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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 朝から降っていた雨が上がったようです。午後は蒸し暑くなるかな……(汗)。

北海道
箱館奉行所姿現す 仮囲い撤去始まる
 国の特別史跡「五稜郭跡」で行われている「箱館奉行所庁舎復元工事」で6日、復元した建物全体を覆っている仮囲いの撤去作業が始まった。作業員が足場に上って全体を囲っている波板を外すと、骨組みの向こうに輝く銅板ぶきの太鼓やぐらや、色合いにこだわった瓦屋根などが姿を現した。
 仮囲いは周囲190メートル、高さ20メートルの大きさで、外部からは工事の様子が見えないため、公園内を訪れた観光客らが興味津々に眺める姿が見られた。作業では、工具を使って材料を止めているビスを外し、波板を一枚ずつ下に下ろしていく。作業員は声を掛け合いながら慎重に進め、この日は東側の1面がほぼ取り去られた。
 側面と屋根を囲う板材は7月に外し、8月からは柱など骨組みを撤去。9月上旬には全体が見えるようになる予定。工事を進める共同企業体の竹本正和さんは「外側から全体を見るのは自分も楽しみ。タワーなどからも良く見えるでしょう」と話す。
 同奉行所は五稜郭跡の中心にあった建物で、庁舎全体の3分の1に当たる約1000平方メートル(平屋)を復元中。2006年7月に着工し、10年6月の完成、同秋の公開を目指す。

箱館奉行所、公開が楽しみです。

東京
【福澤諭吉展特集】多面的な活動通じ学問を奨励
 幕末・明治前期の啓蒙(けいもう)家だった諭吉は、教育・思想に加え、身体、家族、社交、実業などの面でも、日本の近代化に大きな足跡を残した。展覧会は、第1部「あゆみだす身体」▽第2部「かたりあう人間(じんかん)」▽第3部「ふかめゆく智徳」▽第4部「きりひらく実業」▽第5部「わかちあう公」▽第6部「ひろげゆく世界」▽第7部「たしかめる共感-福沢門下生による美術コレクション」の7部で構成され、多面的な業績を紹介している。
 独立自尊を教育の柱とする慶応義塾を安政5(1858)年に創立したほか、独立した個人が集い、知識を交換し世務を諮詢(相談)する日本初の社交クラブ「交詢社(こうじゆんしや)」を明治13(1880)年に開設、さらに15年には独立不羈(ふき)-不偏不党の日刊紙「時事新報」を発刊した諭吉の生涯を多角的に分析している。 身体をテーマにした第1部では、日本のブロンズ彫刻の先駆者、大熊氏広作の「福沢諭吉座像」などが迎えてくれる。
 第2部では、子息の一太郎と捨次郎の米国留学帰朝祝賀園遊会の写真が印象的だ。
 第3部に掲出されている「福沢諭吉ウェーランド経済書講述図」(安田(やすだ)靫彦(ゆきひこ)作)は、慶応4(1868)年5月15日、福沢が慶応義塾生に講義をしている後ろで、別の塾生が、上野寛永寺での彰義隊と新政府軍の衝突を遠望している様子を描いた日本画だ。
 第4部では、官尊民卑を脱して経済人を尊ぶ必要性を論じ、「独立自尊」の気品を求めた「尚商立国論(しようしようりつこくろん)」の自筆原稿を掲示。「もう一つの福沢山脈」として、地方や海外で活躍した門下生の様子も紹介されている。
 「時事新報」の編集にあたっては、女性を含めた多くの人たちに新聞を読ませる工夫を施した。第5部に並べられている紙面では、日本の新聞で初めて掲載した漫画や、「何にしようネ」と題された料理のレシピなどが面白い。今日のマスメディアにも参考になるアイデアが多数見られる。
 晩年に著した「福翁自伝(ふくおうじでん)」の自筆原稿を第6部に展示。末尾には、「生涯の中に出来(でか)して見(み)たいと思う所」として(1)文明国に恥ずかしくない気品を備えた人物の育成(2)宗教の別にかかわらず人々の心を穏やかにすること(3)学問を大いに奨励してあらゆる物事の真理を解き明かすこと-を挙げている。今日においても新しく、重い課題だ。
 諭吉は「国の光は美術に発す」と、芸術の役割をよく認識しており、第7部では、国宝を含む門下生や慶応義塾のコレクションを多数展示している。
 明治34(1901)年に諭吉が没してから1世紀以上を経て、ますます混迷を増す現代社会が進むべき道を考える企画だ。


長崎
長崎駅に「龍馬弁当」登場 鯨の竜田揚げ、カステラ、卓袱 好物の料理詰める
 長崎ゆかりの幕末の志士坂本竜馬が好きだった料理を詰めた「龍馬弁当」が長崎市のJR長崎駅のキヨスクで販売され、人気を集めている。
 「いずや弁当」(山口政行社長、長崎市)が先月発売。文献で調べ、土佐(高知県)時代に好んで食べた鯨の竜田揚げや長崎時代に好物だったカステラのほか、卓袱(しっぽく)料理として豚の角煮やカボチャの煮物、アスパラのベーコン巻きなどを盛り込んだ。
 NHK大河ドラマ「龍馬伝」が来年放送されることが決まり注目を集める竜馬。いずや弁当では「土佐と長崎のつながりを弁当で表したかった。さらに料理の内容を改良したり、竜馬と料理の関係を説明するお品書きをつけたりして、竜馬ファンを楽しませたい」としている。1個1000円。


鹿児島
島津斉彬ゆかりの品展示 薩摩の近代化推進 篤姫の養父 鹿児島の尚古集成館
島津斉彬ゆかりの品展示 薩摩の近代化推進 篤姫の養父 鹿児島の尚古集成館
 幕末に薩摩の近代化を進めた藩主で、ドラマで人気となった篤姫の養父としても知られる島津斉彬(1809-58)の、ゆかりの品約50点を集めた「島津斉彬‐大海原に夢を抱いた殿様」が4日、鹿児島市吉野町の尚古集成館(しょうこしゅうせいかん)で始まった。生誕200年を記念した特別展。9月17日まで。

■西洋技術導入の足跡紹介
 斉彬は蘭学者などに国際情勢を学び、欧米に対抗して近代化を急ぐ必要性を痛感。1851年に藩主に就くと、現在同館のある場所に製鉄などの工場を建設、日本の工業化のさきがけとなった。
 特別展は、同館を含む「九州・山口の近代化産業遺産群」が昨年12月に世界遺産の暫定リスト入りしたため、正式登録に向けた機運を盛り上げる意味も込めて同館が企画した。愛用の世界地図や地球儀、電信の実験に使った電線などを展示。西洋技術の導入を進めた足跡を学ぶことができる。
 松尾千歳副館長は「明治維新の原動力になった功績を多くの人に知ってほしい」と話している。



コラム
【ここいこ】川風吹かれ「江戸川左岸自転車道」
川風吹かれ「江戸川左岸自転車道」 自転車ファンあこがれの道
 「江戸川左岸自転車道」で知られる「県道401号・松戸野田関宿自転車道線」は、昭和55年に建設が始まり、平成18年に整備を終えたサイクリング県道だ。千葉県松戸市と野田市関宿を結ぶ江戸川堤防上の41キロは、自転車ファンあこがれの道という。松戸市小山の葛飾橋わき起点から、さあ出発。
 数分走ると最初のトイレがあり、その先の要所にトイレや休憩所がある。松戸排水機場を過ぎると間もなく流山市だ。流山橋を過ぎたあたりで一般道に降りる。幕末の歴史を刻む「近藤勇陣屋跡」は近い。






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 ふと通りかかった花屋さんで、笹を売っていました。予報によれば、明日七夕の日は、関東では晴れ間も出て暑くなるそうです。

山梨
富士山何でもガイド
■「金鳥居茶屋」富士吉田市開所

 富士吉田市のシンボル、金鳥居の近くに「世界遺産インフォメーションセンター」(上吉田1丁目)が開所した。市が空き店舗を改築した。富士山や市の歴史を習得した専門ガイドが常駐するほか、うどんなど地場産品を販売。富士山ファンを増やす願いを込めている。(上田真仁)
(中略)
 目をひくのが幕末から明治中期の市内の写真だ。腰に刀を差した武士らしき男性、金鳥居周辺の往時をしのぶ写真が飾られている。このほか、世界遺産を掲載した本、市内紹介のパンフレットも用意され、ミニ資料館的な役割も担っている。


京都
模型が誘う戦前の町並み
向日 市民工房作品を展示

模型が誘う戦前の町並み 向日 市民工房作品を展示
 京都府向日市寺戸町の市文化資料館で4日から、ラウンジ展示「模型制作工房展」が始まった。1935年ごろの向日神社周辺の町並みなど、市民グループの模型制作工房が資料館と共同で再現した町並みの大型模型を紹介している。
 同工房は公募型のグループで、地域の歴史に理解を深め将来のまちづくりに役立ててもらうため、模型制作を進めている。これまでに8基の模型を制作。今回は同資料館で保存する5基を初めて一括展示した。
 工房が最初に手掛けたのは、向日神社周辺の西国街道沿いの町並み模型で、2001年に完成。幅2・63メートル、奥行き2・34メートルで、聞き取り調査を基に250分の1に復元している。
 幕末の向日町や、旧国鉄向日町駅と駅前、市域と周辺の地形、寺戸・宝菩提院の模型も展示されている。訪れた市民らが興味深げに見入っていた。8月9日まで。無料。
 同工房では、新たに長岡京東院跡の模型制作を同展会期中にも始める予定で、メンバーを募集している。




岡山
<通りを歩けば> 寺町通り(津山市・城西地区)
 梅雨の晴れ間。“寺町通り”に登校の子どもたちの元気な声が響く。通りの両脇には約200メートルにわたって白塗りの塀が延びる。西から大圓寺、鐘楼門・仁王堂が県指定文化財の愛染寺、赤門で知られる壽光寺、南には県指定文化財の本堂が目を引く妙法寺…。西寺町の名にふさわしく、さまざまな宗派の寺が整然と並ぶ。通りすがりの男性が「小京都の風情が色濃く漂う寺町のシンボル的な一角」と説明してくれた。
(中略)
 伝統のもち菓子継承
武田待喜堂4代目 武田 進さん(68)

 津山名物の一つ、もち菓子「初雪」を明治初期の創業から受け継ぐ。焼きたてを口に入れると、初雪を踏む感覚に似ているのが名前の由来。後醍醐天皇への献上品として700年の歴史があり、幕末の津山藩主だった松平斉民も墓参りで訪れた際、1万3000枚を土産に買って帰ったと言う。

 さすが殿さま、土産に1万3千枚とは豪勢な……(笑)。

島根
(31)うなぎ街道(上) 『鰻屋』と呼ばれていた松本家
御用商人中海産を関西に

 江戸中期の1756(宝暦6)年、中海では、鰻(うなぎ)の豊漁にわいた。漁師たちはあまりの大漁に売りさばくことができず、弱ったうなぎだけを売り、生きのいいのは海に放したという。
 大量に捕れるうなぎに目を付けた安来市安来町新町の8代目松本佐重さん(83)の祖先、初代佐重は松江藩の許可を得て当時、高値で売買されていた大阪での販売に乗り出した。さらに、強大な権力を持っていた京都の聖護院(しょうごいん)から、御用商人として往来が不便で危険だった街道で安全、迅速に運べるよう助力を得ることに成功した。
 うなぎは安来港から陸路で母里、法勝寺、根雨、四十曲峠を越えて岡山県の美甘、勝山へ向かった。輸送団は20-30人。ルートは水分補給のため川沿いに設け、要所要所にうなぎ池が造られた。勝山からは高瀬舟で旭川を下り、岡山でいけす付きの専用船に積み替え、播州灘を通って大阪や京都へ運ばれた。約7日間の行程だった。
 輸送集団は聖護院宮家から授かった小旗と提灯(ちょうちん)を持って移動したことから沿道の住民から「聖護院献上鰻」と呼ばれていた。
 運ばれた道はうなぎ道、うなぎ街道とも呼ばれ、現在でも各所でその面影を見ることができる。松本家に残る多数の資料から当時の様子を紹介する。
 ※ ※ ※

 初代佐重は、松平松江藩初代藩主・直政とともに信州松本から松江に移ったとされる。同家に残る過去帳は、商才にたけた初代が安来宿に移り住み、松江、本庄、大根島、美保関など宍道湖、中海周辺で捕れる魚を手広く商った魚屋と記す。屋号は『松江屋』。通称『鰻屋』と呼ばれていたという。
 菊花の紋章と聖護院宮の文字が入った紺染めの小旗と箱ぢょうちんは、番所や道中で特権が使える特別許可証。初代佐重が聖護院宮に多額の礼金を奉納し入手した。
 その効果として、過去帳には根雨の川渡しで、既に出てしまった舟をちょうちんを振りかざして呼び戻し、乗客を降ろして渡し船を利用した記述がある。小旗とちょうちんが絶大な力を発揮したことをうかがわせる。

     ※ ※ ※

 現在、松本家の家業はスポーツ用品販売。店の前は埋め立てられ、整備された湾岸道路と安来港を望むが、かつて、付近一帯を含む中海は日本有数のうなぎの産地だった。最盛期は幕末から明治初期。松本家4代目佐重のころとされ、年間1万5千貫(約56トン)のうなぎが大阪へ出荷された。
 そんな安来の港を知ることができる貴重な一文がある。
 「港に沿う漁師町の海岸には鰻の番小屋があった。(中略)大阪へ送った出雲鰻はもっぱらこの番小屋のいけすから供給されたものであった」。安来市出身の陶芸家・河井寛次郎がエッセー集「火の誓い」で描写している。町のわんぱく者だった河井が少年時代、明治30年前後の様子を回想した。
 また、出雲産うなぎが大阪の食文化にあたえた影響として、郷土史家の門脇等玄さん(86)=同市在住=は著書「旅路はるか」の中で「『出雲屋』即うなぎ料理、大阪に300軒の『出雲屋』が乱立した」と記す。今でも数多いうなぎ料理店に「いずもや」「出雲屋」の名が残るのは、往時の出雲産うなぎの隆盛をほうふつさせる。
(写真・文 本社報道部・伊藤英俊)

メモ

 聖護院 京都にある修験道総本山の寺院。江戸幕府公認の修験道教団として強大な権力を保持していた。初代松本佐重が手に入れた聖護院宮の小旗とちょうちんは、一介の商人が入手することは不可能であったとされる。徳川親藩だった松江藩の政治力と、松本家に残る資料から聖護院との強いかかわりを感じさせる。

 安来といえば、安来節、どじょうすくい、ですが……うなぎの方が名産だったんですねぇ^_^;。

長崎
地図に触れば音声案内 タッチペンさるく始まる 長崎市が導入
地図に触れば音声案内 タッチペンさるく始まる 長崎市が導入
 ペン型の音声ガイドツールと特殊な地図を使って街歩きをする「タッチペンさるく」が5日、長崎市内で始まった。市が自治体としては全国で初めて導入したシステム。さるくガイドが付き添わなくても名所の説明を聞くことができ、外国人観光客向けに提供することも検討する。
 特殊印刷された地図上のポイントにペン先を当てると、その地点の解説音声が自動的にペンから流れる。現在は来年放送予定のNHK大河ドラマ「龍馬伝」に合わせて幕末の志士・坂本竜馬が設立した亀山社中跡や風頭公園展望台などを回る「龍馬が見上げた長崎の空」コース(約2キロ)のみを対象としているが、来年以降コースを増やす予定。音声ガイドは市職員時代にさるくガイドを務めていた田上富久市長や、長崎検番の芸妓(げいこ)衆らが務めている。
 タッチペンとイヤホンのセットで賃貸料500円(別途預かり金1000円が必要)。計100セットをJR長崎駅の総合観光案内所などに用意。利用者は1回4時間を目安に指定場所に返却する。市総合観光案内所=095(823)3631。


龍馬像お引っ越し 長崎一望の高台へ
■ゆかりの神社敷地内

 幕末の志士、坂本龍馬の銅像が長崎市街を見下ろす高台に移設され、5日、除幕式が開かれた。
 移設先は長崎市伊良林2丁目の若宮稲荷神社の敷地内。除幕式には約90人の関係者や龍馬ファンが訪れた。式を主催した「亀山社中ば活かす会」会長の針屋武士さん(77)は「若宮稲荷神社は勤王神社とも言われ、龍馬たち志士が通ったとされる。来年にはNHKの大河ドラマ『龍馬伝』も始まり、観光の話題作りになる」。
 龍馬像は高さ約1メートル。長崎市馬町の彫刻家、山崎和国さん(74)が約20年前、約7カ月をかけて作成。これまでは、神社近くの亀山社中跡に置かれていた。除幕式に立ち会った山崎さんは「志を抱き、日本の夜明けを見つめる龍馬をイメージした。龍馬ゆかりの地に像を設置できて喜ばしい」と話していた。







  
 出版されているのは知っていたのですが、実物を店頭で見かけたのは初めて。



 本を買う時に「まえがき」「あとがき」を見て参考にするものですから、この本の「あとがき」(「まえがき」はありません)を読んでしまいました。

 この稿は、最初江川英龍のことを書くつもりであった。


 ……いてもたってもいられず、買ってしまいました(汗)。

 江川英龍の右腕として活躍した斎藤弥九郎についてはもっと知りたいと思ってました。500ページを超える分厚さ、読み甲斐がありそうです。




 曇っていますが、じっとりと汗が出る湿度の午前中です。

北海道
夏の夜に歴史絵巻き…野外劇開幕
 市民創作・函館野外劇の第22回公演「星の城、明日に輝け」(NPO法人市民創作「函館野外劇」の会主催)が3日夜、国の特別史跡・五稜郭跡(五稜郭公園)で開幕した。コロポックルのナレーションに合わせ函館の歴史絵巻が演じられ、観客約800人を魅了した。
 開演に先立ち、函館観光大使の歌手、平田まりさんが、新井満さんが作詞・作曲した野外劇のテーマソング「星のまちHAKODATE」などを歌い上げ、西尾正範函館市長が「全国から注目されている野外劇が大成功に終わるように祈ります」とあいさつした。
 劇は、高田屋嘉兵衛やペリー提督の来函、五稜郭築城など、幕末から明治維新後の歴史ドラマ。箱館戦争の場面では銃や大砲の爆薬音が響き、観客は圧倒された。今年は函館開港150年を記念し、開港シーンでのフラッグダンスの人数を増やし、舞台の隅々まで色とりどりの旗がひしめき、大いに盛り上がった。エンディングでは出演者と観客がペンライトを振りテーマ曲を歌い、会場が一つになって感動を分かち合った。
 毎年訪れるという同市湯川町の主婦、相川絹江さん(68)は「いつ来ても、興奮と感動の繰り返し。特に今年は華やかに見えた。舞台を支える裏方さんの苦労をねぎらいたい」と話していた。
 今年の公演は11回。4、10、11、17、18、24、25日、8月7―9日。開演は午後7時45分。問い合わせは同事務局℡0138・56・8601。


石川
全国の名産、屏風にずらり 金沢、銭五記念館で初公開
 幕末に銭屋五兵衛ら北前船主が運んだ日本各地の名産品を描いた「紙本金地着色諸国名産図屏風(びょうぶ)」が4日、金沢市金石本町の県銭屋五兵衛記念館で始まった「収蔵特別展」(本社後援)で初めて公開された。同館は「当時の職人の暮らしぶりを感じ取ってもらいたい」としている。
 屏風は江戸末期の作とみられ、作者は不詳。8曲1双になっており、加賀藩の特産品「加賀菊酒」と「加賀笠」をはじめ、全国各地の名産19品の製造工程が色鮮やかに描かれ、表面には金箔(ぱく)が施されている。
 このほか、五兵衛が共同出資事業をした輪島の商人久保喜兵衛に宛(あ)てた書簡など約40点が初公開された。10月31日まで。





 梅雨の合間の晴れ間ということで(晴天ではありませんでしたが)、洗濯に拭き掃除、こまめに身体を動かして汗をかきました。おかげで洗濯ものが増えてしまいました(苦笑)が、埃を払えて気持ちよかったです。

北海道
著書とペリーの資料 中央図書館に寄贈…函館日米協会
 函館日米協会(野田義成会長)はこのほど、同協会の井上能孝顧問が米国のペリー提督にかかわる資料を編集し、制作した本「いま甦(よみがえ)る!ペリー提督公文書第50号~函館英学の原点~」や資料の基となったマイクロフィルムを函館市中央図書館に寄贈した。
 函館開港150周年を記念し、同図書館への寄贈を決めた。本では、箱館を訪れたペリー提督が箱館から本国のドッピン海軍あてに出した公文書第50号に関する資料を中心に解説。文書はペリーの直筆で記されている。井上さんはワシントン国立公文書館からマイクロフィルムを入手して編集作業に当たった。
 同図書館での寄贈式には野田会長と井上顧問が来館し、長谷部一弘館長に本とフィルムを手渡した。長谷部館長は「郷土資料として大切に保管し、一般市民にも閲覧できるようにしたい」と礼を述べた。同図書館では7月上旬までに図書登録し、閲覧可能にする予定。

 「本国のドッピン海軍あてに出した公文書」……「ドッピン海軍」て何(汗)? 検索してみたら、ジェイムズ・コクラン・ドビン(1世)、当時の海軍長官のことでした。

函館:「市民創作野外劇」が開幕
 函館市民が有史以来の函館の歴史を演じる夏の風物詩「市民創作函館野外劇」が3日、五稜郭公園(函館市五稜郭町)で開幕した。今年は函館開港150周年を記念し、開港のきっかけとなった1854(嘉永7)年のペリー来航に公演のクライマックスを設定。日本船を見下ろす高さ約20メートルのアメリカ船マストが五稜郭に掲げられる圧巻のシーンに、約1000人の市民らが見入った。
 舞台は国の特定史跡である五稜郭に特設セットを設置。室町以前~現在までの「函館史」を五稜郭・戊辰戦争など九つのテーマに分けて公演された。NPO法人の『市民創作「野外劇」の会』の主催し、今回で22回目を迎える。ボランティアの市民約2000人が出演者や裏方スタッフとして参加する国内最大規模の野外劇となっている。事務局の坂上正治さん(50)は「野外劇ならではのダイナミックな表現を見に来てほしい」と話している。訪れた市内の主婦、斉藤由美子さん(41)は「五稜郭の外堀も使った演出に感動しました」と興奮した様子だった。
 公演は7月3日から25日までの毎週金、土曜日と8月7日▽8日▽9日の計10公演で各回午後7時45分開演。料金は大人2500円▽高校、大学生1000円▽小、中学生500円で、大人ペア券(4000円)など特別割引チケットも用意。問い合わせは事務局(0138・56・8601)。【佐藤心哉】

 今年も野外劇のシーズンが始まったんですね。


宮城
戊辰の殉難忘れず 秋田で仙台藩士慰霊祭 子孫ら参列
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戊辰の殉難忘れず 秋田で仙台藩士慰霊祭 子孫ら参列
 上記リンク先はyahoo!ニュースサイトです。
 戊辰戦争(1868~69年)で、奥羽越列藩同盟を離脱しようとした秋田藩の説得に訪れ、勤皇派の秋田藩士に暗殺された仙台藩士12人の慰霊祭が3日、命日を前に秋田市寺内の西来院で営まれた。慰霊祭は今年で142回目。
 仙台藩志会の伊達洋司副会長(75)=仙台市青葉区=ら約40人が参列。秋田宮城県人会の会員とともに境内に安置された殉難者の位牌(いはい)に焼香し、近くの「仙台藩殉難碑」に手を合わせた。
 参列者はその後、殺害された藩士の首がさらされた秋田市大町の五丁目橋に移動し、川反観音像前で冥福を祈った。
 藩士の1人、志茂又左衛門のひ孫の榎戸通夫さん(69)=仙台市若林区=は「初めて慰霊祭に参加できた。藩士の無念な思いを供養できてよかった」と語った。


東京
「日英交流事始」展が開催中
 幕末から明治初期の日英関係をテーマにした、外務省所蔵史料を紹介する「日英交流事始(ことはじめ)」展が9月30日まで、東京都港区麻布台の外務省外交史料館・別館展示室で開かれている。
 150周年を迎えた日英外交関係の始まりを回顧。展示数は17点だが、「ロンドン覚書」(1862年)などの重要文化財が含まれている。1858年調印の「日英修好通商条約」の原本(重文)は今回、初めて展示される。
 また、遣欧使節団がロシアで撮影した福沢諭吉などの肖像写真(実物の一部と複製)も展示される。
 無料。土、日、祝日休み。同館(03・3585・4511)

 拙ブログでは「5月31日~6月1日の幕末ニュース」にて話題にしています。リンク&トラックバックしておきます。
 ……まだ行けてないですが(苦笑)。

富山
銭屋五兵衛、共同出資けんか別れ? 輪島の商人宛て書簡初公開
 幕末の豪商銭屋五兵衛が輪島の商人久保喜兵衛に宛(あ)てた商取引の書簡2通が4日から、金沢市の県銭屋五兵衛記念館で開催される「収蔵特別展」(北國新聞社後援)で初公開される。2人が共同出資で会津藩と交易し、後に金銭トラブルで事業中止に至った生々しいやり取りを示す五兵衛直筆の書簡で、荒川勝治館長は「事業が破たんした理由を探る上でも極めて重要な史料」としている。
 縦16センチ、横255センチの書簡2枚は横に並べて額装してある。元輪島市長の上野彦二さんが喜兵衛の子孫から譲り受け、自宅で保管していた。昨年8月に上野さんの長男一彦さん(79)=東京在住=が同館に寄贈した。
 1枚目は為替銀の支払いに関する文面。2枚目は何らかのトラブルとみられる「米の一件」のため、五兵衛が喜兵衛に使いを送り、「示談致度候(いたしたくそうろう)」と早急な面談を求めている。
 五兵衛と喜兵衛は1825(文政8)年から1834(天保5)年まで、共同出資で会津藩と塩、ろうそく、米の取り引きをしたとされる。五兵衛の日記などの史料から喜兵衛が約束の半額の500両しか出資しなかったため、五兵衛は立て替え分の返済を求めたとみられる。一方の喜兵衛は出資したのに交易の状況を知らせてもらえず、金の要求ばかりする五兵衛を横暴とみていたという。結局、2人は大損失を被り、共同事業を取りやめた。
 荒川館長によると、書簡は会津藩と交易していた間のやり取りとみられる。同記念館では今後、文面の詳細な検証を進める。展示は10月31日まで。

 「喜兵衛が約束の半額の500両しか出資しなかったため、五兵衛は立て替え分の返済を求めたとみられる」「一方の喜兵衛は出資したのに交易の状況を知らせてもらえず、金の要求ばかりする五兵衛を横暴とみていた」……今の時代の共同出資事業にも起こりうることなので、とてもリアル(汗)。

広島
平成いろは丸イメージ図完成
 福山市鞆町の鞆港―仙酔島間の市営渡船に来年1月に就航予定の旅客船「平成いろは丸(仮称)」のイメージ図ができた。幕末に同町沖で沈没した坂本竜馬ゆかりの蒸気船いろは丸の外観を模した。
 市によると、平成いろは丸は全長約22メートル。いろは丸の4割の大きさ。約100人を乗せ、鞆港―仙酔島間の約700メートルを片道約5分で1日23往復する。客席には観光情報が流れる音声装置や字幕付きモニターを用意する。船体の配色は調整中。
 総事業費は約8千万円。同町の本瓦造船(本瓦誠志社長)が近く着工し、12月下旬の完成予定。現在の船は予備船とする。


長崎
軍艦島や「龍馬伝」に期待 県観光説明会、過去最多28社参加
 県観光連盟は2日、九州や中国、四国地方の旅行業者を対象にした県観光情報説明会を長崎市内のホテルで開き、本県観光の魅力をPRした。
 観光客誘致につなげようと県内各地で年2回開催。今回は過去最多の28社35人が参加。同連盟は「上陸が解禁された端島(通称・軍艦島)や、来年の大河ドラマ『龍馬伝』など、目玉となる観光素材が注目を集めている」としている。
 説明会では、長崎や佐世保、平戸など県内各地の観光関係者が、お薦めの観光施設や食、イベントなどを紹介。ブースに分かれて個別相談にも応じ、熱心にアピールした。
 福岡市の旅行会社の担当者は「長崎は観光素材が豊富。特に『龍馬伝』は観光の起爆剤になると期待している」と話した。
 一行は説明会に先立ち、佐世保市に今月開館する西海国立公園九十九島水族館(愛称・海きらら)を視察。3日は、軍艦島や「長崎さるく幕末編」のコースを巡った。
 県観光統計によると、2008年の本県の観光客は前年を40万人下回る2824万人で、景気悪化などに伴い4年ぶりに減少。同連盟の土井正隆専務理事は「魅力ある長崎の観光情報を積極的に発信し、一人でも多くの観光客を長崎に呼びたい」と話した。




 今日先行放送で見た『陽炎の辻3』、先週から続いてのエピソードのところは別として、そこからは久しぶりにぐいぐい引き込まれました。
 ただ、『プチかげ』来週の最終回をちょい先回りされたような展開が……ちょっと口惜しい(苦笑)。

 さて、本題。



 途中で、涙してしまいました。同時代を生きた様々な身分・職業の人々を多々描き分けて、いろいろと考えたり感じたりさせてくれる作品ですねぇ……じーん。




 『プチかげ』ワンセグの先行放送、来週で最終回だそうです。
 正直、最近、本編が(´・ω・`)なので(霧子ちゃんと磐音さまの道場稽古シーンはよかったけど)、余計に『プチかげ』頼み……来週で終わりとは、ちょっと寂しいです。

東京
ネットワーク:つどい /東京
☆勝海舟フォーラム2009

 20日10時半~11時55分、墨田区吾妻橋1、墨田区役所2階、すみだリバーサイドホール電話5608・6430。幕末史の研究で知られる小美濃清明さんの講演、師弟関係に着目した「勝海舟と坂本龍馬」。勝海舟が詠んだ和歌の吟詠披露など。無料。
〔都内版〕


正岡子規:「幻の書」一般公開 漱石など門下生の選句集
正岡子規:「幻の書」一般公開 漱石など門下生の選句集
正岡子規:「幻の書」一般公開 漱石など門下生の選句集
 俳人正岡子規が自身や夏目漱石など門下生の句を書き写した選句集がみつかり、3、4の両日、東京古書会館(千代田区神田小川町)の「明治古典会七夕古書大入札会」で一般公開され、5日に入札会が行われる。入札最低価格は2000万円。【佐藤由紀】
 選句集は「なじみ集」と名づけられ、表紙には子規の蔵書であることを示す朱印がある。1892(明治25)年から95年ごろにかけて作成されたものとみられ、約670ページ。存在は知られていたが、現物は行方不明で「幻の書」だった。
 子規の研究者で神奈川大学名誉教授の復本一郎さんは「子規だけでなく、漱石や高浜虚子などの新しい側面がわかる貴重な資料。研究者にとっては宝の山です」と語った。
 復本さんによると、新句とみられるのは「馬士(まご)一人馬にひかるゝかれ野哉」と、<寒山拾得賛>と題した「しにゝ行くためにめしくふこじき哉」の2句。一部が違う2句を含めると未発表句は4句あった。
 漱石作では「病後糸柳ひねもすぶらり(ぶらり)哉」が新句。復本さんは「漱石が体調を崩し、ぶらぶらした生活を送っていたことなどがうかがえる」と語る。
 【経歴】正岡子規(1867~1902) 俳人、歌人。幕末に現在の松山市に生まれ、明治期に俳句・短歌の革新運動を進めた。「写生」を提唱し、蕪村を再発見するなど、近代俳句の先駆者として知られる。判明している俳句の自作は2万3000句以上。




神奈川
7月下旬から馬屋曲輪の修復に着手へ/小田原市教委
7月下旬から馬屋曲輪の修復に着手へ/小田原市教委
 小田原市教育委員会は7月下旬から、国指定史跡「小田原城跡馬屋(うまや)曲輪(くるわ)」の修景整備に着手する。今年3月の馬出(うまだし)門の完成に続き、2009、10年度で馬屋曲輪全体を修復する。総事業費は2年度分で約1億6千万円の見込み。
 馬屋曲輪は、馬出門に続くL字形の広場で、面積は約7千平方メートル。元禄時代まで馬を留め置く馬屋や待合所の大腰掛(おおこしかけ)があり、2階建ての二重櫓(やぐら)は幕末まで現存していたという。
 09年度は二重櫓の階段や石垣の復元工事と並行して発掘調査を実施。二重櫓の階段付近や土塁には樹木の根が入り込んでいるため、遺構に悪影響を及ぼすこうした樹木約10本を伐採する。石垣は60~100センチ程度の石が積み増される。来年3月中旬の完工予定。
 10年度は馬屋跡と大腰掛跡、井戸跡の平面表示と馬屋曲輪全体の地盤面を整備する。馬屋曲輪跡地内に現在建立されている北村透谷碑は移設する見通し。工期は10年7月から11年3月の予定。


新潟
発掘調査で陶磁器など出土
 長岡市が大手通り沿いに市役所などの複合施設「シティホール」を建設するのに伴い、2月から実施している発掘調査の中間状況が2日までにまとまり、新たに江戸時代や明治のものとみられる茶わんなどの陶磁器が出土したことが分かった。発掘地点はかつて長岡城二ノ丸周辺の侍屋敷だったとされる。4日から同市立科学博物館で一般公開する。
 このほか、発掘地点からは、井戸の跡や地中に埋められたくいも出土。戊辰戦争で河井継之助が導入した「ガトリング砲」の発見も期待されているが、まだ見つかっていない。
 同博物館は「中心市街地ということもあり、現在までに掘ったり埋めたりの工事が繰り返されてきたためか、完全な形で見つかったものはあまりない」と説明する。
 これまで同ホール用地のうち、セントラルパーク跡の部分を中心に発掘してきたが、調査地点を厚生会館跡地へ広げ、9月まで発掘を続ける。
 同博物館では今月4日~29日、今回の出土品の企画展「発掘された長岡城2009」を開く(6、21日は休み)。上越新幹線の長岡駅建設に伴う本丸跡周辺の発掘調査(1977年)の出土品や、村上城跡、高田城跡で見つかったものも合わせて紹介する。午前9時~午後5時。入館無料。問い合わせは同館、0258(32)0546。







 今日は一日降ったり止んだりでしたね……降りが一番ひどい時間帯にべた遅れのバスを待っていた自分は、べたべたな雨女です(苦笑)。

北海道
函館開港150周年式典 小林亜星さんがタクト
函館開港150周年、亜星さんが記念タクト
 北海道・函館が1日、開港150年を迎え、函館市湯川町の市民会館で記念式典が行われた。函館が国際貿易港として開港したのは、幕末の安政6(1859)年6月2日。新暦だと7月1日にあたるため、開港から積み重ねてきた150年の歴史をこの日、祝った。
 式典には、西尾正範函館市長や高橋はるみ北海道知事のほか、開港のきっかけとなった修好通商条約を結んだ米国やオランダ、ロシアの大使館関係者らが出席した。
 式典では、地元の中学生らが演じる演劇「リ・スタート 少年たちへ、そして、未来の函館へ」や、作曲家、小林亜星さんの指揮による記念ソング「あれから そして今」の合唱が披露された。
 かつて、北洋漁業などで栄えた函館は現在、駅前に“シャッター通り”が目立つ厳しい経済状況。式典で上演された演劇の中では、登場する4人の中学生が「函館は面白くない、刺激もない、活気もない、ああ、早く東京に行きたい…」と嘆く姿が描かれた。
 函館開港150周年記念事業実行委員会の総合プロデューサーを務める岩堀恭一さん(58)が作・演出した演劇で、地元の市立中学校の生徒や市民らが演じた。
 「開港150年は、市民みんなが今の函館を考えるいい機会。函館は全国的に知名度があるのに、何か元気がない。どうやって今の函館を元気にするのか、みんなで真剣に考えてみたかった」と岩堀さん。
 舞台では、函館の未来をあきらめかけた中学生が、苦労を重ねて現在の函館の街を築いた先人たちの熱き思いに触れ、未来を考え始めようとする姿が描かれている。
 函館がにぎわいをみせるのは、これからの夏の観光シーズン。函館市では、8月8日から16日まで「DREAM BOX 150」(ドリーム・ボックス・イチ・ゴー・マル)と銘打ち、函館港の「緑の島」で開港150周年の記念イベントを行う。航空自衛隊のブルーインパルスによる祝賀飛行など、多数のイベントが予定されている。


開港150周年式典、新たな函館の創造誓う
 函館開港150周年記念式典(函館市主催)が1日、関係者約1200人が出席して函館市民会館で開かれた。市民出演の舞台劇や小林亜星さん作曲の記念ソング「あれから そして今」を披露。先人が築いた歴史や文化を礎に、新たな函館を創造していく契機とすることを誓った。
 港とともに発展してきた国際観光都市らしく、中国の崔天凱駐日特命全権大使やロシア、アメリカ、オランダ、カナダの政府代表、高橋はるみ知事らが出席した。
 記念ソングは小林さんの指揮で、函館合唱連盟の約220人が歌い上げた。「赤い煉瓦(れんが)の倉庫群」「賛美歌聞こえる石畳」など、公募した言葉を歌詞に紡ぎ、軽快なテンポで函館の未来を開くことを歌い上げた。
 西尾正範市長は式辞で「開港により函館には多くの人々が夢と希望を持って集まり、異なる文化がとけ合う地となった。先祖が営々と築いた歴史と文化を大切に、函館の持つ良き気風を育て、開港200周年に向けてみんなで歩みを進めたい」と述べた。
 高橋知事も「先人が築いた歴史や財産を引き継ぎ、新たな魅力を創造し、まちが輝きを増して発展することを期待します」とあいさつした。
 オープニングで披露された舞台劇は、記念事業プロデューサーの岩堀恭一氏が手掛けた。刺激も活気もなく退屈な函館に「将来はない」と思っていた中学生4人が天啓を受け、函館に新たな魅力を加えるのは自分たちの役割であることに気付く。そして「夢と寛容な気持ちを持ち、未来に向けて進むことが大事」というメッセージを伝えた。
 「海の日」の周知や港湾振興などに尽くしたとして、市が日本海事広報協会の「海の日モデル地区」に認定され、西尾市長に豊島達理事長から認定書が贈られた。
 式典後は花びしホテルで祝賀会を開いた。
 開港記念事業は8月8日から16日まで緑の島で、メーンイベントの「ドリームボックス150」を開催。「食」「音楽」「スポーツ」をキーワードにさまざまなイベントを開催する。


栃木
山岡鉄舟との逸話を小冊子に 塩原・下藤屋旅館の渡辺夫妻
 【那須塩原】創業から140年以上の歴史を持つ湯本塩原の旅館「下藤屋」(渡辺芳雄社長)は、幕末、明治の政治家山岡鉄太郎(鉄舟、1836~88年)と同旅館のかかわりをつづった小冊子「下藤屋旅館・渡辺家と山岡鉄太郎」を発行した。
 山岡は幕臣として江戸城無血開城に尽力、明治政府でも明治天皇の侍従を務めるなどした。要職を辞した明治10年代に数回、下藤屋旅館を訪れたという。山岡自筆の漢詩も残っている。
 渡辺社長(81)の妻でおかみの静枝さん(75)は幼いころ、祖父や母親から山岡が訪れた話を何度も聞いたという。静枝さんは「自分が元気なうちに後世に伝えたかった」と話す。小冊子の原稿は、静枝さんの口述をもとに同旅館のなじみ客で県漢詩連盟会長の須永美知夫さん=足利市在住=がまとめた。
 山岡が同旅館の「つつじの間」を好んで常に指定したことや、木村屋のあんパンについて「パンにあんこを入れたらよかろうと教えたのはおれだ」と話したエピソードが掲載されている。
 渡辺社長と静枝さんは「昔のことはどんどん忘れられ、なくなってしまうので、冊子に残すことができてよかった」と話している。
 同旅館は塩原温泉でも古い歴史を持つ旅館の一つ。1983年に改築した際、「明治元年(1868年)建之」と墨書きされた梁が見つかっている。
 約100部を作製、関係者に配った。問い合わせは同旅館電話0287・31・1111。

 「木村屋のあんパンについて『パンにあんこを入れたらよかろうと教えたのはおれだ』と話した」という辺りが山岡さんらしい(笑)。
 山岡さんが好んだ「つつじの間」って、どんな部屋だろう(ろまんちな部屋なんでしょうね!)。

長崎
高知から長崎へ「龍馬伝ウォーク」 10、11月にゆかりの地PR
 幕末の志士、坂本龍馬が生まれた高知から長崎までを約半月かけて市民らが歩く「龍馬伝 土佐の風から長崎の風へ バトンタッチ友情ウォーク500キロ」が10、11月に開催される。
 長崎市で龍馬らの史跡を案内する特定非営利活動法人(NPO法人)「長崎の風」(黒田雄彦理事長)と高知市ウオーキング協会などでつくる実行委主催。
 主催者側が6月30日、長崎市内で記者会見し、黒田理事長は「龍馬が生きた時代を思い浮かべながら歩いてほしい」と多くの参加を呼び掛けた。
 来年の大河ドラマ「龍馬伝」を前に、龍馬ゆかりの観光地をPRするのが目的。総距離は約520キロで1日平均約25キロを歩く。
 参加者は10月14日、三菱財閥創設者、岩崎弥太郎の生家がある安芸市(高知県)を出発。龍馬が土佐藩を脱藩した際に通ったとされる佐川町(同)などを経て愛媛県入りし、同23日にフェリーで大分市の佐賀関港に渡る。
 九州では、龍馬や勝海舟が長崎に向かう際に利用したといわれる豊後街道で熊本市へ。フェリーで島原市に渡り、旧島原、長崎両街道を通って長崎奉行所立山役所跡(長崎歴史文化博物館、長崎市)を目指す。到着は11月3日の予定。
 参加費は宿泊食事代を含めて▽全道のり=約20万円▽四国のみ=約9万円▽九州のみ=約10万円▽日帰り=四国1000円、九州1200円。申し込み、問い合わせは同ウオーク九州事務局(電0952・73・4453)。




コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(17)東大教授・山内昌之 岩崎弥太郎
■愛国者か、国賊か

 いくら才覚があっても運や引きに恵まれなければ、政治家や経営者は努力だけで成功できるものでない。また、国家や国民の大事を考える大局観を持たない人物は名を後世に残すことはできない。この点で土佐人の岩崎弥太郎は希有(けう)な存在である。私企業の三菱を創立、発展させながら国の繁栄や未来にも思いを馳(は)せた経営者だったからである。

◆「国あっての三菱」

 しかし、政治や経営の理想も抱負と野心がなければ実現できない。そして、野心と抱負は表裏一体なのである。弥太郎は「国あっての三菱」という表現を好んで使ったが、これも立場が違えば農商務卿を務めた西郷従道(つぐみち)に「三菱の暴富は国賊なり」と言わしめたように、私益と国益を一体化する政商として非難される根拠にもなりかねなかった。
 とはいえ、弥太郎の短い生涯は、人との幸運な出会いによって精彩あふれるものである。関ケ原戦後、山内一豊が入部して長宗我部の家臣団を支配した土佐は、身分にうるさい土地柄であった。弥太郎は、安芸(あき)郡の地下(ちげ)浪人という郷士株を売った最底辺の武士層から身を起こしたが、藩主に漢詩を披露し、江戸に遊学できる幸運にも恵まれ、重臣の吉田東洋の塾に入って後藤象二郎と出会った。大風呂敷で知られる後藤は上士の家柄でありながら、南国人らしく闊達(かったつ)だったので、坂本龍馬や岩崎弥太郎といったやや年長の才人になにかと目をかけたのである。
 弥太郎は、後藤が慶応元(1865)年に殖産・貿易振興のためにつくった開成館の下役になり、その2年後には後藤の後を受けて長崎の藩商務部の土佐商会で実権を収め、朝鮮貿易を企てるなどの夢を描いた。弥太郎は、坂本龍馬が脱藩の罪を許され、海援隊が土佐藩の外郭団体になると、藩命で隊の経理も担当した。

◆つかんだ運で大成長

 後藤や坂本の引きを受けたのは、青雲の志に箔(はく)が付いたようなものだ。弥太郎の進取の気性は、どの世界でも運は与えられるものでなく、つかむものであることを教えてくれる。
 果たして、明治になって土佐商会を受け入れて、九十九(つくも)商会を創業した弥太郎は海運業に進出した。廃藩置県とともに、やはり後藤象二郎の肝いりで土佐藩の債権債務や財産も一切ひっくるめて藩船も無償で譲渡されたのである。いくら混乱の時期とはいえ、藩の財産を弥太郎個人の掌中に握らせたのだから、後藤らしい大雑把さであった。
 これがやがて三菱商会となり、さらに郵便汽船三菱会社となっていく。政府保護の共同運輸との大たちまわりを経て、現在の日本郵船に発展する土台ができたのである。それにしても、さすがの弥太郎も後藤がいなければ実業で成功を収められなかったはずだ。
 廃藩置県とともに全国統一貨幣の鋳造が決まったとき、新政府の藩札買い上げを事前に察知した弥太郎は、10万両の資金で藩札を買い占め、やがて莫大(ばくだい)な利益を得たが、この情報を流したのは政府高官の後藤象二郎である。後藤と弥太郎は当世風にいえばインサイダー取引に加担したことになる。
 後藤は経営していた高島炭坑の業績も思わしくなく、弥太郎に引き取ってもらったくらいだから、よほどにウマがあったのだろう。弟、弥之助の妻になったのは後藤の娘、早苗であった。その子が三菱財閥の4代目総帥となる小弥太である。

◆国に尽くしたという自負

 弥太郎には内乱や戦争の緊急時に人員や物資の輸送で国に尽くしたという並大抵でない自負があった。西郷従道に国賊と罵倒(ばとう)されたとき、もし政府がそのように貶(おとし)めるなら、三菱の汽船を全部遠州灘で焼き払い、残りの財産をすべて自由党に寄付すると啖呵(たんか)を切ったのは有名だ。
 薩長嫌いの土佐っぽとはいえ、「政府が瓦解してもよいのか」と脅しをかけるような実業家は幕末の戦乱でもくぐらなければ出てこないだろう。政治の混乱が続く現代で見習うべきリーダーは、好悪はともかく、弥太郎のように大局観をもつ過去の経営者なのかもしれない。(やまうち まさゆき)

【プロフィル】岩崎弥太郎

 いわさき・やたろう 天保5(1834)年12月、土佐の地下浪人の長男として生まれる。幼少期から学問で身を立てることを志し、高知藩参政吉田東洋からその才能を認められ、郷士の家格で藩に職を得る。慶応3(1867)年、開成館長崎出張所に勤務して上士となり、明治元(1868)年に同所が閉鎖されたのちも、維新のための武器・弾薬や艦船の買い入れ、土佐の資金調達に奔走した。同2(1869)年、大坂商会(のちの九十九商会)に転出、同4年の廃藩置県をきっかけに九十九商会を「三川商会」(のちに三菱商会)として独立させ、実業家へと転身。同7年、台湾出兵にともなう軍事輸送を完遂した三菱は大久保利通らの信任を得て国内最大の汽船会社に成長、同10年の西南戦争でも政府側の後方輸送を任された。しかし、同14年、伊藤博文が大隈重信を追放した政変を境に、三菱の海運独占に対する世論の批判が高まり、政府も新汽船会社を支援して三菱に対抗させた。両社の競争が激しさを増す中、弥太郎は同18(1885)年2月、58歳で病死した。

 このコラムで『龍馬伝』の予習ができましたね……グレーな部分も含めて(苦笑)。




 昨日に引き続き、今日も体調が今ひとつです……じっとりと汗をかく割に身体の一部が冷えていたりして、体温調節がうまくいっていない感じです。早めに寝て、体調回復に努めようと思っています(眠るのが一番の薬なので)。

北海道
開港式:函館で150周年記念式 8月には多彩なイベント
<開港式>函館で150周年記念式 8月には多彩なイベント
開港式 函館で150周年記念式 8月には多彩なイベント
 幕末の函館開港から150周年を祝う記念式が1日、北海道函館市の市民会館で開かれた。式典には高橋はるみ知事のほか、米、ロシア、オランダ、カナダなど各国関係者ら約1200人が出席。西尾正範市長が「この記念すべき年を契機として、先人たちが築いてきた函館の歴史と文化の価値をかみしめ、善きもの、善き気風を力を合わせてはぐくんでいこう」とあいさつした。
 函館は、神奈川・下田とともに1854(嘉永7)年の日米和親条約に基づき翌年に米国船の寄港地として日本で初めて開港したが、函館市は「開港記念日」を米英仏露蘭5カ国との修好通商条約により国際貿易港となった1859(安政6)年6月2日(新暦7月1日)にしている。
 式典では、市内の中学生らが創作劇「リ・スタート~少年たちへ、そして未来の函館へ~」を演じたほか、作曲家の小林亜星さんが市民から公募した歌詞を基に創作した記念歌「あれから そして今」が、市民約230人の合唱グループによって披露された。
 市はメーン行事として、8月6~16日に函館港の人工島「緑の島」で食や音楽などのイベント「DREAM BOX150」を開くほか、市民団体などがさまざまなイベントを開く。【佐藤心哉】


話題:開港150周年を祝う記念式 函館市
 幕末の函館開港から150周年を祝う記念式が1日、北海道函館市の市民会館で開かれた。式典には高橋はるみ知事のほか、米、ロシア、オランダ、カナダなど各国関係者ら約1200人が出席。西尾正範市長が「この記念すべき年を契機として、先人たちが築いてきた函館の歴史と文化の価値をかみしめ、善きもの、善き気風を力を合わせてはぐくんでいこう」とあいさつした。
 函館は、神奈川・下田とともに1854(嘉永7)年の日米和親条約に基づき翌年に米国船の寄港地として日本で初めて開港したが、函館市は「開港記念日」を米英仏露蘭5カ国との修好通商条約により国際貿易港となった1859(安政6)年6月2日(新暦7月1日)にしている。
 式典では、市内の中学生らが創作劇「リ・スタート~少年たちへ、そして未来の函館へ~」を演じたほか、作曲家の小林亜星さんが市民から公募した歌詞を基に創作した記念歌「あれから そして今」が、市民約230人の合唱グループによって披露された。
 市はメーン行事として、8月6~16日に函館港の人工島「緑の島」で食や音楽などのイベント「DREAM BOX150」を開くほか、市民団体などがさまざまなイベントを開く。【佐藤心哉】


神奈川
公共工事丸投げ、幕末も 横浜開港のドタバタ、古文書に
 1859年の横浜開港に際し、幕府によって急ピッチで整備された横浜と東海道を結ぶ「横浜道」。この建設をめぐり、現代の公共工事をほうふつとさせる「丸投げ」が横行、道路開通が危うく開港に間に合わない事態になっていたことが、旧家から見つかった古文書で分かった。完成は開港の1日前だったという。
 古文書は、幕末、横浜町の総年寄(町政の責任者)を務めた苅部(かるべ)家の横浜市保土ケ谷区にある子孫の蔵から昨年夏に見つかった。保土ケ谷宿の名主だった苅部清兵衛から奉行にあてた文書で、横浜開港半年後の安政6(1859)年12月23日付になっている。
 文書によると、現在のJR関内駅に近い吉田橋付近から西区の戸部に至る道路と橋3本の工事を、勘七という業者らが4470両で落札。勘七らはこのうち最も時間と費用のかかる橋の工事を、785両で平左衛門なる業者に丸投げした。平左衛門もさらに555両で半兵衛なる下請けに請け負わせたという。
 丸投げの過程で抜かれた金が多く、作業者に支払う工事資金が不足して工事は停滞。開港日に間に合いそうにない事態に陥った。このため、幕府は「諸外国に対して威光が保てない」と清兵衛に泣きついたという。
 清兵衛は自ら借金をして工事を進め、開港1日前の6月1日に完成させた。しかし、その後、清兵衛のもとには次から次と金の督促があり、困り果てて窮状を訴えたのが、今回の文書だったという。
 横浜開港資料館の西川武臣主任調査研究員は「幕府が開港したといっても、実際は住民の力が大きかった。丸投げして、費用を途中でピンハネしてしまう構造は150年前も今とほとんど変わらない」。文書は同資料館の企画展で7月26日まで展示されている。(佐藤善一)



新潟
旧市長公舎来月11日公開へ
 一般公開に向け整備が進められていた新潟市中央区西大畑町の旧市長公舎改修工事がこのほど終了し、7月11日のオープンが決まった。同市出身の作家坂口安吾の遺品や資料を展示し、市内外からの誘客を図る。安吾が「風」という言葉を好んだことから愛称は「安吾 風の館」に決まった。
 旧市長公舎は1922年に建設され、木造平屋建て。政令市、中核市では現存する最古の公舎といわれる。和洋折衷の住宅で、枯れ山水や幕末の初代新潟奉行、川村修就(ながたか)が植えた松がある庭園は関係者の評価が高かった。
 展示する安吾の資料は、2005年に坂口家から新潟市に寄贈されたもの。約8千点に及ぶため、新津美術館で保存し、資料整理していた。旧市長公舎の周りに安吾の生誕碑や詩碑があることから、安吾の魅力を発信する拠点として公舎を暫定的に一般開放することを決定。昨冬から一部改修工事を進めていた。
 改修工事では執務室を展示室に転換し、和室の大広間から庭園を一望できるようにした。また、安吾の長男で写真家、エッセイストの綱男さんを非常勤嘱託職員として招へい。館長的な立場として展示の解説などをしてもらうことになった。
 当面の展示計画も決まり、第1弾は、安吾の趣味にスポットを当て、釣り道具や碁盤、競輪用めがね、「勝負師」や「工員ゴルフ」の自筆原稿を展示する。
 近隣には砂丘館(旧日銀新潟支店長宅)、旧斎藤家夏の別邸があり、観光誘客施設としての期待も高い。同市文化政策課では、「見学した市民の意見を聞いた上で、公舎を将来どうするのか決めていきたい」とした上で、「一体的に見ていただけるようにパンフレットづくりなどを検討したい」と話している。
 入館は無料。


愛知
【愛知】農村でも愛された“茶の湯” 一宮市博物館で道具や文書展示
農村でも愛された“茶の湯” 一宮市博物館で道具や文書展示
 江戸時代に、尾張西部で盛んだった茶の湯文化を紹介する企画展「茶の湯の浸透-茶進上仕りたく」が一宮市大和町妙興寺の市博物館で開かれている。7月26日まで。
 茶の湯が農村にまで浸透していたことを伝える資料や茶道具など計86点を展示。京都から尾張地方に供給された宇治茶の生産の様子が分かる絵図や、尾張藩に出入りした宇治茶師に関する資料も並ぶ。
 江戸後期に広がった茶の湯の中心は、地域の実力者である庄屋だったといわれ、ある庄屋により1839(天保10)年に記された「茶事記」からは、茶の湯を楽しみながら、知識人と交流を深め、国学の知識を重ねたり、和歌や雅楽を堪能したりする様子が分かる。
 別の庄屋が公私を書き連ねた「雑略記」からは、幕末になると正式な茶会のほかに家族や趣味仲間などとも日常的に茶の湯を楽しんでいたことがうかがえる。
 入場料は一般200円、高校大学生100円、小中学生50円。11、19、25日には小中学生向けのイベント(参加料200円)もある。(問)市博物館=電0586(46)3215
(山田友美)


滋賀
彦根フィールドワーク:鳥居本中学1年生、5テーマで郷土を学ぶ /滋賀
◇「埋木舎」「宗安寺」など調査
 彦根市立鳥居本中学校の1年生25人がこのほど、校区や市内を見学しながら学習する「彦根フィールドワーク」を行った。5人ずつのグループに分かれて、産業▽文化▽人▽自然・環境▽歴史・遺産--のテーマで調査活動を行った。
 グループ学習や活動を通じて郷土を学ぶ総合学習の一環。各グループは彦根を詠んだ「彦根かるた」の札を引いて課題を決め、インターネットを活用するなどして調査場所を選定したり資料を集めたりした。
 各グループは、国宝・彦根城や彦根城博物館、幕末の大老・井伊直弼が不遇の青年期を過ごした屋敷「埋木舎(うもれぎのや)」、金亀公園、夢京橋キャッスルロードにある宗安寺などを回り、調査結果を取材ノートに書いたりスケッチしたり、写真を撮ったりしていた。活動の成果はA4判縦書きの新聞に仕上げ、校内に展示する。【松井圀夫】



京都
龍馬襲撃の「近江屋」跡に案内板
地元商店街振興組合が寄贈

龍馬襲撃の「近江屋」跡に案内板 地元商店街振興組合が寄贈
 幕末の志士・坂本龍馬が襲撃を受けた「近江屋」跡(京都市中京区河原町通蛸薬師下ル)に案内板が設置され30日、除幕式があった。
 龍馬は1867(慶応3)年11月15日、近江屋滞在中に刺客の襲撃を受け死亡した。これまでは遭難の地を示す石碑のみだったが、このほど地元の河原町商店街振興組合が案内板を設置、市に寄贈した。
 この日は、宇治田修盂理事長や門川大作市長らが除幕を行い、関係者や通行人が拍手で祝った。宇治田理事長は「多くの人に足を止めて案内板を見てもらいたい」と話していた。


愛媛
四国ミュージアム回廊:三十四館目 別子銅山記念館/3 /四国
四国ミュージアム回廊:三十四館目 別子銅山記念館/3 /四国
◆別子銅山記念館(3)愛媛県新居浜市

 ◇鉄道開通で短時間輸送 削岩機や火薬導入、生産が飛躍的に向上--明治26~30年
 幕末から明治時代にかけて別子銅山の総支配人を務めた広瀬宰平(1828~1914)は外国人の鉱山技術者を招き、設備の近代化で経営危機を乗り切ろうとした。1873(明治6)年に、政府が雇用していたフランス人技術者、コワニェに別子銅山の視察を依頼。運搬路の不備、火薬使用の勧めなどの指摘を受けた。翌年には、同じくフランス人のラロックを銅山の技師として雇い、近代化プラン「別子銅山目論見書」を作成させた。これを基に広瀬は、別子から立川までの運搬用道路の整備に乗り出す。ラロックはトランシットという坑道の角度を測る測量器具なども導入した。
 運搬用道路はラロックの案では馬車道だったが、ルートが山越えだったため、広瀬は坂道に強い牛車の使用を構想した。整備は同年から始まったが、1877(明治10)年に始まった西南戦争の影響を受け、火薬や労働力の確保が困難になり、作業はいったん中断。1880(明治13)年にようやく完成した。
 広瀬はさらに、鉄道整備も進め、1893(明治26)年には、総延長約16キロの別子鉱山鉄道を完成させる。これにより、短時間での物資輸送が可能になり、近代化に拍車をかけた。別子鉱山鉄道は、牛車道を改良した上部鉄道と、採掘拠点だった端出場(はでば)と新居浜惣開の製錬所を結ぶ下部鉄道とで構成される。運行していた「別子1号」は日本の鉱山鉄道の第一号となる。上部鉄道は1911(明治44)年に廃止されるが、1950(昭和25)年には電化された「トローリー電車」に発展する。
 人力に頼っていた採掘においても、広瀬は近代化を進める。1870(明治3)年の火薬導入をはじめ、削岩機、ダイナマイトも取り入れた。この結果、明治初期に年間500トン前後で推移していた銅生産が、1903(明治36)年以降は年間5000トンを超えるようになるなど生産効率は飛躍的に向上し、明治30年代に繁栄を極める。
 銅生産が伸び、地元新居浜の繁栄に貢献する一方、惣開と山根の両製錬所から排出される亜硫酸ガスによる農作物被害などの煙害問題が発生し、太平洋戦争直前まで続くことになる。【高谷均】=つづく



高知
幕末5人衆 着ぐるみ完成
 坂本龍馬と妻のお龍、岩崎弥太郎、中岡慎太郎、ジョン万次郎――。県にゆかりのある幕末の人物を題材にしたイメージキャラクターの着ぐるみ5体が完成し、30日、県庁で報道陣にお披露目された。
 イメージキャラクターは来年1月16日開幕の「土佐・龍馬であい博」を盛り上げようと制作された。身長約1・8メートルで、それぞれ表情に愛敬のある3等身。龍馬は青、お龍は赤など、鮮やかな色の上着を着ている。同博推進協議会が約350万円で作った。
 5体は7月1日にJR高知駅南口で予定される同博メーン会場の起工式に勢ぞろいし、一般公開される。県の観光PR役として県内外で開かれるイベントなどにも出張し、同博の開幕後も活動する。同協議会の担当者は「子どもからお年寄りまで多くの人に親しんでもらいたい」と話している。

 5人一組、女性キャラがひとり(お龍さんって高知出身でしたっけ?^_^;)……戦隊もの狙いでしょうか(爆)。最近の戦隊ものは5人の中に女性がふたりとか、追加キャラで6人~7人一組とか、変化をつけてますが(ゴーオンジャー、シンケンジャー、見てるもんで^_^;)。


山口
「長州ファイブ」プロレスラーじゃないよ、功績たたえ顕彰板
<長州ファイブ>プロレスラーじゃないよ、功績たたえ顕彰板
【山口】幕末に英国に密航した伊藤博文ら長州藩士「長州ファイブ(五傑)」の功績をたたえようと、山口市の市民団体「大内倶楽部」(樋口雅康会長)が同市下小鯖の大内中に隣接する市有地に顕彰板を設置し、28日、現地で会員ら約30人が出席し除幕式があった。
 大内倶楽部は地元ゆかりの歴史上の人物の慰霊祭、顕彰などを中心に活動。99年には、同市出身の明治維新の先覚者・大村益次郎の記念碑を建立。今回、大村の没後140年を記念し、映画化で話題になった長州ファイブの顕彰板を記念碑の横に立てた。
 顕彰板には、「長州ファイブの渡航費の調達に大村が一役買った」などの密航の経緯や、5人の功績を掲載。制作費約30万円は寄付でまかなう。除幕式で樋口会長は「地元のまちづくりにも一役買うことになれば」とあいさつした。【諌山耕】


佐賀
佐賀城下絵図で町づくり 探訪会、企画展開催へ
徴古館と市民団体スクラム 県、佐賀市も支援

 鍋島報效会・徴古館(佐賀市)が所蔵する江戸時代の佐賀城下の地図をもとに歴史を掘り起こし、町づくりに生かそうと「御城下絵図を読み解く(幕末さが城下まちづくり構想)」がスタートした。絵図からさまざまな情報を読み取り、探訪会などを実施しながら歴史を生かした活性化を目指す。
 徴古館を中心に、市民団体の幕末佐賀科学技術史研究会、鍋島文化を考える会、佐賀城げんき会、プロジェクトA・Sが共同し、県や佐賀市の支援で活動する。文化庁の「美術館・博物館活動基盤整備支援事業」の選定を受けて展開する。
 江戸時代の佐賀城下を描いた絵図は鍋島報效会が約20件を所蔵。この中から1626(寛永3)年の「御城并(ならびに)小路町図」や1740(元文5)年の「元文御城下絵図」、1810(文化7)年ごろの「文化御城下絵図」など、各年代の絵図を詳細に分析する。戸籍簿「竈帳(かまどちょう)」などの史料も参考に、城下町の様子や変遷過程を解明する計画だ。
 文化庁から支援事業への選定通知を受け、6月下旬に各団体代表による打ち合わせ会を開き、正式に事業着手した。7月に絵図類を写真撮影し、研究などに使えるよう副本を作成。8月から絵図の読み解き作業を始め、9月からは一般にも参加を呼び掛けて探訪会を開催するほか、企画展「御城下絵図にみる佐賀のまち」(9月14日~11月21日、徴古館)などを行うことにしている。
 徴古館などは「探訪会などを契機に郷土の歴史への関心が深まれば、失われた生活文化の発掘や、伝承文化の保存、継承にもつながる」として、市民に参加や協力を呼び掛ける考え。幕末期に佐賀藩が日本で初めて反射炉による鉄製大砲鋳造に成功した築地反射炉の位置が未確定になっているなど、佐賀城下町の姿は不明な点も多く、絵図の調査研究に期待が集まる。



長崎
NHK大河ドラマ:長崎・高知市民有志、秋に「友情ウオーク」開催 /長崎
NHK大河ドラマ:長崎・高知市民有志、秋に「友情ウオーク」開催 /長崎
◇志士が来た道500キロ
◇日帰りなど一部参加可能
 来年放送されるNHK大河ドラマ「龍馬伝」を記念し、ドラマの舞台となる長崎、高知両県の市民有志が10~11月に両県を結ぶ約500キロを踏破する「土佐の風から長崎の風へバトンタッチ友情ウオーク」の主催者が30日、長崎市内で記者会見。「多くの人と出会い、かつて志士が行き交った旅を感じたい」と意気込みを述べた。
 友情ウオークでは、幕末の志士・坂本龍馬が土佐藩を脱藩した際に通ったという「脱藩の道」から、龍馬が勝海舟と共に長崎を初めて訪れた際に通った大分市-旧豊後街道をたどり、長崎に至る約500キロを歩く。
 会見では、企画した長崎市の元会社員で街づくりNPO法人「長崎の風」理事長の黒田雄彦さん(63)と、高知市ウオーキング協会の山本隆心会長(57)が出席した。
 黒田さんは「勝や龍馬ら長崎遊学に訪れた志士の目的は人との出会いではなかったか。多くの人と出会い、高知の皆さんと一緒に新しい風を吹かせたい」。山本さんは「高知は山に囲まれ、文化は海から入ってきた。ドラマを機にぜひ歩いてほしい」と話した。
 友情ウオークは10月14日に高知県安芸市を出発し、同23日に佐賀関港(大分市)に渡航。11月3日に長崎市に到着する。21日間の参加費は20万5000円で、日帰りなど一部参加も可能。問い合わせはウオーク九州事務局(0952・73・4453)。【錦織祐一】








 今日はいいお天気でした(特に午前中)。明日からまた天気が悪くなりそうなので、せっせと洗濯しました。

北海道
ペロリくんと記念にパチリ 「顔はめ看板」お披露目
 函館開港150周年記念を盛り上げようと、函館市内・近郊の観光業者らでつくる「箱館会」(会長・中野晋五稜郭タワー常務)が製作した市内の観光施設など7カ所の「顔はめ看板」が28日、市内の元町公園で一斉にお披露目された。
 7月1日から西部地区の観光施設を巡ってスタンプを集めるビンゴラリー「函館ペロリくんキャンペーン」の一環。看板にはJR函館駅や五稜郭タワーなど施設ごとのイラストと、ペリー提督をイメージした独自のキャラクター「ペロリくん」をあしらった。
 看板はアルミ複合板製で縦、横とも約160センチ。記念撮影用にそれぞれ裏側から顔を出す2カ所の穴が設置されている。制作費は計約60万円。この日は公園を訪れた家族連れが看板に顔をあてがい、わが子をカメラに収める姿も見られた。
 看板には同時開催の携帯電話用の写真コンテストに応募する専用サイトにつながるQRコード(2次元バーコード)も付いている。カメラ付き携帯電話で3カ所の看板の記念写真を専用サイトから応募すると、12月30日までの期間中、毎月10人に函館の特産物が当たる。
 中野会長は「開港150周年記念事業を盛り上げ、観光客の旅の思い出の1ページになれば」と話している。看板はこのほか、大門横丁や旧函館区公会堂、赤レンガ倉庫群、函館山ロープウェイに12月30日まで設置される。


京都
京漬物の老舗復活 地域住民が支援
 江戸時代中期に創業し、昨春に閉店休業していた京漬物の老舗「総本家近清」が、地域住民らの支援を受け、29日から中京区西洞院通蛸薬師下るに新店舗を構え、復活する。国産野菜を使った無添加の漬物約60種類を店頭に並べるといい、同店は「多くの人に伝統に裏打ちされた京漬物を味わってほしい」としている。
 1764年に東本願寺(下京区)近くで開店、幕末には新撰組の武士らも同店の漬物を食べたという。営業再開の動きに賛同した知人2人の資金援助などを得て、古い町家を改装した開放的な店で再び看板を掲げる。
 9代目店主の近藤賢士さん(49)は「良質な商品作りにこだわり、お客様ともじっくり語り合うことで、『近清』の名を広めたい」と話していた。
 営業時間は午前9時~午後6時。当分は無休。問い合わせは、同店(075・229・6611)へ。

 新選組の隊士たちも食べていたという漬け物、次に京都に行く機会があったら立ち寄って買ってみたいです。

奈良
維新の魁 天誅組を知って - 「天忠組の跫音」出版
 「維新の魁(さきがけ)・天誅組」保存伝承・顕彰推進協議会(五條市新町3丁目)の特別理事で、大阪府藤井寺市の会社員草村克彦さん(53)が、「天忠組の跫音(あしおと)」(壱)を自費出版した。
 天誅組に関する草村さんの作品と、郷土史家らの寄稿で構成。歌や短歌もあるなど、これまでに出版されてきた日記調の天誅組関連本とは切り口を変えて編集し、表題も親しみが持てるよう「天忠組」の文字を採用した。
 草村さんは「奈良や大阪の人に、地元の幕末維新史をもっと知ってほしい」と話す。
 本は特製クリアファイル付きで1部1000円(送料込み)。
 問い合わせは、草村さん方、FAX072(955)3309。


高知
友情ウオーク:高知→長崎 参加者募集始まる /高知
 梼原町の脱藩の道など幕末の志士、坂本龍馬(1835~67)ゆかりの地をたどり、高知から長崎までの約520キロを21日間かけて歩く「友情ウオーク」の参加者募集が28日始まった。同日、高知市内で記者発表した主催団体の一つ「高知市ウオーキング協会」の山本隆心会長(57)は「龍馬の良さだけでなく、土佐の良い所を全国に広めたい」と話した。来年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」に合わせ、両県の観光振興のために企画された。
 山本会長は「1日平均30キロ歩き、途中には山道もある。見どころがたくさん」とPR。四国銀行が共催し、沿道の支店で飲料を提供し、トイレを貸す予定。青木章泰頭取も「両県の交流で経済が少しでも活性することを願う」と期待を込めた。
 全日程(10月14日~11月3日)の定員は40人、20万5000円(宿泊費込み)。四国のみ(40人、9万8000円)や日帰り(200人、1000円)などでの参加も可能。
 申し込みは近畿日本ツーリスト旅館ホテル連盟高知支部ホームページ「よさこい高知旅情報」(http://knt‐kochi‐web.com/)か同市ウオーキング協会(http://www.fix‐one.com/alko/)から。【千脇康平】


山口
長州ファイブ:永遠に 功績たたえ顕彰板除幕--山口の市民団体 /山口
 幕末に英国に密航した伊藤博文ら長州藩士「長州ファイブ(五傑)」の功績をたたえようと、山口市の市民団体「大内倶楽部」(樋口雅康会長)が同市下小鯖の大内中に隣接する市有地に顕彰板を設置し、28日、現地で会員ら約30人が出席し除幕式があった。
 大内倶楽部は地元ゆかりの歴史上の人物の慰霊祭、顕彰などを中心に活動。99年には、同市出身の明治維新の先覚者・大村益次郎の記念碑を建立。今回、大村の没後140年を記念し、映画化で話題になった長州ファイブの顕彰板を記念碑の横に立てた。
 顕彰板には、「長州ファイブの渡航費の調達に大村が一役買った」などの密航の経緯や、5人の功績を掲載。制作費約30万円は寄付でまかなう。除幕式で樋口会長は「地元のまちづくりにも一役買うことになれば」とあいさつした。【諌山耕】




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