新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
3月も末に近いというのに、今日は寒かったですねぇ。先ほど通りかかった電子気温計は5度を表示してました(汗)。
茨城
コスプレ:映画のロケ地で 若者200人、幕末の雰囲気に--水戸 /茨城
「桜田門外ノ変」セットが人気、結婚式も…水戸
「桜田門外の変」遺恨超え…水戸市長が井伊直弼の墓参り 茨城
東京
桜田門外の変:150年の和解法要…水戸、彦根市長が参列
神奈川
縄文時代の勝坂遺跡と幕末期の旧中村家住宅の整備完了、4月から一般公開/相模原
静岡
お吉祭り:下田芸者衆、お吉を慰霊 /静岡
富山
富山城跡:調査で、幕末絵図の井戸?発見--市埋文センター /富山
◇初確認の明治期建物跡も
岡山
真庭で「雛の文化まつり」開幕
広島
仙酔島・龍馬といろは丸展 1万6800人目 小1・持田さん 認定証贈る
長崎
【動画】岩崎弥太郎と三菱の歴史を学ぶ 長崎でシンポ、400人参加
宮崎
都城島津邸:開館 観光や学習に活用 /宮崎
鹿児島
【龍馬ゆかりの地を行く・薩摩編】互いを認めた龍馬と帯刀
茨城
コスプレ:映画のロケ地で 若者200人、幕末の雰囲気に--水戸 /茨城
映画「桜田門外ノ変」のため水戸市千波町に設けられている撮影用の野外セットで27日、「幕末ロケセット コスプレフェスティバル」(同映画化支援の会など主催)が行われ、忍者、武士、歴史上の人物などの衣装に身を包んだ若者約200人が集まった。
セットは、大老・井伊直弼の襲撃現場や周辺を細かく表現している。幕末の雰囲気に触れられるとして、歴史好きコスプレファンの人気を集めた。
新選組がテーマのテレビゲーム「薄桜鬼」や、幕末が舞台の漫画「銀魂」などの登場人物に扮(ふん)した女性6人は、彦根藩の赤門を模したセットの前で記念撮影。6人のうち、笠間市に住むフリーターで、ファンの間では明気吉冬夜(あきよしとうや)で通る20代女性は「(コスプレは)心のよりどころ。映画セットで場所を貸してくれたのは県内でここだけ」と喜んでいた。【杣谷健太】
「桜田門外ノ変」セットが人気、結婚式も…水戸
水戸市の千波湖畔で一般公開されている、映画「桜田門外ノ変」のオープンセットの入場者が27日、5万人を突破した。
先月20日の公開から約1か月。県外からの見学者も多く、映画の全国公開を10月に控え、水戸市の市民有志らでつくる「『桜田門外ノ変』映画化支援の会」は「10倍の50万人の来場を目指したい」と話している。
今年1月に完成したオープンセットは、江戸城の桜田門やお堀など、150年前の街並みが忠実に再現されている。セットでの撮影終了後に一般公開が始まり、同支援の会のスタッフらが入場者の誘導や維持、管理などにあたっている。
5万人目の来場者は、青森県階上(はしかみ)町の十文字正則さん(50)の一家4人。昨晩地元を出発して乗用車で水戸へ来たといい、十文字さんは「セットの入り口で呼び止められた時はびっくりしました」。来月、茨城大に入学する娘の琴美さん(18)は「試験で水戸に来た時から見に来たいと思っていたのでうれしい。茨城大生として良いスタートが切れそう」と喜んでいた。
好天に恵まれた27日は、ロケセットを使った結婚式やコスプレ(仮装)イベントも初めて開かれた。
結婚式は結婚式プロデュース業の「ピーハピィ・エンタープライズ」(水戸市)が企画した。セットでの結婚式第1号は、水戸市元石川町の会社員檜山翔大さん(27)、瑞穂さん(28)夫妻。和装に身を包んだ2人は桜田門のセットを背に、親族や知人など40人に誓いの言葉を述べたり、指輪を交換したりした。翔大さんは「独特の雰囲気があり良かった。思い出に残る」とうれしそうに話していた。
思い思いの仮装を楽しむコスプレイベント「幕末ロケセット コスプレフェスティバル」は、新撰組など歴史上の人物になりきった和服姿の参加者たちでにぎわいを見せた。イベントは28日も開かれる。
オープンセットは来年3月まで一般公開される予定。同支援の会の三上靖彦事務局長は「セットで撮影の余韻を味わい、10月には映画館に足を運んで欲しい」と話している。
「桜田門外の変」遺恨超え…水戸市長が井伊直弼の墓参り 茨城
桜田門外の変から150年-。水戸市の加藤浩一市長は28日、東京都世田谷区の豪徳寺で井伊直弼(なおすけ)の墓参に参列する。150回忌の法要に滋賀県彦根市関係者とともに参列するもので、水戸市によると、市長の参列は初めて。水戸藩開藩400年を迎え、親善都市である彦根市との歴史を振り返り、交流を深めていくことを誓うという。
直弼は彦根藩主から江戸幕府大老に就任。幕末の動乱期、安政の大獄で尊王攘夷派を弾圧し1860(安政7)年の桜田門外の変で水戸浪士らの襲撃を受け暗殺された。その敵対した歴史を乗り越え、現在では水戸市と彦根市は親善都市として交流。映画「桜田門外ノ変」が製作されていることもあり、水戸市は「節目の年でもあり、歴史を振り返り、両市の交流を深めていきたい」としている。
彦根市側からは獅山向洋市長や井伊家18代当主、井伊直岳氏らが参列する。獅山市長は昨年11月、安政の大獄で刑死した水戸藩士の墓参のため水戸を訪れている。
豪徳寺は井伊家の菩提(ぼだい)寺で、境内にある直弼の墓は東京都指定史跡。
東京
桜田門外の変:150年の和解法要…水戸、彦根市長が参列
幕末動乱期の1860年、大老・井伊直弼が尊皇攘夷(じょうい)派の水戸浪士らに暗殺された「桜田門外の変」で、直弼公の命日にあたる28日、墓のある東京都世田谷区の豪徳寺で百五十回忌法要が営まれた。「歴史的なわだかまりを乗り越えたい」という井伊家十八代当主、井伊直岳・彦根城博物館館長の呼びかけで、水戸藩士と井伊家の地元を代表し、加藤浩一水戸市長と獅山向洋滋賀県彦根市長も初めて参列、両市の友好を誓った。
神奈川
縄文時代の勝坂遺跡と幕末期の旧中村家住宅の整備完了、4月から一般公開/相模原
縄文時代の集落跡で国指定史跡の「史跡勝坂遺跡公園」と国登録有形文化財「旧中村家住宅」(ともに相模原市磯部)の相模原市による整備が完了し、一般公開を控え関係者を招いた記念式典が27日、行われた。
勝坂遺跡は縄文時代中期の集積跡とされ、公園内には約4700万年前の土葺(つちぶき)と笹葺(ささぶき)の竪穴住居などが復元されている。住居内は見学できる。笹葺の竪穴住居の復元は全国初だという。
旧中村家住宅は、幕末期に建てられた和洋折衷の建物。1階は和風の外観を持つが、2階外観は軒を曲線の白しっくいで塗り、正面に縦長の窓を配するなど、洋風の要素を取り入れている。昨年、中村家から市に寄贈されていた。
テープカットを行った中村家当主の中村正和さんは「地元のみなさんの憩いの場になれば」と話していた。
一般公開は4月1日から。入園、入館はともに無料。史跡勝坂遺跡公園の復元住居内の見学は水から日曜の午前9時から午後4時。旧中村家住宅は午前9時半から午後4時開館、月から水曜が休館。
静岡
お吉祭り:下田芸者衆、お吉を慰霊 /静岡
◇各地で春迎え
幕末から明治にかけて実在した「唐人お吉」(本名・斎藤きち)の霊を慰める「お吉祭り」(下田市観光協会主催)が27日、行われた。会場となった同市河内、稲生沢川岸の「お吉ケ淵(ふち)」と、墓がある同市一丁目の宝福寺では、参加した下田芸者衆や観光関係者など約50人が、観光地・下田の名前を全国区にした薄幸の女性の冥福を祈った。
お吉は芸者をしていた16歳の時、恋人の船大工・鶴松との仲を引き裂かれ、米国の初代総領事・ハリスの世話係をした。その後、鶴松と暮らすが破綻(はたん)し、51歳の時に稲生沢川に身を投げた悲劇のヒロインとされる。
没後、川岸に小さな池とお堂が作られ、命日に供養を行っている。今年は120回忌にあたり、参加者はランの切り花をささげ、お吉と鶴松に見立てた2匹のコイを放流した。【中村隆】
富山
富山城跡:調査で、幕末絵図の井戸?発見--市埋文センター /富山
◇初確認の明治期建物跡も
富山城址(じょうし)公園(富山市丸の内)の整備事業に伴う富山城跡の発掘調査で、幕末期の絵図に描かれた可能性が高い井戸跡と、明治期のものとみられる建物跡が見つかり、27日、現地説明会で一般公開された。建物はこれまで絵図などで確認されておらず、今回初めて存在が明らかになった。【青山郁子】
初確認の明治期建物跡も
調査は富山市埋蔵文化財センターが公園の北東部約370平方メートルについて、昨年11月から行ってきた。
富山城跡は、最初に築かれた戦国時代から現代までの層が幾層にも重なっているのが特徴。本丸御殿は明治期、県庁として利用されていたが1899年に焼失した。今回の調査では、明治から江戸、戦国時代までの層が確認され、井戸や建物跡のほか廃棄穴なども見つかった。
井戸は直径約3・5メートル、深さ約2・2メートル。幕末に描かれた「越中国城主前田利同城囲の図」には、本丸御殿の北川に井戸の印があり、実際の位置とずれるものの、この井戸の可能性が高いという。
また建物跡は、直径約1メートルの柱の穴が11カ所あり、すべて1間(約1・82メートル)を基準に並んでいる。同センターは「県庁として使用していたころの付属施設か、焼失後に県庁が再建されるまでに建てられた建物」と推測している。
岡山
真庭で「雛の文化まつり」開幕
江戸時代後期から現代までの雛(ひな)人形が町並みを彩る「第9回雛の文化まつり」(中津井やまびこ会主催、山陽新聞社など後援)が27日から2日間の日程で、真庭市下中津井の農村型リゾート施設「なかつい陣屋」周辺で始まった。初日は、メーン行事「輿(こし)入れ道中」に花嫁役を乗せた馬も加わり行列を一層華やかに演出、来場者1万5000人(主催者発表)でにぎわった。
午後1時から行われた「輿入れ道中」は、江戸末期の様子を再現した豪華な輿入れ行列に続き、花嫁役を乗せた馬も出発。500メートルほどの往路を練り歩くと、訪れた人々は盛んにカメラのレンズを向け、観客は「きれいね」「すてき」と笑顔を見せていた。
また、陣屋町の面影が残る通りに軒を連ねる民家など約50軒には段飾りや内裏雛などを展示。北房文化協会メンバーによる短歌や川柳といった作品も並び、会場を格調高く引き立てた。
「輿入れ道中」は28日も午後1時から行う(雨天中止)。問い合わせは同陣屋(0866―52―5001)。
広島
仙酔島・龍馬といろは丸展 1万6800人目 小1・持田さん 認定証贈る
福山市鞆町の対岸、仙酔島で開催中の、坂本龍馬のいろは丸事件をテーマにした企画展「仙酔島・龍馬といろは丸展」の来場者が27日、「い(1)・ろ(6)・は(8)・丸(0)」の語呂合わせの1万6800人に達し、会場の国民宿舎「仙酔島」の展示室前で、記念行事が行われた。
いろは丸は、幕末に鞆町沖で紀州藩の軍艦と衝突し、えい航中に沈没した龍馬の乗船。龍馬は鞆町に滞在し、賠償金交渉に臨んだ。同展は、市営渡船「平成いろは丸」の就航に合わせて1月に始まり、いろは丸事件の概要をアニメで紹介したり、NHK大河ドラマ「龍馬伝」の撮影で使われた衣装を展示したりしている。
1万6800人目の来場者は、広島市安佐南区の市立原小1年、持田なほさん(7)。羽田皓・福山市長から入場認定証を受け取った持田さんは、龍馬にふんした国民宿舎職員らと記念撮影し、「龍馬のことは知らないが、展示を見て、お母さんと一緒に勉強したい」と笑顔を見せた。
同展は11月30日まで。入場無料。午前9時~午後5時。
長崎
【動画】岩崎弥太郎と三菱の歴史を学ぶ 長崎でシンポ、400人参加
本県とかかわりが深い三菱財閥の創始者岩崎弥太郎について学ぼうと、シンポジウム「弥太郎の夢・三菱グループの歴史」(長崎新聞社主催、西日本菱重興産、長崎三菱信用組合協賛)が28日、長崎市茂里町の長崎新聞文化ホールで開かれた。
弥太郎は高知県安芸市出身。幕末に長崎土佐商会の主任を務め坂本龍馬を支援したほか、明治維新後は高島炭鉱や長崎造船所を取得し本県の近代化に貢献した。NHK大河ドラマ「龍馬伝」で弥太郎への関心が高まっており、シンポジウムには約400人が参加した。
弥太郎と三菱財閥に詳しい三菱史アナリスト成田誠一さん(68)は基調講演で「弥太郎は武士階級の最下層からはい上がっただけに、武士の理想を強く追い求めた」と説明。三菱の国家に尽くす企業精神と社長が陣頭指揮を取る伝統は弥太郎から受け継がれた、と解説した。
パネル討論「岩崎弥太郎が長崎に残したもの」では、元長崎新聞社論説委員長の梅原紘児さん(68)が司会を務め、成田さんと長崎史談会相談役の宮川雅一さん(75)が意見を交わした。宮川さんは「造船所などの働き口、軍艦島などの近代化遺産、失敗しても立ち上がる精神の三つは、弥太郎が長崎に残してくれた大きな遺産だ」と述べた。(詳報は4月11日付の紙面に掲載)
宮崎
都城島津邸:開館 観光や学習に活用 /宮崎
都城市が進めていた都城島津邸の修復整備が終わり、27日開館した。文化財である邸宅と史料を一体的に保存、伝承する一方、観光や歴史学習に生かす。
開館に先立って26日は記念式典があり、長峯誠市長は「都城の宝を永遠に引き継ぎ、観光や人材育成に活用したい」と述べた。都城島津家第二十八代当主の島津久厚氏が名誉館長に就任した。
約1・5ヘクタールの敷地に国登録有形文化財の本宅や石蔵、剣道場など幕末~昭和初期の建造物群が現存する。本宅は1935(昭和10)年の建築で、昭和天皇も宿泊した。市は08年に購入した。
鉄筋コンクリート2階建ての史料館「都城島津伝承館」を新たに建設。島津氏から市に寄贈された約1万点の史料を順次、公開する。展示品は2カ月ごとに入れ替える。
屋敷の購入費を含む総事業費は13億5000万円。市は年間3万3000人の入館を見込んでいる。電話は0986・23・2116。月曜休館。【木元六男】
鹿児島
【龍馬ゆかりの地を行く・薩摩編】互いを認めた龍馬と帯刀
天保6(1835)年。この年に誕生した2人の人物が、互いを認める盟友として、明治維新に力を尽くした。1人は土佐(高知県)生まれの坂本龍馬。もう1人は薩摩(鹿児島県)生まれで、後に「幻の宰相」とも呼ばれた小松帯刀(たてわき)だ。
龍馬と帯刀の出会いは元治元(1864)年の旧暦6月、京都の旅館「池田屋」で、新撰組が尊王攘夷派の長州藩士らを襲撃した事件がきっかけだった。
池田屋事件では、龍馬が塾頭を務めた神戸海軍操練所の塾生が難に遭い、自死。幕府は同操練所の責任者、勝海舟らに「反幕」の疑いをかける。軍艦奉行を罷免された勝は、塾生のことを、薩摩藩の西郷隆盛に依頼。西郷は龍馬らを大坂薩摩屋敷にかくまう。
これが、薩摩藩内の名家に生まれ、20代で藩の家老となり、他藩や幕府からも「薩摩の小松か、小松の薩摩か」と賞されていた帯刀と、龍馬の出会いにつながった。2人が交わした会話の肉声を伝える資料は残っていない。だが、2人が互いを認めたことは確かだ。
× ×
慶応元(1865)年、藩家老でありながら、帯刀は自ら龍馬ら塾生約30人を連れて薩摩に帰国。さらに帯刀は、鹿児島城から約2キロ離れた原良(はらら)にある別邸に、約2週間にわたって龍馬を泊めた。
この居候期間を通じて、龍馬と帯刀が親交を深めたことは想像に難くない。龍馬は兄、権平にあてた手紙の中で「当時天下之(の)人物」として薩摩藩では「家老にて海軍惣(総)大将なり」と、帯刀の名を真っ先に挙げるほど心酔していた。
龍馬は、帯刀の別邸で西郷隆盛、大久保利通も交えた相談の上、薩長同盟に向けて遊説に出発。歴史の表舞台に飛び出した龍馬を、帯刀がバックアップする。
塾頭不在となった神戸海軍操練所の元塾生に対し、帯刀は藩費から1人当たり月3両2分の給料を出し、薩摩交易船を使って航海業に従事させた。さらに長崎・亀山の家を借り塾生らを住まわせた。これが亀山社中の発足だった。
× ×
薩長同盟を結ぶための密議も、京都の小松帯刀邸で開かれた。また帯刀は、長州藩の銃や艦船購入のために、薩摩藩の名義を貸すなど、龍馬が目指す薩長同盟に向けておぜん立てをする。
慶応2年1月20日、薩長同盟が成立。同24日に寺田屋で幕府の役人に襲撃され負傷した龍馬は、妻のお龍とともに薩摩入りし、原良の帯刀邸に再び滞在した。ここから龍馬は湯治もかねてお龍とともに鹿児島の霧島温泉郷へ向かう。足の病に苦しんでいた帯刀も、時期を同じくして近くの温泉へ保養に出かけた。
湯治まで息を合わせたような2人の最後の大仕事が、大政奉還だった。龍馬の腹案といわれる大政奉還を、帯刀は「最も公明正大の行為」と徳川慶喜に強く説いた。
それからわずか1カ月後、龍馬は刺客に殺害される。そして龍馬が新政府人事案で参議(大臣級)の筆頭に挙げていた帯刀も、明治政府では玄蕃頭(げんばのかみ)(後の外務大臣)などを務めたものの、病気がちで表舞台に出る機会は少なく、明治3年、この世を去った。
× ×
明治維新前後に世を去った龍馬と帯刀。龍馬が生きていれば戊辰戦争はなかったともいわれるが、鹿児島大生涯学習センターの元センター長、原口泉氏は著書「龍馬を超えた男 小松帯刀」の中で「もし帯刀ありせば、西南戦争の悲劇は防げたのではないか、とふと見果てぬ夢を見ます」と書いた。
鹿児島市原良町には、帯刀邸の石垣が残る。片側1車線の通りから、丘に向かって細い道をほんの少し上った、静かな住宅街だ。
薩摩藩は江戸時代を通じて、よそ者の入国をかたくなに拒んだ。不審者は生きて出さないことから、行ったっきりで帰ってこない者を「薩摩飛脚」と呼んだほどだ。そんな薩摩だが、幕末の帯刀邸からは居候・龍馬が話す土佐弁が、にぎやかに聞こえてきたことだろう。あるいは、龍馬がたしなんだ三味線や、帯刀が得意とした琵琶の音色が響いていたかもしれない。(小路克明)
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昼間ちょっと日が差しましたが、夕方からにわか雨。春先のこの時期、天候は不安定ですね。
北海道
龍馬の志 函館から発信を…愛好会発足 初の例会
岩手
長英の功績に迫る 奥州で没後160年記念展
山形
芭蕉や八郎の歴史 ガイド育成へ現地巡る
福井
県有形文化財に旧大和田銀本店など指定
富山
絵図の井戸か 幕末遺構発見 富山城址
あす現地説明会
奈良
春色に染まる平城の古道 奈良・佐保路(さほじ)
京都
天皇、皇后両陛下が入洛
東山天皇陵を参拝
兵庫
校歌で母校に別れ 養父・青渓中閉校式
高知
帰りたい:私だけのふるさと 木津川計さん 高知市
◇桂浜の龍馬像と1冊の本
鹿児島
やごろうどん:映画の舞台 /鹿児島
北海道
龍馬の志 函館から発信を…愛好会発足 初の例会
函館市末広町に昨年11月オープンした北海道坂本龍馬記念館(三輪貞治館長)を拠点に、地域を盛り上げようと発足した「函館龍馬愛好会」の第1回例会が25日、同館共有ホールで開かれた。発起人や市民ら約10人が参加し、資料見学や活動計画などを話し合い、交流を深めた。
同会は、郷土史の勉強会で知り合った佐藤稔さん、齊藤和克さん、中尾仁彦さんの3人が、龍馬の足跡を知ることができる記念館を生かし地域貢献できないかと思い立ち、三輪館長とともに昨春から計画してきた。
参加者はまず、三輪館長から貴重な龍馬直筆の書簡などの展示物の説明を受けた。現在放送中のNHK大河ドラマ「龍馬伝」のキャストを例に挙げながら分かりやすく解説。参加者はメモを取るなどして熱心に学んでいた。
活動計画の話し合いでは、当面毎週木曜日に例会を開催することや、世話人5人を決定。会員からは「現在の体制では観光客への配慮に欠ける」や「龍馬と北海道のかかわりをもっと多くの人に知ってもらう努力が必要」などの意見が出され、解説ボランティアの増員などを今後の検討課題とした。
三輪館長は「市民主導の会が発足し、多くの方が協力してくれてとてもありがたい。今後も力を借りて市民が主人公の記念館にしていきたい」と抱負を語っていた。
岩手
長英の功績に迫る 奥州で没後160年記念展
奥州市水沢区出身で幕末の蘭学者高野長英(1804~50年)の没後160年記念展「シーボルトと高野長英」は25日、同区横町のメイプル4階で始まった。師弟関係にあった2人の交流にスポットを当て、長英がシーボルトに書き送った論文や翻訳書などを通じ、鎖国時代に生きながら世界に目を向け、日本を紹介した長英の功績を再確認させる。
市教委と高野長英顕彰会の主催で、図説パネルや写真パネル、複製資料など合わせて約70点を展示する。
長英は、ドイツ人医師シーボルト(1796~1866年)が長崎に開いた鳴滝塾で蘭学や医学を学んだ。シーボルトは日本滞在中、日本文化や自然の研究に励み、長英は和書の翻訳やオランダ語論文を書き送って師を支えた。記念展は両者の生涯をたどりながら、シーボルトの助手としての長英の活躍をメーンに紹介する。
中でも注目を集めるのが、長英が書いた論文の複製資料だ。同顕彰会は昨秋、日本学関連資料で有名なドイツのルール大を訪問。同大が所蔵する長英の論文などを写真に収め、同大の資料データなどを基に原寸大で複製、今回18点を展示する。
翻訳書や論文のテーマは華道や礼法、茶の製法、山犬研究、稲作や寺社仏閣案内、古代史と幅広い。アンコウや仏閣の研究書は挿絵入りだ。サメ類について書いた「鮫(さめ)の記」には種類ごとの説明に加え、「コバンサメ」など片仮名表記も添えられ興味深い。
同顕彰会の平塚均会長は「日本の夜明けのため生涯をささげた長英の仕事の一端がうかがえる」と話す。来月6日まで。入場無料で、午前10時から午後6時まで。問い合わせは同顕彰会(0197・23・6034)へ。
【写真=シーボルトとの師弟関係を通じて長英の功績を浮き彫りにする企画展「シーボルトと高野長英」】
山形
芭蕉や八郎の歴史 ガイド育成へ現地巡る
庄内町の歴史や名所を見直し、ボランティアガイドとして観光案内の仕組みを充実させていこうという「庄内町観光ガイド育成研修会」が24日、「歴史の里のやかた」(旧清川小学校)など同町清川地区で開かれた。座学や同地区の観光スポットを実際に巡る現地研修で、地元住民らが観光ガイドの心構えを学ん
だ。
庄内地域と秋田、新潟両県の計10市町村の官民で構成する「日本海きらきら羽越観光圏推進協議会」(会長・榎本政規鶴岡市長)と庄内町観光協会の主催。同協議会が2009年度から進めている観光圏整備事業の一環で、ガイド育成研修会は観光客の受け入れ態勢充実を目的に圏内各地で開かれている。
庄内町は、江戸時代に最上川舟運の中継地として栄え、幕末の志士・清河八郎を輩出するなど歴史や文化的遺産が残る清川地区の観光振興に取り組んでおり、昨年12月に同地区の住民による「きよかわ観光ガイドの会」(正木尚文会長)が設立されたこともあって、今回は清川地区での研修会開催となった。
同地区の住民や町内の旅行会社員、町職員など合わせて約25人が参加。はじめに鶴岡市観光ガイド協議会の村岡敏会長が講師となり、「観光ガイドは事前学習が大切。自分が案内するコースを前もって歩き、時間配分にも気を配ること。経験も大事で、何度も案内するうちに自信がついてくる」とガイドの心構えについて話した。
座学の後は、現地研修が行われた。きよかわ観光ガイドの会メンバーの案内で、俳聖・松尾芭蕉が清川を訪れた際に詠んだ「五月雨を集めて早し最上川」の句碑や、清河八郎記念館などを徒歩で巡った。
参加者たちは同会メンバーの解説に耳を傾け、「地元なのに意外と知らないことが多い」と話しながら地域の観光資源を学んでいた。
福井
県有形文化財に旧大和田銀本店など指定
県教委は25日、県文化財保護審議会の答申を受け、敦賀市立博物館として利用される「旧大和田銀行本店」など建造物2件と、絵画4件を新たに県有形文化財に指定した。これで県指定文化財は333件になった。
◇ ◇
敦賀市相生町にある旧大和田銀行本店とその設計図など24点は、港町敦賀の近代化を象徴する洋風建築として指定された。1927(昭和2)年築で、鉄骨煉瓦(れんが)造り3階建て地下1階の構造。
南越前町今庄の「旧京藤(きょうとう)甚五郎(じんごろう)家住宅」は、今庄宿に残る赤瓦の2階建て大型町屋で、江戸時代後期から幕末にかけての建築。江戸時代は酒造業を営んだ旧家という。
県立美術館所蔵の「紙本著色和漢故事人物図(しほんちゃくしょくわかんこじじんぶつず)」12幅は、福井藩主松平忠直・忠昌に仕えた絵師、岩佐又兵衛勝以(いわさまたべえかつもち)の作。江戸時代前期に「伊勢物語」や「源氏物語」など日中の故事・物語などの12画題を描いたものがそろっている。
同館所蔵の「紙本金地著色群鶴(ぐんかく)図(ず)六曲(ろっきょく)屏風(びょうぶ)」1双は勝以の息子の源兵衛勝重(げんべえかつしげ)がかかわり、元は福井城本丸御殿の「鶴の御間」の襖(ふすま)絵だったことがわかっている。
「紙本著色野郎歌舞伎(やろうかぶき)図六曲屏風」1隻は越前市本町の大宝寺所有で、江戸時代前期に野外での野郎歌舞伎の興行を描いた珍しい屏風。
鯖江市杉本町の西光寺所有の「絹本(けんぽん)著色如祐(にょゆう)尼像」は、室町時代に蓮如の妹の如祐(1422~1502)を描いた肖像画。浄土真宗関係の女性を描いた肖像画としては初期の作例という。
富山
絵図の井戸か 幕末遺構発見 富山城址
あす現地説明会
富山市教育委員会埋蔵文化財センターは25日、富山城址公園の整備に伴う2009年度の埋蔵文化財の発掘調査結果を発表した。新たに明治時代の建物跡や幕末期の井戸の跡が見つかり、1899(明治32)年まで県庁として使われていた旧本丸御殿の位置を特定する手がかりになる可能性がある。
同センターによると、調査は02年度から始まり、今回は公園北部が中心の370平方メートルについて、戦国―明治時代の地層を調べた。調査期間は09年11月5日~10年3月末。
その結果、直径約3・5メートル、深さ約2・2メートルある穴状の井戸の跡が見つかった。穴の中心部分に井戸枠が設けられていたはずだが、枠は抜き取られた模様だ。この井戸跡は、幕末期の絵図「越中国城主前田利同城囲図」に、「井」の文字が記されており、位置的に絵図のものと同一の可能性がある。
また井戸跡の南側には、柱を立てた方形の穴の遺構11基や、それを囲む溝が見つかった。それぞれの柱の穴の中心には石が置かれ、その上に柱と建物があったとみられる。江戸前期から存在し、焼失する明治32年まで使われた旧本丸御殿の付属施設であるか、焼失後に県庁が再建されるまでに建設された明治期の建物だった可能性があるという。この建物は絵図などの資料に示されておらず、今回の調査で初めて明らかになった。
調査結果の現地説明会は27日午前10~11時に、公園内の富山市佐藤記念美術館前である。
奈良
春色に染まる平城の古道 奈良・佐保路(さほじ)
初春になると、決まって思い出す奈良の風景がある。
まずは東大寺の西面に立つ、国宝の転害門(てがいもん)。天平時代から残る建築で、見るたびに簡素で力強い姿にひかれてきた。
門の正面できびすを返すと、そこを起点に西へ向かう「佐保路(さほじ)」がある。この季節にもう一度歩きたいと思いながら、大学生の時以来、20年余りが過ぎた。
道ばたに馬酔木(あしび)の白い花が咲き、あわい香りを広げている。ああ春の奈良に来たと思う。普段は「一条通り」と呼ばれるこの道は、奈良時代には平城京の一条南大路に当たり、貴族の邸宅が並んだという。
近くに住む「奈良市萬葉歌碑の会」の長岡玲子さん(82)宅では昔、井戸を掘って砂利層に突き当たった。現在は南方を流れる佐保川の岸辺だったらしい。30代から万葉集を独学し、毎月四つほどの講座で魅力を語っている長岡さんは、「この辺り一帯は万葉集の宝庫。自然と人間の生活が一つになっていたから、歌が生まれたんですね」と言う。
佐保橋のバス停から、川沿いの小道に出てみる。同会が建てたものを含め、幾つもの歌碑と出会った。「うちのぼる佐保の川原の青柳は今は春べとなりにけるかも」(大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ))
両岸を桜が染め上げるのももうすぐだ。幕末の勘定奉行・川路聖謨(としあきら)が奈良奉行時代に植えさせたのが始まりで、「今も5本残っています」。軽トラに乗せて案内してくれた「佐保川を美しくする会」会長の新谷(しんたに)春見さん(72)が、見事な枝ぶりの老樹を指さした。
同会が植えたソメイヨシノ、しだれ桜なども育っている。だが、この桜並木の美しさは「桜だけではない。堤と、川の流れと、背景になる若草山があるから」と新谷さんは誇らしく語る。
佐保路に戻り、さらに西へ歩いた。「見わたすかぎり茫々(ぼうぼう)とした田圃(たんぼ)で、その中をまっ白い道が一直線に突っ切っているっきり」。作家の堀辰雄が「大和路」に描いた戦前の面影はもちろんないが、在原業平が建てた不退寺も、海龍王寺も、昔のままと思わせる姿でそこにあった。40代半ばになり、少しは人や社会の変転を見た目に、変わらぬ風景は何とも優しかった。
法華寺の尼僧が修行の一つとして作る光明皇后ゆかりの「御守犬」(小さい三つ)。授かるには予約が必要 聖武天皇の妻、光明皇后ゆかりの法灯を守る尼寺・法華寺。皇后は施薬院(せやくいん)、悲田院を作り、病人や貧者を助けた。樋口教香副住職(57)は「社会福祉の第一人者として、今も影響は大きいと思います」と語る。
愛らしい「御守犬」も、皇后が護摩供養の灰を山内の土に混ぜて作ったのが始まりとされる。「口伝で残っている通り、修行の一環としてお作りし、ご祈祷(きとう)してお授けしています」。今年は没後1250年で、多くの奉納行事を控える。4月7日まで春季特別公開の国宝十一面観音菩薩(ぼさつ)像も、法要に合わせ、5月1~9日にも公開するそうだ。
法華寺から民家の間を抜けると、青丹(あおに)よし、奈良の都の平城宮跡。来月本格的に始まる「平城遷都1300年祭」の主会場だ。復元を終えた大極殿(だいごくでん)正殿の鴟尾(しび)が輝き、ヒバリがさえずりながら空に昇っていった。(高野清見、写真も)
(次回は和歌山・紀の川市)
●あし 東京駅から京都駅まで新幹線で2時間20分、JRか近鉄に乗り換えて奈良駅まで40分前後。駅前から西大寺駅行きバスで佐保橋まで5分前後、法華寺まで10~20分。
●問い合わせ 奈良市観光センター=(電)0742・22・3900。平城遷都1300年祭コールセンター=(電)0742・25・2010。
京都
天皇、皇后両陛下が入洛
東山天皇陵を参拝
天皇、皇后両陛下は25日、「第14回国際内分泌学会議」に出席するため、東海道新幹線の特別列車で京都に入られた。入洛は、京都御所で即位20年の懇談会などが催された昨年11月以来となる。
両陛下は午後1時前、京都市下京区のJR京都駅に到着した。午後4時、幕末まで歴代天皇らの葬儀を執り行った東山区の泉涌寺を訪れ、今年が没後300年に当たる東山天皇の陵を参拝した。
両陛下は28日まで滞在し、左京区の国立京都国際会館で開かれる国際内分泌学会議の開会式に出席、宇治市の平等院や向日市の長岡宮大極殿跡などを訪れる。
兵庫
校歌で母校に別れ 養父・青渓中閉校式
4月に養父市の八鹿中学校と統合する青渓中学校(同市八鹿町宿南)で25日、母校に別れを告げる閉校式があった。在校生や卒業生、地元住民ら約200人が参加。記念映像などを見ながら、地域に根ざした歩みに思いをめぐらせ、全員での校歌斉唱で53年の歴史を締めくくった。
同校は1957年に開校。幕末期の儒学者池田草庵の学舎「青谿書院」の名を借りて青渓中と名付けられた。草庵の教えに基づき、生徒が野菜などを育てて地元住民に販売する生産活動などを教育に取り入れているのが特徴だった。生徒数の減少や校舎の老朽化から両校の統合が決まり、4月1日から八鹿青渓中として生まれ変わる。現在の八鹿中校舎が新しい校舎となる。
閉校式には卒業式を終えたばかりの3年生を含む全校生112人と、地元住民や卒業生ら約100人が集まった。式典では2年生の田畑梓君が「草庵先生の精神を受け継ぐ伝統のある素晴らしい環境でした。その精神は新しい中学校でも引き継がれてより発展する。青渓の生徒であることを誇りにがんばります」と決意を発表。卒業生代表で3年生の山根七海さんも「授業だけでは分からない、生きていくことの大切さを教わった。育ててくれた青渓中をいつまでも忘れません」と感謝の言葉を述べた。
同窓会や保護者でつくる閉校記念実行委員会が作製した記念DVDも上映され、開校当時などの古い写真や、体育祭など学校行事を伝える様子を記録した映像で歴史を振り返った。最後は、出席者全員で校歌を斉唱、別れを惜しんだ。
八鹿中でも24日に閉校式が行われており、八鹿青渓中の開校式は4月7日に開かれる。青渓中の歩みなどをまとめたDVDと記念冊子は校区内の全戸に配布される予定。
(原田大介)
高知
帰りたい:私だけのふるさと 木津川計さん 高知市
◇桂浜の龍馬像と1冊の本
10代の多感な時期を高知で過ごしました。僕の人格や思想の基盤をこしらえてくれた育ての古里です。幕末の志士、坂本龍馬をはじめ、自由民権運動を率いた板垣退助、中江兆民ら多くの思想家を輩出しました。寝ても覚めてもどーんと広がる太平洋の大海原、そんな土佐の風土が自由闊達(かったつ)な気風を育てたのでしょう。
小中学校の遠足では、何度も桂浜を訪れました。龍馬像を前に先生が、龍馬はいかに先を見通す力にたけ、後の時代の人々に影響を与えたかを説いて聞かせる。体の弱かった僕は像を見上げ、龍馬のように世界をまたに掛けることは難しくても「文化的な感性を研ぎ澄まして何かスケールの大きなことをしたい」「龍馬に近付きたい」そう思ったものでした。
* * * *
高校時代は、編集長として新聞部の活動に熱中しました。途絶えていた学校新聞を復刊させ、取材から編集、印刷の手配まで一人でこなしました。生徒や教職員の声を集め、時代背景や学校の動きを含めて記事にする。今思えば、これが僕の編集者としての原点だったのでしょう。民主主義的な考えを持った優れた教師や友人との出会いが、僕に多くの刺激を与え、感性を磨いてくれました。
一方で、逆境を乗り越える力を養ったのもこのころでした。高校3年の春、結核とわかったのです。生活のため都会に出た家族と別れ、僕は一人高知に残りました。学業を続けながら、みかん水という清涼飲料水の運搬や家庭教師をして生活費や療養費を稼ぐ。過酷な生活に胸に開いた穴は次第に大きくなり、絶望の底へ追い落とされました。
死を覚悟した僕は、山奥の掘っ立て小屋にこもり、昼間はどこで首をつろうかと木々の枝ぶりを眺め、世話になった人々にお礼の手紙を書いて過ごしました。1カ月ほどしたある日、消印を頼りに同級生が訪ねてきたんです。そのとき、友人に勧められたハンセン病の作家、北条民雄の本を読んで目を開かされた。「生きていこう」と決意したんです。
* * * *
「劫初(ごうしょ)より作りいとなむ殿堂にわれも黄金の釘(くぎ)一つ打つ」。僕が好きな与謝野晶子の歌です。中学を卒業する日、担任の先生が贈ってくれました。はるか昔から営まれてきた民族文化の殿堂づくりにかかわりたい、大きなことはできないけれど、せめて一本の黄金の釘を打ち込んで世を去りたい、そういう意味です。先生はずっと僕を見守ってくれました。大阪で編集の仕事を始めてからも「おまさん、土佐の味を忘れちゃいかんぞね」と、カツオのたたきやユズを送ってくれました。晶子の歌と古里への感謝を胸に、これからも地道に歩んでいきたいと思っています。<聞き手・林由紀子/え・須飼秀和/写真・貝塚太一>
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■人物略歴
◇きづがわ・けい
雑誌「上方芸能」発行人。1935年生まれ。大阪市立大卒。98年、菊池寛賞受賞。07年から、演劇に思想や解釈を加えて語る「一人語り劇場」を始める。著書に「上方の笑い」「人間と文化」「上方芸能と文化」など。
鹿児島
やごろうどん:映画の舞台 /鹿児島
「海の金魚」(九州先行公開中)を見た。鹿児島(錦江)湾で開かれるヨットレースを題材にした青春映画で、多くのシーンが鹿児島市で撮影されている。観覧車「アミュラン」やかごしま水族館など、なじみの場所も多く登場するので、親しみやすい映画だ。
スクリーンを通すと、自分の目で見た景色とはまったく違って見えることがある。登場人物の「視点」で見るからだろうか。改めてその場所に行くと、何気ない風景でも感動してしまう。登場人物になった気になるからだろう。
「海の金魚」は4月に全国公開される。霧島では大河ドラマ「龍馬伝」で盛り上がっている。9月には幕末の鹿児島を舞台にした映画「半次郎」も全国公開される。
映画などのロケ地は大切な観光資源だ。九州新幹線全線開業を目前にして、ヒット作が来るのを待っているだけではもったいない。ロケを誘致して、観光客を呼び込んでほしい。【黒澤敬太郎】
ネットニュースを何気なく見ていたら、「ええっ(汗)」という記事が。
池田屋跡の店でガス爆発か、3人けが 京都、客100人が避難
カセットボンベが爆発、100人が避難 京都の居酒屋
爆発:「池田屋」跡地の居酒屋で、3人けが--京都
平成の池田屋騒動?!
跡地の居酒屋でボンベ爆発、3人けが
調理場でカセットコンロのガスが爆発して、従業員3人が軽傷……大きな事故でなかったのは幸いですが、魚焼き機の傍でカセットコンロを置いていたという調理場のレイアウトはちょっと問題では。
ほどなく順調に営業再開できますよう。
池田屋跡の店でガス爆発か、3人けが 京都、客100人が避難
25日午後7時半ごろ、京都市中京区中島町の居酒屋「海鮮茶屋池田屋はなの舞」の調理場で、カセットボンベが爆発、大阪市都島区の男性(49)ら従業員3人が顔などに軽いやけどをした。五条署によると、店内には当時約100人の客がいたが、避難して無事だった。
店は2009年7月、幕末に新選組が討幕派浪士を襲撃した「池田屋事件」の舞台になった旅館池田屋の跡地にオープンした。
五条署によると、カセットボンベは大型の魚焼き用オーブンから約10センチ離れたところにあった。同署はオーブンの熱風でボンベ内のガスが膨張して引火、爆発した可能性があるとみている。
カセットボンベが爆発、100人が避難 京都の居酒屋
25日午後7時半ごろ、京都市中京区中島町の居酒屋「海鮮茶屋池田屋はなの舞」(地上3階、地下1階)の地下1階厨房(ちゅうぼう)で、使用中の魚焼き機付近にあったカセットボンベ1本が爆発。厨房にいた23~49歳の男性従業員計3人が首やひじなどに軽いやけどを負った。
当時店内には客約100人がおり、爆発の影響で全員が避難する騒ぎになった。客にけが人はなかった。五条暑によると、魚焼き機の熱でボンベ内のガスが膨張し破裂した可能性があるという。
爆発:「池田屋」跡地の居酒屋で、3人けが--京都
25日午後7時半ごろ、京都市中京区三条通河原町東入の居酒屋「海鮮茶屋 池田屋 はなの舞」地下1階調理場で爆発があり、23~49歳の男性従業員3人が腕などに軽いやけどをした。
地下1階から地上2階にいた客107人全員が店外に避難。一帯は京都有数の繁華街で、現場付近は一時騒然となった。
京都府警五条署によると、魚などを焼く加熱機器のそばに置いていたバーナーのボンベ部分が過熱し、爆発したとみられる。
同店は幕末の池田屋事件で有名な旅館池田屋の跡地。【橘建吾】
平成の池田屋騒動?!
跡地の居酒屋でボンベ爆発、3人けが
25日午後7時半ごろ、京都市中京区三条通河原町東入ルの居酒屋「海鮮茶屋 池田屋 はなの舞」の調理場でカセットボンベが爆発し、49歳と45歳、23歳の男性従業員3人が顔や腕に軽いやけどを負った。五条署によると、カセットボンベを燃料に、魚に焦げ目を付けるバーナーを使っている。従業員らは「使用中の魚焼き機のそばにボンベを置いていた」と話している、という。同署は、魚焼き機の熱気でボンベが膨張、爆発したとみて詳しい原因を調べている。
爆発当時に店内いた客107人にけが人はなかったが、全員が一時避難した。居合わせた60代の男性客は「ドン、という音がしたので何事かと思っていたら焦げ臭くなり、非常ベルが鳴った」と話していた。現場は、幕末に新選組が長州藩士らを襲撃した「池田屋事件」の舞台となった池田屋の跡。
カセットボンベによる爆発、引火事故は近年多発傾向にあり、生活用品などの安全性を点検している独立行政法人「製品評価技術基盤機構」(東京都)によると、昨年4月から今年1月までに全国で28件発生している。
調理場でカセットコンロのガスが爆発して、従業員3人が軽傷……大きな事故でなかったのは幸いですが、魚焼き機の傍でカセットコンロを置いていたという調理場のレイアウトはちょっと問題では。
ほどなく順調に営業再開できますよう。
昨日に続いて今日も雨、寒いですね。雲が薄くなってきたのか、少し明るくなってきました。
栃木
英大使館別荘県に譲渡 無償、改修し一般公開へ 日光
埼玉
江戸期の武者を再現 4月3日に「火縄銃鉄砲隊」 東松山
静岡
地域通貨「龍馬小判」でまちおこし=静岡県下田市〔地域〕
龍馬への思い詰め込み…駅弁発売 静岡
坦庵公のお弁当もつくって欲しいなぁ……「パン祖」なんで、パン付きで^_^;。
三重
県文化財:伊賀「三国地志」指定 熊野「絹本著色釈迦涅槃図」も /三重
滋賀
開国150年祭閉幕
【彦根城入場者/22ケ月間120万人】
ひこにゃんの写真画像が一枚入ると、ぐっとなごめるんだよなぁ(^^)。
岡山
故郷の土居宿 絵本で知って
山口
幕末2傑 ここにあり
高知
四国と九州で龍馬切手発売
佐賀
「竜馬伝」仕立てでうれしの茶PR ポスター完成
コラム
幕末の戊辰戦争で集団自刃した会津藩の白虎隊に…
【幕末から学ぶ現在(いま)】(55)東大教授・山内昌之 中山中左衛門
エンターテインメント
D3PUBLISHERより「維新恋華龍馬外伝」発売決定
目元にホクロが艶っぽい龍馬(爆)。
栃木
英大使館別荘県に譲渡 無償、改修し一般公開へ 日光
奥日光の中禅寺湖畔に建つ英国大使館別荘が4月、県に無償譲渡されることになり、県は今後数年間かけて改修、一般公開する方針を固めた。新年度、活用方法などの検討を始める。同大使館別荘は、幕末から明治期にかけて活躍し、英国で日本学の基礎を築いた英国人外交官アーネスト・サトウ(1843~1929)が建てた。2年前閉鎖されたが、中禅寺湖畔の外国人大使館の中では最も古く眺望が良いとされる。
県によると、別荘は敷地約5千平方メートル、建物は延べ床面積約500平方メートルの2階建て。紅葉の名所・八丁出島や白根山などが一望できる。2009年1月に大使館側から譲渡の話が持ちかけられ、今月9日までに無償譲渡で話がまとまった。
取得を決めた理由について県は、(1)最も古い別荘で歴史的価値がある(2)サトウが深く関わっている(3)隣接するイタリア大使館別荘と一体化した整備による観光誘客が期待できる-と説明している。
サトウに詳しい中宮祠自治会会長で日光市文化財保護審議会委員も務める小島喜美男さんによると、サトウは1872(明治5)年と1874(明治7)年に日光を訪れ、いち早く奥日光を紹介する著書を発表。別荘は、全権公使として再来日したサトウが1895(明治28)年、借りた家を改修して建てた。
湖畔には英国大使館別荘のほか、イタリア、フランス、ベルギー大使館別荘が残り、このうちイタリア大使館別荘は97年に県が取得。記念公園として整備し2000年から一般公開されている。
英国大使館別荘の本格的な改修・整備は、県の財政健全化プログラム集中改革期間終了後の13年度以降になる見通し。小島さんは「県の管理のもと一般公開されるようになることは、地元としても喜ばしい」と話している。
埼玉
江戸期の武者を再現 4月3日に「火縄銃鉄砲隊」 東松山
江戸期の鉄砲隊を再現する「火縄銃鉄砲隊」の行進と演武が4月3日午後1時半から3時まで、東松山市内と松山第一小学校校庭で開かれる。松山地区ハートピア協議会と松山市民活動センターの共催。
松葉町1丁目には、幕末に川越から前橋に移された前橋藩の陣屋が設置され、鉄砲隊も駐屯していた。八幡神社付近が訓練所になっていたという。陣屋には各奉行所が置かれ行政の役割を担うとともに、子弟が学ぶ藩校(博喩堂)があった。
火縄銃の演武は、市民に松山陣屋の史実を知ってもらい地域の活性化の一助にしようと開かれる。演武には訓練が必要なため、川越藩火縄銃鉄砲保存会が協力している。
出陣式は同日午後1時ごろから八幡神社で。甲冑(かっちゅう)装束の武者行列と松一小鼓笛隊が、商栄会商店街・まるひろ通り・ぼたん通り・中央通り・一番街など市内の主な通りを巡る。和紙の灯籠で裏道を照らす「夢灯路(とうろう)祭り」のメーン会場「書庫」前では、「口上」が行われる。演武は、午後2時半から3時まで、松山第一小学校校庭で開かれる。
静岡
地域通貨「龍馬小判」でまちおこし=静岡県下田市〔地域〕
静岡県下田市の温泉旅館協同組合や観光協会などでつくる「下田龍馬伝志援隊」は4月1日から幕末の志士・坂本龍馬の肖像をあしらった地域通貨「龍馬小判」を販売する。
同市は、文久3年(1863年)1月、勝海舟が土佐藩主の山内容堂に面会し、坂本龍馬の脱藩を許してもらった宝福寺が所在するなど龍馬ゆかりの地として知られる。NHK大河ドラマ「龍馬伝」のロケ地にもなった。
今回発売されるのは、龍馬小判2000枚(販売価格1枚3000円)と「龍馬くんコイン」5万枚(同900円)の2種類。それぞれ「参龍(さんりょう)」「壱龍」というように「龍」を単位にした。コインは1枚で1000円分の買い物ができるプレミアム付きだ。
利用可能期間は4月1日~9月30日の半年間で、利用可能の表示シールが張ってある市内店舗で使用できる。観光協会などで直接購入できるほか、下田龍馬伝志援隊のホームページでも注文を受け付ける。
下田龍馬伝志援隊の担当者は「既に東京など県外からも問い合わせが来ている。コイン付き宿泊プランを計画するなど地域活性化を目指していきたい」と話している。(2010/03/25-10:31)
龍馬への思い詰め込み…駅弁発売 静岡
幕末の志士・坂本龍馬(1835~1867)が脱藩を許され、飛翔するきっかけとなったとされる静岡県の伊豆-。弁当製造販売の「桃中軒」(沼津市千本港町)は、伊豆と龍馬にちなんだ駅弁「伊豆龍馬飛翔会席膳」(980円)。を発売した。龍馬同好会「伊豆龍馬会」(下田市、竹岡幸徳(ゆきのり)会長)が監修に加わり、ファンをうならせるこだわりが詰まっている。
「NHKの大河ドラマで放送されるなど、今年は“龍馬の年”ということで売り出すことになったが、話が持ち込まれたのは昨年末。とにかく時間がなかった」と話すのは桃中軒・営業企画部課長の百合明栄(ゆり・あきえ)さん。それでも伊豆龍馬会のメンバーから次々と面白いアイデアが出て、「途中からはまとめるのが大変だった」と話す。
外装は龍馬が慶応3(1867)年に起草した8ケ条の国家構想「船中八策」をかけて八角形に。惣菜は伊豆名物の「金目鯛の酒蒸し」「野菜と伊勢エビの煮こごり」、龍馬の故郷・土佐の一本釣りにちなんだ「鰹(かつお)の昆布巻き」など8品で「選中八品」と名付けられた。
こだわりは包装紙にも見られる。龍馬の肖像画や写真を使うこと案も挙がったが、「ありがちだ」(百合さん)との考えで、下田市在住の切り絵師・伽嶋清華(かしま・きよか)さんに依頼し、下田港と寝姿山を望む龍馬を描いてもらったという。
同社では「この弁当で伊豆と龍馬のかかわりを知ってもらい、今度は伊豆を旅してみようと思ってもらえれば」としている。
JR沼津、三島両駅にある「桃中軒」売店で毎日計50食限定で販売中。注文も受け付けている。問い合わせは桃中軒(電)055・963・0154。
坦庵公のお弁当もつくって欲しいなぁ……「パン祖」なんで、パン付きで^_^;。
三重
県文化財:伊賀「三国地志」指定 熊野「絹本著色釈迦涅槃図」も /三重
県文化財保護審議会(会長・八賀晋三重大名誉教授)は、幕末から昭和32(1957)年にかけて作成され、県庁に保存されてきた「県行政文書」など8件を県文化財に新たに指定するよう県教委に答申。県教育委員会で正式決定され、県文化財は565件となった。
県行政文書は、計1万1643点に上る公文書や地図、絵図などがそろった状態で保存されており、全国でも珍しいという。
他に指定されたのは、室町時代作成に描かれたとみられる「絹本著色両界曼荼羅(けんぽんちゃくしょくりょうかいまんだら)図」(松阪市中町)▽江戸時代の絵画「絹本著色釈迦涅槃(しゃかねはん)図附貞享(つけたりじょうきょう)四年銘箱」(熊野市二木島町)▽1812年(文化9年)に転写された「三国地志(藤堂采女(うねめ)家旧蔵本)附伊賀国式社考(しゃこう)」(伊賀市上野丸之内)▽鎌倉時代の古写本「斎宮女御集(資経本(すけつねぼん))」(明和町竹川)▽「斎宮女御集(正般(しょうはん)所蔵本)」(同)▽江戸時代に印刷された「岡寺版集帖板木(しゅうじょうはんぎ)並びに関係資料」(松阪市中町)▽小古墳から見つかった「ワキ塚1・2号墳出土品」(伊賀市比土、緑ケ丘本町)。
この他、既に指定されている「参宮講看板附たわら屋看板」(伊賀市阿保)に7点が追加指定された。【岡大介】
〔伊賀版〕
滋賀
開国150年祭閉幕
【彦根城入場者/22ケ月間120万人】
幕末の彦根藩主で大老井伊直弼を顕彰する「井伊直弼と開国150年祭」が24日最終日を迎え、彦根市金亀町の彦根城博物館能舞台で約100人が参加して閉幕式典が行われた。2008年6月4日から22カ月間に及ぶ祭典で実施された主催事業、市民創造事業は計88。会期中の彦根城入場者はこの日、通算119万9475人となった。(市丸茂樹)
閉幕式典は、直弼が桜田門外の変で暗殺された安政7年3月3日(1860年3月24日)にちなみ、150年後のこの日に開催された。
北村昌造実行委会長が「市民や彦根を訪れた人たちに政治の表舞台の直弼公だけでなく、文化人としての側面にも触れてもらい、それぞれの直弼公像を描いていただけたのではないか」とあいさつ。井伊家18代当主・直岳さんも「150年祭がきっかけとなって、郷土への愛着が生まれたとしたら大変うれしい」と語った。
この後、彦根藩のお抱え狂言師だった茂山千五郎家による狂言「千鳥」が上演されたほか、150年祭のダイジェスト版DVDの上映があり、期間中に開催された数々のイベントを振り返った。最後は彦根鉄砲隊員4人が、不慮の死を遂げた直弼を悼み、博物館のぬれ縁から弔砲を一斉発射。獅山向洋市長が「市民や実行委の皆さんには150年祭を大いに盛り上げていただいた」と感謝の言葉を述べ、北村会長がひこにゃんとともに閉幕を宣言した。
ひこにゃんの写真画像が一枚入ると、ぐっとなごめるんだよなぁ(^^)。
岡山
故郷の土居宿 絵本で知って
■江戸時代 出雲街道の宿場
江戸時代、出雲街道・土居宿として栄えた美作市土居地区(旧作東町)の歴史絵本を、小学校講師が出版した。協力した「語り部」たちは、昨夏の水害で被害を受けた住民に元気を与えてくれる、と喜んでいる。
■小学校講師が出版
出版したのは美作市の安藤由貴子さん(31)。2009年4月に赴任した土居小学校の敷地内で、土居生まれの幕末の志士・安東鉄馬の墓や土佐藩士・千屋金策ら4人をまつる「四つ塚」を見つけたのを機に興味を持ち、郷土史家から聞き取りを進めた。
土居宿は、現在のJR姫新線と国道179号の間を通る約1キロの間にある。本陣、脇本陣、人馬問屋、旅籠(はた・ご)、東西の惣門があった。出雲街道で盛り土をした一里塚が残るのは土居宿だけで、県史跡に指定されている。
住民は1993年、「出雲街道 土居宿を後世にのこす会」を発足。50代から80代までの会員31人が、月1度の触れ合い市や出雲街道への案内板設置などに取り組んできた。春名正昭会長(76)は「古い家並みが年々姿を消し、会発足は10年遅かったが、間に合う範囲で成果をあげたい」。
安藤さんは美作地域の歴史絵本を毎年出版しており、今回は4冊目。「郷土を愛する心を持ち続け、子どもたちに伝えたい」と話している。安藤さんは売り上げの一部を「後世にのこす会」の活動資金に寄付する。
「出雲街道 土居宿物語」は社団法人農山漁村文化協会発行。A4判、50ページでフルカラーで本体1300円。月内には県内の書店に並ぶ。(中村二郎)
山口
幕末2傑 ここにあり
◆竜馬立志のまち 萩の紹介パンフ
全国的な坂本龍馬ブームに乗り遅れまいと、萩市が、龍馬と萩とのかかわりを紹介したパンフレット「坂本龍馬立志のまち萩」=写真上=を2万部作った。主な観光施設などに置いてPRする。
市によると、龍馬は1862(文久2)年1月14日、土佐勤王党首領・武市半平太の手紙を、長州藩士・久坂玄瑞(げんずい)に届けるために萩を訪れ、9日間滞在した。久坂は師である吉田松陰の草莽崛起(そうもうくっき)論を龍馬に説き、龍馬はその年の3月24日に土佐藩を脱藩。その後、薩長同盟や大政奉還など歴史に残る活躍をしていく。
パンフレットでは、萩は龍馬が日本を救う志を立てた地だと強調し、龍馬が剣を振るったとされる藩校明倫館剣槍道場「有備館」(明倫小学校内)などや高杉晋作ら龍馬ゆかりの地や萩人らを紹介している。
◆益次郎ワールド楽しむ企画展/山口
山口市春日町の市歴史民俗資料館で、企画展「花神ふたたび―大村益次郎とその末裔(まつえい)」が開かれている=写真下。普段見られない文化財などを公開する「山口お宝展」の協賛展示で、5月9日まで。
益次郎は現在の山口市鋳銭司生まれで、明治維新の立役者の一人とされる。村医者だったが、兵法に関する豊富な知識で明治政府の兵部省の次官までのし上がり、日本陸軍の創始者と言われる。司馬遼太郎さんの小説「花神」は益次郎が主人公になっている。
今回の企画展は(1)益次郎、三度の転機(2)益次郎の近代精神(3)「花神」の末裔(4)益次郎の趣味的世界、の四つのテーマで、益次郎直筆の書簡やノート、趣味だった骨董(こっとう)品などを紹介している。目玉は昨年東京の大村家から寄贈された資料で構成する「『花神』の末裔」。妻の琴へあてた手紙や、毛利家から養子を迎えたことに伴う相続許可の書類などを見ることができる。
同館の板橋晧世学芸員は「絵や写真パネルといった軟らかい展示もあるので、色んな人に益次郎ワールドを楽しんでもらえれば」と話す。4月10日と5月1日の午後2時からはギャラリートークもある。問い合わせは同館(083・924・7001)。入館料は高校生以上100円、小中学生50円、70歳以上は無料。
高知
四国と九州で龍馬切手発売
郵便局会社四国支社(松山市)は24日、幕末の志士坂本龍馬をデザインした切手シート(80円切手10枚)=写真=を四国と九州内の郵便局で売り出した。龍馬が脱藩したとされる旧暦の1862(文久2)年3月24日に合わせて発売。1万6千シートを用意したが、すでに約6千シート分の予約が入っている。
切手シートには高知市の桂浜にある坂本龍馬の銅像の写真や龍馬が「わがなすことは
われのみぞしる」と詠んだ和歌をあしらっている。切手には、龍馬の肖像写真や誕生地の記念碑、龍馬愛用のものと同型のピストル、龍馬が書いた借用証文の下書きなどが印刷されている。
1シート1200円。インターネットの「郵便局の通販ショップ」(http://www.postal-jp.com/psc/goods/index.html)でも4月5日から200シートを販売する予定。問い合わせは同支社(089・936・5406)へ。
佐賀
「竜馬伝」仕立てでうれしの茶PR ポスター完成
NHK大河ドラマ「龍馬伝」人気にあやかろうと、佐賀県嬉野市が坂本竜馬を使った「うれしの茶」のPRポスターを作った。嬉野茶を輸出して財を成し、竜馬とも親交のあった大浦慶を登場させ、竜馬と嬉野茶を結びつけた。「嬉野茶伝」と銘打つ映画のポスター仕立てで、茶の消費拡大と観光振興につなげる。
ポスターでは、茶畑を背に遠くを見つめる竜馬の写真の横に「龍馬は、嬉野ぬきには語れない」とアピール。「我らを支えた茶長道明(さっちょうどうめい)ぜよ」と添えて、茶と長崎貿易が竜馬らの活動資金を生み出したことを〝さりげなく〟紹介している。
キャスト紹介もあり、監督・プロデューサーは嬉野市、主演は竜馬や慶、大隈重信ら慶が資金援助した幕末志士に続いて嬉野茶、嬉野温泉、嬉野市民が並ぶ。慶の評伝が日本語・英語の2カ国語で記されている。
旅館や商店街などに張って、観光客に嬉野と竜馬のつながりをアピールする。市は「お慶と竜馬とうれしの茶(仮題)」のパネル展も計画中。市商工観光課は「ストーリーはぜひ嬉野に来て味わってほしい」と話す。
コラム
幕末の戊辰戦争で集団自刃した会津藩の白虎隊に…
幕末の戊辰戦争で集団自刃した会津藩の白虎隊に1人だけ生存者がいたことは知る人ぞ知る。その少年が宿敵・長州の藩士の元で養育されたらしいことまで知る人は少ない
▼一命を取り留めた時は10代半ばだった飯沼貞吉は、新政府軍によって東京に送られたとされる。会津攻めにも加わった長州藩士楢崎頼三が長州の屋敷に連れて帰り、1年半ほど養育した、と伝えられる
▼楢崎家(現山口県美祢市内)に奉公していた女性の口伝から地元ではよく知られている。女性の子孫から直接話を聞いたり史料を調べるなどした貞吉の孫、飯沼一元さん(67歳、東京在住)も信じるに至った
▼貞吉は明治5年に逓信省の技師になり下関などで勤めたことが分かっている。技師になるまでには「(1人だけ生き残った)絶望のふちから立ち直るきっかけが必要だったはず。美祢では勉強の機会も与えられたようだ」と一元さん(河北新報)
▼長州が絡む貞吉の「その後」を知る人は、会津では少ないという。遺恨が浅からず残っているから、知ったとしても信じたくない、と言う人が多いだろう。一元さんも以前はその一人だった
▼先週末、一元さんは再び美祢市を訪ねた。関係者に「この地での生活があったからこそ、その後の人生があった」と感謝の言葉を述べ、往時を語り合った。遺恨を超えた関係を築きたいと思っている。今回の長州行には会津から十数人が同行したそうだ。
【幕末から学ぶ現在(いま)】(55)東大教授・山内昌之 中山中左衛門
■主君の意を忖度する
民主党の生方(うぶかた)幸夫副幹事長の更迭問題が話題になっている。小沢一郎幹事長の辞任要求の責任をとらされそうになったのは、幹事長周辺が小沢氏の心情を「忖度(そんたく)」したからだという説も根強い。立場が違えば、善意の配慮とも評価されるし、反対にゆきすぎた追従(ついしょう)と批判することも簡単だ。
歴史には古来、「君側(くんそく)の奸(かん)」とか「佞臣(ねいしん)」とか「姦佞(かんねい)」といった人びとが出没する。対立する当人同士はさほどでなくても、別の人物が悪意をもてば、2人の関係はますますこじれるだけでなく、決別にまで至ることも珍しくない。
◆久光と西郷関係悪化誘因
幕末でいえば、島津久光と西郷隆盛との関係に複雑なねじれをもちこんだ中山中左衛門こと尚之介の例が思いだされる。中山は、小松帯刀(たてわき)や大久保一蔵(利通)や堀次郎と並んで「久光四天王」ともいうべき側近中の側近である。島津斉彬(なりあきら)の死後、藩主となった茂久(忠義)の実父として国権を掌握した久光は、下級藩士中心の勤王派の志士集団たる誠忠組から忠誠を取り付けた。
これにも中山は功労があり、小納戸頭取に就いた中山は、側役の小松と並んで藩政に参与できる身分となった。中山は、小納戸に抜擢(ばってき)された大久保の願いをいれて奄美大島から西郷を呼び戻すことを久光に説いた。
しかし、人間にはウマの合う関係とそうでない関係がある。釈放された西郷は、文久2(1862)年2月に中山と会うなり、久光の率兵入京策に異論を唱えた。策を説明した中山に、大綱が杜撰(ずさん)かつ疎漏(そろう)にすぎるとにべもなく斥(しりぞ)けたのだ。
久光は、朝廷から勅を受け、薩摩藩の兵力を背景にし、幕府に改革を迫るという斉彬の計画を継承しようとしたのだ。西郷によれは、この壮大な計画は英邁(えいまい)な斉彬だからこそ成就できるのであり、久光には到底無理だと断定したのである。
この時に西郷から発せられた有名な言葉こそ、「地五郎」という表現なのである。殿は田舎者だから雄大な戦略は実行できないというのだ。これは事前に中山らと西郷が会ったときに述べたという説もある。いずれにしても、自分の周旋で流刑地から帰れたのに感謝もせず、恩人を「地五郎」と断じたのでは、中山の面目も丸つぶれだったに違いない。心中に憎悪さえ宿ったはずだ。
中山は爾来(じらい)ことあるごとに、久光に西郷の挙動をそしるようになったらしい。この時期の中山は小松さえ凌(しの)ぐ藩の実力者に成長していたので、傲慢(ごうまん)さが外に滲(にじ)み出る有様に反感を抱く者も少なくなかった。西郷もある手紙で、「中山と申すもの我意強く、只無暗(むやみ)のものに御座候」と述べているから、本当に嫌い抜いたのだろう。
西郷は、久光の上洛に先行して下関で待つように沙汰(さた)を受けたのに、命を無視して上方に先発した。これが久光の逆鱗に触れ、中山の意見を徴した結果、再び遠島処分とされた。
これを機に久光と西郷の関係は決定的に悪化するが、その誘因となったのは主君の西郷嫌いを知りぬいた中山の謗(そし)りである。薩摩藩士が斬り合う寺田屋事件は西郷失脚直後に起きた。志士たちは中山を「姦物(かんぶつ)」呼ばわりしたが、これは久光を直接に非難できないからである。
◆維新後の晩年は悲惨
それでも中山は久光に忠義一途(いちず)であり、琉球通宝の鋳造など経済政策にも貢献し、薩英戦争の戦略指導にあたった。しかし、西郷の遠島処分は中山が久光に讒言(ざんげん)したからだという声が高まり、免職にされた。維新後に久光の側近に返り咲いた中山の晩年は悲惨である。彼は、明治9(1876)年に大久保利通らの暗殺を企てた激徒に連座し、懲役10年の刑を科された。その2年後に獄中で国事犯として死ぬとは思いもよらなかっただろう。小松を凌(しの)ぐ実権を誇り大久保の盟友だった重臣がここまで没落するとは言葉を失う。
小松のさわやかさ、大久保の冷静緻密(ちみつ)さ、いずれも欠いた中山を讒言や姦佞の資質だけで語るのは酷であろう。中山には、維新後、不遇で寂しい久光への忠誠心では際立っていたからだ。現代でも権勢を極めている政治家に近づく者は多い。
しかし、その人が栄職から離れても同志や側近として寄り添うなら、それは姦佞やおべっかということにはならない。まさに棺を蓋(おお)いて事定まるというのは、現代の政治家にもあてはまるのかもしれない。(やまうち まさゆき)
◇
【プロフィル】中山中左衛門
なかやま・ちゅうざえもん 天保4(1833)年、薩摩(鹿児島県)生まれ。島津久光の信任を得て、薩摩藩有志派のリーダーシップを握った。久光が国事周旋の決意をして以後、大久保利通とともに手足となる。首席家老、喜入(きいれ)摂津のもと、小松帯刀とともに島津家と近衛家の間を奔走した。文久2年、久光の上京に随行し、諸卿の間を周旋。その後、側役を務めたが、久光勢力の退潮とともにその存在も薄れた。明治11(1878)年、46歳で死去。
エンターテインメント
D3PUBLISHERより「維新恋華龍馬外伝」発売決定
D3PUBLISHERより恋愛アドベンチャー「維新恋華龍馬外伝」の発売が決定された。
恋華シリーズ最新作。名高い幕末の英雄ぞろい。あの新選組も登場。イラスト・設定・声優など、すべてを一新。そして、今までのテイストとは一味違う濃厚な恋愛や、官能的な描写を限りなく表現。歴史と恋愛を存分に楽しめる作品となっている。
「維新恋華」の維新は、「明治維新」という意味。その他、「恋華が変わった」という意味も持たせてある。ストーリーは龍馬を中心にすすむ。幕末動乱の時代には龍馬をはじめとする維新の立役者だけでなく、新選組など維新を阻もうと散っていった英雄も数多く登場するぞ。
維新の名優ともいえる歴史上の人物たちと、龍馬や主人公が織り成す人間関係にも注目できる作品の発売を楽しみに待っていよう。
【坂本龍馬 イメージイラスト】
※開発中のラフイメージで本編の正規イメージとは異なります。
目元にホクロが艶っぽい龍馬(爆)。
予報通り、冷たい雨の日になりました。開花の時期を待つ桜も震える寒さです。
宮城
栗原・花山のシンボル 寒湯番所が来月1日復活
栃木
英国大使館別荘:県に無償譲渡 アーネスト・サトウが中禅寺湖畔に建築 /栃木
東京
幕末の志士 ブロンズ像に 荒川ふるさと文化館 橋本左内像お披露目
恵比寿に土佐料理居酒屋「龍馬魂 恵比寿藩」-カツオのわら焼きメーンに
宮城
栗原・花山のシンボル 寒湯番所が来月1日復活
岩手・宮城内陸地震で被災した宮城県栗原市花山の国史跡「仙台藩花山村寒湯(ぬるゆ)番所跡」の修復工事が完了し、4月1日から見学可能になる。地元住民は1年9カ月ぶりとなる花山のシンボル復活を喜んでいる。
番所跡には書院造りの座敷を備えた関所守の居宅「役宅」や総ケヤキ造りの表門などが残る。地震では表門の左右にあった石垣(高さ1.2メートル、長さ約15メートル)が崩れ、柱が礎石から外れた。名跡を記した標柱や通行手形、荷物などを調べる検断所跡と役宅周りの石垣も崩れた。壁に亀裂が入り建具も破損していた。
市教委による修復工事は極力、現場の資材を再利用する方針で行われた。残された図面や写真を基に崩れた石垣を手で積み直し、役宅の壁は骨組みの竹の交換や壁の塗り直し、破損した建具の交換などをした。工事は2月に終了し、総事業費は4134万円。
番所跡は約400年前、秋田藩に通じる「花山越え」の要衝に置かれた仙台藩の関所。藩境の警備、経済統制のために設けられた。今の建物は幕末期の建築とされ、1963年に国史跡となった。
開館は4~11月末の午前9時~午後4時半。入館料は大人200円、高校生以下100円。連絡先は栗原市教委文化財保護課0228(42)3515。
栃木
英国大使館別荘:県に無償譲渡 アーネスト・サトウが中禅寺湖畔に建築 /栃木
◇1896年建築、改修し一般開放--日光
日光市の中禅寺湖畔に建つ英国大使館別荘が、4月1日に県に無償譲渡されることが23日、分かった。別荘は、幕末から明治にかけて活躍した英外交官のアーネスト・サトウ(1843~1929)が建てたもので、湖畔にある外国大使館別荘では最も古い。福田富一知事は毎日新聞の取材に対し「歴史的な建築物を譲渡していただけることになり、大変ありがたい」と語り、県は改修後に一般開放するための整備を進める方針。【浅見茂晴、葛西大博】=一部地域既報
中禅寺湖畔は標高約1300メートルで、真夏でも清涼であることから明治以降、避暑地として多くの大使館別荘が建てられ、最盛期には30カ国の別荘があった。大使館員らが蒸し暑い東京を避けて、夏を過ごし「夏場は外務省が日光に移動している」と言われるほどだった。英国大使館別荘は、その中でも最も古く、1896(明治29)年建てられた。
「日光避暑地物語」など日光に関する著作がある元市職員の福田和美さんによると、英国大使館の通訳だったサトウが、湖畔の家を借りて夏場を過ごした際に同地を気に入り、明治天皇から土地を提供されて別荘を建てた。その後、大使館別荘として使用したという。サトウは後に駐日特命全権公使になるなど、当時の日本研究の第一人者だった。
別荘は5078平方メートルの広大な敷地にある木造2階建てで、延べ床面積は約495平方メートル。外観は和風建築だが、中には暖炉なども備わる。敷地は国有林で、大使館側が国に地代を支払っている。
湖畔にはフランス、ベルギー、イタリアの外国大使館別荘(記念公園含む)が現存するが、その中でも最も眺望がよいとされ、2階の窓からは紅葉で有名な八丁出島が眼前に広がる。工部大学(現東京大工学部)で日本に近代建築を導入したジョサイア・コンドルが、別荘建設の際にサトウから相談を受けたという。
別荘は老朽化が進み、2年前から使用されていなかった。昨年1月に大使館側から県に譲渡の相談があり、11月には総領事が県を訪れ、無償で譲渡する旨の依頼があった。その後、県が測量などの現地調査で建物の状態を確認した。
県は、同じく湖畔にあったイタリア大使館別荘を有償で譲り受け、2000年10月に記念公園として開館した。県では英国大使館別荘についても、譲渡後に調査や補強工事を実施し、一般公開をする予定。ただ、イタリア大使館別荘の公園整備費は3億円弱で、今回も同様の費用が見込まれるため、公開時期は未定としている。
東京
幕末の志士 ブロンズ像に 荒川ふるさと文化館 橋本左内像お披露目
安政の大獄で刑死した幕末の志士橋本左内(一八三四~五九年)の陶製座像(高さ約二十センチ)が福井県から荒川区に寄贈され、二十三日、荒川ふるさと文化館で座像をもとに制作されたブロンズ像(高さ五十七センチ)の除幕式が行われた。
左内は「福井藩にこの人あり」といわれた秀才で、西郷隆盛とも親交を結んだが、幕政改革運動で大老・井伊直弼に危険視され、死罪となった。回向院(南千住五)にある左内の墓を守っていた套(さや)堂が昨年春、同文化館前に移転復元されたのを機に、文化交流をしている福井県から座像の寄贈が決まった。
ブロンズ像は、桂浜公園(高知市)の坂本竜馬像の修復などを手がけた区指定無形文化財保持者の鋳金家菓子満さんが制作して套堂内に安置された。
寄贈式と除幕式に参加した西川一誠福井県知事は「套堂は取り壊されそうになったが、荒川区民の尽力で移転・保存された。これを機に子どもたちの交流も深めていただければありがたい」とあいさつした。 (中里宏)
恵比寿に土佐料理居酒屋「龍馬魂 恵比寿藩」-カツオのわら焼きメーンに
恵比寿西口近くに3月12日、「わら焼き・軍鶏鍋」などの土佐料理を提供する居酒屋「龍馬魂 恵比寿藩」(渋谷区恵比寿西1、TEL 03-3461-1666)がオープンした。運営はダイヤモンドダイニング(港区)のグループ会社で、居抜き物件を活用した飲食店の企画・運営など手掛けるゴールド・マジック(同)。
店舗面積は21.83坪、席数はカウンター34席、テーブル2席×1卓。坂本龍馬のゆかりの地である「土佐」の郷土料理をメーンとした同店。店内の壁には、桂浜で太平洋の彼方を望む龍馬のオブジェを2カ所に設置するほか、スタッフは胸に「正直」、背中に「俺は、昨日の俺ならず」という龍馬の名言がプリントされた作務衣を着用するなど、幕末の志士・龍馬の世界に浸れる空間を演出している。
ダイヤモンドダイニング広報部の亀田泰子さんは「(居抜き物件だった同店の)厨房の造りが『土佐料理』に欠かせないわら焼きができる環境だったため、土佐料理業態を出店した」と話す。
メーン料理は、「カツオのたたき」を燃焼温度800~900℃に達するわらの炎で炙る「一本釣り鰹の海塩わら焼き」(980円)。わらが燃えるときに発生する煙や香りはカツオの風味を高めることから、土佐を代表する名物料理として有名。カウンター席では、厨房で大きな炎を上げて「わら焼き」をする豪快な調理風景を眺めながら食事が楽しめる。さらに、「近江谷事件」があった1867年11月15日、龍馬が中岡慎太郎とともに食事をするため準備していたと言われる「軍鶏鍋」(2人前1,960円)も同店こだわり料理の一つ。軍鶏は、村越シャモロックパーク直送の「青森シャモロック」を使用する。
そのほか、刺身などを盛り合わせた土佐の宴席料理「皿鉢料理(さわちりょうり)」(竹=1,800円、松=2,800円)、「四万十川海老の唐揚げ」(630円)、「あおさの海苔の天ぷら」(590円)、古くから地元で食べられてきたクジラ料理「新鮮!ミンク鯨の赤身刺し」(1,200円)、「鯨のレアステーキ」(880円)なども。ドリンクメニューは、「龍馬ハイボール」(599円)をはじめ、「船中八策」(899円)、「四万十川純米吟醸」(699円)など、珍しい土佐の郷土料理や銘酒を多数そろえる。客単価は4,500円。
「カウンター席が多いので、近隣に勤めるビジネスマンやカップルのご利用に最適」と亀田さん。「スタッフとの距離も近いため、料理のうんちくなどスタッフと来店客とのコミュニケーションが生まれやすい店」とも。
営業時間は15時~23時30分(金曜・土曜は15時~翌4時30分)。
夕方になって冷えてきました。明日明後日は雨模様のようですので、暖かくしてお休みください。
栃木
英国大使館別荘:栃木県へ譲渡、改修し一般開放 アーネスト・サトウが1896年建築
静岡
器でかくて強くて あこがれた
福井
足羽山でぼんぼり取り付け始まる 桜開花待つだけ
滋賀
狂言オペラ観客魅了 開国150年祭閉幕前催し
京都
マンガのリアリティ:村上もとかさん、創作の裏話披露 養老孟司さんと対談 /京都
龍馬電車でファンら幕末に思い
京阪石坂線 LIVEや寄席も
大阪
堺市の小さな山が11センチ成長!?
兵庫
文化審答申:加西から国登録有形文化財に2カ所 「水田家住宅」と「大信寺」 /兵庫
山口
白虎隊:会津・長州の友好碑建立を 子孫が来県--逸話の地・美祢市に /山口
高知
土佐・龍馬であい博:10万人突破 /高知
龍馬の心意気児童らが再現
佐賀
佐賀城本丸けんてい:「幕末の佐賀」知ってる?--佐賀 /佐賀
我こそ佐賀城「博士」
初の「佐賀城本丸けんてい」 維新前後の郷土史問う 66人が挑む
社会
竜馬の極秘行動マーク 中津川宿の商人、高い情報収集力
エンターテインメント
映画:森田芳光監督の新作「武士の家計簿」 初の京都撮影、順調に
黄門様も仁もいる!?春のサカスは江戸時代 TBS春のイベント「赤坂 維新伝心」
IT
空前の龍馬ブームの今、日本史が熱い!
iPhone / iPod touchアプリ『サクッと★近現代』『サクッと★幕末』がリリース
栃木
英国大使館別荘:栃木県へ譲渡、改修し一般開放 アーネスト・サトウが1896年建築
◇中禅寺湖の紅葉を一望
栃木県日光市の中禅寺湖のほとりに建つ英国大使館別荘が4月1日に栃木県に無償譲渡される。別荘は英外交官として幕末から明治にかけて活躍したアーネスト・サトウ(1843~1929)が1896(明治29)年に建てた。県は別荘を改修後、一般開放するための整備を進める方針。【浅見茂晴、葛西大博】
標高約1300メートルの湖畔は明治以降、避暑地として数多くの大使館別荘が建てられた。明治末期には30カ国の別荘があり、英国は最も古い。木造2階建て延べ床面積は約495平方メートル。外観は和風建築だが、室内には暖炉などがある。現在、湖畔に建つ四つの外国大使館別荘(記念公園含む)の中で最も眺望がよいとされ、2階からは紅葉で有名な八丁出島が眼前に広がる。
明治以降、日光が観光地として発展する過程などを記した「日光避暑地物語」(平凡社)などの著書がある元市職員、福田和美さんによると、英国大使館通訳だったサトウが、湖畔の家を借りて夏場を過ごした際、現地を気に入り、明治天皇から土地を提供されて別荘を建てた。その後、大使館別荘として使用したという。
別荘は老朽化が進み、2年前から使われていなかった。09年1月に大使館側から県に譲渡の打診があった。時期は未定だが県は補強工事後、一般公開する。福田富一知事は「歴史的な建築物を譲渡していただけることになり、大変ありがたい」と話した。
サトウは「一外交官の見た明治維新」の著者として知られる。
静岡
器でかくて強くて あこがれた
「お~い!竜馬」の漫画家から見た龍馬の魅力は? 小山 ゆうさん(62)
◇
幕末の志士、坂本龍馬。テレビドラマの影響もあり、龍馬人気が再燃している。漫画「お~い!竜馬」を描いた小山ゆうさんが龍馬の魅力を語った。
◇
――龍馬ブームが起きています
ゆかりの地でイベントが開かれていますね。NHK大河ドラマ「龍馬伝」の影響でしょうが、下田に木像が建てられたり、高知や長崎など全国各地で龍馬に関する催しが開かれていることは、すごくうれしく思います。
――人間として魅力的ですね
出会った相手の考えに納得すれば自分の考えを改め、受け入れる。でも、決して人に流されるというわけではない。そんな柔軟な考えを持っていますね。器がでかくて、強くて……。すべてのものを備えている男です。
「お~い!竜馬」では、こんなかっこいい男が日本にいたんだよ、というのを多くの人に知ってほしかった。読者が龍馬の生き方にあこがれたり、どこか龍馬的でありたいと思ってくれたりしたらと……。
――漫画家を目指したのは
最初は作曲家志望だったんです。中学生のころに先生から音感が素晴らしいと褒められたのを思い出して、18歳の夏に上京しました。
絵が得意だったのでアニメ会社でアルバイトをしながら作曲の勉強をしていました。そのとき初めて「少年マガジン」や「少年サンデー」を読みました。
ある時、「ゴルゴ13」で有名なさいとう・たかを先生のプロダクションでバイトをすることになったんです。そこで漫画家や原作者を志す人たちと出会って、刺激を受けました。いつのまにか、作曲家の夢は薄れ、漫画が大好きになっていました。
――龍馬との出会いもそのころですか
20歳の頃です。司馬遼太郎先生の「竜馬がゆく」を読んで、生き方にあこがれました。龍馬のようなタイプを主人公にした作品を描けたら最高と思っていました。
ただ、当時は漫画家はオリジナルの主人公を作るべきだという考えがあったので、別の漫画を描いてきました。でも、常に作品の中のどこかに龍馬っぽさを入れようという気持ちはあったと思います。
――そしてついに龍馬を描くチャンスがきたわけですね
40歳ぐらいの時に編集者から勧められました。司馬先生の龍馬が18歳のころからがメーンでしたから、私は18歳までを描く約束でした。しかし、好評だったので、もう最後まで描いちゃおうと。他の漫画家にとられたくなかったので本当によかった。
――龍馬のような活発な少年だったのですか
違いますね。中学までは順風満帆でした。しかし、高校生の時に変声期がきて、身長も急に伸びたので、声が出なくなってひざを痛めました。人としゃべれず、走れない。最悪の3年間で、当時の記憶がほとんどないんです。
この先どうやって生きていけばいいのか、真剣に悩みました。いまの僕があるのはその3年間のおかげ。だから、龍馬のような強い男にあこがれたのかもしれません。
――今の日本に龍馬がいたら
何をしていたかは想像はつきませんが、政治家にはなっていなかったでしょうね。そういうタイプじゃないですし。龍馬は時代が生んだ英雄ですよ。(山口裕起)
◇
菊川町(現菊川市)出身。1973年「おれは直角」でデビュー。代表作に「がんばれ元気」など。ビッグコミックスペリオールで「AZUMI―あずみ―」を連載中。
福井
足羽山でぼんぼり取り付け始まる 桜開花待つだけ
福井市足羽山の夜桜を照らすぼんぼりの取り付け作業が23日、始まった。個人やグループが協賛金を寄せた「市民オーナー」分を含む約400個が設置される。4月1日に点灯式が行われ、花見シーズンを盛り上げる。
福井観光コンベンション協会が今春から、足羽山のぼんぼり事業を中止したことを受け、地元自治会や足羽山公園茶屋組合が「さくら灯(あか)りの会」をつくり引き継いだ。市民から協賛金を募る「ぼんぼりオーナー」制を設け、協力を呼び掛けてきた。協賛企業分のぼんぼり以外に、市民オーナー分は224個集まった。
この日は小雨の中、4人の作業員がぼんぼりを取り付けた。高所作業車を使い、約5メートルの高さに張った電線に、1・5メートルから2メートルの間隔で配置。高さ約90センチと45センチの大小のぼんぼりを、銅線で結び付けた。市民オーナー分のぼんぼりには、福井の幕末の歌人、橘曙覧にちなんだ全国コンクール「平成独楽吟」の入賞短歌が描かれており、花見の風情を引き立てる。
作業は28日まで行われる。点灯式後は4月30日まで明かりがともされる。
気象情報会社「ウェザーニューズ」(東京)によると、足羽山のサクラの開花予想は昨年より5日遅く、過去5年間の平均より1日遅い4月5日。満開期間は同13日から16日までという。
滋賀
狂言オペラ観客魅了 開国150年祭閉幕前催し
彦根市で開催中の「井伊直弼と開国150年祭」のフィナーレイベントとして狂言オペラ「たぬきのはらづつみ」が22日、市内のひこね市文化プラザで上演され、市内外から850人が詰めかけた。
幕末の大老井伊直弼が復曲した狂言が題材。大蔵流狂言の茂山千五郎家の監修で、オペラの要素を組み合わせて仕上げた。タヌキ退治をする男と、男の叔母に化けて退治をやめさせようとするタヌキを軸にした物語になっている。
地元のオーケストラや合唱団、バレエ教室のメンバーら計250人が出演。狂言師とオペラ歌手がそれぞれの節回しで掛け合ったり、大勢の子ダヌキが一斉に腹鼓を打ったりした。観客は狂言オペラの独特の世界に引き込まれていた。
井伊直弼と開国150年祭は2008年6月から始まり、今月24日に閉幕する。
(古根村進然)
京都
マンガのリアリティ:村上もとかさん、創作の裏話披露 養老孟司さんと対談 /京都
漫画家の村上もとかさんと、京都国際マンガミュージアム館長で解剖学者の養老孟司さんの対談「マンガのリアリティ」が22日、中京区の同館であった。幕末にタイムスリップした医者を描いた村上さんの作品「JIN 仁」を題材に、架空の物語にいかに読者を夢中にさせるかを話し合い、漫画ファンら180人が聴き入った。
村上さんは「現代人の目線から幕末を描くにはタイムスリップしかなかったが、あり得ない舞台設定には読者の評価は分かれるだろう」と当初は不安だったいう。作品に真実味を持たせるため、「格好いい男」として描かれることの多い坂本龍馬を肖像写真通りの顔で描いたり、医学面では専門家に監修を依頼したりした。村上さんは「建物や風景一つでも、空想しながら迫真的に描くのが大変だった」と話した。
養老さんも「過去の見方は人それぞれ。そこが歴史漫画の面白さだ」と応じた。【熊谷豪】
龍馬電車でファンら幕末に思い
京阪石坂線 LIVEや寄席も
「龍馬電車でLIVE&寄席」が22日、大津市の京阪電車石坂線であり、歴史ファンら60人が龍馬をモチーフにしたラッピング電車に乗り込み、幕末を駆け抜けた志士の生き様に思いをはせた。
ファンら80人で作る「近江龍馬会」(柴田與一郎会長)が、湖国と龍馬のかかわりを探るため市民にアピールしようと企画した。側面に龍馬や青龍をあしらった電車は企画やデザイン、ラッピングを会員が仕上げた。15日から運行している。
午後6時に参加者が大津市の浜大津駅に集まった。坂本や石山寺を経由して浜大津に戻る約1時間半の行程で、会関係者が龍馬ゆかりの大津出身の人物について話し、龍馬と滋賀の関係を深めて観光に生かそうと訴えた。車内ではこのほか、カントリー音楽や落語も楽しんだ。
大阪
堺市の小さな山が11センチ成長!?
一等三角点がある山としては全国で最も低い「蘇鉄(そてつ)山」(堺市堺区大浜北町4丁)の標高が、以前よりも約11センチ高い6・96メートルとなっていたことがわかった。国交省が6年前に実施した調査で変更されていたが、周知されておらずに市の看板表示は以前のまま。地元住民らでつくる「蘇鉄山山岳会」も気付いていなかったため、登山認定証の表記を変えるという。
蘇鉄山は堺市臨海部の大浜公園内にある。ふもとから山頂までゆっくり歩いても1分ほど。市の看板などによると、幕末には黒船来襲に備えて砲台が置かれ、明治時代に公園が整備された際、見晴らしの良い築山として整備されたという。ソテツの木があちこちに生えているため、その名が付いた。
国土地理院が地図を作製する時に基準とする一等三角点が設置されたのは1939年。標高は若干の修正を経て、阪神大震災直後の調査で6・846メートルとなった。全国屈指の低さのため、「堺の新名所に」と盛り上がる地元の願いに押された形で、国土地理院は2000年に発行した2万5千分の1の地図に山名を記した。
ところがその後、04年に人工衛星を使って調べ直したところ、標高が6・96メートルに変わっていた。国土地理院測地基準課は「日本列島はプレート(岩板)の上に乗っており、数字が変わること自体は珍しくない」と説明する。ただ、観測手法の変更の影響かもしれず、理由は一概に言えないという。
山岳会が登山認定証の発行を始めた99年8月以来、北海道から沖縄まで3万人近くが訪れ、認定証を受けている。エベレスト登山経験のあるお年寄りが「もう高い山は登れないから」と孫を連れて来たこともあったという。正月には登山安全祈願祭、6月には山開きをしている。
蘇鉄山に近い神明神社の宮司で山岳会会長の北正史さん(85)は朝日新聞の取材で初めて高さの変更を知った。「それなら、認定証を変えないといけないなあ」と意外そうな表情。北さんの妻で自称「蘇鉄山の母」こと貞子さん(63)は「大勢の人が踏みしめているので、もっと低くなったらどうしようと思ってました。低いのが売りですが、高くなるのもうれしいです」と冗談を交えながらほほ笑んでいた。
兵庫
文化審答申:加西から国登録有形文化財に2カ所 「水田家住宅」と「大信寺」 /兵庫
加西市にある「水田家住宅」(北条町横尾)の主屋など4棟と「大信寺」(北条町北条)の本堂の計2カ所5件が、国の登録有形文化財(建造物)に登録される見通しになった。いずれも古民家を核とした地域活性化に行政・住民が一体となって取り組んでいる旧市街地のエリアに属しており、加西市教委は「良い観光資源になる」と歓迎している。【大久保昂】
2カ所については、国の文化審議会が19日、川端達夫文科相に登録するよう答申した。文科省は近く答申通りに登録を行う方針。これで加西市内の国登録有形文化財(建造物)は計16件となる。
水田家住宅の主屋は、大正11(1922)年の築造。丹波経由で京都に至る旧街道「丹波往来」に面した古民家で、装飾と防火機能を兼ね備えた構造物「袖卯建(そでうだつ)」などに当時の面影が残る。主屋とほぼ同時期に築かれた書院、内蔵、北蔵の3棟も文化財登録される。
一方、大信寺本堂は弘化2(1845)年に建立された。本尊などを安置する空間(内陣)や礼拝などを行う空間(外陣)などに分かれたオーソドックスな構造の浄土宗本堂で、各空間の境界が簡素な造りになっているのが特徴。幕末の雰囲気を今に伝えている。
加西市教委市史・文化財室の立花聡室長(55)は「古民家を生かしたまちづくりへの弾みになる。更に登録文化財を増やしたい」と今回の答申を喜んだ。一方、水田家住宅に現在住んでいる水田加代子さん(60)は「生活しながら保存するのが大切。気負わず自然に残していきたい」と話していた。
〔播磨・姫路版〕
山口
白虎隊:会津・長州の友好碑建立を 子孫が来県--逸話の地・美祢市に /山口
◇郷土史家らと交流
戊辰(ぼしん)戦争で集団自刃した白虎隊二十士のうち唯一生き残った飯沼貞吉(後の貞雄、1854~1931)の孫、飯沼一元(かずもと)さん(67)=東京都在住=が20日、生存後に貞吉が敵方の長州で一時養育されたとの言い伝えが残る美祢市を訪れ、郷土史家らと交流会を開いた。少年の貞吉を連れ帰ったとされる長州藩士・楢崎頼三(1845~75)の同市東厚保町(ひがしあつちょう)川東小杉の屋敷跡を訪れた後、飯沼さんは「戦い合った会津藩と長州藩の友好の記念碑を建てたい」と提案した。
貞吉は明治時代に逓信省の技師になり、下関や山口に勤務。退職後、31(昭和6)年に仙台で78歳で亡くなった。
一方、幕末に美祢の楢崎家に奉公していた高見フサの証言で頼三が戊辰戦争から帰郷した際「サダさあ」と親しく呼び掛ける少年を伴い、しばらく家で養育したという逸話が残っている。楢崎は1875(明治8)年にパリ滞在中に31歳で死去。屋敷は高見家が受け継いだ。歴史資料が少ない中、研究家の間で「少年は貞吉ではないか」と議論になっていた。
飯沼さんは08年に初めて美祢市を訪問。フサの子孫の高見和子さん(83)や吉井克也さん(63)と面会し、言い伝えを聞いた。その後も飯沼さんは自身で研究を続け、今回の訪問で「史実」と確信したという。
この日の座談会には、会津藩があった福島県内の研究家と山口県内の郷土史家ら約30人が参加。飯沼さんが「来年にも楢崎家の屋敷跡地に記念碑を建てたい」と提言。高見さんとともに出席した吉井さんも「『サダさあ』の話は先祖から語り継いできた。建立に協力したい」と答えていた。【中尾祐児】
〔山口版〕
高知
土佐・龍馬であい博:10万人突破 /高知
来年1月までの観光イベント「土佐・龍馬であい博」のメーン会場で、高知市のJR高知駅前にある「高知・龍馬ろまん社中」の入館者が22日午前、10万人を突破した。今年1月16日の開館から66日目、予想より41日早い達成となった。
10万人目となったのは、福岡県遠賀町から観光で来た自営業、藤井達也さん(55)ら親子3人。認定証を手渡され、くす玉を割った藤井さんは「幕末から明治にかけ、多くのスターが生まれた高知の歴史に魅力を感じる。満喫して帰りたい」と顔をほころばせた。
であい博推進協議会は40万人以上の入館を目指しており、「会場だけではなく、県内を周遊してもらえるようPRしていきたい」と話していた。【服部陽】
龍馬の心意気児童らが再現
幕末の志士・坂本龍馬の脱藩時の心意気を後世に伝えようと21日、高知市神田の和霊神社で「第26回龍馬脱藩祭」(同祭実行委主催)があった。県内外から約300人が訪れ、市立神田小学校5年生5人による「脱藩宣言」や脱藩シーンの再現を見守った。
龍馬は1862(文久2)年3月24日に脱藩した。この時、「花見に行く」と和霊神社に立ち寄り、成就を祈ったとされる。
脱藩祭では、はかま姿の児童5人が「龍馬の心意気を受け継ぎ、新しい時代をつくります。世界に羽ばたいた龍馬のように大きく飛び立っていきます」と宣言。水杯を交わした後、たいまつを持ち、桜が咲く約200メートルの参道を下った。先頭を歩いた柏原優花さん(11)は「龍馬が見ていただろう景色が広がって、桜もきれいだった」と話した。
佐賀
佐賀城本丸けんてい:「幕末の佐賀」知ってる?--佐賀 /佐賀
幕末~明治維新期の佐賀に関する知識を問う「佐賀城本丸けんてい」(同実行委員会主催)が22日、佐賀市の県立佐賀城本丸歴史館で約70人が参加して開かれた。
検定は、同館で説明員などをしている市民ボランティアら約90人が、09年の開館5周年にちなみ、「来館者に恩返しを」と企画した。問題作成から参加者募集、採点まですべて手作りで行われているのが特徴という。
検定は「初代司法卿で近代司法制度の基礎を確立した人物は」など基礎的な内容から「幕府が佐賀藩に発注した鉄製大砲の数は」など“通好み”のものまで50問。正答率70%以上が合格で、11日に発表される。
実行委メンバーの田中猛善さん(69)は「幕末から維新期の佐賀について、多くの人に知ってもらいたい」と話していた。【田中韻】
我こそ佐賀城「博士」
佐賀城本丸歴史館(佐賀市城内2丁目)のボランティア約90人が問題を作成した「第1回 佐賀城本丸けんてい」が22日、同館であり、中学1年生から83歳までの66人が挑戦した。県内だけでなく、石川県や奈良県からも受験者が訪れた。
1問2点で全50問の100点満点。70点以上が合格となる。城郭、歴史、人物の3分野から出題されており、同館職員でも悩むほどの難問も織り込まれている。奈良県大和高田市の無職、樋口俊夫さん(75)は「高校まで佐賀で過ごした。佐賀を離れて佐賀の良さが分かったので受験した。良い企画だと思う」と話した。
定員50人を上回る好調な出だしで、ボランティアのメンバーによると、2回目の実施については未定だが「これから検討したい」という。4月11日に合格発表があり、4月25日には表彰式がある。
◇「第1回 佐賀城本丸けんてい」の問題の一部
1・江戸時代の佐賀城には、東西南北に広い堀があります。江戸時代中期に描かれた「佐賀城分間御絵図(ぶん・げん・おん・え・ず)」には、堀の幅が各所に記入されています。南堀で一番広いところは何間(約何メートル)あったでしょうか。
(1)31間(約62メートル) (2)42間(約84メートル) (3)56間(約112メートル)
2・佐賀平野は地盤が軟弱で重い石垣を支えることが困難でした。そのために工夫されたのが胴木(どう・ぎ)といいます。胴木の材質は。
(1)樫(かし) (2)ヒノキ (3)松
3・仙台出身林子平(はやし・し・へい)が1791(寛政3)年、江戸の日本橋から中国やオランダまで境なしの水路であると説き、海国日本、特に江戸湾の警備強化のため大銃などの設置の必要性を書物にします。その書物を何と言ったでしょうか。
(1)海外憶測 (2)海国兵談(へい・だん) (3)海外新話(しん・わ)
◇答え
1・(3) 2・(3) 3・(2)
初の「佐賀城本丸けんてい」 維新前後の郷土史問う 66人が挑む
幕末から明治維新後にかけての佐賀の歴史を問う“ご当地検定”「第1回佐賀城本丸けんてい」が22日、佐賀市城内2丁目の佐賀城本丸歴史館で開かれ、中学生から80代までの歴史愛好家66人が難問に挑戦した。
昨年8月、同館が開館5周年を迎えたのを機に解説ボランティアのスタッフたちが「佐賀の歴史にもっと親しんでもらおう」と企画。問題作成から広報活動まで、すべて手弁当でまかなった。
問題は3択形式で「城郭」「歴史」「人物」の3部門。郷土史の基本的な知識を問うものが大部分だったが、中には、本丸御殿の部屋の名称を問うなど専門的な内容のものもあり、参加者は頭を悩ませていた。
受験した鳥栖市の大学生田中健一さん(26)は「手作り感が伝わって良かった。佐賀のことをもっと勉強したくなった」。開館以来のボランティアスタッフ、内田貞子さん(59)は「これだけ多くの人が来て感無量。今後も継続開催できるよう努力したい」と話した。
合格ラインは正答率70%以上。合格者は4月11日に発表され、同25日に同館で開かれる表彰式で認定証が授与される。
社会
竜馬の極秘行動マーク 中津川宿の商人、高い情報収集力
幕末期の政局転回を決定づけた「薩長盟約」(1866年)の立役者、坂本竜馬の動静を、旧中山道中津川宿(岐阜県中津川市)の商人らが的確に把握していたことが、宮地正人東大名誉教授(日本近代史)が分析した史料から分かった。当時、竜馬の行動はごく一部の関係者しか知らない極秘情報で、国家を憂慮し、自ら行動した商人らの高い情報収集能力を示している。
この商人は、尊王運動に大きな影響を与えた国学者、平田篤胤(あつたね)没後の門人で、中津川宿の本陣を務めた市岡殷政(しげまさ)や、問屋の間(はざま)秀矩(ひでのり)ら。
市岡家に残る聞き書き書の「風説留(ふうせつどめ)」によると、市岡は間らとともに1865(慶応元)年10月末から約1カ月、京都に滞在し、関白二条斉敬(なりゆき)などに「攘夷(じょうい)断行」を求める建白書を提出するなど国事に奔走する。その在京中に「薩長合体(薩長盟約)」に向けた動きを察知するとともに、薩長を仲介する竜馬に関する情報も入手している。
風説留には「土脱坂本某、中(国)四(国)より、10月18日長州出立登京、西郷吉之助江也、今大嶋三右衛門、囃…」などと記されている。竜馬が西郷隆盛の内命で長州藩から兵糧米を入手するため、下関で長州藩の木戸孝允と会談し、再上京して西郷に状況報告するなど、竜馬の行動をほぼ正確に伝えている。
また、これとは別に、滋賀大に残る近江八幡(滋賀県近江八幡市)の国学者、西川吉輔が間の子息から伝え聞いた風説留にも、「薩長盟約」締結直後に起きた寺田屋事件に触れ、竜馬を「薩長合体の基本を開く人」と指摘、「だからこそ幕府から狙われた」と襲撃された背景もきちんと見抜いている。
市岡家では7年前、「薩長盟約」が軍事的な攻守同盟だったことを裏付ける書簡も見つかっている。宮地氏は「薩長盟約前後の竜馬の極秘行動とその真価を的確につかんでおり、中津川の平田国学者たちの情報収集能力は驚くほどレベルが高い」と評価している。
エンターテインメント
映画:森田芳光監督の新作「武士の家計簿」 初の京都撮影、順調に
◇「人間の面白さ出したい」
森田芳光監督が新作映画「武士の家計簿」を製作中だ。時代劇の本場である京都に初めて乗り込み、大きなセットを建てて思う存分に撮影した。【勝田友巳】
原作は磯田道史の「武士の家計簿『加賀藩御算用者』の幕末維新」。加賀藩士が残した家計簿を読み解いたベストセラーだ。
この本の中のエピソードをもとに、加賀藩に仕える猪山家が苦しい家計を立て直すドラマを作り上げた。刀を抜いての立ち回りではなく、そろばんを駆使したやりくりが見どころ、という一風変わった時代劇である。
森田監督は黒澤明監督の「椿三十郎」をリメークしており、時代劇の経験はある。だが、京都で撮影するのは初めてという。時代劇の作法を知り尽くしたスタッフの技量と職人気質に接し、「もっと若いころに来たかった」と感心しきり。
記者が現場を訪れた日は、猪山家の朝食場面を撮影していた。堺雅人(主人公の直之役)、中村雅俊(直之の父親役)、松坂慶子(直之の母親役)ら5人がコの字形に膳(ぜん)を並べ、会話を弾ませるところだ。
森田監督は「食事のときの会話は、江戸時代でも今と変わらないはず。ここはリアリティーを大切に」と、セリフのニュアンスを俳優たちに伝える。カメラ位置を変えながら、撮影はテンポよく進んでいく。予定の時間より大幅に早い。ベテランの俳優たちは本番の合間に雑談に花を咲かせ、和気藹々(わきあいあい)とした雰囲気だった。
森田監督の作品では、昨年公開の「わたし出すわ」に続く“経済もの”となる。「たまたまなんですけどね。今回は社会全体の逼迫(ひっぱく)がいかに家庭に響いてくるか、家族の後ろ盾になるものを描きたい。大事にするのは、やはり人間のドラマ。時代が変わっても人間の面白さは変わらない」。いつもながらの「森田節」が期待できそうだ。
他に仲間由紀恵らが出演する。12月に公開される予定。
黄門様も仁もいる!?春のサカスは江戸時代 TBS春のイベント「赤坂 維新伝心」
[eiga.com 映画ニュース] 赤坂サカスで黄門様や仁に会えるかも!? 3月20日よりスタートするTBS春のイベント「赤坂 維新伝心」で、赤坂サカス一帯が“江戸”で彩られる。オープニングセレモニーには「水戸黄門」御一行が登場。昨秋の大ヒットドラマ「JIN 仁」の衣装も展示されている。
季節ごとに趣向を凝らしたイベントが行われるTBSのサカス広場。この春のテーマは江戸時代。江戸情緒あふれる太鼓橋が架けられ、春の新番組とコラボレーションした巨大迷路が登場。赤坂の街中を、威勢のいい人力車が行き交い、江戸時代の衣装をまとった一行が練り歩く。
20日のサカス広場で行われるオープニングセレモニーには、お昼に水戸黄門役の里見浩太朗はじめレギュラーキャストが勢ぞろい。また期間中、幕末を舞台に脳外科医の活躍を描いた「JIN 仁」の撮影で実際に使用した衣裳が、赤坂Bizタワー内に展示される。
他に、「東京フレンドパーク2」などの人気番組を体験できるアトラクションや、「すし屋」など江戸ならではのフードブースも登場。4月4日まで開催(巨大迷路は5月9日まで)。一部有料。(eiga.com×文化通信)
IT
空前の龍馬ブームの今、日本史が熱い!
iPhone / iPod touchアプリ『サクッと★近現代』『サクッと★幕末』がリリース
株式会社ニーニャス(所在地:東京都品川区、代表取締役社長:齋藤 紀美子、以下:ニーニャス)は、株式会社桐原書店(所在地:東京都杉並区、代表取締役社長:ブレンダン・デラハンティ、以下:桐原書店)刊行の高校向け教科書を使用した大人のための再学習コンテンツ、iPhone / iPod touch用アプリケーション『サクッと★シリーズ』に、「近現代」と「幕末」を新たに追加しました。
大河ドラマ「龍馬伝」が平均視聴率20%を超えるなど、今、日本史がブームです。日本史の教科書を大人向けにアレンジした本もビジネスパーソンを中心に人気を博し、出版不況の中5万部超を売り上げる異例のベストセラーとなっています。「歴女」に続き「歴士」という新語まで生まれています。そんな今だからこそ是非お薦めしたいiPhone / iPod touch用アプリがこの『サクッと★近現代』、『サクッと★幕末』です。忙しい中でもスキマ時間を見つけてサクサク学べるこの「大人のための教科書」が、大人の知的好奇心を満たし、人生をより豊かなものにするお手伝いをします。中学や高校で「学ばされた」日本史を、今度は自分の意志で学びたいという方のためのアプリケーションです。
■『サクッと★シリーズ』の特徴
文部科学省検定教科書出版社である桐原書店の高校向け教科書が、重要項目をフィーチャーするスクラッチカード方式という新しい表現方法によって生まれ変わりました。画面に出てくる隠されたキーワードを指でなぞり、削って削って削りまくりながら覚えることができる、iPhone / iPod touchならではの画期的な学習シリーズです。これまで世界史、政治経済、漢字など3種類のアプリが出ています。
今回新たにシリーズに加わったのは、有料版の『サクッと★近現代』と、幕末にフォーカスした無料版の『サクッと★幕末』の2つです。スクロール式の年表など新たな機能も加わり、さらに使いやすくバージョンアップしています。
■『サクッと★近現代』の特徴
ブーム再燃中の「日本史」、その中でも熱い「近現代」を取り上げました。江戸の終わりから、明治・大正・昭和・平成と5つの時代にまたがる歴史を振り返ります。
幕藩体制の動揺からバブル崩壊、京都議定書まで、1825~2002年の政治や文化をカバーしています。政権交代、急激な円高、大手企業の経営破綻と、混迷の時代である現代につながる「近現代」はぜひともおさえておきたい重要な時代です。
〔収録問題数:567問〕
■『サクッと★幕末』の特徴
大河ドラマで話題沸騰の「幕末」を『サクッと★近現代』からピンポイントで抜き出しています。
「世の人はなんとも言わば言え、我が為すことは我のみぞ知る」・・・幕末のヒーロー坂本龍馬が生きた疾風怒涛の時代をサクッと振り返りつつ、無料で商品仕様を体感していただける構成となっています。ペリー艦隊の来航から開国、明治にいたるまでの激しい動乱の中での日本人の生き様を再学習!大河ドラマのお供にもお薦めです。
〔収録問題数:58問〕
(以下略)
18時からWOWOWで『志の輔 in PARCO 2010』の放送がありますので、大相撲大阪場所の中継を見ながら待機しているところです。
東京・神奈川
京急で龍馬めぐり、旅行冊子を発行
京都
「陸」の慎太郎、西郷も認めた「節義の士」
幕末、明治彩った志士ら108人 JR京都駅ビル 企画展で紹介
高知
脱藩龍馬 大志思う 高知で祭り
剣道着姿の児童再現
佐賀
「佐賀城本丸検定」66人が挑戦 石川、奈良からも
長崎
【動画】幕末歴史検定に龍馬ファンら挑戦 本県では初、295人受験
全国
高知をはじめ全国で開催される坂本龍馬イベント!
コラム
講演「現代に通じる経営哲学-幕末の豪商高田屋嘉兵衛」を聴く
東京・神奈川
京急で龍馬めぐり、旅行冊子を発行
京急電鉄は、京急線各駅や沿線の公共施設などで、日帰り旅行冊子「京急で行く 龍馬めぐり」を配布している。今年話題の坂本龍馬にちなみ、京急沿線で坂本龍馬にゆかりのあるスポットが紹介されている。
冊子には、横浜市の日ノ出町駅近くの井伊直弼像▽生麦駅周辺の生麦事件碑▽三浦市にある京急大津駅の龍馬の妻、お龍の墓▽八景島駅のアメリカン・アンカレッジ記念碑など、坂本龍馬をキーワードに神奈川や東京都内4エリアの幕末歴史スポットが掲載されている。
京都
「陸」の慎太郎、西郷も認めた「節義の士」
慶応3(1867)年11月15日、坂本龍馬と中岡慎太郎が襲撃された「近江屋」は今の河原町蛸薬師交差点の近くにあった。京都で一番の繁華街として多くの若者を集める河原町通だが、当時は道も今ほどの広さはなく路地程度。裏は多く寺が並び夜ともなると、ひっそりとしていた。
当日は、慎太郎が近江屋を訪ね、2人は母屋の2階で火鉢を囲み話し込んでいた。慎太郎が以前住んでいた土佐藩御用達の書店「菊屋」も河原町通沿いにあり、近江屋とは徒歩数分。慎太郎は菊屋に向かい、菊屋近くの土佐藩の谷干城宅をのぞいた後に近江屋を訪ねている。
午後9時過ぎ、「十津川郷士」を名乗る数人の男が近江屋を訪ねてきた。十津川郷士に知り合いがいることから通したところ、いきなり襲われ、龍馬は翌日未明に死亡。28カ所を切られた慎太郎も17日昼過ぎ、「早く倒幕を実行しなければ敵に逆襲される。同志の奮起を望む」と言い残し、亡くなった。
今は現場を記した石碑が残るだけだが、雑踏の中で足を止め、カメラに収める若者がいるなど、2人の人気の高さを物語っている。
× × ×
慎太郎は天保9(1838)年、土佐有数の大庄屋の長男として生まれる。武市瑞山らから剣術や学問を習得するが、20歳のとき父が病気で倒れると帰郷し、大庄屋見習いとして農民のために尽力。凶作で困窮する農民に木を切った後の植林の徹底、田畑の開墾、緊急時のための貯蓄などを指導して難局を乗り切る。
慎太郎は庄屋見習い時代の経験から、「民衆の安定した生活があってこその国」と考えていた。そのため人の能力を結集し、諸外国との対等関係を築くだけの力を持った国づくりを理想としていた。
文久元(1861)年に土佐勤王党に入り、志士として活動をスタートするが、土佐藩の勤王党への弾圧が始まると脱藩。その後は長州に入り、元治元(1864)年の蛤御門の変、四国連合艦隊の下関攻撃で参加するなど武闘派としての印象が強い。
× × ×
こういった戦いを経て、慎太郎は薩長同盟の必要性をいち早く悟っていく。同年12月には西郷と、翌年の慶応元(1865)年4月には桂小五郎と会談し、同盟実現の可能性を打診。そのほかの両藩の有志とも会合を重ねるなどし、慶応2(1866)年1月、今の同志社大学辺りに(京都市上京区)にあった薩摩藩邸で薩長同盟を成立させた。
慶応3年6月、京都で薩長に土佐を加えた同盟を締結。7月には、現在の京都大学農学部(京都市左京区)周辺にもあった土佐藩邸内に「陸援隊」を編成。自ら隊長となって新型銃の訓練を行うなど、倒幕の準備を怠らなかった。
「海」の龍馬に対して「陸」の慎太郎。円山公園内(京都市東山区)に、遠くを見つめる立ち姿の龍馬の横に片ひざを立て、しっかりと前を見据える慎太郎の銅像がある。まさに、この名コンビの関係を的確に表している。
× × ×
慎太郎は、当時としては珍しく笑顔を浮かべた写真を撮影している。武闘派とはいえ実直で誰とでも表裏なく付き合え、西郷隆盛も「節義の士」と評す。さらに弁舌がさわやかで、もめ事を片づける名人だったという。
八・一八の政変で都落ちした三条実美らのため、度々京都に入っては情報を集めた。近江屋事件前には、公武合体派として三条の政敵で京都の北の外れに隠棲中の岩倉具視を訪ねたさい人間の大きさを知り、三条との和解に尽力もした。
その岩倉が慎太郎の死を知ったとき、「誰が私の片腕を奪った」と嘆き悲しんだといわれている。
最後に幕末史に詳しい霊山歴史館の木村幸比古学芸課長に「2人が長生きしていれば」と聞いてみた。木村学芸課長は「龍馬は外国相手の貿易商。慎太郎は総理大臣になっていたかもしれませんね」と答えた。(園田和洋)
幕末、明治彩った志士ら108人 JR京都駅ビル 企画展で紹介
幕末から明治に活躍した志士たちを紹介する企画展が20日、京都市下京区のJR京都駅ビルで始まった。
NHK大河ドラマ「龍馬伝」に合わせ、激動の時代への興味や知識を一層深めてもらおうと、京都駅ビル開発が開いた。
駅ビル・空中径路(けいろ)の会場には、100枚のパネルが並ぶ。黒船来航から戊辰戦争に至る歴史の流れとともに、坂本龍馬や高杉晋作、土方歳三といった時代を彩った108人を紹介している。彼らの残した言葉や時代背景なども分かりやすく説明し、訪れた人たちは熱心に見入っていた。
また駅前広場には、市内の幕末史跡を紹介する大型マップを飾ったほか、20~22日には山口、長崎、高知といった幕末とゆかり深い地域の観光PRやラジオの公開放送も行い、幕末ムードを盛り上げる。企画展は12月20日まで。無料。
高知
脱藩龍馬 大志思う 高知で祭り
剣道着姿の児童再現
幕末の志士・坂本龍馬が脱藩の際に立ち寄ったとされる高知市神田の「和霊神社」(藤原健裕宮司)で21日、龍馬脱藩祭が開かれ、尾崎知事や地元の小学生らが、はっぴや剣道着姿で脱藩の様子を再現し、当時は重罪だった脱藩という危険を犯しながらも、変革に挑んだ龍馬の偉業をしのんだ。
脱藩祭は、龍馬生誕150周年を記念し、神社の氏子や地元住民らが中心となって1985年から毎年開かれており、26回目。和霊神社は龍馬の先祖が建立した坂本家ゆかりの神社で、龍馬が文久2年(1862年)3月24日に脱藩する際、「吉野に花見に行く」と言って立ち寄ったとされる。
脱藩祭では、境内で市立神田小5年の児童5人が、「自由を愛し、日本を創(つく)り、世界に羽ばたいた龍馬のように大きく飛び立っていくことを誓います」と脱藩を宣言。児童と尾崎知事、岡崎市長らが竹の器で水杯を交わし、たいまつを掲げて約200メートルの石段をふもとまで下り、脱藩シーンを再現した。尾崎知事は満開の桜に「龍馬が脱藩した時も、きっとこんな風に桜が咲いていたんでしょうね」と笑顔。杉本昇大君(11)は「龍馬はきっと、脱藩を成功させ、日本を変えるという強い気持ちを持っていたんじゃないか」と龍馬の大志に思いをはせていた。
佐賀
「佐賀城本丸検定」66人が挑戦 石川、奈良からも
佐賀県立佐賀城本丸歴史館のボランティアガイドが企画した第1回「佐賀城本丸検定」が22日、10代藩主の居間「御座間(ござのま)」を会場に行われ、佐賀県内外の66人が参加。幕末と維新期を先導した佐賀の人物、城郭の知識を問う50問に挑んだ。
「幕末・維新期の輝かしい佐賀の歴史を知ってもらおう」と約90人のボランティアガイドが2年がかりで準備し、本番を迎えた。12~83歳の男女が参加、石川県や奈良県などから来た人もいた。
「幕末佐賀藩の石高は?」など人物、城郭、歴史の3分野を展示物や同館の図録から3択式で出題。参加者は答えの「36万石」にマークするなど、真剣なまなざしで問題に取り組んでいた。
最年少の佐賀大付属中1年、田村わか菜さん(12)は「事件の名前がちょっと難しかった」と話し、奈良県から訪れた樋口俊夫さん(75)は「旧制佐賀高校出身を卒業し県外で暮らしてきた。ふるさとを離れると、佐賀の良さがよく分かる。こうした検定などで、もっとPRして」と”注文”した。
7割正解を目安に合格者を決め、11日に同館で発表。合格者には認定証を贈る。
【写真】真剣な表情で問題を解く参加者=佐賀市の佐賀城本丸歴史館
長崎
【動画】幕末歴史検定に龍馬ファンら挑戦 本県では初、295人受験
幕末の志士、坂本龍馬にまつわる知識を試す第2回坂本龍馬幕末歴史検定(全国龍馬社中主催、長崎新聞社共催、日本出版販売企画・運営)が21日、長崎市文教町の長崎大など全国4カ所であり、全国の“龍馬ファン”が試験に挑んだ。本県での開催は初めて。
同検定は2008年11月に東京、京都、名古屋で初開催。今回は東京、京都に加え、龍馬ゆかりの地でもある長崎と高知でも実施した。また今回から初級、中級より問題が易しい脱藩(超入門編)も創設された。
検定には全国で約1500人、長崎会場では10~81歳の295人が受験。全受験者のうち、脱藩は成績上位80%以内、初級は同じく70%以内、中級は同じく30%以内の受験者が合格となる。
問題は「龍馬の身長は何センチと推定されているか」など龍馬自身やその周辺人物などについて脱藩は60問、初級・中級は100問出題された。
脱藩、初級、中級すべてを受験した熊本市の会社員、上田孝義さん(50)は「幕末の激動の中を生きた龍馬には何か得るものがあると思い、受験した」。全国での最年長受験者となった東彼川棚町小串郷の中島昭さん(81)は「困難を乗り越えて進む龍馬の生きざまに共感した。合格すればいいなと思う」と話した。
全国
高知をはじめ全国で開催される坂本龍馬イベント!
NHKの大河ドラマで話題沸騰の坂本龍馬ですが、今年は例年になくさまざまなイベントが行われています。
まず注目はもちろん地元の高知県です。
今年の1月16日から2011年1月23日まで「土佐・龍馬であい博(高知市)」が行われ、それに伴って、「高知・龍馬ロマン社中(高知市)」、「安芸・岩崎弥太郎こころざし社中(安芸市)」「土佐清水・ジョン万次郎くろしお社中(土佐清水市)」、「ゆすはら・維新の道中(檮原市)」など高知県内ではさまざまなイベントが行われています。
このうち、「土佐・龍馬であい博 4社中スタンプラリー」では、高知県内のパビリオンをめぐるスタンプラリーを実施しています。スタンプ台紙を片手に、土佐・龍馬であい博の各社中を回って、スタンプを4つ集めると、5,000円相当分の高知県産品が200名にプレゼントされます。抽選は4月、7月、10月、1月の計4回、各50名に送られます。
■ジョン万次郎くろしお社中イベント
ジョン万海の元気祭り
期 間: 2010年5月1日~4日、7月17日~18日(予定)
土佐清水もてなし隊 ランチバイキング
期 間: 2010年5月2日、7月18日、10月10日(予定)
予定内容: 女性4グループによる地産地消の郷土料理、朝捕れ鮮魚の刺身たっぷりバイキング
あしずり祭り(花火大会)
期 間: 2010年8月(予定)
第2回 土佐清水ジョン万祭り
期 間: 2010年10月頃(予定)
予定内容: 観月の宴&あしずりみなとぴっかり
第4回 足摺きらり
期 間: 2010年11月19日~21日(予定)
土佐清水市産業祭
期 間: 2010年12月4日~5日(予定)
くろしお社中フィナーレイベント
期 間: 2011年 1月10日(予定)
また、高知市では「電車一日乗車券で乗るイベント電車」が運行されています。
この電車は、現存する路面電車で日本一の歴史を誇る「とでん(土電)」。
平成22年1月17日(日)~平成23年1月9日(日)の間、毎日曜日は維新号・外国電車が特別運行しています。
その他の関連する各地でもさまざまなイベントが行われています。
たとえば、長崎、「長崎龍馬パスポート」が平成22年1月9日(土)~平成23年1月10日(月・祝)間に龍馬ゆかりの「長崎まちなか龍馬館」、「長崎奉行所・龍馬伝館」、「グラバー園」、「長崎市亀山社中記念館」を1,200円で見ることができます。 購入場所は、長崎駅改札口横と各入場4施設です。
「長崎奉行所・龍馬伝館」は実際に坂本龍馬が訪れた長崎奉行所跡地にオープンしたドラマ館。大河ドラマ「龍馬伝」で使用された衣装、小道具などの撮影セットの再現展示やハイビジョンシアターでの龍馬伝ストーリーの見どころ紹介、大河ドラマや坂本龍馬関連展示など、魅力あふれる内容となっています。
開館期間は平成22年1月9日(土)~平成23年1月10日(月)です。
ちょっと先の話になりますが、坂本龍馬の命日の11月15日には、ゆかりの地各地でさまざまなイベントがあります。
■竜馬の命日に開催するイベント
龍馬ゆかりの道 ツーデーウオークin高知
開催場所: 高知県高知市
龍馬まつり
開催場所: 高知県高知市
亀山社中幕末祭
開催場所: 長崎県長崎市
龍馬墓前祭
開催場所: 京都府京都市東山区 霊山護国神社
才谷村龍馬祭
開催場所: 高知県高知市
京都酢屋 龍馬追悼展
開催場所: 京都府京都市
坂本龍馬誕生祭
開催場所: 高知市上町
龍馬祭
開催場所: 北海道函館市
このほかにも全国各地にある龍馬会では、花見のイベントや龍馬を学ぶ講演会などさまざまなイベントが行われています。
また大手旅行社でも今年1年は、京都、高知、長崎といった龍馬ゆかりの地へ旅行を計画しています。坂本龍馬に触れるイベントは盛りだくさんです。ぜひチェックして、出かけてみてはいかがでしょう?
>>イベントチェックはこちら「全国龍馬社中」
(三宅 悠)
コラム
講演「現代に通じる経営哲学-幕末の豪商高田屋嘉兵衛」を聴く
熊木秀夫
3月14日、川崎市教育文化会館田島分館で、高田屋嘉兵衛7代目の高田嘉七さん(1932年生、函館市北方歴史館館長)による嘉兵衛の経営哲学の講演がおこなわれ、聴講した。
嘉兵衛のことは、司馬遼太郎の著書『菜の花の沖』、その後、TVでも放映されて多くの人に知られるようになった。
淡路島(現兵庫県)に生まれた農家の6兄弟の長男であった嘉兵衛は、18歳の時、大阪廻船問屋で働き始め、1795年(寛政7)に山形県庄内で1700石の辰悦丸を建造した。
そして、それまでの大阪を拠点として瀬戸内海を通り下関を経て日本海の港を結びながら蝦夷地(北海道)へ至る北前船航路ではなく、大阪から紀州(和歌山県)を通って一挙に蝦夷地へ至る航路を開発した。
そして、一航海の利益で、廻船一艘を建造できるくらいの莫大な利益を上げたこと。ロシア皇帝艦のゴローニン艦長がクナシリ島で水・食料の補給しようとして松前藩の警備隊に逮捕されると、ロシア側の意図を聞きだし、ロシアとの通商の道を幕府に説明してゴローニンの解放を助けた。
ここまでは小説でも、芝居(秋田わらび座上演)でも演じられているが、講師は、嘉兵衛が江戸時代にどれほどの豪商であり、そのためにどのような経営哲学を持っていたかを2時間半にわたって説明した。
配付された資料には、2代目金兵衛が阿波藩(徳島)にお預けになり、全財産を没収された。そのとき、1834年(天保5年)に幕府の命により、まとめた松浦武四郎の「蝦夷日記」によると、
一、 米19万8千石(約3千5百64万kg)。当時幕府は天保飢饉で、江戸を中心に米を集める命令をだしていた。詳しい説明がないが嘉兵衛が海外へ売り込みをかけていたというので、唐米と称され、米不足が大問屋の買い占めや輸出によって米不足がおこったと、幕政の責任転嫁をはかっていたのではないか(筆者推測)。
一、 金は千八百二七万八千五両(時価相場でいくらになるかわからない-筆者)
一、 大船は千石以上が四百五〇艘、船頭九百八〇人
一、 家作 間口九七間(約175米)、奥行二七二間(490米)
一、 土蔵 三〇七箇所(このうち唐物蔵は123箇所)
一、 有米 三九億と十一万石(4斗俵にして百二億五千二七万五千俵)当時の時価相場で四八億七千五百一三万七千五両
一、 田畑は海・山共 九万石 ほかに島三カ所
一、 家内総人数 千六百四六人
とある。
1869(明治2)年に冤罪になって家族は自由の身になったが没収された動産は一円ももどってこなかった(後述)
◇
江戸末期、大阪の廻船問屋の船乗りから身をおこして一代で天下の豪商となるために、嘉兵衛は、どのような経営哲学をもっていたのだろうか。講演の趣旨もそこにあった。
講師は5つのポイントをあげている。
いまでいう銀行業と同じく百両、千両の金を預かり為替手形を発行し、利子を付けて返したこと。
大量輸送には船しかない時代に、延べ数百隻の船団を擁し、廻米、兵員輸送(東北各藩に)、幕府の艦船の運航を一手に引き受けたこと。
山形に造船所をつくり、自己の所有船ばかりでなく、幕府の艦船も作り、晩年には日本最初の洋式船「函館丸」を造った。
自己所有の船で各地の物資を買い入れて販売、特に一大消費地である江戸への物資輸送を行った。
金銀の相場を誰よりも早く見分けて、現物輸送を通して利益をあげたこと、など。
これらを実行するために、船の安全運行、商品の品質管理、商品に等級をつけ、量目を明確に管理し、商品はすべて高田屋の山高印をつけてブランド化し、検品なしで、流通させることに成功した。
沖走り航法の確立のために、天測、磁石等を利用し、沖に出て一気に東廻りの航路を開発実行していった。
安全航路の確立で、根室、クナシリ、エトロフなどの航路に、他の廻船問屋の追随を許さないほどの成果をあげたこと。
人別台帳の整備と各場所の責任者を明確にして利益の半分は倭人、アイヌ人の区別なく支払いをしたので、誰もが喜んで働き、人集めに苦労しなかったこと。
病人の管理や北海道の大火に対しては進んで復興用の材木を提供し、飢饉に際しては米の原価販売をして人々を助けて、社会への利益がやがて企業に戻ってくるという信念を貫き、人々の尊敬を勝ち取ったこと、などなど。
その後、冤罪をうけてから4代目の篤太郎の出願により、明治政府は高田屋を無罪にした。しかし没収財産の返還は一切なかったという。
最後に講師高田嘉七さんは、「まだまだわからない、未研究なところも多いので、是非函館にある社団法人・北方歴史研究会に来ていただき、研究する人が増えることを願っている」と、講演を結んだ。
100名を超える聴講者たちは、高田屋嘉兵衛の経営哲学は現代にも通じるものがあると、質問を繰り返していた。.
志の輔らくご@WOWOWを見ながら書いてます。
北海道
新しい千歳市史を発刊
東京
シンポジウム「龍馬に続け」 「奇で変であれ」と山本寛斎氏
京都
直弼作「ぽんぽこ狂言」再現
22日、彦根で開国150年祭
幕末、明治彩った志士ら108人 JR京都駅ビル 企画展で紹介
大阪
島津斉彬の鞍・鐙みつかる 将軍家が贈った品か 大阪
佐賀
三重津海軍所跡:新たに木製護岸出土 ドック解明へ前進--佐賀 /佐賀
長崎
長崎伝習所まつり:21塾が研究活動発表--きょう /長崎
北海道
新しい千歳市史を発刊
千歳市は、新千歳市史通史(上巻)を発刊した。動植物の自然、先史から古代、中近世、明治以降第2次世界大戦終了までを収録している。A4判、1026ページ。4月19日から販売する。
新しい市史は、市制施行50周年(2008年)を記念して編さんした。上下巻と、資料編、写真編の大きく3種類を作る計画で、上巻はその第1弾。03年度から着手し、調査に4年、執筆に2年、編集に1年をかけて完成した。
執筆は市内外の専門家36人が当たり、動植物などの「自然と風土」、先史から縄文、アイヌ文明期などの「先史から有史時代へ」、古代蝦夷(えぞ)から幕末までの「古代、中世、近世」、明治以降第2次世界大戦終了までの「開拓の開始と近代社会の成立」の大きく4分野で構成されている。歴史の空白を埋める新史料も多い。
1500冊発刊し、うち600冊を3500円(送料別)で販売する。問い合わせは市役所総務課 電話0123(24)3131。
東京
シンポジウム「龍馬に続け」 「奇で変であれ」と山本寛斎氏
NHK大河ドラマ「龍馬伝」が全国的なブームになる中、幕末の志士、坂本龍馬を愛する学生や起業家らが集まったシンポジウム「龍馬に続け」(主催・高知県)が20日、東京都千代田区丸の内の東京国際フォーラムで開催された。
シンポジウムには約300人が参加。最初に、人気アイドルグループ「AKB48」の所属事務所社長の芝幸太郎氏が基調講演。高知県出身の同氏は、AKB48のプロデュース活動を通じて故郷に対する思いが強まったというエピソードを紹介。「仕事を通じて社会に貢献することができた。思いを言霊のように広げ、(龍馬のように)走っていきたい」と語った。
また、パネルディスカッションでは、高知県の尾崎正直知事やデザイナーの山本寛斎氏が参加。尾崎知事は龍馬伝ブームにのり、今年7月に高知県が銀座に大規模なアンテナショップを開設することをちゃっかりPR。山本氏は土佐藩を脱藩して奔走した龍馬にならい、「奇人の奇と変人の変を大切にしなくてはだめ。坂本龍馬は当時は奇で変であり、人がやらないことをやらなければだめだ」と聴衆に熱く訴えた。
京都
直弼作「ぽんぽこ狂言」再現
22日、彦根で開国150年祭
彦根市で開催中の「井伊直弼(なおすけ)と開国150年祭」のフィナーレイベントが22日、同市野瀬町のひこね市文化プラザで開かれる。直弼が書いた脚本を題材にした狂言オペラ「たぬきのはらづつみ」が上演される。プロの狂言師や声楽家に加え、オーケストラやバレエに市民200人以上が参加し、本番に向けて練習に励んでいる。
直弼がお抱え狂言師の茂山千五郎正乕(まさとら)のために書いた狂言「狸腹鼓(たぬきのはらづつみ)」を、正乕の子孫で狂言師の茂山七五三(しめ)さん(62)の監修でオーケストラや合唱を組み合わせた狂言オペラに仕上げ、披露する。
「村人のタヌキ退治を止めようと、タヌキが化けて説得するがばれ、タヌキが許しを得るため腹鼓を打ち、踊りの輪が広がる」というあらすじ。小学低学年から70代後半までの市民が参加する。オーケストラの演奏をバックに狂言師とオペラ歌手が掛け合いをしたり、同じ登場人物を演じるオペラ歌手と狂言師とが入れ替わる場面が見どころという。
茂山さんは「狂言は古くて難しいと見られるが、元は庶民の間で生まれた。こういう形で披露でき、直弼公も喜んでいるのではないか」と話す。
午後3時から同5時まで。一般千円、3歳~中学生500円。購入は同プラザチケットセンターTEL0749(27)5200。
開国150年祭は、幕末の彦根藩主で幕府大老の直弼をテーマに2008年6月から始まり、今月24日に閉幕する。
幕末、明治彩った志士ら108人 JR京都駅ビル 企画展で紹介
幕末から明治に活躍した志士たちを紹介する企画展が20日、京都市下京区のJR京都駅ビルで始まった。
NHK大河ドラマ「龍馬伝」に合わせ、激動の時代への興味や知識を一層深めてもらおうと、京都駅ビル開発が開いた。
駅ビル・空中径路(けいろ)の会場には、100枚のパネルが並ぶ。黒船来航から戊辰戦争に至る歴史の流れとともに、坂本龍馬や高杉晋作、土方歳三といった時代を彩った108人を紹介している。彼らの残した言葉や時代背景なども分かりやすく説明し、訪れた人たちは熱心に見入っていた。
また駅前広場には、市内の幕末史跡を紹介する大型マップを飾ったほか、20~22日には山口、長崎、高知といった幕末とゆかり深い地域の観光PRやラジオの公開放送も行い、幕末ムードを盛り上げる。企画展は12月20日まで。無料。
大阪
島津斉彬の鞍・鐙みつかる 将軍家が贈った品か 大阪
大阪府高槻市が所有する木製馬具の鞍(くら)と鐙(あぶみ)が、幕末の薩摩藩主・島津斉彬(なりあきら)=1809~1858=の所蔵品だったことがわかった。同市教委が発表した。室町時代の作で、江戸時代後期に表面に蒔絵(まきえ)が塗り直され、徳川将軍家から島津家に贈られた品とみられる。
島津斉彬は幕末に先進的な産業政策を推進し、幕府政治にも関与した。NHK大河ドラマにもなった天璋院篤姫の養父にあたる。
馬の背に置く鞍は高さ約32センチ、長さ約38センチ、幅約39センチ。騎乗時に足を乗せる鐙は左右とも高さ約26センチ、長さ約30センチ、幅約12センチ。いずれも戦時に使う軍配や采配の蒔絵が金や朱で描かれている。鞍の裏側には、室町時代後期の延徳2(1490)年の年号と、室町幕府政所執事(まんどころしつじ)の伊勢貞宗の花押(かおう)が刻まれていた。
市教委によると、伊勢氏は武家の礼儀作法や馬具作りに長じた家系で、鞍と鐙は貞宗の作とみられる。由緒ある鞍などは後年に蒔絵を塗り直して所蔵する例が多い。
高槻市は1989年、地元の美術品愛好家から寄贈を受けた。調査の結果、徳川家の公式記録の一つ、「続徳川実紀」に、斉彬の父斉興(なりおき)が11代将軍家斉(いえなり)=1773~1841=に10万両を上納し、鞍と鐙を賜った、との記述がみつかった。斉興から斉彬への譲渡重物目録に記された鞍の文様の特徴とも一致した。
さらに、1928年の島津家所蔵品の売立(うりたて)=オークション=目録にこの鞍と酷似する写真が掲載されており、斉彬の所蔵品と結論づけた。
島津家の史料を保存研究する尚古集成館(しょうこしゅうせいかん)=鹿児島市=の岩川拓夫学芸研究員は「経済状況の窮迫で売立は何度かされているが、行方の分からないものが多い。斉彬のものとすれば、徳川家と島津家の密接な関係を示す貴重な発見だ」としている。
鞍と鐙は5月16日まで、高槻市立しろあと歴史館(072・673・3987)で公開される。(坪倉由佳子)
佐賀
三重津海軍所跡:新たに木製護岸出土 ドック解明へ前進--佐賀 /佐賀
佐賀市教委は19日、佐賀藩の幕末遺産・三重津海軍所跡から、海軍所のドック跡とみられる木製護岸が新たに出土したと発表した。昨年9月に発見された木製護岸の対岸に位置し、ドックが木製護岸で形作られていた可能性が高い。ドックの全容解明のため10年度も調査を続ける。
今回見つかった木製護岸は倒れた状態とみられ、丸太を横組みして壁を形成し、90センチ間隔で地中にくいを差し込み、固定していたらしい。地層などから海軍所のものと推定されるという。
昨年の護岸はドック跡の北側、今回は対岸の南側に位置しており、両遺構の距離から、ドックの幅が約30メートルあったと考えられる。
市教委は4月から西側も調査し、木製護岸がどこまで続いているかを見極める。また、船を入れて閉め切るゲート部も探し、世界遺産や国史跡入りを目指す。【姜弘修】
長崎
長崎伝習所まつり:21塾が研究活動発表--きょう /長崎
長崎市が市民の街づくり研究活動を募って支援するプロジェクト「長崎伝習所」が、1年間の成果を発表する「長崎伝習所まつり」が20日、同市の観光通りアーケードで開かれる。今年で15回目。
伝習所では、参加者が取り組みたい活動を提案し、採用されれば「塾」として活動する。86年以来、延べ230塾に約8000人が参加しており、今年度は7塾に計246人が学んだ。まつりでは過去に活動した14塾も加え、21塾が発表する。
うち「龍馬伝と幕末人物塾」は薩摩、長州、土佐など各藩ごとに志士を紹介。さらに、清風亭跡や土佐商会跡などを巡る「龍馬ゆかりの地さるく」を午前11時半と午後1時半に実施する。
また、「川さるく『森・川・里・海』塾」は、中心市街地を流れる銅座川流域を散策して川を巡る歴史を考える「銅座川さるく」を午後0時50分から行う。
いずれも参加無料。問い合わせは伝習所事務局(095・829・1125)。【錦織祐一】
『龍馬伝』で貫地谷しおりさんが演じている千葉さな、同時代の人が美人だと評したという記録が見つかったそうです。
龍馬の「婚約者」は美人、宇和島藩主のお墨付き
龍馬「婚約者」は飛び切りの美人 宇和島藩記録で判明
千葉佐那「容色モ第一」
龍馬の「婚約者」は美人、宇和島藩主のお墨付き
坂本龍馬(1835~67)が江戸で剣術修行中に知り合い、婚約したとされる千葉佐那(さな)が、飛び切りの美人だったとの記述が、愛媛県宇和島市に残る宇和島藩8代藩主・伊達宗城(むねなり)(1818~92)の記録「稿本藍山公記(こうほんらんざんこうき)」(宇和島伊達文化保存会蔵)にあることがわかった。
龍馬研究者の宮川禎一・京都国立博物館学芸部室長が確認し、「同時代史料で確認できたのは初めて」と話している。
佐那は北辰一刀流の達人千葉周作の弟、定吉の娘で、定吉の道場に学びに来た龍馬と知り合い、婚約して結納を交わしたとされる。
公記は宗城の直筆の日記などから明治期にまとめられたもの。安政3年(1856年)6月19日の項で、当時19歳だった佐那が「世子殿」(9代藩主宗徳(むねえ)、当時27歳)の剣術の相手をして打ち負かしたくだりに「左那ハ、容色モ、両御殿中、第一ニテ」などとあった。伊達家の御殿は江戸に2か所あり、出入りする多数の女性の中で、宗城が佐那を一番の美人とみていたことが読み取れる。
安政3年は佐那が龍馬と知り合った少し後で、伊達家の姫君の剣術教師だったらしい。
龍馬「婚約者」は飛び切りの美人 宇和島藩記録で判明
千葉佐那「容色モ第一」
坂本龍馬(1835~67)が江戸で剣術修行中に知り合い、婚約したとされる千葉佐那(さな)が、飛び切りの美人であったとの記述が、愛媛県宇和島市に残る宇和島藩8代藩主伊達宗城(むねなり)(1818~92)の記録「稿本藍山公記(こうほんらんざんこうき)」(宇和島伊達文化保存会蔵)にあることがわかった。龍馬研究者の宮川禎一・京都国立博物館学芸部室長が確認した。宮川室長は「同時代史料で確認できたのは初めて」と話している。
佐那は北辰一刀流の達人千葉周作の弟、定吉の娘で、定吉の道場に学びに来たのが龍馬だった。2人は婚約し結納を交わしたとされる。
「稿本藍山公記」は宗城の事績を直筆の日記などから明治期にまとめたもの。安政3年(1856年)6月19日の項で、佐那が「世子殿」(9代藩主宗徳(むねえ)、当時27歳)の剣術の相手をして打ち負かしたくだりに「左那ハ、容色モ、両御殿中、第一ニテ」とあった。ほかにも数か所記載があった。江戸に2か所あった伊達家の御殿内と出入りする女性の中で佐那を一番の美人と藩主がみていたことが読み取れる。
安政3年は龍馬と知り合った少し後で、19歳だった。伊達家の姫君の剣術教師だったらしい。龍馬は姉の乙女への手紙で、佐那は初恋の女性より「かほかたち」「少しよし」と記しているが、顔写真や記録など客観的な史料は確認されていなかった。
昨日は実家の墓参りに同道しました。気温は高くて外出にはありがたかったのですが、少し風があって難儀しました。
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今週の本棚・新刊:『幕末日本と対外戦争の危機』=保谷徹・著
芸能
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福島
会津・鶴ヶ城、白虎隊も仰いだ赤瓦にふき替え
福島県会津若松市の鶴ヶ城の天守閣が幕末時と同じように赤瓦にふき替えられることになり、工事の安全祈願祭が19日行われた。
鶴ヶ城は、戊辰戦争後に取り壊されたが、1965年に天守閣が再建された。再建50周年となる2015年に向けた整備事業の一環として、市が約4億円をかけて改修することにした。
再建時は黒いいぶし瓦が使われたが、幕末時には、寒さで割れることを防ぐために上薬を塗った赤瓦が使用されていたことが発掘調査や文献などから判明し、全国的にも珍しい赤瓦の城にすることにした。安全祈願祭で菅家一郎市長は「会津のシンボルの鶴ヶ城がより魅力的になるのを期待している」とあいさつした。25日頃から仮囲いが始まり、6月頃には天守閣が足場で完全に覆われる。来年3月にお披露目される予定。
白虎隊士の孫、長州に礼尽くす 養育説を確信、あす山口訪問
戊辰戦争で新政府軍と戦い、集団自刃した会津藩の白虎隊士でただ一人、命を取り留めた飯沼貞吉(1854~1931年)の孫で、東京都の会社社長飯沼一元さん(67)=仙台市出身=が20日、かつての宿敵・長州(山口県)を訪れる。山口には、貞吉が戊辰戦争後の一時期、長州藩士の屋敷で過ごしたとの説が残る。一元さんは自らの調査などで「長州滞在」がほぼ確実だったと考えており、現地の人たちに感謝の気持ちを伝える。
飯盛山(福島県会津若松市)で白虎隊の隊士が自決したのは、1868(慶応4)年10月。生き残った貞吉は戦争後、新政府軍によって東京に送られたらしい。
1872(明治5)年に当時の逓信省の技師になり、下関を振り出しに神戸、東京などで勤務。日清戦争に従軍後、仙台逓信管理局の工務部長を務めた。長く仙台で暮らしたが、会津にはあまり戻らなかったとされる。
一元さんによると、逓信省に勤めるまで数年間の足跡は明確になっていないが、意外にも、今の山口県美祢市で過ごした可能性が高いという。
戊辰戦争で会津に攻め込んだ長州藩士楢崎頼三(1845~75年)が、貞吉を会津から東京に護送し、さらに山口県まで連れて行って自分の家で養育したとされ、楢崎家で働いていた女性の話として地元に伝えられている。事実だとすれば、貞吉の「長州滞在」は1869年前後の約1年半とみられる。
会津では、あまり知られておらず、地元研究者の間では「証拠がない」などと否定する意見も少なくない。
一元さんも以前は「敵の本拠地に行って、世話になることなどあり得ない」と思っていた。2年前に現地で語り継がれている内容を聞いたり、自らも調査したりした結果、今ではほぼ間違いない事実とみている。
一元さんは「貞吉が逓信省に入るまでには、(一人だけ生き残ったという)絶望の淵から立ち直るきっかけが必要だったはず。美祢では勉強の機会も与えられたようだ」と話す。
一元さんは20日から山口県を訪れる。郷土史家らとの公開座談会に参加して会津と長州の歴史などを語り合う。楢崎家の墓参りもするほか、ゆかりの地を訪ねて祖父の足跡をたどる予定だ。
[白虎隊]会津藩が1868(慶応4)年、朱雀、青龍、玄武とともに設けた部隊。武家の16、17歳の男子約300人で構成。本来は予備隊だったが、戊辰戦争で戦った。各隊は身分によって、さらに士中、寄合、足軽に区別された。飯盛山での自決の悲劇として知られるのは士中二番隊。
28日に若松で「七日町元気まつり」
「七日町元気まつり」は28日午前10時から、会津若松市の七日町通りで催される。
七日町通りまちなみ協議会の主催。
通りに建設している「七日町浪漫デッキ」の完成に合わせて企画した。
スイーツや北会津産イチゴを販売するほか、紙芝居や若松商高吹奏楽部のコンサート、会津キャンペーンクルーによる剣舞などが行われる。
午後1時からはもちつきもある。
阿弥陀寺では午後1時から作家の星亮一さんが「坂本龍馬が望まなかった戊辰戦争」と題して講演する。
滋賀
直弼作「ぽんぽこ狂言」再現 22日、彦根で開国150年祭
彦根市で開催中の「井伊直弼(なおすけ)と開国150年祭」のフィナーレイベントが22日、同市野瀬町のひこね市文化プラザで開かれる。直弼が書いた脚本を題材にした狂言オペラ「たぬきのはらづつみ」が上演される。プロの狂言師や声楽家に加え、オーケストラやバレエに市民200人以上が参加し、本番に向けて練習に励んでいる。
直弼がお抱え狂言師の茂山千五郎正乕(まさとら)のために書いた狂言「狸腹鼓(たぬきのはらづつみ)」を、正乕の子孫で狂言師の茂山七五三(しめ)さん(62)の監修でオーケストラや合唱を組み合わせた狂言オペラに仕上げ、披露する。
「村人のタヌキ退治を止めようと、タヌキが化けて説得するがばれ、タヌキが許しを得るため腹鼓を打ち、踊りの輪が広がる」というあらすじ。小学低学年から70代後半までの市民が参加する。オーケストラの演奏をバックに狂言師とオペラ歌手が掛け合いをしたり、同じ登場人物を演じるオペラ歌手と狂言師とが入れ替わる場面が見どころという。
茂山さんは「狂言は古くて難しいと見られるが、元は庶民の間で生まれた。こういう形で披露でき、直弼公も喜んでいるのではないか」と話す。
午後3時から同5時まで。一般千円、3歳~中学生500円。購入は同プラザチケットセンターTEL0749(27)5200。
開国150年祭は、幕末の彦根藩主で幕府大老の直弼をテーマに2008年6月から始まり、今月24日に閉幕する。
京都
今日のお墓参り(坂本龍馬) 幕末編
NHK大河ドラマ「龍馬伝」も高視聴率をとり、テレビ・雑誌・本とどこを見ても坂本竜馬ブーム!!
そのブームに乗って坂本竜馬のお墓参りに行って来ました。場所は京都・霊山護国神社。
1868年(皇紀2528)、明治元年に、明治維新の実現のために倒れた志士たちの御霊を奉祀するために、明治天皇の発案で京都東山の霊山に創建された神社で、千人を超える志士たちのお墓があります。坂本龍馬と中岡慎太郎のお墓もあり、その横には二人が並んだ銅像が建っています。
修学旅行生やたくさんの維新の志士ファンがお参りに訪れ、周りには熱い思いを込めたメッセージの書かれた石盤が数多く供えられていました。この坂本龍馬と中岡慎太郎像ですが、2人が揃っているのは珍しく、高知県桂浜の龍馬像と並んでファンの間では有名な像です。
時間の関係で残念ながら行けなかったのですが、同じデザインの大きいものが近くの円山公園にあるそうです。坂本龍馬と中岡慎太郎のお墓のすぐ前からは京都市内が一望できますが、坂本龍馬と中岡慎太郎は、暗いニュースの多い現在の日本をどう眺めているのでしょうか。
「わしが日本を良くしちゃるきに、負けたらいかんぜよ」なんて言葉が聞こえてきそうです。
坂本龍馬みたいな救世主が現れてくれるのを望みながら手をあわせて帰ってきました。
お墓がある場所はアップダウンがあり足元も悪いため、動きやすい服装に運動靴をおすすめします。
京都霊山護国神社
京都府京都市東山区清閑寺霊山町1
一般300円・中学生以下200円 AM9時~PM17時
JR京都駅~市バス13分、バス停:東山安井下車~徒歩10分。
または京阪電気鉄道四条駅~徒歩25分
名神高速京都東IC5km20分
(すぐれいち 山口敏太郎事務所)
参照 山口敏太郎公式ブログ「妖怪王」
http://blog.goo.ne.jp/youkaiou
河田小竜の画集見つかる 故郷・高知の歳時記描く
坂本竜馬と親交のあったことで知られる日本画家河田小竜(1824~98年)が故郷高知の歳時記を描いた画集を、京都市内の古物商が所有していたことが20日、分かった。
写真を基に真贋を判別した高知県立美術館は「故郷の風物詩を描いた作品はほかに見当たらず、極めて貴重だ」としている。
同美術館によると、画集は1883(明治16)年12月に完成した「維新前高知城下十二ケ月」。1枚目には高知城下の風景が描かれ、小竜の画号の署名と小竜の印があった。「画風を考えると、小竜の作品であることに疑いの余地はない」という。
2枚目からは、1カ月ごとに祭りなどの行事を描いた彩色画が計12枚そろっていた。
同美術館によると、東京で描いたとみられ、バラバラだったものが後年、画集にまとめられた可能性もあるという。
岡山
岡山城特別展「幕末の動乱」が開幕 歴史ファンや家族連れら訪れる
春季特別展「幕末の動乱 会津と長州そして岡山」(岡山市、山陽新聞社など主催)が20日、同市北区丸の内、岡山城天守閣で開幕し、初日から多くの家族連れらが訪れた。
1868年に明治天皇から備中国内の平定を命じられた際、岡山藩に与えられた「錦旗(きんき)」(長さ約3・6メートル、幅約70センチ)や1869年に描かれた「白虎隊自刃図」(縦約190センチ、横約80センチ)など約90点を展示。監修者の萩博物館(山口県萩市)の一坂太郎特別学芸員によるギャラリートークもあり、約50人の熱心な歴史ファンらが聞き入っていた。
家族3人で訪れた愛知県西尾市、野崎輝夫さん(72)は「見たことがない史料も多く、大河ドラマや小説では知らない幕末を想像させられる」と話していた。
会期は5月9日まで(午前9時〜午後5時半、入場は同5時まで)。会期中無休。入場料は15歳以上800円、5歳以上400円。
山口
白虎隊の子孫が山口訪問 戊辰戦争後、ゆかりの地
戊辰戦争に敗れ、集団自刃した会津藩の白虎隊で唯一生き残り逓信省技師となった飯沼貞吉(1854~1931年)の孫で、東京都世田谷区の会社社長一元さん(67)らが20日、かつての敵地、山口県美祢市を訪れ地元の人たちと交流を深めた。
飯沼が戦争後の一時期、会津から連れられ同市の長州藩士の屋敷で育てられたとの説があり、一元さんは「この地での生活があったからこそ、その後の人生があった」と感謝の言葉を述べた。地元歴史家らとの座談会では「ゆかりの地の屋敷跡に、記念碑を建てたい」と提案した。
一元さんは聞き取り調査をするため、08年に初めて同市を訪問。その後も研究を続け、飯沼の生涯を描いた小説の出版も予定しているという。
高杉晋作の遺品展示、下関市議会委「了解必要」
山口県の下関市議会文教厚生委員会は18日、幕末の志士、高杉晋作の遺品などを展示する東行記念館の管理運営業務について審議した。
遺品を巡る訴訟が起きたことから、新年度一般会計当初予算案に盛り込まれている管理運営費850万円は、高杉家から改めて遺品を展示することへの理解が得られるまで、執行を認めないことを決めた。
遺品を巡っては、宗教法人東行庵が9日、萩市と晋作のひ孫の男性(77)(東京都三鷹市)を相手取り、萩市が保管する遺品69点の返還などを求め、山口地裁下関支部に提訴している。一方、市は遺品158点が残る記念館の改修を進めており、学芸員1人を配置し、新年度からは市が管理運営する施設として、東行忌(4月14日)の開館を目指している。
委員会では、「トラブルが起きているところに、公金を出すのはいかがなものか」などと慎重な対応を求める意見が相次いだ。
さらに、2008年9月、高杉家の了解を得て、遺品69点を萩市の萩博物館が、158点を記念館が管理することで、下関、萩市と東行庵が合意したと発表したにもかかわらず、訴訟に至ったことについても疑問の声が上がった。
これに対し、中尾友昭市長は、ひ孫の男性に対し、改めて記念館で市が遺品を管理、展示することの了解を得て、市議会に報告することを条件に、予算案を認めるよう提案。委員会はこれを了承した。
4月14日の開館までに時間がないため、市教委は「早急に市と高杉家との信頼関係を確認できるよう努めたい」と話している。
佐賀
三重津海軍所跡:新たに木製護岸出土 ドック解明へ前進--佐賀 /佐賀
佐賀市教委は19日、佐賀藩の幕末遺産・三重津海軍所跡から、海軍所のドック跡とみられる木製護岸が新たに出土したと発表した。昨年9月に発見された木製護岸の対岸に位置し、ドックが木製護岸で形作られていた可能性が高い。ドックの全容解明のため10年度も調査を続ける。
今回見つかった木製護岸は倒れた状態とみられ、丸太を横組みして壁を形成し、90センチ間隔で地中にくいを差し込み、固定していたらしい。地層などから海軍所のものと推定されるという。
昨年の護岸はドック跡の北側、今回は対岸の南側に位置しており、両遺構の距離から、ドックの幅が約30メートルあったと考えられる。
市教委は4月から西側も調査し、木製護岸がどこまで続いているかを見極める。また、船を入れて閉め切るゲート部も探し、世界遺産や国史跡入りを目指す。【姜弘修】
長崎
長崎伝習所まつり:21塾が研究活動発表--きょう /長崎
長崎市が市民の街づくり研究活動を募って支援するプロジェクト「長崎伝習所」が、1年間の成果を発表する「長崎伝習所まつり」が20日、同市の観光通りアーケードで開かれる。今年で15回目。
伝習所では、参加者が取り組みたい活動を提案し、採用されれば「塾」として活動する。86年以来、延べ230塾に約8000人が参加しており、今年度は7塾に計246人が学んだ。まつりでは過去に活動した14塾も加え、21塾が発表する。
うち「龍馬伝と幕末人物塾」は薩摩、長州、土佐など各藩ごとに志士を紹介。さらに、清風亭跡や土佐商会跡などを巡る「龍馬ゆかりの地さるく」を午前11時半と午後1時半に実施する。
また、「川さるく『森・川・里・海』塾」は、中心市街地を流れる銅座川流域を散策して川を巡る歴史を考える「銅座川さるく」を午後0時50分から行う。
いずれも参加無料。問い合わせは伝習所事務局(095・829・1125)。【錦織祐一】
ブックレビュー
今週の本棚・新刊:『幕末日本と対外戦争の危機』=保谷徹・著
(吉川弘文館・1785円)
幕末、攘夷(じょうい)運動が高まるなか、長州藩が下関海峡を航行する外国船を砲撃、英仏米蘭の4カ国連合艦隊に反撃され完敗した。「下関戦争」である。「怒った列強が、長州をこらしめた」。そんな単純な歴史理解を、本書は許さない。
列強がみていたのは長州だけではない。当時の幕府は朝廷の意向もあって、一度開いた貿易港を再び閉ざそうとしていた。列強は、そうした「自由貿易体制」を脅かす諸勢力への軍事的圧力として戦端を開いた。それはさらに、国家間戦争に発展する可能性もあったという。著者は東京大史料編纂(へんさん)所教授(日本近世史)。国内はもとより、欧米諸国側の資料をたんねんに読み解いたうえでの論考で、読み応えがある。(栗)
芸能
“墓参ラー”歴ドル・小日向えり「幸村公らの生き方に男気感じる」
【一芸アイドル最前線】歴ドル・小日向えり(こひなた・えり)(22)
歴史の話題になると話が止まらなくなる「歴ドル」だ。歴史に名を残した先人たちの史跡を訪ね歩くのが趣味。歴史にまつわるトークイベントなどで、パネリストなどとして顔を出すまでになった。現役の女子大生生活とは間もなくお別れするが、「将来は歴史にかかわる仕事がしたい。歴史に学んだことを生かし、ビジネス界にも打って出るのが夢。なんとしても実現させたい」と張り切っている。(村上智博)
15歳のとき、スカウトされて芸能事務所に入った。「小日向(こひなた)」は芸名。「『小』という文字の上品な感じにひかれて付けました」と振り返る。
高校では理系だったが、大学は文系を選んだ。横浜国立大学では芸術と情報社会とをどうすれば融合できるかをテーマに学んだ。今春、卒業する。
歴史にはまり込んだのは、生まれ故郷の奈良から上京し、大学に入学して初めての夏のことだ。もともとTシャツの収集を趣味にしていたが、都内で開かれたあるファッションイベントで1枚のTシャツに一目ぼれした。中国4000年の歴史を感じさせる商品。「三国志」に登場する劉備に仕えた武将の張飛が武器を振りかざし、迫ってくるようなデザインだった。
それをきっかけに、横山光輝の漫画「三国志」の単行本全60巻や、吉川英治の小説「三国志」などを次から次へと読破。諸葛亮孔明や趙雲らに思いをはせた。
やがて、日本の戦国時代の動乱や、幕末維新のころにも目を向けるようになる。中でも、信州上田を拠点に、戦国の世を生き抜いた真田幸村ら真田一族にほれた。
「真田幸村公たちが、人生を最後まで戦い抜き、花を咲かせようとする『葉隠』の精神を持ち合わせているところに、男気を感じます。懸命に生きる姿はまさに『ザ・戦国武将』。カッコイイですよね」と目を輝かせる。
真田家が一時、城主だった難攻不落の山城、戸石城を訪ねたときには、実際に木のつるを伝って登り、城の跡地からはるか遠くを見渡した。真田神社などにも足を運び、当時の武将らに思いをはせた。
戦国武将がまつられた墓を参ることも、いつしか趣味になっていた。「『歴女』でもあり、『墓参ラー』でもあるんですよ」
旅のお供には決まって、愛用の一眼レフカメラを持参する。「小学4年生のクリスマスに、自然をテーマにした写真集をサンタさんにもらい、カメラのとりこになりました」と明かす。
昨年秋、京都の大徳寺に葬られた石田三成の墓を目の前にしたときはあまりにも思いがこみ上げ、むせび泣きしたという。
江戸の幕末期を生き抜いた英雄たちにも関心は広がった。明治新政府の立役者の一人、大久保利通の墓がある東京・青山霊園には日ごろから仕事帰りに足しげく通い、酒好きだった大久保をしのび、酒を納めているという。
そのころの英雄で好きなのは新選組。隊士の市村鉄之助が主役の漫画「新撰組異聞PEACE MAKER」を手にしたことで興味を持った。「死ぬことが分かっていても、損得を超越したところで闘うという、人間の切なさが心に染みるんですよね」としみじみと話す。
「歴史に名を残した人たちは誰でも、その生きざまを見ると学ぶべきところが多い。感動もするし、生きる目標にもなる。私にとっては皆、アイドルです」
昨年、劉備や曹操、孫権といった三国志でおなじみの英雄ら35人の心ときめく人生を描いた「恋する三国志」(青志社)を出版した。今春には、幕末を生きた志士ら50人のエピソード集も出す。
また歴史好きのタレントとして、教育バラエティー番組「熱血!平成教育学院(フジテレビ)や「おしろツアーズ」(東海テレビ)などに出演。その知識をいかんなく発揮している。
大学生活とは今月でサヨナラするが、「できれば大学の史学科で、大好きな歴史を学んでみたい。自分のブログを通じ、歴史上の人物たちがどれほど人生を輝かせていたのか、分かりやすく自分なりに伝えていきたいです」
しばらくの間はまだ、「歴史が恋人」ということになりそうだ。
■「歴ドル」に30の質問
Q1 ドラえもんの「どこでもドア」があれば何をしたい
「広範囲にわたる三国志の史跡を、次々と巡りたいです!」
Q2 もし3億円の宝くじが当たったら何に使う
「両親、祖父母を世界一周旅行に連れて行きたいです。残りは、そのお金を元手に事業を起こしたいです」
Q3 好きなミュージシャンは
「YUI、フジファブリック」
Q4 生まれ変わるなら男性と女性のどちら
「男性になって、バリバリ仕事がしたいです」
Q5 得意な手料理は
「酢豚や餃子など中華料理が得意です」
Q6 お気に入りのスイーツは
「横浜・元町にある『モトヤ』のパンケーキ。『キルフェボン』のタルト。銀座にある『ピエールマルコリーニ』のチョコパフェ」
Q7 日ごろ、美容と健康のため心がけていることは
「早寝早起き。ついつい夜更かしをしてしまうので…」
Q8 これまで行った旅先で一番感動したのは
「信州上田、戦国時代の真田家のゆかりの地です」
Q9 気分が乗らないときにはどう気分転換する
「キッチンのお掃除。ピカピカになると、気分も晴れてやる気が出ます」
Q10 自分を動物にたとえるとすれば
「上杉謙信は越後の龍、武田信玄は甲斐の虎、小日向えりは、大和の鹿。というわけで鹿です!」
Q11 では色にたとえると
「白。周囲の人から『白』のイメージだといわれます」
Q12 花にたとえるなら
「ひまわり。名前の『日向』が太陽を連想させるし、常に光の方を向いていたいです」
Q13 これまでに出会った本で一番感銘を受けたのは
「たくさんありますが、吉川英治さんの小説『三国志』」
Q14 生まれたばかりの自分に今、声をかけるなら
「優柔不断な性格なので、篤姫の名言『女の道は一本道でございます』という教えを伝えて、ブレない生き方をしてもらう」
Q15 「大和ナデシコ」といえば誰をイメージする
「織田信長の妹、お市の方。清楚(せいそ)な日本女性です」
Q16 自分の人生で大切にしている言葉は
「『無可無不可』。禅語で、『世の中には、できるもできないもない!』。自分を見くびってはいけない、という意味です。『呉下の阿蒙に非ず』も。こちらは三国志の呉の呂蒙にまつわる故事成語です。『人は変われる!』という意味です。それに、『おもしろき こともなき世を おもしろく』。幕末の高杉晋作の辞世の句です。『なせば成る 為(な)さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり』。こちらは上杉鷹山の歌です」
Q17 お気に入りのマンガ、アニメ、ゲームを教えてください
「マンガは『ひまわりっ~健一レジェンド~』。三国志ネタが満載です! アニメは『蒼天航路』。ゲームは『三国無双』『戦国無双』」
Q18 好きなスポーツは
「中学時代に軟式テニス部で、今は硬式テニスを練習中です」
Q19 好きなファッションブランドは
「エミリーテンプルキュート! メルヘンな森ガールにあこがれます」
Q20 お気に入りの映画は
「レッドクリフPart1とPart2。ほかに同じ横浜国立大学出身の岩井俊二監督の作品全般が好きです」
Q21 犬とネコ。選ぶならどちら
「実家は犬もネコも飼っているんですが、私は気まぐれな猫より、忠実なわんこが好きです」
Q22 どんなタイプの男性に胸がときめく
「誠実で、一本筋の通った、まっすぐな人!」
Q23 タイムマシンがあればどこに行き、何をしたい
「新選組が好きなので、幕末期に行き、沖田総司の看病をしつつ、新選組隊士と交流したいです♪」
Q24 好きな漢字一文字は
「『誠』一筋! 新選組の旗印です」
Q25 休日はどう過ごす
「本を読んだり、家事をしたり、家でゆっくり過ごします」
Q26 もし、総理大臣になったとしたら、今の日本をどうしたい
「なんとか景気を良くしたい…けれど、たぶん無理…」
Q27 自分は信長派、秀吉派、それとも家康派
「仕えるなら、石田三成公や真田幸村公が仕えた秀吉公がいいです! 温泉に連れて行ってもらったり、茶会にも参加したいです」
Q28 生年月日、星座、血液型、家族構成、出身地・出没スポットを教えてください
「1988(昭和63)年1月17日生まれのヤギ座。0型。家族は両親と姉2人、犬のマロン、猫のマーブル、金魚さんたちです。奈良県出身。横浜中華街」Q29 流れ星に今、お願い事を3つするとすれば
「(1)家族が健康でありますように!(2)小説『真田三代』が大河ドラマになりますように!(3)中国の四川省に行けますように!」
Q30 最後に、自分のチャームポイントは
「笑うと、くっきり出るえくぼです♪」
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