新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
風邪気味らしく、微熱です。昨日早寝して12時間寝たら、だいぶ体力が戻ってきました。
憲政記念館から特別展「激動の明治国家建設」の案内ハガキが来ました。面白そうなんですが、11月5日~27日と会期が短く、11月の週末は何かと予定が入っているため、見に行くのは難しそう……(涙)。
北海道
ムラの宝物に、浜厚真海岸やアイヌ民族博物館
函館夢弁当きょうから発売…開港150周年テーマに和洋2種類
秋田
秋田藩へ援軍、戦死の佐賀藩士 武雄から慰霊祭に参列
宮城
仙台真田氏の足跡を追う 蔵王・歴史パネル展
白石に仙台真田氏の当主がいらっしゃるのですね。自分の祖母が白石出身なので、白石と真田氏の関係にも興味深いです。
展示:片倉家臣団の甲冑など--白石・来月8日まで /宮城
これもまた片倉氏つながりの展示で興味深いです。
栃木
宇都宮・上野記念館 武将の書状、甲冑など展示 戦国への理解 “本物”で深めて
東京
産経大江戸ウオーク、旧藩邸・史跡など満喫
<幕の内外>道化役 間の抜けた白塗り
世田谷に眠る松陰 維新祭 地元商店街 没後150年、あすから
幕末の志士・橋本左内を特集 小塚原刑場の実像明かす
神奈川
幕末の和洋折衷型 「中村家住宅」寄贈 相模原市に
岐阜
小泉元首相 恵那の言志祭に出席
富山
『自宅は旧村役場』あすまで一般公開 国文化財 小矢部の福島さん宅
三重
企画展:竹川竹斎生誕200年記念 幕末のチャレンジャーの生涯--松阪 /三重
滋賀
変革期の井伊直弼に焦点 彦根城博物館で30日から企画展
京都
転落注意!居酒屋「池田屋」の大階段
秋の都大路、優雅な歴史絵巻 京都で時代祭始まる
「十七烈士招魂祭」勤王志士しのぶ 天王山中腹の墓前から会場変更
霊山歴史館:坂本龍馬の妻、ブロンズ座像 きょうから展示--東山区 /京都
奈良
神話テーマに明治・大正の絵画69点 奈良県立美術館
香川
江戸の大名文化絢爛に/高松で井伊家の至宝展
高知
「龍馬伝」で盛り上がろう
山口
幕末・維新…吉田松陰の思い次世代へ 没後150年、萩に宝物殿27日開館
佐賀
九州・山口の産業遺産群:海軍所跡が構成資産候補に 「世界」へ取り組み /佐賀
長崎
“ロシア村”の歴史 本に 幕末から明治期の長崎・稲佐地区 長崎日ロ協会の松竹会長
長崎さるく:龍馬や幕末関連4史跡、モニュメントデザイン決まる /長崎
沖縄
幕末の騒動軽妙に 劇団O・Z・E「近江屋」公演
コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(33)東大教授・山内昌之 小笠原長行
小笠原長行といえば「第2次長州戦争で幕府軍が負けた時の司令官」という記憶なので、天下大変の時期に対応できない幕閣のひとりという印象を持っていたのですが(汗)……なかなかに苦労した人だったんですね。
憲政記念館から特別展「激動の明治国家建設」の案内ハガキが来ました。面白そうなんですが、11月5日~27日と会期が短く、11月の週末は何かと予定が入っているため、見に行くのは難しそう……(涙)。
北海道
ムラの宝物に、浜厚真海岸やアイヌ民族博物館
NPO法人北海道遺産協議会(辻井達一会長)は、ほっかいどうムラの宝さがしプロジェクトの第3次登録分を決定した。厚真町浜厚真海岸のサーフスポットのほか、白老町のアイヌ民族博物館などが登録された。
北海道各地の宝物を掘り起こして発信し、活用することで地域やまちの魅力を創造することを目的としたプロジェクト。「ムラの宝物」「ムラの売りもの」「ムラのごはん」「ムラの宝物の発掘・活用の活動事例」の4種類がある。第3次登録は「ムラの宝物」など計26件。
この中で、「ムラの宝物」に厚真町の「北海道ナンバーワンサーフスポット『浜厚真海岸(ビーチ)』」が自然ジャンルで登録され、「体験する」がキーワード。白老町からも3件。アイヌ民族博物館(文化)、アヨロ海岸(自然)、幕末の歴史を伝える史跡白老仙台藩元陣屋跡(歴史)。「ムラのごはん」で白老バーガー&ベーグルも登録された。
協議会は「ムラの宝物」などを積極的に活用した観光振興を望む地域があれば、旅行代理店を含めた三者で商品化やPRなどを協議、展開していく。
函館夢弁当きょうから発売…開港150周年テーマに和洋2種類
道南を中心とする地域の食材をふんだんに盛り込んだ「2009年函館夢弁当」が23日から、函館市内・近郊のハセガワストア全14店舗で販売される。地産地消を目的に2001年から始まったハセガワストア、函館短大付設調理師専門学校、FMいるかの共同企画で、今年は函館開港150周年をテーマに和風、洋風の2種類を用意した。
メニューは和風がハセガワストアグループの製造会社「ハセガワデリカ」の三橋信雄社長、洋風は同校の吉田徹教頭が中心となって考案した。ペリー提督が函館の水産資源に関心を持ったという史実から、和風メニューはサバの南部揚げ、ホタテシューマイなど北海道近海の魚介類が中心。ご飯は道産ブランド米の新品種「ゆめぴりか」を使用し、キノコご飯やサンマの竜田揚げのせなど4種類が味わえる。
洋食メニューは白花豆と豚の塩漬けを煮込んだボストンベークドビーンズなどの肉料理、小エビのカクテルソースなどの魚介料理を取り入れたオードブル。ペリー提督の故郷であるアメリカ・ロードアイランド州とその近郊の代表的な郷土料理を基に構成した。
和風は780円、洋風は980円。企画・広報を担当するFMいるかの斉藤正樹さんは「地元食材をあらためて味わってもらいたい。150年前に思いをはせ、食べてもらえれば」とPRしている。
販売期間は11月1日まで。和風は店頭販売で予約も可能。洋風は1日50食限定の予約販売で、26日まで注文を受け付ける(引き渡しは30日―11月1日)。
秋田
秋田藩へ援軍、戦死の佐賀藩士 武雄から慰霊祭に参列
戊辰戦争(1868~69年)で、秋田藩の援軍として派兵され戦死した佐賀藩士54人を弔う慰霊祭が18日、慰霊碑のある秋田市新屋日吉町の「葉隠墓苑」であった。武雄市の武雄ロータリークラブ(中尾直弘会長)の会員24人を含む約100人が参列し、墓前で同藩士の冥福を祈った。
戊辰の役戦没佐賀藩士慰霊秋田委員会(大友康二会長)と、新屋葉隠会(渡邊克忠会長)の主催。佐賀からまとまった人数が参列したのは、ほぼ10年ぶり。慰霊祭では「慰霊のうた」の合唱に続き、読経が流れる中、一人一人が焼香し、手を合わせた。
また、1988年の慰霊碑建立以来、碑を管理している地元の日の出町町内会(藤田徳司会長)に、中尾会長が感謝状を贈呈。中尾会長は「長年にわたる手厚いご供養に心から感謝したい。今回の訪問を機に、史実が風化することのないよう努めるとともに、皆さんとの縁を一層大切にしていきたい」と述べた。
慰霊碑脇の墓前では、ロータリークラブの会員が武雄市から持参した水を手向け、県木であるクスノキの苗木を植樹した。
大友会長は「当時の新屋村(現在の新屋地区)、秋田城下が戦火にまみれることなく終わったのが誰のおかげかは、歴史をひもとけば一目瞭然(りょうぜん)。感謝しなければならないのはわれわれのほうだ。地域住民だけでなく、県民全体で戦死した佐賀藩士への感謝の意を新たにしてほしい」と話した。
戊辰戦争では、維新政府側についた秋田藩に、援軍として佐賀藩から約1700人が派兵された。当時の新屋村は藩士たちの宿泊、兵糧の調達、負傷者の手当て、戦死者の埋葬など、政府軍の前線基地としての役割を担った。秋田委員会は1986年に新屋日吉地区の区画整理事業で佐賀藩士の墓3基が見つかったのを機に、有志が結成した。
宮城
仙台真田氏の足跡を追う 蔵王・歴史パネル展
真田幸村の血脈で、宮城県蔵王町に領地があった「仙台真田氏」の誕生と功績に迫る歴史パネル展(町教委主催)が23日、同町円田のございんホール展示室で始まった。11月23日まで。
「智謀の一族 真田氏」「日本一の兵(つわもの) 真田幸村」「仙台真田氏の誕生」「幕末の名将 真田幸歓(ゆきしげ)」の4部構成で写真や解説文のパネル約30点を展示。
戦死した幸村の次男を引き取った仙台藩が、虚偽の系図を用意して幕府の追及を逃れたエピソードにも触れた。幕末から明治維新にかけ仙台藩を支えた第9代当主幸歓の功績についても詳しく紹介している。
町内や白石市に残る当主の墓碑など9カ所の案内パネル、仙台真田氏が同町矢附と曲竹の両地区を治めていたことを示す古文書3点も展示した。
町教委は同ホールで11月7日午後1時半から、千葉県柏市の研究家小西幸雄氏の講演会「仙台真田氏の誕生」を開く。入場無料。申し込みは11月4日まで。連絡先は町教委0224(33)3008。
白石に仙台真田氏の当主がいらっしゃるのですね。自分の祖母が白石出身なので、白石と真田氏の関係にも興味深いです。
展示:片倉家臣団の甲冑など--白石・来月8日まで /宮城
白石市内の片倉家中家臣団に残る甲冑(かっちゅう)を中心に展示紹介した企画展「片倉家中の甲冑」が、同市益岡町の白石城歴史探訪ミュージアム2階展示室で開かれている。
白石市教育委員会博物館建設準備室が主催。明治維新の戊辰戦争から約140年経過した今、市内の片倉家中に残る身近な文化財に理解を深めてもらおうと企画した。
会場には片倉家中足軽以上の末裔(まつえい)に伝わる江戸・近世時代の「鉄黒漆塗五枚胴具足」などの甲冑5領を展示している。兜(かぶと)の前立てには、片倉家のトレードマーク、八日月に「愛宕山大権現守護所」が輝いており、在りし日の片倉武士の威風を今に伝えている。
また、戦国ブームにあやかり、初代白石城主・片倉小十郎景綱の複製画像(原資料・仙台市博物館所有)と木像(同・石巻市広渕の耕徳寺所有)など関連資料も展示している。
入場無料。11月8日まで。問い合わせは白石市歴史探訪ミュージアム(0224・24・3030)。【豊田英夫】
これもまた片倉氏つながりの展示で興味深いです。
栃木
宇都宮・上野記念館 武将の書状、甲冑など展示 戦国への理解 “本物”で深めて
伊達政宗や上杉謙信ら戦国武将ゆかりの品を集めた企画展「戦国武将列伝」が、宇都宮市昭和の上野記念館で開かれている。十二月十二日まで。
武将が他国の領主や部下らにあてた直筆の書状のほか、水墨画や甲冑(かっちゅう)などを展示。地元にもスポットを当て、近世の宇都宮城主・蒲生秀行、幕末の宇都宮藩主・戸田氏らのコーナーもある。
記念館の担当者は「一点ずつに付けた解説を併せて読めば、理解が深まると思う。これだけの資料を見られる機会は少ないので、ぜひ足を運んでほしい」と呼び掛けている。
入場料は一般二百円、中高大学生百五十円。問い合わせは記念館=(電)028(625)5905=へ。 (上田千秋)
東京
産経大江戸ウオーク、旧藩邸・史跡など満喫
東京の風情や歴史を楽しみながら歩く「産経大江戸ウオーク」(産経新聞社主催、メタボリックシンドローム撲滅委員会共催)が24日、開かれた。今回は「激動の幕末・史跡と旧藩邸を歩く」と題し、東京都中央区の浜離宮恩賜庭園をスタート・ゴールに芝公園や麻布などをめぐる約12キロ。約550人の参加者は、東京タワーを右手に眺めながら芝公園、三田、麻布をたどり、旧藩邸だったイタリア、オーストラリアなどの大使館、有栖川宮記念公園などを巡り、江戸の歴史と都心の深まりゆく秋を満喫していた。
<幕の内外>道化役 間の抜けた白塗り
歌舞伎にも道化役が登場します。「助六」の朝顔仙平や「盛綱陣屋」の伊吹藤太などがその代表です。
西洋のピエロ同様、白塗りの顔にコミカルなメーク、派手な衣装が特徴。白塗りは、基本的にイケメンなのが歌舞伎のお約束ですが、道化役は別物。
藤太は、兄弟で敵味方に別れて戦っている佐々木家に、戦況報告のためやって来ます。ところが彼の報告は「戦で川のどじょうが驚いて、どうのこうの」という内容。使えない人材であるのは明らかです。
敵役の道化もいます。「半道敵」といって、道化と敵役の要素が半々というもの。「忠臣蔵」の鷺坂伴内が代表的です。彼は塩冶(えんや)判官が斬(き)りつけた高師直(こうのもろのお)の家臣ですが、小心で臆病(おくびょう)、小ずるいくせに間が抜けている。
伴内は塩冶の浪人・早野勘平の恋人・お軽に横恋慕しており、舞踊劇「落人」では、逃避行中の勘平とお軽の追っ手として登場。その格好は、朱と浅黄色の長襦袢(じゅばん)のような珍妙な姿で、勘平にあっさりやっつけられてしまう。
江戸時代の作家・式亭三馬は「もし師直が死んでいたら、主君の敵を討たねばならないのは伴内のはず」と言ったとやら。しかし大星由良之助と違って、伴内にそんなことはとても無理でしょう。
もっともこの舞踊劇は、忠臣蔵の初演からだいぶ後、幕末に書き加えられたもの。当時の好みを反映して、伴内の滑稽(こっけい)さも、かなりキテレツになっています。
藤太同様、伴内も白塗りですが、白には清潔感や純粋さだけでなく、空虚さや愚かさというイメージもあることを、歌舞伎の道化役は教えてくれます。 (イラストレーター・辻和子)
世田谷に眠る松陰 維新祭 地元商店街 没後150年、あすから
長州(山口県萩市)出身の幕末の思想家、吉田松陰(一八三○~五九年)を祭る東京都世田谷区の松陰神社と周辺で二十四、二十五の両日、「萩・世田谷 幕末維新祭り」が開かれる。松陰の没後百五十年の節目。主催の地元商店街は「松陰と世田谷のつながりをもっと知ってほしい」と多くの来場を呼び掛けている。
松陰は、一八五九年に安政の大獄で処刑された後、小塚原(荒川区)に埋葬されたが、高杉晋作ら門下生が四年後、長州藩の所有地(世田谷区)に改葬した。そこに八二年に創建されたのが松陰神社だ。
祭りは毎年、命日の十月二十七日に近い週末に開いている。
松陰神社通り松栄会商店街振興組合の岡村忠義理事長(65)は「吉田松陰が、世田谷に眠っているということを知らない人も多い。幕末ファンの来訪も増えているが、さらに知ってほしい」と話す。
松陰神社の斎藤憲輝宮司は「松陰先生は肖像画などから、年配のイメージを持たれがちだが、二十九歳の若さで亡くなった。自分のためではなく、人のため国のために尽くした姿勢が評価されている」と話す。
祭りのメーン行事は「幕末の志士・奇兵隊パレード」。神社内にある松下村塾の再現建物の前で、幕末野外劇なども行う。開会式には萩市の野村興兒(こうじ)市長も出席する予定。長州藩の萩市と、会津藩の福島県会津若松市の観光物産展を開く。また、三十日には神社で女優浅野温子さんによる「語り舞台」公演もある。問い合わせは松陰神社通り商店街振興組合=電03(3487)1641=へ。 (増田恵美子)
幕末の志士・橋本左内を特集 小塚原刑場の実像明かす
安政の大獄で刑死した幕末の志士、橋本左内(一八三四~一八五九年)と、左内の墓がある回向院(荒川区南千住)にあった小塚原の刑場を特集する企画展「橋本左内と小塚原の仕置場(しおきば)」が荒川ふるさと文化館(南千住六)で開かれている。 (中里宏)
左内の墓を囲うように建てられていた套堂(さやどう)が今春、同館前に移設されており、企画展はこれを記念したもの。
左内の史料とともに、小塚原の刑場と回向院が果たしていた機能を明らかにする。「誤ったイメージで語られることの多い仕置場の実際の姿を見てほしい」としている。
左内は「福井藩にこの人あり」と言われ、緒方洪庵の適塾でも頭角を現した秀才。幕政改革運動で大老・井伊直弼に危険視され、将軍の跡継ぎ問題に介入したとして捕らわれ、死罪となった。
戦前の修身の教科書には、西郷隆盛と親交を結ぶきっかけとなったエピソードが取り上げられ、広く知られていた。
企画展では、「左内の立派な墓が建っている」とのうわさを聞きつけ、回向院の現地調査を行ったことを示す井伊家の文書や橋本左内の名が記された回向院の記録など、多くの史料が展示されている。
仕置場については、品川・鈴ケ森刑場の死者が回向院まで運ばれて埋葬されたことを示す文書など、刑死者(無縁仏)の埋葬の場、杉田玄白ら蘭学者による解剖の場、刀の試し切りの場としての機能も紹介。大正時代になって史跡としての認識が広まり、特に昭和に入ってから幕末の志士の顕彰が盛んに行われ、志士の墓が多く建てられたことなど、時代による変遷も紹介している。十一月八日まで。
同館は月曜休館。入館料は一般百円。
神奈川
幕末の和洋折衷型 「中村家住宅」寄贈 相模原市に
国の登録有形文化財「中村家住宅」(相模原市磯部)が、所有者の中村秀子さん(95)から市に寄贈された。幕末期の和洋折衷住宅では現存する唯一のものとされ、市は防火施設を設置、来年四月から一般公開する。
市文化財保護課によると、寄贈されたのは、敷地千八百六十九平方メートルと木造二階建ての主屋一棟、木造平屋の長屋門。主屋の一階は和風、二階正面の縦長のガラス窓と軒に塗られた曲線の白しっくいが西洋風となっている。二階外壁のなまこ壁も特徴という。
中村家は幕末から明治期に生糸で財をなした商家で、邸内の稲荷(いなり)神社に一八六七(慶応三)年の棟札があることから、主屋などは当時の建築とされる。二〇〇六年三月に国有形文化財に登録された。 (松平徳裕)
岐阜
小泉元首相 恵那の言志祭に出席
恵那市で開催中の「嚶鳴(おうめい)フォーラムin恵那」で24日、同市出身で幕末の儒学家、佐藤一斎をしのぶ言志祭が行われ、小泉元首相が出席した。
小泉元首相は、一斎の随想録で、指導者のためのバイブルと呼ばれる「言志四録」の言葉を引用して総理就任演説を行った。
一斎の銅像に献花後、小泉元首相は、「私が学んだ佐藤一斎先生の郷里を一度訪ねたい思っていた。私は毎朝、カレンダーに書かれた言志四録を読み、今は『老いて学べば則ち死して朽ちず』の精神を大切にしている。子供たちに一斎先生の言葉を教え、良い地域づくりに役立てて欲しい」と述べた。
富山
『自宅は旧村役場』あすまで一般公開 国文化財 小矢部の福島さん宅
1926年建築、移転し保存
「近代化遺産全国一斉公開2009」に合わせ、小矢部市芹川、測量設計会社役員福島立将さん(49)が二十三日、自宅として使っている国登録有形文化財「旧宮島村役場」の公開を始めた。二十五日まで。(宮本隆康)
旧宮島村役場は一九二六年建てられた和洋折衷の木造二階建て。老朽化でいったん取り壊しが決まったが、福島さんが保存のために買い取り、八六年に移築した。
元の建材を一部補強や補修もして忠実に復元。九〇年には「とやま建築百選」に、二〇〇一年に国登録有形文化財に指定された。
福島さんは「歴史遺産を大切に保存するだけでなく、現代の生活に再利用することがより良い在り方」と話す。
公開は午前九時~午後五時。内部ほか、太陽光発電と風力発電による自家発電システムも公開する。
近代化遺産は、幕末から第二次世界大戦期までに建設され、日本の近代化に貢献した産業・交通・土木の建造物。地方公共団体を中心につくる「全国近代化遺産活用連絡協議会」が、十月二十日を「近代化遺産の日」として、同一日~十一月三十日、近代化遺産を全国で公開している。
三重
企画展:竹川竹斎生誕200年記念 幕末のチャレンジャーの生涯--松阪 /三重
◇松阪市歴史民俗資料館
幕末から明治にかけ政治、経済、文化人として活躍した竹川竹斎(1809-82)の生涯を紹介する企画展「幕末のチャレンジャー竹川竹斎」が、松阪市殿町の同市歴史民俗資料館で開かれている。12月13日まで。生誕200年を記念する記念事業の一つで、展示品の図録(A4判、68ページ)も作られ、販売されている。
竹斎は、幕府為替御用を務めた松阪市射和町の豪商・竹川家に生まれ、21歳で家督を継いだ。勝海舟など経世家や文化人と交流。開国と合わせ、海防の必要性を主張した。また、私財を投じて日本初の私設文庫「射和文庫」を創設したり、灌漑(かんがい)池の築造や射和万古の開窯など、地域産業の振興などに幅広く貢献した。
会場では、1866(慶応2)年に横浜の英国公使・パークスのもとを訪れた際、フランス人のカメラマンが撮影した、帯刀姿の当時としては極めて珍しいカラー写真が目をひく。また、後に勝海舟の神戸海軍操練所開設や勘定奉行・小栗上野介の横須賀海軍造船所建設に大きな影響を与えたとされる1853(嘉永6)年の「護国論」が紹介されている。
そのほか、反古帳(ほごちょう)から見つかった竹斎自画像、「駱駝(らくだ)図の瓦版」など竹川家所蔵品を主体にした125点(うち県指定有形文化財50点、松阪市指定有形文化財6点)が並ぶ。
仲村隆彦館長は「日本の近代の幕開けに果敢に挑戦した竹斎の夢と心意気に接してもらえる企画」と称賛。生誕二百年記念実行委員会の下村登良男委員長は「初公開の珍しい資料が多い」と来場を呼びかけている。
図録には、竹斎の紀行文「浮宝の日記」「清渚二見記行」の口語訳も掲載。300部を1部1000円で販売する。希望者は同資料館(電話0598・23・2381)へ。【橋本明】
滋賀
変革期の井伊直弼に焦点 彦根城博物館で30日から企画展
「変革期の政治家」としての大老・井伊直弼に着目し、直弼や同時代の政治で活躍した人物らを取り上げる特別企画展「政治の時代-井伊直弼と幕末の群像-」が30日から彦根城博物館で始まる。
企画展は(1)藩主(2)将軍のそばに仕える溜詰(たまりづめ)大名(3)大老-の3つの立場で直弼がかかわった政治に光を当てる。
展示作品は徳川家や幕末の志士らの絵、直弼が周囲と交わした書状、当時の時代を伝える道具など。会期中に一部を入れ替え、延べ146点になる。
「孝明天皇勅諚(ちょくじょう)」は、幕府が勅許を得ずに日米修好通商条約を調印したことに怒った孝明天皇が、直弼らの説得でわだかまりを氷解させたことをしたためたもので、原本が公開されるのは初めて。1835(天保6)年に日本で初めて作られ、旧佐賀藩が使っていた洋式砲「モルチール砲」(全長約60センチ、口径20センチ)は、対外的な緊張が高まった当時の雰囲気を伝える。
11月29日までの会期中には記念シンポジウム(11月7日)や講演会(同14日)など4つの関連イベントが催される。観覧料は一般500円、小中学生250円。
京都
転落注意!居酒屋「池田屋」の大階段
新選組が志士を襲撃した池田屋事件。舞台の宿はなくなったが、その名をつけた居酒屋が跡地のビルに開店した。
大階段など事件にちなんだ内装が幕末史の一場面に客をいざなう。でも酔って修羅場になるのはご免。(京都市で=賀)
秋の都大路、優雅な歴史絵巻 京都で時代祭始まる
京都三大祭りの一つ「時代祭」が22日、京都市内で行われ、平安時代から明治維新までの歴史上の人物にふんした全長約2キロ、約2千人の豪華な時代行列が、秋晴れの都大路を彩った。
平安遷都1100年を記念して明治28年に始まり、今年で105回目。今年は、小野小町役の沓(くつ)など新調された。
午前9時ごろ、桓武、孝明両天皇を祭った「鳳輦(ほうれん)」と呼ばれる2基の輿(こし)を中心とした神幸列が、平安神宮(左京区)から京都御所(上京区)へ向かった。正午には時代行列が京都御所の建礼門からスタートし、「維新勤王隊列」を先頭に、江戸、安土桃山、平安など時代をさかのぼる形で、平安神宮までの約5キロをゆっくりと練り歩いた。
「十七烈士招魂祭」勤王志士しのぶ 天王山中腹の墓前から会場変更
幕末の勤王志士をしのぶ「天王山十七烈士招魂祭」が21日、京都府大山崎町大山崎の離宮八幡宮で営まれた。昨年まで天王山中腹にある志士たちの墓前で行ってきたが、主催する奉賛会の高齢化が進み、「山道を登るのが難しくなった」として今年から場所を変更した。
1864年の禁門の変で、福岡県久留米市にある水天宮宮司だった真木和泉守ら17人は長州藩の別動隊として戦ったが武運つたなく敗れ、天王山で自決した。招魂祭は町民でつくる「天王山十七烈士奉賛会」が、水天宮内の真木神社で祭典がある命日(7月21日)から3カ月後に毎年、墓前で催してきた。
しかし会員の高齢化で、長時間山道を歩いて祭壇や供物を運ぶ負担が大きくなった。このため奉賛会は、和泉守の子孫で毎年招魂祭に参列している真木大樹・水天宮宮司に、志士の駐屯地だった離宮八幡宮への会場変更を打診。「墓前で行うのが本来だがやむを得ない」と了承を得た。
この日は離宮八幡宮の津田定明宮司が祝詞を上げ、奉賛会員や和泉守の子孫計約30人が次々と祭壇に玉ぐしをささげた。和泉守が自害する前に吟じた詩も披露され、参列者は自ら命を絶った志士の無念に思いをはせた。
40年近く参列してきた奉賛会の村本茂子副会長(82)=同町円明寺=は「将来また墓前で開けるよう、若い会員の参加を促す方法を考えたい」と話した。
霊山歴史館:坂本龍馬の妻、ブロンズ座像 きょうから展示--東山区 /京都
幕末維新の史料を展示する「霊山(りょうぜん)歴史館」(東山区)はこのほど、幕末の志士、坂本龍馬(1835~67)の妻「お龍(りょう)」のブロンズ座像を完成させた。来春のNHK大河ドラマ「龍馬伝」の放映予定に合わせて制作したもので、同館で開催する秋の特別展「龍馬たちの挑戦」(21日~11月23日)で展示する。
座像(高さ約50センチ)は、日展評議員などを務める彫刻家、江里敏明さん(62)に依頼した。お龍の晩年を撮影した史料写真を参考に、気丈さが伝わる凛(りん)とした姿をよみがえらせた。江里さんは「龍馬が愛した、優しくも芯(しん)のある京おんなをイメージした」と話している。
同館は、05年のリニューアルオープンを機に、幕末の英傑のブロンズ像を制作。これまでに坂本龍馬▽土方歳三▽沖田総司▽勝海舟の4作品が完成している。秋の特別展では、龍馬像と一緒にお龍の座像を展示するという。【木下武、写真も】
奈良
神話テーマに明治・大正の絵画69点 奈良県立美術館
平城遷都1300年を前に、神話をテーマとした近代の日本画、洋画を通じ日本人の心の原点に迫る特別展「神話~日本美術の想像力」(奈良県立美術館、産経新聞社主催)が24日、奈良市の同美術館で開幕した。日本武尊(やまとたけるのみこと)などの神話を描いた明治、大正時代の計69点を展示。入場者は想像力豊かな世界に見入っていた。
明治時代、西洋文化が吸収される一方で古来の文化が見直され、古事記や日本書紀などの神話を表現する作品が生まれた。展示は各美術館などから名画を集め、美意識のルーツを探る。
幕末~明治の浮世絵師、河鍋暁斎(きょうさい)の「天の岩戸 天宇受売命(あめのうずめのみこと)の踊り・手力男命岩戸開き」は国内初公開となる。イギリスの建築家、コンデルが所蔵した後は行方不明だったが、現在は研究者が所蔵。
鈴木松年の「日本武尊・素戔嗚尊(すさのおのみこと)」は迫力ある構成の屏風(びょうぶ)絵、前田青邨の「大久米(おおくめの)命」は勇ましく舞う命の姿を臨場感豊かに描いている。安田靫彦や黒田清輝、青木繁らの作品も展示される。
12月24日までで、前期(~11月23日)と後期(11月25日~)で一部展示替え。一般千円、大学・高校生700円、小・中学生400円。問い合わせは奈良県立美術館((電)0742・23・3968)。
香川
江戸の大名文化絢爛に/高松で井伊家の至宝展
彦根井伊家に伝わる名品を紹介する「徳川四天王 井伊家の至宝展」(香川県立ミュージアムなど主催、四国新聞社など共催)が24日、香川県高松市玉藻町の県立ミュージアムで開幕した。四国で初公開となる国宝彦根屏風(びょうぶ)のほか、高松藩最後の藩主松平頼聡(よりとし)の正室として迎えられた幕末の大老直弼の次女弥千代ゆかりの婚礼道具など129件を紹介。江戸の大名文化を絢爛(けんらん)豪華に伝えている。
井伊家は初代直政が関ケ原合戦で功績を挙げ、「徳川四天王」と称された武門の家柄。以降、譜代大名の筆頭として幕府を支えた。一方、高松松平家も江戸城で井伊家と同じ部屋で将軍家に仕えるなど、親しい間柄。それが縁で、1966年には高松と彦根が姉妹城縁組を結んでいる。
特別展は県立ミュージアムとしてリニューアル後、初めての本格的な歴史展として企画。関ケ原から幕末までを、直政や直弼、弥千代らに焦点を当て、彦根城博物館所蔵の品々を中心に高松松平家歴史資料とともに紹介している。
初日は開展式があり、真鍋知事が「武だけでなく、茶の湯や能など優れた大名文化を堪能してほしい」、来賓の獅山向洋彦根市長も「特別展を機に一層交流が深まれば」とあいさつ。その後、鑑賞会が開かれたほか、彦根城博物館長で井伊家18代当主井伊直岳さんの講演会があり、大勢の来場者でにぎわった。
会期中、彦根城築城400年祭のイメージキャラクターひこにゃんと一緒に、お城について学ぶ子ども歴史教室などもある。
11月23日まで(26日、11月9日、16日は休館)。一般1000円、65歳以上と高校生以下は無料。
高知
「龍馬伝」で盛り上がろう
幕末の志士・坂本龍馬の愛好家らが交流を深める「第21回全国龍馬ファンの集い」が24日、南国市明見のホリデイ・イン高知で開かれた。北海道から鹿児島県まで全国から駆けつけた約400人が、来年放送のNHK大河ドラマ「龍馬伝」の脚本家・福田靖さんによる記念講演や各地の団体の活動報告に聞き入った。
集会は、龍馬ファンが各地でつくる「龍馬会」の上部団体「全国龍馬社中」などが中心となり、毎年全国で開かれている。福田さんは「〈龍馬伝〉~新たな龍馬像を創(つく)る」と題して講演。「普通の人間だった龍馬が、いかにして薩長同盟の裏書きまでする人物に成長したか、その謎を描きたい」と、かつてない龍馬像を描くことを強調し、「大ヒットドラマに」と意気込みを語った。
会場では、来年1月16日から始まる「土佐・龍馬であい博」のPR大使に就任する歴史好きアイドル「歴ドル」の美甘子(みかこ)さん(25)=愛媛県今治市出身=の就任発表会も開催。尾崎知事から、PR大使の名刺を模したパネルを受け取った美甘子さんは「高知も龍馬も盛り上げていけるよう頑張りたい」と笑顔を見せた。
25日は龍馬の生誕地や桂浜などを巡るツアーがあり、来年の集いは岩手県一関市で開かれる。
山口
幕末・維新…吉田松陰の思い次世代へ 没後150年、萩に宝物殿27日開館
幕末の思想家・吉田松陰をまつる山口県萩市の松蔭神社に、松陰の遺品などを通じて業績をたどる宝物殿「至誠館」が完成した。松陰の命日に当たる今月27日に開館し、翌28日から一般公開される。(小林宏之)
松陰や松下村塾に関する貴重な遺品、関連資料を多数所蔵する同神社が、これらの宝物を保管し、松陰の志を次代に引き継ごうと、松陰の没後150年の記念事業として至誠館を整備した。鉄筋平屋建て約500平方メートルで、総工費は約3億5千万円。
館内は、松陰の生涯を7つの時代に分けて展示資料などで業績をたどる「時代の書院」、遺墨「留魂録」を中心に死を目前にした松陰の思いを伝える「留魂の間」など4つのゾーンに分かれている。
境内に建つ国史跡「松下村塾」を、展示物のように小窓から見てもらい、合わせて松下村塾について解説を加えたコーナーも。同館でしか手に入らないオリジナルの“松陰グッズ”を販売するショップも設けられる。
上田俊成宮司は「松陰先生の生き方、死生観、教育観、国家観は今に通ずることが多い。館の展示が、今をどう生き、将来をどうしようと考えるきっかけになればうれしい」と話している。
入館料は大人500円、中高生250円、小学生100円。問い合わせは同神社((電)0838・24・1027)。
佐賀
九州・山口の産業遺産群:海軍所跡が構成資産候補に 「世界」へ取り組み /佐賀
幕末期の佐賀藩の三重津海軍所跡(佐賀市川副町、諸富町)が22日、国の世界遺産の暫定リスト入りした「九州・山口の近代化産業遺産群」の構成資産候補に挙げられた。一方、これまで候補に入っていた唐津市の旧高取家住宅は候補に盛り込まれなかった。
暫定リスト入りを目指し、佐賀市教委は6月から海軍所の存在を証明する遺構や遺物を探そうと調査を続けた。その結果、金属加工用の炉跡やかまど跡とみられる遺構、修理などの際に船を入れるドックの護岸の一部とみられる「木杭護岸」が見つかっている。
古川康知事は海軍所跡が候補になる一方、旧高取家住宅が候補に入らなかったことを踏まえ、「今後の調査結果などで変わる可能性があり、関係県・市と協議しながら県内資産の世界遺産登録に向けた取り組みを進める」とする談話を出した。【遠藤雅彦】
長崎
“ロシア村”の歴史 本に 幕末から明治期の長崎・稲佐地区 長崎日ロ協会の松竹会長
幕末から明治時代にかけて長崎市稲佐地区にあった“ロシア村”の歴史をたどる「ながさき稲佐ロシア村」(長崎文献社)が出版された。著者の長崎日ロ協会会長、松竹秀雄さん(81)=長崎市=が、史料を基にロシア人と長崎のかかわりを丹念に調査した。付録に散策ガイドも付ける。
■交流を詳細に記述 付録に散策ガイドも
1804(文化元)年のロシア使節レザノフの長崎来訪から筆を起こし、1853(嘉永6)年のプチャーチン来航を経て開国後にロシア人が滞在した稲佐地区の歴史をまとめた。近くの悟真寺にあるロシア人墓地の碑文も紹介。1860(万延元)年-1896(明治29)年のロシア海軍士官宿泊先を一覧表にし、受け入れた住民の対応も詳細に記述している。
松竹さんは稲佐地区出身で「子どものころロシア人墓地で遊んでいた」という。鹿児島で約20年間過ごし、古里に戻って長崎大講師などを務める傍ら、地域の歴史を研究。1997年に発足した長崎日ロ協会の会長にも就任した。
ロシア村は日露戦争(04-05年)で終わったが、松竹さんは「長崎とロシアの友好の歴史を多くの人に知ってほしい」と話している。
A5判、276ページ。付録の地図「稲佐さるくロシア村」はカラー10ページ。本体価格は2400円(消費税抜き)。全国の書店で販売している。
長崎さるく:龍馬や幕末関連4史跡、モニュメントデザイン決まる /長崎
◇長崎を「さるいて」親しめる像に
長崎市などでつくる「さるく観光幕末編推進委員会」(会長・松藤悟長崎商工会議所会頭)が、来年放送のNHK大河ドラマ「龍馬伝」を前に、坂本龍馬や幕末関連の史跡4カ所に設けるモニュメントのデザインがこのほど決まった。推進委が全国から公募した中から選び、20日に市役所で授賞式を開いた。モニュメントは今年度中に設置する。【錦織祐一】
推進委はまち歩き観光の新たな名所を掘り起こすため、4~6月に市内の史跡に設置するモニュメントを公募。全国から56点の応募があった。この中から選ばれた優秀賞2点、入選2点を実際にモニュメントにする。
優秀賞の一つは、龍馬の妻お龍を世話した豪商・小曽根家宅跡に設ける「月琴とお龍さん」=長崎市の美術講師、内藤修子さん(60)デザイン。もう一つは、日本の活版印刷創始者、本木昌造の「新町活版所」跡に設ける、実際に使われた鉛製活字を透明のアクリル樹脂に埋め込むモニュメント=同市のデザイナー、吉田隆さん(50)デザイン。
入選は、岩崎弥太郎の商社「土佐商会」跡には海援隊旗と土佐藩船「夕顔丸」の像。上野彦馬の「上野撮影局」跡には、龍馬を撮影した際に使用した台と、当時のカメラをデザインしたモニュメントを設置する。
4カ所のモニュメント設置費は1000万円の見込み。内藤さんは「長崎を『さるいて』親しんでもらえる像にしたい」と話していた。
沖縄
幕末の騒動軽妙に 劇団O・Z・E「近江屋」公演
劇団O・Z・E(頭・真栄平仁)の公演「近江屋」(球鹿若久作、真栄平演出)が3、4の両日、沖縄市民小劇場あしびなーで行われた。幕末の京都・近江屋を舞台に、坂本竜馬と中岡慎太郎、新撰組の土方歳三と沖田総司らが繰り広げるシチュエーションコメディー。うそを吐き続ける竜馬の奮闘ぶりと相手役たちの勘違いが笑いを誘い、“生きる”ことに執着する人間の本質を描いた物語が観客を引きつけた。
幕末に「もしかしたら」を思わせる物語。竜馬(新垣晋也)と中岡(浅田武雄)が泊まる近江屋に、相部屋を頼まれた人物が竜馬暗殺の命を受けた新撰組の土方(平安信行)と沖田(永田健作)だった―。
初日の公演を見た。新垣は「わたしは江戸の旗本」「実は隠密」などと土佐弁を隠してうそを重ね、相手に悟られないように悪戦苦闘する竜馬役を、体を張った演技と表現力で好演。訛(なまり)のひどい仲居のお雪を演じた比嘉あずさや、事態をのみ込めずに途中で帰ってきた中岡役の浅田、平安と永田の新撰組コンビとのコミカルな掛け合いは純粋に楽しめた。
竜馬が泥臭く命ごいをするさまは、沖田の「わたしは自分のために生きて死ぬ」のせりふに凝縮され、互いに認め合う最後の場面が印象的だった。しかし、沖田に問い詰められ、竜馬が自ら正体を明かすタイミングは早く感じられ、理解に苦しんだ。それまでの奮闘ぶりを台無しにしているかのようで、課題を感じた。
(仲原崇夫)
コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(33)東大教授・山内昌之 小笠原長行
入京クーデターの挫折
自民党の総選挙惨敗の一因を麻生太郎前首相が解散のタイミングを誤った点に求める声が多い。実際のところ、麻生氏が選択したのは任期満了に近い解散であった。結果として、民主党に有利な政治環境で追い込まれ解散となったことは否定できない。ここで痛感するのは、時代を動かす政治を仕掛けるには、判断と行動のタイミングが重要ということだ。
幕末にも、幕府があと一歩詰めていれば、政局が大きく変わり、たやすく瓦解せず、徳川優位の政治が運営されたと思われる決定的な瞬間もあった。そのトクガワ・モーメントは、文久3(1863)年5月から6月に老中格の小笠原長行が企てた率兵入京とその挫折である。大体において、幕兵が武装上洛する事件といい主人公といい、この政治瞬間は何から何まで破格だらけであった。
≪期待にたがわぬ政治家≫
唐津藩世子の長行は、れっきとした嫡子に生まれながら、父が死んだとき、わずか2歳だったためにすぐ藩主になれなかった。唐津藩は長崎警固の任があるので、2歳の藩主では他の地に転封されかねなかった。豊かな実入りのある領地を失いたくない家臣らは、幕府に長行の身体に障害があると届けてしまった。おかげで彼は、英邁(えいまい)な資質をもちながら、何代も外から迎えた養父の下で冷や飯を食わねばならなかった。
しかし、譜代大名に人材を求めた幕閣は、長行を部屋住み身分のまま老中格に抜擢(ばってき)したのである。まさに破格の所以(ゆえん)である。長行は期待にたがわぬ政治家であった。
まず彼は外国との戦争につながる攘夷(じょうい)が不可能と知って、薩摩藩の起こした生麦事件を処理して賠償金を支払ってしまった。また、京都で一橋(徳川)慶喜が不用意に朝廷に約束した開港場の閉鎖という政策が非現実的だと尊皇攘夷派公卿(くぎょう)に知らしめ、朝廷の論議を常識に戻すべく、洋式歩兵隊など幕府の精兵1600人を率いて海路、大坂に上ったのである。そこから枚方(ひらかた)経由で京都に入り、一挙に朝廷の大勢をくつがえし、京都から動けなかった主君の将軍家茂を江戸に連れ戻そうとした。
この率兵入京とは、大胆なクーデター計画にほかならない。京都で無理無体を重ねた長州藩ら尊攘派と、それに雷同した公卿の力を一掃する目論見(もくろみ)は誰にもできることではない。
≪幕府にも運命の分かれ目≫
長行が水野忠徳(ただのり)や井上清直(きよなお)など有能な官僚を率い、乾坤一擲(けんこんいってき)の勝負に出た度胸は非凡である。やはり不遇だった経験が彼を鍛えていたのだろう。この率兵入京には、現実離れした政策を京都から勝手に押しつけてくる朝廷に江戸の実務官僚たちが感じた怒りが表れている。長行の大胆不敵な行為に孝明天皇も震え上がったに違いない。枚方から淀に出たところで、在京の老中や若年寄らがあわてふためき、制止にかかり、長行はすぐ入京せず淀に留(とど)まった。
しかし、これは長行の政治判断のミスであり、幕府にも大きな運命の分かれ目になった。即刻入京して、無責任な公家や退嬰(たいえい)的な老中らと対決して家茂をその手に取り戻して禁門を押さえればよかったのだ。クーデターに失敗したのは、在京中の一橋・会津・桑名と上洛した幕軍・官僚との間の意志乖離(かいり)のためである。慶喜はその前に責任を全部長行に押しつけるために江戸へ帰っていた。京都守護職(会津)と京都所司代(桑名)は勅命を最優先しがちなために、自らが幕府の代理人だという本来の立場を忘れがちであった。
≪貴公子出身の限界≫
長行らは洛外で孤立し、敬愛する家茂の命で罷免されてしまった。これによって幕府を蘇生(そせい)させる最後の機会は失われた。幕兵の精鋭で京都の空気を一挙に変える機会を逸したのは、貴公子出身の長行の限界であったともいえる。がむしゃらに目標へ邁進(まいしん)するのは、がつがつした薩長の田舎武士の感性では当然だったにせよ、洗練された譜代大名や幕府官僚には苦手であった。
長行は長州征伐や五稜郭戦争にも加わるが、率兵入京で見せた政治決断の冴(さ)えをついに回復できなかった。辞世と伝えられる句は、幕府最後の異能の老中の心をかいま見せてくれる。
「夢よ夢 夢てふ夢は夢の夢 浮世は夢の 夢ならぬ夢」
絶好のタイミングを逸した後悔を愚痴でなく、「夢」と見なすあたりは鷹揚(おうよう)な貴公子にふさわしい。自民党の有志たちにも、このくらいの開き直りをもってほしいものだ。(やまうち まさゆき)
◇
【プロフィル】小笠原長行
おがさわら・ながみち 幕末の老中。文政5(1822)年生まれ。肥前(佐賀県)唐津藩初代藩主、小笠原長昌(ながまさ)の長男。5代藩主小笠原長国(ながくに)の養子となり、藩政にあたる。文久2(1862)年、幕府から登用され、奏者番、若年寄、老中格を務める。後に外国御用取扱、老中を命ぜられた。生麦事件の処理にあたり、第2次長州征伐では九州方面監軍として指揮を執る。戊辰戦争では、箱館五稜郭で新政府軍に抗戦した。明治24(1891)年、70歳で死去。
小笠原長行といえば「第2次長州戦争で幕府軍が負けた時の司令官」という記憶なので、天下大変の時期に対応できない幕閣のひとりという印象を持っていたのですが(汗)……なかなかに苦労した人だったんですね。
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一ヶ月ぶりの針灸と、毎週末のサーキットトレーニングで、リフレッシュしてきました。普段は冷え症なのですが、身体がぽかぽかしています。
秋田
秋田藩援軍の戦死者しのぶ 武雄ロータリーが墓参りへ
岩手
釜石・橋野高炉跡を高評価 「近代化産業遺産群」選定作業
山形
置賜発展に貢献し120年 米沢有為会が東京で来月記念催事
茨城
【フード/トラベル】徳川慶喜の学舎・弘道館で受験
幕末の水戸藩
大沢たかお、映画「桜田門外ノ変」で幕末の水戸藩士に
栃木
草雲継承 足利の美術館開館40周年
東京
粋に雅にライトアップ スカイツリー
龍馬で品川 元気に
神奈川
新横浜パフォーマンス
2,000人超える踊り子が舞う
かながわ遊ナビ:ランチ、ライブ付きの幕末文化セミナー--横浜 /神奈川
幕末の建築「中村家住宅主屋」など寄贈、市が感謝状/相模原
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郷土の美術品紹介 滑川市博物館 展示室を新設
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上京・旧有栖川宮邸で始まる
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歴史の空白埋める200点 「忠臣蔵と旗本浅野家」展
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豊富な資料人物像浮き彫り 守住貫魚生誕200年記念展
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21世紀は観光で「薩長同盟」を、固い握手
観光振興でも“薩長同盟” 山口、鹿児島がタッグ
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「宿場町黒崎の歴史知って」 薩摩藩定宿「桜屋旅館」パネル展 八幡西区 18日まで
大分
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長崎
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鹿児島
姉妹盟約:観光で“薩長同盟” 両県の魅力売り込みへ連携 /鹿児島
コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(32)東大教授・山内昌之 吉川経幹
文化芸能
野口五郎が勝海舟演じる!「緊張感楽しみたい」
まんたんプレス:人気マンガ原作のドラマ続々 原作が先?テレビが先?
坂本龍馬の顔入りジェット運航開始
【ドラマの女王】”薄味”大沢たかおと豪華女優陣で意外に善戦!?『JIN-仁-』
秋田
秋田藩援軍の戦死者しのぶ 武雄ロータリーが墓参りへ
140年前の戊辰戦争で秋田藩の援軍として出兵、命を落とした佐賀藩士や同藩武雄領の兵士の慰霊祭が毎年、秋田市で開かれている。武雄ロータリークラブ(中尾直弘会長)は18日に行われる、この慰霊祭に参加する。先人たちをしのび、「秋田を救ってくれた」と長年慰霊祭を続けてきた地元住民に感謝を告げる。
武雄領の援軍は約1000人で、14人が戦死、病死した。亡くなった兵士は秋田市内の寺などに眠り、このうち1人の墓標が同市新屋地区の「葉隠墓苑」にある。同地区の住民は1988年に墓苑ができて以来、勇敢に戦った兵士の慰霊祭を欠かさず行っている。
今年、武雄市のケーブルワンが墓苑をテーマにした番組を放送。これを見た同クラブ会員が「140年前の恩を忘れずに今に伝える秋田の人たちに感謝したい」と訪問団を結成。会員22人が慰霊祭に参加するとともに、祭りの関係者や墓苑の草刈りなどボランティアであたる町内会長に感謝状を贈る。
同クラブ社会奉仕委員会委員長の花田晴年さん(62)は「史実がつなぐ秋田と武雄の深い縁を、子どもたちの世代へと引き継いでいきたい。今回の訪問をきっかけに、市民レベルの交流が生まれれば」と話す。
岩手
釜石・橋野高炉跡を高評価 「近代化産業遺産群」選定作業
岩手県釜石市の国史跡「橋野高炉跡」を国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産暫定リストに登録された「九州・山口の近代化産業遺産群」に加えるかどうかを判断するため、構成資産を検討する専門家委員会のニール・コソン統括委員長(英国)が14日、高炉跡を視察し、「(遺産群の)重要な要素だ」と評価した。
コソン氏は約1時間半かけて、現存する三つの高炉跡などを見て回った。釜石市教委の担当者に高炉の歴史を尋ねたり、高炉跡を写真に収めたりした。
視察終了後、コソン氏は取材に対し「九州とのつながりも明確で、日本の工業近代化も示す要素だ。計算された石積みも残されており、世界遺産に十分組み込める」と述べた。ただ、遺産群入りについては「19日からの専門家委の会合で議論される」と明言を避けた。
コソン氏は14日夕、市内のホテルで、市民を対象にした講演を行った。
近代化産業遺産群は幕末から明治にかけ、福岡、佐賀、山口など6県の近代工業化に大きな役割を果たした官営八幡製鉄所や萩反射炉など計22遺産で構成。昨年12月に暫定リスト入りした。
釜石市は今年2月、「橋野高炉跡が国内製鉄業の近代化に果たした歴史的価値は大きい」として加入を求めていた。
山形
置賜発展に貢献し120年 米沢有為会が東京で来月記念催事
置賜から国のためになる人材をはぐくむため、育英事業や学生寮の運営などを行っている米沢有為会(本部・東京、下條泰生会長)が今年、創立120周年を迎えた。米沢市制施行の年に、故伊東忠太氏=建築家、米沢市出身=ら在京学生6人で創設。以来、郷土出身者の育英や産業振興などにも取り組み、古里・置賜の発展に寄与してきた。11月15日午後0時半から、東京都千代田区の都市センターホテルで記念催事と祝賀会を開き、先人を顕彰し、同会のさらなる発展を祈る。
1889(明治22)年11月、伊東氏らが東京・本郷の合宿所に集まった際、郷土愛を土台に相互の親睦(しんぼく)を図り、切磋琢磨(せっさたくま)していこうと設立。現在、本部・東京支部のほか、米沢、仙台、京都、北海道に支部を置き、今年3月末の会員数は約1200人を数える。
育英事業として、東京と仙台に寄宿舎「興譲館」を設けて置賜出身学生などを受け入れているほか、大学生、大学院生を対象にした奨学金制度を運営。また教育、産業の振興に功績があった人や、中学、高校の成績優秀者に「米沢有為会賞」を贈る顕彰制度を設け、人材育成や郷土の産業振興に寄与している。
記念催事では「有為会歴史回顧展」と題し、創設代表発起人の伊東氏や歴代会長、寄宿舎「興譲館」の歴代館長などの遺影のほか、幕末から明治、大正、昭和にかけて活躍した先人たちの伝記図書を展示する。また、米沢市名誉市民で文化勲章受章者の伊東氏の建築学者としての遺跡などをまとめたDVD鑑賞会を開く。
記念講演として、同会会員で川西町出身の作家井上ひさしさんが「米沢藩とおいたまの人たち、そして私」のテーマで話す。引き続き、記念祝賀会を開催し、会の歴史を振り返る。
茨城
【フード/トラベル】徳川慶喜の学舎・弘道館で受験
■「江戸文化歴史検定」と水戸観光ツアー
大手旅行会社の近畿日本ツーリスト(KNT)は、11月1日に実施される「第4回江戸文化歴史検定」の受験と茨城県の水戸観光をセットにした“受験ツアー”を企画した。受験できる江戸文化歴史検定は3級。試験は幕末に文武両道奨励の場として建設された弘道館で受ける。KNTは、2007年に実施された第2回目の江戸文化歴史検定から、こうした受験関連ツアーを企画してきたが、東京外にまで“遠征”する観光付き受験ツアーはこれが初めてという。
ツアーは、午前7時に東京・新宿を出発し、午前中に弘道館で検定を受験する。午後は弘道館や水戸市内を観光するというもの。東京・新宿発着の日帰りバスツアーという形態で、参加費は受験料込みで9800円。定員は40人で、26日まで参加者を募集するという。
ツアーで訪れる弘道館は、1841(天保12)年に第9代の水戸藩主だった徳川斉昭によって水戸城の三の丸内に創設された。現在も一部分が旧弘道館として保存され、国の特別史跡になっているほか、正庁・至善堂・正門の3カ所は重要文化財に指定されている。
徳川幕府の第15代将軍となった徳川慶喜が、父・斉昭の厳しい教育方針で5歳のころから英才教育を受けたところとしても知られている。こうした場所が試験会場に使われるのは非常に珍しい。
一方の江戸検定は、江戸時代の優れた文化や生活の知恵を学ぶことで、見失いがちな日本の心を思い起こし、未来に役立てようという趣旨で、江戸文化歴史検定協会が06年から実施している。これまで、団塊世代の男性を中心に、9~90歳までの男女計2700人が受検した。
参考書や教科書も多数出版されているほか、模擬試験や学習ツアーといった検定受験に関連する商品も登場している。ちなみに、4回目となる今年の検定の“お題”は「江戸・日本橋と京都・三条大橋を結ぶ東海道五十三次と、東海道を中心とした当時の旅や交通」だという。
ツアーの問い合わせはKNT八王子支店TEL042・646・6161。
幕末の水戸藩
NHK水戸放送局での取り組みと茨城県の魅力を紹介する「がんばろうふるさと全国NHK放送局展」。10月17日は、一日限りの特別イベントを開催します。
会場のNHK放送博物館周辺は、桜田門外の変の際、討ち入り直前に水戸藩氏が集結した地でもあります。水戸藩開藩400年の今年、「幕末の水戸藩」をメインテーマに、スペシャル番組の上映や幕末江戸三大道場の一つ、北辰一刀流による演武、水戸徳川家15代当主・徳川斉正氏と映画監督・佐藤純彌氏のトークショーなどを開催します。日時 平成21年10月17日(土曜日) 午後1時30分から午後4時10分
場所 NHK放送博物館(東京都港区愛宕2-1-1) 入場無料
イベントプログラム 番組上映「光圀紀行」
演武「北辰一刀流・新田宮流抜刀術」
トークショー「幕末の水戸藩」 徳川斉正(水戸徳川家15代当主)、佐藤純彌(映画「桜田門外ノ変」監督)
茨城県特産品、観光地紹介
茨城県クイズ大会 ※正解者へ県グッズをプレゼント!
など
大沢たかお、映画「桜田門外ノ変」で幕末の水戸藩士に
[eiga.com 映画ニュース] 大沢たかおの主演最新作が、吉村昭の時代小説を佐藤純彌監督が映画化する「桜田門外ノ変」に決まった。
水戸藩の開藩400周年を記念した企画で、総製作費約10億円の大型時代劇。桜田門外の変は、1860(安政7)年3月に関鉄之助を中心とする水戸藩士17人と薩摩藩士1人が、江戸城の桜田門外で大老・井伊直弼を暗殺した事件で、映画では首謀者を主人公に据えた視点で描かれる。水戸藩9代藩主の徳川斉昭には北大路欣也、井伊直弼には伊武雅刀が扮する。
佐藤監督がメガホンをとるのは、「男たちの大和/YAMATO」以来4年ぶり。大沢は、今年も「BALLAD/名もなき恋の歌」や「GOEMON」に出演するなど日本映画界のバイプレーヤーとしての立ち位置を確立。今後は同作だけでなく「築地魚河岸三代目2」に主演するなど、引っ張りだこだ。その大沢演じる関は、幕末の勤王志士で、事件を起こした水戸十八士の指揮官。安政の大獄による尊皇攘夷派志士の弾圧が激化したことがきっかけで井伊の暗殺計画に加担し、実行部隊の襲撃を指揮したことで知られている。
2010年1月にクランクインし、全編を茨城県内で撮影するという。水戸市内の千波湖畔に桜田門ほか100メートル以上に及ぶ大名屋敷が総工費2億円をかけて建設される予定で、撮影終了後には一般にも公開される。
同作は東映配給だが、地元市民団体が約3年前から着想。今後も地域主導で進められ、製作費は東映、製作委員会、地元企業が等分に負担する。10年3月に撮了予定で、秋以降に全国200スクリーン規模での公開を目指す。
(eiga.com速報)
栃木
草雲継承 足利の美術館開館40周年
足利市ゆかりの文人画家田崎草雲(一八一五~九八年)の遺作・遺品を公開している同市緑町の草雲美術館(会沢政宏館長)が今年、開館四十周年を迎えた。県内の公立美術館としては最古の歴史を誇るが、草雲はその偉業に比べて、知名度はいまひとつ。節目の年をPRの契機にしようと十七日から、記念特別展「草雲の継承-翠雲(すいうん)・柳渓(りゅうけい)・魯牛(ろぎゅう)-」が開かれる。 (清水祐樹)
草雲は、足利藩の江戸藩邸に生まれ、江戸文人画の大成者・谷文晁(ぶんちょう)の門下となり絵師として活躍。志士でもあり、幕末には「誠心隊」という民兵組織を結成した。足利の治安維持に努め、足利学校の古書分散を防ぐなど文化財保護にも尽くした。
一八七八年に白石山房と呼ばれる住まいを足利に構え、山水、花鳥、人物などさまざまな作品を描いた。九〇年には当時の芸術家にとって最高の名誉とされた帝室技芸員に選ばれている。
同美術館は一九六八年、地元の医師・故鈴木栄太郎氏が私費を投じて白石山房の庭園内に建設し、市に寄贈した。認知度不足が悩みだが、二年前から展示案内やイベントに協力する市民有志の「盛り上げ隊」もでき、年間入場者数はやや増加傾向。鈴木氏の長男真さん(73)の妻〓子(れいこ)さん(71)は「義父の思いがこもった施設。できる範囲で今後も残してもらえたら」と話す。
特別展では草雲のほか、弟子の小室翠雲、岸浪柳渓、翠雲に師事した大山魯牛の作品を一堂に並べ、一門の系譜を紹介。あまり存在が知られていない翠雲の「周茂叔愛蓮図(しゅうもしゅくあいれんず)」や柳渓の「松上孔雀図(しょうじょうくじゃくず)」なども初展示され、見応えある内容となっている。
特別展は十二月二十日まで。原則月曜休館で、入館料は一般二百十円、中学生以下無料。問い合わせは同美術館=(電)0284(21)3808=へ。
※〓は王に黎
東京
粋に雅にライトアップ スカイツリー
テーマは「粋」と「雅」――。16日に公表された「東京スカイツリー」(墨田区)の夜間照明のデザイン案は、江戸の昔と東京の現在、そして未来を表現しているという。
デザインは、杉並区の照明デザイン会社「シリウスライティングオフィス」の戸恒浩人代表(34)が担当。「粋」と「雅」をテーマに2種類のデザインが1日おきに切り替わる。
「粋」のデザインは、近くを流れる隅田川をイメージした淡い水色で塔の中心を貫く柱を照らし、「雅」は鉄骨構造を衣に見立て、江戸紫に金箔(きんぱく)のようなきらめきのある光をちりばめた。
発光ダイオード(LED)を採用し、周辺の住宅地に配慮して光源を少なくしたほか、敷地外を直接照らさないよう遮光板も設ける。戸恒代表は「ふわっと浮かぶように見えるが、決して寂しい印象にならないデザインを目指した」と話した。
一方、突然明らかにされた高さ634メートルへの設計変更。事業会社の東武タワースカイツリーによると、中国・広州のテレビ塔(610メートル)の建設経過を見ながら、建築基準法で変更が認められるぎりぎりのタイミングまで待った結果が、この日の発表だったという。
スカイツリーの設計変更を受け、中国側も高さを変える可能性を記者会見で指摘された同社の宮杉欣也社長は、「願わくば、完成時に世界一になれば最高にうれしい」と語った。
(2009年10月17日 読売新聞)
龍馬で品川 元気に
◆商業関係者・郷土史家ら「会」発足へ/土産品開発や足跡検証
坂本龍馬と品川区のかかわりに着目した地元の商業関係者や郷土史家らが呼びかけて、「品川龍馬会」の発会式を17日に同区で開く。土産品の開発など観光振興の一助にしたり、龍馬のことを子どもたちに知ってもらったりする活動を予定。来年のNHK大河ドラマの主人公に、地域おこしを支えてもらおうというねらいだ。
(小石勝朗)
同区の立会川地区には江戸時代、土佐藩の下屋敷が置かれ、ペリー来航を受けて藩は付近の海岸に浜川砲台を設けた。剣術の修業で江戸に来ていた20歳前後の龍馬が、砲台の警護にあたったという説がある。
品川龍馬会の結成を呼びかけたのは、区内の商店街関係者や歴史研究者、高知県出身者ら18人。発起人代表の浦山嗣雄・区商店街連合会長(77)は「龍馬を品川の誇りとして地域で共有し、その関係を全国にも発信したい。龍馬の発想や行動に学んで、不況を打破するヒントをつかみたい」と意気込む。
今後は立会川地区の商店街を中心に、龍馬にちなんだ土産物や商品作りを後押しし、龍馬にゆかりのある全国各地と物産・観光交流をしていく。地元の学校で龍馬について教えたり、品川での龍馬の足跡を検証したりといった活動も検討している。誰でも入会できる。
発足に先立ち、発起人らは今月初め、5年前に高知市から贈られた強化プラスチック製の龍馬像(高さ約2・2メートル)を京急・立会川駅そばの児童遊園に移設した。もともと駅前にあったが、強風で倒れ、修理後に少し離れた勝島運河沿いに引っ越していた。浦山さんは「シンボルとして大事にしていきたい」と話す。
17日の発会式は午前10時20分から下屋敷跡地にある区立浜川中学校(東大井3丁目)で。幕末史研究家の小美濃清明さんの講演や、龍馬や勝海舟らの子孫によるシンポジウムもある。参加費4千円(地元商店街などで使える2千円分の商品券代を含む)。問い合わせは品川龍馬会準備委員会(03・3778・2492)へ。
神奈川
新横浜パフォーマンス
2,000人超える踊り子が舞う
駅前広場・日産スタジアム中心に10月17日(土)・18日(日)
「開国博Y150」のフィナーレは新横浜で-。18回目を迎える横浜最大級のイベント『新横浜パフォーマンス2009~FINAL is RE-START』が10月17日(土)・18日(日)、新横浜駅前広場と日産スタジアムをメイン会場に開かれる。名物のよさこい踊りや各地の名産品が楽しめる「開国市・物産展」など多彩なイベントが街を熱気に包む。
「今年も盛り上がろう!」。主催する、企業と住民で構成される「新横浜町内会」(椎橋久会長)は昨年同様の40万人を超える来場者数を目指す。(財)横浜開港150周年協会、横浜マリノス(株)などの協力を得て、町内会メンバー中心の新横浜パフォーマンス実行委員会(金子健一委員長)が運営にあたる。
マリノスVSグランパス戦も
一番の注目は、“よさこい踊り”。地元や関東を中心とした42チーム総勢2000人を超える踊り子が特設ステージ、アリーナ通りを所狭しと演舞する。ダイナミックでエネルギー溢れる各地域の特色ある踊りは必見だ。また、17日には横浜F・マリノスVS名古屋グランパス戦。18日は2005年の解散から昨年復活したDo As Infinityのライブが日産スタジアムで開かれる(無料・先着300人)。
日本各地の「おいしい」が集結
幕末の横浜港開港当時の活気をみせる「開国市・物産展」ブース。なにわ名物ソバロールやジンギスカン、宇都宮餃子など日本全国の名産品が今年も楽しめる。昨年好評だった全国有名駅弁、普段は空港でしか買えない「空弁」も販売する。
黒船7人衆を追え!
横浜開港150周年記念として、「黒船Xからの挑戦状」イベントが行われる。
会場内にいる殿様からペリー提督などの衣装を身につけた7人を探し出すと、特製オリジナルTシャツなどがプレゼントされるというもの。参加無料。両日とも10時から17時。希望者は、新横浜駅前と日産スタジアムにある黒船Xブースで参加パンフレットを手に入れてスタート。
その他詳細はホームページhttp://www.shinyoko.netか、新横浜駅構内などにあるパンフレット参照。
かながわ遊ナビ:ランチ、ライブ付きの幕末文化セミナー--横浜 /神奈川
◇横浜ロイヤルパークホテル
横浜ロイヤルパークホテルは16日、「徳川将軍家と幕末明治」と題したYОKОHAMA国際文化セミナーを開く。(1)歴史のなかの開港(徳川記念財団 徳川恒孝理事長)(2)横浜美術館「大・開港展」の見所(横浜美術館 柏木智雄・主席学芸員)(3)カート&ブルースの筝・尺八セッション ミニライブ--という内容。料理長自慢のスペシャルランチも楽しめる。
午前11時半~午後2時。1人4000円、「大・開港展」鑑賞券付きで4900円。
予約・問い合わせ先は同ホテル(045・224・5051、午前9時半~午後7時)。
幕末の建築「中村家住宅主屋」など寄贈、市が感謝状/相模原
幕末期の「和洋折衷(せっちゅう)住宅」とされ、国登録有形文化財の「中村家住宅主屋(しゅおく)」と「同長屋門」など(相模原市磯部)が相模原市に寄贈され、市は13日、寄贈者に感謝状を贈った。
中村家住宅の寄贈者は中村秀子さん(95)。市役所で行われた感謝状贈呈式には秀子さんの長男正和さん(62)が出席。加山俊夫市長は「次の時代につなげていくためにもしっかりと保存していきたい」と感謝の言葉を述べた。正和さんは「母の『ずっと残したい』という夢が実現した」と語った。
中村家住宅は、建築当初は木造3階建てだったが、現在は2階建てで、延べ床面積は約420平方メートル。1階外観は和風の造り、2階外壁はなまこ壁で、洋風の要素として軒を曲線の白漆喰(しっくい)で塗り込め、正面に縦長の窓を配しているのが特徴となっている。
市は来年4月の一般公開を目指すとともに、「国登録」から「国指定」への格上げを国に求めることや3階部分の復元も検討していくという。
富山
郷土の美術品紹介 滑川市博物館 展示室を新設
あすから
滑川市博物館は十七日から、新設された第二常設展示室で館蔵の作品を紹介する「郷土ゆかりの作家たち」を開催する。
同博物館には、幕末-明治初期の市の歴史や民俗、自然をテーマにした常設展示室はあるが、美術品を常設展示する場所がなかったため増設した。
新しい展示室は約九十平方メートルで事業費は約四百万円。太陽光を遮断するために窓側を壁でふさぎ、空調や照明を一新したほか、高価な美術品の展示用にガラスケースを設けた。
郷土作家展では日本画や洋画、書など五部門から十六人の二十四点を展示。同市出身の日本画家下田義寛氏や書家大平山濤氏、洋画家井黒四郎氏らの作品が並ぶ。福井文夫館長は「館蔵の美術品を展示しながら、いろいろと企画していきたい」と話している。
郷土作家展は来年三月ごろまで。その後も館蔵の美術品約六百点を季節ごとに展示していく。 (武田寛史)
火縄銃台木、国内最大級 小浜、完形なら全長3m超
小浜市の福井県立若狭歴史民俗資料館が保管する江戸時代に小浜藩で使われた火縄銃の台木が、現存するものとしては国内最大級であることが同館の調査で分かった。台木は17日に同館で始まる特別展「若狭小浜藩」で初公開される。11月15日まで。
この大火縄銃は砲身が第二次大戦中の金属回収で供出され、木製の台部分と、引き金など金具を付けるための穴しか残っていない。さらに先端部が折れているため、全長は不明。しかし残された台木の長さは285センチあり、完形なら3メートルを超すとみられている。
これは現存するものでは国内最長とされる堺市博物館が所蔵する全長300センチの慶長大火縄銃(大阪府指定文化財)に匹敵する長さ。同博物館のものは1610(慶長15)年、大坂の陣を前に製造され、照準可能な距離は1キロメートル以上あったと推測されている。
こうした大火縄銃は西洋方式の大砲より以前に製造された古式の銃。主に慶長年間にかけて城攻めのために用いられたが、戦いのない時代になるとあまりつくられなくなった。同資料館では小浜藩のものも江戸時代初期に製造されたとみているが、幕末に異国船からの防備のために藩が建設した川崎台場に設置されていたともいわれている。
また小浜藩に関する史料によると、1634(寛永11)年、将軍徳川家光が酒井忠勝に若狭国を与えた際、若狭国を守るために巨砲2挺(ちょう)を下賜したとあり、資料館では、そのうちの1挺の可能性もあるとしている。
台木は今から約40年前、若狭高、小浜水産高、若狭農林高の3校が行った民俗資料収集で回収され、小浜市に預けられた後、同資料館に移管されていた。
京都
幸村も拝んだお地蔵さま公開
高松神明神社が17、18日
戦国時代の武将・真田幸村も拝んだとされるお地蔵さんが、京都市中京区姉小路通釜座東入ルの高松神明神社に伝わる。普段は地蔵堂の扉を閉めているが、17、18日の例大祭で公開する。戦国武将ブームのなか、今年のNHK大河ドラマにも幸村が登場しており、神社は「幸村ゆかりのお地蔵さんの存在を知ってほしい」と話す。
お地蔵さんは、関ケ原の戦いで西軍が敗れた後、幸村が九度山(和歌山県)の善名称院(ぜんみょうしょういん)に蟄居(ちっきょ)させられた際、毘沙門天とともに日々拝んでいたとされる。
高松神明神社は「高松神明宮宝性院」として真言宗の社僧に管理されていた1794(寛政6)年、お地蔵さんを善名称院から拝領した。村上繁樹宮司(61)は「善名称院も真言宗のお寺だった縁でいただいたのでしょう」と話す。以来「知将・幸村の知恵の地蔵尊」として信仰を集めてきた。
幕末の蛤御門(はまぐりごもん)の変で神社一帯が焼けた時もお地蔵さんは難を逃れた。明治の神仏分離で宝性院は廃寺となり、社務所の中で祭っていたが、明治中期に地元有志が地蔵堂を建てて移したという。
お地蔵さんは高さ37センチ。優しい顔立ちで、左足をくずした半跏(はんか)の姿勢をとっている。地蔵堂を開くのは毎夏の地蔵盆だけだったが、2年前から例大祭でも公開するようになった。
村上宮司は「昔から知恵をいただくお地蔵さんとして信仰されてきた。神社にお地蔵さんがあるのも珍しい。この機会にぜひ拝んでほしい」と呼び掛ける。
はんなりと、竜馬の妻の座像完成 京都・霊山歴史館
幕末や明治維新にまつわる展示をしている「霊山歴史館」(京都市)で14日、坂本竜馬の妻おりょうの座像が完成し、21日の一般公開を前に報道陣に披露された。
同館には、竜馬や勝海舟などのブロンズ像4作品が既に展示されており、NHKの大河ドラマ「龍馬伝」が来春放映されるのを機に5体目として制作を進めていた。一般公開では、竜馬の座像と並べ、寄り添って前を見据える姿での展示となる予定。
座像は彫刻家の江里敏明さんが、晩年の写真から若いころの、はんなりした京女の姿を想像して制作。高さ約50センチ。頭にかんざし、質素な着物姿で正座している。江里さんは「優しくも肝の据わった京の町娘をイメージした」と話した。
おりょうは医師の娘で京都出身。竜馬暗殺後は各地を転々として、晩年を神奈川県横須賀市で過ごした。
十二単など京のみやびに親しむ
上京・旧有栖川宮邸で始まる
貴族文化の名残ある建物で、京のみやびに親しむイベントが16日から、京都市上京区烏丸通り下立売西入ルの平安女学院大有栖館(旧有栖川宮邸)で始まった。
会場の旧有栖川宮邸は、明治維新後に京都裁判所として使われ、1891年に現在の地に移築された。服部和子・同大名誉教授の十二単(ひとえ)などのコレクションや生け花が来場者を楽しませている。
「京都知恵と力の博覧会」協賛事業として京都商工会議所が主催。裏千家による茶の接待などもある。18日まで(午前10時~午後4時)。有料。
兵庫
歴史の空白埋める200点 「忠臣蔵と旗本浅野家」展
忠臣蔵で知られる赤穂浅野家に伝わる未公開資料を展示する特別展「新発見!忠臣蔵と旗本浅野家-旗本の職務と川海の役割」(神戸新聞社など主催)が17日、たつの市龍野町の龍野歴史文化資料館で始まる。浅野家は元禄赤穂事件(忠臣蔵)で絶えたが、分家の若狭野浅野家に伝わる約200点をそろえた。12月6日まで。
若狭野浅野家は、赤穂事件で切腹した浅野長矩のおじ、浅野長恒を初代とし、相生市の若狭野に3千石の領地を持っていた。幕末まで7代の間、旗本として伊勢山田奉行や堺奉行などを勤めた。
同家の資料は相生市内の子孫宅に眠っていたが、2006年に936点を発見。お家断絶によって現存しないと思われていた、赤穂浅野家の江戸上屋敷絵図や、天皇から授かった職名を記した口宣案など貴重な資料が含まれていた。
特別展は、このほか、自殺した織田信長の子孫・信武の遺体を長恒が検視し、首の傷の大きさを書き残した絵図なども紹介している。
同資料館の市村高規学芸員は「歴史の空白を埋める貴重な資料がまとめて見つかった。一度に公開する機会は少ないので、忠臣蔵ファンでなくてもぜひ見てほしい」と話している。
入場料一般400円、小学~大学生100円。午前9~午後5時。月曜休館。同館TEL0791・63・0907
(古根川淳也)
徳島
豊富な資料人物像浮き彫り 守住貫魚生誕200年記念展
徳島出身で、江戸後期から明治前半に活躍した日本画家・守住貫魚(つらな)(1809~92年)を紹介する企画展「生誕200年 守住貫魚-御絵師・好古家・帝室技芸員」が17日、徳島市内の県立博物館で始まった。11月23日まで。
貫魚は、徳島藩の絵師を務め、明治維新後は大阪に移住。東京で開かれた政府主催の日本画展「内国絵画共進会」で受賞を重ね、名を上げた。一方で、江戸時代に流行した歴史ブーム「好古」にも親しみ、出土品や遺物を写生したり、模造品を作ったりしていた。
企画展は「生涯」「好古家としての素顔」の2部構成。貫魚が絵の師匠からもらった免状や共進会の受賞作の下絵、銅矛や武具の模造品など約190点を展示している。貫魚の生涯を振り返るとともに、人物像や歴史上の役割を紹介する内容になっている。18日と11月8日には、同館学芸員による展示解説もある。
山口
21世紀は観光で「薩長同盟」を、固い握手
山口県観光連盟(大谷峰一会長)と鹿児島県観光連盟(金子万寿夫会長)は16日、山口県庁で、姉妹盟約に関する協定書に調印した。幕末の薩長同盟(1866年)から140年余り。両地域は観光事業で再び、盟友としての道を歩む。
調印を終えて金子会長は「新幹線の開通は、両県の観光に大きな弾みを付けてくれると期待している。知恵と力を出し合い、観光促進に頑張っていきたい」とあいさつ。大谷会長は「両県の観光振興に寄与するため連携していきたい」と述べた。
九州新幹線は2011年3月、鹿児島まで全線開通する予定で、両県は約二時間で結ばれる。「歴史的な縁を生かして、双方の観光事業を発展させよう」と協定を結ぶことになった。
17日から山口市阿知須で始まった「きらら物産・交流フェア2009」では、鹿児島県の観光情報を発信している。10、11日にはJR鹿児島中央駅で、山口県の観光をPRした。今後は旅行商品を造成してセールスする方針。
観光振興でも“薩長同盟” 山口、鹿児島がタッグ
山口、鹿児島両県の観光連盟は16日、互いに協力して観光振興を図るため、山口県庁で姉妹盟約に調印した。
両県は、幕末に薩摩藩と長州藩が薩長同盟を結んだ深い間柄。山口県観光連盟の松井邦昭専務理事は「景気が悪い今こそ、明治維新を実現させたエネルギーで観光の展望を明るくしたい」と話した。
今後は互いの名所旧跡や温泉地を巡るツアーを企画。各地の物産展で、下関のフグや薩摩揚げなど両県の特産品を共同でPRするブースを出すことを計画している。
2011年春に九州新幹線が全線開通すれば、両県は現在の半分の約2時間で結ばれる。鹿児島県観光連盟の金子万寿夫会長は「短からず、長からずのちょうど良い時間。互いに知恵を出し合って交流を促進したい」と話した。
「鉄道の父」井上勝顕彰
「鉄道の父」と呼ばれた井上勝(1843~1910年)をたたえる記念行事が14日、山口市で開かれた。
井上は、長州藩士・井上勝行の三男として生まれ、幕末、伊藤博文らとともにイギリスに渡り、鉄道技術などを学んだ。帰国後は鉄道庁長官を務め、日本で最初に開業した新橋―横浜駅間の鉄道工事を指揮した。
記念行事は、井上を顕彰しようと、イギリス滞在時の呼び名にちなんで結成されたノムラン会が主催。山口市小鯖地区の井上勝行旧居跡近くにある集会所で開かれ、約30人が参加した。
愛媛
保存に尽力 住民「感無量」
◇重伝建に西予市宇和町卯之町
国の文化審議会が16日に出した答申で、西予市宇和町卯之町(約4・9ヘクタール) の町並みが、重要伝統的建造物群保存地区に選定された。 市が8月に文部科学省に選定を申請していた。 県内では、82年に指定された内子町の八日市護国の町並み以来、2例目となる。 保存活動などに取り組んできた地元住民らは「今後も貴重な景観を大切に保存していきたい」 と喜んでいる。 (広川一)
西予市の中心部にある宇和町卯之町は、宇和島藩領時代から物資の集散地や宿場町として栄え、四国霊場43番札所明石寺の門前町としてもにぎわった。 保存地区に指定されたのは「宇和町卯之町2丁目、3丁目及び4丁目の各一部」。 藩政時代、宇和島街道と呼ばれた中町(なかのちょう) 通りを中心にした一帯で、間口を狭く奥行きを長くとった、江戸時代からの町割りをとどめる重厚な町家などが多く残る。
保存地区内の建築物の中で最も古い建物は、江戸時代の住宅兼商家建築とされる「末光家住宅」 =市指定有形文化財=で1770(明和7) 年に建てられた。 このほか、1834(天保5) 年、当時の庄屋が身分不相応な門を藩の許可なく建てて左遷されたという話が伝わる「鳥居門」 =同=や1882(明治15) 年に建てられた西日本最古の小学校「開明学校」=国重要文化財=、幕末に蘭学者の高野長英が逃れ住んだという「隠家」 =県指定史跡=など貴重な建物が並ぶ。
中町通りはL字形で約250メートル。 通り沿いに5軒の造り酒屋があった。 今も1800年代初期の建築という酒屋2軒や、同時代に建てられた旅館も残る。 こうした建築物について、市は「1945(昭和20) 年以前に建てられたもの」を基準に84件を選び、このうち所有者らの同意を得た62件を保存の特定物件にしたという。
この卯之町地区の町並みは73年に県の「文化の里」 に選定された。 これを機に市が保存の取り組みを本格化させ、開明学校など主要文化施設の修復や中町通りの電柱撤去などの環境整備をしてきた。
また、地元住民らも83年に「中町を守る会」 を結成。 今年3月には新たな組織の「卯之町町並み保存会」 (宇都宮信博・代表世話人) を発足させ、町並みの保存活動に取り組んできた。
三好幹二市長は「選定の答申を受けることは住民が保存に取り組んだ成果だ。市の中核都市機能を持つ卯之町のまちづくりの新しい出発点としたい」とコメント。
宇都宮代表世話人(60) は「念願がかなった思いで感無量です。 町並み保存に力を尽くした先人の努力と熱意を忘れず、今後も保存活動に取り組んでいきたい」 と話している。
高知
友情ウオーク:参加者、龍馬誕生地に到着 高知市長に長崎市長の親書 /高知
坂本龍馬ゆかりの道500キロ(安芸市-長崎市)をたどる長距離ウオーキングイベント「友情ウオーク」の参加者らが16日、高知市上町1の龍馬誕生地に到着。石碑を前に、メンバーは長崎市長から預かった「龍馬と弥太郎の縁を大切に、両市はさらに連携していく」との親書を岡崎誠也市長と交換した。
大河ドラマ「龍馬伝」が来年放送されるのを記念し、長崎市のNPO法人「長崎の風」理事長、黒田雄彦さん(63)らが企画。メンバーは14日に副主人公で三菱財閥の創業者、岩崎弥太郎の出身地、安芸市をスタートし、長崎市を目指している。最終的に延べ約500人が参加し、そのうち7人が全行程を完歩する予定。
この日参加したのは12人。長崎の風事務局長の増田泰之さんが田上富久・長崎市長から預かった親書を「幕末の志士たちに思いをはせながら歩いてほしい」と読み上げた。岡崎市長は「イベントは龍馬を通して高知と長崎の関連を示す意義深いもの」と参加者を激励した。
龍馬の大ファンという香南市香我美町、無職、清遠征子さんは「脱藩の道をどんな気持ちで歩いたか、想像するだけで楽しい」と話していた。【黄在龍】
福岡
「宿場町黒崎の歴史知って」 薩摩藩定宿「桜屋旅館」パネル展 八幡西区 18日まで
幕末、薩摩藩士の定宿として西郷隆盛や大久保利道らが出入りしたのではないかとされ、老朽化により1990年に解体された「桜屋旅館」の写真パネル展が13日、同旅館があった現在の八幡西区藤田2丁目に近い、同4丁目の元紳士服店空き店舗で始まった。18日まで。
同旅館離れ座敷の再建を目指す「桜屋の文化財を保存する会」が主催。昭和30年代ごろの正面玄関や離れの写真のほか、1863(文久3)年の「八月十八日の政変」で朝廷を追われた後、宿泊した三条実美が書いた掛け軸の写真などを展示。離れにあった床の間の写真を引き伸ばして壁に張り、当時の雰囲気を再現した和室もある。
旅館解体時の資材は現在、引野小(同区)などに保管されており、九州厚生年金病院跡地(同区)に建設が予定されている図書館に、離れ座敷が再現されるという。
同会の花田宏会長(77)は「愛郷心は歴史を知ることから始まる。宿場町黒崎をもっと知ってほしい」と話している。問い合わせ先は同区まちづくり推進課=093(642)1441。
大分
賀来家3人の偉業紹介 「華麗なる一族」展
県立歴史博物館(宇佐市高森)の本年度特別展「おおいた発!幕末文化維新―賀来家・華麗なる一族」(県、県教委、県立歴史博物館、大分合同新聞など主催)が16日、始まった。11月29日まで。
開幕式典には関係者や賀来家ゆかりの同市安心院町佐田地区の住民、児童ら約80人が出席。山田修治県教育次長と佐藤政昭大分合同新聞事業局長が「賀来家の人々の生きざまに触れることで郷土への愛着を深めてほしい」などとあいさつ。出席者の代表がテープカットをしてオープンした。
宇佐・国東に広く拠点を持つ賀来家は幕末から明治初頭にかけ、現在の佐田地区で大砲鋳造事業を成功させた惟熊(これたけ)、いとこでシーボルトの高弟の佐之(すけゆき)、その弟で幕末三大本草学者の1人に数えられる飛霞(ひか)ら当時一流の知識人や技術者を輩出した。
同展では偉業を成し遂げた3人の業績などを、83件の資料を通じて紹介。メーンは飛霞が描いた動植物の写生図で、形状や色を精緻(せいち)に表現した約150点が並んでいる。25日に記念講座、11月8日には関連講座がある。
入館料は一般500円、大学・高校生300円。問い合わせは同館(TEL0978・37・2100)へ。
長崎
タウンたうん:龍馬銅像、来月15日除幕へ--長崎 /長崎
「日本三大花街」の一つとして栄えた長崎市の丸山地区に幕末の志士・坂本龍馬の銅像建立を目指す市民有志の実行委員会(川添一巳委員長)はこのほど、募金が1000万円を突破し、建立のめどが立ったとして、11月15日に除幕式を行うことを決めた。
募金は5月から始め、9月28日までに全国から895万円が寄せられた。長崎市タクシー協会などが29日、計153万円を実行委に寄贈した。
11月15日は坂本龍馬の誕生日で命日。除幕式は丸山公園で行い、長崎検番の芸妓(げいこ)による祝舞(しゅくまい)などで祝う。
銅像の製作者で画家、版画家の小崎侃(こざきかん)さん(67)は「こんなに募金が集まり驚き。それだけ龍馬の精神が多くの人に愛されているのだと思う」と話していた。【錦織祐一】
鹿児島
姉妹盟約:観光で“薩長同盟” 両県の魅力売り込みへ連携 /鹿児島
幕末期に同盟を結んだ縁のある山口、鹿児島両県の観光連盟が16日、山口市の県庁で、相互誘客などに向けた姉妹盟約を締結した。
鹿児島県連盟の金子万寿夫会長ら約10人は、戦国武将らが羽織ったとされる陣羽織(じんばおり)姿で出席。金子会長と山口県連盟の大谷峰一会長が、11年の九州新幹線全線開通を機に約2時間で結ばれる両県の連携を確認した協定書に調印した。
両連盟は今後、温泉、食を中心とした相互の魅力の売り出しなどで連携する。鹿児島県連盟は17、18日に山口市阿知須である「きらら物産展」で、霧島の観光PRや、伊集院まんじゅう、知覧茶などの特産品の展示販売を行う。【諌山耕】
コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(32)東大教授・山内昌之 吉川経幹
■政治家3世紀の執念
衆院選挙の自民党は負けっぷりがよすぎた。落選議員のなかには、日本政治が必要とする優秀な人材も少なくない。これから最長で4年間、冷や飯を食うことになる人びとには同情を禁じえない。
しかし、民主党で復活をとげた議員たちも郵政解散の大敗以来、4年の雌伏に耐えてきたことを忘れてならない。そもそも4年という時間は、本物の志を抱く人にとって辛抱できない歳月ではあるまい。幕末には、もっと我慢した政治家がたくさんいた。自分だけでなく、家の宿願が達成されるのに270年も忍耐した事例もある。
◆使命感と克己心併せもつ
岩国6万石の吉川経幹などは政治家に必要な使命感と克己心を併せもった人物といえよう。吉川は、小早川と並んで毛利の両川と称された家柄である。慶長5(1600)年の関が原の戦いで西軍が敗れた結果、毛利輝元は防長2州36万石におしこめられた。徳川との秘密交渉で毛利を不戦にリードしたのが、吉川広家であった。輝元らによる広家への怒りや猜疑(さいぎ)心は強く、吉川家は岩国に6万石(最初は3万石)を領しながら、1万石以上なら可能な大名としての立藩を認められなかった。
幕府には、代替わり1回だけ参勤交代をし殿中にも詰めながら、萩の本藩は岩国を藩としてついに推挙しなかった。そこで萩の毛利と岩国の吉川は、幕末にいたるまで冷たい関係に終始した。様子が変わるのは、本藩の毛利慶親(よしちか)(敬親(たかちか))が岩国の吉川経幹に国事周旋を命じて後のことだ。
吉川経幹は、文久3(1863)年に堺町御門の警備を解かれ七卿落ちをもたらした政変の前後に、京都で政事処理にあたった。帰国した経幹は武装上洛に反対したが、長州藩兵の哀訴嘆願と禁門の変が失敗に終わると、元治元(1864)年に防長2州の境に迫った幕府軍を防ぐために活発な外交交渉をおこなった。
◆西郷隆盛と2回の談判
ことに経幹が、征長軍参謀の西郷吉之助(隆盛)と交わした2回の談判は堂々とした風情であり、敗者にもかかわらず、本藩の父子を守り、毅然(きぜん)として揺るぎがなかった。互いに少しも譲らぬ模様はまるで芝居を見るようである。貴種なのに古武士のような雰囲気を醸し出す経幹に共感した西郷は、毛利父子の処分を求めず上洛作戦にあたった3家老たちの厳刑で、第1次幕長戦争(長州征伐)を終結させた。
しかし、薩摩も幕府を見限った慶応2(1866)年の第2次幕長戦争になると、経幹はもはや幕府に大義なしと断じた。彼は恭順から抵抗に態度を一変させ、四境戦争の主戦場芸州(広島)口で果敢に戦ったのである。この前後の模様は、日本史籍協会叢書(そうしょ)の名編『吉川経幹周旋記』(全6巻)に詳しい。
吉川経幹は翌年、病を患って急死した。戦争と外交の最前線で責任を担った政治家のストレスが命を縮めたのだろう。わずか39歳の若さであった。高杉晋作や坂本龍馬も同じ年に死んでいる。
“いま大病に罹(かか)り、命旦夕(たんせき)に迫る”に始まる経幹の遺言は、“遺書文学”に残るほどの名文である。毛利宗家への奉仕、国事への貢献、正義の順守、軍備の充実、世継の善導、士民の愛護を遺臣の心得とした。天下もまだ定まらず、行く末を見極められない無念を語りながら、それも「治命乱命」というものだと告白している。
◆宿願の立藩成し遂げる
死後、慶応4(1868)年に岩国藩は朝廷から正式の成立が認められた。吉川経幹は、歴史の大きな変わり目に一寸だけ桧(ひのき)舞台に姿を現し、大事を成し遂げ、忽然(こつぜん)として去った。意図せざる努力の結果として、父祖以来の宿願だった立藩も成ったのである。
まさに、もって瞑(めい)すべしとは、このような場合に言うのであろう。有為の政治家たる者、1度の落選や4年くらいの試練にめげることなく、経幹のように一生一度の大事を成し遂げ、3世紀来の宿願を達成する本懐を抱いてほしいものだ。(やまうち まさゆき)
◇
【プロフィル】吉川経幹
きっかわ・つねまさ 幕末の周防(山口県)岩国藩主。文政12(1829)年生まれ。藩校「養老館」を創設した。第1次長州征伐時、宗家の毛利家存続のために幕府との間を周旋し、幕府側の実力行使を回避した。再征の際は毛利家に協力して幕府軍を撃破。慶応3(1867)年に病死したが、喪は秘され、同4年、毛利敬親の推挙で岩国藩6万石初代藩主として大名に列した。明治2年、初めて死亡が発表された。享年39。
文化芸能
野口五郎が勝海舟演じる!「緊張感楽しみたい」
歌手の野口五郎(53)が15日、ミュージカルオペラ「龍馬」(脚本・ジェームス三木、演出・江守徹)の公開けいこを埼玉・三郷市文会館で行った。幕末に活躍した坂本龍馬の波乱の人生を描いた舞台。龍馬の恩師・勝海舟を演じ、「普段のライブとは違う緊張感を楽しみたい」。24日の高知公演を皮切りに、東京・浅草公会堂(11月17~23日)などで上演。
まんたんプレス:人気マンガ原作のドラマ続々 原作が先?テレビが先?
アニメ、マンガ、ゲームなどのサブカルチャーを紹介する「まんたんプレス」。今回は、今秋放送スタートの連続ドラマから、人気マンガを原作にした作品をまとめた。【立山夏行】
剣道マンガ「六三四の剣」などで知られる村上もとかさんの時代劇医療マンガを、大沢たかおさん主演でドラマ化した「JIN-仁-」(TBS系日曜日午後9時)。大学病院の脳外科医だった南方仁(大沢さん)が、幕末の江戸時代にタイムスリップしてしまい、満足な医療器具もない状態で人々の命を救う中、坂本龍馬ら幕末の英雄と知り合い、歴史の渦の中に巻き込まれていく……という物語だ。中谷美紀さんが、仁の現代での恋人・友永未来と、吉原のおいらん・野風の2役を演じ、仁に思いを寄せる武家の娘、橘咲を綾瀬はるかさんが演じる。綿密な時代考証に基づいた幕末のセットも見どころだ。
(以下略)
坂本龍馬の顔入りジェット運航開始
来年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」主人公で、幕末の志士・坂本龍馬の顔写真を機体にあしらったボーイング767の運航を14日、全日空が始めた。羽田からの第1便はふるさと高知の「高知龍馬空港」行き。
羽田空港の出発前イベントで高知県の尾崎正直知事は「船が大好きだった龍馬が今生きていたら、飛行機好きだったに違いない」と語った。ドラマで龍馬の兄嫁を演じる、南国市出身の女優島崎和歌子(36)は「ぜひ高知に遊びに来て下さい」とPRした。
ドラマは龍馬の生涯を、三菱財閥の創始者岩崎弥太郎の視点で描くオリジナル脚本で、俳優福山雅治主演。
全日空は11月から始まるNHKのスペシャルドラマ「坂の上の雲」の出演者をプリントした機体も、近く運航開始する。
【ドラマの女王】”薄味”大沢たかおと豪華女優陣で意外に善戦!?『JIN-仁-』
今回の【ドラマの女王】は、大沢たかお主演「日曜劇場『JIN-仁-』」(TBS系)。漫画雑誌『スーパージャンプ』で連載されている村上もとかによる原作の人気作品のドラマ化。『救命病棟24時』など、このところ季節ごとに必ず1本は投入される医療モノのテイストと江戸時代にタイムスリップという歴史SF要素を盛り込んだ奇想天外かつ大真面目なドラマの主人公は、今年坂本龍馬に扮してTBSを宣伝していた“味のうすい”アノ人。
現代から幕末の日本にタイムスリップした脳外科医・南方仁が、過去の人間の運命を変えていることを自覚しつつも、20世紀末の医療技術を用いて江戸の人々を救おうと奮闘する姿を描いた『JIN-仁-』。歴史ロマンを盛り込み、抗生物質や近代的な医療器具の無い時代の外科医療のあり方をうまく考えた作品として漫画ファンにはよく知られているのだが、同時に「タイムスリップした事を主人公が冷静に捉えすぎ!」だとか「あの状況であの手術はありえない。」など、つっこみ要素も満載な作品である事も確か。しかし、2次元の漫画から3次元のドラマに移ると、不思議とそういう違和感を感じない。
『こち亀』よかマシだが、やっぱり漫画と似てない南方仁を演じる大沢たかお。しかし、意外にいい味。近年は映画や舞台に多く出演し、テレビドラマの出演が少なかったから顔を見飽きてない分、マジメで爽やかな大沢の仁に興味が持てる。
第1回スペシャル版のお話は、頭を打って気絶した南方仁(大沢たかお)が気がつくと、武士同士の切りあい真っ最中の江戸時代へタイムスリップ。大ケガした橘恭太郎 (小出恵介)を助けるべく、恭太郎の母・栄(麻生祐未)と、妹・咲(綾瀬はるか)のいる屋敷で外科手術を試みる仁なのだが・・・・。今年春、TBS系で番組PRのCMで大沢が演じていた坂本龍馬を『臨場』(テレビ朝日系)の内野聖陽が好演。来年はNHK大河ドラマで福山雅治が演じるが、内野の龍馬の方がイメージに近い気がする。
仁の恋人・未来と、花魁・野風の二役中谷美紀や、爽やかヒロイン咲役の天然女優・綾瀬はるか、厳しい母役の麻生祐未など、物語を彩る女優陣も豪華だ。
お吸い物的な大沢と幕の内弁当的な女性キャスト。意外なバランスの良さで、期待が持てるのである。
(TechinsightJapan編集部 クリスタルたまき)
昨日のドラマ『JIN-仁-』、原作にない設定もまぁまぁ受け容れられ、楽しんで見ることができました。日曜の夜に歴史ドラマを見る楽しみができてよかった(苦笑)です。
明治
明治から昭和30年代の函館知って 郷土新聞の複写製本公開
岩手
掘り出しニュース:昭和の雰囲気残す 旧釜石鉱山総合事務所
栃木
足利氏廟所の変遷学ぶ 樺崎寺跡シンポに150人
【いにしえを求めて】西那須野・黒磯編(6)
茨城
おいしいお茶は?「T-1グランプリ」開催 茨城
三重
南楠鯨船行事:鯨船の練り勇壮に 四日市・楠の祭り最高潮 /三重
広島
判決が呼び水 鞆の浦に人波 「ポニョブームよりすごい」
明治
明治から昭和30年代の函館知って 郷土新聞の複写製本公開
明治から昭和30年代に函館や近郊で発行された郷土新聞の複写製本137冊が15日から、函館市五稜郭町の市中央図書館で一般公開される。原本はこれまで未整理のまま原則非公開の扱いをしていた、製本化されていないもの。明治期の旧函館新聞や、戦前に発行されていた函館毎夕新聞など94種類を初めて複写製本した。同図書館の丸山牧子主査は「当時の函館の世相などがわかり楽しい。ぜひ見てほしい」と話している。
函館郷土新聞の複写製本化は、2007年に廃止された市史編さん室が行って以来2回目。同図書館に保存されていた郷土新聞のリストを作成した際、道立図書館のホームページに掲載された。それを見た利用者から「製本して公開してほしい」との声が多く寄せられ、原本の整理と同時に製本化することとなった。複写製本はA2判とA3判の2種類。ことし3月から約半年の作業を経て完成した。
このうち、1936(昭和11年)4月14日付の函館毎夕新聞では、市議選に沸く函館を1面で大きく報道。「東西南北オンパレード」と大きな見出しで、展望や立候補者について伝えている。また、同年5月4日付の同紙では、現在も活動する日本最古の社会人野球チーム「函館太洋クラブ」の新陣容を紹介するなど、政治、社会、スポーツなど当時の函館を知ることができる。
丸山主査は「市史編さん室製作の新聞系統図にも記されていない新聞もあり、新たな発見も多いのでは。また当時の函館に多くの言論者がいたことも知ってほしい」と利用を呼び掛けている。同日9時半から、同館2階公開書庫で利用できる。
岩手
掘り出しニュース:昭和の雰囲気残す 旧釜石鉱山総合事務所
【岩手】釜石市甲子町大橋の旧釜石鉱山総合事務所が、13日から一般公開される。戦後日本の復興を支えた、昭和の雰囲気を残す産業遺産。TBSのテレビドラマ「官僚たちの夏」のロケにも使われた。
日鉄鉱業(東京)が1951年、釜石製鉄所向けの鉄鉱石のほか銅も採掘していた釜石鉱業所(当時)の事務所として建てた。鉄筋コンクリート2階建て(延べ床面積1440平方メートル)。高い天井や広い間取り、坑内作業員らが出入りした30メートルもある受け付けカウンターなど機能重視の造りが特徴だ。保存状態は悪くないという。
釜石鉱業所を引き継いだ現地子会社の釜石鉱山事務所として07年9月まで使われたが、昨年3月、市に寄贈された。寄託された鉱山関係資料約900点のうち、500点とともに公開する。
公開資料には幕末に盛岡藩士の大島高任(たかとう)が事務所周辺に築き、日本で初めて出銑(しゅっせん)に成功した洋式高炉のレンガをはじめ磁鉄鉱の結晶、削岩機などの工具もある。ドラマで炭鉱事務所に見立てた1階事務所には、古い木製机や応接セットなどがロケ時のままに並べられている。
公開は12月7日までの原則平日。希望があれば職員が説明する。問い合わせは市教委生涯学習スポーツ課(0193・22・8835)。【鬼山親芳】
栃木
足利氏廟所の変遷学ぶ 樺崎寺跡シンポに150人
【足利】史跡樺崎寺跡シンポジウム「日本中世史に足利氏が残したもの」(市教委主催)が11日、市民会館で開かれた。県内外から約150人が参加し、発掘調査や専門家の講演を通して樺崎寺について理解を深めた。シンポは12日も開かれる。
11日は市教委文化課職員が発掘調査の内容を報告した後、奈良市の元興寺文化財研究所部長で中世墓制に詳しい狭川真一氏が「武門の覇者足利氏の廟所」と題し基調講演した。
狭川氏は「樺崎寺は、初期に浄土庭園の周りに多くの墳墓堂が建てられ、その後に大型石塔を多数持つ廟所に変遷した」と説明。その理由を「一族を意識し、全体を供養する廟所に変えたのでは」と解説した。
12日は京都造形芸術大の仲隆裕教授が「足利氏の作庭」、鶴見大の河野真知郎教授が「鎌倉の足利氏」と題して講演したり、パネルディスカッションがある。
樺崎寺は源姓足利氏2代目の足利義兼が1189年に創建したといわれる。足利氏の廟所として浄土庭園や多くの堂塔が整備された。明治維新後の神仏分離令で廃寺となったが、2001年に「樺崎寺跡」として国史跡に指定された。
【いにしえを求めて】西那須野・黒磯編(6)
■「千本松と松方別邸」歴史の舞台に隠された絵画
栃木県那須塩原市千本松地区は、明治期に進められた那須野が原開拓のなごりを最もとどめていると、訪ねるたびに感じている。
この一帯は、那須疏水(そすい)の開削を進めた開拓農場「那須開墾社」から土地を譲り受けた松方正義(1835~1924、第4、6代の総理大臣、公爵)が、西洋農具による欧米式の農場を開いた場所で、「千本松」という地名も付近にアカマツが多いことから松方が名づけたといわれている。
観光牧場として人気の千本松牧場近くの森には、明治36年に建てられた「松方別邸」が往時の姿を残し、文明開化の薫りをいまに伝えている。通称「万歳閣」。大正天皇が皇太子時代にお泊まりになった折、日露戦争の戦勝の知らせがあり、万歳を唱えたことに由来している。
ところで、松方という人物は薩摩藩出身で下級武士ながら、藩内では異例の出世を遂げた。明治維新後も長崎裁判所参事を経て、日田県(現在の大分県日田市付近)知事に転任。知事時代には偽札の流通を突きとめるなど、その仕事ぶりが大久保利通に認められて中央官僚としての道を歩むことになる。その後、内務卿、大蔵卿を歴任、総理大臣にまで上り詰める。
また、松方の子供たちも華やかな経歴をたどった。長男の巌は銀行家、次男の正作は外交官、三男の幸次郎は実業家、四男の正雄は大阪タイガース(大阪野球倶楽部)初代取締役会長・オーナーを務めた。
中でも川崎造船所社長の幸次郎は美術品の収集家としても知られ、大正から昭和初期にかけて欧州滞在中に集めた美術品は「松方コレクション」と呼ばれ、戦後はフランス政府に押収されたが、のちに同政府は、ロダンの「考える人」、モネの「舟遊び」「睡蓮」など一部(絵画や彫刻、版画など計370点)を日本に返還。この受け入れ先として建設されたのが東京・上野の国立西洋美術館だ。
そんな「松方コレクション」の一部とみられる西洋絵画が戦後、千本松の地に保管されていたという話を先日、那須町在住の元高校美術教師のIさん(78)から聞き驚かされた。
戦後間もない昭和23年のことで、Iさんは当時、旧制大田原中学(現大田原高校)5年生。美術部に所属し、画家を志していた。同級生の父親が千本松牧場で場長をしており、「うちに来れば、すごい絵を見せてやる」といわれ、牧場を訪ねた。
広い敷地の片隅に建つ木造倉庫の中に案内されると、西洋の絵画の数々が並んでいた。同級生の父親は「松方コレクションの一部だ」と告げたという。Iさんは「初めて目にする絵画ばかり。まるで宝物のようだった」と振り返り、そのときの光景をいまも鮮明に記憶している。
千本松牧場を訪ねてみると、「戦後、牧場に多くの西洋絵画が保管されていた」という話はいまも伝わっていた。また、松方正義から4代目当主の松方峰雄さん(78)=神奈川県藤沢市=に問い合わせたところ、「コレクションの一部かもしれない」とのことだった。
勝手な推測をすれば、コレクションの一部は日本に持ち込まれ、松方ゆかりの千本松の地にあった。その後、どんな運命をたどったかはわからず、知るすべもないが…。ともあれ千本松という地はいまも松方家の華麗なる歴史の舞台になっている。(伊沢利幸)
◇
次回から那須編です。
茨城
おいしいお茶は?「T-1グランプリ」開催 茨城
「さしま茶」に代表される茨城県南西地域で生産されるお茶のブランド化とイメージアップを図ろうと、坂東市や境町など5市町の生産農家で組織するさしま茶協会(長野元明会長)が、“きき茶”の大会「T(tea)-1グランプリ2009」を開催することになり、小学生の参加者を募集している。
さしま茶の渡米150周年を記念した催し。さしま茶は幕末の安政6年(1859年)、米国のポール商会に輸出。これが国内のお茶の初交易とされる。
T-1グランプリは11月29日午前9時半から、古河市駒羽根のネーブルパーク平成館を会場に、小学4~6年生の男女4人1組の団体戦で実施。事前に配布したテキストからお茶に関する筆記試験やお茶の種類の選別、急須を使ったお茶のいれ方などを競い合う。
参加する25チームを募集。申し込みは境町農政商工課内T-1グランプリ事務局(電)0280・81・1310。締め切りは10月30日。
三重
南楠鯨船行事:鯨船の練り勇壮に 四日市・楠の祭り最高潮 /三重
四日市市楠町南五味塚で10、11の両日、きらびやかな鯨船が繰り出す秋祭り「南楠鯨船行事」(市指定無形民俗文化財)が行われた。金ぱく細工を施した鯨船「龍神丸」による勇壮な練りを見ようと大勢の見物人でにぎわった。
祭りの起源は幕末のころとされ、1960年に発足した保存会が継承している。全長約8メートルの鯨船が張り子の鯨9頭を追いかけ、船上の踊り子が鯨にモリを打ち込んで仕留めるまでが演じられる。
今年は法被姿の住民ら約260人が参加。威勢の良いかけ声とともに鯨船を前後左右に激しく揺さぶると、祭りは最高潮に達し、沿道から大きな拍手がわいた。【井上章】
広島
判決が呼び水 鞆の浦に人波 「ポニョブームよりすごい」
広島県福山市の景勝地・鞆(とも)の浦の埋め立て・架橋事業を巡り、県知事に埋め立て免許の差し止めを命じた1日の広島地裁判決の後、地元に全国から観光客が押し寄せている。判決が歴史的景観を「国民の財産」と認めたのが呼び水となった格好で、観光に携わる人たちは「いい宣伝になった」と歓迎。だが、マイカーでの来訪が増え、町の狭い道路は週末、いっそう混雑し始めた。混雑解消を狙う事業に待ったをかけた判決の影響は、地元にとって「痛しかゆし」となっている。
3連休の初日となった10日。鞆の港には、家族連れやカップルらが立ち寄り、シンボルとなっている江戸時代の石造りの常夜灯(灯台)の前で記念撮影をしたり、階段状の船着き場・雁木(がんぎ)に腰掛けて海を眺めたり。
東京都八王子市の会社員七海陽子さん(55)は「裁判で知った景観を見に来た。のんびりしていい所」と言い、千葉県習志野市の会社員西村竜一さん(28)は「都会にはない風景を残してほしい」と話した。港近くの、江戸情緒を残す町並みを散策する人も、日暮れ近くまで絶えなかった。
1日の判決は、景観保護を理由に公共事業の差し止めを初めて命じた判決として報じられた。鞆でアニメ映画「崖(がけ)の上のポニョ」の構想を練った宮崎駿監督が、判決についてコメントしたこともあって、直後から、県外ナンバーの車が目立つようになった。
幕末に鞆に滞在した坂本龍馬の足跡を紹介する「いろは丸展示館」には、普段の倍以上が来館。4日は、1989年の開館時に並ぶ約550人に上った。赤松宏記館長は「『埋め立て予定地はどこ?』といった質問をする人も多い」と判決の影響を驚く。
市の施設・鞆の浦歴史民俗資料館も入館者が通常の2~2・5倍に増え、近くの土産物店は客であふれる。男性店長(46)は「ポニョブームに沸いた昨年の夏よりすごい人。もっと商品を増やさないと」と喜ぶ。
こうした人気に、埋め立て・架橋事業を推進する市の関係者らには複雑な思いもあるという。だが、市観光協会の平靖行事務局長は「判決はどうあれ、鞆の浦の名前がまた全国に広まった。チャンスを逃さず、魅力を広めたい」と期待する。
一方で、町の狭い道の混雑は週末にひどくなった。県道沿いに住む女性(66)は「観光客の車が立ち往生しているのをよく見る。景観を守るのもいいけど、何とかならないか」と嘆く。
訴訟の原告団長、大井幹雄さん(69)は「観光客が増えたのはうれしいが、受け入れの準備不足は否めない。交通整理などが今後の課題だ」と言う。また、推進派住民団体代表の大浜憲司さん(61)は「鞆を観光で活性化したいとの思いはあるが、渋滞や騒音など生活に支障が出始めた状況は行政に訴えたい」と話している。
まとめて幕末ニュースその3です。さすがに一週間分まとめるのは時間がかかります……(汗)。
福岡
新教育の森:長崎市大浦小「居留地キッズコーラス」 /福岡
長崎
海援隊の和英辞典復刻 長崎の広告代理店、観光施設で販売
長崎くんち:あすから 長崎南高2生、英文パンフ作成 案内所も開設 /長崎
坂本龍馬が設立した亀山社中を幕末当時の姿に復元
長崎市亀山社中記念館
宮崎
島津発祥まつり:ちょうちん点灯しPR、前景気あおる--都城で来月1~8日 /宮崎
鹿児島
西郷隆盛と交流が縁、山形・鶴岡から墓参り
人間同士の和解伝えたい 13日鹿児島市で「明治の兄弟」公演
コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(31)東大教授・山内昌之 周布政之助
文化芸能
前進座の嵐広也 芳三郎襲名へ 来年5月、与三郎役でお披露目
染五郎の「人間豹」発想新たに第2弾
「風雲児たち」みなもと太郎、アキバでサイン会開催
【今夜のドラマ】『(新)JIN‐仁』ほか
コヒさんの勝海舟、内野聖陽さんの龍馬など、なかなかナイスなキャスティングだと思っています。原作の良さを損なわずにドラマ化して欲しいなぁと思ってます。
大沢たかお脳外科医で8年ぶり連ドラ出演
福岡
新教育の森:長崎市大浦小「居留地キッズコーラス」 /福岡
◇友と心通い合わせて歌い、命の尊さ伝えたい
長崎市立大浦小学校(藤原潤一郎校長)の4~6年生有志56人でつくる「居留地キッズコーラス」が9月20日、大浦天主堂で合唱を披露した。昨年に続き2回目。国宝の大浦天主堂で地域の子供たちが歌声を披露するのは、過去に例がなかった。校区の大浦地区は幕末の開港で音楽など西洋文明が開化した地。「地域の歴史を生かし、音楽で子供を育てよう」という取り組みだ。【錦織祐一】
9月20日昼、大浦天主堂は住民数百人で埋まった。旧外国人居留地の街並みを生かしたイベント「長崎居留地まつり」のオープニングイベント。児童たちは「今この場所で、歌の好きな友達とともに時間を過ごしています。心が通い合うと不思議な力が出てきます」と声を上げた。おそろいの水色Tシャツ姿で表情豊かに歌声を披露した。
今年はシューベルトの「アベ・マリア」にドイツ語で挑戦した。2カ月の練習を経て、見事に歌い上げた。指導する音楽教諭の原さとみさんは「表現力を身に着けてほしい。曲の持つ美しい言葉を感じてほしくて、原語にこだわりました」と言う。
最後に大浦小の校歌を会場の人たちと歌うと、歌いながら涙ぐむ人もいた。作曲したのは、長崎市出身の作曲家・大島ミチルさん。NHK大河ドラマ「天地人」のテーマ曲の作曲者だ。大浦小は07年、いずれも100年以上の歴史を持つ3校を統合して開校した。母校を失った住民らは「新しい小学校を地域で盛り上げよう」と活動を応援する。それだけに、失った母校への思いもあふれたようだ。
同小5年の梅元咲紀さん(11)は「少し緊張したけど、今年も大切な天主堂で歌えてよかった」。父建治さん(42)は「人前で自分を表現できるようになった。目に見えて成長した」と喜んだ。
◇ ◇
居留地キッズコーラスは、昨年の「長崎居留地まつり」のため、同6月に発足した。大浦小教諭の原さんは県オペラ協会のプリマドンナを務め、昨年はオペラ「蝶々夫人」のイタリア語全幕公演をこなした。以前から「音楽を街づくりに生かしたい」と考えていた。まつり実行委の提案を受け、他の音楽教諭とともにすぐに指導を始めた。大浦天主堂側も「子供のためなら」と会場提供を快諾した。
キッズコーラスが、発足当初から歌い続ける歌がある。宮崎カリタス修道女会(本部・東京都杉並区)の修道女、古木涼子さんが07年に作詞・作曲した「いのち」。
<いのちがこんなに尊いのは/この世でたったひとつだから><生きて生きて生きてほしい/かけがえのないあなたのいのちを>
長崎市の男児誘拐殺害事件(03年)や佐世保市の小6同級生殺害事件(04年)は、県内の教育現場に「命の尊さをどう教えていくか」という重い課題を突きつけた。原さんは、この歌の輪を広げていこうと考えた。「合唱で心を合わせ、多くの人に支えられて生きているということを感じてほしい」。カトリック長崎大司教区を通じ、古木さんと児童との手紙の交流も始まった。
「いのち」は、10日に開かれる長崎市制施行120周年記念コンサートでも、歌手さだまさしさんらと歌う。
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■ことば
◇旧外国人居留地
1859年の「安政の開港」に伴い、同年に治外法権の外国人居住・交易区域として開設された。長崎では大浦地区の海岸を埋め立てて造成された。英国人政商トーマス・グラバー(1838~1911年)らの活動拠点として明治維新や近代化に大きく貢献。1899年に廃止されたが、大浦天主堂(国宝)や旧グラバー住宅(国指定重要文化財)など貴重な洋館が残る。
〔福岡都市圏版〕
長崎
海援隊の和英辞典復刻 長崎の広告代理店、観光施設で販売
長崎市万才町の広告代理店、産広エージェンシー(林田安隆社長)は、幕末の志士坂本龍馬が率いた浪人結社・海援隊が出版した和英辞典「和英通韻以呂波便覧(わえいつういんいろはびんらん)」を復刻した。林田社長は「龍馬の夢と情熱を感じ取ってほしい」と話している。
「和英通韻以呂波便覧」は1868(慶応4)年3月刊。前年11月に暗殺された龍馬の遺志を継ぎ、海援隊の仲間が出版したとみられる。アルファベットとアラビア数字のほか、「SUN(日)」「EAST(東)」「MORNING(朝)」など簡単な単語のつづりと発音を掲載。時間と干支(えと)の和英対照表もあり、初心者向けの英語教科書のような内容だ。
林田社長(71)は約25年前、骨董(こっとう)収集が趣味の知人に薦められて同便覧を27万円で購入した。当時は龍馬に興味がなく「便覧は引き出しにしまったままにしていた」という。
ところが昨年、NHK大河ドラマ「龍馬伝」の主役に長崎市出身の福山雅治さん(40)が決定。同便覧の存在を思い出して読んでみると「世界に目を向けて生きようとした若者たちの情熱がひしひしと伝わってくる」と感動した。
今年に入り「できるだけたくさんの人に見てほしい」と復刻出版を決意。7月末から長崎市内の観光施設で売り出した。現在までに600部を売り上げ「反響に驚いている」という。
復刻版は「できるだけ原本に忠実に」と製作した。大きさ(縦26センチ、横18センチ)、ページ数(54ページ)は原本と同じ。製本にもこだわり、林田社長自ら針を持ち、ひもを使って手編みでとじている。
林田社長は「現代も幕末と同じで閉塞(へいそく)感が漂っている。自由な発想、行動力など龍馬のメッセージを感じてもらえれば」と話している。
980円。長崎市の長崎歴史文化博物館、市亀山社中記念館、グラバー園、出島、大村市の長崎空港ビルで販売中。問い合わせは産広エージェンシー(電095・824・6021)。
長崎くんち:あすから 長崎南高2生、英文パンフ作成 案内所も開設 /長崎
「長崎くんち」(7~9日)は目前--。県立長崎南高2年生は5日、生徒作成の「くんち英文パンフレット」を長崎市に寄贈した。長崎市浜町のアーケード内には既に「長崎くんち案内所」が設置されており、祭りに向け、長崎の街全体が興奮し始めたようだ。【蒲原明佳】
英文パンフレットは2年7組40人が1000部作成し、うち250部を市に寄贈した。8月下旬から放課後や昼休みなどに、日本語で各踊町の演(だ)し物の説明文を作り、英文に訳したという。
同高2年、立石晶子さん(16)は「世界の人に長崎くんちを知ってもらい、また長崎に来てほしい」。パンフレットはくんち案内所などで配布される。
そのくんち案内所は三菱東京UFJ銀行・長崎支店前に開設。長崎国際観光コンベンション協会の職員が常駐し、各踊町が市内を回る「庭先回り」のマップを配り、見どころを案内している。
Tシャツ、扇子なども販売中で、一番人気は踊町6カ町の手ぬぐいセット2300円。今年は、風頭公園(長崎市)の坂本龍馬像作者として知られる彫刻家・山崎和國さんがデザインした、龍馬と幕末の志士による龍踊の様子を描いた手ぬぐい(840円)も見逃せない。
坂本龍馬が設立した亀山社中を幕末当時の姿に復元
長崎市亀山社中記念館
8月1日にオープンした長崎市の亀山社中記念館が、開館からおよそ2か月で入場者数2万人を超える人気!
幕末の志士、坂本龍馬ゆかりのスポットとして復元された長崎市亀山社中記念館が、8月1日から一般公開されている。
1865(慶応元)年に龍馬が中心となって設立した「亀山社中」は、海運業や政治活動を行った日本初の商社とされる。建物には、龍馬がもたれかかって座ったといわれる床の間の「龍馬柱」や中2階の隠し部屋など、往時の間取りに近い姿で復元している。龍馬の紋服や刀、ブーツなどの複製品、関連資料などおよそ30点を展示するほか、紋服を羽織ったり月琴を弾いたりできる。
宮崎
島津発祥まつり:ちょうちん点灯しPR、前景気あおる--都城で来月1~8日 /宮崎
都城市で11月1日から始まる「島津発祥まつり」を前に、前景気を高める紅白136個のちょうちんが8日、市内八幡町の国道10号沿いにお目見えした。11月7日までの毎日午後6時半から同9時半ごろまで点灯する。
「島津発祥まつり」と書いた中央の白いちょうちんを、赤いちょうちん128個が囲む。昨年始まったばかりの新しいまつりを多くの人に知ってもらおうと、実行委員会が初めて設置した。点灯式で堀之内芳久委員長は「きょうが実質的なまつりの始まり」と、集まった実行委員らに本番に向けての協力を呼びかけた。
まつりは11月1~8日、都島町の都城歴史資料館など市内各地である。メーンの「維新の風~明道館パレード」は7日。幕末の戊辰戦争に出陣した「私領一番隊」を再現し、約200人が姫城町の旭丘(ひのお)神社から歴史資料館まで練り歩く。夜は島津家の家紋をかたどった「島津花火」など約800発を打ち上げる。【木元六男】
鹿児島
西郷隆盛と交流が縁、山形・鶴岡から墓参り
山形県鶴岡市の親善訪問団が、兄弟都市盟約を結んでいる鹿児島市を訪問した。両市の縁結びをしたのは西郷隆盛で、一行は西郷の墓参りをし、墓前でさらに交流を深めていくことを誓った。
江戸時代、鶴岡市は庄内藩が治め、幕末、同藩は幕府側の中心勢力として、薩摩藩と対立し、戊辰戦争では西郷が率いる官軍と激しく戦った。しかし、勝った西郷は寛大な措置で戦後処理にあたり、庄内の人たちに感銘を与え、慕われた。西郷の教えをまとめた「南洲翁遺訓」は、西郷と交流した旧庄内藩士らが編集、出版したことで知られている。
これらを縁に両市は1969年に兄弟都市盟約を締結。親善使節団の相互訪問や兄弟校の提携など交流を深めてきた。締結40周年にあたる今年は西郷の命日に、鶴岡市の佐藤正明副市長ら17人が南洲神社に参拝した。佐藤副市長らは西郷の墓前で「両市の絆を深め、互いに発展していきます」と誓った。また、同神社には西郷を慕って西南戦争に参加し、戦死した庄内藩士2人の墓もあり、一行は花をささげて霊を慰めた。
佐藤副市長は「今の自分たちは先人たちの営みの上に立っていることを再認識しました。この縁や西郷さんの教えを大事に交流を続けていきたい」と話した。
一行はこのほか、路面電車で市内を視察したり、市内のホテルで記念式典に出席したりした。
人間同士の和解伝えたい 13日鹿児島市で「明治の兄弟」公演
戊辰戦争の遺恨を乗り越え結婚した、薩摩人の大山巌と会津藩士の娘山川捨松の縁談話を軸にした劇「明治の兄弟-山川家の人々」が13日、鹿児島市中央公民館で上演される。演じるのは福島県会津若松市のアマチュア劇団「ぴーひゃらら」で、鹿児島初公演となる。
薩摩藩と会津藩が敵対した1868年の戊辰戦争から15年後の物語。縁談を持ち込まれた捨松の兄の浩は、大山が会津を攻めたことを理由に断ろうとするが、仲介役となった西郷隆盛の弟従道の度重なる説得もあり、次第に心を開いていく。
また、日本初の女子留学生として米国で学んだ捨松は、大山と直接会って縁談の返事をしたいとデートを求めた。親の意向で結婚が決められた時代に、恋愛結婚を成就させた異例の女性でもあった。
同劇団の近藤直宣団長は(30)は「人間同士の和解がテーマ。見てくれた人に、人がさまざまな憎しみでも乗り越えられることを伝えたい」と話す。
午後2時と午後6時の2回公演。前売り券2000円(当日2500円)、中高生前売り券500円(当日600円)、小学生以下無料。同公演実行委員会事務局(キリシマフーズ内)=099(295)2168。
コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(31)東大教授・山内昌之 周布政之助
■未完の大器の死
イスラムの考えによれば、人は死んでもすぐ来世の生に転換するのでなく、人生に対する神の審判を受けて来世の生が決定する。人生の評価は、そこで初めて判明する。さかしらに他人が死者の功罪をあれこれ言いつのっても、人の死を来世の生までの途上と見なす神の前では無力なのである。
急逝した中川昭一元財務大臣にかかわる評価は大きく2つに分かれるだろう。今年2月のローマでの“もうろう会見”の失態をことさらに重視するか、無類の政策通の勉強家で、北朝鮮拉致問題に強い信念から取り組むなど保守政治家らしい情誼(じょうぎ)の厚さに共感するか、の違いにほかならない。
イスラムのように長い人生や生活の全体を審判の対象と考える立場からすれば、中川氏の政治家としての力量は、死後の審判でも1回の“過誤”を打ち消し高く評価されるにちがいない。一般的に、個人の酒癖と精神状態との因果関係は、誰の場合であっても、神ならぬ身には知りようもない。
酒豪…山内容堂と双璧
幕末でいえば、土佐の山内容堂と酒豪として双璧(そうへき)だったのは、長州の周布政之助であろう。周布は、桂小五郎より10歳ほど年長で、将来の明治政府の建設者をよく引き立て、倒幕や密航をちらつかせ藩を困らせた高杉晋作の面倒もよく見た偉材である。名家の出身だった周布でなければ、幕末の長州で久坂玄瑞(げんずい)や来島(きじま)又兵衛のようなアナキストまがいの“過激派志士”を抱えながら、俗論党と呼ばれる門閥上士階級の保守派を抑えた藩政のかじ取りもできなかっただろう。
新政府リードしたはず
文久2(1862)年11月、容堂が長州藩邸を訪ねたときのことである。美声の久坂が容堂の前で披露した詩吟は、勤皇僧・月性(げっしょう)の作品であった。
ところが、「朝堂の諸老なんぞ遅疑(ちぎ)するか」という個所をあえて謡わず、容堂の佐幕ぶりを婉曲(えんきょく)に批判したのに、酩酊(めいてい)した藩重役の周布が容堂を恐れもせずに「公もまた朝堂の一老公!」と一喝したという逸話が残っている。
話はこれだけで終わらない。それからあまりたたずに、横浜の外国人居留地襲撃を計画した高杉や久坂を断念させようと、談判中の土佐藩士らに酔った周布がまたしても、「容堂公は尊皇攘夷(じょうい)をチャラかしなさる」と絡んだからたまらない。高杉の取りなしがなければ、激昂(げきこう)した土佐藩士に斬られていたかもしれない。さすがの長州藩も周布に謹慎を命じて土佐藩の追及をかわすはめになった。周布が麻田公輔と改名したのは、容堂の絡んだ事件のためである。
周布は藩重役でありながら、どこか書生ぽさが抜けないところもあった。彼は、元治元(1864)年に高杉が脱藩の罪を問われ、野山獄に入ったときも酩酊状態で獄に馬で乗りつけ、高杉を叱咤(しった)した逸話が残る。
このあたりは、昭和52(1977)年のNHK大河ドラマ『花神』で周布に扮(ふん)した田村高廣の好演を憶(おぼ)えている人も多いだろう。周布は元治元年、第1次長州戦争の責任を取る形で自刃(じじん)したが、明治まで生き延びたなら、桂小五郎こと木戸孝允にはないスケールの大きさで、新政府をリードしたはずだった。近代国家日本のイフを想像する上でも欠かせない人物なのに、あまり人口に膾炙(かいしゃ)していないのは残念なことだ。
桂小五郎が敬愛
桂小五郎には、酒に酔って物議をかもしても敬愛する先輩を案じた2枚の戯画が残っている。その1枚には、「飲む勿(なか)れ」と書かれていた。もう1枚は、「君子之眼」と書いた左横に「天地」の文字を丸で囲んだものだ。天地のさらに左側には「小人之眼」と題し、ちょこの渦か、蚊取り線香のような絵が描かれている。あるいは酔った眼を渦巻きに擬したのだろうか。君子は天地の在りかをきちんと見定めるが、酔眼もうろうとした小人は大事を分別できない、と諭しているかのようにも思える。後者の絵は2人の合作とも伝えられる。
いずれにせよ、兄事(けいじ)する周布の将来を案じて、その“悪癖”をいさめる後輩の思いやりがひしひしと感じられる2枚の絵なのだ。想像するに、中川昭一氏は、いつも他人に対して桂の役を演じる気配りや優しさの持ち主だった気がする。むしろ彼にこそ、周布における桂のような人物が必要ではなかっただろうか。(やまうち まさゆき)
◇
【プロフィル】周布政之助
すふ・まさのすけ 文政6(1823)年生まれ。幕末の長州藩士、藩政指導者。藩政改革を推進した村田清風の影響を受け、藩内の兵制改革や財政整理に取り組んだ。学制改革も行い、村田蔵六(大村益次郎)を登用。挙国一致のため、尊皇攘夷を推進し、将軍上洛や破約攘夷を目指して活動した。中央政局での尊攘派の後退や禁門の変、4国艦隊下関砲撃事件敗北などで力尽き、元治元(1864)年に自刃した。享年42。
文化芸能
前進座の嵐広也 芳三郎襲名へ 来年5月、与三郎役でお披露目
劇団前進座の若手人気俳優、嵐広也(44)が七代目嵐芳三郎の大名跡を襲名する。同劇団が来年五月、東京・国立劇場で行う歌舞伎公演「切られお富」の与三郎役でお披露目。再来年、創立八十周年記念に向けて気勢を上げようとする同劇団の作戦の第一弾となる。
広也は六世芳三郎(昭和四十一年死去)の次男で、実兄が、母方の祖父・故五世河原崎国太郎の名を継いだ六代目河原崎國太郎。劇団幹事長の嵐圭史は、広也の叔父になる五世芳三郎の次男。
いわば、劇団の中核となる嵐家、豊島屋のエリートが広也。七代目襲名は既定路線かもしれないが、前進座の創立に加わった五世以後、代々の芳三郎は女形として活躍。兄の國太郎も劇団の中心的な女形だが、広也は立役を通してきた。しかし、芳三郎になったからといって、女形に転向することはないようだ。
広也は、本名・寺田広己、桐朋学園短大演劇科から前進座入団。今年五月の国立劇場公演の幕末歴史劇、真山青果作「江戸城総攻」では、圭史(徳川家康)や藤川矢之輔(西郷吉之助)らと渡り合って山岡鉄太郎の大役を初演、好評を博した。
来年、どんな与三郎を演じるか、期待は大きい。 (富沢慶秀)
染五郎の「人間豹」発想新たに第2弾
市川染五郎が企画、出演する「京乱噂鉤爪(きょうをみだすうわさのかぎづめ)-人間豹(ひょう)の最期-」が、東京・隼町の国立大劇場で上演されている。江戸川乱歩作「人間豹」の世界が江戸末期の設定に移して展開される新作歌舞伎で、染五郎の父、松本幸四郎が明智小五郎役で出演するとともに、九代琴松の名で演出も担当。
昨年の「江戸宵闇妖鉤爪(えどのやみあやしのかぎづめ)」に続く乱歩歌舞伎の第2弾で、染五郎が引き続き人間豹・恩田乱学を演じる。前回、美女を殺して江戸を去った人間豹が京都に現れ、大文字の送り火がともる夏の京都の闇夜を舞台に、人間豹と明智が死闘を繰り広げる。
「欠点、矛盾があってこそ人間らしくなる。悪には悪の哲学というか、人間豹には独特の美学がある。幕末の時代には、どっちが正義でどっちが悪なのか、わからないものがあった。舞台を江戸末期にした意味はあったと思う」
こう話す染五郎にとって乱歩作品の歌舞伎化は10年来の夢。昨年の第1弾は「国立(劇場)さんも父(幸四郎)も、ぼくから見て楽しんでいるように写った。形にすることが目標だったが、もう1回やれることになった」と喜ぶ。
今回は原作にはない展開で、染五郎のアイデアも取り入れて脚本の岩豪友樹子が新たに書き下ろした。「役名などもぼくが考え、つけた。乱歩の歌舞伎はこれで終わりになるが、これからも新作には挑戦したい」と話している。
27日まで。TEL0570・07・9900(生田誠)
「風雲児たち」みなもと太郎、アキバでサイン会開催
コミック乱(リイド社)にて「風雲児たち 幕末編」を連載中のみなもと太郎が、10月24日に有隣堂ヨドバシAKIBA店でサイン会を行う。
みなもとは、江戸時代の史実にコメディ要素を織り交ぜて描いた「風雲児たち」で、歴史ファンの支持を多く集めている。サイン会に参加するための整理券は、有隣堂ヨドバシAKIBA店で「風雲児たち ワイド版」1~20巻、「風雲児たち 幕末編」1~15巻のうち、いずれか1冊を購入した先着100人に配布される。10月11日朝9:30より配布開始され、電話でも予約を受け付ける予定だ。
なお現在発売中の「別冊歴史読本 坂本竜馬伝」(新人物往来社)には、みなもとのインタビューが5ページ掲載されている。
秋葉原エンタまつり 2009 「みなもと太郎先生」サイン会
日時:2009年10月24日(土) 15:00
会場:有隣堂ヨドバシAKIBA店
住所:東京都千代田区神田花岡町1-1 ヨドバシAKIBA7F
電話番号:03-5298-7474
【今夜のドラマ】『(新)JIN‐仁』ほか
『(新)JIN‐仁』(TBS系 後9・00)第1話「時空を超えた愛と命の感動物語~現代の脳外科医が激動の幕末へ…歴史の針が今、動き出す!人は人でしか救えない!!」を放送。
大沢たかおが8年ぶりの連ドラ主演
大沢たかお演じる、幕末にタイムスリップした脳外科医・南方仁の数奇な運命を描く。脚本は森下佳子。
脳外科医の仁(大沢)の婚約者の未来(中谷美紀)は、仁の手術で植物状態に。そんな中、手術後に逃げた患者を追って、仁は、階段から落ちて気絶してしまう。
出演:大沢たかお、中谷美紀、綾瀬はるか、小出恵介、桐谷健太、田口浩正、戸田菜穂、武田鉄矢、藤田まこと、六平直政、麻生祐未、高岡早紀、小日向文世、内野聖陽、六平直政、麻生祐未、小日向文世、内野聖陽、ほか。
コヒさんの勝海舟、内野聖陽さんの龍馬など、なかなかナイスなキャスティングだと思っています。原作の良さを損なわずにドラマ化して欲しいなぁと思ってます。
大沢たかお脳外科医で8年ぶり連ドラ出演
映画を中心に活躍してきた大沢たかお(41)の8年ぶりの連続ドラマ出演作となるTBS系「JIN-仁-」(11日スタート、日曜午後9時)の制作発表が横浜市内のスタジオで行われた。ここ数年、精力的な仕事ぶりで日本映画界を盛り上げてきたが、40代を迎えて心機一転、ドラマにも積極的に参加する意思を固めた。「思いは1つ。テレビドラマから離れてしまった方々にとって、放送が待ち遠しく、しかも愛され、勇気や希望を感じ取ってもらえる作品にすること」。幕末期にタイムトリップした主人公の脳外科医役。孤独な状況下、情熱的に患者を救っていく設定だ。江戸の遊郭、吉原の豪華セットもお披露目された。
まとめてお送りする幕末ニュースその2です。
三重
篤志家竹川竹斎生誕200年企画展
滋賀
お茶会へ「湖東焼」茶碗を自作
彦根の中央中生「楽しみ」
京都
マリオが新選組に?wiiでチャンバラ対決も!京都太秦で任天堂ゲームイベント開催
◎まんじゅうの穴から名月や◎
龍馬に会いたい:/番外編 遭難之地 /長崎
龍馬に会いたい:/番外編 旧霊山官修墳墓 /長崎
大阪
大阪城公園の重文3件 特別公開始まる
国重文「千貫櫓・多聞櫓・金蔵」 10日から特別公開
和歌山
近代化遺産全国一斉公開で「西村記念館」を無料開館 和歌山・新宮市
兵庫
帰りたい:私だけのふるさと 車谷長吉さん 兵庫県飾磨市(現姫路市)
広島
いろは丸紙模型で観光PR
幕末パワー「砂持加勢」再現
島根
(37)幕末史を飾った八雲丸(中)
長崎を往来異文化運ぶ
山口
人との出会いと運命/松村邦洋さん
最古の銅山で精錬復元なども
テーマ展:「松陰没後150年」--防府で /山口
平成の“薩長同盟”? 山口・鹿児島の観光連盟が姉妹縁組みへ
正しい入浴法を伝授/那須野友規子さん
高知
主役・福山さん抱負熱く 『龍馬伝』
四国ミュージアム回廊:三十六館目 絵金蔵/4止 /四国
三重
篤志家竹川竹斎生誕200年企画展
幕末から明治期を生きた篤志家で、松阪市射和町出身の竹川竹斎(1809~82)の生誕200年を記念した企画展「幕末のチャレンジャー」が4日、同市殿町の市歴史民俗資料館で始まった。12月13日まで。竹斎の自画像や日記のほか、仏語、英語、オランダ語の対訳を試みた「三語便覧」など県指定文化財など125点を展示している。
私設図書館「射和文庫」の開設やかんがい池の築造などに尽くした竹斎は「反古帖(ほごちょう)」にも珍しい資料を残している。横浜で買い求めた当時の横浜港の地図や、横浜への関門通行証、異人館出入証など。松阪の興行師が各地を巡った「象図の引札」もある。
滋賀
お茶会へ「湖東焼」茶碗を自作
彦根の中央中生「楽しみ」
滋賀県彦根市の中央中の3年生が7日、幕末から明治期に彦根で作られた焼き物「湖東焼」の茶碗作りを体験した。
地元のNPO法人(特定非営利活動法人)「湖東焼を復活させる会」の指導で、この日は1クラス34人が美術の時間に制作した。残り4クラスも別の日に取り組む。
生徒たちは真剣な表情で、粘土をたたいて底を作ったり、棒状に伸ばした粘土を重ねて側面を作り、なめらかに整えるなどして作品を仕上げた。今後、乾燥、素焼きして、生徒が絵付けした後、釉薬(ゆうやく)を塗って焼き、完成させる。11月30日には手作りの茶碗を使ったお茶会を開く予定。西澤成哉君(15)は「形を整えるのが難しかった。手作りの茶碗でお茶を飲むのが楽しみ」と話していた。
京都
マリオが新選組に?wiiでチャンバラ対決も!京都太秦で任天堂ゲームイベント開催
10月3日(土)~10月4日(日)の2日間にわたり、京都太秦の東映京都撮影所にて「Nintendo ゲームイベント」が開催されました。wiiの新作ソフトの体験や、ステージイベント、ここでしか手に入らない「とておきピカチュウ」のプレゼントなど盛りだくさんの内容だったこのイベントのレポートをお送りします。
(中略)
また会場の壁面には、新選組の羽織を着たマリオや舞妓姿のピーチ姫といった、京都ならではのキャラクターの姿が見られました。
◎まんじゅうの穴から名月や◎
市比売神社
中秋の名月の3日、女性の守り神として知られる市比売(いちひめ)神社(下京区)で、振り袖姿の若い女性4人が直径約20センチの月見まんじゅうの真ん中に箸(はし)で直径約1センチの穴を開け、その穴から月をのぞく古来の成人式の儀礼を再現した。
4人は、同神社を拠点に雅楽を学ぶ「いちひめ雅楽会」のメンバーで、15~24歳。大学4回生の中村早江さん(22)=左京区=は「月だけがピンポイントで見えるので、くっきりした感じがしました」と話していた。
幕末の孝明天皇の妹で、14代将軍徳川家茂に嫁いだ皇女和宮もこのような儀礼をしたとされている。
龍馬に会いたい:/番外編 遭難之地 /長崎
◇権謀術数巡らせた地
京都市中京区の四条河原町交差点。周辺は、デパートが建ち並ぶ、京都市内最大の繁華街だ。この交差点を北へ向かうと、西側歩道にコンビニエンスストアがあり、その前に小さな石碑が見えてくる。石碑には「坂本龍馬 中岡慎太郎 遭難之地」と刻まれている。
慶応3(1867)年11月15日夜、当時ここに建っていたしょうゆ商「近江屋」で、海援隊長・坂本龍馬と陸援隊長・中岡慎太郎は暴漢に襲われた。
龍馬はこの年、長崎で海援隊の業務をこなした後、近江屋に入っていた。龍馬も中岡も土佐(高知県)出身。大政奉還は龍馬らの活躍で、この年の10月14日に断行されていた。中岡は夕刻に近江屋を訪れ、2人は奉還後の政局を論じ合った。
襲撃した男たちは「十津川郷士」と名乗ったという。龍馬は部屋になだれ込んだ男たちに額を切られた。それでも自分の刀を取り、応戦しようとしたが、その場で絶命。中岡は2日後に死んだ。龍馬33歳、中岡30歳。王政復古の大号令は12月9日に迫っていた。
石碑の後ろには京都市が建てた説明書きの立て札があり、コンビニ店内では手ぬぐい、ポスターなど龍馬グッズが販売されている。しかし、当時の面影は周辺にはもう残っていない。歩道は往来が激しく、時折「へえ」といった顔つきで石碑を見つめる人もいた。
■
「番外・京都編」を3回にわたって掲載します。幕末の京都はテロが横行し、硝煙が立ちこめ、幕府と薩摩(鹿児島)、長州(山口)、土佐など雄藩が権謀術数を巡らせた土地。龍馬が活躍したもう一つの地です。
龍馬に会いたい:/番外編 旧霊山官修墳墓 /長崎
◇1356人の志士眠る
京都市東山区の明治維新史跡「旧霊山(りょうぜん)官修墳墓」には、1356人に上る志士たちの墓がある。
新選組が襲撃した池田屋騒動(1864年、吉田稔麿(としまろ)、宮部鼎蔵(ていぞう)らが死亡)、長州藩と幕府軍が戦った禁門の変(同年、久坂玄瑞らが死亡)、天誅組の変(1863年、吉村寅太郎らが死亡)などで亡くなった志士たちのほか、長州藩の木戸孝允(桂小五郎)と妻幾松の墓もある。
近くには霊山歴史館があり、今年8月24日には、来年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」で坂本龍馬を演じる、歌手で俳優の福山雅治さんも訪れた。
同館では龍馬暗殺に使われた刀(長さ42・1センチ)を展示。福山さんは刀に感動し、等身大の龍馬像の前では「龍馬は172センチで、僕は180センチなのに、龍馬の方が身体や腕はスゴイ」と驚いていたという。
史跡内には、龍馬の墓と、龍馬と共に暗殺された中岡慎太郎の墓が並んでいる。すぐそばには一緒に殺害された下僕、山田藤吉の墓もある。ここでは訪れた人たちが御影(みかげ)石を絵馬のように奉納し、そこにさまざまな言葉を書き込む。
「病気を治す! 強い意志を持つ!」「子どもが産まれました。大きく豊かに育つよう見守ってください」……。龍馬ら志士は今も多くの人の心の中で生きているようだ。
大阪
大阪城公園の重文3件 特別公開始まる
大阪城公園内の重要文化財「千貫櫓(せんがんやぐら)」と「多聞櫓(たもんやぐら)」「金蔵(きんぞう)」の特別公開が10日から始まり、普段は見ることができない貴重な歴史に触れようと大勢の観光客や市民らが訪れた。12日まで。
千貫櫓と多聞櫓は毎年秋の観光シーズンに合わせて公開されていたが、今年は金蔵と3点セットでお披露目となった。
1620年に創建された千貫櫓は、大阪城公園内で現存する建造物の中で最も古く、当時の城を守る重要な隅櫓の一つ。石垣の上に造られた長屋の多聞櫓は、戦で籠城(ろうじょう)する際には兵士の詰め所、武器庫として使われた部屋が6室あり、金蔵はその名の通り江戸時代に幕府直営の金庫の役割を果たした。
特別公開に合わせて、幕末の解体修理時に出土したとみられる古瓦、城の石垣に刻まれた大名らの刻印の拓本なども展示され、発掘調査時の資料映像も放映されている。
国重文「千貫櫓・多聞櫓・金蔵」 10日から特別公開
大阪城天守閣は10日から12日までの3日間、1620年に建てられた城内最古の建造物「千貫櫓(せんがんやぐら)」と、現存する同種の櫓の中で最大規模を誇る「多聞櫓(たもんやぐら)」、江戸幕府の金蔵の中で唯一現存する「金蔵(きんぞう)」の内部を特別公開する。いずれも国の重要文化財で、年1回しか公開されていない建物。入場料は大人200円。
同天守閣によると、千貫櫓は大手口を守る隅櫓。かつて大阪の本願寺を攻めた織田信長が、隅櫓からの横矢に悩み「銭千貫出しても取りたい」と言ったことにちなみ、後の人が千貫櫓と呼ぶようになったという。
多聞櫓は、二の丸への出入り口である大門を組み込んだ構造となっており、渡櫓と続櫓からなる。敵兵の侵入に備えて「槍(やり)落とし」の装置があり、渡櫓の中央の部屋は約70畳の広さがある。
金蔵は、江戸時代に金貨や銀貨を保管した建物。床下は石敷き、入り口は二重の土戸と鉄格子戸の三重構造といった防犯と防災に工夫を凝らした構造となっている。
公開時間は午前10時~午後5時。内部の公開のほか、幕末の解体修理の際に出たとみられる古瓦などの展示や、多聞櫓内で大阪城の発掘調査の映像を放映する。問い合わせは電話06(6941)3044、同天守閣へ。
和歌山
近代化遺産全国一斉公開で「西村記念館」を無料開館 和歌山・新宮市
「近代化遺産全国一斉公開2009」に合わせて新宮市は、運営する同市出身の文化学院創設者、西村伊作の油絵や陶芸などの作品を展示した登録有形文化財「西村記念館」(同市伊佐田町)を10~25日の間、無料開館する。
記念館は西村が設計し、大正4年に建築された洋風住宅。油絵や陶芸など多くの作品がここで制作されたほか、歌人の与謝野鉄幹、晶子夫妻や同市出身の作家、佐藤春夫、画家の石井柏亭、陶芸家の富本憲吉など多くの文化人や芸術家が訪れ、交友を深めた場所としても知られる。開館時間は午前9時~午後5時。13、19日は休館。
近代化遺産は幕末から第二次世界大戦期までに建設され、近代化に貢献した産業、交通、土木にかかわる建造物。「近代化遺産の日」(20日)を含む1日から11月30日まで、重要文化財や登録有形文化財などが全国で一斉公開されている。
兵庫
帰りたい:私だけのふるさと 車谷長吉さん 兵庫県飾磨市(現姫路市)
◇万葉集の昔、にぎわった港
僕の故郷は、生まれた時は飾磨(しかま)市。戦後、姫路市に吸収合併された。姫路なんて隣町だけれども、行ったこともないし、故郷などと思ってもいない。全国に吸収合併された市町村の例はいろいろあるけれど、姫路市出身と書かれるのは非常に不愉快。嫁はんの故郷も数年前に吸収合併されて、非常に不愉快と言ってるよ。
僕は飾磨小学校、飾磨中部中学校を卒業した。そして、姫路西高校を受験して、落ちたの。だから、ますます姫路って嫌いなの。試験ができなかったから、僕が落ちたことに何も不正はないんだけど、屈辱だった。
姫路市では戦後、旧制姫路中学校、姫路西高校以外を卒業して市長になった人は一人もいない。姫路で「これ」という要職に就くには姫路西高校を出てないとなかなか難しい。城下町の閉鎖性もある。だから、僕は姫路西高校に落ちた時から、将来は東京で暮らそうと思っていたの。
* * * *
作家になろうと思ったのは、やむなく飾磨高校に行ってから。高校3年の5月ごろ、高校の図書室にあった夏目漱石の「こゝろ」を読んで、将来は漱石のようになると心に決めた。先生に相談したら、こう言われた。「開校以来、この高校から東京大学に入った人は一人もいない。お前の成績では絶対、無理。作家(小説家)になろうというのも無理。柳田国男さんも和辻哲郎さんも作家になろうと思って播州から出て行ったけれども、結局はなれなかった」。30代の8年間は関西各地の料理屋で下働きをした。38歳の夏、小説家になる決意をして、また東京へ出てきた。
* * * *
今の姫路城を作ったのは池田三左衛門輝政という徳川家康の女婿。池田が去った後、大名がいくつか変わり、1869(明治2)年まで酒井の雅楽頭(うたのかみ)家がいた。幕末に徳川を最初に裏切ったのが、この酒井。だから、姫路城は今も残った。徳川家として一番信任していた人が一番に裏切った。これが播州人の特徴の一つ。
室町時代より前、播州の中心は飾磨だったの。「餝磨(飾磨)江は漕ぎ過ぎぬらし天づたふ日笠の浦に波立てり見ゆ」。万葉集のよみ人知らず。今は姫路港と名前を変えたけど、飾磨港は昔はにぎわっていた。姫路は播州平野の奥だから、港が欲しかったんだ。
僕の家は、戦前は地主。農地改革で土地がなくなり、おやじが風呂敷に包んだ呉服物を背負って、近郷近在の村に売り歩いた。おやじはこの風呂敷商人でもうけて、5反歩ぐらいの田んぼを買い戻した。でも、農地改革で農地を手に入れた人は全員、土地を売った。元の地主は、農業のまま。土地への愛着があるから。僕も一緒だね。<聞き手・中山裕司/え・須飼秀和/写真・塩入正夫>
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■人物略歴
◇くるまたに・ちょうきつ
作家。1945年生まれ。慶応義塾大独文科卒。「鹽壺(しおつぼ)の匙」で三島由紀夫賞、「赤目四十八瀧心中未遂」で直木賞、「武蔵丸」で川端康成文学賞を受賞。近著に「阿呆者」(新書館)。
広島
いろは丸紙模型で観光PR
福山市は、同市鞆町の鞆港に来年1月に就航予定の市営渡船「平成いろは丸」のペーパークラフトを作成した。幕末に鞆港沖で沈没した坂本竜馬ゆかりの蒸気船を模したデザイン。市の観光キャンペーンなどで配る。
本物の100分の1に当たる全長約22センチ。マストや甲板、煙突など9つのパーツに分かれA4判の紙にカラー印刷されている。はさみやナイフなどで切り離した後、のり付けしたり、切り込み部分に差し込んだりして組み立てる。1時間程度で完成するという。市観光課=電話084(928)1043。
幕末パワー「砂持加勢」再現
幕末の広島城下で1度だけ催され、昨年約150年ぶりに復活した祭り「砂持加勢(すなもちかせい)」が4日、広島市中区基町の本川東岸であった。地元の自治会や社会福祉協議会などでつくる実行委が実施。約2千人が手作りの山車や仮装行列などで当時のにぎわいを再現した。
豊作を願う米俵の山車を先頭に、わらでできた長さ約12メートルの竜や高さ約4メートルの鬼などが次々に登場。見物客の歓声を浴びながら川岸を練り歩いた。安佐北区の持永芳孝さん(66)は「とても迫力があった」と驚いていた。
砂持加勢は1862年、広島城近くの本川にたまった土砂の除去作業の景気づけに1度だけ催された。
島根
(37)幕末史を飾った八雲丸(中)
長崎を往来異文化運ぶ
江戸時代は鎖国の時代といわれている。しかし実際にはオランダ、中国、朝鮮、琉球などと交流があり、さまざまな文物や情報がもたされていた。当時の松江藩も外国に強い関心を持ち、中国や西洋の書籍などを積極的に取り入れ、医学などの学問が大いに発展した。やがて幕末になると、外国に留学し近代の日本の政治や島根の近代化に大きな役割を果たした人物も現れた。
大社町の藤間家に残る日記「長崎行日記」からは、そんな文明の光に導かれて松江藩の藩士や商人たちが蒸気船に乗って長崎に向かう光景がうかがえる。航跡とともに文化、文明を運んできた第二八雲丸を紹介する。
※ ※ ※
慶応3(1867)年6月27日。第二八雲丸は松江藩の役人と回船問屋藤間穂左衛門(現出雲市大社町)を乗せて美保関を出航。今回の目的の一つ、隠岐の島に保護されている琉球国の漂流民3人を長崎に送り届けるため、八雲丸は島後の港を経由して翌月7日朝、35隻以上の蒸気船が停泊している長崎港に到着。
翌日の日記には「異人館5軒に参り、大砲・異船と船型を持参」と記述されているほか、貿易商オオルトの名前や造船所を訪れるシーンが再三登場する。
漂流民については当時琉球を統治していた薩摩藩と連絡を取った結果、12日、無事に引き渡しができたと記録があるのみで、軍備増強や次の新船購入に向けた準備や海外の情報収集に重点が置かれていたことをうかがわせる。
一方、異文化に出合った一行たちの感動と驚きも多数書き記されている。
異人館で目にした夏服の美しい夫人が男性と手を取り合って散歩する光景、初めて口にするランビキ(ウイスキー)、何万両かかるか分からないほど立派な異人館、オルゴールが奏でる不思議な音色、16日には国内で評判になっていた上野彦馬の写真館で記念撮影もしている。見るのも、聞くのも初めてと思われる異国の文化に対する感動の日々が随所に書き残されているなど、日記は公文書では知ることができない世界を垣間見させてくれる。
日記を解読した島根県の古代文化センター岡宏三専門研究員は「産業革命で発展した外国の機械産業を目の当たりにした驚きとともに、御用商人をはじめ官民一体になって藩政に取り組む姿がうかがえる」と話す。
※ ※ ※
八雲丸が運んできたものの一つに、美保神社に保存されている国内最古といわれているオルゴール(国の重要有形民俗文化財)がある。鳴り物好きの神様に奉納された逸品として知られているが、第二八雲丸に乗って長崎から運ばれてきたことは意外と知られていない。
オルゴールは元治元年6月、当時松江藩の海軍奉行だった松原木工が長崎で手に入れた逸品。ぜんまい仕掛けで誰も聞いた事がない音色を奏でる小箱は魔法の小箱だっただろう。
今回の取材では2点の長崎切り絵図も見ることができた。1点は出島と市街地(藤間家所蔵)、もう一点は出島と居留地(鳥取市湖山町北、鈴木家所蔵)。2点を並べてみると出島を中心とした長崎の様子がよく分かる。録音してきたオルゴールの曲や上野彦馬が撮影した写真などとともに日記を読んでいくと、これまで活字でしか知ることができなかった幕末の様子や八雲丸の航跡、乗組員たちの姿が、絵巻のように浮かんでくる。
山口
人との出会いと運命/松村邦洋さん
僕が田布施西小学校6年生の時に、同じ熊毛郡内の大和町束荷(つかり)の伊藤公記念公園へ遠足に行きました(現在の大和町は合併で光市になっています)。伊藤公記念公園は、伊藤博文公の生家があった場所で、記念館が建っています。伊藤公が使っていたベッドや、ロンドンに留学した時の服などがたくさんありましたが、子供だった僕が興味を持ったのは千円札の第1号が展示してあったことでした。「あの千円札の人が、隣の大和町で生まれたんだ」とびっくりしました。
家に帰り、歴史好きの祖父に遠足の話をすると「博文は林という家に生まれたが生活は苦しく、博文の父が萩の伊藤の家に養子に入って、伊藤姓になったんだ」と教えてもらいました。佐藤栄作・岸信介と2人の総理大臣が田布施町出身なのは知っていましたが、熊毛郡内から3人、しかも初代総理大臣まで同じ地元なのかと、子供心に誇りに思いました。
小学校4年生の時の大河ドラマ「花神」の中の若き伊藤博文こと伊藤俊輔は、高杉晋作にいつも怒られていて、尾藤イサオさん演じる伊藤俊輔が、後にあんなに偉い人になるとは思えませんでした。
子供のころはあまり興味を持てなかった伊藤公記念公園を、30歳を過ぎて何となく訪ねてみたところ、自分が全く違う楽しみ方ができるようになっていることに驚きました。産湯を浴びた場所や伊藤家の家系図、当時の写真など、歴史好きなら一日中居ても飽きない場所でした。
なんといっても、動く伊藤博文公の記録映像の存在は貴重ではないでしょうか。大磯に住んでいた時に、梅子夫人と韓国の李皇太子たちを囲んで、浜辺で行われている綱引きを見ている映像には驚きました。ハルビン駅の伊藤博文暗殺事件の詳細を、再現VTRで見ることもできます。大人だから分かる歴史の面白さに、子供のような気持ちになってしまいました。それ以降、里帰りの度に見にいっています。
大久保利通を尊敬し、日本を一生懸命変えようとした伊藤博文公。幕末の志士として活躍されましたが、萩に移り伊藤の家に行かなければ、総理大臣になることはなかったでしょう。松下村塾や吉田松陰、高杉晋作らに出会わなければ、今の日本もないはずです。人との出会いの大切さを、運命のすごさを改めて感じます。
■まつむら・くにひろ■
お笑いタレント。67年、田布施町生まれ。大学在学中にアルバイトをしていたテレビ局で、片岡鶴太郎氏にものまねを認められ、芸能界入り。歴史が好きで、特に中世から幕末・維新の歴史に興味がある。
最古の銅山で精錬復元なども
第2回銅山まつりは11月14日午前10時から美祢市長登(ながのぼり)銅山文化交流館などで開かれる。全国唯一の試みとして知られる古代銅製錬の復元実験や探検ツアー、クイズへの参加を呼びかけている。同まつり実行委員会、美祢市主催、幕末長州科学技術史研究会など共催。
古代銅の製錬では、鉱石挿入ボランティア(午後)を募集している。日本鉱業史研究会理事の植田晃一理事が技術指導。そのほか会場では、鋳造(参加費300円)、竹細工(無料)、炭焼き(同)の体験ができる。事前申し込みが必要。
古代銅山探検ツアーは日本最古の大切四号坑などを訪れる2時間コース、近世・近代史跡ツアーは明治・大正期の鉱山跡を見学する30分コース。
各自で探索する銅山ツアー・ウオーク、各種バザー、紙芝居「奈良の大仏」の上演、美東長登太鼓演奏もある。申し込み、問い合わせは同交流館(電話08396-2-0055)へ。
国指定史跡の長登銅山跡は日本最古の銅山跡で、奈良県の東大寺大仏との関係が立証された唯一の場所として知られる。
テーマ展:「松陰没後150年」--防府で /山口
安政の大獄で1859年に刑死した吉田松陰の没後150年に合わせ、テーマ展「吉田松陰と長州藩主毛利敬親」が防府市多々良の毛利博物館で開かれている。
幕末の動乱を乗り越え、長州藩が維新回天の偉業を成し遂げる原動力となった2人の書簡や肖像画など約20点を展示。松陰が諸外国の進出を憂慮する孝明天皇の思いを推し量って詠んだ漢詩、獄中で差し入れの酒に酔いながら書いた和歌などが目を引く。学芸員の柴原直樹さんは「松陰の人物像に迫ってほしい」と来場を呼び掛ける。12月21日まで。
平成の“薩長同盟”? 山口・鹿児島の観光連盟が姉妹縁組みへ
山口、鹿児島の両県観光連盟が姉妹縁組をすることなり、山口県庁で16日、盟約締結の調印式が行われる。幕末以来の歴史的な縁で実現した平成版「薩長同盟」が、観光業界に“維新の風”を起こせるか-。
九州新幹線が平成23年春に全線開通するのを機に、約2時間で結ばれることになる両県が、幕末・維新期の歴史的な縁を生かして観光面での交流を深めようというねらい。山口県側からの働きかけで、縁組が実現することになった。
かつて、同盟を結んだ仲とはいえ、倒幕までの道のりや維新後の新政府の運営方針などでわだかまりもくすぶる薩摩(鹿児島県)と長州(山口県)。そのせいか、これまで両県間で友好提携や姉妹縁組のケースはあまりなかったという。
しかし鹿児島側では「願ってもないチャンス」と大張り切り。「両県民が相互に旅行に出かけるのはもちろん、将来は薩長セットのツアー企画を全国に発信したい」と県観光連盟の松永祐吉専務。鹿児島側の一行は、陣羽織姿で調印式に臨むという。
山口県観光連盟の松井邦昭専務は「『新幹線で2時間』というのは、旅行にちょうどいい時間。来年のNHK大河ドラマは坂本龍馬が主人公なので、姉妹縁組の活動もちょうど波に乗れそう」と期待している。
正しい入浴法を伝授/那須野友規子さん
脚をケガした白狐が見つけたとの言い伝えが残る山口市の湯田温泉。幕末の志士も湯あみをした。室町時代以来の歴史を誇るいで湯で、温泉療法医として、望ましい湯治についてアドバイスを続ける。
温泉療法医とは、症状に合わせた温泉の選択や入浴方法を指導する医師。日本温泉気候物理医学会の研修を受け、認定される。自身が女性の認定医の第一号だったという。
東京の医大を出たころは、産婦人科医として活躍。傷痍(しょうい)軍人の温泉療養所がルーツの現・済生会湯田温泉病院に勤めて、リウマチ患者に向き合うなか、温泉療法に本格的に取り組むようになった。病院を定年退職した03年、漢方内科、リウマチ、アレルギー科の「ゆきこクリニック」(同市泉都町)を開業した。
診療の合間をぬい、求めに応じて温泉の正しい入り方について講演もする。浴衣姿でごちそう食べて、赤ら顔で露天風呂にザブン! 至福の瞬間ではあるが、これはNGと警告する。アルコールには利尿と血管拡張の作用があり、酒を飲んだ後の入浴は血圧低下が著しくなるからだ。一番風呂も、「湯がやわらかくなっていない。お年寄りにはお勧めできない」と言う。
秋気肌にしむ。湯めぐりの季節がまた来た。でも近頃、地元の湯田温泉に往時のにぎわいがない。90年代の初めには60万人台の宿泊客がいたが今では40万人を切っている。温泉情緒に乏しいことが課題のひとつ。こんな再生ヒントを挙げる。「道路脇にローズマリーやハッカなどを植えたらいい。公衆浴場などワンコインで入れる施設をつくってもいい」
(清水謙司)
高知
主役・福山さん抱負熱く 『龍馬伝』
広島県福山市藤江町のテーマパーク「みろくの里」で行われている来年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」のロケが5日、報道陣に公開された。坂本龍馬役の福山雅治さんや幼なじみ役の広末涼子さんら俳優たちが城下町を歩くシーンなどを撮影。記者会見で、福山さんらは「変化する時代を導いた強い意思と情熱を描きたい」などと熱く抱負を語った。
龍馬伝は、幕末の志士坂本龍馬の33年の生涯を描く青春群像劇。ロケは1~7日、土佐の城下町を再現したロケセットで実施されており、出演者や地元エキストラら総勢約200人が参加している。福山さんは5日からロケに参加。龍馬に恋心を抱く平井加尾役の広末さんや、龍馬の片腕として活躍した近藤長次郎役の大泉洋さんらと街角で出会うシーンなどを撮った。
会見で福山さんは「1年の準備期間で龍馬の人物像を考え続け、心構えができた」と強調。龍馬が鞆の浦(福山市)に滞在した史実については「聞いている。龍馬が訪れた場所がどんどん有名になり、今も語り継がれるのはすごい」と話した。同席した広末さんは「私の地元の高知の皆さんが大好きな龍馬の隣にいられるのは光栄。話もおもしろく、世代を超えて楽しんでもらえると思う」と期待感を述べた。
制作を統括する鈴木圭チーフ・プロデューサーは、龍馬率いる海援隊の商船と紀州藩の軍艦が瀬戸内海で衝突した「いろは丸事件」は「重要でダイナミックな場面。(現地ロケではないが)鞆の浦を設定したシーンも出てくる」と語った。
四国ミュージアム回廊:三十六館目 絵金蔵/4止 /四国
◆絵金蔵(高知県香南市)
◇夕飯のにおい、猫の鳴き声…町や人から絵金感じて
開館から今年で5年目を迎えた絵金蔵。町民が代々受け継いできた絵師金蔵(通称・絵金、1812~76)の芝居絵屏風(びょうぶ)23点を大切に保管するだけでなく、絵金の魅力を県内外に発信する役割も担う。05年2月の開館当初から蔵長(くらおさ)を務める横田恵さん(31)に話を聞いた。【千脇康平】
--横田さんは学生時代に絵金の研究をしていました。
絵金が生きた幕末は、人の価値観がぐらついているとき。単純に「なんでこんな絵を私らの高知の先祖は受け入れたんやろ」って。きっと絵金の個性がすごかったし、受け入れる側も何かシンパシーを感じたんだろうと思うと平たんな絵を見るより断然面白い。自分たちのルーツを絵金を通して知るというか。
--赤岡町の魅力とは。
路地です。細い路地をてくてく歩くと、夕飯のにおいがするとか、猫の鳴き声、人の話し声とか聞こえる昭和な感じ。あと、なんといっても人。蔵守(館内業務を手伝う町民ボランティア)がかいがいしくお客さんの世話をするんですが、いつの間にかすごい打ち解けてお客さんの人生相談に乗っていたことがある。隣の人がうちの植木を刈り込んでくれていたり、自転車のかごに食べ物が入れてあったり。この町の人はいろいろしてくれるんです。家族のよう。
--蔵を支えてくれる町民の姿はどう映りますか。
蔵を自分たちの所って思ってくれてると感じています。孫か子どもやないろうかというくらいすごく蔵や私の面倒を見てくれます。
--常設展しかないのが課題では。
現在、例えば白描画など屏風絵以外の絵金の作品を紹介するミニ企画展示室を1階の展示室2「蔵の穴」に作ろうと計画しています。新しいものを見てもらい、日本を代表する文化として絵金を紹介する必要がある。
--開館から4年がたち、来館者も5万人を超えた。これからどんな存在でありたいですか。
蔵だけが施設じゃない。町全体に見るべきところがたくさんある。絵金の空気は館だけじゃなくて町も合わせて味わってもらいたいんです。絵だけでなく、町の空気、人と触れて初めてこの空間に絵金がいたんだと分かる。そういうところを強みにしていきたい。蔵としては、情報源であり相談窓口であり、いろんな所から頼ってもらえる存在でありたい。絵金も町の人に支えられた人だったと思う。私たちの立場も絵金のような、どこまでも町の中、人々の中にあるという存在になりたいですね。=この項おわり
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◇ミュージアムガイド
【住所】高知県香南市赤岡町538
【電話番号】0887・57・7117
【観覧料】大人500円、高校生300円、小・中学生150円
【開館時間】午前9時~午後5時(入館は午後4時半まで)
【休館日】月曜日(祝日の場合は翌火曜日)
【行き方】土佐くろしお鉄道「あかおか駅」から徒歩約10分。高知市のはりまや橋から車で約40分。高知自動車道南国ICから車で約30分。
今日から始まるテレビドラマ『JIN-仁-』のポスターを、車窓からちらっと見かけました。
北海道
道南の産業や自然体験できる旅を 函館ホテル旅館協組がコンシェルジュセンター開設
詩文書展:開港5都市テーマに、書家252人力作--函館美術館 /北海道
青森
「コーヒーの街」 弘前PR
岩手
旧釜石鉱山総合事務所:昭和の雰囲気残す 13日から一般公開 /岩手
世界遺産:釜石・橋野高炉跡を「候補地に」 19日から専門家委 /岩手
岩手
孝順の足跡知って 18日まで八幡平市で没後160年展
福島
17日に旧越後街道でウオーク大会/坂下
鶴ケ城能楽堂 復活
群馬
世界遺産講演・シンポ:近代化支えた製糸場がテーマ--富岡で18日 /群馬
富岡製糸場とフランス
18日現地でシンポジウム
茨城
「烈公打ち」など刀剣・金工品展示 土浦市立博物館
映画「桜田門外ノ変」年明けクランクイン
東京
初動期の活動を継続させてほしい~トラスト助成団体の成果発表、公開座談会
町田市民文学館
森村誠一展開催
開館3周年を記念して10月17日(土)から、自身の講演会も
江戸の歴史と文化が現代に蘇る
東京時代まつり
神奈川
坂本龍馬の妻・おりょうさんしのび墓前祭/横須賀
幕末史照らす『万延』のホタル 150年前遣米団の史料に昆虫標本
遣米使節団が残したホタル
国登録有形文化財
和洋折衷住宅 来春公開へ
19世紀後半の幕末期の「和洋折衷住宅」として名高く、国の有形文化財(建造物)としても登録されている「中村家住宅主屋」(相模原市磯部1734)をめぐり、所有者が相模原市に寄贈を申し出ていたことが10月2日、わかった。これを受けて、相模原市議会9月定例会では、同住宅の改修費約1,280万円などを盛り込んだ補正予算案を承認した。市は来春の一般公開をめざし、一部の修復や案内板の設置などの工事にとりかかる。
中村家は、幕末期に生糸の商売で財をなした貿易商で、市内磯部の勝坂が本籍地とされている。建築は、伝統のある鎌倉大工の石井甚五郎が慶応3年(1867年)に手がけ、完成まで10年を要した。建物は瓦葺造2階建てで、延べ床面積約420平方メートル。1階が整形四間取りで、西側に式台玄関があり、外観は和風様式。2階はなまこ壁の外壁に、曲線の白漆喰で塗りこんだ洋風の軒、正面には縦長の窓を配している。建築当初は3階建てだったものの、関東大震災の後、3階部分が取り壊された。当時の周辺には農家が軒を連ね、古民家風の家屋が主流の中で、極めて珍しい建築物だったため、国は2006年に文化財登録を行った。所有者は「市民の文化遺産として活用してほしい」とこのほど寄贈を申し出たという。
新たな散策コースを
先の9月定例会で補正予算案が可決したことを受けて、市は中村家住宅の来年4月の一般公開を決定。今後、案内板の設置、防犯や防火設備の設置工事に乗り出す。加えて、縄文土器の発掘で知られる勝坂遺跡と中村家住宅を見学できる散策コースを計画中で、一般公開に向けてパンフレットを作成するなど、準備を進めていきたい考えだ。
社告:「大・開港展」で将軍家至宝など--横浜美術館
長野
「蚕都」の宝、地域づくりに生かそう 上田で初シンポ
岐阜
美濃加茂で「皇女和宮と太田宿本陣展」
福井
敦賀で悲運の最期、浪士を慰霊 水戸天狗党挙兵145年
福井
橋本左内墓前祭に直弼子孫 彦根市長ちゃっかり観光PR
橋本左内墓前祭:井伊大老の子孫が初参列--福井市 /福井
井伊家、福井訪れ橋本左内の墓参 150年ぶり“和解”
「安政の大獄」後150年“和解” 橋本左内墓前祭に井伊家子孫ら
井伊家当主、橋本左内の法要参列 大獄から150年の「和解」
井伊直弼子孫が橋本左内の墓参り 「歴史的因縁越え交流を」
左内墓前祭に直弼子孫ら
安政の大獄恩讐超えて
彦根市、ここのところ、ひこにゃんを連れて「弔問」外交を盛んに行ってますなぁ。こういう友好活動も「あり」だと思います。
北海道
道南の産業や自然体験できる旅を 函館ホテル旅館協組がコンシェルジュセンター開設
【函館】函館ホテル旅館協同組合(山下久幸理事長)は、観光客に道南の産業、自然を体験してもらう旅行プランの企画などを手掛ける「函館観光コンシェルジュセンター」を函館市東雲町の同組合事務所に開設した。函館観光の総合的な情報提供や観光客誘致にも取り組んでいく。(小森美香)
厚生労働省の「地域雇用創造実現事業」の一つで、2011年度末までの事業。同組合がこの間、約2100万円で委託を受け、1日にセンターを開設した。
運営を担うのはさまざまな観光・体験プログラムの参加などを受け付けるホームページ「はことれ」代表で、総合旅行業取扱管理者の小林功さん(54)と、センターで雇用した市内の20代の男女2人。
10年度には現在復元中の箱館奉行所が完成することから、新選組に関連した体験プランを企画する考えで、修学旅行生の誘致にも力を入れる。
委託期間終了後も独立した法人として継続することが狙いだ。小林さんは「函館を訪れる人に望まれるプランとサービスを提供したい」と話している。
詩文書展:開港5都市テーマに、書家252人力作--函館美術館 /北海道
函館開港150周年を記念した「日本詩文書作家協会」(東京)の書道展「開港地を謳(うた)う」(毎日新聞社など主催)が11日から、函館市の道立函館美術館で開かれる。幕末の通商修好条約で国際貿易港となった函館のほか、横浜、神戸など「開港5都市」をテーマに、国内を代表する現代書家252人が土地にちなんだ詩歌や文学を取り上げ、描き出している。
作品は函館に一時とどまった明治期の詩人、石川啄木の「一握の砂」などのほか、野口雨情の「赤い靴」などを詩情豊かに描いた作品が目立つ。
青森
「コーヒーの街」 弘前PR
弘前市内の喫茶店が今秋、「弘前はコーヒーの街です」事業に乗り出す。北方警備に赴いた津軽藩士らが飲んだとされるコーヒーを再現して提供するほか、喫茶店マップの配布などで、地域で育まれてきた喫茶店文化をPRする。
事業を手掛けるのは、市内の喫茶店15店で結成した「弘前はコーヒーの街です委員会」。代表の成田専蔵さん(58)によると、弘前では大正~昭和時代には、和装に白エプロンのウエートレスがコーヒーなどを運ぶカフェが流行した。現在も、1929年に創業した東北最古の喫茶店「万茶ン」を始め、140店余りの喫茶店が営業している。
委員会は、「街がコーヒーの味を育ててきた。喫茶店巡りを通じて、この歴史を知ってもらいたい」と、事業を計画した。
コーヒーは、江戸時代には不治の病だった水腫病などに効くとされ、北海道稚内市の市史には、幕末の1855年(安政2年)に北方警備に出向いた会津藩や津軽藩士に配られたとの記述が残っている。これが、庶民がコーヒーを薬として飲んだ国内初の例とされる。
事業では、この歴史に目を付け、「藩士のコーヒー」として再現。今月10日頃から、藤田記念庭園(弘前市上白銀町)内の大正浪漫喫茶室など10店で、300~500円台で提供する。コーヒーの入れ方は、コーヒーを詰めた麻袋を湯の入った土瓶に浸し、振り出しながら抽出する。
事業は当面、来年2月末までを予定し、喫茶店マップの発行や、オリジナルのコーヒーストラップを進呈するスタンプラリー、コーヒーの飲み方セミナーの開催なども計画している。
成田さんは、「コーヒーの歴史のロマンを感じてもらいながら、市民との交流にもつなげたい」と話している。問い合わせは、事務局の成田専蔵珈琲(コーヒー)店(0172・28・2088)へ。
岩手
旧釜石鉱山総合事務所:昭和の雰囲気残す 13日から一般公開 /岩手
釜石市甲子町大橋の旧釜石鉱山総合事務所が、13日から一般公開される。戦後日本の復興を支えた、昭和の雰囲気を残す産業遺産。TBSのテレビドラマ「官僚たちの夏」のロケにも使われた。
日鉄鉱業(東京)が1951年、釜石製鉄所向けの鉄鉱石のほか銅も採掘していた釜石鉱業所(当時)の事務所として建てた。鉄筋コンクリート2階建て(延べ床面積1440平方メートル)。高い天井や広い間取り、坑内作業員らが出入りした30メートルもある受け付けカウンターなど機能重視の造りが特徴だ。保存状態は悪くないという。
釜石鉱業所を引き継いだ現地子会社の釜石鉱山事務所として07年9月まで使われたが、昨年3月、市に寄贈された。寄託された鉱山関係資料約900点のうち、500点とともに公開する。
公開資料には幕末に盛岡藩士の大島高任(たかとう)が事務所周辺に築き、日本で初めて出銑(しゅっせん)に成功した洋式高炉のレンガをはじめ磁鉄鉱の結晶、削岩機などの工具もある。ドラマで炭鉱事務所に見立てた1階事務所には、古い木製机や応接セットなどがロケ時のままに並べられている。
公開は12月7日までの原則平日。希望があれば職員が説明する。問い合わせは市教委生涯学習スポーツ課(0193・22・8835)。【鬼山親芳】
世界遺産:釜石・橋野高炉跡を「候補地に」 19日から専門家委 /岩手
世界遺産登録を目指す「九州・山口の近代化産業遺産群」について、日本の製鉄業発祥の地・釜石に残る国史跡、橋野高炉跡を構成資産に加える取り組みが進んでいる。同遺産群の構成資産を検討する専門家委員会は今月19~21日に東京で開かれ、議論される予定だ。同委を経て6県知事らでつくる推進協議会で決定する。認められれば、暫定推薦書を提出した「平泉」、今年5月に暫定リスト入りした「北海道と北東北の縄文遺跡群」の御所野遺跡(一戸町)に続く県内3カ所目の候補地になる。
県教委や鹿児島県世界文化遺産登録推進室によると、「九州・山口の近代化産業遺産群-非西洋世界における近代化の先駆け」は、九州と山口の6県11市に残る、幕末から明治時代にかけての炭鉱跡や反射炉跡など22カ所の産業遺産からなる。飛躍的に工業化した過程と基礎を示す資産として、顕著で普遍的な価値を持つとされる。
文化庁は、暫定リストに追加する際、産業遺産群を九州・山口に特化する妥当性や構成資産に過不足がないか検証するよう求めた。橋野高炉跡は、近代製鉄の発祥地で保存状況も良いことから追加候補に名前が挙がったという。
橋野高炉跡は、盛岡藩が大島高任らに命じて1858~59年に築造した1~3番高炉などを含む総称。1857年に大島が成功した鉄鉱石を原料に出銑する技術を用いた洋式高炉で、当時の遺構も残っている。日本古来のたたら製鉄から近代技術への転換を探る上でも貴重だとされる。
専門家委の国外委員のうち3人が既に橋野高炉跡を視察し、高く評価しているという。同委のカール・コソン総括委員長も今月14日に訪れる予定だ。
橋野高炉跡は、現在も上屋の発掘調査が進められている。担当する釜石市教委の文化財調査員の森一欽さんは「釜石で鉄の大量生産が始まり、コークスを用いた製法が確立した。日本の製鉄技術史を語るには重要な地だ」と候補地入りに期待を膨らませる。【山口圭一】
岩手
孝順の足跡知って 18日まで八幡平市で没後160年展
八幡平市叺田(かますだ)の市博物館で18日まで、企画展「東叡山(とうえいざん)護国院孝順を支えた大名家」が開かれている。同市石神出身で徳川家の菩提(ぼだい)所である東京・上野の寛永寺の最高職に上った孝順(こうじゅん)(1771~1848年)の没後160年を記念。約50点の貴重な史料で偉業を振り返り、地元の誇りとして関心をもってもらうことが主題だ。
孝順は、旧浅沢村石神の漆器問屋齋藤家に生まれた。12歳の時に出家し寛永寺の36子院の一つ、東叡山護国院に入った。後に護国院住職を務め、学僧として寛永寺の最高職でもある学頭職にも就任。59歳で大僧正に上った。
孝順は深く天台教義を追究した僧で、対立を好まなかったという。孝順が携帯した「南無阿弥陀佛」の六字名号の小さな軸や、懐に収めていた小さな黄金仏なども展示し、その信仰の一端に触れることもできる。
森家(美作(みまさか)津山藩)、秋元家(上野館林藩)、酒井家(荘内鶴岡藩)など、護国院を援助し支えた大名家も史料で紹介。当時の寺院と大名家との関係について知ることができる。
孝順の生家齋藤家が盛岡藩士となったことから、幕末期の盛岡藩家老楢山(ならやま)佐渡のものとされるかぶと「黒熊(こぐま)」も展示している。
矢萩昭二館長は「岩手出身者には宗教的な面でも優秀な人物がいたことを知ってほしい」と企画展の意義を語る。
八幡平市博物館の開館は午前9時から午後4時半で、月曜休館。入館料は大人200円、高校生以下100円。問い合わせは同館(0195・63・1122)へ。
福島
17日に旧越後街道でウオーク大会/坂下
旧越後街道を歩く束松峠ウオーキング大会は17日午前9時から、会津坂下町の高寺公民館をスタート・ゴールに開かれる。
幕末の思想家吉田松陰や英国の探検家イザベラ・バードが歩いた歴史ロマンあふれる道。
13日まで参加者を募集している。
旧越後街道は古来、会津地方と新潟地方を結ぶ重要な街道。
コースは公民館を出発した後、三本松、束松洞門、峠の茶屋などを巡って同公民館に戻る約5キロの行程。
終了後は参加者に豚汁を振る舞う予定。
鶴ケ城能楽堂 復活
●寄付1億3000万円、市民の力で
かつて会津若松市の鶴ケ城内にあった能舞台を復活させようと、愛好家らが地元企業や個人から約1億3千万円の寄付を募り、建設した能楽堂が1日、オープンした=写真。財政難の市に代わり、市民の力で建設しようという呼びかけに約2千人が応じて実現、同市に寄付した。
愛好家らでつくる会津能楽堂建設協会の満田政巨代表理事(80)は「300年、500年と後世に残る能楽堂ができた。伝統文化を会津から発信する拠点にしたい」と感無量の様子だった。市教委などによると、鶴ケ城内には江戸時代に能舞台があったが、戊辰戦争後に壊されたという。
市が鶴ケ城公園内の用地を提供し、昨秋に着工。木造平屋建て、延べ床面積約250平方メートルの能楽堂が8月に完成していた。奈良・吉野産の最高級ひのきを使い、職人技で仕上げた建築で、屋外施設としては全国有数という。
寄付を受けた市は、能だけでなく、日舞や邦楽、落語など広く一般開放する予定で、すでに茶会などの予定が入っている。使用料は日中4時間で6300円、夜間8400円など。約400人程度の観覧席の設営が可能という。
群馬
世界遺産講演・シンポ:近代化支えた製糸場がテーマ--富岡で18日 /群馬
「近代化を支えた富岡製糸場」をテーマにした世界遺産講演会・シンポジウム(富岡市教育委員会など主催)が18日午後1時半から、富岡市富岡の富岡製糸場東繭倉庫で開かれる。日本の近代化を支えた同製糸場を創出した仏国人と日本人が何を目指し、共に動いたのかを考える。
講演会では、横浜で江戸幕末の開港とともに絹織物商を営んだ椎野正兵衛商店の4代目店主の椎野秀聰(ひでさと)さんが「ものづくりの本質」を、日仏外交・交流史研究家で仏国ピレネー生まれのクリスチャン・ポラックさんが「フランスにおける富岡製糸場の役割」を講演する。
シンポジウムでは、豪州シドニー生まれで明治初期の日本文化研究家のアレキサンダー・バーンさんと岩井賢太郎富岡市長が、講演会の講師2人とともに「富岡製糸場の本当の価値」をテーマに質疑応答する。
入場無料。定員200人。15日までに、同市教委世界遺産推進課(0274・64・0005)へ申し込む。【畑広志】
富岡製糸場とフランス
18日現地でシンポジウム
富岡製糸場とフランスとのかかわりをテーマにした「世界遺産講演会・シンポジウム―近代化を支えた富岡製糸場」(市教育委員会など主催)が18日、富岡市富岡の富岡製糸場東繭倉庫で開かれる。創設にフランス人技師が参加した経緯などに着目した企画で、日仏外交・交流史研究家のクリスチャン・ポラック氏が「フランスにおける富岡製糸場の役割」と題して講演する。
ポラック氏は1971年に日本政府国費留学生として来日して以来、日本に住み続け、「絹と光」「維新とフランス」などの著書がある。
「椎野正兵衛商店」社長の椎野秀聰氏も、「ものづくりの本質」と題して講演する。曽祖父は、江戸幕末の開港とともに横浜で絹織物商を営み、ブランド「S・SHOBEY」の商品は欧米で評価された。椎野氏は、そのブランド再興を目指している。ポラック氏や椎野氏によるシンポジウムもある。
午後1時半から3時間。入場無料。定員200人。申し込みは15日まで。申し込みなどは市教委世界遺産推進課(0274・64・0005)へ。
茨城
「烈公打ち」など刀剣・金工品展示 土浦市立博物館
土浦藩土屋家に伝わる水戸徳川家九代藩主徳川斉昭(烈公)の刀剣や幕末の金工品を紹介するテーマ展「烈公打ちの刀~水戸刀工と金工の名品」が十一日まで、土浦市立博物館(土浦市中央一)で開催されている=写真。
斉昭は刀剣に深い関心を寄せ、藩工の補佐として自ら作刀したと伝えられる。その刀剣は「葵(あおい)くずし」と呼ばれた。斉昭はこれら刀剣を諸大名への贈答品にしたり、家臣に与えたりしたという。同展は、土屋家伝来の「烈公打ち」の刀剣五振りを紹介、ほかに幕末の水戸金工として知られる萩谷勝平の鐔(つば)など約五十点を展示している。問い合わせは同館=(電)029(824)2928=へ。 (塙幸雄)
映画「桜田門外ノ変」年明けクランクイン
水戸市民が中心となって製作に向けた運動を進めている映画「桜田門外ノ変」が、いよいよ来年1月から撮影に入る。「映画化支援の会」によると、ロケはすべて県内で行い、江戸城桜田門周辺のオープンセットは水戸市の千波湖畔に造る。佐藤純彌監督のほか大沢たかお、北大路欣也、伊武雅刀と主要キャストも固まっており、着々と実現に向けて進んでいる。
桜田門外の変は明治維新の8年前、江戸城の桜田門外で時の大老井伊直弼が水戸藩士らに暗殺された事件。幕末維新の歴史に大きな影響を与えたにもかかわらず、映画やドラマで大きく取り上げられることは少なかった。
映画化の発端は、07年秋に市民の有志が「映画を起爆剤に街を元気にしよう!」と声を上げたこと。
映画関係者にアプローチを続け、映画会社を巻き込む形で製作を具体化させた。併せて「『桜田門外ノ変』映画化支援の会」を立ち上げた。
原作は吉村昭の「桜田門外ノ変」。井伊直弼の視点からではなく、井伊直弼暗殺の指揮官、水戸藩士関鉄之介を主人公としながら、徳川斉昭を中心とする水戸藩と幕政との関係、水戸藩士が幕末に占めていた地位などにスポットを当てる。
関鉄之介役は大沢たかおさん。徳川斉昭役は北大路欣也さん、井伊直弼役を伊武雅刀さんが務める。水戸市民の運動で生まれた映画だけに、キーワードは地元密着。象徴はロケ地で、今のところ全ロケを県内で完結させる方向で進んでいる。千波湖畔には井伊邸から桜田門に続く街並みを本物そっくりに再現する。
「支援の会」事務局次長の谷田部智章さん(36)によると、10月後半からオープンセットの建設をスタート。年内に建設を完了し、年明けから3、4月にかけて撮影。来年秋以降に全国上映する。
谷田部さんは「全国の人にもっと水戸を知っていただきたいし、水戸に住んでいる人にはもっと水戸に誇りを持ってもらいたい。この映画を通じて、一人でも多くの人に水戸に関心をもってもらい、足を運んでもらえれば」と話している。
東京
初動期の活動を継続させてほしい~トラスト助成団体の成果発表、公開座談会
3日、足立区勤労福祉会館ホールで、平成20年度に公益信託あだちまちづくりトラストの助成を受けた7団体の成果報告会が行われた。
公益信託まちづくりトラストは、(財)足立区まちづくり公社が、まちづくりのさまざまな発想や創意をいかすために行う調査・研究や活動に対して資金を援助する制度で、昭和63年に設立された。
申込は毎年1月と6月の年2回で、1回あたりの助成限度額は300万円で、同一事業への助成は3回まで。学識経験者やまちづくり専門家で構成されるトラスト運営委員会(大熊喜昌委員長)による審査で決定する。
発表したのは、「森鴎外記念碑を建立する会」「NPO法人まちなみ育成会足立支部」「日本脚本アーカイブズ倶楽部」「西新井大師まちづくり研究会」「綾瀬新選組研究会」「灯ろう流しと音楽会実行委員会」「神明美化グループ」の7つ。
各発表者は、活動に対してのPRに苦慮していること、建造物の建立にあたり道路使用などの許認可に手間取ったこと、活動者の高齢化、歴史上の事実をまちおこしに活かすためにモニュメントがほしい、文学碑建立に終わらずに保存会設立で次世代へなどの課題を挙げた。
一方、トラスト運営委員からは、目先の成就だけではなくさらに継続して活動をしてほしいという要望や、足立区を巡る河川舟運事業に取り組む「まちなみ育成会」には小型船舶の使用について事前に行政ともっと協議をしてほしかった、計画に甘さがあったのではないかという指摘があった。
大熊委員長は「このトラストは『こと調べ』『こと作り』『こと興し』の初動期の活動を支援するもの。ぜひその後の活動につなげていってほしい。そしてITなどを用いて情報発信に努めていただきたい」とまとめた。
成果発表会の後は、発表者の4人がパネリストになり、足立区まちづくり推進委員会主催のまちづくりフォーラムが公開座談会の形式で行われた。
町田市民文学館
森村誠一展開催
開館3周年を記念して10月17日(土)から、自身の講演会も
開館3周年を迎える町田市民文学館ことばらんどで10月17日(土)から「森村誠一展-拡大する文学」が開催される(来年1月17日まで)。
同展ではミステリーを主軸としながらノンフィクション、歴史小説、エッセイなど幅広い分野で作品を発表し続けている森村誠一氏の幼年期からの読書体験、作家へのエネルギーを凝縮させたホテルマン時代、旺盛な表現欲を源に活躍を続ける作家活動、新たな表現世界への挑戦などを紹介する。
森村氏自身の講演会「小説の志(ビジョン)」も12月6日(日)(14時~16時)に開催される。ほかにも期間中に講演会や講座・文学散歩なども行われる。日程は11月22日(日)、講演会「森村誠一が描く『人間の森』-江戸川乱歩賞受賞から40年の軌跡」(講師=成田守正氏)、講座「森村誠一『新撰組』を読む・歩く」(11月17日(火)、12月1日(火))。また第2・4火曜日には学芸員による解説も実施予定(14時~15時)。
申込み方法や講座・文学散歩などの詳細は町田市民文学館へ。電話042(739)3420
江戸の歴史と文化が現代に蘇る
東京時代まつり
浅草寺創始から現在まで、江戸の歴史や文化、風俗を総勢1600名の歴史絵巻で再現する。1370年余り昔、隅田川に現れた観音様が祀られたことに始まり、浅草寺を中心とする庶民文化の一大拠点として栄えてきた浅草。「東京時代まつり」は、浅草の歴史を今に伝える一大行事だ。
当日は、浅草寺創始から平安・鎌倉期、徳川家康江戸入府、幕末・文明開化、現代までを総勢約1600人の大行列で表現。江戸消防(火消し)の梯子のりや浅草の芸妓など、江戸ならではの風俗を再現した行列もあり、見応えたっぷり!
壮大な歴史絵巻を通して、東京の歴史と文化の原点を肌で感じてみよう。
神奈川
坂本龍馬の妻・おりょうさんしのび墓前祭/横須賀
幕末の志士・坂本龍馬の妻おりょうの墓前祭が10日、横須賀市大津町3丁目の浄土宗信(しん)楽(ぎょう)寺(新原千春住職)で開かれた。大津観光協会の主催で今年21回目。龍馬の生誕の地・高知市などから参加した人を含め、約300人が、おりょうを追慕した。
おりょうは「寺田屋騒動」の際、機転を利かせて龍馬を救ったことで知られる。夫婦となって鹿児島に旅行したのが「日本最初の新婚旅行」ともいわれる。
しかし、龍馬が暗殺された後、おりょうは流浪の人生を送った。同観光協会によると、横須賀に移り住んで再婚したが、不遇のうちに66歳で生涯を閉じた。同寺に墓が残っている。
墓前祭が行われた本堂には、おりょうの写真や木像が飾られ、招待者らが次々に焼香した。
同観光協会の増田茂会長が「多くの人にお参りしてもらえて感謝します。横須賀の人たちの支えがあって、おりょうさんは66歳まで生きた。来年は大河ドラマで『龍馬伝』が放送され、さらに多くの人がお参りしてくださると思います」などとあいさつした。歌謡吟詠の成田峯麗さんが自ら作詞作曲した「おりょう」を歌うのに合わせ、雪柳京都さんが舞を披露し、参加者を楽しませた。
このほか、近くの大津コミュニティセンターでは、龍馬とおりょうが好んだという月琴の演奏会なども行われた。
幕末史照らす『万延』のホタル 150年前遣米団の史料に昆虫標本
江戸時代末期の万延元(一八六〇)年、米国に派遣された使節団の記録史料の中から、当時採集された中米産のホタルとみられる昆虫標本が見つかり、横須賀市が九日、復元画像を公開した。幕末史の小さな一ページが、百五十年ぶりによみがえった形だ。
ホタルの標本は、使節団に参加した幕府勘定組頭の森田清行の子孫(同市在住)が保管する文書の合間に、「乾蛍」と書かれた紙袋に包まれ、混入していた。体長は約九ミリ。ばらばらに分かれた頭や胴体、尾などを画像で復元した。
文書と標本を調査した同市自然・人文博物館によると、清行の当時の日記には、運河が開通する前のパナマ港に使節団が停泊した際、船内に紛れ込んだホタルを採集したとの記述があるという。
使節団は、日米修好通商条約を批准するため、米軍艦で渡米。パナマから陸路で大西洋側に出て、ワシントンに向かう途中だった。
同市は標本には「歴史的価値」があるとして、調査内容を、十二日に津市の三重大で開かれる日本昆虫学会で発表する。 (新開浩)
遣米使節団が残したホタル
横須賀市自然・人文博物館資料調査中に発見
江戸時代末期の1860年、日米修好通商条約批准のため、アメリカを訪れた遣米使節団の高官が残した資料の中から、約150年前の中米産ホタルの標本が発見された。横須賀市自然・人文博物館が9日、発表した。同博物館は「採集日時や場所が明確で、歴史的にも博物学的にも貴重な資料」としている。
同博物館によると、ホタルを採集したのは、使節団の正使、副使、監査役に次ぐ序列第4位の勘定組頭、森田清行。
同博物館が市史編集事業のため、同市に住む森田の子孫から借りた遣米使節団の資料を調べていたところ、森田が旅行中に集めたハワイの植物の押し花などをまとめた記録の中から、「乾蛍」と書かれた紙にくるまれた虫を見つけた。
虫は五つの断片に分かれていたが、カビや虫に食われることもなく、原形をとどめていた。博物館がパソコンで断片画像を合成したところ、体長9ミリの中米産ホチヌス属のホタルのオスと分かった。
森田は1860年2月、米軍艦ポーハタン号で品川を出発。太平洋横断後、同年4月24日夜、中米パナマで停泊中の日記に「夜中蛍火船窓ヨリ入ル」との記載があり、ホタルが窓から飛び込んできたことが明記されているという。
同博物館では、初代館長の羽根田弥太博士が昨年のノーベル化学賞受賞者、下村脩・米ボストン大名誉教授と発光カタツムリの共同研究をしていたことや、ホタルの研究が専門の学芸員がいたことなどから、発光生物にゆかりが深い。
内舩(うちふね)俊樹学芸員は「ペリー来航や咸臨丸出港などがあった横須賀で、幕末期の歴史にまつわる発光生物の古い標本の発見は大変うれしい」と話している。
この発見は10日から三重県津市で開かれる日本昆虫学会で発表される。
国登録有形文化財
和洋折衷住宅 来春公開へ
所有者が市に寄贈 勝坂遺跡と併せ観光スポット模索
19世紀後半の幕末期の「和洋折衷住宅」として名高く、国の有形文化財(建造物)としても登録されている「中村家住宅主屋」(相模原市磯部1734)をめぐり、所有者が相模原市に寄贈を申し出ていたことが10月2日、わかった。これを受けて、相模原市議会9月定例会では、同住宅の改修費約1,280万円などを盛り込んだ補正予算案を承認した。市は来春の一般公開をめざし、一部の修復や案内板の設置などの工事にとりかかる。
中村家は、幕末期に生糸の商売で財をなした貿易商で、市内磯部の勝坂が本籍地とされている。建築は、伝統のある鎌倉大工の石井甚五郎が慶応3年(1867年)に手がけ、完成まで10年を要した。建物は瓦葺造2階建てで、延べ床面積約420平方メートル。1階が整形四間取りで、西側に式台玄関があり、外観は和風様式。2階はなまこ壁の外壁に、曲線の白漆喰で塗りこんだ洋風の軒、正面には縦長の窓を配している。建築当初は3階建てだったものの、関東大震災の後、3階部分が取り壊された。当時の周辺には農家が軒を連ね、古民家風の家屋が主流の中で、極めて珍しい建築物だったため、国は2006年に文化財登録を行った。所有者は「市民の文化遺産として活用してほしい」とこのほど寄贈を申し出たという。
新たな散策コースを
先の9月定例会で補正予算案が可決したことを受けて、市は中村家住宅の来年4月の一般公開を決定。今後、案内板の設置、防犯や防火設備の設置工事に乗り出す。加えて、縄文土器の発掘で知られる勝坂遺跡と中村家住宅を見学できる散策コースを計画中で、一般公開に向けてパンフレットを作成するなど、準備を進めていきたい考えだ。
社告:「大・開港展」で将軍家至宝など--横浜美術館
横浜開港150周年と横浜美術館開館20周年を記念した「大・開港展-徳川将軍家と幕末明治の美術」が、横浜市西区の横浜美術館で開催されている。
展覧会は、開港が芸術に及ぼした影響を浮き彫りにしようと企画された。幕末の徳川将軍や篤姫、和宮らの調度品、開港期を描いた横浜浮世絵、真葛焼や芝山細工など輸出用工芸品や、高橋由一らによる初期の洋画など、幕末から明治の至宝約230件を紹介している。
《会期》11月23日まで。木曜休館。入館時間は午前10時~午後5時半(金曜は午後7時半まで)《会場》横浜美術館(横浜市西区みなとみらい3の4の1、電話045・221・0300)《観覧料》一般1000円、大高生700円、中学生400円
主催 毎日新聞社、財団法人徳川記念財団、横浜美術館
特別協賛 財団法人横浜開港150周年協会
後援 横浜市、NHK横浜放送局
長野
「蚕都」の宝、地域づくりに生かそう 上田で初シンポ
上田市民有志でつくる「蚕都(さんと)上田プロジェクト」(代表・三田育雄長野大教授)は4日、初めてのシンポジウム「蚕都上田お宝発見~歴史と文化~」を、信大繊維学部講堂(上田市常田)で開いた。幕末から昭和初期に蚕種や製糸といった蚕業で栄えた上田地域の歴史を踏まえ、市内に残る繭倉や洋風建築物、伝統の絹織物「上田紬(つむぎ)」などを「宝物」として地域づくりに活用する方法を話し合った。
シンポジウムは2部構成。第2部のトークセッションでは、放送作家加瀬清志さん=佐久市=のほか、フリーパーソナリティーの小林良子さんら上田市在住の4人が登壇。「信州上田雛(ひな)の会」代表の下谷よし枝さんは絹の古布などで作るひな飾りの「つるし飾り」、小岩井紬工房の小岩井良馬さんは上田紬、1級建築士竹内秀夫さんは明治から大正期の繭倉や洋館などを、画像で紹介した。
加瀬さんは「地元の人ほど地域の魅力に気付かない」と指摘。「街歩きがポイント」とし、きっかけとして世代を問わずに楽しめる「お宝発見すごろく」作りを提案。上田紬を使った市の旗の製作、「ひな飾りサミット」の開催なども挙げ「アイデアは10あれば3くらい実現できる。市民がプロジェクトに参加して、どんどん声を上げるといい」とした。
三田教授は、1部の講演会と合わせ延べ約200人の来訪に手応えを感じたとし、「この地域で蚕業の歴史と共に豊かに生きるために知恵を出し合い、時間がかかってもアイデアを実現していきたい」と話していた。
岐阜
美濃加茂で「皇女和宮と太田宿本陣展」
幕末に将軍家へ降嫁する途中、太田宿本陣に1泊した皇女和宮。その接待ぶりを紹介する「皇女和宮と太田宿本陣展」が、美濃加茂市太田本町の太田宿中山道会館で開かれている。11月29日まで。
和宮は1861(文久元)年10月、太田宿本陣に宿泊。本陣の第18代当主福田太郎八幸周はこの準備に1年かけ、重箱や食器を新調したり門を改修したという。
企画展には本陣家に伝わる12点を出品。和宮一行のもてなしに使われたお膳や輪島塗の重箱など豪華な品々が紹介されている。
訪れた人たちはガラスケースの中で輝く陶器の皿や上品なおわんを眺めながら、和宮の行列に思いをはせていた。
18日には旧太田宿一帯で、和宮ら姫の行列を再現した「おん祭MINOKAMO秋の陣」が開かれる。
福井
敦賀で悲運の最期、浪士を慰霊 水戸天狗党挙兵145年
幕末に尊皇攘夷(そんのうじょうい)を掲げ、敦賀で悲運の最期を遂げた水戸天狗(てんぐ)党の挙兵から145年の慰霊祭は9日、敦賀市松島町2丁目の武田耕雲斎等墓の前ので営まれた。参列者は焼香や吟詠で、遺徳をしのんだ。
同市民でつくる敦賀水戸烈士遺徳顕彰会が5年ぶりに開いた。同会員や河瀬一治市長のほか、茨城県3市の首長ら関係者約100人が参列した。
同会の中瀬実会長が「憂国の志で挙兵はやむにやまれなかったと思う。首を切られた353人の烈士の御霊(みたま)が安らかならんことを願う」と奉告。河瀬市長は「遺徳に感謝し、豊かで平和な社会にすることを誓う」と述べ、加藤浩一・水戸市長ら3市の代表も追悼の言葉を述べた。
岳心流つるが岳心会が吟詠を披露。読経が流れる中、参列者は祭壇に焼香し、手を合わせて悲運に思いをはせていた。
水戸天狗党は1864年筑波山で挙兵。京都へ向かう途中、敦賀で幕府により処刑され、志半ばで命を失った。同墓には、総大将の武田耕雲斎ら浪人の御霊が祭られている。10日は松原神社で浪人まつりが行われる。
福井
橋本左内墓前祭に直弼子孫 彦根市長ちゃっかり観光PR
幕末の「安政の大獄」で刑死した福井藩士の橋本左内は没後150年。処刑を命じた大老井伊直弼(なおすけ)の子孫・直岳(なおたけ)さん(40)が、初めて福井市内で墓前祭に参列した。
左内は藩政改革に尽力したが、将軍の後継問題で直弼と対立。直岳さんは「日本の将来のためにできることを2人はやろうとした」。
直弼の地元、滋賀県彦根市の獅山(ししやま)向洋市長も一緒に参列。獅山市長は「ひこにゃん」を伴い福井市長も訪問。「観光PRも忘れていない」と福井側をうならせた。
橋本左内墓前祭:井伊大老の子孫が初参列--福井市 /福井
幕末の混乱期を生きた志士で、「安政の大獄」により処刑された福井藩士、橋本左内(1834~59年)の墓前祭が7日、福井市左内町の左内公園で開かれた。処刑した江戸幕府の大老、井伊直弼(1815~60年)の子孫らが初めて参列し、墓前で祈りをささげた。
安政の大獄では、橋本左内の他にも吉田松陰ら多数の志士が投獄、処刑された。彦根市では市内で開催中の「井伊直弼と開国150年祭」の一環で、処刑した志士の地元訪問を企画し、8月には吉田松陰の地元を訪れ慰霊した。慰霊は今回が第2弾で、井伊家18代当主の井伊直岳・彦根城博物館館長や獅山向洋・彦根市長らが訪問し、焼香した。
参列を済ませ井伊館長は「歴史は歴史として、これから彦根と福井の交流が良い方向に向かっていけばいいと思う」、獅山市長は「何となくすっきりした気持ちになった。訪問して良かったと思う」と話した。
式典後に獅山市長や井伊館長らは彦根市の人気キャラクター「ひこにゃん」を連れ、福井市役所を表敬訪問。東村新一・福井市長はひこにゃんに握手を求められ、「つぶらな瞳がかわいらしいね」と目を細めていた。【安藤大介】
井伊家、福井訪れ橋本左内の墓参 150年ぶり“和解”
幕末に活躍した福井藩士・橋本左内(1834~59)の没後150年祭となる「橋本左内先生墓前祭」が7日、福井市左内町の左内公園で営まれた。安政の大獄で左内の処刑を指示した彦根藩主、井伊直弼(いいなおすけ)(1815~60)の子孫にあたる井伊直岳(なおたけ)さん(40)ら滋賀県彦根市の関係者も初めて参列した。
橋本左内先生顕彰会(会長=東村新一・福井市長)が主催し、市民ら約150人が参列。井伊さんや獅山向洋(ししやまこうよう)・彦根市長らも焼香し、墓に手を合わせた。左内作の漢詩の吟詠や、地元の福井市立足羽小6年の児童24人による「橋本左内先生をたたえる歌」も披露された。
井伊さんもあいさつに立ち、「左内と直弼はともに行く末の定まらない日本を憂い、志半ばで死を迎えた。今は心静かに哀悼の意を表したい」と述べた。
井伊さんらは墓前祭の後、福井市役所を訪問。東村市長は「現代を生きる我々には、安政の大獄は歴史の出来事。墓前祭に来てもらい感謝している。これを機に友好が深まれば」と歓迎し、獅山市長は「没後150年の節目に墓参りができて良かった。彦根と福井はともに幕府を支えた藩だったという縁もある。今後ともよろしくお願いします」と笑顔を見せた。
市役所訪問には彦根市の人気キャラクター「ひこにゃん」も同行し、愛嬌(あいきょう)を振りまいていた。
「安政の大獄」後150年“和解” 橋本左内墓前祭に井伊家子孫ら
幕末の大老井伊直弼が主導した「安政の大獄」で死罪となった福井藩士橋本左内(1834~59年)の墓前祭が7日、福井市左内町の左内公園で営まれた。没後150年の今年は、直弼の子孫や滋賀県彦根市長も初めて参列。因縁を超え、若くして散った志士の冥福を祈った。
井伊家18代当主の井伊直岳さん(40)と獅山向洋彦根市長が焼香し、墓前で手を合わせた。井伊さんは「当時を考え、厳粛な気持ちになった」と言葉を詰まらせていた。
橋本左内は福井藩主・松平春嶽の下で将軍継嗣問題や外交問題に奔走し、西郷隆盛らと親交を深めたが、安政の大獄で捕らえられ、吉田松陰らとともに処刑された。
墓前祭後、彦根市の一行はマスコットキャラクター「ひこにゃん」とともに東村新一福井市長を訪ね、友好関係の構築を呼び掛けた。
井伊さんは8月、山口県萩市にある松陰の墓参りをしている。
井伊家当主、橋本左内の法要参列 大獄から150年の「和解」
安政の大獄で粛清され、刑死した福井藩士橋本左内(1834~59年)を弔うため、井伊直弼の子孫で井伊家18代当主の彦根城博物館長、井伊直岳さん(40)が7日、福井市の法要に参列し、左内没後150年で“和解”が果たされた。
橋本左内は徳川14代将軍として慶喜の擁立を画策したが、大老井伊直弼の国家戦略に逆らったとして安政6(1859)年、江戸で斬首(ざんしゅ)された。
福井市では毎年、左内の墓前祭が催され、この日は“宿敵”の滋賀県彦根市から井伊家当主と獅山向洋市長らが初めて訪れ、焼香した。彦根市が歴史的な交流を広げようと参列を打診し、福井市が快諾していた。
井伊さんは法要で、福井市民ら約150人を前に「幕末の激動の中、日本の行く末のために命を懸けたのは2人とも同じ。未来に向けた両市の友好関係を築きたい」とあいさつ。獅山市長も「安政の大獄のわだかまりを解消しましょう」と述べた。
井伊さんらは8月にも山口県萩市を訪れ、大獄で死罪となった吉田松陰の墓参りをした。
井伊直弼子孫が橋本左内の墓参り 「歴史的因縁越え交流を」
幕末の福井藩士、橋本左内が処刑された安政の大獄(1858~59年)を主導した江戸幕府の大老井伊直弼の子孫と、直弼の出身地となる滋賀県彦根市の市長らが7日、福井市内にある左内の墓参りに訪れた。左内の没後150年を契機に、両市の関係者らは「歴史的な因縁を越え、新たな交流の機会にしたい」と話している。
福井市左内町の左内公園で営まれた墓前祭には、獅山向洋彦根市長と井伊家18代当主の井伊直岳・彦根城博物館長ら3人が参列した。読経の流れる厳粛な雰囲気の中で焼香した井伊館長は「2人とも時代の荒波の中、日本の行く末を案じる中で迎えた志半ばの死。心静かに哀悼の意を表し、未来に向けた両市民の建設的、友好的な関係が築かれることを祈念する」とあいさつした。
墓参りは彦根市内で開催中の「井伊直弼と開国150年祭」の一環。一行は8月下旬に、安政の大獄で同じく処刑された吉田松陰の墓参りをするため、山口県萩市も訪れている。
左内墓前祭に直弼子孫ら
安政の大獄恩讐超えて
福井市内で7日に行われる幕末の福井藩士・橋本左内(1834~59)の墓前祭に、幕府の大老として安政の大獄を指揮した彦根藩主・井伊直弼(いいなおすけ)(1815~60)の子孫や、滋賀県彦根市の獅山向洋市長らが初めて参加する。直弼は幕府の方針に異を唱える志士らを徹底的に弾圧し、左内の処刑を指示。左内を思慕する福井の関係者にとって、彦根関係者はまさに因縁の相手だが、今年が没後150年にあたるのを機に“恩讐(おんしゅう)”を超え、今後は交流のあり方を模索するという。
左内は現在の福井市内の出身。藩主の松平春嶽(しゅんがく)(1828~90)に重用され、開国による富国強兵を唱えたが、安政の大獄によって投獄、処刑された。直弼が死罪を命じた当時の決裁書類が、彦根市の彦根城博物館に所蔵されている。
墓前祭は左内の功績をたたえようと、市民らでつくる「橋本左内先生顕彰会」(会長=東村新一・福井市長)が1959年から毎年営んでいる。7日午前10時から福井市左内町の左内公園内の墓前で、参列者による献花や焼香の後、左内が投獄時に詠んだとされる漢詩「獄中作」をもとにした詩吟などが披露される。
福井市教委生涯学習課によると、8月末頃に「左内の没後150年を機に墓参し、霊を弔いたい」との申し出が彦根市からあり、顕彰会が受け入れたという。当日は獅山市長、井伊家18代当主である井伊直岳・彦根城博物館長ら5人が参列する。
彦根市は「顕彰会が過去の歴史のわだかまりを超え、受け入れを決断いただいたことは大変意義深い」とコメントを寄せている。
獅山市長らは墓前祭後、福井市役所も訪問。その際には人気マスコットキャラクター「ひこにゃん」も同行する予定。福井市は「暗い過去を精算し、これからは明るい歴史を両市で紡いでいけたら」としている。
彦根市、ここのところ、ひこにゃんを連れて「弔問」外交を盛んに行ってますなぁ。こういう友好活動も「あり」だと思います。
函館旅行記をまとめなくては……と自分にプレッシャーをかける日曜の午後です。一日一日、記憶が遠のいていきますから(苦笑)。
今日ネットに上がった幕末ニュースの他に、ここ一週間ほどのうちに紹介漏れ(汗)した記事を含めました。
北海道
西洋音楽発祥の地は函館…年内に冊子発行へ
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茨城
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映画「桜田門外ノ変」 主演は大沢たかおさん 水戸藩開藩400周年記念 茨城
千葉
発刊:東総の歴史、知って 匝瑳の出版社が「浜口梧陵物語」 /千葉
企画展:請西藩主・林忠崇、「最後の殿」の書画 脱藩、佐幕…激動の生涯 /千葉
神奈川
企画展:中華街の150年、克明に--25日まで、開港資料館 /神奈川
新潟
新潟
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突然のことだったようですね……お悔やみ申し上げます。
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北海道
西洋音楽発祥の地は函館…年内に冊子発行へ
函館の音楽文化を守る活動に励む「函館メサイア教育コンサート実行委員会」(松原仁委員長)は、西洋音楽が伝わった明治初期の函館の様子を伝える冊子「箱館開港と音楽」(仮称)を、年内にも発刊する。記録絵や楽譜でペリー提督が訪れた箱館の幕末期についても紹介。「近代日本の西洋音楽発祥地は函館」という史実はあまり知られておらず、その風化を食い止めるのが狙いで、関係者は「函館の魅力再発見につながれば」と期待している。
同実行委音楽監督の徳永ふさ子さんによると、近代日本に西洋音楽が初めて導入された舞台は、函館ハリストス正教会。洋楽史研究家の中村理平氏(故人)が明らかにし、横浜より1年早い1871(明治4)年に、ロシア人読経者が日本人信者に日本語で聖歌を歌わせていたのが始まりという。
この史実について言及している文献を2年前に読んだ徳永さんは「音楽の観点から函館開港150周年を盛り上げたい」と考えてきたという。今年9月には「黒船が運んだ西洋音楽」をテーマに演奏会を開き、そのユニークな試みが注目を集めたばかりだ。
今回の冊子編集では、函館市史や中村氏の著「キリスト教と日本の洋楽」、弘前の国学者、平尾魯僊(ろせん)=1808―80年=の「洋夷茗話」などを参考文献とした。73(明治6)年の同教会で、バイオリンを使ったソルフェージュ(旋律や音階を母音や階名で歌う練習法)教育が行われていた記述や、米国の船員がピッコロと太鼓で水兵を弔った葬送曲の楽譜も盛り込む。当時箱館と関係が深かったロシアとの交流の歴史、西洋音楽が箱館から東京へと南下していく経緯についても触れる。
徳永さんは「中村氏が掘り起こした史実を大勢の市民に共有してほしい。いつまでも語り継がれ、音楽活動の動機になればと願って冊子を作っている」と話している。
冊子は40ページ程度のA4判。500―800円で、約1000部発刊する。予約の申し込みは同実行委TEL080・5583・6832。
日仏交流は開港とともに…経営学会全国大会
日仏経営学会(会長・廣田功帝京大教授)の第54回全国大会(実行委主催)が3日、函館市高丘町の函館大学で開かれた。特別公開講座として「箱館開港150周年―箱館をめぐる日仏交流」と題したパネルディスカッションが行われ、研究者が開港とともに始まった日仏関係の歴史をひもといた。
同学会の全国大会は年2回開催され、函館では2001年以来8年ぶり。開港150周年を記念した特別講座には市民や学生ら約80人が参加し、廣田会長の進行で、フランス人の日仏交流史研究家、クリスチャン・ポラックさんと、函館出身の東京学芸大名誉教授、大井孝さんが意見を交わした。
ポラックさんは幕末の貴重な画像データを交えて日仏のかかわりをスライドを使って解説。「日仏修好通商条約が締結された背景にはフランスが生糸の供給源を求めていた経済的要因があった」と指摘した。
当時は日本の生糸の総生産量の約半数がフランスに輸出されていたことにも触れ、「中国などよりも良質な日本の製糸技術が当時のフランスの絹産業を救った。生糸の貿易によって日仏間に長年にわたる相互依存関係が生まれた」と述べた。
茨城
映画:「桜田門外ノ変」企画発表 北大路欣也さんら出演 /茨城
◇地域主導の配給は全国初
水戸藩開藩400周年を記念した映画「桜田門外ノ変」(佐藤純彌監督)の企画発表会見が1日、水戸市三の丸の弘道館で行われ、主要キャストに大沢たかおさんや北大路欣也さんらを起用すると明らかにした。邦画界では久々となる総制作費約10億円の大型時代劇で、撮影はすべて県内で行われる。東映配給で来秋以降に公開される予定。市民団体の発案による「地域主導型」の企画で、こうした作品が映画配給大手で全国公開される例は過去にないという。
地元市民団体が約3年前から構想を温め、行政や製作会社との交渉にあたってきた。製作が具体化した昨年夏には「映画化支援の会」を発足。ロケ地提案のほか、市民の関心を高めようと幕末の水戸藩に関する史跡めぐりや講演会など多くの催しを企画した。同会事務局長の三上靖彦さん=水戸市=は会見で「多くの人が郷土を見直し、素晴らしい茨城をつくるきっかけにしてほしい」と語った。
また、「敦煌」や「男たちの大和/YAMATO」などで知られる佐藤監督は「僕にとって初めての時代劇。映画を作ろうとする水戸の人たちの郷土愛に動かされた。期待に沿えるものをつくりたい」と抱負を述べた。
製作費は東映、製作委員会、県民や地元企業が3分の1ずつ負担するという。支援の会が同市の千波湖畔に約2億円をかけた桜田門のオープンセットを建設し、ロケ終了後に内部を展示館に模様替えして入場料収入を得る考えだ。
鑑賞券も兼ねた映画製作協力券を2000円で販売するほか、1600人のエキストラを募るなど、資金・製作両面で県民に全面的な協力を呼びかける。エキストラだけでなく、地元でオーディションを開き、重要なシーンに登場する役者を30人程度募集する。
「お葬式」「家族ゲーム」など名作を手がけたプロデューサーの岡田裕さんも会見に同席し「地域主導で全国200館以上で封切りされる映画づくりは初めて。日本映画界に新しい方向を出せる」と強調した。【八田浩輔】
映画「桜田門外ノ変」 主演は大沢たかおさん 水戸藩開藩400周年記念 茨城
水戸藩の開藩400周年の記念映画「桜田門外ノ変」の制作を進める「『桜田門外ノ変』映画化支援の会」は1日、茨城県水戸市三の丸の弘道館で記者会見し、企画概要を発表した。主役の関鉄之介役に俳優の大沢たかおさん(41)を起用。会見に出席した佐藤純弥監督は「撮影のことを考え眠れなくなったり、胃が痛くなったりするが、地元の皆さんのご期待にそえる映画をつくりたいと思う」と抱負を語った。(前田明彦)
桜田門外の変は幕末期の1860年(安政7年)3月3日、関鉄之介を中心とする水戸藩士17人と薩摩藩士1人が、江戸城の桜田門外で大老・井伊直弼(なおすけ)を暗殺した事件。今回の映画は、作家の吉村昭氏がこの史実を元に小説化した「桜田門外ノ変」(新潮社)を原作としている。
関鉄之介役の大沢さんは平成16年に公開された映画「世界の中心で、愛をさけぶ」で主演を務めたほか、10月からTBS系で放映されるテレビドラマ「JIN~仁~」にも主演が決まっている。会見で岡田裕プロデューサーは「関鉄之介は暗殺集団を指導したテロリストだが、意志を貫き通すなかに優しさがあった。その優しさを(映画のなかに)入れていきたいと思い、大沢さんを口説いた」と説明した。このほか、水戸藩9代藩主の徳川斉昭役に北大路欣也さん(66)が、井伊直弼役に伊武雅刀さん(60)が決定している。
また映画の最大の見せ場となる桜田門は、水戸市内の千波湖脇の広場に高さ15メートルのオープンセットを建設する予定。ほかにも高さ9メートル、延長100メートル以上にもおよぶ大名屋敷の町並みを2億円以上かけて再現する。オープンセットは撮影終了後、展示館を併設して一般開放し、観光資源として活用するとしている。
映画は他の出演者などを決定したうえで11月に制作発表を行い、来年1月中旬に撮影を開始、3月末に終了する。撮影はすべて県内で行うことを目指す。来年秋以降に全国公開される予定という。
映画化支援の会の三上靖彦事務局長は「映画は求心力があり、波及効果がケタ違いに高い。映画を通じて茨城の人々が郷土を見直すきっかけになれば」と話した。
千葉
発刊:東総の歴史、知って 匝瑳の出版社が「浜口梧陵物語」 /千葉
◇「稲むらの火」足跡を丹念に
銚子市の作家、戸石四郎さん(80)の「浜口梧陵(ごりょう)物語~『稲むらの火』をかかげた人~」が、匝瑳市の出版販売業「多田屋株式会社」(能勢浩社長)から発刊された。地域の歴史の貴重なひとこまを地元の著作家に執筆させ、読みやすい物語として提供する同社のシリーズ「千葉・東総物語」の13冊目だ。【新沼章】
浜口梧陵(1820~1885年)は、紀州(和歌山県)の生まれで、紀州の名主でありながらヤマサ醤油(しょうゆ)の7代目社長を務め、紀州と銚子を頻繁に往復した人物。紀州である夜、津波を予感して高台の稲束に火を付け、逃げ惑う村民を救った逸話の持ち主で、戦前は小学校の国語の読本に取り上げられた。
経営で得た利益を大堤防や病院、学校の建設などに投じたことでも有名で、戸石氏は浜口の足跡を丹念にたどり、関係年表や地図も載せている。
シリーズ「千葉・東総物語」は1冊105円で、B6判52ページ。好評で5刷を重ねた作品もある。多田屋は「小学校の副読本にもなる。今後も地域の人物や行事、物産、民話などテーマで、地域の人に執筆をお願いして企画を続けたい」と語る。問い合わせは同社(電話0479・72・1566)。
◇シリーズ、過去に12冊を発行
シリーズ「千葉・東総物語」の既刊は、以下の通り。(1)猪野映里子「大原幽学物語-離村と退廃に悩む村をよみがえらせた-」(2)松井安俊「椿の海物語-湖を美田に変えた男たちのロマン-」(3)依知川雅一・實川理「飯高檀林物語-日蓮宗の最高の学問所が、どうして匝瑳市飯高に生まれたのか-」(4)依知川雅一「八日市場・祇園祭物語-八日市場のまちは、そして祇園祭はどうして生まれたの?-」(5)田中澄江「山下りん物語-日本最初の女性洋画家の作品が匝瑳市蕪里に-」(6)吉井永「関寛斎物語-司馬遼太郎をして、『日本人に非ざるスケールの持ち主』-」(7)伊藤一男「海保漁村物語-幕末の儒学者、明治維新の人材も門弟となる-」(8)能勢浩「杉野芳子物語-日本の女性の洋装化に尽くした炎の如き人生-」(9)松井安俊「飯岡助五郎物語-網元、親分、十手の三役を担った-」(10)松井安俊「木曾義昌物語-旭地名ゆかり、戦国乱世を駆け抜けた武将、短い治世の後、東総の相給支配始まる-」(11)猪野映里子「両総用水物語-房総半島を縦断する水の夢と苦しみ-」(12)伊藤一男「少年伊能忠敬物語-九十九里浜に生まれ、転変の中に和算、学問、様々の体験に恵まれた-」
企画展:請西藩主・林忠崇、「最後の殿」の書画 脱藩、佐幕…激動の生涯 /千葉
◇木更津・郷土博物館で展示
幕末の動乱期に藩主でありながら脱藩して箱根や福島、仙台などを転戦し、官軍と戦って降伏した請西藩の最後の藩主、林忠崇(ただたか)(1848~1941年)の作品を展示した企画展「書画に見る請西藩主 林忠崇展」が、地元の木更津市郷土博物館「金のすず」で開かれている。最後まで徳川家への忠義を貫き、波乱に満ちた生涯を送った藩主の筆が、江戸から明治、大正、昭和と移り変わる近代日本の激動を浮かび上がらせている。【児玉賢二】
藩主の林家は、家康が三河にいたころからの徳川家の旗本。十一代将軍家斉に取り立てられ、1万石の譜代大名になり、請西村(今の木更津市)に陣屋を置き、藩を興した。
20歳で3代目藩主となった忠崇は、新政府軍が迫る1868(慶応4)年4月、領地をすべて朝廷へ返上して脱藩、約60人の藩兵を連れて幕府軍に合流した。新政府軍と戦い、東北に転戦したが、1868年(明治元)年10月、徳川家存続の報を受けて仙台で降伏した。
戊辰戦争では、会津など藩を挙げて官軍と戦った例はあるが、藩主が脱藩までして徹底抗戦したのは請西藩だけ。新政府に取りつぶされたのも、全国で請西藩だけだ。
忠崇本人は1871(明治4)年に赦免された。全国を転居し、職も転々とした。書画や詩歌を好み、「最後の殿様」として94歳の長命をまっとうした。
企画展では、地元に残された忠崇にまつわる35点の書画や資料を展示している。書画では「一夢」という画号を用い、林家の大名行列や請西藩陣屋からの出撃風景のほか、いくさに負けて帰農し請西で畑を耕しているころや、函館で商人を志したころの自分をユーモラスに描いた自画像などもある。作品から、忠崇が生きたその時々の時代が浮かび上がってくる。
18日まで開催している。午前9時~午後5時。料金は一般200円、大学・高校生100円、65歳以上と中学生以下は無料。月曜休館。問い合わせは同博物館(電話0438・23・0011)。
神奈川
企画展:中華街の150年、克明に--25日まで、開港資料館 /神奈川
◇語りかける華僑4家族の肖像 初めて包括的に紹介
横浜開港資料館(横浜市中区)が開催中の企画展「横浜中華街150年 落地生根(らくちせいこん)の歳月」で一枚の白黒写真が展示されている。1935年11月に中華料理店で撮影された結婚式の記念写真で、ウエディングドレスで着飾っているのは茅ケ崎市で健在の譚瑞仙(たんずいせん)さん(97)。企画展は譚さんが嫁いだ鮑(ほう)家など4家族の肖像を軸の一つに据えており、譚さんは「素晴らしい展示。全部を見てほしい」と話している。
譚さんは開港から半世紀余を経た1912年、中華街で中国人の父と日本人の母の間に生まれた。父はソーダ水の製造販売業を興した後に洋服店に転じ、「中国革命の父」と称される孫文が来日した際に支援。父は本国での革命の動きに触発されて帰国した。
日本に残った譚さんは、東京の女学校を卒業し、中華料理店「聘珍楼(へいちんろう)」の経営一族の鮑金鉅(ほうきんきょ)さんと見合い結婚した。写真は両家そろって店内で撮影されたもので、華僑社会の風俗をしのばせる。譚さんは色鮮やかな中国式の結婚証明書も提供し、当時の様子に話が及ぶと、照れくさそうになる。
戦時中も店は営業したが、戦局が悪化すると、茅ケ崎市で暮らし始めた。1945年5月の横浜大空襲で中華街も爆撃されて焼け野原に。戦後も子ども9人の多くが中国人と結婚し、華僑社会とつながり続けた。80年に夫を亡くし、自身も病に一時倒れながら、長寿を保ってきた。波乱に満ちた東アジアの近現代史を共にしてきた中華街への愛着は格別だという。
中国が建国60周年を迎えた1日、中華街でもお祝いのパレードがあった。企画展は、この中華街の歴史を初めて包括的にたどる内容で、横浜最古の中華料理店のメニュー(幕末から明治初年)など約150点の資料が並ぶ。展示は25日まで。12日までは横浜中華街文化フェアが展開され、中華街や資料館にとうろうが飾られている。入館料は大人200円、小中学生100円。月曜休館。問い合わせ先は同資料館(045・201・2100)。【木村健二】
新潟
新潟
◇郷土の「宝」を映像に--樫野利七さん(72)
万代橋、旧新潟税関庁舎、にいがた総踊り、白根大凧(おおだこ)合戦、笹(ささ)だんごなど、新潟市には歴史遺産、郷土芸能、名産品などさまざまな「宝」がある。それらを映像に収めたDVD作品「新にいがた市紀行」の製作実行委員の一人。
「合併前の旧市町村には、地元でしか知られていない魅力的な自然、芸能文化がたくさんある。それらを発掘し、映像にして語り継ぎ、一つになった新潟市民が共有していきたい」という思いを込める。
実行委員会ができたのは07年4月。幕末に開かれた5港の自治体間の交流活動が始まり、「新潟の魅力を紹介する機会を」と、映像愛好家らが参加した。
(以下略)
石川
白山・ほうらい祭り 「造り物」圧巻
◆観光客ら喝采◆
「造り物」と呼ばれる高さ5メートルを超える人形を乗せた山車が町を練り歩く「ほうらい祭り」が3日、白山市の鶴来地区で始まり、大勢の見物客でにぎわった。祭りは4日もあり、正午~午後10時までみこしや造り物の巡行がある。
ほうらい祭りは、地元の金剱宮(きんけんぐう)の秋の祭りで、約800年の歴史があるという。見どころの造り物は、巨大な武者人形を乗せた山車で、各地区の青年団らが約1カ月かけて制作。今年は、江戸時代の剣豪・宮本武蔵や幕末の志士・高杉晋作などの人形計5体が登場し、観光客らから喝采を浴びていた。
鶴来朝日町の青年団長、長田真典さん(30)は「お客さんに楽しんでもらい、町の活性化につながってくれればうれしい」と話した。
福井
史料に見る旗本・金森左京家 越前市で特別展
江戸時代に今の越前市白崎町に陣屋を構えた旗本の金森左京家の史料を集めた展示会が2日、同市の武生公会堂記念館で始まった。同家の統治250年を記念した特別展。11月8日まで。
越前市のほか、岐阜県高山市、大野市から同家ゆかりの資料が寄託された。金森本家に伝わる甲冑(かっちゅう)や古文書など約60点が並ぶ。
金森左京家は1759年に南条・今立郡7村3000石を治めた。金森左京家のルーツは戦国時代に織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えた金森家にある。初代金森長近は越前大野城と城下町を整備した後、飛騨高山を平定し、高山城を築いた。金森左京家は金森家の分家で、明治維新まで約100年余り統治した。
関連行事として、同家を研究している越前市史編さん委員会の斎藤忠征委員長の講演会が17日午前10時半から、市生涯学習センターで開かれる。
また、金森陣屋跡とその周辺を訪ねるイベントが24日午前10時から開かれる。定員25人で、参加無料。16日までに申し込む。
問い合わせは、同記念館=電0778(21)3900=へ。
(砂上麻子)
滋賀
直弼の美意識 探る
彦根城博物館でテーマ展
幕末の彦根藩主で幕府大老井伊直弼(なおすけ)の文化人としての側面を浮き彫りにするテーマ展「井伊直弼の茶の湯-好みの道具」が、1日から滋賀県彦根市金亀町の彦根城博物館で始まる。
直弼手づくりの茶碗や香合、茶杓(ちゃしゃく)、京都の茶道家元・千家に出入りする職人「千家十職」の塗師8代中村宗哲が作った精巧な茶器、きこりの道具を花生(はないけ)に見立てた品など25件を披露する。
直弼は、武道とともに和歌、茶の湯にも励み、家臣らに茶道を教えて「茶湯一会(いちえ)集」などを著した。同館は昨秋、理論面から直弼の茶を紹介。今秋は美意識に焦点を当てた。
直弼の自作では柳模様などの楽焼七種香合、手びねりの風合いを生かした黒楽白縁天目(しろふちてんもく)茶碗。直弼が色などを指図したとみられる月次(つきなみ)茶器(12個)は、鎌倉歌人藤原定家の選んだ花鳥和歌24首がベースの「萩に雁蒔絵紅溜塗(かりまきえべにためぬり)八角中次(なかつぎ)」などがある。
侘(わ)び茶を大成した千利休が日常雑器を道具とした「見立て」では、直弼が参勤交代の折りに木曽で入手した鉈鞘(なたさや)の花生がある。
26日まで無休。3日午後2時、ギャラリートーク。一般500円、小中学生250円。
京都
時代祭の勤王隊 次代担う小学生“発掘”
中京・朱雀地区が魅力PR
京都三大祭の一つ、時代祭で、笛や太鼓の演奏で行列を先導する「維新勤王隊」が人手不足に悩んでいる。少子化や子どもたちの認知度不足などが原因と考えられ、地元住民らは、小学校を訪れて魅力を伝えようと励んでいる。「祭を先導する隊列だけに、大勢で力強く行進できるようにしたい」と話す。
同隊は、京都市中京区朱雀地区の中学生以上の若い男子が隊士を担う。同地区はさらに8学区に分かれ、学区ごとにこれまで10人以上が集まって、隊列を編成してきた。
しかし、5年ほど前から参加者数が一ケタ台に減る学区が出始めた。同隊を担当する平安講社第八社の常務理事岸本修三さん(79)は「若者が減り、核家族や塾に通う子どもが増え、祭りへの関心が薄れたのではないか。行列は地域の誇りなのに」と残念がる。
中学校入学を間近に控える子どもに関心を持ってもらおうと、昨年から隊士や役員が地区内の小学校を訪れ、祭りの歴史について講演したり、行進時に演奏する楽曲を披露。子どもたちに実際に身につける着物を着てもらったり、太鼓をたたいてもらい、祭りを身近に感じてもらう。
昨年小学校を訪れた3学区で、今年の参加者が、従来通り10人をこえた。しかし3学区では依然人数不足が続いている。毎年隊列に加わる佐原正紀さん(29)は、「これまで先輩から後輩に伝わってきた伝統をこれからの若手の隊士にもつなげていきたい」と話す。
大阪
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/136 陸奥宗光墓所 /大阪
◆陸奥宗光墓所 大阪市天王寺区
◇愛娘悼み地蔵を建立 薩摩藩士・小松帯刀もかつて居住
家隆(かりゅう)塚の手前にある称念寺には、道に面して一体のお地蔵さんが立っている。「清(さや)地蔵」と名付けられている。20歳で病死した娘清子(さやこ)を悼んで、陸奥宗光夫妻が建立した。1・6メートルもある等身大の地蔵は、郷里の和歌山を向いている。
かつて陸奥家の墓所だったことを示すものは、清地蔵だけではない。地蔵の両脇の見上げんばかりの巨大な石碑もそうだ。両方とも漢文なので、ちんぷんかんぷんだが、右側が宗光が父の伊達宗広の業績を記した「夕陽丘阡表(せんぴょう)」(筆は書家による)、左側は原敬が建てた宗光追慕碑だ。いずれも門内にあったものを、岸野正行住職(59)が89年、「多くのかたに見てもらえるように」と現在地に移した。
1869(明治2)年、ここに居を定めた宗広は、明治7年、東京に移る時、「空蝉(うつせみ)の殻は何処に朽ちぬとも 我魂やどるかた岡ぞこれ」と詠み、句碑を建てた。たとえ死んでも自分の魂はこの地にとどまる、との意味で、いかに夕陽丘に愛着を持っていたかがわかる。清地蔵の前にある句碑は、岸野住職が新しく造り直したものだ。
宗光の長男広吉の残した一文には、古来、夕陽山や夕陽庵などの呼び名があったが、夕日岡と名付けたのは宗広だと記している。東京で亡くなった宗広は、遺言通り、夕陽丘に葬られた。
宗光は夕陽丘に住んだことはない。明治元年、大阪開港に伴って、川口居留地に開設された外交事務を取り扱う外国事務局を、五代友厚とともに運営。そののち兵庫県知事などを務めるが、西南戦争の時にクーデター計画にかかわったとして投獄の憂き目に遭う。1883(明治16)年、放免された宗光は夕陽丘の墓所に参っている。外務大臣として日清戦争の講和条約調印に当たり、1897(明治30)年8月24日に亡くなった宗光も、夕陽丘に埋葬された。
墓所が移転したのは1953(昭和28)年。戦後の経済の混乱で陸奥家の預金はパーになり、管理費用がなくなったために、遺族が遠くの大阪から近くの鎌倉の寿福寺に移した。本町で戦災に遭った称念寺は、その前年にここに移っていた。
◇
普段は門が閉まっている称念寺を案内していただいた。本堂に続く小径の両側には、墓所の名残の石灯籠(どうろう)がある。墓所とはいっても、かなり広く、庭園墓地だったという。
裏手に回ると、崩れた五輪塔には「星亨」「原敬」らの名が刻まれている。星亨は宗光が可愛がった政治家で、藩閥から政党政治の基礎作りを担った。原敬は大阪毎日新聞社長から、のちに首相に上り詰めた人で、宗光外務大臣の下で外務次官を務めた。宗光の死を悼み、ゆかりの人々が建てたのだろう。
隅に墓石が一つ、ぽつねんと取り残されていた。宗光の最初の妻蓮子のものだ。お骨は、ほかの墓とともに鎌倉に移されたが、なぜか墓石だけ置いていかれたようだ。
陸奥家の墓所となる前、この地には小松帯刀が住んでいた。昨年のNHK大河ドラマ「篤姫」で、その名が広く知られるようになった幕末の薩摩藩士。明治維新に奔走し、大阪で新政府の外国官副知事などを歴任したが、脚気(かっけ)のために職を辞し、看病されながら、1870(明治3)年、36歳の生涯を閉じた。墓もあったが、郷里・鹿児島に移された。
藤原家隆から小松帯刀、陸奥宗光……。夕陽丘は連綿と続く歴史の舞台だった。【松井宏員】
高知
高知で恒例の「土佐はし拳大会」開催 高知
高知に伝わる宴席の遊び「土佐はし拳」の愛好者が腕前を競う「第44回土佐はし拳全日本選手権大会」が1日、高知市桟橋通の県民体育館で開かれ、酒席のような雰囲気の中で熱戦が繰り広げられた。
「土佐はし拳」は3本の赤色のはしを持った2人が向かい合い、互いに差し出したはしの合計本数を当て、負けた方が酒を飲まされる遊戯。幕末のころ、同県宿毛市で始まったといわれる。「日本酒の日」(10月1日)に合わせ、県酒造組合などが企画した。
大会には県内から約290人が参加し、3人で1チームの団体戦と個人戦が行われた。参加者はじゃんけんで先手と後手を決め、「いらっしゃい」「5本」といったかけ声とともにはしを差し出して勝敗を競った。
高知市内の旅館、ホテルなど宿泊施設でつくる組合のチームで参加した谷脇美香さん(65)は「勝負が早くつき、おもしろい。ぜひ、県外の人にも広めたい」と話していた。
佐賀
佐賀藩近代化の功績振り返る 佐野常民展が開幕
佐野常民記念館開館5周年を記念する「幕末佐賀藩近代化と佐野常民」展が3日、佐賀市川副町の同館で開幕した。常民が指揮をとった精煉(せいれん)方、海軍所の絵図や、「からくり儀右衛門」こと田中久重の発明品など60点を展示。近代化にまい進した佐賀藩の姿を伝えている。来年1月11日まで。
日本の科学技術をリードした佐賀藩にあり、その中枢として働いた常民の功績を振り返ろうと企画した。
展示は、精煉方と築地・多布施反射炉、三重津海軍所の当時の活動を絵図や書類などで紹介している。精煉方が作った「蒸気車ひな型」の復元模型のほか、常民の誘いを受け精煉方で働いた田中の発明品のうち、ねじを巻くと弓を引いて矢を射る動作を行う「弓曳(ゆみひき)童子」などを展示。精煉方の中心人物だった中村奇輔の「電信器」は残存する唯一の逸品で、来場者の注目を集めていた。
福岡県柳川市から訪れた古賀祐子さん(56)は「優秀な頭脳が集まっていた幕末佐賀の勢いを感じることができた」と話していた。観覧料は大人300円、子ども100円。月曜休館(祝日の場合は翌日)。
熊本
県近代文化功労者:前田案山子、竹熊宜孝氏の2人 /熊本
◇民権運動家・前田案山子 菊池養生園診療所名誉園長・竹熊宜孝氏
県教委は2日、今年度の県近代文化功労者に、民権運動家の前田案山子(かがし)と菊池養生園診療所の竹熊宜孝(よしたか)名誉園長(75)の2人を選んだと発表した。【笠井光俊】
前田案山子は、江戸時代末期に玉名市天水町(当時は玉名郡小天村)の豪農に生まれ、明治維新後は私塾を開いて若者を教育した。民権運動を推進し、1890年の第1回衆議院選挙に当選。孫文や中江兆民らとも交流があった。夏目漱石が前田家に宿泊した旅をモデルに小説「草枕」を書いたことで知られる。1904年没。
竹熊名誉園長は、山鹿市出身で熊本大医学部卒業後、1975年に菊池養生園診療所長に就任。「医療は食から、食は農から、農は自然から学べ」をモットーに医療や安全な食品、食育などの実践的な活動に長く携わっている。2000年から名誉園長。
県近代文化功労者は、近代文化の発展に貢献した県出身や在住者を顕彰している。今年度で62回目で、顕彰者は274人に上る。顕彰者の功績集が県内の学校や図書館などに配布される。顕彰式は11月3日、熊本市の熊本テルサで行われる。
宮崎
高岡町の河上家、安藤家武家門 宮崎市、景観重要建造物に指定
宮崎市は1日、同市高岡町の市指定有形文化財「河上家武家門」と「安藤家武家門」を景観重要建造物に、県庁本館前のフェニックス2本を景観重要樹木にそれぞれ指定した。
建造物の指定は同町では初めて。
河上家武家門は、旧薩摩藩の武家集落・天ケ城麓地区に残る江戸時代の武家門。高岡小のそばにあり、武道館「練士館」の正門としても使われている。
安藤家武家門も同地区の武家門の一つ。1857(安政4)年の大火事で一度消失したが、すぐに再建された。門の両側には幕末に造られたという石垣が残る。両武家門とも、薩摩藩独特の建築様式をとどめている。
鹿児島
調所広郷像の威厳復活 建立11年、初の清掃/鹿児島市
幕末期に薩摩藩財政の立て直しに尽力した家老調所広郷(1776~1848年)の銅像=鹿児島市天保山町=が1998年の建立以来初めて本格的に清掃された。9月末に実施、さびや汚れをきれいに落とした威厳ある姿を取り戻している。
像を管理する鹿児島市公園緑化課によると、今夏に調所の子孫から「汚れが目立つので、きれいにしてもらえないか」と要望があって着手した。西郷隆盛像(城山町)などと違い、ボランティアらによる定期的な清掃はなかったという。
像は下洗いした後3日間かけて、こびり付いた汚れやさびを落として塗装。青緑色のまだらから光沢のある黒色になった。
像を寄贈した前迫石材(谷山港2丁目)の元会長前迫初実さん(故人)の息子で清掃を担当した現社長の前迫実さん(58)は「まるで新しい像のよう。また調所に光が当たってくれれば」と感嘆。厳しい藩の財政を再建した調所像に鹿児島経済の好転を願う人が押しかけるかも。
火山灰材料に西郷、篤姫像など制作 鹿児島市の久保さん
鹿児島市中山町で立体造形物製作会社を営む久保利昭さん(60)が、桜島の火山灰を材料とした工芸品開発に取り組んでいる。これまでに西郷隆盛、篤姫や桜島の置物3点を開発した。久保さんは「新しい特産として観光客にPRできれば」と張り切っている。
地元の素材で鹿児島らしい工芸品を作れないかと思案していた久保さん。約20年前に試作していた開発を2008年冬に再開し、試行錯誤の末、今夏にようやく満足のいく製品が完成した。
製品は黒色で火山灰とポリエステル樹脂を混合し固めた。陶磁器に比べ、強度と耐久性に富むのが特長。質感を出すため像の表面につや消し剤を塗った。
西郷像は高さ37センチ、重さ1.5キロ、篤姫像は33センチ、1.3キロ。桜島は高さ11センチ、直径30センチで1キロ。内部を空洞にし軽量化を図った。
火山灰と樹脂の適切な比率を見つけるのと軽量化に苦心したという。現在、鹿児島市の維新ふるさと館に製品を展示中。今後、大久保利通、小松帯刀、島津斉彬像も制作する予定という。久保さんは「工夫すれば火山灰も利用できる可能性を秘めている」と話した。
政治
中川元財務相死去 新党大地・鈴木宗男代表「もっとお互い話すことがあったのでは」
自民党の中川昭一元財務・金融担当相(56)が4日朝、東京・世田谷区の自宅で死亡しているのが見つかった。中川元財務相の訃報(ふほう)を受けて、政界など、関係者に衝撃が走った。
(中略)
野田財務副大臣は「びっくりしましたね。痛ましいですね。幕末の時代劇で共演したことがありまして。中川さんが大久保 利通をやって、わたしが西郷隆盛をやって。思い出しますね。残念ですね。心からお悔やみ申し上げたいと思います」と述べた。
突然のことだったようですね……お悔やみ申し上げます。
コラム
【次代への名言】坂の上の雲編(2)
■「若いころにはなにをしようかということであり、老いては何をしたかということである」
この「たったひとこと」が、秋山好古(よしふる)の人生の目的だった、という。『坂の上の雲』で、青年将校時代の好古と上京直後の弟、真之との会話のなかにある。
おもしろいことに、司馬遼太郎も参考にしたであろう『秋山好古』(秋山好古大将伝記刊行会)によると、この豪気な人物は幼いころ、「泣き味噌(みそ)の鼻垂れ」だった。母、貞子が幼い真之の乱暴に耐えかね、「お母さんもこれで死ぬからお前もお死に」と短刀を持ち出したエピソードは有名だが、好古の場合には逆に、貞子はいつも「この子は一人前になれるだろうか」ともらしていたという。
転機は9歳のとき。秋山家が家禄をいただく松山藩が「朝敵」とされ、15万両の軍費を新政府に献上することで命脈をたもった明治維新がきっかけだった。「以後、不肖ながら勉励力行し、今日(こんにち)、一身だけは自ら処し得る才能を蓄ふるに至る」などと彼は後年、記している。
ただそんな好古でも「思えば遠くに」の観があったのだろう。40歳をすぎたころ、夫人につづっている。「生涯徳利(とっくり)一本と湯豆腐で快活に清貧を楽しむより他に望みなき身を持ちながら、随分辛棒(しんぼう)強く働くには自らを可笑(おかし)く思ひ居れり」
(文化部編集委員 関厚夫)
12日日曜日からドラマ放送開始というタイミングもあるのか、最新刊の発売が早いという気がする。
前巻では仁が開発したペニシリンを模倣した偽薬が出回る騒動に巻き込まれ、再び伝馬町の牢に投獄されるという危機に陥った仁だが……巻末から、本巻冒頭に状況が一変、釈放されただけではなく……と、ここで幕末の国際情勢にも触れるエピソードも含め、うまいなぁと思う。
そして、フランスではなく京都に行くことを選択した仁以下、仁友堂一行は「ええじゃないか」騒動が東海道を江戸に向かっていくのと交差しつつ、庶民を診療しつつ、刺客に襲われるなどのハプニングもありと、サービス満点。仁の抹殺を狙う黒幕の設定がしょぼい(爆)ところはあまり気にせず、史実とフィクションを入り交えつつ、幕末維新史を料理する作者の歴史眼と様々な人物像の描き方に、安心しつつ、わくわくできる。
テレビドラマがどこまで原作の面白さを活かしてくれるかは来週にならないとわからない(配役はなかなかなのだが、原作にない現代の婚約者設定とか、ちょっと不安要因も……^_^;)。原作がしっかりしているだけ、自分の鑑賞眼は厳しくなると思う。
ちょうど11月に受ける予定のお江戸検定2級の今年のお題は東海道を含めた諸国萬案内で、東海道53次を暗記するには記憶力が心許ない(汗)自分には、ドラマやマンガでストーリーに沿ってエピソードがあると記憶しやすいので、頼りにしたりして。諸般の事情であまり受験勉強ができないから、素の知識で腕試し予定。
前巻では仁が開発したペニシリンを模倣した偽薬が出回る騒動に巻き込まれ、再び伝馬町の牢に投獄されるという危機に陥った仁だが……巻末から、本巻冒頭に状況が一変、釈放されただけではなく……と、ここで幕末の国際情勢にも触れるエピソードも含め、うまいなぁと思う。
そして、フランスではなく京都に行くことを選択した仁以下、仁友堂一行は「ええじゃないか」騒動が東海道を江戸に向かっていくのと交差しつつ、庶民を診療しつつ、刺客に襲われるなどのハプニングもありと、サービス満点。仁の抹殺を狙う黒幕の設定がしょぼい(爆)ところはあまり気にせず、史実とフィクションを入り交えつつ、幕末維新史を料理する作者の歴史眼と様々な人物像の描き方に、安心しつつ、わくわくできる。
テレビドラマがどこまで原作の面白さを活かしてくれるかは来週にならないとわからない(配役はなかなかなのだが、原作にない現代の婚約者設定とか、ちょっと不安要因も……^_^;)。原作がしっかりしているだけ、自分の鑑賞眼は厳しくなると思う。
ちょうど11月に受ける予定のお江戸検定2級の今年のお題は東海道を含めた諸国萬案内で、東海道53次を暗記するには記憶力が心許ない(汗)自分には、ドラマやマンガでストーリーに沿ってエピソードがあると記憶しやすいので、頼りにしたりして。諸般の事情であまり受験勉強ができないから、素の知識で腕試し予定。
週末まで貯めるとかなりの量ですが、がんばります。
福島
福島県会津若松市と同県南会津町を結ぶ会津鉄道で27日、車内や沿線の観光名所をコスプレ愛好者の撮影スポットにするイベント「あいづコストレ」が行われた。
鉄道の利用客増加と、沿線地域の活性化を目的にした企画。参加者には、西若松駅から会津田島駅までの区間を乗り降り自由にし、人気声優のアナウンスが流れる専用の車両も設けられた。この日は、県内外から20人が参加。土方歳三や高杉晋作など歴史上の人物のほか、アニメのキャラクターやオオカミの着ぐるみなど様々な格好をした参加者が、駅前や大内宿で思い思いに撮影を楽しんだ。
「誠」と書かれた羽織を身に着け、新選組隊士にふんした会津美里町の会社員東瀬武美さん(21)は「自分は鉄道が好きで、姉がコスプレ好き。ぴったりのイベントでした」と笑顔で話していた。
茨城
映画:「桜田門外ノ変」企画発表 北大路欣也さんら出演 /茨城
映画「桜田門外ノ変」 主演は大沢たかおさん 水戸藩開藩400周年記念 茨城
東京
大きい50キロカボチャ 日野市役所食堂に展示土方歳三“似顔絵”も
……だからそれは土方キャラじゃなくて、幕末チャレンジャー「選之介」くんだと(苦笑)。
神奈川
企画展:中華街の150年、克明に--25日まで、開港資料館 /神奈川
講演:浮世絵師が伝えるものは… 斎藤龍氏、横浜美術館「大・開港展」で /神奈川
新潟
10/3長岡で米百俵まつり、与板天地人行列も
石川
日曜ひろば:「<加賀料理>考」を出版・陶智子さん /石川
滋賀
彦根市と福井市 安政の大獄 和解交流
獅山市長、ひこにゃんをお供に、萩、福井と、幕末史ゆかりの地と次々に「和解」と交流を進めているようですね。史上最強のゆるキャラ(笑)「ひこにゃん」がお供で、歓迎してもらえていようだし。
弔問交流:彦根市が第2弾 安政の大獄で刑死、福井藩士・橋本左内--7日 /滋賀
井伊直弼の子孫参列へ 福井藩士・橋本左内の墓前祭
井伊家当主ら7日、150年目の墓参
「安政の大獄」刑死・福井藩士橋本左内
直弼の美意識 探る 彦根城博物館でテーマ展
徳島
眉山と月と阿波おどり:あす眉山山頂で中秋の月見 幕末期の「花むそう」再現 /徳島
高知で恒例の「土佐はし拳大会」開催 高知
山口
展示:幕末~明治に栄えた商家 城下町の暮らし紹介--萩・旧久保田家住宅 /山口
コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(30)東大教授・山内昌之 徳川慶喜
容保様のコラムで思いっきり慶喜公を叩いてたので、「おや、こんなもんか?」と、ちょっと肩すかしくらった気分です(苦笑)。
福島
新選組もオオカミも…「コストレ」で会津満喫
福島県会津若松市と同県南会津町を結ぶ会津鉄道で27日、車内や沿線の観光名所をコスプレ愛好者の撮影スポットにするイベント「あいづコストレ」が行われた。
鉄道の利用客増加と、沿線地域の活性化を目的にした企画。参加者には、西若松駅から会津田島駅までの区間を乗り降り自由にし、人気声優のアナウンスが流れる専用の車両も設けられた。この日は、県内外から20人が参加。土方歳三や高杉晋作など歴史上の人物のほか、アニメのキャラクターやオオカミの着ぐるみなど様々な格好をした参加者が、駅前や大内宿で思い思いに撮影を楽しんだ。
「誠」と書かれた羽織を身に着け、新選組隊士にふんした会津美里町の会社員東瀬武美さん(21)は「自分は鉄道が好きで、姉がコスプレ好き。ぴったりのイベントでした」と笑顔で話していた。
茨城
映画:「桜田門外ノ変」企画発表 北大路欣也さんら出演 /茨城
◇地域主導の配給は全国初
水戸藩開藩400周年を記念した映画「桜田門外ノ変」(佐藤純彌監督)の企画発表会見が1日、水戸市三の丸の弘道館で行われ、主要キャストに大沢たかおさんや北大路欣也さんらを起用すると明らかにした。邦画界では久々となる総制作費約10億円の大型時代劇で、撮影はすべて県内で行われる。東映配給で来秋以降に公開される予定。市民団体の発案による「地域主導型」の企画で、こうした作品が映画配給大手で全国公開される例は過去にないという。
地元市民団体が約3年前から構想を温め、行政や製作会社との交渉にあたってきた。製作が具体化した昨年夏には「映画化支援の会」を発足。ロケ地提案のほか、市民の関心を高めようと幕末の水戸藩に関する史跡めぐりや講演会など多くの催しを企画した。同会事務局長の三上靖彦さん=水戸市=は会見で「多くの人が郷土を見直し、素晴らしい茨城をつくるきっかけにしてほしい」と語った。
また、「敦煌」や「男たちの大和/YAMATO」などで知られる佐藤監督は「僕にとって初めての時代劇。映画を作ろうとする水戸の人たちの郷土愛に動かされた。期待に沿えるものをつくりたい」と抱負を述べた。
製作費は東映、製作委員会、県民や地元企業が3分の1ずつ負担するという。支援の会が同市の千波湖畔に約2億円をかけた桜田門のオープンセットを建設し、ロケ終了後に内部を展示館に模様替えして入場料収入を得る考えだ。
鑑賞券も兼ねた映画製作協力券を2000円で販売するほか、1600人のエキストラを募るなど、資金・製作両面で県民に全面的な協力を呼びかける。エキストラだけでなく、地元でオーディションを開き、重要なシーンに登場する役者を30人程度募集する。
「お葬式」「家族ゲーム」など名作を手がけたプロデューサーの岡田裕さんも会見に同席し「地域主導で全国200館以上で封切りされる映画づくりは初めて。日本映画界に新しい方向を出せる」と強調した。【八田浩輔】
映画「桜田門外ノ変」 主演は大沢たかおさん 水戸藩開藩400周年記念 茨城
水戸藩の開藩400周年の記念映画「桜田門外ノ変」の制作を進める「『桜田門外ノ変』映画化支援の会」は1日、茨城県水戸市三の丸の弘道館で記者会見し、企画概要を発表した。主役の関鉄之介役に俳優の大沢たかおさん(41)を起用。会見に出席した佐藤純弥監督は「撮影のことを考え眠れなくなったり、胃が痛くなったりするが、地元の皆さんのご期待にそえる映画をつくりたいと思う」と抱負を語った。(前田明彦)
桜田門外の変は幕末期の1860年(安政7年)3月3日、関鉄之介を中心とする水戸藩士17人と薩摩藩士1人が、江戸城の桜田門外で大老・井伊直弼(なおすけ)を暗殺した事件。今回の映画は、作家の吉村昭氏がこの史実を元に小説化した「桜田門外ノ変」(新潮社)を原作としている。
関鉄之介役の大沢さんは平成16年に公開された映画「世界の中心で、愛をさけぶ」で主演を務めたほか、10月からTBS系で放映されるテレビドラマ「JIN~仁~」にも主演が決まっている。会見で岡田裕プロデューサーは「関鉄之介は暗殺集団を指導したテロリストだが、意志を貫き通すなかに優しさがあった。その優しさを(映画のなかに)入れていきたいと思い、大沢さんを口説いた」と説明した。このほか、水戸藩9代藩主の徳川斉昭役に北大路欣也さん(66)が、井伊直弼役に伊武雅刀さん(60)が決定している。
また映画の最大の見せ場となる桜田門は、水戸市内の千波湖脇の広場に高さ15メートルのオープンセットを建設する予定。ほかにも高さ9メートル、延長100メートル以上にもおよぶ大名屋敷の町並みを2億円以上かけて再現する。オープンセットは撮影終了後、展示館を併設して一般開放し、観光資源として活用するとしている。
映画は他の出演者などを決定したうえで11月に制作発表を行い、来年1月中旬に撮影を開始、3月末に終了する。撮影はすべて県内で行うことを目指す。来年秋以降に全国公開される予定という。
映画化支援の会の三上靖彦事務局長は「映画は求心力があり、波及効果がケタ違いに高い。映画を通じて茨城の人々が郷土を見直すきっかけになれば」と話した。
東京
大きい50キロカボチャ 日野市役所食堂に展示土方歳三“似顔絵”も
日野市神明一の同市役所の食堂に巨大カボチャが展示され、訪れた市民から注目を集めている。直径七十センチ、重さ五十キロの巨大カボチャで、同市出身の新選組副長・土方歳三を題材にしたキャラクターが描かれている。
巨大カボチャは同市百草の倉沢地区で農業を営む石坂一雄さんが収穫したもの。市が食堂の運営を委託している受託食堂運営会社「ベル・ハート」の女性職員が土方のキャラクターの絵を描いた。 (西川正志)
……だからそれは土方キャラじゃなくて、幕末チャレンジャー「選之介」くんだと(苦笑)。
神奈川
企画展:中華街の150年、克明に--25日まで、開港資料館 /神奈川
◇語りかける華僑4家族の肖像 初めて包括的に紹介
横浜開港資料館(横浜市中区)が開催中の企画展「横浜中華街150年 落地生根(らくちせいこん)の歳月」で一枚の白黒写真が展示されている。1935年11月に中華料理店で撮影された結婚式の記念写真で、ウエディングドレスで着飾っているのは茅ケ崎市で健在の譚瑞仙(たんずいせん)さん(97)。企画展は譚さんが嫁いだ鮑(ほう)家など4家族の肖像を軸の一つに据えており、譚さんは「素晴らしい展示。全部を見てほしい」と話している。
譚さんは開港から半世紀余を経た1912年、中華街で中国人の父と日本人の母の間に生まれた。父はソーダ水の製造販売業を興した後に洋服店に転じ、「中国革命の父」と称される孫文が来日した際に支援。父は本国での革命の動きに触発されて帰国した。
日本に残った譚さんは、東京の女学校を卒業し、中華料理店「聘珍楼(へいちんろう)」の経営一族の鮑金鉅(ほうきんきょ)さんと見合い結婚した。写真は両家そろって店内で撮影されたもので、華僑社会の風俗をしのばせる。譚さんは色鮮やかな中国式の結婚証明書も提供し、当時の様子に話が及ぶと、照れくさそうになる。
戦時中も店は営業したが、戦局が悪化すると、茅ケ崎市で暮らし始めた。1945年5月の横浜大空襲で中華街も爆撃されて焼け野原に。戦後も子ども9人の多くが中国人と結婚し、華僑社会とつながり続けた。80年に夫を亡くし、自身も病に一時倒れながら、長寿を保ってきた。波乱に満ちた東アジアの近現代史を共にしてきた中華街への愛着は格別だという。
中国が建国60周年を迎えた1日、中華街でもお祝いのパレードがあった。企画展は、この中華街の歴史を初めて包括的にたどる内容で、横浜最古の中華料理店のメニュー(幕末から明治初年)など約150点の資料が並ぶ。展示は25日まで。12日までは横浜中華街文化フェアが展開され、中華街や資料館にとうろうが飾られている。入館料は大人200円、小中学生100円。月曜休館。問い合わせ先は同資料館(045・201・2100)。【木村健二】
講演:浮世絵師が伝えるものは… 斎藤龍氏、横浜美術館「大・開港展」で /神奈川
◇横浜市芸術文化振興財団顧問・斎藤龍氏
横浜美術館(横浜市西区)で開催中の幕末、明治の美術品を集めた展覧会「大・開港展」(同館、毎日新聞社など主催)に関連して27日、横浜文化史研究家で市芸術文化振興財団顧問の斎藤龍氏が「浮世絵師が伝える横浜開港の文化と音楽」と題して講演した=写真。
横浜浮世絵の収集家でもある斎藤氏は、自身のコレクションの中から1860年ごろの作品約10点を紹介。五雲亭貞秀の浮世絵「御開港横浜之全図」には、東海道から現在のみなとみらいまで道が続き、遠方に富士山が描き込まれており、「どうやって見たのか不思議だが、貞秀は大きな景色を1枚の絵に込めるのが上手だった」と説明した。
チェロに似た楽器と長い笛、外国人の女性の肖像が同時に描かれた作品については「ブロンドの女性を描いた最初の浮世絵」と紹介。邦楽研究家の西川浩氏が横笛を披露し、チェロ奏者で斎藤さんの夫鶴吉氏が「描かれた楽器は実は国籍不明」と話した。
展覧会は11月23日まで。木曜休館。入場料は当日一般1000円。【杉埜水脈、写真も】
新潟
10/3長岡で米百俵まつり、与板天地人行列も
10月3日長岡市で恒例の第8回米百俵まつりが開かれ、ことしはあわせて与板地域で与板天地人行列も行われる。
長岡が誇る「米百俵の精神」をテーマに、秋の収穫祭とあわせて毎年開かれているまつり。約140年前の北越戊辰戦争に敗れた長岡藩は、多くの命を奪われ、まちを焼き尽くされ、「賊軍」の汚名を着せられながらも着実な復興を成し遂げた。その大きな礎となったのは「質朴剛健」の長岡人の気質で、当時の長岡藩大参事、小林虎三郎が人材育成の重要性を説いたのが「米百俵の精神」だ。
JR長岡駅前の大手通周辺で午前11時半から午後6時まで開かれ、ホコ天イベントやメインステージの舞や踊りなどさまざまな催しが行われるが、ハイライトは越後長岡時代行列だ。
午後2時に水道公園で出陣式、2時半に出陣の号砲、3時半に大手通り行進開始。戊辰戦争長岡城奪還時の長岡藩隊編成を忠実に再現した市民約500人が、市内各地から大手通りへ向けて行進、集結してパフォーマンスを行う。
また、華やかな牧野家参勤交代や殿様や姫、奴、そして長岡の風土「米百俵の精神」が生んだ郷土の先人も登場する。
一方、与板天地人行列はNHKの大河ドラマ「天地人」にちなみ、与板地域にゆかりのある武将、直江兼続を主体とした時代行列行進を100人規模で行う。午前10時40分に天地人行列出陣式、11時に行進開始。与板地域の市街地を行進後、米百俵まつりの時代行列行進と合流し、大手通周辺を練り歩く。
石川
日曜ひろば:「<加賀料理>考」を出版・陶智子さん /石川
◇美食への追求に驚き 食材へのこだわり、愛情強く--陶智子さん(49)
約400年の栄華を誇った加賀藩主、前田家。加賀友禅や輪島塗、九谷焼など今日の金沢を代表するあらゆる文化の礎を築いた。「加賀料理」もその一つ。江戸時代、前田家には多くの料理人が仕え、食材や調理法に関する豊富な知識は料理人から料理人へと口伝で伝えられた。それらを書き残した数少ない文書のうち、幕末から明治にかけての料理人、小島為善(ためよし)(1817~93年)が著した「真砂子集」「真砂子集聞書」について研究し、「<加賀料理>考」として出版したのが陶智子・金沢学院大教授。食の都、金沢のルーツとは。加賀料理の魅力を聞いた。【青山郁子】
◆きっかけは老舗料亭所蔵の古文書。
15年ほど前、金沢市の老舗料亭「大友楼」の蔵の中にあった大量の古文書の調査依頼を受けました。大友楼は天保年間創業で、前田家に仕えていた料理人が下野して始めたと言われています。
私は元々、近世の女性礼法が専門です。礼法には「食礼」が重要。何を食べていたか分からないと、どのように食べていたかも分かりません。頼まれて調べ始めましたが、これが面白くてやめられなくなりました。
このうち代々加賀藩に仕えた舟木家の文書をまとめたのが、06年に出版した「加賀藩料理人舟木伝内編著集」(桂書房)。大友楼はこの舟木家の流れをくむとも言われます。
◆江戸時代の具体的なレシピだけでなく、教養あり随筆ありのマルチ指南書。
料理にも流派があり、儀式の際の包丁の使い方にも四条薗部流、進士流などさまざまです。古文書にはそれらが詳しく紹介されていました。また小島為善は俳人「文器」としても大変有名で、人生訓など名文や俳句もたくさん書いています。
為善の最大の特徴は、タイやコイなどの食材別に分かりやすくレシピを書き残していること。「昔、どのお殿様が何という料理を好んだ」とか「レシピ通りに作らねばならない」など、加賀料理が数百年間、どのようにして代々受け継がれてきたかがよく分かります。料理に不可欠な季節感や盛りつけに必要な美的センスも、為善はとても優れています。
◆加賀料理とはグルメな殿の食材へのこだわり。
加賀藩には海、山、川、平野からもたらされる新鮮な食材がそろっていました。それだけに食材へのこだわりは強く、その年の一番サケを献上した人に褒美を渡したお殿様、氷見産のエビやイワシを好んだお殿様など、グルメなお殿様が多かったようです。
レシピの中でいくつか実際に作ってみましたが、アワビを細かくたたいてすり鉢ですって丸めた「アワビもち」、三枚におろした背の身を赤みそと酒かすを混ぜた床(とこ)に漬けた「ブリ朝鮮漬」などは本当においしかった。現代はアワビやブリなどはそのままの形が好まれるうえ、これらの料理はあまりにも手間がかかるため作られませんが、当時の人の美食への追求には驚かされました。
◆スローフード、食育、地産地消。加賀料理にはすべてがある。
食材としっかり向き合い、先人に学ぶという意味で今、全国で江戸時代の料理を見直す動きが広まっています。今回の研究で分かったのは、加賀藩の料理人が手間を惜しまないこと、そして大根のしっぽまで使い切るような食材への愛情。まさに現代で言うスローフードです。
江戸時代のことは難しいと思われがちですが、この本を読めば実際に作ることもできます。私たちの周りにある食材にはまだまだ可能性が秘められています。今、盛んに食育や地産地消が叫ばれていますが、身近な食材の可能性を探っていくヒントが加賀料理には隠されているのです。
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■人物略歴
◇すえ・ともこ
1960年7月、札幌市生まれ。主な著書に「不美人論」(平凡社新書)、「加賀百万石の味文化」(集英社文庫)、「江戸美人の化粧術」(講談社選書メチエ)など。富山県文化財保護審議会委員、富山市郷土博物館協議会委員などを務める。「<加賀料理>考」(桂書房)は綿抜豊昭・筑波大大学院教授らとの共同編さん。A5判、215ページ。2940円。
滋賀
彦根市と福井市 安政の大獄 和解交流
獅山市長ら 橋本左内墓前祭参加へ
彦根市は30日、幕末に活躍し、安政の大獄で刑死した福井藩士・橋本左内の墓前祭(10月7日)に、井伊家18代当主の井伊直岳・彦根城博物館長や獅山向洋市長らが参加すると発表した。福井市役所への表敬訪問には、人気キャラクター・ひこにゃんも参加する。両市の公式交流は初めてという。
安政の大獄で、幕末の大老・旧彦根藩13代藩主井伊直弼が刑死させた人物への井伊館長や獅山市長らの墓参は、8月の吉田松陰の山口県萩市に次いで2回目。松陰への墓参をきっかけに、彦根市側から左内の墓参も働きかけていた。
左内は藩主松平春嶽の補佐官で、藩校の蘭学係を務め、洋書習学所を設立するなど西欧文明を取り入れることに尽力したが、将軍継嗣問題で一橋派として行動したため、安政の大獄で刑死した。
市によると、墓前祭は福井市左内町の左内公園にある墓前で行われる。地元の橋本左内先生顕彰会(会長=東村新一・福井市長)の主催で、井伊館長と獅山市長は焼香のほか、あいさつも予定している。
ひこにゃんは、墓前祭後に福井市長を表敬し、彦根市で開催中の「井伊直弼と開国150年祭」をPRするという。
獅山市長は「過去の歴史的わだかまりを超え、墓前祭参加を受け入れていただいたことは意義深い」と話している。
獅山市長、ひこにゃんをお供に、萩、福井と、幕末史ゆかりの地と次々に「和解」と交流を進めているようですね。史上最強のゆるキャラ(笑)「ひこにゃん」がお供で、歓迎してもらえていようだし。
弔問交流:彦根市が第2弾 安政の大獄で刑死、福井藩士・橋本左内--7日 /滋賀
◇墓前祭に市長ら出席
彦根藩十三代藩主・井伊直弼が、江戸幕府大老として「安政の大獄」で処刑した勤王志士ゆかりの地を訪問している彦根市は30日、市長や井伊家当主らが7日に福井市を訪問し、福井藩士・橋本左内の墓前祭に出席すると発表した。吉田松陰の墓参(8月)に続く第2弾。
彦根市は、「桜田門外の変」で直弼を殺害した水戸藩士の地元・水戸市とは親善都市提携をしているが、直弼が処罰した志士らの地元とは交流がない。そこで、開催中の「井伊直弼と開国150年祭」の一環として、8月21日に獅山向洋市長、井伊家十八代当主で彦根城博物館の井伊直岳館長、市の人気キャラクター「ひこにゃん」ら市民使節団が山口県萩市を訪問。松陰の墓参をするなど交流を深めた。
橋本左内は、将軍継承問題などで活動したが、安政の大獄で刑死した。今年で没後150年になり、彦根城博物館の資料を使って福井市立郷土歴史博物館で「橋本左内と安政の大獄」(12日まで)が開催されていることから、彦根市が福井市側に訪問の意向を伝えていた。
当日は獅山市長、井伊館長ら5人と「ひこにゃん」が福井市を訪問。5人は左内公園内である「橋本左内先生墓前祭」に参列した後、「ひこにゃん」も加えて同市役所を表敬訪問する。彦根市は「150年の時を経て幕末の因縁を超え、両市の友好交流を深めたい」としている。【松井圀夫】
井伊直弼の子孫参列へ 福井藩士・橋本左内の墓前祭
福井市教育委員会は30日、幕末の大老井伊直弼の子孫で井伊家18代当主の井伊直岳(なおたけ)さん(40)=滋賀県彦根市職員・彦根城博物館長=が7日、福井市を訪れ、「安政の大獄」で処刑された福井藩士橋本左内の墓前祭に参列すると発表した。
彦根市によると、井伊家が安政の大獄後、橋本左内の墓前を訪れるのは初めてといい、「過去の歴史を振り返り、新たな交流ができれば」としている。
彦根市が開催している「井伊直弼と開国150年祭」の一環で実現。同市からは直岳さんや獅山向洋市長ら5人が訪れる。人気キャラクター「ひこにゃん」も同行するが、厳粛ムードを保つため、参列は見送る。
直岳さんは8月に山口県萩市で吉田松陰の墓を訪ねており、彦根市は「今後も安政の大獄で亡くなった方々の墓参りを検討したい」としている。
橋本左内は福井藩主松平春嶽の側近として将軍継承問題や開国問題で活躍したが、1859(安政6)年10月7日に処刑された。今年は没後150年。
井伊家当主ら7日、150年目の墓参
「安政の大獄」刑死・福井藩士橋本左内
滋賀県彦根市の獅山向洋市長と井伊家第18代当主の井伊直岳彦根城博物館長らは、7日に福井市を訪れ、直弼が行った「安政の大獄」で刑死した福井藩士橋本左内(1834-1859年)の法要に参列する。彦根市や井伊家による墓参は初めてといい、150年前のいきさつを超えて焼香、冥福を祈る。
橋本左内は、福井藩主松平春嶽らの一橋慶喜将軍擁立運動に奔走、大老井伊直弼が決断した徳川慶福後継に逆らったとして、25歳で斬刑に処せられた。
福井市の橋本左内先生顕彰会は毎年、地元の左内公園で命日に墓前祭を続けており、獅山市長や井伊館長らは法要で焼香、あいさつする。一行はさらに、ひこにゃんと合流、福井市役所を訪問する。
墓参は開催中の「井伊直弼と開国150年祭」にちなみ、彦根市が打診していた。獅山市長は「顕彰会が、過去の歴史的わだかまりを超えて受け入れていただくことは大変意義深いことと考えています」と話した。
獅山市長らは8月、山口県萩市を訪ね、同じ安政の大獄で死罪となった吉田松陰の墓参も行っている。
直弼の美意識 探る 彦根城博物館でテーマ展
幕末の彦根藩主で幕府大老井伊直弼(なおすけ)の文化人としての側面を浮き彫りにするテーマ展「井伊直弼の茶の湯-好みの道具」が、1日から滋賀県彦根市金亀町の彦根城博物館で始まる。
直弼手づくりの茶碗や香合、茶杓(ちゃしゃく)、京都の茶道家元・千家に出入りする職人「千家十職」の塗師8代中村宗哲が作った精巧な茶器、きこりの道具を花生(はないけ)に見立てた品など25件を披露する。
直弼は、武道とともに和歌、茶の湯にも励み、家臣らに茶道を教えて「茶湯一会(いちえ)集」などを著した。同館は昨秋、理論面から直弼の茶を紹介。今秋は美意識に焦点を当てた。
直弼の自作では柳模様などの楽焼七種香合、手びねりの風合いを生かした黒楽白縁天目(しろふちてんもく)茶碗。直弼が色などを指図したとみられる月次(つきなみ)茶器(12個)は、鎌倉歌人藤原定家の選んだ花鳥和歌24首がベースの「萩に雁蒔絵紅溜塗(かりまきえべにためぬり)八角中次(なかつぎ)」などがある。
侘(わ)び茶を大成した千利休が日常雑器を道具とした「見立て」では、直弼が参勤交代の折りに木曽で入手した鉈鞘(なたさや)の花生がある。
26日まで無休。3日午後2時、ギャラリートーク。一般500円、小中学生250円。
徳島
眉山と月と阿波おどり:あす眉山山頂で中秋の月見 幕末期の「花むそう」再現 /徳島
徳島市は3日、中秋の名月に合わせて眉山山頂広場でイベント「眉山と月と阿波おどり」を開く。阿波踊り振興協会所属の「無双連」が江戸時代幕末期の阿波踊りを再現した「花むそう」を演じる。
もっと多くの観光客に眉山へ足を運んでもらい、季節ごとのイベントを楽しんでもらおうと企画。午後6時~7時半の間、先着200人が300円で抹茶と和菓子を堪能できるほか、今年は午後7時半から1時間、徳島大天文部の協力を得て夜空の天体観測もある。
雨天の場合、天体観測は中止となるが、同市新町橋2の「阿波おどり会館」でお茶会と阿波踊りが行われる。問い合わせは、同市観光協会(088・622・4010)へ。【山本健太】
高知で恒例の「土佐はし拳大会」開催 高知
高知に伝わる宴席の遊び「土佐はし拳」の愛好者が腕前を競う「第44回土佐はし拳全日本選手権大会」が1日、高知市桟橋通の県民体育館で開かれ、酒席のような雰囲気の中で熱戦が繰り広げられた。
「土佐はし拳」は3本の赤色のはしを持った2人が向かい合い、互いに差し出したはしの合計本数を当て、負けた方が酒を飲まされる遊戯。幕末のころ、同県宿毛市で始まったといわれる。「日本酒の日」(10月1日)に合わせ、県酒造組合などが企画した。
大会には県内から約290人が参加し、3人で1チームの団体戦と個人戦が行われた。参加者はじゃんけんで先手と後手を決め、「いらっしゃい」「5本」といったかけ声とともにはしを差し出して勝敗を競った。
高知市内の旅館、ホテルなど宿泊施設でつくる組合のチームで参加した谷脇美香さん(65)は「勝負が早くつき、おもしろい。ぜひ、県外の人にも広めたい」と話していた。
山口
展示:幕末~明治に栄えた商家 城下町の暮らし紹介--萩・旧久保田家住宅 /山口
萩藩時代の幕末から明治前期にかけて呉服屋や酒屋として栄えた萩市呉服町の町屋・旧久保田家住宅で、その暮らしぶりを紹介する常設展示が始まった。
旧久保田家は、大名行列が往来した御成道横の町屋の一角にあり、幕末に建築された呉服屋。その後造り酒屋となり、明治30年代まで続いた。現在、市が購入し、市指定文化財となっている。
展示は、和歌山県紀州塗りや石川県輪島塗りの椀(わん)や器▽岐阜県飛騨の両足膳(ぜん)など漆器類▽行灯(あんどん)や石油ランプ▽角樽(つのだる)など65点。道具類は萩博物館収蔵品で、清水満幸・統括学芸員は「当時の城下町で大店の暮らしぶりの一端が分かり、まちの再発見をしてもらえたら」と話している。観覧料100円。【川上敏文】
コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(30)東大教授・山内昌之 徳川慶喜
■尊皇から“友愛”へ
◆人生の前後半で明暗
9月の歌舞伎座に『竜馬がゆく』がかかった。市川染五郎の坂本龍馬は大政奉還によせて、「慶喜公の心中はいかばかりか。よくぞ決断されたものかな。私は誓ってこの公のために一命を捨てよう」という名セリフを吐く。すると、尾上松緑の中岡慎太郎が「何たる愚論」と龍馬を難詰するのだが、この一文は渋沢栄一らの『徳川慶喜公伝』(平凡社)にあるだけで、信憑(しんぴょう)性は乏しいようだ。
ところで、芝居を観(み)ている間中、改めて慶喜の不思議さを考えていた。慶喜ほど人生の前半と後半がくっきり分かれる人間も珍しい。前半は、水戸藩主・徳川斉昭の実子として英明をうたわれて一橋家の養子に入り、外圧にさらされた幕末危機を乗り切る将軍候補となる。島津斉彬(なりあきら)など外様雄藩の諸侯や、阿部正弘ら一部幕閣からも期待された輝ける星であった。
しかし、徳川15代将軍になった時には政治情勢もすっかり変わっていた。かつて慶喜をかついだ一橋党の斉彬の腹心・西郷隆盛は江戸攻めにあたって慶喜の処刑さえ唱える強硬派に変じ、尊皇攘夷(じょうい)派の拠点・水戸の貴公子は朝敵呼ばわりされたからだ。
ここが生きた政治の面白いところである。慶喜が謹慎を解除されて静岡に隠棲(いんせい)すると、後半の人生は写真、狩猟、投網、サイクリングなど多彩な趣味に凝る風流人の感もあった。その一方、明治以降に10男11女をもうけたのだから達者なものだ。明治31(1898)年、明治天皇に大政奉還以来、30年5カ月ぶりに謁見し、その後に公爵や貴族院議員になるまで私人で通したのである。
◆政治手腕を発揮
とはいえ、文久2(1862)年に将軍後見職となり、上洛して禁裏御守衛総督などに就いた人生前半の慶喜は、かなりの政治手腕を発揮した。まず孝明天皇の支持をとりつけ、長州藩を京都から駆逐、列侯の参与会議を破産させただけでなく、第一次長州戦争の勝利で徳川幕府中心の新体制を構想した手並みは鮮やかである。
桂小五郎が、家康の再来かと彼の能力を警戒したのもうなずける。しかも、大政奉還という逆クーデターによって岩倉具視や大久保利通の倒幕の狙いを封殺した政治勘も秀逸であった。
この慶喜が鳥羽伏見の敗戦以来、まるで別人となったかのように気力を失い、戦わずに大坂城を去った理由はいぶかしい。
しかし、私は、皇族の母から生まれ、水戸学で尊皇教育をほどこされた慶喜にとって、朝敵の烙印(らくいん)は聞くだにおぞましい屈辱だったのではと推量する。真木和泉(いずみ)のように“形は足利尊氏でも、心が楠木正成ならばよい”と開き直れないのだ。ここが貴種貴公子の弱さである。どこかで武士の気質よりも公家の体質が勝っていたのだろう。
結局、慶喜は父斉昭が尊皇攘夷論によって自縄自縛になり、現実的方策を出し切れなかったように、最後まで尊皇という幻影にふりまわされた。井伊直弼のようにプラグマチックに朝廷に接するわけでなく、薩長の志士たちが天皇を不敬にも“玉”呼ばわりして道具扱いする度胸もなかったのだ。
◆外交の選択を窮屈に
尊皇攘夷のように過激な政治言説は、外交選択を窮屈にする。聡明(そうめい)な慶喜でも身動きできなくなった幕末を見ると、鳩山由紀夫首相が友愛という祖父・一郎の理念に拘泥するのを心配もしたくなる。
もっとも、9月の日米はじめ各国首脳との会談を観察すると、友愛を枕言葉(まくらことば)にしながら結構押しの強い一面を見せている。天狗(てんぐ)党を見捨て、日米通商条約の勅許を取り付けた慶喜の強引さにも共通するかのようで存外心配はないのかもしれない。メドベージェフ大統領や胡錦濤主席も、友愛のオブラートに包んだ鳩山首相の意外なしぶとさに面食らった面もある。
そこで、首相には、切所(せっしょ)になれば友愛にとらわれず、溌溂(はつらつ)な時期の慶喜のように政治外交の切り返しを期待したい。外交ゲームで状況や相手構わず友愛の精神を掲げるのは、尊皇と朝敵の幻影に屈した慶喜のように現実政治から逸脱する道にもつながりかねないからだ。(やまうち まさゆき)
◇
【プロフィル】徳川慶喜
とくがわ・よしのぶ 天保8(1837)年生まれ。江戸幕府最後の第15代将軍。水戸藩主、徳川斉昭(なりあき)の7男。一橋家を継ぎ、将軍後見職として徳川家茂を補佐する。慶応2年に将軍となり、幕政改革を試みるが、同3年、大政奉還し、将軍職を辞任。王政復古に端を発した鳥羽・伏見の戦いで敗れ、江戸開城後は水戸、のちに駿府(静岡)で謹慎した。維新後は謹慎を解かれたが、以後表舞台に立つことは少なく、放鷹(ほうよう)、油絵、写真などの趣味に打ち込んだ。大正2(1913)年、77歳で死去。
容保様のコラムで思いっきり慶喜公を叩いてたので、「おや、こんなもんか?」と、ちょっと肩すかしくらった気分です(苦笑)。
その3です……今日は記事が多かったです(汗)。
長崎
日本茶輸出し志士たち援助 大浦慶に思いはせ茶会 長崎市
鹿児島
斉彬を歩く:/1 新波止砲台跡 /鹿児島
斉彬生誕200年 尚古集成館長に聞く
生誕200年、斉彬しのび山下洋輔さん演奏 鹿児島市の仙巌園
九州・山口
九州・山口テーマパーク:お宝蔵書 /九州
ブックレビュー
今週の本棚:藤森照信・評 『近代書史』=石川九楊・著
(名古屋大学出版会・1万8900円)
コラム
【次代への名言】9月23日・ヘボン博士
【次代への名言】9月24日・西郷隆盛
【次代への名言】9月26日・山鹿素行『配所残筆』
【幕末から学ぶ現在(いま)】(29)東大教授・山内昌之 松平容保
山内教授に容保様がどう評価されるかと、こわごわ(笑)記事を読んだのですが……いやぁ、共感しきりです。しかも「池田屋事件や禁門の変であらわとなるように、長州藩などの志士たちの活動と浪士テロリストの殺人との間を区別する線は明確に引けない。いずれ、どちらが勝ちを収めても遺恨は残り、報復を受けるのは必至であった。ここでも逃げを打った人間たちがいる」と、松平春嶽や徳川慶喜を批判的に見るところが、すっごく(強調)共感できました。
「現在の幕末維新史は、容保と会津藩を歴史の大アクターとして幕府に代わって、薩長と互角にくんずほぐれつの大立ち回りを演じた史実をフェアに評価している。容保の独特な勇気と使命感は、その悲劇性とあいまって、会津の美名を日本政治史に残した」というところも、気に入ってます。
【元気のでる歴史人物講座】(38)西郷隆盛
文化芸能
シリーズ続編や人気作再登場 各局新ドラマ “得意技”繰り出し勝負の秋
長崎
日本茶輸出し志士たち援助 大浦慶に思いはせ茶会 長崎市
長崎市で開催中の「長崎さるく幕末編」の一環として、幕末の長崎で日本茶輸出に力を注ぎ、坂本竜馬らとも交流があったとされる女性実業家、大浦慶(1828-1884)にちなんだ茶会が26日、長崎市出島町の旧内外クラブ記念館で開かれた。
慶は時代に先駆けて日本茶を輸出して財をなし、志士たちを資金面で援助したと伝えられる。後半生は詐欺事件に巻き込まれ多額の借金を抱えたが、亡くなるまでに完済し終えたという。
会は長崎出身のティーコーディネーター馬渡美樹さん(49)=東京都在住=が慶を広く知ってもらおうと企画し、約50人が参加した。竜馬が好んだといわれるカステラなどを茶菓子に、輸出当時のお茶を再現した釜炒(かまい)り製の玉緑茶が登場。
参加者は慶の波瀾万丈(はらんばんじょう)な生涯に思いをはせながら、お茶を楽しんでいた。
鹿児島
斉彬を歩く:/1 新波止砲台跡 /鹿児島
◆新波止砲台跡=鹿児島市本港新町
◇外圧からの「最後の砦」
かごしま水族館の入り口前に、古い石畳が敷き詰められた一角がある。桜島フェリー乗り場からみると、小高い石垣が海から盛り上がっている。国の重要文化財に指定されている、新波止(しんはと)砲台跡だ。
琉球に英仏船が度々訪れるなど、ペリー来航(1853年)前から外圧にさらされていた薩摩藩。島津斉彬の父斉興が藩主だった1840年代後半から、砲台を整備した。新波止は、斉彬が藩主時代、元々あった波止を増強したものだ。鶴丸城(現・黎明館)の正面に位置し、いわば「最後の砦(とりで)」だった。
威力を発揮したのは斉彬死後の薩英戦争(1863年)。近くにあった弁天波止砲台とともに、計11門の巨砲が、鹿児島湾の英艦隊に向け火を噴いた。当時、日本で最大口径だった150ポンド砲の弾が旗艦ユーリアラス号に命中。艦長が戦死するなど、英国側の死傷者は63人に上り(薩摩藩は十数人)、甚大な被害を与えた。
◇ ◇
幕末の薩摩藩主・島津斉彬は世界に目を向け、洋式軍備や集成館事業など日本の近代化の礎を築いた。9月28日で生誕200年を迎えるのを機に斉彬の史跡を歩き、その功績を探った。
斉彬生誕200年 尚古集成館長に聞く
薩摩藩の名君、島津斉彬が興した近代工場群・集成館事業。その拠点となった機械工場は博物館「尚古集成館」(鹿児島市)として、集成館事業と島津家の歴史を現代に語り継いでいる。28日に斉彬生誕200年を迎えるにあたり、尚古集成館の田村省三館長(55)に斉彬の功績などについて聞いた。(聞き手・三輪千尋)
――島津斉彬はその功績に比べると、知名度が低いようです。
確かに斉彬は、西郷隆盛や大久保利通のようにメジャーではない。明治維新の10年前に亡くなり、激動の幕末維新史の中心人物ではない。しかし斉彬の功績は大きい。一番大事なことは近代日本の準備をしたことだろう。我々が進める世界遺産の登録の運動も、そのストーリーの最初に斉彬の事業が登場してくる。
――斉彬の功績とは。
幕末の日本は欧米列強の植民地政策を前に、国が存続するかどうかという危機的な状況に置かれていた。薩摩藩は400年前に琉球王国に侵攻し、徳川幕府に琉球王国を薩摩藩の領土として認めさせた。これは半面、悲しい歴史だが、それ以降、沖縄を藩領として治めることになった。その距離は1200キロと広く、ほとんどが海。西洋の黒船は琉球弧づたいに日本にやってくる。日本の中で一番最初に黒船の脅威にさらされるのが薩摩藩だった。
こういう状況で、斉彬は海外の情報を集めながら、薩摩藩としてその脅威に備えることが第一だと考えた。まずは海防。黒船に対抗できる軍艦を準備することを考え、従来の和船製造技術に西洋技術を採り入れた。さらに大砲をつくるため、大量の鉄を溶かす製鉄の技術、帆船のための紡績技術など、様々な西洋の近代技術を学んだ。造船、製鉄、紡績は日本の近代をつい最近まで支えてきた産業。薩摩では集成館事業として、それらを幕末に準備していた。
斉彬は同時に、人的なネットワークをつくるため、国内の優秀な人材を集めた。若い時代の西郷や大久保らはそれを見て、学んで京都や江戸へ出ていった。後の幕末維新期に活躍した維新の志士たちに多くの感化を与えた。
また、「富国強兵」という言葉を使ったが、殖産興業という政策は明治政府にいち早く採用され、日本国家の「マニフェスト」になった。斉彬の集成館事業は近代国家をつくるための付加装置だったと言える。今日的視点から見ても顧みる価値がある。
――集成館事業を含めた世界遺産登録への意義を教えてください。
従来の世界遺産と違い、九州・山口という広範囲を「近代化産業遺産群」(長崎・軍艦島など)として登録しようというのは、今までにはない取り組み。幅広い人たちに、身近にある産業遺産にどういう価値があるのか、日本の近代化とは何だったのかを改めて考える機会を与えることになる。
――生誕200年事業を通じて伝えたいことは。
鹿児島を元気づけたい。斉彬の時代は、薩摩藩が一藩で世界と張り合った、非常に元気のあった時代。それを学ぶことによって、特に子どもたちに夢を持ってもらいたい。斉彬はスーパースターでも、突然変異でもない。世界と対峙(たい・じ)しなければならないという宿命を背負った南九州に生きていた人々の歴史の必然だったのではないだろうか。鹿児島の子どもたちはそういうDNAを受け継いでいる。自信を持ってほしいと言いたい。
生誕200年、斉彬しのび山下洋輔さん演奏 鹿児島市の仙巌園
幕末の薩摩藩主・島津斉彬の生誕200年記念イベント「響彩時空(きょうさいじくう)」が22日、鹿児島市の仙巌園であった。夜の部では鹿児島をルーツに持つ世界的ジャズピアニスト・山下洋輔さんが御殿そばの野外ステージで生演奏。園内は2000個の灯籠(とうろう)で照らされ、約1000人の観客はろうそくの光で演出された幻想的な名勝庭園を満喫した。
「斉彬そして山下啓次郎に捧(ささ)げる」と題したコンサートで山下さんは、スタンダードジャズやオリジナル曲を即興演奏で披露。斉彬らには鎮魂曲を捧げた。
山下さんは、建築家だった祖父啓次郎さんが旧鹿児島刑務所を設計したことや、尚古集成館が1923(大正12)年、機械工場から博物館に変わる際に同館の玄関部分を設計したエピソードなども紹介した。
同日は、雅楽や薩摩琵琶の演奏などもあった。
九州・山口
九州・山口テーマパーク:お宝蔵書 /九州
読書の秋到来。今週は各地の図書館自慢の蔵書です。お宝だけに、奥の書庫の、奥にしまってあるものも……。
◆熊本
◇年貢取り立てに「検地帳」 秀吉の命で清正らが実施
県立図書館(熊本市)には、豊臣秀吉が農民が持つ耕地を把握し、年貢の取り立てに役立てようと始めた「検地」を記録にした帳面が計3956冊保存されている。一地方でまとまって保管されている例は少なく、1週間泊まり込んで研究した学者もいたという。
帳面には田の所有者や質、面積、石高が記録されており、当時の農業の実態が目に浮かぶ。肥後藩を治めていた加藤清正は1589年、秀吉の命令で検地を始めた。代わって藩主になった細川家も検地を実施し、幕末まで続いた。明治初年に藩庁から県に引き継がれたという。
検地帳は熊本城の多くの建物が焼失した西南戦争(1877年)でも焼けずに残ったが、第二次世界大戦で阿蘇・八代・城南地域の分約4000冊が焼失。やりとりの詳しい記録は残っていないが、戦後、県から図書館に移管されたという。
原本の多くは酸化が進まず良い保存状態で残っているのが特徴。書庫の更に奥にある、温度や湿度が一定に保たれた「貴重書庫」に保管されている。書庫の写しは一般の人も閲覧したり、コピーを取ったりできる。検地帳をひもといて、遠い秀吉の時代に思いをはせてはいかが。【遠山和宏】
◆宮崎
◇佐土原藩の歴史を現代訳
県立図書館(宮崎市)は、薩摩藩の支藩だった佐土原藩の藩主らが日々の出来事をつづった「佐土原藩嶋津家江戸日記」を所蔵する。同藩194年間の歴史を221冊に記した古文書で、00年から同館が現代文に翻訳している。現在、10巻目までを刊行。
県内の小中校教員を定年退職した3人の男性が翻訳に携わる。その一人、多田武利さん(74)は「1ページごとに発見の連続です」と話す。享保の改革の倹約令に武士たちが米を節約して耐え忍んだ様子や、3万石の小藩が藩政や外交をやりくりした様子が細かく記録されている。同館の山田洋一郎主査は「ドラマのような派手さはないが、昔の人の日常生活を垣間見ることができます」。【川上珠実】
◆大分
◇楢根、16歳の童謡作品も
由布市挾間町出身の童謡・童話作家、後藤楢根(ならね)の作品で同市立図書館が収集した最も古いのが童謡集「空の羊」。後藤が16歳で自費出版したものだ。
同図書館によると、インターネットの古書店モールで発見、購入した。奥付には1924(大正13)年発行、30銭とある。青と赤のインクで刷られた表紙は、学校の先輩が描いたという。
後藤の知名度は低いが、坂本敦子副館長は「子供の目線を貫いた人。生活は清貧そのもので、すべてを児童文学にささげた」と評する。46年からは月刊誌「童話」を編集し、84歳で亡くなるまで新人の育成に励む。雑誌の投稿者には「ズッコケ三人組」シリーズで知られる那須正幹さんらもいる。【小畑英介】
◆佐賀
◇鍋島家に伝わる「伊勢物語」
佐賀県立図書館(佐賀市)のお宝本は、鍋島家に伝わる古写本「伊勢物語」。8月には原寸大(縦約25センチ、横約18センチ)の複製本も出版された。
図書館によると、鍋島家二代藩主光茂は歌に熱心で、京都から多くの本を取り寄せた。伊勢物語もその一つで、室町~安土桃山時代に書かれたものらしい。光茂の死後、家老の家に受け継がれた。
紺色の表紙には金と銀で絵が描かれ、146ページにわたり、かな文字で伊勢物語が書かれている。22日からは複製本の貸し出しも始まった。
図書館郷土調査担当の多々良友博さんは「秋の夜長に現代語訳を横に置いて読んでもらえれば、きっと雅(みやび)な気持ちになれるはず」。【関谷俊介】
◆山口
◇江戸時代の世界地図、鎖国前の貿易も一目で
江戸時代の希少な世界地図「万国惣図(そうず)」が、山口大学付属図書館(山口市)の「棲息(せいそく)堂文庫」に保存されている。
地図は色付きで、縦114センチ、横120センチ。作者不詳。1637(寛永14)年、朱印船貿易で得た情報やポルトガル人から聞いた話を基に作成され、当時の将軍、徳川家光に献上したものの下書きとみられる。同様の世界地図は日本に3点しかないという。地図の下部には、各国までの距離と貿易品目が記されており「鎖国前の日本が、どんな貿易をしていたかが分かる貴重な資料」と同大人文学部の尾崎千佳准教授。
文庫は集書家であった徳山毛利家の第三代藩主、毛利元次の旧蔵書の寄贈で設けられた。地図など約8100点が保存されているが、非公開。【佐野格】
◆福岡
◇清張直筆の取材ノート
松本清張の生誕100年の今年、北九州市立松本清張記念館(小倉北区)に直筆の取材ノート(B5判)が寄贈された。作家としての“出発期”に当たる昭和30年代のもので、他にはないお宝だ。
記憶力抜群の清張は取材時にメモを取らなかった。構想もほぼ頭の中でまとめ、活字になれば原稿さえ捨てていたという。そんなこだわらない性格だったため、取材ノートの存在自体が珍しい。
大学ノート3ページに万年筆で横書きにされた端正な文字が並ぶ。55年発表の短編小説「石の骨」の参考にしたとみられる。かつて勤務した朝日新聞東京本社の自身の机の引き出しに残っており、清張の退社後、同僚が大切に保存していた。
一般公開はしていない。「企画展を開く時の目玉に」と同館。【長谷川容子】
◆長崎
◇旧内外クラブの所蔵本349冊
県立長崎図書館(長崎市)の自慢は、旧長崎内外クラブが所蔵していた本や雑誌349冊。所蔵品にはクラブの印がある。
クラブは、開国と共に出島が廃止され、オランダ以外の外国人商人の出入りが自由になったため、1899年に外国人と日本人の文化交流を図ろうと発足した英国風サロン。トーマス・グラバーの息子、倉場富三郎らが発起人となった。
第二次世界大戦の混乱の中、クラブは閉鎖。図書館が譲り受けた所蔵品の中には、日本美術雑誌「國華」の1889年創刊号や、関東大震災を報じたニュース写真誌「歴史写真」など、珍しい雑誌が数多くある。図書館資料課は「かつての実業家が何に興味を持っていたのか、想像するのも楽しいですよ」。【蒲原明佳】
◆鹿児島
◇島津家ゆかりの1万9000冊
鹿児島大学図書館(鹿児島市)の5階には島津家ゆかりの書1万9000冊が「玉里文庫」として眠っている。戦災を免れた玉里島津家から1951年、買い取った。幕末の当主の蔵書など貴重な品がそろう。
同館の木場隆司さん(50)は「資料からも当主のキャラクターが垣間見え興味深い」という。藩校・造士館を設立するなど開明的だった二十五代重豪が残したのは植物図鑑「質問本草」。その影響を強く受けた二十八代斉彬はオランダ語辞典--など。対照的なのは、斉彬の弟久光。和歌や歴史編さんを多く手掛けた伝統的知識人として知られる。9~15世紀をまとめた歴史書「通俗国史」は、その集大成という。
一般利用者はコピーなどで閲覧できる。【村尾哲】
ブックレビュー
今週の本棚:藤森照信・評 『近代書史』=石川九楊・著
(名古屋大学出版会・1万8900円)
◇黒い線一本はここまで語りうるのか
おそるべき一冊と言えばいいか。今や喪(うし)なわれた“書”の世界の魅力と魔力を語りながら、745ページを費し、67人もの字を書く人の字を取りあげ、特徴を指摘し、造形的意味を論じ、歴史的に位置づける。登場するのは、幕末の良寛にはじまり、西郷、大久保、漱石、子規、山頭火など。現代では井上有一など。明治から現代にいたる私の知らないたくさんの書家も含まれる。
『中國書史』(1996)、『日本書史』(2001、毎日出版文化賞)につづき、東アジアの、ということは世界の書の歴史の三部作がここに完成した。13年がかり。それにふさわしい格調と量をそなえながら、同時に、書など知らぬ人にも分かるように、一字一画の見方を具体的に手ほどきしてくれる。究極にして入門の一冊。おそるべきと言ってもかまわないだろう。
たとえば良寛の書をどう見るか。書を見る見方の基本として、紙を自然(世界)、書を人為と見なすことをまず述べてから、良寛の好んだ「風」の字の「〓(かぜがまえ)」の部分について語る。
「第一画は……いくぶん突き込むように入起筆する。その力は強いものではないが、加えられた力に反発する対象(自然)からの斥力を起筆部で吸収した上で第一筆を書く。……第二画は第一画の起筆あたりから始まるはずだが、両者間が大きく開く間をもつことは、深くかつ広い自然との交歓に身を費した結果である」
一画と二画の間があんなに離れているのは、そういうことだったのか。つづけよう。
「よく見るがいい、第二画の横筆部には起筆部はあっても、字画の本体たる送筆部がない。少なくとも紙にはほとんど定着されていない。『ポーン』と起筆し、作者から加えられた力は対象(自然)からの斥力に抗することなく(斥力をねじふせることも、吸収することもなく)、斥力に応じ、乗り、委ね、任せて、第二画転折部(横筆部から縦筆部への方向転換部)に至る。このとき、あるかなきかの毛先一筋の姿だけを残している」
第二画の加力と斥力の関係こそが、良寛のこの世を生きる思想と姿勢を表すと著者は言い、証拠として良寛の言葉を出す。「生涯身を立つるに懶(ものう)く、騰々(とうとう)天真に任す」「死ぬる時節には死ぬがよく候」
ここまで語りうるのか。ラストは
「第二画転折部で再びわずかに力が加えられる。……その意志があたうかぎり弱い。前もっての『〓(こう)』の設計力は確実に存在するのだが、その規範に従う以上に対象たる自然との力のやりとりの過程に道草して、それをきめ細かく楽しむのだ」。
このヘナヘナな描線は、半自然的存在の子供たちと無心に遊ぶ良寛さまの姿だと言うのである。
パノフスキー以後の西洋絵画の読み方を思い出したが、絵画以上におそるべきは、黒い線一本の動きから、人生や思想や性格まで読み解いてしまうのだ。字のヘタな人は「書は人なり」の言葉を思い出して嫌な気分になるし、ここまで深読みしていいのか心配にもなるが、著者の想(おも)いと力が書の世界の固く閉じた門を開いてくれるのはまちがいない。
近代の書を代表するのは誰か。
維新の元勲副島(そえじま)種臣と大正の洋画家中村不折の二人。副島の画面いっぱいに松の枝が伸びるような書は、美術雑誌で目にしたことはあるが、不折は絵しか知らなかった。
副島の“奇想の書”を継ぎ、新たに展開したのが不折の書で、明治41年(1908)、おそるおそる世に問うた「龍眠帖(りゅうみんちょう)」には、その後現在にいたるまでのすべての書の動向が込められているという。
「龍眠帖」の存在を知るだけでも、一読のかいがあるというもの。書など贈られても分からないし、今の室内には合わないと思うような人でも、「龍眠帖」ならだいじょうぶ。
今ならだいじょうぶだが、当時の書壇はむろん内藤湖南や漱石からも猛批判を受ける。こんなの書の部類に入るのか。たしかに、誤字はあるし、気に入らない字は墨でつぶして横に書き足す。でも今の目で見れば、それでいてちっとも変ではない。著者は「龍眠帖」に30ページを費しているが、この書を見たら誰だって語りたくなるだろう。
書は、線、形、動運、構成、色などの要素を統合して生れるが、その統合の核をなす何かが、「龍眠帖」において消失した。そして以後は、著者がいうように、それぞれの要素が自己運動を開始し、線だけの、形だけの、動運だけの、構成だけの書へと突き進む。その結果が戦後の前衛書だった。
書は解体して終り、そして後にはこの三部作が残った。
と、私には思えるのだが、書家の石川九楊は違うらしい。「現代に書することの困難」を深く認めたうえで、書に「言葉以前の意識」を「盛る」ことで、書は再び生命を取りもどす、と語る。文字が生れる以前の人類の心や意識にまで立ち帰るつもりなのか。
コラム
【次代への名言】9月23日・ヘボン博士
■「日本人は実に驚くべき国民です。西洋の知識と学問に対する好学心は同じ状態にある他国民の到底及ぶところではありません」(ヘボン博士)
幕末が血煙にまみれる元凶となった「安政の大獄」がその総仕上げにかかっていた1859年のきょう(旧暦)、医師、ジェームス・ヘボンが宣教師として妻のクララとともに神奈川に上陸した。
「わたしの知っているわずかばかりの知識から判断して、日本語は中国語より遥かにすぐれている」。これは来日8カ月目の感想である。また冒頭は、それから2年後、幕府から派遣された大村益次郎ら9人の「高官」に英語や高等数学教育をほどこしたときの感嘆だ。
ヘボンの書簡や伝記を読むと、彼の日本へ献身は、神から授かった使命感によって支えられていたようだ。だから、外国人が最も敵視され、命も危うかった時代にも屈することなく計33年間、日本にとどまり、ローマ字表記を大成し、最初の本格的な和英・英和辞典を編纂(へんさん)する。
南北戦争が起きたとき、「米国民は神の鞭を要するのです。そしてその時が来たのです」とつづったヘボンにとって、日本は真の故郷となったようだ。明治25(1892)年、77歳で帰国する直前、こんな惜別の書簡を残している。
「わたしどもの年になって、“ふるさとなき旅人”となって世の中に出て行くのは、ほんとうにつらいことです」
【次代への名言】9月24日・西郷隆盛
■「総て人は人を相手にする為、過(あやまち)も改め兼ぬるなり。天を相手にすべし」(西郷隆盛)
西南戦争の開始から7カ月余。明治10(1877)年のきょう、鹿児島・旧城下の一隅。維新の雄、西郷隆盛が、付き従っていた別府晋介の介錯(かいしゃく)で、散った。宮城の方角である東に向かって正座し、「晋どん、もうこのへんでよかろう」と言って首をさしのべた、という。
「唯(ただ)国難に斃(たお)るるのみ」。身を捨てて国に尽くすことが所信だったはずの西郷が「政府へ尋問の筋これあり」として挙兵し、最大の国難を引き起こした。西郷の暗殺が企てられ、盟友の内務卿、大久保利通まで関与しているのではないか-というのが「尋問の筋」だった。
冒頭のことばを残した西郷である。天と相談し、この挙には大義名分がないという「過」を承知していたことだろう。事実、萩や熊本で起きた過去の士族の反乱を聞き、「好機会」と呼応しようとする門人を西郷は「何の意ぞ」と厳しくはねつけている。なのに、なぜ…。
理想の政府をつくるためだった。しかし、そんな政府など西郷の心の中だけで現実にはありえない。なのに、賽(さい)の河原の子供が、くずされてもくずされても小石を積み上げたように、その理想を追おうとする。最も悲劇的な英雄であろう-。海音寺潮五郎の西郷評である。
【次代への名言】9月26日・山鹿素行『配所残筆』
■本朝はるかにまされり。誠にまさしく中国といふべき所、分明なり(山鹿素行『配所残筆』)
「本朝」とは日本のこと。また、「中国」とはこの隣国の名前の由来でもある「世界の中心」という意味。つまり、日本こそ、世界の中心、最もすぐれた国であることは明らかである-といっているのだ。なぜか。智・仁・勇という聖人の徳を比較すると、本朝(日本)が異朝(外国)よりはるかにまさっているからだという。そして冒頭は「これは私論ではなく、天下の公論。古代においては聖徳太子だけが異国をむやみに貴ばず、本朝の本朝たる事を知っていた」と続く。
狭あいな国粋主義ではない。外来の思想や学問を崇拝したがる風潮への鉄槌(てっつい)と考えるべきだ。旧暦のきょうが命日となる素行は江戸時代前期の兵学者・儒者。陸軍大将、乃木希典(まれすけ)は、素行の思想と武士道に心酔していたことで知られる。
さて、その素行は「誠」を彼の思想の根本にすえた。彼によれば、誠は天地の天地たる所以(ゆえん)、人物の人物たるの所以、「已(や)むることを得ざる」の心という。
≪かくすればかくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂≫
吉田松陰の一首である。乃木の兄弟子で山鹿流兵学の後継者。そして幕末の志士の魁(さきがけ)。そんな彼にとって「誠」とは、「大和魂」にほかならなかった。
【幕末から学ぶ現在(いま)】(29)東大教授・山内昌之 松平容保
将来の得失を論ぜず
「大胆さと勇気は、もっとも危険で絶望的な事柄においてもっともよく発揮される」とはデカルトの言であった(『情念論』)。勝敗は時の運である。照る日もあれば曇る日もある。
しかし、勝ち戦や照る日だけに威勢のよいポーズをし、大敗した戦の撤退や総括ともなると、しんがりを大胆に務めないどころか、勇気も忘れて真っ先に逃げを決めこむというのでは大将になる器とはいえないだろう。
総選挙で自民党が惨敗すると、かつて総裁選に名乗りをあげた政治家や“国民的人気”の高い人たちがすぐ手をあげて、知名度の高さを梃子(てこ)に党立て直しを競うと誰もが思ったに違いない。
しかし、予想された顔ぶれは色々な理屈をつけて総裁選不出馬を早々と決めた。唖然(あぜん)とした人も多いはずだ。大臣や与党役員として、メディアの注目を浴びるときには異様に多弁であり、自己顕示を競ってきたこの人たちにとって政治とは何なのだろうか。
政治家の“逃げ”
テレビ人のテリー伊藤氏が実名を挙げて、国民は総裁選からいち早く逃げ出した政治家の振舞いをよく憶(おぼ)えておき、次に政権奪還となる暁に名乗りを上げても許してはならない、と厳しい発言をしていたのが印象に残った。あれこれ理屈をつけても、政権復帰の見通しが立たない野党総裁は貧乏くじを引くという、すこぶる利己的な打算が透けて見えすぎる。
それに比べると、かつて野党になったときに総理になれない自民党総裁を引き受けた河野洋平氏には、敗北の衝撃を振り払う勇気と責任感があった。勇気が徳になるのは、他人のために発揮されるとき、あるいは全体のために私心のない動機から発揮されるときだという言葉(フランスの哲学者コント=スポンヴィル)を、いまの自民党にも残った良質な保守政治家にも噛(か)みしめてほしい。
反テロの汚れ仕事
幕末でいちばん報われぬ仕事を何度も固辞した末に引き受けたのは、京都守護職となった会津藩主の松平容保(かたもり)であろう。将軍上洛(じょうらく)と公武合体策のために京都の尊皇攘夷(じょうい)派テロリズムを抑え、治安を維持する役目である。いつの時代も、反テロ作戦は苛烈(かれつ)を極めるので、誰もやりたがらない汚れ仕事なのだ。ある家老が“薪を背負って火の中に飛びこむ”と反対したのも当然であった。
それでも職を引き受けたのは、藩祖の保科正之が将軍家光の異母弟として格別の恩顧をこうむり、会津を他家と一緒に考えてはならぬという遺訓を律義に守ったからであった。“いまは義の重さをとって将来の得失を論ぜず京都を死所としよう”という君臣一致の覚悟には悲壮感がみなぎっている。
池田屋事件や禁門の変であらわとなるように、長州藩などの志士たちの活動と浪士テロリストの殺人との間を区別する線は明確に引けない。いずれ、どちらが勝ちを収めても遺恨は残り、報復を受けるのは必至であった。ここでも逃げを打った人間たちがいる。
越前の松平春嶽(しゅんがく)は、京に近く藩兵の投入も容易なのに難局から身を遠ざけ、保科正之の遺訓を引き合いに容保を京都守護職に据えた。それでいながら最終局面では見放すといった策士めいた小才子であった。徳川慶喜は会津藩士を手兵がわりに使って権謀術策の限りを尽くしながら、わが身に危険が迫ると、朝敵なるレッテル貼(は)りに震え上がり、容保を会津の地に孤立させ、恬(てん)として恥じなかった。
この両者の冷淡さは、針で肌を突き刺すような残酷さがある。会津落城後の藩士らの悲劇は筆舌に尽くしがたい。
日本政治史に美名
しかし、歴史の女神クリオは敗者にも公平なのだ。現在の幕末維新史は、容保と会津藩を歴史の大アクターとして幕府に代わって、薩長と互角にくんずほぐれつの大立ち回りを演じた史実をフェアに評価している。容保の独特な勇気と使命感は、その悲劇性とあいまって、会津の美名を日本政治史に残した。容保のように勇気と責任感にあふれた政治家は、これからも歴史と国民の記憶に刻みこまれるだろう。
総理大臣にならなかった総裁でも自民党の危機を救った政治家と、首相になっても党を未曾有の危機に追い込んだ総裁のいずれを評価するかは、歴史家の試金石ともいえよう。(やまうち まさゆき)
◇
【プロフィル】松平容保
まつだいら・かたもり 天保6(1836)年、江戸生まれ。会津藩主、松平容敬(かたたか)の養子となり、9代藩主を継ぐ。文久2(1862)年、幕政参与、のちに京都守護職に任命される。新選組を配下に置いて京都の治安維持に尽力するとともに、公武合体を推進し、尊皇攘夷派と対立する。王政復古で免職となり、鳥羽・伏見の開戦で官位も奪われ、会津若松に戻る。会津戦争に敗れると、蟄居(ちっきょ)処分に。明治13年から日光東照宮宮司となる。同26(1893)年、59歳で死去。
山内教授に容保様がどう評価されるかと、こわごわ(笑)記事を読んだのですが……いやぁ、共感しきりです。しかも「池田屋事件や禁門の変であらわとなるように、長州藩などの志士たちの活動と浪士テロリストの殺人との間を区別する線は明確に引けない。いずれ、どちらが勝ちを収めても遺恨は残り、報復を受けるのは必至であった。ここでも逃げを打った人間たちがいる」と、松平春嶽や徳川慶喜を批判的に見るところが、すっごく(強調)共感できました。
「現在の幕末維新史は、容保と会津藩を歴史の大アクターとして幕府に代わって、薩長と互角にくんずほぐれつの大立ち回りを演じた史実をフェアに評価している。容保の独特な勇気と使命感は、その悲劇性とあいまって、会津の美名を日本政治史に残した」というところも、気に入ってます。
【元気のでる歴史人物講座】(38)西郷隆盛
不世出の代表的日本人
有色民族中、わが国のみ植民地化、属国化を免れ明治維新を成就、新生しえたのは、皇室を戴(いただ)いて志士たちが立ち上がったからである。維新達成における最大の功労者が西郷隆盛である。「維新は西郷なくして不可能」(『代表的日本人』)と述べたのは内村鑑三であった。
西郷は勝海舟の嘆願を一身にかけて承諾し、江戸無血開城を導いた。海舟はその決断は西郷だからできたとして西郷の「大胆識と大誠意」を讃嘆し、晩年いつも涙を湛えて「今日の日本があるのは西郷のお蔭(かげ)」と語り続けた。
維新の完成は廃藩置県だが、これも西郷の手によって行われた。難事の断行に臨み明治天皇がご下問されたとき、「おそれながら吉之助がおりますれば御心を安んじくださいませ」と奉答した。
西郷は「何人もあえてせざる大難を侵し、大疑を決し、天下の大事に任ずるを以てその本分とする」(徳富蘇峰)人物であり、「出発合図者、方向指示者」(内村)であった。西郷こそ「本統(ほんとう)の日本的英雄、正真正銘全く伝統的日本の大精神を代表するところの英雄」(徳富)であり、古今不世出の代表的日本人である。
明治天皇が臣下中、最も親愛されたのは西郷であり、青年期、西郷に最大の人格的感化を受けられた。「思ふことなるにつけてもしのぶかなもとゐ定めし人のいさをを」。この御製は最晩年、西郷を偲び詠まれたものである。(日本政策研究センター主任研究員 岡田幹彦)
文化芸能
シリーズ続編や人気作再登場 各局新ドラマ “得意技”繰り出し勝負の秋
秋の連続ドラマが10月からスタートする。視聴率低下傾向は相変わらずでドラマを取り巻く環境は厳しいが、こんな時こそ“得意技”で足場を固めようということか、人気シリーズの続編、実績を残した単発ドラマの再登板や、手堅いテーマの作品がそろった。 (宮崎美紀子)
(中略)
スケールの大きさではTBS「JIN-仁-」も負けていない。大沢たかお演じる外科医が江戸時代にタイムスリップし、幕末の歴史とかかわっていく。
(以下略)
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幕末、特に新選組や旧幕府関係者の歴史を追っかけています。連絡先はmariachi*dream.com(*印を@に置き換えてください)にて。
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