くの人材
勝海舟の妹の順が嘉永5(1852)年に象山に嫁いだが、勝は傲岸(ごうがん)な象山を評価していない。『氷川清話』では、象山は「軽はずみ」にして「ちょこちょこした男」で「あれだけの男」だったと酷評している。しかし、象山門下からは、小林虎三郎、勝海舟、河井継之助、坂本龍馬、橋本左内、加藤弘之らも出ており、彼の「タレント」ぶりを疑う人間はまずいない。
比べるのも愚かにせよ、当節のタレントたちには、政治家に転身することで、自分の新たな職業的覚悟を永久に問われることがよく分かっていないのではないか。有権者の前で得意の技や芸を披露することをタレントの資質やアピール力と錯覚した芸能人やスポーツ選手らには、本物の「タレント」が命さえ犠牲にして自分の才能と理念を訴え続けた歴史の厳しさを改めて理解してほしいものだ。(やまうち まさゆき)
●=侃の下に言
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本連載をまとめた「幕末維新に学ぶ現在」(中央公論新社)が発売中。
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【プロフィル】佐久間象山
さくま・しょうざん 文化8(1811)年、信州(長野県)松代生まれ。幼少から経学や和算に秀で、江戸で儒学者、佐藤一斎に師事した後、神田に塾を開く。老中となった松代藩主、真田幸貫から海外事情の研究を命じられ、「海防八策」を提出。江川太郎左衛門に西洋砲術を学び、勝海舟らに教えた。安政元(1854)年、吉田松陰の密航事件に連座し松代に蟄居(ちっきょ)するが、のちに赦免。元治元(1864)年、幕府の命を受けて上洛し、公武合体や開国を主張したが、京都で尊攘派に暗殺された。享年54。
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全国各地に豪雨の被害をもたらした今年の梅雨、西から順番に明けているようです。今日の東京の空も、梅雨明けの夏空です。
北海道
建物から幕末を感じよう
今年のうちには見に伺いたいものです。
静岡
元新撰組の熱意 脈々 浜松・高町の『浜松教会』創立126周年
京都
池田屋事件にちなみ、京都新選組同好会がパレード
大阪
加藤先生の日本史の授業「龍馬と勝海舟」
広島
「骨董録」繰り上げ公開 県立歴博
長崎
亀山社中記念館20万人達成 北海道の女性に記念品
ブックレビュー
【書評】『歴史ドラマの大ウソ』大野敏明・著
新選組の隊服がリバーシブルって、出典はどの史料でしょうね。仙台の額兵隊が赤と黒のリバーシブルであったとは知っていましたが、新選組がそうだったという話はあったかな?
歴史
「町人切り」見直す新資料 清河八郎
エンターテインメント
ファン・オタク・マニアに向けた、狭くて深いプラットフォーム『Fan+』に迫る!
北海道
建物から幕末を感じよう
■箱館奉行所、29日から公開
幕末、徳川幕府が蝦夷地統治や諸外国との外交などのために設置した「箱館奉行所」の復元工事が完了し、16日に報道機関に公開された。一般公開は29日から。
現在は公園として開放されている函館市の国指定特別史跡・五稜郭の中にある。1864(元治元)年にほぼ完成、箱館戦争では旧幕府軍の本拠地となったが、1871(明治4)年に解体された。
木造平屋建て約1千平方メートルで太鼓櫓(やぐら)は高さ16・5メートル。4室72畳の大広間や、五稜郭と箱館奉行所の歴史を解説した展示、復元工事を紹介した映像シアターなどがある。
復元工事は4年かかり、総工費は約27億円。古文書や古写真などをもとに建築資材や工法などが可能な限り忠実に再現されており、市文化財課では「建物全体が展示物」としている。
29日は午前11時半から。4~10月は午前9時~午後6時(入館は15分前まで)、11~3月は午後5時まで(同)。年末年始休み。大人500円、学生・生徒・児童250円。問い合わせは市文化財課(0138・21・3463=28日までの平日)、29日以降は奉行所(0138・51・2864)へ。
今年のうちには見に伺いたいものです。
静岡
元新撰組の熱意 脈々 浜松・高町の『浜松教会』創立126周年
浜松市で最初のプロテスタント教会「日本キリスト教団浜松教会」(中区高町)が25日で創立126周年を迎える。草創期のクリスチャン迫害にも屈せず、初代教職として教会を発展させたのは、元新撰組隊士とも伝えられる結城無二三(むにぞう)(1845~1912)。関係者らはその信仰のあつさを思うたび、胸を熱くする。 (加藤拓)
昨年のクリスマスイブの礼拝から半年ぶりに訪れた教会。「愛の花」と呼ばれる南アフリカ原産のアガパンサスが青紫の花を咲かせていた。迎えてくれた勝田英嗣牧師(61)の手には「浜松教会百年史」(1991年刊)があった。
それによると、浜松での信徒増加を受け、同教団静岡教会が1884年6月、同区連尺町に講義所を設置。牧師に準じる伝道師の結城を赴任させた。浜松教会が翌月に独立すると、結城はそのまま初代教職に就いた。
長男禮一郎(1878~1939)が著した伝記「旧幕新撰組の結城無二三」(1924年刊)では、結城は山梨県出身で、本名景祐。「自分ほどの豪傑は世に2人、3人といない」という理由で無二三と名乗った。16歳で江戸に出て攘夷(じょうい)の仲間を募るも失敗、20歳ごろ、向かった京都で新撰組に入ったという。
戊辰戦争に敗れ、故郷で農業に従事していた結城のキリスト教入信は34歳。高熱で倒れ、以前読んだ聖書の中の神に祈ったところ、病の床から立ち直ったのがきっかけだった。翌年、カナダ人宣教師の洗礼を受けたのだった。やがて上京して神学を学び、卒業後静岡に派遣される。浜松教会の教職を務めた2年間のうちに磐田市見付、袋井、掛川にも教会を開き、静岡を離れると、山梨や東京でも布教したという。
明治維新から20年足らず。教会設立当時の浜松ではまだキリスト教への不信や偏見が強く、説教中に窓から石が飛び込んでくることも。信者が逃げた後、ひとり結城がつぶてを体に浴びながら説教を続け、やじ馬を逆に感激させたというエピソードが残る。
こうした熱意もあり、最初の2年間で洗礼を受けた信者が19人。勝田牧師は「昨年の教会の受洗者は3人で、それに比べ驚異的な数。(結城は)よほど正義感が強く、活動的だったのだろう」と話す。
教会で勝田牧師を補佐するチャプレンの笠原光雄さん(82)=同区広沢=も、結城を尊敬する1人。「鎖国の世に生まれたからこそ、明治に入り、(価値観の転換を肌身で味わって)外国の宗教に目を向けるようになったのでは」と推測する。 結城のともした信仰の灯は脈々と受け継がれ現在、日曜礼拝や教会学校の参加者は100人を数える。勝田牧師は「浜松の方は信仰が熱心で、団結力も強い。この気質を次世代にも受け継いでいきたい」と思いを新たにしている。
京都
池田屋事件にちなみ、京都新選組同好会がパレード
京都新選組同好会の会員ら39人が16日、歩行者天国となった京都市中心部の四条通などを、羽織袴(はかま)に身を包んだ勇壮な「隊士」の姿にふんしパレードした。
元治元(1864)年の新暦7月、討幕派が集まる旅館に新選組が討ち入った「池田屋事件」にちなみ、毎年祇園祭の宵山にあわせて行っている。
一行は、壬生寺で新選組隊士の墓に参拝後、四条通などを約3・5キロ行進し八坂神社に到着。勇ましい様子に、観光客らから歓声があがっていた。
大阪
加藤先生の日本史の授業「龍馬と勝海舟」
幕末の風雲児、坂本龍馬が主人公となったNHKの大河ドラマ「龍馬伝」が佳境に入り、視聴者の注目を集めています。歴史に詳しい人の解説を受けて、より大河ドラマを楽しんでもらうウェーブ産経の文化サロン「加藤先生の日本史授業第1回『龍馬と勝海舟』」が7月16日、大阪市北区のブリーゼタワーにある産経新聞梅田オフィスで開催され、約40人の会員が参加しました。
講師は大阪府立高校の校長を歴任した元帝塚山学院大学文学部講師で、高・大連携室長の加藤正彦さんです。まず、加藤さんは「若い人にきちんと歴史を知ってもらわないといけない。戦争中に日本を爆撃した米軍の飛行機『B29』について『そんなに濃い鉛筆があるのですか』と言われた」と述べ、会員を笑わせました。サロンのつかみとしては上場のようですね。
本題に入りますと加藤さんは「ドラマには時代考証といい、当時の時代を考えている人がいますが100%ではありません。たとえば、龍馬の家族が土佐の家で食事をしている場面がよく出てきますが、食卓で食べる男性に対して女性はかまどの側で食べることが一般的でした。現在のように一緒に食卓を囲むことはありませんでした」と述べ、女性蔑視や男尊女卑を助長する恐れがあるため現代風に演出されていることを強調しました。
また、龍馬の姉、乙女について体重113㌔もある大きな女性で演じている寺島しのぶさんとは似つかわしくない」とも語りました。約1カ月前のシーンで龍馬が勝と出会った場面に触れ、加藤さんは「面接するように出会いました。勝との出会いが龍馬のターニングポイントになりました。これにより、龍馬は国際人となった」と力説。たとえとして、加藤さんは「プロ野球オリックスの鈴木一朗選手が仰木彬監督と出会ったようなもの。俳優の仲代達也が黒沢明監督に出会ったようなものです」と語気を強めて、龍馬の人生に勝が及ぼした影響の大きさを語りました。
また、多くの手紙を残している龍馬について「ハイ、エヘン、エヘンなど話し言葉をそのまま手紙に書いておりユニーク」と文献を示して加藤さんは解説しました。そして、龍馬に関わった女性についても初恋の人といわれる平井加尾、千葉道場の千葉佐那、結婚したお龍のほかに長崎で出会う「大浦慶」の名前をあげ、大浦慶の半生を紹介しながら、今後のドラマも展望しました。そして、最後に幕末の文学として『一押し』として会員に島崎藤村の「夜明け前」を薦めて文化サロンを終えました。(岩)
広島
「骨董録」繰り上げ公開 県立歴博
幕末の大老・井伊直弼が暗殺された「桜田門外の変」で、現場に居合わせた井伊家の奉公人が福山藩の役人に語ったとされる証言などを記した古文書「骨董(こっとう)録」の公開が16日、当初予定を繰り上げて福山市西町の県立歴史博物館で始まった。8月1日まで。
骨董録(縦22センチ、横15・2センチ、100ページ)は、福山藩の儒学者・菅茶山(かんちゃざん)(1748~1827)の弟子、門田朴斎の五男が、「変」に関する伝聞や風説などを集めた記録。奉公人の証言は、「数人が刀を抜いて殿様の駕籠(かご)に切りかかった」「警護の武士は逃げ散り」などと記されている。
当初は、10月15日からの秋の企画展「幕末の動乱と瀬戸内海」での公開を予定していたが、読売新聞の報道(11日付朝刊など)で問い合わせが複数寄せられたため、前倒しして、開催中の幕末の福山藩に関するスポット展の中で公開することにしたという。
同博物館の西村直城(なおき)主任学芸員は、「幕末の日本を揺るがした事件の関係者の記録として興味深い。地元、福山藩の幕末の様子を知るきっかけにもしてほしい」と来館を呼び掛けている。
午前9時~午後5時。26日は休館。一般290円、大学生210円、高校生以下無料。問い合わせは、県立歴史博物館(084・931・2513)へ。
長崎
亀山社中記念館20万人達成 北海道の女性に記念品
幕末の志士、坂本龍馬ゆかりの地として復元整備され、昨年8月にオープンした長崎市伊良林2丁目の市亀山社中記念館の入場者が16日、20万人を達成した。20万人目となったのは、北海道から訪れた会社員、中井幸代さん(38)と岡本綾子さん(39)で、田上富久市長から記念品が贈られた。
NHK大河ドラマ「龍馬伝」で龍馬役の福山雅治さんのファンという中井さんは、記念品を受け取り「これから大河ドラマを見て歴史を勉強していきたい」、岡本さんは「20万人目と聞いて、来館者が多いことにびっくりした」とそれぞれ笑顔で話した。
長崎市は開館当初、入館者数を年間2万5千人とみていた。田上市長は「龍馬伝の舞台が長崎に移ることで、より多くの人が興味を持って来てくれるのでは」と期待を込めた。
この日は同記念館で、九州運輸機工(西彼時津町、菅藤重信社長)からペットボトルのふたなど廃プラスチックを利用し製作したベンチの寄贈式もあった。目録を田上市長に手渡した菅藤社長は「長崎を訪れてくれる観光客をおもてなしの心で迎えるきっかけになれば」と話した。
ブックレビュー
【書評】『歴史ドラマの大ウソ』大野敏明・著
■調べ抜かれたうんちくが満載
時代劇を見ていると、えっ、こんなことあったの? と首をかしげたくなるシーンが少なくない。
徳川将軍が夫人と2人で食事をしていたり、現在NHKで放送中の「龍馬伝」では龍馬と吉田松陰が会話をしたり、武士がサラブレッドに乗っていたり。視聴者はウソに慣らされている。
新選組の隊服はリバーシブル、日露戦争で戦死した広瀬武夫中佐は実はブリーフをはいていた、といった事実も。
ページをめくると知らなかったことばかり。まさに目からうろこ。「ウソを暴けば本当の歴史が見えてくる」。江戸時代から、「3丁目の夕日」の戦後まで、調べ抜かれ、磨かれ抜かれた蘊蓄(うんちく)が、歴史ドラマを100倍楽しく見させてくれる。(1365円、産経新聞出版)
新選組の隊服がリバーシブルって、出典はどの史料でしょうね。仙台の額兵隊が赤と黒のリバーシブルであったとは知っていましたが、新選組がそうだったという話はあったかな?
歴史
「町人切り」見直す新資料 清河八郎
幕末の尊王攘夷(じょうい)派の中心人物で、坂本竜馬や新選組隊士らともかかわりがあった清河八郎(一八三〇~六三年)に関する新資料が、東京都千代田区の区立四番町歴史民俗資料館の収集資料から見つかった。清河は小説や映画などで「酔って町人を切り幕府に追われる身となった」とダーティーなイメージで描かれることが多いが、新資料では人を切る前日に江戸町奉行所の同心らに捕縛命令が出ていたことが分かった。専門家は「切った相手は幕府の密偵だったとする“わな説”の方が真実かもしれない」との見方を示している。 (加賀大介)
資料は北町奉行所の同心山本啓助の手帳。一八六一年七月、清河探索のため故郷の鶴岡(山形県)や新潟方面へ出張した際の状況が記録されている。各藩の役人と情報交換しながら逃亡先を絞り込んでいく過程や、清河の両親の取り調べの様子、清河の特徴を記した人相書きなどのほか宿泊先や経費なども細かく書かれている。
通説では、同年五月二十日、清河は酒を飲んだ帰りに日本橋で「町人風の男」にからまれて無礼討ちにし、人を切ったことで手配人となったとされる。
しかし、捕縛命令は、冒頭部分に「五月十九日に、南北奉行所で打ち合わせの上、召し捕るよう命令が出た」と記述があり、対象者として清河ら八人の名前があった。
幕末史に詳しい早稲田大講師の西脇康さん(54)は「清河は幕府から危険分子とみられていた。二十日には大捕物があり、その際に役人が切られたのだろう。逃がしてしまった恥を隠すため、通説のような話が広まったのではないか」とみる。同資料館の文化財調査指導員滝口正哉さん(37)は「男は清河たちを挑発する役目だったのかもしれない」と話す。
清河の研究はあまり進んでおらず、清河八郎記念館(山形県庄内町)の斎藤清館長は「無礼討ちの前に幕府が捕縛を命じていたという資料はこれまでなかった。研究が進むきっかけになれば」と期待する。
資料館では、今年十月に開催予定の幕末をテーマにした展示の中で、手帳を公開する。
エンターテインメント
ファン・オタク・マニアに向けた、狭くて深いプラットフォーム『Fan+』に迫る!
東京ビッグサイトにて、2010年7月7日~9日の3日間開催された「デジタル パブリッシング フェア2010」において、『「大好き」が、ここにある。』というキャッチコピーを基にGoogleブースの隣りに陣を構えた『Fan+』(ファンプラス)。この『Fan+』は、NTTプライム・スクウェアと角川コンテンツゲートがタッグを組んで、ファン・オタク・マニアに向けて全く新しいエンタテイメントのカタチと価値観の創造を目指す新たなプラットフォームとして立ち上げられた、ハイブリッドコンテンツの集合体である。
『Fan+』では、コンテンツプロバイダーが所有する動画・写真・テキスト・音楽などの素材を使ったオリジナルのリッチコンテンツをユーザーが自分の趣味趣向に合わせてMy Boxという自分専用箱にコレクションしていく。もちろん、マルチデバイス(ケータイ、スマートフォン、PCなど)対応で、大好きなコンテンツにいつでもアクセス可能となっている。
また、『Fan+』で提供されるコンテンツは、雑誌にたとえるなら「新撰組」特集という、幕末の注目点を一部に絞ったページよりもさらに小さいところに焦点を当てた「土方歳三」という人物をピックアップ。さらにその生き様、素顔などの核心に迫るコンテンツ類が数多く用意されている"場"とイメージしてもらえればいいかと思う。あらゆるジャンルの「専門誌」の集合体、つまり、ファンのライフスタイルを豊かにするために広く浅くではなく、あえて狭く深く追求するために用意されたプラットフォームが『Fan+』である。
今回は、サービスインに向けて準備中の『Fan+』取締役企画部長 兼 プラットフォームサービス部長の井上淳也氏にお会いする機会ができたので、『Fan+』の現在の構想や目指すところを伺ってみた。
『Fan+』取締役企画部長 兼 プラットフォームサービス部長の井上淳也氏
(以下略)
全国各地に豪雨の被害をもたらした今年の梅雨、西から順番に明けているようです。今日の東京の空も、梅雨明けの夏空です。
北海道
建物から幕末を感じよう
今年のうちには見に伺いたいものです。
静岡
元新撰組の熱意 脈々 浜松・高町の『浜松教会』創立126周年
京都
池田屋事件にちなみ、京都新選組同好会がパレード
大阪
加藤先生の日本史の授業「龍馬と勝海舟」
広島
「骨董録」繰り上げ公開 県立歴博
長崎
亀山社中記念館20万人達成 北海道の女性に記念品
ブックレビュー
【書評】『歴史ドラマの大ウソ』大野敏明・著
新選組の隊服がリバーシブルって、出典はどの史料でしょうね。仙台の額兵隊が赤と黒のリバーシブルであったとは知っていましたが、新選組がそうだったという話はあったかな?
歴史
「町人切り」見直す新資料 清河八郎
エンターテインメント
ファン・オタク・マニアに向けた、狭くて深いプラットフォーム『Fan+』に迫る!
北海道
建物から幕末を感じよう
■箱館奉行所、29日から公開
幕末、徳川幕府が蝦夷地統治や諸外国との外交などのために設置した「箱館奉行所」の復元工事が完了し、16日に報道機関に公開された。一般公開は29日から。
現在は公園として開放されている函館市の国指定特別史跡・五稜郭の中にある。1864(元治元)年にほぼ完成、箱館戦争では旧幕府軍の本拠地となったが、1871(明治4)年に解体された。
木造平屋建て約1千平方メートルで太鼓櫓(やぐら)は高さ16・5メートル。4室72畳の大広間や、五稜郭と箱館奉行所の歴史を解説した展示、復元工事を紹介した映像シアターなどがある。
復元工事は4年かかり、総工費は約27億円。古文書や古写真などをもとに建築資材や工法などが可能な限り忠実に再現されており、市文化財課では「建物全体が展示物」としている。
29日は午前11時半から。4~10月は午前9時~午後6時(入館は15分前まで)、11~3月は午後5時まで(同)。年末年始休み。大人500円、学生・生徒・児童250円。問い合わせは市文化財課(0138・21・3463=28日までの平日)、29日以降は奉行所(0138・51・2864)へ。
今年のうちには見に伺いたいものです。
静岡
元新撰組の熱意 脈々 浜松・高町の『浜松教会』創立126周年
浜松市で最初のプロテスタント教会「日本キリスト教団浜松教会」(中区高町)が25日で創立126周年を迎える。草創期のクリスチャン迫害にも屈せず、初代教職として教会を発展させたのは、元新撰組隊士とも伝えられる結城無二三(むにぞう)(1845~1912)。関係者らはその信仰のあつさを思うたび、胸を熱くする。 (加藤拓)
昨年のクリスマスイブの礼拝から半年ぶりに訪れた教会。「愛の花」と呼ばれる南アフリカ原産のアガパンサスが青紫の花を咲かせていた。迎えてくれた勝田英嗣牧師(61)の手には「浜松教会百年史」(1991年刊)があった。
それによると、浜松での信徒増加を受け、同教団静岡教会が1884年6月、同区連尺町に講義所を設置。牧師に準じる伝道師の結城を赴任させた。浜松教会が翌月に独立すると、結城はそのまま初代教職に就いた。
長男禮一郎(1878~1939)が著した伝記「旧幕新撰組の結城無二三」(1924年刊)では、結城は山梨県出身で、本名景祐。「自分ほどの豪傑は世に2人、3人といない」という理由で無二三と名乗った。16歳で江戸に出て攘夷(じょうい)の仲間を募るも失敗、20歳ごろ、向かった京都で新撰組に入ったという。
戊辰戦争に敗れ、故郷で農業に従事していた結城のキリスト教入信は34歳。高熱で倒れ、以前読んだ聖書の中の神に祈ったところ、病の床から立ち直ったのがきっかけだった。翌年、カナダ人宣教師の洗礼を受けたのだった。やがて上京して神学を学び、卒業後静岡に派遣される。浜松教会の教職を務めた2年間のうちに磐田市見付、袋井、掛川にも教会を開き、静岡を離れると、山梨や東京でも布教したという。
明治維新から20年足らず。教会設立当時の浜松ではまだキリスト教への不信や偏見が強く、説教中に窓から石が飛び込んでくることも。信者が逃げた後、ひとり結城がつぶてを体に浴びながら説教を続け、やじ馬を逆に感激させたというエピソードが残る。
こうした熱意もあり、最初の2年間で洗礼を受けた信者が19人。勝田牧師は「昨年の教会の受洗者は3人で、それに比べ驚異的な数。(結城は)よほど正義感が強く、活動的だったのだろう」と話す。
教会で勝田牧師を補佐するチャプレンの笠原光雄さん(82)=同区広沢=も、結城を尊敬する1人。「鎖国の世に生まれたからこそ、明治に入り、(価値観の転換を肌身で味わって)外国の宗教に目を向けるようになったのでは」と推測する。 結城のともした信仰の灯は脈々と受け継がれ現在、日曜礼拝や教会学校の参加者は100人を数える。勝田牧師は「浜松の方は信仰が熱心で、団結力も強い。この気質を次世代にも受け継いでいきたい」と思いを新たにしている。
京都
池田屋事件にちなみ、京都新選組同好会がパレード
京都新選組同好会の会員ら39人が16日、歩行者天国となった京都市中心部の四条通などを、羽織袴(はかま)に身を包んだ勇壮な「隊士」の姿にふんしパレードした。
元治元(1864)年の新暦7月、討幕派が集まる旅館に新選組が討ち入った「池田屋事件」にちなみ、毎年祇園祭の宵山にあわせて行っている。
一行は、壬生寺で新選組隊士の墓に参拝後、四条通などを約3・5キロ行進し八坂神社に到着。勇ましい様子に、観光客らから歓声があがっていた。
大阪
加藤先生の日本史の授業「龍馬と勝海舟」
幕末の風雲児、坂本龍馬が主人公となったNHKの大河ドラマ「龍馬伝」が佳境に入り、視聴者の注目を集めています。歴史に詳しい人の解説を受けて、より大河ドラマを楽しんでもらうウェーブ産経の文化サロン「加藤先生の日本史授業第1回『龍馬と勝海舟』」が7月16日、大阪市北区のブリーゼタワーにある産経新聞梅田オフィスで開催され、約40人の会員が参加しました。
講師は大阪府立高校の校長を歴任した元帝塚山学院大学文学部講師で、高・大連携室長の加藤正彦さんです。まず、加藤さんは「若い人にきちんと歴史を知ってもらわないといけない。戦争中に日本を爆撃した米軍の飛行機『B29』について『そんなに濃い鉛筆があるのですか』と言われた」と述べ、会員を笑わせました。サロンのつかみとしては上場のようですね。
本題に入りますと加藤さんは「ドラマには時代考証といい、当時の時代を考えている人がいますが100%ではありません。たとえば、龍馬の家族が土佐の家で食事をしている場面がよく出てきますが、食卓で食べる男性に対して女性はかまどの側で食べることが一般的でした。現在のように一緒に食卓を囲むことはありませんでした」と述べ、女性蔑視や男尊女卑を助長する恐れがあるため現代風に演出されていることを強調しました。
また、龍馬の姉、乙女について体重113㌔もある大きな女性で演じている寺島しのぶさんとは似つかわしくない」とも語りました。約1カ月前のシーンで龍馬が勝と出会った場面に触れ、加藤さんは「面接するように出会いました。勝との出会いが龍馬のターニングポイントになりました。これにより、龍馬は国際人となった」と力説。たとえとして、加藤さんは「プロ野球オリックスの鈴木一朗選手が仰木彬監督と出会ったようなもの。俳優の仲代達也が黒沢明監督に出会ったようなものです」と語気を強めて、龍馬の人生に勝が及ぼした影響の大きさを語りました。
また、多くの手紙を残している龍馬について「ハイ、エヘン、エヘンなど話し言葉をそのまま手紙に書いておりユニーク」と文献を示して加藤さんは解説しました。そして、龍馬に関わった女性についても初恋の人といわれる平井加尾、千葉道場の千葉佐那、結婚したお龍のほかに長崎で出会う「大浦慶」の名前をあげ、大浦慶の半生を紹介しながら、今後のドラマも展望しました。そして、最後に幕末の文学として『一押し』として会員に島崎藤村の「夜明け前」を薦めて文化サロンを終えました。(岩)
広島
「骨董録」繰り上げ公開 県立歴博
幕末の大老・井伊直弼が暗殺された「桜田門外の変」で、現場に居合わせた井伊家の奉公人が福山藩の役人に語ったとされる証言などを記した古文書「骨董(こっとう)録」の公開が16日、当初予定を繰り上げて福山市西町の県立歴史博物館で始まった。8月1日まで。
骨董録(縦22センチ、横15・2センチ、100ページ)は、福山藩の儒学者・菅茶山(かんちゃざん)(1748~1827)の弟子、門田朴斎の五男が、「変」に関する伝聞や風説などを集めた記録。奉公人の証言は、「数人が刀を抜いて殿様の駕籠(かご)に切りかかった」「警護の武士は逃げ散り」などと記されている。
当初は、10月15日からの秋の企画展「幕末の動乱と瀬戸内海」での公開を予定していたが、読売新聞の報道(11日付朝刊など)で問い合わせが複数寄せられたため、前倒しして、開催中の幕末の福山藩に関するスポット展の中で公開することにしたという。
同博物館の西村直城(なおき)主任学芸員は、「幕末の日本を揺るがした事件の関係者の記録として興味深い。地元、福山藩の幕末の様子を知るきっかけにもしてほしい」と来館を呼び掛けている。
午前9時~午後5時。26日は休館。一般290円、大学生210円、高校生以下無料。問い合わせは、県立歴史博物館(084・931・2513)へ。
長崎
亀山社中記念館20万人達成 北海道の女性に記念品
幕末の志士、坂本龍馬ゆかりの地として復元整備され、昨年8月にオープンした長崎市伊良林2丁目の市亀山社中記念館の入場者が16日、20万人を達成した。20万人目となったのは、北海道から訪れた会社員、中井幸代さん(38)と岡本綾子さん(39)で、田上富久市長から記念品が贈られた。
NHK大河ドラマ「龍馬伝」で龍馬役の福山雅治さんのファンという中井さんは、記念品を受け取り「これから大河ドラマを見て歴史を勉強していきたい」、岡本さんは「20万人目と聞いて、来館者が多いことにびっくりした」とそれぞれ笑顔で話した。
長崎市は開館当初、入館者数を年間2万5千人とみていた。田上市長は「龍馬伝の舞台が長崎に移ることで、より多くの人が興味を持って来てくれるのでは」と期待を込めた。
この日は同記念館で、九州運輸機工(西彼時津町、菅藤重信社長)からペットボトルのふたなど廃プラスチックを利用し製作したベンチの寄贈式もあった。目録を田上市長に手渡した菅藤社長は「長崎を訪れてくれる観光客をおもてなしの心で迎えるきっかけになれば」と話した。
ブックレビュー
【書評】『歴史ドラマの大ウソ』大野敏明・著
■調べ抜かれたうんちくが満載
時代劇を見ていると、えっ、こんなことあったの? と首をかしげたくなるシーンが少なくない。
徳川将軍が夫人と2人で食事をしていたり、現在NHKで放送中の「龍馬伝」では龍馬と吉田松陰が会話をしたり、武士がサラブレッドに乗っていたり。視聴者はウソに慣らされている。
新選組の隊服はリバーシブル、日露戦争で戦死した広瀬武夫中佐は実はブリーフをはいていた、といった事実も。
ページをめくると知らなかったことばかり。まさに目からうろこ。「ウソを暴けば本当の歴史が見えてくる」。江戸時代から、「3丁目の夕日」の戦後まで、調べ抜かれ、磨かれ抜かれた蘊蓄(うんちく)が、歴史ドラマを100倍楽しく見させてくれる。(1365円、産経新聞出版)
新選組の隊服がリバーシブルって、出典はどの史料でしょうね。仙台の額兵隊が赤と黒のリバーシブルであったとは知っていましたが、新選組がそうだったという話はあったかな?
歴史
「町人切り」見直す新資料 清河八郎
幕末の尊王攘夷(じょうい)派の中心人物で、坂本竜馬や新選組隊士らともかかわりがあった清河八郎(一八三〇~六三年)に関する新資料が、東京都千代田区の区立四番町歴史民俗資料館の収集資料から見つかった。清河は小説や映画などで「酔って町人を切り幕府に追われる身となった」とダーティーなイメージで描かれることが多いが、新資料では人を切る前日に江戸町奉行所の同心らに捕縛命令が出ていたことが分かった。専門家は「切った相手は幕府の密偵だったとする“わな説”の方が真実かもしれない」との見方を示している。 (加賀大介)
資料は北町奉行所の同心山本啓助の手帳。一八六一年七月、清河探索のため故郷の鶴岡(山形県)や新潟方面へ出張した際の状況が記録されている。各藩の役人と情報交換しながら逃亡先を絞り込んでいく過程や、清河の両親の取り調べの様子、清河の特徴を記した人相書きなどのほか宿泊先や経費なども細かく書かれている。
通説では、同年五月二十日、清河は酒を飲んだ帰りに日本橋で「町人風の男」にからまれて無礼討ちにし、人を切ったことで手配人となったとされる。
しかし、捕縛命令は、冒頭部分に「五月十九日に、南北奉行所で打ち合わせの上、召し捕るよう命令が出た」と記述があり、対象者として清河ら八人の名前があった。
幕末史に詳しい早稲田大講師の西脇康さん(54)は「清河は幕府から危険分子とみられていた。二十日には大捕物があり、その際に役人が切られたのだろう。逃がしてしまった恥を隠すため、通説のような話が広まったのではないか」とみる。同資料館の文化財調査指導員滝口正哉さん(37)は「男は清河たちを挑発する役目だったのかもしれない」と話す。
清河の研究はあまり進んでおらず、清河八郎記念館(山形県庄内町)の斎藤清館長は「無礼討ちの前に幕府が捕縛を命じていたという資料はこれまでなかった。研究が進むきっかけになれば」と期待する。
資料館では、今年十月に開催予定の幕末をテーマにした展示の中で、手帳を公開する。
エンターテインメント
ファン・オタク・マニアに向けた、狭くて深いプラットフォーム『Fan+』に迫る!
東京ビッグサイトにて、2010年7月7日~9日の3日間開催された「デジタル パブリッシング フェア2010」において、『「大好き」が、ここにある。』というキャッチコピーを基にGoogleブースの隣りに陣を構えた『Fan+』(ファンプラス)。この『Fan+』は、NTTプライム・スクウェアと角川コンテンツゲートがタッグを組んで、ファン・オタク・マニアに向けて全く新しいエンタテイメントのカタチと価値観の創造を目指す新たなプラットフォームとして立ち上げられた、ハイブリッドコンテンツの集合体である。
『Fan+』では、コンテンツプロバイダーが所有する動画・写真・テキスト・音楽などの素材を使ったオリジナルのリッチコンテンツをユーザーが自分の趣味趣向に合わせてMy Boxという自分専用箱にコレクションしていく。もちろん、マルチデバイス(ケータイ、スマートフォン、PCなど)対応で、大好きなコンテンツにいつでもアクセス可能となっている。
また、『Fan+』で提供されるコンテンツは、雑誌にたとえるなら「新撰組」特集という、幕末の注目点を一部に絞ったページよりもさらに小さいところに焦点を当てた「土方歳三」という人物をピックアップ。さらにその生き様、素顔などの核心に迫るコンテンツ類が数多く用意されている"場"とイメージしてもらえればいいかと思う。あらゆるジャンルの「専門誌」の集合体、つまり、ファンのライフスタイルを豊かにするために広く浅くではなく、あえて狭く深く追求するために用意されたプラットフォームが『Fan+』である。
今回は、サービスインに向けて準備中の『Fan+』取締役企画部長 兼 プラットフォームサービス部長の井上淳也氏にお会いする機会ができたので、『Fan+』の現在の構想や目指すところを伺ってみた。
『Fan+』取締役企画部長 兼 プラットフォームサービス部長の井上淳也氏
(以下略)
リアルタイムでW杯決勝をテレビ観戦しました。まぶたがくっつくほど眠かったですが、正確かつ華麗にショートパスをつないだスペインのサッカーが優勝して嬉しい……自分は昔からそのスタイルのサッカーを好んできたし、日本代表にも目標として欲しいとずっと思い続けてきたスタイルなのです。
岡田ジャパンは、スペインの型を理想としながらも、チームづくりが間に合わず守備中心の陣形に変えて成功しました。その成功はとても喜ばしいと思いますが……4年後のブラジルW杯に向けて、ふたたび、目指すべきサッカーを意識し、監督選びとチームづくりをきちんと修正していって欲しいと願っております。
文化芸能
つかこうへいさんのご逝去、お悔やみ申し上げます……『幕末純情伝』は改訂されるたびに土方歳三の造型がだんだん卑小になっていくのが涙ものでしたが、平栗あつみさん版を舞台で見たかったなぁと思いました。
創立25周年を迎えたキャラメルボックスの夏はあの人気作をWキャストで
岡田ジャパンは、スペインの型を理想としながらも、チームづくりが間に合わず守備中心の陣形に変えて成功しました。その成功はとても喜ばしいと思いますが……4年後のブラジルW杯に向けて、ふたたび、目指すべきサッカーを意識し、監督選びとチームづくりをきちんと修正していって欲しいと願っております。
文化芸能
つかこうへいさんのご逝去、お悔やみ申し上げます……『幕末純情伝』は改訂されるたびに土方歳三の造型がだんだん卑小になっていくのが涙ものでしたが、平栗あつみさん版を舞台で見たかったなぁと思いました。
創立25周年を迎えたキャラメルボックスの夏はあの人気作をWキャストで
1992年の初演以来、劇団結成10周年の1995年、15周年の2000年、さらに25周年の今年と、4度目の再演となる人気作『また逢おうと竜馬は言った』。今では『風を継ぐ者』『俺たちは志士じゃない』など幕末物も大きな魅力となっている同劇団の、初期の契機となった作品だ。今回は主人公の旅行添乗員・岡本を若手の畑中智行と左東広之が、彼の憧れの存在・坂本竜馬を劇団の看板である大内厚雄と岡田達也がダブルで演じ、畑中・大内ペアを海組、左東・岡田ペアを空組として上演する。その海組の初日が、7月10日、東京・サンシャイン劇場で開幕した。
ツアーコンダクターなのに乗り物酔いをする岡本(畑中)は、何をやらせても失敗ばかり。ポケットに『竜馬がゆく』の文庫本をしのばせて、壁にぶつかるたびに竜馬の真似事をする竜馬ファンだが、“男の中の男”にはほど遠い毎日を送っていた。そんなある日、岡本のせいで同僚の本郷(石原善暢)とその妻ケイコ(岡内美喜子)が離婚の危機に陥ってしまう。岡本はふたりの仲を元通りにしようと、彼にだけ見える竜馬(大内)に問いかけながら、必死に想いを行動に移してゆく。ようやく夫婦が話し合いをすることになりホッとしたのも束の間、ツアー客の石倉(渡邊安理)と彼女を追う棟方(阿部丈二)らによってある事件に巻き込まれ……。
理想の人物像に自己投影して陶酔するものの、実生活では真逆の自分に落ち込むというのは、若い頃なら誰でも経験する感情だろう。高1から26歳になるまで竜馬に憧れ続け、傷つくことを怖れて気弱な笑顔を浮かべる岡本に、劇団の若手注目株・畑中の必死さがハマっている。そんな彼を見守る竜馬は、対照的に鷹揚な構え。あくまで岡本の心が映し出す存在とあって、ベテランの大内演じる竜馬も上から諌めるというより、焦って暴走する彼の横を軽やかに伴走してゆく印象。そんなふたりの絶妙なやりとりが、満員の客席を笑いで揺らしていた。
一方で、薩長同盟で活躍した竜馬に自分をなぞらえながら、同僚の夫婦ゲンカを解決しようとする岡本の姿に、初めは確かに違和感を感じるかもしれない。だが物語が進むにつれて、人は誰も半径5メートルの小さな世界に向き合いながら精一杯生きていることに気付くのだ。岡本も日常を自分なりの勇気で変えることで、ようやく“竜馬”に頼らない自立した大人へと成長する。その甘い痛みをストレートに表現できるのも、この劇団ならでは。キャラメルボックス・ビギナーにこそ観て欲しい舞台である。
公演は8月8日(日)まで、東京・サンシャイン劇場で上演。その後、8月14日(土)から16日(月)まで愛知・名鉄ホールにて、8月21日(土)から29日(日)まで兵庫・新神戸オリエンタル劇場にて公演。
開票速報を見ながらワールドカップ決勝まで何とか持たせようと思っているのですが、当確の出るのが早くて午前2時までもつかな?^_^;
北海道
函館史 華やかに 野外劇開幕
宮城
雑記帳:「片倉家と白石城」展 「歴女」に人気の小十郎も
キーワード「戊辰戦争」で引っかかりました。『戦国BASARA2』第一回、予約録画し忘れました……orz。
岐阜
物流で栄えた九里半街道紹介
京都
往時の綾傘鉾、紙模型に
祇園祭、13日から販売
熊本
漱石や岩倉具視ら 歴史語る「手紙」 玉名市で展示会
社会
「井伊大老警護の武士逃げた」奉公人の証言発見
ブックレビュー
今週の本棚・この人この3冊:後藤新平=堤春恵・選
文化芸能
テリー伊藤:大河ドラマ「龍馬伝」に写真家・上野彦馬役で出演 龍馬の立ち姿を撮影
北海道
函館史 華やかに 野外劇開幕
五稜郭築城シーンなど函館の
歴史絵巻を演じる函館野外劇
市民創作・函館野外劇の第23回公演「星の城・明日に輝け」(NPO法人市民創作「函館野外劇の会」主催)が9日夜、国の特別史跡・五稜郭跡(五稜郭公園)で開幕した。市民や観光客のほか、修学旅行で来函した仙台白百合学園中の生徒ら120人を含む約900人が来場。コロポックルのナレーションに合わせた函館の一大絵巻を、息を詰めて見守った。
開演に先立ち、函館観光大使、野外劇大使の歌手平田まりさんが、自身で作詞した「五稜の星」を熱唱。観客から大きな拍手を受けた。主催者あいさつでは、同会の寺坂伊佐夫副理事長が「市民主体でつくり上げる野外劇を最後まで見届けてほしい」と述べた。谷澤廣函館市副市長の来賓あいさつに続き、野外劇のテーマ曲「星のまちHAKODATE」を作った作家新井満さんが「この歌は市民の応援歌。いつも心の中で歌って」と話した。
劇では、高田屋嘉兵衛の登場により函館が繁栄し、西洋諸国が来港する場面など、華やかなフラッグダンスと青や緑の光線が交錯するステージに観客は酔いしれた。箱館戦争の場面では銃や大砲の迫力が観客を圧倒。エンディングには出演者と観客がペンライトを振り、テーマ曲を合唱。会場が一体となり、感動を分かち合った。
宮城
雑記帳:「片倉家と白石城」展 「歴女」に人気の小十郎も
宮城県白石(しろいし)市にある白石城の歴代城主を260年あまりにわたって務めた片倉家ゆかりの資料を紹介する企画展「片倉家と白石城」が、城近くの白石城歴史探訪ミュージアムで開かれている。
慶長7(1602)年、初代片倉小十郎景綱が藩主の伊達政宗から1万3000石で白石城を拝領。以来、明治元(1868)年の戊辰(ぼしん)戦争で敗れ城を明け渡すまで、片倉家が城主だった。
小十郎は人気ゲーム「戦国BASARA」にも登場し、いまなお「歴女」らの心をつかむ。首相が毎年交代する現代日本の姿を、“長期政権”の礎を築いた名将は何と見る?【豊田英夫】
キーワード「戊辰戦争」で引っかかりました。『戦国BASARA2』第一回、予約録画し忘れました……orz。
岐阜
物流で栄えた九里半街道紹介
大垣の団体がパンフレット
大垣市上石津町牧田の住民らでつくるグループ「九里半(くりはん)歴史文化回廊」(高桐秀夫会長)が、かつて物流で栄えた地元の街道を紹介するパンフレット「九里半街道 牧田宿」を作った。
九里半街道は、中世後期から幕末にかけて養老町と滋賀県米原市を結んだ物流ルートで、距離が9里半(38キロ)あった。尾張や伊勢の物資は揖斐川を上り、川港のある養老町で陸揚げされて同街道を経由、琵琶湖に出て上方や北陸方面に向かった。主に海産物や紙類、木綿などが往来したという。
その後、街道は鉄道や海上輸送の発達などで忘れ去られたが、牧田地区には馬頭観音や地蔵尊などが残され、往時の面影をとどめている。同会では郷土の歴史や文化を地域に伝えようとパンフレットを作ることにした。
計2000部を作成。学校や関係団体などに配るほか、このうち200部(1部100円)を一般向けに配布する。
問い合わせは高桐会長(090・7671・3413)。
京都
往時の綾傘鉾、紙模型に
祇園祭、13日から販売
祇園祭の綾傘鉾保存会(京都市下京区綾小路通室町西入ル)は13日から、江戸末期に巡行していた鉾のペーパークラフトを販売する。歴史を知ってもらい、当時の鉾復活の願いも込めて売り出す。
綾傘鉾は応仁の乱以前の記録にも残り、手持ちの傘に棒振り囃子(はやし)が連なっていた。1834(天保5)年から幕末にかけての30年間は、人を乗せた屋根付きの鉾で巡行したが、蛤御門(はまぐりごもん)の変で大部分を焼失し、今は胴掛など懸装品の一部だけが残る。1979年に巡行に復帰してからは、やぐらに傘を載せた2基の傘鉾で巡行している。
ペーパークラフトは明治初期までに作られた木製模型を元にデザインした。紙から部品を切り取って仕上げる。高さ21センチ、幅7センチ、奥行き15センチ。屋根の上の傘に神体の鶏が載り、胴掛には八坂神社の紋が入る。
保存会の河野隆明理事長は「いつかは実際にこの鉾を復興したい」と話す。600円。13日午後から下京区綾小路通室町西入ルの大原神社などで販売する。
熊本
漱石や岩倉具視ら 歴史語る「手紙」 玉名市で展示会
岩倉具視や陸奥宗光、夏目漱石など、幕末から昭和初期に活躍した人物の手紙を紹介する企画展「手紙展-歴史を語る手紙たち」が、玉名市岩崎の市立歴史博物館「こころピア」で開かれている。前・後期で展示替えを行い、前期は8月15日まで。
さまざまな著名人と玉名のゆかりを紹介しようと初めて企画。同館の所蔵品を中心に36点を展示している。
岩倉や陸奥の手紙は、玉名郡長や衆院議員を務めた木下助之にあてたもの。助之あてでは、渋沢栄一や井上毅の手紙も展示されている。夏目漱石の手紙は、英語教師仲間の質問に答えたもので、本名の「金之助」の署名入り。山本五十六が戦死の直前に出したとみられる軍事郵便もある。
同館は「手紙は歴史の一場面を映すとともに、書き手の人柄も表す。手書きの一文字一文字から、時代背景や人物像を感じてほしい」としている。
毎週月曜と祝日の翌日は休館(月曜が祝日の場合は開館)。入館料は一般300円、大学生200円、高校生以下無料。後期は8月21日-11月7日。こころピア=0968(74)3989。
社会
「井伊大老警護の武士逃げた」奉公人の証言発見
幕末の大老・井伊直弼が暗殺された「桜田門外の変」で、居合わせた中間(ちゅうげん)(奉公人)の証言とされる記録が、広島県立歴史博物館(福山市)で見つかった。
故郷の安芸に帰る途中に役人に語ったもので、襲撃時の慌てた状況が読み取れる。
記述があったのは、福山藩の儒学者・菅茶山(かんちゃざん)(1748~1827)の弟子、門田朴斎の五男が、「変」に関する伝聞や風説などを集めた「骨董(こっとう)録」(縦22センチ、横15・2センチ、100ページ)。茶山の子孫が館へ寄贈した資料約1万点の中にあった。
中間は事件の朝、登城する約60人の行列中、駕籠(かご)の後方で馬を引いていた。
<殿様御駕籠へ誰に候哉、刀抜連切て掛り候者数人有之、其勢之烈しく怖しき事言んかたなし>(殿様の駕籠に何者か分からないが、数人が刀を抜いて切りかかった。その勢いの激しさと言ったら、恐ろしくて言葉もない)
〈其内に御駕籠の内か外か不存候へ共、大なる声にて一声叫び候声ハ耳本へ響て聞へ候、御供方ハ前後へ颯と逃散り、抜合候士も無之様に者相見候へ〉(そのうち駕籠の内か外か分からないが、大きな声が一声聞こえると、警護の武士は前後に逃げ散り、応戦する者はいないようだった)
中間は恐ろしくなって馬を引いて井伊邸に戻った。
10月には映画「桜田門外ノ変」が公開予定。時代考証を担当した西脇康・早大講師(日本近世史)は「井伊の家臣は口を閉ざした部分が多く、これだけの証言は残っていない。突然襲われて慌てふためいた行列の様子が分かる」と話す。
◇桜田門外の変=1860年3月3日朝、江戸城桜田門外で、大老で彦根藩主の井伊直弼を水戸浪士らが殺害した。尊王攘夷(じょうい)派への弾圧「安政の大獄」を実行した井伊への反感などが背景にあったとされる。警護した彦根藩士の一部は討ち死にし、生き残った者も切腹、斬首(ざんしゅ)などとなった。
ブックレビュー
今週の本棚・この人この3冊:後藤新平=堤春恵・選
<1>正伝後藤新平 全8巻・別巻1(鶴見祐輔著、一海知義校訂/藤原書店/4830~6510円)
<2>時代の先覚者 後藤新平 1857-1929(御厨貴編/藤原書店/3360円)
<3>大風呂敷--後藤新平の生涯 上・下(杉森久英著/毎日メモリアル図書館/各1890円)
幕末に岩手県水沢市に生まれ、昭和四年に世を去った後藤新平の生涯を辿(たど)ると、明治維新によって突然国際社会の一員となり、しだいに日本列島の外に勢力を伸ばしてゆく日本の歩んだ道がパノラマのように浮かび上がって来る。交通、通信の発達の波に乗って押し寄せる国際社会と対峙(たいじ)しつつ、後藤は日清戦争帰還兵の検疫、鉄道建設、ロシア、ソ連との交渉、都市計画、放送事業などの分野で活躍する。日本が海外に力を伸ばしてゆく最先端の地で台湾民政長官、初代満州鉄道総裁として腕を振るった後、明治四十一年に桂内閣の逓信大臣兼初代鉄道院総裁となり、大正時代を通じて内務、外務大臣、東京市長を歴任した。
『正伝後藤新平』は伝記編纂(へんさん)会が集めた資料をもとに、後藤の娘愛子の夫鶴見祐輔が昭和八年から三年をかけて執筆した。豊富に引用された資料とその隙間(すきま)を埋める詳細な記述によって描き出された大パノラマである。しかしこの伝記が書かれた時代と現代の間で、国際社会における日本のあり方は再び激しく変化した。昭和初期の視点から描かれたパノラマは現代の読者にはいささか古めかしく、その記述から浮かび上がる後藤の姿が、古いニュース映画の中の人物のような感じを与えるのも確かである。『時代の先覚者 後藤新平』はパノラマの一つ一つの場面に現代から光を当てる。複数の執筆者による評伝であるため後藤の生涯を辿るという形を取ってはいないが、現代の研究者が資料の中から掘り起した政治家後藤のイメージが、孫、鶴見和子、鶴見俊輔が語る記憶の中の祖父の肖像に肉付けされて行間から立ち上がる。伝記小説『大風呂敷』は、後藤と、彼と関(かか)わりのあった男女の動きの向こうに透けて見える明治、大正の世相が興味深い。
満鉄、鉄道院総裁時代の後藤は、下関から海を渡り大陸を横断してヨーロッパに至る鉄道網の整備に力を尽くした。同時に膨大な予算を組み、専門家を各地に派遣して資料を集め、『東亜英文旅行案内』の編纂に着手している。この出版で後藤が目指したのは、鉄道によって結ばれたアジアとヨーロッパの間に新たに知識の橋を架け、日本発の情報を全世界に発信する事だった。テクノロジーの急速な進歩に押し流されない為(ため)には、異文化間相互理解が不可欠である事を誰よりも早く認識していたからこそ、今日後藤新平は時代の先覚者と呼ばれるのだろう。
文化芸能
テリー伊藤:大河ドラマ「龍馬伝」に写真家・上野彦馬役で出演 龍馬の立ち姿を撮影
NHK大河ドラマ「龍馬伝」で、演出家のテリー伊藤さんが幕末の写真家、上野彦馬を演じることが9日、明らかになった。テリーさんは07年の大河ドラマ「風林火山」に福島越前守役で出演している。
上野彦馬は幕末から明治に活躍した写真家。文久2年(1862年)に長崎に「上野撮影局」を開き、坂本龍馬や高杉晋作ら幕末の志士たちの写真を多く撮影。劇中では、有名な龍馬の立ち姿の写真を撮影するという。第34回(8月22日放送)で初登場する。
鈴木圭チーフプロデューサーは「(出演は少しだが)強烈な人にやってもらいたいなと思った。(普段の)あのまんま。(撮影では)龍馬伝についていろいろ取材されてました。長次郎の写真を撮るシーンはドラマで重要なシーンになる」と話している。
「龍馬伝」は大河ドラマ初の4部構成で、坂本龍馬の生涯を三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎(香川照之さん)の視点から描いたドラマ。第3部では、長崎という新天地に渡った龍馬が亀山社中を起こし、薩長同盟の締結に大きな役割を果たしていく様が描かれ、寺田屋で九死に一生を得た龍馬は妻・お龍とともに九州・霧島へ向かう。総合テレビで毎週日曜午後8時から放送中。11日は午後7時10分から放送。(毎日新聞デジタル)
ばたばたしていて幕末ニュースの投稿頻度が落ちております。来週以降もそんな状況が続きそうですが、細々と続ける予定ですので、よろしくお願いします。
北海道
箱館奉行所が完成!? 駅員の手作り模型、五稜郭駅に
福島
培った技、黙々と磨く 伝統守る会津唐人凧職人
石川
「武士の家計簿」11月27日先行上映 石川県内6映画館で
高知
「坂本龍馬脱藩の道」幕末へひとっ飛び…高知県梼原町
長崎
スタンプラリー:平戸で龍馬を探せ 4人のキーワード解き明かせ /長崎
コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(69)東大教授・山内昌之 栗本鋤雲
社会
入りたい幕末の組織 新人は「新撰組」、管理職は「海援隊」
若い世代が新選組にポジティブな評価をするのは、ある意味、幕末明治維新の歴史観で討幕派=進歩的、旧幕派=反動的という図式がデフォではなくなってきたのかなという気がします。
北海道
箱館奉行所が完成!? 駅員の手作り模型、五稜郭駅に
箱館奉行所が29日にオープンするのを前に、JR五稜郭駅(函館市亀田本町)のコンコースに7日、駅員が手作りした奉行所の模型がお目見えした。廃材を利用して半年がかりで仕上げた労作で、17日から夏の運行が始まるSLの模型と並んで利用客の目を引いている。
奉行所のオープンを記念し、多くの人に五稜郭駅を利用してもらおうと、同駅営業指導係の内村宏一さん(57)を中心に全駅員約40人で手分けして今年2月から模型作りに着手。業務で使用した廃材などを利用し、部品や設計図も一から手作りした。
特徴的な屋根瓦は5センチ四方に切った紙ファイルを約6000枚張り合わせ、一枚一枚に独特のカーブを施す精巧さ。戸板の格子や間仕切りも竹ひごを細かく削り分け、約1000本を張り付けた。同駅の高梨潤駅長も「五稜郭駅の宮大工」と内村さんらを称賛する。
全体の大きさは縦50センチ、横35センチ。休日などに少しずつ手掛けた内村さんは「下見して撮った写真から設計図をつくるのに苦労した。駅員みんなの協力があったおかげ」と控えめに完成を喜ぶ。絵の具や木目シールなどは100円ショップでそろえ、総工費は500円程度という。
同駅コンコースにはSL函館大沼号の大小3機の模型も展示している。模型の展示は8月末まで。問い合わせは同駅TEL0138・41・3745。
福島
培った技、黙々と磨く 伝統守る会津唐人凧職人
大きく見開いた目と、炎のような舌が印象的な会津唐人凧(あいづとうじんだこ)。竹製品専門店「竹藤」(福島県会津若松市中央1丁目)の鈴木英夫さん(72)が、市内で唯一の職人として伝統を守っている。
約400年前に中国から日本に入ってきたとされる。なぜ山国の会津に伝わったのかは謎だが、戊辰戦争(1868~69年)の際のエピソードが残されている。若松城(鶴ケ城)に籠城(ろうじょう)した会津藩士の少年が、弾丸降りしきる中で城から空高く唐人凧を揚げ、味方の将兵を励ましたという。
乾燥した竹をなたで細く切り裂く。なたを固定し、竹を持った左手を動かし、ひごを作る。
ひごを曲げて楕円(だえん)に近い形を二つ作り、交差する部分を太い綿糸でしっかり結わえる。鈴木さんは「きちんと仕上げたつもりでも、湿度によってひごが曲がってくるので難しい」と言う。墨で下絵を描いた和紙を張った後、赤や黄の色を塗る。
「竹ひごが作れなくなるまで、この仕事を続けたい」と鈴木さん。穏やかな表情で黙々と打ち込む姿は、確かな技を持った職人そのものだ。(会津若松支局・菅野俊太郎)
石川
「武士の家計簿」11月27日先行上映 石川県内6映画館で
加賀藩の御算用者(会計専門の武士)の奮闘を描く映画「武士の家計簿」(北國新聞社、アスミック・エース、松竹製作)が11月27日、石川県内の6映画館で先行上映されることが決まった。
上映館は、ユナイテッド・シネマ金沢、ワーナー・マイカル・シネマズ金沢、イオンシネマ金沢フォーラス、金沢コロナシネマワールド、ワーナー・マイカル・シネマズ御経塚、シネマサンシャインかほくの6館。全国公開は12月4日からとなる。
堺雅人さん主演、仲間由紀恵さんがヒロインを演じる映画は、御算用者として、代々加賀藩の財政に携わってきた猪山家3代の物語。幕末から明治維新にかけ、激動の時代を前向きに生きた「そろばん侍」一家の絆(きずな)を描く。原作は歴史学者の磯田道史氏(茨城大人文学部准教授)の「武士の家計簿『加賀藩御算用者』の幕末維新」。
撮影は、昨年12月から約2カ月間かけて、金沢城公園や京都市の松竹京都撮影所などで行われた。エグゼクティブ・プロデューサーは金沢経済同友会代表幹事で北國新聞社社長の飛田秀一氏、アスミック・エース特別顧問の原正人氏らが務める。
高知
「坂本龍馬脱藩の道」幕末へひとっ飛び…高知県梼原町
名所名跡などをウオーキングで訪ねる大健康の定番ラインアップ「歩」が、内容を一新してスタート。その第一歩をしるしたのは、高知県梼原(ゆすはら)町の「坂本龍馬脱藩の道」。近代日本の礎を築いた坂本龍馬が、1862年3月24日、沢村惣之丞(そうのじょう)とともに韮ケ峠から伊予(愛媛)へ越境、維新へ踏み出したとされるルートの一部、約6キロだ。ハードな上りもあるが、四国山地の雄大な眺めとスギ林の幽玄な雰囲気に、幕末にタイムスリップした気分になる。
龍馬の脱藩までの道程は、現在の高知市内から梼原町まで約80キロ、町内に入ってからも約28・5キロある。今回歩いたのは土佐領内最後の番所のあった松ケ峠から、伊予との国境で、現在も県境の韮ケ峠まで約6キロ。
案内してくれたのは地元の有志で結成されている「梼原龍馬会」の下元秀俊会長(50)。着物にはかま、背中には組み合い角に桔梗(ききょう)の坂本家の家紋、足にはブーツという、写真でおなじみの龍馬スタイルだ。1862年の脱藩で龍馬がブーツを履いていたはずはないのだが、暑い中、サービス精神に感謝。
早朝から降った雨が上がり、午前9時15分、いよいよスタートと意気込んだが、龍馬会長が「ここから入ります」と指さした先を見て一瞬、たじろいだ。道行く先は薄暗い林の中。幅は1人通るのがやっと。地面には枯れ葉が積もり、しかも急な上り坂だ。雨で湿っていたせいで時々、バランスを崩しそうになる。小さな川にかかる橋の手前でついに息が切れた。出発から15分、早くも休憩。
水を飲み、腹式呼吸を繰り返していると気分が落ち着いたので、5分後、再び歩き始める。湿った“悪路”には少しずつ体が慣れてきたが、沢を通る際に再び足を滑らせそうになった。慎重に足を運びながら同9時50分、広い道に出て視界が開けた。標識は「アオザレ あと4・7Km」。ここは標高約900メートル。松ケ峠番所跡が約730メートルというから、1・3キロ歩く間に170メートル登った計算。苦しかったはずだ。
5分の休憩で出発。四国カルスト高原から続く稜線(りょうせん)や神の山という1000メートル級の峰々が視界に入ると、林道はまっすぐな下り坂。体が楽になって余裕が出てきたのか、ウグイスの鳴き声が聞こえてきた。足元には時々、サワガニが現れる。途中で舗装路も歩きながら「ナラ山」(標高約800メートル、あと3・3キロ)に同10時18分着。同30分に出発して「高階野(こうかいの)」(約730メートル、あと1・7キロ)には同55分着。ここからが最後の難関だった。
目の前に現れたのは急な坂。勾配(こうばい)は「40度くらいあります」と会長。工事のために舗装したというが、人間にはきつい。あと少しだと言い聞かせて同11時5分に出発。ところが、足に力を入れても思ったほど進まない。悪戦苦闘の末やっと上りきったら、さらに山道の上りだ。
この1・7キロは標高約950メートルの韮ケ峠まで200メートル以上、上るのだから、つらいのは当然。休息を取りながら、最後は棒のようになった足でスギ林の坂をクリア。再び舗装された道路に出ると「坂本龍馬脱藩の地」のモニュメントが見えた。ゴールの韮ケ峠だ。龍馬にとってここは通過点に過ぎなかったはずだが、歩き通した2時間23分。Tシャツは汗でびしょびしょながら、心地よい達成感が残った。
◆梼原町へのアクセス JRで高知駅から須崎駅まで約30分。須崎駅から梼原町内までバスで1時間15分。車なら高速利用で高知市内から約1時間40分。
◆梼原町と維新 幕末に脱藩する土佐勤王党の志士の多くが梼原を通っていったため、町内には、龍馬を道案内した那須俊平と佐幕派の参政・吉田東洋を暗殺した信吾親子ら梼原出身の志士6人の墓や、龍馬を含む8人の銅像「維新の門」などのモニュメントが点在。来年1月10日まで開催中の「土佐・龍馬であい博」のサテライト会場「ゆすはら・維新の道社中」も。観光や脱藩の道案内の問い合わせは同社中TEL0889・65・1187へ。
◆「坂本龍馬脱藩の道」データ 消費カロリー211キロカロリー、脂肪燃焼量12・5グラム(1万223歩=上りが多く誤差があります)
長崎
スタンプラリー:平戸で龍馬を探せ 4人のキーワード解き明かせ /長崎
◇18日から
平戸市は、18日から市中心部でスタンプラリー「幕末から明治維新へ『平戸密会』を成功させよ! ~薩長同盟の立役者を捜せ~」を催す。期間は8月31日までの午前9時~午後4時。
町中で坂本龍馬、西郷隆盛、高杉晋作、桂小五郎に扮(ふん)した4人を探し、それぞれが押す印のキーワードから解き明かされるゴールを目指す。到達すると、記念品や抽選で10人に龍をあしらった平戸焼の特製香炉(3万円相当)や清酒、焼酎が当たる。
西郷と桂が平戸で密会した史実に基づく企画で、坂本らは市の雇用創出事業で雇われた人たちが演じる。夏休み、平戸も龍馬ブームに? 参加無料。問い合わせは市商工振興課(0950・22・4111)。【野呂賢治】
コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(69)東大教授・山内昌之 栗本鋤雲
■出廬を請われた政治家
維新政府から出廬を請われながらも、徳川幕府への義に殉じた栗本鋤雲(国立国会図書館蔵)
「出廬(しゅつろ)」という言葉がある。引退して現実政治から離れていた有能の士が請われて再び表舞台に立つことである。『三国志』で劉備が諸葛孔明に三顧の礼を尽くしたところ、孔明も草廬(そうろ)(草葺(ぶ)きの粗末な家)を出て劉備に仕えた故事はあまりにも有名である。孔明とは言わずとも、あたら驥足(きそく)を展(の)ばせず野にいる人を放置しておくほど、日本の政界は人材に恵まれているわけでない。
政権交代に続いて菅直人政権が成立したとあれば、民主党にとって出廬を期待されるのは、田中秀征(しゅうせい)氏かもしれない。氏らが自民党を離脱して創(つく)った新党さきがけは、細川護煕政権発足の原動力となったが、氏はその時からそれなりに存在感のある政治家として菅氏とともに目立っていた。
第1次橋本龍太郎内閣で経済企画庁長官も務めたのに、選挙には滅法(めっぽう)弱かったらしい。有権者の意識レベルが高いとされる長野県でも、氏の理想的な政治哲学はなかなか受け入れられなかったのだろうか。
◆犬養毅や尾崎行雄育てる
幕末明治初期に権力から離れた幕臣のなかにも、しきりに出廬を請われた人物が多い。もともと奥医師の家に生まれた栗本鋤雲(じょうん)もその一人である。奥儒者あがりの成島柳北(なるしま・りゅうほく)のように、やがて行政官僚に転じフランス語を習得して外国奉行になったというのだから、幕府には異能の士がたくさんいたのだ。
明治6(1873)年に『郵便報知新聞』の主筆に就いた鋤雲は、犬養毅や尾崎行雄を育てるとともに、出仕を終生断り続け、藩閥政権の非を鳴らし徳川幕府への義に殉じた。
鋤雲は先輩医師の不興を買って箱館に左遷されるなど辛酸も嘗(な)めた。任地にあっても南千島や樺太の探検に精を出すなど現場感覚を身につけている。外国奉行となった鋤雲は、勘定奉行小栗忠順(ただまさ)とも親交を結び、幕府開明派官僚の代表格として、横須賀製鉄所の建設や軍事顧問の招聘(しょうへい)にも尽くした。
◆パリ滞在記で健筆
彼は将軍慶喜の弟徳川昭武(あきたけ)が慶応3(1867)年にパリ万国博覧会に参加したときに補佐を命じられた。この時のパリ滞在記が『暁窓追録』(井田進也校注『幕末維新パリ見聞記』岩波文庫所収)である。そこには、ナポレオン3世さえ恐れる「ビスマルクの賢」、プロイセンとの戦争も辞さない「豪邁(ごうまい)の人」ドルアン・ド・リュイス(フランス外相)、イタリアの「狂妄」の「奇男子」ことガリバルディなど、欧州政治家の人物月旦も含まれており、面白い読み物になっている。
さて、史家の森銑三(せんぞう)は鋤雲を勝海舟と反りの合わぬ一人としている(『新編明治人物夜話』)。鋤雲は礼節を重んじ人に対して慇懃(いんぎん)だったが、ただ酒を嗜(たしな)み、酔えば人物が一変して放言もした。それでも人柄は陽性にできていたという。
森は、海舟が酒を好まず、酔わずして人を冷評罵倒(ばとう)した陰性の性格であると辛口の評価をする。海舟が痩(や)せて干からびていたのに、鋤雲は●幹(くかん)も偉大で容貌(ようぼう)も魁偉(かいい)だったというのだ。これは、額も広く鼻も厚く、耳や口も大きいことから「お化け栗本」と異名をとったと形容する島崎藤村の指摘とも符合する。
◆容貌魁偉、異能の人物
要は鋤雲こそ異能の人物というにふさわしい。自分を恃(たの)むところが大きい菅首相に田中氏のような独特の政治観の持ち主を起用する太っ腹なところがあるかどうか。2人と面識もなく、そのケミストリー(反り)の如何(いかん)を私はつまびらかにしない。
そういえば、鳩山由紀夫氏といい菅氏といい、バッジをもたない民間人を閣僚に起用することがない。田中氏くらいの才幹であれば、参院選後と囁(ささや)かれる政界再編成に出番を見据えているのかもしれない。田中氏に出廬を促す政治家が果たして現れるのだろうか。(やまうち まさゆき)
◇
本連載をまとめた「幕末維新に学ぶ現在」(中央公論新社)が発売中。
◇
【プロフィル】栗本鋤雲
くりもと・じょうん 文政5(1822)年、江戸生まれ。父は幕府医官。家業を継ぎ、奥医師となる。箱館移住を命じられ、山野の開拓や病院建設などに力を注ぎ、箱館奉行組頭に。文久3(1863)年に江戸に戻り、軍艦奉行、外国奉行などを歴任。親仏派として外交交渉に尽力。フランスに派遣され、対幕借款の促進などにあたった。維新後は新政府に仕えず、郵便報知新聞に入社し、主筆として随筆などを寄稿した。明治30(1897)年、76歳で死去。没後、著述は『匏庵(ほうあん)遺稿』としてまとめられた。
●=躯のメが品
社会
入りたい幕末の組織 新人は「新撰組」、管理職は「海援隊」
NHK大河ドラマ『龍馬伝』や、菅直人首相の奇兵隊内閣発言などで注目を集めている幕末。社会人は幕末の人物や組織についてどのように考えているのだろうか。
日本コカ・コーラの調査によると、歴史好きの有職者男女に「今の日本を維新してくれそうな幕末の人物」を尋ねたところ、トップは「坂本龍馬」で63.8%。以下、「勝海舟」が29.5%、「西郷隆盛」が20.8%、「福沢諭吉」が14.4%、「大久保利通」が12.9%、「高杉晋作」が11.9%、「桂小五郎」が10.8%で続いた。
性別、年代別を問わず、すべてのカテゴリーで坂本龍馬が断トツのトップ。支持理由を尋ねると、「情熱と信念で厳しいこのご時勢を打破してくれそう」(新社会人男性)、「革新的な考えと行動力があると思うから」(管理職女性)といった声があった。
「入ってみたいと思う幕末の組織は?」と聞くと、トップは「海援隊」で48.4%。以下、「新撰組」が35.1%、「白虎隊」が8.6%、「奇兵隊」が8.2%、「土佐勤皇党」が2.0%で続いた。
年代別に見ると、新社会人では「海援隊」(男性37.0%、女性41.0%)より「新撰組」(男性48.0%、女性46.0%)の割合が高く、管理職では「新撰組」(男性18.0%、女性25.0%)より「海援隊」(男性64.0%、女性54.0%)の割合が高かった。
管理職が「海援隊」を選んだ理由には、「新しいことができそう」「面白そう、楽しそう」「創造的」と会社組織としての自由さが多く寄せられた。一方、「新撰組」を選んだ新社会人からは、「志がある」「組織として団結力がある」という組織としてのまとまりや、「かっこいい」という理由が多く挙げられた。
インターネットによる調査で、対象は22~59歳の歴史好きの有職者男女1000人(男性553人、女性447人)。調査期間は3月6日から8日。
若い世代が新選組にポジティブな評価をするのは、ある意味、幕末明治維新の歴史観で討幕派=進歩的、旧幕派=反動的という図式がデフォではなくなってきたのかなという気がします。
長い記事が多かったので分割してます。
北海道
箱館奉行所開館へ盛大に 29-31日の「復活祭」で催し多彩
いよいよ公開ですね。今年中には見に行きたいと思っています。
秋田
仙台藩士の冥福祈る 子孫ら殉難碑前で慰霊祭 秋田
坂本龍馬と維新志士の古写真展:龍馬や高杉晋作、写真展示--県立博物館 /秋田
山形
ジョン万次郎が竜馬に与えた影響解説 山形で講演会
石川
幕末の加賀藩、大砲147門を製造 「金沢学」講演
京都
NHK大河ドラマ特別展:龍馬ゆかりの180点、京都文化博物館で展示 /京都
兵庫
「幕末の味」大ヒット 幸民麦酒の売り切れ相次ぐ
高知
幕末の画家・小龍の画帖
長崎
リチャード・ビュルグフェルトさん:リンガーの曽孫、9月来日 遺品寄贈へ /長崎
歴史
大判写真:龍馬も見た?幕末ニッポン 米写真家C・ウィードの作品、鮮やかに
文化芸能
つばき、時跳び
コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(68)東大教授・山内昌之 大楽源太郎
北海道
箱館奉行所開館へ盛大に 29-31日の「復活祭」で催し多彩
国の特別史跡、五稜郭内に復元される箱館奉行所のオープンを記念した「箱館奉行所 復活祭」が、開館日の29日から31日までの3日間、五稜郭公園などで開催される。五稜郭地区の各種団体など官民一体で企画運営を行うイベントで、会期中は五稜郭祭の出演者による殺陣の披露や記念講演会、オープンカフェの設置など多彩な催しが行われ、同奉行所の開館を祝う。
五稜郭地区のまちづくり団体「新都心五稜郭協議会」や同協議会メンバーが立ちあげた「やっぱり五稜郭プロジェクト」、函館市など8団体の主催で実施。同奉行所を核に道南をPRし、多くの市民に親しみ楽しんでもらうことを目的とする。
29日は五稜郭タワーアトリウムで殺陣披露のほか鉄砲隊によるアトラクション、五稜郭公園の一の橋広場では、かつて奉行所で飲まれていたという当時のレシピを基に作った「薬用珈琲」の試飲コーナー、新たに開発した奉行所をモチーフとしたモナカをふるまう。このほか歓迎の祝砲イベントを行う。
30日は市中央図書館で記念講演会や、復元された奉行所を今後のまちづくりに生かす方法などについて、識者らが意見を交わす記念フォーラムを開催する。最終日の31日は有機栽培などでつくった野菜を生産者が販売する直販市「マルシェ」や、同地区の飲食店が自慢の逸品を販売するオープンカフェを設置する。
このほか、行啓通りから同公園に至る道にバナーフラッグを飾り、祝福ムードを盛り上げる。同プロジェクトは「奉行所を見に五稜郭にきてもらい、この地区も同時に楽しんでもらえれば」と来場を呼び掛けている。問い合わせは同協議会事務局TEL0138-51-4785。
いよいよ公開ですね。今年中には見に行きたいと思っています。
秋田
仙台藩士の冥福祈る 子孫ら殉難碑前で慰霊祭 秋田
戊辰戦争で奥羽越列藩同盟の維持を説得しようと秋田藩を訪れ、勤皇派の秋田藩士に暗殺された仙台藩士12人の慰霊祭が、命日に当たる4日、秋田市寺内の西来院で営まれた。慰霊祭は今年で143回目。
仙台藩志会の伊達洋司会長ら仙台から集まった関係者と、秋田宮城県人会員ら44人が参加した。境内で殉難者の位牌(いはい)に焼香した後、寺の裏大門にある「仙台藩殉難碑」に手を合わせた。
一行は、殺害された藩士の首がさらされた同市大町の五丁目橋にも足を運び、川反観音像前で冥福を祈った。
当時正使だった志茂又左衛門のひ孫で仙台藩志会会員の石川浩司さん(72)は「毎年供養していただき感謝している。今度は自分の子孫を連れてきて、慰霊祭を引き継いでいきたい」と話した。
坂本龍馬と維新志士の古写真展:龍馬や高杉晋作、写真展示--県立博物館 /秋田
坂本龍馬ら幕末の維新志士の写真を展示する「坂本龍馬と維新志士の古写真展」が7月4日まで、秋田市金足鳰崎の県立博物館で開かれている。
展示されているのは、暗殺直前の1867(慶応3)年10月に撮影された龍馬や、高杉晋作や伊藤博文ら維新志士の鶏卵紙写真7点、海援隊と紀州藩との蒸気船の衝突・沈没事件に関して龍馬が書いたという書状など。
長州(山口県)出身の海援隊員が残したものを秋田に移住した子孫が04年に寄託し、今回初めて一般公開された。
開館は午前9時半~午後4時半、入場無料。【野原寛史】
山形
ジョン万次郎が竜馬に与えた影響解説 山形で講演会
藤沢周平・司馬遼太郎文学研究会の第37回講演会が27日、元木公民館で開かれ、司馬遼太郎研究家の菅原文雄さん(74)=白鷹町畔藤=が司馬遼太郎著「龍馬がゆく」をテーマに「坂本竜馬と共和制思想」と題して講演した。
菅原さんは出漁中に遭難し、アメリカの捕鯨船に救助され、アメリカに渡った土佐藩出身のジョン万次郎について紹介。「アメリカで学び、身に付けてきた力を明治維新で発揮し、教育分野でも尽力した」と述べ、万次郎が坂本竜馬に与えた影響を解説した。
石川
幕末の加賀藩、大砲147門を製造 「金沢学」講演
加賀藩が幕末の12年間に、洋式火薬を使うオランダ式などの大砲を147門造っていたことが、板垣英治金大名誉教授の3日までの調査で分かった。明治初期の旧陸軍資料の研究で、加賀藩は薩摩、長州に劣らない数の大砲を備えていたことが分かっている。百万石の資金力と五箇山の塩硝(えんしょう)で作る火薬を元手に、加賀藩が軍備を積極的に行ったことが裏付けられた。
調査結果は同日、金沢市の北國新聞20階ホールで開かれた、金大と北國新聞社が連携して取り組む市民公開講座「金沢学」の講演で明らかにされた。大砲を造っていたのは現在の金沢市もりの里3丁目周辺にあった「鈴見鋳造所」で、板垣名誉教授は同所鋳造場の棟取(とうどり)(責任者)で鋳物師の釜屋弥吉の史料を基に調査を進めた。
明らかになったのは、1853(嘉永6)年から1864(元治元)年の間に造られた大砲の数。中には、当時最新の技術であった、内部がらせん構造となっている砲身もあり、専用の先がとがった砲弾も確認されている。
板垣名誉教授によると、幕末にはスズ、銅、鉄の価格が高騰したが、加賀藩は高価なスズを購入し、質の良い大砲を生産して沿岸警備に力を入れていたことがうかがえる。同名誉教授は「幕末で財政が厳しい中、加賀藩は新技術を導入して大砲を鋳造した。そのようなことができた藩はほかにそうなかっただろう」と分析している。
「金沢学」の講演は「加賀藩の火薬と大砲~土清水薬合所と鈴見鋳造所について~」と題して開かれ、このほか、五箇山で作られた塩硝が運ばれた土清水薬合所が、洋式火薬を生産するために建て替えられたことや、金沢ゆかりの世界的化学者、高峰譲吉の父元●(ノギヘンに陸のツクリ)(げんりく)について解説した。
京都
NHK大河ドラマ特別展:龍馬ゆかりの180点、京都文化博物館で展示 /京都
◇「日本をせんたく」の手紙も
幕末の動乱期に活躍し、薩長同盟の締結や大政奉還の実現に尽力した坂本龍馬(1835~1867)の生涯を振り返る「2010年NHK大河ドラマ特別展 龍馬伝」が、京都市中京区の京都文化博物館で開かれている。
「日本を今一度せんたくいたし申候」と記された姉・乙女あての書簡(重要文化財、京都国立博物館蔵)など、ゆかりの資料約180点を展示(7月6日から一部展示替え)。龍馬の波乱に満ちた生き様とともに、幕末から明治維新へ向かう時代の空気を伝えている。
龍馬が着た紋服(重文、京都国立博物館蔵)は京都会場のみの出品で、暗殺現場の京都・近江屋の部屋の復元コーナーも設置。血痕が付いた「近江屋旧蔵 書画貼交屏風(しょがはりまぜびょうぶ)」(重文、京都国立博物館蔵)も7月6日から出品される。
7月19日まで。午前10時~午後6時(金曜は午後7時半まで)。7月19日を除く月曜休館。入場料一般1200円、大高生800円、中小生500円。同館(電話075・222・0888)。【野宮珠里】
兵庫
「幕末の味」大ヒット 幸民麦酒の売り切れ相次ぐ
「幕末の味」が大人気! 三田藩出身の蘭学者川本幸民のビールを復刻した「幸民麦酒」が大ヒットしている。今月6日の販売開始後、三田市内の小売店では売り切れが相次ぎ、生ビールを売る飲食店は増加。製造する小西酒造(伊丹市)は増産を進めるが、なかなか追い付かず、「生産量は予想の5倍のペース。三田市民の関心の高さは想像以上だ」と驚いている。
幸民は1853(嘉永6)年、日本人として初めて、ビールの醸造に成功した。今年、幸民の生誕200年を記念し、小西酒造が幸民の醸造方法を再現したビール「幸民麦酒」を造り、初めて一般販売を始めた。価格は1瓶(330ミリリットル)630円。
同社は当初、6~10月の5カ月間に8千本を造る予定だったが、今月中に2回増産し、計7千本を製造した。東京のビール専門店でも取り扱うようになり、7月以後も増産体制が続くという。
卸を手掛けるツキモト酒類(駅前町)によると、「幸民麦酒」を販売する小売店は、1カ月間で18店から25店に増えた。生ビールを提供する飲食店は4店増えて16店に。店頭に「幸民ビールあります」の張り紙を掲げる飲食店もある。
「パスカルさんだ一番館」(川除)では、1日に40本以上を販売する日もあり、同店は「価格は高めなのに、こんなに売れるとは」と驚く。
小西酒造地ビール事業部主任技師の辻巌さん(52)は「通常のヒット商品の目安を、はるかに上回る売れ行き。市民の幸民に対する熱い思いが伝わる」と話している。
(本田純一)
高知
幕末の画家・小龍の画帖
土佐藩の画家、河田小龍(しょう・りょう)(1824~98)は、幕末の志士坂本龍馬に海運や海軍力の重要性を説いたとされる。その画家の画帖(が・ちょう)が見つかり、2日に東京都千代田区神田小川町の東京古書会館で始まった「七夕古書大入札会」(主催・明治古典会)に出品されている。一般公開は3日まで。
画帖は1883年に制作された「維新前高知城下十二ケ月」。縦約20センチ、横約25センチで、絹地に彩色された肉筆画だ。威勢良く走る初カツオ売りの姿、田植え、法会、祭り、新年の準備など、江戸時代の土佐の年中行事が活写されている。
年中行事とは別に、高知城の背後から太平洋を望む「高知城四望之図」と題された俯瞰(ふ・かん)図も収録。帆掛け船や大型船も描き込まれている。京都市内の古書店で今年見つかったという。
小龍は狩野永岳に師事、二条城襖絵(ふすま・え)の修復などに取り組んだ。1852年に米国から帰国したジョン万次郎に話を聞き、絵や文章で「漂巽紀畧(ひょう・そん・き・りゃく)」をまとめた。これを機に海外事情に通じた。
県立坂本龍馬記念館(高知市)によると、ペリー浦賀来航の翌1854年、龍馬は小龍に会い、大船を自分で持つ時代との認識を強めたという。龍馬は1865年に商社・私的海軍学問所「亀山社中」(のちの海援隊)を結成した。放送中のNHK大河ドラマ「龍馬伝」ではリリー・フランキーさんが小龍役を演じている。
長崎
リチャード・ビュルグフェルトさん:リンガーの曽孫、9月来日 遺品寄贈へ /長崎
幕末に長崎の外国人居留地で活躍した英国人貿易商フレデリック・リンガー(1838~1907年)の曽孫、リチャード・ビュルグフェルトさん(69)=英グロスターシャー州=が9月に来日することが決まった。ビュルグフェルトさんはリンガーらの遺品をグラバー園に寄贈する意向で、リンガー一族の旧宅だった旧オルト邸(国指定重要文化財)に展示される予定。
ビュルグフェルトさんは9月18日にグラバー園で開かれる「グラバー顕彰式」に出席する。デビッド・ウォーレン駐日英国大使も初めて出席し、一緒に旧オルト邸での遺品展示のテープカットに参加するという。
遺品は、1866年に長崎で開かれたボートレースでリンガーが優勝した記念銀杯や、上野彦馬撮影の古写真など約150点。ひな人形や蒔絵(まきえ)を施したティーセットなど一族で日本文化に親しんだ様子が分かる品もある。
リンガー一族は長崎の経済発展に貢献したが、第二次大戦の際に国外退去。ビュルグフェルトさんも日本生まれだが、戦後に帰郷するのは初めてという。
08年にビュルグフェルトさんを訪問しているブライアン・バークガフニ長崎総合科学大教授(59)は「戦争でリンガー家と長崎の関係は断ち切られたが、子孫は長崎への思いを持ち続けてくれた。日英で豊かな交流があったことが分かる」と話す。【錦織祐一】
〔長崎版〕
歴史
大判写真:龍馬も見た?幕末ニッポン 米写真家C・ウィードの作品、鮮やかに
焼失する前の増上寺(現・東京都港区)の黒本尊堂や本堂、善福寺(同)の前に集まる侍たち、わらぶき屋根が続く横浜・根岸湾沿いの漁村……。縦約40センチ、横約50センチのマンモス・プレートと呼ばれる大判写真の中に、元号が明治に変わる直前の1867年のニッポンが鮮やかに浮かび上がる。
これらは、米国で最近発見されたチャールズ・ウィード撮影の大判写真だ。当時は引き伸ばし技術がなく、これだけの大きさにするには巨大なカメラとネガが必要だった。撮影直前にガラス板製のネガに感光液を塗り、乾く前に現像。薬品や暗室など100キロもの荷物を馬車などで運ばねばならなかった。
ウィードが日本で撮った大判写真は、これまで欧米で9枚しか確認されていなかった。今回は当時の駐日米公使館員の子孫の家で一挙に17枚が見つかった。古写真研究家のテリー・ベネットさんは「幕末の写真史に新しい一章が加わった。写真の持ち主は日本で展示したいと望んでいる」と語る。
長崎の風景写真には、坂本龍馬の肖像を撮ったことで知られる上野彦馬の撮影局(写真館)が写っている。龍馬が暗殺されたのは67年11月で、同じ風景を見ていたかもしれない。【佐藤由紀】
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■人物略歴
◇Charles・L・Weed(1824~1903)
アメリカ西部で活躍した写真家。1866年、香港に渡って写真館を開いた。67年に来日。マンモス・プレート写真のほかに、同じような写真を2枚撮って立体的に見せるステレオ写真も撮影。68年、アメリカに帰国。日本各地で撮影した写真は69年、サンフランシスコで発売された。
文化芸能
つばき、時跳び
成井豊脚本・演出、福田沙紀主演の舞台「つばき、時跳び」が、8月に明治座で上演されます。
「つばき、時跳び」は、「黄泉がえり」などの梶尾真治による同名小説が原作。
SF小説家の惇が東京から移り住んだ熊本の古屋敷を舞台に、
惇と江戸時代末期の熊本藩の武家の娘つばきが、
幕末と現在をタイムマシンで往来する物語。
梶尾真治による原作は、2006年に単行本、
今年の6月11日に平凡社ライブラリーより文庫が発売されています。
この「つばき、時跳び」が、
演劇集団キャラメルボックスの成井豊の脚本・演出で舞台化されます。
主役の武家娘つばき役に福田沙紀、SF作家・惇役に永井大。
実在した熊本藩士・横井小楠役に勝野洋のほか、
金子貴俊、 真野恵里菜、紫吹淳などが共演。
また、キャラメルボックスのメンバーも脇を固めていいます。
福田沙紀は、2008年「フラガール」で谷川紀美子役を務めて以来の2度目の舞台出演。
また、19歳で明治座の座長公演を務めるのは、
2005年4月公演「あずみ」に当時16歳でに主演した黒木メイサに次ぐ若さとなります。
舞台「つばき、時跳び」は、8月11日より東京・明治座で上演。
チケットは6月26日より発売中。
なお8月13,15,17,20,23,26日の公演後には、
舞台上でアフタートークショーも行われます。
当日公演を観劇した全員がトークショーも鑑賞可能となっています。
●「つばき、時跳び」
日程:2010/8/11〜8/29 明治座(東京)
演出・脚本:成井豊
原作:梶尾真治
出演:福田沙紀/永井大/勝野洋/金子貴俊/真野恵里菜/紫吹淳/渡邉絋平/永池南津子/溝呂木賢/敦士/坂口理恵/岡田さつき/多田直人/小多田直樹
チケット:[東京]
コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(68)東大教授・山内昌之 大楽源太郎
■「奇兵隊内閣」の矛盾
菅直人首相は自らの大臣たちを「奇兵隊内閣」と呼んでいる。市民運動出身の総理はじめ各種の職業的背景や庶民感覚をもつ多彩な人材がいるという自負なのだろう。しかし、このネーミングにしっくりこない人もいるはずだ。
なぜなら、藩の公式兵力たる「正兵」への異端としての「奇兵」であり、権力を掌握すれば「奇兵」であることはできないからだ。「奇道」で勝を制するゲリラ兵力の意味をもつ部隊は、幕末から維新へという激動の変革期にはふさわしくても、治国の支えには不似合いなのである。
権力掌握すれば無用
実際、戊辰戦争で働いた奇兵隊などの諸隊は、明治2(1869)年に版籍奉還を実現した山口藩知事の毛利元徳(もとのり)にとってもはや無用の存在であった。
正兵隊(藩の正規軍)を残し、奇兵隊などの解散が命じられたのも当然だろう。
戦争が終われば、兵士は除隊して復員するか、部隊を縮小し平時体制に戻るかのいずれかしかないのに、防長2州では武装した奇兵隊はじめ諸隊はこの解散命令を受け入れなかった。数千名の武装集団が山口を脱走して三田尻(山口県防府市)へ集結、やがて藩庁を取り囲む「脱隊暴動」あるいは「脱隊騒動」に発展したのだ。
諸隊反乱は、戦後の明治維新史研究でも活発に論争が交わされたテーマであった。菅首相の「奇兵隊内閣」なる自己定義から思い立って、直木賞作家の中村彰彦氏から借用した『奇兵隊反乱史料・脱隊暴動一件紀事材料』(石川卓美・田中彰編、マツノ書店)を読むと懐かしい名前に再会したのである。
学生時代に「大楽源太郎一派の不平士族」「攘夷(じょうい)反動士族」が奇兵隊暴動を利用し煽動(せんどう)したという説を聞いて以来、このやや変わった姓の人物が気になって仕方なかった。大楽源太郎は、もとはといえば毛利家の陪臣にすぎなかったとはいえ、友垣の久坂玄瑞(げんずい)とともに禁門の変に敗れて帰郷後、高杉晋作による下関・功山寺での挙兵に呼応決起するなど、俗論派を倒して幕長戦争に勝利する道筋に地味ながら貢献した人物である。
この間、大楽は三田尻近くに「西山書屋」という私塾を開設するが、門人に神代直人、大田瑞太郎、団伸二郎ら大村益次郎暗殺にかかわる人物が現れたことも大楽の運命を変えることになった。
長州を倒幕に導いた大村は、新政府の兵部大輔(ひょうぶだゆう)に任命され西洋式の軍制改革に着手したために守旧派武士の反感を買い、明治2年に神代らの刺客に襲われたのである。大楽こそテロの首謀者だという嫌疑をかけられたのも当然かもしれない。神代は師が嫌疑をかけられたことを知って自害した。
大村襲撃事件と同年に起きた奇兵隊脱隊騒動で藩庁を包囲した不穏分子にも大楽の弟子が多数含まれていた。大楽も日頃(ひごろ)から諸隊解散に反対していたので、脱隊暴動の首謀者だと睨(にら)まれたのは当然であろう。そこで、藩の追及を逃れて九州に難を避け、鶴崎経由で久留米までやってきた。まさに奇兵隊に似た応変隊に頼って再起を期そうとしたのだ。
最期は仲間に斬殺され
いまだに尊皇攘夷を奉じる応変隊は源太郎を受け入れるが、新政府の開国と欧化の強い方針は揺るがず、大楽の庇護(ひご)を続ければ藩の存続も危ぶまれるほどだった。大義と忠義との間で板挟みになった応変隊の有志らは、「回天軍」を起こす用意が整ったと大楽を誘い出して斬殺し、藩が大事に至らないように処置したというから無残極まりない。
また、奇兵隊など諸隊の掃討は無慈悲を極めた。その死者は空堀の中に放りこまれ上から土をかけられたという酷(むご)いものである(『観樹将軍回顧録』)。大楽源太郎らは時勢の変化を読みきれなかっただけでない。レーニンや毛沢東のように、反体制や批判勢力が権力の側に回った時の無慈悲さを知らなかったのである。
新政府の権力を握った長州藩のエリートは奇兵隊を無造作に切り捨てられるリアリストばかりであった。してみれば、「奇兵隊内閣」とはかなり矛盾をはらんだ表現だと分かるだろう。
もっとも山口県出身の菅首相がいずれ政府民主党から大楽のような人間、即(すなわ)ち離党や脱党の徒が出ることを予知しながら、「奇兵隊内閣」を凝(こ)った暗喩(あんゆ)として用いたとすれば、相当なマキャベリストということになる。そうした資質や知識が菅首相の内面にあるなら、脆弱(ぜいじゃく)な政治家が多い日本では国際的にもライバルと切り結べる異能の人材として面白いのだが…。(やまうち まさゆき)
◇
【プロフィル】大楽源太郎
だいらく・げんたろう 天保3(1832)年、長州(山口県)萩生まれ。幼少のころ、周防国吉敷郡に移住。京都で梅田雲浜(うんびん)らと尊攘運動を行う。高杉晋作の下関挙兵に応じて忠憤隊を組織。私塾を開き、子弟の教育に当たる。明治2年、奇兵隊を含む諸隊解散に端を発する脱隊騒動や大村益次郎暗殺事件に連座して幽閉されるが、脱走。久留米に逃れるが、明治4(1871)年、政府の探索にかくまいきれなくなった同藩士に暗殺された。享年40。
1週間ほど海外に行っててばたばたしていたのでお休みしていた幕末ニュース、今日から復活します。
東京
<その32>新選組(下)
京都
竜馬ゆかり6県が合同PR 京都で観光展
<その31>新選組(中)
香川
「龍馬は神」海援隊士の書 佐柳高次の遺品公開へ…香川
福岡
竜馬と龍馬 再演
歴史
龍馬ショックぜよ!?千葉佐那、結婚していた
衝撃的な発見かどうかは別としても今でもあらたな発見があるところが幕末の歴史がおもしろいところです。
ブックレビュー
【著者に聞きたい】藤本ひとみさん
東京
<その32>新選組(下)
サッカーW杯で決勝トーナメント進出を果たした岡田ジャパンに対し、新聞各紙に「サムライ」の見出しが躍った。で、サムライとは何か? 語源は貴人のそばに仕える意味の動詞「さぶらう」の名詞形「さぶらい」。やがて武士の意味にもなる。研究社の新英和大辞典には、英語になった「SAMURAI」の和訳として「1、a(日本の)武士、侍 b武家階級 2、(日本の)陸軍将校」とあった。岡田ジャパンの何が、サムライなのか? 講釈はよそう。嫌われる。新選組の(下)は、死にざまを書く。
新選組の人気ナンバー3は、近藤勇、土方歳三、沖田総司だろう。ただ、池波正太郎が隊士のうちで最も好きな男として、「幕末新選組」(文春文庫)の主人公とした永倉新八も、池波ファンの私としては触れない訳にはいかない。
さて、鳥羽伏見の戦いに敗れ江戸に帰った後の近藤らは、振り返れば樹上の蝉(せみ)のように死に向かって自己主張する場所を探し求めていたといえる。肺病に伏せる沖田を江戸に残し、官軍を迎え撃つため新たに甲陽鎮撫隊を結成して甲府城に向かうが、板垣退助の指揮する官軍に後れをとって敗走した。最後に下総(千葉県)の流山に陣を敷くべく集まる。幕臣の最後の寄る辺となった会津への道に通じる要衝だ。ここが、ずっと表裏一体だった近藤と土方が、ついに袂(たもと)を別(わか)つ場所となった。官軍に包囲された近藤は投降を選び、土方は逃走を選ぶ。司馬遼太郎の「燃えよ剣」(新潮文庫)の下巻「袂別」の項では、こんな会話となっている。
「おめえは、おめえの道をゆけ。おれはおれの道をゆく。ここで別れよう」
「別れねえ。連れてゆく」
歳三は、近藤の利き腕をつかんだ。松の下枝のようにたくましかった。
ふってもぎはなつかと思ったが近藤は意外にも歳三のその手を撫(な)でた。
「世話になった」
「おいっ」
「歳、自由にさせてくれ。お前は新選組の組織を作った。その組織の長であるおれをも作った。京にいた近藤勇は、いま思えばあれはおれじゃなさそうな気がする。もう解きはなって、自由にさせてくれ」
「・・・・・・・・・・・・」
土方がその後、旧幕府軍の榎本武揚と合流して函館の五稜郭までたどり着き、官軍との決戦に死地を選んだことはよく知られている。明治2(1869)年5月死去。享年34歳。
*
近藤に戻る。流山での投降は慶応4(1868)年4月3日。同25日、板橋で斬首された。子母澤寛の「新選組始末記」によれば、近藤を捕らえた東山道鎮撫総督府の副参謀・有馬藤太は板橋の本営に控える参謀の伊地知正治に対し、充分に待遇し処分は自分に任せて欲しいという旨の手紙をしたためた。しかし、香川敬三が断固として斬首を主張した。有馬、伊地知は薩摩人だが、香川は水戸出身の勤皇志士で、中岡慎太郎の陸援隊の副隊長格となるなど土佐人脈と縁が深かった。当時、京の近江屋に坂本龍馬と中岡を襲ったのは新選組と思われていた。香川は土佐の恨みを背負って復讐(ふくしゅう)に血走ったのかも知れない。
近藤は処刑場の近くに胴体だけが埋められた。その場所は、今のJR板橋駅東口のすぐ前にある。地番は板橋区ではなく、北区滝野川。ここに新選組の供養塔があり、表には近藤勇と土方歳三の名前が並べて刻まれ、側面に計110人の隊士の名前が連ねてある。明治9(1876)年、この塔を建てたのが永倉新八だった。永倉は新選組結成時からの隊士だったが、甲府城への進軍に失敗したあと、近藤、土方らの考えについて行けずに去り江戸に潜伏。最後は北海道に渡って大正4(1915)年1月、77歳の長寿(当時)を全うした。その後、供養塔に向かって左側に永倉の墓も建てられた。敷地には新選組ファンの若者たちが思いや漫画などを書いたノートを収めた棚があり、若い女の子が2人、パラパラとめくっていた。その奥に、近藤の当初の墓石があり、もともと、この下に近藤が埋められていたと思われる。「もともと」と書いたのには意味がある。
*
勇の娘婿だった近藤勇五郎は、板橋に勇の安否をたずねに行き、図らずも斬首の様子を見た。昭和6(1931)年10月、勇五郎にその時の様子を聞いた子母澤は、「始末記」に、聞き書きの記録を残している。
近藤勇の墓
勇の斬首はお昼ちょっと過ぎだった。勇五郎は義父の首が拾い上げられ洗われるところまで見届け、多摩の実家へと必死で駆けた。午後7時ごろに着き、身内を叩(たた)き起こして報告。「とにかく、何が何であろうとも、先生のおからだをあんな処へ埋めておく訳にはいかん」と男たちは板橋へと向かった。墓の番人に3両を手渡し、埋葬場所を教えてもらう。まだ新しい色の土を鍬(くわ)で2~3尺(1尺は30・3センチ)掘り下げると、新しい筵(むしろ)が1枚出て、めくると白い肌着と下帯だけの遺体があった。提燈(ちょうちん)を照らすと、首の無い胴体だけがうつ伏せになっていた。しかし刑場だから、どの遺体も首はない。そこで念のために観察すると、左肩に1銭銅貨ほどの大きさで親指が入るほど深い鉄砲傷の跡があった。これが決め手となる。埋められてから3日も経(た)っているので、腕でも脚でも、つかむとずるずるっとむけてくる。「父(勇の長兄)は、これを抱くようにして、<残念だろう、残念だろう>と泣きます。私はもとより、縁もゆかりもない駕籠(かご)かきまでが、声を上げて泣きました」。納棺には3時間かかった。雨の中、遺体は明け方の7時ごろに多摩に帰った。
*
JR三鷹駅南口から6番乗り場のバスで約半時間。龍源寺という近藤家の菩提(ぼだい)寺(曹洞宗)にその遺体は今も眠っている。「龍源寺」のバス停を降りると、すぐに近藤勇の胸像と六地蔵が見える。そこがお寺だ。本堂の前、両脇に大きな銀杏が1対。アジサイが満開だった。竹が生える本堂脇を過ぎると墓地。一番手前に近藤家の墓があった。墓石は5基。向かって右から「先祖代々之墓」「近藤勇墓」「近藤勇五郎之墓」「元警視庁剣道助手 近藤新吉之墓」「近藤久太郎 近藤彦助 墓」と刻んであった。千羽鶴がつるして供えられ、勇の墓にはまだ新しい供花。少し奥には近藤の実家の苗字である「宮川」家と刻まれた墓がいくつかあった。一族だろう。寺の近くに「野川」という岸の緑豊かな川が流れていて、「ほたるの里」との案内板があった。
近藤勇の首は、新選組に絡むおびただしい血が流された京都に持ち運ばれ、三条河原にさらされた。石田三成と同じだ。墓は板橋と三鷹の龍源寺以外にも3カ所にある。うち、会津若松にあるのは、近藤の死を聞いた土方歳三が弔ったもの。愛知県岡崎市と山形県米沢市にある墓は、いずれも三条河原から奪還した近藤の首が埋められているとの伝説が残されている。
首なしの サムライの里 ホタル舞う (編集局次長)
京都
竜馬ゆかり6県が合同PR 京都で観光展
県は3日、京都市のJR京都駅前広場で、坂本竜馬にゆかりの深い5県と共同で、観光展「大龍馬恋」を開いた。
観光展は本県と広島、山口、高知、長崎、鹿児島の各県大阪事務所が共催。本県は、坂本竜馬が脱藩の罪を許された地として下田市の観光関係者が竜馬にちなんだまちおこしに取り組んでいる縁で参画した。
会場では、下田の観光関係者でつくる「下田龍馬伝志援隊」メンバーが坂本竜馬やペリー提督に扮(ふん)して寸劇や幕末クイズを行った。パンフレットやグッズを配布して、伊豆や富士山周辺への観光誘客を呼び掛けた。
下田は黒船が来航した土地でもあり、竜馬で脚光を浴びる幕末の歴史を地域資源に生かそうと、ゆかりの地を巡るツアーも行っている。
<その31>新選組(中)
JR京都駅から嵯峨野線(山陰線)で郷里の亀岡に向かう。数え切れないほど乗った路線だ。レールは梅小路蒸気機関車館のところで大きくゆっくりと北へと右折する。間もなく丹波口駅。その右手(東)一帯が、江戸時代に遊郭のあった島原である。さらに電車が二条駅へと進む途中、同じく右手に小さなピラミッドのような千体仏塔が見える。壬生寺である。遠くに東山三十六峰。夜に月が見えると、それもまた風情がある。京都から二駅、今から百数十年前の幕末に、新選組が駆けた「京」を想像しながら車窓を楽しむのも気軽で楽しい。
碁盤の目といわれる京都の通り。幕末も今も、位置や距離はほとんど変わっていない。御所の玄関・丸太町通から歌で南下する、「まるたけえびすにおしおいけ あねさんろっかくたこにしき しあやぶったかまつまんごじょう せったちゃらちゃらうおのたな・・・♪」(丸竹夷二押御池 姉三六角蛸錦 四綾仏高松万五条 雪駄ちゃらちゃら魚の棚・・・)。壬生寺は「四綾仏高」の綾小路と仏光寺の間にある。その昔、壬生村と呼ばれた西郊の一帯で、壬生狂言とか壬生菜(水菜の葉からギザギザを失くして丸くしたような京野菜)などでも有名である。
文久3(1863)年2月23日、その壬生に江戸から234人もの浪士がやって来た。リーダーは清河八郎。庄内藩(山形県)の郷士の家に生まれ、千葉周作の玄武館で免許皆伝を取得し、昌平黌(しょうへいこう)で学んだエリートである。将軍家茂の上洛を警護する名目で集められた浪士隊だったが、清河は壬生に着くなり一変。「京へ来たのは、近く上洛あるべき将軍家茂公の守護とは只名のみの事であって、その真実は、ただただ尊王攘夷の先鋒たらんとするにあるのである」(子母澤寛「新選組始末記」)と宣言する。時は桜田門外の変から生麦事件へと、攘夷が大きな時流になり始めたころだった。変節に幕府は怒り、朝廷も困惑して帰還命令を出す。そんなことで、ひと月も滞在せぬ間に浪士隊は江戸へ帰ることになった。これに反抗して京都に残ったのが、天然理心流「試衛館」仲間の近藤勇の一派と、水戸出身の芹沢鴨の一派だった。両派はともに壬生寺そばの八木源之丞邸を屯所として同宿していた。子母澤は残留組を「関東の無骨13名」と呼んだ。芹沢の尽力あって京都守護職の会津藩主松平肥後守容保の預かり身分となり、攘夷倒幕派の騒乱行為から京都の治安を守る役割を与えられる。これが3月のことだ。5月までには新たに浪士を募集して70余名に達した。
*
芹沢鴨の家系は平氏の流れを組む常陸国(茨城県)の豪族にさかのぼる。関が原の戦功で幕臣となり、やがて水戸家の郷士となったという名門だ。水戸学勤王の教えで育ち、天狗党にも入っていたことから人脈も広い。格から言って農家出身の近藤よりはずっと上であり、新選組の局長の筆頭となった。しかし、芹沢は大酒飲みの豪傑振る舞いで、隊の装備を整えるため天下の豪商・鴻池善右衛門から金子200両を脅し取ったり、大坂で力士達と大乱闘したりと派手に立ち回った。極めつきは、糸問屋・大和屋の土倉に大砲を打ち込み、大火事を巻き起こした「大和屋焼き討ち事件」。大和屋の評判は必ずしも良くなかったが、洛中を取り締まる側の洛中での乱暴狼藉であり、このことがきっかけで、会津藩京都守護職は、近藤らに芹沢の処分を命じたともいわれている。
新選組が島原の「角屋」で芸妓を総揚げした9月のある夜、芹沢は愛妾のお梅らを伴って八木家の屯所へ戻って気分良く飲み直す。やがて、お梅と同衾して眠りにつく。大雨が降るその深夜、数人の男たちが押し入り、芹沢に斬りつけた。驚いた芹沢は飛び起きて刀を取ろうとするが叶わず、真っ裸のまま八木家の親子が寝ていた隣室に飛び込むが、文机に転び、そこを刺客たちに斬りつけられ殺されてしまう。お梅も首を切られ惨殺された。事件は長州藩の仕業とされ、芹沢と、一緒に殺された平山五郎の2人の葬儀が盛大に執り行われ、近藤が弔辞を読む。しかし、実はこれが、近藤一派による芹沢の粛清で、以降新選組は、実質的に近藤局長・土方副長が指揮を執ることになった――というのは、よく知られた話である。八木家の鴨居には、この時の刀傷が今も残っている。
翌年の元治元(1864)年6月、有名な池田屋事件で新選組の京都での地位は確固たるものになった。その翌年3月、隊は屯所を西本願寺に移す。結局、新選組が活躍の頂点を極めた「壬生時代」は2年間であった。八木源之丞の子・為三郎は1931(昭和6)年まで生きた。子母澤寛は、新選組のことを調べるため、この為三郎らから何度も話を聞き、「八木為三郎老人壬生ばなし」として「新選組始末記」に収めている。始末記の初版は昭和3年。
子母澤は、<生き残りの老人のはなしは、疑わしいのもあったが、私は「歴史」というのではなく現実的な話そのものの面白さを成るべく聞きもらすまいと心掛けた>と書き、<八木為三郎翁から芹沢鴨が下帯一つない素っ裸で女と一緒に殺されたという話を聞いた時も、作家の作り話ではこうは行かないだろうとしみじみ思った>と振り返っている。
*
私は、壬生寺に2、3度行ったことがある。池田屋事件で死んだ隊士らだけでなく、粛清された芹沢らの墓もあった。ほかに覚えているのは、「夕焼けとんび」「古城」「達者でナ」などで知られる歌手・三橋美智也さんの「あゝ新撰組」の歌碑が建っていて、確か100円入れると歌が流れたことだった。無粋といえば無粋だが、作詞家・横井弘は、確かに新選組の情感をよく伝えている。
<鴨の河原に千鳥が騒ぐ またも血の雨涙雨>(1番)
<変わる時世に背中を向けて 新撰組よ何処へゆく>(2番)
そういえば、日野の土方歳三の生家の近くには、浅川という川が流れていた。薬売りだった土方家が、秘伝の薬を作るための薬草を採取していた川である。激烈、血で血を洗った京の新選組ではあるが、土方ら日野出身の隊員らは、鴨の流れに故郷の浅川を思い出すこともあったに違いない。鳥羽伏見の戦いの後、江戸へ敗走するのは慶応4(1868)年1月。壬生を離れて3年後だった。
<イレブンと 重なる夏や 新選組> (編集局次長)
香川
「龍馬は神」海援隊士の書 佐柳高次の遺品公開へ…香川
江戸幕府の軍艦「咸臨丸(かんりんまる)」の水夫で渡米し、後に海援隊士として坂本龍馬と行動をともにした佐柳(さなぎ)高次(1835~91)の書などの遺品が、ふるさとの香川県多度津町の町立資料館で今秋、初公開される。龍馬や隊士を弔う書には「坂本龍馬神宮」とあり、龍馬を慕う思いや、隊士たちとの強い結びつきがうかがえる。
佐柳は、瀬戸内海の塩飽(しわく)諸島の佐柳島(多度津町)で育った。島々は古くから海運で栄え、咸臨丸の水夫50人のうち35人は同諸島の出身。佐柳は1855年、幕府の長崎海軍伝習所に水夫として採用され、咸臨丸に乗船した。
その後、勝海舟の紹介で、龍馬と出会い、海援隊に参加。67年に龍馬が暗殺されると、山口県下関市にいた妻・お龍(りょう)に伝えに行ったとされる。幕末の動乱を生き抜き、69年に帰郷した。
書は、滋賀県湖南市に住む玄孫(やしゃご)・鮫島和子さん(62)が保管。縦120センチ、横30センチで、「坂本龍馬神宮」と力強い字体で記し、海援隊の近藤長次郎、池内蔵太ら隊士14人の名も添えている。鮫島さんは父から「高次は朝晩この書を掲げ、龍馬を神として拝み、仲間の冥福を祈った」と教えられた。
公開は10月1日~11月28日。咸臨丸渡米から150年に合わせ、町立資料館が企画した。佐柳がサンフランシスコで購入したとされる、ダンスを楽しむ若い男女をあしらった陶製の絵皿なども展示される。
霊山(りょうぜん)歴史館(京都市東山区)の木村幸比古(さちひこ)学芸課長は「海援隊の人間関係を示す珍しい資料。亡くなった海援隊士の名も記していることから、海援隊が龍馬を中心に結束していたことがわかる」と話している。
(2010年7月4日 読売新聞)
福岡
竜馬と龍馬 再演
■福岡の劇団 小郡で8月
福岡市を拠点に活動する「劇団ショーマンシップ」(仲谷一志座長)が昨年末に公演し好評だった「竜馬と龍馬」のリバイバル公演が8月22日、小郡市の市文化会館大ホールで開かれる。29日には仲谷座長らが市役所を訪れ、「NHK大河ドラマでも龍馬が取り上げられ話題になっている。こちらの龍馬の話もぜひ見に来てほしい」と平安正知市長らにPRした。
作品は、坂本龍馬と福岡の幕末史をベースに描くオリジナル時代劇。龍馬が同じ名前を持つ飛脚の「竜馬」と偶然出くわし、龍馬の将来の妻となるお龍への恋文の配達を頼むようになる。一方、薩長同盟へと奔走する龍馬の密書と勘違いした新撰(しん・せん)組が恋文を奪ってしまう……、という内容だ。
この日は、出演する原岡梨絵子さんが、お龍役に扮して訪問。自らも飛脚の竜馬役で出演する仲谷座長が「手紙をキーワードに福岡の歴史を交えた作品」と説明。平安市長は「演劇が好き。楽しみにしている」と話した。
公演は午後2時開演。全席指定で2500円(当日3千円)。未就学児の入場はできない。問い合わせは市文化会館(0942・72・3737)へ。
歴史
龍馬ショックぜよ!?千葉佐那、結婚していた
坂本龍馬の婚約者で生涯独身を貫いたとされる千葉佐那(さな)が、実は結婚していたとする史料が見つかった。佐那はNHK大河ドラマ「龍馬伝」(日曜後8・00)で貫地谷しほり(24)が演じ、愛を貫く姿が女性に支持されているだけに新説に注目が集まりそうだ。
結婚に触れているのは107年前の新聞記事。明治期に横浜で創刊された毎日新聞(現在の毎日新聞とは無関係)の1903年(明36)8~11月の連載。佐那の父親は「北辰一刀流」を開いた千葉周作の弟、定吉。定吉が剣術師範役を務めていた鳥取藩の元藩士山口菊次郎から求婚され、暗殺された龍馬の七回忌も済んだことから受諾、1874年7月に結婚した。
しかし、菊次郎は佐那の幼なじみに思いを寄せるなど多情で10年たたずに離縁。その後は再婚しなかった。故司馬遼太郎氏のコラムなどから独身説が広く知られており、通説を覆す内容だ。
「龍馬伝」で佐那は今月18日に再登場するが、設定はこれまで通り生涯独身。番組担当者は「龍馬伝をきっかけに皆さんが幕末に興味をお持ちになり、新たな史料が次々と発見されることに驚いている。龍馬ブームを実感します」と話した。
≪事実なら「衝撃的な発見」≫発見した歴史研究家のあさくらゆうさんは旧鳥取藩の文書から藩士の実在が確認されるなど「記事はかなり正確」としている。佐那の関係資料を所蔵する足立区立郷土博物館の学芸員多田文夫さんは「非常に貴重な記事。しっかりした取材に基づいて書かれ、登場人物の実在も確認されており、信ぴょう性が高い」。また、宮川禎一・京都国立博物館考古室長は「事実だとすれば衝撃的な発見。30歳代後半になって結婚していたとなればイメージが変わることになるが、われわれはこうした佐那の人間らしい側面を受け入れるべきだろう」としている。
衝撃的な発見かどうかは別としても今でもあらたな発見があるところが幕末の歴史がおもしろいところです。
ブックレビュー
【著者に聞きたい】藤本ひとみさん
□『幕末銃姫(じゅうき)伝 京の風 会津の花』
■豪快女性の葛藤と奮闘
武士の誠を尽くす一方、幕府と朝廷間で翻弄(ほんろう)される会津藩。幕末動乱の中、銃を手にして鶴ケ城の戦いに挑んだ女性がいた。山本八重。維新後は同志社大学の創設者、新島襄と結婚して女子教育に奔走した。本著は八重の前半生を描き、戊辰戦争、幕末という時代の転換期に新たな光を当てた歴史長編小説である。
「八重の存在を知ったとき、幕末に、こんな豪快な女性がいたのだと。結婚もし、維新後も活躍する。これだ!と思いました」と振り返る。
八重は腕力に自信はあるが裁縫は苦手。良妻賢母であることを求められ葛藤(かっとう)する。勝海舟らに師事した兄から銃や砲術、兵法の薫陶を受ける。時は戊辰戦争の最終局面、薩長軍が鶴ケ城に攻め込み、篭城(ろうじょう)戦に。八重は銃を手に立ち向かう。
フランス革命やナポレオンを題材にした作品を描いてきた。日本史は初めて。ナポレオンに関する史料を読み解くうち、西洋の兵学が幕府にも影響を及ぼしていることを知った。
〈誰が、何月何日、何をした〉という史実。記録に残る人物像。事実で構成した行間にエンターテインメントを息吹かせる。明瞭な輪郭を持った八重や佐久間象山らが、いきいきと動き出す。
会津藩の物語は、幕府と武士道に忠誠を尽くした美談として知られる。しかし、八重の生き方を通すことで、ひと味違った見方を楽しめる。支えた男性たち、日本の四季や様式美など、織り込まれた要素も花を添える。
どの時代の空気にも色があり、生きる人たちを染めているという。
「色をとらえ、人を描く。今回は、家族も描きたかった。動乱の世の八重たち兄妹、父母。それぞれの生き方を通して幕末を描きました。鶴ケ城の戦いは江戸の代理戦争であり、武家社会の崩壊を象徴するものだと考えます。その下に生きた一つの家族の物語として読んでいただけるとうれしい」(中央公論新社・1785円) 宮田奈津子
◇
【プロフィル】藤本ひとみ
ふじもと・ひとみ 長野県生まれ。仏・ナポレオン史研究学会の日本人初会員。仏観光開発機構名誉委員。著書に『皇帝ナポレオン』など。
こんにちは、白牡丹@米国某所です。飛行機の乗り換えに時間がありますので幕末ニュースをアップしておきます。
北海道
旧幕府軍兵士しのぶ…碧血碑慰霊祭
弓場さんが木戸孝允の書を入手
福島
4日に劇団ぴーひゃらら公演
神奈川
「まず地域の歴史を知ること」
「坂の上の雲」プロデューサー招きフォーラム
静岡
外国人富士初登山から150年 写真や資料など展示
京都
焼失前の大船鉾 鮮明に
幕末、幸野楳嶺描く
岡山
漫画コンテストにエントリー 中国デザイン専門学校卒の2人
芸術・文化
写真:いらかの波と江戸の空 巨大カメラ最古級、米写真家の作品発見
ビジネス
運送業者が「龍馬伝」に便乗-坂本さんと楢崎さんカップルは無料に
北海道
旧幕府軍兵士しのぶ…碧血碑慰霊祭
箱館戦争で戦死した旧幕府軍兵士の霊を慰める「碧血碑(へっけつひ)慰霊祭」(箱館碧血会主催)が25日、函館市谷地頭町の碧血碑前で行われた。同会会員や市民ら約80人が参列。碑前に手を合わせ、祭られている約800人の兵士を追悼した。
碧血碑は箱館戦争終結から5年後の、1874(明治7)年に建立。この日は旧暦の5月16日で、旧幕府軍の運命が決した千代岡陣屋陥落の日にあたる。1941(昭和16)年の同会(柳川昭祈治会長)の会合で法要日と決めた。慰霊祭は今年で142回目。
同市船見町の実行寺の住職らが読経する中、会員、一般の順に焼香。この日は歩兵頭として活躍した伊庭八郎の弟、武司のひ孫で千葉県浦安市の金田秀昭さん(65)が3年ぶりに参列し、碑に手を合わせた。
終了後、同会の柳川厚史副会長(42)は「兵士たちを祭るとき、大勢の人が手伝ってくれたと思うが、毎年市民が弔う気持ちを持って参列してくれることにも感謝したい」と話していた。
金田さんは、慰霊祭に先立ち、南北海道史研究会会員の近江幸雄さん(73)の案内で、五稜郭タワーや五稜郭公園を訪れた。タワー展望台では晴れ渡る市内を見て「五稜郭は良い場所にあり、死角をなくすためにされた星形が美しく見える」と話した。同公園管理事務所近くにある、伊庭八郎が埋葬されたとされる場所でも手を合わせた。間もなく完成する箱館奉行所庁舎を見て、「八郎も奉行所で評議などしたと思う。次の来函時はぜひ訪れたい」と話していた。
弓場さんが木戸孝允の書を入手
日高町小中、 溪友会主宰の書家、 弓場龍溪 (本名・和彦) さんは、 このほど知人を通じて幕末から明治にかけて活躍した木戸孝允 (桂小五郎) の書を手に入れた。 自作の詩とみられ、 大政奉還の年の揮毫であることが記されている。
20年来の友人、 中国の山東省青島出身で篆刻作家・画家の李忠和さん (八王子市在住) が先日弓場さん宅を訪問。 李さんは、 弓場さんが所蔵していた日高昌克 (旧御坊町出身、 明治~昭和の水墨画家) の猿の絵を見て気に入り、 「私は申年生まれだから、 この絵がぜひほしい」 と所望。 李さんがちょうど持っていた木戸孝允の書と交換することになった。
書かれている詩は七言絶句で、 「変遷恰似黄梅節 半日陰晴不可知 七百年来時稍到 危疑也恐機宣」。 最後に 「大政一新之歳所作 松菊」 と記されており、 大政奉還の年 (1867年) に書かれたことをうかがわせる。 「松菊」 は木戸孝允の号。 幕末の桂小五郎時代には、 薩長同盟が結ばれた時に長州側の代表を務めるなど明治維新の立役者の一人。 西郷隆盛、 大久保利通と並び 「維新の三傑」 と呼ばれる。 明治政府でもさまざまな分野の改革に力を尽くした。 能書家としても知られる。 弓場さんは 「木戸孝允の書は以前からできれば手に入れたいと思っていたので、 とてもうれしい。 45歳の若さで亡くなった人だが、 多くの功績がある。 この書は、 大政奉還が成った喜びがみなぎる力強い作品。 当時30代という若い情熱もあふれている」 と話している。
福島
4日に劇団ぴーひゃらら公演
会津若松市の劇団ぴーひゃららは7月4日午前10時半から、市内の会津大で「明治の兄弟〜山川家の人々」を再演する。
戊辰戦争の憎しみを超えた和解をテーマとし、各地で評価の高い舞台。
感動が巻き起こった昨年十月の鹿児島公演以来の上演となる。
同日に催される「会津エンジン05」の一環で、会津若松での上演は3年前の初演以来。
戊辰戦争後に旧会津藩士の娘山川捨松に舞い込んだ薩摩藩出身の陸軍卿大山巌との縁談を軸とし、戦った者同士が遺恨を乗り越えて心を許しあう姿を描いた。
鹿児島公演では涙する観客も多く、大成功に終わった。
白河市や郡山市などでの公演も好評。
地元での再演に向け、団員の気持ちが高まっている。
入場には、会津エンジン05の他の講座などを含めたチケットが必要で、一般1000円、小中高校生500円。会津若松商工会議所や會津風雅堂などで販売している。
問い合わせは劇団の船木さん電話090(8922)1568へ。
神奈川
「まず地域の歴史を知ること」
「坂の上の雲」プロデューサー招きフォーラム
昨年から始まった無尽蔵プロジェクトの一つ「ウォーキングタウン小田原」のイメージを具体化する事業として18日、「坂の上の雲フォーラム」が生涯学習センターけやきホールで開催された。
「坂の上の雲」は作家・司馬遼太郎の代表作のひとつ。昨年から3年間かけてNHKスペシャルドラマとして放映されている。フォーラムは作品の主人公のひとりで、小田原で没した・秋山真之を足がかりに、幕末から昭和初期にかけて、板橋や天神山、西海子エリアなどに邸園を構えた政治家、文化人の足跡を、歴史・地域資源としてまちづくりに活用する方策を探るために行われた。
当日はNHKドラマ「坂の上の雲」の担当プロデューサー・藤沢浩一氏による基調講演とパネルディスカッションも行われた。藤沢氏は貴重な映像を映しながらドラマの裏話などを講演した。またパネルディスカッションでは交流人口を増やす方策を問われ「地元の人が外の人に話せるぐらい、自分たちの土地の歴史を知る方が先決では」と語った。
なお主催したNPO法人小田原まちづくり応援団では、フォーラムをきっかけに、7月19日(祝・月)「邸園巡りまち歩きツアー」を開催する。時間は午前9時から正午までと午後2時から5時。定員は各組先着40人。費用は1000円。
申込み・問合せは清閑亭【電話】0465(22)2834まで。
静岡
外国人富士初登山から150年 写真や資料など展示
外国人として初めて富士登山した初代英国公使のラザフォード・オールコックを紹介する展示会(富士宮市教委主催)が25日、富士宮市粟倉の富士山環境交流プラザで始まった。今年はオールコックの富士登山から150年の節目に当たり、7月1日の山開きには英国大使のディビット・ウォレン氏も参加を予定している。
オールコック(1809~97年)は幕末の1860年、富士登山に挑戦した。150周年記念展では写真や絵画、各地に残る資料などを掲示。英国領事館を出発し、東海道を経て富士山に登り、帰路に熱海で温泉を楽しんだ約1カ月の日程を紹介している。
富士登山には江戸を離れてリフレッシュするとともに、日英修好通商条約にある内地旅行権の確認や日本国内の世情視察など政治的思惑があったこと、外国人が富士山に登るのを快く思わない当時の世論があったことなども解説している。
7月11日までの午前9時から午後5時まで。入場無料。火曜日は休館。
7月1日にウォレン氏は同市の富士山本宮浅間大社の開山祭や村山浅間神社の入山式に参列し、英国大使館関係者と地元小中学生との交流会も計画されている。
京都
焼失前の大船鉾 鮮明に
幕末、幸野楳嶺描く
明治初期に京都画壇の重鎮として活躍した幸野楳嶺(こうのばいれい)の「凱旋船鉾(がいせんふねほこ)掛軸」が7月31日まで、京都市下京区新町通四条下ルの料理店・矢尾定で飾られている。個人蔵のため、これまでお披露目される機会はほとんどなかった。幕末の祇園祭で巡行する大船鉾(凱旋船鉾)を実写した作品とされ、焼失以前の大船鉾を知る貴重な手がかりだ。
楳嶺は、大船鉾を有した四条町に生まれ、蛤御門の変(1864年)で生家が被災した。この時四条町一帯も被害にあい、大船鉾は焼失した。
掛け軸は、大火が起こる以前、若き日の楳嶺が四条町で、巡行直前の大船鉾を描いたと伝えられ、町内で親交があった小賀家が大切に保管してきた。
小賀百合子さん(62)は「大船鉾の復興が動きだしたと聞き、応援したかった」と語り、大船鉾の囃子(はやし)の復活に尽力してきた矢尾定社長の佐々木定寿さん(52)に貸し出した。
佐々木さんは「掛け軸を通して、楳嶺さんの思い、大船鉾や四条町の歴史を伝えていきたい」と話している。
岡山
漫画コンテストにエントリー 中国デザイン専門学校卒の2人
新作コミックが無料で読める小学館の配信サイト「クラブサンデー」で開催中の漫画コンテスト「第1回クラサン杯(カップ)」に、中国デザイン専門学校(岡山市北区船頭町)卒業生の田辺翔平さん(21)=ペンネーム義國翔平、新見市神郷高瀬=と滝下晶さん(21)=同アキヒコ、愛媛県新居浜市=の作品がエントリー中。2人は「この機会に、多くの人に読んでほしい」と話している。
クラサン杯は新人の発掘を目的に小学館が実施。漫画系学科などがある全国21大学・専門学校から寄せられた36作品を4月27日から1週間ごとに4作品ずつ追加更新している。
田辺さんの作品「青夢人(そうむじん)」(33ページ)は幕末の動乱期が舞台。ある“事件”をきっかけに船大工の若者が成長する姿を、父親への反発心を絡めながら躍動感あふれるタッチで描いた。
滝下さんは地元・愛媛出身の俳人正岡子規を題材とした「ほととぎす」(53ページ)を出品。病に伏せながらもひたむきに創作に打ち込む子規の晩年を、友人の夏目漱石、本人、妹の視点で構成した。
芸術・文化
写真:いらかの波と江戸の空 巨大カメラ最古級、米写真家の作品発見
米国の写真家チャールズ・ウィード(1824~1903年)が幕末の1867年に日本各地で撮影した写真17枚(各縦約40センチ、横約50センチ)が見つかった。巨大なカメラを使ったマンモス・プレートと呼ばれるもの。この大きさの日本の写真としては最も古いとみられる。
このうち5枚はカナダの博物館も所蔵しているが、残りの12枚はこれまで表に出ていなかった。愛宕山から見た武家屋敷▽武士が池のほとりに立つ浜御殿(浜離宮)▽増上寺本堂(1873年焼失)▽同黒本尊堂(1909年焼失)--といった江戸の写真のほか、鎌倉の大仏の写真などが含まれている。
ウィードは米西部のヨセミテの自然を撮った作品などで知られる。中国を拠点に活動した時期があり、そこから来日したらしい。1867年9月に浜御殿で勝海舟やフォルケンバーグ駐日米公使らを撮った小判の写真は、日本カメラ博物館にもある。横浜や長崎なども回り、大判の迫力ある写真を撮った。
駐日米公使館員の一人が手に入れ、米国に持ち帰ったとみられる。今年になって、その子孫が家を整理中に見つけたという。日本の古い写真について研究している英国在住のテリー・ベネットさんは「幕末の日本の写真は数少なく、その中でもウィードのマンモス・プレートは非常に珍しい。これだけ残っていたのは驚きだ」と話す。【佐藤由紀】
ビジネス
運送業者が「龍馬伝」に便乗-坂本さんと楢崎さんカップルは無料に
運送事業を展開するハーツ(品川区南大井5、TEL 03-5762-0072)は6月12日より、NHK大河ドラマ「龍馬伝」の人気に便乗したキャンペーンを始めた。
同社は、運転手付きのトラックを1時間単位でレンタルできるサービス「レントラ便」を展開。主に引っ越しや荷物運搬として利用されており、同行の運転手が荷物の積み込み・運搬も行っている。
6月12日より、新たに運転手が作業を行わず、トラック運転のみのサービス「レントラセルフ」を開始した。料金は、レントラ便より約20%安く、軽トラック30分で2,520円より利用できる。
「長引く不況を意識し、少しでも安く引っ越し・運搬をしたいという要望を受けて企画した。大学生など若い方や人手の多い場所での利用を見込んでいる」と社長の山口裕詮さん。
「レントラセルフ」サービス開始にあたり、「龍馬伝」の登場人物にちなんだキャンペーンをスタート。坂本龍馬の「坂本さん」、龍馬の妻・おりょうの「楢崎さん」、千葉道場の「千葉さん」は期間中、30%引きで利用できる。また3つの性のうち、2つの組み合わせは無料に。
山口さんは「あまり告知していないこともあり、残念ながらキャンペーン該当者はまだいない。当社の最寄り駅・立会川は坂本龍馬にゆかりのある地域。龍馬が幕末時代に偉業を成し遂げたように、業界の中で第3のサービスを確立していきたい」と話す。
キャンペーンは7月11日まで。
日本時間午前3時30分キックオフ予定のデンマーク戦に備えて、今日は早めに一眠りする予定です。どうか寝過ごしませんように……(汗)。
静岡
黒船乗組員の墓、修復へ 下田・玉泉寺
京都
全国から龍馬の原本資料…来月19日まで、京都文化博物館
コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(67)東大教授・山内昌之 陸奥宗光
エンターテインメント
大人気アニメ「薄桜鬼」第二期の制作決定、秋にはゲーム新作や舞台も。
静岡
黒船乗組員の墓、修復へ 下田・玉泉寺
ペリー提督率いる黒船艦隊の乗組員として幕末に来航し、下田市柿崎の国指定史跡・玉泉寺(村上文樹住職)に眠る米海軍兵ら5人の墓石が、日米両国や県、市の支援で修復されることになった。同寺によると、墓石自体の修復は1854~58年にかけて建立されて以来初で、関係者は開国の歴史を今に伝える貴重な遺産の保護に期待を寄せている。
54年に日米和親条約の細則を定めた下田条約が調印され、日本初の外国人墓地として乗組員らの埋葬所が設けられた同寺では、5人の墓地を両国友好の象徴として維持・保全してきた。ただ、伊豆石造りの墓石は長年の風雨や潮風などで激しく劣化した状態に。村上住職は「10年以上前から懸念していたが、ようやく(修復に向けた)めどが付いた」と説明する。
5基の墓石は高さが約2・76メートル、台座の幅が最大約1・05メートル。修復期間は7月から来年3月までで、専門の業者がはく離した墓石の破片を復元したり、石材強化剤で風化を止めたりするほか、銅板ぶきの屋根も設置して風雨から保護する。総事業費は1400万円を予定している。
専門家として保全修理に向けた所見をまとめた原秀三郎静岡大名誉教授は、墓石の現状を「損傷が著しく、このまま放置すれば文化財の保存上、重大な問題が生ずる恐れがある。日米両国の責務で対策がなされるべきだと指摘した」と話した。
京都
全国から龍馬の原本資料…来月19日まで、京都文化博物館
湿板写真、着用紋服など180点
放送中のNHK大河ドラマと連動して主人公、坂本龍馬(1835~67)の遺品や書簡のほか、黒船来航など幕末の事件を伝える歴史資料を並べる特別展「龍馬伝」が中京区の京都文化博物館で開かれている。7月19日まで。
龍馬は土佐藩の郷士の次男に生まれ、幕臣勝海舟の門弟となって航海術を習得。長崎で貿易会社を兼ねた政治結社「亀山社中」、続いて「海援隊」を組織する。その一方、薩長同盟の締結や大政奉還のため奔走した。
今回、高知や京都など50か所から約180点を集めた。「これだけ原本がそろった龍馬展は例がない」(木村幸比古・霊山歴史館学芸課長)という。
「坂本龍馬湿板写真」(1866年)は長崎滞在中に撮影されたもので、現存する唯一の龍馬像ガラス板写真。6月25~27日のみ特別公開する。
重要文化財「坂本龍馬着用紋服」は丈145センチ、裄(ゆき)64センチで、龍馬が当時としては大柄だったことがうかがえる。
書簡は姉の乙女あての重要文化財「坂本龍馬書簡」など。
月曜休館(7月19日は開館)。一般1200円、大学・高校生800円、中・小学生500円。
コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(67)東大教授・山内昌之 陸奥宗光
幕末維新の「最小不幸社会」
菅直人首相によれば、「政治の目標は人々の不幸を最小化すること」にあるようだ。何故に「最大多数の最大幸福」でなく、「最小不幸社会」を唱えるのだろうか。
おそらく菅首相は、イギリスの功利主義哲学者、ジェレミー・ベンサムによる「最大多数の最大幸福」を少数派つまり弱者の利益無視の考えと理解しているのだろう。恵まれない人々の利益を最大化する「正義」として、最小不幸社会を構想したいのかもしれない。確かに、功利主義にはベンサムの「貧民管理」や刑務所民営化の論のように、個人の権利を尊重しない面があるのも事実である。
ベンサム学んだ侍
ところで、幕末維新期に活躍した政治家にもベンサムを学んだ人物がいた。それは坂本龍馬の弟子だった陸奥宗光である。紀州藩出身の陸奥は、明治10(1877)年に西南戦争が起きると、土佐立志社の一部と政府転覆計画にかかわって逮捕された。
そして、その下獄経験を「此一事は余が半生の一大厄難にして、自家の歴史上磨滅(まめつ)すべからざるの汚点なり」と記した。しかし陸奥は、無為に獄中生活を送ったわけではない。むしろ獄中での猛烈な勉強で知ったベンサムの仕事こそ、後代の陸奥を大きく成長させる基盤となったのだ。
陸奥がベンサムの思想を理解できたのは、すでに荻生徂徠(おぎゅうそらい)を学んでいたからである。山路愛山(やまじ・あいざん)は、徂徠学とイギリス功利主義に共通する実利性に言及した。徂徠において日本は初めて「実利派的」な頭脳を見いだし、アングロサクソンのように事実を尊び、常識を重んじる人を発見したというのだ。愛山が徂徠を自由な世界に生き、自由に行動した人物と評価したとすれば、陸奥は徂徠のどこに惹(ひ)かれたのだろうか。
陸奥は、しかるべき能力の人材登用の必要を唱えた徂徠が「賢者は何(いつ)も上に有て、愚者はいつも下に有る」(『政談』巻之三)と強調したことを評価していた。徂徠の思考になじんだ陸奥にとって、ベンサム思想の吸収は容易であった。
藩閥批判も再び出仕
獄中でベンサムの『道徳および立法の諸原理序説』(1789年)を訳了した陸奥は、先験的な規範や命題を斥(しりぞ)け、「人之常情」(普通の人情)という経験を優先させることで、徂徠学の教養とベンサムの功利主義をつないだのであった。陸奥は、自由なくして人智の進歩がありえず、人智の進歩なくして人間の幸福がありえないというベンサムの主張に共感したのである。
幸福と知識との間に密接な関係があるという自由論の要に立って、陸奥は人智の進歩を妨げる存在として、「頑陋(がんろう)なる宗教家」「僻古(へきこ)の道学者」に加えて「偏見なる政治家」も挙げていた。彼が意識したのは、反動的な藩閥政治家たちにほかならない。
同時に陸奥は、現実に歴史や政治を動かす「権力」から遠ざかるなら、決して自らの経綸(けいりん)や抱負を実現する術は与えられず、政治関与の機会も逸することを下獄体験から学んだ。陸奥は、ベンサムに依拠して「自由民権」という普遍的な「理念」のもつ力と意義を評価し、欧米の大勢が目指すデモクラシーの意義を認めながらも、日本では少数の「真個の貴族」「才力ある平民」が運動を適切に指導せねば堕落すると考えた。陸奥は、挫折経験から「藩閥は外より攻むべからず、内より改むべきのみ」と信じるようになり、再び藩閥政府に出仕したのである。
このあたりの現実感覚は、政権交代のためなら小沢一郎氏とも手を組んだ菅首相の徹底した実利主義とも似ている。政党政治や官僚統治の主流から離れていた菅氏が、権力の内懐(うちぶところ)に接近していく手法や迫力も、陸奥に似たところがあるのではないか。
「最小不幸社会論」を唱える菅首相は、消費税値上げのタブーに挑戦しながらベンサムの提起を前向きに生かすのか。あるいは参院選挙だけを意識して陸奥のいう「偏見なる政治家」の仲間入りをするのか。その真価がまもなく問われようとしている。(やまうち まさゆき)
◇
【プロフィル】陸奥宗光
むつ・むねみつ 弘化元(1844)年、紀州(和歌山県)生まれ。脱藩し坂本龍馬の海援隊に参加。新政府に入るが、挙兵を企てた土佐立志社事件に関与し免官、5年間入獄する。出獄後、欧米を歴訪。帰国後外務省に入省、駐米公使となる。第1回衆院選で当選し、第1次山県、第1次松方各内閣の農商務相、第2次伊藤内閣の外相を歴任。明治27年、日英条約改正を成功させ、領事裁判権の回復に尽力。対清強硬路線をとって日清戦争開戦へと導き、講和や三国干渉に対処した。明治30(1897)年、死去。享年54。
◇
本連載をまとめた「幕末維新に学ぶ現在」(中央公論新社)が発売中。
エンターテインメント
大人気アニメ「薄桜鬼」第二期の制作決定、秋にはゲーム新作や舞台も。
今年4月にアニメ化され、先日、放送各局で最終回を迎えたばかりの「薄桜鬼」。その最終回の本編終了後に、早くも第二期を今秋放映することが発表された。また、アニメ「薄桜鬼」公式サイトにも「今秋2期決定!」と記されたバナーが貼られているが、現時点ではまだ詳細は明かされていない。
最終回終了後に流れた告知では、「第二期 制作決定」「今秋、再び」の文字とともに、第二期のものと思われる映像も。第一期の終わり方や、告知映像に「洋装」の土方歳三が登場することから、第二期は第一期の続編となることは間違いなさそうだ。
第一期は全12話。ゲームの濃密なストーリーを知るファンの間では、放映途中から「少し内容を飛ばし過ぎではないか」「本当に終わるのか」といった心配の声が上がっていたが、今回の第二期発表により、安心したファンも多いだろう。
アニメ「薄桜鬼」は、2008年9月にアイディアファクトリーから発売されたプレイステーション2向けの女性向け恋愛ゲーム「薄桜鬼 ~新選組奇譚~」をもとに制作された作品。新選組を題材にしたシリアスなストーリーと、人気イラストレーター・カズキヨネによる美しいイラストが評判を呼び、人気が急上昇している。
ゲームはニンテンドーDSやPSP、プレイステーション3向けにもリリースされたほか、ファンディスクやミニゲーム集も登場。9月には「薄桜鬼 ~新選組奇譚~」以前の物語を描いたプレイステーション2用ソフト「薄桜鬼 黎明録」の発売も決まっている。
さらに、10月には舞台化されることも発表されており、土方歳三役には早乙女太一、ヒロイン・千鶴役には黒川智花を起用。「ORANGE RANGE」のメンバーRYOや木村了も出演する。
アニメ、ゲーム、舞台と、アグレッシブな展開を見せる「薄桜鬼」に今後も期待だ。
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