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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 今日もまた落語のCDを近くの図書館から6本借りて聴いてます……腹から笑えるって、健康によさそう。

東京
NHK大河ドラマ「龍馬伝」スタート-おひざ元・渋谷圏で関連企画続々
 NHK大河ドラマ「龍馬伝」の放送が1月3日から始まり、NHK放送センター(渋谷区神南2)のある渋谷圏でも続々と関連企画が展開されている。
 「龍馬伝」は幕末に活躍した志士、坂本龍馬33年の生涯を「三菱財閥」創始者である岩崎弥太郎の視線から描いたオリジナル作品。主役は歌手で俳優の福山雅治さんが務め、関東地区では初回視聴率が23.2%(ビデオリサーチ調べ)を記録した。
 東急ハンズ渋谷店(宇田川町、TEL 03-5489-5111)では現在、坂本龍馬関連商品190アイテムを集積した「龍馬プロジェクト」を開催。A館1階入り口の特設ブースには、龍馬をモチーフにした高知県の菓子や小物、龍馬の関連書籍に加え、高知県立坂本龍馬記念館のオリジナルグッズも手がける前掛け専門店Anything(小金井市)製作による渋谷ハンズのオリジナル商品が人気を集めている。
 現在までの人気ランキングは、1位=「亀山社中前掛け」(3,990円)、2位=2ウェイタイプの「前掛けトートバッグ」(2,625円)、3位=「坂本龍馬 手ぬぐい」(840円)。同店販売促進担当の平岡幸大さんは「歴女がはやっているが、購入しているお客さまは20代以上の男性が中心」とし、「自分用に購入される方が多い。部屋に飾れるので、その目的で購入しているのでは」と話す。
 店内にHNKから「借りた」ドラマのポスターを掲出しているのは、渋谷・東口の土佐料理店「土佐料理 称保希(ねぼけ)」渋谷店(渋谷2、TEL 03-3407-9640)。同店でも今月から「はちきん地鶏」などを使った「龍馬鍋」(1人前=2,800円、コース=4,800円)を用意。徳平尚史店長は「ポスターを見て、『(3日の)龍馬(の番組)、良かったよね~』などと話す声も聞こえる」という。「まだ始めたばかりだが、予約いただいている方の中には『龍馬鍋』を頼まれている方も」とも。
 「幕末好きの人が集まる」という宇田川町交番近くの幕末居酒屋「やんなはれ」(宇田川町、TEL03-5428-8051)の松野賢太郎店長は「昨年末ごろから、歴史好きの若い女性客など今まであまりいなかった客層の方が増えてきている」と話す。同店でも現在、「軍鶏(しゃも)鍋」「龍馬鍋」(1人前=1,280円~)や「龍馬鍋コース」(3,980円)を提供している。
 こうした居酒屋などで龍馬談義に花を咲かせる人が増える一方で、さらに知識を深めたい人のための講座も登場する。青山1丁目にあるNHK文化センター青山教室(港区南青山1、TEL 03-3475-1151)では3月5日から、「龍馬伝」で時代考証を担当している東京学芸大学教授の大石学さんが講師となり、坂本龍馬や龍馬にかかわった人間群像とその時代の全容を解説する講座「龍馬とその時代」を開講する。全5回で、受講料は一般1万1,475円。
 ドラマの進展とともに、龍馬ビジネスのすそ野も広がりを見せそうだ。



京都
坂本龍馬の実像に迫る
開催日:2010年2月 5日(金)

 2月5日(金)14時~16時、京都アスニー(京都市中京区丸太町通七本松西入ル。市バス「丸太町七本松」または「京都アスニー前」下車。有料Pあり)TEL075・812・7222。

 アスニーセミナー。
 講師=木村武仁(霊山歴史館学芸員)。

 坂本龍馬は誰もが知っている幕末の英雄ですが、どのようなことをしたのか意外と知られていません。そこで龍馬の成し遂げた偉業「薩長同盟」「船中八策」「大政奉還」の細かな内容と歴史的意義を分かりやすく解説します。またその風貌や性格・ファッションなど、知られざる龍馬の真実に迫ります。

 受講料800円。
 申し込み・問い合わせTEL075・812・7222/FAX075・803・3017(京都アスニー)。
.※内容は変更される場合がありますので、詳細については主催団体に直接お問い合わせください。


初煮 初釜…初春のもてなし 小川流煎茶と古儀茶道藪内流
 古儀茶道藪内流の初釜式と小川流煎茶(せんちゃ)の初煮(はつに)会が7日始まった。
 藪内家は代々茶道師家を務める西本願寺の門主邸で、江戸初期から続く点(た)て初めを行った。その後、京都市下京区の藪内家茶室、燕庵(えんなん)に浄土真宗本願寺派の橘正信総長ら12人を招き、藪内紹由(じょうゆう)若宗匠が濃茶を練ってもてなした。床の間には「心廣體胖春(こころひろくたいゆたかなるはる)」と書いた掛け軸と、紅梅にナンテン、福寿草を生けた石菖鉢(せきしょうばち)を飾った。
 9日まで行われ、約300人が訪れる。東京、福岡でも催す。
 初煮の煎茶を注ぐ小川可楽家元嗣(右端)(北区の三清庵小川後楽堂で) 北区の三清庵小川後楽堂では第一席に石原義清・俵屋吉富社長ら25人を招待。小川可楽家元嗣が干支(えと)のトラや龍を描いた茶碗に茶を注ぎ分け、二煎ずつふるまった。床の間には「清碗茗(めい)一杯」と書かれた掛け軸が飾られ、後楽家元が「幕末の山階宮晃(あきら)親王の書で、当時は公家や文人の間で煎茶が盛んだった」と説明した。
 8日までで、約200人をもてなす。


大阪
菓子木型の図録制作 「高い芸術性もっと評価を」
 悠然と羽ばたく鶴や霊妙な姿で振り返る亀、多彩なデザインが細部まで丁寧に彫り込まれた厚板は、黒光りして相応の年月を感じさせる。和洋を問わず古くから菓子作りに使われてきた木型だ。名もなき職人たちによって生み出されてきたこの“裏方”に光を当て、美術や工芸の視点からとらえ直そうと、大阪市都島区の民芸品収集家・平田栄三郎さん(85)が啓発活動を続けている。
 このほど、えりすぐりの写真約千点を載せた手作りの図録を制作。東京や大阪の民芸館など関係先に寄贈し、評価に向けた機運を高めていく構えだ。
 5部門にまとめた図録には、江戸中期~明治中期を中心にした日本の菓子木型をはじめ、ヨーロッパや李氏朝鮮、インドネシアなどそれぞれ200~300年程度前からの品を載せる。
 日本の部では、鶴亀や松竹梅など縁起の良い動植物の図柄が中心。七福神のえびすや、幕末に来航した黒船を日本風にアレンジしているという軍艦など、立体的な菓子作りのための木型も掲載した。
 約40年前から世界中の民芸館を巡り、菓子木型の美しさに気付いたという平田さん。洋菓子製造販売会社「エーデルワイス」や、現在約5千点の菓子木型を所有するという菓子問屋「山星屋」の相談も受けながら菓子関係の資料収集に尽力し、約1万点の木型を撮影してきたという。
 図録の李氏朝鮮の部では、幾何学的な文様と文字などが描かれたもち菓子、インドネシアの部では、神前に供える米粉の菓子などを作る木型を載せる。ドイツの部では、木型をろうで復元した珍しい品も披露している。
 平田さんは、ヨーロッパでは菓子木型が出版物としてまとめられ、評価も高い点を踏まえ、「日本では、工芸の美しさとして正当な評価が得られていない」と嘆き、「菓子の老舗には木型が大切に保存されているが一般の人が見る機会はない」点に懸念を示す。
 そこで、後世に残す意義を自身の手で示そうと、これまでの成果をまとめ、民芸館や関係先への寄贈を企画。「これを機会に、各老舗がそれぞれ所有する菓子木型の図録を作り、名もなき職人の手仕事の美しさが広く知られるようになれば」と思いを込めている。
 洋菓子木型の実物は、平田さんが顧問を務め、資料収集に協力した展示施設「エーデルワイスミュージアム」(兵庫県尼崎市)で見学できる。要予約。問い合わせは電話06(6426)8399、同施設へ。


香川
【ふるさと便り】力自慢が集結 大鏡力もち運搬競技 香川県さぬき市
 巨大な鏡もちを抱えて歩いた距離を競う「大鏡力もち運搬競技」が7日、香川県さぬき市の四国霊場87番札所、長尾寺で行われた。
 幕末に同寺の仁王に願をかけた力士が金剛力を授かったとされる伝説に由来する新春の伝統行事。今年は、香川、徳島の両県から13人の力自慢の男性が出場した。
 競技は、大小2つの鏡もちが乗った重さ約160キロの特大の三宝を腹で支えるように持ち抱え、バランスをとりながら境内に設けられた25メートルのコースを歩いて往復。1人それぞれ2回ずつ競技を行い、そのうちの最長距離で順位を決める。
 参加者は、鏡もちを抱えた瞬間から顔を真っ赤にし、一歩一歩地面を踏みしめながら前に進んでいった。見守る参拝客らは「がんばれ」「もう、ちょっと」などと大きな声援を送っていた。
 今年の優勝者は香川県丸亀市の会社員、川崎修治さん(40)で、記録は56・7メートルだった。


高知
寺田屋事件の報告書写し公開、龍馬の名も
 高知県が購入した土佐藩の京都藩邸資料574点についての報告会が、高知市浦戸の国民宿舎・桂浜荘で行われた。
 坂本龍馬が襲われた寺田屋事件について記した報告書写しなどが公開され、集まった歴史ファンら約70人が「龍馬の名前がある」「近年まれに見る新発見」と驚いた。
 574点のうち約半数が、京都藩邸の役人が見聞きした生の情報を記した書状。勤皇派を探った密偵の報告、脱藩浪士の乱暴事件、茶屋遊びにふける藩士の堕落ぶりなど、幕末の混乱が生々しくつづられ、中には「火中」(火にくべて焼け)と書かれた極秘文書も残っていた。説明した渡部淳・土佐山内家宝物資料館長は「歴史研究で最も重視される、当事者が書いた『1次資料』が多い。一つ一つ調べれば、土佐の幕末史だけでなく、日本史そのものが豊かになる」と説明した。
 寺田屋事件に関する報告書の写しは、幕府側が龍馬について記した新出資料で、龍馬の持っていた書類を押収したとある。三浦夏樹・県立坂本龍馬記念館主任学芸員は「直前に薩長同盟があり、幕府側は薩長の動きを知りたかったのではないか」と話した。
 報告書写しは坂本龍馬記念館の企画展で来年7月中旬から公開される。


豪華 龍馬フラフ
吉川さん 父子作品展

 県伝統的特産品に指定されている土佐凧(だこ)、フラフ、のぼりの制作を手がける香南市香我美町の吉川登志之さん(84)、毅さん(49)親子の作品展が、高知市横内の星ヶ岡アートヴィレッヂで開かれている。あでやかな色彩に染められた約200点が並び、訪れた人たちの目を楽しませている。24日まで。
 染色業を130年以上続ける吉川家初代の曽祖父は、幕末の絵師・弘瀬金蔵(絵金)の弟子。4代目の登志之さんは1996年、現代の名工に選ばれている。
 絵金を思わせる力強さと、鮮やかな色遣いで、金太郎、コイ、満月などを描いたタペストリーや、土佐凧の作品が所狭しと並ぶ。土佐・龍馬であい博や大河ドラマ「龍馬伝」にちなみ、坂本龍馬と桂浜の風景をあしらった縦3メートル、横4メートルのフラフも展示され、訪れた人の目を引いている。
 「海外の友人へのおみやげに」と買い求める人も多いという。絵金の原画6点も展示され、吉川さんの作風と見比べることもできる。無料。12、19日は休館。


幕末維新の土佐・探訪図絵:志士たちの軌跡や文化紹介 合同企画展も /高知
◇こうちミュージアムネットワーク作製

 県内約50カ所の文化施設でつくる「こうちミュージアムネットワーク」は、幕末から明治維新にかけて活躍した志士たちの軌跡や文化を紹介する「幕末維新の土佐・探訪図絵」を作製した。県内各地での配布に加え、16日から始まる土佐・龍馬であい博のホームーページ(http://ryoma‐deaihaku.jp/tanbou‐zue.html)でもダウンロードできる。【服部陽】
 大河ドラマ「龍馬伝」の放映に合わせて企画。昨年8月から開く学芸員による巡回講座「幕末ゆめ道場」のテキストとして各館の学芸員が執筆を担当。観光客増にもつなげようと、1万1000部を作った。
 図絵(A4判、41ページ)では、坂本龍馬など幕末の土佐藩にかかわる人物相関図や年表を掲載。県内を東部▽中部▽高知城下▽西部--に分け、志士にまつわる史跡を紹介している。さらに漫画に登場した志士を説明するコーナーもある。表紙には江戸時代の高知の地図を使った。
 同ネットでは図絵に加え「志の時代展」と題して、14館での合同企画展を開催。5月までの前期では「龍馬のルーツ」(12日から、県立坂本龍馬記念館)や「龍馬を描いた文学者たち」(2月1日から、県立文学館)などがある。
 同ネットの事務局を務める県文化財団(088・866・8013)は「図絵を見て県内各地を訪ねてもらい、高知の魅力を知ってもらえれば」と話している。



佐賀
「一杯やるぜよ」 『竜馬』の焼酎グラス
有田焼「匠の蔵」シリーズにデザイン追加

 大河ドラマ「龍馬伝」で坂本竜馬の人気が高まっているのを受けて、有田焼卸団地協同組合(22社)が販売する人気シリーズ「匠の蔵」の焼酎グラスに1日から、竜馬デザインが加わった。
 西松浦郡有田町の金照堂が企画。幕末期の人物をあしらったTシャツなどを販売する鹿児島市のネット通販会社がデザイン協力した。竜馬のほか、三味線を弾く高杉晋作、土方歳三をイメージした日本刀と新撰組の旗を描いた柄もある。
 グラスは白磁で直径、高さともに約10センチ。絵柄はプリント転写で、価格は2100円。同シリーズの焼酎グラスは、2005年の発売から4年で約28万4千個を販売している。
 金照堂の金子真次社長は「竜馬は鹿児島で西郷隆盛と一緒に焼酎を飲んだのでは。激動の時代に思いをはせながら楽しんでほしい」と話す。問い合わせは同社、電話0955(43)2007。


長崎
講演:英国人貿易商オルトの子孫・ヘリヤー准教授、逸話も--グラバー園 /長崎
◇「長崎居留地研究会」が招待
 幕末の開港を受けて来日し、長崎の旧外国人居留地を拠点に日本茶の貿易で成功した英国人貿易商ウィリアム・オルト(1840~1905年)の末えいで、東アジア史を研究する米ウェークフォレスト大のロバート・ヘリヤー准教授(43)がこのほどグラバー園(長崎市)で講演した。
 ヘリヤー准教授は、オルトのおいで同様に日本茶貿易に携わったフレデリック・ヘリヤーの玄孫(やしゃご)。ヘリヤー家は後に静岡県に移り、戦後に渡米したが、会社は現在も「ヘリヤ商会」として静岡市内で営業している。ヘリヤー准教授は日本史の研究でたびたび来日し、現在は慶応大の訪問准教授も務める。
 講演は、市民有志が外国人居留地を研究する「長崎居留地研究会」(会長・姫野順一長崎大教授)が招いて開かれた。
 准教授は、オルトやヘリヤーらが活躍した当時の東アジア貿易の背景を解説。開港後も江戸幕府が海産物「長崎俵物」の中国への輸出を独占し、紅茶もオルトら英国が中心となる中、米国人が緑茶に着目して長崎から大量に輸入したといい「米国人は紅茶同様に砂糖とミルクを入れて味わっていた。やがてリプトンなどが大量生産した紅茶との競争に敗れた」と逸話を披露した。【錦織祐一】


機能性高い新作陶磁器ずらり きょうまで波佐見で展示会
 波佐見焼の新作などを展示する波佐見陶磁器工業組合(松尾慶一理事長)主催の新春展示販売会が7日、東彼波佐見町井石郷の町勤労福祉会館で始まった。8日まで。
 展示販売会は同町や佐賀県有田町、伊万里市などの陶磁器卸業者や直売業者らを対象に毎年開催。同組合に加盟する45社のうち33社が参加し、皿や茶わん、カップなどの日用食器を中心に計約5千点を出品。訪れた業者は器を一つ一つ手に取り、価格やデザイン、重量に至るまで熱心に品定め。2日間で計約230社が訪れる予定。
 今年は電子レンジに対応し、調理後そのまま食卓に出せる鍋やおひつなど、機能性を重視した商品が目立つ。また、坂本龍馬の全身像をかたどった白磁の酒用ボトルも登場。来場者の一人は「龍馬や幕末ブームを意識してか、呉須(あい色の顔料)を多用した古風な絵付けの商品が多い印象」と話した。
 松尾理事長は「この不況下で飛ぶように売れる商品を市場に出すのは難しいが、展示会を通じ、各社が新たな販路拡大の可能性を見いだしてほしい」と期待を込めた。




青森&鹿児島
新幹線つなぐ縁、青森と鹿児島が観光タッグ
本州北端の青森県と九州南端の鹿児島県。

 遠く離れた両県がタッグを組み、2~3月に首都圏で観光キャンペーンに乗り出す。12月に東北新幹線、来春に九州新幹線鹿児島ルートが全線開業すると、新幹線でつながる縁にちなんだ。県土の形が似ているなど、意外な共通点がある両県。「端っこ同士が結ばれる話題性を生かし、観光地や特産品を売り込もう」と意気込んでいる。
 東北新幹線は現在、東京から八戸(青森県)まで。12月に終点の新青森まで延長される。新八代(熊本県)―鹿児島中央間で運行中の鹿児島ルートも、来春に博多―鹿児島中央間の全線で開業を予定。これで新青森から鹿児島中央までの約2000キロが東北、東海道、山陽、九州の各新幹線でつながることになる。
 この機会をとらえ、両県は「もうすぐ開業」をテーマに、共通点や歴史的つながりを紹介しながら一緒に売り込みを図ることにした。
 例えば、ともに大きな半島が二つあり、逆さまにすると形が似ている。1993年には白神山地(青森、秋田両県)と屋久島が同時に国内初の「世界自然遺産」に登録された。どちらも温泉の湧出(ゆうしゅつ)量が多く、アカイカの水揚げ量では鹿児島県が全国1位で、青森県が2位。
 さらに、江戸時代の1842年(天保13年)には、薩摩藩から八戸藩に婿入りした南部信順(のぶゆき)が第9代藩主に就任した。この縁で、幕末の戊辰(ぼしん)戦争で八戸藩は中立を守ったとの史実もある。
 2月5~7日に千葉県習志野市で特産品を持ち寄った観光物産フェアを開く。同5日から3月7日までは、都内にある両県のアンテナショップでスタンプラリーを開催する。「お互いの魅力を競い合うことで、それぞれの良さを際立たせることができれば」と鹿児島県かごしまPR課。青森県新幹線交流推進課も「相乗効果でアピール度は高まるはず。関西方面でも展開したい」と話している。(森洋二)


ビジネス
ファミリーマート/中四国で坂本龍馬関連商品発売
 ファミリーマートは1月12日から2月1日までの期間限定で、16日から高知県で開催される「土佐・龍馬であい博」応援企画として、坂本龍馬にちなんだ商品3種類を中国・四国地区のファミリーマートで発売する。
 「土佐・龍馬であい博」は16日から2011年1月10日まで、JR高知駅前をメイン会場として、高知県内各所で開催される。
 発売する商品は、坂本龍馬が食していたとされる「軍鶏鍋」をモチーフにした「鶏すき重」(税込:498円)や、「土佐・龍馬であい博」のイメージキャラクターをイメージしたおむすびセット「維新おむすびセット」(税込:260円)、龍馬とゆかりのある長崎県の名物料理である「焼ちゃんぽん」(税込:430円)。


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追記。日野駅開業120周年イベントのニュース記事がありましたので、これもご紹介します。

東京
日野駅開業120周年で記念イベント-JRと地元が一体となって実施 /東京
 JR東日本八王子支社(八王子市旭町)と日野市立図書館(日野市豊田)に拠点を置く地元のまちおこし団体「日野宿発見隊」は1月11日、中央線・日野駅が開業120周年を迎えたことを受け、記念イベントを行う。(八王子経済新聞)
 日野駅は地元の有志が寄付する形で1890(明治23)年1月6日に開業。当初は現在地から300メートル北の位置にあった。現在の駅舎は1937(昭和12)年に実施された線路の複線化と駅舎移転を受けて作られたもので、多摩川から続く田園風景と調和するように民家風の駅舎に設計。2008年度の1日あたりの乗降客数は約2万8,000人。
 イベントに合わせてそれぞれが企画を立てた。同社は駅東口広場でかつて使用されていた旧字体の駅名の看板を駅長に進呈する「日野駅名看板贈呈式」を開催。この看板は「駅舎と調和するようケヤキの木で新たに作られたもの」と同社。日野市立図書館の館長から渡されるという。贈呈式終了後、約1カ月間は駅構内に展示するという。式は9時から。
 このほか、記念入場券の販売や小学生以下の子どもたちを対象に駅長の制服を着て行う記念撮影イベント、日野第一小学校(日野本町2)を起点とした記念ウオークなども実施する。なお、記念ウオークは既に定員に達している。
 「日野宿発見隊」は、今月9日から始まる特別展を皮切りに、日野駅をテーマにした「まちかど写真館 in ひの」を31日まで行う。「日野駅と日野宿」をテーマに展示する特別展の会場は「ギャラリー&カフェ大屋」(日野本町4)で、11日まで。「まちかど写真館」では、明治から昭和にかけての日野駅とその周辺の撮った写真を家の外壁などを使って展示する。
 11日には駅東口広場に地元野菜を販売する「やっちゃば市」や「日野宿おでん」「つぼやき芋」の販売、ミニ鉄道の運転などのイベントも行う。開催は10時から。






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 『龍馬伝』サイトを見ていたら、こんな商品を発見しました。

キューティーズ 坂本龍馬 1/6スケール 可動フィギュア

 写真画像で伝えられる坂本龍馬を再現したフィギュアですね。2月中旬発売で予約受付中です。

 付属品にピストルが付いていたら、なおよかったのでは(笑)。




 昨日は立川志の輔の新作落語『はんどたおる』がツボにはまって、涙ぽろぽろこぼしながら笑い転げました。痩せたい痩せたいと言いながらシュークリームをバクバク食うおばちゃん、あなたは私です(汗)。

茨城
桜田門外ノ変オープンセットを見よう
 幕末の城下町にあなたもタイムスリップ――、水戸藩開藩400年を記念して製作される映画「桜田門外ノ変」のオープンセットが水戸市の千波湖畔に10日、完成する。大老井伊直弼を襲撃するシーンなどの撮影開始は20日からの予定。これに先立ち、「桜田門外ノ変」映画化支援の会は14~17日の4日間、小中学生(要応募)に無料でセットを公開する。
 オープンセットは、襲撃の現場である江戸城桜田門周辺や井伊直弼の彦根藩邸、米沢藩邸などが100メートル近く並ぶ。桜田門周辺は城郭や江戸城などが4~5階建てで、周辺に堀を造って水を張っている。
 現在はセットの外観が見放題だが、撮影が始まる20日以降は外側に囲いをめぐらすため、内部の様子は見られなくなる。オープンセットでの撮影は2月18日ぐらいまで。2月1~4日は、井伊直弼を襲撃した雪の日をセットに再現し、ハイライトの襲撃シーンを撮影する。
 一般公開は梅まつりに合わせ、2月20日~4月4日で、当日券は800円。
 オープンセットは撮影終了後は改修され、桜田門外の変に関する資料などの記念展示館になる予定。4月24日のオープンを目指す。小中学生の無料公開に関する問い合わせは同支援の会(029・303・0310)へ。


東京
原宿・浮世絵専門「太田記念美術館」が30周年-名品一挙公開
 原宿の浮世絵専門美術館「太田記念美術館」(渋谷区神宮前1、TEL 03-3403-0880)が今年1月に30周年を迎え、1月3日より名品を一堂に公開する特別記念展「江戸の彩(いろどり) 珠玉の浮世絵コレクション」を開催している。
 同館は1977(昭和52)年、銀座を拠点に活動をスタート。準備期間を経て1980(昭和55)年に、ラフォーレ原宿近くに正式に開館し、今年1月で30周年を迎えた。東邦生命会長を勤めた故・五代太田清藏氏が、多くの浮世絵が欧米へ流出したことを嘆き、大正末期から没年(1977年)までに収集した浮世絵コレクション約1万2千点を中心に所蔵する。
 作品の保存状態の良さに定評があり、靴を脱ぎ畳に座って展示を鑑賞することができる内装も特徴。外国人観光客も含めて毎年4~5万人が来館し、最近では葛飾北斎の肉筆画の優品「雨中の虎」がギメ東洋美術館所蔵の「龍図」と対幅であったことが発見され、話題を呼んだ。
 開館30周年を記念した会場では、菱川派から始まり、錦絵を草創した鈴木春信、寛政時代に人気を博した喜多川歌麿や東洲斎写楽、天保時代に名所絵で名を馳せた葛飾北斎や歌川広重、幕末・明治の錦絵や大正新版画まで、200年以上におよぶ浮世絵の歴史を一望する所蔵展を開催。前期(~1月26日)と後期(同30日~2月24日)にわたって、鳥居清長「真崎の月見」、喜多川歌麿「冨本豊ひな」、葛飾北斎「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」、小林清親「猫と提灯」などを公開する。
 浮世絵の顔料は光などに当たるとすぐに劣化するため、名品になればなるほど展示される機会は限られるが、今回は「当館の所蔵する浮世絵の中でも名品ばかりを選りすぐった。数年に一度しか見られないような作品を一堂に展観できる機会」(太田記念美術館担当者)。今後については、「浮世絵の持つたくさんの魅力を、さまざまな企画を通して紹介していきたい」とも。
 開館時間は10時30分~17時30分。月曜休館(祝日の場合は翌火曜休館)。入場料は、一般=1,000円ほか。2月24日まで。


京都
【おいしい日本 美味・安心の追求】京の湯豆腐
□お店 わら(京都市北区)

 ■“隠れ家”で心もほっこり

 今日は人日(じんじつ)の節句。七草かゆを食べると、病気にかからず長生きするというが、湯豆腐もヘルシーで体にやさしい。
 湯豆腐といえば、京都だ。山と自然に囲まれ、良質な水がわき出て、美味な豆腐ができる。数多くある寺では精進料理として使用したため、味の改良がすすんだ。南禅寺や嵯峨野は湯豆腐のメッカとして知られるが、金閣寺に近い北区衣笠の住宅街に隠れ家的割烹(かっぽう)がある。近くに安産に御利益がある「わら天神」(京都市北区衣笠天神森町)があり、店名を「わら」という。40年前から民家を改造して川口治夫さんと妻の富子さんが切り盛りする玄関に入ると、知人宅に招かれたようにくつろげる。
 「ひととおり」を注文すると、まず、自家製「ごま豆腐」をワサビとサンショウでいただく。「とろろ」はうずらのタマゴを落としている。
 メーンの「湯豆腐」は、あらかじめ特製土鍋にアルカリ水と北海道の利尻コンブを入れて沸かせ、北野天神近くの山本豆腐店で仕入れた、やわらかく、のど越しのよい木綿豆腐、白菜、三つ葉、ユズを温めたのが出る。特製の卓上コンロでさらに温めるのだが、あまり火を通しすぎずに、カツオとコンブのダシにしょうゆを合わせた秘伝の濃いめのタレにつけて食べるのがポイント。「豆腐を炊きすぎると、鬆(す)が入って(できて)しまう」(富子さん)ためだ。鍋から湯気が上がり、沸騰する直前、取り出して口に運ぶと、とろけるような固さの中になめらかな大豆の甘さが感じられる。あつあつの豆腐は、ほっこり身も心も温めてくれる。
 このほか8種類(にんじん、かぼちゃ、さつまいも、のり、れんこん、しいたけ、ゆば、アオトウガラシ)の精進揚げ。そして酒とショウガで炊いたショウガごはんを漬物でいただく。ヘルシーだが、ボリュームたっぷりだ。
 中国で生まれた豆腐が初めて日本に入ってきたのは奈良時代で、遣唐使が持ち込んだといわれている。禅寺の精進料理として洗練される中、油たっぷりの中国とは異なり、あっさり味の豆腐料理が広がった。その過程で湯豆腐も生まれたとみられる。
 大豆をすりつぶす手間がかかっていたが、室町時代に石臼の普及で量産が可能になり、全国に浸透。江戸時代に入ると、庶民の味となり、社寺の門前に精進料理を参拝者に出す店が増えた。今や、日本人の約8割が週に1度は食べるといわれる豆腐は、中国生まれの日本文化そのものかもしれない。
 わらのレシピは、もともと川口さんの母親が高台寺(京都市東山区)の塔頭(たっちゅう)、月真院(げっしんいん)で十数年間、精進料理として出していたものを引き継いでいる。月真院といえば、幕末、新選組参謀、伊東甲子太郎(いとうかしたろう)とその一派が勇らとたもとを分かち、勤王倒幕の御陵衛士(ごりようえじ)として屯所を構えたところ。知る人ぞ知る名店として、全国から常連客が訪れるのも、こういう由緒と無縁ではない。富子さんは胸を張った。
 「住宅街の店まで、来ていただけるようにお客様の期待を裏切らないように伝統を守っていきたいですね」(文 岡部伸)

                   ◇

 【わら】京都市北区衣笠総門町13の3▽TEL075・461・5386▽営業時間 12時~21時(予約が望ましい)▽水曜日定休▽湯豆腐980円、ごま豆腐480円、とろろ480円、精進揚げ880円、ショウガごはん430円、ひととおり3250円

 月真院ゆかりの湯豆腐……いただいてみたいなぁ。



岡山
六島のスイセンツアー募る
 スイセンが自生する笠岡市の六島(むしま)を日帰りで訪れ、群れ咲く白と黄のかれんな花を観賞する「六島水仙浴ツアー」が17日にある。NPO法人、かさおか島づくり海社(がいしゃ)が主催する。
 午前10時に笠岡港を出航。六島灯台が立つ丘など一周約4キロの島あちこちに広がる群生地を思い思いに散策し、笠岡諸島の産物でつくった弁当「しまべん」を味わう。灯台内部の見学も予定。丘からは幕末に坂本竜馬が乗っていたいろは丸と紀州藩の軍艦が衝突し、いろは丸が沈没した海域も望める。午後4時ごろ、笠岡港に戻る。大人3500円、小中学生2500円。定員60人。申し込み先着順。市観光連盟=電話0865(69)2147。



高知
幕末維新の土佐・探訪図絵:志士たちの軌跡や文化紹介 合同企画展も /高知
◇こうちミュージアムネットワーク作製
 県内約50カ所の文化施設でつくる「こうちミュージアムネットワーク」は、幕末から明治維新にかけて活躍した志士たちの軌跡や文化を紹介する「幕末維新の土佐・探訪図絵」を作製した。県内各地での配布に加え、16日から始まる土佐・龍馬であい博のホームーページ(http://ryoma‐deaihaku.jp/tanbou‐zue.html)でもダウンロードできる。【服部陽】
 大河ドラマ「龍馬伝」の放映に合わせて企画。昨年8月から開く学芸員による巡回講座「幕末ゆめ道場」のテキストとして各館の学芸員が執筆を担当。観光客増にもつなげようと、1万1000部を作った。
 図絵(A4判、41ページ)では、坂本龍馬など幕末の土佐藩にかかわる人物相関図や年表を掲載。県内を東部▽中部▽高知城下▽西部--に分け、志士にまつわる史跡を紹介している。さらに漫画に登場した志士を説明するコーナーもある。表紙には江戸時代の高知の地図を使った。
 同ネットでは図絵に加え「志の時代展」と題して、14館での合同企画展を開催。5月までの前期では「龍馬のルーツ」(12日から、県立坂本龍馬記念館)や「龍馬を描いた文学者たち」(2月1日から、県立文学館)などがある。
 同ネットの事務局を務める県文化財団(088・866・8013)は「図絵を見て県内各地を訪ねてもらい、高知の魅力を知ってもらえれば」と話している。


桂浜に鎮座する龍馬像は誰が作ったの?
 高知県の浦戸半島の先端に位置する桂浜に、太平洋のはるか遠くを臨む坂本龍馬像がある。テレビなどでも頻繁に紹介されているこの銅像、見たことがない人でもどんなものかは想像つく方も多いはず。高さが約5m、台座と合わせるとなんと13mに達する巨大な造形物だが、この銅像がいかにして造られたのか、そのエピソードはそれほど知られていない。
 台座に掘られている建設者の名前は「高知縣青年」とあり、具体的な人物の名前は記されていない。実は、この銅像が造られたのは1928年、龍馬像の除幕式が取り行われたのは同年5月27日のこと。実際に発起人となったのは、当時早稲田大学の学生だった入交好保という人物で、後に事業家となり県政顧問などを務めるなど高知県における社会労働運動の指導者の一人だ。
 坂本龍馬に心酔していた入交氏は、その功績を後世に伝えるため「坂本龍馬先生銅像建設会」を仲間3人と発足、新聞で銅像建設を呼びかけた。その呼びかけに賛同した彫刻家の島村治文や"土佐の交通王"と呼ばれた野村茂久馬の助けを借りながら、無銭旅行で県内を遊説し募金活動を実施、活動を盛り上げるために映画を企画するなど多方面への働きかけを行った。
 さらに、龍馬や中岡慎太郎と交友のあった元宮内大臣伯爵である田中光顕を訪れて協力を打診、伯爵の働きかけもあり秩父宮殿下から200円の御下賜金を頂くことに成功したのだ。このことがきっかけで、高知県も本格的に寄付集めに乗り出し、ついに目標としていた募金額に到達、銅像建設が進められることになったという経緯がある。ちなみに、銅像は島村氏の先輩で高村光雲に学んだ宿毛市出身の彫刻家、本山白雲が制作した。
 当時はそれほど人気があるわけでもなかった龍馬だったが、入交氏の強い想いが銅像を完成させた。幕末を駆け抜けた龍馬が今なお輝いて見えるのは、入交氏のように龍馬を愛する人たちのおかげだろう。
 HNK大河ドラマで龍馬を演じる福山雅治さんの印象、ぜひ入交氏に聞いてみたいものだ。


龍馬博 主会場整う
航海疑似体験/幕末の旅籠

 16日に開幕する土佐・龍馬であい博(龍馬博)のメーン会場となるJR高知駅南側の大河ドラマ資料館「高知・龍馬ろまん社中」と観光情報発信館「とさてらす」で、展示物の設営などの準備がほぼ整った。大海原の航海を疑似体験できるコーナーや、幕末の旅籠(はたご)を再現した部分などがあり、出迎えた観光客に坂本龍馬ら志士の活躍の舞台を感じてもらえそう。
 ともに県産木材を多用した木造平屋。駅改札を出て右に進んで最初に立つのが観光案内所の役割を果たす「とさてらす」で、そのさらに南側に「ろまん社中」がある。
 「ろまん社中」では、入り口から巡に、ジオラマや映像などで龍馬の足跡がたどれる。幼少期、江戸での剣術修業、航海術を鍛えた神戸の海軍操練所、長崎の貿易商社・亀山社中の設立などについて紹介。帆船の帆が立つ海軍操練所のブースでは、幅5メートル程度の大きなスクリーンに風景や夜空などを映し出し、ロープ結びなども挑戦でき、航海の一日を疑似体験できる。龍馬の格好で記念撮影できるコーナーもある。
 「とさてらす」の内部は町家をイメージしたブースが連なり、土産物の販売店や、伝統工芸品、祭り、ドラマ関連グッズを紹介するコーナーがある。入り口には県全域を立体的に紹介するジオラマを設置。県内を6ブロックに分け、新しい観光紹介ビデオを放映するシアターもある。京都の旅籠をイメージしたコーナーでは、開館時には漫画「おーい!竜馬」のキャラクターが窓から顔を出す予定。
 昨年12月から情報発信館職員の研修を進めており、現在は土産物の搬入や設備の調整など準備は最終段階。県土佐・龍馬であい博推進課の担当者は「観光客らに、高知の魅力を十分に伝えたい」と意気込んでいる。龍馬博の会場は、メーンとなる高知市のほか、サテライト会場が安芸市、梼原町、土佐清水市に設けられる。
 入場料はメーン会場が500円(小中学生は250円、前売りは400円と200円)、サテライト会場が200円(小中学生は100円)で、すべてに入場できる「通行手形」は700円。前売り券などは全国のコンビニエンスストアやプレイガイドで購入できる。
 問い合わせは同課(088・823・9706)。


幕末維新の土佐・探訪図絵:志士たちの軌跡や文化紹介 合同企画展も /高知
◇こうちミュージアムネットワーク作製
 県内約50カ所の文化施設でつくる「こうちミュージアムネットワーク」は、幕末から明治維新にかけて活躍した志士たちの軌跡や文化を紹介する「幕末維新の土佐・探訪図絵」を作製した。県内各地での配布に加え、16日から始まる土佐・龍馬であい博のホームーページ(http://ryoma‐deaihaku.jp/tanbou‐zue.html)でもダウンロードできる。【服部陽】
 大河ドラマ「龍馬伝」の放映に合わせて企画。昨年8月から開く学芸員による巡回講座「幕末ゆめ道場」のテキストとして各館の学芸員が執筆を担当。観光客増にもつなげようと、1万1000部を作った。
 図絵(A4判、41ページ)では、坂本龍馬など幕末の土佐藩にかかわる人物相関図や年表を掲載。県内を東部▽中部▽高知城下▽西部--に分け、志士にまつわる史跡を紹介している。さらに漫画に登場した志士を説明するコーナーもある。表紙には江戸時代の高知の地図を使った。
 同ネットでは図絵に加え「志の時代展」と題して、14館での合同企画展を開催。5月までの前期では「龍馬のルーツ」(12日から、県立坂本龍馬記念館)や「龍馬を描いた文学者たち」(2月1日から、県立文学館)などがある。
 同ネットの事務局を務める県文化財団(088・866・8013)は「図絵を見て県内各地を訪ねてもらい、高知の魅力を知ってもらえれば」と話している。


山口
本格的幕末映画を山口県の地元企業が制作!吉田松陰生誕180年記念『獄(ひとや)に咲く花』がアツイ!
[シネマトゥデイ映画ニュース] 近代日本の礎を築いた幕末の偉人、吉田松陰生誕180年を記念して地元山口県及び県内企業が後援・協賛して制作された映画『獄(ひとや)に咲く花』の予告編が解禁され、クオリティーの高い本格的時代劇に仕上がっていることがわかった。

映画『獄(ひとや)に咲く花』

 吉田は、江戸幕府終えんという変革の時代に私塾松下村塾を開き、木戸孝允をはじめ久坂玄瑞、伊藤博文、前原一誠など維新の指導者となる人材を育てた教育者であり、明治維新の精神的指導者として知られている。

 テレビドラマ「JIN-仁-」「龍馬伝」「新撰組PEACEMAKER」など幕末ものが話題を呼ぶ中、本作は山口県在住の直木賞受賞作家古川薫の「野山獄相聞妙」を原作に、老中暗殺計画を企て処刑された吉田の短い生涯を女囚久の目を通して描く。

 吉田の地元山口県や県内各企業が後援・協賛し、下関市の映画制作会社グローカル・ピクチャーズが制作。代表取締役であり製作総指揮を務める前田登氏は、下関にある辛子明太子製造メーカー前田海産で財を成した前田一男初代社長の実息に当たる人物。これまでも幕末を舞台にした、松田龍平出演の映画『長州ファイブ』を世に送り出している。

 前田氏は「残念ながら、人や物を愛する心がどんどん失われています。人や物を愛するには、日本を愛し、故郷を愛する心が必要です。今では吉田松陰の名前すら知らない若者が多いのです。昨年の没後150年、今年の生誕180年の期にわれわれの誇り吉田松陰先生を堂々と日本に、世界に知らしめたいと思います」と制作意図を明かす。グローバルとローカルを組み合わせた造語の社名が示すように、地方から世界へ羽ばたく日本映画誕生となるか? 2月6日には山口県内で先行公開が行われる予定。

映画『獄(ひとや)に咲く花』は4月、有楽町スバル座ほかにて全国公開



文化芸能
やっぱりダメ? NHK大河ドラマ『龍馬伝』に黄色信号
 今年のNHK大河ドラマ『龍馬伝』の第一回目が1月3日に放送された。日本史の中でも最高のネームバリューを持つ坂本龍馬を、好きな男性ランキングなどでは常に上位をキープ、歌手・俳優として活躍する福山雅治が演じる。近年まれにみる強力な布陣でのぞむも、なんと視聴率で昨年の『天地人』の第一回目に負けるという結果になった。
 NHK大河ドラマには“幕末モノは視聴率を稼げない”というジンクスがある。「戦国時代モノは“天下統一”などテーマや目的が非常にわかりやすく、迫力ある合戦シーンも演出できます。しかし、幕末モノは思想や人間関係が入り組み、歴史が好きな視聴者でない限り物語がわかりにくくなる傾向があります」(テレビ局関係者)。ただ例外もあった。「2008年度に放送した『篤姫』は難解な政治背景などは横に置き、ホームドラマのようなつくりにしたのが成功のカギだったのでしょう」(テレビ局関係者)。
 しかし、紅白にも福山雅治を出場させるなど話題性は十分だったはずだ。関係者も動揺を隠せないという。「『天地人』は主役こそ妻夫木聡であったものの、直江兼続という非常にマイナーな人物を取り上げました。それに負けたことはNHKも相当ショックでしょう」(テレビ局関係者)
 2004年の『新選組!』は脚本を知名度のある三谷幸喜が手がけ話題は呼んだが高視聴率をとったとは言いがたい。しかし、第一回目は高視聴率を記録。これが年間の最高視聴率となった。「下手すれば『龍馬伝』も第一回目が最高視聴率だったなんて結果もあるでしょう。そうなればNHKも今後、大河ドラマの放送を考えなおさなければいけない状況になるかもしれません」(テレビ局関係者)。
 第一回目から不安な出だしとなった『龍馬伝』。果たして福山雅治が演じる坂本龍馬はジンクスを破り、新しいNHK大河の歴史を築くことはできるのだろうか? いや個人的には応援したい。

 内外タイムスのコラム……第一回の視聴率が『天地人』に及ばなかったからといって、そこまで話を膨らませなくても^_^;。

「龍馬伝」の経済効果444億円!
 今年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」が3日からスタート。歴史上の人物の中でもファンが多いとされる坂本龍馬を取り上げた作品で、関連商品・サービスが続々と登場しているが、実際のところ経済効果はどのくらいなのか。
 放送開始に先立ち、舞台となる高知、長崎への経済波及効果が試算・発表されている。これによると、高知県への経済効果は約234億円(日銀高知支店試算)、長崎県への経済効果は約210億円(日銀長崎支店試算)。いずれも観光客の増加(直接効果)とそれに伴う間接的な消費増(間接効果)を試算したものだ。ちなみに、2008年の「篤姫」は約296億円(日銀鹿児島支店試算)、2009年の「天地人」は約204億円(日銀新潟支店試算)だった。
 一方、龍馬人気に期待するのは地元だけではない。ユニークなコンセプトの飲食店で知られるダイヤモンドダイニング(本社・東京)は、首都圏に「竜馬が如く」「龍馬外伝」「龍馬邸」という3つの"龍馬居酒屋"を展開。幕末の雰囲気や土佐の郷土料理などで人気を集めているという。また、秋葉原の「戦国メイドカフェ&バーもののぷ」は、昨年11月に1週間の期間限定イベントで"幕末カフェ"をオープン。京都でも昨年10月30日、11月1日の2日間、佛教大の学生らが「龍馬カステラ」を看板メニューに期間限定「幕末北野カフェ」を開き、いずれも盛況だったようだ。さらに、龍馬関連本も相次いで刊行されており、昨年から今年にかけて"街を歩けば龍馬に当たる"ような状況になっている。
 そのほか、大河ドラマの視聴率と株価には連動性があるという調査結果(大和証券SMBC金融証券研究所)も。「龍馬伝」の初回平均視聴率は関東23.2%、関西21.0%(ビデオリサーチ調べ)だった。昨年の「天地人」(関東24.7%、関西21.8%)よりやや低いが、それでも20%を超える好調な出足だ。これから1年の長丁場だが、高視聴率を最後まで維持できるか。ドラマのストーリーも気になるが、関連商品の売上増、さらには株価、景気アップも?!と思うと目が離せなくなりそう。

 書籍関係だけでも龍馬特需はすごいと思います。

元NHKアナ松平氏が案内する歴史ツアーも登場
 今年の大河ドラマが「龍馬伝」とあって、坂本龍馬ゆかりの地が注目されている。生誕の地・高知県では今月16日から来年1月10日まで「土佐・龍馬出あい博」を開催。大手旅行代理店なども龍馬に関連した様々な国内ツアーを企画している。高知だけでなく、後々ドラマの舞台として登場予定の長崎や京都も人気が高いようだ。
 JTBは「熱き志士の足跡をたどる維新伝心の旅 坂本龍馬」と題したパッケージツアーを発売。高知、京都、長崎の他、おりょうとの新婚旅行の地である鹿児島・霧島、勝海舟と長崎へ向かう途中に歩いた阿蘇・熊本・島原へのコースも設けた。近畿日本ツーリストも「竜馬の道」と題し、高知、長崎、京都の3都市でそれぞれ龍馬ゆかりの地を巡るツアーを企画している。
 このように当時の龍馬に思いをはせながら歴史に登場する場所を巡るツアーが多い中、一風変わった龍馬関連ツアーもある。
 ANAは、NHKの番組「そのとき歴史が動いた」のキャスターだった松平定知氏を旅の案内役にした「松平定知先生と巡るANA歴史ツアー」を2~3月に実施予定。龍馬ゆかりの霧島、長崎、高知と、「坂の上の雲」の町・松山の4つのコースが設けられている。
 近畿日本ツーリストは「歴ドル・美甘子と巡る坂本龍馬 幕末歴史検定受験対策ツアー」を企画。3月21日に全国4都市で開催される「第2回坂本龍馬 幕末歴史検定」の参加者向けのツアーだが、歴史上の人物では坂本龍馬が一番好き、という歴ドル・美甘子による講義がついたオプショナルツアー「美甘子と宴会!」も用意されている。
 街巡りでは、長崎市が企画する「長崎さるく」の地元ガイドつきツアー(要予約)が人気で、すでに昨年の10倍もの集客を記録しているとの報道も。また、京都には龍馬の足跡を自転車でたどるサイクリングツアーなどもあり、今後、ドラマの舞台が長崎や京都に移れば、さらに人気は高まるだろう。
 もともと幕末史の中で高い人気を誇る坂本龍馬。今年は大河ドラマでさらに注目度が上がるため、今後も関連のツアーや企画が登場するはずだ。掘り出し物のオモシロツアーを探すのも楽しいかも。

 これまた、龍馬特需……(^^ゞ。

「龍馬伝」の題字を書いたあの人
 いよいよはじまった2010年のNHK大河ドラマは、福山雅治演じる坂本龍馬の生涯を描く「龍馬伝」。大河ドラマとしては1968年に北大路欣也が演じて以来2度目となる龍馬だが、特に目を引くのがその細身の文字に力強さと鋭利な刀を感じさせる題字だろう。今回「龍馬伝」の題字を担当したのは、日本人女性書家として多くの作品を手がける紫舟氏。最近ではスズキが発売した新型アルトのTVCMにも登場するなどその活動は多岐にわたっている。
 過去のNHK大河ドラマを見てみると、妻夫木聡演じる直江兼続が好評を博した「天地人」で題字を作成したのは、講演会や著書をはじめパフォーマンス書道なるライブ活動を数多く手がけている武田双雲氏。東京理科大学理工学部卒でNTTに勤務していたという異色の経歴を持つ。また、宮崎あおいが好演した「篤姫」では、NHKの情報番組「クローズアップ現代」などのタイトルで知られる書家・菊池錦子氏が題字を担当した。
 他にも、1998年に放送された司馬遼太郎原作「徳川慶喜」では、主演を務めた俳優の本木雅弘が、1990年に放送された「翔ぶが如く」では原作者の司馬氏本人が制作している。個人的には、NHK大河ドラマといえば「独眼竜政宗」演じる渡辺謙の強烈なインパクトが今でも思い出深いが、このときの題字は日本刻字協会会長や全日本書道連盟理事を歴任した長揚石氏(本名は長谷川清)の手によるもの。
 ちなみに、1963年放送の第1回NHK大河ドラマは、江戸幕府の大老で桜田門外の変で命を落とした井伊直弼の生涯を描いた「花の生涯」だったが、その題字はなんと彦根市長を務めた経験もある井伊直愛氏。曾祖父が直弼にあたり、ご先祖様を描いたドラマに題字で子孫が参加するという珍しいパターンも。
 NHKドラマでは書道を題材にした漫画を原作した『とめはねっ!』が本日より放送がスタートされるなど、にわかに書道が脚光を浴びている。しかし、プリンタにお任せした年賀状が大量に届いている様子を見るにつけ、ブームの兆しはまだ私のもとには届いていないようだ。



中村獅童、苦い思い出とともに“森の石松役”への思い入れ語る
 俳優の中村雅俊、中村獅童らが7日、都内で行われた時代劇『ジロチョー 清水の次郎長維新伝』(テレビ東京系)の完成披露会見に出席した。森の石松役を務めるのは3回目で、とても思い入れがあるという獅童は、「舞台で座長としてやらせてもらったのが最初。酒気帯び運転で問題を起こした後だったので、次郎長親分から『酒だけは飲んでくれるなよ』、『ヘイ!』っていうお決まりのセリフがあるんですが、観たお客さんからあれはアドリブかと聞かれた苦い思い出があって……それくらい思い入れがあります」と自虐的に過去を振り返り、笑いを誘った。
 同作は動乱の幕末を舞台に、町人としての粋を貫く海道一の大親分・清水次郎長(中村雅俊)とその一家の物語を描いた時代劇で、CGやワイヤーアクションを駆使して制作。また、パチンコ台とドラマを同時進行で制作するという業界初のコラボレーションも実現させており、桶屋の鬼吉役の真木蔵人は、「自分としては3年ぶりで久しぶりの撮影現場だった。(ドラマの)出来上がりよりは、早くパチンコに行って自分の目を揃えたいと思います」とジョーク交じりに語った。
 自身3度目となる清水の次郎長役を演じる中村雅俊は、義理と人情に溢れ、力強い今までの次郎長作品とは一風変わっているという同作について「一番の特徴は、弱い次郎長。人間としての弱さを出してしまう次郎長がこの先どうなるか…ってところですね」とアピール。また次郎長の妻・二代目お蝶役の黒谷友香との20歳以上の年の差がある夫婦役については、「わかんないけど、キャスティングの方は、よく選んでくれた。ただ、本当に嬉しかった!」と素直な感想を語り、黒谷も「こういう夫婦に憧れるなって思って演じました」と撮影を振り返った。
 会見にはほかに小政役の萩原聖人、法印大五郎役の木下ほうか、関東綱五郎役の袴田吉彦、黒駒の勝蔵役の佐野史郎、大政役の内藤剛志が出席。時代劇スペシャル『ジロチョー ~清水の次郎長維新伝~』はテレビ東京系にて13日(水)後9時より放送。




IT
ケータイ国盗り合戦、JR西日本の提供で坂本龍馬の生涯を辿るコースを
公開~ 激動の日本を切り拓いた坂本龍馬の足跡を追え! ~

 株式会社マピオン(東京都千代田区、代表取締役社長 佐藤孝也)は、株式会社ジェイアール東日本企画(東京都渋谷区、代表取締役社長 佐々木信幸)と共同で、弊社が運営する『ケータイ国盗り合戦』にて、西日本旅客鉄道株式会社(以下JR西日本)の提供により、2010年大河ドラマの主人公である坂本龍馬の生涯にスポットを当てた期間限定の武者修行コース「龍馬の足跡をゆく」を公開します。

■ 武者修行コース『龍馬の足跡をゆく』

【実施期間】 旅立ち編:2010年1月16日(土)~3月31日(水)
※プレゼント応募締切は、4月1日(木)正午まで

疾走編:2010年4月1日(木)~6月30日(水)
※プレゼント応募締切は、7月1日(木)正午まで
【URL】 http://kntr.jp/

【利用料金】 無料

【コース内容】
 旅立ち編では、全部で20ヶ所を用意しています。
「龍馬、誕生コース(高知)」…坂本龍馬像(桂浜)など7ヶ所
「龍馬、夢と希望コース(長崎)」…長崎まちなか龍馬館など5ヶ所
「龍馬の夢、お龍の愛コース(下関)」…功山寺など5ヶ所
「龍馬、夢とロマンの足跡コース(鞆の浦)」…いろは丸記念館など2ヶ所
「龍馬、航海術と青春コース(神戸)」…海軍繰錬所跡碑など4ヶ所
「龍馬、終焉コース(京都)」…幕末維新ミュージアム「霊山歴史館」など5ヶ所


【参加方法】
 上記の対象スポットに設置されたQRコードから、専用ページへアクセス。なおスポットによってはQRコードを使用せず位置情報の取得により攻略できるスポットも含まれます。
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■ キャンペーン概要
 激動の幕末を駆け、日本の夜明けを切り拓いた坂本龍馬。彼が生まれた高知に始まり、波乱の一生を終えた京都に至るまで、計20ヶ所に及ぶゆかりの地を巡っていただきます。
 これまでの『ケータイ国盗り合戦』のキャンペーンでは、対象スポットから数km離れた電車内や車中などで位置情報を取得して攻略することが可能でした。
 今回の『龍馬の足跡をゆく』では、現地にQRコードを設置(一部は位置情報を取得)しており、実際に各攻略スポットに訪れ、QRコードからアクセスすることではじめて達成となります。
 計20ヶ所の対象スポットは、全6つのコースに分かれています。それぞれのコースは、最寄の駅から徒歩や二次アクセスを利用して周ることのできる場所で構成されているため、坂本龍馬ゆかりの場所を目で見て手で触れて、これまでの期間限定キャンペーンを超える感動を体感していただくことを期待しております。

■ キャンペーン参加特典
 上記コースのうち1コース以上を達成した方には、『ケータイ国盗り合戦』内の限定アバター「龍馬セット(紺)」と称号「海援隊長」などをプレゼントいたします。

■ 抽選でご当地名産品などをプレゼント
 各コース達成者の中から抽選で、地域ゆかりの名産品を差し上げます。
「龍馬、誕生コース(高知)」…藁焼き鰹タタキ一節・トロ刺身一節セット(5名)
「龍馬、夢と希望コース(長崎)」…長崎ちゃんぽん 皿うどんセット(5名)
「龍馬の夢、お龍の愛コース(下関)」…大吟醸仕込み 関のうに(5名)
「龍馬、夢とロマンの足跡コース(鞆の浦)」…保命酒ケーキ 仙酔仙人(5名)
「龍馬、航海術と青春コース(神戸)」…神戸ワイン(赤)(5名)PORT OF KOBEキャップ(1名)PORT OF KOBEペン(3名)
「龍馬、終焉コース(京都」…あん八ツ橋4種詰合せ(5名)
 さらに、全6コース制覇した方の中から抽選で、素敵なオリジナル賞品をご用意しております。
全6コースクリア…『龍馬の足跡をゆく』オリジナル戦歴プレート(5名)


■ 実施予定プロモーション
 期間中、下記のプロモーション活動を予定しています。
・JR西日本管内の駅で「龍馬の足跡をゆく」の案内パンフレットを配布
・JR西日本管内の電車内で交通広告を掲出
・坂本龍馬に関するリアルイベントを実施

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戦国スタンプラリー『ケータイ国盗り合戦』
http://kntr.jp/ (携帯電話よりアクセス)

『ケータイ国盗り合戦』は、
(1)ユーザーが戦国武将になりきり、
(2)全国各地へ実際に出かけて、
(3)携帯電話でその場所の位置情報を取得(=【国盗り】)し、
(4)制覇した国数の履歴を蓄積し、
(5)出かけた先の思い出を仲間と共有して楽しむ

戦国時代をモチーフにした、携帯電話で遊ぶスタンプラリーゲームです。

【利用料金】 無料

【利用端末】
NTTドコモ:FOMA70x、90x、docomo STYLE seriesdocomo PRIME series、docomo SMART series、 docomo PRO series(i-mode対応機種のみ)
au:WINおよびA5000機種
SoftBank:Vodafone/SoftBank 3G機種、iPhone 3GS/3G
WILLCOM:Opera、またはNetFront 3.4以上をインストール済みの機種(但し、スマートフォンを除く。)

※GPS機能を搭載していない端末でもご利用いただけます。

※『ケータイ国盗り合戦』は、マピオンとジェイアール東日本企画の登録商標です。

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このニュースリリースに関するお問い合わせ・取材等は下記まで
http://www.mapion.co.jp/cmj/inquiry.html

株式会社マピオン
〒101-0065
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TEL:03-5275-2158 FAX:03-5275-2019

※記載されている社名・サービス名等は各社の商標および登録商標です。


コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(44)東大教授・山内昌之 坂本龍馬(下)
死の真相と歴史の闇

 志士という存在や脱藩なる行為は、言葉の響きが連想させるほど明澄なものとはいえない。江戸時代のような封建社会では身分格式がすべての価値観や序列を定める基準となる。そこで身分を上昇させるのは至難の業であり、藩の束縛を逃れ、自由に経綸(けいりん)を振るいたい野心家なら脱藩してもおかしくなかった。それが幕末であった。
 そして、尊王の志士となって君臣の関係から脱し、天皇の直臣となるなら、脱藩という“重大犯罪”を免訴されると期待したのかもしれない。
 しかし、政治の世界は今も昔もそれほど甘くない。薩摩の島津久光が寺田屋事件で抗命した家臣を粛清したように、土佐の山内容堂は土佐勤皇党の武市瑞山(たけちずいざん)こと半平太を切腹に処した。
 土佐では、山内家による郷士(長宗我部家の遺臣の末裔=まつえい=)に対する身分差別が徹底しており、あるいは薩摩における城下士と外城士の区別以上にうるさかったかもしれない。容堂からすれば、郷士の分際で藩論を議するどころか、君命に反して脱藩するなど不埒(ふらち)そのものであった。

 ≪脱藩浪士の保護実現≫

 こうしたなかでも龍馬の偉いのは、郷士も武士たる者として矜持(きょうじ)をもつべきと考えながら、ぎらぎらした上昇志向であくせくしなかったことだ。実家の才谷(さいたに)屋が裕福な町人郷士だったとはいえ、龍馬には政治の熱狂や有名病から一線を画する聡明(そうめい)さがついてまわった。
 その大きな業績は、大政奉還論もさることながら、生命の安全さえ保証されない志士、すなわち脱藩浪士の保護を実現した大局観にもあった。まさに日本史家、井上勲氏の新著『坂本龍馬』は、龍馬による薩長同盟の切実な動機として志士の保護という点を挙げている。志士を庇護(ひご)してきた長州藩と、庇護する能力をもつ薩摩藩を和解させ、志士の生命保証をはかろうとしたというのだ。
 両藩が一致結束すれば、土佐藩なども脱藩志士たちをむげに処断できなくなる。誰の目にも、山内容堂だけが突出して自藩の人材を消耗させる愚を犯せなくなることは明らかだった。
 このあたりの龍馬の政治センスは抜群である。日本国家の将来を憂えて献身する姿勢は、薩長に限られたことでなく、藩を超えて志士たちに共通していた。
 この薩長を結びつけた点に龍馬の非凡なゆえんがある。薩摩藩には有力大名(福井藩の松平春嶽=しゅんがく=、宇和島藩の伊達宗城=むねなり=、土佐藩の山内容堂)との密接な関係があり、長州藩には志士からの長きにわたる信望があった。もし薩長連合が成立すれば、直接ではないにせよ、「有志大名と志士とが同一の勢力圏に収納される」という井上氏の表現はまことに巧みである。
 しかし、薩長連合のように昨日まで長州藩最大の敵だった薩摩藩と和解させるのは、一般論としても容易ではない。それどころか、その双方から、あるいは一方から二心を抱く者とか、陰謀家として睨(にら)まれる場合もあったに違いない。
 井上氏は、龍馬に対して薩長両藩のリーダーの信頼は厚くて揺らがなかったとするが、新著ではなぜか、龍馬暗殺の謎や背景については触れていない。思うに、これは実証的禁欲性と仮説的構想力との間に微妙な緊張空間をあえて設けようとしているからだろう。
 しかし、歴史の謎の探索は、結果として悲劇のロマン的解明にもつながる。誰もが謎解きに参入したがる龍馬伝説に魅(ひ)かれる者たちからすれば、新著で碩学(せきがく)の解釈をぜひとも聴きたかったはずだ。

 ≪薩摩から流れた情報≫

 龍馬暗殺は、今井信郎(のぶお)ら見廻組の仕業という説が濃厚である。しかし、龍馬が暗殺される近江屋に泊まっていた事実は、薩長土の要人しか知りえなかったのではないか。だとすれば、見廻組は龍馬の居所をなぜにつきとめたのか。
 薩長、特に西郷隆盛や大久保利通の大政奉還から王政復古にかけての権謀術策は日本政治史でも稀有(けう)なほど凄(すさ)まじい。常識論からすれば、武力倒幕に慎重な龍馬の政治姿勢に薩摩藩が最後まで寛大だったとは思えない。
 作家の中村彰彦氏は、見廻組与頭(くみがしら)の佐々木只三郎と薩摩藩の高崎正風(まさかぜ)が歌会で常に一緒だった筋で、龍馬情報が薩摩から見廻組に流れたのではと、私との対談で語ったことがある(『中央公論』2010年1月号)。残念ながら私としては、史料の壁や沈黙でなかなかに踏み込めない「歴史の闇」が存在するという以外に語るすべがない。
 ところで、井上氏は、言論が信頼を得られるか否かの基準について、内容にもまして発言者の人格を重視している。言説の内容が発言者の利害に出ているのか、それとも真にそれへ賭けている志の表れなのか、ということである。もちろん龍馬は世に得がたい至誠の人であった。この点で純粋かつ無垢(むく)にロシアの専制社会の変革を志して死んでいったインテリゲンツィアの精神にもどこか通じる。
 しかし、龍馬の場合には、ロシアのインテリゲンツィアより、はるかに妥協の芸術としての政治性も高いのが特徴である。明治の新時代に生きて政治家や企業家として大成した龍馬を思い描くのは、日本人の見果てぬ夢なのかもしれない。(やまうち まさゆき)

 山内教授が薩摩黒幕説に傾いていることは興味深いです……自分も、理屈以前に直感的にそう思っているせいか^_^;。





東京でも寒さが身体に浸みる朝でした。大雪が降った地域の方々は、さぞ大変なのでは……。

北海道
土方・龍馬になりきって 函館の写真館で「サムライスタイル」人気
【函館】函館の新成人の間で、谷杉写真館「写楽館」(美原3、谷杉アキラ代表)が提供している撮影メニュー「サムライスタイル」が人気だ。土方歳三や坂本龍馬など、幕末に活躍した志士をイメージした格好で撮影する。谷杉代表は「これから社会に出る函館男子に、自分がヒーローだという自信や勇気を持ってほしい」と話している。
 同写真館は、土方歳三を撮影した幕末の写真師、田本研造の写真場が前身。谷杉代表は昨年8月、築100年の旧小林写真館(大町2)の館主となり、「レトロモダン」をテーマにしたノスタルジックな風合いの特殊加工撮影を始めた。
 写楽館でも「函館らしい撮影メニューを」と、昨年秋から土方歳三の格好で撮るサムライスタイルを始めたところ、若い男性に好評を得たという。今回は成人式に向け、坂本龍馬風のスタイルも新たに加えた。
 衣装は小樽や札幌の古道具屋で探したり、京都の呉服屋に注文するなどして集めた。「あくまでもコスプレではなく、その人の個性を生かしたい」と谷杉代表。土方歳三の洋装に革手袋、坂本龍馬の着物にブーツや襟巻きなど、個人の雰囲気に合わせてコーディネートする。写真はパソコンで加工し、シックな色調に仕上げる。
 サムライスタイルは年齢や性別を問わず誰でも撮影できる。成人式の記念に土方スタイルで撮影した市内の専門学校生、●●●●さん(19)は「照れくさかったけど、気が引き締まる感じがしました」と感慨深げだ。
 撮影料は、フォトブック(6ページ)仕立てで1万8千円だが、成人式の記念撮影とセットにすると半額になる。詳細はホームページ(http://www.tanisugi.com)か、写楽館 (電)0138・46・4554へ問い合わせを。(松崎聖子)
 美原だと函館の観光スポットからちょっと離れてますね(函館周辺に住んでいる方々が車で買い物に行くエリアの近辺でしょうか)。

山形
兼続手掛けた治水解説 東北大の後藤准教授が小冊子
 戦国大名上杉景勝の重臣として知られる直江兼続(1560~1619年)にゆかりがあり、米沢市に点在する土木施設を紹介する小冊子「直江兼続のまちづくり」(土木学会東北支部発行)ができた。
 執筆したのは東北大大学院工学研究科の後藤光亀准教授(水環境工学)。米沢市教委や郷土史専門家の協力で、先人が築いた施設を「治水編」と「利水編」の2冊組みにまとめた。
 米沢は暴れ川だった松川(最上川)などの扇状地に位置する。兼続は洪水対策などを手掛けた。慶長年間(1596~1615年)に着工し、現存する谷地河原堤防(直江石堤)などは2008年、土木学会の選奨土木遺産に認定された。
 後藤准教授は、江戸時代初期から幕末までの米沢を描いた絵図を分析し、現状と比較。川の流れが岸にぶつかる位置に石積みを設けたり、蛇行する河道を直線に近づけたりしていたという。「治水編」では、そうした過程を近世の地図や衛星写真も使い、分かりやすく説明している。
 「利水編」では、複数の水系から米沢城本丸(現上杉神社)の周辺へ張り巡らされた水路網を図説した。埋め立てや地下化が進む一方、融雪溝として米沢の暮らしを今も支える点を強調する。
 後藤准教授は「米沢の発展を支えるため、先人が長い年月をかけて整備した施設が多く残されていて貴重だ」と話す。
 治水編、利水編ともA4判8ページ。各1万部作製し、米沢市の教育関係機関などに配布した。非売品。連絡先は土木学会東北支部022(222)8509。


東京
龍馬にあやかって恋愛成就!? 最も地味な龍馬ゆかりの珍スポット
 いよいよ満を持してスタートしたNHKの大河ドラマ『龍馬伝』。民放のCMまでもが便乗して龍馬一色の感がある。龍馬の墓や寺田屋など、龍馬ゆかりの地は、さぞ賑わっていることだろう。そんな中、もっとも地味な龍馬ゆかりの珍スポットを訪ねてきた。
 JR品川駅から京急に乗り換え、電車に揺られること数分。立会川駅に到着。降りた瞬間から、商店街は旗や看板など、見るものすべて龍馬だらけ。「若き日の龍馬がゆく」というキャッチフレーズと似顔絵のオンパレードだ。
 たしかに龍馬が世話になった土佐藩の屋敷があり、ペリーの黒船来航時に築かれた砲台跡もある。そもそもこの近辺は品川湾があった関係で、幕末に重要な拠点となっていた。鳥羽・伏見の戦いに敗れた新撰組もここを訪れ、榎本武揚もここから五稜郭へ旅立っている。しかし実際にはたいした事件が起きたわけでもなく、桜田門外の変で水戸浪士が最後の宴を開いたという旅籠もあったが、今ではコンビニになっていたりする始末。歴史的価値に関しては乏しいと言わざるを得ない。
 ぶっちゃけ、若き日の龍馬が駆け抜けたというよりは、素通りしていった街と行った方が正しいのかもしれない。だが、そんなイチャモンは気にも留めず、立会川商店街は坂本龍馬をプッシュしまくる。その象徴が何といっても、駅前の公園にある坂本龍馬像だろう。ずいぶんと色鮮やかな銅像だなと思いきや、なんとプラスチック製。
 実は数年前に工事現場から大量の岩石が発掘されたので調査したところ、かつての砲台跡であったことが判明。しかも龍馬の故郷、高知からわざわざ運んできたらしいということで、わざわざ発掘した石を商店街のおじさんたちが高知市へ返しに行ったのだという。
 その時、偶然に立ち寄った料亭の庭に飾られていたのが、このプラスチック製の龍馬像だった。プラスチック製のものから、もっと立派な本物の銅像に作り替えるという、料亭の主人の話を聞いた商店街メンバーは、「捨てるくらいならば…」と譲り受けてきたのだという。実に取って付けたような、ほのぼのエピソードである。
 さて、次に向かったのは敷石が発掘されたという浜川砲台跡。
 行ってみると、水道局のポンプ場になっており、壁面には80年代風のファンシーな龍馬のイラストが描かれている。その手前にあるのが砲台跡らしい。看板には、若き日の龍馬がこの砲台の警備にあたったと書かれている。一応ゆかりはあるようだ。
 さすが龍馬ブームの真っ最中だけあって、こんな地味でパッとしない史跡にも、歴女(レキジョ)たちの姿が散見される。そして始まる高濃密度の幕末談義。さらに「キャー、カワイイ~☆」という場違いな喚声まであがる。
 何の事はない、発掘されたと覚しき敷石が、碑のように積み重ねられているのだが、その中央にハートの石がポンと置かれているのだ。なんとなくハートに見えなくもない、その程度だ。しかし勝手に盛り上がった彼女たちは「中岡慎太郎似の彼氏ができますように!」と祈願して、去っていった。恋愛成就の御利益があるかどうかは定かでないが、本人たちが満足ならば、それで良いのだろう。
 立会川といえば、数年前にボラが大量発生してワイドショーで話題になった。その時には橋の名前を「ボラちゃん橋」に変え、「ボラちゃん音頭」まで作ったにも関わらず、翌年からはパッタリとボラは姿を現さなくなったという哀しい過去がある。今回の龍馬ブームこそは、しっかりチャンスを掴んで全国にその名を馳せていただきたい。
 大河ドラマの方では、いよいよ次回、黒船が来航するだけに、浜川砲台が登場するか否か!? 立会川が人気スポットに昇格するか否かも、そこに懸かっている。

(犬山秋彦 山口敏太郎事務所)

参照 山口敏太郎公式ブログ「妖怪王」
http://blog.goo.ne.jp/youkaiou
 旧東海道の品川宿沿いの史跡巡りの話ですが、取り上げ方が上手で読ませます。プラスチック製の龍馬像、拝みに行こうかしら(笑)。
 「中岡慎太郎似の彼氏ができますように」って、Vさんですか?

長野
井月映画「ほかいびと」クランクイン
 幕末から明治にかけて伊那谷を放浪した俳人・井上井月の映画、「伊那の井月 ほかいびと」の本格的な撮影が始まった。
 このほどは、主人公の井月を演じる俳優の田中泯(たなかみん)さんがクランクインし、井月が「鉢たたき」に出会うシーンの撮影をした。
 「鉢たたき」とは、鉢や瓢箪などを叩きながら、念仏を唱えて歩いた半俗の僧侶のこと。
 監督は、伊那市出身の映像作家・北村皆雄さん。 
 また、主人公の井月を演じる田中泯さんは、映画「たそがれ清兵衛」で最優秀助演男優賞を受賞している。
 クランクアップは、井月の命日である来年の3月10日で、映画の公開は来年9月頃を予定している。
 映画の制作は、井上井月顕彰会が顕彰事業の一環として取り組んでいる。制作費はおよそ3800万円を見込んでいて、企業や個人からの協賛を募集している。



愛知
わが街の歴女たち:/5 豊田市の松田恵子さん 若者の夢詰まった新選組 /愛知
◇時代の流れに命懸けた魅力「空想交え思いはせる小説」
 激動の幕末を駆け抜け、歴史好きの人々を魅了する新選組。「国のためとか、貧しいから偉くなりたくて、とか、いろんな人がいろんな思惑で入っています。若者の夢が詰まっているし、時代の流れの中で命をかけて頑張ったところなど魅力的な集団ですね」。豊田市の中学社会科教師、松田恵子さん(26)は新選組にひかれる理由をこう説明する。
 北海道生まれの北海道育ち。劇作家、三谷幸喜さんのファンで、三谷さんのドラマ、映画はほとんど見た。北海道大学文学部に在籍中の6年前、三谷さん原作・脚本のNHK大河ドラマ「新選組」の放映時は毎週テレビの前に座った。
 彼らの活動の舞台をぜひ見たい、と2泊3日で京都市を旅行した。市内にある山南敬助、伊東甲子太郎ら隊士の墓を回った。芹沢鴨が暗殺された部屋で、柱に残る刀傷に目を奪われた。
 新選組は多くの作家が取り上げたが、気に入っているのが浅田次郎作「壬生義士伝」。テレビ、映画にもなった。知人が「見て良かった」と言うと、仲間を増やそうと「本も読んでよ」と気前良くプレゼント。もう一度読みたくなって結局上下巻を3セット買った。浅田さんの新選組関連の2作目「輪違屋糸里」が出版された時はサイン会の列に加わった。
 大河ドラマのDVDにはアルバイトでためたお金をつぎ込んだ。京都で買った隊士の名前や魔よけのドクロがプリントされたTシャツもお気に入りの新選組グッズの一つだ。
 大学、大学院の6年間は近現代社会思想史を専攻。社会の構造を分析するため資料を丹念に読み、研究を続けた。一方、趣味の新選組。同じ歴史だが「小説などは空想を交えて思いをはせるところが面白い」と話す。
 北海道で教壇に立つことを志望した。しかし大学のサークル仲間だった夫(27)が名古屋で就職することになり、07年4月から豊田の中学で社会科の先生に。24歳で初めての本州での生活が始まった。「来て驚いたのは城跡、古戦場などで歴史に接する機会が多く、歴史好きの子どもが多いこと」。歴女ブームについては「歴史を好きになるきっかけになれば」と語る。
 残念なのは教師になってから忙しく、以前のように新選組に時間をさけなくなったことだ。それでも部屋に新選組の絵はがきを飾り、料理のかたわら大河ドラマのDVDの音声に耳を傾ける。時間に余裕ができたら近藤勇ら多くの隊士を生んだ多摩地方を訪れたいという。【中島幸男】=つづく
 「歴女」という言葉自体にまだ抵抗感のある10年越しの土方さんファンですが、こうして『組!』ファン同志が取り上げられるのは嬉しいです。

滋賀
江戸期貴族の蕎麦器みやび
大津・聖衆来迎寺で発見
 江戸末期の関白夫人がそばを食べるために使ったとみられる、みやびな食器「蕎麦器」が、聖衆来迎寺(大津市比叡辻2丁目)で見つかった。一見、小型の道具箱様だが、展開すると百人一首札や水墨画をあしらった器が現れる。最高級の技法を使い、金泥に朱漆を施したぜいたくな作りで、当時の貴族の生活の一端がうかがえる貴重な史料だ。
 縦8・7センチ横37センチ高さ33センチで上部に持ち手が付く。観音開きの取っ手を引くと左右中央3面に展開し、9種の器が引き出される。
 向かって左上部には百人一首札を模した器が収納される。金泥が塗られた側面に線が引かれ札が重なる様子を表す。ふたには柿本人麻呂らの句が鮮やかな色使いで描かれる。
 下部の3冊の和とじ本に見立てた器はとじ糸まで忠実に表現。下段の器には中国故事が題材の「寒山拾得図(かんざんじっとくず)」の墨絵が張られる。
 左側扉の編み込み模様の容器は、上面に2つの小穴があり、そばつゆ入れとみられる。
 添え紙に、関白一条輝良の妻芳寿院懿姫(よしひめ)(1767~1843)が使用した「蕎麦器」一式で、遺品として同寺に下賜されたとあった。芳寿院は紀州徳川家藩主徳川重倫の娘でもある。
 琵琶湖文化館の井上ひろ美学芸員(38)は「モダンだが、公家風のみやびな意匠が表現された逸品。夫人の豊かな趣味性がうかがわれる。大変珍しい品で、同寺が幕末まで徳川、一条家とつながっていたことを示す」と話す。

高知
「竜馬景気」狙うぜよ 高知発ビジネスも模索
 人気にあやかり景気回復を-。NHK大河ドラマ「龍馬伝」の放送に合わせ、坂本竜馬の故郷・高知県は官民あげて観光客誘致に乗り出している。一方で一過性にしてはいけないとの声も強く、「高知発ビジネス」の確立も模索している。
 日銀高知支店の試算では、県への経済効果は234億円。ここ数年は年間300万人弱で横ばいの県外観光客は約37万人の増加を見込み、県観光振興部の吉村大課長は「この人気を逃す手はない。目標は400万人」と強調する。
 16日からは「土佐・龍馬であい博」を開催。高知駅前に建設した施設などで幕末志士を紹介し、ドラマの衣装や小道具を展示する。昨年8月以降、県職員らが17都府県を訪問し、旅行関連の100社以上を回って猛アピールしてきた。
 高知市中心部の高知新阪急ホテルの野町浩也シニアマネジャーは「今年は全国から宿泊客が増えるはず」と期待。市内の老舗旅館、城西館も「1、2月の予約や問い合わせは多い」とする。

企画展:新聞連載小説「汗血千里の駒」の挿絵や著者紹介--3月28日まで /高知
◇龍馬の周辺人物、丁寧に--高知市立自由民権記念館
 坂本龍馬を初めて題材として取り上げた新聞連載小説「汗血千里(かんけつせんり)の駒(こま)」の挿絵や、著者の坂崎紫瀾(しらん)(1853~1913)を紹介する企画展が5日、高知市立自由民権記念館(同市桟橋通4)で始まった。3月28日まで。
 自由民権運動家で小説家の坂崎による同作は、1883年1月24日~9月27日、高知の土陽新聞に掲載された。大阪の絵師らが手がけた挿絵全66点の複製や現物の新聞、連載を単行本化した出版物などを展示している。
 同館によると、同作は、当時の明治政府が維新の精神をしっかり受け継いでいるのかとの主張が込められた「政治小説」。また、姉・乙女や妻・お龍ら龍馬の周辺にいた人物が丁寧に描かれている。強い女性に守られながら育った龍馬の柔らかいイメージを作ったのは坂崎で、女権拡張論者だった坂崎の一面が伝わってくるという。
 同館調査員の中村茂生さん(45)は「いろいろな人材がきら星のごとくいた中、最初に龍馬に目を付けたのが坂崎。その後のドラマや小説の源泉となったこの作品を多くの人に知ってほしい」と話している。【千脇康平】


コラム
【次代への名言】気概の政治家編(4)
■「坂本龍馬は壮年有志の一個の傑出物であって、彼方(かなた)へ説き、此方(こなた)へ説きして、何処(どこ)へ行っても容れられる人間であった」(伊藤博文)
 金銭もそうだが、伊藤は人間関係でも敵味方の別なく、淡泊だった。だから、長州藩の先輩、木戸孝允に薩摩閥のトップ、大久保利通、その2人の死後は岩倉具視(ともみ)-。維新後の伊藤は政治上の師や同志を選ぶのに藩閥にとらわれなかった。
 ために「政界遊泳術にたけた才子」という評もあった伊藤だが、彼は坂本龍馬に理想の姿をみていた形跡がある。冒頭はその一例。兄貴分の高杉晋作や終生追慕した最初の師、来原(くりはら)良蔵にも、ここまで手ばなしの評価をしていない。
 「伊藤は、自分の枕辺に涙をホロホロ落とした。自分は只(ただ)手まねで、お前も危ないから一刻も早く帰ってくれと頼むようにせきたてたけれど、中々枕許を離れようとしなかった」。幕末、反対派に襲われ、瀕死(ひんし)の重傷を負った親友、井上馨(かおる)を見舞ったときの伊藤の様子である。
 意外な情の深さが伊藤にはあった。約40年後、皇太子(大正天皇)が故郷・萩を訪れることになったとき、元勲・伊藤は井上にこう提案している。「お互い幸いに九死に一生を得たが、よい機会だから皇太子に随行し、時運拙(つたな)く早世した旧友たちのことをお伝えし、少しでも無念を晴らしてやろうじゃないか」(文化部編集委員 関厚夫)

●個人名の削除依頼がありましたので修正しました。2019.2.20 白牡丹@管理人



 湯治気分で、近くの健康ランド(東京だと「スパ」ですか?)で半日過ごしました……こちこち固まっていたところがほぐれて、だいぶ楽になりました。

福島
鶴ケ城天守閣を赤い瓦にふき替え
 会津若松市の鶴ケ城天守閣が幕末当時の赤い瓦にふき替えられるのを前に、市は4日、ふき替え後の完成イメージを公開した。
 赤瓦の天守閣は全国でも珍しいという。
 天守閣は現在黒い瓦で、3月中旬ごろにも足場を組んでふき替え作業に入る。
 平成22年度末の完成を予定している。
 天守閣は今年再建45周年を迎え、外壁のくすみなども目立つことから、白く塗り直す作業も合わせて行う。


茨城
邦画史上最大規模のオープンセット 幕末にタイムスリップ
 水戸市の千波湖畔に江戸城の桜田門やお濠(ほり)、彦根藩邸など幕末当時の桜田門周辺を“再現”した大型の舞台施設が姿を現した。今年秋に全国公開を目指す映画「桜田門外ノ変」(吉村昭原作)のオープンセットで、今月下旬から襲撃シーンなどの撮影に入る。
 オープンセットの敷地面積は約一万八千平方メートルで、NHKが一九九八年に放映した大河ドラマ「徳川慶喜」の展示館の約二倍の広さ。彦根藩邸から桜田門までの延長約百三十メートル(実際は六百メートル)、幅約十八メートルの道路沿いには、江戸城のお濠と彦根、上杉藩邸などの大名屋敷を復元。桜田門は高さ十五メートル、幅三十四メートル、彦根藩など大名屋敷も高さ九メートルで、京都から時代劇専門の美術家や大工が大挙してきて二カ月足らずで組み立てた。彦根藩ゆかりの赤門や「エイジング」と呼ばれる特殊塗装など、映画の美術専門家ならではの技術も随所に取り入れ、時代考証も緻密(ちみつ)だ。
 オープンセットは来春まで保存されるが、上杉藩邸と江戸城内部セットからなる二棟は撮影終了後に展示館に。総事業費は二億円以上という。
 映画化は、水戸市の商工関係者ら有志が水戸藩開藩四百年記念事業の一環として計画。官民で組織する「支援の会」(狩野安会長)を母体に、県内オールロケなど地域主導の映画作りを進めている。
 監督は「男たちの大和/YAMATO」などを手掛けた佐藤純彌氏で、主人公の関鉄之介役には、ヒット映画「世界の中心で、愛をさけぶ」に主演した大沢たかおさんが務める。
 設計を担当した設計事務所「エイプラス・デザイン」(水戸市)の佐藤昌樹社長は「邦画史上最大規模のオープンセットのスケールの大きさに加え、門の金具や時代を経たような壁の色合いなどの演出も絶妙。襲撃シーンの大雪の状態も公開予定で、見どころ満載」とPRしている。


東京
井伊直弼の墓、埋葬状況解明へレーダー探査
 東京・世田谷の豪徳寺にある幕末の大老・井伊直弼(なおすけ)(1815~60年)の墓について、世田谷区教育委員会は、墓を改修するのに伴い、地中レーダー探査を今週、行うことを決めた。
 桜田門外の変で暗殺された直弼の埋葬状況の解明につながるものと期待される。
 豪徳寺には、直弼をはじめ、井伊家が代々治めた彦根藩の藩主6人のほか、正室・側室、家臣らを含め、300基以上の墓がある。改修にあたり、区教委が先月までに、現状を確認するため、地下約2メートル下まで発掘したが、直弼を葬った棺おけは見つからず、レーダー探査によって、棺おけの位置を特定することにした。
 直弼は、尊王攘夷(じょうい)派の志士たちを厳しく取り締まる安政の大獄(1858~59年)を実行し、憤激した水戸浪士たちに、江戸城桜田門外で暗殺され、首を切り落とされた。だが、大老という要職が暗殺されたことによる幕府権力の動揺を恐れ、幕府当局は、直弼の死を約2か月間、公表しなかった。そのため、死後の直弼の埋葬状況については確定的な情報が少なく、水戸浪士が首を持ち去ったとの説も流れている。
 区教委では、谷川章雄・早稲田大教授(近世考古学)を団長とする井伊家墓所調査団を組織している。


静岡
坂本竜馬の生涯を紹介 浜松市城北図書館で歴史展
 浜松市中区の城北図書館で、幕末に活躍した坂本竜馬に関する図書や資料を並べた歴史図書展「龍馬 RYOMA~時代を切り拓(ひら)いた男」が開かれている。27日まで。
 今年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」放映にちなんだ企画。幕末を駆け抜けた風雲児の生涯をさまざまな視点で描いた各作家の小説のほか、岩崎弥太郎や勝海舟、西郷隆盛との関係や時代背景が分かる解説書など、約100冊がまとめて置かれている。
 放映に合わせ1月からそれぞれ約1年間開かれる「土佐・龍馬であい博」(高知県内)と「長崎奉行所 龍馬伝館」(長崎市)などの資料も、配られている。
(飯田時生)


三重
松阪 重文「御城番屋敷」西棟 修復保存工事が完了
 松阪市殿町にある国重要文化財「御城番屋敷」西棟の修復保存工事が完了した。同屋敷は、紀州藩が幕末期に建て、所有・管理する同藩士の子孫でつくる合資会社「苗秀(びょうしゅう)社」が、一昨年7月から約1億3520万円を投じて工事していた。
 御城番屋敷は、紀州藩が1863年(文久3年)、松阪城を警護する藩士のために建てた木造平屋建ての住居。約5メートルの石畳の通路を挟んで東西に各1棟あり、現在も子孫ら17世帯が暮らしているが、2004年12月に国重文に指定された。東西棟とも主屋と土蔵、前庭などからなり、建物は長さ約90メートルの東棟に10戸、約84メートルの西棟に9戸が連なる。
 しかし、築後140年余で、梁や柱はシロアリによる被害などが進み、瓦屋根もひずんで波打つなどしたため、06年5月、市文化財保護審議会の委員や苗秀社のメンバー、文化庁、県文化財保護室、市教委の職員ら12人からなる修理保存活用計画策定委員会ができ、保存のための調査が行われ、修復保存が決まった。
 工事は、基礎部分や耐震性の補強に加え、屋根のふき替え、築造当時の間仕切りの復元など。苗秀社が同市や国、県の助成を受け、11年3月末までの予定で進めている。今後、東棟も同様の工事を行う。




京都
龍馬や慎太郎「實葬ナリ」
霊明神社が文書保管

 現在、京都霊山護国神社(京都市東山区)敷地内にある坂本龍馬の墓に、実際に遺体が葬られていることを示す文書が、隣接の霊明神社に残されていることが4日までに分かった。過去に京都市が調査しているが、霊明神社が公開を控えていたこともあり、一般にはほとんど知られていなかった。霊明神社は「09年の創建200年を契機に、多くの人に見てもらえるようにしたい」としている。
 文書は、龍馬をはじめとする幕末志士の埋葬を示す明治初期の記録や過去帳など約120点。神道式葬儀で葬られた志士の名が土佐や長州など藩ごとにまとめられている。1867(慶応3)年11月15日の記録には、龍馬や中岡慎太郎、小姓の藤吉の名前が記載され、いずれも「實(実)葬ナリ」と記載されている。
 龍馬の葬儀が霊明神社で行われたことは、毛利家文書などにも記されているが、この文書は龍馬の墓に、実際に遺体が葬られたことを裏付けている。
 1969年に、京都市歴史資料館が文書を写真撮影し保存しているが、調査報告書などは作られておらず、その所在はほとんど知られていないという。
 ほかにも「安政の大獄」の頼三樹三郎、「生野の変」の平野国臣といった志士の記録や、伊藤俊輔(後の伊藤博文)の書簡など、霊明神社には維新志士との深い交流をうかがわせる資料が多数、残されている。
 霊明神社は1809(文化6)年に創建。幕末の尊皇思想の高まりに伴い、長州藩毛利家などが同神社に神道式葬儀を依頼。池田屋事件の死者の葬儀などが行われた。その後、維新志士の墓は、明治政府が創建した東山招魂社(現在の京都霊山護国神社)に編入された。
 村上繁樹神主(61)は「興味を持ってくれた参拝者に、霊明神社が志士とともに歩んだ歴史を知ってもらいたい」としており、可能な限り収蔵品を公開したいとしている。

 実際に埋葬されていたんですね。

鹿児島
「龍馬弁当」はいかが 出水市の松栄軒が限定販売
 幕末、鹿児島へ日本初のハネムーンをしたと伝えられる坂本龍馬をモチーフにした新弁当「龍馬 薩摩路紀行」を、出水市上鯖渕の松栄軒が発売した。今年のNHK大河ドラマで主人公になったのをきっかけに企画。1年間限定でJR出水駅や鹿児島中央駅、川内駅などで販売する。
 龍馬が旅行中に出した手紙の記述などをもとに、鹿児島で食べたであろう料理をイメージ。さつま赤鶏の照り焼きや黒豚の豚骨、鮎の甘露煮やあくまきなど郷土色豊かなメニューに仕上げた。
 松栄軒が数年前から参加し、全国から選ばれた駅弁が勢ぞろいする「元祖有名駅弁と全国うまいもの大会」(7日~19日、東京)などにも出品する。
 松山幸右社長(36)は「当時の龍馬の気持ちになって食べてもらえたら」と話している。1100円。松栄軒=0996(62)0617。


文化芸能
NHK大河「龍馬伝」関西地区の初回は21.0%
 歌手で俳優の福山雅治(40)が主演するNHK大河ドラマ「龍馬伝」(日曜・後8時)の関西地区の初回視聴率(3日)が21・0%(関東地区23・2%)だったと4日、ビデオリサーチが発表した。俳優・妻夫木聡(29)が直江兼続を演じた昨年の「天地人」の初回視聴率は21・8%(同24・7%)で、0・8%下回った。
 最近10年では04年「新選組!」、03年「武蔵MUSASHI」、02年「利家とまつ・加賀百万石物語」、「天地人」、05年「義経」に次ぐ6番目の数字。同局の鈴木圭チーフ・プロデューサーは「おかげさまで順調なスタートになりました。これからラストまで、波乱万丈のストーリーに手に汗握りながら、温かく見守っていただければ幸いです」とコメントした。

 初回視聴率は最近10年間では『新選組!』が変わらずトップですか……『組!』ファンとしては、嬉しいような、毀誉褒貶が激しかった初回視聴者の感想を思い出して複雑な心境が戻ってくるような。




 昨日のNHKニューイヤーオペラコンサートの録画を見直しています。司会を入れたガラ形式ではなく、寺田農さんが歴史を超越した祭司のような格好で舞台を回すのですが……どうも凝りすぎというか、こなれていないというか、自分には馴染まない演出でした。
 ノルマ『清らかな女神よ』、吉田都さんのバレエ『ロミオとジュリエット』など、いい場面もいくつかありました。日本でトップクラスの歌手が集う一年一回のガラですから、やはり聴き応えがあります。

北海道
【北の龍馬たち 坂本家の人びと】
 連載ものです。

龍馬の夢が芽吹く大地
 「100年に一度の不況」「政権交代」――。いま世界や日本が揺れている。混迷、混乱が増す中、向き合ってみたい男がいる。坂本龍馬だ。龍馬は時代が大きく動いた幕末に、柔軟な発想と豊かな人脈を駆使して、「日本のせんたく」をしようとした。その龍馬が抱き続けた夢がある。蝦夷地(北海道)の開拓だ。佐幕派と倒幕派の若者たちの無用な争いを避け、そのエネルギーを新天地で活用しようとした。33歳で凶刃に倒れ、北の大地を踏むことはできなかったが、甥(おい)やその子たちが志を継いで北海道に渡った。龍馬の北への思いや子孫たちの人生をたどる旅をする。

■親族、一家で浦臼へ
■反戦・絵…信念の系譜

 いまから112年前の1898(明治31)年に高知で撮影された1枚の写真がある。元神戸市職員で龍馬研究家の土居晴夫さん(86)=神戸市=の亡父・勝清のアルバムに残されていた。
 龍馬の甥で、高知の自由民権家だった坂本直寛(1853~1911)一家6人が北海道・浦臼へ移住する前に一族と撮った記念写真である。
 前列には勝清の姿が見える。後列のひげの人物がその父の直寛だ。晴夫さんのおじいさんにあたる。
 若い頃の晴夫さんは、自分の一族についてほとんど知らなかった。1960年に歴史学者の家永三郎が「植木枝盛研究」を刊行した。自由民権家の枝盛は民主主義的な憲法私案をつくったが、家永は「枝盛に大きな影響を与えた坂本直寛に関する研究は全くなされていない」と書いていた。
 晴夫さんはその言葉に一念発起し、「祖父たちのことを調べよう」と決心した。各地を調査して資料を集め、68年に「坂本家系考」を初出版した。いまでは龍馬一族研究の基本図書になっている。
 一族を見ると、龍馬の精神を引き継いだのか、気骨ある生き方の子孫たちが目立つ。
 直寛の右で腕を組むのは兄の坂本直(1842~1898)だ。龍馬の姉・千鶴の長男で元の名は高松太郎。龍馬と共に海援隊で活動した。龍馬の死後、1871(明治4)年に朝廷の命を受けて龍馬の跡目を継ぎ、坂本直と名を変えた。
 直寛は少年期に龍馬の兄・権平(ごんぺい)の養子となった。自由民権運動で投獄され、獄中で自由な新天地の開拓を志した。97(明治30)年、キリスト教を基盤にした合資会社「北光社」の農場を北見に開いた。翌98年、一家を引き連れて浦臼に移住した。
 前列のぱっちりとした目の男の子は長男の直道(1892~1972)だ。東京帝大を卒業し、南満州鉄道欧州事務所長(在パリ)を務める。1941年1月、日米開戦に反対する意見書を当時の松岡洋右外相らに送り、憲兵や特高の「要注意人物」となる。
 中央にいる長女・直意はその後、婿養子の弥太郎との間に10人の子どもを授かる。次男は六花亭の包装紙の絵などで知られる山岳画家の坂本直行(1906~82)だ。直行は北海道の原野と山を愛し、描き続けた。

    *    *    *

◆坂本龍馬 平等思考、幕末のキーマン

 幕末期の倒幕運動をリードした。1835(天保6)年に裕福な郷士・坂本長兵衛(のち八平と改名)の次男として高知城下で誕生。江戸に遊学し、剣術修行をした。米国帰りのジョン万次郎の聞き書きをした土佐藩の役人で画家の河田小龍と高知で会い、海運の必要性を知り、世界への目を開いた。61(文久元)年、土佐勤王党に入り、翌年には脱藩し、師となる幕府軍艦奉行並の勝海舟に出会った。勝は龍馬に開国・開港と海軍の必要性を説いた。龍馬は65(慶応元)年、長崎で日本初の商社・亀山社中(のちの海援隊)を設立。一方、薩摩藩と長州藩を和解させ、翌年、薩長同盟を実現した。これを背景に土佐藩を動かし、大政奉還を建白させた。67(慶応3)年10月に徳川慶喜は政権を返上した。武力倒幕派の薩長の機先を制した平和志向の龍馬らしいやり方だった。同年11月、京都で同志の中岡慎太郎とともに刺客に襲われて死亡。数え年で33歳だった。
 幕末史研究会の小美濃清明会長(66)=東京都武蔵野市=は「龍馬は庶民と共に育ったので、人を見下す視線を持っていない。生まれついての平等思考を身につけている。高位高官に会っても気後れしなかった」と指摘する。

    ◇

■坂本龍馬とその一族をめぐる年表

1867年 3月 龍馬、蝦夷地開拓への思いを長府藩士・印藤聿(のぶる)あての手紙につづる
  67年11月 龍馬、京都で暗殺される
  68年 4月 沢辺琢磨、日本で最初にロシア正教の洗礼を受ける
  71年 8月 高松太郎、龍馬の跡目相続。坂本直と改名
  77年 6月 直寛、自由民権の言論活動開始
  87年12月 直寛、保安条例による退去命令を拒否し投獄(89年2月まで)
  96年秋   直寛、合資会社「北光社」の社長に
  97年 3月 北光社の開拓移民団、高知を出発、北見へ
  98年    直寛一家、浦臼へ移住。直、死去
  99年    直の妻・留、息子と浦臼に移住
1901年 3月 浜武弥太郎、直寛の長女直意の婿養子に
  02年11月 直寛、伝道師として旭川に赴任
  05年12月 弥太郎、釧路で「坂本商会」設立
  13年12月 釧路・大火、龍馬の遺品の一部が焼失
  29年    直道、満鉄のパリ駐在員に
  31年 1月 弥太郎、龍馬の遺品を恩賜京都博物館(現・京都国立博物館)へ寄贈
  34年10月 直道、パリで文化交流雑誌「フランス・ジャポン」創刊
  36年 1月 直行、十勝の広尾村に入植
  41年 1月 直道、日米開戦を避けるため関係改善などを訴える意見書を松岡洋右外相などに配る
  45年 8月 敗戦。直行、農民運動へ
  57年 3月 直行、札幌で初めての個展
  92年 4月 中札内に坂本直行記念館開館
2009年11月 函館に北海道坂本龍馬記念館開館


(1)肖像、出会いの結晶
 JR札幌駅から、普通列車を乗り継いで約2時間。樺戸連山と石狩川にはさまれた田園地帯にある空知支庁浦臼町に着いた。昨年12月上旬、前夜から降り出した雪で町はすっぽりと覆われていた。
 町で唯一の小学校・浦臼小(松田和男校長、児童数103人)にある「宝もの」を見に来た。
 それは、幕末の志士・坂本龍馬を油彩で描いた古い肖像画だ。縦約60センチ、横約40センチ。絵の傷みが進んでおり、描かれてから長い年月がたっていることを物語る。だが、決然とした龍馬の表情は、いまも生き生きとしている。
      ■

 同校の6年生は全員で15人。昨秋、担任の井上伸一教諭(43)から歴史の授業で龍馬について教えられた。
 「龍馬についてどう思う」と聞いてみた。佐々木優希君(12)は「長州藩と薩摩藩を結びつけ、幕府を倒したのが龍馬。説得力というか、すごいなと思います」と話した。「見習いたいですね」と言うのは、隣の席の高林諒君(12)。笹島知紗さん(12)は「まだ若かったのに死んだのは残念」とつぶやいた。
 肖像画は2008年秋から半年、龍馬の故郷・高知県に「里帰り」し、県立坂本龍馬記念館で展示された。高知の銀行のカレンダーに使われたこともある。
 北海道美術の黎明期を代表する画家、林竹治郎(1871~1941)が描いた。林は宮城県に生まれ、1898(明治31)年に来道し、札幌一中(現・札幌南高)などの図画教諭を長らく務めた。教え子の中から、彫刻家の中原悌二郎、画家の三岸好太郎ら有力作家が輩出した。
 でもなぜ、浦臼小に龍馬の肖像画があるのだろうか。

      ■

 浦臼小から西へ約2キロにある墓地に「坂本龍馬家の墓」という表示板がある。脇には、二つの古い墓が並ぶ。
 「龍馬の甥で跡目を継いだ坂本直(なお)の妻・留とその子直衛(なおえ)の墓です」。案内してくれた同町郷土史料館員の三原浩さん(66)が説明してくれた。留は夫が死去した翌年の1899(明治32)年、息子の直衛と高知から浦臼に移住した。前年に移住した義弟の直寛(なおひろ)一家を頼った。留は石狩川の渡し場のほとりで駄菓子屋などを営んでいたが、1915(大正4)年に69歳で亡くなった。直衛は17年に34歳で死亡した。
 町教育委員会編集・発行の「浦臼ゆかりの人びと」では、留から依頼された林が肖像画を描いた。制作年は1904(明治37)年と推定している。
 林の末娘で眼科医の横田百合子さん(88)=岡山市=は「小学生の頃、父のアトリエで龍馬の肖像画を見た。父は『坂本さんに頼まれた』と話していた」と言う。絵は少なくとも、75年以上前に描かれたようだ。
 道内に移住した坂本家の人たちのほとんどはキリスト教徒で、浦臼の聖園教会の教会員だった。また林も敬虔(けいけん)なキリスト教徒で札幌の北辰教会(現・札幌北一条教会)に所属した。キリスト教徒同士のつながりで絵が生まれ、坂本一族から浦臼小の前身の聖園小に寄贈された。
 「私が小学生の頃から学校にあった。よく残っていてくれたものだ」。76歳になる岸泰夫町長も感慨深げだ。
 浦臼小の隣には、町郷土史料館がある。同館には坂本家ゆかりの品が所蔵されている。坂本直が使った袖章、直寛の眼鏡、土佐の坂本家で使った銀のはかりなどだ。いまは冬季休業中だが、4月1日から開館予定だ。
 町役場近くの前田寿子さん(81)宅には、龍馬が姉の乙女にあてた手紙が保存されている。坂本直寛家と前田家は付き合いがあったというが、なぜ、手紙があるのかはわからない。坂本一族は移住の際、高知から龍馬の遺品などを北海道に運んだ。その一つだったのは間違いない。
 小さな北の町に、龍馬やその一族たちの思い出がいまも息づいている。
 (この連載は植村隆が担当します)


北の龍馬たち 坂本家の人びと(2)
■「一人でも」 開拓の志

 京都大学の付属図書館に、蝦夷地(北海道)開拓を夢見た坂本龍馬の手紙が残されている。
 龍馬の手紙に詳しい京都国立博物館考古室長の宮川禎一さん(50)と一緒に手紙を特別に閲覧させてもらった。
 友人の長府藩士・印藤聿(のぶる)にあてた4通の手紙が一本の巻物になっている。明治時代に寄贈を受けたものだ。
 宮川さんは「優しい、とてもいい字ですね」と話した。

   □ □

 1867(慶応3)年3月6日の手紙の第四段に「北への思い」がつづられていた。
 「小弟ハヱゾに渡らんとせし頃より、新国を開き候ハ積年の思ひ一世の思ひ出ニ候間、何卒一人でなりともやり付申べくと存居申候」
 高知県立坂本龍馬記念館の現代語訳では、「私は蝦夷に渡ろうとしていた頃より、新しい国を開くことは以前からずっと思っていたことで、一生を懸ける思いです。何としても、一人でもやり遂げるつもりです」となる。
 龍馬は北海道行きの計画を何度か立てた。
 龍馬の妻・お龍(りょう)は晩年、語っている。
 「北海道ですか、アレはずつと前から海援隊で開拓すると言つて居りました。私も行く積もりで、北海道の言葉を一々手帳へ書き付けて毎日稽古(けいこ)して居りました」(回想録「千里駒後日譚」)
 北海道へ行く固めの宴会をしたり、仲間の望月亀弥太が陣幕を準備したりした。

   □ □

 なぜ龍馬は北海道開拓を目指したのだろうか。
 龍馬研究で有名な作家の宮地佐一郎は「坂本龍馬 幕末風雲の夢」の中で、佐幕や勤王など日本人同士の内戦を避け、人材を北方開拓に送り込みたいとの考えがあったと指摘している。南下するロシアに対抗する考えもあったとも。さらに宮地は、土佐人の心の中にある北方への憧憬(しょうけい)なども理由に挙げた。
 実際、龍馬の仲間たちは、北海道を視察している。
 土佐の尊皇攘夷(じょうい)派の北添佶磨は1863(文久3)年、能勢達太郎、小松小太郎、安岡斧太郎の土佐の仲間4人で、敦賀から函館に渡り、調査を行った。船中で病気になった小松は函館で死んだ。
 「小松は住吉墓地に埋葬されたと考えられます」
 函館の郷土史家で浄土宗称名寺住職の須藤隆仙さん(80)は言う。住吉墓地は函館山の麓(ふもと)にあり、津軽海峡に面している。石川啄木一族の墓がある場所だ。2万基の墓があると言われ、小松の墓がどこにあるかは不明だという。
 龍馬の師・勝海舟は1864(元治元)年6月17日の日記に、龍馬が尊皇攘夷の若者たちを幕府の船で北海道に渡航させようとしていることに触れ、「志気甚盛なり」と書いている。
 だが、この月に起きた池田屋事件で、龍馬の計画は中止となる。京都守護職指揮下にあった新撰組が長州・土佐藩などの尊攘派の志士たちを襲撃、一緒に北海道行きを準備した望月や北添ら同志が死んだからだ。
 龍馬はこの事件から約3年後に冒頭の手紙を書く。「一人でもやり遂げる」という言葉が強い信念を感じさせる。
 しかし、龍馬も手紙から約8カ月後の67(慶応3)年11月、京都・近江屋で凶刃に倒れることになる。


(3)名継ぎ、十字架負い
 函館市の五稜郭タワー展望台から、幕末に幕府がつくった洋式城郭の五稜郭を眺めた。中央部分に大きな和風建築物が見える。
 「箱館奉行所です。函館市が復元工事中で、(今年の)夏には公開されます」。函館の郷土史家の近江幸雄さん(73)が説明してくれた。
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 坂本龍馬は平和的な倒幕を目指し、日本人同士の戦いを避けるために奔走していたが、京都で1867(慶応3)年11月に暗殺された。翌68(明治元)年1月、戊辰戦争が起きる。その最後が五稜郭をめぐる箱館戦争だった。
 箱館戦争には、龍馬に関係の深い、2人の男が新政府軍、旧幕府軍に分かれて従軍した。
 その一人は、龍馬の甥(おい)で海援隊の隊士だった高松太郎(1842~98)だ。
 当時、小野淳輔と名乗っていた高松は、新政府が箱館奉行所庁舎に設置した箱館府の権判事に任命された。北海道の名付け親として知られる松浦武四郎らが判事になった。
 高松は蝦夷地経営の建白書を書くなど、「龍馬の夢」だった蝦夷地開拓に向けて動き出そうとしていた。
 だが、1868(明治元)年10月、榎本武揚率いる旧幕府軍の攻撃で、高松ら新政府軍は箱館から青森へ撤退を余儀なくされる。榎本軍は翌69年5月18日の降伏まで五稜郭を占拠した。
 郷土史家の近江さんがあるエピソードを話してくれた。
 「5月11日の新政府軍の総攻撃でほぼ勝敗が決まりました。翌12日、新政府軍の旗艦・甲鉄の艦砲が奉行所庁舎に当たり、中で別れの宴をしていた衝鋒(しょうほう)隊に死傷者が出ました。しかし、副長の今井信郎は入浴のため席を外しており、命拾いをしました」
 この今井信郎(のぶお)(1841~1918)は龍馬を暗殺したとされる幕末の治安維持組織・京都見廻組の実行メンバーの一人だった。今井の孫・幸彦の著書「坂本龍馬を斬(き)った男 幕臣今井信郎の証言」によると、今井は明治末、新聞の取材に「暗殺に非(あら)ず。幕府の命令に依(よ)り、職務を以(もっ)て捕縛に向(むか)い、格闘したるなり」と回答している。
 その後、今井はキリスト教徒になった。
 一方、再び函館府に勤務した高松太郎だが、69(明治2)年12月に権判事を免職となり、高知へ戻った。71(明治4)年8月、朝廷の命で実子のいなかった龍馬の家督を相続することになり、名前を坂本直(なお)と改めた。東京で宮内省の職員などを務めたが、89(明治22)年に免職になり、再び高知に戻った。
 「キリスト教を信仰したというのが宮内省免職の理由とされていますが、処世術が下手だったのではないでしょうか」と龍馬研究家の土居晴夫さん(86)は推測する。
   □ □

 龍馬を斬ったとされる男も、龍馬の跡目を継いだ男も、キリスト教徒になった。
 1985年に発行された日本基督(キリスト)教団高知教会の「百年史」に直の名が出ている。1898(明治31)年夏、高知の海辺で開かれた県内のキリスト教徒懇談会の趣意書に委員として名前を連ねていた。直は同年11月に57歳で死亡する。
 妻の留は翌99(明治32)年、龍馬の遺品を持って息子の直衛(なおえ)と北海道に渡った。龍馬家は浦臼に移った。


福島
新年企画 姿三四郎を追って
 これも連載ものですね。幕末維新からずっと下って明治時代の柔術家ですが、会津藩最後の家老西郷頼母との関係が書かれるので、ずっと拾ってみました。
1 大技一本時代に挑む 西郷四郎席巻
 「三四郎の払われた右の足裏は半助の右の足首にぴったり着いて、飛び込んだ肩に23貫の肉塊を担ぐと、相手の足首を力の限り払い飛ばした。
 小兵な三四郎の頭上で、半助の足ははるかの空をけると、体は三四郎を中心に車輪のような半円を描いて、ずしんと畳に落ちた。
 山嵐の大業である。」
 富田常雄の小説「姿三四郎」にある一文だ。1882(明治15)年に嘉納治五郎が創設した講道館柔道をモデルにし、柔道対旧来の柔術との新旧対決、主人公の苦悩と成長を描いた。山嵐とは「高い山の頂から吹き下ろす嵐に相手が飲み込まれるような技」として、嘉納が命名した実在の技だ。
 三四郎にも同様に実在のモデルがいた。小説と同じ山嵐を得意技にし、「講道館四天王」の一人だった現在の会津若松市生まれの西郷四郎だ。
 恐らく、講道館入門直後と思われる若き日の画像が残っている。短髪に紋付き、はかま姿。足を開いて力強く腰掛ける。真一文字に結んだ唇、鋭い視線。気が強そうだ。利き手の左手には分厚い書物。文武両道を説いた嘉納の教えを一途に守る心意気か。廃藩置県を経て文明開化が進む時代の荒波に挑む熱気まで伝わってくる。
 東京都文京区にある柔道の総本山・講道館で、四郎の足跡を探した。資料館には、使用した柔道着と1882年の日付で血判を押した入門の誓文帖があった。書庫からは、1931(昭和6)年の講道館の機関誌「柔道」に、「山嵐と西郷」と題した文章を見つけた。寄稿したのは、四天王の一人で「姿三四郎」の作者の父である富田常次郎だ。
 それによると、冒頭の「姿三四郎」に描かれた場面の基になったのは警察官への武術指導をかけて柔道と柔術が対決した警視庁武術大会。「明治18(1885)年の5月、場所は丸の内の警視庁」で行われ、相手は楊心流の戸塚彦九郎の高弟・照島太郎。山嵐が決まった場面を、常次郎は「敵の体は西郷の頭を越えてその足下に名誉の屍を横たえていた。嗚呼、かくして山嵐は猛烈に場内を吹き去った」と書き残している。
 四郎の身長は5尺前後(約151センチ)だったらしい。スピード、切れが重視され、小柄な方が向いているとされる山嵐をかけるには好都合だったろう。四郎はもう一つ、有利な条件を持っていた。「蛸」と呼ばれ、熊手のように自在に曲がる足の指だ。払い上げる時に、相手の足に吸い付いて逃がさなかったという訳だ。こうして山嵐は、四郎の代名詞となった。
 実は警視庁武術大会自体も公式記録がない上、様々な日時の資料があり、相手が照島ではないとの記述もある。だが、四郎が他流試合で名をはせたことは間違いないようで、常次郎は「虎と加藤清正とは離すことが出来ても、山嵐と西郷君とは分離して説明は出来ない。これすなわち西郷の前に山嵐なく、西郷の後にまた山嵐なき今日の有り様である」とたたえている。
 現講道館の村田直樹・図書資料部長は言う。「資料が少なく謎は多い。それだけに夢もロマンも広がる。彼は間違いなく、創生期に柔道を盛り上げた最大のヒーローだ」
 性格は負けず嫌い。だが、試合ではどこまでも正攻法だったという。戊辰戦争で敗れて、最終的に藩もなくなった中で会津出身者の多くが夢を求めて上京した。移住した当時の会津藩領だった津川(現新潟県阿賀町)から16歳で東京に出た四郎もその中の一人だったに違いない。この大会から数年後、恩師嘉納の外遊中にこつぜんと講道館から姿を消す。その理由もベールに包まれ、伝説をいっそう謎めいたものにしている。
 東京都台東区の永昌寺で産声を上げた柔道は現在、199カ国・地域に普及するスポーツに成長した。今も境内には「講道館柔道発祥之地」の碑が残る。その初めの1ページを刻んだ男は、揺れる時代の激流とも戦っていた。

                       ◇

 福島が生んだ柔道界の伝説・西郷四郎とはどんな人物だったのか。「姿三四郎」で知られる活躍ぶり、ふるさとやゆかりの地での人間模様を通して激動の時代を己の意志で生き抜いた武道家の足跡を紹介します。閉塞感が漂う今、新しい年へのメッセージとして。
 (この連載は竹園隆浩、川口敦子が担当します)

                       ◇
 次回は「謎の失踪」です。
 10回の連載中に毎回、「四郎クイズ」を実施し、全問正解者20人に四郎ゆかりの地の特産品をプレゼントします。正解は今後の連載の中に出てきます。正解多数の場合は抽選。ご応募は、連載終了後に全問題の解答をはがき1枚にまとめ、〒960・8103 福島市舟場町1の28 朝日新聞福島総局「四郎クイズ」係にお送りください。締め切りは改めてお知らせします。
 第1問 「蛸足」の四郎にはもう一つ、身のこなしから付いた動物名のあだ名がありました。その動物は何でしょう。
 アサヒ・コムでは新年企画「姿三四郎を追って」の関連、番外編の動画を公開しています。動画へのリンクはPR情報の下です。


2 師の留守 謎の失踪
 足の指が内側に曲がっていることから「蛸足」の異名を持っていた西郷四郎には、もう一つのあだ名があった。
 「猫」
 軽妙な身のこなしと、相手に投げられた際に空中で体をひねって見事に立つ技術からそう呼ばれていた。
 四天王として四郎とともに講道館を支えた富田常次郎の書にはこうある。「抱き上げられて、畳にたたき付けられることがあっても、彼はめったに背中を下につけなかった。猫のように、ヒラリと体をかわして平然としていた」
 攻めては「山嵐」の必殺技を持ち、守りも「猫」として万全。まさにスーパーヒーローだ。当時の子どもらが「オレは講道館の西郷だ」と言って遊んだ話もうなずける。
 そんな四郎を柔道の創始者・嘉納治五郎も特別可愛がっていたという。東京都文京区にある講道館で、現在の最高位である10段を持つ醍醐敏郎さんが話してくれた。
 「今も伝わる腰技は嘉納師範と四郎の研究成果、と言われます。師範が浮腰をかけると四郎が飛んで逃げた。すると師範は、飛び上がったところを足で払って払い腰を編み出した。今度は四郎が上体を反らせてこらえると、師範は腰を低く落として後ろ向きになり、腰で持ち上げて投げる釣り込み腰を完成させた」
 夜中に治五郎が四郎を道場に呼び出し、新しい技を試す。創世記の講道館で度々見られた光景だったようだ。
 だが、そんな師弟関係が突然、崩れた。1890(明治23)年6月、四郎は講道館からこつぜんといなくなる。前年9月、治五郎は1年の予定で欧州外遊に出ていた。四郎は留守中の責任者に任命されながら恩師の帰国を待たずに失跡した。まだ24歳だった。
 理由について、様々なうわさが乱れ飛んだようだ。「預かった資金を飲み金で使い切った」「羽目を外してけんかざんまいした」「浅草で力士ともめた」など。いずれにしても慢心か酒と言われた。
 その汚名を晴らす文書が残っている。四郎の養子で、治五郎、南郷次郎、嘉納履正と3代の講道館長に仕えた西郷孝之氏が、1953(昭和28)年に「父西郷四郎を語る」と題し、雑誌に寄稿したものだ。
 それによると、「四郎は大陸への野望を抑えることが出来ず、師範お留守宅に一書を呈して講道館を去るに至った。師範の深高なる恩顧に対する不義をわびているが、已むに止まれぬ胸懐を陳述していた」とある。明治政府に登用されなかった旧会津藩士らは当時、中国、朝鮮半島での活躍を夢見た。四郎もまた、その夢を追ったというのだ。
 失跡前、四郎は義父の西郷頼母から、現在の合気道の源流、会津藩の秘伝・大東流合気柔術の後継者に指名されていたという。このため、「恩師と義父、柔道と大東流の間で揺れ動き、その両方を捨てた」との説もある。
 いずれにしても真実は明らかではない。そして、この失跡時から、四郎の謎の人生は霧が濃くなる。

                       ◇
 次回は「義父頼母」です。
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姿三四郎を追って:家老が求め養子縁組
 西郷四郎の人生で義父頼母の存在は極めて大きい。戊辰戦争では白河口総督だった元会津藩家老。彼が四郎を養子に迎えたことが、「謎の始まり」と指摘する声もある。
 四郎の旧姓は志田という。実父は会津藩の下級武士だった。上京して嘉納治五郎に師事する際になまりが強かった四郎は「スナスロウ」と繰り返したが、応対に出た者は意味が分からず、最終的に筆談でそれが名前だと分かった、という逸話が残っている。
 記録によると四郎が当時保科近悳と名乗っていた頼母と養子縁組し「保科四郎」となったのは1884(明治17)年。4年後、22歳で「西郷」を継ぐ。警視庁武術大会で照島太郎を投げた2年後、嘉納が外遊に出る1年前、そして講道館からこつぜんと消える2年前のことだ。
 四郎と頼母の関係を追って会津若松市を調べた。1975(昭和50)年にオープンした会津武家屋敷は、頼母の屋敷跡を再現するとともに会津藩の歴史資料館などを展示。そこに山嵐を描いた四郎の記念碑も立っている。
 同屋敷の初代館長だった高木厚保・会津藩校日新館名誉顧問に会った。2人の関係を尋ねると、「藩きっての名家と下級武士の三男。廃藩後とはいえ、普通ならありえない縁組。だが、そこには、藩伝統の大東流の後継者を探していた頼母の事情があった」という。
 大東流合気柔術は、清和天皇末孫の新羅三郎源義光を始祖とし、甲斐の武田家を経て会津藩に伝わった秘伝の護身武芸だ。現在の合気道の源流と言われる。頼母は一子相伝での継承者だった。
 西郷家は元々、武田信玄ゆかりの保科家と同族。戊辰戦争の際に一族21人自害の悲劇を背負っていた頼母には2人の男子がいたが、次男は早く死に、長男も22歳で病死した。当時、日光東照宮で宮司などを補佐する役目をしていた頼母が講道館で柔道に打ち込む四郎を知り、縁組を持ちかけた、というのがおおかたの見方だ。
 実は2人の間には実子説がある。四郎の身長は約151センチで小柄だったことが分かっているが、「三尺ダルマ」と呼ばれていた頼母は、さらに小さく145センチ程度だったという。また、頼母が自らの「近悳」から1字とって四郎に「悳武」の名も贈って西郷を再興させている。これも実子だから、というわけだ。
 だが、高木名誉顧問はきっぱりとそれを否定した。「それは後から周りが騒いで言い出したこと。養子はもらいたくてもらったわけではない。実子を裏付ける記録もないし、ありえない」
 結果的に大東流には四郎の足跡はない。上京するまで暮らした津川(現新潟県阿賀町)では、「山嵐の絶妙のタイミングは大東流のもの」として、幼い頃にすでに大東流の手ほどきを受けたのではないか、との伝承もあるが、確認できるすべはない。
 若くして、旧会津藩を代表する名門西郷家の当主となった四郎。講道館から去る運命はその時に歯車が動き出したのかも知れない。

                        ◇
 次回は「津川」です。
 第3問 四郎が育った津川にあり、阿賀野川が一望できる名峰は何でしょう。同名の辛口の日本酒もあります。
 アサヒ・コムでは新年企画「姿三四郎を追って」の関連、番外編の動画を公開しています。動画へのリンクはPR情報の下です。



長野
小林一茶の未知の句 小布施で発見
 「猫の子が 手でおとす也(なり) 耳の雪」。上水内郡信濃町出身の俳人小林一茶(1763~1827年)が、これまで知られていなかった句を記した晩年の書状が2日までに、上高井郡小布施町の民家で見つかった。一茶を研究している矢羽勝幸・二松学舎大教授(上田市)は「子猫のかわいらしさが伝わる。動物をよく観察する猫好きな一茶らしい句だ」と話している。
 書状を鑑定した信濃町立一茶記念館の中村敦子学芸員によると、一茶は当時、信濃町に住み、北信地方の門人を訪ねて俳句を教えていた。書状は小布施地区の豪農の息子あてで、晩年の一茶の暮らしぶりがうかがえる貴重な史料としている。
 書状は縦15センチ、横37・8センチ。2双ある銀びょうぶの一角に張られていた。日付は11月12日。現在の暦で12月半ばに相当する。滞在していた現在の小布施町六川地区から、翌13日に長野市長沼地区の門人を訪ねるため、千曲川を渡る船の用意を依頼する内容だ。
 年号は記されていないが、一茶が俳句と一緒に日々の出来事や天気をつづった句日記「文政句帖」と照合、1823(文政6)年と特定した。句帖には、11月9日に3寸(約9センチ)の降雪があり、10日に六川地区、13日に長沼地区をそれぞれ訪ねたとある。
 びょうぶは、小布施町でかつて質屋を営み、一帯の地主だった人の子孫宅の土蔵で家人が昨年8月に見つけた。書状に「一茶」とあったため一茶記念館に連絡。3句書かれたうちの一つが「猫の子が-」だった。びょうぶが残っていた詳しい経緯は不明という。
 ほかにも、小布施の豪商で文化人の高井鴻山(こうざん)(1806~83年)が描いた妖怪画の短冊、「幕末三筆」と呼ばれる書家の巻(まき)菱湖(りょうこ)(1777~1843年)が書いたとみられる手紙など計約40枚が一緒に張られていた。
 一茶記念館などによると、一茶は1809(文化6)年ごろから六川地区などの門人と交流を重ね、現在の小布施町は頻繁に訪れていた地域の一つという。


石川
加賀藩「軍拡」の要 金沢・鈴見鋳造所の規模判明
 藩政末期に大砲や小銃を生産していた「鈴見鋳造所(場)」(現在の金沢市もりの里3丁目周辺)の詳細な生産体制や敷地面積の変遷が3日までに、板垣英治金大名誉教授の調査で明らかとなった。鈴見鋳造所は、発掘調査が進められている土清水塩硝(えんしょう)蔵とともに加賀藩の軍事機関「壮猶(そうゆう)館」の付属施設であり、それぞれの敷地拡大の時期が一致していることも判明した。関係者は幕末の加賀藩の軍備増強を伝える重要な発見としている。
 鈴見鋳造所は、加賀藩が1853(嘉永(かえい)6)年に河北郡旧鈴見村に置いた大砲と小銃の生産施設。その存在は知られていたものの、詳しい施設規模や生産体制などは明らかでなかった。
 調査は、石川県立歴史博物館が所蔵する「万延元年絵図」(1860年)と、1865(慶応元)年ごろのものとみられる絵図、鈴見鋳造所で働いた鋳物師の釜屋(武村)弥吉の記録などを基に進められた。
 万延元年絵図によると、鋳造所の当時の敷地面積は約1万平方メートルで、役所、鋳造場、砲身に穴を開ける錐(きり)台所、倉庫が置かれていた。その後に描かれた慶応元年ごろの絵図を見ると、鋳造所は増築、敷地が約2倍となり、小筒細工所、小筒火炉場(小銃の製作所)が完成したことが分かる。
 同博物館の本康宏史学芸課長によると、当時、度重なる外国船の来航を背景に、加賀藩は沿岸防衛に力を入れていた。鈴見鋳造所と同時期に金沢市涌波町の土清水塩硝蔵でも洋式火薬生産のため、施設の改築と規模拡大が行われているという。
 今回の調査では、錐台所の動力源である水車を回すために使われた「いぞうば川」と同一のものとみられる水路が、もりの里3丁目に現存することも確認された。板垣名誉教授は「当時の加賀藩の様子はいわば『戦時体制』だ。藩がいかに外国に対して危機感を持っていたかうかがえる」と話した。


愛知
名古屋市博物館:「幕末の名古屋城下図集」を発行 1868年と現在を重ねる /愛知 
◇特別展「400年のあゆみ」で販売
 名古屋市博物館は、慶応4(1868)年の名古屋城下図と、現代の地図を重ねて印刷した「幕末の名古屋城下図集」を発行する。3図セットで500円。9日から始まる開府400年記念特別展「名古屋400年のあゆみ」(市博物館、毎日新聞社主催)で販売する。
 城下図は、尾張藩士が著した4種の図面を基に博物館が編集。名古屋城を中心とする「西部」、東区の建中寺周辺の「東部」、本町通から現在の古渡交差点に至る周辺の「南部」の3図からなっており、それぞれA2判。武家の屋敷には、居住者の名前が刻まれ、寺院は現存するもの、移設したもの、廃寺となったものを色分けして描いている。
 さらに今回の特徴は、現代の街路を透明な光沢のある線で書いたこと。屋外で地図を広げた時、自分が立っている場所が、江戸末期からある道なのか、その後に屋敷などを取り壊して造られた道路なのかが一目で分かるようになっている。現代の地下鉄新栄駅かいわいでは、寺町の細い道筋が、現代にも同じ形状でそのまま残っている場所もあり、往事の街並みをしのびながらの散策が楽しめそうだ。
 担当した博物館学芸課の松村冬樹さんは「身近なところから、名古屋400年の歴史に関心を持つきっかけにしてほしい」と話している。【山田一晶】


広島
竜馬にちなむ麦焼酎を一新
 酒類など製造のアシードブリュー(福山市箕島町)は、本格麦焼酎「いろは丸」をリニューアル発売した。幕末の志士坂本竜馬ゆかりのネーミングを生かし、全国の量販店や酒販店に売り込む。
 長崎県産の二条大麦「にしのほし」の使用量を従来より増やし、こくとまろやかさを出した。アルコール度数は25度。九州酒類工場(福岡県朝倉市)で減圧蒸留し、古処山の伏流水で割る。赤を基調にした新ラベルで、竜馬の情熱を表現した。
 竜馬の乗った蒸気船が鞆沖で沈没した「いろは丸事件」は、大河ドラマ「龍馬伝」にも盛り込まれる。酒類について「いろは丸」を商標登録している同社は「全国に通用するブランドとして育てたい」と意気込む。720ミリリットル入り1050円。

【写真説明】アシードブリューが発売した本格麦焼酎「いろは丸」


長崎
龍馬と弥太郎の巨大像除幕 長崎歴文博で“感激の再会”
 幕末の志士坂本龍馬の生涯を描くNHK大河ドラマ「龍馬伝」にちなみ、龍馬と三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎の巨大な像が3日、長崎歴史文化博物館(長崎市立山1丁目)の玄関ホールに設置された。
 同館の2階奉行所展示ゾーンには9日、ドラマの世界を再現する「長崎奉行所・龍馬伝館」がオープン。ことしの同館は龍馬や弥太郎関連の展覧会や行事がめじろ押しで、来館者を出迎えようと両雄の像を設置した。約1年間展示する。
 龍馬像は高さ3メートル、弥太郎像は同3・4メートル。制作者は長崎市の彫刻家山崎和國さん(75)。同市の風頭公園と高島町に立つ銅像を鋳造する際に使用した樹脂製原型に着色したもので、本物の像とまったく同じ姿を楽しめる。
 除幕式には210人が出席。金子原二郎知事ら関係者が除幕して勇壮な2体の像が姿を現すと、会場は大きな拍手に包まれた。山崎さんは「龍馬と弥太郎が感激の『再会』をした。2人の像が長崎の活性化の起爆剤になれば」と話した。

 【編注】山崎和國さんの崎は、大が立の下の横棒なし


文化芸能
NHK大河ドラマ『龍馬伝』、初回視聴率23.2%でスタート
 1月3日よりスタートしたNHK大河ドラマ『龍馬伝』の初回視聴率が23.2%(関東地区・番組平均)だったことが4日、ビデオリサーチの調べでわかった。昨年の『天地人』の初回視聴率24.7%にはおよばないものの20.0%を超える好スタートを切った。なお、昨年末まで放送され、同じく幕末を舞台に坂本龍馬が登場したTBS系ドラマ『JIN-仁-』の最終回は、25.3%を獲得していた。





 書店に走って買って来ました、今年初買いコミックスです。



 仁友堂一行は、いろいろありますが大政奉還直後の京都へ。

 仁は、果たして坂本龍馬の運命を変えられるか……は、以下続刊ですが、新選組ファンには、沖田総司、近藤勇、土方歳三、伊東甲子太郎、藤堂平助とお馴染みのメンバーが出て来るのでちょっと嬉しい巻です。

 新選組関係者を取り上げたコミックはいろいろありますが、『JIN―仁―』の沖田総司、白牡丹には魅力的です。自分を含めて人の命に対しては達観しているくせに、下半身を失った猫のために工夫をこらすというギャップも面白いのですが……命知らずにありがちな、キレてる感じとか、チンピラっぽさとか小者っぽさがなく、どしっと構えているとこが気に入ってます。

 ドラマのヒットでコミックスが多くの人の目に触れるようになって、原作連載開始当時から読んできているファンとして嬉しく思っています。いよいよ龍馬暗殺の日の夜に起こる事件の数々を描く山場となっていますが、まだ連載中のエピソードでもありますので省略します……村上先生にはこの先もご存分に描いていただくことを楽しみにしています。



 今日は箱根駅伝復路の10区の沿道で声援を送りました。選手達はあっという間に目の前を駆け抜けていってしまいましたが、昨日今日と印象深い大会でした。


長野
小布施で小林一茶の未知の句を発見
 「猫の子が 手でおとす也(なり) 耳の雪」。上水内郡信濃町出身の俳人小林一茶(1763~1827年)が、これまで知られていなかった句を記した晩年の書状が2日までに、上高井郡小布施町の民家で見つかった。一茶を研究している矢羽勝幸・二松学舎大教授(上田市)は「子猫のかわいらしさが伝わる。動物をよく観察する猫好きな一茶らしい句だ」と話している。
 書状を鑑定した信濃町立一茶記念館の中村敦子学芸員によると、一茶は当時、信濃町に住み、北信地方の門人を訪ねて俳句を教えていた。書状は小布施地区の豪農の息子あてで、晩年の一茶の暮らしぶりがうかがえる貴重な史料としている。
 書状は縦15センチ、横37・8センチ。2双ある銀びょうぶの一角に張られていた。日付は11月12日。現在の暦で12月半ばに相当する。滞在していた現在の小布施町六川地区から、翌13日に長野市長沼地区の門人を訪ねるため、千曲川を渡る船の用意を依頼する内容だ。
 年号は記されていないが、一茶が俳句と一緒に日々の出来事や天気をつづった句日記「文政句帖」と照合、1823(文政6)年と特定した。句帖には、11月9日に3寸(約9センチ)の降雪があり、10日に六川地区、13日に長沼地区をそれぞれ訪ねたとある。
 びょうぶは、小布施町でかつて質屋を営み、一帯の地主だった人の子孫宅の土蔵で家人が昨年8月に見つけた。書状に「一茶」とあったため一茶記念館に連絡。3句書かれたうちの一つが「猫の子が-」だった。びょうぶが残っていた詳しい経緯は不明という。
 ほかにも、小布施の豪商で文化人の高井鴻山(こうざん)(1806~83年)が描いた妖怪画の短冊、「幕末三筆」と呼ばれる書家の巻菱湖(まき・りょうこ)(1777~1843年)が書いたとみられる手紙など計約40枚が一緒に張られていた。
 一茶記念館などによると、一茶は1809(文化6)年ごろから六川地区などの門人と交流を重ね、現在の小布施町は頻繁に訪れていた地域の一つという。



岐阜
儒学者・佐藤一斎を知る史料展示
 美濃岩村藩出身で江戸時代後期の儒学者佐藤一斎(1772~1859)を紹介する史料展「佐藤一斎~その人と教え~」が、関市小屋名の県博物館マイミュージアムギャラリーで開かれている。1月17日まで。
 一斎は同藩家老の次男として出生。1133条の教えをまとめた全4書の「言志四録」などを残し、幕末から明治維新期に活躍した指導者に影響を与えたといわれる。門下生には佐久間象山や渡辺崋山らがいる。
 展示会は、佐藤一斎顕彰会とNPO法人いわむら一斎塾が出展し、会場に約180点を並べた。一斎を研究した書籍や言志四録を扱う昭和初期の教科書などを展示。小泉純一郎元首相が2001年5月、衆議院本会議で教育観を語る際に言志四録の一部を引用したことが縁で、一斎座像の銘板にするために小泉元首相が揮毫(きごう)した書も飾られており、来場者の関心を集めている。


山口
頑張る!新長州人:/1 萩市特別学芸員・一坂太郎さん /山口
◇「歴史の宝庫」振興に尽力--一坂太郎さん(43)=兵庫県芦屋市出身

 長州藩の本拠地、萩市の萩博物館に勤め、幕末維新史の研究のほか、県内外で年間数十回の講演・講座に飛び回る。城下町にある博物館には観光のお年寄りらに交じり、「歴女(れきじょ)」(歴史好きの女性)なのか、若い女性の姿もちらほら。
 「東京で講演すると、女性にサインを求められることもあります」と照れ笑いする。全国的な歴史ブームに乗って、山口県の「観光大使」役も担う。
 兵庫県芦屋市の生まれで、少年時代から歴史マニア。東京の大正大在学中は、奇兵隊を作った幕末の志士、高杉晋作(1839~67、号・東行(とうぎょう))の手記や手紙を収めた上下2巻の全集を愛読書にするほどだった。
 卒業後「山口で生活しながら本物の歴史を知りたい」と下関市吉田の東行記念館に就職し、23歳であこがれの地・長州に移り住んだ。地元に伝わる古文書を読んだり、古老の話を聞き、小説やドラマで知られる栄光の歴史とは逆の「悲劇」が浮かび上がった。
 維新直後、晋作の姪(めい)は地元の萩で嫁入り先がなかったという。特権を奪われた旧武士階級から、晋作の親族まで目の敵にされた。実働部隊になった奇兵隊にも悲話が……。維新後、除隊させられた農民出身の元隊員らは生活が困窮。藩内で武力蜂起したが、今度はかつて同志だった藩の常備軍に鎮圧され、首謀者は処刑された。
 「県内で聞く維新の話は、決して『勝者』だけではない」
 移住して12年目。敗者たちの維新史をまとめた「長州奇兵隊」(02年、中公新書)を出版。その後、萩市特別学芸員に就任した。
 萩市内は吉田松陰や晋作ら志士たちの生まれ故郷。城下町には江戸時代とほとんど変わらぬ街筋が残る。また、参勤交代で殿様の駕籠(かご)や、武士らが通った萩から瀬戸内海側へ抜ける「萩往還」(約50キロ)沿いも風情がある。
 「幕末の志士らと同じ道をウオーキングできる歴史の宝庫。大量退職する団塊の世代を呼び込めるのではないか」。「第二の古里」の振興へ、思いは強い。【中尾祐児】

  ◇   ◇

 1日付で県内のゆかりの地を紹介した幕末の風雲児、坂本龍馬は四国の土佐出身だが、長州藩の志士たちと手を取り合い、新しい日本の建設を目指した。現代でも多くの個性的な県外出身者たちが県内各地で活躍している。そんな「新長州人」を紹介する。
〔山口版〕



佐賀
「佐賀偉人伝」出版へ 県教委、5年計画で15人
 佐賀県教委は幕末・明治期に活躍した佐賀の偉人を広く知ってもらうおうと、「佐賀偉人伝」の出版に乗り出す。新年度から5年計画で「佐賀の七賢人」を含む15人の偉人伝をシリーズで出版、県内外の書店で販売する。県民の郷土に対する誇りや愛着を高めるとともに、佐賀藩の造船施設が候補となっている「九州・山口の近代化産業遺産群」の世界遺産登録に向けて機運を盛り上げる。
 偉人伝は県立佐賀城本丸歴史館が出版する予定で、偉人1人を1冊にまとめ、1年に3冊ずつ出版する。伝記と功績の解説、略年譜などで構成。史実に基づいて編集するが、手軽に読めるように専門書より平易な内容にする。体裁はA5版、100ページ程度で、できるだけ安い価格で販売する。事業費は、新年度当初予算に盛り込む方向で検討している。
 取り上げる偉人は10代藩主鍋島直正や大隈重信、江藤新平ら「佐賀の七賢人」のほか、幕末・明治期の日本をリードした8人。人材育成に尽くした枝吉神陽や近代歴史学の先駆者久米邦武、近代建築の辰野金吾ら多くの候補が挙がっており、編集委員会を設けて選定する。
 執筆は、郷土史家などから選んで依頼。新年度は県立図書館や博物館などに所蔵している明治期の古文書も検証する計画で、偉人伝には最新の研究成果を取り入れる。出版後は著者の講演会などを開き、県民の関心を高める。
 出版事業のきっかけとなったのは、世界遺産暫定リスト入りした「九州・山口の近代化産業遺産群」。県内からは三重津海軍所跡(佐賀市)が選ばれているが、世界遺産登録に向けて機運を醸成するには「近代化に貢献した人物を知ってもらうことが重要」と出版を計画した。
 1日からは県立美術館で、海外へ渡った佐賀人の足跡をたどる特別展「近代との遭遇」も始まり、今年は幕末・明治期にスポットがあたる年になりそう。県教委は「日本の近代化の過程で、佐賀の偉人たちが活躍したことを知ってほしい。貴重な資料や写真を使い、多くの人に読んでもらえる本にしたい」と話す。


長崎
「みんなの街」目指して!:バリアフリーの現在・長崎/1 利用者ゼロ /長崎
 坂の多い県内のバリアフリー度はどこまで進んでいるのか。さらに進ませるためには今後どうしたらいいのか--。さまざまな視点から、各地のバリアフリーの実態や現状を報告し、進むべき道を模索・報告する。

◇長崎さるく車椅子利用者コース、英雄編で知名度アップへ
 06年に日本初のまち歩き博覧会「長崎さるく博」を開催し、その後もまち歩きを観光政策の中心に据える長崎市。「もちろん、障害のある方にも長崎の街を楽しんでほしい」と、市さるく観光課の股張一男主幹(47)は語る。特に今年はNHK大河ドラマ「龍馬伝」で観光客の増加が予想され、幅広い客層の受け入れは必須だ。
 さるく博や、翌07年以降も続く「長崎さるく」では、聴覚や視覚の障害者は手話通訳をつけるなど対応してきたが、課題は車椅子。「坂の街」を散策するのは至難の業で、全53コースのうち車椅子で回れるのはわずか。江戸時代から続く石段や石畳の街並みもバリアフリーには程遠い。
 実は、市は07年11月からさるくコースでの車椅子利用者の受け入れを始めている。長崎港周辺や浜町アーケードなど平たんな3コースを選び、市民ボランティアガイドが市社会福祉協議会と車椅子の介助方法を実地で研修。現在は26人がガイドの資格を持つ。
 だが実際に利用したのは、修学旅行で車椅子の児童・生徒を受け入れたのを除けばこの3年間でゼロ。「市民にまだまだ知られていない。障害者団体などにPRを徹底しなければ」と股張主幹は率直に認める。
 しかし、追い風になりそうな要素もある。2日に始まった「長崎さるく英雄(ヒーロー)編」では、亀山社中跡付近から旧外国人居留地までを結ぶ2・7キロを「長崎龍馬の道」と命名。この一本道は周囲に坂本龍馬や幕末ゆかりの史跡が多く、市は案内表示を充実させた。しかも平たんで、この道をたどるまち歩きは車椅子での参加は十分可能だ。
 市は亀山社中跡近くに車椅子用のトイレも新設。「龍馬たちの息吹を障害に関係なく多くの方に感じてもらう」(股張主幹)ためには、課題を一つ一つ解決していくしかない。【錦織祐一】
〔長崎版〕


長崎まちなか龍馬館開館祝う 市民3000人乾杯
 坂本龍馬に関する史料などを展示する「長崎まちなか龍馬館」が2日、長崎市浜町のアーケード内にオープンした。
 NHK大河ドラマ「龍馬伝」の放映に合わせ、長崎市や長崎商工会議所などで作る実行委員会が2011年2月28日まで、観光拠点として期間限定で運営する。
 龍馬館は1階と地下1階で、地下1階は、「長崎龍馬の道ミュージアム」(一般300円、高校生200円、小・中学生150円)で、亀山社中や茶貿易商・大浦慶の庭園を再現したコーナー、写真家・上野彦馬の写真の展示など、8ブースに分けて、龍馬や長崎の歴史について紹介。1階では、観光案内所のほか、酒器や文房具などの龍馬グッズや、長崎ゆかりの土産物を扱う。
 この日は、龍馬ゆかりの名所を案内板で紹介する「長崎龍馬の道」(長崎市新大工町―南山手町、約3キロ)と、幕末の偉人にスポットを当てた町歩きコース「長崎さるく英雄(ヒーロー)編」もスタート。
 記念式典で、来賓の田上富久市長は「龍馬や長崎がメディアで取り上げられ、長崎も熱気を帯びてきた。長崎ファンが増えるよう、皆さんと力を合わせたい」とあいさつした。
 また、この日夜には、アーケードで、市民約3000人がビールやお茶などで乾杯する記念イベントが行われ、開館を祝った。
(2010年1月3日 読売新聞)


龍馬の夢実現させたカンパニー 亀山社中
 異国情緒がただよう長崎の市街地に急勾配(こうばい)で続く石段。人がようやくすれ違えるほどの幅しかないが、週末になると観光客らがひんぱんに行き交う。かつて坂本龍馬が往来したとされるこの坂道は「龍馬通り」と呼ばれる。そして、訪れた人たちは地元の人が整備した手作りの案内板を読んだり、カメラを構えたりして歴史散歩を楽しんでいる。
 龍馬通りを5分ほどかけて登ると、平成21年夏に開館した龍馬ゆかりの「亀山社中記念館」がある。長崎市が管理運営し、開館2カ月で約2万6千人が来館。22年にはNHK大河ドラマ『龍馬伝』が放映され、「さらに来館者が増えるのは間違いない」と期待のかかる新名所だ。
 改修前の建物は、昭和40年に出版された司馬遼太郎の小説「竜馬がゆく-怒濤編」のあとがきに、解体されそうになっていると記され、一躍注目を集めた。明治以降、建物の所有者が何度か代わり、当時のオーナーも、このときまで建物の由来を知らなかったという。即座に解体を取りやめ、全国から訪れるようになった龍馬ファンや司馬ファンをもてなしたという。
 平成元年には地元の住民らを中心に「亀山社中ば活かす会」が結成され、一時的に建物を管理。21年から10年間、長崎市に無償貸与されることが決まり、これに合わせて改修された。
 亀山社中ば活かす会幹事の黒岩信元さんは「社中だった当時、土間と3畳、8畳、10畳の3間あり、中2階もあったと推定され、今回の改修でその間取りが復元された」と感慨深げだ。
 龍馬は、勝海舟が主宰する神戸海軍操練所の塾頭を務めていた元治元(1864)年2月23日、初めて長崎を訪れた。関門海峡で外国船を砲撃する攘夷を決行した長州藩への報復準備を進めていた米、英、仏などの連合艦隊に、攻撃を思いとどまるよう説得に向かった勝に同行していたのである。
 6月、長州藩や土佐脱藩の志士らが京の旅館で新撰組に襲われる池田屋騒動が起き、7月には御所に突入しようとした長州藩兵が、薩摩藩や会津藩を中心とする警護兵らと市街戦を繰り広げた蛤御門の変が勃発(ぼっぱつ)。長州藩に同情的な練習生が多かったという神戸海軍操練所は、反幕的活動と疑いの目を向けられて10月に閉鎖され、勝も軍艦奉行を免職となった。
 龍馬は、操練所閉鎖に伴う帰国命令に従わなかったことから再び脱藩、慶応元(1865)年9月に練習生のうち土佐系を中心にした脱藩者を引き連れて長崎に移った。このとき、亀山と呼ばれる小高い丘の中腹にある建物を本拠に、商社と海運業、政治結社を兼ねた組織として立ち上げたのが亀山社中だった。
 亀山社中の設立には、地元の支援もあったようだ。なかでも、長崎の豪商、小曽根英四郎と、長男の乾堂ら親子は龍馬と深くかかわっていた。長崎市小曽根町にある小曽根家の17代目当主、吉郎さん(62)は、当時のエピソードを語る。
 「亀山社中の建物は、近くにあった亀山焼の陶工の宿舎だったものを、乾堂が世話したと思われる。発足したばかりの亀山社中は経済的に苦しかったので、長崎に寄港する船に井戸の水を売るアルバイトをしていたとも伝えられている」
 亀山社中は第二次幕長戦争で、長州藩が購入した汽船ユニオン号に乗り組んで勝利に貢献したが、終戦とともに事実上、活動は休止した。難局打開のためもあって、龍馬は慶応3年2月、長崎の料亭で土佐藩の家老、後藤象二郎と会談し、土佐藩との提携を決定。翌3月、亀山社中は土佐藩の資金で運営する「海援隊」に改組し、本部を小曽根家の邸宅に置いた。
 現在の小曽根家当主、吉郎さんの自宅には、龍馬ゆかりの数々の遺品が残されているが、中でも目を引くのは、妻のお龍が愛用した月琴だ。龍馬らが第二次幕長戦争で長州側に立って参戦した際、小曽根家に預けられたお龍が練習に使っていたという。
 吉郎さんの妻、育代さん(61)は、月琴をつま弾きながら当時をしのぶ。
 「装飾のない簡素なつくりなのは、練習用だから。弾き方を教えたのは、当時12歳だった乾堂の娘、キクです」
 龍馬の生きざまに、小曽根家は共感し、あらゆる協力を惜しまなかったという。
 「亀山社中」 龍馬らが薩摩藩などの援助で設立。日本初の「カンパニー」ともいわれる。発足から約1年半後の慶応3(1857)年春、土佐藩の外郭機関「海援隊」に改組した。設立時のメンバーは20人余。日清戦争時の外務大臣で、幕末に結ばれた諸外国との不平等条約の改正や治外法権の撤廃に尽力した陸奥宗光や、龍馬の秘書役として活躍し2代目海援隊長を務めた長岡謙吉、自由民権運動の指導者のひとりで初代衆議院議長に就任した中島作太郎らが参加していた。(服部幸一)


鹿児島
おいどんと写ろう 鹿児島、そっくり西郷さんと記念撮影
 鹿児島市の「維新ふるさと館」で2日、西郷隆盛のそっくりさんが登場。「写真撮らせて」と引っ張りだこだった。
 そっくりさんは、市内の自営業斉野俊也さん(42)。3年前、仕事で同館を訪れ、福田賢治館長(68)が「顔だけじゃなく、かっぷくまで同じ」とほれ込んだという。
 同館によると、西郷隆盛は身長178センチ、体重105~120キロ。斉野さんは179センチ、108キロ。浴衣にわらじ姿で館内を歩き「郷土の偉人ですから光栄です」。



 初笑いにと、立川談春の『紺屋高尾』と『明烏』のCDをレンタルして聴いて、泣き笑いしてしまいました。しばらく江戸落語にはまりそうです。

地元出身の志士を肖像画などで紹介 かすみがうら市郷土資料館
 かすみがうら市坂の市郷土資料館で、幕末に生きた地元出身の志士たちを紹介する特別展「かすみがうら市の幕末群像-新選組・天狗(てんぐ)党の人物列伝」が開かれている。
 新選組参謀として知られた伊東甲子(きね)太郎は天保三(一八三五)年、同市中志筑に生まれた。弟の鈴木三樹三郎も新選組の隊士だった。甲子太郎の肖像画や妻にあてた手紙、三樹三郎の晩年の写真などを展示。天狗党では、三総裁の一人で同市安食に生まれた竹内百太郎の書簡や短冊、同じく総裁の岩谷敬一郎の肖像画と愛用した硯(すずり)。このほか水戸藩郷士の太宰清右衛門が、桜田門外の変のために用意した肌着や大正時代の生家の写真など、貴重な資料を紹介している。
 同館の担当者は「郷土の志士たちから、幕末という時代を学び取ってもらえれば」と話している。来年二月七日まで。問い合わせは同館=(電)029(896)0017=へ。 (塙幸雄)

 ……えーと、読みは「かしたろう」の方が可能性高いです、「樫太郎」という記録もありますので(汗)。
 鈴木兄弟が出た志筑は「かすみがうら市」、芹澤鴨や平間重助が出た玉造は「行方市」と、町村合併して所属する自治体の名前が変わっちゃったなぁ……。

東京
東京・丸の内で竜馬ゆかりの品々を展示
 幕末に活躍した坂本竜馬直筆の書簡などを集めた「龍馬と土佐の志士たち」の展示が2日、東京都千代田区の丸ビルで始まった。幕末の志士たちの息づかいを感じさせる品々が展示されている。同展は11日まで、入場無料 【時事通信社】



広島
ポニョの浦、平成の海援隊が行く 「いろは丸」9日就航
 幕末に坂本龍馬率いる海援隊が乗り込んだ蒸気船「いろは丸」をモデルに、広島県福山市が建造した市営渡船(19トン)が9日から鞆(とも)の浦と沖合約600メートルの島を結ぶ航路に就く。定員99人。
 黒を基調にした「平成いろは丸」は全長20メートルで、高さ約10メートルの3本のマストが並ぶ。船内はレトロ調の照明や子どもも触れるハンドル型の舵輪(だりん)、龍馬を紹介する写真パネルなどが取りつけられ、幕末の航海を模擬体験できる。
 いろは丸は1867(慶応3)年、鞆の浦沖で紀州藩の軍艦と衝突して沈み、龍馬が鞆の浦の町家などで藩と談判して多額の賠償金を得たことでも知られる。この史実をPRしようと福山市が約8千万円で建造した。(吉田博行)


佐賀
龍馬の焼酎グラス有田焼商社、新年から発売
 幕末の志士、坂本龍馬のイラストを絵付けした焼酎グラス=写真=が1月、有田町の陶磁器商社から発売される。NHKの新大河ドラマ「龍馬伝」の人気にあやかろうと企画。長州藩の高杉晋作、新撰組の土方歳三のグラスもある。
 有田焼卸団地協同組合の企画商品「匠の蔵」シリーズの焼酎グラス(直径9・7センチ、高さ9・5センチ)をもとに、金照堂(金子真次社長)が同町内の窯元に製作を依頼した。
 龍馬グラスは、白磁に黒絵の具で龍馬の横顔とピストルをあしらった。「龍馬は鹿児島を訪れており、焼酎も飲んだのでは?」と金子社長。晋作は三味線を持つ後ろ姿、土方は刀を描いている。各2100円。問い合わせは同社(0955・43・2007)へ。

 坂本龍馬・高杉晋作・土方歳三と、土方さんが三番手につけているのは、ちょっと嬉しかったりして。

幕末・維新の佐賀再発見 「近代との遭遇」展開幕
 佐賀県立佐賀城本丸歴史館の開館5周年を記念した特別展「近代との遭遇-世界を見る・日本を創(つく)る-」(本丸歴史館、美術館、佐賀新聞社でつくる実行委員会主催)が1日、隣接する県立美術館で始まった。
 初もうでの帰りに立ち寄る人もみられ、正月で東京から帰省中の男性会社員(32)は、岡田三郎助の「月夜」の前にたたずみ、「岡田というと女性画のイメージが強いが、風物を描いた作品は珍しく、新しい発見だった」と話していた。
 会場では県立美術館の学芸員らによるギャラリートークも行われ、黒田清輝が描いた大隈重信の肖像画について、「黒田のもとには来客が多く、完成するまで時間がかかった」などと作品にまつわるエピソードを語っていた。
 展示は1部「開かれた近代の扉」と、2部「描くことの近代」で構成。1部では1871(明治4)年に欧米へ派遣された岩倉使節団の一員で佐賀出身の久米邦武が編集した「米欧回覧実記」などの史料や、江戸時代の風俗が描かれたつぼなどが並ぶ。2部では百武兼行、久米桂一郎、岡田三郎助ら佐賀で生まれ、ヨーロッパで絵を学んだ人々の作品を中心に展示。緻密(ちみつ)に描かれた裸婦画や、優しい印象を与える風景画などが目を引く。
 会期は2月14日まで。ギャラリートークは毎週土曜日午後2時からで、2日も午後2時から行われた。観覧料は一般千円、大学生800円、高校生以下と障害者は無料。


長崎
<薩摩藩>長崎の蔵屋敷の写真発見…坂本龍馬の活動拠点か
 江戸時代に薩摩藩が長崎に設けた蔵屋敷の写真が長崎大学付属図書館(長崎市)で見つかった。商社「亀山社中」を設立して活動していた坂本龍馬も出入りしていたとみられ、研究者は「龍馬が長崎で活動していた時期に重なり、貴重だ」と話している。
 確認したのは、長崎の近世近代史に詳しい原田博二・長崎歴史文化研究所長(63)。所蔵する古い写真を超精細化して公開している長崎大のデータベースを調べる中で、長崎港近くで白塀に囲まれた武家屋敷の写真を発見。長崎歴史文化博物館(長崎市)に所蔵されている明治中期の地図と照合して薩摩藩蔵屋敷と特定した。
 英国人写真家のフェリックス・ベアト(1825年~?)による撮影で、「亀山社中」設立翌年の1866(慶応2)年に写されていた。ベアトは、長州藩と4カ国連合艦隊による下関戦争なども撮影している。
 龍馬は、薩摩藩家老の小松帯刀(1835~70年)の協力を得て亀山社中を設立した。薩摩藩蔵屋敷に出入りしたとの史料は残っていないが、後に京都や大坂(大阪)などでは薩摩藩邸を拠点としており、原田所長は「蔵屋敷には当時、お尋ね者だった長州藩の伊藤俊輔(博文)もかくまわれていた。龍馬も同様で、長崎で頼れるのは薩摩藩しかなかったはず」とみる。
 長崎市銅座町にある蔵屋敷跡には現在、三菱UFJ信託銀行長崎支店が建つ。駐車場に立つクスノキは幕末当時から残るといわれ、今回見つかった写真でも確認されている。原田所長は「雄藩らしく、かなり立派な武家屋敷なのが分かる。龍馬の長崎での足跡がリアルに感じられる」と話している。【錦織祐一】



各地
龍馬の足跡、焼酎でたどる 立志・希望・風雲の3種発売
 幕末に坂本龍馬が活躍した高知県、長崎県、京都府の酒造3社が、NHK大河ドラマ「龍馬伝」を前に、同名の焼酎3種を企画し、発売した。
 高知は芋「立志篇(へん)」(1600円)、長崎は麦「希望篇」、京都は米「風雲篇」(各1470円)。各社は「それぞれの地での龍馬の心境を味わって」。
 3本セットで買うと、化粧箱の日本地図が完成。全国を駆けた龍馬に思いをはせてもらう趣向だ。問い合わせは「壱岐の華」(0920・45・0041)へ。


コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(43)東大教授・山内昌之 坂本龍馬(上)
志士とインテリゲンツィア

 日本人はなぜ、坂本龍馬を好きなのだろうか。
 理由は、龍馬がいちばん志士らしい志士だからという点に尽きる。自ら求めた政治の理想や目標を実現する志に忠実な人物こそ志士なのである。志を果たすためには、既成の権威から迫害を受けることもあり、その結果として死の悲劇に行きつくこともある。
  

一身を犠牲にする覚悟

 この意味で志士は、ロシアでいう「インテリゲンツィア」と似たところがある。インテリゲンツィアは、英語の「インテレクチュアル」(知識人)と似て非なるものだ。インテリゲンツィアは、理想社会や人民の幸福を求める志のために、一身を犠牲にする覚悟のある知識人を意味する。
 机上の議論だけでなく、実践において自らの知性や抱負を世に問うのである。19世紀ロシアのナロードニキ運動(「人民のなかへ」と呼びかけ、帝政の変革を求めた運動)の指導者らは、どこか坂本龍馬のような幕末の志士を彷彿(ほうふつ)させないだろうか。
 山脈と大洋に挟まれた土佐人ほど性格が類型化される例も珍しいだろう。井上勲氏の近著『坂本龍馬』(山川出版社)は、土佐人に山岳型と海洋型の2種類の志士を見いだした先人の説を紹介している。それによれば、自己の主義を直截(ちょくせつ)に語り続けることで志を実現するタイプと、変化してやまない海洋の様相が育てる、異質な他者に寛容なタイプの2つにほかならない。前者は武市半平太や中岡慎太郎であり、後者は坂本龍馬だというのである。
 屈曲した歴史の構図を整理し、複雑な人間模様を解剖してみせる井上氏の技量は、出されたばかりの小ぶりの書物でも発揮されている。そこで井上氏は、龍馬が姉たちとともに和歌や随筆といった和書の古典に親しんでいた事実を重視した。
 確かに、有名な「日本のせんたく」論はじめ、龍馬には仮名の多い気取らぬ文章が多い。漢語は、文字から連想させる観念に、抽象的にからめとられる危険もある。
  
気取りのなさ好かれる

しかし、仮名は事物の具体性を浮かび上がらせながら、明快に論理に従った文章を書くのに都合がよい便法なのだ。
 日本人に龍馬が好かれる原因は、この気取りのなさにもあるのではないか。女性に龍馬ファンが多いのも、姉にあてた簡明な文章が分かりやすく、人柄を素直に浮かび上がらせる点と無縁ではない。
 師として仰いだ勝海舟の素晴らしさを描写するときでも、「達人の見るまなこ(眼)は、少しも誤る所あるべからず」と『徒然草』の表現をもじる作文は、武士にしては珍しいほど洒脱(しゃだつ)に富む。
 『徒然草』とは、隠者の文学である以上、歴々の武士がなじむ古典でなく、郷士の気楽さゆえに姉と一緒に読めた面白い作品なのだ。こうしたとらわれのなさこそ、それと知らぬ女性さえ引き付ける龍馬の魅力がある所以(ゆえん)なのだろう。  

脱藩が悲劇の遠因に

 また、独立自尊と自由闊達(かったつ)さも龍馬の個性にふさわしい形容である。封建制度の只中(ただなか)に生まれながら、そこから自然に脱皮しようとするコスモポリタンぶりが平成の日本人に好かれる点なのだろう。
 しかし、この龍馬でさえ、脱藩という“重大犯罪”のツケのために苦しんだ。
 「脱藩は藩主の命に背いて藩を捨てることを意味していたから、謀反に近いのである」という井上氏の指摘は、身命を賭(と)した脱藩という決断の行動こそ龍馬が最期に陥る死の悲劇をもたらす遠因だったことをさりげなく示唆している。(やまうち まさゆき)
                   ◇

【プロフィル】坂本龍馬
 さかもと・りょうま 天保6(1835)年、土佐藩郷士の家に生まれる。土佐勤王党に加わり、脱藩。江戸に出て勝海舟に入門、航海術を学び、神戸海軍操練所の開設を助ける。慶応元年、長崎に商社「亀山社中」(後の海援隊)を設立し、海運、貿易に従事。西郷隆盛、木戸孝允(たかよし)らを仲介して薩長連合を助け、大政奉還の実現に尽力する。幕政返上、議会開設など公議政体論に基づく国家構想「船中八策」を伝えたとされる。慶応3(1867)年、京都の近江屋で中岡慎太郎とともに暗殺された。享年33。






 明けましておめでとうございます。

 当ブログをご覧になって頂いている方々におかれましては、旧年中はお世話になり、誠にありがとうございました。

 2004年NHK大河ドラマ『新選組!』放映をきっかけに開設した当ブログも、今月で6年めを迎えます。新選組(特に土方さん)から始まって、幕末全般のニュースを拾うスタイルで、どうにか続けてこられました。これも、読みに来てくださる方々があることを励みにしてこられたからこそと、有り難く存じております。

 昨今はNHK大河ドラマ『龍馬伝』のせいか、坂本龍馬本を中心に幕末関係の出版が盛況のようで、幕末史ファンのひとりとして嬉しく存じます(土方ファンですので、どうしても旧幕府側に肩入れしてしまうのですが……^_^;)。秋の江戸歴史文化検定も「幕末」がテーマだそうで、今年は準1級以上取得を目標に、さらなる研鑽を重ねてゆきたいと思います。

 どうぞ今年もよろしくお願いします。

☆★☆★

 昨日は元日恒例、石田寺の土方さんの墓前に手を合わせた後、高幡不動の土方さんが境内の善男善女を見守るお姿を拝見して来ました(^^)。



 さらに昨日は、府中の大國魂神社の境内にも足を延ばしてきました……元日早々、土方さん&新選組史跡巡りをして、眼福です。





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幕末、特に新選組や旧幕府関係者の歴史を追っかけています。連絡先はmariachi*dream.com(*印を@に置き換えてください)にて。
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