新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
iPHONEのOS4を導入しました。マルチタスクが可能になったことがとても嬉しいです。
北海道
北都交通のバスツアー「坂本龍馬と幕末の箱館浪漫」人気
東京
早大講堂で東北弁演劇 仙台の劇団「破無礼」を上演
京都
コーヒーカステラ:龍馬も好きぜよ 鼓月が発売「歴史ファンにお薦め」 /京都
「祇園祭の顔」引退へ 5期15年 山鉾連合会 深見理事長
コラム
【元気のでる歴史人物講座】(76)久坂玄瑞 受け継がれた志
文化芸能
劇団青い鳥「ちょっとうれしい」
出演者全員 台本作り参加
エンターテインメント
新選組と恋に落ちる!? 『幕末新撰組◆恋浪漫‘s』 6月23日オープンのゲームサービス 「ドコデモゲーム」にて公開決定
ビジネス
龍馬もガムで日本を応援するぜよ!
北海道
北都交通のバスツアー「坂本龍馬と幕末の箱館浪漫」人気
「はこだて検定」保有のカリスマバスガイドと歴史探訪はいかが―。北都交通函館支店(瀬戸川町34)は5月から特別企画「坂本龍馬と幕末の箱館浪漫(ロマン)」と銘打ったバスツアーを敢行し、観光客らから人気を集めている。
函館新名所として定着した「北海道坂本龍馬記念館」(末広町)を中心に元町の歴史的建造物や箱館戦争終えんの地となった五稜郭などをゆったりと散策できるのが魅力。同社では「幕末の歴史を色濃く残す函館を余すことなく知ることができます」と内容に自信をのぞかせている。
同社では年間、いくつもの定期観光バスを企画しているが、今回は7月29日の箱館奉行所オープンに先がけ昨今の幕末ブームと連動し、函館観光を盛り上げられるプランはないかと模索。ガイドやドライバー、同社員らで構成されるプロジェクトチームが知恵を絞り、商品化にこぎつけた。
一人の人物(今回は龍馬)に焦点をあて、その背景にある歴史を紹介する企画は今回が初めて。ツアーの目玉は添乗するガイド全員が「はこだて検定」取得者だということ。中でも田島典子さんは豊富な知識と分かりやすい解説でカリスマバスガイドとして人気が高く、利用者からも「ふだんの観光ツアーより内容が濃くおもしろい」と好評だ。
行程は函館駅バスターミナル―元町散策(ハリストス正教会見学)―坂本龍馬記念館―土方歳三最期の地碑―五稜郭公園―同ターミナルの約4時間。大人3100円(中学生以上)、小人1900円。運行期間は10月31日までの金・土・日・祝日。問い合わせ・申し込みは同支店TEL0138・57・7555。
東京
早大講堂で東北弁演劇 仙台の劇団「破無礼」を上演
東北弁でシェークスピア劇を演じる劇団「シェイクスピア・カンパニー」(仙台市)が19日、東京都新宿区の早大大隈講堂で「破無礼(はむれ)」を上演した。「ハムレット」の舞台を幕末の東北に置き換えた悲劇に一般も含め1000人の観客が魅了された。
早大が校友会の設立125周年を記念して企画。奥羽越列藩同盟に加わるある藩の跡取り息子を主人公に、父を殺した叔父への復讐(ふくしゅう)に至る苦悩や宰相の娘との悲恋が情感たっぷりに描き出された。
有名なせりふが「すっか、すねがだ、なじょすっぺ」と訳されるなど、味わいのある言葉で物語は展開。早大文学部2年の道脇彩さん(19)は「力強いせりふが東北弁にマッチしていた」と話した。
上演に先立ち、劇団を主宰する下館和巳東北学院大教授が「坪内逍遙のメッセージ」と題して講演。「逍遙は早大教授の傍ら、シェークスピア全集の翻訳をライフワークとした。言葉にとことんこだわった姿勢に感銘を受けたことが、この劇団の出発点になった」と語った。
京都
コーヒーカステラ:龍馬も好きぜよ 鼓月が発売「歴史ファンにお薦め」 /京都
NHK大河ドラマ「龍馬伝」がブームの中、京菓子の「鼓月(こげつ)」(京都市伏見区)は、カステラが広まった長崎で坂本龍馬がコーヒーを愛飲したとされることから、コーヒー味のカステラ「坂本龍馬コーヒーカステラ」を開発、発売した。同社広報担当者は「歴史ファンにお薦め。幕末に思いをはせてほしい」とPRしている。
コーヒーは幕末の長崎に日本で初めて輸入された。滞在中の龍馬も政治活動などに奔走する合間に好んで飲み、つかの間の休息を楽しんだとされる。
コーヒー豆を使って香ばしく、上品な甘さに仕上げた。表面に坂本家家紋「組み合わせ角(通称・違い枡(ます))に桔梗(ききょう)」をあしらった。1箱630円。JR京都駅など一部店舗で販売する。鼓月(電話075・623・1651)。【入江直樹】
「祇園祭の顔」引退へ 5期15年 山鉾連合会 深見理事長
祇園祭山鉾連合会(京都市中京区)の深見茂理事長(76)が22日、今期限りで引退することを明らかにした。次期理事長は来年5月の決算総会で決める。
深見氏は、大阪市立大教授などを経て、1996年4月に理事長に就任した。以来、5期15年にわたって、理事長を務めている。
この間、祇園祭の文化的な地位の向上に尽力し、総仕上げとして、昨年9月にユネスコ無形文化遺産の登録を実現した。また、最大級の鉾だったが、幕末の大火で焼失して「休み鉾」になっている大船(おおふね)鉾が将来、復興する足掛かりをつけた。
連合会は申し合わせで、理事の定年を80歳としている。深見氏は次期理事長に就くと任期途中で定年を迎えることなどから、引退を決断した。
「祇園祭の顔」として長年親しまれてきただけに、関係者には引退を惜しむ声が多い。深見氏は「慣例を重んじ、後進に託したい。今夏は、理事長として最後の祇園祭に全力を尽くす」と話している。
コラム
【元気のでる歴史人物講座】(76)久坂玄瑞 受け継がれた志
明治維新の精神は一言をもってすれば「尊皇攘夷(じょうい)」である。欧米の威圧に屈して不平等条約を結んだ徳川幕府がある限り、日本はインド、清の二の舞いとなるしかないと思ったのが、維新の志士たちである。
そのため志士たちは幕府をなくし皇室を仰いで日本を立て直し、わが国を侵略支配せんとする欧米を打ち払い日本の独立と生存を確保せんとした。この尊皇攘夷の運動を最も果敢に推進したのが長州藩であり、その先頭に立ったのが吉田松陰の教えを受けた人々である。
中でも松下村塾において高杉晋作とともに双璧(そうへき)とうたわれた久坂玄瑞(くさか・げんずい)は、長州の藩是を「破約攘夷」とし「君臣湊川(みなとがわ)」の覚悟をもって藩をあげて尊皇攘夷運動に突き進むのに最も尽力した。
久坂は禁門の変で亡くなるが、長州のこの尊皇攘夷運動なくしては明治維新の成就はあり得なかった。恩師・松陰の志を受け継いだのが一番弟子の久坂であり、久坂の死後その志を受け継いだのが高杉である。松陰、久坂、高杉らが一身を捧(ささ)げ幾多の困難、試練を乗り越えてついに明治維新を導いたのであった。
高杉が無二の畏友(いゆう)とした久坂は村塾の同志から最も敬愛された。同志は「久坂には誰もついて行きたい。高杉は恐ろしかった」と言っている。後年、西郷隆盛は「久坂先生が生きていられたならば私らは参議などと威張ってはいられませぬ」とたたえた。(日本政策研究センター主任研究員 岡田幹彦)
文化芸能
劇団青い鳥「ちょっとうれしい」
出演者全員 台本作り参加
劇団青い鳥は29日から7月4日まで、東京・下北沢の小劇場楽園で、新作の「ちょっとうれしい」=写真=を上演する。
出演者全員が台本作りに参加する「市堂令(いちどうれい)方式」を20年ぶりに復活させ、客席数100未満の小劇場でライブ感あふれる舞台を作り出す。
演出の芹川藍は「既成の戯曲を使い、せりふの面白さを追い求めた芝居をやる中で、俳優の演技が固まってきたことを痛感している。それを壊すため、私たちの出発点でもある市堂令方式に立ち返ってみることにした」と話す。
葬儀場、茶の間、喫茶店など五つの場面を設定し、「ちょっとだけ、うれしいこと」を5人の女優で表現する。
「けいこ場では、俳優が演技を固めようとする度に、一から作り直しています。『必死に遊ぶ』を合言葉に、5人の魅力が飛び出してくる舞台にしたい」と芹川。
出演は天光(てんこう)眞弓、葛西佐紀、近内仁子、森本恵美、天衣織女(あまぎおりめ)。(電)03・3486・7727。
エンターテインメント
新選組と恋に落ちる!? 『幕末新撰組◆恋浪漫‘s』 6月23日オープンのゲームサービス 「ドコデモゲーム」にて公開決定
携帯電話公式サイトを410サイト運営している株式会社エイチーム(本社:愛知県名古屋市、代表
取締役社長 林高生、以下エイチーム)は、株式会社ディーツー コミュニケーションズ(本社:東京都港区、代表取締役社長:宝珠山卓志)が運営する、ゲームサービス「ドコデモゲーム」にて、『幕末新撰組◆恋浪漫‘s』を公開開始いたします。
時は幕末…
日本が変わろうとしている時代の
京都を舞台に繰り広げられるラブロマンス!
【ゲーム概要】
幕末志士とのドキドキ恋愛を楽しめる、女の子向け恋愛シミュレーションゲームです。ストーリー中の選択肢を選択することによって物語を進めていきます。複数の彼氏候補キャラクターに
対して同時進行でアプローチしていくことも可能となっております。
また、他のユーザーの彼氏を誘惑する機能や、他のユーザーからの誘惑を防ぐことで彼氏の好感度がアップするなど、ユーザー同士の交流がゲームに影響を与える機能が大きな特徴となってお
ります。登場キャラクター総数は18名となっており多彩なキャラクターがストーリーを彩ります。
(以下略)
ビジネス
龍馬もガムで日本を応援するぜよ!
~お菓子で幕末気分を噛みしめ、脱藩の旅へ~/
「高知ゆずガム」 他5品、2010年6月22日(火) 全国で発売
大河ドラマや日経MJの「2010年上期ヒット商品番付」でも大関に入るなど、話題沸騰中の坂本龍馬。そんな坂本龍馬がビジネスマンを、そして日本を応援する「高知ゆずガム」が6月22日から全国でロッテから発売された。
包み紙には、坂本龍馬が筆まめであったことから、龍馬の手紙から抜粋した、ビジネスマンを応援するメッセージ(全18種)をプリント。「日本を今一度せんたくいたし申候」「世に生を得るは事を為すためにあり」などの名言がセレクトされている。幕末維新ミュージアム「霊山歴史館」の木村幸比古氏監修の本格的な内容だ。
味も本格的で高知県産の柚子パウダーが使われており心地よく爽やかな和の香味と激動の時代・幕末の空気を噛みしめることができる。
このガムはただ単に食べる、名言を読むだけでは満足していてはまだまだ甘い!折角の名言を使いこなすことで自分や同僚、先輩、後輩、そしてとなりの女子社員まで励ましたり、喜ばしたり、時には慰めビジネスシーンを愉しみたい。
ある土佐リーマンのビジネスシーンにあわせた名言集の使い方を紹介しよう。
1.出社・・・朝は元気よく出社。厳しい坂道「脱藩の道」も駆け上がるぜよ。待ってろよ、俺の仕事!
「世に生を得るは 事を為すにあり」
(人はことを成し遂げる使命を受けて生まれてきた。)
2.上司に呼ばれ・・・やばい、勝部長に呼ばれた。明日のプレゼン、アイデア浮かんでないけど、とりあえず言っとくか!
「ハイハイエヘンをもしろき事、兼て思ひ付おり申候」
(ハイハイエヘン、おもしろいことを以前から思いついております)
3.得意先で・・・飛び込みで入った薩摩商事の西郷課長に、普通の貿易会社だけど大げさに説明だ。
「日本を今一度せんたくいたし申候」
(日本を今一度一新させたいと思っております)
4.あの娘にそっと・・・行きつけの「寺田屋」の看板娘、龍子ちゃんへ、近藤たちに見つからないそっとメルアドを渡す。
「まことにおもしろき女」
((おりょうは)誠に魅力ある女性です)
5.後輩から相談・・・後輩の以蔵が元気がない。武市係長との人間関係に悩んでるらしい。思い切りやるしかないぜよ。
「ぶんと。へのなる。ほど。やって見よ」
(ぶんとおならが出るようなつもりで思い切ってやってみなよ)
6.え、異動!?・・・勝部長に呼ばれて個室に。え、万次郎と一緒に海外転勤!?このご時世に船(海臨丸)で赴任~!?
「人間の一世はがてんのいかぬは元よりの事
(人の一生はどうしても納得がいかないことがあるものだ。)
他にもラブレターや読むと元気になる名言など計18種類。コンプリートする頃にはメッセージに感銘を受けてあなたも龍馬のような行動力がついているはず。日本の夜明けは近いぜよ!
●龍馬ゆかりの地満喫の菓子で旅した気分に!●
~全国で6月22日(火)から発売~
高知ゆずガム以外にも、龍馬にちなんだお菓子が続々発売。ゆかりの地の名産品を使用し現代風にアレンジ。パッケージではゆかりの地や人物を紹介。食べると龍馬の足跡をたどる旅に出たくなる。時間やお金がない人はお菓子で行った気になろう!
『パイの実〈京都宇治抹茶のプリンパイ〉』
・龍馬が政治的に活躍した舞台の京都府産の宇治抹茶を使用したチョコ菓子は、抹茶が香り高く味わい深い。
・パッケージ裏には、「寺田屋騒動址とお龍」「円山公園龍馬像と中岡慎太郎」が紹介されつい訪れたくなる。
『大人のトッポ〈長崎のハニーカステラ〉』
・龍馬が設立した日本初のカンパニー「亀山社中」の存在した長崎県のハニーカステラのパウダーを使用したチョコがトッポの中にたっぷり。かくれたハチミツの甘さがあとをひく大人の味わい!
・パッケージ裏には、「龍馬」と「亀山社中やグラバー園」が紹介され活躍する姿をつい想像。
『クランキー〈鹿児島産紫芋のタルト〉』
・お龍と赴いた日本初の新婚旅行先と言われる鹿児島県産紫芋パウダーを使用したチョコは甘く香ばしい。
・パッケージ裏では、「新婚湯治碑や霧島連山、維新ふるさと館」などを紹介。フタ裏では、「西郷隆盛や勝海舟」などを紹介。
『高知ゆずクッキー』
・龍馬の故郷(土佐)、高知県産の柚子果汁を使用したクッキーはゆずの香りが漂う。
・パッケージでは、「脱藩の道や桂浜、高知城、坂本龍馬記念館」とメジャーどころがずらり紹介されている。フタ裏では、「乙女姉やん、武市半平太、初恋の相手とされる平井加尾、龍馬に世界を教えた河田小龍」とバラエティな人物紹介が龍馬ファンを愉しませてくれる
『鹿児島さつま芋ケーキ』
・龍馬が尽力した薩長同盟にちなみ、鹿児島県のさつま芋パウダーを使用した素朴でシンプルな味わいのケーキ。
・パッケージでは、「薩摩への移動途中に船から見たと思われる桜島、お龍と二人で登った霧島、二人で浸かった汐浸温泉の新婚湯治碑」が紹介され鹿児島での二人をほうふつとさせる。フタ裏では、「龍馬に関連する大勢の人物の相関図」が紹介され非常に勉強になる。
~龍馬ファンなら是非手に入れたい!!~
「龍馬伝フェア限定BOX」
ロッテオンラインショップ(http://lotte-shop.jp/)では、今回の6商品にさらにBOXでしか手に入らないポストカードガムなどを封入した「龍馬伝フェア限定BOX」を数量限定で販売。これをあげたら歴女の心をつかむこと間違いなし。また龍馬伝フェアの特設サイトも要チェックだ!http://www.lotte.co.jp/products/brand/ryomaden
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三遊亭白鳥の落語をダウンロードして楽しんでいるのはいいんだけど、電車の中でとか、書店でとか、いきなり吹き出してしまい、廻りにざっと引かれてしまうのは困りものです(苦笑)。
岩手
観音堂再建で結束 岩泉で一揆中心人物示す木板確認
兵庫
京都・龍馬の足跡をたどる
島根
教育に尽力、松江藩/幕末の資料紹介
山口
花ショウブ:雨に映える--下関・東行庵 /山口
高知
生まれたまち記念館30万人
長崎
私が「おりょう」なりきりお見事
龍馬ぐっと身近に、感動・発見 地元ガイドと歩く
エンターテインメント
今秋、再び『薄桜鬼』第二期
TOKYO MXでは次回が最終回です。第二期も楽しみです。
コラム
質問なるほドリ:奇兵隊はどんな組織だったの?=回答・取違剛
岩手
観音堂再建で結束 岩泉で一揆中心人物示す木板確認
江戸時代末期、盛岡藩で起きた国内最大級の一揆「三閉伊一揆」の中心人物とされる安家村俊作らの名前を、岩泉町安家字大平の観音堂などの再建協力者として記した木板が町内に保存されていることが分かった。観音堂の再建は一揆の前年で、専門家は「一揆前の中心人物の動きを示す貴重な史料」と評価。今年は俊作の生誕200年に当たり、町は一揆の講演会を開くなど郷土の歴史に光を当てている。
木板が確認されたのは、観音堂と天照(あまてらす)大(おお)神(みかみ)をまつる神明堂を納めたさや堂。壁にくぎで打ち付けられた板に、1846(弘化3)年の再建の際の寄進者名の一覧と寄進額が墨で書かれていた。再建を記念した棟札なども確認された。
縦50センチ、横約170センチの板には安家村俊作を示す「林ノ下 俊作」のほか、一揆の中心人物である淀屋敷の忠太郎の父「定助」、大鳥の辰之助の父「甚五郎」ら100人以上が名を連ねている。
本紙で「幕末維新を駆けた男たち 南部三閉伊一揆」を連載し、木板を調査した民族芸術研究所(秋田県仙北市)の茶谷十六さんは「観音堂再建などを通して、一揆の中心人物らが結束を固めていた様子が分かる史料」と指摘。
当時、再建するだけの財力があったことから「三閉伊一揆が、凶作による困窮を前提としたのではなく、政治、経済体制の変革を要求する民衆運動であったことを立証する貴重な史料だ」と語る。
三閉伊一揆は、盛岡藩の度重なる重税に耐えかね、1847(弘化4)年と1853(嘉永6)年に沿岸地方の民衆が決起。嘉永の一揆では「小○(困る)」ののぼり旗を立て、仙台藩に越訴するなどの戦術で、49カ条のうち39の要求を認めさせた。
岩泉町は今年、俊作の生誕200年を記念し、11月まで計5回の講演会を開いている。伊東勝幸教育委員長は「地元では三閉伊一揆に対する理解がまだ進んでいない。人口減少が続く中、自分たちの古里に誇りを持ち、厳しい時代に頑張っていくという気持ちの高揚のきっかけとしたい」と語る。
安家村俊作とは 1810(文化7)年、安家(現岩泉町安家)に生まれた農民。弘化の一揆では盛岡藩への願書案文を執筆するなど中心的な役割を果たした。弘化の一揆後は、捕らえられて下北半島に流された。嘉永の一揆後は解放され、北海道に移住した。
【写真=三閉伊一揆の中心人物とされる安家村俊作を示す「俊作」の名前が入った木板を調査する茶谷十六さん】
兵庫
京都・龍馬の足跡をたどる
「竜馬は京に入った。京は雨である」。昭和の日本に坂本龍馬ブームをもたらした司馬遼太郎の「竜馬がゆく」(文春文庫)の中で、龍馬と京都のかかわりには雨がつきまとう。龍馬が凝縮した時を過ごし、満32歳で最期を迎えた京都は今、大河ドラマ「龍馬伝」の影響で空前のブームに沸く。雨の一日、龍馬の足跡をたどりませんか。(竹山栄太郎)
幕府側に命を狙われた龍馬が身を隠し、龍馬が率いた海援隊が屯所(本部)を置いた酢屋(京都市中京区)は、1721(享保6)年創業の材木商。今も同じ場所にある。1階でおわんなどの木製品を販売し、2階で龍馬関係の資料を展示する。当時の主人・6代目酢屋嘉兵衛の玄孫にあたる10代目の中川敦子さんは「龍馬をかくまうのは大きなリスクだった。6代目は何か心に響くものを感じ、決断したのでは」と話す。
龍馬には、酢屋の2階から、向かいの高瀬川の舟入(船着き場)に向けてピストルの試し撃ちをしたという伝承がある。中川さんは「6代目は、人の迷惑も考えんとなんちゅうことするんや、と思ったでしょうね」と苦笑いする。
酢屋がある河原町三条の一帯は今、飲食店やカラオケ店などが立ち並ぶ京都一の繁華街。しかし、酢屋に代々受け継がれた「木は売っても龍馬は売るな」という言葉に従い、中川さんは家を守ってきた。
1867(慶応3)年11月、龍馬は醤油(しょう・ゆ)商・近江屋で中岡慎太郎とともに刺客に襲われ、亡くなった。
「この夜、京の天は雨気が満ち、星がない」(竜馬がゆく)
遺体は海援隊隊士らにより約1・5キロを運ばれ、倒幕派志士の墓所に葬られた。現在の京都霊山護国神社(同市東山区)だ。
「ここは龍馬を感じられる場所です」。5代目宮司の木村隆比古さん(45)は2人の墓の前で話す。京都は学生の街でもある。6月には墓参りの大学生の姿が目立つという。「慣れない街で苦しさや望郷の念を感じたとき、龍馬の生涯を思って自分を奮い立たせるのでしょう」
中川さんも毎月、龍馬の墓参りを欠かさない一人だ。
◇記者ナビ◇
千年の都・京都に住む人々にとって、幕末は「ちょっと昔の話」。とはいえ、新しい日本を目指して奔走した若き志士たちは人をひきつけてやまず、ゆかりの地は京都の大きな観光資源の一つだ。10月22日に開催される京都三大祭りの一つ・時代祭の行列にも、龍馬ら志士たちが登場する。
龍馬にとって京都は、薩長同盟、大政奉還という目標を達し、お龍と出会い、生涯を終えた場所。しかし、当時のまま残る龍馬関係の史跡は意外と少ない。道の端に建つ石碑がなければ、歴史の舞台だとは想像できない場所もある。
それでも、龍馬の足跡をたどって京都を歩くと、誰もが知る幕末の英雄を身近に感じ、感慨深かった。
◇アクセス◇
京都霊山護国神社へは、JR京都駅、京阪祇園四条駅、阪急京都線河原町駅から市バスに乗り、東山安井バス停で下車、徒歩10分。酢屋へは、阪急河原町駅、市営地下鉄東西線の京都市役所前駅から徒歩5分、京阪三条駅からは徒歩3分。河原町三条の交差点を南に進み、1本目の通り(龍馬通)を東に入った北側にある。
島根
教育に尽力、松江藩/幕末の資料紹介
◆26日には「藩校サミット」/松江郷土館◆
松江藩が財政難を克服するため教育に投資し、明治期の産業革命の土台をつくった「松江の教育」を紹介する企画展が、松江市殿町の松江郷土館で開かれている。全国でも有数の教育先進藩だったことを示す、江戸から明治初年までの藩校・私塾・寺子屋関連の資料130点を展示している。26日には、「第9回全国藩校サミット」が同市内で開かれる。(藤井満)
松江藩は財政危機に陥った6代藩主・松平宗衍(むね・のぶ)の時代、人材を育成するために武家の教育機関である「藩校」を創設した。毎日午前7時から午後5時まで授業があり、漢学や洋学、医学を教えた。9代藩主・斉貴(なり・たけ)は洋書を数千冊取り寄せ、藩校でフランス語やオランダ語も学ばせた。
松江藩の医学教育は特に進んでいたとされ、長崎のシーボルトのもとに留学して、当時最先端医療だった乳がん手術を実施する医師も現れた。
また城下各地には「私塾」も開かれた。雑賀町の培(ばい)塾などは特に有名で、「平民宰相」と呼ばれた若槻礼次郎首相らが輩出した。庶民の子どもが読み書きや、そろばんを習う「寺子屋」は城下に50カ所以上あったという。
企画展では、シーボルトから授与された修業証書や杉田玄白の「解体新書」の5冊セット、1890(明治23)年に教育勅語が発布される以前に使われた、福沢諭吉がヨーロッパの書籍を翻訳して作った道徳の教科書なども展示している。
安部登館長は「幕末の日本は世界一の識字率。そういう教育の底力があって、短期間で産業革命を成し遂げた。当時の人々の教育への強い意気込みを見習うべきです」と話す。無料。10月3日まで。
「全国藩校サミット」は26日午後1時15分から、松江市西津田6丁目の市総合文化センターで開かれる。全国51の旧藩の藩主の子孫や藩校の研究者らが集う。
問い合わせはサミット実行委員会事務局(0852・55・5632)へ。
山口
花ショウブ:雨に映える--下関・東行庵 /山口
下関市吉田の東行庵で花ショウブが見ごろを迎え、美しく雨にぬれている。幕末の志士、高杉晋作(1839~67年)の菩提(ぼだい)寺で、花鳥風月を味わえる庭園に100種6000株が咲いている。
宇部市出身の菅直人首相が新内閣を「奇兵隊内閣」と命名。折からの幕末ブームと相まって、晋作や奇兵隊にも注目が集まる。今月オープンした東行記念館では所蔵品展「幕末維新期の下関」も開かれている。【取違剛】
高知
生まれたまち記念館30万人
坂本龍馬が生まれ育った幕末の町並みなどを紹介する高知市上町2丁目の市立龍馬の生まれたまち記念館の入館者が19日、30万人を突破した。
30万人目になった山形県酒田市の団体職員、小林英夫さん(62)と妻礼子さん(58)に龍馬にちなんだ記念品などが贈られた=写真。英夫さんは「びっくりした。龍馬のことは若いときに読んだ本で覚えている」と喜んでいた。
同館は2004年3月に開館。昨年は年間で過去最高の約7万1千人が入館し、同年8月に20万人を突破した。今年は5月までで約3万6千人が入館。昨年を上回るペースで増えている。上野和英館長(60)は「今年は平日でも団体客を乗せたバスがやって来る。今年中に35万人突破を達成できればありがたい」と話した。
長崎
私が「おりょう」なりきりお見事
長崎で龍馬フェスタ
長崎龍馬会などが20日、「ながさき龍馬フェスタ」を長崎市の市公会堂で開いた。幕末の志士に扮する「なりきりコンテスト」などのイベントがあり、約800人が訪れた。
コンテストには、県内外から11組30人が参加した。龍馬の妻おりょうに扮した島原市の島崎理恵さん(31)=写真=がグランプリに輝いた。島崎さんは「約15冊の本を読んでおりょうを研究し、京都の友人に京都弁を教えてもらった成果が出ました」と話した。
龍馬ぐっと身近に、感動・発見 地元ガイドと歩く
その土地に住む人の案内で観光地を歩くという旅のスタイルが広がっている。隠れた名所や逸話を教えてもらったり、ガイドのもてなしの心にふれたりしながら、訪れた地域をより身近に感じられるのが魅力のようだ。
長崎
威風堂々たる坂本龍馬の銅像が、日差しに照り輝く長崎湾を見下ろしていた。
長崎市の中心部からバスで10分ほど、風頭山を訪れたのは6月9日だった。
「長崎さるく」と銘打った同市のガイドツアーのうち、幕末の志士たちの軌跡をたどる「龍馬が見上げた長崎の空」というコース(参加費500円)に同行した。
「左足が台座からはみだしているでしょう。これには意味があるんですよ」
ガイドの松尾修さん(67)が指さす方を見ると、龍馬像のはかまのすそからのぞくブーツの先が台座から少し出ている。龍馬の、物事にとらわれない性格や進取の気性を表しているそうだ。
放映中のNHK大河ドラマ「龍馬伝」のファンだという西田美香さん(21)、山本真世さん(21)は「龍馬はかっこいい」と感激。2人とも長崎市で生まれ育ったが、風頭山を訪れたのは初めてという。
像の後ろではためいていた、白地に2本の赤い線を配した旗は、龍馬が率いた「海援隊」の船印だ。「この赤を黄色にしたら何でしょう。プロ野球ソフトバンクホークスの球団旗です」。松尾さんの解説に、福岡市から参加した前田美穂さん(30)も「へえ~」。
龍馬も食器として愛用した亀山焼の窯跡を見ることができたのは幸運だった。公民館の1階駐車場にあり、シャッターが閉じられていることが多いが、この時はたまたま開いていたのだ。駐車場にいた近所の女性が、さるくガイドの黄色いTシャツを着た松尾さんに、「よかったら見て行って」と声をかけてくれた。中に入ると、一角に窯跡の一部が露出していた。
龍馬が創設した日本初の商社「亀山社中」の建物を復元した記念館では、龍馬の妻お龍が得意だったという月琴をスタッフが爪弾いてくれた。この後、参加した面々は、月琴を手に、龍馬にふんする市のスタッフと一緒に写真に納まった。
「地域の人と思わぬふれあいがあり、一人でも楽しいですね」と前田さん。約2時間半のツアーを終え、西田さんは「いろんな発見があり、地元のことをもっと知りたくなった」と話した。
「歩く」という長崎弁「さるく」にちなんだガイドツアーは、2006年4~10月に長崎市内で繰り広げられた「まち歩き博覧会」を機に始まった。現在は35コースあり、昨年度は3万3000人余りが参加。約420人のボランティアガイドが支えている。松尾さんはその一人。「長崎の歴史や人情を知ってもらえたらうれしい」と力を込めた。
山口・仙崎
童謡詩人・金子みすゞの出身地、山口県長門市仙崎では、毎週日曜午後1時から、JR仙崎駅を拠点に、地元ガイドがゆかりの地を案内するツアー(予約不要で無料)が行われている。
ボランティアガイドの上田義人さん(78)の案内で、約3キロ、2時間のコースを歩いてみた。あちこちの民家や商店の軒先に、みすゞの詩を書いた板が掲げられている。10年ほど前、市や市民の有志が板を配り、それぞれ好きな詩を書いてもらったという。
地域の神社や八百屋、祭りなどを表現したみすゞの詩を、住民は身近に感じているようだ。
〈……みんなちがって、みんないい……〉。銀行のシャッターには、有名な詩「わたしと小鳥とすずと」がイラスト付きで書かれていた。夫との離婚話が出たつらい時期の作品だと聞かされた。
「詩を書くみすゞと、商売を営む夫。お互いを認め合いたいという思いが込められていると専門家は解釈しています」と上田さん。
ツアーに加わった松本裕美子さん(57)(山口県防府市)は「仙崎は何度も訪れているけれど、初めて知ることばかりでした」と話した。
鹿児島・指宿
かつお節工場では製造工程を見学できる(指宿市の「大丸鰹節」で)
鹿児島県指宿市の旧山川町では、「いっど、いっが、山川港の会」(岡村利行会長)が昨年4月、まち歩きガイドを始めた。
かつて薩摩と琉球の交易拠点として栄え、中国から琉球を経て甘藷(サツマイモ)が伝わったという逸話が残る町だ。そうした歴史や文化について住民らが勉強を重ね、四つの案内コースを考え、14人のガイドを養成した。
このうち「琉球ゆかりの地」コースでは、琉球から伝わり同地区に点在する魔よけの石碑「石敢當」などを見て歩く。
「地元食紹介コース」ではかつお節工場などを訪ねる。削り節と味噌にお湯や茶を注いで飲む「茶ぶし」の試飲や、伝統のちまき「あくまき」や大根を甕漬けする「山川漬」の試食も。
試飲や試食の内容は季節や時間帯で変わり、実費が必要な場合もある。ツアーの参加費は300円。土日、祝日のみで、前日までに予約が必要だ。
あれこれ情報
日本観光協会(東京)によると、全国に1500団体を超えるボランティアガイド組織があり、増えつつあるそうだ。ツアー情報は同協会による「全国観光ボランティアガイド」のホームページ(http://www.nihon-kankou.or.jp/vg/index.html)で検索できる。
九州観光推進機構(福岡市)も、こうした観光スタイルを根付かせようと、「九州さるく」と題して九州各県のツアーをホームページ(http://www.welcomekyushu.jp/saruku/)で紹介している。
鹿児島県観光ボランティアガイド連絡協議会(099・223・5771)は2月、ガイド団体やコースなどを紹介する冊子「かごしまよかとこ案内人2010」を作成した。
エンターテインメント
今秋、再び『薄桜鬼』第二期
恋愛アドベンチャーゲームとしてリリースされた『薄桜鬼 ~新選組奇譚~』は2010年4月からアニメも放送されていますが、全12話で構成されており先日、最終回を迎えました。
アニメ『薄桜鬼』の最終回では第二期が放送されることが告知されていました。ファンにとっては再び薄桜鬼が楽しめるとあって朗報でしたね。薄桜鬼の第二期のアナウンスはテレビアニメだけでなく、公式WEBサイト上でも確認ができます。オンエアは今秋からのようです。
DVDの方も人気を集めています。薄桜鬼の第二期に合わせた連動コンテンツのスタートなど、今後も何かしらのアクションが期待されているアニメのひとつです。
TOKYO MXでは次回が最終回です。第二期も楽しみです。
コラム
質問なるほドリ:奇兵隊はどんな組織だったの?=回答・取違剛
<NEWS NAVIGATOR>
◆奇兵隊はどんな組織だったの?
◇倒幕で活躍の長州藩部隊 身分問わず農民も参加
なるほドリ 菅直人首相が自らの内閣を「奇兵隊内閣」と名付けたね。
記者 奇兵隊はもともと幕末の文久3(1863)年、諸外国の侵略から馬関(現在の山口県下関市)を守るよう長州藩主から任された志士、高杉晋作(1839~67年)がつくった民兵部隊です。「少ない兵力で敵の虚を突き、神出鬼没、常に奇道で勝利する。故に奇兵隊」との結成趣旨の下、3日間で60人余が集まり、1年半後には300人を超えました。4割が農民出身で、それまでの世襲武士団とは違いました。下関市内には晋作や奇兵隊にまつわる史跡が数多く現存しています。
Q 「草の根から生まれた政治家」。菅首相は就任会見で自分をそう称したよね。
A 首相経験者を祖父や父に持つ「世襲首相」が4代続いたけど、菅首相はサラリーマン家庭に生まれました。新内閣と身分を問わず集まった奇兵隊を重ね合わせているのでしょう。出身は同じ長州の山口県宇部市ですし。
Q 奇兵隊はどんな働きをしたのかしら?
A 奇兵隊が注目され、長州藩には同様の部隊が400以上できたそうです。これらは「諸隊」と呼ばれ、やがては幕府との長州戦争や戊辰戦争で中心的役割を果たしました。特に1866年の第2次長州戦争「四境戦争」では、約4000人の兵力で幕府の長州征伐軍15万人を打ち破りました。この勝利が倒幕につながりました。
Q そんなに強かったんだ。
A 高杉晋作という天才軍師が率いたのはもちろんですが、幕府から長州を守ろうと一つになったのが大きいですね。奇兵隊ほか諸隊への通達には庶民を思いやる姿勢が手厚く盛り込まれました。だから大衆の支持を得たようです。
Q 毎日新聞が実施した世論調査で新内閣への支持率は66%を記録するなど、奇兵隊内閣への期待は高いようだね。
A 菅首相は「高杉晋作は逃げるのは速いし攻めるのも速い。果断な行動で明治維新に力を発揮した。日本の停滞を打ち破るため、わが党国会議員も奇兵隊のような志で勇猛果敢に戦ってもらいたい」とハッパをかけました。菅首相が晋作のように腕を振るえるか、新内閣が奇兵隊のように成果を残せるか。政権交代後も「政治とカネ」の問題がつきまとってきただけに、庶民の側に立った政治ができるかどうかにかかっているでしょう。(下関支局)
昨日のオランダ戦、終わって「負けは負け」と言い切る何人かの日本代表選手に頼もしさを感じました。デンマーク戦も力いっぱい応援します(午前3時半キックオフですが・汗)。
福島
しゃちほこ間近に鶴ヶ城
東京
<その30>新選組(上)
静岡
伊豆の国の市民劇団、森町と交流深め記念公演
京都
志士の息づかいを感じて 中京・18日「龍馬伝」開幕
嵯峨の念仏狂言 装束優雅に 右京で初の一般公開
高知
後藤象二郎を激励 龍馬の手紙の複製見つかる 高知
佐賀
佐賀の『八賢伝』 「三重津海軍所跡」加筆版を出版
長崎
【動画】なりきりコンや音楽祭にぎわう ながさき龍馬フェスタ2010
ながさき龍馬フェスタ:長崎で始まる 旧長崎街道や史跡「さるく」楽しむ /長崎
福島
しゃちほこ間近に鶴ヶ城
会津若松市の鶴ヶ城のしゃちほこ2体が天守閣頂上から下ろされ、19日から城内の走長屋(はしりながや)で一般公開が始まった。
幕末の姿を再現しようと始まった赤瓦へのふき替え工事に伴うもので、取り外されるのは1965年の天守閣再建以来、初めて。
高さ1メートル55センチ、重さ約200キロで、歯に金箔(きんぱく)、うろこに銀箔(ぎんぱく)が施され、両目には2カラットほどの人工ダイヤモンドがはめ込まれている。再建工事の請負業者が市に寄贈した。菅家一郎市長は「天守閣が工事で隠れている間、観光の目玉として多くの人たちに見てもらいたい」とPRしている。展示は11月23日まで。
東京
<その30>新選組(上)
忠臣蔵と新選組は「東西と~ざい」にとって絶好の題材だと、ずっと思ってきた。東にも西にも舞台を持ち、ドラマ性に富むからだ。しかし、ちょっと触れるくだりはあっても、今までテーマとして取り上げるのは避けていた。とにかくファンが多い。本を書いたりブログを設けたりと玄人はだしの人もかなりいる。古人いわく「生兵法はケガのもと」。間違いを指摘されたり、薄っぺらな解釈をバカにされるのが怖かったからだ。しかし、私も物書きの端くれ。上田正樹さんの「悲しい色やね」じゃないが、「逃げたらアカン!」と反省した。思い直して、新選組のふるさと東京都日野市へと足を運んだ。
歴史上の人物は、光の当てようによって日なたにも陰にもなる。新選組はその代表格だと思う。NHKの大河ドラマひとつ見てもそうだ。5年前、香取慎吾が握り拳を口に入れながら近藤勇を演じた「新選組!」の明るさに比べ、今年の「龍馬伝」での陰湿な暗さはどうだ。もともと、内には拷問と処刑、外には襲撃と暗殺を繰り返した一種のテロ組織である。でも、この根強い人気はなぜか。時流に逆らって滅び行く若き魂の悲劇性もあろう。桜を愛するニッポン人は、とかく散り様に引かれる。また、テロリストといっても、支配者が命じた組織ではない。自主組織をお上が追認したという成り立ちも人気の要素かもしれない。「混迷の時代を救うにひと旗あげたい」という青年らしい動機も純粋である。そんなことを考えながら、JRで日野市へ向かった。行くなら第1か第3日曜日がいいと、何かに書いてあった。土方歳三、井上源三郎、佐藤彦五郎の三つの資料館が、その日に開いているからだ。
*
「歴女」らで賑わう資料館の中 新選組といえば、近藤勇、土方歳三、沖田総司が人気の三羽ガラス。さらに、沖田総司とともに「近藤四天王」とされる長倉新八・藤堂平助・斎藤一あたりが続く。また、脇役としては清河八郎、芹沢鴨、伊東甲子太郎、山南敬助は欠かせない(ここまで書いただけで、ところで○○を忘れちゃあいませんか?とおしかりを受けるのが新選組だが・・・)。私は、井上源三郎という人物について日野に行くまでは、「そういや、名前を聞いたことがあるなぁ」程度の認識でしかなかった。私が新選組の"教科書"とする司馬遼太郎の「燃えよ剣」(新潮文庫)でもほとんど触れられておらず、必読書といわれる子母沢寛の「新選組始末記」でもサラリと書いてあるだけだった、ということが大きいと思う。
「燃えよ剣」で井上源三郎が登場する件は、文庫下巻、「鳥羽伏見の戦い・その三」。次のように触れられているだけである(171ページ)。歳三は、隊士を集めた。
「みな、いるか」
弾雨のなかで、顔の群れを見た。そこに六十数名が立っている。
原田左之助、永倉新八、斎藤一、結党以来の組長たちの元気な顔があった。
が、故郷から一緒に出てきた天然理心流の兄弟子で六番組長井上源三郎の姿がみえない。監察の山崎烝(すすむ)も。
それが小説というものだろう。中心人物は土方歳三なのだ。
*
白壁の土蔵を思わせる井上源三郎資料館は、日野駅から歩いて約10分。手紙類や刀剣などを展示する。ご存じ「誠」の隊旗が揺れているのですぐ分かる。梅雨入り前の空に、ツバメが飛び交っていた。
井上家を語るには、まず八王子千人同心から始めねばならない。千人同心は徳川家康の江戸入府に際し、甲斐からの侵攻に備えるため、近在の下級武士や豪農などで組織された。その後太平が続くと、東照宮を警備する日光勤番が主な仕事になる。千人同心が配置された多摩地方は幕府の厚い庇護(ひご)を受けたので、住民はとりわけ徳川恩顧の気持ちが強く、その精神が新選組の礎となる。源三郎は千人同心の家に生まれ、兄の井上松五郎と一緒に、近藤周助(天然理心流3代目宗家。やがて近藤勇の養父となる)に剣を学んだ。兄弟は木刀の打ち込みで柱の一部が細くなるほど剣に熱心で、その柱は1964(昭和39)年に井上家が家を建て替えるまで残っていたという。「剣術ばかりで、百姓仕事が遅れて困った」という話も今日まで伝わっている。
源三郎は、将軍家茂の上洛に際して警護名目に結成された清河八郎率いる浪士組235人の一員として、1863(文久3)年、近藤勇の配下で中山道を京へ向かう。京へ着いた途端に清河が「浪士隊は尊王の義軍とする」と翻って正体を現し、驚いた幕府が帰還命令を出した。しかし、源三郎は近藤勇らとともに京に残留。京都守護職の会津藩主・松平容保預かりの京都治安部隊「新選組」の副長助勤・六番隊長として命運を近藤に委ねる。
*
資料館の当主、井上雅雄さん(55)は源三郎の血脈を継ぐ。本業は建築・不動産業。松五郎の子が泰助→泰助の子が覚太郎→覚太郎の子がキヨ子→キヨ子の子が雅雄さん。従って源三郎の兄の松五郎から五代目井上家当主ということになる。天然理心流も修行している。その雅雄さんに案内していただいた。次の話が印象に残った。
1868(慶応4)年1月5日、鳥羽・伏見の淀千両松の戦いで源三郎ら10人以上の隊士が戦死し、新選組は大坂へ敗走する。その時、源三郎のそばで仕えていたおいの泰助は、叔父の首と刀を羽織に包み抱えて逃げる。しかし、12歳の少年に大人の首は重い。同行の隊士が「遅れると敵に捕まってしまうぞ。残念だろうが置いていけ」と言われ、仕方なく途中にあった廃寺の門前に埋めた。
これは1927(昭和2)年まで生きた泰助が、息子・覚太郎の嫁のケイさんに語り継いだ話である。同時に、「京都、大阪の方へ行くことがあったらお参りしてこい」と首級を埋めた淀の「欣浄寺(ごんじょうじ)」という廃寺の名前を教えていた。ケイさんは1977(昭和52)年まで生き、寺の名前も家族に話していたそうである。ところが、たまたま日野の自宅の向かいにも同じ字を書く欣浄寺という寺があった。だから家族は、ケイさんが高齢のために、混同しているのだと思っていたという。
資料館の斜め向かいの「欣浄寺」。鳥羽・伏見に同じ名の廃寺があった。 ところが2年半ほど前、新選組ボランティアガイドの女性が京都や大阪の新選組の史跡を訪ね歩いた時、伏見の淀城跡にあった絵図に「欣浄寺(ごんじょうじ)」という名を見つけた。女性は雅雄さんにそのことを報告。雅雄さんはハッと気づいた。「泰助は故郷の寺と同じ名前の寺をたまたま見つけ、安らかに眠れるだろうと思ってそこに埋葬したのではなかろうか。祖母の言っていたことは正しかったんだ」
雅雄さんはその女性らと伏見に行った。「場所を特定したい」。そんな中、鳥羽、伏見両街道を結ぶところにあり激戦を物語る弾痕なども残っているという妙教寺を訪ねた時、住職が古地図、古文書などを持ち出して欣浄寺跡の位置をていねいに説明してくれたという。うどん店や駐車場になっていたが、近所の人に聞くと、昔、たくさんの墓石と人骨が見つかった場所ということだった。雅雄さんは確信し、土を持ち帰った。
ところで、雅雄さんには娘さんが3人いる。「娘3人は、土方さんの(子孫の)ところと一緒なんですよ。でも、あちらさんは結婚されて、記念館も継いでちゃんとやっておられるようです。うちも私で終わらせたくないんですが・・・まあ、何とかなるでしょう」。笑顔で話された。
ツバメ交う ますらをの空 日野を往く (編集局次長)
静岡
伊豆の国の市民劇団、森町と交流深め記念公演
森の石松の没後150年を記念して、女優藤田弓子さんが座長を務める伊豆の国市の市民劇団いず夢が26日、同市のアクシスかつらぎで、時代劇「おっとっとっと三度笠」(静岡新聞社・静岡放送後援)を上演する。森の石松にゆかりのある森町の町民が観劇に訪れる予定で、劇をきっかけに交流が生まれている。
同じ劇を上演した3年前、森町の喫茶店に立ち寄った劇団員が、経営者の金指琉美子さん(68)と森の石松の話題で意気投合したのが交流の始まり。金指さんら町民から再演の要望があり、没後150年に合わせて実現した。当日は森町からバスで約40人が観劇に訪れるほか、森町特産のトウモロコシ「甘甘娘(かんかんむすめ)」を会場で販売する。金指さんは「森町の英雄でもある石松を演じてもらい、ありがたい。伊豆の国市が身近になった」と喜ぶ。
森の石松は清水次郎長の子分として活躍したとされる幕末の侠客(きょうかく)で、墓が森町にある。今回の劇は、悪徳商人に身内を殺された町娘のあだ討ちを描く喜劇。主人公の森の石松にタレント入山学さん、侠客の親分役にコメディアン小松政夫さんを迎えるほか、劇団員27人が出演する。けいこに励む小松さんは「多彩な出演者がそれぞれ見せ場を持っているぜいたくな劇」と見どころを語り、藤田さんも「おなかの底から笑って元気になってほしい」と強調する。
2回公演で開演は午後1時と午後5時。チケットは2500円(中学生以下千円)。問い合わせは同劇団<電080(3684)1168>へ。
京都
志士の息づかいを感じて 中京・18日「龍馬伝」開幕
京都市中京区の京都文化博物館で18日、坂本龍馬の生きざまを紹介する2010年NHK大河ドラマ特別展「龍馬伝」(京都新聞社など主催)の開催を前に、関係者向け内覧会が開かれた。19日に開幕する。
東京や高知など4会場で巡回の予定で、京都は2会場目。龍馬や志士の息づかいや、幕末の雰囲気に迫ろうと現物展示を増やした。全国約50カ所から集めた姉乙女(とめ)あて書簡、愛用の刀など約180点を披露する。
この日、関係者約400人が龍馬着用の紋服、三菱財閥の基礎を築いた岩崎弥太郎が貧しかったころの借用書などの展示品、パネル解説に見入っていた。7月19日までで展示替えあり。最終日を除く月曜休館。有料。
嵯峨の念仏狂言 装束優雅に 右京で初の一般公開
京都の三大念仏狂言の一つ「嵯峨大念仏狂言」(重要無形民俗文化財)に奉納された装束などを紹介する展示会が、京都市右京区の京都嵯峨芸術大付属博物館で開かれている。装束の一般公開は、一部を除いて初めて。20日まで。無料。
同狂言は、鎌倉時代に円覚上人が始めたとされ、現在は清凉寺(右京区)で年2回演じられている。展示会は、地元の保存会が協力して昨年から開かれている。
保存会の所有品の中で最も古い1817年に奉納された「田中氏奉納装束」や、現在も使用しているすりこぎや鬼の棒など計34点が並んでいる。
和宮(かずのみや)に徳川家茂への嫁入りを説得したとされる幕末の女官高野房子の装束は、経年変化で傷みもあるが、秋草などの刺しゅうが施されており、優雅な雰囲気を醸し出している。
高知
後藤象二郎を激励 龍馬の手紙の複製見つかる 高知
幕末の志士、坂本龍馬が土佐藩の重臣、後藤象二郎にあてた直筆の手紙の複製が見つかり、高知県立坂本龍馬記念館(高知市)が18日、発表した。手紙の実物は写真は残っているが行方不明で、手紙の下書きが最近、同県いの町の民家で見つかっている。同館は「非常に精巧で、実物の所在が不明なので貴重な資料」としている。
手紙は大政奉還前日の慶応3(1867)年10月13日付。土佐藩が提出した大政奉還建白書の採決を決めるため、幕府が京都・二条城で開いた会議に出席する後藤象二郎にあてた。決死の覚悟の象二郎を激励した内容になっている。
複製は縦26・6センチ、横43・3センチ。実物よりも余白部分が多い。今年3月に亡くなった大阪市内の自営業者が昭和40年代後半ごろに取得したとみられ、複製の手法や時期は分かっていない。実物は象二郎に渡った後、海援隊の同志だった中島信行の子孫が所蔵していたが、現在は行方不明になっている。
同館の三浦夏樹主任学芸員は「実物に近い複製が出てきたことで、実物が見つかることを期待している」と話した。
同館は7月17日から始まる企画展で下書きと並べて展示する。
佐賀
佐賀の『八賢伝』 「三重津海軍所跡」加筆版を出版
佐賀県教委が今秋出版を予定している『幕末明治佐賀偉人伝集』に関連して、佐野常民記念館名誉館長で郷土史家の福岡博さん(78)が著した『佐賀の幕末維新 八賢伝』の改訂版が、出門堂(福博印刷)から出版された。世界遺産の暫定リスト入りで注目を集める「三重津海軍所跡」(佐賀市)に関する記述を加え、佐賀の人材の豊富さや技術力の高さを紹介している。
『八賢伝』は2005年に出版。「佐賀の七賢人」の鍋島直正と島義勇、江藤新平、大木喬任、佐野常民、副島種臣、大隈重信に、人材育成に尽くした枝吉神陽を加え、〝八賢人〟として取り上げている。
改訂版は三重津海軍所を中心にした産業遺産関連の記事を追加し、海軍所跡出土品の写真も掲載。佐賀藩の近代化が進んだ理由として「藩外からスカウトとしてきた人材が存分に活躍できるような柔軟な組織だった」と指摘している。
初版は9千部以上を販売しており、改訂版は当初、2千部を出版する。A5判、120ページ。価格は千円(税込み)。県教委は今秋出版する『偉人伝集』の〝入門書〟と位置づけ、帯には古川康知事が推薦のメッセージを寄せている。福岡さんは「若い人がふるさと佐賀に誇りや自信を持てるように、と執筆した」と話している。
【写真】『偉人伝集』の刊行に向けて、『佐賀の幕末維新 八賢伝』を改訂した福岡博さん=佐賀県庁
長崎
【動画】なりきりコンや音楽祭にぎわう ながさき龍馬フェスタ2010
幕末の志士、坂本龍馬と本県とのかかわりや、長崎の歴史と文化をPRする「ながさき龍馬フェスタ2010」の2日目が20日、長崎市魚の町の市公会堂であり、「なりきりコンテスト」や「龍馬の歌音楽祭」などのイベントに多くの人でにぎわった。長崎龍馬会(馬渡善裕会長)などでつくる同実行委主催。
龍馬や妻・お龍など幕末のヒーローになりきってパフォーマンスをする「なりきりコンテスト」には事前審査を通過した11組が次々と舞台に登場。龍馬とお龍の会話劇や剣舞などを披露し会場を沸かせた。グランプリを受賞した島崎理恵さん(31)=島原市=は「演技中より、結果発表の瞬間が緊張した。京都出身の友人に京都弁を習い、お龍に関する資料を16冊くらい読んで、勉強した」とうれしそうに感想を語った。
坂本龍馬をテーマにしたオリジナル楽曲を披露する音楽祭には9曲がエントリー。「アカツキ」を歌った千葉市の松尾貴臣さん(31)がグランプリを受賞した。
このほかNHK大河ドラマ「龍馬伝」で後藤象二郎役を演じている俳優・青木崇高さんとドラマのチーフプロデューサー、岩谷可奈子さんのトークショーなどもあった。音楽祭の模様は、7月16日午後6時からNHK-FMで放送される。
【編注】島崎理恵さんの崎は、大が立の下の横棒なし
ながさき龍馬フェスタ:長崎で始まる 旧長崎街道や史跡「さるく」楽しむ /長崎
県、長崎市などによる「ながさき龍馬フェスタ」が19日始まり、長崎市内の坂本龍馬らゆかりの史跡を巡る「『長崎龍馬の道』リレーさるく」に市民ら約110人が参加した。
NHK大河ドラマ「龍馬伝」の舞台が幕末の長崎となるのを前に企画。龍馬が1864年に初めて長崎を訪れた際に通った旧長崎街道▽龍馬が後藤象二郎と会談した料亭・清風亭跡▽岩崎弥太郎が主任を務めた土佐藩の商社・土佐商会跡▽龍馬の活動拠点・薩摩藩蔵屋敷跡--などを市民ボランティアガイドの案内で巡った。
市内の主婦、岸下利絵さん(40)は「初めて知ることばかり。また歩きたい」。鹿児島県霧島市の前田終止市長も遠路参加し「長崎独特の歴史を生かし、まち歩き観光が工夫されている」と話した。最終日20日にはオリジナル曲を募った「龍馬の歌音楽祭」などがある。【錦織祐一】
雨が降って気温が下がっているのですが、先ほどまで風が部屋に入ってこなかったので蒸し暑く感じてました。今やっと風が入ってきて、涼しいです。
明日は30度ほどまで上がる蒸し暑さとか……調子を崩さないように気をつけないとなりませんね。
神奈川
平塚盲学校が100周年
関東大震災、戦災など苦難乗り越え 歴史刻む
長野
井月の足跡たどろう 「顕彰会」が伊那でセミナー企画
岐阜
明治維新の「郡上藩凌霜隊」子孫ら交流へ 140年記念
富山
瑞泉寺の所蔵名画展 19日から南砺・福光美術館
愛知
清水義範のナゴヤ“でらおもしろい”歴史館:高須家
京都
大谷祖廟総門「幕末に新築」
京都「龍馬通り」店舗で火災…元海援隊本部近く
大阪
龍馬の手紙 複製品見つかる
兵庫
巨大壁画:龍馬、山崎高1年生が合同制作 宍粟市役所、21日まで展示 /兵庫
高知
大政奉還前、龍馬の直筆 後藤象二郎励ます書き損じ発見
コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(66)東大教授・山内昌之 村田新八
明日は30度ほどまで上がる蒸し暑さとか……調子を崩さないように気をつけないとなりませんね。
神奈川
平塚盲学校が100周年
関東大震災、戦災など苦難乗り越え 歴史刻む
県立平塚盲学校(村瀬道雄校長)が創立100周年を迎え、今月13日に同校体育館で記念式典が行われた。式典には古尾谷光男神奈川県副知事や大蔵律子市長も出席し、祝辞を述べた。村瀬校長は「100年間、学校を維持してきた方たち、そしてこの地域は偉大。これからも“共に生きる”教育を目指していきたい」と話した。当日には100周年を記念して作られた創立者・秋山博のレリーフの除幕式も行われた。
※ ※ ※ ※ ※
秋山博は幕末の文久3年、現在の市内岡崎に生まれた。幼い頃に失明するも、不断の努力によって名鍼灸師となる。秋山が視覚障がい者の自立支援として開いていた無料の講習会に賛同した、自由民権家の宮田寅治(3代目校長)らが中心となって、明治43年に中郡金目村に「私立中郡盲人学校」が開校した。その後、昭和8年より中郡聾話学校と共に県に移管され、「県立盲唖学校」と改称。昭和23年からは盲と聾を分離し、現在の校名となる。
大正12年の関東大震災では校舎が倒壊、戦災時には現在の平塚江南高校の寄宿舎を間借りするなど苦難を経験するも、その歴史を絶やすことなく一世紀の歴史を迎えた同校。昭和23年、ヘレン・ケラーが2度目の来日をした際に同校に立ち寄り、生徒らに激励の言葉を贈った記録も残っている。
現在、幼稚部・小学部・中学部・高等部本科普通科・保専部に88人の生徒が在籍し学んでいる。
長野
井月の足跡たどろう 「顕彰会」が伊那でセミナー企画
幕末から明治期にかけて伊那谷を放浪し、数多くの俳句を残した俳人・井上井月(せいげつ)(1822~87年)のセミナーが20日と26日、伊那市の手良地区で開かれる。上伊那地方の俳句愛好家ら約130人でつくる「井上井月顕彰会」が主催。ゆかりの場所を訪ねて足跡をたどり、井月への理解を深めようと初めて取り組む。
20日は顕彰会副会長の竹入弘元さん(78)が、手良地区と井月のかかわりについて手良公民館で講演。26日は、井月が俳句を地域住民に教えたとされる同地区の清水庵(きよみずあん)を訪れ、額装された直筆俳句を見学。井月がかつて訪れ、いまは句碑が立つ公園にも行く。
同会は本年度、同じようなセミナーを同市と駒ケ根市の計4地区でも開く予定。竹入さんは「俳句に詠まれた風景などを知り、井月をさらに深く理解してほしい」と呼び掛けている。
参加無料。問い合わせは同会事務局の戸谷さん(電話0265・98・0117)へ。
岐阜
明治維新の「郡上藩凌霜隊」子孫ら交流へ 140年記念
戊辰戦争に幕府軍として戦った「郡上藩凌霜(りょうそう)隊」の謹慎が解かれてから140周年の記念事業実行委員会が16日夜、郡上市内の関係団体などによって設立された。同市八幡町の市総合文化センターで会合を開き、7月28日に同センターなどで隊士や藩主青山家の子孫らを招いた講演会や交流会の開催などを決めた。
明治維新で郡上藩は新政府軍に従ったが、藩の江戸屋敷では朝比奈茂吉を隊長とする凌霜隊士45人が幕府軍として、会津若松城で白虎隊とともに戦って敗れ、郡上で謹慎させられた。1869(明治2)年に謹慎が解かれたが、反政府軍として冷遇され、隊士は郡上を離れた。
同市では凌霜隊の歴史を見つめ直し、全国にいる隊士の子孫ら関係者との交流ネットワークづくりをと、初めて市を挙げての記念事業を企画した。
実行委員会は地元の顕彰会や文化協会、観光協会、市などで設立。委員長に顕彰会副会長の山田忠平市議を選出した。記念事業では7月22日に、同市白鳥町の郷土史家白石博男さんによる講演会を開催。同28日には慰霊祭、凌霜隊の会津遠征時ゆかりの栃木県塩原温泉和泉屋旅館の経営者である田代芳寛さんによる講演、子孫ら関係者によるフォーラム、交流会などを行う。夜の郡上おどりには隊士、青山家の子孫らも参加する予定。
富山
瑞泉寺の所蔵名画展 19日から南砺・福光美術館
「井波別院瑞泉寺収蔵品受け継がれた京都画壇の美展」(富山・北國新聞社共催)は19日から、南砺市福光美術館で開かれる。会場では17日、京都で活躍した四条派や岸派の画家たちの作品など39点の展示準備が進められ、開幕を待つばかりとなった。
瑞泉寺には、幕末から明治の京都画壇を支え育てた東本願寺第21世厳如(ごんにょ)上人の三女住子(たつこ)が瑞泉寺18代勝智にこし入れした関係で、四条派や岸派などの作品がまとまった形で伝わっている。
厳如上人、住子のつながりから瑞泉寺に受け継がれたとされる岸駒、岡本豊彦、幸野楳嶺らの作品を中心に、住子の遺作や画稿も合わせて展示する。渡邊一美学芸員は「瑞泉寺の寺格にふさわしい名画の数々とともに、当時の美術文化の一端にもふれてほしい」と話している。
観覧料は一般500円、高大生300円、中学生以下無料。開会式後の19日午前10時半からは瑞泉寺アーキビスト(調査員)の髙橋延定氏が「相続された法と宝 瑞泉寺の歴史と文化財」と題して講演する。会期は7月29日まで。
愛知
清水義範のナゴヤ“でらおもしろい”歴史館:高須家
<開府400年>
◇凡庸な兄助け、四代目の甥を導いた義行
尾張の二代藩主光友公がどんな人であったのかは、この歴史館ですでに語った。なかなかの硬骨漢で、五代将軍と少しギクシャクしたと。
ところが、あれからまた調べていて面白いことがわかったので、その話をちょっとしてみる。統一性のない話しぶりで申しわけないが、雑談風な気楽な歴史話ということでお許しください。
◇過ちで家断絶免れた
尾張初代藩主義直の妻は浅野幸長の娘であったが、二人の間には子ができなかった。そして義直はその時代の人には珍しく一夫多妻制を認めたがらない人で、重臣がしきりに側室を置くようにすすめても頑として受けつけない。
男児がなければその家は断絶する、という時代である。重臣が執拗(しつよう)に説得し、ようやく側室を一人置いてみたところ、生まれたのは女の子だった。尾張藩の大ピンチというところである。
ところが、なんとまあ義直は、本人に言わせれば「過失」、を演じてしまうのだ。お湯殿の女中につい出来心で手をつけ、みごもらせてしまうのである。
本人は不行跡を恥じてこのことを秘密にしようとしたが、家臣にしてみればこんなめでたいことはない。主君赤面、家臣大喜び、というわけである。この女中が産んだのが二代光友なのであった。
もしかすると、光友は自分の出生について、複雑な気持ちを持っていたのかもしれない。少し過剰なほどの信仰心を持ち、寺社を造りすぎて経済を破綻(はたん)させてしまうのも、そんなところにつながることなのかもしれない。
さて、光友の子が綱誠(つななり)だ。一六九三年、光友は隠居し、綱誠が三代藩主となる。
綱誠は教養もあって将軍綱吉に可愛がられた。だが、それ以外には、多くの妻妾(さいしょう)に三十九人もの子供を産ませたことぐらいしかエピソードがない。実直な人で、先代の時代からの方針を引き継いだだけの凡庸な人柄だったのかもしれない。そして治世わずか七年で、父の光友より先に死んだ。
その跡を継ぐのが綱誠の子の吉通(よしみち)なのだが、今回は吉通の話をする前に綱誠の弟の話をしよう。
◇三代綱誠と弟たち
光友の子として、跡継ぎの綱誠の下に、義行(よしゆき)、義昌(よしまさ)、友著(ともあき)という三人の弟がいた。
そして尾張藩では、ちょうど二代将軍秀忠の弟三人が御三家を作ったように、義行、義昌、友著の三人に支藩を支配させるのだ。尾張本家に血筋が絶えた時にはそこから養子をもらったりするという、家系を守るための支藩だ。
義行が美濃国高須(たかす)藩(現・岐阜県海津市付近、屋敷のあった場所から四谷家ともいわれる)、義昌が陸奥梁川(やながわ)藩(大久保家)、友著が川田久保家。
その三人の中で、高須三万石の領主である松平義行に注目してみたい。
義行は綱誠と同じ三代将軍家光の息女千代姫を母に持った。一六五六年の生まれだから、四代将軍家綱の時代から、五代綱吉の時代にかけて育った。世は天下泰平で時代の気風は軟弱に流れたが、義行は常に自分を律し、尾張藩の存続を己の責務と考えつづけた。
◇三万石の小藩だけど
とにかく、人間の器が大きく、知恵があり度胸があり、野心や私欲をまったく持たない人だったらしい。この人が光友の長男で尾張藩を継いでくれたらどれだけよかったか、と多くの人が言ったそうだが、義行には兄綱誠にとって代わろうというような野心は微塵(みじん)もなかったという。兄を助け、その職務を大いに手伝った。
一般には、綱誠がおこなったとされている藩祖義直の事績編纂(へんさん)事業も、実は義行がほとんどやったことだそうだ。そんなわけで、兄の綱誠も義行を頼りにし、全幅の信頼を寄せていた。
いや、兄を助けるどころか、義行は父光友に苦言を呈することさえおそれなかった。光友の晩年に、神軍術なるイカサマ軍学をふきこみ、大いに取り入って政治をほしいままにしようとしたニセ学者が権力を持とうとしたことがあった。その時これを阻止し、そのイカサマぶりを論破して尾張藩の危機を救ったのが義行であった。
この義行がいなかったら、凡庸な綱誠では尾張藩に内紛が生じたかもしれない、といわれている。綱誠が死の床に義行を招いて、吉通の後見を頼んだのは当然のことだろう。義行は甥(おい)の吉通を懸命に教え導いた。
以前、尾張藩には勤王の思想があったことを述べたが、吉通が幼年のおり、たびたび義行が来て、人払いをしてお家の教えを伝えたと記録されている。そういう思想も義行は伝えたのであろう。
というわけで、高須藩主であり、四谷家と呼ばれた松平義行は重要な人物なのだが、それとは別にこの高須藩という藩を記憶にとどめておいてもらいたい。たった三万石の小藩ではあるが、この藩は江戸時代の歴史にしばしば顔を出すのだ。
特に幕末になって、この藩からは三人の重要人物が出て、他藩へ養子に入って歴史に名を残すことになる。
それはまた後日詳しく語りますので、高須藩の名を覚えておいてください。
京都
大谷祖廟総門「幕末に新築」
御遠忌法要の年
真宗大谷派(本山・東本願寺)は15日、宗祖・親鸞の墓所がある大谷祖廟(そびょう)(東山区)の総門の屋根裏から、幕末の1862(文久2)年に新築されたことを示す棟札が見つかったと発表した。親鸞の600回御遠忌(ごえんき)の法要が大谷祖廟で営まれた年にあたり、記念事業として新築された可能性が高いという。
総門は檜皮葺(ひわだぶき)の四脚門で、高さ約8・7メートル、幅約5・2メートル、奥行き約4・3メートル。記録により、これまで総門は東本願寺の境内から1857(安政4)年以降に移築されたと考えられていた。
総門は、来年の750回御遠忌を前に今年3月から修復中。同派は「御遠忌を前にこのようなことが明らかになり、何かの縁を感じる」としている。
京都「龍馬通り」店舗で火災…元海援隊本部近く
17日午前7時45分頃、京都市中京区河原町通三条下る大黒町、たばこ店経営山本いつみさん(87)方から出火。
木造2階建て店舗兼住宅130平方メートルのうち約90平方メートルを焼いた。五条署によると、山本さんは独り暮らし。1階にいたが、逃げ出して無事。
現場は繁華街の「龍馬通り」と呼ばれる一角。約60メートル東には、幕末に坂本龍馬が身を寄せ、海援隊京都本部を置いたとされる材木商「酢屋」がある。
大阪
龍馬の手紙 複製品見つかる
幕末の志士、坂本龍馬が、大政奉還を実現させるよう土佐藩の重臣を激励した直筆の手紙の精巧な複製品が大阪市内で見つかりました。専門家は「原本が行方不明のなか、たいへん貴重な発見だ」と話しています。
見つかったのは、今から140年余り前の慶応3年10月、江戸幕府が朝廷に政権を返上した大政奉還の2日前、幕府が京都で諸藩の重臣を集めて意見を聞いた日に坂本龍馬が土佐藩の参政、後藤象二郎にあてた手紙の複製品です。高知県出身で大阪市に住んでいた男性が、40年近く前に手に入れ、保管していたということです。
手紙をめぐっては最近、龍馬直筆の草案が見つかっており、親族がNHKのニュースを見て、高知県立坂本龍馬記念館に連絡を寄せたということです。手紙そのものは、数十年前から行方がわからなくなっていて、古い写真しか残っていませんが、坂本龍馬記念館によりますと、今回見つかったものは、筆跡や文字の間隔などが同一であることから、原本を印刷した複製品だとみられるということです。
坂本龍馬記念館の主任学芸員の三浦夏樹さんは「龍馬の筆の勢いなどがわかるたいへん貴重な史料です。今後も連鎖的に新たな史料が見つかることを期待しています」と話しています。
兵庫
巨大壁画:龍馬、山崎高1年生が合同制作 宍粟市役所、21日まで展示 /兵庫
宍粟市山崎町加生の県立山崎高の1年生265人が、幕末の志士、坂本龍馬を描いたモザイク壁画を制作した。縦5メートル、横7・5メートルのジャンボサイズ。宍粟市役所1階市民ロビーで21日昼まで展示している。
土佐の桂浜で、刀差し姿の龍馬が海のかなたに思いをはせている図柄。中央には「翔(と)ぶが如(ごと)く 龍馬と行く」と生徒の決意を記した。1年生全員の合同制作で、11日の同高文化発表会で披露した。
1・5センチ四方の色紙をパズルのように張りつけて制作した。使った色紙は16万3000枚、完成には2週間を要した。全体のとりまとめ役となった中藤剛成教諭によると、7クラスごとに制作したパーツを合体させたため、ずれの補正で苦労したという。
開庁時間は平日の午前8時半~午後6時15分。【渕脇直樹】
高知
大政奉還前、龍馬の直筆 後藤象二郎励ます書き損じ発見
幕末の志士・坂本龍馬が、土佐藩重臣の後藤象二郎にあてて書いた手紙の書き損じが、高知県いの町の民家で見つかり、県立坂本龍馬記念館(高知市)が龍馬直筆と確認した。手紙は、15代将軍徳川慶喜に大政奉還を求めるため、京都・二条城に向かう後藤を激励する内容。手紙全文を撮影した写真が残っていて内容も知られているが、実物は行方不明になっている。
同館の森健志郎館長(68)は「手紙と書き損じを比べることで、龍馬が重要な日を前に緊張し、あわてて書いたことが分かる。龍馬の人間的な側面がうかがえる貴重な資料だ」と話している。
同館によると、手紙は大政奉還前日の慶応3(1867)年10月13日付。「海援隊一手を以て大樹参内の道路ニ待受ケ」と書かれ、大政奉還に失敗した場合、自らも海援隊を率いて援軍すると激励。さらに「先生一身失策の為ニ天下の大機会を失せハ其罪天地ニ容るべからず」と記し、失敗すれば先生(後藤)の罪は許されず、自分も薩長から責められる、としている。
手紙は縦24センチ、横47センチで19行。書き損じは縦19.6センチ、横72.4センチで28行だが、内容はほぼ同じという。書き損じは7行目と22行目の「先生」が「生生」と誤記され、22行目は隣の余白に正しい「先」の字が書き足されている。22行目から急に乱雑になり、最後の署名は、手紙の「龍馬」に対し、書き損じは本名の「直柔(なおなり)」。
所有者の南道(おさむ)さん(86)の話では、旧中山村(現・同県安田町)の村長だった祖父が譲り受けたという。書き損じは7月17日から始まる同館の企画展で公開される。
コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(66)東大教授・山内昌之 村田新八
手風琴とシルクハット
週末に鹿児島に出かけてきた。テレビ局の企画で、中学生との対話と授業を組み合わせた集いの教師を務めたのである。地元でも定評のある公立の中高一貫校の中学2年生は、聡明(そうめい)であるばかりでなく、明朗闊達(かったつ)な南国の若者たちであった。
西郷隆盛と大久保利通を素材に日本の近代や政治家のリーダーシップを語り合った2日間は、私にとっても充実した時間であった。とにかく、全員が西郷の敬天愛人の意味を正しく理解し、何かの行事に参加した褒美として、現代語訳のついた『西郷南洲遺訓』を見せてくれた生徒もいるくらいだ。やはり歴史を動かした土地にふさわしいといえよう。
2人の育った加治屋町にある市立維新ふるさと館を皆で一緒に訪ねた時も愉快であった。西郷や大久保らのロボットが登場し、わかりやすい工夫をこらした劇を通して、維新史や近代史を楽しく勉強したのも懐かしく思いだされてならない。西郷と大久保との対話に加え、薩摩第3のロボットがいきなり登場したのにも驚いた。
しかし、考えてみれば人選は見事なくらい当然なのであった。それは村田新八だったからである。
授業では「情の人」西郷、「理の人」大久保という組み合わせで、生徒と一緒に歴史を考えてみた。村田はさしずめこの2類型の中間に位置する人物なのかもしれない。幼少時から死ぬまで西郷を慕い続けながら、岩倉使節団に加わって欧米事情にも通じた村田は、幕末から西郷の懐刀として奔走した志士である。また、大久保がその人物見識を高く評価し、ゆくゆくは政府の中核に据えようとしたほどの人物であった。
◆戦火の中でも演奏忘れず
美術や音楽を愛した村田は、滞在先のパリでオペラ座にしきりに通い、アメリカでは手風琴(てふうきん)(アコーディオン)に熟達したほどである。西南戦争でも時間があると演奏し、自決を覚悟した時にようやく楽器を壊したという逸話が残っている。
西南戦争では薩軍二番大隊長になった村田は、シルクハットとフロックコートという妙な身なりで戦闘を指揮したのだから、手風琴との組み合わせといい、相当に異彩を放ったことだろう。
桐野利秋(中村半次郎)が香水や金時計を愛したハイカラぶりなどを思い起こすと、薩人にはイメージと裏腹に相当に洒落(しゃれ)た面があったのかもしれない。
それにしても、大久保にとって村田を失ったのは、切歯扼腕(やくわん)するほどの口惜しさだったに違いない。
かつて西郷に「智仁勇の三徳を兼備したる士」として皆の模範とすべしと言わしめた村田なら、外交でも内務でもこなせただけでなく、陸海軍に進んでも将帥の器になっていたはずだ。西洋風の彼のことだから、逓信や文部の世界で先端技術を生かしたかもしれない。秘めた新知識の数々を十分にいかす暇もなく、西南戦争に散った村田の犠牲こそ、まさに国家的損失というべきなのだろう。
◆大久保に惜しまれた死
幕末から西南戦争まで村田を頼りにした西郷と同じく、大久保ほど新国家の設計に村田を必要とした人物もいなかった。まさに勝海舟は、「大久保利通に亜(つ)ぐの傑物」と呼び、「非命に斃(たお)れた」残念をしきりに回顧しているほどだ。
熊本民謡『田原(たばる)坂』に出てくる「馬上ゆたかな美少年」とは、村田新八と一緒に死んだ2人の息子のうち長男の岩熊がモデルという説も強い。旧薩摩の地を踏んで、目鼻立ちがはっきりし溌剌(はつらつ)とした生徒たちの笑顔を見ていると、西郷や大久保の若き面影や村田の幼い時分の顔立ちはこうではなかったかとつい想像してしまう。
岩熊は数えの19歳だったともいうから、私が接した生徒たちのすぐ上の兄貴分ともいうべきであろう。歴史を学ぶつらさを実感する時でもある。(やまうち まさゆき)
◇
本連載をまとめた「幕末維新に学ぶ現在」(中央公論新社)が発売中。
◇
【プロフィル】村田新八
むらた・しんぱち 天保7(1836)年、薩摩生まれ。幼少より西郷隆盛に兄事し、西郷を助けて国事に奔走する。戊辰戦争では薩摩藩軍の軍監として東北地方を転戦。明治4年、宮内大丞(だいじょう)となり、岩倉遣外使節団に加わって欧米各国を巡回。征韓論政変後に帰国、鹿児島に帰り、桐野利秋らと私学校を作って砲隊学校を監督。西南戦争では薩軍二番大隊長として各地で奮戦し、明治10(1877)年、城山で戦死した。享年42。
これもコミックス化を待ってました。
絵柄については必ずしも好みとはいいがたいのですが、細谷十太夫は文句なくかっこいい。
そして、外伝『Blue Age-青の時代―』。若き日の細谷十太夫meets土方歳三@新選組! お得感がありました(笑)。
絵柄については必ずしも好みとはいいがたいのですが、細谷十太夫は文句なくかっこいい。
そして、外伝『Blue Age-青の時代―』。若き日の細谷十太夫meets土方歳三@新選組! お得感がありました(笑)。
蒸し暑い一日でした。一雨来るのを待っています。
愛知
梅雨の雨浴び鮮やかに 幸田・本光寺のアジサイ
京都
街道新話 特別編(中)
【京街道・伏見宿(京都市伏見区)】
高知
龍馬が後藤象二郎へあてた直筆の手紙 書き損じ見つかる
龍馬直筆の手紙草案見つかる
象二郎あて龍馬の手紙草案、高知の民家で発見
地方自治法施行60周年記念貨幣:龍馬貨幣、出たぜよ /高知
長崎
長崎山清水寺・本堂の改修終了 県文化財、厳かに落慶法要
文化芸能
視聴室:歴史秘話ヒストリア
主演の大沢たかおも興奮気味
来年4月スタート、TBS系「JIN‐仁‐」
ビジネス
「竜馬」でキャンペーン=ロッテとJTB
愛知
梅雨の雨浴び鮮やかに 幸田・本光寺のアジサイ
アジサイ寺として知られる幸田町深溝の本光寺境内で、約1万株が見ごろを迎えた。梅雨の雨を浴び、青や紫、白色の15種類が、競うように咲き誇っている。
本光寺は、近くに城跡が残る深溝城を拠点に徳川家康に仕え、功績で島原7万石の大名となった深溝松平家の菩提(ぼだい)寺。明治維新までは松平家専用の寺として一般の立ち入りが禁じられていたが、40年以上前から鶴田悦章住職(69)がアジサイや梅、ツバキを植え、地域に親しまれる“花の寺”として再出発した。
同寺宝物館では、松平家7代目の忠雄(1673~1736年)の墓所から発掘された陶器や香道具、小判など、貴重な副葬品の特別展示も。開館は6月末までの午前10時~午後3時で、月曜休館。展示の拝観は300円。
6月中の平日は、松平家4代目家忠(1555~1600年)ゆかりの浄土寺(同町大草)で、祈とうを受けられる。元料理人の飯田大全住職(30)手作りの精進料理付きで、2000円。当日午前11時半までに予約が必要。(問)浄土寺=電0564(62)2153
(中野祐紀)
京都
街道新話 特別編(中)
【京街道・伏見宿(京都市伏見区)】
●津藩の砲声 歴史変える
名神高速道路で京都の伏見に向かう。カーナビに従い、大津の手前で京滋バイパスに折れると、京都市街の渋滞に巻き込まれずにすむ。
そういえば、家康は東海道に京街道(京―大坂)をとりこむとき、各国大名を朝廷と接触させないよう、大津から山科回りで伏見につないだという。
♪お江戸日本橋
七つ立ち(七つは朝4時)
初上(のぼ)り
東海道五十三次の民謡の歌詞だが、京へ行くのを「上る」といった。幕府が実権を持ちながら朝廷の存在は大きかった。
京街道を加え、東海道五十七次。京の南口の伏見宿では水上運送も盛んだった。幕末、志士たちが船宿の「寺田屋」などで死闘を繰り返す。大政奉還後の鳥羽伏見の戦い(1868年1月)は市街戦となった。
京阪伏見桃山駅に近い料理屋魚三楼(うおさぶろう)には140年前の流れ弾の弾痕が表格子に残る。話を聞きたいところだが、「上海万博に京料理を出店し、主人はそっちに出かけてまして」。
この戦いは戊辰(ぼしん)戦争の緒戦でもある。薩摩・長州軍の3倍の兵力(1万5千人)を持ちながら会津と桑名が主力の幕府軍は総崩れとなり、京街道の淀川堤防を一路、大坂方面へ。
このとき、味方のはずの津藩が淀川の対岸から幕府軍を砲撃した。鳥羽伏見の戦いは「徳川300年の天下を3日で失う」といわれたが、決定的な役割を果たした津藩は「変節」「裏切り」と見られ、桑名藩などから恨みをかう。
砲火を浴び、宿場を閉じた跡に「竜馬(りょうま)通り商店街」が生まれ、その青年部は「海援隊」を名乗る。(中生加 康夫)
◇アクセス
京街道は大坂街道ともいわれ、38キロ。現在の京都市伏見区は秀吉の伏見城の城下町として発展。江戸期は宿場で栄え、宇治川、淀川、高瀬川を経て、京、大坂、近江へ向かう千数百隻の舟の発着地でもあった。伏見の酒造業は灘に次ぐ。伏見観光協会(075・622・8750)。
高知
龍馬が後藤象二郎へあてた直筆の手紙 書き損じ見つかる
幕末の志士・坂本龍馬が、土佐藩重臣の後藤象二郎にあてて書いた手紙の書き損じが、高知県いの町の民家で見つかり、県立坂本龍馬記念館(高知市)が龍馬直筆と確認した。手紙は、15代将軍徳川慶喜に大政奉還を求めるため、京都・二条城に向かう後藤を激励する内容。手紙全文を撮影した写真が残っていて内容も知られているが、実物は行方不明になっている。
同館の森健志郎館長(68)は「手紙と書き損じを比べることで、龍馬が重要な日を前に緊張し、あわてて書いたことが分かる。龍馬の人間的な側面がうかがえる貴重な資料だ」と話している。
同館によると、手紙は大政奉還前日の慶応3(1867)年10月13日付。「海援隊一手を以て大樹参内の道路ニ待受ケ」と書かれ、大政奉還に失敗した場合、自らも海援隊を率いて援軍すると激励。さらに「先生一身失策の為ニ天下の大機会を失せハ其罪天地ニ容るべからず」と記し、失敗すれば先生(後藤)の罪は許されず、自分も薩長から責められる、としている。
手紙は縦24センチ、横47センチで19行。書き損じは縦19.6センチ、横72.4センチで28行だが、内容はほぼ同じという。書き損じは7行目と22行目の「先生」が「生生」と誤記され、22行目は隣の余白に正しい「先」の字が書き足されている。22行目から急に乱雑になり、最後の署名は、手紙の「龍馬」に対し、書き損じは本名の「直柔(なおなり)」。
所有者の南道(おさむ)さん(86)の話では、旧中山村(現・同県安田町)の村長だった祖父が譲り受けたという。書き損じは7月17日から始まる同館の企画展で公開される。
龍馬直筆の手紙草案見つかる
幕末の志士、坂本龍馬が、江戸幕府が朝廷に政権を返上する大政奉還を実現させるよう土佐藩の重臣を激励した直筆の手紙の草案が見つかりました。専門家は「当時の緊迫した状況がうかがえる第1級の史料だ」と話しています。
象二郎あて龍馬の手紙草案、高知の民家で発見
幕末の志士・坂本龍馬が、土佐藩重臣の後藤象二郎にあてた手紙の草案が、高知県いの町の民家で見つかり、県立坂本龍馬記念館が15日、確認した。
大政奉還を15代将軍徳川慶喜に迫るため、京都・二条城へ向かう後藤を、「もし失敗したら、私も海援隊を率いて将軍を襲う覚悟。墓の下でお目にかかりましょう」と激励する内容。後藤に渡った手紙そのものは行方不明のままで、写真しか残っていなかった。同館は「大政奉還の原案を考え、時代を動かそうとする龍馬の覚悟と緊張が伝わる第一級の資料」と評価している。
手紙は縦20センチ、横78センチで、大政奉還前日の慶応3年(1867年)10月13日付。大政奉還に失敗し「天下の大機会」を逃せば、薩長から責めを負わされると、緊迫した情勢をつづっている。「先生」(後藤)を「生生」と書き損じており、控えにしたとみられる。
龍馬の直筆で「参政(後藤)が登城するときに渡した手紙の草案なので、見てください」と、後藤に渡った手紙にはない説明書きが加えられており、別の親しい人物に送ったらしい。
持ち主の南道(おさむ)さん(86)によると、旧中山村(現・同県安田町)の村長だった祖父が譲り受けたという。
後藤は龍馬の大政奉還の考えを取り上げ、建白書として慶喜に提出。慶喜は後藤ら40藩の重臣を集めて意見を聞き、朝廷に政権返上を申し出た。手紙は7月17日からの同館の企画展で展示する予定。 最終更新:6月16日3時14分
地方自治法施行60周年記念貨幣:龍馬貨幣、出たぜよ /高知
幕末の志士、坂本龍馬の顔を彫り込んだ地方自治法施行60周年記念貨幣の通信販売が15日、始まった。造幣局によると、実在した人物が貨幣にデザインされるのは初めてという。龍馬ブームを追い風に、大きな注目を集めそう。
県からのアイデアを基に造幣局が製造。重さ7・1グラム、直径26・5ミリの500円玉で、「バイカラー・クラッド貨幣」と呼ばれる2色構造になっている。196万枚を用意した。
特殊な加工を施し、特製ケースに入れた「プルーフ単体セット」(消費税・送料込み2800円)▽桂浜の写真をあしらったカード型ケース付きの「Aセット」(同1000円)▽Aセットと60周年記念のふるさと切手シートを特製ケースに入れた「Bセット」(同2000円)▽Bセットから切手を抜いた「Cセット」(同1600円)--がある。
申し込みは7月5日まで。同月下旬に造幣局から払込用紙が郵送される。また、同月21日から、貨幣のみの場合は額面価格による引き換えも金融機関で受け付ける。詳しくはハローダイヤル(050・5548・8686)へ。【千脇康平】
長崎
長崎山清水寺・本堂の改修終了 県文化財、厳かに落慶法要
安産祈願で知られる長崎市鍛冶屋町の長崎山清水寺(ちょうきさんせいすいじ)で15日、本堂(県有形文化財)の改修工事終了を祝う落慶法要と記念式典が開かれた。
同寺は1623(元和9)年創建。現在の本堂は68(寛文8)年に建立された。老朽化が激しいため、2005年から県、市の補助を受けて解体修理を実施。修理中に判明した幕末の1862(文久2)年ごろの姿に復元した。総工費は約4億4千万円。
改修に伴い、公益財団法人文化財建造物保存技術協会が調査。和風の密教寺院ながら、中国産木材を使用し、中国建築の様式と意匠を大幅に取り入れた独自の寺院建築と分かった。今後、国の重要文化財への格上げが見込まれる。
法要には約500人が参列。京都清水寺など全国から集まった僧侶約40人が入堂し、本尊の千手観世音菩薩像を26年ぶりに開帳した。僧侶は声を合わせて「オンバザラ・ダラマ・キリク」と千手観音をたたえる諸真言(呪文=じゅもん=)を唱え、堂内は厳かな雰囲気に包まれた。
一月正人(いちげつ・しょうにん)住職(70)は「多くの人の協力で、倒壊しかけていた本堂が立派によみがえり感無量。これからも市民に親しまれる『きよみずさん』であり続けたい」と話した。
千手観世音菩薩像は21日まで開帳する。
文化芸能
視聴室:歴史秘話ヒストリア
◆歴史秘話ヒストリア(NHK=後10・0)
◇ちょっと変わった殿様
幕末の動乱を斬新な行動で乗り切った尾張藩主、徳川慶勝の生きざまを紹介する。
藩士や領民の期待を受け、美濃・高須松平家から尾張藩に養子に入った慶勝は、全藩士約1700人の人事査定を自らが行うなどし、破綻(はたん)状態の藩の財政を立て直す。そんな藩主の趣味は写真。殿様だからこそ撮影できた城内部の写真は、史料として今も貴重だ。さらに慶勝の3人の弟の数奇な運命も取り上げ、幕末、明治維新を当時のエリート一家の視点で描く。
慶勝役は篠井英介。メモ魔で凝り性、そんな殿様の姿に親近感がわく。(北)
主演の大沢たかおも興奮気味
来年4月スタート、TBS系「JIN‐仁‐」
昨年10月期に放送され、人気を集めたTBS系「JIN‐仁‐」の続編が、連続ドラマとして来年4月(日曜後9・0)から放送されることが決まった。
ドラマは、大沢たかお演じる脳外科医・南方仁が、ある事件がきっかけで幕末の江戸にタイムスリップし、満足な医療器具もない中で人々の命を救う一方、坂本龍馬(内野聖陽)ら歴史上の人物と親交を深めて幕末の騒乱に巻き込まれていく、という壮大なストーリー。前作は平均視聴率19%、最終回では25・3%(いずれもビデオリサーチ関東地区調べ)を記録するなど大きな反響を呼び、作品としても第18回橋田賞を受賞するなど高い評価を得た。
完結編となる続編では大沢をはじめ、綾瀬はるか、小出恵介、中谷美紀、内野ら前回のキャストが再び集結。最終回のその後の仁たちが描かれるほか、西郷隆盛や徳川慶喜ら新たな歴史上の人物も登場する。
大沢は「続編の制作というのは、本当に勇気がいること。その挑戦は僕の俳優史上で最も大きな決断です。続編で描こうとしているストーリーを読んだ時、前回出演を決めた時以上のときめきを感じた。これは逃げられないなと思いました」と興奮の面持ち。
石丸彰彦プロデューサーは「完結編のテーマは、“歴史の修正力への挑戦”です。キャスト・スタッフ一同、さらなる思いと情熱を作品にささげ、作品の持つ世界を全うしたいと思っています」と語っている。
ビジネス
「竜馬」でキャンペーン=ロッテとJTB
ロッテ(東京)とJTB(同)は15日、大河ドラマの放送などで人気の高まる幕末の志士・坂本竜馬をテーマにした共同キャンペーンを22日に始めると発表した。竜馬ゆかりの地の特産物を使った菓子の外箱で観光スポットを紹介し、旅情をかき立てる。(2010/06/15-18:07)
日本がカメルーンに勝った昨日の試合、海外では今大会一番の番狂わせと報道されたところもあるとか。ゴールした本田、アシストした松井、そして守りきった全メンバーに感謝!
北海道
幕末の志に思いをはせ 函館
龍馬記念館に竜馬さん
神奈川
蔵から交流の場へ 小田原・岩瀬邸 横田七郎氏の回顧展を開催
愛知
DVD:郷土の偉人を紹介、第1弾完成 刈谷市教委、21小中学校に教材配布 /愛知
コラム
記者ノート:奇兵隊内閣の行く末は?=小川直樹 /新潟
北海道
幕末の志に思いをはせ 函館
同志社大学の創設者で、幕末に海外を目指して函館からひそかに日本を脱出した新島襄(1843~1890)をしのぶ碑前祭が14日、函館市大町の「新島襄海外渡航の地碑」であった。
碑は新島襄が1864年、国禁を犯して米国に向けて出発したとされる函館港の一角に立つ。碑前祭は、学校法人「同志社」が今年創立135周年を迎えるのを記念して行われた。
大谷実総長が「新島襄の志に思いをはせ、継承し発展させていきたい」などとあいさつ。地元の同志社大卒業生ら約60人が集まり賛美歌を歌ったあと、碑に花をささげた。
龍馬記念館に竜馬さん
現代の竜馬、記念館に―。「北海道坂本龍馬記念館」(三輪貞治館長、函館市末広町8)のボランティアスタッフとして、公立はこだて未来大学2年生の深浦竜馬さん(19)が新加入した。同館のスタッフや来場者からは早くも“若さあふれる竜馬”の登場に期待の声が上がっている。深浦さんは「この名前と得意のパソコン技術を生かして記念館を盛り上げられれば」と意気込んでいる。
深浦さんは後志管内余市町出身。父の龍治さん(58)が歌手の武田鉄矢さん原作の漫画「おーい!竜馬」の大ファンだったことからこの名が付けられた。深浦さん自身も幼少期から父親の影響を受け、名前が一緒の「龍馬」には親近感や興味を感じていたという。
スタッフ志願のきっかけは、龍治さんに頼まれた土産を買おうと記念館を訪れたときだった。来場者をもてなすスタッフの姿や三輪館長の龍馬への熱意に感銘を受け、とっさに「参加させてください」の言葉を口にしていたという。「買い物が終わったら帰ろうと思っていた。なぜあんなに積極的になれたか正直わからない」とその時を振り返る。
13日に初めてパンフレットの配布や来場者の出迎え、見送りを担当した深浦さん。「人と接し、交流することの楽しさを知った。これからも週末を中心にできる限り参加したい」と笑顔を見せる。一人の若者の心意気がこれからの記念館運営に力を与える。
神奈川
蔵から交流の場へ 小田原・岩瀬邸 横田七郎氏の回顧展を開催
小田原市鴨宮に残る母屋が国登録有形文化財に指定されている「岩瀬邸」の蔵と土蔵がギャラリーとホールに“変身”、新しくスタートを切った。現在、岩瀬家と親交が深かった地元ゆかりの彫刻家・横田七郎氏(一九〇六~二〇〇〇年)没後十年の回顧展が開催されており、関係者は地域の文化交流と活性化を願っている。
市教育委員会などによると、岩瀬邸の母屋は安政四~五(一八五七~五八)年に建築された、かやぶき屋根の木造平屋建て寄せ棟造り。幕末から明治にかけての名主(豪農)の家の形態を残す。年二回、一般公開している。三越の社長を務めた岩瀬英一郎氏の生家でもある。
母屋の裏には昭和初期建造という家財道具を入れていた蔵や土蔵があり、「はっきりした歴史は分からないが、私は十八、十九代目」という不動産管理業の岩瀬忠司さん(57)が、開放を計画。二年ほどかけて蔵と土蔵の室内を改造した。
母屋はすでに茶会など和の行事に使われており、蔵はギャラリー、ミニコンサート、土蔵は料理教室などに使えるように流しも整えた。庭にケヤキの巨木があることから「巨欅(おおけやき)の居(いえ)」と名付けた。
「総合的な文化交流の拠点として活用してもらって少しでも地域の交流に役立てば」と岩瀬さんは妻美喜さん(56)と広い屋敷内を掃除する。
横田七郎氏は若いころ、岩瀬家の借家に住み、大家と借家人の関係。当時の当主にかわいがられたことなど縁が深く、岩瀬さんが七郎氏の長男で市議の八郎氏(65)に作品展の話を持ち掛けたところ没後十年ということもあって快諾し、実現した。
回顧展には七郎氏の木彫家としての第一作「めざし」や院展、文展の入選作など約七十点が並ぶ。二十日まで。入場無料で午前十時~午後六時。問い合わせは「巨欅の居」=電0465(49)6077=へ。 (長崎磐雄)
愛知
DVD:郷土の偉人を紹介、第1弾完成 刈谷市教委、21小中学校に教材配布 /愛知
刈谷市教委が、郷土の偉人を紹介するDVDをシリーズで制作する。第1弾「幕末をかけぬけた刈谷の志士たち--維新の魁(さきがけ)・天誅(てんちゅう)組」(23分)を完成させ、市内の21小中学校に教材として配布、一般にも1000円で販売している。毎年一つ作る計画。
第1弾で取り上げたのは、幕末に起きた尊皇攘夷(じょうい)派の挙兵事件「天誅組の変」(1863年)に加わった刈谷出身の3人で、天誅組総裁の松本奎堂(1831~63)、決死隊副隊長の宍戸弥四郎(33~63)、連絡役の伊藤三弥(35~1917)。
アニメに史跡の映像を交えて構成。3人が尊皇攘夷思想に傾いて天誅組に参加し、50人足らずで現在の奈良県五條市あたりで挙兵し、五條代官所や高取城などを襲撃、幕府軍の反撃で大敗して松本と宍戸は戦死したが、明治維新の先駆けとして評価されていることを紹介している。幕末のペリー来航や安政の大獄、桜田門外の変など時代背景も描いている。
問い合わせは市文化振興課(0566・62・1037)。【安間教雄】
コラム
記者ノート:奇兵隊内閣の行く末は?=小川直樹 /新潟
「奇兵隊内閣」--。8日に組閣した新内閣を、菅直人首相は自らこう名づけた。奇兵隊は幕末、長州藩の正規軍が役に立たないとみた高杉晋作が、農民や町人らから有志を募り、組織した軍隊だ。「自分たちが歴史を変える」というエネルギーが無類の強さを生み、第2次長州征伐や戊辰戦争を勝利に導く原動力になった。
しかし、あまり知られていないが、奇兵隊は明治になって栄達を重ねたのではなく、山県有朋ら幹部の一部を除き、新政府に抹殺された。旧幕府軍との戦いが終わると、奇兵隊には解散が命じられた。反発した隊士の一部は山口で脱退騒動を起こすが、木戸孝允(桂小五郎)らかつての同志に鎮圧され、首謀者の大部分は処刑される。明治3(1870)年のことだ。
奇兵隊士たちは新しい時代を夢見たが、結局は時代の波に乗ることができず、無情にも切り捨てられていった。
山口県出身の菅首相がこうした奇兵隊の最後を念頭に置いて名づけたのかは、分からない。だが、時勢を見誤ると、栄光も長くは続かず、歴史の残酷さにのみ込まれる。菅政権の運命は果たして?
オランダ×デンマークをテレビ観戦中……日本×カメルーンの試合が始まる前に入浴しておかねば(汗)。
今のところ、決して守備が弱くはないオーストラリアに対して4点も入れたドイツの強さが一番印象に残ってます。今回のドイツは若くてかなり攻撃的ですねぇ。
北海道
同志社が「函館新島襄講座」 水産高生が寸劇
秋田
竜馬や高杉らの写真展示 県立博物館
山形
絹の街・鶴岡 輝き再び
栃木
幕末期の佐野を紹介 市郷土博物館で企画展 栃木
【とちぎ子育て箱】「ふるさと学習」年間通じて支援 栗山小で新たな試み
高知
訃報:吉川登志之さん 死去=現代の名工、土佐凧染物 /高知
コラム
特集ワイド:歴史に学ぶ 勝海舟 卓越した先見性--歴史学者・松浦玲さん
「日記など自筆史料を大量に残したのに誤りも多い。勝海舟は政治的天才だったが、記録能力はだめでした」(苦笑)。
勝海舟とは対照的に、維新後多くを語らなかった大久保一翁についてもっと知られて欲しいなぁと思ってるんですが。
テレビ
殿様だから撮れた! 徳川慶勝の「スクープ写真」
教科書には載らない歴史エピソードを紹介する「歴史秘話ヒストリア」。今回は幕末の尾張藩主、徳川慶勝をとりあげる。
慶勝は当時最先端の技術だった写真を趣味とし、自らが撮った写真を多く残した。それらの貴重な写真の数々から浮かび上がるプライベートライフを紹介し、慶勝が直面した運命や悲劇を描く。演じるのは俳優の篠井英介。
*歴史秘話ヒストリア
前番組「その時歴史が動いた」に比べると今いち乗り切れないのですが、次回は幕末維新の時代を生きた尾張藩主が主人公なので楽しみです。
今のところ、決して守備が弱くはないオーストラリアに対して4点も入れたドイツの強さが一番印象に残ってます。今回のドイツは若くてかなり攻撃的ですねぇ。
北海道
同志社が「函館新島襄講座」 水産高生が寸劇
【函館】今年、創立135周年を迎える学校法人同志社(京都)が13日、函館国際ホテルで「函館新島襄講座」を開いた。同志社大の創設者新島襄が幕末に箱館から米国に密航した縁があり、講演のほか、函館水産高の生徒が寸劇で新島襄の脱国シーンを再現した。
寸劇では新島襄が箱館を脱国した1864年(元治元年)6月14日、北海道開拓に功績を残した気象技術者福士成豊と坂本龍馬のいとこ沢辺琢磨が、悲壮な決意を語った新島襄を「夢忘るなよ」などと激励する場面を再現した。
また、同志社大総長で著名な刑法学者でもある大谷実さんが「同志社の良心教育」をテーマに講演し、「幼稚園から大学院まで一貫して、良心という理念を教えていきたい」と誓いを新たにした。
講座に先立ち、新島襄が箱館を訪れた際に乗ってきた帆船「快風丸」の模型(約60センチ)が、学校法人同志社から函館市に寄付された。
14日は学校法人同志社主催の碑前祭が午前11時から、函館市大町にある「新島襄海外渡航の地碑」前で行われる。(安本浩之)
秋田
竜馬や高杉らの写真展示 県立博物館
坂本竜馬、高杉晋作ら明治維新の立役者たちの貴重な写真などを展示する「坂本龍馬と維新志士の古写真展」が、秋田市金足の県立博物館で開かれている。7月4日まで。
展示されている写真は、維新期の竜馬や高杉、伊藤博文らを撮影した7枚。竜馬が中心となって結成した「海援隊」の隊士の子孫にあたる人が県内に住んでおり、2001年、所有していた写真を同博物館に寄託。NHK大河ドラマの影響もあって竜馬が再びブームになっていることから、今回初めて公開した。同様の写真は全国でも数枚ずつしか現存しておらず、非常に貴重だという。
このうち竜馬最後の肖像とされる写真は、暗殺直前の1867年秋に撮影したとされ、着物姿で刀を差し庭先に腰掛ける竜馬の姿をとらえた1枚。会場には古写真のほか、竜馬直筆の書状や、高杉が竜馬に贈ったものと同型のピストルも展示している。
同展の会期中、オリジナル写真の展示は資料保護のため期間限定で、20日までと、26日〜7月4日。今月22〜25日は複製パネルを展示する。開場は午前9時半〜午後4時半。入場無料。毎週月曜日休館。
山形
絹の街・鶴岡 輝き再び
市が啓発 蚕を学校に配布
かつて鶴岡市の基幹産業だった養蚕や絹織物の文化を次世代に伝えようと、同市などは地元の絹関連産業への啓発を進める事業「鶴岡シルクタウン・プロジェクト」を始動させた。第一弾として今月、市内の小中学校など36施設に蚕の幼虫や餌となる桑の葉などを無料配布した。市政策推進課は「生き物の飼育をする理科の授業にも活用してもらい、市の織物文化や繊維産業などにも興味を持ってもらえれば」と期待している。
「うわーっ、小さい。こんな虫見たことない」「指に乗った!なついてるよ、これ」。今月8日朝、市立東栄小3年生の総合学習の時間。発泡スチロールの箱に入った蚕の幼虫30匹と桑の葉が教室に6セット届けられると、待ちわびていた23人の児童は一斉に声を上げ、約4センチの灰色の幼虫にくぎ付けになった。手に乗せたり、桑の葉を食べる様子を観察したりと興味津々。恐る恐る触ってみた太田ちこさん(8)は「これが真っ白な繭になるなんて信じられない」と首をかしげた。
鶴岡市は、明治維新後に旧庄内藩士らによる開墾事業が進められ、羽黒地域を中心に大規模な桑畑や蚕室が数多く作られた。市などによると、大正時代には市民の7割以上が養蚕や織物業に従事し、市の産業の基盤になっていたという。
しかし、蚕の幼虫は薬品に非常に弱く、桑の葉についたわずかな農薬でも死ぬ。戦後、農薬を使用する柿などの果樹が市内で普及すると、桑の葉を育てることができず、養蚕業は衰退。安価な輸入品にも押され、現在、養蚕農家は藤島地域に残る1軒のみとなった。
鶴岡市によると、同市は全国で唯一、養蚕から製糸、縫製、販売まで絹織物製造の工程がすべて残っている地域。文化や産業の消滅を防ごうと、市は部課を超えてプロジェクトに乗り出した。養蚕の仕組みの見直しや、鶴岡産シルクのブランド化などに取り組むことを決め、最初の試みとして飼育キットの配布を始めた。
養蚕業界関係者でつくる県蚕糸業会が幼虫や桑の葉などの飼育用具を提供。餌の桑は毎週届けられる上、元養蚕農家ら5人の指導者が巡回指導するなど、サポート態勢も整えた。
配布された幼虫は蚕が繭を作るまで約3週間。うまく育てば繭1個から長さ1・5キロ・メートルほどの糸がとれるため、自分たちで育てた蚕からできた絹糸でハンカチを織るなどの活用も可能という。市政策推進課は「織物の販路開拓が課題になるが、地域文化への関心を高め、息の長いプロジェクトにしたい」と話している。
◇
プロジェクトの一環として市は県蚕糸業会などと協力し、住民に養蚕業や絹文化に興味を持ってもらおうと、今月14~18日、市役所1階ロビーで展覧会「鶴岡シルク『蚕と絹』」を開く。蚕の飼育や養蚕の歴史などをパネル展示するほか、蚕を育てたり、絹織物に挑戦したりする住民「繭人(まゆびと)」の募集も行う。
栃木
幕末期の佐野を紹介 市郷土博物館で企画展 栃木
幕末期の佐野の尊皇攘夷運動に関する資料などを紹介した企画展「幕末の佐野」が、栃木県佐野市大橋町の市郷土博物館で開かれている。15日まで。
企画展では、桜田門外の変で暗殺された大老・井伊直弼や、佐野から尊皇攘夷運動に参加した農民や浪士らにスポットを当てた古文書や絵図など約40点を公開している。
幕末の佐野領は、北部の田沼地方が彦根藩主の井伊家の飛び地となっており、井伊直弼が嘉永6(1853)年、日光参詣の帰りに領地を巡視した記録や、下野西南部の尊皇攘夷派が倒幕に向けて蜂起した「出流山事件」に参加し斬刑された儒者、赤尾清三郎についての資料などが並ぶ。
同館は「幕末期の佐野を改めて見つめてほしい」としている。問い合わせは同博物館(電)0283・22・5111。
【とちぎ子育て箱】「ふるさと学習」年間通じて支援 栗山小で新たな試み
地域の偉人や史跡などを教材に郷土愛をはぐくむ「ふるさと学習」。県文書館は本年度から、同館職員が年間を通じてふるさと学習の授業を支援する試みを日光市栗山小でスタートさせた。専門家の解説を聞いて学びを深め、他校を交えた発表会で成果を披露する。
5月、日光市野門にある栗山東照宮で、栗山小3年の手塚由基君(8)と4年の松本恵佑君(9)、6年の黒田奎貴君(11)が社殿の中をのぞき込んだ。目の前には4体のご神体が鎮座している。
▽家康のご神体
3人は総合学習でこの神社を調べるため、芳賀智一教諭、県文書館の松本一夫さんらと訪れた。
同館などによると、ここは民家で長い間保管されてきた徳川家康ら4体のご神体を祭るため、1970年に地元住民の手で建てられた。4体は戊辰戦争の戦禍を避けようとこの民家に預けられたとされる。
3人はこの日、ご神体を預かっていた家の現在の主、小栗功さん(53)に普段は閉じてある社殿を開けてもらい、かつて4体がしまわれていた場所も見せてもらった。
6月、再び松本さんら同館職員が同校を訪れ、3人が自分で調べても関係性などをうまく理解できなかった家康、東照宮、戊辰戦争について解説した。
▽要点絞り成果
休み時間を挟み、2こま連続で行われた授業を熱心に聞いていた3人。芳賀教諭は「本やインターネットでは言葉が難しく、情報も多すぎて子どもが理解するのは難しい。今回、要点を絞って話してもらったのが良かった」と成果を挙げる。
「ふるさと学習の推進」は県の教育振興ビジョンに掲げられ、県教委では、本県の偉人や文化財などを紹介する学習資料や授業の指導事例を、ホームページに載せている。
「有名でなくても地域に根ざした遺物に目を向け地域を見直す、という実践をいかにやってもらうか」。情報提供にとどまらない今回の試みの意義を松本さんはこう話す。
▽進歩に手応え
同館は、学校に古文書などを持参して授業を支援する単発の「出前講座」を2005年から行っている。
「年に1回だと関心を持たせることくらいしかできないが、今回は進歩を確認できる」と、手応えも語っている。
3人は今後、7月の校内発表会を経て、年度末に宇都宮市の西小、富屋小と合同の発表会に臨む予定。成果を披露し合うことでお互いを認め合うことも狙いの一つだという。
高知
訃報:吉川登志之さん 死去=現代の名工、土佐凧染物 /高知
◇84歳
土佐凧(だこ)染物職人で「現代の名工」の吉川登志之(よしかわ・としゆき)さんが12日、肺炎のため死去した。84歳だった。
吉川さんは、明治時代初期から染物業を営む吉川家の4代目。96年に「現代の名工」に選ばれ、00年には黄綬褒章を受章した。端午の節句に大空に掲げるフラフやのぼりだけでなく、伝統工芸品「土佐凧」継承者として、力強い黒線に魔除けの色である赤を基調にした作品などを製作。父親の半蔵さんは幕末の絵師金蔵(通称・絵金、1812~76)の孫弟子にあたる。絵金の素描画などを地域興しのために役立てようと、自宅を改修して絵金資料館を開いた。
職人気質というよりは、人と会って騒ぐのが大好きだったという。吉川家5代目で長男の毅(たけし)さんは、「後を継げと強要されたことはなかった」と振り返り、「自由奔放な人。皆さんに愛されていました」と語った。
告別式は14日午前11時、香南市赤岡町2018の1、香南斎場やすらぎ苑で。自宅は同市香我美町岸本56。喪主は毅さん。【千脇康平】
コラム
特集ワイド:歴史に学ぶ 勝海舟 卓越した先見性--歴史学者・松浦玲さん
<この国はどこへ行こうとしているのか>
米軍普天間飛行場移設問題。米国から何の譲歩も引き出せないまま、鳩山内閣は崩壊した。だが歴史上には、圧倒的に不利とみられた交渉に勝ち、名を残した男もいる。
「日記など自筆史料を大量に残したのに誤りも多い。勝海舟は政治的天才だったが、記録能力はだめでした」。松浦玲さんは京都市の仕事場で愉快そうに語った。「ずぼらさもあるが、迫力を優先したせいもある。なぜ誤ったかに彼の考えを探るカギもあるのです」。周辺の人物の日記など膨大な史料を精査し「本人記す」を超える真実に迫ったのが、今年出版した900ページを超える評伝「勝海舟」だ。
海舟が「大きく光った」という江戸無血開城の談判はなぜ成功したのか。幕末の謎だけに、評伝では「言わんといかんと、そこだけは主観的に書いた」。慶応3(1867)年の大政奉還、王政復古の大号令の翌年、戊辰戦争がぼっ発。新政府軍は将軍徳川慶喜を朝敵として追討するため東進。3月15日、江戸城を総攻撃する予定だった。だが、海舟は13、14日の西郷隆盛との談判で降伏条件ものまず、戦争中止に持ち込む。
「海舟は大政奉還を『公』の実現と評価していた。意思決定は大名会議(公議)に移る、その先には廃藩置県などで大名や侍の身分もなくなる社会をみており、それなら徳川家がつぶれても文句はないと考えていました。だが、薩長は自藩は温存して、徳川はたたきつぶそうとした。そんなばかな話があるかというのが海舟の理屈。西郷はその理屈に負けたんでしょう」
推論の足場は無論、ある。海舟は以前から薩長の「私」を撃つ意見書を新政府に送っていた。混乱した社会情勢につけ込むのは「王者之政、生霊を愛護する道にあらず(天下を治める者の政治でなく、人民を保護する道でもない)」と批判した文書などが前線の西郷の元に届いたことは、薩摩藩側の史料で確認した。江戸城攻撃直前の西郷と勝の面談は2度目。4年前の最初の面談では、勝は有力諸藩が提携して共和政治をやれと話し、西郷は「ひどくほれ申候」と記した。「勝は会う度に西郷を人物で圧倒した。2日続けて会った心証で『これなら押し切れる』と読んだんでしょう」。松浦さんはその場面にしたたかな計算もみる。「信念であると同時にこれを言い通せば西郷に勝てるとみた。これしか『勝つ手』はないから言っているんです」
軍艦奉行を罷免された時期もあった海舟だが、「世の中はいずれ変わると思っているから、へいちゃらで乗り切れたんでしょう。今起こっていることは『小さいこと』とずっと思っていたようです」。
「一般には知られていないんですが」と松浦さんは続けた。「海舟は最晩年、残る気力を振り絞り自らの役割を果たした。『小さく光った』んです」
維新から30年後。帝国議会は開設されていたが、政権は薩長出身者による「藩閥」が握り続け、民意が反映されない不満が高じていた。海舟は重要な国務に意見を言う枢密顧問官。当時の第2次松方正義内閣には親身に意見し、首相就任の際は、後進を要所に置いて育てるようにという文書を送った。「自分は権力を手渡した側という思いを抱きながら、高官の地位を受け入れた責任は果たそうとしました」。だが、松方内閣は行き詰まり、ちまたでは「藩閥の終わり」を意味する「閥末」が語られる。次の第3次伊藤博文内閣も短命で倒れた。
1898(明治31)年6月、自由党と進歩党が憲政党を結成、初の政党内閣、第1次大隈重信内閣(隈板内閣)を作る。しかし4カ月で崩壊。政党にはまだ政権担当能力がないと判断した海舟は11月、枢密院で後継は藩閥が務めるようにと熱弁を振るい、元老の奮励を促す意見書を枢密院議長あてに出した。元老らによる後継選びはその直後本格化し、長州閥の第2次山県有朋内閣が誕生する。海舟が没したのはその2カ月後だ。
松浦さんはこう語る。「海舟は幕末、閥末の二つの末の世を生きました。幕末を自ら処理したうえ、権力の当事者ではなかったから、閥末の世がよく見えたのです。議会制度を開きながら薩長閥では持たないこと、政党政治に向かう時代の流れも理解していた。だから憲政党の誕生には賛成しましたが、一方で政党の現実も見ていた。それゆえに政党が成長するまでは藩閥で頑張ってくれと考えた。維新を生きた友人が亡くなって行く中、自分だから見えることを伝えようとした」
海舟没後の1902年、日露戦争遂行を助ける日英同盟協約が結ばれた。「日本は英国の時代にうまく乗った」。だが第一次世界大戦後の21年、米国の呼びかけでワシントン会議が開かれ、日英同盟は廃棄された。「この会議以降は米国の時代です。日本は第二次大戦で負け、米国の格下の同盟国になった。守ってもらえる格下に安住したいというのが国民の大勢ではないですか。政府も国民も沖縄を切り捨てている。だが、今絶対視されている日米同盟も、歴史の限られた期間の産物です」
首相は菅直人氏に交代し普天間問題も新内閣に引き継がれた。思わず聞いた。「海舟が基地問題の担当大臣を頼まれたらどうするでしょう」
考えながら語ってくれた。 「全部任せると頼まれたらやるでしょう。『日米同盟を壊しても構わないか。それならやる』と言うかもしれません。壊すのが前提ではありません。徹底的に代替地を探す、けんか別れになってもいい覚悟で日本の立場を訴える。本気にならなければ解決は望めないからです」【宮田哲】
「日記など自筆史料を大量に残したのに誤りも多い。勝海舟は政治的天才だったが、記録能力はだめでした」(苦笑)。
勝海舟とは対照的に、維新後多くを語らなかった大久保一翁についてもっと知られて欲しいなぁと思ってるんですが。
テレビ
殿様だから撮れた! 徳川慶勝の「スクープ写真」
【 06月16日(水) 総合/デジタル総合 22:00 ~22:43 】
教科書には載らない歴史エピソードを紹介する「歴史秘話ヒストリア」。今回は幕末の尾張藩主、徳川慶勝をとりあげる。
慶勝は当時最先端の技術だった写真を趣味とし、自らが撮った写真を多く残した。それらの貴重な写真の数々から浮かび上がるプライベートライフを紹介し、慶勝が直面した運命や悲劇を描く。演じるのは俳優の篠井英介。
*歴史秘話ヒストリア
前番組「その時歴史が動いた」に比べると今いち乗り切れないのですが、次回は幕末維新の時代を生きた尾張藩主が主人公なので楽しみです。
西日本は梅雨入りした模様ですが、東京周辺はまだです。今夜から天気が崩れていくとのことですので、空模様が少し怪しくなってきています(汗)。
青森
むつ市で斗南藩140年・前夜祭 若松市民
京都
大船鉾、復興へ 来夏から再建準備
祇園祭 くじ取り式出席
大阪
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高知
容堂の漢詩 豪快に書…高知・岡豊高“書道ガールズ”
長崎
【動画】「龍馬と篤姫の生きた時代展」開幕 8月末まで、長崎ココウォーク
エンターテインメント
ダウンロード無料。坂本龍馬のチャラ男姿が見られるPSPソフト「バクマツ☆維新伝(レボリューション)」。
青森
むつ市で斗南藩140年・前夜祭 若松市民
戊辰戦争で敗れた会津藩が藩再興を期して斗南(現在の青森県むつ市)に上陸してから140年になるのを記念した「斗南藩140年祭」の前夜祭が12日夜、むつ市のむつグランドホテルで開かれた。
福島県会津若松市からも約100人が参加し、旧会津藩士の子孫らと交流を深めた。
むつ市の宮下順一郎市長が「140年前、多くの会津藩士たちが海を越え、陸を歩んで斗南に来た。
歴史の1つのつながりを大事にし共に発展していきたい」と述べた。
会津若松市の菅家一郎市長は「先人の歴史を継承し、交流・発展につなげていこう」とあいさつした。
会津若松市からは慶山焼の皿、むつ市からは和紙の人形を記念品として交換した。
会津若松市議会の田沢豊彦議長の発声で乾杯し、祝宴に入った。
アトラクションでは、斗南に渡った会津藩士の流亡の歌「下北哀史」を、斗南会津会会員の馬場重利さんが披露した。
斗南藩140年祭記念式典は13日、同会場で行う。
京都
大船鉾、復興へ 来夏から再建準備
祇園祭 くじ取り式出席
江戸時代まで祇園祭・山鉾巡行のトリを飾り、幕末の大火で焼失して休み鉾となっていた「大船(おおふね)鉾」が、巡行復帰を目指して準備を進めていることが、12日に分かった。四条町大船鉾保存会(京都市下京区新町通四条下ル)が今年のくじ取り式にオブザーバーとして出席するほか、来夏以降、鉾再建のために広く支援を呼び掛ける。かつては最大級の鉾だっただけに、「33基目」の山鉾復興への期待は大きい。
江戸時代の文献によると、神功皇后が遠征した説話に基づき、当時は「出陣」と「凱旋(がいせん)」の2基の船鉾があった。焼失した「凱旋」の船鉾は、現存する「出陣」の船鉾よりひと回り大きく、大船鉾と呼ばれた。山鉾巡行が2日に分かれていた時代に、後祭(あとまつり)の最後尾を務めていたという。
しかし、1864(元治元)年に起きた蛤御門(はまぐりごもん)の変で、京都は大火に見舞われ、大船鉾の本体は焼失した。幸い、神功皇后の御神面をはじめ、前掛や後掛(見送)など豪華な懸装品の多くは難を逃れた。
1870(明治3)年には、御神面を唐櫃(からひつ)に載せて巡行に参加したが、完全復興には至らなかった。ただ、宵山で御神面や懸装品を飾る「居祭り」は受け継がれ、1997年には大船鉾の囃子(はやし)も復活させた。次世代のリーダーも熱心に活動し、復興に向けた機運が徐々に高まっていた。御神面や懸装品は、2007年に市有形民俗文化財に指定された。
保存会は、復興に向けた支援の受け皿づくりとして、今年4月に一般財団法人となった。さらに税制上の優遇を受けやすい公益財団法人の取得を目指し、来夏以降、鉾再建への支援を市民や企業、民間団体に呼び掛けるなど、復興に向けて本格的に動きだす。今年のくじ取り式には、オブザーバーながら代表が出席、手順などを見学する。
四条町大船鉾保存会の松居米三理事長(77)は「まだ時期は明言できないが、必ず復興したい。多くの方々のご支援を受けながら、一歩ずつ前進させたい」と話している。
・早く勇姿見たい
祇園祭山鉾連合会の深見茂理事長の話 保存会の方々が努力したからこそ、ここまで進んだ。重要無形民俗文化財の山鉾行事の形を変えるには、国などとの協議が必要で、クリアすべき問題はあるが、早く大船鉾の勇姿を見たい。
・休み鉾(山) 記録に残りながら本体や懸装品などを焼失し、巡行に参加していない山鉾。1864年の大火で焼失した山鉾も多い。大船鉾のほかに、鷹(たか)山と布袋山がある。
大阪
観光PR:見どころ豊富、高知・土佐清水 /大阪
NHKの大河ドラマ「龍馬伝」にも登場するジョン万次郎(1827~98年)の故郷、高知県土佐清水市の市観光協会、市旅館組合などが、大阪市北区の毎日新聞大阪本社に観光PRのため訪れた。
同県では現在、「土佐・龍馬であい博」を各地で開催中(来年1月10日まで)。土佐清水市では万次郎の事跡やこの土地の風土を紹介する「土佐清水・ジョン万次郎くろしお社中」が開かれている。
同市とその周辺には、四国最南端で太平洋を一望できる足摺岬、清流で知られる四万十川があり、海上遊覧やカヌーなどが楽しめる。カツオの藁(わら)焼きたたき作り、つわ寿司作りなどの体験もできる。
万次郎は幕末、乗り組んだ漁船が遭難し、漂流後に米国で教育を受けた。龍馬が世界に目を向けるきっかけとなった。問い合わせは土佐清水市観光協会(0880・82・3155)。【望月佑香】
高知
容堂の漢詩 豪快に書…高知・岡豊高“書道ガールズ”
吟詠に合わせ披露
岡豊高書道部の生徒が容堂の漢詩を豪快に書き上げた作品(高知市の高知城ホールで) 高知県立岡豊高校書道部の<書道ガールズ>たちが12日、幕末の15代土佐藩主・山内容堂の詠んだ漢詩を、5メートル四方の紙に大筆で書く豪快なパフォーマンスを、高知市丸ノ内の高知城ホールで披露した。
「幕末四賢候」の一人とたたえられる容堂の文化人としての魅力を知ってもらおうと、企画展「山内容堂」を開いている土佐山内家宝物資料館(同市鷹匠町)が、容堂についての講座の呼び物として、同校書道部の生徒10人に依頼。講座の参加者85人が見学した。学芸員が、風景や酒、日本や中国の英雄に自身を重ね、数多くの漢詩を詠んだ容堂の生涯を紹介した。
書道パフォーマンスで書かれたのは、1858年の安政の大獄により江戸で謹慎していた33歳の容堂が、土佐にいる実父・豊著(とよあきら)を懐かしんで詠んだ七言絶句「孤客西悲(こかくにしにかなしむ)」。生徒らは、秀鳳(しゅうほう)流日本吟詠会(同市)が読み上げる吟詠に合わせて披露した。
生徒らは声をかけ合いながら、容堂の陣羽織をイメージした赤、黒、白に色分けされた紙一面に、黒、白、金の墨で、漢詩や「鯨海」「龍」の文字を一気に書き上げた。部長の3年、仁尾尚江さん(17)は「吟詠に合わせるのは初めてで緊張したが、練習よりも良く書けた」と満足そうだった。
見学した同市横浜新町の勝賀瀬嘉啓さん(79)は「容堂は教養の深い素晴らしい人だと感じた。そんな容堂の漢詩を真剣に書く高校生に、とても感心した」と笑顔で話していた。
(2010年6月13日 読売新聞)
長崎
【動画】「龍馬と篤姫の生きた時代展」開幕 8月末まで、長崎ココウォーク
坂本龍馬ら幕末や明治時代に活躍した人物をゆかりの品で紹介する「坂本龍馬と篤姫の生きた時代展」が12日、長崎市茂里町のみらい長崎ココウォーク5階「長崎ぶらぶら街道」で始まった。
みらい長崎ココウォーク主催、長崎新聞社特別協力。龍馬直筆とされる漢詩の掛け軸、篤姫が使ったといわれる重箱をはじめ、亀山焼、勝海舟の書など39点が並ぶ。展示品のほとんどが、熊本市の肥後龍馬会の橋本正勝会長の個人コレクションという。
開場式で橋本会長は「龍馬が思い描いた世界と日本が一体化する夢を若者に持ってもらいたい」とあいさつ。長崎市の田上富久市長、長崎自動車の上田惠三社長、長崎新聞社の本村忠廣社長らがテープカットし開幕を祝った。
NHK大河ドラマ「龍馬伝」を毎回欠かさず見ているという長崎市北栄町の会社員、石本達次さん(58)は「力強い筆跡に時代を動かした龍馬のたくましさを感じた。イメージが膨らみ、龍馬伝が一層楽しく見られそうだ」と話した。
同展は8月31日まで。入場無料。
エンターテインメント
ダウンロード無料。坂本龍馬のチャラ男姿が見られるPSPソフト「バクマツ☆維新伝(レボリューション)」。
大河ドラマ『龍馬伝』の人気からもわかるように、坂本龍馬や西郷隆盛らが活躍した幕末時代は、日本史の中でも特に支持されている時代だ。その幕末を舞台とした「バクマツ☆維新伝(レボリューション)」の配信が開始される。驚いたことにこのゲーム、無料でダウンロードできるという。
株式会社アクワイアが提供を開始するPSPソフト「バクマツ☆維新伝」は、敵が潜む迷宮(ダンジョン)を攻略しながら、バクマツの歴史上の人物たちの依頼(クエスト)を解決していくゲーム。ダンジョンの地形が変化したり、1人でのプレイだけでなく最大4人までの協力プレイが可能だったりと、飽きることなく楽しめるゲームになっている。
このゲームの特徴の一つが、常識では考えられないキャラクター設定だ。バクマツというから、いかにも男臭い設定かと思いきやそうではなく、かなり大胆なアレンジが加えられている。例えば、新選組の鬼の副長として恐れられた土方歳三が女性だったり、沖田総司がお菓子を食べることが趣味の子どもだったり…といった具合なのだ。幕末好きにはこのアレンジがどう映るのか気にはなるが、ゲームらしいとも言える。
さて、今回配信されるゲーム本編では27のクエストが楽しめる。そして、そのダウンロード価格が無料というから驚きだ。気になった女の子に次々と声をかけるというチャラ男にアレンジされた坂本龍馬を見るだけでも面白いかもしれない。とりあえずダウンロードしてはいかがだろうか。
(TechinsightJapan編集部 Hamasaki)
今日は日中の気温が30度近くまで上がりました。少し湿度もあって、じんわり汗をかいてます^_^;。
北海道
龍馬記念館、来場者2万人達成
青森
会津藩主・松平容保の書発見
京都
探せ!海外流出の浮世絵
立命大、欧米で調査
山口
企画展:毛利家ゆかりの能面など35点 /山口
佐賀
史料をデジタル化、ウェブ公開へ 佐賀県立図書館
長崎
【動画】「龍馬と篤姫の生きた時代展」開幕 8月31日まで、長崎ココウォーク
【動画】幕末長崎古写真展が入場2万人突破 歴文博、上野彦馬製作カメラ展示も
文化芸能
JIN-仁-:来春完結編 続編要望に応え
ふるさとで照れる福山龍馬がまぶしいっ!
「龍馬伝」長崎ロケ取材会
北海道
龍馬記念館、来場者2万人達成
昨年11月15日にオープンした「北海道坂本龍馬記念館」(三輪貞治館長、函館市末広町8)が10日、来場者2万人を達成した。同日、同館内で開かれた市民有志らで構成される「函館龍馬愛好会」の席上で三輪館長から報告されると、参加した会員が拍手で喜びを分かち合った。
同館は昨今の幕末ブームや北海道と龍馬の関係、そのゆかりの人物にスポットを当てた珍しさも手伝い、連日観光客らが詰め掛ける。3月末に1万人を達成したばかりで、この日も団体客や修学旅行生など約300人が来場した。記念セレモニーなどは行われなかったが、異例の早さに三輪館長は「まさかこんなに早く突破するとは思わなかった。たくさんの人に蝦夷地開拓という龍馬の夢を知ってもらえてうれしい」と感激しきりだった。
また、地元郷土史研究家や市民が集まり龍馬を通じて幕末の知識を深める同愛好会では、三輪館長の「おかげさまで2万人を達成することができました」の声に拍手と歓声が起こった。ある参加者は「交流は人を変える。関わり合いが少ない時だからこそ、龍馬の力の偉大さを感じる」と話し、参加者全員がこれからも解説などに力を入れ観光客らに楽しんでもらえる館を目指そうと、更なる飛躍を誓っていた。
青森
会津藩主・松平容保の書発見
2007年に会津藩士の子孫からむつ市教委に寄贈された史料から、会津藩9代藩主・松平容保(1835~93年)が書いたとみられる書が見つかったことが11日分かった。寄贈品にはほかにも、会津・斗南藩士らの書や短冊などが多数あり、市文化財収蔵庫の職員が調査している。戊辰戦争で敗れ、下北に移された斗南藩士が現在の同市に上陸してからことしで140年。13日に同市で開かれる「斗南藩140年祭」で姉妹都市の会津若松市の関係者に報告される。市幹部は「今後の交流に弾みがつく」と話している。
京都
探せ!海外流出の浮世絵
立命大、欧米で調査
海外に流出した浮世絵を探して、立命館大アート・リサーチセンター(京都市北区)が調査を本格化させている。今春までに英国の大英博物館の全2万5千枚をデジタル撮影し、清水寺や南禅寺などを描いた作品を確認した。一部はネット上での公開も始まっている。
■デジタル撮影、ネット公開も
浮世絵は明治時代に大量に海外流出し、欧米の博物館や美術館が膨大な収集品を持っている。写楽、葛飾北斎などの有名な作品は所在が知られているが、多くの作品が目録も作られず眠ったままになっている。
同センター長の赤間亮教授(49)らのチームは、欧米の各館を巡って全収蔵品を一点ずつ撮影し、画題や絵師、版元、出版年なども調べて入力した「デジタルアーカイブ」化を計画。欧米側も人手不足の中、同センターの専門性を認め、受け入れが広がっている。
世界最大級の大英博物館には2年前から調査に入り、すべての浮世絵の撮影を終えた。「富嶽三十六景」などの風景画のほか、役者や美人画が多く、京都関連では幕末期の「都百景」シリーズのうち、雪の清水寺や南禅寺を描いた作品などが確認された。
浮世絵は大量に刷られて各地で伝わっているため大英博物館の所蔵品も既知の絵柄が多かったが、あまり知られていない絵柄も数百枚あったといい、今後、評価を進める。赤間教授は「欧米の館にどんな浮世絵が何点あるか未解明だった中、全所蔵品を対象に調査に入ることができた意義は大きい」と語る。
このほか英国ビクトリア&アルバート博物館で4万枚、スコットランド国立博物館5千枚の撮影を終え、今夏はイタリアやチェコなどを回る。アーカイブ化された浮世絵は立命館大で研究用に端末検索でき、大英博物館など一部施設はホームページで公開している。
立命館大アート・リサーチセンターは屏風(びょうぶ)や陶磁器などのアーカイブ化も計画中で、「海外に拡散した日本の名品を、アーカイブ化でどこででも見られるようにしたい」としている。
山口
企画展:毛利家ゆかりの能面など35点 /山口
毛利家ゆかりの能面や能装束を紹介する企画展が10日、防府市多々良の毛利博物館で始まった。7月25日まで。
幕末の長州藩主・毛利敬親をまつる野田神社(山口市)が所蔵する35点を展示。平安期に活躍した伝説的な面打師・日光作と伝わる「翁」=写真=など、逸品がそろう。
江戸時代の諸大名家では、祝い事や外交行事など折に触れて能楽が演じられていたが、明治維新を機に廃れた。毛利家の能面などは御用商人に払い下げられたが、木戸孝允らが買い戻し、神社に奉納したという。問い合わせは博物館(0835・22・0001)。
〔山口版〕
佐賀
史料をデジタル化、ウェブ公開へ 佐賀県立図書館
佐賀県立図書館(佐賀市)が、収蔵する幕末・明治期の古文書や古地図のデジタルデータ化を進めている。約10万点の史料を筆跡の微妙なタッチまで表現できる高精細画像で〝デジタル写真集〟にする計画で、郷土史研究や学校教育などに役立ててもらう。来年度からインターネット上で一般公開する計画で、作業を終えた史料の一部は、館内のパソコンで公開を始めている。
デジタル化は、直接触れることが難しい貴重な史料を、調査や学習に提供するのが狙い。一般的な関心が高い幕末・明治期を中心にデジタル化している。
蓮池鍋島家の役所が残した日誌類「蓮池鍋島家文庫」や、江藤新平が明治政府入りした時の関連資料や書状が含まれる。古地図では、県内の大半が長崎県に編入されていた1881(明治14)年に、各村ごとに作成された地図などがある。公開点数は当初4万点でスタートし、追加しながら10万点まで充実させる。
データ化には高性能の特殊なスキャナーを使用。一般的なウェブサイトで使われる解像度(72dpi)の5倍以上で、写真集などの出版物に用いられる400dpiで処理した。画像はズームが可能で、古文書の微妙な筆づかいや、紙の質感、しみや折りじわまで見て取れる。デジタル化を終えた118点の古地図などは、館内のパソコンで先行公開している。
総事業費は約1億1千万円。一部は図書館振興財団の助成金でまかなう。同館資料課は「佐賀偉人伝の出版や、世界遺産暫定リスト入りしている三重津海軍所跡などで、佐賀の歴史や文化が再認識されている。史料を広く公開し、県民の関心を高めていきたい」と話している。
長崎
【動画】「龍馬と篤姫の生きた時代展」開幕 8月31日まで、長崎ココウォーク
坂本龍馬ら幕末や明治時代に活躍した人物をゆかりの品で紹介する「坂本龍馬と篤姫の生きた時代展」が12日、長崎市茂里町のみらい長崎ココウォーク5階「長崎ぶらぶら街道」で始まった。
みらい長崎ココウォーク主催、長崎新聞社特別協力。龍馬直筆とされる漢詩の掛け軸、篤姫が使ったといわれる重箱をはじめ、亀山焼、勝海舟の書など39点が並ぶ。展示品のほとんどが、熊本市の肥後龍馬会の橋本正勝会長(御馬下の角小屋館長)の個人コレクションという。
開場式で橋本会長は「龍馬が思い描いた世界と日本が一体化する夢を若者に持ってもらいたい」とあいさつ。長崎市の田上富久市長、長崎自動車の上田惠三社長、長崎新聞社の本村忠廣社長らがテープカットし開幕を祝った。
NHK大河ドラマ「龍馬伝」を毎回欠かさず見ているという長崎市北栄町の会社員、石本達次さん(58)は「力強い筆跡に時代を動かした龍馬のたくましさを感じた。イメージが膨らみ、龍馬伝が一層楽しく見られそうだ」と話した。
同展は8月31日まで。入場無料。
【動画】幕末長崎古写真展が入場2万人突破 歴文博、上野彦馬製作カメラ展示も
長崎歴史文化博物館(長崎市立山1丁目)で開催中の企画展「幕末長崎古写真展」(同館、長崎大付属図書館主催)の入場者が11日、2万人を突破した。
2万人目の入場者は、大分県宇佐市の宇佐商工会議所女性会会長、大神(おおが)すみ子さん(60)。長崎市内で開催された九州商工会議所女性会連合会の総会に参加するため来崎し、同展にも足を運んだ。
長崎大付属図書館の柴多一雄館長と長崎歴文博の大堀哲館長から記念品のクリアファイルなどを手渡された大神さんは「大河ドラマ『龍馬伝』を見て、時代背景や歴史の流れを知りたくなった」と喜んでいた。
同展は幕末長崎の風景と人物を撮影した約400点を展示。好評のため当初の会期を1カ月延長し、6月30日まで開催。会期延長に合わせ、熊本市の写真館が所蔵する幕末の写真家上野彦馬が製作したカメラ「スタジオ用キャビネ判暗箱」を新たに展示している。
文化芸能
JIN-仁-:来春完結編 続編要望に応え
TBSで昨年秋に放送された「JIN-仁-」。幕末にタイムスリップした現代の脳外科医・南方仁(大沢たかお)が、満足な医療器具もない幕末で人々の命を救おうと奮闘するドラマで、大きな反響を呼んだ。TBSによると、番組関連での受賞は、23冠にも及ぶという。
視聴者からも続編を望む声が多く寄せられたため、来年4月の日曜劇場枠での放送が決定した。
TBSによると、仁を支える橘咲(綾瀬はるか)や、坂本龍馬(内野聖陽)ら前回の登場人物も集結。仁が現代に戻ることができるのか、坂本龍馬は暗殺されてしまうのか--など、前回のその後が描かれる完結編となるという。
ふるさとで照れる福山龍馬がまぶしいっ!
「龍馬伝」長崎ロケ取材会
みなさん、はじめまして。ドラマ部緊急特派員オクです。ミーハーな三十路独身女子です。以後、よろしくお願い致します!!
羽田から飛行機に乗り、2時間。バスに乗り継いで50分。ついに龍馬が商社・亀山社中を興した、長崎市内にやってきました。長崎駅のコンコースには、長崎が舞台となる「龍馬伝」第3部開始までのカウントダウンカレンダーがありました。
さっそく福山龍馬に会いに行くぞ!・・・・・・と言いたいところですが、実は、オクが長崎にやってきたのは、取材会の前日。福山さんはもちろん、実際の坂本龍馬の愛した長崎の街がどんなところなのかを知りたい!知って、もっと龍馬を楽しみたい!
まずは長崎市内取材スタートです。
まずは、路面電車に乗って、亀山社中跡を目指します。
地図を見て、ちょっとした小高い公園の一角にあると思っていたのが、大間違い。急な石段をず~っと登った、山の中腹にあるのです。長崎は坂の街だということをはじめて知りました。龍馬はなぜこんな場所に亀山社中をかまえたのでしょう?当時の人は健脚だっただろうから、全然苦にならなかったのかな。どこまで続くかわからない石段を、手作りの「亀山社中はこちら」の看板を頼りに、登っていきます。だんだん息があがってきました。すると途中で道が二股に~。ピンチ!さて、どちらへ行ったら良いのか!地図を回して見ながら困っていると、散歩途中の素敵なおじいさんが声をかけてくれました。そして、亀山社中まで一緒に行ってくれたのです。オク感激です!さすが福山さんの育った街。長崎の人って優しい!
亀山社中跡には、長崎市亀山社中記念館が、そしてすぐ近くに亀山社中資料展示場があります。どちらも見応えがありますが、オクが注目したのは、亀山社中資料展示場。「亀山社中ば活かす会」の皆さんがボランティアで運営しています。
石段を登る時に目印になった看板を手作りで作ったのも皆さんだったのです。実は、よく見ると、書かれている人物がそれぞれ異なった亀山社中のメンバーになっています。芸が細かい!
他にも展示資料の解説や、亀山社中周辺の掃除など、様々な活動をしています。「龍馬伝」が始まって、土日や連休は観光客がたくさん訪れ、すごい忙しさだそうです。
そろいの白いはっぴ姿がかっこいいみなさん。写真をお願いしましたが、遠慮されてしまいました。長崎の方はとっても親切ですが、シャイなんですね。活かす会のみなさんのかっこいいはっぴ姿と名解説は、ぜひ実際に訪れてお確かめ下さい。
亀山社中の後は、さらに登って風頭公園にある龍馬像を見に行きました。龍馬像の目線からは、長崎港が見えます。145年前、龍馬はここから世界へと通じる長崎の海を見つめていたのかなぁ。
龍馬の息吹を感じて、気分がシャンとしたところで、山を降りました。
続いては、長崎の街がどのくらい龍馬で盛り上がっているか調査するため、中心部のアーケード街へ。龍馬の写真入りでメニュー紹介をしている店があちこちにあったり、龍馬コースのマッサージがあったり、携帯の勧誘も龍馬がしていたりと、街のそこかしこに龍馬の姿がありました。
さて、お待たせしました。いよいよ福山龍馬に会いにいきます!
ここから27日に行われた取材会の様子をお届けします。
今回の長崎ロケ、崇福寺や大浦天主堂、グラバー邸などで3日間行われました。取材会の日はロケ初日。第3部の冒頭シーンの撮影準備が進んでいました。龍馬たち海軍操練所の同士一行が、薩摩藩士に連れられて長崎入りをする場面です。
撮影現場となった崇福寺(そうふくじ)に、中国のお盆のお祭りの様子を再現。赤い提灯に、飾り込まれた祭壇、龍踊や、中国獅子舞も登場しました。華やかな境内に、スタッフ、キャスト、エキストラの皆さん、取材陣、合わせて、およそ200名の人がひしめきあっています。さらに、崇福寺に着いたとき、門の外には、たくさんの女性ファンもいました。この日、崇福寺にいったい何人の人が集まっていたのでしょう。
境内に入ると、撮影本番真っ最中。あわてて物陰に隠れると、石段をざんばら髪で着流し姿のかっこいい人が降りてきました。
「た、高杉晋作!!」
思わず声をあげそうになりました。高杉晋作の衣裳がばっちり決まった伊勢谷友介さんです。本物がよみがえったのかと思いました。
ミーハーなオクは、ここで一気にテンションアップ!!
伊勢谷さんが、こんなにかっこいいということは、生で福山龍馬を見たら、倒れるかも!
高杉晋作が登場する場面の撮影が終わり、取材会の準備が始まりました。待つこと30分。
いよいよ会見の始まりです。仕事を忘れそうになるくらい、ドキドキしてきました!
境内にいたスタッフや取材陣の大きな拍手に迎えられ、崇福寺の国宝の本堂の前に、4人の出演者が並びました。我らが龍馬役の福山雅治さん。長州藩の革命児・高杉晋作役の伊勢谷友介さん。長崎の芸妓・お元(おもと)役の蒼井優さん。幕末の志士を支援した貿易商で長崎の女傑・大浦慶(おおうらけい)役の余貴美子さんです。
はぁぁぁぁ。美しいっ! 4人のオーラで一気に場が明るくなったように感じました。クラクラするのは、晴天の日射しのせいではなく、この4人のオーラのせいに違いありません。
第3部では、リーダーとして亀山社中を率いていく龍馬。これまでと違って、髪型もきゅっとまとめて、更に凛々しく、風格が漂っています。
さぁ、福山さんの第一声は?なんて言うのでしょうか?ドキドキ。
「天気がよくて良かった。長崎の5月はすごくいい季節なので、この時期に帰ってこられてよかった」と、とっても誇らしげです。
そうですよねぇ。本当に良い天気で、撮影日和です。きっと福山さんの姿が画面に映えるでしょう。
さぁ、これは聞かねば!福山さん、長崎に帰ってきて龍馬役を演じる感想は?
福山さん「大河ドラマ出演の話を受けるとき、自分ができることで、地元の長崎が活気付くのはすごいことだと思う。その場に呼んでもらって、参加できるのが嬉しい。普通の仕事ではないこと。ただ、今日、ここで演じてみて、非常に照れくさかった。長崎市内で生まれ育って、何度も来たことのある崇福寺などで、おいおい自分、芝居しよるわい、と照れくさくて仕方ない。歌はアマチュアの時にもライブをやっていたので平気だったのですが、演技をするなんてことはなかったので余計にですね。20年前は、ギターかついで歩いていたところを、こうして袴はいて、刀をさして、土佐弁でいることが不思議でしょうがない」
ぐふふ。オク、見てしまいました!照れくさそうに顔をクシャっとさせて笑う姿。これは特派員の特権でしょうか?照れた表情もまぶしすぎますっ!!
ふぅ。気を落ち着けて、会見の続きです。
新キャストのみなさん、「龍馬伝」の現場に入っての感想は?
余さん「大浦慶さんは、幕末に外国へ日本茶の輸出をしていたすごい女性。地元の方が熱い思いを持っている役です。手紙もいただきました。慶さんを汚さないように、誠実に、命がけで演じたいと思っています。着させていただいている衣裳も普通の着物と少し違っていて、自立した女性である大浦慶らしいものになっていて、着ると大浦慶になれるようです」
伊勢谷さん「現代は、幕末の志士の時代とリンクしている気がします。ここまで皆さんが紡いできたものを現代にきちんと伝えていきたいです。機知に飛んだ英雄らしくみえるようにがんばります。ただ、この前髪短すぎて、少し恥ずかしいです。でも、役になりきるため、喜んで切りました(笑)」
蒼井さん「父方が長崎の五島列島出身で、長崎には何回か来たことがあるので落ち着く気がします。そんな中で芝居できるのが嬉しいです。芸妓の役なので、長崎検番という踊りを習っているのですが、すそさばきが大変。歌詞にちなんだ振りがついていて、つい表現してしまいそうになるのですが、表に出さず、内に秘める奥ゆかしさを出すのが難しいです。衣装は重くて大変ですが、毎回、違うかんざしが用意されているので、楽しみの一つにしています」
ぎゅっと凝縮して、出演者のみなさんのコメントをお伝えしましたが、会見は35分間行われました。蒼井さんが「龍馬伝」のファンで、毎週欠かさず見ていて、普段でも「ごめんちや」や「ぜよ」を使ってしまうなんていう可愛らしいエピソードも出てきました。
35分の逢瀬でしたが、いろいろな福山さんを見ることができました。
自分以外のメンバーで飲みに行っていたことを知り、すねる福山さん。最初は慣れなかった袴だけど、今はサクサク走れると嬉しそうに自慢する福山さん。長崎デートはお寺ではなく海派だったという色男ぶりを発揮する福山さん。などなど。
オク、福山龍馬を堪能いたしました。ごちそうさまです。
福山さんから長崎のみなさんへのメッセージもあります!
福山さん「大河をきっかけにみなさんの方からも、どんどん長崎を盛り上げていきましょう!」
会見の後、地元長崎のエキストラおよそ100名の方にご協力いただいての、大規模な撮影が行われました。中国のお盆の祭りが繰り広げられ、西洋人や中国人など多様な人々が楽しむ中、龍馬一行がものめずらしそうに歩いていく場面です。スタッフがエキストラに演技を指示し、全員の呼吸が合わなければなりません。入念なリハーサルのあと、緊張の本番。しかし、長崎のエキストラのみなさんの素晴らしい集中力で、一発OKでした。
長崎のパワーが画面からあふれ出ること間違いなしの、長崎編は、7月18日放送の第29回「新天地、長崎」から!どうぞご覧下さい!!
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幕末、特に新選組や旧幕府関係者の歴史を追っかけています。連絡先はmariachi*dream.com(*印を@に置き換えてください)にて。
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