新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
昨日は風向きがそうだったのか、東京のあちこちでドブ臭い匂いを感じました……海からの風だったのかな(汗)。
今日は涼しい風が吹いてきています。
岩手
野田丹後玉造の百回忌盛大に 9月に野田村で法要
東京
司馬作品から今なにを学ぶか 文化フォーラム開催 没後13年、再び関心高まる
大分
おしゃれ、中津和傘 洋服にもぴったり
ブックレビュー
今週の本棚:渡辺保・評 『河竹黙阿弥--元のもくあみとならん』=今尾哲也・著(ミネルヴァ書房・3150円)
コラム
高い志を歴史に探して 『日本人とは』 問い続ける 山本兼一さん(作家)
今日は涼しい風が吹いてきています。
岩手
野田丹後玉造の百回忌盛大に 9月に野田村で法要
野田村の村の歴史を語る会(久慈竹蔵会長)は9月、幕末期の盛岡藩家老で同村の領主だった野田丹後玉造(たまつくり)の百回忌法要を行う。同会によると、村内で法要を営むのは1942(昭和17)年の三十三回忌以来67年ぶり。「野田の殿様」と呼ばれる先人の遺徳をしのぶとともに、村民に地域史を見つめ直してもらうのが狙いだ。
法要は9月20日、野田家や旧家臣団などと共に、墓がある同村野田の海蔵院で営む。東京都在住の玉造の子孫が参列する。同村玉川の国民宿舎えぼし荘で記念講演会も開催する予定だ。
語る会や村民有志は、玉造の墓をきれいにしてお盆や法要を迎えようと、周辺の整備に着手。ボランティアで石積み造りや歩道の改良、草刈りなどに取り組んでいる。
野田家25代の玉造は、盛岡県大参事、同権参事など要職を務め1872(明治5)年、野に下った。その後、青森県田名部(現むつ市)に移住して小間物店を開いたが失敗し、同家没落のきっかけをつくったとされる。
同村では藩制時代最後の領主であるとともに、野に下った際、扶持(ふち)を失った藩士のために職業教育を施したことから、畏敬(いけい)の念を持つ人は多い。
同会は昨年、玉造ら一族の歴史をまとめた「清き流れは絶えざらまし」を再刊行するなど顕彰活動を行っている。広内洋治事務局長(60)は「玉造が自分の生活を犠牲にして、藩士のためにやった行為は語り継ぐ価値がある」と強調し、村民に参列を呼び掛ける。
東京
司馬作品から今なにを学ぶか 文化フォーラム開催 没後13年、再び関心高まる
没後13年たっても、日本人の心の中に生き続ける作家、司馬遼太郎。その代表作をドラマ化した「坂の上の雲」がこの秋からNHKで放送されるなど、明治維新、近代国家の興隆期に生きる日本人を題材にした司馬作品に再び関心が高まっている。11日には、司馬作品から今なにを学ぶかをテーマにした文化フォーラムが、東京・飯田橋の大和ハウス工業東京支社で行われた。(谷内誠)
この日、パネリストとして登壇したのは、作家で評論家の半藤一利▽映画監督の篠田正浩▽日本女子大学人間社会学部教授で歴史学者の成田龍一▽同志社大学大学院教授で比較文化研究者の佐伯順子-の各氏。半藤氏は文芸春秋の担当編集者として、篠田氏は司馬作品の映画化で、生前の司馬と深い交流があり、その人柄など思い出話も披露した。一方、成田氏と佐伯氏は直接の面識はないものの、研究者の立場から司馬作品が描かれた時代的背景と現代に生きるその歴史認識について論考を示した。
成田氏は「かつて歴史学と時代小説は対立する関係にあった」とした上で、「1960年代半ばに『竜馬がゆく』で明治維新を描き、60年代末から70年をはさんで『坂の上の雲』で日清・日露戦争を描いた意味は大きい。明治日本を描きながら、現代日本を描いた。その意味で読み返す意義は大きく、特に冷戦終結からの20年に司馬作品は新しい読み方ができる。歴史家と司馬文学は和解すべきだ」と話した。
佐伯氏も「歴史学は冷静さと客観性が必要で、文学が持つフィクションに不満があったが、司馬作品は歴史であり、文学である」と指摘し、「『坂の上の雲』などは、歴史書のような文学であり、心の歴史にまで踏み込んでこその文学になっている。作品の中で時代を批判してもどうすべきかを語らせてきた意味がある」との解釈を示した。
一方、篠田氏は「司馬さんは新聞記者出身だけに、膨大な資料を読み込み、純粋な文学に閉じこもらないものを目指した。『僕の得意なことは物覚えがいいことだ』とおっしゃっていたが、常に歴史と幻想の間を行き来するようなところがあった」と話した。
「一言聞けば、35倍くらい返ってくるほどよく話す人だった」と人柄を語ったのは半藤氏。司馬が産経新聞の同僚だったみどり夫人に求婚する際、「雨が降っている中、電車の停留所で『結婚してくれへんか』と話したそうで、正直な人でしたね」とエピソードを明かした。
また篠田氏は「『坂の上の雲』のあとがきで司馬さんが指摘しているが、日清・日露戦争について戦争の冷厳な報告書が国民とその子孫に編まれていたならば、昭和前期の滑稽(こっけい)すぎるほどの神秘的な国家観に毒されず、日本とアジアに15年戦争の不幸はなかった、と書き残した。そのあとがきを見落としてはいけない」と話した。
司馬の死去の1年前にロングインタビューをした半藤氏は「日本はこのままではよくならない。何とか元気のある国にしたい、と司馬さんはおっしゃっていました。欲望を広げることなく、これ以上自然を壊すなというメッセージでした。それを私は伝えていきたい」と話してフォーラムを締めくくった。
大分
おしゃれ、中津和傘 洋服にもぴったり
中津市が誇る伝統工芸の中津和傘。洋傘に押され、今では貴重な存在となった和傘の灯を絶やすまいと奮闘する作り手たちを訪ねた。
10万石の城下町中津。シンボルの中津城、福沢諭吉旧居などに程近い場所に「和傘工房・朱夏(しゅか)」はある。今吉次郎代表(56)、馬出吉広さん(65)ら4人の職人が制作に携わる。1本の傘を完成させるのに要する期間は2カ月ほど。その間、骨組みから和紙張り、乾燥、飾りの刺しゅうまで80以上の緻密(ちみつ)な工程をこなしていく。
傘作りを始めて今年で5年目を迎える。昭和初期の最盛期には市内に70軒ほどあった和傘店も徐々に衰退。2003年、最後の職人が廃業した。しかし、「文化の継承を」と今吉さんが中心となって立ち上がった。「製造が絶えてしまえば、和傘を使用する地元の祭りの維持にも支障が出てくる。伝統を守り、傘で地域おこしができないかと考えた」
取り組みを始めたが、苦労の連続だったという。「道具はあっても、製造方法を教えてくれる人はいない。現物を解体し、参考になりそうな書物を読み、一から自分で考えるしかなかった。サラダ油を引いて、乾燥に失敗したなんてこともあった」と当時を振り返る。
山積する問題を一つ一つクリアし、さまざまな柄の和紙を組み合わせたオリジナルの傘、ランプシェードなども手掛けるまでになった。職人の梶原あけみさん(54)は「評判を聞き付けた県外からも注文が入りますよ」。「お客さんからは洋傘の日傘よりも遮光性が高いと言われました」と同じく職人の是石正子さん(56)。
2人には手製の日傘を差しながら散策してもらった。服装は洋服、傘の柄は洋傘に使われるような華やかなもの。しかし、違和感は全くなく、敷居の高そうな和傘がとても身近に感じられる。「伝統の和傘も時代に合わせて変化していく。ジーンズでも差せる和傘が商品のコンセプト」と言う今吉さん。その意味が理解できたような気がした。
さまざまな柄の和傘を差した現代の人々が城下町を行き交う。そんな光景を見られる日も遠くないかもしれない。
メモ
中津和傘の製造が始まったのは200年ほど前。製造に必要な原料の竹や和紙、水の浸透を防ぐ塗料となる柿渋などを地元で調達可能だったことが主な理由とされる。幕末には下級武士の内職として奨励されたという。現在でも和傘を作っているのは全国でも10軒ほど。九州では「朱夏」を含め2軒しかない。価格は1本1万4千円から。朱夏(中津市鷹匠町)の連絡先はTEL0979・23・1820。
ブックレビュー
今週の本棚:渡辺保・評 『河竹黙阿弥--元のもくあみとならん』=今尾哲也・著(ミネルヴァ書房・3150円)
◇晩年の悲劇から照射した狂言作者の生涯
新しい視点で書かれた河竹黙阿弥の伝記である。
黙阿弥は幕末から明治にかけて活躍した歌舞伎の作者。すでにいくつかの伝記があるが、今尾哲也が今度発表した伝記はこれまであまり人の触れなかった部分に触れて新しい。
その新しさは二点ある。二点は江戸時代と今日との制度的な差にかかわる。一つは歌舞伎の「狂言作者」と今日の「劇作家」との違い。もう一つは素人と玄人の違い。
狂言作者は戯曲を書くときに、せりふを登場人物の役名ではなく、その役を演じる役者の名前で書いた。
たとえば「白浪五人男」の弁天小僧ならば、
弁天小僧---知らざぁいって聞かせやしょう
と書かずに
羽左衛門---知らざぁいって聞かせやしょう
と書く。羽左衛門は弁天小僧を演じる役者。すなわちのちの名優五代目菊五郎である。
なぜそんなことをするかといえば、役者に当てはめて書くからである。それも単なるあて(・・)書きといったものではない。役者が全(すべ)て。そこから役者の魅力をどう引き出すかだけが問題であり、役者が気に入り、そのひいきが喜ぶように書く。その結果、作者は芸術家としての自立を失う。
それは歌舞伎社会の特殊な習慣による。その習慣からもう一つの違いが見える。すなわち玄人と素人の違い。この違いは今日いうところのプロとアマチュアの違いではない。閉鎖的な特殊社会の住人であるか、あるいは一般社会の市民であるかの違いであった。
今尾哲也はこの二つの制度的な違いに着目して黙阿弥の生涯を描いた。むろん制度的な違いを指摘したのは今尾哲也がはじめてではない。しかしその違いの意味を徹底し、それによって黙阿弥の人生を書いた伝記はこれまでになかった。
黙阿弥は日本橋の商家に生れた。すなわち素人の出身である。そして芝居の世界に身を投じた。玄人の世界に入った。しかし五十歳をすぎて明治維新にあい、近代文明に触れ、六十五歳で引退した。すなわち素人の世界に戻ろうとした。黙阿弥がそう思ったのは自立した近代的な劇作家でありたいと思ったからに他ならない。役者名でせりふを書く習慣から、自分のイメージに従って自由に登場人物を創造したいと思ったのである。近世から近代への転換。
しかし、もう遅かった。
それでも黙阿弥は老骨にむち打って二本の戯曲を書いた。「千社札(せんじゃふだ)天狗(てんぐの)古宮(ふるみや)」と「傀儡師(かいらいし)箱根山猫(はこねのやまねこ)」。しかし二本とも未完で中絶した。
なぜ遅かったのか。なぜ未完に終わったのか。今尾哲也によれば「無から有を生み出すことは、黙阿弥には出来なかった」からである。ほとんどその生涯の全てを役者を前提に書いて来た黙阿弥には、すでに役者を決めずに戯曲を書くことが出来なくなっていたのである。
その結果、黙阿弥は、少なくともその劇作手法の上では近代的な劇作家へと転身することが出来なかった。この失敗の悲惨は、あの二つの違いが、この老人の精神にいかに深くしみ込んでいたかを物語っている。現に今尾哲也が描くこの件(くだ)りを読むと胸がつぶれる思いがする。
だれもふりむかなかった黙阿弥晩年の二本の未完の作品をとりあげて、悲劇を描いたところが、この伝記が異彩を放つ理由である。
一つだけ閉口したのは、黙阿弥作品や役者評判記その他の引用が現代語訳されていること。こういう時代だから現代語訳は仕方がないにしても、その訳には違和感が残る。
コラム
高い志を歴史に探して 『日本人とは』 問い続ける 山本兼一さん(作家)
茶道の大成者千利休をかつてない視点で描いた『利休にたずねよ』(PHP研究所)で一月に直木賞を受賞し、勢いに乗る時代小説作家の山本兼一さん(52)。今月には、受賞後第一作となる『ジパング島発見記』(集英社)を出した。
戦国や幕末といったこの国の激動期を、好んで取り上げてきた。根底にあるのは、日本とは何か、日本人とは何か、という壮大なテーマだ。
京都市左京区の仕事場には、趣味の火縄銃に真剣、重厚な音をとどろかせるほら貝と、小説の世界をほうふつとさせる品々が並ぶ。そこで山本さんはお茶をたててくれた。『利休-』を書くにあたり、おけいこに通ったという。「自分でやってみないと楽しくないから」。執筆中は連日、釜で湯を沸かしお茶を飲んだ。
京都市生まれ。東大安田講堂をめぐる攻防やあさま山荘事件など、日本が騒然としていた一九七〇年前後に青春時代を過ごした。
当時は、詩人か革命家になりたかった。「世の中の生産活動と無関係に生きたかった。ドロップアウトする方が美しいと思った」。大学卒業後、一年間、海外を放浪。「生まれ育った国だからこそ、日本が嫌だった。ねばねばとまとわりつく気がして」
帰国して東京でライターの仕事を見つけ、三十歳でフリーに。三十六歳で京都に戻ってから、歴史小説を書き始めた。
月に一度、仕事で東京に出るたび、帰りは名古屋で新幹線を下車。東海各地に残る城や合戦の地など、乱世を駆け抜けた武将の夢の跡を歩いて回った。
「足を運ぶと、必ず何かが見える。たとえ景色は変わっていても」。時代小説を書く作家は多いが、取材量には絶対の自信を持つ。
それぞれの土地で決まって訪ねる場所、それは「市場」。「ライター時代、歴史研究者に聞いたフィールドワークの知恵です」
例えば六月に行った長野市の川中島。どこに行っても山芋が売られていた。川中島の特産と、地元の人が教えてくれた。普段口にするものとは、粘りが全く違った。「想像力がかきたてられた。それだけで場面が書けると思った。書くときにリアリティーが出るんです」
「時代小説で一番楽しいのは、フィクションをどう加えるか」。徹底的な取材をもとに、通説や記録で触れられていない部分から物語を膨らませる。
『利休-』では、利休の研究者という読者から手紙が届いた。「知らないことばかりでした。資料のありかをご教示ください」と。「それを読んだ瞬間、小説の成功を確信した」
「人に貴賤(きせん)あり」という言葉を信じる。貴賤とは、職業でも、身分でも、財力によるものでもない。「他人のために自分を犠牲にできる人は貴い。志の高い人にあこがれる」
城大工に砲術師、刀鍛冶(かじ)、鷹匠(たかじょう)、茶人利休…。志の高さを基準にした着眼は、時代のうねりに立ち向かいながら、まっすぐ強く生きようとするさまざまな階層の日本人の姿を鮮やかによみがえらせた。
一転。直木賞受賞後第一作となる『ジパング島発見記』は、大航海時代、はるばる海を越えてやってきた南蛮人たちを主役にした連作短編集。外から日本を浮き彫りにする試みだ。
舞台は、戦国時代真っただ中の日本。一五四三年、種子島に鉄砲を持ち込んだポルトガル人ゼイモト、ほら吹き商人ピント、宣教師ザビエルら七人が登場。彼らの目に映る日本の社会と日本人が描かれる。
ポルトガル船は大量の物資をもたらした。日本の銀の価値も上がった。「南蛮人の存在は、経済をバブル的に成長させ、日本社会を大きくきしませた。変化の波に洗われた日本を、彼らがどう見たかを探りたかった」。未知の国を見つめる彼らの視点は、われわれ現代人がはるか遠い戦国時代に対して抱くあこがれにも似ているかもしれない。
もともとはなじみにくさを感じていた国、日本。今は「日本しか帰る場所はない」と感じている。「歴史小説を書くことは、私にとって、知らなかった日本の深い部分を旅すること」
日本人とは何か-。旅を続ける中で、作家になって以来こだわってきた問いに対する答えが出つつある。
職人の技や茶の湯などの芸術に見られる細やかさ、あえてすべてを語らず言外に情趣をにじませる表現方法。「繊細さと幽玄。この二つが、日本人のキーワードだと考え始めた」
ただ「これは答えの一つにすぎない。手探り状態です」と気を引き締める。旅は、まだまだ終わらない。 (宮川まどか)
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昼間にアップした新選組パレード以外の記事をご紹介します。
宮城
人気の小十郎、マウスパッドに/白石市
茨城
天狗派との暗闘 明治以降も… 諸生党の生き残り 栃木県令嘆願の真相
……おおっ、さらっと読み流してしまいそうですが、「茨城県の人見寧県令(旧幕臣)」の名が。遊撃隊の人見勝太郎さん、こんなややこしい県を県令として担当していたとは、やはり只者じゃないですね。
京都
菊水鉾に「橋掛かり」
三条河原町・池田屋跡地に居酒屋-東映監修で「大階段」再現
三条河原町・池田屋跡地に居酒屋―東映監修で「大階段」再現
関連画像「大階段」は迫力のあるショットです。この角度を、斬られた不逞浪士が落ちてくるのか……い、痛そうっ^_^;。
兵庫
山鹿素行の全国フォーラム開催へ 赤穂
「明治維新の吉田松陰」って、何か省略されているような気がするんですが(汗)。
広島
鞆でレトロな船旅を 福山市
宮城
人気の小十郎、マウスパッドに/白石市
白石市と地元企業「ミドリテクノパーク」がマウスパッドを共同開発し、17日から発売する。「地元企業の発展が市の発展につながる」と企業回りをした結果、相談を受けて市が企画した初の商品だ。企業から出向中の職員が中心になり「民間のノウハウ」を活用した本革製の商品で、歴史ブームにも乗り、デザインに「片倉小十郎」を登場させた。(石井力)
(中略)
●古文書でひもとく小十郎
白石市益岡町の白石城歴史探訪ミュージアムで「古文書にみる片倉小十郎」展が開かれている=写真。伊達藩の家老を務めた8代・小十郎村典が署名した知行書など約20点を展示している。
片倉家は初代・景綱から幕末の11代・邦憲まで全員が片倉小十郎を名乗った。展示会は「代々の小十郎の足跡をご覧いただきたい」として企画した。8月23日まで。今月下旬に一部展示替えをする。入場無料。問い合わせは市教委博物館建設準備室(0224・22・1343)へ。
茨城
天狗派との暗闘 明治以降も… 諸生党の生き残り 栃木県令嘆願の真相
一編の史料から、歴史から抹殺されようとする人々の心の叫びに触れる時がある。
常陸大宮市高部(旧美和村)の岡山花恵さん(90)方に保存されていた「諸生二十四名処遇改善訴状」(岡山家文書)も、そんな興味深い史料のひとつ。
一八八一(明治十四)年十月、大子町の益子薫平を総代とする二十四人が、栃木県令(現在の栃木県知事)の藤川為親あてに提出した嘆願書だ。
二十四人は、旧水戸藩の尊王攘夷(じょうい)過激派の「天狗(てんぐ)党」に対抗した武力組織「諸生党」の生き残りの郷士らで、花恵さんの祖父に当たる仙太郎の名前も見える。
訴状によると、「旧水戸藩がわが財産、炊事道具に至るまでことごとく強奪し、その異常さは古来例をみない過酷な処置で、実に堪え難い」として、その処遇改善を、明治政府の諸省庁、さらに茨城県の人見寧県令(旧幕臣)に願い出た。人見県令は、諸生党の境遇に理解を示したが、当時の同県庁は「旧党派(天狗党の意)の弊害が存在し、県の役人の中にも天狗派があって(諸生党の処遇改善の)障害をなす」状態。このため、栃木県喜連川駅で東北巡幸から東京に戻る途中の天皇に直訴しようとしたが、警官に阻まれて失敗。栃木県令に嘆願に及んだ経緯がつづられている。
結局、栃木県令への嘆願も無視された。家屋敷などの財産返還も難航、諸生党の生き残り組が士族に編入されたのは、九二(明治二十五)年ごろだった。
それにしても、彼らが栃木県にまで嘆願に及んだのはなぜか。
最大の理由は、史料にもあるように、処遇改善の訴えが、茨城県庁の実権を握る天狗派の妨害で進展しなかったからではないか。明治十年代になっても、天狗、諸生両派の暗闘は続いていたのである。
花恵さんの祖先は江戸時代後期、和紙問屋を営む富豪。仙太郎の父親の代に、水戸藩に献金して郷士身分となり、仙太郎も、七十石で文庫役に取り立てられた。仙太郎は、水戸藩の門閥派と深く結びつき、後に諸生党に属したことから、天狗党と鋭く対立し、歴史に翻弄(ほんろう)され続ける。
花恵さんの話では、仙太郎には英次郎という弟がいた。天狗党に属す郷士(横目格)だったらしい。仙太郎は明治を生き延び、潜伏先から帰郷後、酒造業を始めたが、英次郎は六四(元治元)年の天狗党の乱に参加、江戸佃島獄舎で獄死した。明治維新の二年前、三十歳だった。
花恵さん宅には、英次郎が出陣する際に書いたという墨書や、投獄後の関宿藩で描いたとされる風景画などの遺品が残されていたが、英次郎の足跡を伝える史料は少ない。
調べたところ、英次郎は八九(明治二十二)年五月、旧水戸藩の殉難者千三百九十人の一人として靖国神社に合祀(ごうし)されていた。
諸生党の兄と、天狗党の弟。幕末の動乱は兄弟のきずなをも引き裂いたが、諸生党の殉難者は靖国に一切合祀されていない。それぞれの信念に基づき国事に奔走した本人たちの意思とは無関係に、勝者の側が死者を峻別(しゅんべつ)する「靖国祭神」の形成過程に疑問を抱くゆえんである。 (吉原康和)
……おおっ、さらっと読み流してしまいそうですが、「茨城県の人見寧県令(旧幕臣)」の名が。遊撃隊の人見勝太郎さん、こんなややこしい県を県令として担当していたとは、やはり只者じゃないですね。
京都
菊水鉾に「橋掛かり」
祇園祭の山鉾の一つ、菊水鉾の保存会(中京区室町通四条上る)は、新築されたマンション2階と鉾をつなぐ渡り廊下「橋掛かり」を今年設置し、宵山期間中(14~16日)、多くの観光客らが鉾上部からの眺めを楽しんだ。
橋掛かりはヒノキ材で、高さ4メートル、幅1・2メートル、長さ6メートル。長刀(なぎなた)鉾や函谷(かんこ)鉾などでは、町会所の2階から橋掛かりで鉾に渡ることができる。しかし、菊水鉾は幕末に焼失し、1951年まで88年間休んでいる間に町会所の整備が遅れ、再開後は路上からはしごで鉾に上がっていた。
近くにマンションが建設されると2007年に聞き、2階に上ることができる専用階段の設置を交渉した。
同保存会の猪田浩市理事長(62)は「ほかの鉾にようやく追いつくことができた。マンションの住民と交流できるきっかけにもなる」と喜んでいた。
三条河原町・池田屋跡地に居酒屋-東映監修で「大階段」再現
三条河原町・池田屋跡地に居酒屋―東映監修で「大階段」再現
居酒屋チェーンの直営やフランチャイズ展開などを手掛けるチムニー(東京都墨田区)は7月8日、「海鮮茶屋 池田屋 はなの舞」(京都市中京区三条通河原町東入、TEL 075-257-8122)をオープンした。
同社は全国に飲食店を490店舗以上経営し、京都では現在「はなの舞 西院店」「さかなや道場 京都河原町店」を展開。「海鮮茶屋 池田屋 はなの舞」は京都で3店舗目の出店となる。
店舗面積は150坪で、156席を用意。幕末の大事件「池田屋事件」の跡地にあり、店内には映画などの階段落ちのシーンで知られる7メートルの大階段を再現。東映の監修で当時の池田屋旅館の帳場も再現した。
同店「おすすめ」メニューは、軍鶏(しゃも)鍋(819円)、ハモの落し(924円)、三条寄せ豆冨(504円)など。
同社広報担当者は「観光スポットとしてご利用いただくことで、地元に少しでも貢献していきたい」と話す。
営業時間は、ランチ=11時~14時、ディナー=16時~24時(日曜~木曜)、16時~翌3時(金曜・土曜・祝前日)。
関連画像「大階段」は迫力のあるショットです。この角度を、斬られた不逞浪士が落ちてくるのか……い、痛そうっ^_^;。
兵庫
山鹿素行の全国フォーラム開催へ 赤穂
大石内蔵助ら赤穂藩士が教えを受けたとされる江戸時代の儒学者で、兵学者でもある山鹿素行(1622~85年)。その思想や功績を見直し、赤穂の魅力として全国にPRするため、市内の有志がフォーラムの開催などを企画している。赤穂商工会議所や有識者を交えた「赤穂義士と山鹿素行全国フォーラム実行委員会」を設立。9月の行事開催へ向けて活動を始めた。
山鹿素行は、江戸で儒学など学んだが、赤穂藩に流罪になり、藩士を教育した。大石内蔵助も門弟で、内蔵助が討ち入りの際にたたく、「山鹿流陣太鼓」も素行の兵学から生まれたという。その思想は、明治維新の吉田松陰にも影響を与えたとされる。
「明治維新の吉田松陰」って、何か省略されているような気がするんですが(汗)。
広島
鞆でレトロな船旅を 福山市
「平成いろは丸」概要
福山市は16日、幕末の志士・坂本龍馬の生涯を描く来年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」の放映に向けて、同市鞆町の市営渡船に導入を予定している新造船「平成いろは丸」の概要と、船のイメージ図を発表した。外観を龍馬が乗船していた蒸気船「いろは丸」に似せたほか、船室や座席を木製にするなどし、<レトロな船旅>を演出している。12月末に完成、2010年1月に運行を開始する。
鞆町は、1867年に龍馬率いる海援隊の「いろは丸」と紀州藩の軍艦が衝突した「いろは丸事件」の舞台。市は大河ドラマの放映を前に、龍馬と鞆を生かした観光キャンペーンを展開中で、鞆の本土側と仙酔島の約700メートルを結ぶ市営渡船の客船の老朽化に伴い、約8000万円で平成いろは丸を新造することにした。造船業者は、地元鞆町の「本瓦造船」に決まった。
平成いろは丸は、全長約20メートル、19トンで、いろは丸と同様のスクリュー推進式。船体の色も当時と同じ黒とする。乗船定員は99人で、船内には、舵輪(だりん)やコンパスなど昔の装置を設置し、触れられるようにする。龍馬の等身大の写真パネルも飾って観光客が記念撮影出来るようにする予定で、同市観光課は「龍馬人気にあやかり、福山の知名度アップを」と期待している。
昨日、祇園宵山で新選組パレードがあったとの記事が複数検索されましたので、まとめてご紹介します。
京都
勇ましい姿で新撰組パレード
新選組隊士、宵山に行列 同好会が慰霊込め
新選組隊士、宵山に行列
同好会が慰霊込め
勇ましい姿で新撰組パレード
「新選組、前へ!」隊士にふんし京都を行進
京都
勇ましい姿で新撰組パレード
京都新撰組同好会の会員ら35人が16日、隊士にふんし、京都市中心部の四条通などをパレード。勇ましい姿で沿道の注目を浴びた。
元治元(1864)年の新暦7月、倒幕派が集まる旅館に新選組が討ち入った「池田屋事件」にちなみ、毎年祇園祭の宵山に合わせて行っている。
一行は「誠」の旗を手に、「新撰組、前へ!」のかけ声を合図に、ゆかりの壬生寺から八坂神社まで約3・5キロを行進。観光客らの歓声が上がった。
新選組隊士、宵山に行列 同好会が慰霊込め
新選組隊士、宵山に行列
同好会が慰霊込め
だんだら模様の羽織に、はかまの新選組隊士の服装に身を包んだパレードが16日、京都市中京区の壬生寺から東山区の八坂神社まで勇壮に行われた。
パレードは1864(元治元)年、祇園祭宵山だった旧暦6月5日に起きた「池田屋騒動」に合わせて、毎年、京都新選組同好会が催している。
宵山でにぎわう四条通を行進する姿に、観光客や市民がカメラのシャッターを切っていた。また、新選組ゆかりの同寺では、幕末に命を落とした志士を弔う慰霊祭も営まれ、隊士の子孫や関係者らが手を合わせていた。
勇ましい姿で新撰組パレード
京都新撰組同好会の会員ら35人が16日、隊士にふんし、京都市中心部の四条通などをパレード。勇ましい姿で沿道の注目を浴びた。
元治元(1864)年の新暦7月、倒幕派が集まる旅館に新選組が討ち入った「池田屋事件」にちなみ、毎年祇園祭の宵山に合わせて行っている。
一行は「誠」の旗を手に、「新撰組、前へ!」のかけ声を合図に、ゆかりの壬生寺から八坂神社まで約3・5キロを行進。観光客らの歓声が上がった。
「新選組、前へ!」隊士にふんし京都を行進
京都新選組同好会の会員ら35人が16日、隊士にふんし、京都市中心部の四条通などをパレード。勇ましい姿で沿道の注目を浴びた=写真(宇都宮想撮影)。
元治元(1864)年の新暦7月、倒幕派が集まる旅館に新選組が討ち入った「池田屋事件」にちなみ、毎年祇園祭の宵山に合わせて行っている。
一行は「誠」の旗を手に、「新選組、前へ!」のかけ声を合図に、ゆかりの壬生寺から八坂神社まで約3・5キロを行進。観光客らの歓声が上がった。
今日も暑いですね……昨日の熱風に比べて今日の風は涼しく、いくらか過ごしやすいのですが。
福島
29日、二本松少年隊を弔う灯籠流し
滋賀
大津で創作講談とバロック音楽のコラボ-音楽絵巻「淡海街道物語 幕末編」
大津で創作講談とバロック音楽のコラボ-音楽絵巻「淡海街道物語 幕末編」
大阪
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/128 源聖寺坂 大阪市天王寺区 /大阪
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/128 源聖寺坂 大阪市天王寺区 /大阪
広島
竜馬の「いろは丸」建造 福山市で来年、観光渡船に
高知
絵金限定グッズ初販売 18、19日香南で祭り
幕末の絵師・絵金の限定グッズ、高知・香南で初販売
佐賀
佐賀城本丸歴史館 開館5周年記念 テーマ展「江藤新平とその時代」を開催します
佐賀県庁
場所が近くだったら見に行きたいんですが……(苦笑)。
長崎
“龍馬に出したい創作料理” 長崎の料亭、今秋からメニューに
先日の「龍馬が焼いたカステラ」には「をいをい……(汗)」と思ったのですが、この「龍馬に出したい創作料理」はネーミング的にはセーフじゃないかと(苦笑)。
コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(19)東大教授・山内昌之 徳川斉昭
今読んでる『剣客斎藤弥九郎伝』で徳川斉昭の評価が高く、自分の視点との違いにとまどっていたところでしたので、山内教授評を読んですっきりしました。
まず「その政策にはいつもイデオロギーに現実を合わせる理論倒れの面がつきまとった」という点で、すっきり。
そして「斉昭の観念論は幕末に志士をたくさん生み出したが、徳川御三家の水戸藩士が幕府の閣老らを襲撃する“テロリスト”になるのは、今のアルカーイダどころの騒ぎでない。水戸学は幕府と水戸藩をともに滅ぼした呪(のろ)いの思想である」という点で、「尊皇攘夷思想の流れを汲むところの産経新聞に掲載される記事でここまで言い切ってもいいんかいっ(汗)」と焦りました。明治政府批判ではないからいいのか(ぷち苦笑)。
福島
29日、二本松少年隊を弔う灯籠流し
二本松青年会議所は戊辰戦争の二本松城落城日の29日、同戦争で幼い命を散らした二本松少年隊を弔う灯籠(とうろう)流しを、二本松市の県立霞ケ城公園箕輪門前の堀で行う。
今年も市内の小・中学生を招き、郷土や家族を守ろうとした同年代の隊士の歴史や世界平和に理解を深めてもらう。
午後4時から市内の県男女共生センターで、8人から10人の班に分かれてJC会員らと灯籠を作る。
灯籠には、大壇口の戦いで敵弾に倒れた木村銃太郎隊長をはじめ隊士64人の名前を毛筆で書く。
午後7時から箕輪門前で灯籠を並べて記念撮影した後、堀に流す。
滋賀
大津で創作講談とバロック音楽のコラボ-音楽絵巻「淡海街道物語 幕末編」
大津で創作講談とバロック音楽のコラボ-音楽絵巻「淡海街道物語 幕末編」
大津市民会館(大津市島の関、TEL 077-525-1234)で7月17日、創作講談とオーケストラが演奏するバロック音楽がコラボレーションする新芸能音楽絵巻「淡海街道物語 幕末編」が開催される。
同公演は、クラシックコンサートと講談の2部構成。前半のクラシックコンサートでは、関西に拠点を置くテレマン室内オーケストラが「G線上のアリア」「カノン」などのスタンダードな曲目を演奏、後半は旭堂南左衛門さんによる講談を中心に、話しの合間にオーケストラが場面に応じた音楽を演奏し臨場感ある歴史ドラマをステージ上で展開する。
物語は、幕末に思いつめ死のうとする一人の武士といい加減なスリが草津の宿場町で出会うところから始まり、生きて行くことの真理を伝えるもの。台本は、同楽団代表代行で講談作家でもある中野順哉さんに依頼し、宿場町として栄えた近江の国の歴史に着想し地元大津や草津を舞台にしている。
同館担当の衣川大輔さんは「もともとは草津の綾羽高校から芸術鑑賞公演の依頼を受け企画したもの。公演は当日の午前中だったが、せっかくなら保護者や一般の人にも観てもらおうと夜の公演を追加した」と話す。
「講談では、聴きどころで畳み込むような口調で語る『修羅場読み』で飽きさせない工夫もしている。この公演を通じて講談の面白さやクラシック音楽の楽しさに気付いてもらえるきっかけになれば」とも。
18時開場、18時30分開演。料金は、一般前売り=1,500円、一般当日=2,000円、高校生以下前売り・当日とも=500円。
大阪
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/128 源聖寺坂 大阪市天王寺区 /大阪
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/128 源聖寺坂 大阪市天王寺区 /大阪
◇「聖俗同居」は昔から 相撲部屋のにぎわいも、今はなく
前回は愛染まつりに寄り道したが、いま一度、生国魂(いくくにたま)神社に戻って、天王寺七坂をたどることにしよう。
生玉さんの東門前に二つの石碑が並んでいる。「川崎孫四郎自刃の所」と「勤皇烈士贈正五位島男也(しまおのや)之旧居」。いずれも水戸藩士だ。はて、なぜ水戸藩士の碑がこんな所にあるのか?
大阪案内人の西俣稔さんが「桜田門外の変と関係があるんです」と解説する。安政の大獄に反発して大老、井伊直弼を亡き者にせんと、水戸藩の浪士らが図ったのが万延元(1860)年3月3日の桜田門外の変。これに合わせて大坂で倒幕の挙兵を計画、その準備のため、前年に大坂に変名で潜入したのが川崎孫四郎だった。
大老暗殺はなしおおせたが、大坂での挙兵計画は幕府の知るところとなり、身を隠したのが生国魂門前に居を構えていた島男也宅だった。島男也は水戸藩士だったが、浪人となって大坂で剣術指南をしているうち、倒幕運動にかかわっていく。
3月23日早朝、幕府方に踏み込まれ、川崎孫四郎は奮戦の末、自刃。島男也は捕らえられ、獄死した。島男也の碑は戦時中の1944年に、川崎孫四郎の碑は69年、水戸に住むひ孫たちが建立した。
幕末の動乱の一幕が、生玉さんのすぐ前で繰り広げられていたのだ。
広島
竜馬の「いろは丸」建造 福山市で来年、観光渡船に
幕末の志士坂本竜馬を主人公にした来年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」放映に合わせ、広島県福山市は、同市の景勝地・鞆の浦沖の瀬戸内海で竜馬が乗船中に衝突、沈没した蒸気船「いろは丸」を模した観光渡船を建造する。
その名も「平成いろは丸」で、鞆の浦と沖合に浮かぶ仙酔島を結ぶ市営の渡船として来年1月デビューの予定。市観光課は「竜馬役の福山雅治さんにロケで乗ってもらえたら」と期待している。
いろは丸は、伊予大洲藩が所有していた英国製蒸気船で全長約54メートル、約160トン。竜馬ら海援隊メンバーが諸藩に売る武器などを満載し、長崎から大坂に向けて備後灘を航行中の1867年4月、紀州藩の蒸気船「明光丸」と衝突し、えい航中に鞆の浦沖で沈没した。1988年、市民団体が潜水調査で船体を発見した。
平成いろは丸は全長約20メートル、19トンと小型だが、マストは3本立て、船内も木目調に。事業費は8千万円で、国の地域活性化・生活対策臨時交付金などを充てる。
高知
絵金限定グッズ初販売 18、19日香南で祭り
18、19両日に香南市赤岡町で開かれる恒例の「絵金祭り」で、祭りの運営資金や、幕末の絵師・絵金が描いた屏風(びょうぶ)絵の修復費用に充てようと、実行委員会が絵金の絵を表したTシャツなどの限定グッズを、今年初めて販売する。
Tシャツ(2800円、限定360枚)、トートバッグ(縦36センチ、横35・5センチ、2000円、限定200枚)、クリアファイル(300円、限定1000枚)の3種類。祭り当日、赤岡町の「弁天座」で上演される歌舞伎の演目に合わせ、絵柄はいずれも「義経千本桜鮓(すし)屋」。Tシャツとバッグの図柄は2種類ある。Tシャツは黒と白の2色で、サイズは5種類。
2007、08年の絵金祭りで、運営資金に数万円ずつ赤字が出たため、限定グッズの販売を企画した。実行委は収益の一部を赤岡絵金屏風絵保存会に寄付し、総額数千万円にのぼるとみられる修復費用の積立金に充てる。実行委事務局の香南市商工会は「好評であれば来年以降も続けたい」としている。問い合わせは事務局(0887・54・3014)へ。
幕末の絵師・絵金の限定グッズ、高知・香南で初販売
18、19両日に高知県香南市赤岡町で開かれる恒例の「絵金祭り」で、祭りの運営資金や、幕末の絵師・絵金が描いた屏風(びょうぶ)絵の修復費用に充てようと、実行委員会が絵金の絵を表したTシャツなどの限定グッズを、今年初めて販売する。
Tシャツ(2800円、限定360枚)、トートバッグ(縦36センチ、横35・5センチ、2000円、限定200枚)、クリアファイル(300円、限定1000枚)の3種類。祭り当日、赤岡町の「弁天座」で上演される歌舞伎の演目に合わせ、絵柄はいずれも「義経千本桜鮓(すし)屋」。Tシャツとバッグの図柄は2種類ある。Tシャツは黒と白の2色で、サイズは5種類。
2007、08年の絵金祭りで、運営資金に数万円ずつ赤字が出たため、限定グッズの販売を企画した。実行委は収益の一部を赤岡絵金屏風絵保存会に寄付し、総額数千万円にのぼるとみられる修復費用の積立金に充てる。実行委事務局の香南市商工会は「好評であれば来年以降も続けたい」としている。問い合わせは事務局(0887・54・3014)へ。
佐賀
佐賀城本丸歴史館 開館5周年記念 テーマ展「江藤新平とその時代」を開催します
佐賀県庁
佐賀城本丸歴史館は、江戸時代後期に完成した佐賀城本丸御殿の一部を復元した木造建物で、佐賀城の歴史や幕末・維新期の佐賀について常設展示を行うとともに、年5回の趣向を凝らしたテーマ展を開催しています。
本年度第2回目となるテーマ展『開館5周年記念 江藤新平とその時代』は、日本が近代国家へと向かう幕末・維新の激動期に生きた江藤新平の初代司法卿(法務大臣)として司法権の独立を進め裁判所を設置するなど近代司法制度の整備等に尽力した業績を、当時の遺品や書翰(しょかん)等の資料を中心にご紹介します。
また、8月には、お盆の期間を中心に灯籠飾りや手作り工作体験など、子どもたちと一緒に楽しく遊べるイベントを開催します。併せてどうぞお楽しみください。
1 会期
平成21年7月17日(金曜日)~8月31日(月曜日)【46日間】
2 開館時間
9時30分~18時00分
※8月1日(土曜日)及び10日(月曜日)~16日(日曜日)は20時まで開館します。
3 会場
佐賀城本丸歴史館 特別展示室(御小書院)
4 展示構成
(1)倒幕への序章~尊王論~
尊王論が高まり倒幕へと向かう。
(2)明治維新と戊辰戦争
戊辰戦争で新政府軍の征東大総督府軍監となり、旧幕府一掃の大きな一翼を担う。
(3)政治家 江藤新平~弱き民のための改革~
明治新政府において要職を歴任。初代司法卿となり、近代司法制度の整備に尽力する。
5 出品点数
36点
◆ギャラリートーク(当館学芸員による展示解説)
8月2日(日曜日)及び23日(日曜日)13時30分~(30分程度)
※佐賀城本丸歴史館HP
http://sagajou.jp/
【お問い合わせ】
佐賀城本丸歴史館
企画学芸課企画担当
電話 0952-41-7550
E-mail: sagajou@pref.saga.lg.jp
場所が近くだったら見に行きたいんですが……(苦笑)。
長崎
“龍馬に出したい創作料理” 長崎の料亭、今秋からメニューに
1813年創業の長崎市諏訪町の老舗「料亭一力(いちりき)」は今秋から、幕末の志士、坂本龍馬(35~67年)にちなんだ創作料理「龍馬!現(げん)」を昼限定メニューとして出す。
長崎に遊学し“日本薬学の祖”となった長井長義(45~1929年)の日記によると、土佐や薩摩の藩士らが一力にたびたび通っていた。郷土史に詳しい県参与の本馬貞夫さんは「記録はないが、龍馬もその中にいたかもしれない」と話す。
龍馬が設立した商社「亀山社中」跡に近く、来年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」放映を機に、来店が増えそうな観光客をもてなすために企画した。
女将兼社長の山本きよみさん(44)は「『もし龍馬が現れたら、こんな料理を出したい』と考え、料理の名前と献立を決めた」。和と洋の要素を織り交ぜて“ハイカラさ”を演出、彩り豊かで目でも楽しめる。龍馬が活躍した当時は渡来の砂糖が貴重だったのを踏まえ、甘味にもこだわった。価格3150円。要予約(電095・824・0226)。
献立は次の通り。
【先付】尾羽毛(おばけ=クジラの尾の方の肉)のからし酢みそあえ
【前菜】エビのアーモンド揚げ、オランダ揚げ、南蛮漬け、洋菜巻き、磯辺だし巻き、スイートポテト、生ハムチーズ巻き、牛丸(ぎゅうかん)、サケ黄身ずし、しそらっきょう
【焼き物】パイグラタン
【ご飯】鶏そぼろご飯
【わん物】潮汁(うしおじる)、針しょうが
【香の物】たくわんなど
【水菓子】バナナクレープ、くずもち、ミント
先日の「龍馬が焼いたカステラ」には「をいをい……(汗)」と思ったのですが、この「龍馬に出したい創作料理」はネーミング的にはセーフじゃないかと(苦笑)。
コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(19)東大教授・山内昌之 徳川斉昭
■スター政治家の宿命
麻生首相はようやく7月21日の衆院解散を決意した。今度の総選挙のスターになるのは誰だろうか。実際、どの時代でも政治にはスターが現れる。国民を大きな目標に向けて牽引(けんいん)する政治は、人を魅了し、期待を抱かせる人材を必要とするからだ。
しかし、政治のスターは、話題性と知名度があれば誰でもよいというわけではない。この真理は、今度の都議選でも証明されたのではないか。自民党の一部が総選挙の顔として立候補を打診した東国原英夫知事による中央政治の攪乱(かくらん)は、“スター”も分(ぶん)をわきまえないと、政治の質を無残にも破壊するという教訓を残した。
◆役人から庶民までの人気
地方自治の責任者が自民党総裁を衆院選立候補の条件としたのも滑稽(こっけい)である。ここまでくると、芸能と政治の世界を混然一体とするセンスやギャグめいた番組をいつまでも笑いながら視聴する自分らに、薄ら寒いものを感じた都民も多かったのではないか。
幕末が最初に生んだスターは何といっても水戸の徳川斉昭であろう。水戸黄門こと光圀(みつくに)以来の御三家でありながら、幕府のエリート老中たちに直言を憚(はばか)らぬ痛快さ、黒船到来に直面して攘夷(じょうい)決行を唱える明快さは、役人から庶民にいたるまで人気の的になった時期もある。
しかし、その政策にはいつもイデオロギーに現実を合わせる理論倒れの面がつきまとった。攘夷をどう実現するのかという段になると、異国船に談判と見せかけ乗り込み、抜刀して異人を斬り殺すといった知恵くらいしか浮かばない。寺院の釣り鐘を没収して作った青銅砲で異国船追い払いの実験をすれば、弾道が見えるほどゆっくり飛んでいく弾丸がポチャリと海に落ちる始末に見物人もあきれるほどだった。
◆水戸学は呪いの思想
徳川光圀このかた水戸学は朝廷尊崇と尊皇攘夷を正当化するイデオロギーであった。そこで海防参与として幕府の顧問になった斉昭は、解決不能の逆説をかかえて政治をせざるをえない。幕府の機密情報をせっせと朝廷に流し、双方の利益がぶつかれば幕府の利益を否定する政治顧問とは何なのか。
斉昭の観念論は幕末に志士をたくさん生み出したが、徳川御三家の水戸藩士が幕府の閣老らを襲撃する“テロリスト”になるのは、今のアルカーイダどころの騒ぎでない。水戸学は幕府と水戸藩をともに滅ぼした呪(のろ)いの思想である。
しかも、その影響を受けながら最後に勝利したのは、教養もなく歴史観や政治哲学にこだわらない薩長の田舎武士だった。このあたりに斉昭と水戸学の悲劇というより喜劇があったのだ。
スターが輝くのは期待値が高い間のことにすぎない。スターが期待された役割を果たせないと、人びとは無残にも見捨てるか、忘れてしまうかのいずれかである。斉昭は、大老井伊直弼(なおすけ)との一世一代の対決という日本政治史屈指の晴れの舞台で、これ以上はありえない主役となったが、井伊大老の不退転の意志と政治技術の前にたやすく敗北を喫した。人びとが囃(はや)し立てた水戸の老公のスターぶりは、幻想と空虚にすぎなかった。
賢い政治家なら自分で敵をつくるスター気取りなどはしない。斉昭には敵も多かったが、政治家同士が敵になるのは世のならいだから怖がっていても仕方がない。
しかし、庶民の期待が転じて反感に変わることほど怖いものはないのだ。小泉元首相は一種のスター政治家であったが、庶民を敵に回す不注意な刺激は慎重に避けていた。
それに引き換え、今度の芸能人知事の言動は都民の良質な部分から相当な反感を買ったようだ。サルは木から落ちてもサルだが、政治家は選挙に落ちればただの人だという言葉がある。スター性を失えば芸能人政治家は何になるのだろうか。
どの世界でもスターには絶頂とともに蝕(しょく)が訪れる。それがスター、つまり星の宿命というものなのだ。(やまうち まさゆき)
◇
【プロフィル】徳川斉昭
とくがわ・なりあき 寛政12(1800)年生まれ。江戸時代末期の常陸国水戸藩第9代藩主。江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜の父。文政12(1829)年、兄の第8代藩主、斉脩(なりのぶ)の跡を継ぎ、下士層から人材を登用するなど藩政改革に取り組む。弘化元(1844)年、極端な寺院圧迫などを理由に幕府から謹慎処分を受ける。謹慎後、嘉永6(1853)年のペリー来航後には幕政参与に就任。強硬な攘夷論を展開し、井伊直弼らと対立する。13代将軍・家定の跡継ぎ問題、日米修好通商条約の調印をめぐって政争を繰り広げ、朝廷や公家に幕府批判を働きかけた。安政5(1858)年、朝廷が水戸藩に幕府改革の主導権をゆだねたことで幕府から「安政の大獄」の弾圧が行われ、蟄居(ちっきょ)処分を命じられていた万延元(1860)年、61歳で死去した。
今読んでる『剣客斎藤弥九郎伝』で徳川斉昭の評価が高く、自分の視点との違いにとまどっていたところでしたので、山内教授評を読んですっきりしました。
まず「その政策にはいつもイデオロギーに現実を合わせる理論倒れの面がつきまとった」という点で、すっきり。
そして「斉昭の観念論は幕末に志士をたくさん生み出したが、徳川御三家の水戸藩士が幕府の閣老らを襲撃する“テロリスト”になるのは、今のアルカーイダどころの騒ぎでない。水戸学は幕府と水戸藩をともに滅ぼした呪(のろ)いの思想である」という点で、「尊皇攘夷思想の流れを汲むところの産経新聞に掲載される記事でここまで言い切ってもいいんかいっ(汗)」と焦りました。明治政府批判ではないからいいのか(ぷち苦笑)。
来年の大河ドラマ『龍馬伝』の出演者が追加発表されました。一番詳しいのはNHKのドラマトピックスブログではないかと思います。
「福山」龍馬を彩る豪華出演者を発表!
あちこちからツッコミがあることと思いますが、武市半平太のキャストが発表されて中岡慎太郎のキャストが発表されていないのは、次期発表の目玉に取っておくつもりなのでしょうか(苦笑)……山内容堂とか後藤象二郎とか桂小五郎とか、発表されていないキャストはまだまだいますからねぇ。
登場人物相関図を見る限り、幕府関係で登場する人物はかなり絞られる予感……幕末ヲタ、旧幕府寄りに好きな人物が多い白牡丹としては、幕臣は勝海舟ぐらいしかいないような描き方が続くのは勘弁して欲しいんだけどなぁ(爆)。
東京
<みんなのニュース>長州人の心意気 ふるさと萩の活性化、「東京在住」利点に
神奈川
「龍馬の焼いたカステラ」ゆかりのカステラ発売/横須賀
この記事を読む限り、「龍馬も食べた(かも)カステラ」ならまだしも、「龍馬が焼いたカステラ」ちゅーネーミングは誇大にならないのか……と、ちと気にかかります(苦笑)。
京都
<町衆と美 4>屏風祭
<町衆と美 4>屏風祭
関東でも今日は蒸し暑かったのですが、祇園祭りの頃の関西の蒸し暑さを思えば……風が吹いているだけまし、フェーン現象のような凄い熱風だけど(苦笑)。
山口
雑学セミナー:人気 話題や体験、趣味…市民が講演--萩 /山口
福岡
「観光丸」21年ぶり寄港 8月博多港 「龍馬伝」を前に公開
長崎
カツオ土佐煮、豚の角煮、サツマ揚げ 「船中八策メニュー」ぜよ 大村市のレストラン 「龍馬伝」にあやかる
バイキング料理「船中八策」考案 「龍馬伝」にちなみ大村のレストラン
亀山社中記念館:龍馬らの足跡学ぶ ガイド希望者、研修始まる /長崎
宮崎
都城市:「島津」で元気再生 地域資源活用し商品化--官民12団体・機関 /宮崎
「福山」龍馬を彩る豪華出演者を発表!
あちこちからツッコミがあることと思いますが、武市半平太のキャストが発表されて中岡慎太郎のキャストが発表されていないのは、次期発表の目玉に取っておくつもりなのでしょうか(苦笑)……山内容堂とか後藤象二郎とか桂小五郎とか、発表されていないキャストはまだまだいますからねぇ。
登場人物相関図を見る限り、幕府関係で登場する人物はかなり絞られる予感……幕末ヲタ、旧幕府寄りに好きな人物が多い白牡丹としては、幕臣は勝海舟ぐらいしかいないような描き方が続くのは勘弁して欲しいんだけどなぁ(爆)。
東京
<みんなのニュース>長州人の心意気 ふるさと萩の活性化、「東京在住」利点に
東京にいることを利用して、ふるさとの活性化に尽くす団体がある。山口県萩市出身の首都圏在住者でつくる「萩大志館」だ。仕事や学業の合間をぬい、それぞれがつちかった技術やアイデアを萩の活性化にも役立てようとボランティアで活動する。熱い志で今夏、特産品の売り込みに成功した。
萩大志館は06年8月に設立。物産展を開くこともあれば、個々が独自に考えた方法で萩をPRしてまわる。「構えることなくやっています。たとえば居酒屋に入ると、店の人との雑談で『萩には瀬付きアジやイカなど海の幸が豊富です』と宣伝しています」。こう語るのは、代表を務める井関隆行さん(33)だ。井関さんも動画配信事業の会社に勤めながら“二足のわらじ”をはく。
◇東京で萩の夏みかんジュース 生産者と企業をつなぐ
井関さんが目をつけたのは、萩の特産品の一つ、夏みかんだ。「ここ数年、ジューススタンドが多くなっている。珍しい夏みかんジュースだったら売れるかもしれない」。夏みかんの売り込みへ、企画書を手にジューススタンドに飛び込み営業をかけた。偶然にもある店舗の店長が地方出身者だったことから、ふるさとへの思いに共感してもらい、果実ジュースなどを扱うナチュラルステーション(東京都渋谷区)に販路が開けた。
夏みかんは、萩市内で無農薬栽培を手がける竹中一男さん(59)が出荷する。竹中さんは加工菓子の開発も積極的に展開している。地元では従来、規格外のものはポン酢などに加工されるだけだったが、ジュース用は収穫したままを送ればよく加工の手間がないうえ、実勢価格で販売できる。竹中さんによると、収穫した約4割がサイズやキズなどの理由で加工用に回っている。
竹中さんは昨年、1000坪の畑に夏みかんの苗木600本を植えた。「萩では夏みかん畑が減少しているが、このまま絶やしたくはない」と、萩大志館の取り組みが夏みかんの復興にもなると期待を寄せている。
萩の夏みかん生搾りジュースは08年に、ナチュラルステーションの1店舗で試験的に提供を開始。反響もあって今年は4店舗に拡大、本格的な取り組みが始まった。夏みかん独特の酸味とさわやかさが受け、全4舗を合計すると、平均1日で約100杯が出る好評ぶり。ナチュラルステーションでは「夏みかんという果物の価値に加え、生産者の顔が見えることが大きい」と今回の提携を歓迎する。
生産者は収穫した果実を東京に送り、企業はそれを搾ってジュースにして店頭に出す。簡単なようで、これを生産者がビジネスとして成り立たせるには、企業開拓を含め、何度も上京しなくてはならない。企画立案から交渉までを井関さんが担うことで、地元側には事業化のリスクやコストを大きく軽減できるメリットが生まれた。
◇身近なものを再発見 萩でも活動に呼応
井関さんが夏みかんを取り上げたのには、もうひとつ理由があった。萩の夏みかん栽培は明治維新後、職を失った武士たちが手がけたのが始まりで、昭和中期は萩を代表する産業だった。しかしオレンジをはじめとする輸入果実や甘夏の台頭などで、近年は栽培が減少している。一方で市内では、一般家庭でも夏みかんの木を植えていることも多く、5月ごろは夏みかんの花の甘い香りで市内が包まれ、萩の風物詩になるほど。井関さんは「萩の生活と切っても切れない夏みかんが、東京で商品となるインパクトは大きい。身近なものに何かが起こることで、地元の人に『がんばれば何かできるかもしれない』という気持ちになってもらいたい」と語る。
東京での動きに呼応して、萩でも有志が5月にボランティア団体「萩LOVE」を設立した。さっそく7月5日に市内で開かれたイベントで、夏みかんの生搾り体験のブースを開設。用意した300玉が2時間で完売したという。今後は竹中さんに委託し、果実の生搾り機と夏みかんをセットにしてイベントなどへの貸し出しを企画している。
メンバーの一人、中村浩二さん(32)は「夏みかんそのものが珍しくなりつつある中で、子供たちにふるさとの味を知ってもらいたいと企画した。それが萩の活性化につながる」と話し、萩大志館と連携を密にし、活性化に弾みをつけたいと意気込む。
◇地域活性化のモデルケースになれば
萩大志館のメンバーは現在20~63歳の約100人。「学業や仕事があって萩に帰りたくても帰れない人たち」が、「東京で萩をPRしたくても、経費などの問題でPRできない人たち」の代わりとなり活動する。最近では商工会などの委託を受け、都内で商品のサンプリングなども行っている。井関さんは「東京にある萩の大使館の役割を担うので、『萩大志館』です」と表現する。
「長州の人間は物事に対してそれが理にかなっているか、志のあるものかどうかを、一度自分の中に落として考えます」と井関さん。「そこで納得が行ったとなると、一気に行動に移すのも長州の人間です。私たちの考え方の根底には吉田松陰先生があって、行動は高杉晋作や久坂玄端たちに似ているかもしれない」。「志」という言葉をてらいなく口にし、実行する萩大志館のメンバーたち。幕末の志士たちの原動力が明治の世をもたらしたように、萩大志館の活動が地域活性化のモデルの一つになればと願っている。【江刺弘子】
神奈川
「龍馬の焼いたカステラ」ゆかりのカステラ発売/横須賀
坂本龍馬の熱烈なファンという横須賀市内の飲食店主、斎藤秀一さん(44)が企画したカステラが発売された。その名も「龍馬の焼いたカステラ」。龍馬自身が焼いた史実はなさそうだが、「龍馬はカステラと縁があり、販売を計画していたかも」と幕末に思いをはせている。
中学時代から龍馬に心酔し、現在は同市日の出町で「やきとり竜馬におまかせ」を経営。「龍馬は浦賀に黒船を見に行ったとする話があります」と地元とのかかわりを語る斎藤さんには、市内で晩年を送ったという妻おりょうと龍馬をテーマにした著作もある。
斎藤さんは、龍馬や海援隊士らの手による雑記帳として伝わる「雄魂姓名録」(京都国立博物館蔵)にカステラのレシピが載っているのを知り、それを基に菓子店「精栄軒」(同市西浦賀町)に試作を依頼。「それがいける味だったので商品化が実現しました」
斎藤さんによれば、龍馬とおりょうが日本最初とされる新婚旅行をした際、カステラをお弁当代わりに持っていったとの逸話もあるという。「カステラは龍馬とゆかりの深いお菓子。横須賀発の1品になれば」と期待している。
龍馬、おりょうの2種類のラベルがあり、縦12センチ、横9センチのサイズで1本850円(消費税込み)。精栄軒=電話046(841)0123=、やきとり竜馬におまかせ=電話046(825)8727=で販売している。
この記事を読む限り、「龍馬も食べた(かも)カステラ」ならまだしも、「龍馬が焼いたカステラ」ちゅーネーミングは誇大にならないのか……と、ちと気にかかります(苦笑)。
京都
<町衆と美 4>屏風祭
<町衆と美 4>屏風祭
14日午後、八幡山(はちまんやま)の会所(中京区新町通三条下る)に、約350年前、江戸時代前期の山鉾(やまぼこ)巡行の様子が描かれた屏風(びょうぶ)が飾られた。「紙本金地著色祇園祭礼図」(六曲半双、縦約1・1メートル、横約3・1メートル)。巡行は1965年まで前祭(さきまつり)と後祭(あとまつり)に分かれており、豪華な懸装品(けそうひん)で装飾された八幡山や橋弁慶山、幕末に焼失した大船鉾など後祭に参加する山鉾が巡行する様子が金地に描かれている。
絵師・海北友雪(かいほうゆうせつ)(1598~1677年)の筆とされる。会所の蔵にしまいこまれていたが、1984年、市の文化財に指定された。日頃は京都国立博物館(東山区)に寄託。年に一度、宵山の期間中(14~16日)だけ地元に戻る。酷暑の中、設置作業を見守った後藤正雄・八幡山保存会理事長(61)は「ここに飾ると、背筋が伸びる。この町の人間が大切に守ってきたものを、次へとつなぐのが私たちの使命」と語った。
同祭礼図には、沿道の町家の奥に花や草をあしらった屏風が見える様も描写されている。祇園祭に合わせて商家などが家宝を飾る「屏風祭」がこの時代すでに、盛んだったことを示す貴重な資料だ。
屏風祭の起源について、岩間香摂南大教授(日本美術史)は「神を迎え、人を迎えるハレの場を作る。また、虫干しも兼ねて、町衆の底力を見せつけるかのようなお宝を披露するという意味合いもあったのでは」とみる。各家が自主的に飾るため、全容はわからないが、岩間教授らが調査したところ、2006年には計約200件を確認したという。
山鉾町以外にも広がっており、町家だけでなく、ビルでも行われている。1階の管理人室に高さ2メートル、幅3・5メートルの窓があるマンション(中京区錦小路通油小路東入る)では15日、日本画家西村五雲(1877~1938年)が虎を描いた屏風(六曲一双、各縦約1・8メートル、横約4メートル)を置く予定だ。築約110年の町家を2000年に建て替える際、この時期のために特別に設計した。
大家の永井祟博さん(48)によると、03年に78歳で亡くなった父の正男さんが強く希望したという。町内に山鉾はないが、祇園祭が近付けば蔵から屏風を出すのが家の習わしだった。永井さんは「父にとって屏風祭に加われないというのは考えられなかったのでしょう。山鉾町でなくても、何かの形で祭に参加してきた町衆の気概を伝えていきたい」と話す。
「祇園の祭を一名屏風祭とも称(よ)ぶ――私にとって、この屏風祭は他のどの祭よりも愉(たの)しかったものである」。女性で初めての文化勲章受章者となった日本画家の上村松園(1875~1949)は、商家でスケッチに没頭した若い頃を、随想録「青眉抄」でつづっている。時代は変わっても、祇園祭の熱気の中で、それぞれの記憶が詰まった屏風を眺めていると、時のたつのを忘れることだろう。
関東でも今日は蒸し暑かったのですが、祇園祭りの頃の関西の蒸し暑さを思えば……風が吹いているだけまし、フェーン現象のような凄い熱風だけど(苦笑)。
山口
雑学セミナー:人気 話題や体験、趣味…市民が講演--萩 /山口
今年で14年目を迎える「萩おもしろ雑学セミナー」が、萩市江向の市中央公民館で開講した。講師の謝礼や参加費、会場使用料も無料という手作りセミナー。さまざまな経験を持つ市民が、身近な話題から体験、趣味などを自由に話す講座は根強い人気を集めている。
セミナーには、市中央公民館の通常セミナーと、各地の公民館で開かれる移動セミナー(6月中旬に既に開会)がある。3日は、通常セミナーの開会式後、解体業の同市玉江浦の森田栄介さん(72)が「私を支えた美と骨董(こっとう)」の演題で講演。家屋解体の際、ふすまの下張りに使われた江戸中期や明治時代の手紙などを収集。その中に幕末の志士、桂小五郎(木戸孝允(たかよし))らの手紙から新事実が浮かび上がったことなどを話した。
17日は助産師が「チェア・エクササイズ」▽24日は陶芸家が「オトーサンの子育て記」を講演する。通常セミナーは、金曜午後7時~9時、移動セミナーは各地の公民館で開かれている。問い合わせは市文化・生涯学習課(0838・26・5636)。【川上敏文】
福岡
「観光丸」21年ぶり寄港 8月博多港 「龍馬伝」を前に公開
幕末の幕臣や藩士らが航海術を学んだ長崎海軍伝習所の練習艦を復元した「観光丸」(353トン)が8月、福岡市の博多港など4カ所を回航し一般公開される。同船が博多湾に優美な姿を見せるのは21年ぶり。長崎県の企画で、来年放送のNHK大河ドラマ「龍馬伝」に合わせて船内に長崎時代の坂本竜馬を紹介するパネルなどを展示し、無料の公開講座も開く。
政変で京都を追われた勤王派の三条実美と竜馬は、福岡県太宰府市で倒幕の話し合いをしたとされており、長崎県は「竜馬ゆかりの地である福岡で、幕末の志士の気分を味わってほしい」としている。
寄港地は神戸、広島、松山、福岡の4市。福岡市は21日に寄港。一般開放は22日午前10時-午後5時で、午前11時、午後1時半、同3時からの計3回、幕末の長崎を紹介する公開講座「旅する長崎学」を行う。
観光丸は1855年にオランダ国王から徳川幕府に贈られた日本初の蒸気帆船で、竜馬の師の勝海舟や榎本武揚が幕府海軍の操練に使用した。1987年に旧長崎オランダ村(長崎県西海市)が観光用に約12億円を投じて建造し、92年にハウステンボス(同県佐世保市)が引き継いだ。
全長約66メートル、メーンマストの高さ32メートルで、船体、客室の彫刻など往時の姿が忠実に復元されている。現在、長崎県がハウステンボスから借りて横浜市の開港150周年記念イベントで8月9日まで使用。イベント終了後の帰途に博多港などに立ち寄る。
長崎
カツオ土佐煮、豚の角煮、サツマ揚げ 「船中八策メニュー」ぜよ 大村市のレストラン 「龍馬伝」にあやかる
来年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」にあやかり、大村市中里町の「鈴田峠農園野鳥の森レストラン」が14日、主人公の坂本竜馬ゆかりの高知県や長崎県などの郷土料理8品をそろえた「船中八策メニュー」を始めた。
「船中八策」は竜馬が幕末、船中で示した8カ条の新国家構想で、「船中八策メニュー」にも明治新政府の中心となった長州(山口県)や薩摩(鹿児島県)などの料理を加えた。
レストランはバイキング方式で、船中八策メニューとして、カツオの土佐煮(高知)、豚の角煮(長崎)、フグの空揚げ(山口)、サツマ揚げ(鹿児島)などがあるほか、「地元代表」として大村寿司(ずし)などもある。
同レストランでは味付けやメニューをさらに改良し、「船中八策弁当」の限定販売も計画している。
大村市には昨年、龍馬伝の制作者らが視察に訪れており、同市は県内のロケ候補地の1つ。同レストランでは「思いが詰まった船中八策メニューで、地元が盛り上がっていることを示したい」とアピールしている。
バイキング料理「船中八策」考案 「龍馬伝」にちなみ大村のレストラン
2010年に放映するNHK大河ドラマ「龍馬伝」にちなみ、地域活性化につなげようと「鈴田峠野鳥の森レストラン」(大村市中里町)がバイキング料理「船中八策」を始めた。大村すしや四国、鹿児島など各郷土料理をふんだんに盛り込んでおり、幕末の大河ロマンに思いをはせる品々だ。
同レストランの當麻謙二マネジャーが大河ドラマの撮影を地域活性化につなげようと企画。大村市総務法制課の稲富裕和参事に相談し、大村藩の渡辺昇が、坂本龍馬から頼まれ、長州藩と薩摩藩の薩長同盟実現に貢献したことを知った。龍馬は渡辺と同乗した船内で、8カ条の国家構想「船中八策」を起草したとされており、バイキング料理のネーミングに用いることにした。
「船中八策」は大村藩、土佐藩、長州藩、薩摩藩をイメージ。大村すしをはじめ、土佐煮やさつまあげ、フグの空揚げ、龍馬が好んだ卓袱(しっぽく)料理から角煮などを盛り込んだ。14日に提供を始め、食べた人にアンケートを実施して内容を練り上げ「龍馬伝 船中八策弁当」を作る計画という。
當麻マネジャーは「大村市で龍馬伝のロケが行われるよう盛り上げていきたい」と意気込む。14日の試食会で船中八策料理を味わった松本大村市長は「大村の歴史を生かしており、ひと味違う感じがする。タイムリーでアイデアが良い」と絶賛し、舌鼓を打った。
亀山社中記念館:龍馬らの足跡学ぶ ガイド希望者、研修始まる /長崎
◇「亀山社中記念館」来月1日オープン
幕末の志士・坂本龍馬の商社「亀山社中」跡(長崎市伊良林2)に「亀山社中記念館」が8月1日にオープンするのを前に、同館に常駐するガイド希望者の研修が14日始まった。まち歩き観光「長崎さるく」の市民ボランティアガイド約30人が参加、龍馬らの長崎での足跡を学んだ。
16日までの3日間にガイド90人が研修を受ける。開館後は常時1人が詰め、希望する観光客に建物構造や展示物を無料で案内する。
研修では、シーボルト記念館係長で「現代龍馬学会」会員の織田毅さん(47)が講師を務め、館内を解説。初公開となる中2階について「龍馬は常に命を狙われており、ここが緊急避難的な隠れ部屋として使われた可能性はある」と説明した。
参加した伊達徹也さん(68)は「若者が情熱を持って結集したこの場所が、再公開されるのは素晴らしい。多くの人に見てほしい」と語った。【錦織祐一】
宮崎
都城市:「島津」で元気再生 地域資源活用し商品化--官民12団体・機関 /宮崎
都城観光協会や都城青年会議所、市など都城市内の12団体・機関でつくる「都城にあるもの活用協議会」が、今年度から2年計画で地域資源(あるもの)を発掘・活用してまちの元気を取り戻すプロジェクトに取り組む。都城島津家の歴史や農畜産物を生かした商品開発など、3分野16事業を盛り込んだ計画案が国の「地方の元気再生事業」に選定され、初年度事業費1330万円の支援が決まった。
題して「『都城にあるもの』探しによる地域価値最大化プロジェクト」。全国有数の産地である農畜産物をはじめ、都城島津家の歴史、霧島連山の地質遺産、経験豊かな高齢者の四つの「地域資源」に着目し、商品開発、人材育成、情報発信の各分野で活用する。
まず商品開発。幕末の薩摩藩主・島津斉彬が都城を訪れた際に打ち上げた「巡検花火」や、島津本家の財源だった密造寒天の製品化、都城の農産物を使った洋菓子や鍋料理の開発などに取り組む。人材育成では、高齢者らを対象に歴史ガイドボランティアなどを年間100人育成する。さらに都城島津と霧島を巡るモニターツアーなどを実施し、情報発信する。
二見重弘・市企画部長は「(16事業のうち11事業を占める)都城島津家の歴史にかかわるものが柱になる。農畜産物も素材供給だけではなく、新たな商品を開発して付加価値を付けるようにしたい」と話している。【木元六男】
関東でも、やっと梅雨が「明けたらしい」宣言が出ました(何か、しまらんなぁ^_^;)。昨日よりは湿気が低いですが、30度超えると暑いですねぇ……最近、どうも冷房に弱くなった模様で、窓開けて暑さをしのいでます。
宮城
「咸臨丸」縁で、交流へ
福島
勢津子さまの遺品展示/18日から若松城博
愛知
豊橋PR「ええじゃないか」
京都
祇園祭の解説マップ作る 三条小橋商店街振興組合
祇園祭の解説マップ作る
三条小橋商店街振興組合
熊本
熊本城天守閣の金箔張りの襖、畳、障子を再現!
長崎
講演会:大河ドラマ「龍馬伝」脚本担当ら、長崎で 一足早く世界観にひたる /長崎
講演会:大河ドラマ「龍馬伝」脚本担当ら、長崎で 一足早く世界観にひたる /長崎
宮城
「咸臨丸」縁で、交流へ
幕末に勝海舟らを乗せて米国に渡航する一方、白石市の片倉家家臣団が最後の乗船者となった「咸臨丸」。それが縁で、白石市と北海道木古内町との交流が始まりそうだ。木古内町の観光協会長ら10人が白石市を初めて訪問し、出迎えた市観光協会の代表らと懇談するなどして「今後のおつきあい」を確認。一行は12日、片倉家の菩提(ぼだい)寺なども訪ねた。 明治に入り、咸臨丸は北海道開拓の運搬船として主に使われた。だが1871(明治4)年、開拓に向かった同市の片倉家家臣団401人を乗せたまま木古内町のサラキ岬沖で座礁、沈没した。家臣団は全員救助されたが、咸臨丸は家臣団の荷物とともに、今も海底に眠っているという。
11、12日に訪れたのは、咸臨丸を生かしてまちおこしをしている観光協会と町民グループ「咸臨丸とサラキ岬に夢見る会」の代表、「咸臨丸子孫の会」の横浜市の会員ら。
白石市役所で市観光協会の会員らが歓迎。佐藤善一会長は今回、家臣団と咸臨丸の関係を学んだと言い、「家臣団の苦労を知る機会を作ってもらえた。よろしくおつきあいをお願いします」と話した。木古内町観光協会の東出文雄会長は8月に「咸臨丸まつり」を開いていることなどを紹介し、「交流を深めていきましょう」と答えた。
福島
勢津子さまの遺品展示/18日から若松城博
秩父宮妃勢津子さまの生誕100年を記念し、18日から会津若松市の若松城天守閣郷土博物館で開かれる企画展「戊辰戦争後の会津」の展示内容が固まった。
勢津子さまの十二単(ひとえ)やお守り刀などを公開するほか、戊辰戦争後に会津藩がたどった苦難の歴史を紹介する。
勢津子さまは最後の会津藩主松平容保公の孫で、昭和3年9月の秩父宮さまとのご成婚は、それまで「朝敵」の汚名を着せられていた会津の人々に大きな喜びを与えた。
今年は勢津子さまの生誕から100年に当たる上、戊辰戦争で敗れた会津藩の松平家が再興を許され、斗南藩(現在の青森県東部)の領地を受けて140年目となることから、「戊辰戦争後」をテーマにした。
愛知
豊橋PR「ええじゃないか」
豊橋商工会議所青年部メンバーらで結成した豊橋をPRする「ええじゃないか行脚隊」は12日、伊勢神宮を参拝。内宮門前にある「おかげ横丁」や門前商店街を訪れ、幕末に起こった「ええじゃないか」の仮装や踊りなどのパフォーマンスを披露。豊橋をPRした。
午前11時、参拝客らでにぎわう内宮門前の商店街に姿を現した一行は、白塗り、女装姿の「ええじゃないか装束」で登場。例年をはるかに上回る約80人が「ええじゃないか豊橋」と書かれたのぼりや大うちわなどを手に練り歩き、商店の歓迎を受けた。
おかげ横丁内の神楽では、炎の祭典などを紹介し豊橋への来場を呼びかけた。その後、神楽の上から“お札まき”を行うパフォーマンスをした。
4回目を迎えた「お伊勢参り」で、今年は長く交流を続けてきた伊勢の青年部のメンバーら20人も参加。豊橋・伊勢青年部が共同で盛り上げた。
権田のり子実行委員長は「今回は、伊勢の青年部メンバーをはじめ多くの人が協力してくれたおかげで大いに盛り上がった。今後もお互いに協力していきたい。来年のお伊勢参りは節目の5回目なので、さらに大きな規模でできれば」などと話した。
京都
祇園祭の解説マップ作る 三条小橋商店街振興組合
祇園祭の解説マップ作る
三条小橋商店街振興組合
三条小橋商店街振興組合(京都市中京区)は、新型インフルエンザの影響で減った観光客を呼び戻すため、初めてクーポン券付き「祇園祭解説マップ」を作った。各店舗や近隣のホテルで無料配布している。
マップには、祇園祭の山鉾の解説や巡行コースの地図を掲載し、商店街に加盟する約50店舗の紹介や特典付きクーポンもつけた。幕末の池田屋騒動の概要も紹介している。縦25・5センチ、横14・5センチの折りたたみ式。カラー刷りで、1万5000枚製作した。
組合の大西弘太郎副理事長(55)は「商店街が協力することで、祇園祭を機会に観光客を呼び戻したい」と話している。
熊本
熊本城天守閣の金箔張りの襖、畳、障子を再現!
歴史ブームである。昨年のひこにゃんに始まり、「歴女」や「戦国武将萌え」という女性歴史ファンの話題がマスコミを賑わしている。戦国時代&幕末の歴史オタクとしては、まことに喜ばしい。
歴史オタクにとり、戦国と言えば思い浮かぶのはまず「城」だ。これまでの城遍歴は、松本城、松代城、小諸城、姫路城、もちろん江戸城(皇居だけど)と数多いが、やはりイチオシは熊本城だ。戦国時代に加藤清正が築城し、その後加藤氏の改易により細川氏の居城となり、明治維新を迎えた天下の名城である。西南戦争では天守閣こそ焼け落ちたが西郷隆盛率いる薩軍の猛攻に耐え、今日までその姿を残している。
ミュージアムモデル並のクオリティ「1/144スケール 熊本城」
プラモデルメーカーGSIクレオスの「神瞰 和・名城シリーズ」企画担当者も、「熊本城こそ日本最強の城」派に違いない。数ある日本の城の中から、シリーズ筆頭として熊本城が登場するのだ。現在の熊本城は1960年に再建され、天守閣内部は博物館である。2006年には一口城主として民間から寄付を募り、本丸御殿も復元された。一方、GSIクレオスの「神瞰 和・名城シリーズNo.1 1/144スケール 熊本城」では、各種資料をもとにオリジナルの天守閣内部を再現。低価格の城郭プラモデルと異なり、梁や柱にいたるまでの内部構造をキッチリ再現しており、ミュージアムモデル並のクオリティと評判だ。
長崎
講演会:大河ドラマ「龍馬伝」脚本担当ら、長崎で 一足早く世界観にひたる /長崎
講演会:大河ドラマ「龍馬伝」脚本担当ら、長崎で 一足早く世界観にひたる /長崎
09年に放送されるNHK大河ドラマ「龍馬伝」の脚本を担当する福田靖さん(47)と、チーフ・プロデューサーの鈴木圭さん(47)の講演会が11日、長崎ブリックホール(長崎市茂里町)であった。約500人が一足早くドラマの世界観の一端を楽しんだ。
長崎市のまち歩き観光「長崎さるく幕末編」の一環として実施された。福田さんは、坂本龍馬について「いきなり英雄だったのではなく、身分社会の差別を受け、卑屈になったりしながら志を持ち、夢をかなえた時には国のシステムまで変えていたと思う。普通の若者が『龍馬』になる、そんな成長を1年かけて描きたい」と意欲を語った。
また、鈴木さんは「(ドラマで)長崎が主な舞台になるのは9月以降。この時代の長崎の華やかさとエネルギーはドラマでは非常に重要で、グラバーや大浦慶と登場人物も多彩。楽しい物語になる」と語った。【錦織祐一】
〔長崎版〕
東京都議会議員の選挙に行ってきました。たぶん、2007年末に転居してきて初めての投票です……地元の投票所がどこか、投票用紙が届くまで知らなかったので(汗)。
北海道
ニュースワイド:函館開港150周年 港町の歴史、世界へ発信 /北海道
函館学で「箱館八景扇面図」解説
堀織部正利熈《としひろ》のことですね。
函館百珍と函館史実「箱館奉行 堀織部正利熈」
wikipedia 堀利煕
wikipediaの掘の略歴には入ってませんが、榎本武揚が19歳の時、箱館奉行掘利熈の従者として樺太探検に参加しています。
43歳で切腹って……能力のある人物がこういう形で歴史の舞台から姿を消すのは、とても残念なことです。掘の功績や人柄がもっと知られるようになればいいなぁ(自分ももう少し勉強しておかねば^_^;)。
宮城
北海道の視察団が白石城など見学 片倉家家臣団が縁
宮城県白石、母方の祖母の出身地なのでいつかは訪れたいと思っています。
滋賀
安政の大獄から150年 井伊家当主、松陰の墓参りへ
長崎
龍馬伝プロデューサーら講演 「長崎は第3部、大きな見せ場」
北海道
ニュースワイド:函館開港150周年 港町の歴史、世界へ発信 /北海道
◇水産・海洋で学術都市へ
函館市は幕末の開港から150周年を迎えた。地方経済の苦境が続くなか、市は「改めて港町・函館の歴史を振り返り、世界に発信する契機にしたい」(西尾正範市長)と意気込む。2015年の北海道新幹線開業を見据え、新たな街づくりとして「国際水産・海洋都市構想」を進めるほか、昨年から市民活動として始まった「国際民族芸術祭」などの文化振興を通じ、低迷する観光にも活路を開きたい考えだ。だが、いずれの取り組みも緒に就いたばかりで、将来展望として見極めるにはなお時間がかかりそうだ。【佐藤心哉、昆野淳】
●研究の拠点
「記念の節目を迎えて大きな支援を得られ、今後の大きなステップとなる」
開港150周年を祝う記念式典が開かれた2日後の今月3日、西尾市長は急きょ記者会見を開き、念願だった文部科学省の「知的クラスター創成事業」に市の提案が採用されたと喜び勇んで報告した。道南近海の海洋研究に5年間にわたって計15億円規模の研究費が投下される。2013年に第1期の共同研究施設の開設を目指す「国際水産・海洋都市構想」で、官民の研究部門の具体的な誘致話を進めるうえでの「呼び水」となる研究助成だ。
構想は、市と経済団体などが03年に策定。市西部地区の海岸ふ頭にある旧函館ドック跡地(23ヘクタール)に水産・海洋分野の大規模な共同研究施設を設け、大学などの研究施設のほか、民間企業を誘致する計画だ。
もともとは独立行政法人化などの大学改革に伴い、市内にある北大水産学部の存続に危機感を抱いた地元経済人らが、撤退回避策として考案したのが始まり。そもそも津軽海峡に面する函館近海は対馬、リマン、親潮の三つの異なる海流が入り込み、暖・寒流双方の生物が生息する海域で、海洋研究にとって恵まれた環境にあった。
●海藻の宝庫
特に函館山の立待岬を中心とした約100キロの沿岸域は、確認されているだけで150種類以上に上る「海藻の宝庫」。新たな海洋資源による新産業や雇用創出策として再認識され国から04年に地域再生計画の認定を受け、具体的な計画実施への準備を急いでいる。
施設本館や研究用取水施設の整備など、第1期の基本計画(延べ約6000平方メートル、事業費約30億円)は年度内にも策定され、基本設計に入る予定。施設内には北大の水産研究の一部施設や北方生物圏フィールド科学センター水圏ステーションを集約したい考えで、将来的には道立函館水産試験場や水産総合研究センター(旧水産庁研究所)の一部施設の誘致をもくろむ。
●不況下の挑戦
しかし、具体的な移転案については北大や道でも正式な検討スケジュールにも上がっておらず、「水面下の動きにとどまっている」(道水産振興課)。市幹部は「合意はおおむねできており、年度内にも見通しはつく」と自信を見せるが、本格的な交渉はこれからだ。また、企業誘致も「まずは食品や医薬品などにいかせる有益物質の発見、開発が前提」(業界関係者)とされ、世界不況下で企業の研究開発費も抑制されるなかで簡単にはいかない状況だ。
◇新たな魅力づくり--国際民族芸術祭・国際科学祭
開港150周年を機に、市が観光振興や新たな魅力づくりとして支援に力を入れているのが、国際民族芸術祭と国際科学祭の二つの市民イベントだ。
国際民族芸術祭は、地元音楽グループの「ひのき屋」が中心になり、昨年8月に初めて開催した民族音楽・舞踊のイベント。東欧など世界10カ国から約150人が参加し、約1週間の期間中、延べ1万人の観客を集め、市民らに好評だった。
きっかけは、「世界を旅するトラベリングバンド」と称し、国内外で和太鼓や篠笛(しのぶえ)など和楽器を中心にした演奏活動を続けている「ひのき屋」が、02年にクロアチア・ザグレブで開かれた民族芸術イベントに参加したことだった。メンバーの雨宮牧子さんらによると、世界では同様のイベントが数々開催されているというが、日本ではあまり目立ったものがなかった。「ぜひ自分たちの地元でやりたい」と市民有志で組織委員会をつくり、海外で知り合ったグループらに出演を依頼し実現させた。
今年は開港150周年の記念イベントの一つとして8月7~13日に開き、アイルランド舞踏団のほか、スペインやイタリア、太平洋クック諸島など11カ国・地域から約200人が参加する。5万人の観客動員を目指しており、市は「開港は函館の国際交流の原点。夏のイベントとして定着すれば観光面でも期待できる」と、会場運営費などを一部補助し支援する。
国際科学祭は、公立はこだて未来大や道教大函館校など市内の大学教員らでつくる「サイエンス・サポート函館」(代表・美馬のゆり同未来大教授)が今夏初めて開催する体験型イベント。国内外の研究者を招いたトークや科学実験ショーなどを開き、8月22~30日の9日間、市西部、五稜郭、湯川地区の3会場で実施される。
美馬教授らは、市民の科学技術に対する関心や社会問題にかかわるリテラシー(識別・判断能力)を高めようと、昨年から市民向けのセミナーを開いている。科学祭は科学技術振興機構(JST)の助成を受け、当面3年は実施する予定で、来年からは「国際水産・海洋都市構想」に連動し、食や水産科学をテーマにしたイベントを開く計画だ。
西尾市長は「単に大きなプロジェクトをやることが街づくりではない。未来への遺産として、人を育て、市民が元気に、世界に向かって活動できる街づくりをしていきたい」と思いを語る。
函館学で「箱館八景扇面図」解説
市内8高等教育機関で構成するキャンパス・コンソーシアム函館の合同公開講座「函館学2009」の第3回「箱館八景扇面図 考」が11日、函館国際ホテルで開かれた。約320人が参加。講師の山形周文さん(山形法律事務所事務局長)が、幕末の函館の様子を記した貴重な資料について詳しく解説した。
函館市中央図書館が所蔵する箱館八景扇面図は、今から約155年前に作られた。駒ケ岳、立待岬、函館山など八カ所について、8人の作者が詠んだ「七言絶句」の漢詩と墨絵の風景画を両面に配した扇を、はがして裏打ちし上下二段に並べて一本の掛け軸に表装したもの。
山形さんは、駒ケ岳の夕暮れの雪景色を詠んだ「駒嶽暮雪」の作者である堀織部(1818-1860)にスポットを当てた。江戸に生まれた堀は、優秀な成績で幕府官吏となり、嘉永6(1854)年に箱館奉行に任ぜられた。「駒嶽暮雪」は箱館奉行時代に詠まれたもので、大自然の美しさを絶妙に表現しながら遠い故郷を思う気持ちも垣間見える。山形さんは「堀は蝦夷地の開拓に力を注いだ偉大な存在だったが、切腹自殺による悲劇的な最期を遂げている。謎の多い彼の自殺の真相についても掘り下げていきたい」と話した。
堀織部正利熈《としひろ》のことですね。
函館百珍と函館史実「箱館奉行 堀織部正利熈」
wikipedia 堀利煕
wikipediaの掘の略歴には入ってませんが、榎本武揚が19歳の時、箱館奉行掘利熈の従者として樺太探検に参加しています。
43歳で切腹って……能力のある人物がこういう形で歴史の舞台から姿を消すのは、とても残念なことです。掘の功績や人柄がもっと知られるようになればいいなぁ(自分ももう少し勉強しておかねば^_^;)。
宮城
北海道の視察団が白石城など見学 片倉家家臣団が縁
白石城主・片倉家の家臣団が北海道入植時に乗船した「咸臨丸」を縁に交流を深めようと、咸臨丸が沈没したサラキ岬のある北海道木古内町の視察団が11日、宮城県白石市を訪れた。
一行は木古内町観光協会の東出文雄会長、住民グループ「咸臨丸とサラキ岬に夢見る会」の久保義則会長ら10人。
市役所であった歓迎セレモニーに続き、白石城を見学した。12日は片倉家廟所(びょうしょ)や、菩提(ぼだい)寺の傑山寺などを訪ねる予定。
咸臨丸は江戸幕府の軍艦として建造され、明治維新後に新政府所管の輸送船となった。1871年9月20日、戊辰戦争に敗れた片倉家の401人を乗せてサラキ岬沖で座礁した。
片倉家の家臣団は全員が無事だったとされ、その後現在の札幌市白石区で開拓に従事した。木古内町は北海道新幹線の駅予定地にもなっており、歴史を活用したまちづくりが進んでいる。
宮城県白石、母方の祖母の出身地なのでいつかは訪れたいと思っています。
滋賀
安政の大獄から150年 井伊家当主、松陰の墓参りへ
幕末の諸外国との通商条約締結や将軍継嗣決定に際して、尊王攘夷派の志士らを処罰した「安政の大獄」を断行した徳川幕府大老・井伊直弼の地元・滋賀県彦根市の市長や井伊家当主らが8月下旬、大獄により処罰され29歳で命を落とした江戸期の思想家吉田松陰の地元・山口県萩市を訪れる。松陰の死から今年で150年。郷土発展の礎ともなった先人をもつ両都市がこの夏、友好の手を結ぶ。
1858(安政5)年、大老に就任した井伊直弼は、日米修好通商条約調印と徳川14代将軍家茂の継嗣問題で反対派の志士らを弾圧した。
萩で私塾を開いていた松陰は、条約締結を知り討幕を表明。老中首座だった間部詮勝(まなべあきかつ)の暗殺を企てたことが明るみに出て1859年秋、死罪となった。
松陰の没後150年となる今年1月、獅山向洋彦根市長と野村興児(こうじ)萩市長が会談。過去のわだかまりを超えて、歴史ある街同士の交流を目的とした訪問が決まった。
獅山市長のほか、井伊家18代当主・井伊直岳さん(40)や公募市民ら40人が、8月21~23日の日程で萩市を訪れ、松陰の墓参りなどをする。11月には、萩市の訪問団が彦根市を訪れる予定。
訪問を前に獅山市長は「過去の歴史的事実を超えての訪問は大変意義深い。お互いに固有の歴史的風致を理解し、両市の発展につながる試みになると思う」と述べた。
長崎
龍馬伝プロデューサーら講演 「長崎は第3部、大きな見せ場」
来年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」にちなんだ講演会「龍馬伝を語る」が11日、長崎市茂里町の長崎ブリックホールであり、NHK制作局ドラマ番組チーフプロデューサーの鈴木圭さん(47)と、脚本を担当する福田靖さん(47)がドラマの概要や意気込みを語った。
最初に講演した鈴木さんは、「龍馬伝」が全48話の4部構成で、長崎は第3部(25~36話)で登場すると明らかにした。「長崎はとても重要。華やかさ、外国人がもたらしたエネルギーは大きな見せ場だ」と語った。
主人公の坂本龍馬を演じる長崎市出身の福山雅治さん(40)については「初めて会った時に『龍馬だ』と思った。人の話をよく聞き、妥協を嫌う」と印象を述べ、思い描く龍馬像と一致すると話した。
福田さんは、普通の青年が徐々に成長し、やがて日本を変えていく大きな存在になる「新しい龍馬像」の提示に意欲を示した。「ここで龍馬が変わった、という場面が分かるように描きたい。お子さんやお孫さんと一緒に見れば、きっと共通の話題ができる」と述べ、幅広い年齢層に受け入れられるドラマづくりに自信をみせた。
講演会は市と民間で構成する「さるく観光幕末編推進委」(松藤悟委員長)が主催。400人以上が聴講した。
今日は湿度が低く、いい風が入って過ごしやすい日です。
三重
勝海舟サインうちわも 武四郎記念館で晩年のコレクション展
滋賀
因縁を超えて仲直り
井伊家現当主らが松陰の墓参
因縁を超えて仲直り 井伊家現当主らが松陰の墓参
長崎
龍馬の柱、隠し部屋も復元 8月1日公開の亀山社中記念館
龍馬の柱、隠し部屋も復元 8月1日公開の亀山社中記念館
龍馬の柱、隠し部屋も復元 8月1日公開の亀山社中記念館
龍馬の隠し部屋も、長崎・亀山社中跡を改修
龍馬の隠し部屋も、長崎・亀山社中跡を改修
竜馬創設の「亀山社中」復元 長崎、日本初の商社
竜馬の「隠し部屋」!? 亀山社中記念館 8月、オープン 長崎市
三重
勝海舟サインうちわも 武四郎記念館で晩年のコレクション展
松阪市出身の幕末の北方探検家・松浦武四郎(1818~88)の晩年を紹介する企画展が、同市小野江町の松浦武四郎記念館で開かれている。26日まで。
武四郎は53歳で明治政府を辞した後、各地を巡り歩いて多くの人と交流し、古物の収集などの趣味を楽しんだ。企画展では、武四郎が68歳の時に大台ケ原に登って描いた眺望図や武四郎の墓碑の拓本など、明治以降の武四郎に関する史料31点を展示している。
晩年の武四郎が好んで持ち歩いたと言われるのが、柿渋で染めた手作りのうちわ。出会った人にサインをしてもらい、コレクションにしたという。約150枚ほどあり、勝海舟のサイン、学者に武四郎自身の家系図を書いてもらったうちわなどが残っている。(石原猛)
滋賀
因縁を超えて仲直り
井伊家現当主らが松陰の墓参
因縁を超えて仲直り 井伊家現当主らが松陰の墓参
幕末の「安政の大獄」(1858~59年)を主導した大老井伊直弼(なおすけ)ゆかりの彦根市の井伊家現当主、市長らが8月21日から3日間、大獄で刑死した志士、吉田松陰の墓参などで山口県萩市を訪れる。松陰没後150年の歴史的な和解行脚には、人気キャラクター「ひこにゃん」も同行して墓前で追悼。関係者は「因縁を超えて友好交流を始めるきっかけに」と話している。
訪問するのは、井伊家18代当主で彦根城博物館長の直岳(なおたけ)さん(40)や獅山向洋市長、市が公募で参加を呼びかける市民の使節団約30人。
墓参は8月21日午後2時過ぎからで、地元団体「松陰先生の墓を守る会」などとともに、松陰の生誕地近くにある墓所で哀悼の意を示す。松陰が高杉晋作ら明治維新の志士を育てた松下村塾を訪ね、22日は彦根市と同様に城下町としてまちづくりを進める萩城下町も見学する。
両市は今年1月、「歴史まちづくり法」のまちづくりプランが認定された。認定式で同席した際、彦根市長が萩市長に松陰の墓参を打診「歴史的な事実は踏まえながらも、使節団を温かく迎えたい」と快諾された。
直弼は安政の大獄後、弾圧された水戸藩士らによる「桜田門外の変」(1860年)で暗殺された。彦根市は明治になって100年後の1968年、水戸市と「親善都市」の提携を結んで和解した。
井伊直岳さんは「立場は違えど日本のことを思い行動したのが、松陰であり、直弼だと思う。志半ばで倒れた先人を弔い、今を生きる市民交流の礎になるとうれしい」と話している。
長崎
龍馬の柱、隠し部屋も復元 8月1日公開の亀山社中記念館
龍馬の柱、隠し部屋も復元 8月1日公開の亀山社中記念館
龍馬の柱、隠し部屋も復元 8月1日公開の亀山社中記念館
長崎市は10日、幕末の志士坂本龍馬が設立した日本最初の商社「亀山社中」の建物を復元した「市亀山社中記念館」(同市伊良林2丁目)を報道陣に公開した。8月1日から一般公開する。
建物は木造平屋で延べ床面積107平方メートル。亀山社中が使用したと伝えられる家屋を約2900万円かけて改装し、解体作業中に判明した当時の形に近い姿で復元した。
復元された部屋は、(1)書院風の10畳座敷(2)8畳和室(3)3畳和室と、隠し部屋と伝えられる中2階。褐色の建具やしっくいの白壁など幕末の家屋の雰囲気を忠実に再現した。
10畳座敷には龍馬がもたれかかって座ったという柱があり、縁側から長崎の町と港を一望する眺めが楽しめる。隠し部屋は大人数人が十分に潜める広さ。はしごで上ってその様子を見ることができる。本来の玄関があり、土間として使われていた部分は足元をガラス張りにして、当時の地面が見えるようにした。
10畳座敷と8畳和室には、龍馬が身に着けた紋服、ブーツ、ピストルのほか、書簡(いずれも複製)などを展示する。
館長を務める外園秀光・長崎市文化観光総務課長は「建物自体を見てもらうことがコンセプト。ここを根拠地にして日本の近代化に貢献した龍馬と仲間の痕跡を感じ取ってもらえれば」と話した。
入館料は一般300円、高校生200円、小・中学生150円。市は年間2万5千人の入館者を見込んでいる。
龍馬の隠し部屋も、長崎・亀山社中跡を改修
龍馬の隠し部屋も、長崎・亀山社中跡を改修
幕末の志士、坂本龍馬らによる日本初の商社とされる「亀山社中」跡(長崎市伊良林)の建物が改修され、「亀山社中記念館」として完成、10日、報道陣に公開された。
建物は増築などが重ねられていたため、社中が全盛だった1865年当時の状態に戻そうと、長崎市が約半年間かけて工事した。当時の間取りが明らかになり、その位置通りに玄関や床の間などを再現したという。中2階の屋根裏にある約6畳ほどの「隠し部屋」などもある。
「龍馬が立っていた場所の空気を吸って、日本の将来を考えてみてほしい」と同市の担当者は話している。8月1日から一般公開される。
竜馬創設の「亀山社中」復元 長崎、日本初の商社
坂本竜馬が創設した日本初の商社とされる「亀山社中」の建物が、「長崎市亀山社中記念館」(長崎市)として復元され、8月1日から一般公開されるのを前に報道陣に10日、披露された。
亀山社中は1865年に創設。当時の建物は増改築を重ね民家として使われ、その後、市民グループが所有者から借りて関連資料などを展示していたが、平成18年に閉鎖された。
20年に長崎市が「竜馬が長崎から日本を変えようとした貴重な場所」として復元に着手。市によると、亀山社中時代の正確な図面は残っていなかったため、建築の専門家と相談しながら作業を進めた。
復元された建物内では、竜馬が寄り掛かったとされる通称「竜馬柱」を見ることができる。竜馬ゆかりのピストルや書簡の複製も展示される。
竜馬の「隠し部屋」!? 亀山社中記念館 8月、オープン 長崎市
幕末の志士、坂本竜馬が設立した日本初の貿易商社「亀山社中」跡の建物を改築した「亀山社中記念館」(長崎市伊良林2丁目)が10日、報道陣に公開された。オープンは8月1日。竜馬が身を潜めたとされる屋根裏の「隠し部屋」も初めて見学できるようになり、ファンの話題を集めそうだ。
記念館は、長崎市が建物を所有者から無償で借り、間取りなどが変更されていたものを往時の姿に復元。司馬遼太郎の「竜馬がゆく」で竜馬がもたれかかったと描かれている床の間の柱は、1865(慶応元)年の社中設立時のものとみられる部材をそのまま使用した。
館内には、竜馬のブーツやピストル、亀山社中の足跡をたどる海援隊日史の複製なども展示する。入館料は一般300円、高校生200円、小中学生150円。市文化観光総務課=095(829)1152。
『プチかげ』ワンセグ先行放送は今日が最終回。時間軸とか人物設定とか「あれ、本編と違う?」と思うのですが、スピンオフですからねぇ。キャラの描き方は本編より……(以下略)。
福島
舞台:「山川家の人々」鹿児島で公演 会津若松の劇団、10月に /福島
東京
ビゴーの魅力と、ビゴーを魅了した文明開化の日本
ジョルジュ・ビゴー展-碧眼の浮世絵師が斬る明治-
岐阜
掘り出しニュース:山岡鉄舟:没後121年法要と講演会 「鉄舟のブレない生き方に学ぶ」 /岐阜
大阪
「武門」上杉でも軽量・革製 高槻市の甲冑 最後の米沢藩主所有
最後の米沢藩主茂憲 甲冑の主 幕末上杉家
最後の米沢藩主・上杉茂憲の甲冑と判明 大阪・高槻市所蔵品
高知
絵金 娘に生き生き絵本
屏風絵の絵金、娘に絵本?…高知市内の嫁ぎ先で発見
山口
井伊直弼の子孫、吉田松陰墓参の旅へ…ひこにゃんも
大獄150年後の友好
「井伊家◯代当主」が文字化けしてますが……(汗)。
安政の大獄150年、井伊大老ゆかりの彦根市長ら萩へ
福島
舞台:「山川家の人々」鹿児島で公演 会津若松の劇団、10月に /福島
◇戊辰戦争超え友愛はぐくむ 支援の鹿児島県酒販組合会長「会津と新しい関係を」
会津藩士の娘の山川捨松(すてまつ)(1860~1919年)が、薩摩藩出身者から求婚されるのをめぐり、両藩が戦った戊辰戦争を超えて友愛をはぐくむ舞台「明治の兄弟 山川家の人々」が10月13日、鹿児島市で公演される。会津若松市の「劇団ぴーひゃらら」が企画した。公演を支援する鹿児島県小売酒販組合連合の住吉勝徳会長(64)は「鹿児島では、会津で出身地を名乗るなと今でも言う人がいる。戊辰戦争から150年がたった今、公演で戦争を終わらせ、会津と新しい関係を築きたい」と話している。
物語では1883(明治16)年、陸軍大将の大山巌が捨松に求婚する。しかし、大山は薩摩藩出身で、戊辰戦争では官軍の砲兵隊長として会津藩を攻めた人物。山川家は猛反対する。仲介に入ったいとこで西郷隆盛の弟・従道(つぐみち)は、政府高官として隆盛と敵対し「自分も故郷では裏切り者。帰郷できない」と男泣きする。この姿を見た山川家は「時代にほんろうされたのは会津の者だけではない。憎しみから何も生まれない」と気付く。
福島市出身で札幌市在住の石村えりこさんの脚本。07、08年に県内各地で公演し、団員から「鹿児島で公演したい」との声が上がった。その思いを受け、近藤直宣団長(30)の母・美千代さん(59)が「隆盛を慕いながらも涙をのんで敵対した従道は、兄弟愛にあふれた人物。鹿児島の人に従道の素晴らしさを知ってほしい」と、つてをたどり住吉会長に援助を依頼。今年5月に公演が決まった。
住吉会長は、大河ドラマ「篤姫」の時代考証を担当した原口泉鹿児島大教授や、西郷隆盛のひ孫の隆文さん、薩摩藩主子孫の島津義秀さんらを発起人とし、実行委員会を組織した。鹿児島市で戊辰戦争を題材とした劇が公演されるのは初めてだ。
劇は同市の中央公民館で。公演前に「会津藩VS薩摩藩」などの著書がある仙台市出身の小説家・星亮一さんと、原口教授との対談も開かれる予定。【今村茜】
東京
ビゴーの魅力と、ビゴーを魅了した文明開化の日本
ジョルジュ・ビゴー展-碧眼の浮世絵師が斬る明治-
文明開化の日本を描き出したフランス人画家の足跡と、幕末や明治初期の日本の初期写真を紹介。
文明開化の日本を描き出したフランス人画家の足跡と、幕末や明治初期の日本の初期写真を紹介。1882(明治15)年、文明開化ただ中の日本に足を踏み入れ、急速に近代化する日本の姿を好奇心と親しみを持って描き出し西洋に伝えた、フランス人画家・ジョルジュ・ビゴー。彼の生涯を渡日前の作品や日本で出版した画集、そしてこれまで紹介されることの少なかった帰国後の作品などを通して明らかにする。
また幕末や明治初期に撮られた初期の写真作品も紹介。当時の風俗や磐梯山の噴火、日清戦争などを写した貴重な写真から、ビゴーが愛した美しい日本の姿をたどる。
岐阜
掘り出しニュース:山岡鉄舟:没後121年法要と講演会 「鉄舟のブレない生き方に学ぶ」 /岐阜
◇高山で19日
【岐阜】少年時代を高山で過ごし、江戸城無血開城の立役者として知られる幕末の剣豪・山岡鉄舟(通称・鉄太郎、1836~1888年)の没後121年の法要と、追悼記念講演が命日の19日、鉄舟の両親が眠る高山市宗猷寺(そうゆうじ)町の宗猷寺で行われる。
鉄舟が死去した時刻とされる午前9時15分から本堂で法要が営まれ、同10時半から主催者で山岡鉄舟研究会の山本紀久雄会長が「鉄舟のブレない生き方に学ぶ」と題して記念講演する。参加費5000円。問い合わせは研究会事務局の田中達也さん(090・4899・5973)。【奈良正臣】
大阪
「武門」上杉でも軽量・革製 高槻市の甲冑 最後の米沢藩主所有
大阪・高槻市教委は9日、市が所蔵する革製の甲冑(かっちゅう)が、米沢藩(山形県)最後の藩主、上杉茂憲が所有していたものと分かったと発表した。市教委では「幕末期には実戦的な軽量の革製の甲冑が流行した。武門を誇った上杉家でも同様だったことは興味深い」としている。
市教委によると、甲冑は平成5年に市民が寄贈。由緒書には、上杉家家臣の中西元弥が12代藩主、斉憲に献上し、13代藩主の茂憲に譲られたと記されていたという。
しかし、総漆塗りの具足櫃(ぐそくびつ)や、金箔(きんぱく)で上杉家家紋が押された馬革製の覆いなどの周辺道具に対して、甲冑自体は一部に鉄を使った革製の簡素なもので、家紋もなかった。
このため、市教委が米沢市などと調査。由緒書の筆跡や内容が上杉家資料と一致したため、茂憲の甲冑と判断した。
米沢市上杉博物館によると、茂憲は明治元(1868)年に米沢藩藩主となった。甲冑が簡素な理由については「幕末動乱期を反映した実戦的な構造で、歴代藩主とかなり違う。上杉家の史料として意義深い」としている。
甲冑は31日まで、高槻市城内町の市立しろあと歴史館で一般公開されている。入場無料。問い合わせは同館(電話072・673・3987)。
最後の米沢藩主茂憲 甲冑の主 幕末上杉家
高槻市教委確認
上杉茂憲の所有と確認された甲冑 高槻市立しろあと歴史館が所蔵する甲冑(かっちゅう)が、最後の米沢藩主・上杉茂憲(もちのり)(1844~1919)の所有とわかり、市教委が9日、発表した。甲冑を保管する箱「具足櫃(びつ)」に張られた由緒書と、上杉博物館(山形県米沢市)の所蔵する上杉家の「具足台帳(財産管理帳)」の記載が一致したことなどから裏付けられた。市教委によると、茂憲の甲冑が確認されたのは初めてといい、「幕末の歴史を知るうえで価値が高い」としている。
甲冑は全体が革製で、飾りの金具がないのが特徴。具足櫃は縦横各約40センチ、高さ約60センチの2箱1組で、表裏に漆が塗られており、馬革の覆いに金箔(きんぱく)で上杉家の家紋が入っていた。しかし、甲冑には家紋がなく、簡素な作りだったため、これまで大名家のものとして評価できなかったという。
由緒書によると、甲冑は茂憲の家臣が作り、茂憲の父で12代藩主の斉憲(なりのり)に献じ、後に茂憲へ譲られた。斉憲は1868年の戊辰(ぼしん)戦争で奥羽越列藩同盟の中心となり、新政府と戦ったが、敗れて茂憲に家督を譲った。茂憲は明治維新後、沖縄県令などを務めた。
市教委が関係資料を探していたところ、今年6月、上杉博物館所蔵の具足台帳に由緒書と同じ記載があり、1863年に製作、献上されていたことが判明。さらに、新潟県立歴史博物館(長岡市)が収蔵する上杉家の甲冑に類似の由緒書があり、筆跡も一致した。
市教委は「幕末の政情不安定な中、藩主も当時流行した軽くて動きやすい甲冑を取り入れていたことがわかる」としている。
この甲冑を含めた5点を市立しろあと歴史館で31日まで公開している。無料。開館は午前10時~午後5時。月曜と祝日の翌日休館。
最後の米沢藩主・上杉茂憲の甲冑と判明 大阪・高槻市所蔵品
大阪府高槻市教委は9日、市が所蔵する革製の甲冑(かっちゅう)が、米沢藩(山形県)最後の藩主、上杉茂憲が所有していたものと判明したと発表した。市教委は「幕末期には実戦的な軽量の革製の甲冑が流行した。武門の上杉家でも同様だったことは興味深い」としている。
市教委によると、甲冑は平成5年に市民が寄贈。由緒書には、上杉家家臣の中西元弥が12代藩主、斉憲に献上し、13代藩主の茂憲に譲られたと記されていたという。
しかし、総漆塗りの具足櫃(びつ)や、金箔(きんぱく)で上杉家家紋が押された馬革製の覆いなどの周辺道具に対して、甲冑自体は一部に鉄を使った革製の簡素なもので、家紋もなかった。
このため、市教委が山形県米沢市や新潟市と調査。由緒書の筆跡や内容が上杉家資料と一致したため、茂憲の甲冑と判断した。
山形県米沢市の市上杉博物館によると、茂憲は明治元(1868)年に米沢藩主となった。甲冑が簡素な理由については「幕末動乱期を反映した実戦的な構造で、歴代藩主とかなり違う。上杉家の史料として意義深い」としている。
甲冑は31日まで、高槻市城内町の市立しろあと歴史館で一般公開されている。入館無料。問い合わせは((電)072・673・3987)。
高知
絵金 娘に生き生き絵本
屏風絵の絵金、娘に絵本?…高知市内の嫁ぎ先で発見
高知の嫁ぎ先で発見
幕末の絵師・金蔵(通称・絵金、1812~1876)が、長女糸萩(いとはぎ)のために描いたとみられる子ども向けの絵本「画帖(がちょう)」が、糸萩が嫁いだ高知市内の家で見つかった。おどろおどろしい屏風絵(びょうぶえ)で知られる絵金だが、子どもを生き生きと、楽しい様子で描き、子ども好きで子煩悩だった一面をうかがい知ることができる。
画帖は縦25センチ、横17・7センチで全26ページ。「桃太郎」や「舌切りスズメ」の物語のほか、鞠(まり)遊びや七夕など、季節ごとの風俗が描かれている。
高知市内の家で5月に見つかり、絵金の作品を収蔵する「絵金蔵」(香南市赤岡町)が調査。迷いがなく、勢いのある筆致や、自然で生き生きした人物のしぐさ、子どもの鼻の特徴などから、絵金本人が描いた作品と確認した。晩年に比べ線が直線的で硬いことなどから、土佐藩の御用(ごよう)絵師から町絵師になった直後の作品とみられるという。
絵金蔵の福原僚子副蔵長は「子どもの多様な表情やポーズから、温かなまなざしで、子どもをよく観察していることがわかる。人間『絵金』を考える上で、別の一面を知ることができる資料」と話している。
画帖は18、19日に同市赤岡町一帯で開かれる「絵金祭り」に合わせ、同蔵で公開される。問い合わせは同蔵(0887・57・7117)へ。
山口
井伊直弼の子孫、吉田松陰墓参の旅へ…ひこにゃんも
「安政の大獄」(1858~59年)を断行した幕末の大老・井伊直弼(なおすけ)ゆかりの滋賀県彦根市の市長や井伊家の現当主らが来月、大獄で刑死した思想家・吉田松陰らを輩出した山口県萩市を訪れ、松陰の墓参りをする。
彦根市は現在、直弼の功績を見直すイベントを行っており、今年で没後150年を迎える松陰への弔意を表すことで、萩市との友好親善を図ることにした。彦根市の人気キャラクター・ひこにゃんも同行する。
彦根市によると、直弼の「冷酷な独裁者」のイメージを払拭(ふっしょく)させようと企画。8月21~23日に、獅山向洋(ししやまこうよう)市長、井伊家18代当主で彦根城博物館長を務める井伊直岳(なおたけ)氏、公募で選んだ市民約30人が、萩市の松陰誕生地に隣接する墓所や、松陰が開いた「松下村塾」などを訪ねる。萩市側からは、野村興児市長や墓所の清掃活動を続ける「松陰先生の墓を守る会」のメンバーが出迎える。
今回の交流は、彦根、萩両市が1月、歴史的景観を生かしたまちづくりを推進する国の「歴史まちづくり法」の認定を受けたことで、彦根市側から提案した。
獅山市長は「松陰没後150年に、過去のわだかまりを超えて交流を図ることは意義深い」と力を込め、萩市幹部も「友好交流のきっかけとなる。温かく迎えたい」と話している。
大獄150年後の友好
◆滋賀・彦根市長ら萩に墓参へ
幕末の「安政の大獄」で尊皇攘夷(じょうい)派の志士を弾圧した徳川幕府の大老井伊直弼(なおすけ)の地元滋賀県彦根市の市長や井伊家の当主らが来月、山口県萩市を訪れ、大獄で刑死した吉田松陰の墓参りをする。萩市側は市長や松陰の墓所を守っている市民らが出迎える。今年は松陰没後150年。幕末を駆け抜けた2人を生んだ両市が友好親善に動き出す。
松陰の遺髪を納めた墓は萩市内の生家の墓所にあり、彦根市から獅山向洋(ししやまこうよう)市長と井伊家代当主で彦根城博物館長の井伊直岳(なおたけ)氏(40)、公募の市民約30人、人気キャラクターのひこにゃんらが8月21日に墓参りする。萩市側は野村興児(こうじ)市長ら市関係者のほか、市民らでつくる「松陰先生の墓を守る会」の会員らが出迎える。
「幕末の独裁者」という直弼の悪役的なイメージを見直そうとしている彦根市の獅山市長が、大獄で倒れた志士を生んだ都市との友好親善を企画。彦根と萩両市が今年、そろって歴史的景観を生かしたまちづくりを進める国の「歴史まちづくり法」の事業認定を受けたのを機に、萩市へ墓参を打診し快諾を得た。
萩市の「守る会」の郷田正則事務局長(69)は「素直な気持ちで出迎えたい」と話す。彦根市の獅山市長は「これをご縁に、これまでの両市民のわだかまりが解ければ。ほかの志士らの都市にも友好親善を広げていきたい」と意気込んでいる。
(市丸茂樹)
「井伊家◯代当主」が文字化けしてますが……(汗)。
安政の大獄150年、井伊大老ゆかりの彦根市長ら萩へ
「安政の大獄」(1858~59年)を断行した幕末の大老・井伊直弼(なおすけ)ゆかりの滋賀県彦根市の市長や井伊家の現当主らが来月、大獄で刑死した思想家・吉田松陰らを輩出した山口県萩市を訪れ、松陰の墓参りをする。彦根市は現在、直弼の功績を見直すイベントを行っており、今年で没後150年を迎える松陰への弔意を表すことで、萩市との友好親善を図ることにした。彦根市の人気キャラクター・ひこにゃんも同行する。
彦根市によると、直弼の「冷酷な独裁者」のイメージを払拭(ふっしょく)させようと企画。8月21~23日に、獅山向洋(ししやまこうよう)市長、井伊家18代当主で彦根城博物館長を務める井伊直岳(なおたけ)氏、公募で選んだ市民約30人が、萩市の松陰誕生地に隣接する墓所や、松陰が開いた「松下村塾」などを訪ねる。萩市側からは、野村興児市長や墓所の清掃活動を続ける「松陰先生の墓を守る会」のメンバーが出迎える。
今回の交流は、彦根、萩両市が1月、歴史的景観を生かしたまちづくりを推進する国の「歴史まちづくり法」の認定を受けたことで、彦根市側から提案した。
獅山市長は「松陰没後150年に、過去のわだかまりを超えて交流を図ることは意義深い」と力を込め、萩市幹部も「友好交流のきっかけとなる。温かく迎えたい」と話している。
夕方になって風が吹くようになりましたが、湿度が高くてちょっとべたべたしています。
北海道
白老元陣屋資料館で特別展、貴重な歴史的絵図公開
千葉
ふるさと銚子:歴史を学んで 実行委、小5向け副読本を制作 /千葉
濱口儀兵衛(梧陵)が特に興味深いです。なお、wikipediaの濱口梧陵の項目によれば、関寛斎を経済的に支援したようで……マンガ『jIN―仁―』で浜口儀兵衛が主人公の南方仁先生を経済的に支援するという設定は、その辺りの史実を踏まえた描き方なんでしょうね。
石川
日本元気劇場:戦艦三笠、実物大で再現 18日オープン--加賀 /石川
「新撰組チーム」がキーワード検索にかかってきましたが、歴史がごった煮なテーマパークですねぇ(汗)。
岐阜
山岡鉄舟:没後121年法要と講演会 「鉄舟のブレない生き方に学ぶ」 /岐阜
京都
池田屋130年ぶり復活 居酒屋ですけど
池田屋跡の居酒屋復活の報道では出遅れた朝日ですが、「ただし、居酒屋。」とか「『酔ったお客様が落ちはしないか、それだけが心配』と店長。」とかオリジナリティを出そうと頑張ってますね。写真も今まで見たショットとはちょっと違うようで。
やっと京都に修学旅行…新型インフルで延期、第1便到着
太秦映画村の「新撰組」でキーワード検索に引っかかりました(苦笑)。
奈良
当時の日記 現代語訳で出版
コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(18)東大教授・山内昌之 安藤信正
■歴史は繰り返される
いまの自民党の動きを見ていると“幕末気分”という言葉をつい思いだしてしまう。幕末の徳川幕府の統治は、江戸で政務をとった老中と、京都にいた一橋・会津・桑名の間で意見が割れ、そのうえ3者の間でも一橋(徳川)慶喜は孤立しがちであった。
3つの権力が入り乱れ、内政と外交ともに不一致だったのだから、尊王攘夷派につけ入られても仕方がない。それにしても、自分たちが将来を託したはずの総理総裁を世論支持率やテレビ番組の風評に一喜一憂して、すげかえようとする動きを見ると、“暗い軽さ”とでもいうべき器量のほどをどうしても感じてしまう。
◆幕府のメンツを保つ
坂下門外の変で失脚した安藤信正は、輿望(よぼう)を担って登場し、多くの懸案を地道に処理しながら、理不尽な政治の空気で失脚した政治家である。老中となってすぐ直面したのは、大老の井伊直弼が水戸浪士に暗殺された桜田門外の変である。安藤は彦根藩邸を訪れ、井伊の遺体にさながら生けるがごとく話しかけ、病気の体にして後日無事に相続を許すという機転の利いた措置をとった。
大老職にある主君を討たれた彦根藩士たちの仇(あだ)討ちともなれば、譜代筆頭の井伊と御三家の水戸が正面から衝突してしまう。この大事を未然に阻止し、幕府のメンツを保っただけでも、安藤の手腕は相当なものだ。
加えて、孝明天皇の妹、和宮と将軍家茂を結婚させる公武合体策も実現し、米公使館通訳のヒュースケンの殺害事件の円満処理にもあたった。日本に不利な金銀の交換率を定めた通商条約で国外に羽のついたように飛んでいった金の流出を阻止し、物価騰貴にも的確な手を打ったのも安藤の功績である。彼は幕末の政局を安定化し、人びとに安心を与える政策を着実に実行していたのだった。
◆英公使も驚く気概
そこにふって湧(わ)いて起こったのが坂下門外の変である。水戸浪士の襲撃を受けた安藤は、冷静沈着に対処し、凶刃から逃れて坂下門まで自ら赴き、事情を的確に番士らに説明し、登城せず屋敷に戻ったのだった。血のついた不浄の装束で御用を務めるわけにはいかないからだ。
まもなく療養中に包帯姿で英国公使オールコックと会見すると、公使も安藤のもつ貴族の気概と政治家たる義務感に驚いた。公使は洋の東西を越えたノブレス・オブリージュ(高い地位に伴う道徳的義務)に感嘆したのである。しかし、いつの時代でも理屈や口実が見つかれば、目障りな上司や出世の妨げになる同僚を排除したくなるのは、政治や実業の競争社会の通弊かもしれない。
安藤は間が悪かったことに、駕籠(かご)に後ろから差し込まれた刀をよけたときに背中に傷を受けていた。このために後ろ傷は武士の恥辱といわんばかりに一部から非難される理由となる。堂々と兇徒(きょうと)に立ち向かって、冷静に事変を現場で処理した老中の判断力や大局観を評価せずに、空気のように横行した無責任な議論に幕府首脳もふりまわされたのだから情けない。
◆逸材失脚、重心は京都へ
この政争の動きは、どうやら幕職としての歴史的使命を終えた大目付や目付あたりから出たらしい。国の大きな進路を託する人間への評価を根拠のない醜聞の噂(うわさ)などを交え、期待された逸材を失脚させたのだから幕府の運も尽きた。これで政治の重心は江戸から京都に移ったといってもよい。
数週間や1、2カ月の政治日程で得か不利かの尺度だけで物事を見るあまり、政治に大事な大局観や自他への重厚な信頼感を軽んじる傾向が一部に蔓延(まんえん)している。テレビで自党の総理総裁の器量を貶(おとし)める人たちを見ると、あれこれ理由をつけて安藤を引きずり降ろした人びとがかえって職や地位を失った歴史を思いだしてしまう。
歴史は繰り返される。「1度目は悲劇として、2度目は喜劇として」とは、マルクスの知らなかった日本の政治にもあてはまるのかもしれない。(やまうち まさゆき)
◇
【プロフィル】安藤信正
あんどう・のぶまさ 文政2(1819)年生まれ、江戸時代後期の老中。弘化4(1847)年、父、信由(のぶより)の死去により陸奥国磐城平藩5万石の藩主となった。嘉永4(1851)年に寺社奉行、安政5(1858)年に若年寄。安政の大獄では、井伊直弼の意を受け、連座した水戸藩を取り締まった。万延元(1860)年、老中に昇進、直後に起こった桜田門外の変で井伊が暗殺されると、同じく老中の久世広周とともに幕政を担った。信正は外国事務取扱の老中として外交問題を担当し、プロシアと修好通商条約を締結する一方、米国公使館通訳ヒュースケン暗殺事件など攘夷派の起こした事件処理に奔走した。内政では、久世とともに孝明天皇の妹、和宮の将軍家茂降嫁を奏請して公武合体政策を推進した。攘夷派はこれを政略結婚と非難し、外国協調政策にも反発、文久2(1862)年、信正は坂下門外で水戸浪士に襲撃され、負傷。これを機に老中を退いたが、在職中の失政をとがめられ、永蟄居(ちっきょ)、減封という処罰を受けた。明治元(1868)年の戊辰戦争では磐城平城において政府軍に抵抗、落城後は再び蟄居の身となり同4(1871)年、53歳で死去した。
安藤信正、戊辰戦争で旧幕府軍側に参戦していたんですね。失脚後のことは知りませんでした(汗)。
北海道
白老元陣屋資料館で特別展、貴重な歴史的絵図公開
仙台藩白老元陣屋資料館の開館25周年を記念した特別展が、18日から8月16日まで開かれる。昨年仙台市の古書店で発見され、白老ロータリークラブ(山手康会長)が同資料館に寄贈した「仙台藩白老元陣屋之図」(128センチ×75センチ)を初公開するほか、仙台、盛岡、函館、札幌などの図書館、博物館に収蔵されている同陣屋が描かれた絵図10枚を展示する。
1857年(安政4年)仙台藩士・岡元武治が描いたとされる同RC寄贈の絵図は、陣屋の陣地ほか、開所や幕府役人が宿泊する「公儀御陣屋」、アイヌコタン、愛宕神社、船などが描かれており、俯瞰(ふかん)図としては類を見ない。
このほか、最終基本計画案として幕府に提出された「陣屋之図」(宮城県図書館所蔵)、建設進ちょく状況を描いた「詳細図」(函館市中央図書館所蔵)、陣屋の安定期に描かれたとされる北海道開拓記念館所蔵の絵図、装飾的なタッチで描かれた盛岡市中央公民館所蔵の絵図など。
同資料館の坂本恭啓学芸員は「白老における北方警備の歴史は、幕末の激動の歴史の陰に隠れているが、のちの歴史に大きな影響を与えた重要な12年間だった」と絵図展示の意義を強調する。
初日の18日午後1時半から、郷土史家の佐藤宏一さん(仙台市)が「仙台藩白老元陣屋絵図に秘められたもの」と題して講演する。
(富士雄志)
千葉
ふるさと銚子:歴史を学んで 実行委、小5向け副読本を制作 /千葉
銚子市の「陣屋町史跡公園化実行委員会」(名雪育男代表)が、市内の小学5年生向けの歴史副読本「ふるさと銚子~先人たちの足跡を訪ねて~」を制作した。
銚子市は江戸時代の1717(享保2)年から高崎藩(群馬県高崎市)の管理地として陣屋が置かれ、明治初期まで続いた。名雪代表は同市陣屋町の町内会長として陣屋公園内に07年3月「銚子陣屋史跡記念碑」を建立。高崎市民とも交流を続いている。
副読本は63ページ。「銚子のなりたち」「銚子の歴史年表」などに続いて、「銚子を築いた先人たち」として歴史上の人物を紹介している。取り上げたのは、▽外川に港を築いた崎山治郎右衛門▽ヤマサ醤油(しょうゆ)を創業した濱口儀兵衛▽幕末の銚子をコレラの流行から救った医師の関寛斎▽大日本国語辞典を編さんした国文学者の松井簡治▽画家で詩人の竹久夢二▽作家の国木田独歩--ら日本人14人と、犬吠埼灯台を建設した英国人設計技師ブラントンら外国人2人。
濱口儀兵衛(梧陵)が特に興味深いです。なお、wikipediaの濱口梧陵の項目によれば、関寛斎を経済的に支援したようで……マンガ『jIN―仁―』で浜口儀兵衛が主人公の南方仁先生を経済的に支援するという設定は、その辺りの史実を踏まえた描き方なんでしょうね。
石川
日本元気劇場:戦艦三笠、実物大で再現 18日オープン--加賀 /石川
劇場型エンターテインメントパーク「日本元気劇場」が18日、加賀市黒崎町にオープンする。06年に営業停止した「加賀百万石時代村」を、全国で新しい温泉旅館のスタイルを展開する「大江戸温泉物語」(東京)が数十億円をかけ再生した。目玉の一つが、実物と同じ大きさで再現した戦艦三笠のセットで、NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」のロケも行われる。
全体の広さは東京ドーム8個分。温故知新、元気いっぱいをコンセプトに、旧時代村の伝統的街並みや建物をリニューアルしたほか、五つの劇場を設けたのが特徴。「忍者チーム」「新撰組チーム」など約50人の劇団員が1日3~5回公演し、時代物、アクション、ダンスレビューなどで幅広い年齢層の集客を狙う。
旧日本海軍連合艦隊旗艦だった戦艦三笠のセットは「ミュージアム」として、劇場オープンに先駆けて公開を始めた(16、17日は休館)。今年11月から3年にわたって放映される「坂の上の雲」のロケは、今年9月と来年5月に行われ、主役の秋山真之を演じる本木雅弘さん、東郷平八郎役の渡哲也さんらが来県する予定。
戦艦三笠ミュージアムの入場料は、大人600円、子ども300円。日本元気劇場の入園料は今年8月までオープンキャンペーンとして大人500円、子ども300円(観劇は一部を除き別料金)。問い合わせは同劇場(0761・75・1100)。【松田秀敏】
「新撰組チーム」がキーワード検索にかかってきましたが、歴史がごった煮なテーマパークですねぇ(汗)。
岐阜
山岡鉄舟:没後121年法要と講演会 「鉄舟のブレない生き方に学ぶ」 /岐阜
◇高山で19日
少年時代を高山で過ごし、江戸城無血開城の立役者として知られる幕末の剣豪・山岡鉄舟(通称・鉄太郎、1836~1888年)の没後121年の法要と、追悼記念講演が命日の19日、鉄舟の両親が眠る高山市宗猷寺(そうゆうじ)町の宗猷寺で行われる。
鉄舟が死去した時刻とされる午前9時15分から本堂で法要が営まれ、同10時半から主催者で山岡鉄舟研究会の山本紀久雄会長が「鉄舟のブレない生き方に学ぶ」と題して記念講演する。参加費5000円。問い合わせは研究会事務局の田中達也さん(090・4899・5973)。【奈良正臣】
京都
池田屋130年ぶり復活 居酒屋ですけど
幕末、新選組が尊皇攘夷(じょうい)派志士を襲撃した池田屋騒動の舞台となった旅館の跡地(京都市中京区)に8日、約130年ぶりに池田屋が復活した。ただし、居酒屋。
昨年から空いていたビルに居酒屋チェーン「はなの舞」が進出。初日から新選組ファンらでにぎわった。地元商店街も「観光の起爆剤に」と期待をかける。
東映京都撮影所などの協力を得て、映画や芝居の「階段落ち」シーンで有名な大階段を店内に再現した。「酔ったお客様が落ちはしないか、それだけが心配」と店長。
池田屋跡の居酒屋復活の報道では出遅れた朝日ですが、「ただし、居酒屋。」とか「『酔ったお客様が落ちはしないか、それだけが心配』と店長。」とかオリジナリティを出そうと頑張ってますね。写真も今まで見たショットとはちょっと違うようで。
やっと京都に修学旅行…新型インフルで延期、第1便到着
新型インフルエンザ(豚インフルエンザ)の流行で京都市への修学旅行を延期していた埼玉、千葉両県の中学校5校の生徒が8日午前、新幹線でJR京都駅に到着した。
5~6月に京都への修学旅行を予定しながらキャンセルした全国の中学校など約1150校(14万7000人)の大半が11月までに改めて実施する。午前10時半、臨時列車での第1陣、計約900人が到着した。
コンコースでは、京都市の門川大作市長が祇園祭の絵はがきを贈り、新撰組にふんした東映太秦映画村(右京区)の俳優が模造刀を振りかざす演技を披露した。埼玉県八潮市立大原中3年の田中悠互君(14)は「もう修学旅行に行けないかもしれないと思っていたのでうれしい。京都の歴史をじっくりと見て学びたい」と話していた。
5校の生徒は10日頃まで京都、奈良市内などを観光する。
太秦映画村の「新撰組」でキーワード検索に引っかかりました(苦笑)。
奈良
当時の日記 現代語訳で出版
神戸市在住の会社員上田尚男さん(61)が、旧須恵村(現五條市)出身の曽祖父・高橋直吉さん(1857~1919年)が天誅組の挙兵など、当時の出来事を記した日記をまとめた「五條国 高橋直吉 天壽録(てんじゅうろく)」(聚珍社)を自費出版、8日、五條市の吉野晴夫市長に「市史編集に役立てて」と寄贈した。
上田さんは、直吉さんが和紙約400枚に書いた日記のコピーを自宅で見つけた。調べたところ、親戚(しんせき)宅に原本があることを知り、それを漢和辞典で調べたり、図書館に通ったりして、約2年かけて、現在使われている言葉に直したという。
天壽録には、明治維新のさきがけといわれる天誅組の五条代官所襲撃時(1863年)、近所に住んでいた直吉さんが使用人たちと難を逃れたいきさつや、交通の要衝として栄えた須恵村の様子などがつづられている。
上田さんは「五條の歴史を知る資料になれば曽祖父も喜ぶでしょう」と話す。
A4判、285ページ。100部制作。4200円(送料別)。問い合わせはNPO法人大和社中(0747・22・2720)へ。
コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(18)東大教授・山内昌之 安藤信正
■歴史は繰り返される
いまの自民党の動きを見ていると“幕末気分”という言葉をつい思いだしてしまう。幕末の徳川幕府の統治は、江戸で政務をとった老中と、京都にいた一橋・会津・桑名の間で意見が割れ、そのうえ3者の間でも一橋(徳川)慶喜は孤立しがちであった。
3つの権力が入り乱れ、内政と外交ともに不一致だったのだから、尊王攘夷派につけ入られても仕方がない。それにしても、自分たちが将来を託したはずの総理総裁を世論支持率やテレビ番組の風評に一喜一憂して、すげかえようとする動きを見ると、“暗い軽さ”とでもいうべき器量のほどをどうしても感じてしまう。
◆幕府のメンツを保つ
坂下門外の変で失脚した安藤信正は、輿望(よぼう)を担って登場し、多くの懸案を地道に処理しながら、理不尽な政治の空気で失脚した政治家である。老中となってすぐ直面したのは、大老の井伊直弼が水戸浪士に暗殺された桜田門外の変である。安藤は彦根藩邸を訪れ、井伊の遺体にさながら生けるがごとく話しかけ、病気の体にして後日無事に相続を許すという機転の利いた措置をとった。
大老職にある主君を討たれた彦根藩士たちの仇(あだ)討ちともなれば、譜代筆頭の井伊と御三家の水戸が正面から衝突してしまう。この大事を未然に阻止し、幕府のメンツを保っただけでも、安藤の手腕は相当なものだ。
加えて、孝明天皇の妹、和宮と将軍家茂を結婚させる公武合体策も実現し、米公使館通訳のヒュースケンの殺害事件の円満処理にもあたった。日本に不利な金銀の交換率を定めた通商条約で国外に羽のついたように飛んでいった金の流出を阻止し、物価騰貴にも的確な手を打ったのも安藤の功績である。彼は幕末の政局を安定化し、人びとに安心を与える政策を着実に実行していたのだった。
◆英公使も驚く気概
そこにふって湧(わ)いて起こったのが坂下門外の変である。水戸浪士の襲撃を受けた安藤は、冷静沈着に対処し、凶刃から逃れて坂下門まで自ら赴き、事情を的確に番士らに説明し、登城せず屋敷に戻ったのだった。血のついた不浄の装束で御用を務めるわけにはいかないからだ。
まもなく療養中に包帯姿で英国公使オールコックと会見すると、公使も安藤のもつ貴族の気概と政治家たる義務感に驚いた。公使は洋の東西を越えたノブレス・オブリージュ(高い地位に伴う道徳的義務)に感嘆したのである。しかし、いつの時代でも理屈や口実が見つかれば、目障りな上司や出世の妨げになる同僚を排除したくなるのは、政治や実業の競争社会の通弊かもしれない。
安藤は間が悪かったことに、駕籠(かご)に後ろから差し込まれた刀をよけたときに背中に傷を受けていた。このために後ろ傷は武士の恥辱といわんばかりに一部から非難される理由となる。堂々と兇徒(きょうと)に立ち向かって、冷静に事変を現場で処理した老中の判断力や大局観を評価せずに、空気のように横行した無責任な議論に幕府首脳もふりまわされたのだから情けない。
◆逸材失脚、重心は京都へ
この政争の動きは、どうやら幕職としての歴史的使命を終えた大目付や目付あたりから出たらしい。国の大きな進路を託する人間への評価を根拠のない醜聞の噂(うわさ)などを交え、期待された逸材を失脚させたのだから幕府の運も尽きた。これで政治の重心は江戸から京都に移ったといってもよい。
数週間や1、2カ月の政治日程で得か不利かの尺度だけで物事を見るあまり、政治に大事な大局観や自他への重厚な信頼感を軽んじる傾向が一部に蔓延(まんえん)している。テレビで自党の総理総裁の器量を貶(おとし)める人たちを見ると、あれこれ理由をつけて安藤を引きずり降ろした人びとがかえって職や地位を失った歴史を思いだしてしまう。
歴史は繰り返される。「1度目は悲劇として、2度目は喜劇として」とは、マルクスの知らなかった日本の政治にもあてはまるのかもしれない。(やまうち まさゆき)
◇
【プロフィル】安藤信正
あんどう・のぶまさ 文政2(1819)年生まれ、江戸時代後期の老中。弘化4(1847)年、父、信由(のぶより)の死去により陸奥国磐城平藩5万石の藩主となった。嘉永4(1851)年に寺社奉行、安政5(1858)年に若年寄。安政の大獄では、井伊直弼の意を受け、連座した水戸藩を取り締まった。万延元(1860)年、老中に昇進、直後に起こった桜田門外の変で井伊が暗殺されると、同じく老中の久世広周とともに幕政を担った。信正は外国事務取扱の老中として外交問題を担当し、プロシアと修好通商条約を締結する一方、米国公使館通訳ヒュースケン暗殺事件など攘夷派の起こした事件処理に奔走した。内政では、久世とともに孝明天皇の妹、和宮の将軍家茂降嫁を奏請して公武合体政策を推進した。攘夷派はこれを政略結婚と非難し、外国協調政策にも反発、文久2(1862)年、信正は坂下門外で水戸浪士に襲撃され、負傷。これを機に老中を退いたが、在職中の失政をとがめられ、永蟄居(ちっきょ)、減封という処罰を受けた。明治元(1868)年の戊辰戦争では磐城平城において政府軍に抵抗、落城後は再び蟄居の身となり同4(1871)年、53歳で死去した。
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