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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 今週もまとめて、ぼちぼちご紹介します。

函館
龍馬の夢 伝える記念館 函館にあす開館
■寺田屋模した外観

 幕末の志士坂本龍馬の誕生日であり、命日でもある15日、函館市末広町に「北海道坂本龍馬記念館」(三輪貞治館長)が開館する。
 龍馬は北海道開拓を夢見たが、暗殺された。その後、坂本家の人々が龍馬の志を継いで北海道に渡った。
 NPO法人が運営する同館では、龍馬の書簡や勝海舟の掛け軸、ペリー提督の書簡など貴重な資料が展示され、龍馬や坂本家の子孫の生涯などをパネルで解説する。坂本家の子孫の山岳画家、坂本直行のコーナーも設けられ、山の道具や作品も展示される。
 記念館は、函館の市電停留場「十字街」前の旧家具店展示場を改築。外観は、龍馬の定宿だった京都の寺田屋を模した。
 初日は午前10時からセレモニーが行われ、坂本家9代目の坂本登さんや西尾正範・函館市長らがテープカットする。記念行事として、近くの五島軒本店で午前11時から龍馬が学んだ北辰一刀流の演舞が披露され、同11時半からは龍馬に詳しい京都国立博物館考古室長の宮川禎一さんの講演「坂本龍馬と北辰一刀流」がある。いずれも入場無料。
 同館の開館時間は午前10時~午後6時(30日から月曜休館)。入館料は一般300円、大学・高校生200円、小中学生100円。初日のみ入館無料。問い合わせは同館(電話0138・24・1115)へ。



山形
庄内藩の歴史、生き方を本に テーマの2冊発刊
 庄内藩をテーマとする本が2冊発刊された。一つは藩の歴史を紹介した「シリーズ藩物語 庄内藩」(現代書館)、もう一つは庄内人の生き方を探る季刊オピニオン雑誌「日本主義 2009年冬号」(白陽社)。いずれも地元鶴岡市では深い関心を持って読まれている。
 「庄内藩」は鶴岡市史編纂(へんさん)委員の本間勝喜さんが執筆した。庄内藩の成立から幕末までの歴史が書かれている。
 酒井家の庄内入部については1622(元和8)年、山形・最上家が改易されたことにより、酒井忠勝が庄内3郡(田川、櫛引、遊佐)13万8000石余を分与された。その後、財政難に見舞われたため、豪商の本間光丘を登用し、財政改革を進めた。1840(天保11)年には幕府が庄内藩主を長岡へ、長岡藩主を川越へ、川越藩主を庄内に移封する命令を下したものの、庄内藩の領民が猛反発し、幕命が覆るという3方領知替えがあったことなどを伝えている。
 「日本主義」では、庄内藩酒井家第18代当主で致道博物館長の酒井忠久さんと小野寺時雄・荘内南洲会理事長、歌人で鶴岡総合研究所顧問の東山昭子さんの座談会が掲載されている。
 戊辰戦争で庄内藩が降伏した後の出来事について酒井さんは「11代忠篤が謹慎処分になったが、酒井は庄内に復帰できた。降伏に際し黒田清隆を将とする官軍が礼に厚い処理をしていた。そこで庄内藩の重鎮・菅実秀がかなりすごい人物がいるに違いないと思っていたら西郷隆盛の指示だということが分かった」と指摘。小野寺さんは「西郷は日本中を見ても庄内藩ほどしっかりした、礼を知っている藩はないと見ていた。新政府から『庄内をあまりにも大事にしすぎる』と言われた時も西郷は『そんなことはない』と言って引かなかった」といったエピソードを紹介した。
 庄内藩に関する本が2冊出たことについて酒井さんは「うれしいことで、こうしたことがきっかけとなって庄内の良き理解者が増え、庄内の活性化につながればありがたい」と話している。
 庄内藩は206ページ。定価は1680円。主な書店で扱っている。日本主義は176ページ。定価は1050円。致道博物館などで販売している。



栃木
「日光修験の道」本に 宇都宮の池田さん
【宇都宮】大通り2丁目の元小学校長、池田正夫さん(71)は「全踏査日光修験三峯五禅頂の道」を出版した。古文書を手掛かりに6年かけ、日光修験の修行ルートを一人で歩いて調査した独自の成果をつづった。日光山興雲律院、中川光熹住職は「四季に入峯し研究する姿は修験僧そのもの。日光修験研究の先駆けとなる」と発刊に寄せている。
 かつて日光山にあった、四季ごとの修験者の修行ルート「三峯五禅頂」は「冬峯」、春の「華供峯」、「夏峯」、秋の「五禅頂」の総称。奥、表日光連山を時計回りに一周する夏峯など、過酷な行程だったという。室町期に全盛期を迎え、幕末まで続いたが、明治の修験道廃止令で途絶えた。
 池田さんは一人で6年間、750日以上かけて、いくつかの古文書の記述を忠実にたどって歩き、日光古道を再現した。道端の石仏や修験僧など、現在の写真も豊富に添えた。
 池田さんは宇都宮大学芸学部(当時)卒後、数学・技術教師となり、小学校長を歴任。中川住職の影響を受け退職後の1999年、日光修験研究を始めた。「それからは3日に一度は日光山中に入った」という池田さん。
 古文書のコピーを携え、朝4時に自宅を出てはGPSや携帯電話、クマよけの鈴や爆竹を持って険しい山中を歩き続けた。地図を頭にたたきこみ、迷わないよう木々に赤いテープを張ったという。
 夏峯の錫ケ岳(2388メートル)では「能々尋可(よくよくたずねるべし)」との記述から、山頂付近を探し歩き、林立する石躰を発見。「神が現れたようだった」と当時の感動を振り返る。
 A5判408ページ。4935円(税込み)。随想舎刊。


埼玉
唐人揃い:あす川越で 津から初参加、20団体350人パレード /埼玉
 江戸時代に友好親善で幕府に派遣された「朝鮮通信使」を模した仮装行列「第5回 復活!唐人揃(ぞろ)い」が15日、蔵造りの街並みで知られる川越市の一番街(県道)で行われる。今回は津市から、通信使など外国の風俗を取り入れた「分部(わけべ)町唐人踊り」が初参加。多文化共生や国際交流をテーマに、約20団体350人が華やかにパレードする。
 唐人揃いは、江戸で使節団の華やかな行列を見た川越の有力商人が地元に伝え、幕末まで行われた。市民団体などで作る「川越唐人揃いパレード実行委員会」(江藤善章代表)が05年に復活させた。
 初参加する分部町唐人踊り(三重県無形民俗文化財)は江戸時代に始まり、使節団とそっくりの帽子に喜怒哀楽を表現したお面をかぶり、「ロッペ」と呼ばれる南蛮風の上着に虎模様のパンツを着用。軽妙な踊りを披露しながら、ラッパや笛、太鼓を奏でる。保存会の林俊一代表(61)ら20人が参加する。
 パレードは午後0時半、仲町交差点を出発し、札の辻交差点までの約400メートルを練り歩く。官衣を着た正、副使ら使節団と唐人踊り、アイヌ民族や琉球の文化を伝承する団体やフィリピンの人たちなどが参加する。その後、各団体が踊りや音楽を披露する。
 雨天は正午~午後2時半、川越小体育館(同市郭町1)で行う。問い合わせは実行委員会の小川満さん(電話090・7422・2002)。【鈴木賢司】



東京
西郷どん役 熱演の誓い 浅草で修業の演歌歌手
 浅草で修業した演歌歌手がオペラで熱演誓う-。十七日から台東区の浅草公会堂で上演される幕末の志士・坂本竜馬を描いたミュージカルオペラ「龍馬」で西郷隆盛を演じる演歌歌手、高瀬一郎さん(44)が上演を前に同区上野公園の西郷隆盛像を訪れた。高瀬さんは西郷と同じ鹿児島県出身。郷里の偉人を前に思いを新たにした。
 「長州藩に御加担つかまつる。我らは同志でござる」。竜馬、西郷、桂小五郎らが顔をそろえ、薩長連合が成立した瞬間だ。公演の二幕目で、やや小柄でやさ男の高瀬さんが、舞台で流ちょうな薩摩弁を操り、堂々たる西郷を演じる。
 十五歳の時、NHKのど自慢で優勝。二年後に上京、レコードデビューした。浅草との出会いは、実力を磨きたいと浅草にある日本浪曲協会の沢孝子会長に師事し、浪花節の修業をしたことだ。
 洋楽のオペラに演歌歌手を抜てきしたのはオペラ歌手で本公演の総合プロデューサー、岡本光正さん(59)。「さまざまなジャンルの人間で一つの舞台をつくり上げているのもこの公演の魅力」
 坂本竜馬をオペラ歌手の平良交一さん、勝海舟を歌手の野口五郎さんが演じる舞台は、すでに竜馬の故郷・高知県など四国公演を終え、東京公演に臨む。
 演技、歌、踊りなどさまざまな基礎を積んできた高瀬さんは「演技ではなく、自然体の西郷隆盛をみてほしい」と話している。
 東京公演は二十三日まで。問い合わせは、龍馬東京オフィス(スガジャズダンススタジオ・東京オフィス内)=(電)03(5284)8440=へ。


静岡
名代官の生涯描く「評伝 江川太郎左衛門」
◆韮山塾開き佐久間象山や桂小五郎育成 
 幕末、現在の伊豆の国市に兵学校「韮山塾(江川塾)」を開き、佐久間象山、橋本左内、桂小五郎らを育てたとされる韮山代官・江川太郎左衛門英龍(ひで・たつ)(1801~55)の軌跡を描いた「評伝 江川太郎左衛門」(時事通信社)が出版された。英龍の一生を描いた本は初めてといい、作者の加来耕三氏は出版記念の講演で「英龍がいなかったら明治維新はもっと遅れ、違ったものになっていたのではないか」とその生き様を振り返った。
 江川家は幕末までの約300年間、世襲で代官を務め、伊豆、相模、武蔵、駿河など7万石余りを差配したと伝わる。代々の当主は太郎左衛門を名乗り、英龍は第36代に当たる。
 韮山塾では高島流砲術などを指南し、佐久間象山らのほか、江戸幕府の勘定奉行・川路聖謨(とし・あきら)、明治政府で陸相や参謀総長を務めた大山巌、日清戦争時の連合艦隊司令長官・伊東祐亨(すけ・ゆき)、首相や農相、枢密院議長などを歴任した黒田清隆ら約4千人を世に送り出したと伝わる。
 また、ペリーら外国船の侵入に備えた品川沖の台場や、伊豆の国市に残る反射炉の建設にも携わった。将兵の携帯食用にパン作りに取り組んだり、種痘を広めて「世直し大明神」と呼ばれたりするなど、様々な分野で活躍。塾は現在の県立韮山高校につながり、同校の「学祖」となっている。
 「評伝」はこうした事跡を当時の時代背景や事件、人々とのかかわりを通じて描き出し、英龍の成長と活躍、滅びゆく側の幕臣としての姿を描き出している。
 本は県東部地区を中心に書店に並びつつある。英龍の系譜を伝える韮山高の横山光男校長は「時代を切り開き、次代を見据えた人づくりをした坦庵(たん・なん)公(英龍)の軌跡があきらかになったのは本当に貴重。特に若者に読んでほしい」と話す。
 加来さんは「幕臣という立場だったため歴史上ほとんど登場しないが、地に足をつけ、時代の荒波を切り開いていった『幕末の巨人』に間違いない。多くの人がその姿に触れてくれれば」と話している。


◆加来耕三氏
 1958年、大阪市生まれ。奈良大学文学部卒業後、同大研究員を経て、「正しく評価されない人物・組織の復権」をテーマに歴史家・作家として活躍。雑誌「歴史研究」編集委員のほか、NHK「その時歴史が動いた」などテレビ・ラジオ番組の企画・構成・監修などにも携わる。主な著書に「将帥学 信長・秀吉・家康に学ぶ人を使う極意」「日本経営者列伝」「坂本龍馬事典〈虚構と真実〉」など。

 おぉ、坦庵先生の評伝ですか!この方の著作で本棚に残っているのは今ないんですが……(苦笑)、とりあえず、入手して読んでみます。

長野
幕末の養蚕技術書、欧州での役割解説
 上田市中央2の「ギャラリーUD」で14日、上田高校OBの元農業生物資源研究所昆虫科学研究領域長の竹田敏さん(60)が「幕末に海を渡ったわが国養蚕技術書」と題し、日本の養蚕技術書が19世紀のヨーロッパで果たした役割について講演。
 竹田さんは、養蚕の起源や蚕の飼育技術などを記した「養蚕秘録」がフランス語に翻訳された1840年代当時はあまり注目されなかったと解説。50年代から60年代にかけ、病気によってフランスの養蚕業が壊滅的な被害を受けてから、日本の技術が注目された-と話した。


大阪
大阪画壇の魅力を再評価 芦屋市立美術博物館
 近世から近代にかけて大阪で活躍した絵描きが、独特の画風で風俗や歴史を伝える「大阪画壇」の魅力を再評価しようという 動きが、“大阪の奥座敷”兵庫県芦屋市の市立美術博物館で進められている。
 同館では、2006年度から計4回、大阪画壇をテーマに企画展を展開。仕掛け人の明尾圭造学芸課長(47)は「きっちり評価されないままではいずれ大阪が困ることになる。この10年くらいが勝負」と危機感を強めている。

  ◇    ◇

 大阪における画壇の特徴は、近世では、煎茶(せんちゃ)や書画をたしなむ町人らの文人意識の中で発展。一方で、伝統形式にとらわれない戯画にも魅力がある。
 独特の土壌が築かれる中、近代では、実業家や料亭らの依頼で作品を描き、しつらいの一環として重宝されるなど、他人の評価よりも篤志家の支援で成り立ってきた一面も。京都や東京など、主要な派閥や官立の美術大系が品評会などで成果を競う世界とは違う形ではぐくまれてきた。
 買い手の要望に応じ、四季折々の地元の景色や風習を描いた作品も多く、明尾課長は「貴重な風俗資料の価値がある」と指摘。
 しかし、コンクールなどでの絶対的評価がない上、個人用で小ぶりの物も多く、絵画の世界では「迫力がない」「洗練されていない」などと批判され、史料価値としては時代考証の困難さから軽視されがちだという。
 「日本では正当な評価をされずに見過ごされてきた作品も多いが、ここ10年ほど欧米の美術館が注目している」と明尾課長。第三者の評価よりも絵の魅力で判断し、いわゆる「大家の作品」よりも安いため買収が進みやすいという。
  ◇    ◇
 なぜ芦屋市で大阪画壇なのか-。同市では、大阪にゆかりのある文化的資料が個人宅などで多く受け継がれているという。大阪で成功した実業家らが同市に移り住んだことなどが影響。床の間を飾る書画や、幕末・大坂のグルメガイド本として知られる全3冊の画帖(がじょう)「花の下影」などが見つかっている。
 こうした縁で、浪速の風俗画家・菅楯彦さんによる軽妙洒脱(しゃだつ)な作品の数々や、京都の四条派の流れをくんだ画人、大阪ならではの文人画など、有名無名の優れた作品を紹介。一方で、下手な役者が大根と一緒に煮られる「役者地獄」などを描いた耳鳥斎(にちょうさい)らの作品など、笑える戯画や、挿絵の世界なども多面的に紹介してきた。
 明尾課長は大阪画壇について「ただ美しさを競うだけではない総合芸術」と表現。集客につながりにくい面は認めつつも「本来、大阪の美術館で身のある展示会を年一度くらいは開くべき。10~20年丁寧に継続すれば資料も残るが作品が流出してしまってからでは遅い」と力を込める。「それが、高い素養を備えていた大阪の文化を啓発することにつながる」。
 同館では、12月13日まで企画展「うまいもんと大坂画壇」を実施。問い合わせは電話0797(38)5432、同館へ。



高知
武市瑞山:不条理さ切々と 獄中からの書状初公開--土佐山内家宝物資料館 /高知
◇獄中から仲間らへ
 土佐勤王党の盟主として知られる武市瑞山(半平太、1829~65)が、獄中から切腹間際に仲間らに送ったとみられる書状が見つかった。初公開資料として、土佐山内家宝物資料館(高知市鷹匠町2)で13日から始まった企画展「土佐藩維新の群像」で展示されている。来年1月25日まで。
 瑞山は土佐勤王党を結成し、一時は土佐藩を尊王攘夷路線へと導いた。しかし、15代藩主・山内豊信(隠居後に容堂、1827~72)の支持で藩政改革を進め、公武合体を唱える吉田東洋(1816~62)を暗殺するなどの罪に問われ、1865年の切腹まで2年近く獄中で生活した。
 書状は山内家から県に寄贈され、約20通の書状などを巻物にした「幕末志士遺墨」の中にあり、取り調べや罪状言い渡しの様子が記されている。病気で寝込んでいた瑞山がふとんを持って出廷する様子や、自らの主張を聞き入れてもらえない不条理さを「実にゝゝゝ絶言語申候」と、「実に」を4度も繰り返し表現。同館の藤田雅子学芸員は「瑞山の強い怒りと絶望がみて取れる」と話す。
 書状は1909年に瑞山を顕彰する「瑞山会」が刊行した「維新土佐勤王史」に一部が引用されているが、原本の所在は分かっていなかった。藤田学芸員は「後からの回想ではないため、内容の信用性が高く歴史研究には格好の素材。当時の尋問もイメージでき、貴重な資料だ」と位置付けている。
 約50点を並べた企画展では他に、土佐勤王党に属した平井収二郎(1835~63)の書状も初公開している。入館料は一般300円、高校生以下無料。問い合わせは同館(088・873・0406)へ。【服部陽】



長崎
海舟の子孫が龍馬をデザイン 「出島の珍駄酒」お目見え
 2010年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」にちなみ、堀内商事(佐世保市光町、山下功三社長)は、勝海舟の子孫が坂本龍馬の勇姿をボトルに刻んだ「出島の珍駄酒(ちんだしゅ)」を商品化した。
 製造元の梅ケ枝酒造(同市城間町)で14日、発表会があり、「幕末の英雄ゆかりの“コラボ”を味わって」とアピールした。限定5千本で、全国の龍馬関連イベントで販売する予定。
 特製ボトルで発売するのは、鮮やかな赤色の佐世保産ブルーベリー焼酎。山下社長が「江戸時代、出島で飲まれていた赤い洋酒(当時の言葉で珍駄酒)を、龍馬も長崎で飲んでいたのでは」と想像し発案。幕末の写真家、上野彦馬の縁戚(えんせき)で、「海援隊龍馬倶楽部」会長の海保幸康さん(68)=東京都在住=に仲介を依頼し実現した。
 勝海舟のやしゃご(孫の孫)に当たるガラス工芸家の高山みな子さん(47)=神奈川県在住=が、彦馬撮影の龍馬を基にデザイン。坂本家9代目当主・坂本登さん(72)=東京都在住=の承認を得て、龍馬が家族にあてた手紙に残る自署も、砂をガラスに吹き付けるサンドブラストの技法で彫り込んだ。
 税込み2835円(720ミリリットル)。同じデザインが施されたグラスとのセット販売も予定。21~23日には、酒を長崎市伊良林2丁目の亀山社中資料展示場で販売。期間中は高山さんを招き、交流会をする。22日は坂本さんも参加する。問い合わせは堀内商事(電0956・48・6185)。


坂本龍馬之像を奉呈 長崎・若宮稲荷神社で亀山社中幕末祭
 坂本龍馬の業績をたたえる第21回亀山社中幕末祭が14日、長崎市伊良林2丁目の若宮稲荷(いなり)神社であり、龍馬生誕祭の神事や、同神社に移された「坂本龍馬之像」(青銅製、高さ106センチ)の奉呈式が執り行われた。
 11月15日が龍馬の生誕、死没の日であることにちなみ、市民グループ「亀山社中ば活かす会」(針屋武士会長)が毎年開催。龍馬之像は、伊良林3丁目の風頭公園に立つ龍馬像の原型で、彫刻家の山崎和國さんが製作。1991年から近くの日本初の商社「亀山社中」跡に据えられ、今年7月には同神社へ移設、除幕されていた。
 像の前であった神事は、活かす会のメンバーや神社関係者ら約20人が出席。玉ぐしをささげるなどして、龍馬の活躍をしのんだ。引き続き、社務所で龍馬之像の奉呈式があり、活かす会の針屋会長は「来年は(NHK大河ドラマの)龍馬伝も始まり、このかいわいはますますにぎわう。その次のステップも今のうちに考えたい」とあいさつ。奉呈の目録を受け取った同神社の松尾光弘宮司は「像を神社の宝としたい」とお礼を述べた。
 活かす会幹事の黒岩信元さん(72)は「私たちは龍馬を崇拝している。龍馬の在りし日に思いをはせたい」と語った。


熊本
21日に熊本市で国際シンポ 横井小楠生誕200年
 幕末に活躍した肥後藩出身の儒学者、横井小楠(1809-69)の生誕200年を記念した国際シンポジウムが21日午後1時から、熊本市桜町の崇城大市民ホールで開かれる。
 横井小楠は、肥後藩時代に私塾から多くの門弟を輩出し、幕府を支えた福井藩主の顧問として勝海舟や西郷隆盛にも思想的影響を与えたとされる。シンポでは、小楠の思想を分かりやすく朗読劇で解説し、猪飼隆明大阪大名誉教授が「小楠は世界をどのように見たか」と題し基調講演。海外の研究者を交えたパネル討論もある。
 参加費は一般千円、学生無料。“横井小楠生誕200年”記念事業実行委員会事務局=096(381)0283。


コラム
【次代への名言】竜馬がゆく編(1)
■「男は、わが思うおのれの美しさを守るために死をも厭(いと)わぬものぞ」(司馬遼太郎『竜馬がゆく』回天篇から)

 『竜馬がゆく』の何が読者をひきつけて放さないのか。一つには、主人公、坂本竜馬という人間の大きさだろう。
 「天がおれを、この地上の紛糾をおさめるために降した-と自分をそのように思いはじめている。おれがいなければ日本が潰(つぶ)れらァ」。ほらにしても痛快だが、彼はこの言葉通りの生涯を送る。
 にもかかわらず、「おれは日本を生まれかわらせたかっただけで、生まれかわった日本で栄達するつもりはない」という。無欲と無私も彼の魅力である。
 それから、死生観がある。
 「さすがは剣客だな。逃げることを知っている」とは潜伏中の長州藩の志士、桂小五郎を評したことばである。冷笑ではない。幕末という激動期のまっただ中にあっては生きのびることほど貴重なものはない、と竜馬は言っているのだ。
 しかし、冒頭のことばにあるように、彼は死を恐れはしない。もう一つ、旧暦ではあるが、竜馬が生まれ、そして斃(たお)れたきょうという日にふさわしい、こんな一節が『竜馬がゆく』にある。≪「志士とは」とも、竜馬はいった。「すでにその名が冠せられたときに、いのちは無きものとおもっている者のことだ」≫(文化部編集委員 関厚夫)


文化芸能
<幕の内外>ワルのイケメン『色悪』 近代的なキャラクター
ワルのイケメンほど、よくモテる?

 「色悪」は歌舞伎ならではのユニークな役柄。文字通り女性を翻弄(ほんろう)する二枚目で、自分の欲望のためには平然と悪事も行う。
 幕末の退廃的な世相のなか、完成された役柄で、鶴屋南北の作品にしばしば登場。普通の二枚目より複雑な性格で、近代的なキャラクターと言えます。
 白塗りのニヒルな容貌(ようぼう)で、「四谷怪談」の民谷伊右衛門や舞踊劇「かさね」の与右衛門が代表的。自分の妻や恋人を死に追いやる悪人ですが、実は彼らとて、必ずしも最初からそのつもりではないのが、興味深い。
 公金横領のため、妻お岩と離縁させられた浪人中の伊右衛門。未練タップリの彼は、お岩の父を殺し「敵を討ってやるから」とお岩をだまして復縁。そこまでしながら、生活が苦しくなると、彼にひと目ぼれした金持ちの娘にアッサリ乗りかえる。甘ったれた身勝手な性格と言えます。
 与右衛門の方も元は武士。ご法度の社内恋愛の末、身ごもった腰元の恋人と、いったんは心中を決意。実は彼は、恋人の母親とも密通し、その夫を殺したという過去がある。その因果で、恋人の顔が醜く変わったのを見た与右衛門は約束をひるがえし、罪のない彼女まで殺してしまいます。
 両者とも、その場の状況にズルズルと流されやすい性格ゆえに、悪事に手を染めやすい、という見方もできる。罪を犯さなくても、こういう人間は、今も昔もいるのでしょう。
 こんな男の犠牲になる女性は、きまじめな性格のお岩だったり、一途(いちず)でウブな気性の腰元だったりするのも、なにやら現代的です。 (イラストレーター・辻和子)

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 書籍タイトルは『幕末維新 消された歴史 武士の言い分 江戸っ子の言い分』です。



 購入を報告したブログ記事から、まだ10日しか経ってませんでしたか……なかなか集中して読む環境になかったので、「10日しかかからかなった」という気分です。

 今まで読んだ幕末史の本の中では、かなり面白かったと思います。

 ひとつは、明治維新は歴史的必然であったと教育したい立場から書かれる歴史に疑問をはさむ天の邪鬼というか、敗者の歴史観には勝者の歴史に記録されない見方やエピソードが残っているはずで、歴史を多面的に見たいと思う自分のスタンスのせいでしょう。この本が、歴史はその時代に生きた人々にとっては先の読めないリアルタイムのものであったことを踏まえつつ、たとえば薩摩藩の中で西郷隆盛・大久保利通がどれだけ突出した存在であったか(薩摩藩内でもある意味急進派として多数派ではなかったとか、暗殺の危機もあったとか)、「一会桑」というコンセプトも出てきている京都の一橋慶喜・会津藩・桑名藩の間でどれだけ意見のきしみや不信感があったかとか、大政奉還や王政復古の流れにおける諸藩の動きが倒幕派や幕府側にどう影響したかとか、幕末の歴史を多視点で解説しようとしているのがよかったと思います。

 もうひとつは、常日頃から旧幕府寄りなせいか(江戸近郊の生まれ育ちですから)、八月十八日の政変から倒幕派→討幕派の巨頭になっていく薩摩藩のスタンスがよくわからなかったので、その点で理解の助けになったというか。長州藩や土佐藩もいろいろな考えの藩士があったと思うのですが、薩摩藩も一枚岩ではなかったんですね。

 ちょっと残念だったのは、筆者が会津藩の動向についてはかなりいい点をついているにも関わらず、京都守護職を拝命した後の会津藩の人物をあまりご存じなさそうだというところです。公用局のキーパーソンだった(と思う)小森久太郎とか手代木直右衛門の書簡の一部や動向を紹介したりするところで「会津藩士」としか説明していない……ちょっと、こけそうになりました^_^;。まぁ、自分も小森様の名前について意識し始めたのはフィクションの『新選組!』からですので、あまり大きなことは言えないのですが(爆)。

 全体には、リアルタイムのドキュメンタリーを見るようで、面白かったです。





 テレビドラマも視聴率が高く、また内容に対して好意的なコメントをネットで見かけることが多く、嬉しいです。

「JIN-仁-」ついに20%超え
 8日に放送されたTBSのドラマ「JIN-仁-」(日曜後9・00)が、視聴率20・3%(ビデオリサーチ調べ、関東)をマークしたことが9日分かった。今秋スタートした連続ドラマでは初となる大台20%超え。

 「JIN-仁-」は大沢たかお(41)演じる脳外科医・南方仁(みなかた・じん)が幕末の江戸にタイムスリップするSF医療ドラマ。満足な医療器具も薬もない環境で人々の命を救い、坂本龍馬(内野聖陽)、勝海舟(小日向文世)、緒方洪庵(武田鉄矢)らと交流を深め、幕末の歴史に巻き込まれる壮大なスケールの物語。

 初回16・5%と好スタートを切り、その後も16・4、17・2、17・2と安定的に数字を稼いでいた。8日の第5話では南方がペニシリンを作り上げるストーリーが描かれた。


 原作ファンからすると、改変されているところに多少違和感がないでもないですが……原作の緻密な幕末の江戸の風景や風俗をここまでよく再現してくれているなぁとか、主演の南方仁役の大沢さんを始め、主要なキャラクターを演じている役者さんたちが好演しているなぁとか。

 内野龍馬は、自分の中では『組!』の江口龍馬に劣らずいいです。緒方洪庵を演じている役者さんは私の目にはどの役を演じても同じように見えるのですが、九州出身にもかかわらず、関西暮らしが長い自分にも関西弁が耳にひっかからないだけ、他の役よりは受け容れられるような(苦笑)……佐分利先生役の若い役者さんは大阪出身だけあってナチュラルな関西弁です(笑)。

 毎週楽しみにしているのは、日曜夜の『JIN-仁-』と、木曜夜のアニメ『銀魂』と、金曜夜の『新・三銃士』って……偏ってますよね^_^;。あ、日曜朝の『侍戦隊シンケンジャー』も楽しみにしてます(って、ますます偏ってるってば・爆)。





 幕末ニュース、続きです。

北海道
地元への貢献たたえる 札幌で道新文化賞贈呈式
 北海道の文化や産業への貢献をたたえる第63回北海道新聞文化賞の贈呈式が5日、札幌市中央区の北海道新聞社で行われた。

 受賞者は、社会部門が幕末の蝦夷地(えぞち)探検家松浦武四郎の研究を40年間続ける秋葉實さん(83)=網走管内遠軽町=、学術部門が有機合成化学の分野で新合成法「鈴木・宮浦クロスカップリング反応」を発見した北大名誉教授の鈴木章さん(79)=札幌市=、経済部門が外食産業を軸に生ごみリサイクルなどの環境保護活動に取り組む株式会社アレフ(札幌市、庄司昭夫社長)。

 贈呈式では、菊池育夫北海道新聞社長が各受賞者に賞状を手渡し、佐藤忠良氏制作のブロンズ像と副賞100万円を贈った。

 秋葉さんは「武四郎を北海道の名付け親から一歩突き進んで、アイヌ民族の救世主として洗い直してみたい」と意欲を語り、鈴木さんは「(鈴木カップリング)反応が医薬、農薬の領域以外でも使われ、幸せに思う」、アレフの中村勝広副社長は「食の安全や環境は企業にとって最大の競争力。着実に活動していきたい」と述べた。


函館の坂本龍馬記念館が15日にオープン
 NPO法人北海道坂本龍馬記念館実行委員会が、函館市末広町に15日オープンさせる北海道坂本龍馬記念館の開設準備が大詰めを迎えている。建物は10月中に完成し、3日からは展示物の搬入が始まる。同法人は「貴重な龍馬の資料を見てほしい」と話している。

 建物は龍馬が京都で定宿にした寺田屋をイメージし、正面には坂本家の家紋を配置した。内部は無料のオープンスペースと有料の展示室に分かれ、二つの場所を高知のはりまや橋をモチーフに「蝦夷橋」「出世橋」と名付けられた橋でつないでいる。

 約210平方メートルの展示室には、龍馬が薩長同盟の成立前夜に書いたという手紙や使っていた茶わんなど100点以上の資料が並ぶ。幕末・維新期の函館や、坂本家子孫にスポットを当てたコーナーも設けられている。

 15日午前10時からは、龍馬が江戸で学んだ北辰一刀流の演武や、京都国立博物館職員の記念講演など記念行事も。展示場の入場料は一般300円、高校・大学生200円、小中生100円。開館時間は午前10時~午後6時で月曜日休館。

 問い合わせは同法人(電)0138・24・1115へ。(伊藤美穂)


東京
山車人形6体並ぶ ちよだ江戸祭にお目見え
 千代田区ゆかりの山車人形を紹介する「ちよだ江戸祭2009」が四日、同区の丸ビルで始まった。東京では約百年ぶりの披露となる群馬県下仁田町仲町の楠木正成など関東四県の六体と同区平河町一の神輿(みこし)が展示されている。八日まで。

 人形はいずれも三層構造で、最上部の人形が上下する江戸型山車の流れをくむ。実物大かそれ以上の大きさで迫力十分だ。

 楠木正成は田代町(現外神田四)で幕末期に活躍した山車造り名人、「だし鉄」こと山本鉄五郎が作り、仲町が一九〇六(明治三十九)年ごろ、浅草の橋場町二から購入した。だし鉄の制作と分かる木札もあわせて展示されている。

 千葉県鴨川市の「神功(じんぐう)皇后」は神田祭、同県佐倉市の「日本武尊(やまとたけるのみこと)」は山王祭で使われたとの言い伝えがある。 (松村裕子)


遊ナビ:美術 /東京
■100年愛される絵本展

 20日まで10時半~19時(20日は15時)、コニカミノルタプラザ・ギャラリーB&C(新宿駅)。荒井良二、あべ弘士、長谷川義史、いもとようこの日本を代表する絵本作家4氏が、講談社創業100周年を記念して書き下ろした作品の原画など約50点を出品。アンケートに答えればポストカードセット(8枚)のプレゼントも(毎日先着30人)。入場無料。電話03・3225・5001

 ■肉筆浮世絵と江戸のファッション・町人女性の美意識

 23日まで10~18時、ニューオータニ美術館(地下鉄赤坂見附駅)。江戸初期から幕末までの美人画を網羅する大谷コレクション肉筆浮世絵と、江戸各期の小袖や小袖模様の見本帳である雛型本などで、江戸ファッションの変遷をたどる。800円。月曜休(23日は開館)。電話03・3221・4111




岐阜
書画展:大垣藩八代藩主・氏庸らの絵や書--市郷土館 /岐阜
 文教都市・大垣の土壌づくりに大きな役割を果たした大垣藩八代藩主・戸田氏庸(うじつね)の日本画を中心に歴代藩主や家老らの絵と書を集めた「氏庸と大垣藩ゆかりの先賢の書画展」が大垣市丸の内の市郷土館で開かれている。12月20日まで。

 氏庸は、学問所を設けて藩学校の基礎を築いたほか、狩野派の流れをくむ本格的な作品を数多く残した。会場には、2対の「養老の滝」や「昇降鯉図」など氏庸の作品18点の他、六代藩主・氏英や七代・氏教(うじのり)、十代・氏彬(うじあきら)の絵や書など計26点を展示。大垣藩最後の家老・戸田鋭之助と幕末の藩政改革の推進者・小原鉄心の書も並ぶ。

 休館日は火曜日と25日。入館料は大人100円。18歳未満無料。【子林光和】


滋賀
江戸時代に思いはせパレード 彦根の城まつり
子ども大名、赤鬼家臣団など
 彦根市の秋を彩る「小江戸彦根の城まつりパレード」が3日、彦根城など市街地一帯で繰り広げられ、江戸時代の衣装などに扮(ふん)した行列が沿道を埋めた約6万人(主催者発表)を魅了した。

 子ども大名行列、井伊の赤鬼家臣団、彦根鉄砲隊などが城東小学校を出発し、城内や夢京橋キャッスルロードなどを通る約3キロを練り歩いた。初代彦根藩主の井伊直政役は、NHKの大河ドラマ「天地人」でも直政を演じている俳優長森雅人さんが務めた。

 城まつりは幕末の大老の井伊直弼をしのび、誕生日の10月29日前後に開催しており、ことしで57回目。

 (伊藤弘喜)



京都
龍馬テーマに訪問着制作
京の若手作家や職人結集

 京都で染織に携わる職人や作家が、坂本龍馬をテーマにした訪問着を共同制作している。京都市産業技術研究所・繊維技術センター(旧染織試験場、上京区)で研修を受けた若手らで、幕末の志士の実行力に情熱を重ね、それぞれの技術を一枚の着物に結集させる。

 本友禅染技術者研修の同窓生でつくるグループ「彩葉(いろは)」有志の男女約10人。友禅染の工程は細分化され、横のつながりが薄くなりがちだが、下絵や糸目、伏糊(ふせのり)、地染め、挿(さし)友禅、刺しゅう、地直しなどの各工程を専門にする人材がそろったため、技術を生かして着物を仕上げてみようと初挑戦した。

 和装業界では廃業や受注減など暗い話題が続くが、「自分の理想を現実にした」として龍馬にあこがれるメンバーが多い。来年のNHK大河ドラマの主人公になることもあり、テーマに選んで7月から制作を始めた。

 グループ名にちなみ、龍馬が創設した海援隊の船「いろは丸」の図案を上前部分に採用。龍馬が姉の乙女にあてた手紙や新政権の構想「船中八策」の文章をちらす。坂本家の家紋「組合角に桔梗(ききょう)」も絵絞りで表現する。

 職人や作家たちがリレー形式で腕をふるい、現在6割程度まで完成。企画した山田智久さん(32)=下京区=は「厳しい環境のなか、若手の作家や職人が高い技術を持って頑張っていることを知ってほしい」と語り、友禅作家の佐伯昭彦さん(27)=北区=は「仲間と着物をつくることが刺激になった。これからも続けていきたい」と話した。

 龍馬の訪問着は27~29日、左京区のみやこめっせで開く「彩葉・第5回作品展」でお披露目する。


香川
ダンスや歌で龍馬描く/高松で公演、800人魅了
 坂本龍馬の活躍を描く「ミュージカルオペラ龍馬」の香川公演(公演実行委主催、四国新聞社共催)が4日、香川県高松市玉藻町のアルファあなぶきホール大ホールで開かれた。ドラマチックな歌やダンスをちりばめた躍動的なステージで、幕末の志士の鮮やかな生き方を現代社会に問いかけた。

 物語は龍馬が暗殺されるまでの3年間が題材。龍馬は世界に目を向けていた勝海舟の思想に影響を受け、薩長同盟や大政奉還など、日本を立て直す大事業を次々に成し遂げていく。二期会のバリトン平良交一さんが龍馬役、歌手の野口五郎さんが勝海舟役を演じた。

 総勢約40人が出演し、ミュージカルとオペラの融合を試みた新しい感覚のステージ。平良さん、野口さんをはじめ、日本を代表する豪華なキャストやダンサーが彩りあふれる舞台を生み出し、高い音楽性とビジュアル感のある演技で観客を引きつけた。

 公演は高知県内の政財界関係者らで実行委をつくって準備。脚本をジェームス三木さん、演出を俳優の江守徹さんが手がけた。この日は約800人が来場した。


山口
吉川重吉氏の石碑建立 岩国
 岩国市ゆかりの先人の言葉を刻んだ「立志の碑」の建立を進める市民有志が、明治期に米国留学して外交官も務めた吉川重吉氏(1859~1915年)の石碑を同市横山に建てた。碑文は重吉氏の子どもへの5つの訓戒。「規律ある習慣を作れ」などと今も通じる深みがある。

 重吉氏は幕末期の岩国藩主、吉川経幹の次男。明治政府の発足間もない1871年、12歳で岩倉具視の欧米使節団に伴って渡米。宣教師の家庭で育ち、ハーバード大卒業後に24歳で帰国した。外交官や貴族院議員を務め、56歳で他界した。

 訓戒の記述は、重吉氏の自叙伝(原文は英語)にある。「規律―」のほか、「誠実にして真摯(しんし)なれ」「他人に親切なれ」などと簡潔に列挙している。

 碑は吉川林産興業の門前に設置。高さ1・4メートル、幅70センチの御影石で、地元の書道家岩見屋錦舟氏が筆を執った訓戒を上側に、重吉氏の略歴を下側に刻んだ。

 1日あった除幕式には「立志の碑」建立委員会の佐古利南代表(67)や、東京から訪れた重吉氏の孫の吉川重昭さん(75)たち約50人が出席した。


伊藤博文が揮毫の萩焼茶碗、萩博物館で公開
 初代首相の伊藤博文が揮毫(きごう)した萩焼の茶碗(わん)が、山口県萩市の萩博物館で開催中の特別展「伊藤博文とその時代」で展示されている。18日まで。

 制作したのは、萩焼窯元の三輪家の8代当主で、幕末から明治時代にかけて活躍した雪山(1840~1921年)。萩焼の人間国宝、壽雪さん(99)の祖父に当たる。

 美しいびわ色の碗の内底にしっかりとした筆致で「寿」としたためられ、博文の号「春畝」が添えられている。青年期を萩で過ごした博文はその後、明治24、32年の2回、萩に帰省しており、このいずれかの際に三輪家に立ち寄って書いたとみられる。

 樋口尚樹副館長は「博文ら松下村塾の門下生たちと、塾の近くに窯を構える三輪家との交流を示す興味深い資料」と話している。


萩の「放れ牛」 晋作の若き日
 高杉晋作は、1839年(天保10年)、萩に生まれた。殿の側近も輩出する高杉家の跡取りとして大切に育てられた。秀才だが、5歳のときに自分の凧(たこ)を踏み破った侍に「土下座しろ」と言ったとの逸話も。自由闊達(かったつ)。あだ名は“鼻輪のない放れ牛”だった。

 生誕地には産湯の井戸などが残る。周囲は武家屋敷町の風情が残る。名産の夏みかんの木もちらほら。維新後、困窮した武家の家計を助けるために栽培されたものだ。

 晋作は、藩校明倫館で学んだが飽き足らず、吉田松陰の松下村塾で久坂玄瑞、伊藤俊輔(後の博文)らと学び、大いに刺激を受ける。明倫館の跡は、現在の明倫小学校。木造校舎からは子供たちのざわめきと給食のいいにおい。敷地内には当時の門や水練場(プール)も残る。武道場には坂本龍馬も訪れたという。こんな環境で勉強できる子供たちが、うらやましい。

 それに比べると、松陰神社の境内に残る松下村塾は小さい。アメリカ密航に失敗し、実家に幽閉された松陰が近隣の若者を教えた私塾だ。晋作の父は保守的で、息子が危険人物の松陰に傾倒することを恐れた。晋作は夜分、高下駄でダッシュして塾に通ったとか。狭い部屋で、身分に関係なく若者たちが議論した。幕末の熱気が伝わってくるようだった。(ペリー荻野 コラムニスト)

(2009年11月4日 読売新聞)


長崎
彦馬撮影と同じポーズ、龍馬の原物写真か 大浦慶の親族・竹谷家保存
 茶貿易の先駆者、大浦慶の親族となる長崎市新戸町の自営業、竹谷浩和さん(49)が保存している坂本龍馬の写真が、印画紙に焼き付けた龍馬の原物写真と見られることが分かった。幕末に活躍した龍馬、慶の具体的な関係を示す資料は乏しいこともあり、歴史研究者は「貴重な写真」と話している。

 大浦家は油屋町にあった旧家で、慶を事実上の最後の当主に没落した。竹谷家は本石灰町の豪商で、大浦家とは親せき関係。竹谷家は代々、慶と龍馬の写真を一緒に保管していたが、龍馬の写真の存在は広く知られてはいなかった。11月1日発行の雑誌「長崎文化」第67号に慶について書いた寄稿があり、龍馬の座像写真が掲載され存在が分かった。

 竹谷家の龍馬の写真は、名刺サイズの大きさで、厚紙に張り付けてある。長府藩士・三吉慎蔵の子孫が所蔵している、上野彦馬が撮影したとされる座像写真と同じポーズ。現在、この構図の原物は1枚しか確認されていない。

 幕末の古写真に詳しい長崎市西山3丁目、堺屋修一さん(82)は「当時は写真を名刺代わりに使っていた」と言い、「大きさから考えても、龍馬が実際に配ったものと推測できる。現在ある写真と比べ、トリミングがされていないのも、判断する上で重要」と複写ではない可能性を強調する。

 長崎市在住の現代龍馬学会員、織田毅さん(47)は「龍馬と慶の距離を縮める貴重な写真。原物と証明されれば、本県で確認された初めてのオリジナル写真になると思われる」としている。

 「長崎文化」に寄稿した東京在住の馬渡美樹さん(49)は「維新の力になった女性、慶は龍馬と面識があったと信じたい」と語り、竹谷さんも「慶は龍馬らとつながりがあったと伝え聞いている。写真は大切に保管している」と話している。


「龍馬伝」焼酎15日から一斉発売 長崎、高知、京都の3社が共同開発
 壱岐市芦辺町の焼酎メーカー、壱岐の華(長田浩義社長)は、幕末の志士、坂本龍馬ゆかりの地の酒造会社2社と共同で、来年のNHK大河ドラマにちなんだ本格焼酎「龍馬伝」を新開発。龍馬の誕生日で命日の15日から一斉発売する。

 新商品は、壱岐の華の「龍馬伝 長崎希望篇」(麦焼酎)、菊水酒造(高知県安芸市)の「龍馬伝 土佐立志篇」(芋焼酎)、北川本家(京都)の「龍馬伝 京都風雲篇」(米焼酎)。

 各銘柄ともラベルに坂本家家紋をあしらった。パッケージには日本地図や龍馬の手紙の一文を記した。いずれもアルコール度数25度、720ミリリットル。価格(税込み)は「長崎希望篇」と「京都風雲篇」が1470円、「土佐立志篇」が1600円。セット販売もする。

 このうち「長崎希望篇」は本県産大麦を原料に使い3年間熟成。口当たりが柔らかく、甘みのある焼酎に仕上がったという。長田社長は「ドラマを見て龍馬の偉業と足跡に思いをはせながら、ゆかりの地で造られた三つの焼酎を味わってほしい」と話している。

 問い合わせは壱岐の華(電0920・45・0041)。


龍馬像建立募金が総額1240万円に 長崎・丸山公園で15日除幕式
 来年に迫ったNHK大河ドラマ「龍馬伝」放映に合わせ、長崎で活躍した幕末の志士・坂本龍馬の銅像を長崎市の丸山公園に建立する「丸山公園に龍馬の銅像を建てる会」(川添一巳実行委員長)は5日、今月15日の除幕式を前に、同市内で最終会合を開催。建立費として10月末まで700万円を目標に呼び掛けた募金は、総額約1240万円が寄せられたことが報告された。

 地元経済人、自治会代表らでつくる同会によると、全国約800の個人、団体から寄付金が集まった。今月に入ってからも寄付があり、金額はさらに増える見通し。

 長崎で活躍する版画家、小崎侃氏がデザインした銅像は、台座を含めた高さが約2・4メートル。除幕式は午前10時から現地であり、長崎検番による祝いの舞や長崎女子高生徒による龍踊りの披露などがある。


HTBに「海」テーマの龍馬伝館 来年2月27日オープン
 佐世保市のハウステンボス(HTB)は4日、坂本龍馬を描いた来年放送のNHK大河ドラマにちなむ展示施設「佐世保・ハウステンボス龍馬伝館-海がつないだ龍馬伝説」(仮称)を来年2月27日にオープンすると発表した。

 HTB宣伝課によると、場内スパーケンブルク地区の空き店舗(約300平方メートル)に2011年1月末まで設置する。テーマは「海」。ドラマ関連のパネルや衣装、製作風景の映像、HTB所有の復元帆船観光丸と龍馬のつながり、県北の観光情報などを紹介。佐世保市と佐世保観光コンベンション協会、HTBでつくる佐世保・ハウステンボス連携事業推進会議が設置主体。

 入館料は大人500円、4歳~高校生300円(ファミリエ会員は割引)。期間中は観光丸内に各種展示をし「幕末帆船クルーズ」(中学生以上800円、小学生400円)や船内無料公開も実施。問い合わせはHTB総合案内センター(電0956・27・0001)。


対馬宗家の2藩主の印発見 朝鮮国王発給の「図書」か
 対馬藩主・宗家の資料を所蔵する長崎県立対馬歴史民俗資料館(対馬市)で4日までに、朝鮮国王が宗家に発給した「図書」とみられる2個の印が見つかった。

 同館の阿比留徳生館長によると、図書は藩主が代わるごとに朝鮮から与えられた銅製の印で、朝鮮側が印影を保管。藩主が朝鮮へ使者を遣わす際、渡航証明書や外交文書に押されていたという。

 今回見つかった2個の印には、幕末の対馬藩主だった13代義章と14代義和の名が刻まれ、いずれも一辺約6・7センチの正方形。高さ約7・8センチのピラミッド形で取っ手が付いている。義和の印は、持ち運ぶための革ベルトが付いた赤い箱に入っていた。

 近世の図書は、最後の対馬藩主・15代義達のものが韓国に現存するだけで、本物なら国内では初めての発見例となる。

 慶応大の田代和生教授(近世日朝関係史)は「代替わりするたびに朝鮮へ返却されていたはずで、本来は日本にあってはならないものだが、義達の図書との類似性から本物だろう。どういう手続きで図書を発給していたかを知る手掛かりになる」と話している。


龍馬熱 日ごと 高まり
 11月15日は幕末の志士、坂本龍馬の誕生日であり、命日。数多くの足跡が残された長崎市では、来年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」の放映開始を前に、早くも盛り上がりを見せている。3日は龍馬にちなんだ様々なイベントが開かれ、龍馬ゆかりの亀山社中記念館も多くのファンでにぎわった。


 ◇亀山社中記念館で企画展 書簡や「隠し部屋」公開


 龍馬らが設立し、日本で初めての商社とされる「亀山社中」の跡地に立つ記念館(長崎市伊良林2丁目)では30日まで、「龍馬と下関」に焦点を当てた企画展が開かれている。


 下関の大年寄で、龍馬の支援者の一人だった伊藤九三の子孫が保存していた龍馬の書簡などの一部が紹介されている。また、亀山社中から衣替えした「海援隊」がつくった英語指南書も展示されている。記念館の屋根裏につくられた「隠し部屋」にも今月は入ることができる。広さ6畳ほどで、龍馬たちが秘密の会合を開くか、身を隠す部屋だった可能性があるという。


 展示を見学した長崎市の松永裕文さん(24)は「大河ドラマが始まる前にと思って来ました。長州藩に視点を置いて龍馬を見ると、再発見があっておもしろい」と話した。


 ◇高知からウオーク 完歩した参加者、目頭熱く


 坂本龍馬にゆかりの高知から長崎までを歩く「バトンタッチ友情ウオーク」の一行、約120人は3日午前5時15分、長崎市矢上町の矢上神社を出発。午前6時半に最後の難所、日見峠を越えた。


 午前8時半、ゴールの長崎歴史文化博物館(長崎市立山1丁目)を目にして、諫早市小野町の中野強さん(61)は目頭が熱くなった。龍馬の脱藩の道中を体感したいと全行程に参加した。高知県安芸市の岩崎弥太郎の生家を10月14日に出発。約500キロを歩き通し、両腕に力を込めてガッツポーズをして門をくぐった。


 博物館では田上富久長崎市長が参加者をねぎらい、「皆さんは自分の故郷を盛り上げようという思いを行動に移してくれた。来年に向けて(長崎を)盛り上げよう」とあいさつした。


 ◇長崎歴史文化博物館で講演会 一風変わった人柄紹介


 長崎歴史文化博物館では、講演会「やさしい龍馬入門」が開かれた。


 長崎龍馬会の加藤貴行さん(38)が講師を務め、龍馬に接した人々の龍馬評を披露。元海援隊士は「顔にほくろが多く、ずいぶん怖い顔じゃった」、龍馬の妻のお龍は「妙な男でして、まるで人さんとは一風違っていたのです」といった回顧談を残していると紹介した。


 龍馬ファン約60人が参加。長崎市の末永浩さん(73)は「龍馬については、わからないことが多いので興味がある。市内のどこを龍馬がぶらついていたのか、解明できればおもしろい」と話した。




コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(35)東大教授・山内昌之 横井小楠
国家ビジョンを描く

 民主党には清新な印象を与える若い政治家が多い。しかし、政権交代による政官民癒着の構造の廃棄を語れば、自動的に新日本の姿が見えてくるわけではない。選挙対策用のマニフェストは、そのまま国のかたちや姿を説くビジョンにならないからだ。党と政府の関係で現在の混迷を招いたのは、新政権に幕末の横井小楠のような人物を欠くからではないだろうか。
 坂本龍馬の「船中八策」や由利公正らの「五箇条の御誓文」の基礎となった横井小楠の『国是七条』や『国是十二条』のスケールは、国の大きな役割を考える上で現代政治にも参考になる。
 参勤交代制度の廃止、人材簡抜(かんばつ)、海軍建設、通商貿易の奨励を幕府に説いた国是七条は、独立による「国是」(国益)の確定、正しい生活様式、賢愚を見抜く自由な言論の保証、学校の振興、士民への慈愛を新たな政治目標とする国是十二条に発展していった。

天下で恐ろしい2人

 熊本藩の細川家では志を得られず、福井藩の松平春嶽(しゅんがく)(慶永(よしなが))に理想の君主像を見いだした小楠は、現実感覚の乏しい水戸斉昭の攘夷(じょうい)論に見切りをつけ、開国に舵(かじ)を切るべく春嶽をかついで京都でクーデターを起こし、一挙に朝廷の論議を変えようとする勇気をもっていた。
 福井藩に提言した国是十二条は、有徳こそ国富の土台になるという主張につながる。勝海舟が「天下で恐ろしい2人」として西郷隆盛と並んで小楠を挙げたのは偶然ではないのだ。
 また、小楠は、日本の政治家や地方指導者に「驕惰侮慢(きょうだぶまん)」になることを戒めた。日本の指導層が安逸と惰眠に満足し、外国の力を侮って慢心する独りよがりをたしなめたのだ。実学と国家経綸(けいりん)との結合が、小楠の思想の特色である。

転機は龍馬との出会い

 小楠の転機は、元治元(1864)年から翌年の慶応元年におよぶ坂本龍馬との3度の出会いで訪れた。勝海舟の紹介で龍馬が小楠に会ったのは、海軍の創設を相談するためであり、龍馬は自分の言葉として有名になる「日本の洗濯」を小楠に説かれたのである。
 また、龍馬は、大久保利通らの「芝居」を痛飲しながら見物すればよく、もし大久保らが行き詰まれば指図してほしいと語ったというのだ。こうして小楠は、岩倉具視や由利公正の推挽(すいばん)で新政府入りをし、明治元(1868)年4月に小楠は参与に命じられた。
 参与の顔ぶれは、木戸孝允、小松帯刀(たてわき)、大久保利通、広沢真臣(さねおみ)、後藤象二郎、福岡孝弟(たかちか)、副島種臣(たねおみ)、由利公正と小楠だったのだから、60歳肥後人の得意や思うべしである。
 しかし、ここから小楠の本領が発揮されるのだ。維新政府は「共和一致」(共に協力すること)や「議事の制」を曖昧(あいまい)にしており、立法・司法を区別しない、と薩長の藩閥政治家にはうるさいことを言い出した。万機公論に徹せずば「富強の法」(富国強兵)も「利害の私事」に陥ると危険を警告したのである。


死後の新政府いびつに

 資本主義になっても、「安佚(あんいつ)」に走らず「経国安民」のための「良心」をもって事に当たる重要性を説いた小楠のセンスは鋭い。
 しかし、歴史や伝統の見直しによる欧化改革の奨励は、キリスト教への加担による国体の否定だと理解する人間も政府の周辺に現れた。この筋と暗殺の悲劇とのつながりには不明な点も多い。
 いずれにせよ、明治維新の改革シナリオの基礎を描き、日本の議会政治の母型を提供した小楠の死は、新政府の性格や進路をいびつにする一因となった。小楠を思うにつけて、大臣はじめ政務三役のリーダーたちが自ら電卓をはたく現政権の姿が浮かんでくる。
 役所の課長補佐や係長のレベルの作業を政治家が果たす姿に、政治主導や国民本位の改革の姿形を見て喝采(かっさい)を送る国民は少ないだろう。万一いるとすれば不幸なことに、日本政治を取り巻くポピュリズムの病はかなり重いといわなくてはならない。(やまうち まさゆき)
                   ◇

【プロフィル】横井小楠 

 よこい・しょうなん 幕末の儒学者、思想家。文化6(1809)年、肥後(熊本)藩士の家に生まれる。江戸に遊学した後、家塾をひらき、実学派の中心となる。越前(福井)藩主・松平慶永(よしなが)に招かれ藩政顧問となり、藩の富国策を指導。慶永が幕府の政事総裁職となると、補佐として参勤交代制の事実上の廃止など幕政改革を進めた。明治政府のもと、京都で参与となるが、明治2(1869)年に暗殺された。享年61。著作に「国是三論」など。
 また幕末関係のニュース記事を貯めてしまいましたが、そのあたりはご容赦を。思えば2004年から続いているのですから、継続は力なりといいますか……更新ペースが週一でも続けていきます。

栃木
幕末の名刀寄贈 県と市の指定文化財 足利の小林さんが市に
 足利市本城の小林英二郎さん(92)が、県・市指定文化財の刀各一本と短刀一本を市に寄贈した。

 刀はいずれも、幕末に活躍した刀工・初代源景国の作。県指定の刀(長さ七十五センチ)は一八六五年、市指定の刀(長さ八十七センチ)は六八年、ともに足利学校で作られたとされ、歴史資料的な価値も高い。

 小林さんは景国の玄孫に当たり、「市で保存してもらった方が後世に残る」と寄贈を決めた。受け取った大豆生田実市長は「貴重な文化財をありがたい。大切に管理していきたい」と話した。刀は市立美術館に保管され、企画展などで公開される。 (清水祐樹)


東京
荘厳に日本武尊 東京で山車人形展 8日まで
 東京都千代田区とゆかりのある関東四県の山車人形六体を紹介する「ちよだ江戸祭2009」が、千代田区の丸ビルで開かれている。八日まで。

 石岡市中町町内会の「日本武尊(やまとたけるのみこと)」、埼玉県本庄市泉町の「武内宿禰(たけのうちのすくね)」、同県川越市野田五町の「八幡太郎義家」は、江戸型山車の流れをくむ山車の一部。三層構造で最上部の人形が上下する。実物大か、それ以上の大きさで迫力十分だ。

 群馬県下仁田町仲町の楠木正成は千代田区内で幕末期に活躍した山車造り名人、山本鉄五郎の作。東京での披露は約百年ぶりで、作者の木札も併せて展示されている。

 千葉県鴨川市諏訪講の「神功(じんぐう)皇后」は神田祭で、同県佐倉市上町町内会の「日本武尊」は、山王祭で使われたとされる。 (松村裕子)



綾瀬の歴史を写真で振り返る~新選組のイベントも
 「綾瀬村誕生120周年と新選組」が10月31日、東綾瀬のはと公園などで開催された。
 第一会場となった、はと公園の特設ステージでは、オープニングセレモニーのあと、子どものダンスや総合型地域スポーツクラブ「ASCクラブ」による健康銭太鼓をはじめ、日野市職員新選組パレードの会や新選組流山隊、新選組滝野川隊が殺陣を披露した。また、スタンプラリーで新鮮野菜がもらえるとあって、スタンプを集めた参加者たちが福引所に長蛇の列を作った。


神奈川
講演会:徳川宗家当主が江戸の歴史講演 大・開港展を開催中の横浜美術館で /神奈川
 横浜開港150周年を記念した「大・開港展--徳川将軍家と幕末明治の美術」(毎日新聞社、財団法人徳川記念財団など主催)を開催中の横浜市西区の横浜美術館で7日、徳川記念財団の徳川恒孝(つねなり)理事長による講演会が開かれた。

 徳川理事長は家康を始祖とする徳川宗家の十八代当主。240人の聴衆を前に、平和を背景に絵画、芝居、文芸などが庶民へ広がった江戸の歴史を解説し、開港について「日本と西洋の文化がぶつかり合う、インパクトのある出来事だった」と語った。

 さらに「その後も西洋にかぶれず、自然や人間の喜びや悲しみを伝えるという特性を、日本文化が保てたことが素晴らしい。この底力に今後も期待したい」と話した。

 展覧会は23日まで。問い合わせは同館(045・221・0300)。【川俣享子】


寄贈:中村さん、国登録文化財の「中村家住宅」と「長屋門」を相模原市に /神奈川
◇江戸後期の和洋折衷住宅を寄贈--改修後、来年4月一般公開
 江戸時代後期の和洋折衷住宅として、国内でも数少ない相模原市磯部勝坂にある国登録有形文化財の「中村家住宅」と「長屋門」が、所有者の中村秀子さん(95)から市に寄贈された。市は約1280万円をかけて防火設備を設けるなど改修し、来年4月から一般公開する。

 中村家は幕末期に生糸の商いで財を成した。住宅は鎌倉大工が手掛け、1867(慶応3)年に着工して完成までに約10年かかった。主屋は3階建てだったが、1923(大正12)年の関東大震災後に3階部分が取り除かれた。

 主屋は現在、木造2階建て延べ420平方メートル。1階の外観は和風造り。2階はなまこ壁の外壁で、軒を曲線の白しっくいで塗り、正面に縦長のガラス窓を配置した洋風造り、同市提供。06年に「国土の歴史的景観」として国登録有形文化財に指定された。長屋門は木造平屋88平方メートル。敷地面積は1869平方メートル。

 中村さんから7月、「市民の文化遺産として活用してほしい」と寄贈の申し出があり、市は保存を図り一般公開することにした。市文化財保護課は改修後、国に指定有形文化財への格上げを求めるとともに、3階部分の復元も検討する。【高橋和夫】


三重
松阪・しょんがい音頭と踊り 宇治橋奉祝で披露
 松阪市の無形民俗文化財の郷土芸能を伝承している「松阪しょんがい音頭と踊り保存会」(奥村義治会長)が、伊勢市の伊勢神宮内宮の宇治橋渡始(わたりはじめ)式を奉祝する8日の行事に参加することになり、練習に励んでいる=写真=。午前9時過ぎから2時間半にわたり、神宮神苑の特設舞台で約100人が踊りを披露する予定だ。同保存会では「歴史ある手踊りで宇治橋の完成に花を添えたい」と意気込んでいる。

 「しょんがい音頭と踊り」は、松阪市の礎を築いた戦国武将・蒲生(がもう)氏郷(うじさと)(1556~95)が築城した松阪城の完成祝いに開いた宴席で舞われたのが始まりとされる。音頭師の名調子とおはやしに乗り「アレワイサーヨーイヤサー」の掛け声とともに踊る。市内の盆踊りなどでも披露され、現在に受け継がれている。

 奉祝行事には「20年に1度なので、ぜひ参加したい」と申し出たところ、神宮司庁から許可を得て実現した。当日は、氏郷を始め、国学者の本居宣長(1730~1801)、北海道の名付け親で幕末の蝦夷地探検家・松浦武四郎(1818~88)ら地元の偉人の功績や伝説を歌詞に盛り込んだ音頭に合わせて踊る。指導する同保存会事務局長の坂上道子さん(68)は「伝統の舞を、全国から集まる参拝客らに見てもらいたい」と話している。

(2009年11月7日 読売新聞)




滋賀
萩の“大獄和解”市民団とひこにゃんが交流…滋賀
 「安政の大獄」で幕末の大老・彦根藩13代藩主の井伊直弼に弾圧された吉田松陰ゆかりの山口県萩市から、市民訪問団41人が4、5両日、滋賀県彦根市を訪れ、彦根城内などを探訪した。
 8月に彦根市から井伊家18代当主の井伊直岳・彦根城博物館長や獅山向洋市長ら市民使節団が萩市を訪れ、松陰の墓参をしたことへの答礼。一行は萩の姉妹都市・神奈川県鎌倉市訪問の帰途、彦根市を初めて公式訪問した。
 彦根市に到着した4日夜には、同市内のホテルで歓迎セレモニーがあり、獅山市長が「両市の絆(きずな)が深まった」などとあいさつ。訪問団のメンバーは、ホスト役のひこにゃんと記念写真を撮るなどしていた。
 5日は彦根城内を観光。野村興児・萩市長は「(彦根への)わだかまりはないと言えばうそになる。ただ、井伊家当主の松陰墓参に市民が感激した。新しい交流が誕生している」と話していた。





京都
下京の魅力 再発見を
8日にスタンプラリー

 京都市下京区の史跡や隠れた名所を訪ねるスタンプラリーが8日、開催される。地元が挙げたおすすめスポットなど56カ所に設けたポイントに住民がガイド役として立つ。地図片手に町歩きを楽しみながら地域の魅力に触れる初めての試み。

 下京区発足130周年の記念イベントとして同区役所が企画。昨年までは東西本願寺の周辺約1平方キロメートルを舞台にスタンプラリーを実施してきたが、対象を区全域(約6・8平方キロメートル)に拡大して催す。

 新選組ゆかりの石碑や坂本龍馬暗殺が引き金となった「天満屋騒動」の舞台など幕末維新にちなむ場所や、京都に現存する銀行建築物として2番目の古さを誇る柳原銀行記念資料館などの伝統建造物・社寺を巡るほか、地元推薦の隠れた名所も訪ね歩く。

 当日、各ポイントを記した地図を京都駅北側タクシー乗り場付近や東本願寺で配布する。各所に地域の住民が立ち、秘められた伝承や伝説を紹介する。午前9時半~午後3時の間に8カ所でスタンプを押した上、渉成園と西本願寺、西大路小学校のいずれかのゴール地点で記念品と交換できる。午前10時と正午からの2回、各ポイントをめぐるガイドツアーも行う。

 同区役所総務課は「まちをあらためて見つめ直し、再発見してもらうきっかけになれば」と参加を呼び掛けている。無料。問い合わせは同課TEL075(371)7164。


時代超え若者に勇気 「龍馬のよさこい」命日に
高知の大学生ら 京都で15日披露 独自の振り、セリフも

 京都霊山護国神社(東山区)で今月15日に実施される「坂本龍馬中岡慎太郎墓前祭」(龍馬祭)に合わせ、龍馬の故郷・高知県の大学生らが京都市内で、独自の振り付けで完成させた「龍馬よさこい踊り」を披露する。学生たちは「時代を超えて若者に勇気を与え続ける龍馬に敬意を表したい」と意気込んでいる。

 同祭は、龍馬の誕生日で、かつ盟友中岡慎太郎とともに近江屋で襲撃され絶命した日でもある15日にちなみ、府内在住の高知県出身者らでつくる「京都高知県人会」などが毎年実施。龍馬の墓がある同神社の境内で、龍馬が好んだシャモ鍋が振る舞われ、墓前で神事などが営まれる。

 昨年は関連イベントとして、佛教大や京都女子大の学生ら約300人が境内で、よさこい踊りを披露。しかしよさこい踊りは本来、街なかを練り歩くスタイルのため、今年は境内に加え、河原町通(中京区)や京都駅ビル(下京区)も舞台とすることにした。

 高知工科大を始め、京都学生祭典のダンスチーム、全国のよさこいサークルなど総勢約800人が参加する。従来のよさこい踊りをアップテンポにして躍動感あふれる振り付けを行い、また龍馬がよさこい踊りの替え歌で口ずさんだとされる「?花のお江戸の両国橋へ」といったセリフも組み込む工夫が施されている。

 当日は、午前10時30分から境内で踊った後、午後には、龍馬が凶刃に倒れた近江屋跡地のほど近くに立つ複合商業施設「ミーナ」と「オーパ」(いずれも河原町通)で演舞し、夕方から午後8時頃までは京都駅ビルの特設ステージで各チームの踊りが繰り広げられる予定だ。

 実行委員会の役員を務める京都大3年浜田啓行さん(21)は「幕末、各地を奔走し多くの若者に刺激を与えた龍馬の遺志を継ぎ、現代の若者らを活気づける催しにできれば」と話している。

(2009年11月8日 読売新聞)


奈良
【日本の駅をゆく】明治維新先駆けの地、JR五条駅
 紀伊半島のほぼ真ん中、奈良県中西部に位置する五條市。隣接する和歌山県橋本市が大阪など大都市のベッドタウンとして急速に発展したのとは対照的に、人口は昭和20年代からほぼ横ばいの約3万7千人。金剛山のふもとに広がる田園に囲まれた街角には、吉野川の水運などで江戸時代から戦前にかけて繁栄した歴史が、いまも面影強く残されている。

 そんな五條市の玄関口、JR五条駅前に今月、市内で初めての観光案内所が開設された。岡本麻利加さん(46)と上野真優さん(27)が常駐して案内業務にあたっている。

 駅から10分歩くと、江戸時代初期、城主だった松倉重政が城下町として設けた新町通りがある。日本最古級の民家をはじめ古い家並みが続き、いくつもの世紀を一気にタイムスリップしたよう。400年もの昔、もとは吉野川の川原だったという地に集落を出現させた重政の先見の明は、今もその通りが存続していることからも見てとれるだろう。

 そして、その周辺には、明治維新の先駆けとなった天誅組が焼き打ちした代官所跡や、戦前に建設計画が持ち上がりながら未完に終わった鉄道「五新鉄道」の橋げたも残される。ちなみに、「五新鉄道」と、計画にほんろうされる人々の心情をみずみずしく描いたのが、奈良県出身の河瀬直美監督のデビュー作「萌の朱雀」。同作品はカンヌ国際映画祭で新人監督賞を受賞、五條の美しい風景は世界をも魅了した。まさに街そのものが歴史、自然の博物館である。

 観光案内所の開設にあたって受けた研修で、市内各地を巡った2人。新町通りの近くに住むという岡本さんは「今まで当たり前に思っていましたが、じっくり歩いて回ると味わいがあります。都会の人にほっこりしてもらいたい」と話した。案内所は(電)0747・25・0336。 (奈良支局 栗井裕美子)

 ■奈良県五條市 平成17年に五條市、西吉野村、大塔村が合併。美しい自然に囲まれた地域だが、歴史の重要な局面で表舞台に登場する特異な地としても知られる。南北朝時代には、吉野とともに一時、賀名生(現五條市西吉野町)が南朝の拠点となったほか、幕末の文久3年(1863年)には天誅組が五條代官所を襲撃、この反乱は結局うまく行かなかったが、倒幕に向けた最初の行動として歴史的に価値のあるものだったとされる。実際、4年後に大政奉還が行われ、1868年から明治時代が始まった。柿の名産地としても有名。

「笈の小文」体裁そっくり
永井・奈良大教授が新説

 松尾芭蕉の紀行文を収めた「笈(おい)の小文(こぶみ)」で、初版とされる京都・平野屋発行の版本が、ロングセラーとなった「おくのほそ道」ブームに便乗して体裁をまねたうえ、〈著作権法違反〉だった可能性が高いとの新説を、奈良大の永井一彰教授(近世国文学)がまとめた。本文のスペースがほぼ同じなうえ、表装が酷似しているなど海賊版が横行した江戸時代の出版事情がうかがえ、7日に兵庫県西宮市の関西学院大で始まる日本近世文学会秋季大会で発表される。

 平野屋版は、奥書に宝永6年(1709年)刊行と記され、当時主流だった半紙本(縦約23センチ、横約16センチ)で、本文の上部などに必要以上の余白があるため、永井教授が調査した。本文のスペースが、枡形(ますがた)本(縦約17センチ、横約14センチ)と呼ばれる特殊なサイズの「おくのほそ道」とほぼ一致し、表紙も同じシダ模様だった。

 永井教授は、元禄15年(1702年)に出版された「おくのほそ道」人気にあやかろうと、版木を枡形本の大きさで作ったが、便乗の発覚を恐れて、わざと半紙本に変えたため、大きな余白が出たと考えている。

 また、版本「笈の小文」には、紀行文「笈の小文」と「更科紀行」を収録。だが、「更科紀行」は、宝永元年(1704年)に京都・井筒屋が出した「きその谿(たに)」に収められている。平野屋の出版後、「笈の小文」の版元は井筒屋に移っていることから、平野屋が無断で掲載したため、版木を没収したとみられる。

 版本「笈の小文」は、平野屋版など4種類が残り、幕末期までロングセラーとなった。

 永井教授は「出版は文化活動とみられるが、産業の観点で見ることも必要。江戸時代は海賊版の時代とも言え、『おくのほそ道』人気に便乗する版元が出たのも不思議でない」と話す。

(2009年11月7日 読売新聞)


大阪
おじゃまします:「福龍園」 /大阪
◆福龍園=大阪市北区天満4

 ◇「うまいぜよ 麻婆豆腐」 “龍馬もお薦め”の味求め
 四川料理のパイオニアを自負する専門店「福龍園(大阪市北区天満4)。大阪天満宮の裏通りに位置し、赤い屋根が目印。店内は「福龍園の麻婆豆腐はうまいぜよ 龍馬」と記された幕末の志士・坂本龍馬の複製写真入りの額縁があり、サラリーマンらを出迎える。

 龍馬ファンの浅見龍彦オーナー(50)は「日本を変えた英雄にならって、料理作りに取り組んでいます」と気持ちを込める。

 お薦めは「四川超級麻婆豆腐」(スーパーマーボー、1000円)。舌全体がしびれるほどの辛みは、やみつきになるという。

 また、しょう油ベースでピリッと辛い「鶏肉とカシューナッツの唐辛子炒め」(1400円)、「モンゴイカと中国野菜の炒め」(1600円)なども人気メニューだ。

 ランチタイムは「麻婆豆腐ランチ」(730円)、「豚キャベツランチ」(800円)などを取りそろえ、ライスのお替わり自由。サイドメニューとして「ひとくち麻婆」(200円)もオーダーできる。

 浅見さんは「こだわりの味を、食べたい人に食べてほしい」と話す。

 11~14時、18~22時、日・祝日定休(06・6353・7224)。【関谷徳】



山口
萩焼、薩摩焼が“薩長同盟” 合同の陶芸展始まる
 萩焼と鹿児島県の薩摩焼の作品を一堂にそろえた「現代陶芸薩長連合展」(萩陶芸家協会主催)が7日、萩市呉服町の旧久保田家住宅で始まった。29日までで、入場料100円。

 両焼とも朝鮮半島がルーツだが、400年にわたる歴史の中で萩焼は茶陶など、薩摩焼は緻密(ちみつ)できらびやかな焼き物として別々の作風を築いてきた。しかし、最近では、共通する新しい感覚で取り組む若い世代がいることから、幕末の薩長同盟にあやかって、連携を深めるきっかけにしようと、初めて企画された。

 会場の座敷などには75点が展示され、違いを比較することができる。出品した作家らが出席した開会式では、萩陶芸家協会長の第12代三輪休雪さんと薩摩焼を代表して鹿児島県美術協会の尾前喜八郎会長があいさつし、「これを機に萩と薩摩は焼き物の点で手を結び、新しい発展につなげていきたい」と期待を込めた。

 記念シンポジウムが28日午後4時から、同市の県立萩美術館・浦上記念館で開かれ、三輪さんと薩摩焼作家の15代沈壽官さんが講師を務める。

(2009年11月8日 読売新聞)


文化芸能
龍馬伝:恩師・河田小龍にリリー・フランキー、谷原・小五郎に生瀬・松陰 キャスト決定
 10年に放送される福山雅治さん(40)主演のNHK大河ドラマ「龍馬伝」に、イラストレーターで作家のリリー・フランキーさん(46)や俳優の谷原章介さん(37)らが出演することが決まった。

 フランキーさんは、龍馬に海外の情報を教えたとされる土佐藩の絵師・河田小龍役でNHKドラマ初出演。谷原さんは長州藩の剣豪・桂小五郎を演じる。また、伊藤博文や高杉晋作を育て、幕末の尊皇攘夷(そんのうじょうい)思想でリーダーとなった吉田松陰を、俳優の生瀬勝久さん(49)が演じる。

 「龍馬伝」は、土佐(高知県)出身の坂本龍馬の33年の生涯を、三菱財閥の創業者となる岩崎弥太郎の視点から描いたドラマ。龍馬にあこがれる岩崎が、師事していた藩参政・吉田東洋の暗殺を機に、龍馬を憎むようになり、衝突を繰り返しながら、「世界の海援隊を作る」という龍馬の遺志を引き継ぐ……という物語。10年1月3日から毎週日曜日午後8時に放送。初回は74分拡大版。【服部美央】

2009年11月7日


 書店で見出しをぱらっと見て、即買い。



 幕末維新史をどちらかといえば旧幕府寄りで見ている自分には、いいですね。いわゆる「一会桑」という概念が広まってますが、京都守護職を泣く泣く引き受けざるを得なかった会津藩主松平容保様と、一橋慶喜(後の徳川慶喜)の政治的姿勢の距離を指摘する本書の方が自分の感覚に近いかも。

 長州藩はともかく、薩摩藩がいかに損得勘定で幕末の歴史を左右したかも、つくづく感じてます……読了したら、また感想を上げる予定です。




 日曜夜に『JIN-仁-』が放映されるって、嬉しいですね。某大河ドラマを見なくなって以来、日曜夜の楽しみが復活しました。 原作ファンから言わせると、もにょるところもあるのですが……でもまぁ、NHK土曜時代劇よりはずっと出来がいいし(昨日の『オトコマエ!』は勘ちゃんが好演していたので、割と楽しめました。平助の頃に比べると、顔つきが随分と大人の男になったなぁ。へーN……平助の中の人、結婚おめ!)。

千葉
日蘭交流400周年で市民展覧会
 日蘭交流400周年を記念し、千葉県の佐倉市教育委員会などは11月29日から市立美術館で、「市民のオランダ展」を開催する。佐倉市は幕末に佐倉藩が蘭学を積極的に取り入れたのが縁で、オランダと交流を重ねている。
 展覧会では佐倉市民による写真や絵画のほか、かつてKLMオランダ航空機内誌で連載していた画家、安野光雅さんのオランダ風景画も特別展示される。
 12月23日まで。月曜休館。問い合わせは同市教委文化課(電)043・484・6191。



京都
十石舟:乗船客20万人を突破--伏見 /京都
 江戸時代から明治末期にかけて、酒や米などの物資を運搬した舟を観光用に再現した十石舟の乗船客が31日、20万人を突破した。伏見区の十石舟乗船場で、運航する伏見夢工房の社長で、月桂冠相談役の大倉敬一さん(82)から20万人目となった神戸市東灘区の井土スミ子さん(77)に伏見の清酒などが手渡された。

 伏見ゆかりの幕末の志士、坂本龍馬を描く「龍馬伝」の10年のNHK大河ドラマ放映が決まり、順調に乗船客が増えた。友人と訪れた井土さんは「十石舟には初めて乗った。天気も良く風もさわやかで気持ちよかったです」と話していた。【藤田健志】


山口
下関図書館:さよなら 40年の歴史に幕 /山口
 下関市上田中町の市立下関図書館が31日で閉館し、40年の歴史に幕を閉じた。この日は元館長の野村忠司・下関市文化協会会長(72)が「さよなら下関図書館」と題し講演するなど、文化発信拠点として愛された館との別れを惜しんだ。館の機能は来年3月にオープンする市立中央図書館に移される。
 下関図書館は69年、明治維新100周年事業として新築。歴代の館長が趣向を凝らし、女性のための作文や詩の教室、読書グループの朗読劇、レコードコンサートなど多彩な催しを開いてきた。近年は建物の老朽化や駐車場不足が深刻になっていた。
 初代館長の故中原雅夫さんの下で働き、93~98年に第5代館長を務めた野村さんは、講演で館の歴史を紹介。開館当初、直木賞受賞前の古川薫さん(84)が講師だった市民作文教室などを回顧し「図書館が文化の伝導役だった」と懐かしんだ。子どもに物語を語って聞かせるボランティア、小畑乃武子さんの「おはなしの会」は06年に2500回を数えたという。
 新しい図書館は指定管理者制度で民間の運営になる。野村さんは「私たちがどう育てていくか。市民の図書館を皆で形作っていきましょう」と呼びかけていた。【取違剛】
〔下関版〕


長崎
「龍馬伝友情ウォーク」が島原出発 高知から500キロ、本県入り
 幕末の志士、坂本龍馬が生まれた高知から長崎までを市民らが歩く「龍馬伝 土佐の風から長崎の風へ バトンタッチ友情ウォーク500キロ」の一行が本県入りし、1日、島原市の島原城を出発した。
 来年の大河ドラマ「龍馬伝」を前に、龍馬ゆかりの観光地をPRしようと、特定非営利活動法人(NPO法人)「長崎の風」(黒田雄彦理事長)と高知市ウオーキング協会などでつくる実行委が主催。10月14日に岩崎弥太郎の生家がある高知県安芸市を出発し、一行10人が陸路と海路で同31日に島原市に到着した。
 1日は島原市から諫早市森山町の唐比温泉センターまで約30キロのコースで、後援の十八銀行の行員らも加え約100人が参加。あいにくの雨だったが、参加者は「龍馬伝」のキャップをかぶり、元気に島原城を出発。龍馬が生きた幕末の時代に思いをはせた。
 2日は唐比温泉から長崎市の矢上神社まで歩き、3日に長崎奉行所立山役所跡(長崎歴史文化博物館)にゴールする。


「阿蘭陀とNIPPON」開幕 日蘭の逸品350点ズラリ 多彩な関連イベントも 長崎歴史文化博物館
 31日、長崎市立山1丁目の長崎歴史文化博物館で開幕した企画展「阿蘭陀(オランダ)とNIPPON」(西日本新聞社など主催)には、日蘭文化の融合を象徴する美術品や書物約350点が並ぶ。訪れた人々は、400年にわたる交流の歴史に思いをはせた。
 江戸幕府は1609年、オランダに朱印状を発行。同年、平戸にオランダ商館が開かれた。その後の出島を含め、長崎を窓口に幕末まで約250年間続いた交易は、両国の文化や生活に大きな影響を及ぼし合っている。企画展はこうした文化的背景に焦点を当て、同博物館が初めて手掛ける巡回展として、来年は東京、愛知でも展示される。
 展示品は両国の博物館から集められた逸品ぞろい。和紙を使ったレンブラントの銅版画をはじめ、17-18世紀のオランダで日本の着物が「ヤポンスロック」と呼ばれて大流行したことを題材にした絵画や、顕微鏡で見た雪の結晶を染め付けた茶碗(わん)などが展示されている。家紋入りシーボルト家の裃(かみしも)も話題だ。
 来年1月11日までの会期中、講演会やトークショー、オランダ式望遠鏡づくり(11月21日)など多彩な関連イベントもある。同博物館=095(818)8366。


鹿児島
ひと・ヒト・人:薩摩焼絵師・藤崎隆さん /鹿児島
◇息をのむ繊細な作業--藤崎隆さん(62)=鹿児島市吉野町
 乳白色の陶器の肌に、金を付けた絵筆で髪の毛ほどの均一な細い線を引く。繊細な作業に、思わず息をのむ。「白薩摩」の特徴でもある金は膨張色のため、線の細さが高い技術力の証明だ。「針の先のさらに先で引く感じ。太く描けば早いけど……」と、自尊心がのぞく。
 今年、斉彬生誕200年に合わせて集成館所蔵の最高傑作「金襴手菊籬文水指(きんらんできくまがきもんみずさし)」の再現に挑み、見事に完成させた。島津家直営の「磯お庭焼窯」で絵筆を握る。四十余年、絵師一筋。「ぱっと入った道が、ずっと長い道になった。天職に巡り合えた」と目尻を下げる。
 霧島市霧島町出身。小学生の時から絵画コンクールで受賞するなど才能の片りんを見せた。中学・高校時代は野球や音楽に没頭。上京を経て、21歳で帰郷すると兄の勧めで、薩摩陶器原良窯(鹿児島市、82年閉鎖)に入社し、絵師としてのスタートを切った。
 最初は、おちょこに細い線を引く訓練を繰り返す日々。だが、素質はすぐに開花し、数年で高価な商品の絵付けを任されるまでになった。当時、薩摩焼は人気があり、飛ぶように売れた。故に、粗製品も目立った時代だった。83年、伝統ある白薩摩の復興を目指し、幕末の薩摩藩主・島津斉彬が興した「お庭焼窯」を再興した島津興業に籍を移した。
 島津家の歴史資料館「尚古集成館」に所蔵される白薩摩に目を見張った。「これまで自分が描いていたものでいいと思っていたが、質感、色、きめ細やかな技術、すべてが違う。レベルの高さを痛感した」。器を引き立たせる構図を模索し、寝ずにノートに描き殴る日が続いた。研さんを重ね「鹿児島の匠パリ展」に出品するなど、薩摩焼を代表する絵師にまで登り詰めた。
 「10年前の自分の作品の方がいいと思ったら、成長が止まったということ。死ぬまで成長したい」。愚直に「美術工芸品」と向き合う。【川島紘一】






 アップしきれなかった記事を追加します。

北海道
掘り出しニュース:函館開港150周年:ペリーから発案「夢弁当」 調理師学校が創作
【北海道】函館開港150周年を記念し、地元の海産物をふんだんに盛り込んだ「函館夢弁当」を、地元の調理師専門学校などが創作した。「黒船来襲」で知られ、幕末に函館にも来航した米ペリー提督からイメージを膨らませた和風・洋風の2種類。一部は市内と近郊で11月1日まで販売される。

 企画したのは、いずれも函館市にある函館短大付設調理師専門学校とコンビニエンスストアチェーンの「ハセガワストア」、コミュニティーFMの「FMいるか」。地域住民らに地元食材の魅力を知ってもらおうと、02年から毎年共同で創作弁当を期間限定で企画・販売しており、今年は「開港150周年」をテーマに取り組んだ。

 和風は、ペリー提督が地元の水産資源にも関心を寄せていたという逸話を基に、北海道近海のさまざまな魚介類を使用した。地場のホタテを使った「帆立シューマイ」や「帆立の子の茶碗(ちゃわん)蒸し」のほか、「秋鮭サラダ焼き」「サバの南部揚げ」を提供。ご飯は、話題の道産米の新品種・ゆめぴりかを使い、「キノコご飯」や「ゆかりご飯」など4種類の味が楽しめるようにした。

 洋風は、ペリーの出身地である米ロードアイランド州近郊の郷土料理をベースに構成。白花豆と豚の塩漬けを煮込んだ「ボストンべークドビーンズ」や「ベーコンのローストバーボンウイスキー風味」など、オードブル風に仕立てた。

 洋風はすでに予約完売しているため、販売は和風のみで1折780円。函館市内と近郊のハセガワストア14店で受け付ける。問い合わせはハセガワストア本部(0138・54・5731)へ。【昆野淳】


今夏公演の名シーンふんだんに 野外劇カレンダー4日に発売
 NPO法人市民創作「函館野外劇」の会(フィリップ・グロード理事長)は、「2010年版カレンダー」(B3判、8ページ)を11月4日から発売する。今夏公演の名シーンがふんだんに盛り込まれており、野外劇ファンに幅広く人気を集めそうだ。

 同会では資金確保の目的で、写真家、野呂希一さんが撮影した写真を使ったカレンダーを10年前から毎年作製している。

 今年は表紙に戊辰戦争の激しい戦闘シーン場面を配置。2カ月単位、全6ページのカレンダー部分には、例年は劇のストーリーを追った遠景を使用しているが、今年はより多くの出演者の表情を楽しんでもらおうと、一人一人の息づかいが伝わるクローズアップ写真を多用している。また最終8ページ目には、劇全体の構成と流れが一目で分かるように各場面の写真と解説が並んでおり、野外劇の観賞ガイドとしても活用できる。

 同会の坂上正治広報部長と演出コーディネーターの石川泰隆さんは「多くの市民の手によって野外劇が作られていることが伝わってる内容に仕上がった」と自信を見せる。例年カレンダーの半数以上を企業や団体が購入することから「一般の方は早めに申し込んで」と呼びかけている。

 価格は1部1000円(税込み)。発行部数は2000部。30部以上まとめて購入すると、企業名や団体名を無料で印刷するサービスもある。注文は電話のみで、郵送の場合は別途300円がかかる。問い合わせは同事務局℡0138・56・8601。


秋田
横手市史:秋田藩の家臣団や、幕末維新の激動扱い 「史料編 近世2」を刊行 /秋田
 横手市の市史編さん室は、初の通史「横手市史」(全10冊と普及版1冊)の7冊目で、近世史料編としては2冊目となる「史料編 近世2」を刊行した。

 秋田藩の家臣団編制や武士の本質「武芸」を詳述した第1編「横手給人と文化・社会生活」▽幕府命令による2度の蝦夷(えぞ)地出兵と、戊申(ぼしん)戦争(1868年)で横手盆地が戦場と化した第2編「幕末維新期の横手」の2部構成。

 白眉(はくび)は城下町の武家社会を動乱の渦に巻き込んだ幕末維新史で、編さん室の高本明博主任(29)は「この地の武士が(激動の)幕末維新期にどうかかわってきたのかを明らかにしたかった」と話した。

 編さん室は「通史刊行は普及版も含め11年度完了予定で、フィナーレが見えてきた」としている。変形A4判ケース入り786ページ(別に口絵カラー16ページ)で、1000部を発行する。3500円。問い合わせは市史編さん室(0182・35・5722)。【佐藤正伸】


栃木
草雲弟子の作品初公開 足利・草雲美術館で特別展
【足利】緑町2丁目の草雲美術館で、開館40周年を記念した特別展「草雲の継承-翠雲・柳渓・魯牛-」が12月20日まで開かれている。田崎草雲の作品が並ぶほか、個人が所蔵する弟子の小室翠雲と、岸浪柳渓の作品を初めて公開。雄渾な山水画など18点が掲げられている。

 今回初めて公開された草雲の弟子の翠雲作「周茂叔愛蓮図」は雄大な山並みが描かれている。一方、同じく初公開の柳渓作「松上孔雀図」は孔雀の羽根を繊細に表現。対照的な趣があり、両作品を見比べるのも面白い。ほかに草雲の作品など計18点が展示されている。

 本県を代表する文人画家、田崎草雲(1815~98年)は足利藩の武家の子として江戸で生まれ、幕末から明治初期にかけて活躍し、幕末には民兵組織「誠心隊」も結成。明治維新の直前に足利へ移住した。

 同館は地元の医師から寄付を受け1969年に開館。草雲の名画と遺品が年間を通じて公開されており、市外から訪れる人も多い。

 休館は月曜日(11月23日は開館)と11月4、24日。入館料は一般210円、中学生以下無料。問い合わせは同美術館電話0284・21・3808。


静岡
近代化産業遺産群シンポを開催=静岡県伊豆の国市
 10月31日と11月1日の両日、静岡県伊豆の国市の韮山時代劇場で、「近代化産業遺産群シンポジウム」が開かれる。造船、製鉄、鉱山など、幕末から明治にかけてわが国の産業の近代化に大きく貢献した施設を歴史遺産として保存し、地域活性化にも役立てようとする地域の関係者が集まり、意見交換などを行う。
 シンポでは、歴史作家の加来耕三氏が基調講演を行うほか、伊豆の国市や山口県萩市、佐賀市、長崎市など、経済産業省認定の「海防を目的とした技術導入の経緯を物語る遺産群」がある自治体の関係者を集めたパネルディスカッションも開催。遺産を活用した地域振興策などについて話し合う。
 シンポジウムと同時に、関係自治体の首長らによるサミット会議も行う。韮山代官として反射炉の建設などを進めた江川太郎佐衛門の代官所跡「江川邸」を会場に、遺産の保全や活用方策などについて事例報告をするほか、相互に協力したまちづくりのあり方などについて話し合う。【もぎたて便】(2009/10/27-09:00




京都
龍馬ゆかりの史跡や名所を歩こう
京都市が幕末観光マップ

 来年1月に始まるNHK大河ドラマ「龍馬伝」に合わせ、京都市は坂本龍馬ゆかりの幕末史跡・名所を歩いて巡る観光マップを作成した。

 薩長同盟締結の舞台となった薩摩藩邸跡や京都御所を巡るコース、壬生付近の龍馬と妻・お龍が会っていたとの伝説の残る武信稲荷神社周辺を歩くコースなど5コースを紹介している。

 当時に思いをはせながら散策できるよう霊山歴史館(東山区)の学芸員が監修し、龍馬の生涯と幕末史も簡潔に紹介している。A4判8ページ、30万部発行。11月2日から市観光案内所などで無料配布する。


山口
吉田松陰の遺品など展示、宝物殿が開館
 幕末の思想家、吉田松陰の没後150年の命日にあたる27日、山口県萩市椿東の松陰神社境内に完成した宝物殿「至誠館」の開館式が行われた。

 式では、二井知事や松陰の兄、民治の子孫にあたる杉治彦さん(神奈川県鎌倉市)らがテープカット。上田俊成宮司が「ここを拠点に松陰先生の思いや行動を全国に広げていきたい」とあいさつした。

 同神社が松陰没後150年を記念して建設。鉄筋コンクリート平屋の522平方メートルで、総事業費は3億5000万円。収蔵する約1000点の資料類のうち、塾生らに書いた遺書「留魂録」や、江戸送りになる時に塾生の松浦松洞が描いた肖像画に松陰自らが思いを書いた「自賛肖像」など36点を展示する。

 一般公開は28日午前9時からで、最初の入館者には「松陰神社所蔵宝物図録」を贈る。年中無休。一般500円、中高生250円、小学生100円。

 問い合わせは同館(0838・24・1027)へ。

(2009年10月28日23時22分 読売新聞)


松陰の資料一堂 至誠館開館
 萩市出身の幕末の思想家、吉田松陰(1830~59年)の150回目の命日に当たる27日、同市椿東の松陰神社境内で、松陰ゆかりの資料を集めた「至誠(しせい)館」の開館式があった。28日から一般公開される。

 鉄筋平屋約520平方メートル。安政の大獄で処刑される前に、松下村塾の塾生にあてた遺書「留魂録」や、塾で使っていた原稿用紙の版木、父や兄らに送った最後の手紙「永訣(えいけつ)の書」など36点を展示。同館は書や掛け軸など約千点を所蔵しており、展示品を入れ替えながら公開する。

 総工費は約3億5千万円。寄付を募り松陰神社が新設した。

 開館式で、二井関成知事や松陰神社の上田俊成宮司たち14人がテープカットした。

 入館料は一般500円、中高生250円、小学生100円。開館時間は午前9時~午後5時で、年中無休。


維新の父・吉田松陰の命日に「至誠館」オープン 萩・松陰神社
 明治維新の原動力となった幕末の思想家、吉田松陰をまつる山口県萩市の松陰神社に27日、ゆかりの資料や遺品などで業績をたどる宝物殿「至誠館」が開館した。

 松陰がいわゆる「安政の大獄」で刑死して今年が150年になることを記念し、松陰神社が5年がかりで建設。松陰の命日に当たるこの日、地元保育園児たちの鼓笛演奏や関係者らのテープカットでオープンを祝った。

 城下町・萩にふさわしい大屋根や白壁があり、所蔵する宝物は処刑前に門弟にあてた遺墨「留魂録」など約1000点。松陰の生涯や思想を解説するパネルもある。

 松陰神社は「時代を超えて人々の心を揺り動かす松陰先生の国家観や教育観などの『志』に触れてほしい」と話している。


県有形文化財:松陰の絶筆、肖像画など754点を指定へ 実像に迫る貴重資料 /山口
◇没後150年
 県文化財保護審議会は26日、幕末の思想家、吉田松陰や吉田家にまつわる書状、肖像画など県文書館所蔵の資料754点を、県の有形文化財に指定することを決めた。松陰の生涯にわたる資料が、時代的に偏ることなく含まれている点が評価された。【諌山耕】

 資料の目玉は肖像画と、処刑直前の絶筆。肖像画は松陰が主宰した私塾「松下村塾」の門下生が1859年に絹地(縦99センチ、横35センチ)に描いたもので、絵の上部に、松陰が自らの思いをつづっている。絶筆は同じ年の10月、安政の大獄で処刑される直前、手元にあった紙(縦33センチ、横24センチ)に「嬉(うれ)しかりける」と、処刑への充足感をしたためた。

 資料は吉田家が1954年、県に寄贈。県立山口図書館での整理を経て、県文書館が05年度に形状などを調査。松陰の没後150年に合わせて文化財登録を諮問した。

 幕末期にまつわる歴史資料の県文化財指定は初めて。社会教育・文化財課は「江戸遊学中の費用録(家計簿)など、日々の行動が詳細に分かる資料も含まれており、松陰の実像を知る意味で貴重」と話している。

 肖像画と絶筆は11月1日まで、山口市後河原の県文書館で特別公開される。入館無料。問い合わせは同館(083・924・2116)。

〔山口版〕



コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(34)東大教授・山内昌之 大久保利通
■大義 親(しん)を滅す

 他人に対する優しさは、人間の情緒を豊かにする上でも欠かせない。しかし、思いやりも度が過ぎれば、個人の自助努力や向上心を妨げることにもなりかねない。民主党中心の連立政権は日ごとに“優しさのバラマキ政権”という印象を強めている。

 担当大臣が首相に直談判すると、母子加算が要求項目の内容も精査せずに認められるというアバウトさには呆(あき)れた。子ども手当や高校授業料無償化など民主党マニフェストに列挙された“優しさのバラマキ”は、自民党とは違った質のバラマキ・オンパレードになる危惧(きぐ)を予兆させる。

 民主党閣僚のなかで一味変わっているのは、前原誠司国土交通大臣である。八ツ場(やんば)ダム計画の見直しや羽田空港のハブ国際空港化の提唱に見られる思い切った政治信念の披瀝(ひれき)は、与党に転じると、概算要求で官僚の言いなりになる大臣も多い中で異彩を放っている。何よりも、関係者に対する態度は丁重を極めながら、政策の主張ではぶれないのに好感をもつ人も多い。目標を定めて政治信念を実現するには、周到な準備もさることながら、周囲の圧力や雑音にめげずに毅然(きぜん)として意志を通す一貫性が必要なのだ。

◆近代国家への道筋に足跡

 この点で明治以来の政党政治家が理想とした先人は、まず大久保利通であろう。大久保の政治キャリアは、志士個人の力よりも集団で一糸乱れずに突出する方を有効と見て、保守派と目された藩主の実父、島津久光に接近し、挙藩一致を“国策”とさせることから始まった。久光に京都や江戸への率兵遊説(ゆうぜい)を勧め、幕府を見限って薩長同盟から倒幕に舵(かじ)を切る薩摩藩の基本政策は、大久保の緻密(ちみつ)な頭脳と鍛え抜かれた意志力がなければ成功しなかったに違いない。

 維新後も内務省をつくって内治に責任をもっただけでなく、岩倉使節団の一員として外遊に出る大胆さがないと、明治新政府はもろくも瓦解していたかもしれない。極端な暴力的独裁もなしに、日本が封建国家から近代国家に転換できた道筋のそこかしこには必ず大久保の足跡が見られる。

 ◆友情も顧みない鉄の意志

 しかし、孔子も書いたとされる『春秋』の解説書『春秋左氏伝』にいう大義親(しん)を滅すということもある。まさに大久保は、国家の大事をはかるためには、旧主の恩義や旧友との友情も顧みない鉄の意志をもっていた。廃藩置県のせいで島津久光と決別した大久保は、征韓論をめぐって無二の同志だった西郷隆盛と対決することになった。まさに、西南戦争にいたる2人の確執は、政治のドラマだけでなく、人間社会の悲劇を見る思いもする。

しかし、大久保には、旧友との別れの責任を自らの命であがなう潔さもあった。寡黙かつ威厳にあふれた理論家の大久保に面と向かって異論を吐けるのは、西郷くらいであった。若い頃(ころ)に、「人斬(き)り半次郎」と仇名(あだな)されたさしもの桐野利秋も、大久保に相対するとまともに話もできなかった。明治海軍の建設者で勇猛な山本権兵衛でさえ、大久保の前に出ると、意見を素直に述べられないほど威圧感があったという。大久保が内務省に登庁すると職員らはすぐに私語をやめ、庁舎も水を打ったように静まり返ったというのは有名な話である。

 ◆国の赤字を私財で補填

 しかし、大久保は家族思いでありながら、国の予算赤字を私財で補填(ほてん)したために死後に大借金を残し、家族が生計を営めないほどの清貧を誇った。

 いま友愛や優しさを本当に語るなら、使い切れないほどの資産に恵まれた一部の政治家は、大久保を見習って母子加算や保育園充実の一部を浄財で負担するくらいの太っ腹な仕草(しぐさ)を見せてほしかった。これ以上に自民党に政権奪還を諦(あきら)めさせる痛撃もなかったはずなのに、民主党支持者には残念なことではないか。(やまうち まさゆき)



【プロフィル】大久保利通

 おおくぼ・としみち 幕末、明治の薩摩藩士、政治家。旧名、一蔵。西郷隆盛、木戸孝允と並んで「維新の三傑」と呼ばれる。文政13(1830)年生まれ。島津久光に認められて小納戸役となり、藩政に参与する。西郷、岩倉具視らとともに討幕運動の中心となり、明治政府を樹立。木戸らと廃藩置県を実現する。明治4年、大蔵卿となり、岩倉遣外使節団副使として欧米を巡回。6年に参議となり、西郷の征韓論を退け、内務卿を兼任、事実上政府を指導する立場となる。佐賀の乱、西南戦争などを鎮圧した後、地租改正に取り組み、元老院、大審院、地方官会議の設置による立憲制の樹立を目指した。明治11(1878)年、東京・紀尾井坂で石川県士族らに暗殺された。享年49。
 ばたばたしてて、大江戸検定の受験勉強がまったくできてません(汗)。公式読本は途中までしか読んでません。明日は当たって砕けてきますわ^_^;。
 この時期、静岡県伊豆の国市韮山で上演される、江川坦庵公を題材にした舞台があるのですが、多忙につき見に行けないのがちょっと残念。

北海道
「箱館奉行所」復元、来夏に一般公開へ
 北海道函館市で復元工事が進められていた五稜郭跡内の「箱館奉行所」の外装部分がほぼ完成した。外壁を保護する覆いがはずされ、140年ぶりに幕末当時の姿があらわになった。現場では観光客らが早くもカメラを向けるなど、新たな観光スポットとして期待が高まっている。現在は内装などの工事中で、来年7月に一般公開される予定。

 江戸幕府が北方警備などの拠点として建設した城郭、五稜郭内には、1864年(元治元年)に箱館奉行所が完成し、蝦夷地統治の中心的役割を担った。1868年(明治元年)に旧幕府軍の榎本武揚や土方歳三らが占拠し、箱館戦争の舞台となったが、新政府軍に明け渡され、1871年(明治4年)に奉行所などの建物が解体された。

 復元工事が進む奉行所は木造平屋で広さ約1千平方メートル。中央部には5層からなる「太鼓櫓」があり、高さは約17メートルに及ぶ。外壁は一部が漆喰塗りの下見板張り、屋根は瓦ぶきで太鼓櫓は銅板ぶきとなっている。

 函館市が2006年から、発掘調査の結果や古写真、文献史料などをもとに、宮大工や左官職人らを集め、当時と同じ場所に忠実に復元を進めてきた。総工事費は石垣の一部修復も含めて約27億円。現在、壁の塗装や建具の取り付けなどの内装工事に入っており、来年6月末には完成。展示物を整備して7月29日から一般公開される。

 地元の観光関係者は、「夜景と並ぶ函館観光の最大の目玉になる。多くの人に幕末のロマンを感じてもらいたい」と、新しい観光拠点の完成に期待を寄せている。



岩手
高野長英墓前祭:40人が冥福祈る--水沢・大安寺 /岩手
 水沢出身で幕末の蘭学者、高野長英(1804~50年)の命日にあたる30日、墓前祭が奥州市水沢区東町の大安寺境内で営まれた。約40人の参列者が焼香し、没後100年祭の時に作った「高野長英頌歌(しょうか)」を唱和し、長英の冥福を祈った。

 高野長英顕彰会(平塚均会長)が主催した。高野家の墓の前で住職の読経が響く中、参列者が一人ずつ焼香し手を合わせた。

 長英は幕府の鎖国政策を批判して投獄された。その後、脱獄し6年間逃亡。江戸・青山百人町に潜伏中にとらえられ、非業の死を遂げた。平塚会長は「まだ長英については分からないことも多い。足跡をたどって長英の実像に迫りたい」と話した。【湯浅聖一】


栃木
江戸後期の書画集めたびょうぶ 画家や思想家の作品一堂に 2、3日 大田原の龍泉寺で公開
【大田原】住吉町1丁目の旧家・高瀬家に保管されていた、幕末の志士や文化人ら6人による書や絵を集めたびょうぶが2、3の両日、山の手2丁目の龍泉寺(植木盛雄住職)で一般公開される。解読を担当した黒羽高の大沼美雄教諭(52)は「当時の知識人、文化人の作品を一度に鑑賞できるびょうぶで珍しい」としている。

 びょうぶは縦175センチ、横360センチで、書と絵画各3枚を連ねている。もともとは別の作品をびょうぶに仕立てたものとみられ、各作者の没年などから150~200年前のものと推定される。

 2月、同寺の檀家を介し同家から寺への寄贈が決定。今月下旬までに修復を終えた。内容や作者は、歴史に詳しい大沼教諭が特定。同家では「尊皇の志士たちの作品」とだけ言い伝えられているが、持ち込まれた理由や詳しい経緯は分かっていない。

 作者はいずれも、江戸時代後期から幕末に活躍した。頼三樹三郎は、尊皇攘夷志士に影響を与えた「日本外史」の著者・頼山陽の息子。びょうぶの詩は、中国の故事に出てくる薊子訓を題材にした内容だ。宇都宮藩士の大橋正順も尊皇の志士で、唐の詩人杜牧の詩「独酌」を書いた。

 また、びょうぶで風景画が見られる三浦梧門と木下逸雲は、「長崎三大家」と呼ばれ高く評価された画家。儒学者の菅茶山の詩と、南画家の浜田杏堂の南画も収録されている。

 植木住職は「歴史的資料なので大切に保管したい。公開日にはぜひ見に来てほしい」と話している。無料。公開時間は午前9時~午後4時。問い合わせは同寺電話0287・22・2978。


足利学校製の幕末の刀を寄贈
刀工の子孫が市に 美術館で公開へ
 幕末期の刀工源景國(みなもとのかげくに)が足利学校で作ったとされる県指定文化財の刀が30日、子孫の足利市本城、小林英二郎さん(92)から同市に寄贈された。

 寄贈された刀は刃渡り約75センチで、表に「晴雲斎(せいうんさい)源景國」と銘がある。元治2年(1865年)に足利学校で作ったとされている。ほかに市指定文化財の刀(刃渡り約87センチ)と、短刀(同約27センチ)も寄贈された。

 小林さんは「個人で楽しむだけでなく、大勢の市民に見てもらいたいと考え、市に寄贈した」と話した。大豆生田実市長は「由緒ある貴重な刀を寄付して頂きありがたい」とし、今後は市立美術館で保管、企画展などで一般公開予定という。

(2009年10月31日 読売新聞)


志士の屏風発見 11月2、3日に龍泉寺で公開 栃木
 尊皇攘夷運動に大きな影響を与えた宇都宮藩の儒学者、大橋訥庵(とつあん)(1816~62)ら尊皇の志士の漢詩や水墨画で仕立てられた屏風(びょうぶ)が、栃木県大田原市の旧家で発見された。訥庵と交流が深かった儒学者、頼三樹三郎(らい・みきさぶろう)(1825~59)の漢詩もあり、尊皇攘夷に情熱を燃やした2人の文人としての一面を知るうえでも貴重な資料だ。

 屏風は、同市の高瀬家が所蔵。「幕末の尊皇の志士の作品」と言い伝えられていた。6曲1隻で、訥庵や三樹三郎のほか、長崎三大家として知られた南画家の木下逸雲(いつうん)(1800~66)ら6人の漢詩や山水画が描かれている。黒羽高校の大沼美雄教諭(52)が漢詩の解読を行った。

 訥庵の書は中国の唐代の詩「独酌」をそのまま書写。三樹三郎は人生の意味を中国の故事を踏まえて表現している。いずれも直筆で、2人の精神的な内面をうかがわせる。

 訥庵は上野国(群馬県)の兵学者の子として生まれ、江戸・日本橋で私塾(思誠塾)を開いていたが、その後、宇都宮藩に招かれた。「坂下門外の変」を企てるなど過激な尊皇攘夷派として知られた。

 三樹三郎は、思誠塾を通して訥庵と交流があったとされる。安政の大獄で処刑された三樹三郎の遺体は、埋葬もされずに打ち捨てられていたが、見かねた訥庵は遺体を棺に納め、埋葬したとされる。また、南画家の逸雲は三樹三郎の父、頼山陽と交流があった。

 この屏風が、どのようにして高瀬家に伝わったかは不明だが、訥庵と三樹三郎の漢詩などであしらった屏風は全国的にもまれで極めて貴重という。

 屏風は、高瀬家の親戚の増渕五郎さん(89)や藤原林次郎さん(76)らを通じて、同市山の手の「龍泉寺」に寄進された。屏風は傷みがひどかったが修復され、寺の開創1050年記念の寺宝展にあわせて、11月2、3の両日、本堂で公開される。

 増渕さんは「披露できて感無量。期間限定なので多くの方に見てほしい」。植木盛雄住職も「幕末の歴史を伝える貴重な資料。大切に保存していきたい」と話した。問い合わせは龍泉寺(電)0287・22・2978。


千葉
日蘭交流400周年で市民展覧会
 日蘭交流400周年を記念し、千葉県の佐倉市教育委員会などは11月29日から市立美術館で、「市民のオランダ展」を開催する。佐倉市は幕末に佐倉藩が蘭学を積極的に取り入れたのが縁で、オランダと交流を重ねている。

 展覧会では佐倉市民による写真や絵画のほか、かつてKLMオランダ航空機内誌で連載していた画家、安野光雅さんのオランダ風景画も特別展示される。

 12月23日まで。月曜休館。問い合わせは同市教委文化課(電)043・484・6191。




神奈川
江戸時代の賑わいを再現
11/1(日) 第16回大磯宿場まつりを開催

 第16回『大磯宿場まつり』が11月1日(日)に開催される。会場は、大磯町山王町旧東海道松並木。時間は午前10時~午後3時。主催は大磯宿場まつり実行委員会。

 かつて東海道の交通の要所として栄えた江戸時代の大磯町。「大磯宿場まつり」は、江戸時代の賑わいを再現するイベントで、大磯町内に残る松並木や史跡など、これらの財産を次世代に受け継ぎながらまちづくりに活かそうとおこなわれている。当日は、毎年、地元はもちろん近隣地域からも多くの観光客が集まり賑わいを見せる。

 会場となる通りは、茶店や各出店も江戸時代さながらの風景に様変わりする。地元の有志で結成された新撰組ならぬ旧撰組によるキツネの紅葉狩り道中や、今年は平塚法人会初参加による江戸長屋(エコながや)と題し江戸とエコをかけたブースを出店、アンケートに答えると先着1,000名にエコ箸プレゼントもある。その他にも、大道芸、和太鼓、大磯宿場寄席、津軽三味線、沖縄三線、かっぽれ、大磯吹奏楽団による演奏ほかたくさんのイベントが予定されている。

*駐車場の用意はないので、各交通機関を利用しての来場を。


吹奏楽演奏会:東京芸大生が来月2日 550組募集 /神奈川
 東京芸術大音楽学部の学生による吹奏楽の演奏会「トワイライトコンサート」が11月2日、関内ホール(横浜市中区)で開かれる。入場無料で、先着550組の申し込みを受け付けている。

 31日から同区の馬車道通りで始まる「馬車道まつり」(馬車道商店街協同組合主催)の一環。

 プログラムは▽みなと横浜:海にちなんだ音楽▽幕末の横浜の人々が聴いた吹奏楽▽ジャズの街、横浜--と、横浜にちなんだ3部構成で、「海の男たちの歌」(スミス)や「シチリア島の夕べの祈り序曲」(ベルディ)、ジャズの名曲「シングシングシング」などを披露する。指揮は、元ベルリン交響楽団ホルン奏者の守山光三・同学部教授。

 午後6時半開演。申し込みは馬車道まつりホームページ(http://www.bashamichi.or.jp/home.html)から。【山衛守剛】


幕末~明治期の貴重な資料、スイス使節団員の日記翻訳進む/横浜
 幕末から明治にかけ、スイス通商使節団の一員として横浜で活躍したカスパー・ブレンワルドの日記を翻訳する作業が続いている。同時代の横浜を記録した資料のほとんどは、関東大震災や横浜大空襲で消失。史実を追う研究者も資料集めには苦労していた。日記の翻訳が進むことで「空白の時期の横浜について分かることがたくさん出てくる」と、期待が高まっている。

 ブレンワルドは1862年、使節団の商務部責任者として来日。66年には商社「シーベル&ブレンワルド」(現在のDKSHジャパン社)の社屋を横浜に構えた。同社は生糸貿易を扱い、横浜屈指の存在に成長した。

 日記が書かれたのは、62~78年。この間に起こった日瑞通商条約締結(64年)などの政治的出来事や、当時の社会状況、生糸・茶などの貿易取引などについて記録されている。

 これまでの作業で、同条約締結を翌年に控えた63年、スイス連邦議会から江戸城に最新型特注消火ポンプが提供され、在日スイス大使と外国奉行が話をやりとりしている様子が判明。締結へ向けた具体的な交渉の一端が示された。

 翻訳は、DKSH社が横浜の開港150周年を機に「歴史的発見に貢献できれば」と発案。スイスのブレンワルドの一族や同国連邦公文書館が保管していた日記の翻訳に、井川克彦日本女子大教授や横浜開港資料館などが協力して昨年3月、着手した。

 作業にあたっている開港資料館の西川武臣主任調査研究員は「この時代のことを調べるには、生糸産地で横浜からの手紙を探すか、海外の資料をあたるしかなかった」と振り返る。今回の翻訳については「スイス系商社は、生糸貿易に大きな役割を果たした。日記を通して、開港期の商社の活動や、居留地社会の具体的な様子が分かれば」と話している。

 完訳、分析が終了するには、あと3年ほどかかるという。終了後は、開港資料館で日記を公開する予定だ。


岐阜
“歴女”御用達の武将グッズ店
 時は歴史ブーム。県内では珍しい戦国武将や幕末の志士の関連商品を集めた専門店「サムライ本舗」が可児市下恵土にオープンし、間もなく3カ月を迎える。客層の8割は若い女性といい、店内でも「歴女(れきじょ」)の存在感が際立っているようだ。

 代表は「お館(やかた)様」こと渡辺茂治さん(43)=同市土田。20代前半から織田信長の関連本などを読み出し本格的な歴史好きに。機械メーカーの下請け会社の経営者でもあるが、昨秋のリーマンショック以降、注文が激減。会社の先行きが不透明さを増す中、「半ば勢い」で好きなことをやる決心をし、店を開いた。

 店内には、甲冑(かっちゅう)のミニチュアや、若者の歴史ブームの火付け役といわれる人気ゲーム「戦国BASARA」の登場人物のフィギュアなどが並ぶ。オリジナル商品では、戦国武将の伊達政宗らをモチーフにしたTシャツのほか、「人間50年…」で知られ信長が好んだという舞「敦盛」の一節をつづった扇子も。

 8月1日のオープンから約3カ月。この間、客層は中高生を中心に若い女性が目立ち「本当に驚いた」。武将の家紋をあしらったクリアファイルや携帯電話に張るシールなど身近な品がよく売れ、政宗、真田幸村、関ケ原の戦いで敗れた石田三成らが人気だという。

 同店では11月22日、店前で愛好家らが武将姿にコスプレし、グッズを販売する計画。渡辺さんは「この地域は戦国武将の出生地も多く恵まれている。可児から発信していきたい」と歴史ブームを地域に根付かせるつもりだ。火曜日定休。問い合わせは同店=電0574(62)9387=へ。

 (島将之)


富山
合掌民家のルーツ講演
富山民俗の会代表佐伯安一さん
 南砺市の五箇山と岐阜県白川村の世界遺産・合掌集落の民家を50年以上にわたって調査している富山民俗の会代表の佐伯安一さん(79)(砺波市)が28日、南砺市で講演し、「江戸中期以降に建てられた合掌民家や小屋は、北陸地方の大工の独壇場で、幕末になってようやく岐阜県高山の大工らも進出した」とルーツを説明した。

 南砺市と白川村などの住民で作る市民団体「GS暮らしっく」が主催した。佐伯さんは、残存する合掌家屋や神社の棟札、普請帳などから建物の年代を調べた結果を報告。旧利賀村(現南砺市)で発掘された掘っ立て小屋の住居跡(16~17世紀)を「合掌造り家屋の祖先タイプ」とした。

 また、江戸時代に氷見市を中心とした北陸地方の大工が活躍したことについて、加賀藩が大工を同市に集め、橋や陣屋造りなどに従事させていたものの、「大きな仕事が少なくなったため、五箇山地域の人を頼って合掌民家を建てたのではないか」と推論を述べた。

 佐伯さんの調査によると、白川村、五箇山地域の合掌家屋29棟(他地域への移築も含む)は北陸地方の大工が、白川村にある国重要文化財「和田家」などは岐阜県高山市の大工が建築したという。

(2009年10月30日 読売新聞)


滋賀
直弼と幕末の群像/きょうから彦根城博物館
【重文文書など展示】
 幕末の彦根藩主で幕府大老の井伊直弼と、同時代を生きた政治的人物を取り上げた「政治の時代 井伊直弼と幕末の群像」が、30日から彦根市の彦根城博物館で始まる。国の重要文化財「彦根藩井伊家文書」、国内初公開となる「孝明天皇勅諚〈ちょくじょう〉(叡慮〈えいりょ〉氷解)」など146点を展示する。
 政治家としての直弼にスポットを当て、〈1〉彦根藩主〈2〉幕府の溜詰〈たまりづめ〉大名〈3〉大老・・・の各時代の直弼と〈4〉直弼以後の4期に分けて構成。14代将軍・徳川家茂や薩摩藩主・島津斉彬、尊皇の志士・吉田松陰らの画像や書状など、日本各地から作品や史料を集めて展示する。
 「孝明天皇勅諚」は、幕府が勅許を得ずに日米修好通商条約に調印したことを激しく怒った天皇が、直弼らの説得でわだかまりを解いたことを示す幕府あての勅諚。将来諸外国を退け、鎖国に戻すことが条件だったため、公表することができなかったという。
 このほか、直弼が大老就任直後に幕府に提出した誓詞の控え(自筆)や、1835年に高島秋帆が造り、海岸警備で配備された日本初の洋式砲「モルチール砲」(全長59.5センチ、口径20センチ)などが展示される。
 11月29日まで。無休。観覧料は一般500円、小中学生250円。

 モルチール砲の展示が気になります……実物だったら見てみたいなぁ、高島流砲術を習った江川坦庵公も触られたかも知れないし(爆)。

京都
龍馬に会いたい:/番外編 土佐藩邸跡
◇出身志士らの根拠地
 京都市を流れる高瀬川は、桜並木で知られる。川沿いの木屋町通には居酒屋が建ち並び、昼と夜とで風景は一変する。通を北上すると、レトロな雰囲気の建物が見えてくる。1928(昭和3)年に建てられ、今は廃校になった立誠小学校だ。この建物が建っていた辺りに、土佐藩(高知県)の藩邸があった。

 藩邸は、藩の京都連絡事務所で、江戸時代に建てられた。西側には土佐藩邸の鎮守社だった土佐稲荷・岬神社がある。藩邸は、神社参詣人のため、一般に通り抜けを許していたという。

 薩摩藩(鹿児島県)、長州藩(山口県)とともに、土佐藩は幕末政局の一角を担った。坂本龍馬のほか、武市半平太(瑞山)、中岡慎太郎、後藤象二郎ら志士を多数輩出。藩邸は土佐出身志士たちの京都の根拠地でもあった。龍馬は脱藩して、長崎で亀山社中(後の海援隊)を設立したが、京都の土佐藩邸には顔を出していたという。

 藩邸は、龍馬が殺害された近江屋からも近い。土佐藩邸跡をさらに北上すると、長州藩の軍師・大村益次郎が殺害された跡、新選組が襲撃した池田屋の跡もある。ごく狭い地域にさまざまな石碑が建つ京都。幕末・維新当時、いかに混とん、殺伐とした地だったかが、碑をたどると伝わってくる。


「龍馬が食したカステラも」
佛大生、上京に幕末カフェ

 坂本龍馬が食べたカステラをどうぞ-。佛教大の学生たちによる期間限定「幕末カフェ」が30日、京都市上京区中立売通七本松西入ルにオープンした。

 来春の佛教大の歴史学部開設などにあわせ、北野商店街内のコミュニティーキャンパスを使い、日本史を学ぶ8人が企画した。幕末をイメージして店内に明治期の錦絵を飾り、学生が和服で接待する。

 看板メニューの「龍馬カステラ」は、龍馬関係文書に残る当時のレシピを参考にして再現した。飲み物付きで300円。11月1日までで、営業時間は午後1時~7時。


大阪
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/140 清水坂 大阪市天王寺区 /大阪
◇四天王寺へ、石垣迫る参詣道 清水寺、3条の「玉出の滝」は市内唯一
 大阪星光学院の南側の道に回ると、「きよ水」という名の喫茶店がある。まっすぐ行けば清水(きよみず)坂。石段を下りる。端は自転車用のスロープになっている。右側は星光学院のグラウンドの、左側は清水寺の墓地の石垣が迫り、なかなかに趣がある。

 もとはコンクリートで固められた変哲のない坂だったが、大阪市が景観を主眼に改修した。坂の途中、清水寺の石垣に、ひときわ大きな石が組み込まれているのを見付けた。文字が刻まれている。「以他力造立」「発起 肥前屋久兵衛」「取次 美濃屋喜八」「万延」などと読み取れる。なんだろうか。

 てんのうじ観光ボランティアガイドの松村基さん(72)に尋ねた。「清水坂は四天王寺参詣のメーンロード。船場などから松屋町筋を渡って大江神社の前を右に曲がって坂を上る。料亭浮瀬(うかむせ)も清水坂と共に大きくなったんです」。往来が多い坂だったと。

 で、あの石は? 「私の仮説ですが」と前置きして、「万延は幕末の1860年で、寺の造立はそれより200年ほど前だから、石垣を造った顕彰でしょう。石垣は、坂道を歩きやすくするための修繕と、寺領拡大のためだったと思います」。

 松村さんによれば、発起の肥前屋久兵衛はたぶん船場あたりの商人で、金を出したスポンサー。取次の美濃屋は寺とスポンサー、石工を取り次ぎ、計画を進めたのだろう、という。「以他力造立」は、「他力を以(もっ)て造立す」、つまり「自分の力だけで造ったのではない」という、浄土宗の他力本願を表す言葉だそうだ。なるほど、腑(ふ)に落ちる。

    ◇

 坂を下り、細い道を左に進めば、街路灯の脇に、「たき道」と彫られた小さな道標がある。左手に折れると、坂の名前のもとになった清水寺だ。大阪の清水さんは「新清水」と呼ばれるが、四天王寺の支院で、直接、京都の清水寺と関係はない。江戸時代の1640年、京都・清水寺から、聖徳太子作と伝わる十一面千手観音像を移し本尊としたため、という。

 大阪案内人の西俣稔さんが言うには「ここに清水の滝があるんです。大阪市内でたった一つの滝」。京都の音羽の滝を模した「玉出の滝」がそれ。境内を奥へ進むと、石垣から樋(とい)が3本突き出ていて、細い水が流れ落ちている。静寂に包まれた境内に、水の音だけが響く。

 岩壁を落ちていく白水、といった滝のイメージからはちょっと遠いが、お寺の縁起に、四天王寺の池から流れ出る霊水が源、とあるのを見れば、清冽(せいれつ)に感じられてくる。

 昔は滝の流量はもっと多かったようで、江戸時代の錦絵「浪花百景」には、音を立てそうなほどの3条の滝が描かれ、水ごりする人々も見える。また、境内にはカエデが茂り、秋ともなれば紅葉が見事だったという。

 さらに、清水の舞台もある。その昔は淡路島まで見通せたという。戦災でコンクリート製に変わり、いま目に入るのはビルや高速道路といったコンクリートの塊ばかり。その陰から通天閣がのぞいていた。【松井宏員】

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 ◇毎日文化センター「古地図で散歩する大阪」受講生募集
 大阪案内人の西俣稔さんの解説で、古地図を片手に大阪市内を歩きます。毎月第4日曜午後2時から。コースは、近松ゆかりの蜆川(しじみがわ)跡▽文人ゆかりの天王寺七坂▽偉人ゆかりの天満かいわい▽昭和が残る新世界▽京橋から大川沿い▽江戸・明治・大正の建築物が残る船場。

 11月22日~来年4月の計6回。受講料は9650円。申し込みは毎日文化センター(06・6346・8700)。



兵庫
奥深き「食」文化 芦屋市立美術博物館で絵画展
 大阪の「食」をテーマにした絵画展「うまいもんと大坂画壇-浪花くいだおれの系譜」が兵庫県芦屋市伊勢町の市立美術博物館で開かれている。幕末・大坂のグルメガイド本「花の下影」などで当時の食の実相を伝えるとともに、料亭に飾られながらはぐくまれた絵師たちの姿を、大阪・北浜の老舗料亭「花外楼」が所蔵する作品などで紹介している。約90点。12月13日まで。
 「花の下影」は1985年に芦屋の旧家で発見された3冊の画帖(じょう)。316件の飲食店を楽しげに描写しており、今ものれんを守る「大源味噌(みそ)」や「おきな昆布」なども掲載されている。同展では画帖の現物や、その内容をパネルにして展示している。

 また、幕末・明治期の政治家たちが足しげく通ったことで有名な「花外楼」からは、床の間を飾る掛け軸など約30点の提供を受け、大阪を代表する画家、森琴石や菅楯彦らの作品が並ぶ。大阪では、老舗料亭で飾られることが画家の評価につながった一面があるという。
 地域の市場や祭りなどの風習をはじめ、魚介類を生き生きと表現するなど、公の展示会場ではなく料亭で飾られる作品ならではの画風が披露されている。
 明尾圭造学芸課長は「大阪の文化の奥行きの深さを再認識してもらえれば」と来場を呼び掛けている。
 午前10時~午後5時。月曜休館。入場料一般500円。問い合わせは電話0797(38)5432、同館へ。


香川
龍馬、躍動の舞台に/4日、ミュージカルオペラ
 幕末の志士、坂本龍馬を主人公にした「ミュージカルオペラ龍馬」(公演実行委主催、四国新聞社など共催)が4日、香川県高松市玉藻町のアルファあなぶきホール大ホールで開かれる。オペラとミュージカルを融合させた躍動感あふれる舞台で、時代を切り開いた快男児の生き方を、混迷の現代にドラマチックに提示する。

 日本の舞台芸術界を代表するキャストとスタッフによる豪華なステージ。龍馬役は二期会会員のバリトン平良交一、勝海舟役は歌手の野口五郎が務めるほか、元宝塚娘役トップの森奈みはるや、「水戸黄門」の飛猿役でおなじみの野村将希も出演する。脚本はジェームス三木。演出は江守徹。

 龍馬が暗殺されるまでの3年間を描いた物語。土佐勤王党の一員として改革運動を続けていた龍馬は、勝海舟の思想に影響を受け、薩長同盟や大政奉還などの事業を次々に成し遂げる。総勢約40人が登場し、華麗な歌とダンス、演技で日本が近代国家へと生まれ変わる激動の時代を表現する。

 鳩山邦夫元総務大臣を最高顧問に、高知県内の政財界関係者ら約60人で実行委をつくって4年前から準備。10月24日から同県内7カ所を巡回した後、四国各地と東京などで公演を行う。10年に大阪や札幌など、11年にはパリ、ニューヨーク、サンフランシスコなどへの進出も計画している。

 香川公演は午後6時開演。入場料はSS席1万円ほか(学生割引あり)。問い合わせは龍馬高知オフィス、電話088(833)0301。


岡山
洋学の地「グルメ」で脚光 岡山・津山(つやま)
 珈琲(コーヒー)、酸素、細胞、圧力……。これらの言葉、実はこの地と縁がある。幕末の洋学者・宇田川榕菴(ようあん)(1798~1846年)によって当て字、あるいは翻訳造語が考えられた。

 榕菴は津山藩医から、江戸幕府天文方の蕃所和解御用(ばんしょわげごよう)に取り立てられ、同じ洋学者で養父の玄真、養祖父の玄随らと、津山洋学と呼ばれる一大洋学の地を築いた。

 彼らが巣立った津山藩の城跡は、市内の鶴山の頂にある。眼下にはかつて、高瀬舟でにぎわった吉井川。川と平行して走る旧出雲街道には古い城下町が残り、町並み保存地区に指定されている。

 その町並みのど真ん中に、蕃所調所(しらべしょ)教授職として、国内初の教授となった洋学者・箕作阮甫(みつくりげんぽ)(1799~1863年)の古民家風の旧宅がある。箕作もやはり蕃所和解御用を命ぜられ、ペリー(米)やプチャーチン(露)来航の際には、外交文書の翻訳に携わった。来年3月には、すぐ隣に引っ越した津山洋学資料館が新装オープンする予定。約6700点もの洋学資料は、研究者ならずとも貴重なものばかりだ。

 「宇田川、箕作が相互に影響を与え合い、資料や人脈の面でも都合が良かったのでは」と、同館の下山純正館長は、山間の地で洋学が盛んになった理由を話す。

 また、江戸時代の出雲街道は京都・大阪へ向かうメーンの道路であり、吉井川の水運ともあわせ、交通の要所にあったことも見逃せない。

 ご当地グルメの祭典「B―1グランプリ」で3位に入賞した津山ホルモンうどんも実は、この交通事情と関係がある。戦後、大阪方面に牛肉を出荷した帰路、当時、食用でなかったホルモンを持ち帰り、旧出雲街道沿いで安価におすそ分けしていたのが、ホルモンが身近なものになった由来といわれる。

 ホルモンとうどんを鉄板で焼く、至ってシンプルな料理だが、グランプリ翌日には、市内に100店舗以上あるホルモンうどんを出す店に全国から客が殺到した。老舗の一つ、橋野食堂の4代目・橋野弘(こう)さん(58)は「常連だけの店で、『今年こそやめよう』と思っていたのに……。ただ、小さい店なので待たせず対応できるかどうか不安だ」とうれしい悲鳴をあげる。

 近代以降の交通の雄・鉄道のファンも、この地域に熱い視線を注ぐ。JR因美線沿線には、ファンが保存に尽力した転車台がある美作(みまさか)河井駅をはじめ、見応えのある駅がズラリ。毎年、春と秋に「ディーゼル気動車キハ28―58」がスローライフ列車として運行する。市観光振興課の小坂田裕造課長(50)は「『テッチャン(牛の大腸)&鉄ちゃん』で街づくりをしたい」と目を輝かす。

 ネーミングのセンスは、約200年に及び、脈々と受け継がれているようだ。(鷲見一郎、写真も)(次回は北海道・小樽)

 ●あし 東京から新幹線でJR岡山駅まで3時間25分、同駅で快速ことぶきに乗り換え、津山駅まで1時間10分。

 ●問い合わせ 津山市観光協会=(電)0868・22・3310。



広島
11月3日に音楽劇「鞆千年絵巻」 リーデンローズ(福山・松浜)
 瀬戸内の景勝地「鞆の浦」を舞台に、万葉の時代から幕末までの歴史物語を繰り広げる創作劇「鞆千年絵巻」が11月3日、福山市松浜町のリーデンローズで披露される。公募で選ばれた小学4年〜60代の市民31人が出演。晴れ舞台に向け、「潮待ちの港として繁栄してきた鞆の魅力を伝えたい」と張り切っている。

 リーデンローズの開館15周年記念事業として、運営するふくやま芸術文化振興財団などが企画。官妓(かんぎ)と接待官の悲恋物語「ささやき橋」や、鞆沖で沈没した坂本龍馬率いる海援隊の「いろは丸」など、鞆の浦にまつわる史実やエピソードを10〜15分の8つの小話で構成し、チェロの音色とともに、1つの“絵巻物”として紡ぎ出す。

 東京の劇団で舞台監督を務め、脚本・演出を手掛ける北村謙二さん(59)=同市東川口町=は「龍馬のような有名人だけを取り上げるのでなく、鞆で普通に暮らしていた人々の生き生きとした姿を描きたい」という。

 出演者は7月のオーディションで選ばれ、9月初めから週に3回ほどのペースで発声や芝居を練習、宝塚歌劇団出身の原田由乃さん(46)=同市御門町=も演技指導に一役買ってきた。18日にはチェリストの遠藤益民さん(31)=東京都荒川区=を招き通しで稽古(けいこ)。「声をはっきりと」「間を取って」と北村さんの指摘を受けた。

 午後3時開演で入場無料。


「鞆の浦」将来像見えず
裁判長期化、住民対立に拍車

 高さ約7・5メートルの常夜灯前で、観光客らが記念撮影の順番を待っていた。近くでは、カップルたちが階段状の港の遺構・雁木(がんぎ)に腰掛けて、瀬戸内の穏やかな海を眺めていた。

 江戸時代の風情を残す、福山市・鞆の浦の町並みを楽しむ人波は、鞆の浦の埋め立て・架橋事業への免許交付を差し止める地裁判決が出た今月1日以降、さらに増加している。

 幕末に鞆町を訪れた坂本龍馬ゆかりの品などを展示する「いろは丸展示館」は今月に入り、いつもの2、3倍の人が来館。ボランティア観光ガイドが案内した団体客数も前年同期の1・5倍のペースだ。このため、週末は町中心部の狭い県道が対向できない車で渋滞し、路肩に避けたまま立ち往生する歩行者も目立つ。

 県道近くで商店を経営する男性(68)は「週末の客の入りは3、4倍に増えた」と歓迎する一方で、「住民が安心して歩けないし、観光客の印象も悪くなる。何とか改善策を探れないものか」と嘆く。



 事業は、鞆町中心部の交通渋滞緩和などを目指し、鞆港の沿岸約1・9ヘクタールを埋め立て、駐車場やフェリー桟橋を整備、港湾を横切る長さ179メートルの橋を架ける。反対派住民らが起こした訴訟で、地裁は「事業が景観に及ぼす影響は重大。県の調査、検討も不十分」と、知事による埋め立て免許交付の差し止めを命じ、県は判決を不服として控訴した。

 事業反対の動きは住民だけでなく、映画監督の大林宣彦さんら文化人らにも広がり、鞆で映画「崖(がけ)の上のポニョ」の構想を練った宮崎駿さんも否定的な見解を示す。世界遺産候補地を調査するユネスコの諮問機関・国際記念物遺跡会議(イコモス)も事業中止を求める決議を採択した。

 訴訟原告団の大井幹雄団長は「次の知事は高い見識で状況を見極めて控訴を取り下げ、話し合いの場を設けてほしい」と求める。



 一方、15日に控訴を発表した、県の大野宏之土木局長は「景観保全最優先の判断基準では、鞆の浦に限らず瀬戸内沿岸の全地域に話が及ぶ。官民問わず、すべての工事や事業に影響を与えかねない」と、判決が与える影響を懸念し、控訴の正当性を強調した。

 23日に鞆町の公民館で開かれた会議で、事業に賛成する住民が多数を占める鞆町内会連絡協議会の大浜憲司会長が「判決は、(交通渋滞など問題の解決に)何ら効果がない」と、県や市の担当者に訴えた。

 訴訟の長期化は、住民間のあつれきが続くことを意味する。

 「住民同士のいさかいにストレスを感じるし、今のままでは鞆の将来の青写真も見えない。何とかならないものか」。鞆町で飲食店を営む女性(64)はこう言ってため息をついた。(終わり)

 (この連載は澤本浩二、平井宏一郎、野中明子、小井国春、石原敦之、向井友理が担当しました)

(2009年10月30日 読売新聞)


長崎
シーボルト サムライ気分? 家紋入りの裃見つかる 31日から長崎で初公開
 幕末の長崎・出島でオランダ商館医を務め、日本に西洋医学を伝えたシーボルト(1796-1866)が日本であつらえた裃(かみしも)がオランダの博物館で見つかり、31日に長崎市の長崎歴史文化博物館で開幕する日蘭通商400周年記念の企画展「阿蘭陀(おらんだ)とNIPPON」(同博物館、西日本新聞社など共催)で国内初公開される。

 裃は絹製で、表地は灰色、裏地は濃紺。ドイツ医学界の名門・シーボルト家を象徴する「メスを持った手」の描かれた家紋が、肩衣(かたぎぬ)の両胸と背、袴(はかま)の腰板の4カ所に入っている。家紋はシーボルトが愛した日本人女性楠本タキと娘のイネゆかりの着物や「螺鈿合子(らでんごうす)」(国指定重要文化財)などにも施されている。

 1823年に来日したシーボルトは、商館医として働く一方、「鳴滝塾」を開いて西洋医学を日本人に教えた。しかし29年に国外追放となり帰国。37年にオランダ王立骨董(こっとう)陳列室に日本から持ち帰った数千点の品を売却した際に裃も含まれていたとみられる。同博物館と交流があり、日本関連資料約1万5千点を所蔵しているオランダのライデン国立民族学博物館で見つかった。

 長崎歴史文化博物館の平岡隆二主任研究員は「武士の最礼装だった裃を特注で作らせたのは、日本文化を愛した証拠。実際に着て外出したとは考えにくいが、こっそり袖を通してみたことだろう」と話している。


コラム
こんなところに池田屋が?新選組ゆかりの京都幕末スポットを回ってみた
 歴史をモチーフにしたゲームやアニメが人気を集め、「歴女」という言葉も登場するほどの歴史ブームの今。中でも根強い人気なのが、新選組など「幕末」を舞台にした作品です。京都には当時の歴史にまつわる史跡がたくさんありますが、意外と「あれ、こんなところに?」と思うような場所に、そういったものが残っているのをご存知ですか?今回はそんな意外な歴史スポットや、人気アニメゆかりのスポットを巡ってみたいと思います。
(以下略)


ビジネス
ユーエム・サクシード 歴史サイト第2弾 「幕末のすべて」携帯で学ぶ
 携帯電話向けのコンテンツ制作会社、ユーエム・サクシード(東京都渋谷区)は、明治維新や新撰組など幕末期の出来事や人物などを紹介した携帯サイト「幕末のすべて」=写真=を制作し、サービスの提供を始めた。時代小説や史跡などが注目を集めるなか、若者から中高年層まで幅広い層の利用を見込んでいる。

 サイトは、新撰組にまつわるエピソードや坂本龍馬、西郷隆盛などの人物伝、諸藩の事情や明治政府の政策を分析したコラムなどで構成。出版社「学研パブリッシング」の歴史群像編集部の全面協力を得て、読み応えのある内容に仕上げている。

 このほか、人物や用語、武器・兵器、艦船などに関するデータベースも充実させた。

 来年1月からNHKの大河ドラマ「龍馬伝」が始まることもあり、この時期のサービス開始を決めたという。

 ユーエム・サクシードでは、「歴史愛好家から初心者までが楽しめる本格的なサイト」とPRしている。

 サービスはNTTドコモ、au、ソフトバンクモバイルの各携帯電話の端末で利用できる。利用料金は月額315円。

 ユーエム・サクシードはこれまで主にスポーツ関連の携帯電話サイトを制作してきたが、今年4月、初の歴史モノとして「三国志のすべて」を開設。「幕末のすべて」は第2弾となる。
 三谷さん脚本の『新・三銃士』が月~金放送から毎週金曜放送になりました。 帰宅してから真っ先に見る録画が減って寂しいです(苦笑)。
 木曜日は『銀魂』と時間帯がかちあって一回見損ねましたが(ダブル録画できない環境なんで)、それ以外は最終回までがっつり見る予定です。

栃木
日光・栗山東照宮で例大祭 ご神体開帳、神事厳かに
【日光】野門の栗山東照宮で25日、例大祭が行われ、年に1度だけ開帳される徳川家康のご神体を前に、地元住民らが家内安全などを祈った。
 ご神体は戊辰戦争時に、日光東照宮から持ち出した会津側が民家に預けたと言われている。栗山東照宮は1970年に地元有志が建立した。
 数年前までは「食」まつりも合わせて行われ、獅子舞などが披露されたが現在は実施されていない。住民らを前に篠田英夫宮司が厳かに神事を執り行い、居合わせた観光客も玉ぐしを供えた。
 野門自治会の高山待男会長は「集落では家内安全、五穀豊穣を祈願する欠かせない機会です」。例大祭が終わるとシャッターが下ろされ、ご神体は見えなくなった。



東京
松陰ゆかりの地で幕末維新祭り
 幕末の思想家、吉田松陰没後150年となる今年、墓所がある松陰神社(東京都世田谷区若林)とその周辺で24、25の両日、「第18回萩・世田谷 幕末維新祭り」が開かれ、25日午後にはハイライトとなる幕末の志士と奇兵隊のパレードが行われた。
 吉田松陰や坂本龍馬、高杉晋作らに扮装(ふんそう)した人々や地元中学生らが周辺商店街を練り歩いたあと、松陰神社に入った。きびきびとした行軍や「捧(ささ)げ筒」などは迫力があり、見物客の目を楽しませていた。



静岡
【総合】市民、劇やオペラ熱演 歴史、文学の魅力表現
 第24回国民文化祭・しずおか2009は25日、伊豆・東部地区の各市町でさまざまなイベントが繰り広げられた。伊豆の国市では韮山代官の江川太郎左衛門の半生を題材にした創作オペラを市民が演じ、伊豆市でも市民劇団による地元ゆかりの作家、井上靖の「しろばんば」が上演された。
 伊豆の国市古奈のアクシスかつらぎでは創作オペラ「江川太郎左衛門~熱き心の火」が24日夜と25日昼の2回にわたり上演。伊豆市民オペラ協会の会員を中心にした出演者が市民手作りのオペラを熱演した。
 韮山反射炉の築造などに力を尽くした江川太郎左衛門とその仲間の近代化に向けた熱い思いや、幕末動乱期の庶民の期待感、戸惑いを、迫力ある演技や歌で分かりやすく伝えた。計1500人の聴衆を集め、終演後には大きな拍手が送られた。
 伊豆市湯ケ島の天城温泉会館では、湯ケ島地区で幼少期を過ごした井上靖の小説を題材に、市民劇「しろばんば~家族」が上演された。同地区に住む児童生徒や住民らでつくる「劇団しろばんば」の出演者30人が、古き良き山里の暮らしぶりや人間味豊かな村人の様子をユーモアを交えて再現した。会場には約250人が詰め掛け、深い郷愁を感じながら井上文学の魅力の一端に触れた。


【浜松市】「音楽史と浜松」ひもとく ラッパ隊、吹奏楽団登場
 第24回国民文化祭・しずおか2009のシンポジウム「国際交流と文化」が25日、浜松市中区の静岡文化芸術大で開かれた。テーマは「音と楽器のある風景から考える国際交流」。音楽のまち・浜松で盛んな吹奏楽や浜松まつりのラッパ隊のパフォーマンスを交えながら、音楽の歴史をひもとくユニークな講義が繰り広げられた。
 シンポジウムは同大吹奏楽団による迫力の演奏で幕開け。平野昭教授(同大文化政策学部)がホルンやトランペットなど管楽器の歴史に加え、幕末の横浜で、薩摩藩の音楽隊がイギリスの音楽隊から指導を受けたというエピソードなどを披露した。
 続いて、地元野口町の凧(たこ)揚げ会が威勢のいいラッパ演奏とともに入場。大阪大大学院招聘研究員の奥中康人さんが「ラッパは『軍隊』というイメージだが、消防隊など地域住民の信号伝達にも使われた。浜松まつりも消防隊が起源の可能性がある」などと指摘した。
 随所に生演奏を盛り込んだ講義に、来場者からは大きな拍手が送られた。国際日本文化研究センターの細川周平教授を招いた基調講演やパネルディスカッションでは、戦後日本の歴史と地域で根付いた音楽文化について活発な意見交換が行われた。


石川
金沢「中の橋」でなく「天神橋」周辺か 鏡花の「化鳥」舞台に新説
 泉鏡花が初めて挑戦した口語体小説「化鳥(けちょう)」を巡り、鏡花研究会会員の小林弘子さん(67)=金沢市弥生2丁目=はこのほど、作品の舞台が文学碑の建つ同市の「中の橋」ではなく、浅野川上流に約700メートル離れた卯辰山の麓(ふもと)の天神橋周辺ではなかったかとする研究をまとめた。小説の描写を幕末の金沢地図や大正末期の写真と突き合わせており、作品の理解に一石を投じそうだ。
 「化鳥」は、1本のエノキが植わった橋の番小屋で通行料を取って生活する母子2人を描く。これまで鏡花研究者は明治後期まで通行料が課され「一文橋」と呼ばれていた中の橋がこの作品の舞台と解釈し、1997(平成9)年には、金沢市が中の橋近くに「化鳥」の文学碑を整備している。
 ただ、物語には橋付近の情景として「上の山が櫻(さくら)の名所」「谷間の小流(こながれ)には、菖蒲(あやめ)、燕子花(かきつばた)が一杯咲く」という卯辰山を思わせる描写があり、小林さんは約30年前から位置に疑問を抱いていた。
 19世紀半ばに編まれた金沢の地図「金府大絵図」を5年前に見た小林さんは、中の橋だけではなく現在の天神橋周辺にも「壹(いち)(一)文橋」という橋があることを知った。橋の目印として描かれたエノキの木についても、小林さんは大正末期の写真で卯辰山側の天神橋付近にあることを確認した。
 小林さんはこれらの成果を24日に金沢市の石川四高記念文化交流館で開かれた北國新聞文化センターの講座で発表した。小林さんは「30年来の疑問を形にでき、執念が実った。鏡花は異界を描きながらもつとめてリアルな描写を心掛けた。『化鳥』は特別な場所である卯辰山につながる橋と考える方が自然」と話した。
 金沢市立玉川図書館近世史料館の宇佐美孝専門員 藩政期には浅野川や犀川は、仮の橋として複数の「一文橋」が架けられており、時期によっては地図でも確認できる。こうした橋の一部は鏡花が幼少期を過ごした明治まで残った。


京都
京都市長「龍馬伝に舞妓さんを」
ゆかり9自治体、観光で連携

 京都市や高知市など坂本龍馬とゆかりが深い9自治体による「龍馬伝サミット」が26日、東京都港区のホテルで開催された。約300人が参加し、龍馬を活用した観光事業やまちづくりで連携することを誓い合った。
 NHK大河ドラマ「龍馬伝」が来年に始まるのを受けて、高知市と長崎市が開催を呼びかけた。京都市のほか、安芸市(高知)▽品川区(東京)▽下関市(山口)▽鹿児島市▽霧島市(鹿児島)▽福山市(広島)-が参加した。
 各自治体は龍馬との関係や旧跡を紹介。土佐藩の下屋敷があった品川区の濱野健区長は「この地で『日本の龍馬』が誕生した」と誇り、龍馬が創設した日本初の商社とされる亀山社中跡がある長崎市の田上富久市長は「意外に知られていないが、龍馬が活躍した舞台は長崎だ」と強調した。また京都市の門川大作市長は、「龍馬伝」のチーフプロデューサーに「舞妓さんとすれ違うシーンを盛り込んでほしい」と要望し笑いを誘っていた。
 最後に、各首長が観光客誘致事業の共同企画や関連資料の提供で協力する「龍馬のまちづくり維新八策」を発表した。


大阪
中之島の魅力を再発見-「レール&クルーズ in 中之島」開催
 中之島の歴史や文化を川面から楽しむクルーズと昨年10月に開業した「京阪・中之島線」を組み合わせたプログラム「レール&クルーズ in 中之島」が10月17日より開催されている。社会実験イベント「2009 中之島物語 その未力と魅力」の一環。
 同プログラムは、「中之島地区を『まち歩き』スポットとして再認識してほしい」と企画されたもので、中之島の夜景を船上から楽しむコースや京阪・中之島線の一日乗車券を利用して中之島を散策するなど、3つのコースを用意した。
 「ナカノシマ錦絵クルーズ」は堂島川と土佐堀川に囲まれた中之島エリアを周回する観光クルーズで、船内にモニターを設置し、幕末から明治初期に中之島を描いた錦絵や古地図を使いCGムービーを上映しながら、船から見える現在の風景との対比を楽しむクルーズ。開催は今月31日で3便運航。1回約1時間。中之島線1日乗車券と乗船券が付いて大人1,500円、子ども500円。
 「中之島線&水陸歴史探訪」は国際会議場港を出発し、江戸時代に淀川三十石船の中継港であった枚方までガイドの案内で遊覧するコースで、所要時間は2時間30分。開催は今月27日・28日で、料金は1人2,500円。枚方船着場を出発、八軒家浜船着場までの下りコースも用意する。
 「中之島線&ナイトクルーズ」は、先日行われた「水都大阪2009」で開催され人気だった「ミュージックボート」と同内容のもので、小型船「アクアmini」で中之島周辺を遊覧し、ライトアップされた橋や川辺を楽しむクルーズ。船上ではライブも行われる。中之島線1日乗車券も付いて料金は1人1,000円。今月27日~31日に1日3便運航される。所要時間は約55分。
 各コースとも予約が必要。「ナカノシマ錦絵クルーズ」は一本松海運(TEL 06-6441-0532)、「中之島線&水陸歴史探訪」「中之島線&ナイトクルーズ」は大阪水上バス(TEL 06-6942-5511)まで。



山口
【ふるさと便り】松陰の絶筆が山口県文化財に 吉田家に伝わる絵画、文章など754点
 長州出身の幕末の思想家、吉田松陰の肖像画や絶筆など、子孫の吉田家に伝えられた700点以上の関連資料が26日、山口県有形文化財に指定されることになった。県文化財保護審議会が県教委に指定するよう答申、近く正式決定する。
 指定を受けるのは、松陰が家督を継いだ吉田家に伝えられた絵画や文書など計754点。江戸時代中期から大正時代のものまで時期は幅広い。
 このうち、肖像画「絹本着色吉田松陰像」は、「安政の大獄」で松陰が萩から江戸へ送られる直前、門弟が描いた松陰の肖像に、松陰自身が文章を加えている。また、処刑直前に詠んだ絶筆、高杉晋作ら松下村塾の門弟からの書状、松陰が愛用した印鑑類なども含まれている。
 これらの資料は、吉田家が昭和29年に県へ寄贈。県文書館が平成17年以降、資料の詳しい調査や保存修理を手がけてきた。県教委社会教育・文化財課の伊藤一晴文化財専門員は「松陰の家督相続から亡くなるまでの資料が網羅され、松陰研究の重要な基礎資料に位置付けられる」と評価している。


吉田松陰:没後150年で記念式典 全国ゆかりの地から来訪--萩 /山口
 明治維新の先覚者・吉田松陰没後150年の節目の年を記念した「吉田松陰先生150年祭」が25日、萩市の市民館で開かれた。松陰が歩いた全国の27カ所から、ゆかりの人ら100人が参加。「志を大切にした松陰の教え」を発信し次世代に継承していく取り組みなどが報告された。
 松陰が黒船に乗ろうとして果たせなかった静岡県下田市と萩市とは姉妹都市。この日朝、萩市椿東の松陰墓所前広場に下田市の石井直樹市長や市民約40人が訪れて記念植樹。同市で発見された「下田開国桜」「お吉桜」の4本を野村興児萩市長らと手植えした。
 午後から記念式典が開かれ会場には約600人が参加。松陰の親族で神奈川県在住の杉治彦さん(72)や、吉田基子さん(71)も訪れた。記念式典で野村市長が「松陰先生の業績が評価され、多くの地で継承していただいている。150年を契機に教えを改めて学んでいきたい」とあいさつした。
 松陰は南は熊本、長崎県から、北は青森県まで旅をした。「江戸の旅人・吉田松陰」と題して海原徹・京都大学名誉教授が記念講演。また、厳冬の風雪のなか踏破した道を「みちのく松陰道」として整備している青森県など松陰とのゆかりの人らが取り組みなどを報告した。【川上敏文】


吉田松陰の絶筆が山口県文化財に
 長州出身の幕末の思想家、吉田松陰の肖像画や絶筆など、子孫の吉田家に伝えられた700点以上の関連資料が26日、山口県有形文化財に指定されることになった。県文化財保護審議会が県教委に指定するよう答申、近く正式決定する。
 指定を受けるのは、松陰が家督を継いだ吉田家に伝えられた絵画や文書など計754点。江戸時代中期から大正時代のものまで時期は幅広い。
 このうち、肖像画「絹本着色吉田松陰像」は、「安政の大獄」で松陰が萩から江戸へ送られる直前、門弟が描いた松陰の肖像に、松陰自身が文章を加えている。また、処刑直前に詠んだ絶筆、高杉晋作ら松下村塾の門弟からの書状、松陰が愛用した印鑑類なども含まれている。
 これらの資料は、吉田家が昭和29年に県へ寄贈。県文書館が平成17年以降、資料の詳しい調査や保存修理を手がけてきた。県教委社会教育・文化財課の伊藤一晴文化財専門員は「松陰の家督相続から亡くなるまでの資料が網羅され、松陰研究の重要な基礎資料に位置付けられる」と評価している。


長崎
龍馬ゆかりの史跡巡りで気分は幕末 本紙創刊120周年記念し読者招待
 長崎新聞創刊120周年記念の「龍馬さるくスペシャルツアー」が25日、長崎市内であり、抽選で選ばれた読者が坂本龍馬ゆかりの場所を巡った。
 9組18人の参加者は長崎さるくガイドの小杉徳寿さん(67)の案内で江戸町公園を出発。龍馬が教えを受けた勝海舟が学んだ海軍伝習所跡(現県庁)、海援隊本部跡(現長崎地方法務局)、寺町の晧台寺にある亀山社中のメンバー近藤長次郎の墓など、市内中心部に残る史跡などを約2時間半かけて見学。龍馬が付けたといわれる刀傷が残る料亭花月でしっぽく料理を味わい、締めくくった。
 ツアーには、長崎新聞社員が扮(ふん)したはかまにブーツ姿の“龍馬”も同行。幕末にタイムスリップしたような雰囲気を醸し出した。
 妻と参加した長崎市三景台町の古賀英信さん(75)は「長崎にいながら、坂本龍馬や桂小五郎、岩崎弥太郎が活躍した時代のことを知らなかった。歴史の勉強になり、非常にありがたかった」と話した。


佐賀
英国で「佐賀の乱」公文書発見 駐日公使が母国に報告
鹿島出身の徳本栄一郎さん発見

 明治政府に対する士族の反乱とされる「佐賀の乱」(1874年・明治7年)について記述したイギリスの公文書が英公文書館で見つかった。当時の駐日公使が英政府に送った報告書で、24枚の文書には佐賀の乱を単なる一地方の反乱ではなく、「明治新政府内の対立を背景にしたもので、結末に不満もあり、政府は信頼を回復していない」という内容が書かれている。外国高官の目で佐賀の乱を分析した貴重な史料といえる。
 鹿島市出身のジャーナリスト徳本栄一郎氏(45)が今年6月、ロンドン郊外の公文書館で日本関連文書を閲覧して見つけた。佐賀の乱に関する外国公文書の発見は初めてとみられる。
 報告書は1874年4月25日付で、幕末から着任していたハリー・パークス公使が英外務大臣あてに送っている。首謀者とされる江藤新平の処刑日から12日後の日付になる。
 徳本氏によると、報告書は裁判の様子を記して「死刑に加えて江藤前法務卿と島(義勇)らはさらし首にされた。この判決は大きな不満も呼んでいるようだ」と指摘。政府軍に反抗した榎本武揚が後に特赦で要職に就いた例と比較して刑が重すぎるという意見を紹介、「佐賀の乱鎮圧で政府への信頼が回復したとは言えない」と分析している。
 さらに大蔵卿大隈重信らの辞任や、鎮圧を指揮した内務卿大久保利通の動きを報告し、「新政府が分裂し、人々は個人的感情が(江藤処刑に)復讐の性格を与えたと考えているようだ」としている。
 「佐賀の乱」をめぐっては、明治政府に不満を募らせた佐賀の士族が起こした反乱という通説に対し、明治維新史に詳しい毛利敏彦大阪市立大名誉教授は、大久保による謀略説を主張している。
 県内でも初代司法卿で「人権の父」といわれた江藤が、功績に比べて不当な評価を受けているとし、「佐賀戦争」や「佐賀の役」と呼称変更を求める意見がある。佐賀市議会でも6月議会で中学歴史教科書の表記をめぐり議論した。
 それらの議論に関心を持った徳本氏が、英国通信社勤務時から活用している英国公文書館に関連資料がないか調べた。
 徳本氏は「英政府が維新直後で不安定な日本の情勢を気にしていたことがうかがえる。佐賀の乱が内乱に発展し、英国にとっても対日貿易で不利益を受けることを懸念していたのではないか。歴史を内側だけでなく、外からの視点でみることも大事だと思った」と話している。


コラム
【次代への名言】高杉晋作と松陰編(1)
■「これこの時、日本の日本たらんと欲するの日なり」(高杉晋作)

 1858年、長州・萩。18歳の晋作が9歳年上の師、吉田松陰にあてた書簡にある。彼に感動の一文を書かせたのは、京に吹いた新風だった。5年前の「黒船来航」以来、幕府の権威がゆらぎをみせるなか、岩倉具視(ともみ)を中心とした公家たちが朝廷の復権に動きはじめた-という報が晋作のもとにとどいたのだ。
 徳川幕府のもとでは、日本は日本ではなかった。徳川家の血縁か直属の家臣の家系でなければ、日本という国の政治に参加できなかった。異才をうたわれた松陰の師、佐久間象山も長く、「陪臣(ばいしん)(家来の家来)」という身分のために、国政に携わることができなかった。
 「人は虫蟻(あり)にあらず」とし、天皇という「心の父」のもとでの草莽崛起(そうもうくっき)(在野のすべての志士の結集と決起)を説いた松陰。士庶(士農工商という身分)にとらわれぬ登用を叫んだ晋作。10年後に成就する明治維新の平等思想は、この師弟においてすでに結晶化されていた。
 が、平等を実現した社会では、権利や機会とともに責任がうまれる。「国は一人をもって亡び、一人をもって興る」。晋作の一文である。いまなお、求められる自覚であろう。(文化部編集委員 関厚夫)



文化芸能
D-BOYSの“チーム男子パワー”全開! ダブルキャスト制の舞台「KARASU-鴉-」公演
 若手俳優集団「D-BOYS」のメンバーがそろって登場する恒例の舞台「D-BOYS STAGE」第3弾「KARASU-鴉-」の公開舞台げいこが20日、都内で行われた。
 「KARASU-鴉-」はD-BOYS初の幕末もの。脚本に映画「パッチギ!」('07年)、「フラガール」('08年)を手掛けた羽原大介を迎え、明治維新の波に抵抗した仙台藩の実在の武装集団“衝撃隊(別名カラス組)”の活躍を舞台化。時代の流れに翻弄(ほんろう)されながらも、志士たちがアツい友情をはぐくむ過程を描く感動作となっている。
 4月と10月の2回公演でキャストを総入れ替えするというダブルキャスト制も話題で、今回の10月公演は、遠藤雄弥、中村優一、荒木宏文、和田正人、瀬戸康史、中川真吾、牧田哲也、三上真史、碓井将大などのメンバーが登場。2万枚の公演チケットがわずか1日で完売するほどの人気だ。
 1カ月に及ぶ激しいけいこで、顔立ちもきりっと引き締まったメンバーの面々は、すでに幕末の志士そのもの。カラス組のリーダー・細谷を演じる遠藤は「同じ内容ですが、4月公演のときとは、まったく違うものになっていると思います」と自信たっぷり。実在の人物、細谷を演じるために、仙台まで足を運んで役作りをしたという。
 「アタシんちの男子」('09年、フジ系)、「オトメン」('09年、フジ系)と話題のドラマへの出演で注目の瀬戸は、おのが唯一の親友で、おのと会話する「竜」役に挑戦。「一人二役の演技は大変でしたが、新しい『竜』ができたと思います」と役作りへの自信を語った。
 また、中村と碓井は、兄弟という役柄を演じるため、毎日一緒に帰ったというエピソードを披露。和田は「前回が“動”なら、今回は“静”。どっしり構えてけいこに臨んだメンバーが多かったかな」とけいこ場の様子も告白した。最後に、舞台前の恒例で行っている円陣での掛け声も披露し、まさに“俳優集団D-BOYS”のチーム男子パワーも全開! 4月公演とはひと味違う「KARASU-鴉-」に注目だ。


D-BOYS STAGE vol.3「KARASU-鴉-」
東京公演~10月25日(日)青山劇場
大阪公演10月31日(土)・11月1日(日)シアターBRAVA!

詳しくは http://www.d-boys.com






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