新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
ゴールデンウィーク初日の今日は、落語三昧でありました。レポートは後でということで、まずは幕末関係のニュースから。
福島
新選組局長・近藤勇命日に天然理心流・宮川さん演武奉納
白河に新たな観光名所 戊辰戦争の激戦地に公園整備
戊辰戦争:殉難者慰霊 春季祭典に市民ら100人 「会津人の忠義と無念」語り継ぐ /福島
八重と襄の書「夫婦再会」 県立博物館、17日から特別展
江戸期の鶴ケ城紹介 東邦銀行会津支店が「鳥瞰図」作製
慰霊祭:会津高生19人、白虎隊に剣舞を奉納 /福島
千葉
千葉・流山に近藤勇の最後の陣 商家や寺に200人
以降は有料となります。
東京
「赤羽馬鹿」と「滝野川新選組」 北区の商店街で祭り あすから
三重
映画「幕末高校生」のエキストラ募る 伊賀で5月撮影
佐賀
秋田守った佐賀藩士を慰霊 戊辰戦争で犠牲
エンターテインメント
人気ゲームの劇場版アニメ「劇場版 薄桜鬼」、第1章が8月24日公開決定
「薄桜鬼」 としまえんで体感型ゲームイベント 新選組組長たちと謎を解け
バラバラになった豊玉発句集を捜索するゲームだそうで……あの世の土方さんは、豊玉発句集がこんな使われ方をするとは思ってもいなかったでしょうねぇ(苦笑)。
中津の幕末の剣豪 漫画で見参
以降は有料になります。
福島
新選組局長・近藤勇命日に天然理心流・宮川さん演武奉納
新選組局長・近藤勇の命日に当たる25日、会津若松市の天寧寺で恒例の墓前祭が行われ、4代目宗家に当たる近藤勇はじめ、新選組隊士が身に付けた武術「天然理心流」9代目宗家の宮川清蔵さんが演武を奉納した。
墓前祭は会津若松ライオンズクラブ(渡部認会長)が毎年行っている。今年は新選組結成150年の節目に当たることなどから、宮川さんと、新選組六番隊組長・井上源三郎の子孫で、天然理心流勇武館副館長の井上雅雄さんが初めて墓前で剣の形を披露した。
多くの参列者に宮川さんは「会津で演武できることをうれしく思う。近藤勇の信念、義の心が皆さんの琴線に触れているのだろう。ありがたい」と感謝した。
(2013年4月26日 福島民友トピックス)
白河に新たな観光名所 戊辰戦争の激戦地に公園整備
戊辰戦争で最大の激戦地とされる白河口の戦いで主戦場になった白河市松並の稲荷山でこのほど、公園整備が完了し18日にセレモニーが行われた。
■遊歩道や案内板設置 会津藩などのぼり掲げる
稲荷山は奥州街道から白河城下に入る要衝に位置する。東軍白河口総督西郷頼母ら会津藩が陣を構え、薩摩、長州、大垣などの各藩から成る西軍を迎え撃った場所。慶応四(1868)年5月1日に行われた戦闘では、わずか一日で両軍合わせて700人が戦死したとされる。会津藩は副総督横山主税が戦死するなど甚大な被害を受けた。現在周囲には会津や長州、大垣各藩の戦死者を悼む碑が建てられている。
市はこれまで稲荷山を公園としていたが、NHK大河ドラマ「八重の桜」放映に合わせ、新たな観光資源として平成24年度から整備に着手。遊歩道を整備し誘導板や案内板を設置、麓に駐車場を設けて会津藩や薩摩藩など東西両軍ののぼりを置いた。
セレモニーでは鈴木和夫市長が「歴史に裏打ちされた観光地として魅力を発信していきたい」とあいさつ。西郷頼母研究会長の堀田節夫氏=東京在住=や西郷頼母玄孫(やしゃご)の山本英市氏=千葉県在住=が祝辞を贈った。関係者がテープカットし整備完了を祝った。問い合わせは市観光課 電話0248(22)1111へ。
( 2013/04/19 10:01 カテゴリー:主要 )
戊辰戦争:殉難者慰霊 春季祭典に市民ら100人 「会津人の忠義と無念」語り継ぐ /福島
1868年の戊辰戦争で命を落とした無名の会津藩士を慰霊する「戊辰殉難者春季祭典」が23日、会津若松市の長命寺と阿弥陀寺で行われ、延べ100人以上の市民が参列した。忠義を守ったために戦乱に巻き込まれた会津人の無念は、大河ドラマ「八重の桜」でもクローズアップされており、市民の手で先人の精神を語り継ぐ追悼行事が市内各地で予定されている。【乾達】
市教委などによると、藩士の遺体は同年9月に会津藩が敗れ鶴ケ城が落城した後も、新政府により埋葬を許されず城下に放置された。翌年2月にようやく許可がおり、約1400体が両寺に集められ葬られた。その後建てられた墓碑にも「戦死墓」以外の記載は許されなかったという。
春季祭典では、主催する公益財団法人「会津弔霊義会」の芳賀公平理事長が幕府への忠勤を貫いた結果、「朝敵」の汚名を着せられた会津藩士の無念を紹介。「義の心を貫いて戦死した先人の犠牲の上に平穏な暮らしが成り立っていることを、我々は後世に語り継ぐ責務を負っている」と慰霊の言葉を述べた。
同財団は「ならぬことはならぬ」に象徴される会津の武士道精神を継承し、慰霊を永続するため1917年に遺族と市民が設立。以来春秋2回、両寺での祭典と白虎隊慰霊祭を開催している。
今年は「八重の桜」で、会津側の視点による幕末が紹介されていることもあり、参列者の男性は「敗者としてのけ者にされてきたが、市民が代々受け継いだ歴史が日の目を見た」と話していた。
24日に同財団の白虎隊慰霊祭(飯盛山)、25日に同藩とともに戦った新選組組長の近藤勇墓前祭(天寧寺)、来月1日に家老・西郷頼母の妻子ら女性犠牲者を慰霊する奈与竹之碑碑前祭(善龍寺)も行われる。
八重と襄の書「夫婦再会」 県立博物館、17日から特別展
県立博物館(会津若松市)で5月17日に開幕する「NHK大河ドラマ特別展『八重の桜』福島展」(7月3日まで)の開催概要が26日までに決まった。
会津出身の新島八重ゆかりの品に加え「孝明天皇御製」など貴重な資料200点以上がそろい、八重と襄(じょう)が暮らした新島旧邸応接間も再現される。また、同博物館と同志社大同志社社史資料センターがそれぞれ収蔵している八重と襄の書が展示されることも決まり、会場で夫婦が“再会”する。
特別展では八重と戊辰戦争の敗戦から立ち上がった人々の姿を通して復興へのメッセージを伝える。
展示は新政府軍の砲撃で甚大な被害を受けた鶴ケ城の古写真を飾る「プロローグ」から始まり、第1章「会津の教え」、第2章「幕末の京都」、第3章「会津籠城」、第4章「古都復興」、第5章「ハンサムウーマンへ」。エピローグは八重が出席した京都会津会秋季例会の集合写真などを飾る。
初日は午前10時30分からセレモニーが行われ、会期中、記念講演会が開かれる。観覧料は一般・大学生1000円で高校生以下は無料。同博物館受け付けカウンターでは早売券(800円)を販売している。
江戸期の鶴ケ城紹介 東邦銀行会津支店が「鳥瞰図」作製
NHK大河ドラマ「八重の桜」効果で会津観光が全国から注目を浴びる中、会津若松市の東邦銀行会津支店は、同市のシンボル鶴ケ城周辺の江戸期の様子を空から見た鳥瞰(ちょうかん)図を作製。同支店窓口や観光関係機関で利用客や観光客に配布し、会津の観光振興に一役買っている。
原発事故の影響がまだ残る本県。「福島の復興は会津から」をスローガンに掲げる同支店は、会津観光や地域産業活性化の一助になればと3万部作製した。
鳥瞰図は、同支店会津サポートセンター勤務の白井祥隆さんが製作。これまでに1984(昭和59)年の鶴ケ城築城600年記念の初版、2011(平成23)年の鶴ケ城の赤瓦葺き替え記念の復刻版も手掛けている。今回は大河ドラマの主人公新島八重に関する情報を加筆した3版目となった。白井さんは現在、鶴ケ城天守閣で上演している新島八重の紙芝居も製作している。鳥瞰図は、地元の郷土史家のアドバイスにより城内の建物や構造、家臣の屋敷、通りの名称などを説明。裏面では籠城中の八重の行動や城内外の動きをドキュメントで紹介しているほか、ゆかりの地マップ、戊辰戦争や山本家などを分かりやすく解説し、“幕末の会津”が一目で分かるようになっている。
同支店の土田淳支店長、白井さんらは23日、同市役所を訪問し、室井照平市長に鳥瞰図1000部を贈った。室井市長は「当時の状況が良く分かり、観光客から大変好評だと聞いている。会津のPRに活用したい」と感謝した。白井さんは「観光振興を一心に願って作製した。会津の良さを全国発信できる一助になればうれしい」と話した。
慰霊祭:会津高生19人、白虎隊に剣舞を奉納 /福島
戊辰戦争で悲劇的な最期を遂げた白虎隊士ら少年武士の慰霊祭が24日、会津若松市の飯盛山にある自刃した隊士19人の墓前で行われた。参列者約300人が見守る中、白虎隊と同じ年ごろの会津高生19人が剣舞を奉納した=写真。
慰霊祭は毎年4月と9月の2回実施。白鉢巻きにはかま姿で刀を手にした生徒たちは、白虎隊の奮戦から退却、鶴ケ城に上がる煙を見て自刃するまでを詩吟に合わせて表現した。
剣舞は1884年の17回忌に私(し)黌(こう)日新館の生徒が奉納したのが始まりで、流れをくむ旧会津中、会津高に引き継がれた。現在は委員会活動として男女43人が練習に取り組む。委員長の菊地公康(まさみち)君(17)は「戦場に赴く隊士の気持ちになって踊った」と話していた。【乾達】
千葉
千葉・流山に近藤勇の最後の陣 商家や寺に200人
幕末の京都で、刀を頼りに反幕府勢力を取り締まった新撰組局長・近藤勇が、最後に陣を張ったのが千葉県流山市だ。明治新政府に逆らう「賊徒」として捕まるまでの、近藤の足跡をたどってみた。
流鉄流山線流山駅から2分ほど歩くと、住宅街の片隅に「近藤勇陣屋跡」の建物がひっそりとたたずんでいる。近藤らは鳥羽・伏見の戦い(1868年)で幕府軍が敗れた後、江戸や甲州などを経て、同年4月2日に土方歳三ら200人強を率…
以降は有料となります。
東京
「赤羽馬鹿」と「滝野川新選組」 北区の商店街で祭り あすから
北区で二十七、二十八の両日、街を盛り上げようとそれぞれの地元商店街が始めた恒例の祭りが開かれる。JR赤羽駅周辺では「赤羽馬鹿祭り」、JR板橋駅前では「滝野川新選組まつり」があり、区民も参加するパレードが華を添える。
赤羽馬鹿祭りは、赤羽商店街連合会が中心となり今年で五十八回目。千代田城を築城した太田道灌が五百年ほど前、現在の赤羽西に稲付(いねつけ)城を築き、詩歌管弦の普及に努めた話にちなみ、一九五六(昭和三十一)年に始まった。開催日は当初、四月一日で「四月馬鹿」から名付けられた。
メーンは二十八日正午からのパレード。仮装した区民や江戸神輿(みこし)七基の担ぎ手ら総勢四千二百人がJR赤羽駅東口前通りを歩く。女子レスリングの吉田沙保里選手も登場する。
一方、滝野川新選組まつりは、区内に新選組局長の近藤勇の墓所があることから地元の五商店街が始め、今年で十回目。
本会場のJR板橋駅東口駅前広場で新選組ファンらによる演舞、寸劇があるほか、二十八日午後一時からのパレードには地元住民らでつくる「新選組滝野川隊」ら約百二十人が練り歩く。
問い合わせは、赤羽馬鹿祭り実行委員会=電03(3901)8655、滝野川新選組まつり実行委員会=電03(3940)0038=へ。 (奥野斐)
三重
映画「幕末高校生」のエキストラ募る 伊賀で5月撮影
2014年公開の映画「幕末高校生」(仮題)の撮影が伊賀市内である。地元の上野商工会議所などでつくるフィルムコミッション「ロケーションナヴィゲーター伊賀」(愛称ナヴィガ)は、5月9日の撮影に出演するエキストラを募っている。
幕末高校生は、フジテレビジョン(東京)と東映(同)の制作。あらすじや出演者、撮影場所は、現時点で公開されていない。
募集しているのは、十六~五十九歳の男性四十人。ナヴィガによると、新型大砲の装填(そうてん)練習をしている旧徳川軍と、それを見守るかみしも姿の侍を演じる。
当日は午前七時~午後二時。雨天の場合、十二日または十四日の同じ時間帯に変更される。染めた髪や、ひげを生やした人は不可。眼鏡は外す。交通費、謝礼の支給はない。
フィルムコミッションは、撮影場所を誘致したり、ロケを支援したりする組織。ナヴィガは三年前に設立され、ロケ地を紹介するホームページを制作するなどして情報発信を進めてきた。これまで、学園ホラー映画「アナザー」や時代劇映画「蠢動(しゅんどう)」が撮影された。
ナヴィガ事務局長の伊室晃治さんは「伊賀をPRするいい機会になりそう」と話す。五月五日午後六時までに、https://ws.formzu.net/fgen/S40251383/にアクセスして応募する。応募者多数の場合は抽選。
問い合わせは上野商議所=電0595(21)0527=へ。
(安部伸吾)
佐賀
秋田守った佐賀藩士を慰霊 戊辰戦争で犠牲
戊辰戦争(1868年)で亡くなった佐賀藩士の慰霊を目的に、武雄市の団体と交流している秋田市の団体が19日、20年ぶりに武雄を訪問する。新政府軍側につき、東北で孤立した秋田藩を救うために多くの佐賀藩士が出征。今も戦没者の慰霊を続けている秋田の人たちを感謝の心でもてなす。一行は21日まで武雄市に滞在し、戦没者の墓参などをする。
訪れるのは「戊辰の役戦没者佐賀藩士慰霊秋田委員会」の17人。1986年、秋田市の土地区画整理事業中に佐賀藩士の墓3基が見つかり、うち1基が武雄市出身者だった。秋田側は恩に報いようと遺族への遺骨の返還とともに、秋田市内に「葉隠墓苑」を建立。委員会を立ち上げ、戦没者54人(佐賀藩全体)の慰霊を毎年行っている。
それが縁で、中断はありながらも両市の交流が続いてきた。93年には秋田から竿灯が来演し、武雄市中心部は人並みで埋まった。秋田からの訪問団はそれ以来で、訪問団には葉隠墓苑のある地元町内会長や墓苑の清掃管理をしている人たちなども含まれる。
訪問団は武雄ロータリークラブが50周年記念事業として受け入れ、19日に歓迎会を開く。20日は戦没者の墓や慰霊碑がある円応寺を訪れ、21日は記念植樹を行う。記念事業委員長の花田晴年さん(65)は「秋田の人たちの真心に応えるため、精いっぱいのもてなしをしたい。末長い交流にしていく」と話す。
秋田に出兵した武雄軍団は約千人。当時の最新鋭アームストロング砲など大砲10門を装備、庄内藩の攻撃から秋田を守り抜いた激戦で武雄の兵士14人が犠牲になった。
エンターテインメント
人気ゲームの劇場版アニメ「劇場版 薄桜鬼」、第1章が8月24日公開決定
[映画.com ニュース] 人気ゲーム「薄桜鬼」の劇場版アニメが、「劇場版 薄桜鬼 第1章 京都乱舞」として8月24日から公開されることが決定した。
2008年に発売された恋愛アドベンチャーゲーム「薄桜鬼 新選組奇譚」を皮切りに、テレビアニメ、OVA、舞台、ミュージカルなどさまざまなメディアでシリーズを展開し、多くの女性ファンを獲得している人気作品。幕末を舞台に、主人公の少女・雪村千鶴が新撰組の隊士と出会い、ともに激動の時代を生き抜いていく姿を描く。
劇場版は、昨年2月に行われたイベントで2部作の製作が発表されていたが、このほど第1部のタイトル、公開日が決定。また、メインキャスト、スタッフも明らかになり、監督はテレビアニメ版、OVA版も手がけたヤマサキオサムが担当。脚本の藤澤経清、キャラクターデザイン・総作画監督の中嶋敦子も、同じくテレビ版、OVA版から続投する。アニメーション制作はスタジオディーン。
キャストも同様に、千鶴役の桑島法子を筆頭に、三木眞一郎(土方歳三)、森久保祥太郎(沖田総司)、鳥海浩輔(斎藤一)、吉野裕行(藤堂平助)、遊佐浩二(原田左之助)、津田健次郎(風間千景)ら、ファンにはおなじみの顔ぶれが並んでいる。
前売り券は4月21日に行われたイベントで先行販売された全国共通特別鑑賞券のほか、今後は特典付き前売り券を劇場窓口で全3回、アニメイト各店および通販窓口で全2回、8月のコミックマーケット84で、それぞれ販売される予定。
公開劇場は、現時点で東京・シネマサンシャイン池袋ほか全国31館がリストアップされており、順次拡大予定。
「薄桜鬼」 としまえんで体感型ゲームイベント 新選組組長たちと謎を解け
都内の大型遊園地としまえんが、5月3日から6日、そして11日の5日間、ライブ参加型ゲーム企画“体感型遊戯「薄桜鬼」~としまえん騒乱記~GWに出陣!!”を実施する。2013年夏に『劇場版 薄桜鬼』が公開するのを記念するものだ。
としまえんは『サイコパス』や『バイオハザード』などを題材に、園内を会場とした体験型ゲームを行い成功させてきた。体験型のゲームは近年広く人気で、参加者も急増中だ。
今回は、女性に人気の高い『薄桜鬼』をテーマとする。これまでとはまた異なった盛り上がりも期待出来る。新しい企画の挑戦だ。
ゲームストーリーの発端は、斎藤一がある日、土方の部屋を訪ねると、豊玉発句集がバラバラになっているというもの。斎藤は沖田の仕業かと思い探すが、沖田の姿はない。外出中の土方が帰ってくる前に、バラバラになった句集を探し出して元通りにしなくてはならないが・・・・
この事件を解決するのはゲームの参加者、会場はとしまえん全域となる。参加者は新選組組長たちと協力して、様々な謎解きやミッションをクリアし、紛失した豊玉発句集を探す。ゲームの世界をまさにリアルに体験する。所要時間はおよそ2時間だ。
イベントのチケットは、全5日間、各日5回の開催を予定する。前売り券3200円、当日券3700円、イープラス、アニメイト池袋本店、ACOS池袋本店で前売り券が購入出来る。
『薄桜鬼』は、人気ゲームソフトから、アニメ、ドラマCD、舞台、ミュージカルへと次々と展開してきた。今回は新たに体感型ゲームとなったが、2013年もまだまだ話題が続きそうだ。
体感型遊戯「薄桜鬼」~としまえん騒乱記~GWに出陣!!
http://www.hakuoki-world.com
時期: 2013年5月3日(金)、4日(土)、5日(日)、6日(月)、11日(土)
時間: 1回目 11時~、2回目 12時~、3回目 13時~、4回目 14時~ 5回目 15時~
場所: としまえん
所要時間: 約2時間
チケット料金: 前売り券 3200円/当日券 3700円
プレイガイド: イープラス、アニメイト池袋本店、ACOS池袋本店
バラバラになった豊玉発句集を捜索するゲームだそうで……あの世の土方さんは、豊玉発句集がこんな使われ方をするとは思ってもいなかったでしょうねぇ(苦笑)。
中津の幕末の剣豪 漫画で見参
中津が生んだ幕末の3剣豪の1人・島田虎之助(1814~1852年)の生涯を多くの市民に知ってもらおうと、中津市教委は「マンガ 剣は心なり 島田虎之助」を発刊した。「郷土の偉人シリーズ」の4冊目。
文化11年、中津藩士の家に生まれ、小さい時から剣の才能を発揮した。九州各地で武者修行を…
以降は有料になります。
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一昨日、東京では平年より10日早い桜が開花したようです。これから一週間の天気予報を見るとけっこう暖かい(というか平年より高い)日が続くようなので、東京の桜はこれから10日ぐらいでしょうか……今年は函館の桜の見頃を想定して旅行を予定しているのですが、函館も平年より10日早かったりしたら見逃すかも……(汗)。
北海道
ことしの土方は俺だ 函館野外劇オーディション
京都
戊辰戦争の戦略図、初公開 新政府軍の会津攻め一目で 京都
コラム
新選組が名を挙げた「池田屋事件」の背景 敵の謀略暴いたのは…
逆境に負けない八重の生き方とは?
エンターテインメント
『八重の桜』会津弁わかりにくく「字幕ほしい」と会津藩士末裔
ミュージカル「薄桜鬼」沖田総司篇 新選組の新たなる物語 高浩美の アニメ×ステージ&ミュージカル談義(1/3)
北海道
ことしの土方は俺だ 函館野外劇オーディション
NPO法人市民創作「函館野外劇」の会(中村由紀夫理事長代行)は10日、今年の第26回公演のメーンキャストオーディションを行った。同会スタッフを含む33人が参加、役柄への思いをアピールした。
募集していたのはペリー提督や武田斐三郎、コロポックル、弁士など全21役。昨年も出演していた参加者は「初心に帰ってがんばりたい」「やり残したことがあった」と、中村理事長代行ら審査員4人に劇への思いを訴え、台本に沿って朗々としたせりふを披露した。
箱館戦争シーンの土方歳三役の希望者は3人。声を張り上げ、迫力ある殺陣や決めポーズでPRしていた。参加4年目で初めて土方役に応募した函館工業高校2年、河野憲嗣君(16)は「心が強い土方への思いは誰にも負けない。今日の演技には納得できなかったけど、いい結果を待ちたい」と話していた。
審査結果は12日に郵送通知し、24日から稽古を開始。今年の公演は7月5日~8月10日の全11回。
京都
戊辰戦争の戦略図、初公開 新政府軍の会津攻め一目で 京都
■霊山歴史館 軍監の書き写しか
戊辰戦争時の新政府軍の会津若松での戦略図「奥州会津若松戦地略図」の写しが見つかり、京都市東山区の霊山歴史館で公開されている。現物は残っておらず、写しの公開も初めて。同館では「会津での新政府軍の戦略が一目でわかる希少な史料」としている。(鈴木俊輔)
◇
奥州会津若松戦地略図は、戊辰戦争時の会津若松戦の戦略を描いた図。慶応4(1868)年に作られたとされ、新政府軍が会津若松を四方から攻めたことがはっきりとわかる。
現物は残っておらず、今回公開されているのは戦い後、各藩から参加した軍監が、藩に資料として持ち帰るために書き写したうちの1枚とみられている。横浜市在住の男性が、同館に寄贈し、今年1月に始まった通年特別展示「会津の武士道」で初公開された。
同館は「若松城への政府軍の戦略が一目でわかる。戦いの勝者側にも敗者側にもなかなか残らない希少な史料」としている。
特別展示は12月26日まで3期に分かれて開催され、現在は第1期。「八重の時代」と題し、新島八重ゆかりの品を中心に5月6日まで展示する。奥州会津若松戦地略図は3期通じて公開する予定。問い合わせは同館(電)075・531・3773へ。
コラム
新選組が名を挙げた「池田屋事件」の背景 敵の謀略暴いたのは…
「四条河原町の桝屋の動きがどうも騒がしい」。新選組の秘密警察「監察」の島田魁(かい)、山崎烝(すすむ)らから報告を受けた局長の近藤勇と副長の土方歳三が桝屋の家宅捜索を命じたのが元治元(1864)年6月5日だった。
「御用改めである」。武田観柳斎を筆頭に新選組が踏み込み、くまなく捜索したところ武器弾薬類や諸藩浪士関係の書類が出てきたため店の主、喜右衛門を逮捕する。
この桝屋喜右衛門こそが反幕府の皇族、有栖川宮熾仁(たるひと)親王と長州藩の間をつないだ尊王攘夷(尊攘)派の志士、古高俊太郎だった。
近江国古高村(現在の滋賀県守山市)で代官所の下級役人の子として生まれた古高は尊攘派の儒学者、梅田雲浜(うんぴん)に弟子入り。肥後藩出身の尊攘派で長州藩でも影響力を持つ宮部鼎蔵(ていぞう)とも親交があり、店は尊攘派の拠点になっていた。
文久3(1863)年8月18日、会津藩、薩摩藩ら公武合体派によるクーデターで京都から追放された長州藩ら尊攘派が巻き返しを狙っている最中だっただけに、古高の逮捕は大きな打撃だったに違いない。
古高の動きの裏に潜む事の重大性を読んだ近藤と土方が、壬生の八木邸と並ぶもうひとつの屯所・前川邸で行った取り調べはすさまじいものだった。
2階建ての土蔵で逆さづりにし、1階で胴、2階で足をむち打つ。それでも口を割らないため、土方がくぎを足の甲から裏に打ち抜き、そこに火の付いたロウソクを立てさせる。こんな冷酷な攻めに音を上げた古高はついに恐るべき計画を自供した。
祇園祭の風の強い日に御所に火を放ち、そのすきに公武合体派の中川宮を幽閉。将軍後見職の一橋慶喜と京都守護職の松平容保(かたもり)を殺害するとともに孝明天皇を長州へ誘拐する-というものだった。
さらに捜査を進めたところ、古高逮捕を受けて計画の実行か中止を決める会合を三条小橋近くの池田屋か四国屋で開くことも判明した。
上洛する将軍、徳川家茂の警護のため京へ入った近藤ら。いかつい風体から“壬生浪(みぶろう)”とさげすまれたその名を一躍天下に知らしめた池田屋事件はこうやって幕を開けたのだった。(園田和洋)
逆境に負けない八重の生き方とは?
幕末から昭和にかけて、激動の時代を生きた会津出身の女性、新島八重。戊辰戦争の敗戦で迎えた新しい時代にあっても、幼少時に学んだ武士道の精神を胸に自らの信念を貫いた生き方は、当時の女性としては異例のことだった。今年のNHK大河ドラマの主人公である八重の生涯を紹介する展覧会が、江戸東京博物館で開かれる。
会場の展示は、明治元(1868)年に新政府軍の砲撃を受けて開城した会津鶴ヶ城の古写真から始まる。会津藩砲術師範の父を持ち、砲術に親しんだ八重は銃を手に城に立て籠もって戦った。八重のモットー「ならぬことはならぬ(不義には生きない)」の基となった会津藩の教えから、日清・日露戦争で篤志看護婦として従軍し“日本のナイチンゲール”になるまでの八重の軌跡を、ゆかりの品々約200点を通してたどる。
アメリカ留学経験者で同志社英学校を創立した夫、新島襄は八重の内面の美しさを“ハンサム”と評したという。展覧会では、往時の暮らしを偲ばせる新島旧邸の部屋も再現、気高く生きた“ハンサム・ウーマン”の実像と出会える。
2013年NHK大河ドラマ特別展「八重の桜」
<開催日>2013年3月12日~5月6日
<会場>東京都墨田区・江戸東京博物館(総武線両国駅下車)
<問>電話:03(3626)9974
http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/
エンターテインメント
『八重の桜』会津弁わかりにくく「字幕ほしい」と会津藩士末裔
「会津弁がわかりにくいので字幕をつけて欲しい」
「何言ってるのか聞き取りにくいよね」
綾瀬はるか(27才)が主演しているNHK大河ドラマ『八重の桜』に、視聴者からこんな声が上がっている。この作品は、会津藩の砲術指南の家に生まれ、のちに同志社大学を創設した新島襄の妻となった八重の生涯を描いたストーリーで、八重や会津藩士たちのセリフはすべて会津弁だ。
山口県の下関市立中央図書館館長の安冨静夫さんが言う。
「綾瀬さんが演じる八重さんの会津弁は忠実すぎるところは味があるのですが、よく聞かないとわからないところもありますね。それに、ドラマは会津藩からの視点になっているので、長州が敵のように描かれるのは複雑な思いではあります」
山口県はかつて長州藩があった地。長州藩は、戊辰戦争を官軍として会津と戦った。明治以降、会津藩の悲劇や白虎隊の悲愴なストーリーが明らかになる一方で、長らく長州は悪者として描かれてきた。長州には、近代日本の礎を作ったというプライドと会津の遺恨を背負っているという、複雑な思いを感じながら見ている人もいるようだ。
『八重の桜』の会津弁がわかりにくいという指摘は、地元会津の人からも出ている。
「綾瀬さんの会津弁はネイティブに近いのですが、どちらかといえば現在では年配者が使っている会津弁という感じがして、会津地方以外の人には字幕が必要かもしれないと思いました。また、八重が子供だったころの放送回では、われわれが使っている会津弁とは違い、地元の人間ですら“字幕がほしい”と思ったぐらいです」
と言うのは、会津藩士の末裔で会津若松観光物産協会の佐藤功武さん。会津弁とひと口にいっても、実はさまざま。ドラマの舞台となる城下の会津若松と、ひと山越えた集落とでも違いがあるという。
「たとえば“あなた”は会津若松では“おめ、にしゃ”。南会津では“にし”と言います。“にしゃどこだ?”となれば“あなたどこから来た?”という意味になります」(佐藤さん)
会津以外の地域に住む人にとっては「?」な言葉のオンパレード。そこで『八重の桜』によく登場する方言を解説していく。
●「ごめんなんしょ」「ありがとなし」
語尾に「し」や「くなんしょ」をつけることで目上に対する尊敬語になるという。
「“し”は“です”、“くなんしょ”は“ください”という意味になります。“ごめんなんしょ”であれば“ごめんなさい”。どちらかといえば“失礼します”の意味で使われ、英語でいえば“エクスキューズミー”に近いニュアンスになります」(佐藤さん)
●「なじょ」
八重が相手に何かを尋ねるときに使う「なじょした?」という方言もよく出てくる。「なじょ」は、「どうした」など状態をあらわす「何如」が語源。これは相手の様子をうかがうときによく使うと教えてくれたのは、小料理屋『こんべぇ』(東京・新橋)を営む会津出身の星喜久江さん。
「私が生まれ育った大内宿のある下郷という地域では子供たちに“学校はどう?”と聞くときに“学校なじょだ?”と尋ねます。使うのは60代以上の年配者が中心ですが、今でもよく飛び交う言葉ですね」(星さん)
※女性セブン2013年3月28日号
ミュージカル「薄桜鬼」沖田総司篇 新選組の新たなる物語 高浩美の アニメ×ステージ&ミュージカル談義(1/3)
高浩美の アニメ×ステージ&ミュージカル談義 第15回
ミュージカル「薄桜鬼」沖田総司篇
幕末を駆け抜けた新選組の新たなる物語「薄桜鬼」
歌でダンスで殺陣でダイナミックに、あの世界観が舞台に蘇る
[取材・構成: 高浩美]
■ 新選組はいつの時代でも人気の“コンテンツ”
2008年に発売された大ヒット恋愛アドベンチャーゲーム『薄桜鬼~新撰組奇譚~』、ゲームはシリーズ化されて続けて発売、累計160万本以上のヒット作となった。その後アニメ化され、こちらのシリーズも大好評を博している。CDはもちろん、WEBラジオあり小説あり、とにかく人気“コンテンツ”である。
また、『るるぶ薄桜鬼』(2013年2月13日発売・JTBパブリッシング)も刊行され、『薄桜鬼』のゆかりの地を訪ねるというもの。ストーリーや台詞、名場面イラストを紹介しつつ、“見る、食べる、遊ぶ”といった旅行ガイドも満載されている。
さらに今年の夏にはテレビアニメ『薄桜鬼 黎明録』スタート、OVA『薄桜鬼 雪華録 第六章 千景篇』6月発売、さらに『劇場版 薄桜鬼』が公開、こちらは完全新作、新ストーリーの2部作と『薄桜鬼』プロジェクトが目白押し、ファンにはとっては嬉しい限りだろう。
舞台は2010年に「薄桜鬼 新選組炎舞録」、2012年ミュージカル『薄桜鬼』斉藤一篇が上演された。そして今年は新選組の人気登場人物である沖田総司篇が上演される。
新選組、といえば、近年は三谷幸喜脚本によるNHK大河ドラマ『新選組!』があったが、新選組を題材にしたドラマや映画はとにかく多い。
明治政府が倒幕派だったので、新選組に関する歴史的研究は遅れたようだが、新選組の人気は明治時代の講談から始まったようである。その後、小説や映画、ドラマ、ゲーム、漫画等になり、新選組ゆかりの地に行くファンも多く、数々のイベントもある。もちろん観光資源としても“活用”され、東京都日野市は“新選組のふるさと”、新選組資料館等もある。これほどの息の長い人気“コンテンツ”は他にはないだろう。
ミュージカル「薄桜鬼」沖田総司篇
3月14日~24日
サンシャイン劇場
http://www.maql.co.jp/special/m-hakuoki/
■ 魅力的なキャラクター、悲劇的な運命、そして幕末という時代
新選組の魅力はなんといっても登場人物の多彩さと彼らのたどった悲劇的な運命だろう。新選組の隊士の多くは浪士であり、町人、農民出身の者もいた。局長の近藤勇自身も農民の三男だったし、土方歳三も農民の出身だった。沖田総司は肺結核で夭折、その他の面々も粛清されたり脱走したり、と数奇な運命をたどる。どの人物も“主人公”になれる中味の濃いキャラクターばかり。
つかこうへいの戯曲「幕末純情伝」では沖田総司は女性として登場させているし、とにかく新選組は作家の想像力をかき立てられる題材なのだろう。そして今回のミュージカル「薄桜鬼」は沖田総司が中心となる。
また、新選組と対立関係にある倒幕派も多士済々。坂本龍馬始め、勝海舟、西郷隆盛等、とにかくキャラ揃い。“対立関係”にあるものが強大だったり魅力的であったりすると、それだけ主役は際だつ。「薄桜鬼」もそうだが、新選組等の幕府側を扱った作品も倒幕派中心に描かれた作品も、どちらも正直面白い。
今、オンエアされている大河ドラマ「八重の桜」も時代はまさしく幕末、NHKの大河ドラマで繰り返し幕末物が放送される所以ではないだろうか。
■ 幕末の、『薄桜鬼』の世界がバージョンアップ!
プレイベントのトークショーも盛り上がった今回の公演、まずは客席扉から沖田総司登場で冒頭から盛り上がる、という趣向。そして、勢いのある殺陣で一気にヒートアップ。エンターテインメント性溢れる構成で観客のテンションを上昇気流に乗せる。『薄桜鬼』の特長である史実とフィクションのミックスで観ながらにして“幕末”時代のおさらいも出来る。
徳川家茂上洛、張り切る新選組のメンバー。“事実と非事実”が舞台で交錯、融合し、“化学反応”を起こして独自の空間が出現する。ダンス×殺陣は大きな見どころのひとつ。今、流行りのステップと殺陣を上手い具合にミックスさせてダイナミック、かつ躍動感溢れる場面を創造する。
今回は新たに雪村千鶴の兄である南雲薫が登場し、物語の鍵を握る。完全新作で新たな新選組伝説が紡ぎ出される。
沖田総司役の廣瀬大介始め、初演の斉藤一篇からの面々、だいぶ役にも慣れた感じで、よくハマッていたのが印象的。南雲薫役の鈴木拡樹はカンパニー初参加だが、よく馴染んでおり、殺陣も上手くこなしており、沖田総司との一騎打ちは見せ場となっている。また妹の千鶴役の山本沙也加との“ど演歌デュエット”はかなり笑えるシーンに。
さらに今年の10月には第3弾土方歳三篇も上演決定、『薄桜鬼』、ますます目が離せない。
ミュージカル「薄桜鬼」沖田総司篇
3月14日~24日
サンシャイン劇場
http://www.maql.co.jp/special/m-hakuoki/
「薄桜鬼」オフィシャルサイト
http://www.geneonuniversal.jp/rondorobe/anime/hakuoki/
「薄桜鬼」総合サイト
http://www.otomate.jp/portal/hakuoki_sogo/
『八重の桜』は、今日が池田屋事件の回ですね。
福島
県内外の児童・生徒無料 5月開幕「八重の桜展」
神奈川
役者絵描けば幕末随一、砂子の里資料館で三代歌川豊国展/川崎
京都
新選組隊士になりきった 京都の商店街でコスプレ
以降は、朝日の有料サービスとなります。
毎小ミュージアム:幕末維新ミュージアム 霊山歴史館
京都府文化財、新たに10件 本満寺蓮乗院霊屋など
大阪
淀川べりの要塞、松平容保の深慮 楠葉台場跡(大阪府枚方市) 古きを歩けば(48)
熊本
熊本近代文学館:宮部鼎蔵の日記展示 象山の漢詩記載 /熊本
エンターテインメント
【オリコン】恋愛ゲーム『薄桜鬼』旅行本が人気 部門別で首位に
福島
県内外の児童・生徒無料 5月開幕「八重の桜展」
県は、5月17日に県立博物館(会津若松市)で開幕する企画展「八重の桜展」(7月3日まで)について、県内外の小、中、高校の児童・生徒は観覧無料とする。
期間中は教育旅行シーズンと重なるため、無料化を東京電力福島第1原発事故の影響で落ち込んだ教育旅行需要の回復に向けた起爆剤としたい考えだ。
5日の2月県議会一般質問で、水野さち子議員(ふくしま未来ネットワーク、会津若松市)の質問に杉昭重県教育長が答えた。
八重の桜展は、放送中のNHK大河ドラマ「八重の桜」のヒロインで、会津出身の新島八重のゆかりの和歌短冊や帽子など資料約200点を展示する。戊辰戦争前後の会津藩時代から京都で活躍する時代まで、八重の生涯や人物像を資料を通して紹介する。杉教育長は「県内外の多くの子どもに本県の歴史や伝統・文化に触れる機会を提供したい」と無料化の意義を強調した。
県は「風評被害は根強いが、八重の桜展の無料化を教育旅行の回復のきっかけとしたい」としている。
神奈川
役者絵描けば幕末随一、砂子の里資料館で三代歌川豊国展/川崎
幕末の浮世絵師で役者絵を描かせれば当代随一といわれた三代歌川豊国の作品を集めた展覧会が23日まで、京急川崎駅そばの川崎・砂子の里資料館で開かれている。
三代豊国は1786年生まれ。初代に入門し、若いころは国貞を名乗っていた。展覧会には国貞時代の1818年ごろの初期の作品から、三代豊国となった1860年代の作品まで約60点が展示されている。
片岡仁左衛門、中村芝翫、市川海老蔵、坂東三津五郎などの役者が演じる役と花をなぞらえて、謎解きのように楽しむ「当世見立三十六花撰」のひとそろいは、なかなか見られないという。
「歌川派を安定させた幕末の重鎮。広重とも親しかった。この機会にぜひ」と斎藤文夫館長は話している。
入場無料。日曜・祝日休館。問い合わせは、同館電話044(222)0310。
京都
新選組隊士になりきった 京都の商店街でコスプレ
幕末、新選組が尊王攘夷(じょうい)派の志士を襲撃した「池田屋騒動址(あと)」がある三条小橋商店街(中京区)で3日、新選組隊士のコスプレイベントがあった。訪れた人たちは、コスプレーヤーのパフォーマンスや写真撮影を楽しんだ。
同商店街振興組合が主催し、今年で2回目。商店街の歴史をアピールして…
以降は、朝日の有料サービスとなります。
毎小ミュージアム:幕末維新ミュージアム 霊山歴史館
◇幕末ばくまつから明治維新めいじいしんの歴史れきしを調しらべる
1970年ねん、幕末ばくまつから明治維新めいじいしんにかけての歴史れきしを調しらべる専門博物館せんもんはくぶつかんとして、当時とうじの政治せいじの中心地ちゅうしんち・京都きょうとに開館かいかんしました。維新いしんに命いのちをかけた坂本龍馬さかもとりょうまや桂小五郎かつらこごろう、中岡慎太郎なかおかしんたろうなどの志士ししをまつる墓はかや慰霊碑いれいひがある「京都霊山護国神社きょうとりょうぜんごこくじんじゃ」の向むかいにあります。
高杉晋作たかすぎしんさくが自作じさくの漢詩かんしを記しるした鉄てつの扇おうぎや、龍馬りょうまを斬きったとされる刀かたななど倒幕派志士とうばくはししのゆかりの品しなと、幕府側ばくふがわである新選組しんせんぐみの腕章わんしょう、徳川慶喜とくがわよしのぶの書しょなど、あわせて5000点てんを超こえる資料しりょうが集あつまります。順次公開じゅんじこうかいされる約やく100点てんの展示物てんじぶつから、維新いしんを総合的そうごうてきにとらえることができます。
今年ことしの通年特別展つうねんとくべつてんは、NHK大河たいがドラマにちなんだ「会津あいづの武士道ぶしどう」。5月がつ6日むいかまでの第だい1期きは、主人公しゅじんこうの新島八重にいじまやえの生涯しょうがいと、幕末ばくまつの会津藩あいづはんの歴史れきしを紹介しょうかいしています。(丸)
■京都市東山区きょうとしひがしやまく
▽最寄もより駅えき:JR「京都きょうと」駅えきから、市しバスで「清水道きよみずみち」か「東山安井ひがしやまやすい」下車げしゃ、徒歩とほ7分ふん
▽開館かいかん:開館かいかんは午前ごぜん10時じ。閉館へいかんは時期じきによって、午後ごご5時半じはん、午後ごご6時半じはん、午後ごご7時半じはんのいずれか
▽入館料にゅうかんりょう:小中学生しょうちゅうがくせい300円えん、高校生こうこうせい400円えん、大人おとな700円えん(常設展じょうせつてんのみの期間きかんは、それぞれ200円えん、300円えん、500円えん)
電話 075・531・3773
京都府文化財、新たに10件 本満寺蓮乗院霊屋など
京都府教委は5日、本満寺蓮乗院霊屋(れんじょういんたまや)(京都市上京区)や人面付土器頭部片(与謝野町)など、新たに10件(京料理・会席料理含む)を府文化財に指定・登録することを決めた。府文化財は計712件(指定464、登録217など)となる。
本満寺は日蓮宗の寺院。蓮乗院は、越前北ノ庄藩(福井藩)の藩祖松平(結城)秀康の正室で、霊屋には越前産笏谷石(しゃくだにいし)が使われ、元和7(1621)年と刻まれた宝篋印塔(ほうきょういんとう)があり、江戸初期の石造建築を伝える。人面付土器は、旧加悦町の温江遺跡から出土した。鶏のとさかのような突起が特徴的で部分的に赤い顔料が残る。弥生前期の人面付土器の出土は珍しい。
◆そのほかの指定、登録文化財◆
◇…指定…◇
【建造物】「隣華院客殿ほか3棟」(京都市右京区・隣華院)1824年完成の客殿で、妙心寺山内でも最大級。豪華な造りで長谷川等伯の水墨山水画などもある。庫裏や表門など江戸時代の塔頭寺院の景観を残す。
「麟祥院霊屋」(右京区・麟祥院)徳川家光の乳母で寺開基の春日局をまつる。江戸前期の建築で内部の彫刻や金具の意匠が細密。後水尾天皇の二条城行幸時に造営された建物の遺構と伝わる。
「恵心院本堂」(宇治市・恵心院)1676年に建立。万福寺の造営にかかわった大工が棟梁を務めた。須弥(しゅみ)壇室と護摩壇室を一つ屋根で納め、左右非対称で珍しい。
【美術工芸品】「報恩寺本堂障壁画」(舞鶴市・報恩寺)幕末の京都の絵師塩川文麟が描いた44面の襖(ふすま)絵。本堂全体に優れた技術で虎や龍、鶴などが描かれている。
「木造神像」(西京区・松尾大社)摂社や末社の16体の木彫神像群。平安後期を代表する月読社の女神坐像や笑った表情の男神像や銘文が入った最古の像も含まれる。
「唐衣裳装束(からぎぬもしょうぞく) 伝東福門院所用」(左京区・霊鑑寺)後水尾天皇に入内(じゅだい)した徳川秀忠の娘・東福門院の所用品と伝わる。優美な十二単(ひとえ)に檜(ひ)扇などがそろい、江戸前期の染織品として資料価値が高い。
◇…登録…◇
【建造物】
「麟祥院本堂ほか2棟」本堂は六間取りで、内部に江戸時代の絵師海北友雪の襖絵がある。明治時代に仁和寺近くから現在地に移転したが、庫裏とともに建築当初の江戸前期の部材が多く残る。
大阪
淀川べりの要塞、松平容保の深慮 楠葉台場跡(大阪府枚方市) 古きを歩けば(48)
住宅地の外れに田畑が広がり、農道を住民が行きかう。何の変哲もない風景だが、古絵図を手にあぜ道をたどれば幕末の要塞の姿が浮かび、戊辰戦争の砲声が聞こえてくる。
外郭線が今もあぜ道となって残り、幕末の姿をしのべる楠葉台場跡(大阪府枚方市)
■勝海舟が築造指揮、内陸部唯一の台場
京都府立総合資料館が所蔵する当時の設計図。南面のみ稜堡を築いて防御を固めた構造だ。敷地内を京街道が縦貫し、中央にある番所の前を通過するようになっている
ここは大阪府枚方市の淀川沿い、楠葉台場跡だ。幕末、日本沿岸に出没する外国船に備え、幕府は各地に西洋式の台場の築造を進めた。外国船が淀川をさかのぼって京へ押し寄せることを恐れた朝廷は、同川沿いにも台場設置を要望。京都守護職だった会津藩主、松平容保が幕府に築造を建白し、勝海舟が指揮を執って慶応元(1865)年、淀川左岸に楠葉、右岸に梶原の両台場が完成した。内陸部に設けられた台場は全国でここだけという。
楠葉台場の設計図が京都府立総合資料館(京都市)に伝わっている。総面積は約3万8000平方メートル。火薬庫や見張り台を備え、外周に土塁と堀が巡っていた。ただし防御機能は京の反対側(川下側)にあたる南面に限られ、この面のみ五稜郭同様の欧州式築城術による稜堡(りょうほ=突出部)を採用して砲台を設置。堀や土塁も、南面は幅約12~16メートルあったが、それ以外は2分の1~3分の1の規模で仕切り程度だったとみられる。
上空からの眺めを設計図と比較すると、京阪電鉄が通る西面を除き、外郭線が今も地割としてよく残っていることが分かる(提供=枚方市教育委員会)
台場の北にあった橋本陣屋を宿舎に福山や宮津、小浜などの藩兵が交代で警備にあたった。台場の隣地および対岸には船番所が設けられ、川を往来する舟に目を光らせた。
梶原台場は明治維新後、開発で消滅。楠葉台場も農地になったが、京阪電鉄が通っている西面を除いて外郭線があぜ道などの地割として良好に残り、全容をうかがうことができる。枚方市教育委員会が発掘したところ「堀や虎口(入り口)、火薬庫など、ほぼ設計図通りの遺構が残っていました」と担当した竹原伸仁さんが教えてくれた。
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■真の狙いは攘夷派、長州藩への備え?
稜堡や堀の輪郭が、農道の描くカーブに浮かび上がる。遺跡は保存され、2年後をメドに歴史公園として整備される見通しだ
設計図を見ると奇妙なことに気付く。北面と南面に入り口が設けられ、京と大坂を結んでいた京街道が台場を縦貫しているのだ。要塞とは人を近寄らせないための施設のはずだが、街道を通る一般の人々が中を行き交っていたことになる。「台場内には番所が設けてありました。容保の本当の狙いは外国船撃退ではなく、尊皇攘夷派志士を京に入れないため、また長州藩への備えとして、京の入り口に陸上の関門を設けることだったのでしょう」。同台場を研究する京都府長岡京市教育委員会の馬部隆弘さんはこうにらむ。
そもそも朝廷が台場設置を要望した当初、諸藩からは「浅瀬の多い淀川を大型蒸気船が航行するのは困難。河岸に台場の必要性は低い」との意見が大勢を占め、立ち消えになりかけたという。だがその後、会津藩が意見をひるがえし、築造が決まった経緯があった。
遺跡の傍らに立つ石碑。「橋本砲台場」と刻んであるのは、北にあった橋本陣屋と混同したとみられる
「転機は文久3(1863)年、等持院(京都市)にあった室町将軍の木像の頭部を尊攘派の志士が『逆賊』として切断し、賀茂川の河原にさらした『足利三代木像梟首(きゅうしゅ)事件』です」と馬部さんは指摘する。この事件で会津藩は尊攘派への融和策を捨て、対決姿勢に転じる。台場築造もその一環で、尊攘派の反発を抑えるために朝廷の要望を隠れみのにした可能性が高いという。容保が朝廷と良好な関係を築いたり、会津や幕府の存在を広く一般にアピールしたりするのにも大いに役立ったのだろう。
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■設計図を手に調査、8年前に位置特定
慶応4(1868)年、鳥羽・伏見の合戦の最終局面で楠葉台場が登場する。台場の北にあたる鳥羽・伏見で敗れた幕府軍は、京街道を後退して橋本陣屋に集結。その時、対岸にいた津藩兵が新政府側に寝返り、橋本陣屋や楠葉台場に激しい砲火を浴びせた。「台場から反撃したとされていますが構造上、無理です。幕府軍は台場を離れ、散開して応戦しつつ大阪へ退却したのでは」。馬部さんはこう推察する。防御機能のほとんどない京方面から敵が攻めてくる想定外の事態に、軍事施設としては全く役に立たなかったようだ。
【アクセス】京阪橋本駅から徒歩約12分
楠葉台場に関する史料は地元にはなく、正確な場所も長らく不明だった。馬部さんは設計図を手に一帯を踏査し、8年前、あぜ道の形から台場跡の位置を特定した。「不自然なL字形の田を見つけ、北面の外郭線と一致するのに気付いて興奮しました」。会津や小浜など全国各地にあった関連史料も丹念に収集し、台場の全体像を解き明かした。
遺跡一帯は区画整理の計画が持ち上がっていたが、保存を訴える馬部さんらの声に応えて文化庁が2年前、「幕末の緊迫した状況を示す貴重な遺跡」として国史跡に指定。2015年春をメドに歴史公園に整備される見通しだ。「まさか全面的に保存されるとは思っていませんでした」。馬部さんは笑みを浮かべる。
(文=編集委員 竹内義治 写真=伊藤航)
熊本
熊本近代文学館:宮部鼎蔵の日記展示 象山の漢詩記載 /熊本
熊本藩出身で尊皇攘夷(じょうい)派の幕末の志士、宮部鼎蔵(ていぞう)が吉田松陰と房総半島や三浦半島の砲台を視察した際の日記が、熊本近代文学館(熊本市中央区出水)で開催中の徳富蘇峰生誕150年記念展「『黒い眼と茶色の目』の周辺」で展示されている。日記には、開国論者の佐久間象山の漢詩が記され、熊大文学部の三沢純准教授(日本近代史)は「両者はあまり接点がない印象があるが、実際は宮部が象山に共感していたことが分かり、宮部の思想や行動を見るうえで意義深い史料」と説明する。
宮部は交友があった松陰と房総半島や東北を巡行。その後、尊皇攘夷派の活動家となったが、池田屋事件(1864年)で新選組に襲撃され、自刃した。
日記は和紙(縦約12センチ、横約11センチ)22枚に記され、後年に散逸を防ぐため屏風(びょうぶ)に仕立てている。所蔵していた宮部の子孫が死去したため、昨年3月に遺族が県立図書館に寄託した。
日記には、宮部と松陰が1851(嘉永4)年6月13日から21日まで砲台12カ所を視察し、三浦半島の観音崎にある砲台が機能していないことや、宿で異国船の目撃情報に触れたことなどを記載。最終部分では、西洋の進んだ学問を取り入れる必要性を訴える象山の漢詩が和紙1枚半にわたって書かれている。
三沢准教授は「漢詩の後ろに『右 佐久間修理(佐久間象山)』とある。宮部か象山本人の記載かは筆跡鑑定もしていないため現時点では判断できない」としている。
記念展は25日まで。開館は午前9時半~午後5時15分。火曜と毎月最終金曜は休館。入場無料。問い合わせは文学館096・384・5000。【松田栄二郎】
エンターテインメント
【オリコン】恋愛ゲーム『薄桜鬼』旅行本が人気 部門別で首位に
女性向け恋愛アドベンチャーゲーム『薄桜鬼』の旅行ガイドブック『るるぶ 薄桜鬼』(2月27日発売・JTBパブリッシング)が、週間1.4万部を売り上げ、3/11付オリコン“本”ランキングでBOOK(総合)部門25位に初登場、ジャンル別の「旅行ガイド部門」で首位を獲得した。
<先週の本ランキング>剛力彩芽主演ドラマの原作が1位に
新選組を題材とした同ゲームは、2008年の発売以来累計60万本が販売されている人気作。これまでアニメ化のほか、ミュージカルや舞台化もされており、今夏には劇場版アニメの公開も予定している。
『るるぶ 薄桜鬼』では、『薄桜鬼』の舞台となった新選組ゆかりの地である、京都・日野・会津・函館を、ストーリーやセリフ、名場面イラストとともに紹介。そのほか幕末歴史スポットや「るるぶシリーズ」ならではの“見る・食べる・遊ぶ”といった情報も掲載している。
そのほか、今週のBOOK(総合)部門は、人気ゲームガイド『遊☆戯☆王 デュエルターミナル マスターガイド』(集英社)が初登場首位。文芸では、西尾維新の最新作『悲痛伝』(講談社)、NEWS・加藤シゲアキの最新作『閃光スクランブル』(角川グループパブリッシング)が初登場で6位、7位にランクイン。また、今年の本屋大賞候補作で、ノミネート発表直後からジワジワと順位を上げていた川村元気『世界から猫が消えたなら』(マガジンハウス)が、先週の20位から10位に順位を上げ初のTOP10入りを果たした。
幕末ニュースの続きです。
コラム
会津に詳しい作家・中村彰彦さんのコラムです。
[八重と幕末会津](1)会津若松城籠城戦を戦い抜く
[八重と幕末会津](2)京都で新たな人生を切り拓く
会津戦争がもたらした 八重の家族・それぞれの道/歴史街道編集部
八重の初婚相手「川崎尚之助」、相次ぎ書籍化 米沢との関わりなど紹介
坂本龍馬暗殺 真犯人は? 幕末史上最大の謎…幕府、新選組、薩摩、長州の名も
エンターテインメント
別花に菅野文の新選組シリーズ、「紅茶王子」新作予告も
「誠のくに」コミックス化を心待ちにしております。
三谷幸喜、『渡辺晋賞』受賞「ずっと好きなことをやり続けてきた」
三谷さん、おめでとうございます。なお大河は『新選組!』です……よくある間違いですが。
ややこしい? “幕末大河”同じ俳優が別役で出演
私なんぞ生瀬さんは『新選組!』の殿内さんです。
恋愛SLG「新撰組恋遊戯~幕末幻想異聞~」がGREEとかれぺっとで配信に
キャラデザインが『薄桜鬼』に似過ぎ……大丈夫かと思うぐらい(汗)。
コラム
会津に詳しい作家・中村彰彦さんのコラムです。
[八重と幕末会津](1)会津若松城籠城戦を戦い抜く
「戦う女」八重の獅子奮迅の働き
新島八重 - 旧姓・山本八重は、幕末の弘化2年(1845)に会津藩の砲術(銃術)師範の家に生まれ、会津戦争では当時最新鋭の7連発式スペンサー銃を手に活躍。明治以後は京都に移ってキリスト者となり、同志社大学を設立する新島襄と結ばれ、共に理想の教育実現に努めます。さらに日清・日露戦争では従軍看護婦として働くなど、その一生を「公」のために尽くした人物でした。
彼女を表現するのに、「幕末のジャンヌ・ダルク」「ハンサム・ウーマン」「日本のナイチンゲール」などという言葉が使われるのは、このような八重の生き方を反映してのものです(ちなみに、「ハンサム・ウーマン」とは、新島襄が八重を「生き方がハンサム」と評したことに由来します)。
その八重が明治44年(1911)に、男装して腰に刀を差し、銃を持って掲影した写真があります。八重は会津若松城に籠城する際、鳥羽伏見の戦いで斃れた弟・三郎の形見の衣服をまとい、断髪して戦い抜いていますから、これは往時を偲んで撮った1枚にほかなりません。
この写真で注目すべきは刀の差し方です。普通、刀は鍔が帯に当たるまで深く差し込み、鐺(刀の鞘の末端)が下に下がる差し方が多いでしょう。しかし八重は、刀の柄をかなり前に出しています。帯から鍔までにゆとりがなければ、すぐに鯉口を切る(刀を抜くために鍔を左手親指で押し出す)ことができないからです。しかも、刀身をほぼ水平に横たえています。これは刀を抜いて即座に斬る「抜即斬」の構えです。つまりこの写真は、女性がたまたま刀を差したものではなく、八重が実戦を知る「戦う女」だったことを如実に示す1枚なのです。
膂力がなければ刀を存分に扱うことも、重たい銃を射撃することもできませんが、八重はすでに13歳の時、四斗俵(重さ60キロ)を肩まで4回も上げ下げできたほどの腕力の持ち主でした。後年の写真を見ても、腕は太く、胸に厚みがあり、どっしりした臼のような腰をしています。晩年に「今の世なら運動選手になったかもしれない」と述べるほど、運動神経も優れていました。
日本には「女武者」の伝統があります。『平家物語』に登場する、木曾義仲に従った巴御前。強弓を引いて鎌倉幕府軍と戦った越後の板額御前。戦国時代、立花道雪の一人娘で女城主となった立花誾千代……。江戸時代の各藩にも、常日頃から腰に大小を差して奥殿に仕え、いざというときは戦う「別式女」「帯剣女」「刀腰婦」と呼ばれる女性たちがいました。この系譜を見れば、「鉄砲」を扱う女性が出てきても不思議ではありません。八重は、父も兄も砲術師範ですから習うより慣れろで銃術を習得していったのでしょう。
八重は、会津若松城の籠城戦で大活躍します。ことに西軍(新政府軍)が城下に侵攻してきた慶応4年(1868)8月23日には、多くの藩士たちがまだ国境で戦っており、城内は老兵や婦人、子供ばかりでした。しかも会津藩の装備はゲベール銃など旧式銃中心でしたから、八重が7連発式のスペンサー銃を手に獅子奮迅の働きをしなければ、城の北出丸は突破され、たった一日で落城の憂き目にあったかもしれません。
その日、攻め込んで来たのは土佐藩と薩摩藩の砲隊でしたが、土佐藩兵の死傷率はかなり高く、また、薩摩藩の砲隊を率いていた大山厳も足を撃たれています。土佐藩兵や大山を撃ったのも、銃の性能から考えると八重であった可能性が高いのです。
会津藩の「教育」の凄み
ところで会津藩には、八重のように銃で戦わずとも、中野竹子をはじめ薙刀などを手に敢然と戦った女性たちが数多くいました。会津戦争の大きな特徴は、男性藩士はもちろん、女性たちや子供たちも極めて勇敢に身を処したことにあります。なぜでしょうか。その大きな理由は教育にありました。
会津藩の教育は、有名な「什の掟」から始まります。6歳から9歳までの藩士の子供(男子)が同じ町内で10人前後の集まり(什)を作り、次のような掟を唱えるのです。
一、年長者の言ふことに背いてはなりませぬ。
一、年長者には御辞儀をしなければなりませぬ。
一、虚言を言ふことはなりませぬ。
一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ。
一、弱い者をいぢめてはなりませぬ。
一、戸外で物を食べてはなりませぬ。
一、戸外で夫人と言葉を交へてはなりませぬ。
ならぬことはならぬものです」
「什」に入らない女子も、同じ雰囲気の中で成長したことはいうまでもありません。
さらに藩士の男子は10歳になると藩校・日新館に入学します。ここで最初に学ぶのが『日新館童子訓』という教科書です。5代藩主・松平容頌が編纂したもので、人として大切な倫理を、その具体例となる古今の逸話を通して学べる構成になっていました。
たとえばその第34話では、戦国時代の筑前の武将・高橋紹運が島津の大軍に城を攻められ降伏を勧告された折に、「人生は朝露が日差しに消えるようにはかないもので、ただ長く世に残るのは義名だけと存ずるにより、降参つかまつらず」と答えて最期まで戦い抜き、城の士卒1800人も1人も逃げずに運命を共にした故事が書かれています。
この他にも忠義については、南北朝時代に大塔宮の身代わりに切腹した村上義光や、節義を全うした楠木正成・正行父子などが紹介されています。もちろん書かれているのは「忠義」ばかりではありません。親孝行の具体例として、会津藩内の実話も数多く収録されています。「それぞれのシチュエーションで、武家としていかに行動すべきか」がしっかりと教育されていたのです。
会津藩の凄みは、この教科書を木版刷りにして、藩士の全戸に配布していたことでしょう。そのため女性たちの多くも、この本を暗誦できるほどに読み込んでいました。八重も晩年に至るまで『童子訓』を暗誦し、籠城の苦労を乗り越えられたのは教育のおかげだと語っています。会津戦争で女性や子供が義を貫き通したのは、まさにこの教科書があればこそだったのです。
ちなみに会津藩祖・保科正之が家訓に「婦人女子の言一切聞くべからず」と書いたことから、会津藩では女性を蔑視したように思われる向きもありますが、それは大きな誤解です。この家訓はあくまで、藩主や家老はじめ為政者が、女性の寝物語のおねだりにほだされて政治を左右することを戒めるものであり、いま述べたように会津藩の女性たちも、武家としていかに行動すべきかを学んで、積極的に生きていたのです。
[八重と幕末会津](2)京都で新たな人生を切り拓く
なぜキリスト教の道に入ったか
八重は会津戦争を戦い抜いた後、京都に移り住んでキリスト教の洗礼を受け、新島襄と結婚します。どんな経緯で京都に移って襄と出会い、新たな人生を切り拓いたのかは別稿に譲るとして、ここでは、なぜ八重がキリスト教の道に入ったのかを考えてみましょう。
実は明治以後、会津藩士やその子供の中でクリスチャンになった者はそう珍しくありませんでした。藩が敗亡し、それまで信じてきた価値観が壊されてゆく中で、「それを超える大きな価値観」に惹かれる部分があったのでしょう。
会津藩では先述の教育を通して、藩主への忠義と親への孝を中心とする倫理的価値観が組み立てられていました。にもかかわらず敗戦と廃藩置県で主君を喪失し、親も戦死――そんな状況に置かれた会津人がキリスト教の絶対的な神に救いを求めたのは、よくわかる気がします。さらに「己の良心のみに従う」キリスト教の倫理観は、維新以後、「勝てば官軍」の論理で理不尽にも賊名を被った会津人の心を支えてくれるものだったでしょう。
そして会津の人々は、会津戦争であまりに大きな悲劇に直面しました。家族や友が血しぶきの中で死んでゆく死屍累々たる光景を見て、死とは何か、生きるとは何かを考え抜かざるを得なかったはずです。キリスト教では、霊魂は不滅で、死ねば天国で愛する者たちと再会できると教えます。この教えは、数多くの悲痛な死に接した会津人たちにとって、大きな救いになったのかもしれません。
八重は日清・日露戦争では従軍看護婦を務めています。実は明治以後、八重だけでなく多くの会津女性たちが、看護婦の道を選びました。その理由は、いま述べたことの裏返しでしょう。会津の女性たちは籠城中、自分の帯の芯までほぐして包帯代わりとし、負傷兵を手当てしますが、薬も医学的知識もない中で、彼らが死んでゆくのをただ見守るしかできませんでした。彼女たちは強烈な無力感に打ちのめされていたはずです。
その無念を晴らしたい、という思いが会津の女性たちにはあったのではないでしょうか。禁門の変から戊辰戦争まで、3000名余の会津人が犠牲になった代わりに、明治以後の看護学の基礎ができあがったとも言えるのです。
胸に「誇り」を抱いていたからこそ
もう1つ、八重にとって大きかったのは、敬愛する兄・山本覚馬の存在でした。
若き日に江戸に留学して佐久間象山や勝海舟らに砲術などを学んだ覚馬は、その先端知識を生かして幕末の会津藩で活躍。戊辰戦争中に薩摩藩に捕まり軟禁されますが、挫けずに「管見」という先見性と具体性に富んだ提言書を提出し、それを見込まれて維新後は京都の近代化に尽くします。覚馬の力は大変なもので、明治政府が学制を発布する前から、京都では小学校が設立されていました。さらに彼は石鹸、ガラス、陶磁器、清涼飲料水など様々な工業製品の研究・製造を進めた京都舎密局や、養蚕場、伏見製鉄所などを開設。その後の京都産業界の礎を築きます。そして、新島襄が同志社大学を設立するのを大きくバックアップしたのも覚馬でした。
八重と覚馬は、言いたいことをはっきりと言い、芯の通った生き方を貫き、しかも付き合うと決して嫌なタイプではないという点で、よく似た兄妹です。八重の強さ、先進性、積極性は、どこか「この兄にしてこの妹あり」と感じさせます。
八重もいち早くキリスト教徒となり、新島襄と結婚した後は、派手な洋装で西洋的な「レディファースト」の姿勢を実践。守旧的な京都人から後ろ指を差されることさえありました。
明治以降の彼らは、傍目にはまるで西洋かぶれであるかのように見えたかもしれません。しかし、そんな彼らを支えたのは、「武士として恥じることのない生き方」を貫いてきた会津人としての誇りだったのではないか、と私は思います。八重が後年、会津戦争当時の格好をした写真を撮らせていることからしても、「自分は苛酷な会津籠城戦を戦い抜いた女だ」という誇りをずっと胸に抱いていただろうことがわかります。そして、その「誇り」があったからこそ、力強く新たな道を踏み出すことができたのではないでしょうか。
八重の生き方は、私たちに「とてつもない挫折から立ち上がる強さとは何か」「自分らしさを貫く力とは何か」「気持ちよく、堂々と生き抜く清々しさとは何か」を強く訴えかけます。そしてそのために、いかに「自分自身への誇り」が重要かも教えてくれるのです。
いかに生きるか、そして、そのために自分が誇りとすべきものは何か。彼女の人生に触れつつ、そのことを考えてみてはいかがでしょうか。
会津戦争がもたらした 八重の家族・それぞれの道/歴史街道編集部
鳥羽伏見の戦いで、兄・覚馬は行方不明(処刑されたと伝えられた)、弟・三郎は戦死 ―― その悲報で幕を開けた「八重の戊辰戦争」だったが、会津戦争によって、さらなる悲劇に見舞われることになる。
61歳の父・権八は、50歳以上の藩士で構成された玄武隊に所属して連戦していた。しかし、南方の兵端を断つベく攻めてきた西軍(新政府軍)と激突した一ノ堰で、遂に戦死する。降伏間近の9月17日のことであった。
降伏開城すると、藩士は猪苗代、そして東京で謹慎を命じられ、女性や老人、子供は塩川(喜多方市塩川)から喜多方周辺の農家に当面住むように命じられる。八重と母佐久、兄嫁うら、姪みねの4人もしばらくはそこに滞在していたようだが、その後、米沢に移った。会津に留学して川崎尚之助に砲術を師事していた米沢藩士・内藤新一郎が、山本家の窮状を見かねて援助の手を差し伸へてくれたのである。
やがて覚馬が京都で生存していることがわかり、一家は明治4年(1871)、京都へ向かうことになる。しかしそこに覚馬の嫁うらの姿はなかった。その時すでに京都では、身体が不自由になった覚馬を時栄という女性が献身的に支えていた。京都で覚馬が開いた洋学所に学んだ丹波郷士・小田勝太郎が、目の不自由な覚馬のために、自分の妹・時栄に身の回りの世話をさせたのがきっかけだというが、八重たちが京都に向かった年には、久栄という娘も誕生している。恐らくうらは、自ら身を引く決断を下したのであろう。
また、八重の最初の夫、川崎尚之助もいなかった。尚之助は会津戦争の頃には会津藩士になっていたらしく、他の藩士と共に謹慎した後、会津藩が再興を許された地・斗南(青森・下北半島)に向かったのである。なぜ八重たちを連れず、単身で斗南に向かったのか。藩士に取り立ててくれた会津藩への恩義を感じつつ、しかし蘭学者らしい合理的精神で斗南での苦労を予見し、当座、かつての弟子で米沢藩士の内藤に家族を預けたほうが安心と考えたのだろうか。
とはいえ酷寒の地、斗南の苦境は尚之助の想像さえはるかに超えた。藩士の餓死の危機を脱するために、尚之助はデンマーク領事で商人でもあったデュースから広東米を調達しようとする。しかし、仲介した日本人貿易商が契約を履行せず、尚之助はデュースから損害賠償の訴訟を起こされてしまった。藩を巻き込むことを恐れた尚之助は、すべての罪を一身にかぶり、東京での司法裁判に臨むのである。八重とはこの時に離緑したのだろうか(一説に会津戦争前後に離緑ともいう)。
八重と共に京都に向かった母佐久と姪のみねのその後にも触れておこう。
佐久は因循なところが全くなく、八重の受洗に続いて明治9年(1876)末にキリスト教の洗礼を受ける。そして同志社女学校の舎監を務め、女子生徒たちに実の祖母のようにやさしく接し、「山本のおばあさま」と慕われた。
みねも佐久と共に洗礼を受けた。後に同志社女学校を卒業。同志社兵学校第一回卒業生で横井小楠の長男である横井時雄と、明治14年(1881)に結ばれる。だが、明治20年(1887)、長男の平馬を出産後、病死する。
時代の激動に翻弄された山本家。明治以降の八重たちの歩みの陰には、一人ひとりのドラマがあったのである。
《『歴史街道』2013年2月号より》
八重の初婚相手「川崎尚之助」、相次ぎ書籍化 米沢との関わりなど紹介
NHK大河ドラマ「八重の桜」のヒロイン新島八重の初婚相手・川崎尚之助。謎も多かったその生涯が、新史料の発見で明らかになり書籍化などが相次いでいる。川崎は米沢藩士にとって砲術の師匠で、米沢との関わりや市立米沢図書館の史料の存在も含めて紹介されている。
川崎の生涯を描いているのは、戊辰(ぼしん)戦争後の消息や先祖などに関する新史料を見つけた歴史研究家あさくらゆうさんの著作と、八重の再婚相手・新島襄が創立した同志社大の元職員竹内力雄さん(京都市)の論文。
それによると、川崎は今の兵庫県豊岡市に当たる出石藩出身で、米沢出身・大木忠益の江戸の塾で八重の兄・山本覚馬と知り合い、会津藩蘭(らん)学所の教授となった。戊辰戦争では妻八重と共に鶴ケ城に籠城して戦ったが、敗戦後に離別。八重は京都で、兄の知人の新島襄と再婚した。
戊辰戦争後の川崎の消息は不明で、「会津を捨てて逃げた」とも言われていたが、あさくらさんが札幌市の北海道立文書館で見つけた記録で、藩士として会津藩再興先の斗南藩(青森県)に移住、藩のため米を調達しようとしてトラブルとなり裁判中、責任をかぶったまま東京で死亡した事が分かった。会津のために尽くした末の最期だった。
米沢藩士では、八重が母らと1年間世話になった内藤新一郎、後に海軍文官となった小森沢長政らも川崎の弟子だった。小森沢の実家は内藤家に近く、あさくらさんは「小森沢の実兄の宮島誠一郎(官僚・政治家)が、京都に出向いた際に覚馬に母や妹八重の居場所を教えた可能性は高い」とする。
あさくらさんは1年がかりで川崎の古里豊岡市など全国を回り、米沢図書館では内藤ら米沢藩士が会津での開戦直前、八重の実家に寄宿していた事を示す史料も発見した。川崎の子孫も突き止め、「川崎尚之助と八重―一途に生きた男の生涯」(知道出版、1575円)にまとめた。
竹内さんも、独自の調査とあさくらさんの発見を基にした論文を「会津人群像第22号」(歴史春秋社、1260円)に掲載した。米沢図書館に残る内藤の日記原文も紹介した内容で、小冊子「八重の夫・川崎尚之助の真実」(500円)にもまとめて同志社生協ブック&ショップ=075(251)4427=で販売している。
坂本龍馬暗殺 真犯人は? 幕末史上最大の謎…幕府、新選組、薩摩、長州の名も
【関西歴史事件簿】
慶応3(1867)年11月15日午後9時ごろ、シーンと静まりかえった河原町の醤油(しょうゆ)屋、近江屋からバタバタという音とともに「こなくそ!!」という叫び声が響き渡った。騒ぎは一瞬で収まったが、2階の8畳間にはひとりの土佐脱藩浪士が血を流して倒れていた。坂本龍馬だ。
龍馬は頭など34カ所に傷を受けてすでに死亡していた。ペリー来航以降、鎖国体制が崩れて諸外国の圧力が強まる中、弱体化した幕府に代わる新体制づくりに奔走した龍馬は、33歳という短い一生を終えた。
事件はこんな形で進んでいった。
襲われた近江屋2階は屋根裏で、天井は低い。夕刻から盟友・中岡慎太郎の訪問を受けた龍馬は風邪気味のため軍鶏(しゃも)鍋を食べようと近くの本屋の峰吉に肉を買いに走らせた。
その直後、十津川郷士を名乗る2人の男が「龍馬に会いたい」と、元力士の使用人、山田藤吉に申し出てきた。龍馬に取り次いだ後に2人を先導して階段を登っていた矢先、藤吉が後ろから斬られる。
藤吉の崩れる大きな物音に、龍馬は「ほたえな(ふざけるな)」と声をあげると、いきなり部屋の襖が開き、2人男に斬りつけられたのだ。
額を斬られた龍馬。今度は刀のある床へ向いて背中を斬られる。傷は浅く何とか刀までたどり着くが、刀を握る龍馬の頭上から刀が振りかかってきた。
鞘(さや)で払おうとするも不幸に鞘が天井に当たり、除けきれずに頭に深傷を負う。これが致命傷になる。中岡も隣の屋根に逃げたが28カ所に傷を負い、2日後に亡くなる。
軍鶏肉を手に近江屋に戻ってきた峰吉の知らせで、龍馬の仲間が大勢駆けつけたが、犯人の姿はすでになかった。
誰が龍馬を“やった”のか。これだけ有名な事件にもかかわらず犯人は分かっておらず、諸説が飛び交い、幕末史上最大のミステリーといわれる。
最も有力視されているのは幕府の京都見廻組与領(くみがしら)の佐々木只三郎(旗本)とその部下。このほか新選組の原田左之助、薩摩藩の中村半次郎らの名前があがり、少数派ながら長州藩、土佐藩説もある。
近江屋は四条河原町から北へ徒歩数分。龍馬のいた母屋は現在の河原町通の上に建っていたことから、当時の道路は現在の通りの東側歩道と同位置、同幅(約4メートル)。この結果、河原町蛸薬師交差点近くに建つ事件の石碑周辺がまさに殺害現場にあたる。
石碑と現場がここまでピタリとくるケースは、結構珍しい。(園田和洋)
エンターテインメント
別花に菅野文の新選組シリーズ、「紅茶王子」新作予告も
本日2月26日に発売された別冊花とゆめ4月号(白泉社)にて、「オトメン(乙男)」で知られる菅野文の集中連載「誠のくに」がスタートした。
「誠のくに」は菅野が新選組を描くシリーズの、8年ぶりとなる最新作。幕末の会津藩の歴史を題材とした検定試験「会津幕末歴史検定」が3月17日に開催されることを記念して、連載がスタートした。また今号の付録は、菅野のイラストを使用した大判ポストカードセット。「誠のくに」のほか「北走新選組」「凍鉄の花」といった、新選組シリーズ過去作のイラストも使用されている。
なお山田南平「紅茶王子」の新シリーズが、4月26日発売の別冊花とゆめ6月号にて集中連載としてスタートすることが発表された。ファンは続報を楽しみに待とう。
「誠のくに」コミックス化を心待ちにしております。
三谷幸喜、『渡辺晋賞』受賞「ずっと好きなことをやり続けてきた」
脚本家の三谷幸喜氏が2日、都内で行われた『第8回渡辺晋賞 授賞式』(渡辺音楽文化フォーラム主催)に出席した。大衆文化の発展に貢献したエンターテイメント業界のプロデューサーを選考対象とし、年1回、顕彰。三谷氏は「ずっと好きなことをやり続けてきて、今ここに立てているのがうれしい」と受賞を喜んだ。
映画『清須会議』の出演者が大集合
三谷氏は舞台・映画・テレビと多くのメディアの脚本を手掛け、映画監督、舞台演出、そして出演とマルチな役割をこなしながら、「三谷ブランド」と称される軽妙洒脱なエンターテインメント作品を創出し続け、多くの人の心をとらえてきた。そのプロデュース力が評価された。
三谷氏はスピーチで「『刑事コロンボ』が大好きで、『古畑任三郎』に繋がって、新選組と大河ドラマが大好きで大河ドラマ『新撰組』に繋がりました。子供のころから柴田勝家や丹羽長秀といった武将が好きだったのですが、そこから、柴田勝家が主役の『清州会議』(11月公開)という映画に繋がりました」と最新作もしっかりアピール。
授賞式には三谷氏の翻案・演出の舞台『桜の園』に出演したタレントの青木さやかが祝福に駆け付け、花束を手渡した。
■過去の受賞者(敬称略)
第1回:亀山千広(フジテレビプロデューサー、代表作『踊る大捜査線』)
第2回:鈴木敏夫(スタジオジブリプロデューサー)
第3回:本多一夫(本多劇場グループ代表)
第4回:松浦勝人(エイベックス・グループ・ホールディングス代表取締役社長)
第5回:秋元康(AKB48プロデューサー)
第6回:三枝成彰(作曲家・音楽プロデューサー)
第7回:大里洋吉(芸能事務所・アミューズ会長)
三谷さん、おめでとうございます。なお大河は『新選組!』です……よくある間違いですが。
ややこしい? “幕末大河”同じ俳優が別役で出演
NHK大河ドラマは放送中の「八重の桜」を含めてこの6年間で3本も幕末ものだ。2008年が「篤姫」で、10年は「龍馬伝」。
しかも、1週間に放送されるテレビドラマはいま、民放とNHKを合わせると、相当の数にのぼっている。
したがって、お気づきと思うが、“幕末大河”に同じ俳優が別の役で出演しているケースが目立つ。使い回しとは言わないが、いかがなものか…なんてことは全然思わなくて、オヤジ、そのことを逆に楽しんで「八重の桜」を見ている。WBCの壮行試合と重なろうが「八重」優先だ。
筆頭が生瀬勝久。「龍馬伝」で吉田松陰、「八重の桜」では勝海舟。どっちも幕末の偉人の代表格だが、「八重の桜」で松陰(小栗旬)の処刑の報を聞いて海舟(生瀬)が悲嘆する場面はややこしかった(笑)。
八重の兄・山本覚馬(西島秀俊)との2ショット場面にもニヤリ。生瀬と西島はフジの連ドラで映画化されたばかりの「ストロベリーナイト」でも共演している。竹内結子ひきいる警視庁捜査一課殺人犯捜査十係“姫川班”の活躍を描く警察ドラマで、西島は姫川班のメンバー。姫川主任を密かに思う二枚目だ。かたや生瀬はヘンな大阪弁をつかって姫川班にちょっかい出す捜査仲間。2人がチョンマゲ結って真面目に“ニッポンの夜明け”を語るのだ(笑)。
「八重の桜」で八重(綾瀬はるか)の幼なじみの貫地谷しほりは、一緒に長刀の稽古に励むが、「龍馬伝」では北辰一刀流千葉道場の娘で、腕に憶えのある龍馬(福山雅治)をこてんぱんに打ち負かしていた。だから、貫地谷が長刀を握ると、免許皆伝の腕前に見えてしまう(笑)。
その綾瀬ときたら「JIN-仁-」の印象が強すぎ、会津の山本家に吉田松陰が泊まったときも2人が初対面のようには見えなかった(笑)。(新橋のネクタイ巻き)
私なんぞ生瀬さんは『新選組!』の殿内さんです。
恋愛SLG「新撰組恋遊戯~幕末幻想異聞~」がGREEとかれぺっとで配信に
愛か誠か、生か死か。
動乱の京都に芽吹く、甘く切ない恋の花――
「新撰組恋遊戯 ~幕末幻想異聞~」
女性向け恋愛シミュレーションゲーム
「GREE」「かれぺっと」にて配信開始!
ジグノシステムジャパン株式会社(本社:東京都千代田区、代表取締役社長:沼尻 一彦)は2013年2月27日(水)に、ソーシャルネットワーキングサービス「GREE」「かれぺっと」にて、女性向け恋愛シミュレーションゲーム『新撰組恋遊戯 ~幕末幻想異聞~』をフィーチャーフォン版・スマートフォン版同時に配信開始いたしました。
『新撰組恋遊戯 ~幕末幻想異聞~』とは、あなたが主人公となって、誠の志のもとに生きる新選組隊士たちとの恋愛を楽しむ、女性向け恋愛シミュレーションゲームです。
<ストーリー>
元治元年、京都。
病弱な弟を救うため、長州藩の間者となったあなたは、命令により新撰組に近づくことに。
しかし、彼らに隠されたある「真実」を知った時、あなたの運命は、否応無く因果の渦中へと巻き込まれていく。
誠を貫く男達と共に駆け抜けたその先で、淡い恋の花を咲かせるか、それとも徒花となって儚く散りゆくのか。
決めるのは、あなた次第――
<ゲームの特徴>
ゲーム中の選択肢に正解したりアバターを獲得することで、彼との「好感度」が上がります。好感度によって物語が分岐し、それぞれのエンディングを迎えます。物語の途中には「蜜月ルート」が発生することも。「蜜月ルート」は、いつもより甘く胸の高鳴るシチュエーションが楽しめる、スペシャルストーリーです!また、好感度がアップするアバターには、可愛いアイテムがいっぱい! ガチャで手に入る美麗アバターで、トータルコーディネートも楽しめます。
キャラデザインが『薄桜鬼』に似過ぎ……大丈夫かと思うぐらい(汗)。
ども、白牡丹です。去年までは花粉症じゃなかったのですが、今年の大量花粉飛来にくしゃみ、かゆみ目、鼻水を発症しております(涙)。昨日の落語会でもふたつみっつくしゃみを連発し、皆様にご迷惑をおかけしました……今日は外出を控えております。
北海道
【3/9】歴史講座「箱館戦争~開陽丸と五稜郭の調査から」
文中にリンク貼りましたが、道南ブロック博物館施設等連絡協議会ブログの幕末維新・箱館戦争関係の記事が何気にマニアックで面白いです。「大脱出」「同心たちの箱館戦争」「旧幕府軍兵士と鷲ノ木の住人たち」「箱館戦争と写真」など史実ネタから、「箱館戦争と化け猫伝説」「土方はタンポポを見たか?」といった意外性のある記事まで、いろいろと楽しめます。
幕末の水田開発 詳細記す 江差
福島
八重と覚馬がつないだ“縁” 京都、会津若松商議所が協定締結
新島八重の生き方学ぶ 国学院大創立130周年講演 郡山
大河ドラマ「八重の桜」の会津若松市、ドラマ効果で観光は「雪解け間近」
栃木
展示:大田原藩と戊辰戦争展、那須与一伝承館で /栃木
千葉
ひな飾り:14代将軍徳川家茂の正室・和宮が所有 佐倉・国立歴史民俗博物館で展示 /千葉
山梨
黒駒勝蔵の実像に迫る 笛吹で企画展 山梨
新潟
三条市が体感ツアーバスを計画 八十里越の秘境楽しんで 新潟
京都
気のゆるみが悲劇招く? 殺生禁じた洛中でなく、洛外に潜んだ龍馬
京丹波の隕石も注目を 幕末に落下、今は東京の博物館に
広島
文化審答申:岩倉具視資料、重文指定へ 幕末〜明治の書簡など /広島
山口
「歴女」が維新の里、萩市で幕末談議
北海道
【3/9】歴史講座「箱館戦争~開陽丸と五稜郭の調査から」
函館の歴史を語るときに、欠かせないテーマが箱館戦争。幕末から明治維新にかけての激動の時代、その歴史遺産である開陽丸と五稜郭についての歴史講座が、函館市中央図書館で開催されます。
発表者は、長年発掘調査や復元整備を担当してきた博物館学芸員。また、26人の学芸員が、インターネット上でリレー形式の日替わり投稿記事も展開中。歴史ファン必見の、幕末維新や箱館戦争に関する興味深い話を読むことができます。⇒こちらから
郷土学講座・歴史編「箱館戦争~開陽丸と五稜郭の調査から」
日時 2013年3月9日(土)14~16時
会場 函館市中央図書館視聴覚ホール(五稜郭町26-1)
内容 江差沖から引き揚げられた開陽丸
五稜郭の調査からわかった箱館戦争
定員 150名(先着順)
受講料 無料。資料代200円
問い合わせ 道南ブロック博物館施設等連絡協議会事務局
(市立函館博物館内 0138-23-5480)
文中にリンク貼りましたが、道南ブロック博物館施設等連絡協議会ブログの幕末維新・箱館戦争関係の記事が何気にマニアックで面白いです。「大脱出」「同心たちの箱館戦争」「旧幕府軍兵士と鷲ノ木の住人たち」「箱館戦争と写真」など史実ネタから、「箱館戦争と化け猫伝説」「土方はタンポポを見たか?」といった意外性のある記事まで、いろいろと楽しめます。
幕末の水田開発 詳細記す 江差
【江差、厚沢部】檜山南部有数の穀倉地帯である厚沢部川流域の水田地帯。幕末期に始まったその開発の詳細が分かる史料が、昨年8月に江差町教委に寄贈された。当時の松前藩家臣が記したもので、町教委の宮原浩学芸員は「江戸時代の水田開発に関する文献が少ない道内では貴重」という。町教委は、2日の江差学講座で解説する。
史料は、松前藩の江差役所の役人、脇新左衛門(1816~没年不明)が記した藩の書類や日記帳など194点。札幌市在住の子孫が寄贈した。藩が1859年(安政6年)から始めた厚沢部川流域の水田開発は、これまで概要は知られていたが、詳細は不明だった。
宮原学芸員によると藩の大規模水田開発はこの時が初めて。当時、蝦夷地(えぞち)の大部分を直轄化した幕府が現在の函館や北斗周辺で水田開発に着手。道南の一部を領地としていた藩も、交易税以外の収入源を確保するため、稲作事業を本格化させたらしい。
史料では、開発区域は河口付近の江差町水堀から、内陸の厚沢部町館(たて)まで広範囲にわたる。開始後8年で水田面積は計126ヘクタールと、東京ドーム約27個分の広さに及んだ。
稲作のノウハウがなかった藩は、越後(新潟県)の農民に移住を呼び掛けた。移住者の優遇措置を記した「開墾規定書」では、男1人につき金3両の手当や、年貢は5年間納めなくていい、など好条件が書かれている。移住者は数年間で数十戸。越前(福井県)の農民も加わり、今も子孫が居住している。
江差学講座は2日午前10時から町文化会館で開催。藤島一巳学芸員解説の「江差の文化財保護のあゆみ」もある。申し込みは町教委社会教育課(電)0139・52・1047へ。(山田一輝)
福島
八重と覚馬がつないだ“縁” 京都、会津若松商議所が協定締結
東日本大震災からまもなく2年。被災地の復興を産業面から支援しようと、京都商工会議所は会津若松商工会議所(福島県会津若松市)と1月、相互交流に関する協定を締結し、今年を「相互交流Year」として、産業や観光など多彩な分野で交流活動を展開する。両商議所の間で交流の機運が急速に高まったカゲには、両市を舞台にした今年のNHK大河ドラマ「八重の桜」のヒロイン・新島八重と、京都の発展に寄与した兄、山本覚馬の兄妹の存在があった。
そもそもの発端は震災の復興支援。関西広域連合の支援の取り組みで、京都府が福島県の担当だったことから、京商は1カ月間、福島商工会議所に職員を派遣するなどの支援活動を続け、現地との関係が深まった。
そうこうしているうちに、今年の大河ドラマが両都市を舞台とした「八重の桜」であることもあって、昨年4月に会津若松会議所の首脳が京都を訪れた際、「ドラマ放映に合わせて交流活動を、という話が持ち上がった」(京商産業振興部)という。
京商は京都ブランドの発信を目的に、毎年東京と地方都市で1回づつ「京都ブランドフォーラム」を開催しており、こうした縁で昨年11月に会津若松市で開催。交流の機運が急速に高まり、具体的な話が進んだ。
ドラマのヒロイン・新島八重は会津若松の出身。戊辰戦争で会津藩が敗戦したのち、兄の山本覚馬を頼って京都に入り、同志社大学の創設者である新島襄と結ばれる。その生き様は「ハンサム・ウーマン」と称された。
一方、兄の山本覚馬は幕府の要請で京都守護職に就いた会津藩主・松平容保とともに京都に入り、紆余曲折を経た後、京都府顧問として京都の近代化に大きな役割を果たし、初代の府会議長に就任した。
新島襄の同志社大学創設の舞台裏には、山本の働きがあったとされる。また、山本は京都博覧会の開催など産業振興の面でも大きな足跡を残し、明治18年5月から11月まで、京商の第2代会長(当時)を務めている。こうした“深い縁”があっては、いやがうえにも交流の機運は高まろうというもの。関係者の“熱い思い”も十分想像できる。
京都の近代化を進め、政治家、経済人としても活躍した山本覚馬。同志社設立を支えた新島八重。この兄妹は京都の近代化を支えた立役者だ。「被災地は依然、風評被害が大きい。京商として最大限の支援活動をしたい」(京商産業振興部)。京商としては“恩返し”の思いがあるようだ。
1月に会津若松市内のホテルで開かれた調印式には、京商から立石義雄会頭ら35人、会津若松会議所から宮森泰弘会頭ら70人が出席。京都、会津若松の両市長も出席し、立石会頭は「交流を着実に実行し、絆を深めていきたい」とあいさつ。宮森会頭は「震災復興の原動力になる」と応じた。
調印式には立会人として会津松平家第14代当主の松平保久氏が出席。「ご本人のたっての要請もあって、両市のつながりについて特別講演をしていただいた」(京商産業振興部)という。
両商議所は視察団を結成し、お互いに派遣。経営者の交流を促進して被災地の産業・観光復興を後押しするほか、京都で会津若松市の物産展を開催し、現地商品の販売にも一役買いたいという。
また、両市とも歴史が深いだけに「優れた伝統工芸品でも交流事業を考えたい」(同)。両者の間で具体的な交流事業の内容やスケジュールを詰め、順次実施していくことにしている。
新島襄、八重夫妻や山本覚馬が駆け抜けたのは、幕末から明治、昭和へと、日本が近代化に向かった激動の時代だが、1世紀以上も昔の人々が今の両商議所を結びつけたことを思うと…。“縁”とは不思議なものだ。(佐久間史信)
新島八重の生き方学ぶ 国学院大創立130周年講演 郡山
国学院大創立130周年記念講演は23日、福島県郡山市の開成山大神宮参集殿で開かれ、NHK大河ドラマ「八重の桜」のエグゼクティブ・プロデューサーの内藤慎介氏が講演した。
国学院大院友会県中通り支部と国学院大院友会の主催。福島県出身の新島八重の生き方を学び、東日本大震災で被災した県民が復興する一助になればと企画した。
会員を含め約120人が参加した。内藤氏は「八重の桜」をテーマに、戊辰戦争で敗れた会津藩側から光を当てていくことで、歴史には残らなかった事実が見えてくると強調した。制作の裏話を交えながら、「八重はもちろん、八重の兄・山本覚馬ら大勢の偉人がいたことを知ってほしい」と呼び掛けた。
大河ドラマ「八重の桜」の会津若松市、ドラマ効果で観光は「雪解け間近」
NHKの大河ドラマ「八重の桜」が始まって1カ月あまり。主演の綾瀬はるかが演じるのは、同志社創立者である新島襄の妻・八重。物語は八重が生まれ育った福島県会津若松市を舞台としている。
その会津若松市だが、現在、観光需要の減少が問題となっている。平成21年の観光客数が約340万人だったのに対し、平成22年は約270万人、平成23年は約230万人と、2年連続で落ち込んでしまうという結果に。大きな要因は修学旅行生の激減によるものだそう。
さらに詳しい内容を、会津若松観光物産協会の統括本部長、渋谷民男さんに聞いてみた。
「東日本大震災の前は、多くの学校(県外841校、県内240校)に修学旅行として足を運んでいただけたのですが、平成23年度に訪れた県外の学校は100校にまで落ち込みました。我々も専門の推進委員を3人用意いたしまして各地の学校を回り、今年中に何とか400校には戻したいと考えています」
しかし修学旅行生に比べると、一般の観光客は戻りつつあるのだそう。会津若松の観光地や温泉(東山温泉、芦ノ牧温泉など)への、観光客の回復状況を教えてもらった。
「震災前と比べまして、一番の観光地である鶴ヶ城は9割くらい。その他のところは6割程で、全体としては7割程度にまで回復しています。温泉は規模の大きいところは宣伝に力を入れることができるので、戻りが早かったようです」
さて、これまでも大河ドラマの舞台となると、観光地として一気に注目を集めたケースは多いが、会津若松市はいかがだろう?
「まだ雪が残っていますので、これから車での訪問がもっと増えると考えています。雪が解けてからが本番というところでしょうか。今後も大阪の大丸梅田店をはじめとして、お客様に会津若松関連の素敵なものをプレゼントしたり、各地で物産展などを開催して、広くアピールしていきます」
会津若松では、大河ドラマにちなんで戊辰戦争前後のイベントが続々と企画・開催されていれる。
鶴ヶ城天守閣では、「幕末武器類紹介」(1月18日~4月8日)が開催中。そのあとには「~幕末特集~会津人 戊辰戦争のまえとあと」(4月12日~9月30日)が開催予定。また会津新撰組記念館では「山本(新島)八重と鉄砲展」が今年の12月まで開催されており、會津藩校日新館では「山本覚馬と妹・八重」が4月から開催予定となっている。
「八重の桜」にゆかりのあるイベントを満喫したあとは、東山温泉でゆったりと湯に浸かる。そんな楽しみ方ができる会津若松市は、今年の観光名所として注目を集めるに違いない。
■会津若松観光ナビ
http://www.aizukanko.com/
栃木
展示:大田原藩と戊辰戦争展、那須与一伝承館で /栃木
145年前の大田原市の歴史に光を当てる「大田原藩と戊辰戦争」展が、同市南金丸の与一伝承館で開かれている。3月24日まで。
大田原藩は1万1400石の外様大名で、1600~1871年、藩主14代にわたって歴史を刻んだ。戊辰戦争では新政府軍側についたため1868年、大田原城は旧幕府軍の会津藩の攻撃を受けた。
会場では、攻撃が迫って城を脱出したという14代目藩主の〓丸(としまる)(後の勝清、当時7歳)の写真や戦況を報告する「太政官日誌」や、大田原藩士が付けた3種類の袖印、古地図、書簡など約40点が展示されている。
3月3、17日には展示解説がある。入館料は高校生以上は300円(10人以上の団体は250円)。中学生以下は無料。問い合わせは同館(電話0287・20・0220)。【柴田光二】
千葉
ひな飾り:14代将軍徳川家茂の正室・和宮が所有 佐倉・国立歴史民俗博物館で展示 /千葉
3日のひな祭りにちなみ、佐倉市の国立歴史民俗博物館で、第14代将軍徳川家茂(いえもち)の正室となった皇女和宮(かずのみや)が所有していたというひな飾りが展示されている。御所のある京都で作られた内裏びな人形2体と江戸で作られたひな道具をセットに飾っていたとされ、幕末動乱期に「公武合体」のため天皇家から将軍家に嫁いだ和宮の生涯を垣間見ることができる。31日まで。
和宮は仁孝(にんこう)天皇の第8皇女として京都に生まれた。対立する朝廷と幕府の関係を修復するため、将軍家に降嫁。幕末から明治維新にかけて波乱の生涯を送ったことで知られている。
和宮のひな飾りは徳川将軍家とその子孫に受け継がれ、文化庁に寄贈された。内裏びなは高さ約16センチと小ぶりだが、「一番御位よろしきの故 小さくとも上位にならべること」とされ、徳川宗家に伝わった数多くある人形のなかでも特に大切に扱われた。同館の澤田和人准教授は「(政権を朝廷に返した大政奉還後も)徳川家存続に力を尽くした和宮の伝来ということで、大切にされてきたのだろう」と分析する。
内裏びなは朝廷や公家が行う儀式で着る装束を着用。特に女びなの上着は、和宮が京都で織らせた自身の着物と同じ模様をしており、人形自体が和宮の分身として京都で作られたと推測されている。
一方、約80点あるひな道具は、江戸上野池之端(現東京都台東区)にあった有名なひな人形店「七澤(ななさわ)屋」が制作したとされている。一枚一枚に文字と絵が描かれた幅約1センチの小倉百人一首や、面が1ミリ四方にも満たないさいころ、幕末に流行したガラス製の器など精巧なミニチュアが並ぶ。
ひな祭りは江戸時代に入って広まり、装飾はその時々の流行を取り入れながら豪華になっていったという。特に七澤屋の品は「家が建つほど高価なぜいたく品」と言われ、大名家などが求めたが、現在はほとんど残っておらず、展示のひな道具は江戸時代の工芸技術の高さを知る貴重な資料だ。澤田准教授は「肉眼ではなかなか見えない所にまでこだわっており、じっくりと見てほしい」と話している。【味澤由妃】
3月3日朝刊
山梨
黒駒勝蔵の実像に迫る 笛吹で企画展 山梨
■「時代を動かしたアウトロー」
江戸時代末期、駿河の清水次郎長の好敵手として、東海一円に名を知られた甲州の博徒、黒駒勝蔵(くろこまのかつぞう)の潜伏先を記した古文書が見つかった。勝蔵がなぜ博徒として大きな存在になったかを示す貴重な史料の一つとして、勝蔵の実像を解き明かす県立博物館(笛吹市御坂町成田)の企画展「時代を動かしたアウトローたち」(産経新聞甲府支局など後援)で展示され、話題を呼んでいる。
●潜伏先を記した古文書見つかる
無宿 勝蔵
同 綱五郎
右両人其外(そのほかの)もの共者(どもは)当時駿州吉原在(ざい)
宮島村重吉事(こと)年蔵与申(ともうす)もの之方江(のかたへ)
八月下旬罷越候由(まかりこしそうろうよし)…(以下略)
新発見の古文書「無宿勝蔵・綱五郎動静ニ付書置(つきかきおき)」は人づてで届いた勝蔵の所在を示す手控え(メモ書き)。先祖が村役人だった笛吹市内の民家で見つかり、勝蔵と子分の綱五郎の所在について「吉原(静岡県富士市)の宮島年蔵方を8月下旬に訪れた」という内容が書かれている。
駿河との間で物や人の往来が盛んだったことから、富士川舟運や鎌倉往還などをめぐり、勝蔵と次郎長の対立は激しかったとされる。甲州を拠点としていた勝蔵だが、度重なる抗争で代官所の取り締まりが厳しくなり、活動の主軸を甲斐国外に移すようになっていった。アウトローだった勝蔵の居所は“極秘”で、所在を示す史料は珍しいという。
古文書は勝蔵の潜伏先を次郎長の本拠、清水(静岡市清水区)からも近い吉原と明かしているが、年号の記述はない。年蔵は次郎長と対立する博徒で、次郎長の伝記にも名が登場するという。
無宿は一族に迷惑をかけないため戸籍を抜けたという意味。勝蔵は天保3(1832)年、現在の笛吹市の生まれ。25歳で無宿人となり、官軍に属して戊辰戦争にも参戦。明治4(1871)年に博徒時代の罪で斬首された。
明治初期の山梨県史綱抄録(こうしょうろく)(国立公文書館蔵)に勝蔵が逮捕された際の口述書があり、子分の綱五郎の名も出てくる。同博物館の高橋修学芸員は「粗末な紙に記された手控えだが、勝蔵の実像を知る重要な史料」とした上で、勝蔵が博徒として名をはせた背景に、動静を伝え合う「使い」(メッセンジャー)や庇護者の存在を指摘する。約4年前、民家から持ち込まれた古文書約3000枚を高橋学芸員らが読み込む中で見つかった。
アウトロー(無法者)を企画展で扱うことについて、高橋学芸員は「タブーへのチャレンジだが、博徒は当時の物流を陰で支え、文化的素養のある人も少なくなかった。歴史の本質を探る上で避けて通れない存在」とし、「当時の甲州の“大親分”の多くは明治維新前後に処刑されたり抗争で死んだりして血脈が途絶えたため、歴史として客観的に見つめ直せる」と話す。このほか、勝蔵と次郎長の肖像画、次郎長自筆の書簡など約80点を展示。3月18日まで。詳細は同博物館(電)055・261・2631。
新潟
三条市が体感ツアーバスを計画 八十里越の秘境楽しんで 新潟
三条市は、開通前の国道289号八十里越を利用し、福島県只見町側に向かう「秘境八十里越体感ツアーバス」を初めて計画している。八十里越は作家、司馬遼太郎の小説「峠」の舞台になり、戊辰戦争に敗れた長岡藩の河井継之助が敗走したルート。負傷して担架に乗せられた河井が「八十里こし抜け武士の越す峠」と自嘲の句を詠んだことで知られる。同市は「バスツアーを通し、289号の早期開通に向けて機運を高めたい」としている。
新潟・福島県境の289号八十里越は事業区間約20キロ。国土交通省と新潟・福島両県の施工で平成元年に着工したが、トンネルが計14本あり、冬の半年間は工事ができず、厳しい地形条件もあって難工事が続き、供用開始の目標年度などは定められていない。県境の9号トンネル(3173メートル)は22年11月に貫通し、昨年は工事用道路などを利用して只見町の商工関係者が新潟側を訪問、早期開通をアピールした。
ツアーバスは6月中旬から11月上旬にかけ、毎週2回、計約40回の定期運行を目指す。三条市の道の駅「漢学の里しただ」を出発し、新潟側の渓谷美などを楽しみ、9号トンネルを抜けて只見側の雄大なブナ林などを見学した後、Uターンする半日コース。雪解けや工事の状況、天候などによりコースの変更などもあるという。
また、同期間中に数回、江戸時代に八十里越の交通を取り締まったという只見町の叶津口留番所(かのうづくちどめばんしょ)跡、同町の河井継之助記念館まで足を延ばした後、国道252号を魚沼市側に抜けて三条まで戻る特別コースも企画する予定。
三条市営業戦略室は「八十里越は優れた見どころがいっぱいある。なかなか訪れることができない秘境を堪能してもらい、八十里越ファンを増やしていきたい」と話している。
京都
気のゆるみが悲劇招く? 殺生禁じた洛中でなく、洛外に潜んだ龍馬
京都では幕末の当時、天皇が君臨する洛中では捕物や殺生はやらないというのが、暗黙の了解にあった。このため、奉行所の役人たちは洛中で犯人の後をずっとつけて、洛外に出たところで逮捕、あるいは切り倒していたというのだ。
幕末の兵法学者、佐久間象山が殺害された高瀬川周辺や新選組を一躍有名にした池田屋はまさに洛外だった。当時、東の京極が寺町通だったため、寺町通の東側に建っていた近江屋は洛外にあたる。
龍馬も殺害される前年の慶応2(1866)年、伏見・寺田屋で奉行所の役人に襲撃されて重傷を負った苦い経験から、襲撃に対する心構えは十分できていたはず。
龍馬が身を潜める近江屋は土佐藩御用達の商人で、河原町通をはさんだ向かいには土佐藩邸があった。さらには母屋の隣の土蔵で寝起きをし、いざというときには、隣の誓願寺に逃げ込むはしごを用意していたというほどの警戒ぶりだった。
現在、河原町蛸薬師の交差点を東に入ったビルの一角に建つ岬神社は土佐藩邸内にあったことから、「土佐稲荷」の名前で知られている。ここから殺害現場の石碑までは数分とかからない。
だが、龍馬はこの日、風邪気味のためか、母屋2階の8畳間で火鉢にあたりながら中岡慎太郎と話し込んでいた。とはいえこの8畳間も2階西端にあたり、刺客が階段を上がったとしても別の部屋もあり、簡単に攻撃を受けない位置にはあった。
龍馬が無血による政権交代を願って奔走した「大政奉還(幕府が朝廷に政権を返上)」が実現した直後ということもあり、何らかの気のゆるみがあったのかもしれない。
犯人については、関係者の証言から京都見廻組与頭(くみがしら)の佐々木只三郎(たださぶろう)▽犯人が叫んだ「こなくそ」の方言から薩摩藩士▽現場に残った刀の鞘から新選組・原田佐之助▽武力による倒幕を訴えた長州藩-など。
黒幕には、無血による政権交代を好まない英・スコットランドの武器商、トーマス・グラバーらの名前があがるなど諸説あるが、いずれも確証なく、謎に包まれたままだ。(園田和洋)
京丹波の隕石も注目を 幕末に落下、今は東京の博物館に
ロシアの隕石(いんせき)が話題を呼ぶなか、京丹波町曽根で幕末に落下した隕石が再び注目を浴びている。石質隕石としては日本で3番目の重さで、府内では唯一確認されている落下隕石だ。現地には複製や記念碑も残る。地元住民は「これを機に、丹波でも隕石が落ちたという歴史を広く知ってほしい」と話している。
「宇宙から丹波町への贈物」。現在の京丹波町曽根地区にある隕石記念碑には、そう刻まれている。1993年、周辺のほ場整備完成に合わせて、府が設置した。そばには強化プラスチックで作られた隕石の複製が置かれている。
地元の古文書によると、1866(慶応2)年6月7日、曽根地域の麦畑に落下したと伝わる。「天に大砲を発するがごとき二音あり」と記されている。隕石は地元の代官家で代々保管されていた。現在は府が所有し、寄託を受けた国立科学博物館(東京都台東区)で常設展示されている。幅29センチ、高さ18センチ、重さ17・1キロで、かんらん石、輝石、鉄とニッケルの合金などからできている。
隕石を一時預かっていた庄屋の子孫の岩崎孝雄さん(72)は、区長だった5年前、曽根区公民館近くに「曽根隕石の地」と記した看板を設置した。岩崎さんは「ロシアの映像を見て、ここの隕石もあんな感じだったのだろうかと想像している」と語る。
1992年11月に府立丹波自然運動公園で特別展示されたほかは、地元で実物を見る機会はほとんどない。記念碑の近くで農地を耕す奥山義雄さん(75)は、「最近は地元でも隕石を知らない人が多いだろう」と残念がり、「学校で子どもたちにも教えてほしい」と願っている。
広島
文化審答申:岩倉具視資料、重文指定へ 幕末〜明治の書簡など /広島
廿日市市にある「海の見える杜美術館」所蔵の岩倉具視関係資料約1700点が27日、国の文化審議会から重要文化財に指定するよう答申された。幕末から明治の激動の時代を伝える1級の資料群で、専門家が調査・分析を進めている。
資料は同館の前身が86年に京都市の古書店から購入。西郷隆盛や大久保利通、伊藤博文らが岩倉に宛てた書簡や意見書など。これまで知られていなかった資料も多く、政治史研究上の価値が高い。
資料の研究を進める佐々木克・京都大名誉教授が今回確認した資料では、新政府の会議(閣議)出席者の押印がある議案や決議書面があった。
新政府は、王政復古の大号令で「至当の公議をつくし」、五箇条の御誓文で「万機公論に決すべし」と、「公議公論」をうたった。しかし政策決定過程を巡る資料はなく、「薩長討幕派の専制政府」とも言われた。
見つかった資料は、議論を経て政策決定をしていたことをうかがわせる。例えば、「自ラ良策アルベシ」などとする公務人の心得についての議案書では、木戸孝允、松平慶永、福岡孝弟ら5人の押印があった。さらに忠死者の祭祀(さいし)についての議案書には、大久保利通ら13人の押印があった。
佐々木名誉教授は「公議公論が単なるスローガンではなく、実践されていたことがよく分かる」と話している。【寺岡俊】
山口
「歴女」が維新の里、萩市で幕末談議
山口県萩市で23、24日、歴史好きな女性「歴女」が交流する「幕末・維新girl’sサミット」が開かれた。参加者は幕末の雰囲気が残る城下町を着物姿で散策し、歴史談議に花を咲かせた。
市が助成する町づくり事業の一環で、昨年12月から参加者を募集。全国から13~69歳の44人が集まった。サミット関係者は「SNSやブログなど、歴女同士の情報交換は盛ん。サミットで輪が広がれば、さらに市をPRできる」と期待する。
サミットでは、普段は観光客が入れない、坂本竜馬ゆかりの道場や吉田松陰が教えた松下村塾にも特別に入った。幕末史や松陰の思想について講義を受け、ワークショップでは人物や藩ごとに意見交換。維新の志士の中で特に人気の高い、萩出身の高杉晋作の話題では「大胆さと繊細さのギャップがたまらない」などと、人間性について白熱した議論が交わされた。
神奈川県から来た山崎菜々子さん(28)は、「(萩出身の)伊藤博文が一番好き。新しい友達もできて、すごく楽しい2日間だった。また萩に来たい」と笑顔で話した。(共同)
大河ドラマ『八重の桜』、容保様がご上洛されて京都守護職に着任される今日の放送分、『組!』スキーな私はあのドラマを思い出しながら幕末史を振り返る時間になるでしょう。
福島
「八重のゆかり号」「戊辰の軌跡号」運行中 会津バス
福島・会津藩校日新館:大河ドラマ「八重の桜」効果 入場者が5割増
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黒羽藩主・大関増裕の死に関わり? 那須神社で洋式銃見つかる 栃木
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岩倉具視旧宅を京都市に寄贈 幕末に隠棲、歴史の裏舞台
八重の署名発見 京都府立図書館蔵書から
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山田方谷:幕末の備中松山藩で財政再建、大河ドラマ化目指す 16万人が賛同署名 知事、NHKに直訴へ /岡山
新島八重、岡山で講演の記録 1909年、山陽高等女学校で
鹿児島
幕末薩摩のちびっこ教育がものすごかったという話
ブックレビュー
幕末鼓笛隊 奥中康人著 隊列束ねる音楽 源流探る
エンターテインメント
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幕末奇譚 SHINSEN5~剣豪降臨~
三谷幸喜、憧れの天才・野田秀樹への複雑な感情を告白
福島
「八重のゆかり号」「戊辰の軌跡号」運行中 会津バス
会津バス・タクシーを運営している会津乗合自動車(福島県会津若松市)は、2013年内限定で企業再生と地域再生成就に向け、新島八重ゆかりの地を巡る、期間限定・特別仕立ての定期観光バスを運行する。コースは午前「八重のゆかり号」・午後「戊辰の軌跡号」の2コース、ガイド付き。会津若松駅や宿泊施設(東山温泉)から出発し、八重や戊辰戦争のゆかりの地を巡る。効果的に観光スポットを網羅している。運行は原則、各月の土日・祝日、8月のお盆も運行する。
午前「八重のゆかり号」は、会津若松駅を出発、東山温泉駅を経て、大河ドラマ館、鶴ケ城、八重の生誕の地などを巡り、会津若松駅にもどる約3時間30分コース。料金は大人が3000円、小人2000円。午後「戊辰の軌跡号」は、会津若松駅を出発、日新館、飯盛山、武家屋敷などを巡り、会津若松駅にもどる4時間のコース。料金は大人が3500円、小人2500円(いずれも税、入館料など込み)。2コースとも昼食はつかない。
2コースとも事前の申し込みは必要だが、現地発現地着のプランなので、会津若松に着いた後の午後、あるいは宿泊施設に宿泊の後の午前に観光を予定なら、会津バス若松営業所(電話0242-22-5555 9:00-18:00受付)に問い合わせるとよい。事前予約は、電話のほか、インターネットでも受け付けている。
福島・会津藩校日新館:大河ドラマ「八重の桜」効果 入場者が5割増
大河ドラマ「八重の桜」放映開始以来、福島県会津若松市でロケに使われた歴史施設の入場者数が回復し、震災前を上回るところも出てきている。中でも「ならぬことはならぬものです」に象徴される藩士の教育拠点を再現した「会津藩校日新館」には昨年の3倍、震災前の5割増と多くの観光客が訪れ、再評価されている。【乾達】
日新館は、会津藩が藩政改革の中心となる人材養成機関として、1803年に鶴ケ城の西隣に建設。10歳になった藩士の子息が通い、学問や武芸に加え、「什(じゅう)の掟(おきて)」など会津の武士道精神を学んだ。全国の藩校の中で随一とも言われ、ドラマの主人公・山本八重の兄覚馬や、白虎隊士も通った。しかし、戊辰戦争で焼失し、現在の建物は86年に同市北部の河東町に地元有志の手で再建された。
2000平方メートル以上の敷地に、残っていた図面を基に弓道場や水練池まで再現。白虎隊士らが学ぶ様子や史料の展示に加え、宿泊可能な研修施設の機能も持つ。さらに同市では什の掟を基にした「あいづっこ宣言」を小学生が暗唱し、同館で小学4年生が講話や座禅を体験し、10歳の立志をする「半成人式」を行う学校も周辺地域を含め40校以上に上るなど地域の道徳教育の支柱的存在になっている。
脚本家の山本むつみさんや主演の綾瀬はるかさんらドラマ関係者も見学に訪れ、ストーリーや役作りのヒントを得た。初回の放送では什の掟をはじめ会津の精神文化がクローズアップされ、日新館の名もセリフの中に何度も登場した。そのお陰で、週末を中心に大雪が降る悪条件にもかかわらず、関心を持った個人客が県内外から訪れ、春先の団体予約も次々に入っている。
見学者の案内を務める観光事業部長の仮名則嗣(かりなのりつぐ)さんは「綾瀬さんは背筋が伸びる思いがすると感想を語ってくれた。ドラマを見て訪れる人もそういう空気を体感して、先人の生き方や歴史に思いをはせてほしい」と話した。
この他、昨年度は原発事故の影響で約2割減の約49万人に入場者が落ち込んだ鶴ケ城天守閣も、“八重効果”で昨年11月以降は平年並みを回復、1月は隣接する大河ドラマ館オープンの相乗効果もあって15%上回った。2月も昨年の2倍のペースで、来年度は70万人超えを目指す。ドラマ館も2月15日に入場者が3万人に達した。関係者は「週末ごとに大雪が降る中で上々の滑り出し」と話す。
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大雪の中でも来館者が大幅に増えている会津藩校日新館
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◇歴史施設の1月入場者状況◇
鶴ケ城天守閣 震災前より15%増
御薬園(松平家庭園) 震災前並みを回復
会津藩校日新館 前年比3倍
会津武家屋敷(西郷頼母邸) 前年比5割増
大河ドラマ館 2月15日で3万人
栃木
黒羽藩主・大関増裕の死に関わり? 那須神社で洋式銃見つかる 栃木
■来月13日から与一伝承館で初公開
黒羽藩主、大関氏の氏神として信仰を集めた那須神社(栃木県大田原市南金丸)で、同藩が幕末に装備していたとみられる洋式銃「エンフィールド銃」1丁が見つかった。近くの那須与一伝承館が同神社の調査を進める中で明らかになった。同館で開かれるテーマ展「大田原藩と戊辰戦争」(2月13日~3月24日)で初めて公開される。(伊沢利幸)
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「エンフィールド銃」はイギリスで開発された前装式小銃で、イギリス軍が制式小銃として使用したほか、アメリカ南北戦争でも使われた。日本には幕末に大量に輸入され、戊辰戦争で新政府軍の主力小銃となった。宇都宮藩や黒羽藩などでも装備された。
同館ではテーマ展に向けて昨年から同神社の調査を進め、今年に入り本殿の祭壇下にあった銃を確認。黒羽藩が装備していた銃の一部とみられるが、その存在はこれまで知られていなかった。全長125センチ、重さ3・8キロ。さびが目立ち、「一時的に埋められた可能性もある」(同館)という。
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那須神社で見つかったエンフィールド銃
同神社付近では幕末、陸海軍奉行を務めた15代黒羽藩主、大関増裕(1837~67年)が謎の死を遂げている。増裕の死には、所持していた洋式銃が暴発したという事故説や自殺説、また着用していたコートに残る弾痕の入射角度などから、銃弾を背中から受けたとみる暗殺説もある。
同館の前川辰徳学芸員は「洋式銃をだれが神社に持ち込んだかなど不明で、謎が多い。増裕の死との関わりがある可能性もあり、今後、解明していきたい」と話す。
テーマ展では戊辰戦争で激戦となった大田原城を取り上げ、書簡や古地図、最後の大田原藩主、大田原●丸(としまる)(1861~1930年)の写真、同藩士が戊辰戦争で付けていた袖印などが公開される。2月17日と3月3日、同17日にはギャラリートークを開催。問い合わせは同館(電)0287・20・0220。
大関増裕(おおぜき・ますひろ) 西洋事情に精通し幕府の陸海軍奉行を務め、勝海舟も軍艦奉行として仕えた。西洋兵術による軍制改革に力を入れた。慶応3(1867)年12月9日、那須神社付近の林で狩猟中に急死した。
●=金へんに生
東京
豪華な岩倉具視邸、ネット競売で古写真発見
幕末から明治初期に活躍した公家・政治家の岩倉具視(1825~83年)が東京・丸の内に住んでいた頃の邸宅を写したとみられる古写真が見つかった。
門前にガス灯があり、馬車が止まっているなど、 豪奢
ごうしゃ
な暮らしがうかがえる。当時の政府有力者の自宅を写した写真は珍しく貴重な発見だ。
倉持基・東大特任研究員(歴史写真学)らが昨春、ネットオークション上で発見した。縦5・8センチ、横10センチで、裏側に「岩倉公邸ノ内」とあり、写っている門や建物が、岩倉家旧蔵の絵図面や記録などと一致することから、1870年秋から84年頃まで岩倉邸だった建物の表門付近の写真とみられる。撮影者、写真の来歴などは不明。
具視は71年に右大臣となり、同年から73年に特命全権大使として欧米を視察するなど、新政府の中心人物として活躍。邸宅はもと 忍
おし
藩(埼玉県)の藩邸で、具視の死後、一家は移転し、建物も壊されたとされる。岩倉家に関する図像資料を調査してきた 研谷
とぎや
紀夫・関西大准教授(文化資源情報学)は「旧岩倉邸は複数の絵図などに描かれているが、写真は極めて珍しい。旧大名屋敷を転用した厳かな門構えから、権勢の大きさを改めて認識できる」と話している。
神奈川
「黒船に乗り込んだ男」中島三郎助、記念イベント-浦賀ドック跡地で開催
幕末に黒船に乗り込んで交渉役を務めた浦賀奉行所与力・中島三郎助をしのぶイベント「中島三郎助まつり」が1月20日、浦賀の住友重機・浦賀工場跡地(横須賀市浦賀4)で開催される。主催は「中島三郎助と遊ぶ会」。今年で6回目。
【画像】イベント会場は歴史遺産「浦賀ドック」の機関工場跡
普段は入ることのできない旧浦賀ドック機関工場を開放して行う歴史イベント。工場内では、函館観光大使・浅岡勤さんによる講演「中島三郎助を語る」、歴史パネル展示、当時をしのぶ創作料理「黒船シチュー」などの飲食ブース、日本舞踊やカントリーダンスなどのステージショーも。
幕末に浦賀奉行所与力だった中島三郎助は、ペリー来航時(1853年)に日本人として最初に黒船「サスケハナ」に乗り込み、幕府の交渉役を務めた。その後、日本初の洋式軍艦「鳳凰丸(ほうおうまる)」建造の中心人物として活躍。安政6(1859年)には日本最初のドライドックが造られ、太平洋横断直前の咸臨丸の修理も行われた。
明治2(1879)年、函館・五稜郭で新政府軍との戦いに参加し、息子2人とともに49歳で戦死。業績をしのび、浦賀の愛宕山に「中島三郎助招魂碑」が建てられた。
開催時間は10時~15時。問い合わせは同会(TEL 046-841-1509)まで。
静岡
戸田とロシア、絆の足跡巡る 大使館関係者ら歴史探訪
日本とロシアの交流団体でつくる「日ロ友好フォーラム21」と駐日ロシア大使館の関係者が16日、沼津市戸田地区を訪れ、「歴史探訪の旅」として両国交流の足跡を巡った。
戸田は、1854年の安政東海地震の津波で大破したロシア使節団を乗せた軍艦「ディアナ号」の代用船「ヘダ号」が建造された地。戸田の船大工や村人の献身的な協力で、大勢のロシア人が帰国を果たした。
歴史探訪では、ロシア使節団を率いたプチャーチン提督が滞在した宝泉寺の一室や、ディアナ号の乗組員の墓、戸田造船郷土資料博物館などに足を運び、先人が育んだ両国間の友情に思いをはせた。
一行は17日、幕末の外交の舞台となった下田市を訪れ、日ロ友好にゆかりのあるクロンシュタット広場などを訪ねるという。
ロシア連邦交流庁駐日代表部のヴィノグラドフ・コンスタンチン部長は「日本の皆さんが当時のロシア人の記録を大切に残してくれていて感激した。将来にわたり、両国の良い関係を築いていきたい」と話した。
三重
写真・パネル展:土方歳三を撮影、写真師の企画展−−熊野 /三重
県立熊野古道センターの企画展「幕末の写真師 田本研造〜土方歳三を撮った男」が2日、熊野市井戸町の市文化交流センターで始まった。幕末の函館で戦死した元新選組副長の土方歳三や明治15年の函館の開拓風景など計120枚の写真、パネルが並ぶ。24日まで。入場無料。
田本は熊野市神川町の生まれ。長崎で医学と写真を学び北海道に渡った。開拓写真を多く手掛けたことから「ドキュメンタリー写真の祖」と呼ばれる。
写真展は函館市中央図書館、北海道大、旧田本写真館を引き継ぐ谷杉アキラ氏の協力を得て、ガラス製のネガから現像された。
3月16日〜5月19日には、尾鷲市の県立熊野古道センターに会場を移す。半分以上の写真を入れ替えて展示するという。【汐崎信之】
〔三重版〕
「朝敵」桑名藩読み解き本に 桑名の水谷さん出版
幕末の戊辰戦争で幕府側につき「朝敵」とされた桑名藩の歴史を県立博物館臨時職員の水谷憲二さん(37)=桑名市多度町=がまとめ、「『朝敵』から見た戊辰戦争 桑名藩・会津藩の選択」(洋泉社)を出版した。
戊辰戦争の初戦の鳥羽伏見の戦いで敗れた桑名藩は、会津藩らとともに朝敵とされた。その後も徹底抗戦した会津藩は戦争に至ったのに対し、桑名藩は城を明け渡し戦争を回避した。著書では盟友だった二つの藩の選択が分かれた理由や、桑名藩の開城に尽力した酒井孫八郎の功績などを記している。
今回の著書は、水谷さんが以前に出した研究書を一般向けにまとめ直した。幕末期に多くの犠牲者を出した会津藩と比べ、桑名藩の当時の歴史は研究が進んでおらず、このような視点からまとめた本は数少ないという。
水谷さんは「地元でも知られていない桑名藩の歴史を知ってもらえれば」と話している。
新書判の二百三十八ページ、八百九十円(税別)。問い合わせは、水谷さん=電090(7697)6976=へ。
(渡辺聖子)
奈良
郡山藩支えた柳沢家当主紹介 大和郡山で「ふるさと歴史塾」 奈良
徳川幕府の要職を担いながら、江戸時代中期から幕末までの郡山藩主などを務めた柳沢家7代の当主を紹介する講演会「柳沢文庫ふるさと歴史塾」が16日、大和郡山市の市中央公民館で開かれ、歴史愛好家らが熱心に耳を傾けた。
地方史誌の専門図書館「柳沢文庫」(同市)が開催。同館の平出真宣学芸員が講師を務めた。
会場では歴史資料などをもとに徳川綱吉に重用された柳沢吉保(よしやす)から、幕末に京都守護を任された保申(やすのぶ)までの当主を紹介。桜田門外の変などで軍事的緊張が高まり、軍役の負担が増す中、当主や家中の力で苦境を切り開いた歴史を伝えた。
図書館では3月17日まで、関連資料を紹介する常設展を開催しており、平出さんは「歴代当主の文化的な側面を示す花鳥画なども展示しているので楽しんでほしい」と話していた。
滋賀
湖国の人たち:「新選組 試衛館の青春」を出版した、松本匡代さん /滋賀
◇一途な若者の群像劇 史実踏まえ生き生きと−−松本匡代さん(55)=大津市
土方歳三、山南敬助、沖田総司、藤堂平助、斎藤一(はじめ)−−。後に新選組の中核を担う若者らがいた江戸の道場、試衛館時代を取り上げた小説「新選組 試衛館の青春」(上下巻、サンライズ出版)。家族のような温かい交流を軸に、京都に上るまでの全40話からなる青春群像劇だ。大津市在住の著者、松本匡代(まさよ)さん(55)に執筆の思いなどを尋ねた。【姜弘修】
◆小説を書くようになった経緯は。
古い話ですが、大学進学の時、好きな物理がしたかった。志望校に受からず、薬学部に入学しましたが、数学や物理は好きでも、化学や生物はそうでもない人間にとって薬学部の勉強は面白くない。うつうつとした日々を過ごしていた時、ふと立ち寄った本屋で手にとったのが司馬遼太郎先生の「花神」。面白くて、それから司馬先生の作品をむさぼるように読みました。やがて「燃えよ剣」に行き当たり、(主人公の)土方歳三にほれてしまいました。現実逃避で頭の中で妄想するように物語を作り、就職する時に記念に自主出版したのが1冊目の「夕焼け 土方歳三はゆく」でした。
◆新選組のどこにひかれますか。
一生懸命に武士でありたい、という一途(いちず)な思いですね。そもそも私の場合、小説を書くことは新選組から始まっていて、本になった時はものすごくうれしかった。
◆新選組結成前の試衛館時代を取り上げた理由は。
就職後は時間も余裕もなく、小説を全く書いていなかった。45歳で勤めを辞め、また書きたくなり、小説の勉強会に入れてもらいました。そこの最初のテーマが独白で「斎藤一〜明治二年五月・越後高田謹慎所にて」を書き、シリーズ化もしましたが、話が暗く、切ないんです。今度はぱあっと明るいものが書きたくなって、今回の作品になりました。
◆史実を踏まえた上で、各登場人物が生き生きと描かれています。人物の造形や挿話の発想は。
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書き始めたのは第2話で、最初は推理小説にしようと思ったんです。でも、登場人物を付け狙う人物がいつの間にか「いい人」になったりと、知らないうちに趣の違った話になって、斎藤一を試衛館の一員にしようと第1話を入れて。メーンの5人だけでなく、原田左之助や永倉新八、井上源三郎の話も入れたり、近藤勇も1話ぐらい入れないとまずいかなと第16話を書いたりと、まあ、ええかげんなものです(笑)。9人の人物像は今までいろんな本や映画、ドラマで見たものを私好みにブレンドしました。
◆理系出身は小説を書く上で役立っていますか。
文系出身ではないので、修飾語の多い長い文章って読むのも苦手で、読みやすい簡潔な文章を心がけたつもりです。そこは理系かな。でも学生時代、書いた論文が「小説じゃないんだ」と先生に怒られたこともあります。子どものころから文章を書くのは好きで、先天性脳性まひで言語障害もあるので、書くことで自分を表現していたのかもしれません。
◆今作の読みどころと次回作の構想を。
読みどころは優しさ、思いやり、一途さかな。良い人ばかりの中で(登場する)「お栄」の“ちょい悪”の哀(かな)しさも。次回作の構想はいろいろあります。独白シリーズで書いた土方と山南の関係を皆さんに広く読んでもらいたい。県文学祭で特選をもらった小説「和算入門」のシリーズ化や、最近知った幕末志士の赤松小三郎という人、母方の先祖にあたる江戸時代の医師で紀行文を残した橘南谿のことも調べたい。あと科学小説も書いてみたいですね。
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■人物略歴
◇まつもと・まさよ
1957年、三重県伊勢市生まれ。名城大薬学部を卒業して薬剤師の資格を取得。奈良女子大理学部物理学科に入り直し、同大学院理学研究科を修了後、日本IBMでシステムエンジニアとして勤務。2002年退社。著書に「夕焼け 土方歳三はゆく」がある。「新選組 試衛館の青春」は全国の主な書店で販売中。
京都
岩倉具視旧宅を京都市に寄贈 幕末に隠棲、歴史の裏舞台
明治政府の重鎮、岩倉具視が隠棲(いんせい)生活を送った京都市左京区岩倉の国史跡「岩倉具視幽棲旧宅」を管理する岩倉公旧蹟保存会が、旧宅を京都市へ寄贈することを決めた。保存会が高齢化などを理由に解散するため、収蔵する多数の重要文化財とともに引き継ぐ。市は一般公開を続ける方針で、積極的にPRしていく。
幽棲旧宅は、徳川家への皇女和宮降嫁の推進などで尊皇攘夷派から命を狙われた具視が1862年から5年間隠れ住んだ。ここで薩摩藩士らとの協議や政策提言が行われ、大政奉還(1867年)の裏舞台となった。
旧宅の敷地内(約1500平方メートル)には洋館の対岳(たいがく)文庫(1928年建築)もあり、薩摩藩を討幕へ促した具視の著作「叢裡鳴虫(そうりめいちゅう)」を始めとする重文約千点のほか、明治維新前後の文書や愛用品などの収蔵品とともに市に寄贈する。
保存会は1925年に設立。入館料収入で旧宅を維持してきたが、近年の見学者は3、4千人にとどまっていた。加えて、役員の高齢化や財団法人から公益財団法人への移行にかかる費用の確保が難しく、解散を決めた。
具視から5代目にあたる京都大名誉教授の岩倉具忠会長(79)は「手放すことに申し訳ない思いもあるが、安心できる市に譲れてよかった。多くの人に知ってもらえるように活用してほしい」と話した。解散後も具視の命日(7月20日)に行ってきた慰霊祭は継続する方針という。
市文化財保護課は「幕末の激動期に関わる計画がなされた建物がそのまま残り、当時をしのばせる貴重な場所。保存会の思いを引き継ぎ、一般公開を続けていきたい」としている。
八重の署名発見 京都府立図書館蔵書から
同志社を創立した新島襄の妻で、NHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公、八重の直筆署名が京都府立図書館(京都市左京区)の蔵書から見つかった。府に寄贈されてから30年以上を経ての発見に関係者は驚いている。
平石弁蔵著「会津戊辰戦争」改訂増補第4版の裏見返し部分に「昭和四年四月」「新島八重子」「八十五歳」と墨書されていた。今月3日に本を閲覧した利用者が署名に気付いた。
本は、京都市長を務めた高山義三の長男で元府議の寛さんが1979年に府立総合資料館に寄贈、2000年に図書館に移管されていた。1928(昭和3)年12月発行の第4版から八重への聞き取りが追加されており、八重が同志社の職員だった義三の父、中村栄助に贈ったとみられる。
同志社社史資料センターによると、名前に子を付けるのは当時の流行で、肖像写真の裏書きにも八重子の記載があるという。
14日から3月27日まで図書館1階で展示する。
岡山
山田方谷:幕末の備中松山藩で財政再建、大河ドラマ化目指す 16万人が賛同署名 知事、NHKに直訴へ /岡山
幕末に備中松山藩(高梁市)の財政を再建した山田方谷(ほうこく)(1805〜77)のNHK大河ドラマ化を目指す運動が展開されている。高梁市や県経済界が主導し、観光客誘致などを狙う。100万人を目標にした署名は既に16万人分集まり、24日には伊原木隆太知事が東京のNHKを訪問しドラマ化を直訴する。関係者は「岡山初の大河を」と意気込んでいる。
実行委によると、方谷は備中松山藩の藩政改革で、現在の200〜300億円に当たる10万両の借金を返済。備中ぐわや葉たばこの特産品販売にも成功、「経営者の鏡」と尊敬される人物だ。
大河ドラマ化は、同市の近藤隆則市長が11年に「郷土の偉人を知ってもらいたい」と発案。同市出身の大橋洋治全日空会長らが「財政再建は今の時代が求めるテーマ」と賛同。県商議所連合会なども加わり、昨年10月に署名運動を始めた。
少しでも知名度を上げようと放映中の大河ドラマ「八重の桜」で主人公の夫・新島襄が倉敷市の玉島港に立ち寄った史実に着目。昨年12月には近藤市長らがNHKの松本正之会長に「ドラマ中で玉島で方谷と新島襄が会ったという設定を作ってほしい」と要望した。
経済界出身の伊原木知事は松本会長に直接売り込む。実行委世話人の藤井義和さん(63)は「方谷は産業振興に加え、私塾を開いて後進の育成にもあたった。勤勉な岡山の県民性も全国にアピールできる」と話している。【井上元宏】
新島八重、岡山で講演の記録 1909年、山陽高等女学校で
NHK大河ドラマ「八重の桜」のヒロインとして注目を集める新島八重(1845〜1932年)が山陽高等女学校(山陽女子中・高の前身、岡山市中区徳吉町)で09年に行った講演の記録が広報誌に残っている。会津藩の教えを守り、“ハンサムウーマン(美しい行いをする人)”とたたえられた八重。20世紀を迎えたばかりの講演では、女子生徒に学問で将来を切り開くよう訴えている。
八重は戊辰(ぼしん)戦争(1868〜69年)でスペンサー銃を手に、男装して戦闘に加わるも藩は降伏。同志社大(京都市)を創立した新島襄(43〜90年)の妻となり、日清・日露戦争の際は看護婦として活動するなど波乱の人生を歩み、皇族以外の女性として初めて叙勲を受けた。
講演は、広報誌「みさを 第42号」(A5判84ページ)に2ページ半にわたって掲載されている。山陽学園大(同平井)の図書館書庫に収められていた。
タイトルは「白虎隊」で、自らが砲術を教えた隊士が所属していた白虎隊の戦いや自決の様子などを語りながら「ならぬことはならぬ」などの教えで知られる会津藩の教育が大きな影響を与えていたことを説明。「君につかへ、親につかふる道を知らせてゐました」と述べた。
また、「女子は国の栄の基礎となるものです。故に意志を強く忍耐力に富んでゐなければならぬ、堅い決心をもつて學びの道を辿(たど)られんことを希望します」と強調している。
鹿児島
幕末薩摩のちびっこ教育がものすごかったという話
「日本を取り戻す!」って総理大臣も叫ぶけど、実際、過去の何を取り戻したらいいのだろうか。だいたい、そんな簡単に「昔のいいトコ」だけ取り戻せるものなんだろうか。映画化もされたベストセラー歴史本『武士の家計簿』の著者でもある磯田道史先生は、明治維新をリードした薩摩(さつま)藩出身者たちが“ちびっこ”時代に学んだ教育システムには、今の日本にとってさまざまなヒントがあるという。
■それは戦国時代の知恵の生き残り
磯田 幕末から日露戦争にかけ、かなりの確率で勝てる政治判断を下した人材を、薩摩藩は多く生み出しました。そんな薩摩藩では、武士の子供たちに「郷中(ごじゅう)教育」という独特の教育が行なわれていたんです。「郷中教育」とは、方限(ほうぎり:地域のこと)ごとに6歳から15歳くらいの少年が集まり、そこに15歳以上の先輩がついて行なう自習システム。今の教育はもちろん、幕末に日本中に広まっていた「藩校」ともまったく異なる制度でした。
―そこでちびっこたちは何を学んでいたんですか?
磯田 薩摩の子供は、まず早朝にひとりで先生(主に近所のインテリ武士)の家に行って儒学や書道などの教えを受けるのですが、誰を先生に選び、何を学ぶかは、子供が自分で勝手に決めていいんです。そして次は子供だけで集まって、車座(くるまざ)になり「今日は何を学んだか」を各自が口頭で発表します。決まった校舎や教室はなくて、毎日、子供が順番で、地域の家に「今日はこの家を教室に貸してください」と交渉します。社会性も身につきますよね。
何より大事なのは、皆の先生がバラバラなことです。思想が統一されないし、話す本人は復習になるし、口伝え・耳聞きによって、知識を皆で効率よく共有できる。ちゃんと理解してるか、親よりも厳しく仲間同士でチェックし合います。とにかく先輩は怖い。
―ものすごい会話コミュニケーション重視の学習なんですね。
磯田 対話重視という意味で、郷中教育の中で特に重視されたのが「詮議(せんぎ)」というメソッドでした。今でいう「ケーススタディ」で、起こり得るけど簡単には答えが出ないような状況をいろいろ“仮想”し、その解決策を皆で考え合う訓練です。
例えば「殿様の用事で急いでいるが、早駕籠(はやかご)でも間に合わない。どうするか」とか、「殿様と一緒に乗っていた船が難破した。向こうから一艘(そう)の助け船が来たが、乗っているのは自分の親の敵(かたき)だった。どうするか」とか、「道で侮辱された。どうするか」といったリアルな設問を次々と挙げ、各自が自分だったらどうするかを述べ、皆で議論する。「ハーバード白熱教室」みたいですよね。あの番組は日本でも大人気でしたが、日本人のDNAに、アメリカより先にこれをやってきた記憶があるとさえ思えます。
―あれ? これって薩摩藩だけの教育システムだったのでは?
磯田 実は「詮議教育」は、戦国時代くらいまでは日本中で行なわれていたようです。江戸時代になるまでは、公家や荘官や守護大名のようなごく一部のエリート以外は字を読めなかったので、一般的に武士は、戦(いくさ)の成功・失敗事例を文字でなく耳で学び、皆で議論し、実践的スキルを向上させる学習会を行なっていた。
江戸時代に入ると、藩校のようにテキスト重視の教育が普及していきますが、文字は使わないけど、極めて非常に実践的な中世式の教育スタイルが、九州の端っこにだけ「子供版」として残っていたわけです。実際、当時の薩摩は、国内で最も識字率の低い土地でした。しかし、「明治国家をつくり出した判断力」が、文字でなく口伝えの教育で育まれたのが面白いところで。
―道徳教育はあったんですか?
磯田 これも文字でなく、「日新公(じっしんこう)いろは歌」(日新公は島津の殿様)というのを毎日毎日、それこそ大人になるまでに何万回も唱えました。ちなみに最初の「い」は「いにしえの道を聞きても唱えても わが行ないにせずばかいなし」といって、「どんな昔の教えを聞いても自分で実践しなければなんの意味もない」という意味。やはりすごく実践的な教えですね。
―それをひたすら暗記する?
磯田 文字が読めなくてもリズムで暗唱できるようになっていますが、郷中教育では、例えば「『義』とは何か」といったテーマで議論を繰り返したりして、そうした日常生活の規範を、それぞれが内面化していくんです。
■西郷隆盛が抜擢された理由
―薩摩式教育で、子供たちは何を得られたと思います?
磯田 判断力、決断力、実行力を伴った、まさに「知恵」ですね。定まった知識をテキストで身につけるのでなく、(1)あらゆる事態を仮想し、(2)それに対処するアイデアを考え出し、(3)その中から正しいものを選択し、(4)実行する“度胸”を持つという。「野村ID野球」なんか、ちょっとそれに近かったんじゃないかな。野村監督は古田たちに「野球とは何か」まで質問して。予算はなくても当時のヤクルトは強くなりましたよね。
―ただ、講義やテキストではなく、主に対話だけで学ぶ学習って、グループリーダーの力量にすごく左右されそうですよね。
磯田 それはあります。郷中教育におけるグループリーダーを「二才頭(にせがしら)」と呼んだのですが(二才[にせ]は薩摩で若者の意)、例えば薩摩の城下町で「名二才頭」と噂になっていたのが、下級武士だった西郷隆盛でした。西郷の地元では、子供たちも行儀よく、顔つきも違うと評判だった。西郷は島津斉彬(なりあきら)に抜擢されますが、つまり、天才的な殿様にいきなり召し出されたわけではなく、6歳から20歳ぐらいの間でちゃんと、あいつは指導力があると自然に現場で証明されてたわけです。
だから薩摩藩は校舎も教師もなかったけど、郷中教育で「名二才頭」と呼ばれる若者を採用すれば、後に明治の国家をつくるような人材を効率的に選べた。話が飛ぶけど、今の日本で良い政治家がいないとよくいわれますが、やはり草の根の根っこのところでお互いがお互いを選び合うようなシステムがないと、それは難しいものです。あと、もし今、本当のエリート官僚を選びたいなら、やはり数回のペーパーテストと面接では無理でしょう。選挙もテストも一見公平な方法ですが、リーダーの選び方において今の日本社会は怠けてると僕は思う。もっとしっかり長い時間をかけ、実際の行動のなかから指導者を選んでいくシステムを復活させないと。
―人材を育てるだけでなく、人材発掘の面でも、今の日本にとってヒントがあると。
磯田 あと、今の日本に特に必要という意味では、さっきも話した、あらゆる事態を想定しておく「仮想力」です。明治以降の日本は欧米へのキャッチアップが目標だったから、生きる知識も学校で注入できました。しかし今は、記憶だけでは生きていけない事態を前提とした教育が求められています。それに日本人は、起きたら困るようなことは考えないようにしがちですから。まさに原発事故が、その象徴でした。
―ただ、さすがの薩摩武士たちにとっても、生麦(なまむぎ)事件(1862年、島津久光(ひさみつ)の行列を横切ったイギリス人をその場で斬り殺し、薩摩藩がイギリス軍と戦争する原因となった事件)なんかは想定外だったんじゃないですか?
磯田 そういう事態すら彼らの念頭にあったのではと僕は思うんです。「刀はめったなことでは抜くな。抜いたらただでは収めるな」というのが薩摩武士の道徳教育だったから、とどめは刺した。けど、その直後、島津久光の駕籠をとにかく内陸へ向け必死に走らせるわけ。実際、イギリス陸戦隊は即座に上陸し、島津久光の身柄を拘束しようとしていたんですから。
―では、絶対に負けるとわかっていた、イギリス軍との戦争にはどう対処したんでしょうか。
磯田 薩摩藩はすごいリアリストたちですから。彼らはイギリス軍の大将が乗った旗艦へ向けて砲弾を集中させ、相手の艦長を戦死させるんです。確かに薩摩はあちこち焼き払われ、とても勝ったとはいえないけど、イギリスにその実力は認めさせた。結果的には、「これは簡単に占領できる相手ではない。日本に親イギリス政権を樹立するために組む相手だ」って信用されたんですね。
―最後に、郷中教育は、なんらかの形で、今の日本でも復活させるべきだと思いますか。
磯田 そこには多くのヒントがあります。ただ、薩摩の郷中教育はあくまで忠孝(ちゅうこう)思想なんです。君に忠義、親に孝行。下の者に対し「慈悲をかけよ」という部分も少しはあるけど、根本は上に対する責任を持たせるのが目的の教育です。
でも、これからの日本に必要なのは、そうした身分制社会の教育ではなく、社会的弱者をどう救済するかとか横の関係とかですよね。さらに、郷中教育はやはり戦士の教育なんです。討ち死にしてでもとにかく敵を打ち負かす、チームとして戦に勝つための合理性を追求した教育であり、そこは情報化社会における合理性とは異なる。そこは組み替えないといけません。しかしこの教育が、当時の「人づくり」に大きな成果を挙げたことは間違いありません。
(撮影/本田雄士)
■磯田道史(いそだ・みちふみ)
1970年、岡山県生まれ。静岡文化芸術大学准教授。古文書を読み解き、当時の人々の生活や感情までをも生き生きと描きだす日本史の達人。近年は歴史地震学にも興味を持つ
ブックレビュー
幕末鼓笛隊 奥中康人著 隊列束ねる音楽 源流探る
江戸時代のおわりごろから、西洋のいわゆる列強は日本に姿を見せだした。あちらの文化を、日本へつたえるようにもなっている。もちろん、音楽も。じじつ、この時期、日本各地で鼓笛隊とよばれるマーチング・バンドが、できている。
西洋の軍楽には、軍隊の行進をたばねる力がある。隊列のうごきをととのえる効果が、期待できる。幕末期の諸藩が、これをとりいれようとしたのも、そのためである。
そのころに演奏された鼓笛隊の音楽は、ならばどのようなものであったのか。著者は、日本各地にのこる演奏から、幕末の源流へさかのぼる。フォークロアとして保存されてきた芸能から、舶来の姿をうかびあがらせようとする。俗耳になじんだ「宮さん宮さん……」があやしいことも、おぼろげながら見えてきた。
もちろん、140年をこえる伝言ゲームのせいで、もとの形はわかりにくくなっている。伝統芸能だという思いこみで、邦楽味をつけすぎた保存例も、なくはない。そうした限界もわきまえつつ、著者は遡及の旅にでる。伝承された芸能と、われわれはどうむきあえばよいのかを、深く考えさせられた。
★★★★★
(風俗史家 井上章一)
[日本経済新聞夕刊2013年2月6日付]
★★★★★ これを読まなくては損をする
★★★★☆ 読みごたえたっぷり、お薦め
★★★☆☆ 読みごたえあり
★★☆☆☆ 価格の価値はあり
★☆☆☆☆ 話題作だが、ピンとこなかった
エンターテインメント
大河ドラマ「八重の桜」を彩る華やかなイケメン俳優陣に注目!!
女性ヒロインを意識した演出で脚光を浴びたNHK総合で放送中の大河ドラマ「八重の桜」だが、綾瀬はるかなど女優陣に注目が集まる一方、イケメン俳優陣たちの出演が話題を呼んでいる。
西島秀俊は山本八重(綾瀬はるか)の兄である山本覚馬を演じるが、第3回「蹴散らして前へ」の回では、「腰抜け武士」と罵られた覚馬が、道場で槍の試合を行うシーンにおいて会津藩士としての誇りを堂々と見せ付け、その男気が注目を集めた。また、第6回「会津の決意」から登場している工藤阿須加は、元プロ野球選手・工藤公康氏の息子で、本作が本格的な俳優デビュー作となる。
八重の最初の夫となる川崎尚之助を演じる長谷川博己や、第9代会津藩主の松平容保を演じる綾野剛をはじめ、第5回「松蔭の遺言」で自身の信念を貫き、安政の大獄で処刑された吉田松陰を演じた小栗旬、容保率いる会津藩の家臣として外交官として活躍する神保修理を斎藤工、人情にも厚く武勇に秀でている武士・佐川官兵衛を中村獅童、抜群の政治手腕を持つ梶原平馬を池内博之などの若手俳優人が会津を支えていく人物を演じる。
さらに、幕府政策を擁護する佐幕派には徳川家最後の将軍の座につく徳川慶喜を小泉孝太郎、新撰組副長として市中の警護にあたる土方歳三を村上淳、新撰組三番隊隊長の斎藤一を降谷建志が、対する倒幕派には長州藩のリーダー・木戸孝允を及川光博、西郷隆盛を吉川晃司など幕府を取り巻くイケメン俳優たちの演技にも期待が集まる。
2月17日(日)放送の第7回「将軍の首」では、京都守護職に就任した容保に追随して、覚馬も都へ旅立つことになる。京都への上洛を控えた覚馬が八重や尚之助、三郎とともに出立前の時を家族と過ごすため東山温泉へと向かうシーンに注目だ!
幕末奇譚 SHINSEN5~剣豪降臨~
チェック:『スイッチを押すとき』などの中島良がメガホンを取り、激動の幕末を舞台に描くスタイリッシュな時代劇アクション。幕府崩壊をたくらむ藩士や陰陽師相手に、固いきずなで結ばれた新撰組メンバーたちが戦いを挑む姿を描く。剣客たちを演じるのは、ミュージカル「テニスの王子様」の馬場徹、神永圭祐、馬場良馬、八神蓮、広瀬友祐ら若手注目俳優たち。フレッシュなメンバーたちによる高度な殺陣や驚きのストーリー展開に熱中する。
ストーリー:新撰組八番隊組長の藤堂平助(八神蓮)は、幕府の目付役の護衛中に何者かの襲撃を受ける。何とその正体は、幕府転覆を狙う長州藩の吉田稔麿(高崎翔太)と陰陽師である土御門源春(佐々木喜英)に操られた柳生十兵衛だった。仲間の危機を救うため、新撰組三番隊組長斎藤一(馬場良馬)をはじめ、副長の土方歳三(馬場徹)らが立ち上がる。
三谷幸喜、憧れの天才・野田秀樹への複雑な感情を告白
三谷幸喜と野田秀樹という日本演劇界のトップに立つ2人が初めて舞台でタッグを組む「おのれナポレオン」の制作会見が1月23日(水)、東京芸術劇場にて行われ、作・演出の三谷さん、主演の野田さんを始め、天海祐希、内野聖陽、山本耕史が出席した。
セントヘレナ島に島流しになったナポレオンと彼を取り巻く人々を描いた作品で、自身の作・演出による芝居以外に役者として出演するのは、今回がほぼ初めてとなる野田さんがナポレオンを演じる。そのほか今井朋彦、浅利陽介が出演する。
三谷さんが脚本を執筆したNHK大河ドラマ「新選組!」で三谷さんたっての希望で野田さんが勝海舟役を演じたが、三谷さんは「そのときから役者・野田秀樹に魅力を感じ、舞台で僕が書いたセリフを言ってほしいと思ってました」と語る。三谷さんが考える野田さんの俳優としての魅力を尋ねると「『新選組!』で見て、ビジュアル的にカッコいいなと思いました。セリフの一つ一つは大河的でも、TV的でもないし、何を言ってるか分からないところがあるんだけど(笑)、気持ちが入ってた」と語った。
劇団「夢の遊眠社」を率い、その後も「NODA MAP」で数多のプロデュース公演を行ない“天才”と称されてきた野田さんを、三谷さんはどのように見ていたのか? 三谷さんは「“二大○○”などという言われ方をしてますが、とんでもないです。僕にとっては学生のころから憧れていた大先輩」と尊敬の念を込めて語る。一方で「僕の周りでみんなが『野田だ!』、『遊眠社だ!』って言ってたので、絶対に見に行かないようにしてました。僕は知人が出てないと芝居は見ないんだけど、別れた奥さん(小林聡美)が出てた作品(2003年の『オイル』)を見に行きました。そう言いつつDVDはちょっと見たり…でも、僕の中でそれはOKで劇場に行ったら負けで…(笑)」と憧れと対抗心がない混ぜになった心の内を明かした。
野田さんは3分の1ほど脚本を読んで「三谷さんが私をどう見ていたのかしみじみと実感しています。『申し訳なかったな』、『イヤな思いをさせてたんだな』と感じるようなイヤな奴に描かれてます。『偉くなり過ぎて、言ってくれる奴が周りにいない』というセリフがあって、(自分は)そういう奴なのかな? と反省する部分が多いです(苦笑)」と脚本を通して三谷さんからのメッセージ(?)を受け止めた様子だ。
野田さんの方は三谷さんをどう見ていたのか? について、1992年から93年のロンドン留学から帰国後すぐに「面白いと勧められて『ショウ・マスト・ゴー・オン~幕をおろすな』を見に行った」と明かし、「自分では作れないテイストの違いがあり、尊敬して見てました。つかこうへいさんも『いま、面白い作家は三谷幸喜』と仰っていたのを覚えています」と語った。
今回、三谷さんの演出を受けることになるが「いままで知らなかった役者の気持ちを思い知るんだろうと思います。稽古場にいると、役者が背後でしゃべってるけど、あの楽しい雰囲気に入っていけるんだと楽しみです」と期待を語った。
稽古場でどんなやりとりが繰り広げられるのか楽しみだが、内野さんは「ケンカになったら嫌だなと思ってます(笑)」と心配そうに語るが、三谷さんは「ぶつかることはないと思いますよ」。一方の野田さんは「お望みなら1日くらい、ネチネチと台本のこととか言ってもいいですよ(笑)」と闘志満々だった。
天海さんは「こうやって顔を合わせると、客席で見てみたかったと思います」とワクワクした様子で語り、山本さんも「客席で見られないのが悔しくなるような芝居にしたい」と意気込みを明かした。
「おのれナポレオン」は4月9日(火)より5月12日(日)まで東京芸術劇場プレイハウスにて上演。
『八重の桜』、毎回、覚馬お兄ちゃんと殿にときめいております。
千葉
ちばみなと研究所:房総半島を探求する 幕末 下総の博徒たち 治安維持任され…「警察役」も /千葉
神奈川
開国期に活躍した江戸幕臣、中島三郎助の功績しのびイベント/横須賀
貴重な文化財守れ、箱根関跡で防火訓練/神奈川
静岡
展示:幕末維新の志士の書、下田で /静岡
岡山
山田方谷:幕末の備中松山藩で財政再建、大河ドラマに 16万人が賛同署名 知事、NHKに直訴へ /岡山
コラム
幕末の美貌尼・太田垣蓮月 言い寄る男を拒むため歯を抜いた
千葉
ちばみなと研究所:房総半島を探求する 幕末 下総の博徒たち 治安維持任され…「警察役」も /千葉
「博徒(ばくと)」と聞くと、賭博(とばく)やかつての任〓(にんきょう)映画を思い浮かべる人もいるだろうか。江戸時代に名をはせた博徒たちの出身地といえば、国定忠治の上野(こうずけ)(いまの群馬県)や、清水次郎長の駿河(静岡県の一部)が講談や映画などでなじみ深いが、千葉県北部を中心に茨城県南西部にも広がる下総(しもうさ)も負けず劣らず有名だった。こうした力を持つ博徒の中には、幕府から地域の治安維持を任され、警察的な役割を果たしたケースもあるという。バクチ打ちが警察官? 現代なら大不祥事になりそうな話だが、一体どういうことなのか。江戸時代末期を中心に県内の治安状況を調べてみた。【研究員・小林祥晃】
■〓客人気ランクの3割
一般に、博徒は賭博行為を日常的にする人々を指す。現在は法律で禁じられている賭博だが、江戸時代などかつては、飢饉(ききん)などで農村社会から離れてしまったような「無宿者(むしゅくもの)」の生きる糧になっていた。
無宿者は、江戸時代には戸籍や住民登録のような役割もあった各寺にある信徒の名簿「宗門改帳(しゅうもんあらためちょう)」に記載のない人々で、いわば「住所不定」。安定した生活は営めず、賭博の世界に足を踏み入れ、似たような無職者たちと支え合うように博徒の集団を形成した。強きをくじき、弱きを助ける任〓の道を説く場合が多いが、現代の暴力団のように、任〓を暴力行為の正当化のキーワードにしてしまうアウトローもいた。
単なる賭博好きではないこうした博徒が下総にいかに多かったかをうかがわせる資料がある。幕末に世間を闊歩(かっぽ)した〓客の人気ランキングをまとめた「近世〓客有名鏡(きんせいきょうきゃくゆうめいかがみ)」だ。幕末の博徒が浪曲や講談などで広く紹介されるようになった1890(明治23)年に発行されたもので、相撲の番付表のように「大関」「小結」「前頭」などの順で、東日本の博徒149人の名前が連なっている。
前述の「国定忠治」「清水次郎長」の名前も見えるが、県内ではなじみ深い「飯岡助五郎」やその親分の「銚子ノ五郎蔵」、助五郎と抗争を繰り広げた「岩瀬ノ繁蔵」(笹川繁蔵)「勢力(せいりき)富五郎」(勢力佐助)などの名前も関脇や前頭などの上位にランクイン。そして驚くのは、下総を拠点としている者の人数が149人中、なんと40人にも上り、地域別人数では1位だということだ。
ちなみに国定忠治の上野は2位(31人)、3位武蔵(22人)、4位甲斐(11人)、5位江戸(10人)と続く。現在の千葉県中南部にあたる上総・安房は計4人で、やはり下総の突出ぶりが際立つ。
■相次ぐ凶悪事件
なぜ千葉に博徒が多かったのかは後述するとして、これだけ博徒が多いと、しばしば社会を震撼(しんかん)させる事件も起きた。
下総の博徒が起こした有名な二つの事件がある。
ひとつは喜代松(きよまつ)という無宿者のグループが村の娘を数カ月連れ回すという1810(文化7)年の「無宿喜代松一件」で、本格的な誘拐・拉致事件。もうひとつは1849(嘉永2)年の「勢力佐助一件」。博徒の勢力争いに端を発する銃撃・抗争事件で、かかわった博徒たちは、浪曲や映画で有名な「天保水滸伝(てんぽうすいこでん)」にも描かれている。
銚子市文化財審議委員で近世史が専門の米谷博さんは、両事件を題材に当時の下総の自警組織について考察し、論文「近世東下総における悪党の捕縛と組合村」(千葉県史研究第11号別冊)にまとめている。それらによると−−
◇その一 無宿喜代松一件
喜代松は当時、寺社の祭礼で「けがをした」などと言いがかりをつけ、薬代を村からせしめるなど、今で言う恐喝などでしのぐ「チンピラ」。この喜代松とそのグループ4、5人が3月の岩井村不動尊のご開帳の場で、母親と一緒に参詣していた幾世村の娘、せきを襲う。一味は脇差しをちらつかせ、母親とせきを引き離し、連れ去った。
村の若者でつくる自警団が、近隣の村々の若者と連携して捜索し、喜代松は3日後に現場近くをうろついていたところを捕まる。しかし、せきは仲間の長次郎に連れられて利根川を渡り、いまの茨城県にあたる隣国・常陸に連れ込まれていた。喜代松はせきの居場所を供述せず、事件は迷宮入りかと思われたが、5月、江戸にまで連れ去られていたせきが当局に逃げ込む形で発見され、ようやく関係者は検挙された。
◇その二 勢力佐助一件
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幕末の博徒として有名な九十九里沿岸の飯岡(いまの旭市飯岡地区)を拠点とする飯岡助五郎と、利根川沿いの笹川(東庄町)を拠点とするライバル笹川繁蔵の抗争が発端。1844(天保15)年、以前から対立していた両勢力は利根川で大乱闘。この時は助五郎が事実上敗北したが、3年後、助五郎の子分が繁蔵を殺害する事件が起き、対立は頂点に。そして1849年3月8日、助五郎側は、笹川一派を継いだ勢力佐助(勢力富五郎)の掃討作戦を始めた。
この際、助五郎側は関東地方の治安維持をはかる幕府の役人まで味方につけ、約500人以上の軍勢で佐助を追い込むが、佐助側も負けてはいない。鉄砲を使って銃撃戦を繰り広げた。佐助側は少なくとも10丁の鉄砲を持っていたといい、当時の博徒は立派な武装集団だったことがうかがえる。
とはいえ、佐助も力尽き、ついに4月28日に小南村(東庄町南部)の金毘羅山で自殺。親分が死亡したことで事態は収束し、約50日間にわたる抗争事件は幕を閉じた。
◇関東、幕府の統治力弱く
■実働部隊の「道案内」
なんとも物騒な話だが、しかし、当時の下総にはなぜそんなに荒くれ者が集まっていたのか。これについて、県文書館の田島新・副主幹は次のような背景を挙げる。
まず、地引き網漁や肥料となる干鰯(ほしか)作りが盛んな九十九里浜があり、地域外からの労働力が必要とされていたこと。もうひとつは利根川が重要な物資輸送路で、人、モノの行き来が盛んだったことだ。
前者は助五郎の拠点、飯岡。後者は、繁蔵の陣取った笹川にあてはまる。田島さんは「無宿者や博徒らにとって、下総は『食べていける土地』だった。それだけ経済活動が活発でもあったと言えるでしょう」と話す。
さらに当時の関東地方は、幕府による統治力が弱かったことも事態を悪化させた。
当時、犯人を捕らえることができるのは、領地を治める領主だけ。自分の領地で悪事を働いた容疑者が他の領地に逃げ込んだ場合、その場所の領主に許可を得る必要があったが、当時の関東地方には幕府領や藩領、旗本領などが混在。「隣の家は別の領主、その隣はまた別の領主」というケースも珍しくなかった。
これでは容疑者の迅速な「逮捕」はできず、取り逃がすことにもなりかねない。
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そこで幕府は1805(文化2)年、幕府直轄領や旗本領、寺社領などにかかわらず、逮捕権限を持つ「関東取締出役(かんとうとりしまりしゅつやく)」を設置。治安の強化を試みた。アメリカのFBI(連邦捜査局)のようだが、発足当初の関東取締出役はわずか8人。このため、実働部隊として国ごとに4、5人の「道案内」が置かれた。
道案内とは、関東取締出役が村を視察する時に、文字通り道案内などの手助けをするのが任務。十手を持たされ、犯罪者の逮捕や担当区域内の治安状況の報告・情報収集なども任された。現代社会なら警察署長か、それ以上の権限を持つ警察幹部に当たるだろうか。
驚くのは前述の博徒、飯岡助五郎も、実は道案内だったということだ。助五郎側が約500人もの軍勢で佐助を追い込んだ際、「味方」となった幕府の役人はこの関東取締出役なのだ。
助五郎は一連の抗争で、関東取締出役から「繁蔵や佐助を逮捕するように」との命令を受けており、地域社会に彼らをかくまう仲間がいれば、幕府の威光で厳しく取り締まれた。事件後処罰された佐助の子分や協力者らは50人以上いたが、およそ半数は佐助らに金銭や食事を与えたり、宿を提供したりした者だった。
■社会との微妙な関係
しかし、なぜ博徒が治安維持の最前線を担う道案内になることができたのだろうか?
米谷さんによると、「道案内」は地域の隅々にまで精通していることが必要だが、そのほかにも、けんかや争いごとの仲裁、緊急時には危険な現場に踏み込む度胸や機動性も要求されたという。米谷さんは「表の世界だけでなく、裏社会にも顔の利く人物でなければ務まらない。そういった事情から、道案内には地域の名士など身元のしっかりした者だけでなく、博徒なども任されるようになったのでしょう」と解説する。
道案内は地域社会で「親分さん」と呼ばれていたという。事件の解決や犯罪の防止には、昔も今も地域住民からの情報提供が不可欠なだけに、博徒であろうとなかろうと、村人から頼りにされる人物が治安維持の最前線に立っていたということかもしれない。
当時の博徒は「やくざ」とも呼ばれたが、「やくざ」のあて字として「厄座」や「役座」という表記があるそうだ。「厄」となるか「役」となるか。社会とアウトローの微妙な関係について、考えさせられた。
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◇研究所長の感想
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時間のつながりを感じずにはいられない。博徒同士の抗争やかどわかしなど、現代の裏社会の事件簿を読んでいるようだ。そこから私たちは、得てして「人の世はいつも同じ」などと情緒的にとらえがちだが、注意が必要だ。暴力も権力者との癒着も、決して今に引きずってはいけない歴史だろう。【清水忠彦】
神奈川
開国期に活躍した江戸幕臣、中島三郎助の功績しのびイベント/横須賀
開国期から維新にかけて活躍した江戸幕臣、中島三郎助(1821~69年)の功績をしのぶイベント「中島三郎助まつり」が20日、ゆかりの地の横須賀市浦賀で開かれた。地元住民でつくる「中島三郎助と遊ぶ会」が主催する恒例行事で、今回は設立20周年の記念を兼ねた。
中島三郎助は浦賀奉行与力の家に生まれ、自らも与力となった。1853年に米海軍ペリー提督が浦賀に来航した際、「黒船」の旗艦に乗船して対応する役を務め、日本初の洋式軍艦の建造にも関わった。
戊辰戦争が始まると江戸を脱出し、箱館(函館)で新政府軍と戦い、戦死している。
会場となった住友重機械工業の旧・機関工場内では、中島の足跡をたどるパネル展示や、来航時のペリー艦隊に由来するシチューの試食など、さまざまなイベントが催され、大勢の来客でにぎわった。
「中島三郎助と遊ぶ会」は中島が最期を遂げた函館とも交流しながら、功績を広める活動を続けている。三浦一幸事務局長は「日本の開国と近代化に関わった人物だが、同世代の土方歳三に比べるとうずもれており、多くの人に知ってほしい」と話していた。
貴重な文化財守れ、箱根関跡で防火訓練/神奈川
26日の文化財防火デーを前に、箱根町箱根の国指定史跡「箱根関跡」で25日、防火訓練が行われた。
文化財防火デーは、1949年1月26日に法隆寺金堂壁画が焼損したことなどから定められた。箱根関所は、戊辰戦争時に火を付けられたことがあるという。
消防や関所関係者約20人が参加。関所内の大番所から出火したとの想定で、初期消火を行い、観光客への避難の呼び掛けも実施。駆け付けた消防隊員が雪の残る関所の建物に向かって放水した。
小林恭一教育長は「訓練を契機に防災の気構えをしっかり持ってほしい」と話していた。
静岡
展示:幕末維新の志士の書、下田で /静岡
幕末・明治期に活躍した人物の書を展示した「幕末三舟名墨展」と「幕末維新の志士名墨展」が下田市の下田市民文化会館で開かれている。
「幕末の三舟」こと幕臣の勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟はそれぞれ能書家として知られ、多くの書を残している。風待ち港の下田は江戸と京都の海上交通の要所で、三舟や維新の志士らも滞在したといい、関係者の書が多く残っている。
徳川家康の遺訓を書いた海舟の「東照公御遺訓」や、鉄舟の菊の花の墨絵に詩を添えた「菊花自画讃」、泥舟の富士山の絵と詩の「富士画賛」など、詩書画に通じた文人ぶりが伺える。
また、山県有朋や有栖川宮、大久保利通などの書も展示され、珍しい平賀源内の書画もある。14日まで。入場料500円。【扇沢秀明】
岡山
山田方谷:幕末の備中松山藩で財政再建、大河ドラマに 16万人が賛同署名 知事、NHKに直訴へ /岡山
幕末に備中松山藩(高梁市)の財政を再建した山田方谷(ほうこく)(1805〜77)のNHK大河ドラマ化を目指す運動が展開されている。高梁市や県経済界が主導し、観光客誘致などを狙う。100万人を目標にした署名は既に16万人分集まり、24日には伊原木隆太知事が東京のNHKを訪問しドラマ化を直訴する。関係者は「岡山初の大河を」と意気込んでいる。
実行委によると、方谷は備中松山藩の藩政改革で、現在の200〜300億円に当たる10万両の借金を返済。備中ぐわや葉たばこの特産品販売にも成功、「経営者の鏡」と尊敬される人物だ。
大河ドラマ化は、同市の近藤隆則市長が11年に「郷土の偉人を知ってもらいたい」と発案。同市出身の大橋洋治全日空会長らが「財政再建は今の時代が求めるテーマ」と賛同。県商議所連合会なども加わり、昨年10月に署名運動を始めた。
少しでも知名度を上げようと放映中の大河ドラマ「八重の桜」で主人公の夫・新島襄が倉敷市の玉島港に立ち寄った史実に着目。昨年12月には近藤市長らがNHKの松本正之会長に「ドラマ中で玉島で方谷と新島襄が会ったという設定を作ってほしい」と要望した。
経済界出身の伊原木知事は松本会長に直接売り込む。実行委世話人の藤井義和さん(63)は「方谷は産業振興に加え、私塾を開いて後進の育成にもあたった。勤勉な岡山の県民性も全国にアピールできる」と話している。【井上元宏】
コラム
幕末の美貌尼・太田垣蓮月 言い寄る男を拒むため歯を抜いた
利己主義、個人主義の蔓延は、血縁や地縁の絆が強かった時代に比べて社会の弱体化を招いている。しかし、これは日本人本来の姿ではない、と日本史家の磯田道史氏はいう。江戸時代に生きた人々の「無私の精神」は、とかく利益や我欲に傾きがちな現代日本人の人生観に深い余韻を与えるはずだ。焼き物で稼いだ金で橋を架け、書画を人に与えた美貌の尼・太田垣蓮月の生き様を、磯田氏が紹介する。
* * *
太田垣蓮月(1791~1875)は幕末の乱世に京都で生き、無私を実践し尽くしました。蓮月は大変な美貌のうえ、詩作から陶芸、書画と幅広く手を染めています。ただ、彼女の作品が一流かというと、首を傾げたくなる。各界の達人の逸品と並べると、どうしても見劣りします。でも、彼女の人生と無私を希求した姿勢は間違いなく超一流。高潔で清廉、誰にも真似のできないオリジナリティに満ちています。
中でも、二度の不本意な結婚に破れ、得度(出家)してからの後半生が凄まじい。陋屋(ろうおく)に住まい、言い寄る男どもを排するために、歯を抜いて美しい顔を台無しにしてまで、無私の境地へと疾走していくんです。
彼女は、世俗的には汚く無価値である泥をこね、焼き物という価値あるものを作り出すことに力を注ぎます。ことに彼女の埴細工は安政の頃、結構な値で取引されました。その金を使わずに貯め、京都の鴨川に今もある丸太町橋を架けます。
本人は家財道具を持たず、来客があると木の葉の上に飯を盛っていた。しかも、埴細工や書画を人にくれてやる。挙句の果てには、贋作にまで自分の作だと保証を与えて他人を儲けさせました。蓮月の無私が際だったのは、江戸無血開城への提言です。彼女は西郷隆盛に和歌を送りました。
「あだ味方 勝つも負くるも 哀れなり 同じ御国の人と思へば」
この一首が西郷を感動させ、江戸を無益な殺戮と破壊から守りました。かような芸当ができたのも、彼女が無私に生きていたからにほかなりません。蓮月こそ、泥の池に咲いた美しき蓮といっていいでしょう
※週刊ポスト2013年1月25日号
ブログ開設して満十年です。今年も落語ブログ化しない程度に幕末の話題を取り上げていきたく存じます。
北海道
鬼瓦を雪から守れ 箱館奉行所で屋根の除雪
京都の竹内さん、新島八重の前夫・川崎尚之助と函館との関わり小冊子に
関寛斎の妻あいが主人公 陸別
宮城
塩釜の歴史遺産、保存を 幕末・明治の遊郭建築、解体の危機
福島
【日本の名城】白河小峰城 東北では珍しい総石垣造り
史料30点を新公開 県歴史資料館12日から展示
栃木
(4)宇都宮市・宇都宮城址公園 戊辰戦争で見せた!土方「軍略の才」
当時は難攻不落とされていたので、土方さんが半日で宇都宮城を陥落したと知った大鳥さんは「虚実はかりがたし(現代語訳「マジ?」)」と言ったんですよね(苦笑)。
山梨
幕末-明治期文人の息吹 県立美術館で豪商「十一屋」秘蔵品展 山梨
京都
八重の不屈の魂にスポット 霊山歴史館で特別展
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「戊辰戦争」展:長州藩士の活躍に迫る 書状や遺品など51点公開--下関・東行記念館で来月11日まで /山口
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「テニミュ」キャストが新撰組に!
北海道
鬼瓦を雪から守れ 箱館奉行所で屋根の除雪
今年は鬼瓦を雪から守ります―。箱館奉行所(五稜郭町)で10日、屋根の雪下ろしが行われた。昨冬は大雪の影響で屋根に取り付けられている1枚10万円相当の鬼瓦が折れたため、対策に乗り出した。
鬼瓦は数少ない福井県の「鬼師」と呼ばれる職人が1カ月以上かけて作るもので、奉行所では大小20枚が取り付けられている。
しかし昨冬は、屋根の除雪をしなかったため重さに耐えきれずに地面に落ちて壊れた。観光客が出入りする玄関の屋根は丹念に除雪していたが、建物全体を支える幅約30メートルの屋根は危険性を考慮して除雪していなかったという。
このため今冬は、雪が大量に積もる前に除雪。市内の業者が長さ12メートルの移動式クレーンに乗りながら、鬼瓦の周辺部分をプラスチックのスコップで傷つけないように取り除いていった。
奉行所の沼崎孝男館長は「昨年は様子見で除雪をしなかったことが裏目に出た。屋根の面積が広いため除雪方法はまだ試行錯誤の段階だが、鬼瓦は高価なものなのでなんとか守りたい」と話していた。
京都の竹内さん、新島八重の前夫・川崎尚之助と函館との関わり小冊子に
京都市在住の竹内力雄さん(79)が、6日に放映が始まるNHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公新島八重の初婚の相手、川崎尚之助(1837~75年)について書いた小冊子「八重の夫・川崎尚之助の真実」をまとめた。コメ調達に奔走し函館へ渡った様子が記され、函館と川崎の深い関わりを解き明かしている。
竹内さんは、元同志社社史史料編集所(現社史史料センター)職員や明石短期大学(現神戸ファッション造形大学短期大学部)講師などを務めた。同志社大校友会機関誌「同志社タイムス」(月刊)に、昨年4月から連載中の文を若干手直しして小冊子(B5判32ページ)を作成した。
2011年、道立文書館(札幌)で川崎に関する史料が見つかり、竹内さんが史料の複写を入手して調べた。
川崎は兵庫県但馬の出石藩出身。会津藩士だった1868(慶応4)年に、八重らと戊辰戦争の会津籠城戦で新政府軍に立ち向かったが、その際に行方不明になったとされる。その後、仲間と斗南藩(青森県)に移り、飢餓を救おうと奮闘。藩の意を受け、函館に渡って外国米と収穫予定の大豆との交換契約を結ぶが、コメの手形を差し押さえられたため蔵から出せなくなった。契約不履行によって外国人商人らに提訴された。
竹内さんは「川崎は飢餓を放っておけず、自分一人の意思での契約だとして自らを犠牲にする。見事なる侍というべきだ」と指摘。川崎が自らの身を犠牲にした背景については「出石藩は小さな藩で、会津藩で教べんを取っていた川崎にとっては大変な出世。藩に対して恩義を感じていたのだろう」と推測する。
ドラマでは川崎を長谷川博己さんが演じる。竹内さんは「八重の会津時代にとって川崎はメーンとなる人物。ほとんど知られていなかったが、世の中に知れ渡れば鎮魂になるのでは」と話している。
関寛斎の妻あいが主人公 陸別
【陸別】「みをつくし料理帖(ちょう)」シリーズなどで知られる人気作家高田郁さんが、陸別開拓の祖関寛斎(1830~1912年)の妻あいを主人公とする長編小説「あい 永遠に在り」(角川春樹事務所)を刊行した。戊辰戦争で医師として活躍し、老年期に開拓に身をささげた寛斎を、終生支え励ました妻あいの生涯を深い共感をもって描いている。
高田さんは、十数年前から町を訪れて町民と深い交流がある。寛斎の生誕の地・千葉県東金市や、寛斎が長く居住した徳島市など全国各地を取材し、数多くの文献を調査して作品の構想を練ってきた。
作品では、貧しいながらも強い倫理観と思いやりのある女性として育った、あいが、寛斎と結ばれ、幕末から明治にかけての激動の時代に子供を産み育てながら、時に周囲と衝突する寛斎を優しくいたわり、支えた人生の軌跡を描いている。「あい―」は352ページ、定価1680円。
また、今回の出版を記念し、高田郁さんが出席するトークとサイン会、あいさんをしのぶ特別展が13日午後2時から陸別町内の関寛斎資料館で開かれる。入場無料。(高橋力)
宮城
塩釜の歴史遺産、保存を 幕末・明治の遊郭建築、解体の危機
歴史的建築物の保存活動を続けている宮城県塩釜市のNPO法人「みなとしほがま」(菅原周二理事長)は12日、東日本大震災で被災し、解体の危機にある同市本町の茶舗「松亀園」(旧えびや旅館)の見学会を開いた。同法人は土地建物の買い取りを目的とした募金活動も始めており、「貴重な建物の保存と活用を」と市民からの協力を求めている。
建物は江戸末期から明治初期に建てられた木造3階建て。内部は昭和初期まで旅館・遊郭として使われた当時の意匠をとどめる。長押(なげし)に貝殻細工など港町らしいデザインが見られるほか、一面に満開の桜の花が描かれた天井も残る。
震災による津波で一部浸水し、老朽化が進んでおり、松亀園は昨年11月で店舗での営業を終了。今月中にも解体の予定だったが、東北工大の高橋恒夫教授(日本建築史)らの調査で、歴史的価値の高い建物であることが分かった。「みなとしほがま」が所有者と協議し、解体を延期している。
高橋教授は「明治初期の木造3階建ては塩釜では他になく、県内唯一の遊郭建築として残していくべきだ。床組みもしっかりして耐久性もある。御釜神社の真向かいにあり、塩釜の歴史を物語る遺産となり得る」とその価値を語る。
同法人では、1000万円を当面の目標に募金活動を展開。今月中にも解体の中止と保存活用に向けての方針を決めたいとしている。
見学会には約40人の市民が集まった。見学者の一人は「こういう建物は二度と造ることができない。文化を守るために何とか保存を実現してほしい」と話す。
見学会は19日午後2時からも開催する。連絡先はNPOみなとしほがま事務局(旧亀井邸)022(364)0686。
福島
【日本の名城】白河小峰城 東北では珍しい総石垣造り
白河(福島県)といえば、「これよりみちのく」という、奥州への入り口に位置し、古代には日本三古関の1つ白河関が置かれていた。
この地に丹羽長重(にわ・ながしげ)が徳川幕府に命じられて、寛永4(1627)年、以前からあった城を改修し、10万石の居城にふさわしい城郭として築城したのが白河小峰城である。ちなみに長重は、安土城の総普請奉行で岐阜城および信長再築大坂城の普請奉行をも務めた名築城家の丹羽長秀(ながひで)の嫡流。
白河小峰城は東北では珍しい総石垣造りの城で、盛岡城(岩手県盛岡市)、鶴ヶ城(福島県会津若松市)とともに東北三名城の1つにも数えられている。
現在も残る石垣はこのときの築城のもので、本丸の石垣は、高さといい、曲線といい、東北屈指の美しい姿を見せている。石垣の組み方は基本的には打ち込みはぎで、加工した石をランダムに積んでいく技法なのだが、一部には同心円状に石を組んだ部分がある。ほかの城郭ではなかなか見られない独特の石組みとなっている。
丹羽氏は嘉永20(1643)年、二本松(福島県二本松市)に転封となる。その後は白河小峰城には明治維新まで徳川譜代・親藩の大名が次々と入城を繰り返し、江戸の北面を守る奥州の関門という位置づけの城となる。
慶応4(1868)年、白河小峰城は戊辰戦争奥羽越列藩(おううえつれっぱん)同盟と官軍の激戦地となり、御三階櫓(天守に相当)などを焼失し落城した。
城跡には郭・土塁・石垣・水堀を残すのみだったが、平成3(1991)年、本丸跡に発掘調査と絵図などをもとにして、木造による伝統工法で御三階櫓が、平成6年には前御門が復元され、「平成の城復元ブーム」の先駆けとなる。
現在、東日本大震災により石垣などが崩壊したため、御三階櫓も含め本丸は立ち入り禁止となっている。
【所在地】福島県白河市郭内
【城地の種類】平山城
【交通アクセス】JR東北本線「白河」駅から徒歩10分。
■濱口和久(はまぐち・かずひさ) 1968年、熊本県生まれ。防衛大学校卒業。陸上自衛隊、舛添政治経済研究所、栃木市首席政策監などを経て、現在、拓殖大学客員教授、国際地政学研究所研究員。日本の城郭についての論文多数。
史料30点を新公開 県歴史資料館12日から展示
福島県歴史資料館の平成24年度の新公開史料展は12日から3月31日まで福島市の県文化センターに隣接する同館で開かれる。目玉として、戊辰戦争で戦死した会津藩士らを記録した旧若松県の行政文書「旧会藩士戦死名簿」を開幕翌日の13日から展示する。
今回新たに公開されるのは、国見町小坂地区に伝わる江戸時代の文書や絵図、福島市の個人が所有する文書、県所蔵の官報など約30点。
小坂地区の史料からは当時の土地の利用状況や人口動態などを知ることができ、郷土史家の関心を集めそうだ。地域内の樹木の種類や本数などを記した帳簿といった、ユニークな資料もある。
13日から展示される「旧会藩士戦死名簿」には、NHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公新島(山本)八重の父・権八や弟・三郎らの名前が載っている。
入場無料、会期中無休。時間は午前8時半から午後5時(最終入館は午後4時半)。初日の12日と2月10日、3月9日は午後一時から解説会を催す。
問い合わせは同館 電話024(534)9193へ。
開幕を前に11日、内覧会が開かれた。
栃木
(4)宇都宮市・宇都宮城址公園 戊辰戦争で見せた!土方「軍略の才」
慶応4(1868)年、宇都宮城が焼失してから今年で145年になる。新政府軍と旧幕府勢力による戊辰戦争の「宇都宮城の戦い」で周辺の街並みとともに城の大部分が焼失した。
宇都宮城の戦いは戊辰戦争でターニングポイントの一つとなった。戊辰戦争というと、最新兵器の新政府軍に対し、刀を手に戦う旧幕府勢力が北へ北へと追い立てられていくイメージが強いが、栃木県立博物館主任研究員の岸明さん(43)は「宇都宮城の戦いまでは両軍ともに武装に差はなく、戦いは拮抗(きっこう)していた」と話す。
江戸城無血開城後、徳川家康を祭る日光で兵を集め、新政府軍と戦おうと考えた旧幕府勢力は、江戸を脱走し日光を目指す。その過程で、土方(ひじかた)歳三らが率いる約1千人の軍勢が宇都宮城に攻め込んだ。
「宇都宮城の戦いは土方の軍略家としての初陣」と岸さん。新撰組の土方は腕の立つ剣士としてのイメージが強いが、優れた軍略家としての才能が開花したのが宇都宮城の戦いだという。
守りの薄い城の東と南を狙った土方の戦略は当たった。難攻不落といわれ、関東七名城にも数えられる宇都宮城をわずか半日で落としてしまった。岸さんは「城を守る宇都宮藩は新政府側につくと決めて間がなく、兵士たちの間にも迷いがあった。その士気の低さを土方は見抜いていたのではないか」と分析する。
こうして城を手に入れた土方らだったが、誤算があった。宇都宮藩側は敗走する際に城に火を放ち、期待していた弾薬の補給ができなかったのだ。3日後、援軍を得た新政府軍に城を奪い返され、日光へと退却する。岸さんは「これ以降、戊辰戦争は旧幕府側の劣勢へと傾いていった」。
この戦いで城の建物はほとんど焼失。宇都宮城跡は戦後、その一部が御本丸公園として整備され、市民の憩いの場として親しまれてきたが、周辺は都市開発の中で城の遺構はほとんど失われた。
地元住民や商工関係者らの間に城の復元を求める動きが本格化したのは平成以降だ。市が本丸跡の整備に着手し、「宇都宮城址公園」と改称。平成19年3月、櫓や土塁、堀などの外観を復元した上で新たに開園式を迎えた。宇都宮城の戦いを再現した「風雲!宇都宮城」などを開催。秋恒例の宇都宮餃子祭りも昨年初めて同園で開かれ、大勢の市民でにぎわった。
また、市都市ブランド戦略室は宇都宮城の戦いでの土方ゆかりの地をめぐる観光マップの発行や定期的な観光ツアーなど歴史を活用した街おこしの動きもある。園内の宇都宮城ものしり館では、宇都宮城の歴史をボランティア解説員が説明する。(桑島浩任)
【場所と行き方】宇都宮城址公園は宇都宮市本丸町1の15。市役所東側。JR宇都宮駅から関東バス「市内循環線(きぶな号)」15分、「宇都宮城址公園入り口」下車。
当時は難攻不落とされていたので、土方さんが半日で宇都宮城を陥落したと知った大鳥さんは「虚実はかりがたし(現代語訳「マジ?」)」と言ったんですよね(苦笑)。
山梨
幕末-明治期文人の息吹 県立美術館で豪商「十一屋」秘蔵品展 山梨
江戸時代中期に甲府柳町(現在の甲府市中央4丁目)で酒造業を営み、後にしょうゆ醸造も兼ねて繁栄した豪商、野口家(屋号・十一屋(じゅういちや))が所蔵する書画、書、美術品などを紹介する特別展「十一屋コレクションの名品~野口柿邨(しそん)をめぐる文人たち」(産経新聞甲府支局など後援)が、甲府市貢川の県立美術館で開かれている。半数が初公開という十一屋“秘蔵”の展示品約200点から、幕末から明治期にかけての文人たちの息吹、交流を感じ取れる内容になっている。
◇
展示は、文人画家の富岡鉄斎、日根対山(ひね・たいざん)らと交流した4代目当主、正忠(1822~93年、号・柿邨)が収集した作品が中心。柿邨の長男に嫁ぎ、南画家として名高い野口小蘋(しょうひん)の作品、伊藤博文の書など“お宝”も少なくない。
現在の滋賀県に本拠を置く近江商人だった野口家は安永元(1772)年、甲府に醸造所を設けた。後の寛政年間から明治維新までは旗本らの代わりに幕府から扶持(ふち)米を受け取り、その委託販売を許されるなど甲斐国を代表する豪商だった。十一屋の由来は、11人の近江商人が結束して甲府にやってきて商売をしたからとする説がある。
柿邨は自らも文人であり、鉄斎や対山の他、漢詩人の梁川星巌(やながわ・せいがん)、儒学者の頼三樹三郎(らい・みきさぶろう)らと交流する中で美術品や書などの収集に努めた。今回初公開されたのは、江戸絵画の与謝蕪村(よさ・ぶそん)『柳渓舟行図屏風』、曽我蕭白(しょうはく)『山水百老図』、小蘋に贈られた伊藤博文の『七律詩』など。柿邨が特に好んだとされる江戸中期の禅僧、白隠(はくいん)の墨画、墨書も紹介されている。
同美術館の平林彰学芸員は「まず柿邨の人脈と収集への熱意があり、豪商の一つのコレクションが散逸せずにこれだけ伝わっているのは驚き。作品と十一屋の関わりなどは今後解明が進められるべきで、特別展をその出発点としたい」と話している。開催は2月11日まで(展示替えあり)。今月15日と最終日を除く月曜日は休館。観覧料は一般1千円。(電)055・228・3322。
京都
八重の不屈の魂にスポット 霊山歴史館で特別展
幕末から明治維新の激動期の新島八重に焦点を当てた特別展「会津の武士道・八重の時代」が、京都東山区の霊山歴史館で開かれている。戊辰戦争で会津武士の子として籠城戦を戦い抜いた八重の不屈の魂を伝えている。
NHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公で「幕末のジャンヌ・ダルク」とも呼ばれる八重や幕末の会津藩を、写真パネルや戦地の略図、関係者の書など約100点の史料でたどる。
戊辰戦争関連では、八重らが籠城戦を展開するも政府軍の攻撃で無残な姿となった会津・鶴ケ城の写真や、八重が使用したのと同じ型の銃などが戦いの壮絶さを物語る。
兄の山本覚馬を頼って京都に出てきた八重が働いた日本最初の女学校「女紅場」(現鴨沂高)の扁額(へんがく)や新島襄との新婚時代の写真なども展示されており、新たな人生を踏み出す八重の姿も浮かび上がらせている。
同歴史館の木村武仁主任学芸員は「八重には朝敵のイメージもあるが、展示では会津藩から見た姿も取り上げた。激動期を力強く生きた八重を感じ取ってほしい」と話している。
5月6日まで。入館有料。
山口
「戊辰戦争」展:長州藩士の活躍に迫る 書状や遺品など51点公開--下関・東行記念館で来月11日まで /山口
今年は幕末の志士、高杉晋作(1839~67)が奇兵隊を創設して150年。晋作の菩提(ぼだい)寺「東行庵」の境内にある下関市吉田の市立東行記念館では、戊辰(ぼしん)戦争における奇兵隊ら長州藩士の活躍に迫った企画展「戊辰戦争」が開かれている。
戊辰戦争は、1868(明治元)年に始まった新政府軍と旧幕府軍による内戦。日本各地での武力衝突を経て69年、箱館戦争で新政府軍が勝利。日本は本格的に近代国家に向かっていく。
奇兵隊や長府藩報国隊はこの戦争に新政府軍の一員として参戦。書状などに詳細な記録を残した。企画展ではこれらの書状や遺品など51点を展示。山縣有朋が率いた軍が新潟で苦戦を強いられている際に詠んだ自筆とみられる歌書のほか、奇兵隊の長嶋義輔が戦地から父に宛てて戦況をつづった書状、戦時に使われた報国隊の太鼓「陣鼓(じんこ)」などが並ぶ。同記念館の溝口純一学芸員は「遠い地で戦った彼らの心情を感じ、内戦の意義を考えてほしい」と話している。
2月11日までで、午前9時半~午後5時。月曜(祝日除く)▽祝日の翌日は休館。入館料は大人300円、大学生200円。市立東行記念館(083・284・0212)。【平川昌範】
〔下関版〕
1月12日朝刊
エンターテインメント
「テニミュ」キャストが新撰組に!
[シネマトゥデイ映画ニュース] ミュージカル「テニスの王子様」で精彩を放った馬場徹、八神蓮、高崎翔太、佐々木喜英が5日、東京・ニッショーホールにて行われた映画『幕末奇譚 SHINSEN5~剣豪降臨~』完成披露試写会&トークショーに、劇中の衣装で登壇、会場からは黄色い声援が飛んだ。
「テニミュ」キャストが新撰組に! 画像ギャラリー
本作は、陰陽師が呪術で召喚した柳生十兵衞などの剣豪たちと、新撰組の精鋭5人が戦う新感覚時代劇。その中で、新撰組副長・土方歳三を演じた馬場は、「歴代の土方は、35歳ぐらいの俳優の方が演じる場合が多いのですが、自分は24歳なので、どうやったら新撰組を引っ張るリーダーになれるか、苦労しました」と語る。特に隊員を叱咤するような厳しいシーンでは、「低い声を出すように意識した」といい、結果、スクリーンでは見事なリーダーっぷりを発揮している。
対する佐々木は、敵役の陰陽師・土御門源春を演じ、「ずっと悪役をやりたかったのでうれしいです」と満足げ。役作りにあたって、中島良監督から、「ナルシストで、見た人がエクスタシーを感じる人物」だとアドバイスされたそう。それを聞いた八神が、「テニミュ」で「エクスタシー」の台詞が登場するワンシーンを即興で演じ、客席のファンを笑わせる一幕も。
そんな観客の笑いを取っていた八神だが、本作の見どころとなると、「腕相撲の回想シーン」と真面目な顔でコメント。同じく見どころを、高崎が「最後の大立ち回りのシーンです」と口にすると、全員から「(そこのシーンに)出てないじゃん」と突っ込まれ、終始和気あいあいとした雰囲気で、会場を盛り上げていた。(取材・文:尾針菜穂子)
映画『幕末奇譚 SHINSEN5~剣豪降臨~』は2月23日より渋谷シアター・イメージフォーラムにてレイトショー公開
函館の幕末関連ニュース追加です。
榎本武揚の銅像 梁川公園に建立
榎本武揚像 完成祝う 函館・梁川公園で除幕式 新しい歴史の名所に
田本研造の足跡紹介 没後100年写真展
箱館戦争「終戦協議の地」知って 亀田八幡宮に記念碑
箱館戦争「終戦協議の地」 亀田八幡宮に記念碑【函館】
先日の三連休で21回目の函館旅行をし、榎本さん銅像と箱館戦争終結の地碑を見てきました。
榎本武揚の銅像 梁川公園に建立
旧幕府海軍副総裁で、幕末から明治にかけて活躍した榎本武揚の銅像が函館市梁川町の梁川公園に建立され、9日、銅像の除幕式が行われた。市民有志でつくる榎本武揚を顕彰する会(近江政斗代表)が功績を知ってもらおうと建立を市に提案し、許可を受けた。同会などによると、市内の屋外での設置は初めてという。
銅像の制作者は、富山県高岡市の彫刻家、田畑功さん(57)。蝦夷共和国の総裁だった30代前半の時をモデルに上半身部分を制作した。高さ約70センチ。榎本の俳号「梁川(りょうせん)」にちなんで同公園に設置を決めた。
除幕式には、顕彰する会のメンバーら約100人が出席。榎本のひ孫の榎本隆充さん(77)や田畑さん、工藤寿樹市長、能登谷公市議会議長らも参列し、完成を祝った。
冒頭、近江代表が「若者が銅像を見て活力を感じ、夢を抱いて海外に渡り見聞を広めてほしい。函館の観光や地域の一助になれば」とあいさつ。
次いで像の除幕が行われ、榎本のりりしい顔が現れると、拍手に包まれた。その後、除幕法要に移り、参列者が順番に焼香した。工藤市長は「2年後には五稜郭築城150年を迎え、榎本武揚公に歴史の光が当てられる。このような時期に立派な像が建立されたことはうれしい」と祝辞を述べた。
隆充さんは「市民や観光客に注目される像になってほしいですね」と話していた。
榎本武揚像 完成祝う 函館・梁川公園で除幕式 新しい歴史の名所に
函館・五稜郭を拠点に旧幕府軍として箱館戦争を戦った榎本武揚(1836~1908年)の胸像の除幕式が9日、梁川公園で行われ、関係者ら約80人が完成を祝った。
梁川町が武揚の号「梁川(りょうせん)」から町名をとったことを縁に、函館市民有志でつくる「榎本武揚を顕彰する会」(近江政斗代表)が同公園内に設置した。
除幕式で近江代表は「若い人が武揚像を見て生きる活力や海外へ出る意欲を感じてくれればうれしい」とあいさつ。来賓として出席した工藤寿樹市長は「市民や観光客に喜んでもらえる歴史の名所になってもらいたい」と話した。
武揚のひ孫で、開陽丸子孫の会の榎本隆充会長(東京)は「立派な像で感激した。榎本武揚という人物のことを再認識する機会になると思う」と喜んだ。
胸像は高さ70センチで「蝦夷(えぞ)共和国」の総裁として箱館戦争を戦った33歳当時の姿をかたどっている。(袖山香織)
田本研造の足跡紹介 没後100年写真展
幕末から明治期にかけて函館で活躍した写真師・田本研造(1832~1912年)の没後100年を記念した写真展「時代ヲ旅スル写真館~150年後の田本アルバム」が18日まで、函館市中央図書館で開かれている。かつて田本が撮影したのと同じ場所から撮影した現代の写真と比べて、田本の足跡をたどっている。
田本が開設した田本研造写真場五稜郭店を継承し、市内に写真館を構える谷杉アキラさん(44)が企画した。田本は函館で写真を学び、土方歳三や榎本武揚らの肖像写真を数多く撮影したほか、箱館奉行所復元の決め手となった写真を撮影したとされる。
田本は明治初期に開拓使の依頼で、札幌や室蘭、余市など各地を歩き、屯田兵が北海道を開拓していく様子を撮影した。写真展では谷杉さんが田本の足どりを訪ね、同じ場所から撮影した写真と比較し、150年間の移り変わりを伝えている。谷杉さんは「北海道の記録写真を家族で見て、時間旅行を楽しんでほしい」と来場を呼び掛けている。
8日午後2時からは同図書館で、写真展にちなんだ谷杉さんの講演会「北海道写真の父・田本研造」が開かれる。
箱館戦争「終戦協議の地」知って 亀田八幡宮に記念碑
箱館戦争(1868~69年)で、旧幕府軍が降伏する協議を整えたとされる亀田八幡宮(八幡町)に、市民による記念碑が建立され、11日に除幕式が行われた。建立に尽力した市内上湯川町の松山一郎さん(77)は「子供のころの思い出がある亀田八幡宮への恩を返せた」と感無量の表情だった。
元市職員の松山さんは宮前町で生まれ、同八幡宮を通り、函館八幡小に通った。「亀田八幡宮は人間形成の原風景。報恩を込めて、お返しをしたかった」と記念碑建設を志した。
松山さんは同小学校などで1年後輩に当たる、南北海道史研究会会員の近江幸雄さんに建立を相談。「箱館戦争降伏式之地」碑とすることを決め、題字は旧幕府軍(榎本軍)の蝦夷島総裁榎本武揚の曾孫・榎本隆充さん(77)が揮ごうした。説明文は近江さんが制作した。
完成した碑は高さ2メートル、幅90センチで、除幕式には松山さん、榎本さん、近江さんら約15人が出席。同八幡宮の神職が祝詞を奏上し、松山さんらが玉串をささげた。式後には、武揚と新政府軍の陸軍参謀として会談した黒田清隆が、誓約後に冷酒を交わしたことにならい、社務所内に同様の座を設けた。
松山さんは「“貧者の一灯”を示すことができたのは、皆さんのご支援のおかげ。心から感謝している」、榎本さんは「五稜郭明け渡しの前に、この地で協議があったことを、市民や観光客に知ってもらえる碑となる」と喜んでいた。
近江さんによると、12月には梁川公園(梁川町)に、軍服姿の榎本像が建立される。近江さんは「箱館戦争の戦跡めぐりに役立ってくれることを願う」と話していた。
箱館戦争「終戦協議の地」 亀田八幡宮に記念碑【函館】
箱館戦争(1868~69年)で、旧幕府軍が降伏する協議を整えたとされる亀田八幡宮(八幡町)に、市民による記念碑が建立され、11日に除幕式が行われた。建立に尽力した市内上湯川町の松山一郎さん(77)は「子供のころの思い出がある亀田八幡宮への恩を返せた」と感無量の表情だった。
元市職員の松山さんは宮前町で生まれ、同八幡宮を通り、函館八幡小に通った。「亀田八幡宮は人間形成の原風景。報恩を込めて、お返しをしたかった」と記念碑建設を志した。
松山さんは同小学校などで1年後輩に当たる、南北海道史研究会会員の近江幸雄さんに建立を相談。「箱館戦争降伏式之地」碑とすることを決め、題字は旧幕府軍(榎本軍)の蝦夷島総裁榎本武揚の曾孫・榎本隆充さん(77)が揮ごうした。説明文は近江さんが制作した。
完成した碑は高さ2㍍、幅90㌢で、除幕式には松山さん、榎本さん、近江さんら約15人が出席。同八幡宮の神職が祝詞を奏上し、松山さんらが玉串をささげた。式後には、武揚と新政府軍の陸軍参謀として会談した黒田清隆が、誓約後に冷酒を交わしたことにならい、社務所内に同様の座を設けた。
松山さんは「“貧者の一灯”を示すことができたのは、皆さんのご支援のおかげ。心から感謝している」、榎本さんは「五稜郭明け渡しの前に、この地で協議があったことを、市民や観光客に知ってもらえる碑となる」と喜んでいた。
近江さんによると、12月には梁川公園(梁川町)に、軍服姿の榎本像が建立される。近江さんは「箱館戦争の戦跡めぐりに役立ってくれることを願う」と話していた。
先日の三連休で21回目の函館旅行をし、榎本さん銅像と箱館戦争終結の地碑を見てきました。
落語ブログ化しつつありますが、たまには幕末ネタをふります。
京都
幕末の町家再生へ初適用 建築基準法除外条例
山口
幕末維新好き集まれ 山口・萩で初の歴女サミット開催へ
ブックレビュー
日販オリジナル企画 「NHK大河『八重の桜』と会津幕末フェア」開催
エンターテインメント
TV東京、新春時代劇は北大路欣也、黒木瞳、国仲涼子、伊藤英明らで「白虎隊~敗れざる者たち~」一挙7時間放送!予告動画
モンキー・パンチの新キャラクター「幕末義人伝 浪漫」 1月7日から放送開始、テレビ東京ほか
『薄桜鬼 ドラマCD ~新選組鬼譚~』ファン待望の『薄桜鬼』新作ドラマCDが12月5日にリリース!
ミュージカル「薄桜鬼」第2弾の「沖田総司篇」が3月14日~24日東京で上演
第一弾が斎藤一だったんですね……ミュージカル主役が無口な斎藤一(苦笑)。
旭堂南陽のブラリ講談 歴史あるき
武士の誠「新選組」京に衝撃が走る大粛正の巻
バックナンバーは以下の通りです。
武士の誠「新選組」八木邸の巻
武士の誠「新選組」芹沢暗殺の巻
武士の誠「新選組」池田屋騒動の巻
武士の誠「新選組」隊士急増で屯所移転の巻
綾瀬はるか 大河ドラマ「八重の桜」を語る
佐藤健主演“るろ剣”の続編決定!? 大友啓史監督がハリウッドで意味深発言
京都
幕末の町家再生へ初適用 建築基準法除外条例
京都市は25日、京町家など古い木造家屋の保全に向けて4月に制定した「建築基準法除外条例」を、幕末に建てられた伏見区深草の町家に初めて適用したと発表した。龍谷大が町家キャンパスとして活用する。
市によると、市民が所有する町家を建築基準法の規定から外し、再生する例は全国で初めてという。
条例初適用となった京町家は、151年前の1861(文久元)年に建てられ、日本茶の販売店舗兼住宅として使われてきた。市が所有者から改築の相談を受け、条例適用できると判断し、龍谷大に活用を提案した。
建物を増改築するには、建築基準法が定める防火や耐震性をクリアする必要があるが、木製の出格子を防火性の高いアルミサッシに変更すると京町家特有の構造が失われてしまう。市は今春、景観や文化的に重要な木造建物に限り、複数の避難経路を設けるなどの条件を満たせば同法規定を除外できるとする条例を制定した。
所有者が今後、耐震、耐火工事を実施。龍谷大が借り受けて2013年4月から学生と地域住民の交流拠点として使用する。市建築指導課は「今回の事例を機に、京町家の良さを残しながら建物を活用する取り組みを広げたい」としている。
山口
幕末維新好き集まれ 山口・萩で初の歴女サミット開催へ
幕末や維新の歴史が好きな「歴女(れきじょ)」に、熱い思いを語り合ってもらう初のガールズサミットが来年2月23~24日、山口県萩市の松陰神社などで開かれる。
高杉晋作の奇兵隊結成から来年150年になるのに合わせ、萩の再生に取り組む「萩・維新塾」が19日発表。幕末の志士や妻らの衣装で参加を呼びかけた。
歴史の講義や着物姿での城下町散策を計画中。1日目の夜は自由行動で、主催者の一人は「ひいきの志士について女子会で盛り上がることもできるはず」。
ブックレビュー
日販オリジナル企画 「NHK大河『八重の桜』と会津幕末フェア」開催
日本出版販売株式会社(以下日販、本社:東京都千代田区、代表取締役社長:古屋文明)は12月20日より、「NHK大河『八重の桜』と会津幕末フェア」を全国の参加取引書店約800店にて順次展開しております。 日販では、フェア展開書店へオリジナル横断幕・本フェア対象作品に登場する人物相関図・フェアオリジナルボードを提供し、読者の購買喚起を図ることで対象商品の売り伸ばしを図ります。
日本出版販売株式会社(以下日販、本社:東京都千代田区、代表取締役社長:古屋文明)は12月20日より、「NHK大河『八重の桜』と会津幕末フェア」を全国の参加取引書店約800店にて順次展開しております。
2013年のNHK大河ドラマ「八重の桜」の舞台は幕末の会津藩であり、年末から「会津と幕末」に大きな関心が寄せられることが想定されます。また、3月には「第1回 会津幕末歴史検定」(主催:日販/福島民報社)が実施され、全国的に一層注目度が高まります。日販はNHK大河ドラマの関連ムック3点と「会津と幕末」を舞台にした関連コミック・書籍を合同で展開し、山本(新島)八重と会津藩を中心に、激動の幕末に関する幅広いストーリーを読者へ提案致します。
対象作品は、コミックでは忠義に従って会津藩と運命を共にし敗走を続けた幕末の雄・新選組の後期を描いた名作「北走新選組」「凍鉄の花」(菅野 文/白泉社)、書籍では大河ドラマ公式ノベライズ『八重の桜』(山本むつみ/NHK出版)、会津幕末歴史検定公式テキスト『よくわかる会津藩』(晋遊舎)です。また、「会津幕末歴史検定」開催記念連載として、菅野 文氏の新連載「誠のくに」が「別冊花とゆめ」4月号(白泉社、2月26日発売)より掲載される予定です。
日販では、フェア展開書店へオリジナル横断幕・本フェア対象作品に登場する人物相関図・フェアオリジナルボードを提供し、読者の購買喚起を図ることで対象商品の売り伸ばしを図ります。
日販は今後も読者の購買を喚起させるオリジナル店頭企画をご提案し、取引先書店の店頭活性化に貢献してまいります。
エンターテインメント
TV東京、新春時代劇は北大路欣也、黒木瞳、国仲涼子、伊藤英明らで「白虎隊~敗れざる者たち~」一挙7時間放送!予告動画
正月の恒例となっているテレビ東京の新春ワイド時代劇の第35作目は、新年1月2日(水)午後5時より、大路欣也、黒木 瞳、国仲涼子、伊藤英明、小林稔侍、岸谷五朗、須賀健太、中村蒼、西井幸人と言った超豪華キャストで「白虎隊~敗れざる者たち~」を一挙7時間で放送、番組サイトには、ドラマ制作発表会の様子や予告動画が公開されている。
「白虎隊~敗れざる者たち~」は“白虎隊”に象徴される会津の人々の運命を、会津藩家老・西郷頼母と妻・千重子ら質素ながら仲睦まじく暮らす西郷家を中心に描いた物語。主人公の西郷頼母を北大路欣也が、妻・千重子を黒木瞳が演じる。NHKテレビ小説「澪つくし」のジェームズ三木と重光亨彦コンビが、脚本と監督を担当する。ジェームズ三木は、「独眼竜政宗」「八代将軍吉宗」などをはじめ、NHKで現在人気再放送中の忠臣蔵外伝「薄桜記」も描いている脚本家。本作の小説版「へその曲げ方 西郷頼母会津藩始末」も発売されている。
物語の舞台は、幕末の会津。会津藩のへんくつ家老・西郷頼母(たのも)は、妻・千重子や自身の親兄弟・子供たちと質素ながらも仲睦まじく暮らし、家老職の一方で藩校「日新館」の指導者として少年たちの鍛錬に尽力していた。
文久2年(1862年)、会津藩主・松平容保(が京都守護職に任ぜられる。当時、江戸幕府の威信は低下し、京都には尊王攘夷派の過激浪人らが集い、治安は悪化していた。そんな中で、幕府は会津藩の優れた武勇で不逞浪人を一掃しようと考えたのだった。
会津藩の切迫した財政を知る頼母は、京都守護職を返上するよう強固に主張するが、義に厚い藩主の容保は聞き入れない。病弱の身をおして京へ。京都守護職は新撰組を配下に置き、攘夷派を厳しく取り締まったが、それはそのまま薩摩や長州の激しい憎しみを買うことになるのだった…。こうして会津藩は、否応なく、時代のうねりに飲み込まれてゆく…。
妻や激動に翻弄された会津藩士は何を守るために戦ったのか?18歳に満たない白虎隊隊士たちを死に追いやった戊辰戦争とは何だったのか?藩の行く末を誰よりも思い、農民にも好かれる一本気な藩家老・西郷頼母を通して新旧政府の交代劇を描く。
会津藩の藩主にして頼母とは、主従関係を越えた強い絆で結ばれている松平容保(かたもり)に「海猿」の伊藤英明、会津藩家老で頼母の親友の萱野権兵衛に小林稔侍、幕府に忠義を尽くす新撰組副長の土方歳三には岸谷五郎、頼母の妹で土方と運命的な出会いを果たす眉寿子を国仲涼子が演じる。ほかにも、中村嘉葎雄、えなりかずき、水野真紀、寺田農、渡辺美佐子と言った演技派俳優たちが脇を固める一方、須賀健太、中村蒼、西井幸人らが飯盛山で自刃に倒れる白虎隊士を演じている。
主題歌「風歌 KAZEUTA」を収録するニュー・アルバム「登紀子 旅情歌 -風歌 KAZEUTA」は発売中(発売元:ユニバーサルミュージック合同会社)。
そういえば、1月6日(日)スタートの綾瀬はるか主演のNHK大河ドラマ「八重の桜」も同じ時代の会津藩を舞台にしたドラマ。今年の年末年始もバラエティー番組が目白押しだが、お正月は家族揃って時代劇を楽しんではいかがだろう。今年の年末年始もバラエティー番組が目白押しだが、お正月は家族揃って時代劇を楽しんではいかがだろう。
「白虎隊~敗れざる者たち~」は2013年1月2日(水)夕方5時から一挙7時間で放送。予告動画は番組サイトで視聴できる。
モンキー・パンチの新キャラクター「幕末義人伝 浪漫」 1月7日から放送開始、テレビ東京ほか
「ルパン三世」シリーズの原作者であるモンキー・パンチさんと、そのアニメ作品を手がけてきたトムス・エンタテインメントが2013年に新たなコラボレーションを開始する。トムス・エンタテインメントはモンキー・パンチさんがキャラクター原案に参加したテレビアニメシリーズ『幕末義人伝 浪漫』を制作、2013年からテレビ放映を開始する。
『幕末義人伝 浪漫』は、2011年に発売された人気のパチンコ機「CR元禄義人伝 浪漫」をベースにした物語となる。破天荒な時代アクションとして、2013年1月7日26時5分からのテレビ東京をスタートに、テレビ東京系6局、AT-Xなどで放映予定だ。
物語は混沌の時代=幕末の“亰”が舞台。主人公は「助け屋」としての人々の生活を助ける漫次郎である。しかし、それは漫次郎の表の顔で、裏の顔は民衆から不当に奪われる大事なもの取り還す闇の“還し屋” “還し屋・浪漫”だった。
“還し屋・浪漫”は奇想天外な方法で忍び込み、戦い、盗み出し、人々の希望を取り還す。さらに江戸から日本へと歴史的な転換のなかで、国を揺るがす巨大な陰謀と脅威も迫ってくる。空想時代活劇アニメと銘を打って、大エンタテインメントが展開する。
アニメ制作のトムス・エンタテインメントに加えて、監督に『エリアの騎士』や『黒執事II』の小倉宏文さん、脚本に樋口達人さんが参加する。また、キャラクターデザインの平山智さんは、これまでも「ルパン三世」シリーズに携わってきた。今回も、モンキー・パンチさんのキャラクターの魅力を最大限に引き出しそうだ。
キャストには、主人公・浪漫役に中井和哉さんほか、喜多村英梨さん、鈴村健一さん、内田真礼さんら人気声優が出演する。さらにオープニングテーマ曲には雪乃さん「RanTiKi」、エンディングテーマ曲には髭の「ツァラトゥストラ」が決まっている。
「幕末義人伝 浪漫」
http://www.tv-tokyo.co.jp/anime/roman/news/index.html
幕末義人伝 浪漫「還し屋」
http://roman-anime.com/
『薄桜鬼 ドラマCD ~新選組鬼譚~』ファン待望の『薄桜鬼』新作ドラマCDが12月5日にリリース!
●オリジナルストーリーを、豪華声優陣が彩る
高い人気を誇る乙女ゲーム『薄桜鬼』から、新作ドラマCD『薄桜鬼 ドラマCD ~新選組鬼譚~』が2012年12月5日に発売される。豪華声優陣が登場するほか、数多くの『薄桜鬼』主題歌を担当してきた吉岡亜衣加が歌う、ドラマCDテーマソング(Short ver.)も新規収録されている。
タイトル:薄桜鬼 ドラマCD ~新選組鬼譚~
品番:GNCA-7179
POS:4988102105297
価格:3150(税込)
発売日:2012年12月5日(水)
発売元:ティームエンタテインメント/クロスフューチャー
販売元:ジェネオン・ユニバーサル・ジャパン
ミュージカル「薄桜鬼」第2弾の「沖田総司篇」が3月14日~24日東京で上演
人気ゲーム『薄桜鬼』、ミュージカル第二弾上演決定!!
この春に大好評を戴きました、ミュージカル『薄桜鬼』の第二弾が2013年3月14日(木)~24日(日)に池袋・サンシャイン劇場にて上演します。
今回は、前回の斎藤一 篇に続き、沖田総司 篇を上演致します。
http://www.maql.co.jp/special/m-hakuoki/
◆タイトル:ミュージカル『薄桜鬼』沖田総司 篇
(よみがな/ミュージカル『はくおうき』おきたそうじへん)
◆公演日程: 2013年3月14日(木)~24日(日)
◆劇場:サンシャイン劇場(池袋)
◆主催:ミュージカル『薄桜鬼』製作委員会
◆原作:オトメイト(アイディアファクトリー・デザインファクトリー)
◆脚本・演出・作詞:毛利亘宏
◆音楽:佐橋俊彦
◆出演キャスト:
沖田総司:廣瀬大介 斎藤一:松田凌 雪村千鶴:山本紗也加
原田左之助:小野健斗 永倉新八:宮崎秋人
不知火匡:柏木佑介 雪村綱道:江戸川卍丸
風間千景:鈴木勝吾 土方歳三:矢崎 広 他
◆チケット一般発売日:2013年1月20日(日)10:00
◇指定席:7500円(税込)
◇プレミアムチケット:10500円(税込)
◆公演についてのお問い合わせ:
株式会社マーベラスAQL ユーザーサポート
TEL:0120-57-7405
※土日祝日 弊社指定日除く(11:00~17:00)
◆ミュージカル『薄桜鬼』とは◆
シリーズ累計70万本を超える大人気ゲーム『薄桜鬼』を原作としたミュージカル『薄桜鬼』。
2012年5月にサンシャイン劇場にて第一弾公演「斎藤 一 篇」を上演し、若手実力派俳優陣の熱い演技と、原作を忠実に再現した熱く切ない物語に多くの賞賛が寄せられました。
幕末の動乱の時代を生きた新選組とミュージカルという組み合わせで『薄桜鬼』の世界観を表現したことで好評を呼び、特に殺陣×ダンス×歌で新選組を表現するという斬新な演出で観客を魅了しました。
脚本・演出に毛利亘宏を迎え、音楽家、佐橋俊彦の充実した楽曲と歌をミックスさせてお届けします!
第一弾が斎藤一だったんですね……ミュージカル主役が無口な斎藤一(苦笑)。
旭堂南陽のブラリ講談 歴史あるき
武士の誠「新選組」京に衝撃が走る大粛正の巻
元参謀・伊東甲子太郎を討つ
ひっそりと建つ伊東受難の碑。少し悲しみを秘めていました
池田屋事件で名声を得た新選組。「今が拡大のチャンス!」と優秀な人材を集め始めました。そんな中、発足メンバー・藤堂平助が連れてきたのが伊東甲子(かし)太郎。「近藤さん、江戸で北辰一刀流を教えている伊東さんだ。一度話してみて下され」
近藤と伊東は互いに政治思想を語り合い、お互いの憂国の思いが一致することを感じます。「伊東さん、この新選組に力を貸してはもらえませんか」「分かりました。江戸から門弟など同士も連れて参りましょう」
こうして参議として迎え入れられた伊東でした。頭もよく、人望もあり、組の中には伊東派と呼べる配下もできました。そんな中、薩長とのつながりの中で急激に尊皇攘夷(じょうい)に傾倒していく伊東。それは「徳川幕府を何が何でも守る」という新選組の思想とは相いれませんでした。そこで伊東は「天皇の陵墓を守衛する」という“御陵衛士拝命”のタイミングで新選組隊士12人と共に分離独立。それから8カ月後、隊を伊東と共に抜けたはずの斉藤一が近藤を訪ねます。人払いをすると「大変だ。伊東さんたちが局長の命を狙っているぞ」「よく知らせてくれた。密命ご苦労であった」。彼は新選組から送り込まれたスパイだったのですね。
さぁ、こうなると新選組の動きは速い。「国事について相談したき事あり」と伊東を近藤の妾宅に呼び出し、しこたま酒を飲まし、その帰り、油小路にて襲撃。伊東は「うーん、この奸賊(かんぞく)の輩(やから)め」との言葉を残し絶命しました。
「敵はこの際、壊滅せねばならぬ。この死骸(しがい)を人目に付く七条通まで移動させろ」。新選組は伊東の亡骸(じょうい)をおとりに御陵衛士を一網打尽にいたします。
このエゲツない手法で新選組の精神は守られ、名声は高まります。しかし、幕府の命運は既に風前の灯火(ともしび)。それにあらがうように新選組は鳥羽伏見、会津、五稜郭へと転戦を続けるのでありました。
次回からは赤穂義士をお送りします。
(大阪講談協会所属)
バックナンバーは以下の通りです。
武士の誠「新選組」八木邸の巻
武士の誠「新選組」芹沢暗殺の巻
武士の誠「新選組」池田屋騒動の巻
武士の誠「新選組」隊士急増で屯所移転の巻
綾瀬はるか 大河ドラマ「八重の桜」を語る
<前半の見どころはスペンサー銃をぶっ放す男前な八重>
13年の大河ドラマは綾瀬はるか主演の「八重の桜」。これまで歴史的にもドラマなどでも取り上げられることがなかった新島八重の物語だ。ドラマ化が決まって新たな事実が次々に出てきたほどだから、手あかがついていない人物ともいえる。
八重。会津藩の砲術指南の山本家に生まれ、17歳離れた兄・覚馬の影響で銃の扱いを学んだ。長州藩、薩摩藩らの新政府軍に攻め込まれ、鶴ケ城に籠城。夫の川崎尚之助らと戦う。この会津・戊辰戦争で八重は7連発のスペンサー銃で敵に立ち向かった。「幕末のジャンヌ・ダルク」といわれるゆえんだ。敗れて後、尚之助とは離れ離れになり、京都守護職にあった藩主・松平容保に請われ京都にいる覚馬を頼って移る。そして、同志社大を創立した新島襄との運命の出会い。襄は密出国してアメリカに渡り、10年後に帰国。クリスチャンで洋風の文化を日本にもたらした先駆者だ。
「八重の桜」では八重や覚馬、襄と将軍徳川慶喜はじめ、佐久間象山、吉田松陰、勝海舟、板垣退助ら維新を生きた大物との知られざる交流も描かれる。江戸末期から明治にかけて「賊軍」といわれた会津から見た日本の夜明けの物語である。
<「会津弁で大丈夫だよは『さすけね』」>
前半の見どころは男前な八重。銃の名手で、鶴ケ城に立て籠もった会津藩士ら5000人超の中でも際立った女性だった。
「幼少時代の八重は力持ちで男の子と瓦の持ち比べをしたり、競い合ったりする女の子。私も幼少時代は男子と競い合っている部分があって共感できるというか、似てるというか。銃を取り扱ったりする(覚馬の)姿にすごく憧れていたんだろうなと思います。最初(銃を)持った時は重くて持ってるだけで手がプルプルしちゃって、大丈夫かなって思ったけど、腕立て伏せをして鍛えたりしています」(綾瀬)
チーフ演出の加藤拓氏は「7連発で撃てるスペンサー銃をしっかりと再現しない限り、八重の立ち位置が描けない」と語る。また、八重の銃さばきなどについて制作統括の内藤愼介氏は「(綾瀬は)異常に運動神経がいい。吹き替えでやっているんじゃないかというくらい機敏に動いている」と言う。
初回の冒頭で綾瀬が銃をぶっ放し、「ヨシ」と叫ぶシーンがある。会津時代の見どころはガンウーマンの綾瀬である。
<新島襄と結婚。「悪妻」といわれた京都時代>
開城後、八重は覚馬のいる京都に向かう。負けても前向き、「ならぬものはならぬ」という会津の頑固な気風はそのままで、アメリカ帰りの襄に出会う。襄は初のクリスチャンの学校、同志社英学校をつくるが、キリスト教を邪教扱いする仏教徒や神官らの排撃に遭う。しかし、2人とも信念を曲げない。そのため八重は「悪妻」呼ばわりされる。
加藤拓氏は「京都の街中で(八重は)非常に不評だった」という。
綾瀬は――。
「時代を先取りして、新しいもの、例えばキリスト教に入っていったりとか、学校をつくっていったり、そういうどんどん進んでいく感じがすごいなと思いました」
「襄を『ジョー』と呼び捨てにしたり、襄さんがアメリカから帰ってきた人だったということもあり、当時では考えられないレディーファーストだったり。そういう襄との関係を周りから見ると悪妻というふうに映ったのだと思います」
覚馬、襄がこの世を去り、その頃を境に同志社から離れた八重は日本赤十字社の活動に参加して正会員になり、日清・日露戦争で篤志看護婦として従軍する。これが物語の後半である。
大河は長丁場。1年間をどう乗り切るか。
「だんだん寒くなってきたので体を冷やさないように気をつけています。温かいものを飲むようにしたりとか、肩甲骨を回すようにしています」
?? では、普段の綾瀬はどんな人なのか。八重のように意地っ張りな面もあるそうだ。
「(人に)『風邪ひいてるよ』とか、『疲れているから早く寝た方がいい』って言われても、夜走りにいく。走んないとスカッとしないみたいなところがあって」
また、つらい時は「グッとこらえる……本当に眠くて寝たいと思うんだけど、絶対、お風呂に入るとか」と天然な発言も連発するのだが……。
ドラマでは会津弁が飛び交う。
「『すわらんしょ』はそこにすわりなの意味。ありがとうは『ありがとなし』、大丈夫だよは『さすけね』って言います」と言う綾瀬、すっかり会津に馴染んでいるようだ。「八重の桜」のスタートは1月6日。
佐藤健主演“るろ剣”の続編決定!? 大友啓史監督がハリウッドで意味深発言
佐藤健が主演を務めた“究極の剣客アクション・エンターテインメント”「るろうに剣心」が、ハリウッド・エジプシャンシアターにて開催された「LA EigaFest 2012」オープニング作品に選ばれ、北米プレミア上映が行われた。また、現地で行われた会見には、大友啓史監督と相楽左之助役の青木崇高が出席し、作品の魅力を存分に語った。
【写真】ハリウッドでも“るろ剣”ファンの熱狂的歓迎を受けた青木崇高、大友啓史監督、石坂拓郎撮影監督(写真左から)
会見に出席した大友監督は、「15年前、2年間LAに住んでいた時にいろいろな映画館でさまざまな映画を見まくりました。エジプシャンシアターもその一つでした。当時は自分が監督した作品がアメリカの映画館、しかも映画の聖地・ハリウッドで上映されるなんて夢にも思っていなかったので、素直にうれしく思います」と率直な喜びを語った。
一方青木も、「僕も初めてLAに来たのは12年前。当時はバックパッカーの一人旅で、ちょっと日本語がしゃべれる外国人のおじさんに400ドルだまし取られました(笑)。当時は役者になろうとも思っていなかったので、きょうこのような形でまたLAに来ることができて、非常にうれしいです」と満面の笑顔で喜びを表現した。
その後、二人が600人を超える日本映画を愛するファンで超満員の上映会場にも登場すると、観客の盛り上がりも最高潮に。試写後に行われた質問タイムでは、ファンからの「続編はあるのか? そしてその続編に志々雄真実は出るのか?」という声に、大友監督は、「いま、いろいろと考えているので、もう少し待っていてください。アメリカのみんなが応援してくれたら、続編が決まるかもしれません!」と期待をにおわせた。また青木からも「皆さまの力で左之助をもう一度やらせてください」とアピールする一幕も。
「LA EigaFest 2012」は、ことしで2回目を迎える映画祭で、日本映画をアメリカに定着させることを目的に設立。世界のエンターテインメントの中心地・ハリウッドで開催されることとなった。今回、「るろうに剣心」のほか、「桐島、部活やめるってよ」「テルマエ・ロマエ」「へルタースケルター」「らくごえいが」「のぼうの城」「おおかみこどもの雨と雪」など、話題の日本映画も上映された。中でも、動乱の幕末後・明治を舞台に、大切な人たちが平和に暮らせる時代をつくるため、真の戦いに挑む緋村剣心を描いた「るろうに剣心」への注目は高く、地元ハリウッドメディアから賞賛の声が寄せられた。
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